鎌田慧の現代を斬る/鎌田慧

鎌田慧の現代を斬る/翼賛カレー体制の地獄図絵

■月刊「記録」2003年3月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 和歌山市で98年7月に発生した、4人死亡63人の被害者をだした「カレー毒物混入事件」にたいする判決が、12月11日、和歌山地裁でいいわたされた。林真須美被告にたいする死刑判決に、わたしは重大な疑義を抱いている。
 まず、この判決において直接的な証拠はあきらかにされていない。つまり状況証拠による死刑判決である。しかも間接証拠には、被告の犯行以外の行為までふくまれている。新聞などに掲載された判決骨子には、次のように書かれている。
「被告は保険金取得目的でカレー事件発生前の約1年半の間に、4回も人に対してヒ素を使用しており、通常の社会生活において存在自体極めて稀少である猛毒のヒ素を、人を殺害する道具として使っていたという点で、被告以外の事件関係者には認められない特徴であって、カレー事件における被告の犯人性を肯定する重要な間接事実である」
 裁判官が林被告の犯行と断定したこの4つの事件は、被告が作った食事を食べたあと、被害者が急性ヒ素中毒の症状と合致した症状をしめしたこと。あるいは被害者に多額の保険金を掛けていたことなどを根拠としている。しかし事件発生当時、嘔吐などの症状をヒ素による中毒だと病院側が認定したわけではない。もしそうなら、その時点で警察が動きだしていたはずである。つまり「ヒ素混入」を疑えば、状況が説明できるといった程度の「証拠」といえる。
 検察側にいたっては、カレー事件から10年以上前に起こった従業員の死亡や夫の激しい嘔吐までふくめ、計11件もの事件を被告の犯行とし、そのすべてを間接証拠にしようとした。ここまでくれば呆れるほかないが、さすがに、裁判所は、このうち、7件は退けられたとはいえ、くず湯、牛丼、マーボー豆腐、うどんなどの4件を証拠として採用している。これらの保険金不正取得殺人事件は、いずれも「未遂」に終わったもので、証明は難しい。
 また、林被告がなぜカレー事件を起こしたのかもハッキリしていない。近隣住民の冷たい態度に被告が激高したという検察側の主張を裁判所は退け、「動機が不明確である等の事情は被告の犯人性の判断に影響を与えるものではない」といいきっている。動機は不明だが犯人だ、との判決である。
 これまで自供に重きを置く司法当局の方針が、数々のえん罪を生みだしてきた。密室で自供を強要し、証拠が不足していても刑が確定した。ところが林被告は、完全黙秘を貫いている。すると今度は、黙秘を認める。が、間接事実で有罪にする。
「被告はカレー鍋に亜ヒ酸を混入したと極めて高い蓋然性をもって推認することができる」。この判決でを眼を疑うほどに多用されているのは、「蓋然性」である。『広辞苑』によれば、「蓋然」とは「或いはそうであると思われるさま」という意味であり、「必然」の対語であるという。「あるいはそうかもしれない」という程度の認定で、死刑に処するのはあまりに、無責任だ。
 さらに量刑の理由として次のように書かれているのも気になる。
「カレー事件は猛毒の亜ヒ酸をひそかに食べ物に混入するという匿名性の高い犯行態様であるばかりか、子供を含む不特定多数の者が食べることを知りながら、多量の亜ヒ酸をカレーに混入した無差別的犯行である。極めて悪質かつ冷酷といわなければならない。
 死亡被害者の無念、悔しさは言葉に表しようがない。最愛の家族を突然奪われた遺族の心の傷は深く、その悲しさ、理不尽な死に対する怒りは、聞く者の胸に強く迫る。本件犯行の残酷非情さを感じざるを得ない。被告の遺族のこの悲痛なまでの叫びを胸に刻むべきである」
 裁判官は声を詰まらせて朗読した、との報道もあったが、死刑判決が当時の沸騰した世論に影響され、そして迎合していないかどうか。
 その一方で、裁判官は、ことごとく、マスコミの過剰な報道をも批判している。「事件の捜査、審理にも及ぼしかねなかった」と書いているが、本人自身、それに大きな影響を受けているのだから、他愛ない。さらにマスコミによって報道されたビデオを証拠として採用した件については、次のような理屈を用意している。
「報道機関には、国家に適切に権力を行使するよう促す役割もあると考えられ、報道機関が作成した映像が証拠とすることは報道としてのあり方として矛盾しないものと考える」
 これは暴言だ。報道機関の役割とは、国家権力の行使を促すためではない。国家権力の行使を監視するためで、どさくさまぎれの我田引水。けっして認められない論理である。マスコミは抗議すべきである。裁判官がマスコミを国家の道具とみなしたことは、さいきんの政府のマスコミ規制方針に忠実に従ったものだ。
 そもそも、マスコミの犯罪報道は、「犯人視」報道が中心である。警察情報による報道だからだ。大事件の「容疑者」は、たいがい「犯人」あつかいだ。これらの報道が冤罪の解決を難しくしてきたのに、こんどは、その犯人視報道を証拠に採用するという。「容疑者」が犯人にされる恐るべき構造が、ここにできあがったことになる。
 わたしには、林被告が犯人か、それとも犯人でないかはわからない。しかし、直接証拠がなく、「蓋然性」程度でしか判決を下せないとしたら、むしろこんごの裁判を変え、勇気をふるって推定無罪とするべきだった。検事が新証拠や新事実を発見したときに、あらためて有罪判決にすればよい。このような曖昧な形で死刑判決が許されるのは、まるで中世的暗黒だ。小川育央裁判長の脳裏には、「無罪を証明できなければ有罪」という判断が刻み込まれているようだ。しかし「疑わしきは罰せず」。「合理的な疑いを超える程度に証明されなければ」無罪、それが裁判所の基本のはずだ。有罪を証明できなければ、世論に迎合せず、率直に無罪とすべきだった。

■隠蔽だらけ、八百長だらけの原発事業

 このあやふや判決の裏で密かにおこなわれたのが、東京電力の偽装事件処分である。東京電力は、福島第一原子力発電所の試験データ偽装工作などの発表を小泉の訪朝時期にぶつけ、新聞でのあつかいを小さくさせる姑息な手段をとった。今回もカレー事件を隠れ蓑に、保修課長を諭旨解職に、他8人を降格やけん責など懲戒処分にすると発表した。大事件の陰に隠れて事実を小出しする姑息さは、データ偽造や自己隠蔽を繰り返してきた同社の体質をよくあらわしている。まるでゴキブリだ。
 もちろん、こうした戦略にのってしまうマスコミにも問題はある。北朝鮮報道にみられるように、「集団主義報道」によって、1頭走れば1000頭走る“ドッグレース取材”をしているからだ。
 12日には、「東京電力の不正損傷隠し事件」を東京地検に告発した市民の記者会見がひらかれた。記者は熱心にみえたが、紙面化したのは、『朝日新聞』と『日経新聞』のベタ記事にとどまった。全国3180人の市民による検察庁への告発は、近隣住民どころか日本じゅうに重大な驚異をあたえながら、「身内」だけで解決しようとする東京電力にたいして、正当な罰をあたえさせようするものである。大東電なら、企業犯罪に目をつぶろうする原子力安全・保安院を動かそうとする運動を、公器の新聞が大きく報じないでどうするのだろう。
 そもそも原発推進官庁である経済産業省のなかに「保安院」があるのは、ピッチャーがアンパイアを兼ねるようなものである。もちろん電力会社も経産省とおなじ原発推進の立場であるから、三者は“なあなあ”の関係である。なるべく不正は隠し、見つかったものだけ身内で適当に処分する。そんな八百長三昧が、何十年もつづいている。誰かが行動を起こさなければ、事実は永遠に闇のなかなのだ。
 膨大な人命に関わる原子力発電所の操業を、事故隠しや損傷隠しによってあえて維持したのは、全国住民の命を軽く扱った犯罪行為といえる。
 東京電力にたいする告発状は、「様々な情報を総合すれば、かなり以前から、国も電力も、原発の損傷の発生は不可避であり、予防保全の考え方は破綻していることを相互に了解していたと思われる。にもかかわらず、予防保全の考え方に基づいて『原発は常に新品同様の状態にメンテナンスされた上で運転されている』という、虚偽の宣伝を繰り返してきた」と断じている。
 これまで、なんど事故を起こしても、国・電力会社・監督機関のなれ合いがつづいている。それでは、原力会社や関連企業の隠蔽体質が変わることはない。第2のチェルノブイリ事故が日本で起きる前に、原発から撤退しなければならない。安全をもとめる市民の声を伝え、撤退をはやめさせるのが、メディアの役割のはずだ。

■イージス派遣に喜んだのは?

 報道状況は悲惨だ。三ヵ月も続く連日のラチ報道と相変わらずの「国民的」北朝鮮バッシング、そして先ほど触れたカレー事件の大報道。その陰に隠されていたようにインド洋にむけて出向したのが、イージス艦である。 小泉内閣およびウルトラ石破茂防衛庁長官の最大課題の1つが、イージス艦の派遣だった。『毎日新聞』(12月10日)によれば、派遣決定の1ヶ月も前の11月8日、山崎拓自民党幹事長は「日本はイージス艦を派遣する。イラク攻撃の間接支援になる」と、来日したファイス米国防次官に断言したという。こうした動きにたいして、公明党も口では反対を唱えながら、「黙認」のサインとか。“はじめに派遣ありき”。とにかく「護衛艦のローテーション」、「艦艇内の居住性」、「調査能力」など、どうでもいい派遣理由がつけられた。
 日本は約1200億円もする“無用の長物”イージス艦を4隻もアメリカから買い、貿易赤字削減に貢献した。その虎の子1隻を、280人の兵員をつけてアメリカ軍に貸すという。しかし世界最大の軍事大国であるアメリカにはイージス艦が約60隻もある。日本の1隻に期待しているわけではない。派遣は実績稼ぎおしつけといえる。
 石原防衛長官は大のイージス艦好きで、風呂でもイージス艦のプラモデルで遊ぶのが趣味だ、という噂が国会周辺で流れているそうだ。真偽のほどはともかく、イージス艦派遣はヘータイごっこのひとつなのだ。
 今回のインド洋へのイージス艦派遣は、既成事実を作るための派遣である。先月号で取り上げた教育基本法改が、憲法改への橋頭堡であるのと同様、イージス艦派遣はこんご多国籍軍に参加するさいの大きな踏み石となる。軍事大国へまっしぐらである。
 いま、小泉政権にたいする批判は、ほとんど経済政策に偏っている。しかし、小泉政権の本性は、アメリカ国家の経済政策と軍事方針にひたすら忠実に、人民の支配強化と収奪を強め、軍国化へとむかうどう猛政権である。それはマスコミ規制の欲望によくあらわれている。
 それでなおかつ支持率が高いというのだから、いまや有権者の無知こそ批判すべきだ時期だ。保守党の野田党首が自民党に復帰しようとしたり、民主党の鳩山党首が自由党と合同して「民主自由党」をつくろうとしたり、元自民党の連中は自分の都合ばかりで、いかにも権力に弱い。彼らに任せておくと日本は加速度的に破滅への道を進む。不満はキチンと声にすべき時期だ。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/好戦体質が肥大する小泉内閣

■月刊「記録」2003年2月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 1月14日、小泉純一郎首相はまた性懲りもなく靖国神社に参拝した。
 一昨年は8月15日に参拝すると大見得を切って8月13日に参拝。昨年も敗戦記念日にいくようなそぶりを見せながらも、4月の春の例大祭に突如として参拝。そしてことしは脱兎のごとく、福田官房長官さえあざむく(参拝前日の記者団の質問に福田は「「それはあなた方がつくった話」と否定していた)卑劣なやり方だった。過去2回の参拝でも、国際的にも国内的にも大きな批判が巻き起こっている。にもかかわらず、彼がまたぞろ参拝をした無神経さには驚かされる。自分本位のだだっ子だ。 今回また、アジアでも広く報じられ、日本の未来に与える悪影響は計り知れない。韓国では、金大中大統領が川口順子外相との会談をキャンセルする事態にまで発展した。
 不況はさらに深刻化し、中国や韓国などとの関係の緊密化が要請されている時期でもあり、マスコミの批判も強まっている。
 「お正月ですしね。新たな気持ちで平和のありがたさをかみしめ、二度と戦争を起こしてはいけないという気持ちで参拝した」(『毎日新聞』1月15日)などと、小泉はウソぶいている。アジアから見れば自国を侵略した戦犯と、それに従った将兵が祀られている靖国神社への参拝は、日本の首相がかつての侵略戦争を容認していると受け取られるのは当然である。無恥、無謀、政治的パフォーマンスだけの計算ちがい。このような単細胞の男に政治を任せている責任はわれわれにある。こんなケーソツな男と無理心中するのはまっぴらだ。
 小泉“突出”内閣のなかでの跳ね上がり大臣は、石破茂防衛庁長官だ。アタマが戦争もので一杯のこの長官は、とにかくイージス艦派遣にこだわっていたが、それを達成すると、こんどは“ミサイル防衛ごっこ”である。 ミサイル防衛(MD)は、強いアメリカをめざし、自らもマッチョなガンマンに憧れつづけたロナルド・レーガン大統領の趣味を反映した「スターウォーズ計画」が源流にある。当時、レーザー衛星で敵の大陸間弾道ミサイルを破壊するという社会を唖然とさせた妄想が、潰れることなく生き残っていたのである。とはいえ発射されたミサイルを迎撃するという夢物語は、膨大な開発費と防衛産業育成の思惑によって少しずつ形をなしつつある。
 1月5日イスラエルでは、弾道弾迎撃ミサイル「アロー」が、4発ミサイルを打ち落とすという実験に成功した。このミサイルには約20億ドルの開発費がかけられたらしいが、アメリカ全土を迎撃ミサイルで覆う「MD構想」が、この程度の金額ではすむはずもない。半永久的に軍需関連産業が巨万の利益を得ることになる。
 現在、イラク攻撃の推進と停止との世論が激しくせめぎあっている。すでにイスラエルでは、大量破壊兵器の飛来に供えて、防毒マスクを購入する市民が増えていると報じられた。米軍の派兵の補強もつづいており、イラン政府も防戦体制にある。市民に戦争への恐怖が、時間とともに浸透しているようだ。このままでは、また無辜の民が大量に殺される。
 このように恐怖を世界中に撒き散らしながら、自国だけは安全圏にはいろうとする防衛システム構想を世界中に宣伝するのだから、ブッシュは小泉より始末に悪い。 MDについては、『毎日新聞』(12月18日付)が次のように報じている。
「アラスカ州フォートグリーリーに建設中の基地に04年までに、10基の迎撃ミサイルを配備。さらに05~06年に10基を追加配備する。米国はこれまでも04年までの配備を目指すとしてきた。大統領は声明で『すべての危険から米市民を守るため』と述べたが、北朝鮮のミサイル開発を抑止する狙いなどから、公式発表に踏み切ったものとみられる」
 MDが外交カードとして有効だと、ブッシュ政権は考えているらしい。しかし、どんなに軍事力を強化しようが、防衛力を整えようが、それは正面きっての戦争でしか機能しない。すでに9.11 のテロによって、内側からの攻撃にあらゆる軍事力が無力だと証明されている。その意味でMDは防衛力の「矛盾」を、そのまま体現する存在となっている。各国の和平にもとづかない防衛力など、スターウォーズ計画以上の夢物語である。
 ところが、このバカバカしい計画に、大乗り気の男がいる。“イージス艦男”の石破防衛庁長官である。
 12月中旬、アメリカを訪問した石破長官は、国防総省でラムズフェルド国防長官と日米防衛首脳会談をおこなった。その席上、日米共同で技術研究に取り組んでいるMDについて、「開発・配備を視野に検討を進めたい」(『毎日新聞』12月18日)といい放った。「研究」段階から「開発・配備」にするなど、国内で誰が承認したというのか。そもそも、その膨大な資金的裏付けをどうするのか。また技術的に可能性があるのかについても、かなり疑問だ。
 ましていまブッシュは、イラクを攻撃するため虎視眈々と機会を狙っている。この段階で日本がアメリカのミサイル攻撃に協力するという発言は、アメリカへの軍事的に荷担をより一層強めていく、と宣言しているようなものだ。朝鮮民主主義人民共和国(※「朝鮮」)のやり方の拙さに、日本のマスコミは大騒ぎして、あたかも開戦間際のように敵意を煽っている。イラク、「朝鮮」とアメリカの緊張関係を日本が緩和させるのではなく、加速させているのは独立国としての愚策である。
 だいたい国内法をどう解釈すれば、ミサイル防衛が合法になるというのだろう。たとえば第三国に発射されたミサイルを、日本のミサイルが打ち落とした場合、それはまさしく戦争行為である。憲法で禁止されている「集団的自衛権」そのものだ。
 石破長官は、これらの論理さえ踏みにじって、とにかくアメリカにおべっかを遣いたいのである。このような“超ウルトラ”な人物を防衛大臣に指名した小泉の責任は厳しくとわれるべきだ。自身の靖国神社参拝といい、防衛庁長官のミサイル防衛への踏みだしといい、小泉内閣の好戦的な体質は歯止めもなく増幅している。国会では継続審議となった有事法制も待っている。
 またイラク攻撃が始まった場合、現行の法律では米軍の後方支援ができないため、「イラク新法」を成立させようという動きさえある。アフガン攻撃にはテロ対策支援法を成立させ、その法律が使えないなら、こんどは数にモノをいわせて新法成立をもくろむなど、ファッショ以外のなにものでもない。憲法をまったく意識しない、アメリカ従属の戦争政策は続行されている。
 こうした危険な内閣をもちながら、マスコミの批判も弱く、市民の運動もまだまだ弱い。MDの「開発・配備」が戦争坊やのアメリカへのリップサービスに終わるのかどうか、これからの市民の批判の強さによる。彼らの危険な言動を笑っているうちに、なし崩し的に戦争へ突入する危険性が高まっている。

■「電力不足」と脅して、原発推進

 東京電力は、12月19日『朝日新聞』『毎日新聞』『読売新聞』『日本経済新聞』などの新聞各紙に、「節電をお願い申しあげます。」と書いた一面広告を掲載した。これは原発のトラブル隠しにともなう停止命令や点検という自業自得のピンチを逆手にとって、原発稼働のチャンス利用しようとする宣戦布告である。
  「なにぶんにも首都圏の電力約4割は福島県、新潟県の原子力発電に依存しており、原子力発電所の点検停止により、非常に厳しい寒さも場合などには、首都圏の電力需要をまかなえなくなる可能性もでてきます」
 新聞広告に書かれたこの文章など、ほとんど脅しである。そもそもわれわれは、電力会社に原発依存を求めてきたわけではない。政府の援護と引きかえに政府の方針にただ従うことで、各電力各社が勝手に原発への依存度を進めてきたのだ。このように意識的につくりだされた原発依存体制が、「原発が休止したら電力不足になる」などという脅し文句につながっている。むやみに原発依存を強めず、もっと早くから脱原発の方向にシフトしていれば、このような大広告をうつ必要もなかったはずだ。「盗人猛々しい」とは、このことだ。
 これまでも述べてきたとおり、電力会社の体質は、九電力の地域独占体制に依存したものである。カネは使い放題、採算は度外視、経営・設備の失敗は利用者にまわす。およそ民間会社では信じられない経営方針で、火力・水力発電から原発へとシフトしてきた。
 時代の要請に耳を傾けるならば、太陽熱や燃料電池、風力、バイオマス発電など、さまざまな方法を組み合わせてソフトエネルギーをつくりだすべできであった。そうした努力を一切拒否し、戦争でも突入するがごとく“原発異常体制”を作り上げてきた。この政府と電力会社の姿勢は許されるものではない。
 電力会社は電力不足だと宣伝しているが、この冬は火力発電の稼働で乗り切れる見通しが立っている。膨大な量の原発をムリヤリ稼働させなくても、電力需要と電力供給量は合っている。これまで火力発電の設備がありながら、それを停止して原発に稼働させてきた経営方針は批判されるべきである。
 原発推進策の行き詰まりは、使用済み核燃料の問題でもあらわになってきている。各原発施設に置かれている使用済み燃料用のプールは、日々増える危険な廃棄物でいっぱいとなり、青森県六ヶ所村にはこばれる順番待ちとなっている。
 しかし六ヶ所村では、使用済み核燃料貯蔵プールに穴があき、漏水するという事態となった。いまや膨大な被爆労働者を生みだしながら、欠陥プール補修に明け暮れている。このようなフン詰まり状態の原発にたいして、なんら反省もなく、まだ糊塗するだけ。原発依存体制を維持しようとしている政策こそ批判すべきである。
 ところが政府は、原発依存政策という失政から生まれた「電力不足」を利用して、定期点検の時間を縮めたり、あるいは休止状態の原発をやみくもに動かそうとしている。これこそまさしく命取りである。電力を人質にとり、すこしでも早く原発の再稼働に認めさせようという電力会社の世論操作など許されることではない。
 原発立地県の福島では、佐藤栄佐久知事が原発批判を強めている。原発推進自治体であった福島県富岡町の遠藤勝也町長は、「県と連携し、国に政策変更させたい」(『朝日新聞』2002年9月25日)と反発している。
 原発行政は身動きのとれない状態になっているにもかからず、原発の危険から市民を守るためにあるはずの保安員や原子力安全委員会は、あいかわらず「原発推進委員会」となって暗躍している。脱原発の一里塚を築くためにも、とにかく欠陥原発の休止は必要だ。

■“不道徳”な死刑を廃止
 
 気の滅入るような話ばかりがつづくなか、最近の朗報といえば、アメリカ・イリノイ州の死刑囚問題である。1月13日、ライアン州知事は、同州の死刑囚167人すべてを、一括して終身刑に減刑するという大英断をくだした。
 「(知事は)3人を40年以上の禁固刑とし、残る全員を仮釈放なしの終身刑とした。これとは別に知事は10日、『拷問によって強要された自白を根拠に有罪判決を受けた』として、4人の死刑囚の特赦の措置を取っていた」『朝日新聞』(1月13日)
 ライアン知事は共和党知事であるが、民主党知事でも発言しようとしない死刑囚の減刑に一気に踏み込んだのだから勇気がある。もともと死刑賛成論者だった彼は、州内の死刑囚に冤罪が多かったという反省から一括減刑を決めたという。『読売新聞』(1月13日)によれば、死刑囚の無実が刑執行の48時間前に判明した経験も、知事が明らかにしたそうだ。
 彼は「死刑制度は不道徳」だという結論にたっしたというが、先進国で日本と並ぶ死刑大国のアメリカにとって、彼の英断は衝撃的な出来事だったはずだ。
 アメリカでは、72年にいったんは死刑禁止の方向に傾いたが、76年には死刑が復活。現在、国内半数以上の38州で死刑がおこわれている。77年から00年までの間に、死刑執行されたのは683人。日本は年間4~5人の死刑が執行されているから、およそ6~7倍の処刑人数である。
 しかもアメリカにおける死刑囚の問題は、経済問題や人種問題をふくんでいる。金持ちは優秀な弁護士を雇って有利に弁論を展開できるが、貧乏人は有能な弁護士を雇える力がなくエン罪が多い。人種差別による誤った判断も、エン罪の温床になってきた。
 死刑大国アメリカでも、ようやく死刑廃止の本格的な議論がはじまろうとしている。これはアメリカ国内だけでなく、日本国内の死刑存続派にも死刑の残忍性を考えるきっかけになると思う。
 イリノイ州では、これから死刑賛成派からの強い反対がしめされることだろう。しかしフランスの例をみてもわかるとおり、死刑廃止は世論がそのまま反映されるものではない。どのような国をつくるのかというきわめて政治な問題である。犯罪への憎しみを犯罪者にむける論理によって、死刑を存続すべきではない。人を殺さない国家。いまそれが強く求められている。(■談)
※韓国を「南朝鮮」と呼ばないので、ここでは「朝鮮」とする。

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鎌田慧の現代を斬る/邪魔者は殺せの論理

■月刊「記録」2003年3月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■「スピッツ」小泉、放し飼いの責任

 ブッシュ米大統領が抱くイラク攻撃への野望は、世界的にたかまる反戦の声によって、ギリギリのところで抑えられている。
 国連安全保障理事会では、攻撃開始派の米英に、議長国のドイツと常任理事国のフランス・ロシア・中国の主要4ヶ国が抵抗している。
 2月15日には、東京をふくむニューヨーク、ロンドン、ローマ、ベルリン、パリ、メルボルンなど世界各国の都市で、大規模なデモもおこなわれた。英メディアは、60ヶ国の400都市で計1000万人ものひとびとが参加したと伝えている。このほかにも大規模な反戦集会などもひらかれ、世界的な反戦の動きはますます大きなうねりとなっている。
 ブッシュの野望に石油利権が絡んでいることは、すでに世界の多くの人々が知るところとなった。こうしたブッシュの思惑は、「石油の一滴は、血の一滴」という日本の戦時中のスローガンを思い起こさせる。時とともに世界中で反戦の動きが強まっていき、ブッシュ大統領が語るイラク攻撃への大義名分は、ますますインチキ臭くなっている。
 ブッシュの頭のなかは、いまだテレビゲームのような爆撃のイメージで支配されているようだが、もはや世界の人たちは、これ以上血を見たくないと主張しはじめている。ましてブッシュの利権のために、血を流したいなどと、誰が思うだろうか。
 ただ注意すべきは、多くの日本人がブッシュ批判だけでコトが終わったように思っていることだ。イギリスのブレア首相は、ブッシュの「プードル犬」と揶揄されている。労働党出身の首相であり、一家団らんの写真で人気を集めた首相が戦争に突き進もうとしていることに、英国民は苛立っている。しかしブレアが「プードル犬」だとすれば、小泉は「スピッツ」である。彼を首相にしたのは、日本人の恥辱だ。
 ブッシュを支持している小泉の存在は、日本人が戦争に荷担している証明となる。そういう意味では、日本人にブッシュを批判する権利などない。ブッシュの野望に小泉が距離を取らないのは、日本人の有権者が甘くみられているからだ。
 日本は、国際紛争を武力によって解決しないという崇高な憲法をもっている。その国の首相が、憲法の精神をもってブッシュを説得しないのは、小泉の怠慢であるばかりでなく日本人の怠慢である。ブッシュの戦争は利権のための人殺しであり、人間のもっとも醜い行為であることを、もう一度確認すべきだ。

■「春闘」から「春倒」へ

 しかし放置されているのは、小泉だけではない。
 路上生活者(ホームレス)を殴り殺す少年や青年たちの事件が、たびたび起こっている。これは無抵抗で弱いものを殺すというブッシュ流の空爆論理とおなじである。たしかに青少年の殺戮は、ブッシュのような経済的な利益を狙ったものでないが、イラだちからの人殺しを止められない現実に変わりはない。
 戦争や路上生活者への襲撃は、他人の飯茶碗を叩き落とす暴力的な行為である。自分さえ生存できれば、他人を殺してもいいという人類にとってもっとも屈辱的な価値観が、その根底にある。共生と連帯の精神が市民や労働現場からますます奪われていき、その結末が戦争にむかうようで怖い。
 アメリカのイラク攻撃にたいして、日本最大の労働者のナショナルセンターである連合は、本来なら「イラク攻撃反対 小泉打倒」のスローガンを立てて、集会やデモ行進すべき存在だ。だが労働貴族たちは、そんなことを考えもしていない。もともと大企業の労組ダラ幹を中心として発足した連合に、国際的な労働者の連帯や反戦などの思想はこれっぽっちもない。かつて反戦運動の中心にいた自治労も連合に参加しているのだから、このさい組織内でこの問題を討議すべきであろう。
 だが労働組合への失望感は、ことしの春闘でも強まる一方である。この不況下で労働者の生活はますます厳しくなっている。にもかかわらず連合は、あいかわらずの御用組合ぶりを発揮している。経営者は調子にのり、「『春闘』ではなく『春討』だ」などとふざけたことをいう始末。闘争ではなく話し合いを強調しているようだが、それこそ「春倒」というべきであろう。
 中小企業は、大企業の優先救済策のとばっちりをくい、貸し渋りから貸しハガシという銀行の強攻策に追い詰められ、つぎつぎに倒産している。小泉のいう規制緩和や構造改革は、大企業優先の政策であり、中小企業の倒産を止めることはできない。労働者には、文字通り「春倒」の時代となってきた。
 定期昇給やベースアップなど、労働者の生活を年齢によって安定させる日本的経営を、経営者は完全に放棄しようとしている。これまで経営者のスローガンは、「会社を大きくしてパイを大きくしろ。そして自分の分け前を多くしろ」であった。それが次第に「不景気でパイが減ったから、分け前は少なくていいだろう」という論理にすり替わり、いまや「パイは大きくなった。しかしお前らにはやらない」という理屈となった。ことしトヨタ自動車や本田技研工業(ホンダ)などは、史上空前の高収益をあげている。それでも春闘では、定昇もベースアップもしないというのだから、労働者は完全になめられている。
 このやり方の本質は、不景気だから賃金を上げないということではない。定昇やベースアップなど、入社時に約束していた分け前を、労働者にあたえないでプールし、「成果主義」の原資に回すというヒドイやりかたである。
 そもそも労働運動は、同一労働、同一賃金を要求して、企業側が一方的に賃金を支配することに抵抗してきた。それこそが平等の思想だった。その平等は、いまや経営者によって「競争の平等」という歪曲された姿になっている。競争第一主義の社会は、弱いヤツは死ねという思想の強制であり、他人の飯茶碗を叩き落とす行動原理である。石油利権のためにイラクの政権を転覆させるブッシュの野望とさほど変わりはない。

■「財界総理」の暴走が止まらない

 日本経団連の奥田碩会長は、こうした状況をさらに推し進めようと、もっと露骨な表現を繰り返している。
「国際競争力を維持するためにも総人件費を抑え固定費を減らすのが重要だ」(『日本経済新聞』2003年2月13日)。つまり国際競争力を強めるために、労働者を犠牲にしたダンピングしろ、といっているのである。
 賃下げと雇用の関係については、「賃下げも、緊急避難型のワークシェアリングも、結果的に同じだが、多くの企業が賃下げに移行しているというのが現状認識だ。雇用維持は、できれば定年までと考えている」と発言している。賃下げが雇用維持の条件だといいたいようだ。 しかし現実には、賃金も雇用も守らない悪徳経営者がばっこしている。1970年代、鐘淵(現・カネボウ)の伊藤淳二社長は、「賃金か、雇用か」と二者択一的な選択肢を組合側に提起して、労働者を脅したことがあった。それから30年、労働環境は確実に悪化した。奥田氏が会長を務めるトヨタでは、2月初旬「サービス残業」させられていた、として労働基準監督署から是正勧告を受けた。またトヨタによるトーメンの救済は、大リストラが条件とも報じられている。
 賃下げしても雇用を守らないという状態が、失業者の増大とフリーター・アルバイターという名の「臨時工」、ホームレスという名の「ルンペン」の急速な増大を導いている。「サンドイッチマン」も復活した。戦後失業時代の悪夢である。
 また、ことし1月に日本経団連が発表した「奥田ビジョン」では、政治献金に積極的に関与し、政界での発言力を強化する姿勢を打ちだしている。(『毎日新聞』03年2月4日)によれば、「日本経団連が前向きな姿勢を見せれば、企業は献金する」と語ったという。
 また同ビジョンでは、消費税の引き上げも提言している。税率を04年度から毎年1%ずつあげ最高16%にする、というのだからあいた口がふさがらない。
 日本経団連は経団連と日経連が合併した財界の指導部であり、奥田氏は独裁的な「財界総理」である。好調がつづく自動車資本を背景にした彼の強引な発言は、日本の政治家にも影響をあたえている。これにカネが加われば、それこそ“裏総理”である。
 政治献金は、戦後以来の自民党の泥沼政治をつくってきた猛毒だ。これが企業からの政治家買収でしかないのは、いまさらいうまでもない。政治献金に絡んだ疑惑の数々を、奥田会長はもう忘れているとみえる。

■政治献金に画期的な判決

 一方、政治献金の違法性については、2月中旬に画期的な判決が下された。熊谷組にたいする株主代表訴訟で、「欠損時の政治献金は違法である」と、裁判所が判断したのである。
 この判決は、松本良夫前社長に2860万円の返済を命じ、ゼネコンと政治献金の関係に重大な疑義をていした。 また「会社あるいは産業団体の寄付が特定の正当ないし政治団体のみ集中するときは、当該政党のみが資金力を増大させて政治活動を強化させることができ、ひいては国の政策にも決定的な影響力を及ぼすこととな」る結果として、「政界と産業界との不正常な癒着を招く温床ともなりかねない」と、政治資金の闇を指摘している。 熊谷組側は、政治資金が自由主義経済体制の維持ないし発展に必要だ、と主張したようだが、「政治資金の寄付が自由主義経済の維持ないし発展に結びつくとも認められない」と、熊谷組の詭弁も一刀両断した。
 1998年3月に2400万円の損出をだしていた企業が自民党に献金していた事実は、株主の意志さえ否定するやり方を、自民党が企業に要求していたことをしめす。
 まして熊谷組は、自民党長崎県連にも献金をしている。長崎県の諫早湾干拓事業を受注した会社1つに、熊谷組が入っているのにである。諫早湾干拓事業は、ゼネコン救済の公共工事だとの噂が、ずいぶん前から飛び交っていた。しかしゼネコンの政治献金も、無用な工事も住民は止めることができなかった。
 そういった意味でも、熊谷組の政治献金にたいする裁判所の判断は画期的である。当たり前とされてきた政治家と財界の癒着に一石を投じたといえよう。
 国際世界では、アフガニスタン・イラク・北朝鮮を睨んだアメリカの暴力支配がおこり、ミクロな世界ともいえる市井では、企業による労働者イジメ、路上生活者への虐殺などがまかり通っている。まさに暴力が地球を覆っているといえる。
 現在、盛り上がりをみせている反戦平和の集会やデモが、労働現場や社会の末端での差別や支配をどう解放し、どう猛な利権や利益の追求をどう解除していくのかに、注目していく必要がある。いずれにしても人間的な判断によって、自ら未来を切りひらいていくしかない。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/「戦争」とすら呼べない大量殺戮を許さない!

■月刊「記録」2003年4月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

*           *           *

 またアメリカの戦争がはじまった。ミサイルと爆弾の大量投下のもと、バグダッド市内で、どのような殺戮がおこなわれているのか、と考えただけでもゾッとする。 ブッシュ米大統領がフセイン・イラク大統領とその一族にたいして、「48時間にイラクを離れろ。拒否した場合には、軍事衝突になる」と最後通告を発したのが、3月17日午後8時(現地時間)だった。これは、いいがかりである。
 いうことをきかなければ殺すぞという強盗の論理に、小泉は従うだけだった。ブッシュ、ブレア、コイズミは、戦争犯罪人として独裁者フセインとともに歴史から裁かれる。
 当初アメリカとイギリスは、国連の安全保障理事会でのお墨付きをもらい、国際世論をバックに自分たちの戦争を正当化しようとした。しかし拒否権を持つ常任理事国のフランス・ロシア・中国の賛成を得られず、議決に必要な全15ヵ国のうちの9ヵ国の支持も取り付けられなかった。態度を明らかにしていなかった中間派の6ヵ国(カメルーン、ギニア、メキシコ、アンゴラ、チリ、パキスタン)にたいしては、アメリカの「切り札」、経済援助という札束攻勢をかけた。それでも説得しきれなかった。国際世論の勝利である。
 恥ずかしいことにも、日本もODA予算をちらつかせ、アメリカの使いっぱしりとして中間派を説得したが、完全な不調に終わり赤恥をかいた。だいたい「カネをやるから戦争に賛成しろ」というのが、平和憲法をもつ国がやることか。平和と軍縮を訴えるチャンスだったのだ。
 結局、カネでの支配に失敗して、ブッシュは僚友のイギリスともども戦端を開くことになった。ブッシュの敗北は、ブッシュの人望がなかったことや、ブレアの人格破綻が主要な原因ではない。世界の民衆がしめした「戦争はいやだ」というごく単純な意見が、各国政府を突き動かしたのである。湾岸戦争の時代とちがって、反戦・厭戦気分が国際的に広がってきている。これは20世紀の反省から生まれた、21世紀の「希望」として評価できる。
 日増しに燃え上がっていった世界の反戦集会や反戦デモは、けしてフセイン支持の集会ではなかった。対立する国家や指導者を武力によって押し潰すという暴力的思想に、ただ「NO」と言ったまでである。ブッシュおよびアメリカ政府の主張は、「非民主主義的なフセイン政権が人民を抑圧しているから、我々が解放してやる」といったものだった。しかし、これはテロリストが正義を掲げて殺戮をおこなうのとおなじである。
 当事国以外が暴力によって政権転覆を目指すなど、「革命の輸出」でしかない。冷戦時代、西側諸各国が警戒した社会主義国による「革命の輸出」は、現政府にたいする人民の抵抗・反抗を根に持っていた。しかし国内の運動が煮詰まっていないのに外部から革命を注入すること自体、革命戦略として破綻していた。当然の結果として、「革命」は歴史的な悲劇を生んだ。
 そうしたソ連などの「革命の輸出」と角を突き合わせてきたアメリカが、冷戦構造が崩れた現在でも「革命の輸出」を続けているのには、呆れるほかない。このような「革命」が破綻するのは、歴史の必然といえる。
 まして今回は、30万人を超える米英軍を派遣しての政権転覆である。これこそ史上まれにみるクーデターだ。逆にいえば、大量の軍隊を使って無理に転覆させなければならないほど、フセインが民衆に選択されているともいえる。チリ、グアテマラ、コロンビア、ニカラグアなど、CIAを中心とした中南米諸各国の政権転覆計画は、これほどまでの戦力を要しなかった。そう考えると、今回のブッシュの「正義」が、いかに不正義であるかを理解できる。
 基本的にテロリストは少数者で行動をおこす。ところが世界最大の軍事大国が30万人もの兵力を集中して政権転覆を目指すのだから、大テロリスト集団といっても過言ではない。
 この戦争が始まる前、NHKの衛星テレビでABC放送を見る機会があった。その番組では、「バクダッド経由が家路への近道だ」と、前線の指揮官が若い兵士をアジっていた。早く故郷に帰りたい兵士たちに、バクダッドの市民の殺戮を通過して帰れと、がなっていたのだ。こういった洗脳もまた、大テロリスト集団のやりくちである。

■ゼネコン発想の戦争復興などやめろ

 また別の日に見たABC放送では、戦争開始直前の米軍前線基地を取材したレポーターが、その兵士たちの若さに同情していた。よく覚えているのは、「ほら見てください。13歳にしか見えません」というレポーターの言葉とともに映し出された、まだ十代にしかみえない米兵のあどけない横顔である。年端もいかぬ若者を待ち受ける死の危険は、アメリカ人に反戦・厭戦気分をあるていどつくりだすかもしれない。
 しかし本当に問題なのは、若い兵士たちが押し入り強盗のように他国に侵入し、幼児・児童をふくめた大量の人民を虐殺することに、まったく思いをむけていないことである。兵士は敵を殺すために送り出されるのであり、彼らが殺されるよりも大量殺人をおこなう可能性が強い。レポーターは「殺し合はやめろ」というべきだ。
 ましてこの戦争は、前段階で大量のミサイルと爆弾を投下する。その映像はテレビゲームのようであり、人を殺している意識は低くなる。
 こんどの戦争では市街戦も予測されているが、それさえ大空爆のあとである。しかも原爆に匹敵する、たかさ約3千メートルものキノコ雲が発生するほどの破壊力を持つ新型爆弾「MOAB(モアブ)」も準備されている。こうした新兵器に支えられた戦いは、すでに戦争とはいえない。ただの大量殺戮行為である。大量殺戮兵器をなくすために、大量殺人をおこなうのだから矛盾している。ほぼ勝敗がついたあと、強大な爆弾のあとの市街戦は、卑怯そのものである。
 朝鮮戦争およびベトナム戦争でも、米軍はじゅうたん爆撃といわれる無差別攻撃で人民を殺戮してきた。ベトナム戦争ではジャングル内にバラまいたセンサーで音をキャッチし、いきなり無差別に空爆する戦法を取った。 最近になってこそ、民間施設を識別するなどといっているが、戦争の論理はベトナム戦争以来変わっていない。誰がゲリラで、誰が民間人か識別できない場合は、一挙に殺害する。それがアメリカの戦争の「掟」である。いまさら民間施設は攻撃しないといっても、厳密に識別できる戦争などあるはずもない。その結果、病院や学校が攻撃されてきた。今回は市街戦も想定されているので、巻き添えになる市民は大量にでる。
 またたとえ民間施設を攻撃しなかったとしても、大気や国土を放射線で汚染する劣化ウラン弾をばらまかれれば、無差別じゅうたん爆撃よりむごい健康被害が何十年にわたってつづく。メディアで宣伝されるような「誤爆」など、戦争には存在しない。兵士も民間人も「敵は殺す」。それが戦争である。
 ところがアメリカをはじめとする国々は、大量に破壊することを前提に「復興する」と前宣伝する。人命を奪い、住居を奪い、故郷を奪って、そのあとにどんな復興があるのか。たんに建物や道路を造り直せば、それで復興になるのか。
 いわばゼネコン的な発想の復興には、もっと批判の声があがってもよい。日本もイラク復興に協力するなどといっているが、利権争いとなる。日本は、破壊のあとの復興よりも、破壊の前の平和に寄与すべきであり、そのほうがはるかに重要である。

■国内“暴走”を止めるために

 世界の批判にまみれつつ、アメリカは大量殺戮を開始した。そうしたなか、わたしが怒りを禁じ得ないのは日本国政府の対応である。
 アメリカとともに戦争を押し進めた張本人のイギリスでさえ、前外相であるクック下院院内総務が、イラクへの武力行使に抗議して閣僚を辞任した。一方の日本では、抗議運動をおこそうとする与党議員さえいない。
 小泉純一郎首相は、戦争開始以前からアメリカの行為のすべてをみとめる「腰巾着」であった。一方、国際平和を考えるべき川口順子外務大臣も、市民の健康を考えるべき坂口力厚生労働大臣も、憲法の理念を積極的に推進すべきき森山眞弓法務大臣も、アメリカの大量殺戮に諸手をあげて賛成する首相をいさめるでもなく、抗議の辞任をするわけでもない。
 あらためていうまでもなく、日本は武力によって国際紛争を解決しないという理想を憲法で高らかに掲げている。そして国務大臣や国会議員は、憲法99条により「憲法を尊重し擁護する義務を負う」。だから小泉首相はもちろん各大臣も、戦争に反対するのは政治家としての任務である。
 ところがそんなことを考えてもいない。だいたい日本の政治家には、理念がない。自分の選挙基盤を守るためだけに政治家となっている人たちである。暴力団の跡目相続とおなじように、自分の「縄張り」を維持するためにだけの政治家にすぎない。
 たとえば小渕恵三前首相の娘・小渕優子などのように2代目、3代目たちは、なんの見識もないまま父親の地盤を引き継いで当選している。そういった議員によって国会が構成されているのが日本国だ。ふがいない議員に歯がゆい思いをすることも多いが、それは自分たち有権者のダラシナサの表れでもある。
 小泉首相は、アメリカが最後通告を発表する以前から、新決議なしで米英が武力行使に踏み切った場合について、「その場の雰囲気で」などと支持を表明していた。「雰囲気で」大量殺戮に賛成する彼の無思想、無定見ぶりを、いまさらあげつらっても仕方ない。
 しかしブッシュにしろ、ブレアにしろ、小泉にしろ、どうして人間の命にたいして無痛覚なのか。このような指導者を駆逐できないアメリカ・イギリス・日本が、どうしてフセインだけを駆逐しようとするのか。不思議でならない。この“悪の枢軸国”だからイラクを攻撃するという独善、独断が、これから日本にかかわってくる。 最近でこそ少し落ち着いてきたものの、小泉の北朝鮮訪問以来、マスコミはラチ家族を英雄扱いして、北朝鮮攻撃を繰り返してきた。それは憎悪と蔑視の増殖のプロセスだった。憎悪と軽蔑の先にあらわれるのは、金正日政権打倒である。食糧難を中心とした生活の破綻が北朝鮮におこる可能性は否定できないが、気にくわないから、といって政権自体を日本やアメリカが転覆させるなど、けっして認められるものではない。
 しかし日本は、フセイン政権の武力による転覆を容認した。アフガンへの攻撃ではイージス艦をインド洋に派遣し、今回はAWACS(早期警戒管制機)の派遣も検討されている。アメリカに従って、武力で「邪魔者」を追い出す手法が朝鮮半島に使われないとも限らない。マスコミが生みだした「北朝鮮敵視政策」の延長線上に、政権転覆の武力解決が容認されれば、日本の世論が一気に危険な方向に進みかねない。だからこそ、戦争反対の行動が必要なのだ。イラクとおなじ「悪の枢軸国」だから、北朝鮮政権もやってしまえという暴論を抑える言論が必要だ。
 小泉などの自民党は、イラク攻撃を支持する理由の1つとして、北朝鮮との関係の緊迫化をあげている。しかし安倍晋三内閣官房副長官などの過激な発言が、両国の関係を損なっていることを、彼らは認めていない。
 こうした暴走に歯止めかけるためにも、こんどの戦争にたいする小泉政権の責任を追及をしていく必要がある。そうしない限り、東アジアの平和を日本人はつくりだせない。イラクの戦争は対岸の火事ではない。憲法無視の好戦主義者・小泉首相を政権から引きずり降ろさなければならない。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/殺して、壊して、カネ儲け。ブッシュのあくどいやり方

■月刊「記録」2003年5月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

*            *            *

 戦争は国家による人殺しの奨励である。1人でも多く殺せば国の名誉が上がり、殺人者の名誉はさらに上がる野蛮な構造となっている。どんな理由があったにしても、戦争は国家による醜悪な大イベントでしかなく、きれいな戦争などあるわけもない。とはいえ今回の米英軍によるイラク攻撃は、近年まれにみる“汚れた戦争”であった。
 なぜブッシュ大統領が戦争に踏み切ったのかは、大いなる謎である。そのため「理由なき戦争」とも呼ばれ、国際的にも反対意見が強かった。ブッシュの唱えた侵略の大儀は、大量破壊兵器の破壊とイラクの解放であった。しかし戦争がほぼ終結してなお(4月17日現在)、大量破壊兵器は発見されていないし、イラクのひとびとが「イラク解放」に、さほど喜んでいるようにもみえない。シーア派の幹部たちもフセイン打倒には気勢をあげたものの、米英軍の駐留を歓迎しているわけではない。
 米軍が大量に放ったミサイルは、1万8000発にのぼるという。トマホークだけでも、750発もぶち込んだ。これだけ凄まじい大量破壊をおこなっていて、どこが「イラクの解放」なのだろうか。事実は「イラクの破壊」でしかない。住民が喜んで米軍を迎えるなど、完全な夢想である。
 独裁政権の倒れた象徴として、バクダッドではフセイン像の引き倒しが、生中継で全世界に伝えられた。一部報道では、独裁者のチャウシュスク政権崩壊になぞられるむきもあったが、引き気味のカメラにはまばらに集まった住民が映り、住民の蜂起と呼べるほどの熱気はなかった。実際、アメリカ側の演出だったのでは、との報道も流れている。
 今回の戦争では、アメリカの大本営発表の空言がなんどかあきらかになっている。開戦当初はフセイン大統領の死亡説が流れ、そののち本人がテレビに登場。また南部都市バスラを米英軍が制圧、おなじくバスラで住民蜂起が起こったといった情報も、アルジャジーラなどの記者リポートによって、ウソと判明した。
 思い返せば12年前の湾岸戦争は、「キレイな戦争」として報道された。前線取材が徹底的に規制され、ひとけがないように見える施設をミサイル攻撃する映像が主役だった。まるでテレビゲームのような映像が、これでもかこれでもかとばかり放映された。もちろん市民は大量に殺された。ただ映らなかっただけである。これもアメリカが発表した絵空事だった。
 しかし、そのときのあまりに露骨な情報操作がメディアから批判され、今回のイラク侵攻では従軍記者取材が認められた。世界各国から500人以上もの記者が集結したという。しかし、結局現場ではきびしい報道規制があったと伝えられている。
 また、なによりジャーナリストにとって許し難いのは、アルジャジーラのバクダッド支局やアブダビテレビなど、アラブ系のメディアが攻撃されたことである。事前に米軍に知らせておいた支局が、けっして外れないと自慢されてきた米軍のミサイルによって爆撃され、1人の記者が死亡した。
 これはイラク国営放送が攻撃されたのとおなじ文脈で考えるべきであろう。自分たちに都合の悪い報道は、暴力によって口を封じる。そんな“アメリカ民主主義”の意図が如実にあらわれている。もっと簡単にいえば、目撃者は殺せ、ということだ。
 そもそも米英は、アルジャジーラを目の敵にしていたふしがある。開戦後には、ニューヨーク証券取引所の取材から追いだした。またイギリス兵の死体や捕虜が放映された際には、イラク政府のプロパガンダの手先だとしてイギリス軍の高官が名指しで非難した。そして空爆である。アメリカ型民主主義とは、言論圧殺のことなのか。
 また4月9日には、チグリス川沿いにあったジャーナリストの拠点、パレスチナ・ホテルも米軍から攻撃され、ロイターなどの記者2人が死亡した。こうした事態について、国際ジャーナリスト連盟も激しい抗議を表明している。
 しかし非難にたいして、国防総省のクラーク報道官は、「これまで、多くの報道関係者に私は伝えてきた。戦争は危険なものだ。戦場にいる時、あなた方は安全ではない」(『朝日新聞』4月10日)と平然と責任を記者たちに転嫁している。危ない場所にいるのと、意図的に殺されるのではおなじ危険でも大ちがいである。クラーク報道官の発言は、自分たちの犯罪を覆い隠しているにすぎない。

■石油メジャーと軍需産業で政権固め

 イラク攻撃が終盤戦にさしかかったころから、ブッシュ政権の閣僚たちが関係する企業の利権があきらかになってきた。
 ブッシュ政権は、まれにみる国際石油資本(石油メジャー)政権である。ブッシュ自身、テキサスの石油会社の重役だったのだが、2000年の選挙では、石油ガス業界から選挙資金として2億円以上受け取っていた。まさに石油利権大統領である。
 チェイニー副大統領は、油田開発会社のハリバートンの元CEO(最高経営責任者)である。このハリバートンの子会社は、イラク侵攻なかばで70億ドル(8400億円)もの油田の消火・復旧事業を、無競争で受注している。またライス米大統領補佐官は、大手石油会社シェブロンの社外取締役。さらにエバンズ商務長官は、長年、石油会社で働いてトップもしめたことのある石油業界の実力者だ。
 いうまでもないことだが、イラクは産油国である。砂漠の下には、1125億バレル、確認埋蔵量世界第2位の原油が埋まっている。イラクに親米政権が樹立すれば、フセイン政権下で利益を得ていたフランス・ロシア・中国などの既得権益を崩すこともできる。また、これまでサウジアラビア主導のOPEC(石油輸出国機構)に仕切られていた中東の原油価格が、親米イラクの原油増産で大きく揺らぐことにもなる。結果的に“石油メジャー閣僚”たちも、大きな利益が転がり込む。
 さらにブッシュ政権には、軍需産業とも強いつながりをもつ閣僚も並んでいる
 リチャード・パール前米国防政策委員長は、国防総省が許認可権をもつ企業の顧問だったという理由で委員長を辞任した。噂されるアラブの武器商人との関係は、彼の横顔をしめしている。
 ラムズフェルド国防長官は、軍需産業系のシンクタンクで理事長だった人物であり、超タカ派のウルフォウィッツ国防副長官は爆撃機などをつくるノースロップ・グラマン社の顧問、チェイニー副大統領の妻にあたるリーネ氏もおなじく爆撃機などを製造するロッキードマーチン社の役員だった。
 戦争は、兵器の大量消費の一大チャンスである。『毎日新聞』(4月9日)は、今回使われた兵器の値段を次のように報じている。

トマホーク〈ミサイル〉
 1発…50万ドル(6000万円)
JDAM〈精密誘導爆弾〉
 1発…約2万4000ドル(287万円)
バンカーバスター爆弾
 1発…14万5600ドル(1747万円)
ステルスB2A〈爆撃機〉   
 1機…21億ドル(2520億円)
FA18E〈爆撃機〉
 1機…6000万ドル(72億円)
M1A2エイブラムズ〈戦車〉
 1両…430万ドル(5億1600万円)

 こうした高額の兵器が湯水のように使われるのだから、米軍需産業関係者の笑いは止まらない。
 人を殺せば殺人者であるが、人を殺してモノを売りつければ英雄となる。それがブッシュ型のモラルなのだ。今回のイラク侵略は、古い兵器の在庫一掃と新兵器の開発を狙ったビジネスショーと考えれば、とてもわかりやすい。
 さらにもう1つ、イラク戦争はアメリカ経済に特需を連れてきた。戦争復興である。

■壊したヤツラで復興独占

 復興費用の額はいろいろと取りざたされているが、『読売新聞』(4月6日)は「戦争が3ヵ月程度で終わった場合は1560億ドル(約18兆6000億円)」というエール大学教授の試算を発表している。
 これらの膨大な復興費用と戦費は、ヤクザのみかじめ料のようにアメリカが世界各国から回収するつもりのようだ。もちろん日本も例外ではない。
 しかも現在、アメリカはイラクに債権をもっていない。日本・フランス・中国などは巨額の債権もっているため、フセイン政権が転覆したいま、どのようにそれを回収するかに頭を悩ましている。
 こうした状況にありながら、ライス米大統領補佐官は「イラク解放に命と血をかけた連合軍(米英)が、主導的な役割を期待するのはごく自然なことだ」と述べ、破壊しつくしたあとの儲け、戦後の復興需要は事実上、アメリカで独占すると宣言した。
 今回のイラク侵攻は、アメリカの1人勝、との宣言である。
 石油利権を既得権をもつ国から奪い取り、自国の軍需産業が喜ぶ兵器でイラクを徹底的にぶちこわし、自分で壊した街を自国の企業に作り直させて、イラクが生みだす原油で支払わせる。そのうえ回収不能の債権すらない。
 アメリカにしてみれば、殺せば殺すほど、破壊すれば破壊するほど儲かるのだから、これほどウマイ商売はない。理念はおろか自省の感情さえ吹き飛び、結局、ブッシュ、ラムズフェルドのイケイケどんどんのビジネスゲームである。

■ベトナム戦争の失敗に学べ

 このイラク攻撃にともない、ますますクローズアップされてきたのが北朝鮮問題である。安倍晋三官房副長官などは、「(北朝鮮に)何発も撃たせないためにはミサイル基地を攻撃しなければならない。それは米国にお願いするしかない」といった。
 これこそ情報操作というべきものだ。たしかに北朝鮮はミサイルをもっているかもしれない。だからといって北朝鮮人民軍がイカダに乗って日本に攻めてくるなど、誇大妄想でしかない。腹ぺこの国民を抱えているのに、どうしてアジアで中国に匹敵するような「自衛力」をもつ日本に戦争を仕掛けられるというのか。
 実態のない敵の驚異を煽り立てて戦争するのは、権力者の常套手段である。かつてマクナマラ国防長官が、自著の『マクナマラ回顧録』で、ベトナム戦争におけるアメリカの敗因として、「相手方の危険性を過大評価した」「相手国内の政治勢力の判断を完全に誤っていた」「すべての国家をアメリカ好みにつくりあげる天与の権利などもっていない」などの理由をあげた。
 今回のアメリカの行動は、ベトナム戦争のときとなんら変わりはない。それ以上にバカげている。大量破壊兵器疑惑も、フセイン崩壊後に起こるはずだった市民の歓迎という夢想も、マクナマラが指摘した失敗になぞらえる。あまりに巨大な軍事力は、おそらくアメリカの解体につながる。アメリカは、歴史に学ばなかったのだ。儲けにはしった拙さ、である。
 アメリカが好むように、イラクの人民が動くかどうか。イラクに親米政権をつくれなかったとき、アメリカはマクナマラが指摘した失敗の意味を悟ることになる。
 そして日本もまた、北朝鮮の危機を煽って進める軍拡路線の愚かしさを悟ることになる。もう一度、平和のために行動しよう。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/大政翼賛会がつくりだすニッポン強権国家

■月刊「記録」2003年7月号掲載記事

*            *            *

 米英軍がイラクに侵攻から3ヶ月がすぎた。すでに彼らの残虐行為は、忘れさられようとしている。米英軍はあたかも通り魔のようにイラク全土を襲撃、破壊、殺戮し、いまだに居座っている。
 あの攻撃によって死傷した兵士や市民がどれほどだったか、米英軍は公表していない。AP通信によれば、市民だけで3240人。「イラク・ボディー・カウント」によれば、最高で7200人となっている。
 米英軍の武力攻撃は、大量破壊兵器の廃棄が目的であり、それが理由で大量のイラク兵や一般市民を殺害したのである。ところが大量破壊兵器が発見されていない。としたなら、米英の犯罪性は、厳しく問わなければならない。彼らの行為は、利権のための人殺しでしかないからだ。
 まして国連安保理の承認も受けず、独断と偏見で強行した侵略である。指導者のブッシュとブレアは戦犯として裁かれるべきだ。米英が自国をイラクとちがう民主主義国家だといい張るなら、国内の議会によって厳しく批判されるべきであろう。
 これは米英国だけではない。日本の問題でもある。小泉純一郎首相は、イラクの大量破壊兵器の危険性をさかんに喧伝し、あの侵略戦争に荷担した。大量破壊兵器がイラク国内にあるか疑問視されていたにもかかわらず、国際的に孤立しているブッシュの忠実なシモベとして、おベンチャラをいいつづけて、その責任は万死に値する。日本の国会はその責任を追求しなければならない。
 ところがイラク攻撃の余勢をかって、与野党は有事関連三法を成立させた。信じがたい蛮行である。これは先月号でも批判したとおり、国会が大政翼賛会化したことをしめしている。憲法を無視して、軍国化のための法律に、90%以上の国会議員が賛成したのだから、すでに日本の議会制民主主義が死んでいるといっても過言ではない。
 いまさらいうまでもなく、日本国憲法は武力による国際紛争の解決はしないと表明し、その思想を世界に広めるようとしている法律である。また憲法は、国民が守るべき法の総元締めであり、憲法99条には天皇および国務大臣、国会議員、裁判官や公務員などが、「憲法を尊重し擁護する義務を負う」と定められている。
 有事関連三法は戦争の準備をするための法律であり、平和憲法である日本国憲法とは相容れない。つまり有事関連三法の成立は、憲法をあきらかに否定している。この国会決議に賛成した議員は、政治家としての権利と義務を放棄したのである。ミサイルへの燃料補給を理由に他国を攻撃できる法律が防衛のためであるはずがない。国会審議は黒を白といいくるめる古典的な三百代言を繰り返していたにすぎない。
「政権担当能力」をしめすため、という野望によって、民主党は賛成した。総理の座をねらっている菅直人代表は、有事法制への批判によって、アメリカの機嫌を損ねることを恐れたようだ。菅の欲望が、国民を危険な状況に追い込んだともいえる。

■どこにある!? イラクの「非戦闘地域」

 与党が成立を狙っている法律はまだある。イラク再建という名目で自衛隊を海外派兵するイラク新法案だ。1992年、国連平和維持活動(PKO)協力法で自衛隊の海外派兵に道筋がつけられ、2001年にはテロ特別措置法により戦時における自衛隊の海外出兵が合法化された。そして2003年、こんどの法律は戦地での武器弾薬や米英兵の陸上輸送まで想定している。
 自衛隊が従事するのは「非戦闘地域」に限るなどと、与党はいう。しかし米英軍にたいするテロ攻撃は、いまだつづいている。イラク国内全土が戦争状態にあることはいうまでもない。国内全域に反米英の武装勢力が潜むイラク国内で、どうやれば「非戦闘地域」を確定できるというのか。ゲリラ活動がおこなわれている「非戦闘地域」で、武器や兵士を運ぶのは、軍事行動そのものである。
 また派遣された自衛隊が攻撃される事態となれば、「自衛」という名の「抗戦」状態にはいるのは想像にかたくない。これだけ軍事作戦と一体化した任務を、戦争行為ではないというのは、夜中、他人の家に忍び込んでも、泥棒する気はなかったと言い訳するようなものだ。
 またテロ特別措置法と同様に、時限立法だから大丈夫だという議論もあるようだがとんでもない。時期が限定されているから、あるいは数年後に見直すからという理由で、これもでも国内の歯止めは次々と突破されてきた。成田空港の二期工事としての「暫定滑走路」は、ワールドカップ開催のためにつくられた。もちろんいまでも立派な「暫定滑走路」が稼働しつづけている。
 通常では認められない法律を暫定的につくりあげ、それを突破口として利用し、さらなる悪法を積みあげていく。この姑息なやり方は、国民を愚民化する悪どい政治手法でもある。
 このまま国会が進めば、有事三法の成立、テロ特別措置法の延長、イラク新法の成立と、戦争状態に大きく踏みだした、歴史的な国会となるだろう。小泉内閣の犯罪性が、将来必ず問われることになる。
 こうした法律の成立が新聞紙上を賑わす一方で、たいした審議すらなく成立したのが、心神喪失者処遇法である。過去に他害行為をおこなった心神喪失者を、精神科医と裁判官の判断で国立病院に強制隔離できる、おそるべき法律の誕生である。
 本来、医療行為であるはずの心神喪失者の入院を、治安維持に使うことは、これまでもおこなわれてきた。沖縄県に天皇が訪問したとき、地元の精神障害者が強制入院させられたことがあったほどだ。しかし治安対策や治安維持という名目で、いわば予防拘束として、一生涯、人を強制隔離できる法律などが許されるはずがない。
 おなざりの論議、そして強行採決。人は誰もが自由に生きる権利をもっている。国家に都合が悪いからと、簡単に強制収容、隔離することなど認められない。

■成立寸前だったクビ切り法

 また労働基準法の改悪も、与党と民主党の合意で成立した。改悪の背景を少し説明しておこう。
 これまでの労基法には、解雇権がなかった。たとえば無断欠席があまりにも激しく、会社に著しい損害をかけたなど、誰がみても解雇が当然というケースしか、解雇は認められていなかった。それ以外の解雇は、解雇権の乱用として規制されてきた。もちろん労働組合活動による解雇は、不当解雇行為として労組法によって規制されている。
 しかし解雇が規制されていると、簡単には企業側のリストラが進まない。いじめ抜いて自主退社に追い込むなどの方法で、企業はリストラをおこなっているのだが、この状況を強化したい自民党と財界が、労基法の改悪を狙っていた。
 当初、厚生労働省がしめした労働基準法改悪案の法案要綱には、2つの大きな問題があった。1つは、労基法に「解雇できる」との条項を盛り込んだがこと。もう1つは、不当解雇の対策として金銭解決を法律に明記したことである。「解雇できる」と法律に定められれば、立場の弱い労働者は正当な理由もなく職を失う危険性が高くなる。また金銭解決が認められれば、たとえ裁判所によって解雇無効の判決がでても、再雇用されることなくカネでの解決となってしまう。日本の裁判状況をみれば、高い補償金など期待できないことはあきらかだ。どんどん首を切り、あとからゆっくり補償金の金額を交渉できるようになれば、解雇は非常にやりやすくなる。
 幸いなことに、この2つの条項は、今回の改悪では削除された。しかしギリギリまで与党が粘り、あともう少しで「改悪案」に条項が盛り込まれていたことは、ぜひ知っておいてもらいたい。雇用を危うくする法律が、この不景気に成立直前だったのである。
 いわゆる「解雇ルール」が法律案に盛り込まれなかったからといって、改悪案に問題がないわけではない。
 最大の問題は、有機労働契約期間上限が、現行の1年から3年に延長されたことだ。これまで正社員ではない不安定な雇用は、1年ごとに更新しなけれならなかった。このような変則的な雇用の長期化を、労基法は原則的に認めていなかったのである。そのため、なるべく臨時雇用の期間を短くするよう法律が企業にたいする圧力にもなっていたのである。
 しかし今回の改悪により、臨時雇用の長期化はますます進むことになった。臨時雇用としての期間が長くなればなるほど、他社で正社員になれる可能性も低くなる。また仕事を覚え、自信がつきはじめた3年目ともなれば、労働者本人も会社を辞めにくいだろう。つまりこの改正は、臨時雇用という身分のまま働きつづける労働者を増やそうとするものなのである。

■犯罪者と接触したら、即逮捕

 今国会で審議される危険な法案の1つに、共謀罪がある。共謀罪とは、犯罪実行に着手していなくても、犯罪の打ち合わせをしただけで罰することができる法律だ。 この法律の制定が準備されていると聞き、わたしは1910年に起こった大逆事件を思いだした。この事件は、社会主義者だった宮下太吉ら4人が「爆発物取締罰則違反」で逮捕されたあと、犯人と強いつながりがあったとの理由で、幸徳秋水・大石誠之助・管野スガら12人もの社会主義者や無政府主義者を死刑にしたものだ。なりふりかまわず思想弾圧した、日本史上に残る汚点である。
「共謀」という名でこのような事態が想定できる法律が成立するともなれば、市民は思想弾圧に怯えることになる。犯罪者と交流があっただけで逮捕されるのなら、犯罪者の範囲は無限に広がる。
 このように次々と成立させてきている悪法によって、日本は強権国家へ急ピッチですすんでいる。
 有事法制は戦争時における私権の制限が特徴の1つだった。戦争に協力できない「国民」は罰する、という強権。それは国家総動員法の復活ともいえる。
 テロ特別措置法やイラク新法案は、平和憲法をないがしろにして軍事国家に歩を進めようとする悪報だ。心神喪失者処遇法や共謀罪盗聴法は、警察などの国家権力を増大させ、治安上問題だと政府が感じたらすぐさま監禁し、人権を排除できる強権といえる。
 そして労基法の改悪は、これまで政府の暴走を抑える労働運動の壊滅させる強権である。
 これまでもたびたび触れているとおり、こうした強権を牽制すべきメディアは、メディア規制3法などによって、手足を徐々に縛られはじめている。そして、さらに国民総背番号制など、コンピュータによる人間の管理と支配も進んでいるのである。
 うかうかしている間に、国民は政府に反対意見を述べることさえできないように、監視され、規制されてしまう。逆接的な意見に聞こえるかもしれないが、もし自民党の一党支配であったならば、ここまで強権的な法律が成立することはなかった。
 公明党や保守党、また防衛政策などでは自由党や民主党などの協力を得て、みんなで法律を作り上げたという自民党の言い訳が、より危ない法律を通過させている。大政翼賛国会の怖さである。
 現在は、共産党と社民党という一部の「非国民的」な政党だけが「強権法」に反対している。しかし、事態が進めば、国策に反対する少数政党のそのもの弾圧も可能になる。
 日本はいよいよ抜き差しならないところにきてしまった。国会で審議がおこなわれるたびに、国民の権利がひとつずつ消されていく。いまなにか運動を起こさなければ、戦時中の暗黒の国家にもどってしまう。その不安を、大きな声にだして抵抗していくしかない。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/恥をむき出しにする政府とマスコミの癒着

■月刊「記録」2003年8月号掲載記事

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 自衛隊出兵法案ともいえる、イラク復興支援特別措置法案が衆議院を通過した。いま、参議院で審議がおこなわれている。
 不法な米英軍のイラク侵略を批判しないばかりか、その暴虐行為に共謀し、荷担した小泉純一郎首相は、有事関連三法を成立させた余勢をかって、この法案を成立させ、総裁選をも乗り切ろうともくろんでいる。選挙民は愚弄されるばかりだ。
 これにたいする新聞の論調は、いっかんして冴えない。読売・産経などの政府御用新聞は、むろんイラン特措法に賛成の論を張り、朝日・毎日がかろうじて批判に傾いているのみだ。
 このように日本の報道機関は戦争にたいし、きわめて弱腰な対応になっている。いまさら読売・産経などを批判しても、という感情がないでもないが、しかし戦争に無抵抗な新聞にたいしては、批判しつづけなければならない。

■老獪な政府御用新聞のやり口

 産経新聞7月5日の朝刊は、一面トップに、尾道市教育次長の自殺記事を押しだしてきた。産経新聞では社会面トップでも同件をあつかっている。この事件は広島県尾道市教育委員会の山岡將吉教育次長(55)が、乗用車の後部座席で首をつって自殺した事件である。
 広島県では1999年2月にも世羅高校の石川敏浩校長(58)が自殺する事件が発生した。これは当時の文部省から派遣された辰野裕一教育長の強権的な指導に起因している。辰野裕一教育長が強行した、日の丸掲揚と君が代斉唱の業務命令に抵抗しきれなくなって自殺したものである。
 自民党は、この事件をことごとく広島教職員組合の責任にし、その死を利用して、日の丸・君が代の国旗・国歌としての法制化にもちこんだ。こんご、同様の混乱が起こることを防ぐためという名目であった。
 今回の山岡教育次長の問題では、先の3月9日に高須小学校に、民間校長として赴任していた慶徳和宏校長(56)が自殺するという事件が発端になった。慶徳校長もまた、教育委員会の強硬な方針に抗しきれず、過労と心労をたかめていた。慶徳校長は、休暇や転任の希望をくり返し提出していたが、広教委は対応せずに放置し、自殺に至らしめたものである。
 山岡教育次長は、亡くなった慶徳校長の指導役にあたっており、またその後の事件への対応にも追われていたが、とうとう過労からこんどはみずからが自殺した。これも文科省直属の教育委員会の被害者といえる。
 このように自殺があいつぐ広島県の異常な管理強化体制という問題にはいっさい触れず、あらゆる責任を広教組に押しつけようとする新聞の姑息さは憤懣きわまりない。
  さらに産経新聞の一面記事にいたっては、「尾道市教育次長が自殺/民間校長自殺調査、組合反発に悩む?」と見だしをつけ、事実関係のはっきりしないうちに、組合問題に「?」をつけてまでも、あたかも民間校長が自殺した原因に、組合からの強烈な批判があったかのように印象づける老獪さである。広島県では98年の文部省による「是正指導」という締めつけ以来、校長5人をふくめて12人が自殺する異常事態である。
 広教組には、さる6月27日夜にも、組合書記局に銃弾が2発発砲されるという重大な事件が発生したばかりだ。産経新聞はこれにたいしなにひとつ言及せず、ひたすらに組合攻撃を強めている。このように校長の自殺などがあると、鬼の首を捕ったように即座に教組のせいにするやり口ひとつをみるかぎりでも、文部科学省と右翼新聞が一体となって日教組攻撃をしている構図が浮かぶ。 今回の一面トップ記事は、産経新聞の体質をあらわしたものだが、読売ばかりか、朝日まで、社説で県教委と県教組の対立が原因としている。権力の横暴への抵抗を対立とよそおった表現は、犯罪的だ。マスメディアは、国に抵抗するものを「やりすぎ」といって血祭りに上げることによって、権力を擁護してはいけない。

■憲法の誇りを砕く米追従小泉政権

 新聞といえば、『創』8月号には、安田純平という元信濃毎日新聞記者の手記が掲載されている。「イラク戦争取材のために新聞社を辞めた」と題されたこの手記によると、安田記者は米英軍のイラク攻撃直前、バグダッド市内で現場の生の声を取材することが記者の使命と考え、自分の手もちの休暇を使って取材にいかせてほしいと会社側に申し入れた。それも拒否されたことを契機に1月に退社した。
 信濃毎日新聞社が安田記者にしめした回答には、「イラクの戦争など長野県と関係ない。取り上げる必要もない。そうした取材はもういっさいさせない」と、にべもないものであった。安田記者は、イラク攻撃開始の2ヵ月前、昨年の12月にも市民グループとともに休暇をとって現地入りし、取材している。
 湾岸戦争以降もつづいた、米軍による空爆の被害や劣化ウラン弾の影響を追いかけたのだが、じつはこの取材も、一度は会社から却下され、仕方なく自分の休暇をつかって現地入りしたものであった。
 米英軍のイラク攻撃当時、日本の大手新聞・テレビ局の記者たちは、現場を引き上げてしまい、爆撃下でどのような状況が展開されていたかについては、外国の通信社やフリーの記者の報道を待つしかなかった。
 日本のマスコミは危険な場所に自社の社員を派遣しないという方針を貫き、安全地帯にのみ記者を置くようにしている。このような取材制限に不満をもつ記者のひとりが、安田記者であった。
 空爆下にある現地住民の表情を伝えることが記者の任務である、ときわめてまっとうな主張をし、取材を願いでたひとりの記者に圧力をかけ、退職に追いやったのが、歴史もふるく、言論に気を吐いてきた信濃毎日新聞だっただけに残念だ。それが最近の新聞社の低迷をよくあらわしているようだ。
 一方、政府はといえば、戦争準備法案である有事三法を成立させたのみならず、こんどは、いまだ戦場であるイラクに、自衛隊を派遣する法律を成立させようとしている。どさくさまぎれの既成事実づくりだ。きたないやりかたである。いうまでもなく日本国憲法では、「国権の発動たる戦争」「武力による威嚇」「武力の行使」を放棄し、努力によって外交努力によって戦争をはばむ精神に貫かれている。それはかつて東アジアを中心に2千万人ともいわれた民衆の殺戮への反省にもとづいた精神である。
 しかし小泉首相とそれを支持する与党は、周辺事態法や有事法など、「戦争」という言葉を使わずに、憲法を否定する戦争参加の法律を矢つぎばやにだすことで、憲法の空洞化をはかってきた。今回のイラクへの自衛隊派遣でも、危険な地帯には派遣しないとしつつも、事実上、マスコミが記者を置くことさえも拒絶する危険地域に、自衛隊を投入する予定である。
 現地では、いつどこで戦闘がはじまるかわからない。これまで日本は約半世紀にわたり、ひとを殺さないことを誇りにしてきたのであるが、その誇りは今回のアメリカ追従小泉政権によってうち砕かれてしまうことになる。
 自衛隊が攻撃され、殺害される場合もあろうし、応戦して相手を殺す場合もあるだろう。あるいはゲリラとまちがえて民間人を殺すこともありうる。事実、自民党の麻生太郎政調会長は6月16日、自衛隊が携行する武器について、「トラックに爆弾を積み突っ込まれたら小銃ではどうにもならない」といい、機関銃よりも威力がたかい「無反動砲」などの小型重火器の携行が必要であるとの考えを示し、石破茂防衛庁長官もこれに同調している。
 このような、完全に憲法を否定する法律にたいし、従来、平和を標榜していた公明党は全員一致で賛成した。自民党は記名投票ではなく起立投票であった点を理由に、野中広務議員などの3人が退席しただけで衆院を通過させた。国会議員は憲法を守る義務を負っているのに。民主党は独自の修正案がとおらなかったことから、最終的には反対にまわったが、党内のウルトラ軍事派のつきあげに、管代表は対応しきれず、ぎりぎりまで動揺していた。
 イラクへの復興支援という名目で、自衛隊の出兵を既成事実化しようとする自民・公明・保守3党のやり方はあまりにも汚く、それにたいする野党の弱腰は情けない。今回の法案通過は、自民党にある核武装論へもすすみかねず、軍事大国化をめざす勢いは確実に強まっている。

■なんら変わらぬ「金をばらまけ」姿勢

 核武装といえば、核武装の物質的な基盤をつくるプルトニウムの生産にかかわる核燃料再処理工場の稼働を政府はまだ断念していない。
 青森県六ヶ所村に建設中の再処理工場は、05年7月に稼働を予定しているが、すでにプルトニウムを利用した高速増殖炉の建設は、原型炉「もんじゅ」の破綻により手詰まりになっており、プルサーマル計画も頓挫している。にもかかわらず、なお再処理工場を建設し、稼働させようというのは、近隣の諸国から、核武装を狙う国家計画と考えられて当然である。
 六ヶ所村に建設中の再処理工場は、01年7月に燃料貯蔵プールで水漏れが発見されていらい、まる2年が経過しているが、いまだ修理の途中である。これはプールの底の溶接部分に250か所にもおよぶ、手抜き工事による不正溶接が発覚したためである。貯蔵プールが2年間にわたり修理されつづけているのは異常事態だ。いまだ工事が完了をみないというのは、つぎつぎに新しい欠陥が発見されているからである。この調子でもっとも危険な核燃料を再処理するなど、絶対にやらせてはいけない。 使用済み核燃料を保管するための中間貯蔵施設についても、青森県むつ市がうけ入れを正式表明しているが、いまだ予定地を明確に発表できずにいる。この地域には原発反対派の共有地もあり、施設の建設はきわめて見とおしは暗い。再処理工場の建設だけで、すでに2兆円をついやしているが、原子力船むつが失敗に終わったように、核サイクル事業計画など失敗に終わる見とおしがますます濃厚になってきている。
 このような状況下にあっても、施設の建設・稼働をどこまでもあきらめない政府と電力会社の姿勢は、国民の命などなんら考慮していないことをあらわしている。たびかさなる事故とトラブル隠しという不祥事によって、全面的に停止に追い込まれた原発を再稼働させるために、東電は柏崎・刈羽の市議・村議31人にビール券を配って批判されるなど、「安全性より、とにかく金をばらまけ」の姿勢はなんら変わっていない。
 夏にむけて東京電力は、電力不足による「停電パニック」を声高に宣伝し、自分の責任を棚上げにして、運転再開をめざしている。「停電パニック」は、政府と一体化したプロパガンダだが、たとえ本当に停電が起こったにしても、それは政府と電力会社による強引な原発推進政策がつくりだした問題である。これを地方知事や反対派の責任に転嫁すべきではない。また、現在14機が停止しても、代替え発電によりまかなわれているという事実を無視し、代替発電の建設をサボって、停電パニックだけを訴えるのは、見え透いたやり方だ。むしろこのような不安定な原発依存体制からどのように脱却すべきか、それを長期的に考えるチャンスである。

■退廃議員を支持する民衆社会

 さて、政治家・議員のこのところの退廃は、目を覆うばかりである。かつては周辺諸国を蔑視するような発言を世論に批判され、大臣を辞任する議員が続出したが、最近はひらき直っている。
 先日は、早稲田大学内のサークルが起こした強姦事件にたいして、衆院議員の太田誠一党行政改革推進本部長が、鹿児島市内でのPTAの討論会で、「集団レイプするひとは、まだ元気があるからいい。正常に近い」と発言し、超党派女性議員から批判されたが、居座っている。
 そうかと思えば、直後にはやはりこの討論会で、森喜朗元首相が「子どもをつくらない女性の面倒を税金で見るのはおかしい」と発言し、ひんしゅくを買っている。さらにさかのぼれば、石原慎太郎都知事の「第三国人」発言や「女性が生殖能力を失っても生きているっていうのは、無駄で罪」という暴言もあり、国際的にみれば政治家としてまったく不適格者である。人権無視の発言を口にしながら、なお高支持をたもつ議員が多いのは、日本人の意識を反映している。
 さらに、麻生太郎政調会長の「創氏改名は(朝鮮の人たちが)『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ」という暴言や江藤隆美元総務庁長官の「日韓併合は両国が調印して国連が無条件で承認した」、などの歴史を改竄するような無知な極論まで飛び出した。自民党幹部たちの朝鮮・韓国への差別意識は、戦後、外国人の生命と人権にたいする考え方が厳しく問われることのなかったことのしっぺ返しであり、「戦後民主主義」欠陥である。
 多くの問題を抱える自民党がなお支持され、暴力と欲望の姿をむきだしにしたアメリカを公然と支持する小泉首相を打倒できない、日本の言論の劣化を、どのようにたて直すか、それがいま問われている。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/暴言政治家と暴発工場と自爆労働者

■月刊「記録」2003年10月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 歴史的ともいえる小泉純一郎首相の訪朝によって、金正日総書記との日朝首脳会談が実現し、「日朝平壌宣言」の著名が実現したのは、昨年の9月17日であった。
  「この宣言に示された精神及び基本原則に従い、国交正常化を早期に実現させるため、あらゆる努力を傾注する」と、宣言されている。
 また「国際法を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認した」、「核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を確認した」との文言もある。
 過去の歴史を乗り越え、新しい時代を築こうとする意思と希望に満ちた宣言である。日朝の国交正常化によって、アジア地域の平和と安定に大きく貢献しようと精神が、この宣言に満ちている。
 日本側が植民地支配した過去の歴史を謝罪し、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)も、金正日総書記が拉致の事実を認め謝罪した。これも国交正常化へのひとつの道筋だった。しかし、このとき、はじめて明らかにされた「5人生存、8人死亡」という拉致の事実は、日本人にとってあまりにも衝撃的だった。このため、アジアの平和のために国交正常化に努力するという道筋は置き忘れられた。それどころか、いまはかつてないほど、平壌宣言の趣旨とは逆に、北朝鮮にたいする敵意が強まっている。
 拉致の全貌を明らかにしようとしない北朝鮮側の態度により、北朝鮮にたいするひとびとの不信感が募っていったのはまちがいない。しかし、連日おもしろおかしく、まるでダボハゼのように、北朝鮮の問題を取りあげ、拉致家族の被害者感情を増幅するような報道を繰り返したことで、北朝鮮にたいする憎悪と嘲笑が拡大されたのも事実である。マスコミに煽られた民衆の敵対・差別意識は、さらに事態を混乱させている。
 日朝平壌宣言がしめした方向と逆に、北朝鮮との敵対関係が拡大することに無策でいる小泉首相の政治的な責任は重い。マッチポンプというより、放火して、それを軍備拡大に利用しているようなものだ。
 有事法制が衆参国会議員の90パーセント以上の賛成によって迎えられ、イラク派兵法も成立した。ミサイル防衛や航空母艦の建造などにも予算がつき、日本の軍事大国化は、極端なまでに推し進められようとしている。
 こうした状況に、タカ派の小泉首相はほくそ笑んでいるかもしれない。しかしアジア全体を不安にさせる軍国化が、ますます日朝の国交正常化に悪影響をあたえていることを、どのように考えているのだろうか。
 韓国は、北朝鮮と平和的に折り合いをつけるために腐心している。彼らの平和にむけた粘り強い行動は、日本と対照的だ。大衆の悪感情に火をつけ、軍国化を進めるているだけの小泉首相とは、月とスッポン、度量と責任感がちがう。
 このような国交正常化の停滞について、自民党総裁選挙でまったく触れられなかったのは不思議である。これではまるで、北朝鮮はハメられたようなものだ。総裁候補者の主張は、誰が経済を活性化するかということだけで、まるで茶番である。
 ところがマスコミは、2年前とおなじように、あたかも大統領選挙のような大々的な報道をしている。たかだか自民党内の派閥選挙が、各紙の一面トップである。
 2年前の総裁選は、森喜朗があまりにもヒドイ首相だったため、批判をふくめてマスコミが過熱した。いわば特殊事情である。ところが新聞・テレビには、前の報道に追随するという傾向が強い。若い記事なら、なおさら前に書かれた記事をマネして、自分の記事を書くパターンが多い。そのため論点すらない総裁選に、2年前とおなじようなバカ騒ぎを繰り返している。
 マスコミの報道では、総裁選があたかも国民投票のように扱われた。しかし、国民のほとんどは投票すらできない。所詮、コップの中の嵐、党内の権力闘争でしかない。
 この茶番が連日報道されている影響は、確実にあらわれている。総裁選の候補者である小泉純一郎首相、藤井孝男元運輸相、亀井静香前政調会長、高村正彦元外相の4人は、全員が憲法改訂論者である。このように好戦的な体質をもつ候補者が、無批判のマスコミ報道を通して世論に影響をあたえている。報道することにたいするテレビや新聞の記者たちの自己意識があまりにも低すぎる。
 それどころか読売新聞などは、総裁選にかこつけて憲法改正論議をするよう社説で促す有様だ。
「総裁選は、憲法改正など国のあり方にかかわる問題を議論するいい機会だ。首相が踏み込まないなら、ほかの三氏が論戦を挑めばいい。そうした論戦があってこそ、総裁選は活性化する」(読売新聞 2003年9月9日)
 これまでも読売新聞は、右傾化誘導の一翼を担ってきた。最近の社説の表題を並べてみよう。
 8月3日には、「教育基本法 次期通常国会で改正を目指せ」。自由と平和を謳い、憲法改訂論者から忌み嫌われている教育基本法を、やり玉にあげている。8月15日の敗戦記念日には、「平和教育 理念と方法の見直しが必要だ」、翌日には「住基ネット “情報漏れ”懸念なくす努力も必要」と並ぶ。中立を装い、自民党と一体となって平和を攻撃するなど、報道機関として許されない。

■自宅が爆破されても当然なのか?

 こうした現代のファッショ的な世相を体現したのが、石原慎太郎都知事の発言である。
 北朝鮮の国交正常化に努力した田中均外務審議官の自宅に爆弾が仕掛けられたことにたいし、「爆弾が仕掛けられてあったり前」といった。
 政治家が右翼のテロを容認した暴言として、さすがに自民党内の議員からも批判を浴びたが、批判を受けても石原は次のように強弁している。
「私は、この男(田中外務審議官)が爆弾仕掛けられて当然だと言いました。それにはですね、私は爆弾仕掛けることがいいことだとは思っていません。いいか悪いかといったら悪いに決まっている。だけど、彼がそういう目に遭う当然のいきさつがあるんじゃないですか」(朝日新聞 2003年9月12日)
 日本には、5.15事件や2.26事件などのように、テロやクーデターによって軍部が強化されてきた歴史がある。そうした過去の教訓を、石原はまったく踏まえていない。
「起こっちゃいけないああいう一種のテロ行為がですね、未然に防がれたかもしれないけれど、起こって当たり前のような今までの責任の不履行というのが外務省にあったじゃないか」(朝日新聞 2003年9月12日)などという発言は、政策がちがえば、テロがあっても当たり前ということである。さらに調子に乗って、彼は1960年に浅沼稲次郎社会党委員長が、右翼少年に刺殺されたことに触れ「世の中ってのはそういう繰り返しでね」(朝日新聞 2003年9月17日)とテロを容認している。
 言論にこだわる作家としてはもちろん、民主主義を担う政治家であれば、けっしてありえない発言である。彼が自分の家に爆弾を仕掛けられたり、刺されたりしても、「当たり前」というのだろうか。
 さらに驚いたことに、自らの選挙応援演説で飛びだした発言を、亀井静香は批判すらしない。「知事は文学者。具体的に爆弾をしかけるのがいいと思っているはずがない」とかばってさえいる。埼玉県知事も「拉致家族の思いを感情的に考え、ああいう発言になったことに同情する」と追随している。
 意見のちがいを暴力的に解決しようとする動きが批判しない風潮が、自民党の総裁選に絡んで明らかになったことに、現在の暗黒状況がみてとれる。

■ブッシュは戦費の取り立てに来日

 国政を担う政治家でいいたい放題なのが、鴻池祥肇特区担当相である。かつて長崎市で起こった中学生による男児誘拐殺人事件では、「加害者の親は、市中引き回しのうえ、打ち首にすればいい」と発言。東京渋谷で発生した4女児監禁事件では、「小6の4人も、加害者か被害者か分からない」などといい放った。
 そして今度は、ODA(政府開発援助)について、「中国へあれだけ金を送っている。それで感謝していない。靖国神社にお参りしたら文句を言う。そんな国にODA(を拠出するの)はもういっぺん見直さなければならないのではないか」(朝日新聞 2003年9月9日)などと発言した。大臣としての発言にも、首相は知らん顔だ。
 カネをくれてやっているという意識の醜悪さと、反省なき歴史観が、公然とあらわれている。それでも閣僚を辞めろという話はでていない。だいたい紐付きのODAにより、海外のODA援助国から訴訟まで起こされている日本のODAについて、「援助したから感謝しろ」などとよくぞいえるものだ。
 さらに13日におこなわれたタウンミーティングでは、「自衛隊は軍隊。それを中途半端な解釈でできている」「憲法の中に位置づける必要である」(朝日新聞 9月14日)などと、小泉親方に追従して、憲法改正によって自衛隊を軍隊にするよう示唆する発言まで飛びだした。 こうした暴論に歯止めをかける世論がなくなり、世論を喚起する報道さえない。むしろ同調・促進するような状況に、日本沈没の恐ろしさが感じられる。
 暴言といえば、イスラエルのオルメルト首相代理がアラファト議長について「殺害することも選択肢の一つだ」と発言した。パレスチナでは「マフィアのようだ」と批判の声が高まっているというが当然であろう。
 こうした暴言のバックグラウンドにあるのが、アメリカによる他国への干渉支配である。軍事力を背景としたアメリカの暴力が、世界中に暴力的な思考をばらまいている。
 10月中旬にはブッシュ大統領も来日し、小泉首相と会談する予定だ。米日ファッショ化の象徴ともいえる会談で、ブッシュはイラク攻撃の後始末のカネを日本に請求するという。小泉とブッシュは、お笑いの「盟友ぶり」を発揮し、多額のおみやげをもたすことになりそうだ。 外務省高官は数十億ドル規模になると予想しているようだが、アメリカの当面の復興コストは500~750億ドルともいわれる。現地の混乱状況を考えれば、外務省の計算通りにはいかないだろう。
 日本国内には失業者が溢れ、経済問題や過労によって自殺が増えている。そうしたなかアメリカの無謀で勝手放題のツケを負担するなど、許されることではない。将来の展望を欠いた非理性的な人殺しを公然と主張する政治が、日米両国によって進められることに、わたしはつよく反対する。

■工場爆発が見せる暗い予兆

 末期的な政治状況のなか、産業界でも不気味な予兆をしめしている。各工場での爆発事故だ。
 9月3日、新日本製鉄名古屋製鉄所で、ガスタンクが爆発した。このガスタンクは高圧ガスが蓄えられていたのに、39年間も外部検査が放置されていた。そうした安全への意識低下が、15人もの重軽傷者を生みだすこととなったのである。
 そして9月8日には、ブリヂストン栃木工場で火災事故が発生した。これはゴムを伸ばすローラーの異常過熱により、引火したとみられている。しかし出火場所にスプリンクラーも設置されておらず、燃え広がる一方であった。結果として地域住民5032人に避難が呼びかけられ、250人が避難する事態となった。
 これらの事故は、1963年11月に起こった三川炭坑での炭塵爆発事故を思い起こさせた。石炭をベルトコンベアーで運ぶさいに発生する炭塵は、水を撒いて爆発防止すべきなのに、安全対策をサボって爆発。死者458人、それ以上の一酸化中毒の重症患者が発生した大事故である。
 あたかも40年前の事故とおなじような事故が、あいついで自動車の関連工場で発生して、自動車生産にダメージをあたえた。このことが、自動車中心に発展してきた日本の経済に暗い予兆をしめしている。
 こうした事故は、歯止めのない人員削減と安全よりもコストを優先する大企業の経営によって起こった。企業のもっとも弱い部分を痛撃した事故ともいえる。
 9月17日には、軽急便の名古屋支店に刃物をもった男が人質を取って立て籠もり、ガソリンを撒いて爆死した。この爆発に巻き込まれ、警官2人、支店長1人が死亡している。
 かつてブリヂストンの東京本社に元工場幹部職員が押しかけ、社長室で切腹自殺したことがあった。ブリヂストンのきわめて非人間的なリストラが招いた事件である。今回の立て籠もりと爆発事故も、その発端となっているのは軽急便のやはり労働問題であった。
 各種報道によれば、この会社は自社ドライバーをもたず、運送業者と個人契約をするため「配送内職」と呼ばれていたという。開業支援準備金や代理店登録料の条件にたいする不満が、国民生活センターにも寄せられ全国で00年度は400件だったが、02年度は837件にも急増していた。厳しい経済状況のなか、リストラなどに遭って事業をはじめた人も少なくないようだ。
 容疑者は経費込みで105万円の車を購入し、頭金の60万円を支払い、45万円を月払いで返済しながら配達業務をつづけていたらしい。
 彼が会社に要求した支払い残金は、7~9月分25万円だった、という。3ヵ月で25万円である。つまりこの問題の本質は、安い・早いを謳ってきた宅配サービスの体質にあるともいえる。
 これから小泉首相は郵政を民営化するという、郵政でもおなじ問題を引き起こすつもりなのか。民営化による労働者の低賃金化と過剰なサービス強要は、リストラが広まるなかますます強まっている。
 日本の資本主義も、政治状況とおなじく異常事態となっている。こんなやつらに無理心中されるのでは、救われない。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/人が食い合うのを奨励するコイズミ改革

■月刊「記録」2003年11月号掲載記事

*          *         *

 このところ頻発しているのが、JRの事故である。
 先月末には、JR東日本の中央線高架工事にともない、運転開始の予定時刻から8時間にわたって上下線が不通となる事態となった。後日あきらかになった原因は、配線ミス。しかも図面段階からまちがっていたという。 また工事が終わったあとも踏切の距離が延びたために老人が渡りきれなかったり、クルマがはさまったり、ほとんど踏切があかないなどの状況がつづいている。そのため焦った老人が転倒してケガをするなど一触即発の事態が発生している。
 さらに今月6日には、夜間の線路改修工事でショベルカーのショベル部分を線路に置き忘れ、京浜東北線が激突する事故も起きている。
 共通するのは、単純ミスが重なっていること。そして事故を予見し万が一に備えていなかったことだ。
 いまから16年前、JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)職員がいかに仕事をサボり、だらしないかを、新聞各紙が連日のように報道していた。たるみ運転だ、就業時間前の入浴だ、といった連日のネガティブ・キャンペーン(ブラック・プロパガンダ)に力を得て、「国鉄改革」がすすめられたのである。それから16年がたったのに、サービスが向上するどころか、国鉄時代以上の事故が相次いでいる。それは「国鉄改革」の正体を暴いたともいえる。
 安全性を無視して合理化を進め、子会社・孫会社に仕事を投げて経費を下げる。結局、国鉄を民間企業化させることで、関連企業を儲けさせたが、乗客の安全や労働者の雇用は「改革」の犠牲にされた。つまり人間を幸福にするための民営化ではなかったのである。
 その象徴的な事例が、国鉄労働組合(国労)員への弾圧だ。
 新幹線の運転手を売店の売り子にし、車両工場のベテラン技術者をうどん屋やそば屋で働かせ、売店や自動販売機用の販売する缶ジュースを運ばせる。国労組合員というだけで、JRは人間あつかいしなかった。
 国労にたいする人権無視がJRの本性だとわかれば、最近の事故への対応も理解しやすい。もしJRが人間を尊重する企業であれば、ケガ人がでるまであかずの踏切を放っておかなかったはずだ。
 国鉄の分割民営化に反対して解雇された1047人のひとたちは、鉄建公団訴訟原告団をつくり裁判闘争をつづけている。鉄建公団とは、かつての国鉄清算事業団を吸収した組織である。仕事のない事業団でイジメ抜き、さらに3年後に解雇したJRの雇用責任について争っている。
 地方や中央の労働委員会では、1047人の解雇が不当労働行為と認定されてきた。ところが各裁判所は、反動判決によってJRの雇用責任はないとしたのである。そして2001年、国労本部までもが権力に屈服する道を選択した。
 しかも国労本部は、組合の方針に反対した組合員22人を、組合員権3年の権利停止処分としたのである。労働組合が意見のちがう労働者を処分するのは、組織の弱体化を招くことはあっても、強化にはつながらない。組織にたいする不信を生みだすだけである。これは労働運動の鉄則でもある。国労本部は、誤りをすみやかに是正すべきだ。
 人間を尊重しない企業システムは、不況とともにさらに強まっている。前号でもブリヂストンや新日鉄の工場火災について触れたが、そのごも出光興産の北海道精油所で2回も大きな火災が発生した。発端は地震だが、現地の本部長でさえ「天災ではなく人災だった」と発言しており、地元住民の不安はますます高まっている。
 製造業の生産設備の平均使用期間は、最近10年間で2年以上も延びたという。それに加えて、安全を無視したリストラが横行している。安全にたいする企業の意識は、きわめて弱くなっており、労災、過労死、過労自殺をうみだしている。国の監督の強化が必要だ。

■前近代の雇用関係に逆戻り

 最近の記事で胸を衝かれたのは、山梨県都留市の朝日川キャンプ場駐留場で、男性3人の遺体が発見された事件である。
 この3人は、同市の朝日建設の日雇い労働者とみられている。新聞報道などによれば、この会社の60人ほどの労働者たちは、プレハブ2階建ての宿舎で生活していたという。32室もあったというのだから、巨大収容所だった。
 ほとんどが東京の山谷や大阪の釜ヶ崎など、いわゆる「ドヤ(簡易宿泊所)街」から連れてこられた日雇い労働者や路上生活者であった。これまでも賃金の未払いなどで、なんども問題になっていた企業だったという。仕事にでても1000円のタバコ代を支払うだけで、賃金の全額が支給されることはない。そのうえ宿泊代や食事代、さらには敷地内に作った娯楽施設で飲み食いさせ、法外な料金を取っていたらしい。
 そうした圧制のもとでトラブルが発生し、殺され、埋められた。このような暴力支配の「暴力飯場」(作業員宿舎)は、かつて北海道や九州の炭鉱地帯、あるいはさまざまな地域の土木現場にあった。きわめて前近代的なシロモノである。
 かつてわたしは、北九州市の「労働下宿」で働いた経験がある。競艇場でカネをすったり、小倉の勝山公園でウロウロしていた労働者が手配師の甘言によって集められ、同市八幡区の春の町にある労働下宿に収容され、新日鉄の工場などで働いた。
 これらの施設は70年代まであったが、そののち姿を消す。またバブル景気のなかで「暴力飯場」(作業員宿舎)にいくような労働者も減っていった。原発の下請け企業などに山谷や釜ヶ崎から来ていた労働者もいたが、朝日建設のように暴力を受けたり、殺されることはなかった。
 しかし現在、不況によって職場からリストラされる人があとを絶たず、山谷や釜ヶ崎にいる労働者を必要とする土木工事も減ったため、ドヤ(簡易宿泊所)代が払えなくなって路上生活者になる人たちが激増している。そうした人たちが、朝日建設などの「暴力飯場」(作業員宿舎)に収容されるようになったのである。
 もっとも苛酷な路上生活よりも、飯と屋根がついている生活の方がマシであり、定期的な仕事がなく、食事代と宿泊代が引かれているうちに借金が増えても、まだ「暴力飯場」(作業員宿舎)の方がいい感じる人たちが増えてきたのだ。
 こうした極限状態に置かれた労働者たちが「トンコ」や「トンズラ」や「ケツを割った」(逃げる)りし、それにたいする暴力的な報復が、「暴力飯場」(作業員宿舎)では繰り返されている。
 これらは北海道の開拓時代、道路工事などのために朝鮮から連行されてきた朝鮮人労働者が遭遇した現実の復活でもある。
 あるいは1984年5月、北海道の夕張市で収容していた労働者に火をつけて殺し、保険金がだまし取ろうとした事件を思い起こさせる。
 この事件の発端は、炭坑事故により日高組の労働者が死に、経営者の日高夫妻に保険金が入ったことだった。そのカネで贅沢三昧に暮らしていたものの、仕事が途切れがちになったため、労働者を寝かしておいた宿舎に火を放ち、保険金を受け取ろうとした。
 この火災による犠牲者は7人。そのなかには中学1年生と小学6年生のきょうだいもふくまれていた。日高夫婦は従業員4人に生命保険と火災保険をかけ、あわせて1億3800万円を手にしたといわれている。
 これは保険金目あての殺人事件であったが、不況のなか労働者を殺して儲けるという資本主義が、完全に復活したといえる。
 労働者の死をカネに代えるのは、なにも暴力飯場だけではない。企業が社員にかけている団体保険は、労働者が労働災害によって死亡すると、保険金が会社に入る。そのなかから涙金だけを遺族にあたえる「搾取」を、大企業もおこなっていた。
 そもそも資本主義は、労働者を喰って、経営者が太るきわめて前近代的なシステムである。なかでも派遣業は、労働者の賃金をピンハネして不労所得を得るものでしかない。
 ところが現在、この派遣業の勢いもすごい。
 コンピュータ社会の発展とともに膨大なプログラマーが必要となり、派遣労働者がプログラムを組むようになったからでもある。
 それでもコンピュータ産業や専門的な技術が、人材派遣の条件であったうちは、まだマシであった。労働者派遣法が改正され、来年3月からは全製造業への派遣が解禁される。つまり技術者でない単純労働者を、ピンハネ目的で生産ラインに合法的に派遣できることになる。
 労働者派遣とピンハネは、労使関係のもっとも醜い部分であり、労働者の保護の観点で考えれば、ピンハネはけっして認められない。人材派遣法の改正は、前近代の復活である。
 現在でさえ日本の資本主義はどう猛であって、ついに気に入らない労働者を殺して埋めるという極端な形まで生みだしてしまった。派遣法の改正は、こうした流れを加速させるにちがいない。フリーターやアルバイター・パートタイマーの使い方は、ますます経営者の思い通りになるだろう。
 つまり労働者は戦前の無権利な状態にもどされたのである。殺害されてキャンプ場にうち捨てられた労働者は、いかに労働者の命が安くなってしまったかを物語っている。

■軍拡シフトと「暗愚の森」の幽霊たち

 残念ながら選挙と発行日程が重なったため、選挙の内容については、今号では触れられない。しかし自民・公明・民主の三大政党ともに憲法改悪路線のため、選挙結果がどうであれ憲法改悪にむかうスピードが憂慮される。
 新しく誕生した小泉改造内閣は、改革路線などと呼ばれているが、じつのところ「軍拡路線」でしかない。
 安倍晋三は、49歳にして幹事長に抜擢されたと話題になっているが、「小型核兵器をもつことは憲法上問題がない」と核武装を合憲といいきった人物である。また岸信介、安倍晋太郎とつづいた三代目の“世襲”政治家である。岸は60年安保を機動隊によって成立させた張本人であり、超ウルトラ軍拡政治家といってもよい。安倍晋三も、その血をしっかりと受け継いでいるといえよう。 そのほかにも法務大臣の野沢太三は参院憲法調査会長を務め、憲法改悪に奔走した。教育勅語信奉者の森喜朗率いる森派に所属し、憲法改悪路線を内閣から推し進めようとしている。
 石破茂防衛庁長官は、軍事オタクとして知られ、徴兵制を合憲と発言するタカ派でもある。中川昭一経済産業相は、石破防衛庁長官の後任として拉致議連会長を務めてきた。小池百合子環境相は、同議連の副会長。この3人はアンチ北朝鮮勢力であり、軍事的・高圧的な解決を望む軍拡シフトでもある。
 憲法改悪を公然と掲げる小泉純一郎は、軍拡・改憲路線を官房長人事にも反映させた。福田康夫官房長官、細田博之・山崎正昭両官房副長官は、いずれも小泉の出身母体であり、タカ派の多い森派に所属する。「暗愚の森」から化けてでた幽霊といえよう。
 このように日本はますます危ない道を歩んでおり、チェック機能すら利かなくなっている。大政翼賛化してきた政治をせめてもとにもどすためにも、こんどの選挙で、自民党を吊し上げるしかない。(■談)

※文章の一部に不快用語が使われているが、劣悪な状況を表現するため、現在使われている表現を併記した上であえて使用した。検討した上での掲載であることをご理解いただきたい。

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鎌田慧の現代を斬る/「自衛隊」が侵略軍化する核武装論

■月刊「記録」2003年12月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 イラクへの自衛隊派兵が具体化してきたのに、あたかも呼応するかのように、イラク国内では米軍をはじめとする占領軍へのゲリラ活動が活発化してきた。
 11月15日には、北部ムスルで米軍ヘリ2が墜落し、米兵17人が死亡した。その3日前には、イラク南部のナシリアでイタリア軍が駐屯する警察本部に自爆テロが仕掛けられ、イラク人を含む30人前後が死亡している。さらに11月2日には、米軍ヘリがロケット弾で撃墜され兵士16人が死亡。このほかにもヘリコプターの墜落事故や爆弾による攻撃などもあり、イラク戦争がはじまってからの死者は、11月16日現在、米兵だけで420人に迫る勢いだという。そのうち178人が、いわゆる「戦後」の死者である。
 このようなゲリラ活動の激化により、米英の占領スケジュールは変更を余儀なくされた。
 15日には、米英暫定占領当局(CPA)とイラク統治評議会が、来年6月末までに占領統治を終了させることで合意した。この計画によれば、全18州で部族長や指導部などが議員を選出して暫定国民議会を設立。そののちイラク国民の直接投票による制憲会議議員を選出し、憲法草案をつくって国民投票で承認を得る。それから総選挙が実施される予定という。占領体制の下で憲法制定、選挙をへて新政権樹立という当初の方針は、反米感情の昇まりのなかで頓挫した。
 しかし油田を抱えるイラクを、アメリカが簡単に手放すはずがない。暫定国民会議の議員選出には、米占領当局が圧力をかけることができる。またイラク人による新政権発足後も、米英軍を主力とする連合軍は駐留する見通しが強い。つまりゲリラ攻撃の対象となる表舞台からは去ったように見せかけ、イラクを統治の手綱は離さない作戦だ。
 すでにアメリカのネオコンは、石油利権・復興利権・市場の自由化など、自国の大事資本、なかでもネオコン議員に近い筋の大企業にたいする優遇策を実施してきた。国連の統治を否定し、ひたすら利権拡大に走ってきたのである。
 こうした状況におけるゲリラ闘争の活発化は、フセインへの支持だけをしめすものではない。自国に侵略してきた米英およびその同盟軍にたいする抵抗闘争であり、イスラム文化を蹂躙する侵略者への反撃でもある。
 これまでもたびたび指摘してきた通り、当初いわれていた大量破壊兵器の存在は証明できず、発見すらされていない。つまり「大量破壊兵器」とは、侵略戦争の旗印、侵略のための神器であった。いまやその化けの皮もはがれ、ブッシュの正義は虚構の正義となった。開戦前にアメリカ政府が主張した「イラクによるウラン購入疑惑」、イギリス政府による「イラクは45分で大量破壊兵器の配備が可能」などという侵略を正当化するブラック・プロパガンダも、とうの昔に破綻している。
 結果、13万人にもおよぶイラクの米兵は、なんのために、なにを守るのかという「戦争の理念」を米兵は喪失した。そのうえ、いつゲリラから襲撃されるかわからない恐怖のどん底にいる。その精神的負担を考慮に入れれば、外敵を追い払おうとしているゲリラ側の士気が、どれほど米兵を圧倒しているかがわかる。

■安全地帯の政治家は駐留を叫ぶ

 しかしミサイルの飛んでくる心配のない母国で、SPに守られながら暮らしている政治家の鼻息は荒い。これだけの無駄死を目の当たりにしながら、ブッシュはなおも撤退しないといいはっている。19人もの死者をだしたイタリアのベルルスコーニ首相も、脅しには屈せず撤退はしないと豪語している。
 また、アメリカの姑息なコイズミも、派兵中止とはいわないでいる。岡本行夫首相補佐官にいたっては、「『一人でも死んだら撤退』という、テロリストが待っているようなステートメントは言えない」と発言している。実際、自衛隊に死者が出ても、「日本政府は断固撤退しない」といいはるのだろう。自衛隊員の死は、米英軍と「犠牲者」を共有することを意味する。その結果、イラクにたいする強い敵対感情が、日本のなかで醸成されるにちがいない。
 しかし自衛隊の死は、被害者の死ではなく、あくまでも加害者の死であり、侵略者の死である。侵略軍とともに行動する軍隊は、侵略軍でしかない。死の感傷から事実を見誤ってはいけない。
 米国追従の日本は、すでに攻撃対象となってしまっている。11月15日にトルコの首都イスタンブールにあるユダヤ教礼拝所(シナゴーグ)に自爆テロを仕掛けたアルカイダ傘下の組織は、次のような声明を発表しているからである。
「犯罪者ブッシュとその追従国(特に英国、イタリア、オーストラリア、日本)に告げる。死を呼ぶ車はバグダッドやリヤド、イスタンブールでは止まらない」
 この声明は、日本が自動車爆弾テロの標的になることを強く示唆している。このような行動をけっして支持するものではないが、自衛隊員がアラブ人に侵略軍と映れば、ゲリラやテロリストに狙われて当然である。小泉は、そうした結果を予測できる「魔の選択」をしたのである。
 しかし、より心配なのは自衛隊員の死ではなく、むしろ自衛隊員によるイラク市民の殺害だ。自衛隊がイラク人を殺害すれば、イラク市民の反日とゲリラの徹底抗戦という泥沼のスパイラルにはまってしまう。
 ベトナム戦争での米軍兵士の死者は、5万8千人とされている。しかし、ものの本によればベトナム戦争で精神的なダメージを負った人たちは、それ以上に達するという。戦争は武器だけの闘いではない。不断の神経戦である。殺す側も、殺される側も精神的に重大な負担をともなう。ましてやゲリラ戦ともなれば、すべての場所が戦場となり、心休まる暇がない。だからこそベトナムでは、米軍による非戦闘員である村民の大虐殺が頻発した。ソンミ村の大虐殺などは、そうした歴史的な教訓である。
 イラク戦争開始以来、米兵の死者は400人を超え、ベトナム戦争の最初の3年間での死者を上回っている。米軍が撤退しないかぎり、米兵の恐怖は極限にむかって進んでいく。

●血税で危険を買う愚行

「安全な地帯」に進軍するなどといっている自衛隊も、その存在が狙われることにより、周辺を戦場に変えてしまう。侵略した自衛隊員に安全地帯などはない。自衛隊の存在自体が恐怖を招く悪循環だ。恐怖を取り除こうとすれば、市民への検問を強化され、過剰防衛による市民殺害の可能性は高まる。
 イラク派兵法(イラク復興特別措置法)は、その第17条で武器の使用を認めている。法律によって交戦が認められているのだから、自衛隊員は「自衛」のためにためらわずに引き金を引くだろう。この既成事実は追認され、正当防衛という名による武力攻撃が承認される。
 イラクへの派兵は、経済的にも大問題である。米政府から強制されたイラク復興の分担金は、50億ドルと見積もられている。しかし戦況の悪化によっては増えるとの予想もある。さらに自衛隊をイラクに派兵するための経費が、総額で数百億円とも見積もられている。「ドロボウに追い銭」である。まじめに働いている人々からは税金をふんだくり、その血税を侵略につぎ込んで人々を危険にさらす。許されることではない。
 派兵にともなう備品は、年内の派兵に間に合うよう防衛予算を使っての購入がはじまっている。イラク派兵を国会が認めていない状況での暴挙である。憲法9条の遵守どころか、この国はシビリアンコントロールさえ外れてしまっている。さらに防衛族でもある石破茂防衛庁長官は、14日に来日したラムズフェルド米国防長官にたいして、自衛隊の早期派遣を表明した。自国民の生命を危険にさらして平然としている「軍事オタク」の防衛庁長官は、辞任させるべきだ。
 イラク戦争にかんして、日本の米軍基地が大きな役割を果たしていたことも忘れてはいけない。ラムズフェルド米国防長官は、さっそく沖縄を訪問し米軍基地で兵士を激励した。アメリカの世界侵略に、沖縄の米軍基地がどれほど大きな役割を担っているかが透けて見える。
 基地の縮小を訴える稲嶺恵一沖縄県知事との対話では、ラムズフェルドは基地縮小の具体策には言及しなかった。それどころか騒音問題はむしろ減少していると反論し、米軍基地がもたらす「被害」を訴える知事に露骨な不快感を示したと報道されている。軽くみられたものだ。
 小泉首相の無分別によって、日本はこれまで親日的だったアラブ諸国と日本はまっこうから敵対することになり、テロルの対象として名指しされるまでになった。イラクへの派兵を阻止し、憲法改悪の歯止めにするためにも、さまざまな地域での集会やデモ行進などの抗議行動が、さらにさらに必要とされている。

■国会に溢れる核武装派議員

 11月9日に終わった衆議院議員選挙は、自民党が前回議席を上回る237議席、民主党が40議席の躍進と伝えられている。とはいえ、これで野党が勝ったと喜ぶものはいない。イラク派遣と改憲を主張している「改革」という名の小泉「軍拡」路線は、選挙によって否定されなかったのは、マスコミ主導の二大政党論に幻惑されたからだ。
 そもそも民主党は、自民党と体温のちがい程度の差しかなく、体質自体はおなじだ。それは有事三法に民主党が賛成したことにも、よくあらわれている。このさして変わり映えのしない2党にマスコミは鈴や太鼓で誘導した。
 そのため、かつて社民党や共産党に投票していた人たちの多くが、民主党に投票した。これは自民党政権を変えたいという要望が強かったためだ。「死に票」になるぐらいなら、二大政党の「野党」にいれたい、との心理である。
 一方で自民党への支持も堅調だった。有権者がどの党にどれだけ投票したかを示す絶対得票率では、「棄権・無効」の割合が前回より増えているにもかかわらず、比例区で17から20パーセントへと増えている(『朝日新聞』11月10日 朝刊)。選挙の顔として小泉首相が全国を走り回ったことを考えれば、小泉のデマである「改革」にいまだ期待しての投票と考えられる。
 そして有権者の最大勢力は、自民と民主の絶対得票率を合わせたほどの数字、40パーセントをたたきだした「棄権」だ。いまさら投票しても変わりようがないという、政治にたいする絶望が、この数字から伝わってくる
 しかし、このどうしようもない政治的退廃の裏で、改憲派と核武装派の国会議員が、いままで想像もできなかったほど増えていることがわかった。
 『毎日新聞』がおこなったアンケート調査によれば(11月11日 朝刊)、当選した衆院議員の17パーセントが核武装の検討を肯定している。
 核武装検討に肯定的で、なおかつ改憲賛成となると、自民党で42人、民主党で8人、保守新党(アンケート時)1人、無所属1人となる。
 これは時代の危機といえる。すでに憲法改悪に必要な国会議員の3分の2の票を集めるのに苦労はない。それどころか核武装に突き進むことさえ、現実味を帯びてきた。

■原発費用の国民負担をもくろむ電事連

 核武装議員を物質的に支えているのが国内の過剰プルトニウムである。
 現在、使用済み核燃料は、イギリスやフランスでプルトニウムを取り出されて日本に逆送されている。使用済み核燃料の再処理を国内でできるようになれば、原爆の原料であるプルトニウムを大量に生産することができる。
 こうした危険を背景に電気事業連合会(電事連)から発表されたのが、核燃料サイクルにかかる総費用である。06年から再処理工場が操業し、72年間で廃止するまでの費用が、21兆7千億だという。そののち19兆円に訂正されたが、問題なのは、なぜ電事連がいまごろになって発表したかである。
 これまで廃棄物の処理費について、いっさい発表されなかった。原発の発電コストがいちばん安いと主張するのみであった。ところが発表された19兆円の経費を発電コストに組み入れると、天然ガスや石炭での発電と比べて高くなる可能がでてきた。原発推進派が唱えていた経済的優位性は崩れたといえる。
 電力自由化の前なら、政府とグルになって電気料金を上げればよかった。しかし新規事業者と競争が始まっている現在、値上げには抵抗が強い。それで電事連が仕掛けたのが、公的資金投入の議論を呼び起こすための数値発表である。
 いままで秘密にしてきた数値を時期をみて小出しに発表し、自分たちの窮状を訴え、国民へ負担を押しつけようとする深慮遠謀だ。
 ついに電力会社も、将来のコスト負担に音を上げはじめた。原発の見通しはますます暗い。勝手に進めてきた原発政策のツケを税金に回すなど許されるはずもない。 核武装という妄想を止めるためにも、よりいっそう原発を拒否する強固な運動が必要とされている。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/「戦争国家」にむかう日本の台頭

■月刊「記録」2004年1月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 昨年の暮、イラクのサダム・フセイン元大統領が拘束された。アメリカが宣伝のために流した映像とはいえ、拘束直後の様子は「独裁者の末路」そのものだった。それはルーマニアのチャウシェスクやパナマのノリエガ将軍の姿を想い起こさせるものでもあった。日本に逃げ込み、現政権からの責任追及を日本政府が阻止しているペルーのフジモリなどの例もあるが、多くの独裁者の最期は哀れである。
 ともあれ、いま懸念されているのは、ブッシュ米大統領の悪行を消しさろうとするマスコミ報道である。忘れてはいけないのは、そもそもイラク攻撃は、大量破壊兵器があるとの理由でおこなわれた。ところが、いまだに大量破壊兵器は発見されず、イラクの危険性をことさらに強調した政府の情報操作が発覚し、大義なきイラク戦争への批判が米英国内でも高まっていた。そうした状況下でのフセイン拘束であった。
 アメリカに捕まえられたことによってフセインは完全な敗北者となり、「戦勝国」大統領のブッシュ支持率は上がりはじめている。フセインの悪事を裁判で追及するようになれば、イラクを攻撃した米英の悪事が帳消しになりかねない。「勝てば官軍」となるのが腹立だしい。 フセイン拘束後、たまたまNHKの衛星放送で流れたABCテレビのブッシュ米大統領単独インタビューを見た。「フセインにたいして、どのような刑罰をあたえるのか」というキャスターの質問に、ブッシュはニヤリと笑って「極刑を受けるべきだ」と答え、あわてて「量刑を決めるのは、イラクの市民だ」とつけ加えた。
 フセインの首に2500万ドル(約27億円)もの懸賞金を掛け、彼の2人の息子を殺害し、大統領府をメチャメチャ攻撃しても、ブッシュはフセインを殺害できないできた。父親から受け継いだ恨みを、いまようやく果たした気持ちだろう。しかし外国の大統領を自国の軍隊で捕捉し処刑するとしたなら、それは侵略そのものである。そのうえ法廷さえひらかれないうちに、他国の大統領の極刑を主張するなど、思いあがりもはなはだしく、フセインに負けず劣らずの極悪大統領ぶりといえる。自分の罪深さにおののくべきだ。
 こうしたなかでの唯一の救いは、「罪の追及は公開の裁判で、適切な法に基づいた法廷で、そして人権法を含む国際的な規範と基準にのっとって行われなければならない」と、アナン国連事務総長が発言したことだ(『朝日新聞』12月16日)。さらにアナン氏は、「国連は死刑を支持しない」とも明言している。これは米国が訴追の中心となり、フセインを死刑にしようとしていることへのいち早い牽制球で、アメリカの横暴にたいするささやかな抵抗といえる。

■議論もできず、テロを呼び込む小泉

  一方、小泉純一郎首相は「復興事業」という大義名分によって、自衛隊をイラクに派兵しようとしている。その装備に加えられたのが、無反動砲と110ミリ対戦車弾である。どちらも対戦車用の火器だ。ちなみに無反動砲の有効射程距離は約700メートル、1分間に4~5発発射できる性能をもつという。これは防衛ではなく、攻撃のための火器としか考えられない。そもそも戦車と戦闘状態になることを想定しているのだから、海外での武力行使を禁じた憲法違反はあきらかである。
 また、防衛とは攻撃される前の攻撃を含むため、相手が攻撃するとしないとにかかわらず、隊員が危険だと思ったら先制攻撃をかけることになる。つまり戦闘状態では、どこからを正当防衛と限定するなどできない。そもそも戦場に火器を携えて行く軍隊など、攻撃のためでしかなく、「自衛」などありえないのだ。
 フセイン拘束によって、これから、イラクのゲリラ活動がどうなるのかはわからない。小泉は「テロには屈せず」といいつづけている。16日の参院外交防衛委員会では、「テロの脅しに屈したら一番喜ぶのはテロリストだ。対決は覚悟しなければならない。東京でもテロがあるかもしれない」(『朝日新聞』12月17日)などと暴言を吐いた。国民の安全を考えるのは、政治家の第一の義務である。日本政治家のトップに位置するものが、自分の政治の結果として「東京にもテロがあるかもしれない」などと、しゃあしゃあいってのけるのは、無神経だ。
 日本がイラクに派兵するから、東京がテロ攻撃のターゲットにされたのである。なんのことはない、小泉の言動がテロ発生の危険性を高めているだけだ。その因果関係を抜きにして、「とにかくテロに屈しない」といいつづける無責任さは許せない。
 さらに自衛隊派兵にたいする国会の論争について、「『話せばわかる』っていうもんじゃないらしいね」と記者団に語っている。「話せばわかる」は、民主主義への思いを込めた犬養毅元首相の言葉だ。結果として犬養の言葉は5・15事件の青年将校には通じることなく、彼は殺された。しかし銃を持つ相手と通じ合おうと努力はした。一方の小泉は、野党相手の意思疎通をあきらめているようだ。国会で論議を尽くして決定していくという民主主義的な感覚さえないことが、ここでも明らかになったといえる。

 ブッシュは、「イラクで命の危険を冒した国だけが、契約を得ることができる」と述べた。つまり人を殺したものだけが分け前にあずかれる、と「強盗の論理」を世界に押しつけたのである。そもそも「復興」とはいえ、破壊したのはアメリカとイギリスである。国連決議さえ取り付けられなかったマフィアまがいの攻撃を、日本は派兵という形で承認しようとしている。そして復興事業のおこぼれを待っているのである。
 だからこそ日本の財界は、派兵に反対しない。中東へのエネルギー依存度が高い日本は、派兵こそ国益にかなうというのが建前である。たとえば『琉球新報』(2003年12月11日)には、つぎのような財界人のコメントが並んだ記事が掲載された。
 「中東地域の平和と安定的発展はきわめて重要」と指摘のは、北城恪太郎経済同友会代表幹事だ。山口信夫日本商工会議所会頭は、「復興、人道支援、日米安保条約、テロ撲滅などを考慮すれば、国際社会の一員としてできる限りの協力をするのは当然」。日本経団連の奥田碩会長も「あくまでも国連の傘の下で」と条件を提示しながらも、「(自衛隊は)必ず出て行かなければならない」などといっている。
 この3人は日本企業を代表する役職に就いている。彼らの役目は、中東ではもちろん日本でも日本企業で働く会社員を守ることにある。それが企業人の責任であるはずだ。ところがテロリストから狙われる可能性を高める自衛隊に派兵に賛成し、各企業の社員をテロ攻撃にさらしても、利権を稼ぎたいらしい。この非人道的な発想は、小泉の非情な派兵決断とまったく同様である。それどころかテロ発生にともなう経済ダメージさえ、財界指導者には興味がないようだ。とにかく目の前の「エサ」にまっしぐら。強盗アメリカになついた野良犬の風情である。
 アメリカによる「イラクの経済復興」は、アメリカ中心の連合国暫定当局(CPA)が新外国投資法によって進めてきた。その内容はといえば、イラクの国営企業を解体して民営化し、外国資本の参入を可能にする上、関税を周辺諸国と比べて格安に設定し、なおかつ06年1月1日に関税の完全廃止まで盛り込んだものだ。イラクを植民地にする法律である。イラク商工会議所のバルダウィ会長が、「復興を口実に資源や富を奪おうとしている国がある」(『日本経済新聞』12月9日)、と不信感を表明したのも当然だ。
  「1人、2人殺すと殺人だが、大量に殺せば英雄だ」という言葉もあるが、大規模な破壊は、一大プロジェクトをつくりだす「英雄の所業」らしい。敗戦国を完全にしゃぶり尽くすのが、「復興」であり「民主国家の設立」である。それがブッシュ・アメリカの論理である。
 こうした復興の方針を決めるのは、ブッシュを支えるネオコンの幹部たちである。以前にも指摘したとおり、この幹部のバックに巨大なネオコン関連企業がついている。07年までで550億ドルともいわれる復興費は、すでにハリバートンやベクテルなどのネオコン関連企業に回っている。そのうえ最近の報道によれば、ハリバートングループは、ガソリン代として米政府に6100万ドル、およそ65億8千万円の水増し請求をしていたことがあきらかになったという。
  「強盗企業」にモラルを求めるは無理なことだが、イラクの混乱期になんでもありの状況だ。戦争はもともと汚いものだが、今回のように当初から商売としてはじめられた戦争の汚さには呆れるほかない。
 米国が投下したクラスター爆弾も大きな問題だ。米英軍が使ったクラスター爆弾は、約1万3000発。その子爆弾、約190万発が地上に散乱したという。この爆弾により1000人もの死傷者が発生したといわれており、今後も深刻な被害を生みだすにちがいない。
 クラスター爆弾は、ジュネーブで採択された「特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)」でも規制されている。ただし規制内容は、使用後の不発弾の除去への努力をうたったにすぎない。さすがに国際世論は使用規制を求めているが、アメリカは規制強化に反対している。これでは戦争終結後も、なんの罪もない人々を殺しつづけることになる。
 さらにアメリカは、前回の湾岸戦争から大量の劣化ウラン弾をイラクに使用しており、すでにイラク国民に重大な被害をあたえている。広島・長崎の教訓をなんら学ぼうとしないアメリカの傲慢さには、激しい怒りを感じる。スミソニアン博物館で、原爆を投下したエノラゲイ爆撃機を堂々と展示する無神経さにも通じるものだ。

■モラルを無視して利益追求にはしる奥田

 日本経団連は、ことしの春闘で従来の年功型賃金をやめ、成果主義型賃金に全面的に転換する方針を固めた。すでに昨年、定期昇給の凍結・見直しがおこなわれた。さらにことしは、ベースダウンまで実行するという。労働者の賃金は、いうまでもなく生活給である。プロ野球選手の報奨金とはちがう。生活ギリギリの賃金を成績によってさらに下げるなど、やらずぼったくりの方法でしかない。
 しかし大企業の労働組合はほぼ御用組合となっており、「ごもっとも、ごもっとも」と企業側の理屈を認めるだけ。中小企業では、銀行や取引先の元請け会社から倒産寸前まで圧力をかけられ、労組を組織する余裕さえない労働者も多い。労組の組織率は20パーセントを切り、労働者の5人に1人しか組合員がいないのは、こうした現状を反映している。
 一方の日本経団連は、不況に乗じて、労働者への圧力を強めつづけている。日本経団連は日経連と経団連という日本の二大財界団体を統合したものである。そのトップに君臨している奥田碩会長は、これまでにも消費税16パーセント引き上げを提案するなど、てまえ勝手にコトを進めてきた人物である。自身が会長を務めるトヨタ自動車でも、02年度で1兆4千億円もの過去最高の計上利益をあげているのに、賃金抑圧の先頭を走ってきた。日本企業で利益のトップを占めてきた会社なのにである。日本経団連の会長がトップに君臨し、最高利益をあげる企業が賃金を抑えたことで、他の自動車メーカーばかりか黒字企業もトヨタに追随した。この悪影響は大きい。 また、ネオコン関連企業が政治家を取り込むことで巨額の利益をあげているのを見習うかのように、奥田は政治資金を復活させ大企業が政治家に圧力をかけられるようにし、経団連のさらなる強化を目指してもいる。このようなトップが経営するトヨタが、企業モラルを喪失していることは、ある意味、当然といえるかもしれない。 昨年10月には、50億円の脱税を名古屋国税局から指摘され、20億円追徴もの追徴課税をされた報道された。労働者からだけではなく、国家からもカネを搾り取ろうとする企業姿勢には驚くばかりだ。
 さらに12月には、自動車整備の国家試験の問題を、試験の検定委員を務めるトヨタの社員が系列のディーラーに漏らしていたことが発覚した。系列会社にまで漏らす手口は、かなり大がかりなものだが、担当課長を解雇することで、トヨタはお茶を濁している。こうしたの問題処理の仕方をみても、トヨタが利益だけを追求し社会的なモラルのない企業であることをしらしめている。
 さらに戦争国家にむかう日本での重要な問題がある。少年法の破壊だ。
 現在、少年の氏名・年齢・住所および本人と推測できる記事や写真を報道することは、少年法で禁じられている。ところが少年法は、捜査中の少年には明確には適応されていない。この隙間に警察庁が入り込んだ。少年に公開捜査の道をひらくよう、青少年育成施策大綱に盛り込んだのである。
 犯罪をおこした少年を特定できないようにしているのは、更生した少年を世間の好奇な目から守るためであり、更生を成功させるためである。
 少年であっても凶悪犯罪なら氏名や顔を公開してよいという理屈は、『フォーカス』が神戸事件で少年の顔写真を公開した記事掲載の言い訳とおなじである。つまり、当時あれだけ物議をかもした記事の作り方を、公の機関が認めたということだ。
 氏名や写真をあきらかにする公開捜査がおこなわれることで、どれほど治安がよくなるのかは不明だ。それより、少年の将来が心配だ。公開捜査を決めた警察庁は、公開捜査に踏み切った根拠すらしめしていない。
 11月、わたしは千葉市で16歳の少女が殺された事件を取材した。その事件は、墓地でひどい暴行がおこなわれたこと、また加害者の青年が多重の債務を抱え、ローン会社からカネを借りられなくなったため、偽装結婚で被害者の戸籍に入ってカネを借りていたことで注目された。主犯格の青年は22歳、その「共犯者」となったのが、16~18歳の少年4人であった。
 この事件はたしかに陰惨なものだった。しかし罪を犯した少年たちの周辺を丁寧に取材すると、そこには彼らが抱える孤独が浮かび上がってきた。このような犯罪こそ、大人の責任と救済する力が問われている、とも感じた。
 しかし少年は、「刑事処分相当」の処遇意見をつけられ家裁送致となった。つまり成人とおなじような裁判を受けることになったのである。
 少年法の改正にさいして、逆送致は慎重にされるべきだという声が強く、実際にしばらくは慎重に判断されてきた。しかし前例があれば、判断は少しずつ慢性化し、慎重さは失われていく。最初に凶悪犯罪であるという理由で突破すれば、あとは月日とともに厳しい処分が一般化していくものである。
 とにかく日本政府は、ことあるごとに国民の人権を剥奪する方向にむかっている。そのため人権にたいする攻撃を、御用新聞や御用評論家や御用ライターをつかっておこなっている。これこそ国内での戦争体制強化である。イラクへの派兵とけっして無縁ではない。
 ことしこそ軍事国家への歩みを止めなければならない。戦争反対の声をあげ、選挙で民意をしめしたい。そう強く思っている。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/ピースボートの旅から-タヒチ

 いま、ピースボート船上で、この原稿を書いている。 タヒチからフィジー、そこからオーストラリアのダーウィン港に寄港して、めざしているのは、インドネシアのバリ島である。明朝、到着する予定なのだが、船の最終目的地はイギリスのサザンブトン港。が、わたしはシンガポールで下船して、東京へ帰る。この不景気の時代に、たしかに信じられないほどに安い旅行とはいえ、船で地球一周するひとたちが、老若男女あわせて、七五〇人もいることに驚かされた。
 この旅で、わたしは各地の先住民族のひとたちと出会った。自然のなかで、自然の恵みをうけて、誇りたかく暮らしていたひとたちが、ヨーロッパからの「文明」の侵攻(日本も無縁ではない)によって、どれほどひどい目にあわされたか、そのことをあらためて知らされる思いがした。
 タヒチは仏領ポリネシアの中心である。首都のパペーテは、バルコニーのついた家並がつづく、こざっぱりとした植民地風の街で、観光にやってきたフランス人やアメリカ人の老夫婦たちがのんびりと歩いている。ドイツ人のグループ・ツアーの姿もある。トラックを改造した「ル・トラック」が庶民の足なのだが、色調はどこかエレガンスである。
 夜になると、岸壁にはトラックを利用した屋台(ル・コット)が集まってくる。中国系住民が多く、「チャオメン」などの焼そばなどが売られている。物価が東京よりも高いのは、完全にフランス経済に支配されているからのようだ。

■英仏の戦争の犠牲になって

 小学生からフランス語での教育である。先祖の歴史は教えられていない、というから、完全な植民地教育である。ここはポマレ王が君臨する王国だった。最初にやってきたのは、イギリス人の宣教師だった、という。その一〇〇年あとにフランスの神父がやってきた。イギリスとフランスが、ポマレ王と彼ら流の条約を結ぼうと強制し、ついに一九八〇年六月、ポマレ五世はフランス共和国政府がつくった、すべての領土を譲渡する契約書にサインさせられてしまう。
「第一条 共和国大統領は、一八八〇年六月二九日にソシエテ諸島にてポマレ王と共和国弁務官の間で署名され、タヒチ王の支配下にあるすべての領土の支配権をフランスに完全譲渡した宣言を。批准し、実行する権限を持つ。
 第二条 タヒチ諸島およびその従属諸島は、フランスの植民地となるべく宣言された。
 第三条 タヒチ王の元領民すべてに、フランス国籍が与えられる」
 ポレマ王の「宣言」は、本人の直筆によるものかどうかは不明だが、きわめて屈辱的なものだった。
「……ソシエテ諸島およびその属領の統治権、行政権およびすべての権利と権力を、完全かつ恒久的にフランスの手に譲渡する。
 かくして、わが国家はフランスの一部になった。しかし、タヒチの法律と習慣を考慮にいれつつ我が人民を統治していただけるように、この偉大なる国にお願い申しあげたい」「反核独立」を市の方針にしているファアア市の集会で、ジャンピエール・ポマレさんの話をきいた。ポマレ五世から数えて六代目とか。彼によればフランス領土とされる前、フランスとのちいさな戦争があって、千人の戦死者をだしていた。そのあと、フランスがタヒチをふくむポリネシアを、イギリスがニュージーランドを支配することで、折りあいがついた。 
 ポレマさんは丸顔で、そういわれてみれば、育ちがよさそうな感じだが、いまはごくふつうの市民生活をしているようだ。土地を譲渡したサインをさせられてしまったため、いま王家は力をもたず、市民たちからさほど尊敬されていない、とか。
「フランスの領土になったのは、自由と平等によってではなく、英仏の戦争の結果でしかない。仏軍は大砲と銃をもってきたが、わたしたちはレイと笑顔しかもっていなかった」とポマレさんがいった。
 ポリネシアのなかで、独立を主張するのは、三〇パーセントほどのひとたちでしかない、という。あと、一五パーセントふやして、国連の場で独立を問題にしたい、という。国連への期待がつよいのは、そこで先住民の権利が論議されてきたからである。
 独立のためにいま必要なのは、武器を手にしての「独立戦争」ではない。民族意識の覚醒であり、そのための教育である。しかし、学校教育はすべてフランス式の教育であり、ポリネシアの歴史教育はタブーとされている。メディアはすべてフランス政府によって管理されているのだが、自由ラジオ・テファナがタヒチの歴史講座を流して、圧力を加えられている。もちろん、教科書にはタヒチが植民地化された歴史は書かれていない。
 もうひとつの問題は、経済的な自立である。タヒチの経済はフランス軍に依存していて、独立は政府機関や軍ではたらいているひとたちに失職の不安をあたえている、という。タヒチは観光の島であるばかりではなく、軍事基地の島であって、いわば沖縄やグァム島とおなじ構造をもっている。核基地の写真をうつしていて、フィルムを没収された観光客もいる。
 ポリネシアの総人口二一万人のうち、四分の三がタヒチ島でくらし、その大部分がパペーテ郊外に住んでいる。郊外にあるスラム街の住民は失業者で、核実験の建設現場ではたらいていたほかの島からの移住者、という。仏領ポリネシアの歳入の四分の三以上は、フランス政府からの補助金で、このうち、四五パーセントは、モルロアでの核実験の関連といわれている(『パシフィカ』九五年一〇~十一月号)。
 軍事基地依存経済から、観光や伝統的なバニラや養殖真珠、花、漁業の育成など、これまで軽視されてきていたものへの復活の道もある。

■核実験は子宮を爆発させるようなもの

「わたしたちは、いつの日か死ぬのです。それでも、子どもや孫たちに、こころのそこから安心して暮らせる環境を残してあげたい。核や感情の爆発のない未来を望みます」 
 とジョアナ・ガステンさんがいった。彼女は六人の子どもを産みつづけていた十年間、不安に脅かされていた。障害児が産まれないかどうかを心配していたのだった。身内にはCFF(太平洋実験センター)ではたらいていたひとたちが多く、障害児の子どもたちはすくなくない、という。
 九五年九月、世界世論の反対を押し切って、フランスが核実験を強行したあと、タヒチのガストン・フロス領土政府長官が渡仏するため、ファアア空港にきたとき、彼女たちは二千人の市民や労働者たちと空港のターミナルを占拠した。滑走路に座り込んだひとたちもいる。放火事件もあって、「暴動」状態になった。六四人が逮捕された。彼女もそのひとりで起訴されている。
 九八年十月の判決では、懲役三年など四人に実刑がだされた。タヒチでは、子どもが産まれると、胎盤を土に返して、そのうえに好きな木の苗を植える。彼女の木は「パン」の木である。だから「地下での核実験は子宮を爆発させるようなものだ」との憤りが強い。
 たしかに、いままでは、フランスの核実験に依拠するようにして生活してきていた。被爆の知識がなかったからである。ガンや白血病になると、患者は本土につれていかれて検査された。が、結果はなにも知らされず、カルテもみせられていない。
 フランスは六〇年二月にアルジェリアで核実験に踏み切ってから、九六年一月まで、すでに二一六回も実施している。六六年七月から太平洋のモルロア環礁で開始、その後のほとんどはタヒチを拠点としたモルロアでおこなわれている。そのためにはたらいてきた労働者は、一万五千人にもおよぶ。このなかから被爆労働者があらわれている。
 サンゴ礁が破壊されて、死滅したサンゴに「渦鞭毛藻」が発生して毒化した魚がふえている。水は天水なので汚染されている。なぜフランスはここで核実験をくりかえしてきたかといえば、そこは植民地だからである。とすれば、実験の中止と独立の要求がついには一致することになる。
 ボルドー大学帰りのテチアラヒ・ガブリエルさんは、「ヒテイ・タウ」(日の出の鳥)という団体をつくって、自立の運動をつづけている。「核の植民地支配は暴力だ」というのが彼の主張である。

 南太平洋は、かつての戦争のとき、兵士たちの飢餓の島としてつたえられている。マラリアと飢えによって、膨大な数の日本兵たちは、まったく無駄にたおれていったのだが、そのとき、島の住民たちはどうしていたのかはあまりつたえられていない。わたしたちは、フィジー島でバナナ島の旧住民たちと会うことができたが、日本海軍の虐殺をきかされることになる。
 が、それらの蛮行はここだけの話ではない。日本軍は土地を奪っただけではない。無謀な戦略配置は飢餓状態をつくりだし、住民から食料を奪った。虐殺と人肉を食う非道を行った事実の解明が残されている。

-シンガポールへむかう船上から-

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鎌田慧の現代を斬る/小・小自・自連立による地獄への道

■月刊「記録」1999年2月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■アメリカ帝国主義のお茶坊主

 世紀末九九年を迎え、日本の政治はますますキナ臭い様相を帯びてきた。小渕・自民党、小沢・自由党による「自自連立」は、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の関連法案の成立を足がかりに、自衛隊の国連軍への参加の道をひらこうとしている。このために憲法解釈の変更、さらには憲法改正をも現実の課題になってきた。
 昨年一二月中旬、クリントン大統領がおこなったイラクへのミサイル攻撃にたいして日本政府はいちはやく支持を表明した。国連主義を表明している日本政府は、国連安全保障理事会になんの相談もなくおこなわれたイラク攻撃を、国際社会に先駆けて支持しているのだからモノ笑いのタネである。国際法違反の米国の不法行為にたいして、「お茶坊主的」な態度で追従を表明した日本であるが、この行為はけっして日本政府の錯乱などではない。自自連立が推し進めようとしている、強い国家への転換を示す危険信号である。
 そもそもイラク攻撃開始からわずか二時間半後に、日本が空爆支持を表明したのは、一一月中頃より政府が支持を決断していたからという報道もされている。また一月一八日付の『毎日新聞』の朝刊には、「外務省筋も、日本政府の空爆支持表明について『北朝鮮への明確なメッセージになる』と強調している」と書かれている。
 つまり北朝鮮を仮想敵国として想定している日本は、イラク爆撃という事態を利用して、一ヵ月も前から日米安保をカサに着た軍事的な圧力を、北朝鮮にちらつかせたといえる。「メッセージ」といえば聞こえはいいが、虎の威を借りる外交圧力は、緊張を増大させる結果にしかならない。ここでも立ちあらわれてくるのは、平和外交と一線を画する、危ない政治決定である。
 さらに年明け早々、こうした強権国家にむかいたい意志を明らかにしたのは、小渕内閣の法務大臣・中村正三郎である。彼は法務省や検察庁の幹部が参加した賀詞交換会において、つぎのように発言している。
  「日本人は、連合軍からいただいた、国の交戦権は認めない、自衛もできない、軍隊ももてないような憲法を作られて、それが改正できないというなかでもがいている」
 いうまでもなく、国会議員および閣僚は憲法を守るのが最大の使命である。しかも法律を守るはずの法務省の最高責任者が、憲法を批判するというのは、前代未聞の事態である。法務大臣が憲法をないがしろにしているのなら、罷免を要求されて当然である。ところが彼はいま現在でも、なんの処分も受けることなく、ノウノウと法務大臣の席に座っているのだ。日本は法治国家なのか。 しかも中村法相の問題発言は、憲法批判だけではない。弁護士活動をも批判したのである。やり玉に挙げられたのは、和歌山の毒カレー事件や、オウム事件を担当している弁護士である。
 弁護士が被告の弁護をするのは、法治国家として当然のことであり、民主主義の根幹といえる。それをあろうことか、法の番人である法務省のトップが批判したのである。彼の頭には、民主主義のひとかけらもなかった、というにほかならない。
 それでも野党は、彼を罷免をするための行動すら取ろうとしなかった。通常の民主主義国家ならば、中村を指名した小渕恵三総理の責任問題まで発生するはずだが、彼にはなんのお咎めのなく、そのまま終わっている。それどころか自自連立の改造内閣でも、そのまま留任している。中村法相の発言が大きな問題にならなかった背景には、強い国家を作ろうとする政府内の意識の高まりがある。決して中村一人の暴走ではない。
 ついでにいえば、オウム真理教の松本智津夫の主任弁護人である安田好弘弁護士は、死刑廃止運動の論客でもあるが、デッチ上げの不当逮捕されている。これからは、小数派への弾圧がおこなわれそうだ。
 
■小沢亡霊の復活

 こうした政府内の空気が、自自連立をも生みだした。米国に従属した強権国家つくりこそ、小沢一郎が追求しつづけてきた国家ビジョンである。
 すでに小沢と小渕は、国連平和維持軍(PKF)への自衛隊参加や、多国籍軍への後方支援ににおいて合意に達している。国連安全保障理事会を無視した攻撃を即刻支持した小渕内閣にとっては、国連軍への参加は米軍に従軍するのとおなじ意味でしかないのであろう。日米安保体制とは、「日米心中体制」でしかないことは、自自連立を背景にした日本の軍国化が進めば進むほど明らかになるはずだ。
 小沢との関係について小渕は、「『対立するという話ではない。僕は軟投型でなんとなくコーナーを突いて打たせて取る法だが、むこうは上手から直球を投げ込む』(一一月一七日、記者団に)と語っている」(『毎日新聞』一九九八年一二月一九日付)つまり小沢は剛球、小渕は変化球と強弱を使い分けて国民をたぶらかそうとしいるのを、小渕自身認めているわけだ。
 そもそも小渕・小沢は、かつての自民党竹下派の七奉行といわれた政治家である。また田中角栄・竹下登とつづいてきた、金と数(議員)を最大の政治力とする国会議員でもある。彼ら二人が密室でなにを談合したのか明らかにされていないが、とにかく勢力を握るために対立から連立へと急転したのである。
 ただそれは古い自民党に戻るのでは決してない。小沢が自民党に要求しつづけているように、自衛隊の海外出動の道を切りひらくための政権である。小沢の強引さに自民党ばかりか、民主・公明などの政党も追随してついていくという形で、さらに右へと急速にそれていくかどうか、それが最大の問題である。
 両党が合意したPKF参加についても、もともとPKO法が成立した際に軍事的な色彩が強いとして、凍結されてきたものである。にもかかわらず、アメリカの後押で生き返りを狙ってきた小沢は、このPKFをこの際、復活させて政治基盤を強化しようとしているのである。 たとえばPKFのなかでも、停戦監視などは、反政府勢力から攻撃される危険をはらんでいると何度も指摘されてきた。また多国籍軍への後方支援は、医療任務ばかりか、さまざまな物資運搬の後方支援までを、自衛隊におこなわせようとしている。しかも活動の具体的な内容については、内閣が「ケース・バイ・ケース」で判断するという玉虫色の合意が両党の間で交わされている。
 昨年六月、PKOなどにおける銃の使用については、戦場で兵士に個々の判断によって正当防衛的に発射させるというこれまでの立場から、指揮官が命令をして銃器を使用する、とまで認められている。これらは明らかな戦闘行為である。自自連立で生まれた玉虫色の合意により、国連軍に連動して後方支援がおこなわれ、部隊単位の戦闘を誘発する危険性が高まっている。
 しかも国連平和活動などの集団的安全保障は、憲法九条の制約を受けないという立場を、自由党が明らかにしている以上、政権維持のためには自民党も従来の憲法解釈を変更していかざるをえないであろう。

■小沢と変わらない民主党議員たち

 こうした自自連立と軍事強化の方向にたいして、野党はなんら抵抗を示していない。たとえば民主党の鳩山由紀夫幹事長代理は、「停戦監視や紛争当事者の兵力引き離しは、日本の意思で行動するのではなく、国連の意に沿う形であれば、日本武力にはあたらない。党としての議論が必要だ」(九九年一月九日『朝日新聞』)と、PKF参加の凍結解除に前向きな方向を示している。まるで国連軍の奴隷である。
 また穏健派風の仮面を被っている菅直人民主党党首も、「監視衛星」に賛成し、朝鮮半島有事への対応では自衛隊の後方支援を認めている
 党のトップがこのありさまだから、寄り合い改革の同等には、クビを傾けさせる議員が多い。そのひとりが、松下政経塾出身の前原誠司である。朝日新聞の一月九日朝刊に、彼のインタビュー記事が掲載されているが、新党さきがけから移籍し、野党である民主党の結成からの議員でありながら、小沢とおなじ強い国家論を踏襲しているのだから驚かされる。
 たとえば、これまでの歴代の内閣が集団的自衛権は行使しないという明言してきたのにたいしても、「憲法解釈を変更し、『接続概念』の範囲を認定する作業が歯止めになる。次の通常国会で議論される、新しい日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法案では、民主党は国会承認と事前協議をしっかりおこなうべきだと主張する。そこが歯止めになります」などと、発言しているのである。
 しかし、軍事同盟に結ばれた米国が突発的に攻撃された際、国会における事前協議などおこなわれようはずもない。これ幸いと、自衛隊の出動は、なし崩し的に決まっていくだろう。さらに彼は、次のようにも語っている。
 「平和の維持には一定の軍事力、防衛力が必要だし、非武装中立で日本の平和が守れるとは思いません」
 「(外交の)背景には経済力があり、軍事力がある。それが欠けている中で外交といってもお題目に過ぎません」
 こうした発言が、日本国憲法の根幹にかかわるのはもちろんのこと、「軍事力を背景にした外交の推進」などという寝言は、これまで日本が望んできた平和主義にたいする真っ向からの挑戦である。
 ところがこうした無知にして威勢がいいばかりの発言が、民主党でも問題にならない。それは現在の政治がオール与党の翼賛体制だからである。すでに自自・民主・公明、総ぐるみで憲法解釈の変更への道を歩みだしているのだ。

■「たそがれ政治」が軍事大国を築く

 現在、自民党・自由党・民主党・公明党の境界線は、非常にあいまいなものになっている。まさに「たそがれ政治」である。薄闇に紛れて強い国家にむけて、翼賛化した政党が、いままでの平和主義をあっさり捨てようとしている。「日米安保」は、安保タダ乗る論として、日本の軍備費をすくなくして経済発展させたといわれている。日本の政治がアメリカに従属してきたのは「エコノミックアニマル」として、アメリカの市場にはいっていたいためだった。軍事力の強化は「エコノミックアニマル」をやめて立派なサムライになろうというものだが、小沢流のカッコづけは国を誤るばかりである。
 この日本経済の危機的状況のなかで、彼らが軍事体制を強化しようとしているのは時代錯誤というしかない。経済再生の努力をさぼり、ひたすらの戦争の対応に腐心するだけの政治家たちをみていると、戦争の勃発による経済再建を考えているのではないかと勘ぐってしまう。 年明け以降、日本経済の状態はさらに悪化している。これから銀行や大手ゼネコンが倒産し、生命保険会社はさらに不良債権の増大にあえぐことになる。いよいよ、大企業でもリストラの風が吹き荒れる。
 このような経済危機を前にして、政府がおこなった経済政策をいえば、赤字銀行に血税を垂れ流して、国税を浪費することぐらいだ。これではなんの解決にもならない。そのうえ不安定な情勢を利用して、政府はいたずらに危機感を煽っている。
 現在の経済危機は、ナショナリズムを刺激するために利用され、防衛力強化へ国民を誘導していく危険性をはらんでいる。自民党と連立政権を画策した小沢自由党や、野党を自認する民主党内のウルトラ軍国主義論者たちが、どう動くのを注視する必要がある。
 防衛力増強をテコにして軍事国家を目指し、アメリカ軍国主義と心中しようとする悪魔の選択はまっぴらだ。軍事費を福祉に充分にふりわけることで、戦争と福祉を防ぐことができる。
 野党が壊滅させられてしまったいま、軍事大国にむかう道筋にたいして、明白にNOの声をあげと冷笑されてしまう時代がはじまっている。それでも、気がついたものは、孤立をおそれず、NOというしかない。 (談)

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鎌田慧の現代を斬る/テロルと狂牛病

■月刊「記録」2002年1月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 なんと世界は愚かなのだ、と腹立たしい気持ちで21世紀最初の年を送ったひとたちは多いであろう。と同時に、なにもできなかった自分の無力さをふかく感じさせられている。それでも、テロルと報復の論理をうけいれないひとたちが、けっしてすくなくなかったことが、未来をさらにひどいものにしないことにつながるのであろう。
 一瞬にして倒壊した、ニューヨーク世界貿易センタービルの映像が、なんども繰り返して流されたあと、あのビルにピザの出前にいって行方不明になった男の話を、テレビが放映していた。
 メキシコだったろうか、どこか中米の国から妻がやってきて、ボランティアたちの助けをかりながら、夫の消息をたずね歩く、というドキュメンタリーだった。
 男は故郷に妻となん人かの子どもを残してはたらきにきた、出稼ぎ労働者だった。たしかに、あのツインタワーは、世界経済を支配する強者の象徴だったかもしれない。しかし、そのまわりには、さまざまなひとたちの暮らしがあった。
 海外を旅行すると、旅先で貧富の差がますます拡大しているのを感じさせられる。その「悪の根元」が、いかにも地盤の堅そうなマンハッタン島に聳えていた、世界貿易センターだと考えるのはもっともかもしれない。しかし、実際そこに生活していたのは、「先進国」のエリートサラリーマンたちだけではない。テロリストたちが救おうと考えていた、貧しい国の貧しい人たちもまた、そこに依拠して暮らしていたのだ。
 テロリストの攻撃は、皮肉にもこうした現代社会の複雑さを、瓦礫のしたにみせつけたのだった。
 テロルによって、グロバリゼーションという名の「市場原理主義」をやめさせることはできない。おなじように、テロルの「首謀者」として、ひとりの男の首に三五億円の懸賞金をかけて殺したにしても、テロルをやめさせることはできない。
「市場原理主義」とは、弱肉強食の論理をやや上品にいっているだけのことだ。世界に経済格差をつくりだし、敗者をどんどんふやしていて、なんらこころを傷めることのない連中が世界を支配しているかぎり、テロリストを産みだす無限の憎しみをなくすことはできない。
 ひとりの男を捕まえて殺すために、なん百億ドルものカネをかけ、なん万人もの兵隊を送りこみ、なん万トンもの爆弾を投下し、なん千人もの人間を殺し、なん百万人もの人間から家と仕事を奪って、路頭に迷わせ、難民にしている。泥道に「参戦」の轍をつけておいて、つぎの出動をやりやすくするため、と解釈するしかない。それと米国への迎合である。 
 迎合はいじめられないための防御策、と考えたにしても、日本には戦争はしない、という国是(憲法)がある。独立した国の首相なら、自分の立場を主張するしかない。
 世界貿易センターへの攻撃のあと、日本の首相が、訪問先の大統領と会って、チャッチボールの相手をしてもらい、保安官のポスターをもらって帰ってきた。一国の首相としては軽挙妄動にすぎるが、それをとめた側近はいない。「日米友好」は国益と考えられているからだ。ロシアもイギリス、ヨーロッパの国々(少なくともイギリスはヨーロッパ)も、いじめっ子のような米国を支持している。
 しかし、戦争がどうして国益なのか。ほかの国の民衆を殺すのを、どうして支持できるのか。それが経済利益になるからだ、としたなら、経済的な利益のために、人間はなにをしてもいいのか、というしかない。

■効率主義の弊害としての狂牛病

  米英軍によるアフガニスタンのタリバン政権にたいする攻撃がくりかえされていたあいだ、日本を襲っていたのは、狂牛病パニックだった。
 これは厚生労働省の無責任体制に問題があったにせよ、その発生原因は人類的な課題ある。
 もともと草食動物である牛の飼育のために、牛の解体作業から発生した廃棄物を、飼料に加工して、仲間の牛にあたえる、という発想は、利益追及のためからである。母乳のかわりに商品価値のひくい骨肉粉を液状にして子牛にあたえ、放牧よりは手間のかからない牛舎に縛りつけて、草のかわりに骨肉粉をあたえていたのだ。
  「共食い」の野蛮な風習は、飢餓からではなく、効率の追求からはじめられた。この野蛮を牛に押しつけたのは、すべて利益だけで動く人間の都合である。クロイツフェルト・ヤコブ病をもたらすプリオンの発生は、自然の摂理を無視した、人間の欲望の結果だった。各国ともに、さいきんになってようやく、骨肉粉を牛にあたえることは中止した。
 新兵器を発明し、大量殺傷の効率化をはかり、「野蛮な民族」の頭のうえから新型爆弾を降り注ぎ、災いを後世に残す悪習は、戦争も飼育もおなじ論理になる。ひとを殺す効率化はもういいかげん、終わりにすべきだ。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/憲法をコケにするパラノイア首相

■月刊「記録」2002年6月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 5月9日にテレビ放送された、中国瀋陽の日本総領事館門前での光景は衝撃的だった。領事館(日本の領土)突入に失敗した家族3人に、中国の武装警官がタックルする生々しいシーンは、あまりに残酷であった。恐怖にひきつった子どもの表情が、脳裏から離れない。
 ところが家族の生死をわかつ瞬間に居合わせた領事館の日本人職員は、そのような光景など目に入らないかのようだ。警官の帽子を拾い、埃を払って渡していた。まるで我関せず焉――「俺はまったく関係ないよ」――といいたげな仕草は、難民や警官などのやっかい事を門の外にだした気分のあらわれだろう。
 そののち領事館に逃げ込んだ夫とその弟の2人は、館内まで進入した中国警官に拉致・収容された。日本領土内の中枢である館内に他国の警官が入るなど、国際法上許されない。もちろん主権を無視した行為である。
 しかし事件直前、阿南惟茂・駐中国大使が亡命希望者の入館防止を指示していたことが、14日あきらかになっている。さらに『毎日新聞』(5月16日)の報道によれば、「館内に入った人間は『追い出せ』『日本は亡命を受け入れていない』と(大使が)語った」という。
 それなら、館内からでてきた職員が、平然と帽子を拾って手渡した冷酷さもわかる。阿鼻叫喚の現場にいても見て見ぬフリをし、日本の領土に入ってきた窮鳥を救おうなどと考えもしない無感動人間なのもうなずける。すでに「亡命者」は追いだす方針が固まっていたのだ。だから、中国官憲が領事館に入り込み、北朝鮮(北朝鮮民主主義人民共和国)人の亡命希望者を連れ去ったのだ。なんと無責任で非人道的な対応か。国際的に流されたこの映像で、日本政府は人権にたいしてまったく無頓着だ、というハレンチぶりを明らかにした。

■日本政府はシッポを振るチン

 北朝鮮人民にたいしては取っ払うような対応を見せる日本政府も、一転、アメリカ政府にたいしてはシッポを振りつづけるチンのようだ。米国のアフガン攻撃に追随してブレア英首相は、自分はブッシュのプードルではない、と弁明したそうだが、小泉首相は、おれはチンでもスピッツでもない、ともいわない。
  『朝日新聞』5月6日にすっぱ抜かれたのは、4月にアメリカから要請されたイージス艦とP3C哨戒機のインド洋派遣の裏側である。この記事によれば、防衛庁海上幕僚幹部(海幕)が、在日米海軍チャプリン司令官を横須賀基地に訪問し、派遣を米側から要請するよう働きかけたという。これはシビリアンコントロール(文民統制)を無視した制服組の暴走である。政府に関係なく海幕幹部が勝手に自衛隊の派遣をアメリカに要求するなど、「売国奴」であり、処分ものだ。
 これまで海上自衛隊は、米国海軍と密接な合同演習をおこない、米海軍の弟分として動いてきた。だからアメリカ防衛産業から1100億円もの高値で買ったイージス艦をアメリカに貸してやる、そんな“意欲的な提案”をしたのである。そもそも自分の虎の子を他国の軍隊に差しだすなど、奴隷根性もはなはだだしい。
 この海幕幹部が米海軍司令官に渡した文面について、記者は次のように書いている。
  「内容は、インド洋に至る空母機動部隊進出時の護衛や、情報の収集及び提供など。空母護衛艦隊の中核がイージス艦であり、情報収集の有力手段がP3C哨戒機という触れ込みだった。
 文章は護衛の法的根拠を列挙したが、『共同訓練』名目で出動し、攻撃を受けたら自衛隊法の『武器防衛のための武器使用』や『治安出動』条項を使って反撃するという強引な拡大解釈ぶり。憲法が禁じる集団的自衛権行使への抵触など、どこ吹く風だった」
 また「攻撃機も潜水艦も保有しないテロリスト相手に、(イージス艦やP3C哨戒機が)何をするのか」とも指摘していたが、まさにその通りである。これから米軍が行うイラク攻撃の前にとにかく派遣しておきたいという制服組の野望と米軍への奴隷意識が、政府を飛び越えての直訴となったのである。
 いま問題となっている有事法制は、冷戦時代に研究されたものである。仮想敵国の侵入に対処する代物だ。20数年前、日本のマスコミが喧伝していたのはソ連軍の北海道上陸というシミュレーションであった。防衛庁の朝霞駐屯基地で、私も図上作戦計画を見たことがある。あんな時代がかった作戦が、今回の有事関連三法案に生き残っている。だからこそ物資運搬や死体の処理など、国内が戦場になることを想定している。ひるがえって考えてみれば、一体どこの国が戦車を北海道に上陸させ、北から南に侵攻するというのか。
 このような過去の妄想を、小泉ウルトラ首相は強引にひっぱりだした。この愚劣を許した背景には、『読売新聞』などを中心とした右派ジャーナリズムの憲法攻撃がある。いかにも日本国憲法が古いものであるように喧伝し、世論は誘導され、軍国化が進んでいる。
 さらにさかのぼれば、日米安保の下、経済成長で金余り大国となった日本の「思いやり予算」に行き着く。米軍の予算を援助することで、いい気になった日本国政府は、湾岸戦争に130億ドルも支払ったあと、米軍の戦争に協力する法案をつづけざまに成立させた。なかでも日米ガイドラインに基づく「周辺事態法」は、日本の軍国化への針を一気に進めた。
 いま予測される周辺事態は、朝鮮半島有事と台湾有事である。それによって米軍が武力攻撃を開始した場合、日本は周辺事態法に基づいてアメリカの後方支援をすることになっている。このとき「武力攻撃の意図が推測され、武力攻撃が発生する可能性が高いと客観的に判断される状態」(中谷元防衛庁長官)となれば「武力攻撃事態」であり、国内では国民の私権が制限される軍事体制となる。しかも「(相手に)武力攻撃の着手があった時」に、自衛隊は反撃(武力行使)できると福田康夫官房長官が発言している。
 まだ攻撃などしていない仮想敵国を、米軍とともに叩くなど、集団自衛権の乱用であり、無憲法状態である。しかし小泉首相が「事態の進展によっては両者(周辺事態法と有事法制)が併存することはあり得る」と断言した以上、平和憲法のもとで、米国の戦争に巻き込まれる可能性は高い。
 しかも、この「武力攻撃事態」の定義があやしい。小泉首相は、「事態の判断は、国際情勢、相手国の意図、軍事的行動などを総合的に勘案してなされる」などと、禅問答のような説明をしている。中谷防衛長官にいたっては、「武力攻撃事態は、規模や対応の面で特に限定することなく、あらゆる事態を含む。該当するかどうかは、時々の国際情勢や具体的な状況をふまえて判断すべきだが、武力攻撃事態に該当する場合もありうると考える」(『朝日新聞』5月8日)と発言した。
 つまり、とにかく、怪しければ「武力攻撃事態」なのである。
 5月12日の『朝日新聞』によれば、政府がまとめた武力攻撃認定の基準では、「『武力攻撃のおそれのある事態』と、その前段階の『武力攻撃の予測される事態』について、それぞれ日本を攻撃する可能性がある国の軍事的な準備行動を例示し、相手が多数の艦船を集結させた場合に自衛隊が防衛出動できる」という。偵察衛星などで仮想敵国の港に艦船が集結したのを発見した場合、その相手政府に電話をして「日本を襲うのですか」と聞くつもりだろうか。どうやって日本への攻撃と判断するのか。「専守防衛」から、先手必勝へ進むつもりなのか。戦争は「防衛」から「攻撃」への転換としておこされる。
 このような曖昧な基準で国内は「戦時体制」となり、首相は自治体に命令や代執行をおこなえる異常事態が出現する。こんな物騒な法律を強引に今国会で通過させようとしているのは、こんご予想されるイラクなど“ならず者国家”への米軍の「正義の戦争」に備えて、日本の協力体制を整えるよう、差し迫った要求がアメリカからだされたからであろう。実体のない冷戦時代のプランをムリヤリ法案化した理由は、それ以外にはない。米軍の戦争を支援する体制を、早急につくろうとしているのだ。結局、有事法制も、「テロ支援国家」への侵攻や朝鮮半島有事、あるいは台湾有事のとき、いかに米軍に協力するかという奴隷根性に根ざした法律でしかない。

■言論界に「トロイの木馬」

 進む戦時体制をバックアップするのが、言論を規制する言論規制三法である。5月12日には、『読売新聞』が個人情報保護法案と人権擁護法案の修正試案を提示した。小泉首相はこれに飛びつき、「この試案を参考にし、今国会で(両法案の)修正を検討してほしい」(『読売新聞』5月14日)、と語ったという。
 法案にたいして国会論議がはじまっていないうちに、首相が修正を指示するのも妙だが、その修正案を考えたのが新聞社だとは笑わせる。これこそ政府と新聞のデキレースである。マスコミ各社がやっと足並みを揃え、断崖絶壁に追い込まれた首相に、マスコミが新聞紙でパラシュートを作ってやったようなものである。つまり『読売新聞』は言論界に入り込んだトロイの木馬であり、さらにこのような言論の規制そのものが、戦時体制にむかうトロイの木馬だともいえる。もっと俗にいえば、読売は、政府の「御用新聞」になりきったわけだ。この「御用新聞」の社長が、日本新聞協会の会長である事実が、日本のマスコミの悲劇的様相をあらわしている。政府と一体化した新聞は、戦争中の大本営発表を思い起こさせる。この読売試案にたいし真っ向から批判した『毎日新聞』5月15日の記事は、賞賛に値する。
 そもそも個人情報保護法案の背景には、改正住民基本台帳法があった。国民全員に11ケタの番号をつけ、自治体のコンピュータをつないで番号や名前、住所といった情報を政府が一元的に管理する。こうした危険な法律の下で行政をコントロールするのが、情報保護法案の本来の役割だった。ところが政府は、法律の趣旨をねじ曲げて、マスコミ規制に使おうとしている。

■福祉切り捨て、税率アップ

 小泉内閣は、軍事大国化にむけた個人の抑圧と管理に執心している。さらに国民を徹底的に締め上げるため、健康保険法の改正と個人住民税の引き上げ、その見返りとしての「企業減税」まで実施しようとしている。
 健保法が改正されれば、医療費の自己負担は3割増しになる。法改正にともなう国民負担増について、70歳未満の人で年平均4000円。70歳以上の人は年平均で8000円になると、政府は発表した。しかし、この試算はあくまで「平均」である。実際の病人が、どれだけ膨大な金額を背負いこむことになるか。これまでも介護保険の導入により、病院から追いだされる老人が続出している。福祉切り捨て、軍事の強化という古い路線に、小泉パラノイア首相ははまりこんでいる。
 そのうえ増税である。6月にまとめる政府税調の基本方針に年数千円の個人住民税引き上げを盛り込もうとしている。消費税アップなどが噂も絶えないのにである。
 このような悪政は、ついに40パーセント以上の不支持率にまでなった。とにかく、小泉をつぶそう。もう一歩だ。まだまだ、『読売新聞』のような、庶民を裏切るような新聞が最高部数を占め、悪政をほしいままにしている自民党が、公明・保守ともに盛況であるのだが……。
 この事態を変えなければ、市民は安心して眠れない。小泉政権とは、米軍の支援のために人民を犠牲にする政権であり、売国奴チン政権といっても過言ではない。「仮想敵国」から派遣されるという「仮想テロ」を道具に使い、有事法制で国内体制の支配を強化する陰謀。報道規制によって、権力者の情報を遮断し、人民の情報を管理する謀略。いよいよ、支配強化それにたいする反撃の局面となってきた。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/「異常なし」社会の崩壊過程

■月刊「記録」2002年10月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 いまさら社民党の批判をするのも、気の抜けたビールのようなものである。しかし憲法改悪へと突き進む政治状況下で、護憲にこだわる政党の消長は日本の社会にとって見過ごすことはできない。
 これまで何度も批判してきたが、社民党の古い体質と判断停止には呆れるばかりである。たとえばJRから解雇された国労組合員を見捨てるばかりか、「四党合意」というデタラメで国鉄解体をはたして自民党と結託し、国労分裂に手を貸す犯罪行為。政党買収というべき政党助成金もいまだに受け取りつづけ、国会はもちろん党内でも問題にしてしないグズ。薬害エイズ訴訟で官僚と闘いつづけた川田悦子議員が東京21区で立候補したさいには、なんと対立候補を擁立する官僚体制。田中康夫が再選をはたした先頃の長野県知事選では、判断停止の自主投票。それ以前におこなわれた田中康夫知事にたいする不信任決議案では、社民党系の社会県民連合は議場から退席し、可決を手助けした。土木関係企業と密接な関係をもつ議会派と決別できないのだから、あまりにもヒドイ。
 こうした醜態をさらすのは社民党の奥底に、自民党と談合する55年体制の沈殿物が蠢いており、その暗部に党が支配されているからである。ズブズブの不気味な底なし沼体制では、土井たか子党首や福島瑞穂幹事長、保坂展人議員などが、どんなにかんばっても足もとから沈んでいくばかりだ。今後の選挙でさらに敗退をつづけるのは、まちがいない。
 社民党が潰れても、それはみずから蒔いた種であり、自業自得というものだ。ただし憲法、とりわけ9条を護る一角が崩れ去っていくのは忍びないし、影響も大きい。キチンと責任をとるべきだ。
 再生のためには、古い体質が染みついた党官僚と、どう決着をつけるのかが問題となる。内部で徹底した対決がはじまらないかぎり、党がズルズル崩壊していく道は避けようもない。
 55年体制の醜悪なオデキの露呈は、村山富市政権だった。このとき日米安保や原発を容認し、無原則、無責任、ゴマスリ政党へと突き進んだ。日本の軍国化が不安視され、原発が崩壊過程にむかっているいま、社民党が裏切ったツケを抱えて力を失っているのは皮肉である。もし55年体制の崩壊時に、改めて結党以来の方針を高く掲げていたなら、現在、先見性のある政党として、反有事法体制や原発批判でも影響力をもっているはずだ。有事法制や「共謀罪」の導入反対などに大きな影響力を発揮できたにちがいない。なにかあっても「異常なし体制」で自己判断なく過ごしてきた社民党は、ダメ日本の申し子である。

■内部告発者を東電に報告

 私が原発を批判するのは、そのすべてが不正だからである。それは原発の建設の過程であれ、運転時であれ、事故を起こしたときの対応であれ、すべて一貫している。秘密と不正の巣窟なのだ。
 8月29日、経済産業省の原子力安全・保安院の発表によって、東京電力の破損隠しスキャンダルがあきらかになった。これも、いままでごく当たり前に電力内を支配していた行動の一部があきらかになっただけのことで、驚くにあたいしない。
 今回の問題の発端は、電力会社の自主点検にかかわっていた社員の内部告発だった。そこから約2年間にわたる経産省の生ぬるい調査にたいして、シラを切り通してきた東電だったが、ことし8月に突如、捜査に協力的となり、原発の損傷をもみ消した事実を経産省に伝えたとか。この中には、炉心隔壁(シュラウド)にひび割れが見つかったのに国に報告しなかったなど、大事故につながりかねない事態もふくまれていた。
 しかしウソつき東電の本領発揮はここからだ。スキャンダルに社員がかかわっていたことを初めて認めたのが、事態公表から3日目。そののちトラブル隠しの方法もかなり悪質だったことが発覚。福島第1原発では、ひび割れの見つかったシュラウドを取り替え、シートで隠して国の検査をやり過ごした。緊急炉心冷却システムで見つかった損傷の兆候には、金属部品を取り付けたあとに周辺を色まで塗ってごまかしたという。
 といっても、今回の問題の根本に、経産省の体質が深く関係していることを忘れてはいけない。
 あらためていうまでもなく、日本の原子力行政は原子力推進体制である。アメリカ従属の中曽根康弘などの指導を受け、旧通産省は率先して「原子力」の旗を振ってきた。その実行に強力な“力”をあたえたのが、九電力体制という地域独占である。9つの電力会社に電力事業を独占させ、欧米諸各国と比べて割高な電気料金を保護する一方、政治力と補助で政府の方針に逆らわないよう縛りをかけた。
 この悪の構図では、ピッチャーとアンパイヤがおなじ仲間である。どんな問題が発生していても、「ストライク(異常なし)」と判定しつづけてきた。今回、重大事故が発生する前に、隠しきれなくなった審判が「不正」を告発したが、経産省が原発の安全に気を配っているわけではない。それが証拠に、シュラウドにひび割れの疑いのある福島原発1基、柏崎刈羽原発2基は、運転停止処分にさえしていない。毎日新聞(9月3日)によれば、「疑われるトラブルが軽微な原子炉まで停止したら、電力供給に支障が生じかねない」と、経産省は説明しているという。
 経産省の原発推進政策を阻むものは、誰であろうと許されないのだ。かつて四国電力社長が、「原発は時期尚早」と経済雑誌で発言し、旧通産省からゴツンされて撤回した一幕もあった。
 もちろん今回の事件でも、経産省が狙ったのは事故隠しであった。原発の点検作業を担ってきた米ゼネラル・エレクトリック(GE)元社員から、東電の破損隠しについて経産省保安院に内部告発があったにもかかわらず、実質的な調査に入らなかった。
 それどころか告発者の情報を東電に漏らしたという。行政が内部告発者の名前を、内部告発の対象会社に教えるなど、人間としてのモラルに反するばかりか、公務員としての重大な犯罪行為である。
 こうした不誠実な態度によって内部告発から公表まで2年間もかかったにもかかわらず、保安院は「告発者保護を最優先にしたため」などと長いあいだサボっていた理由を説明している。わずか2週間余りでバレるウソをつくぐらいなら、「国策としての原子力政策のスピードを落とさないためだった」とハッキリ発言すればいい。1970年中頃には、東電の報告書に書かれた原発損傷の兆候を、旧通産省官僚が「異常なし」と書きなおさせた事実も判明している。なにがあっても「異常なし」の大本営発表は、原発推進が国策だからだ。国策のためには、国民が死んでも仕方がないと官僚たちは考えている。
 どんな事故が発生しようとも、原発推進。むかし軍隊、いま官僚。玉砕覚悟で戦艦大和を沖縄に派遣したり、特攻隊を無目的に突っ込ませていた旧軍部の無責任体制が再現されている。

■カネカネカネの“金”子力発電所

 経産官僚と一体になって原発を進める自民党の政治家も、東電のスキャンダルは気にする様子もない。福田官房長官は、政府の原発を見直す可能性について、「全くない。安全が保障されれば、環境的にもコストからみても、現状ではこれに勝るものがない」(『毎日新聞』9月3日)と明言している。どうしようもない無責任さだ。
 JCOのような大事故も起き、存在自体が危ない原発の安全基準さえ守れない電力会社の体質があきらかになっても、「異常なし」「安全だ」としかいわないのは、自民党自体が崩壊過程に入っていることをしめしている。
 これほどいい加減な企業姿勢を東電がもちつづけられたのは、日本最大の電力会社として財界・政治家・マスコミ、そのすべてを牛耳ってきたからである。
 今回のスキャンダルで東電を退陣する5人の経営陣も、荒木浩会長は日本経団連の副会長、那須翔相談役は同評議会会議長、平岩外四相談役は同名誉会長を務めていた。歴代の東電社長は、財界で君臨するのが当たり前だったのだ。古くは木川田一隆氏が経済同友会の代表幹事まで登りつめているし、水野久男氏は東京商工会議所副会頭にもなった。先述した平岩外四氏など12年間も経団連副会長を務め、そのあと経団連会長になったという。自社の不正に目をつむり、経済界で大きな顔をしていたとは、たいした神経のもち主である。
 政治家にも強い影響力を発揮するのも、東電の「お家芸」である。そう、お得意の献金攻撃だ。『朝日新聞』(9月13日)によれば、2001年には役員の少なくても35人が、自民党の政治資金団体などに総額605万円を個人献金した。「個人のやり取りの問題で、一切関与してない」と、東電は個人献金を説明したようだが、「個人のやり取り」が聞いて呆れる。ちなみに電力九社まで献金の対象を広げると、役員の87%、228人が3390万円を個人献金したことになる。いわゆる「実弾」が飛び交っていたわけだ。
 これまでもわたしは、原発社会がカネに汚染されていることを強調してきた。原発立地地域あるいは原発予定地では、カネを巡る荒廃が極端なまでに進んでいる。カネなしでは運転できない原発を、わたしは“金子力発電所”と名付けている。こうした地域の状況については、『日本の原発地帯』(岩波書店)『原発列島を行く』(集英社新書)などにも詳しく書いた。
 悲しいかな現状に変化はない。9月13日の『朝日新聞』が報じたところによれば、島根原発に隣接する島根町は、ことし中国電力からとみられる匿名の寄付3億円を受け取った。昨年もおなじく匿名で6億円も寄付されたという。原発立地点の鹿島町にいたっては、ことし7億円にのぼる匿名希望の寄付を受けている。こうした足長おじさんを装った危険への「代償工作」を、各電力会社はごくあたり前のように、実行してきた。住民のほっぺたをカネで叩く電力会社の基本的なスタンスは、中曽根以来の手法である。
 ただ、これだけ安全が脅かされると、カネだけでは地域にフタをできない。今回のスキャンダルにより、福島県知事や新潟県知事および地元市町村は、プルサーマル計画の白紙撤回にむけて動きだした。また経済産業省の村田成二事務次官も、「(プルサーマル計画は)まったくの発想を変えた取り組みが必要となるかも」と話している。ついに行政側からも、疑問の声があがりはじめた。
 プルサーマル計画は、核燃料廃棄物を再処理工場に運びプルトニウムを取りだして再利用する。そのため計画の中断は、六ヶ所村に建設中の再処理工場の存在自体を問い直している。実際、事務次官の発言にたいして、木村守男・青森県知事は「理解に苦しむ」と語っている。知事の心情はともかく、1兆円以上も投資した再処理工場は、原子力船むつのように膨大な無駄遣いとして終わりそうである。
 核燃料サイクル自体が見直されることになれば、原発から発生する廃棄物をどこで処分するのか。使用済み核燃料を一時保存する中間貯蔵所の建設を、各電力会社は進めていが、そこが最終処分地となれば、どの自治体も容認しない。もちろん一時保存を認めさせるのもカネだ。
 中間貯蔵所を誘致している青森県むつ市の杉山粛市長は、貯蔵約40年間で国から322億円入るという皮算用を披露した。すでにむつ市は、施設の立地可能性調査を実施しているため、年間1億4000万円の交付金を国から受けている。まさにカネカネカネの異常事態である。電力会社が地域や政治家に払う金は、電力会社を選択できない消費者からむしり取った電気料金だし、各自治体に払われる交付金は国民の血税である。一企業にすぎない電力会社が、まるで土砂降りの雨のようにそのカネをばらまいている。それが黙認されてきたのは、マスコミが原発のカネに汚染されているからである。
 東電の破損隠しは、原発の根元を揺るがせる問題になってきた。これをどう運動化するかが問題だ。もはや社民党や共産党、まして民主党などはアテにできない。いままで以上に市民ネットワークを強化し、政府と原発会社に強く抗議の声をあげることが求めれられている。

■アジアの平和政策のために

 9月17日、小泉純一郎首相が朝鮮(朝鮮人民共和国)を訪問したのは、彼のなりの世論対策であり、大ばくちだった。その結果、拉致された13人のうち8人が死亡していたという、最悪事態が判明した。
 小泉の行動で評価できるのは、ハンセン病裁判で控訴しなかったことぐらいだ。それさえ元ハンセン病の人たちの熱意と世論に、小泉が敗北して実現したものだった。
 訪朝前、『週刊新潮』や『週刊新潮』は「朝鮮征伐」のような反朝鮮キャンペーンを張っていたが、これはきわめて見苦しい。アジアの平和をつくるには、南北朝鮮の平和的な関係、日本と朝鮮の平和的な関係および朝鮮とアジア全体との関係をぬきには考えられない。アメリカ一辺倒の小泉が朝鮮にでむいたのは、ブッシュのOKがあってのことだが、平和のための日本と朝鮮との国交回復の端緒にはなるだろう。
 拉致事件の遺族の方の心情は察するに余りある。しっかりとした事実確認と解明、こんごの対策が絶対に必要だ。しかし朝鮮は、孤立化させられてからも、いろんな国との関係をもとめはじめている。アジア全体の平和政策を考えるうえでも、大人のつき合いによって、新たな時代をつくるべきだ。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/“臭いモノにはフタ”内閣の暴走

■月刊「記録」2002年7月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■核保有も「どうってことない」口先宰相

 新聞を広げると一面トップからサッカー、テレビをつけるとトップニュースがサッカー。新聞もテレビもサッカーだらけである。まるで日本の惨状を隠す陰謀の煙幕のようだ。
 サッカーボールの陰に隠れていたのは、“政府首脳”の「『(核を)持つべきだ』ということになるかもしれない」との踏んだり蹴ったり発言である。
 内閣と新聞とには奇妙な取り決めがあって、官房長官の言いたい放題は、“政府首脳”の煙幕ですまされてきた。福田康夫官房長官の「爆弾発言」を翌日の朝刊一面であつかったのは、『毎日新聞』だけ。『朝日』と『読売』にいたっては、申し訳ていどの記事を掲載していただけ。煙幕新聞である。
 このなかで気を吐いたのが『東京新聞』だった。福田が公式の記者会見で語った内容と“政府首脳”の発言を絡め、「福田長官『核持てる』」と一面トップで報道した。2面でも「タカ派体質浮き彫り」の見出しで福田を徹底批判し、社会面にいたっては福田にたいする被爆者の怒りを報じた。
 この『東京』の怒りの報道によって、各紙のあつかいがコロリと変わる。「政府首脳」こと福田官房長官は連日釈明に追われることになった。もし『東京新聞』がこれだけ力を入れて報道しなければ、この政府の最高責任者のひとりである官房長官の重大な発言は国民に知られることがなかったはずだ。
 そもそも福田発言は、早稲田大学で講演した安倍普三官房副長官の発言内容について述べたものである。「憲法上は原子爆弾だって問題はないんですからね、憲法上は。小型であればですね」(『サンデー毎日』2002年6月2日)という安倍副官房長のトンデモ爆弾発言を、福田官房長官が容認し、さらに拡大したのである。
 一方、事件の発端となった安倍は、『サンデー毎日』の取材にたいして、「政治の場ではなく、大学の講義という場で、しかもオフレコなので、突っ込んだ話をした。それを、だれが知らないが、テープにとり、外部に出し、揚げ足取りをする。卑怯で、ルール違反じゃないか。また、それをセンセーショナルに書くなら、ひどいことだ」などと語っている。オフレコを書いたのが問題であって、この発言は言い間違いではないといっているのだ。安部の思想は核容認である。こういう手合いが、日本の中枢を占めている。
 しかも“政府首脳”の問題発言について、小泉首相は「あれどうってことないよ」などとノー天気に発言している。本人自身もこの程度なのだ。この“口先”宰相は、「どうってことない」とたかをくくりつづけて60数年生きてきた人物だが、まるで首相正副官房長官が核武装のアドバルンを上げたのと、おなじことである。
 だいたい官房長官・官房副長官から首相にいたるまで、これだけの暴言を吐きながら、「正常」に政治運営をつづける小泉内閣は、まさに“臭いモノにはフタ”内閣。野党は完全にナメられている。
 いまさらいうまでもなく、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則は、被爆国である日本の民衆の究極の悲願である。いまだ年に何人もの被爆者が死んでいる。そんな悲劇を繰り返したくないという強い思いが結実したのが、非核三原則だった。それを無視して、「日本も核保有が可能」と政府首脳たちがいいきっている。戦争にたいする彼らの反省が、どれほど不徹底だったかがよくわかる。
 福田・安倍・小泉これらの二世、三世議員の政治姿勢は、幼稚園児クラスといって間違いない。「売り家と★唐様★(ルビ:からよう)で書く三代目」。江戸時代の川柳のように、小泉家が三代目のお坊ちゃん政治家によって倒産するのはかまわない。しかし三代目政治家が首相になり、日本低国は世界から見放されようとしている。

■証拠を隠せと官に圧力をかける幹事長

 おなじころ、防衛庁でも大きな問題が発覚した。防衛庁に情報公開請求をした人物の身元を組織的に調べ上げ、請求時には書かれていなかった必要のない職業や思想信条まで書き入れたリストを作り、庁内の職員専用LANに掲示していたのである。
 しかも問題発覚後に、伊藤康成・防衛事務次官が「『漏らしたやつが悪い』というのは、まさにその通りです」などと発言する始末。外国の軍隊ばかりではなく、国民さえも「仮装敵国」として監視する防衛庁の過剰防衛としての攻撃性があきらかになった。
 防衛庁自身は、情報を、防衛秘密機密、防衛秘密極秘、防衛秘密秘、機密、極秘、秘という6項目に分け、がんじがらめにコントロールし、国民の眼から隠匿してきた。また防衛産業で働く労働者の思想・信条を徹底的に調べあげている。塀を巡らせた工場内をさらに金網で区分するなど、秘密を守るためにきわめて閉鎖的な職場環境まで作っている。もちろん労働者には、何をつくっているかは秘密にさせている。
 その一方で、防衛庁に近づいた者のすべてについて情報を収集し、徹底的に監視している。思想および病歴、収入などはプライバシーに該当するものであって、コンピュータにいれることなどは防がなくてはいけないのだが、国民を敵とみなしている防衛庁は、せっせと情報を蓄えている。
 防衛庁には、「調査隊」という関係業者などの身辺調査や監視活動をおこなう秘密の部署がある。自衛隊の秘密を探ったり、基地襲撃を企てたりする行動に対処する部署だというが、もちろん今回の事件でも一枚かんでいる。情報公開を請求した市民運動団体やジャーナリストを、基地襲撃するもの、と認識しているとしたなら、「治安維持法」の時代とおなじで、すでに言論の自由などはない。
 内閣調査室や防衛庁の調査隊、あるいは公安警察などは、国民に敵対する存在であり、膨大な秘密費を使って情報を収集している。本来、情報の保護とはこのような官に個人情報が集中することを防ぐためにある。ところが小泉内閣は、それとは正反対に、政治家や官庁の情報を防御するために、個人情報保護法案成立などを成立させようとしている。
 きわどいスキャンダルを週刊誌に追求されている山崎拓幹事長が、個人情報保護法成立に真っ先に賛成するのは笑わせる。もちろん今度のリスト問題でも情報隠匿に走り回った。38ページにおよぶ防衛庁の調査報告書を公表せず、4ページの概要だけを発表するよう、防衛庁幹部に圧力をかけている。しかも概要の原文にあった「証拠隠しと言われてもやむを得ない」という表現まで削除した。“臭いモノにはフタ内閣”とは、こんなオソマツな連中でつくられている。

■官民一体の毒ガス国家に

 臭いモノにはフタをしていたのは、何も政治ばかりではない。企業でもこれまで抑え込んできたフタが外れ、全国に悪臭がひろがっている。
 ミスタードーナッツを運営するダスキンは、肉まんに無認可の酸化防止剤が使われていたのを知りつつ、300万個もの肉まんを販売しつづけた。また口止め料として、問題を指摘した取引業者に6300万円を支払い、公表を促した幹部には「(秘密を)墓場まで持っていけよ」と厳重に口止めした、と報じられている。
 協和香料化学は、無認可の物質を含む香料を30年以上に渡って出荷。会社社長も7年前から違法なことを知りつつ、操業を続けていた。この企業が製造した香料は、全国175社の食品メーカーに出荷され、何も知らずに製品に使ってしまったメーカーは、連日、各新聞に謝罪広告を出している。社会面の3分の1を埋める謝罪広告は、隠していた悪臭がどれほどひどいものだったかをしめしている。日本は、官民一体の「臭いモノにフタ」の毒ガス国家となった。
 ここで注目したいのは、企業が悪事を隠してきた事実だけではない。こうした不正が発覚したいきさつである。協和香料化学の場合は、東京都食品監視課に郵送された匿名の投書がきっかけだった。30年以上伏せられた秘密は、内部告発によってようやく明らかになったのである。ダスキンの場合は取引業者の告発だったが、企業の秘密を知る、ひろい意味での内部告発者という見方もできる。
 現在審議中の個人情報保護法案が定める基本原則を活用すれば、ニュースソースの「透明性」の強制によって、あるいは、「本人が適正に関与し得る」として内部告発者を追いつめることができる。法案が成立すれば、防衛機密とおなじように企業の秘密も保護されることになる。
 1970年ごろ、わたしは長崎県対馬にある東邦亜鉛の公害を取材に行った。取材先では、毎日のように会社の守衛に尾行され、近くの駐在巡査が滞在先の家に調査に来たり、あるいは東京の留守宅に興信所が来るなど、激しい取材規制を受けた。また東邦亜鉛の副社長にも何十回となく申し入れて取材に応じさせ、取材内容を録音したテープで暴露し、問題を社会に喚起したこともある。
 当時はまだ、報道や言論の自由という観念が企業内にも強く、このような取材が中止になることはなかった。しかしメディア規制三法が成立すれば、公害企業にたいするしつこい取材は、権力によってあっさり中断されることになる。
 東邦亜鉛への取材は、『隠された公害』として三一新書から出版(現在は、ちくま文庫で刊行)した。そののちには、東邦亜鉛の技術者から内部告発の資料も送られてきた。その書類には、東邦亜鉛がいかに公害隠しをしたのか、きわめて具体的に書かれていた。
 参考までに例をあげよう。
 鉱業所で汚染されていた重金属の物質を、深夜トラックに積んで川の上流に放り投げた。投棄後に調査した厚生省(現・厚生労働省)の調査報告書の結論は、「上流も汚染されているので、汚染は鉱業所の起因するものではなく、自然発生である」になった。
 また、鉱業所に保管してあった、下流の調査用サンプリング水を、会社の命令を受けた労働者が汚染されていない水で薄め、汚染度を半減させた、などと詳しいデータとともに書かれていた。
 個人情報保護法があれば、こうしたデータを使おうにも内部告発者が犯罪に問われるかもしれない。また書いたわたしもニュースソースをいうように追求されることになる。あるいは会社側が「関与し得る」として、メディアへの発表を食い止めることもできる。
 しかも個人情報保護法と平行して審議が進んでいる有事法制が成立すれば、これまで「事変」や「事態」、「有事」などと呼んできた「戦争状態」に、政府が放送局や新聞社を支配できるようになる。小泉口先首相を中心にした「幼稚園児」内閣の二世、三世たちの無知にして横暴が、ここにもストレートにあらわれている。主権である選挙民への挑戦である。
 幸いなことに世論の反対により、メディア規制三法および有事関連法案の今国会での成立は難しそうだ。だが魯迅の有名な言葉「水に落ちた犬は打て」の通り、いまこそ徹底的に追撃して2つの法案を廃案に追い込むしかない。フタマタコーヤク民主党は、次の国会などで法案の修正に応じるのかどうか、見識が問われてくる。公明党はもはや「公明」などではなく、モーマイ党。
 ここでも何度か主張したように、政府が報道機関を抑え込もうとするのは、国民の知る権利を否定であり、けっして認めることができない。 加藤紘一は起訴されずに逃げ切ったが、鈴木宗男や田中真紀子など、まだまだ懸案の問題が山積している。鬱憤を晴らすかのように、サッカーで大声をあげている場合ではない。叫ぶなら「小泉を倒せ!」と叫ぶべきで、「日本バンザイ」など寝呆けたことをいうな。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/崩壊にむかう小泉戦時体制

■月刊「記録」2002年5月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 有事体制に関する3法案――武力攻撃実態法案、自衛隊法改正案、安全保障会議設置法改正案――が、閣議で決定され、本会議にもち込まれそうだ。これらの法案を見ると、自民・公明・保守の議員たちは、本気で戦争をやるつもりか、と思わざるを得ない。
 思い起こせば1991年4月、海部俊樹首相は、国内の反対を押し切って自衛隊を海外派遣した。自衛隊法99条に「危険物除去、処理の任務」が明記されていることが、海外派遣の根拠だった。
 それから8年をへた99年5月には、新ガイドライン関連法が成立。「地理的な概念ではない」という“周辺”で、「後方支援」という名の戦闘行為を自衛隊がおこなえるようになった。さらに昨年10月には、2年間の時限立法ながら自衛隊の海外派兵を可能にする「テロ対策特別措置法」が成立した。翌月には護衛艦を含む自衛艦3隻がインド洋にむけて出発。海外派兵の“実績”をつくり上げてしまった。
 そしていよいよ、政府は戦争体制の完成にむけて、国内弾圧態勢の整備に手をつけはじめた。有事三法案である。
 戦時体制の強化といえば、1933年8月に桐生悠々が『信濃毎日新聞』に「関東防空大演習を嗤う」という記事を書いていた。戦時体制下に入ろうとする軍隊の姿勢、あるいは国民が空襲をされるのを想定しながら戦争の準備を進めるアホらしさを、桐生は嗤った。空襲によって東京が大火災となり、多数の市民が逃げまどい、財産を失い、大量の死者が発生することを予想しながら、敵を迎え撃つナンセンスを突いた記事であった。
 今回の有事体制も、当時とまったくおなじようなバカげた愚行を繰り返そうとしている。有事三法案には、国民の主権を無視するような条文がならぶ。
 たとえば自衛隊改正法には、「必要な限度において、当該家屋の形状を変更することができる」などと書かれている。「形状の変更」などといってもリフォームしてくれるわけではない。家屋を撤去して陣地を作るなど、軍隊のやりたいように家屋を壊せるという意味である。戦時中には、「建物疎開」によってたくさんの民家が撤収された。
 また「墓地、埋葬等に関する法律の適応除外」という項目では、法律で定められた火葬場や墓地を使わなくても、自衛隊員の死体を処理できるようにした。有事に出動した自衛隊員の死体を野焼きして、どこか適当に埋めても法律に違反しなくなったのである。
 この項目だけを見てもわかる。有事三法案とは、戦争遂行法案である。しかもこの法案は、「武力攻撃のおそれ」ばかりか、「武力攻撃が予測されるに至った事態」など、どうでも解釈できる規定によって「武力攻撃事態」を定義している。武力攻撃事態ともなれば、それだけで自衛隊の武力行使ができるようになり、「戦時体制」になってしまう。
 これまでも政府は、有事法制成立に少しずつ歩を進めてきた。90年代末ぐらいまでは、「研究は進めるが、法制化は前提としてない」という屁理屈で準備を重ねてきた。そうした“研究”が、1度として法案化されなかったのは、その危険性ゆえであった。
 ところが小泉純一郎首相は、自身の人気に慢心して、死んでいた法律を地獄のそこからひきずりだした。冷戦時代の産物を使うなど、彼には国際情勢の判断などできない。いまや彼の思惑は狂い、人気は急落、頼みの支持率も50%を割り込んだ。それでも、国会内部を見ると、かなり議員が有事法制に賛成している。自民党・公明党・保守党ばかりか、民主党も半分も賛成。自由党にいたっては、国民の権利をさらに圧迫するような有事法制の強化に言及する始末。自民党内では野中広務などが時期尚早論を唱えているが、反対勢力としての力はもはやない。
 今回、通常国会で成立するかは別にしても、日本の危機もついにここまで来た。頼りは、国民だけだ。法案の閣議決定をうけて、ようやく市民運動も動きだし、衆議院会館前での抗議行動が起こり、デモ行進もはじまった。これからどれだけ運動が広がりをもつかにかかっている。

■被害妄想が作りだした法律

 この法案の恐ろしさをあげればきりがない。
 憲法にある地方自治の精神を剥奪して、首相権限で命令できるようになる。基本的人権を踏みにじり、個人の財産を勝手に使い回せる。民間人の命令違反にたいして罰則規定をもうけている。かつての国家総動員体制の復活である。
 このような憲法を超えた法律をいまなぜ作るのか。アメリカの要求で、その軍事下請け化を、小泉の人気にあやかって一気に決めようとした自民党の焦りがある。
 これまで冗談としてしか扱われていなかったが、軍需によっての経済の活性化もあろう。ところが、小泉内閣は30兆円という枠内での国債発行をなんども言明していて、これ以上防衛費に予算をまわすことはできないはずだ。
 戦争状態になったとき、自衛隊が超法規的行為に走るのに歯止めをかけるために、法律をつくる、などのいい方もあるが、そもそも、どこの国が日本に戦争を仕掛けてくるというのか。たとえば仮想敵国とされる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は、どんな成算があって日本に攻めて来るのか。経済的に疲弊している北朝鮮の軍や艦艇や戦闘機が日本に攻めてくるなど、小泉の妄想である。現在の北朝鮮の国力からすれば、日本侵攻は経済が破産する暴挙であり、とても考えられない。それでは、中国はどうか? いまや中国も市場経済を目指す国家である。日本に戦争を仕掛けるより、商売に専念したい時期だ。
 だいたい有事三法が動きだす、「武力攻撃が予測されるに至った事態」とは、どういう状況なのか。武力攻撃された状態でもないのに、いったい誰が予測するのか。また誰が「事態」を判定するのか。こんなことも曖昧なままに、小泉のような妄想狂が日本を戦時体制に突入させるのである。
 この法案は、小泉など、自民党タカ派の“妄想”が生みだした戦時体制への悪夢である。ブッシュもおなじ夢をみているのだが、「草野球仲間」に、日本はこれだけやってますと尻尾を振ってみせたいのだ。
 米軍の同時多発テロからはじまった“最低権力者たち”の被害妄想が、ついに形となって現れた。いうまでもなく日本国憲法は、「武力によって他者を威嚇しない」と決めている。ところが新ガイドラインそして周辺事態法から有事体制にいたる道筋は、憲法の精神やいままでの戦後政治が培ってきた歯止めを全部かなぐり捨てた。「戦争状態」が予想されたら武力攻撃をする、という戦争宣言である。バーチャルな想定で法律をつくり、現実に民衆の支配が強化されていく。これは恐ろしいことだ。
 気が付いてみれば、日本はすでに海外派兵をしており、国内の戦時体制も強まり、先月号で触れたとおり、言論統制の3法まで成立させようとしている。表現の自由を弾圧する法案と、有事体制法案が同時に進んでいるところに、小泉首相のファッショ的な本質があり、日本民主主義の危機がある。

■1日80~90回の拷問

 4月9日、総務省は、第三種郵便と第四種郵便を廃止する方針を打ちだした。これは自民党総務部会の反対でお釈迦になったが、これも表にはでにくい言論統制である。
 ミニコミや零細出版社の言論活動は、定期的な発行物は郵便が安くなる第三種郵便によって支えられてきた。書店に置けない市民運動の機関誌やミニコミが、大マスコミとのハンディの中で生き延びているのは、この制度のおかげである。第四種郵便は、福祉あるいは通信教育の保護政策であるため、廃止には抵抗が強い。しかし第三種は、一般の人たちにあまり関心がないこともあり、狙われやすい。こんごも警戒が必要だ。
 有事法制の閣議決定と時期をおなじくして、成田空港の走路・暫定平行滑走路の供用開始記念式典がおこなわれた。華やかな形で報道されたが、これは残酷空港、人殺し空港の式典であった。
 この滑走路にむかう航空路の直下には、いまなお3戸の農民が住んでいる。ニワトリを4000羽、ブタを10数頭飼育している農家もある。その民家の40m上空をジェット機が離着陸している。国土交通省は、住民が住むための仮設住宅を準備した、といっているが、いわばアフガンの民衆への攻撃において、発生した難民をキャンプに収容するような野蛮な方針である。
 旧運輸省、国土交通省はこの成田空港を建設するにあたって土地の強制収用をおこない、反対運動をしていた若ものを機動隊が殺すという残虐な攻撃を使ってきた。そののち運輸省はこのような強硬策を取らないと約束し、農民に陳謝した歴史もある。
 「暫定滑走路建設」では、強行建設および強要はしないと約束し、2500mで計画されていた滑走路を、住民が住んでいる地域を外して2150mにした。しかし、それはなんと住民の庭先に滑走路を造る野蛮を意味している。畑を耕し、家畜を飼育して生活している住民を、まったく無視した工事だった。これは静かに暮らしていた住宅の屋根に、いきなり鉄道の線路を敷いた暴挙とおなじようなもので、人間の生命を無視した攻撃である。こういう野蛮が国際空港という名前でまかり通っていることは、日本の恥といえる。
 着陸するパイロットからすれば、着陸地の手前に人家があり、これはあたかも航空機の足で民家を引っかけるような恐怖を感じるという。もちろん住民の恐怖は、さらに大きい。いつ飛行機が屋根にぶつかってくるかわからないという、非人道的殺人的行為が、毎日80~90回もおこなわれている。
 このように、いまや小泉内閣の政治とは、まったく人民の生活を無視したやり方である。人心の荒廃はさらに高まっている。この国のどこが民主主義国家なのだろうか?(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/戦争準備の監視国家へ

■月刊「記録」2002年4月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 30年ほど前、わたしは『ガラスの檻のなかで』という本を書いて、監視国家化を批判した。いまそれが実現されつつある。
 なまじっか首相の人気が出ると、彼らはそれまで抑えていた欲望を一挙に押し出してくる。小渕恵三内閣の時には、ガイドライン関連法、国旗・国歌法、盗聴法、住民基本台帳法改定などを押しすすめた。「ボキャ貧」などといわれてとぼけ、無能をウリに愛嬌を振りまいていた首相が進めたのは、戦争準備と監視国家の強化であった。
 そして、こんどは、小泉「単細胞首相」である。
  彼は「改革」などという期待をもたせるスローガンをふりまきながら、医療費の引き上げなど弱者にたいする総攻撃を開始した。そのうえ小渕の路線を引き継ぎ、収奪と監視をより完璧なものに仕上げようとしている。
 有事法制とは、戦争に突入したときの国内における治安弾圧体制の整備である。驚くべきことに、政府が準備している法案は、民間人の土地・家屋の収用と立ち入り検査まで視野に入れている。つまり「有事」ともなれば、個人の土地や家屋を、自衛隊が収用し撤去することさえ可能になる。
 さらに最近明らかになったのは、民間人への罰則規定である。有事には自衛隊の作戦に必要な食料や燃料などの物資を保管するよう業者に命令でき、従わなければ6ヶ月以下の懲役か30万円以下の罰金を課すという。国民を総動員しておこなうのが戦争だから、民間人を対象にして権利を剥奪するのは、政府にとっては当たり前なのである。これに、ゲリラ、テロ対策を入れて、監視を強めようとしている。
 すでに東京の歌舞伎町や山谷、大阪の釜ヶ崎など、地域ごとの監視体制は強まり、大量の監視カメラが設置されている。高速道路や幹線道路などには、通称Nシステムと呼ばれる自動車ナンバーの自動読み取り装置が取り付けられている。クルマによる移動を、完全にチェックしようというもくろみだ。
 国民の行動をチェックできるようになれば、残されているのは心の中の管理であり、思想の管理である。これらの先には、国民総動員体制の最初の布石となる徴兵制が控えている。
 この思想管理の武器として準備されているのが、「メディア規制3点セット」と呼ばれるものだ。個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年社会環境対策基本法案の3法は、「プライバシー」「人権」「青少年健全育成」という美名の下に成立しようとしている。メディアにたいして、一挙に網をすぼめてきた自民党のやり方は他党を引きこんだ増長のあらわれである。ジョージ・オーウェルが描いた超管理社会は、もう目前である。

■事前検閲が当たり前になる!?

 「国民総背番号制」の完成によって、国民のプライバシーが官公庁のコンピュータに収集される。その情報の漏洩が懸念され、防止のためにつくられたのが、個人情報保護法案だった。ところが、これは別の行政用の法律が準備され、個人情報を取り扱う事業者(情報産業や報道機関)を規制する法律が準備されている。コンピュータ業者ばかりか報道であっても、個人の情報を扱うものとして規制の対象になるという論法である。
 法案には、「個人情報は、その利用の目的が明確にされるとともに、当該目的の達成に必要な範囲内で取り扱われなければならない」とある。しかし取材とは、進めていくなかで目的がハッキリしていくものである。小さな疑惑が発端となって、さらに大きな事件が明らかになっていく。それこそが取材である。最初に取材目的を定めると、取材は矮小化してしまう。取材が進むなかで明らかになった事実を質問しようとすれば、被取材者は「目的がちがう」と逃げることができてしまう。それに誰にたいして、取材の目的の許可をえるのか。
 「個人情報は、適法かつ適正な方法で取得されなければならない」という条文も問題だ。どういう行為が適正ではないと判断されるのか、国(裁判官)が、この取材は「適性方法」ではかった、と判断することになる。これこそ報道にたいする国家の干渉である。取材される政治家や財界および官僚などに、核心を突く質問をすると、「そのニュースソースは誰か」、「適正ではない」といって逃げることができる。判断されれば取材は終了である。
 さらに問題なのは、「個人情報の取扱いに当たっては、本人が適切に関与し得るよう配慮されなければならない」という文言である。この条文に従えば、取材対象者が記事内容をチェックすることができる。
 メディアの大反発を受けた政府は、「放送機関、新聞社、通信社その他の報道機関、報道の用に供する目的」の場合、義務規定を適用しないとした。ところが出版社やフリーライターは、法律上の適用除外対象にすら入っていない。報道目的なら適応除外にするというのが事務方の判断らしいが、いまでさえハンディの多いフリーライターの取材が「報道」じゃないと難癖をつけられて規制されることは、明々白々である。記者クラブに属さず、政治家や官僚を叩いてきた週刊誌ジャーナリズムは、法案成立とどうじにきわめて不利になる。
 市井の人のプライバシーを保護するはずの法律は、権力者たちのプライバシーを保護し、その犯罪を見逃すために使われてしまう。そもそも個人情報を保護するための最良の方法とは、個人情報をコンピュータで一元化しないことである。
 ところが、国民総数番号制の準備として、ことし8月に導入される「住民基本台帳ネットワークシステム」(住基ネット)は、実施前から個人データの利用範囲を大幅に拡大しようとしている。
 そもそも政府は「国民総背番号制」との批判をかわすために、住民基本台帳に記載された情報の利用範囲を10省庁93件の事務に限定した。ところが、こんどはこれを2.5倍以上も拡大し、パスポートの発給や不動産の登記、自動車の登録など11省153件の申請届け出にも使うことするという。理由は、行政手続きのオンライン化のためだ。
 これによって国民ひとり、人間ひとりに関わる情報がオンライン化されてしまう。これまでも個人情報を職員がもち出して、業者に売ったりするケースがあとを絶たなかった。法律だけでは防御できるものではない。まず重要な情報をオンライン化し、リンクしないこと、さらに情報のコンピュータ化を限定すること。これこそがプライバシーを守る最大の方法である。
 ことし3月8日に閣議決定した人権擁護法案も、また、個人情報保護法案以上の強権的な法律である。法案では、独立した権限をもつ人権委員会が不当な差別や虐待行為などを調査し、被害者を救済することになっている。
 ところがこの人権委員会委員は、法務省の監視下にあって、たった5人。そのうち3人は非常勤である。2人の常勤人権委員で、もちろん全国すべての人権問題を担当できるはずもない。サブ機関として地方法務局が実務を担当することになっている。政府直轄の人権委員などとは片腹痛い。
 いつも、はなはだしい人権を侵害するのは、国家機関である。冤罪事件のように、無実の罪を着せられた被告に、法務省が手を差し伸べないなど日常茶飯事である。また刑務所内での囚人への暴力的な処遇、あるいは入管における外国人への支配など、国家とくに法務省の人権意識は地に堕ちている。身内の人権侵害の状況を、上意下達の“お役所”がどうやって改善するというのか。
 一方でこの法案は、「過剰取材」という名目で取材を規制し、報道内容を事前にチェックしようとしている。なんと取材を拒んでいるものに何度も電話したり、ファクスを送ったりするのも「過剰取材」となり、立ち入り検査がおこなわれる。ことは報道だけにとどまらない。ノンフィクションやモデル小説などへも波及していく。
 ジャーナリズムは権力の行き過ぎを規制するためにこそある。国家に都合の悪い報道が民主主義の要である。そんなことにおかまいなく、法務省の下部組織が検閲する法案を成立させようというのだから、小泉蛮行内閣がいかに支配を徹底しようとしているかがみえてくる。
 この人権擁護法案にたいしては、報道320社が共同声明を発表した。遅すぎたとはいえ、ようやくマスコミが立ち上がってきたのは歓迎すべきことである。しかしマスコミは、いつも両論併記という名目で足して二で割るような報道をおこなってきた。今回の問題もドタンバで中途半端な妥協をしないよう、世間を盛り上げる必要がある。
 先述の2法案は、「プライバシー」と「人権」を守るために作るのだそうだが、もうひとつの青少年有害社会環境対策基本法案は、青少年をとりまく「環境」のためだという。ここにも法案を準備している人間たちの欺瞞的な体質が、はっきりあらわれている。
 青少年のために表現を規制するのは、これがはじめてではない。なにか犯罪が発生するたびに、「表現に問題があり、その影響を受けた」などと、ミスコミがやり玉に挙げられてきた。『チャタレー夫人』事件のように、小説さえ弾圧されることが珍しくない国である。しかし今回の法案は、さらに激しい表現規制を生むことになる。
 メディアの動きを規制する法律ができる裏では、政府の情報を表に出さない策略も進行している。昨年、自衛隊法が改正され、防衛秘密が強化された。86年に廃案となった国家機密保護法案の再生である。当時あれだけ問題になった法律が、いとも簡単に通ってしまうところに、野党の脆弱さがあらわれている。歯止めのない暴走は、はじまっている。
 鈴木宗男事件での外交官のドタバタ騒ぎの産物として、外交機密文書も再規制がはかられた。いままでの秘密指定範囲を少なくする一方で、指定された秘密保持を徹底するというのだから、まるで火事場ドロボーだ。機密費問題にたいする反省など、外務省は微塵も感じていないようだ。
 小泉人気がまだ余命を保っている間に、なりふり構わずすべての懸案を実施し、戦争体制の準備をはかりたい。これが日本の為政者の欲望である。まもなく、小泉も切り捨てられる。

■明かされぬ93便の真実

 情報管理とえば、9・11以降の米国もはなはだしい状態だ。
 たとえば、いまだあきらかにされていないのがハイジャックされた三機目の航空機、ユナイテッド航空93便の真実である。乗客がテロリストに立ちむかい、ホワイトハウス、国防総省あるいは国会議事堂への自爆テロが未然に防がれたと伝えられている。このビッグヒーロー物語は、大々的に報道された。機内の英雄がテレビドラマ化されることも決まり、乗員乗客40人に軍人最高の戦功賞「名誉勲章」を授与される法案が審議されている。アメリカ的なヒロイックな物語は、国内外を問わず流布している。
 しかしこの墜落した場所は、事故から2ヶ月以上たっても立ち入り禁止されていた。回収されたはずのブラックボックスの情報も、いっさい開示されていない。そのため米軍戦闘機による撃墜説が、いまでも根強くくすぶりつづけている。
 そんなアメリカで、ニセ情報を発する機関の新設が計画されていた。結局、ブッシュ大統領の反対で機関設立は流れた、といわれているが、これまでのCIAの行動を仄聞するだけでも、彼らがいかに情報操作をおこなってきたかが明らかになっている。ニセ情報による情報操作など、アメリカ帝国主義ですでにおきまりの手法である。
 このように国家権力は、国民にたいしては少しでも情報を抑えようとする。一方で国民の情報をできるだけ回収して監視、支配し、大本営発表のごとくウソの情報によって世論を操作し、熱狂をつくりださせる。それらはけっして「民主主義国家」のやり方ではない。弊害はあまりにも多い。言論弾圧は、言論界だけの問題ではない。ひとりひとりの人間の存在にかかわる、根本的な重大事である。小泉の表情にあらわれる冷酷さは、さいきんますますひどくなってきた。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/日本沈没にむかう不審船撃沈

■月刊「記録」2002年2月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 昨年末の奄美大島沖での不審船攻撃事変は、日本の戦後史のひとつの終わりであり、ひとつの悪い始まりであった。不審船は、海上保安庁の巡視船から590発の銃撃を受け、攻撃開始からおよそ7時間半後に撃沈された。 日本の平和憲法の中心は、ひとつは非武装であり、もうひとつは武力による威嚇又は武力の行使はしないというものである。しかし不審船の沈没によって、およそ15人とみられている乗組員が全員死亡した。日本における戦後は、戦争中アジアを中心にして2000万人以上の命を奪ったという重大な反省からはじまった。その反省こそ戦後の立国の中心理念であったはずだ。戦後56年たって平和憲法のもとで、ついに武力によって外国人を殺す時代をむかえた。非常に残念だ。
 いままでは海外を旅行していても、日本人には安心感があった。戦争中には残虐行為をおこなったにせよ、戦後、日本国家が外国人を武力で殺害するようなことがなかったからだ。日本の軍備強化に不信感をもつアジアの人たちも、その点だけは評価していたと思う。
 しかしこの事件によって、戦後長い時間をかけて形成してきた信頼感は奪われた。そもそも不審船を確認したのは領海外! であった。領海外でありながら、EEZ漁業法(排他的経済水域における漁業等に関する主権的権利の行使等に関する法律)により、排他的経済水域での無許可採捕のおそれがあるという判断で追いかけ回した。簡単にいえば、排他的経済水域で魚を採っていたおそれがあるから、領海外にいた船を追跡し、かつ「船体射撃」によって沈没させた。もっとも野蛮な解決である。
 一部報道には、不審船の沈没が自爆によるものだと報じられている。しかし、それは船体を引き上げてみなければわからない。そもそも海上保安庁によれば、「船体射撃」は「人に危害を加えない与えない範囲で威嚇のため」におこなったという。しかしこの「威嚇射撃」によって、不審船は火をふいたというのだから、なにをかいわんやである。
 99年3月に起こった能登半島沖での不審船事件のときには、海上保安庁と海上自衛隊が出動。爆弾を投下し、機銃による射撃をしたが不審船は捕らえられなかった。しかし、このときの状況は「逃げられた」というよりも、むしろ「逃がした」というほうが正確であった。沈没させようと思えばできたが、国際的な問題も考え船体射撃には踏み切らなかった。
 だがこの2年弱の年月が、日本を大きく変えた。アメリカでの自爆テロとそれにたいするアフガン攻撃は、日本が武力行使に踏み切る言い訳をあたえた。不審船沈没のあと、小泉首相はさっそく「正当防衛だ」といっていたが、それは自爆テロにたいしてブッシュ大統領が戦争を宣言したのをマネした行為である。一犬吠えれば百犬吠える。小泉スピッツである。不審船を沈没させたのは、テロ集団にたいしては日本も武力をもって応戦するというブッシュへのメッセージでもある。つまり、能登半島沖事件までは、威嚇はしても殺害しないという日本の自重が、自爆テロ以後は事態、事変(戦争)も辞さないという方針に変えられたのである。

■密漁で殺された日本人はいない

 ここで考えてもらいたいのが、北方4島の問題である。北方4島の領海では、根室の漁師たちによる密漁事件が相次いできた。これまでにもすごい数の拿捕者が発生している。あるいは韓国との間の李承晩ラインを超えた漁師たちも、韓国政府によって大量に拿捕されている。 これは他国の領海内に浸入して密漁した明確な犯罪行為であったが、ほとんどは拿捕だけで終わっている。最近拿捕された根室漁民を、私はサハリンの刑務所やシコタン島にある警察の留置所で面会し、その事実を確認している。またロシアの国境警備隊の若い砲手にもインタビューした経験がある。これは追跡劇のなかで射撃され拿捕された事件であり、船体を射撃されたあとに水没しきわめて珍しい事件があったときに取材したものだ。
 戦後50数年のなかで、日本の漁師が旧ソ連領海内、あるいは韓国領海内で犯罪行為を働いていて、乗組員が射殺された例はなかった。にもかかわらず日本では、領海外の船が「不審船」というだけで、射撃して沈没させ、全員を殺害した。この政府による「テロ攻撃」は、過剰な行動だったとわたしは考えている。
 これは証拠のないテロルの「首謀者」1人を殺害するために、トマホークをはじめとする大量のミサイルや爆弾を投入したアメリカと、そっくりのやり方である。アメリカにあるニューハンプシャー大学のマーク・ヘロルド教授の推計によれば、昨年12月6日の時点でアフガニスタンでの民間死者が3700人余となり、米英軍に殺害された無辜の市民が、同時多発テロによりニューヨーク・ワシントンで殺害された人数を超えたという(『朝日新聞』2002年1月8日)。これ以外にも、老人・子ども・女性を含む数百万単位の難民の運命や、飢餓や病気による子どもの死亡などの悲劇が起こっている。その責任を誰が取るのか。
 外国船を攻撃して沈没させたのは、日本の戦後史のなかで初めてである。そこから日本がまた軍事大国の道にむかうのか、あるいは初めてにして最後の外国人殺害事件にするのかが問われている。しかし事件後、自民党の赤城徳彦議員は、「日本の領海内で発見されていれば、危害射撃が可能だった。領海外で見つけた場合も、危害射撃を可能にするように法改正すべきだ」などと発言している。このままの自民、公明、保守の連立政権の日本では、ますます軍事大国化の道をすすむようだ。

■「権利擁護」という名の権利制限

 このような殺伐たる政府のもとで、有事法制を通常国会で取り上げようという動きが強まっている。有事という名の「戦時」の治安対策の基本原則を定める「安全保障基本法」の制定がいま強調されている。有事法制とは、首相権限を強化して、「非常事態」に国民の私権を制限するもので、いわば「戒厳令」ともいうべきものである。
 戦争の恐怖とは、戦地で人間同士が殺し合いをする、あるいは見えない敵を遠隔操作の新兵器によって殺すという残虐行為ばかりにあるのではない。戦争を遂行する強権によって、国内体制の支配が強化されることもまた、戦争の恐怖である。ガイドラインの見直し以降、周辺事態法、盗聴法、背番号制という人民の管理を強化する法律がたてつづけに成立したのは、まさに戦時体制の準備ともいえる。そして戦争準備のさいたる法律が、「非常事態」を想定した有事法制(安保基本法)だ。戦争遂行と基本的人権の制限。憲法否定の法律である。
 『読売新聞』(2002年1月1日)によれば、防衛庁首脳は「外国の国防担当者に説明すると当惑されるぐらい危機対応が不十分」と語ったという。また中谷元・防衛長官は、『読売新聞』(2002年1月1日)のインタビューで次のように語っている。
 「首相が非常事態にどういう権限を持つのかを明記する。首相は安全保障会議を通じ、各閣僚を総括、主導するが、一言で言えば、(首相の権限と)国民の基本的人権との調和をどう図るかということだ。その理念をもって憲法と他の既存法の溝を埋める法律と言っていい。これまでの有事法制の議論では、国民(の権利)を縛ることばかりが指摘された。しかし、むしろ権利擁護という観点から、国民の権利を制限する場合の『歯止め』の役割を果たすものだ。権利が制限された場合の補償規定も盛り込むべきだ」
 中谷長官の主張は、権利を擁護するために権利を制限するという詭弁である。これは自由のためという名目で、アメリカの「快適な」生活を維持するためアフガニスタンの山野に大量の爆弾を投下して、アフガン人民を殺戮しているのと似た論法である。自由のために自由を制限する。権利擁護のために権利を制限する。これこそ為政者のギマンの言葉である。
 本来ならこのような政権に反対するのが野党の役割のはずだ。ところが、今回も野党第一党の民主党は、まったくあてにできそうもない。NHKの討論番組では、民主党の鳩山代表が「平時に緊急事態(有事)法制の基本的姿を作り上げていくため、我々も議論に参加する」と発言し、「安全保障基本法」の制定に前向きなことをしめしたという(『読売新聞』2002年1月7日)。
 おなじ穴のムジナである。やはり旧自民党グループは、国民の権利や平和にたいする意識が低い。2つに割れたといっても、双方ともに腐ったまんじゅうであることに変わりはない。フハイはすすむばかりだ。

■少数民族が慌てて掲げる星条旗

 日本以上に国内体制が強化されているのがアメリカである。最近アメリカから帰ってきた知人の話によれば、アフガンの難民の問題や誤爆によるアフガン市民の死亡などのニュースは、アメリカのTVでほとんど報道されてないという。
 戦争を遂行する国内体制がどのようなものかは、こうした言論統制のすすみ具合からも理解できる。
 もちろん体制の強化は、マスメディアばかりで起こっているわけではない。一般市民による愛国主義の強制も、すごい圧力となって一般市民を襲っている。先ほどの知人によれば、ニューヨーク市の地下鉄は、1両ずつ星条旗を掲げていたという。また街中に星条旗が溢れていたそうだ。とくに少数民族が多数いると思われる地域では、星条旗の数が増えていく。自分たちがアメリカに忠誠を誓ったということを証明しなければという不安感が、こうした星条旗の掲揚にあらわれている。悲しい風景だと、知人は私に語った。
 『毎日新聞』(2002年1月8日)にも、アメリカの体制強化の現状を知る事例が報告されている。いくつか書き出してみたい。
 カリフォルニア大学バークリー校元講師のエコノミスト、ウォレス・スミスさんは、政府がテロ捜査で中東出身のイスラム系男性5000人を聴取したことに、次のように批判した。
「容疑を特定せずに取り調べを半ば強制し、仲間の名前を告げたり、少しでも不審な挙動があれば拘束しようという意図を感じる」
 チェイニー副大統領夫人が団体の主催者として名を連ねている保守系民間団体が、大学の集会やメディアでの発言から「非愛国的」とする100以上の例をしめした報告書を発表。その報告書を、シアトル・タイムズ紙は「現代版ブラックリスト」と評した。
 世界貿易センタービル崩壊を喜ぶアラブ人の様子をいさめた電子メールにたいして、「少数の反応をアラブ人全体に結びつけるのは誤りだ」という反論メールを送ったパレスチナ系米国人のオルブレット氏にたいして、同僚からの反論のメールはなく、FBI捜査員が訪れたという。
 これが「自由の国」アメリカの現状である。日本も小泉首相の高い支持率のなか、戦争への道を歩き始めている。繰り返していえば、戦争は徴兵されて戦地に出動するものの悲劇ばかりではない。それを支える国内での抑圧と支配の強化にこそ、大きな悲劇のもとがある。民主主義のためにといいながら、戦争が民主主義を抑圧していく。それが歴史の教訓である。
 不況により生活の安定も、「経済大国」としてのプライドも失った日本ではあるが、軍事強化によって、虎の威を借りた大国たらんとすべきではない。むしろ不況のなかから小国立国の道を探すべきだろう。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/国有化で太る企業とマスコミの商業主義

■月刊「記録」1998年11月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■天下り大活躍

 いまから一二年前の一九八七年、「国鉄改革」が行われた。「国鉄処分」ともいうべきこの杜撰な計画は、バブルに踊っていた大企業に、国鉄用地争奪戦を繰りひろげさせることとなる。国鉄がもっている国有地の売却により、オフィスビルを乱造させ、さらに行き掛けの駄賃で労働組合も潰す。一石二鳥を狙った中曽根内閣のファッショ的なやり方にたいし、わたしは終始一貫反対してきた。結局、最近になって、この国鉄処分が重大な矛盾を生んでいるのが明らかになってきている。
 最近、国鉄清算事業団の三人の幹部が大林組に天下っていた事実が明らかにされ、旧国鉄用地買収の入札に関する情報が大量に林組に流れていた事実が発覚した。
 ここ数年、バブル崩壊による地価の下落があったため、凍結されてきた旧国鉄用地の売却が、なぜか活発になっていた。もちろん、地価が再上昇したからではない。商業価値の高い旧国鉄用地を買いたい大企業が、しびれを切らしたためである。しかも旧国鉄用地でもっとも重要な土地であった新橋駅近くの「汐留地区」は、なんと落札金額が非公開だった。極めて不明瞭な取引きと言わざるを得ない。
 この土地売却につづき、東京駅前の旧国鉄本社跡地や東京駅八重洲口(北口)など、超大型物件がどんどん売却された。その売買の裏で大活躍していたのが大林組だったのである。
 土地の落札を望む企業に、大林組が大量の応札価格などを情報を提供、その見返りとして大林組が工事の受注を受ける。これが大林組の「営業」方法であった。そして顧客を引きつけるための情報を得るために、天下り幹部を最大限に活用していたというのだ。
 入札は、高い金額を提示した入札者の企業に落札される。そのため他社の応札価格を知り、他社と僅差の値段で落札できれば最もお買い得となる。しかも入札を申し出た企業にたいしては、事業団がヒアリングをおこなっているのである。事業団が得た応札価格にかんする資料を、天下り人脈で入手すれば、無駄金をはたくことなく土地が手に入るというわけだ。
 一〇月一四日付の『朝日新聞』によれば、旧国鉄から事業団に移り、事業団理事から事業団の子会社へと渡り歩き、九五年に大林組に入社した幹部が、旧国鉄用地の大型物件の購入を担当していたという。さらに事業団の子会社「汐留開発」の元社長であり、事業団のOBでもある人物も、九七年四月に大林組に入社。営業本部参与に就いていた。このOBの再就職は、同年二月に行われた汐留地区A街区落札のお礼だったと噂されているというのだから、呆れるほかはない。
 ここから浮かび上げるのは、旧国鉄用地の売り手だった国鉄清算事業団の元幹部が、買手側の参謀になったという図式である。売る側がちゃっかり買手に回るなど、戦争にたとえれば味方の大将が、敵側の大将に取って代わったようなものだ。

■バブル頼みの「国鉄改革」

 そもそも国鉄清算事業団は、国民の税負担を軽くするために、旧国鉄用地を売却する組織だった。旧国鉄事業地をどれだけ高く売るかによって、国鉄の債務返済に投じられる税金(国民負担金)が少なくなるのである。だから、大林組の行為は、ほかのゼネコンにたいする裏切りだけではなく、国民にたいする裏切りになる。
 昨年以降、大林組のあと押しによって落札した主な物件と応札金額は、一〇月一三日付の『朝日新聞』によれば、次の通りである。
「汐留地区A街区」(落札金額は非公開)、「品川駅東口B-1地区」(同一八三八億円)、「旧国鉄本社」(同三〇〇八億円)、「東京駅八重洲口(北側)」(同一五六八億円)、「錦糸町駅(南側)」(同非公開)、「みなとみらい二一―二八街区」(同非公開)。
 バブル期には一坪一億円とも噂されたあった国鉄本社用地も、契約応札金額は、三〇〇八億円、坪単価に直せばおよそ8286千万円に収まっている。つまり、その土地下落分だけ国民の財産が減ったということだ。
 旧国鉄の赤字は、国鉄分割民営化当時二二兆七千億円だった。これらは旧国鉄用地の売却益によって、回収する計画となっていた。ところが現在の赤字は、二八兆円と増えている。
 この現実について、バブルが崩壊したからだという理屈を、かつての責任者たちが言っていたが、おかしな話だ。そもそも国鉄分割民営化はバブルだのみの政策だったのだ。消えるべくして消えたバブルによって、借金が増えることは、当初から予想されたことであり、国鉄改革を実施した責任者は、戦犯として責任を問われるべきものである。
 国鉄分割民営化の当時から懸念されていたように、国鉄の財産――つまり国民の財産――を大企業がいかに分補して行くかが、国鉄改革の最大のテーマだったのである。
 大林組に関連した疑惑を眺めてみれば、国民財産を大企業に横流しするように、旧国鉄官僚が工夫を凝らしているのがわかる。
 さらに国鉄分割民営化によって国民に押しつけられた、二二兆七千億円もの赤字の問題もある。先述したように、この赤字は二八兆円まで膨らんでしまった。
 この巨額の債務にたいして、一〇月五日に衆院で可決された国鉄債務法案は、JR負担分を半分にまけることを決めてしまった。当初予想されていたJRの負担分の三六〇〇億円の半分、一八〇〇億円を国の金庫で賄うことにしたというのだ。すでに二二四五億円ものお金が、たばこ特別税(仮称)などによって補てんされることが決まっているのにである。
 そもそも国鉄改革は、国民に赤字を押しつけないという名目で行われたのだ。ところがいまは公然と一八〇〇億円もの資金を国庫補助金でまかなうことになった。これは国鉄の亡霊がいまなお赤字を国民に押しつけていることを示しており、国鉄改革の精神に著しく齟齬をきたすものである。
 国鉄の歴史は、政府が全国の民間鉄道を極めて高い値段で買い上げるところから始まる。それを今度は安い価格で民間に払い下げ(JR化)、赤字分を再度国民に負担させるようとしているわけである。
 このような方法は、なにも国鉄ばかりではない。放漫経営の末、国有化が決まった日本長期信用銀行なども典型的な例だ。政府は財界に都合が悪くなると税金で尻拭いする一方で、国民の財産をかれらに安く売ることで、財界を太らせてきたわけである。
 このように財界だけを視野に入れておこなわれる数々の政策が、さほど反対運動が起きることなく通っていってしまう。野党や労働運動が、政府のやり方にたいして無力になっている証拠だろう。

■疑われればマスコミから制裁

 腹の立つことは、なにも国鉄問題だけではない。
 7月末に発生した和歌山県の毒物混入事件関連では、いわば別件といえる形で保険金詐欺事件の容疑者が逮捕となった。まだどちらの事件も解明されてはいないが、一部週刊誌は容疑者夫婦をカレー事件の犯人と特定したような扱いをしている。日本の犯罪報道が、目を覆うほどに凶暴性をエスカレートさせている様子がよくわかる。
 逮捕前からマスコミが疑わしき人物を中心に取材攻勢をかけて大騒ぎするのは、ロス事件や奈良県月ヶ瀬村の殺人事件などでみられたことだ。今回もそれと同様、逮捕する瞬間をヘリコプターで撮影し、警察の車を追尾して放映するという大混乱状態になった。
 常時二〇〇人以上の報道陣が容疑者の夫婦宅を取り巻いて日夜監視するなど、警察でも行わないような大捜査体制が敷かれている。警察が犯人として逮捕する前から、犯人扱いで報じる権利がマスコミにあるのかどうか、厳しく問われるところである。
 マスコミは過当競争に煽られ、疑われたものはマスコミによって必ず理不尽な制裁を受ける。このような取り返しのつかない事態が、平然とまかり通るようになっている。
 近所の混乱もひどかった。現場付近では、ほぼ全世帯が要請文を張り出していたという。「心身共に疲労しています。報道取材を自粛して、静かに休息させてください」と書かれた文面からは、混乱に巻き込まれた住民たちの叫びが聞こえてくるようである。

■目的意識を喪失したマスコミ

 今回の保険金事件の容疑者については、一部週刊誌では目隠しをした写真が数回にわたって掲載されていた。このようにもはや修正のきかない段階にまで、夫婦を追い込んだのは、マスコミである。えん罪かどうかを問題にしているのではない。マスコミが作りだした犯人が一人歩きした、ロス事件やサリン事件の教訓が生かされていないとなげいているのだ。
 現在、当時を上回るバカ騒ぎ行われていることに驚きを感じる。いうまでもなく、疑われていた人物が「犯人」となるのは裁判によってである。それどころか裁判で判決を下ってもなお、本人がえん罪を主張し、逆転無罪になるケースもいくつもある。
 もちろん警察の責任も免れられない。
 今回の事件で和歌山県警は、なん十人もの警官隊を投入し、まるで凶悪犯人の大捕物といった状況を作った。忘れてはならないのは、この時、家には子どもが居たことだ。すくなくとも警察は、家の中に子どもがいれば、どれほど傷つけられるかを考慮すべきだった。逮捕状を取ったあと、彼らを任意出頭させて逮捕する方法もあったし、家宅捜査はそのあとでも十分にできたはずである。
 保険金事件の容疑者を凶悪犯人あつかいするために、警察はマスコミの力を利用し、マスコミも警察に手を貸したのだ。本来、国家権力に対峙すべきメディアのすることではない。
 これまでなん度もえん罪事件が起きているのにもかかわらず、マスコミはなんら自粛しようとしない。こういったマスコミの極端な商業主義は、どれだけ批判しても批判しきれない。
 だいたいマスコミが大殺到して事件報道を書きまくる。しかも個人を槍玉にあげるという方向になってきているのは、報道すべきものがなにかを考える姿勢が忘れられていることを示している。国民のなかにあるさまざまな不満が、犯罪事件の容疑者にむけられるようになってきているのではないか。
 一方で、このようなバカ騒ぎを冷ややかに見ている人がすくなくないことも、マスコミは知る必要があるだろう。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/地獄へのガイドが日本を襲う

■月刊「記録」1999年3月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■米国は恫喝、小沢は扇動

 長野オリンピック疑惑や所沢ダイオキシン汚染騒動など、以前から噂されていた真実が表面化して、大騒ぎとなっている。とはいっても、現在もっとも危険なのは、国会で論議されている「日米防衛協力のための新指針」(ガイドライン)問題である。
 以前も、この問題について扱ったのだが、ことの重大性を考えて、あえてもう一度問題点を整理してみたい。 日本の政治状況は、よりいい加減にすすんでいる。その象徴ともいえるのが、中村正三郎法務大臣である。先月も報じた通り、憲法を守るべき法務大臣でありながら、「軍隊ももてないような憲法を作られて、それが改正できないという中でもがいている」などと彼は発言した。にもかかわらず彼はいまだに大臣に居座り続けている。法務大臣が憲法を無視するなど、言語道断といえるが、憲法を守る義務は国会議員にさえあるのだから、本来なら議員を辞任しても当然である。首相は法務大臣を即刻ヒメンすべきだ。
 さらに国会では、憲法改正の糸口をつくるために「憲法調査委員会」の設置に、自民党・自由党はもちろんのこと、民主党まで賛成を表明した。基本政策大綱に「一〇年程度かけてあるべき憲法を議論する」などとある公明党も反対しそうもなく、憲法改正の防波堤となりえるのは社民党・共産党・新社会党という少数派となってしまった。
 まったくおなじ翼賛体制で議論が進んでいるのが、ガイドライン関連法案だ。反対しているのは、社民党と共産党と新社会党という少数派。民主・公明両党は修正によって、自自連合の野望を認めようとしている。
 一月中旬に来日した米国のコーエン国防長官は、ガイドラインについて「日本との安全保障関係を明示するもので、『とりで』だと思っている」と語ったうえに、国会での法案修正について「日本政府も、迅速な対応ができないために国益が損なわれるようなことは望まないだろう」などと、日本の主権にたいする恫喝を加えた。
 このように日本の戦争化へむけた動きは、急ピッチに進みつつある。それにつれて国会議員の発言も、過激さを増している。
 ウルトラ小沢一郎は、テレビ朝日の討論番組で「マフィアの親分でも『私は殺人は実行しません。金をだしてやらせる』というのが、一番悪い」というたとえを使って、多国籍軍への自衛隊参加を主張したという。
 一九九〇年、中東に展開した多国籍軍に総額一〇億ドル(当時のレートで約一四五〇億円)もの金を日本政府はカンパし、国民から総スカンをくらった。どうやら小沢は、当時のことをまったくちがう角度から反省しているようだ。前回はカネをだしてやらせた。こんどは自分で殺していく。アメリカの鉄砲ダマ志願である。そのためか、コーエンは、小沢自由党を説得できる内容にガイドライン関連法案をまとめるよう自民党に圧力をかけている。

■「周辺事態」ならどこでも出兵

 高村正彦外務大臣の発言もすごい。
「ある事態が国家間の紛争でない場合にも、その事態が我が国の平和と安全に重要な影響をあたえる場合には、『周辺事態』に該当する」と衆議院外務委員会で発言したのだ。よその国で起こった内戦やクーデターなども「周辺事態」とするというムチャクチャな拡大解釈をしめしたものだ。さらに彼は、「相手に日本攻撃の意図がなくても、周辺事態になりうるのか」という質問にたいしても、「絶対にありえないことではない」と述べている。なんと、アメリカ得意の「低強度紛争」(ゲリラ戦)への介入の片棒を担加させられることもふくまれるようだ。
 日本が攻撃された場合に自衛隊が発動すると、日米安全保障条約には決めている。これは、「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という日本国憲法第九条二項の非戦・反戦の精神を著しく踏みにじるものとはいえ、それでもなお、自国への攻撃に限定していたところに、武力行使のムヤミな拡大を抑えるという殊勝さがあった。 ところが、今回のガイドラインでは、日本が攻撃されるかどうかに関係なく、「周辺」で戦争がはじまった場合には、自衛隊が出動できるようになる。そればかりか高村外務大臣が認めたように、外国で内戦あるいはクーデターが起きても、自衛隊が協力させられるようになるのだ。つまりガイドラインは、自衛隊を米国軍の用心棒に仕立て上げるようとしているのである。
 しかも「周辺事態」の定義は、きわめて曖昧である。まず「周辺」が特定できない。朝鮮半島での混乱や台湾と中国の紛争の激化すれば、安保条約が定める極東に含まれるとして、当然、自衛隊が出動する。だが安保条約を根拠にして、極東でもない中東に自衛隊が出動するとなれば大きな問題となる。ところがガイドラインの「周辺」はすべてを解決する。「周辺」は地域概念ではないという子どもだましの理屈によって、極東以外の地域にも自衛隊は出動できるようになるからだ。
 さらに問題なのは、「事態(戦争)」かどうかを判断する権限を日本がもたないことである。そもそも戦争をおこなうかどうかは、善し悪しを別にして、その国の政府の決定事項である。ところがガイドラインでは、「周辺事態」を国会で事後承諾するという。事後承諾というのは、国会の承認事項ではない。ただ既成事実を追認しているだけである。つまり国会の機能を放棄していることになる。シビリアンコントロールなど、影も形もなくない。結局、米軍の出動だけを頼りに「周辺事態」かどうかを決めることになりかねない。

■戦争反対で処罰

 さらに恐ろしい事実も指摘しておきたい。
 それはガイドライン関連法案が、国家総動員態勢を想定していることだ。「有事」という言葉のもとに、行政・国内産業・自治体・市民生活のすべてが米軍の戦争に協力させられる。
 野呂田芳成防衛庁長官などは、「自治体が一般的な協力をするのは常識だ」と国会で答弁し、さらに「(首長の判断に反して、業務を拒む自治体職員がいた場合は)重大な違反なら当然処罰される」と言い切っている。これは自治体の民主主義が消滅することをしめしている。職員個人の戦争反対への意志さえ処分の対象にされるなど、戦時体制とまったくおなじ状況だ。
 その処罰の対象になりかねない米軍への協力は、現在、一〇項目が明らかにされている。
 まず地方公共団体の長にたいして求める協力項目は以下の三つある。
・地方公共団体の管理する港湾の施設の使用
・地方公共団体の管理する空港の施設の使用
・建物、設備などの安全を確保するための許認可
 国以外のものにたいして依頼する協力項目は、民間と地方公共団体に分かれており、民間には次の四項目が定められている。
・人員及び物資の輸送に関する民間運送事業者の協力
・廃棄物の処理に関する関係事業者の協力
・民間病院への患者の受け入れ
・民間企業の有する物品、施設の貸与
 一方、地方公共団体にたいして依頼する協力項目は、以下の三項目となっている。
・人員及び物資の輸送に関する地方公共団体の協力
・地方公共団体による給水
・公立病院への患者の受け入れ
 では現実問題として、この一〇項目で協力が収まるのかといえば、これがまたちがうようなのである。「この一〇項目に限らない。周辺事態でどのようなことが必要になるのか、我々にもまだよくわからない」などと、防衛庁幹部が語っているのが、その証拠だ。これまた米軍主導の内容といえる。
 そもそもガイドライン関連法案は、米軍の動きしか頭にない。「(ガイドラインの)対象は米軍であり、日米安保条約の目的に合致すれば、日本は支援する。米軍でさえあれば、多国籍軍であろうが、国連軍であろうが構わない」などと外務省が発言しているが、この発言こそガイドラインの本質を透けて見せるものだ。とにかく米軍の戦争のためならなんでも協力するという奴隷根性だけが、ガイドライン関連法案を貫いているのである。

■傲慢さに磨きをかけた自民党

 ガイドライン関連法案の問題点はまだまだ無数にある。これが立憲国の議論であるのかと憤激に耐えないほどだ。その一つが後方支援の問題だ。
 この件では、「戦争状態に協力する武器弾薬の輸送が、憲法上可能だ」と小渕恵三首相が発言している。武力を用いない平和の精神を、日本国憲法は世界にむけて積極的にしめしているはずだ。ところが武力によって国際紛争を解決しようとする米国に、戦争の物質的な基盤である武器や弾薬を運ぶことが可能だと、首相が発言しているのだから国民をバカにしている。明らかに憲法の精神を踏みにじっている。
 武器や弾薬の輸送が武力の行使と一体化していない範囲なら、憲法九条に抵触しないと、首相は言い抜けているようだが、常識で考えてもらいたい。武器・弾薬は戦争で使うためにあり、戦争は武力の行使そのものである。それを一体化していないから、などと言い逃れ、一体化するかどうかは具体的な事例に則して個別におこなうなどというのだから、とんでもないひとだ。
 これほど無論理・身勝手な答弁が国会で堂々とおこなわれていること自体、野党がいかにバカにされているかをしめしている。自民党のこうした傲慢な態度を可能にしたのは、小沢自由党との共闘である。これはかつての自民党にさえなかった図々しさである。
 ガイドライン関連法案は、日本が戦争協力するための法整備である。しかしこれほどの事態であるにもかかわらず、国民的な関心がいまだに盛り上がっていない。またガイドラインの問題について発言・執筆しているライターも多くはない。国会で承認され、法案が通る前に反対の声をあげる必要がある。だからこそ今回もこの問題を扱った。
 このままでは国会機能を喪失させ、日本を戦争に巻き込み、官庁民間企業総ぐるみで戦争に協力させられる法案が現実のものとなってしまう。米軍にすべての決定権を委ねたガイドライン関連法案では、国民の意志とは無関係に米国の指示に従って戦争に突入していくことになるのだ。本来、地域住民のためにある地方自治体が完全に中央政府に束縛され、その中央政府が米軍により強く束縛されるという図式は悪夢でしかない。
 しかも現在、野党の反撃は決定的に弱い。民主・公明両党は自民党案を少し緩和した形でお茶をにごそうとしていることを考えれば、完成した国会の翼賛体制最大の鬼っ子として、ガイドライン関連法案が成立するのは時間の問題だ。
 また、ガイドライン関連法案にたいする反対の世論が形成されていない。これでは、基本的人権や憲法九条の平和主義が実質的に骨抜きにされても、誰も文句をいえる者がいないことになる。戦争に駆りだされて、はじめて自分の悲劇を呪うことになりかねない。
 現在、不況さえ解決できればすべて良しというような世論が形成されている。その陰で、ガイドライン関連法案が日本を地獄の道へガイドしようとしているのである。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/日の丸・君が代の強制

■月刊「記録」1999年4月号掲載記事

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■「守る必要がない法律」というサギ師的言辞

 一方ではガイドライン(日米防衛協力のための新指針)、一方では日の丸・君が代の法制化と、小渕・小沢連合内閣は、いよいよ日米心中国家への道を突きすすんでいる。政権のドブネズミ小沢一郎に妥協し、現内閣を守ることだけに奮闘、国民の安全を売りとばす愚作である。
 そもそも日の丸・君が代問題とは、歴史的ないきさつの象徴である。それだけに日の丸・君が代を、国旗・国歌として強制すればすむという問題ではない。だからこそ日の丸は国旗として法律に定められていなかったし、君が代もまた国歌として法制化されていなかった。それを今になって法制化するところに、ガイドラインぼけのキナ臭さが感じられる。
 日の丸・君が代の法制化は、国旗掲揚や国歌斉唱を強制するものではないと政府はいっている。しかしこれは詐欺的な言辞である。もし強制する必要がないなら、法制化などしなければよい。守る必要のない法律なら、つくる必要はない。法律を守るのは国民に課せられた義務であるから、法制化すれば強制力が生じてしまうのである。
 日の丸・君が代を現状で学校に強制できないから法制化したい、それが政府のホンネのはずだ。法を守る必要がないというのは、無法国家のいい分である。小渕・野中のもってまわったいい回しは、衣を着た鎧である。
 自民党旧渡辺派の村上正邦会長などは、きわめて率直に、「法律に決められたことは、守るのは当然だ」と語り、法制化する以上は国歌斉唱、国旗掲揚は義務づけるべきだと示唆している。法制化が強行されれば、こうした意見が巻き起こるのは間違いない。また法治国家としては、それが当然の論理である。
 ところが現在の翼賛体制にあって、各政党から強硬な反対意見を耳にしない。日本共産党などは、「法制化に賛成、日の丸・君が代に反対」というわけのわからないことを主張し、法制化への道を掃き清めさえしている。反対するのは疲れてしまいましたから両手を縛ってください、という屈服路線である。
 日の丸・君が代を好きな人はいるし、嫌いな人間もいる。日の丸・君が代はひとえに人間の思想と感性の問題であって、それぞれの意見が尊重されるべきだ。
 たとえば、日の丸・君が代を好きだという人物がいてもおかしくない。とおなじように反対の存在も認めなくてはいけない。私自身はとても嫌いで、たとえばぼんやりしていて、NHKの番組終了時の日の丸・君が代をみてしまったときなど、ゾッとしてあわててスイッチを切ってしまう。たいがい見ないように注意しているのだが、うっかりするとしつっこくあらわれる。見たあとに、いつもシマッタと思うのだが、あとの祭りである。
 もちろんスポーツ観戦なども油断ならない。野球のオールスター戦などは、華々しく君が代を斉唱するので、とてもいく気にならない。もしいったにしても、君が代のために起立することなど決してしない。
 君が代・日の丸をどう考えるかは、まさに個人の自由の問題なのである。だから強制するなど認められるはずがない。まして強制に従わない人間を罰するなど、とんでもないことだ。ところが法制化に先駆けて、このとんでもない状況を維持しつづけている現場が学校なのだ。 学校での日の丸掲揚、君が代斉唱を学校で義務化したのは、一九八九年の学習指導要領改訂だった。
  「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国家を斉唱するように指導するものとする」。このアイマイな一文にもぐりこんで、文部省は、国旗掲揚と国歌斉唱で日本列島を覆うべく、学校に圧力をかけつづけてきた。文部省は、君が代の斉唱時に起立しなかったというだけで、教師を処分している。

■トップ交代が中央支配の合図

 今回の日の丸・君が代法制化の引き金となったのも、やはり学校だった。小渕首相が法制化の検討を指示する三日前に、広島県の御調町にある世羅高校校長が、卒業式での日の丸掲揚と君が代斉唱をどうするのか対応に悩み、自殺したのである。
 広島県は原爆を投下された県でもあり、平和にたいする意識の高い地域である。県の高校教職員組合にも、ほぼ一〇〇%の加入率となっている。いまの日教組の組織状況としては、これは極めて異例な数字だ。平和運動を中心とした活動のあつさを思わせるものである。その結果として、九七年度の文部省の調査では、君が代を斉唱する率が全国で四番目に低い県となった。
 これにローラーをかけて押しつぶそうとしているのが、文部省とその下請機関の県教育委員会である。
 昨年六月、文部省はキャリア官僚の辰野裕一を、広島県教育長に任命して派遣した。卒業式を控えた二月下旬、辰野は「学習指導要領」に基づき、卒業式・入学式で国旗掲揚と国歌斉唱を実施せよという異例の「職務命令」をだし、一挙に学校の全面支配をもくろんだのである。
 このやり方は、昨年に、卒業式が問題化した所沢高校とまったくおなじだ。君が代・日の丸など強制しない自由な校風で知られた所沢高校に、まず教育委員会ベッタリの校長を設置する。教師と生徒が時間をかけて築いてきた自治の気風を、その校長が矢継ぎばやに攻撃する。学校がどうなろうと生徒がどうなろうと、どうでもいのが忠犬ハチ公の悲しさである。
 県教委から派遣された治安部隊の隊長が所沢高校の校長であり、文部省から派遣された治安部隊の隊長が広島県の辰野教育長である。つまり広島県の問題は、所沢高校の国家版のエスカレーションである。
 自殺前、世羅高校の校長はかなり落ち込んでいたと、各種報道機関が報じている。その様子について『週刊現代』の三月一五日号には、次のような世羅高校教員のコメントが紹介されている。
  「二五日に職員会議で、石川校長も一度は『君が代なし』と決定した。しかし、二七日になると突然『決定を覆して、もう一度君が代を提案したい』といいだした。二五日に決まったのに何でだろう、と疑問に感じたが、よほど県教委の圧力が厳しいんだなと思った」
 学校内での話し合いが県教委に撤回させられ、校長が追い詰められたことを、この証言は如実にしめしている。それは文部省から派遣された辰野教育長の強行姿勢をあらわしたものでもある。
 これまでも広島県では、日の丸・君が代をめぐる校長の自殺がつづいていた。現在までに公立校の世羅高校の件を含め、六人の校長が自殺している。いかに文部省がこの県の教育を敵視してきたかがわかろうというものだ。

■自殺を利用して法制化

 ところがこの悲劇の自殺を、渡りに船と利用する輩がいた。小渕・小沢政権だ。今回の事件を日の丸・君が代の強制中止へのきっかけとするのではなく、法制化していなかったから自殺したという強弁によって、タカ派の欲望を一気に満足させようとしている。これは校長の遺体を戦車で踏みつぶして進んでいくという、まったく野蛮なやり方である。
 また右派ジャーナリズムも自民党同様、この事件に食らいついた。たとえば サンケイ新聞の三月二日の社説には、次のような文章が掲載されている。
       
 ――広高教組は「県教委が『日の丸』『君が代』について職務命令をだした結果、学校現場が混乱している」といっている。県教委の強い指導が校長を自殺に追い込んだ-といわんばかりだ。だが、非は県教委にない。学習指導要領に沿って国旗掲揚と国歌斉唱の実施を指導するのは、当たり前のことではないか。校長が組合の要求に押し切られていた今までが異常だったのだ。
 何度も繰り返すが、国旗・国歌を知らずに社会へ出て困るのは、広島の子どもたちである。校長は今までの組合との行きがかりを捨て、児童生徒の将来を考えた指導に徹してほしい。――
 ――広島県と同様、“組合支配”の強い学校は他の自治体にもかなりあるとみられる。これからは、教育にも規制緩和が進み、校長の指導力はますます重要なものになってくる。校長には、組合の理不尽な要求に屈しない強いリーダーシップが求められる。――
 この主張がいい加減なのは、「国旗・国歌を知らずに社会へ出て困るのは、広島の子どもたちである」という一文である。子どもたちが日の丸・君が代に無関心であっては、いつどこで困り、いつどこで不自由なのだろうか。外国のパーティーで、君が代を歌え、というのだろうか。
 この一文にあらわれているのは、日の丸と君が代を掲げてアジアにあたえた戦禍にたいして、なんら反省しないまま、自己弁護しようという日本政府の傾向である。 さらに問題なのは、組合にたいする干渉である。「組合の理不尽な要求」などいいつのって、それにたいして弾圧を示唆している点で、この主張はきわめて犯罪的である。
 労働組合は労働組合法によってつくられている合法団体であり、法律に基づかない国旗と国歌の強制に抵抗するのは当然である。サンケイの論理は、非合法によって合法を潰そうという暴論である。

■「国民学校化」への道

 これらの攻撃を通して見えてくるのは、日本の民主主義のぜい弱さだ。
 なんの法的根拠もないのに日の丸・君が代の強行を推し進める文部省は、戦前となんら変わらない体質をあらわにしている。思想弾圧に異常な力を注いだ内務省の残党が文部省にそのまま残り、彼らの思想がいまでも継承されていることを図らずも明らかにした。
 日の丸・君が代の法制化を推し進めようとしてきた歴代自民党の幹部もまた、おなじ穴のムジナだ。岸信介などに代表されるように、戦犯がそのまま刑務所から出てきて、大臣のイスに座った。
 そして、ナショナリズムの昂揚キャンペーンを張る右派ジャーナリズムの復活。これではなにが戦前とちがうのか、首を傾げたくなってしまう。
 日の丸・君が代問題は、戦前の天皇・日の丸・君が代というセットを抜きにしては語れない。この三点セットこそが、国民の思想支配を貫徹してきた。戦後とは、天皇制・日の丸・君が代という強制を外したことにより、国民が思想の自由を取り戻した時代である。それが不況のドサクサに復活させられようとしている。
 しかも今回の国家的な強制は、学校という場を使い、子どもを人質にとって進められようとしている。もともと地方自治体に教育の権限があるはずの学校は、その地方で生きる人の民主意識を生み、民主化を進めていく拠点であった。そこで国旗と国歌による中央支配を貫徹させようとする罪は重い。
 戦前の総動員体制への復帰を思わせる、さいきんの一連の政府の動きは、思想・信条にたいする大攻勢であって、憲法違反の疑いが強い。戦前の「少国民」を作りだそうとした「国民学校化」として、日の丸・君が代の強制は認めることはできない。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/憲法改正を叫びだした自自公串だんご政権

■月刊「記録」1999年6月号掲載記事

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 ついにガイドライン関連法案が成立しようとしている(五月一二日現在)。
 ウルトラ自自連合に公明党も加担することで、すでに衆議院は通過した。戦争好きの三党の共謀だ。自民党は自由党の後押しによって国会を乗り切ろうとし、小沢新進党の仲間だった公明党は自民党に貸しをつくって政権党になろうとしている。こうした国民不在の政党のもたれ合いが、もっとも危険で憲法の精神に抵触する法案を押し通そうとしている。いうまでもなく日本国憲法は、交戦権を否定し、かつ国際紛争を武力によって解決しない、と高らかな理念を掲げている。これを三党が共同で踏みにじってしまった。
 この法案が衆議院を通過した直後、哲学者の鶴見俊輔さんが、「これで憲法九条は空文になった。学校で憲法を教える人は、日本国家の偽善を教えるべきでしょう。事態はそこまで進んだのです」(『朝日新聞』四月二七日)と語っていた。国民の拠りどころとしての憲法で平和を唱えながら、戦争に参加する法律を成立させるのは、とんでもない偽善である。こんどは、その偽善を繕うために、憲法を変える動きが一気に強まる。泥棒の論理である。
 わたしは六〇年安保世代のひとりだが、日米軍事同盟としての安保条約が、三九年後、交戦権を解禁して、紛争国に自衛隊を派遣する形で強化されるとは考えもしなかった。冷戦終了後は、核廃絶の動きから世界は軍縮にむかうと考えていたからである。しかしNATO軍のコソボ攻撃にみられるように、軍事力によって相手を屈服させるという恐怖の哲学が、いまなお影響力を残している。
 日本の参戦法案ともいえるガイドラインもまた、その恐怖の哲学の上塗りである。しかも自衛隊のシビリアン・コントロール(文民統制)を外す方向に進んでいる。緊急事態には、国会が事後承認になるなど、まさしくかつての軍部の独走を再現しようとするものだ。これから、いったんひっこめた外国の軍艦を挑発する「船舶検査」の法案もだされようとしている。
 いままでにもさんざん述べてきたのだが、もっとも問題なのは、後方支援の名のもとに、戦争にむけての国内体制が整備されることだ。港湾・空港・病院などの施設と権力者が戦争に動員され、反対できない体制になる。地方自治体の権限が中央政府によって踏みにじられる。つまり、国家危機を錦の御旗にして有事体制は整えられ、戦争遂行のための国家総動員をかけられるようになる。憲法のもとでの国民の基本的人権など、ゴム草履のように捨てられる。
 自自公談合政権は、こともあろうに盗聴を公然と認める組織犯罪対策法案を、今国会で可決しようとしている。組織犯罪対策法案が盗聴法といわれるのは、これまで国民の基本的人権としてのプライバシー擁護のために、厳しく制限されてきた、通信傍受を合法化しようとしているからである。
 薬物捜査などにたいして、盗聴は必要だ、と説明されている。組織犯罪といえば、暴力団が対象と思いがちである。しかし組織犯罪という名目で、反政府の市民団体が標的になる可能性は否定できない。
 また自民党や法務省は、麻薬捜査ばかりでなく、殺人や誘拐事件も盗聴の対象にしようとしている。盗聴法は、容疑者の盗聴だけで終わるものではない。容疑者を探すために膨大な市民への盗聴へと拡大する。これでは一般国民を総容疑者として捉える管理国家になる。つまり多大なプライバシーが侵されて、そのなかから一人の容疑者を洗いだす恐怖政治が可能になり、こうした観点からも、それがガイドラインと結びついて、基本的人権を無視した盗聴法がひとり歩きする。
 通信傍受を実施するにあたっては、裁判所の検証令状が必要になるという。それが自民党のいい訳になっている。しかし検察の検証令状(家宅捜査令状)などは、ほぼ検事の申請通りにおこなわれている。しかもその現状を批判し、組織犯罪対策法案の反対集会に出席した寺西和史判事補が戒告処分になるという事件も発生している。これは裁判官に言論の自由がすでにないことをしめしているわけで、これも戦時体制への動きとして位置づけられる。

■危機意識で国民を支配

 日本の政治は、自自公ウルトラ政権によって(かろうじて民主は野党に留まっている)戦争準備にむかって進んでいる。いままでこうした発言をするたびに、「狼が来た」論だと批判されてきた。しかし「狼が来た」といいつづけてきたのは、むしろ政府であり、与党である。 たとえば日米安保体制から広範囲に踏みだしたガイドライン法案は、北朝鮮を狼にした戦時体制法案である。オウム真理教事件や暴力団を狼にしたてあげての、盗聴法も成立させられようとしている。
 それだけではない。
 国民の危機意識を煽り立てて、国民を支配する法律としては、「国民総背番号制」(住民基本台帳法改正案)をも、またぞろ成立させようとしている。すでに二〇数年も前から自民党が導入を狙ってきた制度だが、これまたドサクサ自自公連合政権によって突破しようとしているのだ。
 窮極には、外国人登録証明書とおなじように、IDカードをもたせることにする。IDカードの携帯義務を怠れば、逮捕できる算段だ。そこまでいかなくても、情報の集積によって、個人のプライバシーが丸裸になることはまちがいない。現在でさえ警官の不審尋問で名前をいえば、パトカーの無線で前科の有無がすぐわかる。このような制度が導入されれば、個人所得から預貯金の額、病歴、逮捕歴まで個人情報が一瞬にしてわかる。
 韓国でもIDカードが考えられていた。しかし最近、国民の反対によって中止が決定されている。プライバシーを侵害する危険が、きわめて高いからである。国民の恐怖心を煽り、国民生活の奥深くまで国家が関与する体制が着々と準備されている。それがオール与党体制の現状である。
 また国家体制の強化を批判するはずのマスメディアも、とんでもなく頼りない。現在、愛国論と愛国論者の過激な発言がマスコミを埋めており、それが一定の商品価値をもって巷に流布している。その一方で、体制批判をおこなうメディアが力を急速に落としている。
 出版界も例外ではない。不況のなかで本の売り上げが伸び悩み、ついに総合雑誌の一つである『宝石』(光文社刊)が休刊されることになった。この休刊がジャーナリズムにあたえる影響はきわめて大きい。というのも現在、総合雑誌でそれなりに体制批判のできるのは、『世界』・『月刊現代』・『潮』そして『記録』だ。週刊誌まで含めれば『週刊金曜日』が、これに加わるだろう。その程度でしかないのである。
 この一角が崩れるということは、『正論』『諸君』を中心にした産経・読売・文春などの愛国派と議論を闘わせる媒体の勢力が弱くなったことを意味する。さらにはライターがまっとうな意見を発表する貴重な場が減ることにもなるし、後継者を養成する場が少なくなることでもある。中央公論の読売からの買収にみられるように、不況が一つの言論統制として働いている。
 平成オジサンこと小渕恵三首相は、ガイドライン関連法案を「手みやげ」にして渡米。屈辱外交を展開して帰ってきた。
 米国は世界平和のためにきわめて重要な役割を果たしているという、デタラメなお世辞を振りまいて帰国した。もちろん衆議院通過を米国に褒められ、参議院通過への覚悟も固めたことだろう。しかしどうせクリントンに会ったのならば、すでにコソボでの誤爆を繰り返していたNATO軍の攻撃を取り上げ、平和主義憲法をもっている国の首相として批判すべきだった。それをお世辞だけに明け暮れ、帰国後に自分自身で自画自賛しているのだから始末におえない。
 また小渕首相はシカゴでひらかれた日米協会の夕食会で講演をし、日本の失業率が過去最悪の四・八パーセントに上昇したことをふまえて、次のように発言している。
  「日本経済が活力と競争力を再び取り戻すうえで避けて通ることのできない、規制緩和を含む構造改革の努力の結果として、直視しなくてはならない数字だ」(九九年五月一日『朝日新聞』)
 つまり彼は、四・八パーセントの失業率を当然のものとしているわけで、今後、さらに失業率が増えることを政治的に解決しようとは考えず、むしろそれを促進させようとしているわけである。
  「構造改革の努力の結果」とは、具体的には企業の再編整理、人員削減を指す。これらの促進を公然と彼は語っているわけで、かつて池田勇人首相が語った「貧乏人は麦を喰え」と等しい暴論である。しかし池田首相のときは、政治的に大問題になったが、今回は野党が追求しないまま終わってしまった。ここにも総与党体制の弊害があらわれている。
 さて、失業率が史上最悪の数字を記録するなかで、就職浪人が三〇万人も生まれている。つまり新卒者が採用されないという、これまでにない状態が広がっているわけだ。中高年の失業者ばかりではなく、若年層も採用されないというのでは、状態はますます深刻である。
 こうした不況に、青田刈りを公認する「就職協定廃止」が相まって、学生の就職活動ははやまる一方である。現在では、三年生の末ぐらいから就職活動がはじまっている。これまでも大学四年目の半年間は、就職活動に裂かれてきた。学生最後の一年を抑圧的な就職活動に振りむけることは、日本の知的水準の劣化にもつながる行為である。
 それが最近では、三年から就職活動をおこなうという。これまでもっとも充実した勉強がおこなわれていた時期にまで、就職活動が入り込んだことになる。しかもいま小中高という受験体制そのものが、就職の予備校と化していて、人間的な成長よりも就職に重点を置いた体制ができあがっている。そのうえ就職予備校としての大学で、長期間にわたる就職活動がおこなわれるのだ。極端ないい方をすれば、子どもたちの人生がすべて就職活動に振りむけられることになる。これは亡国的な状態である。

■ピンハネ産業の育成

 ことしの採用計画をみると、最大の採用予定者はイトーヨーカ堂で一四〇〇人、次がジャスコで一三〇〇人、つづいて東日本旅客鉄道で約一二五〇人、三菱重工業一〇七五人、コジマで九〇〇人となっている。採用が多い順に五社を並べると、目立つのはイトーヨーカ堂・ジャスコ・コジマなどの流通関係である。これらの企業は、賃金や生涯保証の面できわめて不安定である。とくに女性などは、長期に勤めにくい。
 こうした雇用状況を充分に把握していながら、「労働者派遣法」の拡大を政府は狙っている。この法律に関しては、成立した当初からわたしは批判してきた。問題は、ピンハネ産業を育成することであり、労働者の権利が著しく侵害されることである。労働市場から必要なときに必要なだけ、なんの制限もなく労働者を引っぱりだし、いらなくなれば簡単にポイできる。それが労働者派遣法の正体だ。
 法案が成立すれば、正社員を採用しないでパート・アルバイトの労働者を企業がどんどん増やしていく。しかも労働者を斡旋する業者だけが斡旋料によって稼いでいく。これでは労働市場の公正を願った職業安定法を解体し、労働者の混乱と労組のさらなる弱体化をつくりだしていくことになる。いうまでもなくアルバイターは正社員に比べて低賃金であり、ボーナスもなく、いつ解雇されるかわからない。そういった存在を堂々と増やすことは、社会全体の不安拡大につながる。とてもまっとうな国がすべきことではない。
 平和・公正・基本的人権などが無視され、一部のマスコミはそれに迎合し、批判の論調がバカにされる時代になってしまった。
 党利党略で国が動かされ、なんの理想もなく、日の丸君が代、軍需と原発で食う産業社会など、まっぴらだ。テレビをみて、バカ笑いしている場合ではない。まず、政党助成金法を廃案にして、国会を風通しのいいものにしよう。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/テポドン騒ぎが生みだす虚構産業の儲け

■月刊「記録」1998年10月号掲載記事

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■「ミサイルの威を借るタカ」

 東アフリカのケニアとタンザニアの大使館の爆破テロにたいする報復として、アフガニスタンとスーダンにクリントンがミサイルを打ち込んだのは、世界の最強国としての傲慢さのあらわれだった。このあと、八月三一日の北朝鮮ミサイルの一発は、金正日の国防委員会委員長への就任と建国五〇周年への景気づけだったようだが、これまた国際感覚ゼロの無謀な強がりだった。
 このテポドンの号報を、あたかも幕末の黒船に匹敵する大事件のようにあつかおうとしているのが日本のタカ派連中である。まるで、風が吹けば桶屋が儲かるというたぐいのコンタン、「我田引ミサイル」ともいえる汚いやり口である。
 本国会で棚上げにされる予定だった「ガイドライン(新日米防衛協力指針)」は、この一発のミサイルによって急浮上させられようとしている。「ガイドラインを成立させるべきだ」と主張する自民党議員などタカ派を、にわかに景気づかせているのだ。「虎の威を借る狐」ならぬ、「ミサイルの威を借るタカ」ともいえる。
 新ガイドラインは、これまでも述べてきたとおり、「周辺事態」という極めてあいまいな規定によって、米国の戦争に加担させられるというとんでもない法案で、あちこちから次第に批判がたかまっている。
  「野党側では、自由党がいち早く、『ガイドラインにかかわる法制の整備や有事法制の整備などを速やかに進めるべきだ』(野田幹事長)と積極姿勢をしめした。また、民主党からも『今の政府案のままで賛成するつもりはないが、審議は早くやったほうがいい』(伊藤英成政調会長)との声が出ている」(『朝日新聞』・一九九八年九月二日)
 これまでガイドラインに公然と反対する見識のなかった野党議員は大喜びである。自民党内では、さっそくガイドライン法案の審議を促進すべきだという声が相次いでいる。
 これらタカ派がしきりと批判しているのが、ミサイルの捕捉情報の遅れである。この批判を追い風に、自民党政府は偵察衛星の導入を固めた、とか。さらに調査費だけを計上しているTMD(戦域ミサイル防衛構想)を、さらに推し進めようとしている。
 このTMDは、研究開発から早くとも二〇年かかるという代物であるうえに、一兆円を超える費用が必要といわれている。飛んできたミサイルを迎撃しようというこのシステムは、レーガン時代に計画された、ミサイル迎撃構想であるスターウォーズ計画の名残である。当時、巨額な資金がかかるため、実現不可能とされたのだが、またぞろこの計画が復活したのである。
 しかもミサイル攻撃にたいする最上の戦略は、報復手段をもつことである、と公然と語られはじめた。すでに、一九五六年二月には「日本にミサイル攻撃が行われた場合、発射基地を攻撃するのも自衛の範囲内に含まれる」という国会での政府答弁が残されている。つまりミサイルでの殴り合いに参加しようとしているのである。

■テポドンより危険な米軍機

 一方、日本で北朝鮮にたいする過剰な警戒感が高まる前から、米軍は北朝鮮の地形にむいた訓練を再開した。北朝鮮などの山地に見立てた日本の七カ所の飛行ルートを使い、米軍の低空飛行訓練が行われている。かつて三沢や岩国などに所属するハリヤー攻撃機が、東北山地や広島県などで実施していたものとおなじ練習だ。
 ところがこの低空飛行訓練は、とんでもない練習である。ことし二月には、イタリアのスキー場で米軍海兵隊の攻撃機が、訓練の失敗からロープウェイのケーブルを切断し、観光客ら二〇人を死亡させている。また日本でも広島県で墜落事故が発生している。
 低空飛行ばかりではない。
 八月下旬には三沢基地を出発したF1支援戦闘機が訓練中に二機行方不明(墜落)となった。そもそも米軍および自衛隊の戦闘機の墜落は、三沢沖や沖縄など訓練の激しい地域では日常的に発生している。命中精度の低いテポドンより、事故を起こす米軍機の方がよほど危険なのである。軍隊の存在は、日常的に市民生活を脅かしている。だが米軍と比べられないほど、北朝鮮のミサイルにたいしては感情的な反発が増幅されてる。
 これは懸念されることである。むろん北朝鮮ミサイルの発射を支持するつもりはない。だが一日の衆院安全保障委員会では、自由党の西村真吾議員が高村正彦外相に「在日朝鮮人に再入国を許可しない、送金は禁止するというふうな対抗処置をとる覚悟はあるか」などと迫っている。在日の歴史をつくりだした日本の責任に無頓着で、ただ北朝鮮憎しの声だけが高まっている状況は、非常に危険だ。

■国民の財産を盗みだすネズミ達

 北朝鮮のミサイル発射直後に起こったのが、防衛庁高級官僚の逮捕である。先に防衛庁の上野憲一元防衛施設本部副本部長が逮捕され、つづいて彼の上司だった諸富増夫前防衛施設庁長官が逮捕された。
 この防衛施設庁にまつわる問題は、過剰請求事件である。兵器メーカーが、防衛装備品調達(兵器)の納入のときに、数億も吹っかけた値段を請求して利益を貪り、それが露見すると、こんどは過大請求分の返済額をごまかす。煮ても焼いても喰えない連中で、それを指導したのが防衛庁幹部なのだから、恐れ入るしかないのである。
 兵器メーカーである東洋通信機が過大に請求し、国に返還すべき額は、利息を含めて最低でも二五億六四一万二〇〇〇円にものぼる。ところが実際の返済額は、八億七四三三万六〇〇〇円しかなかった。差し引き一六億八九七七円分を、ちょろまかしたことになる。国民の米倉に侵入した兵器メーカーのネズミが、倉庫番の手引きで俵の米を食い散らかしている、と考えればわかりがはやい。
 装備費とは兵器の購入費を指す。防衛産業は防衛力の基盤といわれており、これまでさんざん優遇されてきた。ライバルメーカーはすくなく、ほとんどヒモ付き、もちろん国相手の商売だから取引先の倒産はない。さらには前倒し金と称して、メーカーは先に支払いを受け取っている。
 これほど甘やかされたメーカーに、さらに防衛庁幹部が天下りして、水増し請求を示唆していた。つまり防衛庁と兵器メーカーは、根っから腐った関係にあるのだ。 このような関係を如実にしめしているのが、天下りの人数と大手企業による契約高の独占率である。たとえば昨年度の調達予算、一兆三千五五五億円のうち七六パーセントの一兆三億円が契約高二〇位までの大手企業に独占されている。この独占大手企業にどれほど防衛庁から天下っているのかは、九七年一二月九日の『毎日新聞』に掲載されている。
  「上位二〇社へ天下った将官(将と将補)OBは、昨年度までの五年間で総勢九二人。受け入れた人数が最も多いのは、受注額が常にトップの三菱重工業で計一五人。次いで、川崎重工業(昨年度の契約高三位)と東芝(六位)の各一一人、三菱電機(二位)の八人、石川島播磨重工業(四位)、NEC(五位)、富士重工業(一三位)の各六人の順だ。二〇社のうち過去五年間に将官OBを採用していない企業は四社のみだった」
 上野・諸富が逮捕された事件でも、この防衛庁とメーカーの腐った関係が表面化している。
「防衛庁の装備品をめぐる巨額背任事件で、四日に逮捕された前防衛施設庁長官(元防衛庁調達実施本部長)、諸富増夫容疑者(五九)が、過大請求した砲弾メーカーについては『刑事事件ものだ』などと厳しい処分を行う意向をしめしていたのに、その次に発覚した東洋通信機(東京都港区)の過大請求については途中で態度を一転させ、部内の会議で返還額の減額を『まあ、こんなところか』と発言していたことが、関係者の証言でわかった。東洋通信機の不正はこのメーカーに比べはるかに悪質だった。東京都地検特捜部は、諸富前長官が元副本部長の上野憲一容疑者(五九)としめし合わせて方針を変更、東洋通信機を優遇したことを裏付ける事実として重視している模様だ」
 九八年九月五日の『毎日新聞』には、このように書かれている。受注する側と発注側が相互に依存して退廃を起こし、発注した連中がメーカーに天下ってくる図式は、あまりにも醜い。そうかといって、中央官庁と業界との関係でではどこでもこのようなことが起こっている。 通産省の高級幹部が鉄鋼・造船・電機メーカーなどに入り、大蔵省の高級幹部は銀行へ、運輸省や警察庁の高級幹部が交通関係の会社などに収まるっているのが、日本社会の現状なのだ。

■腐敗を深化させる密室化

 さて、防衛庁にはこのような中央官庁に比べて、さらに悪質な体質がある。それは汚職現場を防衛秘という壁が幾重にも囲っていることだ。
 軍事機密という鎧で守られた「防衛秘」は無数だ。しかも、あらゆるものが防衛秘として増殖しつづけている。防衛庁とメーカーの関係が防衛秘というガードによって密室化し、たがいに腐敗を深化させていった。日があたらないところにはカビが生えやすい。メーカーは限定され、コストはもちろんこと、コスト計算も発表されない。もちろん競合もしないという独占料金体制である。独占は腐敗を産む。
 「防衛生産」という名の軍事生産は、巨大な虚構(フィクション)である。
 日本の軍隊は「自衛隊」であって、戦争をしないのが前提である。戦争をしない軍隊に人殺しの兵器を納入するのも奇妙な話である。しかも、その兵器は実戦において試されることなく、生産しつづけられている。戦争がないという現実と、戦争があるというフィクションの間に挟まっているのが、防衛生産といえる。
 防衛費のうちでも、兵器購入量である調達費をいかに増やすかが、メーカー側の狙いになっている。しかも金の掛かるミサイルや、そのミサイルを使って迎撃体制を整えるTMDなど、金喰い虫であればあるほど、メーカーに落ちるカネも大きい。
 このような構造で生みだされたからこそ、国庫にすに一五億円以上の損害をあたえたことが発覚しても、防衛体制はびくともしない。
 こうして、国民の気づかない間に防衛予算がどんどん増え、そのたいがいが、装備という名の兵器生産にまわり、そのなか中で防衛庁幹部と兵器メーカーとの癒着が強まってきた。兵器生産はムダな要素だが、そのムダにたかって、各自がフトコロを肥やした。
 コストばかりが、危機を「過剰請求」してメーカーは国民の税金をポケットにいれてきた。兵器メーカーと防衛庁幹部の結託は、平和日本の象徴である。北朝鮮のミサイルを迎撃するために、さらに防衛力を強化するという過大宣伝は、またまた過大請求の基盤をつくることによる。「日本の防衛」は、すべてフィクションなのである。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/「安楽の全体主義」へ突進する日常

■月刊「記録」1999年7月号掲載記事

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■殺さなくても死刑

「最近、とんでもないことになってきた」と、多くの年輩者が不安を口にする。三〇年前、「反動化」とか「逆コース」といわれたりしていたが、いまは地獄へ突進しているようである。その道を掃き清めた公明党の議員たちが、オブチやオガワのおぼえ目出たくいよいよ大臣になれるというから、まずはめでたい。疑問なのは彼らのスポンサーである。「財界」には、民衆主義的感覚の持ち主がいないのか、ということである。本当に喜んでいるのかどうか。
 あまり問題にされていないのが、オウム事件の横山真人被告にたいする死刑求刑である。
 横山被告は、地下鉄サリン事件全体の責任者、つまり共謀共同正犯として起訴されている。しかし、彼がサリンを置いた車両では、死者がでていない。ところが、検察側はこれを「偶然の結果」だとして、死刑を求刑しているのだからメチャクチャである。
 おなじ事件を起こした林郁夫服役囚にたいしては、自首して犯罪摘発に貢献した、という「特段の事情」により、無期懲役が求刑され、同様の判決で結審した。一方は一人も殺していないのに殺人の共犯者として死刑を求刑され、一方は二人を殺して無期懲役になるという。この検察官のデタラメ・エコヒイキを、どう説明するのか。
 もともとわたしは死刑に反対である。だから林服役囚を死刑にしろなどといっていはいない。検事および裁判官の気まぐれによって、人の命が左右される不平等を問題にしているのである。
 死刑制度の問題について詳しく述べるスペースがないので割愛するが、死刑制度における最大のマイナスは、国民の間に憎悪の感情を盛り上げて、権力がそれを利用することだ。
 裁判は慎重に手続きを踏んでおこなうべきものである。ところが「あいつをやっちまえ」という世論の高まりが、死刑判決を引きだすことになる。抑圧されている人民は、犯罪者を死刑にするということで鬱憤を晴らす。つまりはけ口である。その憎悪の感情をいつも内包させていることが、死刑制度の最大の問題点である。

■拡大解釈を狙ってつくられた盗聴法

 オウム真理教を盗聴していれば、サリン事件がなかった、などという意見がある。盗聴法案(通信傍受法案)の成立に一役買った論理だ。しかし警察側は信者たちを尾行しており、ある意味で泳がせていたともいえる。それでもサリン事件を防げなかった。この警察の失態を盗聴によってカバーしようというのは、逆立ちした論理である。
 先進国の米国でも盗聴がおこなわれているというのが、推進派である小沢一郎の論理だが、米国で盗聴されている八三パーセント以上の会話が、犯罪に関係ないといわれている。しかも残りの一七パーセントが本当に犯罪に関連があったのかどうか、それですら信じがたい。一人の犯罪者を捕まえるために、関係ない何百人もの会話が盗聴されることについて、自自公のとんでもトリオはどう考えているのか。自分たちは政治家だから盗聴されないと思っていたら、お笑いである。
 すでに日本の警察は、法律ができる以前から盗聴を繰り返している。盗聴法案の成立は、いままでおこなわれてきた警察の犯罪行為が合法となり、公然とおこなわれることを意味する。つまり秘密裏におこなわれていた盗聴が、野放しにされる。盗聴時代の到来である。
 盗聴法が立案されたとき、内乱、放火、逮捕・監禁、強盗致死傷、爆発物使用など一〇〇ちかくもの犯罪に適用される計画だったという。政府がなにを狙っていたか、この一〇〇という数字が明らかにしている。政府は、この目的を遂行するため、反対されそうな部分に若干の修正を加えた。公明党がその露払いである。その結果、銃器、薬物、集団密航、組織的におこなわれた殺人の四種類に盗聴の対象が絞られた。これから拡大解釈していこうとする政府の狙いが、立案の段階からハッキリしている。あまりにもハッキリしすぎていて、じつは盗聴器の需要を膨大につくりだし、不況対策にしようとしているのかと疑うほどである。
 盗聴するかどうかは裁判所の判断によるなどという言い訳が、盗聴法推進の屁リクツである。だが、これは前回も書いた通り、令状そのものが当てにならない。検事から要求があれば、裁判官はほとんど認めてしまうからだ。この問題にかんしては、寺西和史判事補が朝日新聞に投稿して、裁判所内に物議をかもしだした。しまいには集会の場で発言したという理由で、戒告処分にされている。
 また九一年まで二四年間裁判官を務めた秋山賢三弁護士は「令状をだすときにどこまでチェックできるのか、現場は自信がないだろう。裁判官はあまりに忙しい。令状を却下するには勇気もいる」(『毎日新聞』 九九年五月二二日夕刊)と語っている。
 司法統計年報によれば、九七年度の逮捕状請求件数一一万七七四三件のうち裁判所が却下したのは、わずか〇・〇四パーセントにあたる四八件。令状が盗聴の歯止めになるという理屈は、この数字だけでも覆される。
 盗聴法をふくむ組織的犯罪対策三法案は、さっぱり審議をしないで、あっという間に自自公によって強行採決されてしまった。当時、盗聴法だけ問題にされ、組織的犯罪処罰・犯罪収益規制法案となっているマネーロンダリング(資金洗浄)処罰については、なんら議論されずに成立してしまった。
 暴力団などが不正な方法で儲けたために使うことができない金を、洗い直すのを防止する。それが法律の目的だという。だが、これなども盗聴法同様、拡大して使われるおそれがきわめて強い。たとえば労働組合の資金カンパも、マネーロンダリングだという理由で、カンパ先が徹底的に洗われる。
 どの資金がなんの犯罪に関係あるかを、どういう方法で洗いだすのか、あるいは犯罪に関係する金を金融機関がどうやって割りだすのか。犯罪に関与した金だけに捜査が限定される保証などない。ただ組織の資金をチェックするという超権力的な方法が、公認されただけである。
 犯罪=市民にたいする攻撃、犯罪規制=市民の平和という図式によって、犯罪防衛が声高に叫ばれる。犯罪を防止する法律ができれば市民は枕を高くして眠れると、権力たる警察・検察は力説する。しかし市民の電話が盗聴されるような法律ができて、どうして安眠できようか。これは藤田省三さんがいう「安楽の全体主義」というものである。自分だけが幸せになればいいという主張が、全体主義への信仰を生むのである。

■権力のスピーカーとなる新聞

 最近また、オウムにかんする記事が急に増えている。 オウムの出現によって市民生活が著しく妨害されたと大々的に報道されるが、反論は掲載されていない。なかには犯罪には関係ない松本智津夫被告の子どもの学校通学を、地元民が阻止しているという報道もあった。
 たしかにオウム真理教は重大な犯罪を犯し、多数の人間の殺傷した。といってオウムの信者をすべて人殺し、というのは宗教の自由を謳った憲法の精神と著しく対立する。だからオウムにかんしては、冷静な議論が必要とされているはずである。ところが最近のマスコミは、どこそこにオウム信者があらわれたという「モグラ叩きの報道」を繰り返し、オウム撲滅に一役かっている。
 では、どうしてオウム信者の動静が報じる記事が、これほど急速にふえたのだろうか。その答えの一つが、破壊活動防止法の「改正」である。警察・検事が記者クラブで発表をおこなえば、記者たちは争うようにして書く。つまり結果的に、破防法の改正を狙う警察・検事側の要求に、記者たちが応えているのである。政府に意図があれば、新聞記事をふやし、国民に影響をあたえることができる。それが記者クラブ制度である。
 記者クラブの問題については、これまでも指摘してきたが、ますます盛んになってきたのは、権力のスピーカーとしてのマスコミのあり方である。ジャーナリズムは国家権力の横暴を規制にするためにあるはずだが、権力組織のなかでヤドカリのようにくっついているマスコミスピーカーは、権力の声をたんに増幅するだけだ。
 実際問題として、オウムの恐怖が繰り返し叫ばれることで、破防法改正への道筋は少しずつ整ってきている。少なくとも、政府主導による改正の大合唱に、多くの人々は慣れてしまった。元内閣安全保障室長の佐々淳行などは、オウムについて次のように語っている。
  「問題の根源は破防法が適用されなかったことにある。もう一度、適用を考えてもいい。この適用後は同法を廃止し、カルト、テロなど幅広く対応できる新たな危機管理法を制定すべきだ」(『毎日新聞』九九年五月一七日朝刊)
 これはきわめていい加減な、おためごまかし的ないい方である。結局は、破防法を廃止したのち、カルト・テロというお題目を掲げ、新たな治安法をつくろうということだ。佐々をはじめとする治安弾圧担当者たちの欲望が、ストレートに表現されている。
 破防法は、もともと政治団体を規制するために生まれたものである。政治運動の沈静化とともに、この法律は休眠していたわけだが、オウムによって完全に生き返ろうとしている。生き返れば、再び政治団体にたいするチェックが厳しくなる。しかも盗聴法によって、政治団体の盗聴が公然とおこなわれるわけだから、思想・信条の自由にたいする重大な攻撃が予想される。

■外に北朝鮮、内にオウム

 ついこの間まで、北朝鮮にかんする情報が湯水のように流され、それがガイドライン関係法案の成立につながった。ここであえて繰り返すまでもないが、周辺事態という拡大解釈可能な定義に基づいて、日本は戦争ができることになってしまったのだ。
 このときの北朝鮮とおなじような手法であらわれたのが、オウムである。オウムの恐怖を最大限に使うことによって、破防法改正・盗聴法・総背番号制(住民基本台帳改正法)などが一挙に成立してしようとしている。そのあと「有事立法」である。
 外側に北朝鮮、内側にオウム。これがマスコミを使ってつくりだした政府の二大仮想敵である。その仮想敵にたいする恐怖を掻きたてて、国家権力が力を得ていく。殺人を犯していないオウム信者の被告にさえ、死刑が求刑されるのは、死刑制度を撤廃しようとする世界的な方向性に反するばかりではない。治安維持法の復活である。それが市民に牙をむくことになる。
 気がつけば、外にむけて戦争、内にむかっては国民の管理と死刑制度が強化されている。全体主義国家の体制に着々とむかっている。その証拠が日の丸、君が代の復活である。またぞろ、天皇が引っ張りだされてきた。新聞も国会も、政府のいうがままにするのが、翼賛体制である。「大日本帝国」はまじかである。いまこそ声をだそう。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/遅れてやってきた『一九八四年』

■月刊「記録」1999年8月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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「サッチー報道」がはじまってから一〇〇日を越えた。それでもテレビのワイドショーは、相変わらず長い特集番組を流しつづけている。今日見た番組では、サッチーのファッション遍歴を追いながら、ファッション評論家が彼女の人格を分析したりしていた。各局とも手を変え品を変え、視聴率を稼ごうとしているようだ。
 わたしは、サッチーを好きでも嫌いでもなく、さほどの関心もない。しかしマスコミのサッチー症候群には、いくつか問題がある。
「衆議院比例代表で繰り上げ当選になる可能性がある。だからサッチーは公人だ」。これが彼女のプライバシーを暴きたてるさいの、テレビキャスターの言い訳となっている。しかしバカも休み休みいってもらいたい。サッチー以外の公人のもつスキャンダルに、どれだけテレビ局は踏み込んできたというのか。
 サッチーはいわば「弱い権力」である。だからこそ手頃なターゲットにされている。逆に本当の権力をもつ政治家のプライバシーにたいして、テレビ局はすこぶる慎重である。サッチーと米軍との関係がいろいろと暴きたてられている。では政治家の場合、犯罪行為でもない前歴を、ここまで書きたてるだろうか。たとえば、ハマコーや児玉誉士夫や笹川良一について、どれだけ書いたか。
 テレビ局が自民党批判をあつかえば、自民党や党の政治家からクレームがつき、「放送免許」を取り上げるという脅迫にまで発展する。もしサッチーがすでに繰り上げ当選となっていて、自由党の一議席を占めていたなら、それでも彼女のプライバシーをこうまでテレビは暴きつづけていたがどうか。
 国会議員の立候補者ということで、サッチーをこれほど攻撃するなら、彼女の人気に乗って議席を増やそうとした毒クモ男小沢一郎・自由党党首の姑息な手段も、当然、批判されるべきだ。ところが、これには触れずじまいである。
 だいたい刑事事件の被告であっても刑罰を受けたあとは市民として復活し、その「前科」を暴く行為は、重大なるプライバシー侵害となる。ましてサッチーと米軍との関係は、なんら犯罪行為ではなかった。それを面白おかしく書き立てるなど、信じられないまでのプライバシーの侵害だ。
 ワイドショーが報じている彼女の犯罪事件は、たとえ成立しても微罪ていどのものである。その微罪追及のために毎日毎日、各局が膨大な時間を費やしているのは異常というしかない。
 このスキャンダル報道がエスカレートしながら三ヵ月もつづいているのは、他にこれだけの視聴率を稼ぐキャラクターがいないからだ。ワイドショー番組では、サッチーをあつかうことで二、三ポイントも視聴率が上がるともいわれているし、サッチーが出演した番組には二五パーセント以上の視聴率を稼ぎだしたものもある。
 彼女が登場する以前、マスコミから徹底的にいじめ抜かれたのが林真須美容疑者であり、松田聖子であった。つまり「ふてぶてしい女」が総攻撃の対象になっていた。しおらしくし、うつむき加減で、ろくに弁明もしない女性だったら、これほど攻撃されなかったであろうことを考えると、このバッシングの本質は、強い女性にたいする攻撃である。

■講演会を襲う言論弾圧

 わたしの友人であるフランスのカトリックの神父が、『出る杭は打たれる』という日本批判の本を書き、長い日本滞在にピリオドを打った。神父の言を待つまでもなく、いまだ日本は「出る杭が打たれる」社会である。サッチー報道は、そうした日本社会の陰湿さを如実にあらわしている。
 しかも彼女は、弁明する機会をもっていない。それが証拠に、弁明を掲載した『サンデー毎日』の編集部には、猛然たる抗議の電話が入ったという。本人に弁明する機会もあたえずに、根ほり葉ほり材料を集めて攻撃しているのは、弱いものはくじき、強いものには屈服するマスコミの体質そのものである。
 さらに問題なのは、サッチーバッシングがはじまることによって、それまで予定されていた講演会がぞくぞくと取りやめになったことである。盛岡市や埼玉県狭山市につづいて、茅ヶ崎市で予定されていた講演会も中止になった。茅ヶ崎の場合は、東京電力と市が共催で「妻として、母として、女として」という演題でひらく予定だったという。ところがサッチーバッシングがエスカレートするにつれて、市や東電に抗議電話が殺到し、やめざるを得なくなった。これで明らかになったのは、自治体が東京電力からカネをもらって、多数の市民を集めていることだ。原発会社のやり方は、油断もスキもない。
 問題なのはテレビだけではない。週刊誌などの見出しも常識を越えたものが目に入る。夫との関係などで、確認できないような憶測の記事が流れているのは、双方にとっての名誉キソンである。
 週刊誌やテレビは、とにかくサッチーブームにあやかり、すこしでも視聴率や売り上げ部数を稼ごうとハイエナ的な存在になっている。たとえ現在の報道が沈静化しても、彼女が繰り上げ当選になる可能性がでてくるたびに、またぞろ、おなじようなサッチー症候群があらわれるにちがいない。
 そのさいには、学歴詐称が最大の問題になるのであろうが、これとてさほど重要な話ではない。問題になるのは、日本人が学歴にこだわりつづけているからだ。学歴不要論などといいながら、米国の大学を卒業していれば尊敬し、それが詐称であればうって変わって非難する。この問題は、学歴にこだわる日本人の意識にたいするリトマス試験紙といえる。

■戦前体制の復活

 はたしていま、マスコミが本当に取り上げるべき問題は、サッチー報道だろうか。週刊誌やテレビ番組が、サッチーに割いているスペースは、これからの市民生活に最も重大な影響をあたえる盗聴法のためにこそ使うべきではなかったか。
 この三ヵ月間、自自公民はますます結束を固め、すでに公明党の入閣が話題になりはじめている。よくもサッチー「煙幕」を張って、このドサクサに紛れて、ここまでやるものだと驚く。それと日本の民主主義の基盤の浅さを痛感させられる。
 盗聴法にいたっては、驚くべきことに読売新聞と産経新聞が賛成の立場を表明している。権力の盗聴にたいして抵抗しないジャーナリズムは、果たしてジャーナリズムといえるかどうか。NOである。こうしたなかでの『内外タイムス』の奮闘は、称賛に値する。
 渡辺恒雄読売新聞社長は日本新聞協会の会長になって、産経新聞の清原武彦社長を副会長にした。右翼内閣である。ガイドラインと盗聴法に賛成するこの二つの新聞の代表者が、新聞協会の要職を手に入れたことは、報道の歴史を考えれば重大な事態といえよう。
 盗聴法は国民の管理を徹底する手段となり、国民総背番号制がその管理をさらに徹底させる。これに現在実施されている警察庁の「Nシステム」が加わり、車の移動のチェックから顔の識別までできるようになれば、個人の日常生活のあらゆる面が警察の監視体制下に入る。ジョージ・オウエルの『一九八四年』の世界である。
 さらに先月もあつかったように、オウムの恐怖心を煽ることによって破防法は改正にむかっている。もう「有事体制法案」の足音がそこまで響いてきている。憲法調査会もできて、憲法改悪への動きはますます強まっていく。
 さらに戦後改革の重大な柱であった企業・労働・農業部門での法律が破壊されつつある。
 労働についていえば、きわめて限定された形で出発した人材派遣業が、ほとんどの業種に適応されるようになった。一部の職種だけを対象にしてきた人材派遣業が、いきなり一部の職種を除いて解禁されるというドンデン返しになったわけだ。それは労働者の権利を圧迫する、政府ぐるみの不当労働行為といえる。労働者の権利を奪うことは、国家に抵抗する力の根幹を破壊する。ことは労働条件の範疇に留まらない。職場で物言えぬ労働者は奴隷のごとく、政治についても発言しない。
 ほとんど報道されていないが、農業基本法の改正も大きな問題である。食料の自給率を高めるという名目で法改正がなされようとしているが、結果的には財界による農業の大規模経営に道をひらくことになる。農地改革によって小作人にあたえられた土地が、結局、巨大な農業資本に奪い取られようとしている。
 もう一つは、独禁法である。この法律の形骸化は、持株会社の復活にあらわれているが、いまや完全に骨抜きの法律になっていて、大きければすべて良しという状況だ。独占・寡占という言葉自体が死語となり、国際競争力を高めるという名目で、企業の合同が進められている。その陰で労働者の権利が急速に奪われていることなど、マスコミに取り上げられることもない。
 日本の軍国主義を支えた労働者の無権利・地主・寡占が公然と復活されようとしている。しかも資本主義がすべてという価値観は、その復活に疑問をはさむ余地さえあたえない。
 こうした状況をバックグラウンドに、ガイドライン関連法案の実施が時間の問題となり、日の丸・君が代まで法制化されようとしている。
 さいきん気になったのは、七月七日に広島県でおこなわれた、日の丸・君が代に関する地方公聴会の議論である。自民・自由党推薦の岸元 学・広島県公立高校長協会会長は、こう発言している。
「二月二三日に教育長から職務命令がだされ、校長たちが全力で説得に取り組み、斉唱率は大きく向上したが、その裏で一人貴重な命が失われた。もしも日の丸・君が代に成文法の根拠が規定されていたなら、議論も相当変わったものになり、仲間の校長も死を選ぶことはなかった」
 自殺に追いやられた校長は、日の丸・君が代の強制に疑問をもっていたからこそ悩んでいたわけで、その悩みを強制によって押し潰したからこそ自殺したのである。その間の出来事を、すべて自分に都合よくネジ曲げ、法制化の根拠にしようとするのは、死者の魂を冒涜するものであり、校長の二重の死を意味する。
 問題なのは、日の丸・君が代という思想に関わる問題を、法律や行政の力によって押し潰そうとしていることである。
 このように白を黒といいくるめる形で、日の丸・君が代は強制されている。ここにもいまの日本がむかっているナショナリズムの深い暗闇が見える。
 いびつな「愛国心」は、日の丸・君が代だけの問題ではない。日本企業を守るという名目で、官僚と大企業が結託している。経営者の経営責任を「公的資金」で賄うために、国税が湯水のように使われ、国民のツケにされている。国家的ボッタクリである。負債ばかりか、これからは大企業の土地まで買ってやろうとしている。これが国民のため、国のためになるはずもない。
 これまで保守政党が、やろうと思いながらできなかったことを、公明党を助っ人にして、政府は一気に押し進めようとしている。それはまるで堤防を破壊するかのようである。
 こうした政府の布石に警告が発せられることはなく、なんの権力もない一人の女性の生き様を、悪女だとか、どん欲だとか、下品だとか、金に汚いだとか、マスコミは罵りつづけている。井戸端会議での悪口を、そのまま電波や誌面にのせているのは、大衆の欲情への迎合である。
 マスコミ関係者は、サッチー報道の陰で進行している事態にたいして、どれだけの責任をもとうとしているのか。ジャーナリストとしての志について、真っ正面から問わざるを得ない。不景気の憂さ晴らしは、世相が混迷すればするほどあくどくなる。どう猛な売るため主義だけのマスコミは、報道の歴史において恥ずかしいばかりでなく、日本を地獄の道へ進めるアクセルとなっている。
 言論の弾圧と言論の画一化は、銅貨の裏オモテであって、権力の手段なのである。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/モラル崩壊の謀略「産業再生法」

■月刊「記録」1999年9月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■タカリ産業勢ぞろい

 自自公ファッショ準備政権は、懸案のガイドライン関連法を片付けたあと、国会の会期を強引に延長させ、愛国心鼓吹(こすい)のための国旗・国歌法を成立させた。さらに、監視国家のための盗聴法を強制採決、暴走ぶりに歯止めはかかっていない。国民総背番号制の導入、憲法調査会設置関連法の成立と、有事体制、憲法改悪への地獄の道を突進している。これから右翼ライターが大手をふるってバッコしよう。
 これらの悪法のあとに控えているのが、産業再生法である。この法律を簡単に説明すれば、勝手に企業が土地を買い込み、景気のよいときに莫大な利益を生みだした生産設備を、不況になったからと国に買い上げさせるものだ。
 いうまでもなく経団連の意見に従った法律だが、この虫のよすぎる要求には驚かざるを得ない。昨年はじめには、放漫経営で破綻寸前となった銀行に、「公的資金」という名目で湯水のごとく税金をつぎ込んだ。この方法を産業界全体に応用しようというのが、産業再生法である。
 この法律の原型は、重厚長大産業主導で進んだ「産業競争力会議」でつくられたものだ。その旗振り役が鉄鋼業界である。鉄鋼業界は市場産業のさいたるもので、景気が良くなると設備投資を拡大し、景気が悪くなれば休止するという極めて荒っぽい経営をしてきた。こうした経営を支えてきたのが、通産省を交えた鉄鋼製品のカルテルであった。つまり需要が落ちてくればメーカー同士が談合して生産量と販売価格を調整し、値段を上げてきたのだ。そうした国家依存の体質が、こんどの産業再生法にそのままもち込まれている。
 産業競争力会議において、今井敬・経団連会長(新日本製鐵会長)が、過剰設備の廃棄によって生まれる遊休地を、住宅・都市整備公団などが買い上げるように提言したのは、彼らのタカリ体質を如実にあらわしている。 もちろん産業再生法がらみでうまい汁を吸おうとするのは、重厚長大産業だけではない。たとえば工場跡地を売り飛ばすことについて、三井不動産会長の田中順一郎は次のように語っている。
「大都市圏の低未利用地の活用が必要である。例えば、臨海部の工場跡地などで、今後必要となるリサイクル施設などを組み込んだプロジェクトを展開し、活用していくべきである」
 あるいはこうもいう。
「都心の空洞化を防ぎ、活力を維持していくためには、住居機能に加えて、商業・娯楽・福祉などの機能を集積し、連携させるミックスドユース(多用途近接)の都市づくりを地区計画制度を活用して進めるべきである」(月刊『Keidanren』九九年八月号)
 大工場を作るという名目で、農民の土地や漁民の海を奪ってきた大企業は、不要になるとこんどは「低未利用地」などと名付け、政府に買い上げさせる。さらにゼネコンが自治体を巻き込み、その土地で都市づくりをおこない、加えて不動産業者が周辺の土地で一儲けしようとする。なんと調子のいい連中であろうか。日本の経営者は、シビアな経営など心がけるつもりはないのだ。放漫経営によって経営が息詰まれば、政治家を動かし、国の資金で救済させることができる。大蔵官僚は天下り先の銀行を救い、通産省は天下り先の鋼鉄や造船、電機メーカーを救う。これらを見越した、まともな経営など考えない、インチキ賭博である。

■経団連の要望を丸飲み

 経団連副会長の前田勝之助は、月刊『Keidanren』(九九年八月号)に寄せた文章で、産業競争力会議に経団連が提出した提言の柱の一つが、そのまま政府の産業競争力強化対策に盛り込まれたことを明らかにしたうえで、次のように書いている。
  「株式交換制度、会社分割制度、新再建型倒産手続きについては今国会から来年の通常国会にかけて逐次上程される方針が明らかにされた。また、『分社化に係る手続き』や『ストック・オプションの対象の拡大』、『事業再構築のための資金供給の円滑化』などの諸策については、早期実現の観点から『産業再生法』と称する特別法として、会期延長された今通常国会中に実現されることになった」
 つまり経団連の要望を政府が丸飲みしただけだ。八百長国会では自分の経営失敗のツケを補わせ、延長国会でも大企業救済に突進させた。
「企業が負っている過剰な債務のために、資本不足に陥り経営が立ち行かなくなる場合には、株主や経営者が責任を負う必要があろう」
「九九年三月には七兆円を超える(銀行への)公的資本増強が行われた。こうした事態を招いた銀行経営者の責任は重大である。経営判断の失敗という点以外にも、不良債権隠しのような違法な処理が行われていたケースが少なからず指摘されており、こうした場合も含め責任の所在を明確にしていく必要がある」(『経済白書』九九年度版)
 近年甘い見通しばかり書き立ててきた『経済白書』でさえ、政府と企業の癒着による税金投入がモラルハザード(倫理観の欠如)を招いた可能性を認め、責任の所在を明らかにしろと書いている。にもかかわらず、なんら経営者の自己責任は追及されぬままに、彼らの救済策がつぎつぎと打ちだされている。これぞ企業にはカネ、市民にはムチという自自公ファッショ政権の結末を示している。
 経営者の責任を不問にするという点で、産業再生法は許せない法律だ。だがこの法律の問題点は、そればかりではない。「産業再生」という名前の下に、債権切り捨てばかりか、工場の廃棄と労働者の解雇が公然と認められる。つまり経営者が労働者をクビにするさいに、「産業再生のためであり、国の方針だ」と堂々といい逃れできるようになったわけである。
 企業における労使関係は、あくまでも経営者の責任であったはずだ。ところが小渕政権と無責任な財界によって、「首切り法」が策定されることになった。これまでにも職業安定法と労働者派遣法がすでに改悪されており、このままでは、勤労者はなんのバックアップもない、ハダカの存在になってしまう。
 さらにこの首切り法が異常なのは、公的支援を望む企業が所轄の官庁にリストラプランを提出し、認定を受けることである。その認定の基準とは、経営資源が有効に活用されるかどうかであるという。しかし経営の実績などまったくない官僚が、「経営資源」の評価をするなどむちゃの極みだ。
 何度もくり返すように官僚と財界は癒着している。財界のいいなりになって、天下り先を確保するのが官僚の悪癖だから、どれだけ厳密に認定が行われるかは定かではない。しかも官僚が経営を統制していけば、統制経済になってしまう。ここでも口では市場経済といいながら、形勢不利になると国に下駄を預ける日本企業の悪習が繰り返されている。
 これまでの日本の歴史をみても、経営が行き詰まると国営にし、資本が強くなると国営企業を民間に払い下げてきた。そのいったりきたりで、財閥が形成されてきたのである。イギリスでもすでにサッチャーリズムによる民営化推進の欠陥が明らかになり、どのように雇用を守るかという議論が起きている。日本はレーガン時代のクビ切りをマネて、国家主義によるクビ切りによって、国力の浮上を図っている。これまで経営者が盛んにいってきた、「運命共同体――お前らが一生懸命働けば悪いようにはしない――」という約束を裏切るものだ。いまさら労働者に自己責任を要求してクビ切りするなど、許されるものではない。

■インチキ商法を国家が推奨

 政治も経済も自自公のやりたい放題である。
 じつはこの秋、中小企業の大量倒産が心配されている。一年前に実施された中小企業むけ融資の返済が、秋にははじまるからである。思うように景気が浮揚しない現状では、その支払いに行き詰まる企業が続出するだろう。大企業むけに大量に投入された資金のおこぼれで食いつなぐ中小企業には、根本からの安定など得られるはずもない。
 現在までに銀行や企業の債務に投入された国家資金は、総額五〇〇兆円におよぶとされている。国債の大量発行や、「公的資金」という名の税金投入は、最終的に国民にツケが回されたものだ。つまり国民にたいする大量収奪が、国会を通じて堂々とおこなわれている。
 いま銀行預金金利は、ほぼゼロに等しい。生活防衛上、なんらかの投資によって資金の有効利用を図りたい庶民にたいして、まず、銀行倒産の場合、一千万円以上の預金は切り捨てる、と脅し、リスキーな株式投資に誘導しようとしている。かつて、老人の貯金を大量に収奪した経済革命倶楽部やオレンジ共済組合のようなインチキ商法を、国家が奨励しているようなものである。
 すでに庶民は、荒野にハダカで立たされている。対岸に渡るためのロープを張り、そこを伝って渡れ、と政府はいう。ロープの下にはセーフティネット(福祉の網)はない。落ちたものは死ねということだ。
 こうしたヤラズボッタクリの政策が堂々とまかり通るのには、マスコミの弱腰が大きく影響している。労働組合の御用化、野党の退廃、国民の無関心。この三種の神器によって日本の滅亡は、ますます近づいている。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/日本を覆う言論弾圧の影

■月刊「記録」2001年8月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 言論にたいする自民党などからの攻撃が急速に強まってきている。これは、80パーセント以上の支持率に増長した、強気な政府の汚水からわきだしたボウフラのようなものである。ハマダラ蚊になる前に、極力、退治する必要がある。
 7月7日、横浜市神奈川区でひらかれた旧日本軍の性暴力問題を考える集会では、聴衆が大騒ぎして、暴力をふるう事件が発生した。『神奈川新聞』(7月10日)によると、日中友好神奈川県婦人連絡会が主催したこの集会では、まず「女性国際戦犯法廷」の記録映画を上映し、そのあと評論家の松井やよりさんが公演する予定だったという。
 ところがビデオ上映の途中で、会場にいた男女12~3人が「国賊だ」、「インチキ裁判だ」などと怒号をあげて騒ぎだし、ビデオの音声が聞こえなくなる状態となった。主催者が静かにするように求めたり、退場を求めても応じない。そのうち1人の男が飲みかけのお茶の缶を、参加者に投げつけ、それが主婦(64歳)の口に当たってケガをしたという。これで松井さんの講演会も中止となった。
 まさに暴挙である。戦後の歴史のなかでも、暴力行為によって集会が中止に追い込まれた例はさほどない。まして「女性への性暴力」をテーマにした集会で、聴衆の中に紛れ込んでいた連中が暴れるなど聞いたことがない。それでなくとも最近、従軍慰安婦問題への反撃が強まっている。こんご、おなじような集会が狙われるのかと考えると、暗澹たる思いである。
 先日、都内を歩いていると、右翼の宣伝カーが参議院選挙について演説していた。小泉が圧倒的支持を受けている現在、憲法改正するチャンスだ、と彼は絶叫していたのである。
 このように小泉があらわれることによって、さまざまな反動がムクムクと頭をもたげている。あたかも民主主義のフタを外したかのようだ。言論、表現にたいする攻撃は、歯止めがきかない。

■名誉毀損が逮捕か、巨額な賠償に

 7月7日には、宮崎県でも事件が発生した。破綻した大型リゾート施設・シーガイアを視察にきた石原慎太郎都知事が、記者を恫喝して記者会見会場から退場したのである。翌日に予定されていたヨットレースについて、テレビ記者が公務との関係を質問。これに怒った慎太郎は、「君ら(報道陣)が悪い。帰る」と怒鳴りつけ、会場から立ち去った。
 以前、「三国人発言」を書いた記者にたいしても、彼は名指しで記者を批判し、きわめて権力的に恫喝を加えている。宮崎でもおなじようなことをしたわけだが、思い上がりもはなはだしい。政治家は、公人として、疑問を質されたら答える責任がある。それなのに彼は、憤然として席を立って質問を無視し、あろうことか脅しまでかけた。
 そのごの新聞記事でも、報道にたいする攻撃だという論調はほとんどみられなかった。権力者の言動を規制するのがジャーナリズムであり、攻撃がきた場合、ジャーナリストは一致して抗議・反撃をすべきである。記者たちにこのような危機感がまったくないことこそ、危機的状況である。ヨットレースの実行委員会がテレビ局に抗議し、局の幹部が謝罪しているのは、本末転倒だ。
 また、ことし5月末には、化粧品会社のDHCが『週刊文春』の記事にたいして、10億円の損害賠償を求め、名誉毀損訴訟を起こした。週刊誌に掲載された記事の損害総額が、10億円に膨れあがるなど前代未聞である。
 これだけ高額となれば、出版社への圧力は大きい。報道機関は情報源を秘匿しなければならず、裁判では必ずしも十分な証拠を提出できない。とくに内部告発によって記事が書かれた場合、告発者の生活を守るためにも彼らの出廷は諦めざるを得ない。裁判費用に糸目をつけない企業や政治家が、こうした高額の裁判をまねれば、出版社や記者にとって大きな脅威となる。
 さらに7月4日には、『噂の真相』の岡留安則編集長にたいし、検察側は名誉毀損罪で懲役10ヵ月、社員の編集者に懲役6ヵ月を求刑した。ついに日本も言論にたいして刑事罰を加える時代となったわけだ。名誉毀損における損害賠償の巨大化と刑事事件化は、これからの報道にたいする大きな規制となる。
 週刊誌やフリーライターを狙い撃ちする「個人情報保護法案」が準備され、テレビ番組やインターネットなどにたいしては「青少年社会環境対策基本法案」による規制が検討されている。たしかにデタラメな記事や名誉毀損、過激な性や暴力表現が、売らんかな主義のなかで存在している。しかし、それにたいして国家が介入して刑事罰を加えるなど、許されるものではない。

■国の認識を表明した検定制度

 先月この欄で取りあげた教科書問題でも、言論への圧力がはじまっている。
 7月8日の『産経新聞』によれば、テレビ朝日系で放送している「ニュースステーション」でコメンテーターを務める清水建宇氏(朝日新聞編集委員)が、「子供たちをそんな大人にしたくないという保護者と先生たちは今立ち上がって声を上げたほうがいいです。この教科書は嫌だと」と発言。これにたいして「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが、総務省に処分を要請する申し入れをしたという。
 歴史を捏造している教科書を採択しないようにという発言は正しい。各中学で採択の動きがひろまれば、外交にも重大な影響をあたえる。にもかかわらず、放送法に違反するなどとして、お上に注進するなど、彼らの言論弾圧体質をよく示している。こうした連中の悪ノリこそ、日本の社会が戦前の体質にむかっていることを、よくあらわしている。
「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書は、戦争への情熱を駆り立てるものでしかない。たとえば特攻隊や沖縄のひめゆり部隊の死は、もっとも悲惨な死であり、強制された死である。この事実を美談化しようという精神で、教科書がつくられていた。だからさまざまな問題がおきる。
 日本の軍隊によって侵略された国の人たちが、侵略の歴史を美化した教科書だと感じているのは真実だ。こうした批判にたいして、政府は真摯に耳をかたむけるべきである。しかし政府の対応は、いわば切り捨てゴメンというものであった。中国と韓国の修正要求にはゼロ解答。これは両国の歴史を戦中、戦後にわたって足蹴にするものだ。
 たとえば韓国併合を侵略ではなく、国際的に認められた行為として記述した、と韓国は抗議した。これにたいして日本政府は、「韓国内の反対を、武力を背景におさえて併合を断行した」という教科書の記述を根拠に、「明白な誤りとは言えない」と結論づけている。
 また日本の植民地政策としておこなわれた鉄道や灌漑施設の整備が、あたかも朝鮮住民のためにおこなわれたかのように書かれた部分についても、「明白な誤りとは言えない」と日本政府はいい切っている。
 おなじく日本が朝鮮を植民地としていた時代の記述で、人民から収奪した記述がないという韓国からの批判にたいし、日本政府は「どのような内容を記述するかは、執筆者の判断にゆだねられている」などと、あたかも「つくる会」を擁護するようないい訳を開陳している。
 歴史の事実を率直にみとめない行為は、これから恐るべき日本人をつくることだろう。戦後56年をへようとしているのに、いまだに侵略した事実をうやむやにしようとするなどは、相手国が侵略を正当化していると感じて当然である。
 ドイツではいまなおナチスの責任を訴追し、その賠償金を払いつづけている。日本政府は、このような解決策のツメのアカでも飲んだらどうだ。
「つくる会」の教科書問題は、検定制度の問題も含んでいる。検定とは国家が表現の自由を規制したものだ。つまり国のお墨付きをもらった内容だけが、記述されている。国の認めた内容が相手国のプライドを傷つけるなら、日本国が挑戦・挑発していることになる。
 私は検定制度には反対しているものである。しかし、現実的に国家の意思が教科書に貫徹されているならば、それは検閲であり、書いた内容に国家が責任を負うべきである。それができないのなら、検定をやめるべきだ。 もしも教科書の検定制度がないならば、それは著者個人の表現の自由であり、中国や韓国もいちいち批判してこないはずである。両国が批判の対象としているのは、国のお墨付きによってあきらかになった国の認識だ。検定していながら筆者に表現の自由があるという論理は、責任逃れというしかない。
 さらに侵略された当事者がこれだけ批判する教科書を、地方自治体が採用するのは、中国や韓国にたいする敵対行為ともいえる。栃木県の下都賀採択地区では、採択協議会が教科書を採択する決定をした。しかし教育委員会の意見によって、今回の採択は見送られる公算が大きくなった。
 教科書が実際に採択されることになれば、さらに悪のりした内容になるであろう教科書指導書が教員の手に渡る。このような強権国家にむかう教育を許さないためにも、「新しい歴史教科書」という名の「ウルトラ・アナクロ教科書」は、不採択しつづけることが必要だ。
 80パーセント以上の支持率を隠れ蓑に、小泉純一郎首相はファッショ的な道をまっすぐに進んでいる。なぜか国民に大好評の「痛みをともなう改革」は、国家強化のための労働者と零細企業の切り捨てでしかない。
 もちろん軍国化も着々と進んでいる。
 7月16日の『日本経済新聞』によれば、自衛隊の領域警備で不審船への船体射撃を認めるよう法改正が進められているという。原発などの警備体制を強化しようという名目らしいが、ようは有事法制の準備である。
 99年3月、日本海にあらわれた不審船に攻撃をくわえた事件では、武器使用規定が働いた。しかし法改正が決まれば、自衛隊の攻撃は合法化される。事実上の憲法改悪である。まして治安出動に射撃を認めたことは、外国人ばかりか、日本人をも殺傷することの容認である。判断なき死刑であり、強権国家の成立である。
 外にたいしては武力攻撃を強め、内側では報道にたいする攻撃を強化する小泉ファッショ政権の危険性が、ますます強まっている。
 言論の奮起が、いま望まれている。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/小泉首相の蛮行を排す

■月刊「記録」2001年9月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 小泉首相が靖国神社に参拝したニュースは、カナダからカムチャッカにむかう、ピースボート船上で聞いた。 それ以外のニュースは入っていないので、国内で反響がどうなっているのかわからないのだが、わたしは二塁に盗塁成功して、ベースのうえで、サルのようにキイキイ踊り上がっている姿を想像していた。
 13日を15日に代える奇襲作戦で、彼はしてやったりと思っているかもしれない。所詮サル知恵なんだ。
 そもそも靖国神社など、壮大なフィクションでしかない。中国で、東南アジアで、太平洋上の島々で、無惨に死亡した兵士たちが、どのようにして九段の坂までたどり着くのか、わたしにはそれが理解できない。
 靖国で会おう、といいかわす兵士たちがいた、というからそれぞれ伝書鳩のような感覚をもっていたのかもしれない。が、地方からまっすぐに引っ張られていったひとたちは、九段がどこにあるのか、しらなかったはずだ。
 たしかに、死亡が確認されると「祭神簿」に、氏名、等級などが記載されるとしても、それはかなりあとだから、霊魂はそれまで宙にさまよっていることになる。
 困るのは、「水浸く屍」や野ざらしになった兵士たちで、戦後、数十年たって遺骨が回収されても、このひとたちは、千鳥が淵墓苑のほうに祀られているから、それまでは「靖国」の上空をうろうろしていることになる。
 これは死んだら靖国神社に祀ってやる、というのと約束がちがって、不公平というものである。
 さらに問題なのは、靖国神社などにいきたくない、台湾、朝鮮出身の「皇軍兵士」たちやキリスト教徒たちで、おれはいやだよ、といっても、それがキマリだ、といわれるのは、人権侵害というものである。
 日本の首相が、いまごろになっても、まだ靖国にこだわるのは、侵略した事実についてなんの反省もないばかりか、つぎの戦争のために靖国を温存している、とかつて侵略されたひとたちが考えるのは、あたりまえのことだ。
 小泉首相のゴッドファーザーというか、風見鶏の中曽根先生でさえ、85年に「公式参拝」をして、中国、韓国の批判に屈して翌年、中止している。このとき、「近隣諸国の国民感情にも適切に配慮して、差し控え」たはずだ。
 とすれば、小泉は、「近隣諸国の国民感情」を足蹴にしたことになる。
 無知というか、蛮勇というか。むしろ哀れというべきだが、それをゆるしたのは、日本の国民感情の低下ということになる。
 靖国神社は、侵略と旧兵士を階級化した抑圧の象徴である。死者をいつまでも英霊にしている装置は、平和を願うなら解体し、日本軍が殺害したひとたちをも、ともに慰霊する場所をつくり、二度と戦争しない誓いをあらたにすべきだ。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/世界同時テロと小泉内閣の野望

■月刊「記録」2001年10月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■420対1の冷静さ

 アメリカで起きた同時多発テロによって、小泉改革が「参戦」に踏み切るのが憂慮される。米航空母艦の護衛やイージス艦の派遣など、最悪のシナリオである。
 ここ数日の報道のなかで、わたしがもっとも注目したのは、カリフォルニア州選出の下院議員バーバラ・リー(民主党)が、大統領の求めた武力行使の決議をたった1人拒否したというニュースであった。
 この結果、決議は420対1で可決されたのだが、「誰かが抑制を利かせねばならない。決議の意味をじっくり考えるべきだ」と彼女は語り、アメリカの報復によって世界的な暴力の悪循環の生まれることを懸念したという。彼女は、98年のイラク空爆にも反対し、99年のコソボへの部隊派遣でも下院でただ1人反対し、ブッシュ政権が離脱宣言した地球温暖化防止の京都議定書も支持しているという。
 軍事力による解決と自国の孤立化を恐れないアメリカの興奮状態にたいして、敢然と世界平和の立場から「抑制」を主張した議員がいたことは、アメリカの1つの希望である。同時に、たった1人しか反対しなかった事実は、このテロによるアメリカのプライドの失望を物語ってもいる。
 日本においては、社民党と共産党がアメリカの武力行使に反対している。しかし議会内では、圧倒的な少数である。9月19日夜、小泉首相は首相官邸で緊急記者会見をおこない、海上自衛隊のイージス艦を情報収集のために派遣することを発表した。これ以外にも、自衛隊が医療、輸送・補給などの支援をできるような措置を講ずるとか、国内の米軍施設や重要施設の警備を強化するための措置を講ずるとも語った。このような「米軍に対する協力法案」が成立する見通しである。
 今回のテロ事件にたいして、アメリカを全面的に支持する姿勢を、小泉首相は表明してきた。しかし彼の頭のなかに、日本の平和憲法が存在しているのかどうか疑問だ。事件の翌日、福田官房長官が「日本は日本の憲法の範囲の中で、でき得ることは最大限やる」とあらためて憲法を強調したが、アメリカがどんな作戦をとるのかをはっきりしないうちから、「全面的」などというのは、軽率のそしりを免れない。
 アメリカの国際政策そのものが生みだした、ともいえるテロルにたいして、日本の首相はなんの見識もしめさず、ただブッシュの「戦争だ」という叫びに「そうだ」と大向こうから声をかけただけ。この軽薄さは、国を誤った方向に導いていく。
 日本国憲法は、武力によって紛争は解決しないことを高らかに宣言している。19日の記者会見において小泉首相は、「憲法の前文には、『国際社会で名誉ある地位を占める』とうたっている」などと、憲法前文を引用した。しかし憲法は非武装主義を堅持することによって「名誉ある地位を占める」と宣言しているのであって、ほかの国の戦争に加担することが「名誉」になると書いているわけではない。

■火事場泥棒が戦争を準備する

 世界最新鋭の情報艦であるイージス艦の派遣は、日本がアメリカの戦争の「下請け」になることである。イージス艦のコンピュータシステムで情報を収集するには、アメリカの攻撃システムと密接な連携を取らなければならない。武器や弾薬などの軍事物資を供給するのに匹敵する情報戦参加といってもよい。情報収集という名目なら自衛艦の派遣も可能だと防衛庁は考えていたとの報道もある。しかしイージスの扱う「情報」は、攻撃に直結する。米日共同戦線の実施は、「集団的自衛権」の発動であって、とても平和憲法下で容認できるものではない。
 いま政府内では、後方支援の法を整備するなどと騒ぎ、憲法の枠組みを超えようとしている。しかし国際的な名誉を考えるなら、日本にできることとできないことを明確に主張し、平和のためになにができるのか(たとえば、非戦の国として交渉の仲介をするなど)、具体的に提案していくべきである。まして混乱に乗じて、主権を抑圧する有事体制の整備までしようとする政府にたいしては、強く批判せざるをえない。
 そもそも日本政府がしめした「戦争はしない、しかしテロリズムとは戦う」という論理は奇妙である。アメリカは今回のテロリズムを「戦争状態だ」と表現し、首謀者とその支援国に圧倒的な攻撃を加えようとしている。この攻撃に加担する日本は、戦争参加ではないと強調している。テロリズム根絶への戦いに参加したという名目が、既成事実として、これから戦争への協力にエスカレートしていくことを、私は恐れている。
 アメリカはアフガニスタンへの攻撃方法をあきらかにしていないが、地上戦の可能性は少なくない。この地上戦に陸上自衛隊を派遣した場合、後方支援という名目はなんの意味ももたなくなる。武力で圧倒的に劣るタリバンは、地形を利用しゲリラ的な戦法を選択してくるだろう。そうした状態で、どこが「前方」でどこが「後方」になるのか。運搬や補給の業務は、完全に戦闘状態に巻き込まれる。どこが戦場になるのかわからないという場所に、自衛隊を派遣するのは、すでにPKFの発動とおなじことであり、日本の憲法の枠内では考えられない集団的自衛権の発動となる。
 また今回の事件で、日本の米軍基地がいつ攻撃されるかわからない恐怖があきらかになった。沖縄や三沢などにある巨大米軍基地の警備は、事件後急速に厳格化された。こうした情況を利用して、自衛隊が米軍を警備できるよう小泉内閣は法律を準備している。自衛隊の国内出動を、どさくさに紛れて認めさせるつもりだ。
 こうした火事場泥棒的な小泉政権のやり方の汚さについては、マスコミも批判を明白にすべきである。ところが、『読売新聞』の20日の社説においては、「内向きの議論にしてはいけない」というタイトルで、「首相が今、決断すべきは、集団自衛権に関し、『持ってはいるが、行使出来ない』という政府の解釈を改め、行使できることを内外に明確にすることだ」と書いている。つまり集団的自衛権の行使を煽っているわけである。
 また「緊急立法の論議でも、同様の流れになっている。国際的には通用しない内向きな論議に終始すれば、日本が出来る支援も限られている」とも書いているが、日本は戦争しない国だと世界に明言しているのだから、それにのっとって協力の形を考えていくべきであろう。
 今回、大きな問題として浮かび上がったのが、原発である。ニューヨークの貿易センタービルにたいする攻撃がしめすとおり、その国の象徴的な存在や攻撃に弱い施設がテロルの標的となる。アメリカと一心同体の政策をとっている日本で、原発は標的として申し分ない存在になる。
 六ヶ所村の核燃料サイクル施設(ウラン濃縮工場や再処理工場など)は、三沢基地を発進した戦闘機が激突しても耐えられるほどのコンクリート強度をもつといわれる。しかし巨大な航空機が突入することなど想定されていないし、原発の屋根が側壁ほど強くないという問題もある。日本各地の原発は、テロによって死の灰をまき散らす可能性をもちつづける。その被害は、チェルノブイリ原発事故を上回ると予想される。

■破壊されたアメリカの安心感

 一般市民を巻き込んで膨大な死傷者を発生させたテロ事件は、もちろん許されるものではない。内ゲバやテロルなど暴力によって解決しようとするあらゆる政治行動に、私は反対している。ただアメリカが各地でおこなってきた戦争行為、たとえば中南米の政権にたいする武力での鎮圧や中東での戦闘行為、あるいはかつてオサマ・ビンラディンの武装化に協力していた皮肉な行為も批判されるべきものである。
 こうした力による政策は、絶対にアメリカは攻撃されない、という安心感の上になりたっていた。大都市ニューヨークがいきなり攻撃された光景は、一般市民が犠牲となる悲劇を改めて世界中にしめした。広島・長崎の原爆投下などをふくめ、戦闘で一般市民が殺されてきた歴史的な事実について、アメリカをはじめとする多くの国々が反省しなければならない。日本もまた、反省と同時にこうした悲劇をなくすために、なにをすべきなのかを提案すべきである。
 いつどこで発生するかわからないテロリズムにたいして、武力の防衛は限界がある。「全米ミサイル防衛システム」(NMD)でロケットによる防衛網をハリネズミのように張り巡らせれば問題は完成する、と考えていたブッシュ政権に今回のテロは冷水を浴びせた。
 テロリストの憎悪は、これまでアメリカに抑圧されてきた怨みを支持母体にしている。つまり、その支持母体がなくなれば、テロリストの存在もなくなる。憎悪をなくすには、あらゆる問題を力で解決するアメリカ独自の発想を変えていくしかない。
 地球温暖化の問題、アメリカの市場での独り勝ちをつくりだすグローバリゼーション、ダーバンでひらいた国連の人種差別撤廃会議の決議に参加しないなど、独りよがりの政策を見直す必要がある。
 アメリカが平和に貢献するためには、まず自国の軍事基地を世界からすこしずつ撤収することである。またパレスチナの独立を認めるというような柔軟な外交政策も必要とされる。エルサレムの街角では機関銃の台座を据えてイスラエル兵が警備している。このようなパレスチナ人にたいする過剰な抑圧が、子どもたちまで参加するインティファーダ(抵抗運動)を生んでいる。
 インティファーダとテロルとを混同するわけではないが、このように憎悪の石が積み重なって、今回のような大量殺人のテロルが生まれたというふうに考えることが必要だ。

■容疑者の生首を取ってこい!

 9月20日現在、今回のテロルがオサマ・ビンラディンによって引き起こされたという明確な証拠はしめされていない。証拠がないのに、アメリカは軍事行動を開始している。容疑者の生首を取ってこいと指示しているのだが、それは裁判にもかけずに死刑にするようなものだ。 このように目には目をの方法で解決するのではなく、もし、オサマ・ビンラディンが事件に関わっているとするならば、粘り強い外交の力と国際世論によってタリバンに引き渡しを求め、そして逮捕した容疑者を国際刑事裁判所(ICC)にかけ、世界にその犯罪性を証明する手順が必要だ。
 今回のテロルのアメリカ国民にたいする肉体的あるいは精神的な打撃の大きさは、原爆と阪神大震災の惨事を経験した日本人は、あるていど想像できる。しかし、いま危険にさらされている、自由と豊かさの生活が、これまでのアメリカの軍事力を背景にしてつくられてきたものであるというゲリラ側の批判も、今回の事件を通して理解する必要があると思う。そうした相互理解にむかう道が、このような凶暴なテロルを防ぐ最大の解決方法だと思う。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/不機嫌な喜劇役者の逆襲

■月刊「記録」2001年4月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 森喜朗首相の茶番につきあうのも疲れてきた。辞任は織りこみずみだが、茶番は悲劇的になりそうだ。
 野党からだされた森の不信任案にたいして、反対票を投じた自民党や公明党の議員は、「不信任案には反対したが、信任ではない」と、わけのわからないことを口走っている。森自身も「いま辞めるとはいっていないが、この先辞めないとはいっていない」などとわめいている。総裁選の前倒しというスケジュールの発表が辞意表明になっている、という宴会での腹芸が、日本の首相の表現だから、国民をバカにしている。
 米国のブッシュ大統領のもとへ駆けつけたりロシアのプーチン大統領などとも会談にいくという。これなど脳死した首相が、亡霊のように旅行に行くだけの話である。おそらく機密費の予算もまだ残っているだろうし、新たに予算も計上されているから優雅に外遊するつもりなのだ。
 心配は税金のムダばかりではない。そもそも決定権のない人間が一国の大統領に会うことなど、日本にとっての屈辱外交そのものである。執行権のない首相が成立させた「空洞化予算」さえ、国民には我慢ならないのにである。心配なのは、実力がない分だけ強がりたい森が背負わされてくるお土産だ。米国は軍事の負担をさせたくて待ち構えている。「有事体制」もそうだ。飛んで火にいる夏の虫である。
 このドタバタ劇の陰で、自民党および連立与党にたいする批判を封じようという策動がおこなわれている。将来にわたって言論を統制しようというのだから、影響はきわめて大きい。一昨年に成立した盗聴法(通信傍受法)は、去年8月から施行されている。これにくわえて個人情報保護基本法案や青少年社会環境対策基本法案、さらには人権救済機関の設置案など、メディアにたいする規制は矢継ぎばやに撃たれている。

■亡霊の復活

 最近になって自民党がもちだしてきたのが、放送活性化検討委員会である。ことしの2月7日におこなわれた初会合では、「最近は自民党批判が目に余る」「強く抗議して、その対応をインターネットで流すべきだ」「訴訟に出て、判例を作り上げることが大事」という過激な議論もおこったという。
 この委員会は、古賀誠幹事長の肝いりでつくられた。服部孝章立教大教授は連載している記事上で、次のように委員会の危険を伝えている(『毎日新聞』3月13日)。
「議論の対象を放送分野にとどまらずマスコミ全般にし、新聞雑誌などの再販制度の廃止を求める意見が出たという。
 熊代氏(昭彦委員長)は、同22日放送の国会TV『政治ホットライン』に出演した際、『誤った報道で甚大な被害が出たら、その問題番組を1日から1ヵ月放送停止にできるよう放送法を改正したい』と明言した」
 そもそも自分を批判する者を法律で罰せよ、と叫ぶ政治家が出現するなど、許されるものではない。明治時代に猛威をふるった新聞紙条例や戦時中の治安維持法の亡霊が、またぞろ動きだしたといえる。
 テレビ・ラジオなどの放送は、放送法によって免許事業にされている。その許認可権をもっている政府機関に、放送メディアはきわめて弱い。こうした制度を見越して、都合の悪い番組を恫喝する言論弾圧は、いまでも公然とおこなわれている。
 放送にたいして、政府と政権党幹部が公然と介入を表明するなど、おなじ党の政治家として致命的なはずだ。ところが自民党内では、いっこうに気にもとめていない。それほど、民主党をはじめとした野党はナメられ、無視されているのである。
「(1)公平中立性が守られない場合は抗議、訴訟で対応する。(2)テレビ出演を幹事長の許可制とする。(3)自民党独自のテレビ局を持つ――などの意見が出ており、放送法改正も視野に検討を進める」(『毎日新聞』01年2月8日)
 このような発言が委員会で堂々とでてくるところに、自民党の自民党議員たる理由がある。気にくわない報道は、公正中立性が失われているという発想こそ、権力的な偏向である。
 だいたい放送活性化検討委員会という名前からして国民をバカにしている。規制が放送を活性化することなどありえない。国鉄の「人材活用センター」とおなじいい方だ。大衆欺瞞のやり口である。
 こうしたマスコミにたいする法規制が、深く静かに進行していることをよくあらわしていて、最近の森ダルマ首相は、ほとんど記者には対応しない。ひたすらダンマリを決め込んでいる。
 たとえば『朝日新聞』に連載されている「首相のことば」(3月15日)によれば、
「記者:問責決議否決のコメントをいただけないでしょうか。 
  首相:……。 
 記者:失礼ですが、総理自身、釈然としない思いをお持ちなんでしょうか。 
  首相:……。
 首相:(秘書官に向かって)こうやって(記者以外に)話しているのも(記事に)書いてしまう。昨日もだめだって言ったんだよ。それはルール違反だ。だからもう記者とは話さない。 
 記者:それがきょう話さない理由ですか。 
  首相:……」
 このように首相は、「よらしむべし、知らしむべからず」という政治手法をひたすら実践している。首相が率直に語りかけてこそ、民主的政治姿勢がしめされる。森のダンマリは、判断停止のデクノボウが、完全に居直っている凶暴さをあらわしている。
 だいたい、本人には記者の質問を理解する能力がないとはいえ、押し黙って押し通せればそれですむという態度が、国民をバカにしている。一方ではダンマリを決め込み、その裏では言論を封じようと奮闘する。どん底自民党の陰険な戦術が、ここにもよくあらわれている。

■すべてのメディアに法の網

 個人情報保護基本法案は、去年から内容が漏れ伝わってきていた。ここではプライバシー保護が大義名分となっている。しかし、プライバシー保護を声高に主張する自民党が、国民総背番号制を強引に推し進めた。個人に関する基本的データをコンピュータに一元化すれば、必ずプライバシーは暴かれる。個人情報をむやみにコンピュータに一元化しない。それがプライバシー保護の基本である。
 つまり今回の法案は、個人情報を政府の都合のいいようにデータ化できるようにしたあと、こんどはメディアを規制しようという代物だ。しかも「個人の権利利益の保護」などの美名を借りて、メディアに規制の網をかけようとしている。
 ことし2月24日に明らかになった法律の原案では、個人情報を取り扱う民間団体にたいする、行政の検査権限まで認められていた。さすがに3月に新聞報道された原案では立ち入りの権限が削除されたが、問題山積みである。
 3月3日現在、報道機関については、適用除外を雑則で認めている。ただし基本原則は適用するとしている。つまり「報道」の範囲を狭めれば、この法律による規制の対象にされてしまう。しかも免除の対象とした「報道機関」の例示には、なぜか出版社が入っていない。プライバシー保護という衣の下に鎧が透けて見える。
 盗聴法のときも報道機関への適用は、一応外された。もちろん報道機関を盗聴したり、プライバシーの侵害だとして罰を加えるのは大問題である。が、報道機関だけが救われれば、それでいいというものではない。個人が束縛されて、報道の自由などありえない。もしも新聞社が救われても、フリーのジャーナリストはどうなるのか。個人とみなされれば、いきなり罰則の対象にされる。 このようなファッショ的な法律が、政治的混乱のなかで秘かに準備されている。森はモグラたたきのウップンにされている。その陰にいるものが危険だ。
 青少年社会環境対策基本法案もまた、成立にむけて進んでいる。人権と青少年の保護という美名のもと、あらゆるメディアに規制をかけようという悪法である。
 たしかに報道被害はあいかわらずつづいており、マスコミの倫理も問われている。しかしそうした問題は、マスコミの内部での批判によって克服すべきもので、国家権力が土足で踏みこんでくるようなものではない。いかに日本で報道の自由が軽く見られているかを、こうした法規制案がしめしている。
 戦後の新聞・雑誌の歴史は、戦争中の検閲と弾圧の反省からはじまった。軍部の暴走を止められなかった報道機関の非力さと責任を感じ、特高などに逮捕され、虐殺された膨大な数の犠牲者をふたたび生みださないことを誓い、そこから出発したはずだ。
 とはいえ、日本の報道機関は、大きな欠陥を抱えながら言論の自由を標榜してきている。放送は放送法で、新聞は記者クラブ制度によって、官庁が統制できる体制にある。あと規制できないのは、僕たちフリーもふくめた雑誌ジャーナリズムだった。今回の法案は、ここにむけて手を伸ばそうとしている。個人情報保護基本法案は出版社をねらい撃ちし、青少年社会環境対策基本法案ではインターネットなども含めたメディア全般に縛りをかけようとしている。
 このようにテレビ・ラジオ・新聞・フリーライター、すべてに網の目をかけようとしているのが、自民党のメディア統制の欲望である。
 政権党である自民党が、メディアの規制に強硬になってきた経過は、政治家の発言からもよくわかる。たとえば去年の10月、当時の中川秀直官房長官が愛人にかけた電話の録音をテレビが放映した。これによって中川は辞任したのだが、当時の幹事長・野中広務はこういった。「本人かどうか、どう確かめたのか。マスコミの倫理と人権のあり方を真剣に考えていかなくてはならない」(『朝日新聞』10月28日)
 政調会長である亀井静香も、「一人の政治家を葬ろうという動きをマスコミがどんどん流したら大変なことになる。テレビには放送法もある」(『毎日新聞』2000年10月31日)
 彼ら森政権を作りだした闇の5人組のうちの2人が、森内閣の官房長官のスキャンダル暴露に激怒していたのである。そのあと中川ばかりか、森首相自身が右翼との交遊疑惑を報じられ、自民党議員はメディアへの苛立ちを強めていく。
 しかし、これは報道する側に問題があるわけではない。政治家が右翼とつき合いがあるということ自体、民主主義国家としての致命傷である。それを報じることは、民主国家をつくるための重要な仕事だ。
 野中も亀井もそのような政治家の倫理の厳しさについて、なにも考えていないようだ。あたかも泥棒行為を見付けられると、批判するほうが悪いとひらき直る「説教強盗」である。強権国家における政治家の発想である。 こうした政治家の姿勢が、いまの日本の暗さをあらわしている。森をあざ笑って不満を解消しているだけでは、日本の軌道修正はできない。ますます選挙民の奮起が問われている。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/ムダな公共事業が地域を殺す

■月刊「記録」2001年5月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 最近、ムダなカネ遣いの現場をいくつか歩いた。ひとつは、諫早湾の干拓事業である。総工費2490億円といわれるこの環境大破壊事業は、予想通り、有明海を汚染している。ところが、農水省の「調査検討委員会」は少なくとも一年間締め切りにすると発表した。この鈍感さは、致命的だ。
 たしかに防潮堤に近い漁民は、防潮堤の内側に堆積したヘドロが流れだして、漁場を壊滅させると開門に反対している。漁業権を手放し、生活のために干拓工事にでているひとたちの反対だという報道もある。しかし、いま辛うじて残されている漁場が、ヘドロによって完全につぶされる、という彼らの不安は理解できる。それにたいして、ノリなどを生産している佐賀県や福岡県など水門から離れた漁師たちは、有明海全体に汚染が拡大する事態に強い不安を感じ、より早い時期の水門開放を求めている。
 このように漁民同士の間で対立しているが、解決策はある。長期的には自然の浄化力をあてにできるのだから、いま防潮堤の内側に堆積されたヘドロを浚渫するなど、除去してから開放すればいい。干拓事業を中止して、その予算を海の浄化に使うべきだ。
 それにしても、なんの意味ももたない税金のムダ遣いであった。はじめは農地を作るといい。そのあとは防災事業だといい換えて、しゃにむにゼネコンのための工事を強行。環境破壊のためにムダなカネを遣って、地元住民を対立させただけだ。
 諫早湾の次に訪ねたのは、熊本県の川辺川ダムだ。工事によって壊滅状態になる五木村のダムの工事を見て回った。川辺川は球磨川に合流する清流である。絶滅も危惧される動植物が生きる地域に、巨大なダム本体の建設工事がはじまろうとしている。
 すでに付け替え道路や建設道路が造られ、五木村の住民たちはそのあおりをくらい、移住をはじめている。ダム建設によって五木村1000戸のうち500戸が水没する、という。
 国土交通省は、ダム建設は防災のための事業だという。しかし計画発表の66年よりも、10数年前から電力需要をまかなうために、発電用のダムを建設するプランがあった。それが防災用というオブラートに包まれて強行されているのは、農地開発事業が防災用に化けた諫早湾のやり口を踏襲している。
 電力用のダムが防災用に変わったのは、60年代前半に3年間、連続して発生した洪水が原因だった。そのあと、まだこじつけが足りないと思ったのか、灌漑をふくめて多目的ダムといい換えている。しかし、すでに周辺の農家は水源を確保していて、これ以上の水は必要ない。つまり農民のいらない灌漑用水を、巨大なダムで造りだすというデタラメである。
 防災にかんしても、必ずしもダムが必要ではない。そもそも洪水の原因は、上流の山林を乱伐したことによる土砂崩れだった。つまり上流の森林をいかに手当てするかが重要なのだ。当時、土砂崩れによって発生した流木が、川辺川支流に造られていたダムに堆積して水位を上げ、工事にいたったといういきさつまである。
 ダムですべてを解決するという発想はすでに破綻している。ダムは水が貯まれば放水するという問題もふくむ。ダムの放水によって、人が事故に巻き込まれたのは記憶に新しい。ダム建設こそが洪水を誘発する構造を生んでいる。
 結局、ダム建設のホンネは、ゼネコンの需要拡大なのだ。巨大な公共事業の浪費と政治家への環流が、ここでもまたおこなわれている。

■コスト削減が事故生む原発

 浪費のきわめつけといえば、六ヶ所村の使用済み核燃料の再処理工場だ。計画されたころには、再処理工場、濃縮ウラン工場、低レベル核廃棄物貯蔵所、いわゆる3点セットを含めて1兆円といわれていた。なんといまは再処理工場だけで2兆1400億円という金額になっている。
 さらにこれ以外にも、プルサーマル計画が立ち上がっている。再処理工場でつくられたプルトニウムを、既存の原発に使う計画であるが、その燃料工場だけで1200億円が必要だという。もっとも危険なプルトニウムとウランの混合酸化物(MOX燃料)をつくるために、これだけ投資するなど信じられない。
 さらに高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)が、2020年までに4万本でると推定され、この処分地の代金だけで3兆円かかるといわれている。
 つまり核燃料サイクルは、これから膨大な資金をむさぼり食らう。しかし電力会社の地域の独占体制は、自由化によって崩れ、電力会社の足元自体が危うくなっている。
 自由化の方針によって、電力会社はやっとコストを意識するようになった。しかし核関係のコスト削減は、先日のJCOの悲惨にあらわれているように大事故と直結する。JCOはコスト削減のために、バケツを使うという前代未聞の発想をつくりだした。
 最近は原発の老朽化が進み、それのシュラウド(炉心隔壁)の補修工事などがおこわれている。新規立地が難しくなったので、少しでも長く使おうという作戦である。これの作業によって発生するのが大量の被曝者だ。これまで隠蔽されてきた日本の被曝労働者が、ついに労働災害の適用を受けるようになった。
 まだ氷山の一角でしかないが、最近では福島第一、第二原発で働いた労働者が労働災害として認定されている。これは白血病を発症して、半年ぐらいの間に死亡した例である。この人の認定は日本の原発で5人目となった。これ以外にJCOの労働者が急性被爆者として3人いるので、被曝労働者として国に認定されたのはようやく8人になった。
 いままで隠蔽されてきたのだが、これから被曝量の増大によって、大量の被爆者が発生していく可能性がある。原発は国の核戦略によっておこなわれてきたが、ついに厚生労働省も国策の犠牲者を認めざるを得ない状況になってきた。
 日本政府は、これから核燃料サイクルによって大量発生し、行き場を失うプルトニウムを、MOXによって消費させるという姑息な手段を考えている。だが、これにたいして福島県と新潟県の知事は拒否を表明している。 最近では、電源三法の交付金も浪費してしまい、新たに地方交付税を申請する自治体が増えている。再建団体指定に転落する恐れの自治体もでてきている。これまで造ったハコモノ(体育館や公民館など)の維持費が、財政逼迫の大きな理由である。
 原発がもたらすカネは、地方を豊かにはしない。こうした状況に気付いた地方自治体は、これ以上の危険をいやがってプルサーマル計画に疑念を示すようになった。福島県知事は1年間の凍結を打ちだし、つづいて新潟県もすでに搬入したMOX原料の装荷を認めていない。福島が実施したあとでないといやだ、というのが新潟県知事のいい分である。危険な廃物利用、プルサーマル計画は、この2人の知事によって歯止めがかかっている。
 すでに原発は行き詰まっている。使用済み核燃料は日々増大の一途をたどり、置き場に困っている原発会社は、プールの増設を要求しはじめている。核高レベル廃棄物を最終処分地に移すまでの中間貯蔵所建設も、焦眉の課題になっている。産廃以上の危険な高レベル廃棄物は、移動させないのが一番安全だ。

■コソドロを繰り返す隠蔽体質

 コストアップ、廃棄物処理、被曝労働者の難問は、住民をカネで黙らせてきた乱暴な開発のツケである。そうした腐った体質が、先日、ヤミ給与事件として発覚した。旧動燃とそれを引き継いだ核燃料開発サイクル機構では、事業費を給与に充てていたという。つまり事業を喰ってしまったわけで、普段おこなわれている事業が、いかにムダだったかを明らかにしている。
 旧動燃は高速増殖炉もんじゅのビデオを隠したり、再処理工場の事故でもデタラメ報告をしたりと、さんざん批判されて名前を変えた。実態は変わっていないのだから、秘密主義の陰湿体質は、改善されるわけがない。
 これは旧動燃だけの問題ではなくて、原発全体の欠陥である。すでに建設段階から、原発隠しで用地を買収するというコソドロのようなやり方が当たり前になっていた。用地買収の欺瞞だけではない。漁業権放棄にむけた漁業組合の買収や工作手段も、きわめて陰険なものであった。そして事故隠しに、給与ドロボウ。原発会社は闇の集団である。油断も隙もない。
 これから自由化もはじまり、天然ガスによる火力発電、あるいは燃料電池、風力などの新しい発電が一層進展する。ムダだらけの原発が、コストで対抗できるはずがない。再処理工場を建設されている六ヶ所村では、米国が本社のエンロンの関連会社が、天然ガスによる200万キロワットの大型火力発電所を建設すると発表した。
 こうした外国からの進出は、今後さらに進んでくる。原子力産業も効率化の波に煽られることになろう。すでに原発プラントを生産する電機メーカーにとって、原発はお荷物になりはじめている。ITの新規需要にむけて設備投資が必要な電機メーカーが、発電プラントの赤字によって足を引っ張られるという皮肉な状態がある。
 もしも、たとえ再処理工場が100パーセント安全である、といったにしても、すでにそのコストはフランスの3倍と推定されている。それだけのバカげたコストアップを認めてまで、プルサーマル計画を進めるのか。バカはやめたほうがいい。
 自民党の政治献金を請けてきた銀行やゼネコンなどが優遇され、国の金庫に穴をあけてきた。そうした企業が、その上がりをまた自民党政治家にもどす。こうしたムダ遣いのサイクルは、国民の目にも明らかになり、自民党候補の落選が各自治体でつづいている。
 このまま諫早湾干拓、川辺川ダム建設、六ヶ所再処理工場の建設など、バカげた投資が進められれば、自民党の崩壊はさらに進む。自民党がどうなろうと知ったことではないが、ムダはストップして、引き返す勇気が必要だ。
 神戸市の市営空港の虚大開発、あるいは自衛隊の空中空輸機の購入など、まだまだ監視すべきムダは多い。孫の代まで残る巨大債権をどう解消するのか。あるいはあらたな日本をどうつくるのか。ムダだらけの公共事業をストップさせる。そこから世直しの道がひらかれる。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/ライオンヘアーに隠されたタカ派・小泉の危険

■月刊「記録」2001年6月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■中曽根稚児政権

 おおかたの予想に反して、小泉内閣が誕生した。成立当初の支持率は、各マスコミの調査で80パーセント以上を記録した。これは小泉純一郎人気の高さをあらわしたものだと伝えられているが、純粋にそうともいいきれいない。竹下内閣と並ぶ、史上最低9パーンセントの支持率を誇った森喜朗前首相への反動である。人間あまりにもひどいめに遭えば、予想外のなにかに期待したくなるものだ。
 高支持率で調子にのった小泉は、「新世紀維新」や「改革断行内閣」はては「政権交代のようなもの」と、自らの内閣を自画自賛している。また首相に就くと同時に首相公選論をテコにした改憲をブチ挙げている。断末魔の自民党は、「調整型」の総理から、「アジテーター型」への転換によって生き延びようとしている。
 藪から棒の首相公選論が、国民から支持されている理由は、デタラメだった前首相がちっとも退任に追い込まれなかった苛立ちからで、本気で考えているわけではない。
 忘れてはならないのは、ほとんどのひとたちをイライラさせた首相を支えていたのは、ほかならぬ小泉だったことだ。森派会長として忠義を尽くし、森がどんなに批判されても国民に敵対して森政権を支えつづけた。バカを支えて自分の人気取りに利用するなど、国民を愚弄するにもほどがある。
 まちがっては困るのは、小泉を支持する投票をしたのは国民ではなく、自民党員である。いわば特権階級内の選挙で選ばれたのだ。くたばれ!自民党の党員たちは、7月の参院選挙で負けると利権構造が解体される、という危機感から、「改革断行」を強調する小泉を支持したにすぎない。
 だいたい小泉の語る「改革」は、歴史を逆行する改悪でしかない。彼が総裁選挙中からわめいていた靖国神社の公式参拝など、戦前回帰そのものである。靖国神社は、軍国主義の象徴であるばかりではない。政教分離を定めた憲法20条に違憲するとして、公式参拝がつねに問題になっていた場所である。
 それを彼は、「日本の発展は貴い命の犠牲の上に成り立っている。戦没者慰霊祭の日に、そういう純粋な気持ちを参拝で表すのは当然ではないか」と、新総裁会見でいいはなった。「(公式参拝は)違憲の疑いを否定できない」との80年の政府統一見解をうち捨て、憲法違反を承知で参拝しようとしている。
 首相公選論、あるいは靖国参拝強硬で思いつくのは、中曽根康弘“大勲位”である。彼も若いときから首相公選を唱え、首相になってから靖国に公式参拝し、世論から批判されたことがある。この中曽根と森と石原慎太郎、いわば自民党右派勢力の謀議が、小泉の総裁選に大きな影響をあたえたことを忘れてはいけない。
 森は、青木幹雄、野中広務、村上正邦、亀井静香など自身をふくめた5人組によって首相におさまった。小泉の場合も、おなじような密談が都内の料亭でおこなわれたのである。
『朝日新聞』4月25日号によれば、「橋本君はかわいくない」と中曽根は森に語ったそうである。つまり小泉政権は中曽根にかわいがられた「中曽根稚児政権」といってもいい。
 こうして、小泉は、「右翼片肺内閣」をつくりあげた。
 防衛庁長官に起用された防衛大学出身の中谷元は、憲法改悪論者である。政調会長の麻生太郎は、総裁選で9条書き換えを言明していた。自民党幹事長の山崎拓などは、いまや公然と憲法改悪をブチあげ、「改憲して集団的自衛権を行使すべきだ」などとほざいている。小泉だって負けてはいない。
「集団的自衛権はあるが行使できないというのが今までの解釈だ。私は憲法改正が望ましいという考えを持っている。国益に一番大事なのは、日米の友好だ。日本近海で共同活動している米軍が攻撃を受けたとき、日本が何もしないことができるのか。すぐに憲法解釈を変えろということではないが、あらゆる事態を研究する必要がある」
「『憲法はこうすれば改正できる』と国民に理解されやすいのが首相公選制だ。ほかの条文は一切いじらない。具体的な改正で、改正手続きも鮮明になる」(『朝日新聞』4月28日)
 首相就任するやいないや、憲法改憲を公言したのは小泉が最初であった。しかも集団的自衛権の行使、つまり米国と一緒に戦争すると公言したのである。首相公選論などネズミ取りの毒まんじゅうである。

■この女性入閣でなにが変わる?

 このように危険な内閣の登場を、マスコミはさっぱり批判せず、バンザイ報道するのは犯罪的だ。なんとか不況を脱してほしいという庶民の期待を小泉にむけさせ、担ぎ上げている。眼くらまし報道だ。
 組閣当時、『毎日新聞』は一面に大きく女性閣僚5人の写真を入れて、小泉内閣の登場を祝った。女性が入閣したのは評価すべきことであったにせよ、まるで奉祝新聞だった。
 国土交通大臣の扇千景は、いわずとしれた改憲論者。法務大臣の森山真弓は、労働省の官僚出身、死刑執行について、「法秩序の維持が必要な場合はやむを得ない」と言明した死刑断行派。文部科学大臣の遠山敦子は文化庁長官だった人物で、教育基本法の改革路線をつづけるという。環境の川口順子大臣は、旧通産省の審議官で環境破壊を推進してきた官庁の幹部である。田中真紀子は、いわば小泉人気の生み母でもある。
 5人の女性が閣僚に選ばれたのはいい。しかし、これでなにが変わるのだろうか。
 おなじ『毎日新聞』でも、5月11日の記事は眼をみはるほどで、「『改憲内閣』の様相 小泉首相、9条に踏みこむ」と見出しを掲げた。大新聞には珍しく代表質問の本質をズバリと付いた記事であった。『朝日新聞』などと比べても、きわめて明確な紙面づくりだといえる。さらに「小泉首相の改憲発言の変遷」という欄までつくり、彼の危険な思想をあきらかにした。
 小泉首相は、9条および前文の削除をターゲットにしている。憲法改正手続きの簡略化も、自民党内で企てられている。かつては石原慎太郎が唱えていたが、いまは幹事長の山崎拓などが「憲法改正を発議する要件としての国会議員の3分の2以上の賛成を、過半数の賛成に緩和すべき」などと発言している。こうした内閣が、どうして80パーセント以上の拍手によって迎えられるのか。人気に迎合し、危険性を指摘できないマスコミの怯懦は、歴史に禍根を残す。
 自民党が突出した異常な状態にありながら、最大野党の民主党は対決姿勢を明確にしていない。民主党自身内部に改憲論者を抱えているからである。鳩山由起夫代表からして、改憲論者であり、幹事長の菅直人も「改正議論をタブー視はしない。国民的な合意が得られる課題から改正していくというのはひとつのやり方で、9条改正の突破口になるから反対という意見にもくみしない。憲法を自分の力で変えられるかどうかは、日本の民主主義の強さが試される問題だと思うからです」と『朝日新聞』(5月14日)のインタビューに答えている。「柔軟」な姿勢での対応は、党内世論の反映である。自民党のように、政策抜きの野合集団でしかない民主党の弱点が憲法問題に極端な形であらわれている。

■弱肉強食政策が日本を失業者だらけに

 首相に就任して以来、小泉が強調しているのが、「構造改革」である。「構造改革なくして景気回復なし」という発言を、なんどとなく繰り返している。では、景気回復の目玉である経済改革とは、どんなものか。
「構造改革を実施する過程で、非効率な部分の淘汰が生じ、社会のなかに痛みを伴う事態が生じることもあります」
 この発言は、小泉の所信表明演説で語られたものだ。読めばわかるとおり、彼の経済改革は弱者切り捨ての論理であり、強者にくみしたグローバリゼーションへのシフトを明確にしている。つまり大企業バンザイ主義である。いかに大企業の暴走をチェックして、国民の生活を安定させていくかという視点を、まったく欠いている。 さらに驚くべきことには、終身雇用制の抜本的な見直しを厚生労働省に指示している。
①2、3年の期限付き雇用の対象拡大
②解雇ルールの明確化
 これらの方針は、生涯雇用を中心にした現在の雇用制度を抜本的に変えてしまう。2~3年の雇用が広がるということは、2~3年でクビにされるのが前提の、いわば一億総臨時工化となる。解雇が全面的に進められていくことになる。彼の経済改革の本質は、ここに見事にあられている。こんな政策で景気が復活するはずもない。 最近の欧州の政策は、いかに雇用をつくるのかが重要視されている。ドイツやフランスなどで雇用が急速に改善してきているのは、ワークシェアリング、つまり仕事の分かちあいによるものだ。
 フランスでは、週35時間労働制となり、法定労働時間はさらに週4時間も減らされた。ドイツでも長期失業者の再雇用プログラムが実施され、あらたに雇用された労働者の賃金の半分は、地元の労働局が補助する政策をとっている。
 労働時間を短縮し、その分だけ雇用を増やす。あるいは失業者を公的な仕事によって救う。こうした先進国の分かちあい政策と逆に、小泉の解雇政策は失業者を増大させていくだけだ。
 また、彼が断行しようとしている不良債権の最終処理にも、多くの危険がある。都市銀行などが抱えている不良債権を処理するために、融資先の企業を整理すれば、ゼネコンなどの倒産が急激に進む。一説には、建設業だけで50万人以上の失業者が生まれるという。このように弱肉強食の改革が、国民の生活にプラスとなることはありえない。
 今回の組閣で経済財政政策担当大臣となった竹中平蔵は、ソフトムードで人気も高い。しかし、もともと森内閣の経済担当顧問として働いていた「教授」であり、現実についてはなにも知らない。金もち優遇政策も変わらない。ソフトイメージとは裏腹に、極端な弱肉強食主義者である竹中は、労働者をどん底に突き落とすだろう。 小泉政権が掲げる前近代的な政策が「構造改革」という名によってもちあげられているのは、マスコミの犯罪行為である。内閣誕生当初のご祝儀記事はいつもの例だが、そろそろ小泉内閣の問題点を書かなければ、ジャーナリズムなど存在理由はない。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/日本を覆う言論弾圧の影

■月刊「記録」2001年8月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 言論にたいする自民党などからの攻撃が急速に強まってきている。これは、80パーセント以上の支持率に増長した、強気な政府の汚水からわきだしたボウフラのようなものである。ハマダラ蚊になる前に、極力、退治する必要がある。
 7月7日、横浜市神奈川区でひらかれた旧日本軍の性暴力問題を考える集会では、聴衆が大騒ぎして、暴力をふるう事件が発生した。『神奈川新聞』(7月10日)によると、日中友好神奈川県婦人連絡会が主催したこの集会では、まず「女性国際戦犯法廷」の記録映画を上映し、そのあと評論家の松井やよりさんが公演する予定だったという。
 ところがビデオ上映の途中で、会場にいた男女12~3人が「国賊だ」、「インチキ裁判だ」などと怒号をあげて騒ぎだし、ビデオの音声が聞こえなくなる状態となった。主催者が静かにするように求めたり、退場を求めても応じない。そのうち1人の男が飲みかけのお茶の缶を、参加者に投げつけ、それが主婦(64歳)の口に当たってケガをしたという。これで松井さんの講演会も中止となった。
 まさに暴挙である。戦後の歴史のなかでも、暴力行為によって集会が中止に追い込まれた例はさほどない。まして「女性への性暴力」をテーマにした集会で、聴衆の中に紛れ込んでいた連中が暴れるなど聞いたことがない。それでなくとも最近、従軍慰安婦問題への反撃が強まっている。こんご、おなじような集会が狙われるのかと考えると、暗澹たる思いである。
 先日、都内を歩いていると、右翼の宣伝カーが参議院選挙について演説していた。小泉が圧倒的支持を受けている現在、憲法改正するチャンスだ、と彼は絶叫していたのである。
 このように小泉があらわれることによって、さまざまな反動がムクムクと頭をもたげている。あたかも民主主義のフタを外したかのようだ。言論、表現にたいする攻撃は、歯止めがきかない。

■名誉毀損が逮捕か、巨額な賠償に

 7月7日には、宮崎県でも事件が発生した。破綻した大型リゾート施設・シーガイアを視察にきた石原慎太郎都知事が、記者を恫喝して記者会見会場から退場したのである。翌日に予定されていたヨットレースについて、テレビ記者が公務との関係を質問。これに怒った慎太郎は、「君ら(報道陣)が悪い。帰る」と怒鳴りつけ、会場から立ち去った。
 以前、「三国人発言」を書いた記者にたいしても、彼は名指しで記者を批判し、きわめて権力的に恫喝を加えている。宮崎でもおなじようなことをしたわけだが、思い上がりもはなはだしい。政治家は、公人として、疑問を質されたら答える責任がある。それなのに彼は、憤然として席を立って質問を無視し、あろうことか脅しまでかけた。
 そのごの新聞記事でも、報道にたいする攻撃だという論調はほとんどみられなかった。権力者の言動を規制するのがジャーナリズムであり、攻撃がきた場合、ジャーナリストは一致して抗議・反撃をすべきである。記者たちにこのような危機感がまったくないことこそ、危機的状況である。ヨットレースの実行委員会がテレビ局に抗議し、局の幹部が謝罪しているのは、本末転倒だ。
 また、ことし5月末には、化粧品会社のDHCが『週刊文春』の記事にたいして、10億円の損害賠償を求め、名誉毀損訴訟を起こした。週刊誌に掲載された記事の損害総額が、10億円に膨れあがるなど前代未聞である。
 これだけ高額となれば、出版社への圧力は大きい。報道機関は情報源を秘匿しなければならず、裁判では必ずしも十分な証拠を提出できない。とくに内部告発によって記事が書かれた場合、告発者の生活を守るためにも彼らの出廷は諦めざるを得ない。裁判費用に糸目をつけない企業や政治家が、こうした高額の裁判をまねれば、出版社や記者にとって大きな脅威となる。
 さらに7月4日には、『噂の真相』の岡留安則編集長にたいし、検察側は名誉毀損罪で懲役10ヵ月、社員の編集者に懲役6ヵ月を求刑した。ついに日本も言論にたいして刑事罰を加える時代となったわけだ。名誉毀損における損害賠償の巨大化と刑事事件化は、これからの報道にたいする大きな規制となる。
 週刊誌やフリーライターを狙い撃ちする「個人情報保護法案」が準備され、テレビ番組やインターネットなどにたいしては「青少年社会環境対策基本法案」による規制が検討されている。たしかにデタラメな記事や名誉毀損、過激な性や暴力表現が、売らんかな主義のなかで存在している。しかし、それにたいして国家が介入して刑事罰を加えるなど、許されるものではない。

■国の認識を表明した検定制度

 先月この欄で取りあげた教科書問題でも、言論への圧力がはじまっている。
 7月8日の『産経新聞』によれば、テレビ朝日系で放送している「ニュースステーション」でコメンテーターを務める清水建宇氏(朝日新聞編集委員)が、「子供たちをそんな大人にしたくないという保護者と先生たちは今立ち上がって声を上げたほうがいいです。この教科書は嫌だと」と発言。これにたいして「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが、総務省に処分を要請する申し入れをしたという。
 歴史を捏造している教科書を採択しないようにという発言は正しい。各中学で採択の動きがひろまれば、外交にも重大な影響をあたえる。にもかかわらず、放送法に違反するなどとして、お上に注進するなど、彼らの言論弾圧体質をよく示している。こうした連中の悪ノリこそ、日本の社会が戦前の体質にむかっていることを、よくあらわしている。
「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書は、戦争への情熱を駆り立てるものでしかない。たとえば特攻隊や沖縄のひめゆり部隊の死は、もっとも悲惨な死であり、強制された死である。この事実を美談化しようという精神で、教科書がつくられていた。だからさまざまな問題がおきる。
 日本の軍隊によって侵略された国の人たちが、侵略の歴史を美化した教科書だと感じているのは真実だ。こうした批判にたいして、政府は真摯に耳をかたむけるべきである。しかし政府の対応は、いわば切り捨てゴメンというものであった。中国と韓国の修正要求にはゼロ解答。これは両国の歴史を戦中、戦後にわたって足蹴にするものだ。
 たとえば韓国併合を侵略ではなく、国際的に認められた行為として記述した、と韓国は抗議した。これにたいして日本政府は、「韓国内の反対を、武力を背景におさえて併合を断行した」という教科書の記述を根拠に、「明白な誤りとは言えない」と結論づけている。
 また日本の植民地政策としておこなわれた鉄道や灌漑施設の整備が、あたかも朝鮮住民のためにおこなわれたかのように書かれた部分についても、「明白な誤りとは言えない」と日本政府はいい切っている。
 おなじく日本が朝鮮を植民地としていた時代の記述で、人民から収奪した記述がないという韓国からの批判にたいし、日本政府は「どのような内容を記述するかは、執筆者の判断にゆだねられている」などと、あたかも「つくる会」を擁護するようないい訳を開陳している。
 歴史の事実を率直にみとめない行為は、これから恐るべき日本人をつくることだろう。戦後56年をへようとしているのに、いまだに侵略した事実をうやむやにしようとするなどは、相手国が侵略を正当化していると感じて当然である。
 ドイツではいまなおナチスの責任を訴追し、その賠償金を払いつづけている。日本政府は、このような解決策のツメのアカでも飲んだらどうだ。
「つくる会」の教科書問題は、検定制度の問題も含んでいる。検定とは国家が表現の自由を規制したものだ。つまり国のお墨付きをもらった内容だけが、記述されている。国の認めた内容が相手国のプライドを傷つけるなら、日本国が挑戦・挑発していることになる。
 私は検定制度には反対しているものである。しかし、現実的に国家の意思が教科書に貫徹されているならば、それは検閲であり、書いた内容に国家が責任を負うべきである。それができないのなら、検定をやめるべきだ。 もしも教科書の検定制度がないならば、それは著者個人の表現の自由であり、中国や韓国もいちいち批判してこないはずである。両国が批判の対象としているのは、国のお墨付きによってあきらかになった国の認識だ。検定していながら筆者に表現の自由があるという論理は、責任逃れというしかない。
 さらに侵略された当事者がこれだけ批判する教科書を、地方自治体が採用するのは、中国や韓国にたいする敵対行為ともいえる。栃木県の下都賀採択地区では、採択協議会が教科書を採択する決定をした。しかし教育委員会の意見によって、今回の採択は見送られる公算が大きくなった。
 教科書が実際に採択されることになれば、さらに悪のりした内容になるであろう教科書指導書が教員の手に渡る。このような強権国家にむかう教育を許さないためにも、「新しい歴史教科書」という名の「ウルトラ・アナクロ教科書」は、不採択しつづけることが必要だ。
 80パーセント以上の支持率を隠れ蓑に、小泉純一郎首相はファッショ的な道をまっすぐに進んでいる。なぜか国民に大好評の「痛みをともなう改革」は、国家強化のための労働者と零細企業の切り捨てでしかない。
 もちろん軍国化も着々と進んでいる。
 7月16日の『日本経済新聞』によれば、自衛隊の領域警備で不審船への船体射撃を認めるよう法改正が進められているという。原発などの警備体制を強化しようという名目らしいが、ようは有事法制の準備である。
 99年3月、日本海にあらわれた不審船に攻撃をくわえた事件では、武器使用規定が働いた。しかし法改正が決まれば、自衛隊の攻撃は合法化される。事実上の憲法改悪である。まして治安出動に射撃を認めたことは、外国人ばかりか、日本人をも殺傷することの容認である。判断なき死刑であり、強権国家の成立である。
 外にたいしては武力攻撃を強め、内側では報道にたいする攻撃を強化する小泉ファッショ政権の危険性が、ますます強まっている。
 言論の奮起が、いま望まれている。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/ストーカー政策とトンデモ教科書

■月刊「記録」2001年7月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■通用しなくなったカネばらまき政策

 日本の原発も、ますます行き詰まりの様相を濃くしている。5月下旬に新潟県刈羽村でおこなわれたプルサーマル計画受け入れにたいする住民投票は、反対1925、賛成1533、保留131で、過半数が反対を表明して計画はストップした。
 刈羽村は人口はおよそ5000人、世帯数が1500弱の小さな村だが、世界最大の原発地帯である。110万キロワットの原発が5基、130万キロワットが2基も並んでいる。この小さな村に、電源立地対策交付金などで投入されたカネは、215億円にものぼる。
 これだけのカネが爆弾のように打ち込まれてもなお、住民はプルサーマルは嫌だという。住民が原発に不満をもっていることはあきらかである。しかし小泉首相をはじめ日本政府は、さらに住民を説得するといっている。これはストーカー行為である。住民が嫌だというのに、まだ好きになってくれと追いかけ回すのだから、人権蹂躙もはなはだしい。
 これだけ嫌われるプルサーマル計画に危機感をもったのか、政府はプルサーマル計画を受け入れる自治体に、さらにカネを投入しようとしている。電源三法交付金や各種の補助金に準ずる扱いである。プルサーマル計画を受け入れてもメリットがないという地元の批判にたいして、追い銭を払おうするものだ。
 だから原発計画およびプルサーマル計画はストーカー行為であり、さらにカネを払って説得しようという「援交」政策だといってもよい。カネを払えば済むと国が実践しているのだから、政府に教育などを任せていればとんでもないことになる。 
 刈羽村は隣の柏崎市と並んで、70年代から原発反対運動を続けてきた。ここは原発にたいして大衆運動が盛り上がったところで、わたしもたびたび取材に訪れている。
 刈羽村の場合は、都市の柏崎から10キロもないため、若者たちの通勤の圏となっている。ほかの原発地帯とのように老人だけが残っている地域ではない。そのため若者による原発反対運動が盛んであった。
 この反対運動を切り崩したのは、国と東電をばらまいたカネであった。
 しかし住民投票に向けた運動が盛んだったころ取材にいって、風向きの違いを感じた。原発に賛成していた議員たちが、プルサーマルについては反対するようになっていたのである。
 かつて原発反対派の村会議員は、たった1人しかいなかった。ところがいまや反対派議員も複数となり、彼らが条件派の議員たちとともにプルサーマル否決の住民投票に持ち込んだ。このように村内で原発不信の世論が大きくなっているのは、ただカネだけでやってきた国の政策にたいする批判が、少しずつ強くなってきたからであろう。
 だいたい危険すぎるプルサーマル計画で事故が発生したら、その責任を誰がとるのか。歴代の首相、経済産業省および文部科学省の幹部の責任は重罪に値する。
 さて次の問題は、検定に合格した認定された「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書である。これは教科書採択の前に市販するというアクロバット的なやり方で、けっこう売れているらしいが、聞きしにまさるデタラメ本である。
 西尾幹二が「市販本前書き」において、「全体を無視して部分だけ取りあげて、あげつらうなら正しい批判にならない」(Ⅱページ)なとど書いている。しかし部分に荒唐無稽なことが書いてあるならば、それは全体の思想もあらわしているともいえる。どれだけ奇妙な教科書か、誌面の許す限り紹介していこう。
 この教科書は、「歴史書への招待」という序章の巻頭に「歴史書を学ぶとは」(6ページ)というページをもうけている。そこには「歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった」と、書かれている。しかし「過去の不正や不公平」を学ぶことによって、2度とそのようなおなじ過ちを犯さなくなるのであって、それこそ歴史の教訓に学ぶということである。
 さらに「歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にするのはやめよう」(7ページ)とも書いてあるが、その時代に当時の悪を批判する声があっても、それが権力によって押し潰されてきた。そういった事実に眼をつぶってはいけない。つまり時代の内部で歴史は動いているのだが、この教科書の編者たちは認めようとしない。この教科書は、歴史事実への解釈と偏向がはなはだしい。
 韓国から批判をうけた「韓国併合」の記述も問題だ。「韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した」(240ページ)。あたかも外国の開発のために、日本が土地を整備したような記述になっている。
 一方で朝鮮の人々の日本への反感という項目は、「日本語教育など同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた」(240ページ)とあるだけ。もちろん創氏改名や日本語の強制が朝鮮の人々の反感を強めたのは事実である。しかし日本への反感を強ったのは、武力による侵略と虐殺的な行為があったからである。すり替えてはいけない。

■戦争賛美のオンパレード

 さらに驚くべきことに、「大東亜戦争」(276ページ)がどうどうと見出しになっている。また日本がアジアの国々の支配のためにひらいた「大東亜会議」にまで、1ページを割いている。
 しかも、太平洋戦争にかんする記述で特徴的なのは、戦場で戦う姿が賛美されていることである。
 たとえばガダルカナル島での戦闘については「死闘の末、翌年2月に日本軍は撤退した」(278ページ)とか、「アッツ島では、わずか2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず、弾丸や米の補給が途絶えても抵抗を続け、玉砕していった(278ページ)とか、「レイテ沖海戦で、『神風特別攻撃隊』(特攻)がアメリカ海軍艦船に組織的な体当たり攻撃を行った」(278ページ)など、兵隊が死を覚悟して死んだ姿が描かれている。
 沖縄戦の説明では、「日本軍は戦艦大和をくり出し、最後の海上特攻隊を出撃させたが、猛攻を受け、大和は沖縄に到達できず撃沈された」とか、「鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って」などと悲劇的に書かれている。
 いうまでもなく3000人ほどの船員を乗せて出発した戦艦大和は、帰りの燃料をもたない自決行為だったし、沖縄の少年や少女の戦闘など無惨に尽きる。そのような戦争が兵士および住民にあたえた悲惨さが、まったく語られていない。
 この教科書は、書かれていることよりも、従軍慰安婦の問題をふくめて、書かれていないことが重要である。きわめて作為的、偏向的に書かない。それが検定を通過した理由であろう。検定は書いていないこと以上に、書いてあることを厳しくチェックするからである。
 また戦争中の戦意高揚の写真がそのまま使われているのも、この教科書の大きな特徴だ。たとえば真珠湾攻撃における戦艦アリゾナの沈没風景(276ページ)、特攻隊を見送る女学生の姿(278ページ)、日本兵がアジアの子どもたちに日本語を教育している姿(281ページ)など、戦争中の侵略的な視点がそのまま使われている。 さらに「戦争と現代を考える」(288ページ)というページでは、日本の各都市への無差別攻撃や原爆投下、ナチスによるユダヤ人虐殺、スターリンの大量処刑などが紹介されているが、日本については「不当な殺害や虐殺を行った」というぐらいの記述でしかない。
 こうした編集姿勢は、「戦争への罪悪感」という見出しによって露骨に表現されている。
「GHQは、新聞、雑誌、ラジオ、映画を通して、日本の戦争がいかに不当なものであったかを宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判とならんで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後日本人の歴史の見方」)に影響を与えた」(295ページ)
 日本人が戦争にたいして罪悪感をもつことは、自己批判として当然であるし、悔いても悔いきれない問題だ。ましてアジア諸各国には、いまだに戦後補償がキチンとおこなわれていない。それを恥じないようにしようなど、自虐史観批判というより“加害合理化史観”である。 過去にたいする自己批判をなくし、日本の誇りだけをあたえようとするのは、序章に書かれた「歴史を自由な、とらわれのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり真実を確かめるようにしよう」(7ページ)という主張はまったくちがう。きわめてパターン化した教条的な見方である。
 このように『新しい歴史教科書』は、きわめて古い破綻した価値感に彩られている。日本の歴史を学ぶということは、日本を対象化することであり、自分を他者との関係によって見直すことである。しかしこの教科書の視点はきわめて一方的な視点であり、「夜郎自大」的な教科書というしかない。
 この教科書に欠如しているのは、アジアの国々との共生ある。いまなお日本を中心にした「五族共和」の精神をとなえつづけるなど、アジア各国に受け入れられるはずもない。
 このような教科書によって日本の歴史を教えられた子どもたちが、これからアジアの人々と出会ったときに、自分たちがなにをしたのかまったく知らないことでしっぺ返しをくらうのはまちがいない。そうした姿は、容易に想像できる。
 このように無反省で恥ずかしさに満ち充ちた教科書が、各地の学校で採択されないような運動をすることが、戦争を阻むものの大きな義務である。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/憎しみの増殖炉を断ち切れ

■月刊「記録」1998年9月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■面白ければいいのか

 七月二五日、和歌山県で起きたカレーライスへの毒物混入事件は、八月一三日現在、いまだに犯人が逮捕されていない。町内会が主催する夏祭りで、青酸やヒ素が投入されたのだから地域住民の憂いは深い。このちいさな地域共同体は、今回の事件によってめちゃくちゃにされている。地域に犯人がいるかもしれないという不安から、住民がたがいに不信感を募らせているとも聞く。
 そんな住民感情を煽るかのように、地域内にいる可能性が高いといわれる犯人を探すのに、マスコミは躍起になっている。げんに「この事件の犯人はどういう人物だと思うか」と、私のところにも電話取材があった。報道されている情報だけでは犯人像を割りだすのは軽率というもので、わたしはお断りしたのだが……。
 マスメディアの機能が、犯人像の作成にそそぎ込まれてしまうのは、過去の冤罪にたいする教訓がまったく汲まれていないことの証明だ。じつに悲しむべきことである。ジャーナリズムは、本来、刑事的視点とは、対立するはずのものだ。
 九七年五月に発生した神戸の小学生殺人事件でも、犯人像を各新聞社が競って報道し、最終的には学校関係者が最有力候補とされていた。当時は、彼が逮捕された時のために、各社とも準備記事を用意していたという話も耳にしている。
 このように新聞が警察よりも先行して犯人像を書く姿勢は、越権行為である。ましてや今回のように狭い地域では、報道によって傷つくものも多い。
 ところが今回の毒物混入事件を巡っては、すでに異常な混乱が起こっている。犯人だと疑惑をかけられた人物が、マスコミの取材を受けたというのだ。『東京スポーツ』七月三一日付の記事は、スポーツ紙特有の巨大な見出しで「疑惑者が反論」と書かれ、「犯人」に仕立て上げられた地域住民に、報道各社のマイクを突き付けられている写真が、一面トップで掲載されている。さすがに目だけは黒塗りにされてはいるものの、顔の輪郭はしっかりと写っており、近隣住民は写真の主が誰だか特定できる代物だ。
 この記事は、「同地区に住む男子Aさんが、報道陣にたいして、『私を犯人扱いしているのか』と怒る騒動があった」との書きだしで、Aさんが一二年前に勤めていた会社に新聞社から問い合わせがあったことなども報じられている「『夏祭り嫌い』男性Aさん」と見出しがたてられ、Aさんが潔白を主張した体裁を取りながらも、Aさんの顔写真を掲載しているところに、スポーツ紙らしい売らんかな姿勢があらわれている。
 しかも東京スポーツは、前日に「犯人は女性」という見出しで記事を掲載しているのである。つまり一夜にしてまったくちがう犯人像を報じているわけで、これなどは真実はどうでも、面白ければそれでよし、とする現在のマスコミの退廃ぶりを端的にしめしている。
 この事件同様、小さな地域共同体を舞台にした殺人事件として思いだされるのが、名張毒ぶどう酒事件である。六二年三月、三重県で起こった事件は、物的証拠が乏しいまま一人の男性が逮捕された。一審は無罪判決が言い渡されたものの、名古屋高裁では死刑判決、最高裁では被告人の上告を棄却。現在も、被告人は獄中からえん罪を訴えつづけている。
 とかくちいさい地域で起こった事件は、情報に尾ヒレがついて報道されやすい。そして、そのことが地域住民の不安を増大させ、えん罪の温床にもなる。九四年六月に起きた松本サリン事件でも、河野義行さんにたいする報道のあり方が大きな社会問題となったのを忘れてはいけない。
 とにかく面白おかしく報道しようとする姿勢は、テレビのワイドショー番組によって、ますます拡大されてきている。視聴者も、真実はどうでも、その場が面白ければいいだけだ。他人の生活に土足で入り込むような報道を、マスコミがどのように自主規制するのは、今後とも繰り返し問われる問題である。

■「死も来た半島」となる青森

 話題は変わるが、カレーの毒より何千倍も恐ろしいのが、原発促進である。これからさらに二五基も原発をつくるというバカげた計画を、現在も通産省はもっているのだ。
 九八年八月三日、東北電力が青森県東通村に計画していた東通原子力発電所の設置について、原子力安全委員会は「安全性を確保しうる」という答申を、通産大臣に提出した。
 これは通産省が推進している原発にたいして、通産相の息のかかった原子力安全委員会が安全だと答申をするきわめて欺瞞的なシステムである。そして、この欺瞞的な答申によって、ことし一二月には原発の建設に着工することが確実となった。
 東通原発は、六〇年代に「下北原発」として計画されたものだった。東京電力と東北電力が相乗りし、各一〇基ずつ合計二〇基も建設する、というきわめてバカげた巨大プランであったが、そののちの社会情勢により、いったん計画はなくなったかにみえた。しかし三〇数年たって、「東通原発」と名前を変え、復活を図ろうと乗り出してきたのだ。
 東通原発はまだ原発の危険性が明らかでなかった六〇年に計画が発表され、電力会社の口車にのって、村議会が誘致したものである。
 そのあと私も東通村の村長に取材したことがあるが、「原発の温排水の熱を利用して非鉄工場をつくる」などと、夢物語のようなことをいっていた。原発にたいしていかに無知であったかを、この発言が如実に物語っている。当時のこのような地域住民の無知につけ込み、電力会社は各地に原発を押しつけたのだった。
 しかし東通原発は反対勢力が強かった。地域の漁業組合だった。生きる糧である魚に危険がおよぶのではと、彼らは原発に猛烈に反対してきた。そのため三〇年ちかくもの間、原発の新設はストップされてきたのである。だがその間にも電力会社および青森県の職員は、地域懐柔の手を緩めなかった。少しずつ漁民を切り崩していたのである。
 八八年八月に北陸電力の志賀原発が設置許可を受けて以来、東通原発への設置許可は、ざっと一〇年ぶりとなる。それはここ一〇年間、反対を主張してきた世論に圧されて、原発の新規設立が成功しなかったことを意味する。それだけに東通原発の設置認可には、国を挙げての支援がそそがれたのである。国と電力会社にとって、ここを突破口にしたのである。
 東通原発の周囲に買い占められた用地が、「原発二〇基分」もあることを忘れてはならない。今回の設置許可を突破口にして、二号炉、三号炉、さらにはもっと多い数の原発が乱立される危険性がある。実際、この用地の規模は、政府が立てた、先の二〇一〇年までに原発を二〇基以上増設するという計画と、奇妙に符合する。こんご、新規立地にアタマを抱えてきた。政府の原発推進の受け皿として、これから利用される危険性が、きわめて高い。
 また東通原発の南側に隣接する六ヶ所村では、すでに核燃料サイクル四点セットといわれている低レベル核廃棄物埋設場、およびウラン濃縮工場、そして核廃棄物再処理工場、高レベル核廃棄物の保存所の建設が進められている。さらに、そこから北上した大間町でも電源開発の原発建設をめぐって、執拗に漁協への圧力が繰り返されている。
 下北半島はこれによって、文字通りの原発半島となる。地元の友人たちは「死も来た半島」と呼んでいる。

■水爆の原料を生産へ

 日本ではやみくもに原発建設が進められ、将来への不安を増大させているが、海外においても核をめぐる問題は、ますますキナ臭さを漂わせている。
 インドとパキスタンの核実験については、本誌九八年六月号でも扱ったが、問題は、米・仏・英・中国・露の五大核兵器所有国が核廃絶にむけて一歩も動きをみせないことだ。自分たちの核兵力は維持しながら、新規参入を狙ってくるインド・パキスタンにたいして経済制裁をするなど、わが権益だけを守ろうとするだけのエゴイスティックな動きでしかない。
 ましてや米国エネルギー省では、八八年から生産を中止していた、トリチウムの生産を計画している。トリチウムという物質は、水素爆弾の威力を高めるために使用されるものである。
 毎日新聞の八月五日付の朝刊によれば、「(米国)エネルギー省は『今年中に(トリチウム生産のための)運転再開を考慮するかどうか決定する』と、慎重な言い回しながら施設を『ホットスタンバイ(稼働待機)』状態に置く指令を出した」ともいう。
 しかも新しい生産場所は、使用済み核燃料の貯蔵プールの腐食が進み、三〇年後から一〇〇年後には地中の汚染が進み、コロンビア川を汚すだろうと心配される地域なのである。核廃棄物の最終処分地が決まらぬまま、原発をふやしプルトニウムを貯めこんでいる日本にとって、この事態は無視できない。
 被爆国として日本は、なにができるのだろう。そんな想いを胸にして、八月六日のヒロシマ、九日のナガサキをテレビ中継で見ていると、インドやパキスタンから来た記者たちが、広島や長崎の被災状況を見て、核兵器がいかに悲惨であるかをはじめて認識したというのが写されていた。
 しかし、それでも、核兵器をもつことにより、核戦争を抑止できるという思想までは自己否定できないようだ。核抑止論のような、力にたいして力で対処するという思想は、強者の論理である。強者の論理を振りかざせば、滅亡の道をたどりつづけるしかない。そのため不毛な永久運動を繰り返すことになる。つまりつねに対立を激化していくことになるのだ。これは憎しみの増殖炉というべきものである。
 たとえばイン・パ両国は、いまなおカシミール地方で砲撃戦をつづけており、八月上旬には双方合わせて九〇人以上の死者を出したと報道されている。このようにちいさな戦争の繰り返しが、たがいの憎悪を生み、軍事力の増強につながる。もちろん核開発はこの延長線上にあり、核をもったからといって際限のない核開発競争が収まることはない。
 しかも核開発競争は、軍事費の増大を招き、必ず経済を疲弊を招く。経済基盤を崩壊させていく「メルトダウン現象」が国を覆うことになる。これもまた低所得者層での憎しみをさらに増殖させる。

■劣化ウラン弾を使いつづける米国

 原爆や水爆のような大量殺人兵器ばかりが、核の問題ではない。劣化ウラン弾による放射能汚染も、監視する必要がある。
 ことし八月、米国防総省はやっと劣化ウラン弾の危険性を認めた。戦闘状況によって劣化ウラン弾の使用は、一般市民が年間に浴びる放射線のほぼ三倍を、一度に浴びる可能性がある。その危険を承知の上で、米国は劣化ウラン弾を今後も使いつづけるという。しかも米国は、この兵器を中東やアジアに輸出までしているのだ。
 国防総省の報告書には、「劣化ウラン弾は現在、他の国々にも使用可能であり、将来の戦場が汚染される危険性がある」と書かれている。自国で作り上げ、湾岸戦争では戦場を放射能で汚染しておきながら、他国の使用にたいする危険性を忠告するとは、エゴイズムもはなはだしい。
 ここには、自分たちが開発している核兵器は正義であり、相手が開発した核兵器は悪であるという、無茶な論理がまかり通っている。
 かつて米国の核実験に反対していた日本の共産党が、ソ連の核実験に反対できないという論理矛盾を起こしたことがある。これはソ連の核兵器は正義という信仰によったものだった。
 自国のを軍事力を正当化させる行為は、憎悪を増殖させるだけだ。このような憎悪の思想を断ち切る論理が強く求められている。そのためにマスコミがはたさなければならない役割も少なくない。無実の住民を取材攻めにし、無用な犯人探しなどをつづけている場合ではない。核兵器と核開発、核への批判を書きつづけるべきだ。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/東京地裁が認めたJRのインチキ賭博

■月刊「記録」1998年7月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■クビ・労組潰し・土地分割の11年

 国鉄を分割民営化してから、すでに一一年が経過した。これまでも何度か指摘してきたように、この民営化は、政府・運輸省・財界・マスコミなどが同一歩調をとっておこなった大陰謀であった。この結果、国鉄労働組合(国労)は、不当労働行為の繰り返しによって四分五裂、国労は少数化され、国鉄が所有していた都心の広大な国有地は、財閥系不動産会社に売却された。たとえば、東京丸の内の国鉄本社は三菱系の不動産会社に購入され、新橋周辺の汐留付近は、三井不動産などに売却されている。
 結局、JRが一一年間にわたって、労働者をクビにし、労働組合を潰し、土地を分割し続けてきたことになる。ここ一〇年、日本の労働運動がナリを潜めてしまったのは、国鉄解体が大きく影響している。
 ことし五月二九日、東京地裁から、組合を潰すためだけの極めて強引な判決が下された。これまで一〇四七人の解雇をめぐる裁判では、各地の地方労働委員会、その上部機関である中央労働委員会で、すべて不当労働行為として認められ、JRに採用するように命じられててきた。ところが東京地裁はそれを否定したのである。
 中央労働委員会を含め、各地方労働委員会は、労働者側委員ばかりではなくて、使用者側委員および公益委員をもつ中立的機関であり、労働問題に関しての最高決定機関である。ところが今回、中労委の決定に従いたくないJR側の提訴を受け、裁判所が企業の側に立った決定を出した。つまり、労働委員会の存在そのものを、裁判所は否定したのである。戦後の民主的な改革を足蹴にしたということである。
 これからは、労働組合を潰す不当労働行為にたいして、地方労働委員会や中央労働委員会が救済命令をだしても、企業が裁判所に訴えることによって責任逃れができるという道がひらかれたのだ。これは独禁法の緩和、労働法の改悪など、戦後の民主化の成果をすべて潰し、憲法改悪を狙う最近の自民党政府の方針に迎合したものである。
 この重大な結果について、「JRに人権を!一〇四七人の復職を求める一万人意見広告を広げる会」は、次のような声明を発表し、かつ記者会見をおこなった。だが一一年前の、ファッショ的なJR出発当時とまったくおなじように、マスコミは黙殺した。そこであてえて、ここにこの誌面を借りて、この問題について訴えてみたい。

【声明】
 昨日、東京地方裁判所民事第一一部と一九部は、国鉄分割民営化の際におこなわれたJR北海道、JR九州、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR貨物などによる不当労働行為に関する行政訴訟に判決を下した。第一九部の判決は、JRの不当労働行為を認めたが第一一部の判決はこれを否定した。
 私たち「JRに人権を!一〇四七人の復職を求める一万人意見広告を広げる会」は、第一九部の判決の不当労働行為認定を評価するが、復職をJR各社に命じていないことについては強く抗議するものである。第一一部の判決は、国鉄改革法の極めて形式的解釈であって、とうてい容認できない。
 そもそも、不当労働行為などの労働者の人権無視問題を第三者機関として審判するために、地方労働委員会、中央労働委員会が設置されてきた。中央労働委員会はJR各社の対応を不当労働行為と認定しているのであって、これを無視して中央労働委員会を被告として行政訴訟にでたJR各社の対応は、法治行政を無視するものといわなくてはならない。しかもそれを追認した東京地方裁判所のとりわけ第一一部の判決は、法の番人としての役割を自ら否定したに等しいものといわざるを得ない。
 旧国鉄職員の多くが職を奪われてからすでに一一年である。私たちは、昨日の東京地方裁判所の判決に強く抗議するとともに、政府ならびにJR各社が、民主主義の基本である法のもとの平等を踏まえて、早急にこの問題の解決に当たることを強く求めるものである。同時に、こうした判決ならびにJR各社の対応を認めるならば、この経済不況時に多くの労働者が職を奪われていくことにつながることを訴えつつ、広く社会的にこの問題の解決のために今後とも運動を広げる決意である。
        一九九八年五月二九日
        佐高信/新藤宗幸/鎌田慧/福島瑞穂

 さらに、この日の記者会見で、私たちは次のように主張した。

●佐高信 氏(評論家)
「JR東日本の松田社長が常務だった頃か、国労だけではなく、労働委員会を相手に闘うなどといって、まさに労働委員会をけっとばす発言を続けてきた。中労委の審問でもその考えを変えるわけにはいかないと、労働委員会を認めない発言を繰り返し、裁判所に訴えた。一方では、JRには長期債務の負担を強制する法律が成立したら、直ちに法的手続きに訴えて、会社と株主の利益を守るといっている。裁判とか法律をつまみ食いして、いうことを聞かなければ訴える。公的なものでも、自分たちの都合に合わなければ無視する。法的なものに従うという観念がまったくない。今度の判決は、世界に笑われた日立の残業拒否解雇に次ぐ物笑いの判決だと思う」

●新藤宗幸 氏(立大教授)
「十一部・十九部の判決内容もさることながら、まず訴えたいことは、労働委員会という行政委員会がなぜつくられているのかということ。労働者の人権無視があり、労働紛争がおきた場合に第三者機関の審判を仰ぎ、使用者側、労働者側がそれを尊重し紛争を解決することを前提にしてつくられた制度である。地労委、中労委が不当労働行為と認定したものを、さらに中労委を被告として行政訴訟を起こすJRとは何なのか。次々と最高裁まで行ったら、この後何年かかるのかという問題だ。確かに、法的には中労委の裁定に不服がある場合にさらに裁判に訴えることは認められているが、これがそれなりに市場経済をとる国において経営者がやることなのか、憤りをまず表明したい」

●福島瑞穂 氏(弁護士)
「労働委員会の中では不当労働行為が明瞭に認められ続けてきたにもかかわらず、今回の裁判で形式的な法律論で敗訴にしたのはひどい。不当労働行為やこれが全体としてどういう問題なのかということを裁判所が端的に考えれば、こういう結論には絶対にならない。もし、この判決が当然ということになったら、労働組合潰しが大手を振っていくだろう」

■JRは確信犯

 しかし、この記者会見についても、毎日新聞が一段ベタ記事で十数行報じただけだった。国民に少しでも関心をもってもらうための試みだったが、惨憺たる結果に終わっている。
 国鉄改革当時も、それに反対する労働者や市民の集団はほとんどマスコミから黙殺されたという経験がある。政府がおこなっていることにたいしてマスコミが反対できないとは、極めて悲しむべき状況としかいいようがない。マスコミが取り上げないから、政府もますますいい気になり、やりたい放題になる。
 判決直後、運輸省の黒野匡彦事務次官は、記者会見で「我々はJRとおなじ立場に立っているので歓迎している」と判決を評価した。この発言などは、裁判の焦点ともなった不当労働行為が、運輸省・国鉄・JRの三社によっておこなわれたことをあらわしている。
 たとえていえば、窃盗に入った家で証拠隠滅のために放火したようなものだ。国鉄時代にやりたい放題に国労をいじめ、JRに看板を塗り替えたのは、インチキ賭博のやり方である。JRは確信犯なのだ。
 時事通信は、九八年五月二八日に、それをしめすような談話を取り上げている。
「JRが旧国鉄の人員を継承するのではなく、新規採用する形をとった国鉄改革法は、旧国鉄不当労働行為をJRに引き継がせないようにするのが狙いではないかとの指摘にたいし、(黒野事務次官は)『(当時)ベストの方法はこれしかないと決めた』とした上で、同法は『一〇〇年後も二〇〇年後も正義であり続ける』」
  私は北海道や九州の現場を歩き、国鉄改革に反対する労働者たちが、現場から離され、人材活用センターという「流刑地」入れられていることをなんどか書いた。そのあと、一〇七〇人も解雇された。彼らは、現代の「政治犯」ともいえる。

■結婚指輪も法律違反?

  国家機関の一員でしかない裁判所は、国鉄の問題について、ひどいデタラメぶりをこれまでもおこなってきている。たとえば九七年一〇月三〇日に、東京高裁がだした東京新幹線バッジ事件の判決は、裁判所が国家目的に迎合し、なおかつ企業の論理に従ったことを明らかにしている。
 この事件は、国労の組合員が国労のバッジを着けていたために、配置転換など差別的な処分を受けたことに端を発する。判決では、バッジを着けている労働者は「職務専念義務」に違反するというものであった。
 裁判官によれば、注意力のすべてをその職務遂行のために用い、職務にのみ従事しなければならない職務専念義務を、職員は課せられているという。
「本件組合バッジの着用行為は、国鉄の分割民営化に反対する東京地裁が昭和六二(一九八七)年三月三一日にだした『国労バッジは全員が完全に着用するよう再度徹底を期することとする』などを内容とする指示第一六〇号に従ってされたものであることに照らせば、使用者および分割民営化に賛成した他の労働組合の組合員にたいして、国労の団結をしめそうとする意味があるというべきであり、これにより、国鉄改革法に従って新会社の運営を推進しようとする支配者および分割民営化に賛成した他の労働組合組合員との対立を意識させ、そのことによって、これらのものが注意力を職務に集中することを妨げるおそれのあるものであるから、この面からも企業秩序の維持に反するものであったというべきである」 国労バッジの着用が、職務専務義務に反する理由として、裁判所がこのように語っている。
 つまり労働者は脇見もせず、なにも考えないで働かなければ、「職務専念義務」に違反すると、裁判官は結論づけているのだ。しかし、国労は、企業内で法律的に存在を認められている労働組合である。法律的に認められている組織のバッジを、どうして企業内で着けることが悪いのか。
 職務専念義務というが、そこまで言うなら、たとえば家族の写真を事務所の机の引きだしの中に入れているのも、職務専念義務に反してしまうのか。あるいは結婚指輪をはめている労働者は職務専念義務に反しているのか。会社にいる間、片時も脇目もふらず、すべての注意を仕事のみに集中しろとは、経営者でさえいわないとんでもない脅迫である。しかし裁判官は、裁判所という最高権力によって、このように非常識な無理難題を強要する。
 このような人間の尊厳と人権と民主主義に反する行為が、裁判所を舞台に公然とおこなわれ、また、それが批判されないでいて、日本が「民主国家」だ、などといえるわけはない。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/悪魔の物質が日本を侵す

■月刊「記録」1998年6月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■平和利用技術が原爆に

 五月一二日、二四年ぶりにインドが核実験を再開した。米国・ロシア・中国・イギリス・フランス五ヶ国による核爆弾の独占体制は、この事件によって大きく揺らいだことになる。事件後、核保有国である五大国は一斉にインドを批判。一九七〇年に発行された核拡散防止条約(NPT)体制の崩壊が叫ばれている。
 しかし、この事件の背景としてもう一つ重要なのは、核保有国である五大国自身が核爆弾や核兵器の縮小にさほど熱意をしめしていない現実だ。冷戦が終わり緊張緩和の時代となったにも関わらず、九六年一月にはフランスが核実験をおこない、現在でも米国などは爆発を必要としない核実験・臨界前実験を続けている。こういった五大国の静かな核開発と、核保有を狙う諸各国の開発競争が核戦争の危機をさらに高めることはまちがいない。実際、インドの隣国パキスタンでも、核実験実施の動きがある。
 じつはこのパキスタンの核開発には、中国の原発技術が大きく影響しているといわれている。パキスタンの核研究施設で生産している濃縮ウランは、「平和利用」の代名詞を使い中国の原発技術が造りだした代物なのだ。 いうまでもなく原発は原爆の商業利用である。つまり、人殺しの技術を商売に転用するかたちで発展してきたのだ。その原発と原爆の関係は、核保有五大国がいずれも早期から原発を抱えていた国であり、イギリス・フランスにいたっては再処理によって、大量のプルトニウムを生産していることからも確認できよう。原発技術はいつでも原爆製造技術に転化しうるのである。
 そうなると、気になるのが日本の動向だ。
 再処理を終え、フランスからぞくぞくともどってきているプルトニウムは、国内にたまりだした。だから、日本が核爆弾をつくるのではないかという、アジア各国の疑念は晴れることはない。
 本来、再処理工場で発生したプルトニウムは、増殖炉や転換炉で使う方針だった。しかし増殖炉構想がもんじゅの事故によって事実上破綻したため、今後はプルトニウムが大量に余りつづけることになる。対策として福井県の原発地帯を手はじめに、MOX燃料を使う方針が打ちだされた。これはプルサーマル計画といわれるもので、プルトニウムとウランの混合酸化物燃料(MOX燃料)を、いまの原発施設で燃やす方法だ。だがこの急場しのぎの方法には、安全性に関する保障がまったくとれない。
 結局、原発を動かし再処理を続けようとする限り、日本は増え続けるプルトニウムの利用方法に悩まされ続けられることになる。そしてプルトニウムが余りつづければ、将来、憲法改悪とセットになって原爆製造という悪魔の道に迷い込む可能性さえある。インドやパキスタン、イスラエルなど、核開発を目指している国を批判するだけでなく、自分の問題として考える段階に日本もきているということだ。

■核廃棄物問題を知らない原発旗振り役

 だが問題は、プルトニウムの扱いだけにとどまらない。
 原発の使用済み燃料は、高レベル放射性廃棄物として、青森県六ヶ所村へはこばれている。ここでは、二〇〇三年の操業にむけ再処理工場が建設されている。高レベル放射性廃棄物の最終処分地は、いまだに決定されず、六ヶ所村にしても、一時的に受け入れているだけである。
 最終処分地をどこかにつくりあげようと、政府はあせっている。北海道の幌延町には「深地層試験場」なるものを建設し、そこでの実験を突破口に最終処分地に選定しようとしたが、住民の反対が強く、ことしの二月には科学技術庁が白紙撤回を打ちださざるを得なくなった。岐阜県の土岐市にも同様の施設が計画され、最終処分場としての疑惑がもたれている。しかし、これもさほど計画が進展しているわけではない。
 また先述したプルサーマル計画によって、またまた発生する廃棄物をどこに捨てるのかという問題も、今後の大きな課題になる。福井県などは廃棄を了承したようだが、捨てる場所さえ決まっていないのに了承するなど無責任もはなはだしい。
 そんな状況のなか、電気事業連合会(電事連)会長の荒木浩会長が、原子力委員会の懇談会で発言した内容が新聞に報道され、読むものを唖然とさせた(四月二五日『朝日新聞』)。
 荒木会長は原発推進の代表者でもあるが、なんと「電気事業者でありながら、こんなに大変な問題であることをはじめて知った」と、高レベル放射性廃棄物の問題について語ったという。そのうえ「原子力を始めた当初、(高レベル放射性廃棄物は)一生使っても、豆粒一つぐらいと思っていた」と言ってのけたというのだ。こんな程度の認識しかない男が、原子力推進の旗振りをし、日本を核汚染列島にしようとしているのだから、お粗末というだけでは済まされない。この無責任さは糾弾されるべきである。
 彼はさらに「もう少し国民に(原子力についての的確な)情報を発信してほしい」と国に要望したというが、原発反対運動では放射性廃棄物の問題を数十年も前から批判してきた。この発言によって、彼が反対意見にまったくきく耳をもたなかった事実も明らかになった。
 さらに、この日の懇談会では、これまでの方針のように廃棄物は地下数百メートルの地中層に埋めることを合意したほかに、「発生者負担の原則」から電気事業者と民間主体の組織が処分を担うことも合意されたという。これは最終的に電力会社そのものが核廃棄物の責任をもつのではなく、民間下請け企業に処分を任せるといった無責任な方針の決定を意味する。人類にもっとも危険な高レベル放射性廃棄物を、これほどいいかげに扱うとは呆れるほかない。

■原発1つで霞ヶ関ビル3個分

 では低レベルの廃棄物について処理方法がきちんと決まっているのかといえば、これまたいいかげんことのうえない。
 三月三一日に運転が停止され、解体が決まった茨城県東海村の原発は、日本における廃炉時代の先駆けともいえるものだ。だが、この一六万六千キロワットの小型原発でさえ、解体されれば、霞ヶ関ビル三個分の鉄骨コンクリートの廃棄物に変わるという。
 現在稼働している原発の多くは、この一〇倍にあたる、百十万数キロワットの発電量を誇るマンモス原発である。これを廃炉にした場合には、なんと確実に霞ヶ関ビル一〇個分以上の廃棄物となる。つまりこれから廃炉時代が進むにつれて、使用済み核燃料以外にも、膨大な核汚染物質が発生することになるのである。もちろんその始末の仕方も決まっているはずがない。高レベル廃棄物の回収処分地も決まっておらず、廃炉による廃材の処分も決まっていないのにもかかわらず、政府はいまだに原発の建設を増進しようとしている。
 四月二五日の『朝日新聞』の記事によれば、通産省・資源エネルギー庁は、二〇一〇年度までに二一基の原発増設が必要だとほざいている。そうしなければ、温室効果ガス削減の国際公約達成のため、エネルギーの使用削減が強制的におこなわれるようになるため、国内総生産(GDP)が押し下げられ、七三~二二五万人の失業者が発生すると脅迫している。
 この不況時代にさらに失業がでるぞと脅し、原発誘導にむけようとはまさしく火事場泥棒。原発にたいしての反対世論が強まり、打つ手がなくなった通産省・資源エネルギー庁の姑息なやり方がよく表れている。
 だいたい「二〇一〇年までに二一基の原発を建設する」といった数字は尋常ではない。現在、日本では一八ヶ所、五二基の原発が建設されている。これらは国内初の商業炉である東海原発の運転開始から現在まで、三二年間に建設されたものだ。一二年間で二一基という計画がどれほど強引かわかるだろう。
 じつは二酸化炭素の削減を名目にした、原発関係者の原発増設へむけての巻き返しは、日本のだけのことではない。米国でも平均寿命を四〇年としていた原発を、さらに一〇~二〇年稼働させるという恐るべき方針を打ちだしている。
 しかし、考えてみるがいい。地球温暖化という危機的現象を、もっとも危険な原発によってくいとめようという発想が、そもそも主客転倒している。人類がいま問われているのは、エネルギーの消費をどういう形で少なくし、どのような文明を創造していくべきかという選択の方法なのである。まず、今後もエネルギー需要が伸び続けることを前提にしているという、恐ろしく時代遅れな発想は根本から間違っている。エネルギー需要や産業高率だけを視野に入れた主張では、もはや誰も納得しない。

■安全性よりフル操業

 ところが原発関係者は、時代の必然ともいえる意識改革の必要性に気づいていない。その典型例が、原発における定期検査期間の短縮だ。これは稼働率を引き上げるために、定期検査による炉の休止期間を短くするというというものである。この方針により、福井県内の原発は前年度より二・四ヶ月も短縮されてた。つまり安全性よりもフル操業を選んだわけだ。
 たしかに最近、わずかながら原発の事故件数が減っている。だが原子炉を停止するほど大規模な重大事故も、全国で一二件も起こっているのである。もっと細かな事故をふくめると、福井県内の一四基だけをみても二一件にものぼるという。もんじゅは運転中止となり、ふげんは七件もの事故が発生し、敦賀原発一号機が三件、大飯発の二号・四号基でも二件ずつ事故が起こっている。このような状況で、検査日数を減らすのは自殺行為である。

■自衛隊の武器使用まで

 原発が破壊するのは、自然環境だけではない。地域の環境までも大きく変えてしまうのである。
 現在、原発周辺でよく聞かれるのは、原発の所在地付近で厳戒体制がとられていることだ。監視カメラやセンサー、警備員が大量に配置され、その結果、住民情報が原発サイドに徹底的に収集されているという。地域住民の反原発運動の高まりを警戒してのことである。
 一方で、住民の意識をうまく利用しようとする人物も現れている。ことし三月、使用済み核燃料の搬入おこなわれた青森県では、県知事の木村守男が橋本龍太郎首相に面会を要請した。このパフォーマンスは大いに話題になったが、二人が原発にたいしてどのような意見を交換したのかは、明らかにされていない。原発や再処理工場の建設、あるいは高レベルの廃棄物の搬入について、木村知事は反対を表明したことがない。そして首相の考えていることは、原発に関わる問題を既成事実化することだけだ。皮肉なことに、このパフォーマンスで明らかになったのは、強行手段を用いなければ、原発問題について首相が地元の知事と話し合うことさえありえないという現実だけだった。
 さらにもっと悪質な形で原発を利用しようという輩もいる。
 フランスから日本までのプルトニウム運搬は、以前から核ジャックが懸念され、運送護衛手段の強化が世界各国から要請されていた。現在、日本では海上保安庁が防衛にあたっているが、最近、政府内には自衛隊を活用する方針が検討され、武器使用まで確定されようとしている。警備会社や警察力では対応できないといういい方によって、自衛隊の治安出動への道がひらかれようとしているのだ。
 結局、原発は造れば造るほど、処理不能な高レベル廃棄物を発生させ、廃炉も増え、日本を放射漬けにする。そして厳戒国家となる。そればかりか各国からは核兵器製造の疑惑をかけられ、対策としてプルトニウムを燃料化すれば新たな危険を生む。そのうえ地域環境を壊し、国内の軍事態勢の強化までも導きかねない。これがどんづまりにきた、悪魔の物質「核」をとりまく現実なのである。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/ご都合主義政権なクビ切りにはダンコ抵抗を!

■月刊「記録」1998年5月号掲載記事(表記は記載当時のままです)

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■将来を暗示する三人の社長の自殺

 新年度を迎えたが、日本経済は土壇場になっている。昨年度の倒産件数は一万七千四三九件に、負債総額も一五兆一千二〇三億円にも達し、戦後最悪だった前年度を六五%も上回った。大型倒産の予想記事などが週刊誌などでもしきりに掲載されているように、依然として暗い見通しにあるのに変わりはない。
 ことしの二月二六日、国立市のホテルで三人の社長が心中するという事件が発生した。これから日本各地で頻発するであろう悲劇の幕開けを感じさせる事件だった。 九六年六月期の決算において、三人の社長が経営する会社は六四億三千万円、二七億七千万円、一三億一千万円もの売上高をあげていた。金額を見てもらえばわかる通り、中堅の企業といえる。だが銀行の貸し渋りもあり、三人とも資金繰りに困って自殺していったのだ。一見、非常に特異な事件のように思えるが、よくよく見てみるとここには日本経済の将来が暗示されている。
 この事件の特徴は、自動車関連業種であったことと、三人がたがいに密接な取引関係にあったことである。好況をつづけてきた自動車業界にあって、三人はそれぞれ、車内装飾メーカー、その卸商、そして小売業者という関係にあった。しかも彼らは頻繁に会っている友人だったのだ。
 彼らは密接な取引関係にあったために、連鎖的な経済が一挙に崩壊していく。このもたれ合いは、日本の産業システムの縮図そのものだ。しかも、このような崩壊が、日本経済を長年ささえつづけてきた自動車産業で起こった事実は、経済全体の見通しに暗い影を投げかけている。
 なにも自殺などしなくともよかった。多くの人がそう考えたであろう。だが自分の身体を抵当にして保険金を貰う以外、自社の再建見通しがつかなかった事実は、いまの資本主義の根源的な矛盾をあらわしている。
 現在の不況は、橋本内閣の無責任・無能体制にある。彼らは調子に乗って財政改革などを旗印にした。年金を圧縮し、公共料金を上げ、医療費を上げ、税金を上げ、消費税を上げ、弱いものいじめを繰り返した。まさに人民殺しの経済政策だ。国民がカゼをひいている状態を知りながら、内閣は減税を止めるという形で布団をはいだのだ。結果、日本国民は四〇度以上の高熱にうなされ続けている。そんな状態に、いささか慌てたのか、ようやく今頃になって減税を含めた財政出動八兆円などを政府は発表した。だが、これも容態をずいぶんこじらせてからのハナ薬だ。
 これによって、またぞろ公共事業を増やすことになる。今の経済不安を解決するために、国の資金を使うことには反対しない。だが本当に国民のために使われるのかというと、疑問が残る。これまでの銀行の救済策とおなじような大企業救済策で、悪名高い公共事業の大幅復活で、財界寄りの政策でしかない。疲弊した国民生活を直接的に救済するには、どうすればいいのかといった方針がまったくみえない。不況を利用した財界救護策というしかない。
 橋本内閣のとんでもない経済政策として触れておかねばならないのは、こればかりではない。PKO(株価維持策)などは想像を絶するシロモノだ。この政策は株価を政府資金でつり上げようとするものだが、そもそも投機を目的とするバクチ的な株式市場に政府資金をつぎ込むなど尋常のサタではない。

■まやかしの失業率

 総務庁の発表によれば、失業率は三・六%、完全失業者は前月より八万人多い二四六万人に達した。一九五三年の調査開始以来、最悪の数字である。
 もう少し細かく見てみると、男性の失業率は三・七%。女性は前月より〇・二ポイント悪化の三・四%となっている。まっ先にリストラの対象ともなる五五~六四歳の男性の失業率は六・二%である。さらに世帯単位でとらえた世帯主の失業率は、二・七%にまで上がっている。
 だが、この数字でさえまやかしなのである。かつて指摘したように日本の失業率は、完全に失業しているものと職業安定所を通じて求職しているものを基準に統計を取っている。そのため実質的には五%前後の失業率だと考えられている。パートタイマーも家内労働者もすべて就業者に入れている数字のマジックが存在する。このようなごまかしからも、政府が雇用危機をどう考えているかわかろうというものだ。
 産業別の就業者の統計も厳しい。前年比で製造業は六四万人が、建設業では一四万人が減少している。これだけ就業者が減りだすと、これからのリストラにたいする不安もあって庶民は財布の紐をきつく締める。その影響を受け、百貨店の売り上げも一年以上もの間、下がり続けている。このまま失業者の増大、消費の低迷、コストの下落という悪循環に陥れば、待っているのはデフレ経済である。
 五〇年前のアーサー・ミラーの作品『セールスマンの死』とおなじような状況が、日本のあちこちで起こりつつあるのだ。『セールスマンの死』は三〇年以上おなじ会社に勤めたセールスマンが、成績が悪くなったのを理由に解雇され、住宅ローンを保険金で払うために自殺する、という米国の悲劇だった。だがこの話は、対岸の火事ではない。それどころかもっと深刻な様相を呈しはじめている。
 九七年度の個人破産件数は七万一二九九件となり、前年の五万六四九四件をはるかに上回ったという報告がある。とくに住宅ローンを払いきれず破産する例は、あとを絶たない。
 不動産業者や銀行にそそのかされ、最高値で住宅を売りつけられ、無担保の融資に踊った庶民の傷は深い。家をもつような身分でもなかったのにもかかわらず自宅を構え、残業が減ったためローンが払えなくなっているケースが多い。生活水準に比べて基本給が決して高いとはいえない日本では、持ち家は残業で建てるほかない。ここにも世界一といわれた日本経済が隠しもつ貧弱さがある。
 ローンが払えなければ、家を売るしかない。だがこの不景気では売れるはずもない。結局、購入時の三分の一で競売されるといった悲劇が、無数に発生している。
 身分不相応な行動を起こしていたのは、個人だけにとどまらない。かつて金余りの日本企業は米国に進出し、米国内の不動産を買いまくった。ところが今や、日本の焦げ付いた担保物件が米国資本に買われるという逆流現象が起こっている。
 日本企業の進出は米国ばかりではなかった。アジアにも競って投資した。それが現在、大きな焦げ付きとなっている。結果どうなったかといえば、日本資本の「オーバープレゼンス」が問題になったインドネシア・タイなどの国で経済混乱が起こっているのである。アジア経済混乱を引き起こしたのは、やはり日本だったわけだ。かつての戦争とおなじような罪過を犯したことになる。
 思い返してみれば、バブル期は経営者も労働者も酒に酔っぱらったような状態だった。それをあおったのが銀行であり不動産屋であり、そこから多額の広告収入を得ていた新聞社なのだ。社会の木鐸といわる新聞の正体までがこれである。いま、必要なのは、批判的なジャーナリズムである。

■大量のリストラ予備軍

 不況を利用した極端なリストラも深刻である。
 現在、リストラ対象者は定年間近の就業者だけではない。三〇歳を過ぎればリストラの対象になる。『朝日新聞』三月二八日の朝刊には、最近の主なリストラが掲載されていたので抜き出してみた。このあとに発表されたリストラ計画も加えておいたので、眺めてみてほしい。 レナウンは五〇〇人の希望退職募集。新日軽は四〇〇人の希望退職募集。レナウンルックは二〇〇人の希望退職募集。吉富製薬は早期退職に一三二人が募集。サクラダは希望退職に一〇〇人弱が応募。鐘紡は早期退職制度などでグループ全体で一万八千九〇〇人を二〇〇〇年度に二千四〇〇人削減。全日本空輸は選択定年などで一万四千七〇〇人を二〇〇〇年度までに千人削減。大阪ガスは退職者補充の抑制などで一万二〇〇人を二〇一〇年までに二千二〇〇人削減。東急建設は出向などで四千九〇〇人を二〇〇〇年度までに九〇〇人削減。ジャパンエナジーは三千二五〇人を二〇〇一年までに七五〇人削減。ヤクルトは二千八〇〇人の従業員を二年間で三〇〇人削減。清水建設は九千人を三年間で千人削減。
 大手企業では千人規模のリストラが、当たり前のようにおこなわれようとしている。しかもこの表にはあらわれていない中小企業からこれ以上の大量の労働者が放出されるのだ。これでは庶民が消費を控えるのも当たり前である。
 もちろんリストラと同時に新規採用も減らされている。四月六日に『朝日新聞』朝刊が報じたところによれば、来春の新卒採用に関する主要企業二〇〇社を対象にしたアンケートにおいて、「『増やす』が二九社(一四・五%)、『減らす』が六六社(三三%)、『前年並』が六九社(三四・五%)、『未定』は三六社(一八%)だった。去年六月にまとめた今春の採用計画アンケート(対象百社)では、五三%が『増やす』と答え、『減らす』は一三%だった。対象数がちがうので、正確な比較はできないが、今回は採用抑制の傾向がはっきりとうかがえる」と書いている。企業は社員を欲していない。いつでもクビが切れ、人件費もかからない派遣労働者を望んでいる。ここに大きな問題がある。
 いま財界と労働者を御用学者と企業側ですすめているのが、労働基準法の改悪、労働者の総パート化、総アルバイター化である。能力賃金など、能力のないものは、「死ね」との分断政策である。

■組合意識も雲散霧消

 こういった不景気ほど労働組合にがんばってほしいのだが、相変わらず彼らはだらしがない。
 たとえば鉄鋼労使などは、二年間の賃上げを固定させる「隔年春闘」を打ち出した。来年もおなじ額の賃上げが保障されたとして、この制度を喜ぶむきもあるが、それが恒常化すると賃上げ闘争など消えてしまう。賃上げ闘争はたんに賃金を上げるばかりではない。労働運動の中心に位置する柱なのである。それが解体されてしまえば、もはや労働組合などまったく存在理由がなくなるだろう。
 いまや政府および経営者のやりたい放題が続いているが、それにたいするチェック機能はない。これが日本最大の悲劇である。現在、コミュニティーユニオンや管理職組合などが、個人個人の労働者の権利をかろうじて守っている。本来ならもっと大がかりに労働組合が対処すべきであろう。だが自分の身分の安定しか考えていない連合の幹部などには、そういった意識はまるでない。連合会長が経営者と同窓であり、おなじ様な身分であることが日本の労働運動の退廃を象徴的に物語っている。
 これから必要なのは、各現場でのクビ切りを認めず、失業者をこれ以上増やさないこと。失業者の闘争をつくり出していくこと。さらにはローンの破綻者の運動を形作ること。この三点だろう。
 現在噴出している資本主義の矛盾にたいして、もっと個別な現象から大胆な運動の提起が必要とされている。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/官主主義日本とお先棒ジャーナリズム

■月刊「記録」1998年4月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■官に杭打つものなし

 日本は「民主主義国家」といわれているが、実態は「官主主義国家」というしかない。
 民主の主は、「王の頭に杭を打つ」という意味だったとも伝えられるが、いまは官の上に杭を打つものはいない。完全なる官僚独裁政治の時代である。
 デタラメ天下りとハレンチ遊興の限りを尽くしている実態がようやく明らかになった大蔵官僚だが、三月七日現在、逮捕されたのはノンキャリア官僚三人、キャリア官僚に至ってはたったの一人である。最初ノンキャリア二人を捕らえ、あとからキャリアとノンキャリアを一人ずつ逮捕したのには、キャリア官僚への検察の「気配り」が感じられてならない。その捕まったキャリアでさえ、大蔵省のヒエラルヒーのなかでは、まだ下っ端なのだ。世論を沈めるための人身御供的存在にもみえる。
 逮捕された榊原センセイは、東大法学部卒業後、二〇後半で岐阜県多治見で税務署長を務めて、らせん状に出世してきた典型的なキャリア官僚である。そんな彼が検察庁の手に掛かったのは、大蔵官僚の乱行があまりにもデタラメだったためにほかなならない。彼の逮捕は、大蔵官僚八万のなかのわずか一%しかいないキャリアの一滴でしかない。
 「(接待にかんして)自分は関係ない、ということのできる大蔵省の人間はいないと思う。だれもがある程度は見に覚えのあることだと思っている。自分もそう。その意味でも、全員がざんげするしかない」(朝日新聞・三月六日朝刊)という大蔵官僚の声が報道されれているほどだ。
 これまでキャリアは「官僚のなかの官僚」と祭り上げられ、自分が日本を支配をしているといった傲慢さを、大蔵官僚は身につけてしまった。企業からカネを貰ったり、接待を受けても当然だという意識を形成したのである。「官主主義」たるユエンである。
 しかしこのような退廃は、彼らだけで作れるはずもない。官僚汚職の構造で強力な力を発揮したのは、大企業であった。企業と官僚の相互協力によって、日本の腐敗を進めてきたのである。すでに多くの社会主義国家は、官僚の腐敗によって解体された。「官主主義」である日本もまた「国家解体」」前夜にある。

■東京三菱は我が世の春

 先述したキャリア組の逮捕と同時に行われたのは、東京三菱銀行など大銀行二一行にたいする二兆一〇〇〇億円もの公的資金援助である。これぞ大判振る舞い。

・日本勧業銀行  一〇〇〇億円
・日本長期信用金庫 二〇〇〇億円
・日本債券信用金庫 三〇〇〇億円弱
・第一勧業銀行  一〇〇〇億円
・さくら銀行  一〇〇〇億円
・富士銀行  一〇〇〇億円
・東京三菱銀行  一〇〇〇億円
・あさひ銀行  一〇〇〇億円
・三和銀行  一〇〇〇億円
・住友銀行  一〇〇〇億円
・大和銀行  一〇〇〇億円
・東海銀行  一〇〇〇億円
・三井信託銀行  一〇〇〇億円
・三菱信託銀行  五〇〇~一〇〇〇億円
・住友信託銀行  一〇〇〇億円
・安田信託銀行  一五〇〇億円
・東洋信託銀行  五〇〇億円
・中央信託銀行  六〇〇億円
・横浜銀行  二五〇億円
・足利銀行  一五〇億円
・北陸銀行  一〇〇億円

 東京三菱銀行など金融不安によって、預金者が逃げだした中小銀行の資金を集めまくり、我が世の春を楽しんでいる。それでも国の資金を受け取るという。銀行のなかで、資金を受け取らない銀行と受け取る銀行に分かれると、受け取った銀行の信用不安が発生する。それで横並びにカネを受け取る。相変わらずの護送船団方式である。はたして、これらのムダガネが貸し渋りの解消につながるのだろうか。
 この少し前に、東京郊外の国立のホテルで、三人の社長が同時に自殺するという事件が発生していたことを覚えているだろうか。不況のなかで社長が自殺をするほど追い詰められている企業は少なくない。しかも不況に追い打ちをかけているのが、銀行の「貸し渋り」である。 銀行が自分の身の安全を守るため顧客を締め上げている。バブル期、放漫経営によって土地や株を大量に買い込み、それが焦げついたのは銀行の自業自得である。にもかかわらず、一方では国の資金を使って経営の安定を図り、一方では貸し渋りによって中小・零細企業をいじめているのが、現在の銀行の姿だ。片手でカネを受け取り、片手で中小企業のクビを締めているのだから、まるで泥棒と人ごろしのセットである。
 官僚と銀行のこれだけの腐敗を前にして、国民がなんら運動を起こさないという状況もまた無惨といえる。社会主義の崩壊は「市民革命」ともいわれている。それはフハイした政府に国家にたいする市民の抵抗があってのことだった。ところがこの日本では、権力を批判する運動の先頭に立ってきた労働組合は労働貴族の連合化となり、野党は国会から姿を消した。
 大臣のポストをエサにし、政党助成金で買収することによって、どこにも反対派はいなくなったのだから、日本は自民党と財界にとって、世界でもっとも安泰な国だということになる。
 検察幹部は、「大蔵省自身が、きちんと調査すれば、局長級も含めて少なくとも一七、一八人のキャリアが辞職せざるを得ないのではないか」(朝日新聞・三月六日朝刊)と語っているという。だが大蔵省自身が内部変革をとげる可能性は、極めて低い。彼らに権力を与えすぎていたからである。
 たとえば、自主廃業した山一證券の八〇億円の債務隠しが、英国のペーパー会社を使って行われており、五年前の九三年に大蔵省はその事実を把握されていたことが判明している。
 また大蔵省の証券取引取引等監視委員会上席証券取引検査官が、今回逮捕されたが、山一證券の簿外債務について調べていた検査官幹部のワイロ・接待漬け生活も、今まで見過ごさせてきたのである。この二つ事例からも、大蔵省が簿外処理を指導していた可能性は極めて高い。
 このような行為は、多かれ少なかれ日本中の金融機関に蔓延していたはずだ。つまり日本の官主主義が解体されない限り、なんの解決にもみないことになる。
 これからの課題は、官僚機構を監視する野党がどういった形で形成されるかであり、さらには情報公開がどれだけ国民に広がるかにかかわっている。さらに東大法学部が官僚機構を全面的に支配している東大絶対体制を解体することだ。「泥棒」もそれを取り締まる検察も、どちらも東大法学部出身。これは日本社会のマンガ性をよくあらわしている。

■調書を鵜呑み?

 いまや検事が正義の味方のようになり、検事がんばれといった風潮が強まっている。しかし今度の文藝春秋の検事調書の流失という事態から、検事たちの秘密防衛も大したことがないとわかった。
  検事調書を誰が流したかについては、まだ明らかになっていないが、文春に掲載される前に各マスコミの送られていたこと判明している。新聞社はそれらの情報を使いながら、送られてきた検事調書をまた警察に手渡すという行為をしていたという。マスコミが情報操作にきわめて弱いという体質を、これらの事実は明らかにしている。
 また文春が「真実」だとしても、大々的に売り出した記事が、自分が取材した情報で作ったものでもなく、スクープでもなく、各社に流されていたものだというのも笑わせる。
 検事調書は警察調書とおなじように、「自供」によって作られたものである。その「自供」は警察官や検察官の誘導によって行われ、潤色されているというのは裁判に関心があるものの常識だ。そんな調書を鵜呑みにして発表するというのは、えん罪を増やすことにつながるだけで、なんら真実の解明につながらない。調書が誘導尋問によって作られ、のちの裁判で全面的に否認されるケースはこれまで無数にあった。自供を真実だと考えるジャーナリズムは、権力のお先棒ジャーナリズムというしかない。マスコミはそんなチェック機能さえ無くしていることが、神戸少年事件の調書に群がったマスコミの姿勢によって明らかになった。
 一方では、この事件をチャンスとして、少年法を無茶苦茶攻撃するマスコミが現れ、検事がマスコミの自主規制を主張するというとんでもない事態も起きている。いまマスコミの報道はバーゲンセールのような売らんかな主義に陥り、社会にたいしてどういう影響あたえ、社会をどう変えていくかという視点が欠如しているのである。
 さほど報道されている問題ではないが、権力と出版の関係について見過ごすことができない事件が発生しているので紹介しよう。

■警察が取引銀行に圧力

 最近、三一書房で発行された『警察が狙撃された日』という本を巡って、警察が動いていたという問題が発生している。これは警視庁本富士警察署長・石川末四郎の名前で、三一書房の複数の取引銀行にたいして、「捜査関係事項照会書」なる文書が届いた事件である。
 その内容は、「一、口座番号(当座・定期・普通)、設定年月日  二、名義人住所、氏名  三、取引状況写し  四、印鑑の写し 五、その他の参考事項」と、取引状況全般にわたっている。出版社の取引状況を明らかにすることが、なんのための捜査に必要なのか。これは捜査のためというのは口実だろう。貸し渋りが吹き荒れる状況で、銀行の融資を止めようという権力の行動が透けて見える。出版・報道・ジャーナリズムにたいするこれほど露骨な攻撃を見逃すことはできない。
 現在、日本政府は消費税の引き上げなどによって、庶民の消費を不活発にして不況を招き、その一方で中小企業にたいする銀行の貸し渋りを誘発し、そのうえ犯罪的な銀行にカネを与えている。これはかつて、アメリカの湾岸戦争を支持して、アメリカに1兆五千億円ものバカげたカネを無駄に使った時とおなじような愚政の繰り返しだ。2兆円ものカネを大銀行に渡すなら、銀行の貸し渋りで困っている企業の救済を考えるべきである。放漫経営で苦しんでいる一部の銀行の救済のために、大手銀行すべてにカネをばらまくべきではない。なにに使われるか、わかったものではない。
 これ以上、橋本内閣にバカを繰り返させないためにも、権力依存のマスコミ体質を改善する必要がある。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/大蔵スキャンダルは複合汚染の土壌に咲いた毒花の群生

■月刊「記録」1998年3月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■自省心のカケラもない大蔵官僚

 大蔵省のスキャンダルは、金融検査部・金融証券検査官室長・宮川宏一、同部管理課課長補佐・谷内敏美の逮捕後、おなじノンキャリア組の銀行局総務課・大月洋一氏の自殺へと展開した。このままノンキャリア組のスキャンダルだけで決着させるのか、さらには大蔵省がどういった形で分割されるのかが、今後の焦点となっている。
 この事件で大きな問題となったのは、銀行を監督するはずの検査官が、接待のみかえりとして検査日程を銀行側に伝えていたことだ。このような大蔵省の腐敗ぶりは、まさしく悪代官と悪徳商人の関係である。官と民との歪んだ構図が、ここにある。
 だが、これだけ根深い腐敗を摘発されても、大蔵官僚たちには罪の意識のかけらもない。それが証拠に、先日放映されたNHKのスタジオ番組では、西村吉正前銀行局長が驚くべき発言をしている。
「接待というから、なにか快楽的なイメージになるのであって、会食というべきです。銀行側との会食は必要でしょう」
 このようなことを白昼堂々テレビで語るほど、大蔵官僚は「会食漬け」になっている。彼らの会食とは芸者つきの高級料亭であり、風俗営業店での飲み食いである。しかもそのあとには、高給クラブや接待ゴルフが待っている。庶民のワリカンなどの会食ではない。会う用事があるなら、支払いを折半にしたらどうだ。
 高級官僚たちが、こぞって東大法学部出身というのも気持ち悪い。大蔵省に採用されているのは、国家公務員上級職試験を通過したエリートからさらに選ばれた、いわゆる超エリートである。しかしこの超エリートの実態は、たんに勉強ができた受験秀才、あるいはガリ勉クンにすぎない。子どもの頃からひたすら丸暗記と受験技術だけで優位を勝ち取ってきた連中には、そもそも人間性の形成されるような機会も、時間もなかったはずだ。それは現代の受験システムをみれば容易に想像がつく。
 この『もやし』のような促成栽培秀才たちが大蔵省に入り、二〇代そこそこで地方に派遣され、税務所長として君臨する。地方では地元の商工会や地方官僚が、彼が中央に帰る日に備えて腫れ物に触るように扱いチヤホヤする。お呼ばれの酒席でそっくり返り、お土産をもらい続ける生活に慣れ親しんできた連中なのである。
 つまり、入省直後から当然もてはやされる者として汚職の特訓を受けてきた人間ということになる。だから接待供応が人間として極めて恥ずかしい行為であることがわからない。業界から見返りを要求され応じていた事実は棚に上げて、「会食」などといい換えて口を拭おうとする。
 このような人物が大蔵省を埋め尽くしているのだから、大蔵省の腐食は根が深い。今回の事件だけが、特殊な例では決してないことは、つぎの例からも容易に想像がつく。
 大蔵省の腐敗の歴史をひもとくと、七九年には鉄建公団の「過剰接待」が問題になり、自粛を求める官房長通達が出されている。九五年には元東京協和信用組合から香港接待などを受けた田谷広明元東京税関長や、中島義雄元主計局次長などが辞職している。このときも官房長通達が出されていたが、カエルの面にションベン。「会食」をやめる気はもうとうないようだ。

■天下り禁止以外に解決法はない

 現在、公務員倫理法が作成されようとしているが、腐敗した土壌を変えることなく規則だけ厳しくしても弊害のほうが大きい。すでに公務員は、国家公務員法によっ職務上知り得た秘密を守る義務が課せられているのである。だいたい飲ませ食わせの見返りに、相手に便宜をはかるなど、犯罪以前のモラルに属する問題だ。守られることのない法律を作ってお茶を濁し、かたや泰山鳴動して鼠一匹という終わり方など絶対に認められない。
 そもそもこのような退廃を作りだした根源は、政治献金と天下りにある。複合腐食の構造をどう切開するか、どう根絶やしにするかが問題の核心である。今回の問題はこの複合土壌に咲いた毒花が、たまたまつまみ取られただけに過ぎない。
 銀行が自民党にたいして巨額な政治献金をしていたことは、今更いうまでもない。政治献金とは、政治家にたいする明らかな買収行為である。にもかかわらず抜け穴だらけの法律を作り、疑惑がささやかれれば陳謝するという態度を繰り返してきた政治家が、今度は、飲み食いだけを取り締まるという姑息なやり方を取ろうとしているわけだ。
 また、天下りの問題も根が深い。
 帝国データバンクの調査によれば、昨年三月時点で、大蔵省や日本銀行などから全国の銀行一四六行に天下りした役員は、二三一人にもたっした。二月五日の『朝日新聞』でも、大蔵省のエリートキャリア官僚の天下りについて、次のような数字を報道している。
 都市銀行と長期信用銀行一三行のうち九行に一三人、さらに地方銀行には五〇人。銀行では不況下でのリストラが進んでいるというのに、天下り数だけはまったく同様の数字で推移していく。省庁ではさんざん接待を受け、業界に情報を漏らしたあとで、その業界に大手を振って天下って行く。この国家的逆人身売買制度には、あきれるよりほかはない
 もちろん銀行側にも問題はある。
 今回問題になったMOF担(Ministry of Finance担当)は、大手銀行では行内の出世コースにあたるのはこれまで指摘されていた。都市銀行と長信銀一三行のうち、MOF担を経験している頭取と会長が、なんと三人もいるのだ。さらにMOF担の直属の上司にあたる企画部担当の部長職経験者は、副頭取以上の役職に一〇人もいるという。国の秘密を盗んだものが出世するのが、銀行のモラルだ。
 つまり接待の席で銀行に情報を流した連中と受けた輩が、のちのち一緒になって役員幹部に収まるのである。好待遇で天下るために国家の情報をどんどん垂れ流す大蔵官僚と、その情報を使いながらも不正を隠すMOF担。醜悪な者同士が助け合って権力を握るなど、許されることではない。
 さらに天下りした連中は、ことごとく現在の官僚の先輩にあたることも忘れてはならない。おなじ東大卒の先輩と後輩の間でポストを回している現状は、構造的腐敗そのものだ。天下りを禁止する以外に、解決する方法はない。

■抜け穴指導が官僚の仕事

 先輩がいる、自分の将来の天下り先である銀行に、大蔵官僚がどれほど甘かったかは、一九九五年秋に発生した大和銀行ニューヨーク支店の巨額損失事件をみても明らかだ。当時、大蔵省が巨額損失を知りながら長い間隠していたことは報じらていた。また破綻した東京共和と安全信用組合を救済するために、債権を処理する公的機関が作られたことなど、一般企業に比べて特別処遇が過ぎる。あとに続く大阪信用金庫の破綻でも、この機関は大活躍している。そして、そんな銀行への甘やかしによって生み出されたツケは、現在も確実に大きくなっているのである。
 さらに大蔵省が甘やかしているのは銀行だけではない。
 証券会社との癒着も有名になった。自主廃業に追い込まれた山一證券の副社長(当時)にたいして、大蔵省の松野允彦証券局長が損失の簿外処理の方法を指導したという疑惑は、いまだに解決されずくすぶっている。この指導によって山一證券が悪名高い『飛ばし』に堂々と踏み切るようになったことは、ほぼ間違いない。
 あまりに明らかな官と民との共同謀議・共同正犯である。だがこれもしょせん、氷山の一角に過ぎない。民間企業の利益のために、さまざまなな法の抜け穴を指導することが、大蔵省官僚の大事な仕事となってきたからである。
 ところで大蔵省の天下り先が、銀行や証券会社だけでないことは、今回の問題以降、知られるところとなった話だ。彼らの人生を比喩する「渡り鳥人生」とは、特殊法人を転々と渡って、その度に退職金を稼いでいる事実を指した言葉である。退職したあと、五回も天下ったという剛者もいるし、退官後の退職金を一億八千二〇〇万円もせしめたという悪徳官僚もいる。
 もちろん法人内で、さらに私腹を肥やす連中も多い。日本道路公団の外債発行をむぐる汚職事件で逮捕された、元大蔵省造幣局長・井坂武彦の例は記憶に新しい。
 このように日本の経済は、倫理もモラルもまったくなく、周りからチヤホヤされて育ってきたバカ殿様に指導を任せてきたのである。その結果が官僚のやりたい放題であり、庶民の生活を破綻させた金融危機・経済危機である。

■たとえば低金利政策だ

 バブルの時期、大蔵官僚の天下り先がことごとく無茶な経営をおこない巨額な負債を発生させた。それをカバーするためにおこなわれたのが低金利政策である。
 後先考えずにおこなわれた乱脈経営の尻拭いのために、預金者の金利を極端に下げることなど許されるはずもない。この政策は、まわりまわって市民の老後の生活をも破綻させているのだ。
 なぜなら、老後の不安を覚える老人が、預金額の目減りを減らすために、悪徳商法に手を出しやすくなっている。豊田商事をはじめとして、和牛商法やオレンジ共済組合などのインチキ商売が、明らかに胡散臭さを漂わせているにもかかわらず、これほど多くの人を惹きつけてやまないのは、低金利政策と無縁のことではない。庶民の生活を疲弊させ、不安感を煽り、その出口をインチキ商法へとむけさせた責任が、大蔵省にはある。
 さらに、このようなインチキ商法を許してきた監督官庁の責任も追及されてしかるべきなのだ。にもかかわらず、被害者による国への賠償請求は一切認められないという判決が出ている。
 庶民を踏みつけながらうまい汁を吸えるだけ吸い、罰せされることもなく、責任を取りもせずにいる。大蔵官僚の行動が「無期懲役」にも匹敵する重大な犯罪にもかかわらずだ。
 日本の財政(予算配分)・国税(税金の徴収)および銀行・証券会社への指導。この国にかかわるすべての金を握った権力者が大蔵省である。絶対権力者が、絶対的に腐敗する、とはよくいわれることではあるが、大蔵省も例外ではなかった。
 現在、日本国家の中枢は完全にいかれれている。たとえていえば暴風雨の中、船を操縦する船長や一等航海士が酒を飲み、女性と戯れているようなものだ。このような船員達に任せていたなら、日本は沈没して当然である。
 しかも銀行(企業)、政治家、官僚とを結ぶ三角形は、まさに腐海のトライアングルというべき構図を作りだしている。企業は政治家に献金してさまざまな便宜を計ってもらい、政治家は見返りに産業界にとって都合のいい法律を官僚に作らせる。官僚が政治家につくらせている貸しは、資料や国会答弁などになる。その官僚を飲ませ食わせして手なずけてしまうのが民間企業である。この三つ巴が魔のトライアングルとなって、国家の政治経済という土台を腐敗させているわけだ。
 今後、大蔵省は解体される方向にあるというが、どういう形で解体されるのか。この極度の権力をもった官庁が、市民の生活のためにどう変わるかを、主権者である私たちは監視する義務がある。監視義務を怠り、政治家や官僚に土下座する生活をつづけてきた「庶民」にも、この腐敗の責任があったことを知るべきである。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/ヤラズボッタクリ介護法成立に怒る

■月刊「記録」1998年1月号掲載記事 (表記は掲載当時のままです)

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■無能無策の労働組合

 不況のうちに新年を迎えた。残念ながら、社会状況はこれからますます厳しくなりそうである。山一証券に代表されるような大型倒産続出の影響は、じわじわと日本社会に浸透していきそうだ。これらは放漫経営によるツケが労働者にまわされたものだが、最大の問題は、労働組合が完全に御用化し、なんの機能も果たしていなかったことである。
 倒産の当日まで、労働組合の幹部がまったく情報をもっていないのは信じがたい。これは経営にたいするチェック機能をもつはずの労組が、なにもしていないことを如実に物語るものだ。企業にたいするYESマンだけで執行部を形成しているから、倒産にたいしてもなんの手も打てない。さらに社員の行く末についてなんの責任ももてない状態にある。銀行・証券の経営危機につづいて、これからはゼネコンの倒産が深刻化するといわれている。すでに闇の存在である外国人労働者の解雇は、急速に進んでいる。力の弱い企業からどんどん整理されていくであろう。そんな状況で労組がまったく役立たないのは、労働者にとっての悲劇といえる。
 また倒産の憂き目をみなくとも、かなりの数の社員がリストラによって会社の外に放りだされ、派遣社員やパートタイマーに代わろうとしている。日本百貨店協会の調べによれば、九二年をピークに社員数は減少している。たとえば、九六年度一〇%だったパート比率は、九九年度には倍の二〇%になると見込まれている。これらは本社員を中心とした労働組合が、組合最大の眼目である雇用さえ守れなくなったのをしめしている。組合費を払っている組合員を守れないのでは、なんのための組合費だかわからない。
 経営者のいうがままの労働組合に破綻が生じているのは、予想された事態である。同様に国を信じきっている国民もまた、ますますひどい目に遭うことが予想される。その典型的な例が、一二月九日に成立した「介護保険法」である。
 これは強権・自民党と腰巾着・社民党などによって強行された法律だが、一口でいえば「福祉」の名を借りたヤラズボッタクリ法である。大衆収奪の極端な例だ。訳のわからない評論家の一人である樋口恵子などは、「問題が多いが条件付き推進派」などといっているが、この法案の本質をわかっているのだろうか。たしかに福祉の問題は、彼女がいうように社会全体で考える段階に入っているが、なにもボッタクリ法案に賛成する道理などない。
 高齢化社会をまじかに控え、老後の介護をどうするかは国民的な課題である。まして社会福祉の遅れている日本は、その制度の充実が期待されている。その国民の不安と期待に乗るような形で同法案を成立させたのは、極めて罪が深い。
 まずこの法案は、実施時の状況がまったく考慮されていない。この法案は二〇〇〇年四月から運用されるが、このとき保険料が一人当たりどれぐらいになるのか、さらにその保険によってどのようなサービスを受け入れるのかが明らかになっていないのである。
 具体的にいうと、二〇〇〇年四月以降に四〇歳以上のものは、加入する医療保険に応じて数千円の掛け金を強制的に払わされる。しかしサービスを受ける権利をもつ六五歳以上のうち、どれだけの人間がサービスを受けられるのかが決まっていないのである。保険料を払っているのにサービスは受けられないという「国家的詐欺(自民党議員)」(朝日新聞・一二月一〇日号)という声まである始末だ。
 そもそもこの法案は、汚職官僚・岡光序治が始めた「新ゴールドプラン」に乗ったいい加減なものである。具体的な内容が決まらないうちに、国民の金を収奪する方法だけが国会を通過したのには、驚かざるを得ない。

■7つの問題点

 介護保険の問題点については、東京都の武蔵野市が簡明にしてわかり易いパンフレット作成し、各戸に配布している。タイトルは「介護保険について、もう一度考えてみましょう。まだ間に合います。保険者とされる武蔵野市からの提言」である。
 ここで述べられている項目は次のようなものである。「一・保険あって介護なし、二・コンピュータによる介護認定は正しいか、三・困った時にサービスが受けられるか、四・選択されてしまう被保険者、五・知られていない被保険者負担、六・厚生省がすべてを管理する中央集権の制度、七・二〇〇〇億円の無駄な事務費」。これらの提言は、法案の本質をみごとに突いている。保険者(実施者)としての自治体が、住民の福祉のために体を張ってこの法案を阻止しようとする姿勢はすばらしい。 まず「保険あって介護なし」という批判については、「介護保険は、はたして、医療保険とおなじように、『いつでも、どこでも、だれでも』必要な時に必要な介護を受けられるような制度となるのでしょうか」と設問している。現在、多くの地域では介護の基板が整っていないためにサービスを供給できない状況にある。この未整備な体制の上に介護保険が導入されれば、介護サービスを受けられない市民が大量に生まれ、地域社会が大いに混乱すると武蔵野市は分析している。
 これは労働災害保険の例からみても、正しい予想だ。 現在、過労死や過労による自殺などを労働災害として申請しても、ほとんど棄却される。保険の認定が官僚の判断によると、不服申し立て申請をしても、なかなかラチがあかないのである。これこそ日本社会における長年の悪弊である。
 それだけではない。労災保険によって徴収された資金は、労働省官僚の経費として使用されているのだ。労働省のさまざまな施設が厳しい審査もなく作られるが、肝心の被災労働者への支払いは極めて姑息に制御されている。介護保険が労災の二の舞になることは、間違いない。

■保険料を払っても介護されない?

 次に武蔵野市が指摘しているのは、「要介護」「要支援」のコンピュータによる判定である。というのも介護を認めないための言い訳として、この判定を使う懸念があるからだ。
 だいたい人間の諸症状が、コンピュータや一律の基準によって「要介護」「要支援」などと判定できるのだろうか。この法案に賛成している人は、医療保険とおなじように考えている。保険証があれば、全国どこでも、だれでも、病院で治療が受けられる制度と混同しているのである。だが実際の介護保険は、介護を要するかどうかを調査員の訪問調査ののち、コンピュータでの処理・判断をさせるという。介護の要請者にたいして、膨大な却下を発生させ、「コンピュータによる基準がありますので」と要請者を締め出す可能性は高い。さらに幸運にして厳しい医療介護認定をくぐり抜けても、一律のサービスが支給され、個人の状況に応じたきめ細かい対策にはなりそうもない。
 しかも四〇歳以上、六五歳未満の人はほとんど無条件に給付されないのである。たとえば交通事故で要介護になっても、対象とはならない。いったいどんな人を介護しようとしているか、さっぱり実態がみえてこない。
 さらに最大の問題が、この法案に隠されている。それは救うべき弱者を切り捨てるシステムが内蔵されていることだ。
 まず保険料の問題がある。保険料は所得別に五段階に分けられているのだが、最低で月額一二五〇円、最高で三七五〇円の定額保険料となっている。しかも導入後はアップが確実で、二〇一〇年には平均で三六〇〇円になると見込まれている。
 先ほども述べたように、これだけ保険料を払っても認定を受けなければ介護を受けられない。さらに介護を受けるために、利用者はサービスの一〇%を負担しなければならないのである。たとえば月三〇万円のサービスを受けたとしたら、その老人は月三万円を支払わなければならなくなる。たとえば年金で月四万円ほど貰っている老人は、保険料と負担料で年金のすべてが国家に巻き上げられてしまう。となれば食べるために、介護をあきらめることになろう。
 一〇%もの負担は低所得者にとって、極めて重い負担だ。これによって、タダ掛けポイ捨ての弱者が多数発生する。しかも介護には保険外負担もあるのだ。それを全額自己負担できる人が、日本にどれほどいるだろうか。今までか細い社会福祉制度でかろうじて支えられてきた人も、保険料・利用者負担・保険外負担によって、受給から排除されることになる。
 あたかも社会福祉を充実させるようなポーズを取りながら、生活最底辺層の経費に国家が手を突っ込み、収奪してポイする法案が許されて良いはずはない。
 もちろん自治体としての問題もある。この法案は、厚生省によって実施するため、市町村にはほとんど実質的な権限があたえられていない。結局、「機関委任事務」が新たにふえたことになる。地方主権が叫ばれているなか、時代に逆行した政策が大手を振って成立したのだ。 このように国民生活に重大な影響をおよぼす新たな制度が、討論のないままに国会を通過し、国民が衆知することなく実施される。しかも社会保険料から天引きされるという最悪のパターンが決定している。これは国民の基本的な人権を剥奪するファシズム的な政策そのものだ。

■国家的火事場泥棒の時代になった

 武蔵野市が先ほど述べたようなパンフレットを作成したのは、保険者(実施者)としての現実的な不安によるものである。土屋正忠市長は、保険料未納者には市がペナルティーを課さなければならなくなると語る。なぜなら未納者が増えると保険が成立しなくなり、市の一般財源をもち出さなければならなくなるからだ。さらに医療介護状態にたいする認定でも、市に不服申し立てが続出するという不安を表明している。コミュニティで支えていく福祉の実践に挑戦してきたからこその言葉には重みがある。
 武蔵野市は介護保険法案に代わる方法として、「高齢者の自立支援・介護は全国民の連帯で支えるため、消費税賦課方式より介護財源を確保する」ことを提唱している。これは消費税方式で徴収された税金が市町村に配分され、市町村が独自のサービスを加えて提供できるように求めたものだ。
 国家がすべての金を握っている中央集権制度とは、またちがった方式である。中央が画策したヤラズボッタクリの大衆収奪法を排除するのに必要なのは、地方自治と住民の連帯による新たな福祉制度の創設であろう。一律に中央がコントロールすべきものではない。さまざまな方法によって介護は行われるべきである。
 介護問題を解決するには、個人の生活を防御する社会福祉政策をどのように充実させていくのか、そのような本質から考えるべきである。高齢化社会における介護不安を呼び水に、不安解消のかけ声で惑わせ、一挙に成立した火事場泥棒的な決定は混乱を招くだけである。それぞれの地域で生きる人の思いを含んだ政策が望まれる。ここで強調したいのは、抵抗しなければ、なにをされるかわからない時代に入ったということだ。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/大不況を生きる

■月刊「記録」1997年12月号掲載記事 (表記は掲載当時のままです)

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■貧乏人殺しの政府の犯罪

 最近、日本経済の先行きの困難さを、週刊・月刊誌が競うように特集記事にしている。政府はこれまで緩やかな景気回復にむかっていると言い続けてきたのだが、ついにどうしようもない破綻を引き出したのは国家である。すでに三、四年前から、不況は深刻化していたのである。にもかかわらず消費税の値上げなど、政府は逆手の経済政策をとり続けた。これによって余計に経済的な混乱を極めてきたのだから、政府の態度は人殺し的である。
 バブル景気に大盤振る舞いしていたゼネコンの倒産が相次いでいる。東海興業は七月に五一一〇億円の負債を抱えて倒産しているし、多田建設は一七一四億円、大都工業は一五九二億円という巨額の負債を記録した。まさに大型倒産のラッシュである。しかしゼネコンの倒産は、これから本番を迎えようとしているのが実状なのだ。 建設だけではない。銀行も統廃合の方向にあり、三洋証券も三七三六億円の負債を抱えて倒産した。さらに大規模な海外進出を図り、人々の目を引いていたヤオハンも倒産。ダイエーに資金を肩代わりしてもらう状態となっている。このような状況のなか、莫大な不良債権を抱えている銀行がさらに融資を引き締めようとしているのだから、今後、中小企業へも倒産が波及する。そもそもこの経済混乱は、バブル期の放漫経営が破綻したものだ。しかもそのバブルを煽ったのが政府だった。
 たとえば中曽根康弘首相は「舶来品を買え」と大号令をかけ、デパートで自らネクタイを買うデモンストレーションをしたことさえしていた。当時、日本企業の輸出攻勢によって貿易摩擦が激化。海外からの強い批判を輸入品の購買によってかわそうという姑息な手段で、無駄な買い物をしろと国民に強要したのだ。では企業はどうしていたかといえば、合理化を進めて現場の労働者を苦しめながら過大な超過利潤を獲得。一方で海外摩擦というツケを、勤労者の無駄な買い物によって解消させようとしていたのであった。
 バブル期の精神的な後遺症は、無駄遣いの増大と、ローン至上主義だった。これは土地や株が暴騰するという前提の上に立った価値観だ。銀行でローンを組み、不動産や株を買えば儲かるなど虚妄としかいいようがない。しかも土地の高騰は、税収入を増やし国庫を潤したのである。バカをみたのはなけなしのお金を不必要な不動産や株に投入した庶民であった。しかも地価の高騰にたいする期待が身分不相応な不動産を買う傾向につながり、いまなおローン地獄に苦しんでいるサラリーマンは、膨大な数にのぼる。バブル崩壊以降、自己破産の件数がうなぎ登りになっているのは、その証明である。
 むろん不動産業も、ゼネコンも、銀行も、生命保険も、膨大な不動産を取得したはいいが、塩漬けにしている。それが事業経営に大きな負担になってしまったのだからバカげた話だ。そして銀行は苦し紛れに、ゼネコンや証券会社への支援を打ち切らざるを得ない。輸血を止めるなら、死ぬしかない。ツケを先延ばしにして延命してきた企業に、遅ればせながら地獄が現れたのである。

■四八万人が一年以上失業

 これまでも不況はつねにあったわけだし、それに伴う解雇・首切り・リストラは続いてきた。しかし今回は、世界経済の不況も同時に起こっている(米国経済は、まだ堅調であるが)。香港の株式暴落やタイのバーツ暴落などにより、アジア各国に投資した膨大な資金を回収できるかどうか。それが今後非常に注目すべき問題となっている。
 またアジア各国の不況により、海外進出の伸びが止まった。たとえばタイのトヨタ工場は、操業中止に追い込まれた。いまにも各国で操業中止・撤退が始まろうとしている。こうなると内需拡大しか景気浮上の方法はない。しかし先ほど述べたように消費税の値上げは大きく、減税はうち切られ、医療費の値上げも実行された。そのうえ厚生年金への不透明さが将来への不安を煽り、消費へ手がまわらない。
 すでに消費税の値上げによりデパートやスーパーの消費が低落してきていたが、ついに一人勝ちを続けていたコンビニエンスストアの売り行きも落ちてきている。いま街には底冷えの気配が濃厚になってきている。
 これにともなって失業者の増大にたいする懸念も強くなってきている。いままでも大失業という見出しによって、バブル崩壊前後にも何度か不況が取り沙汰されてきた。しかし、これは大失業という脅かしにより、労働者の抵抗を抑えるという戦略的な誇大宣伝の色彩があった。しかし今回は少しちがう。
 総務庁が六月に発表した九七年の労働力特別調査によれば、完全失業者二三〇万人のうち、一年以上の長期に渡って失業している労働者は、四八万人と全体の二〇・九%を占めている。
 そもそも日本の失業率統計は、きわめて曖昧なものだ。調査期間の一週間に一日でも働いたものは、失業者に入れないという厳格な基準がある。つまりパートやアルバイトで一日でも働けば、立派な就労者として集計されるのである。さらに半失業状態の家内工業で働いているものも、就労人口のなかに組み入れられている。こういった数字の操作により日本の失業率は三%を保っているが、実態は五%強とも推測されている。こんなごまかしだらけの総務庁の統計でさえ、一年以上就労していないものが二〇・九%もあるというのは、これまでになかった非常に深刻な事態である。

■年収五〇〇万から一八〇万に

 都立労働研究所調査には、次のような事例が報告されている。
 この調査は、都内の職業安定所や専門学校へ通う四〇~六〇歳代の六五人に、研究員らが面談調査した。いくつかの実例をみてみよう。
 <2年前にレンガ製造会社を早期優遇退職した57歳の男性は、あっせんされた再就職先が倒産。自分で探した会社に移ったものの経営が不安定でこれも退職、友人と事業を起こした。が、採算はとれず、妻がパートに出始めた>
 <49歳の自営デザイナーは、得意先の倒産などで一時は500万円あった年収が180万円程度に。1995年春に廃業後、経験を生かせる再就職先はない。在学中の子供2人を抱え、妻のパート収入と預金の取り崩しでしのいでいる>
 <課長として働いていた機械設計会社が倒産した45歳の男性は、これで3度目の倒産・閉鎖。設計技術を生かそうとしても、募集は40歳まで。子供2人が在学中。妻はパートに>
 <52歳の男性は総務部長を務めていたホテルが閉鎖され、後始末のため最後まで残った。その過程で経営者と従業員の間のトラブルに巻き込まれた。人間関係への不信が始まり、1、2年で転職を繰り返すなど、定職に就けなくなった>
 <47歳の男性は印刷工場などを15年間経営していたが、バブル直前に街の再開発計画が浮上、協力するため事業をやめ、土地を売った。売却益で他の土地など資産を獲得、事業再開時の元手にしようとしたが、バブル崩壊で資産価値が低下、再開発計画も進まず、身動きが取れなくなった。やむを得ずハイヤー運転手になったが、会社が親会社に吸収され退職、無職に>
(読売新聞 九七年一月二一日)

 日本の失業者は欧米よりも深刻な問題を抱えている。なぜかといえば、雇用保険(かつての失業保険)がきわめて短いからだ。そのため若手・若年労働者は、低賃金なパートに出るしか方法がなく、中高年は行き場を失うはめになる。もちろんヨーロッパのように、失業していてもいくつかの社会保障によって生きていける福祉型社会には到達していない。
 また日本社会では、失業者が無能なものとして差別される傾向が強い。本人も昼間ぶらぶらしているのが格好悪いと感じ、仕事もないのに毎朝定時に出勤して世間体を保つという現象まで起きている。失業しても堂々と生きているヨーロッパなどと比べると、社会的な風習に大きなちがいがあるのがわかる。

■自分の権利は自分で守れ

 問題は労働組合である。
 自民党の陰謀によって、総評が解体され連合が成立した。そして多数の労働組合出身議員を抱えていた社会党が崩壊をみたのは、周知のとおりのである。これによって大企業の労働組合は、多くの機能を失ってしまった。 このたび連合会長になった鷲尾悦也のように、東大出身の官僚が労働官僚にスライドするという状況が生まれているのである。まったく労働運動の経験がなく、労働運動の精神などとは無縁の人物が労働界に君臨しているところに、大企業を中心とした労働組合の退廃が表れている。
 失業者とは、工場の塀の中から表に叩き出された労働者のことであり、労働組合とは塀の中から失業者を出さない歯止めとなるものである。しかしオイルショック以降の労働運動は、経営者の要請に合わせて労働者を組合が首にしてきた。これでは今回の不況にたいして労働組合がまったく機能しないのは当然である。そもそも労働組合の精神など、とっくに喪失しているからだ。
 一方で、中小の労働組合や地域ユニオン(コミュニティユニオン)、なんの組織もなく追い出された管理職を組織した管理職ユニオンは、依然として健闘している。これらは個人加盟の労働組合であったり、地域の労働組合が集まって組織をつくり、一人の首切りにたいしても他の労働者が駆けつけるという昔ながらの労働運動を展開している。
 大企業と大組織はすでに空洞化しているが、その周りにある中小の労働組合が、これからどれだけ失業にたいして連帯して闘争していくか、ここに可能性がある。そういった運動が、不況に名を借りた政策的なリストラにたいする歯止めとなるであろう。
 また労働者を簡単に首にはできないという信念を、個人ももつべきである。不当な解雇や嫌がらせにたいし、労働法や憲法の基本的な人権を中心とした共闘がさらに必要となってくる。この二〇数年間、日本の労働者はあまりにも安閑とし過ぎてきた。この不況にたいして無抵抗のまま、経営者の言うがままに解雇が進めば、それがさらに購買力を失わせ、不況の泥沼に落ち込んでいくであろう。
 日本およびアジアの経済の見通しは、米国経済に依拠するきわめて変則的な状態になっており、米国の株価の上下に一喜一憂する状況になっている。米国経済がどこまで好況を保ち続けるかは、保証の限りではない。こうして世界同時不況という恐怖に、いま全世界が落ち込んでいる。これらは工業生産や金融に特化し過ぎた経済行政の必然的な結末であった。本来は国際競争や企業間競争だけでなく、農業や各種産業をバランス良く発展させていくべきである。
 いずれにしても不況は深化しそうだが、いたずらに動揺すべきではない。自分たちの権利は自分たちで守るという抵抗を基にした自己防衛が必要となる。クビ切りを認めてはいけない。抵抗しても殺されるわけではない。人間のプライドをかけて、闘うべきだ。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/くたばれ! 政府容認サティアン原発施設

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事(記載は掲載当時のままです)

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■中曽根親子で巡る因果

 ついに、日本の原発施設でも大事故が発生した。次第に頻度がふえてきた原発事故と規模の大きさからは、原発の縮小、代替えエネルギーへの移行そして運転中止の必要性がもとめられている。原発によるこれ以上の被曝をくい止めるために、政府は責任をとるべきだ。
 これまで政府は、「安全だ」、「安い」だけの理由で原発を推進してきた。「安全」と「低コスト」。この相対する概念を一緒にしてきた政府のいい加減さが長年まかり通ってきた。この矛盾を解決するには、建設予定地にカネを大量にばらまくだけである。
 そもそも日本が原発時代に突入したのは、一九五四年、中曽根康弘議員が原子力予算を提案したことにはじまる。国会をなんなく通過した予算総額は、二億三五〇〇万円。原発で使われるウラン二三五との語呂合わせで、予算の数字が決まったといわれる。
 当時、日本学術会議などは、日本の原子力利用に反対したが、「札束でほっぺたを叩いた」といわれるほど強引な方法で、中曽根はカネで強行した。それが「金力発電」の出発である。五九年には、彼は科学技術庁長官に出世して、キケン極まりない原発推進に力を注いだのである。
 この中曽根の強引さが、日本中に原発を生み、こんどは息子の中曽根弘文が科学技術庁長官として、この大事故の処理に追われている。これこそ「因果は巡る糸車」というもので、こんご中曽根親子の責任を追及する必要がある。
 原発は出発からして利権のキナ臭さがただよっている。だから、東海村で臨界事故が起きた当日の九月三〇日でさえ、通産省資源エネルギー庁の河野博文長官は、さっそく次のようなコメントを発表している。
  「環境問題との共生、エネルギーの安定供給のことを考えれば、今後も原子力発電の重要性は変わらない」
 この無責任、無知、無謀な発言など、負け戦を隠して「勝った、勝った」と騒ぎ立てた大本営発表とおなじである。あるいは「撃ちて死なん」の玉砕主義といってもよい。
 通産省は、二〇一〇年までに一六基から二〇基の原発を新設するという供給見通しを立てている。今回、これだけの大事故に見舞われてもなお、拡大政策を変えず、ひたすら推進しようとしている。まるで「原発無理心中」「大東亜原発戦争」といった状況である。

■労災が認められない被曝労働者

 また通産大臣である与謝野馨は、いまごろになって、「今後は原発だけでなく、燃料加工施設にも多重防護(フェイルセーフ)の考え方を取り入れる必要がある」などと発言している。与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」の詩でもよく読んだほうがいい。危険な放射性物質を扱いながら、フェイルセーフの考え方のかけらもなかった。そうしたJCOの実態にたいする自己批判がまったくない通産大臣の発言には、驚くほかない。
 そもそもフェイルセーフのシステムどころか、核物質にかんする基本的な知識すら、この会社では従業員に教えていなかったのである。事故を引き起こして病院に運ばれたJCOの労働者は証言している。
  「二三年前に(会社に)入った直後に研修を一回受けただけで、意味がよくわかっていなかった」
 このように教育をあたえないで、最高の危険物を扱わせていた政府・通産省・化学技術庁は、犯罪者集団といっていい。
 さらにJCOの工場は、放射線漏れを防ぐような建築物でさえなく、臨界を止める装置もなかった。これまで原発は「トイレのないマンション」などと呼ばれてきたが、これではまるで「ブレーキのきかない自動車」というようなものだ。
 これだけ危険な暴走核工場が、日本のあっちこっちにあるのがおそろしい。だいたい安全対策など手の回らない中小工場に、危険な作業を押しつけ、日本の原発のコスト削減を実現するなど、弱者いじめにほかならない。結局、その後始末役は、もっとも立場の弱い労働者に回ってくるからだ。
 JCOの臨界事故をかろうじてくい止めたのは、突入させられたJCOの社員三三人の冷却水の抜き取りやホウ酸注入などの作業である。中性子線を防ぐ防護服もなく、被曝覚悟の特攻精神によって、この事故はくい止められたのだ。事故当日、千葉の病院に担ぎ込まれた三人の労働者や、そこで働いていた労働者、そしてこの特攻隊に駆りだされた労働者の被曝が、住民の被曝とともにこれから心配される。
 放射線被曝は、将来における白血病やガンなどのほかに、免疫性の低下による病気の多発という症状を引きだす。今後、どのような病状が労働者、住民の被曝者にあらわれるのか、とても心配だ。
 といっても日本における被曝は、けっしてこの事故がはじめてではない。これまでも原発の定期点検作業などによって、膨大な被曝者を発生させ、数多くの死亡者をだしてきた。ただ原発労働者の死亡は、因果関係が明らかではないという理由によって、これまで労災に認定されていなかった。つまり原発で被曝者がでていた事実そのものが、隠蔽されてきたわけである。「原発は安全だ」「死者は発生していない」というインチキな政府発表によって原発は押しすすめられてきた。かつては、「クリーン・エネルギー」などと宣伝されたのだから、欺瞞のエネルギーといえる。
 もっとも危険な原発関連施設では、安全に細心の注意を払わなければならない。ところがJCOは、その安全を二の次とした。そもそもこんどの事故は、労働者の作業ミスが原因ではない。会社のコスト削減要求が生みだした事故である。
 たとえ核物質を扱わなくても、安全第一がモノを作る工場の大原則のはずである。しかしJCOは、安全性よりもコスト削減を第一に掲げ、より手早く仕事を終わらせるために、バケツによるウラン溶液の加工をおこなった。工程短縮、手抜き生産である。これは原発側のコスト削減要求によっている。つまりは、ほかの労働現場でもけっして許されない手抜きの思想が、キケンきわまりない原発関連工場で最優先でとられていたということだ。このような思想を押しつけた政府と電力会社の責任はきわめて大きい。

■安全神話が危険を招く

 この核工場の事故であきらかになったのは、高速増殖実験炉「常陽」の燃料が、いまでも作られていたことだ。
 このところ、日本の原発は事故を多発している。九五年一二月には、高速増殖炉原型炉「もんじゅ」でナトリウム火災が発生。いまだにもんじゅは、運転再開の見通しすらたっていない。九七年三月には、東海村の再処理工場で爆発事故が発生し、作業員三七人が被曝している。ことしの七月には、敦賀原発二号機での冷却水漏れの事故が発生した。
 これらあわや大事故という一連の事故によって、高速増殖炉実用化の見通しは遠のき、高速増殖炉はすでに停止する事態になっていたはずだった。ところが常陽は、ひっそりと運転をつづけているのである。
 しかも原発各社は、高速増殖炉の代案として、プルトニウムを燃料として使うために、混合酸化物(MOX)燃料の使用を強行しようとしている。天然ウランまたは劣化ウランにプルトニウムを混ぜるMOXは、運搬や運転での危険性が指摘されている。にもかかわらずまだ計画を中止する気配はない。次から次へと危険な技術を導入し、なおかつ事故により信頼性を完全に失った方法まで強行している。この懲りない原子力産業界の体質は、膨大な住民を放射線にさらす危険を生みだしつづけている。
 原発の事故は、これまでの批判通りのものだった。「原発は安全だ」、やれ「原発は安い」などといって政府が強行してきたのだが、核工場が野放しになっていたいたとは、想像外のことだった。ただ儲けるためだけの競争が、今日の事故を発生させ、多数の被曝者をだすことになった。原発もおなじ構造である。
 これまで取材した原発地帯の首長たちは、「原発に不安はないのか」という私の質問にたいして、ほとんどが「政府が安全だといっているから」と答えていた。それが原発推進派の逃げ口上である。
 そのあまりにも楽観的な見通しが、逆にどれほど危険かを今回の事故はしめしている。いざ事故が起こってみれば避難もままならず、通報施設も完備していないことに気付かされる。モニタリングポストといったって、限られた場所に設置されたもので、すべての放射線を捕捉できるものではないこともハッキリした。
 このように安全をいいつのる限り、必ず起こる事故は防止できない。「安全神話」および「原発教」をばらまき、カネと安全とを取り引きした中曽根以下、歴代の大臣たちの罪はきわめて深い。

■原発は秘密・依存・ファシズムの三原則

 日本における原発推進の原則は、公開・自主・民主であるという。しかし、原発建設地帯の歴史と現状をみるかぎり、公開の代わりに秘密であり、自主の代わりに依存であり、民主の代わりにファシズムであった。これはいまも変わらない原発を推進する政府・自治体、電力会社の三原則である。
 だいたい原発の建設されている自治体に取材にでかけても、たいがいうさんくさい目で見られ、ろくに資料すら提供されない。国からタップリ補助金をもらっている地方自治体にとって、原発批判など許されないからだ。「自治体」が、完全に政府と電力会社に依存している状況で、どうして公開・自主・民主といえるだろうか。
 用地買収一つを例にとっても、公開・自主・民主がいかにみせかけかがわかる。六〇年代ならいざしらず、近年における原発の用地買収は、すべてウソと秘密によって塗り固められてきた。ごく最近の例では、石川県珠洲市の用地買収がある。九九年一〇月一一日『朝日新聞』の朝刊も、この問題を報じている。
  「関西電力(大阪市)が、石川県珠洲市に計画している珠洲原子力発電所の予定地付近で、反対派住民とみられていた地主の所有地の買収を清水建設などに依頼、これを受けて大手ゼネコンの関係会社数社がこの土地を取得していたことが、関係者の話で明らかになった。関電はこれまで、発電所の用地取得では地権者以外と交渉しない、と説明してきた。買い主側、地主とも、売買の表面化で反対運動を刺激することを恐れて、土地を担保にした金銭の貸借を装っていた。さらに国土利用計画法の届け出を免れるため、土地を九分割して譲渡、売買成立までに多数のブローカーらを介在させていた。買い主側は、仲介者への手数料を含め、関電が当初地主に提示した三倍以上の額を支払う結果になっていた」
 もちろん今回の事故でも、公開・自主・民主というお題目がいかに空疎だったかがわかる。たとえば事故直後、地元の茨城県や東海村の担当者が、「危険な施設とは思ってもみなかった」と発言していた。これは建設申請の段階で、危険物だということをなんら通告していなかったことを示していてる。これこそ秘密主義のサイたるものである。
 原発の安全性を信じこまされていた人たちも、ようやく眼を覚ましはじめた。原発反対は大きな世論になりつつある。たしかに時間がかかったが、まだ間にあう。これだけの事故が起きても、政府は原発をまた増設・拡大しようとしている。こうした玉砕主義をここでストップさせる必要がある。こういう連中と一緒に地獄へ行くのは、マッピラだ。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/米国戦闘支援列島と化す日本

■月刊「記録」1997年11月号掲載記事  (表記は掲載当時のままです)

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■進む有事体制

 先月号でも指摘したが、政府は「有事体制」への整備を着々と進めている。危険に満ちたこのような政府姿勢を前にして、日本のジャーナリズムが本質的な問題追求をしないことに、私は強い不満を感じている。
 日本時間の九月二四日未明、日米両政府によって合意をみた「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)は、日本が米国の戦争にさらに強く従属させられる方向性を決定した、危険きわまりない取り決めだった。ところがこのニュースでさえ、大々的に報道されたのは合意発表後だ。それまで神戸での少年殺人事件を追い回していたマスコミは、新ガイドラインの合意にむけ、日米両国がどのように動いているのかを明らかにしてこなかった。もちろん新ガイドラインと歩調を合わせるように、日本の有事体制化が進んでいるという視点もマスコミには欠けている。
 独禁法のなしくずし的な改悪はどうだ。公正取引委員会は、なんの規制も行っていない。三井石油化学工業と三井東圧化学、秩父小野田と日本セメントなど、ことしから公然と始まった大型合併は公取委の合併審査を素通りしている。「公取委が審査基準を緩和した」と業界から声があがるほどだ。これは経済の国際競争に即応したものだが、巨大企業の寡占状態は、潜在的な軍事生産力である。戦後の財閥解体はそのようなものだった。持ち株会社さえ復活した現状は、第二次世界大戦前夜の日本を思い出させるには十分である。
 労働問題もひどい。さきに人材派遣法が成立し、職業安定法の骨抜きが進められてきた。女子の深夜労働が認められるなど、労働条件の著しい改悪が進んでいる。農業も例外ではない。新農業基本法の制定が目論まれ、大企業による農地取得が進められる可能性も高くなってきた。これは戦後の農地改革に逆行している。金のあるものが農地を所有し、小作農として農民をコキ使うなど許されるはずもない。
 さらに規制緩和という形で、公営事業の規模が縮小されつつある。経済改革・財政改革・政治改革など、改革を旗印に進められてきた規制緩和だが、じつは企業の新分野進出と政治的な保守基盤の確立を満たすための戦後の民主化の一掃である。
 文化的・思想的には、自由主義史観という形で教科書攻撃が進められ、従軍慰安婦の問題がターゲットにされているが、このアジアに対する侵略と暴力を公然と否定する姿勢には、不気味な恐怖を感じざるを得ない。
 そして、治安対策の強化である。「組織的犯罪対策法」の立法が目論まれているのだ。市民運動団体から「盗聴法」と呼ばれているこの法律は、電話の盗聴を公然と始めようとするものだ。施行されれば、労働者や市民運動家を組織的暴力として監視の対象に入れようという動きが強まるにちがいない。この法律に、自民党政権がかねてより進めてきた国民総背番号制をリンクさせると、監視国家の確立となる。
 現在の日本は、戦後に構築された民主主義的な諸政策を投げ捨てつつある。今後、日本の将来に大きな影響をあたえるであろう新ガイドラインは、このような背景を隠して取り決められていることを見抜いてほしい。新ガイドラインが示す先に、日本の支配層の危険な舵取りが見えるはずだ。

■米軍へさらなる「思いやり」

 ソ連の脅威が崩壊したあとの軍備縮小の方向に逆行するようにして、新ガイドラインは作られた。世界の憲兵として君臨しつづけようとする米国に、日本列島が全面的に協力する。
 対外的には米軍の戦争に協力し、対内的には戦争体制を確立しようとしている政府は、抑圧的な社会状況を作り上げようともしている。小選挙区制でつくりだされた翼賛体制の政治状況のもとで一挙に行われようとしているのである。
 現在、在日米軍維持のために使われている金額は、六四七六億円(九七年度予算)。このうち米軍への「思いやり予算」は二七〇〇億円にものぼっている。不況にあえぐ日本が、これだけ多額のお金を米軍のために使っているわけだ。一方、韓国は二〇五億円、ドイツは六一億円、イギリスは四〇億円という数字である。米軍にたいして日本がいかに手厚い「思いやり」を行っているかが明らかだろう。にもかかわらず、新ガイドラインは米軍にさらに安上がりの戦争をさせることを約束した。敗戦の教訓によって作られた日本国憲法の前文の精神からは、著しく逸脱しているとしかいいようがない。
 この指針の目的は、「日本に対する武力攻撃および周辺事態に際してより効果的かつ信頼性のある日米協力を行うための、強固な基礎を構築することである」と書かれている。ここで重要なのは「周辺事態」である。これまで日米安保が想定していたのは、日本が攻められた場合の武力行使(これも憲法違反であるが)だった。ところが今回の指針は、米軍の極東戦を念頭に置いている。日本が攻められなくても、「周辺事態」の際に米軍は日本の基地を積極的に使い、自衛隊はその支援にむかうことになるのだ。
 そのうえ「周辺事態」の解釈も、曖昧で拡大解釈が可能ときている。「周辺事態は日本の平和と安全に重要な影響をあたえる事態である。周辺事態の概念は、地理的なものではなく、事態の性質に着目したものである」
 この文言からわかる通り、「周辺事態」とは地域的には規定されていない。「事態の性質」という意味不明な言葉でごまかしているが、結局、「事態」とは事変および戦争のことであり、「周辺事態」とは戦争状態にある地域の周辺なのだ。つまり地域に限定しないことにより、極東のみならず火薬庫とも呼ばれる中東で戦争が起こっても、日本は米軍の戦争を支援することになる。
 さらに周辺事態が予想される場合には、「日米両政府は……事態の拡大を抑制するため、外交上のものを含むあらゆる努力を払う」と新ガイドラインには書かれている。この「あらゆる努力」とは、武力的な活動も含まれているのは、疑う余地もない。それだけではない。新ガイドラインでは、形を変え、言葉を換えて、日米の軍事協力をうたっている。
「日米両政府は、事態の拡大を抑制ためのものを含む適切な措置をとる」
「必要に応じて相互支援を行う」
 非常にあいまいな言葉だが、戦争状態での自衛隊の活動に期待をしているということだけは確かなようである。逆に、自衛隊に軍隊として期待しているからこそ、あいまいな表現にならざるを得なかったのだ。

■米軍は勝手に予備訓練

 さらに細かく見てみよう。
 新ガイドラインの別表と呼ばれる資料には、周辺事態における協力検討項目の例が並んでいる。まず注目したいのが、「米軍の活動に対する日本の支援」という項目だ。ここには、「補給」・「輸送」・「整備」・「衛生」・「警備」・「通信」・「その他」の後方地域支援体制と、「施設に使用」について書かれている。なかでも「補給」の内容には、驚くばかりだ。
「自衛隊施設及び民間空港・港湾における米航空機・船舶に対する物資(武器・弾薬を除く)及び燃料・油脂・潤滑油の提供」 ここで米航空機・船舶とあるのは、戦闘機および戦艦であるのは間違いない。この条文を読んで思い出すのが、ことしの九月に相次いで行われた米海軍の民間港入港である。空母・インディペンデントが小樽へ入港したのに続き、佐世保にも空母が寄港。さらには駆逐艦が鹿児島に寄港したりもした。これらの入港は新ガイドラインに示された補給活動の予備訓練でだったのである。
 さらに「衛生」の欄に目を移すと、傷病者の治療・輸送が盛り込まれている。これは日本列島全体が戦闘支援列島となることを意味する。
 まだまだ問題はある。
「運用面における日米協力」という部分には、戦争の「情報交換」、「機雷掃海」という項目が目につく。これは平和時ではなくて、戦闘状態での機雷掃海であるから、日本も戦闘状態に突入する危険性をはらんでいる。 別表には載っていないが、「臨検」と呼ばれる船舶検査を自衛隊が担うのも大きな問題である。これは周辺海域を通る船舶に停船を命じ船内を検査するもので、相手が抵抗すれば武力行使に至る危険性がきわめて高い。

■反対運動封じ込め

 いったいこの新ガイドラインが、どうして日本国憲法の枠組みに収まるのか。「戦力の保持」と「武力行使」を否定している憲法を逸脱し、踏みにじっているとしかいいようがない。戦後五〇年、日本が軍事力を持って他国の人々を殺さずにすんだのは、この憲法のおかげである。ところが新ガイドラインは、既成事実によってその憲法を骨抜きにし、国民を人殺しに駆り立てようとしているのである。
 しかも国の命運を決するこの重大な決定は、国会の決議なく決まってしまった。国民が選出した議員によって国の方向性を決めるのが民主主義の大原則だ。ところが今回の決定は、防衛担当官僚だけで秘密的に行われたという。米国の戦略に日本が従う危険性について、国会でなんの議論もなく決定されるのは、民主主義の著しい逸脱であり、憲法の前文の精神を根こそぎ失わせようとするものだ。「前文」には、こう書かれている。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」
 戦争によってではない、平和のための行動による国際貢献の思想である。そのあとに、全世界の国民が「平和のうちに生存する権利」が謳われ、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とも書かれてある。
 ここで、強調されている考えかたは、相手の国を尊重し、信頼することである。
 かつて六〇年安保改訂にさいしては、日本が戦闘に巻き込まれるとして、国民的な反対運動が起こった。国会議事堂への大デモ行進は、国民の恐怖感に裏打ちされたものだった。しかし「周辺事態」というあいまいな規定によって、戦争に巻き込まれる危険性が強めた新ガイドラインは、まったく反対運動が起きていない。それは大紛争に発展しないように、秘密をもっぱらにして国会に持ち出さない方法を採ったからである。
 それどころか官僚が作りあげた規制事実をテコに、憲法改定に大きく踏み込もうとさえしている。すでに国会内では憲法調査会が設置され、憲法改悪への具体的な対策をはじめようとしている。
 新ガイドラインの問題を通して考えるべきことは、日本の平和だけではない。アジア全体、世界全体を見回し、日本は、平和を軸にした外交をどのような形で進めていくべきなのかに思いを巡らす必要がある。そのためには積極的な市民の運動が必要となってくる。新ガイドラインでは、朝鮮半島有事と台湾海峡有事の危険性をにおわし、北朝鮮をソ連に代わる仮想敵国に仕立て上げ、これから経済進出を拡大しようとしている中国さえ仮想敵国に含めてしまった。この方向へ対置する思想とは、アジアの民衆に日本人が与えた痛みを反省し、共感を基礎にした平和的な協力を進めるころである。アジア各国との民衆レベルの平和的なネットワークの拡大が、米国の軍事的介入を防ぐことになろう。このままではアジアの鬼っ子となった日本が、米国とともに世界と対立することにもなる。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/「インディペンデンス」国家の不思議

■月刊「記録」1997年10月号掲載記事
 (表記は掲載当時のままです)

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■戦時体制そのものだ

 政府の動きをみると、まるで戦時体制を準備しているかのようだ。いやむしろ戦時体制そのものといえる。米海軍の航空母艦インディペンデンスの小樽寄港に三六万人も集まった風景はおぞましい、
 たとえば九月二日、米軍用地強制使用の手続きを基本的に国の執行事務とする第三次勧告を、地方分権推進委員会(諸井虔委員長)は橋本龍太郎首相に提出した。これはことしの四月におこなわれた沖縄特別法(駐留軍用地特別措置法)の改悪を、さらに改悪しようとするものである。地方分権推進委員会は、地方分権あるいは地方主権を進めるためのものなのに、このように中央集権を進めているのにはあいた口がふさがらない。
 現在、米軍用地強制使用にかんして知事・市町村長などが四件の事務を委任されている。その四件のうち三件を国の事務としたうえに、新たな用地の強制使用にかんして最終的な裁決権を首相にあたえるなど、今度の改悪は強権国会につながるものだ。自民党沖縄県連の会長でさえ、「国がそこまでやってはいけない」と朝日新聞紙上でコメントを発表しているほどだ。
 米軍用地のために地主の土地を取りあげる行為は、沖縄県においてのみおこなわれている。この行為自体、沖縄県民の主権を著しく踏みにじるものである。にもかかわらず、かろうじて残された知事の権限さえ剥奪しようとは、驚くべき答申案だ。しかも強制使用される土地は、県民の望まない軍事目的に供されるのである。
 沖縄県民は「小指の痛みを知らない」と政府を批判してきたが、今度の答申における政府の態度は「小指を潰しても知らない」といったものだ。これまでも太田昌秀知事は沖縄の声を国に伝え続けてきたが、現在にいたるまで国はいっさい聞く耳を持たなかった。「基地問題に抵抗する沖縄にとどめを刺す内容。特別立法と何が違うのか」(九月三日・朝日新聞朝刊)という県民の憤りに、本土の人間も耳を傾ける必要がある。
 危険なのはこれだけではない。戦後民主改革の根幹を破壊しようとする動きが、最近の政治に目立つ。
 たとえば独占禁止法の改悪だ。欧米の巨大企業と対抗できる複合企業型の体質への変化が、大競争時代を迎える日本企業にとっては有益だと、一部マスコミは書いている。しかし大企業に経済力が集中すれば、自ずから中小企業の競争力は衰える。「国益」とは、寡占状態をつくる大企業の論理、それが戦争をもたらしてきた。
 労働基準法の改悪も問題だ。六月一一日、女子保護規定が撤廃された。これによって女性の休日労働・深夜業は、男性と同様に認められることになる。一見、男女差別をなくしたかにみえるこの改訂。しかし総務庁が同月の七日発表した労働力特別調査によれば、ここ一年間で一二〇万人増えた雇用者のうち九割が非正社員で、その三分の二が女性であるという。不安定な雇用形態を容認しながら労働基準をゆるめれば、どうなるかは明らかだ。女性の深夜労働を解禁することにより低賃金の労働力を長時間確保し、経営を強化しようする企業の論理に従ったのが、今回の改悪なのである。
 農業の自由化促進も弱いものいじめだ。政府の都合のいいように振り回された米作り小農家は、自由化によって潰されようとしている。いったい今までの減反や転作の行政指導はなんだったのか。一貫性のない政府の都合だけで生活基盤をいじくり回される小農家の悲劇は、政策の転換という言葉では癒されない。

■行革は公務のコンビニ化

 そして、とどめが行政改革である。
 明治以来の大改革と呼ばれ、いかにも税金の無駄遣いをなくすということで宣伝されている行革。しかし人間にたいするサービスを安定させることに主眼が置かれるべき公的部門に、資本の論理を導入しようとしているのが、今回の行革におけるもうひとつの側面である。独立行政法人の設立や民営化の推進は、諸手を挙げて歓迎すべきことではない。
 資本の論理に徹すればどうなるのかは、コンビニエンスストアをみればわかるだろう。狭い店舗を最大限利用するために選ばれた商品群。売り上げが悪い商品を即座に見つけだすポス・システム。便利という名のもとで違和感を持たれない定価での販売。正社員を必要としない営業形態。無駄のはぶかれたコンビニは、たしかに利益を生み出している。しかし一方で近隣の商店街が疲弊と倒産をもたらした。大量生産・大量消費、画一化した商品を特徴とするコンビニは、けっして文化を豊かにしない。資本の論理が行き着く先は、大都会の荒涼たる風景である。
 さらに法務の分野でも、見過ごせない事態があいついでいる。
 神戸で一四歳の少年が引き起こしたを殺人事件を契機に、少年法の改悪が画策されている。犯罪を犯した少年を更生させる趣旨の少年法を、刑罰強化を押し出した報復主義的な法律に変えるのは強権政治の前ぶれだ。そのうえ神戸の事件のどさくさに紛れて、永山則夫被告および三人の死刑囚が一挙に処刑された。たしかに永山被告は犯行当時一九歳であり、一八歳までは死刑にしないという少年法にはひっかからない。しかし二十歳未満で、無期懲役に減刑される判決をえた者を、検察は無理やりみせしめ的に死刑台に送るべきものではなかった。

■侵略の発端は邦人救出

 軍事的にも大きな問題があった。
 邦人救出という名目で、なんの必然性もないのに自衛隊の軍用機を橋本首相はカンボジアに出発させたのだ。これは露払いというものである。とにかくいまのうちに既成事実をつくっておこうという火事場泥棒さながらのやり口である。「邦人救出」が戦争の発端となった事実は、日中戦争の歴史をみても明らかだ。過去の東南アジアへの侵略は、先に日本企業が進出し、そのあと軍隊が救援名目で駐留するいう形でおこなわれてきた。当時から「邦人救援」とは、外国における大企業の利権確保でしかなかったのである。
 ともするとカンボジアでの「救出」は、自衛隊によって観光客の命が守られるような錯覚をおこすが、軍隊が民間人を守ることは幻想でしかない。敗戦直後の満州における日本軍の行動をみるがいい。このとき関東軍は、軍隊の防波堤として開拓農民を配置した。さらに敗戦が近くなると開拓民をおいて一目散に逃げてきたのである。沖縄でもひどかった。スパイの名目で沖縄人を殺害したり、足手まといになる住民を集団自決に追いやった例は、枚挙にいとまがない。住民を守るのではなく、むしろ住民を犠牲にして延命を図るのが、軍隊の本質なのである。
 このような日本の軍事拡張路線に、米軍のやりたい放題の行動が加わる。新聞報道によれば、日本の三一にものぼる民間の港湾において、港の水深から周辺の飲食店街の様子まで軍事目的で米軍は調査していたという。これは米軍が、有事に民間施設を巻き込もうとしている証拠である。このような危険な事態を前にして、日本の政治家が国際関係をどのように考えているのかといえば、これまた目を覆いたくなるほどの惨状だ。梶山静六官房長官が「周辺有事には台湾海峡も含まれる」などと発言して、中国から反発かっているのも記憶に新しい。国際情勢に疎い日本の政治家にとっては、アメリカのいいなりしか選択肢はないようだ。
 最近の政治におけるどう猛さは、戦前への回帰と見える。しかし、このような動きに反対する声は非常に弱い。これはかつて野党第一党であった社会党が、完全に自民党に屈服し、延命を図ろうとしていることと無縁ではない。彼らの無思想・無節操ぶりをみるにつけ、かつて彼らを支持していた層をこれほど足蹴にして天罰が当たらないのかと不思議に思うほどだ。まあ、社会党の議員がどうなっても知ったことではないが、政府をチェックし規制できる勢力を持っていない大政翼賛会の現状には、国民の自業自得とはいえ不安である。
 さて、このような状況をおおい隠すかのように、マスコミを賑わしていたのがダイアナ事件である。ダイアナの死亡を契機にイギリスの王室の不備への批判が強まり、それは皇室へも波及しそうだ。しかしこの事件契機にイギリスでプライバシー法の導入が検討されているのは、さらに驚嘆すべきことである。イギリスといえば、いちおう日本よりは民主主義的にかなり成熟した国である。その国でマスコミを規制する動きがでるとは、予想もしなかった。今後、それでなくとも規制しがたり屋の日本政府に、なんらかの影響をあたえないか心配である。 神戸の事件後、『フォーカス』による容疑者の写真掲載が問題となったが、さらに問題だったのは法務省が再発防止の勧告を出したことだ。これは政府の過剰反応だった。たしかに日本の週刊誌やワイドショーは、プライバシー暴露の悪習慣があるが、かといってそれを法的に規制するなど認められるべきものではない。マスコミ内での自主的な判断によって、問題は解決すべきである。その基準は、なんのために記事を書くということである。カネのためならなんでも書くという姿勢は、ジャーナリズムの正道ではない。たとえスキャンダル・ジャーナリズムでも、一定の基準はあるはずである。
 フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』では、マルチェロ・マストロヤンニが扮する記者と、相棒のカメラマンであるパパラッチが、ローマの街をスクーターに乗って駆け回るのが印象的であった。しかし「甘い生活」という題名からもわかるとおり、この二人は極めて自己否定的な「甘い生活」をおくっている。それはラストシーンのマストロヤンニの困惑した表情に如実にあらわれていた。スキャンダル・ジャーナリストの記者にある内心の困惑が、映画を通して伝わってきたのである。おなじようなテーマは、ウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』が取りあげている。この映画は、グレゴリーペック扮する新聞記者が某国の王妃に出会うおとぎ話だが、それでも王妃の写真を撮ることに対する記者のためらいは重要なテーマのひとつになっていた。現代のパパラッチたちにも、そういった報道にたいする苦悩がないはずはない。

■責任は新聞社にある

 今回の事故では、大破した車で苦しむダイアナを撮影していたカメラマンがなん人もおり、日本円にして一億以上で売りつけたという話も伝わってきている。これではパパラッチに対する批判が一斉に吹き出すのもいたしかたない。しかし問題の本質は、これまでダイアナのスキャンダルを数千万円で買ってきた新聞社にある。新聞社が金儲けのためだけにカメラマンを利用した結果なのである。カメラマンたちを使っている新聞経営者の責任が追及されることなく、哀れなフリーカメラマンに全責任を押しつけて済まそうとするのは、本末転倒だ。さらに、そのような情報を貪るように読んでいる読者も、数千万円スキャンダルを支えている共同の責任者なのである。カネのためだけに紙面を作る新聞・雑誌社、他人を不幸にしてまでもカネを稼ごうとする記者とカメラマン。今回の事件は、現在のマスコミの堕落を典型的に物語っている。
 マスコミに代表される人の事を斟酌しない現代の風潮は、資本主義が末期的な状態になってきたことを示している。職場や学校におけるいじめの続発は、このような風潮と関連している。「人間はどのように生きるべきか」を考えることなく生活している大人が現代の荒廃を招き、さらに次世代の足元を崩しているのである。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/いじめを支える学校と地域社会

■月刊「記録」1997年4月号掲載記事
 (表記は掲載当時のままです)

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■愚劣な学校

 続発するいじめ事件への学校側や教育委員会の対応は、ハンで押したように同じで、まったく変わっていない。これは驚くべきことである。それどころか、いじめ自殺が増えることにより、最近では学校側がさほどショックを感じていないようにもみえる。慣れが始まり、いじめ自殺についての対応がパターン化する異常が、日常となっているようだ。何ら解決に至っていないのである。このことに私は大きな危惧を感じている。
 最近では、長野県須坂市に住む中学1年生の前島優作君が自殺した。事件は、今年1月7日に起こり、当初は本人の名前が伏せられていた。しかし学校側の対応が悪いために、家族が息子の実名と遺書のメモを公開するにいたった。
 この事件も、過去の事件とまったく同じパターンである。中学校や小学校でいじめ自殺が明らかになると、学校側はたちどころに「いじめはなかった」と発表する。それに対し家族側は調査を依頼するのだが、学校側は常にいじめはなかったと発表し、自己防衛のみに奔走する。結局、このような学校側の対応に不満を抱いた遺族は、いじめられたことを示す遺書を公開することになる。こうなると学校側もいじめの事実そのものは認めざるを得なくなるが、今度はいじめには気づかなかったと、ひたすら責任を回避しようとするのである。
 私は『せめてあのとき一言でも』(草思社)で、いじめ自殺で子どもを亡くした遺族の聞き取りを行ったが、学校側と遺族の間で、嫌になるほど同じような対応が繰り返されている。
 この長野県須坂市の場合も、事故調査報告書を作ったのは事件後の10日も経ってからであり、対応は著しく遅れていた。この点だけ取り上げてみても、学校側が誠意ある対応をしたとは、とても思えない。
 遺族が学校側に、いじめの問題を調査してほしいと要請するのは、たんに学校側と争いたいためではない。わが子が死に至るまで、学校でどのような生活をしていたのか知りたい一心である。自分の子どもがどうして自殺しなければならなかったのか、親自身が知らなければ気持ちが落ち着かないからだ。
 そもそも、親にとって、子どもに先立たれるほど不幸なことはない。どんな親でも、子どもよりは先に死にたいと思っているはずである。その順番が逆になるだけでも不幸なのに、死が自殺ともなれば、親は自分の力が及ばなかった無力感を抱くことになる。それだけに親が子どもの最後の姿を知りたいと思うのは当然である。そういった親の願いに対し、学校や教育委員会がまったく人間的に対応していない事実は、学校や教育委員会が愚劣な行政機関となって、人間の心を失っていることをあらわしている。
 いまや学校および教育委員会は、完全なる行政機関になったというほかはない。学校はすでに「学ぶ場」というよりも「教えられる場」という形態になり、さまざまな強制力が子どもに向けられている。強制力を強めることによって、教師と生徒の関係も変わった。子どもたちが学びながら自分を高め、教師は子どもとのふれあいを通して人間としての仕事をまっとうするという両者の関係が剥奪されてしまったのだ。その一方で、国は教育のすべてを取り仕切るという強い意志をあらわしている。文部省や自民党などが強要する日の丸・君が代の実行は、そのサイたるものだ。

■いじめの地域的拡大

 問題はそれだけではない。『せめてあのとき一言でも』でもふれたことだが、いじめ自殺など学校内で事件が発生すると、奇妙なことに被害者の立場にある遺族が地域から孤立させられ、いじめられることが多い。最近では、都会の東久留米市(東京)という都会でも発生していた。
 この事件は、教師から体罰を受けた東京女子中学生が、東京都や市を訴えた事件である。昨年9月、被害者の家族は勝訴したが、一部の父母達が全校保護者会をひらき、なんと体罰で訴えられた教師を養護する署名運動を始めたものである。そればかりか、この遺族のもとには「バカ家族」「市民をなめるな」「おまえの娘は不良だ」などの匿名のいやがらせ電話が殺到したり、注文もしないのにすしや肉が届けられたという。
 また、96年1月23日にいじめを苦に自殺した福岡県の大沢秀猛君の場合も、初七日にPTA総会が開かれ、家族がまったく孤立化させられた。このときは、公然と教師の体罰をもとめる父母の声があった、という。
 このような地域ぐるみの嫌がらせは、いじめ自殺したほうが悪いと主張する価値観と、まったく同じである。学校を批判する者に対して攻撃なのだ。これらのことは、学校がいじめ自殺の加害者であることの証拠でもある。いじめ自殺の遺族が地域から孤立させられ、批判されるのは、弱い者や異端者を排除していくいじめの構造の地域的な拡大といえる。
 地域住民は、いじめ事件にかかわると受験勉強が遅れるというような、きわめて狭いエゴイズムに貫かれている。これは、いじめられて死んだ子どもなんかにかまっていられないという、どう猛な強者の論理が働いているのであり、弱い者は踏みつけ、強い者だけがのし上がっていこうとする現在の日本を象徴的にあらわしている。
■一人歩きするスローガン

 学校が決してホンネを語らないタテマエ社会であると、私はかねてから強く指摘してきた。たとえば福岡県筑紫郡珂川町の小学校で発生した事件などは、その典型だ。
 この事件は、普通学級に通う知的障害児が、同級生からトイレ掃除用のブラシなどをなめさせられていた、というものだ。いじめていた子ども達は、「先生は人間平等というが、障害児だけ特別扱いして自分だけしかる。同じにしてほしい」という不満を持っていたという。
 障害者を普通学級に入れる行為は現在の教育状況ではきわめて進んだ方法である。がしかし、教師の指導がまったくタテマエ的であったことがうかがえる。小学生たちに、ごく自然に障害者をささえるような教育がいきわたらず、教師が障害者をただ保護する姿勢に不満が表れたのだと思う。障害者の障害をきちんと説明し、それでなおかつ健常者と障害者がともに学んでいくことの意味を、教師や学校がどれだけ子ども達と話し合っていたかが問われている。ところが実際には、部落差別をなくそうと教える教師が、子どもと向かい合っている現場では、学歴社会に応じた差別的な教育をしていたりする。
 差別やいじめは、学校やクラスそのものの体質を変えていかなくては解決していかないのに、スローガンだけが先行している。
 たとえば、親や教師は子どもに対して「みんなと仲良くしろ」というのであるが、これはきわめて空疎なスローガンである。人間がみんなと仲良くできることなどありえない。みんなと仲良くしろという教えは、みんなと仲良くできないものにもストレスをあたえる。
 大人自身も、仲良くしている友人はごく少数でしかないのだ。しかし、子どもには「みんなと仲良くしろ」と強制する。やはり「ちがう人の意見を聞きなさい」とか、「友達は少数でもよいが仲間をいじめるな」というように、ごく自然の人間関係を教えるべきであろう。
 いじめにかんしても同じことがいえる。学校でいじめはあってはならないというスローガンがまかり通っているために、いじめの発生を見たがらない傾向を生み出している。いじめがあってはならないということは、いじめがあっても、いじめとして認めないという行為につながる。しかし、現実にいじめはどこにでもあるのだから、それを認めて、少しでも早く発見し、解決するように発想を転換すべきである。
 本来、人間の心とかかわりあうはずの教育は、ドグマ化した「教育的スローガン」によって崩壊してしまった。教育が人間社会とかけ離れた怪物となって一人歩きしている。このような事態をつくりだしてきた責任は文部省に大きいが、それに迎合してきた現場の責任者(教育長、校長など)にもある。

■いじめをつくる教育方針

 学校は「みんな」というのが多すぎる社会である。みんなとおなじ、という教えが強いために、少しでもそこから外れたものがいじめられる。
 たとえば、「一致団結」や「みんなと仲良く」というスローガン、さらに同じ制服・頭髪・登校用のヘルメットなど、子どもたちの世界を一色に塗りつぶしてきたのは、学校や教育委員会の責任である。ちがいを排除し、管理や権力に迎合することを強制してきた。
 いじめとは強い者が弱い者に向ける排除であり、弱い者が強い者にみせる迎合である。それは価値観を同じにするという教育方針が、土俵となっている。
 いじめられた家族が、地域でいかに孤立していたについては、先にもふれた福岡県に住む大沢秀猛君の父親・大沢秀明さんが、裁判所の意見陳述でこう述べている。 「私のところは、秀猛の3人の兄も含めて従業員25人の自営業でした。原因究明をしない学校の態度が悔しくて、私が学校にかかりきりになり、ほとんど工場に行かないので、早く工場に来てくれと悲鳴をあげていました。秀猛のことを思うと仕事が手につかない日が何ヶ月も続きました。そのため、秀猛が自殺して6ヶ月後に会社は倒産しました。
 地域では、事件直後から『生徒を警察に売るな』との声が教育関係者を中心に根強くありました。その背景には、発覚ずみの加害生徒は速やかに警察に渡し、他の生徒を無関係とすることで、本件『いじめ』を加審生徒と私共との家庭問題にすり替えて、学校の立場を保つというという考えがあります。その結果、今、城島中学校の地区では、家庭の問題で死んだのに、学校の責任にすり替えているという噂がまかり通っています。
 私は、秀猛がどんな学校生活を送っていたのか、何が死へと追いつめたのか、真実を知りたくてこの裁判を起こしました。学校に、臭いモノにフタ式の秘密主義を改め、秀猛がどんないじめを受けていたのか、すべてを明らかにして欲しいと思います。そして、そうすることが、学校からいじめをなくす第一歩だと思うのです」。
 大沢さんが言うように、学校は「臭いものにはフタ式の秘密主義」におちいっている、かねてから「教室の密室化」は指摘されていたが、状況はさらに悪化している。「学校は神聖なものである」というイメージに縛られ、一般社会とのちがいが極度に強調されてきた。それでいながら、企業社会の価値観に合わせられてきたのは大きな矛盾である。
 いま必要なのは「学校はなんでもない」という価値観だ。価値観の転換により、学校でのできごとがすべてあきらかにされ、学校側が保護者とともに率直に語り合い、学校は子どもたちのためにある、ということを確認してこそ、学校本来の道が開けてくる。
 そのためには、学校教育のどん底でうめいている大沢さんのような人たちの悲痛な訴えに耳を傾け、それに寄り添うかたちで学校を再生するしかない。
 いじめの暴力にたいして、学校の壁はますます厚くなり、むしろ父母にむかって敵対するようなかたちとなっている。本当に子どものための教育を目指すのなら、その壁をどう開いていくのかが、いま問われている。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/政官業総腐敗の先にあるもの

■月刊「記録」1997年3月号掲載記事
 (表記は掲載当時のままです)

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■日本システム崩壊

 日本は、末期的な症状を呈してきた。
 ロシアのタンカーが座礁し、日本海沿岸が重油漬けになったのにもかかわらず、政府が無策だったのは、軍備しかアタマになかったからだ。漁民やボランティアなど個々人の努力によってどうにか後始末は進んでいるものの、船腹は依然として海底に眠り、問題はこれからである。
 タンカーの事故は外からの影響によるものだが、日本の内側でも混乱は続いている。たとえば日本的生産システムとして喧伝されていたトヨタ生産方式(かんばん方式)が破綻するという事件が発生した。かんばん方式とは、米国から入ってきたジャスト・イン・タイムを日本的に徹底させたもので、下請けを支配し、下請けに生産を依存するものだ。欲しいものを、欲しい時間に、欲しい量だけ親会社に納入させるシステムで、下請けに犠牲を押しつけていたこの方法は、2月上旬のアイシン精機刈谷工場の火災によって、親会社のトヨタの工場を3日間の生産停止に追い込んだ。行きすぎた管理主義のツケである。
 さらにクレジット業界の信用情報会社「シー・アイ・シー」の個人情報が流失していたという事件が最近発覚した。これは集中化した個人情報が外部に流出するというプライバシー保護上での大問題である。これまでにも小さい規模の事件はおなじ産業で頻発していたが、この事件は1億4千万件もの個人情報を握っている会社の不祥事であり、情報の集中管理の恐怖を新たにしめした事件であった。
 環境問題・生産システム・情報の集中管理などの破綻があいつぐなか、日本の経済基盤の弱さも円安の深化によって露呈した。
 いままで「日本は優秀だ」などという慢心の中心的存在だった日本式システムが、いっきょに瓦解している。さらに農村の疲弊と、食料の外部依存、空洞化と失業の増大いう状況を加えると、日本の混乱は極みにたっしたと思える。

■4億5千万でお釣り

 政治家および官庁への強い不信感もまた、傲慢な日本的方式の破局をあらわしている。たとえば新進党の友部達夫議員のスキャンダルは、日本の政治構造を極端にマンガ的に表現した。カネで議席を買うという傾向については、べつに友部に始まったことではない。ただし友部の場合は、選挙民から直接選ばれたのではなく比例区で当選している。これまでの政治家と違うところは、この点だ。この欄でも前に批判した歪んだ選挙制度が、友部のようなピエロを浮かび上がらせた。
 なぜ得体の知れない友部が、新進党の比例代表区の13番目になったのかは、まだ解明されていないが、カネによって議席を買ったことはほぼ間違いない。友部がオレンジ共済で集めた資金は93億円にものぼり、6億円を政治工作資金として使ったこともあきらかになっている。このカネによって比例代表区13位の地位を買ったのは否めない事実である。
 当時、日本新党枠の責任者であった細川護煕は、友部について「私達とは住む世界が違う人と思った」と記者団に語っている。さらには「政治家として務まるかと思っていた」とも語っているのだ。にもかかわらず昨年の9月下旬に、彼は友部の次男にあたる共済組合専務理事・友部百男と、ステーキハウスで食事し、1本数十万円のロマネコンティをガブガブ飲んでいたという。
 住む世界が違う人間であり、政治家として務まらないと細川が思った人間を、新進党の最高責任者である小沢一郎などが政治家にした。これほど無責任な話はない。新進党の候補決定のプロセスについては、これからの捜査を待つしかないが、細川の側近であった初村健一郎元代議士が、94年夏に友部と出会い、95年の参議院選挙前には新進党の選対の幹部に友部を引き合わせていたことは、あきらかになっている。そのときにオレンジ共済から、1億円が手渡されたともいわれている。そのうえ、初村は細川に3000万円を渡したと報じられている。 カネで買った議席で、友部がもとを取ろうとしないわけはない。彼が集めた93億円にものぼる巨大な金額のうち、63億円は当選後に集められている。つまり議員バッチが集金の道具になったのだ。4億5千万円の政界工作費を使ったにしても十分にお釣りがくる買収だったことがよくわかる。
 このように議員バッチによって集められたカネは、都内の高級マンション、フェラーリやベンツなどの10台もの高級外車、さらには小鳥を放し飼いにするためのマンションの改造費や高級熱帯魚の購入費、そして妻のリムジンの代金やアイルトン・セナが実際に乗ったF1カーの買収など、これでもかこれでもかというほど浪費された。これほどの浪費が許されたことも、いままで日本社会で議員バッチがどれほどの効力を発揮してきたかの証明にもなる。
 友部はこれまで何度も選挙に立候補し、泡沫候補として落選してきた人間であって、なんら政治的な見識もない人間だった。それがどうして当選間違いなしの比例代表13位になったかが解明されなければ、本当の政界の浄化はありえない。友部のケースは、あまりにもやり方がズサンで失敗したからこそ、いま批判対象となっている。しかし、巧妙なやり方で議席の買収に成功すれば、けっして詐欺師といわれることはない。詐欺師は失敗したからこそ詐欺師であって、成功すれば立派な実業家であり、立派な政治家になれるということを、友部のケースは逆説的に証明した。

■危険を知っていた政府

 友部への疑惑は、これだけにとどまらない。95年春ごろ、彼は「21世紀青少年育英事業団」の設立をもくろんでいた。この財団では、日本留学を希望する東南アジアの青少年に奨学金を与えるための事業が行われる計画だったという。その趣意書には、鳩山邦夫元文相、小沢辰男元厚相の名前が使われていた。もちろん問題の初村も名前を連ねている。鳩山や小沢は勝手に名前を使われていたといっているが、オレンジ共済幹部からは「了承は得たはず。勝手に名前を使ったわけではない」といったコメントが出されている。
 まだ無断で名前を使われた人達が告訴したというニュースに接していない。勝手に名前を使われたというかたちで、事件がうやむやになる危険性を含んでいる。はたして友部が勝手に使ったのかは、これからどうしても究明する必要がある。
 また、この事件に付随して、95年夏ごろ初村から小沢へ現金100万円が渡ったということも事実も報じられている。初村はこの現金について、「財団設立のさいにお世話になったから」と語っているが、このカネが初村個人のものと考えるのは難しい。しかも、この事業団の設立にからんで、95年4月に初村から政治団体関係者に3500万円の政界工作資金が渡ったと、いわれているのだ。21世紀青少年育英事業団は、岡光元厚生事務次官が老人をくいものにしたように、東南アジアの留学生をくいものしようとしたシステムそのものといえる。「老人」や「留学生」など、弱いものを喰いものにするのは、許せない。
 さらに問題なのは、財団法人の設立にさいして行われた「スーパー定期記念セール」について、文部省は出資法違反の疑いがあると判断し、申請手続きを凍結していた事実である。これは一昨年のことであったから、政府機関が当時からオレンジ共済組合に疑問をていしていたことの証明である。
 出資法違反の疑いのある人間が、新進党の候補に公認され、公認ばかりか自動的に当選する順位に上げられたというのだから、友部ばかりを詐欺師呼ばわりするわけにはいかない。小沢や細川など新進党の幹部も、国民を愚弄するのに一役買っていた。カネで議席を買うのは、保守党の常套手段だった。

■庶民の金が政治家に吸い上げられる

 おなじ詐欺師でも、山本一郎は経済革命倶楽部(KKC)などというふざけた名前でカネを集めていた。この団体の会長である山本は詐欺容疑ですでに逮捕されたが、これまた日本政府の怠惰を象徴する事件だ。
 この事件は会員1万2千人から352億円ものカネを集め、無駄に投資して破綻したというものだが、忘れられないのは一般市民が高配当につられたことだ。銀行や郵便貯金の利率は、銀行の救済のため低金利に抑制されいる。年金生活者や退職金で暮らしている人達が、老後の不安を取り去るために高金利に飛びついたのもうなずける。この事件は、こういう詐欺師を横行させた政治の貧困を物語っているのだ。現代の日本は、友部や山本や彩福祉グループの小山のような詐欺師が、政治家や官僚を利用して市民の金を吸い上げ、そのカネがまた政治家や官僚にバックされるというおぞましい構造になっている。結局泣くのは、庶民なのだ。
 オレンジ共済組合と同じように重要な問題を含んでいるのは、三井・三菱などの財閥を巻き込んだ泉井純一の所得税法違反事件である。泉井は、三菱石油などから手数料の名目で60億円以上もの裏金を集め、それを政界官界に配ったとされている。泉井は自民党副総裁や外相を務めた渡辺美智雄と親しかったうえに、三塚博、加藤紘一、小泉純一郎といった自民党幹部の名前が彼との関係を取り上げられている。
 最近収賄の疑いで逮捕された元運輸事務次官の服部経治(関西国際空港前社長)は、泉井から現金や高額商品を受け取っていた。もちろん官界の実力者・服部が、政界とかかわりがないはずはない。彼が運輸省の政務次官に就任するにあたって、同じ岡山県出身の橋本龍太郎が運輸大臣のときに強く後押ししたと伝えられている。橋本は厚生族であって岡光との関係も深かったが、空港を取り仕切る運輸大臣としても、しっかり利権を確保したのだ。今後、泉井の捜査が進むなかで橋本の問題もとうぜん解明すべきである。
 与党の自民党が泉井問題を抱え、新進党はオレンジ共済問題を抱え、所詮はおなじ穴のムジナだ。二大政党論とか保保連合などといっても、汚職連合、汚職二大政党には間違いなく、これらの腐敗した政治家が、日本の未来を語っているほどバカらしいものはない。

■忍び寄る危険

 このような混乱に、国民は呆れ、そして危機感を抱いている。しかし、その危機感をちゃっかり利用しようとする手合いもいるから要注意だ。最近、国家の強化や英雄主義、愛国心を訴えるグループのキャンペーンが強まっている。右翼の宣伝カーは「国に誇りを持て」と声高に叫び、国を批判する者は非国民あつかいにされかねない。権力者の混乱が浄化につながるのではなく、それを利用して国家主義を広めようとしていることに強い危機感をもたなければいけない。
 従軍慰安婦問題を突破口にして、右派および右翼の言論グループが従軍慰安婦の事実の否定ばかりか、かつての日本軍部を批判する者への攻撃を強めている。
 この混乱期を反動のほうに追いやるか、あるいは転形期ととらえて前に進むようにするのかは、ひとえに世論の形成のしかたにあり、世論の形成は個人の無関心からの脱却と行動にかかっている。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/ペルー人質事件で報道の自由を憂う

■月刊「記録」1997年2月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■報道規制は正しいか?

 ペルーの日本大使公邸占領事件は本稿執筆段階(1月17日)でまだ解決していないので、発言は難しい。けれども報道をめぐる問題については、重要なので考えてみたい。
 今回、共同通信記者とテレビ朝日系の記者がゲリラが占拠していて、政府が「立ち入り禁止」にしていた日本大使館公邸内に入った問題についてまず感じたことは、この事件にたいする対応によって、日本のジャーナリズムが、ますます報道規制を受け入れやすくなるのではないかという不安だ。というのも、新聞社やテレビ局の記者は「企業内記者」であり、記者本人の判断ではなく社員として命令系統にたいする服務義務が彼らの重要な柱になっている。読者の知る権利よりも、上層部の意向、それが強まらないかどうか疑問だ。
 この事件に対するさまざまな反応をみていると、現場にいる個人の記者が独自に判断しにくくなるような傾向が現れていた。取材はあくまでも取材者の判断と責任においてなされるはずだが、会社側の決定によって、政府に謝罪したり、チェックされたりすることが、これから増えるのではないかと心配している。
 たとえば、朝日新聞(1月11日夕刊)には、つぎのような記事が掲載されている。

 -ペルーのパンドルフィ首相は10日夕(日本時間11日朝)、リマの大統領府で内外報道陣と会見し、日本大使公邸に入って国家警察テロ対策本部に拘束されたテレビ朝日系・広島ホームテレビの人見剛史記者(26)とペルー人通訳の行動について、テレビ朝日側が「残念で不適切な行動だった」として事実上の謝罪をしたことを明らかにした。2人の身柄は「数時間以内に釈放されるだろう」と述べた。
 テレビ朝日側と話し合った結果、テレビ朝日側は(1)自主的に記者を交代させる(2)取材陣に不適切な行動をとらないよう注意する、という2点で合意。没収した取材テープ2本について、パンドルフィ首相は「政府に没収する権利がある」としながらも、テレビ朝日側や内外の報道機関からの要請もあって、「特例」として東京の本社に直接返還する、と述べた。-

 その前日には、三塚博蔵相(首相臨時代理)が、「記者を帰国したら事情を聴く」などとバカげた発言をしている。どんな権利があるというのだ。越権行為そのものである。
 この問題の背景には、ペルーの政治情勢が絡んでいる。当然のことながらゲリラの発生には、フジモリ政権が行ったゲリラへの強圧政策にたいする反発がある。このようなことはあまり報道されておらず、ただゲリラ側の行為を伝えるのが人質の生命にかかわるというようなパターン化した言い方で報道規制が行われているだけである。問題なのは、ゲリラを発生させているペルーの政治であり、突入を防げなかった政府の無能であり、メンツだけで解決を長びかせているフジモリ政権の態度である。報道はいつでも自由であらねばならず、報道の責任とは、その結果である。本当に報道によって、人質の生命が危険になったかどうか。冷静に考えるべきだ。
 共同通信の場合も、朝日系の記者の場合も、記者本人の判断によって取材したにもかかわらず、共同がさほど問題視されることなく、テレ朝だけが謝罪をともなうことになっているのも妥当ではない。政府が強制しやすい媒体なのだ。
 報道の自由の権利とはそれ以上でもそれ以下でもない。誘拐事件の時に誘拐された人間の生命にかかわるという理由で、報道を規制したり、プライバシーにかかわる問題を自己規制するのは、あくまでも例外なのである。いつの時代でも、報道は報道する者の自由と責任においてなされなければならないという原則は貫かれるべきである。
 ペルー政府は一貫して報道規制をしてきたが、報道規制をすることがゲリラとの交渉に有利だというのなら、報道がなぜ人質の生命にマイナスになるのかを明らかにしなければいけない。それなしに人質の生命を損なうとの理由で報道を抑えるのは、権力側の戦略的な報道コントロールである疑いがきわめて濃厚である。
 私たちには、1990年の湾岸戦争の時、報道が完全に米軍にコントロールされたという苦い経験がある。権力側は常に報道をコントロールしたがるものだ。実はそのような権力の報道規制を破っていくのが報道するものの任務なのである。
 大使館公邸の中がどうなっているのかを報道することは、積極的な意味があるはずだ。それをたんなる政権の交渉技術に矮小化してはいけない。人質の状況をあるていど客観的に報道することは、むしろゲリラのやっている行為を判断する基準になるはずだし、報道がゲリラの一方的な声をひろめるという批判は、それを受け取る側の判断や知りたいという権利を奪うものである。

■ペルー政府情報の垂れ流し

 今回の場合は、まだトゥパク・アマル革命運動の実態が明かにされておらず、一方ではテロリスト、一方ではゲリラ、また一方では犯罪者集団との酷評もある。しかし彼らの要求が、これまで政治犯として逮捕された仲間の釈放であることを考えれば、政治犯として扱うべきだろう。
 政治犯の要求をすべて遮断してしまうことは、政治犯を弾圧している権力の側に加担することである。わたしはテロリズムには反対であるが、報道の自由というのは政治犯の声も明確に伝えていく義務もふくんでいる。トゥパク・アマルがどのような集団なのかは、事件が解決してみないとはっきりしたことがわからないが、とにかくいまの判断基準は、ペルー政府が垂れ流す情報に支配されている。
 繰り返すが、このような時にゲリラ側の主張を聞き、人質の状況を報道するのは、報道者に与えられた任務であり、抜け駆けだとか、人質の安全を阻害するとかと批判すべきものではない。安全を阻害するというのなら、どのような形で報道が人質の生命を脅かすのかをはっきり公表して批判すべきだし、すきあらば強行突入しようと構えている政府の硬直した姿勢こそ問題だ。
 これで思い出すのが、68年に静岡県の寸又峡の温泉旅館に在日朝鮮人が銃をもって立てこもった、「金嬉老事件」である。この場合も、在日朝鮮人の圧迫された民族の意見を公表する場として、金嬉老は報道陣と交渉して記者会見を開いた。これも普段の状況では、彼ら在日朝鮮人の声が反映しないという金嬉老の焦りから起こった事件であったが、この時に報道各社は、それなりに金嬉老の声を伝えていた。
 とはいえ最終的には、報道陣の中に混じっていた私服刑事が、記者会見の場で逮捕するというマスコミ史上の大きな汚点を残している。つまり、新聞記者は、私服刑事が報道陣を装って一緒に入っていたのにもかかわらず、むしろその状況を黙認することによって逮捕に協力したわけだ。警察と報道を一体化して、報道よりも逮捕を優先させた報道上の恥部だった。
 今回の場合も報道陣に私服警官が紛れていたという情報があり、赤十字が厳重に抗議したと伝えられるが、この抗議はまっとうな行為である。報道者は警察の片棒担ぎであってはならない。
 権力は報道を規制してでも権力を行使したがるものだから、報道者は規制を打ち破って、権力の暴走を防がなくてはいけない。過去の歴史に目を転ずれば、宣戦に至るまでの権力側に不都合な情報を報道規制によって遮断した結果、何も知らない国民が戦争に駆りだされた歴史ともいえる。常に権力をチェックするのが報道の役割だと、改めて肝に命じる必要があるだろう。

■報道の自由への挑戦行為

 報道が規制されている場合、報道者の側からも報道規制を打ち破る行為が必要である。ところが、残念なことに、それは批判されがちだ。日本の場合は、記者クラブ制度が強固なため、「抜け駆け」はとかくヤリ玉に上げられやすい。たとえば、私が雲仙普賢岳の噴火に関する取材で島原の立ち入り禁止区域に入って報道した時に、「地域住民の(鎌田の取材に)感情を逆なでにした」という報道があったが、まったくデタラメだった。住民は自分たちが住んでいた地域の状況を知りたがっていたし、報道されたことによって、初めて情報を得られた、とそのあと感謝されたほどである。
 今回の事件でも、人質がどういう状況にあるかを報道することは、人質および人質の家族にとっては重要だ。それを規制することは、人質の人権を軽視し、強権によって事件を暴力的に解決しようとする政府の姿勢を支持することにつながる。
 なぜならば人質としてとらわれている人たちは、すこしでも自分に関する情報を家族に与えたいと思うし、交渉の道をひらかせて、平和的に解決することを心から願っているはずだからである。
 報道はつねに、「国益の妨げになる」「政府に不利益」「企業のためにならない」などを口実に規制されようとしているし、「国家機密」や「企業秘密」の壁にさまたげられている。こんどの場合の批判は、「人質の生命」という金看板だ。これは嘘っぱちだ。わたしも島原で「人命」と「住民の反対」を理由に書類送検された(不起訴)。トヨタ自動車の内部のことを書いた(『自動車絶望工場』)ときにも、「取材方法がフェアではない」「記録性がない」などと、企業寄りの評論家たちから罵倒されたのに対して、反論した。「北方四島」の立ち入り取材では、「国家的利益」の見地から、再三にわたって外務省から呼び出され、拒否している。報道する者が、自己規制するようになることこそ、暴力的な支配を生み出すことにつながる。たとえば、ベトナム戦争での報道が、アメリカ軍の撤退をはやめた故事を思いだしてほしい。

■報道こそ人権を救う

 今回の事件では、これまでの結果をみる限り報道者とゲリラがオープンに会話をしている間は、人質の生命に危害を与えないことが保障されている。いっさい情報を遮断した状況では、軍隊の突入の恐怖がゲリラにも人質にも強まると思う。このような判断があって、共同通信の記者やテレビ朝日系の記者は自分の責任と判断において突入したのだ、と思う。
 それに対してペルー政府が、取材したビデオを政府側が押収し、ゲリラ側の発言を削除する、という。これは報道の自由に対する挑戦行為であって、フジモリ政権がいかに民主主義的感覚に薄く、報道の自由と敵対しているかを示している。
 だいたい現在のような報道規制が起こること自体が、フジモリ政権の体質を表しているわけであり、私は別にゲリラを支持するわけではないが、ゲリラを悪とすることによって、政府への批判を封じ、国際的に政府への支持を強めようとしているようだが、このように問題解決がこじれていることこそ、恥じるべきである。
 まして取材者を国家が逮捕し、長期間拘留し、取材した内容を検閲するような行為には、ペルー政府に対して報道者は抗議するべきだと思う。繰り返しになるが、ゲリラの発言を報道することは、ゲリラを有利にするともいわれているが、ゲリラの言い分が正しいか、正しくないかを判断するのは、読者や視聴者である。もしゲリラ側に耳を傾けるべき発言があったなら、それを土台に民主主義的な改善がなされるべきである。
 いま懸念されのは、ゲリラ側の疲労を待って政府が強行突入し、人質の生命を危うくすることである。そのような悲惨な結末を迎えないためにも、ゲリラと人質の状況を報道し、彼らの訴えにも耳を傾け、交渉に向けて誘導する正当な報道こそが、ゲリラを追いつめず、平和的な解決を道をつくる。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/日本陥没シンドロームを視る

■月刊「記録」1997年1月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■腐蝕のトライアングル

 前回、私は日本の政治を「どじょう鍋政治」とよんだが、このどじょう鍋もいよいよ煮詰まってきたようだ。今回の厚生省の岡光序治・前厚生事務次官のスキャンダルは、これから充実拡大させなければならない老人福祉を。先喰いしてしまった。もっとも悪質で貪欲な「ピラニア鍋」というものであった。
 ピラニアなど喰えるかと思う人もいるだろうが、これはスープやからあげなどにすると毒気が抜かれ、さっぱりして意外にうまい。アマゾン流域では、ピラニアの首だけでつくった首飾りを売っている。これから日本でも汚職官僚達の生首を飾った首飾りがはやるかもしれない。
 それはともかく、岡光の犯罪は次官になってからではなく、4~5年前からすでに始まっていたのである。小山博史とは十数年来の関係があったというから、いわばフンケイの友人であり、両方が利用し合っていたわけだ。このような人物が、厚生省あるいは日本の官庁機構の中心のいたるところで居座っていたことが問題である。 つまり彼が時間に推薦されたということは、その省全体で、彼の只食い、只飲み、タカリ行為を是認していたことになるし、官僚の体質そのものをも表している。
 ここで登場するのが東大だ。高級官僚はほとんど東大出身者に独占されている。独占禁止法違反で訴えてもよいほどだ。
 岡光の子分の茶谷滋は、岡光のミニチュア版だった。業界(小山)から政治資金をもらい、自民党の推薦を受けて立候補して挫折した。もし彼が当選していれば、さらに福祉の予算を増やし、それを喰らうという構造になり、政官財の関係のもっと矮小なサンプルが示されるところであった。高級官僚を業界と時の政権(橋本政権)がアベックで押し上げていくという構造がここに明確に現れている。
 茶谷は小山を引き連れて、埼玉から栃木への彩福祉グループの展開の露払いに徹していたわけだが、このような関係は別に今に始まったことではない。国際興業の小佐野賢治とロッキード事件、江副浩正とリクルート事件のように政官財の関係は続いてきた。
 岡光の金儲けの方法も過去の事件の焼き直しだ。国の金庫にねずみ穴を開け、そこから膨大な資金を関連企業に引いてくるという方法は、明治時代の三菱創業者の岩崎弥太郎、近年では北炭の萩原吉太郎、あるいは田中角栄や金丸信などの政治家が介在していた方法であって、別に珍しい方法ではない。
 ただ今回、小山が頭をひねったのは、そのようにもうけた利益を共同募金会に寄付して税金をのがれたことだ。共同募金に寄付したカネを今度は自分が作った福祉法人にそっくり受けるという方法である。これは今はなき笹川良一日本船舶振興会会長がさまざまな団体の会長を兼任し、自分が支払った資金を自分で受け取った方法とそっくりだ。小山は今までの汚職のあらゆる方法や、先人の経験をうまく駆使したわけで、これからも大小山や小小山が各業界に潜伏していくとは想像に難くない。
 厚生省のスキャンダルは、日本の政界・官界・産業界の腐蝕のトライアングルそのものである。今回明らかになったことは、小山がつくった医療福祉研究グループは、岡光を筆頭に厚生省の幹部ほとんどが頭を突っ込んでいたどじょう鍋グループであり、「詐欺師」小山の私設機関となっていたことである。
 テレビを見ていて、今さらながらあきれたのは岡光の表情が全く変わらず、まるでカエルの面にションベンといった態度だったことだ。おそらく彼には、「俺ばかりではない」という気持ちあったのだろう。彼の行為が犯罪であるならば、医療福祉グループに入っている厚生省幹部はすべて犯罪者だ。ところが犯罪という意識が彼らにないため、捜査が厚生省幹部にまで上りつめることができたのである。
 しかし、官僚たちが、これほどまでにカネに弱いというのは驚くべきことである。それは岡光個人ではなくて、権力を握っている官僚たちの「どじょう」(土壌)問題ともいえる。
 もうひとつの問題は、岡光に親分がいたことだ。それは東大の先輩であり、どうじに同郷、広島県出身で厚生事務次官を努めた吉村仁である。高級官僚はほとんど東大によって独占されている現状で、東大閥の中に地方閥があるのは、きわめて日本的なエリートシステムといえる。

■悪の供給源

 岡光の行動は親分吉村の直伝であったから、厚生省の官僚にとっては、さして驚くにあたいしない事実であろう。東大法学部出身者は20代で税務署長になるなど、若いガキの時分からふんぞりかえった生活をしている。それに地方の官僚が土下座しているのだから、19世紀ロシアの官僚制度を風刺したゴーゴリの『検察官』そっくりである。これは中央の役人と称するさぎ師に、地方の警察署長などがぺこぺこする姿を描いている作品だ。
 20代のエリートがらせん状にぐるぐる回って次官を目指す。それによって日本の陥没シンドロームは作られている。これらの官僚は、一方では地方に出て県知事や市長になり、一方では関連業界をバックにして政治家になり、一方では関連業界に天下って社長や会長になっている。
 このような官庁を中心とした産業界、政界の腐蝕のトライアングルにたいするチェック機能は、オール与党体勢の現在、まったく期待できない。
 中央官庁を中心にした「悪の供給」ともいえる天下りについてもうすこし補足すれば、たとえば通産官僚は許認可と行政指導によって、常に大企業の連中からゴルフや料亭などの接待を受けている。功労が甚だしければ、そのまま専務クラスから天下りして社長、会長になる。鉄鋼、造船、重機などの重工業の幹部に通産官僚出身者が多いのはそのためだ。これは地方でも同じである。地方通産局の官僚も地元の中小企業に天下っていく。
 すでに明らかになったように、大蔵省官僚は銀行に天下って、膨大なこげつきを発生させ、銀行倒産まで生み出した。運輸官僚が、船舶振興会やかつての笹川財団の手代になっていたことは記憶に新しい。建設省の官僚は土建業界に入り込み、それと同じような方法で厚生省の官僚はエイズの拡大にまで手を貸していた。
 「岡光現象」とは、業界が政治家に頼むよりも高級官僚に頼んだ方が手っ取り早いということを示したことにある。これでは政治家たちの利権がなくなり、彼らが憤慨するのは当然である。
 政治家から出るのもウミばかりだ。現在、首相の座についている橋本龍太郎は、もともと厚生族であって、水俣病患者に対して冷酷無惨なふるまいを繰り返してきた。厚生省はこれまでも公害病患者には冷たくしてきたわけで、橋本の態度は厚生省そのもといえる。一方では、漢方薬メーカーのツムラ前社長とツーカーの仲で、後援会への多額の献金が発覚している。カネの出所には甘い顔をするところまで厚生省とそっくりだ。
 自民党といえば幹事長の加藤紘一も、カエルの面にションベンのくちで鉄鋼加工メーカーの共和とのスキャンダルがあってなお健在そのものである。なまいきな小泉純一郎は、これもどうしようもない厚生族のはしくれで、退職金の大盤振る舞いにもつながる岡光の依願退職を許した。いまや政界の時限爆弾となっている泉井石油商会との関係もうわさされている。なおついでにいえば、新進党の友部などもオレンジ共済組合疑惑にまみれている。そもそも新進党が友部を参議院比例区名簿の当選ラインに置いて議員にしてやったこと自体が疑惑である。 このように政界・官界・産業界の腐蝕のトライアングルは、ロッキードやリクルートで大きな問題となりながら、なんら改革されなかった。業界は監督官庁から補助金や許認可をもらい、そのバックマージンを岡光のような高級官僚に支払っている。産業界は政治献金をつづけて、政治家を通して官僚を動かしている。官僚は業界からのカネと票をもらって政界への道を歩む。官僚が政界に人を派遣し、政治家は産業界の意をうけて官僚に法律をつくらせる。この悪の循環はとどまるところがない。 政官財癒着の日本システムが安泰をきわめてきたなかで、産業界は空洞化が進み、官庁は赤字の巣窟となり、政界は保身のどじょう鍋となった。それだけならまだしも、教育をみるだけでも、いじめ自殺が示すように子どもの世界を崩壊させ、中年は過労死、最後の砦である老人の世界も、政官財に喰いつくされようとしている。これが欧米に追いつき追い越せと走りつづけた日本の結末である。

■資金を握る東大悪官僚

 さて、橋本政権は「行政改革で火ダルマになる」などといっているが、すでに日本は国債の赤字まみれで火ダルマだ。行政改革で無駄をなくすといっているが、米軍に膨大なカネをめぐんでやったり、銀行の不始末にカネをつぎこんだり、この大盤振る舞いは尋常のさたではない。集団自殺行為ともいえる。
 行政改革などと「改革」を使っているが、これは中曽根流の「民活」と同じだ。たとえば橋本が会長をしている「行政改革会議」のメンバーを見ても、三菱重工の飯田庸太郎や、経団連会長の豊田章一郎、日経連副会長の諸井虔、芦田甚之助御用組合(連合)会長など、産業界を中心に編成されている。行政改革委員会も飯田庸太郎を筆頭に、宮崎勇大和証券特別顧問や、御用評論家などで構成されていて、公共部門の財産をどんどん大資本に配ろうとする意図が明らかだ。このような野党なき談合政治が「地方分権の時代」という趨勢を妨げないかどうか疑問である。
 中央官庁の腐敗とは、ぼう大な資金を少数の東大出身権力者の手に任せることによって生じている。この解決方法は地方への資金と権限の分譲にある。もちろんその前に、その地方の知事や市長など権力者が中央官僚の出張者や天下りであってはならないのは当然で、地方の市民運動の活性化をすることによって監視しなければいけない。
 もう1つはオブズマン方式などによる監視機関の充実である。上級官庁が下級官庁を監督するというのは、岡光が茶谷を監督しているようなもので、お笑い以外の何ものでもない。どんづまりにきたシンドローム状況が、どう解決されていくかは、国民1人1人の権利意識と民主主義的な意識によるものであって、それにはジャーナリズムの力が十分に発揮されなくてはいけない。
 「行政改革」など本気でいうのなら、まず、天下りと政治献金をせめてからにしたらどうだ。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/政党談合政治を断ち切る

■月刊「記録」1996年12月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■ドジョウ鍋政治

 兵庫県の参院補欠選挙の投票率は21%だった。自由民主党、新進党、民主党、社会民主党、さきがけ、民主改革連合がタバになっておした前副知事が、共産党候補に2万7千票の小差でかろうじて当選した。これで県民の信任をえたというのは、でたらめでしかない。先月の衆院議員選挙の投票率の全国平均は、60%を割っていた。 最近は恥も外聞もないオール与党体制では、もはや選挙民に投票の自由はないといえる。政治家どもの頭の中を占めているのは、自分の議席の確保だけであって、もはや思想や主義はおろか、自分の主張さえもなくなっている。
 これを「ドジョウ鍋政治」という。断末魔のドジョウが苦しまぎれに、豆腐のなかに争うように頭をつっこむ。哀れである。彼らが煮て食われようと焼いて食われようと、そんなことどうでもいいのだが、よく考えてみれば国民もまた「全体主義」という怪物に食われてしまいそうだ。
 第2次橋本龍太郎内閣が発足し、また自由民主党単独政権にもどった。社民党や民主党は与党でありながら閣外協力ということだが、これまた妙なことである。与党になるなら、いままでどおり大臣の椅子を分けてもらえばいいのに、そこに世論の批判に対するためらいがあらわれている。
 社民党は選挙のときに、「市民との絆」と大きく打ち出していたが、与党でありながら市民とつながるなど、大政翼賛会の押しつけでしかない。土井たか子委員長も市民との絆を標榜するなら、村山富市や久保亘など「戦犯」とスッキリ手を切って、それこそゼロからの出発をすべきではないか。
 選挙制度の改悪と同時に、少数政党いじめのきわみである「政党助成金制度」が導入された。この制度は国会議員を5人以上有する政党か、選挙で2%以上の得票率を得た政党に、国民1人あたり250円の助成が行われる悪法だ。
 この悪法が、今度の選挙で大きく力を発揮していた。新聞などの政党宣伝は華々しく、テレビでは大政党の広告が連日にわたって流された。それぞれ広告代理店がつくったであろうコマーシャルフィルムであった。
 これには膨大な資金がかかっている。その資金は、国民からの税金だ。つまり国民の血税を使って、政党は大宣伝をおこない、広告代理店とテレビ各局と新聞社がもうかるという構造だ。
 この制度では議員を持たない政党が、きわめて不利な体勢になる。国会議員を5人以上もたない政党は、実質的には選挙公報も満足にできない。きわめて不平等な制度なのだ。
 共産党を除いた全政党は、社会党も含めて率先して政党助成金に賛成した。彼らはもはや市民の方はまったくむいておらず、ただ自分自身の保身だけを考えていることをあきらかにした。市民運動とか、少数の労働運動などを切り捨てて、自分だけが議席を獲得しようとしてるのは犯罪てきだ。もはや政権党と同じ体質だ。
 かつて私は「いまや社会党は自民党の看護婦になった」(『生きること、書くこと』―日本エディタースクール刊)と書いたことがあった。しかし現在の社民党は看護婦ですらない。使い捨てのホウタイだ。

■封建制度の復活

 比例ブロックに候補者をたてる場合、新制度では定数の2割以上を立候補させなければいけない。それだけの供託金は膨大であり、当選者がでなければ供託金は国庫に没収される。またテレビでの広告費も1回あたり3千万円かかるといわれ、これも政党助成金をもらっている大政党でなければできない。
 政党助成金制度は、国民からカネを吸い上げて、国民を縛るという制度であり、それに賛成した社会党の罪は万死にあたいする。
 いまや日本の政治は政党の独善にみちあふれ、談合政治になりはてた。与党政治家の多くは、ただ父親の地盤を受けついだだけであるから、彼らが住民運動、市民運動、労働運動の動きを気にすることない。
 親の七光りか、大政党のカネと組織票のバックアップがなければ当選は難しい。いまや市民運動などから国会議員を選出する道は完全に閉ざされてしまった。これは封建制度の復活ともいえる。これからは、みんな政権にスリ寄って推薦をもらうことに腐心するようになる。

■町内会レベルで国政

 小選挙区制は、選挙をきわめて矮小化した。小選挙区制で落選し、比例区で復活当選した山花貞夫議員自身が、「選挙区が狭くなって、運動がきめ細かくなった。200人の演説会より、10人、20人の座談会のほうが効果がある。どぶ板といえばどぶ板なんだが」といっているように、国会議員はきわめて狭い地域の利権を代表するというようになった。つまり国政を担当する政治家が、地域の利害で選出されるだけだ。
 国税と時間とのバックアップで生まれた国会議員が、町内会レベルの政治活動を余儀なくされるのが新選挙制度だ。選挙制度の改革とはいいながら、いっぽうでは企業献金はそのまま野放しにされている。大企業が政治家と政権党を支配する構造は変わっていない。まして小選挙区制は大政党に有利のため、そのすきまを狙う政党との談合で、ますます無党派の新人が国会にでる道は閉ざされる。
 このように大企業と官僚と七光り議員で国会が形成されて、かつて崩壊したはずの自民党の金権政治を復活させることにつながっていく。
 今回の衆院選挙の投票率が60%を切った背景には、いまや政治が政党同士の談合となれあいでしかなく、どこに投票しても同じ政党であるという翼賛体制に嫌気がさした選挙民が、投票を自主的に回避した絶望がある。

■ヒトラーばりのデマ政治

 いままで社会党を支持していたのは、自分でなんら運動を起こすことなく、社会党にだけ投票しておけば、日本の民主主義が守られるという幻想があったわけだが、いまはっきりと現実が露呈した。これから自分自身はどのように政治に参加していくのか、どういう市民運動をしていくのかが問われている。
 小選挙区制は、「政権交代を可能にする」というデマによって導入された消費税の導入もそうだが、日本の政治はヒトラーばりのデマ政治になってきた。
 比例区の導入は死票を復活させるという名目だったが、そのためならブロック制ではなく、全国区の比例代表制度で、小政党への票をすくう道をつくるべきだ。
 まして選挙制度の改革をするならば、たとえば日本で仕事をし、税金を払っている在日朝鮮・韓国人と外国人の選挙権をどうするかという問題が残っている。税金だけをとっておきながら、参政権をあたえないというのはおかしい。たとえば10年以上永住している者には選挙権や被選挙権をあたえるなど視野のひろい議論が必要だ。 とにかくこのまま大政党どうし談合が続けば、テロルかファシズムを呼びこむのはまちがいない。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/被災者見殺しは犯罪だ

■月刊「記録」1996年11月号掲載記事(記載は掲載当時のままです)

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■100人を超える孤独死

 阪神大震災から1年8ヶ月が過ぎ、この間の仮設住宅での孤独死は103人を超えた。死因は病死が90%を超えている。年齢別では60歳代がもっとも多い。
 最近では月に7~8人の被災者が死亡している。これは異常なことだ。大震災による6300人もの大量の死者は天災によるものではない。押しつぶされた家の奥に残っていた人達が、何の救いもなく悲惨にも死んでいったのは、人災によるものだ。
 地震列島にもかかわらず、人命救助が優先されない街づくりをしていた結果だろう。さらに日常生活の中で、100人以上の死者が発生したことは明らかに政治問題だ。住民の安全に責任のある行政が、死者の発生をいっこうにくい止められない事態は責任問題だ。
 9月29日に神戸市の人口島ポートアイランドの第6仮設住宅で亡くなった山下政夫さん(38)は、11月末に死亡していた。10ヶ月も経ってから遺体が発見されたということは、死んだ後10ヶ月ばかりか、生前から住居に誰も訪問していなかったということだ。38歳という年令に注目してほしい。
 仮設住宅は市街地からの交通の不便な場所に設置したこともあり、いったん入居したものの不便なために引っ越していく例も多い。そのため仮設住宅は櫛の歯が抜けたようになっている。これは仮設住宅を設置した思想が、人々にとっての生活の便利さを考えなかったことを示している。
 さらに問題なのは、かつて住んでいた地域をバラバラにして仮設住宅に配分したため、地域のつながりが断ち切られ人々のつながりを薄いものにしてしまったことだ。このような事態は、島原や奥尻の被災者などには見られなかった。ここにも神戸市などが進めてきた開発姿勢、つまり建物だけ作ればそれでいいというような思想が如実に現れている。人は人間的つながりを断ち切られては生きていけない。にもかかわらず行政の都市計画は、震災前から人のつながりを、まったく考慮に入れていなかった。
 家族や友人を失い、ひとり取り残されて生活する住民のストレスに対して行政は無関心だった。ストレスをやわらげるための人間的な手立てが、まったくなかった。このように人間の生活を考えない発想が、多くの被災者を見殺しにしているといっても過言ではない。
 島原、奥尻の場合は、同じ町内会の人達がおなじ場所に建てられた仮設住宅で暮らしていた。人のつながりは今まで通りのため、誰がどのような状態なのか、精神状態や健康などたがいに情報が交換できた。
 神戸の「103人目」の死者のように10ヶ月以上も放置されてた孤独死が報じられると、行政も反省しているかのようなコメントを発表するが、放置された遺体が発見されたのは、これが初めてではない。2、3ヶ月という例は、数件あった。まったく反省していない証拠である。なんら将来の希望を与えていなかったのだから、孤独死がなくなるはずもない。

■「仮設」のあとが決まっていない

 このような状況が報じられる一方で、阪神高速道路が開通し、いかにも復興が進んでいるように喧伝されている。たしかに神戸の町を歩いていると、焼け跡や瓦礫の山は片づけられ、空き地や駐車所になっていたりする。悲惨な体験は、外からでは見えにくくなっているのだ。神戸祭りや花火大会も開催され、地下街や繁華街の明かりも、震災前と同じようにまばゆいばかりだ。まちを歩く人たちも、あの時期の悲惨な表情は見られないように感じられる。
 もちろんいつまでも悲惨な状況に打ちひしがれているわけにもいかない。街に明るさが戻り、「復興」が進んでいることは喜ぶべきことだが、この「復興」だけがおおてをふって歩いているのは問題だ。死者や生き残った被災者の苦悩を受けとめないままの「復興」が進められている。神戸市行政は被害を拡大してたにもかかわらず、震災に対する反省がほとんどない。
 たとえば、笹山幸俊神戸市長は、瀬戸内海を潰して神戸空港を造る計画をいまだに変えていない。「交通のアクセスの多様化が必要で、防災面でも空港の重要性はました」と市長は発言しているが、ここにも建築物さえ造れば復興はことたりるといった発想がある。
 今年9月に行われた調査によれば、神戸市民向けの仮設住宅の入居戸数は27575戸で、57786人が仮設住宅での生活を余儀なくされていることがわかった。また今年の8月の調査では、神戸市内の旧避難所に260人(117世帯)、待機所には96人(62世帯)が暮らしていることが判明した。神戸市だけでもこれだけの人が不自由な環境で生活している。さらに公園などで生活している人も相当数いるのだ。この人達の落ち着き先はいまだに決まっていない。
 このような住居の不安に加え、失業の不安が被災者にダブルパンチを与えている。人間だれしも職業を奪われるだけで強い不安に襲われるものだが、それに加えて安心できる住宅を奪われ、家族さえ奪われている。そんなひとり暮らしの人達の不安の解消のために、政府と自治体が手を打つべきなのに、仮設住宅の使用期間は2年(3年に延びる場合もある)となっている。
 仮設住宅を出た被災者が、仮設住宅よりも安く住宅を借りられることはない。しかも低家賃住宅の建設は圧倒的に少ない。せまい空間に押し込められ、将来のあてもなく生活の不安がつきまとう状況では、病気、精神障害、自殺、アルコール依存症などをわずらうのは当然といえる。毎月、7~8人の死者を出して平然としている自治体の責任を、声を大にして追及すべきだ。

■人命よりも再開発

 被災者を追いつめているのは、地方行政だけではない。95年に村山富市首相が復興の特別立法には私権制限を服務処置を含むと発言して以来、政府はなんら軌道修正をしていない。死亡者ばかりか、不安に苛まれている被災者をも見捨てている。日本国家の方針は、どんな大きな災害が起こっても、被災者の私有財産に国が介入すべきではないと、言うきりだ。島原、奥尻でも公的補助は見おくられてきた。住民は特別立法を強く要求したが認められていない。神戸市民も公的補助を受けるために、市民立法のための運動を始めている。
 政府はいつまで個人補償を認めないつもりなのか。島原、奥尻は、それでもまだ被災者の数が少なく、義援金で息をつけた。ところが神戸のような大規模な災害になれば、国民の善意ではもはや解決できない。こういうときこそ国民の生活を擁護するのが国家の義務だ。
 住専問題のように企業と資本家を救うためには、さっさと血税を支払うのにもかかわらず、生き死にの苦しみをあじわっている人民を助けないとは、まるで戦争の論理だ。強い者が残り、弱い者が死んでいくしか仕方がないというのは淘汰の論理であって、人権や民主主義とは敵対する考え方といえる。
 再開発問題でも同じようなことが起こっている。災害に強い街をつくるという名目で、地方自治体は「減歩」という方式で市民の財産を、無料で没収しようとしているのだ。混乱とどさくさに紛れて公共事業を推進するのが、都市の再開発と呼ばれる代物だ。被災住民は救済するのが大前提だ。ところが震災以前に計画していた事業を強行するというのは、人命よりも事業という意識のあらわれである。
 そんな行政の姿勢に対し、いまなお根強い住民の反対がある。都市の再開発は被災者の住宅を中心にすえ、住み良い街につくり替えるべきだ。ところが大規模再開発によって、住民が土地を離れなければならないのでは本末転倒だ。残念ながら住民の立場に立ってまちづくりをしようとする政党はない。神戸市の「再開発」に諸手を挙げて賛成している。これはかつての労組の主張でもある。
 作家の小田実さんや市民運動家は、市民を中心とした再開発を行う「生活再建援助法案」を発表している。私もこのプランには全面的に賛成である。政府、官庁、政党に問題解決を陳情するこれまでの政治のあり方を根本的に変え、運動によって実態を変えていこうとするのは、自分たちの運命は自分たちで決めるという住民運動の姿勢である。
 最近はじまった第三次支給受付では、総所得が690万円以下の世帯に10万円の支給するものだったが、約15万世帯が殺到したという。被災者がいかに生活に困り、政府がいかに無策なのかを示している事例だ。
 地震国である日本では、さまざまな地域で大災害が見込まれている。政府と自治体による住民の見殺しを許さないことが重要だ。神戸住民の問題は、火山列島に住むわれわれすべての問題である。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/基地縮小の声をつぶすな

■月刊「記録」1996年10月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■最高裁判決への憤り
 沖縄問題は、政府と沖縄の関係だけではない。アメリカ政府と日本政府の関係の問題である。日本政府が、アメリカとの軍事同盟を解消すれば米軍基地はいらなくなる。この問題が解決しないのは、政府がアメリカとの対等の立場で交渉しないからである。
 9月8日、沖縄の住民投票は、沖縄の米軍基地縮小整備と日米地域協定の再編に賛否を問うための投票だった。結果は、米軍基地縮小と地域協定見直しに賛成482538票、反対46232票となった。投票率は59.53%だったが、これは8月4日に行った巻原発建設に対する住民投票の投票率より少なかった。しかし人口3万人の小さな巻町と127万人が生活する沖縄とでは、規模がまったく違う。この状況で89%もの賛成票が集められたことは、沖縄県民がいかに米軍基地問題で苦しんでいるかを明らかにものがたっている。
 投票の方法も「基地反対」が×印といったものではなく、基地縮小整備に賛成という非常にわかりにくい方式だった。無効票が12856票あったのかも気になる。 この投票は8月28日に下された最高裁判決に対する憤りも強く反映していると思う。私も判決を聞きに大法廷に出向いたが、沖縄の人達の想いを汲まない最高裁の態度に腹がたった。新聞などでも報道されているように、開廷したあと三好達裁判長は「主文、本件上告を棄却する」と言っただけで、15人の最高裁判事は全員逃げるようにして退席した。
 この時の沖縄の人達の深い失望は、その後の法廷を包んだ怒号にも表れていた。もちろん沖縄の島々で判決を知った人の失望も大きかったはずだ。傍聴に来ている人は1時間半近く法廷に座ったまま、「裁判長を出せ、どういうことだ」と声をあげ、不当な判決を追求しようとさえしていた。沖縄の戦後50年にわたる苦難の歴史をわずか数秒の判決で片付たのだ。彼らの強い怒りは当然のことだ。
 証人尋問で弁護団側が申請した23人の証人が却下された段階で、沖縄に住む人のナマの声を聞く姿勢が裁判所に全くないことは判明していた。しかし最高裁判事がここまでひどい態度で臨むとは、沖縄の人達も考えていなかったのではないか。15人の最高裁判事のうち実際に沖縄に行った人がどれだけいたのだろうか、沖縄の基地の存在による生活の不安や苦しさを、彼らはどれだけ感じることができたのか。結局、判決も杓子定規的な法律解釈に終始し、沖縄の想いは踏みにじられた。
 判決は「今回の土地使用認定に、無効となるような瑕疵(落ち度)は認められない」と断じ、地方自治に対する署名代行の申請にも違法はなく「知事の署名代行事務の執行の懈怠(怠慢)を放置することで、著しく公益が害されることは明らか」との「意見」を示した。これは大田昌秀知事を訴えた国の論理とまったく同じであって、最高裁の独自性はほとんどみられない。

■三権分立の放棄

「上告人(大田知事)の署名代行事務執行の懈怠を放置するときは、被上告人(橋本竜太郎首相)が本件各土地を駐留軍の用に供することが適正かつ合理的であると判断して使用認定をしているにもかかわらず、那覇防衛施設局長は、収容委員会に対する裁判申請をすることができないことになり、その結果、日米安全保障条約、日米地域協定に基づく我が国の国家としての義務の履行にも支障を生ずることになることが明らかであるから、上告人の署名等代行事務執行の懈怠を放置することで、著しく公益が害されることが明らかであるといわざるを得ない」。
 この判決に強調されているのは、日米安保、日米地域協定に基づく沖縄米軍基地の存続が国家としての義務だということだ。代理署名しないことが「著しく公益を害する」のであれば、公益とは何かと尋ねたくなる。
 公益を国益とする政府の見解に対して、沖縄の人達が訴えてきたのは、戦後50年にわたる米軍の占領状態や、米軍基地のおかげで個人の土地が強制収容されていることや、先祖代々の土地で米兵が度重なる人権侵害を起こしてきたことに対する切実な想いだ。さらには公益という大義名分のもとに、アメリカ本国の戦争に協力させられた悔しさだ。もうこれ以上戦争に協力したくないのに、強制的に協力させられてしまう不幸。アメリカ本国の国際戦略に沿って、沖縄が戦争に巻き込まれる現実。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などの国際紛争では、紛争地に向かう最前線基地として何度となく沖縄が使われたのだ。
 このような状況が公益に合致するのかどうかという議論を放棄して、最高裁の判決は下された。沖縄人民の利益と国の利益はまっこうから対立しているにもかかわらず、司法は両者の利益を判断しようともしなかった。そして最高裁判決は、「土地を駐留軍の用に供すること」を「公益」としたのだ。この判決は司法機関が3権分立を放棄し、国家機関として政府の方針に迎合する姿勢を明らかにするものだ。
 7人の裁判官から補足意見も提出されているが、これも国家と人権問題、土地の強制収容問題などを自分の頭で考えようとする熱意はない。「司法裁判所の審査に適しない性質の問題が介在している」(園部逸夫裁判官)、「司法による審査の限界を超えるもの」(大野正男裁判官など6人)。この補足意見を読んでみてもわかるだろう。彼らは自己で判断する機会を完全に放棄したのだ。
 日々発生する問題が適法で有るか否かを判断する責任を司法は持っている。にもかかわらず「外交上、行政上考慮すべき問題を比較検討すべきであるから、裁判所が一義的に判断するのに適切な事項とはいえない」と判決を下しているのだ。戦後50年経ってなお対米従属の姿勢は変わらず、変えようともしない。このような状況のどこに三権分立があるのだろう。

■住民いじめの「基地ころがし」

 行政に対する従属だけを考えた司法は、沖縄の人達の窮状については、いっさい耳を傾けなかった。
 沖縄において米軍基地に対する反対運動が起きたのは、少女暴行事件が発端だった。しかし運動が盛り上がったからといって、米軍による人権侵害がなくなったわけではない。米兵による暴行や交通事故が継続して発生し、報道されていた。
 沖縄では、戦後にもかかわらず準戦争状態が続いている。つねに戦争の危険にさらされているのが沖縄の人達だ。それは県道104号越えに実弾演習が行われていることからも明らかだろう。こういった状態を政府は放置し続け、本土に住んでいる日本人も目を向けることはなかった。自分達の生活の繁栄だけを目指して生活してきた。沖縄県民の窮状に対する無痛覚は、同じ日本人として恥ずかしい行為だ。
 少女暴行事件が報道されてから、政府は米軍基地を縮小整理する方向で話を進めている。しかしそれさえも抜本的な改革をしようとしているのではない。「基地転がし」によって、表面的な現象だけを押さえようとしている。
 臼井日出男防衛庁長官による静岡県の東富士演習場や山梨県の北富士演習場などの、実弾演習場移転候補地を抱える知事との話し合いは、まるで移転へのアリバイ作りだ。各県知事からの猛烈な反発は当然だ。日本の領土で不当に演習する米軍の駐留地を、沖縄以外の県で探そうという発想自体が間違っている。沖縄の人達が訴えてきたのは、日本全体の米軍基地そのものを具体的に整理縮小していく道筋であって、自分達の苦難を他人に引き受けてもらおうと訴えているわけではない。
 政府は国民の私有財産を守るべき責任があるのに、米国軍による「不法占拠」に向かい合おうとさえしていない。強い米国に立ち向かえない腹いせに、弱い地方住民の横面をはり倒すように「基地ころがし」をするのは、きわめて卑劣な行為だ。

■第2の琉球処分

 沖縄は太平洋戦争時に、日本で唯一日米の地上戦が行なわれ場所だ。本土決戦にそなえる時間稼ぎのために、多くの沖縄の人が死んでいった。この時行なわれた日本兵による沖縄住民の虐殺や集団自決の強制、波照間への集団移住によるマラリア患者の大量発生など、極めて悲惨な歴史を沖縄県民は忘れてはいない。被害を押しつけた本土の人間の身勝手を忘れていない。しかも戦後50年経ってなお、沖縄をくいものにする構図は変わっていないのだ。
 戦後日本の発展は、軍備を必要以上に増強せず米軍を駐留させ経済発展だけに力をつぎ込む「安保タダ乗り」によって得たものだ。もっと厳密に言えば、沖縄に米軍基地の75%を押しつけて本土の人間が繁栄をむさぼってきたのだ。日米安保の条約通り米軍を駐留させるのは国家として当然のことだといった理論を認めることはできないし、沖縄の人達に対する視点の欠落はどのように説明されても納得できない。
 国際紛争時には最前線基地となり、米兵による犯罪は多発する。そんな沖縄の状況にも、日本人(内地人)は平然と繁栄の享楽にひたっていた。日本人の沖縄問題に対する無関心は、アジアの人に対する戦後補償問題への無関心と同じだ。
 そもそも日米安保条約は、実質的な「日米戦争同盟」にほかならない。つまり日本は米国の国際紛争に参加しているのだ。このような同盟関係が、現状に即しているのかどうかを考える必要がある。
 8日に行なわれた住民投票は、基地を押しつけて知らん顔をしていた内地人に、沖縄の人達がはっきり基地縮小整理と地域協定の改善を訴えた。橋本首相も大田知事との会談で50億円の特別調整費計上を発表した。もちろん沖縄の経済振興は必要であるが、米軍基地返還の要請は先延ばしするわけにはいかない。いつまで、「琉球処分」を続けるのか。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/住民投票と原発

■月刊「記録」1996年9月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■投票率82・9%

 反対12478票、賛成7904票。
 8月4日、新潟県巻町で行われた原子力発電所建設計画に対する住民投票は、予想された通りの結果に終わった。嫌なものは嫌だという極めて明快な結論が出たわけだ。
 82・9%という投票率の高さからも、とにかく自分達の想いを投票に表わしたいという住民の意思が伝わってくる。一方で賛成票が8千票近くまで及んだことは、予想より少し多かったかもしれない。反対運動の盛り上がりに、政府と東北原発側はなりふり構わぬ巻き返しを展開した。原発の視察と称しての観光ツアーなどは買収行為そのものだ。
  もし政府と電力会社がてこ入れしなければ、賛成票はもっと少なかっただろう。このような状況の中で、明らかな反対の意思が表れたことは、非常に大きな成果だと思っている。
 しかし問題は解決していない。住民投票の結果を受けてさえ、塚原俊平通産相は、「結果は、まだ十分な理解が得られていないことを示していると認識しております」と発言し、八島俊章東北電力社長も「(投票結果が)絶対のもという認識はない。さらに理解活動をするしかない」と発言している。
 国や電力会社は、原発に対する地元の理解が足りないため、住民投票で負けたと考えているようだ。
 実はその認識こそが大きく間違っている。理解が足りないのではなく、住民が自分で理解し判断したからこそ、こういう結果になったのだ。賛成に投じた7904人こそが、原発の実体を理解していない人なのだ。

■札束で頬をたたく「理解」

 今までは原発に対する正当な判断が下されないまま、建設が進められてきた。たとえば巻町での賛成派のスローガンは、「原子力発電で町の活性化を!!」だ。原発によってもたらされるカネだけが焦点になっている。
 原発自体を好きな住民はいない。交付金が増えるとか、地方議員にそれなりのメリットがあるとか、地元の土建会社の仕事が増えるとか、カネに換算した賛成票が国と電力会社によって作られた。これは原発に対するYES・NOの問題でない。
 電気事業連合会の荒木浩会長は、電源3法交付金が公民館などの箱モノ造りだけにしか使えないことを取り上げ、「カネの使い方を変えなければ、もう地域の理解を得られない」と発言している。
 ばかでかい公民館や体育館を造り続けていたことに対する反省のようだが、交付金の使い方を変えても、金で買収していく発想はまったく変わっていない。しかし札束で頬をひっぱたくのは「理解」ではない。
 一方、巻町のNOの声は、自分達の運命は自分達で決めるという意思が明確になったものだ。過去の原発建設は、国と電力会社が地方自治体の長や議会だけを洗脳して進められた。しかし巻町の住民は、原発の賛否を住民に直接問いかけなければ承知しないという一歩進んだ見解を示した。
 住民の「理解」とは、どういうふうに生活していくのかを考えることから始まる。生き方に対する問いだ。国や電力会社が考えるようなカネの使い方が問題なのではない。カネやモノでは原発建設を説得できない時代に入ったのだ。
 もちろんチェルノブイリや、スリーマイル、もんじゅなど原発事故によって住民が危険性を感じた影響はある。しかしそれ以上に、地方自治体を買収していくということに対する反発の強さを、国や電力会社が理解しなければいけない。
 成田空港建設反対運動でさえも、政府のやり方がまずかったと運輸省が住民に謝っている。時代は変わってきているのだ。国益になるからだとか、カッコつきの地元のためなどで、政策を押しつけるのは民主主義ではない。
 今度の巻原発の問題ではっきりしたのは、強権的に意見を押しつけることは、国であっても許されないということだ。このような当然の事実が、巻町だけに適用されるわけがない。そのような意味で他の地域に与える影響が大きい。

■戦争時の論理だ

 住民が原発をいらないと言っているわけだから、いやなモノを押しつけてるのは、住民自治に対する挑戦だ。「計画の凍結を考えていない」と談話を発表する江崎格通産省・資源エネルギー庁長官などは、地方自治の精神をまったく理解していない。
 たとえば何らかの開発で、100%良いとものがあったとしても、住民が嫌だと言ったら開発は進められない。住民の判断を無視して意見を押しつけるのは、そこに住んでいる個人個人に対する冒とくだ。原発政策が初めにあり、方針通りに建設して原発の発電量を高めていくのというのでは、国の方針自体が間違っているとしか言いようがない。
 さらに国にとって重要な政策を、たかだか地方の住民に任せられるかどうかといった意見も出ている。これは本末転倒だ。国家権力が国益を理由に、嫌がる市民を駆り立てるのは戦争時に使われる論理だ。市民が嫌うことを押しつける権利は、国にはない。
 憲法でも地方自治がうたわれている。地方自治とは住民の意志を尊重するものだが、投票結果が出た後の政治家や役人のコメントを読んでみると、その辺の意識がまったくない。このような状況下で国の押しつけに対して、嫌だと意志を明らかにしたことは歴史的な意味を持っている。

■中間派が反対派に

 住民投票で原発反対派が勝利した要因は、反対運動の柔軟性にある。反対運動していた人達が、町民にわかるような言葉で説得をし、運動家と町民が同じ視点で活動してきた。たとえば原発反対の意志を千羽鶴を折って伝える。ポールを立ててロープを張り、自分の気持ちを書いたハンカチをクリスマスツリーのように結びつける。自分達ができるささやかなことを、こまめにやってきたことだことで、反対派の声は町全体の声になった。だからこそ中間派といわれる人達が、中間派を踏み出し、市民として勇気をふるって反対派になった。
 国策があり、電力会社の膨大な金があり、極めて強権的にやってくる原発計画に対して、ささやかすぎるようにも感じられる運動が、町民の気持ちを捕らえていったのだ。
 さらに決定的に他の運動と違うのは、原発建設は住民投票で決めろと提起したことだ。住民投票条例の制定は、芦浜(三重県)、窪川(高知県)、串間(宮崎県)などでも行われた。しかしこれらの地域は、まだ原発用地の買収が進んでいない状況だった。それに対して巻町では、建設のための準備はほとんど整っていた。いうならば9回裏だ。そこまで追いつめられていたのに、住民投票で決めようという雰囲気を作っていった姿勢はすごい。

■1万人が自主住民投票に

 選挙はどこでも膨大な金をばらまいて行われている。地縁や血縁、買収などさまざまな要素で成り立っている選挙は、原発だけを判断したわけではなかった。ここに住民投票を行う理由がある。住民投票による政治判断は、議会制民主主義を否定するものだという意見もあるようだが、議会制民主主義の機能を真に発揮させる手段として、住民投票もあるのだと思う。住民の直接参加による決定は、間接民主制の強化につながる。
 巻町でも最初は住民投票の意義が認められずに、自主住民投票が行われた。これも驚くべき発想だ。住民投票といえば、町が主催しないとできないと思ってしまう。そのときに町がやらないなら自分達でやろうというのは、強い自治意識の表れだろう。
 自主住民投票にかかるお金も自分達で工面したほどの熱意とエネルギー。賛成・反対を超えて、結果を住民の意識に任せようとする住民への信頼感。この2つが、巻町に新しい流れを生んだ。
 当時の自主住民投票では、賛成・反対含めて10328票が集まった。小さい町で、町長が反対している住民投票へ行くことは、町の体制に反対することだ。自主住民投票行くこと自体が、なかなか大変なことだったのだ。それを吹っ切って、夜行ったり、見つからないように投票に来た人が1万人を超えた。
 さらに、反対だが投票に行けなかった人を掘り起こすために、住民投票条例を押し進める議員を町議員選挙で擁立した。住民投票をしようという選挙運動は、原発についてまだ結論出ていない人や、無意識的に賛成だった人に、もう1度考える機会を与えた。そんな選挙活動にともなって、原発に反対する人が増えてきのも事実だ。
■住民不在の賛成派

 今回の住民投票に向けて、反対派は小さな集会を開き、個別訪問で意見を聞いて回った。賛成派は通産省の役人や、電力会社の幹部が応援にかけつけた。カネと人を導入し、原発がなくなるとエネルギーがなくなると脅かしさえしたのだ。巻町の住民をどうにか説得しようと、外から応援を呼んだ賛成派と、自分達のことは自分達で決めるからと、外からの応援を入れなかった反対派。投票前に、どちらがどのような姿勢で運動にのぞんでいるのかがはっきりと表れていた。
 じつはこのような反対運動を支えてきた基盤が巻町にはある。それは町有地と反対派の共有地だ。原発建設の歴史の中で、建設予定地に反対派が土地を買ったことはなかった。巻町の場合は、敷地内に共有地があったため、建設前の検査を行う安全審査委員会を通過できなかったのだ。
 原発建設予定地に町有地が残っていることも前代未聞だ。もちろん町有地、国有地は、どこの原発予定地でもあるが、先に地方議員が買収されるので議会は売却を決定してしまう。ところがこの共有地が裁判で係争していた土地だったことが幸いした。ようやく町有地だと落ち着いた時には、原発に対する批判も高まっていたのだ。 原則的には、町有地は町長の先決権で、勝手に売ることができる。しかし住民達が納得しないうちに決定すれば、次の選挙が危なくなる。そんな力関係が働いて売却ができなかった。

■メーカーの陰謀にも負けない

 自民党内では、これからの原発立地ができないなど、不安感が広がっている。エネルギーが足りなくなるなら、また住民を説得しようと考えているようだ。しかし本当に必要なのは、これからのエネルギー政策をどうするのかを考えることだ。
 原発では1時間当たり130万キロワットを発電し、広いエリアをカバーしようとしていた。そのような政策を見直し、地域ごとの小さな発電所で補っていけばよい。風力、地熱、太陽などの発電方法もある。また原発ができることで要りもしない電気製品がさらに売れるともくろむ電機メーカーの陰謀に負けないことも重要だ。膨大な欲望をすべて電力でなかなう生活から、電気を少しでも使わない生活に変える時期がきている。
 巻町の住民投票を契機に、これから日本のエネルギー転換や、新しい生活の仕方の模索を始める必要がある。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/JR偽装倒産

■月刊「記録」1996年8月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■JRは2重の不法だ

 国鉄分割から10年目を迎えるというので、さいきんでは、テレビ・新聞などのマスコミでもこの問題をあつかうようになってきた。
 問題は大きく分けると2つある。
 1つは、分割に反対していた国鉄労働組合の組合員を中心に、解雇された1047人の問題が解決していないということだ。
 もう1つは、国鉄清算事業団に残された旧国鉄債務の問題だ。債務は今年3月までで27兆6千億円にもなり、年間の日払いは1兆3千億円に達している。さらに、国鉄が分割された時点から比べて、長期債務は2兆1千億円も増えている。しかも、これらの債務はそのまま国民に押しつけられようとしているのだ。
 そもそも分割民営化は中曽根康弘首相(当時)が行なった政策だが、彼は、「1人の首切りも出さない」と国会で豪語していた。ところが実際は、分割政策に反対した労働者を大量に解雇したうえ、9年経ってもこの問題は解決されようとしていない。

新幹線の運転士を売店に回すなどの不当な配置転換で、国鉄は彼らをいじめ抜いた。さらには「人材活用センター」という場所に、国労の活動家たちを集めて、いっさい仕事を与えないでいた。
 僕は「留置場に送られた政治犯だ」と表現した。仕事から外して島に流したようなものだ。国鉄がJRになったあと、彼らを採用せず、結局クビにしてしまった。このような処置は、地方労働委員会でことごとく不当労働行為だと認められ、中労委でもほぼ同様の見解が示された。また現在係争中ではあるが、最高裁判所でも労働者側の主張が認められた判決もある。
 労働裁判所というべき公の労働委員会で、不当労働行為だと認定して、法律にもとづきJRは謝罪文を掲載したにもかかわらず、まだ採用していないのはどういうことか。不当労働行為というのは、労働法違反であり、その行為を認定されてなおかつ採用しないということは二重に不法だ。法治国家である日本で労働委員会の決定を守らないのは異例の事態だ。
 理由のない解雇を国が押し進めたため、景気が悪くなったら、簡単に弱者をリストラする風潮ができてしまった。また当時、国鉄民営化に反対ならクビにしろと動労が主張したことにより、自分に対立する組合はどうなってもいいというような風潮もつくられた。日本の労働運動に非常に悪い影響を与えたことは間違いない。

■国民の金を大資本が略奪

 東日本・西日本・東海のJR3社は黒字で、営業努力のたまものと言っているが、黒字は初めから予想されたことだ。もうかる部分をそのまま引き継げば、黒字になるのは当たり前。誰が経営してももうかる。ローカル線など儲からない路線を切り捨てて、売店などで運転士たちを働かせ、もうけをあげてきたが、これはすべての地域の住民や労働者に犠牲を押しつけて上げた利益だ。
 これらJR3社に対して、経営が厳しいのは北海道・四国・九州のJR3島とJR貨物だ。利益をあげるのが難しいのは、分割当時からわかっていたにもかかわらず、見切り発車してしまった。
 国鉄民営化は偽装倒産の方法そのものだ。会社を潰して、労働者をいったんクビにして、言うことをきく労働者だけを再雇用し、もうかる部分だけで再建していく偽装倒産は、悪徳経営者がよくやる手法だ。このようなきわめて前近代的な方法を、国家レベルで実施したのが、一般に国鉄改革といわれる代物だ。
 さて、27兆6千億円まで膨れ上がった債務だが、当初、赤字は国鉄用地とJRの株を売って埋め合わせることになっていた。この計画は、バブル経済まっさかりの時期のものだった。
 当時、東京や大阪などでの都心に広い土地が全くなくて大きなビルが建設できず、建設業界や不動産業界が困っていた。当時は中央・千代田・港の3区を中心にして、ものすごい土地買い占めが行なわれ、土地を売らない商店にはトラックが突っ込むなど、地上げ屋が起こした悪質な事件が連日報道されていたのを覚えている人も多いだろう。零細商店なども金で頬をひっぱたかれて追い出された。当時の土地は膨大な需要見通しがあったが、供給量は不足している事態だった。ウォーターフロントの建設計画なども、このような状況を改善するため、東京湾を埋め立ててビルディング街を造ろうとする計画だった。
 さらに都心の土地を少しでも供給するため、国有地を民間に払い下げていこうする方針を国がつくった。国鉄用地売却もこの方針に沿って立てられたものだ。実は国鉄の土地売買の前にも、都心の公務員住宅が政府の方針にもとづいて販売された。当時、これらの土地は暴騰して買い手が殺到したのだ。
 結局、土地を売った金で国鉄の赤字を一気に埋めようとする、バブル経済をあてこんだ大プランはバブルとともに沈んだ。日本で一番強かった労働組合を潰して、労働運動を静かにさせてしまおうとした試みは、一応成功したのだろう。国労のバッチを付けているだけでも処分し、言うことをきかないとJRに採用しないなど脅しをかけ、国労は分裂させられた。当時、40万ぐらいいた組合員も、現在では3万人ぐらいに減っている。しかし後に残された問題はかなり大きい。
 分割民営化は、国民が税金で支えた国鉄の財産の収奪と、労働運動を潰すという2つの目的があった。当時は民活という言葉が流行したが、要するに大資本を活性化するプランだった。
 株式上場も、国民の金を株主が略奪していく構造そのものだ。国民の土地と国民の金を、大資本が喰っていくのだ。当時、NTTの株は高騰し、国鉄本社だった丸の内の土地も、1坪8千万~1億円といった声があった。土地を買って、ビルを造ってもうけていくという思惑が外れて、こんどはそのツケを国民に回すということを政治家と大資本が一体になってやったのだ。
 今後も分割から10年ということで、御用学者を中心にさまざまな宣伝が出てくると思うが、彼らがいくらJRは頑張ったと言っても、前述のようにそれは当たり前の結果に過ぎず、むしろ思惑がはずれて増えた借金をどうするのかといった問題が重要だ。
 国鉄処分のやり方が悪質であったのは、国鉄つぶしの3羽ガラス(3悪人)とされた井出・葛西・松田の3人が、もうかるJR3社の社長にスンナリ納まっていることからもわかる。自分達で会社を分割して、社長に納まる下克上だ。

■時代に逆行の廃線

 分割以前から合理化の名の下に、収益の上がらない路線は、どんどん切り捨てられた。鉄道は公共事業だから国民の足を確保しなければいけないのに、もうからないという理由だけで切り捨ててしまい、周辺の過疎を促進させてしまった。北海道では使われなくなった駅を中心に、周りの集落が壊滅状態のところがいくつもある。当初、廃線の代わりに代替バスを走らす計画を立てていたが、鉄道とともに生きてきた町は結局壊滅してしまった。
 例えば松江から中国山地を抜けて山陽本線に通じる島根県の木次線は、今でもかろうじて走っているが、JR西日本が上場されると廃線になるのではと地元の人は不安に感じている。株式会社は、合理化によって利益を追求する。公共性とか住民の便利さは考えなくなるだろう。住民が便利になるとか、生活が豊かになるとかいう方向で国鉄の改革が進んでいない証拠だ。
 鉄道には「我田引鉄」という言葉もあるほどで、政治家が地元への土産にするとの批判もあるが、少なくとも住民の要望は存在する。政治家が利権にからんで引っ張ってきたという問題はあるにせよ、多くの地域に鉄道が走るのは悪いことではない。公害は生まないし、資源を喰うこともなく、より安全だ。最近はそういった観点から、鉄道が見直されてきている。ところが時代に逆行して鉄道を切っていくという政策を取っているのがJRなのだ。

■土建屋行政のなごり

 さらに新幹線の問題がある。国鉄の赤字が増えたのは、新幹線建設の赤字を引き延ばし、解決しないうちに利子が雪だるま式に膨れ上がったのが原因だ。何しろ新幹線が登場するまで国鉄は黒字だったのだ。
 新幹線は政治的な利権の対象で、田中角栄の利権も大きくからんでいる。今まで政治家の利権の道具として使われきたから、分割民営化以後は政治家との関係を切れると国鉄経営陣は公言してきたが、現在、新聞を賑わしている整備新幹線問題では、旧態依然として、政治家主導である。
 民間企業としてのJR各社が、リスクを背負って新幹線を走らせるのなら問題はないが、JRは新幹線の建設費をカバーできず、自治体の負担を求めている。これは旧国鉄と全く同じ構造だ。あれほど政治に利用されないといっておきながら、また国の資金を使って整備新幹線をつくれといっているわけだから、公共性の強い交通を民営化するという試みは失敗したというべきだ。
 地方行政も新幹線と引き替えに、多くのものをひきうけてきた。青森県の核燃料サイクル施設の建設などもそうだ。長崎県の場合は、原子力船「むつ」の入港の条件と、長崎新幹線が利用された。新幹線は中央政府にとっても、政治的利用の大きな手段となっていた。
 整備新幹線に関して、96年7月16日の朝日新聞は、「7月16日には都内で国会議員140人を含む500人が参加して建設促進総決起大会も開かれる」と報道している。しかし、新幹線の建設経費は上がる一方だ。東北新幹線の建設では、8800億円の予算が組まれたが、実際には2兆6600億円もかかっている。なんと計画の3倍だ。上越新幹線にしても、4800億円の予定が1兆6300億円もかかってしまっている。
 新幹線ができると便利になると思い込んでいるが、新幹線の開通にともなって在来線が切られるので、国民は高い運賃を払わなければならなくなる。出張旅費が浮くので大企業にとっては便利かもしれないが、これから造ろうとしているところは、国民生活にそれほど多くの利益をもたらすとは思えない。もちろん、あったほうがいいのだろうが、なくて困るといった問題でもない。空路も発達してきている。それでも政治家が造りたがっているのは、土建屋行政のなごりだ。

■カード破産の日本国家

 現在日本は、放漫経営が破綻して公債発行高で220兆円にのぼっている。それがこれからの若い連中に押しつけられ、一方では、湾岸戦争や米軍への思いやり予算など無駄に金を使っている。なんと96年度の米軍駐留経費の総額は、約6400億円にもなる。今の繁栄のためにだけに、後の世代にツケを回している。日本はところかまわず金を使ってカード破産の一歩手前のような状態なのだ。
 その金を貸しているのは銀行だが、銀行は国鉄の場合でも金利はちゃんと回収している。だから年間1兆3千億円の金利は銀行に払っているのだ。日本の経済も行き詰まり、政治改革も議論されているが、10年前の大盤振舞の政治、経済構造は、今でも変わっていない。さらに責任を取る人もいない。大臣も高級官僚もすぐ変わってしまう。
 大資本と結託した政治が変わらない限り、日本は後世に大きなツケを残し続けることになる。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/空の女工哀史

■月刊「記録」1996年7月号掲載記事 (表記は掲載当時のままです)

■鎌田慧(かまたさとし)・・・ルポライター。新聞記者を経てフリーになる。著書に『痛憤の時代を書く』『コイズミという時代』『自動車絶望工場』『家族が自殺に追い込まれるとき』『壊滅日本』『ドキュメント屠場』など多数。 

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ガルーダインドネシア航空の事故で、スチュワーデスの問題が問われている。緊急時に意志疎通できるスチュワーデスがいなかったのは、安全管理上の問題である。スチュワーデスは安全要員だのだ。
 最近、少し頼りなげなスチュワーデスが国内線にふえている。1年ほど前から、アルバイトスチュワーデスの採用が本格化したからだ。日本航空・全日本空輸・日本エアシステム・日本アジア航空・エアーニッポン・日本エアーコミューター・ジャパン=エア=チャーターの航空7社では、現在2000人のアルバイトスチュワーデスが乗務しているといわれ、96年度上半期にはさらに1000人以上もの採用が見込まれている。

 全日本空輸の普勝清治社長は6月4日の会見で、アルバイトスチュワーデスからの正社員採用について、今秋の100人枠に加え、来年度も100人以上を採用すると発表した。
 1996年6月、運輸省の航空審議会答申において、人件費削減の中心として発表。8月には亀井静香運輸大臣(当時)が、「安全性に問題がある」と発言して導入が再検討されたものの、94年9月には採用が決定した。 当時のマスコミ各社の論調は、「アルバイトの導入に反対をとなえる亀井発言は、スチュワーデスになりたい女性の夢を壊すものだ」といったものだった。しかしこのような論理は、問題の本質を握りつぶしている。この問題は、労働運動史において重大な意味をもっているのだ。
 航空会社は人件費の削減を盛んに唱っているが、バブル期には海外の土地を買いあさり、ホテルなどを建設していた。しかも円高で燃料の輸入費が大幅に下がり、かなりもうけている。バブル経済に乗って浮かれていたツケを、スチュワーデスの雇用に回すのは、あきらかにおかしい。経営者の責任が問われるべきだ。
 航空企業は公共性が高い。それは何よりも安全性を重視しなければいけないからだ。スチュワーデスは、ただのお茶くみではない。出発に際してはエンジン音を聞き、運航中も窓から外部の状況を確かめ、コックピットから見えない部分を補強して、安全に航空機が運行できるようにしている。
 もちろんシートベルトの確認など、乗客の安全を確保するのも大きな仕事だ。安全業務に携わるスチュワーデスの人件費を削ることは、安全より利潤を重視した企業の体質の現れだ。

■俗情を利用する航空会社

 スチュワーデスやパイロットの高給は安全保障の面から社会的に認知されてきた。つまり高い賃金は既得権として保証されてきたのだ。航空各社は、この既得権をはく奪しようとしている。
「社員の賃金をいじるわけではない」と会社側はいうが、労働条件が重大な改変に瀕しているのは明らかだ。アルバイトスチュワーデスの賃金は、地上勤務が1100円、乗務が1800円となっている。この時給を年収換算すれば約250万円となり、社員の半額以下になってしまう。スチュワーデスの人気にかこつけてアルバイト制度を押しつけるのは、やり方がきたない。
 またスチュワーデスやパイロットは華やかな職業のため、やっかみをうけやすい。本来、他人の労働条件を劣化させる必要などないのに、やっかみを利用して世間の俗情を喚起し、高賃金を押しつぶそうとする会社側の策略に、新聞社は乗ってしまった。
 華やかで高給な職業を切り崩せば、それを突破口に他の労働者の賃金もカットできる。今後、整備士などの航空会社全体の賃金にも影響をおよぼすだろう。一方で会社側は、スチュワーデスの華やかなイメージを売りにして宣伝を作り、安全業務に携わる専門職という実体を隠している。安全面から考えれば、スチュワーデスはベテランの方がよいのに、排除しようとする動きも問題となっている。これは一種のセクシャルハラスメントだろう。

■臨時工制度の復活

 今後は職場の退廃も大きな問題となるはずだ。
 同じ職種の中で賃金階層を意識的につくり、アルバイトから何人かを正社員に採用するシステムでは、アルバイトと正社員の間に大きな溝ができる。正社員への窓口を狭くすればするほど、アルバイト内で競争が起き、経営者の好きな条件で働かせることができる。1年ごとの契約更新で3年契約という厳しい労働条件のなかで、労働者は言いたいことも言えず、上司への点数稼ぎを余儀なくされる。このような前近代的な労働条件は、臨時工制度と全く変わらない。アルバイトスチュワーデス問題は、アルバイトに名を借りた臨時工制度の復活だ。
 臨時工とは、雇用期間があらかじめ決められている労働者をさす。52年の朝鮮戦争停戦以後、臨時工は急速に増加し大きな社会問題となった。しかし高度経済成長の過程で、労働組合が臨時工の本工化闘争に力を注いだこともあり、本工に登用される臨時工も増え、臨時工制度は撤廃されていった。
 本工になりたいと願う臨時工の希望を悪用することで、臨時工は会社や上司に従属させられた。また自分の下に差別集団があることで、本工は安心していた。このような職場環境は社会そのものを悪くしていく。さらに不況ともなれば、臨時工は本工を守るために、まっ先にクビを切られた。
 差別は職場内だけに止まらない。宿舎も本工がきちんとした寮なのに対して、臨時工はボロ長屋を与えられただけだった。本工化闘争で、「臨時工は本工の防波堤ではない」「臨時工も人間だ」といったスローガンが掲げられたのは、このような理由がある。

■プライドが状況を混乱

 近年、サービス産業においてアルバイターが増えてきている。いつでもクビにでき、身分保障もなく、賃金が安く、社会補償費のかからないアルバイターは、固定費をどれだけ安く抑えるかに悩む企業にとって、うってつけの存在だ。ところがアルバイター自身は、そのように考えていない。
 アルバイトスチュワーデス問題でも、安全性に影響が出ると論じると、アルバイターをバカにしていると反論される。同じ能力を持った者が、同じ仕事をしながら賃金や身分において差別されているの現状を考えれば、どちらがアルバイターをバカにしているかわかるだろう。

■経団連の方針のさきがけ

 こうしている間にも、問題は深刻さを増してきているのだ。航空労組連絡会の会議では、アルバイトスチュワーデスが発言できない事態も出てきている。平均給与が13~14万円といわれるアルバイトスチュワーデスは、働かなければお金をもらえない。有給休暇もない。病気でも会社を休めない。国際労働機関(ILO)でも、パート労働条約が採択され、フルタイム労働者との差別は国際的に認められていないにもかかわらずだ。
 またアルバイトスチュワーデスは国内線を中心に勤務するため、今まで国内線勤務だった正社員は国際線に乗務しなければいけなくなった。そのため家庭を持っているスチュワーデスは、家庭での生活を犠牲にしなければならない。
 アルバイト制度発足当初は、ジャンボ1機あたり新人乗務員は3人以下と決められていた。ところが現在では、アルバイト10人に対して社員が3人といった飛行機も出てきている。新人ばかりの飛行機で、何か事故があればどうなるのか不安だ。このような状況に乗客は無関心だが、命に関わる問題とわかっているのか。
 多くの問題をはらむアルバイトスチュワーデスは、すぐにでも正社員にして、問題を解決すべきだ。ところが、このような前近代的な雇用体系を経団連は推奨している。
 エリートである社員と使い捨ての柔軟雇用グループにわけて雇用する方針を経団連は打ち出した。アルバイトスチュワーデスは、実質的に経団連の方針のさきがけとなっている。
 アメリカでは三菱自動車でのセクシャルハラスメントが大きな問題となった。日本国内でさえ近代的な職場を作れない日本企業が進出先で批判を招くのは当然だろう。このことは何年も前から私も指摘してきた。問題として表面化しにくいアジアでも同様の問題が起こり、いずれは逆襲されるだろう。もう一度、企業のあり方を見直すべき時期にきている。(■談)

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