ホームレス自らを語る/大畑太郎・神戸幸夫

ホームレス自らを語る/15歳から働きづめ・吉岡達彦(48歳)

■月刊「記録」2001年9月号掲載記事

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■左手が動かなくなって

 どう、持っていくか?
 昔、友だちからもらった種を植えたら、けっこう育ってね。ほら実がついているだろ。木にツルが巻きついちゃったから、取れない実もずいぶんあるんだけれどさ(笑)。
 ニガウリとヘチマだよ。本当は夏にできるはずだったんだけれど、なぜか秋になっちゃったんだ。沖縄では、ニガウリをゴーヤ、ヘチマをナーベラーって呼ぶけれどね。
 そうか、ナーベラーは知らないか。味噌炒めなんかにしてもおいしいし、あと生で食べてもいいんだ。俺が子どものころは、毎日のように食べていた。
 川崎にも沖縄料理店があるけれど、いまはお金もないしね。仕方ないから、自分で作って食べているんだ。隣にテントができなければ、もっと収穫できたと思うんだけれどさ。
 去年の11月からここに住んでいるよ。3年前、45歳ぐらいから左手が動かなくなりはじめてね。最初、医者に行ったら、「半年ぐらいで治るだろう」と言われたんだけれどね。さっぱりだよ。手が動かないんじゃ、仕事にもならないし。
 この前なんか、現場監督から「もう来るなー」って怒られたからね。いや、俺が悪いんだよ。知り合いから鳶の募集があると聞いて、無理だと思いながら応募したんだ。やっぱり片手じゃ仕事にならなくて、四日目にどなられたんだ。監督の気持ちもわかるけれどね。どうにかして仕事がほしかったんだ。

■親の借金返済で働きづめ

 まったく嫌な人生だよ。15歳から働いているんだ。 親がバカモノでさ。知り合いにだまされて、金を持ち逃げされたんだ。頼母子講をやっていてね。沖縄ではよくあるんだけれど、近所とかの知り合いが集まって、毎月お金を貯めていく。それで仲間が困ったときに、その金を貸すんだ。
 その講の親をやっていたから、パンクさせたお金は責任を持って払わなくちゃいけなくなった。そりゃ大変だよ。朝に晩に取り立てにくるんだから。それで俺も働くことにしたんだ。
 タイル職人になった。金はかせいだよ。月200ドルはかせいでいたから。300ドルぐらいかせいだ月もあったんじゃないかな。当時、まだ沖縄は日本に返還されていなかったし、1ドルは360円に固定されていたんだ。1960年代後半の200ドルといったら大金だったな。もちろん、その分働いたけれどさ。本当に死ぬ気で働いていたもの。
 仕事が終わるのが朝の5時。それから1、2時間寝て、また仕事に出かけるような生活だったからね。正月だって、ほとんど休みなく働いていた。自宅に帰る時間もなくて、公園で野宿していたこともあった。おかげで泥棒に間違われたことがあったよ(笑)。近くで事件があって、警察に捕まったんだ。幸い、真犯人がすぐに捕まったけれどね。
 こうやってかせいだ金を、すべて親に渡していた。借金を返すためにね。17歳のときには沖縄を出て、池袋で働いていたよ。そのときもボーナスを含めて、ほとんどのお金を家に送っていた。親に渡した額を合計すれば、ビルを建てられるぐらいのお金にはなったと思うよ。つき合っている女もいたけれど、親の借金を払い終わったら結婚しようなんて言っているうちに、別れちゃったしな。
 しかも借金を払っている最中に、父親も死んじゃったから、家族の生活費も俺と兄貴でかせぐことになったんだ。妹は10代で結婚したけれど、しばらくしたら子どもを連れて自宅に帰ってきた。ロクに働けないから、やっぱり俺が養うことになるんだよね。
 95%ぐらい借金を返済したころに、家族とケンカして金を送らなくなったんだ。だって家族みんなで協力して、借金を返そうという感じじゃなかったから。みんな好き勝手にやっていて。どうして俺だけがと思うだろ。もちろん縁を切ったわけじゃないから、その後も実家とは連絡を取っているけれどね。

■なまけたことなど一度もない

 腕が動かなくなってからも帰ったんだよ。失業保険を使ってね。でも、沖縄は仕事がないし、やっぱり東京に出てくるしかなかった。これだけ腕が上がらないと、ガードマンの仕事もできない。腕が上がらなくなってからまともに働けたのは、造船の仕事ぐらいかな。船の油をふく仕事だったから、片手でも働けたんだよね。
 こんな体になったのも、ムチャクチャに働いてきたからだろうな。10代のころもそうだし、その後も働きまくってきたから。
 阪神大震災のあともよく働いたよ。1年ちょっと西宮で、倒壊した建物を片づけていたんだ。それこそ朝から晩まで働いていたから。ベルトコンベアに頭を打って首を痛めても、仕事を休まなかったぐらいだからね。
 いままでの人生の思い出なんて、ほとんどないな。働きづめだったからね。
 あー、16歳ぐらいだったかな。初めて競輪をしたことは覚えいるよ。だって200円買ったら、56万円になったからね。ものすごく驚いた。ビギナーズラックだったんだろうけれど。
 あとは、そうだなー。去年、多摩川の上流が決壊して、どんどん水かさが増えていったときは怖かったな。すごい量の水がテントに迫ってきたからさ。避難したけれど、ビックリしたよ。
 振り返ってみると、ろくな人生じゃないよ。いまじゃ働くこともできないしさ。どうしたらいいのか、自分でもよくわからないんだ。右翼がやっているってうわさの施設にでも入ろうかな。ここにいても仕方がないしね。最近、そんなことを考えているよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ハートの弱い人は暮らせない・川田義則(47歳)

■「新・ホームレス自らを語る」収録

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■毎日コンビニに通っている

 ホームレスでも、自慢ばかりしているようなヤツはケンカになる。逆にハートの弱い人はテントで暮らし続けることなんてできないよ。
 俺も、365日、毎日コンビニに通っているんだ。「ここの場所は取れない」と、他のホームレスに思わせるんだ。雨はもちろん、雪の日だって休まないよ。じっと店の人が弁当を出すまで待っている。他のヤツが割り込んできて、弁当を持っていったりした場合は、走って追っかけて「俺のもんだから」って話をするよ。なぐらないけれどな。一番に必要なのは、やっぱり食べ物だから、こういうことがすごく重要なんだよ。
 あまり汚い格好で店の周りをウロウロしていると、店の人やビルの管理人にも迷惑がかかるから、身だしなみにも気をつけなくちゃいけないよね。そういう風にしているから、店も期限切れの弁当を段ボール箱に入れて、そのまま出してくれるんだ。店員さんに会えば、「すみません。もらっていきます」と声をかけるしね。

■ウソついてんじゃねぇよ。警察か?

 でも毎日通っていると、とんだ目に遭うことだってあるよ。
 冬場でね。朝七時に店近くで待っていたら、いきなり近くにベンツが止まったんだよ。チンピラみたいなのが車から出てきて、「おたくさん、何しているの?」って聞くんだ。何しているったって、弁当を待っているんだけどさ(笑)。
 そのうち今度は、ベンツから歳のころ40代後半ぐらいのがっちりした男が、車から出てきたんだ。光ったシルクの生地でさ、グレーのダブルのスーツなんだけれど、生地が光ったシルクなの。いかにもヤクザっていう格好だよね。親分だったんだ。
「オマエ、どっかで見たことあんなー」とか言うんだよ。「ないですよー」とか答えたら、「ウソついてんじゃねぇよ。警察か?」とか怒ってんだ。
 どうやら警察に自宅を見張られていると勘違いしたみたいなんだ。毎日、マンションの近くで見張っているからさ(笑)。間の悪いことに、たまたま一緒に行った仲間がイヤホンでラジオを聞いていたんだよ。警察無線に見えたんだろうな。まあガタガタ言われたけれど、そのときは、これで終わったんだ。
 さすがにそのあとは待つ場所を少しだけ変えたよ。でもコンビニの近くから離れるわけにはいかないからね。 最初にどなられてから、しばらくたってさ。また、例の親分がベンツから降りてきたんだ。「てめーら、殺すぞ」って。
「バカヤロウ! オマワリなのはわかってるんだ。おまえらが気になってしょうがないから、ウチの女房は心配しすぎでまいってるんだ」だってさ。
 さすがに二度目は、しびれを切らしてたんだね。殴りかかってきそうだったから、少し腰を浮かしたら、胸をドンとド突かれたよ。まあ、軽くだけれどさ。
 自分から女房がまいっているなんて話すぐらいだから、よほどせっぱつまっていたんだろうな。監視されていると誤解して、ノイローゼにでもなったのかね(笑)。 怖いかって? いや、怖くないよ。だって俺は住所不定なんだから。怖くなったら、ここから逃げ出せばいいんだからさ。
 コンビニの弁当を自分のバッグに移しかえようとしたところで、私服刑事が飛び出してきたこともあったよ。「ちょっと待ってください」と言われてね。バッグを開けさせられたんだ。覚せい剤の受け渡しとでも疑われたのかな。
 ホームレスだとわかると、刑事さんが「頑張ってください」と言っていたな(笑)。
 こうやって集めた弁当も、余ればこの公園にいるホームレスに全部渡しちゃうよ。ここにかけてある笛を鳴らせば、ベンチに寝ているホームレスが集まってくるし、こっちのラッパを鳴らすとテントを張っている仲間が集まるように決めてあるんだ。昔はいちいち仲間を呼んでいたんだけれど、毎日のことだと面倒くさくてさ。あっ、笛? もちろん拾ったんだよ(笑)。何でも落ちているから。

■5ヵ月ほどで公園に戻ってくる

 もうホームレスになって3年たつよ。いまは47歳だね。
 ホームレスを始めたのは、7月からなんだ。最初は、駅の西口にあるビルのすき間で寝ていたんだ。涼しかったから。それから、ここの公園に移って、最初は便所の前あたりにいたのかな。寒くなってきて、その年の12月ぐらいからテントを作り始めたんだ。
 警察が公園を回るから、1年に1回はこのテントもバラさなくてはいけないんだ。最初、テントがある状態で写真を撮って、バラしたあとにもう一度写真を撮る。もう暗黙の了解でね。写真を撮り終えたら、さっさとテントを組み直し始めるんだよ。
 ホームレスのなかには、酒を飲んでいてさ、警官にいろいろ言うヤツもいるんだ。でも警察には、「ハイハイ」と従っておけばいいんだよ。べつに追い出そうというわけじゃないんだから。俺なんか警察に名前を書いて提出しているからね。血液型まで聞かれるんだよ。毎年聞かれるから、「去年も答えたよ」と言ったら、「いや、変わったかもしれないから」だって(笑)。
 ホームレスのための自立支援センターなんかもあるけれどさ、俺は住民票を移せないから。いろいろあってね。福祉なんかも、家族に連絡がいくと困るから使えないんだよ。でも、自立支援センターに入ってもさ、仕事を見つけられない人も多いみたいだよ。
 うん、体は悪くないね。ここのホームレスがテレビに取り上げられてから、医薬品や毛布を持ってきてくれる学生がいたりするし、食べ物には不自由してないから。万一病気になったら、役所の福祉課に行くか、救急車を呼べばいいんだしね。助けてはくれるからさ。
 現金収入はいっさいないな。たまに臨時の収入があるぐらい。といっても買うものといったら、ガスボンベぐらいだからな。ガスがなくなったときは、仕事をしている仲間に買ってもらっているよ。
 服なんかは、夜中に回るとけっこうゴミとして出してあるから。クリーニングに出したあとに捨ててあったりするし。汚いまま出してあれば、自分で洗えばいいんだし。
 生きるのに困ることはないけれど、やっぱりここを脱出したいな。ここから出ていくのが一番いいんだよ。でも実際には、仕事を見つけて出ていった人も、5ヵ月ほどで戻ってくる場合が多いよ。もちろん警備の仕事したりして、アパートを借りている人もいるよ。近くに古いアパートで女が自殺したの。それで家賃が安くなって、元の仲間が住めるようになったんだ。
 家に住むのがこんなに大変なことだと思わなかったよ。ホームレスになる前は、なんで公園で人が寝ているのかわからなかった。寝いている人を見ると何している人だろうと思っていたからさ(笑)。金があるときは使っちゃうしね。金がなくなってからあわてても遅いんだよ。俺だって、まさかホームレスを経験するとは思わなかった。金がなければ働けばいい。そう思っていたものね。
 きっと、みんなそう思っているんだろうね。この公園にも、いろんな人が来るよ。小学生の子どもを連れてきた女の人もいたよね。30いくつと言っていたかな。東北の人だったな。いつの間にかいなくなったけれど。
 そうそう、覚せい剤中毒が来たこともあった。ナイフを仲間に突きつけて、時計とか金とかかっぱらっていたんだ。仲間から連絡を受けてあわててテントを出たら、そいつが逃げるんだよ。追いかけて捕まえたら、今度は500円を差し出したから、「そんなんじゃねー」って殴りつけてやったよ。そういえば、最近、そいつを見ないな。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ホームレスになってまだ三ヶ月・下川保さん(51歳)

■月刊「記録」2001年7月号掲載記事

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■飯場の健康診断に引っかかった

 ホームレスになったのは今年の2月からだからね。まだ、3ヵ月にしかなってないよ。それまで25年以上建築現場でずっと働いてきた。そりゃあ真面目なもんだったよ。いまゴールデンウィークで世間様はお休みだけど、こういうときでもオレは仕事さえあれば働いてたからね。そんなオレが2月に飯場を放っぽり出されてからは、仕事にありつけない。で、公園で寝るしかなくなっていたんだ。
 2月までは(東京)中野の現場にいたんだ。そこで保健所の健康診断があって、レントゲン検査に引っかかった。オレの胸にいくつかの影があるのが見つかって、結核の疑いで「精密検査の要あり」と言われ飯場を出されちまった。そのあと病院に行ってくわしい検査を受けたら、ただの気管支炎だとわかって、それもすぐに治ったんだ。それで現場に戻ろうとしたら、もう後釜が入っていて空きはないと断られてね。それから別の現場の仕事を探しているんだが、なかなか思うように仕事にはありつけない。
 生まれは埼玉県の大宮。オヤジは地方公務員をしていたが、オレが小学校に上がる前にガンで死んだ。だから、オヤジの記憶はあまりない。あとはオフクロに育てられた。中学校を出て、商業高校の定時制に通いながら、昼間は大学生協の食堂でコックの見習いをして働いた。高校の4年間は真面目に通って、ちゃんと卒業もしたよ。
 高校を出たときに、コックの仕事も辞めた。あとはガソリンスタンドとか、車のディーラーとか、いろんなところで働いた。仕事の選り好みはしないんだが、飽きっぽいというか、どれも長く続かなかった。若かったせいかもしれないね。

■自衛隊で野戦砲の射手になる

 22歳のとき、陸上自衛隊に入った。休みの日に日比谷公園のベンチに一人で座っていたら、自衛隊の勧誘員が来てスカウトされたんだ。だから、とくに目的や理由があって入ったわけじゃない。勧誘員の話を聞いて面白そうだと思ったからだね。
 富士山の裾野にある御殿場の駐屯地に配属になって、戦車部隊の野戦砲担当になった。野戦砲は重量がすごいんだ。それに撃ったときの反動もすごい、砲が架台ごとはね上がるんだからね。だから、一門を扱うのに5、6人がかりの重労働だった。たぶん、このガタイ(身体)が見込まれて担当にされたんだろう。オレの役は射手。いや、射手は花形じゃない。野戦砲の花形は照準手で、射手はその命令で撃つだけだからね。
 自衛隊には2年間いた。ちょうどベトナム戦争の真っ最中だった。オレたち火器を扱っている部隊は関係なかったけど、輸送部隊には連れて行かれたところもあったようだね。
 自衛隊にいた2年間は真面目なもんだったよ。休日も駐屯地にいて外に遊びに出ることもなかった。酒も隊内クラブでたまに飲む程度だったしね。だから、金は貯まった。除隊してから、その金で九州・沖縄一周の豪勢な旅をしたよ。あれがオレの人生で一番いいときだったんじゃないかな。
 実は、自衛隊で野戦砲なんて重いものを扱っていたから、腰を痛めちゃってね。いまでもコルセットを着けているんだ。ほら(腰のコルセットを見せてくれる)。この腰痛とは25年間もつき合っているわけだからね。冬になると普通にしていても痛む。かなりつらいもんだよ。

■みじめな死に方はしたくない

 自衛隊を辞めてからは、土工とコンクリート工をずっとやってきた。飯場から飯場を渡り歩く生活だった。だから、アパートを借りたことは一度もない。
 結婚もしなかった。そりゃあ男だから、たまには女遊びもしたよ。だけど、女なんてツンツンしてるだけで嫌いだよ。結婚にも、女にも、あんまり興味はなかったね。
 土工でも、コンクリート工でも真面目に働いたよ。日本中のゼネコンの現場は全部で働いたんじゃないかな。赤坂のアークヒルズだろ、幕張メッセもやった。幕張の現場が一番すごかったね。それこそ日本中のゼネコンが集まって、いろんなビルを競争のようにして建てたんだから。オレはそのときは国際見本市の建物をやったよ。 新宿のビルもやった。工学院大学のビルとか、パークタワービルの工事についた。いまこうして新宿でホームレスになって、たまにそんなビルの下を通ると、「このビルはオレが建てたんだなあ」って思うよ。
 オレの場合、建築現場で働くには腰痛のハンディがあっただろ。だけど、そこは腕力でカバーしたんだ。ほかの人が持ち上げられないようなものも、腕の力だけで持ち上げたりしてね。「おたく、力があるんだねえ」と監督をびっくりさせたこともある。オレは真面目だったし、力もあったから、どこの現場でも重宝がられた。
 それだけ働いても金は貯まらなかったよ。酒も、ギャンブルも、女遊びも、あまりしなかったのにね。日当が6000~7000円じゃあ、一つの仕事を終えて飯場を出され、次の仕事までカプセル(ホテル)やサウナで寝泊まりするから、その金と飲み食い代でほとんど消えちゃった。残るものはなかった。
 いつだったか、鳶の親方に気に入られてね。「鳶にならねえか」って誘われたことがある。オレだってビルの1、2階分くらいの鉄骨に上るのは平気なんだ。だけど、それ以上の高いところで、腰をかばいながら仕事をするのは自信がなかった。で、その親方の話は断っちまった。鳶の仕事ができてたら、もう少し違ってたと思うけどね。だから、ずっと土工とコンクリート工のままできた。
 40歳を過ぎたころかな? 体力がガクッと落ちたのを感じた。体力の衰えって、ホントに急にくるんだね。それでも腰に気をつけながら意欲だけでがんばってきたんだ。ところが、今年2月の健康診断に引っかかって、飯場から放っぽり出されることになったわけだ。
 ホームレスになってまだ3ヵ月だから、食い物を手に入れる方法とかわからなくてね。ボランティアの差し入れだけが頼り。だけど、毎日あるわけじゃないし、1回の差し入れを2回に分けて少しずつ食べたり工夫はしてるけどね。やっぱりひもじい。あとは水道の水を飲んでごまかしてるよ。
 これまで25年間ずっと働きづめできただろう。1日中公園のベンチに座ってじっとしているのは身がもたない。体がなまってしまうしね。それで最近はボランティアに参加しているんだ。「新宿をきれいにする会」というグループがあってね。新宿の街の美化のためにゴミを拾って回る運動で、オレも毎朝6時から2時間参加して公園や周辺のゴミと空き缶を拾っている。参加しても何かがもらえるわけじゃないけど、ウズウズしている体にはちょうどいい運動になるしね。それにオレはきれい好きで、汚いのは嫌いなんだ。
 とにかく早く仕事を見つけたい。オレもまだまだ働くつもりでいるからね。みじめな死に方だけはしたくないと思っている。そのためには人生をいい方向にもっていきたい。ごくあたりまえの幸せと健康であればいいんだからさ。不幸はヤダ。不幸のなかで死ぬのだけはヤダからね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/年季の入った酒飲みだよ・大木善郎さん(61歳)

月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■岩内大火で家が丸焼けになった

 生まれたのは北海道の岩内って町。1938年6月2日が誕生日。岩内は海辺の小さな町で、漁業をしている人が多かった。オレのオヤジも漁船に乗っていて副船長をしていた。イカとか、マグロ、タイ、それにハッカクっていう顔はまずいが味はうまい魚があって、そんなのを獲っていたようだ。オフクロも港の魚市場で働いていた。だから、オレの小さい時分の暮らし向きは悪くなかったと思う。
 小学校に入って、すぐに町が大火事になった。「岩内大火」っていう大火事。そりゃあすごい火事だったよ。ちょうど台風も来ていたから、その風にあおられてゴーゴーと燃え盛ってね。町の半分、いや、三分の二以上が焼けちゃったんだから。
 オレも家族と一緒に町の裏手にある山の中に逃げ込んでいた。オレのうちも焼けて丸焼けだった。焼けたのは海沿いの低地にあった家ばかりで、焼け残った三分の一は山沿いの高台にある金持ちの家ばかりだった。皮肉なもんだよね。
 それでオレたち一家は、焼け残っていた漁業組合長の家の庭にテントを張って、その中で半年間くらい暮らした。狭いテントに家族がギューギュー詰めで暮らしたんだよ。まあ、うちだけじゃなくて、焼け出された家はみんなそうやって空き地を見つけてテント生活をしていたからね。
 そのころはボランティアだとか、義援金のカンパなんてなかっただろう。戦後の食糧難と重なって、食べるものがなくて困った。組合長がどこかからもらってきた米を分けてくれたり、オヤジやオフクロが百姓をしている家に買い出しに行くとかして食いつないだ。三食まともに米を食った記憶がない。とにかくひもじかった。魚だけはいっぱいあったけどね。
 半年後に家ができた。家といったって、元の敷地にバラックの小屋を建てただけのものだけどね。いまとちがって保険になんか入っていないし、大工の手間賃も払えないだろう。オヤジたちがみんなで協力して、順番にバラックの小屋を建てていったわけさ。その小屋のような家で正月を3回迎えたのを覚えているよ。

■中学校には行かずに働いた

 それからちゃんとした家を建てたけど、その借金とかが残ったんだろうね。うちはずっと貧乏だった。だから、オレも小学校を出ると、すぐに働き始めた。魚市場で籠に入った魚を台車に積んで、市場の中を引っ張り回して運ぶのが仕事さ。家が貧乏だから、中学校なんて行ってられなかったんだよ。兄貴もそうしていたし、周りの友達にもそんなのがいっぱいいたからね。
 酒を飲み始めたのは、そのころからだよ。だから、オレの酒飲みには年季が入っているんだ。中学生のときから飲んでるからね。酒といったって焼酎だよ。宝焼酎。隠れてなんか飲まないよ。家族みんなで飲むんだ。うちはみんな大酒飲みでね。まあ、そのころの海で働くとうちゃんやかあちゃんたちは、みんなよく飲んだからね。夜中に酒がなくなると「善郎、酒を買ってこい」って、末っ子のオレがよく買いに行かされたよ。(取材中も、大木さんは焼酎をあおりながらであった)
 20歳になって、オレも漁船に乗って漁をするようになった。20歳といえば、兄貴がそれを祝って女を買いに連れて行ってくれてね。小料理屋のようなところの二階の部屋で、その店の仲居が相手だった。女と寝るのは初めてだろう。やり方がわからなくて、上に乗っかるのも知らなかった。それで仲居に教わりながらしたんだ。いや、よかった。最高に気持ちよかった。
 漁船には1年くらいしか乗ってなかった。21歳のときには東京へ出てきちゃったからね。何でかって? オヤジもオフクロも、兄貴までもが死んじゃったんだ。3人が一緒じゃないよ。病気で次々に死んでいったんだ。ろくなものも食わないで酒ばかり飲んでたら病気にもなるよ。もっと詳しく話してくれ? 何で? これ以上しつこいと、話すのをやめるよ。(森さんは両目を潤ませて、しばらく話すのをやめた)

■かせいだ金は酒と女に消えた

 21歳で東京に出てきてからは、いろんな仕事をした。いろいろといっても、ほとんどが飯場に入って建築関係の仕事だったけどね。4年前にホームレスになるまで、ずっとそんな生活を続けてきた。結婚? できるわけないだろう。兄貴だって嫁さんももらわないで死んじゃったのに、オレだけが嫁さんをもらうわけにはいかないよ。
 かせいだ金はみんな酒で飲んじゃったよ。それと女だな。酒と女遊びに使っちゃった。酒は毎晩、毎晩一升くらいの焼酎を飲んでいたからね。どうかすると朝の四時くらいまで飲んで、そのまま水風呂に飛び込んで酒のにおいを消して現場に行くなんてこともした。そんなことをしても、においなんて消えやしないけどね。
 女遊びのほうは千葉の栄町にあったトルコ風呂に通った。1回遊ぶのに1万2000円くらい取られたから、3ヵ月に1回くらいしか行けなかったけどね。それで我慢できなくなると、立ちんぼを買うんだ。チョンの間だと3500円。チョンの間なんて、わかる?
 ホームレスになったのは4年前からだね。毎朝、酒のにおいをさせて仕事に行くだろう。そうすると、係の人から「森さん、今日は仕事を休んでよ」って言われるんだ。絶対に「辞めろ」とはいわない。向こうから「辞めろ」と言い出すと、解雇手当とかの金を払わなくちゃならなくなるだろ。だから「休め」って言って働かせてくれない。オレたちは日雇いだから、休んだらその日の金はもらえない。そんなのが3日も続いたら、金なんてなくなっちゃうしさ。それでホームレスになったんだ。
 昔は二日酔いぐらい平気で働かせてくれたんだよ。人手が足りなかったからね。いまはうるさい。ちょっとでも酒のにおいがすると、働かせてもらえないからね。日当も下がった。いいころは1日1万円くれたのが、いまじゃ6000円くらいにしかならなくて、そこから食事代が1200円も引かれちゃうんだ。いくらもかせげない時代になっちゃったね。
 いまはオレも60歳を超えてるから、新宿区役所が世話をしてくれる仕事をしているよ。週2日だけどね。ゴミの清掃車を洗ったり、ビルの中を片づけたりする簡単で安全な仕事。1日で7000円もらえる。そこから昼飯の弁当代を引かれるから、実際にもらえるのは6400円だけどね。それでこうやって焼酎が飲めるってわけさ。
 だけど、役所の仕事も酒に酔っていくといけないんだね。係の人から「森さん、酔って来たらまずいよ」っていわれて、週2日あった仕事もいまは一日に減らされちゃったよ。
 ホームレスなんかしていると、人間がなまくらになっていけないね。酒を飲むのは楽しいさ。いやいや飲んだってしょうがないよ。よかったころ、楽しかったころのことを思い出しながら飲むんだ。あのころは、とうちゃんもかあちゃんもみんな元気で楽しかったとかね。飯場にいたころだって、楽しかったこと、よかったころはあるんだ。そういうのを思い出しながら飲むんだよ。いいもんだよ。いまだって、金さえあれば焼酎の一升くらい平気で飲めるからね。
 あと4年。あと4年で生保(生活保護)が受けられるから、それまで何とか頑張りたい。あと4年だよ。

※取材後調べたところ、岩内大火があったのは一九五四年。大木さんが大火に遭遇しているのは事実のようだが、「小学校に入ってすぐ」というのは、本人の記憶違いか、あるいは多少の脚色がなされているのかもしれない。  (■了)

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ホームレス自らを語る/「店を持たせてやる」との言葉を信じた・武田貴文(63歳)

■月刊「記録」20001年4月号掲載記事

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■20年のクリーニング店勤め

 ワイシャツだと、1日に110枚ぐらいかな。勤務時間は、朝8時から夜8時まで。遅いときは夜中11時まで働いてました。自分の時間なんてなかったですよ。1日中店で働いて、近くのアパートに帰ってきたら寝るだけの毎日ですから。
 店は10畳ぐらい。だいたい二人でアイロンをかけていました。衣類とアイロンとアイロン台があって、もうそれだけで店はいっぱいでした。夏は暑くてね。ステテコとランニングで仕事をするんだけれど、炎天下に座っている方が涼しく感じられるぐらいでした。それでも体は慣れちゃうもんですよ。
 中学を卒業してから働き始めて、辞めたのは昭和48(1973)年だから、35歳までですかね。20年ぐらい同じクリーニング屋に勤めていたことになります。
■「自分の店」は夢と消えた

 7人兄弟の3番目。父親は小学五年生のときに死にました。一番下の子が生まれたばかりでした。私が中学を卒業してすぐに、今度は母親も死んじゃったしね。高校なんか進学できるわけないですよ。
 みんな高校に行きだした時代だけれど、ウチは貧乏だから進学するどころじゃないですよ。兄貴も中学を卒業してから農家の小僧(丁稚奉公)になって体を鍛えて、それから父親の後を継いで大工になったんです。米軍基地で仕事を請け負っていました。
 私の就職先は母親が見つけてきたんですよ。隣組の人が町にクリーニング屋を持っていまして。たぶん「うちのボウズを使ってくれ」、そんな感じで頼んだんじゃないですかね。中卒じゃあ大きな企業に入れるわけもないし、就職先が見つかってよかったと当時は思いましたよ。
 でも、いま考えると、クリーニング屋で働き始めたのが間違いでした。「店を持たせてやる」なんて主人から言われて、真面目に働いちゃったから(笑)。
 店の主人が死んじゃってから息子が経営を始めて、それを機に辞めました。安い銭しかもらえないし……。自分で店を始めるには、お金が必要でしょ。でも賃金が低すぎて全然お金が貯まらない。せめて親が畑でも持っていたらね。それを売って店でも建てたんだろうけれど。
■結婚しようと思ったことも

 それから5年間は、義理の兄の会社で配管工として働きました。参議院会館なんかつくったんですよ。まあ、できあがってからは、行ったこともないけれど。その会社もつぶれちゃって、40歳ぐらいから土方ですよ。高田馬場に出入りするようになりまして。
 クリーニング屋を辞めてからですかね、遊ぶようになったのは。酒は飲めないくちですから、もっぱらギャンブルと女でしたけれど。でもギャンブルといっても、ひまつぶしにやるぐらいだから、月に数万円使うぐらいかな。
 女は、池袋で買っていました。その当時の池袋は、まだ道で立っている女も多かったんです。お気に入りもいましたよ。いまは僕も枯れちゃったけれど(笑)。まあ、年をとって風俗なんていうのもね……。
 さあ、どうしてクリーニング屋を辞めてから遊ぶようになったんでしょうかね。わかりません。生活が荒れたというのでもないけれど、少し変わりました。ただ土方になったころには、どうでもよくなっちゃったというんでしょうかね。気安く働けましたから。住所がないような人も多かったし。
 そう、まだクリーニング屋に勤めている32歳ぐらいのときに結婚しようと思ったことがありました。でも、お金がないからできなかった。徒弟制度だったから、わずかしかもらえないでしょ。結局、そのまま歳を取っちゃいました。
 30歳ぐらいまでにちゃんとした会社に就職できてればね。せめて車の免許でも取って、何かの運転手にでもなればよかったなって。

■人間以下の扱いはザラ

 そうこうしているうちに不況がひどくなって、仕事もなくなって、私も職にあぶれるようになって、昨年の8月からホームレスです。
 最初、新宿にいて、それから池袋に移りました。ここでひどい目に遭いましたよ。「俺が仕切っているんだー」という人がいましてね。最初、そんな人がいるなんて知らなかったんですよ。でも、そいつは弱いホームレスばかり脅してました。
 最初、私も子分にしてやるなんて言われてヘコヘコしていたんです。仕事をくれるとも言われたし。でも、下手に出ているだけじゃ、どうしようもない人だった。
「東武デパートで酒を盗ってこい」と万引を命令されたりもしました。盗むなんてできないから、仕方なく買ったりしましたよ。
 一度なんか「牛丼を食いに行こう」と言われて、一緒に牛丼屋に入ったら、金を払おうとしないんですよ。持っているのに。結局、警察が呼ばれて、しぶしぶ2人分の代金を払いましたけれど。幸い警察も説明を聞いて帰って行きましたが。騒いで金を払わなくて済むなら、ラッキーだと思っていた人なんですよ。
 彼のオーバーを私がなくしたことがありまして、これも大騒ぎになりました。収めるために時計を取られましたからね。最初にヘコヘコしていたからなめられたのでしょう。仕事もしばらくしてなかったから、筋肉も衰えてくるでしょ。なおさら弱気になるんですよ。結局、一ヶ月ぐらいで、池袋は逃げ出しました。
 ホームレスの生活はつらいですね。ホームレスをだましたりするのに、多くの人は罪悪感を感じないんでしょうかね。
 この前、飯場に仕事に行ったときなんか、15日働いて1万3000円ですから。
 海の家に働きに行ったときはもっとひどかったんです。調子のいいことばかり言って、二週間働いて一銭もくれない。「金をくれないなら辞める」と言ったら、帰りのキップとおにぎり二つ、缶ビール一缶を手渡しました。一夏働いた仲間でさえ、7000円しかもらえなかったみたいですよ。
 ホームレスなんて飯を食わせて、たばこを渡しておけば、お金なんか払う必要はない、と思っているんでしょう。
 親族とは、もう25年以上連絡を取っていません。一人前になっていれば連絡もできますが、恥ずかしいでしょ。一番下の弟もグレていたけれど、所帯を持ったらしいんです。景気が悪くなっていますから、勤めた会社がつぶれていなければいいけどね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/母親の面影を追い求めていた・川原太一さん(46歳)

■月刊「記録」1999年10月号掲載記事

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■母親不在で育った

 物心がついたころには、家にはもう母親はいなかったんだ。オレの小さい時分に、父親と離婚したらしい。なんで別れることになったのか、誰も教えてくれないし、オレも聞かなかったから、いまでも理由はわからないな。母親が自分から家を出たのか、出されたのかかもね。 生まれたのは青森県の十和田市。父親と兄貴、それにバアさんの4人家族で、このバアさんが母親代わりになってオレたち兄弟を育ててくれたんだ。父親は市役所が発注する土木工事を専門にしている会社で働いていた。まあ、サラリーマンだね。優しい父親だったよ。
 もともとうちは田んぼや畑のいっぱいある物持ちの家だったらしい。それが借金のカタにみんな取られちゃったようだね。それもオレの小さい時分のことで、原因とか理由はわからない。両親が離婚したのも、それと関係があったような、なかったような、それもよくわからないな。
 小学校の6年生のときに、こんなことがあった。学校から帰ってみると、家の玄関に見なれない履物が脱いであった。座敷に上がってみると知らない女の人がいてね。その人と目が合って、しばらく二人で見つめ合った。オレは急に心臓がドキドキしてきた。女の人がオレに話しかけようとしたとき、部屋にバアさんが入ってきて、「おまえは会っちゃあいけない人だ。向こうに行ってろ」って座敷を出されてしまったんだ。子ども心にも、その女の人がオレの母親だとわかった。
 しばらくして、玄関で音がするんで部屋の窓から外をのぞいたら、帰っていく母親の寂しそうな後ろ姿が見えた。オレも胸がいっぱいになった。母親を見たのは、あとにも先にもそのときの一回きりだ。座敷でオレに話しかけようとしたときの顔が、いまでも忘れられないね。 あとになって教えられたんだけど、あのとき、母親はオレを引き取らせてくれって頼みにきたらしい。だけど、バアさんが許さなかったんだね。その話を聞いて「兄貴を置いて、オレ一人だけが母親についていくわけにはいかない」と思ったことも覚えているよ。ただ、母親がオレを引き取りたいって来たということは、男をつくって逃げたとか、そういうことじゃないと思うからね。それが救いっていうか、ね。

■集団就職列車で上京した

 中学校を卒業して、東京に出てきた。集団就職というやつだね。3月20日の夜、三沢から夜行の臨時列車、あのころは集団就職列車と呼ばれていたのに乗ってね。故郷を離れる不安はなかった。若いから希望に燃えていたくらいだった。兄貴も集団就職で先に東京に出ていたし、それに母親の実家が東京にあったんだ。東京に行けば母親に会えるかもしれないという、淡い期待もあったかもしれないな。
 次の日の朝、上野駅に着いた。ホームに兄貴が出迎えてくれた。ただ、そのときに兄貴が「母親は死んだと思って働け」って言うんだ。そのとき、なんでそんなことを言ったのか、いまでもわからないね。オレが東京に出てきたのを、兄貴には母親を探しにきたように見えてたのかもしれないね。それとも、兄貴は両親の離婚の真相を知っていて、そんなふうに言ったのかとも思うね。
 オレが就職したのは、川崎にあった自動車会社のトラックの製造工場。鋳物の型をつくるのが仕事だった。そんなに大変な仕事じゃなかったよ。鋳物といっても型をつくるだけだから、熱くてかなわんとか、すすだらけになるとかはなかった。金属を溶かして型に流し込んだりするのは別の工場の仕事だったからね。重い物はみんな機械で吊ってたし、まあ仕事は楽だった。
 会社には養成工の制度があって、オレもそれを利用した。週のうち三日間だけ工場で働いて、あとの三日間は学校に通える制度なんだ。工場の敷地の中に学校があって、一学年一クラスで40人、四年制で卒業すると高校の卒業資格がもらえた。だけど、結局1年くらいで工場も学校も辞めてしまった。
 なんで辞めたのかって? 同じ中学の同級生だったのが、(埼玉県の)戸田の町工場で働いていて、そいつに自動車会社より給料がいいから来ないかって誘われたんだ。その町工場は荒川の土手の下にあって、従業員も7、8人しかいないちっぽけな工場だった。カメラの部品をプレス機械でつくるのが仕事で、給料はホントによかったよ。まあ、給料のこともあったけど、自動車会社には話をする友達が1人もいなかったからね。友達がほしかったのさ。だけど、その町工場にも4年くらいしかいなかった。
 東京へ出てきてから、ずっと母親のことが気になっていてね。母親の実家は(東京の)三鷹にあって、そこを訪ねれば何かわかるかもしれないと思ってたけど、どうしても行けないでいたんだ。行けば母親がオレたち兄弟を置いて家を出ていった真相が明かされるようで怖いような気もしてね。
 20歳のときだったかな。それでも母親の消息が知りたかったし、できれば会ってもみたい気持ちが強くなってね。自分では行く勇気がないから、兄貴に頼んで行ってもらったんだ。三鷹の実家にはジイさんとバアさんが住んでいたらしい。でも、母親はいなかったそうだ。ジイさんたちにも行方はわからないという返事だったようだ。そのことがあってから、オレも母親のことはあきらめよう、もう忘れようと思ったね。

■不況で土方仕事がなくなった

 プレスの町工場を辞めてからは、いろいろ働いたよ。スナックや飲み屋の水商売をしたこともあるし、雀荘の店員や鳶職もやった。でも、一番長かったのは土方だったね。港の岸壁をつくったり、ゴルフ場の造成とか、山留めの工事なんかが多かった。
 仕事はいろいろ替わったけど、オレは真面目なもんだったよ。はじめのうちは貯金だってしていたしね。酒もギャンブルも少しはしたけど、のめり込むほどじゃなかった。楽しみは映画を見るくらいだったね。結婚もしなかった。結婚のことなんて考えたこともないし、その必要を感じたこともないしね。
 ホームレスになったのは、98年の11月から。それまで25、26のときから土方の仕事をしてきて、ずっと飯場で暮らしてきたんだけど、仕事が減って飯場暮らしができなくなったからだよ。はじめは荒川の千住大橋の下に寝たんだ。別にどうという感想もない。住むところがないんだから仕方なかった。橋の下にはほかにも3、4人が寝ていたけど、誰からも文句は言われなかったしね。
 橋の下で寝起きしながら、上野の手配師のところに通ったんだけど、いくら通っても仕事を回してもらえないんだ。それでこっち(新宿)に移った。このあいだ、そこの公園で手配師をしていたのに会ったよ。手配師までがホームレスになっているんだから、よほど仕事がないってことだよね。
 兄貴はまだ東京にいるよ。結婚して、子どももいて、いまは府中のほうに住んでいる。オレだっていつまでもプータローをやっているわけにはいかないけど、40面をさげて兄貴のところに頼ってはいけないしね。
 この歳になっても、まだ母親に会ってみたい気持ちはあるよ。だけど、もう母親も70を超えているはずだから、いいバアさんになっているよね。街で会っても、オレのことなんかわからなくなっちゃってるんじゃないかな……。 (■了)

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ホームレス自らを語る/離婚して生きる張りを失った・大島陽一さん(57歳)

■月刊「記録」2001年1月号掲載記事

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■国鉄の合理化で整理される

 生まれたのは1943年で、北海道の小樽です。父親は国鉄(現在のJR)で保線工事の仕事をして働いていました。兄弟は7人あって、私は上から二番目。子どものころはワンパクなガキ大将でしたね。うちは兄弟が多かったうえに、戦後の食糧難と重なって、家の暮らしは楽じゃなかったようです。当時の国鉄は給料が安かったから、母親も外に出て働いたり内職をしてしのいでいました。
 中学を出てから、大工の見習いになりました。3年間の見習い修業をして、そのあと二年間がお礼奉公でした。見習いの三年間は親方の家に住み込んで覚え、お礼奉公になると家から通えました。
 大工の世界はまだ古い徒弟制度が残ってましたから、修業はきびしかったですよ。「仕事は見て覚えるもんだ」とか「盗んで覚えろ」と言うだけで、誰もちゃんとは教えてくれない。そのくせ、間違えたりヘマをすると容赦なく殴られる。そんな世界でした。
 ただ、私は本気で大工になるつもりはありませんでした。国鉄マンになりたかったというか、なることが決まっていたんです。あのころの国鉄には父親が定年退職すると、その息子が後釜に入れるという慣習のようなものがあったんです。規則ではなかったけど、暗黙の了解というか、そんなのですね。それで父親が50歳の定年を迎えたとき、私のほうも大工見習いの年季が明けて、入れ替わって国鉄に入りました。仕事は父親と同じ保線工事。線路脇の崖や土盛りしたところの法面(人工的に削られた斜面)の点検・補修が仕事でした。
 ところが、入って3年目の年に合理化による人員整理があって、その対象になってクビにされてしまいました。学歴はないし、職場の中にも何のコネもないし、そういうのから整理されてしまうんですよね。24歳のときでした。

■家庭と仕事を一度に失った

 しばらく小樽で土工や鳶なんかをしてから、札幌に出てACLを施工する会社に就職しました。ACLというのは軽量気泡コンクリートでつくったビルの外壁材のことで、それを施工するのが仕事でした。小さな会社でしたが、仕事はそれなりに面白かったしやりがいもありました。すぐに国の検定試験を受けて、施工資格も取りましたしね。
 社長にも気に入られて、その紹介で見合いもしました。相手の女性は社長の従姉妹で、看護婦をしている人でした。お互いに気に入って、35歳のときに結婚しました。それですぐに男の子が生まれました。
 ただ、子どもができてから、女房との間がギクシャクしてきましてね。私としては看護婦の仕事はやめて、育児に専念してほしかった。ところが、女房は「看護婦の仕事は、私の天職だからやめるわけにはいかない」の一点張り。
 看護婦の仕事というのは不規則で、週に2、3日は夜勤の泊まりもある仕事ですからね。それで子どもを保育所に送り迎えするのが私の役目になりました。でも、私だって工事現場が仕事場ですから、サラリーマンのようにいつも決まった時間に迎えにいけるとは限らない。女房との言い争いが絶えない日が続きました。最後はおたがいを罵り合うようになっていて、それで離婚することになりました。
 女房とはともかく、息子と別れるのはつらかったですね。6歳のかわいい盛りでしたから……。今になって思うと、あと2、3年も辛抱すれば、息子にも手がかからなくなっていたはずなんですがね。でも、そのときはそれがわからなかったんです。7年間の結婚生活でした。 働いていた会社の社長と女房が従姉妹同士でしたから、もう会社にもいられなくなって辞めました。それで東京へ出てきたんです。42歳のときですね。

■高血圧で飯場を追い出された

 東京に出てからは鳶の仕事をして働きました。しかし、離婚のショックというか、何をするにも張り合いが出ませんでね。仕事が終われば毎日酒。休みの日はパチンコか競艇で時間をつぶして、夜になれば酒。何の楽しみもない生活で、心の寂しさを埋めるには酒とギャンブルしかありませんでした。
 その後、女房と息子には一度だけ会いました。離婚から5年して、札幌まで行って大通り公園のレストランで二人に会ったんです。でも、もうあまり話すこともなかったですね。息子は中学生になっていました。その息子が別れ際に「かあさんのことは、オレにまかせてくれ」と……生意気なことを言うんですよ(大島さんは目を潤ませ、唇を震わせた)。
 鳶の仕事で働けたのも50歳まででしたね。50を超えたらお払い箱。それからは飯場を渡り歩く日雇いの土工の仕事をしてきました。今年の夏は暑かったでしょう。仕事中に二度もブッ倒れ、病院に担ぎ込まれましてね。高血圧なんです。上が190で、下が100あります。それからは土工の仕事も回してもらえなくなって、飯場も追い出されました。といって、蓄えはないし、住むところもないから、自然にホームレスになってました。 夜は(新宿)駅の地下広場で寝ています。ホームレスになってまだ二ヶ月くらいですから、要領がわからなくてね。コンビニの弁当とか、ハンバーガーショップのハンバーガーは賞味期限が切れると捨てられるんでしょう? どうしたら、それが手に入れられるのかわからないんです。いまはボランティアの炊き出しと差し入れだけで食べています。これから冬に向かって、どうなるんだろうと心配でなりませんよ。
 これから先もよくなることはないですね。ダメだろうと思います。こんな時代で、この歳ですからね。もうどうにもならんでしょう。どこかで野垂れ死にするしかないですね。老後の蓄えを何もしてこなかった自分が一番悪いと思いますよ。でも、国の考え方もよくないですよ。あのでっかい都庁舎だって、そこの道路だって、みんな私や仲間たちでつくったんです。それが景気が悪くなったからって、何の保証もなく放っぽり出して、そんな筋の通らない話はありませんよ。
 仕事さえあれば働きますよ。その気はあるんです。今度自立支援センターができるっていうでしょう。私も応募してみようかと思って、募集のチラシはちゃんと取ってあるんですよ。これに賭けるしかない……でも、ダメかもしれない。新宿は(募集定員を)あまり取らないっていうしね。そうなると、やっぱり野垂れ死にするしかないのかな……。 (■了)

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ホームレス自らを語る/辛抱が続かない・中島昭良さん(54歳)

■月刊「記録」2000年12月号掲載記事

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■プッツリやる気が失せちゃう

 若いころからどうも一つのところに長くいられない性分でね。仕事もいろいろ替わった。(指折り数えて)5つ、いや6つか……。はじめは品川にあった大手電器メーカーの工場。冷蔵庫をつくる工場だった。工業高校の電気科を出ていたから、家電メーカーに就職が決まったときは、電気の技術が生かせると思ってうれしかった。だけど、入社してみると、配属になったのはラインの組立工だった。電気とは全然関係のない仕事だからね。ああいう大きな会社では、個人の希望なんて聞いてもらえないしね。で、2、3年で辞めていた。
 次は川崎にあったやはり大手の電機メーカーの工場に移った。ここは重電のメーカーだからね。配電盤をつくるのが仕事で、まあ自分に合った職場だった。だけど、ここも7年くらいかな? それで辞めてしまったんだ。 その次は調布にあった小さな電機工場。その工場ではコンピューターや医療機器の制御装置をつくるのが仕事で、全部が受注生産だった。図面を見ながら配線から完成まで、すべて一人でやる方式でね。だから、仕事は面白かったしやりがいもあった。一番自分に向いていた職場だったと思うよ。でも、ここも5年で辞めてたね。
 何ていったらいいのか、仕事はみんな面白いんだよ。自分でも仕事の手は抜かないでキッチリやった。職場の人間関係も悪くない。はじめのうちは張り切って一生懸命に働くんだ。だが、何年かしてくるとだんだん緊張の糸が緩んできて、あるときプッツリと切れたようになってしまう。そうなると働く意欲がわかなくなって、会社をサボるようになり辞めてしまう。そんなことばかりしていたんだ。
 そのあと、独立して……独立といっても、アパートの一室を借りて作業場にしただけの、社長も何も自分一人だけの会社。電機工場から仕事をもらって下請けをしたんだ。はじめのうちこそ仕事もあったけど、だんだん受注量が減って先細りになっていってね。
 そのうちに部屋代も、車のガソリン代も払えないようになっていた。まあ内職に毛の生えたような工賃だったからね。だから、このときは仕事がイヤになったわけじゃなくて、ぜんぜんもうからなくなってやめたんだ。これも5、6年続いたのかな……。

■40半ばじゃ職種も選べない

 また勤め人に戻ることにして新しい就職先を探したんだけど、もう40代半ばになっていたから電気関係の工場には入れなくてね。それで畑違いの建設関係の会社に入った。ビルとかマンションをつくるときに鉄骨や壁に耐火被覆剤を吹きつけるのを専門にしている会社だった。
 これが大変な仕事なんだ。被覆剤っていうのは泡状になっていて、それを吹きつけるから周りをビニールで隙間なく覆って、外に飛んでいかないようにして作業するんだ。夏は蒸し風呂なんてもんじゃない。おまけに被覆剤は肌につくとチクチクとしてすごく痛い。だから、真夏でもヘルメットに防塵マスクを着けて、長袖のヤッケにゴム手袋という格好でやるんだからね。ホント、夏は地獄だった。
 この会社も5年くらいだった。ただし今度は倒産。会社がパーになってしまったんだ。社長がドケチな男でね。その不満でいい職人がみんな辞めて、独立していっちゃったからだよ。自分には独立するような才覚も技術もなくてできなかった。そんな資金もなかったしね。
 それにゼネコンがよくないよ。仕事がどんどん少なくなっているっていうのに、手間賃を下げてくるんだから。ゼネコンの連中だけが生き延びるためのしわ寄せだね。いつだって割りを喰うのは下で働いている人間ってこと。あれじゃ、ドケチな社長でなくてもつぶれちゃうね。
 会社が倒産したのが50歳のときだった。それからは日雇い。土方とか、引っ越しの仕事をやっているけど、それもいまはあんまりないからね。いつの間にかホームレスになっていた。ずっと飯場の暮らしからはい上がろうとしていて、逆に下に落っこちてしまったわけだ。

■どうして辛抱できなかったのか

 こうなったのも自分の責任だと思っている。いまの時代だって、仕事はあって働いている人はいくらもいるわけだからね。自分でももう少しうまく器用にやれなかったものかとも思うよ。ただ、ズル賢くやって、誰かの犠牲のうえでいい暮らしをしているわけじゃないからね。誰も傷つけてはいないんだから、ホームレスをしていても気分は楽だよ。毎日が日曜日だしね。
 生まれたのは茨城県。家は農業をしていた。4人兄弟の上から3番目で、いつも兄貴の後ろにくっついて遊んでいた。子どものころからおとなしくて、学校の通信簿に「もっと積極的になるように」って書かれている子だった。
 リーダーになって人を引っ張ったり、責任を取るような役は好きじゃなかった。2番目か3番目あたりにいるのがよかった。人を押しのけていくタイプじゃないから、そんなのがホームレスをしていることと関係しているかもしれないね。
 それと辛抱できなかったこと。どうしても同じ仕事を辛抱して続けられなかった。最初に就職した会社にそのままいたら、いまどうだったろうと考えることもある。まあ、どうにもならなかったろうね。いま50代のサラリーマンはリストラとか、いろいろ大変だというしね。サラリーマンの世界こそ人を押しのけて出世していくところだから、そんな世界にいてもやっぱりどうにもならなかった気がするな。
 結婚して女房、子どもでもいれば、もう少しは辛抱できて違っていたかなとも思う。女の人も嫌いじゃないから、若いころは幾人ともつき合ったんだけどね。結婚するのは面倒くさいし、責任を取るのもイヤだった。グズグズして踏ん切りがつけられないでいるうちに、女の人のほうが愛想をつかして離れていってしまうというふうだったよ。
 毎日が日曜日のホームレスをしていても、いいことは何もない。早く普通の生活に戻りたい。いつもそれを考えている。このごろはエサ(食べるもの)取りも楽じゃないからね。ホームレスがどんどん増えて、知らない顔がずいぶん多くなってるもの。そのせいか、コンビニやスーパーがエサを出さなくなっている。
 新顔のホームレスにはルール破りをする悪いヤツが多い。せっかく出してくれたエサを店の周りで食い散らかしたり、仲間同士でエサを奪い合ったり、一日中店の周りをうろついたり、そんなことをしていたら店だって出さなくなるよ。バカが多くて困る。
 ホームレスを早くやめたいとは思うけど、こう仕事がなくっちゃね。会社に勤めていたころは、「いざとなったら、土方でもすれば食っていける」なんて仕事仲間と笑いながら話してたけど、本当に土方になってみたら、その土方に仕事がないんだからね。まさかここまで不景気な時代が来るなんて思ってもみなかっただろう? 早く景気をよくしてもらって、自分たちも働けてかせげるようにしてもらいたいよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/一人でコツコツやるのが好きなんです・柳川孝夫さん(65歳)

■月刊「記録」2001年4月号掲載記事

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■戦中は福島に学童疎開

 子どものころの思い出といえば戦争ですよ。戦争しかなかった。その一番の思い出は学童集団疎開。東京の椎名町に住んでいましたから、東京も空襲で危なくなってきた1944年の夏に、福島県の原町に集団疎開しました。
 原町の駅前の旅館に、同じ小学校から行った30人くらいの男子児童が一緒に暮らしたんです。女子は町中にあった別の旅館でしたね。
 覚えているのは、いつも腹をすかせていたこと、冬の寒さに閉口したことですね。とくに空腹でひもじかったことは忘れられません。本当に食べるものがなかったですからね。たまにパンの配給なんかがあると、上級生たちに「献金だ」とか言われて半分くらい取り上げられてしまう。私らは小学三年生で疎開組の一番年少でしたから取られるばかりで、それがつらかったですね。しまいには東京の親から錠剤のワカモト(※商標)を送ってもらって、それをあめ玉代わりにしゃぶったりしてました。 原町で終戦を迎えて、一年ぶりに東京へ戻ってみると、家族は無事でしたが家は空襲で丸焼けでした。のちに帝銀事件の舞台になる椎名町の四丁目は焼け残ってましたが、うちのあった三丁目まではみごとに焼けて何も残ってなかったです。その焼け跡で戦後の暮らしが始まるわけです。庭を畑に耕してサツマイモを植えてね。
 池袋の西口にはすぐにマーケットができて、予科練帰りや特攻隊の生き残りの不良のたまり場のようになって……そう、パンパンガール(売春婦)なんてのもいましたね。戦争が終わっても相変わらず食べるものがなくて、私らもよく買い出しに連れて行かれましたよ。
 それでも、うちは父親が大手銀行の社員食堂で賄いのコックをしていたこともあって、食材の残りをもらってきたりして、よその家ほどは困らなかったようです。食材といっても、スイトンやフスマばかりでしたがね。

■一人で手仕事をするのが好き

 中学校を終えて、すぐ就職しました。私ら頭が悪かったですから、とても高校へなんて行けませんでした。はじめは塗装工場に勤めて、日給が70円くらいだったと思いますよ。日給月給というやつですね。次にメッキの町工場に代わって、その後もいろんなところで働きました。でも、どこも長続きしないんですよね。
 性格がよくないんだろうと思います。何ごともマイナスに思考してしまうからいけない。人とつき合うのも苦手でしてね。私は酒もタバコもギャンブルも、女遊びをしたこともない。いまでこそ「タバコは吸わない」と胸を張って言えますが、あのころは「タバコも吸えないヤツ」という目で見られましたからね。つき合いが悪いから仲間ができない。それで職場で孤立してしまい、居づらくなって辞めてしまう。その繰り返しでした。
 子どものころから友だちと遊ぶより、一人で何かをしているほうが好きでした。電気にくわしくて手先が器用だったから、よく一人でラジオを組み立てたりしてました。中学生のときに鉱石ラジオをつくったのが最初で、まだクリスタルレシーバーなんて出てませんでしたから、軍の払い下げのレシーバーで聴いてね。はじめて音の出たときはドキドキしてうれしかった。
 そのころはNHKと進駐軍の放送しかなくて、『とんち教室』とか『二〇の扉』『話の泉』とかね。いや、なつかしいですね。
 そのあとも真空管を四本使った「波4ラジオ」とか、「スーパー5球」、トランジスターを使ったラジオまで、みんな自分でつくりました。頭が悪いから理屈はわからなかったけど、雑誌の『ラジオ技術』とか、『初歩のラジオ』『無線と実験』を参考にしながら、見よう見真似で自己流でつくったんです。
 一八歳くらいのときには、テレビもつくりました。キットの部品を買ってきて、組み立てるのに一年くらいかかりましたよ。NHKの学校放送の人形劇が最初に映りましたね。ブラウン管をオシロスコープで代用していたから、7インチの真ん丸い画面で、画像もザラザラしていて調整もできませんでした。それでも画像らしいものが映ったのはうれしかった。まだうちでも近所でも、テレビを持っている家なんてない時代でしたからね。
 ほかの電気器具も簡単な修理くらいはできましたから、隣近所のものを修理してあげて重宝がられました。そういうことを、一人でコツコツやっていることが好きだったんです。

■5年前に地主に追い出された

 30代に入ってしばらくしてから、兄が工場を始めてそれを手伝うようになりました。工場といっても自宅の敷地に小屋を建てて、家族が手伝うだけの小さなものでした。それから五九歳の年まで、ずっとそこで働いてきました。
 仕事はカメラのシャッターとか、カメラに組み込まれているTTL(自動測光)メーターの組み立てでした。あのころは小さなカメラメーカーがいっぱいあって、その下請けの仕事です。ちょうどTTLカメラがはやり出したころで、高度経済成長期とも重なって仕事は忙しかったですね。徹夜、徹夜の連続だったり、工場のソファに寝起きしたこともあります。
 ただ、それも一時でした。小さなカメラメーカーはみんな大手に食われて、次々につぶれてしまいましたからね。あとは電器会社から仕事をもらって細々とやってきました。その仕事も7、8年前から不景気で減り始めて、工場は立ち行かなくなっていました。
 そんなときに工場を経営していた兄が、突然死んでしまいましてね。そのころ母親が寝たきりの状態で、兄はその介護を一人でやっていました。それに工場の金策で走り回ってもいましたから、その無理がたたったんでしょう。心筋梗塞でした。兄の死で工場は閉鎖になりました。
 あとに寝たきりの母親が残されましたが、私らには兄のように介護をする器量はありませんから、病院に入院させたんです。その母親も一年後に亡くなりました。椎名町にあった家は借地でしてね。母親が亡くなると、地主から追い立てられるようになりました。その土地にマンションを建てるからという理由でした。といっても、私ら行くところもありませんから、ホームレスになるしかなかったわけです。それが5年前でした。

■農家を手伝って収入を得る

 自分では若いつもりでいても、この歳になると体のあちこちにガタがきてますからね。足は重たくなるし、耳鳴りもしてくる。右目は網膜剥離であまり見えませんし、左目も霞んできました。ベーチェット病の疑いがあるらしい。希望のない毎日で、根がマイナス思考の人間ですから、よくないほうにばかり考えて落ち込むばかりですね。
 病気だからって(行政の)福祉の世話にはなりたくないですね。とくに新宿区の職員は扱いがひどいっていうから、そんなものの世話にはなりたくないと思っています。自然に治らないかなって期待しているんですが……。
 希望のない毎日ですが、いい話もあるんですよ。親切なボランティアの人がいましてね。その人の世話で、三年前から埼玉の農家で農作業を手伝っています。草刈りとか、果樹の袋かけなんかの仕事を手伝うんです。仕事は春から秋にかけての毎月四回あって、一回一泊二日で行きます。日給で3000円。交通費が出ないんで往復2000円の出費は痛いんですけど、それでも二日間で差し引き4000円の現金収入になります。これには助かっていますね。
 それに手伝いに行けば、食事がついて、風呂に入れて、布団に寝られます。その農家の家族はみんないい人ばかりで、私らがホームレスだからといってまったく差別しないんです。食事もみんなと一緒に同じものが食べられます。農家の近くには高麗川というきれいな川が流れていて、農作業がひまなときには釣り糸を垂れることもできます。誰にもじゃまされずに一人になれる釣りは、いまの最高の楽しみですね。
 今年も3月になって暖かくなったら、また手伝いに行くことにしているんですよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/上野はオレのふるさとだ・山城信行(41歳)

■『新ホームレス自らを語る』に収録

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 一番充実していたのは、秋田のホテルのまかないをしていた時期かな。何がよかったんだろう。環境かな。ホテルのまかないは、飯場のまかないと待遇が違うから。オレが働いていたのはホテルでさ、アパートを会社が借りてくれて、風呂は社員寮に入りに行くんだ。もちろん個室だよ。
 まかないの厨房はホテルに泊まるお客さんの厨房とは別にあるの。普通は従業員40人分の食事を作る。夏はアルバイトがいるから80人分。でもな、修学旅行客なんかが来ると、客室の厨房でも人手が足りなくなる。そうすると焼き物や揚げ物を作ってくれって頼まれるんだよ。
 いまでも覚えてるのは、都心の私立中学が修学旅行に来たときだ。400人分の揚げ物を任されてさ。エビが二本と、ナス、かぼちゃ、ピーマンの野菜三点盛りを一人で揚げたんだから。エビなんて800本だぞ。それを従業員のおばちゃんが盛りつけて。もちろんいつも通り、まかない食も作らなくちゃいけないしね。
 また妙な縁があってさ、アルミ缶を集めていたときのことだよ。一日に何百円にしかならない仕事だけれど、必死に集めて東京・神田まで歩いたんだ。疲れたから歩道に座ってフッと後ろを振り向いたら、その私立中学の名が書いてあるじゃない。そのとき思い出したんだよ。こいつらの天ぷらを揚げさせてもらったな、てね。共立ってお嬢さん学校だろ。俺の天ぷらを食べたんだ。うん。

■わがままが通ったから……

 4年前から、ここにテントを立てた。前はくじら(国立博物館前)で立てたんだけれど、東京都にボラれ(だまされて)てさ。工事だと言っては、追い出されんだよ。でも工事を見ていると、ショベルカーで掘っているだけだもん。おかげでグルグル、いろんな場所を回ったよ。でも、ここは下がコンクリートだろ。簡単には工事できないと思うんだ。2、3年で上野公園からホームレスを排除する計画を東京都が立ててるって、みんな言っているよ。
 調理師になろうと思ったのは、高校二年のときだった。卒業したあと、どうするか悩んでいたんだ。でも兄も調理師だったし、一番ラクな仕事だなと思って、担任の先生に相談したんだ。どこか働ける調理場はありませんかって。結局、担任の先生は見つけてくれなかったけれど、クラブの顧問の先生がアルバイト先を紹介してくれたんだよ。総合結婚式場でね、先生の知り合いが重役だったんだ。
 最初はホールの仕事だった。3ヵ月だけはホールで働けと現場で言われて。でも4ヵ月たっても調理に回さないんだよ。店員とケンカして二週間ストライキしたんだ。「本店の重役から聞いているでしょ。調理に回してください」って。店員も「あー、そうですね」とは言うんだけどね。もちろん休んでいても給料はもらっていたよ。そのうち社員の方が折れて、「明日から調理で来てください」って言ってきたんだ。
 このとき、わがままが通ったでしょ。それがいけなかったのかもしれないな。人生はそんなもんか、と思ってしまったのかも。だからこんな風になったのかもしれないよ。こんなわがままばかり言ってたら、行っちゃうよ。ホームレスになっちゃうべ。ここいらへんにも、わがままな人がいっぱいいますよ。
 調理師免許には二年間の実務経験が必要だったから、免許を手にしたのは高校卒業から一年後、19歳のときだよ。結婚式場だったから和食と洋食は作れるんだ。しばらくして結婚式場は辞めたけれども、実家のある青森で働いていた。水商売の厨房とかね。仕事はすごくラクだよ。そうそう、チェーン店の居酒屋で働いていたときにチップをもらったことがあった。
 サラダを出したら客席から呼ばれてさ。呼んでいたのは、スナックのママとマスターの二人組。俺の顔を見たら、「あー、やっぱおまえだ」って、いきなりチップを握らされたんだ。
 俺はキュウリのヘタを残して、飾りを作るんだ。ワンパターンだけどさ。その飾りつけをお客さんが覚えていたんだよね。たまたま俺は店舗を異動した直後で、昔の店に来ていたお客さんが覚えてくれていたんだよ。
 そのあと郷里を離れて、さっきいったホテルのまかないを始めたんだ。ハローワークで委託会社を紹介されて、契約社員としてホテルで働いた。3ヵ月で更新。評判がよければ、追加、追加、追加になるの。いや、3ヵ月なんて、まかない調理はいい方だよ。ホールなんて2ヵ月でクビを切るから。四回転ほどいたから、1年ぐらい勤めていたのかな。
 ちょうど働いているときに、会社でゴルフ場建設に関わる問題が持ち上がって、つぶれるぞーとかリストラがあるぞ、なんてうわさが立っていたんだ。こりゃ、危ないと思って、委託会社から更新するかと聞かれたときに断った。つぶれなかったけれどね(笑)。

■冷たい身内

 それからいくつかの調理場を回ったけれど、32歳のときに1年ぐらい失業したんだ。25歳ぐらいから、このままじゃダメだとは思っていたんだけれど、現実になったな。仕方ないから姉弟の家に泊めさせてもらって、仕事を探したの。でも、青森には仕事なんてないんだ。しまいには姉弟の家をたらい回しだもん。
 こういうときに冷たいのは、本当の身内なんだ。姉には、「どこでもいいから早く決めて」なんて言われたよ。姉のところにいたとき、夜中、姉と兄が電話で相談していたしね。「どうする?」だって。眠っていても聞こえてきたよ。「そっちにやれば」とかさ。
 義理のお兄さんは、いい人でね。「何ヶ月住んでいてもいいんだ。そのかわり、ちゃんと自分でできる仕事を見つけるんだよ」と言ってくれたから。実の兄は、「どこでもいいから仕事を探せ」なんて言うけれど、県外に仕事を探しに行く旅費なんかは出してくれないからな。兄のところにも居られない。姉のところにも居られない。青森では仕事を探せない。それで東京に出てきたんだ。94年かな。
 東京には憧れもあったよ。でもさ、日本全国仕事がないから、日払いの仕事しか入れなかった。そりゃ、正社員の方がいいけれど、面接して、面接して、採用になるまで何ヶ月かかるんだ? ヘタすりゃ1年以上かかるかもしれない。その間の飯代はどうするの? 結局、手配師に「誰か調理いないか」なんて聞かれて、千葉や埼玉の飯場でまかないをすることになった。
 それでも最初に来たときは、仕事を探すのに失敗して、お袋に金を借りに帰ったんだ。そしたら、その1ヵ月後に死んじまった。お袋の葬式に参列して2ヵ月後、今度は親父が亡くなった。お袋は心臓で、親父が肝硬変。親の死に目に会えないんだよ。
 実家は市営住宅だったから、親が死んでも住む場所は残らなかったな。だいたい市営住宅そのものが取り壊されて、いまはマンションみたいな建物が建ってるんだ。 東京に来て4年間ぐらいは、それでもホームレスじゃなかったんだ。きっかけはマグロに遭ったこと。あるところの仕事が終わって、独り上野で飲んだんだ。あんまり酔っぱらって野宿したら、金も身分証明書も健康保険証もなくなったから。まあ、この生活を続けている分には、身分を証明しなくたっていいんだけどさ(笑)。
 これが上野の怖いところだよ。これは書いておいて。酔って寝ていたら、財布はもちろん時計や眼鏡だって、全部持っていっちゃうんだから。とくに不忍池周辺は怖いよ。同じホームレスでもきついからね。
 ホームレスになって、最初は駅で寝ていたりしたけれど、朝に追い出されちゃうから、上野公園に来たんだよ。いまはテントも定まったし、仕事もあるよ。物を運ぶ仕事だけど、1日に1万500円になるんだ。弁当やジュースを買っても、7000円ぐらいは残るでしょ。最初、仕事についたとき、一万円かせぐにしては大変な仕事だと思ったな。まかないに比べるとね。でも、仕方ないからね。上野公園で酒が飲めるホームレスなんて、ほとんどいないんだから。仕事があることに感謝しているよ。

■あて馬か、おまえ

 女? 女は泣かしてないよ。泣かされたくちだよ。でも部屋を持っていたころは、ホテル代もかからなかったからな。オレはさ、すぐ食っちゃうから(笑)。飲み屋とかで知り合って、電話番号を女の子に教えてもらってさ。電話で口説けば、自分の部屋までのタクシー代だけだからさ。一度なんか子持ちの奥さんが泊まりに来たこともあったよ。朝方、「朝、子どもに弁当を作らなくちゃいけないから」って言って、自宅に帰って行ったよ。 結婚しようと思ったこともあったんだ。同じ職場で働いている女でさ、エッチして、3ヵ月間も同棲して。乳の大きい、ブスでさ。いや、ブスじゃないな。ブスは好きにならんしな(笑)。相手の両親にもあいさつに行ったよ。その親父と妙に気が合ってさ。「おー、ノブノブ、酒飲めよ」なんて言われて盛り上がって。
 でも4ヵ月後に別れることになってね。いきなり「別れたい」といわれたから、「いいよ」って答えた。その五ヶ月後に子どもが生まれたんだ。「もしかしてオレの子ども」って聞いたら、「違う」と言われたよ。もっと驚いたのは親だよ。違う男がいるのを、親も知らなかったんだから。「ノブちゃんの子どもじゃないの」って言ったらしい。結局、その子どもの男と結婚したらしいけれどな。
 子どもが生まれたと聞いて、親父さんと電話で話したよ。そうしたら「ノブ、このやろう、なんで種付けしないんだ」って言われたから、「種付ける前に付けられたよ」って答えたら、「あて馬か、おまえ」って気の毒がられた(笑)。
 たぶんオレとの付き合いもカモフラージュだったんだよ。同棲しているときに子どもがいたんだから。

■足をケガしたら何を渡される?

 いまの生活で不安なのは、やっぱり病気かな。
 以前、酔っ払って段差でつまずいたんだ。そのときは寝ぼけていて、気づかなかったけれど、朝起きたら足が動かない。立てねぇんだよ。膝の上がパンパンに腫れてるんだから。しかも日曜日だったから、ホームレスの見回りをしてくれる争議団(ボランティア団体)も来ない。とりあえず隣のテントで寝ているヤツを起こさなくちゃと思ったけれど、2、3メートル動くのに30分もかかった。ゴルフクラブでテントをガンガン叩いて、交番に走ってもらったんだ。
 やっと救急車に乗せてもらって、病院に着いたけれど、すぐには中に入れないの。まず服の首を引っ張られて、中を看護婦が見て、さらに背中に回って服の中をのぞいてね。「虫OK」と言われて、初めて診察になるんだ。
 診療を待っている間にも、婦長が俺の顔を見て、「あれ、また来たの」とかバカにした態度で言うんだよ。誰かと勘違いしたんだろうな。「初めてだよ。バカヤロウ」って言い返したさ。
 さあ、問題です。ホームレスが足をケガしたとき、病院は何を渡すでしょうか? 松葉杖? ブー。正解は傘だよ。普通の傘。松葉杖はあるんだよ。それなのに、「そこの傘、一本持っていっていいから」だもん。
 上野公園に帰るためにバス代200円くれたけれど、バス停までの道順だって遠回りを教えるんだ。病院からまっすぐ行けばバス停なのに、グルッっと回らされたよ。
 腫れていた膝には、水と脂がたまっていてね。結局、3ヵ月通院することになったんだ。台東区役所の担当者は優しくて、俺の傘を見て杖を貸してくれたよ。「どういう病院だ」って怒ってね。「体に合わなきゃ、杖を調整するよ」とも言ってくれた。働けなくなったから福祉も下りて、1日400円。一月1万2000円を、3ヵ月間くれた。これも書いておいてね。病気のときには、こんな救済制度もあるんだよ。
 アパートを借りるのは難しいだろうな。いつ仕事がなくなるか不安定だもん。アパートに入るには、保証人もいるしさ。調理師の仕事があったら、まかないでもいいからやりたいな。どうして調理師かって? それはわからないな。おたくだってライターの仕事で食えなくなっても、違う仕事なんて考えられないでしょ? 同じだよ。
 地元に帰る気なんて毛頭ないよ。仲間もいるし。みんな「ノブ、ノブ」って話しかけてくれる。うれしいじゃん。今日も昔のホームレス仲間に会って、「ノブ、どこに住んでるんだー」って聞かれたよ。
 仕事がダメになっても、ココに戻ってくればいいんだよ。上野はオレのふるさとだもん。 (■了)

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ホームレス自らを語る/175円の万引・中谷勝彦(51歳)

■月刊「記録」2001年7月、8月号掲載記事

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■何といっても不況が響いた

 オーディオには凝ってたよ。部屋にあったAV機器は、総額で200万円以上はしたと思うな。一番気に入っていたのは、真空管のアンプ。低音と高音が無理なく出る。聞いていて疲れないんだ。普通のアンプがドンドンって音なら、真空管のアンプはド~ンって感じ。音が部屋に漂うんだよ。
 仕事から帰ってアンプのスイッチを入れると、部屋の灯りがちょっと暗くなる。それから真空管が温まるまで、じっと待つんだ。
 演奏が始まったら、音を調整する。低音を少し上げたりさ。まあ、機械マニアだからね。いじりたくて仕方ないんだよ(笑)。聴いていたのは、クラシックだな。家ではロッシーニが多かった。
 マッキントッシュがICで真空管に近い音を出すアンプを発売するっていうから楽しみにしていたのに、手に入れる前にホームレスになっちまった。
 不況が響いたよ。大手の自動車会社で、オーディオやらカーナビやらのオプション部品を取り付けていたんだ。忙しいときには、1日に200台近い車が工場に流れてきたのに、最後は1日に24台とかだからね。九時に始業して、10時か11時には仕事が終わっちゃう。社員は整備士になるための勉強会なんか開いていたけれど、俺はフリーだったから自分の事務所に帰るしかない。 その1年半ほど前には、4時半に起きて7時から仕事をしていたりしたのにな。カーコンポ一台を取り付けて1万1000円ぐらい。おいしくない空気清浄機の取り付けだって、30分ぐらいの作業で1650円入ってくる。取り付けた分だけ賃金がもらえるから、月に70万ぐらいの収入はあった。それが不景気になって14万円になっちゃった。それで結局、リストラ。

■20年以上サラリーマンをしていた

 実はね、リストラになる1年8ヵ月前までは、20年以上サラリーマンをしていたんだよ。販売店に出向して、オーディオなんかを取り付けていた。でも製品を納めるルートがウチの会社を通さなくなって、取り付け手数料しか入らなくなった。それで会社がカーオーディオの取り付け業務をやめちゃったんだ。
 でも俺は、ずっとそんな仕事をしてきたから続けたかった。で、自動車会社の社員にグチをこぼしていたら、「会社を辞めて自分でやればいいじゃないですか」って言われたんだ。「そうか」と思って辞めたんだよ。
 自分で仕事をやり始めてまず驚いたのは給料だよ。こんなにもらっていいのかと思ったもの。辞める前が28万円ぐらいだったのに、いきなり70万円ぐらいになったんだから。それに会社の上司にうるさいことを言われることも、怒られることもないからね。とにかく楽しかった。
 自分で仕事をしていたときは、人間関係もよかったよ。オーディオの修理箇所が見つからなかったりすると、俺が呼ばれてね。隣で作業した社員の人とも仲が良くて、互いの仕事を手伝ったりしていた。会社に行くのが楽しくて仕方なかったよ。
 まあ自分で仕事をするようになったから、不況になってすぐに仕事がなくなったんだろうけれどね。
 仕事がなくなっても、どうなるんだろうと思ったよ。求人情報誌の『ガテン』や『アルバイトニュース』を見たり、職安に行ったりしたけど、数ヶ月でダメだと思ったな。四五歳を過ぎて、何の資格も持たない男が職を探しても見つからない。器具を取り付ける技術があっても、やっぱり機械の中身が直せないと職にありつけないんだよね。
 それに俺は、左目が強い乱視の上に、メガネをかけても0・3程度の視力なんだ。普通免許さえ取れないんだから。募集のあったフォークリフトの運転なんか、どうやっても無理だよ。もし目が悪くなかったら、人生は変わっていたかもしれないと思うけれどね。

■おまえを身内だと思わない

 一ヶ月後に割れる手形があったし、貯金もあったから半年間は食べていけたんだ。でも、そのあとがね。もう両親もいないから、兄妹に頼るしかなかった。でも妹は、難病で生活保護を受けているから世話になれないし。結局、アパートからも近かった兄の家に世話になったんだ。でも所帯を持つと、人が変わってしまうんだよ。もうひどいんだから。
 最初、5万円の家賃と食費を払う約束だったんだけれど、全然仕事が見つからなかったから払えなくなってさ。借金はどんどんふくらんでいくしね。居候して1年間ぐらいかな、兄貴に20万円を渡されて「これで出て行け」と言われたんだ。「俺は、おまえのことを身内だとは思っていないから」とまで言われて。
 行くあてもなかったけれど、とにかく兄の家を出てサウナやビジネスホテルを泊まり歩いた。サウナは好きだったよ。でも20万円なんて、あっという間になくなるね。三度食事して、2500円を払ってサウナで寝て、ビールでも飲んだら7000円ぐらいすぐいっちゃうでしょ。せいぜい25日ぐらいしかもたなかったもの。
 とりあえずバス停のベンチで寝るようにしていたんだけれど、雨が降ると屋根がほしくなる。それで見つけたのが、兄貴のやっているボウリング場だったんだ。でも、そこで寝起きしていたら兄貴がやってきたんだ。「ここで寝るのはやめてくれ」ってさ。やっぱり顔が似ているから、従業員が気づいて兄貴に知らせたんじゃないかな。
「もう金も使い切ったよ」なんて話をしたら、財布から1万円を抜いて、小銭入れに入っていた金をジャラッと出したんだ。10円だとか100円とか全部出して、1万円札とともに俺に手渡した。「これで飯でも食え」って。
 俺の不満そうな顔を見たからかな。「俺だって、月3万円でやっているんだ。1日1000円あれば十分だろ」って言い放った。
 でも、妻帯者と独身は違うんだよね。自宅に帰れば、タダで食事が食べられるわけじゃないからさ。1日1000円じゃあ1日三食として、当時は一回の食事で牛丼も食べられない。まあ、カネをもらって、そこを立ち去るしかなかったけれど。「身内だと思っていない」と言われたぐらいだからね。

■遂に逮捕された

 そのあと、いよいよカネがなくなってきて、どうしていいかわからなかったんだ。ほら、ホームレスなんかしたことないでしょ。だからどうやって食事にありつくのか、どうやって仕事を見つけるのかを知らなかったの(笑)。
 それで万引を始めたんだよ。5回ぐらいは店の人に捕まったかな。でも、誰も警察を呼ばなかった。酒屋のおやじに見つかったときは、「この商品はあげるから二度と来ないでくれ」って懇願されたからね。個人商店で客を警察に突き出したりすると、信用が落ちるらしくてさ。
 でも7月に遂に逮捕されたよ。コンビニで175円のサケ缶を盗んだら、おまわりが来た。女性店員しか働いていない時間帯を狙って、何度か万引していたんだけれど、俺が泥棒だってうすうす気付いていたんだろうな。防犯用のビデオテープも回っているしさ。たいした金額でもないのに、普通、警察を呼ぶかと思ったけれど仕方ないよね。
 警察では、名前やら本籍地を聞かれたな。それから被害金額について聞かれた。「175円のサケ缶です」って答えたら、あんまり被害金額が少なくて警察も驚いてたよ。「書類送検になるんですか?」と俺が聞いたら、それは否定したな。でも、えらい説教をくらったよ。さすがにそれからは、万引する気もなくなった。
 それに説教の最中、警官が手配師のつかまえ方を教えてくれたんだよ。「駅周辺でウロウロしていれば声がかかる。そうしたら仕事ももらえるし、カネも入る」ってね。そこの警官は優しくて、電車賃を300円ほどくれたうえに、最寄りの駅まで車で送ってくれたんだ。

■会社なんて薄情なもの

 たしかに池袋で歩いていたら手配師が声をかけてきた。建築現場の後片付けの仕事だった。でも、ホームレスの仲間ができてからは、仕事にも行かなくなった。目が悪いから建築現場に向かないし、エサにも困らなかったから。一番最高で、ヒレカツ弁当を13個拾ったことがあったからね。仲間五人で仲良く暮らしてたんだ。いまは一人で住むようになったけれどね。
 しかし会社なんて薄情なもんだよね。去年の5月かな、長く勤めていた会社に行ったんだよ。そうしたら社長が1万円しか渡さないの。しかも「やるんじゃないぞ、貸すんだぞ」なんて何度も言われて。サラリーマン時代は、給料の二倍三倍の利益を会社に渡していたのにさ。元社員がこんなことになっているのに、器が小さいよね。少しぐらいは社長も変わっているかと思ったら、少しも変わっていなかったな。
 きっと先代の社長だったら、そんな扱いはしなかったと思うよ。入社してちょっとたったころかな、派遣先の工場で車のガラスを割ったことがあってね。作業のジャマになるので、後部座席に置いてあった段ボールを外に出したら、そこにガラスが入っていて割れちゃったの。工場から連絡が行ったんだろうね。社長からすぐに電話が来たよ。
「ケガはないか」
 それが社長の第一声だった。俺のミスなのに。
「ガラスをくるんだら、誰が見てもわかるように『ガラス』と書いておくのが常識だろ。今度、俺が工場に言っておいてやるから」なんてうれしいことを言ってくれた。俺が入社して4、5年後に、その社長も亡くなったけれども。あの社長が生きていたら、ずっと会社で働いていたかもしれないな。
 ホームレスになってつらいのは、雪の日だよね。寒くて仕方ないから地下道に入るだろ。でも地下道で座ると、ガードマンが飛んできて注意するんだから。それぐらい勘弁してほしいよ。  (■了)

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ホームレス自らを語る/女と酒に明け暮れた・西村荘さん(45歳)

■月刊「記録」2000年3月号掲載記事

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■北海道がイヤで逃げ出した

 出身は北海道でね。旭川の北にある江丹別という町。オヤジは牧場をやっていた。肉牛を300頭くらい飼育していたんだ。だから、家は裕福なほうだったと思う。 ただ、生き物を飼うってのは大変なんだ。毎朝三時半には起きて世話をしなくちゃならないし、一年中一日も休めない。とくに冬の世話が大変だ。子どものころから「やな仕事だな」って思ってて手伝ったこともなかったね。
 その冬がイヤだったね。北海道の冬の寒さは半端じゃないからね。雪もすごい。何しろ冬のあいだは二階の窓から出入りしてたんだから。昼間でも電気を灯けてないと暮らせないしね。人間の暮らしていくところじゃないと思ってたよ。
 学校に通うにも雪をかき分けながらだからね。途中から胸ぐらいまで埋まって、はうようにして行くんだ。手がかじかんですごいんだから。途中でバカらしくなって、家に引き返して休んじゃうなんてことも幾度もあった。「冬」って聞いただけで、ゾクッと鳥肌が立つくらい嫌いなんだ。
 それで中学を卒業すると、逃げるようにして東京に出てきた。東京に憧れもあったからね。一番最初に東京タワーに昇った。「あれが渋谷の街で、あの辺りが新宿か」と思ってね。ホントに東京に出てきたんだとうれしかった。仕事は合板工場に就職した。ヘタカットといって、大根が皮むきされたような具合になって出てくる合板ベニヤを切断する作業だった。

■酒と女の生活が始まる

 はじめのうちこそ工場と寮とを往復するだけの真面目な生活をしていたんだが、東京に慣れてくると盛り場に出て遊ぶことを覚えてね。新宿とか、渋谷とか……。でも、一番多かったのは、亀戸、錦糸町辺りだった。酒が好きでね。オレはビールが専門で、一晩で三ケース36本を空けたこともあるよ。それくらい好きだった。
 酒以上に好きだったのが女だね。最初の女は飲み屋で働いている女だった。オレより6つ年上で、その女のアパートに連れ込まれて犯されたんだ。オレのほうが犯されたんだよ。いま考えるとおかしいけど、まだ童貞だったから抵抗したりしてね。それでもやられちゃった(笑)。
 で、そのままズルズルと同棲することになって、子どもも生まれた。ところが、ある日女は子どもを連れて出ていったきり帰ってこない。それっきりになった。理由もなにもわからない。その女と同棲しながら、オレはほかの女たちとも遊んでいたから、そんなのに嫌気がさしたんじゃないの。
 次に同じ合板工場で事務員をしていた子と結婚した。細かいことによく気のつく子で、そのやさしいところに惚れたんだ。オレが女遊びに出かけるときにも、「ネクタイが曲がってる」と直してくれるような子だった。
 その子の実家は小松(石川県)にあって、ケーキをつくる工場をやっていた。直売の店も三軒出していた。結婚したのを機会に二人で小松に帰って、その工場を手伝うことになった。けど、オレは酒飲みだろう。ケーキとか甘い物は嫌いで、甘ったるい匂いのする工場ではとても働けなくてね。それで小松の航空自衛隊に入った。
 配属は補給班。空自というのはパイロットにでもならない限り、陸自(陸上自衛隊)のような戦闘訓練はないからね。補給班の仕事も伝票処理ばかりで、事務員のような楽なものだった。3年で満期除隊になって北海道に帰った。自衛隊ってところは、退職金やなんかをみんな本籍地に送ってくる決まりだったんだ。
 女房と、女房とのあいだに生まれていた長女は、小松に残したままだった。北海道でのんびりブラブラして暮らしながら、ときどきは金沢や小松まで女房と娘に会いに行った。だけど、だんだんに足も遠のいていき、いつの間にか縁が切れて離婚になっていた。
 北海道では仕事もしないで遊び暮らした。はじめのうちこそ自衛隊の退職金があったけど、そのうちになくなってくるだろ。そうすると親の目を盗んで、牛を売って金をこしらえたりとかね。そんなのを4年くらい続けたんだよ。それでいよいよ金がなくなってきて、27か、28歳でまた上京した。

■同じ女と何年も暮らせない

 また東京に出てからは、小さな建設関係の会社に就職した。建築現場のビティ(足場)の組み立てを専門にしている会社で、3年前にそこが倒産するまで働いていたんだ。それでまた新しい女と同棲してね。やはり飲み屋で働いていた子だったけど、いい女だったよ。オレが惚れて一緒に住もうってくらいの女だからね。同棲して一年後に女の子が生まれた。だけど、その子とも3年くらいして別れた。同じ女の顔を何年も見ながら暮らすなんてできないよね。オレが飽きっぽいのかもしれないけど……。
 とにかく女が好きだった。千人斬りとまではいかないけど、相当遊んだよ。オレは結婚してようが、同棲してようが、女遊びだけはやめないで続けたからね。相手はほとんどが飲み屋で働いている女とか、バー、キャバレーのホステスだった。みんな一晩限りの関係で……ああいうところで働いている女は、男(ヒモ)つきだからね。なんぼ好いたホレたがあっても、一緒になれるわけじゃないしね。
 女にはモテたけど、女のほうから言い寄ってくるわけじゃないよ。やっぱりこっちから、自分をうまく売り込まないと寝てなんかくれない。それには演技力のようなものも必要だよね。それに金だな。オレなんか飲みにいくときは、いつも懐に20万、30万円の金は入れてたよ。それで一晩つき合ってくれた女の子には、最低でも5万円のチップははずんでたからね。だから、かせいだ金はみんな女と酒に消えちまった。
 あのころの女の子は、いまと違ってスレてなくてウブな子が多かったよね。水商売で働いている女だってそうだよ。みんな男まかせで、する通り、される通りだった。それに本気で惚れられたこともあって、「このまま九州まで連れて逃げてくれ」と言う女もあった。そんなことは無理でできなかったが、いろんな女がいたよ。
 いまこうして新宿でホームレスをしているのも、亀戸や錦糸町からなるべく離れたところでと思ってね。だって、いまでもあの街を歩くと、昔関係した女が声をかけてくるからさ。それにオレの娘も錦糸町に住んでるんだ。娘はスナックのチーママをやって働いているよ。そんな街でホームレスなんてみっともなくてできないだろう。まあ、仕事をサボっても、女と酒は切らさないという生活だったからね。

■酒の飲みすぎで肝臓がおかしい

 三年前に会社が倒産したときは、着の身着のままで放り出されたからね。行くあてもないし、しばらく香具師の仕事を手伝った。お祭りの露店で、輪投げとか、ヨーヨー釣りなんかを商うやつだよ。でも、たいしてもうからないし、すぐにやめて日雇いになった。その日雇いもはじめのうちこそ、月10万~15万円くらいになったけど、だんだんに減ってきて、いまでは4日間働いて8ヵ月空きなんて状態だからね。
 一年前からホームレスをするより仕方なくなって、路上に寝るようになった。まあ、この生活も自由で気ままで快適だよ。悪くはない。なんでこうなったのかといえば、やっぱり会社が倒産したことだろうね。それからは成りゆきだよ。決して怠け者じゃなかったし、仕事さえあればいまでも働きたいと思っている。
 ただ、体がね。酒はやめた。飲むと肝臓が痛くなって、体が受けつけなくなったんだ。たぶん、肝硬変だと思う。ビールを浴びるように飲んできたからね。肝臓のほかも、体はいいところなんてどこもない。全部悪い。だから、この体じゃちょっと働けないよね。いつポックリいっても、おかしくない状態だからさ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/将棋は五段の腕前なんです・鈴木晋平さん(54歳)

■月刊「記録」2000年6月号掲載記事

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■将棋の全国大会に出たことも

 生まれたのは1945年3月、樺太でした。すぐに終戦になりますけど、当時父親が中国大陸に出征中で、母親は私と兄と姉の三人の子どもを抱えて大変だったようです。終戦の混乱のなかで引き揚げ船に乗り遅れて、ようやく内地に帰れたのは二年後だったようです。
 内地は北海道の稚内に帰りました。そこで母親の知り合いの家に身を寄せました。父親が大陸からシベリアのほうに抑留されてしまい、内地に帰ってからも母親は苦労の連続だったようです。私はまだ小さかったから、あまり覚えてませんけどね。
 父親が帰還するのは53年で、私が小学三年生のときでした。8年も抑留されていたわけですが、その間ソビエト共産党の洗脳教育をされていたようです。父親は出征前にマスコミで働いていましたから、洗脳教育の対象にされたんでしょう。復員後は同じマスコミ関係に復職して、それで我が家もどうやら世間並みの暮らしができるようになりました。
 私は高校を出て稚内の小さな新聞社に就職しました。実は子どものころから将棋が得意でしてね。高校生のときには三段の腕前でした。それが買われて、まあスカウトされたようなわけです。将棋や囲碁の観戦記とか、稚内で上映される映画の紹介記事のようなものを書かされました。新聞といっても稚内と近隣だけに発行されるタブロイド判のささやかなものでしたけど。
 二年くらいして札幌に出ました。今度は林業関係の業界紙の新聞社に入りました。全国の営林署から寄せられる情報を整理して、それを記事にするのが仕事でした。その後も、将棋のほうは続けていて、五段までいきました。北海道の代表二人に選ばれて、全国大会に出場したこともあります。プロになろうとしたこともあったし、実際に誘ってくれる人もありました。
 でも、飛び込めませんでした。プロの将棋指しというのは、1000人がめざしても、ものになるのは10人もいないといわれています。私は子どものころから、真面目でおとなしい性格でしたからね。人と競い合うプロの世界には向かなかったと思います。自信もなかったし、そんなきびしい世界に飛び込んでもダメだったでしょうけどね。まあ、趣味で遊んでいるくらいが分相応だった。いまでもそう思ってます。

■恋愛の破局で酒におぼれていく

 林業の業界紙にいたころ、ある女性と恋愛をしましてね。父親が歯科医を開業している、なかなかいいところのお嬢さんでした。四年くらいつき合ってから、二人でアパートを借りて同棲しました。ところが、彼女の父親は同棲に猛反対でしてね。ある日、その父親がアパートにのり込んできて、彼女は連れ戻されてしまいました。それっきり彼女からは何の連絡もないし、二人の関係はそれで終わりました。
 もともと酒は好きだったんですが、そんなことがあってますます酒におぼれていくようになりました。酒が入ると誰彼かまわずにからんだり、殴りかかったりしてね。悪い酒でした。
 ある晩、飲み屋で大暴れしましてね。その店で飲んでいた客にからんでケンカを売って、物を投げつける、殴りかかる、最後は椅子を持ち上げて振り回すで、何人かの客にケガをさせたらしい。そういうときの私は頭の中が真っ白になってますから、何がどうなっていたのか覚えちゃいません。警察が呼ばれて、傷害の現行犯で逮捕されて起訴になりました。
 可哀相だったのは兄貴でした。弟が起訴されたというんで左遷されましたからね。兄貴も父と同じ会社で働いていたんです。実は、父親は私が高校生だった頃に、オートバイ事故で亡くなくなりましてね。それで兄貴は父親の後釜として採用されていたんです。私の起こした事件で、左遷の憂き目に合わせてしまったんですから、いまでも兄貴には悪いことをしたと思っています。裁判では執行猶予がついて、実刑はまぬがれました。
 それで稚内の家に連れ戻されました。家に帰ってもすることがないから、ただブラブラしている生活でした。そんなことをしていると、小さな町ですからみんなに噂されますからね。それに事件を起こしたことや、別れさせられた女性のこと、そんなこんなでムシャクシャしてまた酒におぼれていく。酒を飲まずにはいられなくなる。金がないから、酒屋で万引をして酒を手に入れたこともあります。3回もしましたね。
 そして酒が入ると頭が真っ白になって、何がなんだかわからなくなって大暴れしてしまう。家族も手に負えなくなったんでしょう。精神病院に入れられました。私自身は精神病院なんかに入れられる理由はないと主張したんですが、一年間も入れられてました。
 病院を出たのが30歳のときでした。もう稚内にはいられませんから、本州に渡って建設会社をしている親戚を頼って秋田に行きました。ちょうど東北新幹線の工事が始まったばかりのころで、福島駅の建設工事に就きました。ただ、はじめのうちこそ親戚だからというんで、監理の仕事をさせてくれましたが、そのうちに人夫と同じ仕事をさせられるようになってました。重い鉄筋を担がされたりしてね。それでいやになって辞めました。
 それから東京に出て、缶工場とか、新聞販売店、建設会社などで働きましたが、どこも長続きしませんでした。例の悪い酒癖で同僚を殴って辞めたこともあります。 40代に入って建築現場の日雇いで働いていたときは、組頭にまで引き立てられました。それまでに現場監理の経験があって、ノウハウを知ってましたからね。その組頭の仕事ぶりが認められて、親会社に引き抜かれて社員待遇されるまでになりました。
 ところが、四五歳のときに交通事故に遭って、足の骨を折ってしまい半年間入院したんです。ケガが治って退院してみると、もう会社はありませんでした。酒の失敗で人生を悪くもしましたが、運もない人生なんですね。 あとは高田馬場の手配師に頼る日雇いでした。手配師のくれる仕事はほとんどがタコ部屋のものばかりですからね。どうしようもない現場で、金も残せるほどはもらえませんでした。その日雇いの仕事も五年前くらいから減ってきて、ドヤ(簡易宿泊所)に泊まれなくなって路上で寝ることが多くなったわけです。

■いまでも将棋が夢に出てくる

 北海道を出てからは、家には帰ったことも、連絡を取ったこともなかったんです。9年前に交通事故に遭って、保険の手続きの都合で家に電話を入れたことがあるんです。そうしたら兄貴が入院中で、「ガンだから、もう長くない」と知らされて、そのときに一回だけ帰りました。まあ、死ぬ前の兄貴の顔が見られて、それまでのことを謝れましたしね。あのとき帰ってよかったと思ってます。
 私も50歳を過ぎましたからね。この歳になると北海道に帰って暮らしたいと思いますよ。でも、このまんまじゃ帰れないでしょう。せめて50万円くらいの金は持って帰りたいですからね。もう一度まともに働いて金をかせぎたいとは思いますけど、50歳を過ぎて、何の資格もないし……仕事にはありつけませんね。
 好きな女性と一緒になれなかったり、酒の上の事件を起こしたり、あの辺から狂い始めた気がします。若いときの辛抱、我慢が足らなかった。親兄弟の言うことを、よく聞いておくべきだった。いまになって、そう思います。
 酒はやめました。飲む金もありませんしね。金があっても飲まないでいられるようにもなりました。いまやりたいのは将棋ですね。金があれば、会所のようなところに行って指してみたい。いまでも将棋を指している夢を見たり、夢に棋譜が出てきたりするんですよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/帰郷から狂い始めた歯車・田代昭夫(48歳)

■月刊「記録」2000年9月号掲載記事

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■満開の桜の下でのデート

 結婚していたころは、幸せだったな。好きで一緒になった女だもの、大事にしたつもりだよ。
 女房と知り合ったのは16歳。福島県の郡山から上京する集団就職の列車で、友だちが紹介してくれた親戚の女の子だよ。会ったときからオレのことをカッコいいと思ってくれたみたいでね。働き始めてからも、連絡を取り合っていたんだ。
 オレの最初の職場は、埼玉県西川口の鋳物工場だった。大変な仕事だよ。夏なんか塩をなめながら働かないと、汗のかき過ぎで倒れちゃうんだから。それでも話し相手の女性がいたから、生活は楽しかったよ。彼女の職場は近くの蕨市だったから、オレの工場とも近かったし。 初めてのデートは大宮公園だったな。満開の桜の下、公園の池でボートに乗って写真を撮ったりして。水面に花びらが散って、空はすごく晴れていて。ゆっくりボートを漕いでいると、「あー、桜ってこんなにきれいなものだったんだなぁー」と、思ったもんな。
 18歳から彼女と正式につき合いだしたんだ。初めての女だった。それから浮気することもなく、28歳で結婚した。仕事は、鋳物工場から車の解体、トラックやタクシーの運転手なんかに替わった。結婚した当時は、トラックの運転手だったな。自転車の部品なんかをルート配送していた。
 家に帰るとごはんができていて、女房がお酒の相手をしてくれる。それが楽しかった。一人で飲むのはつまらないからね。女房は、酒に弱いくせに飲み屋の雰囲気が好きだったんだ。よく連れて飲みに行ったりもしたな。オレが飲むのに、ずっとつき合ってくれた。

■子どもはかわいくて、かわいくて

 結婚してすぐに子どももできた。配達を終えて家に帰ったら、女房のお姉さんが「女の子が生まれたよ」ってな。急いで病院に飛んで行ったら、ベッドで女房が横になっていたから、「ありがとう」って声をかけたんだ。「男の子じゃなくて、ごめんね」。女房はそう言って、残念そうな顔をしたよ。「どっちでもいいよ。元気なんだから」って、声をかけたな。
 だいたいオレは女の子がほしかったんだよ。だって女の子の名前しか考えてなかったもの(笑)。子どもを持って、目の中に入れても痛くないって気持ちが、よくわかったよ。子どもはオレの宝物だった。
 ただ一人目の子どもは、少し体が弱かったんだ。生まれてすぐ、入院することになった。お医者さんに「空気が悪いのは健康に影響する。できれば田舎に住んだ方がいい」って言われてさ。二人の実家がある郡山に住居を移したんだ。いま考えると、この転居が人生を少し変えたのかもしれない。
 長女が生まれた翌年、女房は二人目の女の子を生んでくれた。出産日は東京まで配達に行ってたから、郡山に戻ってすぐ病院に行ったよ。「また女の子なの」って、申し訳なさそうに女房が言ってさ。「いいよ。元気に生まれたんだから。ごくろうさん」って、声をかけたんだ。
 二人の子どもができてから、子どもを膝の上に乗せながら晩酌するのが楽しみでね。かわいくて、かわいくて仕方ないんだから(笑)。仕事にも張り合いが出たよ。
■たった一度の浮気で離婚

 でも、上の子が4歳のとき離婚した。原因はオレだけれどね……。一週間、女の家に泊まって帰ってきたら、「別れてちょうだい」と女房に言われたんだ。
 いや、高校生だったころから知っている女の子に、道で偶然に出会ったんだよ。コーヒー好きのオレが通っていた喫茶店で、アルバイトしていた娘でね。
「店をやっているから来て」って誘われて、彼女がママをしているバーに飲みに行ったの。酒は好きだからね。しかも飲み過ぎると、ゴロッと寝ちゃうんだ。で、案の定飲み過ぎた。
 目が覚めたら、まったく知らない部屋にいて、横に彼女が眠っていた。驚いたよー。「オレ、何かしたか」と聞いたら、彼女に笑われたな。
「できるわけないじゃない。元気だったら泊めないわよ」ってね。
 ただ飲んで寝ていただけなんだ。いや、本当に。それで起きてから会社に行って仕事するだろ、終わったころに彼女が迎えに来ているんだよ。「また、飲みに来て」って。「じゃあ、行くか」と飲みに行って、また寝ちゃう。その繰り返しで一週間。
 オレはモテないからさ。そんなにウマくいくわけないんだよ(笑)。だから自宅に帰るまで、離婚になるなんて全然思ってなかった。何もしていないしね。でも女房に言い訳はしなかったよ。泊まった現実は、現実なんだから。別れ話にも「はい、いいよ」と言ったんだ。「子どもだけは頼んだよ」って言い残してね。娘の写真を持って家を出た。
 つき合い始めてから、一度も浮気をしたことなんてなかったんだ。真面目に暮らしていたし、女房も大事にしていた。もし東京で暮らし続けていたら、離婚もしなかったかもな。

■10年間の入院を強いられた

 離婚後は、東京でトラックの運転手を続けたよ。きつい仕事だったけれど、仲間に恵まれたな。仕事が終わってから、みんなで飲む一杯が楽しみでね。会社の近くにある安い飲み屋で、あぶり物をつつきながら、焼酎か日本酒を飲む。オレはビールが嫌いだからね。酒が明日への活力だったよ。
 でも、37歳でオレの人生は変わっちゃったんだ。何の前触れもなかった。いきなりバットで殴られたみたいに頭が痛くなった。社長が救急車を呼んでくれたところまでは記憶があるんだけれど、それ以降は意識がない。 目が覚めたら、目の前に看護婦がいたんだ。集中治療室にいたオレには、青や白のボタンが体中に貼りつけられていた。
 自分の病名をきちんと説明されたのは、救急車で運ばれてから一週間ぐらいたってからかな。先生が「クモ膜下出血だ」ってね。頭蓋骨を外して手術をしたらしい。あといろいろと説明していたけれど、よく覚えていないな。ただ手術が終わったから、すぐ退院できると思っていたんだ。まさか、それから10年間も入院し続けるなんてな。
 10年の入院生活と聞くと、仕事なんかが気になって焦ると思うかもしれないけれど、容態も悪かったから焦りようがなかった。何も考えられなかったから。長いようで短い10年だったね。退院したときは四七歳だよ。それでも退院できたのは、最初に診てくれた先生がよかったからだろう。同じ病気になった人のほとんどは、植物状態か仏様になっていたから。まあ、助かったのがよかったのかはわからないけれどね。
 退院後は、板橋区にアパートを借りていたんだ。区の職員が、福祉制度を使ってアパートの手配をしてくれた。でも東京・葛西にある病院への通院が大変だったので、別の区のアパートに引っ越したんだよ。そうしたら区が、福祉を打ち切ったんだ。もちろんアパートも追い出された。行くところなんてないよ。ホームレスさ。
 実家に帰ればいいのかもしれない……。でも若ければともかく、50に近くになって帰っても仕事はないし、迷惑なだけだろう。実家も兄貴の代になっているし、兄貴だって大変なんだから。連絡しないんじゃなくて、できないんだよ。

■全財産は120円

 子どものことは、いまだに気にかかるよ。退院したとき、女房のお姉さんに挨拶しに行ったら、「上の子は結婚した」と聞かされた。4歳から会っていないから、オレには顔なんかわからないけれどね。いや正確には、入院中に会っているんだ。昏睡状態のときに別れた女房と娘が会いにきた、と看護婦が教えてくれたから。でも意識がないからな。
 まあ、生きていれば、いずれ会えると思うよ。あー、でも会いたくないな。仕事をしているなら、会いたいけれど。みじめな姿を娘に見せたくないから。
 いまの全財産は、120円だよ。これじゃあ、何も買えないよね。冷たい飲み物がほしいよ。あと吉野家の牛丼が食べたい。万引する勇気もないから、我慢するしかないけれどね。
 リストラなんかで自殺する人も多いらしいけれど、自殺するのは勇気なんかじゃないよ。逃げたいから自殺するんだ。生きているのは、こんなにつらいんだから。 (■了)

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ホームレス自らを語る/サラ金の督促から逃れて・田島義広さん(64歳)

■月刊「記録」2000年10月号掲載記事

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■サラ金から面白半分に借金

 長いこと左官とか、型枠工、日雇いの土工なんかをやってきたんです。それが五五歳を超えたあたりでしたか、「年寄りに回してやれる仕事はないよ」と突然手配師に言われましてね。それっきり仕事は回してもらえなくなりました。
 急に仕事にあぶれることになって、途方に暮れて都内のクリーニング店に嫁いでいる姪のところを訪ねたんです。そうしたら気持ちよく置いてくれて、しかも姪のダンナが警備員の仕事まで見つけてきてくれましてね。それで姪の家に同居させてもらいながら、警備員をして働いてきたんです。
 私は若いころから酒は一滴もやらないし、パチンコをたまにするくらいで、ほかのギャンブルにも一切手を出さなかった。それなのに、六年くらい前でしたか、急に競馬をするようになりましてね。馬が好きだったわけじゃないし、なんで競馬になんか手を出すようになったのか、自分でもよくわかりません。小金がほしかったのかな? ただ、根が小心者ですからね。たいした金を賭けたわけじゃないですよ。
 サラ金から金を借りるようになったのは、そのころからでした。これだって金に困っていたわけじゃなくて、サラ金ってどんなもんかと思って面白半分に借りに行ったんです。そうしたらすごく簡単に貸してくれるんですね。こんなに簡単に借りられるんならと思って、利用しているうちにふくらんでしまったんです。
 いくらくらい借りたのかは、三つのサラ金から借りてましたからよくわからないですね。それにもう三年も放ってあるから、相当なことになってるでしょうね。それでもはじめのうちはキチンと返済していたんですよ。例の警備会社が勤めて三年目に倒産してしまい、それで返せなくなったんです。そのうちに督促の電話が来るようになって、それもだんだん頻繁になるんで、「これはヤバイかな」と思ってね。姪の家をコッソリ夜逃げして、それでホームレスになったんです。親切にしてくれた姪の一家に、迷惑がかかってなければいいんですがね。

■文学の夢を追っているうちに

 生まれは青森県の野辺地という海沿いの小さな町でした。地元の高校を卒業して、東京に出てきました。東京にあこがれていたというより、田舎の閉鎖的な人間関係から逃げ出したかったんです。東京に出て、中堅どころの本の取次店に就職しました。でも、二年くらいで辞めて……大学に行きたかったんです。
 そのころは文学かぶれというか、いっぱしの文学青年を気取ってましてね。文学は片っ端から何でも読みましたよ。永井荷風の官能的な作品なんか好きでした。自分でも書いては消し、書いては消しして、文学を志していたんです。いや、私の場合は官能的なものじゃなくて、家族のことを書いた私小説でした。文学賞にも幾度か応募しました。『文学界』とか『新潮』『群像』とかの文芸誌の新人賞にね。だけど、一度も通らなかった。そんな夢を30歳を過ぎるまで追いかけていて、結局結婚もできませんでした。
 大学には行きませんでした。なんで行かないことになったのかな? あのころ売防法(売春防止法)が施行になって、赤線がなくなるっていうんで大騒ぎだったしね。それと大学へ行かなかったのは関係ないか? 自分でもよく覚えてないですね。
 それで電柱に貼ってあった「事務員募集」のビラを見て、左官の会社に就職しました。ところが、毎日会社に出勤しても事務の仕事なんてないんです。上の人から「おまえも現場へ出たらどうだ?」と言われて、それから左官の現場に出るようになりました。
 左官は一五年くらいやりましたね。左官職人には仕事場を渡り歩く人が多いんですが、私はずっと一つところにいました。真面目というより、やっぱり小心者なんですよ。酒は飲まないし、仲間と徒党を組むことは嫌いだし、そのころは文学にかかずらわってたこともありますし。
 左官のあと型枠工を10年やって、そのあと日雇いの土工をまた10年やりました。左官の技術とか、型枠工をやっていたから大工の仕事もできるんです。でも、それを生かそうとしないで、楽な日雇いのほうを選んでしまう。日雇いでもそこそこかせげて、食べていかれたからいけないんですね。その日雇いでも働けなくなって、姪の家に世話になったわけです。

■死に場所を探しているんだが

 サラ金の督促を逃れてホームレスになったわけですけど、はじめて野宿をしたときは悲しかったですね。ここまで堕ちたら、もう将来はないって悲観もしました。そのうちに慣れてくると「もういいか」って、あきらめの心境になってくるんですね。
 ホームレスになってからも、ずっと一人。やっぱり、徒党を組むのは好きじゃありません。一人でホームレスをしていると、いろんなことがありますよ。いつだったか、明治神宮外苑を歩いていたら、車が横づけされて降りてきた四、五人のチンピラに取り囲まれ、車に押し込められていました。代紋の入った車で、チンピラたちも暴力団の下っ端の連中ですよ。連れて行かれたのは葛飾にあったホームレスの収容施設でした。
 要するに暴力団がやっている施設です。チンピラがあちこちから強引にホームレスをかき集めて、最低の飯を食わせて住まわせ、それで(東京)都に福祉施設として申請して補助金をせしめているわけです。収容されているホームレスのなかに牢名主のようなのがいて、それが全部を取り仕切ってました。私も最初の食事のときに、いきなり暴力をふるわれましてね。一日もいないで逃げ出してきました。ひどいところです。
 ついこの間は、こんなこともありました。そのとき私は青山(港区)の公園にブルーシートで小屋をつくって、一人で住んでいたんです。(2000年)7月1日の晩でしたか、深夜寝ていると大量の芝草が小屋に放り込まれましてね。昼間公園の除草作業があって、そのときに刈られてあった芝草が放り込まれたんです。
 びっくりして小屋を飛び出してみると、4、5人の悪ガキがニヤニヤしながら立っていました。その連中は私に向かって一斉に石を投げつけてきたんです。そして、パッと散らばって逃げていきました。危なくってしょうがないから、近くの交番へ駆け込んで訴えたんです。
 ところが、警官はまったく取り合ってくれませんでした。小屋に戻ってみると、メチャクチャに壊されていて住める状態ではなくなっていました。ちょうど沖縄サミットを控えていたときで、その公園にも「不審者・不審物一掃」のポスターが、数日前から貼り出されていました。だから、それに関連する陰謀じゃあないかと思いましたよ。はっきり言ってしまえば、あの警官が悪ガキたちを使ってやらせたんじゃないかとね。いや、ホントに。
 小屋を壊されてからは雨が降ったときの逃げ場を探しながら、適当なところに寝ています。季節もいいし小屋なんかなくても、どこにでも寝られますからね。いまも一人です。仲間といたほうが危険は少ないんだけど、やっぱり徒党を組む気にはなれませんね。
 ただ、一人でいるとエサ(食べるもの)探しから何から、みんな自分でやらないといけないから大変です。この歳になってくると、エサ探しでゴミ箱を漁って回るのも切羽つまってきますね。膝が痛くて、そんなに遠くまで行けなくなってますしね。それに今年の夏は暑いから、体中に湿疹ができてかゆくてならないですよ。
 ホントはね。いつも死にたいと思っているんです。死に場所を探しているんですが、なかなか死ねなくてね。自殺をする勇気もないんです。いっそのこと、誰か殺してくれないかとも思っているんですよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ヤンカラが飲めるんなら何でもする・森本宗治さん(56歳)

■月刊「記録」2001年5月号掲載記事

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■飲み始めたらぶっ倒れるまで

 1945年の生まれだよ。えっ、56歳? もう、そんなになるのか。自分の歳は忘れちゃっているからな。そうか、オレは56歳にもなるんだ。
 生まれたのは秋田。「生めよ殖やせよ」の時代の子だからね。八人兄弟の末っ子。小学六年生のときに、オヤジが胃ガンで死んだ。それからはオフクロが百姓をしながら育ててくれた。物のない時代だったから苦労かけたと思うよ。百姓だけでは食えなくて、オフクロがこっそりとドブロクの密造をしていたことを知ってるよ。
 中学を終えて東京に出てきた。そう集団就職。百姓をやるのが嫌で東京へ逃げてきたんだ。
 東京では新聞社の印刷工場で働いた。どこの新聞社だったのかは覚えていない。何しろ20日間で逃げ出しちゃったからね。新聞の印刷には早出とか残業があって、それが嫌だったんだ。その後は鉄筋工場で働いたり、日雇いをしてから、また別の印刷工場で働くようになった。町場の工場だったけど、早出や残業がそんなになくて、給料の単価も新聞社よりよかったからね。
 そのころ、同じ中学校の一年先輩で、やっぱり東京で働いているのがいてね。すごい不良でスケベな男だったけど、この先輩に連れられて毎晩のように遊び回っていた。悪い遊びはみんなその先輩に教えられたんだ。酒飲んで、女を買って、ずいぶん遊んだよ。
 酒は大好きだよ。ヤンカラ。チュー(焼酎)のことだよ。ヤンカラの25度。あれがいいね。一升(1.8リットル)くらいは平気。飲み始めたら、ぶっ倒れるまで飲むからね。
 27、28歳のときから、女と2年くらい同棲したことがある。同じ印刷工場で働いていた女だったけど、すごい派手な女だった。遊びも派手だし、着るものも派手で、それに酒もよく飲んだ。まあ、酒を教えたのはオレなんだけどね。この女のために金をこしらえるのが大変だった。金がないとさせてくれないしね。最後はオレもヒーヒーになって逃げ出してたよ。
 結婚は一度もしなかった。同棲していた女でこりたこともあったけど、子どものころから母親が「嫁さんなんかもらっても、苦労が増えるばかりでバカらしい。結婚なんてするもんじゃない」って口ぐせのように言いつづけていて、その言いつけを守ったんだ。

■飲み屋という飲み屋に借金が

 同棲していた女から逃げるようにして、いったん秋田に帰った。土方をやったり、兄貴が山で伐採の仕事をしていたから、それを手伝ったりした。
 秋田でもヤンカラを浴びるように飲んだ。酔っ払って単車を運転して事故を起こしたこともある。単車同士の正面衝突。相手もオレもグデングデンの状態で、田舎道をぶっ飛ばしてるんだから、そりゃあ事故にもなる。オレは右脚なんかを複雑骨折して、長いこと入院した。
 酔っ払い運転で警察にとっ捕まったこともある。酒気帯び運転なんてもんじゃないからね。そのときもグデングデンだったから、罰金をこっぴどく取られた。オフクロにもどえらく叱られたな。
 32歳くらいでまた東京に出てきた。秋田にいられなくなったんだよ。飲み屋という飲み屋に借金をこしらえるし、隣近所の家に行っては飲み代をせびるだろう。まあ、アル中だね。オフクロに勘当されたんだ。

■覚せい剤の運び屋も

 また東京に出てきてからは、いろいろ働いたよ。数えきれないくらいだ。それもこれも、ヤンカラを飲むため。金がないときはドブロクを飲んだ。上野の駅の近くにドブロクを安く飲ませる店があってね。電車賃がもったいないから歩いて飲みにいった。ドブロクは安かったから、浴びるほど飲めたよ。
 東京って街は怖いところだからね。酔っ払って道端に寝ていたり道をフラフラ歩いているとさらわれちゃうんだよ。ホントだよ。大の男がさらわれちゃうんだ。オレだって何回もやられたんだから。酔っ払って道を歩いていると、4、5人の男に取り囲まれて車に押し込まれちまう。そのまんま拉致されて、大阪とか、名古屋とかに売られちゃうんだ。飯場だよ。飯場に売られちゃうんだ。逃げられやしないよ。タコ部屋だもの。ヤクザがゴロゴロいて朝昼晩見張ってるんだからね。だけど、オレだけはそいつらをぶん殴って、いつも逃げ出してきてたけどね。
 薬の運び屋をしてたこともあるよ。飲み屋で飲んでいると、男が隣に座ってテーブルの下からブツが渡されるんだ。それに所番地と電話番号が書かれたメモがついている。オレも男も口はひと言もきかないで、ブツの受け渡しは行われるんだ。そのメモの所番地を頼りに届けにいくと、別の男がいて黙ってブツを受け取る。代わりに運び賃の万札が差し出され、オレはそれを黙って受け取る。ただ、それだけ。それだけのことだ。
 オレはそのブツの中身を知らないで運んでいたんだけど、あるとき途中で警察にとっ捕まっちまってね。警察署に連れて行かれてさんざんアブラを絞られた。ブツの中身が覚醒剤だというのは、刑事から聞かされてはじめて知った。どうやらオレは覚醒剤の製造人と売人の間を運んでいたようだね。
 運び屋をしていたときの、礼金でもらう万札はありがたかったよ。しこたまヤンカラが飲めたし、キャバレーやおさわりバーにも行けた。おさわりバーっていうのは、女の子のオッパイなんかにさわりながら酒が飲めるところだよ。オレも遊んだからね。オレばかりじゃなくて、男はみんなそうだろう。20代、30代のころは、女を抱かなかったら我慢できないだろう。
 日本全国いろんなところで働いたけど、女が抱けないなんて街はなかった。どこにでもそういう女はいたんだから。オレだってつい2、3年前までは、年に5、6回は女を抱いていたよ。いまじゃ金がないからダメだけどね。
 いまは酒だな。ヤンカラ。ヤンカラを飲ませてくれるんなら、何でもするね。悪いことだってしちゃうよ。もう20日も飲んでない。金のないのはつらい。ヤンカラが飲めないのもつらい。今年の冬は寒かったからね。それもつらかった。新宿駅の地下道に寝てるんだけど、夜中の12時から明け方の4時半まではシャッターが閉まって締め出されるんだ。だからその間は街を歩き回っていたよ。歩いていないと凍え死んじゃうからね。ただ、ただ歩き回っていた。そんなの(ホームレス)が何人もいたよ。
 そういえば、さっきの話に出た同じ中学校の一年上の不良の先輩。このあいだ(新宿の)地下道を歩いているときにひょっこり会ったよ。20年ぶりだったね。先輩は何とかって会社でサラリーマンしてるとか言ってたけど、それはウソだね。ホントは先輩もホームレスをしているんだよ。そんなのは雰囲気でわかるからね。「サラリーマンをしているんなら、金を持ってるだろう」って酒をおごらせちゃった。久しぶりのヤンカラだったよ。 ヤンカラばかり飲んで、アル中のようなムチャクチャな人生だった。けど、こうなっちまったのも、誰のせいでもないもんな。仕方がないよ。まあ、オレの人生はこのまんまだよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/アパートを出たのは10日前・柳川一男(40歳)

■月刊「記録」2000年11月号掲載記事

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■花火で田舎を思い出す

 アパートを出て初めての夜が、江東花火大会(東京)だったんです。ほら、そこ。もう目の前で打ち上げていたんですから。こんなに近くで花火を見たのは初めてでした。午後2時か3時ですかね。ここにたどり着いてボーッと座っていたら、少しずつ人が集まってきたんですよ。花火が始まるころには、浴衣姿の女の子もいて。
 打ち上げ場所が近いから空いっぱいに花火が広がるんです。ドーンとすごい音とともに花火が上がると、みんな手をたたいてね。背中で拍手を聞きながら、ジッと空を見ていたら、昔のことを思い出しました。
 田舎の阿武隈川で見た生まれて初めの花火です。親父が連れて行ってくれたんですよ。きれいだった。小学生のころに、みんなで花火をしたことも思い出しました。バケツに水を張って、線香花火とか手に持って。昔よくやったでしょ。友だちもいっぱいいたし、楽しかったな。
 空いっぱいの花火が、一瞬だけ現実を忘れさせてくれました。明日の不安も忘れて、ただただ花火を見ていたんです。きれいだなーって。
 荒川の土手で暮らすようになって10日目です。いや、今年の四月に会社が倒産したんですよ。倒産の一年ぐらい前から、労働組合がハチマキ締めて、「首切り反対」とか「賃金アップ」とか叫んでいましたから、ウチも危ないのかなと思っていたけれど、まさかつぶれるとはね。

■免許も年齢制限で役立たず

 建築で使うH鋼(アルファベットのHの形をした建築資材)の管理会社でした。千葉県船橋市に会社があって、商社の下請けだったんです。高校中退した一六歳から五つぐらい会社を移りましたが、三〇歳から働き始めたこの会社は、定年まで勤めようと思っていました。人間関係もよかったし、何より自分の仕事に自信を持てましたから。毎日、仕事をするのが楽しかった。
 倉庫にさまざまなサイズのH鋼がトラックで運び込まれてくるでしょ。その伝票をチェックして、サイズごとに積み上げて、さらに出荷を管理する。それが仕事でした。
 でも本体の景気が悪くて撤退が決定。そのあおりを受けて、すぐに倒産ですよ。大手の下請けだから安心してたのに。倒産が従業員に知らせられたのだって、一ヶ月前ですから。50人の従業員のうち半分だけを違う会社が引き取り、あとはクビです。あわてましたよ。すぐに仕事を探し始めたけど、この不景気でしょ。ないの、まったく。
 自分は、大型自動車免許と危険物取扱者丙種、それに五トン未満の荷物を扱える小型移動式クレーンの免許を持っていました。だから見つかるだろうと軽く考えていたんです。だって大型と危険物があれば、タンクローリーだって運転できるんだから。でもタンクローリーの運転手なんて、ほとんど三五歳までが上限。あとは一年以上の経験がないと雇ってもらえません。どこの企業もほしいのは若い人か即戦力。従業員を研修しようなんて気はありませんよ。職安(ハローワーク)に通ったけれど、ほとんど年齢ではねられちゃいますもんね。

■アパートの取り壊しが決まった

 それでも失業保険がすぐに出たのでしばらくどうにかなると思っていたんです。でも悪いことは重なりますね。アパートの取り壊しが決まっちゃったんだから、もうダブルパンチですよ。
 失業保険が三ヶ月間だから7月末まででしょ。アパートの引き渡しも7月いっぱい。どうしても7月までに仕事を決めないと、と思うんだけれど決まらないしね。どんどんあせってくる。しかも自分は、友だちの保証人になってできた100万円ほどの借金がありましたから、雀の涙ほどの退職金も、ほとんど借金返済に消えました。銀行系の会社だったから、家にどなり込んでくることはなかったけれど、会社がつぶれてからしょっちゅう電話がかかってきました。借りたものは返さなくちゃいけないですから。
 働いているときは、月3万、4万ずつ返済していたんです。手取りで約22万円もらっていたから、仕事さえあれば返せる。一人暮らしですし。でも仕事がなくちゃね。払えるだけ払ってきましたけれど、まだ借金は残ってます。
 会社がつぶれるまでは、普通の人生でしたよ。中学時代まではプロ野球選手に憧れて、高校は中退したけれど、すぐに上京してディーゼル車の整備工場で働いて。結婚を考えたこともありました。30歳になるちょっと前かな。つき合っていた女性は、結婚したがっていたと思います。
 でも幸せな家庭を築ける自信が、自分にはなかった。経済的な不安もありましたが、それだけじゃなくてね。もっと根本的な不安がありました。パッと結婚しちゃえばよかったのかもしれませんね。行動に移す前に、いろいろ考えちゃったから、よくなかったのかな。でも、真面目に働き、真面目に生きてきたんです。
 アパートを引き渡す日が迫ってきて、タンス、ステレオ、テレビ、洗濯機、冷蔵庫なんかを友だちにあげました。アパートを出たときに持っていたのは、8000円の現金と携帯電話だけかな。アパートを出る前の晩は、何とかしなくちゃ、何とかしなくちゃって、気だけあせって。結局、何もかも忘れたくて布団に潜り込みましたよ。で、朝目が覚めたら、現実が待っていたと……。

■自然に泣けてくるんです

 アパートを出た当日のことは、よく覚えてません。パニックになっちゃってね。もうすべてから逃げ出したいんですよ。ただただそこから離れたい、それだけ。起きてすぐに家を出て、来た電車に乗り、何となく東京の平井駅で降りたんです。行くところなんてないでしょ。暑い中、ボーッと歩き回りました。それからここに来るまでが、一番つらかったかもしれないなあ。
 情けないなーと思ってね。歩きながら涙がこぼれてくる。自然に泣けてくるんです。汗と一緒に涙がね。これからどうしようか、自分はどうなるのだろう。自分の人生はもう終わりかもしれないって思えてね。
 そのときフッと視界に入ったのが、荒川の中洲でした。江東区から江戸川区に向けて葛西橋を歩いたんですよ。ずいぶんきれいな所があるなと思って、橋を下りてみた。本当にたまたまですよ。それでココに住んでいた人に声をかけられて、なんとなく住み着いて10日。
 実際にホームレスになってみると、あまり驚くことはなかったですね。テレビのドキュメンタリー番組や新聞で、けっこう生活が報道されていたから。ただ毎日当たり前にしていたことが、急にできなくなるのがつらいんです。風呂に入り、三度メシを食い、夜はテレビを見る。こんなことが一切できなくなるんですからね。
 どんなに景気が悪くたって、まさか自分がホームレスになるとは思っていませんでした。自分がなってもおかしくないと、いま考えれば少しわかる。でも、まさかってさ(笑)。

■私にも何か使命があるはず

 実家は10年近く連絡を取っていないから、電話なんかかけられないですよ。ホームレスになったのを親が知ったら、心配かけちゃうから。
 友だちに連絡を取れば、いくらでも助けてくれると思いますよ。家にも泊めてくれるだろうし、お金も貸してくれるでしょう。20年来の友だちもいますし。でも、誰にも迷惑をかけたくないんですよ。誰にも心配かけたくないんです。
 正直言うとね、平井からここに来るまでの間に、一度だけ友だちに電話をしようと思いました。持ってきた携帯電話を握りしめて。でも指が動かなかった。やっぱり電話はかけられませんでした。
 もう3年近く使っている携帯だから、友だちの電話番号はすべて入ってます。でも電源がないから、アパートを出て2日目ぐらいには使えなくなりました。けっこう速いんですね、携帯が使えなくなるの。その間、どこからも電話はかかってこなかったな。不思議ですよね。時間がたてば、登録してある電話番号も見られなくなって、電話も受けられなくなるのに、電池がなくなるのは嫌じゃなかった。アパートを出るとき何気なく手に取ったけれど、何かつながりがほしくて持ってきた携帯だと思うんです。それなのにね……。
 このままじゃ、どうしようもないとは思ってます。連絡先がしっかりしていないんじゃ、ますます雇ってくれないだろうし。でも生まれてきた以上は、何かあると思うんですよ。使命というのかな。これじゃ、生まれてきた意味がなくなっちゃいますから。生まれてこなかったのと同じになっちゃうでしょ。
 ホームレスになるために生まれた人なんて誰もいないんだから。誰もね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/大穴が当たって女房は去った・上野宏彰(54歳)

■月刊「記録」2001年6月号掲載記事

■幸せな家族が暗転

 23歳のときに、お見合いの話がきたんだ。京都・丹波の片田舎で働いている娘でね。俺の都合のいい日に、彼女が勤めている工場に会いに行けばいいからって言われた。
 行ったよ。汽車を降りてからバスで二時間もかかってたどりついた。本当に遠かったな。お見合いたって、社員食堂を借りて、仲人と一緒に彼女と飲んだり食ったりしてさ。互いにOKして結婚した。
 背の小さい人でね。足が少し悪くていくらか引きずるんだ。俺より1歳年上だった。丸顔でさ、かわいかったんだ。
 当時、俺は東京で大工をやっていてさ。忙しかったんだよ。仕事は真面目だったしな。お見合いの五年ほど前、ちょうど東京オリンピックの前なんか忙しくて忙しくてよくかせいだよ。働けば働くほどゼニになったんだから。
 所帯を持ってからは、子どもにも恵まれた。女三人、男二人の五人兄妹。幸せだった。でも一つだけ失敗したんだ。
 その日は仕事が忙しくてね。仕方ないから女房に電話して、立川競輪のレースを1万だか2万だか買っておくように言ったんだ。その大穴が予想通りきて、3万1850円もついたんだよ。1万円で300万円以上だから、当時としたらすごい金額だよ。「おー、当たった」なんて喜んで、家に帰ったんだ。ところが女房は「買ってない」って答えた。思わずひっぱたいちゃった。思いっきりね。
 それで女房は実家に帰っちゃったんだ。俺もあわてて、女房の実家に電話した。5、6回はしたかな。でも一ヶ月ぐらいたって、俺の育ての親で、二人の仲人でもある「おやじ」から手紙が来たんだ。相談があるとね。行ったら、「別れろ」と言われたよ。そうなると別れるより仕方なかったな。

■お父ちゃん、お父ちゃん

 それからだよ、酒の量が増えていったのは。酒を飲むと寂しくなって、女房に電話をかけちゃう。2時間も3時間も話して、泣きじゃくっちゃう(笑)。女房は鹿児島の実家に帰っていたから、電話代もすごかったぞ。1ヵ月で30万円を支払ったこともあったからな。
 きっとさ、女房も本当は別れたくなかったんだと思う。そうじゃなきゃ、こんなに話もしないだろ。ただ、家族の反対とかもあって、やっぱり別れることになったんだろうな。
 その後、女房は再婚した。
 俺と離婚してから1、2年たってからかな、5人の子どもを連れて東京都昭島市にあった俺のアパートを訪ねてくれたんだ。わざわざ高知県からさ。
「お父ちゃん、いま高知にいるんだよ」
「お父ちゃんも一緒においでよ」なんて子どもから言われてさ。再婚しているのに行けるわけねーじゃん、なんて思ったな(笑)。
 女房と5人の子どもを連れてパチンコに行って遊んで、それから定食屋に行ったんだ。「どんなもんでもいいから、好きなもの頼め」って言ったら、みんな喜んでね。
 何を食べたかは、覚えていねえな。でも、俺は何も食べずにビールを飲んでいたよ。みんなが食べるのを見ながら、ただビールを飲んでたんだ。女房もうれしそうでね。「親が別れさせた」というようなことを、俺にもらしていたよ。
 食べ終わってから、青梅線に乗って立川駅までみんなを送った。肌寒い日でな。たしか上の娘は、赤っぽいセーターを着ていた。
「お父さんも、あんまり無茶しないでね」って女房が言ったら、上の娘もマネして言うんだよ。生意気にさ。「お父ちゃん、あんまり飲まないでね。お父ちゃんも高知に行こうよ」って……。
 一緒に暮らしていたとき一番うれしかったのは、家に帰り着いたときなんだ。玄関を開けるだろ。そうすると一番下の娘が駆け寄ってくる。「お父ちゃん、お父ちゃん」って、足にしがみついてくるんだよ。かわいくてな。
 でも、立川駅で別れて以来、女房にも子どもにも会っていない。高知まで行ってみたいと思ったけれど、住所を知らなかったから、会いたくても会えなかった。それにこのあと、酒におぼれた生活を送ることになったからさ。

■結局は長期の入院

 俺は本当の親父の顔なんて知らない。見たことないんだよ。小学校だって、ろくに行ってない。実家の家計を助けるために働いていたんだから。
 松の実って知ってるか? あれはけっこうな値段で売れたんだよ。小学校時代、裏山で松の実を大量に採って売ったもんだよ。何千円かもうかったんじゃないかな。当時から女には優しかったから、お母さんに渡したお金の残りで同級生の女の子にプレゼントを買ったよ。ノートとか鉛筆とかさ。
 そうそう、船に乗っていた時期もあったな。小学校だか、中学校だか、キビナゴ漁を手伝っていたんだ。夜中に漁に出て、薄暗いうちに帰ってくる。バッテリーのライトを10個吊して、キビナゴが集まってくるのを待つんだ。もちろんキビナゴ以外の魚が釣れることもあったよ。50センチのブリがかかったこともあったしな。
 でも、中学校のときには、お母さんも死んじゃって、あっちこっちの親戚に預けられた。中学三年のころには、生きるために大工仕事を始めていたよ。
 それから働きづめに働いて、気がついたら女房にも逃げられて一人だろ。酒の量はどんどん増えたよ。朝起きても、だるくて仕事なんか行けないんだから。「明日は必ず行きます」なんて電話して、また飲むわけ。そんなことが続けば、仕事仲間からだってあてにされなくなっちゃうよ。もう完全にアル中さ。アル中になると、店の酒をかっぱらってでも飲みたくなるんだ。とにかく酒がほしくてしょうがない。我慢ができない。
 そんな生活を続けているうちに、アパートに市役所の人が来たんだよ。強制的に病院に入れられた。それからアル中と結核の治療で、10年間も病院で生活することになるんだ。

■死ぬ度胸もない

 さあ? アパートに残った荷物がどうなったかは知らないよ。きっと福祉課かなんかの職員が、放り投げたんだろ。入院してから、アパートになんか帰っていないんだから。
 まあ、強制的な入院だったけれど、病院の居心地は悪くなかった。国からもらえるお小遣いを看護婦に渡して、お酒を買ってきてもらったりさ(笑)。お菓子なんかも、よくもらったよ。お風呂も看護婦さんが入れてくれて、背中まで全部流してくれるんだ。病院に帰りたいと思うことはあるな。
 退院したら40歳も目前になっていた。仕事は飯場回りしかない。つい5年ほど前までは、神奈川の登戸でアパートを借りていたんだ。でも、仕事がなくなって、アパートを追い出された。いまはアルミ缶集めが仕事かな。一キロ集めて85円。譲ってもらった自転車に積み上げて、やっと500円ぐらい。市から食べ物をもらって、足りない分はエサを拾いに行って……。
 生まれてくるんじゃなかったよ。でも死ぬ度胸もない。いまでも思い出すのは、女房のことかな。あんないい女房はいないよ。旦那に尽くす女だった。
 でも、会うことすらできないんだからな。 (■了)

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ホームレス自らを語る/大穴が当たって女房は去った・上野宏彰(54歳)

■月刊「記録」2001年6月号掲載記事

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■幸せな家族が暗転

 23歳のときに、お見合いの話がきたんだ。京都・丹波の片田舎で働いている娘でね。俺の都合のいい日に、彼女が勤めている工場に会いに行けばいいからって言われた。
 行ったよ。汽車を降りてからバスで二時間もかかってたどりついた。本当に遠かったな。お見合いたって、社員食堂を借りて、仲人と一緒に彼女と飲んだり食ったりしてさ。互いにOKして結婚した。
 背の小さい人でね。足が少し悪くていくらか引きずるんだ。俺より1歳年上だった。丸顔でさ、かわいかったんだ。
 当時、俺は東京で大工をやっていてさ。忙しかったんだよ。仕事は真面目だったしな。お見合いの五年ほど前、ちょうど東京オリンピックの前なんか忙しくて忙しくてよくかせいだよ。働けば働くほどゼニになったんだから。
 所帯を持ってからは、子どもにも恵まれた。女三人、男二人の五人兄妹。幸せだった。でも一つだけ失敗したんだ。
 その日は仕事が忙しくてね。仕方ないから女房に電話して、立川競輪のレースを1万だか2万だか買っておくように言ったんだ。その大穴が予想通りきて、3万1850円もついたんだよ。1万円で300万円以上だから、当時としたらすごい金額だよ。「おー、当たった」なんて喜んで、家に帰ったんだ。ところが女房は「買ってない」って答えた。思わずひっぱたいちゃった。思いっきりね。
 それで女房は実家に帰っちゃったんだ。俺もあわてて、女房の実家に電話した。5、6回はしたかな。でも一ヶ月ぐらいたって、俺の育ての親で、二人の仲人でもある「おやじ」から手紙が来たんだ。相談があるとね。行ったら、「別れろ」と言われたよ。そうなると別れるより仕方なかったな。

■お父ちゃん、お父ちゃん

 それからだよ、酒の量が増えていったのは。酒を飲むと寂しくなって、女房に電話をかけちゃう。2時間も3時間も話して、泣きじゃくっちゃう(笑)。女房は鹿児島の実家に帰っていたから、電話代もすごかったぞ。1ヵ月で30万円を支払ったこともあったからな。
 きっとさ、女房も本当は別れたくなかったんだと思う。そうじゃなきゃ、こんなに話もしないだろ。ただ、家族の反対とかもあって、やっぱり別れることになったんだろうな。
 その後、女房は再婚した。
 俺と離婚してから1、2年たってからかな、5人の子どもを連れて東京都昭島市にあった俺のアパートを訪ねてくれたんだ。わざわざ高知県からさ。
「お父ちゃん、いま高知にいるんだよ」
「お父ちゃんも一緒においでよ」なんて子どもから言われてさ。再婚しているのに行けるわけねーじゃん、なんて思ったな(笑)。
 女房と5人の子どもを連れてパチンコに行って遊んで、それから定食屋に行ったんだ。「どんなもんでもいいから、好きなもの頼め」って言ったら、みんな喜んでね。
 何を食べたかは、覚えていねえな。でも、俺は何も食べずにビールを飲んでいたよ。みんなが食べるのを見ながら、ただビールを飲んでたんだ。女房もうれしそうでね。「親が別れさせた」というようなことを、俺にもらしていたよ。
 食べ終わってから、青梅線に乗って立川駅までみんなを送った。肌寒い日でな。たしか上の娘は、赤っぽいセーターを着ていた。
「お父さんも、あんまり無茶しないでね」って女房が言ったら、上の娘もマネして言うんだよ。生意気にさ。「お父ちゃん、あんまり飲まないでね。お父ちゃんも高知に行こうよ」って……。
 一緒に暮らしていたとき一番うれしかったのは、家に帰り着いたときなんだ。玄関を開けるだろ。そうすると一番下の娘が駆け寄ってくる。「お父ちゃん、お父ちゃん」って、足にしがみついてくるんだよ。かわいくてな。
 でも、立川駅で別れて以来、女房にも子どもにも会っていない。高知まで行ってみたいと思ったけれど、住所を知らなかったから、会いたくても会えなかった。それにこのあと、酒におぼれた生活を送ることになったからさ。

■結局は長期の入院

 俺は本当の親父の顔なんて知らない。見たことないんだよ。小学校だって、ろくに行ってない。実家の家計を助けるために働いていたんだから。
 松の実って知ってるか? あれはけっこうな値段で売れたんだよ。小学校時代、裏山で松の実を大量に採って売ったもんだよ。何千円かもうかったんじゃないかな。当時から女には優しかったから、お母さんに渡したお金の残りで同級生の女の子にプレゼントを買ったよ。ノートとか鉛筆とかさ。
 そうそう、船に乗っていた時期もあったな。小学校だか、中学校だか、キビナゴ漁を手伝っていたんだ。夜中に漁に出て、薄暗いうちに帰ってくる。バッテリーのライトを10個吊して、キビナゴが集まってくるのを待つんだ。もちろんキビナゴ以外の魚が釣れることもあったよ。50センチのブリがかかったこともあったしな。
 でも、中学校のときには、お母さんも死んじゃって、あっちこっちの親戚に預けられた。中学三年のころには、生きるために大工仕事を始めていたよ。
 それから働きづめに働いて、気がついたら女房にも逃げられて一人だろ。酒の量はどんどん増えたよ。朝起きても、だるくて仕事なんか行けないんだから。「明日は必ず行きます」なんて電話して、また飲むわけ。そんなことが続けば、仕事仲間からだってあてにされなくなっちゃうよ。もう完全にアル中さ。アル中になると、店の酒をかっぱらってでも飲みたくなるんだ。とにかく酒がほしくてしょうがない。我慢ができない。
 そんな生活を続けているうちに、アパートに市役所の人が来たんだよ。強制的に病院に入れられた。それからアル中と結核の治療で、10年間も病院で生活することになるんだ。

■死ぬ度胸もない

 さあ? アパートに残った荷物がどうなったかは知らないよ。きっと福祉課かなんかの職員が、放り投げたんだろ。入院してから、アパートになんか帰っていないんだから。
 まあ、強制的な入院だったけれど、病院の居心地は悪くなかった。国からもらえるお小遣いを看護婦に渡して、お酒を買ってきてもらったりさ(笑)。お菓子なんかも、よくもらったよ。お風呂も看護婦さんが入れてくれて、背中まで全部流してくれるんだ。病院に帰りたいと思うことはあるな。
 退院したら40歳も目前になっていた。仕事は飯場回りしかない。つい5年ほど前までは、神奈川の登戸でアパートを借りていたんだ。でも、仕事がなくなって、アパートを追い出された。いまはアルミ缶集めが仕事かな。一キロ集めて85円。譲ってもらった自転車に積み上げて、やっと500円ぐらい。市から食べ物をもらって、足りない分はエサを拾いに行って……。
 生まれてくるんじゃなかったよ。でも死ぬ度胸もない。いまでも思い出すのは、女房のことかな。あんないい女房はいないよ。旦那に尽くす女だった。
 でも、会うことすらできないんだからな。 (■了)

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ホームレス自らを語る/いま恋愛中です・筑紫一彦さん(52歳)

■月刊「記録」2001年6月号掲載記事

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■理容コンクールで全国七位に

 本業は理容職人でした。理髪店ですね。オヤジが理髪店をやってましたから、その跡を継いだわけです。
 生まれは岐阜県の可児市で、三人兄弟でした。ただ、男はボクが一人でしたから、小さいころからオヤジの跡を継ぐのは当然のように思って育ちました。ボクらは団塊の世代になります。古いものを否定する考え方の多い世代ですが、ボク自身は家業を継ぐことに抵抗はなかったですね。
 地元の高校を出て、一宮(愛知県)の理容学校で1年学んでから東京に出ました。修業です。理髪店の跡を継ぐには、他人の店で6~10年くらいの修業を積む。それが習わしのようになってましたからね。
 ボクは渋谷の店で26歳まで修業をしました。店は三軒替わりましたが、どの店のオーナーも理容コンクールの全国チャンピオンになった人ばかりでした。そういう人の下についたほうが修業になると思ったわけです。ボクもコンクールに出場して、全国で七位に入賞しています。渋谷区と東京都の予選を勝ち抜いての全国七位ですからね。腕にはかなりの自信がありますし、理容職人としてのプライドも高いです。
 26歳で可児に帰って、オヤジの跡を継ぎました。本当はもう少し東京にいたかったんです。当時、給料は30万円くらいもらっていて、六本木や青山で遊ぶことも覚えてましたから、まだ田舎には帰りたくなかった。ところが、「オヤジが歳でハサミを握れなくなったから」と、姉と妹が出てきて強引に連れ戻されてしまったんです。
 オヤジの跡を継いだ店は、よく繁盛しましたよ。すぐに店と家を建て替えましたが、その借金も10年で返してしまいましたからね。それに人を雇って美容院も始めて、それもまあもうかってました。
 結婚はしませんでした。幾度か見合いはしたんですが、縁がなかったんですね。独り身で小金を持ってましたから、遊びのほうはひと通りやりました。海外にも、韓国、香港、中国、フィリピンなんかに幾度か行きました。まあ、何の問題もなく順調だったわけです。46歳まではね。

■理容師をあきらめて家を出る

 46歳の6月でした。その日は店が定休日で、岐阜の柳ヶ瀬まで遊びに出たんです。昼飯を食べ終わって店の外に出たときでした。左脇に抱えていたセカンドバッグが地面に落ちましてね。それを拾おうとしたら左脚がもつれ、左手も利かない。突然、体の左半身が麻痺していたんです。脳梗塞でした。そのまま病院に担ぎ込まれて三ヶ月入院しました。
 入院中は店のことが心配で、居ても立ってもいられませんでね。本当はリハビリが残っていたんですが、強引に三ヶ月で退院してしまいました。それで店に戻って車椅子からの回復訓練をしながら、もう一度ハサミを握らなくてはと、理容師の訓練のほうも必死になってやりました。身体のほうは脚を引きずりながらですが、どうにか自力歩行ができるようになりました。
 でも、理容師のほうは無理でした。なんとかハサミは握れるんですが、微妙なカットはとてもできない。あきらめざるをえませんでした。
 すでにオヤジは亡くなってましたが、オフクロはまだ元気でいましたからね。それで妹夫婦に年老いたオフクロの面倒をみるように頼んで、家を譲りました。そして、ボクはこっそり家を出たんです。
 向かった先は大阪。西成です。そこでドヤ(簡易宿泊所)に寝泊まりしながら、ボクでもできる仕事をしながら暮らそうと思ったんです。でも、手配師からは足が悪いと相手にされませんでね。だんだん金も底を突いてくるし、ドヤを出て野宿するようになっていました。
 西成というところは暮らしやすいところですよね。親切な人が多いし、西成(労働福祉)センターに行けば、ミソ汁付き五目ご飯が180円で食べられます。ボクはそこでヤキソバを食べながら缶ビールを飲むのが好きでした。
 そのうちに人材派遣会社に登録することを教えてくれる人がいて、その派遣会社の斡旋で働くようになりました。自動車メーカーとか、家電メーカーの下請け工場でのラインの仕事です。一ヶ月契約でその間は寮に入れます。ただ、冬の寒いときは病気の後遺症がひどくて……左脚が痛むのと血圧が170~190に上がってめまいがひどいんです。だから、冬の間はまったく働けません。
 西成にいたとき、一度警察に捕まったというか、見つかったことがありましてね。ボクはほとんど家出同然でしたから、オフクロが心配して捜索願いを出してあったようなんです。それで警察署に連れて行かれて、そこから家に電話を入れてオフクロと話しました。受話器の向こうで、オフクロはただ泣いているだけでした。ボクは「男たるものが一度家を出たからには、こんな状態でおめおめと帰れない」とだけ伝えて切りました。

■教会のミサで女性と出会った

 新宿に出てきたのは2年前です。派遣される工場が、長野とか、静岡、茨城なんかに多くなって、こっちにいたほうが便利だからです。季節のいいときに働きに出て、冬は新宿で野宿をしています。
 新宿で暮らすようになってから、キリスト教の教会に通うようになりましてね。ホームレスのような境涯まで堕ちてしまい、苦しいときの神頼みというか、心の平静を得たいというような気持ちからです。もともと仏教徒で、それも信仰心なんてなかったんですがね。
 ビルの地下にある小さな教会ですが、そこの牧師さんの説教が上手なんです。「欲に執着する心を捨てなさい」とかね。いい話が多い。ボクらバブル経済を経験しているから、どうしてもそれに引きずられていますからね。反省させられます。毎週日曜日のミサには欠かさず出ているんですよ。
 そのミサで若い女性と知り合いましてね。まだ20代でOLをして働いている子です。非常に敬虔なクリスチャンで、ボクがホームレスだということを知っていて親切にしてくれます。そのやさしさに惹かれましてね。彼女のほうもボクのやさしいところがいいらしくて、個人的につき合うようになったんです。この歳になって、そんな女性にめぐり合うなんて、自分でもちょっと驚いています。
 デートをするといっても、ボクには金がありませんから、彼女にみんな払ってもらっています。食事代とかはもちろん、ときどき小遣い銭なんかももらったりして、ずいぶん散財させてます。ゆくゆくは結婚したいと考えています。彼女のほうもそう考えてくれているようです。
 だけど、ホームレスの身で結婚でもありませんからね。まとまった金を貯めて、小さな店でいいから持ちたいですね。おでん屋とか、小料理屋のようなものを始めたい。ボクは理髪店をしてましたから、やはり客商売が向いていると思うんです。だから何か商売を始めたいですね。
 そろそろ季節もよくなってきましたから、また工場に出て働こうと考えています。それで金を貯めて、店を持って、結婚をして……というふうになればいいんですが。
 男たるもの一度家を出たからには、みじめな格好では帰れませんからね。もう一度やり直して、ひと旗揚げて、嫁さんを連れて帰りたいですよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/別れた女房とよりを戻したい・佐藤純一さん(47歳)

■月刊「記録」2000年9月号掲載記事

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■酒が元で傷害事件を起こす

 32か、33歳だったと思う。仕事の帰りに友人と飲み屋で一杯ひっかけていたんだ。そのうちに友人がほかの客に絡まれて、殴り合いのケンカになった。ボクは止めようとして割って入ったんだけどね。相手の男は止めに入ったボクにも殴りかかってきた。それにボクの友人が顔からダラダラと血を流していてね。それを見てカーッと熱くなっていた。無我夢中で男に殴りかかっていった。酒も入って酔っていたし、ただ夢中で訳もわからずに殴り続けた。(※佐藤さんは偉丈夫で屈強な体躯の持ち主である)
 ほかの客たちに止められて我に返ったとき、相手の男は床にぶっ倒れてハアハアいって血だらけになっていた。半身不随の大ケガだったらしい。ほかの客に止められてなかったら、相手が死ぬまで殴り続けていたかもしれない。警察が呼ばれて傷害の現行犯で逮捕され、拘置所に三ヶ月間入れられた。裁判で執行猶予がついたから、刑務所には行かないで済んだけどね。
 そのころ、ボクは電気工事の会社で働いていてね。裁判が済んで、仕事の仲間や上司は会社に戻ってくるようにと誘ってくれたんだ。でも、どうしても戻る気になれなかった。みんなが事件のことを知ってるからね。ボクのことを凶暴な男だと見るかもしれない。そんな仲間の視線のなかで働くのはつらいと思ったんだ。
 しばらく失業保険で食いつないでから、アルバイトで働くようになった。ボクには電気工事の資格があったから、アルバイトだけでもけっこうかせげたんだ。それを覚えてしまって、だんだんに遊びグセがついてしまったんだな。

■浮気が女房にバレてしまった

 生まれたのは中部地方のある町。家は旧家で、ちょっとした資産もあった。大学になかなか受からなくてね。動物が好きで獣医になりたかったんだ。オヤジが国立大以外は金を出さないって言うから、旧二期校のS大農学部を狙ったんだけど三浪してもダメだった。
 いい若いもんが田舎町でブラブラしていると目立つからね。それでオヤジの知り合いの代議士に預けられて秘書をやらされた。でも、政治の世界なんて汚いもんだよ。道路を通す計画があると、さっと土地を買い占めちゃったりして、私腹を肥やすことしか考えていない。だから、すぐにイヤになって辞めた。
 そうしたら極道をしている叔父に預けられて、その口利きで海上自衛隊に入れられた。横須賀に配属になって、ターター船というミサイル船の甲板員になった。下っ端の雑用係だよ。最初の三ヶ月間だけは訓練もきびしかったけど、あとは楽なもんだった。
 訓練航海で世界一周をしたこともあるよ。三ヶ月くらいかけて世界の海を回るんだけど、途中七、八ヶ所の港に燃料や食料補給のために寄港するだろ。艦隊を組んで船が港に入っていくと、どこでも桟橋には商売女たちがズラッと並んで待っていてね。ああいう女たちには、士官よりもボクたち水兵のほうがもてたから、いろんな国の女と遊んだよ。
 自衛隊には三年いて満期除隊で、海士長で辞めた。旧陸軍でいうと伍長くらいだね。それで東京に出てきて電気工事の会社で働くようになった。24、25歳くらいだったんじゃないかな。結婚したのは29歳のときだね。仕事先で知り合ったんだけど、九州出身のいい女だった。ボクが傷害事件を起こしたときも、いやな顔一つしないで逆に励ましてくれたよ。
 ところが、2年くらい前だったか? ボクの浮気がバレてしまってね。それで女房は怒って九州に帰っちゃったんだ。浮気の相手は飲み屋の女。その女に小さな子どもがいて、ボクにもなついてかわいくてね。ボクたち夫婦には子どもがなかったから、よけいにかわいかった。その子がディズニーランドへ行きたいっていうんで、ある日3人で遊びに行ったんだ。そうしたら、そこを女房の知り合いに見られてバレてしまった。
 女房に逃げられてから、何もかもがイヤになってね。バッグ一つに荷物を詰めて、アパートを引き払ってここ(新宿中央公園)に来て住むようになった。
 こういう暮らしも、のんびりしていていいもんだよ。こういう生活があって、いろんな人生があることがわかって、いい経験をさせてもらってるね。はじめは充電期間のつもりで、一年したら出ていこうと思ってたけどやめられなくなったよ。
 公園に小屋をつくって住むようになったのも、ボクは早いほうだった(※佐藤さんはベニヤ板とブルーシートでつくった小屋で暮らしている)。いまじゃ、みんなが真似して、この公園でも小屋で暮らしているのが増えたよね。
 仕事? してるよ。いまは一週間働いて、一ヶ月遊ぶってふうだけどね。働きたいと思えば、いつでも回してもらえるんだ。電気工事の仕事じゃなくて、日雇いの土工だよ。電気工事のほうは仕事道具を盗られてしまってね。でも、日雇いのほうがいいよ。体を使うだけで、煩わしい人間関係がないからね。
 この公園にも悪いのがいて、仲間が日雇いでかせいだ金をピンハネしているヤツがいるんだ。ヤクザまがいのヤツさ。ボクは屈しないよ。「いつでも来い」と言ってある。ボクも体を張ってるからね。弱い者イジメは大嫌いだよ。
 ヤクザの世話にならなければ、ボランティアの世話にもなっていない。プータローにはプータローのプライドがあるからね。弁当でもタバコでもいつでも手に入れられる。余れば年寄りや女のホームレスに配ってあげるようにしている。誰の世話にならなくてもやっていけるよ。

■好きな酒をずっと断っている

 いま考えているのは女房との復縁のことだよね。女房さえ戻ってくれたら、またアパートを借りてちゃんと働こうと思っている。これまでに女房を迎えに3回も九州まで行ったんだけどね。なかなか首を縦に振ってくれないよ。女心はむずかしいもんだ。
 例の傷害事件を起こして以来、大好きだった酒を断っている。正月だってコーラしか飲んでない。酒を飲めば熟睡できると思うけど、一回でも飲んでしまえば終わりだと思うしね。いまは女房と復縁できるまでって誓いを立てて断っている。
 ボクは詩を書いているんだよ。路上に寝転がる生活をしながら、そこで見たこと、感じたことを、詩に書いて残している。いつだったか、高校生が訪ねてきてね。ボクに詩を書いてくれと言うんだ。なんでも都知事から一般の人、それにホームレスまでの詩を集めて、現代の東京都民の万葉集をつくる計画だという。ボクが詩を書いてることを、誰かに聞いたんだろうね。
 ほら、この『マンヨウシュウ』(九段高校文芸部編)って詩集に載っている「限りない愛」が、そのときボクがつくった詩だよ。読んでくれるかい?

私は私は生きている生きている今日も/都会の巨大なビルディングの狭間…/押しつぶされそうになって/(略)/情熱はどこに行ってしまったんだろう/空に浮かぶ雲のような人生のレールがあったのに/逆の人生を歩んでしまった私…(一部抜粋) (■了)

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ホームレス自らを語る/米国でもホームレスを経験した・林光夫さん(50歳)

■月刊「記録」2000年2月号掲載記事

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■米国はホームレスにやさしい

 5年前、まだ工務店で働いていたころで、ホームレスになる前のことですが、アメリカに一人で遊びに行ったことがあるんです。パスポートと往復の航空チケットだけを持って、ポケットには10円玉一つしか入っていませんでした。自分でも笑っちゃいますけどね。
 未知のアメリカという国を見たくなって、思い立つとすぐに行動に移してしまう性格なんです。冒険心といったらいいか、人生にはどんな結果が待っているかわからない。とにかく行ってしまえば、あとは何とかなるだろう。そんな気持ちでしたね。
 ロスの空港に着いて、とりあえず町を目指して歩きました。金を持ってないから、歩くより仕方ないですからね。途中、住宅街に迷い込んだり、方向がわからなくなったりで、ヘトヘトになって歩いていたんです。そうしたら親切な黒人青年が車で拾ってくれましてね。その車でダウンタウンまで送ってもらったんですが、フリーウェイを使って20分以上もかかりました。あのまま歩いていたらどうなってただろうと思いますね。
 ダウンタウンに着いて、彼に金を持っていないことを言うと、教会に連れて行ってくれました。レスキュー・ミッションといって、教会がホームレスの保護活動をしていて、その施設なんですね。そこに一週間やっかいになりました。待遇はよかったですよ。食事も普通のアメリカ人が食べているものと変わらないくらいのものが出ましたし、衣類も三着分支給され、シャワーがついてベッドも清潔でした。
 アメリカ人というのは親切なもんで、夕方にもなると街のあちこちで、個人ボランティアがホームレスにパンやバナナを分け与えている光景が見られます。ホームレスも日本の愚痴っぽいのと違って、みんなサバサバしています。通行人も日本ではうさんくさそうに見て、悪しざまに言ったりしますが、向こうではジロジロ見るなんてことはしません。アメリカはいいところですね。
 レスキュー・ミッションが保護してくれるのは一週間までなんです。それでそこを出された晩は、リトルトーキョーの公園のベンチで野宿しました。そのとき日系人の中年男性が寄ってきて、いろいろ愚痴を話すんで聞いてあげたんです。そうしたら礼だといって20ドル札をくれました。
 で、次の日にその金でグレーハウンド(長距離バス)に乗って、サンディエゴまで行ったんです。この街には海軍基地があって、前に横須賀で知り合った水兵さんが働いているはずなんで訪ねたんですが会えませんでした。名前だけしか知らなくて、所属部隊とかわからないと無理なんですね。基地には大きな軍艦がとまっていました。
 サンディエゴでもレスキュー・ミッションで一週間やっかいになって、それで日本に帰ってきました。いまこうしてホームレスをしていますが、アメリカと日本でホームレスを経験したのは、私くらいのものでしょうね。
■一人で絵を描いているのが好き

 生まれは千葉県です。水産高校を出て漁船員になりました。ところが、船酔いがひどくて、いつまでたっても慣れない。それで船を下りました。
 次に、父親が工務店をやっていたんで、そこで大工の見習いにつきました。ところが、これも足場から落ちて、腰の骨がずれるという大ケガをしてしまいましてね。病院に半年間入院して現場に復帰したんですが、高いところが怖くなって昇れなくなりました。高所恐怖症です。それで大工もあきらめました。船酔いする船乗りとか、高所恐怖症の大工なんて笑っちゃいますよね。
 あとは関西に行って土木建設の会社で働いたり、関東に戻って新聞販売店をいくつも転々としたり、兄が工務店を始めたんでそれを手伝ったり。そんなことを繰り返して……でも、どこも長くは続きませんでしたね。
 人づき合いが苦手なんです。酒も一滴も飲めません。だから、酒の席が嫌いでなるべく出ないようにしているんです。でも、どうしても断れない場合もあります。酒の席っていうと、上司や同僚の悪口、それに愚痴ですよ。私はそういう話を聞くのが嫌いで、うまく合わせて話すこともできない。だから、悪口や愚痴が始まると、途中であろうと中座して帰ってきてしまうんです。そんなことをしていると、職場での人間関係がギクシャクしてきて孤立するようになり、辞めざるをえなくなる。それの繰り返しでした。
 一人でいることが好きなんです。絵を描くことが好きで、仕事を終えたら一刻も早く帰って描きたい。それもあって人づき合いは悪かったですね。絵のほうは油絵で風景画が得意でした。

■霊感が強くて不眠症で入院

 私は非常に霊感が強いんです。よく地縛霊を見たり、金縛りにあったりします。街を歩いていて背中のあたりがゾクゾクしてきて、全身が総毛立つような感じに襲われることがあります。すると、そこは前に死亡交通事故のあった現場だったとか、ホテルの部屋で寝ていると金縛りにあって、あとで聞くと以前その部屋で若い女性が自殺をしていたとか、そういうことがよくあるんです。 鎌倉の新聞販売店で働くことになって、新しくアパートを借りたときも、部屋に入ってみると妙に薄気味が悪い。背中にゾクッと寒気が走るんです。部屋を借りて何日目かの晩でした。夜寝ていると、部屋の明かりが急に明るくなったり暗くなったりして、両肩が押さえ込まれるようになって動けなくなりました。金縛りです。実際にはほんの2、3分のことなんでしょうが、本人には10分以上に感じられます。声は出せなくなるし、体に何かが入ってくる感じもして、「早く出ていってくれ」と祈るばかりですね。ホントに気味の悪いもんですよ。
 あとで聞いたら、その部屋でも前に夫婦もんが心中事件を起こしていたことがわかりました。
 30代は不眠症に悩まされたころがあります。二週間くらい一睡もできない状態が続いて、睡眠薬で無理して寝るんですが、昼間頭がボーッとして人と話しても会話がズレてトンチンカンなことを喋るんですね。「これはおかしい」ってことで病院に入院しました。これも霊感が強すぎるせいだと思います。
 その入院中に絵を描いて、その病院の院長にプレゼントしたんです。すると院長は「得難いものを頂戴しました」と喜んでくれ、私には絵の才能があると言ってほめてくれました。病院長をするくらいの人ですから、見る目はたしかだと思うんですよね。
 プロの画家に絵の腕前を見てもらったこともあります。三年くらい前で、横浜に住んでいる画家の人でした。その人の見ている前で、花瓶に入った造花をデッサンしたんですが、「いい腕をしている。一年くらいみっちり勉強すれば絵で食えるようになる」と言われましたよ。その絵もホームレスになってからは描いてませんけどね。
 ホームレスになったのは二ヶ月前です。兄の工務店で働いていたんですが、ちょっとしたことでそこを飛び出してしまったんです。それまでも兄のところに居づらくなっては逃げ出し、詫びを入れて戻るというのを幾度となく繰り返してましたからね。もう、こんどは詫びを入れても許してはくれないでしょうね。だから、帰るところがなくなってしまったんです。
 慣れないホームレスをしていくのは不安でいっぱいです。人とのつき合いが下手ですから、人間関係には気が滅入りますね。ホームレスの仲間には加わらないでいつも一人でいるんですが、ちゃんと生きていけるのか心配です。
(※ホームレスをしながら絵を描いて、それを売って生活の資を稼いだらどうか提案してみた)
 ああ、そうですね。こういう生活をしながらでも、風景画なら描けますよね。ここ(新宿中央公園)の風景を描けばいいんですもんね。油絵は道具がないから無理ですけど、クレパスと画用紙はいまでも持ち歩いているんです。絵を描くんだったら、わずらわしい人間関係もないですからね。それをやってみますよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/恋人は退職金とともに……・北里英二(40歳)

■月刊「記録」2001年3月号掲載記事

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■大手企業の社員だった

 一昨年の夏の終わりごろですかね。リストラされたんですよ。38歳でした。川崎にある東芝の工場で、冷蔵庫を作っていました。実は会社を辞めたとき、同僚から仕事の引き合いもあったんです。でも退職金が四百数十万円入って、少しブラブラしようかなと。
 会社の寮に住んでいましたから、辞めてからは友だちの家に泊まったり、サウナで寝たりしていました。そのうち金もなくなって、39歳のときに初めてテントを建てたんです。
 18歳までは、大阪に住んでいたんですよ。大学附属の高校を出て、すぐ大手アパレルに勤めました。東大や慶應に進学した高校の友だちをうらやましいとも思ったんですが、勉強が嫌いだったんです。スポーツは得意だったんだけれど(笑)。親にも「勉強する気がないなら働け」と言われて、それはそうだろうなと思って就職したわけです。
 職場が決まったときには、父親から「おめでとう」と言われました。大きな会社でしたから。でも、仕事は衣服の裁断。同じことの繰り返しですよ。でも五年間、真面目に勤め上げました。
 会社を辞めたのは、23歳のときかな。東京に友だちがいたから遊びに来ていて、それで辞めるのを決めたんです。新宿だったか原宿だったかを歩き回っていてね、ふっと東京で一旗揚げたくなったんですよ。すぐに両親に電話しました。
「こっちで身を立てるから」と言ったら、父親も「好きにすればいい。人には迷惑をかけるなよ」とだけ答えてね。会社には親から電話してもらって。ほとんど勝手に辞めたようなもんでしたね。それから10年間、33歳になるまで一度も故郷に帰りませんでした。東京には、遊びに来ただけだったのにね(笑)。
 友だちの家に居候しながら就職活動しましてね。寮のある会社を探しましたよ。だって住む所がないんですから。すぐに見つかったのはガードマンの会社でした。仕事はきつくなかったし、悪い仕事とは思わなかったけれど、会社のみんなが言うんですよ。ガードマンは年輩者の仕事だって。たしかに社員のほとんどが歳を取っていましたから。それで29歳のときに職安の紹介で大手電機会社に転職したわけです。

■女の人にのぼせてしまった

 自分でもなんでホームレスになってしまったのか、よくわからないんですよ。ただ一つだけ、女の人と知り合ったことがね……。のぼせちゃったんです。
 出会ったころは退職金も出たばかりで、金を持っている時期でした。けっこう飲んでいたから、かなり遅い時間だったんでしょうね。新宿の区役所通りにあった喫茶店の前に水商売風の女の子がいましてね。酔った勢いで声をかけたんですよ。「よかったらお茶でも飲みませんか」って。人を待っているみたいだったんですが、ついてきてくれたんですよね。
 2人でその喫茶店に行ってコーヒーを飲んで、朝までカラオケですよ。何を言ったのか覚えていないけれど、彼女もいろいろな曲を知っていました。僕も歌うのが好きだったから、とても楽しかったんですよ。
 んー、そのときは何を話していたのかな? 面白い話で笑ったり、芸能人の話とかかな。帰り際には、「よかったらお店でも飲みましょう」って、名前とお店の電話番号を教えてくれましてね。
 年齢は26歳ぐらい、身長は165センチぐらい。美人でね。水商売風の派手な服装だったけれど、僕のタイプでした。すごくプロポーションがよかったんです。それに何となく話しかけやすかったんですよ。声をかけたときには、彼女の顔を見たのも初めてだったのに、自然に話ができましたから。夜の区役所通りって、きれいな人がいっぱいいるじゃないですか。なかでも彼女は素敵だったんですよね。
 それから店に飲みに行くようになって、プレゼントもねだられるままに買って。時計とか、洋服とかね。いやー、時計なんてたいして高いもんじゃないですよ。あげたのはエルメスのケリーウォッチ。20万円ぐらいかな。むしろ高いのはスーツ。シャネルとかベルサーチとか、一着50万円ぐらいしますからね。
 でも買ってあげるのは、男の甲斐性でしょうね。気持ちいいんです。「どっちがいい」なんて彼女に聞かれて二人で相談したりして。試着した服を見せる彼女がかわいくて。お店の人も丁寧に対応してくれますし。水商売ですから選んだ服はとても派手なものでしたけれど、自分が買ったスーツを着た彼女と歩くのが何だか気持ちいいんです。自分がプレゼントした高い服を着て、きれいな恋人が一緒に歩いているわけだから。
 プレゼントだけでも相当使ったでしょうね。あとデートの食事代とかも、けっこうかかっているとは思いますけれど。まあ、それは二人で楽しんだから、お金がかかっても当たり前だと思うんですけれど……。

■愛する彼女は結婚していた

 ところがしばらくしてから、お金を貸してくれと言われたんです。なんでも車をぶつけちゃって、お金が必要だからって。最初は40万円ぐらいだったと思います。 いや、働けば金なんか入ってくるからと思ったんですよ。まあ、いま考えても彼女に夢中だったと思います。一緒に暮らしていい家庭をつくれるかもしれないと思っていましたから・・・・。
 それからも、たびたび彼女からお金をせがまれたんです。困っていたみたいだし、協力してあげたかった。だから何回か、彼女の銀行口座に振り込みました。もちろん住所と電話番号を、きちんと聞いてね。返してくれることを疑ってもいませんでした。
 ところが彼女は、突然消えちゃったんです。貸したお金は、250万円ぐらいになっていました。お店に行ったら休みをもらっていたし、電話をかけてもいつも留守電。
 それでね、行きましたよ。彼女が教えてくれた住所に。埼玉県の久喜市。東北本線に乗って、すごく遠いんですよね。しかも降りてから彼女の家までが、歩いて20分ぐらいあるんです。畑に囲まれた寂しい道をトボトボ歩いてね。目的地についたらマンションでした。ドキドキしてポストの名前を確認したら、たしかに彼女の苗字がありました。でも名前が男なんですよ。まさか人妻とはね……。
 信じられなくてね。近所の人に聞き回ってみたんです。近所づき合いもあまりなかったみたいだけれど、二、三年前に引っ越してきたこと。夜遅い時間に電気がついていること。奥さんが20代半ばで、彼女に似た背格好だったこともわかりました。
 その日は夜遅くまで、外で帰りを待ったんです。でも、彼女は家に帰ってきませんでしたね。ショックでした。彼女が連絡をよこさなくなったうえに、結婚していたんですから。誰も信じられなくなりましたよ。
 もしだますつもりなら、本当の住所や電話番号なんて教えないでしょ。そう思いませんか? 友だちなんかは、「それこそアリバイ工作だ」なんて言うんですけれどね。詰め寄られても、言い逃れできるようにね。警察に訴えても、借りただけだって言えるように。
 彼女に会いたいけれど、彼女の旦那がどんな人かわからないと、訪ねるのも怖いですよね。ヤクザ者だったら、どんな因縁をつけられるかわからないですから。脅されても困るし。

■誰とも会わなくていい

 いまはだいぶ気持ちも落ち着いてきましたけれど、いまだに信じられません。あれは何だったのかなって。ホームレスをしてテントにいれば誰とも会わなくていいでしょ。それがうれしいんですよ。いや、いつまでもホームレスをしているつもりはありません。でもいまはまだね。
 彼女が消えなければ、プロポーズしていたかもしれません。結婚はできなかったかもしれないけれど。彼女は、僕の究極の好みだったんです。 (■了)

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ホームレス自らを語る/29歳で消えた光・児玉正太郎(50歳)

■月刊「記録」2002年1月号掲載記事

*          *          *

■白内障が突然に

 横断歩道の前でパッと消えたんです。歩いているときに。目に幕がかかって、その瞬間に消えました。左目はモヤモヤと白い感じでしたけれど、右はわからなくなったんです。いや、申し訳ないけれど、暗くなったんじゃなく消えたんですよ。あっけなかったですね。シュンっていう感じですか。
 当時住んでいた横浜の寿町の近くでした。申し訳ないんですが、周りの人に助けてもらって病院にね。医者に懐中電灯で照らされたとき、左目は光が見えたんですよ。でも右目はわかりませんでした。診断は白内障。もちろん視界が消えたときに、目が見えなくなったのはわかっていたんですがね。
 それから入院です。手術までは長かったですよ。半年待ちましたから。準備が大変なんです。執刀してくれる先生の順番も待たなくちゃいけませんし。手術が終わって、左目は少し見えるようになりました。視力はわかりませんが、福祉でいえば五級ぐらいだと思います。メガネをかければ、もう少し見えるようにもなると思うんですがね。
 退院してからは、申し訳ないけれど福祉施設にお世話になりました。一部屋に八人ぐらい入れられましたが、ベッドは一人一人別ですし、ごはんも食べられますし、テレビだって見られる。たばこもね。風呂は順番に入るんですがね。しなくちゃいけないのは掃除ぐらいでした。何も困ることはありませんでしたよ。
 でも入って2ヶ月ぐらいで、申し訳ないんですが、施設を逃げ出しました。病院に通院したとき、何となく帰りたくなくなっちゃったんです。神奈川県相模原市の病院から横浜市の施設に帰らなくちゃいけないのに、山の方に行っちゃいました。気づいたら箱根ですよ。自信がなくなっちゃったんです。集団生活というのもあります。人に対して悩んでいた面もあるんですね。自分自身のワクというのかな、思いというんですかね。自分の壁があったんです。越えられないね。白内障になって、昔より弱くなっちゃったということですかね。
 自分では、まだ働けるとも思ってもいました。もちろん一人で暮らすことと施設での生活を考えれば、施設の方が安心だとは感じていましたよ。それなのに自信をなくして施設を出たんだから、矛盾していますよね。結局、29歳で失明してから21年間、ホームレスですよ。
■本当の母ではなかった

 誕生日は、昭和26(1951)年7月16日。
 小学校1年か2年ぐらいですかね。母が死にました。アル中だったみたいなんです。死ぬ半日ぐらい前だったと思うんですが、寝ていた母に呼ばれまして。寂しそうな顔でね。死にそうな声というんですかね。「しょう坊」って。枕元にあぐらをかいたら、「しょう坊、あの、うちが本当のお母さんじゃないよ」って。自分が死ぬのを覚悟していたんでしょうね。
 それまでもハッキリと言われたことはなかったんですが、生みの親じゃないことは、ある程度わかっていました。本当の母親についても知らされていませんが、誰だか見当がついてました。親戚のようにつき合っていた母親の友だちです。
 その本当の母親に最後に会ったのは、白内障になる前、28歳ぐらいだったかな。「一緒にごはんを食べないかい」って誘われてね。いつもは一緒に食事をするんですが、その日は何か遠慮しちゃって。それきりです。いま? 恥ずかしい生活をしているから、会えませんよ。 母が亡くなったときは、申し訳ないんですが近くの幼稚園で近所の友だちと野球をしていました。その日、なぜか高ーいフライが捕れたんです。スポッと手に収まったの。いつもは捕れないのに。虫の知らせというのかな。
 それから父親は再婚して、その父も母が死んだ2年後に脳溢血で亡くなりました。僕を育ててくれたのは、継母です。中学まで一緒に暮らしましたよ。ウチは貧乏だったんですが、小学校6年のときには塾にも行かせてもらいました。でも僕はお小遣いがほしくて、塾をやめて新聞配達のアルバイトを始めたんです。小学校は産経新聞。中学のときは朝日新聞でした。
 中学を卒業してからは工場や水商売で働いていました。親戚の人に助けてもらって郵便局で働いたこともありましたね。でも郵便局に勤めていたのは申し訳ないんですが半年程度でした。
 いや、オートバイがほしかったんですよ。それで郵便局の仕事が終わってから、水商売で働き始めて、そのうちにやっぱり水商売に戻ろうと思って、郵便局を辞めました。いや、郵便局のお金は悪くなかったんですけれどね……。

■シンナーがやめられない

 スナックで働いていた21歳のときに、喫茶店のウエイトレスをしていた人と結婚。彼女は17歳でした。でも、結婚してしばらくして、僕は水商売を辞めたんです。胃潰瘍になりましてね。それから少し遊んでいたんですよ。妻が水商売で、家計を支えてくれましたから。ちょうどそのとき、申し訳ないけれどアンパン(シンナー)を始めたんです。
 昔、少しだけ吸ったことがあったし、いまよりも買うのは簡単でしたから。はんこがないと売ってくれなかったけれどね。ビニールに入れて、隠れて吸っていました。妻に見つかっては、「ダメだ」って意見されていたんですがね……。
 申し訳ないけれど、お酒を飲むよりもいい気持ちです。酔い方が違うというのかな。信じてもらえないかもしれないけれど、幽霊が見えるんですよ。チラッと人の姿が見えるの。吸うと。楽しいときには、若い女の子が見えたり、話し声が聞こえたり。
 お酒を飲むと吸いたくなるんですよね。寂しくなっちゃう。刺激が足りないというんですかね。だから雑貨屋さんで、ラッカーシンナーを買ってくる。悪酔いになるときもありましたよ。芯まで自分を追求しちゃうというのかな。自分の本当のみじめなところもわかっちゃう。それが嫌なんだけれど、もっと見たいという気持ちもあるんです。
 当時だって恥ずかしいと思っていたんです。20歳を超えてアンパンを吸っているなんて。羞恥心もあるし、落ち着かなきゃとも思う。でもやめられなくて。ついには頭が狂っちゃった。部屋に独りで閉じこもっちゃうんですから。仕方なく薬で治療しましたよ。恥ずかしい話ですが、アンパンのおかげで23歳のときに妻と別居、25歳で離婚しました。
 それからの仕事は、土木関係が多かったですね。それでも25歳ぐらいまでは、東京・葛西で借家暮らしをしていました。寿町のドヤに住むようになったのは、28歳のときかな。そのあとに白内障でしょ。
 施設を出て箱根に行ったあとで新宿に来たんですよ。2ヶ月ぐらいいましたかね。手配師に建設会社の仕事を紹介されて。でも、申し訳ないけれど一週間ぐらいしか続きませんでした。目が見えないと、やっぱり仕事にならないんです。

■私のいまは壁のシミ

 それからはスーパーが捨てた食べ物を拾い、歩いて日本を回るようになりました。一番西は名古屋まで行きましたよ。静岡県の朝霧高原で、3年以上暮らしたこともあります。平成に入ってからだから、38歳ぐらいですかね。ベランダのついた民家だったんですが、鍵がかかってなかったので入り込んで、住み始めました。
 そのときですよ。お金をもらうために、生まれて初めて箱を置いて座ったのは。申し訳ないんですが、フィリピンからの観光客に初めて助けてもらいました。そのときは100円玉があって、1円もあったかな。
 たまにいっぱいお金をもらうこともありますよ。伊勢志摩の国立公園では、2000円もらいました。あと、どうしてもお金が必要なときは、土地の役所に行くんです。なるべくアルバイトみたいなお手伝いさんが窓口にいるときをねらって。申し訳ないけれど、それで500円とか300円もらえますから。
 まだ50歳ですから、死ぬまでには北海道に行ってみたいんです。ただ道がわからないですからね。暗くなるととくに怖い。昔、栃木で猿が出てきて、僕が笑ったらカチンときたんでしょうね。襲われたことがあります。 仕事したいですよね。アンパンも買えるし。戻れるなら、アンパンをしていたころに戻りたいですもん。
 いまは壁のシミみたいな感じですね。20年も外で暮らしているんですから。 (■了)

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ホームレス自らを語る/暴力から逃れて・岡山滋さん(66歳)

■月刊「記録」2002年2月、3月号掲載記事

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■社長が覚せい剤で捕まった

 雨の日でね。社長が帰ってきて「おつかれー」と声をかけたら、愚痴が始まったの。あー、くるなーと思っていたら、「俺を誰だと思ってるんだー」って。だから「社長だろ。社長なら社長らしくしろ」と言ったの。それが頭に来たみたいだよ。
 テーブルをバーンとひっくり返して、そのあとペットボトルに入った4リットルの焼酎を、台所でジャージャー流し始めたの。「酒だってタダじゃないんだよ」って言ったら、社長の目が変わってさ。これは危ないかなと思って、「外に出るよ」と一声かけて玄関を開けてたら、後からドンとけられたんだ。あとは記憶なし。アパートの二階から階段の下まで転がり落ちて、2日間意識不明だったから。救急車で病院に運ばれて、10日間も入院したんだ。それで「おまえと一緒にいたら殺されるから」って言って、家を出たんですよ。
 ホームレスになる前は、解体屋(バラシ)で働いていたの。
 バラシっていうのはね、建築現場でコンクリートを流し込む枠を作って、コンクリ打ったあとに枠をばらす仕事。知ってる? 4メートルのパネルを85枚ぐらい使うのが普通かな。いや、安全な仕事だよ。過去一回だけ、4メートルのパネルを押えていたパイプが、メリメリ、バーンって音を立てて曲がってね。コンクリが、そこいら中にあふれ出たこともあったんだ。でも、そんなことは滅多にないの。
 ただ不景気で単価は下がっているみたいだけどね。高いときで一平方メートル1200円だったのが、800円ぐらいまで下がっているらしいから。職人の値段も、1万8000円が1万4000円になったって聞いたよ。
 勤めていた会社は、だいたい20人ぐらいの従業員が働いてたの。フィリピンや中国、韓国の人なんかも多かったかな。解体そのものはもちろん、職人さんのご飯や弁当を作るのも俺の仕事。
 バラシの仕事は、嫌いじゃないよ。酒を飲まなければ、社長も優しいし。いや、シラフはおとなしい人なんだよ。ただ、酒を飲むとガラッと変わるんですよ。すぐ殴ったり、けったり、物を投げたりするの。上の歯なんか、殴られて八本も抜いているからさ。そのときは貧血を起こして倒れたんですよ。めがねは3回壊されたし。
 社長が暴力を振るうたびに、俺は家を出ちゃうんだ(笑)。でも翌日になると、心配になるの。ご飯を食べたかなとか、洗濯はしたかなとか。貧乏性だね。酔いがさめれば、「もう暴力は振るわない」と社長も言うんですよ。根は悪い人ではないし。でも飲むとね、ダメ。
 俺よりも10以上歳下だったけれど、仕事ではできたと思いますよ。社員を連れて、毎年、沖縄にも行っていたし。そういえば沖縄でお金が足りなくなって、親会社に電話して100万円送ってもらったこともあったね(笑)。
 俺は、よく海外に連れていってもらった。ほらパスポートもあるでしょ。自分で行ったのも入っているけれど、香港、フィリピン、グアムでしょ。サイパンは4、5回行ったかな。
 もともと酒ぐせは悪い人だったけれど、俺が意識不明になるほど荒れた原因は覚せい剤で捕まったことなんですよ。不景気な上に、信用を失ったから仕事がこない。それで荒れたの。
 昨年の11月末、いきなり8人の刑事が自宅に来たの。覚せい剤の捜索だって。そうしたら社長のベッドの下から、銀紙に包まれた薬と注射器が見つかったんですよ。俺とは部屋が違うし、社長が覚せい剤をやっているなんて思いもしなかった。
 でも、大変だったのはそのあとでさ。俺は給料をもらっていなかったから。いや、本当ですよ。1円ももらっていないんだから。解体屋の仕事を始めてからね。もちろん若い衆には、給料が支払われていたけれどね。ほら、俺は食事を担当していたから、米なんかがなくなると、食費としてお金をもらっていたんです。
 いきなり社長が捕まったら、自分の金がないんですよ。取引先からお金が振り込まれるまでの一ヶ月間、食うや食わずでした。金がなきゃ、どうしようもないでしょ。大家さんが持ってきてくれるご飯でしのいだりして。指輪を三つ、それに時計を質屋に入れたよ。やっぱり食べ物がないと、本当にみじめな気持ちになるんだよね。
 もう、お金には執着はないの。ただ寂しいよね。一生懸命働いて、何も残らないなんて。1ヶ月の食費もないんだから。
 11月末に捕まって、12月いっぱい留置所にいたのかな。今年1月に姉さんが沖縄から出て来て、200万円の保釈金を支払ったらしいんだ。けど、いまはそのお姉さんが覚せい剤を使って刑務所にいるっていうんだから。

■アイロンを持つのをやめた

 故郷は新潟県。母親は、小学校を上がる前に満州(中国東北部)に行っちゃったの。子どもを置いてね。だから五つまでは、母親の妹に預けられた。それから姉さんが結婚して、その家で俺を育ててくれたの。
 母親? 戦後、子どもを一人おぶって、乞食みたいな格好で帰ってきたよ。とてもお袋だと思えなかった。女一人で満州に行って、大変だったとは思うんですよ。でも、目の前に現れてもお袋と思えないし、何より嫌いだったから。いまでも思い出すのが嫌なんだ。
 大人になってから、一緒に暮らそうと言われたこともあったんですよ。上野駅まで迎えに来てくれて、俺も切符を渡されて、列車には乗ったの。でも「トイレに行くから」と席を立って、もう戻らなかった。切符はもらったけれども、一緒に帰る気なんてなかったんだ。
 俺を育ててくれた姉さんは、優しかったよ。でも姉さんのおやじ(夫)は酒乱でね。小学生2、3年のころかな。吹雪の中、どぶろくを買いに行かされたことがあったよ。新潟の雪だからね。歩いているうちに、足の感覚がなくなっちゃうんだ。本気でおやじをぶっ殺してやろうと思ったよ。
 姉さんは美容院をやっていた。中学校を卒業して、店に入ることも勧められたけどね。男が女の髪なんかいじれるか、と思ったんですよ。それで洗濯屋に奉公に行ったの。おばあちゃんの竹馬の友が、東京の上高井戸で店をやっていたから。
 当時、上高井戸の駅(現在の芦花公園駅)なんか、商店が三軒しかなかったんだから。近くに明治大と日大はあったけどさ。冬の配達が大変でね。朝は凍っているからいいの。日が昇ってくると、地面が溶けてくるでしょ。そうするとチェーンに泥がつまって、走れなくなっちゃったんだから。ほら、当時は道も舗装されていなかったからね。「こりゃ、新潟より田舎だね」なんて思ったもの。あの周辺の土地もまだ安くてさ。仕送りを貯めた学生が、卒業までに土地を買ったなんて話も聞いたよ。
 お客さんにはかわいがられました。お盆やお正月には、新しいズボンや靴下、下着もくれたりしたから。自分で買ったことなんてありません。
 一通り仕事ができるようになったから、八年間で奉公を終えてね。田舎に帰ったの。姉弟が洗濯屋を開くために資金を出してくれるという話もあったの。アイロン一丁あれば、店を出せるからね。でもやめたんだ。機械をそろえないとお客さんが出してくれない時代になってきたから。もう、洗濯屋の時代じゃなくなったの。それから3年ぐらいは、アイロン職人としてクリーニングの工場で働いていたんですよ。
 でも、その3年できっぱりとアイロンを持つのをやめました。工場を辞めて以来、一度もアイロンでかせいでいないから。たとえ失敗しても、自分で選んだ結果なら満足できるでしょ。
 それで川崎の会社に就職してゴム製品を袋詰めしていました。でも、俺はゴムのにおいがダメだった。シンナーや車の排気ガスのにおいもダメなんですよ。体質かな。だから辞めたの。

■俺の青春時代かな

 それから一時期、実家に帰っていたんだけれど、また川崎に入社試験を受けに来たの。その一つの大手鉄鋼会社は、実家からの交通費も出してくれてね。二社を受けて両方とも受かったんです。結局その会社に決めましたよ。その会社は当時、バレーボールの全日本クラスが何人もいてね。職場も活気があったからさ。もう一社の方も「明日から働いてくれ」とまで言われたんだから。
 そこに勤めていたときに、結婚もしました。
 30歳を過ぎて、職場の先輩から言われたの。「俺は1年間おまえを見てきた。おまえなら安心だから、俺の妹を紹介しよう」って。
 あの当時、結婚しないとうるさかったんですよ。先輩の顔を立てる気持ちもあって、紹介されてからすぐに結婚しました。東京の蒲田で式を挙げてね。でも、結婚式は大変だった。風邪をひいて熱が出て、式が始まるまでは控え室でウンウンうなっていたんだから(笑)。
 女の実家から「家をやる」なんて言われたけど、「いりません」って断って、蒲田のアパートに住み始めたんですよ。でもね、結婚生活はひどかった。
 まず料理のできない人だったの。仕事を終えて家に帰っても、食事のしたくはできてない。俺が作るんだから。あと友だちを連れて来ても出前を頼むわけ。お寿司とか中華とか。ごはんも炊けなかったからね。いや、米のとぎ方から俺も教えたよ。でもやらないんですよ。やっぱり帰ってきても張り合いがないの。味噌汁ぐらい作れると思っていたからね。
 そのうちに、「昼間つまらないから、明日から働きに行きます」って、いきなり言われたの。突然だよ。それでギクシャクして、ひっぱたいたんだ。男にもがまんの限度があるからね。女は実家に帰っちゃって。しばらくして仲人に相談したの。そうしたら「ほっとけ。あのわがまま娘」なんて言われてさ(笑)。そのまま離婚。やっぱり結婚は、愛情がなきゃダメだよ。
 結婚生活はよくなかったけれど、仕事はすごく楽しかった。鉄板を作っていたの。これが面白くてさ。まず六角形か八角形にレンガを積むんですよ。それを枠にして、溶岩みたいに溶けた鉄を注ぎ込むの。滑車を使って溶鉱炉から出された鉄は真っ赤でさ。ゆっくりと枠の中を流れていくの。離れていても熱風に包まれて、じっとしていられないんだよね。
 床はかなり高温だからね。もちろんゴム底の靴なんてダメ。辞める前は革靴になったけれど、入社したころは下駄だよ、下駄。熱で下駄の歯がブスブスといぶり始めるんだ。仕事している間は、水を飲んじゃいけないの。よけいに汗が出るから。服が塩で真っ白になるほどね。のどが渇いたら頭痛薬ぐらいの大きさの塩の固まりを口に含むんですよ。
 鉄を注ぎ終わったら冷ます。水をかけてね。少し冷えたら枠を抜いて、滑車で鉄板を引き上げる。まだ赤い鉄がゆっくりと立ち上がって、それとともに熱風が頬に当たってね。あー男でよかったなー、この仕事につけてよかったと思うんだ。
 一緒に仕事をしている仲間も豪快でさ。昼休みに酒を飲んで、そのまま働く人もいたから。俺の青春時代かな。
 そういえばこの頃は服も買いましたよ。洗濯屋で生地の良し悪しを見分けられるようになっていたから、高級な服を選んで買い込んで。当時から赤いセーターを着たりしていたから、「男のくせに、おまえはおかしい」なんて言われました。ブレザーを10着ほど作って、毎日、違う服を着ていくようにしていたし、はやっていたVAN(当時、若者に人気のあったファッションブランド)もずいぶんと買った。

■腰の検査でぢになった

 でも、腰を悪くして会社を辞めたの。辞める3年前だから37歳ぐらいかな。いきなり足が動かなくなったんです。下に大家さんが住んでいたから大声で呼んでさ。救急車で病院に運んでもらったんだ。
 しばらくは腰を引っ張ったり温めたりしたけれど、よくならなくて。精密検査をすることになったの。まず腰に注射を打とうとしたけれど、腰に針が入らない。仕方ないから機械で刺すことになったんだ。俺は機械にかけられて、医者はガラス張りの外から観察しているんだよ。
 うつ伏せで腰に針が入ったとき、機械が「ハイリマシタ」とか言うの(笑)。機械は否応なしでしょう。痛いのにグーッと針を入れてきたから、俺は「うっ」と言ったきり言葉にならなくて、ぢになっちゃった。おかげで腰より先にケツを切ることになったんだ。
 検査結果は重度の椎間板ヘルニア。もう骨と骨の間がつぶれていて、そこにプラスチックを入れなくちゃならなかったんですから。執刀してくれたのは、日本でも三本の指に入るヘルニアの専門医でした。手術は10時間ぐらいかかったかな。でも、もっと長かったのが入院。一年も病院にいたから。腰を動かせないから、ほぼ寝たきりですよ。もちろん便所も行けないよ。
 あのころは看護婦さんは純情だったからね。尿瓶でおしっこを取るときは、廊下でじゃんけんしてたよ。負けた子が下向いて入ってくるんだから。俺の病室は、ほとんどがヘルニアだったけれど、1ヶ月ぐらいで退院していく人も多かったよ。やっぱり俺は重症だったんだろうな。会社には感謝している。一年も働けないのに、ボーナスも給料もくれたからね。
 やっと会社に戻ると、元の職場には俺の代わりが入っているじゃない。だから最初は掃除部で洗濯とかしていたの。また溶鉱炉の近くに戻りたくてさ。「昔の部署に戻してください」って、会社に頼み込みましたよ。
 何でかね。魅力だよね。仕事の。血がたぎるというかね。女じゃできない、男の仕事だなーって。三ヶ月ぐらいあとかな、やっと元の部署に戻れてさ。友だちに「大丈夫か」と聞かれて答えたんですよ。「大丈夫」って。 でも半年後に、またおかしいの。右足がしびれてきて。これは一回目の症状と同じだな、と思ったんです。病院で検査を受けたら、医者からは「また影が出ているな」と言われたの。それで再入院。
 そのとき男友だちの彼女が、部屋をたまに貸してくれないかと頼みにきたんですよ。こっちも長期入院になるから、別に使わないでしょ。大家さんに、たまに友だちの彼女が訪ねてくるからと断って、カギを渡したんですよ。
 でね、その女が子どもを抱いて、入院中の俺を訪ねてきたの。「友だちから預かったんだ」って子どもを見せてくれた、まだ、へその緒が付いているじゃない。「猫の子どもじゃなし、早く戻してきなさい。生まれたばかりの子どもを預かるなんて、死んだらどうするつもりだ」と、叱りつけたんだよ。看護婦さんからは、「滋さんの子ども?」とか聞かれたから、「冗談じゃない。俺はチョンガー(独身)だ」って答えておいたけれどさ。
「どうしたらいいのかわからない」と彼女が言うから、「とりあえず市役所に行って赤ちゃんを預かってもらってから、友だちを探せ」と指示を出したんだよな。
 それ以来、彼女も俺を訪ねてこなかったし、正直、あまり気にもとめていなかったんだ。そもそも友だちの彼女というだけで、あまり親しい関係でもなかったからね。

■血だらけの敷布

 結局、俺は8ヶ月ぐらい入院していたかな。久しぶりに家に帰って、部屋に入って驚いたよ。まず目に飛び込んできたのは、ぐちゃぐちゃの布団と敷布、そして座布団カバー。部屋に入って敷布を広げたら、血で真っ黒に汚れていたの。唐紙の開いた押し入れには、血だけのシーツが丸めてあるし。台所は汚れた食器が山積み。
 最初、何が起こったのかわからなかったの。でも部屋を見ているうちにピンときた。ここで生んだのかって。押し入れには糞や小便で汚れたタオルやバスタオルが積み上げてあったから、おしめ代わりに使ったんだろうとね。病院に連れてきたのは、自分の子どもだったんだよ。妊娠に気がついて、一人で生むために俺の部屋を使ったんだろう。
 とりあえず警察を呼んで、彼女の行方を追ったけれども、役所に子どもを置いて消えていることがわかっただけ。男友だちも消息不明になっちゃったし。大家さんには、「変な人を部屋に入れないでくれよ」とどなられるし、近所の店にはツケを置いてくし。「あんまり人に心を許しちゃだめだよ」と大家さんにも言われたけれど、これには懲りたよ。
 気持ち悪くて寝泊まりできないから、大家さんに「いろんなものを捨ててくださいよ」と頼んで、しばらく友だちの家に泊まっていたんだから。それから一時期は、女が怖くなって女嫌いになっちゃったからね。
 子どもは施設に預けられたらしいけれども、いまはいい歳になっているはずですよ。二五ぐらいになっているんじゃないかな。
 俺はといえば、病院を退院してから会社を辞めたの。たった八年間に二度も入院して、給料までもらって。申し訳なくてね。姉ちゃんなんかは、「なんで辞めるの」なんて言ってたけれど、俺には堪えられなかったんだ。 会社を辞めたときがちょうど40歳前。150万円も退職金をもらえました。その後しばらくは、グアムに行ったりして遊んでいたんだけれど、人間って遊んでいても疲れるんですよ。何をするでもなく遊んでいると、本当に疲れるの。気も使うしね。人のことばっかり気になって、自由じゃない気がするの。
 そんなときに社長と会ったんです。コーヒーを飲んでいるとき、2メートル近くある優しそうな大男が、「バラシ屋をやっているんだけれど、俺と一緒にやろう」って声をかけてくれたの。このときは酒乱だと知らなかったからね。

■いずれ戻るんだろうな

 家を出てこっち(上野公園)に来て、やっと自由になったと思いましたよ。1ヶ月間、毎日ベンチで酒を飲んでいたの。やっと楽しい酒を飲めるようになったと思ってさ。ここいらで有名だったみたい。昼間から一升瓶抱えて、毎日お酒を飲んでいたから。
 で、雨が降ったときに「ここで寝たら」と仲間に言われたんですよ。それから世話になっているんだ。
 ここではラーメン作ってとか、新聞を買ってきてとか頼まれるぐらいかな。仕事に行ったあとには荷物の番をしている。近くに住んでいる仲間だって、モノを盗んでいくからね。昼間はやることがないから、たばこについている銀紙でツルを折っているんですよ。昔、社長の女がやっている店を飾るために、8000羽のツルを折ったこともあるからね。
 社長はね、ここに三回訪ねてきましたよ。上野駅で酒を持っているのを、見られてたことがあったからね。そのときは声をかけてこなかったけれども、どこに寝ているのか一ヶ月ぐらい探していたみたい。
 最初にここに来たときは、少し離れたところで、俺の方をずっと見ててさ。何も言わないの。照れくさいんじゃないかな。昔は元気だったのにしょぼくれちゃってね。
 ずいぶん長い間黙っていて、「ここにいるの?」とだけ言うんだ。「ここで世話になっているんだよ」と答えたら、目を伏せて何も言わない。「俺なら大丈夫だから」って声をかけたよ。しばらくそこに突っ立っていて、帰っていったよ。五分ぐらいはいたかな。
 次に来たときは、「寒いから毛布を持ってこようか」とか言うから、「毛布なんかいっぱいあるからいらないよ」と答えたんだ。「カギを置いていこうか」と聞くから、「いらないよ。いまの方が自由でいいから」と答えたの。
 顔を見るとかわいそうになっちゃうんですよ。いやいや、うらんではいませんよ。優しい性格も知っているしね。死ぬまで知り合いだからね。立ち直らせてあげたいんだけれどね。
 アパートの話になったとき、「電話番号が書いてあるけれど、電話も止まっているから」と言うんだ。あー、やっぱりと思ってさ。それほど金に困っているなら、まだ立ち直っていないんだと思ってね。
 やっとしがらみから抜けて、自由になったんですね。ここは安住の地ですよ。でもね、いずれ俺は社長のところに戻るんだろうな。社長も俺も、ここにいる人も、みんな寂しがりやなんだよ。そう思いますよ……。 (■了)

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ホームレス自らを語る/健康のための土木作業員・村田重一(56歳)

■月刊「記録」2001年1月号掲載記事

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■運送会社を経営していた

 ポケットのお札が縁で、女房と結婚したんですよ。24歳だったかな。当時、僕はタクシー会社に勤めていて、彼女は同じ会社で事務員をしていました。事務といっても僕ら運転手の制服を洗濯に出してくれたり、雑用もこなしていたんです。
 いつだったかズボンのポケットにお札を入れたまま、彼女に制服を渡してしまってね。きちんとポケットを確認しくれた彼女が、クリーニング屋に出す前にお金を僕に返してくれたの。つき合い始めたのはそれからかな。 夫婦仲はうまくいっていたんですよ。結婚して一年後には、子どもも生まれた。当時の僕は、女房の弟と一緒に運送会社も経営していてね。収入はかなりあったんですよ。
 でも僕が33歳ぐらいのときに、女房が腎臓を患いましてね。入退院を繰り返しながら、すぐに人工透析が始まりました。保険で戻ってきたとはいえ、すごいお金がかかったんです。一週間に70万円ぐらい飛んでいったと思う。
 最初の入院で、医者からは生きても五年ぐらいだと宣告されました。もちろん本人には告げなかったけれど。言えないよね。
 子どもも小さかったし、発病した当初は大変だったな。ほら、運転手だから女房の容態がいきなり悪化しても連絡がつかないんですよ。いまみたいに携帯電話があるわけでもないしさ。入院しているときはまだいいの。自宅療養中のときなんか八歳の子どもと女房の二人きりでしょ。子どもも不安だよね。それでも一年間ぐらいは、自宅療養を続けていました。

■妻と死別した

 でも、都会の暑さはこたえるから、実家の新潟県で通院したいと言い出してね。人工透析の患者はあまり水分をとれないんですよ。いまは知らないけれど、女房なんかはタオルに水を染み込ませて、それで口を潤していたぐらいだから。東京で汗かいたりするのは、本人もつらかったんだろうね。
 それで子どもと一緒に実家に帰りました。東京を離れるときには、車で病院から駅まで送っていきました。でもね、彼女の親戚が5、6人いたから、女房とは話す時間もなかった。親戚の皆さんに挨拶して、世間話をしながら電車を待っていたんです。彼女も弟と話していたし、僕は彼女に何も言わなかった。まあ、実家で療養を始めてからは電話を何度ももらったけどね。
 彼女が実家に戻ってから、僕は離婚したんですよ。なんでも、彼女が障害者として認定を受けるのに、独身の方が都合よかったらしいんだ。国から補助金をもらうための離婚ですよ。医療費もかかって、彼女の実家もずいぶんと負担していたしね。何の争いもなく、静かに離婚は決まりました。
 最後に電話で話したときには、元気だったんだけどな。明るい声でさ。
「子どもが自転車ほしがっているから、送ってちょうだい」なんて電話があってさ。東京から自転車送るんじゃ大変だからってお金を送るって約束したんです。そうしたら死んじゃってね。
 長女で、しっかり者。でも病気には勝てないよね。頑張って続けてきた仕事も、女房が死んだのを機に辞めました。女房の弟が実家に帰って仕事をするというから、会社をすべて譲ったんだ。そして子どもも彼に育ててもらうことにしたんです。
 僕は運転手だから、家をあけることも多い。子どもを育てるのは無理でした。一緒に仕事をしていた義理の弟なら、絶対に信頼できるし。

■35歳で肺を患う

 女房と子どもをなくして仕事も替わったんだから、35歳のときはいろいろあったよね。でも、まだ激動は続いたんだ。
 タクシーの運転手として仕事を再開してしばらくたって、肺を患って倒れたの。痛いんだこれが。骨が内臓に刺さるような痛みというのかな。痛くて眠れないんだから。レントゲンを撮ってすぐに入院ですよ。
 当時、寝ないで仕事をしていたからね。僕は水筒にレモン水を入れていくの。それで眠くなると飲むわけ。すぐに目がさえるから、二時間ぐらいの睡眠で走り回っていた。当時は、相撲のハネとか明治座のハネとか、お客が出てくる時間は全部頭に入っていたんだ。かせいだね。100万円ぐらいは取っていたんじゃないかな。若かったからな、無理がきいたんですよ。でも、入院することになって、このタクシー会社は辞めることになりました。
 退院して、体を大切にしなきゃなと思いましたよ。さすがにね。それでタクシー会社は辞めることにしたんです。いくらもうかっても、倒れたんじゃ仕方ないから。どんな職業が健康にいいか考えましたよ。やっぱり体を動かすのがいいかなと思って、土工をね。
 当時は若かったし、すぐに採用されましてね。退院して3日後には働いていたの。遊んでいると退屈でしょ。ずっと働いてきたからね。だから退院したら休もうとは思わなかったですよ。
 ただし勤めた会社は忙しかった。1ヶ月に28日ぐらい働いていましたから。しかも昼夜昼と連続で仕事に出たりするの。土工は雨が降ると仕事できないでしょ。で、納期が迫ってくると、夜でも仕事になっちゃうわけ。 いやー、とにかく休めないんです。カゼをひいたときなんか、「休む」と電話をかけたら社員が迎えにきちゃうんだから。「仕事に行きましょう」って。で、連れて行かれちゃう(笑)。そんなことが続けば、いい加減嫌になるでしょ。それで会社を辞めました。

■再度の起業も失敗

 また当時は肺の病気の後遺症があったから、体もきつかった。なぜかいきなり胸が痛くなって、それが3ヶ月も続いていました。うつぶせだと苦しくて眠れないし、仰向けだと痛くて眠れない。仕方ないから肩を下にして、そっと横になる。それでも仕事を休もうとは思いませんでした。働くのが好きでしたから。
 医者には「夜寝ない職業はダメ」と言われまして、今度は昼だけの土工に職を替えました。しばらくの間は胸の痛みに苦しんでいたけれど、そのうちすっかり治っちゃって。不思議ですよ。一生病気とつき合うことになる、なんて医者から言われていたのに、後遺症もなくなり、胸もきれいになりましたからね。労働はきつくてもタクシーのように神経をすり減らさなくて済んだので、体にはよかったんでしょう。健康のために土工を選んで正解でした。
 そのうち仕事で知り合った仲間と会社を興しましてね。3人でクロス屋を始めたんです。壁紙を貼る仕事ですよ。小さな仕事から取っていってまあまあ順調だったけれど、つぶれちゃいました。
 それから会社を転々としたけれど、フリーになったのは52歳かな。そしたらこの不景気でしょ。飯場に入れても、仕事があるのは週2、3日ですから。1日1万円としても、週で2、3万円でしょ。ところが飯場での宿泊料金を1日に3000円も取られるんですよ。そうすると仕事のない週は赤字。とてもやっていけませんよね。でも仕事をしないと、貯金もどんどん減っていきますからね。それで貯金のあるうちに、アパートを引き払いました。

■いまは避難している状態

 この河川敷なら家賃もいらないからね。ここから土工に通っていたこともあるけれど、いまは古本屋と契約して週に3日、本を集めています。
 知ってます? うどんとかならば安売りで三束100円で買えるし、卵だって一パック100円で売っている。ジーンズやシャツだって近所の店に行けば、やっぱり100円で手に入る。米は五キロで1500円かな。ガスコンロで自炊すれば、貯金を使わなくたって生きていけます。酒も飲まないし、風呂は区民センターで入れるし。
 残ったお金でギャンブルをするときもありますよ。一点買いして、勝ったら防寒着だとか靴だとか、値の張る品物を買うの(笑)。
 いまでも姉さんとは連絡を取っています。いくらアパートを移っても保証人が必要でしょ。だから会っていなくても連絡が途絶えたことはありません。たしかに頼ろうと思えばできるのかもしれないですね。まあ、いまは自分で選択して、ここに住んでいるわけだから。もう少し景気がよくなったらどうするか考えますよ。とにかくいまはここに避難している状態ですから。
 ねえ、目の前に高速道路が走っているでしょ。ここは意外に事故が多いんですよ。出口の看板があって、それからカーブ。先が見えないから運転手が無理な車線変更をするんでしょうね。それで事故を起こしちゃう。きっと先の見える位置に看板があれば、事故は減ると思うんですよ。先が見えればね……。 (■了)

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ホームレス自らを語る/経営していた会社が倒産した・町田道彦さん(62歳)

■月刊「記録」1999年12月、2000年1月号掲載記事

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■修羅場を潜り抜けてきた

 生まれは1937年で東京。父親の仕事? 建設業だよ。それ以上細かく言うと、オレの身元がバレちゃうからね。こう見えても、オレも去年まで会社を経営していたんだ。身元がバレると、いろいろまずいこともあるからさ。
 53年に中学を出て、定時制の高校に通いながら働いた。そのころ、全日制の高校へ進学できるのは、クラスに一人くらいしかいなかったからね。まだ神武・岩戸景気の始まる前で、どん底の不況でひどい就職難の時代だった。いまよりひどかったと思うよ。なにしろクラスのなかで、まともに就職できたのはオレが一人だけだったんだから。大学を出ても、飯場に入れたらいいほうってくらいの不景気だった。
 オレが就職したのは漁船のエンジンをつくる工場。その機械工になった。自慢するわけじゃないけど、オレは人に聞いたり教えてもらう前に覚えちゃうところがあるんだ。飲み込むのが早いんだね。だから、すぐに先輩を追い抜いちゃった。たとえば旋盤にしても、いまはコンピューターだから技術の差はあまり出ないけど、あのころは勘と技能がものを言ったからね。オレはそういうのが得意なんだ。
 それでオレばかりがベテランの職工とか、事務職の連中にかわいがられるだろ。ちょっと上の先輩たちには面白くないわけさ。それに定時制にも通っていたから「生意気だ」ってにらまれてね。イジメとかそういうんじゃなくて雰囲気だよね。だんだんに居づらい雰囲気になって、一年で辞めちゃったよ。
 それから土工になった。いきなり岩手の山の中の飯場にやられて、道路工事の土工を二年くらいやった。飯場といったって、農家の豚小屋を改造したようなところだからね。入り口にはムシロが吊り下げてあるだけだもの。タコ部屋さ。
 そのころの飯場にはまだ戦前のしきたりなんかが残っててね。はじめて入ったときは、みんなの前で仁義を切らされた。本当だよ。「手前、生国と発しますは……」ってやったんだ。まるでヤクザ映画そのまんまで、高橋英樹の『男の紋章』そっくりだった。みんなでそろいの印半纏を着てたしね。あのころの土工の世界は、ヤーさんの次に怖い世界だといわれてたんだ。
 いや、すごい世界だったよ。刃物を抱いて寝ないといつ寝首をかかれるかわからないからね。本当に抱いて寝たんだ。だって指名手配されているようなヤツと一緒に寝起きするんだ。危なくっていけないよ。なかには指名手配されていることを自慢にするのもいるくらいだからさ。仕事をサボったのが仮病だったなんてバレると、それこそみんなから袋叩きにあった。そんなことをされるのは、だいたいいつも決まったヤツだったけどね。オレはやられたことはないよ。
 そんな危ない世界だからさ。オレもケンカ殺法っていうのを習った。小笠原流とかいって、なんでも戦国時代から続いている殺法らしい。ふいに襲われたときのために、飯の食い方からトイレの入り方、風呂の使い方まで習ったよ。寸止めもできる。人なんて簡単に殺せる。だけど、他人を殺したり傷つけても、こっちにいいことなんて何もないだろう。寸止めして驚かせてやれば十分だからね。いまでこそこんなにのんびりしちゃってるけど、四、五年前までは人と話しているときも、いつでも蹴りが入れられるように構えていたんだ。本当のことだよ。
 飯場同士の出入りっていうのも、よくあったね。仲間の誰かが、よその飯場のヤツに、「ガンをつけられた」とか「ガンを飛ばした」とか、そんなたわいもない理由で飯場同士のケンカになるんだ。オレも木刀を持って殴り込みに行ったよ。
 ケガをしなかったかって? しないよ。危なくなると逃げちゃうからね。逃げ足は速いんだ(笑)。どんなケンカでも始める前に逃げ道を確保しておく。それが肝心なんだ。そういう冷静さがないとやられちゃうからね。
■土工の仕事にも誇りがあった

 ケンカもしたけど、仕事のほうも熱心にやったよ。あのころは土工の仕事にも誇りのようなものがあった。給料は安くていくらにもならなかったけどね。
 ほら、見てくれ(複雑な傷痕の残る右手首を見せてくれる)。その道路工事をしているときにダイナマイトでやられた痕だよ。いまの発破は削孔機を使って穴を掘るけど、そのころはタガネで手掘りだったからね。オレの掘った穴が曲がっていたらしくて、ダイナマイトを入れている途中でつっかえてね。それをタガネで押し込んでいたら、摩擦で暴発しちまった。
 オレは体ごとふっ飛ばされて、空中で三回転したよ。上からは岩がゴロゴロ崩れてくるし、よく手首のケガだけで収まったと思うよ。トロッコが坂道で脱線して、八メートルも先まで放り出されたこともある。安全意識なんて、いまとは比べようもなかったからね。ヘルメットだってかぶってないんだからさ。安全についてやかましくいわれるようになるのは、60年代の中ごろになってからだろう。

■もうかったのは70年代初頭まで

 20歳のころに東京に戻ると、土建業の親方について1年くらい働いてから独立した。だから、20歳そこそこで社長になって、会社の経営を始めたことになる。会社といってもちっぽけな建築業だけどね。それでも40年くらいは続いたよ。
 仕事はビルとか学校なんかの建築や改修が多かった。それでも、ちゃんと請け負って、きっちり仕事をする会社だったからね。人夫のサヤを抜いて(ピンハネして)もうけるようなことは、性分に合わないからしなかった。オレも現場に出て率先して働いたよ。作業員を休憩させても、自分だけは働くって具合だった。
 ただ、会社を始めたころは「なべ底不況」の真っ只中で経営には苦労したよ。仕事をしても支払いはみんな手形だろう。「台風手形」とか「お産手形」なんてのが常識だったからね。支払いが210日先、10ヶ月先という意味の手形だよ。そんなのを割りながらやり繰りしたんだ。 景気がよくなるのは東京オリンピックの前あたりからで、それからオイルショックまでの10年くらいが一番よかった。もうかったしね。オリンピックの前あたりというのは、東芝とか日立とかの大企業が、新しい工場を次々と建設した時期でね。それにオリンピックを控えていたから、東京の街をきれいにするって仕事もあった。オレの会社も日比谷の映画館街の模様替えや、銀座の三越前の整備なんかを手伝った。昼間は工場の建設に出て、夜は街の模様替えの仕事って具合だったから、そりゃあもうかったよ。
 だけど、いい時期もオイルショックまでだったね。その後、バブルとかあったけど、たいしてうま味はなかった。オイルショックのころから安全管理だとか労務管理だとかが、やたらにうるさくなっただろう。たいしてもうけられなくなったんだよ。それでもサラリーマンなんかに比べたら、3倍から5倍はかせいでいたと思うけどね。

■最愛の女房を難病で亡くした

 結婚したのが27歳。子どもは男の子が二人。最高の女房で、最高の家庭だった。ただ、会社の仕事には学校関係の工事が多かっただろう。学校の校舎の増築とか改修の工事は、たいがい夏休みにやるんだ。それで子どもとはあまり遊んでやれなかった。それが心残りだね。
 それでも工事が終わって役所の検査を通ると、家に帰るなり「旅に出るぞ」って、そのまま家族を連れて旅行に行くなんてこともした。オレはグズグズすることが嫌いなんだ。即断即決。男の決断は速いからね。いつもオレが突然に言い出すもんだから、家族は面食らっていたよ。そんなふうにして出た旅で、北海道を1ヵ月かけて回るなんてこともした。そんないいときもあったんだ。
 女房がよくできた女でね。オレにはもったいないくらいだった。その女房が……いけねえ……(町田さんの両目から、みるみる涙があふれ出した。しばらく話をやめる)……たいがいのことは大丈夫なんだが、女房のことを思い出すといけねえんだ。申し訳ない。
 女房はガンで死んだ。日本で三例目という難しいガンだった。これ以上話すと、身元がバレちゃうから言えないけどね。ガンだとわかって本人に告知したんだが、死を覚悟してからの女房がすごかった。入院している仲間で病気に悩んでいる人があれば、その悩みを聞いてやって励ました。手術を渋る人があれば説得して手術室に送り込んだ。婦長が説得しても応じなかった人が、女房の説得で手術を受けたなんてこともあるんだよ。死ぬことを覚悟しての励ましや説得だったから、そりゃあ効くよね。
 それに女房は自分の病気の状態や体の調子なんかを毎日記録して残した。実に克明なノートだった。例の少ない病気だったから、病院にはいい資料になってるはずだよね。
 女房の闘病生活は三年間続いた。そして、死んでった。七年前のことだ。あとに残ったのは借金の山。当時は高額医療費の補助なんてなかったからね。1回の手術に100万円もかかったりしたから、借金するしかなかったんだ。
 女房が亡くなってからというもの、仕事に張り合いがなくなってね。ホントはそれじゃいかんというのは、自分でもよくわかってはいるんだが、うまく気持ちの切り替えができないんだ。
 会社は去年倒産した。仕事に身が入らないのと、この不況のせいだよ。最後は運転資金にも事欠くようになってたからね。

■ここを脱して事業を興す

 ホームレスになったのは今年からだよ。この年で食えなくなったからって、子どもたちに泣きを入れるのはヤだったしね。昔から山谷の人間を仕事で使って知っていたから、ホームレスになるのに抵抗はなかったよ。生活のほうは、わずかだけど年金がもらえるんだ。それを1日50円から100円の範囲で使うようにしている。会社をやってたころは、ひと晩に100万円も使って接待してたんだから夢のようだよ。
 その50円、100円のなかから少しずつ貯めて、簡単な煮炊きができるように、ガスコンロとか鍋釜をそろえたんだ。オレも食うけど、それよりも周りのみんなに食べさせてやるためだからね。そんなことをしてやっていると、「オヤジさん、余ったから使ってくれ」なんて、食事の材料を持ってきてくれる人もあるだろ。自然に集まってくるからね。(インスタント)ラーメンでも、うどんでも何でもそろっているよ。(取材の間にも一人のホームレスがやってきて、うどんを調理して食べていった)
 ただ、オレは怠け者は大嫌いだからね。働く意欲のあるヤツとか、身の回りをきれいに掃除しているとか、そういうヤツにしか食べさせない。だらしのないのはダメだよ。
 オレだっていつまでもホームレスをしているつもりはないからね。いつかはここを出ていくよ。そして、もう一度事業を興すんだ。「オヤジさんがやるんなら、ついていきたい」という仲間も何人かできたしね。いつまでもホームレスじゃしょうがないだろう?
 だけども、いますぐってわけにはいかない。この(新宿中央)公園にいる(ホームレスの)連中をなんとかしないとね。働く意欲のあるヤツだけでも、自立できるようにしてあげたいからね。そのメドがつくまでは、オレも動けない。それをちゃんとしたら、オレも必ずここを出るよ。必ず事業を興してみせるから。

※この取材から半年後、町田さんから電話があった。「オレのようなものを取材してくれて感謝している。自分の記事を読んでいるうちに、なんとかしなくっちゃという気になった。それで就職活動をしてみたら、小さな会社だけど採用になって、一週間くらい前から働き始めている。いまはまだあわただしいから、そのうち落ち着いたらまた電話をするから会いましょう」というもので、電話の声も弾んでいた。だが、その後、町田さんからの連絡はない。 (■了)

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ホームレス自らを語る/連れ去られた子どもは笑っていた・山崎歌穂さん(49歳)

■「新・ホームレス自らを語る」に掲載                                 ※金本繁雄さんの回と多少内容がリンクします。

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■あなたのダンナここにいるわよ

 生まれたのは東京都目黒区。五人姉妹の末っ子です。女ばかりで跡取りがいなかったものだから、私が婿をもらうことになるのかなとも思っていました。高校には行ったけれど、私にとっての大きな問題は結婚でした。卒業前に姉が跡を取ってくれたので、私は自由になったんですけれどね。
 卒業後に勤めたのは、飲食店やキャバレーをやっていた観光会社でした。私の働いていたビルは、一階から七階まですべてそこが経営していたんですよ。一階がキャバレーで、七階が私が給仕をしていたレストラン。そこで職場恋愛して結婚。それが21歳です。社内結婚なんてよくある話ですねよ(笑)。夫は機転のきく人だったの。私はデレスケが嫌いだから。
 結婚後、転勤で二人とも勤務先が仙台になったけれど、いい結婚生活が続いていたの。でも、ある日突然夫が家に帰らなくなったんです。ちょうど妊娠でお腹が大きいころですよ。これもよくある話よね(笑)。しかも毎晩、毎晩、女から電話がかかってくるの。「あなたのダンナここにいるわよ。くやしくないの」とかさ。
 さすがに女の子を出産したときには、毎日のように家に帰ってきてくれたけれど、すぐに帰らなくなりました。女からの電話も、またかかってくるようになりましたし。「今日、あたしの家から会社に行ったんだよ」とか。
 この浮気は病気だから治らないな、と思いましたね。それに、こんな男よりもっといい人いるかもしれないと思って、別れる決心をしたの。服だけ持って、子どもと一緒に姉の家に転がり込みました。世田谷区の大蔵にある一軒家に、すぐ上の姉が嫁いでいたものですから。子どもが1歳ちょっとのころだから、私は22歳ぐらいかな。
 しばらくは、ただ姉の家で一日を過ごしていたけれど、そのうち働きたくてしょうがなくなったの。そうすれば気もまぎれるしね。ゴルフのレッスンプロをやっていた姉の夫の紹介でゴルフ練習場の喫茶店でお手伝いをしていたんです。姉に子どもを預けてね。でも、そのうち姉が育児ノイローゼになっちゃって。姉も二人の子持ちだったから無理もないけれどね。
 それで世田谷に部屋を借りました。風呂付きのアパートですよ。子どもと二人、自立して暮らしていこうと思って。もちろんゴルフ場での仕事も続けながらですよ。それからほんのしばらくは、平穏に暮らしていたんですけどね。

■子どもから離れたすきに

 子どもが二歳ぐらいかなー。前の夫が子どもに会わせてくれと言ってきたんです。姉を通じて。少し迷ったけれど、「子どもがお父さんに会えるのは、これが最後だ」と思って承諾しました。別れた夫は仙台から来るから、会う場所は上野駅でした。
 その日は、上野でデパートに寄って、子どもの服を買いましたよ。負けたくなかったから。女手一つで育てているからみじめだ、なんて思わせたくなかったんです。お父さんに見せる最後のおめかしのつもりで買ったの。 いまでもはっきりと覚えていますよ。茶色のニットの半ズボンに茶色と黄色の横縞のセーターを着せて、白いハイソックスと赤い靴を履いて。上から下まで買って、デパートで着替えたんですから。
 別れた夫と軽い食事をして、コーヒーを飲んで、プラットホームまで見送りに行ったんです。そうしたら買い物を頼まれたの。「子どもがデパート行くと大変だから、俺が見てやるよ」なんて言われてね。当時は仙台まで長旅だったから、コーヒーとか弁当とか適当に買って、ホームに戻ったら列車が走り出していたわよ。子どもが列車の中に入るのが見えました。キャッキャ、キャッキャとうれしそうに笑っていたの。まだマンマぐらいしか言えない年齢だし、何が起こったのかわからなかったんでしょうね。普段からよく笑う子だったから。夫は発車時間をわざと教えなかったんですよ。どう考えても、子どもから離れた時間は30分もなかったから。
 私ね、半狂乱になって自分の姉に電話しましたよ。どうすればいいか聞きたくて。そうしたら姉が言ったの。「自分の子どもだから殺しやしないよ。子ども抱えていたら結婚も難しいし、自分の人生を生きなさい」って。 もちろん、そんなこと言われてもあきらめきれないから、夫の実家や会社に電話かけたけれど、夫が捕まらないの。彼の親なんか「あなたとうちの子どもは離婚したんですから、一切関係ありません」でガチャン、だもの。
 夫がどこに住んでいるかもわからない。広い仙台を一人探し回るわけにもいかないでしょう。でも、子どもがいなくなったのは、やっぱりショックでね。円形脱毛症にかかっちゃいました。10円玉ぐらいのハゲが三つも。先生に「どうしたら治りますか?」って聞いたら、「神経を図太くしなさい」と言われたけれど、なかなか治らなくてね。
 しばらくはゴルフ場で働いていたけれど、やっぱり仕事が自分に合わないと感じて辞めました。25歳前後のころです。それから水商売の世界に入ったの。お金を貯めて子どもを取り返してやるって気持ちもあったしね。 そりゃ最初はおっかなびっくりで、心臓バクバクでしたよ。周りの人が助けてくれたから、楽しく仕事することができたけれどね。26歳のときには店のお客さんと一緒に住み始めたの。相手も離婚経験者でね。でも、彼が店を始めたころからうまくいかなくなって、最後、置き手紙をして部屋から去っていきました。
「いろいろと世話になって、どうもありがとう。体に気を付けて、元気にがんばれ」。いまでもその置き手紙の一節を覚えています。

■寂しいから毎日飲み歩き

 そのあとは友だちが始めた中目黒の店で働いたり、渋谷の歌舞伎という店で働いたりしていたんだけれど、32歳のときに偶然に再会した前に勤めていた観光会社の人から、千葉で一緒に働かないかと誘われたの。
 当時、東京に嫌気がさしていてね。寂しいから毎日飲み歩いて。その日々の繰り返しだったから。30歳ぐらいまでは、絶対に子どもを取り返そうと思って頑張っていたんだけれどね……。偶然に会った人とは、男と女の関係ではなかったから、一緒に働き口を探すのは不安だったけれども、結局、東京を離れたの。
 千葉ではクラブで働いていました。ママがしっかりした人で、どんなに綺麗でも根性の悪い女の子は使わない主義だったんですよ。ここで40歳ぐらいまで働いていたかしら。
 もちろん仕事も楽ではなかったですよ。お客さんがツケで飲んでいくでしょ。その回収は、ホステスの仕事ですから。一時期、お客さんのツケが200万円もたまったこともあったのよ。千葉では、かなりの高級店でしたからね。もう必死に回収しましたよ。そのうち店を閉めるかもしれない、なんて女の子の間でうわさが流れ始めたの。これはモタモタしていられない。いつ給料が支払われなくなるかわからない。そう思って、クラブを辞めました。
 次の職場を探さなくちゃいけないなと思っているとき、喫茶店か何かだったかで、すごくきれいでさわやかなコに出会ったの。その娘が、「私はソープランドで働いてます」と言うのよ。そんな風に見えなかったから驚いちゃって。
「店にいらっしゃいよ。のぞくだけでもどう?」なんて誘われたけれど、さすがに「ソープランドはやだわー」って断っていたの。そうしたらアパートに店から電話がかかってきてね。「お茶飲むだけでも来ませんか」って。きっと彼女が私のことを話したんでしょうね。それで、とりあえず店に行ってみたの。
「ここはやくざの店ですか」って、まず私は聞きました(笑)。やくざと関わりになるのは嫌だったから。「そんなこと言ったら、みんなやくざの店になっちゃいますよ。安心してください」って返されましたね。年齢が不安だったけれど、40歳を超えたような人もいましたからね。それに感じのいい女の子ばっかりだったから。なにより食べていくためにはね……。
 1時間半で昼2万5000円、夜が3万8000円の店だったから、けっこう高級店ですよね。最初は、店の人から洗い方やらマットプレイを教わって。そりゃあ、恥ずかしかったですよ。見ず知らずの人の前で裸になるわけだから。
 最初のお客さんのことは覚えてます。入れ墨があったから。やっぱりやくざの世界だと思って、怖くて怖くて。何をやったかは覚えていません、緊張していたから(笑)。
 最初のころのお客さんは、気の毒だったかもしれませんね。教科書通りにしかできなかったから。そのうち要領もわかっちゃって。これはもう楽しく働きましょうと気持ちを切り替えて、頑張りました。でも指名を取るのが大変になり、店自体も女の子が二人辞め、三人辞めしていったの。結局、2年半働いて辞めました。
 次、なんの仕事をしようと思って電話ボックスで見つけたのが、ホテトル。チラシを見るまでは、ホテトルなんて商売知らなかった。電話したら「車で行くから待ってろ」と言われて、簡単な面接されて、その日から仕事ですよ。自宅で電話がかかってくるのを、ワンピース着ながら待っていましたよ。こうなればヤケのヤンパチよ。初めてのお客さんはサラリーマンでした。怖くなかったかって。いや、何かあればホテルまで送ってくれる男の人に電話すればいいんだから。もちろん不安はあったけれど、一対一の仕事だから仕方ないでしょ。
 しばらくホテトルで食べていたけれど、仕事が不安定なんですよ。いつ電話がかかってくるかわからない。夕方5時から朝の五時まで待つんだけれど。今日はないかと思うと、朝方に電話あったりするから。あてにならない仕事じゃないですか。

■一般人に見えた彼

 ちょうど仕事に行き詰まっていたころに、埼玉の公園でたばこを吸いながらボーッとしていたら、酒を飲んでいる集団がいたの。中年のおっさんやおばさんが宴会でしょ。なんだろう昼間からと思って、よく見たらプー太郎の集団だったんですよ。気楽でいいなー、なんて思いました(笑)。
 そのうち、おばさんだかおじさんだかが「お姉さん、ひまだったらこっちで飲まない」と声をかけてくれたの。何となく仲間に加わったら、そこにフラッとさわやかに現れたのが彼(★金本繁雄さんの回参照)だったの。彼は、そこで飲んでいた連中と全然違ったんですよ。清潔で、一般人かと思ったの。「オレ、プー太郎」と言われて、「えっ」と思ったんですから。それで私から声をかけたの。「パチンコ屋にいてね」って。
 いてもいなくても、と思ったの。でも、いてくれて。それから一緒に行動するようになったんです。何気なく、自然にね。その日は公園のベンチで寝ました。プー太郎が横にならないように、ベンチの真ん中に仕切りがあるやつですよ。次の日は、変電所の裏に段ボールを敷いて寝ました。やっと人に見られないところで眠れる、と思いましたね。
 それから彼がビラ貼りしていて警察に捕まったあと、彼の昔のツテでアパートを借りて、二人とも仕事を始めたんです。私は、貯金をして、普通の生活がしたかったの。でも、お金のないほうがうまくいくみたい(笑)。 ケンカも絶えなくなって、彼もスネて仕事を休むの。そうすると同じ系列の会社で働いているから、毎日、聞かれるんですよ。「彼はどうしたんですか」「部屋にいますか」って。そのたびに風邪をひいて熱があるとか、毎日、うそを言わなくちゃいけない。それがつらかった。それで会社を辞めて、彼と別れて渋谷の知り合いの家に身を寄せたんです。
 元プーの人でね。ビルのオーナーに拾われて掃除なんかをしている人なの。昔、声をかけられたんですよ。「トシだから女なんてどうしようもない。話し相手がほしい」って。私ね、男の人には慎重なんですよ。危ないところにはいかないから。
 その家に三ヶ月ぐらいいたかしら。でも、その人も私に気を使っていたし、ビルのオーナーからは女を連れ込んでいるように見られるし。それで家から出てきました。

■回らされたサラ金

 戻った場所は、最初に彼に会った埼玉の公園です。そこのグループをまとめていた人が、「俺のところに来たらどうだ」って誘ってくれたんですよ。そのグループは捨てられた廃車を家代わりにしていたんだけれど、私にも廃車一台譲ってくれたの。でも、しばらくして彼は亡くなりました。朝、動けなくなっていて、みんなあわてて救急車を呼んだけれど、助からなかった。心配で私も病院に行ったけれど、親族もいてね、プーは会えないんですよ……。
 それから何日かたった夜、今度は「プー狩り」があったの。バットを持った男が、自動車のガラスを手当たりしだいに割っていくんです。怖かったですよ。そんなときにやくざ屋さんの甘いワナにはまっちゃったのね。
「プー狩り」の次の日かな。ワゴン車でプーを集めていたんです。そのうちの一人に「料理は作れるか」と聞かれて、「普通のだったらできますよ」と答えて。それで採用になりました。最初は紳士的だなと思ったんですよ。連れていかれたのは、社長の自宅でした。若い衆が社長を「おやじ」と呼ぶのも、土建屋の「おやじ」だと思っていたんです。自宅に着いて挨拶を済ませても、まだやくざの家だとは思っていませんでしたよ。
 変だなと思ったのは夜の宴会が始まってから。プー太郎と子分が取っ組み合いのケンカを始めたんです。コップや皿は投げつける。割れた皿の破片が畳に散らばる。しまいには障子に突っ込んで、桟までバラバラになっちゃうし。私は台所にいたんですが、すごいところに来ちゃったなーと思いましたよ。ずいぶん時間がたってから、「いつまでやっているんだ、やめろ」って社長から声がかかって、やっと取っ組み合いのケンカが終わりました。しばらく飲むと、社長は部屋に待たせてあるフィリピン女のところに行くから、宴会はお開きになるんです。
 でもこの日が特別だったわけじゃないの。二ヶ月近くいたけれど、毎晩取っ組み合いのケンカが始まるんだから。慣れてきてからは台所で「ヤレヤレ!」なんて思っていたけれど(笑)。
 しかも社長は、覚せい剤もやっていたみたいなんですよ。「俺の部屋には絶対に入るな」とか、「俺の部屋は掃除しなくてもいい」とか、常々言っていてあやしいとは思っていたんです。ある日、台所で「ちょっと、そこどけ」と後ろから言われたの。よけたら流しで注射器を洗い始めたんです。でも、自分で覚せい剤を使っているなら、私にむりやり打つようなことはないな、とも思いました。もったいないから他人に薬を打たないでしょ。 一番困ったことが起きたのは、働いて10日ぐらいたったころです。「免許あるか」って最初に聞かれたの。免許は持っていなかったけれど健康保険証を持っていたんです。サラ金を回らされましたよ。若い衆が近くまで付いてきて、五、六軒行かされました。働き始めてすぐ、住所不定になって本籍地に戻っていた住民票を取り寄せて、社長の家に変更させられたから少し変だとは思っていたんですが。
 借金なんかしたくなかったから、審査のときに、兄弟もいない、保証人もいないと言い続けました。そのおかげで借金ができなかったんです。結局、一軒も借りられなくて家に帰ったら、社長が怒っていてね。「オイよ。オレに協力する気がないのかよ」とすごむの。
 私も怖かったけれど、「協力する気なんかないよ」って答えたら、「これが惜しくねえのか」って自分の小指を立てました。何も言えなくてね。そのうち「飯の支度しろ」って命じられて、話はうやむやになりましたけれどね。
 お金は払ってくれないし、怖いし。辞めたいけれど勝手に辞められないじゃないですか。でも、辞めるときはあっけなかったんです。社長からセックスを求められたから拒んだの。そしたら「役に立たないアマだな。辞めていいよ」って。これはチャンスだと思って、「いろいろありがとうございました」って言って、外に置いてある誰のだかわからないチャリンコに乗って逃げ出しました。
 心配なのは、保険証を置いてきたことです。実家にも五年以上連絡していないけれど、保証人とかにさせられていないか心配ですよ。この状態じゃあ、連絡もできませんけどね。
 それから彼に再会して、また一緒に暮らし始めました。

■やるときはやってくれる彼

 うん、子どもには会いたいですよ。でも、お母さんどこに住んでいるのとか、電話番号を教えてって言われても困るしね。私が35歳ぐらいのときに夫の実家に電話したことがあるんですよ。ちょうどいじめがはやっていたから。おばあちゃんが出て、「いい子に育っているよ」って……。その一言で「よかった」と思って……。私にはひどい男だったけれど、ほかに子どもをつくらなかったらしいからね。それはよかったなって。
 いまは楽しいですよ。彼は優しいし、裏切らないでしょ。女とかつくっても、うそがすぐバレるような性格だから(笑)。いまの方が私もいいの。歳を取っていろいろな経験をしましたから。若いときは、その人しか見えなかった。相手をかごの鳥にしたかったからね。人に対する野心みたいなものもあるし。
 彼はね、言葉とかきついこともあるけれど、やるときはやってくれる。いつもきれいなものを着るために、洗濯もしているし。「どんなに困っても、人に物をもらうな」って彼は言うの。その通りだと思う。本当の「乞食」になっていないのは、この人のおかげです。
 もちろん私は彼より年上だしね。別れがくるかもしれない。でも、後腐れなく別れようねって約束しているんです。道で会ったとき、「元気?」とか言えるようにね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ヤクザからの逃避行・金本繁雄さん(35歳)

■月刊「記録」2001年11月、2002年1月、2月号掲載記事                        ※この記事は山崎歌穂さんの記事とリンクしている個所があります。

*          *          *

■母親に見捨てられた

 21歳の誕生日に、俺の育ての親だったおばあちゃんが息をひきとったんだ。病院から二人で暮らしていた市営住宅におばあちゃんを運んでさ。でも、連絡を受けて集まった親族八人と、遺体の前で大げんかだよ。
 だいたい入院していたころから、ヤツらには頭に来ていたんだ。死んでもいないのに、病院で死んだあとの相談をしていたしな。そのくせナースステーションにはお菓子なんか持ってきて。その前にやることがあるだろうと思ったよ。せめて一ヶ月に一回ぐらい、おばあちゃんに電話してきてもいいだろ。
 あんまり頭に来たんで、ケンカした夜から野宿した。葬式にいちおう参列して、5日ぐらいしてからバイバイしたよ。野宿しているときに、おばあちゃんの国民年金と老齢年金が出ていることに気がついてね、自分で委任状を書いてお金をもらってきた。
 俺はね、生まれて二ヶ月でおばあちゃんに預けられたんだ。父親の名前はわからない。戸籍にも斜線が引いてあるからさ。ただ聞いた話によれば、病院に看護婦として勤めていた母親が、医院長の子どもを生んじまったらしいな。昔、その医院長の家を見にいったこともあったよ。こんな大きな子どもがいてさ。幸せそうだったな。 どんな事情があれ、子どものクソや小便を世話するのが親だろ。手のかかる時期にいない母親なんて俺は絶対に許せない。

■持ち歩いた祖母の写真

 気の毒なのはおばあちゃんだよ。いくら実の娘の子どもといったって、俺が連れてこられたのは64歳のときだからな。子どもの面倒なんて見られる歳じゃないから施設に預けちゃえと親族に言われたらしい。「でも、かわいそうで出せなかった」とおばあちゃんが話してくれたことがあったっけね。
 母親がいないのを感じたのは、幼稚園のときが初めてだな。みんなが母親とダンスを踊っているのに、俺は先生だったからさ。なんで俺だけと思ったよ。
 中学時代はとにかく頭に来ていた(笑)。そのうえテメエがやったことに対して、始末をつける方法がなかった。おかげで、いろんな人に迷惑をかけることになっちゃったよ。
 高校を卒業してからは、トレーラーの整備士として働いていたんだ。でも働きだして数ヶ月したころ、おばあちゃんが脳溢血で倒れちゃった。最初の二ヶ月は昼は会社、夜は病院に泊まり込みなんて生活を続けていた。でも、いくら体力があってももたないよ。仕方がないから一年勤めた会社を辞めてガードマンのアルバイトを始めたんだ。少し時間が自由になるからさ。
 そうこうしているうちに、おばあちゃんの被害妄想が強くなってきたんだ。「看護婦さんに殺される」なんて言うようになったし、医者の言うこともきかない。自分でどこに薬をしまったのかもわからなくなった。
 こうなると、俺がつきっきりで世話をするしかないよ。アルバイトも辞めて、俺とおばあちゃんの生活保護を申請した。
 このときの生活は意外に面白かったよ。おばあちゃんとは友だちみたいな関係だったし。病院が流動食しか出さないから、よく俺がおいなりさんを買っていって二人でつまんだよ。看護婦が来ると、すぐ隠せるようにしてな。
 温泉に行ったこともあったな。病院にタクシーを呼びつけて、温泉までの往復が3万8000円。豪勢な旅だった(笑)。でも、そんな時間を過ごせたのは二年間だよ。おばあちゃんは84歳で亡くなったんだ。
 おばあちゃんの写真は、ラミネートパックにして持っていたんだ。でも、酔っぱらってなくしちゃったんだよね。まあ、顔は忘れたことがないけれど。

■手錠って冷たいんだよ

 市営住宅を出たあとはパチンコ屋で働いた。身分証明書や住所も必要なかったからな。二年間ぐらい勤めたけれども、だんだん仕事が嫌になってきてさ。やっぱり人が遊ぶ場所で仕事するべきじゃないよ。拭き掃除している目の前で、遊んでいる人がいるんだから。キャバレーやゲームセンターなんかも同じだろうけど、仕事は仕事でも因果な商売だよ。
 それで二三歳から飯場で働くようになったんだ。履歴書も写真もいらないから楽だしね。でも土方の仕事も少しずつバカらしくなっていったんだよね。仕事仲間から「年くってもできる仕事なのにね」なんて言われたけれど、その通りでさ。23歳も60歳も賃金が同じなんだ。
 もっとも、やりたい仕事も見つからなかった。朝から定時に起きて、何時から何時まで働いてなんて生活を続けても、ぜんぜん納得できない。逆に遊んでいても意味がないし。ただ食って、酒飲んで、生きていくのもな。まあ、逃げているだけかもしれないけどさ。それで何となくホームレスになったんだよ。
 埼玉の公園でホームレスをしている時に初めて歌穂と会ったんだ。98年6月、彼女は俺の仲間と酒を飲んでいたんだよな。彼女は、スナック、ピンサロ、ソープと渡り歩いて歳を取り、仕事がなくなったんだ
 最初の出会いから3ヶ月後、同じ場所で彼女と再会して一緒に暮らすようになった。当時は、食べるのも楽だったからね。近くのコンビニに行けば、賞味期限切れの弁当が、5、6個は簡単に手に入ったからさ。
 それに俺は、ピンクビラを電話ボックスに貼る仕事を見つけたんだ。給料は一日一万円。朝の10時から貼り始めて、はがされるビラを三、四回補充すればいいんだ。12ヶ所のボックスに貼るだけだから、そんなに大変じゃない。
 でも4月に、俺は大きなミスをしたんだ。夜九時を過ぎるとビラをはがす係が来なくなる。その日もさっそく九時過ぎからビラを貼りつけたんだ。やっと仕事が終わってビールを飲んでいたら、30分もしないで電話がかかってきた。ビラがはがされたって。
 トサカに来たんだよ。頭に血が上ってたんだな。仕事し終わった直後に、はがされるなんて悔しいじゃないか。いや、ビールは一本しか飲んでなかったけどね。それで「ネタ」の入った藍色の袋をつかんで、すぐに貼り直しに出かけたんだ。
 夢中で電話ボックスに貼りつけていたら、電話ボックスをコンコンってたたくヤツがいる。見たら、二人組のおまわりさん。ちょうど一〇時半だった。手錠って冷たいんだよ。いまでもあの冷たさは忘れられないな。

■俺はまだ懲りてなかった

 留置所は刑務所以上に塀を感じるんだ。捕まったときは留置所で自分が暴れちゃうかと思ったけれど、全然そんなことはなかったな(笑)。指紋を取って、左右正面と写真を撮って、パンツ一丁で身体検査をして、3日間ぐらい取り調べを受けた。留置所は二人部屋。一緒に寝起きしていたヤツは、覚せい剤取締法で捕まったアラビア系の外国人だったよ。一流の学校を出ているらしくて、日本語はペラペラだったけれどね。
 留置所にいたのは10日間。捕まったときの所持金9900円を受け取って外に出たんだ。
 でも、俺はまだ懲りてなかったんだよね。留置所を出てから、すぐにビラ貼りの仕事を再開した。ところが再開してすぐ、警官と出会っちまった。ビラを貼り終わって、歌穂と自転車の二人乗りをしていたんだ。何気なく前を見ると、パトカーに乗った警官がこっちに視線を送っていた。自転車のカゴには、紙袋とコンビニの袋があって、なかにはビラと商売道具が入ってる。逃げ出せば捕まって、留置所に逆戻りだよ。
 仕方ないから、歌穂を荷台から降ろして20メートルほど歩いたよ。そしたら案の定、「ちょっと待ってください」と声をかけられてさ。そのときの歌穂の言い訳が、いかにもつくったという感じでうそ臭かったんだよ。「病院に行って戻ってきたところなんです」って(笑)。
 警官はうなずきながら、防犯登録を調べ始めたよ。自転車そのものは、廃品を直したものだったから問題はなかった。ただカゴの袋を開けないでくれとひたすら祈ってた。
 警官から住所と電話番号を聞かれたときは、うらみのある人間の番号を答えたよ。でも、警察もなかなか離してくれないんだ。しまいには警察署に出頭しろなんて言い出すし。そうなったらビラ貼りで捕まったことがバレるし、カゴの荷物も調べられちゃうだろ。それで、「いまは病院帰りで彼女を送っている最中だから、一時間後に必ず警察署に行きます」と約束して、その場をごまかしたんだ。
 パトカーから見えない場所まで来たら、二人とも大あわてだよ。すぐに商売用の荷物を捨てて、着替えのバッグだけ持って電車に飛び乗った。たまたまポケットにはビラ貼りでかせいだ1万3000円が入っていたんだ。危なくてあそこではビラ貼りなんてできないなあと思ったよ。警察署に出頭しなかったことで、職務質問をした警官からはあやしいと思われるし。同じ場所で貼っていれば、いずれ捕まるからさ。

●殴った女は出ていった

 電車を降りたのは川崎。ここでホームレスを始めたんだけれど、エサがない。ファストフードも回ったけれど拾えない。そのうちパンク(お金がなくなって)して、パチンコ屋に置いてあるアメ玉をしゃぶって腹が減ったのをがまんしていたんだ。2、3日かな。多摩川を眺めながら、アメだけで過ごしたのは。でもこれじゃいけないと思ってさ。歌穂もかわいそうだし。
 それで昔世話になっていた人に、なけなしの30円で電話したんだよ。不動産屋と人材派遣の会社を経営している人でさ。以前に仕事を紹介してくれた人だったけれども、不義理をしちゃったんだ。それでも電話で話を聞いてくれて、事務所にも来いって言ってくれた。訪ねたら、俺にはカーペットを扱う会社を、歌穂にはウェイトレスの仕事を紹介してくれたうえに、アパートまで用意してくれたんだ。それから三ヶ月は、まあまあ順調に暮らしていたんだよ。
 でも9月に歌穂は出ていった。いや、俺がなぐっちゃったんだよ。
 仕事が終わるころには、店なんかも閉まっちゃうだろ。だから魚屋でつまみの魚を買っておくよう、歌穂に頼んだんだ。すっごくおいしい刺し身でさ。でもアパートに帰ってみたら、歌穂はいつものように発泡酒を飲んで、魚のことなんか忘れていた。近くの店でかき揚げとコロッケを買ってきて、それをさかなに晩酌だよ。
 そのうえ歌穂が部屋を散らかしていたんだ。俺は「あったところに物を片づけておけ」とどなった。そうしたら歌穂がふてくされてさ。飲んでいると気が強いやね、あいつも。それで殴っちゃったんだ。
 いや、当時の俺はひねくれてたんだな。歌穂がかせいできたお金でキャバレーに行って、そこの女と寝ちゃったり、昼間はゲーセンにしけこんだりしてさ。もちろん仕事に行く気にもならないし。
 結局、殴ったことが引き金かな。歌穂は仕事を辞めて家を出た。それっきりアパートには戻ってこなかったよ。

●仕事しないとアカがつく

 俺は働き続けたんだ。でも3月いっぱいで辞めた。じつは部長から引き抜きがあってね。違う職場で仕事をしないかと。しかも同時期に、違う上司から正社員にならないかと声がかかったんだ。真面目に働いていたからさ。でも、どちらかの顔を立てれば、必ずどちらかをつぶすことになるだろ。だから両方切った。これなら二人に迷惑がかからないだろう。
 それにカーペットの仕事していて、これでいいのかなとも感じていたんだ。仕事に追われて、一日一日を過ごしていたから。お金は残らないしさ。会社の仲間と飲んでいてもそうだよ。「こうしたらいいのになー」とか話すでしょ。そうすると「いや、会社組織なんてそんなもんよ」とか返されるわけだよ。そのとき「アー」と思ったんだよね。
 アパートに住んでいても、ホームレスしていても生活なんて変わらないよ。ただ働いているだけじゃ、自分がおかしくなっちゃう。自分が何をしたいのかね……。いや、俺は強いときはスッゲー強いんだ。でも弱いときはスッゲー弱いんだよ。なんか自分が特別な存在だと思っているのかな……。サラリーマンって何を考えて生きているんだろうな。俺だって、自分の許容範囲で生きていければいいんだけれどね。
 仕事を辞め、アパートを引き払い、埼玉に戻ってホームレスを始めた。振り出しに戻っちゃったよ。
 いや、ホームレスになるのに勇気はいらない。覚悟もいらないよ。ただギャップを調整するのが大変なんだ。禁断症状が出るから(笑)。8時か9時になったら飲みながらテレビを見る。そんな当たり前の生活ができなくなるだろ。センチメンタルになるんだな。まあ、それも一ヶ月ぐらいかな。二ヶ月ぐらいすると、完全にフラットさ。
 ホームレスになったら、まず服を探す。汚い格好は嫌だから。何でも捨ててあるからね。探すのに苦労はしないよ。新品同然の服だってそろう。だから服装はどうにでもなる。靴墨だって落ちているから、ピカピカの靴を履くことだってできる。
 ただどんなに格好をつけていても、俺はホームレスを見分けられる。いくら身だしなみに気をつけて、頭に油をつけて整えていてもね。
 仕事をしていないと考え方が変わるんだ。意識が違う。それが表れる。「アカ」というのかな。見ればわかるんだよ。勤めている人とちょっと違うから。働かなくても何とか食えるでしょ。それが当たり前になっちゃう。稼業を見下すわけじゃないけれども、働かなくなる。それが怖いんだよ。

■第一声が「コーラァー」

 会社を辞めて二ヶ月ぐらいあとだった。5月の連休が終わっていたから、20日ぐらいだったかな。ばったり歌穂に再会したんだ。駅のトイレ近くにいたら、歌穂が来てさ。「おめえ、何してんだ」って声をかけんたんだよ。そしたら「トイレに来た」って。トイレなんか下にもあるから、わざわざ階段を上って、ここのトイレなんか使うことないのに。上のトイレの方がきれいだから階段を上ってきたんだと。それで、また一緒に住むようになったんだ。
 飯場のまかないをしていたらしいんだけれど、これがひどい職場だったらしいんだ。仕事ができると思って、手配師の口車にのって飛びついたら、飯場に泊まっているのはヤクザばかり。夜になれば、血だらけの殴り合い。覚せい剤なんかも打っていたらしい。そりゃ怖かったらしくて、その飯場を、どうにか辞めてきたらしいんだ。
 俺は何度か聞いたんだよ。「辞めるって会社に言ってきたんだろうな」って。「勝手に辞めてきたんじゃないな」って。歌穂もうなずくから信じたんだけれど、これがケチのつきはじめだったよ。
 再会してから二ヶ月ぐらいたった七月、朝の九時ぐらいだったかな。2人で図書館に行こうと思って歩いていたんだよ。そしたら歌穂が声をかけられたんだ。「会社の人間が会いたがっている」ってさ。「残っていた給料を払いたい」なんてね。俺も少しは生活がラクになるかなーと思って車に乗ったんだ。いや、丁寧な口調でさ。全然怖くなかったよ。だから「旦那も一緒にどうですか」と言われたときは何の疑いも持たなかった。
 ところがさ、事務所に着いた時の第一声が「コーラァー」だからね。すごいデカイ声で。動くと布がこすれてシャカシャカと音がする薄いジャージがあるだろ。あれを着た男がいきなり膝の上にケリを入れてきたんだ。一八五センチはある大男だからな。すごい衝撃だよ。次に腹、前かがみになったところで肩口にケリだ。プロレスラーの蝶野正洋がやるケンカキックって知ってる? 足の裏、かかとでけるの。そのケンカキックがこめかみにも入ったからさ。歌穂はきちんと話をつけて辞めたと思っていたみたいだけれど、向こうは歌穂を飯場から連れ出して逃げたのが、俺だと思っていたんだよ。もう話にならないさ。
「すぐ裏が工事現場だからな。殺して埋めてやるよ」と脅されて、手の甲にアイスピックを突き刺された。一発で泣きを入れたよ。それでも二時間ぐらいは、いたぶられていたかな。
 また歌穂がさ、ヤクザから「これからどうする?」とか聞かれると、「ここで働く気はありません」とか言うんだよ(笑)。てめぇー、俺が殴られるだろうと思うけれど、曲げないんだ。
 その日、たまたま社長が法事に出かける日だったらしくて、「逃げないように見張っておけ」と舎弟に言い渡して、やっと暴力から解放された。
 事務所のそばには大きな飯場があって、トラックが何台も置かれていたよ。辺りにはススキがいっぱいあって、舗装されていない道には轍があるだけ。逃げられないと思ったね。

■裸足の言い訳

 夜になったら、「飲み会があるから来い。社長も呼んでるしな」と言われて、案の定「どうやって落とし前をつけるんだ」と脅された。
「できることは何でもします」と言って頭を下げたよ。それしかないじゃない。さらに名前を言って、「よろしくお願いします」と頼み込んだんだ。「おめえ、逃げんなよ」と一言脅して、ヤツもそれで納得したんだろうな。少年院の話なんかを始めたよ。そいつはフィリピンの女を連れていてね。格好からして、いかにもヤクザだったな。
 それから酒を飲んだり注ぎに回ったりして、ある程度時間がたってから、コップを探すふりをして台所の歌穂に会いに行った。「もう少ししたら、ここから逃げ出すからついてこい」と耳打ちしにね。
 宴会がお開きになって、風呂に入る時間になってさ。俺は、バカそうな一人に、「タオルを買ってきたいんですが」と話しかけたんだ。そうしたら店の場所を教えてくれたよ。運のいいことに、そのときたまたま1万円を持っていた。
「5分で戻りますから」と言って事務所から出て待っていたら、数分後、靴も履かずにストッキングのまま、歌穂が事務所から出てきたんだ。9時半ぐらいだったかな。歌穂の手を引っ張って、200メートルぐらい全力で走ったよ。街灯も100メートルに一個ぐらいしかなくて、道は真っ暗。かえってそれがよかったんだよね。車のライトが見えるからさ。
 車のライトが見えると、側道の竹やぶに飛び込んで通り過ぎるのを待ってさ。やり過ごした車は2、3台かな。とにかく追ってくる車が怖くてさ。振り向き、振り向き走っていたけれど、途中からバックで走っていた。これなら後ろを見ながら、走れるからさ。
 途中、道端に止まっている車があってね。車内にアベックがいたんだ。こっちは、とにかく遠くに逃げ出さなくちゃいけないから、アベックに必死に頼み込んだ。「足をくじいちゃって、道もわからない。お願いだから、駅まで送ってくれないか」とね。本当の事情を話したら絶対に送ってくれないからさ。適当にうそをついたけれども、それでも丁重に断られた。仕方ないよね。見るからにあやしいんだから(笑)。

■やっと逃げ切った

 それからは家を見つけるたびにベルを押して、車で駅まで送ってもらえないかとお願いしたんだ。一軒目は、歌穂が交渉したけれどダメ。二軒目もダメ。三軒目に、ピンポンと呼び鈴を押したら、40代後半の夫婦ものが出てきてさ。また、足をくじいたとか話したよ。
 歌穂も「手で靴を持って歩いていたんだけれど、なくしちゃったんですよ」なんて裸足の言い訳してさ。でも、その方がよっぽどおかしいよね。裸足の理由としてはさ(笑)。
 結局、かっぷくのいい旦那が送ってくれることになった。でも送ってもらうだけじゃダメなんだ。近くの駅じゃ困る。近い駅はヤクザも張っているだろう。ヤクザに出会ったら送ってくれる人にも迷惑がかかるしね。乗ってからも必死に少し遠い駅に連れてってくれるようお願いしたんだ。変に思ったかもしれないよね。でも、もともと裸足の女を連れた男だからな(笑)。
 幸い窓にはスモークがかかっていたから、外からは見えなかった。でも窓が少し開いていたんだよ。だから「すみません。閉めていただけますか」ってまた頼み込んだ。だって窓からヤクザに見られたら困るから。心配し過ぎと思うかもしれないけれど、ヤクザがどこまで来ているかわからないもんね。だから怖いの。
 駅に着いてからも大変だったよ。階段の下に隠れていた。街灯もなくて真っ暗なところだよ。他の場所にいると、ロータリーから見えちゃうから。また電車が来るまでに時間があってね。怖かったよ。だって駅で見つかったら逃げられないだろ。
 やっと電車が来ても、夜の上り電車だからガラガラなんだ。もしヤクザが乗っていたら、見つかるなと思ったよ。だから気休めかもしれないけれど、一番後ろの車両に乗って、誰か来るかなーって周りをうかがっていたんだ。もし前からヤクザが来たら、電車を降りて逃げることもできるからさ。
 何度か乗り換えしたけれど、ずっとビクビクしてたな。やっとホッとしたのは、品川に着いてからだよ。たしか10時20分ぐらいだった。
 駅から15分ぐらい歩いたかな、ファミリーレストランに入ってビールを頼んで、初めて心から笑えたんだ。「テメー、このやろう」って言いながら、歌穂の頭をこづいたりしてさ(笑)。そこで朝まで歌穂と過ごしたよ。体から力が抜けたね。

■歌穂がいなきゃ働いている

 それから、また平和なホームレスに戻ったの。
 お金と仕事内容、どちらが大切かと聞かれれば、仕事内容の方じゃないかな。仕事をしているときに、いらぬ心配はしたくないしね。
 人間関係のうざったくないところで働きたいんだ。仕事は真面目だけれど、仕切っちゃうの。だから上の人とぶつかることが多いし。俺は好かれるか嫌われるかどちらかだからさ(笑)。
 だから、たとえ日当が2000円ぐらい安くても、働きやすい場所を選ぶようにしているよ。もしかしたら、まだ極限まで追い詰められていなくて、キレイ事を言っているのかもしれないけれどさ。まあ、先のことは、あまり考えてないよ。思考停止なんてバンバンだよな(笑)。それでいいやと思うしさ。
 ただね、働かなくたって人からはモノをもらいたくないし、人に迷惑もかけたくないんだ。汚い格好をしているのも嫌だな。だからしょっちゅう洗濯しているよ。
 まあ、コレ(歌穂)がいなければ、仕事をしているかもね。きっと250%しているよ(笑)。二人でいると寂しくないの。一人でいる寂しさを俺は知らないんだと思うんだ。だから仕事をしないでも平気なんだよ。仕事仲間がいなくても、歌穂がいるからさ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/公園で始まった陣痛・長尾康子(44歳)

■「新・ホームレス自らを語る」掲載記事

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■テレビにも週刊誌にも出演した

 私ね、何も持っていないけれど子どもがいたの。最初が33歳のときの子ども。4月14日生まれ。名前は、浩一(仮名)です。
 そのときもホームレスをしてたんですよ。子どもを生むときは、人が少ない方がいいと思って、大阪駅の近くにある公園の木陰で生んだの。痛かったよ。3000グラムもある大きい子どもだったし。
 たまたま犬を連れた奥さんが近くを通りかかって、救急車を呼んでくれたんです。もう子どもは生まれていたけれど、へその緒はつながったままだったから、血を見て奥さんも助けてくれたんでしょう。
 いや、そのときも恋人はいないですよ。子どものお父さんは誰か知らないの、私も。
 子どもが生まれてからは、福祉(地方自治体の福祉課と思われる)でアパートを借りてくれて、そこで暮らしていました。でも2歳ぐらいのときに、子どもと別れたんです。福祉が連れていっちゃったんですよ。育てられないと思ったんじゃないかな。
 いや、もう子どもには会いたくないですよ。それまで生んだことなかったから知らなかったけれど、子どもはかわいい、かわいいだけじゃないの。苦労するのよ。モノも言わないし。
 もう子どもとは会いません。別れちゃったんだから。私はそんなに強欲じゃないから。いまでは人間を生んだとも思えなくなってきているの。生んだのは犬だったかもしれないってさ。
 ついこの間も、子どもを生んだの。
 ほら、これ。「H13、11、16 AM11時19分 2945グラム 身長47・5センチ」って書いてあるでしょう(長尾さんは、小さなポーチからプラスチックできたピンクの腕輪を出した。病院で子どもが使っていたものだった)。15日の朝9時から入院したんですよ。陣痛の痛さにビックリしちゃったから。ボランティアの女の人に連れて行ってもらったの。今度は助けてくれる人がいたから安心でした。入院していたのは一週間。退院したら公園の木の葉っぱがすっかり落ちていて、ずいぶん変わったなって。
 いや、恋人なんかいたことないよ。SEXしても、しなくてもできるんだから、きっと私が生まれたときに、もうお腹に子どもが入っていたんじゃないかな。
 娘の名前は、和美。子どもを育てようと思ったけれど、行くところはないし。福祉で世話になると、寮に入らなくちゃいけないでしょ。ボランティアの人も頑張ってくれたけれど、寮に入るのは嫌だから。でも子どもと二人で生活しても、浩一ができたときと同じになっちゃうし。だから子どもを(施設に)預けてもいいと思って……。
 テレビとか週刊誌に出た(テレビ出演は事実)こともあって、通る人、通る人が食べ物なんかを心配してくれてくれるんです。あそこにあるピンクのうさぎももらったの。記念ですね。

■顔を包丁で

 1957年3月生まれです。2歳のときに、お母さんは亡くなったそうですよ。お父さんから聞いたから、本当かウソかわからないけれどね。それから小学一年のときに、お父さんが再婚したんです。六年ぐらいまで一緒に暮らして離婚。それから中学二年のときに、また再婚したのね。連れ子がいたの。それで家族が多くなったから、ジャマ扱いされたんです。それで施設に入れられたんだ。
 それから二年間は、施設で暮らしたの。私はこう見えても、中学までは出ているんですよ(笑)。中学を卒業してからは、どこかの工場で働いていたんです。でも、そういう仕事は長続きしないよ。二年いるかいないかかな。
 それで家に帰って、家から風船を作るような工場に働きにいったの。ほら、細長いビニールに入ったアイスのお菓子があるでしょう。二つにちぎって吸う安いアイス。それから靴の形を整えるビニールの風船とか。そういうものを作っていたの。そこは一ヶ月ちょっといました。そのあとは生活保護をもらって、病院に通っていたんです。
 その当時ですよ。右腕に入れ墨を彫ったのは。ほら、男の名前とバラが描いてあるでしょ。痛くなかったよ。私、頭が弱いから、忘れないように名前を書いてくれたんじゃないかしら(笑)。うんうん、無理矢理じゃなくて、ひまだったから彫ることにしたの。名前を入れた人は、恋人に近い人でしたよ。でも、家が複雑だから結婚できなかったのね。
 あっ、この左手の傷? これはね、包丁で刺されたの。スナックで手伝いをしていたのよ。刺したのはヤクザ屋さんで、どうしようもない人だった。もちろん知ってる人だよ。店に入ってきてさ、カッとしたんじゃない。発作的にですよ。台所から包丁を持って来て、こういう風に包丁を頭の上にふりあげてね。顔を狙ってきたんです。怖いから悲鳴を上げて、顔の前に手を出したんです。その上から包丁で斬りつけられて。あまりよく憶えていないんだけれど、病院で10針縫ったよ。
 顔の傷(左唇の端から頬にかけて3センチ程度の切り傷がある)? これはつい最近斬られたんだ。今年の正月明け、寝泊まりしていた東京駅でね。その当時は、品川のラーメン屋で働いてたんだけれどさ。一緒に働いていた従業員だよ、斬りつけたのは。
 ほら、お金持ちが持っているような小さなバッグがあるじゃない。そこからカッターナイフを出して、いきなり斬りつけたの。口からボタボタと血が流れてきたんですから。何でかなんて知らないよ。頭にカッと血が上るプー太郎みたいな人だったから。人を斬っても何にも思わない人だったんだよ。
 通報してカネでも取ってやればよかったと思ったけれど、ヤクザ屋さんみたいだから何されるかわからないもの。そりゃ、当たり前だよ。何でも警察に言える訳ないだろう。5000円渡されて、「病院に行け」って言われて終わり。
 いい生活には恵まれなかったですね。でも、もう男はいいよ。面白くないもん。だいたい何もない者同士で暮らしても何にもならないからさ。まあ、仕事をしている人でもいらないかな。 

※★森さんの話はつじつまが合わない部分が多々あったので時間をかけて話を聞き、そのうえで多少混乱していると思われる発言についても、彼女の心情を表すと判断した個所については、そのまま収録することにした。 (■了)

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ホームレス自らを語る/殺人者の妻にはなりたくない・田中芳子(53歳)

■「新・ホームレス自らを語る」に掲載

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■ヤクザに入れ墨を彫られた

 話? いいよ。
 生まれは、昭和23(1948)年3月。五人兄妹の一番下。中学を卒業して、愛知県の縫製工場に勤めたの。でも3年で辞めた。それから愛知県の蒲郡にあったスナックで働いていたんだけれど、そのときに知り合った男がヤクザでさ。ヤクザの「ひも」になったの。その男が私を殴るのよ、しょっちゅう。
 スナックだから、お客さんからチップをもらうでしょ。そのお金を帯留めにしまっておくと、「チップをもらっただろ」って日本刀で脅されて、裸にされて、金を取られるの。
 もっと怖いこともあったんだから。入れ墨を彫られたんだ。20~30センチぐらいの日本刀を突きつけられて素っ裸にされたの。それからさらしで手足を縛りつけられて、若い衆に体を押さえつけられてね。抵抗なんかできないよ。まだ17歳だったし、体もやせていたからね。
 左肩に男の名前とハートマークを彫られたの。彫り師なんて来ないよ。ヤクザが木綿針に墨汁をつけて、一針ごと刺していくんだから。2、3時間かかったかな。そりゃ、痛かったよ。彫った夜なんて傷が腫れ上がったようになって、痛くて眠れないんだから。
 親にもらった体をいたぶられて、自殺しようとも思ったよ。睡眠薬も買って。でも、それはできなかった。飲めなかったの。死ぬ気になれなかったんだよね。
 入れ墨はあるけれど、お風呂(銭湯)には行くよ。恥ずかしくもない。私は悪いことしてないんだからさ。
 その男からは逃げたかったけれど、なかなかできなかった。逃げようとして、ビール瓶で殴られたこともあったから。でも、ある雨の日に家を飛び出したの。春ぐらいだったな。ワンピース一枚しか着てなかったから寒くてね。ヘソクリの10万円を握りしめて、走って家を出たんだ。タクシーをつかまえて、「浜松まで行ってください」って運転手に頼んだら、優しい人でさ。「それじゃあ、3万円でいいよ」って言ってくれたの。浜松のホテルで訳を説明して、住み込みで雇ってもらったんだ。寒かったから、メイドさんにお金を渡して、洋服を買ってもらったりもしたよ。

■殴られて病院と施設を転々

 25歳ごろに出会った男は、シンナーを吸っていた。バカだから。この男にも殴られたり、蹴られたりしたよ。一緒に住んでいた東京・中野のアパートでね。金遣いが荒くて、競馬やパチンコばっかりしていてさ。
 知り合ってからずいぶんたってからだけれど、こめかみを殴られて意識を失ったことがあるの。目が覚めたら病院だった。でもね、白い天井にボーッと見えたのはヘリコプターだったんだ。いや、窓の外じゃないよ。ベッドの上でヘリコプターがグルグル回っていたの。いよいよ頭がおかしくなっちゃったんだと思ってね。CTスキャンとかいう機械で調べたら、少し脳に出血があったらしいから、よっぽど殴られたんだと思うよ。右腕とかもあざだらけだったから。
 その病院に一年入院して、それから別の病院に転院したの。そこには二年ぐらいいたかな。肝臓も悪かったからね。そこから新宿の福祉施設に入れてもらったの。でも期限が決められていたから、そこからまた別の福祉施設に移ったんだ。
 その施設は、毎日の生活が決められていた。6時半に起きてラジオ体操をして、それからトイレや部屋の掃除。7時半から8時までが食事。それから午後3時までは線香を作るの。五時から夕食。自分のスペースは畳一畳分で、小さなテレビがついていてね。まるで木賃宿みたいな二段ベッドなの。週末は仕事は休みだけれど、門限も早いし。何よりお線香のにおいに堪えられなくなって、出て来ちゃった。

■オレ、殺しちゃった

 そのあとに知り合ったのが、川口謙二(仮名)だよ。知り合って、無理やり籍に入れられたの。新宿エルタワーの地下でホームレスをしていたんだけれど、謙二は運送会社で働いていたんだ。ホームレスのグループを仕切っていて、ヨシオ(仮名)とかをこき使っていたんだよ。
 事件が起きたのは、94年の5月末。新宿エルタワーの地下で3、4人で酒を飲んでいたの。最初は私も一緒に飲んでいたんだ。でも途中で、段ボールハウスに帰ったのよ。しばらくして物音で目を覚ましたら、謙二が「オレ、殺しちゃった」って言うんだ。
 こりゃ、やったなと思ったよ。だって手にベットリ血が付いていたからさ。仲間二人と一緒に、二人も殺したんだよ。私は怖くて段ボールハウスにいたけれど、謙二はどこかに出ていった。
 謙二はすぐに捕まったよ。だってホームレスの仲間は、誰が犯人か知っていたから。「ネーサンも大変だね」って、みんなに言われたよ。ホームレスから話を聞くために、デカも新宿を回っていたし。
 警察には何回も呼ばれたんだ。「謙二と一緒にいたのか」と聞かれて、デカにも何度か殴られたからね。手のひらっぺたで頬を殴るの。最初に警察に連れていかれたときは、ラーメンが出たよ。でも、食べ物がノドを通らなかったね。ショックでさ。
 警察署を出るとき、「面会するか」って聞かれたんだよ。でも「いやだ」って断ったんだ。顔を見ただけでも頭にくるから。謙二にも殴られていたから、それにも腹が立っていたけれど、何より殺人者の妻になんかなりたくなかった。どうしてあいつのおかげで、こんな迷惑をかけられるのかと思ったら悔しくてさ。
 裁判所にも証人として行かされたよ。裁判官が「川口謙二の妻、前に出なさい」って言ってね。裁判官やら検察やらが、「これはわかりますか」とか「知っていますか」って、しつこく聞くの。「一切知りません」と答えるけど、また聞かれる。そのうち気持ち悪くなってきちゃって、「すみません。気持ち悪いんですけど」って裁判官に言ったら、三分間の休憩を取ってくれたよ。私は便所でゲーゲー吐いたんだ。
 傍聴に来てくれた「いのけん」(渋谷・原宿 生命と権利をかちとる会)の人が、「大丈夫、大丈夫」ってしきりに声をかけてくれてね。それだけがうれしかったよ。
 裁判が再開されたら、謙二が殺人に使った石が出てきたんだ。横幅は70センチぐらいあったし、縦も20センチ以上もあった。その石で謙二は殴りつけたんだよ。石だよ、石……(田中さんの目から涙が溢れ続けた)。もう、あいつのことは思い出したくないんだ。出所してきても、絶対に会いたくないんだよ。

■テント暮らしが一番幸せ

 いまのお父さんと知り合ってから、6年たつの。いままでの男はみんな殴ったのに、一度だって手を上げたことがないんだ。
 新宿で「あんた一人? お茶でもどう」って、お父さんから声をかけられたの。背広が似合っていて、格好よくてさ。この人だって、ピンときたの。言葉遣いだって優しいもん。喫茶店のルノワールでお茶を飲んで、そのあとかな、「オレと一緒になろう」って言ってくれたんだ。
 出会ったころ、お父さんは手配師をしていたんだけれど、不景気になってきて新宿サブナードの入り口で雑誌の販売を始めたんだ。月に3万円もショバ代を取られたけれど、まだやっている人も少なくてけっこうお金になったよ。お父さんは、「おいしいものを食べなさい」って、いつもお金を置いていってくれたし。
 そのうち、もう一軒店を出すことになって、私が店番をすることになったの。
 そのころは一緒に住むために、1日4100円で大久保ハウスを借りてくれたんだよ。計算したら宿代に90万円も使っていた。いま考えればもったいない話でさ、早くテントに住んでお金を貯めておけばよかったね、なんていまでも笑うの(笑)。
 毎週買ってくれるお客さんもいて商売は順調だったけれど、撤去要請の紙を役所から3回貼られてさ。「さすがにここじゃ、もうダメだな」なんてお父さんと話し合って、店を閉めることにしたんだ。
 いまでもお父さんは、仕事をしているよ。私は、洗い物をしている。あとテントの周りの掃除。ごはんはおとうさんが作ってくれる。温泉で働いていたことがあるから、料理を作るのは専門家なんだ。
 近所の人もみんな私に挨拶してくれるよ。「掃除をしてくれて、ありがとうね」とか「遠藤さんはいい人だね」って、一般の人が洋服を持ってきてくれることもあるの。
 テントで暮らしているけれど、いまが一番幸せ。お兄さん(※記者)もいい人見つけて、早く結婚した方がいいよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/母と姉を見殺しにした・青山良男さん(42歳)

■月刊「記録」2000年7月、8月号掲載記事

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いて、身体に障害があって、みんなにもイジメられて、よくオフクロに「なんでオレなんかを生んだんだよ?」と言っては困らせた。言ってみたところで、どうしようもないことはわかっているんだけど……そのたびにオフクロは泣いてた。

■三人で住む小さな家を建てた

 オフクロは毎日朝早くから夜遅くまで、それこそ働きづめに働いていた。それでオレを高校までやってくれた。機械いじりが好きだったから工業高校に進んだ。そこを卒業してからは、埼玉にあった貴金属加工の工場に就職した。関東一円で貴金属販売をしているチェーン店の工場で、そこで旋盤を使って金製品や銀製品を研磨するのが仕事だった。オレには右手が不自由というハンディがあるんで苦労はしたけど、仕事ではほかの連中には負けなかった。
 仕事の仲間はいい人ばかりだったし、毎日が楽しかった。そのころのオレは仕事一本槍で真面目そのものだった。酒も、ギャンブルも、変な遊びも一切しなかった。もらった給料を貯金することだけが楽しみで、給料もボーナスもほとんど貯金した。
 それには訳があってね。そのころは狭い寮の一室で、他人と一緒に暮らす生活をしていただろう。オフクロがそれをずっと嫌っていてね。精神的に障害のある姉を、他人の目にさらさなければならないのもつらかったようだ。「狭くてもいいから、親子3人で暮らせる家に住みたい」というのが口癖だった。オフクロも働いた。オレも頑張って働いた。自分たちの家を建てることが夢だったんだ。
 その夢がかなったのは24歳のときだ。埼玉の奥の方に小さな土地を買って、小さな家を建てた。大半はローンだったけど、自分たちの家が持てたのはうれしかった。何より喜んだのはオフクロだった。ずっと貧乏で苦労の連続だったからね。これでうちも人並みの幸せになれると思った。
 ところが、それも長くは続かなかった。家を新築して3年目のことだ。ある朝、オレは仕事に出かける前に、いつものように部屋の外からオフクロに声をかけた。だけど、その日に限ってオフクロから返事がなかった。オレはそれを気にもかけずに仕事に出てしまったんだ。ホントはそこで気づいて、部屋をのぞいてみるべきだった。いまでも、あの時なぜのぞかなかったのか悔やまれてならない。
 夕方、家に帰ってみると、オフクロは寝間着のままで、自分の部屋に倒れていた。脳内出血だった。寝間着のままということは、オレが朝声をかけたときにはもう倒れていたわけだ。一日中出血したままで放っておいたことになる。すぐに救急車で病院に送ったが、手遅れでそのまま死んだ。オレが見殺しにしたようなもんだよね。 あとで人に聞いてわかったんだが、新築した家の玄関が北向きだったのがいけなかったらしい。幸せを夢見て建てた家のはずなのに、それからは悪いほうにばかり転がり出すんだ。うまくいかないもんだね。

■精神障害のある姉を見捨てた

 オフクロが死んでしばらくして、仕事のほうもうまくいかなくなった。金や銀製の貴金属は需要がだんだん落ち込んで、そのうえ外国産の安い製品も出回るようになってね。研磨の仕事は減ってきてしまったんだ。それで同じ工場の中で配置転換になって、写真用の使用済みフィルムから銀を回収する職場に回された。
 その作業ではいろんな化学薬品を使うんだけど、それが体に合わなくてね。全身がかぶれて真っ赤になるし、酸を吸い込むと激しく咳き込むんだ。オレの体には合わない職場だった。
 仕事のほかにも、姉のことがオレの悩みのタネだった。オレが昼間仕事に出ている間に、フラフラと家を抜け出してしまうんだ。それで近所の家に勝手に上がり込んで、冷蔵庫のものを食べてしまったりとかね。近所の人から「困る」とねじ込まれたのも、一度や二度じゃない。それに訪問販売にだまされて、高い消火器を幾本もまとめて買わされていたこともあった。
 そんなことが重なってくると、仕事中も気になって仕事が手につかなくなるんだ。だからって姉を縛りつけて、仕事に出るってわけにもいかないしね。思いあまって市役所の福祉課に相談に行ったよ。「姉を病院に入れたいから、入院費の一部を補助してくれないか」ってね。だけど、家を持っていてオレも働いていて収入があるから補助の対象にはならないって断られた。
 そう言われても、オレの収入だけで姉を入院させるのは無理だったしね。兄のところにも相談に行った。でも、兄も結婚していて、嫁さんの顔色をうかがっているばかりで、いい返事はしてくれなかった。
 まあ、精神に障害のある家族を抱えて働くのがどんなに大変かは、やってみた人間でないとわからないよ。この姉を一生抱えて面倒みていくのかと思うとたまんなくなってね。それに新しい職場が体に合わないこともあって、何もかも嫌になっていったんだ。それで姉を置いて逃げた。オレは逃げ出していたんだ……(青山さんは目を潤ませて、しばらく黙った)。

■虫の知らせで戻ってみると

 オレが逃げた先は東京。新宿のサウナに住み込みで働くようになったんだ。ただ、姉のことを完全に見捨てたわけじゃなくて、金だけは送ってやってたからね。姉にも金を持って店に行けば、食べるものが買えるくらいの知恵はあったからね。
 三年くらいして、オレがちょうど30歳のときだった。虫の知らせっていうか、急に埼玉の家のことが気になってね。それで帰ってみたんだ。すると姉が倒れていた。体中がものすごくむくんでしまって、まったく動けない状態だった。糞尿にまみれてすごいことになっていた。すぐに入院させたが、二週間後に死んだ。むごい死に方をさせてしまった。オレが見殺しにしてしまったんだよね。
 それからしばらくは、家に一人で暮らした。けど、オレの過失でオフクロも姉も殺してしてしまったわけだろう。それを思うと、夜も眠れない日が続いた。部屋は家具から何まで、オフクロと姉が元気だったころのままにしてあったから、その中で暮らすのはいたたまれなかった。それに姉が迷惑をかけた近所の人の目や噂も気になった。
 いまから思うと、完全なノイローゼだったんだろうね。「オレなんか生きててもしょうがない。もう死のう」と思って、大宮駅のホームから電車に飛び込もうとしてたよ。電車が入ってくるたびに飛び込むタイミングを計りながら、電車にひかれたらオレの体はどうなるんだろうと想像した。一台、また一台と、幾台もの電車をやりすごしながら、なかなか飛び込む勇気が出せなくてね。そのうちに向かいのホームで電車を待っていた中年の男の人と目が合った。
 その人がニッコリ笑ったんだ。その笑顔に救われた。ハッと我に返って「オレは何を考えていたんだろう」と思って、それで死ぬのをやめていた。

■オレだけが幸せになれない

 それから家を売り払って金に替えた。その金で遊び暮らした。パチンコと、酒と、女だね。それまで遊んだことのないオレだったが、「もうどうにでもなれ」という気で好き放題をした。金の威力を知ったよ。障害があって、それまで女にモテたことなんてなかったけど、金さえあれば商売女たちが寄ってきて、チヤホヤしてくれるんだものな。ホントに金の威力はすごいと思った。でも、それも半年で使い切った。家を売ったといってもローンが残ってたから、いくらも現金になったわけじゃないしね。
 それからはホームレスになった。飯場にちょっと入ってみたこともあるけど、こんな体だからね。ずっとホームレスをしているよ。一度就職口が見つかって、採用内定をもらったことがある。だけど、オフクロや姉にあんな死に方をさせておいて、オレだけが幸せになるわけにはいかないと思ってやめたよ。オレだけが幸せになったら、嫉妬深い二人に叱られるような気がしてね。自分は人並みの暮らしはしちゃあいけない。ホームレスをしていなくちゃあいけない。自分でそう決めてるんだ。だから、これでいいんだよ。
 ホームレスになってから、ちょっとした悪さをして警察に捕まったことがあってね。たった一人残っていた兄も、病気で何年か前に死んでいることがわかった。取り調べの刑事が教えてくれたんだけど、警察ってそんなことまで調べるんだね。もう家族は誰も残っていない。つくづく家族運のない人生だったと思う。
 これから先、自分から死ぬようなことはないけど、いつ死んでもいいと思っている。精神的にはもう死んでるからね。体だけが生きてるようなもんだからさ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/若者と語るのが好き・渋谷のジジ(54歳)

■月刊「記録」2001年2月、3月号掲載記事

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■調理師の腕前は一流だった

 ホームレスになって5年くらいになる。みんなからは「渋谷のジジ」って呼ばれている。いまは新宿にいるほうが多くなったけど、前の渋谷にいたころにテレビに取材されたこともあってね。オレもちょっとばかりは有名なんだよ。
 ホームレスなんていつだってやめられるし、オレには帰るところだってある。けど、ホームレスをしているといろんな人に会えて面白い。だから、やめないで続けているんだよ。
 生まれは北海道。旭川近くの産。子どものころはひょうきんものでワンパクだった。夏は人の家の畑に忍び込んでトマトや野菜を盗んで食ったり、冬は雪道に落とし穴をつくったりしてね。どっちかっていえば、ガキ大将で悪ガキだったね。遊んでいるか家の商売を手伝わされるかで、勉強なんか全然しなかった。ただ、いまの悪ガキと違って、オレたちのころのほうが温かさと明るさはあったよね。
 中学を出ると札幌の大きな魚屋に丁稚奉公に出た。あの時代はそれが普通で、高校にまで行けるのはよほどの金持ちの子だけだったからね。魚屋の仕事は面白かった。包丁を使って魚をさばくのが得意で、その店にいるときに調理師の免許も取った。
 20歳のときにその腕が見込まれて、札幌でも有名な割烹に引き抜かれてね。それで魚屋を辞めることになった。その割烹は松倉っていう名の通った料理人がやっている店なんだ。松倉のオヤジさんは明治神宮の新年の包丁式を取り仕切ったり、調理師会の会長をしたこともある人だよ。そんな人がオレの腕を見込んでくれたんだからね。松倉のオヤジさんのことは、あんたも知ってるだろう? 知らないの? そりゃあ勉強不足だよ。
 割烹の板場の修業はきびしかった。魚屋のときとはぜんぜん違ったからね。頭を坊主に丸められて、出入りの作法から教え込まれた。兄弟子は平気でゲンコツで殴ってくるし、そりゃあきびしかった。でも、それも「早く一人前にしたい」っていう愛情からなんだよね。そのおかげで、オレのほうも「負けたくない。早く一人前になろう」と頑張れたんだ。
 22歳で結婚した。札幌のデパートの催しものに、魚をさばく実演のデモンストレーションがあってね。オレはよくそれに駆り出されては、包丁をふるって見せていたんだ。女房はそのデパートで店員をしていて、それで知り合った。性格がきつい女できびしい面もあったけど、オレにはよく尽くしてくれたよ。結婚して娘と息子ができた。
 25、26歳で一家を挙げて東京に出てきた。松倉のオヤジさんの口利きで、東京の調理師会に所属したんだ。その調理師会からいろんな調理場に派遣されるというふうにして働いた。熱海とか伊豆の温泉旅館の板場の仕事が多かった。「包丁一本晒しに巻いて……」の世界。腕に自信があったし、羽振りもよかった。べらぼうなぜいたくはさせられなかったけど、家族には何不自由させなかったからね。

■料理人の意地で包丁を置く

 45歳の年の暑い夏の日だった。朝、目が覚めて起き上がってみると、頭が割れそうに痛くてね。その痛みのすごさは、いまでも忘れられないよ。そのうちに目の前がスーッと暗くなって、そのままぶっ倒れた。そのとき壁に思いきり頭をぶつけたらしいんだが覚えちゃいない。気がついたときには、手術を終えて病院のベッドの上に寝かされていた。クモ膜下出血だった。
 手術のおかげで命と体には別状はなかった。だけど、記憶喪失になっちまってね。倒れたときに頭を打ったのがいけなかったらしい。自分が料理人だってことも、女房や子どもたちのことさえわからないんだからさ。周りの人から「この人があんたの女房だ」と言われても、「へーっ、そうなんだ」と思うだけでね。何もかもすっかり忘れちまっていた。
 リハビリに2、3年かかったよ。なんとか記憶も戻って、また板場に復帰して包丁も握れるようになった。ところが、料理人にとってはその2、3年のブランクが大きかったんだね。そりゃあ前と同じように包丁は使えるし、料理の形もそれらしくはつくれるんだよ。けど、何かが違うんだな。若い衆からも「以前のオヤジさんの料理とは違う」って言われちまうしね。それで包丁を置くことになった。泣いたよ。男泣きに泣いた。
 町の食堂とか居酒屋のようなところならばオレの腕でも十分通用するんだよ。だけど、松倉のオヤジさんがまだ生きてるのに、そんなところに身を堕とせねえだろう。オレにも料理人の意地があるよね。それからは包丁は握ってない。
 あのときのことを思い出すと、いまでも涙が出てくるよ。
 それからあとは、ブラブラして暮らすようになっちまって、女房とは離婚した。「別れたい」って言い出したのは女房のほうだった。ただブラブラして収入もないダンナを見ているのがつらかったんだろう。もう、子どもたちも独立して、娘は結婚もしていたしね。離婚したのは48か49歳のときだった。
 女房と別れてからはホームレスになった。離婚して一年くらいして、その女房が死んでね。乳ガンだった。別れてからも連絡は取り合っていたから、女房の死に目には会えた。死に際にオレの手を取って、「おとうちゃん、いろいろありがとう」と言って死んでいったよ。ケンカ別れをしたわけじゃないし、お互いに気持ちの通じ合うものはあったからね。

■渋谷の若者たちと語り合う

 渋谷というのは若者の街だ。いろんな若者が集まってくる。渋谷の街でホームレスをしていると、そんな若者と知り合う機会も多い。ハチ公前の広場でジャンベっていうアフリカの太鼓を叩いているグループがあってね。オレも太鼓を叩いていたことがあったから、一緒になって叩いたり、教えたりするようになったんだ。初めのうちは2、3人の若者を相手にしていたんだが、いつの間にか50人くらいのグループにふくれ上がっていた。それを見物しにくる人も出てきて、一時はすごい盛り上がり方だったよ。
 そんなことが縁になって若者たちと話すようになった。悩みを聞いてやったり、相談をされたりね。いつからか、みんながオレのことを「渋谷のジジ」と呼ぶようになっていた。
 そんな若い子の一人に明美という子がいた。彼女は毎晩のように渋谷にやってきては、オレと若者たちが演奏するジャンベを聞いていた。明美はまだ中学生のようだったから、話を聞いてみると、不登校で学校には行ってないという。父親のいない寂しい家庭で、学校でもイジメに遭っているようだった。毎日がつらいといって泣くんだ。
 オレが「一度母親を連れてこい」と言うと、本当に連れてきた。その母親から明美の境遇について、いろいろと聞いた。で、「明美が渋谷に来るのは、このジジと話しにくるだけだから、毎晩よこしてくれ」って頼んだ。
 それからも明美は毎晩やってきては、オレと話をした。そのうちに暗かった明美が、だんだん明るさを取り戻していってね。半年後には「また学校へ行く」と言ってくれた。それで次の日から本当に学校に通うようになった。いまでもときどき会いに来てくれる。中学を無事に卒業して、いまはソバ屋で働いているって話だ。
 明美もそうだけど、渋谷なんかに集まってくる子には寂しい子が多い。大人や親から見たら、ちっぽけなことで悩んでいる。それを真剣に聞いてくれる人がいないんだな。だから、このジジは真剣になって聞いてやるし考えてやる。若者を頭ごなしに叱ったり、説教を垂れてもダメ。真剣に話を聞いてやること、そして励ましてやる。それが大切だと思う。

■交番を通じて礼を言ってきた

 ほかにもいろいろ相談を受けるよ。彼女とうまくいかないとか、学校の先生とのトラブルの話とかね。女子高生で妊娠してしまった子がいて、そのときは若者たちから募金をしたり、ジャンベの投げ銭を集めてカンパしてやったよ。オレの食い物代を切り詰めることになるんだけど、そんなことは何でもないからね。
 沖縄から家出をしてきた女の子もいたな。渋谷にはそういう女の子を引っかける悪いのが多いからさ。なんとかしてあげたくなるよね。その子の話を聞いてやって、沖縄に帰したんだ。何日かして駅前の交番のおまわりさんがやってきて、「渋谷のジジってあんたか? 交番のほうに沖縄の子から電話があって、無事に帰ったからジジに伝えてくれって」と言うんだ。ホームレスには電話も通じないし、葉書の出しようもないだろう。その子は交番の電話を使って、オレに礼を言ってきた。うれしいよね。
 こんなことをしているオレのことが、一年くらい前にテレビで報道されてね。そうしたら、神奈川の中学校の先生だっていう五人がオレのことを訪ねてきたよ。「テレビで見たけど、どうしたら子どもたちとうまく接せられるか教えてほしい」って言うんだ。「バカ言っちゃいけない。あんたらのほうが専門家だろう。ホームレスのオレに聞くなんてお門違いだ」。そう言ってやったんだがね。どうしてもって言うから、「心を開くことだよ」って教えてやった。

■60歳までホームレスでいる

 リストラにあったサラリーマンの話を聞いてやったことがあるよ。代々木公園のベンチに毎日座っている中年男がいてね。どうしたんだと聞いたら、「会社をリストラされたんだけど、そのことを女房に話せない。毎朝会社に出るふりをして家を出て、公園のベンチで時間をつぶしている。死にたくて、死に場所や死に方ばかりを考えている」と言うんだ。
 オレは彼の言いたいことを全部聞いてやった。人は悩んでいることを洗いざらいしゃべると、気が安まるもんだからね。それから「このオレはホームレスにまで堕ちた人生を送っているけど、それでも生きている。どん底まで堕ちても人間は生きていけるんだ。あなたも頑張りなさい」って励ましてやった。
 ただ、こういう中年の場合は若者と違って、話を聞いてやったり、励ますだけじゃダメなんだ。最後には叱ってやる。「あんたは人生に甘えているよ。オレはホームレスをしているけど、それでもやりたいことも夢も持っている。甘えるんじゃないよ。悔しかったらちゃんと生きてみろ」ってね。彼は泣きながら聞いてたよ。
 あとになってその中年サラリーマンも奥さんを連れて、オレのところに会いにきた。リストラのことはちゃんと奥さんに話したし、もう一度人生をやり直してみるつもりだって頭を下げていった。
 ホームレスをしているといろんな人に会えて、いろんな話ができる。それが面白いよね。仲間のホームレスの相談にものってやっている。裸になってしゃべれば、人間はみんないい人ばかりだよ。
 ときどき娘が訪ねてくるんだよ。「おとうちゃん、いいかげんにしなさい。もうホームレスなんかやめて、私たちと一緒に暮らそう」って言ってくれる。だけど、面白いからやめられないよ。このまま六〇歳まではホームレスを続けて、60を過ぎたら娘一家のところに行って一緒に暮らそうと思ってる。孫もいるしね。いま小学五年生でかわいい盛りなんだ。その孫と暮らすのが、オレの老後の楽しみなんだよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/旦那と別れて借金地獄・矢野淑子さん(年齢不詳)

■月刊「記録」1998年2月号掲載記事

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■離婚してから借金生活

 あたしが野宿、つまり路上で生活をするようになった原因は借金よ。あっちこっちのサラ金から借りたからね。一つのサラ金が融資の限度額になると、別のサラ金に行って借りて、そこがいっぱいになると、また別のサラ金に行って借りて。だから、どこのサラ金からいくら借りてたかなんて、もう自分でもわかんないのよ。融資限度額はどこも50万円くらいだから、サラ金7・8社から、元金で400~500万円くらいになるんじゃないのかねえ。
 5年前に旦那と離婚したのがきっかけで借金をするようになった。離婚がショックだったわけじゃないけれども、あれから何となく遊びほうけちゃってね、借金重ねながら暮らしていたのよ。
 でも、あたしはお酒は飲まないし、ギャンブルもパチンコを少しするくらい。じゃあ何に使ったんだって?着るものと食事代だねえ。そんな生活を2年ほど続けたのよ。
 そうなると借金の督促がすごいでしょ。たまにアルバイトがあってもさ、稼げるおカネなんてたかが知れている。利息分にも足りないよ。それで夜逃げ……、といっても実際には朝堂々とアパートから出てきたんだけどね。
 でも夜逃げしたって借金の督促は追いかけてくるから、住所を移すこともできないのよ。しばらく友達のアパートを転々としていたんだけれども、それも長くは続けられない。

■いまだに謎の父親の死

 それで、渋谷の区役所前で野宿をするようになった。94年の秋くらいかしら。寒くってね。夜、ベンチになんか寝てられないの。渋谷の駅の周りをグルグル、グルグル朝まで歩き通していた。それで昼間寝るのよ。初めのころは、そんな毎日だったわね。
 野宿を始めるのに、女だからって別に決断なんかいらなかったね。もともとが大ざっぱで、いいかげんな性格なのよ。どんな気持ちがしたかって?そんなこと覚えていないよ。通行人に見られたって、さほど気にならなかったし。1年くらいしてからだね、新宿西口に移ったのは。
 生まれは大阪。5人兄弟の末娘よ。6歳のときに、おやじの転勤で東京に越してきた。そしておやじがその年に死んで……。自殺だったんだよね。あたしはまだ小さかったから、理由とか、どんな死に方をしたのかは教えてもらえなかった。だから、今もおやじの死は、あたしには謎なんだよ。
 おふくろが病弱だったからさ、それからは生保(生活保護)で食いつないだよ。働いていた一番上の兄を除いて、おふくろと兄弟5人が、六畳一間に肌を寄せて暮らしていてね。ただ、あたしはあまり自分が貧乏だってこと、感じてなかったんだ。学校のクラスにも、生保で暮らす子は何人もいたしね。
 中学生のとき、病弱なおふくろに代わって、兄があたしを引き取ってくれて、静岡に行ったんだ。その後、兄の仕事の都合で大阪に移って、高校も大阪。結構、ごんた(大阪弁で「不良の一歩手前くらいの子」をいう)な高校生で、学校から帰ると梅田に繰り出しては、遊び歩いていたよ。でも、今と違ってテレクラとか、ゲームセンターがあるわけじゃないから、喫茶店に入って音楽を聞きながら、お茶を飲んでいただけ。かわいいもんよ。 ソフトボール部に入っていたんだけれども、ある日部活のみんなで集団万引きをしたことがあった。面白半分だったんだけど、それがバレたんだよ。チームは大阪府代表で国体に出場することが決まっていたから、学校のほうがあわてちゃって。結局、主将だったあたしと副主将の二人が、責任を取らされることになって中退よ。高校三年生の夏だったねえ。それでチームは無事国体出場を果たしたんだから。
 しょうがないから東京に出てきて、喫茶店のウエイトレスをしばらくしてから、パチンコ屋に住み込んで働いた。これが15年くらいと結構長かった。そこでは、ずっとカウンターばっかりやってたけれども、結婚してからはパチンコの釘師をしたこともある。旦那が釘師だったんで、教えてもらったのよ。

■野宿の女同士で助け合いたい

 旦那とは、恋愛とかそういうんじゃなくて、周りの人たちが一緒にさせたがったんだよ。年が10も離れていたし、これといってひかれるところがあったわけじゃなかった。おとなしい人だったよ。旦那が一言いうと、私は10も言い返しちゃって、性格もホント、正反対だった。
 そのうちに、旦那が浮気をして、相手の女に子どもができた。あたし、相手が水商売をしているんだったら、別れてやらないと思ってたんだけれども、普通の人だった。だから3人で話して決めたんだ。あたしも父親がなくて育ったからね。生まれた子を父親のない子にしたくはなかったんだよ。それで、離婚して、あたしは身を引いた。旦那との生活は5年続いたね。サラ金に手を出したのは、その後間もなくだったねえ。
 97年の夏、北アジアの女性たちを招いたボランティアの会議があって、あたしの話を聞きたいって頼まれてね、野宿をするようになったいきさつなんかを話したんだ。そうしたら、女の野宿者が、みんなの前に出て話すなんて、どうやら初めてのことだったらしいんだ。それが縁になって、野宿している女性とボランティアの集まりができて、今、リーダーをやってるのよ。集まりの名前は「心を開く輪」っていうんだ。
 女の人で野宿をしている人の中には、隠れてしている人が多いのよ。私達が声をかけても「私は野宿者じゃありません」って、否定する人もいるんだ。病気になったときとか、いじめやセクハラにあったときなんか、みんなで助け合ったり、相談をしていけたらいいと思ってやっているんだけれどね。みんな、もっと、表に出てきてほしいよ。
 以前、通行人のおばさんの一人に、「何で野宿なんかしているの? 私だったら、こんな生活は絶対にしない」っていわれたことがあるの。腹が立ってね。「じゃあ、あんたは旦那から急に離婚されて、女一人で生きていけるだけの蓄えがあって、技術か資格でも持ってるの」と言い返してやったんだ。野宿していることが特別じゃなくて、みんなこうなる可能性があると思うんだ。
 あたし自身は、野宿をしていても、「食べていくためには働かなければ」って思っているから製本工場で働いている。アルバイトだから収入は一定しないけれども、おカネさえある程度のメドがつけば、またアパートが借りられると思う。借金の清算もしないといけないけど、もう3年も放ってあるから1000万円くらいになってるんだろうな。あとは自己破産するしかないね。アパートを借りるより、その手続きをするほうが先かな。 (■了)

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ホームレス自らを語る/まあ、ばからしい人生さ・野口辰吉(66歳)

■月刊「記録」1999年6月号掲載記事

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■夢なんか最初からない

 何ていったらいいのか、面倒くさいんだよね。人生が面倒くさい。ホームレスをしているからいうんじゃないよ。若いころからずっと生きていることが面倒くさかったんだ。
 ホームレスって、こんなところに座って、一日中ボーッとしているだけのように見えるだろう。でも、こうやって生きていくのも結構大変でね。だから怠け者ではないんだ。怠け者だったら、とっくに死んでるよ。死んじまうか働いているほうが、こんなところでただボーッとしているよりも、よっぽど楽だからね。まあ、ホームレスっていうのは、そういう人間の集まりなんだよ。
 生まれは秋田県の山の中にある小坂っていう町だよ。家はちっぽけな駄菓子屋をやっていた。小坂は鉱山の町でね。そりゃあ大きな鉱山だったよ。
 戦時中は大勢の捕虜を使って、銅とか亜鉛なんかを掘っていたんだ。捕虜にアメリカ兵もいたせいか空襲なんてなかったね。ああ、一度だけ警報が出て、防空壕に逃げ込んだことがある。そのときだって飛行機の音なんて全然聞こえないから、「どこが空襲なんだ?」ってくらいのもんさ。もっとも、今から考えるとあんな山の中に爆弾を落としても、どうにもならなかったと思うけどね。
 だから戦争が終わると、働かせていた捕虜が暴動を起こすなんていううわさが広まった。でも、何も起こらなかったね。終戦の前後に、おれは中学校を卒業して高校へ進んだが、高校生活は一年で終わりになった。学制改革かなんかでゴタゴタしてたからね。おれにはよくわからないけど。
 それからは就職っていうか、地元でいろいろ働いたよ。いろいろっていえば、いろいろさ。それで23歳か24歳のときに東京に出てきた。
 東京に出たといっても夢とか希望とかがあったわけじゃない。強いていえば、流行のようなもんかな。みんなが行くから「おれも行くべ」ってね。それに地元で働くことが面倒くさくなってもいたしね。

■何でも面倒くさい

 東京に出てから最初はレンガ工になった。レンガを積んで、建物の外壁や公園の花壇を作るのが仕事なんだ。それにブロックを積んで、塀なんかを作る仕事もあった。勤め先は一応は会社だったけれども、働いているのが5、6人のちっぽけなところだったからね。日雇いに毛の生えたようなもんさ。
 仕事が面白かったのも初めのうちだけだった。雨がいけないよ。雨はだめだ。雨が降ると仕事が休みになるだろう。そうなると朝からアパートの部屋に集まってばくちが始まるんだ。チンチロリンだとか花札だね。周りは先輩ばかりだから、おれだけやらないわけにはいかないしね。そうやって悪いことを教えられていくんだ。
 休みの日は朝から酒を飲むことを覚えたし、キャバレーに行くことも覚えた。競輪・競馬などのギャンブルもよくやった。それから、女。まだ、赤線も青線もあったころだからね。よく買いにいったよ。結局はただ遊ぶだけのために仕事をしているようなもんだったよ。気がついたときには、婚期もすぎてパーになっていた。やっぱり何かするのは面倒くさいっていうのが先に立っちゃうんだな。
 50歳をすぎたころから、仕事をすると疲れがひどくたまるようになってきてね。特に両腕の疲れがひどくて、重いものが持てなくなった。それではとても続けられないから、レンガ工の仕事は辞めた。それからは、あっちへフラフラ、こっちへフラフラして暮らしてるよ。もう仕事なんてしないさ。アパートも池袋や新宿を転々としているうちに、いつの間にかホームレスになっていたんだよ。
 だから、何月何日からホームレスになったというわけじゃないのさ。いつの間にかごく自然に、気がついたときは、もうホームレスになっていたんだ。ここにいる連中は多分みんなそうだと思うよ。
 97年には65歳になったから、新宿区役所に相談に行ったんだ。そうしたら施設に入れてくれた。そこは畳一畳分くらいに小さく仕切った部屋がいっぱいあって、まあ寝るだけのところだった。それでも食堂があって3食ついていたし、風呂もテレビもあった。けれども20日間くらいで出てきちゃったよ。
 何で出てきたのかって? ああいうところにはいろんなやつがいるからだよ。根性の悪いやつとか気の合わないやつとかね。みんなを支配しようとするやつまでいる。そんないろんなタイプとうまくやっていくのは面倒くさいよね。それで出てきちゃったんだ。人間が集団で暮らしていくと、うまくいかないもんだよ。その点一人は気ままでいいね。
 季節もよくなってきたし、こうやって公園にじっと座って、花などを見ているのもいいもんだよ。これからはホームレスに一番いい季節だしね。

■誰か拾ってくれないか

 カネ? カネなんか持ってないさ。前は使用済みテレホンカードを拾って稼いだりもしていたけどね。そのころは一枚30円で売れたんだよ。ところが今は一枚4円だっていうからね。一日歩いて回っても10枚くらいしか拾えないだろう。それを売ったところで40円にしかならないよ。一日に40円じゃ何もできやしないよ。
 食い物もなかなかありつけないね。今ではボランティアの炊き出しとか差し入れだけが頼りだよ。コンビニやファストフードの店から出されるゴミだって、今はホームレスの数が増えちゃって競争が厳しいから、弁当なんかなかなか拾えない。だから年がら年中腹を空かせているよ。
 まあ、ばからしい人生を送ってきたと思う。だけど、このままの暮らしを続けていくよりしょうがないよね。いろいろ考えたりするのは面倒くさいだろ。誰か、おれみたいな人間を拾ってくれないかね(笑)。 (■了)

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ホームレス自らを語る/人とうまく話せなくて・木下良明(三〇歳)

■月刊「記録」1998年5月号掲載記事

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■酒で気が楽になるから

 おれ、人と話すことが苦手なんだ。というよりも、うまく話すことができない。この間も、スポーツ新聞でビルの外壁掃除の募集広告を見つけて応募したんだけれども、面接でダメだった。緊張すると心臓がドキドキして、冷や汗が出てくるんだ。それに頭のなかも真っ白になる。もう、何を聞かれているのか、どう答えたらいいのか、混乱してわからなくなっちゃう。面接では一言も答えられなかった。結局、不採用だった。
 考えてみれば、小さいころからずっと無口だった。生まれは仙台市。4人兄弟の末っ子で、家は農業をしていた。勉強ができなくて、数学、国語、英語、みんなダメだった。それで中学を卒業して、すぐに働きに出た。左官の見習いに。といっても親方に弟子入りするんじゃなくて、見習いだけで30人も40人もいるような会社だった。だから、職人も合わせると100人くらいはいたんじゃないかな。
 会社は同じ仙台にあったけど、寮に入った。見習いは寮に入るのが決まりで、職人になると出られるんだ。修行は厳しかったよ。特に冬はつらくて、水を使う仕事だから、手はアカギレだらけで、それがヒビ割れて痛くてたまらない。でも、仕事は覚えた。覚えるコツは、職人の目の動きを見ることだった。2年後に、左官の技能試験を受けて二級に合格した。
 それで職人に昇格できたんだ。見習いのときは小遣い銭程度しかもらえなかったのが、職人になった途端に給料が15万円ほどになった。カネはたまったよ。
 だけど、一年くらいして会社を辞める羽目になっちゃった。原因は酒。おれ、酒が好きでね。毎日飲まないといられないんだ。最低でも五合、多いときは一升飲む。ところが、普段の無口の反動なのか、酒が入ると怒りっぽくなって、人にケンカを売っちゃうんだよ。そのときも、先輩と大ゲンカをしたのが尾を引いて、会社を辞めざるを得なくなった。
 それで東京に出てきた。18歳だった。東京にはずっとあこがれていたんだ。24時間やっている店があって、にぎやかそうで、そういうのにあこがれていた。仙台なんて、店は夜の11時にはみんな閉まっちゃうし、やっぱり田舎の街だから。

■日雇いが適職かもしれない

 東京に出て、最初に炉端焼きの調理場に入った。それからすし屋で働いたり、ピンサロのボーイをしたこともある。でも、みんな酒が原因で辞めた。酒を飲むと人が変わっちゃうところが直らないんだ。
 失敗するたびに自分でも情けなくなる。自分がどうしようもない人間に思えてたまらなくなる。だから、そういう自分を忘れたくてまた飲んでしまう。ピンサロのときは仕事中に酒を飲んでいて、それが上司にバレて注意され、気がついたら殴りかかっていた。酔っているときにカッとすると、頭のなかが真っ白になっちゃうんだ。もちろん一発でクビだった。
 結局、どこも長続きしなくて、日雇いで働くようになっていた。もっとも、おれのようにあがり性で、人とうまく話せない男には、日雇いの仕事が一番向いているかもしれない。面接だとか、客と話すとか、面倒くさいことは何もないからね。昼間、日雇いで働いて、夜はサウナやカプセルホテルに泊まる。そんな生活をずっと続けてきた。
 しかし、95年ころから日雇いの仕事が減り始めた。今でも仕事は続けてるけれども、97年なんか年間で20日間しかなかった。日当1万2000円で、20日間じゃどうしようもないだろう。だから翌年から新宿の路上で暮らすようになったんだ。
 初め、新宿駅西口地下にある小田急エース前の地下広場に寝ようとしたら、そこを取り仕切っているというホームレスの人に追い出された。それで地上の小田急百貨店の別館ハルクの入り口近くに、夜だけ段ボールで小屋を作って寝るようにした。今でもそうしている。
 人に見られることなんかは、すぐ気にならなくなった。それよりつらいのは、冬の寒さと夏の暑さ。特に夏の夜なんか、下に敷いた段ボールが一晩で汗で使えなくなるから。そういう意味では、夏のほうがよりつらい。
 段ボールの小屋を作るのは、デパートの終わった後の7時半ごろから。一回寝て、夜中の1時ごろに起きる。近くのハンバーガーショップで売れ残りのハンバーガーが1時20分に出るんで、それをもらいに行くんだ。もう一度寝て、4時すぎには起きる。始発電車に合わせて地下通路のシャッターが4時半に開くから、そこに潜り込んで暖を取る。そういう仲間が40人くらいはいるよ。地下通路にいられるのは、ラッシュの始まる8時ごろまで。居座ろうとしても、清掃の人やガードマンに追い立てられちゃうからね。
 日中は公園なんかで、日なたぼっこをして過ごすことが多い。雨や雪の日は、地下街を歩き回っている。飯は1日2回の日が多い。朝飯にハンバーガーを食べて、昼は新宿区役所でくれるカップめんを食べる。確かにそれだけじゃ、腹も減るし、酒も飲みたくなるけれど、我慢するしかない。どうしてもカネが必要なときは、自動販売機を回ってつり銭が残っていないか調べる。2、3時間もやれば、500円くらいにはなるよ。
 今思い返してみても、いいことのない人生だった。ピンサロで働いていたときだって、いい思いなんて一回もなかった。ボーイが商品の女の子に手を出すのは厳禁だったしね。
 楽しかったのでは、炉端焼きで働いていたころかな。仕事を終えてから、アルバイトの女子大生たちと飲みに行ったりしてね。女子大生たちとどうこうするっていうんじゃなくて、ただグループで一緒に酒を飲んだだけなんだけど、それが一番楽しかった思い出だな。
 今の楽しみは何かって?たまに日雇いの仕事があると、その晩はカプセルに泊まれるんだ。一泊3800円。風呂に入れて、缶ビールが飲めて、そのときが一番うれしい。最高だね。
 これからどうなっていくのかな。また左官の仕事に戻りたいような気もする。コテを使う腕は衰えていないし、床の水平面や壁の垂直面も、目と勘で出せる自信もある。だけど、仕事に戻るにはどうしたらいいのか、よくわからないんだ。

(※木下さんは非常に寡黙な人であり、質問にたいして、首を縦と横に振るか、切れ切れに単語が出てくるだけであった。したがって、木下さんが本文のような話し方をしたわけではなく、本人の話を元に再構成したものである) (■了)

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ホームレス自らを語る/使い捨てはごめんだ・本多浩一(四九歳)

■月刊「記録」1998年3月号掲載記事

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■新宿の街はおれたちが造った

 東京都庁の立派な建物があるだろう。おれもあれの新築工事には参加したんだよ。すごい工事でね。24時間体制の突貫工事ってやつで、昼も夜もなかった。昼夜ぶっ通しで工事するなんて、当時もうよそではなかったからね。都庁の工事だけは、ちょっと異常だったよ。高田馬場の手配師たちが、相当の数の労働者を送り込んだんだからね。おれも足場の組み立てや外壁工事で働いたってわけだ。
 そういえば、今この新宿西口地下に住んでる連中は、ほとんどが都庁だの、高層ビルだの、西新宿の再開発に関わっていたと思うよ。大半が高田馬場の労働者だったんだ。その連中が汗を流して作った街なんだから。それがさあ、忙しいときに使うだけ使って、完成すると100円ライターのようにポイ捨てだろ。それじゃあんまり報われないよね。
 その東京都が強制排除をしたから、おれも座り込んで抵抗したのよ。捕まったっていいやって思ってね。恨みっちゅうか、住んでいるおれたちには命に関わる問題だからさ。もう少しくらいは今後のことを考えてくれてもいいよね。それを簡単に切り捨てるのは可哀想だよ。おれのことも含めてね。
 いつだって状況が変わると、高齢者とか、田舎からの出稼ぎとかが、振るい落とされていくんだ。忙しいときだけボンボン使っておいて、ひまになると「もう年だからダメだ」とかさ。そのくせ行政が代わりに用意してくれる仕事は結局は土方みたいなものばかり。60歳の人に「土方やれ」なんていえないよ。これおかしいよ。行政はそういう人に仕事の保証をしろっていうの。公園掃除のような軽労働を斡旋するべきなんだ。弱い者がいじめられる時代はおかしいよ。

■親の跡は継がない

 おれが生まれたのは、北海道の旭川。おやじは大工をしていた。若い衆を住み込みで何人か使っていたから、経済的には恵まれていたほうだったよ。母親が病弱で入退院を繰り返していたけど、家にはまかないの人も雇っていたから、生活に不自由はなかったね。
 地元の工業高校を卒業したんだけど、仕事が見つからずにブラブラしていたんだ。おやじについて大工の見習いのようなこともしたけど、大工になるつもりなんかなかった。上下関係の厳しい職人の世界が嫌いでね。徒弟制度とか、ああいうの嫌なんだよ。人に使われるのも嫌だったね。
 結局、20歳のときに上京したんだけど、遊び気分で、目的があったわけじゃない。東京にはおじさんがいて、そのコネで働くようになった。アパレル関係の営業だよ。その会社は水商売の女の人の衣装が専門でね。そのころは、そういう会社は一社しかなかったから、独占でもうかってたんだよ。営業に行かなくても、向こうから注文がくるんだから。
 給料も8万円くらいもらってた。大卒の初任給が2、3万円のころだからね。それにホステスが相手の商売だからチップがもらえて、これが給料の4、5倍はあったんじゃないかな。寮に入ってたし、東京の水になじんでいないっていうか、スレてなかったからカネは使わない。だからたまったよ。

■酒とギャンブルの道へ

 いい時代は長くは続かなかった。そのうちに同業のライバル会社が出てきたんだ。ダンピング合戦が始まったり、できる社員が引き抜かれていってダメな社員ばかりが残る。経営感覚はドンブリ勘定で古い。売り上げが落ちてきても賃金カットだけしか経営者は思いつかないから、できるやつはますます辞めていく。まさに悪循環なんだよ。おれも配転になって、事務所に入ったけれども、デスクワークなんて好きじゃないだろ。上下関係の中で働くのは嫌いだからさ、26歳のときに辞めたよ。
 辞めてどうするか、あてはなかった。北海道に帰ろうとも思わなかった。両親も亡くなっていたしね。とりあえず、アパートを借りたよ。住むところがあって、食えりゃいいって考えだったね。仕事は何でもあったし、選ぶこともできた。そのころは「2、3日もすれば慣れるから」っていう具合で、素人でもすぐに雇ってくれた。最近は経験がないとダメだからね、まったく逆のパターンだよね。
 長いので半年、短いので一週間。いろいろやったね。本のセールス、ミシンのセールス、電気のシステムエンジニアなんてのもやった。面白いのでは、火葬場の窯掃除があったね。他人の不幸が多いと忙しくなる仕事で、日当も破格で3、4万円はくれたと思うよ。
 だけど、そのころになると、東京の水にもなじんできて、酒とギャンブルをやるようになった。ギャンブルをやると、どうしても負ける日もある。で、給料を一日で使っちゃう日も出てくるわけ。すると日払いの仕事で、今日の分だけでも稼がなきゃって思うようになる。で、飲み屋で知り合った人に勧められて、高田馬場に行った。初めての日雇いだよ。けれども、意外に簡単だったね。「この程度ならば、おれにもできそうだな」と思ったよ。それからは、ずっと建築関係の日雇いだ。

■おれはホームレスじゃないんだ

 あのころは日雇いもよかったよ。いつでも仕事はあったし、都庁建設もあったしな。おれも高田馬場から都庁へ行ったよ。あのころは世の中に活気があったね。
 ところが一九九一年くらいからかな?それまで年がら年中あった仕事が、夏場に落ち込むようになったんだ。そのうちに、外国人労働者が入ってきて、仕事にあぶれることが多くなった。
 95年ころからはホントに食えないね。雇う方は年を聞いてから決めるからね。45歳でも働かせてもらえないことがあるんだから、参っちゃうよ。
 新宿に来たのは95年10月だった。それまでホームレスの存在なんて他人事だったし、否定的でもあったんだ。しかし、来てみて驚いたね。まず年寄りが多い。新聞をかぶっただけの人、毛布もない人もいた。すでに「近々みんな追い出される」といううわさも立っていた。 「どこにも行くところがないから、ここに住んでいるのに、そういう人を追い出すとはどういうことだ。こりゃあ、何かできることがあったら、おれも何かしなくっちゃ」と思ったね。
 それでおれも段ボールハウスを作って、ここに住むようになったんだ。だから厳密な意味では、おれはホームレスではないんだ。その意識もないよ。まあ、ボランティアだね。新宿連絡会に入って、仲間の自立を助けるための活動をしているのは、そういうことなんだ。
 今はおれも病気(軽い結核)で働けないけど、医者のOKさえ出れば、また仕事を探して働くよ。自活していく自信はある。将来にたいする不安もないね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/家族で食べたクリスマスケーキ・片岡進(六五歳)

■月刊「記録」1998年4月号掲載記事

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■若旦那と呼ばれていた

 何でこんなことになったのか、わからないんだ。ギャンブルにも酒にも女にもおぼれたことはない。たいして好きでもないし・・・・・。楽しいことも悲しいこともなく、ダラダラと生きてきた。一つの職場に居続ければよかったのか。それとも結婚していれば変わったのか。わからないな。
 1933年、東京都足立区の乾物屋の息子として生まれた。おふくろが店を切り盛りし、おやじは魚市場で働いていた。裕福だったよ。「若旦那」なんて呼ばれていたからね。お手伝いさんや、住み込みの若いのが、よく遊んでくれた。住み込みのあんちゃんなんか、よく自転車に乗せてくれてね。一緒に遊ぶのは飽きなかった。
 ところが45年の東京大空襲で全部焼けてしまった。そのうえ家族で埼玉県にほど近い足立区竹の塚に引っ越している間に、土地も店も知らない人に乗っ取られてしまった。縄でも張っておけばよかったよ。それから貧乏生活が始まって、私も14歳から働き始めた。おやじは知り合いの魚屋で働き、残りの4人の兄弟も次々に働き始めた。
 最初の職場は埼玉の靴工場だった。見習いから始まって、しばらくしてから職人として仕事を任せられるようになった。平均的な大卒の銀行員の初任給で8000円くらいの時代に1万2000円から3000円もらっていたのだから悪くない仕事だったよ。人間関係もうまくいっていて、嫌なやつもいなかった。職人としての技術だって少しずつ習得していったから、10代後半にはどんな靴でも縫えるようになっていた。
 でも、辞めたくなったんだ。
 もっと自分に向いた仕事があるような気がした。何か新しいことがしたくなったんだ。家を出て、新しい職場で一人暮らしを始めたい。そう感じた。
 ちょうどそのころ入った定時制高校にも、入学して数ヶ月でやめたりしていたから、生活を変えたかったんだと思う。それにもっと汚れない仕事がしたかった。座ってできる仕事にもあこがれた。当時、一番なりたい職業は倉庫の管理人だった。頭も使わないし、何よりも楽そうに思えたからね。
 おふくろは転職に大反対だった。「おまえ、どこに行っても同じだよ」ってね。今考えれば、そうだったのも知れない。もし、そこで転職をしていなければ、ホームレスにはならなかったかもしれないな。
 上司や同僚にも止められた。10年近く勤めた会社だったし、問題も起こさず、まじめに働いていたからね。順調に昇給してきたのに、いきなり辞めるなんて不思議だったんだろう。私自身、別に靴屋で働くのが嫌になったわけでもなかったから、転職する理由を説明するのに窮した。
 賛成してくれたのはおやじだけだった。
「苦労するのもいいだろう。自分の力でやってみろ。暮らせなくなったら、実家に戻ればいいんだから」といってくれた。当時、おやじは心臓を悪くしていて、入退院を繰り返していたんだ。それでも家長の言葉は重い。私の東京行きは、こうして決まったんだ。この後しばらくしておやじは死んでしまったから、じっくりとおやじと話したのは、これが最後だな。

■働き続けた人生なのに

 東京のアパートはすぐに決まったものの、肝心の仕事がなかなか決まらなかった。自分がやりたいと思っていたような仕事には求人がない。ちょうどこのころ、私に見合いの話が来た。24歳のOLで、遠い親戚だった。結婚する相手としては不満はなかったけれども、自分に自信が持てなかった。
 職はなく、おやじは病気、兄弟も多いから、仕事が見つかっても家族にカネをわたさなくてはならない。人に誇れるものもなかった。これじゃあ結婚できないよ。相手に迷惑をかけるだけだ。「落ち着いて考えますから」と返答したら、話は流れてしまった。もし靴工場を辞めていなければ、結婚していたかもしれない。タイミングが悪かった。
 そうこうしているうちに、持ち合わせのカネが減ってくる。仕方がなく自動車部品を作る工場で働くことに決めた。仕事は部品のメッキだった。一日中、薬品に囲まれて過ごす職場環境は、いかにも体に悪かったよ。毒性の高い薬品も扱っていたからね。こわくなって三年で辞めたよ。給料も人間関係も悪くなかったが、とても長くやる仕事には思えなかったんだ。
 その工場で働いているときに、転職に賛成してくれたおやじが息を引き取った。6月末の暑い日だった。長くは持たないと覚悟していたから、死んだという知らせを受けたときも、さほど悲しいとは思わなかったね。「シボウ」の電報を受け取って実家にかけつけると、闘病生活と苦労でやせ衰えたおやじが寝かされていた。とにかく暑くて汗を流しながら線香をあげたことを覚えている。
 自動車部品工場を辞めてからは、文字通り数え切れないほど職業を変えていくことになる。清掃、運搬、土木と何でもやった。いつも自分に合う職業がどこかにあるはずだと信じていた。どの仕事も嫌なわけじゃない。ただ、もっと見えないものをつかみたかったんだよ。どこかに自分とピッタリ合う仕事が見つかるはずだと思っていたんだ。だから次から次へと仕事を変えた。
 そんな私を見て、「おまえは怠け者だよ」なんていう友人もいた。でも何が怠け者なのかわからない。遊び回っていたこともない。私にとっての遊びなんて、おいしい夕食を食べることくらいだったよ。月末、少しだけ余ったカネで、いつもより高い飯を食べる。貯金する余裕もない程度の給料でできることといったら、それくらいだよ。後の時間は働き続けていたんだよ。
 職を変えるようになってから、実家にも足が向かなくなった。おふくろや兄弟に心配をかけたくなかったし、兄弟と顔を合わせるのも嫌だった。私が途中で挫折した定時制高校を卒業して信用組合に入ったり、バスの運転手として活躍していたりと、兄弟は皆まっとうに生きていたからね。みじめなだけの帰郷なんてとてもできなかった・・・・・。

■楽しかったのは生涯2回だけ

 最初は寂しくてね。家族もいない。恋人も妻もいない。深い友情に結ばれた友もいない。いつも一人。仕事場で口を聞く友達くらいはできても、仕事を変えると連絡もなくなってしまうんだからね。
 でも不思議なもんだ。寂しいと思ったのは40代まで。それからは傷口をかさぶたが覆うように、何も感じなくなったんだ。家族がどうしているのかなんて考えもしなくなったよ。おふくろや兄弟も、生きているのか死んでいるのかわからない。でも、それも気にならなくなったんだ。
 自分から少しずつ感情がなくなっていく気がしてきた。その日その日を生きていくことだけに集中して暮らしているうちに60歳を越えていた。そして、いつの間にか手配師から声がかからなくなっていた。住み込む場所がなくなれば、野宿するしかない。食べ物がなければ拾うしかない。幸いホームレスになったのが4月だったから、花見客の残飯にありつけたんだ。結構おいしかった。夜、地下道を追い出されるから、夜中が寒いことだけがつらかったけれどね。今では、冬でも上野公園で過ごせるようになった。寒さにさえ慣れてきて昔に比べると我慢できるんだ。
 自分の人生を振り返ると、心の底から楽しかったことも、悲しかったこともないんだ。いつも淡々と過ごしてきた。65年の人生を振り返って、楽しかったと思い出せるのは二つくらいだよ。
 一つは17、8歳のころに、兄弟3人で潮干狩りに行ったこと。京成電鉄に乗って着いた千葉の海はきれいでね。海が見えたら、いても立ってもいられなくて3人で砂浜を走っていたよ。熱い日射しが肌を焼くなか、3人で競ってアサリを掘った。誰が一番とったのかは忘れちゃったね。かなりの量がとれたことだけは覚えている。 家ではみんながアサリを待っていた。すぐ鍋にしたよ。両親と兄弟5人で、お腹いっぱいに食べられるくらいの量があったからね。そのころはおやじも元気だった。 もう一つの思い出は、23歳のときのクリスマス・イブ。家族みんなにケーキを買って帰ったんだ。そのころ、ケーキなんて珍しかったから家中大騒ぎになった。7人で少しずつ分けて食べたよ。あのケーキの味も、家族の喜んだ顔も忘れられない。 (■了)

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ホームレス自らを語る/酒とギャンブルと母親と・富田英明(六二歳)

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■満州の大金持ちから一転

 出身は山形県。生まれは1935年だから、日中戦争が始まる2年前だな。これからどんどん戦争に向かっていく、そんな時代に生まれたんだ。
 もっともそのおかげで、おれの父親はかなり高い給料をもらっていたらしい。満州開拓の指導教育をしていたので、家にいないことが多かったけれども、このころで月20万円のカネを稼いでいたと聞いている。何たって、45年の宝くじの最高金額が10万円だったんだから、どれだけ高級取りかわかるだろ。もちろん戦争が終わった後は、満州での肩書きなんて意味がないからさ、大金持ちというわけにはいかなかったけれどな。
 おれが家を出たのは17歳。農家への出稼ぎだった。お米を作っていたんだ。でも農業っていうのは、肉体労働だろ。体の出来上がっていない10代だと、半人前扱いなんだよな。どうしても力がないしな。
 そんな不満のあったところに、台風が直撃して米が取れなくなったんだ。当然、仕事はなくなる。だから東京に出てきたんだ。勤めたのは江戸川区の製糖工場。そのころは、もう22歳になっていたかな。
 工場の日給は800円くらいだった。ただし夜勤だとか、休日出勤とかがあったから、月給にすると3万円くらいはもらっていた。当時、大学出たての同い年の男の給料は、高い人でも2万円とちょっとだったから、当時としては高給取りだったよ。
 専務からは、「貯金しろ」って耳にたこができるほどいわれたよ。確かに貯金していれば、結構な財産も作れたかもしれないな。でもおれはできなかった。
 それでも工場に入ったころは、まだよかったんだ。遊びといえば、酒だけだったからね。おれは女が大好きじゃない。だから飲みに行っても、はべらせたりしないんだ。その代わりガンガン飲む。そうなるとおカネがたっぷりないと、面白くないんだよ。高給取りだっていっても、満足するほどは飲めなかったな。

■ギャンブルで大当たり

 そんなときだよ。競艇に誘われたのは。
 江戸川競艇場が近くにあってね。土・日に開催していたんだ。まあ、気分転換に行ってみるかと思って、会社の先輩についていったら、はまったよ。スカッとした。中途半端な量の酒なんか問題にならないほど気持ちよかった。面白くて、面白くて、もう夢中だよ。
 昼休みになると、自転車で競艇場に飛んでいって、始業時間までに帰ってくるんだ。競艇が開催されている日は、これが習慣だったからな。しかもギャンブルは、競艇だけじゃないだろ。いつの間にか、競馬も競輪も覚えていた。
 そうなると時間が足りなくなるんだよな。ついつい仕事を休むようになる。専務なんかにはずいぶんとかわいがられていたけれど、さすがにクビになった。
 それで鉄鋼の組み立てに職業を変えたんだ。まあ、生活は変わらないけれどね。それどころかギャンブル熱は高まっていたかもな。錦糸町のノミ屋でかけるようになっていたからな。
 そのときにすごい当たりを経験したんだ。
 今でも覚えているよ。朝、目が覚めると、寒気がしたんだ。病気とも違う、何ともいえない寒気だったね。土曜日だったから、さっそく、新聞を買ってきて競馬の欄をながめたんだ。7日だったから、そのとき3と4だなとピンときたんだな。3+4=7だから。
 おれはもっぱら直感を信じるタチでね。ピンときたその番号で買うんだ。その日も8レースで4・4、10レースで3・4にカネを突っ込んだ。
 大当たりだよ。八レースで1万数百円、10レースで10万円以上もうかった。会社の食堂でテレビを見ていて、手が震えた。そして朝とまったく同じような寒気を感じたんだ。やっぱり、何か感じていたんだろうな。
 その当時12万円近いカネといえば、半年くらいは普通に食えるおカネだったからね。額が大きすぎて、会社の誰にもいえなかった。とにかくびっくりした。
 そのころからだよ。少しずつ賭けるカネの額が増えていったんだ。増えたギャンブルの代金を稼ぐために、日勤と夜勤を連続で入れるようにもなった。48時間、働きっぱなしだったこともあったよ。
 当時、スーパーマンがはやっていたころでね。みんなから「スーパーマンだ」なんておだてられて、その気になってね。もちろん稼いだカネは、右から左にギャンブルへと消える。もう、そのころのギャンブルへのはまり方は尋常ではなかったからな。
 長期の休暇を取ったりすると、すべての時間をギャンブル場通いに費やしてしまうんだ。10日連続で休んだときなんか、8日間も通い続けていたほどだよ。今日は戸田橋競艇場、明日は平和島競艇場なんて具合にね。

■ドヤの値段が上がり始めた

 そんなことをしていれば、当然、カネが足りなくなるよ。なければ借りるしかないだろ。とりあえずいきつけのバーに借りにいったよ。月収の半分以上は飲んでいたから、店からも金回りがよいと思われていたんだろ、別に断られもしなかった。
 まず店の女の子に借りる。そして、その友達。その後はママ。いつ間にかすごい額を借りていてさ。店がつぶれちゃったものね。
 でもギャンブルは止まらないんだ。
 次は会社から前借りするようになって、しまいにはそれでも足りなくなって、同僚や上司から借りまくってね。ここでもクビ。
 それでヤマ(山谷地区)に来たんだ。ヤマに来れば仕事があるし、ドヤ(簡易宿泊所)がある。そう思うと、ホッとした。若いころは、仕事にあぶれることもなかったからね。塚本屋さんには八年間も部屋を持っていたし、荒川区の豊荘には2年間も部屋を借りていたんだ。
 ヤマに来てからはカネを借りられる人もいないし、以前ほどはカネをムダづかいしなくなった。数年前なんか、1日に1万円しか使わないと決めていたからな。ビールが350円、煮込みが80~100円。レースに費やすのは、8000円ってね。だからアオカン(野宿)することもなく、暮らしていけた。
 ところが、96年くらいからドヤの値段が上がり始めたんだ。1日2000円だったのが、2500~2600円にまで上がった。そうなると仕事にあぶれる日には、アオカンするしかないよ。そうこうするうちに年齢がネックになって、しょっちゅう仕事にあぶれるようになった。仕方がないから、桜橋のたもとで暮らすことにしたんだ。

■母親があえいでいた

 どうしてホームレスになんかになっちゃったのかなんて、よく考える。もちろんギャンブルが直接的な原因だけど、母親の影響もあると思うんだ。
 ひどい女だったからね。
 父親が留守だったときなんか、おれを連れて近所の家に行くんだ。何をするかというと、若い男をカネで買うんだよ。しかも知り合いの旦那だよ。
 奥さんにカネをわたして、一番末っ子で手がかかるおれのお守りをさせるんだ。その家にはおれと同じ年くらいの女の子がいてね。よく一緒に遊んだよ。でもね。隣部屋で母親があえいでいるのが、聞こえるんだからな。後ろ暗いことをしているのは、子ども心にもわかったよ。
 父親が高給取りだったから、カネには困っていないだろ。ちょっとカネを積めば、貧乏な家の旦那なんか、いくらでも体を差し出すよ。夫を買われた奥さんには気の毒だけれど、貧乏だから我慢していたんだろうな。
 母親と性格が合わなかったのかもしれないな。おれは母親からトコトンいじめられたよ。7人兄弟で、6人までが何不自由なく小学校に通わせてもらったのに、おれだけ学校に行かせてもらえないんだから。「勉強なんかするな。働け」てな。
 それでも学校に行く。そうすると家に置いておいたノートが母親に破かれているんだ。それから勉強道具も隠されたな。もちろん暴力なんて、日常茶飯事だ。隣に住んでいた本家筋のおばあさんから聞いた話では、もう生まれてすぐのころから虐待が始まっていたらしいんだ。 たとえば、おれはわりかし歩き出すのが早かったから、家では両手・両足をひもできつくしばられて、転がされていたというんだよ。そうすればおれが歩き回らないから、母親の世話も楽だろ。そうしたおれの状態を見るに見かねて、おばあさんがひもを解いてくれたらしいんだ。
 おれはね。勉強が好きだったのに教科書を開かせてくれなかったり、暴力をふるい続けたりした母親を、一生忘れないよ。子ども心にも、あの女への復讐を誓っていたからな。
 母親を心から憎んでいたから、飲み屋でも女をくどく気にならないんだと思うんだ。結局この女も母親と同じなんだろうな、と考えてしまうからな。女にカネを使うなら、ギャンブルやっているほうが、気持ちも落ち着くよ。もちろん結婚なんか考えたこともなかったし、女がいないから寂しいと思ったこともなかったんだ。
 おー、そろそろ、昼飯が無料で配られる時間だから行くよ。会いたくなったら、桜橋の付近にいるからよ。じゃあな。 (■了)

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ホームレス自らを語る/競馬にさえ手を出さなければ・藤井勉(五三歳)

■月刊「記録」1999年9月号掲載記事

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■競馬を覚えたのが運の尽き

 生まれたのは秋田県のN市でした。何でも、おじいさんはN市の市長を二期務めたとかいう話です。私が生まれる前で、戦前のことだからよくわかりませんけどね。裕福な家だったことは確かなようです。
 私が生まれて、しばらくして農地改革というのがあって、ほとんどの土地を取り上げられてしまったらしいです。それで、おやじは嫌気がさして一家で東京へ出てきてしまったようです。私が2、3歳ごろのことだから、全然覚えてませんけどね。だから、育ったのは東京っていうことになります。
 おやじが三菱重工に就職したんで、一家で東京・江東区にあった社宅に入りました。私は6人兄弟の末っ子で、せまい社宅に家族が多くて大変でした。でも、暮らしのほうは恵まれていたと思いますよ。
 子どものころの私は、勉強も体育も苦手で、どっちかっていうと暗い子でしたね。中学校を出て、都立の農業高校に進みました。もちろん、ちゃんと本気で農業をやろうと思ってたんですよ。何しろ自分には一番合っているような気がしたし、あのころはまだ周りに田んぼや畑もありましたからね。
 ところが二年生のときに、同じクラスの子とケンカをして、それで学校に通うのが嫌になってきて辞めちゃいました。けがをさせたとか、されられたとか、そんな大ごとのケンカじゃないですけどね。原因だって些細なことですよ。けれども、どうしても学校には行きたくなくなっちゃったんです。
 高校を中退して、都内の印刷工場に就職しました。オフセットでチラシとかカタログを印刷する会社で、まあ大きいほうの会社でしたね。私がしたのは紙積みっていう一番下っ端の仕事。その会社にいた六年間は、ずっとそればかりやらされてました。
 20歳のころから競馬に凝るようになって……。今考えると、その辺から人生が狂い出したような気がします。周りの工員の仲間が、みんな競馬をしてましたからね。私もついつられて始めたのが運の尽きです。
 もう毎週日曜日になると、5万円くらいのカネを持って、「府中だ」「中山だ」って通っていました。そのころはまだ両親と一緒に例の社宅で暮らしていましたし、酒も女もしませんでしたから、給料はほとんど競馬に注ぎ込んでました。
 一レースで206万円を当てたこともあります。そうなると、朝会社に行くふりして家を出て、船橋、川崎、大井、浦和の地方競馬に直行です。そんなわけで会社のほうは、解雇に近い状態でクビになってしまいました。すぐに別の印刷会社に移りましたが、競馬でちょっと当てると、もう会社には行かずに競馬場へ行ってしまうのは変わりませんでした。当然その会社も長くは続きませんでしたね。
 競馬の魅力は何かって?魅力なんてありませんよ。ただ、何となく行っちゃうだけ。惰性ですよ。理性では「ギャンブルはやめなくてはいけない」とわかるんですけどね。ついフラフラと体が競馬場に行ってしまう。一日競馬をやっていると、二、三レースは当たって取れるでしょう。あれがいけないんじゃないですかね。こわいですよね。ギャンブルはホントにこわいもんですよ。

■面接のために身ぎれいに

 あとはずっとホームレスです。そう、30歳になる前からですから、20年以上続けていることになります。日雇いで稼いだカネで競馬に行って、カネがあればドヤ(簡易宿泊所)に泊まって、なければ公園のベンチに寝る。そんなのをずっと続けてきたんです。
 そういえば、何年かぶりで一度だけ印刷会社に就職したことがありますよ。「いつまでもホームレスをしていられない」と思い直しましてね。けれども、今は印刷機もみんなコンピュータ制御になっていて、使い方なんてちっともわかりません。ちょっと離れている間にずいぶん変わってしまって、昔の経験なんてまったく役に立たなくなっていました。またまたホームレスに逆戻りです。
 それからは気持ちもすさみましてね。酒も覚えて浴びるように飲みはじめました。日雇いで稼いだカネを今度は酒にも注ぎ込んじゃう生活ですね。
 これでもギャンブルを始めるまでは、「結婚して家庭を持って、しっかりやっていこう」って、人並みの夢は持っていたんですけどね。結局、結婚もできませんでした。性格が弱いんでしょうね。つくづく、そう思いますよ。
 こんな生活を20年以上も続けてますから、もう慣れましたし、暮らしていくのに不自由はありませんね。飯も三度、三度食べてますからね。
 ただ、最近は日雇いの仕事がなくなって、カネがないから競馬と酒はやれなくなりました。まあ、仕事があったとしても、体がついていけるかどうか自信はありませんけどね。今はプロ野球のチケットの列に並ぶ仕事が、たまにあるくらいです。
 それに50歳を越えると、冬に野宿するのがつらくなりましてね。冬は体にきついです。だから、もうこんな生活はやめたいですね。
 そのためには仕事をしないと……。ビル掃除のような仕事でも、何でもいいですからね。でも、なかなか仕事はないですよ。
 仕事につくための努力はしていますよ。こうやって、身ぎれいにしているのも、いつでも面接に行けるようにと思っているからなんです。
 役所に就職の相談に行ったこともありますが、役人は口でいいことをいうだけでアテにはできませんね。役所の紹介で行っても、面接ではねられるのがオチですよ。 あのまま印刷会社で働き続けてたらどうだったろうとか、競馬にさえ手を出さなければとか、いろいろ考えますよね。いまさらどうしようもないですけど……。改めて、ギャンブルってのはこわいもんだと思いますよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/社会主義の理想に燃えていた・田中淳一(七三歳)

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■秋の空に消えた妻の煙

 病院のベッドで月刊の『文藝春秋』を読んでいたんだ。視線を感じてふと顔を上げると、黒いワンピースを着た女性が立っていた。
 美人でね。黙って僕を見つめている。しばらくして、やっと自分の娘だとわかったよ。数日前、兄に電話したとき、娘が僕に会いたがっているといっていたから。彼女は18歳、17七年ぶりの再会だった。
 最初、気まずくてね。「ジュース買ってこいや」と小銭をわたそうとしたら、「いけませんよ」って怒られた。二ヶ月間入院するほどのけがだったから、娘も心配したんだろう。
 それからまた沈黙が訪れたんだ。
 「聞きたいことや、言いたいことがあるかい?」 
 娘と17年ぶりに会い、やっとしぼり出せた言葉がこれだった。
 「なくなった母は、どんな人だったんですか」
 僕から視線を外すことなく、彼女はいった。そのしっかりとした口調が、死んだ妻を思い出させた。
 妻を最初に僕に勧めたのは、おふくろだった。お茶会で見かけた娘さんがすてきだったから、ぜひ結婚しろとね。「お花もお茶も一人前、そのうえ、農作業もきちんとできる。何より人前での応答が堂々としているのが気に入った」と、おふくろは妻を絶賛した。でも見合いでの僕の第一印象は、よくなかったな。きれいな女じゃなかったからね。ところが話すうちに、どんどんひかれていったんだ。さすがにおふくろの目は確かだった。
 結婚してからも、おふくろの見立て通り妻はよく働いた。家事も農業も手抜きすることもなく、いつも笑顔で僕に接してくれた。子宝にも恵まれて、すぐに長女を出産。ここまでは順調だったんだ。
 僕の実家は新潟県でね。毎年10月には、一番実りが遅い稲を刈る。寒いなかを、鎌で一束ずつ刈り取らなくちゃいけない。産後の肥立ちが決してよくなかった妻も、産後八ヶ月もたっているからと田に出た。強い寒風が彼女をむしばんだんだろう。すぐに体調を崩し、急性肝炎を発病。子どもを残して、あっさり死んじまった。太平洋戦争の混乱をまだ引きずっていたころだから、医療体制も充実していなかったしね。
 地元の葬式は、まず十文字に溝を掘る。そこに木を組み、棺桶を置いて火をくべるんだ。晩秋の晴れた空は、遠くてね。妻を焼く白煙が、真っ青な空を真っ直ぐに、真っ直ぐに昇っていった。昇った白煙が空に溶け込み、消えていくのを見ていると、万感胸にこみ上げてきた。涙が自然にほおを伝わっていたよ。ぬらしたほおが、寒さで突き刺さるように痛かったのをはっきりと覚えている。
 やがて、子どもに恵まれなかった兄夫婦が、残された8ヶ月の乳飲み子を「引き取らせてほしい」と頼みにきた。迷った末にお願いした。僕は働かなければならないから、自分で育てるにしても、おふくろや兄弟夫婦に娘をみてもらうことになる。それならば兄にお願いしようかな、とね。安心して任せられるし……。
 娘がもらわれた日から、僕は彼女に会わないようにしていた。死ぬまで会わないと決めていたんだ。兄貴に悪いし。でも一生に一度くらい、娘は実父に会いたかったらしい。だから入院先に来たんだろう。
 娘とは、一時間以上も病院で話していたかな。最後に「おれに会うのは、もうこれきりだよ」と娘にいったら、彼女もうなずいていた。それから25年以上たっているけれども、娘に会ったのはそれきりだね。

■乱闘国会を経験

 隅田川の河川敷でアオカン(野宿)をするようになって、一年半がたつ。まさか自分がホームレスになるとは思わなかったよ。振り返ってみると、妻が死んだこと、そしてヤマ(山谷地区)で仕事を始めたことが、僕の人生を変えたんだろうな。
 僕は、自らヤマに来たんだ。借金に負われていたわけでも、職がなかったわけでもない。簿記ができたから、小さな会社ならば雇ってもらえた。ただ人生を変えたかった。だから42歳からドヤ(簡易宿泊所)に住みつき、ヤマで日雇いの仕事を得た。
 実家の新潟を出て、東京で住むようになったのが28歳。知り合いから紹介された旅館で働き続けた。36歳から40歳までは大手建設会社の社員として、さらに42歳までの二年間は、その関連会社で建設に関わる事務仕事をしていた。どの職場も働きやすかったよ。ただ日に日に野心めいたものがわき上がってきた。机の上なんかで憔悴して生きたくない。自分の好きなことをして生きていきたいとね。決まりきった仕事をこなすだけでは得られない充実感を取り戻したかったのかもしれないな。
 実は妻が死んでから数年間、つまり20代後半かな、僕は政治運動に熱中していてた。人生で最も充実した時間だった。きっかけは、隣町に住んでいた日本社会党右派のシンパに出会ったことだ。彼の家によく通ったよ。社会主義の勉強と論争の毎日だった。本も手当たりしだいに読んだよ。
 選挙前になると、立候補した先生と一緒に手弁当で選挙区を回る。トラックで一ヶ月以上もだよ。そして、人が集まっている場所を探しては、先生がトラックの荷台の上で演説を一席ぶつ。まあ、遊説だね。テレビがある時代でもないし、選挙民一人一人に会わなければ、選挙に勝てないから。
 もっとも当時の遊説は、今みたいに穏やかじゃなかった。反対陣営の人が、力ずくで演説を止めにくることもあったから。そうなると、すごいもみ合いになる。おかげで遊説が終わるころには、トラックがボロボロ。そういう毎日が楽しかったんだな。
 時代もよかった。師事していた先生が国会議員になった年には、乱闘国会が起こっているし。衆議院会議場に警官200人が動員されたなんて、今では信じられないだろう。先生の議員会館にちょうど遊びに行った僕は、乱闘国会直前の雰囲気を現場で味わったんだ。ワクワクしたよ。時代が動く予感がした。
 国家を動かす政治に触れた後、田舎なんて小便くさく思えたんだな。先生のお手伝いをしたかったし、東京での都会的な生活にもあこがれた。それで先生を追って、田舎を飛び出したんだ。東京に出てきた当時は、とにかく先生のところに通った。仕事以外の時間は、政治一色だったからね。
 ところが僕の政治への情熱は、五五年を境に減退していく。社会党の右派・左派統一や、自由民主党の結成。政治からギラギラしていた活力が消えていった。30歳になるころには、政治への情熱が消えていたよ。いや、むしろ嫌気がさしてきたんだ。人を人とも思わない政治の世界に幻滅したし、体力的にもついていけないと感じていた。

■半数が服役経験者

 そんな「政治の季節」を終え、その後12年のサラリーマン生活をへて、僕は山谷に来た。初めて山谷に来た日を、僕は一生忘れないと思う。心底、こわいと思ったからね。だって裏道に一本入ったら、ズラーとオカマが並んでいたんだから。彼らは売春をしていたんだ。道の奥まで、20件くらい売春宿があったかな。野太い声のオカマが、口々に「遊んでいかな~い」って声をかけてくる。女でもないのにカネで寝るなんて、信じられなかった。
 でも、そんなことは序の口だったんだ。山谷に住んでみれば、ここがどれほど常識の通用しない場所かがわかる。昔はヒロポン中毒の人が山ほどいた。そういう人は仕事がないから、カネがなくなると血を売りにいくんだ。それでまたヒロポンを買う。薬を買うやつが多いから、当然売るやつも増える。だからヤクザも、幅をきかせている。
 山谷では、誰が何をするかわからないこわさがある。八畳間に4人で泊まっていた経験もあるけれども、部屋には常に緊張感がみなぎっているからね。のんべんだらりとなんかしていられないよ。
 そうそう、20人ほどでドヤのテレビを見ていたことがあってね。ちょうど刑務所での生活の様子が放送されていたんだ。そうしたら誰かが刑務所の思い出話を始めて、気がつけば半分以上の人が、その話題で盛り上がっているんだ。20人中、10人以上の人に服役経験があるなんてな。
 劣悪な環境だよね。でもその無秩序を望んで、僕は山谷に来たんだと思う。社会主義の理想を、労働者とともに実現していきたいとでも思っていたのかな。今考えれば、あてのない「野心」だね。山谷で生きる計画そのものが砂上の楼閣だよ。もし妻が死んでいなければ、東京に飛び出すこともなかったし、山谷でフラフラすることもなかったかもしれない。
 そのうち僕は年をとり、景気も悪くなり、仕事もなくなってきた。ドヤは今では一泊2500円もするからね。一ヶ月もいれば7万5000円もかかるんだ。とても払えないよ。もう隅田川でテントを張るしかなかった。 歩き回って食事を探し、隅田川の増水に気をもみ、ネズミから食べ物を守り……。それが今のテント生活だよ。どうして山谷に来てしまったのか、どうしてホームレスになったのか、やっぱり考えることがある。でも、よくわからないんだ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ろうあ者に東京は冷たかった・中川実(五三歳)

月刊「記録」1999年10月号掲載記事

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■施設でもらった名前

(※ろうあ者である中川さんは、言葉がはっきりとは話せない。取材では、わからない単語を一つ一つ中川さんに確認していたため、いきおい単語だけの会話になってしまった。しかし取材当日の会話を文章にするとわかりにくいため、編集部でつなぎの言葉を大幅に書き足した。山谷地区での取材は「一期一会」になることが多い。中川さんもその例にもれず、取材日以降、顔を合わせていない。そのため当人に取材原稿を、お見せすることもできなかった。こうした事情をお許しいただきたい。)*      *       *

 姓も名も、そして生年月日もね、偽物なんだ。だっておれも知らないんだよ。覚えていないんだから。
 唯一、おれが覚えているのは、おやじの後ろ姿。親戚の家に行くからと行って、おれはおやじに連れ出されたんだ。終戦直後の混乱が、まだ残っていてね。おれが生まれた熊本の街も、グチャグチャだった。
 おそらくおれは3~4歳くらいだったんだろうな。おやじが手を引いてくれなかったから、おやじの背中を必死に追っていたんだ。人ごみで見失わないように。でも、どんどんおやじは歩いていく。追っかけても、追っかけても、先に行っちゃうんだよ。
 そして一人バスに乗っていってしまったんだ。
 おれはバス停で、おやじの帰るのを待っていたんだけどね。何本バスを待っても、おやじは戻って来なかった。半日くらい待っていたんじゃないかな。
 そのうちバス停で座り込んでいるおれを見て、不審に思った運転手が警察に通報した。最終のバスが来ても、まだバス停から離れようとしなかったんだから、気味悪がられて当たり前かもしれないけれどね。
 そうして、おれは警察署に連れていかれた。迷子として。でもおれは言葉もきちんと話せなかったし、何よりも名前を覚えていなかったからね。どうしようもなかったよ。次の日には施設に運ばれていた。
 その施設でもらった名前がのが今の名だ。そして、1945年生まれになった。こんな生い立ちだから、本当の姓名も生年月日も知らないんだよ。

■耳も聞こえなくなった

 親に捨てられた当時から、おれは右耳がほとんど聞こえなかったし、言葉もしっかりと発音できなかったんだ。だから小学校の入学前は、施設の作業が終わった夕方から、毎日発音練習を続けたよ。「ア、イ、ウ、エ、オ、 ア、イ、ウ、エ、オ」ってね。左耳で音を拾って、繰り返し、繰り返しやったな。それでずいぶんと話せるようにはなった。まあ、その当時練習しておいてよかったのかもしれないけれどな。
 何たって小学校二年生のころには、左耳も悪くなっちまったんだから。いきなり聞こえなくなったんだよ。小学校ではどうにか生活はできたけれども、かなり聞こえにくかったよ。
 だからってわけじゃないけれど、小学校のころなんか、いい思い出なんかないよ。あ、そうだ。米軍が慰問に来てくれて、靴下や歯ブラシ、それからジャガイモなんかを置いていってくれたときはうれしかった。まだ物がない時代だったからね。当時は、そんなものも高級品だった。
 そして小学校六年の夏に、右耳を手術することになる。自分の皮膚を切り取って、引きのばして鼓膜の代わりにするんだ。この手術のおかげで、おれは六年生を二回やったよ。かなり長期入院になったから、出席日数が足りなくなったんだ。それじゃ、進級できないだろ。
 ところが、そこまでしたのに手術は失敗だった。退院しても、右耳は聞こえないままだったからな。結局、中学生時代に再手術をすることになったんだ。まあ、手術は成功したけれど、はっきりと聞こえるようにはならなかったよ。
 しっかりとは話せないし、耳も完全には治らない。親からも捨てられたしな。つらくてね。中学卒業と同時に、自殺するために施設を飛び出したんだ。施設から4000円持ち出してね。当時の4000円といったら、ちょっとしたものだったよ。高卒の初任給が1万円ちょっとという時代だからね。
 行った先は、阿蘇山。火口から飛び込もうと思ったんだ。でもね。死ねないんだよ。飛び込むと、口や鼻から有毒ガスが入ってくるだろ。そうしたら苦しいだろなーなんて考えて、飛び込む勇気がわかなかった。何度も火口をのぞき込んだけれど、結局、あきらめた。
 とはいってもカネを盗んで施設を出てきているし、第一、帰りたくないから、熊本の街で野宿をしていた。それも2ヶ月ほどで、施設の職員に捕まることになるんだけどな。映画館で見つかってしまってね。即刻、施設に逆戻りさ。でもな、このときこっぴどく叱られた記憶がないんだ。施設の庭の草むしりを、罰としてやらされたがね。

■楽しかった大阪

 そうこうしているうちに、施設がおれの仕事を探してきた。その施設は高校卒業まで入ることもできたけれど、高校に進学する意思もなかったから、働くしかない。 施設の先生と二人、電車で神奈川県の川崎まで行って、そこからタクシーに乗って、就職予定先に向かった。車の窓からは、道路やビルの工事がずっと見えていたな。それからどうしたのかは、よく覚えていないけれど、すぐに入社したような気がするよ。
 月給は、1万円。まあ中卒だから、相場の値段だったと思うよ。それにカネも使う場所もそれほどなかったから、別にカネには困らなかった。だってな、会社側から「酒は飲んだらアカン」っていわれてたんだ。
 結局、息がつまって、63年3月末に社員寮を飛び出した。でも、おれ帰るところがないんだよ。働かなければ生きていけないけれど、18歳のおれはどうやって寝床と職場を確保していいかわからなかったし。もちろん、きちんと耳が聞こえなかったのも大きいよ。
 追いつめられて帰った先は、やっぱり施設だった。もちろん帰れば施設は迎えてくれたけれど、18歳は施設にいられるぎりぎりの年齢だから、しばらくすると職員が仕事を探してきてくれたんだ。今度は静岡県の沼津にある工場。でも、そこは頭にきて、すぐに飛び出した。 こうなると、もう施設には帰れないからな。とりあえず大阪に出たんだ。あそこに日雇いの職業紹介所があるのは知っていたから。西成区のドヤ(簡易宿泊所)に住み込んで、飯場に行ったよ。現金で日払いだし、土木作業の仕事も豊富だったし、食うには困らなかった。
 それどころか人生で一番楽しかったのは、このころだよ。
 友達もいたし、酒もよく飲んだ。それに好きだった映画もよくみた。ほとんど洋画だったな。パチンコ、ストリップ、ポルノ映画なんかでも遊んだね。当時、ストリップが500円くらいじゃなかったかな。65年から88年の23年間、おれは大阪で楽しく暮らしていた。

■ドラム缶が頭から降ってきた

 ところが(80年代後半の)円高不況の影響もあったのかな、大阪で仕事がなくなったんだ。ドヤにも住んでいられなくなって、どうしようかと思ったときに、東京なら仕事があるらしいってうわさを聞いたんだよ。
 まだ四四歳だし、生きていくには仕事が必要だからな。手持ちのカネをかき集めて、鈍行列車に飛び乗ったよ。でも、甲府でカネが切れたんだ。そこからは歩き。「東京の山谷はどこだ」って場所を聞きながら、ようやくたどり着いたんだ。
 ところがせっかく山谷についたのに、おれは翌年から仕事にあぶれるようになるんだよ。ドヤにも住めない。仕方なく、隅田川にかかる桜橋のたもとでアオカン(野宿)だ。
 そのうえ、97年あたりからおれはついていないんだ。胸が苦しくなって4ヶ月も入院したし、退院したと思ったら、七月に今度は足が痛くなったんだ。原因は外反母趾。ひどくなりすぎて、歩けなくなったんだよ。それで、再度入院。そして手術。ところが、これじゃ終わらなかったんだよ。やっと仕事に復帰して建築現場で働いていたら、事故で足をけがしちゃったんだ。
 その事故が、また信じられないような状況だったんだよ。建設現場で、ドラム缶が頭から降ってきたんだ。とっさに逃げたけれど、右足を直撃した。足首の関節をくだいちゃったんだ。福祉事務所から、13万円のおカネが出たけれど合わないよ。
 福祉事務所のいうことには、おれの足は治るから、これ以上払えないんだと。治るったって、土木作業をバリバリこなすほどには回復しないのに。
 おれの友達なんか、一生入院するほどのけがにあったから、月々3万円ものカネが支給されている。耳だってそうだよ。ある程度聞こえるから、カネがもらえないんだ。びっこ引いて、仕事もできないくらいなら、いっそのこと、もっと大けがで一生おカネをもらえるほうが幸せだよ。
 カネがあったら、友達の大勢いる大阪に帰りたいんだ。足をけがしなければな。どうにか帰る道もあるんだかな。今のおれじゃ、どうしようもないよ。
 決まった曜日に配られるエサをかき込んで生きるだけさ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/首を吊る木を探し歩いた・池辺元(六二歳)

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■妻も子どももいたんだ

 勤めていた江戸川区のガンブキ屋(住宅などの外壁を吹きつける職業)がつぶれた。「どうにかなるかな」なんて思ったけど、普通の就職はもちろん、飯場でさえ使ってもらえないんだ。そのときすでに58歳だからな、年寄りは使ってもらえないんだよ。手配師から声がかからないんだから、どうしようもない。
 忘れもしない、94年6月7日。手持ちのカネは、ついに1000円くらいになっちまった。仕方がないから腕時計を売ったけど、泊まるほどのカネにもなりゃしない。上野公園のベンチで寝たよ。ボストンバッグが二つとロープ。それだけを持ってな。
 死のうと思ったんだ。
 おれをずっと見守ってくれたおふくろも死んじまったし、腹も減ってくるし、情けないしね。夜になってから、適当な木を探し歩いた。それこそ上野公園をくまなく。でもね、木がなかったんだ。うまく首をつれる木がさ。ひもを引っかけられるのに、ちょうどよい高さの枝が。あれだけ木があるのにな。結局、探しているうちに、夜が明けちまった。太陽を見たら、なぜか死にたくなくなっていたよ。
 ホームレスなんかしているけれど、大きな会社にいたことも、結婚したこともあったんだよ。22、23歳くらいから27歳までは、広島の会社に勤めていた。仕事は水性ガスを扱う仕事だった。もちろん給料も悪くなかったよ。高卒の銀行員の初給料とほぼ同じくらい、まあ1万円強はもらっていたからね。東京オリンピックの前なのに、白黒のテレビが買えたからな。
 60年2月には結婚もした。おれは24歳。相手はダンスホールで知り合ったんだ。美人だったよ。子宝にも恵まれて、二人も女の子を授かった。おれとおっかあは仲もよかったから、家族は幸せだったと思う。
 ただおれは、酒に目がなかったんだ。全部、酒に使うから、女房・子どもに一銭もカネを入れない日々が、一年以上続いていたんじゃないかな。そのうえ、勤めている会社が大手だから、飲み屋にいくらでもツケがきく。飲み屋への借金はたまるのに、おれはみんなにおごっちゃうんだ。
 気づいたときには10万円ずつくらい10軒ほどの店にツケがたまっていたよ。それが東京オリンピックの1年前の63年だからね。今のおカネにすれば、1000万円くらいの借金ということになるだろうな。
 その金額を知って、おれは逃げ出したんだ。
 行き先も決まっていなかったけれど、とりあえず大阪に向かった。といっても失踪したわけじゃないけれどね。一週間に一通はおふくろにはハガキを書いていたから。ただ、おっかあには、ハガキすら書けなかった。やっぱり迷惑をかけていたからかな……。
 大阪での生活は気楽なものだったよ。飯場で働いて、飯代と飲み代は稼いでいたしな。
 そのうち「おカネを全部返したから、実家に帰っておいで」とおふくろから手紙がきたんだ。でも、辞めた会社の仲間にあったら恥ずかしいだろ。男の出戻りなんてさ。だから故郷には、帰らなかった。お盆と正月だけは、おふくろの顔を見にこっそりと帰郷していたけれどな。

■気づいたらヤクザに

 そんな気ままな仕事をしていたある日、おれは声をかけられたんだ。これが運命を変えたかもしれない。「ちょっと、あんちゃん。一杯飲むか」ってね。酒は好きだからな。二つ返事で、おごってもらった。そのうち、その男がいうんだ。「ブラブラしているなら、仕事しないかい」ってね。
 親切そうな人だったし、実際、おれもろくな仕事をしていなかったから、彼の言葉はうれしかった。誘われるままに、彼の会社の事務所についていったんだ。ほろ酔い気分でね。
 ところが、その会社の事務所に入って驚いたよ。ドアを開けると、「任侠」の額が壁に飾ってあるんだ。いやあ、ヤクザ映画は忠実に作ってあるよ。映画そのまま。事務所全体、どこを見ても組の本部だとわかる造りなんだ。
 さっきまで一緒に飲んでいた男の表情も、いつの間にか変わっていたよ。事務所にいた別の男なんか、つめた小指を見せつけて、「指がうずいとるわ」なんておれを脅すしな。とても「家に帰してくれ」なんていえなかった。
 その日から住み込みだよ。だって事務所に連れていかれて、10日から20日は、一人になることさえ許されないんだから。便所だって、監視がつく。もちろん家から服を持ってくるわけにもいかないから、事務所に軟禁されている間はずっと着たきり雀だよ。
 仕事は便所掃除やら電話番やら、まあ雑用係だな。見張られているときは何度も逃げたいと思ったけれど、慣れてくるとヤクザも居心地がいいんだ。時代がよかったこともあるかもしれない。そんなにヤバイ橋は、わたらなくてもすんだからね。自分のほかにも5~6人の組員がいたが、嫌な人はいなかった。雑用係も一年をすぎたころには、おやじ(組長)の子どもを風呂に連れていくのを任されたりしてね。結構、楽しかったんだ。
 あのころは、街にこわいものなんかなかった。ただ、それがよくなかったのかもな。仲間5人と飲み屋に行った帰り、ケンカになっちまったんだよ。負けたら、おやじに怒られるからな。ボコボコに殴りつけたよ。おかげで警察に捕まった。暴力行為で、一年半も刑務所だよ。
■つらかった刑務所暮らし

 情けないのは、裁判のときだった。逮捕者は腰ひもで数珠つなぎで出廷するんだ。その姿を見て、おふくろが泣いているんだ。その姿を見て、迷惑をかけたなと心から反省した。
 また刑務所もつらいんだ。四六時中、見張られているからな。当たり前だけれど、早く出たかったよ。66年7月くらいだったかな、所長に呼び出されて、出所が近いことを知らされたんだ。うれしかったよ。房に戻ると、仲間が「出られるのか」って聞いてきてね。やっと出られるんだと実感した。
 それから出所三ヶ月前に長髪願いを出して、坊主頭の髪の毛を伸ばし始めるんだ。再就職するときとかに、坊主頭じゃ雇ってくれないからな。刑務所からの社会復帰は、髪の毛から始まるんだ。髪が伸びれば伸びるほど、出所も近づく。髪が伸びるのが、待ち遠しかった。そんな調子だから、もう出所一週間前なんか興奮状態だよ。何たって、うれしくて一週間ほとんど寝られないんだから。
 出所当日も、よく覚えているよ。
 まず朝飯を食うだろ。それから七時に体のチェック。すっぽんぽんになって、体の傷までチェックされるんだ。その後、入所したときに取り上げられた品物が返される。カードとかね。まあ、刑務所では使いようがないからな。それを書類とつきあわせて、全部確認する。それから出所だ。それはどういっていいかわからないほど、感激するもんだよ。
 おふくろと兄貴が迎えに来てくれてな。
「タバコくれ」。それが二人への第一声だった。兄貴がピースを出してくれてね。続けざまに吸い込んだら、涙がこぼれてきたよ。親兄弟に迷惑をかけたことがつらくてな。兄貴の顔なんて、まともに見られなかった。おふくろの顔は盗み見たけれど、会った瞬間から泣いていた。その涙がまた、おれにはつらくてね。今思い出しても、涙が出てくるよ。

■敷居をまたぐな、と

 そのときはそのまま広島に帰って腰を落ち着けようとも思ったけれど、組に仁義を欠くことになるから、ひとまず大阪の事務所には戻ったんだ。ところがよくしたもので、ほどなくおれの組は他の組と合併することになったんだ。「来たい者だけがついてきな」といわれてね。迷わず、広島に帰ることにした。
 もう42歳になっていたかな。「地元に帰る」と、おふくろに電話したんだ。おっかあ(妻)と一緒、家族に囲まれて、人生をやり直そうと思ってね。
 でも自宅の玄関には、おっかあからの手紙がテープで張りつけられていた。「子どものためによくないから、敷居をまたぐな」っていう内容だったよ。おそらくおふくろからおれが帰ることを聞いたんだろう。まあ、刑務所帰りのお父さんなんて、いらないよな。おっかあに迷惑もかけ続けたきたわけだし。
 仕方がないから、実家で暮らすことにした。でも、これも半年しか持たなかった。とにかくおふくろに悪くてさ。実家はそれなりの家柄だったからな。刑務所帰りの男が、家にいるなんて体裁が悪いんだ。仕事だって簡単には見つからない。近所だって、うわさをする。おふくろには、「ここでは暮らせないよ」といって、家を出てきたよ。

■おふくろを拝んで生きている

 その後また、大阪に出て飯場回りなんかをしていた。当然、そのころ稼いだカネはすべて酒に消えた。こうした生活を続けているときに、横浜に行かないかと、知り合いから誘われたんだ。
 おれは断ったよ。知らない土地なんか、行きたくなかったしな。でも、やつがどうしてもと頼む。しまいには自分の金時計と給料をすべて預けるから、横浜についてきてくれないかというんだ。
 正直、やつのカネと時計を持って、途中で逃げようと思っていたよ。ところが変なもんだね。おれを完全に信用している姿を見たら、逃げ出せなかった。こんなにおれを信用しているのかと思うとね。結局、四合ビンで酒を飲みながら横浜まで来ちまった。横浜から本牧に出向いて、荷積み作業の仕事についた。悪い仕事じゃなかったな。途中でウインチを扱う資格も取ったし。
 この試験の合格も楽なものだった。学科試験と実技試験があるんだけれど、本を2~3冊読んだら、何と学科が受かっちゃったんだ。でもウインチなんて、使ったことないだろ。実技はあきらめようかと思ったら、先輩が「学科を合格したのに、もったいないな」なんていうんだ。一体、どうするんだろうと思っていたら、試験になったら後ろから手が出てくるんだよ。試験官が見ているのはウインチでつるされた荷物だから、操縦席のほうなんて見ていないんだ。おかげで合格できた。結局、この職場では3~4年働いたよ。
 その後、山梨の落石防止工事を請け負う会社に就職した。この職場は長かった。20年くらいいたんじゃないかな。その会社を辞めて一年くらいたったころに、迷惑をかけ続けたおふくろも死んじまった。
 入院していたころに会いにいったよ。そうしたらおれの顔を見るなり、うれしそうな顔して泣くんだよ。そして「おまえを食べさせてあげられるほどのおカネはないけれど、お小遣いだよ」って、おカネを握らせてくれるんだ。もう死んでから何年もたつのに、いまだに当時のおふくろが夢に出てくるよ。
 でもね。公園に暮らすようになって、夢も苦しい夢ばかりなんだ。それでも毎朝、目が覚めなければよかったのにと思うんだ。腹が減ってると死にたくなるし、ホームレスなんて恥をさらして生きているのと同じだし。
 毎日、おふくろを拝んで生きている。生前に迷惑をかけたから、せめてもの罪滅ぼしだな。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/いじけた性格が悪いのか・浜村重雄(五九歳)

■月刊「記録」1999年1月号掲載記事

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■先生に嫌われていじけた

 小学校三年生のとき、クラスの男の子とケンカになって、相手に大けがをさせちゃったんだ。その子の母親は、同じ学校で先生をしていてね。その母親が家までネジ込んできた。それからは、ほかの先生にも嫌われるようになった。まるで汚いものでも見るようにされたんだ。  中学へ入ったら、今度は、けがをさせた子の父親が担任だったよ。「おまえはバカだ」といわれたり、ずいぶん殴られもした。中学三年のときには「おまえの(受験)願書なんか書いてやらない」とまでいわれたよ。まあ、おれのほうも勉強が嫌いだったから、高校へ行くつもりもなかったけどね。そんなことがあって、おれの性格はいじけちゃったんだと思う。
  生まれは岐阜の田舎。家は田んぼが五反(約50アール)と、畑が二反ばかりの小さな百姓をしていた。そんなものを継いでも食っていけないから、中学校を出て近くの洋家具職人に弟子入りしたんだ。親方と兄弟子が一人いるきりの小さなところさ。
  ところが、親方も親方の家族も、おれにはケンカ腰なんだ。夕方五時になると、兄弟子には帰ってもいいという許しが出るのに、おれはいつまでも帰してもらえない。仕事を早く覚えて職人になりたいのに、配達とか雑用ばかりで、仕事も教えてくれない。初めから、一人前にする気なんてなかったんじゃないかな。六年いて辞めたよ。給料も安かったしね。日給で200円。そのころは、大工や土方でも500円はもらっていたんだからさ。
■栄町で遊べたのも少しだけ

 次に、大阪に出た。家具職人のところを辞めたことは家族に内緒だったから、黙って家出したんだ。大阪に向かったのは、東に向かうと運がないような気がしてね。一旗揚げるつもりだった。
  大阪駅に着いたら、すぐに手配師に声をかけられたよ。「住み込みで、月3万円になる仕事がある」っていうんだ。大阪には何のあてもなくて不安でいっぱいだったのに、いきなりこれだろう。「やっぱり西には運がある」って思ったね。
  手配師に紹介されたのは、アルミを溶解して地金に造りかえる町工場だった。従業員は15人ほどいた。約束通りの住み込みで、給料も3万円くれたよ。その代わり、仕事は厳しかった。すごい力仕事だし、ホコリで体中が真っ白になる。それに暑い。おれはメガネをかけているんで、曇って仕事にならない。
 それで辞めたんだ。
 それから東京に移った。わざと運の向かない東に行って、挑戦してやろうと思ったんだ。 22歳のときだった。それからずっと東京で暮らしている。もう、40年近くになるね。
  東京では製パン工場で働いた。街のベーカリーとは違って、勤務も二部制で仕事は厳しくなかった。その工場には9年いて、31歳のときに辞めた。ああいうところでは、30歳をすぎても結婚しないでいると、うまくいかないんだ。陰口をいわれたり、人間関係がギクシャクしたりね。だんだん行かなくなって、辞めちゃった。
  結局、結婚はしなかった。何でかなあ?勧めてくれる人はあったんだけど、カネもなかったし、そんな勇気もなかったんだね。酒は一滴も飲まないし、ギャンブルだって遊びで競馬をちょっとしただけ。それでもカネがなかった。給料が安かったんだよね。その工場で働いていた人は、みんな金で苦労してるみたいだったよ。
 女はきらいじゃないよ。好きだよ。製パン工場で働いていたときは、よくソープランドへ遊びに行った。月に2、3回は通ってたんだ。千葉の栄町にいい子がいてね。おれは話すのが苦手なんだが、それに合わせてくれて、気安くつき合えてよかったんだ。でも、ソープで遊べたのも、その工場で働いているときまでだったね。あとはカネのない生活がずっと続いて、ソープどころじゃなかったからさ。
  その製パン工場を辞めてから、しばらくは別の製パン工場を転々としたんだ。だけど、長いところで3ヶ月くらいで、どこも長続きしなかった。
  根性がないというか、仲間に反発ばかりして、いじけてばかりだった。自分で自分をいづらくさせちゃうんだから、お話にならないよね。勝手に休んだり、わざと遅刻したり、ほかの人が困るように困るようにって動いちゃうんだ。酒が飲めないから、人づきあいも悪いしね。たまに酒に誘われると、ケンカを吹っかけて、ビールビンで殴りかかっていったりするんだもん。どうしようもないよ。こんないじけた性格になったのも、子どものころ、先生にいじめられたせいだと思うよ。

■乾パンはもらいに行かない

 製パン工場を辞めてからは、ずっと日払いの仕事をやってきた。朝早く、高田馬場に行って手配師から仕事をもらうんだ。土工が多かったけど、ビンを箱づめにする工場なんかで働いたこともある。夜は新宿か大久保のドヤ(簡易宿泊所)に泊まってね。そんな生活を20年以上も続けてきたんだ。ところが、6年くらい前、いきつけの手配師から、「もう仕事は出してやれないから、来なくていい」っていわれて、それっきりさ。
 もう地下道に寝るしかなかった。「ここに寝て、仕事を探せばいいや」って、わりと気楽だった。そこを警官に追い出されて、今じゃ毎晩適当なところに寝ているよ。
  これから寒くなるから嫌だね。冬の夜は寒くて寝てなんかいられないよ。そんなことをしたら、凍え死んじゃうからね。一晩中グルグル歩き回って、体を温めるのさ。それで昼間、公園のベンチとかで寝るんだ。夜中に街を歩き回っているだろう。そうすると、知らないうちに眠っちゃうことがあるんだよ。歩きながら眠っちゃうんだからね。それで電柱とか、郵便ポストにぶつかって目が覚めるんだ。ホントだよ。
  まあ、おれの場合は冬の夜に慣れているからいいんだけどさ。これまで地下広場で寝ていて、追い出されたような人は大変だよね。初めての冬なんてどうするんだろうね?冬の夜は寒いから大変だよ。
  食事?一日に一食くらいだね。残り物のハンバーガーをもらって食っている。新宿区役所がカップめんを配るのをやめちゃっただろう。あれ、困るよね。代わりに乾パンを配ってるけど、歯がないから食べられりゃしないよ。だから、乾パンはもらいに行かない。
  仕事があれば働く意欲はあるよ。意欲はあるけど、決めるのは向こう(雇う側)だからね。この年になると、仕事なんか回しちゃもらえないよ。
  田舎にはもう、ずっと帰ってないし、連絡もしてないけど、変わったろうね。兄弟は四人いたけど、もう誰も生きちゃいないだろう。田舎に帰ったところで、どうなるものでもなし、このまま死んで無縁墓地に行くだけさ。

■女にたたられている

 ところでさ。あんた(取材者)に頼みたいことがあるんだよ。
  何をって、変な女がいて困るんだ。最初は、おれがアパートを借りていたころに、部屋まで押しかけてきてね。どうも、おれが若いころにした強姦事件のことを知ってるらしいんだ。そんな口ぶりで、「そのたたりだ」みたいなことをいうんだ。強姦事件・・・・。うん、確かにやったけどね。その変な女が気味悪くてさ。仲間に聞いたら「それはT教のしわざで、宗教グループがやってることだ」っていうけど、ホントにそうなのかね?
  おれがホームレスになってからも、夜になると時々やってくるんだ。寝る場所を変えても、必ず見つけられちゃう。オカルトみたいに、心を読まれているようでこわいよ。グループでやってくることもある。グループで来るときは、必ずメンバーが違うんだ。
 困るのは、おれの荷物を持っていっちゃうことだ。もう3回もやられた。仕事に行けなくなっちゃうんだよ。仕事に行かせないための、嫌がらせなのかね?警察に訴えたいんだけど、どうも警察もグルになってるらしいんだ。
 ほら、この道路の向かいに信号機があるだろう。あそこに立って、おれのことをじっと見ていることもある。そのときは犬を連れているよ。この間、おれが寝ていると、段ボールの中に猫が入ってきた。真っ白い猫。びっくりしたね。飛び起きて、走って逃げたよ。いくらなんだって、猫に化けることはないよね。気味が悪すぎるよ。
 あんたに頼みたいことは、だからね、あんたのような(取材の)仕事をしていれば、調べたら女のことはすぐにわかるんだろう?その女にいってほしいんだ。もう、おれにつきまとうなってね。気味悪いし、ホントに困っているんだからさ。頼むよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/刑務所の塀を越えた男・池田晴夫(五五歳)

■月刊「記録」1998年8月号掲載記事

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■おれの土産は夢の宝物

 2月、しかも夜中の2時だからな。車をおりたら寒かったよ。持っていた鉄パイプの冷たさが、手袋を通して伝わってきた。歩いているやつはもちろん、自動車だってほとんど見かけなかった。
 それでも警戒して、なるべく街灯を避けて、コンクリートの塀に近づいたんだ。やっぱり刑務所の塀は高かったよ。つい数ヶ月前までは中にいたところに、まさか塀の外から入ることになるとはな。
 1974年、おれが31歳のことだ。
 鉄製のフックにつなげた縄ばしごを4メートルほどのプラスチック製パイプの先に引っかけて、塀の向こう側に落とした。ゆっくりとたぐると、フックががっちりと塀を捕まえているのがわかったよ。垂れる縄ばしごに、急いで飛びついた。ところが、あわてているせいか、ゆらゆら揺れて登りにくかった。参ったよ。
 どうにか塀の上にたどり着いて、久しぶりに中を見たら変な気持ちがしたね。1年ちょっと暮らしていたから、内側は「勝手知ったるわが家」みてぇなもんだが、塀の上から見たのは初めてだったからな。でも感慨に浸っている時間はない。
 塀の角に引っかかっているフックを外して、外側に向けて改めて引っかけ直し、今度ははしごを内側に下ろした。で、数秒後には刑務所の中だよ。めざすは北門の近くにある工場の隣にある小屋だ。コンプレッサーが置かれているこの小屋は、鍵もついていねえ。仲間に品物を届けるには、絶好の場所だからな。
 仲間へのプレゼントは2つだ。一斗缶につめたタバコと菓子。シャバに出れば何てことない品物だが、ムショでは夢に見る宝物に変わるんだ。品物をコンプレッサーの陰に隠した瞬間、仲間の喜ぶ顔が浮かぶようでうれしかったよ。
 仲間への目印として工場の鉄格子に小さな赤い布を付けた。あとは縄ばしごまで走って戻ったよ。帰りはずいぶんと時間が早く感じたもんだ。仕事は成功したようなものだったし、最初の緊張感は消えていたからな。
 ところが車から見ていた運転手の仲間は、気が気じゃなかったらしい。刑務所の塀は案外厚みがあって、フックが深く引っかからないんだ。おれがはしごに組み付くと、フックの金具が少しずつ、少しずつ伸びていったらしい。爪が伸びきってフックが外れれば、おれは刑務所から出る道を失ってしまう。そうなれば文字通り刑務所に逆戻りだ。
 結局、悪運が強かったってことだろうな。フックが伸びきる前に、おれは塀の上にたどり着いた。最初はついて来るのを嫌がっていた車の運転手も、刑務所から帰る道すがらはうれしそうにしていたな。

■誰だって危ない目はごめん

 刑務所に潜り込み、また戻って来たやつなんて、おれ以外にほとんどいねえはずだ。第一、中に潜り込もうなんて、普通なら思わねえよ。おれは刑務所の仲間との約束で、危ない橋をわたらざるを得なかったから行ったんだ。
 好きでも何でもない刑務所に潜り込むことになった理由は、中にいるときにタバコのルートをおれが作り上げたからだ。ちなみに当時のおれの容疑は、銃刀法違反と傷害未遂だった。懲役は一年くらいだったかな。酒場でケンカして、刺身包丁で相手を追い回して、現行犯逮捕されたんだよ。
 当たり前のことだが、刑務所ではタバコなんて認められない。だから、まともな方法じゃ絶対手に入らねえ。もちろん看守に隠し持っているのを見つかったら一巻の終わりさ。だいたい「タバコ」なんて軽々しく口にすることもできないくらいで、刑務所内では「ネッコ」なんて名前で呼んでいた。
 そんな状況でおれが目をつけたのは、刑務所で作った商品を受け取りにくる配達業者だった。刑務所では金属製の引き戸を加工していて、毎日、業者が受け取りに来ていたんだ。トラックが作業所に来ると、商品を車まで運ぶのが、おれたち囚人の仕事になる。運転手はおれたちから商品を受け取り、荷台に積むんだ。
「おい、タバコ持ってねぇか」
 二枚の戸を担ぎながら、おれは運転手に尋ねた。当たり前だが、囚われの身で脅しても誰もこわがらねえよ。実際、やつも笑ってた。だからやつの足めがけて、戸を一枚すべらせたんだ。戸は鈍い音とともに、やつの足の甲に命中した。気の毒なことに骨折だよ。その場は大騒ぎになったが、「不注意だった」と謝ればどうしようもないだろ。だいたい、仕事には事故がつきものだからな。
 そして次の日、足をけがした運転手の代わりに、新しいやつが配達に来たんだ。足が折れてちゃ、仕事にならないからな。そいつに、おれはすかさず耳打ちしたよ。
「前のやつと同じ目に遭いたくなければ、次からタバコ持ってこい」ってな。
 そいつは前の運転手から話を聞いていたんだろう。あわ食ったような顔で、おれを見ていたよ。まあ、シャバに出ていれば、おれたちに差し入れるタバコの金額なんてたかがしれている。毎度毎度、危険に身をさらすよりも、タバコの差し入れを選ぶというわけだ。

■油断もすきもねえ

 おかげで、それからは数日ごとにタバコが手に入るようになったね。
 吸うのは、ねぐらか作業所だよ。作業所の場合は、誰かが看守に話しかけて気を引き、そのすきにニクロム線をコンセントに突っ込んで火をつける。時間が短いから、ゆっくりとなんか吸っていられねえ。思いっきり吸い込む。これが肺に染みわたるんだ。作業所で唯一の楽しみだったな。
 ねぐらで吸うのは、もっと危険だよ。デンパチっていわれてた方法だが、電球を外してニクロム線をぶち込むんだ。感電するわ、ヒューズは飛ぶわで、そりゃ、大変だよ。でも、週末は作業所が休みだろ。どうしても一本吸いたくなる。感電覚悟でデンパチやって、火をつけるんだよ。あのタバコの味は、忘れられないな。
 問題が起こったのは、このルートを作り上げてしばらくたってからだった。牢屋でもめ事を起こして、おれは懲罰行きになっちまったんだ。もちろん作業所には行けねえ。運転手とも会えねえ。結局、20日間くらい独居房で過ごしたかな。やっと出てきたときには、おれのルートを他人が勝手に使っていたんだ。しかも分け前をみんなに寄こそうともしない。たとえ分けても雀の涙程度よ。
 頭にきたおれは、「てめえ、誰のルートで仕事してんだ。ふざけたマネするとチンコロ(締め上げる)すっぞ」と脅しつけた。だが、相手だってこんなうまいルートを手放すわけもない。しまいには作業所が、二つに割れてにらみ合いだ。看守もいるから、いきなり殴り合いなんてできないけどな。始終こづき合っていたよ。

■おれは義理堅い男なんだ

 そんなとき、おれの出所が決まった。髪を伸ばす許可が下り、1ヵ月もしたら刑務所ともおさらばよ。こうなると暴れるわけにもいかねえよ。出所したらタバコを差し入れると仲間に約束して、おれは刑務所を出てきたんだ。
 自分でいうのもなんだが、おれは義理堅い男だよ。とにかく約束を守らなくちゃいけねえと、機会をうかがっていた。そんなとき、暴力団の幹部がおれを訪ねて来たんだよ。「どうにかして刑務所にいる組長にタバコを差し入れてくれ」ってな。銭も払うからと。
 渡りに船とばかりに、さっそく、準備にとりかかったよ。
 おれも出所したてだからカネはねえ。だから友人から20万円ほど借りていた。当時、大卒の銀行員の初任給が七万五千円に届くか届かないくらいだったからな。大金だよ。今なら60万円以上の価値になるんじゃねえか。
 知り合いの鉄工所で場所を借りてフックを自分で作り、縄ばしごと結びつけたり、タバコや菓子を買えそろえたり。そりゃ忙しかったよ。一番難航したのは、運転手の手配だ。そんな危ない仕事など、誰も引き受けねえよ。おれが見つかったら、下手すりゃ一緒に捕まるからな。説得するのに、とにかく苦労した。
 それでもどうにか準備を整えたんだ。あとはことを片付けるだけ。だから、とにかく実費だけでも払えと暴力団の幹部に要求したんだ。ところがカネを払わねえ。最初、ペコペコ頭を下げて頼んだのに、いよいよこれからってとき待ち合わせの場所にすら来ねえんだ。こっちは運転手の手配までしちまったし、計画を延期するわけにもいかなかった。仕方なく、一銭ももらわないままに刑務所の塀を乗り越えたよ。
 結局、おれが仕事を無事に終えても、やつは銭を払おうとしなかったな。事務所に押しかけたが、毎回、日延べしていく。そのくせ、もう一回忍び込んでくれなんて、調子のいいことまでいう。あきれたよ。結局、今になるまで一円のカネももらっていない。
 聞いた話によれば、おれが侵入した後、別のやつを立てて忍び込ませたらしいが、捕まっちまったそうだ。そいつは小さなクレーン車を手配して、自分をつり上げたらしい。ところが人を塀の内側に下ろした後、運転手が職務質問を食っちまったんだ。素人だったそいつは、内側の人間を置き去りにして逃げ出したってさ。入ったやつは、逃げ場はなし。現行犯で捕まって留置所直行。そう簡単には、成功しないってことだよ。

■ヤバイ仕事は一通りやった

 実は危険な橋をわたったのは、刑務所への侵入が初めてじゃない。トビになる50歳まで、おれは危険な仕事のよろずやだったんだ。いろいろやったぞ。
 逃げた女房を夫の頼みで連れ戻すなんて仕事もした。もっともそのおかげで、頭を猟銃で吹っ飛ばされそうになったけどな。
 その夫婦には自慢のセガレがいたんだ。おれも近所に住んでいたから知っているが、そいつの賢さは半端じゃなかった。人の息子ながら将来が楽しみだと思ったよ。ところがそのセガレが交通事故で植物人間になっちまう。高校の初めくらいかな。
 おっかあの落ち込み方は、そりゃひどかったよ。しかも悪いことに事故で多額の賠償金が懐に入ったんだ。植物人間だから、医療費が必要だしな。
 息子を失った寂しさもあったんだろうが、大金でおっかあはスナックを開いたんだ。あとはお決まりのパターンだよ。客がつき、その客が男になり、連れだって家を出た。
 ただ普通と違ったのが、旦那も新しい男もヤクザだったこと。しかも恋人のほうは、暴力団の二代目組長だったから相手が悪すぎるよ。だからといって旦那だって黙っては引き下がれねえ。で、妻を連れ戻すようにおれに頼んできたわけさ。

■親の死に目にもあえやしねえ

 相手が親分だろうがなんだろうが頼まれりゃ仕方ない。おれはおっかあの後を追って、岐阜まで行ったよ。とにかく会って説得しようと思ってな。ところがヤクザ者同士、女を巡って争うことになると、ただの痴話ゲンカでは終わらねえんだな。結局は抗争だよ。いつの間にか、組対組の争いになっていったんだ。
 東京からはおれ以外にも、若いのが送り込まれる。一方、岐阜のヤクザもおれらに負けじと武装する。そのうえ、いつの間にかおれが特攻隊長に仕立てられていた。東京から来た若い衆は、こわがっておれより先に行動しようとしなかったからな。
 岐阜に入って数週間、おっかあがどこにいるのか、とにかくおれは探し回ったよ。そんなとき、事情に通じてそうな若い衆を街で見つけたんだ。話を聞くために、さっそく車で拉致して近くの河原に向かったよ。ところが運悪く、相手の組の若いやつが猟銃を持って、その河原をうろついてたんだ。カモでも撃ってたんじゃねぇのかなあ。
 拉致した若い衆を連れて歩いていたら、突如、黒く伸びた銃身がピタリとおれの頭に押しつけられたんだ。
「何してんだ、おめえ、殺すぞ」っていわれたから、「ぶっ放すならやってみろ」とおれはどなりつけたんだ。
 人間なんて簡単に人を殺せるもんじゃねえ。銃を持った男の顔を見たとき、引き金は引けねえやつだとおれは確信したね。無言のにらみ合いの後、やつは銃を下ろしたよ。おれだって死にたくはなかったし、だいたいおっかあの居場所を知りたかっただけだからな。聞くこと聞いて二人とは別れたよ。危なかったな。
 まあ、結局はおっかあが元のさやにおさまって片付いたんだけれど、まったく人騒がせなおっかあだぜ。この仕事のおかげで、おれは母親の死に目にもあえなかったんだからな。

■つくづく運がよかったね

 覚せい剤の売人もしていたことがあるぜ。こまいのを動かしてねえから、パクられてねえけどな。でも、かなりヤバイ橋をわたったよ。たとえば新宿の場外馬券場での引き渡しだ。80年くらいだったかな。当時の相場はグラム3万円。おれが引き受けた量は、500グラムだった。つまり1500万円分の取引だ。
 ヤクを忍ばせる秘密のポケットをこしらえた長いコートを着てさ、おれは取引場に向かった。簡単なボディ・チェックや職務質問ならば、コートのすそまでは調べない。それを見越して作ったんだ。プロは細心の注意を払うもんだからな。
 でも、そのときの取引相手はプロじゃなかったんだ。中毒患者の五人組だよ。一目でわかった。目が血走っていて、明らかにおかしいんだ。そいつらが週末の場外馬券場でロングコートを着たおれを囲んで話しているんだから、目立つぜ。しかも場所が場所だ。周りには警備員やら警察やらがわんさと歩いている。とても取引ができる状況じゃなかった。
「これじゃ、取引はできない。別な日にしろ」。おれは近づいてきた客にいいわたしたよ。ところがそいつらは我慢なんてできないのさ。買えなきゃ、禁断症状に襲われるからな。しかも別の仲間からもカネを集めてきていたから、手ぶらで帰ったら下手すりゃ仲間に殺されかねないってわけだ。やつらも必死だよ。殺気だった薬中に囲まれて、頼まれてみろ。すごいぞ。仕方ないから、売ってやったよ。
「今回だけは売ってやる。ただし、おまえらとの取引はこれで最後だ」って、いいわたしてな。
 おれが500グラムのヤクを手渡すと、やつらは震えながら銭を差し出たよ。白昼堂々、500グラムの覚せい剤の取引だぜ。これで捕まらなかったんだから、やっぱり運がいいんだろうけどな。
 ヤクといえば、覚せい剤を密造しようとしたこともあったな。これは一部では有名な話だが、覚せい剤とぜんそくの薬は中身が似ているんだよ。くわしいことは難しくてよくわからねえけど、ガス抜きをすれば覚せい剤に変わるんだよ。まあ、化学を勉強している大学生くらいなら簡単にできる。
 仲間とカネを出し合って、埼玉県の毛呂山町に一軒家を借り上げて、覚せい剤を密造しようとたくらんだんだ。カネに困っている大学生を抱き込んで、化学式を解かせてな。ところが同じことを考えていた集団がいたんだよ。しかもすぐ近くに。そいつらが警察にパクられて大騒ぎさ。おれたちもヤバイってことになり、大量のぜんそく薬を処分してズラかったよ。今思い出してみると、とんだ笑い話だな。

■取り立て屋だったことも

 こんな生活のおれだが、羽振りのいいときもあったんだぜ。
 毎日、キャピタル東急ホテルやら都ホテルやらに泊まり歩いて、ぜいたくざんまいしていた。全部、会社の経費で落としてな。
 そのときの仕事は、簡単にいえば取り立て屋だ。友達が作った会社だった。午後になるとホテルから出勤して、そいつからの指示を待つ。相棒から場所をいわれるまでは何もすることねえから、ソファで寝っころがっていたよ。実際、電話番すらしなかったな。
 まあ、相棒のいう通り一日数回スゴんで、経費使いたい放題で、一月100万円の給料だからウマイ商売だったよ。会社ももうかっていたんだぜ。ただ、この世界でこれだけもうけていれば、そのカネを狙うやつもいてな。
 あるヤクザからウマイ話が転がり込んだんだ。話を持って来た男の悪いうわさをおれは知っていたから、話に乗るなと相棒には忠告した。だけど乗っちまったんだ。案の定、カネだけ巻き上げられて行方知れずさ。会社もつぶれちまった。
 仕方ねえから、カネを取ったやつの行方を探したよ。そうしたら東京の国立にある知り合いのマンションに、女とよろしくやっているのがわかった。3日間、ずっとマンションの様子をうかがっていたよ。生活パターンをつかむためにな。
 で、おれは、ついにチャカ(拳銃)を持ってインターホンを押したんだ。ところがやつが女といるのは確実なのに、ドアを開けやしねえ。こっちも続けざまにチャイムを押したが、らちがあかねえ。どうしようかと思ってふとドアの横を見たら、これがガラスなんだよ。けとばしてガラスを割って、部屋に潜り込んだんだ。
 でも、さすがにもぬけのカラだったね。寝室にも、風呂場にも、クローゼットにもいない。それこそベッドの下まで確認したけれどいねえんだ。窓から隣の部屋にでも飛び移って逃げたのかもしれねえな。
 そんなことをしているうちに、大家が警察を呼んじまったんだ。まあ、ガラスを割られちゃ、警察も呼ぶわな。サイレンが鳴ったので窓からのぞいたら、パトカーが横付けされているじゃないか。逃げる間もなく警官に捕まって、署に連行されたよ。幸いだったのは、やつを捜している最中にチャカを室内に落としちゃったことだ。もしチャカを持っていたら、現行犯逮捕だった。
 警察署では、とにかく借金を取り立てにきたの一点張りだよ。カネがもらえなきゃ、死ぬしかないなんていって泣き落としたんだ。それがきいたのかな。窓の修理費1万円と罰金を払わされて終わりだった。
 留置所を出てたら、無性に腹が立ってきてよ。すぐに逃げた男の組に押しかけて「銭返してもらいたい」って迫ったんだ。たぶんおれがマンションの玄関をたたき壊して侵入したのを知っていたんだろう。あっさり1000万円出してきた。そのカネをそっくり友人にわたして、おれはまた、よろずやに戻ったんだ。おれのことを気にかけて、しばらくの間、やつは毎月5万円くらいずつカネを送ってくれていたね。
 その後、友人は、1000万円を元手に会社を建て直したらしい。もしあのとき、そのままくっついていれば、おれの人生も違っていたかもしれないね。会社がつぶれたあたりから、おれの運も変わってきちまったんだな。

■一年でいいから若返りてえ

 知り合いに貸したカネが返らなかったり、月一割の高利貸しから800万円も借りる羽目になったり。まったくついてなかったよ。借金が元で新潟にまで逃げる羽目になったしな。数年後にはおれにカネを貸してくれた人が誰かに殺されて、カネを返済する必要もなくなったがね。
 新潟から東京に戻ったころには、つくづくヤクザ世界が嫌になっていた。命をかけて高いカネを稼ぐより、地道に働きたくなったんだ。何でだろうな。それで山谷に来て、一からトビの仕事を覚えたんだ。景気がよかったときは、現場に必要な頭数を集めて仕事に行ったりもしていた。手配師みたいに他人の給料をピンハネしないから、仲間からの信頼もおれは厚かったんだぜ。それなりに暮らしていけてたんだ。
 ところがこの不景気。仕事が一切ないだろう。するとカネがないから、ドヤ(簡易宿泊所)にも住めなくなる。友達が部屋に泊めてくれるっていうけど、何の収入もなく長居し続けるわけにはいかないしな。アオカン(野宿)する日も出てくるよな。
 気温が下がって体が冷えると、母親につけられた古傷がうずくんだよ。母親っていっても、実の母親じゃねえけどな。
 生みの親が死んだのは、小学校2~3年だった。今でも覚えているよ。学校から帰ると、舎弟(弟)が布団に寝かされたおっかあの胸にしがみついて泣いていたんだ。「おっぱい、おっぱい」って、わめいてな。死んだのがよくわからなかったんだろう。死体を見て、おれもぼう然としたよ。
 そして数年後。おれの地獄が始まった。おやじに後妻がきたんだよ。学校から帰ると毎日せっかん。タバコの火を押しつけられたり、ひっぱたかれたり。今の子どもならば、体が持たなくて死んでいただろうよ。幸か不幸か、おれは頑丈だったから生き残れたけどな。おかげでおれの体は傷だらけだよ。一番ひどいのは足だ。傷口を縫えないほど、肉をえぐられたからな。今もケロイドになって、傷跡が残っている。これが痛む。夏でもサポーターを巻かないと、痛くて歩けないほどだ。
 仕事もない。カネもない。することもない。仕方ないから朝から酒を飲む。カネがもったいないから、自販機で買って酒を飲む。毎日、毎日、気持ちがすさんでくるよ。
 おれに後10年寿命が残っているなら、1年にしてくれてもいい。だから一年だけ若いころに戻らせてほしいんだ。このまま生きているのはつらすぎる。
 心残りなことを一つ片付けたら、自分の命は自分で決着をつけるつもりだよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/息子との二一年ぶりの邂逅・大久保啓二(五一歳)

■月刊「記録」1997年10月号掲載記事

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■これ、おやじだろ

 1994年の5月のことだった。
 雨音がうるさくてね。雨戸を閉めていつも通り酒を飲んでいた。三時ごろだったか、誰かがおれのアパートのドアを叩く。のぞき穴から見ると、まったく知らない男が立っていたので出なかったんだ。しばらくすると隣の部屋の住民とその男は話し始めて、10分としないうちに、今度は隣の住民とともにおれの部屋のドアを叩くんだよ。
 最初は勧誘か刑事だと思った。仕方なくドアを開けると「おれを知らないか」っていう。あまりにも唐突な質問にボーッとしてしていると、「これ、おやじだろ」といって、ポケットからおれの免許証を出したんだ。
 それは家を飛び出したときに置いてきたおれの免許証だった。返す言葉も見つからなくて男の顔を見つめていると、さらにポケットから健康保険証を出した。そこには兄の住所と、息子の名前が書いてあった。もしかしたら・・・・。いや間違いない。
 何せ21年も会っていなかったのだから、息子とは思わなかった。そうとわかった後も、何を話していいのかもわからない。第一、話なんてないんだ。息子もあきれたようにおれを見ていたよ。
「警備員しているんだって」と彼が話しかけてきて、やっと「そうなんだ」と答えた。それから家族の近況を教えてもらった。別れた妻は実家に帰って再婚していること。おれが連絡を取らないうちに、おやじ・弟・姉は死んでしまったこと。兄は脳梗塞で倒れて入院中、おふくろは事故にあってリハビリ中だということ。そして息子が動物病院を経営していることも。
「いやー、大変だ。おれ、おやじの墓参りにいくよ」
 おれの返事はこれだった。といって別に本当に墓参りに行きたかったわけじゃない。息子との間に漂う沈黙がこわくて、話を合わせただけだ。
「みんな怒っているからなー」
 そう息子は答えた。その言葉でおれもすべてを悟った。息子にしてみればおれが郷里に来るのは困るんだ、と。
 この言葉がきっかけに話は終わった。10分くらいの立ち話だったかな。
 せめて部屋に上げるべきだった。少しはカネを持たせてやるべきだった。そう気づいたのは息子が帰った後だ。でも別れた直後は息子だとわかっていても実感としてそう思えなかった。つまりピンとこなかったんだ。「また」なんて言い合ったけれども、あれから一度も息子からの連絡はない。

■妻はノイローゼ

 おれが妻と子どもを捨てて、家を飛び出したのは妻のノイローゼが発端だ。妻と出会ったのはおれが21歳、彼女が18歳。東京・池袋のオンワード樫山に背広を作りに行ったとき、縫製工だった彼女と知り合ったのだ。つきあい始めて3年、彼女が妊娠したのを機に結婚した。
 結婚と同時に、おれは郷里の新潟県十日町に帰り、実家の魚屋を継ぐことにした。最初の1年くらいは、幸せに過ごしていた。子どもも生まれたから頑張ろうと、おれも一生懸命働いた。結果的には、それが悪かったのかもしれないがね。
 最初におかしいと思ったのは電話料金だった。異様に高い。妻の実家がある岩手県や兄が住んでいる東京に、妻が頻繁に電話していたからだ。そうこうしているうちに、彼女はおれとほとんどしゃべらなくなった。
 ふさぎ込んだ様子で、誰もいない部屋に閉じこもってしまう。そっとのぞくと、ボーッと空を見つめている。何をするでもなく、何時間もそうしているんだ。
 彼女も寂しかったんだろう。おれは朝の9時半には家を出て、少し離れた店に向かう。食事は手が空いた時間に、各自バラバラに食べるから8時すぎに家についたころは腹も一杯だ。そのうえ夜は、離れに住んでいるおやじと酒を飲みながら仕事の話をするのが日課だったから、妻をかまってやる時間はない。
 隣近所に住んでいたおやじ・おふくろ・兄も全員が店に出ていたし、弟は別の会社を経営していて忙しかった。結局、妻と子どもが二人で家に取り残されることになる。しかもおれの家は新興住宅地に建っていたから、昔からの知り合いなんて誰もいない。おれが朝から晩まで働いている間、妻はずっと孤独に耐えていたんだ。
 そのうち彼女の妄想が始まった。家を追い出されるのではないかと、隣近所に吹聴して回るようになった。「そんなことはない」と何度いってもわからない。そんな調子だったから、「東京にいる実兄の家に行きたい」といったときは、少しでも元気になるならばと、おれも家族も喜んで送り出した。結局、それが状況を悪化させた。
 日がたつに連れて妻が東京に行く日数は長くなり、十日町にいる期間は少なくなっていく。そうなるとおれへの批判も強くなった。兄は結婚していなかったから、実家の魚屋を継げるのはおれの息子だけ。おやじも期待していたんだろう。だからなのか、おやじからは「おまえがしっかりしていないから、妻が帰ってこないんだ」と毎日のようにいわれ、妻は東京に行ったきり3ヵ月も帰らない。
 ガンガン批判される毎日が続き、そのうちに面倒くさくなった。決意したら早い。気がついたら家のカネを600万円持って東京に来ていた。それでも最初は寂しくて、一週間に一回は実家に電話をかけた。おやじも「帰って来い」なんて、声をかけてくれてね。でも帰りにくいんだよ。そのうちまた時間がたつ。一週間に一度の電話が二週間に一度、一ヶ月に一度になる。そのうちに帰郷するどころか、電話をするのもつらくなってきて、半年もするとしらふではかけられなくて、酩酊状態で電話をするようになっていた。
 帰れない。でも、子どもがどうなっているのかだけは気になる。仕方がないので、実家の近くに住む友達の家に何度か状況を聞きに行った。何度目かの訪問で、兄夫婦が息子を養子にしてくれたと聞いてホッとしたよ。でも、養子の話を聞いた友達から注意を受けたんだ。「おまえが実家の近くをうろつくのは、子どものためにも、兄のためにもよくない」と。
 それで、きっぱり行くのをやめた。

■最初はラブホテル勤め

 東京ではラブホテルの従業員として働いていた。やがて恋人ができ、家族のことも思い出さなくなった。28歳のころには20歳前後の女性とつきあった。スナックで知り合ったんだ。30歳をすぎたころには、同じ職場で働く未亡人が相手だった。この未亡人とは、酒に酔った勢いで寝てしまったんだ。互いに寂しかったんだと思う。もちろん結婚なんて面倒くさかったからしなかったけれど、昔を忘れるのには二人の女で十分だった。
 また当時の生活も、結構面白かったんだ。ラブホテルの仕事は、それほど重労働ではないし。客が出るのを待って部屋を掃除し、ベッドメイキングをする。大変なのは風呂の掃除くらいのものだ。住み込みで食事もついているから、仕事場から追い出されない限りは食うには困らないし……。逆に衣食住が保証されているから、貯金をする気にもならなかった。だから給料のほとんどは、酒とギャンブルに注ぎ込んだ。
 でも借金して飲んだり打ったりはしなかった。だいたいおれは、酒は好きだったけれど、ギャンブルなんかたいして好きじゃなかったんだ。ただ職場の仲間が全員やるから、つきあいでしていただけだ。ギャンブルをしないとみんなの話題に入れないから、寂しいんだ。まあつきあいとはいえ、競馬・競輪・競艇と、どれにでもかけていたから、1ヵ月にすると結構な散財だったろうがな。
 ラブホテルの従業員を辞めたのは、42歳のときだった。仕事内容には満足していた。人間関係もいろいろあったけれど、おれにはたいしてつらくはなかった。ただラブホテルに勤め続けているのが、恥ずかしくなったんだ。
 朝、店先に水をまくだろ、そうすると昔の従業員に会っていわれるんだ。「まだ、そんな仕事やっているのか」ってね。いい年をして、みっともないだろ。かつての仲間は、水商売やら土木建築やら職業を変えていた。ラブホテルの従業員として長く勤めるのは、情けないことなんだ。だから辞めたんだよ。
 警備員を次の仕事に選んだ理由は、社員寮が完備していたからだ。いくらかカネを取られるとはいえ、普通に家を借りるよりよほど安い。仕事さえしていれば住む場所が確保されるんだから、安心だろ。もともと働くのは好きだったし、まさか体を壊して働けなくなるなんて思いもよらなかった。

■飲み続けたツケが回った

 警備員になっても、生活は変わらなかった。焼酎一升を2日で空けるペースもそのまま。ただ社員寮は今までの住みかと違って、都心から少し離れたところにあった。そして、その小さな変化がおれをホームレスに近づけたのかもしれない。
 都心で飲み歩くと、家に帰るのが嫌になる。それでいつの間にか新宿のホームレスに混じって寝るようになったんだ。週に3~4日は新宿で寝ていたんじゃないかな。そうやって気ままに暮らしていたんだ。
 生活が一変したのは、足が痛くなってからだな。九七年の暮れあたりかな、歩くと足の甲が痛み出す。精密検査をしたら、肝臓も悪いし、糖尿病にもかかっていると医者にいいわたされた。食事は一日一食、後はアルコールばかり飲み続けるという生活を続けていたツケが、この段階になって回ってきたんだろう。働かないで社員寮にいるわけにもいかないから無理して働いていたけれど、結局、5月の連休明けに動けなくなった。
 それ以降、寮で毎日寝ていたよ。でも回復はしない。それどころか、どんどんひどくなる。会社も気の毒に思ってくれたんだろう。働けないおれが寮にいるのを、大目にみてくれていた。でも2ヶ月も仕事ができないんじゃ、居続けるわけにもいかないよ。そこで98年の7月、自分から寮を出たんだ。
 この先どうなるんだろうと少しこわかったけれども、先にも話したように、もともと新宿で寝るのには慣れていたから、あまり生活は変わらなかった。新宿で活動しているボランティアも多いから、無償で配られる食事も結構な量になるしね。
 飯は食えるし、こわいこともない。ホームレスになったときの不安は、取り越し苦労だったね。腹をくくっているからかもしれないけれどな。ただ五年前からつきあっている三九歳の恋人には、ホームレスになったことはいえないよ。(■了)

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ホームレス自らを語る/夫の浮気が許せなかった・増田良子(五〇歳)

■月刊「記録」1999年8月号掲載記事

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■東京にあこがれていたもので

 この公園(新宿中央公園)に来るようになって今日で二週間になります。まだ完全なホームレスになったわけじゃないんですよ。今でも夜だけはこっそりとアパートに帰って寝てますからね。ただ、部屋代を2ヵ月以上払ってないんで、追い出されるのは今日か明日かっていう状態なんです。そうなれば、ここに寝るしかないかなって、途方に暮れているところなんですよ。女の身でこんなところで寝るのはこわい。ホントにこわいですよ。
 2年前、それまで働いていた居酒屋のホール係の仕事を辞めさせられましてね。理由は、客足が落ちて売り上げが減っているからです。退職金なんてありませんよ。半月分の給料の上乗せがあっただけ。
 それからは、アルバイトをしながら何とかやってきたんです。それが50歳になった途端に、そのアルバイトにも雇ってもらえなくなりましてね。そこで求人で50回くらい応募したけど全部ダメでした。何しろ一人の募集のところに、20人も30人もが応募してくるんですから、使うほうはどうしても30代くらいの若い人を雇いますよね。
 仕事がなくて、部屋代を払うおカネもなくなってきて、昼間はこうして公園で座っているより仕方なくなったんです。この年になって、まさかこんなことになるなんて思ってもみませんでしたよ。
 生まれは関西です。高校を卒業して東京に出てきました。ずっと東京にあこがれていたんです。上京してからは、まず小さな印刷工場で働きました。そのうちに取引先の大手印刷会社でアルバイトをしていた学生と知り合いになって、それで結婚しました。そのとき、二人とも同じ年の20歳でした。

■たった一度の浮気だったのに

 結婚はうちの親には猛反対されたんです。相手が母子家庭だったことと、母親が水商売をしていたことが主な理由でした。それに彼はまだ学生でしたからね。でも、私は「こんなに誠実で、性格のいい人には、もう巡り合えない」と、絶対に譲りませんでした。そして結婚を押し切ったのです。
 そんな経緯がありましたから、結婚式も新婚旅行もありませんでした。役所に届けを出しただけで、お風呂もない六畳一間のアパートでの新婚生活でした。でも幸せでしたよ。
 主人は本当にいい人で、何でも自分からするんです。その理由は「自分はおばあちゃんに育てられたから、年寄りに苦労はかけられないと思って、何でも自分でしてきた」といってました。私の父は、家では何もしない人でしたから「こんな男の人もいるんだ」と思って新鮮な感じを持ちましたね。
 主人が大学を卒業して、二人で熱海に旅行をしました。それが二人の新婚旅行でしたね。それから主人は例の大手の印刷会社の社員になって働くようになりました。その翌年、子どもが生まれました。男の子でした。
 ところが27歳のとき、大きな転機が訪れました。主人の浮気が発覚したんです。たった一回だけのことでしたが、それが私には許せませんでした。若かったこともあるし、そのころはまだ「女は処女で結婚する」なんて風潮も残っていたので。結局は潔癖だったんですね。もう、主人の寝顔を見るのも嫌な状態になってしまい、半年後に離婚しました。
 子どもは主人の元に置いて、私だけが家を出ました。子どもはまだ小さかったし、正式に裁判で争っていれば、私のほうが親権は取れたと思います。でも、私と別れることが決まってからの主人の落胆ぶりがすごかったんです。「この人から、子どもまで取り上げたら、自殺してしまう」とまで感じました。ですから「子どもを連れて出る」なんて、とても言い出せなかったんです。

■そのおカネで助けてほしい

 その後の私はしばらく製パン工場で働いて、あとはずっと先ほどお話しした居酒屋で働いてきました。
 離婚してからも、元の主人と子どもには何度か会ってます。「子どもがかわいそうだから」って、彼は再婚もしないで、男手一つで子どもを育てあげてくれました。そんな話を聞くと、今になってもやっぱりいい人だったなと思います。
 別れた後、ほかに何の欠点もなかったのに、一回の浮気がどうして許せなかったのか考えましたよ。男の人が浮気をしてしまう気持ちもわからなくもなかったです。けれども「覆水盆に返らず」なんですよね。いい人だと思う感情と、ヨリを戻そうという感情は、別のような気がしますね。
 この2、3ヵ月、急に白髪が増えました。日に日に増えている感じなんですよ。仕事がないからって、いまさら兄嫁のいる実家にも帰れないでしょう。立場が逆だったら、私だってそんなものが転がり込んでくるのは嫌ですからね。もう帰れませんよ。
 この公園にいるホームレスの人たちは、みんな親切な人ばかりですよ。世間一般の人なんかより優しい人が多くて、私の食事の面倒をみてくれる人もいますからね。 正直にいいますと、以前はホームレスの人を見ると、昼間から寝転んでいる怠け者だとバカにしていました。どうしようもない人たちだと軽蔑もしていました。でも違うんですよ。私もそうだけれども、みんな勤労意欲はあるんです。朝の三時から並んで仕事を探していますよ。ただ、不況で仕事にあぶれて働けないから、公園に戻ってきて寝ているんです。
 怠け者が朝の三時から並ぶなんてことしませんからね。「仕事さえあれば、働いてちゃんとした生活に戻りたい」と思っている人が多いですよ。
 だから国のしていることには腹が立ちますね。景気のいいときに悪いことばっかりして、こんな日本にした張本人である銀行を助けるおカネがあるならば、ここにいる人たちくらい助けられないわけないですよ。「おカネを福祉と老人に使え」って、これだけはどうしてもいっておきたいですね。
 それにしても、ここにいる人たちは親切ないい人ばかりなんですが、でも、いざここに寝なくちゃならないとなると、やっぱりこわいですね。こわいですよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/大学は出たけれど・前田憲三(六〇歳)

■月刊「記録」1998年10月号掲載記事

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■空襲の夜を覚えている

 1945年3月10日、東京大空襲の日だが、どういうわけか、あの晩は曇り空だったような気がするんだ。空襲があって、しかも夜で、まだ6歳だったおれが、そんなことを覚えているのは不思議なんだが、確かに曇り空だったような気がしてならないんだ。
  夜九時ごろだったと思う。もう寝ていたおれは、母親に「空襲だよ!」ってたたき起こされた。両親と幼い妹二人の、一家5人で表に飛び出した。外は、もうあちこちから火の手が上がっていた。父親がおれの手を引いて、母親は一人の妹をおぶり、もう一人の手を引いて五人で逃げた。日本橋にあった家から、とりあえず神田をめざしたようだ。
 あの夜が曇りだったことは覚えているのに、空襲のことはあまりくわしく覚えていないんだ。ただ、火の手に追われて、ひどく熱かったことだけは忘れられないね。逃げている途中から、神田をめざすどころではなくなって、燃えていないほう、燃えていないほうを探して、一晩中逃げまどっていた気がするな。
  翌朝、火事がおさまって、日本橋の家に戻ってみると丸焼けになっていた。父親はそこで運送業を営んでいてね。日本橋の問屋街の荷物を扱って、従業員も20人くらいいて、かなり繁盛していたんだ。焼け跡は片付けるなんて状態じゃなかった。店をたたんで、父親の生まれ故郷である信州の松本へ、一家で引っ越したんだ。日本橋の店は、戦後になって父親の弟に譲りわたした。ひょっとしたら、今でもあるかもしれないよ。
  父親のほうは松本に帰って、祖父がやっていた家業の電器店を引き継いだ。だから、戦後の暮らし向きもまあまあだった。
  おれは中学を出て、松本深志高校に進んだ。えっ、知ってるの? うん、一応名門といわれる学校だね。同級生に土屋正孝がいたよ。その後、プロ野球に進んで、巨人と国鉄スワローズで名内野手としてならした男だ。野球を辞めてからの行方は知らないが、高校生のころから変わったやつだったよ。

■司法試験をめざしたことも

 大学は中央大学の法科に入った。刑事事件の弁護士になりたかったんだ。まじめな学生だったよ。あのころの学生といえば、雀荘に入りびたっているのが多かったけど、おれはマージャンには興味なかった。パイは一度も握ったことないよ。
  大学三年生のときが、60年安保闘争の年だった。おれはノンポリであまり関心はなかったんだけど、それでも6月15日の国会デモには参加したよ。デモの最中に「女子学生が殺された」っていう話が、後ろのほうにいたおれたちにも伝わってきた。みんな騒然となって、「やってやる」と殺気だって大混乱になった。だけど、警官隊にけ散らされて終わりだった。あの後、しばらく無力感が続いたね。おれにも、みんなにも。
 学生のころから、司法試験に挑戦していたんだが、なかなか合格しなくてね。大学を卒業して、大手のバス会社に就職した。本社勤務だったけど、最初はトイレ掃除からやらされたよ。2年くらいして、系列の松本のバス会社に行くことになった。その会社の経営が左前になって、本社から社長の弟が乗り込むことになり、「おまえは松本の出身なんだから、一緒についてこい」ってわけさ。それで司法試験のほうはあきらめることになった。  そこには7年いて、総務や経理で働いた。会社の経営の建て直しと、その後の東京資本の地方進出の足がかりを作るのが仕事だった。7年して、また本社に戻されることになり、それを機会に結婚したんだ。相手は松本のバス会社で一緒に働いていた子だよ。社内結婚ってやつだね。ちょうど、30歳になるときだった。結婚して子どもが三人できた。男一人に、女の子が二人。
本社に戻ってからは、人事課で働いた。何年かして、おれのことをかわいがってくれていた人事部長が辞めたんだ。サラリーマンなんて、上役の引きというか、後ろ盾があって「なんぼ」のものだからね。だんだんと人と争う競争社会にむなしさを感じるようになってきたんだ。サラリーマンはおれの性に合わないんじゃないかと思うようになってね。
  そのうちに欠勤しがちになって・・・・。朝、出勤するふりをして家を出るんだけど、会社には出ないで公園に行って、そこで酒ざんまいで過ごすようなことになっていった。「サラリーマンは気楽な稼業」とかいうのがあったが、おれにとっては決して気楽なもんじゃなかったよ。
  そんなおれに女房は愛想をつかして、子どもを連れて出ていったよ。それで会社も辞めた。36歳のときだったな。ただ、それからもいくつかの会社に就職して、サラリーマンは続けたんだ。手に職があるわけじゃないし、サラリーマンをするしかなかった。だが、サラリーマンの生活にむなしさを感じているのと、拘束されない暮らしを体が一度覚えちゃっているからね。どこも長続きしなくて、職場を転々と変えるばかりだった。
 90年ごろだったと思うが、新宿の路上で酒を飲んでいたおやじと知り合いになってね。そのおやじが 「サラリーマンのようなバカな商売は辞めろ」っていうんだ。「おやじ、何かいい商売はあるかい?」「おれにまかせろ」ってことになって、雑誌を拾い集める仕事を教えてくれた。おれも独身に戻っていたし、こういう商売もあるんだと思ってね。西口の地下通路に段ボールハウスをこしらえて、そこに住むようになったんだ。

■新宿には思い入れがある

 98年2月に新宿の段ボール村で火事があっただろう。おれも火元のすぐ近くの段ボールハウスに寝ていたんだよ。火元から10メートルくらいしか離れてなかったんじゃないかな。
「やけに暑いな」と思って目を覚ましたんだ。すると 「おやじ、出ろ!死んじゃうぞ!」って、消防士が段ボールハウスから引きずり出してくれた。それで助かった。
「なぎさ寮」には行かなかったよ。行った仲間でも、すぐに帰ってきちゃったのが多かったようだよ。好きなときに、好きな場所で寝られる生活をしていた者が、時間でしばられる生活なんて無理なんだよ。
  火事の後、自主退去になって、地上にいることが多くなった。ほら、ここは高速道路のバスターミナルがすぐそこだから、松本行きのバスもよく通るんだ。この間なんて知り合いの運転手に見つかっちゃってね。それからは松本行きのバスが通るたびに、顔を隠すようにしているよ。
  そうまでして新宿に居続けるのは、松本の人間にとってここは特別な街だから。東京に出てくるとき、最初におりる駅が新宿だし、帰るときもここから電車に乗る。だから故郷につながっている街なんだ。学生のころ、藤沢に住んでいたんだが、わざわざ小田急線を使って一時間以上かけて新宿に出て、それから学校に行ったこともある。新宿以外の街は知らないし、便利だし、ほかで暮らすことは考えられないな。まあ、住めば都だよ。
  今も雑誌を拾い集めるのを仕事にしている。拾った雑誌は路上の書店に卸すんだが、一冊50円くらいで引き取ってもらえるんだ。だから、稼げるときは日に1万円くらいになるよ。おれの場合は、京王線を使って八王子のほうまで拾いに行く。途中、明大前とか、大きな駅で途中下車しながらね。両手に100冊もの雑誌を下げて、(プラット)ホームからホームへと探して歩くわけだから、どこの駅の、どのホームにはエスカレーターがあって、ということを知っておくことが大切なんだ。でなかったら、100冊も持って移動なんかできないからね。
  雑誌拾いで稼いだカネで、月に一度は松本に帰るようにしているんだよ。最終の夜行列車に乗ると、朝には松本に着く。実家や女房子どもがいるあたりには近づけないけど、一日駅の周辺をフラフラするんだ。ホームレスをしている仲間もいて、話をしたりとか、命の洗濯になるね。そして、また夜行列車に乗って、新宿に戻ってくるんだ。
  今こうやって、ホームレスをしているのも、女房や子どもに愛想を尽かされたのが大きいんじゃないかと思うよ。それが原因だよね。未練はあるさ。特に子どもにはね。三人のうち、二人は医者になったってうわさを聞いた。おれの妹たちが学費を出してくれたらしい。ちゃんと育ったようで、それがせめてものなぐさめだね。
  先のことはあまり考えないな。ホームレスをしていると、人間が横着になるからね。本来は、こんな怠け者じゃあなかったんだけどね。今は一日、一日が過ごせれば、それでいいって感じだよ。それ以上は考えないことにしているんだ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/いい時期はあったんです・川本幸夫(六四歳)

■月刊「記録」1999年7月号掲載記事

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■マイナス18度での労働

 生まれは、茨城県の水戸市です。おやじはJR、そのころは国鉄って呼ばれていたけれども、そこで働いてたッス。何してたんだかわかんねえけど、事務員のようなことをしてたんじゃねえかな。転勤が多くて、あっちこっちで暮らしてたです。
 ワシは中学校を卒業して、一人で東京に出てきたッス。「東京ってどんなところだべ」って思ってね。上京してみて、「はあ、東京は人の住むところじゃねえ」と思ったッスよ。何たって戦後すぐのことで食うものがないでしょう。マッチ一本まで配給の時代だからね。今の人にこんなこと話してもわからないでしょう?
 東京では、ビルの建設現場で働いたッス。そのころは足場なんてのも、いいかげんなもんでな。手すりもない足場だから、何回落っこちたのかわからないほどッスよ。ホントですよ。裸になって傷跡を見せてもいいですよ。寒いときは、今でも神経が痛むんッスよ。
 一番ひどかったのは、30メートルもの高い足場から落ちたときですよ。どうなったかって? どうもこうもねえ。ワシは意識不明の重体だもの、何も覚えてないッスよ。病院で気がついたら、手も足も骨折していて、もう体がバラバラな感じだったですよ。治るのに2年半もかかったッス。ホントッスよ。
 それから北海道にわたったんです。森林を伐採して、木材を切り出す仕事でな。北海道の山はこんなに急なんですよ(手で指し示す)。すごいんだから、ホントですよ。そんなところで仕事するんだから、そりゃあ大変だったッス。
 切り出した木材を足の太い馬に……、そう道産子って馬だったな。それに引かせて急な坂を登ったり、下ったりするんだからね。一度は乗っていたトラックがひっくり返って放り出されたこともありますよ。
 大変なのが冬です。何しろマイナス18度まで下がりますから。寒いとか、痛いなんてもんじゃないですよ。苦しい。息をするのが苦しいんですから。そんななかで、こんな急なとこで働くんだから。人にゃあいわれんが、ワシャ苦労してるんだ。ホントッス。(涙を流し始める)

■家族で新宿に住んでいた

 北海道に8年くらいいて、また東京に戻りました。人の住むとこじゃない東京で、また働くようになったんです(笑)。
 二度目の東京では、まず造船会社でな、そこの社員になった。ホントッスよ。造船が忙しいいころでね。でっかいタンカーとか造ったッス。ワシらの仕事は溶接とか切断だったな。
 船っていうのは、下から造っていくんです。ビルの仕事と違って、船には曲線があるから、作業するのが難しいんだね。最後のころは、足場もうーんと高くなる。ふと気づくと、隣で働いてたやつがいなかったりしてね。「あれ? やつはどこいったべ」って、みんなで探していると、下の海に土左衛門になって浮かんでいたりしてね。そうやって何人も落ちて死んだッス。ホントッスよ。
 結婚したのは、36歳のときです。それから角筈三丁目、今の西新宿三丁目ですよね。そこにずっと住んでいたんです。ここの新宿中央公園からすぐそこッス。だから、今でも昔の町内会の知り合いに会ったりしますよ。 あのころが一番よかったですよね。ワシらが40代のころだな。景気もよかったし、月100万円も稼いだことだってあるんですから。ホントッスよ。町内会で葬式を出すときは、受付を手伝ったりしてね。すごいでしょう。葬式の受付なんて、信用がないと任せてもらえないんだからな。そうでしょう?
 結婚して一年半後には男の子も生まれました。いい時代だったッスよ。

■一回失敗すれば人生終わり

 造船所では19年働いていましたよ。辞めたのは、昭和の終わりごろでした。職人同士っていうのは、人間関係が難しいんだな。北海道の伐採の仕事を辞めたのも、人間関係がうまくいかなくなったからでした。どういうわけか、ワシは人間関係がうまくいかないんですね。それが運の尽きッスよ。
 それからは、飯場に入って、土方の仕事をやりました。だけど、慣れない仕事できつかったッス。土方の仕事では大して稼げないし、まとまったカネを手に入れることもできないでしょう。女房は子どもを連れて、実家に帰っちゃいました。
 ワシらにもいい時期はあったんです。カネはあったらあったで使っちゃったしね。もっと考えて、うまくやってればって今となっては思うけれども……。
 まあ仕方ないですよ。一回失敗すれば元には戻れないんだから、仕方ないッスよ。
 女房の実家はすぐそこなんですけどね。今でもそこで子どもと暮らしていると思いますが、会いには行けないッス。いまさら「親でございます」なんて、子どもの前には出ていけないでしょう。
 今、夜は適当なとこに寝てます。ビルとビルの間の雨の当たらないとことか探してね。冬だって段ボール一枚敷いただけの上に寝てるんですよ。ホントッスよ。仲間のみんなもびっくりして、「そんなことしてたら死んじゃうよ」っていうけれども、寒いところでやってきてるから平気なんッス。鍛えられてますから。
 それに、自分なんかいつ死んでもいいと覚悟はできてるしね。口には出さんけど、人生何年生きたって同じ、死んだほうが幸せッスからね。最後は一人なんだから、ワシはいつ死んでもいいと思ってるんです。ホントッスよ。
 まあワシらの話なんて、誰も聞いちゃあくれんですよ。こんな話を聞いてくれて、気がスーッと楽になったッス。ホントッスよ。ありがとう。ありがとう。 (■了)

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ホームレス自らを語る/帰るところなんてない・森田修(五七歳)

■月刊「記録」1998年12月号掲載記事

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■借金がふくらんでいく

 ホームレスになった理由はね、借金でクビが回らなくなりましてね。もう利息分を払うだけで、やっとの状態でした。すると親族の一人が、どこで教わってきたのか、「借金っていうのは、借りた人の行方がわからなくなれば、二年間で帳消しになるんだって。どこかに姿をくらましなさい。そして二年たって、戻ってくればいい」っていうんですよ。要するに、私が家からいなくなればいいらしい。
  親しい親戚にわけを話して、5万円のカネをかき集めましてね。「どこか」っていったって、行くあてなんてないでしょう。何となく、昔働いてたことのある東京に出てきたんです。九五年のことでした。
  それまで、20歳のときから、信州の飯田で農業をやってました。一町歩(約一ヘクタール)ばかりの田んぼと畑があって、おやじと二人でやってたんです。
  ちょうど、私が農業を始めたころから、「農業の近代化」ってことが、しきりにいわれるようになりました。農協も営農資金とか、農業近代化資金とかいって、やたらと貸してくれるようになりましたしね。
 うちも借金しながら、いろいろ買ったですよ。最初に買ったのが、耕運機だったかな?脱穀機も買いました。ヤンマーのやつをね。それから、田植え機と稲刈り機。田植え機もすぐに二条植えから四条植えに替わって、稲刈り機もコンバインに替わった。そのたびに借金して、買い替えるわけですよ。
 周りの農家がみんなそうするから、うちだけ古いままでいいっていうわけにはいきませんしね。借金を返し終わらないうちに、新しい機械を買うから、借金だけがふくらむんですよ。
  肥料のような消耗品だってそうですよ。注文しなくても、農協のトラックがやって来て、前の年と同じ量のものを勝手に置いていくんですから。そういうものは、秋に収穫した米代からサッ引かれるんです。だから、現金なんて、いくらも入ってこない。そのなかから、借金の元金と利息も払わなくちゃなりませんしね。
  悪いのは農協かって?うーん、農協ばかりが悪いわけじゃなくて、世間の雰囲気がそういう風潮でしたからね。ただ、農協っていうのは、われわれ農家の組合員がカネを出し合って作ったものですからね。その農協に、農家が借金で首をしめられるってのは、何か変ですよね。
■減反にも協力したのに

 暮らしのほうだって、そうでしょう。やれテレビだ、冷蔵庫だ、洗濯機だ、サッシの窓だ、太陽熱温水器だってね。いくら働いたって追いつかないですよ。特に、結婚して子どもができてからは、世間並みのことはしてやりたいですしね。
 そのくせ、米作りのほうは減反に次ぐ減反でしょう。うちだって協力したのは、二度や三度じゃありませんから。減反に協力すると、奨励金っていうのが出るんですよね。農業を知らない人は、現金でもらえると思っているようですが、実際には品物でくれるんですよ。ラーメンだとか、酒、しょうゆとかでね。
 そんなものをもらっても、借金を返す足しなんかにはなりません。結局、借金ばかりがふくらんで、田んぼと畑は全部抵当に取られました。もう、どうしようもなくなったわけです。決定的だったのは、下水設備でした。これだって、「うちだけはいい」って断るわけにはいかないでしょう。そのために農協から借りたのが、50万円。これでにっちも、さっちもいかなくなりました。
 姿をくらますようにいわれて、「もう、どうでもいいや」って感じで、夜逃げみたいなもんでしたよ。とりあえず新宿に出て、初めの二、三日は旅館に泊まったんです。けれども、5万円のカネなんてすぐに底をついてしまい、段ボールハウスで寝るしかなくなっていました。
■嫁さんは気の強いしっかり者

 生まれも、育ちも飯田です。1941年生まれで、戦争の始まった年です。戦争の記憶はあまりありませんが、それでも近くの山の壁に横穴式に掘った防空壕があって、家族で避難したことをかすかに覚えています。飯田のような田舎町に空襲警報が出るなんて、めったになかったでしょうがね。
  小学校の四年生のとき、目をけがしたんです。近所のおじさんが運転するオート三輪の助手席に乗せてもらって、それが急カーブを切ったときに振り落とされましてね。オート三輪ってドアがついてないんですよね。落ちたところが運悪く竹やぶで、竹の切り株で左目を突いちゃったんです。左目は完全に失明しました。
 勉強は嫌いで苦手な子でしたね。それで中学校を終えて、すぐに働きに出ました。私のおじさんが東京の杉並区でスレートを作る工場を経営していて、そこに就職したんです。従業員60人くらいの工場でした。
  スレートっていうのは、モルタルをこねて、それを機械でプレスして、油を使って焼き上げて作ります。大変な重労働の上に火を使うから、工場の中は猛烈に暑い。塩をなめながらの作業で、夏なんかは四時間働いたら、二時間は休まなくちゃならないくらいきついところでした。六人部屋の寮住まいで、日当は320円。月で8000円くらいになりました。
 唯一の楽しみは映画でしてね。毎週日曜日に近くの永福町の映画館に通って、三本立ての映画をみてました。ときには、繰り返して二回見るなんてこともしたんです。チャンバラ映画が好きで、高田浩吉のファンだったですよ。映画さえ見ていられれば、それでいいって感じでしたね。
  おじさんが社長だったから、しつけは厳しかったですね。休みの日に帰りがちょっと遅かったりすると、正座させられて、お説教されました。でも、私は酒も、女も、ギャンブルにも興味はなくて、ホントにまじめなもんでしたよ。
  伊勢湾台風(1959年9月26日)のときには、飯田地方も壊滅的な被害に遭って、私も実家に呼び戻されました。国鉄の飯田線の鉄橋が流されて不通だったりする中を、二日がかりで帰りました。実家は倒壊しているし、田んぼや畑は土砂に埋まっていました。それで、おやじを助けて、農業をすることになったわけです。
  結婚したのは……、いくつのときでしたか……。忘れちゃいましたね。母親の知り合いの紹介で結婚したんです。嫁さんも農家の娘で、よく手伝って働いてくれました。しっかり者でしたが、私とは反対で気が強くてね。子どものしつけにも厳しかった。子どもは二人、両方とも女の子でした。

■帰るところがないんです

 夜逃げするようにして、新宿に出てきてからは毎日、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしてるだけです。働きたいと思って職安に行っても、今は働き口なんてありませんからね。
  二月の新宿の段ボール村の火事の後、私も「なぎさ寮」に入って、そこから北新宿の自立支援センターに行ったんですよ。それでビル掃除の仕事につけました。ただ、それが1ヵ月足らずでクビになりましてね。理由はよくわからないんですが、職安でなく福祉(自立支援センター)の関係で行ったことがいけなかったようです。何だか、よくわかりませんね。
  そりゃあ働きたいですよ。でも、働くためにはアパートでも借りて、住所をちゃんとしないといけないでしょう。今、月5万円の部屋を借りるにも、敷金だ、礼金だで、20万円は必要ですからね。そんなカネはあるわけないし、どうしようもないですよ。
  食事は毎朝配られるボランティアのおにぎりと、新宿区役所が出してくれる乾パン。それに週一回の炊き出しですね。足りないです。足りないけど、それでやるよりしょうがないです。
  借金のほうは、もう時効になりました。私は左目を失明しているんで、身体障害者の扱いになって、裁判所も「支払い能力なし」と認めてくれたらしいです。
  どうしてそれがわかったのかというと、ボランティアの人が田舎のほうと連絡を取ってくれて、私に知らせてくれたんです。私はカネを持ってないし、家族にも合わせる顔がなくて、連絡はできませんからね。
  借金がなくなったのに、なぜ飯田に帰らないのかって? 帰れないですよ。帰るところなんてないですよ。田んぼや畑は、もう他人に貸しちゃってます。そんなところに帰っても、働きようがないじゃないですか。
  おやじは死にましたが、80歳のおふくろはまだ元気でいます。そりゃあ、家族に会って話がしたい。でも、私には帰るところなんてないんですよ……。
(※森田さんはここで感極まったように、オイオイと泣き出した。しばらくして、落ち着きを取り戻したが、もう自分のことについては語ってくれなかった) (■了)

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ホームレス自らを語る/自殺未遂とムショ暮らしと・小林利男(五一歳)

■月刊「記録」1997年12月号掲載記事

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■手を何度洗っても

 睡眠薬に「ブロバリン」というのがあるでしょう。あれを、大量に飲んだんだよ。大学を中退した後だったから、22歳くらいだったか。夏の暑い日だったことのほかは、夜だったのか昼だったのかも覚えていない。結局、大量に飲みすぎちゃってね、みんな吐き出しちゃったみたい。苦しんで暴れたらしくて、アパートの隣人に発見されて、救急車で運ばれ、自殺は未遂に終わった。
 ずっと神経症に悩まされていた。手を洗っても洗っても、きれいになった気がしない。道を歩いていて、穴なんかを見つけると、誰か落ちるんじゃないかと気になって仕方がない。外出しても、ガスの元栓を閉めたかどうか、戻って確認しないと気がすまない。元栓を確かめて出てくると、今度は玄関の鍵をかけたか気になっている。もう、次から次へと気になって、外出なんてできなくなってくる。
 最初は、そういう感覚を鈍らせたくて飲み始めた酒だった。でも、性格も強いほうじゃないから、つい依存してしまう。朝からアパートの部屋にこもって酒浸り。カネがないから、もっぱら飲むのは焼酎ばかり。何かあるたびに心に引っかかってしまう、そんな神経症の状態が毎日続くと、行動するのがすごくしんどくなってね。生きてるのが本当につらくてやだなと思ってね。遺書は書かなかったけれども、睡眠薬を飲んだ。薬は二日くらい前から買って用意していたから、発作的じゃない。
 担ぎ込まれた病院の診断で、精神病院に送られた。「これはおかしい」って思ったんだろうね。病名は、極度の強迫神経症とアルコール依存症。精神病院には、一年半入院していた。

■全共闘に参加するどころか

 生まれは、東京の新宿・弦巻町。1947年生まれで、8人兄弟の末っ子だった。遅い子で、僕が生まれたとき、おやじは50歳を超えていたはずだ。すぐに定年退職になって、その退職金で碁会所を始めていた。でも、道楽だからね。ほとんど収入にはならなかったようだ。おふくろが袋張りの内職をしていて、その背中を見ながら育った。貧乏だったよ。
 中学を出て、塗装工の見習いをしながら、夜間高校に通った。家を出てひとり暮らしを始めたのはそのころだ。今から思えば、末っ子だったし、みんなにかわいがられていたんだけれどもね。それが、神経症的な性格だから、親切にいってくれることも、逆に悪く考えてしまう。とうとう家族とは住めない雰囲気になってしまった。 高校を卒業してから、一年浪人して早稲田大学の文学部に入った。ところが、当時は全共闘運動が盛んなころで、革マル派がバリケードを張って、授業なんてほとんどできない状態だったんだ。運動には興味があって本も読んだ。共感できる部分もあった。運動に参加するように、友人にも誘われたんだが、彼らを見ているとヒーロー気分に酔っているだけのようで、アジ演説も面白くなくて参加はしなかった。
 それよりも神経症とアルコール依存がひどくなるばかりで、たまに授業があっても、酒に酔ったままで行ったりして、だんだん欠席するようになっていたんだ。そのうちに、おふくろが送ってくれる授業料まで、焼酎につぎ込むようになっていた。結局、出席日数不足と授業料滞納で大学を中退。二年半の学生生活だった。
 自殺未遂騒動を起こして精神病院に入ったのは、そのころだ。八王子の病院だった。ただ、ああいうところは治療らしいことはしないんだよ。週一回簡単な問診があるだけで、あとは投薬療法。要するに薬づけだ。薬の副作用で、頭がボンヤリして、体が非常にダルい。ひたすらベッドで横になっている毎日だった。
 入院して半月くらいは、酒の飲めない飢餓感に悩まされた。アルコール依存症の禁断症状というのか、ひどくイライラしたり、白い壁が赤や黄色や、時にはオーロラのように見えたりもした。それに酒に逃げられないから神経症も悪化して、かなりひどかったよ。看護婦の言葉使いとか、視線が気になって、敵意を持ってイジワルをされてるような妄想に取りつかれたりね。
 ただ、入院してアルコールとは縁が切れた。それで健康だけは回復して、一年半後に退院を許された。神経症が治ったとは思わなかったけれども。神経症という病気は若年性のもので、年齢とともにおさまるものなんだね。そのときの医者にもいわれ、精神医学書にも書いてあった。本当にその通りで、30歳をすぎたころから症状は少なくなって、今では何ともないんだから。あんなに苦しんだのに不思議だよね。

■一時は年収2000万円

 病院を出て、何とかテレビ映画を製作する会社の美術スタッフに潜り込めたんだ。当時の人気アクション番組についた。でも、この製作現場がすごかった。残業、残業の連続で、日曜も祭日もない。とにかく1ヶ月分の作品を、半月で撮りあげてしまう。で、残りの半月は、別の作品をやるという具合だ。ただ忙しいだけで身につくものが何もない。だから、ここは2年くらいで辞めた。 それからは、キャバレー勤めだ。いわゆるピンサロってやつ。客の呼び込み係やボーイをした。最初に働いたのが、新宿・歌舞伎町にあるボッタクリの店。「前金制3000円ポッキリ」なんて真っ赤なうそで、会計のときに5万、6万円のカネを請求しちゃうんだ。払わない客があると、僕もその周りを取り囲んで、すごんでみせる役をやったよ。
 現金を持ち合わせていない客は、住所と電話番号を聞き出して、そこに電話して本人に間違いないか確認する。そして「ツケ馬」といって、客の自宅まで店の者が一緒に行って回収するとかね。あとは貴重品や身分証のようなものを預かって、翌日現金を持って来させるとか、そんな方法だった。要するに、暴力団とつながったこわい店だよ。
 そんな店だから、給料はよかった。相当よかった。社長にも気に入られて、僕だけは仕事中も酒を飲むことを許された。だって、客の呼び込みっていうのは、大きな声で通行人にワイセツなことをいって笑わせ、それで入店させるんだから。しらふじゃとてもできない。
 歌舞伎町の後、池袋、高円寺、下北沢と店を移った。どれもピンサロだ。池袋の店で働いているとき、その店のナンバーワンホステスだった子と同棲するようになってね。その子がカネをためていて、店をやろうというんだ。そこで世田谷区の小田急線豪徳寺駅近くに店を買って、ピンサロを始めた。カネは彼女が出したんだが、オーナーは僕ということでね。そのとき、31歳だった。 もうかったよ。年に2000万円はもうかっていたんじゃないかな。2年後には、新橋に支店を出したくらいだから。でも、豪徳寺のような街でもうけていくには、それなりのことをしないとね。客は渋谷や新宿で飲んでから来るので出足が遅い。だから風営法で禁じている深夜2時、3時までも営業することになる。ルックス(店内照明)を落として、ホステスにきわどいサービスもさせる。客は若いホステスを喜ぶから、未成年の家出娘だとわかっていても雇っちゃう。
 店を始めて3年目に、警察の手入れを受けた。営業時間中に突然踏み込まれて、そのまま北沢署に引っ張っていかれて、それっきりだ。そんな商売をしていたから、いつかは手入れされる覚悟はあったんだが、初めてのことだしショックは大きかったよ。容疑は、管理売春と児童福祉法違反。初犯でも、1年の実刑判決を食らった。
■ピンサロから刑務所へ

 それで刑務所に収監された。初めてのムショ暮らしだから要領がわからずに、担当刑務官にはずいぶんいじめられたよ。ああいうところは、一度目をつけられると、徹底的にいじめられるからね。ほかの人と同じことをしているのに注意される。それが重なると懲罰、独居房入りだ。ただ、僕はみんなといるより、一人のほうが好きだったから苦にはならなかった。むしろ慣れてくると、わざと担当にケンカを売って独居房に入ったりしていたほどだ。
 1年して、ムショから出て東京に戻ってみると、同棲していた女の子の行方はわからなくなっていた。店もその子が処分したようだった。うらむ気持ちはないよ。もともと彼女のカネで始めた店だし、二人の関係はうまくいっていたし、いろいろ苦労もかけていたから。
 それからはプータロー(無職)だ。働く気なんか起きなくってね。ただ当時は、弁当や酒を手に入れる方法を知らないだろう。とにかく酒が飲みたくて仕方がないんだ。そのカネがほしい。追いつめられて、やむにやまれなくなってくる。そうして泥棒をするようになっていった。

■学校荒らしに置き引きと

 最初に入ったのは母校だった。「学校荒らし」ってやつだ。母校ならば建物の配置なんかの勝手がわかっているし、不審に思われても「おれはOBだ」って開き直れると考えたんだ。クラブ活動の部室に忍び込んで、置いてあったバッグなんかから金目のものを失敬した。初めてのことで、そりゃあ緊張したよ。心臓はドキドキするし、手も震えて仕方なかった。
 でもそれが一度成功すると、慣れるというか、病みつきになるんだね。日雇いの土方で働いたこともあるが、どうしても手っ取り早いほうを選んじゃう。カネがなくなると「明日あたり、またやるか」ってな具合だ。カネがあれば好きな酒が飲めてベッドハウス(簡易宿泊所)に泊まれるしね。
 学校荒らしのほかには、建築現場にも忍び込んだ。作業用ヘルメットをかぶって、それらしい格好をしていれば、簡単に入れちゃうから。現場事務所の更衣室に入ってロッカーを荒らすんだ。学校も建築現場も昼間の人の出入りの多いときにやる。そのほうが、警備も厳しくないし、不自然じゃないからね。
 ほかにも、車上狙い、置き引き、万引きなんかもした。僕の場合、大金は狙わないで小銭ばかりで稼いでいた。大胆なことをすれば、それだけ捕まる確率が高くなるからだ。それでも、3回パクられて、3回のムショ送りだ。府中、甲府、三重の刑務所に入れられた。
 そのころにはもう、ムショ暮らしも慣れたもんだ。担当とのつき合い方なんかも、コツのようなものがわかっているから。最後の三重のムショのときは担当に重宝がられて、懲役工場の作業班長を任されるまでになっていたよ。入っていた2年半のほとんどを好きな独居房に入れてもらっていた。
 三重のムショを出たのが91年。それからはきっぱりと足を洗った。本当のプータロー暮らしだ。集団で生活するのは嫌いだから、いつも1人。夜はビルの階段の踊り場に、段ボールを敷いて寝ている。夜、ビルが閉まってから潜り込むんだ。
 以前の八年もふくめ、もう20年近くもプータロー暮らしをやっていると、どこのコンビニでは賞味期限切れの弁当をいつ出すか、なんてのもわかってくる。酒だってそうだ。スナックやバーがボトルキープの期限切れを処分する日っていうのがある。ボトル一本分くらいの酒ならいつだって手に入るよ。
 路上生活っていうのは自由で制約がなくて、何でもありの世界だからね。嫌な人とはつき合わなくていい。寝たいときに寝られる。寝ている場所を追い出されたら、また別の場所に行くだけで、寝るところなんていくらでもある。引かれ者の小唄じゃないが、今の生活に満足してるよ。これから先のことは、ケ・セラ・セラ、なるようになるだね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/もう精神病院には入りたくない・秋山勇(四九歳)

■月刊「記録」1998年9月号掲載記事

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■急に音が大きく聞こえて

 この傷のことかい?それは聞かないでくれよ。しつこいなあ……、転んだんだよ……。まあ、ここ(新宿中央公園)で暮らしていくには、いろいろあるからね。ベラベラしゃべっちゃうと、追い出されちゃうかもしれないしな。そういうことに……、転んだってことにしておいてくれよ。
(※取材したとき、彼の顔面左側には、いくつもの傷跡があり、そこから出血して凝固した血がベットリと付着していた。左瞼も大きく腫れて、目も十分に開けられないようだ。血液の凝固した状態から、けがをしたのは二、三日前のことだと思われる)
  けがの手当? しなくたって平気だよ。自然に治るんだから、ほっとけばいいんだよ。福祉事務所?行かない、行かない。あんなところへ行ったって、病院に入れられるだけだもの。おれ、病院はきらいなんだ。病院に入れられたら、また出てこられなくなるだろ。もう病院なんかには入りたくないんだ。
  29歳のときだったと思うけど、病院に入院したんだ。それから10年間も、ずっと入れられてたんだからね。行けば、また入院させられちゃうに決まってるからね。だから、行きたくないんだ。何の病気で、入院してたのかって?病気っていうか、精神科に入っていたんだ。  入院するきっかけは、友達と二人で飲み屋で酒を飲んでいるときだったよ。初めのうちは何でもなかったんだけど、だんだん周りの音が大きく聞こえるようになったり、小さくて聞こえにくくなったりしてきた。変だと思って、友達に聞いてみると、「そんなことはねえ」っていう。「変なのは、おれだけかなあ」と思っているうちに、それがどんどんひどくなっていったんだ。
  そのうちに、音は耳をふさがないといられないくらいガンガン大きくなったり、何も聞こえなくなったりした。それを繰り返しているうちに、ぶっ倒れちゃったんだ。その友達が車で病院に運んでくれて、入院することになった。
  おれは自分では普通のつもりだったけど、精神科に入れられたっていうのは、やっぱり変だったのかなと思うね。自分じゃ、よくわからないよ。
  病院は規則、規則ばっかりで嫌だったね。たまにレントゲンを撮ったり、心電図を取るくらいで、あとは薬を飲まされるだけ。あの薬がかったるくてね。頭がボーッとして、体がダルくて、ベッドで寝てるしかない。その10年は長かったよ。

■手配師に誘われた

  生まれたのは、沖縄の与那国島。もともとは(沖縄)本島に住んでいたのが、戦争がひどくなって、一家で与那国島に移ったらしい。おれが生まれる前のことだけどね。三人兄弟の真ん中だった。
  おやじは漁師。自分で船を買って、カツオの一本釣りをやっていた。おれが小学校六年のとき、おやじは台風でしけていた海に、一人で漁に出て遭難したんだ。母親と一緒に浜へ出てみたけど、すごい大きい波で、「これじゃ、助からんな」と思った。そのころ、兄はどこか遠くへ働きに出ていたが、電報でよび寄せられて帰ってきたよ。
  一週間くらいして、みんなに連れられて、どこかの病院に行った。死んだおやじが寝かされていたよ。船は奄美大島のほうまで流されたっていう話だった。
  それからの生活は苦しくて、たぶん生活保護を受けて暮らしていたと思う。中学二年のとき、学校の授業中に 「母親が倒れた」という知らせが入った。病院に行ったら、母親が寝かされていた。脳卒中だった。
  母親は与那国島と本島の病院を、行ったり来たりして、一年半後に死んだよ。与那国島と本島はものすごく離れているだろ。そんなところを、船で行ったり来たりさせて、病人にどうだったのか、よくわかんないよね。でも、与那国には大きな病院がなかったし、生活保護も受けてたし、こっちからはいろいろいえないよ。
  中学を終えて、友達と二人で東京の町工場に就職したんだ。菓子折の箱を作る工場で、社長を入れて全部で五人の小さな会社だった。よく、本土の工場に就職すると、沖縄の人間はいじめられるって聞いてたけど、その工場には先輩にも沖縄出身の人が一人いて、おれたちも入れて三人だろ、いじめられることはなくてよかったよ。  仕事はボール紙を折って、四隅を止めて、薄い紙を巻いてのりではりつけるだけで簡単だった。ただ、賃金は安かったな。楽しみは、毎週土曜日に仕事を終えてから、一人で飲み屋に行くことだけ。酒が好きなんだよ。あとは寮と工場を往復するだけの、まじめな生活をしていた。
  そのうちに、東京の生活にもだんだん慣れて、新宿とかに遊びに出るようになるだろ。そうすると、手配師が「仕事があるよ」って声をかけてくるんだ。日当が1万1000円だっていう。そのころ、工場からもらう賃金は月1万5000円くらいだったから、こっちのほうがいいかなと思ってね。それで工場を辞めて、日雇いになったんだ。20歳のときだよ。
 日当の1万1000円は高すぎる?でも、うそじゃないよ。本当に1万1000円もらったんだから。手配師が「半端の1000円は足代だ」っていったのを覚えてるもの。
 日雇いで働いたのは、ビルの建設とか、地下鉄工事とかの仕事が多かったね。同じ日雇いでも、仕事の内容によって賃金が違うんだ。おれの場合は 「手元」といって、一番下っ端の雑用の仕事ばかりだった。だから、賃金も一番安かった。
 その日雇いの仕事を続けているうちに、頭がおかしくなって入院したんだよ。精神科の病院には、10年も入っていたんだ。ただ、10年いても何も変わらないだろ。 「10年もいて変わらないってことは、もう外に出ても大丈夫だ」って、自分で判断して出てきた。病気が軽い患者には外出が許されてたから、おれも 「外出してきます」って出て、そのまま病院に帰らなかったんだよ。
  その病院があったのは、千葉県の町だった。千葉市じゃなくて、どこかの町だったが……、どこの町だったかはもう覚えてないな。ポケットに1300円あったから、そのカネで切符を買って新宿に戻ってきた。それで西口の地下通路に住みついて、また日雇いで働くようになったんだ。39歳のときのことだよ。
 そのころは、まだ日雇いの仕事もいっぱいあった。それが、九三年くらいからなくなったね。それにおれの場合は、病気を抱えているだろ。いつ頭が暴発するか、心配だしこわい。もう働けないよ。
 「なぎさ寮」には行ったよ。でも、二週間で出てきちゃった。そのままいたら、自立支援センターに入れられちゃいそうだったからね。あんなところへ送られたら、検査をされて、また病院へ逆戻りだよ。いまさら、病院なんかに入りたくないよ。
 今の生活が気楽でいいよ。どこにでも好なところに段ボールを敷いて、寝袋に潜り込んじゃえばいいんだもの。誰のことも考えないで、自分のことだけ考えてりゃいいんだもの。
  困ってること?好きな酒が飲めなくなったことくらいかな。でも、酒がないのにも慣れた。たまに、仲間がどこかで拾ってきた酒を分けてくれることがある。ビンに半分ちょっと残った酒を、二人で分け合って飲むんだ。 そして、いろいろ話をする。建築現場の話が多いけど、おれも現場で働いていたから、そういう話は面白い。そうやってるときが一番楽しいね。
  困るっていえば、(新宿)区役所が配っているカップめんが、配られなくなるんだってね。困るよね。困るけど、仕方ないよ。偉い人たちが決めたことだもの。それでやっていくよりしょうがないよ。
  飯は一日二食くらいだけど、何とかなってる。夜中にコンビニに行くと、古い弁当と新しい弁当を交換するときがあるんだ。その古い弁当を一つもらってくる。ハンバーガーとか、おかずのパックをもらうこともある。そういうのを食べているんだ。
  東京に出てきてから、沖縄には一度だけ帰った。でも、もう帰りたいとも思わない。これから先のことは、そのときになって考えるんだね。
  えっ、写真撮るの?けがしている左側を撮っちゃダメだよ。右側からだったら撮ってもいいよ。このけがは転んでできたものだから、どうってことないんだからさ。
(※文中にもあるように、秋山さんには軽い精神障害があって、まだ完治していないようだ。したがって、話の中には整合性のない個所もあるが、本人に質しても要領を得ないところがあり、そのまま掲載した) 

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ホームレス自らを語る/人を殺めてしまった・芝崎和夫(六四歳)

■月刊「記録」1998年6月号掲載記事

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■ヤクザの男を包丁で刺した

 スナックのカウンターで、一人で飲んでいたときだった。隣にも一人で飲んでいる客がいた。明らかにヤクザとわかる男で、それがインネンを吹っかけてからんでくるんだ。僕がいくらいってもやめようとしない。ヤクザ特有の執拗さだった。
 そのころの僕は工場勤めができなくなって、土方なんかをしていたときで、気持ちのほうもすさんでいたんだね。その男があまりにも執拗で、ついカッとなってカウンターの中にあった包丁をつかんでいた。そして男の胸を刺してしまった。刺したのは、たった一ヶ所だったんだが、男は三日後に病院でなくなったそうだ。
 すぐに警察が呼ばれて、現行犯で逮捕された。握り持っていた包丁を振り落とそうとするんだけれども、どうしても手から離れない。かけつけた警察官が、指を押し開いてもぎ取ってくれた。それから何日間も、血のにおいが鼻について飯がのどを通らなかったよ。夜も寝られなかった。
 取り調べを受けていた警察に、妻が面会に来て、「別れてくれ」っていうんだ。将来、子どもが就職したり、結婚するときに、前科者の父親がいては困るからって。妻の希望をいれて、協議離婚に同意した。妻と二人の子どもとの関係は、それきりだ。
 裁判は二審までいって、傷害致死罪で懲役一二年の判決だった。服役したのは日本で一番厳しいといわれる刑務所だ。僕もいく度も懲罰にかけられて、独居房に入れられた。両手を肩とわき腹から後ろ手にして、革製の用具で拘束されるんだ。食事もその格好のままで、床に置かれたのを犬食いした。これほど屈辱的なことはないよ。もう、あんな生活はコリゴリだね。
 判決は一二年だったが、恩赦があって八年で出られた。事件を起こしたのが五〇歳のときだったから、出所したときには五八歳になっていた。

■掘っ建て小屋に母子六人

 生まれたのは一九三五年で、神奈川県の横須賀だった。父親が海軍の職業軍人をしていて、その官舎で生まれたんだ。
 小さいころは病弱な子で、入退院を繰り返していた。特に心臓が弱かった。小学校に上がった年に太平洋戦争が始まった。そのうちに戦争が激しくなって、集団疎開をすることになったが、僕だけは病弱で無理だからって、山形の田舎にあった父親の実家に預けられた。
 しばらくして、母親と兄弟たちも東京の家を焼け出されて、山形に越してきた。そのころ、父親は南方の戦場に送られていて、フィリピンで戦死した。戦争の終わる二日前の、八月一三日に亡くなったというから運のない話だ。後になって遺骨が二つも帰ってきた。入っていたのは両方とも石ころだけだったが。
 山形での生活は苦しかった。父親の実家の敷地に廃材で小屋を作って、母親と兄弟五人で暮らした。電気が引けなくて、ずっとランプの生活だった。水道もなかった。食うものも、着るものもない。ノートまで兄貴の下がりで、使っていない余白のところに書き込んで使うようなありさまだった。
 それで中学三年のときに家出をした。口減らしをして、母親を少しでも楽にさせてやりたかったんだ。そのころ、上の兄貴は働きに出ていたが、僕の下にはまだ三人の弟や妹がいたからね。その兄貴の給料を盗み出して、東京行きの夜汽車に乗った。
 東京では偶然知り合いになった復員兵と一緒になって、進駐軍の倉庫に忍び込んで、ミルクや砂糖を盗み出したり、製鉄工場へ行って石炭の燃えカス、今でいうコークスを拾って、それを料理店に売るといったことを二年くらいしていた。ところが、ある日街で中学の同級生にばったりあったのがきっかけで、やっていることが家族に知られてしまい、山形に連れ戻されてしまった。

■手のけがで職場を失う

 それでまた中学校に戻って、ちゃんと卒業してから、今度は正式に東京に出た。町工場の鉄工所で働きながら、工業高校の定時制に通った。高校を終えて、ネジの問屋に就職して、そこで八年間働いた。結婚したのは、その問屋にいたときで二四歳だった。妻は高校を出たばかりの一九歳。取引先の町工場の事務員で、それで知り合ったんだ。四年後に長男が生まれ、その二年後には長女も生まれた。
 長男の生まれたころに、仕事を変えた。大手自動車会社の募集があって、中途採用されたんだ。そこではトラックの組立工場に配属されて、四二歳まで働いた。大企業に就職できたわけだけれども、中途採用だったし初めのうちは貧乏だったよ。テレビを買ったのも、近所で一番遅かったんじゃないかな。それでも、妻も働きに出て、子どもたちも新聞配達や牛乳配達をしてくれて、神奈川県の相模原に土地を買って、家まで建てた。
 四二歳で自動車工場を辞めた理由は、上司をぶん殴ったからだ。大学出の生意気なやつで、ことあるごとに僕の山形弁をバカにしててね。殴ったのは、仕事のやり方の違いでケンカになったんだが、このときほど、学問のないことがつらいと思ったことはない。
 それでカメラメーカーの下請け工場に再就職した。それからも頑張ったんだよ。家の庭に小屋を建てて、旋盤を買って入れ、工場から帰ると、毎日小屋にこもって内職をしていた。ところが、四八歳のときに、その旋盤に手を巻き込まれて、大けがをしてしまったんだ。右手がちゃんと握れなくなってしまって、精密機械を扱うカメラ工場では働けないから、辞めざるを得なくなった。
 それからは土方になって、その日がしのげればいいような生活になっていた。心もすさんでいく。殺人事件を起こしたのは、そんな時期だった。

■青春時代からやり直したい

 刑務所を出ても、行くところがないし、仕事もないだろう。各地を転々としながらフーテンだ。新宿に来たのは九四年だった。今でも、人を殺したときのことが、夢に出てくる。夜中にうなされて、その声で目が覚めることもある。いくら相手がヤクザだったとはいえ、その人にも死を悲しむ家族があっただろうからね。やっぱり可哀想なこと、悪いことをしたなって思う。フーテンになったのも、その罪の報いかなともね。
 それと目に焼きついているのは、僕の家族四人で食事をしている光景だ。貧しかったけれども温かい家庭だった。別れた子どもに会ってみたい。この新宿中央公園に遊びに来る子どもたちを見ていると、「僕の孫もこんな年格好かな」なんて想像してしまう。でも、いまさら会いにもいけない。
 悔いが残るというか、くやしいというか、一〇年生まれるのが遅かったら、僕の人生は違ってただろうと思う。生まれたときから戦争だろう。物のない時代だったし、もっと勉強もしたかった。それが無理なら、もう一度青春時代に戻してもらって、せめて、そこからでもやり直してみたい。そう切実に思うね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/段ボール生活は息抜きさ・柴田和夫(四八歳)

■月刊「記録」1998年3月号掲載記事

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■もう少しで死んでいた

 ドスーンという音とともに、熱い空気の塊がおれを吹き飛ばした。でかい木槌で殴られたような痛みを体に感じたときには、粉塵が舞い上がり、炭鉱の坑内は真っ暗。すぐに事故だとわかった。
「おい、大丈夫か」
 仲間に声をかけると、暗やみから「オー」と返事がしてね。ホッとしたよ。それから皆で縦坑までの二〇〇メートルを歩いたんだ。縦坑に行けば電話で状況を確認できるし、坑内を脱出するゴンドラや救急用具、そして何よりも空気がある。
 炭坑事故でこわいのはメタンガスだ。ガスは目に見えない上に、濃度が高まれば爆発する。もちろん呼吸もできなくなる。だから通風口の役割を果たす縦坑付近は、坑内でも最も安全な場所なんだ。
 縦坑にたどり着いたとき、助かったと思ったね。残る危険は坑内火災だけだから。当たり前だが炭坑は石炭だらけなので、事故で坑内火災が発生すれば、どんどん燃え広がる。自分のいる場所まで火が迫ってくれば、死ぬほかはない。だから冷静に考えると坑内火災だって十分こわい気がするが、ヤマで働いていると危険に少しずつ鈍感になるから、そんな状況でも平気なんだ。ゴンドラに乗って脱出できるまで一時間も待たされたのに、不安なんかみじんも感じなかった。
 炭坑は日々危険と隣り合わせだ。四〇センチくらいの丸太柱なんか、落盤が始まれば三秒で折れちまう。だからといって落盤をこわがっていたら、仕事にならない。「今日、何か山鳴りがするな。そろそろ危ないじゃないか」なんて仲間と言い合いながら、平気で入坑する。それだけじゃない。おれなんか坑内でタバコを吸っていたよ。もちろん坑内は、火気厳禁だったけれどな。
 そんなおれでも、地上に戻って事故の状況を確認したときは驚いた。ほんの少し場所が違っていれば、死んでいたとわかったからだ。爆風は壁にぶつかり反射しながら進んでいく。そのため爆心地から等距離にいても、坑道の角度によっては影響が出ない。おれが働いていた坑道は、爆風が直接吹き込む場所ではなかったから助かった。悪運が強かったんだろう。
 もちろん運のいい人がいれば、悪い人もいる。
 社宅に帰ると、近所の奥さんが声をかけてきね。「うちの人、大丈夫ですか」って聞かれた。自分からさほど遠くない現場で働いていたことを知っていたから、「いやー、大丈夫でしょう。元気で出てくるよ」と答えた。その後すぐだよ。遺体が引き上げられたのは。朝、一緒に社宅を出た仲間だった。「弁当のおかずは何だ?」なんて話をして「今日、一杯飲もう」と約束したのに、それが最期の会話になっちまった。
 ヤマで暮らす者は連帯感が強い。特に隣近所は仲がいい。死んだ友達も、家族みたいなもんだった。それなのに、あんな軽はずみな受け答えをしてしまった。奥さんのことを考えると、今でも言葉に出せないくらいつらいよ。恥ずかしくて、あいつの葬式には顔を出せなかった。家で酒を飲み、一人で供養した。

■仲間を残して坑道封印

 一九七〇年一二月一五日、北海道上砂川町の三井砂川炭坑でこの事故は起こった。死んだのは一九人。事故直後から何度か仲間を助けるため入坑したが、落盤が起きた場所はひどい惨状で、とても彼らが助かるとは思えなかった。そんな状況だけに、地上で新聞記者やテレビクルーに囲まれたときには腹が立ったよ。
「中はどんな様子でしたか」
「救出作業は進んでいますか」
 行方不明者の家族も見聞きしているのに、そんな質問に答えられるはずがないだろ。ひどい取材者になると、平気で作業のじゃまをする。取材していたテレビカメラマンとぶつかって、カメラが壊れたこともあったよ。そのときのカメラマンの言いぐさはひどかった。「これ高いんですよ」と、血相を変えて言い放ったからな。
 こっちは仲間の命を救うために、体を張って救出作業に向かっているんだ。坑内火災はおさまらない。ガスの濃度は上がり続ける。二次災害がいつ起こってもおかしくない状態で、救出は続けられていたんだ。坑内火災が収まるように炭酸ガスを吹き込み、おれらは救命器をつけての作業だよ。そこまでしたのに事故発生五日後には、三人の仲間を坑内に残したまま空気を遮断することになってしまった。酸素を遮断して坑内火災を消さなければ、第二第三の爆発が起きるところまで、追いつめられたからだ。
 もう生きている可能性はなかっただろうが、酸素がなくなって火が消えるまで、三~四ヶ月も彼らを坑内を置き去りにするのは悲しかったよ。当時、おれが二〇歳の若造だったから、余計にそう感じたのかもしれないがね。
 こんな悲しい事故もあったが、ヤマでの生活は楽しかった。特に三つ年下の女房と結婚してからは幸福だった。二三歳のときに、息子も生まれた。子どもはかわいいし、女房のことも好きだった。力一杯仕事をして、家族を見ながら酒を飲む。静かな幸せだったんだ。

■突き付けられた離婚届

 転機が訪れたのは、二八歳。リストラだよ。一緒に働いていたおれのおじは、他のヤマに移っていった。でもおれは、新しい人生にチャレンジしたかったんだ。炭坑夫を辞めて、仕事のない上砂川を出た。ドックでの船の溶接をする職場を見つけたので、函館に単身赴任して仕事に明け暮れた。まさに食うためだったね。家族が生きていくために働いたんだ。それなのに函館で暮らし始めて一年、女房から離婚届を突き付けられた。
 函館で働き始めた当初は寂しくてよく家に帰ったが、忙しさのあまり、つい足が遠のいちまったんだ。それが女房にとってはつらかったのかもしれない。ケンカをしたわけでもなく、嫌いになったわけでもない。浮気はしたが、ちゃんとした女がいたわけでもない。ばくちに狂ったわけでもない。離婚する理由なんて見つからないんだ。だけど、別れたいなら仕方がない。書類に判をついて東京に向かったよ。
 東京での仕事はトビだ。高い場所は平気だったし、ドックで建設の基礎は習っていたから苦労もなかった。しかも函館時代、おれは溶接工の免許を取得していたから重宝がられたよ。そのうえ数年後には、足場の組み方を自然に覚え、足場トビ職としても仕事ができるようになった。
 長く勤めていたいくつかの会社からは、いつも親方にならないかと誘われた。でも同じ会社で働き続けると、社内の無用な争いに巻き込まれることになるんだ。小さな派閥闘争とかな。それが嫌で親方になるのも断り、どこも数年で会社を辞めた。
 給料の高い足場トビとしていくらでも仕事があったから、争いを続けてまで、その会社に固執する気にはなれなかったんだ。一度なんか、社長と専務がそろっておれを引き留めにきたからな。でも「おれ、辞めっから」といって出てきた。
 今、おれにとって一番大事なことは、自由気ままなこと。食って、寝て、酒が飲めるだけの給料をもらえれば、どこで働いてもかまわない。給料が高くても奴隷のようにこき使われるところならば、その日のうちに辞めて、少々日当が安くても人情味のある職場を選ぶんだ。仕事にあぶれたこともない。
 おれがホームレスをしているのは、したいからだ。息抜きみたいなもんなんだ。数週間、飯場で仕事を続けていると、公園でブラブラしたり、段ボールで寝る生活がしたくなる。負けおしみじゃないよ。実は日雇い仕事を辞めて、生活する方法もあるんだ。実家に帰りゃいいんだからさ。
 北海道の実家は飲食店を経営してるし、それなりにはやっている。今、経営をしているのはおふくろと妹だが、店の権利はおれのものだ。妹に連絡をするたびに、「早く戻ってこい」といわれるよ。おれ自身、帰るのも悪くないとも思う。店で働くために通信教育で必死に勉強して、調理師と食品衛生管理者の免許も取得したんだよ。でもなあ、おれがいなくてうまくいっている場所に、ノコノコ帰っていくのも悪いと思うんだ。自分の体が動き、職に困らないうちは、自分の力だけで食っていったほうがいいだろ。

■人生で一番幸福だったのは・・・

 まあその他にも、少し帰りづらい理由があるんだ。
 一〇年以上前だが、開店の祝いに店を訪ねたんだ。家族にあいさつをして、ふと店の奥を見ると、何か見たような女が働いている。「誰だ、あれ」とおふくろに尋ねると、「まあ、見てきてごらんよ」といわれた。正面に回って驚いたよ。別れた女房なんだ。どうしてかわからないけれど、おふくろと妹、そして別れた女房が一緒に働いていたんだ。
 女房との間に特別なわだかまりがあったわけでもないが、何となく互いに気まずいもんだ。どうしてそんな話がおふくろとの間でまとまったのかは知らないが、自分から別れた亭主の実家で働くなんて。女はすごいねえ。 とはいえ女房が実家で働いているのを知って、ホッとしてるところもある。女手一つで生きていくのは大変だが、おれの知っているところで働いているなら安心だ。女房は知らないだろうが、子どもの教育が終わるまで、おふくろを通して毎月欠かさずおれは送金し続けていた。いつも心の片隅に、家族のことは引っかかっていたからだ。
 今の生活は悪くない。縛るものもない。無益な争いもない。好きに働き、好きに眠れる。仲間も死なない。でも一人で酒を飲んで思い出すのは、なぜか炭坑で働いていたころなんだ。あれだけ危険な職場で、今ほど自由もなかったのに……。
 家族とヤマの仲間に囲まれて暮らした日々が、おれの人生では一番幸福だった。それだけは確信しているよ。

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ホームレス自らを語る/義理と人情の果てに・山本敏男(四九歳)

■月刊「記録」1998年12月号掲載記事

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■血しぶきが降りかかる

「誰かいるか。K組ともめた。若い衆はいるか」
 兄貴から事務所に電話がかかってきてよ。あいにく、そこにはおれしかいなかったんだ。仕方ない、刃渡り30センチのあいくちだけを持って、タクシーでかけつけた。
 車をおりると、何人かのヤクザがうなりを上げてにらみ合っていてな。今にもどつき合いが始まりそうだったんだ。こうなったら互いの意地もある。引くに引けねえ。殺るか殺られるかだよ。それでも兄貴なんかは、まだ冷静だった。おれがあいくちを片手に、相手の組員に突っ込もうとするのを止めたんだから。
「敏男、やめろ」
 鋭い口調でそう言って、後ろからおれを押さえつけた。けれども、それが呼び水になっちまった。相手が突進してきたんだ。敵との間は数メートル。考えているひまなんかねえよ。強引に兄貴を振り払い、あいくちをやつに向かって突き刺した。
 心臓を一突き。
 わけのわからんねえうちにあいくちが刺さり、血しぶきがおれに降りかかっていた。誰が見ても即死だよ。相手は血を吹きながら崩れていって、ピクリとも動かなくなったからな。もちろん死人が出た途端、ケンカは終わっちまった。警察も来るし、そのままいるわけにもいかねえわな。
 一瞬の沈黙を破ったのは、おれをかわいがってくれていた兄貴分だった。
「逃げろ」
 そういってくれてな。でも逃げる気にならなかった。 「みんなに迷惑かけますから自首しますよ」
 そうおれがいうと、兄貴もしばらく黙っていてな。それから「警察行くなら、ウチで着替えていけ」といってくれたんだ。
 おれたちと相手は系統の異なる組の一員だったが、別に殺した相手にうらみはねえよ。おれ自身、見たこともないやつだったし……。だた、殺らなきゃ殺られていたんだ。おれの動きがやつより遅ければ、おれの代わりにやつが生き続けたはずだ。おれが17歳か18歳で、相手も同じくらいの年だった。まあ、どっちかが早死にしなくちゃならない運命だったんだな。
 殺した現場のほど近くにある兄貴分の家で、服を着替え、血にまみれた手を洗ったら、酒が出てきた。兄貴の姉さん(妻)が、「最後だから、飲んでいきな」って、用意してくれたんだ。楽しい酒だったよ。笑いながら飲んでいた。
 この酒盛りでも、「逃げたいんならば、逃げろ」と兄貴はいってくれた。けれども5年も10年も逃げ回るのは嫌だったから、自首する気持ちは変わらなかった。あまり長居すると、兄貴にも姉さんにも迷惑がかかる。ほろ酔い気分で警察に向かったのは、それから三〇分くらい後だった。
 これが最初の殺人。1年3ヵ月、少年院で暮らすことになっちまった。

■弱い者いじめはしない

 生まれは静岡県の御殿場だ。小学生のころは、いじめられ続けていたよ。いじめられなくなったのは、六年生になってからだ。いじめたやつをみんなぶっ飛ばしたら、いじめがなくなったな。そんな経験があるから、今でも弱い者いじめは、でえっ嫌いだよ。ヤクザな人生を送ってきたが、弱い者いじめだけはしなかった。これだけは胸を張っていえる。
 中学を卒業して、初めて勤めたのは小さな鉄道会社だった。電車修理工として、毎日油にまみれて働いた。仕事に不満はなかったな。だけどケンカでクビになっちまった。
 会社の先輩連中が、10人で襲いかかってきたんだ。10人が棒やスパナで殴りつけてくる。そのままにしていたらやられる。おれは頭にきて、近くにあった木の棒を振り回してやったよ。五人を返り討ちにしたところで、残りの五人はわびをいれてきてな。それでケンカはおさまった。でも会社は黙っちゃいないよ。おれを含めて、11人全員がクビ。
 おれは身を守っただけだってことは、会社もわかっていたみたいだけど、体面上おれもクビにせざるを得なかったらしい。いきなり襲われて戦ったらクビなんて不運だけどしょうがねえよ。文句はいわずに辞めた。入社から11ヶ月、仕事を覚え始めたところで失業さ。
 それからは東京だ。
 最初は板橋区のガラス屋だな。これは1年もいなかったと思う。次が乳酸飲料のセールスと配達。エルミーって知ってるか。ヤクルトみたいに、小さな容器に入っているやつだ。そんなものを池袋で売っていたんだ。これも1年くらいしか続かなかった。二年近く東京で暮らしていたが、結局、御殿場に帰ってチンピラしていたよ。
■親分にほれた

 おれの運命が劇的に変わったのは、親分との出会いだった。
 その夜、おれは御殿場の盛り場で飲んでいたんだ。ほろ酔いかげんで店を出ると、1人の若い男を数人でボコボコにしている。ほら、おれは弱い者いじめは嫌いだろ。だから助けたんだ。殴っているやつらを追い払ってな。
 そうしたら「ちょっと来い」と、ヤクザ風の男がおれを呼ぶんだよ。笑いながら、手を挙げててな。何だろうと思って近づいていくと、「見てたぞ。よくやったな。いいか、強いやつには向かっていけ。弱いやつは、絶対に助けてやるんだ。これからも、そうやって生きていけ」って、ほめられたんだよ。
 それが、この後10年以上お世話になる親分だった。ほれたよ。この言葉を聞いて、この人についていこうと思ったんだ。「ウチにちょっと来い」っていわれたときは、断る理由なんてなかったね。ただただうれしかった。 それからおれは組事務所で暮らすようになった。
 起床は朝5時。夜11時の就寝まで、便所掃除、風呂掃除、組事務所の掃除なんかの雑用に追われた。電話番なんかもおれら若い衆の仕事だから、ほとんど一日中事務所につめっぱなしだよ。もちろん自分の時間なんてねえよ。それに上下関係も、仕事も厳しいんだ。おれと同じ若い衆も、つらくてどんどん辞めていった。
 カネ回りだって、仕事が厳しい割にはよくはねえよ。月の小遣いが5000円。それ以外に賭場を開いたときなんか、下足番のおれに親分衆が小遣いをくれたけどな。まあ一人、2~3000円ずつくらいだな。そんな臨時収入も入れて、月1万5000円くらいがおれの収入だ。当時、高卒の初任給が2万円に少し欠けるくらいだから、高かねえよ。
 でも、親分と姉さんにはかわいがってもらったよ。たまに「ちょっと来い」なんて、親分が呼ぶんだ。どうしたのかと思って近寄ると、「よく逃げ出さなかったな」なんてほめてくれて、「おかん(妻)には内緒だぞ」と余分に小遣いをくれたりする。姉さんは姉さんで、「親分には内緒だよ」なんて、おカネをそっと握らせてくれるんだ。おれは親分にほれているからついてきただけなのに、そこまでしてもらってうれしかった。
 こんな親分の下で働いているから、おれの兄貴も弱い者には優しかった。事務所近くで仕事のないおっさんなんかに会うと、必ず「飯食ってるのか」って聞く。満足な答えが返ってこなけりゃ、カネがなくてもごちそうしちまうんだ。店に入ってから、「カネねえから、おまえはカレーにしろ」なんて、食べるもの指定してたけどな。困っているやつがいれば、1000円しか持っていなくても500円はおごっちまう。兄貴はそんな人間だった。
 もちろん組だって素人さんに迷惑なんかかけねえよ。無理にテラ銭取ったりなんかもしなかったね。事務所近くの店で問題が起こると、必ずウチの組に連絡がくる。そしたら飛んでいって、酔っ払いを追っ払ったりするわけだよ。カネなんか要求しない。「お気持ちですから」って、店の人が包んでくれるのを、頭下げてもらってくるだけだ。もちろん安いカネでも文句はいわねえよ。
 ただし同じヤクザからは、恐れられていた。特に兄貴分とおれは、凶暴なので有名だったからな。「あそこの二人は何するかわからないから気をつけろ」って、御殿場では名が通っていたよ。そんな伝説の発端になったのが、最初に話したケンカだった。

■切れた指が飛んでいった

 けれども、乱暴ばかりしてたわけでもねえ。少年院から出所してすぐに、おれはおかん(女房)と知り合っているからな。喫茶店の手伝いをしていた娘だ。美人のうえに、優しくて、シンが強い。女優の安田道代そっくりだった。「どっから見つけてきた」なんてみんな騒いでいたけど、探しゃ、きちんといい女はいるんだよ。
 カネもなかったし、おかんも派手なことが嫌いだったから結婚式はしなかったが、籍は入れて一緒に暮らし始めた。結婚して1年もたたない20歳のころ、長男が誕生。それから24歳までに女1人、男1人の計3人の子どもを生んでくれた。いい女房だよ。
 当時のおれの仕事は、大人のおもちゃやコンドームの卸、それと借金の取り立てだ。
 卸の仕事は、ラブホテルや専門店が相手だった。ところが面白いことに、近所の奥さんがこっそりとおれの家にコンドームを買いに来ていたんだ。「コンドームを買うなんて気恥ずかしい」っていう時代だったからな。みんなグロスで買っていったんだ。うん、この商売は悪くなかったな。
 もう一つの借金の取り立ては、かえって出費がかさむこともあったな。というのもおれが相手の家にいってうなるだろ、そうするとその家のガキが泣くんだよ。ワンワン。子どもに泣かれてまで銭取りたくねえよ。逆に1万円握らせて帰ってきちまうんだ。自分も子どもがいるから、どうしても子どもの泣き顔に弱いんだな。
 事務所に戻ると、当然「どうした」って聞かれるだろ。だから「あそこはダメだ」って答えていたよ。まあ、おれがダメだっていえば、誰も文句はいわなかったけどな。
 そんな商売をしながら暮らしていたんだが、24歳のとき、ひょんなことから右手の小指をなくすことになっちまう。
 これも始まりは電話だった。
「姉さん同士がもめているから、すぐに来てくれ」っていわれたんだよ。いわれた小料理屋では、兄貴の姉さんと若頭の姉さんがつかみかからんばかりに猛烈なケンカをしていた。しかも、どこに電話しても兄貴がつかまらないんだ。こりゃ、おれがおさめるしかないよ。ところが兄貴の舎弟であるおれは、若頭の姉さんからすれば敵。
「どうやって、話をつけるんだい」。
 若頭の姉さんは、おれをにらみつけていったね。簡単にはおさまらない雰囲気だった。仕方ないから、カウンターの中に入って、若い衆に包丁とまな板を持ってくるように命令したんだ。それから調理場の床にかがみ込んで、右手の小指だけをまな板に乗せていったよ。「その包丁で、思いっきりひっぱたけ」ってな。
 ところが指なんて、簡単に切れないんだ。若い衆が一回ひっぱたいたけれど、半分くらいまでしか包丁が刺さらない。「もっと力入れろ」ってどなりつけたら、若い衆も覚悟が決まったんだろうな。それこそ力一杯振り下ろした。
 まな板に包丁が突き刺さり、小指の第二関節あたりから白い骨がのぞいた。ただ、まな板には何もなかったんだ。あんまり強く振り下ろしたから、切れた指がどっかに飛んでいっちまった。せっかく落としたのに、先がないんじゃ、元も子もない。若い衆と四つんばいになって、必死に指を探したんだ。もう一本、指を切り落とすわけにはいかないからな。結局、ずいぶん遠くで、若い衆が小指の先を見つけたよ。
「これで仲良くしてくんな」
 こう言って、店の紙ナプキンに包んだ小指を、若頭の姉さんにおれは差し出したんだ。血を吸ったナプキンは真っ赤に染まってた。右手の指先からは血が流れっぱなしだから、カウンターから姉さんのテーブルまで途切れることなく血が続いていたよ。そんな状態で、にっこり笑ってこんなことをいったもんだから2人とも驚いていたな。

■壊れた水道みたいに血が流れ

 今度怒ったのは、兄貴の姉さんだ。怒りで顔面蒼白。店の電話に走って行った。兄貴をつかまえるために、そこら中に電話をかけ始めたんだ。どうしようもないから、おれは血を流しながらニコニコ笑っていたよ。手持ちぶさたでな。
 そんなことをしているうちに、兄貴が店に飛び込んで来たんだ。まあ、近くにいたのを姉さんがつかまえたんだろうよ。
「バカ野郎、手しばれ」
 兄貴の第一声がこれだった。何しろおれの小指からは、壊れた水道みたいに血が流れて出ていたからな。兄貴も心配したんだろう。それから兄貴は、すごい血相で若頭の姉さんに向かっていったよ。奥さんとケンカした上に、子分が指切って持って来たんじゃ、若頭の姉さんも旗色が悪いよ。
 兄貴の剣幕に押されながらも、「おまえの若い衆もあくどいよ。平気で指持ってくるからね」なんて言い返していたな。こっちだって親からもらった大事な体だが、身内同士のケンカがおさまるのならば指なんかいらねえ、って思ったんだ。後から聞いたことだが、まさか指を持って来るとは若頭の姉さんも思っていなかったみてえだけどな。
 この事件の翌日、包帯に巻かれた小指を心配した息子が、「けがしたのか」って聞くんだよ。仕方ないから、「そうだ」って答えておいた。ところが数日して、包帯が取れるだろ。そしたら「父さん、指ないよ」って、息子が大騒ぎし始めたんだ。「悪いことでもしたのか」って聞かれたから、「いいや」って答えておいたけれどな。この事件では、若頭の姉さんだけじゃなく、息子も驚かせちまったな。

■死体からクソのにおい

 そしてこの年、さらに大きな事件がおれを襲うことになるんだ。今度も始まりは、事務所への電話だった。他の組員と飲み屋でもめて、応援を頼まれたんだよ。
 万が一に備えて懐にチャカ(拳銃)を、ズボンの後ろポケットに包丁を入れていった。相手は5人。またしても、つかみ合いが始まる寸前だった。おれは背広の内ポケットにあるチャカを握り、背広越しに銃口を向けて「ぶっぱなずぞ」と威嚇したんだ。これで逃げ出すと思ったんだな。だから少しずつ前に出た。
 そのとき、「来たぞ」って、後ろから声がした。振り向いたら、死角からサバイバルナイフを振り上げた男が飛び込んで来た。もはやチャカを抜いて撃つ時間などない。とっさにチャカを離して、ズボンの包丁を抜き、やつの腹に突き立てた。ナイフがおれに届く前に、やつはわき腹を割かれて絶命したよ。転がった死体からは腸が飛び出して、地面に向かってゆっくりと流れ出していた。
 知ってるか、腸はくさいんだ。死体からクソのにおいが漂ってくるんだ。
「やってしまったものは、しょうがないか」
 おれがそういうと、兄貴は笑いながらいったよ。
「くさいけど、これが腸なら食えるんじゃねえか。きっとうめーぞ」てな。
 死体を前に、笑いながら話しているおれたちを見て、相手の組の連中はバカ面さらしてボーっとしていたよ。 二回目の殺人は、求刑10年、判決9年だった。もっともおれは八年で出てこられたけれどな。とはいえ8年間も組にいないのは、長かったな。というのも荒っぽいことをやったからって、ヤクザ社会で偉くなれるとは限らねえんだよ。一番驚いたのはおれが塀の中にいる間に、ぺーぺーだったやつがいつの間にかおれより偉くなっちまったことだ。組の出所祝いで、昔は自分より下っ端だった男が、おれに向かってうなるんだから。
 もちろん、「てめえ、おれにうなるのは10年早いんだよ。てめえも10年懲役食らってみろ」って、どなりつけたけどな。それで相手は黙っちまったが、胸くそ悪いよ。兄貴も怒っていた。
 出所してしばらくしてからだ。女房の親が実の兄を殺しちまうという事件が起きた。それで、おかんも残された家族を心配していたから、女房の実家がある秩父で暮らすことに決めた。当然、ヤクザ稼業から足を洗った。 職は鉄筋屋だ。このときが一番よかった。体はきついけれども、ヤクザみたいに気を使わなくてすむし、休みの日になれば、3人の子どもと女房を車で連れ出して、長瀞でバーベキュー。楽しかった。
 当時、一つだけ心残りがあるとすれば、兄貴の死に目に会えなかったことだよ。連絡もなかったから知らなかったんだ。肝硬変で入院して、すぐ亡くなったそうだ。 それから静岡に戻って、鉄筋屋の社員5人を雇って会社を興したりもしていた。いつも食うには困らなかったよ。ホームレスになる直前も、別に何不自由ない生活を送っていたんだ。ところが自分の住んできたマンションにいたくなくなったんだ。おかんとケンカしたわけでもない。おれの勝手だよ。
 日なたぼっこして、適当に働いて、昔世話した人からおカネをもらったりして、酒かっくらって、気ままに暮らすのが楽しくなっちまったんだ。この間、息子に電話したらな。「何してる?」って聞かれたんだよ。だから「ホームレスしてる」って笑って答えておいたよ。
「おやじは何しても死なないからな」なんて息子もいいながら、先日おれに会いに来たよ。富山県からわざわざ出てきてな。それでもホームレスをやめる気にならねえんだ。
 まあ一つには、周りの連中が「敏さん、いてくんな」っていうからな。ケンカをおさめたり、堅気の人に迷惑をかけないように公園を掃除したり、子どもが遊べる公園をホームレスが占領しないように勝手に住みつくやつを追っ払ったり。そうこうしているうちに、1年が過ぎちまった。
 嫌になったら帰るよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ついに残飯に手を出した・山口賢一(六四歳)

■月刊「記録」1998年1月号掲載記事

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■ほおの肉がガバッと落ち

 ホームレスになったのは、根がまじめすぎたからだ。 二七歳のとき、いきなり眠れなくなった。布団に入っても目はさえるばかり。眠れない不安が頭のなかを夜通し駆けめぐり、不安からさらに眠れなくなる。もう悪循環だ。気づいたら三日も寝ていなかった。
 知ってるかい。眠らないでいると顔がやせちまうんだ。ほおの肉がガバッと落ち、ほお骨は妙にせり上がる。もっと異様なのは目だ。落ち込んだ眼球だけがギラギラと光りだす。
 会社の同僚も、おれの異変にすぐ気づいた。「変だから、病院に行け」とね。わずか三日間で形相が一変したんだから周りも驚いたと思う。三七年も前のことなのに、自分の怪しい目つきは今でも覚えている。もちろん同じ症状に悩んでいる人の顔はすぐに見分けがつく。普通じゃあんな目つきにはなりたくてもなれないからな。
 そんな状態だったのに、おれはまだ病院に行かなかった。すると今度は布団から起き上がれなくなった。体中ダルくて力が入らない。それでも仕事は休みたくないから、壁を伝い文字通りはうようにして職場までたどり着いた。しかし会社に着いたところで、そのときやっていた肉体労働の仕事なんかできるはずもない。仕方なく病院に行ったが、医者は原因不明だという。外傷はもちろんないし、内臓にも悪い部分はなかった。最後に回されたのが精神科だった。ついた病名は神経衰弱。
 当時は精神科への偏見がひどかったからね。精神科にかかる患者は、日常生活も営めないほど気が狂っていると思われていた。だから自分以上に周りが大騒ぎをした。会社からは「すぐに休職しろ」といわれたしな。まあ、おれが暴れるとでも思ったのかもしれない。
 結局、実家から病院に通院して、療養することになったんだ。おふくろと三人の兄弟はよく面倒をみてくれた。団結した家族だったからな。
 おれたち家族は満州から引き揚げてきた。おやじが死んだのは終戦後の一九四六年。おふくろは生活力のない人だったから、帰国後に家計を支えたのは二人の兄貴だった。でも貧乏でね。弁当なんか学校に持っていけたことはなかったし、米も食えない。食べられたのは大根汁くらい。おれも中学二年に埼玉の大石村中学校を中退して、農家に奉公に出た。体が成長していない上に、ろくなものを食べてなかったから力が出ない。二〇歳まで働いたが、仕事ができるほうではなかったね。

■結婚願望と同僚との不仲

 病気とはいえ、ほぼ一三年ぶりに息子が実家で生活することになったんだから、おふくろも喜んでいたよ。よくおかゆを作ってくれてさ。おれも久しぶりに楽しかった。もっとも、病気はかなり深刻な状態が続いた。不眠症はよくならず、眠れない日々が一週間続いたこともある。何より不気味だったのは、声が聞こえることだ。部屋に一人でいるのに入れ替わり立ち替わり、いろいろな声が耳元で悪口をいう。思い過ごしだと何度もいわれたが、始終悪口を聞かされるのはつらかった。完治するまでの半年間は地獄だったよ。結局、この病気がおれの人生を変えた。
 精神病の直接の原因は結婚への願望と同僚との不仲。今考えるとたいした話ではないが、当時は純情でひたすらにまじめだったからね。耐えられなかった。
 当時で二七歳といえば、結婚適齢期。おれも切実に結婚したかった。子どもも好きだったしね。月並みないい方だが、温かい家庭がほしかったんだ。けれども収入が問題だった。
 農家での奉公のときは月給二万円。二〇歳で上京したときに運送会社の社員になり、列車のコンテナをトラックに積み替える仕事についた。これで月収は数倍に跳ね上がったが、妻子を養うには十分じゃない。
 もちろん同じくらいの給料をもらっていた同僚の中にだって結婚した者はいる。おれにも適当に女がいたし、上司の奥さんからは娘を嫁にどうかといわれていた。だが、生活の不安を度外視してまで一緒になりたいと思える女は現れなかった。結婚にまでは踏み切れなかったんだ。
 上司の娘というのは背が低くて、容姿も並み以下だった。それはいいとしても、何より働くのが嫌いな娘だった。「おれの給料では養っていけませんから」と断ったら、数ヶ月後に同じ会社のマネージャーと結婚した。おれと暮らすよりは幸せになれたんじゃないかな。おれが高望みをし過ぎたのかもしれない。そのくせ結婚できない引け目が、自分の心を追いつめていった。
 同僚との不仲は、すぐカーッとするおれの性格が災いした。殴ることはないが、腹が立つと大声でどなりつけてしまう。昔のことで理由は忘れたが、その悪い癖が出て同僚を大声でどなりつけてしまった。冷静になったときには、二人の間に大きなわだかまりができていてね。それがのどに刺さった小骨のように心を刺激し続けた。気がつけば神経衰弱だよ。
 結婚問題も同僚との不仲も、事態を改善するチャンスはいくらでもあった。ところが解決できなかった。もちろん笑い飛ばすこともできない。まじめで融通のきかない、この性格が神経衰弱の遠因だろう。性格は一朝一夕には変わらないから大変だよ。
 病気が落ち着いてから診断書を携えて会社に行くと再雇用してくれた。さらに不仲だった会社の同僚は、おれが精神科に世話になったと聞いてはれ物に触るように優しくなった。何でも、おれのことを気づかった上司が「あの人は神経の病気だから」と、社員全員に含ませておいたらしい。まあ、仕事がしやすくなったことは確かだ。
 病気の再発を心配していたわけではないが、自分の健康にいまひとつ自信が持てなくて、結婚もあきらめがついた。けれども、今でも子連れの夫婦を見ると、「病気になった時期に結婚していればな」とは思う。現在住んでいる場所が上野不忍池の脇だから、上野動物園に向かう大勢の家族連れがおれの横を通り過ぎていくんだ。やはり寂しいな。

■死体がブラブラしていた

 病気の次に訪れた人生の転機は失業だった。
 八九年一月、おれは五六歳になっていた。寒かったので卓上コンロに火をつけて暖を取ってたら、近くにあった石油に引火したんだ。すぐに気づき、布団をかぶせて消火したからボヤですんだが、社員寮で火を出せばいづらくなる。三六年働いて退職金は三三万円、積み立てていた保険を解約して一〇〇万円、合わせて一三三万円を持って寮を出た。
 とりあえず向かったのは群馬県の水上温泉だ。酷使してきた体を休めたかった。それから手配師に声をかけてもらうために浅草へ。三本立ての洋画をみて、街をうろつき出したころには日も暮れていた。手配師からはすぐに声がかかったよ。それからは飯場がおれの家になった。
 飯場では一五日ごとにおカネが入り、その現場が気にいれば滞在を更新していく。いくつかの現場をわたり歩いたけれども、最後は新宿中央公園の前にある高層ビルだった。時給八〇〇円の八時間労働で二年働いた。仕事はきついよ。多いときには一日六台もダンプカーが来て、次々に廃材を運んでいく。休むひまなんてないね。でも仕事があるうちはよかった。当たり前だが、ビルはいずれ出来上がる。そしてビルが完成したとき、おれは六〇歳の大台に乗っていた。もう手配師も仕事を紹介してはくれなくなった。
 ついに仕事がなくなったのは、上野が花見でにぎわう四月だった。最後にもらった五~六万円で映画をみたり、食事をしたりしたが、四日後には使い果たした。手配師のところにも何度か通ったが、どうしても仕事をくれない。そのうち腹も減ってきて、ついに残飯に手を出したんだ。
 JR上野駅近くに狙いを定め、居酒屋が出したゴミ袋を開けた。その白いゴミ袋の中には、焼き鳥や唐揚げがどっさりつまっていた。袋の中に手を入れ、焼き鳥の串をそっとつまみ上げた。腐った臭いもしないし、見た目もきれい。思い切って口に入れたよ。もちろん冷めていたけど、これが飯場の飯より全然うまいんだ。料理屋のだから当たり前だよな。
 こりゃいいやと思ったね。働かなくてこんなにうまいものが食えるならば、仕事がもらえないとクサることもない。しかも、連日花見客でにぎわっていた時期だったから、花見客が残した弁当が豊富にあるし、ウイスキーの飲み残しも手に入って、毎日楽しいくらいだった。
 普段だって夜の街を巡れば、食いきれないほどの飯があるものだ。おれが通っているそば屋なんか、午前二時の閉店とともに温かいご飯を捨てる。これがまたうまい。食べきれないときは、塩をふって握り飯にして持ち帰るようにしている。
 ホームレスになって、ずいぶんと身を持ち崩したなと思う。職を失ってからは実家にも帰っていない。兄弟は皆、家を建てるくらい成功しているのに、自分はなんてみじめなんだと思うことはあるよ。でも自殺しようなんて思ったことはない。神経衰弱のときだって、死にたいとは思わなかった。
 ここ二年の間にも、上野でサラリーマン二人が自殺している。どちらも首つりだ。不忍池のほとりにある柳の木と、上野公園の斜面に生えている木だ。池のほとりの死体は、おれの知り合いがぶら下がっているのを見た。夏の朝四時ごろ、朝焼けに照らされた中年の死体がブラブラしていた。靴の先が水面につきそうなほど柳の木がしなって、寂しい光景だったそうだ。うわさ話によると、失業に悲観しての自殺らしいということだった。
 生きていれば、たまには楽しいこともある。酔っ払いが「頑張れよ」なんていって、カネをくれたりな。そんなカネで焼酎を飲むと、これがうまいんだ。励まされると生きる元気もわいてくるよ。
 人間は生きるために生まれてきたんだから、おれも胸を張って生き続ける。みじめと感じることもあるが、恥じることは何もしていない。いつか寒さに負けて、自然に死ぬだろう。その日まではおれは生きていく。 (■了)

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ホームレス自らを語る/半身不随の体になって・三浦俊二(五六歳)

■月刊「記録」1998年11月号掲載記事

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■四歳で養護施設に預けられた

 生まれたのは、一九四二年二月だから、太平洋戦争が始まって三ヶ月後ってことになる。生まれたところは、岡山だった。
  おやじは造船工場を経営していた。大阪に本店と工場があって、工場は岡山と沖縄にもあった。従業員も一〇〇〇人くらいはいたらしい。海軍におさめる焼き玉エンジンの船を造っていたそうだが、おれには戦争のことも、造船工場のことも、小さかったから記憶にはないよ。  戦争が終わって、工場は米軍に接収された。おやじは四つあった家屋敷を売り払って、従業員の解雇手当にあてたようだ。今なら、会社が倒産したからって、そんなことする社長なんかいないよね。おかげで、それからは悲惨のドン底さ。三人兄弟の末っ子だったが、上の兄と姉は養子になって、どこかにもらわれていった。おれは大阪の養護施設に預けられた。四つのときだったよ。(※このとき、三浦さんの両眼から大粒の涙がみるみるあふれ出し、おえつに変わって、一分間ほど続いた)
  いや、大丈夫。続けられるよ。
  施設にはすぐに慣れたと思う。まだ四つだったから、わけもわからないしね。待遇も悪くなかった。そのころは、社会福祉の施設が少なかったからじゃないかな。施設の人が「君たちの食費には、一日に一人六一円六八銭もかけている」って、よく自慢していたのを覚えているよ。
  その後、おやじは仕事を転々としたらしい。事業を起こしたり、流し台の販売をしたり。だけど、どれもうまくいかなかったようだな。おやじやおふくろが施設まで会いにくるということもなかった。そんな余裕もなかったろうし、いろいろ事情もあったんだと思う。(またしばらくおえつする)
  その施設から、小学校、中学校に通ったが、「施設の子」だからって、いじめられたりすることもなかった。あのころは、全体に貧しかったし、戦災孤児もいっぱいいたからね。中学校を出て、二年制の職業訓練校にやってもらって、鋳物のことを習った。
  それで訓練校を出て、大阪の鋳物工場に就職したんだ。だけど、熱とススとホコリのひどい工場で、若者にあんな職場は勤まらんよ。すぐに辞めたね。それから東京に出てきた。
 東京に来てからは、いろんなことをやってきたよ。まず、航空自衛隊に入った。勤務先は隣の埼玉県にあるジョンソン基地、今の入間基地だ。そこでは戦闘機の部品の整備や取り扱いをした。四年で除隊になって、三曹までいった。昔の上等兵だよ。
  自衛隊にいたとき、ボイラー取り扱いの資格を取った。資格を取るのが好きでね。その後も、冷凍機、危険物、転圧ローラーなんかの資格を取ったよ。そういう資格を生かしながら働いたんだけど、やっぱりボイラーとか空調関係の仕事が多かったね。
 ただ、四五歳をすぎると、普通の会社に就職するのは難しくなる。相手が信用しなくなるからね。おれの場合は独身だったから、余計にそうだった。それからは建設現場で働いてきた。まあ、日雇いに毛の生えたようなもんだよ。数え切れないくらい転職したけど、そのたびに環境が合わない。めぐり合わせが悪い。おれの人生そのものが、悪いめぐり合わせなんだ。
  ずっと独身だった。結婚しようなんて、思ったこともないよ。女にカネをかけるくらいなら酒を飲んでいたほうがましだった。女にもギャンブルにも興味はなかった。ただ、ただ、酒。毎晩のように飲み屋に行って、焼酎をボトルで飲んでいたからね。給料はほとんど飲んじゃったよ。

■通行人に発見されて運ばれた

 九三年の冬の寒い晩だった。街の食堂で夕飯を食ったんだ。当然、酒も飲んだ。食い終わって外に出ると、ふと目の前が暗くなって、意識が遠のいて倒れた。普段から血圧が高かったのに、酒を飲んで、いきなり寒い戸外に出たのがいけなかったようだ。
 気がついたときは、大学病院の集中治療室に寝かされていた。通行人に発見されて、救急車で運ばれたらしい。病名は脳軟化症(=脳梗塞)。命は助かったけど、右半身はまったくきかない体になっちまった。今でも歩くのは、杖にすがってやっとの状態だよ。
  病院には半年間入院していた。ホントはもっといて、リハビリとかしないといけなかったんだが、カネがないだろう。仕方なかったんだ。
 入院治療費は兄が払ってくれた。実は、子どものころに生き別れになっていた兄と姉の住所が、その後わかって、二人とも東京で暮らしていたんだ。退院してからは、姉のところに引き取られた。兄には家族があって同居できないんで、独身の姉が引き取ってくれたんだ。姉は学習塾をやって、生計を立てていた。
  けれど、姉だって女一人でやっと食べているわけだろう。そんなところへ、半身不随のおれのようなものが転がり込んで……(言葉が途切れて、おえつする)。そんな姉に面倒をかけられないと思って、そこをこっそり出たんだ。出たからって、行くあてなんてないし、新宿に来てホームレスになるしかなかった。

■四畳半のアパートも追い出され

 おれの場合は、こんな体だろう。福祉に行けば何とかしてもらえるかと思って、新宿区役所に相談に行ってみたんだ。そうしたら区が借り上げている四畳半のアパートに入れてくれた。だけど、そのせまい部屋に六人も暮らすんだ。食事はついていたけど、酒はダメ。小遣い銭もくれないから、タバコも買えない。まあ、みんな隠れて、こっそりやってはいたけどね。そこで三年暮らしたよ。
 九八年五月には、この体を引きずって横浜まで行ったんだ。横浜のほうが、福祉の待遇がいいって聞いたからね。だけど、「今、新宿区から保護されている人を、横浜に引き取ることはできない。そういう決まりになってる」って断られた。仕方なく新宿のアパートに戻ってみると、すぐに区の役人が来て 「もう、福祉は打ち切る」っていうんだ。
 それでアパートを追い出された。表向きの理由は、「禁止されている酒を飲んだ」ことになってるが、そんなことはみんなやってるからね。たぶん、横浜の役所から新宿に(照会の)連絡があって、役人がメンツをつぶされたとでも思ったんだろう。腹いせに決まっているよ。  だいたい役人なんて、態度も偉そうにして、もうあんな連中の世話になんかなりたくないね。おれはこんな体だから、堂々と福祉の世話になってもいいと思ってるんだが、「そんな気でいてもらっちゃあ困る」っていわれたし、「おまえらのために使う税金はねえ」って、はっきりいったやつもいた。
 前に福祉のことで都庁に相談に行ったら、「そういう話なら、区役所へ行け」っていわれ、区役所に行って話すと、「それは都の管轄だ」っていう。どうなっているんだ。ホームレスにも、身障者にも、それぞれ事情があるんだから、「ちゃんと話を聞け」っていいたい。
 みんな事務的に書類を処理するだけで、おれたちが明日から飯を食えなくなっても、関係ないと思ってるんだ。ホントに偉そうにしてさ。
 まあ、そういうわけで、またホームレスに逆戻りしたんだ。でも、この体でホームレスをしていくのは、つらいものがあるよ。スーパーとか、コンビニの対応も千差万別でね。親切な店もあれば、店が捨てた弁当をあさっていて、水をぶっかけられたこともある。
  夜は地下鉄のK駅で寝かせてもらってるよ。あそこの駅は親切でね。終電が出た後、ホームレスを中に入れてくれるんだ。それも朝六時までいさせてくれる。構内を汚さないっていう条件はあるけど、助かるよね。毎晩、一〇人くらいの仲間とやっかいになっている。そんなことをしてくれる駅は、ほかにはないだろう。ありがたいよ。
  今日は天気もいいから、久しぶりに友達と飲もうと思ってね。K駅から、ここ(東京都庁前の路上)までやって来たんだ。友達?酔いつぶれて、そこに寝てるやつがそうだよ。こんな体になっても、好きな酒はやめられないよね。カネ?障害者手当っていうのがあって、それで何とかやってる。でも月に二万円しか出ないんだよ。二万円で生きていくのは厳しいね。
  まあ、これも天罰なんだろうね。今まで、いいかげんに生きてきたバチが当たったんだよ。そう考えるより仕方ない。めぐり合わせの悪い人生さ。
  兄や姉に連絡?できないよ。電話で声を聞かせたりしたら、かえって心配させるだけだろう。そんなことできないよ。(またおえつを始めた) (■了)

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ホームレス自らを語る/薬だけ飲んで、飯を食ってない・佐原義行(五三歳)

■月刊「記録」1999年5月号掲載記事

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■酒乱にいたたまれず

 おれが二四歳のとき、おやじが脳いっ血で倒れてね。それきり意識のないまま、翌日には死んじまったんだ。 おやじの仕事は鉄筋工の親方で、若い衆も二〇人くらいは使っていた。おれもその下で働いていて、ゆくゆくはおやじの跡を継ぐことになっていたんだ。
 それが、あまりにも突然に死んじまっただろ。おれはまだ仕事を覚えている最中だったし、得意先のこととか、経営のこととかは何も教えてもらってなかったからね。それでも従兄弟に助けてもらったりして、何とか続けていこうとしたんだがね。
 おれは中学校を出て、すぐにおやじの下で働くようになったんだけれども、一緒に働いている親族のうち、本当は別の道を進んでいくはずだった人がいた。彼は野球が上手でノンプロに引っ張られて、そっちで活躍していたんだ。ところが、仕事中に工場の機械にはさまれて、右手中指を第一関節から落としちゃったんだ。利き手の中指が不自由になっては野球はできないから、会社を辞めて、おやじの下で働くようになったんだ。
 野球ができなくなって、やけになったのか酒におぼれていてね。それもひどい酒乱なんだ。おやじが死んでからは、それがなおひどくなって、誰彼見境なく当たってさ。若い衆もどんどん辞めていって、一〇人くらいに減っちゃったんだよ。
 おれも一年くらいは我慢したんだけどね。とてもいたたまれなくて家を飛び出しちまった。二五か六のときのことだね。
 おやじはいいおやじだったよ。酒も飲まなかったしね。でも、仕事の上では厳しかった。おれにはどこの現場に行くのも自転車しか許してくれなくて、東京・板橋の家から川崎市の現場まで自転車で通ったことだってある。
 おれの場合は、若い衆が来る前に現場に行って、仕事の段取りをつけておかなくちゃならないだろう。だから川崎に行くときなんか朝五時には家を出たよ。冬の朝暗いうちに出て、自転車で通うのはつらかったね。

■競輪で一日二〇〇万円稼いだ

 家を飛び出てからは、ずっと土工をやってきた。まあ、おやじの急死がなかったら、おれの人生もずいぶん変わっていたと思うけど、いまさら考えてもしょうがないよね。
 もっとも日雇いの土工でも、景気のいいときはあったんだよ。おれの場合は鉄筋の仕事もできたから、そんなのを手伝うと割増がもらえたりして、一ヶ月に六〇万円も稼いだことだってあるんだ。
 稼いだカネは、酒とギャンブルに使っちゃったね。競輪が好きでさ。関東一円の競輪場で行かなかったところはないもの。宇都宮や前橋あたりまで行ってたからね。 競輪の面白さは、自分で展開を推理するところさ。ピタリと当たって、一日で二〇〇万円になったこともあるからね。うそじゃないよ。
 その競輪も、もう一年以上もしていないな。仕事がなくて賭けるカネがないからね。五〇歳を超えると、途端に仕事を回してもらえなくなる。それにおれは血圧が高くてね。上が二二〇あるんだ。今はどこの現場も健康診断がやかましくて、「血圧が高い」ってだけでハネられちゃうんだから。
 景気のよかったころは、血圧が少しくらい高くたって外国人労働者だって、誰でも彼でも働けたんだよ。今、大手建設会社の現場に行ってごらん。外国人なんて一人も働いてないから。現金なもんだよね。
 おれだって仕事さえあれば働きたいよ。今は土工の仕事もほとんど機械でやるんだから、昔ほど肉体労働じゃなくなっているからね。仕事の要領はわかっているし、まだ働ける自信はあるんだ。だけど、働かせてもらえないんだからしょうがないよ。

■悪いホームレスが増えた

 ホームレスになったのは、九八年の夏からだね。新宿に近い高田馬場の公園で夜だけ段ボールの小屋を作って寝ている。暮らしていくのには新宿のほうが便利なんだけど、ホームレス同士のケンカが多いし、ちょっと油断すると物が盗まれたりと、物騒だからね。ちょっと離れた高田馬場のほうが静かで安全でいいよ。
 飯は一日に一食ありつけるかどうかって状態だから、正直いってひもじいね。ホームレスを長くやっていると、そのひもじさにも慣れるらしいけれども、おれはまだなってから一年にもならないせいか、腹が減って困る。そんなときはひたすら水を飲んでごまかすしかない。水だけはタダだからね。
 空腹を少しでも和らげるために、夜なると、あちこち歩き回って食い物を探すんだ。でも、なかなかありつけないね。そもそも、どこのコンビニが、いつゴミを出すかなんてことは誰も教えちゃくれない。そんなことをしたら、自分の取り分がなくなっちまうからね。そういう情報をつかまなければ食い物は見つからない。たまたま行ったら、食い物が捨ててあるなんてことはまずないよ。
 そういえば、売れ残りのハンバーガーをゴミとして出してくれる店も少なくなったね。このところホームレスが増えて、質の悪いのも多いんだ。そういうやつらが、ゴミが出されているその場で食い散らかすようなことをするから、店も嫌がって出さなくなったらしい。ホントに悪いのが増えたよ。
 だから今ではボランティアの炊き出しとか、差し入れが頼りだね。けれども、それだって毎日あるわけじゃない。あれだけ好きだった酒だって、正月から一滴も飲んでないんだよ。寂しいもんさ。
 血圧のほうは相変わらずだね。新宿区役所の紹介で週一回通院して、薬をもらって飲んでいる。医者は「この薬で血圧が下がらないのはおかしい」って不思議がるけど、そりゃそうだよ。薬だけ飲んで、飯を食ってないんだもの。よくなるわけないよ。薬の副作用でめまいがするくらいだからさ。
 とにかく景気だよね。景気さえよくなれば、働く意欲はあるんだからね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/若気の過ちが一生を決めた・高島伸夫(六二歳)

■月刊「記録」1998年7月号掲載記事

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■ポンを教わったのが運の尽き

 ……オ、おれ……う、うまく……話しが……で、でき……ないんだ。そ……そんなでも……き、聞いて……く、くれる……のかい。(彼は強度の吃音者。以下の文章は、どもりながら、とつとつと語ってくれた話を構成し直したものである)
  生まれは千葉の館山。おやじは漁師をしていた。漁師といっても、自前の船を持っているわけじゃなくて、雇われて漁船に乗る漁師のほうなんだ。
  おれは七人兄弟の六番目。兄弟は多かったけど、特に貧しい暮らしというわけじゃなかった。小学校四年生のときが、終戦。館山には航空隊の基地があっただろう。時々だけど、米軍の空襲があった。空襲警報が出るたびに、海岸べりにあった防空壕まで、走って逃げ込んでいたんだが、もうそれをしなくていいっていうんで、子ども心にホッとしたのを覚えているよ。
  中学を卒業して、おれも漁師になった。おやじがそうだったし、上の兄たちの何人かも漁師になっていたから、そうなるのが当然のように育てられてたしね。おやじが乗っている船に、一緒に乗ったこともあるよ。
  漁は近海漁業が主で、巻き網船に乗ることが多かった。二隻の船で網の両端を引きながら、魚を巻き込むようにしてとる漁で、サバやイワシなんかをとった。
  二隻の船で重い網を引くわけだから、タイミングとか、呼吸が難しいんだ。それに海の上での力仕事でもあるから、危険でもあった。だけど仕事がつらいと思ったことはなかったね。むしろ楽しいくらいだった。カネにもなったしね。そのころ(一九五一年ごろ)は、同じ中卒で工場に働きに出た連中なんかより、何倍も稼げたんだから。
  ただ、一五、六歳のガキが小金を持つと、ろくなことにならないね。漁師っていうのは、ひまなときが多いんだ。漁に出るのが朝早い分、昼ごろには陸に上がっちゃうだろう。海がしけて漁のできない日は、一日中ゴロゴロして、そんなのが何日も続いたりするからね。
  そうすると、悪い誘いがくるんだ。おれも知り合いのヤクザに誘われて、ばくち場に出入りするようになっていた。花札とか、チンチロリンとばく。ありガネを全部巻き上げられても、若いからブレーキがきかなくなって、どんどんのめり込んじまうんだ。
  それにポンも覚えさせられた。ポンっていうのはヒロポンのことで、今でいう覚せい剤だよ。ポンをやると、三日くらいぶっ続けでばくちを打っても平気なんだ。それでばくちは負けが続くし、ポン浸けだろう。借金だけが増えていく。ヤクザからの借金だから、取り立てが厳しくてね。
 どんどん追いつめられていって、泥棒でもするしかなくなっていた。ホントのところは、ヤクザがそれとなく泥棒の方法を教えてくれて、そう仕向けるんだけどね。深夜、魚を養殖しているイケスに忍び込んで、生きたイセエビとか、クルマエビなんかを盗み出すんだ。
  そのころの館山には、カツギヤのおばさんというのがいっぱいいてね。毎朝、始発電車に乗って東京まで行商に行くんだが、そのおばさんたちに買ってもらうんだ。イセエビは高く売れたよ。これもヤクザに教わったんだがね。
 ただ、せまい街だろう。すぐにバレて、警察に捕まっちまった。そのときは、まだ未成年だったし、初犯ということもあって、書類送検だけで許されたけどね。
  若いというか、ガキというか、それでも懲りないんだよね。また同じことをして捕まった。今度は重犯だから少年院に二年間入れられたよ。少年院は非行少年の更生施設とかいってるけど、そんなのはうそ。入所している先輩たちから、上手なカツアゲ(恐喝)の仕方とか、悪い手口ばかりを教わって、かえって悪くなっちまうんだ。あんなところに入って、よくなることは絶対にないね。

■地方を転々と日雇い回り

 少年院を出所すると、おれもいっぱしの悪ぶって、ヤクザとつき合ったり、またばくち場に出入りしたり、もう漁師で働く気なんてないからね。やっぱり、またカネがなくなってきて、泥棒に入った。前と同じでイケス泥棒さ。またすぐに捕まった。さすがに、親もあきれたらしくて、それで勘当されたよ。
 このときは、二〇歳になってたから刑務所に送られた。刑務所ってところも、ひどいところさ。懲罰の革手錠って知ってるかい? 片手を肩から、もう片方は腰から背中に回して、両手首を革手錠でしばるんだ。それをやられたときのつらさとくやしさといったらなかったね。 刑務官もひどかった。あれは人間じゃあないよ。刑務所のことは思い出したくもないし、これ以上いいたくもない。少年院と同じで、刑務所に入って、よくなる人間なんていないよ。
 刑務所を出たのが、二二歳のときだった。それからは、旅回りの仕事さ。日雇いの土工になって、飯場から飯場をわたり歩く生活。それを、ずっとやってきた。初めは、親から勘当されてたし、なるべく遠くと思って鹿児島に行った。その後、金沢だろ、高知、静岡、伊豆、千葉、いろんなところで働きながら、だんだんに東京に近づくようにして戻ってきたんだ。
 ちょうど、経済が成長する時代だったから、仕事はいくらでもあった。一つの現場が終わると、次の仕事が待っているような具合だった。でも、カネはたまらなかった。土工の日当は安いよ。八〇〇円くらいかな。今でも、一万二五〇〇円くらいだろ。そこから、部屋代と飯代を引かれたら、いくらも残らないもの。
 日当が安い割には、危険な仕事でね。神楽坂のビルの現場で、仲間のトビが足場から墜落して死んだのを見たよ。昔はほとんどの仕事を、人間の力仕事でやってただろう。危険も多かった。それが、今ではたいがいのことは機械がやるから、安全になった。一番変わったのが、この安全になったことだね。日当の安いのだけが、変わらないんだ。
 稼いだカネは、みんな酒で飲んじまった。仕事を終えると、毎晩飲み屋に通って一升五合からの酒を飲むんだから、カネなんてたまらないよ。結婚は考えたこともなかった。経済的にも、嫁さんを養っていく自信なんてなかったしね。刑務所を出てからは、ばくちとギャンブルだけは縁を切ったよ。これには、手を出さなくなったね。

■役所の世話になるのはごめんだ

 ホームレスになったのは、九〇年からだ。腰と背中が痛くて、土工の仕事ができなくなったんだ。若いころの力仕事の無理がたたったんだと思う。四〇代のころから痛み始めて、五〇を越えるともう痛くて、力仕事をできる体じゃなくなっていたね。
 福祉事務所?行かないよ。役所の世話になんか、なりたくないんだ。そのくらいなら、ホームレスをしていたほうがましだよ。ホームレスって生き方があることを知ってたから、何とかなると思った。だから、段ボールハウスに寝るのに抵抗はなかった。どうということもなかったね。
 最初は、都庁の玄関前で寝ていたんだけど、追い立てられて、新宿駅西口の地下通路に移った。そこも九六年の強制排除で追い立てられた。それで京王新線の地下通路に移ったら、そこもダメだっていう。次に東京都インフォメーションセンター前の広場に移った。そうしたら、九八年には火事だ。おれも手に軽いやけどを負った。 地下広場にも住めなくなって、今は昼間は公園のベンチで過ごして、夜はどこか適当なところで寝ている。決まった場所というのはないな。「なぎさ寮」にも行かないよ。役所の世話にはなりたくないし、これだけの荷物があるだろう。寮に入るには荷物を処分しなきゃならないんだ。これは、おれの全財産だからね。捨てられないよ。
 昼間、毎日街を四時間くらい歩いているんだ。自動販売機につり銭の取り忘れが残っていないか調べながら、代々木とか、中野のほうまで行ってるよ。多い日には八〇〇円くらいになることもある。ダメなときは、一〇円だけって日もあった。貴重な現金収入だね。
 エサ(食料)は、夜、そば屋とか、すし屋の残飯から、食えそうなものを拾ってきて食べるんだよ。ハンバーガーのときもある。
 若気のいたりというか、過ちというか、こういう生活になったのも、若いころのムチャが原因だったと思うね。どもり?いや、どもりがホームレスの原因にはなってないよ。それより酒だよ。立ち直るきっかけはあったんだが、どうしても酒におぼれちゃう。気持ちが弱かったんだね。自分がもっとしっかりしていれば、こうはなってなかったとも思うよ。
 これから先のこと?このまんまだろうね。役所の世話にはなりたくないから、このまんま変わらないよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/おれは巡回探職労働者・高橋茂(五〇歳)

■月刊「記録」1998年8月号掲載記事

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■結婚費用稼ぎにマグロ船に

 一八歳のときに、ある娘と家が近所同士で、子どものころから行き来があって、何となく結婚する雰囲気だった。親同士が相談したとか、田舎(青森県八戸市)の風習とか、そういうんじゃなくて、自然の成りゆきでそうなってたんだね。まあ、丈夫だけが取りえのような子だったよ。
  だから、その子とは結婚しなくちゃならないと思ってさ。結婚式の費用を稼ぐために、東京に出てきたんだ。二〇歳のときだよ。それで船員手帳を作って漁船員になって、三崎(神奈川県)のトロール船に乗り込んだ。それまでにも漁船に乗ったことはあったし、戸惑うこともなかった。仕事にもすぐに慣れた。
  おれが乗った船は近海漁が主で、マグロや、サケ、マスなんかをとっていた。漁場には四、五隻の船団で行って、競争でとり合うんだ。 「向こうは何万トンとったらしい」「こっちは何ケースとった」って具合。まあ、船主がもうけるために、そうやって競い合わせているんだけど。
  それだから、漁場では魚のいる限りとり続けるんだ。それこそ、根こそぎって感じで、これじゃあ魚がいなくなっちゃうって心配なくらいとりまくったよ。二四時間フル操業なんて当たり前。網を引いているときに仮眠して、網を巻き上げたら戦場のような忙しさだった。おれの仕事は冷凍係。とった魚を箱に氷づめにして、船倉に積み上げる仕事だよ。
 一回の航海で海の上にいるのは、だいたい三ヶ月。ただ、ずっと海の上にいるわけじゃない。船倉が一杯になると、魚の値動きを見ながら、船主と相談して、その近くで一番高い値をつけている魚市場に水揚げするんだ。終われば、また沖に戻って漁をする。その繰り返し。
  漁船員にとっては、この水揚げのときが一番の楽しみだったね。一晩、陸に上がって、みんなで飲み屋に繰り出し、思い切り酒を飲んで、女を買う。漁船員の給料は歩合制で、それに慰労金もついていたから、普通のサラリーマンなんか問題にならないくらいよかったよ。だから遊び方も豪快で派手だった。
  ただ、水揚げのために魚市場に向かっても、船がいっぱいだと岸に着けられないこともある。そんなときは、朝まで沖待ちになる。そうすると、船から海に飛び込んで、陸まで泳いで遊びに行くようなやつもいた。おれはそこまでして遊んだことはないけど、男が女とやりたいときのエネルギーだよね。「すごいなあ」と思ったよ。  それが二二歳のときにけがをしちゃってね。酔っ払って転んだ拍子に、左膝の皿を割っちゃったんだ。治療のために漁を一回休んだ。その次の航海にも誘われたけど、それも断った。揺れる船の中で、足を引きずりながら働いても、仲間に迷惑をかけるだけだろう。ハンデを負いながら働くのは、嫌だったんだ。
  漁船っていうのはチームで働いていて、一人一人の役割が、キッチリ決まっている。だから、一回ならともかく、二回も続けて休むと、代わりのメンバーが入っちゃう。チームから外されてたよ。今にして思えば、けがの治療中に遊びぐせがついちゃったのかもしれないよな。
■日雇いがうらやましくてね

 それからは、久里浜にあった水産物の冷凍倉庫の社員になって働くようになった。ああいうところは、社員のおれたちは監督をするだけで、実際の作業は日雇いの人がやるんだ。
  日雇いには毎日、日払いの賃金が支払われる。わたすのがおれの役目さ。連中を見ていると、もらったその場所で、日雇いの親方に、「競馬だ」「競輪だ」って賭け金をわたしている。親方がノミ屋をやってるんだよ。日銭が毎日もらえて、楽しそうで、うらやましかったよ。そうかと思うと、気が向かないと休んじゃう人もいるだろう。「気ままでいいな」とも思ったね。
  それでおれも社員を辞めて、その倉庫で日雇いで働くようになった。なってわかったんだけど、そのノミ屋の親方に毎日賭けていないと仕事を回してもらえないんだ。そういう仕組みだった。まあ、おれもギャンブルはきらいじゃないし、それでもよかったんだけどね。
  それより頭にきたのは、それまで同僚だった倉庫の社員たちさ。おれが日雇いになった途端に、掌を返したようにするんだからね。仕事がひまなときにタバコを吸っているだけで、どなられたりするんだから。それもおれの後輩の社員だったりしてさ。そんなところには、いつまでもいられないよね。
  倉庫の日雇いを辞めて、横浜に移った。寿町っていうドヤ(簡易宿泊所)街に住んで、港湾荷役の日雇いになったんだ。そのころは、仕事はいくらでもあった。だから、賃金を聞いて、安いと行かなかった。「三部通し」「四部通し」っていって、二四時間、三二時間を、ぶっ通しで働くようなこともさせられた。その分、賃金が倍づけ、三倍づけだったからね。
「タンククリーニング」なんて仕事もあった。原油タンカーのタンクの底に残ったスラッジ(汚泥)を片付ける仕事だよ。真っ暗な底を、はいずり回って、ペール缶にスコップでかき入れる。クソ暑い上に、油まみれになる仕事さ。
 作業は、タンクのガス抜きをして、残留ガスの検査をしてから始める。だけど、この「ガス検」がいいかげんというか、あんな大きなタンクだから全部は測りきれないんだ。どうかすると、ガスがよどんでたまっているところがある。運が悪いと、それを吸い込んでぶっ倒れる。暗いなかでの仕事だから、ペール缶をつり上げるウインチに巻き込まれて、片手吊りで持っていかれるやつとかもいた。「汚くて、危険で、きつい」3Kの代表みたいな職場だった。まあ、それだけに賃金はよかったんだけどね。
 こう話すと、まじめに一生懸命働いたように思うかもしれないけど、ホントは違うんだよ。働いてカネがたまると、それがなくなるまで遊んで暮らすんだ。それから白手帳(日雇い労働者の保険制度)を二冊も、三冊もつくって。そのころは、ドヤの判が居住証明になって、簡単に手帳がつくれたんだ。それであぶれ手当の二重取り、三重取り。そんな悪いこともしたよ。カネは、酒とギャンブルと女に消えちゃったね。

■おれはホームレスじゃない

 故郷に残してきた娘が、「ほかの男と結婚したらしい」ってうわさを耳にしたのは、二三歳のころだったかな。東京に出てきたばかりのころは、頻繁に電話で話もしたさ。けれども、だんだん連絡を取らなくなった。結婚のうわさを聞いたときには、「そうか、それもしょうがないな」と思ったよ。だって、日雇いでフラフラしているおれを、いつまでも待ってなんかくれないよね。それも仕方ないさ。
 それからは、ずっと日雇いでやってきたんだが、九〇年代前半ころから仕事がパタっとなくなった。一泊二五〇〇円のドヤ代さえ払えないんだからひどいね。不況だとか、コンテナ貿易が主流になったからだとか、外国人労働者が入ってきたからだとか、いろいろいわれるけど、おれにはよくわからないね。船が入らなくなって、仕事がなくなったことだけが事実なんだよ。
  新宿に移ってきたのは九五年のことだ。でも、新宿にきても、仕事がないのは同じだったね。あっても、港湾荷役のときより、全然日当が安いしさ。段ボールの上に寝るしかなかったわけよ。だけど、おれは今でも自分のことを、ホームレスだとは思っていないんだ。仕事さえあれば、働く意欲はあるからね。だから、自分のことを 「巡回探職労働者」って呼んでるよ。カッコいいだろう?
■クズでもクズなりに

九八年二月の火事のときも新宿にいたよ。南口に通じる地下通路を歩いていると、すごい煙のにおいをかいだ。急いで西口地下広場に行ってみると、煙がモウモウで、とても近づけなかった。助けようにも、助けられなかったね。噴水の水をくんで、バケツリレーをしたけど、消せるような状態じゃなかった。
  死んだ人には悪いんだけどさ。火事が出たのは、朝の五時すぎだろ?あの時間というは、ボランティアがおにぎりを配給した時間の、ちょっと後なんだよ。そんなころまで、腹も減らさないで、ぬくぬくと段ボールハウスに寝ていられるなんて、ホームレスでも恵まれたほうだったと思うよ。普通だったら、腹が減って四時すぎには目が覚めちゃうんだからさ。
  故郷に帰りたいとは思わないよ。八戸といえば、子どものころから災害の多い街だった。まず小学生のときに白銀大火(白銀は八戸の地区名)があった。放火だったらしいけど、家がボンボン燃えてね。米軍基地に燃え移って、ドラム缶が噴き上がるのが見えたよ。
  中学生のときが、チリ沖地震の津波。東京へ出てきた年には、十勝沖地震があった。このとき、おれはパチンコをしていたんだ。台がはじけ飛んで、パチンコ玉が飛び出してきたよ。表に飛び出すと、看板は降ってくる、薬局が火事で燃え上がるで、大混乱だった。そんな混乱のなかで、酒屋に人だかりがしているんだ。のぞいてみると、割れた酒びんの底に残っている酒を、みんなで争うようにして飲んでいた。群集心理ってやつだろうね。つい何年か前にも大きな地震があった。
  子どものころ、米軍基地でクリスマスの集まりがあって行ったことがあるよ。大きくて広いスケート場があった。生まれて初めて、ヘリコプターに乗せてもらった。ハンバーガーを食べたのも、そのときが初めてだった。本物のビーフがはさんであって、でかくて、「こんなにうまいものがあるのか」と思ったよ。今のおれの主食も、売れ残りのハンバーガーなんだよ。よほどハンバーガーがついて回る人生かと思っちゃうよね。
 こんな生活になったのも、覇気がない。逃げる人生。やる気がない。だらしない。ヤケクソの人生。自殺する勇気もない。ゴミだ。クズだ。大衆のじゃまだ・・・・。自分が弱くて、いじけていて、しっかりできないからなんだよ。
  でも、このままでは終わりたくないよ。「クズでも、クズなりに」って思うよね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/暴走族から鑑別所、そして…・原田忠雄(四四歳)

月刊「記録」1999年3月号掲載記事

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■ナナハン乗って暴れ回った

「ブラックエンペラー」という名前の暴走族のチームがあってね。若いころ、そこのメンバーだったんだ。中学生から高校生にかけての、四年くらい入っていたよ。毎週土曜日になると、夜の一二時に渋谷に集まって、バイクで暴走を始めるんだ。
 走り始めのうちは、バイクの台数もそれほどじゃないんだけれども、「ニーヨンロク」(国道二四六号線)を下っていくうちに徐々に集まってきて、最後は二〇〇台くらいになるんだ。そりゃあ、すごい迫力だったね。
 おれも上から下まで黒づくめの格好をして、ホンダの 「カスタム」っていったかな、ナナハン(七五〇㏄)のバイクにまたがって……。まあ、目立ちたかったんだろうね。パトカーをしたがえて集団で走るのは、すごい快感だったよ。
 悪いこともした。何しろ、乗ってるバイクだって盗んだもんだからね。今の子どもたちと違って、バイクを買うカネなんて、とても持っていない時代だからな。みんな盗んできて、それを乗り回してたんだ。カツアゲ(恐喝)したり、電気屋の倉庫に忍び込んで、テレビとかを盗み出したこともあった。
 暴走族のチーム同士でケンカしたときなんか、相手側の女の子をカッさらってきて、みんなで「回す」なんてこともしていた。要するに輪姦だよね。ただ、おれたち下っ端は見張り役とか、見てるだけで手は出せなかったけどね。
 ケンカもよくしたよ。利根川の先のある町には「ブラックエンペラー」に対立するチームがあってね。よく遠征していってはケンカをしたんだ。おれも木刀を武器に暴れ回った。
 警察に逮捕されたこともあるよ。おれの場合、道路交通法違反に無免許、それにバイクの窃盗もあったから、少年院だか、鑑別所のようなところに半年間入れられたよ。まあ、それで暴走族をやめることになるんだけどね。
 結局、今の暴走族の連中もそうだけど、一人じゃ何もできないから群れてるんだよね。でも、若い時分に一度くらい羽目を外すのもいいことだとは思うよ。今ではビシっと偉くなってるのでも、元暴走族っていうのはいっぱいいるからね。暴走族からそのままヤクザになるのは、案外少ないんだよ。

■一八歳で娘ができた

 生まれは東京。おやじは大工だった。八人兄弟の末っ子なのだが、上の七人のうち三人は知らない。何でも栄養失調のようなもので、おれが小さいころに死んでしまったらしい。それくらい家は貧乏だった。
 飯もスイトンだとか、ラーメンだとか、そんなもんばっかりでね。おやつといったって、ジャガイモの蒸したものがあればいいほうだった。
 それでも、おれは末っ子だったし、高校までやってもらった。都内の私立高校の農業畜産科に進んだんだ。もっとも農業になんて興味はなかったよ。本当はおやじの跡を継いで、大工になりたかったんだ。
 だから本当は工業高校に行きたかったけれども、中学のころから暴走族に入ったりして、勉強のほうは全然ダメでね。中学校の担任が、おれの成績でも何とか入れた農業畜産科に無理やり押し込んだわけよ。
 そんなわけだから、高校にはほとんど通わなかった。そのうちに警察に捕まって、鑑別所に送られて、学校は退学になった。高校二年のときだよ。
 高校を退学になる前のことだけど、授業をサボって渋谷で遊んでいたら、かわいい女の子を見つけてね。思わずその子の後をつけて家をつきとめたんだ。今でいう「ストーカー」みたいな感じでね。
 それで強引に家に押しかけていったら、意外にも素直に部屋に入れてくれるじゃない。そのまま押し倒しちゃった。学校をサボって盛り場をフラついていた子にしては、スレてなくて処女だった。まあ、おれのほうも童貞だったけどね。その子の名前は、一応A子ってことにしておこうかね。
 A子は母子家庭だったんだ。だから母親が働きに出ている間は彼女しか家にいないので、訪ねていっては関係を続けたよ。ところが、おれが一八歳のときにA子は妊娠しちゃった。それで女の子が生まれた。ただ、A子の母親が許さなくてな。裁判になって、おれの娘としては認知できないことと、娘には会えないことになった。それからA子は水商売で働きながら、娘を育てあげたんだ。大学も出して、嫁にやったよ。
 何でそんなにくわしいのかって?実は、娘には会えなくなったけれども、おれとA子の関係はずっと続いているからなんだ。今でも週に一回くらいは会っているよ。今、A子は新宿のピンサロで働いているから、朝のうちに家に訪ねていけばいるからね。まあ、おれが野宿(ホームレス)していることは、内緒にしてあるけど……。
■四六歳までには何とかしたい

 暴走族をやめてからは、町工場で働いたり、自衛隊に入ったりと、いろいろな仕事をやってきた。きっと性格が飽きっぽいんだろうね。
 二二歳のときからは、建築現場のトビ職をやってきた。半月契約で飯場に入って、カネを稼いで、それがなくなるまで遊び暮らして、また飯場に入る。その繰り返しだった。それでも、羽振りのいいときもあったんだけどね。けれども、A子にプロポーズはできなかった。やっぱり、ちゃんとした会社に入っていない引け目だったんだろうね。
 野宿生活をするようになったのは九六年からだ。仕事が減ってきて、カネもないし、路上に寝るよりほかに選択がなかったんだ。仕事は減ったけれども、それでも野宿を始める二、三ヶ月くらい前までは少しはあったんだよ。この二、三ヶ月はホントになくなったね。だからまったく働いていないよ。
 まあ、おれもまだ四四歳だからね。四六歳までには「何とかしたい」っていう目標はあるんだ。ちゃんとした会社に入って、A子ともちゃんと結婚してって。今は年がいってから結婚するのがはやってるから、今から結婚してもおかしくはないよね。トビの腕だって、まだ大丈夫だし、何とかするよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/美人の妻に逃げられ暗転・丸山隆一(五二歳)

■月刊「記録」1999年4月号掲載記事

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■土木のほうが稼げるらしい

 生まれは北海道。帯広市の先にある本別という町です。おやじは営林署の職員でした。これが変わったおやじでね。「勉強をするくらいならば、家の手伝いをしろ」っていう育てられ方をしました。中学の修学旅行のときは、「子どもが旅行に行くなんてぜいたくだ」って費用を出してくれないんです。仕方がないので担任の先生に立て替えてもらっていきました。
 そんなふうだから、高校進学も当然ダメでした。そこで、これまた担任の先生が、帯広にある住み込みのクリーニング店の就職先を見つけてきて、そこから定時制の高校に通えるようにしてくれたんです。ホントに変わったおやじでした。
 結婚したのは二六歳のときで、相手は友人が紹介してくれた娘です。なかなかの美人でしたよ。翌年には女の子が生まれました。ただ、子どもができて家族が三人になると、クリーニング店の安い給料で養っていくのは大変でした。
 実はクリーニングの国家試験に合格した二一歳のときに、店の親方からは「独立するように」と勧められたことがあるのです。でも、当時は一人でやっていく自信がなかったのと、資金もなかったんで、店は出せませんでした。それ以来ずっと、クリーニング店に働き続けていたというわけです。
 悩んでいるところへ、「土工のほうが、もっと稼げるから」と、誘ってくれる友人がいて店を辞めました。それで帯広から西へいった山のなかにある日勝峠の道路工事の飯場に、何ヶ月間か入ったんです。
 ところが、工事がやっと終わって、帯広のアパートに帰ってみると、嫁さんがいないじゃないですか。調べてみると、どうも男を作って逃げたらしい。まあ、何ヶ月間も一人で放っておかれて寂しかったんでしょうね。
 それよりも何よりも困ったのは、まだ一歳にもならない子どもを残していったのと、僕の名前で一二〇万円もの借金がこしらえてあったことです。月給が四万円くらいの時代の一二〇万円ですから、途方に暮れるような金額でしたよ。
 仕方がないんで、幼い子どもを僕のおふくろに預けて、東京に出て稼ぐことにしました。上京してからは、それこそ遮二無二、昼も夜もなく働いたものです。宅地の造成とか、ガスの配管工事とか、土工の仕事でした。それで何とか借金は返したんです。三〇歳くらいまでかかりました。

■皇后陛下の控え室を作った

 それからは「町トビ」の組織っていうか、会社で働きました。町トビというのは、江戸火消の伝統を引き継いだもので、僕が入ったのは池袋にあった「七番組」でした。イベント会場の設営をしたり、大きなホールなどの内装をするのが仕事です。正月の消防の出初め式の会場を作ったりもしました。
 昭和天皇が病気になったときには、宮内庁病院の部屋を模様替えして皇后陛下の控え室にしたんですが、それも僕らの仕事でした。それから逝去のときに執り行われた大喪の礼の新宿御苑の会場も作りましたよ。
 皇室の仕事をするのは、手続きが大変でね。でも、普通の人では入れない皇居に入れたし、あれが町トビの仕事の一番の思い出です。
 町トビを辞めた後は、また土工の仕事に戻って、千葉県にある新日本製鉄の君津工場とか、富津の火力発電所の工事、さらにはゴルフ場の造成工事なんかで働きました。おおむね千葉方面での仕事が多かったですね。
 ところが九七年のことでした。やっぱり千葉県の木更津にある港の工事で働いていたとき、急に寒気がして立ってられないくらいになりましてね。その日は飯場で休ませてもらったんですけど、次の日になって右足が腫れてすごいことになってしまった。すぐに病院に担ぎ込まれたんですが、医者から「治療が後少し遅れていたら、右足切断だった」といわれましたよ。
 働いていた飯場は田んぼの上に建てられていて、ジクジクと湿っぽいところでした。風呂も田んぼの地下水をくみ上げた汚い水を使っていました。その水にバイ菌が含まれていたんですね。それが右足の擦り傷あたりから入ってきたんだろうと思います。結局、病院には四ヶ月も入っていました。
 九八年二月に病院を退院してからは、東京に戻ってきました。でも、仕事が見つからない。アパートを借りるカネもなくなってしまっては、ホームレスになるしかなかったんです。右足のほうは治って、完全によくなりました。ただ、一方で九四・九五年ころから、左脚に破傷風の発作が、毎年一回は出るようになっていたんです。秋から冬の季節の変わり目によく出ますね。突然、高熱に襲われて、けいれんを起こすんです。そのたびに救急車で運ばれて入院するんですが、どうしても治らないですね。
 仕事さえあれば、まだまだ働く意欲はあります。土木の仕事は誰にも負けないつもりですし、ガードマンの仕事だってあればやろうと思ってます。でも、仕事はないし、あっても長い期間続くのはありませんからね。

■北海道には帰りたいけど

 やっぱり、若いころに嫁さんに逃げられて、それから人生が狂ったような気がしますね。美人というだけで、家のことは何もしない嫁さんでした。それでも、いなくなってみると恋しいもんですね。
 ただ、結婚はそれで懲りました。その後、再婚を勧めてくれる人もあったけれども、結婚はしませんでした。子どもを預けていた親に、またまた迷惑がかかるようなことになってもいけないと思ったしね。
 北海道に残してきた娘は、九九年で二五歳になります。僕のおやじは今、寝たきりの状態で入院しているんですが、「その面倒をよくみてくれるんで助かる」って、おふくろがいっていました。時々ですが、電話を入れて話をするんです。もちろんホームレスをしていることは、内緒にしてありますがね。
 娘とも電話で話しますよ。「お父さんが北海道に帰ってくるのは、死んでお骨になってからよね」などと娘からはいわれてます。本当は娘にだけは会って、顔を見てみたいと思っているんですがね。
 しかし、北海道に帰ったところで、こっちよりも景気は悪いんでしょう。農業をするのもままならないっていうしね。帰りたい気持ちはあるけれども、帰ったところでどうなるというわけでもないのでね。まあ、景気がよくなることだけが願いです。景気がよくなって、仕事さえあれば、何とかなると思うんですよね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/最愛のおっかあは粉々に・角田浩一(五八歳)

■月刊「記録」97年10月号掲載記事

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■夢の土地はだまし取られた

 タンスの上に置いていたちり紙の束が、すごい音をたてて畳に落ちたんだ。普通ならば音をたてるはずもないのに、バサっという音が家中に鳴り響いた。その音で飛び起きたほどだ。その数分後、駐在のおまわりさんが飛び込んできた。
「おめえのおっかあ、電車に飛び込んだぞ」
 聞いたときはぼう然とした。何だかわけもわからぬまま、駐在さんに引きずられるようにして現場に行った。駅員さんや警察官が総出で、粉々になったおっかあを集めていた。おれも小さくなったおっかあを、一つずつ拾い集めていったよ。バケツに少しずつおっかあが集まっていく。それがつらかった。
 空にはおっかあの肉を狙っているカラスが飛び回り、ガーガーと鳴き続けていた。その声を聞きながら、おれは自分を責めていた。おっかあが自殺したのは、おれのせいだとね。
 一九三九年、埼玉県の久喜に生まれた。ヒロポン中毒の義父はおふくろを抱くためだけに結婚した。家計を支えていたのは、ホステスをしていたおふくろだ。そんな状況だったから、学費は自分で工面するしかない。新聞配りから牛乳配達まで何でもした。でも、どうにか稼いだカネさえ家に置いておけないんだよ。義父に盗まれてしまうから。仕方なく、他人の家にある柿の木の根元に穴を掘り、少しずつためていったんだ。
 そこまで頑張って高校に入学したが、やはりカネが続かなかった。仕方なく中退し、和食・すし・中華料理と日本中の料理屋で修行を始めた。厨房に立てば、給料のほかにチップが入る。一八歳から始めて二一歳のころには、七〇万円も貯金を持っていたよ。当時の初任給が一万円弱のころだったから、かなりの額だ。
 そんなとき、おっかあに出会ったんだ。おれより二つ上の二一歳。宮城県出身のホステスだったが、とにかく辛抱強くて、性格がよかった。すぐ結婚を決めたよ。貯金をはたいて権利金を払い、新居を構える代わりに貸店舗ながら埼玉県浦和市にすし屋を開店した。当時の売り上げが四万円、粗利が二万円ほどあったから、同い年のサラリーマンの倍以上は稼いでいた計算になる。
 そのうえおれは趣味の山登りと酒を飲むくらいにしかカネを使わなかったから、どんどんカネはたまっていった。おれが二六歳、店を始めて五年たったころには、埼玉県上尾市に七二坪の土地を買っていたほどだ。自分の土地で、自分の店を持つ。それはおれの、そしておっかあの夢だった。おれたち夫婦の幸福を約束してくれる土地。おれたちはそう考えていた。
 ところがこの土地に目をつけたのがおれの兄だ。おっかあをだまして、手に入れた権利書を売っちまった。彼女は身よりの少ない家庭で育ったから、何よりも身内を大切に思っていた。頼みを断れなかったんだろう。しかも兄に権利書を渡したと、おれにいえなかった。店の設計図面を持って上尾に行ったとき、土地が他人に渡ったことを初めておれは知った。

■七八〇万円が一週間で消えた

 店を出すには好条件の土地だったから、せめて土地を売っていなければな。落胆したよ。どうしておれに話してくれなかったのか、おっかあにも怒ったが、どうしようもない。もちろん、おっかあも絶望の淵にいた。自分のせいで土地がなくなったんだから。
 彼女が自殺をした日、体の調子が悪かったのに息子を幼稚園に送るといってきかなかったんだ。おれが送るというのも振り切って、「どうしても送りたい」と息子を連れていった。死ぬ気だったんだろうな。
 おっかあが残した保険金は、手元に残したくなかった。七八〇万円が一週間で消えた。使い切れなくて、一〇万円単位でホステスに配ったりもした。四歳の息子の腕を引いてバーに陣取り、浴びるように酒を飲み、カネをばらまいていたから異様な光景だったと思う。
 結局、おっかあとの思い出がつまっている店は閉めることにした。だいたいおっかあがいなければ、息子を置いて出前に行くわけにもいかないから、売り上げも激減していたんだ。
 それでも息子は育てなければならないし、おふくろも養わなくちゃいけない。だからおっかあを思い出さないように、がむしゃらに働いた。中華そば屋やキャバレーを出したこともある。どこもそれなりに繁盛していた。なかでも神奈川県の川崎市に出した中華そば屋は、客が入っていたよ。でも、この店も最後は手伝ってくれていた人にあげちゃった。店をやっていると、どっかでおっかあを思い出すからつらかったのかな。本当のところは自分でもわからねえな。でも、ほしいっていうからやったよ。
 そんな理由で、一時期包丁を置いて運送会社で働いたこともあったんだ。おふくろに息子を預けて、トラックを転がした。これはもうかった。その後、飲食関係の職場に戻ったりもしたけれども、ホームレスになる前の一五年間は、タクシーの運転手をしていた。
 どの仕事でも生活できるだけの給料は稼ぎ出していたし、働くのも好きだった。それにギャンブルや女に狂ってもいないから、カネに困るはずもなかった。ただ友人がつくった借金の保証人になったのが、運の尽きだよ。 一緒に山を登った仲間から「判をついてくれ」と頼まれて、五万円くらいの金額ならば断れない。軽い気持ちで引き受けた。ところがその後、友人はおれへの相談なしに借り入れ金を増やしていったんだ。友人が失踪したときには、七五〇万円もの借金を背負っていた。
 タクシー運転手をしていたころは、月二七万円の給料から二四万円を借金の返済にあてていた。生活が厳しくても、借金の返済をあきらめようと思ったことはなかった。
 ところが五〇歳も半ばをすぎたころになって、おやじ・おふくろ・弟・孫が立て続けに死んでいった。腹違いの弟は、まだ四二歳だったのに、頸動脈が破裂してあっけなく死んじまった。ふと気づけば、自分を頼りにしてくれる人は誰もいない。おっかあをなくしたとき心の支えだった息子とも仲違いしていた。
 心に穴の空いたおれを、さらに突き落としたのは弟の嫁だった。九六年七月、おれが墓を訪れたときのことだった。そこで見たのは二つの墓石。弟の名前が刻まれた墓石が、親族一同の墓石の横に立っていたんだよ。同じ墓の敷地に、二つも墓石があるのは変だろう。早死にした一族が安らかに眠れるようにと、おれが祈りを込めて買った墓に、血を分けた弟の墓石を別に立てたやつがいたのさ。
「お兄さんはいなくてもいいのよ」
 どうして弟だけ別に墓石を立てたのかと問いただしたおれに、義理の妹は吐き捨てるようにいったよ。弟夫婦は同じ墓に入りたくないほどおれが嫌いで、別に墓石を作ったらしい。残った親族すら相手にしてくれない自分が情けなかった。
 人の借金まで背負い込み、どうして働き続けているのか。この事件をきっかけに、疑問はだんだん大きくなっていったんだ。きっかけさえあれば暴走していく予感はあった。

■警官を殴っていた

 墓参りから一〇日ばかりたった夜、仕事途中になじみのウナギ屋で旧友に会ったんだ。結局、そんな小さな偶然がきっかけになった。
 おれは不自然にはしゃぎ、酒を流し込んだ。店先に何時間もタクシーを置いておけば、当然目立つ。チェックしていたんだろう。酔いの回ったおれが運転し始めると、すぐにパトカーがマイクで停止を指示してきた。目の前に赤信号。左に寄せて停止すれば、免停ですんだはずだ。でもおれはアクセルを踏んだ。追っかけるパトカーを振り切るために急停車と急発進を繰り返し、ぎりぎり通れる路地を疾走した。もちろん逃げられるはずもないけどな。
 やっと停車したおれの車の窓に首を突っ込んだ警官は、「酒に酔っているね」とつぶやいたんだ。その途端、おれは警官のあごを殴っていた。苦痛にゆがんだ警官の顔を見て、さらに二発目をたたきこんだ。結果は、罰金五万円と二〇日間の拘留、さらに三年間の免許停止。そして職を失った。
 拘留中の態度も悪かったから当然だろうな。何たって捕まってから三日間、飯を食わなかったんだから。やけになっていたんだよ。普通に考えれば、少しでも警官の心証をよくしておくべきだ。でも、おれは反抗した。どうにもならない自分の人生に、かみつきたかったのかもしれないな。
 警察から解放されると、次は借金取りが待っていた。それこそ二四時間襲ってきた。職もないんじゃ、カネを返せといわれてもどうしようもない。仕方がないから、家を捨てたんだ。

■ただただ涙だけが流れ続けた

 手持ちのお金二七万円を持って、まず鬼怒川温泉に行った。最後のぜいたくだと思ってね。六日間、いろいろな宿に泊まった。
 温泉を選んだ理由には「どこかでもう一度、旅館の板前になれないか」なんて思いも確かにあった。でも、出てくる料理を見て、やっぱり旅館には勤められないと感じた。器が違うんだ。有田焼なんかの大きな器に、料理が盛られている。おれが学んできた盛りつけとは、まったく違うんだ。皿の模様を生かす盛りつけだからな。料理人に戻るというはかない夢もあきらめて、おれは路上生活を選択した。親族への体面など、もはや気にする必要がなかったしな。
 そんなおれに次の不幸が襲ったのが、新宿に来て三日目だった。カネも服も靴も盗られちまったんだ。はだしで歩いている自分がみじめだったよ。そのとき、心から死にたいと思ったんだ。酒びんを抱えて、朝の五時からJR総武線のホームで飛び込む機会をうかがった。電車が近づくたびにホームの端まで迫ってみたが、どうしても死ねない。飲んでも飲んでも不思議と酔わない。ただただ涙だけが流れ続けた。電車に飛び込んだおっかあを思い出していたのかもしれないな。結局、終電まで粘ったが飛び込めなかった。
 おれは生き残った。でも、その日から心が死んでしまったんだ。生きるために必要な「心の張り」が消えたんだ。寝たまま目が覚めないことが、今の一番の願いだ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/怠け続けた人生だった・遠藤良一(五九歳)

■月刊「記録」99年2月号掲載記事

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■兄弟全員父違い

 うちは男だけの三人兄弟でしたが、ちょっと複雑でしてね。三人とも父親が違うんですよ。
 私が長男で、一九四〇年に生まれました。生まれてすぐに、父親は陸軍に招集されて中国大陸へ送られたようです。どうせ下っ端の兵隊でしょうがね。それで牡丹江というところで、戦死したらしいです。父親については、それしか知りません。母親が教えてくれませんでしたからね。どんな父親で、どんな仕事をしていた人なのかも全然わからないんですよ。
 母親が再婚して、すぐ下の弟が生まれました。ただ、その再婚した相手の人は、韓国籍の人だったようなんです。戦争中だったこともあって、その人の名は戸籍には載っていません。だから、その弟は母親の私生児ってことになっています。
 そして母親は、その二番目の夫とも別れて、三人目の男と結婚するんです。どういう事情でそうなったのか、私は小さかったし、わかりません。結局、その男が、私の育ての親ってことになります。

■親にだまされて少年院送り

 これが、ひどい親でしてね。定職もなくて、職場を転々と変えてばかりでした。そのうちに、母親とその男の間に子どもができたんです。私にとっては、父親の違う二番目の弟になります。それからは、私達、上の二人の兄弟への、継子いじめが始まりました。いじめに、いじめられましたね。
 そんな義理の父親のいじめと、男を次々に変えるだらしない母親に育てられて、うまく子どもが育つはずありませんよね。小さいころから、親や教師の目を盗んで、怠けることばかり考えている子でした。
 中学を終えて、いったんは就職しましたが、すぐに辞めて、また就職して、すぐに辞める。そんなのを繰り返しているうちに、家でブラブラしていることが多くなって……。今でいう家庭内暴力が始まったんです。自分でも頭がおかしくなったんじゃないかというくらい、ひどい暴れ方でした。母親に殴りかかってけがを負わせる。ナイフで畳をズタズタに切り裂く。障子をメチャクチャにたたき壊す。とにかく、母親への憎悪がすごかったです。
 たまりかねた母親が、警察にでも相談した結果だと思うんですが、国分寺市(東京都)にあった関東医療少年院に入れられました。母親につき添われて入院したんですが、「てんかんを治療する」という口実でした。確かに私には小さいころからてんかんの持病があって、それを直すために、てっきり普通の病院に入院するんだと思っていました。ところが、行った先は少年院だったわけです。二年入ってました。
 少年院を出てからは、もう家には寄りつきません。山谷のドヤ(簡易宿泊所)に泊まって、日雇いで働いたり、ブラブラ遊んで暮らす生活になっていました。二三歳のときには、ドヤで知り合った仲間に誘われて、松戸市(千葉県)にある民家に押し入りました。要するに強盗を働いたのです。仲間四人で、手に手に出刃包丁を持って、深夜の寝込みを襲いました。こわかったです。何しろ初めてのことなんで、すごくこわかった。どうやって逃げ出すのか、そればかりを考えていましたね。
 家人が差し出したカネを仲間の一人がふんだくり、あとは夢中で逃げました。何とか逃げきって、盗み取ったカネを四人で分け合ったのですが、結局、一人当たりの取り分はいくらにもなりませんでした。
 それからは、身を隠すようにして、川崎市(神奈川県)や町田市(東京都)あたりにあった飯場を転々としました。でも、この逃亡生活のほうが、強盗したときよりもずっと苦しくてこわかったですね。飯場を変わるたびに、「自分の手配書が回っているんじゃないか。いつか突然、警察官が踏み込んで来るんじゃないか」と考えてしまうからです。それを心配し始めると夜もオチオチ寝てられないんです。
 とうとう耐えられなくなって、三ヶ月後には警察に自首して出ました。そのときの気持ちは「助かった」というか、「ホッとした」いうか、すごく気持ちが楽になったことを覚えています。裁判で懲役三年の実刑判決が下り、甲府市にある刑務所に入りました。

■弟への無心も手が尽きて

 刑務所を出てからは、ずっと日雇いの土工で働いてきましたが、子どものころからの悪い癖で、仕事は怠けるし、嫌になると黙って辞めちゃう。それの繰り返しでした。ただ、つい最近まではそんないいかげんな仕事ぶりでも、働き口はいくらでもあったんですね。高度経済成長とか、バブル景気とかがあって、私のようなものでも収入を得てやってこられたわけです。
 大阪に一〇年ほど行っていたこともあります。大阪で万博(日本万国博覧会)が開催されていたころで、当時は関西のほうが景気がよくて、日当も高かったんです。よく飛田新地に行って、女を買って遊んだりしました。 女は好きですよ。でも、結婚はしませんでした。手に職があるわけじゃないし、ドヤと飯場をわたり歩いている生活で、結婚なんてできませんよ。アパートだって、これまで一度も借りたことがないんですからね。
 しかし、バブル景気が崩壊するまではいくらでもあった仕事が、最近ではだんだんに減り始めてきました。それでも、九八年の五月までは細々ながらも何とかあったんですがね。例の悪い癖で、その月に黙って飯場を飛び出しちゃったんです。
 ところが、ここからがいつもと様子が違っていました。飛び出してからは仕事はサッパリ、まったくありません。すぐ下の弟に無心して、何とかかんとか食いつないでいましたが、それも尽きましてね。野宿をして暮らすようになりました。
 まだホームレスになりたてで、どうしたらいいのか、よくわからないんですよ。夜は地下広場に行って、みんなが寝ているところに割り込ませてもらっています。飯は、朝にボランティアの人が配ってくれるニギリ飯一個という日が多いです。仕事はないし、これからは寒くなるし、途方に暮れるばかりです。 (■了)

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ホームレス自らを語る/おれには孤独の菌が巣くう・遠藤四郎(六八歳)

■月刊「記録」97年11月号掲載記事

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■新婚はたった三日間

「おまえには孤独の菌が巣くっている」と、友人にいわれたことがある。おれの周りには、誰も居着かないんだ。死んだ人もいるし、去っていったやつもいる。たまに幸せになったかと思うと、すぐに孤独がやってくるんだ。
 最初に去っていったのはおやじだった。自殺によって……。
 太平洋戦争の前までのウチは金持ちだったよ。瓦職人だったおやじは常時一〇人以上を雇っていた。おれが小学校に入学したときには、新しい服を上から下まで用意してくれた上に、ランドセルまで買ってくれたんだ。ところが終戦のどさくさで、おやじは事業資金をだまし取られ、首をつった。
 次はおふくろだった。
 小学校を卒業し、東京・亀戸で旋盤工として働いていたおれに、いきなり「病気で死んだ」と知らせが入ったんだ。まだ戦争の爪跡が色濃く残っていたころだよ。しかもおふくろの死は、貧しかったおれからカネも奪っていった。治療費やら葬式代やらで、「必要だから」と一緒に住んでいた親族から催促があったんだ。断れないよ。酒代を減らし、身を切るようにしてためてきた一〇万円がそこで消えた。一九五〇年代初頭だから、ヒラの銀行員のン年分くらいはある大金だったよ。でも「使った分以外は返す」という約束は守られなかった。
 そして最初の女房との別れを、おれは経験する。たった三日間の新婚生活を思い出に、彼女は逝っちまったんだ。
 女房の知子と知り合ったのは、五三年、おれが二四歳のときだった。義理の姉さんが経営していた酒場で出会い、次の日からつきあいが始まった。夜勤の旋盤工として働くおれのために、毎日弁当を作って会社に届けてくれた。おとなしくて、優しい性格だった。なかなかの苦労人だったらしいよ。
 しかも美人なんだ。おれと知り合う前には、ダンサーとして有楽町で働いていたらしい。ハイヒールをはいて踊っていたというから、ラインダンスでも踊っていたんじゃないかな。もちろんスタイルは抜群。おれより一〇センチも身長が高かったからね。
 身持ちの堅い女で、毎晩会っているのにどこに住んでいるのか教えてくれない。一ヶ月ほどたって、ようやく彼女が住んでいる寮を訪ねることができた。真剣に愛していたから、すぐ結婚を約束したよ。数日後には籍を入れ、彼女の部屋で一緒に暮らすことになった。彼女の寮仲間が結婚を盛大に祝ってくれて、やっとおれにも幸福が舞い込んできたと思った。
 ところが暮らし始めて三日後、彼女が倒れた。知り合いの医者が世田谷区の東急二子玉川園駅近くにいたから、あわててタクシーで連れていったが、医者は彼女を診察するなり、「もって一週間でしょう」なんていう。思わず「どうにかしろ」とつめ寄ったけれども、いくら医者をどなっても、こればっかりはどうしようなかった。 実は彼女の肺は、このときにはほとんど動いていなかったんだ。彼女も自分の肺が悪いことは知ってはいたが、かわいそうにおれには言い出せなかったんだな。好きだから一緒になりたい。でも自分の命も長くない。そんな葛藤を抱えていたんだ。
 仕事の合間を縫ってできる限り病院を訪ねたよ。医者から「遠藤さんは本当によく来るね」なんていわれた。少しでも長く会いたかった。彼女も頑張って、入院してから一ヶ月も持ちこたえけれど、結局ダメだったね。会社に危篤の知らせが届き、病院に駆けつけたときにはもう意識がなかった。半狂乱で医者をどなりつけたが、死んじまったものは戻らない。

■新興宗教にのめり込む

 知子が死んで、おれの心にぽっかりと穴が空いた。寂しさを埋めるためにのめり込んだのが新興宗教だった。人の一生なんか、いつどうなるかわからないという思いが、おれを宗教に向かわせたんだと思う。だから一生懸命布教したよ。入信させた人数は、いつも地区でトップだったほどだ。
 人から悩みを相談されたときは、一緒になって悩んであげる。若い女性なんかは、それだけで入信するんだ。笑うかもしれないけれど、おれは命がけで布教していた。だから数千人を束ねる地区の班長にもなれたんじゃないかな。今から考えればうそみたいだけれども、当時は大勢の人の前で話すことも、全然苦痛じゃなかった。説得すれば、かなりの人が入信してくれる自信もあった。 でも、これだけ力を入れていた宗教団体からも、おれは追い出された。原因は布教方法だ。おれは布教のとき、わかりやすい言葉で教義を説くようにしていた。最初に理解するのは教義の一部分だけで十分で、入信してから少しずつ理解を深めてくればいいと思っていたからだ。でも幹部は、その方針に反対だった。
 おれも命をかけてやっている布教だったから、あいまいには引き下がれない。結局、幹部と論争になって、おれは放り出されたというわけさ。まあ、いまだにその教義だけは信じているけれども、この論争以降、教団の宗教行事には出席できなくなった。
 知子も死に、生きがいだった布教もできなくなり、人の多い東京で暮らすのが、おれにはつらくなった。だから信州・上田にわたって、製材工として働くことにしたんだ。
 木はいいよ。一本丸太から角材や板を切り出す作業は、知子やおふくろを忘れさせた。少しずつ「孤独の気」もなくなっていくようだった。
 でもいくつかの後遺症は残ったね。まず貯蓄をしなくなったこと。カネをためるのがばからしくなったんだ。どうせいつ死ぬかわからないという気がしてね。それと職を転々とするようになった。上田の製材所では、五人ほどの若い従業員のかしらだったから、それなりの給料をもらってはいたけれども、一ヶ所ににじっとしてはいられなかった。
 何でかな。丸太の渡し、解体屋、飲み屋の亭主、木こりと、ありとあらゆる仕事を転々としたが、いつでもしばらくすると、何か新しいことをやりたくなる。守りたいものがなくなったからかもしれない。

■淫乱の虫を飼った女

 結局は再び東京に出てきて、何度か結婚した。そのうちの一人が君子。だが、これがひどい女だった。とにかく尻が軽い。仕事から帰って九時くらいには一緒に布団に入るんだが、夜中になるとこっそり家を出ていってしまう。結婚当初からそうだった。でもおれは何もいわなかった。他人の事情を聞くのが嫌いなんだ。いや、単に真実を知るのがこわかったのかもしれない。結婚してすぐに息子も生まれたが、君子の生活は変わらなかった。 そのうち彼女の仕事仲間から、とんでもないうわさを耳にした。結婚後も彼女は新聞の配達員として働いていたが、仲間のほとんどが彼女と関係していたというんだ。解体の仕事が休みのときに、彼女の仕事を手伝いに行って聞かされたから驚いたよ。
 毎日毎日、男をとっかえひっかえするのは尋常じゃない。だから病院にも連れていったが、「この病気は治らない」と医者にいわれた。この女は、「淫乱の虫」を股に飼っているんだと、心底思ったよ。
 そのうちに入園したばかりの息子を残して、彼女は家を出ていってしまった。新聞屋の金持ちをたらし込んだらしい。それからはおれが、毎朝息子に弁当を作り、幼稚園まで送っていった。仕事が終われば真っ先に幼稚園に飛んでいき、息子の手を引いてアパートに帰る生活が二年は続いたかな。でも小学校入学を前に、出ていった君子に預けることにした。やっぱり息子には母親が必要だからな。
「お母さんをしっかり守ってやんなさい」と息子にいったら、うなずいていたよ。五歳じゃわからなかっただろうけれども……。それ以来、息子には会っていない。 八三年のことだ。高田馬場で昔の友人にばったり会ってしまったことがある。友人は二七歳になった息子におれに会ったことを連絡したらしい。息子はおれに会うために飛んできたようだが、おれは逃げたよ。息子は君子の下で働いていたと聞いていたから、おれに会えば無用な争いが起きる。「会ってはいけない」と思ったら逃げるしかなかった。

■新宿で得た平穏

 君子と正式に別れてから一年後くらいに三歳下の好恵と結婚した。新聞屋の売店で働いていたおれに、彼女はなぜか自分から寄ってきた。「おじちゃん、おじちゃん」なんていってね。
 おれも三四歳にもなっていたし、結婚なんかするものか、と思っていたが、なついてくる好恵はかわいい。仕事が終わってからラーメンを食べたり、映画をみたりしているうちに彼女のアパートで暮らすようになった。籍を入れてしばらくすると娘もできた。
 でも、娘の七五三を見ることはなかった。結婚して三年後には、妻が娘を連れて家を出ていったんだ。暮らしていたアパートに男を引きずり込んだ形跡があったから、その男のところかもしれない。女房からは何も聞かされていなかったけれどな。その後は、一切音信不通。娘の顔もそれ以来見ていないから、横を通ってもわからないだろう。
 それからも転職を繰り返し、五年ほど前に解体の仕事をクビになった。理由は年を取りすぎて危ないから。すぐにアパートを追い出され、放浪が始まったよ。池之端では「カネを盗んでこい」と、ホームレスの仲間からいわれたのが嫌で逃げ出した。江戸川では賽銭泥棒を強要されて離れた。悪さをしてまで生きていたくないんだ。おやじが生きているまでは金回りもよかったし、その後は自分で稼いできたから、人様のカネを盗むなんてしたことがない。仕事も好きだったし、今でも働きたいと思っているくらいだからな。
 新宿に来て、やっと平穏に暮らせるようになったよ。これだけのことがあっても、女房を殴りつけたことも、くわしく事情を問いただしたこともなかった。知子と死に別れて以来、深く人と関われずに孤独と隣り合わせで生きてきた。でも、この新宿では信頼できる仲間もできた。ときおり襲う寂しさには、「南無妙法蓮華経」を唱え、毛布をかぶるようにしている。 (■了)

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ホームレス自らを語る/離婚がすべてを狂わせた・井上宏(五一歳)

■月刊「記録」97年11月号掲載記事

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■頑固な妻に嫌気がさして

 結婚したのは二六歳のとき。そのころ、私は医療写真専門の現像所で働いていて、嫁さんもそこで一緒に働いていた。ただ、同僚たちには「あの女はサゲマンだから」と結婚を反対された。うちの家族にも反対された。嫁さんは小柄で体も弱かったからね。でも、ほれた弱みっていうか、私には魅力的な女だった。
 東京・赤羽にアパート借りて、最初は強引に同棲しちゃったんだよ。結局、二年後に子どもが生まれた。男の子だった。ところが、嫁さんの産後の肥立ちがよくなくて、「田舎に帰りたい」と言い出した。それで、写真の仕事は休職して、一家三人で嫁さんの田舎である徳島に帰った。もちろん、また東京に戻る約束でね。

 ところが、田舎で暮らすうちに嫁さんの体調はすっかりよくなったのに、「もう東京には戻りたくない」と言い出した。それからゴタゴタが始まった。もう毎日「戻る」「戻らない」の繰り返しだった。
 私としては戻るつもりで休職したわけだから譲れなかった。それに、徳島では郵便局の非常勤職員で働いていたが、日当は三〇〇〇円と、小遣いにも足りない額しか稼げず、一家三人なんてとても養っていけない。嫁さんの実家に入って、生活費の面倒はみてもらっていたが、初めのうちは歓迎してくれていた嫁さんの家族も、長くなるに連れていづらい雰囲気を漂わすようになってきた。
 もっとも、嫁さんの気持ちもわからなくもないんだ。生まれたところに帰って親兄弟に囲まれていれば、もう東京にUターンするのは嫌になる。誰だってそうだろう。徳島もいいところだよ。でも、それをいうならば、私には東京こそがふるさとだからね。
 私は、東京に戻るという約束がホゴにされるし、思うように稼げないから当然面白くない。嫁さんは嫁さんで「戻らない」と頑固一徹だから、夫婦ゲンカが日常茶飯事になってくる。いがみ合ってばかりいるうちに愛情なんてものもなくなっていった。もう、嫌気がさして、我慢も限界だった。ついに三二歳のときに別れることになった。

■区役所に住民票がなかった

 私は群馬県に生まれて、二つか三つのとき一家で東京に出てきた。小さいころのことだからよくわからないんだが、どうもおやじの重婚がバレて逃げるようにして出てきたようだ。
 上京してからのおやじは何度か事業を起こしては、そのたびに失敗をして、生計を立てられない生活力のない男だった。その分、母親が男勝りな人で池袋で飲み屋を始めて、それで家計をまかなっていた。ただ、そんなおやじでも子どもの私にはいい父親だった。一緒に遊んだり、スポーツの相手をしてくれた。今でも植木いじりが好きなのも、おやじに教えられた影響なんだよ。

 高校へ入学するとき、住民票を取りに区役所へ行ったら「ない」といわれた。群馬を逃げるようにして出てきたので、住所を移すことができなかったらしい。住民票が取れなくてはどうしようもないので、家庭裁判所で書類を作ってもらって、やっと入学できた。
 高校は都立の普通高校だったが、ちょっと変わっていて、午前部、午後部、それに交替部(夜間)の三部制の学校だった。生徒はその日の都合で、三部のうちのどれかに出席すればいい。定時制高校とは違って、自衛隊員とか、看護婦のような、不規則な仕事をしている人のための四年制高校といったところだね。
 その高校を卒業して、先に話した医療関係の写真を専門に現像する会社に入ったわけだ。もともと写真が好きで、高校生のころもよく夜行列車に乗って、信州に写真を撮りに行ったりしていた。仕事は現像をしたり、引きのばしたり、デュープ(複製)を作ったり、毎日が面白かった。

■子どもは一度も会いに来ない

 嫁さんと別れて、一人で東京に戻ってきたが、もう前の会社には戻れなかった。一応は休職ってことで徳島に行ったけれども、何しろ三年間も放っておいたし、徳島での生活費に困って退職金までもらってしまっていたからね。
 それからは、いろいろやったよ。一〇本の指ではおさまらないんじゃないかな。スーパーや一部上場の工場で働いたこともある。でも、一人だけだとどうしても気力も続かなくて、すぐに我慢できなくなっちゃうんだ。最後は、アスファルトの検査をする仕事だった。辞めたのは九四年かな。

 退職にともなって社員寮からも立ちのかねばならなかったので、母親のアパートの部屋に居候させてもらって、また住み込みで働ける仕事を探した。しかし、この不況でこの年だから、なかなかそんな仕事はない。たまに土木の仕事なんかがあるのだが、今まで経験したことがないのでしり込みしてしまうしね。
 そのうち、母親の部屋代とか面倒をみてくれていたのが腹違いの兄だったこともあって居候もしづらくなってきて、サウナや映画館のオールナイトで過ごすことが多くなった。そのうちに、中に衣類とか保険証なんかが全部入っていたバッグをコインロッカーに入れたまま、何日も放っておいたら処分されてしまった。それで、この新宿西口地下広場に寝泊まりするしかなくなったんだ。
 私は、今でもね、自分が生きていくためのカネは自分で稼ぐのが当然だと思っている。だから、炊き出しとか、ボランティアが配るおにぎりとか、一度ももらったことはない。仕事っていうのは、新聞ででも何でも自分で探すものだと思っている。
 今はね、主に使用済みのテレホンカードを集めて回っている。これが、一枚七円から八円で引き取ってもらえるんだ。ついでに雑誌があれば拾うし、信販カード、電車の定期券なんかでもカネにかえられるから拾っている。そうやって、五、六万円は月に稼いでいる。
 今では「こんな生活も、カネがないんだからしょうがない」というあきらめの境地にある。小屋の住み心地はよくない。ちゃんとした布団の上で生活するのが本当だろう。自分だって好き好んで、こういう暮らしをしているわけじゃない。
 こうなったきっかけは、結局は離婚だったかな。その挫折感のようなものが、何だか、続いているのかなって思うね。自分ではそうは思わないんだけど、みんなにサゲマンとかいわれたところをみると、やはりそうだったのかとも考えるよね。
 ただ、子どもがね。離婚したときには四歳のかわいい盛りで、私にもなついていて、別れるのは本当につらかったよ。考えてみれば私の親も重婚とか離婚をしているんで、これも血なのかなって思う。

 子どもは大切に思っているから、いつか修学旅行などで、子どもが東京に出てきたときには会いにくるかもしれないと思って、再婚はしなかった。子どもが二〇歳になるまでは、結婚しないって自分で決めたんだ。でも、一度も会いには来なかった。今、どうしているのか。うわさも聞かないね。
(九七年九月取材)

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ホームレス自らを語る/一生に三度の倒産・園部俊彦(五二歳)

■月刊「記録」98年4月号掲載記事

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■バイク・カメラ・ジャズが趣味
 休日はバイクに乗るのが好きだった。愛車はホンダのCB二五〇。使い慣れていたニコンのカメラを積み込み、西へと向かう。特に行く場所を決めてはいなかったけれども、奥多摩や相模湖・津久井湖・山中湖なんかによく足を運んだ。高速道路を使わないで走るのが好きだったから、バイク好きがコーナーを攻めることでも有名な大垂水峠にもよく通った。曲がりくねったカーブも面白いし、何よりおいしい空気と景色があった。
 疲れるとバイクを止めて写真撮影に向かう。カメラにはかなり凝っていたからリバーサルフィルムを使っていた。紙に現像するんじゃなくて、スライドにして保存しておくんだ。本当によく撮ったね。
 家に帰れば音楽が待っていた。ジャズやラテン音楽が好きだった。コンポでお気に入りのCDを聞くのは最高だった。ジャズは近年の激しいものより、八ビートをしっかり刻んでいる古い曲をよく聞いた。ジミー・スミスなんか、繰り返しかけていたっけね。
 結婚もしなかったからカネもあった。なかったのは時間だよ。時間ができたらカメラを担いでバイクで日本一周したいなんて、そのころは考えていた。今じゃ、ひまがあっても飯にさえ困るというのに。いつの間にか、実現できない夢になったな。

 生まれ故郷は茨城県だ。工業高校で電気を勉強して、卒業後に電気部品を扱うメーカーに就職した。数回、会社を変わるうちに、あらゆる電気部品にくわしくなった。強い電気が流れる配電盤や、弱い電気で動く家電まで、電気関係ならばおよそどんな仕事でもできる自信があったよ。
 今、思えば、あの自信がアダになったな。自分でやってみたくなったんだ。男だったら誰だって、自分で事業をやってみたいだろう。それに、会社が得意先に出す仕事の見積もりを見るたびに、安い給料で働くのが嫌になったんだ。一九八三年、三八歳で会社を興した。会社といっても、自分一人の会社だったけれどね。東京都稲城市のマンションを自宅兼事務所にして始めた。
 コンピュータ部品や医療用電化製品の組み立てが主な仕事だった。幸い、親会社が必要な機材を提供してくれたから、設備投資にカネをかける必要もなし。おかげで借金もしなくてすんだんだ。
 会社を興してしばらくは順調そのもので、サラリーマン時代の月給を上回る収入も得たし、何より自分のために働いているのがうれしかった。

 ところが従業員一人の会社なんて、つぶれるときはあっけないもんだった。八八年、僕が四三歳のときにいきなり倒産。営業センスと事務能力がなかったのが、致命的だったんだろう。僕は職人肌だからね。採算が合わないと思っても、ついつい時間をかけて仕事をしてしまう。それを止める人もいないから、自分が納得するまで頑張ってしまう。
 職人だけでは会社は持たないよ。営業と技術屋の両方がいないとな。あの本田宗一郎だって、彼の右腕になった営業マンがいたっていうじゃないか。僕は気がついたら、どうしようもない状態にまで追いつめられていた。もう、会社をたたむしかなかった。
 堅実な経営をしていたから負債は少なかったが、ショックは大きかったよ。しばらくは何もしたくなかったね。でもまあ、働かないわけにもいかないから、電気関係の仕事を探したんだ。ところがこれがない。預金で食いつないでいたけれど、三ヶ月たっても仕事が見つからなかった。当然、カネはどんどん減っていく。仕方がないから、知り合いの建築関係の会社で働くことにしたんだ。

■五〇歳に雇い口なんかない
 ビルの壁に不燃材を吹きつける仕事だった。僕が入社する数年前までは、ボロもうけだったらしい。でも、最初は建築現場で働くの嫌でね。好きだった電気の仕事から離れるのもつらかったし、こわい世界だと思っていたんだ。いかつくて、ガラの悪い男がどなりながら働いているイメージがあった。ところが働き出してみると居心地は悪くない。三人一組で現場に入るが、みんないい人ばかりだった。仕事が完了すると、現場が変わるのも気分転換になって意外によかった。

 仕事は鹿島、フジタ、大成建設なんかの大手から直接入っていたから、大きな物件がほとんどだったよ。短くても一週間、長ければ一ヶ月くらい同じ現場に通う。納期が迫ってくれば、週休二日というわけにはいかないが、仕事さえ終われば午前中で帰れる。いつの間にか、吹きつけの仕事が好きになっていたんだ。埼玉方面の現場が多かったので、住居も巣鴨に変えた。月六万円のアパート暮らしは快適だった。
 ところが、ちょうど僕が入社したころから、発がん性物質としてアスベストが問題になり始めたんだ。うちの会社はこれを扱っていたからね。だんだん行政や建築会社のチェックが厳しくなって、経営も傾いていった。
 僕はつくづく運が悪いと思うよ。一緒に働いていた先輩なんか、よくこぼしていたんだから。「昔はこの仕事で家が建ったのに」って。そして、とうとう九六年に、会社は解散してしまった。

 従業員三〇人ほどの会社だったが、独立する人や辞める人が一挙に重なった。数週間の間にどんどん人がいなくなっていった。仕事自体は山ほどあったけれど、仕事を受ける従業員がいなくなってしまったんだ。二、三人が見切りをつけ始めたことから、連鎖反応が起きたのかもしれない。会社に行っても仕事ができないから、ついには誰も来なくなってしまった。給料が払われるかどうかもわからなくなった。
 不景気でつぶれるなら、うわさが伝わってくるから事前に準備もできた。ところがずっと先まで仕事がつまっているのに、いきなり人間だけがいなくなったんだから驚いた。もっとも自分の生活については、まったく心配していなかったけれども。会社をつぶしたときに比べれば、のん気に構えていたね。また会社を変わればいいんだって。
 でも甘かったよ。当時、僕は五〇歳になっていた。どこを探したって雇い口なんかない。数百万円の預金で食いつないで、職探しをしたが見つからない。職安にも行ったけれども、態度がひどくてね。人をバカにしたように応対するんだ。だから結局、職員とは口をきかなくなって、求人票を見に行くだけだったよ。役に立たなかったね。

■最後の幸運もつかの間
 日に日に目減りしていく預金残高が恐怖だった。きちんと雇ってくれないならば、せめて日雇いでもと、高田馬場で手配師から声をかけられるのを待った。引っ越しの手伝いなんかによく出かけたが、日給六〇〇〇円では預金の持ち出しを止めるわけにはいかなかった。
 そんなとき高田馬場の公園で、「ハウスクリーニングの仕事をしないか」と声がかかったんだ。手配師ではなく、従業員が辞めて困っていた社長が、じかに声をかけてきた。幸運だったね。手配師のようにマージンを取らないから、一日一万一〇〇〇円になる。これで助かったと思ったよ。二〇日も働けば、どうにか生活していける。一生懸命働いた。だが、これが自分にとって最後の幸運だったんだ。数ヶ月後には、また会社がつぶれた。人生に三度も倒産にあうなんて、自分には疫病神がついているんじゃないかと思ったよ。もう、どうにでもなれという気持ちになっても仕方ないだろう?

 少しでも収入を上げようと高田馬場に通ったが、五〇歳をすぎた体では、なかなか仕事はもらえない。仕方なくバイクを売った。気に入っていたカメラも質屋に入れた。コンポも。そして自分の手元に取り戻すことは、とてもできなかった。
 いつの間にか、カネ目のものがすべてなくなっていた。預金も二~三〇〇〇円になった。家賃なんか逆立ちしても払えない。身の回りの衣服だけをバッグにつめて、そっとアパートを抜け出した。どこに行くあてがあったわけでもない。気がついたら新宿にいたんだ。

■住所だけでもほしいんだ
 新宿中央公園でホームレスが寝ているのを見て、ここにいようと思ったんだ。段ボールを敷いて寝た。何もする気が起きず、二、三日はただただ寝ていたよ。貯金がなくなっていくことで、かなり精神的に追いつめられていたから、家がなくなり、家賃や食費の心配がなくなって、かえってホッとしたくらいだ。それが九七年の夏。
 それからは飯場で泊まり込みの仕事を探すようにしている。飯場に入れば、少なくとも一五日間は食事にもありつけるし、雨露もしのげる。でも、最近はこの不況だからね。やはり仕事にあぶれてしまう。休みなく仕事を入れるには、手配師と顔なじみになっていかなければならないけれども、僕にはそういうことは苦手だし・・・・・。
 高田馬場に仕事を探しに行き、あぶれた日の夜には、新宿の西口地下で寝るのが習慣になっていた。ところがこの前の火災で、地下からも追い出されてしまった。「なぎさ寮」に入りたかったが、定員オーバーで受付もしてくれなかったよ。今は、夜も中央公園で眠るようになったよ。
 自分がなるまでは、ホームレスなんて、酒やばくちで身を持ち崩した人ばかりだと思っていた。ところが結構まじめに生きてきた人間もいるんだよ。僕だって、どうしてここにいるのかわからない。何が悪かったんだろう。いまだにホームレスをしているのが信じられない。
 住所不定じゃ、定職も見つけられない。手配師が扱う日雇いの仕事しかできないんだ。しかも年金をもらうには、まだ早い。だいたい住所もないのに、どうやってもらえばいいんだ。そのうえ不況が深刻になってからは、五二歳はすっかり年寄り扱いだ。仕事がほしいよ。国が仕事を斡旋してくれないなら、せめて住所だけでもほしいんだ。そうすれば職探しができるのに……。

 九五年に実家を訪ねたときには、「土地をやるから自分で家を建てろよ」なんて兄にいわれてね。「家を建てるカネがないよ」なんて笑ってたけれど、もらっておけばよかった。今は切実に家がほしいよ。でもここまで落ちぶれてしまうと、もう、親族なんかに連絡はできないんだ。自分でもどうしていいのかわからない。寒さに震えて眠るしかない。
(九八年三月取材)

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