ホームレス自らを語る/大畑太郎・神戸幸夫

ホームレス自らを語る/15歳から働きづめ・吉岡達彦(48歳)

■月刊「記録」2001年9月号掲載記事

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■左手が動かなくなって

 どう、持っていくか?
 昔、友だちからもらった種を植えたら、けっこう育ってね。ほら実がついているだろ。木にツルが巻きついちゃったから、取れない実もずいぶんあるんだけれどさ(笑)。
 ニガウリとヘチマだよ。本当は夏にできるはずだったんだけれど、なぜか秋になっちゃったんだ。沖縄では、ニガウリをゴーヤ、ヘチマをナーベラーって呼ぶけれどね。
 そうか、ナーベラーは知らないか。味噌炒めなんかにしてもおいしいし、あと生で食べてもいいんだ。俺が子どものころは、毎日のように食べていた。
 川崎にも沖縄料理店があるけれど、いまはお金もないしね。仕方ないから、自分で作って食べているんだ。隣にテントができなければ、もっと収穫できたと思うんだけれどさ。
 去年の11月からここに住んでいるよ。3年前、45歳ぐらいから左手が動かなくなりはじめてね。最初、医者に行ったら、「半年ぐらいで治るだろう」と言われたんだけれどね。さっぱりだよ。手が動かないんじゃ、仕事にもならないし。
 この前なんか、現場監督から「もう来るなー」って怒られたからね。いや、俺が悪いんだよ。知り合いから鳶の募集があると聞いて、無理だと思いながら応募したんだ。やっぱり片手じゃ仕事にならなくて、四日目にどなられたんだ。監督の気持ちもわかるけれどね。どうにかして仕事がほしかったんだ。

■親の借金返済で働きづめ

 まったく嫌な人生だよ。15歳から働いているんだ。 親がバカモノでさ。知り合いにだまされて、金を持ち逃げされたんだ。頼母子講をやっていてね。沖縄ではよくあるんだけれど、近所とかの知り合いが集まって、毎月お金を貯めていく。それで仲間が困ったときに、その金を貸すんだ。
 その講の親をやっていたから、パンクさせたお金は責任を持って払わなくちゃいけなくなった。そりゃ大変だよ。朝に晩に取り立てにくるんだから。それで俺も働くことにしたんだ。
 タイル職人になった。金はかせいだよ。月200ドルはかせいでいたから。300ドルぐらいかせいだ月もあったんじゃないかな。当時、まだ沖縄は日本に返還されていなかったし、1ドルは360円に固定されていたんだ。1960年代後半の200ドルといったら大金だったな。もちろん、その分働いたけれどさ。本当に死ぬ気で働いていたもの。
 仕事が終わるのが朝の5時。それから1、2時間寝て、また仕事に出かけるような生活だったからね。正月だって、ほとんど休みなく働いていた。自宅に帰る時間もなくて、公園で野宿していたこともあった。おかげで泥棒に間違われたことがあったよ(笑)。近くで事件があって、警察に捕まったんだ。幸い、真犯人がすぐに捕まったけれどね。
 こうやってかせいだ金を、すべて親に渡していた。借金を返すためにね。17歳のときには沖縄を出て、池袋で働いていたよ。そのときもボーナスを含めて、ほとんどのお金を家に送っていた。親に渡した額を合計すれば、ビルを建てられるぐらいのお金にはなったと思うよ。つき合っている女もいたけれど、親の借金を払い終わったら結婚しようなんて言っているうちに、別れちゃったしな。
 しかも借金を払っている最中に、父親も死んじゃったから、家族の生活費も俺と兄貴でかせぐことになったんだ。妹は10代で結婚したけれど、しばらくしたら子どもを連れて自宅に帰ってきた。ロクに働けないから、やっぱり俺が養うことになるんだよね。
 95%ぐらい借金を返済したころに、家族とケンカして金を送らなくなったんだ。だって家族みんなで協力して、借金を返そうという感じじゃなかったから。みんな好き勝手にやっていて。どうして俺だけがと思うだろ。もちろん縁を切ったわけじゃないから、その後も実家とは連絡を取っているけれどね。

■なまけたことなど一度もない

 腕が動かなくなってからも帰ったんだよ。失業保険を使ってね。でも、沖縄は仕事がないし、やっぱり東京に出てくるしかなかった。これだけ腕が上がらないと、ガードマンの仕事もできない。腕が上がらなくなってからまともに働けたのは、造船の仕事ぐらいかな。船の油をふく仕事だったから、片手でも働けたんだよね。
 こんな体になったのも、ムチャクチャに働いてきたからだろうな。10代のころもそうだし、その後も働きまくってきたから。
 阪神大震災のあともよく働いたよ。1年ちょっと西宮で、倒壊した建物を片づけていたんだ。それこそ朝から晩まで働いていたから。ベルトコンベアに頭を打って首を痛めても、仕事を休まなかったぐらいだからね。
 いままでの人生の思い出なんて、ほとんどないな。働きづめだったからね。
 あー、16歳ぐらいだったかな。初めて競輪をしたことは覚えいるよ。だって200円買ったら、56万円になったからね。ものすごく驚いた。ビギナーズラックだったんだろうけれど。
 あとは、そうだなー。去年、多摩川の上流が決壊して、どんどん水かさが増えていったときは怖かったな。すごい量の水がテントに迫ってきたからさ。避難したけれど、ビックリしたよ。
 振り返ってみると、ろくな人生じゃないよ。いまじゃ働くこともできないしさ。どうしたらいいのか、自分でもよくわからないんだ。右翼がやっているってうわさの施設にでも入ろうかな。ここにいても仕方がないしね。最近、そんなことを考えているよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ハートの弱い人は暮らせない・川田義則(47歳)

■「新・ホームレス自らを語る」収録

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■毎日コンビニに通っている

 ホームレスでも、自慢ばかりしているようなヤツはケンカになる。逆にハートの弱い人はテントで暮らし続けることなんてできないよ。
 俺も、365日、毎日コンビニに通っているんだ。「ここの場所は取れない」と、他のホームレスに思わせるんだ。雨はもちろん、雪の日だって休まないよ。じっと店の人が弁当を出すまで待っている。他のヤツが割り込んできて、弁当を持っていったりした場合は、走って追っかけて「俺のもんだから」って話をするよ。なぐらないけれどな。一番に必要なのは、やっぱり食べ物だから、こういうことがすごく重要なんだよ。
 あまり汚い格好で店の周りをウロウロしていると、店の人やビルの管理人にも迷惑がかかるから、身だしなみにも気をつけなくちゃいけないよね。そういう風にしているから、店も期限切れの弁当を段ボール箱に入れて、そのまま出してくれるんだ。店員さんに会えば、「すみません。もらっていきます」と声をかけるしね。

■ウソついてんじゃねぇよ。警察か?

 でも毎日通っていると、とんだ目に遭うことだってあるよ。
 冬場でね。朝七時に店近くで待っていたら、いきなり近くにベンツが止まったんだよ。チンピラみたいなのが車から出てきて、「おたくさん、何しているの?」って聞くんだ。何しているったって、弁当を待っているんだけどさ(笑)。
 そのうち今度は、ベンツから歳のころ40代後半ぐらいのがっちりした男が、車から出てきたんだ。光ったシルクの生地でさ、グレーのダブルのスーツなんだけれど、生地が光ったシルクなの。いかにもヤクザっていう格好だよね。親分だったんだ。
「オマエ、どっかで見たことあんなー」とか言うんだよ。「ないですよー」とか答えたら、「ウソついてんじゃねぇよ。警察か?」とか怒ってんだ。
 どうやら警察に自宅を見張られていると勘違いしたみたいなんだ。毎日、マンションの近くで見張っているからさ(笑)。間の悪いことに、たまたま一緒に行った仲間がイヤホンでラジオを聞いていたんだよ。警察無線に見えたんだろうな。まあガタガタ言われたけれど、そのときは、これで終わったんだ。
 さすがにそのあとは待つ場所を少しだけ変えたよ。でもコンビニの近くから離れるわけにはいかないからね。 最初にどなられてから、しばらくたってさ。また、例の親分がベンツから降りてきたんだ。「てめーら、殺すぞ」って。
「バカヤロウ! オマワリなのはわかってるんだ。おまえらが気になってしょうがないから、ウチの女房は心配しすぎでまいってるんだ」だってさ。
 さすがに二度目は、しびれを切らしてたんだね。殴りかかってきそうだったから、少し腰を浮かしたら、胸をドンとド突かれたよ。まあ、軽くだけれどさ。
 自分から女房がまいっているなんて話すぐらいだから、よほどせっぱつまっていたんだろうな。監視されていると誤解して、ノイローゼにでもなったのかね(笑)。 怖いかって? いや、怖くないよ。だって俺は住所不定なんだから。怖くなったら、ここから逃げ出せばいいんだからさ。
 コンビニの弁当を自分のバッグに移しかえようとしたところで、私服刑事が飛び出してきたこともあったよ。「ちょっと待ってください」と言われてね。バッグを開けさせられたんだ。覚せい剤の受け渡しとでも疑われたのかな。
 ホームレスだとわかると、刑事さんが「頑張ってください」と言っていたな(笑)。
 こうやって集めた弁当も、余ればこの公園にいるホームレスに全部渡しちゃうよ。ここにかけてある笛を鳴らせば、ベンチに寝ているホームレスが集まってくるし、こっちのラッパを鳴らすとテントを張っている仲間が集まるように決めてあるんだ。昔はいちいち仲間を呼んでいたんだけれど、毎日のことだと面倒くさくてさ。あっ、笛? もちろん拾ったんだよ(笑)。何でも落ちているから。

■5ヵ月ほどで公園に戻ってくる

 もうホームレスになって3年たつよ。いまは47歳だね。
 ホームレスを始めたのは、7月からなんだ。最初は、駅の西口にあるビルのすき間で寝ていたんだ。涼しかったから。それから、ここの公園に移って、最初は便所の前あたりにいたのかな。寒くなってきて、その年の12月ぐらいからテントを作り始めたんだ。
 警察が公園を回るから、1年に1回はこのテントもバラさなくてはいけないんだ。最初、テントがある状態で写真を撮って、バラしたあとにもう一度写真を撮る。もう暗黙の了解でね。写真を撮り終えたら、さっさとテントを組み直し始めるんだよ。
 ホームレスのなかには、酒を飲んでいてさ、警官にいろいろ言うヤツもいるんだ。でも警察には、「ハイハイ」と従っておけばいいんだよ。べつに追い出そうというわけじゃないんだから。俺なんか警察に名前を書いて提出しているからね。血液型まで聞かれるんだよ。毎年聞かれるから、「去年も答えたよ」と言ったら、「いや、変わったかもしれないから」だって(笑)。
 ホームレスのための自立支援センターなんかもあるけれどさ、俺は住民票を移せないから。いろいろあってね。福祉なんかも、家族に連絡がいくと困るから使えないんだよ。でも、自立支援センターに入ってもさ、仕事を見つけられない人も多いみたいだよ。
 うん、体は悪くないね。ここのホームレスがテレビに取り上げられてから、医薬品や毛布を持ってきてくれる学生がいたりするし、食べ物には不自由してないから。万一病気になったら、役所の福祉課に行くか、救急車を呼べばいいんだしね。助けてはくれるからさ。
 現金収入はいっさいないな。たまに臨時の収入があるぐらい。といっても買うものといったら、ガスボンベぐらいだからな。ガスがなくなったときは、仕事をしている仲間に買ってもらっているよ。
 服なんかは、夜中に回るとけっこうゴミとして出してあるから。クリーニングに出したあとに捨ててあったりするし。汚いまま出してあれば、自分で洗えばいいんだし。
 生きるのに困ることはないけれど、やっぱりここを脱出したいな。ここから出ていくのが一番いいんだよ。でも実際には、仕事を見つけて出ていった人も、5ヵ月ほどで戻ってくる場合が多いよ。もちろん警備の仕事したりして、アパートを借りている人もいるよ。近くに古いアパートで女が自殺したの。それで家賃が安くなって、元の仲間が住めるようになったんだ。
 家に住むのがこんなに大変なことだと思わなかったよ。ホームレスになる前は、なんで公園で人が寝ているのかわからなかった。寝いている人を見ると何している人だろうと思っていたからさ(笑)。金があるときは使っちゃうしね。金がなくなってからあわてても遅いんだよ。俺だって、まさかホームレスを経験するとは思わなかった。金がなければ働けばいい。そう思っていたものね。
 きっと、みんなそう思っているんだろうね。この公園にも、いろんな人が来るよ。小学生の子どもを連れてきた女の人もいたよね。30いくつと言っていたかな。東北の人だったな。いつの間にかいなくなったけれど。
 そうそう、覚せい剤中毒が来たこともあった。ナイフを仲間に突きつけて、時計とか金とかかっぱらっていたんだ。仲間から連絡を受けてあわててテントを出たら、そいつが逃げるんだよ。追いかけて捕まえたら、今度は500円を差し出したから、「そんなんじゃねー」って殴りつけてやったよ。そういえば、最近、そいつを見ないな。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ホームレスになってまだ三ヶ月・下川保さん(51歳)

■月刊「記録」2001年7月号掲載記事

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■飯場の健康診断に引っかかった

 ホームレスになったのは今年の2月からだからね。まだ、3ヵ月にしかなってないよ。それまで25年以上建築現場でずっと働いてきた。そりゃあ真面目なもんだったよ。いまゴールデンウィークで世間様はお休みだけど、こういうときでもオレは仕事さえあれば働いてたからね。そんなオレが2月に飯場を放っぽり出されてからは、仕事にありつけない。で、公園で寝るしかなくなっていたんだ。
 2月までは(東京)中野の現場にいたんだ。そこで保健所の健康診断があって、レントゲン検査に引っかかった。オレの胸にいくつかの影があるのが見つかって、結核の疑いで「精密検査の要あり」と言われ飯場を出されちまった。そのあと病院に行ってくわしい検査を受けたら、ただの気管支炎だとわかって、それもすぐに治ったんだ。それで現場に戻ろうとしたら、もう後釜が入っていて空きはないと断られてね。それから別の現場の仕事を探しているんだが、なかなか思うように仕事にはありつけない。
 生まれは埼玉県の大宮。オヤジは地方公務員をしていたが、オレが小学校に上がる前にガンで死んだ。だから、オヤジの記憶はあまりない。あとはオフクロに育てられた。中学校を出て、商業高校の定時制に通いながら、昼間は大学生協の食堂でコックの見習いをして働いた。高校の4年間は真面目に通って、ちゃんと卒業もしたよ。
 高校を出たときに、コックの仕事も辞めた。あとはガソリンスタンドとか、車のディーラーとか、いろんなところで働いた。仕事の選り好みはしないんだが、飽きっぽいというか、どれも長く続かなかった。若かったせいかもしれないね。

■自衛隊で野戦砲の射手になる

 22歳のとき、陸上自衛隊に入った。休みの日に日比谷公園のベンチに一人で座っていたら、自衛隊の勧誘員が来てスカウトされたんだ。だから、とくに目的や理由があって入ったわけじゃない。勧誘員の話を聞いて面白そうだと思ったからだね。
 富士山の裾野にある御殿場の駐屯地に配属になって、戦車部隊の野戦砲担当になった。野戦砲は重量がすごいんだ。それに撃ったときの反動もすごい、砲が架台ごとはね上がるんだからね。だから、一門を扱うのに5、6人がかりの重労働だった。たぶん、このガタイ(身体)が見込まれて担当にされたんだろう。オレの役は射手。いや、射手は花形じゃない。野戦砲の花形は照準手で、射手はその命令で撃つだけだからね。
 自衛隊には2年間いた。ちょうどベトナム戦争の真っ最中だった。オレたち火器を扱っている部隊は関係なかったけど、輸送部隊には連れて行かれたところもあったようだね。
 自衛隊にいた2年間は真面目なもんだったよ。休日も駐屯地にいて外に遊びに出ることもなかった。酒も隊内クラブでたまに飲む程度だったしね。だから、金は貯まった。除隊してから、その金で九州・沖縄一周の豪勢な旅をしたよ。あれがオレの人生で一番いいときだったんじゃないかな。
 実は、自衛隊で野戦砲なんて重いものを扱っていたから、腰を痛めちゃってね。いまでもコルセットを着けているんだ。ほら(腰のコルセットを見せてくれる)。この腰痛とは25年間もつき合っているわけだからね。冬になると普通にしていても痛む。かなりつらいもんだよ。

■みじめな死に方はしたくない

 自衛隊を辞めてからは、土工とコンクリート工をずっとやってきた。飯場から飯場を渡り歩く生活だった。だから、アパートを借りたことは一度もない。
 結婚もしなかった。そりゃあ男だから、たまには女遊びもしたよ。だけど、女なんてツンツンしてるだけで嫌いだよ。結婚にも、女にも、あんまり興味はなかったね。
 土工でも、コンクリート工でも真面目に働いたよ。日本中のゼネコンの現場は全部で働いたんじゃないかな。赤坂のアークヒルズだろ、幕張メッセもやった。幕張の現場が一番すごかったね。それこそ日本中のゼネコンが集まって、いろんなビルを競争のようにして建てたんだから。オレはそのときは国際見本市の建物をやったよ。 新宿のビルもやった。工学院大学のビルとか、パークタワービルの工事についた。いまこうして新宿でホームレスになって、たまにそんなビルの下を通ると、「このビルはオレが建てたんだなあ」って思うよ。
 オレの場合、建築現場で働くには腰痛のハンディがあっただろ。だけど、そこは腕力でカバーしたんだ。ほかの人が持ち上げられないようなものも、腕の力だけで持ち上げたりしてね。「おたく、力があるんだねえ」と監督をびっくりさせたこともある。オレは真面目だったし、力もあったから、どこの現場でも重宝がられた。
 それだけ働いても金は貯まらなかったよ。酒も、ギャンブルも、女遊びも、あまりしなかったのにね。日当が6000~7000円じゃあ、一つの仕事を終えて飯場を出され、次の仕事までカプセル(ホテル)やサウナで寝泊まりするから、その金と飲み食い代でほとんど消えちゃった。残るものはなかった。
 いつだったか、鳶の親方に気に入られてね。「鳶にならねえか」って誘われたことがある。オレだってビルの1、2階分くらいの鉄骨に上るのは平気なんだ。だけど、それ以上の高いところで、腰をかばいながら仕事をするのは自信がなかった。で、その親方の話は断っちまった。鳶の仕事ができてたら、もう少し違ってたと思うけどね。だから、ずっと土工とコンクリート工のままできた。
 40歳を過ぎたころかな? 体力がガクッと落ちたのを感じた。体力の衰えって、ホントに急にくるんだね。それでも腰に気をつけながら意欲だけでがんばってきたんだ。ところが、今年2月の健康診断に引っかかって、飯場から放っぽり出されることになったわけだ。
 ホームレスになってまだ3ヵ月だから、食い物を手に入れる方法とかわからなくてね。ボランティアの差し入れだけが頼り。だけど、毎日あるわけじゃないし、1回の差し入れを2回に分けて少しずつ食べたり工夫はしてるけどね。やっぱりひもじい。あとは水道の水を飲んでごまかしてるよ。
 これまで25年間ずっと働きづめできただろう。1日中公園のベンチに座ってじっとしているのは身がもたない。体がなまってしまうしね。それで最近はボランティアに参加しているんだ。「新宿をきれいにする会」というグループがあってね。新宿の街の美化のためにゴミを拾って回る運動で、オレも毎朝6時から2時間参加して公園や周辺のゴミと空き缶を拾っている。参加しても何かがもらえるわけじゃないけど、ウズウズしている体にはちょうどいい運動になるしね。それにオレはきれい好きで、汚いのは嫌いなんだ。
 とにかく早く仕事を見つけたい。オレもまだまだ働くつもりでいるからね。みじめな死に方だけはしたくないと思っている。そのためには人生をいい方向にもっていきたい。ごくあたりまえの幸せと健康であればいいんだからさ。不幸はヤダ。不幸のなかで死ぬのだけはヤダからね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/年季の入った酒飲みだよ・大木善郎さん(61歳)

月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■岩内大火で家が丸焼けになった

 生まれたのは北海道の岩内って町。1938年6月2日が誕生日。岩内は海辺の小さな町で、漁業をしている人が多かった。オレのオヤジも漁船に乗っていて副船長をしていた。イカとか、マグロ、タイ、それにハッカクっていう顔はまずいが味はうまい魚があって、そんなのを獲っていたようだ。オフクロも港の魚市場で働いていた。だから、オレの小さい時分の暮らし向きは悪くなかったと思う。
 小学校に入って、すぐに町が大火事になった。「岩内大火」っていう大火事。そりゃあすごい火事だったよ。ちょうど台風も来ていたから、その風にあおられてゴーゴーと燃え盛ってね。町の半分、いや、三分の二以上が焼けちゃったんだから。
 オレも家族と一緒に町の裏手にある山の中に逃げ込んでいた。オレのうちも焼けて丸焼けだった。焼けたのは海沿いの低地にあった家ばかりで、焼け残った三分の一は山沿いの高台にある金持ちの家ばかりだった。皮肉なもんだよね。
 それでオレたち一家は、焼け残っていた漁業組合長の家の庭にテントを張って、その中で半年間くらい暮らした。狭いテントに家族がギューギュー詰めで暮らしたんだよ。まあ、うちだけじゃなくて、焼け出された家はみんなそうやって空き地を見つけてテント生活をしていたからね。
 そのころはボランティアだとか、義援金のカンパなんてなかっただろう。戦後の食糧難と重なって、食べるものがなくて困った。組合長がどこかからもらってきた米を分けてくれたり、オヤジやオフクロが百姓をしている家に買い出しに行くとかして食いつないだ。三食まともに米を食った記憶がない。とにかくひもじかった。魚だけはいっぱいあったけどね。
 半年後に家ができた。家といったって、元の敷地にバラックの小屋を建てただけのものだけどね。いまとちがって保険になんか入っていないし、大工の手間賃も払えないだろう。オヤジたちがみんなで協力して、順番にバラックの小屋を建てていったわけさ。その小屋のような家で正月を3回迎えたのを覚えているよ。

■中学校には行かずに働いた

 それからちゃんとした家を建てたけど、その借金とかが残ったんだろうね。うちはずっと貧乏だった。だから、オレも小学校を出ると、すぐに働き始めた。魚市場で籠に入った魚を台車に積んで、市場の中を引っ張り回して運ぶのが仕事さ。家が貧乏だから、中学校なんて行ってられなかったんだよ。兄貴もそうしていたし、周りの友達にもそんなのがいっぱいいたからね。
 酒を飲み始めたのは、そのころからだよ。だから、オレの酒飲みには年季が入っているんだ。中学生のときから飲んでるからね。酒といったって焼酎だよ。宝焼酎。隠れてなんか飲まないよ。家族みんなで飲むんだ。うちはみんな大酒飲みでね。まあ、そのころの海で働くとうちゃんやかあちゃんたちは、みんなよく飲んだからね。夜中に酒がなくなると「善郎、酒を買ってこい」って、末っ子のオレがよく買いに行かされたよ。(取材中も、大木さんは焼酎をあおりながらであった)
 20歳になって、オレも漁船に乗って漁をするようになった。20歳といえば、兄貴がそれを祝って女を買いに連れて行ってくれてね。小料理屋のようなところの二階の部屋で、その店の仲居が相手だった。女と寝るのは初めてだろう。やり方がわからなくて、上に乗っかるのも知らなかった。それで仲居に教わりながらしたんだ。いや、よかった。最高に気持ちよかった。
 漁船には1年くらいしか乗ってなかった。21歳のときには東京へ出てきちゃったからね。何でかって? オヤジもオフクロも、兄貴までもが死んじゃったんだ。3人が一緒じゃないよ。病気で次々に死んでいったんだ。ろくなものも食わないで酒ばかり飲んでたら病気にもなるよ。もっと詳しく話してくれ? 何で? これ以上しつこいと、話すのをやめるよ。(森さんは両目を潤ませて、しばらく話すのをやめた)

■かせいだ金は酒と女に消えた

 21歳で東京に出てきてからは、いろんな仕事をした。いろいろといっても、ほとんどが飯場に入って建築関係の仕事だったけどね。4年前にホームレスになるまで、ずっとそんな生活を続けてきた。結婚? できるわけないだろう。兄貴だって嫁さんももらわないで死んじゃったのに、オレだけが嫁さんをもらうわけにはいかないよ。
 かせいだ金はみんな酒で飲んじゃったよ。それと女だな。酒と女遊びに使っちゃった。酒は毎晩、毎晩一升くらいの焼酎を飲んでいたからね。どうかすると朝の四時くらいまで飲んで、そのまま水風呂に飛び込んで酒のにおいを消して現場に行くなんてこともした。そんなことをしても、においなんて消えやしないけどね。
 女遊びのほうは千葉の栄町にあったトルコ風呂に通った。1回遊ぶのに1万2000円くらい取られたから、3ヵ月に1回くらいしか行けなかったけどね。それで我慢できなくなると、立ちんぼを買うんだ。チョンの間だと3500円。チョンの間なんて、わかる?
 ホームレスになったのは4年前からだね。毎朝、酒のにおいをさせて仕事に行くだろう。そうすると、係の人から「森さん、今日は仕事を休んでよ」って言われるんだ。絶対に「辞めろ」とはいわない。向こうから「辞めろ」と言い出すと、解雇手当とかの金を払わなくちゃならなくなるだろ。だから「休め」って言って働かせてくれない。オレたちは日雇いだから、休んだらその日の金はもらえない。そんなのが3日も続いたら、金なんてなくなっちゃうしさ。それでホームレスになったんだ。
 昔は二日酔いぐらい平気で働かせてくれたんだよ。人手が足りなかったからね。いまはうるさい。ちょっとでも酒のにおいがすると、働かせてもらえないからね。日当も下がった。いいころは1日1万円くれたのが、いまじゃ6000円くらいにしかならなくて、そこから食事代が1200円も引かれちゃうんだ。いくらもかせげない時代になっちゃったね。
 いまはオレも60歳を超えてるから、新宿区役所が世話をしてくれる仕事をしているよ。週2日だけどね。ゴミの清掃車を洗ったり、ビルの中を片づけたりする簡単で安全な仕事。1日で7000円もらえる。そこから昼飯の弁当代を引かれるから、実際にもらえるのは6400円だけどね。それでこうやって焼酎が飲めるってわけさ。
 だけど、役所の仕事も酒に酔っていくといけないんだね。係の人から「森さん、酔って来たらまずいよ」っていわれて、週2日あった仕事もいまは一日に減らされちゃったよ。
 ホームレスなんかしていると、人間がなまくらになっていけないね。酒を飲むのは楽しいさ。いやいや飲んだってしょうがないよ。よかったころ、楽しかったころのことを思い出しながら飲むんだ。あのころは、とうちゃんもかあちゃんもみんな元気で楽しかったとかね。飯場にいたころだって、楽しかったこと、よかったころはあるんだ。そういうのを思い出しながら飲むんだよ。いいもんだよ。いまだって、金さえあれば焼酎の一升くらい平気で飲めるからね。
 あと4年。あと4年で生保(生活保護)が受けられるから、それまで何とか頑張りたい。あと4年だよ。

※取材後調べたところ、岩内大火があったのは一九五四年。大木さんが大火に遭遇しているのは事実のようだが、「小学校に入ってすぐ」というのは、本人の記憶違いか、あるいは多少の脚色がなされているのかもしれない。  (■了)

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ホームレス自らを語る/「店を持たせてやる」との言葉を信じた・武田貴文(63歳)

■月刊「記録」20001年4月号掲載記事

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■20年のクリーニング店勤め

 ワイシャツだと、1日に110枚ぐらいかな。勤務時間は、朝8時から夜8時まで。遅いときは夜中11時まで働いてました。自分の時間なんてなかったですよ。1日中店で働いて、近くのアパートに帰ってきたら寝るだけの毎日ですから。
 店は10畳ぐらい。だいたい二人でアイロンをかけていました。衣類とアイロンとアイロン台があって、もうそれだけで店はいっぱいでした。夏は暑くてね。ステテコとランニングで仕事をするんだけれど、炎天下に座っている方が涼しく感じられるぐらいでした。それでも体は慣れちゃうもんですよ。
 中学を卒業してから働き始めて、辞めたのは昭和48(1973)年だから、35歳までですかね。20年ぐらい同じクリーニング屋に勤めていたことになります。
■「自分の店」は夢と消えた

 7人兄弟の3番目。父親は小学五年生のときに死にました。一番下の子が生まれたばかりでした。私が中学を卒業してすぐに、今度は母親も死んじゃったしね。高校なんか進学できるわけないですよ。
 みんな高校に行きだした時代だけれど、ウチは貧乏だから進学するどころじゃないですよ。兄貴も中学を卒業してから農家の小僧(丁稚奉公)になって体を鍛えて、それから父親の後を継いで大工になったんです。米軍基地で仕事を請け負っていました。
 私の就職先は母親が見つけてきたんですよ。隣組の人が町にクリーニング屋を持っていまして。たぶん「うちのボウズを使ってくれ」、そんな感じで頼んだんじゃないですかね。中卒じゃあ大きな企業に入れるわけもないし、就職先が見つかってよかったと当時は思いましたよ。
 でも、いま考えると、クリーニング屋で働き始めたのが間違いでした。「店を持たせてやる」なんて主人から言われて、真面目に働いちゃったから(笑)。
 店の主人が死んじゃってから息子が経営を始めて、それを機に辞めました。安い銭しかもらえないし……。自分で店を始めるには、お金が必要でしょ。でも賃金が低すぎて全然お金が貯まらない。せめて親が畑でも持っていたらね。それを売って店でも建てたんだろうけれど。
■結婚しようと思ったことも

 それから5年間は、義理の兄の会社で配管工として働きました。参議院会館なんかつくったんですよ。まあ、できあがってからは、行ったこともないけれど。その会社もつぶれちゃって、40歳ぐらいから土方ですよ。高田馬場に出入りするようになりまして。
 クリーニング屋を辞めてからですかね、遊ぶようになったのは。酒は飲めないくちですから、もっぱらギャンブルと女でしたけれど。でもギャンブルといっても、ひまつぶしにやるぐらいだから、月に数万円使うぐらいかな。
 女は、池袋で買っていました。その当時の池袋は、まだ道で立っている女も多かったんです。お気に入りもいましたよ。いまは僕も枯れちゃったけれど(笑)。まあ、年をとって風俗なんていうのもね……。
 さあ、どうしてクリーニング屋を辞めてから遊ぶようになったんでしょうかね。わかりません。生活が荒れたというのでもないけれど、少し変わりました。ただ土方になったころには、どうでもよくなっちゃったというんでしょうかね。気安く働けましたから。住所がないような人も多かったし。
 そう、まだクリーニング屋に勤めている32歳ぐらいのときに結婚しようと思ったことがありました。でも、お金がないからできなかった。徒弟制度だったから、わずかしかもらえないでしょ。結局、そのまま歳を取っちゃいました。
 30歳ぐらいまでにちゃんとした会社に就職できてればね。せめて車の免許でも取って、何かの運転手にでもなればよかったなって。

■人間以下の扱いはザラ

 そうこうしているうちに不況がひどくなって、仕事もなくなって、私も職にあぶれるようになって、昨年の8月からホームレスです。
 最初、新宿にいて、それから池袋に移りました。ここでひどい目に遭いましたよ。「俺が仕切っているんだー」という人がいましてね。最初、そんな人がいるなんて知らなかったんですよ。でも、そいつは弱いホームレスばかり脅してました。
 最初、私も子分にしてやるなんて言われてヘコヘコしていたんです。仕事をくれるとも言われたし。でも、下手に出ているだけじゃ、どうしようもない人だった。
「東武デパートで酒を盗ってこい」と万引を命令されたりもしました。盗むなんてできないから、仕方なく買ったりしましたよ。
 一度なんか「牛丼を食いに行こう」と言われて、一緒に牛丼屋に入ったら、金を払おうとしないんですよ。持っているのに。結局、警察が呼ばれて、しぶしぶ2人分の代金を払いましたけれど。幸い警察も説明を聞いて帰って行きましたが。騒いで金を払わなくて済むなら、ラッキーだと思っていた人なんですよ。
 彼のオーバーを私がなくしたことがありまして、これも大騒ぎになりました。収めるために時計を取られましたからね。最初にヘコヘコしていたからなめられたのでしょう。仕事もしばらくしてなかったから、筋肉も衰えてくるでしょ。なおさら弱気になるんですよ。結局、一ヶ月ぐらいで、池袋は逃げ出しました。
 ホームレスの生活はつらいですね。ホームレスをだましたりするのに、多くの人は罪悪感を感じないんでしょうかね。
 この前、飯場に仕事に行ったときなんか、15日働いて1万3000円ですから。
 海の家に働きに行ったときはもっとひどかったんです。調子のいいことばかり言って、二週間働いて一銭もくれない。「金をくれないなら辞める」と言ったら、帰りのキップとおにぎり二つ、缶ビール一缶を手渡しました。一夏働いた仲間でさえ、7000円しかもらえなかったみたいですよ。
 ホームレスなんて飯を食わせて、たばこを渡しておけば、お金なんか払う必要はない、と思っているんでしょう。
 親族とは、もう25年以上連絡を取っていません。一人前になっていれば連絡もできますが、恥ずかしいでしょ。一番下の弟もグレていたけれど、所帯を持ったらしいんです。景気が悪くなっていますから、勤めた会社がつぶれていなければいいけどね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/母親の面影を追い求めていた・川原太一さん(46歳)

■月刊「記録」1999年10月号掲載記事

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■母親不在で育った

 物心がついたころには、家にはもう母親はいなかったんだ。オレの小さい時分に、父親と離婚したらしい。なんで別れることになったのか、誰も教えてくれないし、オレも聞かなかったから、いまでも理由はわからないな。母親が自分から家を出たのか、出されたのかかもね。 生まれたのは青森県の十和田市。父親と兄貴、それにバアさんの4人家族で、このバアさんが母親代わりになってオレたち兄弟を育ててくれたんだ。父親は市役所が発注する土木工事を専門にしている会社で働いていた。まあ、サラリーマンだね。優しい父親だったよ。
 もともとうちは田んぼや畑のいっぱいある物持ちの家だったらしい。それが借金のカタにみんな取られちゃったようだね。それもオレの小さい時分のことで、原因とか理由はわからない。両親が離婚したのも、それと関係があったような、なかったような、それもよくわからないな。
 小学校の6年生のときに、こんなことがあった。学校から帰ってみると、家の玄関に見なれない履物が脱いであった。座敷に上がってみると知らない女の人がいてね。その人と目が合って、しばらく二人で見つめ合った。オレは急に心臓がドキドキしてきた。女の人がオレに話しかけようとしたとき、部屋にバアさんが入ってきて、「おまえは会っちゃあいけない人だ。向こうに行ってろ」って座敷を出されてしまったんだ。子ども心にも、その女の人がオレの母親だとわかった。
 しばらくして、玄関で音がするんで部屋の窓から外をのぞいたら、帰っていく母親の寂しそうな後ろ姿が見えた。オレも胸がいっぱいになった。母親を見たのは、あとにも先にもそのときの一回きりだ。座敷でオレに話しかけようとしたときの顔が、いまでも忘れられないね。 あとになって教えられたんだけど、あのとき、母親はオレを引き取らせてくれって頼みにきたらしい。だけど、バアさんが許さなかったんだね。その話を聞いて「兄貴を置いて、オレ一人だけが母親についていくわけにはいかない」と思ったことも覚えているよ。ただ、母親がオレを引き取りたいって来たということは、男をつくって逃げたとか、そういうことじゃないと思うからね。それが救いっていうか、ね。

■集団就職列車で上京した

 中学校を卒業して、東京に出てきた。集団就職というやつだね。3月20日の夜、三沢から夜行の臨時列車、あのころは集団就職列車と呼ばれていたのに乗ってね。故郷を離れる不安はなかった。若いから希望に燃えていたくらいだった。兄貴も集団就職で先に東京に出ていたし、それに母親の実家が東京にあったんだ。東京に行けば母親に会えるかもしれないという、淡い期待もあったかもしれないな。
 次の日の朝、上野駅に着いた。ホームに兄貴が出迎えてくれた。ただ、そのときに兄貴が「母親は死んだと思って働け」って言うんだ。そのとき、なんでそんなことを言ったのか、いまでもわからないね。オレが東京に出てきたのを、兄貴には母親を探しにきたように見えてたのかもしれないね。それとも、兄貴は両親の離婚の真相を知っていて、そんなふうに言ったのかとも思うね。
 オレが就職したのは、川崎にあった自動車会社のトラックの製造工場。鋳物の型をつくるのが仕事だった。そんなに大変な仕事じゃなかったよ。鋳物といっても型をつくるだけだから、熱くてかなわんとか、すすだらけになるとかはなかった。金属を溶かして型に流し込んだりするのは別の工場の仕事だったからね。重い物はみんな機械で吊ってたし、まあ仕事は楽だった。
 会社には養成工の制度があって、オレもそれを利用した。週のうち三日間だけ工場で働いて、あとの三日間は学校に通える制度なんだ。工場の敷地の中に学校があって、一学年一クラスで40人、四年制で卒業すると高校の卒業資格がもらえた。だけど、結局1年くらいで工場も学校も辞めてしまった。
 なんで辞めたのかって? 同じ中学の同級生だったのが、(埼玉県の)戸田の町工場で働いていて、そいつに自動車会社より給料がいいから来ないかって誘われたんだ。その町工場は荒川の土手の下にあって、従業員も7、8人しかいないちっぽけな工場だった。カメラの部品をプレス機械でつくるのが仕事で、給料はホントによかったよ。まあ、給料のこともあったけど、自動車会社には話をする友達が1人もいなかったからね。友達がほしかったのさ。だけど、その町工場にも4年くらいしかいなかった。
 東京へ出てきてから、ずっと母親のことが気になっていてね。母親の実家は(東京の)三鷹にあって、そこを訪ねれば何かわかるかもしれないと思ってたけど、どうしても行けないでいたんだ。行けば母親がオレたち兄弟を置いて家を出ていった真相が明かされるようで怖いような気もしてね。
 20歳のときだったかな。それでも母親の消息が知りたかったし、できれば会ってもみたい気持ちが強くなってね。自分では行く勇気がないから、兄貴に頼んで行ってもらったんだ。三鷹の実家にはジイさんとバアさんが住んでいたらしい。でも、母親はいなかったそうだ。ジイさんたちにも行方はわからないという返事だったようだ。そのことがあってから、オレも母親のことはあきらめよう、もう忘れようと思ったね。

■不況で土方仕事がなくなった

 プレスの町工場を辞めてからは、いろいろ働いたよ。スナックや飲み屋の水商売をしたこともあるし、雀荘の店員や鳶職もやった。でも、一番長かったのは土方だったね。港の岸壁をつくったり、ゴルフ場の造成とか、山留めの工事なんかが多かった。
 仕事はいろいろ替わったけど、オレは真面目なもんだったよ。はじめのうちは貯金だってしていたしね。酒もギャンブルも少しはしたけど、のめり込むほどじゃなかった。楽しみは映画を見るくらいだったね。結婚もしなかった。結婚のことなんて考えたこともないし、その必要を感じたこともないしね。
 ホームレスになったのは、98年の11月から。それまで25、26のときから土方の仕事をしてきて、ずっと飯場で暮らしてきたんだけど、仕事が減って飯場暮らしができなくなったからだよ。はじめは荒川の千住大橋の下に寝たんだ。別にどうという感想もない。住むところがないんだから仕方なかった。橋の下にはほかにも3、4人が寝ていたけど、誰からも文句は言われなかったしね。
 橋の下で寝起きしながら、上野の手配師のところに通ったんだけど、いくら通っても仕事を回してもらえないんだ。それでこっち(新宿)に移った。このあいだ、そこの公園で手配師をしていたのに会ったよ。手配師までがホームレスになっているんだから、よほど仕事がないってことだよね。
 兄貴はまだ東京にいるよ。結婚して、子どももいて、いまは府中のほうに住んでいる。オレだっていつまでもプータローをやっているわけにはいかないけど、40面をさげて兄貴のところに頼ってはいけないしね。
 この歳になっても、まだ母親に会ってみたい気持ちはあるよ。だけど、もう母親も70を超えているはずだから、いいバアさんになっているよね。街で会っても、オレのことなんかわからなくなっちゃってるんじゃないかな……。 (■了)

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ホームレス自らを語る/離婚して生きる張りを失った・大島陽一さん(57歳)

■月刊「記録」2001年1月号掲載記事

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■国鉄の合理化で整理される

 生まれたのは1943年で、北海道の小樽です。父親は国鉄(現在のJR)で保線工事の仕事をして働いていました。兄弟は7人あって、私は上から二番目。子どものころはワンパクなガキ大将でしたね。うちは兄弟が多かったうえに、戦後の食糧難と重なって、家の暮らしは楽じゃなかったようです。当時の国鉄は給料が安かったから、母親も外に出て働いたり内職をしてしのいでいました。
 中学を出てから、大工の見習いになりました。3年間の見習い修業をして、そのあと二年間がお礼奉公でした。見習いの三年間は親方の家に住み込んで覚え、お礼奉公になると家から通えました。
 大工の世界はまだ古い徒弟制度が残ってましたから、修業はきびしかったですよ。「仕事は見て覚えるもんだ」とか「盗んで覚えろ」と言うだけで、誰もちゃんとは教えてくれない。そのくせ、間違えたりヘマをすると容赦なく殴られる。そんな世界でした。
 ただ、私は本気で大工になるつもりはありませんでした。国鉄マンになりたかったというか、なることが決まっていたんです。あのころの国鉄には父親が定年退職すると、その息子が後釜に入れるという慣習のようなものがあったんです。規則ではなかったけど、暗黙の了解というか、そんなのですね。それで父親が50歳の定年を迎えたとき、私のほうも大工見習いの年季が明けて、入れ替わって国鉄に入りました。仕事は父親と同じ保線工事。線路脇の崖や土盛りしたところの法面(人工的に削られた斜面)の点検・補修が仕事でした。
 ところが、入って3年目の年に合理化による人員整理があって、その対象になってクビにされてしまいました。学歴はないし、職場の中にも何のコネもないし、そういうのから整理されてしまうんですよね。24歳のときでした。

■家庭と仕事を一度に失った

 しばらく小樽で土工や鳶なんかをしてから、札幌に出てACLを施工する会社に就職しました。ACLというのは軽量気泡コンクリートでつくったビルの外壁材のことで、それを施工するのが仕事でした。小さな会社でしたが、仕事はそれなりに面白かったしやりがいもありました。すぐに国の検定試験を受けて、施工資格も取りましたしね。
 社長にも気に入られて、その紹介で見合いもしました。相手の女性は社長の従姉妹で、看護婦をしている人でした。お互いに気に入って、35歳のときに結婚しました。それですぐに男の子が生まれました。
 ただ、子どもができてから、女房との間がギクシャクしてきましてね。私としては看護婦の仕事はやめて、育児に専念してほしかった。ところが、女房は「看護婦の仕事は、私の天職だからやめるわけにはいかない」の一点張り。
 看護婦の仕事というのは不規則で、週に2、3日は夜勤の泊まりもある仕事ですからね。それで子どもを保育所に送り迎えするのが私の役目になりました。でも、私だって工事現場が仕事場ですから、サラリーマンのようにいつも決まった時間に迎えにいけるとは限らない。女房との言い争いが絶えない日が続きました。最後はおたがいを罵り合うようになっていて、それで離婚することになりました。
 女房とはともかく、息子と別れるのはつらかったですね。6歳のかわいい盛りでしたから……。今になって思うと、あと2、3年も辛抱すれば、息子にも手がかからなくなっていたはずなんですがね。でも、そのときはそれがわからなかったんです。7年間の結婚生活でした。 働いていた会社の社長と女房が従姉妹同士でしたから、もう会社にもいられなくなって辞めました。それで東京へ出てきたんです。42歳のときですね。

■高血圧で飯場を追い出された

 東京に出てからは鳶の仕事をして働きました。しかし、離婚のショックというか、何をするにも張り合いが出ませんでね。仕事が終われば毎日酒。休みの日はパチンコか競艇で時間をつぶして、夜になれば酒。何の楽しみもない生活で、心の寂しさを埋めるには酒とギャンブルしかありませんでした。
 その後、女房と息子には一度だけ会いました。離婚から5年して、札幌まで行って大通り公園のレストランで二人に会ったんです。でも、もうあまり話すこともなかったですね。息子は中学生になっていました。その息子が別れ際に「かあさんのことは、オレにまかせてくれ」と……生意気なことを言うんですよ(大島さんは目を潤ませ、唇を震わせた)。
 鳶の仕事で働けたのも50歳まででしたね。50を超えたらお払い箱。それからは飯場を渡り歩く日雇いの土工の仕事をしてきました。今年の夏は暑かったでしょう。仕事中に二度もブッ倒れ、病院に担ぎ込まれましてね。高血圧なんです。上が190で、下が100あります。それからは土工の仕事も回してもらえなくなって、飯場も追い出されました。といって、蓄えはないし、住むところもないから、自然にホームレスになってました。 夜は(新宿)駅の地下広場で寝ています。ホームレスになってまだ二ヶ月くらいですから、要領がわからなくてね。コンビニの弁当とか、ハンバーガーショップのハンバーガーは賞味期限が切れると捨てられるんでしょう? どうしたら、それが手に入れられるのかわからないんです。いまはボランティアの炊き出しと差し入れだけで食べています。これから冬に向かって、どうなるんだろうと心配でなりませんよ。
 これから先もよくなることはないですね。ダメだろうと思います。こんな時代で、この歳ですからね。もうどうにもならんでしょう。どこかで野垂れ死にするしかないですね。老後の蓄えを何もしてこなかった自分が一番悪いと思いますよ。でも、国の考え方もよくないですよ。あのでっかい都庁舎だって、そこの道路だって、みんな私や仲間たちでつくったんです。それが景気が悪くなったからって、何の保証もなく放っぽり出して、そんな筋の通らない話はありませんよ。
 仕事さえあれば働きますよ。その気はあるんです。今度自立支援センターができるっていうでしょう。私も応募してみようかと思って、募集のチラシはちゃんと取ってあるんですよ。これに賭けるしかない……でも、ダメかもしれない。新宿は(募集定員を)あまり取らないっていうしね。そうなると、やっぱり野垂れ死にするしかないのかな……。 (■了)

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ホームレス自らを語る/辛抱が続かない・中島昭良さん(54歳)

■月刊「記録」2000年12月号掲載記事

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■プッツリやる気が失せちゃう

 若いころからどうも一つのところに長くいられない性分でね。仕事もいろいろ替わった。(指折り数えて)5つ、いや6つか……。はじめは品川にあった大手電器メーカーの工場。冷蔵庫をつくる工場だった。工業高校の電気科を出ていたから、家電メーカーに就職が決まったときは、電気の技術が生かせると思ってうれしかった。だけど、入社してみると、配属になったのはラインの組立工だった。電気とは全然関係のない仕事だからね。ああいう大きな会社では、個人の希望なんて聞いてもらえないしね。で、2、3年で辞めていた。
 次は川崎にあったやはり大手の電機メーカーの工場に移った。ここは重電のメーカーだからね。配電盤をつくるのが仕事で、まあ自分に合った職場だった。だけど、ここも7年くらいかな? それで辞めてしまったんだ。 その次は調布にあった小さな電機工場。その工場ではコンピューターや医療機器の制御装置をつくるのが仕事で、全部が受注生産だった。図面を見ながら配線から完成まで、すべて一人でやる方式でね。だから、仕事は面白かったしやりがいもあった。一番自分に向いていた職場だったと思うよ。でも、ここも5年で辞めてたね。
 何ていったらいいのか、仕事はみんな面白いんだよ。自分でも仕事の手は抜かないでキッチリやった。職場の人間関係も悪くない。はじめのうちは張り切って一生懸命に働くんだ。だが、何年かしてくるとだんだん緊張の糸が緩んできて、あるときプッツリと切れたようになってしまう。そうなると働く意欲がわかなくなって、会社をサボるようになり辞めてしまう。そんなことばかりしていたんだ。
 そのあと、独立して……独立といっても、アパートの一室を借りて作業場にしただけの、社長も何も自分一人だけの会社。電機工場から仕事をもらって下請けをしたんだ。はじめのうちこそ仕事もあったけど、だんだん受注量が減って先細りになっていってね。
 そのうちに部屋代も、車のガソリン代も払えないようになっていた。まあ内職に毛の生えたような工賃だったからね。だから、このときは仕事がイヤになったわけじゃなくて、ぜんぜんもうからなくなってやめたんだ。これも5、6年続いたのかな……。

■40半ばじゃ職種も選べない

 また勤め人に戻ることにして新しい就職先を探したんだけど、もう40代半ばになっていたから電気関係の工場には入れなくてね。それで畑違いの建設関係の会社に入った。ビルとかマンションをつくるときに鉄骨や壁に耐火被覆剤を吹きつけるのを専門にしている会社だった。
 これが大変な仕事なんだ。被覆剤っていうのは泡状になっていて、それを吹きつけるから周りをビニールで隙間なく覆って、外に飛んでいかないようにして作業するんだ。夏は蒸し風呂なんてもんじゃない。おまけに被覆剤は肌につくとチクチクとしてすごく痛い。だから、真夏でもヘルメットに防塵マスクを着けて、長袖のヤッケにゴム手袋という格好でやるんだからね。ホント、夏は地獄だった。
 この会社も5年くらいだった。ただし今度は倒産。会社がパーになってしまったんだ。社長がドケチな男でね。その不満でいい職人がみんな辞めて、独立していっちゃったからだよ。自分には独立するような才覚も技術もなくてできなかった。そんな資金もなかったしね。
 それにゼネコンがよくないよ。仕事がどんどん少なくなっているっていうのに、手間賃を下げてくるんだから。ゼネコンの連中だけが生き延びるためのしわ寄せだね。いつだって割りを喰うのは下で働いている人間ってこと。あれじゃ、ドケチな社長でなくてもつぶれちゃうね。
 会社が倒産したのが50歳のときだった。それからは日雇い。土方とか、引っ越しの仕事をやっているけど、それもいまはあんまりないからね。いつの間にかホームレスになっていた。ずっと飯場の暮らしからはい上がろうとしていて、逆に下に落っこちてしまったわけだ。

■どうして辛抱できなかったのか

 こうなったのも自分の責任だと思っている。いまの時代だって、仕事はあって働いている人はいくらもいるわけだからね。自分でももう少しうまく器用にやれなかったものかとも思うよ。ただ、ズル賢くやって、誰かの犠牲のうえでいい暮らしをしているわけじゃないからね。誰も傷つけてはいないんだから、ホームレスをしていても気分は楽だよ。毎日が日曜日だしね。
 生まれたのは茨城県。家は農業をしていた。4人兄弟の上から3番目で、いつも兄貴の後ろにくっついて遊んでいた。子どものころからおとなしくて、学校の通信簿に「もっと積極的になるように」って書かれている子だった。
 リーダーになって人を引っ張ったり、責任を取るような役は好きじゃなかった。2番目か3番目あたりにいるのがよかった。人を押しのけていくタイプじゃないから、そんなのがホームレスをしていることと関係しているかもしれないね。
 それと辛抱できなかったこと。どうしても同じ仕事を辛抱して続けられなかった。最初に就職した会社にそのままいたら、いまどうだったろうと考えることもある。まあ、どうにもならなかったろうね。いま50代のサラリーマンはリストラとか、いろいろ大変だというしね。サラリーマンの世界こそ人を押しのけて出世していくところだから、そんな世界にいてもやっぱりどうにもならなかった気がするな。
 結婚して女房、子どもでもいれば、もう少しは辛抱できて違っていたかなとも思う。女の人も嫌いじゃないから、若いころは幾人ともつき合ったんだけどね。結婚するのは面倒くさいし、責任を取るのもイヤだった。グズグズして踏ん切りがつけられないでいるうちに、女の人のほうが愛想をつかして離れていってしまうというふうだったよ。
 毎日が日曜日のホームレスをしていても、いいことは何もない。早く普通の生活に戻りたい。いつもそれを考えている。このごろはエサ(食べるもの)取りも楽じゃないからね。ホームレスがどんどん増えて、知らない顔がずいぶん多くなってるもの。そのせいか、コンビニやスーパーがエサを出さなくなっている。
 新顔のホームレスにはルール破りをする悪いヤツが多い。せっかく出してくれたエサを店の周りで食い散らかしたり、仲間同士でエサを奪い合ったり、一日中店の周りをうろついたり、そんなことをしていたら店だって出さなくなるよ。バカが多くて困る。
 ホームレスを早くやめたいとは思うけど、こう仕事がなくっちゃね。会社に勤めていたころは、「いざとなったら、土方でもすれば食っていける」なんて仕事仲間と笑いながら話してたけど、本当に土方になってみたら、その土方に仕事がないんだからね。まさかここまで不景気な時代が来るなんて思ってもみなかっただろう? 早く景気をよくしてもらって、自分たちも働けてかせげるようにしてもらいたいよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/一人でコツコツやるのが好きなんです・柳川孝夫さん(65歳)

■月刊「記録」2001年4月号掲載記事

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■戦中は福島に学童疎開

 子どものころの思い出といえば戦争ですよ。戦争しかなかった。その一番の思い出は学童集団疎開。東京の椎名町に住んでいましたから、東京も空襲で危なくなってきた1944年の夏に、福島県の原町に集団疎開しました。
 原町の駅前の旅館に、同じ小学校から行った30人くらいの男子児童が一緒に暮らしたんです。女子は町中にあった別の旅館でしたね。
 覚えているのは、いつも腹をすかせていたこと、冬の寒さに閉口したことですね。とくに空腹でひもじかったことは忘れられません。本当に食べるものがなかったですからね。たまにパンの配給なんかがあると、上級生たちに「献金だ」とか言われて半分くらい取り上げられてしまう。私らは小学三年生で疎開組の一番年少でしたから取られるばかりで、それがつらかったですね。しまいには東京の親から錠剤のワカモト(※商標)を送ってもらって、それをあめ玉代わりにしゃぶったりしてました。 原町で終戦を迎えて、一年ぶりに東京へ戻ってみると、家族は無事でしたが家は空襲で丸焼けでした。のちに帝銀事件の舞台になる椎名町の四丁目は焼け残ってましたが、うちのあった三丁目まではみごとに焼けて何も残ってなかったです。その焼け跡で戦後の暮らしが始まるわけです。庭を畑に耕してサツマイモを植えてね。
 池袋の西口にはすぐにマーケットができて、予科練帰りや特攻隊の生き残りの不良のたまり場のようになって……そう、パンパンガール(売春婦)なんてのもいましたね。戦争が終わっても相変わらず食べるものがなくて、私らもよく買い出しに連れて行かれましたよ。
 それでも、うちは父親が大手銀行の社員食堂で賄いのコックをしていたこともあって、食材の残りをもらってきたりして、よその家ほどは困らなかったようです。食材といっても、スイトンやフスマばかりでしたがね。

■一人で手仕事をするのが好き

 中学校を終えて、すぐ就職しました。私ら頭が悪かったですから、とても高校へなんて行けませんでした。はじめは塗装工場に勤めて、日給が70円くらいだったと思いますよ。日給月給というやつですね。次にメッキの町工場に代わって、その後もいろんなところで働きました。でも、どこも長続きしないんですよね。
 性格がよくないんだろうと思います。何ごともマイナスに思考してしまうからいけない。人とつき合うのも苦手でしてね。私は酒もタバコもギャンブルも、女遊びをしたこともない。いまでこそ「タバコは吸わない」と胸を張って言えますが、あのころは「タバコも吸えないヤツ」という目で見られましたからね。つき合いが悪いから仲間ができない。それで職場で孤立してしまい、居づらくなって辞めてしまう。その繰り返しでした。
 子どものころから友だちと遊ぶより、一人で何かをしているほうが好きでした。電気にくわしくて手先が器用だったから、よく一人でラジオを組み立てたりしてました。中学生のときに鉱石ラジオをつくったのが最初で、まだクリスタルレシーバーなんて出てませんでしたから、軍の払い下げのレシーバーで聴いてね。はじめて音の出たときはドキドキしてうれしかった。
 そのころはNHKと進駐軍の放送しかなくて、『とんち教室』とか『二〇の扉』『話の泉』とかね。いや、なつかしいですね。
 そのあとも真空管を四本使った「波4ラジオ」とか、「スーパー5球」、トランジスターを使ったラジオまで、みんな自分でつくりました。頭が悪いから理屈はわからなかったけど、雑誌の『ラジオ技術』とか、『初歩のラジオ』『無線と実験』を参考にしながら、見よう見真似で自己流でつくったんです。
 一八歳くらいのときには、テレビもつくりました。キットの部品を買ってきて、組み立てるのに一年くらいかかりましたよ。NHKの学校放送の人形劇が最初に映りましたね。ブラウン管をオシロスコープで代用していたから、7インチの真ん丸い画面で、画像もザラザラしていて調整もできませんでした。それでも画像らしいものが映ったのはうれしかった。まだうちでも近所でも、テレビを持っている家なんてない時代でしたからね。
 ほかの電気器具も簡単な修理くらいはできましたから、隣近所のものを修理してあげて重宝がられました。そういうことを、一人でコツコツやっていることが好きだったんです。

■5年前に地主に追い出された

 30代に入ってしばらくしてから、兄が工場を始めてそれを手伝うようになりました。工場といっても自宅の敷地に小屋を建てて、家族が手伝うだけの小さなものでした。それから五九歳の年まで、ずっとそこで働いてきました。
 仕事はカメラのシャッターとか、カメラに組み込まれているTTL(自動測光)メーターの組み立てでした。あのころは小さなカメラメーカーがいっぱいあって、その下請けの仕事です。ちょうどTTLカメラがはやり出したころで、高度経済成長期とも重なって仕事は忙しかったですね。徹夜、徹夜の連続だったり、工場のソファに寝起きしたこともあります。
 ただ、それも一時でした。小さなカメラメーカーはみんな大手に食われて、次々につぶれてしまいましたからね。あとは電器会社から仕事をもらって細々とやってきました。その仕事も7、8年前から不景気で減り始めて、工場は立ち行かなくなっていました。
 そんなときに工場を経営していた兄が、突然死んでしまいましてね。そのころ母親が寝たきりの状態で、兄はその介護を一人でやっていました。それに工場の金策で走り回ってもいましたから、その無理がたたったんでしょう。心筋梗塞でした。兄の死で工場は閉鎖になりました。
 あとに寝たきりの母親が残されましたが、私らには兄のように介護をする器量はありませんから、病院に入院させたんです。その母親も一年後に亡くなりました。椎名町にあった家は借地でしてね。母親が亡くなると、地主から追い立てられるようになりました。その土地にマンションを建てるからという理由でした。といっても、私ら行くところもありませんから、ホームレスになるしかなかったわけです。それが5年前でした。

■農家を手伝って収入を得る

 自分では若いつもりでいても、この歳になると体のあちこちにガタがきてますからね。足は重たくなるし、耳鳴りもしてくる。右目は網膜剥離であまり見えませんし、左目も霞んできました。ベーチェット病の疑いがあるらしい。希望のない毎日で、根がマイナス思考の人間ですから、よくないほうにばかり考えて落ち込むばかりですね。
 病気だからって(行政の)福祉の世話にはなりたくないですね。とくに新宿区の職員は扱いがひどいっていうから、そんなものの世話にはなりたくないと思っています。自然に治らないかなって期待しているんですが……。
 希望のない毎日ですが、いい話もあるんですよ。親切なボランティアの人がいましてね。その人の世話で、三年前から埼玉の農家で農作業を手伝っています。草刈りとか、果樹の袋かけなんかの仕事を手伝うんです。仕事は春から秋にかけての毎月四回あって、一回一泊二日で行きます。日給で3000円。交通費が出ないんで往復2000円の出費は痛いんですけど、それでも二日間で差し引き4000円の現金収入になります。これには助かっていますね。
 それに手伝いに行けば、食事がついて、風呂に入れて、布団に寝られます。その農家の家族はみんないい人ばかりで、私らがホームレスだからといってまったく差別しないんです。食事もみんなと一緒に同じものが食べられます。農家の近くには高麗川というきれいな川が流れていて、農作業がひまなときには釣り糸を垂れることもできます。誰にもじゃまされずに一人になれる釣りは、いまの最高の楽しみですね。
 今年も3月になって暖かくなったら、また手伝いに行くことにしているんですよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/上野はオレのふるさとだ・山城信行(41歳)

■『新ホームレス自らを語る』に収録

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 一番充実していたのは、秋田のホテルのまかないをしていた時期かな。何がよかったんだろう。環境かな。ホテルのまかないは、飯場のまかないと待遇が違うから。オレが働いていたのはホテルでさ、アパートを会社が借りてくれて、風呂は社員寮に入りに行くんだ。もちろん個室だよ。
 まかないの厨房はホテルに泊まるお客さんの厨房とは別にあるの。普通は従業員40人分の食事を作る。夏はアルバイトがいるから80人分。でもな、修学旅行客なんかが来ると、客室の厨房でも人手が足りなくなる。そうすると焼き物や揚げ物を作ってくれって頼まれるんだよ。
 いまでも覚えてるのは、都心の私立中学が修学旅行に来たときだ。400人分の揚げ物を任されてさ。エビが二本と、ナス、かぼちゃ、ピーマンの野菜三点盛りを一人で揚げたんだから。エビなんて800本だぞ。それを従業員のおばちゃんが盛りつけて。もちろんいつも通り、まかない食も作らなくちゃいけないしね。
 また妙な縁があってさ、アルミ缶を集めていたときのことだよ。一日に何百円にしかならない仕事だけれど、必死に集めて東京・神田まで歩いたんだ。疲れたから歩道に座ってフッと後ろを振り向いたら、その私立中学の名が書いてあるじゃない。そのとき思い出したんだよ。こいつらの天ぷらを揚げさせてもらったな、てね。共立ってお嬢さん学校だろ。俺の天ぷらを食べたんだ。うん。

■わがままが通ったから……

 4年前から、ここにテントを立てた。前はくじら(国立博物館前)で立てたんだけれど、東京都にボラれ(だまされて)てさ。工事だと言っては、追い出されんだよ。でも工事を見ていると、ショベルカーで掘っているだけだもん。おかげでグルグル、いろんな場所を回ったよ。でも、ここは下がコンクリートだろ。簡単には工事できないと思うんだ。2、3年で上野公園からホームレスを排除する計画を東京都が立ててるって、みんな言っているよ。
 調理師になろうと思ったのは、高校二年のときだった。卒業したあと、どうするか悩んでいたんだ。でも兄も調理師だったし、一番ラクな仕事だなと思って、担任の先生に相談したんだ。どこか働ける調理場はありませんかって。結局、担任の先生は見つけてくれなかったけれど、クラブの顧問の先生がアルバイト先を紹介してくれたんだよ。総合結婚式場でね、先生の知り合いが重役だったんだ。
 最初はホールの仕事だった。3ヵ月だけはホールで働けと現場で言われて。でも4ヵ月たっても調理に回さないんだよ。店員とケンカして二週間ストライキしたんだ。「本店の重役から聞いているでしょ。調理に回してください」って。店員も「あー、そうですね」とは言うんだけどね。もちろん休んでいても給料はもらっていたよ。そのうち社員の方が折れて、「明日から調理で来てください」って言ってきたんだ。
 このとき、わがままが通ったでしょ。それがいけなかったのかもしれないな。人生はそんなもんか、と思ってしまったのかも。だからこんな風になったのかもしれないよ。こんなわがままばかり言ってたら、行っちゃうよ。ホームレスになっちゃうべ。ここいらへんにも、わがままな人がいっぱいいますよ。
 調理師免許には二年間の実務経験が必要だったから、免許を手にしたのは高校卒業から一年後、19歳のときだよ。結婚式場だったから和食と洋食は作れるんだ。しばらくして結婚式場は辞めたけれども、実家のある青森で働いていた。水商売の厨房とかね。仕事はすごくラクだよ。そうそう、チェーン店の居酒屋で働いていたときにチップをもらったことがあった。
 サラダを出したら客席から呼ばれてさ。呼んでいたのは、スナックのママとマスターの二人組。俺の顔を見たら、「あー、やっぱおまえだ」って、いきなりチップを握らされたんだ。
 俺はキュウリのヘタを残して、飾りを作るんだ。ワンパターンだけどさ。その飾りつけをお客さんが覚えていたんだよね。たまたま俺は店舗を異動した直後で、昔の店に来ていたお客さんが覚えてくれていたんだよ。
 そのあと郷里を離れて、さっきいったホテルのまかないを始めたんだ。ハローワークで委託会社を紹介されて、契約社員としてホテルで働いた。3ヵ月で更新。評判がよければ、追加、追加、追加になるの。いや、3ヵ月なんて、まかない調理はいい方だよ。ホールなんて2ヵ月でクビを切るから。四回転ほどいたから、1年ぐらい勤めていたのかな。
 ちょうど働いているときに、会社でゴルフ場建設に関わる問題が持ち上がって、つぶれるぞーとかリストラがあるぞ、なんてうわさが立っていたんだ。こりゃ、危ないと思って、委託会社から更新するかと聞かれたときに断った。つぶれなかったけれどね(笑)。

■冷たい身内

 それからいくつかの調理場を回ったけれど、32歳のときに1年ぐらい失業したんだ。25歳ぐらいから、このままじゃダメだとは思っていたんだけれど、現実になったな。仕方ないから姉弟の家に泊めさせてもらって、仕事を探したの。でも、青森には仕事なんてないんだ。しまいには姉弟の家をたらい回しだもん。
 こういうときに冷たいのは、本当の身内なんだ。姉には、「どこでもいいから早く決めて」なんて言われたよ。姉のところにいたとき、夜中、姉と兄が電話で相談していたしね。「どうする?」だって。眠っていても聞こえてきたよ。「そっちにやれば」とかさ。
 義理のお兄さんは、いい人でね。「何ヶ月住んでいてもいいんだ。そのかわり、ちゃんと自分でできる仕事を見つけるんだよ」と言ってくれたから。実の兄は、「どこでもいいから仕事を探せ」なんて言うけれど、県外に仕事を探しに行く旅費なんかは出してくれないからな。兄のところにも居られない。姉のところにも居られない。青森では仕事を探せない。それで東京に出てきたんだ。94年かな。
 東京には憧れもあったよ。でもさ、日本全国仕事がないから、日払いの仕事しか入れなかった。そりゃ、正社員の方がいいけれど、面接して、面接して、採用になるまで何ヶ月かかるんだ? ヘタすりゃ1年以上かかるかもしれない。その間の飯代はどうするの? 結局、手配師に「誰か調理いないか」なんて聞かれて、千葉や埼玉の飯場でまかないをすることになった。
 それでも最初に来たときは、仕事を探すのに失敗して、お袋に金を借りに帰ったんだ。そしたら、その1ヵ月後に死んじまった。お袋の葬式に参列して2ヵ月後、今度は親父が亡くなった。お袋は心臓で、親父が肝硬変。親の死に目に会えないんだよ。
 実家は市営住宅だったから、親が死んでも住む場所は残らなかったな。だいたい市営住宅そのものが取り壊されて、いまはマンションみたいな建物が建ってるんだ。 東京に来て4年間ぐらいは、それでもホームレスじゃなかったんだ。きっかけはマグロに遭ったこと。あるところの仕事が終わって、独り上野で飲んだんだ。あんまり酔っぱらって野宿したら、金も身分証明書も健康保険証もなくなったから。まあ、この生活を続けている分には、身分を証明しなくたっていいんだけどさ(笑)。
 これが上野の怖いところだよ。これは書いておいて。酔って寝ていたら、財布はもちろん時計や眼鏡だって、全部持っていっちゃうんだから。とくに不忍池周辺は怖いよ。同じホームレスでもきついからね。
 ホームレスになって、最初は駅で寝ていたりしたけれど、朝に追い出されちゃうから、上野公園に来たんだよ。いまはテントも定まったし、仕事もあるよ。物を運ぶ仕事だけど、1日に1万500円になるんだ。弁当やジュースを買っても、7000円ぐらいは残るでしょ。最初、仕事についたとき、一万円かせぐにしては大変な仕事だと思ったな。まかないに比べるとね。でも、仕方ないからね。上野公園で酒が飲めるホームレスなんて、ほとんどいないんだから。仕事があることに感謝しているよ。

■あて馬か、おまえ

 女? 女は泣かしてないよ。泣かされたくちだよ。でも部屋を持っていたころは、ホテル代もかからなかったからな。オレはさ、すぐ食っちゃうから(笑)。飲み屋とかで知り合って、電話番号を女の子に教えてもらってさ。電話で口説けば、自分の部屋までのタクシー代だけだからさ。一度なんか子持ちの奥さんが泊まりに来たこともあったよ。朝方、「朝、子どもに弁当を作らなくちゃいけないから」って言って、自宅に帰って行ったよ。 結婚しようと思ったこともあったんだ。同じ職場で働いている女でさ、エッチして、3ヵ月間も同棲して。乳の大きい、ブスでさ。いや、ブスじゃないな。ブスは好きにならんしな(笑)。相手の両親にもあいさつに行ったよ。その親父と妙に気が合ってさ。「おー、ノブノブ、酒飲めよ」なんて言われて盛り上がって。
 でも4ヵ月後に別れることになってね。いきなり「別れたい」といわれたから、「いいよ」って答えた。その五ヶ月後に子どもが生まれたんだ。「もしかしてオレの子ども」って聞いたら、「違う」と言われたよ。もっと驚いたのは親だよ。違う男がいるのを、親も知らなかったんだから。「ノブちゃんの子どもじゃないの」って言ったらしい。結局、その子どもの男と結婚したらしいけれどな。
 子どもが生まれたと聞いて、親父さんと電話で話したよ。そうしたら「ノブ、このやろう、なんで種付けしないんだ」って言われたから、「種付ける前に付けられたよ」って答えたら、「あて馬か、おまえ」って気の毒がられた(笑)。
 たぶんオレとの付き合いもカモフラージュだったんだよ。同棲しているときに子どもがいたんだから。

■足をケガしたら何を渡される?

 いまの生活で不安なのは、やっぱり病気かな。
 以前、酔っ払って段差でつまずいたんだ。そのときは寝ぼけていて、気づかなかったけれど、朝起きたら足が動かない。立てねぇんだよ。膝の上がパンパンに腫れてるんだから。しかも日曜日だったから、ホームレスの見回りをしてくれる争議団(ボランティア団体)も来ない。とりあえず隣のテントで寝ているヤツを起こさなくちゃと思ったけれど、2、3メートル動くのに30分もかかった。ゴルフクラブでテントをガンガン叩いて、交番に走ってもらったんだ。
 やっと救急車に乗せてもらって、病院に着いたけれど、すぐには中に入れないの。まず服の首を引っ張られて、中を看護婦が見て、さらに背中に回って服の中をのぞいてね。「虫OK」と言われて、初めて診察になるんだ。
 診療を待っている間にも、婦長が俺の顔を見て、「あれ、また来たの」とかバカにした態度で言うんだよ。誰かと勘違いしたんだろうな。「初めてだよ。バカヤロウ」って言い返したさ。
 さあ、問題です。ホームレスが足をケガしたとき、病院は何を渡すでしょうか? 松葉杖? ブー。正解は傘だよ。普通の傘。松葉杖はあるんだよ。それなのに、「そこの傘、一本持っていっていいから」だもん。
 上野公園に帰るためにバス代200円くれたけれど、バス停までの道順だって遠回りを教えるんだ。病院からまっすぐ行けばバス停なのに、グルッっと回らされたよ。
 腫れていた膝には、水と脂がたまっていてね。結局、3ヵ月通院することになったんだ。台東区役所の担当者は優しくて、俺の傘を見て杖を貸してくれたよ。「どういう病院だ」って怒ってね。「体に合わなきゃ、杖を調整するよ」とも言ってくれた。働けなくなったから福祉も下りて、1日400円。一月1万2000円を、3ヵ月間くれた。これも書いておいてね。病気のときには、こんな救済制度もあるんだよ。
 アパートを借りるのは難しいだろうな。いつ仕事がなくなるか不安定だもん。アパートに入るには、保証人もいるしさ。調理師の仕事があったら、まかないでもいいからやりたいな。どうして調理師かって? それはわからないな。おたくだってライターの仕事で食えなくなっても、違う仕事なんて考えられないでしょ? 同じだよ。
 地元に帰る気なんて毛頭ないよ。仲間もいるし。みんな「ノブ、ノブ」って話しかけてくれる。うれしいじゃん。今日も昔のホームレス仲間に会って、「ノブ、どこに住んでるんだー」って聞かれたよ。
 仕事がダメになっても、ココに戻ってくればいいんだよ。上野はオレのふるさとだもん。 (■了)

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