保健室の片隅で/池内直美

保健室の片隅で・池内直美/最終回 親と子の愛情

■月刊「記録」2000年9月号掲載記事

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 最近の事件で目立ったのは、母親が子どもを殺害する、もしくは、殺害しようとした、というものだ。
 どんな事情があったにせよ、自分のお腹を痛めて産んだ子どもを殺害するというのは理解しがたい。しかも、子供に保険金をかけ、その保険金を目当てにしていたという人もいるのだから、ものすごい話だと思う。
 しかし、子どもの家庭内暴力に耐えかねて、という事件になると、ちょっと事情が違う。どうにも明日はわが身、のような気がしてならない。他人ごとという感覚を持つことができない。
 家庭内暴力は、男の子を持つ家庭だけの問題ではない。力の差はあるにせよ女の子でも条件がそろえば引き起こす。背景になる事柄には男女では、多少違いがあるけれど、「女の子の家庭だからうちは安心」ということはないのである。

■複雑だった家庭の事情

 先日、母親が中学生の女の子を殺し、自分は自殺するという事件が起こった。女の子が一人暮らしをしていたということ、家庭内暴力が起こっていたということ、10代の少女の一人暮らしには、「なぜ?」とも思うが、こんな状況にある家族は、この一家だけではないだろう。
 娘を一人置いて、父と母がもう一人の子どもだけを連れて家を出る。ふつうに考えれば不思議な行動だけれど、そんな家庭もあるのだろう。親たちは、自分がいないことで荒れる子どもの気持ちがおさまるならと考えたのかもしれない。
 親の顔を見て娘が毎日、いら立つなら、少しの間だけ離れていよう。気持ちが落ち着いたら、また一緒に暮らしていこう。そんな思いで、後ろ髪を引かれて家を出ていく家族があったとしても、他人が簡単にそれを否定することなどできはしない。
 家庭の事情は、それぞれ複雑であり、一般論で簡単に割り切ってしまいきれない場合が多いからだ。
 この事件の例ほど複雑ではなくとも、親と子が、互いにわかり合えずに、悩んだり苦しんでいる家庭は多いだろう。どんな家庭でも、親と子がわかり合えなくなって、悩む時期はあるものだ。
 子どもというものはわがままで、親が自分のすべてを受け入れてくれると信じている。多くの親も、子どものことをできるかぎりの力で受け入れようとしているはずだ。けれど、わがままは受け入れられないし、それは子ども自身にもわかっている。
 わかっていながら、思春期などには、子どもは自分の気持ちでいっぱいになってしまい、むやみに自己主張をしてしまう。こういうときに、親子の気持ちのすれ違いが起こってしまうのだろう。
 子どもも、わがままな自己主張の後では、たいがいは自分が取った行動に対して人一倍の後悔をしているものだ。けれど、いざ親を目の前にすると、やっぱり素直になれなくなってしまう。そうして、結局、同じ行動を繰り返す。自分のことを振り返ってみても、よくあるパターンである。

■自分で一杯にならないように

 私は数年前から、不登校の親子が集まる会などで、相談を受けるたび、ある言葉をよく口にする。
 それは「人から愛されていることに、自信を持って生きていこうよ」というものだ。
 親から愛されていること、子どもから愛されていること、その他自分の周りにいるすべての人に愛されていることを自信を持って信じてみようよ、と伝えることにしている。
 親子や学校内での人間関係に悩んでいる人は、よく「気にしてもらえない」とか、「甘えさせてもらえない」とか、「自分のいうことを聞いてもらえない」と口にする。
 いや、ふつうに暮らしている私たちだって、何かの不満を持っているとき、その原因を考えてみると、たいがいこうした言葉が浮かんでくるものだ。要するに、みんな愛してほしいのだ。
 愛していることの表現をうまくできない人はとても多い。親が子どもを愛することは、かなり当たり前のことなのかもしれないけれど、ときにはうまく相手に伝えられなかったりする。
 子どものほうも、当たり前だとわかっていても、声に出して伝えてほしくて、目に見える形で表現してほしいと思ってしまう。
 親子のように、愛する対象がとても近くにいると、たがいに近づきすぎて、相手の顔は見えるのに、全身を視界に入れることができなくなってしまう。相手の立っている地面が、土なのか、コンクリートなのか、芝生なのか、水の中なのかが、わからなくなってしまうのだ。そうして互いに空回りしていくのだろう。
 親子にかぎらず、そんな悩みは、誰にでもある。
 そんなとき、つい自分一人が一番苦しいような気持ちになってしまうけれど、少し目を開けば、同じような悩みを抱えている人はすごく多い。それに気づいてほしくて、自分で一杯になっていることに気づいてほしくて、「人から愛されていることに、自信を持って生きていこうよ」と、伝えることにしている。 (■了)

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保健室の片隅で・池内直美/第25回 新しい生活の中で

■月刊「記録」2000年8月号掲載記事

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 つい先日のこと、半年暮らした東京から千葉に引っ越した。そこに暮らした毎日を記憶ごと消してしまいたいと思ってのことだった。
 原因は、夫婦仲が悪くなっていたこと。こんなふうに書くと、「なんだ夫婦げんかか」と思われるかもしれないが、それは私にとって、「夫婦げんか」という一言で表せるような感じのものではなかった。
 私はこのところ、ずっといら立っていた。最初、いら立ちの原因が何であるのか、自分でもわからなかった。けれどあとから思えば、それは、嫌なことを「嫌だ」と気づくことのできない自分の性格だった。
 私は、夫婦生活という共同生活の場で、気づかぬうちに、いつも相手の顔色をうかがい、いうままになって行動していた。
 私の生活は、自分を押し殺した毎日の連続になっていた。
 夫婦といってもしょせんは他人だ。ともに暮らすには「協調性」も大切だ、とはよくいわれているけれど、それは互いに自分の考えをもったうえで、認めあったり助け合ったり譲り合ったりすることであるはずだ。けれども私には、協調するための自分自身さえもなかったのだった。
 私はもともと、誰といても行動を相手に合わせてしまうタイプの人間だ。だから、そのこと自体が苦しいと思うことは今まではあまりなかった。けれど家から外に出ていって少しの時間だけ相手に行動を合わせているのと、生活の場で相手にすべて合わせているのとでは、おそらくストレスの度合いが違ったのだろう。
 私は、数ヶ月前から、毎日の生活が何か苦しいと感じ始めていた。けれど自分が何にいら立ち、何が「嫌」なことであるのかが見えずに苦しんでいた。そんな私と夫の間には、毎日のようにけんかが絶えなかったが、いくらいい争ってみても、何一つ結論は見えてこなかった。ただ二人の間にイライラだけが積み重なっていった。
 そして、私は自分のいら立ちの解決策を探ろうと、とうとう病院にカウンセリングの予約を入れにいった。けれど、自分でも整理のつかない物事の原因を、他人に話すだけで解決できるものだとも思えなくなり、直前になって結局やめてしまった。話を聞いてもらうだけで楽になる場合もあるだろうけれど、私の場合には結論は見えてこないと、なぜだかそのとき私にはわかった。
 そして、今すぐなんとかしたいという思いと、今日一日生活するのも苦しいという焦りにも似た気持ちのなかで、私はただいつまでも消えない不安を握りしめて悶々としていたのだった。

■自分のことは気づきにくくて

 そんなとき、一冊の本を手にした。カウンセリング講座のためのテキストだった。病院でのカウンセリングの予約はキャンセルしてしまったが、やはり私は自分で答えを見つけたくてあがいていたのだろう。だからそんな本に目が向いたのだろうと、振り返ってみて思う。
 テキストに書かれていた方法は、自分で自分をカウンセリングする方法だった。紙に思いつくままに、今の気持ちをどんどん書き連ねていく。ただ、そこには相手がいないので、気張らずに本心を書くことができる。
 私は自分のいら立ちの原因を思いつくかぎり集めて書き連ねていった。最初のうちは、自分でも自分がかわいくて、物事を正当化するような書き方しかできなかったけれど、だんだん書きつづけるうちに、内容が変わっていくのがわかった。
 私は、どうして相手の顔色をうかがってしまうのだろう。
 これは、よく旦那からもいわれていることだった。でも別に、誰の顔色でもうかがっているというわけではない。私を好いてくれる人にだけ行ってしまう行為だ。
 私は、相手のなかにある「かわいい私」をなんとか想像しようとし、相手の中にある「私」という像をなんとか見つけ出そうとする。その像を壊さないようにし、好きでいつづけてもらうために、私は相手のちょっとした反応にも気をつかい、期待にこたえようと努力してしまう。
 相手の期待にこたえなければいけない。相手のなかにある「私」を壊すことは、相手を傷つけることのような気がする。そうして自分で自分にかけたプレッシャーの大きさに、私はいきづまってしまっていたのだった。
 また、近所に住む姑や多くの親戚たちのなかにある自分も壊したくなかった。新生活とともに接するようになったたくさんの人たちのなかにある「私」を壊さぬように気づかい、私自身が壊れそうになっていたのだった。 だから自分を取り戻すために引っ越しをした。それだけのことを発見するために、夫ともけんかを繰り返して、ずいぶん遠回りをしてしまった。
 人は自分のことは、なかなかわからないと改めて感じた。けれど、自分でもわかっている私の長所は回復力だ。新しい気持ちで生活を築いていこうと思う。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第24回 家族として信じること

■月刊「記録」2000年6月号掲載記事

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 2000年3月、通信制高校の卒業が決まったと知った時に私の頭に浮かんだのは、「ホッとした」という一言だった。私の学校生活は、時間と、そして自分自身との戦いだったように思う。いつ辞めてもおかしくなかった。
 高校の4年間は、短かったような長かったような、とにかくがむしゃらに走ってきた毎日だった。
 学校に行かなくなってしまったり高校を中退したり、自分の方向をなかなか見つけられなかった私にとって、一つのことをやり遂げた経験はとても大きな出来事だった。
 中途半端なことをしてきたつもりはなかった。自分の生き方を見つけるまでに、何度もやり直しをしてきただけのつもりだが、それも単に自分の歩き方を否定したくないだけのいいわけなのかもしれない。
 通信制高校に入り、自宅で、自分一人で学習をしなければならなかった間に身についたやり遂げる力は、今もいろんなところに影響しているけれど、それは私が一人でがんばってきた成果ではなくて、いろんな人に支えられてきた結果だった。
 学校へ入ったばかりの頃の私は、学校というところが嫌いで、家族や自分の周りにいる人が嫌いで、自分自身もふくめて、世の中に生きている人すべてが嫌いだった。
 心の片隅で、「これじゃいけない、ちゃんと生きていかないと。人として、自分や周りに負けない人生を送らないと」そう思いながらも、自分の殻の中から抜け出せない苦しさから、なかなか逃れられなかった。
 どうすることもできなくて、どうしていいのかわからなくて、ただ不安な日々を1年くらい過ごした。そしてそこから脱け出すきっかけになったのが、振り返れば大検(大学入学資格検定)だったような気がする。
 大検に受かった時に味わった、一つのことを乗り越えたという満足感。結果そのものよりもなによりも、自分だって目標に向かって歩けるんだという自信が、私を勇気づけてくれた。
 それからの私は、本を書いたり、『記録』に原稿を書かせてもらったりして、自分の名前と言葉で、自分の考えを話せるようになった。けれど、ずっと心の奥で疑問に思っていたこともあった。それは「本当に、私は昔の自分から卒業することができたのか?」ということだった。
 講演会や不登校の親の会などに出席させてもらい、壇の上で話をしていると、自分の口から出ているのは、「私はあんなことが嫌だった、こんなことが嫌だった、もっとこうしてもらいたかった」という話ばかりであることに気がついた。
 わがままな願望のオンパレードで、「こんなことがうれしかった、こんな言葉をもらえてうれしかった」という言葉が出ていない。それどころか、うれしかった時のことを思い浮かべてみようとさえしていない自分に気づく。
 嫌な記憶しか話せないのが私なのか?
 こんな嫌な記憶ばかりを吐き出しているのが私なのか?
 私は本当に昔の自分から抜け出し、変わることができたのか?
 自分でも不安になった。本当は何も変わっていなくて、ただ強がって大きな声で話しているだけで、変わったと思い込みたいだけなのかもしれないと思った。

■立ち直ることもできるのだ

 2000年1月、不登校の親の会が開かれた。子どもの心理を知りたいからという理由で、現在不登校をしている何人かの子たちと一緒に、私は会場に招かれた。そしていろいろな質問を受けていて気がついた。
 当時、親に何をいわれて嫌だったのか、不登校の子にとって学校とはどんな存在なのか、何に対してどんな不満があり、周りにはどんなことをしてもらえるとうれしかったかなど、いろいろな質問をされて応対しているなかで、私は、自分が当時の気持ちを、もうリアルに思い描くことはできなくなっていることに気づいた。
 親が嫌いだったことは覚えている。けれど、今は感謝している。学校に対しても、勉強に対しても、自分自身に対しても、何もかも嫌いだったことは覚えているが、もう、その気持ちをありありと思い浮かべて話すことはできない。
 不登校をしていた頃は思い出せなかった家族旅行のことも、結婚をして学校を卒業した今なら、楽しかった思い出として心に浮かぶ。
 そんな自分に気づいて、やっと私は、昔の自分から本当に卒業できているのかもしれないと思うことができた。
 ここ最近、世間を騒がしている事件のなかには、犯人は自宅に引きこもりがちだったり、不登校の経験があったことなどが、それが原因の一因でもあるといわんばかりに報道されている。今現在、不登校や引きこもりの家族を持つ家の人たちは、とても不安に思っていることだろう。
 でも、引きこもりの子や不登校の子を信じてあげてほしい。彼らだって苦しんでいて、普通の人間であることを信じてあげてほしい。
 家族の愛情は、うまく伝わらないときも多くて、受け取る側の感じ方によっては、曲げられて感じ取られてしまうこともあるだろう。けれど、いつかはそれもまっすぐに伝わる日が来ることを家族は信じてあげてほしい。 私はうまく立ち直ることができた珍しい例だといわれている。実際に今も、引きこもりから抜け出せないで、社会との生活を絶っている人が大勢いることもよく知っている。引きこもりの期間が昔に比べてだんだん長くなっていることも、その人数が増えていることもわかっている。
 引きこもりの年齢は次第に高くなり、学校や学級崩壊を起こす年齢は低くなってきている。自分の子だって、いつそうなってもおかしくない時代だ。
 けれど、どんな育児書を読んだって、しつけの仕方について話を聞いたって、それはただのマニュアルにすぎない。
 どんな報道も事件を起こしてしまったその人の話にすぎない。自分の家族は一人しかいないのだから、マニュアルや興味本位の報道に振り回されるよりも、信じて接していくことのほうが大切だと思う。
 講演会場に来る親御さんの表情を見ていると、悩んでいるのかあきらめているのかわからないような顔に出会うことがよくある。
 新潟の監禁事件も京都の小学生殺害事件も自分の息子が犯人かもしれないと思った時、どうして親は子どもと話ができなかったのか。なぜ警察に助けを求められなかったのだろうか。自分の子どもがそんなに恐ろしかったのだろうか。犯罪を犯しているかもしれない真実を確かめることもできないほど、つながりを断っていたのだろうか。
 この二つの事件は、たまたま事件として表沙汰になったものだけれど、世の中にはきっと、子どもと話ができない親、信じることができずにあきらめてしまっている親がたくさんいるのだろうと思う。
 犯した罪をつぐない終わった時、この事件の二人は、立ち直ることはできないかもしれないと感じてしまう。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第23回 甘やかすことだけが愛情じゃない

■月刊「記録」2000年2月号掲載記事

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■いろいろな事件が頻発して

 平成11年に2歳の女の子が近所に住む主婦に殺されるという事件が起きた。
 その背景にあったモノは、いまだに明らかにはされていないけれど、「母親」という部分に焦点を合わせてみると、多くの人に共感と興味を与える事件だったようだ。
 お受験や公園デビューといったマスコミから生まれた言葉は、すみやかに世間に浸透して、そこに入っていかなければならない母親たちに不安の種を植えつけている。
 グループができれば、必ずなかにはリーダーになる人がいて、自然にその人を中心としてみんなが行動をとるようになっていく。そんな場所に入ってしまうと「仲良くしなければならない」という気持ちにとらわれて苦しむようになるのだろう。
 子どものイジメの場合もそれに似た部分があると思うが、年齢の違いや近所同士のつきあい、父母会でのつきあいなどいろいろな関係がからんでくる大人同士のつき合いのほうが、よほど難しいのかもしれない。
 そんななかでは、やはり人間同士のつきあいだから、合う人と合わない人というものも出てくるのだろう。グループの中にどっぷり浸かって周囲が見えなくなると、みんなの輪から落ちこぼれてしまったら生きていけなくなる、という不安感が強くなるのだろう。こういう現象は、おそらく若いお母さんたちに特有の現象というわけではなく、子どもたちの間でも、サラリーマンの間でも、形を変えて起こることなのだろうと思う。
 無理をしてまで小さなグループにしがみつき続けなくても、そこから外れてしまっても生きてはいけるのだろうに、視野がせまくなってしまっていると気づけなくなくなる。
 それにしても、誰とでも仲がいいと思われなければならないのだろうか。仲良くしなければならないのだろうか。それが今の時代なのだろうか?

■見て見ぬふりの大人達

 私自身には、子どもがいるわけではないから、公園デビューのことなどは話を聞いても、そんな親もいるんだなあとしか思わないが、話によれば、自分の子どもが友達を突き飛ばしても怒らない親や、小さい子どもを感情的になって叱りつける親など、本当にいろいろな親がいると聞いた。
 また、私が街で見かけた母親のなかにはこんな人もいた。
 あるろう学校の文化祭に行った帰りのこと、その学校の生徒と思われる小学生の集団と親を見かけた。
 はじめのうちは、ずいぶん元気のいい子どもたちだなぁと思って見ていたが、一緒に電車に乗るに至って、ただ見ているだけではいられない状態になった。
 子どもたちは、水風船(祭りなどで見かけるヨーヨー)を持っていたのだが、それを電車の吊革にぶら下げては落とし、上手にキャッチするという遊びを始めた。
 ただ遊んでいるだけでも、電車のなかで立ったり座ったりと迷惑なのに、持っているものが水風船である。もしも落として割れたら水びたしになるではないか。
 見ているほうは、「もしも割れたら・・・・」と思うと気が気ではない。けれど、近くにいる親は、それを見ながらおしゃべりしている。何もいおうとしない。
 子どもは、その遊びがおもしろいのか、割れたらどうなるかを想像できないのか、いつまでも遊びをやめようとはしない。遊びはだんだんみんなに広がり、エスカレートするばかりだった。
 周囲の乗客は、それに気づいていないのか、見て見ぬふりをしているのか、誰も注意をしようとはしなかった。まあ、私自身もその一人だったわけだから偉そうなことはいえないが、子どもを叩いたら虐待になってしまう時代なのだから、そんな光景が見られても仕方がないのかもしれない。

■甘やかすことと愛情とは別

 学級崩壊について、原因は学校や教師にあるという親もいるけれど、親のほうにまったく責任がないのかどうかも考える必要があると思う。
 なぜなら親にまったく怒られたことのない子どもが先生に怒られれば、「なんで怒られるのだろう」と疑問を持つこともあるだろうし、親が怒らないことを教師が怒っても子どもはなかなか納得できないだろう。また教師に怒られたことを子どもが帰宅して報告したら、親が怒って学校に苦情をいいにいくような状態では、子どもが教師をばかにしてしまっても当然だろう。
 そしてマスコミの影響力も見逃せない。「学級崩壊」という言葉もマスコミから出て広がっていった言葉の一つである。
 そこで「学級崩壊」という言葉が一番最初に使われるようになった学級は、いったいどんな学級だったかを思い出してみた。
 私がはじめて「学級崩壊」という言葉を聞いたのは、たしかテレビのドキュメント番組のなかであったように思う。たしか小学一年生のクラスだった。はじめて親元を長い時間離れてすごす学校のなかで、きちんと席に着いていることができない子どもたちの様子がテレビには映し出されていた。
 なにかというと教室を飛び出してしまい、それを追いかけていく先生が映っていて、それを見ている他の生徒が、自分も教室を飛び出せば、先生に相手をしてもらえるのかもしれないと、また教室を飛び出してしまう。そんな内容だった。
 その行動は、子どもたちの「先生にかまってほしい」という気持ちから発していたようだった。そして同じような行動を取る生徒がいるクラスを指して「学級崩壊」といい始めた。マスコミが大々的に「学級崩壊」を取り上げるようになり、全国の子どもの間にこの現象が急速に広がっていったのだった。
 私のいたクラスは、どれも学級崩壊のような状況になったことはなかったし、私自身も子どもの頃に授業中に騒いだような記憶もないので、どうして学級崩壊が起こってしまうのか正確なところはわからない。ただ、文京区の殺人事件の報道を見ていて、どこかでつながっているような印象を受けたのは私だけだろうか?
 この事件が起きた時、理由についていろいろな報道がされたけれど、その一つに母親の関心が子どもに集中しすぎて、子育てに埋没してしまっているというものがあった。
 子どもと自分の境界があいまいになってしまっているので、子どもが悪いことをしても叱ることができない。子どもが泣けばあたふたしてしまう。
 かと思えば、子育てが生活のすべてになってしまっていて、子どもの成績が悪いと感情的になって怒ったり、母親自身が落ち込んでしまったりする。そういうことが起こっているらしい。
 また、共働きの家庭が多くて、日頃は働いていてあまり子どもの相手をすることができない親が、そのぶん、つい甘やかしてしまうという話も聞く。甘やかすことと愛情とは別だということに気づくのは難しいのだろうか。

■犯人を憎むだけではなく

「キレる少年」という言葉も、もう昔のことになってしまったように感じる。けれど現実には少年犯罪は今も続いている。
 つい先日も一人の青年が小学生を刺殺するという事件が起きた(てるくはのる事件)。これも若い人の弱い者をねらった悪質な事件だった。
 彼は学校にうらみをもっていたという。それなのに、なぜなんの罪もない小学生をねらわなければならなかったのか。まるでこれでは弱い者を踏み台にしたうさ晴らしではないか。どうして子どもを刺すという行動に出る前に、ちょっと踏みとどまることができなかったのか。疑問をあげればきりはない。
 この何年か、弱い者を狙った事件や悪質な少年犯罪が続いている。あまりに理不尽な事件の数々に、ニュースを聞くたび犯人への強い怒りを感じるのは私だけではないだろう。けれどこのところ、犯人を憎み、責任の追及をするだけでなく、他のことにも目を向けてみる必要があるのではないかと思う。
 もしも私に子どもがいたら、こういう犯罪をニュースで知った時、やはり真っ先に「自分の子どもでなくてよかった」と思ってしまうような気がする。被害者が自分の子どもでなくてよかった。近所で起こった事件でなくてよかったなどと思うのは、当たり前の反応かもしれない。
 けれど、そう思ってすませてしまうことで、人の心がすさんでいくように思う。
 無差別犯罪の標的が自分でなかったことを安どの気持ちだけで受け止めたくない。その周りになにがあったのか、犯人は本当に凶悪な人間なのか、私たちとは異なる種類の人間だったのか、何が犯人をそこまで走らせたのか、それらのことにこそ関心を払っていたいと思う。

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保健室の片隅で・池内直美/第22回 先生と結婚して変化したこと

■月刊「記録」2000年1月号掲載記事

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 通信制高校に入って、三年半が過ぎ、もうすぐ卒業という11月のはじめに、ある学校の教師と学生結婚した。 夏に知り合ってからたった三ヶ月のスピード結婚、しかも当時、学生であった私にとっては、この結婚はいろいろな意味での影響を与えてくれた。

■このクラスがこんなにまとまるとは

 知り合ったばかりの頃は、結婚する気持ちなどまるでなくて、高校を卒業したら進学するつもりでいた。そのことだけをとってみても彼は私の人生を大きく変える存在になってしまった。
 さらに相手の職業が学校の先生だったので、いつも先生に迷惑をかけては喜んでいたはずの私が、いつの間にか教師の側に立ったものの見方をするようにさえなっていた。
 これは自分でも驚くべきことだった。先生に迷惑をかけないように行動しようとまで、思うようになったのだから(!)
 結婚したばかりのダンナサマをおいて、高校生活最後の修学旅行に参加したときも、それまでだったら夜中にホテルを抜け出して遊びにいくグループの先頭に立っていたはずの私が、きちんと大人しくしていた。
 自分でいうのもなんだが少しさびしいような、少し大人になったような複雑な気持ちだった。
 それはさておき、年間を通しても十数回しか会わない仲間との二泊三日の京都旅行を楽しめたのは本当によかったと思う。
 考えてみれば、毎日会ったと仮定しても二ヶ月も一緒にいたことがない仲間だ。
 友達になれただけでもすごいと思うのに、クラスの団結力というのが予想を超えていたことのすばらしさ。ケンカもなくもめごとの一つもなく、当たり前のようにいつでも集まって一つの集団になって行動していた。
 学級崩壊が騒がれているなかで、年齢もまちまちのしかもめったに集まることもないメンバーばかりが、これだけクラスとしてまとまりをもつことができた。その私たちをまとめきった担任の教師の力もまたすごいものだと改めて思った。
 なにせ、それぞれが一度は担任とぶつかり本気でケンカをしたことがある者ばかりなのだ。自分の意志を通すため、または生徒対先生という形で。社会人としての良識ある行動がとれなくて叱られてケンカをしたこともある。とにかく一筋縄ではいかない頑固な面々がそろっているのだ。
 あえて全日制の高校を選ばず通信制という道を選んできた者ばかりなのだから。

■「通信制高校卒業」だからこそ嬉しい

 私たちは、京都にいる間中、夜中までそれぞれの夢を語り合った。
 夜中まで集まっている私たちに、担任の先生はいった。「君たちは、大切な忘れ物をしてきたんだ」と。それは「高校卒業」という大切な、そして大きな忘れ物だった。
 私も一度はあきらめたことがある。高校卒業の資格はなくてもいいと思った。けれど自分のために、自分の未来のために、もう一度その資格を取りに通信制学校へ進学した。
 並たいていなことでは通信制高校は卒業できない。四年間もの時間をわずかな通学日以外は自宅で、たった一人で勉強し続けるのは難しいことだ。
 その学校を、なんとか卒業しようとしている自分を、当時の私は誇りに思った。この「通信制高校卒業」という肩書きを手に入れることができる自分を、「高校卒業」する自分より、はるかに誇りに思った。
 そして同時にこの学校で出会い、一緒に学んでこられたメンバーのことも誇りに思っていた。やめようと思う気持ちが出るたびにお互いに励まし合い、社会人と学生生活とを両立させ、ときにクラスメイトとして、ときにライバルとして歩いてきた。
 還暦を目前にしながら介護福祉士の資格を取りたいと頑張る同級生のおじさん。彼は理容室を経営するかたわら、毎年何十万円もかけて、家庭教師までつけてここまでやってきた人だ。
 なぜ介護福祉士になりたいのかをたずねてみると、特別養護老人ホームに髪を切りにいったあとで、せめて入浴の手伝いだけでもやりたいのだという。髪を切りにいくたびに、同じ人から同じ話を何度も聞かされて、その話につきあい続けて二年が過ぎたという。
 痴呆が始まっているお年寄りの髪を切るのは決してラクなことではないだろうに。それでも、おじさんはもっと彼らの手伝いをしたいのだという。

■「ありがとう」のためじゃなく・・・・

 介護福祉士をめざしているのは、なにもこの人だけではない。私と同じ歳の男の子もこの仕事につきたいと思っている。
 今の若い人は、「ありがとう」と人からいわれる仕事をめざすといわれているが、ありがとうといわれたいためだけに、その仕事をめざしているわけではない。
 自分が生きているということは、自分と同じ血を引く人がいるということ。そのなかには、自分より先に死を迎える人もいる。おじいちゃんおばあちゃん、そのまたおじいちゃんやおばあちゃん、あるいは親だったり兄弟だったりする。
 生きていくために苦しむばかりの若い世代には、死を間近にひかえた「老い」の世界はわからない。それでも人生の最後のひとときを生きようとがんばる人のそばにいて、その人の人生のために何かをしたいと思う。それは自分の人生のためでもあるのだそうだ。

■年齢差のあるクラスで学べて

 大学に行きたい人、あるいはそれが専門学校だったりもするが、進学しようとしている人は多い。ただし通信制高校の人たちは「高校を出たから」進学するのではない。「やりたい仕事がある」から、進学する人が多いのだ。
 私と一緒に学んでいる人のなかには、高校へ行きたくても行けなかった人が何人もいる。時代がそういう時代だったのだ。
 もちろん当時でも進学した人はいる。しかしそれ以上に進学できなかった人がいる。「金の卵」といわれて就職し、戦後の時代を生き抜いてきた多くの人々が、今もう一度勉強をしたいといって高校へ来ている。
 そしてさらに高校を卒業してから進学しようというのだから、その情熱のただならなさに感心させられる。
 会社では、パソコンも扱えないおじさんとからかわれたり、マスコミには女子高生の援助交際の相手としてみられたり、家庭では肩身のせまくなった父親などといわれるおじさんたちが、学校のなかでは一人の学生として、本当の青春を感じながら人生に大きな夢を見ている。 同時に若い年齢のクラスメイトにとっては、社会でのいろいろなルールを教えてくれる年輩だ。
 たとえば、授業中に机の上に携帯電話を出しておいたり、ジュースのペットボトルを平気で置いておく人がいる。ちょうど映画などに出てくるアメリカのハイスクールなどで目にするような光景だ。
 若い年代の私たちは、最初、これが悪いことだとはわからなかった。いつもやっていることだから、みんながやっていることだからと感覚がマヒしてしまっていた。先生にいくら注意されても、聞きわけのない悪ガキ集団である私たちには、反発心もあってなかなか直すことができなかった。
 けれどそれが社会の常識として、大変失礼なことだと教えてくれたのは、クラスメイトであり先輩である年上の仲間たちだった。何が当たり前なのかが一人一人違うといわれる時代に、けれども最低限のルールがあることを教えてくれたのは、彼らであったような気がする。
 自分の親より年上の相手に何を話せばいいのかもわからず、はじめて会った時には正直なところ敬遠する気持ちが強かった。けれどやがて、わずかな時間とはいえ同じ教室で机を並べ、同じ思いを持つことができた時間が貴重だったと思うようになっていった。
 そしてそれは、たぶん私たち「生徒」だけではないだろう。自分よりも年上の「教え子」は、教師たちにとっても良い見本となっているに違いない。

■「先生」は想像以上に難しい仕事

「生徒がいるから俺の立場は成り立っているんだ」と、担任の先生は口ぐせのようにいっていた。
「先生」だって私たちと同じただの人間だ。ましてや生徒とそう年齢も違わない若い「先生」や、私たちのクラスのように生徒よりも年下の「先生」だと、どうしても一人の力だけではやっていけない。生徒の前で「先生」が「先生」であるためには、生徒の協力が絶対必要になる。生徒が協力して先生を盛り上げついていく。そういう気持ちをクラス全体が持つことが大切になるのだろう。
 先生になりたいという人は多いけれど、今、生徒に心から「先生」と思われている人はどれくらいいるのだろう? 同時に自分のクラスに情熱を注ぎ、生徒に関心を持って接している先生がどれくらいいるのだろう? そして学校や教室に行くことに不安を抱きながら登校している生徒がどれくらいいるのだろう? 「先生」とはきっと、先生になりたいと思っている人たちが思っている以上に大変な職業だと思う。
 いま、ともに人生を歩み始めた教師であるダンナサマには、生徒を大事に思い、生徒から愛され、周りにいる多くの人たちに支えてもらえる本当の「先生」と思われる教師になってもらいたいと願っている。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第21回 ろうあ者のためのフリースクール

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■ろう者のためのフリースクール
 フリースクールは、場所さえあれば作ることができる。
「フリースクール龍の子学園」は、月に一度しか開かれないフリースクール。それも、毎回同じ場所で開かれているのではなく、毎月第四土曜日に空いている場所を借りて開かれている。ろう者のための、ろう者が作ったフリースクールだ。
 このスクールを知ったのは、いつも私が行っているフリースクールに、ろうの人たちが「フリースクールを作りたいのだが」と相談に来たのがきっかけだった。
 フリースクールを作るのには、何か資格がいるのではないかとか、教職免許が必要なのではないかという心配をしてのことだったらしい。
 しかし、フリースクールにはそういった条件は必要なく、場所さえあれば作ることができる。そして九九年四月、ろう者のためのフリースクールが誕生した。
 フリースクールとはいっても、そこに参加する子どもはみんな学校へ行っている子ばかりで、いわゆるフリースクールにみられる「学校の代わり」というイメージはなかった。
 私がよく行くフリースクールも、他のフリースクールとはちょっと違っていて、子どもたちのパワーが感じられるところである。自分たちのやりたいことを自分たちの作ったルールのなかでやっていく。そんな独特の魅力のあるところなのだが、龍の子学園の子ども達の笑顔からも同じような空気を感じ取ることができた。
 龍の子学園へ見学に行く前に、ろう学校ものぞかせてもらったのだが、自分自身のろう学校に対する思い込みや勘違いを多く発見した。

■キュードサインとは

 ろう学校は、手話で授業を行うものだと思っていたが、実際のところ手話で授業を行う学校はあまりない。授業ではむしろ口話のほうが多く、「キュードサイン」と呼ばれる方法や指文字なども用いられている。
 ちなみに口話というのは、自分で声を出して言葉を発したり、相手の口の動きを読み取る方法であり、「キュードサイン」というのは、口で母音を表し、子音の部分はサインを使って表す方法だ。
 たとえば、「たまご」と「タバコ」。これらを口の動きだけから読み取ろうとしても、その動きは同じに見えてしまう。そこでTaMaGoのTとMとGのところは、頬やあごを触るなどして音を表すのだ。
 指文字は、指だけで五〇音を表す点が、手話とはまた違う。
 口話訓練は、特殊学校の授業の一つである養護訓練の時間などに行われ、人が話しているときの口の動きを読み取る方法や声を出す方法が訓練されている。
 ろう者の言葉は手話だけかと思っていたが、残聴能力を使ってこういった訓練も行われていることがわかった。
 また、学校によって授業で使われる言語は異なっており、キュードサインで授業を行う学校もあれば、口話しか使わないところもある。また、キュードサイン自体も学校によって微妙にサインの仕方が異なり、通じない場合もあるそうだ。
 では、なぜキュードサインを使うのか。
 ろうあ教育については、人によってさまざまな意見があるようで、私が聞いているとどれも正しく聞こえてしまう。けれど、どうやらキュードサインのいい点は、一つ一つの名詞をきちんと覚えられるところにあるようだ。
 たとえば、ハサミを手話でどう伝えるのかを想像してみるとよくわかる。何かを切る動作をすることで、ハサミという「物」を相手に伝えることはできるだろう。
 しかし手話では、ハサミという「物」が、「ハサミ」という名前であることまでは伝えられない。意味や気持ちを伝えるには適しているが、手話は、物の名前を伝えるには不適切である。
 そしてもし、それを筆談で伝えようとしたら、「ハサミ」という名称を知っていなければ相手には伝わらない。そう考えると、たまごとタバコの例も含めて、きちんとした名称を伝えるためには、キュードサインは便利なものかもしれない。

■ニュアンスまでを伝えられるか

 私は耳が聞こえるから、抽象的な言葉をいわれたり表現されたりしても、なんとなく理解して、使い、伝えることができる。けれど、もし耳が聞こえなくなれば、感情の部分にどうしても伝えきれないことやわかり合えない部分が出てきてしまうだろう。
 たとえば「おなかが痛い」と手話で表現されたら、「痛い」ということはわかってあげられる。もう少し手話を知っている人なら、少し痛いのか、すごく痛いのかまではわかるだろう。
 しかし、チクチク痛いのか、キリキリ痛いのか、ズキズキ痛いのか、そのあたりの部分はなかなかわかりづらいのだという。
 こんなふうに、耳が聞こえることでかえって、聞こえない人のことが理解できなかったりすることに気づいた。
 思っていることを、なんの圧迫感もなく話せる空間を作りたい。そういう思いも込めてフリースクール龍の子学園を作ったのだと、スタッフは語ってくれた。だからスタッフもほとんどがろう者で、会話には声は使わずに手話だけを使っている。
 よく、テレビの手話通訳を見ていると、口を動かしながら手話をしているが、龍の子学園のスタッフは口を動かさずに手話だけを行う。彼らにとっては、手や表情を使って話す言葉が、本当の言葉なのだろう。
 私が見学させてもらったろう学校の生徒さんも、このフリースクールへ来ていた。
 ろう学校にいる時の彼らは、どうもあんまり落ち着きがないように思えた。先生が一生懸命話をしている時でも、廊下に私がいることに気づくと授業に集中できなくなってしまうようだった。
 逆に、フリースクールにいる時の彼らは、一生懸命スタッフの話を聞いている。いま自分のするべきことを理解し、集中して取り組んでいるようだった。その違いがどこにあるのかをハッキリといい切ることはできないが、言葉がわかり合えるという点では、こういったフリースクールも必要なのだと感じた。

■情報を得る権利は対等

 このフリースクールには、テレビ取材なども入ったことがあるらしく、ビデオを見せてもらったことがある。そのとき、ろう者の友達も一緒に見ていたのだが、私では絶対に気づかないようなことを教えてくれた。
 取材の対象になったのは、フリースクールのスタッフだったのだが、前述のようにスタッフもろう者のため、撮影でも手話を使って話をしていた。その言葉は、音声のナレーションとして流れ、それを手話にしたものが画面の左下に別画面で出ていた。
 視覚と聴覚に頼る私は、映像を見ながらナレーションを聞いていた。しかしろう者の友達は、画面一杯に写っているスタッフの手話を読み取ろうとしていた。でも、スタッフが何を伝えようとしているのか理解できなかったという。
 映像は編集されていたのだ。だからスタッフの話がつながっておらず、友人はナレーションの手話通訳を見て理解するしかなかったのだ。ドラマなどでは当たり前のようにつながっている手話会話が、ノンフィクションであるドキュメンタリー番組でつながらなくなってしまうことに意外な印象を受けた。
 新聞で読んだ記事に、教育番組に字幕をつける作業を行っているボランティアグループが出ていた。ある人は字幕について、「本来、番組にはついていて当たり前なのだ」といっていた。
 聴者でもろう者でも、情報を得る権利は同じように持っている。だから、画面一杯に字が並ぶ番組があったとしても、おかしな話ではないと言っていた。
 ろうの人々の世界には、ろう文化というものがあって、私には理解し得ない部分も多く、今はまだ「わからない」部分を見つけるのに必死なのだが、その「わからない」という部分があるのも、当然のことかもしれない。 私は私。人は人。みんなが同じでなければならないということはなく、ろう者にはろう者しかわからない、わかり合えない部分があっていいと思う。それを差別することなく、理解しながら、お互いがお互いを認めあって共存していければいいと思う。
 共存共生共育。以前聞いたことのあるこの言葉の意味を、いまだ理解することはできていないけれど、「ろう文化」という言葉に込められた意味を、少しでも感じられればいいと思う。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第20回 サポート校の見学

■月刊「記録」1999年9月号掲載記事

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■東京のサポート校を訪問

 東京にあるサポート校へ遊びにいったことがある。
 サポート校については以前にも書いたが、通信制高校に在籍する生徒が、高校を卒業できるように学習や生活面を支援する民間の教育施設のことだ。サポート校の運営母体は、学習塾、家庭教師派遣業、予備校、専門学校などになっていて、通信制高校の生徒が毎日の通学の代わりにこの学校へ通学し、レポートなどをこなしている。
 また、学校によっては大検取得のコースもあるので、授業風景などは、学校によってさまざまだ。
 サポート校の特長の一つとして、管理によらない自由な高校生活をすごせる点がある。また、一般高校に比べてユニークなカリキュラムを取っているところが多く、私が遊びにいったサポート校では、勉強よりも本人のやる気を重視したり、LD児(学習障害児)などを受け入れたりしていた。
 校内には、教科担当の先生はもちろんのこと、カウンセリングスタッフなどもおり、現役の通信制高校生が、他の生徒達の相談役をやっていたりもする。
 また、授業の時間割などは一応決まっているが、実際に「その時間に来なければならない」ということはないという。あくまで生徒の自主性にすべてが任されている。規則を作るのも生徒で、生徒会ももちろんある。その生徒会を作ったという、現在の生徒会長と少し話をしてみたが、驚くほどしっかりした青年だった。

■「教育」って何だろうね

 私と同い年で、当時20歳という彼は、大検受験コースの生徒である。高校を中退しており、車の整備工場で働きながら勉強しているという。
「以前は頭がよかったんだ」と笑っていた彼だが、今だってなかなか回転は速い。質問を投げかけると、的を得た答えを要領よくまとめて返してくれる。
 話をするうちに、だんだん話題が学校のことになり、教育ってなんなんだろうね、という話になった。
 教育。「教える」「育つ」という二つの漢字から、この言葉を作った人は、どんな思いをこの字に託したのだろう?
 ちなみに彼は、教育とは夢を与えるもので、先生とは、夢を手助けする存在なのではないかといっていた。「教育」という言葉の由来を、「共に育つ(=共育)と書くんです」といっていた人もいる。私はこの人の話に共感し、以来、いろいろなところでこの由来を伝えてきた。
 また、「先生」という字も最近、とても面白いものだと思う。先に生きてきた者を「先生」と呼ぶというのなら、通信制の高校では、生徒が先生になってしまうことに気づいたからだ。担任の先生よりもはるかに年齢の高い生徒だってたくさんいるのだから。
 そして「学校」とはなんだろう? 現在、学校について、教育関係者や識者の間でいろいろなことがいわれているが、学校の役割とは何なのだろう。子どもが求める学校とはどんなものなのか。子どもの心が学校から離れる時、その理由は何なのか。
 昔から、日本の学校にはたくさんの規則があったが、以前はこれほど「管理」されているという実感を生徒は持っていなかったと聞いた。また、管理されたとしても、管理しているのは先生だけでなく、地域の大人みんなによるものだったという。
 つまり、地域に「規則」が根づいていたのだそうだ。けれどいつのまにか、地域社会での人々のつながりは薄れてしまい、代わってプライバシーが重視されるようになった。また、核家族化が進み、おじいちゃん、おばあちゃんや兄弟との接触が少なくなる一方で、母親は働きに出るようになり、子どもを見守るのは本当に学校だけの仕事になってしまった。そしていつしか、子どもの意識のなかに「学校に管理されている」という気持ちが芽生えた。
 学校には校則があるが、長髪やルーズソックスやケンカがなぜダメなのか、学校の先生は誰も教えてはくれなかった。生徒手帳の中に校則は書かれているが、なぜそうなのかという理由まで書かれているものは見たことがない。ただ、「決まっているからダメ」と誰もがいうだけだ。
 生徒会長の彼は高校を辞めて、社会に出たことについて本当によかったといっていた。「高校卒業」という肩書きのためだけに三年間をガマンするよりも、同じ三年間を夢のために費やしたほうがいいと思ったそうだ。また、けじめもついたという。
 このサポート校に出会うまでの彼は、半年づつくらいのペースで仕事を変えていた。アルバイトを含めると、今まで数え切れないくらいの仕事をしたという。母親がサポート校のパンフレットを持ってきて彼に見せた時にも、学歴ではなく自分は中身で勝負するのだと思っていたが、夢中になれるものを見つけるためにはいいと考え直し、このサポート校へ入学したという。
 そして、今では整備の仕事に就くことを夢見て、資格を取ろうと考えているといった。アルバイトと社員との差の違いも感じた。だから資格を取って整備の仕事にきちんとつきたいと考えてのことだろう。
 生きることは楽しむこと。仕事も遊びも楽しめたほうがいい。夢中になって遊び、夢中になって仕事をするから楽しいのだ。人生は、輝いて生きること。そう話してくれた彼は、本当に輝いているように見えた。周りの生徒にも信頼されていて、しっかりした存在感があった。彼が自分の価値観を信じて、肩書きなどに振り回されずに、高校をやめることができてよかったと本当に思った。

■子どもは大人のミニチュアではない

 最近では、あちこちの地域で、いくつかの「不登校  親の会」に出席させてもらっっている。その印象では、親は、子どもの意見に耳を傾けている人とまだ傾けられずにいる人の二手にはっきりわかれているように思えた。
 子どもは、いつだって親を頼りにしたいと思っているし、親の愛情を求めている。しかし、上手に頼っていくことができないのは、目の前にいる親が、自分のことを受け止めてくれるだけの余裕があるかないかが、なんとなく感じ取られてしまうからではないだろうか。他人の私にさえ感じ取ることができるくらいだから、一緒に生活している子どもは、もっと敏感に感じ取っていることだろう。
 子どもは、日々、いろいろなものを見て、いろいろなことに興味を持って、感じて吸収している。そこにはまだ、いいとか悪いとかの価値判断はあまり存在していない。感じたことを素直に口に出し、大人にぶつけているだけだ。
 それなのに、話を最後まで聞いてもらえなかったり、パターンにハマったものの見方を押しつけられたりしていると、徐々に子どもは、大人への信頼感を失っていってしまう。けれど、多くの子どもは、大人を信じたいから苦しくて、その苦しみをどう表現してよいかわからずに、パターンから外れた行動をとって表そうとする。
 その結果の一つが不登校だろう。たまった不信感というストレスが、ある日、抑えきれなくなってしまった状態だ。私が訪れたサポート校で出会った子どもたちは、生徒会長の彼もふくめてみんな生き生きとしているように見えたが、その理由が、「自分に自信を持てたから」と考えるのは、私の考えすぎだろうか。
 子どもの視線は、大人の視線のミニチュアではない。大人に見えないものであっても、子どもには見えているものがたくさんあるのだ。自分だって、かつては子どもだったのだから、その気持ちはわかるはずだ、とも思うのだが、一度大人になってしまってから、子どもと同じ視線に立つことは、努力なしにはなかなか難しいことなのかもしれない。
 親が子どもを余裕を持って受け入れ、子どもと同じ視線から、子どもを理解するために努力することは、たぶん親の成長につながっているのではないかと思う。
 子どもは毎日成長していく。それに伴って親も一緒に成長していくことが、「共に育つ」という意味で、「教育」なのではないかと思った。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第19回 愛情はどれだけ注げばいいのか

■月刊「記録」1999年8月号掲載記事

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 私の周りには、ボランティア活動をしている人が多い。彼らがボランティアをするなかで、どんな人と出会い、どんなことを感じているのか、私も感じてみたくなっって取材をしてみたことがある。

■異世界を体験するために

 どんな事柄にも人によって違ったものの見方がある。話し合ううちに互いの考え方、とらえ方の差が見えてくる体験はおもしろい。人の意見を聞くことは、自分が成長するために必要であり、なんらかの役割を果たしていると思う。物事へのとらえ方が一つではないと感じると、いままで知っていると思い込んでいた世界が、急に違ったものに見えてきて、異世界に導かれる気持ちになる。
 物事を悪いほうにしか考えられなくなっている時、こうした異世界への扉がたまたま開かれて、ふっと気持ちがラクになることがある。たぶんいろいろな人に出会い、さまざまな体験を重ねることが、心のゆとりにつながるからだろう。
 ましてや私のところには、前述のように不安を抱えている子たちから相談の電話やファクスが送られてくる。彼らの心に、異世界への扉を開けてあげることは、きっと私に期待されている役割の一つだろう。そんな思いもあって、ボランティアを体験しておこうと思ったのだ。 取材の方法は、ボランティアをしている友達に同行させてもらい、一緒に一日を過ごすというものだ。初日は、ホームといわれる養護施設でのボランティアに加わった。ここでは、私も一緒になって子どもたちと遊んだのだが、最初は彼らと何を話せばいいのかわからず、とまどいを隠せなかった。
 ホームには、昔のように両親がいないという子どもは少ないという。なんらかの理由があって、両親と一緒に生活することができない子どもが多いということだ。
 ホームの保母さんからはとくに「どういう話をするといい」とか「こういう話はしないでほしい」というような指示は与えられないので、親のいない生活をしている彼らに、ぬくぬくと親元で暮らしている自分がどう見えるのか、できることは何かあるのかと考えると、はりきる反面、不安だらけだった。
 実際、子どもたちが学校から帰ってくる前に、ボランティア総出で屋外に干してある布団を取り込むことになっていたのだが、布団を叩くことさえ知らなかった私には、取り込んで畳んで片づけるまでの作業さえ、なんとも手際の悪いものだった。そのときには、なんだかみんなの足手まといになってしまうような気がした。

■お姉さんなんか嫌い!

 さて、最初に入った教室は、幼稚園児のクラスだった。だが、教室に入ると、まだ幼稚園にはとうてい入れないような小さな子までふくめて、10人の子どもがにぎやかに遊んでいた。
 私が同年代の女の子と3人で教室に入ると、何人かの子がすぐに近づいてきて、とにかく抱っこをしろとせがむ。仕方なく、2人を抱えて1人を肩車した。子どもたちのなかには、「私のお姉ちゃんよ」という言葉を口にする子もいた。それと同時に「お母さんはいるの?」「今、一人暮らしをしているの?」とたずねてくる。やはり、これが彼女らの関心事なのだろう。
 親を思い出させてはいけないと思いつつも、その質問をうまくかわす手段がみつからずに、ただ笑って抱き上げることしかできなかった。
 そうこうしているうちに、一人の女の子が急に私に向かって、「お姉さんなんか嫌い」という言葉を口にし始めた。
 さすがの私にも、この言葉の裏にある寂しさと、「かまってほしい」という気持ちくらいは読み取ることができた。けれどもその先、思うように彼女に近づいていくことができない。
 時間だけがもどかしく過ぎていき、ふと気がつくと、私の周りからは子どもたちが去って彼女と二人だけになっていた。二人で向き合うと、少女ははじめて私のひざに乗ってきた。何もいわずに、ただ私にギュッとしがみついてくる。けれど私は彼女を、強く抱きしめてあげることができなかった。
 もともとそこでボランティアをしていた友達に、あとからこの少女のことを話した。すると彼女は、「私だったら抱きしめてあげる」といった。
「たとえ一瞬であっても、その温もりを伝えることができたら、寂しくなったときでも女の子は、そのぬくもりを思い出して強く生きていけるかもしれないから」と。 そうかもしれない。一瞬のぬくもりが強さを支えることもある。だけど、かえって寂しさにつながってしまうこともあるのではないか。
 私がその瞬間に抱きしめてあげることは簡単だ。でもいつも一緒にいる保母さんは、彼女が要求したときに、必ず毎回、その子を抱きしめてあげることはできるのだろうか? そう考えると、無責任に彼女にだけ、他の子によりも強い愛情を示すようなことはできなかったのだ。
 気がすむまで抱きついたあとで彼女は、私に「目を閉じて」というと、どこかへ行ってしまった。一人が離れれば、他の誰かが来て私のひざに乗る。そして戻ってきた彼女は、私が目を閉じたまま待っていることを期待していたらしく、他の子と遊ぶ姿を見てショックを受けたようだ。また「お姉さんなんか嫌い」が始まってしまった。

■気まぐれで愛していいのか

 少年の凶悪犯罪が多かったせいか、最近は思春期の世代の方が騒がれているが、「第一次反抗期」の子どもは忘れられがちだ。はじめて親と自分の関係を認識し、自己がめざめていく時期にあたるこの年頃に、一対一で正面から向き合い、気がすむまでわがままを聞き、愛情を注いであげられる人は、彼女たちの周りにはいない。
 小さな少女には、保母さんが注いでくれる愛情が、皆に平等にわけられたものだと理解するのは難しいだろう。だから彼女は、ただ満たされるまで愛情を求め続ける。「お姉さんなんか嫌い」といいつつも、近づいては離れていき、まただんだんとその距離が縮んで、やっぱり私のところに来て手を引っ張る。他の子どもたちのなかから私を引っ張り出して、独占して廊下に連れていこうとする。
 彼女は、誰も来ないところへいって、「一緒に折り紙をしよう」という。こんなふうに他の子どもを遠ざけて、二人だけになろうという要求にこたえてしまっていいのか。それが他の子どもに与える影響もよくわからない。私もちょっと考えたけれど、とりあえず少しだけ、時に流されてみた。
 向かい合って座ると、折り紙をわたされる。彼女が先生で、私は生徒だ。彼女が折ろうとするものが、途中まで折れば私にはわかってしまうのだが、彼女よりも先に少しでも折ってしまうと、ひどく怒ったそぶりを見せた。
 わがままとわかっても、気がすむまで愛情を注いであげることが必要だ、ということを私は何度も口にしてきた。たくさんの人にそれを伝え、自分自身でも実行してきたつもりだった。けれど、このボランティアを通して、一概にそれをいうことはできない気持ちになった。
 親がいれば、気がすむまで愛情を与えてもらうことはできる。だがそれは、いつでも一対一で向かい合うことができる親が側にいてこそだ。ここでは、一人ならまだしも10人、20人、それよりももっと多くの子どもが生活している。だからこそ中途半端な愛情を一時の気まぐれで注いでいいのかどうかわからなかったのだ。
 もしかしたら一瞬のぬくもりは、少女の満足につながるかもしれない。それを思うと心苦しいところもあった。でも、もう一度同じぬくもりがほしいと思った時に、それがない苦しさのほうがつらいのではないかとも思う。
 私は、彼女たちに毎日ついていることはできないのだから。

■裕福でも、家に父はいなかった

 私の父は、当時にしては珍しく、両親がそろっていながら施設で育った経験を持っている。その頃のことはあまり話したがらないのだが、祖母(父の母)が結核で入院し、祖父は仕事と看病とで、父とその兄弟を手元に置いておくことができなかったらしい。
 けれども祖父は、施設まで父に会いに来ることもめったにしなかった。どうして会いに来てくれないのかと、幼い父は祖父に聞いたらしいが、祖父の返事を私には教えてくれなかった。
 ただ私には、父がそれを聞いたことを後悔しているように見えた。
 そんなわけで、子ども時代の父はそれなりに苦労をし、寂しかった部分もたくさんあったと思う。それを子どもながらに振り切らなければならなかったことも多かっただろう。その日を暮らすのがやっとだった生活から脱出するために、父は家族を持つと裕福な家庭をめざしてがんばった。
 だから私達はお金に苦労することはなかった代わりに、父が家に帰ってこないことも多かった。私が引きこもり、自殺未遂を繰り返していた頃は、さすがに家には帰ってきていたが、私の単位制高校が軌道にのってからは帰らないことが多くなった。
 今でこそ父親が自宅に帰らなくても、なんとも思わなくなったが、小さい頃は父親が家に帰ってこなくて寂しかった。たとえ帰ってきても私が寝てからで、家を出るのは私が起きる前。小さい私はひどく寂しく、どこかで父親を求めていた。
 それを父にわかってもらいたくて、足りない頭で考えた。ありとあらゆることをやってみたが、父に私の気持ちがまっすぐに通じたと思えたことはあまりなかった。覚えていてくれるだろうか。
 もどかしかった頃から月日が過ぎ、私も今では自分で働くようになった。
 たまたまホームに取材に行くために泊まらせてもらった友達の家は、父が通勤に使う駅から二駅しか離れていないところにあった。私も泊まりがけで行っているので、父の帰宅する日と、私が帰宅する日が偶然重なることもあった。そんな時は待ち合わせをして、二人でゆっくり話をするようにしてみた。
 私が大人になり、自分自身で感情にコントロールをつけられるようになってからは、できるだけ父と二人で向き合う時間を作るようにしている。けれども、寂しかった当時に感じた父への拒絶感は、今でも完全に消えてはいない。父と話をすることには、どこかに「義務」の感じがつきまとうようになっていた。

■「今頃気づいたんだけど」

 そのときもはじめのうちは、いつものようにたわいのない話をしていたのだが、父のほうから、前に見たテレビの話をし始めた。私はそれを見ていなかったが、不登校や引きこもりの子どものいる家庭が出てきたという。 施設で育った父親が、いつのまにか「家にお金を入れるための存在」になり、仕事ばかりしていて家庭のなかの大切な何かを見落としてしまっているのだ、というようなことをやっていたというのだが、「それはまさに、自分のことをいわれているようだった」と話してくれた。
 私に寂しい思いをさせたということより、自分のいない家庭が「家族」でなくなっていることに、気づかなかったことのほうにショックを受けていたようだ。父は「今頃気づいたんだけど」といって、すまなそうな顔をした。
 その時、私には、こうして面と向かい、一対一で相対してくれる親がいるから、思いっきりわがままをいうこともできるし、自分が一番になることもできる。気持ちが満たされるまでの愛情を注いでもらうことができるから、20歳をすぎた今でも、親にすねたり振り回したりできる。こんな環境に生まれてくることができて幸せだったのだと気づいた。
 私は父に言った。
「いいんじゃないの? それでもお父さんの趣味は、家庭だったんだから」
 はじめて心から本気でそういうことができた。
 たとえ時間はすぎてしまっていても、父に気づいてもらえたことは私には本当にうれしかった。昔の感情には、時効があるようでいて、やっぱりなかったのだと思った。
 そして、ホームで出会った「お姉さんなんか嫌い」といっていた女の子のことを思い出した。彼女のことを抱きしめてあげることはできなかったけれど、ほんの数十分間、二人で向き合っていた時間を、彼女は覚えていてくれるだろうか。そしてわかれぎわ、たくさんの折り紙を私に持たせてくれたことを思い出した。あのやさしさをいつまでも持ち続けてもらいたいと願う。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第18回 不登校児の親も闘っている

■月刊「記録」1999年7月号掲載記事

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 通信制高校四年のときに、朝日新聞茨城版のための取材を受けたことがある。「ぴーぷる」という欄で紹介されるということで、その名の通り、私という一人の人物の取材に来たのだという。取材のために、私の前に現れた記者さんは、意外なほど物事を「知らない」人だった。
 それまで、何度も取材を受けたりしたけれど、物知り記者さんに会ったことはあっても、その逆の記者さんははじめてで、一時間くらいで終わる予定が、結局六時間にもおよぶ、かなり疲れる取材になった。
 フリースクールや通信制高校を知らない記者さんには、とにかく今現在、自分が置かれている状況を説明するために、一から十まで話をしなければならない。彼なりに、私のいっていることを理解しようとしてくれているのだが、数学のように答えが明らかになるものではないから、どうしても理解できなかったらしい。
 また、取材の席には、同じ学校に通う友人にも同席してもらったのだが、私たち二人が感じる悩みを、どうやっても理解してもらえなかった。
 どうして生まれてきたのか、どうして私じゃなきゃいけなかったのか、どうして生きて行かなきゃいけないのか、なぜ人は死ぬのか、友達とはなんなのか、クラスメイトとはなんなのか。
「私の体に入る心は、私じゃなくて、他の誰かでもよかったのに」
 彼からしてみれば、こんな感覚は自分の感じたことのないものだったのだろうか。だから、どうとらえればいいのかわからなかったのだろう。ボールペンで頭をかいてうなっていた。
「簡単に言ってしまえば『昔の私は、自分を上手に表現できなくて、自分自身からも逃げ出したかった』んです」。そうやってまとめてあげると、今度は、簡単にまとめないでほしいといわれてしまう。
 私だって簡単にまとめたくはないのだ。あの頃は、毎日死ぬことだけを考えていたし、自殺をすれば本当に死ねると思ったし、でも生き返って楽しい生活を送れるようになるような気もしていた。心のなかには、なんともいえない葛藤があったし、晴れない霧のなかで、一人でもがき苦しんだりもしていたんだ。それを、たった一言なんかで片づけるなんて、たまったもんじゃない。
 自分の居場所を見つけることができなかったというと、「その居場所とは、どういうところなのか」と聞かれた。でも、感情を辞書に載っているような言葉に直そうとしても、できるはずもない。安心感を持てる場所とか、本当の気持ちをうち明けられる友人がいるところとか、遠回しに遠回しに話すしかないのだけれど、うまく伝わらない。
 さらに一緒にいた友達が、「離人感」とか、「自傷症」とか、むずかしい言葉ばかりを使うから、記者さんはますます混乱してしまった。絵を描いたり、自分の経験談を話してくれて、「要はそういうことなんじゃないの?」と聞かれたが、二人でずっと首をふり続けていた。一言で説明できるような簡単なものではない。
 たとえば、自分を見ているもう一人の自分がいる。その、もう一人の自分のほうが、本当の自分のように思える。じゃあ、いま話をしている自分は誰なのか? それもやっぱり自分自身だ。現実的な言い方をすれば、話をしている自分しか世のなかには存在しないはずなのに、自分のなかにだけ、もう一人の自分が存在してしまう。それが「離人症」の感覚なのだ。

■一瞬のためらいを消してあげたい

 先に、死んでも生き返って楽しく暮らせるようになると思うと書いたが、死ぬのは現実の私のほうだ。もう一人の私は死なない。そして生き残った私は、前世の記憶を持ったまま、もう一度楽しく暮らせるような気がしてしまう。あの頃は、人生をやり直したかったのだ。人生がやり直せると、信じていたのだ。
 それが記事になるのはもう少し先のことだから、彼がどう私をとらえ、どういう紹介をしてくれるのか まだわからない。
 一〇〇のことを知らなければ、一のことも書けない気持ちもわかるから、がんばって取材を受けたけれども、記事になったものはしょうがないと、それを受け入れることになるのかなぁ。
 彼と私たちとの違いは、「細かいところまで気にするかしないか」に思えた。その違いが大きいのだと思う。たとえば、電話にしてもそうだ。私の部屋には、直接私につながる専用回線を引いてあるが、それは、インターネットをやるためだけのものではない。
 たとえば、私に話があって、私に聞いてほしいことがあって電話をしてきた人が、私の親が出た時に、一瞬の後悔を感じてしまう。私にかけて、親が取る。親から私につながるまでの約一分間に、「長電話はダメよ。夜遅いんだから、早く切りなさい」というようなことを、母が私にいっているんじゃないかと気にしてしまう、といわれたことがあった。事実、親からそういわれたこともある。また、私も人の家に電話をかけた時に、そう感じることがある。
 だから、その気持ちはわかるのだ。ただの友達からのおしゃべりの電話なら、それでもいいけれど、私のところには不登校や自殺未遂をしている子からもかかってくる。せっぱつまって電話をしてくる彼らの不安を、一つでもなくしてあげることが私にできることの一つと感じたからだ。
 電話をかけてくる時、彼らはきっとコールが鳴っている間中、ずっとドキドキしているだろう。でも、私に話があって、私と話がしたくて電話をしてきてくれている。だから、電話をかけてきたことを、後悔させたくはない。
 電話を取った瞬間に、「この声聞いたら、安心すんねん」といわれたり、「少しだけ話し相手になってもらえますか?」といわれたりすると、私自身もホッとする。送られてくるファクスからも、本当に小さなことでくよくよ悩んでいる姿が見えてくる。でも、彼らにとっては大きなことなのだ。
 そして、そんな彼らに頼られている私からみれば、彼らにわたしてあげられるものより、彼らから受け取っているもののほうが、はるかに多い。
 彼らから何を受け取っているのか、うまく説明はできないけれど、相手を必要とする気持ちを「わかち合う」ことから生まれるパワーは、大きなものだと感じている。
 また、ファクスには、実際に「パワーをください」という一言が添えられていることが多い。パワーってどうやって送ってあげればいいのか、はじめのうちはわからなかったけれど、やがて、なんとなくわかるようになってきた。相手が、自分の存在を認めてもらいたがっている時に認めてあげること。私が心のなかで、「がんばって」と念じてあげること。それだけでいい時もある。
 時間を指定されることだってある。四時半にバイトに行くから、その時に背中を押してほしいといわれる。何か言葉を贈るのではなくて、彼が私を思う瞬間に、私も彼を思うことが、彼にとっては大きいという。
 気持ちの問題だと片づけてしまうなら、勇気とか希望なども同じものだと思う。気持ちが強くなれた時には、本当の力以上の力が出る。私が彼らの「気持ち的力」になれているのだとしたら、それは幸せなことだ。
 あるお宅におじゃまをして、学校に行っていない小学生の女の子と遊んできたことがある。じつは目的は、女の子と遊ぶことよりも、お母さんの不安感をなくしてあげることだった。お母さんと話をしていて、そのほうが必要だと感じて会いにいったのだ。客観的な目を持って接してあげられる人が側にいると、頭のなかでゴチャゴチャになっていることがまとまることもある。
 そのお母さんは日記帳を取り出して開き、子どもが使っていた連絡帳やカウンセリング機関の予約カードも持ってきて、女の子が学校に行かなくなってから、保健室登校をし、教室へ行くようになり、そしてまた学校に行かなくなるまでの一年半のプロセスを話してくれた。
 日記のなかには、お母さん自身が逃げ出してしまった日のこと、一番の話し相手と電話した時のことなどが記されていた。電話で話をしている時は、楽しくて笑ったりもしているが、電話を切った瞬間に、どっと落ち込んでしまうのだという。
 また、電話の相手が、同じ年頃の子どもを持っている人だったため、小学校六年生の最後の一年くらいは学校に行かせるようにしないと、子どもにとってなんの思い出もなくなってしまう。すると将来、後悔することになると思う、といわれてプレッシャーを感じたり、落ち込んだりしたという。気の休まる時もないようだった。自分を理解していると、口でいってくれる人は多いが、本当に理解してくれている人は少ないという。

■しつけに正しい方法ってあるの?

 女の子のお母さんは、子どもが学校に行かなくなったときに、「親の教育が悪いのだ」といわれてしまった。そんなことをいわれれば、たいていの親は落ち込んでしまうだろう。そして、女の子が保健室登校を始めたときには、今度は「子どもががんばったからだ」といわれたという。
 たしかに子どももがんばった。だけど親もがんばっているということを認めてくれる人は、あまりいない。そして子どもが再び学校に行かなくなると、「親は何をしているのだ」とまた責められた。
 親が一番がんばっているのだということを、世間は知らない。子どもが教室に行くようになった時にも、このお母さんはずっと学校についていった。子どもを学校まで送り、「帰っていいよ」といわれるのを待って、いったん自宅に戻る。そして、帰宅時間に迎えにいくと、子どもから「友達と帰る」といわれて一人で帰る。それでも黙って、子どもが自分で何かをしようとする意思を大切にし、見守り続けたお母さんの努力は、一体誰に評価されるのだろう?
 子どものしつけ方を、何が正しいとか正しくないなどと決めつけることは難しい。何気ない一言が、子どもの心を傷つけていることもあれば、何もしていないのに、人となじむのが苦手に育ってしまう子どももいる。
 同じ親に育てられた兄弟のなかにも、広く友達づきあいができる子がいれば、まったく人となじめない子だっている。親が思っているように子どもを作り上げるなんてことはできないのだ。
 私と姉は、小学校の途中で転校した。それをきっかけにして、二人とも同じようにイジメを受けたが、そんなことをまったく気にしなかった姉と、それが原因で人を信用できなくなり、のちに学校へ行かなくなってしまった私は、同じ親に、同じように育てられているのだ。
 私のほうは、生まれつき人と話すことが苦手だった。人混みにいくと、自分は何も悪いことはしていないのに、何か悪いことをしてしまったような感情におそわれた。そんな私の性格には、親だって気づいていただろう。だからといって、どうすることもできなかったのだ。
 学校へ行かなくなりだすと、もちろん親から文句をいわれた。私は口では反発しながらも、どこかで文句をいわれるのを期待していた。まるで幼児のように、かまってもらいたかったのだ。だから、何もいわれない日には、「もう見捨てられたんじゃないか」と逆に心配したりした。
 勝手な感情しか抱かない子どもを見守り、励まし続けている親が、本当は一番がんばっているのだ。一番評価されなきゃいけない存在なのだ。まあそれは、小さなことでクヨクヨ悩まなくなった今だからこそいえるのであるが、がんばっているたくさんのお母さんに対して、改めてエールを送りたいと思う。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第17回 いろいろなことを気付かせてくれた先生

■月刊「記録」1999年6月号掲載記事

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 季節の変わり目は、誰でも気持ちが不安定になりやすい。特に春は新学期への不安からか、一人ぼっちのような気がしてしまったり、他人と自分を比べてしまうのだ。いつも春になると、こんな魔の手が多くの人の心に忍び寄っていく。
 一度、「なんか変だなあ」と感じてしまうと、ドンドン自分に不安を抱いてしまう人がいる。生きていくことへの不安で一杯になり、生きていかねばならない理由を探しているうちに心がどこかへ行ってしまう。私はよく「心が迷子になった」という言葉を使うが、まさに迷子なのだ。

■春は心が迷子になる季節

 94年4月のはじめ、つき合いのあるフリースクールから一通の電子メールが届いた。「死にたくて、死にたくて、どうしようもないです」。そう訴える女の子へ、メッセージを贈ってほしいということだった。
 彼女はこの年の春に中学校を卒業したばかりだが、家に引きこもっているのだという。そしてほぼ同時期にもう一通、メッセージを贈ってあげてほしい人がいるという手紙が友人から届いた。その子も同じ時期に中学校を卒業しており、その後の進路は、定時制高校への進学と福祉関係の仕事につくことが決まっている。しかし、先のことを考えると不安でたまらないのだという。
 この子は短い春休みに時間をさいてボランティアに参加していた。ホームレスの人たちに卵や毛布、コーヒーを差し入れるというものだ。新宿へ行くことが多かったそうだが、春には大阪と神戸にも行った。その神戸に行った帰り道、彼女は突然泣き出してしまった。新しい生活になじめるかどうか、不安でたまらないのだという。 中学生の頃から新聞配達をして、一生懸命にがんばってきた子だから、新しい生活にもきっとなじめると思ったのだが、本人の不安が消えるには、もう少し時間が必要なようでもあった。
 私はこの二人に同じメッセージを贈った。「人は、ひとりぼっちになるために、新しい明日を迎えるのではないのですよ」と。
 このときから3年前の春、私もまた同じ気持ちでいた。生きていてもどうせ一人ぼっちだと。その頃は笑うこともなく、家からもまったくといっていいほど出ずに、引きこもりの生活をしていた。当然友達などおらず、私の相手をしてくれるのは親だけだった。その親の気持ちにも気づこうともせずに、別に一人ぼっちでもいいとさえ思っていた。というより、そう思おうと努力していた。
 友達がいなかった私には、どうしたら友達が作れるのかわからなかった。どうせ今までだっていなかったのだから、べつに無理に作ろうとがんばらなくても、一人でいたほうがラクだとも思っていた。
 しかし、やはりどこかで寂しかった。友達同士で明るく笑い合っている声を聞いたり、一人で買い物に行って友達と連れだって歩いている同じ年代の子の姿を見かけた時など、やはりうらやましかった。
 孤独感のなかで、私は次第に生きていく意欲を失っていった。そしてとうとう私は、自殺未遂騒動を起こした。あのときは周りが騒ぐなか、一人で冷めたような顔をしていた。私が死のうがどうしようが、みんなの生活に変化はないじゃない。何をそんなに騒いでいるの? というふうに。
 振り返って思えば、あれも私なりのSOS発信だったのだろう。

■応援してくれた高校の先生

 つい最近まで忘れていたが、騒動のあと、私はまっさきに高校の担任教師に会いに行った。私の担任は、高校に入学してから卒業まで四年間一度も変わらなかった。 この先生はちょっと大物だ。なぜなら自殺未遂騒動を起こしたあとも先生は、私を色メガネで見ることなくずっと応援してくれた。「何かあったらオレが助けてやるから」と、いつもいってくれていた。そして先生のすごいところは、実際に何かが起こった時に、本当に助けてくれたことだ。
 先生に助けられたのは、私だけではない。生徒のためにみんなの前でウソをついてくれたこともあった。だから、他のクラスメート達もあいた時間をみつけては、先生にいろいろな相談をしているようだ。
 たとえば、入学してまもなくすると、新しいクラスのなかには「グループ」が必ずでき始める。ことあるごとに集団で行動させられる学校生活のなかでは、グループに入っていないと身動きがとれない。だから、みんな無理をしてでも、どこかのグループに所属しようとする。 そしてなかには浮いてしまって、まったくメンバーと相性が合わないのに、背伸びしてグループにしがみつき続けるような子も現れる。なぜならグループは、一度できあがると互いに排他的になってしまい、外部からは人が入りづらくなるからだ。途中から他のグループに入り直すことは、大人には想像できないほど難しい。
 この傾向は一般の高校であるほど強い。私の高校は通信制のため、普通高校ほど強いグループ意識はないが、やはり遊び人っぽい子のなかに一人だけ真面目すぎる子がまぎれてしまうみたいなミスマッチが起こる。そんなとき、担任の先生は、生徒同士の「お見合い」をさせてくれた。
 その子に合いそうな友達を探して、その子を受け入れてあげてほしいことを伝えるのだ。ミスマッチからいじめなどが起こりそうになっている場合には、この「お見合い」が効果を発揮する。現に「お見合い」によって救われた子もいた。

■生きてることに意味なんてない

 当時の私に先生は、どうしてくれたんだっけなあと考えていたら、希望者のみが行く宿泊学習に参加させ、班長などの「役」をやらせてくれたことを思い出した。班長になればどうしたってみんなと話をしなければならないから、より多くの人と知り合えるだろう。先生はそう考え、私を合宿に参加させてくれたのだろう。
 その後私は、自分が本当につき合っていける友達を見つけることができた。そしてなにより笑えるようになった。先生がいたから学校も続けてこられたのだと思う。 高校中退は私も何度も考えた。勉強はラクではないし、はじめは先生の存在もうとましかった。外出すること自体が不安で動かないから体力もなく、同時に精神力も失せていた。とにかく何をするのも面倒だった。
 もしあのまま学校を辞めていたら、どうなっていただろう。死にたいと思いつつ毎日暮らしていたのだろう。家から出ることも笑うこともしないままで。何からでもすぐに逃げ出す、弱い人間のままでいたに違いない。
 私がメッセージを贈ろうとしている、中学を卒業したばかりの彼女たちには、今まで自分がすごしてきたことを伝えることしかできなかった。私は彼女たちにメッセージを書きながらいろいろなことを考えていた。
 きっと生きることには深い意味なんてないのだろう。けれども人は、一人ぼっちになるために生きているのではない、と。人と出会い、二人になるため、三人になるため、大勢の中の一人になるために生きているのだろう。
 それを気づかせてくれたのが、私にとっては担任の先生だった。
 一緒に授業をサボっては階段のところでタバコを吸い、どっちが灰皿を取りにいくかをジャンケンで決めた。それまで先生という存在は、ことごとく気をつかう相手だった。嫌味で皮肉で私にはいらない存在だった。だけど通信制高校では違った。
 恥ずかしい話だが、友達関係さえもうまくできなかった私には、協調性もなく、礼儀というものもほとんどわからなかった。敬語もあまり使わなかったので、たまに使うと敬語が並びすぎ、なんだかおかしくなってしまう。そして話をしたいことができると、まずとにかく自分の話を聞いてもらいたいと思ってしまう。たとえ相手がどういう状況であっても。
 ある時、先生たちが会議をしていた。会議といっても体育の先生たちだけの小さなもので、体育教官室で行われていた。だからいつものように私は、何も考えずに教官室に入っていった。
 すると、ものすごい剣幕で怒られた。いきなりどなられ、はじめは何をいわれているのかわからなかったが、どうやらこういうときには、「お話中、失礼します」といわなければならないのだとわかった。そんなことの繰り返しだ。もし先生がどなってくれていなかったら、きっといつかどこかで恥をかいていただろう。
 20歳になっても私は高校生で、先生は生徒である私をいつもどなっていた。最初の頃は、「感情的な先生だなぁ」と思ったけれど、やがて、私たちが社会で恥をかかないようにいろいろなことを教えてくれていたのだとわかった。

■先生に期待しすぎたのかも

 やがて私は、通信制高校に入るまで「先生」に期待しすぎていたのかもしれないと思いはじめていた。先生というのは、神様じゃなかったんだ。だからこそ、そばにいて心の支えになってくれることだってあるのに、期待しすぎて裏切られたり絶望したりしていたのかもしれない。
 少なくとも通信制高校の担任の先生は私を信じてくれていた。振りほどかれてもおかしくないような私の手を、信じて必死に引っ張ってきてくれた。どんなに私が裏切っても、怒り、信じ続けてくれてた。
 通信制高校に通って四年目の春、春なのに私は不安にならなくなった。新しい生活には新しい出会いがあって、新しい出会いのとなりには、いままでに知り合った人の笑顔がある。みんなのおかげで私は変わった。心が一人ぼっちだったのに、今はみんなのなかの一人として生きていくことができる。
 こうして笑っているけれど、私にもそういう時期があったのだということを、彼女たちにメッセージとして贈った。
 生きていく意味などわからないし、どうせ人は必ずいつかは死ぬのに、80年の人生は、なんのためにあるのかわからない。だけど精一杯生きていこうと思えるのは、こうやって人の温かさにふれることができるからなのだろうと思う。
 もう生きていけないと何もかもあきらめた時期もあった。一生笑わないと心に決めたこともあった。人を信じれば裏切られると思い込んでいたし、どうせ誰も私を信じてはくれないのだと思っていた。あの頃を今では不思議なほど冷静に受け止めている。
 裏切られることを恐れていては本当の友達などできないし、自分が人を信じなければ、誰も自分のことなど信じてはくれないということにも気づいた。
 乗り越えてしまえば、高いと思った山も低かったし、つまずいた石ころも本当にちっぽけなものだった。でも、その時の気持ちはとても重かったし、とても不安だったと思う。これからだって何度もくじけそうになるだろう。だけど、そういうときは自分が一人ぼっちじゃないことを思い出したい。いつもそばに誰かついていてくれていることを。 (■つづく)

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