北朝鮮と新潟/坂勇人

北朝鮮と新潟 最終回/新潟で確かに見た「共生」の芽

■月刊『記録』06年3月号掲載記事

■政治部記者を辞め、自分が決めた道へ

 金子さんにとって、この原体験は彼自身の人生の方向性を決定付けることになる。大学卒業後、彼は時事通信社に入社した。入社後、韓国のソウルに駐在して報道記者として韓国に触れることが彼の当面の目標となる。入社して東京に2年、甲府に1年半滞在した後、首相官邸に詰める総理番を務める政治部記者となった。政治部記者は、彼の念願がかなった形だ。なぜ念願だったのかといえば、社内ではソウル支局に異動するのは政治部出身と相場が決まっていたためだ。政治部で記者を続けていれば、ソウル支局に派遣されるのは確実視できた。だが、これが「本当にやりたいことなのだろうか」との一念が、通信社に踏みとどまることを許さなかった。ずっとソウルにいられるわけではない。政治部記者をずっとやっていても、韓国に触れていられるのは一時期に過ぎない。逡巡した挙句に「本当にやりたいことではない」との結論に至り、彼は通信社を退職する。
 そして巡り合わせがいいというべきか、新潟市役所でちょうどそのとき国際交流の仕事を担う人員を募集していた。「国際交流の仕事がしたい」。彼は迷わず応募して、採用が決まる。通信社時代にかなわなかった、韓国に滞在しての職務にも1年間ほど携わることができた。
加えて、北朝鮮に3回ほど行く機会にも恵まれる。実際に自身の目で直視した現実と、日本のテレビ局が当たり前のように報じている北朝鮮国内の暗くよどんだ様子とはひどく隔たりがあった。金子さんは市場などを見て回ったという。国内の観光には「案内人」と呼ばれる見張りがつくことが制約として設けられたが、きつく束縛するというでもなくその案内人の目を離れて自由行動をすることもできた。人々がごく普通に平穏な様子で生活を送っている姿が、金子さんの脳裏に印象として残っている。北朝鮮はアメリカ、日本政府の敵視政策に置かれるなかで確かに軍隊に国力を結集する軍事体制を敷いているが、日本のテレビ放送でお決まりのように年中行事のように映し出される北朝鮮の軍事パレードも実際には年に1回だけのものだ。

■痛みを乗り越えて目指すもの

 ところで、「びびんば会」を、金子さんは特におおっぴらに喧伝することもない。だが、会の存在は新潟市内では知る人ぞ知るというものになっている。北朝鮮に対する反感が高まっている最中に、北朝鮮との交流を訴え在日朝鮮人と交流する活動は人々の耳目を掻き立てるようだ。そこで、けなす声を直に彼に伝える人もいる。北朝鮮に対して敵意を明らかにする態度の人から、「親北朝鮮が市役所にいるのは許せん」との声を浴びせられたことがあった。しかし、金子さんには臆するところはない。
 日本の過去の戦争に関して日本人である自分が韓国の同学生に、無知扱いされたことに対する反省が、金子さんを新潟市での国際交流の職務に当たらせ、私的には「びびんば会」という交流活動に至らせた。民族の違い、文化の違いを超えて集う人々が一堂に会してビビンバのように「かき混ぜられる」ことによって、「かき混ざることのない」それぞれが生きてきた背景の違いが際立ってくるのがおもしろい。その違いを認め受容することが、「痛み」を乗り越えてさらに渾然一体となった妙味を彼らにもたらすのだろう。
 隣国に対しての憎悪の声は、いつか静まっていくのだろうか。新潟で目の当たりにした交流の芽はいつか大樹となるのだろうか。だが、新潟の地で「暗い影」を払拭する光を見た思いがする。実りのある<共生>を求めようとする強い意志の光だ。共生のためには「痛み」が伴うが、その痛みに耐え、この社会を<開かれた社会>としたい強い意志が、交流をもたらしお互いに理解を引き寄せるための礎となる。その<開かれた社会>が果たして良いものであるのかはわからない。しかし剣を振りかざすことでは、また新たな「痛み」を生み出すだけだ。たとえ憎悪を燃やす相手でも、自身が「変わる」ことで相手を「変えられる」、そうした楽観を伴う<寛容さ>をわれわれは持ち得ることはできないのだろうか。(■了)

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北朝鮮と新潟 第7回/「日本」と「南北コリア」の壁を乗り越えるために

■月刊『記録』06年2月号掲載記事

 新潟港でコメ袋を万景峰号に積み込んで、北朝鮮の元山港に運ぶ。主な支援先は、保育園や幼稚園など。「支援などしても、貧しい階層に届いていないだろう」との支援活動への疑問の声が日本国内であるが、川村さんは「視察してきちんと届いていることを確認している。追跡調査などができないところには支援をしていない」と言う。かつて日本政府が実施していた食糧援助は、北朝鮮政府の食糧計画に組み込まれ、軍部や炭鉱労働者など主要産業や重要ポストを担っている人間から順に食糧が配付されていたため、食糧の行き渡る範囲が狭められていた。それだからこそ、川村さんの行なっている「顔の見える」食糧支援は、北朝鮮の貧しい人々を支えるという意味で重要な役割を担っている。北朝鮮への経済制裁によって、万景峰号が新潟港に入港できなくなれば無論、川村さんの活動は阻まれることになり北朝鮮の子どもたちは多くが死に至ることになるだろう。北朝鮮へのアメリカ、日本政府の敵視政策が、北朝鮮政府を追い込みその国内の人民を死に至らしめるのだ。
 米どころ・新潟に漂着した元肥料製造会社社員のクリスチャンという川村さんがいなければ、このNGO活動がなかったことを考えると、人間の運命というものはつくづく不思議なものだと私は思う。この世に生を受けたときから、このようなNGO活動に取り組むというように彼が導かれていたかのようだ。
「余裕ができて過去を振り返ってみて初めて、信仰によって生きる道を作られていたんだなと思ったよ。宗教の選択は全くの偶然だが、潜在意識のなかに方向付けがあったのかもしれない」
 北朝鮮への食糧援助にとどまらず、今後は「人材も派遣しようと考えている。ヒトを送ることで交流を活発にしたい」と「モノからヒトへ」の方針転換を図る。日朝が国交正常化しない限り、拉致問題の解決も一向に訪れないという立場だ。
「食糧だけ贈ればいいというわけではない。友好姿勢にならなくては。相手国への同情が生まれて初めて、架け橋がかかる。自分はその橋渡しをするための、引き継ぎ役に過ぎない」
 やや謙遜気味に自分自身を語る川村さんは、自らのライフワークを「日本海に落ちる一滴のしずくみたいなもの」とする。しかし、日本国内の現状がこのままでは、彼の活動は本当に「一滴のしずく」のままに終わってしまう。「一滴のしずく」を真に「しずく」にしないためにも、われわれは「変わる」べきだ。
 新潟では、北朝鮮に経済制裁を発動するのではなく、交流を通じて拉致問題の解決を図ろうじゃないかという考えを持っている人間は、想像できる通りあまりに少ない。「交流派」の人間は数少ないが、彼らが出会う場が共通しているのだろうか、親密に結びつき合うことで横のネットワークを形成している。川村さんから派生して、芋づるのように「交流派」のネットワークが築き上げられているため、川村さんを掘り当てた私は彼の人脈をたどることで金子博昭氏に出会うことができた。

■さまざまな人たちとの交流をめざして

 金子氏の自宅を訪問した時、彼は、休耕田で援助米を育てている川村さんといっしょに早朝からの農作業をやり終えてちょうど帰宅した矢先だった。彼は白のポロシャツに短パンといったラフな服装で私を迎えてくれた。私は勧められるままにあつかましく彼の自宅に入り込んでしまった。「窓からのぞくと君が外で手を振っているものだから、気がついたら家の中に上げちゃってたよ」と笑みを漏らす。農作業で流した汗を手ぬぐいでふき取りながら、コーヒーを差し出してくれた。
 金子氏は、日本人と南北コリアの人々の交流会「びびんば会」を、市内の会館などを利用して開催している。北朝鮮と韓国を南北コリアと呼ぶことにこだわるのは、北朝鮮と韓国は一つの国であるという理念が彼にはあるからだ。会の活動は公的なものではなくあくまで個人的な活動であって、自身の職務とはまったく別物であることを、会の紹介をする際に彼はまず断りを入れた。
 慎重な姿勢は、金子さんは新潟市役所の総務局国際文化部に勤務しており、市の職員として公務で交流会を開いているように受け止められると不要な誤解を招くことになるからだ。例えば、私的な交流会として開いている場にもかかわらず、この会を彼が公務で行なっているかのように受け取った人が新潟市にクレームを寄せるという場合が考えられる。この場合、クレームは新潟市職員の行なう公務が篠田市政の方針と異なっているのではないかといった趣旨となる。だが、あくまで金子さんは職務を離れて、一市民として交流会を開いているに過ぎない。新潟の「暗い影」が彼に不要な慎重さを要請しているこの状況は、新潟が「閉ざされた」方向に向かって邁進している、何よりの証左なのかもしれない。
 2002年9月の日朝首脳会談を経て拉致された日本人5人が帰国して以来、国交正常化なんてとんでもないという方向に日本国内の世情が傾き、北朝鮮に対するバッシングがすさまじい勢いで報道されるようになった。そうした情勢の下で、新潟市主催で「韓国フェスティバル」が開かれたが、金子さん個人の考える交流の方向性は異なった。
「政治のガチガチしたところから眺めるのではなく、もう少し軽い視点で何か楽しいことができやしないか」
 そのように思い至ったとき、私的な交流会として03年3月に「びびんば会」を設けた。会は、職業は学生から会社員まで、民族も在日韓国・朝鮮人、日本人とさまざまな人たちが参加している。会の名称には、さまざまな材料がかき混ぜられて混交し合ってこそビビンバがうまいのと同様に、日本と南北コリアの人々が混在することによってよりおいしい味を出していく交流会にしていきたいとの思いが込められている。
 会は緩やかさを基調としており、北朝鮮の怪獣映画「プルガサリ」などの映画鑑賞のほか、雑談などをして時を過ごすという。そうした活動に加えて、03年12月には「南北コリアと新潟のともだち展」というタイトルの絵画展を新潟市内で開催した。展示されたのは、新潟朝鮮学校の小学生が描いた絵画、およそ80枚ほどだ。この展示会は、日本国際ボランティアセンター(JVC)の主催する「南北コリアと日本のともだち展」の一環である。02年6月に北朝鮮の平壌でも開催された。「びびんば会」での活動を「少しでも北朝鮮との交流に近づけたい」と会のメンバーが考えた結果、市内でこのような展示会を開くこととなる。職業も民族もさまざまなメンバーの力を合わせた実行力が、会の名の如くビビンバのようになって展示会として結実した。
 しかし、ビビンバは混ざり合う食材の相性がぴったりと合ってこそ、うまい完成品となる。この会の場合も日本人と在日朝鮮・韓国人の間に溝があっては、そうならない。当初は交流会は気楽な集まりという様相だったが、南北コリアの人々と対峙する場合に、日本人は日本人であるがために乗り越えなければならない壁があった。1910年に始まる朝鮮半島に対する日本の植民地支配、戦中時の日本人による強制連行、そして祖国は日本海の向こうにありながら日本に生活基盤を置くに至った「在日」であり続ける南北コリアの人々。交流と同時に、支払わなければならない代償として、振り返らなければならない歴史がお互いの間に横たわっていたのである。歴史の問題を語らずして交流など存在しないということになり、当初の気軽に参加という理念はそのままに、04年1月から交流会は勉強会の形を取るようになった。といっても、やや姿勢を正して、映画、演劇といった文化的な分野から意見、感想を交換し合うといった変更をしただけに過ぎない。
 交流会をするなかで対面して話をする機会に多く恵まれれば、もともと民族、立場が違うだけにそれぞれの境遇の違いなどがメンバーの間で透けて見えてくるようになる。
「新潟の朝鮮学校を卒業した人と会で話す機会があったけど、新潟に居て日本人と話したのが初めてだと言ったとき、とても驚いた。そういう経験がある」
 身近に生活していながら互いに顔を背け合い、日本人は日本人と、在日は在日でといった摩擦のない同質の空間を求める志向は、コミュニケーションの断絶を維持して互いの境遇に鈍重になる姿勢を招くようになる。だがその一方で、互いが対峙して交流を求め合うなら、お互いが乗り越えなければならない「痛み」が生じる。交流することで互いに「痛み」が伴えども、金子さんは「今の在日がこうした状況だからこそ、交流し続ける意味がある」と強く固持する。
 そうした立場の金子さんだからこそというべきか、
「右翼の人でも民団系の人でも、歓迎する。拉致被害者を支援する家族会の関係者でもいい。そうなれば、まさにごちゃまぜのビビンバ。交流することで軋轢はあっても敵をつくることには決してならないでしょう」
 と威勢がいい。
 そもそも金子氏は北朝鮮、韓国の南北コリアになぜ深く関与しようとするのだろうか。交流などしなくてもよいという態度を貫いていれば、「痛み」を感じる必要もない。彼の姿勢は、わざわざ自分から首を突っ込んで「痛み」を得ようとしているかのようだ。
「痛み」の原体験は、彼が大学時分に経験した留学にあった。新潟大学在学中に、何となく特殊な言語を勉強しておけば役に立つだろう、と思い立ち、韓国の大学に1年間の留学をする。留学先の韓国で毎日のように、同学生から日本の戦争責任についての指摘を受けた。
「(過去の戦争について日本人が)知らないと向こうに思われているから言うわけで、歴史を知ることは大事なこと。ただ、自分自身が経験していない過去のことを『謝れ』と言われても。謝るのはおかしい。だったら、わかろうとするしかない」
 日本政府が過去の戦争責任について断罪されるのは当然だ。しかし、戦争を体験していない年齢層の日本人が南北コリアの人々と対面したときに、彼らに対してその場で謝罪することがふさわしいことなのだろうかと、金子さんは私に問う。私は返答に窮した。ただ過去の戦争についての歴史を踏まえておくことが、南北コリアの人々からどのような対応を迫られるにせよ、彼らとの交流を目指す礎になるのではないのだろうか。(■つづく)

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北朝鮮と新潟 第6回/運命づけられた食糧援助

■月刊『記録』06年1月号掲載記事

(前回までの内容)反北朝鮮のムードに満ちた新潟を鬱屈しきって歩くなか、北朝鮮にコメを送っているというNGO人道支援連絡会の川村邦彦氏の存在を知る。

     *     *     *

「ボランティアは善意の押し売り、おせっかい精神。別に北朝鮮の誰かが要求しているわけでもない」
 彼は、自らが行う活動を、正当化するでもなしに距離を置いて見つめている。川村氏は頑固そうな面持ちの67歳。白髪の頭を丸刈りにして眼鏡をかけている風貌は、ガンジーを思い起こさせた。人見知りする性格なのか、教会の入り口で職員に案内されて川村さんがパンフレットの冊子を製作する作業をしている部屋に入っていくと、特に何も告げることなく私に着席を勧めた。
「日本政府が北朝鮮への食糧支援をやめてしまった。それが途絶えている間は、やり続けるつもり」
 自身がかかわるコメ支援を語る口調は、固い決意をにじませる。しかし、現在の日本国内の北朝鮮バッシングの業火の中で、心ない人々が川村さんに対して妨害、中傷を浴びせかける。
「多いのは、『向こう(北朝鮮)の延命に手を貸すな』『利敵行為だ』というもの。右翼の嫌がらせ以外にも、いたずら電話は多い」
 自らへの中傷、誹謗について、私の前では川村さんはやや控えめにこのように語っていた。しかし実際に彼に降りかかっている誹謗、中傷は、生半可なものではない。
 川村さんと親しい関係者によると、川村さんはマンションに住んでいるが、マンション前の大通りに右翼の街宣車が数台並び、「カワムラッ、北朝鮮に帰れ!」などと右翼が拡声器で騒ぎ立てることが幾度となくあるそうだ。嫌がらせの電話に加えて、こうした騒動で川村さんの奥さんはすっかり参ってしまっており、ノイローゼを訴えているという。騒ぎの巻き添えにされる自宅近隣の住民の川村さんへの視線もさぞ冷淡なものであるのだろう。
 だがそうした犠牲を払ってまで、決して若くはない眼前の細い体躯をした人物がなぜにコメ支援を行うのか。「なぜか?」と、コメ支援がさも特別な事情があるかのように問う私に対して、何気ない面持ちで彼は返答する。
「政治的な問題はあるが、困っている人があれば、助けるのが人情。人道的だろ」
 川村さんはクリスチャンだ。教会にいて作業をしているのだから、当然といえば当然かもしれない。だが、彼の出で立ちは、白の肌シャツに白の股引という自宅の縁側で涼をとっているような服装だった。その服装が、気取らずに慈善活動を行っている彼の性分をよく表しているのかもしれない。クリスチャンの一般的なイメージとは、大いにかけ離れているが。
 そんな彼がキリスト教に「帰依」したきっかけは、27歳の頃に訪れた。昭和39年の新潟大地震に招き寄せられたものだった。新潟西港に、勤務していた会社があった。それが地震で沈下してしまう事態に遭遇する。21日もの間、会社の工場が炎上して黒煙が立ち込め、カラスが騒ぎ立てるという情景は、彼に「この世の終わりの体験をした」と言わせるほどの荒廃ぶりだった。死の恐怖が目の当たりに迫る。
 丘を上がった所に会社の社宅があり、現在通っているこの教会の前の道路を、大地震以前はいつも何の気なしに歩いていた。しかし、「困ったときの神頼み」に似た何かにすがりたい気持ちが、彼を教会の方へと振り向かせる。このキリスト教との遭遇を、彼は「自分に前々から備わっていた潜在意識と通じ合った」結果だと言う。
 川村氏は長野県で出生したが、職を求めて東京に出て行った。東京で就職してあちこちに赴任するが、新潟に来たちょうどその時に発生した大地震が彼を新潟にとどまらせる。この大地震以来、転勤もなく新潟に定着する結果となり、定年を経て今に至る。
 彼にとって、新潟の地でコメ支援を行うという業は、神からの天啓に導かれていると言っては大げさかもしれないが、何かに因縁づけられているような部分がある。
 コメ支援と関わり深く生きることを宿命づけられているかのような人生を歩むことになる端緒は、郷里の長野を離れ東京に出て肥料の製造会社に就職したことだ。川村さんが学卒時、日本国内は食糧の供給を高めなければならない状況にあって、政府が食糧増産へと重点的に投資を行なっている時期だった。農作物の再生産のために、肥料は欠くべからざる物資だ。そのため、当時は製鉄と並んで、肥料製造は花形産業だった。その肥料会社を勤め上げて、定年後に北朝鮮への食糧支援を中心としたNGO活動を始める。2000年9月には、国内のホームレスとなっている人々にご飯の炊き出しを行なう活動も加わった。
 NGO活動を、食糧支援を中心としたものにしようと川村さんが考えたのは、飢えについての経験が自身の根幹にあるからだった。
「小3の時に終戦を迎えた。未曾有の不作だったが、労働力もない。食べられないということが、終戦の記憶として痛烈に残っている」
 そのような飢餓状態に陥った感覚が、川村さんには「潜在意識として常にある」。ただ、企業に勤めている間は、この世界に飢えている人が数限りないほど存在して今にも食糧を求めているという現状を、「自分自身の問題としてとらえることがなかった」。
「会社で、いかに成績を上げるかにきゅうきゅうしていた。少しでも自分のポジションを上げたかった。そして、自分の生活を良くしたいばかりだった」
 定年前の自身をこのように振り返る。定年後に会社を離れると、自分自身のエゴへの執着から解き放たれたように、川村さんはNGOでの食糧援助活動に身を投じるようになる。
 戦後間もない頃の飢えの経験と結びついた食糧支援は、彼がクリスチャンであることからも導かれる。戦争が終結して食糧難の時代、ひどい空腹感に窮していた小学生の川村少年は、「ララ物資」の脱脂粉乳にあずかることで、飢えを乗り切ることができた。ララ物資は、アメリカ、カナダのキリスト教会がアジア救済公認団体物資として日本に贈ったものだ。川村さんだけでなく、日本の多くの人がその恩恵を享受することで、戦後の食糧危機を乗り越えたのである。このとき受けた恩は、川村少年の胸に「受けて忘れず、施して語らず」という信条で刻み付けられた。このことはすでに、彼の人生の文脈をたどるとき、震災時のキリスト教との出会いの伏線として張られていたのかもしれない。その後、北朝鮮の子どもたちが食糧不足に陥っている境遇を耳にしたとき、クリスチャンである川村さんには心の中にピッときた。幼少時に飢えを満たしてくれたララ物資が、信教への信仰とつながって脳裏に浮かんだ。
 新潟NGO人道支援連絡会を川村さんが開始したのは、7年前にさかのぼる。阪神大震災が発生した時に、川村さんとかかわりを持つ地元のNGOが、水害に遭ったために支援を求めてきた。姫路市の長町地区は在日外国人が多く居住するが、そこに住む在日朝鮮人の人々から兵庫の朝鮮総連を通じて北朝鮮から地元NGOに支援物資を送ってもらった。その時の支援が、北朝鮮への食糧支援を断固として続けようとする川村さんの生きる道を方向づけた。
 川村さんが実施する食糧支援は、コメによる援助が中心だ。コメならば、援助米制度を利用することで大量に食糧を北朝鮮に送ることができる。援助米制度は、コメ余り解消のための政府の「駄策」であり、農家の意欲を削ぎ落とす減反政策の一環だ。現在、国が定めるところによると、所有する田地の3割は休耕田にするか別の農作物を作るかしなくてはならない。例外的に休耕田での作付けが許されているのが、海外援助米である。国外の被災地、貧困地などを支援するための援助米ならば、休耕田での生産が可能だ。彼は新潟じゅうの農家を回り、休耕田での援助米の作付けをお願いしている。
 さらに川村さんが肥料会社に勤めていたことが、幸いなことにこの援助活動に活きる。肥料会社に勤めていれば当然、農家は顧客だ。定年前に仕事上付き合いのあった人に、彼は協力を呼びかけた。そのような「横のネットワーク」を持っていた川村氏の依頼でなければ、北朝鮮に送るためのコメを提供するという「反常識」を農家の人たちは承知していなかったかもしれない。
 加えて、支援活動の本拠が米どころの新潟であるということが、効率よく北朝鮮の貧しい人たちに食糧を行き渡らせるために幸いした。新潟は米どころであるばかりでなく、日本酒の一大生産地だ。新潟では、酒屋の多さは威容を誇る。日本酒の吟醸酒、大吟醸は、コメの芯の部分のみを使用して醸造する。
 そのため、残余部分が米粉として多く残されることになる。その米粉を引き取って、支援物資という形で北朝鮮に送っている。白米でなくても米粉であれば、米粒と栄養価は変わらない。なおかつ米粉は、白米の10分の1の値段で買うことができる。質が悪くとも、より多くの食糧をより多くの人の元に届けるために量を重視する。
 支援活動を開始した97年5月の時点では、このようにしてかき集めたコメは10トンにしかならなかった。しかし、02年には100トンにまで達するようになった。だが02年以降、拉致事件への国民感情が高まるなかで収集するコメの量は減少しており、以前から協力してくれていた農家の間に「やりづらさ」が生じているようだ。(■つづく)

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北朝鮮と新潟 第5回/北朝鮮人民の幸せを願う反総連活動家

■月刊『記録』05年10月号掲載記事

■自衛隊を軍隊にする運動

 万景峰号の入港を阻止する会の会長である本里福治さんは、人生に大きな影響を与えたと語るテレビで見た学生運動について語ってくれた。
「夢を持ってやっているはずなのに、覆面してヘルメットをかぶって顔をかくしている。後ろから石を投げては逃げる。自分の行動に自信が持てないのか。あいつは卑怯だ。卑怯な奴がやるのは嘘に違いないと思った」
 それが学生運動を担う「左の人間」に対する原体験だった。そこから「左の方が卑怯。右の方が清々、人間の生き方として清々している」という単純な二元論的な色分けを自らの生の判断基準にして、彼は「右」の保守思想に傾倒していった。
「右」の道に導かれながら、高卒後の1964年には海上自衛隊に入隊している。
「海自は船に乗っているので楽だしカッコいい。陸自は鉄砲かついで地を這わなくてはならない。船内は合理化が進んでハイテクが装備されて、海自は洗練されている」
 本里氏はこのように海上自衛隊に入隊した動機を話した。先ほどの「左」についての彼の発言と一致を覚えず、私には違和感が感じられた。彼の脳裏に描かれている「清々としている」人間像とは、一体どういう人物を指すのだろうか。
 自衛隊では、彼はヘリコプターの整備を行う職務に当たった。だが、自衛隊があまりに「法的規制」に縛られている点に思い至り、「自衛隊内部にいてその一員として頑張るのではなく、外部から活動に関与すべき」と意を決する。
「軍隊は何をやってもいいはずだ。法を乗り越えてもいい。自衛隊が軍隊と違うのは、やっていいことを法律で規制されていることだ。銃を撃っていい悪いが法に規制されている。これを解決しなくては、自衛隊は活動できない。自衛隊を軍隊にしなければ機能しない」
 このように法的に軍隊と規定された自衛隊こそが本来あるべき姿と思い定めていた本里氏は、入隊後4年を経過して自衛隊を退職する。
「自衛隊にずっといても良かったが、体験として自分自身を徴兵したに過ぎない。入隊の宣誓書に政治的活動に関与してはならないという項目があるのもおかしい」
 入隊時の宣誓に政治への不干渉が定められている以上、自衛隊に居ながらにしてクーデター的な内部変革を志した彼の考えは頓挫した。自衛隊をやめた後、母とともに新潟の地にやってくる。
 68年3月、25歳となり新潟で悶々としていた本里氏は、三島由紀夫が結成した「盾の会」に入会しようと心が動いた。しかし子どもができたことと重なったうえ、三島由紀夫が切腹して盾の会が解散してしまった。だからといって政治にかかわりたいという衝動が尽きることはなく「三島の遺志を継ぐために、三島由紀夫研究会をつくった」。
 三島由紀夫そのものへの執着もかなりのものなのかと尋ねてみれば、
「三島への愛着はあるがそこまでのものではない。行動原理の中心ではない。盾の会の会長である三島は好きだったが、文学者の三島は嫌い。小説はほとんど読んでない」
 と彼は率直に述べる。文学者の三島の突き当たったところが「盾の会」であって、その文学の内容を不問にするのはどうだろうか。「軍事好きなミーハー」と言っては失礼かもしれないが、彼の発言からは一向に彼自身の「清々とした潔さ」なるものが見えてこない。
 自衛隊を退職した後、軍事防衛に関する研究会を開催していたが、研究会活動ではメシが食えない。平素は営業を行うサラリーマンをしていた。しかし30歳に転機が訪れる。「性分がマジメで、客の要望があると何とかしようと思ってしまい、常に責任をしょいこんでしまう」性格のために、体をこわしてしまう。そこで「マジメ過ぎたよ。いいかげんに生きよう。いいかげんに生きる努力をしよう」と思い立ったそうだ。そして「対人関係に気を使わなくていいように、職人になろう。職人なら、人ではなく物を相手にして食べていける。客から何とかしてくれと要請があっても、物を示してダメなものはダメだと言える」と考え、塗装業を始め、現在に至る。
 本里氏に話を聞けば聞くほど、「清々」の意味を彼がどうとらえているのかが不明になっていく。つまるところ「右は清々」「左は卑怯」という対称で、彼の見解を理解しておけばいいのかと私は考えたが、よくよく聞いてみればそうではないらしい。「左」の共産党員であっても「清々」としていればいいらしい。
 新潟の市会議員に、共産党所属の渋谷明治氏という人物がいる。本里さんはこの渋谷氏を「左でも清々」の代表的な人物という。渋谷氏は、自民党が圧倒的強さを誇る新潟市にあって、選挙の場合に常にトップ当選を果たすほどの議員だ。
「共産党の票田となっている市営住宅に、15年から20年前、渋谷はでっかいスピーカーを付けた軽自動車のバンで乗りつけた。住宅の前で、たたきつけるように雨が降る土砂降りの中を、誰も聞いている様子がないのに、車上で自分の主義主張を訴えていた。聴衆がいないなかで、かさをさしながら演説している姿は心を動かされた」
 そのようなエピソードを披露する。だが渋谷氏に感銘を受けたと語る彼だが「共産主義が嫌いなので、入れ込むことはない」とする。人物像が重要なのであれば、信条、主義の左右の別は関係ないと私は思うが、本里氏にとってはことのほか重要事であるようだ。
 自分自身を「右の人間」と位置づける人物はおおむね、自民党を支持する。だが彼は自民党を支持するというより、自民党しか票を投じる政党がないと嘆く。
「反北ムードが高まってきた。だけど、拉致事件に関して、政府が何もやらないからダメ。日本政府はダメ、自民党がダメ。自民党は利権売国党、民主党は利権非国民党。それでも投票する場合には、自民党に票を入れる。だって、自営業だから」
 本里氏は、馬場さんが現在会長を務める「救う会新潟」で、5年前に幹事として活動を行っていた。しかし救う会をしばらく離れ、以前から続けていた「万景峰号の入港を阻止する会」の活動に集中することにした。が、また最近になって救う会の幹事を引き受けている。「大事な問題である拉致事件の解決を目指すために」とのことだ。

■救う会の分裂は北の仕業!?

 ところでこの「救う会新潟」だが、私が新潟を訪れた時には内部分裂に揺れていた。拉致被害者を抱える家族らのなかに、温度差が生じているためだ。日本への帰国を果たした5人の拉致被害者の家族と、死亡が伝えられた拉致被害者の家族との間の温度差である。すでに日本に帰国して再会を果たした拉致被害者の家族には、その後も「救う会」に携わる理由がない。この温度差は事の成り行き上当然のことかもしれない。
 このように温度差が生じた事態を、本里氏は「救う会を分裂させようとしている、北朝鮮の意図だ」と主張する。会の活動ので障害を「北朝鮮の企みだ」とする論法はかなり乱暴だ。北朝鮮を槍玉に挙げ会の内部問題を北朝鮮の陰謀によるものとすり替えることで、反北朝鮮感情を高揚して会の結束をより補強して固めようとしているとしか私には思われない。
「救う会新潟」の内部分裂はこれだけではない。現会長の馬場さんは、04年7月16日に会長に就任したばかりだった。97年の会の発足以来、会長は小島晴則氏が務めてきた。しかし、小島会長が欠席した幹事会の場で、会の幹事の一部が小島会長を解任して馬場さんを新会長に担ぎ出したのだ。小島会長解任の理由は「会の運営や会計が、不明瞭だ」ということによる。他方で、一方的に会長職を解任されてしまった小島さんは「解任は無効」として、解任した幹事を除名処分とした。
 話を聞きたいと思い立ち小島さんの自宅を伺ったが、呉服店を営む自宅店舗は平日というのにシャッターが下ろされたままだった。おまけにそのシャッターには、斧で叩き割ったかのような痕跡が残されていた。小島さんは自宅に閉じこもりっきりのようで、電話をかけても「話すことは何もない」として応じてくれなかった。関係者の幾人かに話を聞いた限りで「独善的」と評されることの多かった小島さんなのだが、この仕打ちはひどい。私はすごすごとその場を立ち去った。
 混乱を抱える「救う会新潟」だが、その幹事である本里氏は、これまでの強硬な意見からは思いがけず、意外にも朝鮮人全体を敵視すれば拉致問題解決の糸口が見出せると思っているわけではないようだ。
「北朝鮮の人民が幸せになってほしい。隣国だから友達でなくてはならない。北朝鮮の人民は飢えていて、餓死する人もいる。北朝鮮を何とかしてやろうという気持ちはある」
 北朝鮮国内の飢餓状況の原因を、朝鮮総連と金正日体制だと彼は断言する。
「北で飢えている人民がいて、同胞が飢え死にしているのに総連や在日は見殺しにしている。飢餓の原因は金体制。総連が支えるから金体制が継続される。総連が北を不幸にしている」
 金体制の存続を支持する総連に対して、彼は「どうしてわからないんだという思いがある」と強く私に訴えた。(■つづく)

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北朝鮮と新潟 第4回/吹き荒れる憎悪の感情

■月刊『記録』05年7月号掲載記事

 それにしても、日本国内のすさまじい北朝鮮批判は、拉致被害者への同情という以上に、経済大国を誇った日本の陰り、つまり経済不況への不満のはけ口ではないかとの感がぬぐえない。過去にテロ疑惑などが絶えなかった国とはいえ、国家元首が過去の拉致事件に対してそれを認め謝罪をしているにもかかわらず、この憤怒の嵐はどうしたことだろう。
 北朝鮮へのバッシングの裏には、日本は「大国」であるはずで北朝鮮のような小国が屈しないわけがない、との奇妙な「大国意識」が漂う。この「自尊心」にも似た心情が、北朝鮮への日本政府の「高圧外交」や日本人の大半が示す北朝鮮への「高圧的な態度」につながっているのではないか。
 そう考えた私は、北朝鮮、在日朝鮮人に対してあからさまに敵視する態度を打ち出す団体の取りまとめ役を訪問した。一言でまとめれば、私にとっては嘆息の出る思いのする2人の人物の意見だった。

■「北朝鮮憎しの感情はあります」

 全国の拉致被害者支援組織の中心的役割を担っている「横田めぐみさん等拉致日本人救出新潟の会」(救う会新潟)の会長である馬場吉衛さんの自宅を、私は残暑厳しい昼下がりに訪れた。突然、自宅を訪れた私を見ても、馬場さんはさして驚いた様子もなかった。さすがに地元マスコミにも幾度となく登場していることから、取材慣れしているなとの印象を抱く。
 スマートな芸術家の風情を漂わせた人物だ。今年、83歳になる。白髪で面長の面持ちに黒ぶちめがねが際立つ、上品なお年寄りといった容貌で、「北朝鮮に経済制裁を!」とのシュプレヒコールを大声で張り上げて訴えている姿はとても想像がつかない。
 自宅に上がり私に名刺を渡して着席を勧めるや、馬場さんは饒舌に話し始めた。渡された名刺には、救う会新潟の名称とともに中学生当時のめぐみさんの顔写真が刷られている。いわば、彼女は救う会新潟のシンボルマークというわけだ。
 馬場さんは、1997年の救う会新潟の旗揚げ時から、活動に参加している。彼は、めぐみさんが小学生時分に通っていた小学校の校長だった。拉致被害者として名前があがった彼女に卒業証書を手渡したという印象が強く脳裏にあったため、彼女のために何か力になれないかと考えた。自宅近くにちょうど、救う会新潟の中心人物として活動していた人がいた。その人に「私も仲間に入れてくれ」と願い出た結果、会の活動に身を投じるようになる。
 馬場さんのめぐみさんへの同情の念は、そのまま裏返しに北朝鮮、在日朝鮮人の人々への敵意に取って代わる。
「北朝鮮憎しの感情はあります。何のために連れて行かなければならなかったのだろう。なぜ日本人をこんなに拉致していくのか。学習会に出たりして、拉致についてわかってきた。だから、どうしても彼女を救わねばならない」
「在日は憎い。在日は拉致を北朝鮮と一緒にやっていた。全員ではないかもしれないが」
 救う会新潟でも同様の強硬な主張を彼は繰り返しているのだろう。閉ざされた感情ばかりが露呈されるために、私は内心気後れしながら話を聞いていた。
 馬場氏の朝鮮民族に対する敵意は、朝鮮民族との接触の絶無からもたらされていると私は思ったが、そうではないらしい。
 彼は新潟県内の新津で生まれ育った。中学に上がり師範学校を卒業した後、小学校で1年間に過ぎないが教鞭をとる。それ以降、日本が太平洋戦争に本格的に突入したため、馬場さんも戦場に向かうことになる。中国の戦場で4年間の軍隊生活を過ごした後、終戦を迎えた日本に帰国する。以後、新潟市で小学校教師として生きてきた。
 その戦争経験のなかで、同僚、上官として朝鮮人と生活をともにしたこともあったという。だが、そのことは現在、彼自身が取り組む拉致問題には何の影響も与えていないという。また、拉致問題に取り組む姿勢には自らの使命感が先立つせいか、「北朝鮮に経済制裁を!」と高唱する自身の活動が北朝鮮、在日朝鮮人らに与える影響についてはほとんど考慮している様子はない。
「拉致の問題も小泉首相でようやく盛り上がりが出てきた。日比谷公会堂をどうすればいっぱいにできるか、それをずっと考えてきた。小泉首相の訪朝後、東京の有楽町の国際フォーラムがいっぱいになった」
 まるで天命であるかのように使命感すら帯びる会の活動への彼の執着は、私にとっては驚愕に値する。彼の信念には一点の曇りもない。その曇りのなさが、私には危うく感じられる。自らの活動に対する執着心が強すぎるためか、自身が参加する会への正当性の主張は自らの参加する組織以外の活動には否定的なまなざしが向けられる。
「拉致被害者5人が帰ってきたことで、(その他の拉致被害者についても、帰国の)可能性が出てきた。失踪調査会を組織で別につくる。本来、国がやることを民間の私たちがやっている」
「日本で北朝鮮に食糧を支援する活動をしている団体があるが、実際に困っている人々にコメが行きわたっているのかどうか」
 穏やかな口調にもかかわらず、発せられる内容がそれに似つかわしくない。しかし、彼の否定的な見解は、朝鮮総連に対しても向けられる。朝鮮総連に対しての憎悪とも呼べる彼の感情の高ぶりには、私はただたじろぐばかりであった。
 朝鮮総連について馬場さんは、
「いわゆる総連については、憎しみを持っている。在日朝鮮人の方でも、アンチ総連という人もいる。個々ではなんともない人も、総連という団体としては北朝鮮に送金したりしている」
「総連の方々に対しては憎しみがある。万景峰号はひと月に2回、新潟港に入港して、送金、食糧の搬送を北朝鮮に行なっている。そのお金、食糧は、困っている人にいかず、軍隊、上流階層に行き渡りぜいたくな生活をさせているだけ」
「総連は将軍さんの言いなりになってきた。拉致の事実を知っていながら、家族会、救う会に何の支援もしてくれなかったし、事実をわれわれに伝えることもしてくれなかった」
 私は話を聞きに行く前に、拉致被害者を支援する関係者から朝鮮総連についてこうした反応が返ってくることは予想していた。だが反面、会の活動で「政府は、北朝鮮に万景峰号の入港禁止など経済制裁を加え、拉致の完全解決をはかれ!」と彼らは強く訴えてはいても、その影響を多大に受ける北朝鮮、在日朝鮮人がどのような影響を被り、影響が及んだ結果どうなるかということを考慮に入れた上でのことかと思っていたが、そのような配慮は彼にはかけらもなかった。
 当然といえば当然かもしれないが、被害者としての感情が先立ってしまい、自らが与えかねない加害の可能性についてはほとんど触れることがないのでは、結局、「自分たちさえ良ければ、それで良い」という尊大さも私には透けて見えてきてしまう。

■友好では拉致問題を解決できない

 総連ばかりでなく、社民党についても、馬場さんは憤りの矛先を向ける。
「社民党は全くこの問題にかんして力を貸してくれなかった。兵庫県まで土井たか子さんに協力をお願いしに行っても会ってもくれなかった。社民党と北朝鮮はうまくやっていた。北朝鮮と話し合いをしていたようだが、拉致事件については伏せられていたのだろう」
 と言及する。
 拉致被害者支援活動の中心的役割を担う拉致被害者家族連絡会が結成された97年当時はまだ、拉致事件そのものが公には全く認知されていなかった。しかし、彼らは確信をもって行動していた。現在の拉致問題への世論の高まりは、誰にも省みもされなかった彼らの当時の活動が、実を結んだ結果といえる。その果実は、自民党の一部の議員による後押しで大きく育った。そのことは裏返しに、当時、馬場さんらが協力を要請しても何一つ手を差し伸べることのなかった社民党が、驕りの中にあった証左でもあるだろう。
 当然、馬場さんは自民党に思い入れを強くしている。
「拉致問題が始まってから、自民党にどうしても票を入れるということになる。しかし拉致問題に対しての活動は、超党派でやってくれと言っている。だが自民党議員が働きかけても、共産、社民の議員は入ろうとしない」
 拉致問題を何としてでも解決に、というような彼の態度は、選挙活動へも自身を没入させている。2004年4月に参議院新潟選挙区の補正選挙が行われたが、その際に自民党公認で立候補した塚田一郎の選挙活動を支援した。馬場さんは、かつての教え子である塚田一郎を後押しする後援会「一郎会」の会長を務めている。当初は、無所属でやれと馬場さんは忠言したが、「現実問題として新潟全県を回るのに経費がばかにならない。自民党で出馬すれば選挙資金を借り出してこれる」との理由で塚田は自民党公認で出馬したそうだ。選挙活動中、馬場さんは拉致被害者支援を示すブルーリボンのバッジを常に胸に付けて行動したそうだ。
 拉致事件への怒りの心情が政治と結びつくことで、拉致被害者支援団体が政党の集票に利用されているのではないかと思える一面を垣間見る。
 馬場さんは加えて、新潟の現市長である篠田昭を元教え子として抱えている。かつての教え子の動向はやはり気になるようで、市が03年度から乗り出した朝鮮総連施設への固定資産税減免措置を自らの活動への後押しとばかりに頼もしそうに口にした。
「市は総連に対しては寛大だった。だが(新潟市長選の)公約で、特別扱いはしない、総連もその他の施設と同じように税金をかけると言っていた」
「とてもじゃないが、北朝鮮との友好から拉致問題を解決しようという路線なんか考えられない」との馬場さんの発言を最後に聞いて、私は彼の自宅を辞した。
「北朝鮮に経済制裁を!」と公然と訴える人が、北朝鮮、在日朝鮮人らに対してこれほどまでに非寛容で排他的であることに私は衝撃を覚える。馬場さんの心境が多くの日本人の心情と全く同じかどうかはわからないが、日本人の最大公約数的な心情を表しているのは間違いないだろう。
■日本人妻が騙されているという確信
 彼の他にも、新潟の地で反北朝鮮を掲げて公に活動する人間は、北朝鮮、在日朝鮮人に対して憎悪の念に憑かれているのだろうか。そんな考えを浮かべながら、私は次に「万景峰号の入港を阻止する会」の会長を務める本里福治さんを訪ねた。
 5年ほど前から彼は、東京の外務省や自民党の門前で北朝鮮へのコメ支援反対の集会を行うほか、新潟西港に万景峰号が停泊しようとする際にその停泊への抗議集会を開催している。ただ最近は、インターネットのホームページ制作が主な活動となっている。看板塗装の仕事が忙しくて時間がとれないためなのだそうだ。
「万景峰号の入港を阻止する会」以前は、日本人妻の北朝鮮への渡航が開始された頃に仲間と2人で連れ立って、日本人妻の宿泊するホテル前に陣取り渡航反対の街宣活動をした。
 彼は59歳で、年齢よりはいささか年老いて見えた。私が受け取った名刺には、会の名称とともに日の丸がトレードマークのように記載されている。30年以上もの間、北朝鮮に関心を持ち続けてきたという。
 北朝鮮への彼の関心を持続させた原動力は、日本人妻が北朝鮮政府に欺かれているという確信だ。
 日本人妻とは、戦時に日本政府によって強制連行された朝鮮人と婚姻関係を結び、戦後に日本で生活を送っていた日本人の婦女らである。その日本人妻を連れて在日韓国・朝鮮人は、日朝両国赤十字協定(1959年)に基づく「帰国事業」で北朝鮮に帰還した。68年から70年の3年間を除いて、84年まで25年もの間、「帰国事業」は継続される。その期間中に計約9万人の在日朝鮮・韓国人とおよそ2000人ほどの日本人妻が北朝鮮への渡航に就いた。
 帰還の途に就く者の北朝鮮への渡航口が、新潟港だった。彼の目前で、全国から集った日本人妻が自らの意志で帰還船のタラップを上っていく。そうした日本人妻の姿を見過ごすことは、彼には耐えられなかった。「騙されてんだから、(北朝鮮がどんな国かを)教えてやるよという心境」で、前述の通り、彼は日本人妻らへの街宣を行なった。
 それにしても、何の根拠もなしに日本人妻が北朝鮮に騙されているとの確信は得られない。自身の確信について、本里氏はその理由をこのように説明する。
「北朝鮮に渡った日本人妻から手紙が来るんだが、内容は『靴下送ってくれ』だとかちょっとした身の回りの物を世話してくれというもの。内容はともかくその手紙には大きな意味があって、手紙の文字がボールペンだったら幸せに暮らしているとのサインというように示しを合わせておいた人がいたが、来た手紙を見ると手紙の文字は鉛筆で書かれていた」
 しかし、いかにも人道的で好ましいように語られる在日韓国・朝鮮人の「帰国事業」は、姜尚中の著作「日朝関係の克服」によれば、
「『厄介者』(在日朝鮮・韓国人)が、任意の自由意思で国外に『放出』され、しかもそれが『祖国』への『帰還』という麗しい『人道主義』によって正当化されるのであるから、政府やマスコミ、そして世論のほとんどが『北鮮帰還運動』に賛同したのである」
 とある。在日朝鮮・韓国人への排外的な措置は「人道主義」の糖衣にくるまれて正当化されることで、日本政府、日本人は「厄介払い」を「良心的行為」に転換することができたのである。
 ところで、世の中を自らの力で自身の望む方向にどうにか動かしたいという動機付けが強くある本里氏は、自分自身を「右の人間」とする。彼は看板塗装を仕事にしているが、狭い事務所内には天皇が笑顔をふりまく写真の掲載されたカレンダーや日章旗が安置されている。その事務所でひざを付き合わせるような距離で向かい合って、私は話を聞いたのだった。
 彼が高校生の時分、折しも当時は全共闘、全学連など学生運動華やかなりし頃だ。世の中がどうあるべきかと考える「憂国」少年だった本里さんは、テレビで興味深く学生運動の様子を見ていた。その当時の体験が彼の現在に大きな影響を与えているようだった。(■つづく)

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北朝鮮と新潟 第3回/在日蔑視と日本人の大国意識

■月刊『記録』98年6月号掲載記事

■住所を教えたらいきなり警察連行

「慣れで差別があるのは当たり前という認識になっている」と言う梁寿徳・ハナ信用組合新潟支店次長の話に耳を傾けていると、差別経験を在日朝鮮人らに「慣れ」させる日本社会、日本人に私はどうしようもない憤りを覚える。「慣れ」は、常に苦痛にさらされ続けていなければ宿らない。その苦渋の原体験を彼は話してくれた。
  「小さい頃、夜の公園で祭りの後にペンライトを振りかざして遊んでいたら、警官がやってきた。警官に尋問され『あそこの団地に住んでいるんだ』と告げると、理由もなくパトカーに押し込まれて警察署に連れて行かれた。母親が警察に呼び出され、後で母親にしかられた。警察は団地のどこに在日が住んでいるかを把握していたんでしょうね」
 現在、北朝鮮への敵視と相まって在日朝鮮人らにもその矛先が向けられるが、そうした状況下にありながらも梁氏は拉致加害者に批判的だ。
  「拉致被害者も拉致に遭わなければ、普通に本国で幸せに生活できた。拉致事件については、同じ民族として恥ずかしい」
 加えて、在日朝鮮人にバッシングを加える人々に、彼はこう訴えたいと告げる。
  「日本人拉致がたとえ強制連行に対する報復だとしても、喜んでいる人は同胞には1人もいません」
 在日2世の梁次長は生まれたときから民族名を名乗り、朝鮮籍だ。現在38歳で、1児の父である。来年、小学校に上がるので、朝鮮学校に行かせるという。理由を尋ねると、単純なことだというように
  「朝鮮人だから朝鮮学校に行くのが自然。朝鮮の文化で朝鮮の生活習慣の中で学習するのが当然」
と答える。
 彼自身も朝鮮学校をへている。学校卒業後、旧朝鮮銀行に就職した。これほどまでに北朝鮮に帰属しているという意識が強く、数多くの日本人による差別を経験しているにもかかわらず、彼は日本人拉致に対しての反省の語を口にした。
 日本人拉致への憤まんの切っ先を日本人から向けられているというのに、反省を伴って事態を考えることがどうしてできるのだろうか。梁氏の「懐の広さ」は、個人の資質によるものも大きいのだろう。拉致事件発覚以後の日本人の在日朝鮮人に対する差別行動も、「こうした差別激化は一時的なもの。そのうちに静まってくるだろう」と静観を決め込む。
 在日朝鮮人の人々と接してみたことで、遠い過去の出来事と思われていた戦争の面影を、私は近くにたぐり寄せたような気がした。在日朝鮮人と呼ばれる人々は、先の戦争がなければ「在日」としての人生はなかったともいえる。多くの韓国・朝鮮人が先の大戦時に、日本軍が植民地化した朝鮮半島から日本に強制的に連行され奴隷的労働に従事させられた。過酷な労働で亡くなる者も後を絶たなかった。もちろん植民地となった母国は荒廃した。
 そうした負の遺産が多くの韓国人・朝鮮人の運命を変えてしまった。私が新潟で会った在日朝鮮人はごく限られた人たちに過ぎないが、彼らと接するたびに、過去の歴史の後戻りできない怖さに迫られた。

在日朝鮮人には我慢してもらえ
 2004年5月22日に小泉首相は、02年9月の日朝平壌宣言後、再度北朝鮮を訪問した。同日に、拉致被害者の子どもら5人が、先に帰国を果たした両親の元へと日本にやって来た。この成果を、04年2月9日に自民、民主、公明党の賛成多数で可決、成立した改正外国為替・外国貿易法(外為法)の効果だと見る向きが日本国内に強くある。
 改正外為法は、「わが国の平和、安全の維持のために特に必要がある」と日本政府が判断した場合に、日本単独で閣議決定によって送金停止、資産凍結、輸出入規制などの経済制裁を行うことができる。それまでの外為法は、国連決議や日本を含む複数国の合意が条件となっていた。北朝鮮への圧力政策として、このような自国の都合のみを優先する法律が成立したのである。この動向に対して、北朝鮮は「互いの安全を脅かす行動を行わないと確約した朝日平壌宣言への乱暴な違反だ」との談話を発表している。
 拉致被害者の子どもたちが両親と再会を果たした日朝首脳会談の3週間後、6月14日に自民、公明、民主3党の賛成多数で特定船舶入港禁止特別措置法(入港禁止法)が可決、成立した。
 拉致問題に対して北朝鮮が最大限の譲歩をしているにもかかわらず、強硬的な施策で北朝鮮に対するのが当然だとする風潮に乗って、賛成多数での入港禁止法成立だった。明らかに日本側の平壌宣言不履行である。
 改正外為法と入港禁止法の2法が、北朝鮮に対して強硬的な外交手段としての経済制裁を加えるために、いつでも発動できるようになっているのが現況だ。日本のこうした一連の威圧的な動向に対抗して、北朝鮮は日朝平壌宣言以来の友好的な態度を変更し、最後の切り札ともいうべき核ミサイル整備に着手しつつあると伝えられる。
 経済制裁2法が発せられれば、影響を受けるのは北朝鮮ばかりではない。祖国にいる者への支援のために送金、物資の輸送などを行う在日朝鮮人にももちろんその影響は及ぶ。
 新潟県庁の拉致被害者支援室の関係者は、経済制裁2法が発動された場合の北朝鮮国民、在日朝鮮人らへの影響について「やむを得ない。とりあえず彼らには我慢してもらえばいい」と自分勝手な意見を展開する。
 日朝平壌宣言以来、北朝鮮は譲歩的な態度で外交の場に臨んでいた。これ以上ない譲歩で日本との国交正常化を望んでいるのは明らかなのだが、国内に「国交正常化すれば、日本からお金が引き出せるから」との意見が多いのには辟易する。そうした態度は、貧困に窮している北朝鮮に対して日本が経済的に豊かであるという大国意識、優越感からの見下しに過ぎない。
 北朝鮮政府が譲歩的に日朝外交を進めていても、北朝鮮に対しての非難が日本国内で高唱されるなか、さらにその非難を煽る結果となる事態が起きた。04年11月に開かれた日朝実務者協議の後に外務省高官が持ち帰った横田めぐみさんの遺骨が、別人のものあることが発覚したのだ。めぐみさんの両親に対しては、これは酷な仕打ちであっただろう。この事件以降、北朝鮮への非難はピークに達し、北朝鮮への経済制裁を待ちわびる声はこれまでないほどのトーンに高まる。
 しかし本格的に北朝鮮に経済制裁を加えてしまえば、核武装した北朝鮮がミサイルを日本に飛ばし、アメリカが北朝鮮にミサイルを発射するという最悪の事態に陥る可能性がある。そうなれば、拉致された日本人の安否確認などできる状況ではなくなってしまう。拉致問題の平和的解決を望むのであれば、北朝鮮との対話、交流を中心に積極的に北朝鮮に関与する施策が最適なのではないだろうか。日本国内では生ぬるいと批判される、韓国のノ・ムヒョン政権による北朝鮮への「太陽政策」は、まさにその積極的な関与の施策である。(つづく)

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北朝鮮と新潟 第2回/拉致問題によって被害者から加害者に

■月刊『記録』05年5月号掲載記事

 日朝平壌宣言後も両国の協議が設けられるなかで、絶えず北朝鮮政府は安否確認の情報を提供していたはずだ。しかし、安否情報はなぜか拉致被害者家族会の怒りと絡めて報道され、いつの間にかその情報は「信用できない」ものとの絶対的な断定が加えられてしまう。そして結局のところ、「北朝鮮よ、真相を伝えよ。でなければ、経済制裁の強硬措置もあり得る」となる。おかしな倒錯が毎度のように起こるこの現実に、疑問を覚えるのは私だけではないはずだ。
 平壌宣言の前文では「両首脳は、日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治、経済、文化的関係を樹立することが、双方の基本利益に合致するとともに、地域の平和を安定に大きく寄与するものとなるとの共通の認識を確認した」とある。
 しかし、日本人拉致、北朝鮮報道がやたらに連日のように報道されるようになって以降の、日本政府、日本人の在日朝鮮人、北朝鮮政府に対する扱いは、明らかに日本側の日朝平壌宣言無視だ。
 北朝鮮政府に決して問題がないわけではない。独裁体制を敷き軍隊に総力を結集するがために、飢えて死亡する国民も少なくない。だが、北朝鮮をこのような状況に追いやったのは、北朝鮮への孤立政策を進めるアメリカであり、そのアメリカに追従するばかりであった日本ではなかったか。北朝鮮に「悪の枢軸国」とのレッテルを貼り付けて孤立させて、北朝鮮へのネガティブキャンペーン一色という状況をつくり出した。そのような境遇に置かれた北朝鮮が核という切り札に手を伸ばすのは、当然のなりゆきとも言える。北朝鮮批判が嵐のように轟轟と吹き荒れる日本国内だが、批判すべくは日本政府でありアメリカ政府ではないのか。
 現在の北朝鮮の統治体制は、戦時中の日本もこのような姿だったのだろうと想起させられる。そして対外的に置かれている境遇もかつての日本と相似しており、日本は国際的に孤立して戦争へと向かった。異なるのは、日本はアジアの対外諸国へ侵略を行い自国の活路を見出そうとしたことだ。現在、日本人が北朝鮮に向ける、さも奇異なものを見るかのようなまなざしは日本人拉致への怒りに任せて、かつて戦時中の日本国が行った侵略行為に対して反省の色合いなど少しも帯びていないのではないか。
道路料金所で始まる尋問
 北朝鮮に対する敵意が日本人間で高まるなか、新潟の地で在日朝鮮人の人々の境遇はどんどん厳しくなっている。先に登場した朝鮮総連新潟県本部の金鐘海副委員長は、あからさまな冷遇を味わった。
  「縁側で茶を飲む仲だった隣人が、拉致事件報道が過熱して以降、そっぽを向くようになりました」
 金副委員長は思っていることがすべて口を突いて出るのか、私の前でも日本人へのアンチ感情を包み隠すことがない。朝鮮人の強制連行についても
  「自分も拉致被害者。強制連行の過去がある。強制連行されてきておとなしく生活しているのに、日本人拉致の問題で、私ら被害者が加害者として仕立て上げられている」
と自らの思うところを率直に口にした。
 金副委員長は頑固親父といった風貌で、畳み掛けるような話し方が印象的だ。私が総連を訪ねた時、副委員長は私を胡散臭がったが、話をしているうちに打ち解けたのか、万景峰号の来泊で多忙な中を2時間以上も時間を割いて話をしてくれた。
 副委員長は在日2世で岐阜生まれの新潟育ち。54歳になる。小学4年生になる9歳に新潟に移り住んだ。小学1年から3年生まで通った小学校では、日本人が勉学する学級とは別に民族学級に振り分けられ、昼から登校して夕方の4、5時に帰宅するという生活を送った。高校は東京の朝鮮学校に行き、その時にそれまでの「金田」という通名を捨てて現在の民族名を名乗るようになる。大学に当たる朝鮮大学校を経た後、新潟で朝鮮学校がちょうど開校した1968年に教師として赴任し、8年前から県本部での任に当たっている。
 日本での差別体験は、数知れないという。高速道路の料金所で免許証を見せたところ、民族名で朝鮮籍なので料金所の係員が怪しんだ。係員は「身分を証明するものを見せてみろ」と告げる。「そんなことをする権利があるのか?」と問えば、「免許証と外国人登録証を調べるのが自分の義務だ」と言い張る。「外国人を検閲するのがアンタの仕事なのか」と副委員長は怒りを覚えたという。このやりとりのおかげで、自身の車の後ろには大縦列ができてしまったそうだ。
 また、在日朝鮮人の人々が持つパスポートには、指紋を押捺してある個所に、その上から桐の花のシールを貼り付けてあるという。これに対して、
  「豊臣秀吉の好んだ花といえば、桐の花。秀吉の朝鮮征伐をイメージさせる。悪い冗談みたいだ。日本政府はこうした細かいところから差別をきっちり行っている」
と副委員長は苦りきる。
 そのような経験をへてきている副委員長には、反日感情が色濃い。そしてなお、日本人拉致事件で更なる窮状を迫られる在日朝鮮人を代表して彼は、アンチ北朝鮮感情を増幅させる日本人にうっ積した憤りをぶつけるかのように、私に話す。「拉致はあってはならないことですけどね」と断ったうえで、このように漏らした。
  「おそらく日本人拉致は、軍の機密部隊が競って反日感情そのままに日本人を連行したものだろう。英雄的な感情を競ったのではないか。目的などはわからない。しかし、拉致と強制連行を比較すると死者の数など比べ物にならない。拉致されたとはいえ、朝鮮で恋人と結婚して食うに困らない生活をし、国で一番の大学に息子が行っている。それに対して強制連行はひどかった。1万人以上が連行され、祖国に戻ったら男がほとんどいなかったと聞いた」
 副委員長の歯に衣着せぬ発言は、多くの日本人の怒りを買うものなのかもしれないが、私にはかえって清清しく感じられた。日本人拉致について、在日朝鮮人たる彼が腹の中でこのように考えていたとて、無理のない話だ。ただ、総連の建物を出て、晩夏の昼下がりの太陽に照り付けられた際に、まばゆい街路の風景とは正反対に私の眼前には影が差し込んだように思えた。
国籍で仕事を断る宅配業者
 金副委員長とは対照的に、ハナ信用組合新潟支店次長の梁寿徳氏は、日本政府、日本人に対する怒りを露骨には示さないが、淡々とした口調とは裏腹に、抑えていたかのような苛立ちめいた感情が漏れ出てしまう。
  「テレビでオリンピックを見ているとき、『ウチの国』の選手の表情が暗いなどと言われると『ほっとけよ』と言いたくなる」
  「ウチの国」とはもちろん北朝鮮のことを指す。テレビ、新聞などメディアの日本人拉致報道が過熱を増すにつれて、「明らかに差別傾向は激しくなった。それまで小さくささやかれていたことが、人前で声を大にして言われるようになった」と梁氏は振り返る。
 遠きに眺めていた世間の風潮は、自身の周囲にも影響が波及することで実感として彼の身に及ぶ。ましてやそうした影響が自らの仕事にまで及んでくると、会社組織の運営が大きく妨げられることになる。
  「拉致事件がひんぱんに報じられるようになって、今まで口に出して言えなかったことが公に発言できるくらいにだんだん大きくなってきたように感じます。例えば、店内に入ってきて『ここはキタかミナミか』とおおっぴらに聞く人がいた。ウチは日本で法規登録もしている日本の会社ですってのに。北朝鮮系か韓国系かなんて関係ないだろうと。それから、右翼が店の表で『北朝鮮に帰れ』とがなり立てることも。日本人で毎度両替しに店に来ていた人もいたが、いなくなってしまった」
  「現在の業務の前に総務の仕事をしていたんですが、書類運搬の代金支払いを現金でやるのが面倒くさくて回数券を利用していた。あるとき、回数券を渡していた宅配人が『北朝鮮の会社の仕事はできません』と言ってきた。『どこの国の会社かで差別して仕事をするのですか』と腹立たしく感じました。そこの運送業者は切りましたが。後から考えてみると、会社の意向でそうしていたのではないか」
 次から次へととめどもなく、差別体験が梁次長から語られる。しかし彼が語る経験はあくまで印象に残っている部分ばかりであり、印象に残っていない部分も相当なものだろう。(つづく)

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北朝鮮と新潟 第1回/新潟を覆う暗い影

■月刊『記録』05年4月号掲載記事

(■坂勇人 さか・はやと……1977年1月生まれ。愛知県名古屋市出身。2000年、名古屋大学文学部卒業)

新潟を覆う「暗い影」「新潟は暗い街ですよ。11月には、みぞれが舞って空を覆ってしまう。それからは、太陽の光が見えることなんてそうはない。それが春までずっと続くんですから」
 秋から冬の新潟の情景を、このように話す人がいる。
 ぎらぎらとしたまぶしいばかりの陽光が照り付ける9月に、私は新潟に来た。しかし、私は新潟を訪れて、この地の「暗い影」をまざまざと目の当たりにしたような気がする。
 新潟を覆う「暗さ」。私が感じるそれは、彼が告げるような天候によるものなどではない。かといって、北朝鮮による日本人拉致の件数が最も多い地であることなどでもない。それは、北朝鮮や日本人拉致事件について毎日のように新聞、テレビで大々的に報道されるようになった後の新潟の様相のことだ。新潟市内の多くの官庁の門前には、日本人拉致事件に関連したポスターが貼付してある。啓発を目的としたものなのだろうが、その啓発、そして啓発に導かれようとしている心情に対して、私は新潟の「暗さ」を思った。「この地は、閉ざされている」と。
 なぜ「暗い」のか、なぜ「閉ざされている」のか。その理由は、私が新潟を訪れて様々な形で北朝鮮という国に関わる人物らを追うなかで、明確に絵としてあぶり出されてきた。
■相次ぐ嫌がらせ

 2003年7月30日、朝鮮総連新潟県本部が銃撃されると共に、ハナ信用組合新潟支店の通路脇に不審物が置かれた。ハナ信用組合新潟支店は、旧朝鮮銀行新潟信用組合が経営破綻した後の業務を引き継いだ金融機関だ。
 この騒動を引き起こした犯人らは、犯行前に朝日新聞東京本社と地元の大手新聞社・新潟日報社に「建国義勇軍」を名乗って犯行声明を発した。犯行声明は、朝鮮総連県本部に銃弾を撃ち込むと共に、ハナ信用組合新潟支店に爆弾を仕掛けたという内容のものだった。実際に関係者が施設の周囲を調べてみると、総連県本部に隣接する記念館のシャッターには銃痕が刻まれていたし、信用組合の通路脇には不審物が放置されていた。後に、犯行グループは「刀剣友の会」という刀剣愛好家団体だと判明する。この事件は、新聞、テレビなどで大きく取り上げられた。
 この地に広がっているかのように思われる「暗い影」とは、日本人拉致事件に関する報道が絶え間なく茶の間に流されるようになって以来、われわれ日本人の間に醸されてきた北朝鮮に対する鬱屈した感情だ。しかし、このように事件として目に見えるかたちで表出してこなくとも、われわれ日本人の抱く北朝鮮への敵愾心、アンチ北朝鮮という心情はぶすぶすと燻されて先鋭化しているように思われる。一連の事件では、この反北感情に伴う憂さを晴らそうとする矛先が、より身近に北朝鮮を思い起こさせる対象である在日朝鮮人に向けられた。
 朝鮮総連新潟県本部の金鐘海副委員長は憤激やる方なしといった口調で、この事件についての怒りを訴える。
「いったい何をしようというんだ。われわれを殺そうというのか。事件は、国際問題に発展してもおかしくはない」
 銃弾が打ち込まれたのは、総連県本部に隣接している記念館の倉庫の部分だ。銃弾はその倉庫のシャッターを貫通していた。事件当日の晩は不幸中の幸いというべきか、積荷の出し入れを行う作業員などはいなかった。だが作業員がいたら、銃撃の犠牲になっていたかもしれない。
  「刀剣友の会はテロ集団。このテロ集団とある国会議員は何らかの関わりを持っていた。国会で追及しなくてはならない」
 ただただ怒りでしか事件を表現しようがないといった口ぶりで、金副委員長は吐き捨てる。
 建国義勇軍事件以降、朝鮮総連県本部の建物には、この建物が朝鮮総連であることを示す表示物の類は一切取り外されている。私が総連県本部を訪ねようと近辺に来た際、どこが本部なのか全くわからず、立ち往生する羽目に陥った。副委員長に聞けば、「警察からのアドバイスで、このようにしている」という。それでも目ざとくここを総連と見出した右翼が、「突入!」と叫んで建物の中へ強行突破して入ってこようとしたこともあったそうだ。入り口で突入を止めようとする警察と右翼が衝突してもみ合い、大騒ぎになった。
 私が朝鮮総連新潟県本部を訪れたこの日、新潟西港と総連新潟県本部の一帯は、右翼の街宣車と警察官らでただならぬ雰囲気を醸していた。ちょうど万景峰号が西港に寄り祖国への帰途に就こうとしている時だったのだ。右翼の街宣車は数台が列を連ね、総連付近を回遊して何度も「アイタイセヨ!」とがなり立てている。この騒々しさは筆舌に尽くしがたく、まさに騒音の嵐といった感じだ。総連県本部前にはパトカーが止まり、2人の警察官が防護服を着用してものものしい出で立ちで待機していた。私が県本部に入っていこうとした際には警察官の尋問を受けた。万景峰号が西港に入港するたびにこのような乱痴気騒ぎが繰り返されているのだと思うと、何やらやるせない気分が私を襲う。
差別には「慣らされて」しまった
 金副委員長とは対照的に、通路脇に不審物を置かれたハナ信用組合新潟支店の梁寿徳次長は落ち着き払って冷静に事件を振り返る。
 不審物は次長自身が発見した。事件当日の夜8時頃、次長は支店横の通路の脇に紙袋を見つけた。紙袋の中からは、配線らしきコード線がのぞいていた。犯行声明が出された当日、警察から警戒するようにとの連絡を受けていたため、「これが例の爆発物か」といった具合に冷静に対処したという。
 新聞には爆発物と大々的に書かれていたが、警察による調査の結果、爆発物と呼ばれた物は実際には爆発などしないただのガラクタだった。
「おどしでしょうね。嫌がらせというか」
取り乱すことなく冷静に事件を振り返る梁次長は、自身に降りかかった災難に対して、なぜ平然としていられるのか、その理由をこのように告げる。
「小さい頃から嫌がらせとかそうしたことは、たびたび受けてきたので慣れている。だから事件に対してそこまでの驚きはなかった」
 私は彼のこの発言を聞いたとき、日本で経験してきた差別的な体験があまりに頻繁すぎるため差別に「慣らされて」しまった彼に対して、目を合わせることができなかった。普段、日常生活を送るなかで私自身が日本人であるということを認識する場合はそれほど多くない。しかし、この時ばかりは「私は日本人である」という現実が反省を伴って立ちはだかった。
 義勇軍事件について冷静さを保持して語る梁次長だが、事件の取材に訪れたマスコミに対しては自らの憤りをその態度に露わに示す。
「マスコミなどが来てインタビューをしてきたが、『拉致事件についてどう思うか』とか『どうしてこんなことが起こったと思うか』などの質問には頭にきた。『被害者はこっちだぞ』と。こちらに事件の原因があるかのように聞いてくるのには参りました」
 平穏を脅かされた被害者であるにもかかわらず、「いじめられっ子には、いじめられるだけの原因がある」というような頓珍漢な類の論理で押しまくられてはかなわない。しかし、モラルを失したマスコミの発言と同一線上の振る舞いを、支店の近隣住民にも梁次長は浴びせかけられた。
「マンションに住んでいる人で事件後に、『北朝鮮の方と一緒には住めません』と言ってくる人がいた。『申し訳ありません』と謝罪したが、なぜ謝らなければならなかったのか今になってみてもわからない。店の外にも『ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした』というように貼り紙も出したが」
 被害者であるのに、なぜ責め苦を負わされなければならないのだろうか。それも、加害責任まで背負わされて。やりきれない思いにとらわれて、私は息苦しさを感じる。
 義勇軍事件は、差別に苦しみ日本人に対して遠慮がちに生きている彼らにとって、なおもムチ打たれる経験となってしまったようだ。在日朝鮮人である彼に話を聞いていて、反北朝鮮感情を過熱させる日本人の「暗さ」に触れた私は、梁次長と対面している面前で視線を床に落とさざるをえなかった。しばしば北朝鮮報道のなかに北朝鮮を「閉鎖国家」と批判する文言を見出すことができるが、在日朝鮮人の人々を日常的な差別待遇のうえにさらに追い込む日本人のこの閉鎖性はどうだろうか。
 在日朝鮮人たちを取り巻く状況がこうした環境にもかかわらず、在日朝鮮人である人々への同情はあまりに少ない。しかし、北朝鮮に対して弁護的な趣旨の発言を口にすると概ね、「オマエはキタチョウセンかッ!」と怒声を浴びせられる。もしくは「オマエはキョウサントウかッ!」。
 もちろん北朝鮮に身内の人間が拉致される事態に遭遇した拉致被害者の怒りや悲しみに私は同情もする。日本人の拉致を北朝鮮という国家が行ったという事実は厳然としてあり、当事者にとって北朝鮮に対しての憤激はまさに当事者にしかわかり得ないものだろう。
 だが、その感情に完全に同調してしまうことは、私にはできない。なぜなら、そのような感情に過剰に同調してしまうような態度が、現在の「拉致被害者」とは別に、またそれとは別の被害者を生み出してしまうことが想像できるからだ。新たに生み出されようとしている被害者とは、在日朝鮮人の人々である。
 北朝鮮報道が日常茶飯事化するとともに、大勢を占めるようになった「北朝鮮はトンデモナイ」との世情に煽られるようにして、「青天の霹靂」のごとく降ってわいたような事態がある。東京都の石原慎太郎都知事の在日朝鮮人たちへの圧力施策だ。朝鮮総連関係者にとっては、言いがかりこの上ないものだった。

■突然の圧力政策

 石原都知事は2003年2月19日の記者会見で、それまで継続していた都内の朝鮮総連施設への固定資産税の減免措置を撤回する方針を発表した。これに対して総連国際局は、「朝鮮総連が朝日間の交流窓口となって公館としての役割を果たしている。30年あまりにわたり実施されてきたことが、この時期に唐突に問題視されることは到底理解しがたい」(朝日新聞03年2月20日朝刊)との見解を示した。
 総連施設は、学習会や日本人との交流、ビザ発給などに利用され、公益性の高い施設として全国的に固定資産税の課税が減免されてきた。石原都知事の減免撤回発言の後、都が課税に踏み切ったことに対して、総連は不服審査請求を行う。課税の理由として石原知事は、「在外公館として働いていない。実態を見たから課税した。ほかのことに使っている。資産価値があるなら税金をはらってもらわないと困る。在外公館として使われていない建物に課税するのは当たり前」(産経新聞03年9月13日朝刊)と説明した。長い間、在外公館として機能していると判断されていた施設が、突然に機能不全に陥ったということだろうか。募るアンチ北朝鮮感情を反映しての政策ということは十二分に推察できるが、その場その場の感情で課税対象の基準が変更されては、課税される人間はたまったものではない。だが、東京都は総連への圧力施策を強引に推し進めて年額約6000万円(03年度)を課税して、税の未納を理由に朝鮮総連中央本部、都本部、朝鮮出版会館の3施設を差し押さえている。
 東京都が実施した、総連施設への固定資産税減免撤回の動向は、新潟にも波及した。固定資産税の減免は各地方自治体の判断で決定できるため、東京都に引き続いて「右にならえ」式に新潟市も16年度から減免撤回に踏み切ったのである。
「今まで払わないできたものを突然支払えと言われても納得できない。条例で制定されたわけでもない。篠田市長は石原慎太郎の影響をかなり大きく受けているのではないか。市民感情でそのようなことを言い出したのだろう」
 新潟市の唐突な減免措置撤回について、総連新潟県本部の金鐘海副委員長はこう指摘する。
 固定資産税の減免は、施設の「公益性」が第一の判断基準になる。減免撤回についても「公益性」が問題とされているのだが、新潟県本部では民族を問わず一般に広く招待して週3回ハングル講座の学習会を実施している。にもかかわらず、新潟市は施設の公益性に問題があると主張して減免措置を撤回する方針を貫こうとする。
金副委員長は首をかしげながら、
「総連施設は公民館と同じで公共性の高いもの。そのため、税も免除されてきたと理解していた。拉致事件が落ち着いたら、また払わなくてもいいと言い出すのではないか」
と、「市民感情」に左右される市の政策に対してあきらめ顔で言った。
 道理に合わない馬鹿げたことをするものだと腹立たしく思いながら、私は新潟市役所を訪れた。固定資産税を取り扱う部署は、企画財政局資産税課になる。突然の私の訪問に応対してくれたのは、阿部文男課長だ。
 どうにも減免撤回の理由がおかしいと訴えた私に対して、阿部課長は今回の減免撤回についてこのように説明する。
「総連施設にも公民館などと同じく、公益上の理由があれば減免措置を取る。新潟港から出港する万景峰号を利用して祖国訪問を行う人や往来する人に、新潟の総連施設でパスポートの発行をやっている。固定資産税の減免はおかしいことではありません」
 では、総連施設に対してこれまで継続されてきた「公益性の高い施設」の定義が、ここ近年になって、どうして「公益性を損なっている」との論理に展開したのだろうか。このように無理な論理の展開を、可能にしているのが「市民感情」である。
揺れる判断基準
「拉致問題に加えて、万景峰号を用いてミサイルを輸送しているという疑惑。こうした一連の事情から、『市民感情』は日朝親善という状況にない。市も万景峰号の入港に対して反対している。北朝鮮が対外的に開かれた状況になく、公益という点で問題がある」
 今までに何度同じセリフを復唱してきたかという調子で、阿部課長は答えた。
 拉致報道に扇情されアンチ北朝鮮感情を高ぶらせている日本人の方が交流の回路を閉ざしているのではないか。公益を損失させているのは日本の側だと思われるが、「市民感情」を考慮したうえで総連施設は「公益性」がないとの判断に至ったのだという。その判断は課長自身が断じたものかといえば、そうではないらしい。市長の意思が今回の減免撤回に大きく関与しているのだろうなという私の考えは、あながち外れてはいないだろう。
 減免撤回措置はやむをえないことだと説明する阿部課長だが、課長自身は朝鮮半島の文化に対して理解を示している。彼は2、3年前からハングル語を熱心に独学で学習している。
「日本語と文法が似ているし、片手間で勉強できるのではないかと思った。記号的でおもしろい。NHKのハングル語講座を見てわかるくらいに上達したが、まだ話せるところまでいってない」
「ナマのハングルを無料で学べる施設が総連の施設ですよ」と私は茶々を入れて混ぜっかえすと、阿部課長は苦笑いを浮かべていた。
 今回の減免措置撤回に大きくその意思を反映させていると見られる篠田昭新潟市長は、東京都の石原慎太郎知事とは異なり決して保守思想の推進者などではなく、それとは逆の「市民派」と呼ばれる市長だという。
 2002年11月に、篠田氏は無所属新人でどこの政党からの推薦も受けずに市長への当選を果たす。篠田氏は新潟県の大手地方新聞社である新潟日報社の論説委員だったが、「市政に民間の感覚や知恵が必要」と主張して市長選に身を投じた。新潟市の政令都市化を進めるための市町村合併推進も、「市長と語る会」と称して市内じゅうを行脚して住民の質疑応答を取り入れる形で進めている。
俗情に流される「市民派」市長
 だが「市民派」市長は、まさに「市民感情」に左右される市長だ。東京都がこういった政策をやるから新潟もやるというのでは、市長の独自色は全くない。市長自身の政策判断の責任を、あいまいな世情、大勢に委ねてしまっている。「市民感情」を優先して総連施設に固定資産税による圧力施策を行うが、その市民感情に「在日朝鮮人」という存在は含まれていないのだろうか。そもそも市民たりえないのだろうか。その時勢に多数派であるというだけに過ぎない世情、俗情に、主義、主張を絡め取られてしまうだけの市民派市長であるなら、「市民派」の看板は聞こえがいいだけで、実情は自らの政策判断基準を持たない輩に過ぎないということになる。
 新潟市は、拉致事件が表ざたになる以前には、北朝鮮と友好関係にあり深い交流を持っていた。
 朝鮮総連新潟県本部の前を通る道路は「ボトナム通り」と呼ばれる。この通りには、かつて在日朝鮮人らが北朝鮮に帰還する際に祖国帰還を記念して植樹したボトナム(いちょう)の樹が立ち並ぶ。ハングルの呼称を通りの名前として名づけるほど、新潟の人々は北朝鮮の人々に対して親愛の念を持っていた。
 しかし、歴代の市長が実施してきた北朝鮮への表敬訪問を、篠田市長は市長の任に就いてから未だ行っていない。新潟の独自色は、「市民派」の建前により東京都と同じ色彩に塗りつぶされてしまったのかもしれない。
拉致被害者報道で加速する敵意
 2002年9月17日、朝鮮民主主義人民共和国の首都・平壌で、日本の小泉純一郎首相と北朝鮮の金正日総書記との間で会談がもたれた。その会談で日朝平壌宣言が発された1ヶ月後、拉致被害者5人が日本に帰国する。
 拉致被害者の帰国後、日本では堰を切ったようにマスコミの反北朝鮮報道が連日のように流される。このような事態は周知の通りだ。拉致被害者の帰国は、日本人の北朝鮮に対する敵意を煽る結果となってしまった。
 ここで忘れてはならないのは、日朝平壌宣言で金正日主席が日本人拉致についてその事実を認めて謝罪していることだ。日朝平壌宣言の第3項を見てみよう。
「国際法を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認した。また、日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題については、朝鮮民主主義人民共和国側は、日朝が不正常な関係にある中で生じたこのような遺憾な問題が今後再び生じることがないよう適切な措置をとることを確認した」
とある。(つづく)

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