行動派宣言!

行動派宣言!/難民を助ける会

■月刊『記録』96年4月号掲載記事

■日本初の難民救援団体として

■運動の目標

 日本に直接援助を求めてきた「ボート・ピープル」など在日難民への援助とともに、冷戦終結後、世界各地で生じている難民問題解決に努力したい。

■発足の経緯

「カネは出すが難民を受け入れない」といった批判に対して、「日本人が古来持ち合わせ受け継いできた善意を示そう」と、相馬雪香氏が呼びかけを行い、1979年11月に発足した。難民救援のための市民団体として日本で最も早く設立した。

■運動の歴史

 今年で17年目を迎える当会は、世界各地でさまざまな活動を行ってきた。80~84年にタイの難民キャンプにボランティアを派遣し、81~86年にはベトナム難民支援のため、ビデン島へ看護婦を継続的に派遣した。84年には「アフリカに毛布を送る会」を設置し、9ヶ国に176万枚の毛布を送った。
 85年と91年には、バングラデシュの大洪水に際して建築資材とセメントを緊急援助、90年にはイランの大震災被災民へ緊急援助を行い、小学校と孤児院を建設した。92年にソマリア・エチオピア難民へ緊急食糧援助を実施し、93年には「ソマリアにコメを送る会」の設置、米100トンを送った。
 ルワンダでは、94年より井戸掘削を行っている。同年にはモザンビークとエルサルバドルに選挙監視団1人を派遣した。また、今年で3年目を迎えた「愛のポシェット運動」や、ニーズに応えるべく急遽発足した「ルワンダ難民の子どもたちへセーターを贈る会」も順調に行われている。ポシェットはカンボジアと旧ユーゴで小学校や孤児院を中心に配布され、セーターを載せた船も新年早々、タンザニアのダルエスサラーム港に到着した。

■今後の抱負

 昨年の夏に起こった北朝鮮での水害は、状況の詳細が報道されなかったこともあり、各国の救援活動は滞っていた。そのような状況の中、政治的に中立な人道団体である当会は、「朝鮮の子どもにタマゴとバナナをおくる会」を設立した。今後とも、政治的区別なく人道的観点からさままざな国に援助をしていきたい。

■思い出深い出来事

 日本に定住しているインドシナ難民への支援団体として4年前に設立した「(社会福祉法人)さぽうと21」のお陰で、阪神大震災では人材・資金・物資を即用意し、現地に駆けつけることができた。
 また、世界中から駆けつけたボランティアのために、仕事の手配も行う宿泊施設「サニー・ボランティアハウス」の運営もYMCAとともに行った。サクラの季節には新小学1年生にランドセルをプレゼントし、4月以降は心のケアを目的に、ホテルオークラ神戸に中村紘子さんと島田祐子さんを迎えて激励コンサートを開催した。年末年始には、気になっていた外国人罹災者の現状を相談室がフォローした。多くの方々の直接、間接の協力で、託された寄付金を何倍にも活かすことができ、本当にうれしかった。

■工夫している点やユニークな方法論

 ボランティア個々人が得意な分野で活動できるようにしている。例えば日本語を習いたい在日難民でも、習いたい理由はさまざまで、画一的には教えられない。当会では、日本語教師と在日難民の方々両方と面接をし、1組づつ組合せを考えている。

■運動の問題点

 設立当初から国際機関ですぐに活躍できる人物を育成してきた。しかし設立から16年を数え、会自体が国際機関となることを期待されるようになっている。ただし、資金面や日本全体のNGOの歴史を考えた時、海外の機関との差は歴然としている。当会を国際機関として遜色ないものにすることが、今後の大きな課題だ。

■運動を継続するためのポイント

 ボランティアの得意な分野で活動してもらい、活動への熱意を高める。(柳瀬房子)

■現在の難民を助ける会のウェブサイト
http://www.aarjapan.gr.jp/

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行動派宣言!/ジプティ難民救済会

■月刊『記録』96年4月号掲載記事

■ありがとうあなたの真心

■運動の目標
 民間海外援助事業を通じ、ボランティアに対する正しい認識を深め、ジプティ共和国にいる難民救済を図る。

■発足の経緯

 隣国ソマリアなどの内戦により、ジプティ共和国へ人口の1割もの難民が流入している。ジプティ共和国は人道的立場から快くこれを受入れている。このジプティ共和国のラシャドゥ・ファラ大使の講演を聞いた会員の1人が、ジプティ共和国内難民へのボランティア活動を思い立ち、各方面から63人の賛同者を得て、1989年3月1日に「ジプティ難民救済会」を結成した。

■運動の歴史

 ジプティ共和国内への具体的な援助は、90年の義援金贈呈から始まった。以後、義援金の贈呈は中古衣料品と中古毛布の送付へと形を変え、現在も続いている。去年は20kg梱包を70個現地に送った。92年は授産所を建設、93年には現地に赴き識字教育と縫製作業技術指導を指導した。翌年には、移動用バスと給水用タンクローリー寄贈するとともに、陶芸技術指導のために、現地の女性1人を3ヶ月ほど日本に招いた。今年の3月には、炊事場兼食堂用プレハブと難民住居用テントが完成する予定になっている。

■今後の抱負

「草の根ボランティアの輪を広げよう」を合言葉に、これからも地道なボランティア活動を続けていきたい。

■思い出深い出来事

 93年11月、ジプティ共和国の孤児センターと難民キャンプを訪れた。私達を迎えてくれた子供達は、送った文房具や衣服を活用してくれていた。確かに届いていることを確認し、ほっと安心したのを覚えている。
 炊事場では食事の準備がなされていたが、壁も調理台もなく、食べ物は土間に置かれていた。この時の驚きが、現在進めている炊事場と食堂の建設の発端となった。また診療室には医薬品が見当らずベッドだけが置かれ、熱を出した子どもが横たわっていた。このような状況でも、子ども達は明るく、きらきらと輝く目と素敵な笑顔を持っていた。そんな子供達を忘れることが出来ない。
 ジプティ市内から車で1時間半ほど砂漠を走り、アウルアルサ難民キャンプを訪ねた。このキャンプでは、日本人の医師の方と看護婦さん2人がボランティアとして働いていた。突然、日本人と出会ったので、互いに驚いてしまった。水不足と灼熱の中でコレラと一生懸命に闘っている姿には、頭の下がる思いだった。何も出来ない自分が恥かしく思えた。
 ジプティの空は青く澄んでいて、苦しい環境に頑張っている難民の人々、そして国境を越えてボランティアとして働く多くの人々に魅せられた。同時に、人の愛に心あつくした。
■工夫している点やユニークな方法論

 現地はイスラム圏のため、日本人には理解できない生活習慣も多い。例えば断食を行うラマダン中は、大使館も午後1~3時までしか開いていない。宗教的な問題なので、イスラムの習慣に合わせるようにしている。

■運動の問題点

 多くの方々の協力や、学校ぐるみで集めた中古衣料や文房具を、ジプティ共和国へ発送しているが、アフリカまでの送料が高く苦慮している。

■運動を継続するためのポイント

 郵便局の国際ボランティア貯金の援助金と、地元でのバザー収益金などで会を運営している。全国の皆さんからの善意が、自分達を動かしている。(近藤律子)

■現在のウェブサイト……なし

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アースデイ日本・東京連絡所

■月刊『記録』96年4月号掲載記事

■世界の人々と地球環境を守る

■運動の目標

 地球環境に関心を持つ人、活動をする人達との情報交換やネットワークづくりの手伝いをし、2000年までアースデイを続けていく。

■発足の経緯

 アースデイ日本・東京連絡所が誕生したのは1990年。アメリカ市民からの「90年を世界で一斉のアースデイに!」との呼びかけに応えるかたちでスタートした。環境問題を政治の場に持ち出すことを目的として、全米中を巻き込む環境運動となった「アースデイ1970」から、20年目のことだった。

■運動の歴史

 アースデイ最初の年は、「個人のライフスタイルの変革」をテーマとして、全国200ヶ所、1000を超えるグループが参加した。翌91年は、各地では90年を超える盛り上がりを見せた。そして92年、変革するものの対象が様々な側面へと広がった。連絡所からも「アジアアースデイ」「環境教育」「環境自治体」を提案、積極的にキャンペーンを展開し、『豊かさの裏側-私たちの暮らしとアジアの環境』を出版。30以上の環境教育グループが参加したこどもの国(神奈川県横浜市)でのフェスティバルや、北海道池田町での第1回環境自治体会議も行った。
 93年は『環境基本法市民草案1993』を作成し、日本各地での環境基本法に対する議論を深め、第2回環境自治体会議も沖縄県読谷村で開催した。またローカルアジェンダづくりの入門書ともいえる『ローカルアジェンダ21をめざして』を翻訳・出版した。この年から海外とのつながりも活発になった。
 94年は連絡所が大イベントに挑戦。中国・韓国・香港・フィリピンのアースデイ仲間が参加した「国際交流会」をアースデイ・イブに開催した。また、『ゆがむ世界 ゆらぐ地球』『環境自治体づくりの展開』『環境自治体実践ガイド』などの本も次々と出版した。
 95年も全国で様々な催しを開催した。
 連絡所ではアースデイを含む環境問題の活動情報を掲載したアースデイニュースを発行している。送付先は、学生・主婦・議員・研究者・教師・研究機関・環境NGO・報道機関・自治体・企業・青年会議所・生協・農協・漁協・消費者団体・労働団体・宗教団体など本当に様々だ。あらゆる立場の人が自由に活動や考え方を紹介し、自由に情報を受け取ることができる場をつくりたいと考えている。海外のグループへはアースデイニュースの英訳版と、アジアのアースデイグループとの共同編集でアースデイネットワークニュースを送付している。
■今後の抱負

 海外でアースデイを実行するグループなどと広く交流し、2000年まで継続していくこと。

■思い出深い出来事

 いろいろな分野の人々に、思いがけず出会えること。特に昨年、青山学院大学の秋山紀子先生にお逢いし、環境計画などを教えて頂いたことが忘れられない。

■工夫している点やユニークな方法論

 アースデイには、代表も規則もない。ただ2つのことを心がけている。①アースデイは、民族・国籍・思想・信条・政党・宗派を超えて、だれもが自由な方法で、地球環境を守る意志表示をする国際連帯行動であること。②アースデイは西暦2000年に向けて、毎年開催すること。
 また、連絡所は各地で活動する人たちとのサポートに力点をおいている。

■運動の問題点

 参加者全てが、他に生活の場を持つボランティアなので、テンションを維持するのが難しい。

■運動を継続するためのポイント
 あまり決まりごとを作らないこと。

■現在のアースデイ日本のウェブサイト
http://www.earthday.jp/

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行動派宣言!/21世紀協会

■月刊『記録』96年7月号掲載記事

■すべての子どもに教育を

■運動の目標

「すべての子どもに教育を」をスローガンに、少数民族の経済的、精神的自立を早期に実現するべく活動している。

■発足の経緯

 東西対立の時代も終わりをつげた後、もっとも大きな問題になると思われた南北の経済格差を縮めたいと思ったのがきっかけ。
 第3世界では、教育を受けたエリートだけが好き放題に国を支配している。このような状況を改革し、自国の財産を国民に配分して国を発展させるには、国民が政治を批判できるくらいの教育が必要となる。そのような教育の資金援助をすべく、1990年2月に発足した。

■運動の歴史

 会の設立後6ヶ月を経て、現地で支援活動を行っている団体と手を結ぶためにフィリピンに旅立つ。現地では修道院のNGO団体であるMICと、フィリピン国内の民間団体であるPPSと話が決まった。その結果をうけ、12月には山岳民族を中心に10人の学生に、奨学金と教育を維持するための給食費を送った。
 翌91年4月からは、第1次生計自立プロジェクトを開始、援助だけに頼らず生活できるための生活基盤を築くために、豚・鶏を飼育するための費用を送る。しかし、家畜の基本的な飼育法も現地では知られていないため、94年3月からは現地人の農業指導員を採用し、農業研修を開始した。
 100haの処女地を農地に改良し、木々の伐採のため土砂の流失を繰り返していた山肌に植林し、河に沿って果物の木を植え、山の牧草を利用するために牛を飼育した。原初的な農法に頼っているようだが、化学肥料を使い土を酷使する農法の限界がみえはじめた現在では、かえって先進的な農業だと考えている。

■今後の抱負

 生活自立プロジェクトで支援しているミンドロ島のマンミャン族が、自立できるようにしたい。飢えがなくなり、貧しいながらも部族全体が生活できれば大成功だと思っている。
 将来的には奨学金を支給した生徒が高等教育を受け、リーダーとして村に帰ってきてほしい。

■思い出深い出来事

 生活自立プロジェクトが成功を収めるようになると、反政府ゲリラが村に出入りするようになった。ゲリラの登場により、部族内でも対立が起こるようになり、村から出ていくように説得した。さいわい村に駐在していたゲリラは、マニラの大学を卒業したインテリであり、部族の生活を良くしたいという理想が同じだったため、1-2年かけて説得し、村から出ていってもらった。

■工夫している点やユニークな方法論

 現地の仕事には手を出さないようにしている。日本人が仕事をこなし、帳簿をつければ簡単に事が運ぶ。しかし現地でやり方を教えなければ、いつまでも自立できない。そのため現地では、自立にむけたヒントを与え、自分達で努力できるように環境を整えることが大きな仕事となる。
 例えば農耕に使うカラバオ(水牛)も無料で支給せず、農業生産が上がった時に金銭で返済する制度をとっている。それはもらったものは、身につかないと考えてる会の方針に沿ったものだ。

■運動の問題点

 国からの援助をえるためには、煩雑な書類を処理しなければいけない。この書類が完璧に仕上げられるなら、第3世界ではないと思われるほどだ。審査必要なのもわかるが、もう少し簡素な書類にしてほしい。

■運動を継続するためのポイント

 会を続けるには、自分の生活を犠牲にして頑張れる人が1~2人いれできる。しかし自分が活動をやめてた時、運動が続くためには、現地の情報を多く発信し会員の意識を高める必要がある。(池田晶子)

■現在の「21世紀協会」ウェブサイト
http://www.21ca.ac/

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行動派宣言!/チェルノブイリの子供達に・千葉の会

■月刊『記録』96年7月号掲載記事

■チェルノブイリ援助の継続を

■運動の目標

 発足当時は、子どもが放射能から遮断された生活を送るために活動した。現在は、現地の住民の健康が少しで維持されるように医療援助も行っている。

■発足の経緯

 92年1月に東京で始まったチェルノブイリ原発後の緊急募金にともない被曝した子どもへの保養の必要性が叫ばれ、千葉県の住民が集まったのきっかけ。

■運動の歴史

 92年4月、40~50人の知人・友人が集まり、「チェルノブイリの子供たちに夏休みを・千葉の会」として発足した。渡航費・滞在費は会員持ちで来日し、5週間ほど日本でホームスティするように制度を整えた。さらに、93年からは医療援助を開始した。
 93年2月、94年4月、95年8月と3度にわたって、総勢12人がチェルノブイリを訪問した。事故から10年、現地の状況は年々ひどくなっている。ソ連邦が崩壊し、事故現場周辺は国からほったらしにされている。被曝者への補償金は払われておらず、汚染されていない食物を買うこともできず、医療現場もお寒い状況だ。
 自由経済が普及したため以前より品物は増えたが、市民には買うお金がない。汚染地では知識階級がいなくなり、離婚女性などの弱者やアルコール依存症をわずらっている人が取り残されている。たとえ汚染地からの移住しても職のない人が多い。このような環境で、子どもも精神的に傷ついている。未来に希望を抱けず、体にも不安を抱えている。
 現地を訪れにたびに、中途半端に運動を投げ出せないと感じている。

■今後の抱負

 雇用と医療の充実のために、援助を拡げていきたい。日本の他の団体と協力し、現地でサナトリウムを作る計画も実行に移されている。

■思い出深い出来事

 手術や療養などの必要のない子どもを日本に招いているため、現地では元気な子どもだが、甲状腺障害や視力障害、肝臓障害、胃腸障害など、さまざまな疾患を抱えている。
 ところが日本の子どもと比べると、チェルノブイリの子どものほうが子どもらしい。農村でのびのび育ったため、池があれば飛び込んで魚がいないか確かめる。夢中になれば道路にも飛び出してしまい、木があれば登る。細かい規則に縛られていない姿は印象的だ。

■工夫している点やユニークな方法論

 会員はサラリーマンや主婦などが中心になっている。そのため会員1人1人の負担を少なくするため、ホームステイ先の家族以外も仕事を分担している。例えば昼間に子どもを世話できる人が子供たちを外に連れ出したり、昼食だけを差し入れたりするようにしている。
 自分のできる部分を負担するため、多くの人が安心して子どもを受け入れられる。

■運動の問題点

 今年は事故から10年目のためマスコミなども大きく取り上げているが、年月を経るにしたがって関心が薄れていっているのは避けられない。問題がいっきに解決するわけではないので、常に関心を持ち続けてもらいたい。

■運動を継続するためのポイント

 身近な人が現地に出向き、経済状態や医療施設の状態を確認して報告することで、支援の必要性を体感できる。民主的な運営を維持しつつ、会員に現地の情報を与えていきたい。(長谷川弘美)

■現在のウェブサイト……なし

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行動派宣言!/森と水と土を考える会

■月刊『記録』96年2月号掲載記事

■自然は子孫からの預かりもの

■運動の目標

「自然とは祖先から譲り受けたものでなく、子孫からの預かりものである」という理念に基づき、自然を豊かなまま次世代に手渡すことを考え、行動する、と規約の第3条に定めてある。
 私達が便利で豊かな生活を求め続けた結果が、資源の枯渇・二酸化炭素の増加による温暖化・核廃棄物などの産業廃棄物・一般廃棄物のはんらん・大気や水の汚染・地球環境の破壊などをもたらし、次世代の人類の危機を招いているなら、私達は子孫の命をむさぼり食っていることにほかならない。生活スタイルの見直しを訴え続けたい。

■発足の経緯

「広島市内にゴルフ場の建設計画が5つも6つもあるよ、何とかしょうやあ」と言い出したのがきっかけである。
 呼びかけに対してユニークな人達が集まり始めた。「工業化が諸悪の根源だ」「農的な暮らしに帰ろう」「スーパー林道も問題だ」「農薬の空中散布も取り上げよう」「農山村の過疎化」「石鹸運動」「原発反対」などそれぞれがやりたいこと抱えて集まってきた。そうだ、みんな環境問題だ。できるところからやろうじゃないか。

■運動の歴史

 会は6つの部会に別れている‥‥はずだが今はダンゴ状態。
◎森の部会・・・・西中国山地の十方林道スーパー林道建設計画の見直しを訴える。
◎十方林道歩こう会・・・・広葉樹林を再生しようとドングリを拾って苗木を育て、山に戻す運動を展開中。
◎水の部会・・・・牛乳パックの再生紙を使った美術展、一般廃棄物処分場問題の取り組み。
◎農(土)の部会・・・・無農薬有機野菜や無添加食品の会員制宅配の店「百姓や」を営業。部会として援農等に取り組む。
◎ゴルフ場、リゾート法問題部会・・・・ゴルフ場建設に反対し、立木トラストなどに取り組む。
◎反原発、エネルギー部会・・・・反原発の祭り「土・水・空気を生かしん祭」の事務局を受け持って祭りを開催してきたが、この1・2年は動きなし。
 その他に瀬戸内に面する県(プラス島根県)のゴルフ場に反対する団体で組織する「環瀬戸内海会議」の事務局を受け持つ。

■今後の抱負

 広島市のデルタ地帯を形成し、水瓶である「太田川」を水系としてとらえ、皆で川について考え、行動する道を模索したい。
 その1つの方法として、ドングリを拾い、苗木を育て、山に植林する運動をもっと多くの人に知ってもらい、漁業者、広島市民、川沿いの住民皆が参加する運動を目指す。行政が単に水源林を育てるのではなく、市民の意識改革ができるのではなかろうか。

■思い出深い出来事

 こんな小さな会が事務所を維持できる不思議と驚き。ボランティアで事務所を手伝ってくれる素晴らしい人達との出会い。数え切れないほど開催した講演会、その度ごとの新たな人との出会い。

■工夫している点やユニークな方法論。

 会長はいる。部会長も一応いる。でもいわゆる「幹部」はいない。やる気のある人が入会したら、その人が今日から「世話人」。面白いテーマがあれぱ「世話人」になって行動する。ゴルフは好きだが原発には反対という人もいる。原発は必要だが自然を守ろう、と言う人もいていい。自分はどう生きるのか、社会はどうあるべきなのか、1人1人が考えていく会。

■運動の問題点

 正式な「世話人」がいないので責任感覚が少なく、月例会などの出席率が悪い。先頭に立って行動する人が限られていて少ない。少ない会員で事務所を維持するので、金銭的に大変。

■運動を継続するためのポイント。

 一般の人が参加しやすい催事を開催するよう心掛けている。「‥‥ねばならない」はタブー。民主的運営を心掛ける。お互い疲れる運動はやらない。言い出しっぺが責任を持って事に当たる。(原戸祥次郎)

■現在のウェブサイト……なし

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行動派宣言!/森と水と土を考える会

■月刊『記録』96年2月号掲載記事

■自然は子孫からの預かりもの

■運動の目標

「自然とは祖先から譲り受けたものでなく、子孫からの預かりものである」という理念に基づき、自然を豊かなまま次世代に手渡すことを考え、行動する、と規約の第3条に定めてある。
 私達が便利で豊かな生活を求め続けた結果が、資源の枯渇・二酸化炭素の増加による温暖化・核廃棄物などの産業廃棄物・一般廃棄物のはんらん・大気や水の汚染・地球環境の破壊などをもたらし、次世代の人類の危機を招いているなら、私達は子孫の命をむさぼり食っていることにほかならない。生活スタイルの見直しを訴え続けたい。

■発足の経緯

「広島市内にゴルフ場の建設計画が5つも6つもあるよ、何とかしょうやあ」と言い出したのがきっかけである。
 呼びかけに対してユニークな人達が集まり始めた。「工業化が諸悪の根源だ」「農的な暮らしに帰ろう」「スーパー林道も問題だ」「農薬の空中散布も取り上げよう」「農山村の過疎化」「石鹸運動」「原発反対」などそれぞれがやりたいこと抱えて集まってきた。そうだ、みんな環境問題だ。できるところからやろうじゃないか。

■運動の歴史

 会は6つの部会に別れている‥‥はずだが今はダンゴ状態。
◎森の部会・・・・西中国山地の十方林道スーパー林道建設計画の見直しを訴える。
◎十方林道歩こう会・・・・広葉樹林を再生しようとドングリを拾って苗木を育て、山に戻す運動を展開中。
◎水の部会・・・・牛乳パックの再生紙を使った美術展、一般廃棄物処分場問題の取り組み。
◎農(土)の部会・・・・無農薬有機野菜や無添加食品の会員制宅配の店「百姓や」を営業。部会として援農等に取り組む。
◎ゴルフ場、リゾート法問題部会・・・・ゴルフ場建設に反対し、立木トラストなどに取り組む。
◎反原発、エネルギー部会・・・・反原発の祭り「土・水・空気を生かしん祭」の事務局を受け持って祭りを開催してきたが、この1・2年は動きなし。
 その他に瀬戸内に面する県(プラス島根県)のゴルフ場に反対する団体で組織する「環瀬戸内海会議」の事務局を受け持つ。

■今後の抱負

 広島市のデルタ地帯を形成し、水瓶である「太田川」を水系としてとらえ、皆で川について考え、行動する道を模索したい。
 その1つの方法として、ドングリを拾い、苗木を育て、山に植林する運動をもっと多くの人に知ってもらい、漁業者、広島市民、川沿いの住民皆が参加する運動を目指す。行政が単に水源林を育てるのではなく、市民の意識改革ができるのではなかろうか。

■思い出深い出来事

 こんな小さな会が事務所を維持できる不思議と驚き。ボランティアで事務所を手伝ってくれる素晴らしい人達との出会い。数え切れないほど開催した講演会、その度ごとの新たな人との出会い。

■工夫している点やユニークな方法論。

 会長はいる。部会長も一応いる。でもいわゆる「幹部」はいない。やる気のある人が入会したら、その人が今日から「世話人」。面白いテーマがあれぱ「世話人」になって行動する。ゴルフは好きだが原発には反対という人もいる。原発は必要だが自然を守ろう、と言う人もいていい。自分はどう生きるのか、社会はどうあるべきなのか、1人1人が考えていく会。

■運動の問題点

 正式な「世話人」がいないので責任感覚が少なく、月例会などの出席率が悪い。先頭に立って行動する人が限られていて少ない。少ない会員で事務所を維持するので、金銭的に大変。

■運動を継続するためのポイント。

 一般の人が参加しやすい催事を開催するよう心掛けている。「‥‥ねばならない」はタブー。民主的運営を心掛ける。お互い疲れる運動はやらない。言い出しっぺが責任を持って事に当たる。(原戸祥次郎)

■現在のウェブサイト……なし

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行動派宣言!/ヒマラヤ保全協会

■月刊『記録』96年2月号掲載記事

■ネパールの村人とともに

■運動の目標

 ヒマラヤ地域、特にネパールの山村で村人とともに環境・文化保全に取り組んでいる。荒廃している森林を保全し、村人が自分の住む地域や文化に誇りを持って生活できるように活動を行なっている。

■発足の経緯

 会長で文化人類学者、KJ法の考案者でも知られる川喜田二郎がネパールで文化人類学的調査を行なったのが1963年。当会の前身であるヒマラヤ技術協力会が設立され、村に簡易水道や軽架線(ロープライン)などのプロジェクトが始まったのが74年である。NGOブームともいえる今と違い、民間の国際協力活動は一般的でなく、その歴史は時代の先駆者としての試行錯誤の歴史であった。

■運動の歴史

 ヒマラヤでは近代化と急激な人口増加をきっかけとして、環境・文化などの崩壊が進行している。昔からネパールの山岳地域の人々は燃料を薪、家畜の飼料を木の枝葉からと、森林資源に依存して暮らしてきた。人口や観光客の増加で、薪の消費や田畑の開墾が増え、森林が減少し、地滑りが多発している。また貨幣経済の浸透で、多くの村人が現金収入を求めて村を去り、村の伝統文化が継承されないといった問題も起きている。
 このような状況から、90年代からは文化的な側面を活かした協力活動に重点が置かれ、土着の知恵と技を再活性化することで新たな地場産業を育成しながら、同時に環境・文化の保全をはかる新しいアプローチへとシフトしていった。代表的なものがネパール山岳エコロジースクールの試みである。日本から一般公募のボランティアの一団がヒマラヤの山村を訪ね、村人の家へホームステイする。自然の中で暮らす村人と交流しながら、村に伝わる伝統的な知恵や技を学び、記録する。また村人は参加者にガイドをすることによって、自分達の文化に自身を取り戻し、一定の現金収入を得る。この企画は好評で、定員を大きく上回る参加申し込みをいただいている。

■今後の抱負

 開発協力として現地の人々の自立に協力するのは基本だが、その活動を通じて環境破壊や南北格差を作り出している現代の社会システムそのものを問い直し、21世紀に向けて新しいライフスタイルや社会のあり方を模索していきたい。
 これからも研究・実践が両立しているという会の特徴を活かし、さらに多くの市民に支えられた懐の深い団体へ成長していきたい。

■工夫している点やユニークな方法論

 ニーズの把握に基づいた適正技術協力、学際的な事後評価や参画的開発の方法論の調査・研究など当初から研究と実践の一致した活動は、20年前のものながら多分に今日的価値を持っている。
 年間を通じて、ネパールへの国際協力を通じて開発や未来の地球社会を考えていく公開連続講座「くらがるねぇ」を実施している。講演者は現地スタッフや在日ネパール人など多彩。

■運動の問題点

 ネパールでの先進的な試みにもかかわらず、それを日本の中で知らせ理解と支持を広げていくことが十分にできていない。
 現在でもまだまだNGO活動はマイナーであり、よりわかりやすく具体的な形で活動の意義を提案していくことが課題である。真の意味での市民の市民による国際協力、普通の人々の心に響き、支えられた活動に強化発展していくこと、NGO活動や国際協力全般の質を高めることに貢献していきたい。

■運動を継続するためのポイント

 20年以上もがんばってこられたのは、何よりも川喜田二郎会長の忍耐強い努力抜きには考えられない。また当初から、政府や企業とも積極的に関わりを持ち、お互いに協力関係を築いてきたことも会の財産である。志を高く持つこと、長期的なビジョンを持つこと、その実現のための方法論を具体的に創り出していくこと、その中で自分達の活動を意味づけていくこと、など。(田中博)

■現在の「ヒマラヤ保全協会」ウェブサイト
http://www.ihc-japan.org/

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行動派宣言!/せっけんの街

■月刊『記録』96年2月号掲載記事

■生命ある手賀沼を取り戻す

■運動の目標

 水生生物や鳥達が安心して生きられる手賀沼を取り戻すこと。水質汚染全国ワースト1の汚名は20年続いているが、汚染は横バイで推移している。周辺の市町村の行政の努力と市民の協力が表れてきていると思いたい。油を回収しせっけんに作り替え、せっけんの使用を啓発することで、手賀沼のさらなる浄化に努めたい。

■発足の経緯

 自分達の流した排水が手賀沼を汚染してワースト1となってしまった。そこで、せっけん運動の中から学びあった仲間達が中心となり、生活クラブ生協・柏市民生協・各市町村へと呼びかけ、84年8月に約1万人・2100万円の出資金が集まり、手賀沼せっけん工場を設立した。

■運動の歴史

 発端は1978年の合成洗剤追放集会だった。ここで合成洗剤全面禁止署名請願運動が開始された。さらに80年には、せっけん利用推進対策審議会の設置及び運営に関する条例制定の請願、直接請求運動の署名が始まった。しかし、手賀沼近郊に廃食油を原料にしたせっけん工場がないことから、82年にせっけん工場設立準備会が発足し、84年には市民出資のせっけん工場が完成し、手賀沼せっけん共有者の会が結成されるに至った。
 だが、翌年からの工場運営は苦難の連続だった。特に油とせっけんの在庫量には泣かされた。貯蔵タンクに入りきらない油がドラム缶に詰められ工場の周りに並んだことも、3キロのせっけん5千袋を千葉県内の行政施設に無料配布せざる得なかったこともあった。しかし、現在では毎月15トンのせっけんが計画的に生産され、日本全国で消費されるようになった。このような成果により、93年には中央学院大学地域文化賞を受賞し、千葉県環境ボランティアと地球環境基金から助成金をいただくことになった。

■今後の抱負

 水を知り、排水をきれいにすることは、自分達の体を守ることにつながる。日々の暮らし方が運動につながっている。私も30代でスタートして50代になってしまった。若い人達に活動の意義を伝えることも、これからの活動の大きな柱になっていくだろう。

■思い出深い出来事

 ネグロスでアジアの人々と交流する会議に出席した時、タイ・マレーシア・ホンコン・韓国・フィリピン各国の人達が、事前の申し合せがなかったのにせっけんを持ち寄ってくれた。日本から遠いネグロス島で、喜びと一緒に責任を感じた。

■工夫している点やユニークな方法論

 水俣せっけん工場・環境生協・川崎市民プラント・手賀沼せっけんで共同開発した運搬可能な粉せっけん製造ミニプラントを使い、せっけん作りを各所で指導している。

■運動の問題点

 活動の原点は廃食油をせっけんにリサイクルして利用を広めることにある。油をゴミとして出している人はせっけんも使いこなせない人が多く、逆にせっけんを使っている人は油を使い切り環境に対しても関心のある人が多い。廃食油回収のシステム作りとせっけん利用の請願や要望署名で採択されて市・町で油の回収を始めたところで回収量が増加してきたことは、流さない人が減少したことはよいが、使い切る努力をしなくなるのではないかと懸念している。

■運動を継続するためのポイント

 とにかくはじめの一歩を踏み出してしまったのだから、みんなでこの思いをつなげていくこと。(中岡丈恵)

■現在の「せっけんの街」ウェブサイト
http://www.sekkennomachi.org/

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行動派宣言!/東京の水を考える

東京の水を考える会
■月刊『記録』96年1月号掲載記事

■首都圏の水問題を提起する

■運動の目標

 東京を中心に首都圏の水問題に関して、資源自立の立場から無用な水源開発や問題の多い水政策などについて政策提起する。

■発足の経緯

 1989年に実施された東京都の上・下水道料金の値上げに対して、都内の市民団体、労働組合などが結集して83年12月に「上下水道料金の値上げに反対し、東京の水を考える会」を結成。値上げ実施後、広く東京の水を考えていこうと現在の名称に変更して活動を始める。同時に『水通信』を発行し、首都圏の水問題を考えていく会員の交流の場としている。

■運動の歴史

 過大な水需給計画やダムの過大放流による渇水状態の演出によって進められる行政の水源開発に対して、その問題点を論理的に解明し、政策提起をしている。それとともに、対象が広域化しているため、個別の活動については問題を抱えている地域との共闘という形で行っている。
 これまで取り組んできた問題には次のようなものがある。
①三多摩地域の地下水転換問題(地下水から水質の悪い河川水へと切り替えようとする東京都の政策転換)に取り組むため、現地の団体とともに「地下水を守る会」を結成。
②金町浄水場の水質を向上させることを目的に、「金町浄水場の水をおいしくする会」を結成して、江戸川に注ぎ込む坂川の水質などについて現地調査や行政交渉を実施。
③カシンベック病問題の発生以来、水道水としての取水を停止している東京都玉川浄水場の取水を再開するために「多摩川の水を飲める水にする会」を結成して多摩川の浄化などについて取り組む。
 その他、首都圏の水問題として、相模川・八ッ場ダム・渡良瀬遊水池・霞ヶ浦などの水源開発問題について取り組んでいる。

■今後の抱負

 現代の水源開発問題は、首都圏だけにとどまらず全国各地で発生している。長良川河口堰問題・細川内ダム問題(徳島県)・川辺川ダム問題(熊本県)など、30年以上も昔の開発計画が、水需要の伸びの鈍化により必要性がなくなっているにもかかわらず、いまだに強引に推進されようとしている。そのような行政の動きに対して、93年11月、全国の団体と連帯して「水資源開発問題全国連絡会」を結成した。当会は東京事務局として連絡先を提供するとともに、「大規模公共事業見直し機関草案」を結成するなど行政に対してさまざまな働きかけを続けている。この運動に通じて、新たな水政策・河川政策を提起していきたいと考えている。

■思い出深い出来事

 当会では年に1度、現地見学会を開催している。これまで霞ヶ浦・渡良瀬遊水池・関越導水問題・多摩川水系・荒川水系・尾瀬・八ッ場ダムと森林問題および長良川河口堰をテーマとして、調査見学をするとともに現地との交流を行ってきた。
 東京は首都圏のあらゆる地域に水源を求めており、ダム建設による集落の水没などその地域の犠牲の上に水の供給をしている背景があるため、30年以上もダム反対運動を続けている人など現地の人との交流では、常にさまざまな問題を考えさせられる。

■運動の問題点

 水源開発という専門的知識を必要とする問題に取り組み、建設省や東京都などの行政とのやり取りを中心的な活動としているため、どうしても問題の所在を広く市民に伝えていく作業を怠りがちになってしまう。「水は余っている。渇水騒動の多くはつくられたものである」という当会の主張が「一般常識」となるように、バランスのとれた活動を心がけたい。

■運動を継続するためのポイント

 首都圏の水政策には多くの問題があるので、運動の中断は考えられない。現在のメンバーだけでは課題が多すぎてやりきれないほどなので、スタッフを増やしていく必要がある。(文責・堀田正人)

■現在のウェブサイト……なし                    

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行動派宣言!/サンクチュアリジャパン

■月刊『記録』96年1月号掲載記事

■身近な自然の素晴らしさを子ども達に

■運動の目的

 身近な自然の保護とそこに生息する野生動物の保護・調査研究を子ども達の自然教育の機会と捉え、自然環境保護と次世代に自然の素晴らしさを伝えられる子どもを育成する。

■発足の経緯

 浜松の中心街からわずか10分足らずの馬込川河口にキタキツネや野鳥などの野生動物が生息する豊かな自然がある。79年、県と市がその周辺を整備し運動公園作りを計画していることを議会だよりで知った。このままでは、貴重な自然を永久に失ってしまうと市民運動としての保護活動を開始した。

■運動の歴史

 79年に馬込川河口で日本最大級のツバメの「ねぐら」を発見した。それ以来、多くの野鳥の生息地でもある馬込川河口をバードサンクチュアリとして保護するように働きかけてきた。その後、フィールドの近くの海岸が、アカウミガメの産卵地であることを発見し、この保護・調査活動も行ってきた。さらにアカウミガメの産卵調査中、フィールド内で太平洋最大規模のコアジサシのコロニーを発見した。こうして、新たに発見とその保護活動で会の活動を広げていった。
 現在は海浜植物の保護調査・ギフチョウ生息地の保護・ムササビとホタルの舞う環境保護・河川の浄化運動にも取り組んでいる。

■思い出深い出来事

 活動を始めた頃、いくつかの理想を持ち、行政に要望したり市民に呼びかけた。最近になって10-15年前の要望が、1つ1つ実現している。馬込川河口では、今年もツバメのねぐら入りが見られ、たくさんの野鳥がのんびり休んでいる。もし、当時言わなかったら、目の前に広がっている総てが消えていたのである。市民がこの場に立ち感動する姿を見かけるが、自分自身、何度行っても何回見ても感動する。この感動こそが運動の成果であり、継続への原動力となっている。

■工夫している点やユニークな方法論

 活動は土曜、日曜の終日とウィークデーの早朝と夜。毎日の活動なので生活の一部になっている人が多い。
 当会には役割分担がない。もちろん室内での会議や打ち合わせなどもない。活動は体を動かすことであり、その打ち合わせもフィールドで行う。できる人ができるだけのことをする。決してノルマの消化のような活動はない。子ども達や自然・野生生物を対象にしているため、人間の生活にあわせたような活動は、もとからできない。活動は自然の中に身をおいて考え行動することが最良であると考えている。

■運動の問題点

 野生生物は色々な法律で一見、守られているように見えるがほとんど機能していない。例えばアカウミガメは、地域指定という形で文化財などに指定されているが、自治体によってアカウミガメに対する対応はまちまちで、卵の盗掘があっても規制地域以外で掘ったといわれれば防ぎようがない。今後はさらに絶滅の危機にあるアカウミガメを地域的な保護から種として保護するような取り組みへと、アカウミガメにとって致命的である産卵地への車両乗り入れ規制の実現を目指す。

■運動を継続するためのポイント

 活動は、大人だけとか子どもだけとか規制せず、できるだけ一緒に活動すること。そのことによって次の世代に継承できることと家族参加が可能となり出席者も増える。できれば、子ども達が大いに感動できる企画を考えていくことも大切である。(馬塚丈司)

■現在の「サンクチュアリジャパン」のウェブサイト
http://www.tcp-ip.or.jp/~sanc-jp/

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行動派宣言!/エコシステム

■月刊『記録』96年1月号掲載記事

■失われた自然を復元させる

■運動の目標

 熊本県において失われた、自然森林を少しでも回復させる。密猟による絶滅から野鳥を守る。
 当面の目標は、エコシステム管理地から狩猟者、密猟者を追い出しエコシステム管理地の「完全なる自然保護区」実現である。

■発足の経緯
 林業が盛んな熊本県では、すでに95%の自然森林が伐採されている。山地ではスギ・ヒノキがいたるところに植林され、山奥ほど自然破壊が進んでいる。そのために貴重な野鳥イヌワシやクマタカが絶滅、他にもコルリ・コマドリ・キビタキ・アカショウビンなどが絶滅の危機にある。このことに気付いた野鳥好きの1人の人間によってエコシステムの前身、熊本自然を守る会が1986年に発足した。

■活動の歴史

 86年1月、阿蘇・金峰山・下江津湖において、実のなる木や広葉樹の植栽および絶滅の危機にある野鳥、コマドリ・メジロ・オオルリなどの密猟監視活動を始めた。その後は、88年8月に自然保護区づくりのため、阿蘇郡南小国町中原のスギ伐採跡3・5ヘクタールを買取り、初の自然復元を開始。91年7月、熊本市制百周年記念、第1回「人づくり基金」より50万円の褒賞金を頂く。
 94年7月、環境庁の外郭団体、環境事業団「地球環境基金」よりエコ学習公園整備事業に対し3百万円の助成決定。家庭において、違法に飼育されている野鳥を放鳥するに当たって、完全に自然復帰させるための「リハビリ舎」を含むエコ学習館建設。
 今年は6月に密猟による絶滅から野鳥を守るため、家庭における野鳥の違法飼育に対して、初めて「放鳥協力依頼」を実施した。今後の抱負
 1年後に控えている「エコ学習公園の森」6ヘクタールの買取りを早く完了させ、一日も早く熊本県に野生動植物の保護区を広げる。熊本県の家庭や小鳥店から違法飼養や違法売買をなくし、野鳥の密猟を絶滅させ、ひいては全国的に密猟をなくし密猟による野鳥の絶滅を防ぐ。

■思い出深い出来事

 発足当初、エコシステムの活動は行政からも一般の人々からも相手にしてもらえなかった。しかし現在では密猟関係の分野では国も警察も他の保護団体もできないことを手がけるようになり、日本でただ1つの活動となっている。

■運動の問題点

 行政は何ごとにおいても民間より率先して動くことはなく、行政が動く時はほとんど手遅れである。行政に多大な期待を抱くことなく、やらなければならないことは民間で率先して活動を進めていかなければならない。
 また、密猟監視の活動を通して、熊本県には実質的な意味での「自然保護区」が存在しないことが判明した。

■活動を継続させるためのポイント

 ひとえに「鳥を助けたい」という「自分たちの情熱」にかかっている。活動をしていくうちに、やらなければいけないことが見えてくる。そのなかで「自分たちがしなければ誰もしない」ことを発見するとやめたくてもやめられない。
 私達は、自分たちでお金を出して山林を所有し、野鳥や動物たちのためになるようにと、ただそれだけを考えて木々を増やし続けているが、その山をたくさんの野鳥や動物たちが利用してくれる現実をみると、どんな苦労も報われる。
 密猟監視や放鳥依頼もしんどい仕事であるが、多くの囚われの野鳥たちがリハビリを自然の中に終えて、戸惑いながらも元気に飛んでゆく姿を見ていると、幸せに満たされる。(向井榮子)

■現在の「エコシステム」ウェブサイト
http://www.ecosys-jp.net/

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行動派宣言!/アフリカ村おこし運動

■月刊『記録』96年1月号掲載記事

■アフリカに教育と経済的自立を

■運動の目標

 アフリカの人口の70~90%を占める農村部において、土地の環境に考慮し、アフリカの文化・伝統を大切に、アフリカ人自身による自発的開発を行なう。また日本からそれを支援する。

■発足の経緯

 日本人のアフリカのイメージは、飢餓・貧困・干ばつなど、暗く可哀そうな大陸といったイメージが大きい。そこでアフリカのザイールから日本に留学していたサンガ・ンゴイ・カザディ(現「アフリカ村おこし運動」代表・三重大学教授)が、正しいアフリカの実情を知らせるために運動を開始した。そして1990年に今までの先進国からの援助の方法ではなく、アフリカの環境を守り、アフリカの高い文化や豊かな自然を生かし、アフリカ人自身の手でアフリカにある問題を解決する運動をスタートさせた。

■運動の歴史

 1991年、アフリカでの調査の末、第一番目のモデル地区をザイールのシャバ州カヤンバ郡に決定。住民との話し合いを重ね、①植林、②道路・橋などのインフラストラクチュアー整備、③教育、を主な柱として活動開始。住民から農作物を作っても市場に運搬する手段がないとの問題が提起され、92年、日本で廃車になっていたトラック4台を送る。93年には日本からのスタッフの指導で、油ヤシの植林をスタート。95年現在、現地の住民の自主的努力のみで、約2000本(20ヘクタール)の植林を行なった。また道路・橋の工事も、人力で少しずつ進んでいる。教育の分野では郡内のカバンバ村に、93年、先生9人を中心に中・高学校を設立した。現在約120人の生徒が小学校の仮校舎で学んでおり、来年は自分達の手で自分達の校舎を立てる計画を進めている。
 我々の運動では、何よりもアフリカでの人材育成が大切と考えてきた。そのため92年からケニヤで4人ずつの研修してきた。しかしもっと大きな広がりをと考え、95年8月には郵政省の国際ボランティア貯金の寄付金の援助を得て、シャバ州の州都ルブンバシ市で農林業のリーダー育成のための研修センターを建設を開始し建設中である。

■今後の抱負

 アフリカへの援助といえば、さまざまな品物を送ることという認識が日本では一般的である。しかし、それが何の解決にもならないどころか、かえってアフリカでの発展を遅らせている場合が多い。「アフリカ村おこし運動」のリーダーはアフリカ人自身だが、日本人への彼のメッセージは、決してサンタクロースにならないでくれということである。それと同時にアフリカの人々に対しても、「なにか必要なものが欲しければ、体や知恵を使って働け」といっている。そのために我々は日本でもアフリカでも、両者の従来のコンセプトを変えるため、多くの時間と労力を費やした。
 しかし運動6年目にしてようやく、多くの理解が得られるようになり、現在アフリカでは現地スタッフ5人を中心に自主的な活動を展開している。さらに昨年8月研修センターがオープンする予定なので、そこからザイールのみならずザンビア、タンザニアなどからも研修生を受け入れ、我々の真の目的である、アフリカの内発的発展の推進力としたい。

■運動の問題点

 日本での活動、現地への支援を支えるための資金不足に常に悩んでいる。特に日本での資金不足、事務経費には常時悩んでいる。アフリカの現地の人々が自分達の足で立って歩けるまで、何とか頑張りたいと思っている。
■運動を継続するためのポイント

 現地でのリーダーが多く育つことである。(鶴見雅子)
■現在の「アフリカ村おこし運動」ウェブサイト
http://www.mie-u.ac.jp/chiiki/afrika/index.htm

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行動派宣言!/我孫子カルチャー&トーク(ACT)

■月刊『記録』95年10月号掲載記事

■交流紙で世界と心の交流

■運動の目標

 国際理解というと、英語すら話せないのにと尻ごみする人がいる一方で、日本語を話そうとする外国人に英語で話す日本人がいる。英語ではなく日本語で相互理解を深め、従来の国際化に対するアンチテーゼを示したい。最近は海外にも約3千校の日本語研修機関があり、日本人の生の声と日本語に関心のある学習者の生の声をつなぎ、あわせて外国人の日本語学習のサポートもする。

■発足の経緯

 88年から外国人とバイリンガル雑誌の文芸同人誌を発行するうち、パーティーを月1回開くようになった。狭い部屋で肩が触れ合う距離で話すと、互いに共感する何かが見えてくる。天安門事件にうろたえる中国人留学生や、帰国していたドイツ人からのドイツ統一の記念切手を貼った喜びのメッセージ。世界のことは経済活動に関係なければ知らなくていいのではなく、海外に住む人の喜び悲しみを理解してこそ日本人のあり方も理解してもらえる。
『ちきゅうTALK』は湾岸戦争の最中の91年春に創刊。世界から日本の貢献を求められ声をなくした政府に私達はいら立った。行政も政府も市民の声を伝えてくれず、自分達で主体的に動くボランタリティーの必要性に気づいた。動き出してみると同じ思いの人とネットワークが広がった。そして何と外務省のNGO年鑑にも名前を連ねられ、おかげでまじめにボランティアについて考えるようになった。英単語としてのACTは「行動する」という意味で、名前に押されていろいろな活動を行うことにもなった。

■運動の歴史

 英語を介さずに世界を理解するために、これまでにパーティーなどで知り合った外国人に協力してもらい、各国の子どもの絵を集めて「世界こども絵画展」を催した。
 また、活動で知り合った我孫子市内の国際交流グループと共に市へ国際交流協会の設立を要請、市民告知のために米国サンタモニカのミュージカル劇団に公演してもらい、収益金を市に寄付して設立に成功した。フランス核実験にも意志表示をしようと英文の抗議レターを作成し、8月6日付でシラク大統領、国連常任理事5ヶ国の在日大使館へ送った。

■今後の抱負

 活動を支えてくれる人がプライドを持てるような組織運営を目指す。「ボランティアは暇と余裕のある人が仕事にもならないようなことに精を出す」ではなく、「人間らしくあるための優しさの証明として」の活動にしていきたい。

■思い出深い出来事

 某大使夫人が、「世界こども絵画展」の主旨に感心、本国に日本の子ども達の絵を持ち帰って展示会を計画した。阪神大震災のチャリティーで海外料理のレシピセットを作成しようととしたら、2人の大使夫人に珍しい料理を紹介された。

■工夫している点やユニークな方法論

 積極的な協力者の時間を割くばかりでなく、リターンも考えたい。近隣の企業や経営者との関係を密にして外国人の語学教師を紹介するなどスキルアップしていけば、おのずとアルバイトの話がくる。外国語の翻訳を手がける作業を重ねるうちに翻訳者になった人や翻訳本の出版を目指す人など、自らの精神的なレベル・アップにつながるようになりつつある。

■運動の問題点

 会員が多くなることは大切だが、事務処理がオーバーワーク気味。専門の事務局スタッフ制をとりたいが、経済的に困難。

■運動を継続させるためのポイント
「トム・ソーヤのペンキ塗りのように、さも面白くてたまらないという風にやると皆がやらせてとやってくる」とあるメンバーが耳打ちしてくれた。仕事としてペイできないなら、何か納得できる「やってて良かった」を演出していくべき。(海津新菜)

現在のウェブサイト……なし

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行動派宣言!/きつつき会

■月刊『記録』95年10月号掲載記事

■地域に根差した福祉活動の実践

■運動の目標

 心身の障害や家庭的な課題により、地域で普通の暮らしが営めない人々に対して、権利としての福祉サービスが提供されるようになってまだ半世紀。しかも、憲法で保障された普通の暮らしと、法律や制度との間にはまだまだ溝がある。
 福祉施策は、障害の種別や背景に従って分類し、入所施設に収容する従前のやり方から、在宅の暮らしを支える地域福祉重視へと変化しているが、施策は地域からでなく、国の掛け声によって推進されつつあり、行政効率が優先されている面がある。身近な暮らしそのものを、多様な選択肢で幅広く支えるのが地域福祉の本来の目標。法律や制度を前提とした上からの改革でなく、地域に根差した土着の実践としての下からの福祉改革を目指す。

■発足の経緯

 86年10月、将来の進路に不安を持つ、養護学校小学部に通う児童の保護者との出会いがきっかけとなった。障害を持つ人々の進路確保と選択肢の拡大による自立支援を目指し、地域に根差した小規模通所施設の開設を目標に発足した。

■運動の歴史
 発足時点では、対象の知恵遅れの子どもは小学部4・5年生で具体的な施設を必要としておらず、あそびの場の確保を当面の課題とした、月1度(日曜日)の「あそび会」をスタートさせた。
 89年に将来の通所施設としての活用も念頭に、活動拠点「きつつきの家」を建設し、90年の切実な電話相談がきっかけで県内初の障害児学童保育を開始した。市社会福祉協議会からも地域福祉推進型施設補助が初年度から支給され、さらに市単独の障害児児童保育事業補助も91年度から支給されている。94年4月には、目標であった小規模通所施設の「通所生活施設」を開所。こらまでの実務実績が、県・市行政の中で認められ、茨城県福祉ワークス事業による水戸市委託として、運営の基盤が与えられた。

■今後の抱負

 利用定員を大きくせず、発達・自立支援の質を高めていきたい。現在の利用者は7歳から28歳までで、うち今年20歳を迎えた数人は、発足時の小学部5年生である。この青年達の成人期へ向けた自立支援として、96年1月に生活ホームを開設し、児童期から青年・成人期を一貫して支えるための環境整備を目指す。

■思い出深い出来事

 地域での普通の暮らしを、という願いの一方で現実は単純ではない。多くの課題を心身に抱えた子ども達は、時に地域環境との間で摩擦を生む。それへの対処の中で、「習うより慣れろだから」と近所の方から声をかけられた。それは、暮らしを身近にすることへの同意であると共に、地域での暮らしの共有の中に、一般論としての差別がなくなりつつあることを示唆するものだった。

■工夫している点やユニークな方法論

 利用児者の発達・自立援助では、地域の一員としての日常の関わりを重視すると共に、幅広い生活経験をきめ細かに積み重ね、地域での普通の暮らしの可能性を高めて行くため、1つ1つの日課への動機や、暮らしを見通す力の向上を大切にしている。

■運動の問題点

 制度と前例にこだわらない結果、運営の基盤は脆弱で、94年度実績で全運営費に占める公費の割合は42%である。父母からの負担金と賛助会費・寄付金がそれぞれ約3割を担っており、不安定な財源への依存度の軽減が求められる。

■運動を継続するためのポイント

 福祉制度の歴史的な経過と、地域社会の歴史性から遊離しない実践の重視。困難な運営環境の中で背伸びせず、地に足をつけた実践を積み重ねるため、方向性を持って継続の責任を担える歴史認識と哲学を維持し、資質を高める。(大曽根邦彦)

■現在のウェブサイト……なし

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行動派宣言!/名古屋・ニカラグアに医療品を送る会

■月刊『記録』95年10月号掲載記事

■ニカラグアの生活レベル向上を目指す

■運動の目標

 最初の目的は医療品を送ることだったが、その後、国内の状況の変化に従って文化交流にも力を注ぐことになった。現在の主な目標は、日本で不用品になった電気製品・ミシン・楽器・スポーツ道具・日曜大工の道具・文房具・料理道具等を送って生活レベルの向上を図る。幸いなことにニカラグアの電気のボルテージは日本とほぼ同じ110ボルトだ。

■発足の経緯

「米国が例をみない厳しい経済封鎖を強いたので、ニカラグアの多くの子ども達は薬が不足して死んでいる」との新聞報道をきっかけに、南山大学スペイン語科の学生が1985年に薬を送ろうと発足させた。

■運動の歴史

 運動が始まったころ、メンバーの中でニカラグア行きを希望していた若者が数人いた。その中の1人の看護婦が86年に現地に向かい、現在ニカラグア人と結婚して首都マナグアに住んでいる。おそらく日本に戻ることはないだろう。以後毎年、ツアーや個人でニカラグアに会員の誰かが行っている。
 最初医薬品を送ろうと考えた時、誰を相手に送ればいいかが分からなかったが、彼女からモリナ神父を紹介された。神父は「バルディビエソ」というNGOを作り、ストリートチルドレンや戦災孤児のための施設を建てようとしていた。私達はその施設を郵政省のボランティア貯金の配当金を受けることで建設を手伝った。
 次のステップとしてニカラグアの絵画を日本に紹介することを決め、名古屋の三越でニカラグアの文化大臣を招いて展示会を開催した。翌年にはニカラグアのバンドを招いて、ラテンアメリカ音楽の全国ツアーを成功させた。
 他に首都マナグアの刑務所に450枚の布団の寄付を行った。

■思い出深い出来事

 ニカラグアのバンドと山奥の村にコンサートに行かないかと誘われて出かけた。道が悪く、いつ谷に落ちるかわからない。川を渡るには橋代わり2本のレールの上を恐る恐る通るしかない。泥は車輪の上まで届くので空回りして進まない。橋がないときは川に入って進んでいく。
 その上兵隊に「ゲリラが道を占拠しているのでこれから先には行けない」と止められたりして、いくつ命があっても足りない思いだった。ようやく目的地に着いてコンサートは無事に行われた。

■工夫している点やユニークな方法論

 あえて言えば、会の宣伝を徹底的にやっていることだ。どこへいっても、何をしても会の宣伝ビラを配ったり、置いたりしている。組織がないため事務費はほとんどかからない。総会もなければ運営委員会もない。しかし、会計報告だけはきちんと行っている。不思議なことに毎年、収入額よりも支出額の方が大きい。どうしてなのか私にも分からないのだが‥‥。

■運動の問題点

 できれば支援する必要性がなくなることを望んでいるが、実際にはいつまでも支援しなければならない現状がある。NGOとして法人化などの問題を感じてもいる。

■運動を継続するためのポイント

 私達の団体がニカラグアに与えることができる支援はわずかだ。その観点から私は1つ1つの団体の継続性よりも、NGOのネットワークの継続性が重要だと考えている。(ステファニ・レナト)

■現在の「名古屋・ニカラグアに医療品を送る会」ウェブサイト
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/3159/nagoya.html

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行動派宣言!/中国語ボランティア・ネットワーク(CVN)

■月刊『記録』95年9月号掲載記事

■中国語と日本語の橋渡し

■運動の目標

 日本語ができず、日本の習慣や法律を知らないために不利益を被っている外国人を救済する。また、日本人のためにも日本社会の問題点を是正していく。

■発足の経緯

 行政機関の外国人相談所は夜間に開設しないため、昼間働いている中国人は相談できない。また、区によってはガンとして相談所を開かないところさえもある。そのため、昼間は東京都外国人相談員として働き、行政でフォローできない部分は、個人で相談にのってきた。しかし、個人ではさばききれない量の相談が殺到したため、ネットワークを設立した。 

■運動の歴史

 日本で暮らしている中国の人々の周りに起こる問題は、賃金未払いや解雇・労災・交通事故などの保険での補償・医療問題、離婚問題、ビザ更新手続き、税金や健康保険、日本習慣に関する問題など幅広く細部にわたる。これらの問題を解決するために行政機関や弁護士、ボランティア団体などに彼らの声を通訳して訴える役割を担ってきた。
 スタッフも勉強を重ねた結果、国際結婚など新しい分野の相談にも応じられるようになってきている。法律問題に関しては、外国人の援助を専門にしている弁護士の団体、外国人労働者弁護団(LAFLR)の協力により、半年ほど前から裁判で争えるようになった。

■今後の抱負

 問題を抱えた外国人が忙しいこともあり、ゆとりあるコミュニケーションの場を築けなかった。今後は心のスキンシップができるように環境を整えたい。そのために外国人が定期的に訪れることのできる場所を、公共機関で確保できるようにしてもらいたい。

■思い出深い出来事

 3年程前、ビルの3階から落ちて瀕死の重傷を負った外国人に対して、労災が支払われない事件が起こった。行政からお金が支払われる場合であるにも係わらず、会社側が書類へのサインを拒んだためだった。私たちが労働基準監督署に掛け合い、8ヶ月後に500万円が支払われた時は、本当にうれしかった。

■工夫している点やユニークな方法論

 CVNで解決した問題を中国語に訳し、日本で発行されている中国の新聞に載せ、トラブルの予防にも力を注いでいる。また、スタッフが係わったトラブルは、相談にのったスタッフが法律や制度などに関する研究を行い、他のスタッフに報告する会議を開いている。

■運動の問題点

 会の設立当初は、中国語が話せるのに話す機会のない日本人と、トラブルに巻き込まれた日本人とを橋渡しすることで、言語の問題は解決するものと思っていた。しかし、持ち込まれるトラブルの量が増えるとともに、通訳が不足するようになってきた。
 特に中国語がきちんと話せる日本人男性は、中国語を職業の中で使っているケースが多く、ボランティアにはなかなか参加してくれない。現在は、日本語のうまい中国人に通訳をお願いし、日本人が会の運営に当たっている。また、行政が問題を抱えたくないために、CVNに回されるような事態も問題になっている。

■運動を継続するためのポイント

 仲間内で餃子パーティーや飲み会を行い、楽しく活動が行えるようにしている。そして、皆が仕事を分担できるように、1人で仕事を抱え込まないようにしている。(秦佳朗)

■現在の「中国語ボランティア・ネットワーク(CVN)」ウェブサイト
http://www010.upp.so-net.ne.jp/cvn/

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行動派宣言!/京都・学校に行かない子と親の会

■月刊『記録』95年9月号掲載記事

■子ども達に出会いの居場所を

■運動の目標
 学校に行かない子どものことを、子どもの立場になって考える会である。「あなたは、このようにすべきである」というような解決策を与えることはしない。参加者がお互いの経験を語り合うなかで、自分自身で考えることを大切にしている。自主的に参加することを重視し、会を運営するための特別な規約や規則はない。

■発足の経緯

 1987年6月 フリースクール「東京シューレ」を主宰している奥地圭子さんの講演会が京都で開かれた。そこに集まった人達により、京都にも「学校に行かない子と親の会」を作ろうとのことで発足した。

■運動の歴史

 会の活動は、月1回の例会が中心となる。ゲストの話やグループ別懇談を中心に交流している。参加者は主に学校に行かない子を持つ親であるが、学校現場の先生・カウンセラー・精神科医・弁護士・フリースクールの主催者などの専門家の参加もある。また、年に数回専門家を招いて講演会を開いて勉強をしている。

■今後の抱負

 当会は、例会以外に「子どもたちの出会いの会」を月2回開いている。学生のボランティアを中心に子ども達が交流している。学校に行かない子ども、家庭に閉じこもっている子どもが、出会いを求めて自由に何時でも出入りできる「居場所」を確保するのが今後の課題である。

■思い出深い出来事

 以前、関西には私達のような会は少なかった。例会のお知らせが新聞に掲載されると関西一円から問い合せがあった。
 大都市の大阪にさえ、当時は親の会はなく、例会に参加している人の中から、大阪でも同じような会を作りたいという声が挙がり、1991年7月に会場を大阪に移して登校拒否を考える会関西集会を催した。京都の会が中心となり、関西の登校拒否を考える主な会が集まった。集会に参加した大阪の方数名の呼び掛けで、「大阪・学校に行かない子と親の会」が発足した。

■工夫している点やユニークな方法論

 とにかく、気楽に参加することをモットーにしている。仕事の役割分担は特にしていないが、各自が無理をしない範囲で自主的に受け持っている。
 初めての参加者がびっくりするのは、参加者がみな明るいことである。5時までの例会では話が尽きず、二次会と称して会場を喫茶店に移して、遅くまで話し込む。そして、涙ながらに語っていた人も明るい気持ちで帰途につくのである。
 例会以外に、レクリエーションとしてハイキング・スケッチ大会・化石採集などを企画して親同士や子ども同士の交流を深めている。子どものことを考えることが出発点となっているが、大人自身の生き方を学ぶ場にもなっている。
 2年前より、夏に「オールナイトで語ろう会」という催しも行なっている。参加時間は自由、泊まってもよし、その日のうちに帰ってもよし。夜を徹して語り明かす。

■運動の問題点

 最近入る会員は、一緒に子どものことを考えたり勉強したりすることより、情報やノウハウのみ知りたがる人が増えている。

■運動を継続するためのポイント

 会を必要とする人がいる限り続けるが、本来は会の必要のない世の中になるのが望みである。したがって、継続することには重点を置いていない。(恩田良昭)

■現在の「京都・学校に行かない子と親の会」関連サイト
http://www.geocities.jp/ccnts_cow/index.html

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行動派宣言!/こぶたの学校第4日曜日の会

■月刊『記録』95年9月号掲載記事

■どの子も地域の普通学級へ

■運動の目標

 現行の義務教育は、「能力」や「障害」を理由に子ども達を普通学級・特殊学級・養護学校に選別して振り分けている。誰もが地域の普通学級へ入っていくことを呼びかけ、実践する中で、能力主義の差別教育を解体し、共に学び合える教育の場に作り変えていく。

■発足の経緯

 20数年前、「障害児」といわれる幼児の通所訓練事業が世田谷区の施設で始められた。そこには就学を猶予・免除されて学校教育の対象外とされた子ども達と、就学前の子ども達が通ってきていた。そこで非常勤保母の解雇問題が起き、解雇撤回の闘いに勝利したのをきっかけに親に呼びかけ、共に問題を考え合っていけるようにと結成された。

■運動の歴史

 小学校入学に際し、各小学校が教育委員会より依託され、就学児健康診断(就健)を実施する。健康診断や知能テストなどで「能力」や「障害」を選別するものだ。これに反対し、受診拒否を呼びかけるビラまきを、会発足以後毎年、就健当日に各小学校で行なっている。
 会の発足直後、2人の子どもの親が普通学級入級を希望したが、区教委からは養護学校が適当と判定された。これを拒否して支援者と共に実力で校区の普通学級に通い続けたため、机も椅子も用意されず、校長室に呼ばれるといった状態が続く中で頑張り通し、最終的には普通学級入級を認めさせた。

■思い出深い出来事

「障害」のない子どもの親も就健を拒否する動きが出てきたのに対して、教育委員会は入学式直前まで就学通知を出さないという卑劣な手段で嫌がらせを行った。会として、親と共に区教委との交渉を行ない、「来年度就学時健康診断に関しては、もれなく受診することを希望するが、今年度の反省をもとに強制はしない。就学通知は、1月31日までに送付する。話し合いで決着がつかない場合は、最終的に親の意見を尊重する」という確認書を取り交わした。
 このことを境に、教育委員会は建前としては就学に際して親の意向を無視できなくなり、「障害児」といわれる子の普通学級入学が徐々に増えた。現在は全小学校に数名入っている状況だ。確約書は他の地域にも波及し、各地に運動が広がった。

■工夫している点やユニークな方法論

 会発足から20数年を経過し、運動初期の子ども達は成人している。そうしたメンバーと介助者、仲間でガチャバンカンパニーと名付けた、バザー・リサイクル・自然食品の宅配などの仕事を行ない、「障害者」が地域で共に生きることを追求・実践している。

■今度の抱負

 区教委がいくら約束しても、現場である学校の意識が変わらず、実際に介助などで人手を擁する時でも、学校の体制が「障害児」はいないことを前提として作られており、親や一部の教員に負担がかかったり、子ども本人がつらい思いをさせられたりする例が後を絶たない。学校現場への働きかけをより効果的に行なっていきたい。
■運動の問題点

 事務局は発足当時からメンバーで、年齢も上がってきている。活動が停滞しているわけではないが、若い風を入れたい。
 ここ数年、普通学級への入級そのものには抵抗がそれほどなくなったが、入ってから親の付き添い・介助などで不当な要求をされたり、プールや学校行事からの排除などが問題になっている。

■運動を継続するためのポイント

 目先のことにとらわれず、原則的な立場を貫くこと。どんな問題もそうだと思うが、教育現場での差別の問題は、これでいいということがなく、やればやる程続けざるを得なくなる。(高林成子)

■現在の「こぶたの学校第4日曜日の会」ウェブサイト
http://www.h7.dion.ne.jp/~kobuta/

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行動派宣言!/沙流川を守る会・アイヌ文化と歴史を守る会

■月刊『記録』95年9月号掲載記事

■アイヌの聖域をダム底にするな

■運動の目的

 ししゃもの絶滅・海岸線の浸食による塩害・河口の流砂など生態系を完全に破壊する可能性のあるダム建設を阻止するとともに、ダム問題にまつわる金によってズタズタにされたアイヌ民族の魂を取り戻すこと。

■発足の経緯

 アイヌ人の民族問題を考えていた当時、聖地にダムを建設しようとする計画が持ち上がり、阻止運動に立ち上がった。

■運動の歴史

 1973年3月、苫小牧東部大規模工業基地開発基本計画に基づいたダム計画が浮上した。
 80年12月に集会を開き、会の活動方針を本格的に立てた。82年5月に沙流川沿岸の生態調査、同年12月には希少種のヒメギフチョウなどの調査も行われたが、83年3月にはアイヌ民族の生活環境調査をしないことが道議会で議決され、ダム計画が前進。その後、経済的問題や洪水により工事が延期されている。
 94年5月には、反対運動の一環としてカヌー行進を行なった。が、平成8年度の予算発表により二風谷ダムと平取ダム建設促進の方向が確認された。

■今後の抱負

 当初、工業用水の確保のために計画されたダムも企業誘致が挫折したため、洪水調整・水道用水・発電などを目的とした多目的ダムと名目を変えた。そして、現在では苫東基地への軍事用水としての疑惑も高まっている。アイヌの聖地から軍事用水を引くことは許さないと、再度決意を固めている。

■思い出深い出来事

 92年1月、猛吹雪の中でデモ行進をした。外はマイナス18度にもなり、視界はゼロ。そんな状況下でも、30人の仲間が集まった。防寒具で重装備をしても寒さが体を突き抜け、雪は眼に飛び込んでくる。一生懸命参加してくれた仲間の苦労を考えたら涙が出てきた。先導してくれた警察も感じるものがあったのか、申告した地点より先にある人通りの多い場所までデモ行進をさせてくれた。
■工夫している点やユニークな方法論

 デモ行進では、ジュースの缶に砂を入れて振ったり、鍋のふたを叩いたり、イタバリと呼ばれる木を叩いたり、魚や鳥の仮装をして歩いている。私たち自身も楽しむことができる上に、通行人からの注目度も上がるメリットがある。

■運動の問題点

 農協からの圧力、地元有力者からの圧力などにより、平取町も年々専業農家も少なくなってきている。このような状況の中で、ダム建設による観光客の増加、仕事の斡旋、補償金をちらつかせ、金になる話に期待する住民が出てくるのも致し方ないと考えている。
運動を継続するためのポイント
 あせらず、ゆっくりと、落ち着いて行動する。しかし一方で手遅れにならないように急ぐことも必要である。
(山道康子)

■現在の「沙流川を守る会」ウェブサイト
http://www14.plala.or.jp/AsiriLela/sarugawao%20mamorukai.htm

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行動派宣言!/風の学校

■月刊『記録』95年8月号掲載記事

■助けることは助けられること

■運動の目標

 海外協力活動を目指す日本の青年達に農業の各分野にわたる技術、技能や井戸掘り技術などについて実際に体験して経験を積ませると共に、海外に派遣する機会を与える。

■発足の経緯

 日本政府により海外青年協力隊の仕事が始められて間もない1967年、故中田正一が、青年達から「協力隊に志願したいが自信がない、どうしたらよいか」との相談を相次いで受けた。そこで家屋と田畑を用意し、自分の計画と労働で責任をもって自由かつ失敗を恐れず、思う存分実習ができるように「自活実習」という方式により研修をスタートさせた「国際協力会」が始まり。

■運動の歴史 

 途中7年間、中田がバングラデシュへ赴任したが、有志および研修生達により続けられ82年までに70余人の生徒が隊員として世界へ巣立って行った。帰国した中田は、国際協力会にはっきりとした指針をもたせ、風の学校と新たに命名、年会費3千円で協力者を募って財政面を整え、84年再スタートした。
 農業部門と井戸掘りを新たに研修内容に加え、自活実習方式は引き継ぎ、新しく「適正技術開発」を打ち出した。その国で手に入る材料を用い、住民と手作りしようとするもので、結局その国に見合った技術しか定着しないためだ。これまでフィリピンとセネガルに30本の井戸を住民と共に掘ってきた。

■今後の抱負

 風の学校で学んだ生徒達が、世界に散って自分の風の学校、水の学校、森の学校などを創り、民族や思想の違いを超え、分かち合い補い合い輝いて生きる青年が育つ人材育成の場でありたい。

■思い出深い出来事

 ある年フィリピンのゴミ捨て場に井戸を掘った。岩盤続きで一般的なチューブ方式では無理で、丸井戸の要領で掘ることになった。人が中に入って掘り下げるため、人も土砂も1本の釣瓶で出入りする困難で危険な現場であった。住民と共に工夫しながら、ともかく50mあまりで水飲み水を得ることができ、完成を喜んだ。
 ところが日ならずして涸れてしまったというのである。相手方NGOとは保守管理について話し合ってあるので、住民の数や使い方をみて給水制限をしていると思っていた。しかし遠くから水を汲みに来る婦人子ども達を前に通用するはずもなく、地域住民が使うぐらいにしか考えていなかった我々の認識の甘さを強烈に知らされた。井戸があまりにも少ないのである。

■工夫している点やユニークな方法論

風の学校と名付けたのは、風の持つ存在感・エネルギー・自由・国境を越えて吹く風であれとの願いを込め、教育的な仕事で関わり合いたいとの願いからである。建物も学校らしい設備もカリキュラムも何もない。あるのは農家の廃屋と産業廃棄物の山である。
 生徒はここに寝泊まりして自活実習で研修を積む。生徒自身が風の学校である。自分の目的をきちんと持ち、何をどのように勉強したいのかはっきりしていないと続かない。風の学校はその人に合った分校や指導者を決めるが、全員ボランティアである。

■運動の問題点

 近年、女性の井戸掘り希望者が目立って多くなってきたが指導者がいない。

■運動を続けるポイント

 金と物の協力はしない。技術はあくまでも手段であり人が交流することが目的である。風の学校の国際協力哲学は「助けることは助けられること」。広い意味での平和運動ととらえている。単なる技術者の養成所ではない。
(中田章子)

■現在の「風の学校」のウェブサイト
http://www.unity-design.jp/unity_link/volunteer-group/volu_kaze.html

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行動派宣言!/相模原市国際交流協会

■月刊『記録』95年8月号掲載記事

■市民自身の国際交流・協力活動

■運動の目標

 発足時は「地域住民の自主性に根ざした国際交流活動の推進」だったが、最近では「市民による海外協力」が浮上してきた。英会話や中国語を学ぶことや、在住外国人に日本語を教える必要が高まり、現地語教育への協力など活動の方向性が広がっている。

■発足の経緯

 市が姉妹都市提携の具体化を図った時期に合わせ、有志が国際交流活動への参加を市民に呼びかけて始まった。当初は行政と連係する組織だったが、発足2年余の後、純民間の市民団体へと移行した。当協会の名称は、近年に増えてきた行政主導型団体のものと似かよっているが、性格は同じではない。独自性を持った市民団体として、それ以後12年余を経過している。

■運動の歴史

「国際交流活動のデパート」として、多様な課題に取り組み、「孵卵器」活動を積み重ねてきた。これは必要な場合に「専門店」型グループを別途に生み出し、運動全体の力量を高めるもの。グループは独自に組織され、これまでにインドシナ難民の定住協力や留学生との交流および生活支援などを行なってきた。

■今後の抱負

 国際化の親展にともなうデパート型対応領域を持つ地域団体は、現在は地方自治体主導がほとんどで、それらは財団法人方式によって継続が保証されている。他方、市民団体が行政による資金拠出という裏付けを持たず、しかも地域住民の多様な要望に応えるという性格を持ち続けるとすれば、その継続は何によって支えられるのか。「カネによらずして志に立つ」市民団体の理想像を、活動の世代交代を含め、どう実現するか。「抱負」というほど明確な展望ではないが、大きな挑戦的課題であるのは間違いない。

■思い出深い出来事

 チェコの青年代表団をある家庭がホームステイで迎えた時、82歳の老婦人が、「一つ屋根の下に外国人が泊るなんて、これまで考えもしなかった。これはいい冥土のみやげになる」と語った。彼女はこの経験を機会に「家に泊った○○さんのいる、チェコ」がばっちり脳裏に刻まれ、一挙に精神空間が拡大した。それは「冥土のみやげ」とされるほど、人間的充実感だったに違いない。

■工夫している点やユニークな方法論

 年に10回発行している『国際交流ニュース』では、会員の多様な経験から、いかに感動を掘り出すかに意を注いでいる。行事案内などの情報は欠かせないが、加えて1人1人の生身の人間としての心の鼓動をどう伝え合うか。なんらかの内面的な躍動を実感できるものでなければ、活動への自主参加は成立も持続もしない。最近、若い女性の寄稿が多いが、これも「自分捜し」の気運がこの層に高まっているという時代風潮を表わすものだろう。

■運動の問題点

 専用の事務所も専従もない組織体制でも、外国からの手紙・電話がじかに入ってくる。地域に住む外国人からの相談も昼夜を問わず飛び込む。市民や学校などからの依頼や問い合わせ頻繁だ。要請は年を追うごとに増大しているが、対応するボランティアの時間的・能力的力量は十分とはいえない。急速な国際化の進展の中で、需要と供給のアンバランスな位置に立っている。そこでの緊迫感は運動の問題点であり、やりがいでもある。

■運動を継続するためのポイント

 参加する会員と、それを促進するセンター機能が適切であれば、運動は継続する。試されるのはそれを担うの生身の人間である。ボランティアの志と経験が、世代を超えて引き継がれるか。15年目に入る現在、「生身の限界」の超えた力が問われている。
(大野力)

■現在の「相模原市国際交流協会」のウェブサイト
http://www.sia-jp.net/

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行動派宣言!/ガイアみなまた

■月刊『記録』95年8月号掲載記事

■田舎のワーカーズコレクティブ

■運動の目標

 日本の公害病の原点であり縮図でもある水俣の地に患者運動支援を縁で集まった9人で始めた有限会社。従来の市民運動とはひと味違った生き方と喰い方を水俣で作り出せないかと試行錯誤している。

■発足の経緯

 かつては全員が本誌94年8月号に掲載された水俣病相思社センターの職員で、水俣に生活、生産、運動と癒し拠点をつくろうとの呼びかけに応えて全国各地から集まった設立初期のメンバーであった。それから17年目に運営上のトラブルから責任を問われる事件が発生したため全員が辞職し、事務所を借りて運動を継続することとなった。
 ガイアみなまたという名称は折から起こっていた地球環境問題への危機意識と、ばく然とした、しかし大事なものへのこだわりと広がりのあるイメージとしての水俣を意識してつけた(参考・ジェームズ・E・ラヴェロック『ガイア』NTT出版)。

■運動の歴史

 1990年正月に結成し、メンバーの1人が農民登録した。環境読本「地球と生きる55の方法」企画発行した。
 93年8月には正式に有限会社を設立し、秋には手造りビール関連商品の普及販売を始める。94年春、小学生向けの水俣病パンフを作成し、夏から手造りビールの講習会を全国で始めた。

■今後の抱負

 近い将来、水銀分析室を開発したい。ベトナムの環境セミナーハウス作りに参画したい。全員でカナダ旅行をしたい。余力があればビギナー向けの水俣病読本も出版したい、と夢は多い。

■思い出深い出来事

 相思社での甘夏みかん販売の不正事件に端を発した辞職・再出発であったが、自分達ではのれん分けだと思っている。現在の相思社は我々が参加していた時代とは違って、ずい分清潔な空間となったが、ガイアは今も初期の相思社の雰囲気を醸し出している。生産や生活の臭いがただよい、子ども達や旅の客がウロウロする雑然とした空間である。
 一昨年の日照りには本当に参った。飲み水こそ不自由しなかったが、水田と蜜柑園には毎日散水した。やっとできた甘夏にも水腐れ現象が出て相当ダメになってしまった。自然の厳しさと生産者の真剣さに改めて感心した。とはいえ、ノド元過ぎた昨年からは満月の夜には近くの人や知人に声をかけて楽しい夜を過ごしている。手造りの料理とビールに仲間の音楽が添えられ、ぜいたくこの上ない時間を過ごしている。

■工夫している点やユニークな方法論

 自分達で開発した手造りビールキットを販売している。買ったその日からビールを仕込むことができる10点詰め合わせのキットで、素人でも難なく安心して始められる。手造りだからエネルギーも資源もビール代も抑えられるし、汚染も少なくリサイクル率も向上する。ぜひどうぞ。

■運動の問題点

 長年付き合っている映画監督の土本典明さんなど古い水俣支援者からは、「ガイアの運動は緊張感なく、ホンワカホンワカであれは何だ」などと批判を受けるが、私達はあまり反省はしていない。企業社会が「日本のガンバリ地球の迷惑」現象をいたるところで引き起こしているが、社会運動の面でも似たような問題を含んでいるとみている。

■運動を継続するためのポイント

 無理なく喰い方と生き方が両立し、ボランティア活動をできるくらいの余裕が必要。そう思って毎月一律13万円の生活費を稼いでいる。何しろ自分達で平等な経営をするというのは難しいものである。
(高倉敦子)

■現在の「ガイアみなまた」のウェブサイト……なし

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行動派宣言!/アビリティーズファミリー

■月刊『記録』95年8月号掲載記事

■爽やかな笑顔で心のふれあい

■運動の目標

 たとえ手足が不自由でも絵は描ける。物を創ることができる。「絵は心で描くもの」を合い言葉に、在宅重度身体障害者で構成する身障青年芸術集団が活動を始めた。人の手を借りないと食べ物を口にすることもできず、何一つ生活できない。だが人間として仕事がないほど辛いことはない。残された能力を活かし、自己の挑戦と後輩への勇気と励ましを行なう。

■発足の経緯

 1972年の春、機関紙『アビリティーズ』と朝日新聞の紙面で全国各地の在宅身障青年に呼び掛けて仲間を募った。第一回の作品展を池袋の小さな画廊で開催。新聞とテレビで紹介された。
■運動の歴史

 まず意識改革からスタート。国や社会には不満はない。あるとすれば己にあり。天が与えた試練かどうかは知らないが不自由さに負けたくない。逃げの人生であってはいけない。
 人から同情されながら生きていくのも嫌だ。それなら、魅力ある人となって、深い苦しみの中から、誰よりも大きな幸せを感じ得る自分になろう。いつも自身に不満を持つ仲間でありたい。
 我々の汗と努力の労作を展覧するとしたら、最高の会場が欲しい。会場が最高ならば、作品はプロに負けない傑作を制作をしなくてはならない。激が飛ぶ。みっともない作品や、同情的な目で見られないようにと心を配っている。
 第三回展を有楽町そごうで開いて以後、千葉そごう・新宿京王デパート・銀座伊東屋。新宿伊勢丹美術館・日本橋三越本店・吉祥寺近鉄デパート・渋谷109・銀座TOTOパビリオンと展開した。我々の心意気が分かっていただけると思う。企画から会場交渉・搬入搬出・会場のポスター・案内状づくり・受付け・ご来場のお客様への摂待まで一から十までやりとげ、肢体に汗して自分達で主催して最高の幸福感にひたる活動である。
 一種一級障害者で、車椅子、寝たきりのアビリティーズ仲間。優しさと励ましはあるが、展覧会の出品作選びとなると厳しく、落選する作品は多い。毎月第3日曜日に原宿の福祉センターで絵画研究会を開催。各地から仲間が作品を持ち寄り、技能向上と心の豊かさに励む。美術館めぐり、スケッチ旅行にも出かける。

■今後の抱負

 自然体でふるまい、プロの画家を目指す。25周年展の企画アビリティーズ愛のファミリー展準備と、社会参加の場づくり。

■思い出深い出来事

 20歳代の楽しいはずの青春時代にこの世を去った進行性筋ジストロフィー症の仲間。彼の生き方、母親への優しい感謝の気持ち。彼の人生の中で最高の1週間をプレゼントしようと、個展の開催を計画。間に合わず遺作展になったが、生きた証しをと仲間が努力をして素晴らしい絵画展となった。そこには精一杯生きた青年があった。
工夫している点ユニークな方法論
 日々努力し、やる時は精一杯やる。また、美術・文芸・ボランティア活動を影で支える足長叔父さん、叔母さんがいる。

■運動の問題点

 なぜか、一人っ子が多い。両親の高齢化、やがて1人で生きていく日が来る。
運動を継続するためのポイント
 明日に向けての希望。居酒屋で飲み食いして議論する。なによりも私達の生き方の理解を得る事。頑張れの一言と善意の人々の応援をしていただくこと。
(佐藤尚仙)

■現在のウェブサイト……なし

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行動派宣言!/播磨灘を守る会

■月刊『記録』95年7月号掲載記事

■埋立て防止から磯浜復元まで

■運動の目標

 播磨灘沿岸の海・空・川の自然環境を守り、赤潮などの汚濁を浄化するため、埋立て阻止、工場排水などの監視と水域の調査を続けてきた。「元来、自然は誰のものでもない」=「あらゆる生物の生きる場」との考え方を柱に、現在は壊した海=埋立て地を渚に戻そうという「磯浜復元」を目指している。

■発足の経緯

 1955頃はじまった一部財界のための「金主主義路線」が、ゼニカネに代えられない自然環境を日本各地で壊し、多くの生物を滅ぼした。殊に瀬戸内海は、浅海の埋立てと汚濁が進み、現在なお毎年の赤潮と大気汚染・酸性雨は止むことがない。そんな播磨灘の危機の中で、71年に若手漁民と労働者・学生・教師らが集まり、ごく自然に発足した。

■運動の歴史

 71年8月、播磨灘各地の沿岸魚ボラ・コノシロ・チヌなどと、養殖ハマチが大量死。その被害調査と被害漁民救援を行なう。翌年には姫路沿岸で定点観測(透明度とph調査)開始。以後10間継続。高砂鐘ヶ渕化学と三菱製紙の長期にわたるPCBたれ流しが発覚。両工場への抗議と兵庫県への厳しい対策を申し入れる。
 73年は瀬戸内海環境保全法の制定に先立ち、瀬戸内での海面埋立ての全面禁止と、工場排水の総量規制を明記するよう環境庁へ申し入れたが、財界・自民党などの異論によって骨抜きにされる。また魚貝類のPCB汚染が拡がり、我々の調査で被害総額約40億円に上る漁業パニックが起き、兵庫県に救済を申し入れる。
 78年から、網干沖埋立(産業廃棄物処分場)と揖保川流域下水道、更に関西電力の相生火力発電所建設に対する反対運動に入る。84年には東芝姫路工場太子分工場の半導体製作場から漏れたトリクロロエチレンが長期間地下水(井戸水)を汚染したことが発覚し、原因究明と追跡調査を2年間継続。『播磨灘30年』出版。
 88年、夏休み中の子ども達のため2泊3日の「海のアドベンチャースクール」を開設し以後毎年開催する。90年代に入っても播磨空港建設計画反対の運動を始め、「赤潮クルージング」「播磨灘写真展」などのイベントを次々に開いた。

■今後の抱負

 差し当たっては瀬戸内海環境保全法に埋立て禁止条項を入れる改正運動と、関西唯一の本格的干潟「新舞子」(揖保郡御津町)をラムサール条約指定地にすること。

■思い出深い出来事

 86年の15周年フォーラムで、出席漁民から「海を埋めておいて使用していない土地が多い。これを元の浜辺にできないか」との提起があり、翌年姫路市で「磯浜復元と街づくりシンポジウム」を開催し、不使用の埋立て地を渚に復元することで、生物による海域の浄化・漁業資源の増大・周辺住民の親水権の拡大・街の景観回復などが可能であることを論証した。92年には姫路市沿岸での磯浜復元の決議を兵庫県議会に求め、1万3千人の署名を提出。

■運動の問題点

 行政や企業の情報を早く取ることが大切だが、今の日本では難しい。会の運営は10余人の世話人でやってきたが、高齢化が進みメンバーの若返りが難しい。
工夫している点やユニークな方法論
 運動継続には財政面の安定が欠かせない。会費などのほか、さまざまなイベントと地場産品・出版物の販売で収入を増やしてきた。
運動を継続するためのポイント
 まなじりをつり上げた「正義の闘い」は長続きしない。誰でもできることを皆でやること。お互いのチョンボも権力のゴリ押しも笑い飛ばし、酒も飲んで楽しみながら行事をこなすこと。
(文責=青木敬介)

■現在の「播磨灘を守る会」のウェブサイト
http://www2.117.ne.jp/~eharima/

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行動派宣言!/全国市民平和訴訟の会

■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■政府の湾岸戦争加担と自衛隊海外派兵を告発

■運動の目標

「市民平和訴訟」とは、日本政府の湾岸戦争戦費拠出と掃海艇派遣、その後のPKO派兵など違憲とする訴訟の総称である。全国6都市で係争中で、裁判件数は11件。9つの独立した訴訟団で取り組んでいる。国会での論戦や反対行動の記憶も次第に薄れつつある現在、裁判という場を通して問い続け、最終的に勝つ。

■発足の経緯

 自衛隊輸送機派遣は政令公布のみで終わったが、その後ペルシャ湾掃海艇派遣が決定され、米海軍などとの掃海共同作戦が行われた。これらは自衛の範囲を超えるもので、自衛隊法にも反し、集団的自衛権行使に抵触する。
 全国に巻き起こった反対運動の中、提訴を呼びかけたのはさまざまな市民だった。いずれも法律はまったくの素人であり、まず代理人となる弁護士探しから始まった。広島では「勝ち目のない裁判」として軒並み弁護士に断られ、鹿児島では弁護士が見つからず、本人訴訟に踏み切った。

■運動の歴史

 全国各地で、のべ3300人以上が参加した湾岸関係の訴訟は、91年2月15日の広島提訴を皮切りに、大阪・東京・名古屋・鹿児島と続く。最初、戦費90億ドルと自衛隊機派遣を請求対象とした裁判も掃海艇派遣が対象に加えられ、PKO派兵違憲訴訟が提訴されることとなった。
 提訴の過程で東京地裁は、3兆4200円の前代未聞の手数料を請求して、裁判官の非常識ぶりは世の非難の的となった。裁判所は、私達市民の正当な権利である裁判をうける権利を、乱訴の類いと決めつけた嫌がらせをしたとしかいいようがない。

■今後の抱負

 3月23日に福岡で判決が出され、訴えは棄却された。また、年内に3つほどの結審を迎える状況にある。
 これまでの判例からみて、憲法9条をめぐる裁判は決して有利な訴訟とはいえない。裁判所は常に体制迎合の判断を下してきた。そのために歴代自民党政府は、9条の自分流解釈を国民に押しつけてきたのであり、裁判所の責任は重い。政府を裁く戦いはこれからも続く。

■思い出深い出来事

 91年9月10日、東京山手教会で米元司法長官ラムゼー・クラーク氏招請による「湾岸戦争を告発する東京公聴会」が開催され、聴衆約1000人が参加した。
 同日午前の東京市民平和訴訟第1回口頭弁論にはクラーク氏も出廷し、代理による発言がおこなわれた。また、翌日の空母インデペンデンス横須賀入港反対海上デモにも氏はボートに同乗して参加した。 

■工夫している点やユニークな方法論

 クラーク氏ら調査団の撮影ビデオや19項目にわたるブッシュ氏らへの告発文などの裁判証拠資料提出、参加原告団による証言など、湾岸戦争の事実経過が裁判記録に残るようにした。
 また、密室的な戦いにならないために関連問題の講習会や学習会を各地で開催した。規則ずくめの裁判所法廷でプラカード代わりに花一輪の持ち込みを東京で続けた。
運動の問題点
  わずかな会費とカンパが主な財源で、それほど余裕もなく証人も弁護士も無償行為に等しい。裁判も長期化するだろうし、人々の記憶も関心も薄れ、一審から二審へと時がたつに連れて法廷参加も減少することなども予想される。

■運動継続のポイント

 一時の気まぐれで訴訟に踏み切ったわけではなく、あくまで初心を貫く心構えで臨むしかない。私達は6都市にかける訴訟団の連携ということで、情報交換も頻繁に行っている。被告同士連帯して戦いを進めていくしかないと思っている。
(文責・市民平和訴訟の会関西 和田喜太郎)                  

■現在のウェブサイト……なし

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行動派宣言!/Yacht Aid Japan

■セーリングを通じクルマ椅子の人達と共に遊ぶ

■月刊『記録』95年7月号掲載記事

■運動の目標

 身体の障害が原因で、活動的な人生を送れない人にヨットによるセーリングを体験してもらい、より活動的・積極的な人生の扉を開くお手伝いをする。
 従来のマリンスポーツの世界は、身体障害者ということだけで初めから彼らを疎外しているところがあった。そのような社会制度・価値観を改めさせる行動、具体的な施設の研究や手直しを行なっている。

■発足の経緯

 ふと目にしたヨット雑誌に紹介されていた記事に、大酒飲みでちょっと足をひいているヨットマンは釘付けになった。米国のShake-A-Legという団体が、Freedom社と共に開発した障害者用のIndependenceというスペシャルヨットの紹介だった。
 彼、大塚勝はそれまでも、こどもの日には養護施設の子どもを、障害者の日にはクルマ椅子の人を、お客さんとしてヨットに乗せるボランティア活動をしていたが、どこか納得できないものがくすぶり続けていた。その答えが見つかった気がして、すぐさま決断。ヨット仲間を回って金を集め、雑誌にボランティア募集の投稿をして、自分の部屋を事務所とした団体を作ってしまった。

■運動の歴史

 1990年にオープンした東京都立夢の島マリーナにフリーダム号を置いた。ここはクルマ椅子用のトイレを作るということで、ピッタリのマリーナと思われた。各地の障害者施設に貼ったポスターを見た人など呼び寄せ、セーリング体験をしてもらおうと張り切ったのだが、いきなり困難にぶつかった。クルマ椅子の使える範囲は建物の部分のみで、駐車場さえ何の配慮もなく、棧橋は段差などが厳しく、ボランティア達は多くの苦労を強いられた。ヨット遊びは健常者という社会常識によるものだ。
 今ではクルマ椅子のある風景が当然のものに変わった。施設は改修され、フリーダム号でヨットを覚えた人は、他の船から招待され、ゲストとしてマリンライフを満喫できるようになった。
 だが、クルマ椅子の彼らが小型船舶操縦士免許を受けたくても身体検査で落とされる現実がある。社会人として活躍、マイカーを運転し、立派に海の遊びをこなす彼らの現実を、この国の役人は認めない。「制度を現実に近付けろ」と、過去3年間運輸省に陳情を続けている。

■今後の抱負

 日本の各地にヨットエイドの種子が広がって花開くこと。セーリングを体験して楽しむ人達と、それとは別にヨット競技を愛好する人達により、パラリンピックを目指す戦いを繰り広げてもらえたらうれしい。私達は昨年、日本障害者スポーツ協会に準加盟し、来年のアトランタには3人の選手を派遣できる予定だ。

■思い出深い出来事

 1994年夏に米国ロードアイランド州ニューポートに遠征、レースをしてきた。世界の壁の厚さに驚いたが、一層のめり込んできている。ヨット遊びで生きる喜びを充電している仲間がこんなにもいる!

■運動の問題点

 景気後退とともに、寄付がより「厳少」して、ボランティアの財布を攻撃している。パソコン通信のホームパーティを設定してコミュニケーションをとっているのは、郵便代が高いせいもある。

■継続のためのポイント
 お世話をする、という意識をなくし共に楽しむこと。
(広報担当:松本 敦)

■現在の「Yacht Aid Japan」のウェブサイト
http://www.yacht-aid.jp/

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行動派宣言!/名古屋第三世界NGOセンター

名古屋第三世界NGOセンター
■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■運動の目標

 情報と人材の提供によって中部地域のNGO運動の活性化を目指す。市民が参加できる行事を企画し、NGO活動に協力できる場を提供することによって市民権を得る。
 第三世界に対しての差別をなくす。施しとしての援助ではなく、相互の自立と平等かつ公正な関係を実現する。また、行政を監視し、行政に市民の声を聞かせる。

■発足の経緯

「名古屋には文化が見当たらない」とよく言われる。しかし市民レベルを考えると、草の根の文化が着実に芽生えている。本会もまた、その現れの1つである。
 80年代に入ってNGOグループの間に協力体制を作ろうという呼びかけがあった。それに応える形で開催されたのが、87年4月に開催されて14団体が参加した「援助を考える・名古屋NGOシンポジウム」だった。
 また、87年は国際住居年だったので、4月25日に名古屋市主催のシンポジウムが開催された。その準備に呼ばれた市民グループから2人のパネラーが選ばれた。7月26日には、同じく名古屋市主催の「アジア太平洋都市会議・市民フォーラム」の向こうを張って市民グループ独自の市民フォーラムを行なった。
 秋には会議を重ねながら、センターの形態を決めていき、1988年の1月16日にYWCAにおいて、発足式が行なわれた。

■運動の歴史

 独自の活動としては、国際交流評議会(NIA)の加盟団体であるので、毎年NIA主催のふれあいフェスティバルの準備と実行に参加している。名古屋市の女性団体評議会の活動にも参加している。94年11月には東京の(JANIC)と共催で名古屋での初めての全国NGOの集いを企画した。
 その他、各加盟団体の活動や行事に協力している。現在までに、第三世界と関係ある写真と絵画展示会・講演会・外国のバンドと劇団の全国ツアー・上映会・地域のオープンマーケットやバザーに参加して第三世界の民芸品販売などを行なった。

■思い出深い出来事

 第三世界の国へでかけて出会った人々との思い出。

■工夫している点やユニークな方法論

さまざまな団体をまとめるために、政治色を出さないようにしている。政治的な違いが明らかになると、各団体がバラバラになるからだ。また、前例がないために行政の協力も得られない場合も多いため、根気強く小さな前例を積み重ねるようにしている。

■運動の問題点
 今まで暇をみて行なう活動という意識が主だったので、個人の家が事務所になっていた。今年から経済的な不安を抱えながらも、センターのためだけの事務所を借りて本格的に活動しようと決めた。各団体のメンバーの意識をできる限り統一させるのは大変な作業である。(文責ステファニ・レナト)

■現在の「名古屋第三世界NGOセンター」
http://nangoc.org/index.html

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行動派宣言!/動物実験の廃止を求める会(JAVA)

動物実験の廃止を求める会(JAVA)
■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■残酷で無益な実験を止めさせよう

■運動の目標

 何よりも最初に、密室の中で多くの無意味な実験が行われ、いたずらに動物の生命が犠牲にされている事実を明らかにしていく。

■発足の経緯

 日本では年間2000万もの実験動物が犠牲にされていると推定される。これほど大量の動物を犠牲にしなければ、私達の生活の安全や健康は維持できないのかという疑問から、1986年3月に次の3つの趣旨をもとに発足した。
①動物実験の倫理的、科学的過ちと実験の実態を広く知らせ、その廃止を訴える
②実験動物に対する残酷な苦痛と無用な犠牲を、少しでも減らしなくしていく
③地球のすべての生き物のいのちが尊ばれ、大切にされることを求める

■運動の歴史

 日本では、動物虐待には73年に「動物の保護及び管理に関する法律」ができるまで、軽犯罪法が適用されていた。
 動物実験に関する法規制はまだ一切なく、どのような種類の動物が、どれだけの数、どんな施設で、どんな実験に使われているのかという基本的な事実さえ把握することができない状態である。また実験の内容を事前審査したり、公開や規制に関する公的制度も全くないため、やりたい放題の実験大国となっている。発足以来、こうした事実を広く一般に伝えようと、活動している。

■工夫している点やユニークな方法論

 多くの人に知ってもらうため視覚で訴えようと、実験される動物達の写真パネルをさまざまな場所で展示している。また、主な新聞に意見広告を出している。

■今後の抱負

 広く実験動物の苦しみと死の実態を知らせ、残酷で無益な実験廃止の世論を起こし、研究機関に対して密室で行われている実験の研究データと施設の公開を求める。
 自治体に対して、犬猫の動物実験への払い下げを止めるよう求めると共に、動物実験を続けている会社の化粧品や洗剤などを買わないように呼びかける。私達自身の日常生活において、できるだけ動物の犠牲のないライフスタイルを選択していく。

■思い出深い出来事

 90年のシロちゃん事件。飼い主に捨てられ、動物管理事務所からある国立病院に実験用に払い下げられた白い犬が、術後何の手当もされないまま放置されていた。この犬の救出をきっかけに、ペットの実験用転用の実態がマスコミに報道され、東京都に犬猫の払い下げ廃止に踏み切らせた。

■運動の問題点

 動物実験の実態は隠されており、本当のことは不明というべきだが、多くの人々がばく然と「動物実験は医学の進歩に役立っている」と思い込んでいる。
運動を継続させるためのポイント(文責 野上ふさ子)

■現在の「動物実験の廃止を求める会」(JAVA)のウェブサイト
http://www.java-animal.org/

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行動派宣言!/一寸五分の会

■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■精神「病」者同志の連携を

■運動の目標

 何といっても第一に自殺防止。そしてどうしても孤立しがちな精神障害者同士の連携。情報提供および情報交換。

■発足の経緯

 85年夏、長野県のある開放病院を見学する機会に恵まれ、自分(田中博)でも何かできないかと思い、同9月に機関誌『一寸五分通信』(略称『通信』)創刊号発行。機関誌を媒体としての精神病者自助グループを目指す。

■運動の歴史

 発会当初は精神病の社会的な偏見や差別をなくそうと啓蒙・啓発に努めた。従って『通信』には健常者向けの記事が多かった。
 その後『通信』だけでなく、病者を集めて会らしくしようと動いたが、はっきりとした方向性を見出せないまま呼びかけたため、各々の考え方に振り回され、本来は手段のはずの人集めが目的となり混乱した。以降、自分でできることの限界を踏まえ、『通信』づくりのみにしぼる。
 活動を続けるうち、社会への啓蒙・啓発は保健所等に任せて精神病者のために同じ病気や悩みをもつ者のつながりを重点を置くようになった。精神病者が地域で生きること自体が運動であり闘いである。

■今後の抱負

 精神病者自身が自分なりのアイデンティティを確立すること。家族や他者への依存性を克服していきたい。
 差別偏見と闘う他の障害者団体や地に足がついた信頼できるグループとの交流も目指す。
■思い出深い出来事

 今まで卑屈になっていた人が『通信』に自分の文章が載ることにより気持の整理ができ、物事を前向きに捕らえられるようになり、自分を肯定していく姿を幾度か経験したこと。
■工夫している点やユニークな方法論

 しぶとくしたたかに生き続けること。健常者社会にゲリラ戦を挑むような心積もりでる。世間に華やかに存在をアピールすることなくじわじわと不気味に視野を広げていく。

■運動の問題点

 他の障害者と大きく違う点の1つは、家族や社会の要請によって、強制的に精神病院収容されてしまうといった「保安処分」があること。
 このような時に事情を聞こうと病院に出向けば、「出してもいいが、そのことによって彼が反社会的な行動を起こした場合にあなた方は責任をとってくれるのか」などと言われて、沈黙せざるを得ないこと。

■運動を継続するポイント
 ①背伸びした運動はしない②会員のプライバシーを守る③義務や同情では関わらない④新しい発見と出会い。
 虐げられてきた側からの視点に立つことにより、社会の仕組みや矛盾点が見えてきた。また自分とは異なる価値観の持ち主との出会いによって、より豊かな人生を送れるという楽しみ。
『通信』については自分だけで編集・発行をしている。大変な半面、気楽にやってこられたという点も大きい。(田中博)

■現在のウェブサイト……なし

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行動派宣言!/日本フォスタープラン

■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■子ども達の笑顔は地球の宝物

■活動の目標

 発展途上国の子ども達が成長の過程でさまざまな価値観に目覚め、持っている能力を十分に伸ばすためには、その地域全体の生活向上と健康的な環境づくりが重要である。そのために、アジア・アフリカ・中南米の30ヶ国以上で子どもに焦点をあてた地域開発活動を行っている。

■発足の経緯

 1937年、スペインの内乱により親も家も失った大勢の戦災孤児を救うため、英国のジャーナリスト、J.ラングドン-デイビスとE.マッゲリッジによって活動が始められた。その後時代の流れにともない、戦災孤児の救済から発展途上国の子ども達と家族、地域社会に対する支援へと変化した。日本では83年に事務局が設立され、翌年フォスター・ペアレント(支援者)の募集が開始された。ペアレントは発展途上国に住む子ども(フォスター・チャイルド)と文通を通して心の交流を持ち、経済的にチャイルドの住む地域の生活向上をを支援する。

■運動の歴史

 フォスター・プランは97年に設立60周年を迎える。この間には長期間に及ぶプログラムの後に「援助の卒業」となった香港や韓国の例も含まれる。最近1年間でベトナム・マラウィ・パラグアイが援助対象国となり、全体の活動は更に拡大している。

■今後の抱負

 広報活動を進め、より多くの方に存在を知ってもらうと共に、支援を仰ぎながらより良い地域開発活動を行う。また、小・中学生などの若い世代にも途上国の現状について関心を持ってもらえるように情報提供を行いたい。

■思い出深い出来事

 12年前にはゼロだったフォスター・ペアレントも現在では5万6千人。日本の援助はとかくお金を送るだけといわれるが、多くのペアレントとチャイルドの心の交流が生まれている。先日も、「妹が生まれたので、『まゆみ』と名づけました」という手紙がアフリカ・セネガルのフォスター・チャイルドから日本のペアレントに届いた。また阪神大震災で被害を受けたペアレントからは「今はまだ水がでない状況ですが、チャイルドの住む地域では何キロも水汲みに行くのが日常だと手紙に書いてありました。こんな時だからこそ援助は続けます」との連絡を避難所からいただき、職員一同感激した。

■工夫しているユニークな方法論

 フォスター・ペアレントのもとには現地から手紙・絵・写真・成長記録などが届くので現地での活動を身近に感じながら相互協力・理解を図ることができる。またフォスター・チャイルドを現地に訪問し、実際にプロジェクトを見ることができる。

■運動の問題点

 子どもに焦点を当てた地域開発活動をしているが、奨学金などの里親制度と誤解さてしまう。今後も一連の広報活動の中で援助金の使途を明確にしていきたい。翻訳や現地の交通事情などで、通信に時間がかかる。援助者に対し現地事情を十分説明するとともに、迅速で細かい対応を心がける。
運動を継続するためのポイント
 現地のプロジェクトの報告を定期的にすること。また援助金や寄付金の使途をはっきりさせること。(奈良崎文乃)

■現在の日本フォスター・プラン協会のウェブサイト
http://www.plan-japan.org/home/

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行動派宣言!/PHD協会

■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■アジア・太平洋地域から研修生を日本へ

■運動の目標
 アジア・太平洋地域の人々との間に研修事業を軸にした、草の根の交流を行なう。そこから双方に、平和で健康な暮らしを築いていく人材を育成し、共に生きる社会を目指す。
■発足の経緯
 ネパールで長らく医療活動に当たった岩村昇医師が、自らの活動経験と反省を踏まえて、モノ・カネ中心の一時的な援助を越えた草の根レベルの人材の交流と育成を提唱して始まった。

■運動の歴史
 82年より毎年4~5人の青年を海外から研修生として迎え、ホームステイ形式で自立した村づくりに役立つ農業・漁業・保健衛生・編み物・裁縫・工芸などの研修を全国各地で行なってきた。
 これまでに1年間の正規研修生が12期で48人、短期生とゲストが73人となった。相手先はネパール・フィリピン・タイ・インドネシア・スリランカ・ビルマ・カンボジア・パプアニューギニア・ソロモン・韓国にまたがる。彼らを迎える地域も都市・農村・漁村と広がってきた。国際協力を考える研修会やアジア・太平洋の文化・生活に親しむ行事・各種広報活動・講演などを行ない、興味や関心を持つ人を増やすよう努めてきた。

■今後の抱負
 南北問題の解決として、日本を含む先進工業国が国際社会でみせる不公平な振る舞いを少なくすることが直接的な協力と並んで大切だ。実際に普通の人が海外の現場に出て協力することは難しいし、専門知識や技能がないと役に立つことも難しい。だが国際協力は他人任せで自分には関係ないというわけにはいかない。日本の今の生活は多くの外国との関係の上に成り立っており、無関心ではいられないのだ。
 まず日本とアジア・太平洋の青年達との出会いをより多くの人と地域に提供していきたい。その上で、彼らの村づくりや地域づくりに熱心に取り組む姿勢から、日本に住む人々も日常的に関われる地域の活動、言い換えれば日本の中に住みやすさを作る試みを学び、広めてもらいたい。直接の国際協力でなくても構わない。国際社会に大きな影響力を持つ日本が変われば、そこにつながる世界との関係も変わる。分かち合うことを大切にする人をどんどん増やしたい。

■思い出深い出来事
 阪神・淡路大地震の際、事務所はつぶれこそしなかったものの、室内は散らかり、電話が故障し、職員も交通手段が不自由で集まれず、直後は事務所として機能を果たすことができなかった。阪神間および周辺部の会員とも連絡が取れるようになったのは1週間以上経ってからだった。しかしそれまでの間に、多くの会員が自主的な判断で被災地に入り、それぞれの得意分野を生かした支援活動を展開した。日頃の海外研修生を支える活動の経験が違う場面で生かされたようで頼もしく感じた。

■工夫している点
 いろいろな角度から社会開発・海外協力・異文化理解・ボランティア活動などに近づいてもらうきっかけづくり。今までにタイ北部山岳民族の草木染や手織り布、西スマトラの伝統舞踊、パプアニューギニアの郷土料理、インド仕込みの開発教育ゲーム、ネグロスの民衆の歌、アジアの漫画、アジア・太平洋の草の根を訪ねる旅、農業・漁業・林業体験合宿などを材料にした。

■運動の問題点
 活動資金の安定確保。行動する人材の確保。活動の質の向上。独りよがりにならない言葉遣いと説明。
運動を継続するためのポイント
 民主的な運営。明朗会計。自らを客観化する姿勢。無理のないペース配分。(藤野達也)

■現在のPHDウェブサイト
http://www.kisweb.ne.jp/phd/

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行動派宣言! /水俣病センター相思社

■月刊『記録』94年8月号掲載記事

■「水俣病を記録し伝える」考証館活動を展開/財団法人・水俣病センター相思社

■運動の目標

 財団法人の寄付行為には「この法人は水俣病患者ならびに関係者の生活全般の問題について相談、解決にあずかるとともに、水俣病に関する調査、研究活動を行なうことを目的とする」と記載されている。当初目指したことは、患者との共同作業所として、患者のこころの拠り所として集える場所、医療基地として、水俣病を記録すること、の4点があった。しかしそれらも実現の努力がなされ、試行錯誤はあったが、形としては最後の「水俣病の記録と伝達」が現在の活動の中心となっている。

■発足の経緯

 69年に提訴された水俣病第一次訴訟の運動と、同時平行的に展開していたチッソとの自主交渉派の運動が、結審後に東京交渉団として合同して、73年7月、水俣病補償協定書をかち取った。水俣病事件を後世に長く残していきたいという気持ちと、患者たちのこころの拠り所を、という気持ちが水俣病センター相思社を作るきっかけとなった。
 この構想はすでに72年頃から始まっており、同年のストックホルム環境国際会議でも提起された。石牟礼道子、宇井純、原田正純らが設立委員となって、数多くの賛同者を集め、また資金カンパも呼びかけた。

■運動の歴史

 相思社の歴史は大きくは、74~89年まで、90年~現在と分けられる。前期は未認定患者運動を全面的に支えた歴史であり、後期は「水俣病を記録し伝える」水俣病歴史考証館運動に集中している。
74 水俣病認定申請患者協議会設立
75 県議「ニセ患者発言」にたいする闘争
77 ヘドロ処理工事差止め請求/水俣の甘夏取扱開始/水俣実践学  校の開催(現在にいたる)
82 水俣生活学校開校(92年閉校)
86 アジア民衆会議
88 水俣病歴史考証館開館
89 いわゆる甘夏事件、理事相思社辞職
90 考証館移動展開始/機関誌「相思社だより」発行(現「ごんず  い」と改題)
93 埋立地での行政企画にユージンスミスの写真出品

■今後の抱負

 水俣病事件関係のことなら、どんな要求にも対応できる資料・記録のリファレンス機能を持ちたい。また、子供向けの水俣病事件を伝える書籍の出版を。
思い出深い出来事
 89年の甘夏事件。相思社の経済的支柱であった甘夏みかん販売を巡り、「不正がある」との指摘に対して、理事総辞職・職員の半数辞職という事態になった。この問題は甘夏みかんの販売にとどまるものではなく、水俣病患者運動の曲がり角、患者と支援者の関わり、産直運動の困難、などが集中的した結果に起きたことである。
 これによって相思社は患者運動を全面的に支えるという姿勢から、「水俣病を記録し伝える」考証館活動に転化していった。

■工夫している点やユニークな視点

 運動団体にありがちなコスト無視・時間おかまいなしではなく、いわば一般の会社のような規律で運営したい。勢いと数・気持ちだけで押し切る運動ではなく、10年・20年後までも思想的にも、企画としても残って意義ある団体ににしておきたい。

■運動の問題点

 テーマである「水俣病を記録し伝える」ことが、経済的基礎になっていないこと。カンパ・会費・物販が主要な収入である現状が、経済的不安定をもたらしている。企業・行政などからの寄付や、本来的な活動からの収入を軸にすることが問われている。
運動を継続するためのポイント
 水俣病事件の思想的意味や現代的意味を、誰にも分かる言葉にすること。(さとう)

■■■ことばメモ

【水俣病】
 熊本県水俣市にあるチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で生じる有機水銀が汚染した、不知火海の魚介類を食べ続けた周辺住民に発症した。
 意識を失って死亡するほか、手足にしびれや痛み、運動障害や視野狭さく、難聴などが長期間続く。
 公式発見は、チッソ付属病院が1956年、保健所に報告したが、経済優先を掲げていた政府が公害認定したのは12年後。その間に被害は拡大し、多くの裁判が各地の裁判所で争われた。
 熊本地裁の1次訴訟は、73年に認定患者がチッソの企業責任を認めさせた。認定棄却患者らが救済を求めた2次訴訟も原告勝訴、行政責任を問う3次訴訟は、国・県の責任部分について各地裁判所で判断が分かれる。
 また、前述の熊本県の認定作業遅れを違法状態と確認したり、遅延賠償を求める訴訟や、認定棄却の取り消し訴訟、チッソ幹部の刑事責任を問う裁判などもある。
水俣病認定制度は60年に発足。環境庁によると(92年現在)、認定者数は2942人。

■現在の……「水俣病センター相思社」ウェブサイトhttp://www.soshisha.org/

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行動派宣言! /第9条の会

■月刊『記録』94年7月号掲載記事

■憲法9条を拡げるため米国人が設立/第9条の会

①運動の目標
日本国憲法第9条に表現されている戦争放棄の崇高な理念が、取り入れられるように改正が行われること。

②発足の経緯
 91年オーバービー氏が設立した動機は、湾岸戦争において米国政府がとった軍事優先の解決方法が、ばく大な人命の犠牲と、重大な環境破壊をもたらしたことを憂慮、あらゆる国際紛争は第9条の精神に従い、非暴力的手段によって解決すべきであると痛感したことによる。

③運動の歴史
 91年12月、会はオハイオ州政府によって、非営利・平和・教育団体の法人として公式に認可された。
 92年1月、オーバービー氏は東京で開催された国際シンポジウム「アジア太平洋の平和・軍縮・共生のために」に参加のため来日し、この機会に名古屋、広島、東京、仙台において「21世紀以降のモデルとしての第9条」と題する講演を行った。
 92年8月、米国ピッツバーグで開催された「退役軍人平和の会」年次大会において、オーバービー氏の提案により「第9条の会」の趣旨に同意し支持することが決議された。
 93年11月、オーバービー氏は再来日して1か月余り滞在し、北海道から沖縄まで全国約20ヶ所の都市で「第9条は世界への日本の贈り物―非暴力紛争解決による世界平和を目指して」と題する講演会、市民集会を開催した。
 93年11月、「第9条の会」と「平和憲法(前文・第九条)を世界に拡げる会」との共同声明を発表、オーバービー氏、豊田利幸氏(名古屋大学名誉教授)、樋口陽一氏(東京大学教授)による「憲法9条の普遍的心理」と題する対談が行われた。内容は「軍縮問題資料」94年2月号・3月号に掲載された。

④今後の抱負
 人類の歴史における重要な変革期にあたり、21世紀の各国にとって有望な規範と考えられる類いのない立派な日本の平和憲法を、全世界がこれを見ならうように訴えていく。国内、国外からの憲法改悪の圧力に屈することなく、「平和憲法を世界に拡げる会」など、同じ目標をもって活動する草の根市民団体と協力し連帯して運動を進める。

⑤思い出深い出来事
 各地で行われた講演会の準備にあたって、多くの平和運動団体の間に横のつながりができた。ほとんどの講演会場で予想以上の出席者があり、講演後の質疑応答も熱心に行われた。また思ったより若い世代の出席者が集まった。
 93年12月、オーバービー氏は衆議院議員・國弘正雄氏のお取り計らいで、衆議院議長・土井たか子氏、同副議長・鯨岡兵輔氏と懇談することができた。

⑥工夫している点やユニークな方法論
 現在機関誌は発行していない。庄幸司郎氏のご好意によって「告知板」の誌面の一部を提供していただいている。

⑧運動を継続するためのポイント
 関心をもって集まる人は、戦争体験の世代が圧倒的に多い。若い世代の人々に、この運動を継承してもらうことが今後の重要課題であろう。

■■■ことばメモ
【日本国憲法第9条】
 1947年に施行された日本国憲法は、第2章第9条で「1項/日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「2項/前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と定めている。
 また第9章第96条には憲法改正の規定がある。条文によると「各議院(参議院と衆議院)の総議員の三分の二以上の賛成」によって発議された後、「特別の国民投票」を行うか、もしくは「国会の定める選挙の際行われる投票」を通じて、全投票の過半数を得なければならない。
 政府は1954年12月21日、「自衛のために必要な限度において持つ自衛力は戦力にあたらない」とし、自衛隊合憲論を展開した。以後、自由民主党憲法調査会が1982年に「9条2項を削除して,〈2章の2 自衛隊〉という新しい章名のもとに9条の2を新設するなどとした改正試案を発表するといった動きなどがあったが、改正が具体化したことはない。

■現在の「9条の会」団体ウェブサイト・http://www.a9s.org/

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行動派宣言! /富士見産婦人科病院被害者同盟

■月刊『記録』94年7月号掲載記事

■あれから14年-民事裁判は続く/富士見産婦人科病院被害者同盟

①運動の目標

 事件発覚と同時に被害者の把握と救済、事実を明らかにすることを目的に開始。国や県、医師会、学会などに働きかけ、二度とこのような事件が起こらないよう関係者の責任を問い続けてきた。
 刑事裁判は無資格者による医療の管理責任を問うことに終わり、障害罪告訴は不起訴になったので、病院の組織ぐるみの犯罪、医師の障害行為は民事裁判で問いたいと、14年経ったいまも、東京地裁で闘っている。

②発足の経緯

「おなかの中がわかるいい機械がある」といって超音波診断装置を宣伝に使い、無資格者が診断、手術を勧め、医師たちは不必要な手術(子宮・卵巣摘出)をしていた。この事実を、一患者として入院した人はほとんどみな、見ぬけなかった。
 不信を抱いた患者たちが集まって初めて被害が確認できた時、医療への信頼は裏切られ、崩れた。この時の怒りが出発点であり、「許せない、忘れない、繰り返すまい」が合い言葉である。

③運動の歴史

 同盟結成直後から「アンケートによる実態調査」を行い、カルテ類の証拠保全をして、被害の事実確認。三次にわたって刑事告訴。同様に三次にわたる民事提訴。6か月の閉鎖命令を受けた病院の再開に反対、市民大集会を開き、署名活動、陳情もする。4年後に病院は競売に付され廃業になる。現在は院長が別の所で小さなクリニックを開いている。
 運動は全国の薬害・医療被害者と結び、厚生省や県衛生部へ改善を求める行動に広がり、厚生省交渉の場では患者側からの発言を続けてきた。また、「女のからだと医療を考える会」の発足にも参加。子宮筋腫手術や出産・更年期などに関わる医療を、女の立場で問い直す試みが始まった。
 会員連絡紙は、6年目から「所沢発・なんじゃかんじゃ通信」と題号を変え、現在に至る。「かんじゃ」側から日本の医療が抱える問題を考え合いたいと、医療をめぐる疑問・発言・情報、体の相談コーナーも設けている。ぜひ、お便りをお寄せ下さい。

④今後の抱負

 なんといっても、原告67人が医師6人と理事長、病院、県、国を相手に闘っている裁判に勝つこと。そして、富士見病院の医療は、金もうけのための手術だったことをはっきりさせ、事件が患者主体の医療を確立することに少しでも生かされたらと願う。

⑤思い出深い出来事

 事件報道が盛んだった当初、カメラに追いかけられると、自分が悪いことをしたかのように、顔を隠したり返答を避けたりしないではいられなかった。だが、被害をみつめるなかで、自分は患者としての当然の権利を侵害されたのだという自覚が育った。
 私たちは被害者から自立した患者へと変わった。同時に周囲の女性たちも、自分のからだについて大きな声で話すようになっていった。いまや、インフォームド・コンセントは当たり前というところまで患者の意識は高まってきた。この変化は運動を続けてきたなかで、本当に大きいものとして実感できる。

⑥工夫している点やユニークな方法論

 富士見病院へ行ったという一点だけで知り合った被害者たちは、年齢も環境も考え方もバラバラ。同盟は200人ほどだが、被害を保健所に訴え出た人は1000人を超えた。民事裁判原告を核にして、市民、弁護士、わずかな医者が周囲を支えてきた。
 運動論も何もなく、偶然の出会いから、やむにやまれず関わり合い、その時々の道を探ってきた。不思議なことに、困った時に、頼りになる新たな支援者が現れたり、情勢が転換したりした。
 出会い。寄り合い。去る人。来る人。そんな人の潮に自然に乗ってきたのかもしれない。これからも、怒りを共有してくれる仲間が増え、広く医療への感心を育て合うことができたら、うれしい。そんな機会を待ちたい。

⑦運動の問題点

 裁判が長期化すると息が切れてくる。障害罪告訴が不起訴になったのは医者の裁量権という壁に突き当たったからだが、医療裁判では公平な判断をどこに求めるべきか。やはり良心的な医者の多数の参加がほしい。

⑧運動を継続するためのポイント

 あまり気ばらずに、その時々で一番大事なことを見極め、集中することが大切。納得のいくまで同じ件をむし返したり、ペースの遅い人に合わせる辛抱強さも必要。「木を見て森を見ず」という落とし穴に注意を払い、大きな目的を確認し合っていきたい。

■■■ことばメモ
【富士見産婦人科事件】
 80年9月、埼玉県所沢市にあった富士見産婦人科病院の北野早苗理事長が、無資格で超音波断層診断装置を操作して診断行為をしたとして、医師法違反の疑いで逮捕されたのをきっかけに、手術の必要のない正常な子宮や卵巣を摘出されたという元患者からの訴えが相次ぎ、大きな社会問題になった。
 被害者同盟は、理事長と北野千賀子院長らを傷害罪で告訴、県警は11月、院長ら5人の医師らを医師法違反ほう助と保健婦助産婦看護婦法違反の疑いで書類送検、理事長と院長が起訴されたが、傷害罪は「手術は医師の裁量の範囲内で、治療目的でなかったとするには証拠不十分」として83年不起訴に。
 88年、浦和地裁川越支部は両被告に有罪判決を言い渡した。89年、東京高裁は控訴を棄却、次いで90年、最高裁が上告を棄却したため、早苗被告の懲役1年6月・執行猶予4年、千賀子被告の懲役8月・執行猶予3年の刑が確定した。民事裁判は係争中。

■現在のウェブサイト・http://higaishadoumei.com/

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行動派宣言! /全国じん肺患者同盟長崎県連合会

■月刊『記録』94年7月号掲載記事

■「継続は力なり」を理念として/全国じん肺患者同盟長崎県連合会

①運動の目標

 ①労災保険法、じん肺法・労基法等の改悪阻止の運動の継続②労災保険遺族保証並びに葬祭料の不支給事件に対する是正を求める運動の強化③じん肺症は「全身性疾病である」との法的認知を早急に実現を求める運動の強化④じん肺有所見者(潜在患者)の救済活動の継続強化⑤じん肺の根絶と全被災者の救済を目指す「じん肺訴訟」の支援継続の運動強化⑥会員・准会員・ご遺族との相互扶助と親睦交流の拡大と、物故者の慰霊に関する事業の継続強化⑦同盟本部・友誼団体との運動の研修・親睦交流強化。
 発足時から昭和50年頃までは、もっぱら組織拡大に活動の主体がおかれたが、53年のじん肺法改正、翌年の労災保険法改正等に伴い、療養と保証への危機感が強まり、運動の実践強化が全体の意識として確立してきたといえよう。

②発足の経緯
 若干の推測も加わるが、昭和30年7月けい肺特別保護法(外傷性背髄障害者と抱き合せ)の制定、臨時措置法が33年5月に発足した。また、東京石工・土連総連の運動の継続と合せ、よろけ病撲滅の運動をはじめた。足尾銅山被災者と労働組合の運動が奏功し、35年に「じん肺法」が制定施行されるという歴史の流れと、全ての患者の団結と連帯した運動の体制作りこそ、重要との呼びかけに呼応したといえよう。

③運動の歴史
 基本方針を毎年度開催する「全国代表者大会」において協議し、当面した最重要運動事項をまとめ、労働者を中心に「療養と補償と医療福祉」に関連した各省庁に対し陳情交渉を行ってきた。
 昭和55~56年頃から「中央委員会」を構成し、各地方から選出された中央委員と、同盟本部役員の合議によって「当面する運動課題」をまとめ、労働者(中央労働基準局)を中心に運動を継続。
 長崎県連合会では、個別毎に発生した諸問題は、直ちに関係する行政窓口と対応した問題処理を行っている。

④今後の抱負
 基本理念は「継続は力なり」。法律と施行規則等、法と規則の運用に、不合理と矛盾が残されている現実に対し国会への対応と労働者への個別的問題発生と機敏性のある対応など、過去の運動をしっかりと総括し反省して、体制の再構築が必要である。

⑤思い出深い出来事
 じん肺の根絶と全被災者の救済を究極の目的とした、いわゆる長崎北松じん肺訴訟。日本初の石炭鉱山労働者のじん肺被災者が、被告企業の責任を追及する提訴を、昭和54年11月1日に行ったが、準備体制作りに、52年秋から奔走し、実現させた。
 労災保険法による遺族補償並びに不支給事件に対する、遺族からの要請に応じた不服審査請求を百数十件実施し、原処分の取消しを6件成功させた。
 労災保険による遺族補償並びに葬祭料不支給事件に対する、約百件の再審査請求を民主的有力弁護士と協力し合って実施し、原処分の取消しを4件成功させた。
 かつての親しき仲間であった会員で死去された、物故者の慰霊事業を県連合会の発足と同時にはじめて21回を終えたが、ご遺族の感謝の念はますます高まり、「運動とは形ではない、心から燃え立つものに尽きる」ことを教訓として学んだ。

⑥工夫している点やユニークな方法論
 世話活動に当たるすべての人々が療養患者であるので、県連本部役員のみでは体制が弱く、また行動効果にも低さは免れぬため、大きな世帯会員数を保持する支部長級(5人)を、県連本部役員に準じて、県連本部役員会(年6回)にも出席して頂くと共に、行動についても「各個の体調、地域条件」に従って協調行動を行い、問題処理の遅滞を防ぎ、幅広い助け合いできびしい患者運動を維持するために苦心している。

⑦運動の問題点
 ①直接携わるすべての人々は、同時に療養中の認定患者であるから、その時点における体調によって、行動に大変制約を受ける。
 ②世話活動に当たる患者の高齢化と病気の悪化は必然の傾向であり、後継者の育成で大変苦境に立っている。

⑧運動を継続するためのポイント
 ①犠牲的奉仕精神の強い後継者育成に努力を怠らぬこと②法律(療養と補償と医療福祉)に対する研修は怠らず、問題点の整理をしっかりと行い、先見性に立った説得力のある理論によって、陳情交渉を行い、成果を引出す工夫が必要③療養と補償の関係は、その根本が法と制度の運用にあり、国会審議にゆだねる度合いにあるので、一人でも多くの超党派の国会議員の理解と協力を得るための努力をいっそう強めること。

■■■ことばメモ
【じん肺】
 職業病の一つで,長期間にわたって吸入された多量の粉塵が肺に沈着した結果、肺に広く繊維増殖性変化(肺繊維症)を起こす病気。肺胞への空気の出入りが悪くなり息切れが起こる。病気が進むと,呼吸困難などの自覚症状が起こる。
 長崎じん肺訴訟は、85年の長崎地裁判決で、患者20人分の請求を時効を理由に退け、43人分について一人当たりの慰謝料を2300万円から1000万円の3ランクに算定。89年の福岡高裁判決は、患者30人分の請求を時効とし、一人当たりの慰謝料を1200万円から300万円の四ランクに算定した。じん肺は、症状が重くなるにしたがって管理区分2から管理区分4まで大まかに三段階の行政認定を受ける。
94年2月の最高裁判決で、可部恒雄裁判長は、最大の争点になっていた時効の起算点について、「患者にとって最も重い行政認定を受けたときから時効が進む」と患者側に緩やかな判断を示して、二審で逆転敗訴になった10人の患者について「時効は成立していない」と認めるとともに、33人については、二審の慰謝料額の算定を「低きに失する」とし、合わせて患者四十三人分の審理を福岡高裁に差し戻した。残る患者22人分については、最高裁の判断でも時効が成立するとして、原告側の上告を棄却した。(■つづく)

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