保健室の片隅で/池内直美

保健室の片隅で・池内直美/最終回 親と子の愛情

■月刊「記録」2000年9月号掲載記事

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 最近の事件で目立ったのは、母親が子どもを殺害する、もしくは、殺害しようとした、というものだ。
 どんな事情があったにせよ、自分のお腹を痛めて産んだ子どもを殺害するというのは理解しがたい。しかも、子供に保険金をかけ、その保険金を目当てにしていたという人もいるのだから、ものすごい話だと思う。
 しかし、子どもの家庭内暴力に耐えかねて、という事件になると、ちょっと事情が違う。どうにも明日はわが身、のような気がしてならない。他人ごとという感覚を持つことができない。
 家庭内暴力は、男の子を持つ家庭だけの問題ではない。力の差はあるにせよ女の子でも条件がそろえば引き起こす。背景になる事柄には男女では、多少違いがあるけれど、「女の子の家庭だからうちは安心」ということはないのである。

■複雑だった家庭の事情

 先日、母親が中学生の女の子を殺し、自分は自殺するという事件が起こった。女の子が一人暮らしをしていたということ、家庭内暴力が起こっていたということ、10代の少女の一人暮らしには、「なぜ?」とも思うが、こんな状況にある家族は、この一家だけではないだろう。
 娘を一人置いて、父と母がもう一人の子どもだけを連れて家を出る。ふつうに考えれば不思議な行動だけれど、そんな家庭もあるのだろう。親たちは、自分がいないことで荒れる子どもの気持ちがおさまるならと考えたのかもしれない。
 親の顔を見て娘が毎日、いら立つなら、少しの間だけ離れていよう。気持ちが落ち着いたら、また一緒に暮らしていこう。そんな思いで、後ろ髪を引かれて家を出ていく家族があったとしても、他人が簡単にそれを否定することなどできはしない。
 家庭の事情は、それぞれ複雑であり、一般論で簡単に割り切ってしまいきれない場合が多いからだ。
 この事件の例ほど複雑ではなくとも、親と子が、互いにわかり合えずに、悩んだり苦しんでいる家庭は多いだろう。どんな家庭でも、親と子がわかり合えなくなって、悩む時期はあるものだ。
 子どもというものはわがままで、親が自分のすべてを受け入れてくれると信じている。多くの親も、子どものことをできるかぎりの力で受け入れようとしているはずだ。けれど、わがままは受け入れられないし、それは子ども自身にもわかっている。
 わかっていながら、思春期などには、子どもは自分の気持ちでいっぱいになってしまい、むやみに自己主張をしてしまう。こういうときに、親子の気持ちのすれ違いが起こってしまうのだろう。
 子どもも、わがままな自己主張の後では、たいがいは自分が取った行動に対して人一倍の後悔をしているものだ。けれど、いざ親を目の前にすると、やっぱり素直になれなくなってしまう。そうして、結局、同じ行動を繰り返す。自分のことを振り返ってみても、よくあるパターンである。

■自分で一杯にならないように

 私は数年前から、不登校の親子が集まる会などで、相談を受けるたび、ある言葉をよく口にする。
 それは「人から愛されていることに、自信を持って生きていこうよ」というものだ。
 親から愛されていること、子どもから愛されていること、その他自分の周りにいるすべての人に愛されていることを自信を持って信じてみようよ、と伝えることにしている。
 親子や学校内での人間関係に悩んでいる人は、よく「気にしてもらえない」とか、「甘えさせてもらえない」とか、「自分のいうことを聞いてもらえない」と口にする。
 いや、ふつうに暮らしている私たちだって、何かの不満を持っているとき、その原因を考えてみると、たいがいこうした言葉が浮かんでくるものだ。要するに、みんな愛してほしいのだ。
 愛していることの表現をうまくできない人はとても多い。親が子どもを愛することは、かなり当たり前のことなのかもしれないけれど、ときにはうまく相手に伝えられなかったりする。
 子どものほうも、当たり前だとわかっていても、声に出して伝えてほしくて、目に見える形で表現してほしいと思ってしまう。
 親子のように、愛する対象がとても近くにいると、たがいに近づきすぎて、相手の顔は見えるのに、全身を視界に入れることができなくなってしまう。相手の立っている地面が、土なのか、コンクリートなのか、芝生なのか、水の中なのかが、わからなくなってしまうのだ。そうして互いに空回りしていくのだろう。
 親子にかぎらず、そんな悩みは、誰にでもある。
 そんなとき、つい自分一人が一番苦しいような気持ちになってしまうけれど、少し目を開けば、同じような悩みを抱えている人はすごく多い。それに気づいてほしくて、自分で一杯になっていることに気づいてほしくて、「人から愛されていることに、自信を持って生きていこうよ」と、伝えることにしている。 (■了)

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保健室の片隅で・池内直美/第25回 新しい生活の中で

■月刊「記録」2000年8月号掲載記事

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 つい先日のこと、半年暮らした東京から千葉に引っ越した。そこに暮らした毎日を記憶ごと消してしまいたいと思ってのことだった。
 原因は、夫婦仲が悪くなっていたこと。こんなふうに書くと、「なんだ夫婦げんかか」と思われるかもしれないが、それは私にとって、「夫婦げんか」という一言で表せるような感じのものではなかった。
 私はこのところ、ずっといら立っていた。最初、いら立ちの原因が何であるのか、自分でもわからなかった。けれどあとから思えば、それは、嫌なことを「嫌だ」と気づくことのできない自分の性格だった。
 私は、夫婦生活という共同生活の場で、気づかぬうちに、いつも相手の顔色をうかがい、いうままになって行動していた。
 私の生活は、自分を押し殺した毎日の連続になっていた。
 夫婦といってもしょせんは他人だ。ともに暮らすには「協調性」も大切だ、とはよくいわれているけれど、それは互いに自分の考えをもったうえで、認めあったり助け合ったり譲り合ったりすることであるはずだ。けれども私には、協調するための自分自身さえもなかったのだった。
 私はもともと、誰といても行動を相手に合わせてしまうタイプの人間だ。だから、そのこと自体が苦しいと思うことは今まではあまりなかった。けれど家から外に出ていって少しの時間だけ相手に行動を合わせているのと、生活の場で相手にすべて合わせているのとでは、おそらくストレスの度合いが違ったのだろう。
 私は、数ヶ月前から、毎日の生活が何か苦しいと感じ始めていた。けれど自分が何にいら立ち、何が「嫌」なことであるのかが見えずに苦しんでいた。そんな私と夫の間には、毎日のようにけんかが絶えなかったが、いくらいい争ってみても、何一つ結論は見えてこなかった。ただ二人の間にイライラだけが積み重なっていった。
 そして、私は自分のいら立ちの解決策を探ろうと、とうとう病院にカウンセリングの予約を入れにいった。けれど、自分でも整理のつかない物事の原因を、他人に話すだけで解決できるものだとも思えなくなり、直前になって結局やめてしまった。話を聞いてもらうだけで楽になる場合もあるだろうけれど、私の場合には結論は見えてこないと、なぜだかそのとき私にはわかった。
 そして、今すぐなんとかしたいという思いと、今日一日生活するのも苦しいという焦りにも似た気持ちのなかで、私はただいつまでも消えない不安を握りしめて悶々としていたのだった。

■自分のことは気づきにくくて

 そんなとき、一冊の本を手にした。カウンセリング講座のためのテキストだった。病院でのカウンセリングの予約はキャンセルしてしまったが、やはり私は自分で答えを見つけたくてあがいていたのだろう。だからそんな本に目が向いたのだろうと、振り返ってみて思う。
 テキストに書かれていた方法は、自分で自分をカウンセリングする方法だった。紙に思いつくままに、今の気持ちをどんどん書き連ねていく。ただ、そこには相手がいないので、気張らずに本心を書くことができる。
 私は自分のいら立ちの原因を思いつくかぎり集めて書き連ねていった。最初のうちは、自分でも自分がかわいくて、物事を正当化するような書き方しかできなかったけれど、だんだん書きつづけるうちに、内容が変わっていくのがわかった。
 私は、どうして相手の顔色をうかがってしまうのだろう。
 これは、よく旦那からもいわれていることだった。でも別に、誰の顔色でもうかがっているというわけではない。私を好いてくれる人にだけ行ってしまう行為だ。
 私は、相手のなかにある「かわいい私」をなんとか想像しようとし、相手の中にある「私」という像をなんとか見つけ出そうとする。その像を壊さないようにし、好きでいつづけてもらうために、私は相手のちょっとした反応にも気をつかい、期待にこたえようと努力してしまう。
 相手の期待にこたえなければいけない。相手のなかにある「私」を壊すことは、相手を傷つけることのような気がする。そうして自分で自分にかけたプレッシャーの大きさに、私はいきづまってしまっていたのだった。
 また、近所に住む姑や多くの親戚たちのなかにある自分も壊したくなかった。新生活とともに接するようになったたくさんの人たちのなかにある「私」を壊さぬように気づかい、私自身が壊れそうになっていたのだった。 だから自分を取り戻すために引っ越しをした。それだけのことを発見するために、夫ともけんかを繰り返して、ずいぶん遠回りをしてしまった。
 人は自分のことは、なかなかわからないと改めて感じた。けれど、自分でもわかっている私の長所は回復力だ。新しい気持ちで生活を築いていこうと思う。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第24回 家族として信じること

■月刊「記録」2000年6月号掲載記事

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 2000年3月、通信制高校の卒業が決まったと知った時に私の頭に浮かんだのは、「ホッとした」という一言だった。私の学校生活は、時間と、そして自分自身との戦いだったように思う。いつ辞めてもおかしくなかった。
 高校の4年間は、短かったような長かったような、とにかくがむしゃらに走ってきた毎日だった。
 学校に行かなくなってしまったり高校を中退したり、自分の方向をなかなか見つけられなかった私にとって、一つのことをやり遂げた経験はとても大きな出来事だった。
 中途半端なことをしてきたつもりはなかった。自分の生き方を見つけるまでに、何度もやり直しをしてきただけのつもりだが、それも単に自分の歩き方を否定したくないだけのいいわけなのかもしれない。
 通信制高校に入り、自宅で、自分一人で学習をしなければならなかった間に身についたやり遂げる力は、今もいろんなところに影響しているけれど、それは私が一人でがんばってきた成果ではなくて、いろんな人に支えられてきた結果だった。
 学校へ入ったばかりの頃の私は、学校というところが嫌いで、家族や自分の周りにいる人が嫌いで、自分自身もふくめて、世の中に生きている人すべてが嫌いだった。
 心の片隅で、「これじゃいけない、ちゃんと生きていかないと。人として、自分や周りに負けない人生を送らないと」そう思いながらも、自分の殻の中から抜け出せない苦しさから、なかなか逃れられなかった。
 どうすることもできなくて、どうしていいのかわからなくて、ただ不安な日々を1年くらい過ごした。そしてそこから脱け出すきっかけになったのが、振り返れば大検(大学入学資格検定)だったような気がする。
 大検に受かった時に味わった、一つのことを乗り越えたという満足感。結果そのものよりもなによりも、自分だって目標に向かって歩けるんだという自信が、私を勇気づけてくれた。
 それからの私は、本を書いたり、『記録』に原稿を書かせてもらったりして、自分の名前と言葉で、自分の考えを話せるようになった。けれど、ずっと心の奥で疑問に思っていたこともあった。それは「本当に、私は昔の自分から卒業することができたのか?」ということだった。
 講演会や不登校の親の会などに出席させてもらい、壇の上で話をしていると、自分の口から出ているのは、「私はあんなことが嫌だった、こんなことが嫌だった、もっとこうしてもらいたかった」という話ばかりであることに気がついた。
 わがままな願望のオンパレードで、「こんなことがうれしかった、こんな言葉をもらえてうれしかった」という言葉が出ていない。それどころか、うれしかった時のことを思い浮かべてみようとさえしていない自分に気づく。
 嫌な記憶しか話せないのが私なのか?
 こんな嫌な記憶ばかりを吐き出しているのが私なのか?
 私は本当に昔の自分から抜け出し、変わることができたのか?
 自分でも不安になった。本当は何も変わっていなくて、ただ強がって大きな声で話しているだけで、変わったと思い込みたいだけなのかもしれないと思った。

■立ち直ることもできるのだ

 2000年1月、不登校の親の会が開かれた。子どもの心理を知りたいからという理由で、現在不登校をしている何人かの子たちと一緒に、私は会場に招かれた。そしていろいろな質問を受けていて気がついた。
 当時、親に何をいわれて嫌だったのか、不登校の子にとって学校とはどんな存在なのか、何に対してどんな不満があり、周りにはどんなことをしてもらえるとうれしかったかなど、いろいろな質問をされて応対しているなかで、私は、自分が当時の気持ちを、もうリアルに思い描くことはできなくなっていることに気づいた。
 親が嫌いだったことは覚えている。けれど、今は感謝している。学校に対しても、勉強に対しても、自分自身に対しても、何もかも嫌いだったことは覚えているが、もう、その気持ちをありありと思い浮かべて話すことはできない。
 不登校をしていた頃は思い出せなかった家族旅行のことも、結婚をして学校を卒業した今なら、楽しかった思い出として心に浮かぶ。
 そんな自分に気づいて、やっと私は、昔の自分から本当に卒業できているのかもしれないと思うことができた。
 ここ最近、世間を騒がしている事件のなかには、犯人は自宅に引きこもりがちだったり、不登校の経験があったことなどが、それが原因の一因でもあるといわんばかりに報道されている。今現在、不登校や引きこもりの家族を持つ家の人たちは、とても不安に思っていることだろう。
 でも、引きこもりの子や不登校の子を信じてあげてほしい。彼らだって苦しんでいて、普通の人間であることを信じてあげてほしい。
 家族の愛情は、うまく伝わらないときも多くて、受け取る側の感じ方によっては、曲げられて感じ取られてしまうこともあるだろう。けれど、いつかはそれもまっすぐに伝わる日が来ることを家族は信じてあげてほしい。 私はうまく立ち直ることができた珍しい例だといわれている。実際に今も、引きこもりから抜け出せないで、社会との生活を絶っている人が大勢いることもよく知っている。引きこもりの期間が昔に比べてだんだん長くなっていることも、その人数が増えていることもわかっている。
 引きこもりの年齢は次第に高くなり、学校や学級崩壊を起こす年齢は低くなってきている。自分の子だって、いつそうなってもおかしくない時代だ。
 けれど、どんな育児書を読んだって、しつけの仕方について話を聞いたって、それはただのマニュアルにすぎない。
 どんな報道も事件を起こしてしまったその人の話にすぎない。自分の家族は一人しかいないのだから、マニュアルや興味本位の報道に振り回されるよりも、信じて接していくことのほうが大切だと思う。
 講演会場に来る親御さんの表情を見ていると、悩んでいるのかあきらめているのかわからないような顔に出会うことがよくある。
 新潟の監禁事件も京都の小学生殺害事件も自分の息子が犯人かもしれないと思った時、どうして親は子どもと話ができなかったのか。なぜ警察に助けを求められなかったのだろうか。自分の子どもがそんなに恐ろしかったのだろうか。犯罪を犯しているかもしれない真実を確かめることもできないほど、つながりを断っていたのだろうか。
 この二つの事件は、たまたま事件として表沙汰になったものだけれど、世の中にはきっと、子どもと話ができない親、信じることができずにあきらめてしまっている親がたくさんいるのだろうと思う。
 犯した罪をつぐない終わった時、この事件の二人は、立ち直ることはできないかもしれないと感じてしまう。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第23回 甘やかすことだけが愛情じゃない

■月刊「記録」2000年2月号掲載記事

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■いろいろな事件が頻発して

 平成11年に2歳の女の子が近所に住む主婦に殺されるという事件が起きた。
 その背景にあったモノは、いまだに明らかにはされていないけれど、「母親」という部分に焦点を合わせてみると、多くの人に共感と興味を与える事件だったようだ。
 お受験や公園デビューといったマスコミから生まれた言葉は、すみやかに世間に浸透して、そこに入っていかなければならない母親たちに不安の種を植えつけている。
 グループができれば、必ずなかにはリーダーになる人がいて、自然にその人を中心としてみんなが行動をとるようになっていく。そんな場所に入ってしまうと「仲良くしなければならない」という気持ちにとらわれて苦しむようになるのだろう。
 子どものイジメの場合もそれに似た部分があると思うが、年齢の違いや近所同士のつきあい、父母会でのつきあいなどいろいろな関係がからんでくる大人同士のつき合いのほうが、よほど難しいのかもしれない。
 そんななかでは、やはり人間同士のつきあいだから、合う人と合わない人というものも出てくるのだろう。グループの中にどっぷり浸かって周囲が見えなくなると、みんなの輪から落ちこぼれてしまったら生きていけなくなる、という不安感が強くなるのだろう。こういう現象は、おそらく若いお母さんたちに特有の現象というわけではなく、子どもたちの間でも、サラリーマンの間でも、形を変えて起こることなのだろうと思う。
 無理をしてまで小さなグループにしがみつき続けなくても、そこから外れてしまっても生きてはいけるのだろうに、視野がせまくなってしまっていると気づけなくなくなる。
 それにしても、誰とでも仲がいいと思われなければならないのだろうか。仲良くしなければならないのだろうか。それが今の時代なのだろうか?

■見て見ぬふりの大人達

 私自身には、子どもがいるわけではないから、公園デビューのことなどは話を聞いても、そんな親もいるんだなあとしか思わないが、話によれば、自分の子どもが友達を突き飛ばしても怒らない親や、小さい子どもを感情的になって叱りつける親など、本当にいろいろな親がいると聞いた。
 また、私が街で見かけた母親のなかにはこんな人もいた。
 あるろう学校の文化祭に行った帰りのこと、その学校の生徒と思われる小学生の集団と親を見かけた。
 はじめのうちは、ずいぶん元気のいい子どもたちだなぁと思って見ていたが、一緒に電車に乗るに至って、ただ見ているだけではいられない状態になった。
 子どもたちは、水風船(祭りなどで見かけるヨーヨー)を持っていたのだが、それを電車の吊革にぶら下げては落とし、上手にキャッチするという遊びを始めた。
 ただ遊んでいるだけでも、電車のなかで立ったり座ったりと迷惑なのに、持っているものが水風船である。もしも落として割れたら水びたしになるではないか。
 見ているほうは、「もしも割れたら・・・・」と思うと気が気ではない。けれど、近くにいる親は、それを見ながらおしゃべりしている。何もいおうとしない。
 子どもは、その遊びがおもしろいのか、割れたらどうなるかを想像できないのか、いつまでも遊びをやめようとはしない。遊びはだんだんみんなに広がり、エスカレートするばかりだった。
 周囲の乗客は、それに気づいていないのか、見て見ぬふりをしているのか、誰も注意をしようとはしなかった。まあ、私自身もその一人だったわけだから偉そうなことはいえないが、子どもを叩いたら虐待になってしまう時代なのだから、そんな光景が見られても仕方がないのかもしれない。

■甘やかすことと愛情とは別

 学級崩壊について、原因は学校や教師にあるという親もいるけれど、親のほうにまったく責任がないのかどうかも考える必要があると思う。
 なぜなら親にまったく怒られたことのない子どもが先生に怒られれば、「なんで怒られるのだろう」と疑問を持つこともあるだろうし、親が怒らないことを教師が怒っても子どもはなかなか納得できないだろう。また教師に怒られたことを子どもが帰宅して報告したら、親が怒って学校に苦情をいいにいくような状態では、子どもが教師をばかにしてしまっても当然だろう。
 そしてマスコミの影響力も見逃せない。「学級崩壊」という言葉もマスコミから出て広がっていった言葉の一つである。
 そこで「学級崩壊」という言葉が一番最初に使われるようになった学級は、いったいどんな学級だったかを思い出してみた。
 私がはじめて「学級崩壊」という言葉を聞いたのは、たしかテレビのドキュメント番組のなかであったように思う。たしか小学一年生のクラスだった。はじめて親元を長い時間離れてすごす学校のなかで、きちんと席に着いていることができない子どもたちの様子がテレビには映し出されていた。
 なにかというと教室を飛び出してしまい、それを追いかけていく先生が映っていて、それを見ている他の生徒が、自分も教室を飛び出せば、先生に相手をしてもらえるのかもしれないと、また教室を飛び出してしまう。そんな内容だった。
 その行動は、子どもたちの「先生にかまってほしい」という気持ちから発していたようだった。そして同じような行動を取る生徒がいるクラスを指して「学級崩壊」といい始めた。マスコミが大々的に「学級崩壊」を取り上げるようになり、全国の子どもの間にこの現象が急速に広がっていったのだった。
 私のいたクラスは、どれも学級崩壊のような状況になったことはなかったし、私自身も子どもの頃に授業中に騒いだような記憶もないので、どうして学級崩壊が起こってしまうのか正確なところはわからない。ただ、文京区の殺人事件の報道を見ていて、どこかでつながっているような印象を受けたのは私だけだろうか?
 この事件が起きた時、理由についていろいろな報道がされたけれど、その一つに母親の関心が子どもに集中しすぎて、子育てに埋没してしまっているというものがあった。
 子どもと自分の境界があいまいになってしまっているので、子どもが悪いことをしても叱ることができない。子どもが泣けばあたふたしてしまう。
 かと思えば、子育てが生活のすべてになってしまっていて、子どもの成績が悪いと感情的になって怒ったり、母親自身が落ち込んでしまったりする。そういうことが起こっているらしい。
 また、共働きの家庭が多くて、日頃は働いていてあまり子どもの相手をすることができない親が、そのぶん、つい甘やかしてしまうという話も聞く。甘やかすことと愛情とは別だということに気づくのは難しいのだろうか。

■犯人を憎むだけではなく

「キレる少年」という言葉も、もう昔のことになってしまったように感じる。けれど現実には少年犯罪は今も続いている。
 つい先日も一人の青年が小学生を刺殺するという事件が起きた(てるくはのる事件)。これも若い人の弱い者をねらった悪質な事件だった。
 彼は学校にうらみをもっていたという。それなのに、なぜなんの罪もない小学生をねらわなければならなかったのか。まるでこれでは弱い者を踏み台にしたうさ晴らしではないか。どうして子どもを刺すという行動に出る前に、ちょっと踏みとどまることができなかったのか。疑問をあげればきりはない。
 この何年か、弱い者を狙った事件や悪質な少年犯罪が続いている。あまりに理不尽な事件の数々に、ニュースを聞くたび犯人への強い怒りを感じるのは私だけではないだろう。けれどこのところ、犯人を憎み、責任の追及をするだけでなく、他のことにも目を向けてみる必要があるのではないかと思う。
 もしも私に子どもがいたら、こういう犯罪をニュースで知った時、やはり真っ先に「自分の子どもでなくてよかった」と思ってしまうような気がする。被害者が自分の子どもでなくてよかった。近所で起こった事件でなくてよかったなどと思うのは、当たり前の反応かもしれない。
 けれど、そう思ってすませてしまうことで、人の心がすさんでいくように思う。
 無差別犯罪の標的が自分でなかったことを安どの気持ちだけで受け止めたくない。その周りになにがあったのか、犯人は本当に凶悪な人間なのか、私たちとは異なる種類の人間だったのか、何が犯人をそこまで走らせたのか、それらのことにこそ関心を払っていたいと思う。

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保健室の片隅で・池内直美/第22回 先生と結婚して変化したこと

■月刊「記録」2000年1月号掲載記事

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 通信制高校に入って、三年半が過ぎ、もうすぐ卒業という11月のはじめに、ある学校の教師と学生結婚した。 夏に知り合ってからたった三ヶ月のスピード結婚、しかも当時、学生であった私にとっては、この結婚はいろいろな意味での影響を与えてくれた。

■このクラスがこんなにまとまるとは

 知り合ったばかりの頃は、結婚する気持ちなどまるでなくて、高校を卒業したら進学するつもりでいた。そのことだけをとってみても彼は私の人生を大きく変える存在になってしまった。
 さらに相手の職業が学校の先生だったので、いつも先生に迷惑をかけては喜んでいたはずの私が、いつの間にか教師の側に立ったものの見方をするようにさえなっていた。
 これは自分でも驚くべきことだった。先生に迷惑をかけないように行動しようとまで、思うようになったのだから(!)
 結婚したばかりのダンナサマをおいて、高校生活最後の修学旅行に参加したときも、それまでだったら夜中にホテルを抜け出して遊びにいくグループの先頭に立っていたはずの私が、きちんと大人しくしていた。
 自分でいうのもなんだが少しさびしいような、少し大人になったような複雑な気持ちだった。
 それはさておき、年間を通しても十数回しか会わない仲間との二泊三日の京都旅行を楽しめたのは本当によかったと思う。
 考えてみれば、毎日会ったと仮定しても二ヶ月も一緒にいたことがない仲間だ。
 友達になれただけでもすごいと思うのに、クラスの団結力というのが予想を超えていたことのすばらしさ。ケンカもなくもめごとの一つもなく、当たり前のようにいつでも集まって一つの集団になって行動していた。
 学級崩壊が騒がれているなかで、年齢もまちまちのしかもめったに集まることもないメンバーばかりが、これだけクラスとしてまとまりをもつことができた。その私たちをまとめきった担任の教師の力もまたすごいものだと改めて思った。
 なにせ、それぞれが一度は担任とぶつかり本気でケンカをしたことがある者ばかりなのだ。自分の意志を通すため、または生徒対先生という形で。社会人としての良識ある行動がとれなくて叱られてケンカをしたこともある。とにかく一筋縄ではいかない頑固な面々がそろっているのだ。
 あえて全日制の高校を選ばず通信制という道を選んできた者ばかりなのだから。

■「通信制高校卒業」だからこそ嬉しい

 私たちは、京都にいる間中、夜中までそれぞれの夢を語り合った。
 夜中まで集まっている私たちに、担任の先生はいった。「君たちは、大切な忘れ物をしてきたんだ」と。それは「高校卒業」という大切な、そして大きな忘れ物だった。
 私も一度はあきらめたことがある。高校卒業の資格はなくてもいいと思った。けれど自分のために、自分の未来のために、もう一度その資格を取りに通信制学校へ進学した。
 並たいていなことでは通信制高校は卒業できない。四年間もの時間をわずかな通学日以外は自宅で、たった一人で勉強し続けるのは難しいことだ。
 その学校を、なんとか卒業しようとしている自分を、当時の私は誇りに思った。この「通信制高校卒業」という肩書きを手に入れることができる自分を、「高校卒業」する自分より、はるかに誇りに思った。
 そして同時にこの学校で出会い、一緒に学んでこられたメンバーのことも誇りに思っていた。やめようと思う気持ちが出るたびにお互いに励まし合い、社会人と学生生活とを両立させ、ときにクラスメイトとして、ときにライバルとして歩いてきた。
 還暦を目前にしながら介護福祉士の資格を取りたいと頑張る同級生のおじさん。彼は理容室を経営するかたわら、毎年何十万円もかけて、家庭教師までつけてここまでやってきた人だ。
 なぜ介護福祉士になりたいのかをたずねてみると、特別養護老人ホームに髪を切りにいったあとで、せめて入浴の手伝いだけでもやりたいのだという。髪を切りにいくたびに、同じ人から同じ話を何度も聞かされて、その話につきあい続けて二年が過ぎたという。
 痴呆が始まっているお年寄りの髪を切るのは決してラクなことではないだろうに。それでも、おじさんはもっと彼らの手伝いをしたいのだという。

■「ありがとう」のためじゃなく・・・・

 介護福祉士をめざしているのは、なにもこの人だけではない。私と同じ歳の男の子もこの仕事につきたいと思っている。
 今の若い人は、「ありがとう」と人からいわれる仕事をめざすといわれているが、ありがとうといわれたいためだけに、その仕事をめざしているわけではない。
 自分が生きているということは、自分と同じ血を引く人がいるということ。そのなかには、自分より先に死を迎える人もいる。おじいちゃんおばあちゃん、そのまたおじいちゃんやおばあちゃん、あるいは親だったり兄弟だったりする。
 生きていくために苦しむばかりの若い世代には、死を間近にひかえた「老い」の世界はわからない。それでも人生の最後のひとときを生きようとがんばる人のそばにいて、その人の人生のために何かをしたいと思う。それは自分の人生のためでもあるのだそうだ。

■年齢差のあるクラスで学べて

 大学に行きたい人、あるいはそれが専門学校だったりもするが、進学しようとしている人は多い。ただし通信制高校の人たちは「高校を出たから」進学するのではない。「やりたい仕事がある」から、進学する人が多いのだ。
 私と一緒に学んでいる人のなかには、高校へ行きたくても行けなかった人が何人もいる。時代がそういう時代だったのだ。
 もちろん当時でも進学した人はいる。しかしそれ以上に進学できなかった人がいる。「金の卵」といわれて就職し、戦後の時代を生き抜いてきた多くの人々が、今もう一度勉強をしたいといって高校へ来ている。
 そしてさらに高校を卒業してから進学しようというのだから、その情熱のただならなさに感心させられる。
 会社では、パソコンも扱えないおじさんとからかわれたり、マスコミには女子高生の援助交際の相手としてみられたり、家庭では肩身のせまくなった父親などといわれるおじさんたちが、学校のなかでは一人の学生として、本当の青春を感じながら人生に大きな夢を見ている。 同時に若い年齢のクラスメイトにとっては、社会でのいろいろなルールを教えてくれる年輩だ。
 たとえば、授業中に机の上に携帯電話を出しておいたり、ジュースのペットボトルを平気で置いておく人がいる。ちょうど映画などに出てくるアメリカのハイスクールなどで目にするような光景だ。
 若い年代の私たちは、最初、これが悪いことだとはわからなかった。いつもやっていることだから、みんながやっていることだからと感覚がマヒしてしまっていた。先生にいくら注意されても、聞きわけのない悪ガキ集団である私たちには、反発心もあってなかなか直すことができなかった。
 けれどそれが社会の常識として、大変失礼なことだと教えてくれたのは、クラスメイトであり先輩である年上の仲間たちだった。何が当たり前なのかが一人一人違うといわれる時代に、けれども最低限のルールがあることを教えてくれたのは、彼らであったような気がする。
 自分の親より年上の相手に何を話せばいいのかもわからず、はじめて会った時には正直なところ敬遠する気持ちが強かった。けれどやがて、わずかな時間とはいえ同じ教室で机を並べ、同じ思いを持つことができた時間が貴重だったと思うようになっていった。
 そしてそれは、たぶん私たち「生徒」だけではないだろう。自分よりも年上の「教え子」は、教師たちにとっても良い見本となっているに違いない。

■「先生」は想像以上に難しい仕事

「生徒がいるから俺の立場は成り立っているんだ」と、担任の先生は口ぐせのようにいっていた。
「先生」だって私たちと同じただの人間だ。ましてや生徒とそう年齢も違わない若い「先生」や、私たちのクラスのように生徒よりも年下の「先生」だと、どうしても一人の力だけではやっていけない。生徒の前で「先生」が「先生」であるためには、生徒の協力が絶対必要になる。生徒が協力して先生を盛り上げついていく。そういう気持ちをクラス全体が持つことが大切になるのだろう。
 先生になりたいという人は多いけれど、今、生徒に心から「先生」と思われている人はどれくらいいるのだろう? 同時に自分のクラスに情熱を注ぎ、生徒に関心を持って接している先生がどれくらいいるのだろう? そして学校や教室に行くことに不安を抱きながら登校している生徒がどれくらいいるのだろう? 「先生」とはきっと、先生になりたいと思っている人たちが思っている以上に大変な職業だと思う。
 いま、ともに人生を歩み始めた教師であるダンナサマには、生徒を大事に思い、生徒から愛され、周りにいる多くの人たちに支えてもらえる本当の「先生」と思われる教師になってもらいたいと願っている。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第21回 ろうあ者のためのフリースクール

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■ろう者のためのフリースクール
 フリースクールは、場所さえあれば作ることができる。
「フリースクール龍の子学園」は、月に一度しか開かれないフリースクール。それも、毎回同じ場所で開かれているのではなく、毎月第四土曜日に空いている場所を借りて開かれている。ろう者のための、ろう者が作ったフリースクールだ。
 このスクールを知ったのは、いつも私が行っているフリースクールに、ろうの人たちが「フリースクールを作りたいのだが」と相談に来たのがきっかけだった。
 フリースクールを作るのには、何か資格がいるのではないかとか、教職免許が必要なのではないかという心配をしてのことだったらしい。
 しかし、フリースクールにはそういった条件は必要なく、場所さえあれば作ることができる。そして九九年四月、ろう者のためのフリースクールが誕生した。
 フリースクールとはいっても、そこに参加する子どもはみんな学校へ行っている子ばかりで、いわゆるフリースクールにみられる「学校の代わり」というイメージはなかった。
 私がよく行くフリースクールも、他のフリースクールとはちょっと違っていて、子どもたちのパワーが感じられるところである。自分たちのやりたいことを自分たちの作ったルールのなかでやっていく。そんな独特の魅力のあるところなのだが、龍の子学園の子ども達の笑顔からも同じような空気を感じ取ることができた。
 龍の子学園へ見学に行く前に、ろう学校ものぞかせてもらったのだが、自分自身のろう学校に対する思い込みや勘違いを多く発見した。

■キュードサインとは

 ろう学校は、手話で授業を行うものだと思っていたが、実際のところ手話で授業を行う学校はあまりない。授業ではむしろ口話のほうが多く、「キュードサイン」と呼ばれる方法や指文字なども用いられている。
 ちなみに口話というのは、自分で声を出して言葉を発したり、相手の口の動きを読み取る方法であり、「キュードサイン」というのは、口で母音を表し、子音の部分はサインを使って表す方法だ。
 たとえば、「たまご」と「タバコ」。これらを口の動きだけから読み取ろうとしても、その動きは同じに見えてしまう。そこでTaMaGoのTとMとGのところは、頬やあごを触るなどして音を表すのだ。
 指文字は、指だけで五〇音を表す点が、手話とはまた違う。
 口話訓練は、特殊学校の授業の一つである養護訓練の時間などに行われ、人が話しているときの口の動きを読み取る方法や声を出す方法が訓練されている。
 ろう者の言葉は手話だけかと思っていたが、残聴能力を使ってこういった訓練も行われていることがわかった。
 また、学校によって授業で使われる言語は異なっており、キュードサインで授業を行う学校もあれば、口話しか使わないところもある。また、キュードサイン自体も学校によって微妙にサインの仕方が異なり、通じない場合もあるそうだ。
 では、なぜキュードサインを使うのか。
 ろうあ教育については、人によってさまざまな意見があるようで、私が聞いているとどれも正しく聞こえてしまう。けれど、どうやらキュードサインのいい点は、一つ一つの名詞をきちんと覚えられるところにあるようだ。
 たとえば、ハサミを手話でどう伝えるのかを想像してみるとよくわかる。何かを切る動作をすることで、ハサミという「物」を相手に伝えることはできるだろう。
 しかし手話では、ハサミという「物」が、「ハサミ」という名前であることまでは伝えられない。意味や気持ちを伝えるには適しているが、手話は、物の名前を伝えるには不適切である。
 そしてもし、それを筆談で伝えようとしたら、「ハサミ」という名称を知っていなければ相手には伝わらない。そう考えると、たまごとタバコの例も含めて、きちんとした名称を伝えるためには、キュードサインは便利なものかもしれない。

■ニュアンスまでを伝えられるか

 私は耳が聞こえるから、抽象的な言葉をいわれたり表現されたりしても、なんとなく理解して、使い、伝えることができる。けれど、もし耳が聞こえなくなれば、感情の部分にどうしても伝えきれないことやわかり合えない部分が出てきてしまうだろう。
 たとえば「おなかが痛い」と手話で表現されたら、「痛い」ということはわかってあげられる。もう少し手話を知っている人なら、少し痛いのか、すごく痛いのかまではわかるだろう。
 しかし、チクチク痛いのか、キリキリ痛いのか、ズキズキ痛いのか、そのあたりの部分はなかなかわかりづらいのだという。
 こんなふうに、耳が聞こえることでかえって、聞こえない人のことが理解できなかったりすることに気づいた。
 思っていることを、なんの圧迫感もなく話せる空間を作りたい。そういう思いも込めてフリースクール龍の子学園を作ったのだと、スタッフは語ってくれた。だからスタッフもほとんどがろう者で、会話には声は使わずに手話だけを使っている。
 よく、テレビの手話通訳を見ていると、口を動かしながら手話をしているが、龍の子学園のスタッフは口を動かさずに手話だけを行う。彼らにとっては、手や表情を使って話す言葉が、本当の言葉なのだろう。
 私が見学させてもらったろう学校の生徒さんも、このフリースクールへ来ていた。
 ろう学校にいる時の彼らは、どうもあんまり落ち着きがないように思えた。先生が一生懸命話をしている時でも、廊下に私がいることに気づくと授業に集中できなくなってしまうようだった。
 逆に、フリースクールにいる時の彼らは、一生懸命スタッフの話を聞いている。いま自分のするべきことを理解し、集中して取り組んでいるようだった。その違いがどこにあるのかをハッキリといい切ることはできないが、言葉がわかり合えるという点では、こういったフリースクールも必要なのだと感じた。

■情報を得る権利は対等

 このフリースクールには、テレビ取材なども入ったことがあるらしく、ビデオを見せてもらったことがある。そのとき、ろう者の友達も一緒に見ていたのだが、私では絶対に気づかないようなことを教えてくれた。
 取材の対象になったのは、フリースクールのスタッフだったのだが、前述のようにスタッフもろう者のため、撮影でも手話を使って話をしていた。その言葉は、音声のナレーションとして流れ、それを手話にしたものが画面の左下に別画面で出ていた。
 視覚と聴覚に頼る私は、映像を見ながらナレーションを聞いていた。しかしろう者の友達は、画面一杯に写っているスタッフの手話を読み取ろうとしていた。でも、スタッフが何を伝えようとしているのか理解できなかったという。
 映像は編集されていたのだ。だからスタッフの話がつながっておらず、友人はナレーションの手話通訳を見て理解するしかなかったのだ。ドラマなどでは当たり前のようにつながっている手話会話が、ノンフィクションであるドキュメンタリー番組でつながらなくなってしまうことに意外な印象を受けた。
 新聞で読んだ記事に、教育番組に字幕をつける作業を行っているボランティアグループが出ていた。ある人は字幕について、「本来、番組にはついていて当たり前なのだ」といっていた。
 聴者でもろう者でも、情報を得る権利は同じように持っている。だから、画面一杯に字が並ぶ番組があったとしても、おかしな話ではないと言っていた。
 ろうの人々の世界には、ろう文化というものがあって、私には理解し得ない部分も多く、今はまだ「わからない」部分を見つけるのに必死なのだが、その「わからない」という部分があるのも、当然のことかもしれない。 私は私。人は人。みんなが同じでなければならないということはなく、ろう者にはろう者しかわからない、わかり合えない部分があっていいと思う。それを差別することなく、理解しながら、お互いがお互いを認めあって共存していければいいと思う。
 共存共生共育。以前聞いたことのあるこの言葉の意味を、いまだ理解することはできていないけれど、「ろう文化」という言葉に込められた意味を、少しでも感じられればいいと思う。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第20回 サポート校の見学

■月刊「記録」1999年9月号掲載記事

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■東京のサポート校を訪問

 東京にあるサポート校へ遊びにいったことがある。
 サポート校については以前にも書いたが、通信制高校に在籍する生徒が、高校を卒業できるように学習や生活面を支援する民間の教育施設のことだ。サポート校の運営母体は、学習塾、家庭教師派遣業、予備校、専門学校などになっていて、通信制高校の生徒が毎日の通学の代わりにこの学校へ通学し、レポートなどをこなしている。
 また、学校によっては大検取得のコースもあるので、授業風景などは、学校によってさまざまだ。
 サポート校の特長の一つとして、管理によらない自由な高校生活をすごせる点がある。また、一般高校に比べてユニークなカリキュラムを取っているところが多く、私が遊びにいったサポート校では、勉強よりも本人のやる気を重視したり、LD児(学習障害児)などを受け入れたりしていた。
 校内には、教科担当の先生はもちろんのこと、カウンセリングスタッフなどもおり、現役の通信制高校生が、他の生徒達の相談役をやっていたりもする。
 また、授業の時間割などは一応決まっているが、実際に「その時間に来なければならない」ということはないという。あくまで生徒の自主性にすべてが任されている。規則を作るのも生徒で、生徒会ももちろんある。その生徒会を作ったという、現在の生徒会長と少し話をしてみたが、驚くほどしっかりした青年だった。

■「教育」って何だろうね

 私と同い年で、当時20歳という彼は、大検受験コースの生徒である。高校を中退しており、車の整備工場で働きながら勉強しているという。
「以前は頭がよかったんだ」と笑っていた彼だが、今だってなかなか回転は速い。質問を投げかけると、的を得た答えを要領よくまとめて返してくれる。
 話をするうちに、だんだん話題が学校のことになり、教育ってなんなんだろうね、という話になった。
 教育。「教える」「育つ」という二つの漢字から、この言葉を作った人は、どんな思いをこの字に託したのだろう?
 ちなみに彼は、教育とは夢を与えるもので、先生とは、夢を手助けする存在なのではないかといっていた。「教育」という言葉の由来を、「共に育つ(=共育)と書くんです」といっていた人もいる。私はこの人の話に共感し、以来、いろいろなところでこの由来を伝えてきた。
 また、「先生」という字も最近、とても面白いものだと思う。先に生きてきた者を「先生」と呼ぶというのなら、通信制の高校では、生徒が先生になってしまうことに気づいたからだ。担任の先生よりもはるかに年齢の高い生徒だってたくさんいるのだから。
 そして「学校」とはなんだろう? 現在、学校について、教育関係者や識者の間でいろいろなことがいわれているが、学校の役割とは何なのだろう。子どもが求める学校とはどんなものなのか。子どもの心が学校から離れる時、その理由は何なのか。
 昔から、日本の学校にはたくさんの規則があったが、以前はこれほど「管理」されているという実感を生徒は持っていなかったと聞いた。また、管理されたとしても、管理しているのは先生だけでなく、地域の大人みんなによるものだったという。
 つまり、地域に「規則」が根づいていたのだそうだ。けれどいつのまにか、地域社会での人々のつながりは薄れてしまい、代わってプライバシーが重視されるようになった。また、核家族化が進み、おじいちゃん、おばあちゃんや兄弟との接触が少なくなる一方で、母親は働きに出るようになり、子どもを見守るのは本当に学校だけの仕事になってしまった。そしていつしか、子どもの意識のなかに「学校に管理されている」という気持ちが芽生えた。
 学校には校則があるが、長髪やルーズソックスやケンカがなぜダメなのか、学校の先生は誰も教えてはくれなかった。生徒手帳の中に校則は書かれているが、なぜそうなのかという理由まで書かれているものは見たことがない。ただ、「決まっているからダメ」と誰もがいうだけだ。
 生徒会長の彼は高校を辞めて、社会に出たことについて本当によかったといっていた。「高校卒業」という肩書きのためだけに三年間をガマンするよりも、同じ三年間を夢のために費やしたほうがいいと思ったそうだ。また、けじめもついたという。
 このサポート校に出会うまでの彼は、半年づつくらいのペースで仕事を変えていた。アルバイトを含めると、今まで数え切れないくらいの仕事をしたという。母親がサポート校のパンフレットを持ってきて彼に見せた時にも、学歴ではなく自分は中身で勝負するのだと思っていたが、夢中になれるものを見つけるためにはいいと考え直し、このサポート校へ入学したという。
 そして、今では整備の仕事に就くことを夢見て、資格を取ろうと考えているといった。アルバイトと社員との差の違いも感じた。だから資格を取って整備の仕事にきちんとつきたいと考えてのことだろう。
 生きることは楽しむこと。仕事も遊びも楽しめたほうがいい。夢中になって遊び、夢中になって仕事をするから楽しいのだ。人生は、輝いて生きること。そう話してくれた彼は、本当に輝いているように見えた。周りの生徒にも信頼されていて、しっかりした存在感があった。彼が自分の価値観を信じて、肩書きなどに振り回されずに、高校をやめることができてよかったと本当に思った。

■子どもは大人のミニチュアではない

 最近では、あちこちの地域で、いくつかの「不登校  親の会」に出席させてもらっっている。その印象では、親は、子どもの意見に耳を傾けている人とまだ傾けられずにいる人の二手にはっきりわかれているように思えた。
 子どもは、いつだって親を頼りにしたいと思っているし、親の愛情を求めている。しかし、上手に頼っていくことができないのは、目の前にいる親が、自分のことを受け止めてくれるだけの余裕があるかないかが、なんとなく感じ取られてしまうからではないだろうか。他人の私にさえ感じ取ることができるくらいだから、一緒に生活している子どもは、もっと敏感に感じ取っていることだろう。
 子どもは、日々、いろいろなものを見て、いろいろなことに興味を持って、感じて吸収している。そこにはまだ、いいとか悪いとかの価値判断はあまり存在していない。感じたことを素直に口に出し、大人にぶつけているだけだ。
 それなのに、話を最後まで聞いてもらえなかったり、パターンにハマったものの見方を押しつけられたりしていると、徐々に子どもは、大人への信頼感を失っていってしまう。けれど、多くの子どもは、大人を信じたいから苦しくて、その苦しみをどう表現してよいかわからずに、パターンから外れた行動をとって表そうとする。
 その結果の一つが不登校だろう。たまった不信感というストレスが、ある日、抑えきれなくなってしまった状態だ。私が訪れたサポート校で出会った子どもたちは、生徒会長の彼もふくめてみんな生き生きとしているように見えたが、その理由が、「自分に自信を持てたから」と考えるのは、私の考えすぎだろうか。
 子どもの視線は、大人の視線のミニチュアではない。大人に見えないものであっても、子どもには見えているものがたくさんあるのだ。自分だって、かつては子どもだったのだから、その気持ちはわかるはずだ、とも思うのだが、一度大人になってしまってから、子どもと同じ視線に立つことは、努力なしにはなかなか難しいことなのかもしれない。
 親が子どもを余裕を持って受け入れ、子どもと同じ視線から、子どもを理解するために努力することは、たぶん親の成長につながっているのではないかと思う。
 子どもは毎日成長していく。それに伴って親も一緒に成長していくことが、「共に育つ」という意味で、「教育」なのではないかと思った。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第19回 愛情はどれだけ注げばいいのか

■月刊「記録」1999年8月号掲載記事

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 私の周りには、ボランティア活動をしている人が多い。彼らがボランティアをするなかで、どんな人と出会い、どんなことを感じているのか、私も感じてみたくなっって取材をしてみたことがある。

■異世界を体験するために

 どんな事柄にも人によって違ったものの見方がある。話し合ううちに互いの考え方、とらえ方の差が見えてくる体験はおもしろい。人の意見を聞くことは、自分が成長するために必要であり、なんらかの役割を果たしていると思う。物事へのとらえ方が一つではないと感じると、いままで知っていると思い込んでいた世界が、急に違ったものに見えてきて、異世界に導かれる気持ちになる。
 物事を悪いほうにしか考えられなくなっている時、こうした異世界への扉がたまたま開かれて、ふっと気持ちがラクになることがある。たぶんいろいろな人に出会い、さまざまな体験を重ねることが、心のゆとりにつながるからだろう。
 ましてや私のところには、前述のように不安を抱えている子たちから相談の電話やファクスが送られてくる。彼らの心に、異世界への扉を開けてあげることは、きっと私に期待されている役割の一つだろう。そんな思いもあって、ボランティアを体験しておこうと思ったのだ。 取材の方法は、ボランティアをしている友達に同行させてもらい、一緒に一日を過ごすというものだ。初日は、ホームといわれる養護施設でのボランティアに加わった。ここでは、私も一緒になって子どもたちと遊んだのだが、最初は彼らと何を話せばいいのかわからず、とまどいを隠せなかった。
 ホームには、昔のように両親がいないという子どもは少ないという。なんらかの理由があって、両親と一緒に生活することができない子どもが多いということだ。
 ホームの保母さんからはとくに「どういう話をするといい」とか「こういう話はしないでほしい」というような指示は与えられないので、親のいない生活をしている彼らに、ぬくぬくと親元で暮らしている自分がどう見えるのか、できることは何かあるのかと考えると、はりきる反面、不安だらけだった。
 実際、子どもたちが学校から帰ってくる前に、ボランティア総出で屋外に干してある布団を取り込むことになっていたのだが、布団を叩くことさえ知らなかった私には、取り込んで畳んで片づけるまでの作業さえ、なんとも手際の悪いものだった。そのときには、なんだかみんなの足手まといになってしまうような気がした。

■お姉さんなんか嫌い!

 さて、最初に入った教室は、幼稚園児のクラスだった。だが、教室に入ると、まだ幼稚園にはとうてい入れないような小さな子までふくめて、10人の子どもがにぎやかに遊んでいた。
 私が同年代の女の子と3人で教室に入ると、何人かの子がすぐに近づいてきて、とにかく抱っこをしろとせがむ。仕方なく、2人を抱えて1人を肩車した。子どもたちのなかには、「私のお姉ちゃんよ」という言葉を口にする子もいた。それと同時に「お母さんはいるの?」「今、一人暮らしをしているの?」とたずねてくる。やはり、これが彼女らの関心事なのだろう。
 親を思い出させてはいけないと思いつつも、その質問をうまくかわす手段がみつからずに、ただ笑って抱き上げることしかできなかった。
 そうこうしているうちに、一人の女の子が急に私に向かって、「お姉さんなんか嫌い」という言葉を口にし始めた。
 さすがの私にも、この言葉の裏にある寂しさと、「かまってほしい」という気持ちくらいは読み取ることができた。けれどもその先、思うように彼女に近づいていくことができない。
 時間だけがもどかしく過ぎていき、ふと気がつくと、私の周りからは子どもたちが去って彼女と二人だけになっていた。二人で向き合うと、少女ははじめて私のひざに乗ってきた。何もいわずに、ただ私にギュッとしがみついてくる。けれど私は彼女を、強く抱きしめてあげることができなかった。
 もともとそこでボランティアをしていた友達に、あとからこの少女のことを話した。すると彼女は、「私だったら抱きしめてあげる」といった。
「たとえ一瞬であっても、その温もりを伝えることができたら、寂しくなったときでも女の子は、そのぬくもりを思い出して強く生きていけるかもしれないから」と。 そうかもしれない。一瞬のぬくもりが強さを支えることもある。だけど、かえって寂しさにつながってしまうこともあるのではないか。
 私がその瞬間に抱きしめてあげることは簡単だ。でもいつも一緒にいる保母さんは、彼女が要求したときに、必ず毎回、その子を抱きしめてあげることはできるのだろうか? そう考えると、無責任に彼女にだけ、他の子によりも強い愛情を示すようなことはできなかったのだ。
 気がすむまで抱きついたあとで彼女は、私に「目を閉じて」というと、どこかへ行ってしまった。一人が離れれば、他の誰かが来て私のひざに乗る。そして戻ってきた彼女は、私が目を閉じたまま待っていることを期待していたらしく、他の子と遊ぶ姿を見てショックを受けたようだ。また「お姉さんなんか嫌い」が始まってしまった。

■気まぐれで愛していいのか

 少年の凶悪犯罪が多かったせいか、最近は思春期の世代の方が騒がれているが、「第一次反抗期」の子どもは忘れられがちだ。はじめて親と自分の関係を認識し、自己がめざめていく時期にあたるこの年頃に、一対一で正面から向き合い、気がすむまでわがままを聞き、愛情を注いであげられる人は、彼女たちの周りにはいない。
 小さな少女には、保母さんが注いでくれる愛情が、皆に平等にわけられたものだと理解するのは難しいだろう。だから彼女は、ただ満たされるまで愛情を求め続ける。「お姉さんなんか嫌い」といいつつも、近づいては離れていき、まただんだんとその距離が縮んで、やっぱり私のところに来て手を引っ張る。他の子どもたちのなかから私を引っ張り出して、独占して廊下に連れていこうとする。
 彼女は、誰も来ないところへいって、「一緒に折り紙をしよう」という。こんなふうに他の子どもを遠ざけて、二人だけになろうという要求にこたえてしまっていいのか。それが他の子どもに与える影響もよくわからない。私もちょっと考えたけれど、とりあえず少しだけ、時に流されてみた。
 向かい合って座ると、折り紙をわたされる。彼女が先生で、私は生徒だ。彼女が折ろうとするものが、途中まで折れば私にはわかってしまうのだが、彼女よりも先に少しでも折ってしまうと、ひどく怒ったそぶりを見せた。
 わがままとわかっても、気がすむまで愛情を注いであげることが必要だ、ということを私は何度も口にしてきた。たくさんの人にそれを伝え、自分自身でも実行してきたつもりだった。けれど、このボランティアを通して、一概にそれをいうことはできない気持ちになった。
 親がいれば、気がすむまで愛情を与えてもらうことはできる。だがそれは、いつでも一対一で向かい合うことができる親が側にいてこそだ。ここでは、一人ならまだしも10人、20人、それよりももっと多くの子どもが生活している。だからこそ中途半端な愛情を一時の気まぐれで注いでいいのかどうかわからなかったのだ。
 もしかしたら一瞬のぬくもりは、少女の満足につながるかもしれない。それを思うと心苦しいところもあった。でも、もう一度同じぬくもりがほしいと思った時に、それがない苦しさのほうがつらいのではないかとも思う。
 私は、彼女たちに毎日ついていることはできないのだから。

■裕福でも、家に父はいなかった

 私の父は、当時にしては珍しく、両親がそろっていながら施設で育った経験を持っている。その頃のことはあまり話したがらないのだが、祖母(父の母)が結核で入院し、祖父は仕事と看病とで、父とその兄弟を手元に置いておくことができなかったらしい。
 けれども祖父は、施設まで父に会いに来ることもめったにしなかった。どうして会いに来てくれないのかと、幼い父は祖父に聞いたらしいが、祖父の返事を私には教えてくれなかった。
 ただ私には、父がそれを聞いたことを後悔しているように見えた。
 そんなわけで、子ども時代の父はそれなりに苦労をし、寂しかった部分もたくさんあったと思う。それを子どもながらに振り切らなければならなかったことも多かっただろう。その日を暮らすのがやっとだった生活から脱出するために、父は家族を持つと裕福な家庭をめざしてがんばった。
 だから私達はお金に苦労することはなかった代わりに、父が家に帰ってこないことも多かった。私が引きこもり、自殺未遂を繰り返していた頃は、さすがに家には帰ってきていたが、私の単位制高校が軌道にのってからは帰らないことが多くなった。
 今でこそ父親が自宅に帰らなくても、なんとも思わなくなったが、小さい頃は父親が家に帰ってこなくて寂しかった。たとえ帰ってきても私が寝てからで、家を出るのは私が起きる前。小さい私はひどく寂しく、どこかで父親を求めていた。
 それを父にわかってもらいたくて、足りない頭で考えた。ありとあらゆることをやってみたが、父に私の気持ちがまっすぐに通じたと思えたことはあまりなかった。覚えていてくれるだろうか。
 もどかしかった頃から月日が過ぎ、私も今では自分で働くようになった。
 たまたまホームに取材に行くために泊まらせてもらった友達の家は、父が通勤に使う駅から二駅しか離れていないところにあった。私も泊まりがけで行っているので、父の帰宅する日と、私が帰宅する日が偶然重なることもあった。そんな時は待ち合わせをして、二人でゆっくり話をするようにしてみた。
 私が大人になり、自分自身で感情にコントロールをつけられるようになってからは、できるだけ父と二人で向き合う時間を作るようにしている。けれども、寂しかった当時に感じた父への拒絶感は、今でも完全に消えてはいない。父と話をすることには、どこかに「義務」の感じがつきまとうようになっていた。

■「今頃気づいたんだけど」

 そのときもはじめのうちは、いつものようにたわいのない話をしていたのだが、父のほうから、前に見たテレビの話をし始めた。私はそれを見ていなかったが、不登校や引きこもりの子どものいる家庭が出てきたという。 施設で育った父親が、いつのまにか「家にお金を入れるための存在」になり、仕事ばかりしていて家庭のなかの大切な何かを見落としてしまっているのだ、というようなことをやっていたというのだが、「それはまさに、自分のことをいわれているようだった」と話してくれた。
 私に寂しい思いをさせたということより、自分のいない家庭が「家族」でなくなっていることに、気づかなかったことのほうにショックを受けていたようだ。父は「今頃気づいたんだけど」といって、すまなそうな顔をした。
 その時、私には、こうして面と向かい、一対一で相対してくれる親がいるから、思いっきりわがままをいうこともできるし、自分が一番になることもできる。気持ちが満たされるまでの愛情を注いでもらうことができるから、20歳をすぎた今でも、親にすねたり振り回したりできる。こんな環境に生まれてくることができて幸せだったのだと気づいた。
 私は父に言った。
「いいんじゃないの? それでもお父さんの趣味は、家庭だったんだから」
 はじめて心から本気でそういうことができた。
 たとえ時間はすぎてしまっていても、父に気づいてもらえたことは私には本当にうれしかった。昔の感情には、時効があるようでいて、やっぱりなかったのだと思った。
 そして、ホームで出会った「お姉さんなんか嫌い」といっていた女の子のことを思い出した。彼女のことを抱きしめてあげることはできなかったけれど、ほんの数十分間、二人で向き合っていた時間を、彼女は覚えていてくれるだろうか。そしてわかれぎわ、たくさんの折り紙を私に持たせてくれたことを思い出した。あのやさしさをいつまでも持ち続けてもらいたいと願う。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第18回 不登校児の親も闘っている

■月刊「記録」1999年7月号掲載記事

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 通信制高校四年のときに、朝日新聞茨城版のための取材を受けたことがある。「ぴーぷる」という欄で紹介されるということで、その名の通り、私という一人の人物の取材に来たのだという。取材のために、私の前に現れた記者さんは、意外なほど物事を「知らない」人だった。
 それまで、何度も取材を受けたりしたけれど、物知り記者さんに会ったことはあっても、その逆の記者さんははじめてで、一時間くらいで終わる予定が、結局六時間にもおよぶ、かなり疲れる取材になった。
 フリースクールや通信制高校を知らない記者さんには、とにかく今現在、自分が置かれている状況を説明するために、一から十まで話をしなければならない。彼なりに、私のいっていることを理解しようとしてくれているのだが、数学のように答えが明らかになるものではないから、どうしても理解できなかったらしい。
 また、取材の席には、同じ学校に通う友人にも同席してもらったのだが、私たち二人が感じる悩みを、どうやっても理解してもらえなかった。
 どうして生まれてきたのか、どうして私じゃなきゃいけなかったのか、どうして生きて行かなきゃいけないのか、なぜ人は死ぬのか、友達とはなんなのか、クラスメイトとはなんなのか。
「私の体に入る心は、私じゃなくて、他の誰かでもよかったのに」
 彼からしてみれば、こんな感覚は自分の感じたことのないものだったのだろうか。だから、どうとらえればいいのかわからなかったのだろう。ボールペンで頭をかいてうなっていた。
「簡単に言ってしまえば『昔の私は、自分を上手に表現できなくて、自分自身からも逃げ出したかった』んです」。そうやってまとめてあげると、今度は、簡単にまとめないでほしいといわれてしまう。
 私だって簡単にまとめたくはないのだ。あの頃は、毎日死ぬことだけを考えていたし、自殺をすれば本当に死ねると思ったし、でも生き返って楽しい生活を送れるようになるような気もしていた。心のなかには、なんともいえない葛藤があったし、晴れない霧のなかで、一人でもがき苦しんだりもしていたんだ。それを、たった一言なんかで片づけるなんて、たまったもんじゃない。
 自分の居場所を見つけることができなかったというと、「その居場所とは、どういうところなのか」と聞かれた。でも、感情を辞書に載っているような言葉に直そうとしても、できるはずもない。安心感を持てる場所とか、本当の気持ちをうち明けられる友人がいるところとか、遠回しに遠回しに話すしかないのだけれど、うまく伝わらない。
 さらに一緒にいた友達が、「離人感」とか、「自傷症」とか、むずかしい言葉ばかりを使うから、記者さんはますます混乱してしまった。絵を描いたり、自分の経験談を話してくれて、「要はそういうことなんじゃないの?」と聞かれたが、二人でずっと首をふり続けていた。一言で説明できるような簡単なものではない。
 たとえば、自分を見ているもう一人の自分がいる。その、もう一人の自分のほうが、本当の自分のように思える。じゃあ、いま話をしている自分は誰なのか? それもやっぱり自分自身だ。現実的な言い方をすれば、話をしている自分しか世のなかには存在しないはずなのに、自分のなかにだけ、もう一人の自分が存在してしまう。それが「離人症」の感覚なのだ。

■一瞬のためらいを消してあげたい

 先に、死んでも生き返って楽しく暮らせるようになると思うと書いたが、死ぬのは現実の私のほうだ。もう一人の私は死なない。そして生き残った私は、前世の記憶を持ったまま、もう一度楽しく暮らせるような気がしてしまう。あの頃は、人生をやり直したかったのだ。人生がやり直せると、信じていたのだ。
 それが記事になるのはもう少し先のことだから、彼がどう私をとらえ、どういう紹介をしてくれるのか まだわからない。
 一〇〇のことを知らなければ、一のことも書けない気持ちもわかるから、がんばって取材を受けたけれども、記事になったものはしょうがないと、それを受け入れることになるのかなぁ。
 彼と私たちとの違いは、「細かいところまで気にするかしないか」に思えた。その違いが大きいのだと思う。たとえば、電話にしてもそうだ。私の部屋には、直接私につながる専用回線を引いてあるが、それは、インターネットをやるためだけのものではない。
 たとえば、私に話があって、私に聞いてほしいことがあって電話をしてきた人が、私の親が出た時に、一瞬の後悔を感じてしまう。私にかけて、親が取る。親から私につながるまでの約一分間に、「長電話はダメよ。夜遅いんだから、早く切りなさい」というようなことを、母が私にいっているんじゃないかと気にしてしまう、といわれたことがあった。事実、親からそういわれたこともある。また、私も人の家に電話をかけた時に、そう感じることがある。
 だから、その気持ちはわかるのだ。ただの友達からのおしゃべりの電話なら、それでもいいけれど、私のところには不登校や自殺未遂をしている子からもかかってくる。せっぱつまって電話をしてくる彼らの不安を、一つでもなくしてあげることが私にできることの一つと感じたからだ。
 電話をかけてくる時、彼らはきっとコールが鳴っている間中、ずっとドキドキしているだろう。でも、私に話があって、私と話がしたくて電話をしてきてくれている。だから、電話をかけてきたことを、後悔させたくはない。
 電話を取った瞬間に、「この声聞いたら、安心すんねん」といわれたり、「少しだけ話し相手になってもらえますか?」といわれたりすると、私自身もホッとする。送られてくるファクスからも、本当に小さなことでくよくよ悩んでいる姿が見えてくる。でも、彼らにとっては大きなことなのだ。
 そして、そんな彼らに頼られている私からみれば、彼らにわたしてあげられるものより、彼らから受け取っているもののほうが、はるかに多い。
 彼らから何を受け取っているのか、うまく説明はできないけれど、相手を必要とする気持ちを「わかち合う」ことから生まれるパワーは、大きなものだと感じている。
 また、ファクスには、実際に「パワーをください」という一言が添えられていることが多い。パワーってどうやって送ってあげればいいのか、はじめのうちはわからなかったけれど、やがて、なんとなくわかるようになってきた。相手が、自分の存在を認めてもらいたがっている時に認めてあげること。私が心のなかで、「がんばって」と念じてあげること。それだけでいい時もある。
 時間を指定されることだってある。四時半にバイトに行くから、その時に背中を押してほしいといわれる。何か言葉を贈るのではなくて、彼が私を思う瞬間に、私も彼を思うことが、彼にとっては大きいという。
 気持ちの問題だと片づけてしまうなら、勇気とか希望なども同じものだと思う。気持ちが強くなれた時には、本当の力以上の力が出る。私が彼らの「気持ち的力」になれているのだとしたら、それは幸せなことだ。
 あるお宅におじゃまをして、学校に行っていない小学生の女の子と遊んできたことがある。じつは目的は、女の子と遊ぶことよりも、お母さんの不安感をなくしてあげることだった。お母さんと話をしていて、そのほうが必要だと感じて会いにいったのだ。客観的な目を持って接してあげられる人が側にいると、頭のなかでゴチャゴチャになっていることがまとまることもある。
 そのお母さんは日記帳を取り出して開き、子どもが使っていた連絡帳やカウンセリング機関の予約カードも持ってきて、女の子が学校に行かなくなってから、保健室登校をし、教室へ行くようになり、そしてまた学校に行かなくなるまでの一年半のプロセスを話してくれた。
 日記のなかには、お母さん自身が逃げ出してしまった日のこと、一番の話し相手と電話した時のことなどが記されていた。電話で話をしている時は、楽しくて笑ったりもしているが、電話を切った瞬間に、どっと落ち込んでしまうのだという。
 また、電話の相手が、同じ年頃の子どもを持っている人だったため、小学校六年生の最後の一年くらいは学校に行かせるようにしないと、子どもにとってなんの思い出もなくなってしまう。すると将来、後悔することになると思う、といわれてプレッシャーを感じたり、落ち込んだりしたという。気の休まる時もないようだった。自分を理解していると、口でいってくれる人は多いが、本当に理解してくれている人は少ないという。

■しつけに正しい方法ってあるの?

 女の子のお母さんは、子どもが学校に行かなくなったときに、「親の教育が悪いのだ」といわれてしまった。そんなことをいわれれば、たいていの親は落ち込んでしまうだろう。そして、女の子が保健室登校を始めたときには、今度は「子どもががんばったからだ」といわれたという。
 たしかに子どももがんばった。だけど親もがんばっているということを認めてくれる人は、あまりいない。そして子どもが再び学校に行かなくなると、「親は何をしているのだ」とまた責められた。
 親が一番がんばっているのだということを、世間は知らない。子どもが教室に行くようになった時にも、このお母さんはずっと学校についていった。子どもを学校まで送り、「帰っていいよ」といわれるのを待って、いったん自宅に戻る。そして、帰宅時間に迎えにいくと、子どもから「友達と帰る」といわれて一人で帰る。それでも黙って、子どもが自分で何かをしようとする意思を大切にし、見守り続けたお母さんの努力は、一体誰に評価されるのだろう?
 子どものしつけ方を、何が正しいとか正しくないなどと決めつけることは難しい。何気ない一言が、子どもの心を傷つけていることもあれば、何もしていないのに、人となじむのが苦手に育ってしまう子どももいる。
 同じ親に育てられた兄弟のなかにも、広く友達づきあいができる子がいれば、まったく人となじめない子だっている。親が思っているように子どもを作り上げるなんてことはできないのだ。
 私と姉は、小学校の途中で転校した。それをきっかけにして、二人とも同じようにイジメを受けたが、そんなことをまったく気にしなかった姉と、それが原因で人を信用できなくなり、のちに学校へ行かなくなってしまった私は、同じ親に、同じように育てられているのだ。
 私のほうは、生まれつき人と話すことが苦手だった。人混みにいくと、自分は何も悪いことはしていないのに、何か悪いことをしてしまったような感情におそわれた。そんな私の性格には、親だって気づいていただろう。だからといって、どうすることもできなかったのだ。
 学校へ行かなくなりだすと、もちろん親から文句をいわれた。私は口では反発しながらも、どこかで文句をいわれるのを期待していた。まるで幼児のように、かまってもらいたかったのだ。だから、何もいわれない日には、「もう見捨てられたんじゃないか」と逆に心配したりした。
 勝手な感情しか抱かない子どもを見守り、励まし続けている親が、本当は一番がんばっているのだ。一番評価されなきゃいけない存在なのだ。まあそれは、小さなことでクヨクヨ悩まなくなった今だからこそいえるのであるが、がんばっているたくさんのお母さんに対して、改めてエールを送りたいと思う。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第17回 いろいろなことを気付かせてくれた先生

■月刊「記録」1999年6月号掲載記事

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 季節の変わり目は、誰でも気持ちが不安定になりやすい。特に春は新学期への不安からか、一人ぼっちのような気がしてしまったり、他人と自分を比べてしまうのだ。いつも春になると、こんな魔の手が多くの人の心に忍び寄っていく。
 一度、「なんか変だなあ」と感じてしまうと、ドンドン自分に不安を抱いてしまう人がいる。生きていくことへの不安で一杯になり、生きていかねばならない理由を探しているうちに心がどこかへ行ってしまう。私はよく「心が迷子になった」という言葉を使うが、まさに迷子なのだ。

■春は心が迷子になる季節

 94年4月のはじめ、つき合いのあるフリースクールから一通の電子メールが届いた。「死にたくて、死にたくて、どうしようもないです」。そう訴える女の子へ、メッセージを贈ってほしいということだった。
 彼女はこの年の春に中学校を卒業したばかりだが、家に引きこもっているのだという。そしてほぼ同時期にもう一通、メッセージを贈ってあげてほしい人がいるという手紙が友人から届いた。その子も同じ時期に中学校を卒業しており、その後の進路は、定時制高校への進学と福祉関係の仕事につくことが決まっている。しかし、先のことを考えると不安でたまらないのだという。
 この子は短い春休みに時間をさいてボランティアに参加していた。ホームレスの人たちに卵や毛布、コーヒーを差し入れるというものだ。新宿へ行くことが多かったそうだが、春には大阪と神戸にも行った。その神戸に行った帰り道、彼女は突然泣き出してしまった。新しい生活になじめるかどうか、不安でたまらないのだという。 中学生の頃から新聞配達をして、一生懸命にがんばってきた子だから、新しい生活にもきっとなじめると思ったのだが、本人の不安が消えるには、もう少し時間が必要なようでもあった。
 私はこの二人に同じメッセージを贈った。「人は、ひとりぼっちになるために、新しい明日を迎えるのではないのですよ」と。
 このときから3年前の春、私もまた同じ気持ちでいた。生きていてもどうせ一人ぼっちだと。その頃は笑うこともなく、家からもまったくといっていいほど出ずに、引きこもりの生活をしていた。当然友達などおらず、私の相手をしてくれるのは親だけだった。その親の気持ちにも気づこうともせずに、別に一人ぼっちでもいいとさえ思っていた。というより、そう思おうと努力していた。
 友達がいなかった私には、どうしたら友達が作れるのかわからなかった。どうせ今までだっていなかったのだから、べつに無理に作ろうとがんばらなくても、一人でいたほうがラクだとも思っていた。
 しかし、やはりどこかで寂しかった。友達同士で明るく笑い合っている声を聞いたり、一人で買い物に行って友達と連れだって歩いている同じ年代の子の姿を見かけた時など、やはりうらやましかった。
 孤独感のなかで、私は次第に生きていく意欲を失っていった。そしてとうとう私は、自殺未遂騒動を起こした。あのときは周りが騒ぐなか、一人で冷めたような顔をしていた。私が死のうがどうしようが、みんなの生活に変化はないじゃない。何をそんなに騒いでいるの? というふうに。
 振り返って思えば、あれも私なりのSOS発信だったのだろう。

■応援してくれた高校の先生

 つい最近まで忘れていたが、騒動のあと、私はまっさきに高校の担任教師に会いに行った。私の担任は、高校に入学してから卒業まで四年間一度も変わらなかった。 この先生はちょっと大物だ。なぜなら自殺未遂騒動を起こしたあとも先生は、私を色メガネで見ることなくずっと応援してくれた。「何かあったらオレが助けてやるから」と、いつもいってくれていた。そして先生のすごいところは、実際に何かが起こった時に、本当に助けてくれたことだ。
 先生に助けられたのは、私だけではない。生徒のためにみんなの前でウソをついてくれたこともあった。だから、他のクラスメート達もあいた時間をみつけては、先生にいろいろな相談をしているようだ。
 たとえば、入学してまもなくすると、新しいクラスのなかには「グループ」が必ずでき始める。ことあるごとに集団で行動させられる学校生活のなかでは、グループに入っていないと身動きがとれない。だから、みんな無理をしてでも、どこかのグループに所属しようとする。 そしてなかには浮いてしまって、まったくメンバーと相性が合わないのに、背伸びしてグループにしがみつき続けるような子も現れる。なぜならグループは、一度できあがると互いに排他的になってしまい、外部からは人が入りづらくなるからだ。途中から他のグループに入り直すことは、大人には想像できないほど難しい。
 この傾向は一般の高校であるほど強い。私の高校は通信制のため、普通高校ほど強いグループ意識はないが、やはり遊び人っぽい子のなかに一人だけ真面目すぎる子がまぎれてしまうみたいなミスマッチが起こる。そんなとき、担任の先生は、生徒同士の「お見合い」をさせてくれた。
 その子に合いそうな友達を探して、その子を受け入れてあげてほしいことを伝えるのだ。ミスマッチからいじめなどが起こりそうになっている場合には、この「お見合い」が効果を発揮する。現に「お見合い」によって救われた子もいた。

■生きてることに意味なんてない

 当時の私に先生は、どうしてくれたんだっけなあと考えていたら、希望者のみが行く宿泊学習に参加させ、班長などの「役」をやらせてくれたことを思い出した。班長になればどうしたってみんなと話をしなければならないから、より多くの人と知り合えるだろう。先生はそう考え、私を合宿に参加させてくれたのだろう。
 その後私は、自分が本当につき合っていける友達を見つけることができた。そしてなにより笑えるようになった。先生がいたから学校も続けてこられたのだと思う。 高校中退は私も何度も考えた。勉強はラクではないし、はじめは先生の存在もうとましかった。外出すること自体が不安で動かないから体力もなく、同時に精神力も失せていた。とにかく何をするのも面倒だった。
 もしあのまま学校を辞めていたら、どうなっていただろう。死にたいと思いつつ毎日暮らしていたのだろう。家から出ることも笑うこともしないままで。何からでもすぐに逃げ出す、弱い人間のままでいたに違いない。
 私がメッセージを贈ろうとしている、中学を卒業したばかりの彼女たちには、今まで自分がすごしてきたことを伝えることしかできなかった。私は彼女たちにメッセージを書きながらいろいろなことを考えていた。
 きっと生きることには深い意味なんてないのだろう。けれども人は、一人ぼっちになるために生きているのではない、と。人と出会い、二人になるため、三人になるため、大勢の中の一人になるために生きているのだろう。
 それを気づかせてくれたのが、私にとっては担任の先生だった。
 一緒に授業をサボっては階段のところでタバコを吸い、どっちが灰皿を取りにいくかをジャンケンで決めた。それまで先生という存在は、ことごとく気をつかう相手だった。嫌味で皮肉で私にはいらない存在だった。だけど通信制高校では違った。
 恥ずかしい話だが、友達関係さえもうまくできなかった私には、協調性もなく、礼儀というものもほとんどわからなかった。敬語もあまり使わなかったので、たまに使うと敬語が並びすぎ、なんだかおかしくなってしまう。そして話をしたいことができると、まずとにかく自分の話を聞いてもらいたいと思ってしまう。たとえ相手がどういう状況であっても。
 ある時、先生たちが会議をしていた。会議といっても体育の先生たちだけの小さなもので、体育教官室で行われていた。だからいつものように私は、何も考えずに教官室に入っていった。
 すると、ものすごい剣幕で怒られた。いきなりどなられ、はじめは何をいわれているのかわからなかったが、どうやらこういうときには、「お話中、失礼します」といわなければならないのだとわかった。そんなことの繰り返しだ。もし先生がどなってくれていなかったら、きっといつかどこかで恥をかいていただろう。
 20歳になっても私は高校生で、先生は生徒である私をいつもどなっていた。最初の頃は、「感情的な先生だなぁ」と思ったけれど、やがて、私たちが社会で恥をかかないようにいろいろなことを教えてくれていたのだとわかった。

■先生に期待しすぎたのかも

 やがて私は、通信制高校に入るまで「先生」に期待しすぎていたのかもしれないと思いはじめていた。先生というのは、神様じゃなかったんだ。だからこそ、そばにいて心の支えになってくれることだってあるのに、期待しすぎて裏切られたり絶望したりしていたのかもしれない。
 少なくとも通信制高校の担任の先生は私を信じてくれていた。振りほどかれてもおかしくないような私の手を、信じて必死に引っ張ってきてくれた。どんなに私が裏切っても、怒り、信じ続けてくれてた。
 通信制高校に通って四年目の春、春なのに私は不安にならなくなった。新しい生活には新しい出会いがあって、新しい出会いのとなりには、いままでに知り合った人の笑顔がある。みんなのおかげで私は変わった。心が一人ぼっちだったのに、今はみんなのなかの一人として生きていくことができる。
 こうして笑っているけれど、私にもそういう時期があったのだということを、彼女たちにメッセージとして贈った。
 生きていく意味などわからないし、どうせ人は必ずいつかは死ぬのに、80年の人生は、なんのためにあるのかわからない。だけど精一杯生きていこうと思えるのは、こうやって人の温かさにふれることができるからなのだろうと思う。
 もう生きていけないと何もかもあきらめた時期もあった。一生笑わないと心に決めたこともあった。人を信じれば裏切られると思い込んでいたし、どうせ誰も私を信じてはくれないのだと思っていた。あの頃を今では不思議なほど冷静に受け止めている。
 裏切られることを恐れていては本当の友達などできないし、自分が人を信じなければ、誰も自分のことなど信じてはくれないということにも気づいた。
 乗り越えてしまえば、高いと思った山も低かったし、つまずいた石ころも本当にちっぽけなものだった。でも、その時の気持ちはとても重かったし、とても不安だったと思う。これからだって何度もくじけそうになるだろう。だけど、そういうときは自分が一人ぼっちじゃないことを思い出したい。いつもそばに誰かついていてくれていることを。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第16回 死者はリセットを押しても生き返らない

■月刊「記録」1999年5月号掲載記事

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■ゲーム・リセット

 R・P・G(ロール・プレイング・ゲーム)。
 この名前を知っているだろうか。何年も前から話題になっているコンピュータゲームの一種だ。この手のゲームに対してある雑誌が、「リセットボタンを押せば(主人公が)生き返る」という説明をしていた。
 今の子どもたちは、ゲームのなかの死しか知らない。「生き返ることのできる死」しか知らない。だから、死の重さがわからないのだと書かれていた。
 たしかに今の子どもは、「生き返る死」しか目にできない。心臓が止まり、体が冷たくなっていく本当の死を目にしたことのある子どもは少ない。死というものに対する不安や恐怖について、真剣に悩んだことのない私自身もその一人なのかもしれない。
 記事の中に書かれていた一節がある。
「人間が生きていくことは、動物の命を奪っているのだということが見えない」
 そんなことは、この記事を読むまで私も考えたこともなかった。生きていくために食事をとる。それはすべて買ってきたものであって、自分で野菜を育て、猟をして獲った動物をさばいたりするわけではない。自分の口に入るものが一つの命であることなど、これっぽっちも考えたことはなかった。
 生き物を触ることができない。魚の目も見ていられない。野菜を育てるのは虫がつくから絶対に嫌だ。たとえ農薬だらけでも、見た目がキレイでなければ口に入れないという子どもが育っている。これもゲームのせいだろうか。

■ゲームをクリアすることだけが目標

 ゲームを一切しない私だが、R・P・Gのことは人に聞いたり小説を読んだりしてなんとなくわかっている。 ゲームの進行につれてさまざまな場面が現れ、ゲームをする人は、主人公に代わって選択肢を選んでいくのだ。そしてR・P・Gに限らず、ゲームの中では闘いがあり、しかも誰もが決して本当に死ぬことはないのだ。
 たとえ人を殺してしまった主人公の苦しみを多少感じることができたとしても、多くの人はそんなことは真剣に受けとめずに、ただゲームをクリアすることだけを目標に取り組んでいく。
 R・P・Gのストーリーを小説化したものを二冊ほど読んだ。どちらも非現実的な世界に主人公が入り込むという話だった。主人公はゲームのなかで戦っている。ゲームのなかのキャラクターに恋をして、ゲームの中で友情を感じている。そしてゲームの中で、簡単に他の者の命を消していく。さらに必ずといっていいほど主人公自身も一度は死に、また生き返ってくるのだ。
 R・P・Gだけではない。九六年から九七年にかけて大騒ぎとなった「たまごっち」というゲームもそうだ。特にたまごっちでは、成長するにつれてキャラクターが変化し、いろいろなパターンに変身した。そして自分の望むキャラクターにならなかった場合には、「さっさと殺してしまえ」と、育てることを放棄する人が多かったようだ。
 たまごっちは育成ゲームである。そこでゲームを放棄すれば、キャラクターはお腹がすいてまもなく死ぬ。ゲームのなかに勝手にお墓が建つ。お墓が建つのを待ってリセットボタンを押し、新しい卵を産ませる。それを繰り返すことができた。
 気がつけばリアルに「お墓」まで建てて、しかし「殺す」という言葉には、重たさが感じられなくなっていた。

■人の死がわからない子どもたち

 一時代前くらいから、子どもは「人に殴られる痛みを知らない世代」といわれ始めた。青少年による傷害事件が増えたことの背景に「人を殴るにしても痛みを知らないために、限度がわからない」ことがあるのではないかといわれ始めた。
 たしかに、イジメも校内暴力も家庭内暴力も、人に殴られる痛みを知らないところからきていたのかもしれない。
 そして今、子どもは「人の死を知らない世代」といわれている。人は死んだら生き返らない。そんな当たり前のことがわからない世代だといわれている。たしかに人間に限らず、一つの命が消えていく様子は、目の前で見なければ実感できない。少年の凶悪犯罪が急激に増加した原因は、ここにあるという人もいる。
 祖母はよく、彼女が子どもだった頃の話をしてくれた。ある家で首つり自殺があり、死体を下ろすところを目撃したといっていた。二晩、ガタガタ震えて眠れなかったし、おかげで今でもその時のことを覚えているのだと。
 一つの命が消えるというのは、そういうことなのだろう。
 私も一度だけ人が死んでいくのを見たことがある。広島に住む祖父が、半日にわたる延命措置のあと、私たちの到着を待って息を引き取った。ローソクの火が消えるようななどという、そんなきれいなものではなかった。全身に管を通されて、その時が来るのをただ待っている。うつろな目を閉じるわけでも開くわけでもないままで、八年以上の闘病生活を終えていくのだ。
 最後に握った腕がガチガチに硬く、人間のものでないような血の気のない色をしていたことを覚えている。
 私が物心ついた時から、祖父はベッドのなかにいた。だから、祖父との記憶は数えるくらいしかない。固まって動かなくなった手で、一生懸命ジャンケンの相手をしてくれたこと、出ない声をふりしぼって、おこずかいをあげたいといってくれたこと。幼くて、枕元ではしゃいでいた私たち子どもを、突然大きな声でどなったこと。それでも大切なおじいちゃんで、大好きだった。リセットボタンを押して生き返るのなら、何度でも押しただろう。おじいちゃんはもういないのだ。
 でも、人は二度死ぬといわれている。一度目は命が消えたとき、二度目は生きていた存在を忘れられたとき。そして私の祖父は、二度目の死を迎えることはないだろう。

■死んだら終わりだが……

 あれから約10年がすぎた1997年6月臓器移植法が成立し、臓器提供の場合に限って脳死は人の死となった。命について、死について、家庭のなかで少しずつ話し合われるようになっていくだろう。脳死移植そのものについてより、ドナーカードをめぐる話し合いのほうが、家庭の中では切実かもしれない。
 一度しかない人生だから、できる限り長く生きていたいと思う。だからこそ私は、ドナーカードにサインをしたいと思った。だが、家族からは反対された。脳死となる前、また、そう診断されたあと、誰かがあなたの死を望むことになるから、家族としての署名はしたくないといわれた。
 法律の主旨が正しければ、「誰かが死を望む」前に、脳死はまぎれもなく「死」のはずなのだが、実際のところ脳死がどのような状態になるのかよくわからない。脳死と診断されてから、どれくらい心臓が動いていられるものなのか、遺体は自宅に帰ることができるのか、それさえもわからない。
 ただ耳に入ってきているのは、突然、脳死状態になった時、病院や医者から臓器提供を勧められて、家族が悩む可能性があるということだ。そのときに迷惑をかけたくないから、先にドナーカードにサインしておこうと思った。
 けれども、もし自分の家族がそうなった時には、たとえすでに脳死になっていても、心臓が止まるまで毎日会いにいくことも、返事が返ってこないことを知りながら話しかけることもいとわないだろう。あと一分でもいいから、「ただ、そばにいられればいい」と感じるのが家族だと思う。
 逆に脳死と診断されたのが自分だったらどうだろう。死んだ自分をいつまでも見舞う家族には、やはり迷惑をかけているといえるのだろう。悲しませてしまっていることになるだろう。でも、そのまま心臓の止まるのを待つだけというのはなにかやっぱり嫌だ。
 私の心臓を移植することで生きていくことができる人がいるなら、心臓を提供したい。肝臓だって腎臓だって肺だって、できれば提供したい。死んでもいろいろなものを見ていたいから、角膜も移植してもらいたいと思う。こうすることで第二の人生を生きられるのだと思うから。生まれ変わるのではなく、生き続けられるのだと思うから。
 自分がどのように生まれて、どのように生き、どのように死んでいくかを少しでも多く考えたい。生まれ変われることを期待したり、リセットボタンを押したいと考えるのではなく、死んだらそこで終わるのだということ、だからどうしたいのかということをみんなももう少し考えなければいけない。特に子どもには。それを、誰かが今の子どもにちゃんと伝えなくてはいけない。それは「死」を想像させるための作業なのだ。

■人生は生きながらやり直せる

 生んだのは親の勝手だから、自分には関係ない。今こうして生きているのは、親が勝手に生んだからだ。だから、別に生きていたいわけではない。生まれ変わったら幸せになれるかもしれないから、死んでしまおう。生きているのが面倒くさくなったから、リセットボタンを押してしまおう。
 人生は、ゲームではないのだ。
 前にも書いたが、私が保健室で首を絞められたことも、彼らにとってはゲームのワンシーンでしかなかったのだろう。人が死ぬということは、彼らにとってこわいことではないのだ。本当に、ただのゲームのワンシーン。ただのドラマのワンシーンなのだ。
 人にナイフを刺して、それを引き抜いたら血が噴き出すことを想像すれば、刃物を持つのがこわくなるはずだ。時代劇の立ち回りでは、ただ人が倒れるだけだけれど、真剣で人を切れば血は噴き出すのだ。
 それを想像したら、頭にそのシーンが焼きついて離れなくなってしまった。でも、それがふつうのはずだ。
 人の体に赤い血が流れていること。血の流れは、自分の想像する以上に速いということ。それは人が生きていることだということ、こんなことは教えてもらってもわからない。けれど死について、誰もが考えねばならないことなら教えられる。たとえば脳死をテーマにして。
 人生が一度きりだということを、死んでからわかったのでは遅いのだ。生きていなければ、人生をやり直すことはできない。
 人生は生きながらやり直すものだ。それがわからなければ、生まれ変わっても、どうせ逃げるだけの人生を繰り返すことになるのだから。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第15回 通信制高校に通う人たち

■月刊「記録」1999年4月号掲載記事

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■外見だけで判断してはいけない

 先に述べたように、私は普通高校を中退して通信制高校に通っていた。しかし一口に「通信制」といっても、学校によってまったく異なるルールがある。私の通っていた学校は公立高校だが、一つの学校の中に、単位制、定時制、通信制の三コースがあって、それぞれの生徒が、それぞれに異なる生活時間で暮らしながら、高校卒業という同じ目的を持って通っていた。
 単位制コースとは、いわゆる全日制のことで、毎日、日中に学校にやってきて授業を受けるコースだ。単位制の生徒は、だいたい三年間で学校を卒業する。ただし、全日制との違いは、全日制では、毎年、学年ごとに決められた単位数の授業を取らなければならないのに対し、単位制では、二年生の単位を三年生になってから取ることも許されている。とりあえず三年間のうちに、決められた単位数だけ授業を履修すればいい。
 しかし、私が単位制コースについて知っているのはここまでで、彼らの学校生活や行事ついては、まったくわからない。
 定時制コースについては、生徒は、夜間(たしか五時頃から)学校に来て勉強している。私の選択していた通信制コースは、月に二回、火曜日が一斉登校日に指定されていて、この日には学校へ行かなければならない。だから、定時制の生徒とも、本来なら登校日に顔を合わせてもおかしくないのだが、なぜか学校の中で彼らに会うことはほとんどなかったのは不思議だ。
 また、単位制の生徒ともあまり顔を合わせる機会はなかった。以前、自分のクラスの先生に、単位制の生徒は、今どこで何をしているのかと尋ねてみたことがあるが、先生もよくわからないようだった。まあ、制服のない学校なので、もしかするとこちらは、廊下ですれ違っているのに、気づかないだけかもしれないが。
 ただ時々、昔、同じクラスにいて、通信制から単位制のクラスに移った子に廊下で会うことがあった。私の学校では一定以上の成績を取れていれば、学年の変わり目に他のコースへ編入することができる。だから単位制のクラスであっても、二〇歳を超えている人や一度、高校中退を経験した人もいた。
 私の県では、年に何度か「定通体育大会」というものが行われている。これは、県内の定時制高校と通信制高校が合同で行う体育大会だ。この大会に参加したとき、他の高校の定時制に通う男の子と話をした。
 彼によれば、定時制にも全日制と同じように、ちゃんと給食の時間などがあって、クラスの雰囲気は全日制と大して変わらないようだった。違うとすれば、年齢も立場も異なるさまざまな人がいるので「人を外見だけで判断してはいけない」ということを学んだという点だけだといった。

■普通の時間が流れる教室

 私も、定通体育大会で話をした彼とは、まったく同じ感想を持っている。通信制コースにも、年齢や立場が異なるさまざまな人が在籍していたからだ。
 このコースは通ってみると、意外なことにとてもおもしろい。よく、全日制高校の生徒から、通信制では友達はできるのかときかれるのだが、クラス全員が友達といってもいいくらいみんなが仲良しだ。いや、クラスだけではなく、他のクラスの生徒ともみんな仲良くしている。
 一年を通して、一五回程度しか私たちは顔を合わせない。それなのにどうして友達になれたのか、改めて考えてみるとよくわからない。たぶん、同じクラスの仲間として顔を合わせるたびに、自然に当たり前に仲良くなっていっただけだろう。
 それに通信制高校だからといっても、ただ決まった期間内に与えられた課題をこなし、レポートを提出するだけというわけではない。夏季合宿もあれば、冬季合宿もある。遠足のように会津若松に旅行し、野口英世記念館に行ったり飯盛山に登ったり、冬にはスキーをしたりする。ふつうの高校生が合宿でするように、雪の中にお酒を隠して、夜中に宴会をしたりもする。修学旅行もある。担任の先生もいる。
 音楽の授業では、オカリナを吹かなければならなかった。前に受けたテストでは、成績の判定がこのオカリナにかかっていた。自慢じゃないが、私はわりと簡単にオカリナを吹きこなすことができた。けれど、もうすぐ定年を迎えようとしているおじさんには、とてもじゃないけど吹けるものじゃなかったらしい。曲目は「瀬戸の花嫁」。若い世代の私にはなじみのない曲で、あまり吹きたいという気持ちにはならなかったが、年配のおばちゃんたちには、なじみのある曲らしい。
 また、数学のテストなどを行うと、今度は年配のおじさん・おばさん軍団がいい点数を取っている。私たちのように、現役に近い生徒のように中学校を卒業してすぐ進学したわけではなく、数学から遠ざかって長い年月が過ぎているぶんだけ、記憶力も理解力も判断力も衰えているからだという。授業のたびに、頭の中をフル回転させるようにしているのだといっていた。
 英語なども現役生より人一倍努力しているようで、いい成績を取っている。だから、「手先を動かさなければならないオカリナなどより、英語や数学のほうが、ずっとこなしやすかった」といっていた。
 また「今の若い子は、どうせ料理なんてろくにできないんでしょう」なんて笑われたり、でもオカリナを吹きこなせるところを、「やっぱり若い子は違うわ」なんて感心されたりした。学校の外で会っていたら、きっと話してみることもなかったような母親より年齢が上のおばちゃんたちが、身近でいい人に見えたりする。
 同じ教室のなかに、年がうんと離れた同級生がいるというのは、いろんな意味で勉強になった。
 私たちの教室のなかには、教室以外の場所と同じ時間が流れていた。同じ制服を着て、同じルーズソックスを履いて、わけのわからない校則に縛られている、教室外から隔離された時間ではなく、外と同じ当たり前の時間が流れている。そして、たとえ歳が離れていようと同じ高校生として一緒に成長していく、大切な時間が流れていたのだ。

■教室が私を認めてくれている

 主に通信制の高校に通う生徒のために、サポート校という塾のようなものが存在している。サポート校では、ちょうど高校の授業の内容と同じ進度で授業を行い、通信だけでわからない部分の質問を受け付けたり、テスト前に補講するなどして勉強をサポートする。一応、クラスがあり担任の先生がいて、進学などの相談にも乗ってくれる。ただし、塾のようなものなので、単位はもらえない。
 私もいくつかのサポート校を見学したことがあるが、私が見たサポート校は、どこも温かい雰囲気のところばかりだった。もっと早くにその存在を知りたかったと思うほどだ。
 以前、あるサポート校の入学式に、通信制高校についての体験談を話にいった。入学してきた生徒は、不登校児や一度高校に進学したあとに中退して、通信制に進学し直すことにした子などであった。
 そして生徒たちのとなりに並んでいた彼らの先生の一人は、東京大学の大学院生だといっていた。さすがに担任の先生たちは、きちんとスーツを着ていたが、教科を担当する講師たちは、かなりカジュアルな服装で出席していて、まるで家庭教師のようだった。でも、そういう気楽なところが、生徒達に安心感を与えてもいるのだと思う。
 かつて、私の家に勉強を教えに来てくれていた家庭教師の先生がいた。彼が、私以外の教え子の話をしてくれたことがある。
「その子のお母さんはね、子どもに勉強する習慣をつけてくれればいいっていうんだ。だけどその子は、いつも僕に漫画を読もうとかゲームをしようよっていって、全然勉強してくれないんだ。でも勉強している時より、そういう時のほうがずっと楽しそうなんだよ」
 先生は、教え子に無理に勉強はさせたくないといっていた。私も勉強は、窮屈なものであってほしくないと思う。
 先生や親のために勉強するわけじゃないし、ましてや勉強は、順位を競うためのものじゃない。赤点すれすれだって、おもしろいと思って勉強できれば、それでいいと思う。
 通常、通信制や定時制の高校では、四年制のところが多く、卒業までに四年間かかるシステムになっている。私立の通信制高校では、三年で卒業できるシステムのところもあるが、公立の高校では、それはめったにない。 だが、私の通っていた学校では、公立にもかかわらず三年制で卒業できる制度が実施されていた。
 私も三年間で卒業しようと考えたことがあって、そのクラスを選択していたこともある。では、どうやって三年間で卒業するかというと、四年次に取るはずの単位を、二年次と三年次に半分ずつ振り分けて取ってしまうのだ。
 つまりふつうは、年間で八教科分の単位を取ればいいところを一〇教科分履修する。そして毎月、火曜日と日曜日に行われるスクーリングに出席してレポートを提出し、授業日数をかせがねばならなかった。
 けれど教科によっては、三年制用と四年制用の内容では、テスト範囲もレポートのテーマも大きく異なり、アルバイトとの両立が大変で、勉強についていけなくなった私は、それを途中で断念することになってしまった。 でも私は満足している。一年間、高校生活が長い分、友達も増え、学べることも増えたからだ。そして何より学校が楽しく感じられたからだ。もしも私が、あの中退してしまった全日制の私立高校に通い続けていたならば、こんな気持ちにはなれなかっただろう。
 教室はいつからか、私を認めてくれる空間になった。私を包んでくれる空間になった。私を輝かせてくれる空間になった。
 生きてる私は、そこにいた。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第14回 ハッキリと映った少年たちの顔

■月刊「記録」1999年3月号掲載記事

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 1999年1月。アルバイトを終え、くたくたになって家に帰って、いつもと同じようにテレビをつけると、どのチャンネルも同じ報道をしていた。まず夕方六時のニュース。テレビからは「東京都港区のお台場で、20代の若い男が小学校三年生の男の子に刃物をつきつけて人質にしている」という解説が流れている。
 犯人の男性は、しっかりとテレビに映されていて、生中継を見ていた私は、そのまま犯人逮捕の瞬間までしっかりと見せてもらった。警視庁の捜査員が犯人を事件発生から約二時間後に逮捕し、男の子は無事保護された。 そして、同じ日の夜のニュース。「……東京台場で、16歳の少年が、小学三年生の男の子を人質にして……」と伝えた。犯人は愛知県小牧市に住む16歳の無職少年だったというのだ。
 聴きながら、思わず自分の耳を疑った。先ほど、小学生の男の子を人質にしていたその少年が、とても16歳には見えなかったというのもさることながら、バッチリ顔を映されてしまったことによる、彼の人権の侵害についてを一瞬、考えたのだ。

■どの顔も少年のものだった。

 16歳の少年は、確かに悪いことをした。だが、20代であるという思い込みから、しっかりとテレビに顔を映されてしまったことについては、同情してしまう。
 この事件が起きて数日後、私のもとに一通の手紙が寄せられた。手紙には、「被害者側の人権についてどう思うか」との質問が書かれていた。たしかに、あのとき人質になった小学生の男の子は、人質となっている間中テレビにナマで報道され、局によっては顔や名前まで公表されてしまっていた。私は見てはいないが、記者会見を開いたりまでしていたという。
 けれども人権は、被害者だけのものではないだろう。加害者も結局は未成年だったし、それならば将来があるだろうに、名前や顔を報道してしまったのは、ちょっとやりすぎだったような気がする。
 九七年に起きた神戸での小学生連続殺傷事件で加害者であった少年Aも、ある週刊誌に写真が載せられた。少年Aと比較すると、事件の規模は小さいが、ある芸能プロダクションに所属していた芸能人の四人の少年が、未成年の飲酒とタバコを週刊誌にすっぱ抜かれ、しっかりと顔写真を掲載されて、芸能生活を終えたという例もあった。
 どの事件も、すべて偶然なのだが、私はしっかりとその顔を見ている。屈託のない笑顔も険しい表情もあったが、どれも少年のものだった。
 先の小学生人質事件では、事件発生から二時間が経過した頃、加害者の少年に警察官が言った。「ここでは寒いから、別の場所に移って話をしよう」と……。
 報道を聞いていて、私と母は二人で苦笑した。別の場所に移ろうなんて「そんなこといわれたって、ふつうは動かないよねえ」なんて。
 ところが、今まで座っていた加害者の少年は、おもむろに立ち上がったのだった。立ち上がろうとした動作の最中に、スキをつかれて警察官に両側から取り押さえられた。夜のニュースで加害者の年齢を聞いた時、驚くと同時に、この行動を思い出してやたらに納得した。そして、この少年のあまりに幼い、ばか正直さに、なんだか少しだけホッとした。
 大人ぶっていたって、しょせんは子どもだ。よく観察していれば、その行動は、ばか正直で幼い。前にお話した万引きする少年少女もそう。私のアルバイト先で、しょっちゅうトイレに隠れてタバコを吸っている中学生の少年もそう。
 かなり都会から離れた地域だからか、隣近所とのつきあいが残る土地柄か、中学生が隠れてタバコを吸っているのを私たちは見逃したりはしない。きちんと怒ってあげるのが、周りで彼らを見守ってやれる者の役目だ。
 そんな時、私たちは、なにも「タバコを吸うのがいけない」などと叱るわけではない。親の前で堂々と吸えないのなら、トイレに隠れたりして、人に迷惑をかけなきゃ吸えないのなら、堂々と吸えるようになるまで待ちなさいというだけだ。とても小さなことだけれど、それを注意してあげる人のいない場所では、きっと犯罪は増えていくのだろうと思っているから。
 子どもたちに自覚が足りないから、年齢に心がついていっていないから、少年犯罪があとを絶たない。でもそれは、少年に限ったことでは決してないのだ。

■向き合うことをやめてはダメ

 連日耳にする、さまざまな事件。子どもが引き起こす事件は、その年齢からすると凶悪犯罪かもしれない。
 でも、大人だって信じられないような殺人事件を繰り返してる。電車のなかでは、おじさんが痴漢行為を平気でしている。おばさんは、主婦売春や万引きでストレスを発散している。
 だけど、彼ら大人はあまりテレビに出てこない。警察に捕まったって、新聞の端っこに名前が載るか載らないかで終わってしまう。だから目立たないだけだ。
 お昼のワイドショーでは、援助交際をする女の子が出てきて笑う。おやじ狩りにあったおじさんがおびえてしゃべる。連日、新聞・テレビをにぎわす少年犯罪に、世の中が偏見の目を向ける。
 大人は、マスコミの作り上げた少年少女像におびえ、目の前で、未成年者がタバコを吸っていても、何もいわなくなっている。万引き現場を発見しても、何もいわなくなっている。いつ自分がねらわれるか、そればかりを考えて、できるかぎり関わり合わないようにしようとする。大人よりも子どものほうが、大きな犯罪を犯すようになったと嘆き、「今の子どもの考えが、さっぱりわからない」という。
 けれども、正面から堂々と向き合うことをやめてしまったら、大人の思いなんか子どもには通じるはずもない。先生や生徒、先輩や後輩といった縦の関係が薄れてきている今、子どもの上にしっかりと立つ者が姿を見せなかったら、単純で思慮のない子どもたちは、すぐに、大人の上に立てるような気になってしまう。
 たしかに最近、子どもが犯した凶悪犯罪のいくつかが、世間を騒がせた。だが、凶悪犯罪を犯す子どもを生んだのは、人に迷惑をかける子どもを見逃してきた大人の責任でもある。偏った報道をしてきたマスコミにも責任がある。偏った考えをもった大人にも、小さな責任を感じてもらいたい。
 行きすぎた報道で、少年少女の人生をボロボロにしていいのだろうか。どの事件も、どうしてもう少し慎重になれなかったのか、一瞬でも彼らと同じ目線で物事を考えられなかったのかと、考えてしまう。
 報道で明らかにされた、犯罪を犯した少年の顔について話をする前に、自分の心にある、自分自身の顔について考えていかなければならないと思う。
 偶然とはいえ、しっかりと見てしまった六人の少年の顔を、できるだけ早く忘れようと思う。彼らと同じような人生を、自分が、そして自分の子どもが犯さないように。私もまだ自分自身を磨き直さなければならない年齢なのだから。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第13回 犯罪者はいつでもどこでもみられている

■月刊「記録」1999年2月号掲載記事

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 少年犯罪があとを絶たない。九八年の少年犯罪件数は、聞くところによると、八年ぶりに何万人かを突破し、なかでも殺人事件に関しては、史上最悪の数字を示したという。
 最近の高校生は、人前でも平気な顔をしてタバコを吸う。これについて、同じ未成年でタバコを吸う私は、あまり偉そうなことはいえないけれど、一応法律では罰せられるのだということを頭の隅においておかなければいけないと思う。
 ちなみに私は、その後禁煙に成功して、全然タバコを吸っていないし、タバコを吸っていた時でも、人前で吸うことはめったにしなかった。人前で吸うことは、それだけ相手に迷惑をかけることだから。
 犯罪にもいろんな種類があるけれど、本当に許せない気持ちになる事件が私の目の前で起きたことがある。
 アルバイト先のドラッグ・ストアで、口紅の万引きを目撃したのだ。

■口紅を手に隠した女の子達

 私は、自宅近くの大手のドラッグ・ストアでアルバイトをしている。ある日、高校生よりも少し年齢が高そうな、フリーターらしき女の子が四~五人、店のなかに入っていった。その直後に、休憩を終えた私が入っていったのだが、彼女たちは私に気づかなかったらしい。レジのほうを見ながら、さっと口紅を取って、手のなかに隠してしまったのだ。
 驚くほどあっという間の出来事だった。これが万引きだと悟るのに、まばたき二回くらいの時間はあった。
 驚きにしばらくぼう然としていたが、そのまま見すごすわけにはいかない。
 こういう時は、すかさずあいさつをするように、店の社員からいわれていたことを思い出し、「いらっしゃいませ!」と大きな声でいうと、彼女たちは、私以上に驚いた顔をして、こちらを振り返った。
 そして、その女の子たちとのにらみ合いが続く。
 口紅はまだ、彼女たちの手のなかにあった。一応、店長に状況を報告して、私はそのまま、店内をうろつきまわる彼女たちを追いかけた。彼女たちは、一通り化粧品売場を見て回ったあとで、棚の下のほうに置いてある商品を見ながら、みんなでしゃがみ込んでしまった。
 正直なところ、しゃがみ込まれてしまっては、手のなかの動きを確認することができなくて、手も足も出せない。けれども、どこからどう見ても、彼女たちはこれから万引きを行おうとしているように見えた。それを見すごすことはできない。そこで、店内を掃除しているふりをしながら、じっと彼女たちの様子をうかがった。
 もちろん、彼女たちだってこちらの動きをうかがっている。こそこそと話をしているが、一人が見張り役で、一人が犯人役と、きちんと役割が決められているように見える。
 ということは、今日がはじめての犯行ではないだろうから、当然慣れた手つきでその行動に及んでいるわけであり、私が彼女たちを捕まえられる可能性も少ないのだ。
 マニキュアを選ぶフリをしながら、手のなかで口紅を転がしている女の子がいる。ずっと彼女をマークしていたのだが、ちょっと目を離して振り返った瞬間に、今まで手のなかにあったはずの口紅は、もうなくなっていた。時間にして一〇秒もなく、本当にあっという間のことだった。
 万引きは、現行犯でしか捕まえることができない。どこまでを現行犯として認めるかは、店によって違うのだろうけれども、私の働いているところでは、商品を体のどこかに隠す、その瞬間を見なければ、現行犯としては認めないことになっている。だから彼女たちを現行犯として認めることはできなかった。
 ただ、彼女達に、自分たちの行為が、他人に知られているということを認識してもらいたくて、私は、その動きを見はからって、店の裏にある倉庫のほうへと走った。

■せめて、しまったと感じてほしい

 休憩に入っていた、化粧品担当の社員に同行してもらって、どの商品がなくなっているかを確認してもらおうと思った。細かい商品のうちの一つくらい、なくなってもわからないのではないかと思われるかもしれないが、消えたものは、ちゃんと一発でわかるようになっているのだ。そうこうしている間に、彼女たちはさっさと帰ってしまった。
 私は店長に、走ったことが間違いだったと注意された。
 彼女たちが帰った店内からは、若い人が好みそうな口紅が一本消えていた。そして、その一〇分後、化粧小物が置いてある棚の場所で、口紅は発見された。そこは、私とにらみ合っている時に、彼女達がしゃがみ込んでいたすぐ隣の棚だった。
 彼女たちが、どんな思いでこれを置いていったのか、どんな目的でこのお店に入ってきたのか、だいたいの察しはつく。ただ、この口紅を置いていってくれたことが、少しだけうれしかったと思う。
 店長は、私が走ったことが間違いだといった。つまり、彼女たちに万引きをやらせて、あえて警察に突きだそうということだ。
 その考え方も、間違いではないのかもしれない。一度警察に通報されれば、それで懲りるということもありうるだろう。だけど、何より大切なのは、捕まったからやめるのではなく、行為そのものが間違っていることを、認識してくれることだ。
 彼女たちは、私が走ると同時に逃げた。しかも口紅を置いて逃げた。自分たちの行為が、許されないものだとわかっていたからだ。やろうと思えば、持って逃げることだってできたのだから。それなりに、罪悪感を感じたことだろう。
 しまった、という気持ちでもかまわない。それなりに気まずい思いはしているだろう。罰を与えるよりも、自分を見直す時間を与えてあげたほうが、よっぽど彼女たちのためになるのではないか。

■図太くて悪質すぎる人々

 万引きは、昔からある犯罪だけど、お金がなくてやむを得ず万引きをする人は、最近ではあまりいないだろう。だいたいの人が、スリルを楽しんだり、日頃のストレスの発散のために、その罪を犯す。
 万引きをするのは、高校生だけではない。おじさんや、おばさんだってたくさんいる。みんな、その行為が犯罪にあたるのだという罪の意識は、なんだかびっくりするほどもっていないらしく、いくつもの商品をふところに隠してから、頭痛薬を持ってレジに並び、しっかりと領収書を請求する人までいる。
 そういう行動を取るのは、だいたいが主婦なのだが、その手口は、高校生よりもずっとずっと悪質だったりする。
 その日、届いた商品が一二個あったとすると、それをそのままそっくり、持参した空のケースと交換してしまう。そして、空のケースを持って店員の前にやって来て、「いつも欠品してるのね」と文句をつける。
 一度だけならまだしも、週に三度も四度も平気で繰り返す。あまりにも図太くて悪質だ。一個や二個の小物を万引きするならまだわかるけど、トイレットペーパーにティッシュ、薬をいくつかと化粧品を二点、それと空ケースを手に持って、おまけに手さげのバッグは大きく開かれている。
 テレビを見ていると、万引きで捕まった人はあまり警察に連れて行かれないようにみえるけれども、私の働いている店では、そんな情けはいっさいかけない。たとえ銀行員だろうが、公務員だろうが、警察に突き出すことにしている。この先そういう行動を取ろうとする人のためにも、しっかりと法の下に罰を受けてもらうことになっている。

■見ていないと思ったら大間違い

 ある夜、閉店間際に、進学高校に通う少年が入ってきた。彼は、今年、受験をひかえている。そんな彼が、コンタクトレンズ用の目薬を二つほどポケットに入れてもって帰ってしまった。
 お店を出た時点で、彼を捕まえられなかったのはこちらの落ち度である。これでは警察に突き出すことはできない。けれども、高校生の万引きを見逃したり、高校生のアルバイトが見ているなかで捕まえそこねると、あとあとやっかいなことになる。彼らの通う学校内に、「あの店は万引きしやすい」といううわさが広がってしまうからだ。
 そこで、社員の男の人が、お店を閉店させたあとで、学生のアルバイトを車に乗せて、少年を追いかけることにした。ふつうだったら、そんなことまでしないのだけれど、偶然、アルバイトに来ている子の学校の知り合いだったのだ。
 私たちは、彼に卒業写真をもってきてもらって、住所と電話番号を調べた。それから、少年の友達のふりをして家に連絡し、まだ自宅に戻っていないことを確認した。万引きをした人は、特にはじめての人は、興奮のためだろうか、家にはすぐに帰らず、店のまわりをうろうろするのだという報告が、あるらしい。
 社員の車は、車高がかなり低くなっている改造車だ。マフラーは取り替えられていて、騒音・轟音・爆音。ライトは青白い光を放ち、薬局の社員にはあまりにも似合わない車だ。これで、犯人の少年を捜してまわる。
 彼は、意外にも早く見つかった。轟音を立てながら幅寄せをしてくる車で追いかけられて、恐れをなしたのか、最初は逃げていた少年も、とうとう観念して、意外に素直に万引きを自供した。
 警察にこそ連れていかれなかったが、少年の反省は相当なものになっただろう。かなり厳しいお説教を、社員はクドクドと行ったという。もちろん、商品は返してもらった。
 まあ、この例は極端だとしても、ある程度の年齢に達していれば、反省するなり罪をつぐなうなり、その謝罪はいくらでもできる。けれど、むしろやっかいなのは、五・六歳くらいの幼い子どもたちだ。
 風船やガムなどを手に握って、お母さんと一緒にレジのほうにやって来る。でも、それをレジにいる私にはわたしてくれない。手のなかのものが、店の商品であるのか否か、きちんと見せてもらわない限り、私たちにもわからない。
 母親のほうも知っているのか知らないのか、別に気にもしていない様子である。子どもたちは、どこかうしろめたそうにレジを横切って帰っていく。
 子どもたちの親は、自分の買う物にだけお金を払えばいいと思っているようだ。買うことに一生懸命で、子どものことは見ていない。家に帰ってから、子どもが店の商品を握っているのに気づく親もいるが、一本、間違えているという電話をかけるだけだ。お金を払いに来てくれる人はほとんどいない。
 何より、レジまでやってきて、子どもと商品を置いて、また買い物に戻ってしまう親も多いのだ。そんな時、子どもの手のなかを開かせてみても、さすがにガム程度になると、売り物であるかどうかはわからない。親さえ子どもを見ていてくれれば、たくさんのトラブルが、なくなるというのに。
 店の隅の天井に、防犯カメラが置いてあるのを誰でも見たことがあるだろう。実は、防犯カメラは、あれだけではないのだ。ライトの裏に隠してあったり、小物の陰のほうに潜ませてあったり、壁と一体化させて、ピンポイントカメラを設置してあったり、あえて偽物のカメラを下げておき、本物を別の角度に備えているところもあるのだ。誰も見ていないから、やってもいいと思っちゃ大間違いだ。
 いつかは、どこかのカメラに映し出されて、罰を受けなければならない時がくる。誰でも、誰も見ていなければ、そして自分だけがよければ、何をやってもいいと思ったら大間違いなんだ。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第12回 梧桐勢十郎になりたい友人

月刊「記録」1999年1月号掲載記事

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■型破りな生徒会長

 学園モノといわれるマンガのなかには、生徒会長が出てくるものが多い。
 女の子が読む学園モノは、定時制高校の話や、新設高校を舞台にしたものなど、感動モノが多く、おもしろおかしく描かれたモノはごく一部だ。しかし、そんなごく一部のマンガのなかの生徒会長でさえ、マジメで優秀というのがお決まりのパターンだ。
 そんな当たり前の生徒会長のいるマンガによって、私の生徒会長のイメージは作られた。生徒会長イコール頭がいいマジメちゃんだと。
 しかし生徒会長を主人公としたあるマンガに出会ってから、イメージはうち砕かれた。そのマンガを好きな友人が、よくこういっていた。「私、『梧桐勢十郎』になりたいのよ」と。
 とは、『明稜帝梧桐勢十郎』という、男の子向けのマンガの主人公だ。
 明稜高校の生徒会長である彼を中心に、学校モノのキーワードであるイジメや部活動、恋愛、教師、ケンカなどが描かれている。
 学校の生徒会長ときくと、やはりお堅い人間をイメージしてしまうけれど、この梧桐勢十郎は、堅いといえば堅いけれど、それ以上にとにかく暴力的なのだ。
 同じ生徒会のメンバーを「下僕」と呼び、イジメられている生徒には追いつめるような言葉を連発する。
 そして最近では見かけなくなってしまったような乱暴者だ。集団にならないとオヤジ狩りができない現代の少年とは違い、この主人公は一人でも暴れている。今の学校に、こんな個性的な生徒会長のいるところはないだろう。
 このマンガはある男の子がイジメにあい、学校に転校してくるところから始まる。
 自分は何もしていないのにイジメられる。逃げなかったらイジメられる。自分の居場所を求め、自分の住める世界を求めてこの学校へ転校したきたのに、転入早々、勢十郎の暴力現場を見てしまう。そして、この転入生は突然、生徒会の役員に任命されてしまうのだ。
 今までイジメをうけてきた彼は「下僕」と呼ばれ、暴力的な生徒会長の下で高校生活を送らねばならないことを知らされ、自分に残された道は死だけだと信じこんでしまう――。
 ふつうの学校に、とんでもなく場違いな生徒会長がいて、校則よりも暴力でまわりを振り回していく(まとめていく)姿に、あっけにとられてしまう。転校生を加えた生徒会がどういう行動で学校をまとめるのか、本当に学校をまとめられるのか、どんどんストーリーに引き込まれていく。
 生徒会長は、自殺しようと考えていた男の子に間接的にこう言う。「死にたいのなら、俺が殺してやる」と。 その子を殺した罪を一生背負って生きてやる。その方が、寂しくないだろうから、というワケだ。
 人に対して、正面からぶつかっていくことが、時に相手を傷つけてしまうこともあるけれど、反対に相手を救うことになることも多いと思う。
 人の寂しさに気づいてあげられる人が、とても少なくなっている今、かなり過激な方法だけど、生徒会長は、人の寂しさをわかってあげられる人だ。このマンガでは、この転校生の男の子だけでなく、そういった寂しさをもった生徒と、それに気づいて手を差しのべる生徒会長という基本線が学校という空間に織り込まれ、なかなか読みごたえがある。

■人の寂しさに気づけるか

 先にあげた友人は、本当にこのマンガが大好きで、コミック誌に連載されているうちから読み始めたらしく、何かというと、梧桐勢十郎の名前を挙げていた。
 彼女にとっては、一昔前でいう、金八先生のような存在らしい。
 こんな生徒会長がいれば、ぜったいにイジメは起こらない。先生が生徒をいじめるなんてことはなく、生徒が先生をイジメることだってもちろんないだろうと。
 耳にタコができるくらい、同じことを聞かされた。
 そして私も、梧桐勢十郎に魅せられた。
 彼女が梧桐勢十郎になりたいというのは、彼のように人の寂しさに気づいてあげられる人間でありたいということなのだろう。私もその友人と同じように、人の寂しさに気づいてあげられる人間になりたいと思っている。 イジメる側が悪いとか、イジメられる側が悪いとか、イジメの真相を知らない人がよく議論しているけれど、この生徒会長は学校をよく観察して、イジメについてよく調べ上げ、原因の一つひとつをきちんと解決しようとしている。このマンガに学びたいのは、生徒が生徒をまとめていく姿勢と、最後の決断を下すのが生徒会長ではなく、問題となっている人物自身であるということだ。 現実の子どもに、自分の力で解決しようという姿勢が見られるだろうか? 最後の決断を下す勇気があるだろうか? 人の寂しさに気づき、その寂しさを他人にうち明けることができるだろうか?
 この学校(明稜高校)での出来事は、現実味としては無理が感じられるものの、そこで繰り広げられるドラマには、今の学校にはない温かいものが感じられる。
 彼の前から一度消えた昔の友達が、彼の前に戻ってくる。その友達は、昔のうらみを晴らすために戻ってきたのだが、うらまれているほうもそのことはハッキリ覚えている。だからよけいおもしろい。たとえ昔のことであっても、答の出なかったものごとに対してきちんと受けとめる。
 友達とケンカして、そのままケンカ別れ。ふと振り返ると、そこには誰もいなくて、ひとりぼっちの孤独感だけが自分に残ってしまったことがある。それがどうしてなのか、このマンガを読んでわかった。勝負ごとでそこそこの成績をとったけれど、なぜトップにはなれなかったのか、それもこのマンガでわかった。

■過去があって今があるのに

 勢十郎にはたくさんの敵がいる。彼に向かっていく敵は、だいたい寂しがり屋だ。勢十郎は、どんなに無視されている者だとしても、対等に相手をする。誰もが寂しがりやだと知っているから。
 みんなが無視する子に対して、自ら進んで相手をするというのは難しいものだけど、対等に、かつ楽しそうに相手をしていく姿には、今、子どもにはない勇気を感じさせられる。
 今の学校組織に足りないものは、過去を受け止めようとする姿勢ではないか。生徒の一人一人に過去というものがある。学校がその過去まで含めて面倒をみなければ、イジメや不登校が解決に向かうこともないだろう。
 自分のことを例にあげるのもなんだが、私は小学三年生の時に茨城の学校へ転校してきた。土地になじめず、たいした友達のないまま中学まで卒業し、なんとか入った高校は中退してしまった。地元に友達と呼べる人がいるといい切れる自信はない。
 同じ通信制高校の友達にそんな寂しさを訴えると、だいたい同じ答えが返ってくる。
「私は、今の香苗しか知らないから」と。
 そう言われると、話はそこで終わってしまう。それ以上に、何の相談もできなくなってしまうのだ。
 中学生の時にも同じような経験をした記憶がある。中学受験の失敗を引きずって落ち込んでいた時、先生に「昔のおまえを知らないから」と、突き放されてしまったのだ。先生は中学受験の失敗なんか忘れて、今の人生を思いっきり楽しんでほしかったのかもしれない。でも、当の本人はそうはいかない状態だった。
 できることなら、それに気づいてほしかった。
 自分からいい出せなかったのはよくなかったかもしれない。でも、子どもの過去を切り離し、今だけをみて話をするのは、必ずしもいい結果を生むばかりではないように思う。
 あまりの速さで時代は変わっていくから、その疑問に答えを見つけだしたころには、もう、世の中が変わっているかもしれない。しかしどんな形であれ、疑問が解けた時は、胸につかえていたものがやっととれたような、そんな安ど感を覚えることができるだろう。
 勢十郎とは違っていても、個性的で、人の寂しさに気づいてあげられる人が一人でも増えたら、学校は本当に変わっていくのかもしれない。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第11回 夢に向かって

■月刊「記録」1998年12月号掲載記事

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 サンタクロースへのお願いごとを誰かに言ったら叶わなくなってしまうと聞いたのは、本当に昔の、小さい頃のことだ。
 いまだに、あの頃のその言葉を忘れられない。だから願いごとや夢を人に話す時に、心なしか抵抗を感じてしまう。願いごとが叶わなくなってしまうような気がして。
 ところで、私の夢は、時代とともに変わっていく。
 看護婦さんになりたかったり、養護教諭の先生になりたかったり、大学に行きたかったり、これまでにもいろいろ変わった。時折自分でもとまどってしまう。
 だから、今の願いもまた、変わるかもしれないのだけれど、今は、文章を書く人になりたいと思っている。
 いろんな職業にも興味があるけれど、自分がそれになることよりも、その職業を題材に文章を書いてみたい。そのことに気づいたのは、つい最近のことだった。一応、まだ高校生だから、それに気づくにはちょうどいいタイミングだったのかもしれない。

■夢に向かって頑張れるならOK

 私の好きな漫画のなかに、将来の夢に向かって学ぶ高校生の話を描いたものがある。
 服飾やデザイン関係について勉強する高校生の学園物語だ。これに友情や恋愛がからみ合っていく。彼女たちは、自分でいろんなものを作っては、フリーマーケットで売るサークルを作る。そのサークルの仲間の一人が、ある時、学校を辞めることになった。彼女は、引きとめられるのが嫌で、辞めることを誰にも告げなかった。ただ、彼氏だけにこっそり告げて学校を去っていった。
 彼氏は、本当に誰にもいわなかった。すると、同じ学校に通う、学校を辞めた女の子の弟がやってきて、どうして止めなかったのかと彼を責める。その時に、高校二年生の彼氏がいったのは、「この学校の連中は、みんなそれなりに夢やら目標やらがあって、それを当然のことみたいに思ってる。オレらの年で、そんなの見つかってるほうがめずらしーのによ」という言葉だった。
 夢を追い続ける、個性派の高校生を描いた物語だ。けれどそのなかの一言一言は、私たちのようなふつうの現代っ子にも訴えかけてくるものがある。高校生を縛りつけているものの代表格である校則や受験勉強。それらがまったくない漫画のなかの学校であっても、登場人物は、プレッシャーに負けそうになりながら生きている。
 漫画のなかの高校生が闘っているプレッシャーって何なのだろう。それは夢。そして夢が、本当に自分にとって夢であるかどうかもプレッシャーになっていく。夢を見ることは簡単でいて難しい。そして見た夢に向かって、歩き出すことはもっと難しい。
 最近、夢をもっている高校生に出会った。彼らは、あるグループのコピーをやっているバンドだ。彼らを見ていると、自分よりも大人だなと感じる。それは夢をもって、実現しているせいだろう。
 私はもともと音楽は好きだけど、クラシックやブラスバンドのみで、歌手などにはあまり興味がなかった。カラオケ屋で聞く曲などにも知らないもののほうが多い。だから、バンドを組んでいる人や音楽をやっている知り合いなども、これまではほとんどいなかった。
 ライブハウスという名前は、聞いたことがあるけれど長い間行ったことはなかった。それが、友達につきあって、行くようになった。はじめてライブを見に行ったのは、九八年のはじめ頃で、二度目に行ったのが五月頃だった。
 行くつもりもなかったのだけれど、友達に誘われて行ったのが高校生のバンドだった。会場に入ると、ギターのアンプやらなにやらの機材に、ただただ驚くばかりだった。もちろん機材だけではない。会場中に響きわたる重低音。それに続く彼らの歌唱力。私は、彼らの魅力に引き込まれていった。
 あとで聞いたところによると、彼らのグループは、ある楽器屋さんで知り合い、結成されたのだという。彼らはその楽器屋さんで、プロの人について、それぞれのパートの勉強をしているのだという。
 三度目になると、会場の雰囲気にも慣れてきた。今度のは、二度目の時に知り合った子たちの通う楽器屋さんが主催していて、彼らの友達と聴きにいったので、ふだんの生活や、新たな一面も知ることができた。
 会場は、彼らの演奏をただ聴いているだけでは足りなくて、彼らの姿を目に焼きつけておこうとする人々の迫力で満ちていた。鼓膜が破れそうな大音量のなかで、バンドは精一杯、自分たちを表現していた。
 私は、そんな光景を、口を開けて見ていた。感動という言葉が当てはまり、共感という言葉も当てはまる、なんともいえない心境になった。そして、自分の好きなことに熱中できる彼らをうらやましく思った。なぜなら、歌っている時の彼らの顔がとても輝いていたから。彼らは、舞台に立った瞬間に、輝きはじめるのだった。
 夢をしっかりもっていて、頑張っている。もちろん、あこがれだけでやっている子もいるだろう。けれどともかく、一生懸命やっている。学校のテストで赤点取ったって、きちんと夢をもてて、夢に向かってがんばっていられるのならば、それで十分なのじゃないかと思わせられる顔だった。

■夢見るときの「クレイジー」な感覚

 ある学校の先生が、保護者に対して、アンケート調査を行ったという。中学校三年生の子どもの親に、こんな質問をした。
「中学生の時に、何になりたかったですか? また、その夢はかないましたか?」
 当然のことながら、なりたかったものはみんなバラバラだ。そして母親のほうは、半分近くがかなったと答えたけれど、父親のほうは、二〇パーセントくらいしかかなったとは答えられなかった。
 中学生くらいでは、どんな職業があるのかさえも知らなかっただろう。だから途中で夢が変わってしまったとしても仕方がない。またかなわなかったとしても、むしろそれが当たり前かもしれない。
 音楽で食べていけるようになりたいと思って、バンドをしている子どもたちがいる。もちろん、彼らのなかで、音楽で食べていけるようになれる人は数えるだけだろう。それだけに親や教師からは、バンド活動を反対されているかもしれない。
 夢を追いかけるだけじゃ、確かに立派な大人にはなれないし、受験のことを考えたら、そんなことをしている場合じゃないのかもしれない。
 けれども、将来の安定した生活やみんなと同じ人生を歩むために、やりたいことをあきらめてしまうのはもったいない。周囲が圧力をかけて諦めさせてしまうのは、もっともっと、もったいない。「クレイジー」という言葉の意味を、辞書で引いてみると「すばらしいくらい、最高の」という意味がある。愚か者という意味も含まれているから、そちらの意味で使われることが多いのだが、クレイジーという言葉のなかにある、すばらしく熱狂的な、という意味は、夢を追いかけている人にピッタくる言葉だと思える。
「クレイジー」に表されるように、夢に全力で向かっていく感覚、熱中していく感覚、そんなものを親も教師もきっと体験してきたはずだ。子どもたちが、今、そんな熱狂のなかに身を投げ込んでいることを、できれば認めてあげてほしい。
 夢を見ることは簡単でいて難しいし、見た夢に向かって、歩き出すことはもっと難しいのだから。そして誰でも、いつだって夢をもっていたいし、どんなに小さくても、希望をもって上を向いて歩いていたいのだから。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第10回 ストレス爆発のあとに

■月刊「記録」1998年11月号掲載記事

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■夏休みが差し向ける魔の手

 夏休みは、嫌い。一ヵ月以上も学校から離れるぶん、「また学校に行かなくてはならない」という恐怖に、一ヶ月以上も苦しまなくちゃいけないから。
 九八年の夏休みは、和歌山市の「毒カレー事件」に始まった。お祭りの最中に起こった事件だったため、ワイドショーやニュースでも、大きな事件として取り上げられていた。
 次々に起こる毒物事件。日本中が、食べ物に対して敏感になっている。
 そして、あと一週間で夏休みが終わるという八月二六日。中学三年生の二六人と女性教師一人の自宅に、クレゾール入りのニセやせ薬が送りつけられた。毒で始まり、毒で終わりを告げた夏休みだった。
 犯人は、同じ中学三年生の女の子だという。彼女をおそった夏休みの魔の手は、彼女に何をさせたかったのだろうか? 「クレゾール」を「やせ薬」と偽った彼女は、イジメにあっていたようだという周囲の意見が多かった。犯行時点でいじめられていたかどうかの真偽はわからないにしても、アトピーがあったりして、それによってイジメを受けていた時期もあったと、校長が記者会見でいっていた。
 中学生くらいの時期に、身体のことでイジメにあうケースは少なくない。アトピーやニキビといった、若い時にできやすいものが原因だったりする。そして彼女は、成績のことでもひやかされていたという。
 同じような理由でイジメを受けていた子は、直せることなら直すけれど、身体のことはどうしようもない。死ぬ道しか解決の方法を見つけられない、と嘆いていた。 夏休みが終わりに近づくと、ドキドキが止まらなくなって、世の中から逃げ出したくなったことが私にもあったっけ。
 周りにいる人に、自分の苦しみを知ってほしくて、でも、うまく言うことができなくて、そんな時、自分なりの方法でSOSを叫ぶしかない。
 私は八月三一日に、何度、手首にナイフを当てたっけ?
 今になって、よく母に言われる。
「あんたは、すぐに逃げようとする」
 でも、本当に逃げたいんだ。そう思っていることに、気づいてほしいんだ。その気持ちを伝える手段が、見つからないから苦しいんだよ。自分自身を消したかったのか。

■自分自身を消したかったのか

 毎日新聞の記者の方から、取材を受けた時のこと。そんな話をしていくうちに、ふときかれたのは、「もしも、あなたの子どもが学校に行かなかったら、親としてどういうふうにいってあげますか?」だった。
 自分に子どもはいないから、親の立場というものはわからないけれど、私だったら、学校に行きたくないという子どもを、無理に学校に行かせることはしないだろう。そして子どもを、家でゴロゴロさせることもしないだろう。行けないというなら、連れてってあげる。
 私自身、学校に行きたいけれど、なんだか不安だと思った時には、遅れていったり保健室に行ったりした。学校に行きたくない日は行かなかった。
 私の話が、記者さんには印象に残ったらしく、ファクスやEメールを使って連絡を取りあっている。そんな話のなかで、一年前の夏に起きたある事件を私は知った。 九七年の夏、茨城県の中学校で体育館が放火される事件が起きた。そして在校生が三人逮捕された。他の二人を誘った主犯格とみられる子は、同級生とのトラブルで、「相談室」登校をしていたという。
 七月中から学校の植え込みなどに放火していき、それが、だんだんとエスカレートして、とうとう、体育館に火を放ってしまった。始業式まであと数時間という、九月一日未明のことだった。
 事件から半年が経過した頃、毎日新聞の記者をしている彼は、主犯格とみられる相談室登校をしていた子の母親に、電話で話を聞くことができた。
 なぜ、そんな事件を起こしたのか、その子の母親は、半年たっても本人にきけないといっていた。「本当に学校が嫌いなら行かなくていいと、もっと大きく包んでやればよかった。中学三年生で進学を控えていたので、『学校に行かせなくては』という焦りが私たち(親と学校)にもあった」と話したという。
 その子は、何か学校内でトラブルがあり、学校をなくしてしまいたかったのだろうか? 受験を、自分自身を、消したかったのだろうか?「自分」を破壊したくて手首に刃をあてた私。そして「学校」を破壊したかった中学生。そう考えていくと、クレゾールを送りつけた彼女が破壊してしまいたかったのは、つまりあのクレゾールを本当に送りつけたかった相手は、彼女自身のような気がしてくる。
 自分に送ることで、誰かに、自分の身が危険なことをアピールしたかったのかもしれない。自分で自分の身を傷つける、あるいは犯人は自分であると、誰かに気づいてほしかった。助けてと叫べない彼女の精一杯の叫びだったのかもしれない。
 イジメを受けていることを知った学校は、保護者と生徒同士の話し合いで、イジメは解消されたといっていた。けれど、いちばん肝心なことを忘れていないか?
 イジメを受けていた彼女の、心の中にかかっている霧を晴らしてあげることはできたのだろうか?

■中学生にストレスはわかるか

 新聞記者の方が、学校の保健室に出入りしているうちに、一人の女の子に出会ったという。その子は、どうもイジメに近いあつかいを友人から受けていた。友達に相手にされなかったり、上ばきや机の中のものがなくなっていたり、精神的なイジメが続く。イジメの初期症状みたいな状態だ。
 とくにお金を要求されたり恐喝されるようなことはないのだが、学校のなかには、友達と呼べる人はいない。そして、教室に行くとおなかや頭が痛くなる。だから、保健室に休みに来るのだという。
 私はまたもや、「そういう子を見たら、あなたならなんと声をかけますか?」と質問を受けた。私だったら迷ったりはしない。あなたの心の中に溜まっているものは、「ストレス」っていうものなのよと、教えてあげるだろう。
 彼女に「あなたはイジメを受けているの?」と、彼はきいたらしい。すると彼女は、「いいえ。イジメは受けていないわ。私は、そう思っている」と答えたという。 小さな胸のなかで、自分はイジメを受けてはいないと思えば思うほど、どんどん苦しくなっていくことだろう。彼女が信じているものが、次々に偽りに変わり、自分を裏切っていくように思えたりもするだろう。
 そんななかでも彼女は、自分の状況をうまく把握できないかもしれない。中学生には、ストレスを『ストレス』だと感じられないことも多いのだ。
「私は幸せな学校生活を送っていたのですね。たぶん、その私の近くには、つらい学校生活を送っていた友人もいたのでしょうが」。彼からのEメールは、そう締めくくられていた。

■身近にいても気づくのは難しい

 メールが届いた翌日、偶然、小学生の頃、一緒にブラスバンド部に入っていた友人に会った。久しぶりの再会で、おきまりの言葉が出る。「今、何やってるの?」
 前年までは彼も高校生だったけれど、今も高校生をやっている同級生は、一級遅れの私の周囲にはもういないだろう。まあ、当時の私が一九歳でいまだに通信制の高校生でいることは、ほとんどの知り合いが知っているので、別に恥ずかしいという意識もなかったから、今の生活を簡単に説明した。
 すると彼は、ひどく驚いた様子をした。
「学校辞めたなんて、知らなかったよ。僕、高校に入ってから、ほとんど友達がいなくなって、今つきあってる友達なんて、ゼロに近いんだ。同級生だって、ほとんどが学生でしょう? 浪人してるのなんて僕だけだよ。なんか、情けなくてね」といった。
 音大を目指して受験し、失敗したといっていた。あきらめず、それなりにがんばっているようではあったけれど、どこか気力が足りないようにも思えた。周りの人々の励ましの言葉でさえも、素直に受け取ることができなくなっているようだった。
 昔から、何でも人より遅れて開花するタイプの人だった。だから彼の人生は、これからだと思うのだが、そんな自分の性質を以前からコンプレックスに思っていたらしい。
 中学までの学区を離れて高校へ進学し、ほとんど知り合いのいない環境で、新たに自分を変えようとしたようだ。けれど、そこでも思うような自分にはなれなかった。「高校を、辞めてしまいたかった」と彼はいった。でも、世間に投げ出されることに耐えられるほどの力が、自分にはなかったのだと、彼は話してくれた。
 ここにも一人、学校という空間のなかで苦しんだ友人がいた。私が高校を辞めてしまったことも知らないまま、他の同級生たちが、今、何をやっているのかを知ろうともせずに、隠れるように、夜中を選んでアルバイトをして、一人で苦しんでいた友人がいた。それを知ると、ひどく切なくなる。
 最近は、自分の夢も人に流されているだけなんじゃないか、そう思いながらも、住宅街で周りを気にしてトランペットの練習をしているという。
 目を閉じれば、耳の奥に、彼の音色がよみがえってくる。
 子どもだったけれど、もうすでに人よりも柔らかく、繊細な音色を出せていた。彼のトランペットは、心の音だったのかもしれない。
 もっと早く声をかけてあげればよかった。連絡をしてあげればよかった。すぐ近くにいたのに、気づいてあげればよかった。
 たとえ身近にいる人でも、心の声を聞き取るのはとてもむずかしい。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第9回 トモダチ?友達?親友?

■月刊「記録」1998年10月号掲載記事

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■夜中に鳴るポケベル
「マタミステラレル」
 真夜中にポケベルに入ってくるメッセージは心のつぶやきのようなものが多い。
 救いを求めてのメッセージだということはわかるのだけど、どうすることもできなくて困ってしまう。
「ダレニミステラレルノ?」
「オカアサンダヨ」
「ナニガアッタノ?」
「ナニモナカッタ」
 ……???
 何もないのに、見捨てられると思ってしまう彼女は、母子家庭の長女。母親が病気のため、一五歳の時から彼女が家計を支えてきた。
 彼女がいうには、両親を離婚に追い込んだのは自分だという。離婚調停中、家庭裁判所に呼ばれた彼女のいった言葉がきっかけとなったようだ。
 それは、「涙のひと筋、ふた筋流したところで、元に戻るような夫婦ではないんです……」という言葉だったという。
 両親が結婚してちょうど一年と一週間後に生まれた彼女は、大旧家の長女として厳しく育てられ、妹とはまったく違った扱いを受けてきた。せっかんもひどかったようで、その張本人であった父親と離れて、五年が経過した段階でも、人の手を触ることができずにいた。
 父親の教育方針を守り通した母親にも上手に甘えることができなかった。そんな彼女は、いわゆるアダルトチルドレンなのかもしれない。
 彼女はいつでも空想の世界のなかに住んでいる。私がそう気づいたのは、話を聞いていると、食い違っていることが多いからだった。最近わかってきたのだが、彼女には、実在しない「双子の姉」がいるようなのだ。それだけではない。複雑な生い立ちを語る彼女の家の家系図を、電話で話を聞きながら作ってみたのだが、とてもじゃないけれど、本人に確認することはできないような代物になった。
 代々自殺で亡くなっていき、近親相姦に血の争いがからむ家系となる。昔よくみられた安物のドラマのようだ。家系図をドラマチックに仕立てる空想を繰り返して、彼女は何を得ようとしているのだろうか。

■手首に刃物を刺す少女

 ある時、彼女は私の目の前で、手首に刃物を刺した。致命傷になるような傷ではなかったが、まるでメロンにフォークを突き刺すように、平気で刺してみせる。
 母親の愛情は、いつも妹と従姉妹に注がれていたのだといい、「いつだって妹が、母親を自分から取っていく」のだと、手首を刃物で突きながらつぶやく。
「全然痛くないの。きっと、父親に手首をギューッて握られることが多かったから、そのときの恐怖に比べたら何ともないのよね」
 だから私は、彼女をひっぱたいた。女だからって容赦はしない。私の目の前で、自分の体に刃物を突き刺すようなシーンは、もう絶対に見たくない。
「何があったのか、いわなきゃわかんないよっ」
「本当に、何もなかったのよ」
 何もなかった。何もないから苦しくなった。そんな彼女の気持ちがまったくわからないでもなかった。(気づいてほしい。お母さん、私苦しいの。仕事もうまくいかないし、それでも働かなきゃいけないし、学校だって行かなきゃいけない。疲れた……)という気持ちだ。
 だけど私は彼女の「お母さん」にはなれない。それでも彼女からは、「コンドアッタトキダキシメテクレル?」「フタリキリデアイタイ」といったポケベルでの真夜中のメッセージは尽きない。

■私はあなたの何ですか?

 彼女のクセのなかには、私が嫌いなものがある。すぐに人の揚げ足を取ること。そして、人の心を探るところ。長女の習性だと本人がいうところの「知りたがり」と「決めつけ」が、ときに私を怒らせた。
「ワタシミタイナヤツッテウザイヨネ」
「ダレモソンナコトイッテナイジャン」
 そんなやり取りが明け方まで続く。そして最後は、おなじみの言葉でしめくくられる。
「ゴメン…」
 謝るくらいなら、はじめから入れるな! と思う。
「ワタシハアナタノナンナノ?」
 彼女の言葉に振り回されそうな気がして、とうとう私はきいた。彼女は、自分が私の前から消えたほうがいいと思っているようだ。自分がいることで、私に迷惑がかかると考えているようだ。そのくせ、私の質問に対する答えは、「トモダチダヨ」だった。
 私は友達を、ウザいとかじゃまだなんて思ったことはない。そんなことを感じるような友達ならいらないと思う。うわべだけのつき合いなんて寂しすぎる。なのに彼女は、何度も私の心を探ってくる。信用してもらえない私は、本当に彼女の友達? もしかして私のほうが、あなたにとって、うわべだけの友達なんじゃない?
 ……「うわべだけの友達」。
 私が一番嫌いな言葉だ。そして私が、昔、よく口にしていた言葉だ。まだ、全日制の高校へ通っていた頃のこと、私は友達の家に泊まりにいった。学校のなかで、一番つき合いやすい友達だった。
「うわべだけのつき合い」という言葉をはじめて聞いたのは、その夜に泊まった家の子のお母さんから。「うわべだけのつき合いができる人ほど、世わたり上手なのよね。でも、うちの子は、あなたみたいにそれが上手ではないから……」
 私が高校を辞めたのは、今、振り返ってみれば、この夜の出来事がきっかけだったのかもしれない。私にとって、人を信じられなくなることを知った夜だったのだ。 それからの私は、ことごとくうわべだけのつき合いを始めた。みんながそうして自分とつき合っているなら、どうして自分だけが真剣につきあえるだろう。真剣につき合っちゃいけない。傷つきたくなくて、そう自分に言い聞かせていたのだろう。
 けれど、私が人を信じずにつき合っていることは、いつか必ず相手にもわかる。その時、だいたいの相手は、黙って離れていくけれど、ただ一人だけ、辛抱強く声をかけてくれた人がいた。「おまえが私のことをどう思っているのかわかってる。信用したくないならしなくてもいいし、上辺だけの友達だと思ってくれてもいい。でも、私にとっては親友だからね」といってくれた人がいた。
 ワタシニトッテハシンユウダカラネ……。
 人間不信に陥って、固く自分の殻のなかに入り込んでしまった私に、時には泣きながら声をかけ続けてくれた人。彼女は香織という。私は、この一人の友人のおかげで立ち直れた。また人を信用することができるようになったのだ。彼女とめぐり合えたのは、私にとって、本当にありがたい偶然だった。
 香織とうちとけてからは、うわべだけの友達はいなくなった。うわべだけのつき合いをしていたときの痛み、されたときの悲しみは、知りすぎるほど知ったから。私はそうして、人と向き合えるようになったけれど、未だに人を信じられずに、苦しんでいる人もいる。
 ポケベルの彼女もその一人だ。

■心に余裕がなくなっている

 私が携帯電話を買った時、その電話番号を伝えると、彼女は早々、自分も買った。私がポケットベルを持った時もそうだった。挙げ句は、私が母に日記帳を買ってきてもらったことを話すと、自分も同じように母親に頼み、そして、母親の行動が私の母と違うと、八つ当たりをしたそうだ。話を聞きながら、私は何もいえなかった。 私が、母に日記帳を買ってきてと頼んだのは五月のことだった。当時、私は、とある事情で入院中で、自分で買いに行けなかったので頼んだのだ。けれど季節はずれで、かわいいものがみつからず、母は、何件も探し歩いてくれたという。
 それを知ったポケベルの彼女は、すぐさまカレンダーを買ってきてほしいと自分の母親に頼んだ。新年から半年近くも過ぎた時期に、カレンダーなど置いている店はほとんどない。彼女が求めていたようなかわいいものは、やっぱりなかった。
 それでもお母さんは、バスで片道一時間もかけて探してきてくれたのだ。しかし彼女は、それを破り捨ててしまったという。
「親を試してみたかったの。どれだけ私のことを考えてくれているか、知りたかった」
 親の愛情さえも信じられない彼女に、他の誰が信じられるだろうか? 幼い頃に受けたという、私の知らないせっかんが、それほどひどいものだったのだろうか…。 親の期待に添おうと空回りし続けるうちに疲れ果て、誰も信じられなくなる子ども。自分の思い通りにならない子どもを前に、あからさまにため息をもらす親。今、子どもと大人の間にいる私には、どちらの気持ちも理解でき、また理解できずにいる。でも、聞いてみたい。
 誰かが助けてくれると思ってるのではないですか? だから、誰かに助けてもらえるまで、悲しみと不満の底に沈んで待っている。自分からは何もしない。そして、周囲が変わってくれないと、人にあたる。
 自分が環境を変えるのではなく、環境で自分が変われると思っている。だから誰かに環境を変えてもらえるのを待っている。それではズルくはないですか? 私も経験があるからわかるのです。
 そしてポケベルのあなた、私にそれを求めていませんか?
 みんなの心が、自分のことで精一杯になっている。
 自分が、一人ぼっちになったような気がしている。みんなが、一人ぼっちになったような気がしている。
 それが、時代なのでしょうか?
 今、教育を見直そうという動きがあるけれど、必要なのは、心の余裕なのかもしれない。  (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第8回 フロリダでの出会い

■月刊「記録」1998年9月号掲載記事

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■フロリダへヒーリングの旅へ

 九八年七月二五日から八月二日の間、フロリダで行われたイルカと泳ぐツアーに参加した。
 このツアーには、以前に自閉症や障害のある子ども達が参加して、たくさんのいい変化が得られたと報告されている。そこでこのときは、不登校の子のヒーリングもできるのではないかと考えて行われた、はじめての試みだった。
 そこに私が参加した理由は、イルカと泳ぎたいという思いと、海外に行ってみたいという興味、そして子どもたちの役に立てることがあれば協力したいという気持ちだった。けれどまあ、参加者には、有名なフリースクールの先生やスタッフの方々が加わっていたため、私はそれなりに楽しめればいいかなと、甘い考えでアメリカに出発した。
 参加したのは、一三歳から二二歳(引率チーフと年齢不明者を除く)の、職業や生活環境のまったく異なる男女一二人で、参加の動機もまったくバラバラだった。
 ある人は、私と同じようにアメリカに行ってイルカと触れ合いたいという理由。またある人は、イルカに触れれば自分が変わるんじゃないかという期待から。誘われるがままに参加して、それでも自分の心に何かの変化があるかもと思っている人もいれば、夏休みを利用してのバカンスを楽しみに来ている人もいた。
 フロリダでの生活は、コンドミニアムの共同生活だった。集団生活に慣れていない私や同じような人にとっては、決して楽ではないものだった。
 わがままがいえない。右も左もわからないアメリカで、英語をしゃべられない人も多いうえに、簡単に国際電話一つかけられない心細い状態。知らない者同士、触れていい部分と触れてはいけない部分との探り合いのような始まりだった。
 特に私は、英語はしゃべれないし、泳げない。海を見るのは好きだけど入るのは嫌い。日本の文化にしか触れたことがないから、現地のツアー主催者の方ともはじめはウマが合わなくて、スーツケースを抱えて帰ろうとしてしまったくらいだった。
 帰ろうと思うまでには、それなりにいろいろなことがあったのだけれど、思えば小さなことが重なって、疲れてしまったのが原因だった。
 たあいないことだが食事に私の嫌いなチーズがよく出る、心を許せる人がいない、集団行動に慣れていないために必要以上にテンションを高くして振る舞ってしまい、その高さを保てなくなった。いろいろなことが重なって、プライベートタイムも思うように作れず、ストレスからぜん息の発作も続き、夕飯を食べずにとにかくベッドに潜り込んで寝た夜、ふと夜中に目が覚めた。どこへ行くあてもないけれど、とにかくここを出ようと、固く思い込み始めていた頃だった。
 ふいに夜逃げを決行する気になった。ボストンバッグに荷物を詰め込んで一息つく。フロリダの空気は乾燥している。乾いた室内での作業は、ぜん息のノドには思った以上に疲れて、お水を飲みにリビングへ行った。
 フロリダは暑いから、部屋では一日中冷房が効いている。寒いリビングで水を飲んでいると、ソファーに眠り込んでいる黄色い人影を発見した。
 夜逃げをしようとしていた私には、これ以上にない驚きであった。けれど、人影が誰なのかを確認した時には、これ以上にない安ど感をも覚えた。私をこのツアーに誘ってくれた、小冊子を一緒に作っている友人だった。 私は「純くん、風邪ひくよ」と揺り起こして、リビングから出ていってもらおうかとも思ったが、その前に少しだけ話を聞いてもらうことにした。出ていくことで、彼に迷惑をかけることはわかっていたし、話を聞いてもらうことで私も落ち着くかもしれないと思ったからだ。「一杯つきあってもらえないかな?」。未成年の私がお酒を一緒に飲もうなんて、本当はいってはいけないことなのだけど、他にどうすることもできなかった。お酒に頼らなければ、口を開くことができそうもなかった。
 眠そうな彼と、現地で買ったビールをあける。瓶ビールをラッパ飲みするなんて、日本にいる時には考えられないことだった。
 はじめの頃は、何気ない話をしていた。夕飯のこととか、一緒に来ている人のこととか。それが私の心をなごませてくれた。きっと、高く保っていたテンションが、徐々に元に戻っていったのだろう。
「なんだか疲れちゃって、精神的にもうダメなのって、さっき誰かにいっちゃったんだ。どうしようもなくて、スーツケースを持って帰ろうとしてたんだ。何やってるんだろう? 私…」というと、彼は、「みんな疲れてるんだよ。弱音くらい吐いたっていいと思うよ。自分の時間ってさ、みんなで一緒に生活してるときに作ろうとすると、すごく難しいんだよね。でも、その中でなんとか作るしかないんだ。だから俺は、バスの中では絶対寝てるよ」という。
 そう言われてみると、たしかに彼はバスの中では、いつだって寝ていた。彼いわく、それが自分の時間だからだという。
 私と違って彼は、フリースクールのスタッフとしてこのツアーに参加していた。そして彼には、金魚のフン状態の子どももいたのだ。朝から夜までだけならまだしも、二四時間ずーっと一緒となると、それなりにストレスも重なったと思う。

■ヒデという一人の少年

 その頃から私たちの間で「マッサージ」が流行(?)になった。マッサージといっても「ツボ押し」という、ツボを探して押すものだ。ツボを見つけられると、「あ」に濁点がつくような声を張り上げてしまうほど痛く、それをおもしろがってやる子もなかにはいた。
 もともと肩こりがひどいうえに、疲れと冷房が重なって、私の右腕が上がらなくなったのを知られてからは、よくそのターゲットにされた。そして、その相手が、純君にくっついてまわっていた一三歳の男の子だった。
 純くんはリビングでグチる私に、「あいつはさ、今までは自分からは何かをしようとはしなかったんだよ。でも、香苗と一緒にいるようになって、すごく変わった。いい意味でね。自分の意志をはっきり伝えるようになったよ。はじめて聞いた言葉が一杯あった。家に帰りたくないとか、それは冗談で言ってるんだろうけど、ビックリしたよ。きっと、香苗を信頼してるんだ。自分を信頼してくれる人がいるって嬉しいよね」
 リビングで愚痴る私に、純くんが話してくれた。
 それを信頼といっていいのかはわからなかったけれど、その子が私と一緒にいるとき、たしかに他の子といる時とはなんだか違うと感じてはいた。けれど、それはばく然としたもので、何日かあとに、彼に信頼されていることを実感する時がくるのだが、それまでは私も自分のことで精一杯だった。
 さんざんグチをいった私に、純くんは日本食を作ってくれた。眠れなくて起きて来た子たちと一緒に、翌日の夕飯用にとってあったそうめんを勝手に食べていると、私の気持ちは晴れ晴れとしてきた。夜逃げをしようとしていたことなど、すっかり忘れてしまったほどに。
 泳げない私は、海に浮き輪を持参する。
 日本では船酔いが悩みだったけれど、フロリダでは船酔いはまったくしないのに、波酔いがひどかった。どうも、その浮き輪が問題だったらしい。
 軽く浮き輪につかまっていれば、人の体は簡単に浮くものだが、私は必死にしがみついてしまう。そのことで胸が圧迫され、波に酔ってしまうのだ。
 イルカと泳ぐために、私たちはよくクルーザーで海に出た。海の真ん中にクルーザーから降りて泳ぐ。そして船酔いや波酔いがあまりにもひどくなった時、子どもたちは、シェル島という島まで泳いでいき、とりあえず陸に上って酔いを覚ました。
 クルーザーで上陸することはできないから、私にとってはとんでもない距離を、泳いでその島まで行かねばならない。
「キャーーーー!!」
 そのクルーザーから降りる瞬間、私は気づかぬうちに、いつも大声で叫んでいたようだ。水の中に潜っていても聞こえてくるといわれたので、きっと相当な声だっただのだろう。
「降りておいでよ、引っ張っていってあげるから」
 いつも純くんにくっついている一三歳の男の子、ヒデは、人一倍乗り物酔いがひどく、飛行機に乗っているときも、船に乗った瞬間からも顔を真っ青にしていた。
 そのヒデが、私をシェル島まで連れていってくれるというのだ。
「無理だよ」と私。
 泳ぎが得意ならまだしも、ヒデの手には、しっかりとライフジャケット(浮き輪の代わりに使っていた)が握られている。だがヒデは、「大丈夫。これを握ってて!」とジャケットを体に巻きつける時に使うひもを私に握らせ、シェル島に向かって泳ぎ始めた。
 はじめはちゃんと進むかどうかが心配だったけれど、何とかシェル島までたどり着けたその時から、私は海のなかではヒデを頼るようになった。極端に泳げる人よりも、ヒデと一緒にいるほうが安心できるのは、迷惑をかけていると感じる大きさが違うからなのだろうか。
 それに陸の上では、私や純くんにからみついてくるのに、海の中では男の子らしさを見せてくれるのがなんとなくうれしかった。
 ただ私には、時々見せる寂しそうな顔が心配でならなかった。ヒデを叩くことは、たとえ遊びであってもいけない気がした。無理に彼の心のなかに入ろうとすれば、彼は自分の殻に閉じこもってしまうような気がして、私にできることは見守ることしかなかった。
 誰からともなく後で聞いたのだが、ヒデはイジメにあって学校に行けなくなり、フリースクールに通っているという。イジメにあっている時は、よく叩かれていたらしい。でもヒデは、イヤなことは「ヤメて」とハッキリいうことができる。それが、唯一の救いだった。警戒心をむき出しにしていたはじめの頃の彼の印象に、あとから聞いた彼の経歴が次々に重なると、私には、他人事とは思えなかった。触れ合うことを思い出してくれた。

■触れ合うことを思い出してくれた

 私とヒデは、みんなと一緒にいてもなんとなく近くにいるようになった。基本的には私のうしろをヒデが歩くのだが、それが私には安心できる形だった。あまり笑っている姿を見せてくれなかったから、側にいてくれることで存在を確認していたのかもしれない。
 ある晩、ヒデが私のいるコンドミニアムのリビングで寝ると言い出した。私たちのグループは二ヶ所に部屋を借りていて、その二つのコンドミニアムのそれぞれにある三部屋の寝室に、分散して暮らしていたのだ。
 食事は私のいる三一二号室で、みんなで食べると決まっていた。その食事の後にヒデが、ここで寝ると言い出したのだ。「じゃあ、私もここで寝る。ヒデちゃん、お姉さんが添い寝してあげるよ」と私がいうと、「いいです。俺はこっちのソファーで寝るから、そっちのソファーで寝てよ」とヒデ。
 二つのソファーを指さしながら、私は、自分の部屋で寝ることを勧められなかったことに少し安心した。
 結局その夜は、ヒデはソファーに、私は床に布団を敷いて眠った。ヒデはしきりに私にソファーで寝ることを勧めたり、床では肩がこると心配してくれたけれど、ヒデがきちんと眠れていることを確認できれば、他のことはどうでもよかった。そうして他人との接触に、意欲を見せはじめてくれたヒデが嬉しかったのだ。
 翌日、最終日のナイトクルージングの時、ヒデは他の男の子たちとはしゃいでいた。ヒデをよく知る人が、彼がよく笑うようになったと言っていた。こもりがちだった彼が、自分の意思で動くようになったとも。私も、むき出しになっていた彼の警戒心が、ほぐれてきているのを感じていた。
 結局、ヒデを変えたのはヒデ自身だった。彼がここにきて、彼自身の心で学んだことを、いつまでも覚えていてほしい。その願いを、ある物に託して彼にわたした。そして私も今、同じものを持っている。私自身、フロリダ・パナマシティで学んだことを忘れたくないから。

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保健室の片隅で・池内直美/第七回 帰れる場所

■月刊「記録」1998年8月号掲載記事

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■三人三様の意見がある

 現在、かなりの数の子ども達が、不登校や保健室登校をしているといわれる。その本人や親達が、私のところにいろいろな相談を寄せてくる。よき相談相手と思ってくださっている方が多いようだ。
 私が不登校の子どものために作った、交流を目的にした小冊子が、どうやらきっかけとなっているようだ。この冊子はマスコミに取り上げられたこともある。
 親、教師、子ども、それぞれの立場から話を聞いていると、三者三様に意見がある。ただ、そのなかで同じ言葉があるとしたら、誰もが「自分には安らげるときがない」といっていることだ。
 教師は、一クラスに在籍する生徒の人数が多いうえに、第二土曜と第四土曜日が休みになったことにあわせ、会議やら何やらで生徒の一人一人に目を配ることができない。不登校予備軍の生徒がいても発見できないだろうと嘆く。
 親は、自分の子に限って登校拒否などとは無縁と思っていたのに、突然学校に行かなくなって混乱している。理由もわからず、そばについていなければならないのがわかるのに、仕事があってできないという。
 子どもは、自分が学校に行かなければ親が悲しむ。でも行くと心が破裂しそう。だから家でも学校でも心休まるときがない。みんなと同じように行くことができたら、どんなに幸せかと訴える。
 親と教師の順調な生活は、子ども(または生徒)がきちんと学校に行き(または登校し)、目立った問題も起こさず素直に勉強して帰ってくれることを前提にして成り立っている。だけどそれは、子どもの思いとまったく正反対の方向を向いている。だってそれじゃ、まるでロボットじゃないか。だから子どもの心に圧迫がかかってしまうのだ。
 そもそも子どもが、なんのアクシデントもなく通学していけることを当然に思っているのが間違いの始まりだ。学校に行きたい子どもは義務教育にしたがっていけるが、それは行きたいからなだけ。行きたくない子どもには、問題が生じて当たり前だ。なのに世話をかけられても忙しいから面倒見られないというのはひどい。
 ならばせめて、子どもが立ち止まっていることを許してほしい。「行きたくなければ学校へ行かなくてもいい」。そう思える大人が周りにいる子どもほど、心にゆとりを持っている子が多いように思える。

■義務教育は誰の義務?

 子どもが学校へ行かない日が一年、二年と続き、親の心に焦りが消えてきたとき、ほとんどの親が同じ考えを持つようである。「義務教育の義務は国にとってのものであって、子どもに与えられているのは学校に行き、学ぶ権利である」という考えだ。
 つまり義務教育よりも、「権利教育」を訴えるようになるのである。
 人は日常のなかでも、自然のなかでも学習することができる。たとえばアリを追い、アリの行動をじっとながめる。チョウを追い、チョウと花の関係を知る。日記を書けば、自分と向かい合う方法も知る。それらは学校で学ぶよりもずっと自分のためになる。
 親は徐々にそう思えるようになるようだ。だが、学校の先生は、どうもそうはいかないらしい。時間がたてばたつほど、とにかく学校に来られるようにするため一生懸命になる。
 たしかに学校でなければ知り得ないこともたくさんある。でも、熱心なあまりストーカー状態になってしまう先生や、突然、見放すように冷たくなり、暴言を浴びせる先生もいると聞く。
 あるお母さんからの手紙には、保健室登校をしている子どもが、授業参観日だからとやっとの思いで教室に行った。授業は進路の時間だった。だが、その子に対して、先生は冷たく、「教室に来られない生徒には、高校を受ける資格はない」と三回もいったという。親のほうも居づらい時間だったと記されていた。
 こういう先生に思い出してほしいのは、教育実習生のときにどんな工夫をして授業をしたか、どんな思いで教師になろうとしていたかだ。
 今、教員になるための試験はとても難しいと聞く。その難関を突破した先生に、心がないとは思えない。思いたくない。
 もちろん学校が悪いとか、家庭が悪いとか、そんな簡単な割り切り方では、解決しきれない心の奥底の問題が、不登校の子どもにはあるだろう。マスコミを含め日本人は、どこかに犯人を求めたがる考え方をする人が多いが、被害者や加害者を仕立て上げて、解決できないことはたくさんある。
 たとえば私が学校を嫌いになった要因はたくさんあった。体罰をする先生を見たこと。イジメがあったこと。おとなしそうな子をつかまえて、クラス全体で精神的に追いつめる儀式のようなことが繰り返されていたのを目の当たりにしたこと。いつだってドキドキして、次は自分の番になるのではないかと考えていた。それがこわくてイジメる側に回る。そんな自分が一番嫌いだった。そう思っていたのはきっと私だけではなかっただろう。
 誰もが加害者であり、いつでも被害者になり得た。その緊張関係が苦しかったし、見たくなかった。それは先生も親も同じなのだということが、最近になり、それぞれの立場の人の話を聞いていて、一応私にもわかった。 学校に行けない状況が作られた場所は、どうやら単に学校のようだ。なるほど、学校に行けない子どもに、学校はどういうところだと思うか聞いてみると、「本来の姿を失ってしまっているところ」と答えた。

■なぜ学校に行けなかったのか

 では、学校はどんな所であるべきなのか、どういうところであってほしいのか。
 まだ、全日制の高校に行っていた頃、私はカウンセリングを受けていた。そこで担当のセラピストの人から、生涯忘れることのできない一言を聞いた。それは「人には、帰れる場所がたくさんあります」という言葉である。
 そうして私は行きづまったとき、母校である中学校の保健室に帰った。
 当時のことを詳しく書いた本が出版された。すると、いろいろな人から、行きづまって母校に帰ったのはなぜかと不思議がられた。自分ではそんなに不思議に思っていなかったのだが、なぜ保健室登校をして、学校を拒否していた子どもが母校に帰ったのかがわからないというのだ。そういわれてみれば、たしかに不思議かもしれない。
 不登校の子の家庭を何度か訪問したことがある。話していてわかるが、その子どもだって学校には行けるのだ。学校に一緒に行って、校庭で遊んで、担任の先生と話をして帰ってくることはできるのだ。
 なぜなら不登校の子が入っていけないのは、学校そのものではなくて、学校や教室に満ちていた緊張感なのだから。私のなかにある学校そのものがもつイメージは、友達がいるところ、人が笑顔になる空間だ。自分は笑えなかったけれど、笑っている人々の笑顔は、見ていてホッとしたし、学校にはその印象がある。だから時間がすぎてしまえば、遊びに行きたいと思えるようになる。
 そしてそのイメージが、学校がこうであるべき姿に一番近いのではないだろうか。
 学校は行かなければならないところだとか、単位がどうだとか、そういうことの前に、生徒が自分に合った自然な姿で、笑顔でいられる場所に、学校がなれればいいと思う。今の先生も教師を目指したときには、そういう教室を作りたいと思っていたのではないか。

■さまざまな意見を知るのが教育

 子どもを学校に行かせたくてしょうがないお母さん。そんな母親に私は、フリースクールを見せてあげた。
「スクール」というから、学校の単位を取れると思っていたようだが、そこで単位を取ることはできない。人としての心を身につけることが目的だ。そこには「心と生」が満ちあふれている。
 本当は、学校で行われることが一番いいはずの心の教育が、学校ではなされない。でも、家のなかでできるかというと、できないことはないが、足りないものが多い。同年代の仲間と一つの社会を一緒に作っていく体験は、家族ではできないのだから。
 たくさんの子どもから寄せられる手紙に、何かを見つけに今まで見たこともないところへ行ってみたいと書かれていたものが何通かあった。また、留学したいので親を説得してほしいと書いてくる子もいた。説得のときに、私についてきてほしいという子もいた。
 でも、「日本で何もできない子が、外国に行って何かできるものか」という考えを持っている人と話をしたこともあった。いじめに合って対人恐怖症になり、それでも違う自分を探しに海外に一人で行こうと勇気を出している子どもに向かって、「どうせ何もできやしない」とはじめから決めているその人は、どうみても他人にいわれるままに生きてきた人だった。失敗を恐れる人だった。
 もしも海外に行ってやり直せなかったら、もっと傷つくといわれたが、果たしてそうだろうか?
 学校に行けない子どもが、お母さんと翌日の遠足に行くと約束して、朝までは行く気でいられたが、結局家を出ることができなかった。親がショックを受けた以上に、彼女のショックは大きかっただろう。それでも彼女は、そんな経験から得たものを生かしてがんばろうとして、私に手紙をくれている。
 人は、経験からたくさんのものを得る。楽しかったこと、嫌だったこと、うれしかったこと、悲しかったこと、そのすべてからたくさんのものを得て成長している。 たぶん世の中には、これは正しくて、これは正しくない、などというものはないに違いない。みんながそれぞれの意見を持ち、意見と意見を足したり引いたり割ったりして、自分のものにしていく。加害者も被害者もないように、最初からわかっている失敗も成功もない。それを学ぶのが『心の教育』なのだろう。そういうことが許される空間に学校がなればいい。

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保健室の片隅で・池内直美/第六回 カラダを売るのは誰のせい?

■月刊「記録」1998年6月号掲載記事

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 友達だけは軽蔑しまいと心に誓った。友達ができるようになって、たくさんの仲間に囲まれて過ごす日々のなかで、そう心に決めた。
 あれから3年……。
 私には娼婦だった友達がいる。彼女はいつの間にか妊娠して、子どもを産んだ。みんなに子どもをおろすお金をもらったけれど、それを使い込んで結局おろせなかったという。
 それでも今は、幸せだといっているから、私はそれでもいいと思う。子どもにたくさんの愛情を与えてあげてほしいと思う。

■身体を売らないでお金もらえるし。

 中学の頃の同級生たちが、普通の高校へ行くにつれて、援助交際という言葉が、私の周囲でも聞かれるようになった。
 なかに「お金には代えられないよ」と言う友達がいた。彼女は一生懸命、私に言い聞かせるので、私もうなずいておいた。でも、心のどこかでは、自分だけはそんなことはしたくないと思った。
 べつの友達は、「はじめてのセックスは、テレクラで知り合った人とした。私の身体が五万円だなんて、高いと思ったわ」といっていた。彼女の心が、どれほど安いものかと感じたのを覚えている。
 同じ彼女に、ある時、いわれた。
「ちょっと聞いてよ、最近バイトしてるんだけど、もう最悪のところで働いてるの」
「何やってんの? ソープとか」と私は冗談で聞いたのに、彼女は真面目に答えた。
「違う違う、ピンサロ」。あっけらかんと話す彼女に、私はピンサロとはなんなのかを聞いた。風俗関係の仕事だとは思っていたけれども、内容を聞いた私は、はじめて人を、友達を軽蔑した。
 (最悪だ……)
 その時、私は、「娼婦のほうがまだいい。ソープのほうがまだマシ。援助交際の子のほうがまだ救える」と思った。なぜなら、彼女の考え方が、とても気に入らなかったから。
 「始めたばかりの頃はさ、私何やってんだろう? とか、もう辞めようって思ったんだけど、最近は楽しいんだよね。身体売らなくていいし、彼氏にバレないし、お金入るし、お酒飲めるし。でもやっぱり、家に帰る途中とかは、何してるんだろうって思うよ」
 そんな話を、自分の友達から聞くことになるなんて、あまりにも情けなかった。
 お金がほしくて、援助交際する女の子のほうが、もちろんそれは最悪の選択だし違法なことだけれども、身体とお金の間で商売を成り立たせている分だけ、まだ猶予の余地があるような気がする。きっと彼女たちは、いつか自分のしたことを思い返して傷つくはずで、そうやって傷つくことで、気づくことができるから。
 でも、私の友達は楽しんでいる。お金をほしがっているわけでもなく、身体で商売をしているわけでもない。お金をもらって、ぜんぜん傷つかずにお客さんと遊べてラッキー、と思っているのだ。そこが私には、情けなかった。
 偶然そんな話を聞いたのと同じ頃、某通信高校のサポート校になっている高校で入学式に出席した。通信高校についての話をしてほしいと頼まれ、オンボロスピーチをしに行ったのだ。そこでこんな話をした。
 ルーズソックスをはいた女子高校生やピアスに化粧の男子高校生が、現代っ子と言われて認められているのと同じように、学校へ通学するというふつうの道からはずれて、不登校を選ぶようになってしまった子どもたちもまた、現代っ子だ。
 何があたり前で、何があたり前じゃないのか、そんな基準はなくなっているのだから、大勢の人たちと異なる生活をしていても、おかしくはないはず。それぞれの場所で、自分らしく生きることが大切だ、と。
 でもその後で、援助交際をしている友人、平気でピンサロで自分を安売りし、何も感じていない友人のことを思い出した。彼らもまた、いわゆる現代っ子と呼ばれる人種だ。不登校を選ぶようになってしまった私と援助交際している彼女たち。こんなにバラバラな現代っ子だけど、何か共通点はないのだろうか。もしかして、私たちを生み出した親のほうに、共通点はないのだろうかと。
■何が私たちを結んでいるのか

 最近、私のところにたくさんの相談が寄せられるようになり、きちんと考えたら悩んでしまいそうなので避けてきた、AC(アダルト・チルドレン)に関する本も読まないわけにはいかなくなった。何冊か買ったついでに、ある一冊の本を手に取った。
 それは『日本一醜い親への手紙』(メディアワークス)。名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。これは全国から原稿を募集し、寄せられた応募作品をもとに作られた本だ。私も原稿募集の記事を読んだことがあり、送ろうかどうしようか悩んだことがある。結局送らなかったが、どういった内容の手紙が送られてきていたのか気になって買った。
 内容はとにかく強烈だった。一ページごとに心を引っかきまわされた。自分の過去を思い出したり、比較してなげいたり、それでも自分のほうが幸せだったと感じたり。とにかく自分に照らし合わせ始めると、考えさせられることが多く、きりがなかった。
 ところで、読み進むうちに気づいたことがあった。それは、ちょうど10年くらい前の出来事を題材に書いている人が多いということだ。ちなみに発刊は1997年11月で読んだのは翌年だった。当時、私の10年前は、いったい何があっただろうと考えた。10年前。ちょうど今の家に引っ越してきて、塾やお稽古事をたくさん始めた頃だ……。
 同じ頃、日本の経済はバブル崩壊寸前の、戦後を生きてきた親たちが、夢に見た世界があったらしい。私には、バブルというのはよくわからない。まだ子どもだったし、気がつくと「バブル崩壊」という言葉だけが耳に残っていただけだ。
 思い出せることは、コンビニエンスストアがそこらじゅうにできたり、テレビゲームが登場して、ミニ四駆やリカちゃん人形などを、みんなたくさん持っていたこと。だけどピアノやそろばん、塾やスポーツチームに通う子がほとんどで、あまり大勢で集まって、ワイワイ遊んだ記憶はないということ。誰もが時間に区切られて生活していたし、小学生でもみんな腕時計をしていた。
 そう。みんなリッチで忙しかった。親も、それだけ必死に働いていたのだろうと思う。
 ちょうど小学生から中学生くらいの子どもをもつ父親は、まさに働き盛りで、家に帰れなかったり、単身赴任を余儀なくされることも多いのだと聞く。バブルの頃は、なおさらだったと聞いた。
 私の父も、例外ではなかった。先日、父と二人で小料理屋に行った時、はじめて父とゆっくり話をした。
「お父さん、ずーっと単身赴任だったじゃん、あの頃、父親参観にお父さんが来てくれなかったこと、やっぱり悲しかったよ」
「そうか。でもお父さんの会社のなかで、お父さんほど単身赴任の期間が短い人はいないよ。それなりにがんばったんだ。許してくれないか」と父はいった。
 父が実際に家を空けていた期間は、たったの五ヶ月間だったという。でも、私のなかでは、三年くらいの感覚として残っている。それくらい子どもにとって、父のいない家庭の時間は長かったのだ。

■親の不在が現代っ子の特徴

 最近騒がれている「父性の復権」について。子どもの側から意見をいうならば、いきなり復権しようとしても難しいですよ、ということだ。
 父親は単身赴任で、母親はパートに出る。家は核家族で、昼間は子どもしかいなくて、お腹がすけば、コンビニで何か買って食べる。誰もいない家に帰って、コンビニで買ってきたお弁当を食べて、そのまま塾に行って、帰ってきたらお母さんに勉強しろといわれて・・・・。子どもの心は、寂しさで凍えそうだった。いつも、一人ぼっちだったのだ。
 援助交際する女子高生が、『日本一醜い親への手紙』のなかで、自分の父親と、自分の援助交際のパパを比べていた。やさしいパパがほしかったという彼女は、ただ相手をしてくれるお父さんがほしかっただけなのではないか。
 拒食症の子が、太ることがこわいといって心の傷を隠すように、援助交際をする子は、お金がほしいからといって寂しさをまぎらわしている。本当はお父さんにそばにいてほしいのに、自分をしっかり支えてくれる力強い手がほしいだけなのに、それを伝える手段を見つけられずに、間違った行動をとっている。援助交際は、ファザコン現象だ。
 時に怒ってくれる、時にほめてくれる、凍えそうな心を、しっかり包んでくれるお父さんを、彼女たちは探しているだけだったのではないか。
 そうして手を伸ばしても、いつも裏切られ、寂しい思いをしてきた子どもが、バブルが崩壊して、残業が減って、単身赴任から帰ってきたお父さんに、急に話しかけられたからといって、簡単に心を開けるわけがない。気づかないうちにできてしまった溝は、思っているほど小さくはないのだから。
 わが家は父が厳しくて、まるで昔の茶の間のような雰囲気がいつも家中にただよっていたから、母は働きに出てもお昼すぎには帰ってきていた。だけど、父の欠点は、子育てを母任せにしているように見えるところだった。父は父なりにがんばって、家庭に参加していたのかもしれないけど、私には、家にお金さえ入れれば文句はないだろうと、考えているようにしか見えないところがあった。
「親がなくても子が育つ」という言葉がある。もともとは、親が心配するほど子どもは弱いものじゃない、という意味の言葉だ。それは、親が十分に子どもの面倒をみられなくても、学校の先生や近所の人々が手を貸し合って子どもを育てていくことができた時代に生まれた言葉だ。だけど、公務員は安定職だからという理由で、職業を選んだ教師がいる学校に、生徒の一人一人に目をかける余裕のある先生などほとんどいない。
 また、プライバシーという言葉を強調するようになった世の中に、隣の家の子どもを心から心配し、叱ってくれるご近所様もほとんど見あたらない。今の世の中で、「親がなければ子は一人ぼっち」だ。
 子どもが寂しがっていることに気づけない親の子が、援助交際をしていても不思議はないような気がする。学校から帰っても話をする相手もいなくて、また、たとえ学校に行っても先生は子どもを仕事の道具としてしか見ていない。その孤独感に、学校へ行く行為そのものを報われないと感じ、不登校を選んでしまう子の気持ちもよくわかる。そこが、私たち現代っ子の共通項なのかもしれない。
 父親と母親に、子どもと家庭を省みる余裕がなくなったのは、やっぱりあの、バブルの時代のせいなのだろうか……。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第五回 拒食・過食・共依存

■月刊「記録」1998年5月号掲載記事

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 若い女性にとって、「太る」は恐怖の体験だ。私も二度ほど体重の激減を体験した。最初は一〇代後半のちょうど高校に入学した頃だった。食べたいのに、食べ物がノドを通ってくれない。約二年後に同様の症状が再びやってきた。聞けば私と同じような状態が若い人の間で増え続けているという。正確には「拒食症」や「過食症」といった言葉の範囲には属さないが、それに近い状態にある人が増えているのだ。
 拒食や過食嘔吐のことをご存じの方は多いと思うが、私の拒食はそこまではいかない。時々ものが食べられなくなったり、自分でも気づかない間に食べすぎ、すぐに吐いてしまうというものだ。どうしてそうなってしまうのか? 私の場合はダイエットからだった。

■最初は単なるダイエットだった

 中学生の頃は、一五四センチの身長に対して、体重六四キロという中途半端なデブだった。
 極端なデブも嫌だけれど、この中途半端な体型は悲しいほどに私を悩ませた。またダイエットして体重が減っても、お腹がへこまなかったことが、極端な食事制限に走るきっかけになった。それまでは保健室でも給食を食べていたのだが、ダイエット後は、「胃かいよう」という理由をつけて、お弁当を持っていくようになった。
 母親が作ってくれるお弁当には、胃にやさしい温野菜と少しのご飯、そしてプリンをいつも入れてくれた。でも私が口にするものは、プリンだけ。そんな生活を続けるうちに、それ以外のものがだんだんノドを通らなくなった。
 けれど、私がお弁当を持っていった本当の理由は、あまり食事をとることができないということを、親に気づいてもらいたかったからかもしれない。ただし、これは今になって、振り返って思うことである。当時は、自分でも、ダイエットと拒食症隠しを兼ねておこなっているつもりだった。
 このあたり、拒食症の原因の一つに思い当たる。拒食症になる人は、「親が心配してくれる」ことを望んでいるのだと、何かの本で読んだことがある。それだけ安心できないのだろう。人に心配されて、はじめて自分の存在を確認することができる。逆にいえば、心配されていなければ、自分の存在に自信を持てないということなのだ。
 食べなければ心配してもらえる。心配されれば安心する。安心すれば生きていける。そして、食べられるようになるか?
 いやいや、ところが現実は、そう簡単には進んでくれない。安心できるようになって、いざ食事をしようと思っても、今度は食べられなくなってしまうのだ。
 食べたいのに食べられない。ここではじめて私は焦った。するとそれが大きなプレッシャーに転じ、もっともっと食べられなくなってしまう。食べるタイミングを逃してしまうと、ますますどうにもならなくなる。
 二度目の体重激減はまさにそうだった。歯科医でのアルバイトを終えて帰宅し、夜遅いからと夕飯を抜く。就寝が遅いので、昼すぎまで寝ている。これで朝食も抜いてしまうことになり、二食目をパスだ。そしてお昼ご飯は、お腹が空きすぎているので、食べすぎないようひかえ目にしているうちに、とうとう拒食ぎみになってきた。食べたいときに、食べたいものしかノドを通らなくなってしまったのだ。
 ただし、中学生の頃と違って、家のなかが安心できないというわけではなかったので、食べようと思えばふつうに食べられたのかもしれない。けれど、もしも、もしもそこで食べられなかったら、というのがこわかった。
■どんどん痩せていく怖さ

 高校に入学した頃の最初の「拒食症ぎみ」体験は、中学卒業とともにせっかくやせた体重が、元に戻ってしまったこと、それから、たまたま家で一人で食事をしなければならなかったこととが重なり、さびしさと、それに気づいてもらえないもどかしさで、心の安定を失っていた結果だったと思う。もちろんこれも、今だから思えることで、当時は単なるダイエットをしているつもりでいた。
 母は、ある日、私が食事をとっていないことに気づき、無理に食べさせようとした。しかし、当然のことながら体はそれを拒んでしまい、すでにほとんど飲み込めなくなっていた。心の中では「お母さんに嫌われる!」と思っており、食べなければいけないと必死なのに。
「どうして食べられないのッ」。ジャガイモとニンジンとタマネギをゆでて裏ごしして、固形物が何一つ入っていないスープでさえ口に入れられない私に、ついに母はそうどなった。
 二度目のときも母はあのときと同じようにどなっただろうか。当時、ふと鏡で自分の顔を見てみた。中途半端なデブは変わってはいないのだが、なんだか頬がこけている。 「ヤバイかも……」。とっさに触った胸も、なんだか小さくなったように感じる。
 あわてて飛び乗った体重計は、喜ぶべきか、悲しむべきか、今までで一番少ない記録的な数字を示していた。五キロ以上も減っている……。自分が子宮を悪くしていることに気づき、不妊症であることも知ったばかりの頃で、どんどんやせていくことが急に不安になり出した。 私も、やせてほしいところがやせず、出っぱってほしいところが貧弱な、中途半端な脂肪のつき方をしているのでわかるのだが、女性は体型を必要以上に気にしてしまう傾向がある。周りを見ても、とても太っているようには見えず、バランスのとれた体型をしているのに、モデルのような体になれないと悩む人が多い。
 だからといって、無理なダイエットをすると、女性の場合は排卵がなくなったり、月経が止まってしまうことがあるのを忘れてはならない。ホルモンのバランスが崩れると、テレビやマスコミが騒ぐ以上に生々しく自分の身に襲いかかってくるからだ。
 アルバイト先の歯医者でピルを飲んでいる患者さんの口の中を見たことがある。身体のホルモンバランスを、お腹に子どもがいるときと同じ状態にもっていくという、避妊薬のピルである。ピルを飲んでいるだけで、口の中は白くはれ上がり、たえがたい痛みがあると患者さんは訴えた。本来あるべきの身体の形を無理に変えようとすると、これほどの影響が出るのかと驚いたものだ。

■抑圧された恐れが原因

 私のなかでの拒食症とは、ダイエットから起こる女性の病気だと思っていたのだが、どうやらそれは間違いだったらしい。これまでいただいたたくさんの手紙のなかに、拒食と過食嘔吐を克服した男性がいた。「男の人でも拒食症になるんだあ」と、最初は感心すらしていたのだが、さらに話を聞いているうちに、拒食の原因は、「彼女ができないのは、自分が太っているからだ」と思い込んでいるせいだとわかった。
「恋人同士は、体型でつき合うんじゃなくて、気持ちでつき合うものなのじゃないかなあ?」。彼がその病気に悩んでいる頃に、何度そういっても、「こんなに太っている自分を、好きだなんていってくれる女の子が、どこにいるんですかっ!」の一点張りだった。
 幸か不幸か、私には中学一年生の頃から、自分の側にいてくれる異性がいた。だから、そういう気持ちにはならなかった。けれども、彼氏や彼女に限らず、太っているからといって離れていった人などはなく、またやせたからといってそばに寄ってきた人もいなかったのだが。 その彼が、もう一つ気にしていたことは、「共依存」というものだった。
 共依存。聞き慣れていない言葉だと思う。私もこの言葉を知ったのは最近のことだ。簡単にいうと、一つのことに悩んでいる人と向き合い、一緒に悩み苦しむことで、自分も同じような悩みを抱えた状態に陥ってしまうことだ。
 簡単には理解できないだろうが、私が不登校で悩んでいたとき、両親もどうしたら私が悩まなくなるのかを悩み、共にどうしようもない泥沼に落ち込んでしまっていた。これがもっとひどく、長い時間持続する状態といえば、ある程度おわかりいただけるだろうか。
 そして共依存を気にするあまり、自分が拒食症であることを人にいえずに一人で苦しんでしまうのも、その後の症状を悪化させる原因の一つではないかと、私は考えている。体を動かせなくて溜まるストレスは、運動すれば吹き飛ぶだろう。でも、心のストレスは口から吐き出す以外に出口はないと思う。
 心のストレスをストレスと感じていない人でも、知らないうちに、きちんとどこかで口から吐き出し、ストレスを発散しているはずだからだ。
 拒食症のストレスは、食べられないことや食べすぎることではないような気がする。やせはじめた当初は、もちろん好きなものを食べられないことがストレスになっている。ここまではふつうのダイエットと同じだ。しかし、ここから拒食症になるためには、自分の身体を太っていると過剰に意識するあまり、自分のなかで自分を、肥満という弊害の被害者と思い込む、被害妄想が進んでしまったからなのではないか。
 けれども、拒食症の原因は、さらに深く探れば、自分を太っていると思い込む、その自意識だけでもない。原因はもっと他のところにあるのだ。これは私の周りにいる人を見ていてもわかる。
 ある女の子は、彼氏が自分よりやせていることを気にして、食事ができなくなったという。だが本当は、両親の不仲が彼女の心に追い打ちをかけていた。
 ある男の子、先ほど例にあげた彼だが、太っていることを気にしているのは間違いないが、よくよく話を聞いてみると、父親が亡くなってしまったことで、心の支えを失ってしまっている背景がうかがえる。
 二人とも今はふつうに食事をし、何かあれば私に相談を持ちかけてくれ、充実した毎日を送っている。しかし、ときどきは、食べものを胃が受けつけないような日もあるらしい。何かを恐れ、その恐れを抑圧している、そのストレスこそが、身体と心を破滅へと追い込んでいくのではないだろうか?
 これを書きながら私は、もう一度自分を見つめ直し、自分が幸せになるためにできることを、探そうかなあ……と思っている。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第四回 “切れる”ナイフをポーチに忍ばせて

■月刊「記録」1998年4月号掲載記事

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■セロテープとホチキス

 九八年一月、栃木県黒磯市の中学校で一年生の男子生徒が英語担当の教師を刺殺するという事件があった。この事件に「サバイバルナイフ」が使われたことから、ナイフを持ち歩く子どもに焦点が当てられた。なぜナイフを。そういえば私もナイフを持ち歩いていた時期があったっけ……。
 中学一年生くらいの頃から読み始めたマンガのなかに、不良少女のイジメや売春、地域抗争、親や学校との関わり合いを描いたものがあった。イジメが原因で自殺未遂した主人公は、退院してから街のなかを毎日一人で歩き回り、いろいろな人と出会い、「はじめての経験」を積み重ねていく。
 そこで出会う人たちは不良と呼ばれるような人ばかりだったが、それぞれが一匹狼のように一人で強く生きている。その姿が印象的で、カッコよく、心の強さがうらやましく、自分でも不思議なくらいあこがれたことを覚えている。
 その主人公が出会った人々のなかに異母姉妹がいた。姉はいつもポーチを持ち歩いていて、ポーチの中には口紅と、ハッキリとは覚えていないが、セロテープとホチキスを入れていたと思う。よく覚えているのは、妹がケンカするときに、ホチキスを使っていたということだ。セロテープもホチキスも、小学生のときの私の「お道具箱」に入っていたものである。それをケンカに使うというのは、なんとも不思議だった。
 以前に「スケバン刑事」というテレビドラマがあり、その主人公はヨーヨーを武器にしていた。それを見てみんなが必死にヨーヨーを練習したように、私はセロテープやホチキスで自分の身を守ろうと練習した。何度も何度も自分で納得のいくまで、マンガと同じ方法で、マンガと同じようにできるまで練習した。
 それからポーチを買い、中に口紅とライター、そしてマンガをまねたセロテープとホチキス、小さな刃のにぶいナイフを入れて持ち歩いた。
 ポーチには自分流の飾りをつけた。みんながこれを見てこわがり、遠ざかってくれることを心のどこかで期待して・・・・。今、考えてみると、なんともいえない情けない話だが、当時はそれがカッコいいと思っていたのだ。
 しかし、しょせんはマンガにすぎなかった。セロテープとホチキスでは、いざというとき役に立たないことを、私はある「事件」で思い知らされた。
 男子生徒によって、私の髪の毛がナイフで切られてしまったのである。そのとき使われたナイフは、先に引いた黒磯市の事件で話題となったバタフライナイフだった。
 うまく回すことができるようになったのが自慢だったのか、彼は私の前でナイフをクルクルと回し、制服に切れ目を入れるフリをする。「切れないから」と彼は何度もそういったが、私はこわくてしょうがない。
 そして髪の毛にまで、何度もナイフを当ててくる。何度目かにジャリ、と切れる感覚が伝わって、一束の髪の毛が教室の床に舞い落ちた。私は驚いた。髪の毛とはいえ、体の一部を他人に切られた経験などはじめてだ。自分でも意外なほどショックを感じたことにも驚いた。切られたことよりも、ナイフを向けられて、ただドキドキしておびえていることしかできなかった自分にショックを受けたようにも思う。
 その後、そのナイフで誰かの制服が切り裂かれたといううわさも耳にした。
 切りにくいナイフは存在しても、絶対に切れないナイフは存在しない。だったら私は「切れやすいナイフ」を持ち歩こう。自分の身に何かが起きたとき、自分を守るのは自分しかいないのだから。
 切れるナイフを持ち歩き、それで誰かを傷つけたとしても、それは正当防衛だ。そう信じた私は、もっていた刃のにぶいナイフに、研石で鋭い刃を入れた。刃をといだことのない人間がつけた刃が、本当に鋭い光を放っていたかどうかはわからないが、このナイフならば、髪の毛などより深く相手を傷つけられるだろうと思った。
 こうして本当の凶器となった私のナイフは、その後もポーチに潜んでいた。誰にも見つけられなかったし、私がナイフを持ち歩いていることを誰も想像しなかっただろうが。

■あの頃、誰もが敵に見えた

 私が毎日保健室にいることは、学校中のほとんどの人が知っていたことだ。その保健室にいる私のところに、ある日、招かざる客がやってきた。髪の毛を切った彼と友人達である。その日は、たまたま保健室に私しかおらず、ヤバイと思ってもどうすることもできなかった。連中にされるがままに腕を取られ、カーテンで仕切られたベットまで連れていかれた。
 次の瞬間、何をされるのか考えるひまもなく、私は首を絞められていた。声にならない声で「やめて」と叫ぶ。けれど彼らはやめてくれない。逆に、もがく私を楽しんで、さらに強く首を絞めてくる。
 苦しくてバタバタもがいていると、誰かが「ヤバイじゃん」とつぶやき、急にノドに酸素が通るようになった。せきが止まらなくなり、苦しさも消えず、そのままトイレに駆け込み、胃の中のものを全部吐き出した。
 保健室に戻ったときにはもう誰もいなかった。他の人たちは何も知らずに、何事もなかったかのように、今頃、授業を受けているのだと思うと、悔しくて涙が出た。叫ぶことさえできない自分がくやしかった。私がここで、こんなことをされているということを知らない教師たちが許せなくて泣いた。
 私の身の上に「危険」という文字が浮かんだのは、これが二回目だった。「もし今度、何かあったときには、絶対このナイフで相手の顔を切りつけてやる!」と心に誓った。次は嫌でも正当防衛になるだろうから、たとえ間違えて殺してしまったとしても、殺人の罪には問われないだろうとさえ考えたほどだ。
 そのときから、私の周りは「敵」ばかりになった。
 自衛のためにナイフを持ち歩くことを考えたのは、自分の周りに味方が一人も見えなくなってしまった結果だった。周りに敵しかいないということは、自分の身に何か起きたときに、みんなが寄ってたかって便乗して、迫って来るような気がしたのだ。誰も助けてくれる人などいない気がした。今までのことを考えてみれば、それはまさに事実だったのだから。
 毎日、戦々恐々としていた私には、ことの善し悪しがわからなくなっていた。おびえたネズミは、猫にだってかみつく。あのときなら一つ間違えれば、私も犯罪者の一人になっていたかもしれない。誰でもいつでも犯罪者になる確率はあるけれど、あのときを振り返ると、本当に明日はわが身だったと感じる。

■戦々恐々とする弱い子ども達

 そして今、子どもたちは、あのときの私と同じ立場に立っている。ナイフを持ち歩くということは、確かに良いことではないけれど、彼らのなかにはカッコつけが目的ではなく、自衛用としてナイフを持ち歩いている者がいないとも限らない。
 自衛用にナイフを持っている子どもに、本当の友達がいるかどうかを尋ねてみればいい。カッコよさでナイフを持ち歩いている者がクラスにいることを誰もが容認し、何かが起こっても、きっと誰も止めようとはしないことが容易に想像できる世界に暮らしている子どものことを。
 教師さえも見て見ぬふりをする。そんな姿は、私が自分で誰よりも多く見てきた。教師は全く頼れないのだ。もちろん親だってそうだ。
 自分の子どもが傷害事件を起こしても、「子ども同士のケンカですから」と突っぱね、自分の子どもには何の責任もないと言い張る。教師が彼らを体で止めようと争えば、すぐに傷害事件として学校を訴える。
 子どもに理解を示すことと無干渉になるのとは違う。親は子どもに、ものごとへの責任の取り方を教えなければならない。親としての責任を果たさなければならない。そんなことさえできない親が増えている。だから見て見ぬふりをする教師も増えていく。
「自分で自分を守るしかないのだ」。そう、弱い子どもほど思ってしまう。そして戦々恐々として一触即発の毎日を暮らしていかなければならない……。

■我慢できない子どもが増えている

 人がいろんなものに興味をもつのは、生まれたときからもっている性というものなのだろうか。通信制高校に通い始めた頃の私にも強く興味をひかれるものがあった。それは手錠だ。手錠をかけられた瞬間の気持ちを感じてみたかったのだ。たぶん決して知ってはいけない気持ちだし、そのために犯罪を犯すほどではないが、「重い」のか「冷たい」のか、すごく興味を感じてしまったものだ。
 突然、警察署に行って「手錠をかけてください」と言ったら、きっと変な子だと思われるだろう。もっとも、手錠をかけられた気持ちを知りたいという時点で、もう十分、変なのだろうが。でも謎とは、いつまでも謎だからおもしろいのであって、そんなふうに無理なことをすれば、きっと迷惑をかけられる人が出るだろう。拳銃に触れてみたかったので、警官を襲ったという子どもがいたが、触れたいのなら、海外のそういう店に行けばいい。
 何かをしたいと思ったときに、即座に実行しないと気がすまない子どもが増えているという。まあ、今からあげるような、愛きょうのある行動なら、実行してみてもかまわないと思うが。
 車の免許を取ってから、まだ初心者運転期間中だというのに、三回も検問を通った。はじめてのときは緊張し、二回目のときはふつうに、三回目には検問の看板が見えたときから「よし、今日こそは敬礼してやるぞ!」と心に決め、警察官の横に車を止め、「スチャッ!」と敬礼した。免許証を見せ、警察官の質問に答える。「こんなに夜遅くに(午後一一時)若い女性が何してたんですか?」
 アルバイトで歯科助手をしていた私は、白衣のまま通勤していた。そのときも白衣を着ていたたのでコートを脱ぎ、警察官に白衣を見せた。それを見た警察官の目は点になり、私は吹き出しそうになるのを必死にこらえて言った。「仕事です。歯医者で働いているんです」「……ご苦労さまです。暗い夜道は危険ですから、気をつけてお帰りください」。警察官はバツの悪そうな顔で答えた。私は「ごくろうさまー」といって、また敬礼した。そして何事もなかったように車を走らせた。
 そこから家に着くまで笑いっぱなしだった。べつにお巡りさんをバカにしたわけではない。ただ単に、敬礼してみたかっただけなのだ。検問している警察官にだけでなく、道に立っている警察官にも私はきちんと敬礼している。でも、ときどき、ただの警備員だったりもするのだけれど。 (■つづく)

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保健室の片隅で/第三回 保健室で見つけた希望

■月刊「記録」1998年3月号掲載記事

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■嫌らしい女だらけの教室

 高校に進学して、すぐにその高校が嫌になった。女だらけの教室。そこでは、みにくい女の争いも目に見えてしまう。嘘をつく人、かばう人。すぐ群れをなすグループだらけのなかでの生活は、苦痛以外の何ものでもなくて、苦しくて、悲しくて、そこにいる自分もひっくるめて嫌だった。
 仮面をかぶって教室に入ってはみるものの、やっぱり食事もろくに食べられなかった。もともと私は、人前で食事をとることが苦手なのだが、このときは一口もダメだった。食べる気にならないわけじゃなくて、ノドを通ってくれないのだ。
 けれども、どんなに苦しくても学校を休むことは許されず、同時に逃げる場所も与えられなかった。なぜならば高校では中学のときとは違って、保健室に行くのに担任の許可が必要だったからだ。
 ところで、私が人前で食事をとれなくなったことには理由があった。幼稚園でお世話になった先生から、久しぶりに手紙を頂いて、当時の話に母と花を咲かせていた。
 そのとき私が、「私、幼稚園のときから、お弁当食べられなかった?」と聞くと、母は、「あなた、具合が悪いときにお弁当を食べたら、皆の前でもどしちゃったんだって。それで、お弁当を食べたらまたもどすからこわいって、フタを開けることができなくなったんだって」と教えてくれた
 我がことながら驚いた。今まで生きてきたなかで、一番不思議に思っていたのが、この食事ができないことだったのだが、経過した月日は長く、幼い日の記憶は薄れていて、まったくといっていいほど覚えていなかった。
 結局のところ、私は当時から人前がこわかったことがわかった。見ていたみんなの目がこわくて、そんな小さな事件さえ、心の傷になったのだ。教室が、教室のなかにいる皆が敵で、こわくて、そのなかにいるときはいつもドキドキして、緊張していることしかできない子どもだった。そういえば逃げ場を探して、よく運動場の隅の土管のなかに入り込み、ボーッと過ごしていた。「このままでいられたら、きっと幸せだろう」と思ったことを思い出した。とうとう戻ってしまった!

■とうとう戻ってしまった

 
 高校生になっても、結局、私の逃げ場は変わらなかった。おなじみの保健室へ。ただ違うところは、それが自分の学校の保健室ではなくなったこと。朝はふつうに家を出て、一度は駅まで友達と行く。それでも学校に行けなくて、どうしようもなくなったとき、駅に背を向けてひたすら歩いた。
 誰にみつかっても、なんて思われても構わないから、帰ろうと思った。どうしてそこに帰りたかったのかわからないけど、そのとき涙目で見上げた中学校は、とてつもなく大きかったことを、今でもハッキリと覚えている。
 ドキドキしながら走って、思いっきりドアを開け、保健室のなかに飛び込んで、涙がかれるほど泣いた。
 保健の先生の胸で泣きわめく私を、他の先生たちは取り囲んだ。珍しそうに見る後輩。恥ずかしさなんか少しも感じなかった。心のなかで何回も、「帰ってきちゃった」とつぶやいた。行き場がなくて、逃げ場がなくて、かばってくれる人もいなくて、私はもう少しで「存在しない人間」になりそうだったのだ。
 高校なんて行くんじゃなかった!  心からそう思った。どうして止めてくれなかったのかと先生を責めた。もともと通信制の高校に行くといっていた私に、全日制の高校へ進学するように強く勧めたのは先生たちだったからだ。進学した先で、私が教室に行けるか行けないか、そんなこと、考えもしなかったのだろうといってなじった。
 中学生のときに、「中学校の先生っていうのは、生徒をいい高校に進学させるのが仕事なのよ。その後のことは、高校側の責任。二〇歳を過ぎて犯罪者になっても、先生たちには関係ないのよ」と聞いたことがあった。
 あれは本当だろうか。本当であれば、内申書には、きっといいことばかりが書かれてあったのだろう。協調性がなくても、出席日数が足りなくても、ふつうの生徒のようにごまかされていたのかもしれない。
 そう思えば思うほど、先生や学校が憎くなって、責任転嫁だとわかってはいたけど、どうすることもできない感情のほこ先を、私はぶつけるしかなかった。ただひたすら泣き、今まで起きたことのすべてをぶちまけて、泣きながら、自分の高校生活が夢であることを祈った。
 行き場も逃げ場もない苦しみが、みんなウソであってくれることを願った。あまりにも大きな孤独感で、それは、まるで地獄へ突き落とされたような毎日だったのだ。私は叱ってほしかった。

■私は叱って欲しかった

 でもあの日、中学に帰ってきてしまった私を、どうして先生たちは温かく迎え入れてくれたのだろう。もっと冷たく突き返されるかと思っていた。けれど先生たちは、授業を中断してまで私のところに来てくれた。あの中学の、ああいう雰囲気に、いつも私は救われていたのかもしれない。
 そして「もう、学校を辞めてしまいたい」と私がいうと、「今、辞めてどうするの。がんばるって自分で決めて行ったんでしょう!」と、先生に怒られた。このとき感じた。たぶん今の私に一番効く薬は、怒られることなのだ。それをわかっていて、先生達は、私を叱り、カツを入れてくれているのだ。
 思えば、私にとって保健室とは、メッセージをもらう場所だった。そこでは心臓が痛いといえば、いろいろなメッセージつきのシップ薬を貼ってくれた。そのうち心臓が痛かったのか、心が痛かったのか、本当のことはわからなくなって、痛みが引いたとき、心のなかにはメッセージが残っていた。人が放つ言葉は、心の奥にいつまでも残り続ける。私はきっとあのとき、メッセージが欲しくて、保健室へ戻ってしまったのだろう。
 通信制の高校に入り直してから、みんなの話を聞いてみると、通信制の高校へでさえ、進学することを拒む中学の教師が多いという。願書を書いてほしいと頼んでも、断られてしまうというのだ。当然のことながら、普通高校への進学などさせてはもらえない。なぜかといえば、自分の教え子が登校拒否児だったと知られるのが恥ずかしいからだという。
 事実、担任にそう言われてしまった友達を私は知っている。彼女は、当時の担任が他校へ異動になるまで、高校へは進学できなかった。それを知ったとき、どれほど自分の環境が恵まれていたかが、さすがの私にもわかった。私は今、進学や保健室登校を認めてくれていた中学に感謝している。もし、保健室がなかったら……

■もし、保健室がなかったら・・・

 保健室を追い出された生徒は、一体どこへ行けばいいのだろう――。
 保健室に行くのに担任の許可が必要だった高校で、結果的に私は行き場を失って、中学校の保健室に逆戻りしてしまった。けれどそこにも、何度も通うことは当然できず、今度は不登校をするようになった。
 中学生の不登校と高校生の不登校では、あきらかに違う。なぜなら高校は義務教育ではないからだ。私の頭のなかには、つねに留年という二文字が揺らぎはじめ、これがかえってプレッシャーとなって、ますます足が遠のいた。
 一度、休学してプレッシャーを取り払い、落ち着いてからもう一度やり直そうかとも考えたが、そこまでしても仕方がないとわかった。どうせなじめないのだから、高校など辞めて、もっと他のことをしたほうがましだと思い、そう両親に伝えた。
 高校を辞めるという私を、両親はあまり引きとめず、理解してくれた。退学届を出したあとで、中学にその報告をしにいくと、先生たちも、「わかった」という一言を添えて見送ってくれた。
 保健室に行くために行った中学校ではなく、辞めるつもりで行った高校ではないけれど、結果的にそうなってしまった。保健室に行っていた自分を、私はずっと恥ずかしくてみじめだと思っていたし、いくら強く勧められたからといって、行きたくもない高校への進学を決めたのは、少しは世間を気にしていたからかもしれない。
 でも、学校という組織を完全に抜け出してみたら、本当にすっきりして後悔はまったくなかった。
 まず、絶望の底にいた私が、夢をもとうという気持ちになれた。養護教諭を夢見て、当時は大学検定を受けて、大学へ進学することを夢見ていた。そして、学校という組織にどうしても同化できなかった私に、義務教育時代、もしも保健室がなかったらと思うと、考えただけでもゾッとする。
 いまこうして笑っていられるのは、保健室があったからに違いない。保健室は、私のような子供にとっての避難場所なのだから。 (■つづく)

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保健室の片隅で/第二回 自殺未遂の果てに…

■月刊「記録」1998年2月号掲載記事

            *         *            *

■誰かに止めてもらいたかった

 生きていくことに、何の意義があるのかと疑問を持った瞬間、死にたくなった。
 生きていてもしょうがないって思い始めたのは、中学校にあがって、保健室にたびたび顔を出すようになった頃だ。やっぱり、保健室にいつも顔を出すっていうのは尋常じゃないから、先生はいろいろな質問を投げかけてくる。
「友達いないの?」
「教室嫌い?」
「好きな子いないの?」と。
 そんなこと聞かれたって、どれも答は一つだけ。「先生には関係ないじゃん」だ。特に私を気にかけてくれていた新米の先生にはコタえる返答だっただろう。
 けれども、聞かれる私もつらかった。友達がいなくても平気みたいな顔していたけど、本当は寂しかったから。行けるものなら教室にも行きたかったし、その頃はじめて経験した恋は、「このまま、あの人を好きでいるまま死んでいきたい・・・・・」などと、死に迷う私に追い討ちをかけていた。
 見た夢は数限りなく、やりたいことは人一倍多かった。だけど、その夢をかなえるための手段がわからなくて、越えなければならない難関も多くて、かなうアテのない夢への絶望が、私に大きくのしかかる。もう、お先は真っ暗状態、何もやる気になれない。できることなら、この世の果てまで逃げ出したかった。死んでしまいたかった。
「この前、一騒ぎ起こしたんだって?」
 中一の夏休み明け、学校を騒がせた私は、真っ先に向かった保健室で先生にいわれた。
 夏休み明けに私が起こした事件は二つあった。そのうち一つは家出だ。いつもこの家を出ていきたいと思っていたから、タイミングを見はからって遠い街まで遊びにいったのだ。「家を出るときには、すべてを置いて出ていけ」というのがわが家の鉄則だったから、ほとんど手ぶらで家を出た。
 何度もうしろを振り返っては、誰も見ていないか、追いかけてきたりしないか、半分の恐怖と、半分の期待で心臓は破裂寸前となった。バカなことをやっているのはわかっていた。だから、誰かに止めてもらいたかった。でも、止めてくれる誰かを探して振り返る先には、出勤や登校に急ぐ人の波が冷たく流れていた。この家出が、私が「逃げ道街道」を歩き始めるキッカケだった。
 家出といっても、泊まるあてがあるわけではなくて、知らない街で誰も知らない時間をすごし、お金が尽きたところで家に連絡をして迎えにきてもらった。
「先生たちも一生懸命、探し回ってくれたんだからね。みんな心配してるのよ」
 誰からとなく、何度も聞いたこのセリフ。そんな時間が、親や周りの人に迷惑をかけている時間が楽しかったといったら、精神的になんらかの異常があると思われるだろうか。今になって思えば、自分でもそうだったかもしれないと感じている。
 学校側が知っている私が起こした騒ぎはこれだけだったけれど、実はこの前日にもう一つ、事件を起こしていた。

■それは自殺未遂。

 正確にはそこまでいうほど大ゲサなものではなかったけれど、興味半分で、カミソリで手首に切り目を入れてみた。テレビドラマとは全然違っていて、にじみ出る程度の血と、ほとんど感じない痛み。そして心に残ったものは、愛する人を手首に封印したという自己満足感と、自分には見えてしまう、ミミズばれのような悲しい傷だった。
 何に対しても投げやりになっていた。感情というものが、私のなかから消え去っていたんじゃないだろうか。
 その後も、自殺未遂騒動を二回起こした。この二回は結構騒がれて、救急車と警察官まで出動させるほどになったりもした。クズと思われていたに違いない
 何で死にたいと思うのかと聞かれると、いつも生きている意味がないからと答える。死ぬ理由がないかわりに、生きる理由もない。だから生きていたくない。それだけのことで自殺未遂なんて、話を聞いている人達はあきれたに違いない。
 でも、たったそれだけの理由で死を選ぼうとするのは、実は私だけじゃなかった。そのときの私の周りには、何人も同じような子がいたから、何の不思議も感じなかった。ただ、実行に移していた子は、少なかったけれど。
 いつも質問ばかりされている私が「ねえ、何で私は生きていなけりゃいけないのかなあ?」と先生に質問を投げかけた。相手にしてくれる先生、してくれない先生、みんな答えはバラバラだったから、何人にでも、自分の納得のいく答が出てくるまで聞き回った。
「せっかくもらった命は、大切にしなきゃいけないのよ」。そんな答が多かったけれども、ひねくれ者の私には、「生んでくれと頼んだ覚えはないわ」としか思えなかった。そう私が口にすると、「生きていれば一度くらいは、そう感じることがあるのだ」といわれた。そういえば、「どこの家庭でも、同じようなことがあるんだよ」といわれたときには、迷子になった自分の心が一瞬、戻ってきたような気がした。
 思えば、どこにいるときでも、周りにいる誰もが心配してくれていたと思う。学校に行っても教室には行けない私を、担任の先生も部活動の顧問も保健の先生も、校長先生までもが心配してくれていたと思う。でも卒業間際のギリギリになるまで、私には気がつけなかった。
 先生達はみんな、私みたいな保健室に閉じこもりっきりの生徒はクズだと思っているに違いないと思い始め、それが止まらなくなって、もともと遠のいていた教室や学校がどんどん遠くなって、知らず知らずのうちに自分から敬遠してしまった。
 世の中はみんな鉄の塊。私のなかの学校は鉄の塊。
 鉄の制服を着て、鉄の教室に鉄のカバンを持って行き、鉄のように冷たい机に向かわなきゃいけないと思えば、気分は最悪。それが学校だけならまだしも、当時の私には、世間すべてが鉄の世の中にしか見えなくなっていた。
 今や高校くらいは卒業していて当たり前。ブランド企業に就職しようと思えば、ほとんどが大学を出なければならない。そんななかで中学も真面目に行っていないなんて、ろくな人間じゃないと思われてしまうのがふつうらしい。いわれてみれば、そうかもしれないけれど、そんなに私はろくでもないものかな。
 結局、高校を中退して通信制の高校に通ったけれど、世間には「通信教育は高校とはいえない」という考えをもつ人が多い。アルバイトの面接にいっても、履歴書の最終学歴欄に書くのは「高校中退」だ。初対面の友達に、自分の立場を説明したときにも「一応高校生」。いっそ中学卒業で通したほうが、楽なんじゃないかと思うことも少なくない。通信制の高校というものを説明するのが難しく、面倒くさいからだ。
 さらに面倒なのが、ご近所様の好奇心や興味に応えることだった。ご近所様のうわさは、すぐに立つ。うわさが立てば、真実を突き止めようとする人が必ず一人は現れる。そのときに質問の的になるのは、なぜかいつでも母なのだ。私のところに直接聞きにくる人は一人もいない。こういったことに関しては、どんな立場の人でも反応は同じらしい。
 学校の先生も私に関するうわさの確認には、おそるおそる遠回しに、母に聞いてきた。聞きたいことがあるのなら、知りたいことがあるのなら、ハッキリと私に聞きにくればいいのに、どうして母に聞きにいくのか、いつも不思議でならなかった。けれども、そんなうわさも話題も、みんな私のことなのだ。だから、遠回しにされればされるほど、わずらわしいけど気になってしまう。
 どうして私が学校に行けないか、母は知らない。学校に行った自分の子どもが、学校で何をやっているのか、ふつうの親にはわからないように、私の母にだってわからない。まさか私が毎日保健室に行っているなんて、思ってもみなかっただろう。そしてたとえ知っても、理由なんかわかりっこないのに。
 なのに家に閉じこもっていれば、ご近所様が「どうしたの?」と聞いてくる。結局、世間も私にとっては、鉄でできた空間になった。そして、ナゾ解きの的が母に向けられたときから、矢のように冷たい視線を母からそらすことだけを考えるようになった。母に危害が及ぶくらいなら、この町から消えてしまいたいと心から思った。

■「死」への逃避は自分への負け

 保健室登校児が生まれる発端には、こういう「周りの目」があるのではないか。ご近所様の目を気にするように、子供は親の目も気にする。また親に向けられた他人の目も気にしている。人の視線が痛いから、とりあえず学校には行くけれど、やっぱり教室には入っていけずに保健室に行く。そういう子どもが増えているのじゃないか。保健室登校児や自宅にこもりきりの子どもに、イジメとは無関係なケースが多いのは、実はこんな理由によると思う。
 保健室登校は、最近徐々に認められつつある。確かに保健室登校児は、ある意味で、自分の意思を貫いているようにも見えるからだろう。彼らの存在が認知されつつあるのは、そういう理由だ。
 だが、保健室登校を認めることで、逃げようとしている子どもの「逃げ」の部分を許すような世の中になってはほしくないと思う。たとえば、イジメられて自殺して、テレビで騒がれた子が、ヒーローのように祭り上げられたことがあった。自殺した彼は、自分の考えを全身で訴えていたようにみえて、私も一時は、そんな人間になりたいと思った。
 でも実は、それはヒーローでも何でもなくて、ただの負け犬だった。確かに逃げることは一つの手段だが、死を使って逃げてはいけない。いつだって私は「逃げ道街道」の真ん中を歩いてきたし、手首に切り目を入れたこと、睡眠薬を大量に飲んだことだってあるけれど、だからこそわかる。死に逃げるのは卑怯な負け犬だ。
 死を選ぶのはかっこいいことでも立派なことでもない。それはつまり、自分自身に負けるということ。今ではこの世で一番の恥だと思っている。 (■つづく)

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保健室の片隅で/第一回 イジメって?

■月刊「記録」98年1月号掲載記事

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■理由なんてない
 私は中学生のとき保健室登校生だった。
 べつに学力が人より劣ってるわけでなく、体に障害があるわけでもない。だけど教室には入っていけず、保健室に登校していたのだ。
 イジメと保健室登校、そして不登校にはつながりがあると思っている人が多いようだが、私が見ている限りではまったくなかった。事実、私も中学生のときにイジメられていないし、その気配すらなかった。といっても、イジメられるほど仲がいい友達もいなかったから、気にならなかったのかもしれない。
 じゃあ、何でそんな私が保健室登校をするようになったかと聞かれると、私自身「わからない」というのが正直なところだ。きっと、学校に行けない不登校の子どもたちも、自分がどうして教室に行けないのか、何で学校に行けないのか、はっきり理由がわかっている人はそう多くないと思う。
 中学を卒業し、通信制高校に通っていた頃にもらった手紙のなかに、「自分の子どもが不登校なのだが、どうして学校に行けないのか、本当の理由を聞き出してほしい」というのがあった。しかし、理由もなく教室に行けない人がいるのだということも知っておいてほしい。
 理由もなく教室に行けない人も、親や学校の先生、また社会の大人に、どうして学校に行けないのか、教室に行けないのかと聞かれると、「何か答えなければ」という衝動にかられてしまう。
 理由もないのに教室を拒否し続けると、サボリと思われるんじゃないか、逆に精神異常とみられて、病院に閉じ込められてしまうのではないかと不安になるのだ。そうしてこわくなって何かを答えてしまう。そして自分の答え自体に対して、また不安を抱くという悪循環をくり返す。
 たしかにこういった悪循環は、精神的に何らかの異常があるからかもしれないが、ものの考え方を一つ変えれば、病院に行くほどの異常とはいえないだろう。

■イジメとは一体何?

 人間、誰しも欠陥を持っている。
 人にできることができない人、できないことができてしまう人、それぞれにいいところと悪いところを持ち合わせていて、その出方が人と少しズレているのだと思えば、そんなに悩むほどではないのではないかと思う。私が教室に行けないことも、欠陥の一つ。人見知りするのも、慣れていない人の前で食事を取ることができないのも、病気ではなくて欠陥の一つでしかないのだ。
 では、イジメとは一体何なのか? 大きくわけて二つのパターンがあって、自分がイジメられていると思ったときに初めて成立するイジメと、「イジメてやろう!」と思って故意に行われるイジメがある。
 私が経験したのは今まで仲のよかった友達がだんだん遠ざかっていくという、精神面での孤立だった。
 名前を呼んでもらえなくなり、クラスの一員として認められているのかいないのかさえわからなくなり、自然と孤独になってしまった。どこのグループにも属さない人間は、いつしか誰にも相手にされなくなる。その子に近づく者も同様で、いずれクラス中から白い目を向けられるようになるのだ。
 こういった精神的なイジメは、そのうち消えるときが来る。いいかえれば時間が解決してくれるのだ。なぜかというと授業でグループを作る時などに、どうしても孤立が目につきやすいイジメだから、誰かが何らかの対処をすることができる。
 ただし、その時まで待つことができればの話だが。
 私には時が解決してくれるのを待つだけの力はなかった。子どものころから慣れていない人の前で食事を取るのが苦手で、教室が苦手で、協調性なんかなかったから、今さらどうやって人とつき合っていけばいいのか、どうやって接していけばいいのか、さっぱり見当もつかなかったのだ。
 教室のなかに一人ぼっちで、冷たい視線を気にしながら食べるお弁当がノドを通らなくなり、着ている制服も重たくて、何も入っていないカバンが重たくなった。学校が遠く感じられて、しかしそんな私に気づく人は誰もいなくて、受け止めてくれる人も逃げ場も何もなかった。
 今こうしている自分に「気づいてほしい」と思う反面、「親には心配をかけたくない」という思いもあった。 口にはもちろん態度にも表さないよう、初めのころは気をつけていた。親に心配をかけないように気をつけるのは、故意に行われているイジメでも同じだろう。

■またイジメちゃおうか

 故意に行われるイジメはどうしようもなく悪質だ。
 まわりの人間が気づいたときにはもう手遅れで、何か手を打とうとすればするほど裏目に出てしまうものだ。イジメられている本人はそのウズに翻弄されて、精神的にも肉体的にもいたぶられていく。
 私がこれまで一番ショックを受けたのは、この故意にイジメを行ったことのある人の話を聞いたときだった。「あいつのこと、またイジメちゃおうかなぁ」
 そんな何げない言葉から、過去にその人がイジメっ子だったと知った。どういうイジメを行っていたのかと聞くと、イタズラ電話や、「デブ」「チビ」など、その人がコンプレックスを抱いていることをあえて強調する言葉の暴力、トイレに連れ込んでは集団で殴るけるといった肉体的な暴力もあったという。
 何でそんなことをするのかと聞くと、特別にこれといった理由はない。ストレス発散だとか、ただ単にムカツクから、ということなのだ。
 イジメられている方にはまったく何も悪いところはない。どうしてその人をイジメの対象に選んだのかと質問すると、「顔が気にいらないから」と答えた。私からみれば、みんなと同じふつうの顔立ちなのに、誰か一人が気に入らないというと、皆の標的になってしまうらしい。
 そのくせ、イジメられている子が学校を休むとみんなで心配するんだから、不思議でならない。イジメが発覚するのがこわいのだろう。結局、イジメている方は臆病者なわけだ。そんなにビクビクしながらイジメるくらいならイジメなんてしなければいいのに、なくならないというのは、やっぱり社会現象だからだろうか?
 イジメられている方の気持ちをいえば、「人には気づかれたくないから、誰にも心配かけたくないから、今日一日だけは休むけど、明日からはがんばるよ」といった感じが多い。そこからすぐに不登校に発展したり、保健室登校をするようになるのは実際には珍しいことなのだ。
 基本的に、保健室登校や不登校をする人は、教室や学校を自分自身が気づかないところで徐々に拒絶し、知らない間に足がそちらに向かなくなってしまう。

■教室に近づけない

 人に劣るところはないのに、直接イジメられているわけではないのに、人と同じことができなくて、気づいたときにはもう私は教室に近づけなくなっていた。逃げ場を探して学校中をさまよい歩き、途方に暮れやっと見つけた保健室。もしその保健室にさえ拒否されてしまったら、もう行き場はなかった。
 私の場合は、保健の先生がそこを「逃げ場として使ってかまわない」といってくれたから、どうにかして学校にも行けた。もし、「もう来ないでほしい」といわれていたら、きっと学校に行くこともできなくなっていただろう。そして心の底から学校という社会を嫌いになっていたはずだ。
 保健室登校生が保健室に行き、いったい何をしているのかはあまり明らかにされていない。私がそこで何をしていたのかというと、みんなと変わらないふつうの学校生活を送っていた。
 休み時間は休み、授業時間は勉強をしてきちんと出席扱いになっていたし、テストだって受けていた。みんなと違うところといえば、クラスメートがいないことと教科担任がいないこと、ほとんどが道徳の授業だったということだけだ。
 どうして教室に行けないのかということには一切ふれずに、保健の先生はいろいろな話をしてくれた。
「心の言葉を文章に表しなさい。たくさん作文を書いて、先生に読ませて。詩でもいい。絵でもいい。自分の好きな表現で、心の中を表すの」
「別に、ずっとここにいてもいいのよ。逃げ場がなくなったら、つぶれてしまうのは誰だって同じなんだから。いつか自然にここから出ていけるようになるときまで、無理に追い出したりはしないから」
 後になって知ったことだが、私のような教室に行けない生徒を保健室でかばっていると、職員室のなかで冷たい目を向けられることもあるらしい。それでも先生は一生懸命、私の居場所を作ってくれた。私だけじゃなく、教室に行けないみんなに。

■カラーに染まる

 保健室にくる生徒には、どこか似たようなところがあった。友達がいないというわけではないけれど、人を信用できない。電話で話すのは好きだけど、自分からは絶対にかけない。お祭り騒ぎは好きだけど、心のどこかで、「何でこんなバカなことをしているんだろう?」って疑問を抱く。いったん疑問を持ったら止まらなくなり、すべてがバカらしく思えてしまう。
 どうしてみんなでトイレに行かなきゃいけないのか? 何でみんな同じような格好をしなきゃいけないのか? ルーズソックスに、ミニスカート、茶パツにカラオケ。持っているおカネさえも、みんな似たりよったり。財布の中身なんて、人それぞれ違っていて当たり前じゃない。それなのに統一したがるのは、みんなと同じじゃないと不安になるからなのか?
 みんなと同じじゃなかったら、少しずつみんなが遠ざかっていってしまうからなのか……?
 同じカラーを持っていない人間は、同じ形をしていない人間は、みんなに不思議そうな目で見られる。一緒にトイレに行かないだけで、夜遊びができないだけで、友達の家に泊まりにいったときに親があいさつの電話をするだけで、みんなと違うカラーだといわれてしまう。
 教室にあるグループとは、同じカラーを持つ者たちの集まりで、そのグループに「入りたい」と思えばその色に染まり、その形に自分を整えればいいだけだ。カンタンなことだと思う。
 でも、私があえてそのカンタンなことをしなかったのは、無理をしてまでみんなのなかにいようとは思わなかったからだ。
 一人に慣れてしまえば、一人でいることを苦に思わなくなり、誰にも何もわかってもらえなくても構わなくなる。わかってくれる人がいれば、それはそれでうれしいけれど、もう、そんなことはどうでもよくなっていた。 いつかきっと、自分と同じ考えを持っている人に出会える。そう信じて何もいわずにいたら、結果的に一人になっただけなのだ。
 これに関しては、私にも非があったろう。自分の気持ちを口に出さなかったら、誰も何も気づいてはくれないのだから。
 自分の周りに自分と同じ思いをしている人がいなければ、世の中の人間はみんな同じバカにしか見えなかっただろう。つい最近まで、ずっとそう思ってきた。くだらないことに笑い、くだらない遊びを本気で楽しんで、愛だの恋だのと騒いでいる生徒・学生たちがクソガキにしか見えなかったのだ。
 それは世の中の大人たちだって同じだった。外に出れば、バカの塊が動き回っているようにしか見えなかったのだ。 (■つづく)

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