もう一度バブルに踊ろう/大畑太郎

もう一度バブルに踊ろう/最終回 クリスマスプレゼント狂想曲とその後遺症 

■月刊「記録」05年1月号掲載記事 

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 さて、問題はティファニーに敵対心を持っているかどうかである。
 クリスマスシーズンともなれば嫌でも視界に入ってしまう水色の袋を憎んでいることが、友人としての条件であろう。
 毎年、恋人もなく寂しいクリスマスを過ごし、「TIFFANY&Co.」と書かれた袋を下げたカップルに腹を立て続けているならベスト。恋人こそいるものの高額なプレゼント要求にホトホト嫌気がさし、ティファニーを嫌いになった男性もよろしい。しかし女性にも金にも苦労しないというなら、そやつはティファニー以上の敵である。 じつはクリスマスプレゼント高額化の歴史は、バブル以降のティファニー人気と密接なかかわりをもっている。このアメリカの老舗ブランドが日本で伝説を作ったのは1989年だった。バブル経済真っ盛り、日経平均株価が市場最高値を付けた年である。この年のクリスマス、ティファニーの銀座三越店は「売り切れ証明書」を発行したと話題を呼んだ。品切れで買えなかった男性客が恋人に釈明するため発行したという。経営陣が証明書発行を否定しているため真偽のほどは定かではない。ただこの噂によってティファニー人気は不動のものとなり、同時にプレゼント高額化の「戦犯」として記憶された。
 このころからクリスマス・プレゼントの人気投票で、ティファニーはダントツの1位を獲得するようになる。その一方で、91年1月7日の『朝日新聞』は「ホテル・ルームのゴミ箱からはティファニーの袋が山のように出てくる」と、プレゼント・宿泊費・食事代で数十万円もかかるイベントの象徴であるティファニーを揶揄した。

■家族から恋人にターゲットが移行

 では、どうしてバブル期のクリスマス・プレンゼントにティファニーが選ばれ、なぜプレゼント代は高額化したのだろうか?
 この疑問を解消するためには、80年代に起こった「クリスマス」の変容を理解する必要がある。しばしば指摘されることだが、もともと欧米のクリスマス・イヴは恋人と過ごす日ではなく、家族が集まる日だ。70年代までの日本も、そうした伝統に従っていた。80年代初頭ですらクリスマスのプレゼントといえば親から子へ贈るものであり、女性誌がクリスマス・プレゼントの特集を組むことなどなかった。その手の企画はバレンタインデーに集中していたのである。
 しかし1980年松任谷由実が発表したアルバム『サーフ&スノー』に、「恋人がサンタクロース」が収録された辺りから状況が変わってくる。家族に訪れていたサンタクロースが、対象をカップルへと移していったのだ。83年には、現在もクリスマスソングの定番とされる山下達郎の「クリスマス・イブ」がリリース。「一人きりのクリスマス・イヴ」を悲しむ風潮が一気に世に広まっていく。また同年12月24、25日には松任谷由実の「新さくら丸 クリスマス・コンサート」がスタート。横浜の夜景とユーミンと「恋人はサンタクロース」という必殺の組み合わせは、まさに恋人のためのイベントとして評判となった。
 こうした風潮を受け林真理子は『an・an』(1983年12月23日号)に「クリスマス・イヴなんか嫌いだ!」というエッセイを発表している。「来年こそ二人で――。毎年そう思いながら、寂しいイヴを迎えているわ。」という見出しから始まる文章は、独りで迎えるイブへの呪詛に満ちている。ただタイトル横に「イヴには、プレゼントどっさり。パーティーいっぱい。るんるん気分」、文中にも「イヴの日に何人もの男と会う約束をしてる女の子がいるじゃない」と書かれているところをみると、「本命の恋人とベッタリ朝まで過ごすのがイヴ」というバブル時代のクリスマスとは趣が異なるようだ。まだクリスマスパーティーにも、多くの若者が魅力を感じていたのだろう。
 そして84年にはワム!が「ラストクリスマス」を発表。数年後には街中で流れるクリスマスソングが、家族中心のクリスマスを象徴するビング・クロスビーの「ホワイトクリスマス」からラブソングの同曲へと変わっていく。
 こうした状況下で86年末からバブル景気が始まる。そしてティファニーの売り込み戦略がバブルとしっかりかみ合っていたのだ。87年10月にはティファニー社の会長が来日し、「カネ余りで高級化志向を強めている日本の消費者には、ティファニーの商品がぴったり」(『読売新聞』87年10月6日)と売り込みをかけている。当時の日本におけるシェアはわずか0.4%だったが、三越日本橋本店1階の店舗をティファニー社専属デザイナーの設計に基づいて大幅改装。ニューヨーク本店と同じイメージに仕立て上げている。
 こうした戦略に女性誌も反応し始める。88年9月15日号の『Hanako』は巻頭で「ティファニーのすべて」と題した特集を組んだ。翌年にはティファニーとカルティエを並べたてた記事がいくつもの雑誌で見られるようになる。
 しかも同年は13誌も女性誌が創刊された女性誌ブームだった。翌89年も11誌が新しく売り出されている。こうした創刊ブームの裏にあったのが、高級ブランドの広告増大だったといわれる。つまり広告とタイアップで女性誌が読者の購買意欲をそそるだけそそったわけだ。
 その上88年には皇太子が花嫁の条件を聞かれ「ティファニーであれやこれや買うようでは困ります」と発言した。これでブランドとしての知名度はさらに高まった。実際この年のティファニーは、三越の総売り上げの8.7%にあたる62億円を売りきっている。
 そして伝説が作られた89年のクリスマス直前、ティファニーの独占販売権を持つ三越は同社の株を買い増して筆頭株主となる。当時、人気商品の品切れに悩まされていた三越は、ティファニー社に強気で挑める万全の状態でクリスマスを迎えたのである。
 女性誌と皇太子(?)の後押しを受け、トップブランドに躍り出たティファニー。しかしカルティエなどライバルブランドを蹴散らし、クリスマス商戦でトップに立ったのはブランドイメージが確立したからだけではない。意外に思えるかもしれないが、当時、男性から選ばれた最大の理由は、その安い価格にあった。
 1897年のティファニーの国内売れ行きベスト30(『Hanako』88年9月13日)をみると、1~12位まではすべて2万円以下なのだ。トップのシルバーオープンハートが9000円、2位のビーンライターも9000円である。数十万のブランド品をプレゼントしたとされるバブル期のクリスマスの筆頭ブランドとは思えない値段だ。
 だがティファニーの戦略のうまさは、その価格帯の広さにある。当時大人気だったオープンハートでも、シルバーのminiなら5500円、Sなら9000円、Mなら1万7000円、18金のSなら5万6000円となる。だからこそみんなが買えたのであり、女性が求める金額も少しずつ上がっていったのである。
 バブル当時のクリスマスについて話を聞いた女性(36歳)は、「私はティファニーのゴールドしかもらわなかったよ。やっぱりねー」と話してくれた。ミスコン入賞者でもあり、それなりにモテた彼女にとってシルバーのティファニーは納得できない代物だったようだ。同じブランドでありながら一目瞭然にランク付けされる構造に、彼女を含めた多くの女性が踊ったのである。
 手を出しやすい価格を備え付けたティファニーに群がったカップルは少しずつ高額商品にも慣れしたしんでいき、年とともに他の高額ブランドまで買うようになってしまったのだ。もし、80年代後半にティファニーが販売攻勢をかけていなければ、多くの男性はブランド品のプレゼントを贈らなかったはずだ。バブル期とはいえブランド品を買う人が少なければ、「高いから」と断ることもできる。もちろん女性もおねだりしにくい。
  「大丈夫、そんなに高くないから」→「でも大きい方がほしいなー」→「やっぱゴールドでしょ」→「もうティファニーは卒業かな」。などと出世魚のごとく女性の金銭感覚を「成長」させることもなかった。
 あー、なんと罪深きティファニー。

■バブルの癖はなおらない!?

 しかもバブル期を過ごした女性のプレゼント癖はいまだに抜けていないという。
  『読売新聞』(03年12月18日)によれば、バブル期に20代で会社勤めをしていた37~43歳と20代の女性に今年一番もらいたい贈り物を調査したところ、両者とも3万円未満が最多だったが、37~43歳では10万円以上が36.6%もおり、20代の1.5倍もいたという。
 さらに恐ろしいことに、女性がプレゼントに希望する額は経済とは密接な関わりがない。プランタン銀座が95年から毎年行っているアンケート調査によれば、もっともプレゼントの希望金額の高かったのは、2002年の5万442円だった。ところがこの年の12月25日の日経平均株価は、95年から現在までのクリスマスで過去最低となる8501円。株価が実態経済を先取りしていると考えても、1年で17%も株価が下落しているなか、倍以上に希望値段が上がる理由など経済からは説明がつなかい。
 バブル期に女性の購買を引っ張った『Hanako』は、94年12月1日号で「速攻買いのクリスマス、これが私の欲しいもの」という巻頭特集を組み。エルメスやグッチ、ルイ・ヴィトンなどの高級ブランドの商品を紹介した。そのときに使われたリード文は次のようなものだ。
  「一昨年、昨年とがまんしてきたクリスマス。一番狙いは諦めて、セカンドチョイスでお茶を濁してきた。でも、がまんは体と心によくない。旬のおしゃれをいち早く楽しんで気分は上昇気流へ、今年は欲しいものが欲しい!」
 ちなみに「セカンドチョイス」でお茶を濁した92、93年のクリスマスの日経平均は1万7557円と1万7141年である。そして94年の日計平均は1万9633円。たしかに回復しているが、それでもバブルだった89年のおよそ半値でしかない。エルメスやグッチ、ルイ・ヴィトンなどの高級ブランドを買うほどの株価とも思えない。
 しかし、これがバブルを体験した証なのだ。変化した金銭感覚が簡単に戻ることはない。バブル期にブイブイ言わせてきた女性と付き合うなら、クリスマスの出費は覚悟しておくしかない。恨むならティファニーだな。
(■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第6回 今からでも間に合う!? イヴのホテル!

■月刊「記録」04年8月号掲載記事

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 梅雨が明け、陽射しが肌を焼く。そんな夏への気配を感じたら、そう、クリスマスの予約である。
 うだるような暑さのおかげで、汗をかいたオヤジどころか恋人や猫にも近寄ってほしくないと感じる今日このごろだが、バブル時代の7月といえば恋人と過ごすクリスマスのホテルへの電話が恒例行事だった。予約受付が9月から始まるセンチュリーハイアットや東京ヒルトン、全日空ホテルなどを別にして、夏までに予約をしないと高級シティーホテルでのクリスマスイブは手に入らなかったのである。
 バブル時代を存分に楽しんだという37歳の知人の女性も、「バブルの時、ホテルの予約は夏までなんて言ってた、言ってた」と笑いながら当時を思い返してくれた。
 しかし夏までに動けば、すべてのホテルが予約できたわけでもない。
 91年11月4日『週刊読売』によれば、「当時の若者に一番人気の東京ベイエリア(千葉・浦安)のホテル群」は、「早いところは1月に、遅いところでも6月中には全室予約で一杯になったという。予約開始から1時間半で満室になったところもあるほどだ」と書いてある。
 げにおそるべきはバブル時代!
 最低でも3万5千円ほどする部屋が、半年以上前から埋まっていたことになる。さらに主要ホテルのイブを予約しておき、1万円ほどの手数料を上乗せして宿泊の権利を売り渡していた学生もいたというから驚きだ。
 今考えると、この熱狂がスゴイ!
  「キリスト教徒でもないから12月24日なんざ、ただの年末」なんて「言い訳」は通じない。彼女を保持するためには、シティーホテルぐらい当たり前という雰囲気があったのだ。
 好景気というものは、ここまで人を元気にさせるものだろうろうか? 
  「あの熱気よ、いま何処」ということで、新旧の人気ホテルにイブの予約状況を確かめてみた。 

■前日・当日の予約可能なニューオータニ

 まずは、あまりのドタキャンの多さに腹を立て、90年からクリスマス期間の予約客に、1泊分の前金を徴収して話題となったホテルオークラから。いわずと知れた日本を代表する高級ホテルのオークラなら、少しは予約も入っているかなと期待したのが、「最近は、クリスマスの前日・当日にご予約されるお客様もいらっしゃいます。1ヶ月ぐらい前のご予約ならお部屋を取ることは、まず大丈夫だと思います」とのこと。
 それならと、同じく名門のホテルニューオータニに電話をかけてみると、「クリスマスプランは、だいたい2ヶ月前ぐらいの発表となります。24日が平日の場合は、例年ですと当日や前日でもご予約ができる状況です」との答え。お得なクリスマス専用プランを企画しても、全室埋まるわけではないらしい。
 ならばバブル経済期、不動産などで大金を稼いだ「バブル紳士」に人気のあった赤坂プリンスホテル、通称「赤プリ」はどうだろう。
  「いつごろ予約が埋まってしまうのかは確実なことが言えないのですが、今の時点ではまず空いております」 9月の予約開始日には電話がかかりにくくなるという伝説を持つ西新宿のヒルトン東京も、「最近は事前の予約で部屋が埋まるということがないですね」と寂しげに語る。
 それでも品川プリンスホテルよりは、いくぶんマシかもしれない。
  「ダブルのお部屋は旅行会社に出しておりますので、お日にちが近づきますとお取りできないこともあろうかと思います。なるべく早めに確保という形でご予約をお願いいたします」
 名門・品プリにして、イブの夜が団体客で埋まる可能性があるらしい。
 ちなみに豪華な内装で最近、ジワジワと人気の上がってきている芝公園のセレスティンホテルは、「団体が入ると埋まってしまいます」とハッキリ言われた。イブの夜は、すでに個人の客をあてにする時代でもないということか……。
 今年のイブは金曜日。彼女と宿泊するならまたとない日程だと思うのだが、老舗ホテルの敷居はあまりにも低かった。
 そこで昨年11月、『TOKYO1週間』に掲載された読者男女500人が選んだ「憧れホテル 読者人気BEST5」に電話を。バブル時代の人気ホテルがそっぽを向かれていても、クリスマス前の情報誌で特集されたホテルなら話は違うはず。
 さっそく第1位に輝いたお台場のホテルグランパシフィック メリディアンに電話だ。
「10月ぐらいまでは、(埋まっていないので予約も)ぜんぜん大丈夫です」とのこと。現在人気のホテルさえ、2ヶ月前ぐらいからの予約で十分らしい。
 第2位の東京ドームホテルも、クリスマスプランができあがるのが10月ぐらいらしく、それほど早い予約も必要ないとのこと。
 第3位は先述した品川プリンスホテルで、第4位も先ほど書いた「予約で埋まらない」ヒルトン東京。第5位、汐留にできたばかりのパークホテル東京は、クリスマスプランの発表が夏過ぎてからのため、夏前から予約する必要なし、と。
 それにしてもイブのホテルを巡る状況は一変した。それにともなってホテル側の要求も変わった。バブル期、客の入れ食い状態だったホテル側にとって、心配の種はドタキャンだった。夏に張り切って予約したものの彼女と別れた男たち、あるいはいくつものホテルをとりあえず予約しておいて使わないホテルをドタキャンする人なども多かった。ホテルによっては、一晩で30室もの無断キャンセルが発生したというから深刻だ。
 こうした事態を防ごうと前金制にしたり、直前に確認書を送ったりするホテルが少なくなかったという。ところが今回の電話では、「とりあえず予約だけいかがですか」と、いくつものホテルから予約を勧められた。
 渋谷の駅ビルに入る渋谷エクセルホテル東急にいたっては、「個人様のご予約でしたら、前日・当日のキャンセル以外キャンセル料は発生いたしませんので、ぜひご予約を」と勧誘された。
 イブであっても、ホテルの状況は楽ではないのだ……。

■5つの勝ち組ホテルを支える、その施設

 イカン! バブルの熱気を取り戻すつもりが、すっかり不景気風に当たってしまった。
 さて、それでは満室のホテルは、まったくないのだろうか? いや、それがあったのだ。
 都内・横浜・千葉の人気ホテルに電話かけまくり、「満室」のという単語を耳にしたのは、わずか6回。まず、バブル期を再現したかのような人気を示したのが、ディズニーアンバサダーホテルと東京ディズニーシー・ホテルミラコスタの2店。そう、両方ディズニーリゾート内にあるホテルだ。
 この2つのホテルの予約は、宿泊の6ヶ月前と決められているが、なんと予約開始初日の朝のうちに12月24日の全室が埋まったという。7月21日現在、プレ・イブの23日にアンバサダーホテル5万3100円の部屋なら予約可能とのこと。
 上記2つのホテルとまではいかないものの、人気沸騰が続いているのが東京ベイホテル東急。4万円以上するダブル、5万円以上もするデラックスルームなども含めて満室。
 さらにサンルートプラザ東京とシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルは、24日のダブルルームが満室。ツインルームに若干の空きがあるとのこと。
 しかし、よく見れば5つのホテルはすべてが舞浜なのだ。ディズニーランドやディズニーシーでクリスマスを楽しむカップルが、いっせいに予約しているだけ。ホテルが人気というより、クリスマスのディズニーランドが人気なのだ。
 都内および東京近郊のクリスマスホテル商戦は、ディズニーリゾート関連の独り勝ちといえる。業界2位も3位も総崩れ、1位だけが利益を上げ続ける構図は、最近の日本経済そのまま。せっかくはやっているホテルを見つけたのに、暗澹たる思いにとらわれた。
 そして、もう1つ「満室」という言葉を聞いたのが、新宿にあるパーク・ハイアット東京。名監督フランシス・コッポラの娘ソフィア・コッポラが監督した話題作『ロスト・イン・トランスレーション』にも登場する超高級ホテルだ。
  「12月24日のご予約状況ですが今はまだ空いてございますが、昨年は10月と11月に、いったん満室となっておりますので、お早めのご予約をお願いいたします」
 夏に予約がいっぱいになるまではいかないが、10月の段階で満室になるという話は、ディズニーリゾート近辺のホテル以外では聞けなかった代物だ。
 しかし1室5万円以上する高級ホテルが、2~3万円代のホテルより人気が高いのは、「持つ者と持たざる者」の格差が広まった証拠ではあるまいか……。
 あー、思い返してみれば、バブル時代はくだらないバカ騒ぎ連続だったが、今より経済格差は少なかった。好景気に支えられたサラリーマンも、アルバイト探しに困ることのなかった学生も、最高のクリスマスイベントに参加できたのである。
 2001年12月26日号の『SPA!』に掲載されたアンケートによれば、「今年のクリスマスに恋人と一緒に行きたい場所は?」という問いに、20代女性の半分近くが「高級シティーホテル」と答えている。少なくともこのアンケート調査では、「美味しいイタリアン」や「温泉」などを抑えて、20代女性の希望のトップである。しかし、そんな無駄遣いを多くの人がしなくなった。
 では、なぜしなくなったのか、それは次回のクリスマスプレゼント編で解説したい。(■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第5回 マハラジャで見る盆踊りの夢

■月刊「記録」04年6月号掲載記事

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 どうやら巷では、80年代&ディスコがブームのようだ。
 昨年夏にはオリコンのアルバムヒットチャートのトップ50に、ディスコの名曲を集めたアルバムが3作品も入ったという。1979~80年の1年余り開業していた伝説のディスコ・キサナドゥが02年4月から青山で再オープンし、84~97年まで営業していたマハラジャ東京も昨年8月から再び店を開けた。ついでに、この連載が始まったのも今年1月である(いつも通りのこじつけですね、はい)。
 『記録』にしては珍しく流行を捕まえたか!?
 せっかくである。偶然とはいえブームに乗ったのだから降りるわけにもいくまい。で、見てきましたともマハラジャ東京。
 80年代後半、一世を風靡したマハラジャは入場が難しいことで知られていた。ジーンズなどの軽装はもちろん、入り口に立つ店員の「黒服」にダサイと判断されたら入れてもらえず、男だけのグループもダメ。女性グループを入り口付近でナンパして入場しようとする輩まで現れたのだ。当時もダサかった私は、入り口を眺めただけで満足したものである。
 そのうえ私は、15年たってもマハラジャ向きではない。毎日ジーンズで出勤しているため、スーツなんぞほとんど持っておらず、ダサイのも相変わらず。少し変わったのは、腹に脂肪が付いたことぐらいだ。それでもスーツは、取材用があるからよい。困ったのは同伴の女性だ。編集部の若いアルバイトに命令して付いてきてもらっても、客層が30~40代だから連れが店内で浮いてしまう。仕方ない。大学時代からの旧友にお願いしました。ご飯をご馳走する約束まで付けて……。
 と、ここまで気合い入れて六本木へとでかけたのに、マハラジャの敷居の低いこと、低いこと。店のあるビルには居酒屋やカラオケボックスが営業しており、肝心の入り口もほとんどフリーパス。しかも客がほとんどいない。私たちを含めて、わずか7人である。
「いやー、月曜日、火曜日は特にお客様が少ないんです。週末は2回転ぐらいするほど混むんですが」と黒服は言った。たしかに週の頭から遊ぶ元気など、30~40代にはありません!
 黒と金を基調にした内装は全盛期の面影を残し、お約束のマハラジャの象徴「金色の象」も置かれ、ミラーボールも回っている。しかし人のいない金ぴかディスコは、空いている遊園地と同じ。寂しさが漂ってしまう。フロアでは20代中盤とおぼしき2人の女性がパラパラを踊っていたが、とても一緒に踊る気にはなれない。
 仕方なく、私たちの隣の席でどんよりとした眼でフロアを眺めていた3人組女性の1人に声を掛けてみた。
  「私たちは7時半から来ているんですよ。入ったのは、一番で。しばらく踊っていたんですけど疲れちゃって」
 なるほど30代中盤、ほぼ同年代と思われる女性の顔には、色濃い疲労が見て取れる。
  「店が復活してから来たのは初めてです。若いときも、そんなに頻繁に来ていたわけじゃありませんよ。でも、昔はカッコイイ男の人もいたし、入り口で一緒に入っていただけませんか? なんて声を掛けられたりして楽しかったですよね。黒服の人も素敵だったし。まさか女の子5人しかいないなんて……」
 そりゃ、暗くもなるってもんです。このときすでに午後9時半。2時間いて入ってきた男は、私1人なのだから。
 ――失礼ですがおいくつですか?――とたずねると、彼女はブンブン手を振り、笑いながら「マハラジャの全盛期を知っている世代ですよ」とだけ答えてくれた。
 しかし改めて店内を見回すと、どうしてバブル当時、あそこまでマハラジャが流行ったのかと不思議に思えてくる。金ぴかで悪趣味な内装。オスカルの衣装かと見まがうような、赤の生地に金ボタンのたくさんついた「黒服」の制服。話もできないほどうるさい音楽。
 キャンペーン中だったため無料で入場したという3人組の1人も、「もう来ないかも」と呟いていた。3500円も支払った私などは、「もう絶対に足を踏み入れまい」と誓ってしまった。

■黒服が「特別意識」をくすぐる

 人が少なかったのを差し引いても、当時の熱狂はまさにバブルマジックである。ただし男がディスコに夢中になった理由は説明の必要さえない。女だ。
 89~90年にかけてディスコで遊んでいた川久保良幸さん(37)は、「ディスコの目的は出逢いでしょう」と単刀直入に語ってくれた。
  「うまく(女性を)つかまえられるときもあれば、ダメなときもあったよ。でも、女の子も期待してたんじゃない。今よりガードは堅いかもしれないけれど、とりあえず話は聞いてくれたからね」
 ところが女性に当時の話を聞くと、様相は若干変わってくる。やはりバブル期にディスコでよく遊んでいたという山口美由紀さん(39)は、「男は風景の一部だった」と、当時を思い出してくれた。
  「かわいい女の子とつるむために、ディスコに行ってたような気がする。ナンパもされたけれど、ついて行くこともなかったし。でも、ディスコの男の子って、キラキラしてみえたのよね。よく見るとブサイクだったりするんだけど(笑) ディズニーランドと似ているかな。ドレスアップして、別世界にいるのが楽しかったんだ」
 84年頃、高校3年のとき友達に誘われて六本木のディスコに通ったという好川あずささん(38)の思いも、山口さんと近い。
  「どうして、こんなところに誘うんだろうと思っていたけれど、行くこと自体が『あー大人じゃん』って感じてた。大人への通過点ですかね」
 2人の女性のディスコに来る目的は、踊りでも、男でもない。ドレスアップしないと来られない、あるいは大人じゃないと楽しめない、少し背伸びできる空間だった。
 じつはディスコ経営者の狙いも、こうしたところにある。マハラジャをつくった会社の社長である菅野諒氏は、『ザ・ビッグマン』という雑誌で次のように語っている。
  「日本人はみんな新貴族階級になりたいと思っているんです。その特別意識をくすぐるのがマハラジャ・コンセプトです」
 日常生活で遭遇することのない豪華な内装デザインも、入り口での服装チェックも、「特別意識」を育てるための仕掛けらしい。また、この戦略はバブル経済によって自分を中心に世界が回っていると感じている人々に共感を持って迎えられた。一方で、そうしたコンセプトは、しだいに客を遠のかせる要因ともなっていく。
  『ジュリアナのお約束』(パラス出版)という本では、マハラジャやエリア、シパンゴなどバブル期に栄えたディスコの末期症状を、次のように書いている。
「バブル時代の絶頂期、アブク銭をつかんだバブルオヤジが金で買えないものはないって感じで黒服とつるみ始めた。金のない黒服にチップをはずみまくって、VIPを取っては、黒服に女の子を連れて来てもらっていた」
  「特別意識をくすぐるため」に使われた黒服は、入り口でのチェックやVIPの認定などの仕事によって、自らが特権階級となり、その構造をバブル成金が利用しちゃったというわけだ。
 こうした状況だったから、バブルの終焉が近づくととともにディスコは減少した。85年に59店あったディスコは、88年には69店、さらに90年には88店舗と年々増え続けた。しかし91年81店と一気に減少に転じている。92年には、カラオケボックスやレストランにくら替えする店も多くなり、元気なディスコはお立ち台で有名になったジュリアナ東京だけという状況にまで落ち込んだ。
 では、どうして同じディスコのジュリアナ東京が、それだけ人気を誇っていたのだろうか? その理由の先述の『ジュリアナのお約束』では、「ゴールド(※筆者注:90年芝浦にできたディスコ)では日常の中の非日常を演習しようとしているが、ジュリアナはあくまで日常の遊び場を追及」と説明している。
 黒服が特権を持つことも、客に特別意識を持たせることもなくなった。その結果、客層は若くなり、露出もナンパもよりオープンになっていったのである。
 では、この「特別意識」くすぐりだけが、バブル期のディスコを盛り上げたのだろうか? いやいや、それはちょっと違うようだ。
 じつはバブル期とその前後のディスコと比べると、面白いことがわかってくる。
 現在39歳で高校1年から六本木のキサナドゥなど、いわゆるサーファー系と呼ばれるディスコに週2~3回通っていた柏原知恵さんは言う。
「憧れのすべてがディスコにあったんですよ。ファッションも音楽も人も。ディスコには、慶應や聖心女子大の学生、広告代理店や商社のサラリーマンが来ていましたね。当時のスーツが格好よくなかったので、サラリーマンは私服でした。みんな素敵な人たちでした。常連同士がみんな知り合いで、今でも連絡を取っている友達もいます。ディスコを出て、朝までキャンティーで飲んでたりするのも楽しかったな。
 バブルになってからのディスコは、ドレスコード(服装チェック基準)がどんどん高くなっていったんですよ。私の好きなファッションでもなくなって、付き合いで行くことはあっても、なんか違うと思ってました」
 一方、現在35歳でバブル期に、ディスコではなくクラブのはしりに通っていた飯田久子さんは、ディスコとクラブの違いを次のように説明してくれた。
  「クラブの方が服装も自由だし、何より音楽の種類が違うの。踊ることより、音楽にこだわっているというか。ディスコは、『みんなで同じ格好して、同じ振りで踊りましょう』って感じでしょ。あー、国民的な盛り上がりだなと思ったもん。もちろんイベントとかでディスコに行くときは、私もボディコン着たけどね」
 バブル前の六本木のディスコは、たしかに服装チェックはなかったかもしれない。しかし逆にファッションや会話も含めて、ある種の基準に達しなければ遊べない場でもあった。イタリア料理の名店として名高いキャンティーで朝まで飲むなど、それなりに遊んでない人には居心地が悪いに違いない。
 つまり服装チェックを設けることによって、マハラジャは「特権」を庶民に開放したのである。服さえ着れば仲間になれるなら、同じ服を買えばいいのだから。
 そうした雰囲気を、飯田さんは「国民的」と感じたのだろう。ディスコ崩壊後、音楽の趣向によって細分化されたクラブが全盛となり、ファッションや振り付けが決まっていたディスコは衰退していく。一方で、経済も横並びの年功序列が崩壊した。つまりバブル期は、集団が一緒に同じ夢を見られた最後の時期だったといえる。企業を村社会に、ディスコを盆踊りに例えると、当時の雰囲気がよく伝わるかもしれない。そして上京した元ディスコキングやクィーンは、村の盆踊りのために里帰りするのである。  (■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第4回 バブル入社組への呪詛が聞こえる

■月刊「記録」04年4月号掲載記事

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 「拘束旅行」「オセロ」「4S」。さて、この3つの言葉に関係するのは、何でしょう? 
 言葉の意味を覚えている人など、ほとんどいないだろうが、正解は就職活動である。もっと厳密にいえば、バブル期の就職活動だ。
 今ではウソのような話だが、当時の企業はとにかく人手が足りなかった。1989年には、大学卒業予定の男子学生の3人に2人が上場企業に就職でき、平均で1人3.2件もの求人があったのだ。そうなると企業と学生の力関係は一変する。何がなんでも新卒の人材を確保したい企業は、なりふり構わぬ学生の囲い込みを始めた。
 そうした状況で生まれたのが、冒頭の3つの言葉だ。  「拘束旅行」は、内定を取り消して他社にいかないよう会社訪問が正式に解禁となる8月20日前後に、学生を旅行に連れ出すこと。
  「オセロ」は、学生が内定を取り消すこと。
  「4S」とは、OBが学生確保のために後輩を接待する場を指す。サウナ、すし、ステーキ、ソープランドの略だという。
 いやはや好景気はスゴイ! 現在、数千人単位でリストラを断行している企業が、わずか15年ほど前には学生にオンナをあてがって自社への就職を説得し、他社へと逃げないよう旅行にまで連れ出していたのだから……。 にわかには信じがたい話だが、こうしたリクルート活動は、当時の新聞や雑誌を幾度も報じられている。
 銀行や証券の間ではやったのは、「電話内定」だという。資料請求のハガキを投函すると、何度か電話がかかってきて、その後、指定された日に会社に行けば内定をもらえる仕組みだ。国公立大学や有名私大の学生なら、会わなくても採用というのだから尋常ではない。
 頭数だけ揃えるなんて、徴兵した軍隊じゃないんだから。それとも突撃するためだけに集められた「捨て駒」だったのか? そう考えると、現在、バブル入社組が大量リストラの危機にさらされている理由もわかる。
 90年8月20日の『朝日新聞』は、内定者を東北の温泉に連れ行く商社や、東京ディズニーランドに連れて行く金融会社があったと報じた。
 また、コンピュータ会社から6月に内々定をもらった学生のコメントも掲載している。
  「内々定をもらった時に、9月上旬に工場見学を兼ねて、米国西海岸に連れて行く、といわれました。早い人は、7月ごろにもう行っています」
 なんと海外。
 しかし上には上がいる。某外資系企業は、学生を香港に1ヶ月連れて行ったという。
 こんなの一部の企業だけだと思う読者もいるだろうが、それは大間違い。88年夏に日本経団連内に設けられた就職協定協議会の「拘束110番」には、400件を超える電話が殺到した。そのなかでももっとも多かった相談事が「国内、外の宿泊研修旅行の強制」だ。その数、なんと223件。
 こんなことが悩みだったのかという気もするが、仕方がない、それこそがバブルだったのだ。目の前の人手不足に加え、90年代後半からは若年労働者が減っていく。こうした現状を前にして、企業はどうしても頭数をそろえておきたかったらしい。
 90年に経済企画庁(現・内閣府)の発表した調査結果によれば、70.7%の企業が人手の「不足感」を持っていることが明らかにされ、その結果として48.5%の企業は、残業が増えたと答えている。つまり人手を確保できなきゃ、その分の仕事は寝る間を惜しんで社員が片づけなくちゃいけないわけだ。
 そうしたプレッシャーをかけられた就職担当の社員も、気の毒であった。
  「100人採るには、300人の内定をださなきゃだめだ。そのためには、3000人以上の学生とあわなくてはならない」(『AERA』89年7月18日)
 証券会社に入社した慶應大学OBの発言である。この人たちが、現在、採用したバブル組入社組のクビを切りまくっているかもしれないと考えると、巡る因果に思いを馳せざるを得ない。
 当時、高飛車な学生に苦労させられた人は、彼らのリストラに同情する気さえ起きないだろう。いやはや、調子に乗りすぎるとツケは後からやってくる。調子に乗れる環境にいたことすらない私が、肝に銘じてもせんないことではありますが。

■「固50~60万円」は不動産ならあり?

 こんなお祭りのような就職活動なら、フジテレビジョン製作で就職活動がトレンディードラマ(死語ですね)として映画化されたのもうなずける。
 1991年に公開された織田裕二主演、『就職戦線異状なし』。早稲田大学社会科学部に在籍する主人公が、テレビ局の入社試験を通して成長していく青春ドラマだ。
 いや、内容が軽い軽い。バーで就職担当者を殴ってしまった主人公が、テレビ局に受かってしまうのだから。  「『徳島への転勤は大丈夫ですよね』とか聞かれて、『全国、どこへでも行きます』と即答できいないと、次回の面接はもうありません」
 そう教えてくれたのは、昨年、就職活動を経験した早稲田大学の卒業生である。担当者を殴るどころか、転勤にひるむ姿すら現在の就職活動では致命傷なのだ。
 彼女によれば、説明会など就職活動に動き始める時期は大学3年の12月。1日3社もの企業を回って3ヶ月、やっと希望に合う中堅企業に内定したという。
「20人ほどのゼミの仲間でも、就職に失敗して留学に切り替えた人が3~4人。同じく就職が決まらなくて、大学院に逃げた人が5~6人ですね。
 だから就職できた人は半分ぐらいでしょうか。誰もが知っている有名企業に現役で入った人は、1~2人。出版社に入りたくて、風俗系の求人誌に就職した人もいましたよ」とのこと。
 天下の早稲田が、である。バブル期なら何もしなくても、電話で内定のもらえた早稲田がである。バブル入社組に対する呪詛の声は、下の世代からも響いているようだ。
 ちなみに早稲田の文系は、大学ごとに説明会を開く企業のランクでは第3グループだという。理系有名大学、国公立の下と。大手コンビニの説明会などでは、こうした順列通り3回目の説明会に呼ばれるとか。
 今、就職活動をテーマに映画を撮ったら、お涙ちょうだいモノになってしまう。少なくともフジテレビは製作しない。 
 今回、資料を読み込むうちに、何だか切なくなってしまった。子役で一世を風靡した人の没落を見ているような。バブル入社組の悲惨を耳にしてくいるからだろうか。あー、書いても書いてもバブルに踊りたくならないのが悲しい。 (■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第3回 いたたまれない恥ずかしさの秘密

■月刊「記録」04年3月号掲載記事

           *             *             *

 イタタタタッ、イタイ! 
 突然だが、幕張はイタイ街である。
 学生時代の女友達から電話で自宅に誘われ、頑張ってオシャレをして出向いたら、ネットワークビジネスの勧誘だったとか。昔の日記を読み返してみたら、「モテるためにはブレイクダンスを練習しなくちゃダメだ!」と本気で書いてあったとか。そんないたたまれない気まずさを、そこほこに隠し持っている街なのだ。
 例えば、幕張の高層オフィスビル「ワールドビジネスガーデン」の一階吹き抜けには、椰子の実に見立ててランプが取り付けられた金色の椰子の木が10本近く並んでいる。電柱より高い金ぴかの椰子型街灯をイメージしてもらえればよい。見た途端、私は叫んでしまった。「あー、やっちまった」と……。ちなみに、このワールドビジネスガーデンは、マリブウエストタワーとマリブイーストタワーの2つの高層ビルを持っている。このネーミングもイタイ。
 計画面積437.7ヘクタール、居住人口約2.6万人、就業人口約10万人になるはずだった幕張新都心。キャッチフレーズは、「21世紀を展望したわが国最大級の未来型都市」だ。東京湾を埋め立てたまっさらな土地に、業務研究・商業・文教・住宅の4つの要素を計画的に配置して、情報ハイテク産業の中心地に仕立て上げる予定だったという。しかし計画推進中にバブルが崩壊。研究所や支社を造る予定だった企業、進出予定だった百貨店などが軒並みに計画を撤回した。
 おかげで先ほどのワールドビジネスガーデンや、ツインタワーが目印の幕張テクノガーデンなどのビジネス用の賃貸ビルも、陽が落ちると明かりの灯らない階が歯脱けの状態で浮かび上がる。商業地区の分譲にこだわっていた千葉県も、1999年から土地の貸し付けを解禁し、20年の契約でフランスのスーパー「カルフール」やアウトレットモールなどを誘致したという。体裁など構っていられない窮余の策である。

■ちょっとだけ「エエカッコしい」

 「典型的なバブル計画の失敗ですね」と総括したいところである。しかし幕張を歩いて感じた違和感は、どうもバブルの熱狂だけでは片付けにくい。
 バブル時代の計画はバカらしいほど楽観的で、振り返れば「無茶やってたぜ、俺たち」と呟きたくなる。ともすれば青春映画のような甘酸っぱさを感じるものだ。一方の幕張には、「若さ」では括れない恥ずかしい勘違いが含まれている。
 この勘違いの秘密を読み解くためには、幕張新都心の歴史を少し紐解く必要があろう。
 幕張の埋め立てが完了したのは、1980年。当初、この土地は学園都市になる予定だった。しかし誘致の目玉だった早稲田大学にそっぽを向かれ、研究開発機構と学術教育機能を担う未来都市へと計画を変えたのである。
 そう、ここで重要なのが学園都市から引き継がれた「教育」という柱だ。清く正しい場にしたい。そんな意思が、幕張の都市計画のバックボーンに働いている。つまり、ちょっとだけ「エエカッコしい」なのであった。
 例えば、幕張新都心の中心的な存在である幕張メッセについて、建設プロジェクトに深く掛かった通産省顧問の福川伸次氏は、『幕張メッセを創った男たち』(現代日本社)で次のように語っている。
「展示場でただ、モノをみせたり、ちょっと実演したりするだけではなくて、多くの人が集まるなら、それだけ人と人の知的交流の場にしていかなければならない。交流することで、互いの知的蓄積を高めていくようにできたら素晴らしい」
 また、見本市や展示会などのコンベンション産業が、日本文化に向いている理由も、次のように解説している。
「日本人はたいへん祭好き。自分たちの持てる技術や文化的な素養はすべて祭りに集約させてきた。さまざまなイベントも、その中に溶け込んできた。つまり、日本人は文化と産業を融和させる伝統を持っている」
 幕張メッセのドル箱企画が、コンパニオン目当てで男が集まるモーターショーと、オタクの集まるゲームショーであるという現状さえ考えなければ、実に説得力に富んだ話である。
 いや、日本の村祭りは夜が深まるにつれて乱交に変わっていったという歴史的事実や、オタクの「知的蓄積」は並みではないという現実を考えれば、完全にメッセの未来を見通していたとも言えるが……。
 さらにエエカッコしいの方向を強化したのが、80年代に起こった情報化社会への過度な期待であった。
 例えば、86年11月から8ヶ月間にわたって定期的に開かれた「情報化未来都市構想検討委員会」では、情報化未来都市に働く国際ビジネスエリートを、中間報告書で次のように想定している。
・国際的な業務に従事しており、活動の場が国際的である
・広域な人的ネットワークを有し、人的交流機会が多い
・海外出張をはじめとして、国内外での移動の機会が多い
 この定義には、大手企業が大量に雇う情報系派遣社員など入っていない。まして研究と仕事に忙しい理系エリートが、「人的ネットワーク」の乏しさから結婚さえできないという現実は、予想すらしてなかったようだ。
 ただし「持続的な緊張感による精神的ストレスの発生」などは予期しており、「心身のリフレッシュ、リラックスによる活力回復」のためにも「職・住・遊の融合によるアメニティの高い複合的な街づくりが必要」だと結論づけている。
 さて、そのアミューズメントだが、「ウィークエンドや夜も人の集まる場として、国際的レストラン、24時間対応のショッピングゾーン、各種ショーやコンベンションを行う施設が必要」らしい。
 さらに「海洋性プレジャー、ハイテック・ハイタッチなマシーン、空間による擬似体験、コンベンション、アスレ・ヘルス、ショッピング、グルメ」がアーバンリゾートには必要だとも書いている。
 もうカタカナが多すぎて訳がわからんが、とりあえず赤ちょうちんで一杯なんてのは、どこにも入っていないようである。

■「房総はカリフォルニアになる」

 こうした分析に使われたアンケート調査などからして間違っているので、結果のお粗末は仕方ないのかもしれない。例えば資料として添付してある「日常余暇の実態と希望」というアンケート調査では、「最近の週末にしたこと」で最も多いのが「テレビを見る」で46%。それが「休暇が増えたらしたいこと」では4.6%に減少し、代わりに「一泊以上の国内旅行」が45.6%でトップになっている。
 断言してもよい。このアンケートに答えた人のほとんどは、休暇が多くなっても旅行には行かない。「あーあ、テレビ見てダラダラ過ごしちゃったよ」という後悔が、アンケート結果に表れたに過ぎないからだ。
 このような未来都市住民への勝手な思い込みは、幕張の都市計画において中心的役割を果たした人物の暴走によって、さらに発展していく。
「房総の温暖な気候からすれば、太陽と海とカリフォルニアのライフスタイルの実現はそう難しいことではない。(中略)房総はカリフォルニアになるのである。もはや千葉を千葉としてとらえることがまちがっている。だから、幕張は“千葉的でないものを”という発想からとり組んだのである」(『幕張メッセの全貌』ダイヤモンド社)
 いかん、遠いところに行ってしまった……。
 いや、誰が悪いわけでもない、たぶん。ただ知識人と一般庶民の感覚が違っただけだ。
 故・ナンシー関氏は、「日本のほとんどはファンシーとヤンキーで出来ている」と喝破した。キティーちゃんが大人からも好かれ、『成りあがり』を書いた矢沢永吉が武道館を満員する国。それが日本なのである。ハイソの趣味など合わないのである。
 サービス残業のオンパレードでコンピュータに向かい続け、休日は眠るしかない。それが情報産業の労働者なのである。
「会社から飲みに行くときは、大概、会社のビル内にある居酒屋です。面倒くさくないですし。ただ、ここは街に人間味がないですよね。テレビで見る平壌のようです」と、幕張の大手企業で働く情報系技術者は答えてくれた。
 「海洋性プレジャー」や「ハイテック・ハイタッチなマシーン」などより必要なものが、この町にはあるようだ。 (■つづく)

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もう一度バブルに踊ろう/第2回 海辺に巨大プールを造り、テーマパークで別荘を売る

■月刊「記録」04年2月号掲載記事

        *         *          *

 バブルといえば、そう、リゾートである。
 今や「リゾート」なんて言葉自体とんと見かけなくなったが、バブル真っ盛りのころは、猫も杓子もリゾートに踊っていたものだ。
 1988年5月28日号の『週刊東洋経済』は、「ニューサービス――明日の生長産業」という特集で「リゾート、レジャーランド」を取りあげている。「千億円単位の大計画が続出」というタイトルが、今読むとちょっと悲しい。
  「一億総余暇時代」なんてノーテンキな言葉まであった。誰もが暇と金を持て余すようになると、なぜか多くの人が思い込んでいたのだ。だからリゾートが必要とも。
 あー、素晴らしき楽観主義!
 サービス残業当たり前で、起きてから寝るまで働くしかない。余暇があるのはリストラされたとき。そんな近未来を想像することさえできなかったのだ。
 “バブルマジック”恐るべし。
 もちろんお気軽ムードを盛り上げる政策を、きちんと政府も用意した。総合保養地域整備法、通称「リゾート法」である。「ゆとりある国民生活の実現と地域の振興を図ること」を目的として作られたリゾート法は、都道府県が構想を練り、国が承認するシステムを取る。見事、国から計画が認められれば、課税は優遇されるし、融資の支援だって受けられる。
 経済基盤が弱く、地域活性化の核を探していた地域ほど、このリゾート法に飛びついてしまった。ドカーンとリゾート施設を造って、ドカッと観光客を呼び集めよう。そういう思いとバブルの楽観主義が、採算を無視した巨大施設を作りあげたのである。
 まあ、気分はわからないでもない。
 さて、そうしたバブリーなリゾート施設のなかでも、もっともお気楽さを感じさせるのが、宮崎県のシーガイアである。88年にリゾート法の指定第1号を受けたが、その規模がすごい。
 総事業費が、なんと2000億円。高層ホテルやコンベンションセンター、ゴルフ場など、バブルリゾート「三種の神器」ともいえるハコモノを配し、さらに世界最大の室内プールまで作ってしまったのである。その名もオーシャンドーム。
 全長300メートル、幅100メートルのドームは、屋根が開閉式。夏ともなれば、屋根が開かれ野外プールに早変わり。熱い陽ざし浴びながら、波の出るプールでゆっくりくつろぎ、夜は隣接する豪華ホテルに宿泊できるという算段だった。
 ただし立地は、海の隣なんですけどね。
 海水浴は夏しかできない。しかもベストシーズンが台風の到来と重なりがちとなる。そんな事情を一気に解決するっていっても、海に隣接した波のプールに数千円を支払うのは、どこか納得のいかないもんでしょう。やっぱり。
 自慢ではないが、このバブルリゾートに私は行ったことがある。
 シーガイアを運営する第三セクターが、計3261億円の負債を抱えて会社更生法適用した01年2月の直前だったためか、とんでもなく宿泊費が安かったのだ。オーシャンビューの部屋は、セミスイートかと思うほど広く、朝には人生で一番とも思える朝食をいただき、1人1万数千円。
 シーズンオフの冬だったが、常夏のオーシャンドームは快適そのものだった。ただプールで滑り台を滑ったり、子ども騙しのアトラクションに乗ったり、波に揺られたりする以外、何にもすることがなかったのだが……。 会社更生法の申請手続きに踏み切ったとき、佐藤棟良前会長は「長期滞在型施設は、日本人の生活になじまなかった。リゾートの意味が分からずに、遊ぶ施設を造れば人が来るという安易な考えがあった」(『AERA』2001年10月29日号)と涙ながらに語ったようだが、確かに典型的な日本の私には、長期滞在どころか半日でも時間を持て余してしまった。じっとしていることの苦手な貧乏ライターなど、施設のターゲットにもなっていなかったのだろうが……。

■テーマパークでの定住を提案

 リゾートを取りあげるなら、長崎県のハウステンボスに触れないわけにもいくまい。92年3月開業以来、経常赤字のまま03年2月に会社更生法を適用。すっかり勢いを無くしてしまったテーマパークだが、その志はなかなかのものである。
 「エコロジー(生態系や環境の保全)とエコノミー(経済)の共存」をコンセプトに作られ、2200億円初期投資のうち600億円を環境対策に使ったという。法律に定められた基準より4倍厳しい廃水処理するなど、その徹底ぶりは驚くばかりだ。
 しかしオランダ人が見ても納得するほど精巧なオランダの街を作りあげ、定住できるアミューズメント・パークとして運営するのは、やはり無理があったのだろう。 定住型リゾート実現のため、1戸平均1億5000万円の別荘や平均6300万円もするコンドミニアムも発売されてもいた。バブル期は予約が殺到したと伝えられたが、バブル終焉とともにキャンセルが続出。大幅値下げをしたものの、現在でもほとんどが売れ残っているという。
 よくよく考えてみれば、金を持っているなら「日本のオランダ」に別荘を持つ必要などない。オランダでホテルに泊まればいいわけだし。どんなに建物を似せても、外は日本。しょせんテーマパークでしかないのだから。 私事になるが、まだ若かりし頃「東京ディズニーランドみたーい」と誉められながら(?)、女性に振られたことがある。当時はよく意味がわからなかったが、今なら理解できる。一緒に数時間いるのは楽しいが、浮世離れして落ちつかない人とは付き合えない。そんな意味だったのだろう。
 つまりテーマパークなんかに定住するヤツはいないってことだ!
 高級志向のホテルも、経営の足を引っぱった。
 ハウステンボスを作りあげた人々の活躍を描いた『ハウステンボス物語』(プレジデント社)で、ホテル群の経営責任を担っていた窪山哲雄・NHVホテルズインターナショナル社長の次のような言葉を紹介している。
「集客戦略面からはHanako族も修学旅行の生徒も大切です。しかし、全体の雰囲気をリードし、社会を動かしていくのはデシジョンメーカーの人たちです。(中略)だからぼくは、ハウステンボスのホテル群はホテルヨーロッパを中心にデシジョンメーカーの人たちを対象としたものである、という明確なコンセプトを作り、ハード、ソフト、ヒューマンウエアにわたって、そういう層のお客を想定したホテルづくり、運営計画を進めている」
 まず初めに言葉がわからないので、調べさせていただきました。「デシジョンメーカー」とは、意思決定者のことらしい。つまり企業などの要職にあり、ホテルにいろんなお客さんを引っぱってこれる人という意味ですね。
 平たく言えば、金持ち用に施設である、と。Hanako族の口コミより、デシジョンメーカーが決定するコンベンションや会議、研修のほうが客を連れてくると踏んだのだろう。
 しかしデシジョンメーカーでさえ無駄な金を使えない時代は、このとき目前に迫っていたのである。
  『ハウステンボス物語』では、ハウステンボス宮殿の復元において、レンガとレンガの間が本物より2ミリ広いことが発覚し、4000万円かけて200平方メートルのレンガを張り直したエピソードが紹介されている。この措置によってオランダ政府から強い信頼を得たというある種の成功秘話だが、現在では更正法適用を暗示させる話にもとれる。
  「当初総事業費千億円余りで開始したが、工事費が膨張、最終的に約2200億円に拡大。初めから過大な有利子負債を抱える一方で、入場者数は景気の失速で計画を下回った」(『読売新聞』03年2月28日)という更正法の申し立て理由を知ればなおさらである。
 しかしシーガイアとハウステンボスは、テーマパークとしてはまだまだ優良な部類に入る。帝国データバンクの調べによれば、少なくとも99年度の売上高ランキングでは、396億円のハウステンボスが2位、186億円のシーガイアが3位だったのだから。

■「協調と平和の惑星構想」のテーマパーク

 2000年8月に解散した熊本県荒尾市の三セク「アジアパーク」ともなると、もう何がコンセプトかすらわからない。
 発端となったのは、九州を一大観光地域にする87年の「九州アジアランド構想」だったらしい。このプロジェクトに乗り、荒尾市が「コンコルディア・プラネット(協調と平和の惑星)構想」をぶちあげ、93年7月にアジアパークが開園したという。
 すでに競走馬みたいな構想名からして理解できない。協調と平和はまだしも、惑星? それがアジア??
 このテーマパークの売りは、アジアの遺跡や建築物のミニチュアをボートで見学するアトラクション(?)だった。ところが水路の長さは、わずか460メートル。
 人の背丈ほどのタージ・マハールをボートから見て、何が楽しいというのだろう。『週刊朝日』の取材が訪れた際、このアジアパークの元社長は、「荒れた姿を見せるのは、アジアの人たちに申し訳ない」と撮影を拒んだとのことだが、テーマパークの存在自体が申し訳なかったといえなくもない。
 隣にある三井グリーンランドというアトラクション中心のテーマパークから流れる客をあてにしていたという報道もあり、開園当初から先は見えていたのだろう。
 そもそもテーマパークは、リピーターを獲得していかなければ立ちゆかない。そのため客寄せとなる新規のアトラクションが、毎年必要になってくるのだ。テーマパークの筆頭勝ち組といわれる東京ディズニーランドでさえ、新規のアトラクションを作り続けているのだから。 それにしてもバブル期の事業は規模がでかい。そんな心意気を見習いたいと思いつつ、カレーチェーン店の特売日をメモってしまった。反省……。 (■つづく)

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もう1度バブルに踊ろう/第1回 500階のビルが建ち、50メートル地下に飛行機が飛ぶ

■月刊「記録」04年1月号掲載記事

■大畑太郎(おおはたたろう)…1969年東京都生まれ。大学卒業後、サラリーマンをへて、アストラに入社。共著に『ホームレス自らを語る』(アストラ刊)などがある。

         *        *         *

 暗い! 恐ろしく暗い話ばかりである。
 まず景気のいい話を聞かない。雑誌やマンガまで売れない出版業界はもちろんのこと、業績の悪くない一部のメーカーの社員からも、浮いた話は聞こえてこない。
 給料が下がったの、大リストラが行われているの、仕事がきつくなったの、もうグチのオンパレード。
 多くの人が自信を失っているようだ。その落ち込んだ気持ちを支えるためなのか、景気が悪くなるにつれて偏狭なナショナリズムも活発になってきている。
 これは、イカン!
 思い出してもらいたい。わずか15年ほど前、日本はバブル期のまっただ中にあった。誰もが明るい未来を信じていた。株価は軽く4万円を超え、地価は青天井で上がっていくと確信していた。1989年12月29日に記録した3万8915円の株価最高値以後しばらくも、多くの人が株価が再上昇すると思っていたのだ。今考えれば酔狂な話だが、経済の専門家から素人まで、なぜか本気で信じていたのである。
 しかし「信じる者は救われる」との言葉もある。あの熱狂が実体経済を反映してなかったとしても、当時のむやみな自信と異常なほどのファイティングスピリットは、今こそ必要なのではないか!
 さあ、あのバブルの熱狂をもう一度感じるべく、当時の仰天世相を一気に紹介しよう。気分だけでもバブルに踊っていただきたい。
 ただ、現実離れした話が多くて、ついて行けないかもしれないけど……。
千代田区に匹敵する床面積
  『昭和63年(1988年)版国土土地利用白書』は、東京近郊の地価上昇の原因の1つとして、「東京への機能集中による商業地の受給逼迫」をあげていた。つまり東京への一極集中にともなって、オフィスなどの商業地が足りなくなったと言いたいわけだ。
 このどんどん高まる土地重要を見込んで、今や壊滅状態のゼネコンも大規模な建設計画を発表した。
 例えば、1989年に発表された大林組の「エアロポリス2001」。まず東京湾の浦安沖10キロに、直径740メートルの人工島を建造し、そこに高さ2001メートル、500階建てのビルを建設するというものだ。
 もう、テンションが違う。
 高いビル建てるために、人工島を造っちゃおうというんだから。まあ、仕方ない。東京の商業地は、今後どんどん足りなくなる「予定」だったのだ。
 延べ床面積もすごいぞ。1100万平方メートル、なんと千代田区に匹敵するほどの大きさだという。このビルには30万人が就業し、14万人が居住する計画になっていた。総工費予算は、なんと46兆6300万円。もはや国家予算なみである。
 そして超高層ビルにつきものの免震対策には、かつてないほどのユニークな方式を採用している。ビルの傾きと反対方向に向かって、ジャンボジェット機以上のパワーを持つ水が噴射されるんだと……。素人考えなんですが、ビルは折れないでしょうか?
 もちろん未来への提案という形でまとめられた構想であり、実現には多くの壁があったと思う。しかし少なくとも完成予想のパースを描き、大枠の見積もりまで計算している。その程度の手間をかけるぐらいは、本気だったということだ。今なら「こんな計画で?」と思うかもしれないが、それこそ“バブル・マジック”である。
 この計画を作った大林組も現在のゼネコン勝ち組に入っているわけで、夢を持つのはいいことだってことにしておきたい。
穴の中を飛行機が飛んでいく!
 しかし、こんな計画ごときで驚いてはいけない。ゼネコンの提案力(というか空想力かもしれん……)を、まざまざと見せつけてくれるのが、91年にフジタが発表した「ジオプレイン構想」である。
 一言で言えば、地中で飛行機を飛ばす計画だ。札幌・東京・大阪・福岡などの大都市の50メートル以上深い地下―大深度地下―に、直径50~56メートルほどのトンネルを掘り、その中で時速600キロの飛行機を24時間飛ばすという。80年代、多くの少年が夢中になった松本零時のアニメに登場する乗り物、空中にあるパイプの中を飛ぶ飛行機の地中版といったところか。リニアモーターカーに次ぐ、次世代の交通として提案したらしい。
 いや、このように書くと、あまりにバカらしく感じるかもしれないが、それなりの利点はあるらしいのだ。
 何より外を飛ばないから天候に左右されることがない。飛行機が欠航しても、ジオプレインは止まらないってことだな。大深度地下を飛行場とするため、近隣住民の騒音被害を気にすることなく、24時間の運行が可能となる。横風を受けないため、燃料効率も極めてよい。東京・大阪間ならジャンボジェットの4分の1の燃料で済む計算になるらしい。
 地球に優しいと低燃費の車として話題のトヨタ・プリウスでも、従来の車の4倍も走るかは微妙なところ。そう考えるとジオプレインのすごさがわかるのではないか(?)
 一番の問題は29兆円もの建設費をどうするのかということかもしれないが……。
 しかし、この計画を発表したフジタは、2002年10月に会社を分割し、不採算部門を別会社とした。1999年に取引銀行から1200億円の債権放棄を受けていながら不良債権の処理が進まず、苦肉の策として会社分割を選択したらしい。
 1989年には「ジオプレート構想」なども発表し、バブル当時は地下土木のパイオニアという印象もあったが、まさか十数年後に自社の経営状態が「地下」に潜るとは予想だにしなかったであろう。
 とはいえ91年は、すでに景気後退期に突入していた。そのさなかに発表されたのが「ジオプレイン構想」だと考えると、不安な兆しは見えていたのかもしれない。
 湾岸地域の開発を進めるウォータフロントの次に、大きな建設ラッシュをもたらすのがジオフロントだとの予測から、地中工事の技術をアピールするゼネコンは、フジタのほかにもあった。
 円筒状の掘削機を地中に入れて前方に掘り進むシールド工法で高い評価を得ていた熊谷組である。山手線や環七道路の地下化などの事業が大まじめに論じられたのが懐かしい。ただし熊谷組も2003年10月に会社分割を行い、フジタと同じく会社が「地下」に潜ってしまった。これらの企業が「トンネル」に強いのかと思うと、不思議な納得の仕方をしてしまう。
 いや、いかん。ゼネコンの行く末まで書いたら、すっかり気分が暗くなった。やはり私自身、不景気が身にしているからだろうか……。
「社会還元しろ」の声に従い過ぎた?
 せっかくフジタの話題が出たので、ぜひバブル期に行ったフジタの社会貢献についても書いておきたい。
 皆さんは「フジタヴァンテ」を知っているだろうか?
 ヴァンテはフランスで風を意味するらしく、訳せば「フジタ風」ということになるだろう。この施設は、フジタ本社ビルに造られた遊園地である。コンセプトは、「頭で遊ぶ、体で遊ぶ」だったらしい。「そりゃ、遊びすぎでしょう、フジタさん」とついつい思ってしまうが、それはさておき、フジタヴァンテそのものは素晴らしい施設だった。
 バブル期には大手企業がこぞって体験型のショールームを造ったが、フジタヴァンテだけは、ショールームの概念を完全に超えていた。15個ある遊具は、自社商品と関わりがわからない。(おそらくないだろう)
 その中で最もみんなを夢中にさせたのが、4分間の宇宙体験をシミュレートできる「コンセプター」だった。画面に合わせて動くシミュレートは、迫力十分。これがフジタと何の関わりがあるんだーといった思いも、乗り込めば一気に吹っ飛んでしまう。この施設の利用が、すべて無料だというから太っ腹じゃないか!
 フジタヴァンテについて雑誌の取材を受けたフジタの広報担当は、「企業利益の社会還元です。一時期よくいわれた“企業は儲けすぎる。もっと社会に利益を還元せよ”という言葉に従ったわけです」(『DIME』91年9月19日)と語っている。
 この後、銀行がフジタの債権を放棄し、そうした銀行の不良債権処理に血税が使われているのかと思うと実に腹立だしい発言だが、社会に利益を還元しようという態度はそのものは素晴らしい。最高利益をあげても、賃下げしようという企業もある今の世だし……。
 ちなみに雨後のたけのこのように造られたショールームは、フジタヴァンテを別にして残っているケースが多い。池袋にあるトヨタのアムラックス東京、松下電工のナイスプラザ新宿やNAISショウルーム汐留などなど。バブル期の遊び場というイメージからは遠のいたが、商品展示施設としては充実している。企業で進む激しいリストラの陰で「バブルの生き残り」がいるというのが、社員には気に入らないかもしれないけれど。
 振り返れば、とんでもない企画のオンパレードである。あらぬ妄想で突っ走ったとしか思えない。しかし、だからこそ熱気があった。短足を強調するあのダブルのソフトスーツだけは2度と着たくないが、バブルの勢いだけは少し分けてもらたい。
 みなさんも、そう思いませんか?  (■つづく)

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