靖国を歩く/奥津裕美・『記録』編集部

靖国を歩く/第40回 勝利祈願は靖国でOK?

■月刊「記録」06年4月号掲載記事

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 ここのところ、新聞やニュースで報道されるときの靖国神社は「A級戦犯が祀られているのに首相が参拝に行くのはいかがなものか、という中国(や韓国)からの批判があった」という内容がほとんどだ。そういう報道を繰り返し耳にしていて、かつ一度も行ったことがない人には、靖国という場所はどことなくタブーな、簡単に触れてはいけない場所というイメージを持たれているかもしれない。
 はじめて靖国神社をおとずれる人には、ぜひ神社に飾られている絵馬を見てほしい。鈴なりにぶら下げられた絵馬には脈絡なくあらゆる願い事が書き込まれている。これらを見れば、この神社が決して「こわいところ」ではなく、どんな人からも親しみやすいことが分かってもらえるのではないだろうか。
 安全祈願、昇進祈願、恋愛成就にはじまり、個人的な願い、たとえば「給料を上げてほしい」「今年こそVIPクオリティ!!」「氷室京介LOVE」、中には「明鏡止水」など祈願なのか何なのかよくわからないものもある。「先祖代々のお墓を直す為に何卒三億円の宝くじが当たりますように」という異常に率直な願い事もある。いったいどんな墓だ。
 いつもなら願い事の傾向など存在しなかったと記憶するが、注意して見ると、時期的な理由からか、受験合格を祈願したものが多いことに気付く。大学では立教、法政、明治、早稲田など、高校ではやはり靖国から近いからか九段高校合格を願うものが多かった。
 なるほど、たしかに靖国は戦死者を慰霊し顕彰する神社であると同時に、祀られている戦死者たちは国のために戦ったのだから、受験生たちは受験を戦争に見立てて靖国を「戦いの神が祀られている神社」として参拝に来るのかもしれない。
 ここでふと疑問に思ったのは、靖国は勝利祈願をする神社としてふさわしいか、ということだ。というのは、日本は日清・日露戦争では勝利しているが、太平洋戦争で惨敗しているということに思い当たったのだ。要するに、英霊とひとくくりにされてはいるが、中には勝ち戦の英霊と負け戦の英霊がいるわけである。そんな英霊たちがごちゃ混ぜに祀られているという事情を抱える靖国は、勝利祈願をする神社として果たしてふさわしいのだろうか。

■靖国は勝利祈願する場としてふさわしいか

 まず、靖国神社にたずねた。
「当神社は、国のために尊い生命を捧げられた方々を慰霊顕彰申し上げる神社です。ただ、参拝者がどのような目的で参拝されても、御祭神は大いなる威を発して御導き下さるものと信じます」。
 勝利祈願にふさわしいと直接いっているわけではないが、「どのような目的」でも「御導き下さるものと信じます」というのだから、靖国自身では勝利祈願にふさわしいと考えているのということだろう。「大いなる威」というのが何なのかよく分からないが、それで受験に合格できるのなら御祭神にどんどん発してもらっていい。 ただ、そうであっても、実際に祈願におとずれた受験生は勝利しているのか。気になったので、参拝に来る受験生と思われる学生に聞くことにした。
 男子高校生2人組。私大の受験を2つ控えている。
「合格祈願に来ました。…靖国神社が勝利祈願にふさわしいかどうか…については、考えたこともないです、すいません。ここに来た理由は、そんなに遠くなくて、有名だからです」
 なぜか謝られてしまった。しかし、これから受験する人に勝ったか負けたかを聞いてもしょうがない。聞きたいのは、あくまで祈願した結果がどうだったかなのだ。 女子高生2人組。
「受験生ではないです。弓道部のレギュラーに選ばれたくて祈願にきました。祈願にふさわしいかはよく分からないですけど、姉が2年前に彼氏と一緒に明治大学の合格祈願に来て、2人仲良く落ちてしまいました」。
 なぜ彼女の姉は合格祈願に靖国を選んだのだろうか。「やっぱり近いからじゃないですかね」。
 靖国に勝利祈願に来た理由は、ただ「近いから」「有名だから」という理由からが多かった。たしかに絵馬に「よりスタイリッシュに生きたい」というような願いが書かれているこのご時世、祈願に靖国を選ぶ理由に深いものなどないのかもしれない。サンプル数が少ないということもあるが、この時点では靖国神社は「まったく」勝利祈願にふさわしいとはいえない。

■トリノ勝利祈願はゼロ

 ただ、受験における勝利祈願といっても、それは個人的な問題だ。やはり、国をあげての祈願ということになれば事情はちがうのではないだろうか。「日本代表」の看板を背負う選手団を送り出したトリノオリンピックには国費も当然投入されている。ならば誰にとってもトリノはまったく他人事ではないはずだ。当然、各競技で日本の必勝を願った絵馬があってもいいところだろう。
 しかし! なんとなんと、絵馬はひとつも見つからなかった。自衛隊員が書いた「死んでもこの国を守ります」とやたら気合いの入ったものは見つけたが、「安藤美姫が金メダルをとりますように」と書かれたような絵馬はゼロだった。
 なぜだ。なぜ「トリノ必勝」絵馬がないのだろう? 「勝った英霊」と「負けた英霊」が混在しているため、純粋に「勝利祈願のための神社」とはいえない点はあるが、「お国のため」に戦った英霊たちが祀られている靖国に、国をあげて世界に挑むという大イベントであるオリンピックでの成功を願う絵馬がまったくないという事態は問題だといっていいのではないだろうか。
 絵馬を見ていた主婦風の女性にたずねてみた。いきなり、少し(大いに?)珍しい質問をぶつけられて戸惑った様子の女性だが、少し考えてから話してくれた。
「うーん…、やっぱり、今のオリンピックはCMなどで盛り上がってはいるんですけど、昔はもっと、選手たちには日の丸を背負って戦うんだという気概のようなものがあったと思うんです。今の選手は、自分のために戦う、と平然として言うようになりましたよね」。
 たしかに女性のいうことはよくわかる。しばしばいわれる「公共という概念の喪失」ではないけれど、国民としての一体感を感じることは生活していてほとんどない。私も、愛国心のようなものはほぼ持っていないし、愛校心もなかったから高校の校歌なんてまったく覚えていない。親の世代からはこの感覚が理解できないらしい。 考えられるのは、現在では受験などの個人的な戦いであればどんどん祈願するが、日本がひとつにまとまって戦うというような場合については、国民は総じて一体感のようなものを持たなくなったということだろう。念のためトリノの必勝祈願があったかどうかを靖国神社にたずねてみるが、「何を祈願されるかは個人の自由です」とかわされてしまう。しかし、多分絵馬がゼロなんだから、わざわざ祈願に来る人もいなかったのだろう。
 靖国とオリンピックは無縁であるから祈願には来ないということでもない。1932年のロサンゼルス大会、「バロン(男爵)西」こと西竹一騎兵中尉(当時)は馬術大障害で金メダルを獲得した後、硫黄島の戦いで戦死したので英霊として靖国に堂々と祀られている。果たしてどれくらいの人がこのことを知っているかという問題はあるが。
 あるいは、テレビでは大いに盛り上がっているように伝えられたトリノだったが、結局それはエンターテイメントとしての行事という位置づけだったのだろうか。エンターテイメントに国民の一体感を求めてもしょうがない。かといって、他に国民が一体になることができる行事はあるのだろうか。トリノの勝利祈願は靖国ではなく他の神社でする、という知られざる傾向があった可能性も否めない。英霊の多くは第二次世界大戦の戦死者であり、誰もが知るようにそれはボロ負けの戦争だった。アタマの片隅にそれがあり、なんとなく、足は明治神宮に向かっていた…という場合が少なからずあったりして。 ひょっとすると、英霊たちはトリノ必勝祈願にひとりでも来ることがあれば、「大いなる威」を発してなんとか選手を勝たせようとじっと待っていたのではないか。しかし、結果的にひとりも祈願に来ることはなかった。これに激怒した英霊の怒りが、トリノの日本選手たちに悪い流れを呼び込み、結果的に荒川静香の金一点を除けば他は惨敗という結果につながった。いささか超常現象的な考えだ。けれど、次回の北京オリンピックで挽回のメダルラッシュを狙うのであれば、万全を期してJOC(日本オリンピック委員会)から英霊に歩み寄ってみてはどうだろうか。…などと考えつつ、靖国の社務所に問い合わせてみると、「正月の縁起物として取り扱っているため、ただいま絵馬は品切れです」とのこと。
 …すいません、いろんな意味で。 (■つづく)

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靖国を歩く/第39回 英霊として祀られることは果たして幸福か

■月刊「記録」06年3月号掲載記事

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 靖国神社には、靖国的な言い方をすれば「日本のために、戦死という形で生命を捧げた」英霊たちが祀られている。その数246万柱余り。日本が生まれ変わる過程といえる戊辰戦争で多くの命が失われ、その戦死者たちを慰霊するためという明治天皇の意向を受けて前身の東京招魂社が明治2(1869)年に創建された……というのはよく知られているところ。
 ただ、戊辰戦争以後の戦死者であれば全員が祀られているのかどうかといった細かい部分についてはあまり知られていない。
 先にいってしまえば、戊辰戦争以後に戦死していても祀られていない場合はある。そして、戊辰戦争以前であっても祀られている場合もある。
 今回は、西郷隆盛や彰義隊といった、戦死時に反政府の立場にあった人たち、いわば天皇に刃向かった人たちは果たして英霊として祀られているのかどうか、そして大西瀧治郎や南雲忠一など、旧日本軍において「ムチャな」作戦を実行し、結果的に多くの日本兵を死に追いやった将校たちが祀られている事実について「この人たちは祀られていていいのか」という疑問を靖国神社に問うた。
 では、この人は英霊として祀られているのか? ということを疑問に思ったとき、それはどうやって確かめることができるのだろう。
 靖国神社の社務所に問い合わせてみると、英霊として祀られているかどうかを知りたい場合には、神社の調査室に頼めば調べてくれるということだ。
 それにしても、いつも思うのだが社務所の女の人は対応がいつもつっけんどんだ。そんなことも知らないんですか? という冷笑的な感じでものを言う。
「電話やファクスで問い合わせいただき、後にこちらからお返事をさせていただきます、あとは神社の図書館に行っていただき確かめるという方法もありますが」
「神社の図書館?」
「遊就館の隣の靖国会館にある図書館に」
 靖国会館1階にある「靖国偕行文庫」は靖国神社創建130年を記念して平成11年に開館、約9万点の図書と資料からなる閉架式の図書館だ。同館のホームページによると、「蔵書全体の内容を分類から見てみますと『國防・軍事』に関する図書が全体の約70%を占めており、次いで『歴史』に関するもの、『思想・宗教』に関するものが多く、この3分類で約90%を占めて」いるとのことだ。
 靖国会館を入って右手が偕行文庫、左手が休憩所になっているが、ソファの置いてある休憩所にはほとんど人がいなく、がらんとしている。
 図書館に入る。といっても、大きい机が4つほど置いてあるこぢんまりとしたスペースだ。
 カウンターにいるメガネの女性に、英霊として祀られているかどうかを調べたいのだがどうすればいいだろうかとたずねる。といっても自分の祖父などいわゆる一般人が祀られているかどうか知りたいという場合と、歴史の教科書に出てくるような人について調べるケースとがある。
 まずは一般人についての場合だが、調べたい人の親族、または戦友のような間柄であれば調査をお願いすることができる。誰彼かまわず個(故)人情報を教えるわけにはいかないということだろう。

■英霊かどうかの基準は「官か賊か」

 では、歴史上の有名人たちはどうか。
 たずねてみると、調べてほしい人のリストを受付の人に出せば、調査してくれるとのこと。ふと、歴史上の人物でも遺族はいるだろうし、有名人であるから一般人ではないということにはならないのではないかと思ったが、そんなことをここで言えば調べてもらえなくなるかもしれないから、だまっておいた。とにかく、この人は祀られているんでしょうか、と聞けば、有名人ならば教えてもらえる。
 現にこのとき、大西瀧治郎、南雲忠一、彰義隊、坂本竜馬、西郷隆盛の名前を書いたリストを出したが、その場で調べてもらえた。調べてもらった、というよりも、これくらいならもうジョーシキ、とばかりに受付の2人で「これはそうだね、これはちがうね」とやりとりされ、30秒くらいでカタがついてしまった。さすがだ。
 西郷隆盛と彰義隊に「×」がついている。英霊でない、ということだ。メガネの女性とやりとりしていた初老の男性に話をきく。
「西郷隆盛と彰義隊は祀られていないんですか?」
 いとも簡単にリストをより分けたので、なんとなく超基礎的な質問をしているとき特有の居心地の悪さがあるが、とりあえずきいてみた。
西郷と彰義隊にまつわる矛盾
 維新の英雄とされる西郷隆盛は明治天皇の厚い信頼を得ながらも、大久保利通の画策などあって中央から退くことを余儀なくされる。1877年に私学校の生徒を率いて西南戦争を起こし、城山で自決している。また、徳川将軍の護衛という名目で上野の寛永寺に集結していた彰義隊は抗戦したものの新政府軍に破れている。
 男性は丁寧に答えてくれた。
「ええ、西郷隆盛は祀られていません。祀られている御祭神は国家の命に従って戦死された方々ですので、そうでなかった方々は祀られておりません」
 官か賊か、ということなのだろう。いうまでもなく天皇の国家のために戦った官軍は政府軍であり、西南戦争を起こした西郷以下、そして幕府側だった彰義隊は賊軍だった。天皇に刃を向けたと見なされ、賊となった彼らは、その死後100年以上経った今でも祀られていない。しかし、ここで疑問なのは、靖国神社に雄々しく祀られている大村益次郎が叩いた彰義隊の旗が遊就館には飾られている。これは何を意味しているのだろうか。
 そして、西郷についても腑に落ちない点がある。
 西南戦争で自決した西郷だが、ずっと賊として冷遇されていたわけではない。1889年、大日本帝国憲法発布にあたり、西郷は大赦されさらに正三位を追贈されている。これには黒田清隆のはたらきかけがあったとされる。 ただ、やはりそこで問題になっているのは、政府から正三位を受けたにもかかわらず、西郷が英霊として祀られていない、ということだ。赦されているんだから祀られてもいいのにねえ、と思うがなぜかそうはなっていない。
 戊辰戦争以前でも祀られている場合がある、と先に書いたが、坂本竜馬がそのパターンだ。一般的には、靖国神社に祀られているのは戊辰戦争以後に戦死した人々、と認識されているが、坂本竜馬が京都で暗殺されたのは1867年。戊辰戦争の前年だし「戦死」でもない。
「戊辰以前であっても、国事により倒れた、ということから御祭神として祀られている場合があります。坂本命はそれにあたります。しかしどこまでも遡ってしまえば際限がなくなってしまいますから、安政の大獄までが範囲になっています。ですから、あまり知られていないところでは(安政の大獄で処刑された)吉田松陰命も御祭神として祀られているのです。」
 さて、ここからが問題だ。
「特攻の父」として知られる大西瀧治郎、ミッドウェー海戦で惨敗した南雲忠一。両者はもちろん英霊として祀られている。

■大西瀧治郎は何を思う

 大西はフィリピンのマバラカット基地で零戦に爆弾を乗せて敵艦に体当たりするという作戦を提案する。海軍の総意だったという説もあるが、悪名高い「特攻作戦」を発案し、結果的に悲惨な戦死者を多く生み出すことになった。大西が祀られているのはどうなのか。聞いたことはないが、「大西は祀るな」的な意見があってもまあおかしくはない。このことについて聞くと、それまで比較的に柔和な表情だった男性の表情が少し緊張を帯びたものになった。
「あなたは今、結果的に多くの人を死なせることになった、と言いましたが、結果論というものがその当時、果たして存在したでしょうか。司令部の命令に従って、割り当てられた任務を遂行した彼らにはそれほど非があったのでしょうか。」
 初老の男性はあくまで毅然とした態度でいる。
 男性の話を聞きながら、皮肉なものだな、と思った。というのは、たしかに大西は日本国のために戦い英霊として祀られてはいるが、その手で特攻隊の悲劇を生みだし、最後は特攻隊員を詫びるために介錯をつけずに長い間苦しんだ末の自決を果たしている。そして靖国には特攻隊員たちが祀られている。大西は、祀られていることを本望だと思っているだろうか?
 図書館を訪れたあと、別に出してあった質問書に対し、靖国神社広報から回答があった。
 先に述べたものと同じような質問を出し、同じようなことが回答として返ってきた。つまり、「大西瀧治郎命、南雲忠一、私共はこの方々を戦犯者とは思いませんし……」。そして、この回答書の冒頭にはこうあった。
「靖国神社は国のために尊い生命を捧げられた方々をお祀りする場所であり……」
 確かに最後には西郷や彰義隊は賊軍なったが、彼らは国のために戦ったのではない、のだろうか?
 祀られているからシロ、祀られていないからクロ、などという一元的な色分けはそこにはないはずだ。(■宮崎太郎)

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靖国を歩く/第38回 「九段の母」を探せ(宮崎太郎)

■月刊「記録」06年2月号掲載記事

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 毎年8月15日に日本武道館で行われる全国戦没者追悼式。2005年、この式典が1963年から行われるようになって以来初めて、戦没者の親の参列がゼロとなった。
 ただ、それ自体は大して驚きではない。戦没者の親の年齢を考えてみよう。親が子を20歳で産み、その子が敗戦の1945年に亡くなったとして、その時点で親は40歳。戦後60年が経った05年の時点で、戦没者の親は100歳に達していることになる。100歳以上の高齢者がこれまでと何ら変わりなく参列していたら……その方が驚きだろう。
 英霊の親、靖国神社といえば『九段の母』を思い浮かべる人は多いだろう。1939年にテイチクから発売されたレコードで、作詞は石松秋二、作曲が佐藤富房。当時の大ヒット曲だったという。

「上野駅から九段まで/勝手知らないじれったさ/杖を頼りに一日がかり/せがれ来たぞや会いにきた……」

 誌面の都合上、歌詞を掲載するのは1番のみにするが、歌は4番まで続く。2番の「こんな立派なおやしろに/神とまつられもったいなさよ/母は泣けますうれしさに」の部分に(いうまでもなく「おやしろ」は靖国神社)、当時の人々の靖国神社像があまりに率直に映し出されているようで、素通りするのをためらわせるものがある。
 もっとも05年の全国戦没者追悼式に英霊の親の姿はなかったとはいえ、「九段の母」世代は全国の至るところでまだ健在なはずだ。
 会いたい。会って、当時どんな心境で『九段の母』を歌っていたのかを聞きたい。そして今回の「九段の母」探しが始まった。
 はじめにあたったのは日本遺族会。英霊の母を探している旨を話すと、まず「戦死された方の母親ですよね、もう、相当なお年ですよね?」と驚かれた。
 対応してくれた方によると日本遺族会は各都道府県の遺族会の集合体のようなもので、全国の戦没者を一括して把握しているわけではないという。各都道府県の遺族会がそれぞれ名簿を管理しているということを聞き、次に東京都の遺族会である東京都遺族連合会にあたることにした。
 同連合会の男性によると、「母」に会うことは難しいだろうと言う。毎月15日に東京都戦没者霊園で同連合会が行う拝礼式にも、もう戦没者の親は姿を見せないという。「親を探すのは、相当大変だと思いますよ」と男性は言う。
 次に注目したのは靖国神社境内にある献木だった。到着殿の脇にひっそりと植えられた献木の立て札にはこうあった。
「元北支派遣独立混成第九旅団/独立歩兵第三十九大隊/戦友遺族一同/事務局連絡先…」
 植えられたのが1971年とかなり時間が経っていることはあるが、直に遺族に連絡を取ることができれば、九段の母にはぐっと近づく。献木は他にもあったが連絡先が書いてあるものは他になかった。
 電話に出たのは声からしてかなり年配の男性だった。「元北支派遣」の名を出すと、ああ、と何か思い出すような声を出した。話を聞くと、今も年に1度のペースで当時の隊員たちと集まりを開くものの、ここ数年で連絡をとれなくなった者が急に増えたという。もし隊員が集まれたとしても、その母親となると、生きている確率はほとんどないのではないか、と男性は言った。

■こうなったら現地で探せ

 九段の母に会いたい。ならば靖国神社に参拝に来る人にこそ手がかりがあるのではないか。母当人がその足で来ていなくとも、英霊の親族であれば、そのつながりで母を探し当てることができるかもしれない。
 そこで早朝6時の開門から夕方5時の閉門まで張り込んで「九段の母」が身近にいるという人を探した。
 朝6時の開門前。あと1週間で大寒を迎えようという九段は死ぬほど寒い。気温1度、靖国神社横のコンビニで何年ぶりかのホッカイロを買う。誰もいないことを予想していたが、40代くらいの男性がひとり、またひとりとやって来て意外に3人も神門の前で開門を待っている。互いに顔見知りらしく談笑するかと思えば「上を向いて歩こう」とひとり叫んで怪気炎を上げていたりする。高齢者だからというわけではないが、早朝に起きて靖国に出かけるというケースはありそうなものだ……、などということを考えていたがそれはなかった。
 8時頃、2人連れの夫婦に話を聞く。男性が小学校3年生の頃、海軍だった父親(当時39歳)は人間魚雷に乗ることになった。ただ、しばらくは男性には「父親は特殊船に乗りに行った」としか伝えられなかったという。「親孝行しろよ」という父親の言葉を覚えているが、当時男性がその言葉をどのように感じたかは覚えていない。英霊の母はもちろんもう亡くなっている。
 10時40分頃、第二鳥居の前にワゴンが停まり、中から車椅子のお婆さんと付き添いの女性が降りてくる。車椅子のおばあさんはかなりの高齢。これは!と思ったが、話を聞いてみると残念ながら「母」ではなかった。英霊として祀られているのは夫の弟。20歳で満州に出兵、そのまま帰って来ることはなかった。聞くと、付き添いの女性は親族ではなく、デイサービスのワーカーさんだという。「今日はお天気がいいから、久しぶりに靖国にお参りに来たくなって」とお婆さん。参拝にも様々なパターンがあるものだ。
 正午。お昼時だというのに食堂、みやげものを置く外苑休憩所には人の姿もまばらだ。ここでふと、みやげもの店で働いている人ならば「母」くらいの年代の高齢者が参拝にやってくることがあるか知っているのではないかと思い、話を聞くことにする。そしてここで重要な証言を聞く。
「去年までほとんど毎朝、それも早朝に来て、お参りしていくお婆さんがいたよ。その後はよく巣鴨のとげぬき地蔵に行くっていってたけど。年でいえば、100歳くらいでもおかしくないような感じだったね。私は7時半くらいにこの店に来て準備をするけど、まだ店が開いてないそれくらいの時間帯にそのお婆さんが来て『まだ店開いてないか』とよく言われたね。」
 その通りならば「母」である確率は極めて高い。なにしろ、ほぼ毎朝来るようなお婆さんなら身内で英霊となった人がいるだろうし、100歳という年齢だ。しかし、昨年の後半あたりから、もう姿を見せなくなってしまったそうだ。
 神社の境内を、中国人の団体観光客が歩いていく。それは珍しいことではない。靖国というとイデオロギーにまみれた場所であるイメージを持たれがちで、特に「中国」「靖国」といえば反日・抗日といった言葉と結びつけられそうだが、実際に靖国を訪れる中国の人たちからはそんな気負いを感じ取ることがない。カメラを構え、笑顔を浮かべ、呑気なものなのだ。……そんなことを考えていると、その観光客群の向こうからくたびれたえんじ色の帽子と同じ色の上着を着た小さいお婆さんがとぼとぼ歩いてくるのが見えた。
 とうとう来た。今度こそは……と思い早速話を聞いた。大正10年生まれの小野さんは現在85歳。英霊として祀られているのは兄だった。小野さんが挺身隊として旋盤を回しているとき、5つ年上の兄はニューギニアに出兵し戦死した。「ウチにいれば死ななくてすんだのになあ」と言う小野さんに『九段の母』について話をすると「ええ、私はずっと『九段の母』を歌って、踊ってましたよ」と驚くべきことを言う。
 聞くところによると、歌好き、踊り好きが高じて、踊りの先生に習いはじめ、いつしか高齢者施設などでお年寄りを前に歌い、踊っていた。「上野駅から九段まで…」ではじまる『九段の母』を振り付けつきで歌いだすと、聞いている人たちはみんな泣いてしまっていた、と言い、小野さんはその振り付けを披露してくれた。振り付けは簡単なもので、腰が曲がったお年寄りが杖をつきながら歩き、たまに体を起こして腰を反らせる、というようなものだった。歌いながら慣れた様子で振り付けをたどる小野さんの表情はどこか楽しそうに見える。
 85歳という高齢になった今では人前で踊ることはなくなったが、それでもわずか5、6年前まで踊っていたという。もう昔のものではないかと思っていた『九段の母』が、今でも歌にその思想を乗せて生き続けている。私が思うより、どうやら「戦争」は遠いものではなかったようだ。
 他にも何人かに英霊にまつわる話を聞いたが、「母」に続く直接の手がかりはとうとう得られなかった。身内に戦没者がいる高齢者でも、それは兄弟や親戚がほとんどだった。
 最後に、ある女性と話した内容を書こう。現在78歳のこの女性が10代のときに兄は出兵した。人間魚雷としてだ。「ほんの少し前まで一緒に遊んでいた兄がこう言ったんです。僕はカマボコになります。どういう意味か分かりますか? 魚の餌になって魚の肉になるということですよ。」
 この女性はこの日、初めて靖国神社を訪れた。これまで、つらくて来られなかったのだという。
「もしかして、ここに祀られている方のお母さんも、あんまりつらくて来られないのではないですか?」と女性は言った。
 九段の坂が急すぎるからか、高齢のせいか、それともつらすぎるからなのか。いずれにしろ、母たちにとって九段は遠い。 (■宮崎太郎)

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靖国を歩く/第37回 緊急現地ルポ緊迫!? 小泉参拝後の香港(奥津裕美)

■月刊「記録」05年12月号掲載記事

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 10月17日小泉首相が靖国に参拝した。8月15日に「いつでも来い!小泉」と鼻息荒く待っていた私の思いは届かず(届くわけないか)、彼は行ってしまった。
 しかも、そのニュースを知ったのは日本時間午後2時(香港では午後1時)くらい、NHKワールドプレミアムのニュースでだ。
 しかもそのニュースでは、香港の日本総領事館に向かって靖国参拝に関する抗議も行われたとも伝えていた。なんで領事館に向かってなのだろう、と不思議に思ったが、どうやら香港総領事館があるのは中環(セントラル)の交易廣場の46階らしい。
 そこには領事館以外の施設もあるので、靖国に抗議するのもいいが、同じ民族にも迷惑をかけているのは本末転倒ではないのか。
 靖国という単語が出ると必ずついて回るのが、中国や韓国から言われる「国民感情が傷ついた」である。傷つくのかもしれないが、それらを理由に会談などをドタキャンするのもどうかと思う。
 靖国は戦没者を祀っていて、慰霊・顕彰しているので戦争の象徴と見なされても仕方がないし、参拝されることで本当に感情が傷つけられている人もいるだろう。そこに弁明の余地はない。
 しかし、いつまでも靖国に参拝したから許せないといったり、抗議されるから行くのを止めたほうがいいという論議はなんの進歩にも解決にも繋がらないと思うのは私だけだろうか。
 それはさておき、本題であるこの約1ヶ月の香港の様子はというと、結論からいえば何もなかったの一言だ。
 靖国参拝の抗議には必ず、「国民感情を傷つけられた」という一文が入るが、傷つけられているとは到底思えない日々。
 ビックリするくらい何もない。中国といえば、4月17日に起こった大規模な反日デモを思い出すが、香港でも行われてはいた。香港から近いシンセンでは、日系スーパーのジャスコが襲撃されたり、上海では日本料理屋が攻撃されていたのは記憶に新しい。
 とはいえ、4月当時でもそういった激しい反日デモを直接見たわけではなく、テレビを通じて目にしただけ。私が実際に目にしたのは、いつもと変わらない香港での生活の中で、街中を練り歩く平和的なデモ行進だけだ。
 なぜ平和的かというと、近所でデモ行進が行われていたので見に行ったのだが、大人数でただ練り歩いているだけ、という雰囲気だったからだ。
 さらに言うならば、歩いている香港人の中には、日系スーパーの袋を持って歩いているという適当な人も何人かいたし、コース内にあるそごうや三越も襲撃されることはなく、シンセンでは襲撃されていたジャスコも無事で、ついでに満員御礼。買い物カートが一台もなくなる状況だったからだ。
 中国本土では日本人だというだけで襲われたと聞いたので、「お前は日本人か」と絡まれたときは、タイ人だのシンガポーリアンだのと答えておけばいいか、と考えていたが、そんな必要もなかった。
 靖国参拝後の香港の様子に戻そう。
 香港には日本のもの、店などがあふれているので、靖国参拝以降の日本に関連するところをウォッチしてみた。参拝直後の10月22、23日にビクトリアパーク(香港で一番大きい公園)で、「日本の祭」というイベントが開催されていたので行ってみた。
 会場は日本の観光地案内、イベント(エイサーの公演やアイドルグループのミニライブなど)、屋台で構成されていて、入場料に20ドル(約300円くらい)かかったが結構な人出だった。2日間とも行ったが、日本人以外に香港人も多かった。日本の食べ物屋台の行列に香港人も並ぶ。
 さらに会場内にはアニメのコスプレをした人や、白いフリルやレースのついた黒いスカートが特徴のゴスロリと呼ばれる格好をしている香港人などもいて、そういうのも海を越えて愛好者がいるんだな……と感心したりもした。
 祭の和やかな雰囲気が会場内には流れ、反日感情どこへやらという感じだった。
 さて、在住日本人にとって心休まる味と言えばもちろん日本食だが、香港にも回転寿司やラーメン店、居酒屋などなじみのものから、日本式(日式)のレストラン(日本風創作料理という趣)などいろいろある。
 日本人のみならず香港人にも人気のようで、特に回転寿司店の前には毎晩人だかりができている。
 私もよく行くが、週末は入るのに1時間くらいかかったりして人気ぶりが伺える。
 私の普段の食生活が露呈してしまうのでお恥ずかしいが、ほぼ毎日行っている某牛丼チェーン店も、ティーセットの時間帯に行くと、牛丼(並)と飲み物がついて約300円と安いせいかそこも香港人が多い。
 茶餐店というファミレスと喫茶店をミックスしたような店には「出前一丁」という即席麺がメニューに並んでいたりと、香港人の食生活の中に日本の食が入り込んでいることがうかがえる。食での日中友好はうまくいってるようだ。
 その他に、街中には雑誌や新聞を売っているスタンドがいくつもある。よく見ると新聞、雑誌、風水、アダルト雑誌に紛れて日本の女性向けファッション雑誌の日本語版や中国語版が置かれていたり、日本の人気漫画(『NANA』『電車男』など)の中国語版が売られていたりする。
 日本語の雑誌なんて読めるのか? と思うが、写真をみて楽しんだり真似したりするらしい。さらに、香港にも漫画喫茶があり、そこには中国語で書かれた漫画が多数置かれていたり、アイドルグッズやフィギュア、食玩(ミニチュア付きのお菓子)、キャラクターグッズなどを売っているビルがあったり、地元人が多い市場では、日本のアニメキャラクターのおもちゃなども売られている。
 映画は、邦画がコンスタントに公開されていて、今は女性の間で大人気の『NANA』が公開されている。
 ちょっと前は、純愛ブーム?を巻き起こした『いま、会いにいきます』『世界の中心で愛をさけぶ』『電車男』(「キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━ !!」とか画面に出るかわからないけど、香港人は意味わかるのか?などと考えてしまった……)なども公開されていた。
 日本の漫画『イニシャルD』など合作映画が作られたりと、エンターテインメントでの日中友好関係もうまくいっているようだ。
 経済や娯楽、一般生活の中では、なんら影響があるとはとうてい考えられない状況だ。
 上海や北京に暮らす日本人の間では、反日感情が高まった時、なるべく日本語をしゃべらない、企業の看板に布をかけるなどの防衛策をとっていたが、香港ではほとんど必要がないという感じだった。
 日系の塾に勤める友人からは、「バスに貼ってある紙の日本人という文字を隠す処置はした」ということを聞いたが、「特に敏感に反応する必要はなかった」とも言っていた。
 香港でよく見かけるのは、反日よりも中国の反共(反共産党)の文字を見かけることのが多い。さらに香港はデモが多いようで、12月も2回行われるらしい。どちらも日本には関係ないデモであるが。
 反日デモ以降、日本に住んでいる人から、「香港は大丈夫なのか」ということを言われることが増えた。
 デモが行われた時の日本のニュースには、連日日本料理屋を襲撃しているところや、領事館へ向かってペットボトルを投げているところばかり流れていた。
 そこだけ毎日流れていれば不安になるのは当然だが、同時にテレビの映像は偏りすぎているのではないかという印象を感じた。
 マスコミは反中国の思想を植え付けたいのだろうか、と思わせる構成が多い。マスコミは良くも悪くも視聴者に対して大きな影響を与える。最近は、その姿勢が顕著に表れているように感じるが、それでは中国の共産党体制と同じである。
 香港ではあるが同じ中国国内にいる私も、ここ以外の様子がよくわからないため、大丈夫なのかと心配になったりもした。私自身がそんなだから、日本にいる人が余計に不安になってしまうのは仕方がない。
 テレビから流れる映像と、実際の様子のギャップを肌で感じた今回の取材だった。
 100%安全・安心というわけではないが、香港だけに限って言えば、形だけの反日感情というように感じられた。活動家などは本気なのかもしれないが、一般市民に関していえば果たして本気なのだろうか、と疑問に思ったからだ。
 デモはお祭り。デモという名のパレード(日本でもたまにやっているが)といったところ。
 これは私の主観なので、本音はどうかは分からないが、仮に反日感情を本当に持っているのであれば、反日デモ以前、以後に限らず、寿司屋の前に人だかりはできないだろうし、日系スーパーやデパートへ来る客も少ないはずだ。
 しかし、現実は、今日も寿司屋の前に人だかりができ、日系デパートやスーパーへ足を運んでいるのだ。 (■つづく)

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靖国を歩く/第36回 トホホ……英霊めぐり in Singapore(奥津裕美)

■月刊「記録」05年11月号掲載記事

       *        *        *

 シンガポールのガイドブックを読んでいると、戦争に関する建物などが多いことに気づいた。直接靖国とは関連はしないが、やはり靖国ライターとしては行かねばなるまい! ということでそのレポートをお届けする。
 まず一番目。
 MRT(地下鉄)シティホール駅周辺をぷらぷらと歩いていると、突然現れる白い大きな4本の柱。
 その柱は高さ約70メートルで戦争記念公園(公園というより広場)内にある。ちなみにこの4本の柱はそれぞれ中国人、インド人、マレー人、ユーラシア人を意味しているそうだ。
 1967年に、シンガポール・日本の両政府の協力で建てられたこの塔の名称は「日本占領時期死難人民記念碑」といい、シンガポール占領中に虐殺された人の霊を鎮め、さらにこのような悲劇を繰り返さないように、という戒めの意味で作られたらしい。
 ガイドブックには、「戦争の悲惨さについて考えさせられる」と書いてあったので、どんなところなんだろうと少しわくわくしながら行ったのがいけなかったのか、圧倒的な存在感というより突然現れた白いトーテムポールという感じだった。
 街並みにとけ込みすぎていることに加え、シティーホールには国会議事堂や歴史博物館、マーライオンなどの見所がたくさんあるので影が薄くなってしまっているのはたしかである。それはそれでいいのだが、ガイドブックに書いてある肝心の「戦争の悲惨さ」は伝わってこなかった。
 このガイドブックを書いた人は、これを見て戦争について何かを考えさせられたのだろうか。
 では次。
 島すべてが一大アミューズメントパークになっているセントーサ島にあるイメージ・オブ・シンガポールという蝋人形館だ。
 セントーサはもう一つシロソ砦というところもある。日本軍に抵抗するためにイギリス軍が立てこもった場所らしい。中には入っていないが、セントーサをまわっているモノレールに乗ると一部であるが見ることができる。
 さてその蝋人形館だが、人形一つひとつがしっかりと作られていて、どれもがとっても本物っぽい。そのリアルな作りと少し暗い照明のおかげで不気味さまでもが際立っている。
 怖がりの私には迷惑なところだが、シンガポールの歴史、伝統、風俗を人形を使って説明しているので、わかりやすく知ることができるおすすめスポットである。
 靖国的目玉はシンガポールの歴史ではなく、1942年に日本軍がイギリス軍に降伏を迫るシーンと、1945年にイギリス軍から降伏を迫られる日本軍シーンの蝋人形の展示なのだが……これを見るために行ったにもかかわらず、その展示室は閉まっていた。
「なぜだ! なぜ閉まっている」と叫びたくなったもののこればかりは仕方ないので諦めることにした。
 それをカットして先に進むと、侵攻後のシンガポールの写真や占領下の資料が展示が。
 それ以前の展示では、中国語と英語のみの説明だったのが、日本語の説明が加えられている。これは「きちんと見なさいよ」という日本人に対するメッセージなのだろうか。
 丁寧に日本語の説明を付けてくれるのはいいのだが、日本語がめちゃくちゃで意味がわからない。日本語を話せるようになってきた外国人の話し言葉をそのまま書いている感じだった。
 笑っちゃいけないけど、真面目な文章の中に散りばめられるおもしろ日本語(たとえば、この蝋人形館の名前「イメージ・オブ・シンガポール」が「イメーヅ・オブ・シソガボール」となっていたりするところ)は、下手なお笑いよりもセンスがある。
 自分の語学力を考えると笑ってもいられないのだが、重要任務である旧日本軍の展示が見れなかったため、日を改めてくることにして、3つ目は日本人墓地。
 ここは第二次世界大戦以前にシンガポールで亡くなった人が埋葬されているらしいが、当時の南方総司令官も埋葬されているらしいので、とりあえず行ってみることにした。
 墓地は家から遠かったので、とりあえずタクシーに乗り「日本人墓地へ行きたい」と告げたところ、連れて行かれたのは日本人会。
「違う違う、日本人墓地、墓地に行きたいの~」と地図を見せ(持って行った地図は日本語表記だった)た。日本人墓地だから「Japanese cemetary」、セラングーンというところにあるので、とりあえず英語できちんと伝えたのだが、通じなかった?それとも運転手のおじさんが知らなかった?のか途中でタクシーを止め、携帯で「日本人墓地ってどこだ?」とどこかに電話。
 とりあえず場所がわかったのか、ローカルマップを手にして走ること約20分。ついた先は住宅地。
それも簡素な住宅地。その中にひっそりと佇む墓石。
「本当にここは日本人墓地なのか?」という疑問が。とりあえずその疑問をはらさなければ仕事は進まない。おじさんに待っててもらい墓地へと進む。
 日本人墓地というから、よくある日本の墓石みたいな感じなのかと思っていたのだが、実際はアメリカ映画で見るような墓石が並び、草がボーボーと生え、手入れもされていないところだった。
 日本人会があるんだから手入れくらいしたらどうなんだ? とはつっこまずに、写真をパシャパシャと撮る。
 そういえばガイドブックに「訪れる人はほとんどなく、住宅地の片隅でひっそりと静まりかえっている」と書いてあったような気が……。
 さらに「1895年にできた墓地で東南アジア最大の日本人墓地」とあるが、本当にそうなのか?と思わせる佇まい。手入れがされていないだけではなく、お参りしようにも入り口には棒が横たわっていて入るのを躊躇してしまう。
 なんというか、そこだけ時間が止まったままひっそりと存在している。そんな雰囲気だった。
 切ない気分になりながらタクシーに戻ったら足にチクッとした痛みがはしった。なんだと思って見たら蟻にかまれていた。
 せっかくセンチメンタルな気分に浸っていたのに、蟻のおかげで一気に冷めてしまった。
 タクシーのおじさんに飴をもらい気を取り直して、最後に向かうはクランジ戦没者祈念碑。ここは第二次世界大戦時にシンガポール防衛で死んでいったイギリス兵を祀った慰霊碑があるらしい。
 日本人墓地前でおじさんと「クランジ競馬場の近くにある」と地図を見ながら確認したので、問題はないだろうと思っていたが、また道を間違えてしまった。
 「このあたりなんだけど」とおじさんは言うものの、目の前に見えるのは、シンガポールの美しい街並みとは遠くかけ離れたスラムのような怪しい風景。
 とりあえず先へ進んでも何もないのでUターンしたら「モニュメント」という看板が!
 いやー、とりあえず着いてよかった。「曲がる?」と聞かれたのに「任せるよ!」と愚かなことを言ってしまったけど、着いてよかった。
 ここもひっそりと佇んでいたけれど、シティーホールの戦没者記念碑と違うのは、モニュメントの周りに墓石がたくさん並んでいたところ。墓地に祈念碑が建っていると思っていただければよいのだろうか。
 観光地というわけでもないし、行きにくいところにあるにもかかわらず、人がちらほら。たぶん地元民。
 周りは緑に囲まれ、墓碑も規則正しく並んでいる。きれいな青空、なだらかな芝生、爽やかな風、白い祈念碑と墓碑。なんという開放感。墓地なのに爽やかすぎる。 いいなぁ。お寺の横にひっそりと佇む墓地より、こういう開放感と爽やかさに満ちた墓地ならば埋葬されたいものだ。とはいえ、生きているからこういうところがいいと思うのであって、死んだあとは爽やかな風なんて感じられないからどこに埋葬されてもかわらない。
 墓地なのに墓地という気がしないここは、涼しい日に行くと気持ちいいのでおすすめ。      少し慌ただしい英霊巡りツアーだったが、なかなか楽しかった。楽しかったというのも変だが、いつもは日本で靖国へ行くくらいしか英霊とのつながりがなかったのに、日本以外の国にいる英霊を訪ねまわるというのは珍しいことだったからだ。
 シンガポール以外にも英霊が眠るところ、英霊にまつわるところははたくさんある。機会があれば他の国へ行って、日本以外で刻まれている戦争の爪あとを見て回りたいと、そんな気持ちを抱かせる旅だった。
 そういえば、イメージ・オブ・シンガポールの例の展示だが、別の日に改めて行ったところ、なんとその施設自体がクローズしていた。たぶん、改装でもしているのだろう。
 結局、シンガポール滞在最終日まで歴史的な蝋人形と出会うことができなかった。とほほ。またシンガポールへ行くかはわからないが、行く機会があれば今度こそはみたいものだ。 (■つづく)

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靖国を歩く/第35回 つのだ☆ひろで奉納だー!―みたままつり2005年―(奥津裕美)

■月刊「記録」05年10月号掲載記事

       *           *            *

 もう秋ですが、記録の靖国神社は夏まつりモードでお送りします。
 いつもは1人で「なんで1人なんだよ、クソッ!」などと思いながら取材していたが、今年は新人編集部員とバイトを引き連れみたままつりへ行ってきた。小泉効果で注目を浴びている最近の靖国はイベントがない日でも賑わっているが、特に混むのは、みたままつり(御霊が帰ってくる)、初詣(福引きもある)、8月15日(敗戦記念日――英霊の日?)だ。
 どれも暑さまっただ中か寒さまっただ中のイベントなので、本当は行きたくない。とくにみたままつりは最悪だ。祭はおもしろいし好きだけれど、暑い!  浴衣なんて着てしまうとさらに暑さ倍増。下り坂でさらにアクセルを踏み込むくらいの勢いで暑さが加速する。
 いつもは閑散としている参道に露店が並び、浴衣を着た若い子や、グループ、カップルが歩いている。夏の暑さと人の熱気、露店の鉄板などからわき上がる湯気が合わさってなんともいえない不快感。
 不快指数85(筆者が感じた指数)の参道を人を押しのけ進む。店から漂うおいしそうな匂いの誘惑にも負けず、私が向かったのは能楽堂。

■叩いて歌うつのだ☆ひろを発見

 靖国には様々な施設があるが、とりわけ能楽堂は影が薄い。私ですらその存在を忘れてしまう。能楽堂は、神門を入り遊就館へ向かう途中にある。テレビでしか能を見る機会がないが、当然テレビでよく見る舞台と同じ。
 みたままつり期間中の能楽堂では、朝から晩まで古武道、バレエ、マジック、日本舞踊、戦記漫談、津軽三味線など様々な奉納芸能が行われている。盆踊りや露店だけがまつりの見所ではない!  と訴えているようなスケジュール。しかもタダ。
 かつて私がよく足を運んだ神社の祭では、カラオケ大会が大きな目玉だったが、はっきりいって内輪受けでおもしろくなかった。
 以前、みたままつりは地元のお祭りだと書いたが、やはり社格の高い神社となると、やることもスケールが大きくなるのだろうか。相撲はともかくプロレスの奉納をしている神社なんてほとんどないし、歌手が歌を奉納するのも珍しい。
 ただの地元のお祭りではないという面と、他とはひと味違う神社だということをアピールしているのではないかと今回のテーマである、つのだ☆ひろのライブをみて感じた。
 7月14日夜7時から1時間も、つのだ☆ひろのジャズライブが堪能できるのだ。しかも無料。靖国が太っ腹なのか、つのだ☆ひろが太っ腹なのかよくわからないが、とにかくお得なのはたしか。
 つのだ☆ひろのプロフィールを簡単に書くと、中学時代からドラムを始め高校時代にプロデビュー、その後の活躍は書くまでもない。
 私は『夜もヒッパレ』という日本テレビの歌番組で『メリージェーン』を熱唱(出演者たちがチークダンスを踊っていた)している姿の印象深いが、実はすごい人だったんだね。食べ物の誘惑に負けずに会場へ着くとドラムの音やギターの音。そして英語でシャウトする声。そして会場を覆う人、人、人の山。その人数は、椅子席や立ち見客を合わせたらザッと200人はいただろう。
 若い人や中年客が目立つ。さらに舞台近にでは、ノリまくる30代くらいの女性や男性もいたりと、一瞬ここはどこなんだろうと頭を抱えてしまった。
 会場が能楽堂だというところが靖国だと気づかせてくれるが、それでもやはり靖国で行われているとは思えない雰囲気が会場を包む。
 お目当ての、つのだ☆ひろを探すが見つからない。歌声は聞こえるのだが、本人はいずこ……。
 目をこらして舞台をみると、いた!  ドラムを叩きながら熱唱するつのだ☆ひろが!
 ギターを弾きながら歌う歌手はいるが、ドラムを叩きながら歌うのは、石原裕次郎かカレン・カーペンターか、C-C-B(『Romanticが止まらない』)の人しか知らないが、ギターと違いドラムは叩くところが多い。一番疲れそうなポジションなのに、さらに歌う。頭の中が混乱しないのだろうか。
 そんなことを考えていたら違う曲になっていた。しかしジャズ中心で本当に神社の催しか?と思ってしまった。

■靖国神社の「裏の顔」に驚く

 靖国って一体なんなのだろうか?
 古い体質と威圧的なところもあるが、モダンなアプローチもする神社。
 首相が参拝すると中国から批判がわき起こり外交問題の原因のひとつになったり、戦争で国民の士気をあおることに使われたりと政治的な面ではあまりよくないイメージがある。
 その反面、競馬や相撲の会場になったりと、血なまぐささを感じさせない爽やかさを兼ね備えている。
 神社といえば、鳥居、賽銭箱、手水舎があって、お参りをしてお守りを買い、ついでにおみくじを引いて帰る、というのが一般的ではないだろうか。
 ジャズライブなんてないし、年に1回奉納相撲が行われるところだって滅多にない。こんなイベントが盛りだくさんなのはおもしろい。また祭神が英霊のため、戦争にでもなれば神様が無制限に増えていくことにも不思議さを感じる。一筋縄でいかないのが靖国神社だ。
 さて、ライブはというとジャズナンバーのメドレーを熱唱後、1度舞台を去り、アンコールのため舞台へ戻って来てオリジナル曲の『ありがとう』と童謡『ふるさと』を歌った。
 ジャズの激しいナンバーから一転、ゆったりとした曲調の『ありがとう』と、少しアレンジされた『ふるさと』で、火照った体を一気にクールダウン。
 バラードも聴かせるつのだ☆ひろ。芸の広さと引き出しの多さに感心。さすがはプロだ。
 感想を一緒に行ったアルバイトの女の子(19)に聞いたところ「靖国といえば国際問題で騒がれていて、厳格で近寄りがたく思っていました。しかしみたままつりはスポットライトに盆踊り、つのだ☆ひろが英国調の服でライブするといった場所だったことに驚きました」と言っていた。
 この数年間、靖国に何度も足を運び、書籍を読み、書き始めた頃よりも知識が身に付いてきた。しかし、イベント時に訪れる靖国は、私のいろんなイメージをいい意味で裏切ってくれる。
 イデオロギーとかけ離れたときの靖国は、ものすごく興味深い場所になる。なにか特定の思想や思惑が絡むと、靖国に限らずすべてのものは単調になり、退屈になる。イデオロギーで靖国を論じてしまうと、戦争のアイコンとしての靖国のイメージが底上げされるが、庶民のための靖国というイメージは薄くなる。
 ここ数ヶ月靖国がマスコミに何度も取り上げられたが、ほとんどがA級戦犯や参拝問題のことばかりだった。それは仕方ないのだが、もうすこし庶民のための靖国という面もクローズアップしてもよいのではないかと思う。正と負、光と陰、表と裏があるからこそ、個性も際立ち深みも増すのだ。
 つのだ☆ひろのライブだけでなく、みたままつりに行くだけで、これまで靖国に抱いていたイメージがある人は覆されるかもしれないし、知らなかった人やイメージが特になかった人には新鮮に映るかもしれない。盆踊りとつのだ☆ひろの歌でイデオロギーを学ぶとも思えない。
 たかがまつりではあるが、されどまつりでもある。
 はっちゃけた、そしてさばけた靖国を体感するのもそれはそれでオツなことなのではないだろうか。 (■つづく)

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靖国を歩く/第34回 戦後60年8月15日靖国神社24時(奥津裕美)

■月刊「記録」05年9月号掲載記事

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■小誌以外メディアはゼロの未明

 2005年8月15日。去る8日に衆議院が事実上小泉純一郎首相によって解散されており終戦記念日に靖国神社に参拝する危険性?大との判断から24時間張り込みの愚挙を編集長の命令で決行した。社の総力を挙げて(といっても4人)の愚挙である。
 午前12時00分。さあ始まった。小泉よ。来るなら来てみろ。目に物をみせてやる……って別に何もみせるものはないか。駐車場に大型バスが4~5台止まっていた。もう参拝客かと思ったら、バスのフロントガラスには、「巨人VS阪神観戦ツアー」なる文字が。運転手に「大型車はここの駐車場を使うんですか?」と聞くと、「そうですね」と解答。
 午前12時22分。ベンチにはホームレスの男性2人と、携帯電話で電話をしているガードマンが一人。報道関係者は誰一人としていない。どうやら『記録』編集部が一番乗りである。パンを食べながらあたりを見回すと、夜中にもかかわらず靖国を訪れる人が結構多いことがわかった。夏休みのせいもあるだろうが、中高生あたりのグループがやってくるのである。次いでカップルも訪れては去っていくのだ。
 午前12時46分。違う若者グループがまた訪れ、神門前でウロウロしている。さらに、私たちのベンチ付近には猫が3匹集まり集会を開く。猫の姿に癒される私。
 午前1時30分。若い男の子2人組がジュースを買い、ベンチで喋りはじめる。さらにカップルも現れジュースを買いベンチで飲んでいる。
 午前2時10分。売店からおいしそうなにおいが漂ってくる。なんのにおいだろうと考えながら癒されていると、売店横の道路に赤いランプを回したままのパトカーが止まった。駐車場にも別のパトカーが止まっていたし、護送車も止まっていた。準備万端いつでも来い! というような体制である。夜中から騒ぎがはじまると思って警備しているのだろうか。どの日よりも8月15日は靖国にとっても重大な日なのだろう。
 午前3時39分。一度去ったパトカーが売店脇の道路に再び駐車する。小誌以外のメディアはいまだゼロ。これまでに首相が来てくれていたら大スクープを世界中に放てたのに。小泉なんて大嫌いだ。
 午前4時10分。神門前でカメラマンが三脚をセット。小誌取材陣に次ぐ、2番手メディアの登場だ。Tシャツ姿の小太りの男性に近づくと、背中に「チャンネル桜」の文字が!「日本の伝統文化の復興と保持を目指し、日本人本来の『心』を取り戻すべく創立された」と標榜する衛星報道だけに、意気込みが違う。つまり靖国への「愛」が他社とは違うと。もっとも我々よりは4時間ほど「愛」が足りないが……。
 午前4時35分。「駐車場はどこにあるの?」とパトカーの警官にたずねる色い車が登場。「静岡から来たんだ」と大声で警官に説明していた。地方からの参拝客を本日初めて確認。
 午前4時48分。濃紺の背広姿の男性が到着し、神門前で参拝を行う。正装の参拝者は本日初。神妙な面持ちで頭を下げた後、静かに靖国神社を去る。
 午前4時50分。白い街宣車到着。パトカーの後に停車し、警官と話し合いをしている模様。数分停車ののち、九段下方面に靖国通りを下っていった。本日初の街宣車は、5時前の到着であった!
 午前4時51分。黒塗りのハイヤー到着。地味であか抜けない服装は、いかにも新聞記者のいでたち。映像系メディア以外としては、我が取材陣の次に到着したことになる。
 午前5時01分。青山からタクシーに乗って参拝に来たという老女(81)に、「いつ開くのかしら?」と声をかけられ、そのあと世間話をする。
 午前5時31分。「労農党」のはちまきを締めた老人が、巨大な日本国旗をささげ持ち神門前に現れる。横幅2メートルはあるかと思われる国旗を、3メートル以上ある国旗棒で支える。地面に付けないよう両腕で支える姿に「大丈夫かな、あのおじいさん」という声がマスコミ陣から上がっていた。数分後には仲間と思われる男性が海軍旗を持って登場する。2人で旗を掲げる姿にカメラマンが動く。今日初めての人気被写体は旗を掲げた参拝者だった。
 午前5時35分。カメラ8台が神門前に集結し、開門を待つ。主要テレビ局は全てそろっていた。
 午前5時41分。神社側よりアナウンスが入る。午前6時開門であること、境内の参拝者には取材しないこと、など放送する。靖国が少しずつ話題になり始めたころから取材規制の看板を出すなど、このところの靖国は取材に対してピリピリしているのだ。
 午前5時51分。チャンネル桜が神門前の参拝客にうちわを配り始める。表に日本国旗、裏には「草莽崛起」「日本文化チャンネル桜」の文字が。この「草莽崛起」とは、吉田松陰が唱えた変革の組織論のことだそうだ。

■開門!韓国KBSから親切右翼まで

 午前6時00分。ついに開門。参拝者が中に入っていく様子を一斉に撮影し始めるが、その後、取材陣は中門鳥居まで進み撮影。各社のカメラが参道を埋めたため「お参りではないじゃないか」と参拝者から怒られるカメラクルーもいた。
 午前6時12分。神社正面から見て右側の遊就館前にある到着殿の向かって左側の砂利に、各社のカメラマンがはしごを置き始める。代議士が車をここに付けて、この入り口から中に入って参拝するためなのだろう。
 午前6時30分。参道の取材をしていた記者およびテレビクルーが到着殿へ集まり始める。その数は約20人。
 午前7時35分。参道で国立追悼施設建設反対の署名を行っていたので、とりあえず署名をする。朝7時だというのに、途切れることのない人の波。ヤクザや右翼も多く、みんな早起きだ、と感心してしまった。
 午前8時46分。遊就館が開館した模様で、大勢の人が入場していた。到着殿へ向かう報道関係者がひっきりなしに訪れる。
 午前9時05分。「靖国神社に参拝する地方議員の会」メンバーが旗を持ち、拍手を浴びながら中へ入っていく。
 午前9時41分。神門前で高齢者が転ぶ。警備員とともに駆け付けたのは、つなぎをきた右翼の数人。「大丈夫か」と声をかけ、警備員とともに参道脇まで運ぶ姿は善人そのもの。これがいつもマイクで怒鳴っている人物と同じ人たちなのかと感動する。さすが右翼、靖国の神門に掲げられた菊の御紋の前では神妙そのもの。
 午前9時43分。韓国KBSニュースのキャスターが、神門内側で撮影を始める。深刻そうな顔での中継が印象的であった。
 午前9時50分。靖国神社が設けている取材申し込み受付で、記者2名の取材を申し込む。「終戦六十年国民の集い」の取材者には緑のリボンを、境内用には首にかける取材許可書、境内内の取材には緑色のリボンを菊型に織ったものが渡され、プレス気分に浸ってしまった。

■緊張感と不快感がジリジリ高まる

 午前9時52分。本日、初めての政治家到着。ダラダラとしていたカメラマンの顔つきが変わり、政治家の顔を撮影しようといきなり脚立をのぼり始める。新聞記者は『国会便覧』で人物の確認を始める。「誰だ、誰だー、あれ」の声が報道関係者からわき起こる。「橋本派の佐藤だ、佐藤!」という声が上がり、顔見知りの記者同士で情報の確認を始め、佐藤信二元衆議院議員と判明。
 午前9時59分。参道の段差で中年の男性が転ぶ。普段は気にならない段差も、参道が狭くなると凶器に変わるのだと実感する。
 午前10時00分。「車が通ります~」の声が頻繁に聞こえるようになり、そのたびに各社に緊張が走る。ただしほとんどが議員ではない。降りてきた人を見て「なんだー」、「不発だよー」の声が記者席に満ち、ため息が漏れるようになる。いつ議員が来るのかわからないため、報道陣はとにかくロープの前を死守する。気温は上昇し、不快指数は最高潮に達する。さらにヘリコプターも飛び始める。
 午前10時11分。道路に出る記者が多くなってきたので、警備員がさらに長いロープを使って規制を始める。いよいよ本命議員到着か、と緊張感が高まっていく。
 午前10時18分。民主党の 西村真悟衆議院議員が「日本真悟の会」約800人を引き連れて参拝。到着殿より手前にある参集所入り口に多数ののぼりが立つ。とりあえず絵を押さえようと、各社が西村氏に突撃。大勢の人で道路を完全にふさいだことから、氏の車は遊就館側を回ることになった。
「まさか議員呑んでないだろうな、いっぱいぐらいならいいけれど、ベロベロだったらニュースだぜ」という声で、数人の記者が笑った。
 午前10時30分。「終戦60年国民の集い」が始まる。国家をものすごい大音量で2回も斉唱。なんともいえないすごさに、軽くカルチャーショックを受けていたら、20代の男性が奇声を上げながら連行されていた。
 午前10時32分。平沼赳夫前経済産業大臣が靖国会館に入る。亀井静香氏とともに反対派の中心人物だったこともあり、各社がマーク。姿を確認した途端、新聞記者が一斉に携帯電話を取り出し、「官邸番記者の○○です。今、平沼議員が靖国会館に入りました」と電話をする。
 午前10時40分。靖国参拝の急先鋒、安倍晋三自民党幹事長代理が到着殿に姿を現す。首相を除けば最大のスター登場に本日、最高の盛り上がりを見せ、姿をカメラに捉えようと各社殺到。英霊の前でほとんど肉弾戦の様相を呈す。
 午前10時50分。参拝を終え出てきた安倍議員に記者が殺到。ついにロープを飛び越えて取材する者が現れ、「ルール通りにね、ルール通りにー!」と叫ぶ神社関係者の声もむなしく、到着殿前は大混乱となる。スター安倍はさすがにスターだった。記者のために脚をとめ、数分の取材に答え、手を上げて車に乗り込んでいった。さすが。目立つ位置、そぶりを考えている。これもスター安倍の才能かと感心する。今日は感心することが多い。
 午前11時00分。「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が古賀誠元自民党幹事長を先頭に靖国会館から到着殿へと歩いてくる。「よくぞ参拝してくれたー」との声と拍手がわき起こる。自民党と民主党の47人が集団参拝した。
 午前11時32分。爆弾三勇士のレリーフがはめ込まれている大灯籠の裏で日本兵の軍服を着た高齢者が、同じく軍服を着た若者に日本刀の使い方を教えていた。役者と軍人の刀の使い方の違いを教えた後、何度かだめ出しをする。「口で言ってもダメだから、体で覚えること。家で何度も練習すれば、そのうちうまくできるようになるから。以上」と高齢者は最後に大声をあげた。
 午前11時37分。大仁田厚参議院議員登場するが、何の騒動も起こらず。私は、しんぶん「赤旗」のアグレッシブな取材姿勢と、かっこいいルックスにみとれていた。
 午後12時31分。もう1人の靖国スターである石原慎太郎都知事が来る。「うれしーよー」の声が上がる。
 午後12時49分。都知事の出待ちをしている最中、突然「朝日(新聞)は帰れー。産経(新聞)はがんばれ。週刊金曜日も帰れー」という声が上がる。なぜうちも呼んでくれないんだー!と古参編集部員と少し憤慨する。
 午後12時54分。石原コールがわき、車が去っていく時に国旗が振られる。車が出た直後、一般客同士で「(コールを上げていた)俺の写真を撮った撮らない」というケンカが始まる。
 午後13時24分。尾辻秀久厚生労働大臣が参拝に来るものの、「誰だっけ?」の声が記者側からあがる。
 午後14時00分。神社内はどこも人が多く、中でも行列が絶えないのが参拝と遊就館。能楽堂前あたりでは、お年寄りの話に熱心に耳を傾ける若者がところどころに見られる。
 午後14時15分。都知事が帰ったあと散らばっていた報道陣が、また到着殿脇に集まりはじめる。
 午後15時14分。神戸ナンバーの濃紺のシーマが来る。車から現れたのは小池百合子環境大臣兼刺客。この日最後の大物政治家の登場。
 午後15時30分。参拝を終え出てくる。やはり美人でビックリした。5分ほどの取材を終え去っていく。記者同士でコメントのすりあわせをしていたが、こういうことをするんだな、と感心してしまった。
 午後16時00分。「集い」の最後に、午後15時の段階で、8月15日の参拝者が15万人を超えたと報告される。

■「彼」を見ぬまま日付は変わった

 午後19時00分。神門が閉まる。閉まる少し前から、会社帰りに参拝に来た人などが駆け込むように中に入っていく。門が閉まると同時に、小さい机のような賽銭箱が門の前に置かれる。閉まった後も、会社帰りらしいスーツを着た人達が次々と来て、門の前で参拝していく。しばらく参拝者はとぎれなかった。
 午後19時33分。売店横のベンチは、小さな宴会場となる。(編集部注:午後19時46分。小泉首相が事実上参拝しないと表明したニュースが流れる)。
 午後21時36分。雷鳴がとどろき、雨が大降りになった。勘弁してくれよ。さすがに参拝客の足が途絶える。
 午後22時13分。雨がやみ雨宿りしていた人が帰りはじめる。
 午後23時33分。特に変わったことはなく、売店内のベンチでは、深夜にもかかわらず熱く語り合っていたり、待ち合わせなのか女の子が1人座っている。
 8月16日午前0時00分。無意味としか思えないが編集長が日付が変わるまで小泉首相を待てというから待った。もう昼間の騒がしさとはうって変わり、あたりは静けさが漂い、約1日前と同じ状況になっている。ベケットの戯曲と同じ。不条理劇の主人公はゴドーだろうが小泉だろうが来る来るといって来ないのであった。 (■つづく)

編集部注:15日の時点で衆議院は解散されているので、本文中の「衆院議員」とはすべて正確には「前衆議院議員」である。

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靖国を歩く/第33回 遊就館の“?”な展示物

■月刊「記録」05年7月号掲載記事

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 世の中わからないことだらけだが、ほとんどのことはわからなくて当然のことだから、わからないことだらけに思えるのだろう。
 私は靖国の原稿を担当することになってから、何回わからないわからないと書いてきただろうか。たまに頭が悪いからなのではないかと苦悩するときもあった。そして今回も私の身にわからない問題が降りかかってきたのだ。それは……。
 なんで遊就館に「古代から近世の展示物」があるのか。
 今、それのどこがわからないことなのか、って思いましたか。そうですか。
 今までたいした問題ではないというか、あまり気にとめていなかった。なぜ今回そのことを取り上げたかというと、「靖国には戊辰戦争以降の英霊しか祀られていないのに、どうして古代や中世の展示物を置く必要があるのか」という編集部からの疑問の声があがったからだ。
 いわれてみれば不思議である。博物館七不思議というのがあったら入れて欲しいぐらいだ。
 遊就館には「英霊の顕彰」と「近代史の真実を明らかにする」という2つの目的があるのだが、英霊を顕彰するのならば、彼らにまつわる品を展示するのがベストだ。
 もっとも英霊の功績をたたえても本人には伝わらないので、どちらかというと遺族に対しての慰めのように感じるが、それは死んだ人に対して「あいつはいいヤツだったよ」と生きている人が生きている人に対してそう言って慰める行為のようなものか。
 国のために戦って死んだ人を祀っている神社なのだから、そういった展示をすることは必要なことだろう。それに対しては異論をはさむ余地はない。
 さて、私の疑問に絡んでくるのがもう一つの「近代史の真実を明らかにする」だろう。
 どうやら遊就館には「英霊が歩まれた近代史の真実を明らかにする」という使命があるらしい。どういうことかよく分からないが、たぶん英霊となった人たちがどうして戦わなければならなかったのか、ということを明らかにすることで近代史の真実までもが見えてくるということだろうか。
 それはわかった。そういうことならば近代からの展示は必要だ。それがたとえ戦争を正当化する内容であってもそうでないとしても、「どうして」という疑問を解くためには説明が必要だ。「1+1はどうして2になるの」ということをリンゴやミカンを使って説明するのと同じというわけか。
  「近代史の真実を明かす」と標榜しているだけに、展示物はかなり豊富で見応えがある。じっくり見て回ると近代史に少しだけ強くなったような気になるし、800円の元もとれる。遊就館は軍事博物館(武器の展示もあるから)と近代史博物館(それらの展示物が豊富)の2つの側面があるかなりお得な博物館というのは間違いなしだ。
 しかし「近代」を見せるのに古代からの「日本の武の歴史」が必要な理由はわからないままであるから、とりあえず見に行くことにした。

■英霊の朝敵まで紹介

 梅雨の中休みの晴れの日は結構暑い。アスファルトの照り返しがさらに暑さを増加させる。平日の昼過ぎだというのに、若者が多い。日本は祝日ではないはずだ。なんだなんだと思いつつ遊就館へと向かう。
 券売機で券を購入し辺りを見回すと、やっぱりいつもより人が多い。学生服を着た人やカップルも多い。靖国をデートコースに組み込むことがトレンドなのか。
 それはさておき、入場券を機械に通しエスカレーターに乗る。仕事の前にとりあえずトイレに寄ったところ、きれいだった。掃除が行き届いていて入り心地のよいトイレだった。
 トイレを出たところに映写室があるのだが、そこで日露戦争の映画がやっていたので観に行き、結局最後まで観てしまった。やる気あるのかお前は、と一人突っ込みを入れつつお待ちかねの「日本の武の歴史」の展示室へと向かった。
 こじんまりとしたスペースには、鎧やら刀やら出土品やらが展示されているが、なかには複製品もちらほら。複製品を飾るなとは言わないが、どうせやるならホンモノを飾るべきではないか。中途半端というか、力が入ってないというか、それはそれで先人に失礼じゃないか。
 しかも靖国の神は英霊である。日本武尊とか織田信長といった明治以前の人物も祀られているなら鎧などが飾ってあっても不自然ではないが、祀ってあるはずはないので不自然だ。
 古いスタイルから新しいスタイルへの移行をわかりやすくするために、古代・中世・近世の展示をしたからといって、それが近代史の真実を明らかにする道にはならない。
 だいたい、カラーが違いすぎるし、この展示室の展示品と、第二次世界大戦の展示室にある血なまぐさい展示品には温度差がありすぎる。
 ひそかに江戸時代の展示もあるが、徳川は最終的に朝廷に征討されたのではなかったか。幕府についた人たちは戊辰戦争の、つまり英霊の朝敵じゃないか。何がやりたい遊就館。
 つまり昔はそんなこともあったけれど、それは過去の話ということか。日本人の美徳「過去のことは水に流す」を体現している博物館である。心が広いのかポリシーがないのかよくわからない。
 鎧や刀は歴史博物館に行けば見られるし、出土品は遺跡跡に行けば見れるのでいらないといえばいらない。というよりも英霊の歩んできた近代史を語る場と自分たちで言っているのだからあえて持ってくる必要はない。
 他の見物者は私のような疑問を感じているのだろうかと思い周りを見渡すと、10人程度いた皆はかなり真剣に見入っていた。
 彼らはこの展示に疑問を抱かないのだろうか。何も思わないんだろうな。それを当然のように自然に見ているのだろう。

■「出島」を飾る複製3セット

 ホールにはゼロ戦がおいてあって、映写室では『明治天皇と日露大戦争』というものすごいテンションの映画がやっているし、進めば進むほど血なまぐさい展示品満載なのにこの展示室だけローテンション。
 それもそのはず、第一展示室の「武人のこころ」に入ると二手に分かれるようになっており、第三展示室の「明治維新」へ進むと次の展示室へとつながっているのに対し、第二展示室の「日本の武の歴史」に行くと行き止まりでそこで完結しているのである。
 だいたい博物館というと、第一、第二と順番に見ていくのが定石だろう。第二だけ出島のような感じなのだ。江戸時代の鎖国政策を模倣したのだろうか。だとしたらかなりしゃれがきいてて感心してしまうぞ。といっても、必要性はやはり感じられないのだが。
 展示室は入って右手の古代から左回りに進んでいくのだが、出島状態などとあなどってはいけなかった。最初から期待を裏切ることなくかぶとと太刀の複製3セットが展示されている。せっかく出土品を飾っているのだから、複製品よりボロボロでもいいから出土品のかぶとを展示してほしい。
 お次は中世。2着展示してあるよろいのうちひとつは本物なのにもうひとつは複製品。胴丸や腹巻の説明書きがあるが近代戦争では甲冑は使っていないだろう。親切な説明だが、近代史の真実となんの関わりがあるのだろうか。
 本物あり複製ありと和気あいあいとした展示室だが、私の心を奪った展示品があった。室町時代の太刀備前長船盛光という刀だ。それのどこにひかれたかというと、寄贈者がポールというイギリス人だったからだ。別にポールという名に引っかかったわけではない(本当は少し気になった)。ポールさんはこの刀をどこで手に入れたのだろうか。
 わからない。必要性が感じられない。1882年に開館した遊就館は当初、武器などを展示していた軍事博物館だった。それから関東大震災や閉館の危機などを乗り越え今日にいたっているが、その間に軍事博物館として変わらずあり続けていたのならばそういった武器の展示があってもおかしくはない。
 ただ現在、遊就館が「英霊顕彰」と「近代史の真実を明らかにする」ということを掲げている以上、そこに主旨違いの展示を置くのはいささか不自然さを感じる。
 なんか変なのー、という思いだけを残し、他の展示室をまわったが、見物者が多かった。
 それにしても若い人が多い。このところ靖国がニュースとして取り上げられる機会も多いからとりあえず行ってみようか、ということなのだろうか。私も彼氏と来たいよまったく。
 そんなことを思いつつも、先へ進めば進むほど第一展示室の不思議さに拍車がかかっていったのだった。 (■つづく)

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靖国を歩く/第32回 靖国のひろみしゅらん(奥津裕美)

■月刊「記録」05年4月号掲載記事

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■独断と偏見で評価するのだ

 全国の記録『靖国神社』ファンの皆さまご無沙汰しております。久しぶりの靖国です。久しぶりなので、新米編集部員を連れて取材へ行って来ました。
 世間にはレストランに行って批評したり格をつけたりする本やテレビ番組が多く存在する。2003年にはフランスのミシュラン社が出している格付け本が原因で自殺した料理人がいるそうで、たかだか星くらいで死ぬなよ……といいたいところだが、料理人にしてみれば「客足が途絶える=店が潰れる」ってくらいの脅威なのだろうから仕方ないのか。
 といっても食べるのは人間だ。嗜好もさまざまあるわけだから、この人にはおいしくてもあの人にはまずいとなるはず。だから格付けする意味がどれだけあるのかと思うのは私だけだろうか。日本版もあるザガット・サーベイとか、OL(なぜか丸の内あたりが多い)の口コミももてはやされてもいるけれども、同じ理由で信頼できるとは限らない。
 それでも格付けしたくなるのは人間の性なのか、いろいろと格付けやランク付けしたものが、食べ物に関わらずいろいろあるのはたしか。ランキングを売りにした店まである。
 私はランクやら格といった権威傾向のあるものは好まないのでどうでもいいし、ついでに食べ物にも執着ないというか、どちらかというと食べること自体どうでもいい部類に入るので、今回の企画じたい自分のポリシーに反する。にもかかわらずやってしまった食べ物企画。それもうまいのかまずいのかは編集部の独断と偏見のみ!

■居酒屋チェーンが作る海軍カレー

 さて、新米編集部員を連れて行ったのは、遊就館内にある軽食屋と、参道の売店。取材前恒例の参拝を終わらせ、まず行ったのが、遊就館内にある「茶寮 結」。
 茶寮と名づけているだけあってデザート類、飲み物類は豊富だった。
 茶寮なんだから飯もうまいだろうな! と鼻息荒く店内に入ったところ清潔感漂う店内。ホワイト&ウッディーで統一され、ガラス張りの店内には陽の光が入っていて清潔度5割増! 
 冠に「茶寮」とついているが、見たところ博物館のレストランをもっとさわやかにした感じだけの店内。日本の博物館のレストランは暗いし、やってるのかやってないのかわからない感じのところが多いが、さすが遊就館! 喫茶店まできれいだよ。金をかけただけあるなと思いながら、カウンターへ行く。
 ちなみにここは、カウンターで料理を注文してから席に座って料理を待つシステム。そして驚くべきは、すべての商品がテイクアウトOKというありがたいのかありがたくないのかわからないサービスがある点だ(゜⊿゜)。
 せっかく靖国なんだからレトルトでもおなじみ海軍カレー(680円)を注文したいところだが、私は子どもが大好きなメニュートップ10に必ず食い込むラーメンとカレーが苦手なので連れにカレーを食べさせ、自分は稲庭うどん(500円)を頼み、飲み物は麦茶(250円)。それと前から気になっていた古代米のちまき(250円)と意味のわからない名前の横須賀ドッグ(300円)を持ち帰りにしてもらった。
 カレーは、昔風と現代風の2種類。昔風よりせっかくカレーなんだから海軍風とインド風くらいにしてくれないとインパクトに欠ける。現代風のカレーはカレーショップに行けばいくらでも、現代風どころか変わり種まで食べられる。
 日本海軍は日本海海戦快勝以外にも、実は料理でも有名なのだ。何せテーブルマナーまでもが海軍軍人としてのたしなみとして行われていたくらいなのだから。
 さて、そのカレーだが、レトルト温めただけだろう……と思ってしまうほどのしょぼさ。具は、人参、じゃがいも、玉ねぎ、牛肉、付け合わせにしば漬け。
 食べた本人談は、「見た目は学校の給食並みですね。味は、カレーというよりシチューっぽい」。
 それではカレーじゃないじゃん! という突っ込みをしつつ、カレーを売るのならば、遊就館の中にある食事処であることを考え合わせても、料理にもっと気合いを入れていただきたい。それくらいしないと海軍の英霊も、そして一緒に軍艦に乗っていた牛の霊も浮かばれない……と思っていたところ、カレーに説明書きの紙がついていた。
「海軍カレーについて 当店の海軍カレーは、明治四一年九月に発刊された海軍割烹術参考書のレセピーに基づいて、その時代の味を忠実に再現しております。思い出の味を、または心の歴史の旅をどうぞお楽しみくださいませ」と書いてある。
 なるほど、この説明書きと目の前のカレーを合わせて考えてみると、当時のカレーは今でいうスープカレー、ルーの量より水の量のが多いカレーだったということだろうかと、自分を無理やり納得させる。
 この店をプロデュースしているのは、居酒屋チェーンでおなじみの大庄グループというところである。うーむ、居酒屋グループがやっているのだから、メニューやレシピに基づいてカレーを作ったとしても居酒屋臭さが残ってしまうのは仕方ないと考えるべきか、靖国という場所柄にも関わらず、居酒屋グループに店を任せてレトルトを温めただけのようなカレーの提供を許可すること自体いかがなものなのか、と考えたほうがいいのか頭を悩ませつつ、外の売店へと向かった。
 なお稲庭うどんと麦茶は可も不可もないので割愛。

■店員の殺し文句で採点は激アマ

 参道の売店では、おでん(550円)、甘酒(250円)、ソフトクリーム(200円)を購入。
 おでんの具は、卵、こんにゃく、こんぶ、大根、ちくわ、ゴボウ巻きである。おでんを食した編集部員のコメントは、「おでんおいしい。大根、昆布、卵が特においしい」だった。
 ここのおでんは以前も食べたことがあるが、とにかくうまいのは確かだ。新橋のガード下でオヤジが熱かん片手に食べていてもおかしくないほど(この表現だとうまいのかどうかわからないが)のいかにも屋台然とした正統派のおでんの味とクオリティーである。 
 なぜここまで手放しにほめちぎるかというと、おいしいのは確かだが、「お姉ちゃんかわいいからおまけね」と言われたからである。かわいいの一言でここまでほめちぎるか! と料理評論をしている人から何か言われそうだが、いい食材を使って、最高の料理人が調理すれば美味しいのは当然。しかし、おでんはあり合わせのものを突っ込んで出汁で煮込んでしまえばできあがりのチープな、昔からある日本特有のジャンクフードでもある。
 だが、このおでんも出汁がまずければ、ただのまずい野菜のごったに煮になってしまうという諸刃の刃をもった食べ物でもあるのだ。食べ物は安いからまずいわけでも、高いからうまいというわけではない。食べ物のおいしさは、料理人の情熱、パッションが重要なのだ! と、ただ「かわいい」と言われただけなのにすごい熱弁をしてしまった。これでは、普段かわいいと言われていないと誤解されてしまう。それは困る。
 熱くなった私を冷やすのはソフトクリームしかないと、寒空の下の中、甘酒を片手に食べる。何ともおかしな食べ合わせだが、お構いなしに食べる。ソフトクリームというと、濃厚さを売りにしたものが多いが、靖国のソフトは意外にもあっさり淡泊。子どものころスーパーの売店で食べたことがあるような薄味が大好きな私は気に入った。
 売店の店員は全員おじさんだったが、ソフトを絞るオジサンは、いかにも慣れた手つきで器用に巻いていく。毎日やっていれば上手になる。何事も継続が大切なのだ。継続は力なりということで、この連載も続けていけばやがて本になるだろう……頑張っていこう! という力を売店のオヤジからもらった(だからどうした)。

■英霊もビックリの横須賀ドック

 もらったのはいいが、いい加減外は寒いということで編集部に帰り、テイクアウトした古代米のちまきと横須賀ドックを食べる。
 古代米のちまきだが、古代米って黒いのね。そして、もち米のようにモチモチしてるのね。知らなかった。白米よりもち米が好きな私は、この口触りが気に入ったが、編集部内で論議になったのが、味である。
 古参編集部員のコメント「独特な味付けは古代米だね。でもこれニンニクか何かはいってない?」
 デザイナーのコメント「古代米と豚肉のミスマッチが意外といける」。
 豚肉も入っていたせいもあるが、豚臭い。中華風といえばそこまでで、ちまき自体も中国が発祥の地(飲茶のメニューにもあります)なので納得はいくが、それにしても豚臭いし、脂っぽい。もう少しあっさりしていれば、また食べようと思うのだが。編集部内では意外と好評だった。
 さて、名称が意味不明な横須賀ドッグだが、正体はただのアメリカンドックだった。
 あまりにも普通すぎてコメントは特にないが、ソーセージが安っぽくないところはいい。ペッパーがきいていて、なかなか。
 だが、ここで問題が浮上。靖国で、アメリカンドックを売るのはどうなんだ?
 アメリカンドックじゃまずいから横須賀にしたのか? でも、横須賀とついても見た目はアメリカンドックだぞ。今は仲が良くても、昔は鬼畜米英といって敵対していた国の名称を使った食べ物を売るというのは、本末転倒というか、あまりにも適当すぎやしないか。
 英霊はどう思っているんだ。と思わず吠えてしまったが、戦後60年たち、戦争体験の語り部たちも減っていき、というか21世紀に入ってあまりたっていないというのに、世界各地で戦争が起き続けているという、「歴史は繰り返す」という言葉通りの世界情勢だが、結局は何事も新世紀になればすべてはご破算になり、ゼロからの再構築をはじめても問題は何もないということなのだろうか。
 歴史から何も学ばず繰り返される歴史。当時の日本と違うのは、鬼畜から友好、憧れの国アメリカとなっただけで、本質的な日本の体質はなにも変わっていないのだということを、この横須賀ドッグが証明したといってもおかしくはなし、敵国として対し、散っていった靖国に眠る英霊の誇りを一気に台無しにしてもいる。
 まぁ、そうはいっても筆者はアメリカンドックが好きなんですがね。あの甘い衣としょっぱいソーセージのハーモニーがたまらなく私の胃を刺激する。
 珍しく刺激されたせいか、その夜は原因不明の消化不良を起こし、深夜に吐いてしまいましたとさ(/o\)  (■つづく)

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靖国を歩く/第31回 ザ・みたままつり(奥津裕美)

■月刊「記録」04年9月号掲載記事

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 今年も行って参りましたみたままつり。
 昨年も一人だったけれど、今年も一人祭り会場へ。しかし、今年は少し違う。いろいろと取材をしてきたおかげで、かえって開き直り精神がでてしまい、気にならなくなってしまったのだ。
  「なんで一人で祭りなんかに行かなきゃならないんだー!」という心の叫びなんてどこへやら、「今日見逃したら明日はやらないかもしれません」という甘い誘い文句にのせられて見せ物小屋へふらふら入ってしまった。
 最大の目玉が体に針金を通す演目なのだが、前もって針金を通す部位に穴を開け、そこにチューブを設置しておき、そこに観客が針金を通すというものである。
 以前に、ドカン型ピアスを開け、向こう側が見える状態の耳だった私にはちょっとつまらなかった。針金を通すことくらいできる。
 参道にはあいかわらず出店も多いし、カップルも多い。祭ってこんなものなのか。お腹はすくが、お金はない。
 隣に彼氏でもいれば、「あれ食べたいー」と言えば、お腹くらいは満たせるんだけどな……と思いながら歩いていると、まさに私がやりたがっていることを代行してくれているありがたいカップルがわんさかいた。舌打ちをしつつ、それを横目に目的地へ急ぐ。
 さて、今回見にいったのは大提灯とかけぼんぼりである。参道の途中から黄色の大きな提灯がぶら下がっており、それが神門手前までかかっているのである。
 それには奉納した人の名前や企業名が書かれていている。その総数は約2万5千個以上。とにかくものすごい量なのだ。
 手前から遺族、神門に向かって靖国にまつわる組織や企業、国会議員と続く。
 遺族や縁故者は個人であるから省くとして、組織やら国会議員の提灯を見ることにした。
 国会議員枠の一番上は、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」という提灯、その下にそのメンバー名の書かれた提灯がぶらさがっている。
 それにしても、この会の名前は抜群のセンスだ。「みんな」というところに、日本人特有の感覚を匂わせているし、日本を動かしている偉い人たちが「みんな」と使っているところがとてもキュートである。
 奉納している議員をちょっと挙げると、小沢一郎、青木幹雄、中川昭一とよく聞く名前のなかにひっそりと、鈴木宗男の名前もあった。
 さらにみていくと驚くべき(そこまで驚きじゃないけど)名前があった。毎年、参拝に行っては物議をかもし、意味不明な言動を繰り返す首相、小泉純一郎と書かれた提灯があるのだ。
 公式参拝に反対する人は、参拝だけを批判するのではなく、この提灯を奉納していることにも目を向けるべきなのではないか。奉納しているということは、参拝しているのと同じようなものだし。
 この提灯の中で、注目されていたのは、小泉純一郎提灯と、鈴木宗男提灯の二つだけだった。政界のドンと呼ばれる人たちの提灯があったとしても、若者たちは一切関心を示していなかった。
 企業系の枠をみると、「おやじ」という提灯があった。……おやじ。なぜか、山本譲二が北島三郎のことを呼んでいる姿を思い出してしまった。
 提灯に書かれている名前を復唱しながら歩いていたのだが、「……グアム、シベリア、トラック諸島……」となんか聞いたことある名前だな、と不思議に思ってその提灯一帯を見回すと、硫黄島、ガダルカナル、フィリピンと日本がかつて占領した国や島ばかり並んでいることに気づいた。 

 さりげなく飾られていたから気づかなかったが、その多くが激戦地だったことを考え合わせると「これもいいのかなぁ?」という感じである。大提灯の奉納って何でもありなのだろうか。靖国といえば、世界の紛争や戦争で亡くなった人たちを慰めるために作った鎮霊社があるが、リベラルっぽく見えて、何かをごまかしているようにも見える。
 なにが良くて、なにが良くないことなのか、世間一般で言われている戦争についての事柄を靖国に当てはめようとするのは、実は非常にナンセンスなことなのではないかと思う。靖国には、擁護派・反対派・中立派を超越した独自の思想があるのではないか。
 そんなことを思いながら眺めていたのだが、ふと、島の名前が書かれた提灯が、バカンスにもってこいのリゾート地の宣伝を見せられているような感じがして、なんだか滑稽に思えてしょうがなかった。そう、かつての激戦地は今やリゾート地なのである。
 場所を移して、神社内には著名人が書いたかけ提灯が飾ってある。昨年のみたまでも少し触れたが今年もなかなか楽しいものがあった。
 特に私の心に響いた二つを紹介すると、横綱朝青龍のかけ提灯。提灯は半紙のような紙にメッセージや絵を描いてサインをするというのがほとんどなのだが、朝青龍は違う。
 ど真ん中に名前が書いてあり、その右横に「国,」と書いてある。その下の点はなんなのだろうかとその字をよく見ると、くにがまえの中が玉ではなく王になっている。ここで謎が解けた。きっとその点は、玉のてんで、外に出すことによって遊び心を出したに違いない。お茶目さ爆発でいいのではないか。

 さて、もう一つ。プロレスラー橋本真也のかけ提灯だ。筆で力強く「破壊 創造 誕生」。サインは、「破壊王橋本真也」である。創造、誕生はいいけど、破壊はどうかと。
 でもまだ破壊だけなら、そのあとにつづく文とマッチするが、破壊王は……。靖国には撃墜王は眠っているが、破壊王は眠っていないし、ちょっとまずいのではないか?!
 大提灯やかけ提灯をみて、改めて靖国の懐の広さを思い知った。やっぱりこの神社は、いい意味、悪い意味を
含めて他とは違う神社なのだ。私が惹かれるのはきっとそういうところにあるのかもしれない。

■独特な神社靖国

 それにしても祭りは平和な行事だ。浴衣を着て、焼きそばを食べ、盆踊りを踊る。そういった楽しいことを楽しいこととして享受できるのは、平和という土台が成り立っているからである。
 「平和、平和」と念仏のように唱えている割には、平和にあぐらをかいているように感じるし、本当に平和が欲しいのか?  というような行動が目立つ。
 この矛盾加減がよくわからない。この連載でよく、「意味がわからない」「よくわからない」と書いているが、そのわからなさは靖国という深みにはまればはまるほど増していくのだ。
 毎月、靖国の原稿を書き、靖国に参拝し、靖国に関する本を読み、靖国とはこういう神社だという固定されたイメージではなく、なんとなくこういうイメージというのはある。
 世の中には、靖国を好む人、嫌う人がいるし、靖国にまつわる出来事に明るい話題はほとんどない。外交問題が絡むこともしばしば。社格が高いとか、祀られているのは神ではなく人間だということは置いておくとしても、やはり特殊な神社であることには違いない。
 ただそれは政治、外交、歴史などマクロの視点で靖国をみるから、話も大きくなるし、面倒なこともたくさん起こってしまうのであって、個人レベルで靖国を考えると、ただの神社であり、それ以上でもそれ以下でもなくなる。参拝する、祭りに訪れる人がどのようにとらえるかで変わってくる。
 日本に忠義を尽くし散っていった英霊たちに感謝をしろ、というのも悪いとは思わないが、「みたまとか、お盆てよくわかんないけど、祭りって楽しくない?!」というスタンスでも十分よいと思う。
 祭りはすごく楽しいものだが、それと同時にいろいろなことを考えさせてくれたり、気づかせてくれたりする大切な行事なのだろう。
 魂が帰ってくるというのは、こういうことなのだろうか。 (■つづく)

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靖国を歩く/第30回 零戦と特別攻撃(奥津裕美)

■月刊「記録」04年8月号掲載記事

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 遊就館の入り口付近に戦車や軍機の模型が展示してある。私は地面を行く戦車よりも、空を自在に飛び回る戦闘機の方が好きだ。
 軍用機で一番有名なものといえば、零戦だろう。名前に零が入っているところが無敵そうな印象だ。0にどんな数字をかけても0になるという最強の数字が名前に入っているのだ。
 しかし、すべてを失敗してしまうと0になってしまうから最悪な数字ともいえる。そんなどちらの意味もある零がついた零戦とはどういうものだったのだろうか。
  『武器・兵器でわかる太平洋戦争』(日本文芸社)によると、正式名称は、「零式艦上戦闘機」。皇紀2600(1940)年に正式に採用され、零式の零は2600の後ろをとってつけられた。
 艦上と書いてあるのだから、海の上から飛び立ったのかと思ったら、中国の陸上から飛び立ったのが初めての仕事だったそうだ。
 中国が日本に占領された南京から重慶へ政府を移転させたことによって、そこへの爆撃を爆撃機によって繰り返していたそうだが、護衛に当たるべき戦闘機は当時漢口にあった日本の陸上基地から重慶まで(片道900キロ)を往復するほどの力を持ったものがなかったのだ。
 爆撃機は空を飛ぶ乗り物だけれど、飛び続ける力がなければ、特攻兵器と同じようなものだ。ましてや戦闘機の護衛なしだったそうだから、とりあえず爆撃しにいって、帰れなかったらその時はごめん、そんな感じだ。
 だからこそ長時間飛んでいられる飛行機が望まれたのだろうが、だったら最初からそこにポイントをおいて作ればいいのに、と思ってしまう。
 1940年にデビューした零戦だが、陸上から飛んだことに続いてまた一風変わった話が続く。
 味方機の被害が大きいからという理由で、とにかく早く航続力の長い戦闘機を待ち望まれた海軍は、試作機の段階で前線に送り込んだのである。すごいよな。
 そうとう焦って出したとしか思えないが、日本の戦闘機技術がすごいというイメージがあるのは、長時間の飛行にもびくともせず、空中戦で敵機27機をすべて撃墜させ、さらに味方機の損傷がなかったというところにあるのだろう。
 そんな零戦もデビューから4年あまり経つと、栄光も過去のものとなって、特攻機へと墜ちていった。
 せっかく素晴らしい戦闘機として華々しいデビューを飾ったにもかかわらず、戦局が悪くなるにつれてだんだんと突っ込むだけのの悪あがきの道具としか扱われなくなってしまった。切なさを感じるが「仕方ない」だけで片づけてよいのだろうか。

■防御を省いた設計思想

 零戦が「よりよいもの」を目指して作られたのは間違いない。ちなみに製作したのはあの三菱である。
 製作の思想は次の通りだ。
 まず「より速く、強く、遠く」を追求する。これはどんな軍用機も共通しているが「速く、遠く」の実現のために重くなる装備は省かれ、それだけではまだ甘いということで、「肉落とし」と呼ばれる作業を延々と繰り返し、さらに安全率の基準も見直し、主翼部分に超々ジュラルミンという名の新素材を導入などかなりこだわって作られた。
 戦闘機というより、「こだわりの逸品」という印象だ。ただし豪華な盛りつけではなく無駄のなさが第一である。材料に使う素材はすべて一流だが重量のかかるものは除かれ、調理も一流の料理人が丹精込めて作ったには違いないが、あくまでも無駄を省いた「こだわり」である。
 そこまで執拗にこだわった結果として、試作機段階で前線に送り込まれてもびくともせず、見事な初仕事をやってのけることができたのだから、これは技術者の努力のたまものということだろう。
 この技術者の姿勢からとれるのは、当時の日本の技術力や技術者の腕というのは世界でトップクラスなのではないかということだ。
 だがここで重要な問題が浮上する。「強く」が実現できない点だ。料理で例えればダイエットには最適だが満腹にならない。とくに防御が「無駄」の概念に入っているのが重要だ。いくら「速く、遠く」ても弾がかすっただけで墜落するようでは戦闘機の役には立たない。
 この問題は「防御はパイロットの腕でカバー」で解決しようとしたのがもう一つの設計思想だ。日本の熟練パイロットの技術は極めて高く、体が欧米人よりも小さいことも幸いした。アバウトな発想ではあるが、デビュー戦で味方機がやられてないということだから、当初は通用したのだろう。
 相手国の油断も幸いした。真似っこしかできなかった日本が零戦のような戦闘機を作るなんてことは、アメリカもイギリスも考えていなかったらしく、「日本の飛行機技術がすごい進歩している」という話は、うそっぱちか誇張として受け取られていたそうだ。ずっと模倣を続けていればそう思われても仕方あるまい。
 だから真珠湾攻撃で日本の航空力を見せつけられたときはそうとう焦っただろう。「Oh! My god!」なんて言っても遅い。

■成功から何も学べなかった日本

 機体は「速く、遠く」を追求し、「強く」はパイロットの腕次第というテクノロジーと人力を組み合わせた奇妙な戦闘機である零戦の弱点は結局はこの奇妙さに内包されていた。熟練のパイロットだからこそ、防御機能が整っていない零戦を乗りこなせて、さらに敵機を全滅できたのであって、未熟なパイロットでは零戦を乗りこなすこと自体不可能だからだ。
 航空機による攻撃は軍艦同士がぶつかり合う「艦隊決戦」を上回るという教訓は日本自身が真珠湾以来の作戦で証明してきた。勝ったのは航空機であって戦艦ではないのだ。このことを気付かされた米英は以後優秀な軍用機製作に力を入れていくことになる。
 ところが戦艦が強いというのは昔の話だと教えた側の日本は相変わらず日露戦争での日本海海戦で戦艦で勝っちゃった成功体験を引きずり、艦隊決戦を主軸から外すことはなかったから不可解である。人は失敗から学ぶことはできるが、成功からは学ぶことができないのだろうか。なぜ緒戦の勝利で軍用機のさらなる開発と人材育成を手がけず戦艦大和を作って喜んでいたのか。航空兵力の成功から学ぶ代わりに「あくまでも緒戦は緒戦。いよいよ本番がくれば日本海海戦並みの艦隊決戦だ」と思いこみがさらに増したと分析したほうがよさそうだ。
 そうでもなければ転換点となった42年のミッドウェー海戦で海の空港である航空母艦を丸裸同然で先導させたりしなかったはずだ。同海戦では日本が誇る本格空母6隻のうち4隻を失った。空母が消えればパイロットも帰る先がない。かくして一挙に熟練パイロットを失った日本は「強く」の要件を欠くこととなった。

■名機と人命を無駄にした特攻

 機械は流れ作業で作れても人が技術を習熟するのは時間がかかる。かくして大戦後半の零戦は未熟なパイロットが乗り込むしかなくなった。
 私は合理的なことが好きなので、合理的とは思えない特別攻撃のことを見るたび疑問符がついて回る。戦闘機は戦闘するための飛行機だし、兵隊もまた戦うための力であって、どちらも突っ込んで一緒に死ぬためにあるのではない。しかも命を捨てても戦果はあがらない。日本軍の状況と思想を考えれば、自爆テロ・特別攻撃をやりたくもなるだろうが、しょせんは不合理かつ意味のわからない行動であり、それをやるくらいならさっさと白旗をあげればよい。結果的に負けてしまうのは明白だというのがわかっているのであれば、なぜそんな悪あがきとしか思えないことをしたのだろうか……。
 作り手だって、そのようなことを望んで作ったわけではないだろうし、零戦だってそうだろう。機械だから「いやだー」とはいえないが、もし感情があったらそう思っているかもしれない。
 零戦は名機である。だがいくらいい機械でも、パイロットの腕が追いついていかなかったら、せっかく全勢力を傾けてつくった作品もただの宝の持ち腐れになってしまう。
 ただ前述の零戦の製作思想をたどってみると次のような仮説が成り立たないだろうか。
 まず「強さ」はパイロット次第という点は変わらないし変えようもない。かつては熟練で補ったが未熟な者では技術で強さを証明することは無理だ。
 じゃあどうするか。戦争の終盤には材料も底をつき始め鍋まで出させるような状況になってしまったので新しい飛行機など作れない。そこで熟練でなくても人の目で最後まで敵に接近して自爆すれば、つまり未熟者でも自爆によって人も一緒になって突っ込めば熟練に近い仕事ができるかもしれない。そう思ったのではないか。「お国のためなら命を捧げることもいとわない」という思想ががまかり通っていた時代だから、特別攻撃をやるということが起こってもなんら不思議なことではない。
 また「精神には物理的な力がある」という日本特有の発想が後押ししたともいえる。自ら神風(神の風だよ)と名乗ったのは象徴的だ。きっとすごい説得力があったのだろう。だから神風とつけたり、志願者が出てきたりということが起こったのかもしれない。
 しかし、これは思考停止だ。にらみつけてもタバコ1箱さえ動かせないし、ましてや台風(神風)など人力で起こせるはずもない。何でそんなことがわからなかったのか。
 その思いこみによって、特別攻撃に限らず沖縄戦での犠牲者、長崎・広島の原爆犠牲者が多数でることにつながったといっても過言ではないだろう。靖国の英霊も少なくすんだよ。二百四十六万余柱って想像つかないよ。
 勝ち戦を信じて戦いを始めた日本軍だから、負けが込むにつれて焦ってきたこともあろう。だが材料がつきてきたのは精神力が足りないのではなくて単に無駄なものを作りまくって、どこに重点を置くかを考えていなかったからだろうし、腕のいいパイロットが少なくなったのは、パイロットをないがしろにしたからだ。
 結局戦争とは私でも普通に思いつく単純な合理性さえ失わせる営みだというしかないし、何も生み出さない戦争をすることもわからない。世の中わからないことだらけ。唯一わかることは、犠牲者がたくさん出るということと、疑問符がたくさん出てくるということだ。
 兵士と兵器を無駄遣いする特別攻撃というのは、はたから見ればイラク戦争と同じようにどこに大義があるのかも、非常に理解しにくい攻撃方法なのだ。 ((■つづく)

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靖国を歩く/第29回 靖国にバリアフリーは必要か?(奥津裕美)

■月刊「記録」04年7月号掲載記事

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 九段下駅1番出口を出て、九段坂を上っていくと田安門前という交差点にたどり着く。そこの横断歩道を渡ると、社標やら狛犬やら石灯籠が立っている坂がある。その坂を上った先にどっしりと構えた大鳥居があり、それをくぐると参道につながる。それが靖国への道だ。
 靖国へ行くと高齢者の参拝客が多い。靖国に限った話ではないが、多い。緩やかとはいえ、あの坂を上るのは結構きつかったりするのではないか。毎日パソコンにかじりついている慢性的な運動不足の私は、坂を上るたびに「きついー、疲れたー」と一人ブツブツ、はぁはぁ言いっている。
 若い私がそうなのだから、体力が若者よりも落ちている高齢者はもっときついのではないだろうか。もし「きつい」という声が多ければ、なにか策を練る必要がある。
 そこで今回は、靖国へ向かうあの坂は高齢者にとってきついのか。そしてきつかったとしたらどうすればいいのかを考えてみることにした。
 そもそも、なぜ坂の上に靖国を建ててしまったのだろうか。九段に建立しようと提案したのが毎度おなじみ大村益次郎であるが、彼はなぜそこがいいと言ったか。
 坪内祐三氏が書いた『靖国』(新潮社)によると、九段以外に上野も候補地としてあがっていたのだが、益次郎は九段下がいい!と主張。方位学でみても最高!の場所だったらしいが、上野は「亡魂の地」だったため候補地から外されたという点も大きかったようである。
 新たに魂を祀るのに、その地に違う魂がうようよとさまよっている場所は適所ではないだろうし、第一、上野のさまよえる魂といえば、益次郎が壊滅させた彰義隊たちのものだ。
 そして九段坂や三宅坂に付近には陸軍省、参謀本部、憲兵本部などの軍部中枢機関が集中し始めており、靖国建立の目的とも非常にマッチする。
 戦争殉難者を祀るための施設という大義のある神社だが、その後の利用のされ方を見ていると、政府というより軍部の威厳を誇示するアイテムとしての靖国神社と変化しているので、軍として近くに置いておくことは非常に都合が良く、利用しやすいということを見越して、九段という地を唱えたのではないだろうか。
 また、東京は山の手と下町というまったく趣の違う地に分けられる。その二分のされ方はわかりやすく、東京の西北の台地に武家屋敷が並び(山の手)、東南の低地に町人が住んでいた(下町)そうだ。
 そしてさらに興味深いことに、靖国神社は山の手と下町を分断する境の山の手側の高台にあり、そこから下町を見下ろしているとい図なのである。
 山の手は薩摩と長州からなる明治政府高官が住む新興住宅地であり、帝都・東京を「支配する側の視線から」眺め、再構築しようとするもくろみの象徴的空間として据えさせたというのである。
 靖国神社はやはり普通の神社ではない。
 今は緩やかな九段坂だが、『ようこそ靖國神社へ』によると、「大変な急勾配で、むしろ絶壁に近かった」そうである。緩やかになったのは関東大震災後の改修工事後のことらしい。
 現在は道路が整備されているから高台と低地に差があっても、そこまで不便でもなければ気にならない。しかし江戸から明治に変わったころは区画整備なんてされていないし、これから着手といったところであろう。
 絶壁に近かったといわれてもそれはそうだろうな、と妙に納得してしまった。
 高台から見下ろす、境にあるといいつつも山の手側と庶民寄りどころか政府寄り。テーマパーク化しようとしたり、靖国においでとポップなCMをキャッチーな曲に乗せて年末年始にCM流したりと庶民派をアピールしている靖国だが、元をただせば国の都合のいいようにして建てられた神社なのだ。
 靖国に祀られている英霊がどかんと増えたのは、第二次世界大戦後である。戦後60年近くたっている。
 靖国に夫、恋人、息子が眠っている方々は高齢者が多数である。くしくも現代は高齢化社会からさらに進化し高齢社会なのである。駅にはエスカレーター、エレベーターの設置はもちろん、ノンステップバスなるバスが走っていたり、バリアフリー住宅も増えている。日本はどんどん「高齢者に優しい国」と変化しているのである。にもかかわらず立地条件が良くない靖国。庶民派ではあるが、高齢者にはあまり優しくない靖国。
 しかしそれとは対局の場所がある。
 巣鴨の地蔵通り商店街だ。
 商店街にもさまざまなタイプがある。私の知っているところだと、横浜市保土ヶ谷区にある「どんどん商店街」というのは非常に道が狭いし、坂になっている。地元の商店街も坂はあるし車は走るしと、不便。
 だが、やはり「おばあちゃんの原宿」だけあって入り口からずっと平らでまっすぐの道が続いているのだ。
 道を歩いていても、車いすを押している人、杖を持って歩いている人、それにベビーカーを押しているお母さんたちが多かった。
 商店街入り口からお目当てのとげ抜き地蔵までの道のりは結構長い。もしその通りが坂道だったりでこぼこ道だったとしたら、そこを歩くおばあちゃんたちはとてもじゃないが大変だろう。
 それに商店街ということで店が多い。坂だったらゆっくり買い物もできない。毎月4のつく日は縁日が行われるが出店どころではない。食事もできないではないか。 靖国にもみたま祭りという立派な祭りがあるが、靖国の参道は道が長いだけでまっすぐの道が続いている。大村益次郎を囲んで盆踊りができるんだぞ。
 お年寄りが集まるところはお年寄りに優しい街だからこそ集ってくるのである。
 靖国の話に戻して、靖国がある千代田区に九段坂のバリアフリー化について聞いてみた。
 区道全体のバリアフリー化は「あまり進んでいない」そうで、九段坂をバリアフリー化するとしたらどのようにするかと聞くと、「具体的にどうかといわれると……そうですねぇ……」と困りながらも考えてくれた。
 九段坂に限らず坂のバリアフリー化をしようという声はあるそうだが、具体的な策がないということは坂をバリアフリー化すること自体が容易ではないからということだろうか。
 平地ならば道路をなめらかにしたり、道路と歩道の段差を低くすることは可能だ。現に巣鴨の商店街は段差が低くなっていた。
 しかし坂道はやりようがない。やるといってもでこぼこの道を舗装し直したり、九段坂に限っていえば、地下鉄から出て坂をあがる道の真ん中にある木を別の位置にずらすといったことくらいしかできないだろう。
 よくよく考えてみると坂をバリアフリー化するのは結構難しいが、日本には坂がたくさんある。坂天国日本。 今後ますます進んでいく高齢社会に向けて坂道のバリアフリーをどうしていくか考えていく必要があるはず。 さて、紙面で九段坂のバリアフリー化が必要だ!と勝手に叫び書いてきたものの、本当に必要なのかという疑問をはらすには、高齢者の声を実際に聞かなくてはならない。

■タフな高齢者は平気だと……

 そういうわけでさっそく取材へ向かった。社標がある坂の中腹で待っていたところ、杖をついた男性が坂を下ってきたので聞いてみたところ、「いやー、気にせずに来ちゃったよー。あまりきつい感じはしないね」とのことだった。さらに「これからまた、裏に回ってまた上るよ」とはっはっはっ、と笑いながら答えてくれた。
 その前に取材した男性は「きついねー」と言っていたので、そういう答えを期待していたが、肩すかしを食らってしまった感じだ。
 さらに女性が上ってきたので聞いてみたところ、「いつも上ってるからもう慣れちゃったわ」とさっぱりと答えてから、さっそうとその女性は上っていった。
 ちょっと足を引きずるように歩いてきた男性に話を聞いてみたところ、「1年に1回しか来ないけど、運動になっていいよ」という感想。ちなみにこの男性は86歳なのだそうだが、日々身体を動かしているのだろうか、とても若くはつらつとしていた。
 大鳥居で休んでいた杖を所持している男性にも話を聞いてみたところ「平地よりもこれくらいの坂があったほうがいいよ」とこれまた元気に答えられてしまった。
 事前の予想では「きつい」という答えが多く返ってくると踏んでいたのだが、いざふたを開けると逆の答えのが多かった。
 しかしとても気になることがある。いつも来ていれば坂に慣れてきつさは感じなくなるかもしれないが、一年に一回や初めて来た人は九段坂に慣れていないはずだ。 彼らの「きつくない」は本音なのだろうか。1939年に発表された『九段の母』という曲に「上野駅から 九段まで~杖をたよりに 一日がかり」という歌詞がある。 そのころは地下鉄などない時代だから、上野から一日かけて歩いてきてもおかしくない。しかしそんな距離を歩いたら「疲れたわ」という言葉がぽろり出るはずだが、この曲にはそんなフレーズなは一切出てこず、それどころか「孝行息子をもって幸せだ」一色なのである。
 もし「靖国へ行くことを大変とか辛いとか思ってはいけない」という無意識の精神が今も働いているとしたら、そのような回答が続いても不思議ではないという考え方もできる。
 とはいえ、「疲れた~」が口癖と言っても過言ではない若者に比べれば、発言の真意がどうであれ「きつくない」ときっぱり言う高齢者のが元気なのである。
 高齢者が多く来るからバリアフリーが必要なのではないのかというのは、かなり余計なお世話であり、さらに間違った認識であったということにも気づかされた。
 取材の帰りに田安門前の交差点で信号待ちをしていたところ、靖国の入り口に一台のタクシーが止まり、中から高齢者の家族連れが降りてきた。
 そうなのだ。靖国へ参拝しに行くのに坂を上らなくてもよい方法があるのだ。タクシーを使えばいいのである。お金がかかるというデメリットはあるものの、タクシーを使えば、第一鳥居まえどころか神門近くまで乗っていけば歩く必要などなくなるのである。
 今回の企画では、元気でタフな高齢者がたくさんいたことに驚かされた。あれくらいの坂で「きつい」と言っている私は情けない。ワイルド&タフなおじいちゃん、おばあちゃんを見習って、私も明日からシャキシャキと、九段坂に限らず歩いていこうと心に誓った。

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靖国を歩く/第27回 奉納相撲とおすもうさん(奥津裕美)

■月刊「記録」04年5月号掲載記事

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 年に1回、靖国境内が力士であふれかえる。春季例大祭の一行事として、毎年行われる奉納相撲大会の日だ。 奉納相撲は、靖国以外に伊勢神宮、明治神宮の3社しかない。靖国で初めて行われたのは、その前身である東京招魂社が創立された1869(明治2)年。当時は3日間奉納されたようである。今は1日興行。100年以上続いていることになる。
 もっとも創立から数年後の明治10年代にはいると、野蛮な競技として排斥された。ちょうど欧化主義を広めようという風潮のまっただ中で「鹿鳴館時代」と呼ばれた時代だ。制度や思想などをヨーロッパ風にしようと必死なのに、まげを結った裸の巨漢力士達がぶつかり合うスポーツなどあってはならぬということか。
 相撲場の場所は神門を入り遊就館方向へ行ったさらに奥にある。本当に端にあるのだ。近くにお茶室があり、コイが泳いでいる池もある。ちなみに餌付けもOK!

■まわしと下がりに目が集中

 相撲場はちょっと狭いグラウンドのようなところにあり、奉納相撲の入場を6000人としているだけあって、かなり広め。国技館の土俵ほどではないがしっかり作られている。この相撲場は1917(大正6)年に、両国国技館が消失したときはその翌年から2年間、計4場所の大相撲興業も開催された。
 初めて生で相撲観戦をしてのありきたりな感想だが、やっぱりテレビで見るのとは迫力が違う。頭と頭、体と体がぶつかり合う音、取り組み前の力士の表情がみられる。それが生の醍醐味なのだろう。
  「相撲を見るなら枡席がいいわ!でも高い……」という方には、年に1回それも朝9時からだが、奉納相撲はおすすめ。何といっても「無料」というのがこたえられない。ただ地面の上にビニールシートが敷かれているだけなので、長時間座っているとお尻が痛くなる。常連と思われる見物客は、座布団や膝掛け、シートなどのグッズを持参していた。
 開催日の4月9日は平日にもかかわらず、若者が多かった。相撲人気は低迷気味と言われているが、会場を見る限りそれを鵜呑みにするのは早計かもしれない。
 前夜から九段下にある会社に泊まり込んでいたが、近いことをいいことに8時過ぎに出発。いつものように九段坂をあがって大鳥居をくぐり、売店へ立ち寄ったところ、いつもはサラリーマンや観光客でいっぱいの店内は、力士で埋め尽くされていた。なんだか圧巻。
 恒例の参拝をしたあと、相撲場へ向かう。入り口前に50人程度の見物客が並んでおり、外国人客も多かった。開場し、予定より5分早めに土俵祭が始まった。行司、審判(親方衆)、靖国の宮司が土俵の周りに座る。時間はだいたい30分ほど。土俵祭りは本場所では前日に行われるそうで、地鎮祭のようなものだ。
 終了後、練習。序二段、三段目、幕下の順で行われ、ウォーミングアップはしっかりやっておきたいという心意気なのだろうか、ひとり終わるごとに「次はオレとやるんだー!」という感じで、手を挙げ「ハイ、ハイ」とアピールしていた。
 奉納相撲では残念ながら、序ノ口の取組はなく、午前10時15分、序二段から取組開始。本場所では9時半から行われている。テレビで放映していないので、明日の関取を目指して頑張る姿を見れるのも生でみる楽しみだろう。
 相撲の楽しみといえば、ひいきの力士を作ること。いればますます楽しくなるらしい。有名力士でもいいし、まだ無名の新人力士でもよい。
 ちなみに私は特にいないが、強いてあげるとするならば、旭天鵬関と琴光喜関だろうか。思いっきり幕内力士じゃないかという突っ込みはなしで願いたい。
 地位が低いと、行司も若い。行司は格好も生地も簡素で裸足だ。力士のまわしも学生が締めていそうな素材。白ではなくオリーブ色だが、下がりはピンク、山吹、青、緑などの原色系。同系色の緑あたりならばさほど違和感はないが、ピンクや紫などの反対色だと、パンチがありすぎる。どうしても下がりにばかり目がいってしまった。
 取組になれていないのか、おどおどしている力士もいたが、中には熱戦を繰り広げる一幕もあり、地位が低いからといって、侮ってはいけないと感じた。
 三段目の終了後に第一アトラクションとして初切が行われた。力士と行司が相撲の禁じ手などの技を、おもしろおかしく見せるショートコントのようなもので、地方巡業や花相撲などで行われている。花相撲とは、勝敗が番付に影響されない興行のことで、奉納相撲もこの1つである。
 禁じ手は、①こぶしで殴る②頭髪をつかむ③目やみぞおちなどの急所を突く④両耳を同時に両手で張る⑤前ミツ(まわしの前の部分)をつかんだり、横から指を入れて引く⑥のどをつかむ⑦胸、腹をつかむ⑧一指、二指を折り返す、の計8つ。
 それ以外に、相手に塩を投げつけたり、行司が試合放棄して水を飲んだり、柄杓でチャンバラごっこのようなことなど、禁じ手以外にしてはいけないこともやっていて、白熱した戦いとはうって変わって、ドッと笑いと歓声があちこちからあがっていた。
 昼近くだったので、相撲場内の売店で弁当を買う。もちろん、幕の内弁当。弁当の値段は850円。幕の内弁当というと、いろいろなおかずが入っているが、靖国で売られていた弁当の中身は、鮭、エビフライ、唐揚げ、ちくわ天ぷら、卵焼きなど。コンビニエンスストアで売られている弁当よりはおいしかった。売れ行きも好調。
 むしゃむしゃほお張っていたら幕下の取組が始まった。その中でひときわ大きな歓声が上がっている力士がいた。彼の名は琴欧州関。ブルガリア出身、2メートルの長身力士で、現在20歳。
 このところ外国人力士が増えている。一番多い国は、横綱朝青龍関や私の好きな旭天鵬関の出身地モンゴル。他にも韓国、中国、ロシアなど計10ヶ国から来ている。 スポーツ雑誌「Number」(文藝春秋)593号の黒海関の記事でこのようなことが書かれていた。
  「強くなろう、頑張ろうという意志は誰にも負けない、と師匠の追手風親方も太鼓判を押す。一方で、この一生懸命さが最近の日本人力士に欠けていると嘆く親方衆は多い」
 彼らがめきめき力をつけ上がっていくのは、運動能力の差というよりも、強くなりたい、上にあがりたいという気迫の違いなのではないだろうか。
 相撲は、伝統や力士達のたくましい体躯、技を見せるものではなかろうか。日本の国技なのだから、日本人力士が彼ら以上の気迫、意地、技を見せなければ、いつまでたっても親方衆のその声はなくならないだろうし、人気復活の兆しはみえてこないのではなかろうか。

■取り組み後の力士も間近で見れる

 幕下が終わったあと、第二アトラクションの相撲甚句、第三アトラクションの櫓太鼓打分が行われた。両方とも初切と同じく花相撲でしか行われない催しだ。
 相撲甚句は、化粧まわしをした力士達が、力士の哀歓や各地の名所を「アー ドスコイ、ドスコイ」という掛け声と共に円になって唄う。
 唄ったメンバーは、安美錦関、玉乃島関、旭鷲山関他8人。練習しているのもあるだろうが、そろいも揃っていい声で上手い。
 櫓太鼓は、寄せ太鼓(親方衆を集めて話し合いを行うときに叩く)、一番太鼓(若者集の練習の合図)、跳太鼓(さよなら、また今度という意味で叩かれる。見事なばち叩きが冴える)を実演。
 相撲は国技としてのスポーツだけでなく、こういった娯楽的要素も入ったエンターテイメントなのだろう。
 それから幕内土俵入り、横綱土俵入りと続き、幕内以降の取組。
 ロボコップの愛称でおなじみの高見盛関が出てくると、ものすごい歓声と拍手の嵐。思わず携帯電話のカメラで動画を撮ってしまった。残念ながら貴ノ浪関が勝ったが、土俵から下がっても拍手が鳴りやまなかった。彼の人気ぶりがうかがえる。
 結びの一番は、横綱朝青龍対大関千代大海。途中場外の様子を見ようと入り口へ向かったところ、付近のアナウンス席に朝青龍関がいたのだが、愛嬌ある笑顔を振りまき、勝負前の鋭い眼光とは対を成していたのが印象深かった。
 彼の強さはやはり本物で、開始直後ヒヤッとする場面はあったものの、安定した力で千代大海を破った。
 私はまだ国技館で相撲を見たことがないからわからないが、取組後のリラックスした力士の姿やうろちょろ歩いている姿が見られるのも奉納相撲、花相撲ならではでないだろうか。
 今回観て、相撲にはまってしまいそうな予感のする春の一日だった。ごっつぁんです。
(■つづく)

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靖国を歩く/第26回 ドラマティックな遺書たち(奥津裕美)

■月刊「記録」04年4月号掲載記事

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 人は死ぬとき何かを残したがることが多い。家族、恋人または子供へであったりとさまざまだ。残すものもまたさまざま。とくに遺産に関しては問題となることも多いが、幸か不幸か私には遺書かダイイングメッセージくらいしかなさそうだ。あぁ、縁起でもない。
 靖国神社には毎月、英霊達の遺書が掲示板で公開されている。公式ホームページによると、祖国を愛しつつも散っていった英霊たちの心に触れてもらうということが目的のようで、遺書自体もアップされているのがなんとも親切である。ちなみにバックナンバーも過去5年分ある。
 この中で最も気になった社頭掲示をピックアップしてみよう。
 1月に掲示された「大好きな餅が食べたい」だ。正月にちなんだ選別なのだろうか。内容はあっけらかんとしていて、悲壮感が全くない。神雷部隊に所属する予科練習生が書いたもので、18歳で戦死している。若い。
 父親宛に書かれたその文面には、とにかく餅を食べたい、最後に餅を食べて死にたいということを訴えている。
「大好きな餅食って、敵をたたきのめしてやるあっはっはー」、というようなくだりがあるのだが、なんか国のために死ぬぞ!と屈託なく言い切ってしまっているところが純粋すぎて怖い。
 そもそも予科練生は、自ら入隊を希望し選出され、海軍航空隊へ入隊した若者達の集まりである。招集されたわけではないので、国に対して、ことのほか天皇に対して忠義を尽くして死ぬこともいとわない若者たちの集まりでもあるのだ。
 だから歯切れがよすぎるほど、あっけらかんとした、手紙が書かれたのだろう。
 『靖國のこえに耳を澄ませて』(明成社)という本には、学徒出陣した17人の若者の手紙と、彼らにまつわるエピソードが掲載されている。
 この本に出てくる多くの人物は、みんな高学歴で才能溢れた人たちばかりだ。あえてそうした人を選んでいるのだろうが。
 東京帝国大学、慶應義塾大学、早稲田大学、中央大学など、そうそうたる大学が並んでいる。
 なぜ希望ある若者達がどんどん戦地へ行くのか。戦力になるということはわかる。しかし優秀で才能のある人間なんてやたらと量産できるわけではない。死を考えることよりもまず、生を考える方がさきなのではないか。

■読み手の深読みか?

  「必ず命中疑ひなし。燃ゆる燃ゆる殉忠の血潮、熱血、撃滅の闘志、必中の確信、大和男の子にしての誰にも劣らざる気魄がある。誰よりもある」(西田高光)
 このように書かれた遺書を見ると、言い回しや、言葉遣いは優秀なだけあって完璧。
 手紙などの場合、今の若者の多くは話し言葉をそのまま書き、感情もそのままのせる。「昨日、彼氏とディズニーランド行ったんだけど、マジおもしろかった!ミッキーとかチョ~かわいいし!でも帰りにケンカしちゃって、すげぇ最悪。まだ仲直りしてない、てかもう別れる(-_-♯)」。こんな感じで。
 しかし、彼らの遺書には、感情がのることも、話し言葉も皆無なのだ。マニュアルでもあるのではないかというほど、書かれている内容はだいたい同じ、あまりにも真面目に書かれすぎていて、なんのおもしろみもない。
 あの三島由紀夫が涙したという逸話が残っている手紙のエピソードがある。古谷眞二さん(当時、海軍第十三期飛行科予備学生)の書いたもので、三島は彼の遺書を読んだあとこういって泣いたそうである。
「すごい名文だなあ。命がかかっているんだからかなわん。おれは命をかけて書いていない」
「命をかけて書いていない」と言って泣くくらいならば、泣く前に命をかけて書いたらどうだろうか。
 それよりも、これを読んでいて、命をかけて書いた手紙というより、決意表明と両親への感謝文と感じた。命はもちろんかかっているだろう。
 しかし、突然指名されてその一時間後に行くというわけではなく、訓練を積み、まして彼は残留指揮官として後輩の指導までしているのだ。命をかけているのだとしたら、あまりにも出撃までの時間が長すぎやしないか。
 手紙自体は「流れるような名文だ」と彼が語るほど、すらすらと読めてしまうよいテンポの手紙なのだが、どうにも古文の教科書を読んでいるようにしか思えず、どの部分に命がかかっているのかがわからなかった。
 断っておくが、私は彼らや彼らの書いた手紙をけなしている訳ではない。読んでいて、エピソードに深い違和感を感じたからだ。
 この本に出ているのは、遺書だ。それは死んでいるから。しかし彼らが生きていたとしたらどうだろう。そうするとただの手紙である。
 死んでいるからその手紙は遺書となりドラマチックなものになるが、生きていたら、あんなこと書いていたのに生きてるじゃないか、と言われておしまいである。
 ここで私が言いたいのは、遺書だからといって深読みしすぎているのではないかということである。
 この手紙には何か深い意味でもあるのではないかと考えてしまうのは、それは読み手である私たちが、「彼らは戦死している」ということを前提に読んでいるから
だ。内容はなんのことはない、「日本男児として国のために死にます。お父さんお母さんありがとう」というようなことが書かれているのだ。
 時代も文化も当時と今ではかなり変わっていて彼らと私たちの表面的なメンタリティーは変わっているとはおもうが、根本的なところは変わってはいないはずである。
 小難しい言葉で書かれていようとも、結局は10代20代の若者が書いたものである。人生を達観するには早すぎる。
 もし彼らの遺書から何かを得て、評価付けをしようとするのであれば、自分たちはそんなに薄っぺらい人生を送ってきたのか?と逆に問いたくなってしまう。
 本来死とは、死んだという事実のみで、意味や評価などないのではないか。それに対して無理矢理意味づけるから、高尚なものになるが、結局それは死者が自分に対して与えた評価ではなく、生者が生者のために与えた評価だ。そんなものは私は鵜呑みにはできない。

■エリートであったのが原因

 前回のカレンダーの時も少し触れたが、だいたいが私と同じ年齢の青年達ばかり。
 いくらメンタリティーはさほど変わってはいないとはいえ、私にはわからないことがある。それはなぜそんなに国のために死にたがるのか。
 あたかも国のために死ぬことが、結果的に日本や、国民、そして子孫のためによいと言っているが、それはただの幻想にしかすぎないのではないか。
 死ぬことがなんのプラスになるのか。明日の日本のためになることとは、死ぬことではなく、戦争をさっさとやめることではないのか。
 そもそも日本が本当に勝っていたら、まず特攻隊というものは存在していたのか。勝っているということは、少なくとも兵力にまだ余裕があるということだから、わざわざ自爆テロのような突っ込んでやっつけるという方法はとる必要はないはずである。
 死んだら終わりだよ。敵をいくらやっつけたって、死んだら、敵を何機やっつけたという事実だけで終わってしまう。その先は何もない。
 しかし彼らは、なにも疑うことなく、ただ勝つということだけを信じて死んでいる。それは彼らがエリートだというところに原因があるのではないか。
 右を向けと言えば逆らわず右を向く。そしてやめろと言われるまで、向き続ける。そういう世界の人たちなのだ。だから絶対に勝つという思いこみも、国のために死ぬことがよいと信じることも、至極当然のことかもしれない。
 私は当然ながらエリートではない。ただこれだけは言える。挫折を知らないエリートたちは、頭の回転は早いが、柔軟ではない。そしてそれは今も昔も変わってはいない。
 でも結局意識はわかっても、その精神はいつまでたってもわからない。これからも模索し続けるのだろう。

■サマワの自衛官の心情も知りたい

 そういえば自衛隊がイラクのサマワへ派遣されたが、彼らはどういった心境なのだろうか。安全だとは言われているが、安全に100パーセントなんてない。なんだかんだいって、死と隣り合わせでもある。
 彼らも、少しはこの17人や他の英霊達と同じような気持ちはあるのだろうか。戦争をしにいったのではなく、支援しにいったのだから、遺書は書いてはいないだろうが、戦地に赴いたのである。戦後50年以上たち、これといった活動を海外でしていない彼らの心情をぜひ知りたいものである。
 またイラク戦争のときにパレスチナホテルに滞在していた記者達もまた英霊達のメンタリティに近いのかもしれない。現に攻撃され、亡くなった記者もいる。
 この本や社頭掲示をみていると、そろいもそろって「国のために死ぬ」ことをいとわないとしている人ばかりである。
 そりゃ、仕方ないよな……と納得はできるものの、中には本望ではない人もいるだろう。ぜひとも後学のために、そういった英霊達の遺書も公開してもらいたい。  (■つづく)

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靖国を歩く/第25回 靖国マニアックカレンダー(奥津裕美)

■月刊「記録」04年3月号掲載記事

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 一家に一つは確実にあるであろうカレンダー。日にち、曜日、時間に気をとられていた(今もそのはずなのだが)学生時代は必ず購入していたのだが、現在の私は月刊誌の進行が根底にあるせいか、カレンダーに対してのこだわりや必要性が、以前より低くなっている。そのお陰で、締め切り日の近い2月11日が祝日だということをその日の夕方に知った。
 ちまたではカレンダーは、だいたい10月か11月ころから売り出しが始まる。カレンダーに情熱を注いでいたころは、一度下見をしてから買いに行っていた。テレビの情報番組やランキング番組のチェックはもちろん、書店や画材店なども行く。画材店は、おしゃれなものやデザイン性のあるものが多く、書店はアイドルやスターのものが多い。書店に置いてある売れ残りのポスターを見ると切なくなるのはなぜだろう。
 靖国には『英霊にこたえる会』という会があるのだが、そこが出しているカレンダーがたまたま手に入った。調べたところによると、1本500円(送料270円)するらしい。どのような因果かわからないが、私の手元へやってきたのだからこれを取り上げないわけにはいかない。
 カレンダーの解説に入る前に、このカレンダーを製作した「英霊にこたえる会」とはどのような会なのだろうか。簡潔にいうと、8月15日に靖国へ、総理大臣はじめ三権のトップ、さらに天皇の参拝をできるようにすることを目標にしているそうだ。それが英霊にこたえる道なのだそうである。
 会の定例行事には、毎年8月15日に「全国戦没者慰霊大祭」「戦没者追悼中央国民集会」、4月の第一土曜日に、「靖国神社の桜の花の下で“同期の桜”を歌う会」を行っているそうだ。けっこう精力的に活動しているようだ。

■「集合場所は、靖国神社の桜の下」

 さて、このカレンダーなのだが、かなり大きい。タテ62センチ、ヨコ39センチ。表紙の色は銀。金文字で『靖國』と菊と桜をあしらった社章が中央にあり、上部には明治天皇の御製が書かれている。何と書かれているかは読めません。御製というのは、天皇がつくった詩や歌のことである。だいぶ前の特集で取りあげたおみくじの回でも触れたが、明治神宮のおみくじにはこの御製が書かれている。
 次々とめくっていこう。このカレンダーは1ページにつき、2ヶ月分が載っている。1月と2月は『雲上の富士』という、びっしりと広がった雲の上(たぶん撮影した日の地上は曇りと思われる)に頂上だけが出ている富士山の写真、その下には明治、大正、昭和の天皇に加え、「今上」と書かれている現天皇など、歴代天皇の御製が書かれている。表紙にも明治天皇の御製が書かれているが、それとは別のものが載っている。
 短歌を見ているといつも思うのだが、どうしたらこういう詩が詠めるようになるのだろうか。資料などを見ていても、天皇に限らず軍人も詠んでいたりする。直接なにかを伝えたりするのではなく、短歌や俳句に託して何かを伝える文化がまだこの頃までは根強く残っていたのだろうか。
 日付の欄を見ると、祝日は赤の文字に日の丸が二つ並んで書かれている。ちょっと左上部を目をずらすと、元旦や成人の日に紛れて、毎月靖国で行われる行事が書かれていて、しかも一目でわかる親切な作りである。例大祭がいつ行われるか、みたま祭りがいつ行われるかもこれがあれば、一目瞭然。
 3月、4月は、春ということで『靖国の桜と新装なった遊就館』という写真が載っている。靖国の桜は、開花宣言に使われる木や、歌にもよく出てくるほど有名であり、木の数もすごい。その下には、戦死した軍人の写真とともに、彼にまつわるエピソードが記されている。写真の男性の年齢を見ると21歳とある。私と一歳しか変わらない。
 読んでみるとどうやら、遊就館といっしょに写っている桜ではないが、桜がキーワードの文章が載っている。どうやら桜にはなにやら特別な意味があるらしい。これによると、「俺達が死んでからの集合場所は、靖國神社の審問を入って右側の二本目の桜の下。誰が先に行っても必ず待ち、全員が揃ったところで一緒に神社に入る」ということを、出撃前に言ったそうだ。
 さらに、奥さんと落ち合う場所もその桜の木の下と決めていたようである。よくラブストーリーなどで、「10年後にあの木の下でまた会おう」というようなセリフがあるが、それと同じようなノリである。ただ戦時中ということがそのことをよりドラマティックにしている。
 桜は、待ち合わせるときのシンボルとして多用されたのであろう。今でいう新宿アルタ前とか、三越ライオン前、渋谷ハチ公前といった、当時の待ち合わせスポットというところだろうか。
 5月、6月は、「戦艦大和慰霊碑(鹿児島県徳之島)」の写真だ。夕日にむかってそびえ立つ慰霊碑が荘厳な写真だ。
 その下には、前月に続き写真とエピソードが載っている。神風特別攻撃隊員だった彼は、22歳で戦死している。私と同じ年ではないか。複雑である。
 どうやら彼には恋人がいたそうだが、大分の基地から出撃基地のある鹿児島へ行くことになった日、家族とは会えたものの、恋人とは会えなかったそうである。その日の日記には、「皆何と感じられたか知りませんが心から私が愛した、たった一人の可愛い女性です。純な人です」、出撃の日の日記には「心爽やか大空の如し。こうしているのもあと暫くです」と書かれている。同じ年でこうも違うものかと痛感した。時代が時代だからこそ、精神年齢が私たちよりも高そうに見えるのだろう。

■「今の若者も兵学校に」

 7月、8月は、みたま祭りの写真である。靖国のはっぴを着た若者達が、御輿を担いでいるところだ。ちなみにはっぴは赤い記事に黒文字で「靖國」と書かれている。といっても、かなりのくずし文字だが。
 躍動感あふれる写真の下には、新遊就館自由記述ノートからの抜粋ということで、遊就館に置かれているノートに書かれた、拝観者が書いた感想文を載せている。
 なかに、「今の若者も精神をきたえる為に兵学校に一年訓練するとよい」と書かれているのだが、たった一年の訓練で、根っこから染みついた甘ったれた精神がよくなるのだろうか。
 8月といえば、終戦記念日というのがあるが、行事予定をみると終戦記念日ではなく、「戦没者を追悼し平和を祈念する日(英霊の日)」というふうになっている。見逃してはいけない。「英霊の日」とは、戦没者を追悼して平和を祈るとの意味なのだろうか。どうやら、靖国では終戦記念日ではなく英霊の日となるらしい。英霊を祀っている神社だからそうか。
 10月、11月の写真は、「トラック諸島の夕暮れ(ミクロネシア連邦)」だ。空が青紫! 海はアクアマリンの色。超キレイ! ポストカードがあったら欲しい。沖縄の海もキレイで大好きなのだが、海外の孤島の景色はそれ以上に好きだ。しかし、海底に何十、何百という霊が沈んでいるということを考えると、ちょっとゾッとしてしまう。
 その下にはいつものように、写真とエピソードである。どうやら人間魚雷回天に乗っていたようである。いつも思うのだが、魚雷の中に人が入る意味はあるのだろうか。いくら国のために散るといっても、さっぱりわからない。人が入っていようがいまいが命中率は本当に上がるのか。どうやらこの少尉は、国のために血を流し、人のために涙を流し、自分のために汗を流すということがモットーだったようで、非常に真面目な正義感の強い青年だったと思われる。

■私の部屋には飾れません

 11月、12月は、「雪の靖国」という写真で、雪が降り積もった参道が写っている。雪が織りなす清らかな光景を神社のイメージに重ねるのは適切だが、積もった量によっては坂道で雪が溶けて凍ったつるつるした道となり、歩くときの恐怖は計り知れないものがある。靖国の大鳥居へ向かう坂道は結構きつい。雪が溶けかかってる頃には行きたくはないかも。
 最後を飾るのは、陸軍少尉の話である。こうも同年齢のひとの話を持ってこられると、胸が痛くなる。戦争をしたからこそ今の私たちがいるという論もあるが、逆に戦争がなければ彼らは死ぬこともなかっただろうし、国が生き残るために犠牲になるという事もなかったはずだ。
 遊就館へわざわざ行かなくとも、戦争とは、平和とは、歴史とは、と考えさせることができるテキストとして、このカレンダーは役立つに違いない。たかがカレンダー、されどカレンダーである。
 しかし、私の部屋にはすでにカレンダーが飾ってあるのでこれは飾れません。念のため。 (■つづく)

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靖国を歩く/第24回 靖国「青空骨董市」紀行(奥津裕美)

■月刊「記録」04年02月号掲載記事

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 靖国では、毎月第二、三日曜日に「青空骨董市」という催しが行われている。骨董市というと、なぜかフリーマーケットやバザーを思い出してしまう。骨董という単語を国語辞典(三省堂)で調べてみると、『1.雑種雑多の(高価な)古道具や古美術品。2.古いだけで、値打ちのないもの』という意味なんだそうだ。
 フリーマーケットやバザーには、古道具や古美術品が並んでいるかもしれないが一般に売価は高くない。たしかに使ったものだから多少古いし、デザインも古いものが多いが、どちらかというといらなくなった服や食器、結婚式の引き出物のように使うあてのないものを売っているからだ。古くても値打ちがない=高価ではないので辞書の前者の意味での「骨董」には当てはまらない。
 とはいえ、「高価」かどうかは主観で決まるので買う側にとっては相当な価値がある可能性もある。売価が明らかに安くても実は掘り出し物という場合は言葉のイメージ通りの「骨董」といえ、非常に複雑な言葉といえよう。

■紫水晶が100万円!?

 先日、その「青空骨董市」に行ってみた。午後3時ころについたのだが、出店数は約20店舗ほどで、主に壺や掛け軸(桐箱つき)、置物といった古美術を売っているところが多かった。ある店舗では、金髪の若いお兄ちゃん2人が店を構えていた。
 置物といっても、素人目でも価値がありそうだと思われるものから、さすがにこれはうちにもあるよ、といった観光地の土産、例えば鮭をくわえた木彫りの熊やタヌキのようなものまで売られている。意外と多かったのが、皿などの食器類とボタン。シャネルのボタンが売っていたのだが、どうみてもスーツに付いていたものを外しただけにみえて、さらに価格がすごく高かった。このような驚きをリアルに感じられるのも、骨董市の面白さということにしておこう。
 食器類はかなり充実している。100円ショップで買えそうなものから、高級そうな食器や洋食器、漆器もあった。おそらく銀製と思われるナイフやフォークなどもあり、しかもだいたいの品が500円くらいとお手ごろ価格。古美術よりも買いやすく、本物だ偽物だという不安もない。私みたいに骨董市初心者には手をつけやすい分野であろう。
 他にも西洋アンティークと呼ばれている海外ものの骨董や着物、端切れなども売っていた。靖国の「青空骨董市」に限らず、骨董市には必ず端切れを売る店が存在する。たまにかわいい柄のものがあるのだが、購入には至らない。
 変わり種として、ビデオが売られていた。それもゆうに50本は超えている。すごい品揃えである。
 なぜかはわからないが、このようなところで売られているビデオというと、アダルトものを目にするのだが(下世話ですみません)、この店では洋画・邦画を問わず映画ばかりが売られていた。健全だ。
 その隣では、天然石がたくさん売られていて、足を止めて買おうかどうか悩んでいる客に「じゃーもう、1万円にしとくよ!」という声をかけていた。店先にはとても大きな紫水晶の原石(研磨される前の鍾乳洞みたいな状態のもの)が売られていた。ちなみに値段は100万円。紫水晶は恋愛に効くらしいので、これを部屋に飾っておけば運勢アップ間違いなしといった感じである。
 これにはこの値段だけの価値があるのだろうか?という疑問が、降って湧いてくるような品がたくさんあるのも骨董市の醍醐味なのだろう。
 靖国の骨董市は1998年から開催されているそうだ。参道脇で所狭しと出店している店には、冬だからなのか客が少なかった。開催時間も日の出から日没までととてもアバウトである。別の取材で午後4時頃に訪れた時は、ほとんどの店の片づけが終わっていた。ちょうど日が暮れそうな時間でもあったから、今の時期はだいたいその時間には終わるのだろう。
 店の構え方はおおかた2種類で、ビニールシートに雑多に並べているところと、きちんとテーブルの上に商品を置いているところがほとんどである。
 テーブルに置いてディスプレイされていると、きちんとした感じにみえるし、わざわざ座って見るという行為をしなくてもいいという点でよい。テーブルを使っている店のディスプレイは、手前から小物→大物と順々に並べてあって見やすくしている。ただ一つ気がかりなのは、テーブルの店だと商品が近すぎて、一度手に取ると待ってましたとばかりに店員が寄ってくるのでは…という恐怖感が湧いてくる。臆病者の私には怖い店構えでもある。
 逆にビニールシートは立ったまま上から見ることができるので、結構適当に並んでいたりする。とはいえ、手前から小物→大物というのは同じである。デメリットは風に飛ばされるところだ。中には四方に壷などを置き、飛ばされないようにと工夫している店もあった。並べ方一つで店主の個性がにじみ出るのもシート型店舗の特徴だろう。
 屋外での楽しみというのは、外ならではのディスプレイの仕方にあるのではないだろうか。天気に左右されない屋内でゆっくり見て回るのもいいが、外という点を生かした面白さを発見できるのも青空市ならではのものなのだろう。

■日本全国「骨董市の歩き方」

 さて、骨董市は日本全国のいたるところで行われているのだが、インターネットで関東だけを検索してみると出てくる出てくる。開催時間を見るとやはり朝は6時、7時くらいから夕方は15時から16時くらいまで、それこそ日の出から日没までというのが多い。フリーマーケットというより、ほとんど市場のようである。
 つい最近、東京有明のビッグサイトという展示場で「骨董ジャンボリー」という大規模な骨董市が行われたのだが、入場料が必要らしく、しかもちょっと高い。いつも見ているワイドショーに、お買い物クイーンを探す企画があるのだが、たまたまこの会場がその日の取材地となっていた。どうやらある芸能人も出店していたらしい。すごいね。買い物に行くのに入場料を払うのは納得がいかないが、雨天中止ということもなく、屋外独特の気候による問題などもないのだから仕方ないのだろうか。
 都内で靖国以外の神社で行われている骨董市は、新宿区にある花園神社、練馬区にある氷川神社、豊島区にある鬼子母神など他にもあるが、いろいろなところで行われている。どこも参道が長かったり、敷地が広いからできるのだろう。他はショッピングモールやビル、イベントホールなどである。規模に関わらず、スペースさえあれば骨董市は行われているのだ。
 市で売られているものに限らず、売られている大多数の骨董はどこから流れてくるのか。セリ市場のようなものがあるはずである。
 調べてみると業者専用の市(業者市)があった。日本全国津々浦々、いたるところで行われている。東京都内に限定すると、4ヶ所で行われている。関東のみでみると、埼玉県が多くて7ヶ所、次が群馬、栃木である。
 『骨董ファン』(集出版)という雑誌があるのだが、トピックをみると盗品についての記事があった。「この顔を見たら110番」みたいなものである。買ったら盗品だった、ということもあるはずだから、店主から客の手に渡る前にきちんと調べてほしいものである。高い値段で買って、偽物でした!なんてのは冗談ではすまない。骨董を売るのも大変である。
 改めて「青空骨董市」に話を戻そう。気に入ったものがあってもなかなか食指を動かさない私だが、今回珍しく気になるものがあった。カラフルなミニキューピー人形である。肌色が当たり前のなかで赤、茶など5色5種類がそろっていたからだ。
 最初に引いた辞書の意味では「古くて価値がない」という点では確かにキューピー人形は当てはまる。この骨董市がフリーマーケットのように感じてしまうのは、骨董というよりがらくたに近いものが古美術品などに紛れて売られているからなのだろう。だがカラフルキューピーは値は安くても欲しい人には堪らない品であるかもしれない。文字通り高価な骨董品、どうしたってがらくたというなかに、このような商品としてどう定義していいかわからない品や、前述のような掘り出し物が混じっている可能性がある幅広くて謎めいたマーケットだから人は足を運んでしまうのだろう。そんな客の気持ちが分かるような気がして、私もまた骨董市へと誘われるのである。  (■つづく)

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靖国を歩く/第23回 遊就館は靖国のテーマパーク(奥津裕美)

■月刊「記録」04年01月号掲載記事

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 日本国内にはたくさんのテーマパークがある。東の横綱・東京ディズニーランド、西の横綱・ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)。その他にも長崎のハウステンボス、宮崎のシーガイア、福岡のスペースワールド、東京・浅草の花やしきなど挙げたらきりがない。インターネットの検索サイトでテーマパークを調べてみるとその数に感心してしまうほどだ。テーマパーク大好きの私は、USJに行きたいのだが当分無理なので諦めている。
 さて、靖国神社内にもテーマパークがあることをご存じだろうか。その名も「遊就館」。入場料800円の価値を十分に上回る見応えありの施設は文句なしの充実度である。
 現在の遊就館は新しく建てられたもので、初代遊就館は1882年(明治15年)に作られた。それから数回生まれ変わり、2002年7月にリニューアルオープンしている。130年以上の歴史がある。
 遊就館で配っているパンフレットによると、日本で最初の軍事博物館だそうで、改装・増改築を繰り返しながらも、「殉国の英霊を顕彰する」ことと、「近代史の真実を明らかにする」という目的は一貫して貫かれているそうである。
 さらに名前の由来は、中国の儒者・荀況の著書『荀子』勤学編にでている文から「遊」と「就」を選んでつけたそうである。「高潔な人物に就いて交わり学ぶ」という意味である。ここで「近代史(の真実)を学べよ!」という意味が込められているのだ。

■終了時間は驚くほど早い

 遊就館の基本データとして、拝観料大人800円、大学生と高校生は500円である。昨年のクリスマスイブの特集の際もふれたが、やはりこのご時世に800円は高いと感じるが、「テーマパークの入園料」と考えれば格安だ。博物館や美術館もこれくらいはするから、妥当といえば妥当である。テーマパークの料金にデフレの波はやってこないのか。
 冬は午前9時から午後5時までと、終わる時間がテーマパークの常識では考えられないほど早いので行かれるときは注意が必要である。
 靖国へ入ってから白鳩がいる砂利道を右折し数メートル歩くと、白い建物がみえる。それが遊就館である。
 ガラス張りの入口から入り、チケットを買う。さらに左手には、あの省エネ効果を狙っていると思われる、近づくと動き出すエスカレーターがある。ここは2階から見ていくので、エスカレーターに乗るのだ。
 乗りながら「ハイテクな施設だ」と思いをはせるのもいいが、乗る必要があるのかわからないほど短いので考える必要はなかったりもする。
 ところで先ほどから「テーマパーク」として遊就館を紹介しているが、中は博物館に近い。ただそれがすごく豪華な施設として君臨しているのであえて「テーマパーク」と称している。
 1階と2階にわたって展示室が散らばっている。細かく説明していくと、2階は展示室1から10までに特別展示室と映像ホール、1階は展示室11から20までと大展示室、企画展示室がある。
 館内で配っているパンフレットの表記にしたがうと、展示室1、2が「武人のこころと日本の武の歴史」で、3、4が「明治維新、西南戦争」、6から10までが「日清・日露戦争、第一次世界大戦、満州事変・支那事変」、11から15までが「大東亜戦争」、16から18までは「遺書・遺品」が展示してある。ここは、遺族から提供されたと思われる遺影が飾ってある。ざっと見ただけでも100はありそうだったので、もしかしたら親戚がいるかも!と思って探したが、名前を知らないので見つけられなかった。
 なかには私と同じくらいの年齢の方もいて、自分は戦後の今に生まれて、好きな人がどうのとか、好きなことを仕事にしたりと平和をおう歌して生きているが、彼らはそんなことを味あわずに戦場で散っていった。遺書などを見るたびに、これらの戦争の大義や必要性を改めて考えてしまう。
 軍事博物館なので当たり前のことだが、明治時代以降起こった戦争についての展示物ばかりだ。ただその展示数には驚かされる。「どこから集めたんだ」というほど豊富にある。デートは博物館と決めている私にはこの資料の豊富さにはただた感心させられるのみで、「靖国神社の遊就館という軍事博物館」というものを抜きにして、純粋にすごいと思ってしまう。
 しかし、解説に偏りが見られるのは靖国の性質上仕方のないことなので割愛。
 この連載をしていると、毎月靖国に関する資料を読みあさる。『かく戦えり。近代日本』(靖國神社遊就館)には真珠湾攻撃の際に打たれた、「トラ・トラ・トラ」という暗号電報が載っているのだが、遊就館で実際に見たときに「ホンモンだよ!」と思った。
 しかし、この冊子には『「ワレ奇襲成功セリ」と打電した』と説明が書かれているのだが、この電報には「ワレ」という字は一切書かれていない。さらに、暗号は伝えたいことを知られては困るから、別の言葉にしているのに意味を書いてしまったら意味がないだろうと思うのだが。
 これを見たときに、MAXという女性歌手グループの大ヒット曲『トラ.トラ.トラ』という曲を思い出し、この歌はこんな意味が秘められていたのかも・・・・と、一人納得してしまった。

■『おぼっちゃまくん』は置いてない

 忘れてはならないのが、ミュージアムショップだ。博物館や美術館へ行ったら必ず立ち寄るのだが、ここは充実している。そして、ショップ自体がオープンで明るい。併設されているショップはひっそりと佇んでいて、隅に追いやられていて入りにくいのだが、展示室の一つのような感じで見事に溶け込んでいるので入りやすい。
 グッズはもちろん充実している。靖国や神道、戦争に関する書籍が豊富に取りそろえられているのはプラスポイントだ。小林よしのりの『戦争論』が置いてあったのだが、人気を博した彼の漫画『おぼっちゃまくん』は置いていない。
 軍歌のカセットテープとCDも置いてあり、やっぱり軍事博物館だわ、とひそかに感心した。
 外国人観光客がいたのだが、「闘魂」「努力」とかかれた、よく受験生がつけているはちまきに関心を持っている様子だった。
 数多くのグッズが売られているのだが、昨年のイブに行ったときには、靖國神社の名がはいった鉛筆(50円)しか置いていなかったのだが、先日行ったときは新商品として名入りボールペン(75円)が売っていた。
 なにげに商品開発をしているのである。といっても、いたって普通のボールペンに名前が書かれているだけなのだが。
 さらにうろうろしていたら、また新商品を発見してしまった。コインチョコレートである。桜と菊をあしらった模様と、大鳥居からみた靖国の参道の模様がデザインされた金と銀の紙にくるまれたものである。チョコ一つの大きさは直径6センチ。金文字で「靖國神社参拝記念」と書かれた赤いビロードの入れ物に入っている。箱は小豆色と豪華仕様。
 箱を開けたらプーンとチョコの匂いが漂って来たので、裏の表示を見たところ、原材料の中に香料と書かれていた。この匂いのもとは香料だったのか。
 ちなみにこの一箱のお値段1000円。高い。買ったはいいものの、チョコが苦手な私は食べていないので味はわからない。
 クリスマスは間近だが、あっというまにバレンタインデーがやってくる。他の人と差をつけたいと思ったときは、このコインチョコレートをあげるというのもよいのではないでしょうか。印象に残ること間違いなし!
 他にも、靖国ならではのものから、よくある東京ならではのものまで幅広く置いてあるので、エスカレーターに乗ってから、ミュージアムショップを出るまで来館者を飽きさせない。ぜひ、一度行ってみてください。

 遊就館の入口横に零戦の模型が飾ってあるのだが、それを見るたびに「超かっこいい~!」と、子どもが新幹線などを見て「すげぇ」と騒ぎ出すような、子どもじみた思いに駆られる。そして大展示室に飾られている模型を見ると、もう分別ある大人なのだが、暴れ出したくなる。たぶん、過去に一度でもプラモデルにはまった人ならば、私と同じ思いに駆られるに違いない。
 屈託なくそう思えてしまうのは、やはり戦争を知らずに生きてきたからだろうと、心の片隅でそう思ってしまう自分もいた。 (■つづく)

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靖国を歩く/第22回 決定版!お守りガイド(奥津裕美)

■月刊「記録」03年12月号掲載記事

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 皆さんはお守りを買いますか? 年に1回初詣に行ったついでに買う人もいれば、小さい頃からずっと持っているお守りを身につけている人もいるかもしれない。
 皆さんが持っているお守りと、靖国神社で売られているお守りにはなにか違いはあるのだろうか。今回は靖国神社お守りガイドをお届けする。
 
 さて「お守り」は意外にも日本独特のものではない。形は違えど、世界にもさまざまなお守りがある。インディアン(ネイティブアメリカン)のあいだでは、ドリームキャッチャーと呼ばれる、悪夢を消し去ってくれるお守り(バクが夢を食べるという伝説に近い)があるし、トルコでは、ねたみや恨みの視線を受けて幸せが飛んで行かないように、青いガラスでできた目玉の形のお守りをつけるという。ペルーには、日本人にもなじみの深い亀やフクロウを幸運のシンボルとしている。他にも世界各地にお守り(チャーム)は存在する。
 もちろん、日本でもお守りと呼ばれているものがあるが、それは神社で売っている布の袋に入ったものだけではなく、おまじないをするときに作る護符もそうなるし、一時期流行ったパワーストーン(守護石)もお守りの仲間である。自分を守ってくれるものや、願いをかなえてくれるものはすべてお守りといっても過言ではない。

■ストラップタイプのお守りも

 今では携帯電話の世界にも進出している。誰もが必ず持っているといってもいいほど普及した携帯電話にはストラップをつける方がほとんどだと思われるが、それにも幸運を呼ぶお守り(チャーム)をつけたものがたくさん出回っている。現に私も干支(えと)の形に彫られた翡翠(ひすい)のストラップをつけている。
 なんと靖国神社にもストラップタイプのものがあったのだ。その名も『開運 さくらまもり』。タテ約4センチ、ヨコ2.5センチでお守りにはサクラのアップリケが施されている。赤いのを買ったのだが、これがまたミニサイズだとかわいいのである。大きいと派手だし、使用する赤の色でもだいぶ趣が違ってしてしまう。キュートなストラップをお探しの方がいたら、これをおすすめしたい。
 その他にも靖国にはオーソドックスなお守りが多数ある。学業成就お守りは、紫の布に『学業御守』という字と菊と桜の刺しゅうが入っている。どのお守りよりも渋い。高校受験のさい、学業成就のお守りを身につけ会場へ向かったが、推薦で落ちてしまったことがある(その後一般入試で受かった)ので、それ以来その類のものはすべて遠ざけていたが、このお守りの効き目はいかなるものなのだろうか。しかし私はもう学生ではないので確かめる術はない。
 もちろん靖国にも縁結びのお守りがあって、これは淡いピンク色の布に、サクラと菊が刺しゅうされていて、大きさもタテ約6センチ・ヨコ3センチとミニサイズ。見ているだけで、恋の願いがかないそうである。ピンクは恋愛に効果がある色だし、なんてったって靖国の縁結びお守りだ。英霊がなにがなんでも引き寄せてくれそうである。
 厄除けのお守りは他のお守りと趣が異なっており、オレンジの布に金の文字にオレンジの縁取りで「厄除御守」とかかれている。裏面には、靖国の鳥居の絵が刺繍されている。この鳥居を鬼門に見立てて、ここからさまざまな厄が出ていきますように……という意味が込められているのだろうか。それともその鳥居から厄が入りその中に閉じこめるという意味なのだろうか。明らかに判明していることは、このお守りが代わりに厄を引き受けてくれるということである。
 お守りと呼ばれるオールマイティーなものは、大小2つのサイズがあり、今回は小さいほうを購入。これに使われている赤は一番はっきりした発色で、表に菊、裏に桜が刺繍されている。
 一つだけ大きさが違うお守りがあった。「病気平癒御守」である。タテ9センチ・ヨコ約6センチ。パステルグリーンの布に黄緑の桜が刺しゅうされている。やはり病気には、風邪からガンなどの大病まであるから大きめに作っているのだろうか。あまりの存在感なので、目に見えないウィルスでも振りかざせばどうにかなりそうな気になってしまう。
 おまもりがたくさん並んでいる神札授与所でまず目についたものがあった。それは『こどもおまもり』だ。クリーム色の布に男の子と女の子の刺繍が施されているお守りである。これは、子どもに持たせるお守りなのだろうか。それとも子宝祈願のお守りなのだろうか。靖国に問い合わせたところ「子どもに持たせるお守りです」との返答があった。ネーミングセンス抜群のお守りだ。
 靖国神社といえばたくさんの白鳩が思い出されるが、もちろんお守りの中にもいる。『白鳩おまもり』と呼ばれるそれは、金属でできており、折り紙で作ったハトに銀メッキ加工を施したようさまである。しかし実際にそんな加工では崩れ去ってしまうので、違うが。
 このお守りの説明書きを読むと、『靖国の白鳩にちなみ願いを込めながら折った折鳩を基に奉製されております。みなさまの願い事が、この折鳩に織り込まれ、かなえられますようにお祈りされているおまもりです』と書かれている。これをストラップにつけて毎日身につけようかな。
 白鳩のお守り以外には必ず菊と桜を合体させたマークがついている。これは社紋なのだそうで、この社紋をかたどったお守りもある。説明書きにはこう記されている。「この御守護は、菊花御紋章に桜花をかさねた靖國神社の社紋をかたどりました。御神徳を仰ぐお守りとして財布などの小物につけて大切におもちください」。
 これは金と銀の二種類あるので、「おそろいー!」とか言いながら持つことも可能である。

■中身は意外にシンプル

 本来であれば取り出してはいけないお守りの中身をみてみたいと思う。学業成就お守りの中には、靖国神社と書かれたタテ5センチ・ヨコ2センチの折りたたまれた白い和紙が入っていた。あらかじめ中を見られることを想定した作りのような作りで、1枚1枚丹念に折りたたまれている。病気平癒お守りの中には、「病気平癒御守」と書かれた和紙が入っていた。意外とシンプルである。厄除お守りの中には、タテ3.5センチ・ヨコ2センチの折りたたまれた和紙が入っていた。一番オーソドックスなお守りの中にも、厄除けの中身と同じものが入っていた。
 縁結びのお守りは、開けたくなかったのであけなかった。個人的にも持っているから開けてもいいのだが、開けてしまうと縁が結ばれなくなってしまうような気がしたのでやめました。
 どうやらこの紙製の札はお守りの作られる過程によって、神社で作っていたりそうでなかったりするそうである。
 このお守りだがどのようにして神札授与所に並ぶかというと、お守りの製作業者に注文してできてきたものを神前に供え、祈りを捧げて神様の力を注入するそうである。神様といえども、力を発揮できるものには限りがあるだろうから、神札授与所にたくさん並んでいるからといって、手当たり次第買うよりも、その神社の特徴にあったお守りを買えば、抜群の効果を発揮するに違いない。
 日本でのお守りの発祥は遠く平安時代にまでさかのぼる。このところのブームで聞き慣れているであろう陰陽師や僧侶が配っていた護符が起源であるそうだ。それを神社がならって作り始めたお守りが今にまで伝わっているということだそうである。

■買った直後に別れがきた縁結び

 さて皆さんは買ったお守りを最終的にどのように保管・処分をしているだろうか。保管方法は人それぞれだが、処分をするさいはぜひ、神社へ持っていくことをおすすめする。買った神社へわざわざ持って行かなくとも、近くの神社の神札授与所などに持っていけば処分してくれるそうだ。たかがお守り、されどお守り。皆さんもお守りを大切に扱ってあげてください。
 個人的なお守りのエピソードなのだが、以前、靖国で買った縁結びのお守りがあるのだが、なぜか買った直後に縁が切れた。納得はいかないのだが、とりあえず「縁結び」というのは結ばれていない縁と縁を結びつけることだから、今まであった縁を絶ちきり新しい縁を見つけなさい、という英霊(お守り)のアドバイスなのだと考えることにした。
 やはりお守りは自分の目的にそったものを買うことが一番なのだ。 (■つづく)

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靖国を歩く/第21回 靖国神社の鳥居(奥津裕美)

■月刊「記録」03年11月号掲載記事

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 靖国神社には鳥居が4つもある。4つあるにもかかわらず、その材質はすべて違う。たくさんあるとどれか1つくらい同じでもいいだろう……と思ってしまうが、靖国は手を抜いていない。ぬかりない。しかし、近くの俎橋(まないたばし)付近から地下鉄九段下駅に歩いていく時に見えるライトアップされた第一鳥居(大鳥居)は正直怖い。満月のときに見る真オレンジ色の月を見たときと同じような怖さがある。
 神社といえば鳥居!鳥居といえば神社!というように、切っても切れない関係にある靖国の鳥居の概要を説明しよう。

 まず九段坂を上ってきて見えてくる大きな鳥居、その名も大鳥居で前述のように第一鳥居ともいう。1974年に完成し、高さ25メートルの巨大さは、25メートルプールが立っているのを想像していただければ、参拝したことがない方でも容易にイメージできよう。笠木という、鳥居のてっぺんに横たわっている棒があるのだが、その長さも約34メートルと、とにかく長い。重さは100トンと、もう想像ができないくらいの重さである。
 1トントラックや2トントラックなど、「何トン」までならば容易に想像がつくが、100までくると何だかもう分からなくなってしまう。震度7の自信にも耐えられるほどの頑丈さというのも納得の日本最大級の大きさを誇る。
 次に、参道中央にそびえ立つ大村益次郎像を左折すると見えてくるのが石の鳥居だ。1933年に奉納されたそうである。約70年ものあいだ立っているにもかかわらず、いまだ現役である。どうやら石製としては、京都の八坂神社と並ぶ最大級の代物なのだそうである。

 3つ目が参道に戻り神門手前にあるのが青銅大鳥居。これは古く、1894年にできたそうである。しかもそれだけではなく、明治時代の最先端技術を用いて製作されたのだ。
 神門をくぐりぬけると最後に中門鳥居がある。どうやら鳥居になる前は扉がついていて門として使用されていたそうである。台湾産のヒノキでできたそれは、1975年に世田谷の材木商が明治神宮の「二の鳥居」とともに献納。明治神宮には鳥居を奉納しているのに、靖国神社には門を奉納するというのもおかしな話である。もしかしたら、この鳥居も門がついた扉だったのかもしれない。
 さて、先ほど神門が出てきたが、少し神門の解説を。1924年にできたこの門は、高さ6メートルという大きさで、扉中央には菊の紋章がついている。
 ちなみにこの菊は16弁で、皇室で使われている菊の紋章と同じである。直径1.5メートルという存在感は、近くで見ればもちろんのことだが、青銅大鳥居付近からみてもわかるくらいである。日本の巡洋艦や航空母艦・戦艦につけられた倍の大きさだそうだが、さすがにあの大きさのものをつけていたら重いだろうし、そんなに見せつけなくても……という気になってしまう。
 話がちょっと脱線してしまったが、元に戻そう。ざっと靖国の鳥居の説明をしてきたが、普段あまり意識してくぐる機会が少ないせいか、知らないことが多い。しかし鳥居は、神社にはなくてはならない存在でもある。
 以前、羽田空港の新社屋ができる前、旧空港駐車場に鳥居があった。行くたびになぜこんなものがあるのやら?と思っていた。新しく空港を建設することになって、その鳥居を壊そうとしたところ、怪事件が続々と起こったそうである。今は無事に撤去され、新居地に移動して静かに暮らしている(?)そうだ。
 鳥居といっても建造物のひとつにすぎないのだが、このような話があるのだから“ただ”の建造物ではなく、“神秘的”な何かがある建造物といえる。鳥居の語源・起源は定かではなく、語源は「鳥が居やすい」からとか、「通り居る」からだとか曖昧だし、起源も日本古来のものという説と、他国からきたという説がある。この鳥居がない神社もあるそうで、対比は五分五分というところである。
『神社の見方』(小学館)によると、神明鳥居系と明神鳥居系に分類される。神明鳥居系の鳥居は、笠木と呼ばれるものが直線的で反り返っておらず、額束と呼ばれるものがない。そして装飾品を一切省いたシンプルな造り。靖国の鳥居がまさにこの神明鳥居系である。明神鳥居系の鳥居はその反対で、転びと呼ばれる柱と笠木に傾斜があり、曲線的な鳥居である。直線的で日本最大級の靖国第一鳥居を見ると、どことなく冷たさを感じる。そして、ライトアップされた第一鳥居は存在感を増し荘厳さが漂うが、どことなく威圧されているように感じてしまう。
 

 靖国の鳥居に話を戻して、『靖國神社大鳥居再建之記録』によると、現在の第一鳥居は再建されたものだ。先代の大鳥居は戦時中の1943年に取り壊され、陸海軍に献納された。国民から「空をつくよな大鳥居」と呼ばれ親しまれていたことから、かなり大きい鳥居だったことが想像される。軍部は助かっただろうな。
 解体され、その間代用されたのが木製(最高級のヒノキ製)の鳥居だそうである。43年から74年までの約30年間使われた。その30年の間には晴れの日もあれば、雨の日もある。雷や雪の日もあるのだから、新しい大鳥居ができあがるころには、見るも無惨な姿になっていたに違いない。「お疲れさま」と声をかけてあげたかったが、私はまだ生まれていなかった。
 その中にとても興味深いことが書かれていた。再建するにあたって、全国近衛歩兵第一連隊会(全国近歩一会)から提案された意見のなかで事前承諾したもののなかに、「再建大鳥居は新しい素材を使用してよい」というものがあった。
 どうやら、北海道神宮の大鳥居に使用されている耐候性鋼板を使用すると建設費は2000万円程度ですむらしい。だが、旧来の銅を使用すると3億円かかるそうだ。額面通りみれば、靖国は新しいことにチャレンジする旺盛な神社に見えるが、実際は3億出すのは痛いからそのようにしたとしか思えないのだが……。
 神明鳥居系の鳥居は日本全国約20の神社に設置されている。また日本だけでなく、海外にある神社約16社にも設置されている。けっこうな数があるということがわかる。どれも靖国鳥居という別名がついているが、鳥居のデザインのひとつとして名付けられたのだろう。国内にあるということは、数ある鳥居の種類からそれを選んだということで、疑問に思うことはないが、海外にある神社にまで靖国鳥居が使われていることに関しては、日本の植民地だったということが連想され、いまだその爪あとが残っているように思える。
 現在の靖国鳥居になる前は、御陵鳥居というものが使われており、御陵とは、天皇・皇后・皇太后・太皇太后の墓のことである。つまり墓が鳥居になっているということだ。靖国が建立された目的が、日本の国のために尽くした人々の御霊を祀るということなので、墓ではないが、御霊を慰めるためにできたところから御陵鳥居というものが使われても自然なことであるが、時が経つにつれ、靖国の立場が変わっていくとともに、鳥居も変わっていったということだろう。
 御陵鳥居と靖国鳥居の違いを簡単に説明すると、御陵鳥居は皮を剥いだ白い丸太を使っており、靖国鳥居は貫の部分に角材を使用して結合させやすくしたものである。
 ざっとではあるが鳥居について書いてきたが、日本国内には様々な鳥居がある。たまにはおみくじを引いて参拝するだけではなく、鳥居を眺めてみるのもよいのではないだろうか。

 靖国の4つの鳥居はどれも個性的だが、やはり第一鳥居が断然いい。どっしりと構えた姿と、日本一の大きさが醸しだしている威圧感にとてつもなく惹かれてしまう。とくに青空のもとで見る鳥居は格別だ。しかし、冒頭に記したように昼と夜とでは、東京タワー並みの印象の違いがあるので、ぜひ両方を見比べていただきたい。 (■つづく)

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靖国を歩く/第20回 実録・20代意識調査-靖国神社を考える-(奥津裕美)

■月刊「記録」03年10月号掲載記事

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 この連載をはじめて、1年がたつ。最初は靖国神社がどんな神社なのかも知らなかったし、どんな歴史的背景があるのかもよくわからなかった。それは単純に、関心がなかったからだ。しかし1年間の連載を通し、徐々にではあるが靖国神社を理解し始めている。
 連載を引き継いだ当初の私の個人的な印象は、「毎年、終戦記念日になるといつも騒いでいる神社」である。子供でも考えそうなレベルだ。身近な存在でなかったので仕方がないと言い訳をしつつも稚拙だと思う。
 だからだろうか? この連載をはじめてから今日に至るまで、どうしても気になっていた疑問があった。私と同年代(20代)の人たちは靖国神社についてどう思っているのか、である。謎を解くべく調査してみた。

  「小泉首相で話題になるまで、戦争で亡くなった人の神社とは知らなかった」(25歳・女)との意見があったので、まず靖国神社がどのような経緯でできたかということを説明しよう。
 明治2(1869)年に、日本のために尽くした人々を国が永久に祀る、という明治天皇の言葉をもとに造られた。第二次大戦後には、GHQから「神道指令」が出され、国の管理から離れた一宗教法人となる。「国家神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに公布の廃止」を謳ったこの指令は、軍国主義の精神的支柱となっていた神道を、国家から引き離すことを目的としたものだった。しかし政治家の参拝問題など、靖国神社と政治の完全な切り離しは、現在に至るまで実現していない。
  「靖国神社っていったら赤い鳥居!」(25歳・女)という意見もあったが、計4つの鳥居に赤はない。
 九段下駅で下車。九段坂をあがったところ武道館の向かいにあるのが、世界最大の第一鳥居である。色は濃い茶色。そのまま参道を歩いていくと、左側に見えてくるのが、石の大鳥居。色は灰色だ。さらに参道を進むと青銅製の第二鳥居に突き当たる。こちらの色は、言うまでなく青緑。この鳥居から徒歩1分の神門をくぐると、檜で作られた中門鳥居が目の前に。こちらは雨露にさらされ黒ずんでいる。
 鳥居は赤に近い色すらない。まあ、他の神社の鳥居と間違えたのだろう。まさか靖国を「アカ」と勘違いしたわけでもあるまい……。
 ちなみに神門の先には、靖国のシンボル・白い鳩が大量に戯れている。日本全国のマジシャンが白鳩を出すたび、ここに飛んでくるのではと疑ってしまうほどの数である。なぜかアンケートでは、誰も触れてない。

■報道効果!? 最多登場は「小泉首相」

 さて今回の調査で最も多く見かけた項目は、「小泉首相」と「参拝問題」であった。
  「私は靖國神社ってあんまりよくわからないけど……。小泉総理が参拝がどうとか前にニュースでやってたところかな? もしそこだったら連想するのは小泉さん」(25歳・女)、「靖国と聞いて思い出すものね……。それは小泉総理大臣かな」(22歳・女)、「靖國神社ときいてか、あんまり考えたことないな。戦争がどーのこーのって……。あと小泉首相が参拝して問題になった事ぐらいしか」(22歳・女)、「小泉首相で話題になるまで、戦争で亡くなった人の神社とは知らなかった。印象としては、他の神社も何かの意味があって建てられているんだから、特別視する必要はないと思う」(25歳・女)
 あまり関心がなくても毎年マスメディアで流れていると、脳にインプットされるようだ。首相による靖国参拝は、日本以外のアジア諸各国から批判が集まり、それなりのタブーとなっていた。しかし小泉首相は首相就任前から8月15の参拝を大宣伝。就任後は、いつ参拝がするかが、メディアの注目するところとなる。
 ちなみに今年の首相参拝は、1月14日だった。小泉首相は、「その日に思い立った」とコメントしている。実際、靖国の広報からによれば、今年は本当にアポなしで来たそうだ。数々の問題を引き起こしたテレビ番組「電波少年」でもあるまいに……。ただし、この首相の参拝により、韓国の金大中大統領が川口順子外務大臣との会談はキャンセルとなった。
 過去の巨大な歴史を背負った靖国神社は、位置づけが他の神社とは違う。もちろん国家を代表する首相が参拝するのと、一般市民が参拝するのでも意味が違う。靖国問題をよく知らない20代でも、さすがに違うことぐらいは強く感じている。
  「よく知らない、というのがホントのところだけど。他の神社とは、かなり扱いやイメージが異なるよね。やはり日の丸とか政治色を感じさせると思う」(24歳・男)
 そうした違いに疑問を持つ声も出てくる。
  「靖國神社のことはよくわからないんだけど、いいじゃん参拝したって」(21歳・女)
 さらにもう少し突っ込んだ意見も話してくれた人もいた。
  「確かにいろいろな問題はあるけど、総理の参拝に関して、戦争を忘れないように必要なことだと思う。亡くなった人を偲ぶのに他からとやかく言われる筋合いはないんじゃないかな」(23歳・男)
  「靖国と聞いてまず考えるのは、まず首相の参拝を他国が干渉することです。私は愛国心が強くて、教科書問題もそうですが、日本のやり方に口を出されるのが不愉快です。戦争はもちろん否定派だし、今後日本が戦争状態になるのは絶対反対だけれど、過去は過去で、死者は死者なのだから、これから日本が侵略行為に出なければ参拝するのに問題はない!と思っています」(23歳・女)
  「私は積極的に行こうとは思わないけど、近くを通ったら参拝しようかとは思うよ、日本人として。過去にこだわったとこで、大切な人が生き返るわけじゃないしさ。再び戦争を起こさないようにするにはどうすればいいのかを考えた方が、戦没者のためにも自分自身のためにもいいんじゃないかと思う」(22歳・女)
 公式・私的という問題を抜きに、首相参拝を支持する声が多かった事には驚かされた。
 首相の参拝は、中曽根康弘元総理大臣が1985年8月15日から1996年7月29日の橋本龍太郎元総理大臣までの約11年間行われなかった。タカ派と呼ばれた政治家でさえ参拝しなかった11年間と、20代の男女の多くが参拝賛成を口にする時代の温度差に驚く読者も多いだろう。

■問題解決のための提案も

 なぜ首相参拝で問題が起きるのか、どう解決すべきなのかを考えた意見もある。
  「A級戦犯とかを祀らないことにして靖国を残すか、あるいはA級戦犯抜きの無名戦士の墓とか作ればいいんじゃない? 要するに露骨な軍国主義の象徴が残っているのが問題なわけだから、それを取り除いて純粋な戦没者追悼の施設にすればいいとおもいまーす」(21歳・男)
 そういえば以前、国立追悼墓地を造るということが話題になったが、結局どうなってしまったのだろうか? 
  「『神社』っていうのは神様を祀るところだと思います。戦争でなくなった人たちを慰めるんなら、神社は違うと思うけどね。『戦犯』と呼ばれる人たちも神社ではない場所で供養したらいいと思います。神社に祀るから近隣諸国から反感を買うんでしょ」(24歳・女)
 たしかに国家神道と関係ない場所での供養なら、近隣諸国の反発も収まるかもしれない。
 ちなみに一般的に神社に祀られているのは、素戔嗚命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、大和武尊(やまとたける)、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)など、日本古来からの神とされている祭神である。
 その他に、A級戦犯についての意見もあった。
  「A級戦犯を祀ったとこ。普通の被害者も祀ってたよね?って祀ってるのは神様か。あとはおじいちゃんが喜んでいくところ。個人的には行った事もないし、場所も知らない」(24歳・女)
 「陸軍の過激派(東條・小磯)とかも祀られてるんだから、軍国主義の象徴って感じはするし、右翼が過激に運動して全般的に下品に見えるからさぁ。日本人の俺でもそう思うんだから、実際に虐げられた人たちからしたらもっと露骨でしょう」(21歳・男)。ちなみに、いわゆるA級戦犯(東条英機、板垣征四郎など)が祀られたのは、1978年の10月。そのことが判明したのが約半年後の4月だった。おいおい、なんで隠していたのだ!
 韓国の若者と日本の若者の考え方の相違についての意見もあった。
  「韓国人の若者は、慰安婦問題などについてもよく知っているし、戦争についても自分の意見を持っている人が多いと思う。韓国人の知り合いは、『戦争は嫌いだが、もし戦争が起きたら国のために闘う』と言っていた。韓国人全てがそんな考えを持ってるとは思わないが、『戦争は嫌だし、死ぬのはごめんだ。誰かが何とかしてくれる』というような日本人とは意識が違う。
 日本の首相が靖国を参拝すると、韓国では、日本の植民地支配の犠牲になって亡くなった人に対する謝罪要求デモが起こる。日本人はこのデモの意味を、どのくらいのレベルで考えているのだろうか? 日本人も戦争についてもっと深く考えるべきだ、と私は考える。韓国だけじゃなく、アメリカとイラクの問題も含めて」(29歳・女)
 戦後50年以上がたった。その間、憲法第九条は日本の平和を守ってきた。いつの間にか平和は守るものではなく、当たり前にあるものに変わり、戦争について切実に考える姿勢を失ったのかもしれない。自国の軍隊を持ち戦争に備えることが、戦争について考えることだとは思わない。ただ切実さのない戦争論議が、靖国の首相参拝への賛成者を増やしていることも事実だろう。
 最後にとても興味深かった意見をひとつ。
  「現代人に神は存在しなくて、信仰だけが静かに存在する。その形が京都とか他のお寺とは違い、政治と結びつき、夏ごとに喧噪を引き起こす。それが『靖国』らしさだと思う。
 その独特な空気が『野火』などの戦争小説のようなノスタルジックな物語をつくりだす。そして『ウザったい右翼少年』は、夏にしか出てこない蝉のように、うるさく鳴く。そんなイメージです」(22歳・♀)。
 調査を始める前は、「戦争で軍人が祀られてる場所ですよね。戦争責任者も祀られているんですよね」(28歳・男)という、靖国の初歩的な解説が寄せられるのでは危惧していたが、見事にその予想が裏切られ、正直ホッとしている私でした(-_-)。 (■つづく「)

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靖国を歩く/第19回 みたままつりと浴衣ギャル(奥津裕美)

■月刊「記録」03年9月号掲載記事

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 夏ですね。もう9月だが、梅雨明けが遅かった今年はまだまだ夏のはず。夏といえばビールと枝豆と花火大会だが、靖国で風物詩といえばみたままつりだろう! 
   7月13日から16日まで行われたみたままつりだが、恥ずかしながら、私はこの祭りを知らなかった。家庭教師をしている友人が、靖国神社への最寄り駅付近に住む生徒の話を伝えてくれたのだ。「みたままつりは、普通の祭りらしいよ。地域密着のね」と。 
   へ? 靖国で祭りがあって、そのうえ地元の盆踊りとかと一緒なの?? こりゃ、確かめなくてはいかん! 
   さっそく靖国神社ホームページをのぞくと、祭りの行事が書いてあった。奉納芸能の一貫として、御輿、相撲大会、マジック、詩吟、バレエ、琉球舞踊、日本舞踊など様々なイベントが行われていた。なかでも目玉は、14日に行われた「つのだ☆ひろの特別公演」だろう。靖国とつのだ☆ひろ、渋いな。当日は、境内でかの名曲『メリージェーン』を歌ったのだろうか。なんかミスマッチだ。 
   みたままつりで何を取材するのか、古参社員に相談したところ、「みたままつりに来ている浴衣ギャルがいい」とあっけなく決まってしまった。「おいおい、個人の趣味にはしるなよ」とも思ったが、祭りの熱気に巻き込まれ取材中にナンパされるかもーと、あらぬ期待をしてしまう、同じムジナの私であった……。 
   さて、みたままつり最終日の16日、いつものジーンズにTシャツという出勤着ではなく、セクシー(余計)なキャミソールなんぞを着込んでみた。一生懸命化粧をし、少しはましな顔に整え、気合いを入れ出発。 
   それにしても暑かった。 
   しかし靖国神社に近づくにつれ、心が冷え冷え。クリスマスイブの取材よりも寒くないし楽でしょ、と思うかもしれないが違う。なんでって、イブでは少なかったカップルが、数えるのがバカバカしくなるほどいるのだ。楽しそうに靖国に向かって歩いていく。 
   なんで楽しい夏祭りを1人で過ごさなければならないんだ! 因果な商売である。そんなことを考えても仕事は終わらんので、気分を入れ替え大鳥居をくぐった。

■ 天国にトンボをアピールしたら 

   午後5時、まだ明るい参道は、それほど混雑しているわけではない。 
   これはちょうどよいと思い、参道を歩く。露店は軽く30軒はあっただろうか。顔ぶれは正月のときとはあまり変わらなかったが、ラムネやかき氷などの夏限定の露店も軒を連ねていた。 
   参道の入口から出口まで一通り歩き、早速取材を開始。ところが、まったく取材できない。じつは私、人見知りが激しく人に声を掛ける事ができない「Too SHY 女(すごく恥ずかしがりや)」なのである。靖国に着いて30分。何とか勇気を出し、女の子2人組に声を掛けることに成功。 
   うちわとトンボ柄が描かれたピンクの浴衣の女の子と、白と黒のストライプ生地にトンボ柄の浴衣を着た女の子だった。ピンクの女の子は高校生。フリーターをしている白黒の女の子に誘われて来たとのこと。この白黒の女の子は毎年来ており、「祭りでは友達にも会えるの」と笑顔を弾ませる。 
   そのうえ戦没者が祭られている神社でもあることも知っていた! 「わかんなーい」なんて答えを期待していたのだが、意外である。耳は直径5ミリの穴ほどが耳を貫通。通称「ドカン」のピアスをしているのに。いやいや、見かけで判断していてはいけません。  
   せっかく靖国の浴衣である。おそらくは頭上で駆けめぐっているであろう何百万柱という英霊へのアピールポイントをたずねてみた。「やっぱトンボしかないよねー」と黒白の子。「うちわトンボかなー(笑)」とピンクの子が答えてくれた。 
   う~ん、天国にトンボをアピールしたら、「極楽とんぼ」になってしまう。怒らないか英霊? あっ、「極楽」は仏教だから関係ないですね。 
   続けざまに小学生3人組に声をかけてみたところ、みたままつりの情報は友達から入手したと答えてくれた。しかし、急いでいたらしくそそくさと立ち去られてしまった。一体なにに急いでるんですか? 夏祭りでしょ、小学生でしょ。社会人の私より忙しいなんて……。 
   ところが、それから浴衣ギャル達がとぎれてしまったのである。仕方ないので、大村益次郎像のふもとに腰掛け、待つこと30分。意気消沈した私の腰は、さらに重くなる。ところが隣に座ったサラリーマン(20代)がチラチラこちらを見てきているではないか。もしかして声かけてくるとかなどと期待したが、やはり仕事の最中なのが頭に引っかかり、誘い水をかけることなくそそくさと立ち去った。この手の話は、「徹底解説! 靖国ナンパのデートコース」という企画を社内で通してからのることにする。

■ おしゃれなローティーンも祭りに 

   さて、午後6時をすぎると人が増えてきた。そして、いきなり太鼓の音が! 盆踊りでも始まるのかと思いきや、太鼓ソロだった。太鼓の音を背にして、神社内へと歩いていく。 
   神門をくぐると、絵や文字の描かれた和紙が裏から白色灯で照らされている。みたまつり名物の「懸けぼんぼり」である。近づいて見てみると、私でも知っている各界の著名人の名前が。平成の名横綱貴乃花、一人で土俵を守り続けた武蔵丸、お騒がせ朝青龍、他にも奉納相撲に出場したであろう力士達のぼんぼりがズラリ。芸能・文化人では、小林よしのり氏、窪塚洋介氏、つのだ☆ひろ氏、藤岡弘氏などなどが目に留まった。 
   参拝も終え、また参道を歩く。一角に札屋の露店が出ていたので、そこで豆札ストラップ(1000円~)を作ってもらうことにした。木の板かプラスチックの板に文字を焼き入れるものだ。人気があるのか、客が並んでいた。店自体は浅草にあるとのこと。店長と思われる人物は下町の匂い漂うみこしの似合いそうな人だ。 
   みやげも買ったことだし、取材を再開しようかと思ったら、人が増えすぎて話が聞けない状態に! 浴衣ギャルも増えてきたのに、靖国ライター絶体絶命のピンチである。古参社員に電話してアドバイスを求めると、「適当に話しながら、参道の脇に連れて行けー」と絶叫している。浴衣と聞いて興奮したらしい。「いや、自分のペースで歩けないほど混んでいて、立ち止まって話なんかできない」との説明が終わる前に電話は切れた……。いつもながらアバウトなアドバイスである。 
   人混みが少なくなったところを狙い、小学生の女の子6人グループに声をかける。浴衣も数がそろうといいもんですね。全体的にピンクの浴衣が多かったのは、今年の流行なのだろうか。着こなし方も、個性が出ている。帯を少し折って裏地を見せたり、かんざしをつけたり。最近のローティーンはおしゃれなのだ。 
  「贅沢は敵だ」というスローガンが当たり前だった時代の英霊は、どう感じているのか知りたかったが、本日は霊媒師を連れてない。 
   さて、もちろん靖国神社の成り立ちについても質問してみたが、みな首をひねるばかり。小学生ならそうだろう。簡単に由来を説明し、「浴衣ギャルとして、頭上に飛んでいる英霊に送る言葉はない?」と質問すると、リーダー格と思われるショートカットの女の子が「世の中幸せになってます」と、真面目かつ少し笑いながら答えてくれた。1人寂しい夏祭り取材だが、戦争中よりは幸せなのは間違いない。改めて平和について思いを巡らした。 
   7時近くになってきたのであと一組くらい取材しようと思い、女子高生4人組に声をかけた。ここでもピンクの浴衣が多い。その中の1人は「浴衣手作りなんです」と話してくれた。ピアスと浴衣の色を合わせている子などもいて、女性の私からみてもカワイイ! さっそく靖国神社の由来について質問しようとしたら、皆の口には、ふかしジャガイモが! 食べるのに忙しく、取材断念とあいなった。 
   取材の最中、益次郎像をかこんで盆踊りが始まった。ところが盆踊りの輪と露店との差がほんの数メートルしかなく、人が増えると踊りの輪がとまってしまう。踊るのも大変そうだ。輪の中には飛び入り参加と思われる人がちらほらいた。 
   全く関係ないが、「なんでだろ~」というギャグで知られている、テツandトモというお笑い芸人が『なんでだろう音頭』を出したと宣伝していたので、靖国ではかかるのだろうかと少し期待してしまった。当たり前だが流れなかった。靖国のカラーには合わないのだろうか。私としては、靖国とお笑いの新たな融合(ミスマッチ?)を楽しみたかったのだが。来年に期待しよう。 
   何も食べずに2時間ウロウロしていたらおなかがすいてしまったので、行列をなしていた揚げ餅の屋台で揚げ餅を買う。屋台の中に、『靖国名物』と書かれた短冊が何枚も貼ってある。いつから揚げ餅が靖国名物になったのだろうか。私の愛読書『ようこそ靖國神社へ』(近代出版社)には載っていなかったので、もしかしたら知る人ぞ知る裏メニューなのかもしれない。 
   できたては、膨らんでいておいしそうだったのに、会社に帰ってふたを開けるとしぼんでただの餅に。はかない揚げ餅。まるで今回の企画のよう……。 
   浴衣ギャルにとっては、みたままつりも普通の夏祭りなのだ。事前情報通りであった。だからどうしたと言われると困る。「懸けぼんぼり」以外は同じ。浴衣ギャルはかわいい。以上である! (■つづく)

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靖国を歩く/第18回 靖国神社に参道にそびえ立つ大村益次郎像(奥津裕美)

■月刊「記録」03年8月号掲載記事

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   九段坂を上がっていくと「靖國神社」と書かれた大きな社標が見えてくる。その入口の先には大鳥居がある。そして、その鳥居を抜けると白い参道が広がり脇には桜の木が並んでいる。その中心に大きな銅像が立っている。大村益次郎の像である。 
   資料によると、台座5.4メートル、鉄の台4.2メートル、像3メートルの計12.7メートルという大きさ。やや離れたところからだとよく見えるが、近くから見ると大き過ぎて見えない。それにあまり長時間見上げていると首が疲れて痛くなってしまう。この銅像は日本で最初の洋式銅像だといわれているが、作るにあたって制作者である大熊氏広はイタリアやフランスに渡り制作技術を学んだそうである。 
   1882(明治15)年に銅像建設が発案され、1893(明治26)年2月に完成した。11年という長い歳月がかかったが、日本最初の石膏を原形にした洋式銅像の制作は日本の美術史の中でもかなり重要なポイントであるに違いない。 
   益次郎は西洋から学問を学んだにも関わらず、大の異人、異文化嫌いで、洋服も着たことがなかったという。『11月5日大村益次郎暗殺さる』(ビッグフォー出版)によると、「写真についても、あれはいいものだといいながら自分は1枚も撮らさなかった」とある。にもかかわらず、後に「西洋かぶれ」というレッテルを貼られ「国賊」だということで暗殺されてしまう。 
   西洋文化になじまなかったにも関わらず、西洋かぶれといわれ暗殺され、死後作られた銅像は西洋の文化を取り入れた造りで、さらに西洋式銅像の第一号となるのはなんとも皮肉なことである。
  「靖国神社の銅像の基になった肖像画は、生前の益次郎の顔を思い出したり益次郎の選者の顔を参考にしたりして書いたもの」とも書かれているが、さすがに自分の死後、銅像を造られるとは思ってもみなかっただろうが、坂本龍馬のように一枚くらいきちんとした写真を撮っておけば、関係者は困らなかっただろうに……と余計だが思ってしまった。ちなみに『ようこそ靖国神社へ』(近代出版社)によると、銅像の大村益次郎は袴を身につけ、左手に双眼鏡を持ち、「上野の彰義隊を攻める折に、江戸城富士見櫓から北東を凝視している姿をモデルにした」とある。1933(昭和18)年まで、弓矢をモチーフにした鉄柵と大砲八門が配置されていたそうだが、撤去され陸軍省に献納されたそうである。 
   靖国神社の前身の東京招魂社の建立を決定した大村益次郎とはどのような人物だったのだろうか。

■ 開業医としてはイマイチの評判
 
   1825(文政8)年、現在の山口県にあたる周防の鋳銭司に生まれた。父親は医師。幼名は宗太郎といった。その後、村田亮安と改名し、さらに村田蔵六となる。 
   蔵六は、1846(弘化3)年に適塾に入門する。ここで適塾を少し説明する。江戸末期に活躍した医学者でもあり蘭学者でもあった緒方洪庵が1838(天保9)年、大坂(現在の大阪)船場に「適々斎塾」をひらいた。適々とはどうのような意味が込められているのだろうか。快適・最適という事なのだろうかと考えてしまった。適塾にはたくさんの才能あふれる弟子達が入門した。蔵六のほかにも、福沢諭吉、橋本佐内、大島圭介、長与専斎などその後の日本に多大に貢献した人材ばかりである。洪庵は、江戸で蘭学を学び長崎でオランダ人の医者ニーマンに医学を学んでいる。1862(文久2)年に適塾は閉鎖されるが、塾生の顔ぶれを見る限り適塾の功績は大きい。 
   適塾出身で後に慶應義塾を創設し、『学問のススメ』を著した福沢諭吉は蔵六の後輩にあたる。彼の自伝『福翁自伝』(岩波文庫)に、蔵六と洪庵の葬儀で会った時の話が書かれているが、諭吉の話によると、蘭学を学んだ蔵六が攘夷論者になっていて驚いた。諭吉は最後まで、蔵六が攘夷論者になった理由がわからなかったそうである。 
   適塾で蘭学・医学を学んだ蔵六は、さらに長崎へ赴き蘭学を学んだ後、適塾に戻り塾長を務める。1850(嘉永3)年、故郷に戻り開業医となるが、評判はいまいちだったという。 
   1853(嘉永6)年に、宇和島藩主伊達宗城に招かれ宇和島藩士となる。3年後には藩主の参勤交代に帯同し江戸へ出てきている。そして江戸にて蘭学塾の鳩居堂を開く。その後さまざまな塾で学問を教えたのち、桂小五郎(木戸孝允)に推されて長州藩に入る。 
   桂は蔵六の才能を知っていて、さらに認めていたのか、仕官させるためにずいぶんと努力したそうである。その努力も政治力があったからこそなしえたのだろう。本来ならば彼がやるべき重要な任務を蔵六に任せ、ものすごい速度で出世させている。医師上がりの蔵六には当然、もともと武士階級の者たちの「医者上がりに何ができる」といったやっかみがついてまわったが、そうした彼らとの溝を埋めていったのも桂小五郎である。結果、蔵六に対する否定的な考えが少なくなり、逆に肯定する考えが広まっていった。私の身近にもそんな人物がいたら心強いだろう。 
   そのようにして地位を確立していった蔵六だが、ある時、桂小五郎から名前を変えないかと打診された。ちょうどそのころ、桂小五郎から木戸孝允と名前を改めており、蔵六が高杉晋作に頼まれて上海へ武器を調達しに行ったことが幕府に嗅ぎつけられていることも知った蔵六は名前を改めることにしたそうである。しかしその前にも、藩庁の役人からも打診があったそうだが、そのときは必要がないと一蹴したそうだ。
  『大村益次郎軍事の天才といわれた男』(PHP出版)によると、大村益次郎の「大村」は故郷の鋳銭司大村から取り、益次郎の「益」は父の孝益から取ったと書かれている。そして村田蔵六は大村益次郎になったのである。 
   それでは、軍略家としての益次郎はどうだったのだろうか。その手がかりとして、第二次長州征伐の石州口の戦いと、上野での彰義隊討伐の2つの戦いにスポットをあててみることにする。 
   石州口の戦いでは参謀として参加している。戦いとはいえ、ただ戦えばよいというわけではなく、頭の切れるブレーンが戦略を練り進めていくということが必要である。やみくもに敵をやっつけるわけにはいかないのだ。そんな事をしていたらかえって負け戦になってしまいかねない。この戦いでは、時に農民を金を使って信用させ利用し、また時には見方をも罠にはめ勝利を収めた。しかしこれは軍略家というより、策略家(いい意味でずる賢い)という感じである。戦いに関する知識があることもそうだが、やはりそれだけの知識を活かせるだけの頭脳があったからこそうまくことが進んだのではないだろうか。 
   次に彰義隊討伐である。彰義隊は、勝海舟の談判と英国公使パークスの示唆による「江戸城明け渡し」と前将軍徳川慶喜の恭順という非常に穏便な解決に反抗し、徹底抗戦(「戦うんじゃ-!」)を叫んだうちの一つである。 
   討幕軍の指導者であった西郷は、江戸城の受け取り任務を海江田信義に任せていた。海江田と大村は彰義隊討伐の際に対立してしまう。当時、海江田は江戸で軍事の実権を握っており、そこへ突然、朝廷から委任されやってきた益次郎のことが気に入らなかったのだろう。最後には論争がエスカレートしけんかになってしまったそうである(大人気ない)。その一件から、海江田は益次郎のことを憎みだしたそうである。後に起こる益次郎暗殺襲撃事件では、黒幕はこいつなのでは…という説も飛び交った。真相は藪の中である。 
   作戦会議では、薩摩と肥後の兵を黒門口に配置し、長州は団子坂に配置するといったが、長州は上野の地理がわからなかったり、鉄砲の使い方で手間取ったりと失敗したらしい。資料を見た限りでは、どうも大村益次郎はそんなにすごい人物だとは思えない。彰義隊を自らの案で1日で壊滅させたが、本当のヤリ手ではない気がする。 
   彰義隊討伐では実戦の指揮をしているが、戊辰戦争では後ろに下がり兵站指導者として活躍し勝利に導いたそうである。 
   明治に入り兵部大輔になった益次郎は近代兵制樹立を目指しフランス式の軍制を採用した。それ以前にも軍服に洋服を取り入れたり、天皇に対する立って挨拶をする案を発案したりと近代的なアイデアを出している。政府に参加するより、せっかくだからその知識を塾生に教えたりしたら、もっとたくさんの優秀な人材が生まれたかもしれない。時代がそうさせてはくれなかったのだろう。

■ 不潔な風呂水が命取り

   それと時を同じくして、益次郎の身に事件が起こる。休暇を取り京都へ来ていた益次郎は、友人と好物の豆腐を食べながら酒を飲んでいたところ、刺客に襲われたのである。その時は難を逃れ怪我をしただけですんだが、その時身を潜めていた風呂の湯が不潔だったのか、それが原因で足を切断する事になったが、すでに手遅れでその2日後に亡くなった。(享年45歳)
   『11月5日大村益次郎暗殺さる』(ビッグフォー出版)によると、死因は敗血症だったとかかれている。敗血症とは、細菌が体の中に入り増殖し、血液の中に入って身体全体に細菌がまわってしまう状態のことである。 
   医者でもあった益次郎が、自分の傷の状態を見極められなかったのは運が悪かったの一言に尽きる。もしかしたら、それも彼の運命だったのかもしれない。 
   それでは益次郎はなぜ襲われたのか。先ほどの資料によると、版籍奉還、廃刀令、旧武士階級(士族)が独占していた軍事を国民皆兵にしようという案を益次郎が出していたかららしい。士族にしてみれば、今までしてきた事が水の泡となり、さらに農民と同じに扱われる。プライドもあっただろう。それによって、一部にあった積年の恨みが爆発し、そのような事件が起こってしまったのかもしれない。政府高官の中にも国民皆兵を反対していた者もおり、益次郎が暗殺された事を喜んでいた人もいたそうである。江戸時代から昭和にかけて暗殺はたびたび起こったが、今の時代で起こったとしたら、誰が襲われてしまうのだろうか…想像するのが恐ろしい。 
   45歳で亡くなった益次郎だが、故郷の鋳銭司に大村神社というのがあるそうだ。そこには益次郎が祀られている。そうだとすると、ここのご利益は学業に関する事だろう。主に医学部あたりに効果を発揮すると思われる。湯島や北野天満宮もいいが、この大村神社も新しいご利益スポットとしていいかもしれない。 
   もし今の時代に大村益次郎が生きていたとしたら、彼は政治の世界にいるのだろうか。それとも学問の世界にいるのだろうか。  (■つづく)

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靖国を歩く/第17回 靖国と馬(奥津裕美)

■月刊「記録」03年7月号掲載記事

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 ウィンズ(場外馬券売場のこと)や東京競馬場は、小さな子供からご年配の方まで幅広い層で埋めつくされている。一応、未成年や学生が馬券を買うことは禁止されているが、親子3代、家族総出で競馬新聞を片手に持ち、熱心に勝ち馬を予想している姿を見ると、競馬浸透率というのはすごく高いのだと実感させられる。
 日本で初めて競馬が行われたのはいつなのだろうか。JRA(日本中央競馬会)の資料によると、文久2年(1862)、当時横浜に住んでいた外国人によって行われたのが最初だそうである。それが世代を越え人々を魅了し続ける競馬の礎となったのだ。
 そして明治になり、1906年に日本人による初めての馬券販売を用いた競馬が開催されたが、それは2年という短期間に終わった。しかしその翌年には、施設の維持管理や賞金等に対して政府から補助金が出され、馬券を用いない競馬として復活。どの馬が勝つかを当てることが醍醐味の競馬にもかかわらず、馬券を売らない競馬は14年も続いたそうである。
 靖国神社はこの競馬、正確には競馬も含めたスポーツ全般と縁の深い関係にあるのだ。1870年、前出の横浜で行われた競馬を真似した競技が日本人の手により行われたが、その場所が靖国神社だったのだ。例大祭で奉納を目的として行われたそうである。ギャンブルのイメージが色濃い競馬だが、大正天皇もしばしば観覧された由緒正しいスポーツのようである。
 ところで靖国神社には馬も祀られていることをご存知だろうか。第14回全国戦没馬慰霊祭実施報告書によると、名簿に書かれている馬の名前は3073頭と書かれている。実際は、靖国神社監修のオフィシャルガイドブック『ようこそ靖国神社へ』(近代出版社)によると、「大東亜戦争だけで20万頭が犠牲」になっており、こんなにもたくさんの馬が戦地に行き死んでいったのかと思うと、賭けの対象にはなってこそいるが、今生きている競走馬は幸せな馬人生を歩んでいるのかもしれない。きっと現代に産まれていれば、名馬と呼ばれる馬がたくさんいたはずだ。

■日本馬改良政策は異例のスピード

 明治以降、日本の軍隊も西洋化されたが、馬はまだ戦略的に重きを置かれていた。しかし、日清・日露戦争で日本馬が劣っていることが白日の下にさらされたのである。日清戦争(1904~05年)では、5万8千頭の馬が戦地に送り込まれたが、その6割の3万5千頭が無去勢だったそうである。去勢をすると性格などの荒々しさがとれておとなしく従順になるため、競走馬でも手なずけることが難しい荒い馬の場合は去勢されるのだが、それをしていなかったのだ。さらに牝馬も含まれていたというから、戦いが長引けば盛りの時期(発情期)と重なってしまうこともある。いずれにせよ戦闘に集中できる環境とはいいがたい。
 かくして北清事変(1900年)の際には、「日本軍馬は猛獣の如し」と列国から酷評されたそうである。それがよほど悔しかったのか、馬の飼育法の重要性を思い知らされたのかは定かではないが、1906年に馬政局が官制化され、30年計画で北海道を拠点として日本馬を改良するという大号令が発生された。北海道の牧場は本州とは違い、ミヤコザサが密生していた。ミヤコザサは冬でも枯れない強靱な植物で、雪の下に生えている笹を食べて生きることができるので冬季の放牧も可能だった。その後、優秀な軍馬がたくさん生産されたそうだが、クマが多く出没したため厳重に警戒されたそうである。大切な馬が襲われたり、食べられたりするわけにはいかないもんな。
 軍馬の供給、育成などを円滑に行うために、1908年に軍馬補充部令が定められたが、十勝に置かれた補充部には、1932年のロサンゼルス五輪大会の馬術で金メダルをとった「バロン西」こと西竹一が勤務したこともあったそうだ。
 戦地に供給するために幼駒の購買もしていたが、軍部は良馬の育成には良馬が必要ということで、当時世界的に名を馳せていた種牡馬を買い、内国産の牝馬と交配して良馬生産にいそしんでいたそうである。この政策は、明治後半から馬産振興に大きく貢献したそうである。この30年計画において、日本の馬に対する情熱は相当のものだっただろう。わずか30年で日本馬改良政策を発展させたのはすごい。日本人の勤勉さがプラスに動いたよい例ともいえるかもしれない。
 手塩にかけて育てた軍馬の仕事とはどのようなものだったのだろうか。戦地では、野砲を引いたり、装備一式をそろえた兵士や食糧、蹄鉄、武器などを乗せていた。重そうだ。そして食べ物がなくなったとき食糧として食べられたそうである。そんな馬も戦地では大切に扱われ、獣医も同行した。今でこそポピュラーな獣医だが、日本での獣医史は軍用馬とともに始まったという。私は、「獣医=ペットのお医者さん」という固定観念があったせいか、代表的なペットである犬あたりが獣医の始まりだと思っていたので、軍馬がきっかけだったということに驚いてしまった。
 1935年に30年計画は無事成功し、日本人による改良の速度はまれにみるスピードということでよい評価を与えられた。これによって俄然やる気になったのか、その翌年また新たな30年計画を掲げたのだ。第二段階ではさらにレベルアップし、生産方針の確立と種類の固定など現在の馬産の基礎となっている方針を打ち出している。
 この馬政局も終戦と共に終わりを告げることになったが、60年間でめざましい進歩を遂げた馬産業には脱帽だ。

■伝説の英雄「バロン西」

 靖国と馬でもう一つ忘れてならないのが、先述のバロン西こと西竹一の存在だろう。彼は私と同じ7月12日生まれである。さらに言うならば、私の母の旧姓は西である。なにかの運命をビビッと感じてしまったのは言うまでもないが、『オリンポスの使途』(文藝春秋)は、西の最期は本当に俗説の通りなのかということを、西の近くにいた仲間からの証言を用いて考察している。
 今では伝説として語られているが、硫黄島でアメリカ軍が「バロン西、オリンピックの英雄バロン西、出てきなさい」と呼び掛けられたが、それには応じず総攻撃の後に戦死したという説である。しかし著者は「仮に呼びかけがあったとしても『バロン西』という呼びかけ方は、いかにも不自然である。日本語で呼びかけるのだから、『西中佐』あるいは『西連隊長』と呼ぶのが普通だろう」と書いている。そういわれると確かにその通りである。敵を投降させるのに、わざわざ『バロン西』と気取って言うのも変だし。
 もう一つの説に、「宮城に頭を向けるように部下に命じてピストルで自決した」というものがある。これも私からすると不思議でしょうがない。もし、本当に宮城に頭を向ける行為をした部下がいれば、その部下は相当冷静だったはず。追いつめられた状況の中でそんな演出ができるのだろうか。少なくとも私にはとてもできない。読み進めていくと、この自決説は証言者の作り話だということが書かれていた。
 真実は一つだが、戦争中のごたごたした中で彼の最期はどのようなものだったのかということを掘り下げていくのは不可能なことである。混乱の中にあれば人の記憶というのはばらばらになってしまう。伝説は伝説として生き続けることがよかったりするのかもしれない。
 西竹一が硫黄島で亡くなってから、15年後の秋。靖国神社でサイ・バートレットというアメリカの映画プロデューサーが西竹一の慰霊祭が行い、永代祭祀料を奉納したそうである。彼は、西がロサンゼルス五輪の際に馬術練習をしていたクラブでかわいがられていたそうである。再会を心待ちにしていたであろう彼は、西のその後を知りさぞかし落胆したであろう。靖国では外国人が祭りを主催することが初めてのことだったらしく、ものすごく気合いが入っていたらしい。
 『ようこそ靖国神社へ』によると、「スポーツと縁の深い靖國神社」と称して2ページにわたり書かれている。それによると、オリンピック代表選手に選ばれた英霊が30余柱いるそうである。戦争とは残酷なものである。もし、彼らの血が脈々と受け継がれていたら日本のプロスポーツは今とは少し違っていただろう。
 馬の話に戻して、西竹一の愛馬ウラヌス号は彼の戦死後、獣医学校の厩舎で西のあとを追うようにして死んでいったそうだ。しかし、ウラヌスの遺体は獣医学校に埋められたが、空襲によってこっぱ微塵に吹き飛ばされてしまったそうである。
 あとを追うように…と出てきたが、私の祖父が亡くなった時、世話をしていた金魚が2、3日後に死んでしまったということがあった。ウラヌス号も金魚も主人が死んだことがわかったのだろうか。どちらも老衰で死んだのだが、よく聞く話でもあって単なる偶然にしは思えない。やはり動物でも「主人を一人にはしておけない」とか「そばにいたい」と考えるのだろうか、はたまた本当に偶然だったのか。
 最後に私の個人的な馬の思い出をひとつ。幼少の頃、熊本県にあるクマ牧場というクマがたくさんいる牧場にいった。そこの一角にある草原で食事をしていたら、お弁当目当てに馬が一頭近寄ってきた。あげたくないので放っておいたら、その馬に糞をされた。今は私も大人になり、競馬も少し嗜むようになって馬への愛着もわくようになったが、あの時ばかりは「この馬野郎!」と心で叫んだものだ。正しくは「馬鹿野郎」なのだが、鹿はいなかったので「馬野郎!」。きっと馬や鹿は「バカ」に似た気持ちを人に一度は感じさせる動物だから、「馬鹿」という言葉ができたのだ(編集長訂正:ただの当て字です)。
 いずれにせよ、競争馬も軍馬も人を泣かせたり喜ばせたりする存在で、靖国には英霊とともに彼らの歴史と霊が眠っているのだ。 (■つづく)

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靖国を歩く/第16回 ゴールデンウィークの靖国は人気があるのか(奥津裕美)

■月刊「記録」03年6月号掲載記事

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 今年のゴールデンウィークは最大10日間。10日あれば、海外でリフレッシュ! 思いっきり羽をのばすことができる。しかし、新型肺炎(SARS)の影響で海外旅行者が約14万人と激減。SARSが猛威をふるっている中国は米国同時多発テロ後も観光は好調だったが、今では海外安全ホームページで「渡航の是非を検討してください」と呼びかけられている。それでも行きたいのが人の心だが、「自分だけは大丈夫」ということは決してないので、不要不急以外で行かれる方は十分に気を付けてください。 
   反対に、国内行楽地の人出は警察庁の調べによると約6600万人と、前年度より429万人増えている。特に人出が多かった行楽地は、長野県の善光寺で、7年に一度のご開帳の真っ最中で211万人と堂々のトップワン。すごく混んでいたんだろうな。で、同じ宗教施設の靖国も盛り上がるのではないかとと考えたわけだ。 
   ゴールデンウィーク最終日の5月5日のこどもの日に靖国神社へ行ってきた。こいのぼりはそよそよ泳いでなかったが、その雄姿がさらに際だちそうな晴天で、SARSはともかく紫外線が肌に大敵だ。Tシャツを着込み、帽子をかぶり、さらにUVケアもして九段下へと向かった。暑さが和らぐ午後2時に靖国に着く。ふだんの取材は平日が多く、午後2時を過ぎると参拝者はまばらで、帰宅途中の学生やサラリーマン、OLの人とすれ違うことが多いのだが、いつものように九段坂をあがり、大鳥居をくぐるといつもより人が多い。 
   休日の正月ほどではないが、クリスマスイブよりははるかに多い。昨年のイブの取材は平日で寒く、しかも曇りだった。それに比べ、こどもの日は休日に加え、天気にも恵まれていた。 
   いつものようにアホみたいな顔をしながら大村益次郎像を見上げつつ、直進せずに左へ曲がり、駐車場から拝殿へ向かうことにした。当たり前のことだが、駐車場には車が多数あった。像に近い入り口から入っていくと、乗用車が並んでいる。それから奥へ進んでいくと観光バスが4台。群馬バス、新潟国土観光バス、日東交通が並んでいる。どのようなツアーなのかを見てみると、新潟国土観光バスには「白根市柔道連盟」の貼り紙、群馬バスには、「東京ドームツアー」の貼り紙があるではないか。 
   東京ドームツアーと靖国?確かにその日はプロ野球巨人対広島戦がドームで行われていたが、試合開始前に英霊に祈りを捧げるためだろうか。「10対2で巨人が勝ちますように」や、「今年は虎が優勝だ」などと願いを込めるためなのだろうか。もっとも靖国はスポーツとの縁も深く、プロスポーツ選手の英霊も祀られているそうなので妥当ではある。 
   気になった私はさっそく群馬バスに話を聞く事にした。電話に出た男性はさわやかな声で、「連休中の東京ドームツアーは昨年よりも20~30%増えましたね。このツアーに限らず、連休中は増えますね」と教えてくれた。東京ドームツアーで靖国神社を参拝するのはまれにあるそうだが、ツアーではなく一般の団体客の参拝のほうが多いらしい。遊就館を知らない方も多いそうで、遊就館見物は目玉だそうだ。しかし、ちょっと高いですよね(入場料800円)…と漏らしていた。 
   そして「たまにですが、靖国神社さんの駐車場をお借りすることもあります」とも教えてくれた。東京ドームの駐車場は、東京ドームホテルができてから駐車場が減ってしまい、予約制ではなく早い者勝ちなのだそうだ。群馬バスでは、2時から3時までに東京ドームへ向かうそうだが、なかには、「12時頃に、駐車場に入っているところもありますよ」という。東京ドームの駐車場をめぐる争いはし烈である。 
   そんな群馬バスを横目に駐車場奥にある売店へ入る。入り口の右手には春季限定のお菓子が並ぶ。まんじゅうやゴーフレット(洋菓子の一種)など、靖国の桜にちなんだお菓子である。それから中へ入っていくと、店内はいたって普通の土産屋だ。しかし、浅草や京都などとは違いゴチャゴチャと物であふれかえっておらず、非常にすっきりとしている。 
   何も買わずに店を出るのも何なので、観光者気分を味わうためにも何か買おう!と決意した私は、店内を物色することにした。パーキングエリアなどで見かけるクッキーやまんじゅうなどを見ては、「これはさすがになぁ……」などとつぶやき、漬け物を見ては、「これはいい! でもスーパーで買えるし…」とつぶやく。修学旅行生のように店内を物色すること約2周。このままだと日が暮れて店じまいしてしまうので「これだーっ!」と購入するものを決める。「桜うらら 銘菓――花ゴーフレット(春季限定)10枚入り」と「靖國銘茶 静岡産やぶきた品種200グラム入り」を購入。計1430円。なかなかのお値段である。 
   会計のついでに店のオジサンに、ゴールデンウィーク中の靖国の状況を聞く。
  「今日はもう参拝者はまばらだけど、1日、2日から増えてきて、昨日ぐらいが一番多かったよ」 
   昨年より多いかの問いには、「そうですね。今年は、外国へ行く人が少なかったからね」と答えてくれた。 
   後日お菓子を食べた。よく口にするゴーフレットというと、もっと表面がざらついているが、靖国のものは表面がつるつるで、しかも桜の絵や「さいた さいた さくらが さいた」とい字が印刷されていて粋である。味の方はというと、においも味も普通だった。軽い触感で、パリッとしていて甘さも控えめなので贈答用にピッタリだ! パッケージの裏を見ると、遺伝子組み換えではないコーンスターチが使われていることがわかった。一部、原材料に大豆が使われているそうだが、これは遺伝子組み換えの大豆ではないのかな……。その他に、なんと桜の葉の粉末まで入っているではないか! これはすごい! 
   参拝前に土産を買ってしまうのは英霊に対して失礼だが、買ってしまったので仕方ない。許してください。いつものように賽銭を投げ参拝をする。その後、休憩所へ行ったら、外にあるベンチにはたくさんの人が座っていた。それにしても暑い。靖国の参道はコンクリートで、さらに白いので照り返しがすごい。いつも思うのだが、靖国神社の参道は白い。神社というと、鎮守の杜があるところが多く、独特な空気が漂うイメージが強いが、靖国はそのようなイメージがわかない。初めて訪れたときも、桜を見に行ったときも私の中でのイメージが崩れることはなかった。鎮守の杜にある独特な雰囲気とはまた違う雰囲気が私の体を包むのだ。 
   靖国を出て会社に戻ろうかと思ったが、今日は休みだし、せっかく来たので武道館の方へ足をのばしてみようと思い向かうことにした。北の丸公園へ向かう坂道を上ると立派な門が見えた。その門にたどり着くまで何組のカップルとすれ違っただろうか。なぜ私は一人で散策しているのだ。それも、片手に土産の入った袋を持って。たまにカップルの女性が一人なの?とでも言いたそうな目で私のことを見るのですが、寂しくなんかありませんよーだ。 
   京都の二条城のような入り口を入り、歩いていくと憧れの武道館が現れた。その日は空手選手権が行われていたらしく、制服を着た学生が入り口から出てきていた。周辺では、ジャージや空手着を着た選手がランニングやストレッチをしていて、陸上競技の大会で訪れた三ツ沢グラウンドを思い出してしまった。 
   とにかく暑くてバテてしまいそうだったので売店に入る。ソフトクリームの貼り紙に惹かれて、早速バニラと抹茶のミックスソフトクリーム(200円)を購入。さすがに、一人で食べるのは恥ずかしい…なーんてことは言ってられないので食べました。おいしかったです。やはりソフトクリーム購買率が高く、食べている人が多かった。暑い日はソフトクリームに限る。 
   食べ終わり少し休憩をして売店を出る。そしてさらに奥へ進むと、子供と遊んでいる父親の姿や談笑するカップルの姿がたくさんあった。平和だな。 
   九段坂を下り、いつも気になっていた昭和館に行ってみる。ひときわ異彩を放つこのビルには窓が見あたらない。このビルは昭和館のマークにもなっている、ひし形というか、アニメ『アンパンマン』に出てくるカレーパンマンのような形をしているのである。意を決して中へはいると、一階の受付横にチケット販売機がある。値段は大人300円。遊就館より500円安い。チケットを買い、どこが展示室の入り口なのかと探していると、受付のお姉さんがやってきて、「展示室の受付は7階ですので、そちらにあるエレベーターで7階まで上がってください」と教えてくれた。7階?遠い…。と思いつつエレベーターで7階へ行くと受付があった。チケットを握りしめ入り口へ向かうと、なんと受付のお姉さんが立っている横にチケット販売機があるではないか!なんてこった。それなら、『チケット売り場は7階です』というようにしてほしい。 
   気を取り直して展示室へ入っていく。思ったよりこざっぱりとしていて博物館にしては寂しい感じがした。遊就館を見てしまっているだけに、展示数が少ないように思えた。展示室は7階、6階になっており、7階は戦中、6階は戦後の暮らしを数々の実物資料で伝えている。見物者が少なかったので、ゆっくりじっくり見ることができてよかったといえばよかったが、実物資料を募集している背景もあり物足りなさは否めなかった。これから実物資料が充実していく事を期待しよう。 
   昭和館のパンフレットによると、映像資料は、静止画約17,000枚、動画約2,000タイトル、音響資料が約35,000枚収蔵されているそうだ。そのような資料が充実しているので、遊就館で幕末から太平洋戦争までの歴史を学び、昭和館で戦中・戦後の庶民の暮らしを学べば、これであなたも近現代日本の歴史マスターに!…オイオイ、なれるのか? 
   海外旅行へ行かなかったというより、そもそも行く予定はなかった私の今年のゴールデンウィークの思い出は、靖国のほかにはリニューアルした東京競馬場で春の天皇賞を見たことか。しかし、天皇賞は京都競馬場の第9レースだったことを忘れて、東京の第9レースを買ってしまいトホホ…な一日を送ったのだった。  (■つづく)

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靖国を歩く/第15回 靖国の桜と気象庁(2)(奥津裕美)

■月刊『記録』03年5月号掲載記事
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■ トンボやセミまで気象庁で観測

   東京では4月1日に桜の満開宣言が出された。毎年、お弁当を持って新宿御苑へ桜を見に行っていたが、今年は結局行かなかった。通称裏原と呼ばれている裏原宿へ買い物に行ったときに道に咲いていた桜を見ていただけだ。 
   春になると花粉症に悩まされるが、桜を見ると日本人でよかったといつも思う。風が吹いて桜が散る風景なんて見てしまうと、青春だぁ!と感じてしまう。まさに桜吹雪。この言葉を作った人は素晴らしい。ただ綺麗な花びらと共に、スギ花粉を持ってきてくれるのはちょっと厄介ではある。 
   しかし、今回は桜の情緒や美しさを伝えることが真の目的ではない。毎年、寒が和らぎ春が訪れる頃になると必ず流れるのが桜の開花予想。東京で予想のために使われている木(標準木)は、靖国神社にある桜である。観測は、気象庁の東京管区気象台が行っている。 
   気象庁といえば、天気を教えてくれる。電話で天気予報が聞けたり、テレビを付けるとニュースの締めに天気情報が流れる。流される情報に変わりはないが、どこのテレビ局も趣向をこらしている。……ように見えるが、実はやってることに大して変わりはなかったりする。 
   気象庁では生物の観測もしている。植物では、梅、椿、タンポポ、桜、ヤマツツジ、ノダフジ、ヤマハギ、アジサイ、サルスベリ、ススキ、イチョウ、カエデ。動物は、ヒバリ、ウグイス、ツバメ、モンシロチョウ、キアゲハ、トノサマガエル、シオカラトンボ、アブラゼミ、ヒグラシ、モズ。すごいなぁ。昨年5月号にも桜を特集したが、そこには、「ウグイスの初鳴きやシオカラトンボを初めて見つけた日なども記録に付けているといる」と紹介した。誰が聞いたり見たものを記録に付けるのだろう。謎だ。 
   さて、桜の開花は南から順に北上していくのだが、開花予想に使われる桜は2種類。ソメイヨシノ(染井吉野)とヒカンザクラ(緋寒桜)だ。ソメイヨシノは各地に広く分布し、とても有名な桜。「花は葉の出ぬ先に開き、つぼみは初め淡紅色で、次第に白色に変る。成長は早いが木の寿命は短い」(広辞苑)らしい。淡いピンクのつぼみから白い花に変わってゆくのは非常にかわいらしい。ただ短命なのがちょっと淋しい。人も桜も美しいものは短命なのだ。私もソメイヨシノのように儚くも美しくありたいものだ…。ソメイヨシノという名の由来は、「東京染井の植木屋から売り出されたという」(広辞苑)ことらしい。 
   ヒカンザクラは、沖縄など南部に分布。「2月頃、葉に先立って濃紅色鐘形の花を下垂する」(広辞苑)。東京に桜が咲き始めるのは3月下旬から4月初めなので、咲き始めるのが早い。標準木としてヒカンザクラを使用しているところは、名瀬、与那国島、石垣島、宮古島、久米島、那覇、南大東島の7ヵ所。それ以外の場所では、ソメイヨシノが使われている。

■ 若い木もダメ、土が踏み固められてもダメ
 
   桜はどこでも咲いていたりする。それにも関わらず、なぜ靖国の桜を標準木にしたのかを気象庁へ尋ねた。
  「桜があっても毎日入れるところや観測しやすい場所などを考えて靖国神社の桜が標準木としてふさわしいと判断したからです」 
   他の桜では駄目なのだろうか。
  「例えば、上野の桜とかですと、人がたくさんいて土が踏み固められてしまい、きちんと観測できなくなってしまうんですよ」。そうなんだー。しかし、まだ納得できない(実際は、担当の人が早口で書き取れなかった)私は後日改めて電話取材を敢行した。
  「標本木として靖国神社の桜がふさわしいと判断したからです」と同じ担当者から聞く。いつから標準木にしているのかという質問は、どうやら東京管区気象台の管轄のようで、そちらに回してもらった。
   「観測の記録は1927年からあって、当時の気象庁の構内で観測していたのですが、昭和39年(1964)に現在の場所に移転した時くらいから、靖国神社さんにお願いして観測しています」と答えた。やはり、具体的な資料は66年からしかないらしい。資料がないというのは、どういうことなのか? 
   気象庁が移転する前までは、構内の桜を使って予想をしていたのだが、現在の気象庁に桜はないのだろうか。
  「一応、神田川沿いに参考程度に見ている木があるんですが。しかしまだ若い木で、まわりより早く咲いたり、遅く咲いたりすることがあるようです」 
   とりあえず見ているものはあるらしい。若い木ならばそのような気まぐれが起こるかもしれない。ある程度年数がたった木を使うそうだ。 
   標準木はどのようにして選ばれたのだろうか。数ある桜から選ばれた、いわばエリートである。
  「数ある木の中でこの木とこの木を一応標準木として、気象台のほうで勝手に決めさせていただいて、靖国神社に協力を頂いてやっています」 
   担当者はそう答えた。指定されてきめるのではなく、気象台で決めているのか! 気象庁では特に公表していないらしいが、靖国神社の観光案内で標準木だということを公表しているようだ。木に白い紐が巻かれているものがそうだということを写真で見た。 
   最初の電話取材では、以前、公表したところいたずらされた、ということを言っていた。心ない人がいるものだ。

■ ソメイヨシノのようには……
 
   満開になるとサラリーマンや学生が花見をするのは今や当たり前の光景になっているが、靖国の桜というと、『同期の桜』の「死んでも靖国の桜となって会おう」や、『東京だヨおっ母さん』の「桜の下でさぞかし待つだろ」(この曲には直接、靖国という名称は出てこないが、神社のある「九段坂」と出ている)と、靖国の桜=戦争というイメージがついてまわることがしばしばある。しかし、不思議なもので、そのようなイメージがあったとしてもても満開の桜を見てしまうと、そのイメージが払拭されてしまう。普段は裸の木で淋しい参道も、桜が満開の参道をみるとパッと華やかになるのだ。 
   先日、靖国神社へ様子を見に行った。雨がやんだばかりだったので、桜の花は少し散っていて淋しい風情となっていたが、満開だと綺麗なのだろうなと改めて想像した。近くにある武道館の桜はそれほど散ってなく、入学式でやってきた新入生たちをお祝いしているみたい!なんて感じながら坂を下っていたら、濡れたマンホールで滑って転んでしまった。トホホ……。これでは、ソメイヨシノのような美しく、凛とした女性にはなれないわ…。  (■つづく)

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靖国を歩く/第14回 全世界平和を祈れる社が靖国に(奥津裕美)

■月刊『記録』03年4月号掲載記事
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 巷では、新幹線や韓国での電車の事件、北朝鮮問題、株価の下落など、暗いニュースが多い。最近では、帷子川在住で、私と同じ浜っこのタマちゃん捕獲作戦(タマちゃんがいたいところにいさせればいいのにね)などもあった。 
   しかし、なんといっても忘れてならないニュースといえば、アメリカによるイラク攻撃だろう! 私が生まれてからまだ、20年余だが、その間に戦争や紛争などたくさんあった。しかし、これまでそれほど戦争というものを身近に感じることはなかった。 
   今はまだ空爆への秒読み段階だが、この号がでる時点では、空爆が始まっていることだろう。そんなわけで食事をしているとき、化粧をしているとき、挙げ句の果てはテレビでドラゴンボールZの再放送を見ているときでさえも、平和とはなんぞや? と考えてしまう今日この頃。平和ボケだからとか、遠い国のことだから関係ないよ、なんて言っている場合ではないのだ。士気を煽りたいわけではなく、きちんといろいろなことを考える時期がきているのではないかと思う。 
   話が堅くなってしまったが、さて皆さんは、靖国神社の本殿に祀られていない方々や、世界中のあらゆる戦死者が祀られている神社が靖国内にあるのを、ご存じだろうか。 
   名前は、鎮霊社。 
   初めて聞いたときビックリした。靖国神社の中に、そのような施設があることにビックリしたという以前に、原則として日本兵として亡くなった方を祀っている神社に、外国籍の人々を祀っているという事実に驚いた。靖国神社は神道だ。死んだら祭神として祀られる。祭神とは、その神社に祀られている神。その理論でいくと、たとえ日本人ではなくても神道で祀れば神。しかし、いうまでもなく外国人の大半(たぶん全員)は神道を信仰していない。別に信じる宗教があったり、無宗教だったりするだろうから、それに従って祀られているはずだ。何の許可も取らずにキリストやブッダを信仰している人を神道の神として祀るとは豪快というか、適当というか。いや、そもそも不特定多数を神として祭るなんてことは、神道ですら異例らしいが……。 
   靖国神社には神道を信仰していない戦死者がたくさん祀られており、それでさえ物議がかもされているのに、いくらなんでもことによっては日本という国さえ知らない外国人をワールドワイドに祀っている。調べねばなるまい。
■ A級戦犯のいない社
   『やすくにの祈り』(靖国神社編・産経新聞ニュースサービス刊)には、鎮霊社は軍のために亡くなった人以外の(合祀の基準に当てはまらない)人を祀っていると書いてはいるものの、何で創ったのかはよくわからない。 
   靖国神社に電話して何で作ったのかを聞いてみると、「いろいろな説があるんですが、(戦争中には)いろいろな思いを持って亡くなった方がおり、日本国籍以外の方もいらっしゃいます。そういう方をお祀りするためにつくりました」とのこと。 
   ちなみに歴史学者の秦郁彦氏は、『文藝春秋』(2001年11月号)で「A級戦犯の『怨霊』の落ち着き先として作ったのではないか」と推測している。つまり靖国神社の見解とは違うわけだ。もっとも秦氏の質問を靖国神社側は否定しているので、真相は藪の中ということだろう。 
   ただし秦氏の論文は、重要なことを教えてくれた。
   「結果的に彼ら(宮司)が昭和40年から53年10月の靖国神社合祀までここに祀られていたことは認めた」というのである。つまり13年余にわたって鎮霊社に祀られていたA級戦犯は、昭和53年からは、鎮霊社から本殿へと移ったという解釈もできるということだ。
   『やすくにの祈り』によると鎮霊社は「1853年以降、戦争・事変に関係した世界各国のすべての戦没者」が祀られているうえ、A級戦犯は抜きと解釈できる。 
   だとしたら平和のために祈る場所として、理想的な環境ではないか! 宗教に関係なくすべての御霊を祀っているのだから、大々的に宣伝すればいいのである。それで靖国参拝の問題を解決できるかもしれない。 
   例えば小泉首相が、首相就任以来3度目の参拝を今年1月4日に行い、中国や韓国の猛抗議を受けたが、A級戦犯も祀る本殿の参拝がダメだというのならば、いっそ鎮霊社に参拝し、その後の会見で「私は鎮霊社に参りにきました。ここは、宗教や歴史云々に関わらず、たくさんの神が祀られているところです」といえばいいのだ。だって、韓国や中国の英雄だって(勝手にではあるが)祀られているのだから。しかも本殿の回廊と鎮魂社の距離はたったの10メートルもない。小泉首相は靖国に断固として行くという公約なので、物議をかもさず、靖国にも参拝できる絶好の方法である。在任中に是非、実行してもらいたい。官邸よ、聞いているか。 
   その存在自体が神道の心の広さ(神は平等ということ)を十分に伝えることだって可能だ。 
   ところが、こんなにすごい施設が、様々な文献で語られる事が少なく、知名度も低い。それどころか本殿の横にありながら、一般の人は参拝できない。どういうことだ。鎮霊社が脚光を浴びると、靖国神社本体の威厳を保つ上で、かえってマイナスになりかねないからだろうか。
■ 靖国・千鳥ヶ淵問題の解決も
   鎮霊社のことを散々書いてきたが、忘れてならないのが千鳥ヶ淵墓苑。ここは、無名戦士が眠るお墓である。なぜここが出てきたかというと、『検証・靖国問題』(PHP研究所・編)という書籍の中に、とても興味深い文が出てきたからだ。この連載を始めるまで、靖国神社自体に関心がなかったというか、時事問題にはさほど興味・関心がなかったので国立慰霊施設をつくる案があったことを知らなかった。聞いていたかもしれないが、すーっと耳を通り抜けて忘れ去っていたと思う。今回この本を読んで、考え方は人それぞれだということを改めて感じた。 
   この中に「国立墓地構想」という章がある。その章には、アーリントン墓地と、靖国神社について書かれている。同じ追悼施設だが、アーリントンは墓地で、靖国は神社である。さすがに、比較するのはおかしい。しかし、戦争に関連する施設という点では同じなのであえて触れることにする。 
   アーリントンで眠る人は「国家の英雄」と呼ばれているらしい。たしかに国のために戦い、犠牲になった人は英雄である。しかし、それは戦勝国アメリカだからそのようにポジティブにとらえられるのであって、日本は敗戦国である。文中には、「苦い過去のシンボルになってしまっている」と書かれているが、仕方のないことなのではないか。そもそも靖国は、坪内祐三氏が『靖国』(新潮社)で昔は娯楽施設の面も持っていたと書いていたように、もともと楽しい娯楽スポットだったのだ。それを国家神道という精神を植え付けさせるために神社を使い、戦争に走り、死ななくてもよい人までが犠牲になってしまった。 
   戦死者を祀るという行為を神社として行うことに異議はないが、後に戦犯と呼ばれる戦争遂行者が祀られ、それを隠していたことが、靖国神社にさらなる負のイメージがついてしまった原因なのではないだろうか。アーリントンのように未来志向型に取れるようになれば、そこでようやく日本が過去の歴史の呪縛から解かれ、靖国が神社として新しい一歩を踏み出せる日がやってくるだろう。 
   さらに読み進めていくと、「国立施設における慰霊の対象として、日本が起因となった戦争により命を失った、海外国籍の方々も併せて慰霊する」案が出ていると書かれている。それは結構なことだ。それで許されるとか、文句は言われないだろうと思うことはナンセンスだが、本気で日本のせいで犠牲にしてしまったことを悔やみ、申し訳ないと思うことを形にする意味で作るのであれば、賛成しよう。 
   とはいえ、それができるとなると国立の慰霊施設である千鳥ヶ淵はどうなるのか? 二つも国立の追悼施設は必要なのだろうか。そこと合併させるというのはだめなのか。そもそも靖国神社の立場はどうなる。今まで散々いいように使ってきたにもかかわらず、靖国に参拝することは国際社会の摩擦の原因になるからイカン!ということで他の施設に乗り換えるのに抵抗のある人が多いことは広く知られているとおりだ。 
   そこで鎮霊社である。本殿に祀られていない人おろか、世界各国の戦争殉難者が祀られている場所が靖国に存在しているのだ。もともと作られた意味は国立追悼施設を作る案の目論見とは違うと思うが、一般に公開されていないという点を除けば、「色づけ」もされておらず、社の目的は合致する。少なくとも靖国神社のなかでは、限りなく透明に近い。もちろんA級戦犯を祀るためにつくったかもしれないという歴史は、プラスには働くまい。しかし、前述の経緯から今はA級戦犯を祀っていないともいえる。 
   驚いたことに『やすくにの祈り』には、コソボの紛争や湾岸戦争で犠牲になった方も祀ったと書いてある。当たり前だが、アップトゥーデートである。ちなみに当初は賊軍とみなされた西郷隆盛や白虎隊も、この鎮霊社には祀られている。世界中の戦死者を集めるのだから、敵も味方もごちゃ混ぜである。ここまで範囲を広げれば、アーリントン墓地の上をいくといえなくもない。 
   あまり知られていないが、毎年7月13日には鎮霊社祭が行われている。せっかくグローバルな神社の祭りなのだから、もっと大々的に宣伝すべきだろう。 
   一般の参拝者も訪れることができず、お祭りを宣伝しないとなれば、A級戦犯とからんだ、うがった見方も出てこよう。本気で世界中の戦没者を慰める気なら、御霊祭り以上の祭りを催すべきである。となれば毎年「鹿嶋砂利」を鎮霊社に奉納している鹿嶋市遺族会も、大いに喜んでくれるに違いない。 
   それでどうする? という向きもあるのだが……。  (■つづく)

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靖国を歩く/第13回 一年に一回、本当の運だめし-福引き in 靖国(奥津裕美)

■月刊『記録』03年3月号掲載記事

    *        *        *

 神社での運だめしというとおみくじだけだと思っていたが、実は違ったみたいだ。さらにスッゴイものがあったのだ。 
   12月某日、企画を考えながら靖国神社のホームページを見ていたら、なんと! 福引きをやると書いてあるではないか。しかも福引き券のページをプリントアウトすれば一回引けるという。なんだこりゃー。これは早速、行かなければ。 
   1月3日。雪の降るものすごく寒い日にもかかわらず、やって来ました靖国神社。やはり「初詣は靖国へ」と、テレビCMを流していただけはあった。第一鳥居を入り坂をあがった途端、目の前には出店・出店・出店。まさに出店ランドなのだ。クリスマスの頃とは大違い!
   先月号を読んだ方ならおわかりかと思うが、イブはBSE(狂牛病)騒動の頃の焼き肉店のような寂しさだったのに、一週間後には、リニューアルオープン時の丸ビルのような盛況さになっていた。 
   初詣には毎年行っているが、祭りのような盛り上がりをみせる神社には行ったことがなかったので、正直おどろいた。私のこれまでの経験では、あるといったら甘酒を配っているテントぐらい。ところが靖国神社は、軽く20~30は店を出している。 
   焼きそば、お好み焼き、たこ焼き、綿菓子、くじ引きなどオーソドックスな出店はもちろんのこと、最近は串に刺した肉やクレープなどが参入。それどころか松阪牛まである。原価はいくらなのかわからないが、フランクフルトよりはお得感がありそうだ。テキ屋もなかなかのものである。食べ物屋の中には、奥に食べるスペースがあるところもあった。なんて親切な。 
   そんななかでも、ひときわ目を引く出店があった。コンピュータを使った占いだ。参道で占い。「占い」なのに「売らない」。この取り合わせが意外とおかしい。現代の技術を駆使した占いか! それとも本殿まで行っておみくじか! どちらが当たるのか……新年占い対決の結末はいかに! などと考えながら通り過ぎたが、寒さのためか、それともおみくじで満足している人が多いためか、お客さんはいなかった。大雪が降る中の営業はさぞかし大変だろうなとか思いつつ、先へ進んでいった。 
   まだ数分しか外を歩いていない私でさえ寒い。ブーツの中の足が冷え切って感覚が失われてきている。早く福引きを引かないと。 
   凍りそうだったので手水は割愛。手水舎で清める以外にも、葉で雪をこするというやり方もあるのだが、あいにく雪が積もっていなかったのでそれも割愛。まず、賽銭箱にお賽銭を投げる。「今年こそミリオンセラーがでますように」と、まだ本すら書いてなのにお願いし、二礼二拍手一礼で参る。チラッと横を見ると、その方法で参ってる方がいるではありませんか。ただ手を合わせている人が多いなか、公式の参拝方式は目立っていた。年に一回は正式な方法で参るのもよいのではないでしょうか。

■よりどりみどりの豪華賞品

   案内図をみて、福引き会場へと足を運ぶ。力の入った会場設営なのかと思っていたら、普通のテントでハッピを着た若者がやっていた。福引きというと、ガラガラと回すものを思い浮かべる方も多いかと思うが、靖国の福引きは三角くじだった。くじ引きじゃん! と思わず突っ込みをいれてしまいそうになったが、商品がもらえるおみくじだと思う事にした。盛況かと思いきや、昇殿参拝をしないと福引き券をもらえないシステムだったので、ホームページを見たであろう人など見あたらない境内では、福引きを引いている人はそれほど多くはない。 
   しかし驚くなかれ、商品はものすごく豪華なのである! 
   1等・14型カラーテレビ、おとそセット、FMVノート型パソコン。2等・DVDプレイヤー、デジタルカメラ、ハローキティぬいぐるみ(大)、にゃんまげぬいぐるみ(大)、焼き肉プレート、ハウスクリーニングサービス券、食事券、図書券。3等・鉢植え。4等・靴下。5等・カード入れ、チャルメラ、メモ帳、ボールペン、マスク。6等・消しゴム。 
   私は、5等のメモ帳をもらったが、ピンクのグラデーションが可愛い・ もったいないので、約2ヶ月たった今でも未開封で保存している。一緒に行った友人は、消しゴムをもらっていた。見てみると、野菜の形をしていて、パッケージには、『帰ってきたウルトラ米ャンペーン』と書かれており、裏側には、「食べ物ではありません。『消しゴム』です。小さなお子様にご注意ください」と書かれている。とはいえ、キャベツの消しゴムなどは、どう見ても緑の塊にしか見えないのだが……。 
   一般的に福引きといえば、スーパーやデパート、駅ビルなどでやっている。賞品は、特賞が海外旅行、一等は商品券か温泉旅行、5等はお菓子、ハズレがティッシュ。そんなところだろう。 
   それに比べてさすがは靖国。1~6等まで気を緩めていない。靖国神社でパソコンやテレビがもらえるなんて想像したことがあるだろうか。福引きの企画を立てたとき、古参編集部員と共に「真珠湾攻撃の跡地を巡るハワイツアーだったらどうする?」「遊就館入場無料券とかだったら」など色々な想像を膨らませていた。安直というか、ふざけているというか、考えが幼稚すぎて靖国に申し訳なかった。怒らないでね・ 
   豪華な賞品の中にも、かなり渋い商品が含まれているのが面白い。 
   まずは、なんといってもチャルメラ。協賛企業に日清が入っていたので納得だが。看板商品カップヌードルではなく、チャルメラというところがよい。これが、チャルメラではなく、チキンラーメンが賞品だったら、メモ帳では迷わずそっちを選んでいた(ただ、好きなだけなんですけどね)。 
   さらに渋いのが、マスク。通常の福引きでは、なかなかお目にかかれない賞品だが、今年は例年以上にインフルエンザが大流行し、死者も多数でた。もしかしたら英霊がそれを前もって予測していた!?、というのは考えすぎか。 
   4等にあえて、靴下を持ってきているのはなかなか真似できないセンスである。これも協賛企業が多彩だったからだろう。企業からも人気の神社ということか?

■1等でも名前は張り出しなし

   買い物で貰った補助券10枚ほど、あるいは3000円で1回なんていう商店街の福引きよりも、靖国で福引きを引いた方がいいのではないか。外れに近い5、6等でも、実用的な商品の並ぶ靖国の方が、お得感が大きい。 
   私たちが、メモ帳、消しゴムをもらっている横で、チリンチリンと、大当たりのベルが鳴らされた。どうやら当たったらしい。 
   スーパーなどでは、特賞に当たった人の名前が書かれているボードなどがあるが、靖国にはないようだ。 
   そうしたボードは、あと何本特賞が残っているかがわかるので便利だが、自分が運良く当たってしまった場合はイマイチである。それも鈴木、山田、渡辺などありきたりな名字ではなく、堂珍とか御法川とか御手洗などといった珍しい名字だった場合は、当たったことが近所の人にバレしまう。奥津だって、ちょっと危険だ。「そういえば、特賞当たったらしいわね。いつハワイに行くの?」なんて聞かれた日には、近所中にお土産を買って帰るハメに……。 
   その点、靖国神社は良心的というものだ。 
   いろいろな所から参拝者が来るから書かれてもわからないなんていうのは甘い。世間はとても狭いのだから。もしかしたらクラスメイトや同僚、ご近所さんが初詣に来ているかもしれない。ボードを見た時点では気付かないかもしれないが、「初詣で靖国に行って、福引き引いたよ~」と言った時にバレてしまう可能性も十分あり得る(だからなんだ?)。

■「気持ちをお返しする」福引き!?

   どうして靖国神社で福引きをやっているのか。そんな根本的な疑問を抱いて、靖国神社の広報に電話してみた。 
   すると、「協賛企業から頂いた物や気持ちを、(靖国神社がかわって)一般の多くの人に気持ちをお返しする」のだという。 
   ナイスな心意気だ。神社としてとてもよい事をしているのではないか。もらった物を独り占めにするのではなく、みんなにわける。それならそれでHPをもっとわかりやすくし、昇殿参拝しない人にもやらせてあげたい。福引きなんて他の神社ではやっていないのだから、もっとアピールしてもよい。ただ、あれだけ参拝者の集まる神社で、福引きの宣伝をしたら、いくつ協賛企業があっても足りないかもしれないけれど。 
   これまでの福引き人生を思い返してみると、私はくじ運がないのかティッシュばかりもらっていた気がする。花粉症と鼻炎持ちなのでティッシュはとても重宝するけれど、なんか寂しい。小学生の頃、ポットが当たったが、結局使わないまま実家を出てしまった。その前には、後頭部に護送車が当たって「大当たり」ということがあったぐらいか。私には男運があっても、くじ運はないらしい。来年こそは、ノートパソコンを当ててやるぞー! と思いながら帰っていったのでした。  (■つづく)

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靖国を歩く/第12回 きっと君は来ない……靖国のクリスマスイブを調査(奥津裕美)

■月刊『記録』03年1月号掲載記事

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 2003年を迎えてはやひと月。この号が出ている頃の恋人たちはバレンタインデーの話題で持ち切りだろうが、一足遅れて、靖国神社のクリスマスイブを特集。 
   2002年12月24日、北風が吹く中、私と古参編集部員2人は靖国神社へと向かった。この企画の当初から心に引っかかっていた疑問がある。「果たしてイブに靖国へ来る人はいるのだろうか」。これは、彼も同じ心境に違いない。いや、同じ心境だ。 
   改めて書くのもバカバカしいが、クリスマスとはイエス・キリストの誕生日であり、イブはその前日を祝う日だ。だから神道の靖国には何の関係もない。でも一方でイブは今や日本最大のイベントの1つであり、靖国もその影響や余波ぐらいは受けているかもしれない。そうであれば21世紀の靖国の素顔として面白いルポができるのではないか、というのが編集部の意図なのだが……。 
   靖国へ向かう坂を上りながら雑談を交わす。クリスマスの予定や、前の年のクリスマスの話で盛り上がってきたところで、靖国の第一鳥居が見えてきた。あれ? なんかいつもと違う。『初詣は靖国神社』という看板が目についたのだ。すでにクリスマスを通り越して正月モードになっている。やはり神道だからキリストの誕生日を祝うわけもない。完全に無視である。 
   午後12時の時点で人はまばらで先が思いやられる。休憩所のベンチに座りカップルの登場を待つ。 
   それにしても寒い。気温の問題ではない。世の中のカップルは、2人で熱々なクリスマスを過ごしているんだろう。イルミネーション見ようね! なんて言いながらおいしいものを食べ、プレゼントを贈りあい、夜景を見てその後は……なんて、考えただけでもはらわたが煮えくりかえる。何で私のイブだけが靖国なのだ。この聖なる日に寒さと戦わなければならないのだ! 身も心も寒い。

■サンタクロース登場!?

   お茶を飲みながら待っていると、参拝を終えた女の子2人組を見つけた。これは逃すまいと早速、取材をお願いすると、快く応じてくれた。彼女たちは、箱根駅伝の必勝祈願で訪れたらしい。部では、明治神宮へ行ったらしいが、なぜ、靖国へ来たのかと訪ねると、「政治関係で色々言われていたから、ちょっと行ってみようかな、という感じで」と答えた。 
   彼女たちは24日は部活も学校も休みだった。イブに靖国を訪れた不自然さを聞くと、イブだからこそ周りと違ったことをして反発しようと思ったとからという。参拝後は「ブラブラしようかな」と言っていた。大学を尋ねたところ國學院大學に通っているらしい。靖国と國學院は切っても切れない関係である。「それは妥当でしょう」と古参編集部員。なるほど! 
   幸先のいいスタートを切ることができて、ひょっとしたらいけるかもと気を持ち直し、はやめにもらったクリスマスプレゼントを見せびらかしながら待つこと数分、大村益次郎像の所に赤い服を着た人が見えた。
   「あれは、サンタじゃないですか?」
   「サンタだよー、あれー」 
   思わぬところでサンタに出くわしてしまった。好きな人のことを考えていたら、その人から電話が掛かってくるほどのミラクルだ。迷わずサンタに声をかける。 
   サンタになっている理由について、サンタのコスプレにサングラスをかけた好青年は、「禁煙できなかった罰ゲームで。彼女はあまり乗り気ではないみたいで」と答えた。着てみた感想は、個人的には気に入っているという。念のため一緒にいた彼女に聞くと「愉快だな……と思います」とちょっと引き気味。罰ゲームは一日中続き、どうやら靖国はこの日のデートコースの線上にあったようだ。 
   周囲の反応を聞くと、女子高生が指を指してきたり、キワモノ扱いにすると嘆いていた。サンタがイブにいてキワモノもないだろうに。 
   その後、彼らは手水舎へ……。なんて礼儀正しいサンタカップル! しかし、靖国とサンタ。英霊とサンタ。正反対な組み合わせだが、若者が参拝しに来たのだ、大目に見てください。

■売店は大掃除

   それからパッタリと人通りが絶えたので、おでんを食べることになった。たまご入り500円。お店のオジサンに今日の予定を聞くと、「今日は掃除だな」と一言。どうやら、クリスマスイブは大掃除の日らしい。おでん鍋の中をのぞくと、具が数える程度しか入っていなかった。古参編集部員とおでんをつつく12時58分。 
   寒い日はおでんがうまい、と思いながら昆布を食べていると、若い女の子二人組が神社から出てきたので声をかけたところ、「たいした参拝してません」と、逃げられてしまった。たいした参拝って何だよ、何も逃げることはないじゃない。 
   次にベンチのそばでたばこを吸っていた女性に声をかける。黒いキャスケット帽に黒マニキュア、白いコートのおしゃれな彼女はクールに答えてくれた。 
   彼女は参拝そのものは、なんてこともなかったが、遊就館でゼロ戦が見たかったけど、800円は高かった。300円くらいだといいと切実に語った。靖国に来たのは近くに会社があったからだそうで、夜はバッチリ「予定があります」とのことだ。やっぱり、予定があるのか。 
   後ろでは、掃除をする音が聞こえる。ホントに掃除をするんだ。イブなのに。 
   さらに待つこと1時間、本日、2組目のカップルが登場。30代とおぼしきカップルは、クリスマスなんぞに浮かれない靖国神社にピッタリである。 
   取材の申し入れに、上から下まで黒で固めた彼女は戸惑いを隠せない様子だったが(まあ、当たり前か。靖国のクリスマスだし)、彼氏は気持ちよく答えてくれた。
   「いや、時間があったので、ちょっと寄ってみました。僕も初めて来たのですが、歴史の重みを感じますね。日本人なら1回は来るべき場所でしょう」と、弁舌もさわやかであった。カタカナ文化なんて何するものぞ、という勢いでもあった。しかし、「夜は別の予定が?」との質問には、迷わず「ハイ」。 
   やはり、文字通り「靖国神社でクリスマスイブを過ごす」という人はなかなかいない。

■米国人には謝られ……

   ではクリスマスの本場の人はどうなのか。米国人男性1人と女性2人、日本人女性1人の4人組が、参拝から帰ってきたところをつかまえた。 
   イブの靖国神社はどうですかとの質問を唯一の日本人女性に通訳してもらうと、3人が声を揃えて「(ここでは)祈ってないよ!」と笑い出した。そうでしょうとも。
   「観光です。ちょうど靖国神社が通り道だったので寄ってみました。有名な神社ですし。これから夜には、丸の内のイルミネーションを見に行く予定です」と、日本人女性は続けた。 
   当たり前だが、米国人の3人も、イブを靖国で楽しもうとは思っていなかったようだ。取材の終わりに米国人男性から日本語で、「ごめんなさい。観光、観光」と言われた。私達を、クリスマスを許さないタイプの日本人だと思ったのだろうか。決してそうではありません。
   そうこうしているうちに靖国神社と不釣り合いなカップルが参道を歩いてきた。男性は黒のハーフコートがおしゃれである。しかも美男美女。右の耳に5つのピアスをぶら下げた彼氏は、「なるべくクリスマスっぽくなく過ごしてみようと思いまして」と照れたように答えた。

   「それで楽しかったですか」と少し意地悪な質問には、大きな瞳の彼女が、「それなりに楽しかったかな、うん(笑)」とはにかみながら答えてくれた。これからはプラネタリウムに行く予定で、その後は家に帰りますとのことだ。照れたような笑顔がかわいい 
   わかったことが2つある。1つは何らかの理由でクリスマス気分を味わいたくないなら、それで面白いかどうかは別問題としても、靖国神社に来るのは大正解だということ。もう1つは、にもかかわらずカップルの話を聞いてる限り、2人なら靖国でもどこでも楽しいということだ。

■遊就館もクリスマスの熱はなく

   取材を終わらせ、遊就館へ向かう。総ガラス張りの建物は新築のせいか美しく見えた。中へ入ると、受付には黄色い制服を着た受付嬢が2人。靖国に勤めている女性に若い人が多いのはなぜだろう。 
   券売機でチケットを買う。800円が高いかどうかは館内を見物してから決めることにして、入り口の2階に上ろうとしたらさっきまで動いていたエスカレーターが止まっているではないか。「私を靖国ライターと知っての振る舞いか!」と思うわけもなく、「なんでー?」と動揺してしまった。 
   しかし、近づくとエスカレーターが動いたではないか! なんだこの先端を行く仕掛けは。どうやら省エネ効果も狙って、人が近づいたときだけ動くようにできているらしい。靖国はハイテクなのだ。この点は次回以降でリポートしよう。 
   なかでは、1人で熱心に見物する人や、グループ、カップルなどがいたが、やはりイブ云々が関係なさそうな年配の客が多かった。それにしても模型が多い。資料館というより博物館に近い印象だ。800円を出しても惜しくないくらいのボリュームで、博物館好きの私はかなり興奮した。しかし設備だけを見ると、一般客から800円徴収しなければ元が取れないように思えた。それだけ豪華なのだ、遊就館は。 
   前日は天皇誕生日であり、巣鴨プリズンで東條英機元首相の死刑が執行された日でもあった。そのため戦争の資料館である遊蹴館の出口に置かれたルーズリーフには、山ほどの感想が書き込まれていた。しかし一夜明けたイブは、書き込みも少ない。15時の段階で、わずかに5つだ。 
   そのうちの1つ。若い女性のものと思われる筆跡で、次のような感想が書かれていた。
   「こんなに何も知らない私には、何を思えばよいのか分からない。ただ1つだけ思うことは、もっと戦争について、日本の歴史について知ろうということ。そして、もっと考えることができる人になろうということ」 
   イブでも真剣な人はいるのだ。かたやクリスマスという熱に浮かれている人もいれば、真面目に考える人もいるのだということを遊就館は教えてくれた。 
   家に帰り、深夜番組を見ていたら靖国神社のCMが流れた。正月カラー満載、靖国の印象を打ち破るようなポップさに驚くとともに、靖国のクリスマスイブの企画に改めて虚しさと寂しさを覚えた。靖国は1週間後の正月に勝負を賭けている。 (■つづく)

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靖国を歩く/第11回 究極の謎に挑戦靖国に「英霊」はいるのか(『記録』編集部)

■月刊『記録』03年1月号掲載記事

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 それはふとした、しかし非常に根源的な疑問だった。「もし靖国神社に英霊がいなかったらどうなるのか」だ。何しろ目に見えない存在なのだから、いない可能性もあるわけだ。 
   いなかったら大変だ。靖国神社護持派は、その根拠を失ってしまう。もっと深刻なのは批判派だ。そこが大きな鳥居があるだけの空間だとしたら、国家護持や要人の参拝を批判する根拠がなくなる。政教分離以前に、英霊なき靖国は宗教法人なのかという問題だって出てくるだろう。 
   とくにA級戦犯の英霊が眠っているのかどうかは大問題だ。1986年8月14日に「公式参拝」を見送ると発表した後藤田正晴官房長官は、「昨年夏の公式参拝は、A級戦犯への礼拝ではないかとの批判を近隣諸国に生んだので」と語っている。ならばA級戦犯が実際にいるのかどうかはどうしても確かめねばなるまい。 
   問題は、それを科学的に実証する方法がないことだ。なぜならば霊という存在があることを前提にした議論自体が超常的だからだ。超常現象はそれがわかるとする人に調べてもらうしかない。そこでメディアでも活躍中の霊能者のA先生にお願いした。 
   誤解されると嫌なのであらかじめはっきりさせておくが、編集部は大まじめである。霊能者に依頼する以外の方法はどう考えてもなかったからである。A先生も決死の覚悟だ。霊能者にとって「靖国に英霊がいるか否か」というテーマは途方もなく重いそうである。

■編集部による公式参拝

   年の瀬も押し迫った12月某日、無理を言ってお願いしたA先生と編集部メンバー3人は、北風吹きすさぶ中、靖国神社へと出発したのだった。
   「参拝する時は、真ん中を歩いてはいけません。端を歩きましょう」 
   靖国の大鳥居に向かう歩道橋の上、先生はおごそかにつぶやいた。どうやら神社参拝の作法らしい。不思議に思ってたずねてみると、先生は霊視のみならず、神社関係にもかなり詳しい方だったのである。しかも先生の叔父様に当たる方が靖国神社に合祀されており、今回、本殿での参拝まで行い、英霊とのコンタクトを取っていただけるという。 
   小誌実働部隊のほぼ全員が正式に参拝するとなれば、これぞ『記録』の“公式参拝”ではないか。唯一の30代である古参編集部員にその旨をたずねると、「玉串料は先生がお支払いするので、編集部としての公式参拝ではない。私的参拝である」と、笑いもなく答えるではないか。 
   私的・公的はともかく、正式な作法に則った参拝をすべく、私たちは行動を開始した。「参拝は鳥居から始まるんじゃない、歩道橋から始まるんだ」と、踊る大捜査線風に言ってみたが、そう、歩道橋から参拝は始まっていたのだ。先生の注意に従って、私たちがミミズのように一列になって歩いたのは言うまでもない。 
   鳥居をくぐるときは、一礼して入る。大村益次郎像を越え、休憩所を横目に見ながら第二鳥居へ差し掛かったとき「ここからは無駄話をやめましょう」と先生からお言葉が。穏やかな先生の表情が、徐々に引き締まってくるのがわかる。 
   それなのに古参編集部員は、取材ノートをブラブラさせ、「ノートはしまってくださいね」と先生から優しく注意されていた。 
   第二鳥居を潜り、すぐ左手にある大手水舎で手と口を清める。もちろん作法もバッチリ教わった。
   「柄杓に水を汲み、左掌に水を掛け、次に右掌に水を掛ける。口を漱ぐときは、柄杓に口をつけてはいけません。左掌で水を受けてから口をゆすぎます。最後に、柄杓を立てて柄を洗います」 
   知らなかった! 神社へはよく行くが、正しい手水のやり方なんて聞いたことさえない。口の漱ぎ方まであったとは。手を拭き、神門の前でまた一礼。更に奥へ進むと中門鳥居があり、また一礼。そこを抜けると拝殿だ。 
   何はともあれ、拝殿でまず参拝。ここでも作法がある。まずコートやマフラーを外し、賽銭箱に賽銭を入れる。先生によれば、「賽銭は2枚、4枚と2で割れる数がいいと言いますが、気持ちで結構です。賽銭は願いを託すものなので、5円玉一枚というのはちょっと……」とのこと。私も奮発。10円玉2枚を賽銭箱を投げ入れる。拝礼は、二拝二拍手一拝。見よう見まねで礼儀を尽くした。

■英霊は常駐していない!?

   さて、いよいよ昇殿参拝のために祭儀所へ。美しい巫女さんに迎えられ座敷に通された。所定の用紙を先生が書き込み、しばらくすると宮司が登場。改めて手と口を清め、祓所でお祓いをしてもらい、いざ本殿へ。 
   中央には、大きな鏡とカブやリンゴなどの神饌が置かれている。その鏡の前に正座をすると、外から小鳥のさえずりが聞こえてきた。そして神主による祝詞の奏上が始まる。深く息を吐いた先生がゆっくりと頭を垂れ、お辞儀をしていた。 
   祝詞が終わり玉串を納めた後、二礼二拍手一礼して黙祷し、その後に廊下で神酒をいただいた。飲む際には、本殿に向かって「頂くゼ」という感じで挨拶した後に飲んでみる。もともと神と会った後の祭りを儀式化したものらしいから、威勢が良いに越したことはないだろう。中味は至って普通の辛口の日本酒だ。とはいえ昼間から飲めるのはありがたい。 
   さて、祭儀所を出てすぐ、英霊との遭遇について先生にたずねてみた。
   「本殿に上がる前と、本殿から出てきたときに、『Aちゃん』と呼びかけられました。英霊の叔父様でした。ご遺族の方の中には、英霊が呼びかける声を聞き取れる人も多いのではないでしょうか」 
   う~ん、やっぱり英霊はいるらしい。
   「通常の神社では、天からシャワーのように御霊が降ってきてサッパリします。でも、ここでは地からゆかりのある御霊が上がってくる感じですね。下から暖かい気が、どんどんのぼってきました。あと、本殿に巫女さんのような女性が見えましたよ。英霊をお世話する女神のような存在でしょうか。 
   それにしても参拝したら、朝からの肩こりがスッキリ抜けました。すごいですね」と、先生はニッコリ。 
   しかし私は気になった。約246万余柱の英霊を、どうして先生は見ないのだろうか? 大量の英霊が神社を走り回っている図を、私は期待していたのだが……。
   「いや、簡単に説明すれば、靖国神社は玄関なんですよ。幽界にいる英霊が、参拝の声に応えて神社まで降りてきてくれるんです。もちろん自ら降り来てくださる英霊もいらっしゃるとは思いますが」 
   なんと、英霊は24時間、靖国神社に常駐しているわけではないのだ。つまり呼ばなければ、東條英機や板垣征四郎などのA級戦犯は出てこないのである。 
   これは大変な発見である。A級戦犯が合祀されているという理由で諸外国から参拝が批判されている点について、たとえば参拝した首相などの要人は「A級戦犯の英霊はお呼びしていませんから」といえばいいということになる。だが、そうするとなぜA級戦犯の英霊を呼ばなかったのかとか、だったらいったい誰を呼んだのかとか、オレの親父をなぜ呼んでくれなかったのかという新たな問題が発生する可能性もある。 
   こんな難問に果敢に取り組んでいる私をよそに、一行は招魂斎庭があった駐車場へ。この招魂斎庭、英霊を神祭として本殿に合祀する前に、心霊を迎え入れる招魂式を実施した場所だという。そんな聖なる場所を駐車場にするなんてけしからん、と一部メディアに批判された場でもある。 
   私も何となく罰当たりな行為だと思っていたが、先生は「問題ありません」と頷いた。
   「ログハウスが手狭になり、新しいログハウスを建設しても、普通、誰も文句を言わないでしょう。いきなり昔の施設を壊したならともかく、きちんとお祓いをしていますし、神様も怒っていないようです」 
   どうやら怒ったのは、人間だけだったらしい。

■千鳥ヶ淵戦没者墓苑との意外な関係

   さて、靖国神社を出て千鳥ヶ淵戦没者墓苑へと向かった。第2次世界大戦で亡くなり、遺骨が収集されたものの、氏名の特定ができなかったり、引き取り手がいない無名戦士の遺骨を納めている場所である。 
   門をくぐった途端、先生が深呼吸をした。やや顔をしかめ、目をつぶる。靖国に入ったときとは違う緊張感が漂っていた。納骨施設が視界に入ってくると、先生がボソッと一言。
   「ヘタにさわれない」 
   普段は何かを感じることが少ない私でも、入った瞬間体が怠くなり下半身が重くなった。だからといって、足腰が疲れている訳ではありません。 
   4人で献花し、門に向かって歩き出すと、今度は先生が首を振り始めた。
   「重い……。個別に霊がいるような状況じゃありません。エネルギーの集合体が、ドーンとある感じです。近づけませんでした」 
   首を左右に振りながら、先生は言った。
   「ここは4時閉門で正解だわ。夜は来ない方が良いですよ。どうなっても知りませんから」 
   先生、怖すぎます! 夜、トイレに行けません……。
   「足元から下に吸われるような感じがしませんでした? あくまでも私個人の意見ですが、千鳥ヶ淵は霊的にもう少しちゃんとした方が良いかもしれません。あらゆる宗教者が慰霊のために訪れるようになれば、霊も喜ぶと思います。ただ靖国も千鳥ヶ淵も、両方必要な施設なんです。千鳥ヶ淵は荒ぶる御霊であふれ、靖国はそれを鎮める『招魂社』。その2つのバランスが大切ですから」 
   そうだったのか! 靖国と千鳥ヶ淵の関係はいろいろと議論されてきたが、こうした新解釈も可能なのである。 
   先生の肩の痛みを払うためにも、再度、靖国神社をお参りすることになった。道々、先生から霊媒師から見た靖国神社像について教えてもらう。
   「政府や上の論理は、国威のために戦死者を利用し、『祀るから安心して天に昇ってくれ』という考え方。遺族や現場の倫理は、『死んだのだからせめて神に祀ってくれ』というものでした。どちらが正しいではなく、そういう考え方、思いがあるということでしょう。 
   ただ靖国神社は、荒ぶる霊をしずめています。A級戦犯などが処刑された池袋で幽霊が目撃されるのは、死者に怒りがあるからでしょう。靖国神社がなければ、誰が荒ぶる霊を諫めるのでしょうか」 
   靖国問題の根幹を解決すべく組まれた取材は、左右両陣営に加え、「英霊の主張」という新たな座標軸を発見することとなった。 
   そして私はといえば、さらに混乱を深めることになったのであった。英霊の主張?
   うーん……。  (■つづく)

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靖国を歩く/第10回 おみくじバトル2002年 冬~靖国vs明治vs大國魂vs湯島vs氷川~(奥津裕美)

■月刊『記録』02年12月号掲載記事
       *          *           *
  神社といえば、みくじだ! 誰がなんと言おうとも、おみくじである!!  
   使用されている紙だって粗末なものから豪華なものまで様々。値段も100円から、チャーム(オマケの魔除けグッズ)がついた200~300円のものまで千差万別。だが正直、そんなことは関係ない。みくじの醍醐味は、吉凶なのだ! そう、私にとって神社といえば、みくじ。みくじといえば、やっぱり吉凶!! 高いテンションで申し訳ありません。しかし初詣で凶を引こうものなら、最悪な一年になるのでは、とすっかり沈んでしまう私にとって、おみくじは重大問題なのだ。 
   というわけで今回は、靖国のみくじと他の神社のみくじを徹底比較する。 
   まずは、比較神社の紹介。 
   明治神宮は、明治天皇、明憲皇太后を祭神とし、靖国神社同様、極めて社格が高いとされる。大國魂神社は、大國魂大神を祭神とし、国を守る神を祀っている。湯島天神は、天之手力雄命と菅原道真公を祭神とし、学問の神として有名。氷川神社は、素盞鳴命、奇稲田姫命、大己貴命を祭神とし東京十社の1つでもある。東京十社とは、東京の鎮護と万民の平安を祈願するために明治天皇が定めたお社を指す。つまるところ東京の守り神の10代表なのだ。 
   さて今回、編集部の大盤振る舞いにより、1社10本、計50本ものみじくを引くこととなった。せっかくなので、各社のみくじを違いを、概略的につかんでいただこう。 
   まずは「願事」や「待人」など、占いの項目数を数えた。項目が多ければ、より細かく自分の未来を知ることができる。結果は、明治神宮→0、靖国神社→10、湯島天神→12、大國魂神社→13、氷川神社→17。明治神宮は吉凶そのものがないので論外であり、他の神社を圧倒した氷川神社の数が光る。 
   さらに1項目ごとの平均文字数も調べてみた。湯島天神→8.26、靖国神社→9.2、氷川神社→13.4、大國魂神社→16.5。なんと湯島と大國魂の文字数は2倍! 大國魂の顧客第一主義(?)には、頭の下がる思いだ。 
   さて調査をした5社のなかで、護国を担う靖国、明治、大國魂に着目した。この3社の特徴は、とにかく「お説教」が多いこと。 
   靖国神社は、吉凶が書かれた裏面に徒然草や五輪書などの古典から一文を引き、いかに生きるべきかを説く。大國魂神社のみくじは、裏面に「教え」と「天のみこえ」さらに表面にも「言」という枠があり、道徳満載となっている。きわめつけは明治神宮。なんと吉凶すらない。表面は「大御心」と呼ばれる明治天皇と明憲天皇が残した金言のみ。裏面は「この大御心を身につけて――明るく楽しく勤めましょう」という文章で括られた枠内に、金言の解説が書かれている。その欄外には、「今日の参拝の記念に大切に保存しましょう」という文言まで……。 
   国を守るためには、まず人民から。最近の情けない国民をビシッと叱りたい。その気持ちはわかります、はい。やっぱり偉い人は説教をしたくなるのだろう。この点、神も人間も同じということか。まあ、何となく全文を読んでしまうみくじで道徳心を説くのは、手法としては成功かもしれない。普段の「お説教」より抵抗なく入ってくるからだ。 
   実際「みくじ説教」の手法を、音楽に活用している人たちもいる。日本のラップミュージシャンだ。日々、リスペクトだ、突破だのと、御祭神が喜びそうなことを日本風のrhymeに乗せて歌っている。彼らに3社のみくじを歌わせてみたら、案外おもしろいかもしれない。流行るぞー! 
   それにしても、みくじに吉凶がないのはいかがなものか。一時の運不運を紙に託して批評するなど、神の仕事ではないかもしれない。しかしみくじを引く人は、未来の指針を知りたいのである。そこに神の力を借りたいのである。 
   引いたみくじに吉凶がないということは、例えるならモーニング娘のトレーディングカードを買って、プロレスラーの写真が出てくるようなものだ。凶が出るのとでは、絶望の度合いが違う。 
   明治神宮のホームページによれば、国家の管理に置かれていた戦前は神札しか出しておらず、おみくじの発行は戦後、宗教法人になってからだという。このとき明治神宮独自のみくじを出そうと知恵を絞り、祭神にゆかりの深い御製や御歌で、みくじを出すことに決まったという。 
   同じく高い社格を持つ明治と靖国。しかし、みくじの作りに、私は祭神の違いをみる。靖国神社の英霊は、もともと私たちと同じ庶民。だからたとえお説教が多くても、庶民のお目当て吉凶にも力を注ぐ。金言にしても、明治神宮が皇族の言葉だけなのに対し、靖国は国学者から狂言役者まで幅広い分野から人選している。格が高くても、敷居は低い。庶民派靖国、侮りがたしである。 
   まあ、考えてみれば、引く人物の民度に問題があったのかもしれんが……。高貴な方には、明治神宮のみくじがお気に召すことだろう。みくじには黄色と白があり、菊の御紋が光って浮き出る和紙を使っている。100円とは思えないほどの高級感だ。「しゃらくせい! こちとら運不運が知りてぇんだ」と叫んだ私には似合わなかった。それだけかも……。 
   靖国と同じく護国を担う大國魂神社のみくじは、先ほども触れた通り三部構成のお説教である。正直、しつこくないでしょうか? 社格が上の靖国でさえ、裏側だけなのに。大國魂神社の祭神・大國魂大神は、国土を開拓し、人民に衣食住の道を授けたといわれる神である。ほとんど類人猿のころから生活全般を指導してきたなら、余計な一言を言いたくなるのも人情(神情?)か。子どもがいくつになろうとも、親から見れば「子ども」なのだ。いやいや現代人なんて大國魂大神から見れば、やんちゃ坊主に過ぎないのかもしれない。「もう、おいたばかりして!」そんな気分で、みくじを渡しているかも。 
   一方英霊は、神とはいえ元人間。お説教にウンザリした人も多かろう。人間にしつこいお説教は逆効果だと、適度なところで切り上げたに違いない。
■必ず病気が「回復する」靖国 
   みくじの内容についても、個別にみていくとなかなか面白い。
   【進学】について、 靖国はとにかく努力を強調する。10本のうち半分が「努力」に触れている。「努力は報われる」、「努力の積み重ねにより開かれる」などなど。『少年ジャンプ』の合い言葉のようで参ってしまう。努力が大切なのはもちろんだが、さすがにちょっと多すぎやしないか! 努力だけでどうにもならないことは、英霊の皆様はわかっていると思うのだが……。 
   大國魂の決まり文句は「あぶないです」。なんと10本中5本も! 「怠るとあぶないです。努力してください」、「あぶないです。全力をつくしなさい」。これは参った。学生ではない私でも、ちょっとショックだ。神様から面と向かって「あぶない」と断定されると、本当に危なそうだ。 
   一方の氷川神社は、「祈り」がキーワードである。「祈りの心で励めば叶う」、「自己を克服し、神様を念じつつ励めばよい」、「御祈願を捧げ 努力専一に励めば必ず叶う」などなど。どこか神頼みとはいえ、祈ればどうにかなるよ、というのは簡単だなぁ。「現実的じゃないよ」などと毒づいていたら、「自惚れると失敗する、分に応じた処をえらべ」! 希望を下げろと? メチャクチャ現実的じゃない。無理を承知の神頼みなのに。項目数ナンバー1の氷川神社は、みくじの文章でも豊富なバリエーションをみせた。 
   ちなみに進学問題の権威・湯島は、意外なほど素っ気ななかった。受験を知り尽くしているがゆえの、口数の少なさだろうか? 
   【病気】に悩んでいる人にお勧めしたいのが、靖国神社である。とにかく多いのが「回復する」。10本中9本に、この文言が書かれている。残りの1本も「快復する」と書いてある。つまりどうやっても「回復する」わけだ。と、ここで心配になった。英霊が基準にしている健康体って……。 
   一方の氷川は、学問に続き神頼みである。「一応快くなる信心せよ」、「祈願をこめれば癒る」、「お祈りし快癒を待ちなさい」。神頼みすればどうにかなるというお告げだ。もっと切実感を出したいなら、「執刀医がうまくやることを祈れ」なんてのもどうだろう? それでは現実的すぎるかしら……。 
   ビジネス関連というと、靖国は【売買】という項目がある。その結果は「目上の人に相談すればよい」など。ビジネスでも、礼節をわきまえているのか、さすが英霊。まあ、実際には、相談しても失敗することが多いのだが。偏見かもしれないが、英霊にビジネスを聞く気がどうにもわいてこない……。 
   ビジネス関連で要チェックなのは、大國魂の【求人】である。この不景気にという感じもするが、採用サイドへのアドバイスである。「あとの人がよろしいでしょう」、「思うような人は来ないでしょう」、「その人でよろしいでしょう」などなど。しかし採用を神頼みする企業なんて御利益あるのだろうか? 占いの結果で落とされたら泣くに泣けない。でも、そんな会社なら行く必要はないか! 
   さて、書き残した情報が1つある。それは吉凶の数。発表しよう。靖国神社→大吉1、吉7、末吉2、大國魂神社→大吉3、中吉1、吉2、末吉3、凶1、湯島天神→大吉5、吉4、末吉→1、氷川神社→大吉4、中吉1、吉2、小吉2、凶1。 
   大國魂以外は私が引いたにも関わらず、けっこうなバラツキだ。となると気になるのが、大吉・凶などの確率である。 
   神社本庁に問い合わせたところ、「こちらでは(みくじの)確率は決めていません」とのこと。そりゃそうだ。吉凶すら書いてない神社があるのに、確率が決まっているはずもない。となると各神社任せとなり、大吉だらけなどという可能性も。 
   さっそく靖国神社に電話を掛けてみると、「(確率については)明らかにしておりません」とのこと。意外にガードが堅い。ただし、みくじの製作を業者に頼んでいると教えてくれた。ただし業者名は、「答えられません」とのこと。その後、湯島神社、明治神宮と電話をかけたが、どちらも業者にみくじを発注していることは教えてくれたものの、業者名や吉凶の確率には沈黙。神社の取引先って、そんなに秘密事項なのだろうか?  
   大國魂神社は担当者が不在で、最後の神頼みでドキドキしながら氷川神社に電話を掛けてみると、「はい。おみくじは大吉から凶まで5種類で、確率は均等に1/5です。女子道社に頼んでいます」と、快く教えてくるではないか。さすが東京の守り神。東京人には優しい! 
   この女子道社、なんと全国のみくじシェア6割を握っているという。経済における分業は、神の領域にまで及んでいた。勝手な話だが、何となく業者を秘密にしてもらったほうが、ありがたみがあったような気が……。 
   最後に、おもしろかったお告げを。「家が破れりゃその身が滅ぶ仲良くせよ」、「人の家庭を破らぬよう清く明るい愛に生きましょう」。なんてアダルトな氷川神社。もといアダルトな女子道社。 
   それでも来年の初詣は、お世話になった氷川神社に参らねば。でも、その前にきちんとたどり着けるのか? 赤坂で30分くらい迷子になったからな……。 (■つづく)

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靖国を歩く/第9回 絵馬から読み解く、靖国願掛けガイド決定版(奥津裕美)

■月刊『記録』02年11月号掲載記事
■奥津裕美(おくつひろみ)…ライター。1981年神奈川県生まれ。長らくの海外放浪生活に終止符を打ち、「記録」編集部へ戻るジプシー系ライター。著書に『誰も知らない靖国神社』(アストラ)
            *        *        *
  神社と言えば、現世利益とワンセット! お守りだって、縁結びや学業成就、商売繁盛、安産などなどバラエティーに富んでいる。ただし神社に祀られている神様にも、得意分野はあるようだ。 
   例えば西宮神社にはえびす様が祀られ、商売繁盛に効果ありとされる。学者・文人としても誉れ高かった菅原道真公を祀った天満神社は、合格祈願など学業関連の成就に強い。まあ、神社に祀られている神様は1人でないことも多く、けっこう幅広く願いを聞き入れてくれるようだが、神様のバックグラウンドは無視するわけにもいくまい。 
   で、靖国神社は一体どのような願い事に効くのか? 
   神社本庁によれば、「(靖国神社に)千年、二千年という歴史があるわけではありませんので、具体的に何に効くということは……。やはり天下国家にまつわることでしょうか」とのこと。 
   なるほど、なるほど。靖国神社は明治以降に国の為に死んだ人たちを祀る護国神社のひとつである。つまり神様は、出撃し散っていった軍人・兵士たち。「天下国家」の願いに、靖国の神様が敏感なのも当然だろう。 
   それにしても、神様なんて、なかなかなれるもんじゃない。会社を興して大成功を収めても、ノーベル賞を受賞して世界的に有名になったとしても無理だ。もちろん私みたいな一介の物書きなんぞ、悟りを開いても神にはなれん……。生前、故人がどのようなことをしていても「名誉の戦死」を遂げれば靖国に祀られ祭神になれるのだから、不謹慎ながら羨ましく思ってしまった。 
   しかし靖国神社の数々の絵馬を見て、吹っ飛んだ。 
   いやいや戦争で特攻するのも大変だが、英霊になって現世利益を叶えるのも楽ではなさそうである。
   「英検が通りますように」。「ECCジュニアがうまくいきますように」。こりゃ、いくらなんでもダメでしょう。明治時代の英霊が英語に強くないのはもちろんのこと、太平洋戦争の英霊にいたっては、国内で英語の使用が禁止され、野球用語まで日本語に換えていた世代である。そんな人達に英検に受かりたいとか、英語学習塾でのガキの成功を願うのはいかがなものか。だいたい英語は元敵国の言葉なのだ。英検なんて、どう考えても失敗しそうである。
   「青山学院大学中等部に合格できますように」。 
   待ってくれ、お願いだから! 青山学院といえば、ミッション系。キリスト教信仰に基づいた教育が行われている学校である。神道の神社との肌合いが良いはずもない。しかも思い返せば1945年、大鳥居の前にある「別格官幣靖国神社」と書かれた社号標を、神道指令で「別格官幣」の部分だけぶった切らせたのは、キリスト教の国アメリカ合衆国なのだ。いくら英霊が穏やかでも、これは怒るだろう。 
   青山学院大、上智大、立教大、同志社大などのミッション系や、駒沢大、大正大などの仏教系は、「手助けしない」と英霊が言い出しても文句は言えまい。実力で勝負してください。 
   やはり正しい合格祈願とは、「防大合格を祈願します」のようなものだろう。これなら英霊だって大満足。守った祖国を、子孫がさらに守ろうというのだから。
■A級戦犯の学歴に注目 
   さて、合格祈願に関しては、意外に忘れられていることがある。 
   そう、太平洋戦争のA級戦犯である。ほとんどが陸軍大学か海軍大学卒だが、東京帝大法科大の政治、経済、独法学科、また京都帝大の卒業生もいる。神様に学閥があるかは知らないが、母校への入学をお願いされたら拒めないのが人情でい! て、すでに「人」じゃないのだが……。 
   こう考えると、東京大学の文Ⅰ・文Ⅱ・文Ⅲには御利益満点だろう。皇族御用達の学習院大学、神道系の大学として名高い國學院にも、高い効果を発揮しそうだ。 
   さて、このような流れからいえば、留学なんてもってのほかと言いたいところだが、事情は簡単ではない。英霊の中には、オレゴン州立大学を卒業している者もいるからである。となれば、この英霊の動き次第ではアメリカ留学にも効果があるかも! アメリカに対する憧れが、当時から全くなかったわけでもあるまい。大穴として紹介しておきたい。 
   第1次世界大戦で敵だったドイツは、第2次世界大戦では味方。このような事情からドイツへの留学祈願は、若干の考慮を要する。ただし昨年10月現在の統計によれば、大東亜戦争(首相官邸のホームページ資料による)の英霊が、全体の86.5%を占めていること考えれば、英霊の多数決によってドイツへの留学には大きな効果を発揮しそうだ。もちろんイタリアへの留学も、無条件で叶えてくれるはずである。 
   逆にロシアは、ちょっとまずい。日露戦争では8万8429柱の英霊が祀られ、ノモンハン事件や第2次世界大戦終結直前のソ連の対日参戦など、英霊の恨みは浅くない。他の神様にお願いした方が無難であろう。 
   願いを叶えてくれるとなれば、好き勝手に書くのが人間である。そんなわけで絵馬には、本来なら天下国家を論じるはずの英霊を悩ますであろうお願いのオンパレードとなっている。
   「I WANT TO BE HAPPY」 
   いや、書いたのが外国人だから仕方がない。それはわかる。でも、英語で「ハッピー」と書いても……。せめて和訳を付け加えるぐらいの配慮がほしい。なんといっても英霊の大半は、第2次世界大戦で死んでいる。英語は不用意です!
   「歌のお兄さんのオーディションに受かりますように」 
   英霊のほとんどは、歌舞音曲といえば軍歌である。ダメだろう。たぶん。全く根拠はないが。
   「今年一年正しく過ごせますように」 
   一年を正しく過ごしたければ、神様に頼まず自分で良い生き方を見つけることのが先決だろう。少なくとも生きているときは、英霊のなかには「これが正しい道なのか」と迷った方もいらっしゃるだろう。神様になったからといっても、どうもねぇ……。
■恋愛問題は強い!?  
   もちろん英霊向きのお願いだってある。意外に効果のありそうなのが、驚くなかれ恋愛だ。 
   靖国神社の基本は『祖霊信仰』。共同体のために身を捧げて倒れた霊を祀ることにより、その霊が共同体の子孫を護る守護神に変わる現象をいう。こうした経緯を考えれば、共同体のために子孫を残す特効薬「恋愛」を、英霊がジャマするはずもない。 
   まして英霊のなかには、学徒出陣などで結婚できずに戦死した人が少なくない。そうした英霊に花嫁人形を供える風習は、現在も続いている。結婚に憧れていたり、新妻を残してきた英霊も多かっただろう。よほど心の狭い英霊でない限り、積極的に応援してくれるはずだ。 
   ただし英霊が願っているのは、共同体の存在である。縁結びではない。となればお手軽な恋愛には、力が入らないかも。恋なら命がけ、もっとも効果があるのは、やはり結婚に違いない。「赤い糸で結ばれた人と巡り会えますように」、「夫婦仲がいつまでもつづくように」なんて絵馬には、英霊もにっこり笑って応えるに違いない。 
   家族の無事を願う絵馬は靖国神社でも数多く見られた。無病息災・家内安全は、神社の「慣用句」でもある。これに効かなくてどうする! 
   太平洋戦争中、海外に出兵した兵士達は遠く離れた家族を心配したものだった。ある中尉は胸ポケットに母親への思いを綴った写真を入れ、またある大将は子供に手紙を送っていた。国家のために死ぬ決意とはいえ、やはり家族への思いは強かったに違いない。
   「健康で幸せで仲良く家族全員が送れますように」「おとうさんのびょうきがよくなりますように」「家族皆健康ですごせますように」といった願いは、英霊も最優先で叶えそうな気がするではないか。ただ生活習慣病の治療などは、「贅沢病だ!」などと一刀両断。あまり手を貸してくれないような気もするが、いかがなものか。 
   国を守る願いは、靖国神社の専売特許ともいうべき大本命に違いない。もちろん自衛隊の願いだって、大歓迎だろう。「専守防衛なんてしゃらくせぇー」なんて英霊が思っているかもしれないが、国防を担っている軍隊とくれば無視もできまい。
   「三等海曹合格 横須賀転勤」。これぞ靖国向きのお願いである。御利益間違いなし。
   「自衛官としても私の人生が無駄になりませんようお願いいたします」。こちらの絵馬となると、英霊は涙を流して協力しそうだ。もしかすると「無駄」にならないよう、国のために死ぬ機会を与えるのかもしれない。つまり戦死か!?  
   さて、ちょっと判断に苦しむのは、「外人部隊への入隊」という絵馬である。外人部隊に入るぐらいならば日本の自衛隊に入れ、と英霊は言われないだろうか? 日本のために死んだ祭神に外人部隊への入隊を願いをするのは、ちょっと勇気がいるような気が……。戦後民主主義に批判的な英霊なら、海外で戦うという意気込みには賛成してくれそうだが。 
   さて、最後に珍しい願いについて考えておこう。
   「チェスちゃんが苦しまずにいけますように」。「チェスちゃん」とは、ペットだろうか。いずれにせよ、英霊に安楽死の手伝いをしろ、というわけだ。これは英霊によって、対応が異なりそうだ。安楽死の手助けがトラウマになっているような英霊なら、協力は期待できまい。(といっても恨むべきではない。彼らは本来「天下国家」の神様なのだ。ペットの生死に関心はないはず。たぶん……) 
   この取材をするにあたり私も絵馬を奉納してみた。「人生がうまくいきますように」と。思い返してみれば、少しお願いが抽象的過ぎたかもしれない。なんとなく英霊と私の考えた「うまくいく人生」に、開きがあるように思うのだ。国を豊かにするために子だくさんになろうなんて思わないし、自分の子どもを自衛隊に入隊させたいとも考えない。それでも英霊は、私の勝手な願いを叶えてくれるだろうか。 
   いや、小誌に書いているぐらいだから、絵馬の御利益があったわけでもなさそうだ。心がけが良いわけでもなし、やっぱりだめかな。 
   そろそろ神頼みの人生を改めなければと思う秋の日であった。 (■つづく)

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靖国を歩く/第8回 忠義を押しつけられた犬たち(『記録』編集部)

■月刊『記録』02年10月号掲載記事  

      *        *        *

  それは体長1メートルほどのシェパードだった。耳を立て、少し後ろ足を曲げ、しっかりと前方に目を据えたブロンズ像は、どこか緊張感が漂っている。飼い主に見せる甘えた表情ではない。その姿に、軍犬としての悲劇が映り込んでいるように感じた。
  「昭和6年(1931)9月満州事変勃発以降、同20年8月大東亜戦争終結までの間、シェパード犬を主とする軍犬はわが将兵の忠実な戦友として第一線で活躍し、その大半はあるいは敵弾に斃れ、あるいは傷病に死し、終戦時生存していたものも遂に一頭すら故国に還ることがなかった。この軍犬の偉勲を永久に伝え、その忠魂を慰めるため有志相はかり広く浄財を募りこの像を建立した」 
   靖国神社・遊就館そばにある「軍犬慰霊像」には、このような建立の由来が書かれている。
  「軍犬」と聞いても、多くの人には馴染みが薄いだろう。旧日本陸軍が採用した犬を、「軍犬」と呼んだのである。その用途は意外と広い。首に付けられた通信用の筒に文章を入れて手紙を運ぶ。ゲリラや敵兵、仕掛けられた爆弾、負傷兵などの捜索に出動する。歩哨の補助として基地周辺などを警戒する、などなど。 
   実際、軍犬はよく働いたようである。当時、編纂されたいくつかの資料が、その活躍を伝えている。 
   闇に潜伏するゲリラを発見した。敵が待ち受ける前線と後方基地の間を連絡要員として走り抜けた。銃を持つ敵兵に死を恐れず飛びかかった。彼らの英雄伝には事欠かない。もちろん日本陸軍に正式に所属している犬だから勲章制度もあり、彼らが嬉しかったのかはともかく表彰された軍犬も少なくなかったようだ。

■満州事変の活躍で 

   日本の軍犬には、シェパード、ドーベルマン、エアデール・テリアの3種類が使われたが、ほとんどはシェパードだったという。そして日本におけるシェパードの歴史は、日本での軍用犬の発展にピタリと当てはまってくる。 
   もともと牧羊犬としてドイツで飼われていたシェパードが、どうやって日本に渡ってきたのか、正確なことはわかっていない。ただ第一次大戦中、青島を攻略した日本兵がドイツ人捕虜とともに連れ帰り、軍関係者が飼い始めた可能性が高いようだ。その後、ドイツにおける軍用犬の活躍を日本政府が知り、陸軍も試験的な採用に踏み切った。そう、日本におけるシェパードの歴史は、最初から軍と密接に関係していたのである。 
   それでも1920年代後半には、日本シェパード犬倶楽部という趣味の愛犬団体が発足。つかの間、日本のシェパードが戦争の道具としてだけではなく、愛玩動物としてかわいがられる時期を迎えた。しかし、その幸福も長くは続かなかなかった。満州事変の勃発がシェパードの運命を大きく変えていくからだ。 
   満州事変当時、陸軍はおよそ250頭の軍犬を陸軍に配属していた。とはいえ多くの日本人にとって、馴染み深い存在ではなかった。ところが満州事変で、軍犬は一気にスターダムを駆け上がる。金剛と那智、2匹の軍犬のおかげだった。 
   1931年9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で満鉄線路をみずから爆破する。いわゆる柳条湖事件である。これを中国軍のしわざだとして、関東軍は、奉天における張学良軍の本拠を攻撃、満鉄沿線の主要都市を一斉に占領した。このときに陸軍の先頭をきって敵陣に飛び込んでいったのが、先述の2頭だった。 
   激戦の爪痕を残した戦場が朝日に照らされると、噛みきった敵兵の服をくわえたまま息絶えた金剛と、何発もの銃弾を浴び、無数の刀傷を負って冷たくなていた那智が横たわっていたという。 
   金剛と那智の2頭の実績により、犬の軍事利用は拡大していった。軍用に適した犬をペットで飼うなどもってのほか、といった意見も国内で強まっていき、満州事変の翌年には陸軍省に認可された社団法人帝国軍用犬協会への発足につながっていく。 
   その当時、シェパードの繁殖団体として、ようやく力を付けてきた日本シェパード犬倶楽部は陸軍からの圧力に抵抗し続けるわけにもいかず、軍犬の資源供給に協力する道を選ぶ。愛玩動物としてのシェパードの歴史は、わずか数年で先細ったといえるだろう。 
   1934年にはシェパードの犬籍登録や血統書の発行を行う社団法人日本シエパード犬協会が発足し、軍事目的以外のシェパードも飼育していたようだが、帝国軍用犬協会とは所有していた数が違った。終戦時、軍用犬協会が約6万匹、日本シエパード犬協会の犬は1万頭そこそこだったというから、その違いは明らかだろう。 
   ちなみに軍犬の生産と教育に力を注いだ社団法人帝国軍用犬協会は、終戦とともに自然解散となった。しかし組織は社団法人日本警察犬協会に引き継がれ、現在、警察犬の訓練に担当している。「さもありなん」と考えるのは、私だけではあるまい。 

■軍国主義のスターとして 

   不平すら言えない犬が命を賭けて戦場に飛び出していく軍犬の姿は、軍国教育の材料としても脚光を浴びた。金剛と那智の話は国定教科書にも掲載された。神戸の軍犬学校は、軍犬の活躍を描いた戦意高揚の紙芝居を、いくつも作製している。『戦線に吠えろ軍犬』、『菊水号と兵隊』など、軍犬の忠誠心を愛国心として描いたものが中心だ。 
   ちなみに『菊水号と兵隊』のラスト近くには、「もの言わぬ犬でも、よく教えられた事を忘れず御国の為に立派な手柄をたてました」と書かれている。飼い主の命令に背かないように訓練された犬を、「御国の為」に闘ったと言い切る。これもまた、戦争の一面といえよう。 
   じつは軍犬を使った宣伝と時を同じくして、もう1匹のスターが渋谷で誕生している。そう、忠犬ハチ公だ。 
   ハチの飼い主だった上野英三郎博士(東京帝大教授)の死去は、1925年。ここからハチの渋谷駅通いが始まる。31年には、金剛と那智をスターにした満州事変が勃発。そして33年、東京上野で開催された犬の展覧会において、ハチの人気に火がついたという。翌年始めには、忠犬ハチ公の銅像を造るため、全国各地から募金が集められ始め、同年4月には渋谷駅に銅像が完成している。35年、ハチはフィラリアで死亡したものの人気は衰えることなく、翌年には尋常小学校の教科書に「恩ヲ忘レルナ」という題名でハチ公の話が掲載された。 
   ただ、ご存じかもしれないが、ハチが上野博士の帰りを待つために、渋谷へと通っていたのかどうかは怪しい。駅前にあった焼鳥屋の主人がハチをかわいがり、焼き鳥に目のなかったハチが通い続けたという説もあるからだ。 
   しかしハチ公を利用したかった軍部にとって、そんな事実などどうでもよかったのだ。飼い主が死んでも「恩ヲ忘レル」ことのない忠誠心こそ、軍部が国民に訴えたいことだったのだから。 
   もちろん軍部が国民に強要した忠誠心は、決して報われることはない。戦時中、軍犬の多くは民間人が育て、軍部が徴用することが多かった。出征することが決まっていたとしても、家族同然になってしまうのが犬である。『朝日新聞』などの投書によれば、戦地に赴く犬とともに、出征祈願祭などを行い、犬と一緒に家族で写真を撮った人などもいたという。 
   しかし戦争の道具としてしか犬を見ていなかった軍部は、彼らがどうなったのかを飼育者に知らせることなど、ほとんどなかったようだ。そして「軍犬慰霊像」に書かれていた通り、たとえ生き残ったとしても、軍の撤退の際には現地に取り残されたのである。あれほど軍部が宣伝した軍犬の忠誠心も、こうなれば哀れなものである。

■犬が人の内蔵を……  

   さて、ここまでは軍犬のいわば表の歴史である。ところが軍隊に所属する犬には、敵に見せる顔を持つ。それが軍犬の裏の顔だ。
  「生存者は次々と虐屠殺(殺の意味)された。男性を木に縛りつけ、軍犬が内臓も食いちぎっていた。妊婦を裸にして銃剣で腹を刺し、胎児をねじり出した。赤子を火に投げ入れた――。この目で見たことだ」(『毎日新聞』1998年5月17日) 
   この証言をした李徳祥さんは、中国の河北省のある村で抗日軍の民兵をしていたという。1942年5月に彼の村は包囲され、このような惨劇を目撃することになったのだった。忠実な軍犬は、ここでも大活躍したようだ。犬を戦争に使う現実とは、こういうことなのである。 
   ただし軍犬の忠誠心が、日本兵以上に強かったことだけは確かなようだ。『日本兵捕虜は何をしゃべったか』(文春新書)よれば、アメリカ軍に捕まった日本兵は、捕虜としての待遇の良さに驚き、捕まって1~2日たつと厚遇に報いるため実に従順に話したという。 
   ところが敗戦によって国民党軍の「捕虜」になった8頭の軍犬は、捕虜となった日本軍兵士の捕虜より良い食事を与えたりしたが、反抗的で日本語の命令以外聞こうともしなかったという。それどころか中国人の訓練員が銃を手放した途端飛びかかってきたのである。結局、中国側は軍犬の再訓練をあきらて彼らを食べてしまったそうだ(『毎日新聞』1993年1月17日) 
   軍犬もまた犠牲者だった。(逆らう意志を奪われてたい犬を加害者とはいえまい)敵を殺すために教育された人生は、楽しいものだはなかろう。 
   このような悲惨な事実を語り継ぐためであり、軍犬を慰霊するためなら、シェパードの銅像もよかろう。それならせめて軍犬らしい姿ではなく、飼い主に甘えている顔にしてあげたかった。せっかく動物愛護の日に建てたのだし……。  (■つづく)

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靖国を歩く/第7回 大鳥居の向こう側(『記録』編集部)

■月刊『記録』02年8月号掲載記事

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■日本一マニアの靖国神社 

   初めてライトアップされた靖国神社の大鳥居を見たとき、ゴジラ映画を思い出した。夜空に赤茶色に浮かび上がった大鳥居の周りを、サーチライトが照らす。バカでかい鳥居に向け何本もの光の筋がのびる光景は、自衛隊がゴジラを取り囲んでいるシーンに似ていた。 
   あまりに現実感のない光景に、私は笑った。何でこんなものを作ったのか――それが正直な感想だった。 
   当時、靖国神社は私に縁のない場所だった。歴代首相の公式参拝問題で話題にのぼるとはいえ、神社そのものに興味はないし、靖国神社の歴史など知る由もなかった。 
   そう、8年前私が感じたのは、イデオロギーとは関係ない、ただの違和感だった。
   九段下駅にもっとも近い大鳥居(第一鳥居)が、現在の形で完成したのは、1974年10月である。柱の高さが25メートル、笠木と呼ばれる上の横木の長さが焼く34メートル、全体の重さは約100トン。これだけの重量を支えるため、素材も鉄に炭素・硅素・マンガンなどなどを加えた耐候性高張力鋼板という特別な合金を使っている。 
   しかもこの大鳥居、当初の建設計画を急遽変更したという。質量にして、なんと2倍! もちろん計画の変更にともなって、鳥居を支える基礎工事も大幅な増強を強いられ、建設費も跳ね上がった。計画の抜本的な変更と言ってもいいだろう。 
   驚かされるのは、計画変更の理由だ。見積もり依頼のわずか1ヶ月前、栃木県に日本一の大きさの鳥居が完成したからだという。つまり自分たちで日本一大きい鳥居を作るため、突発的に計画を変更したのである。 
   当時の状況について、大鳥居建設の実行委員は、次のように語っている。

   小林   戎野君は三十メートルにしろと言っていましたね。
   戎野   いや三十五メートルですよ。(笑)どうしても無理なら三十メートルにしてくれと。そしたら、戎野さんが、やっぱ歩兵砲は大きいことを言う。そりゃ大きい方がいいと言われましね。
   奥谷   三十メートルにすると、幅の広がるのではないの。バランスはどうかな。
   小林   あれは、細かく比率が決まっているんだ。今の鳥居の寸法は、神社にいろいろ聞いて私が計算して決めたのですよ。今考えるとぞーっとする……。
   (『靖国人家大鳥居再建之記録』)

   なかなか大らかな話である。日本一の大きさの鳥居を作ることは、彼らにとっても至上命題だったようだ。確かに鳥居の大きさに対する靖国神社のこだわりはスゴイ。知っているだろうか? 靖国神社には、大鳥居を含めて“日本一”の鳥居が3つもある。 
   大鳥居から歩くこと数分。靖国通りに面した石造りの鳥居は、石造りの鳥居として日本一だ。高さ11.35メートル、笠木の長さも15.30メートル。第2位の大きさを誇る京都の八坂神社の鳥居に、高さで44センチ、笠木の長さで55センチ勝っているという。 
   さらに拝殿に向けて歩くと、青銅大鳥居と呼ばれる第二鳥居にぶつかる。この鳥居が、青銅として日本一の大きさを誇る。 
   いったい何をしたら、これだけ日本一が集まるのか。その答を説明するために、靖国の鳥居についての歴史をかいつまんで説明したい。

■戦争に使われた鳥居 

   1887年(明治20年)に建てられた現在の第二鳥居は、陸海軍当局が計画を進め、旧諸藩より提出された大砲を原料にして作られたものだ。この鳥居建設に対する意気込みが表れているのが、『靖国神社誌』の一文である。一部を抜き出してみよう。
  「本社は、王制の中興を翼賛し今日の昌平を開創したる神霊の祠にして、国家の永遠敬崇して忘る可からざる所なれば、鳥居の如きも宜しく其規模を壮大にして、以て万世不朽ならしむべし」 
   1945年の敗戦まで陸・海軍の管轄下にある国家施設であり、国家神道の中心地だった靖国神社の面目躍如といったところか。鳥居の大きさは、靖国の持つイデオロギーの体現となっている。 
   靖国神社の鎮座50年を記念して計画され、1921年(大正10年)6月にに施行された第一鳥居建設でも状況は変わらない。この大鳥居の建設趣意書をしたためた陸軍中将は次のように書いている。
  「(靖国神社は)永く国家を鎮護し国民の景仰する所なり、皇室の尊崇を蒙ること太く厚く、(中略)第一鳥居を新に九段坂上に建設して社頭の尊厳を加え、以て中外の儀表と為さむとす」(『靖国神社百年史』) 
   後年、「空をつくような大鳥居」と歌われた第一鳥居も、やはり国家神道を推し進めるために作られたわけだ。 
   しかし、この1921年に建てられた第一鳥居は、皮肉な運命をたどっていくことになる。1943年春頃から大鳥居の青銅がはがれ落ちるようになり、鉄骨の腐食まで確認される。しかし戦争の旗色は悪く、物資の供給もままならい状況にあって、鳥居の補修などできる状況にはなかった。背に腹はかえられぬ。軍部は、速やかに大鳥居の撤去を決定した。解体した銅や鉄は戦争に使うこと、また戦争終結後に鳥居を立て直すことを神社と約束し、木造の仮鳥居を建てたのである。 
   ところが敗戦により、軍部は靖国神社との約束を果たせなくなる。それどころか靖国神社の存続さえ危うくなった。慌てた靖国神社は、社名を変更し、宗教法人としての生き残りを図る。驚いたことに、軍事博物館の「遊蹴館」を、ローラースケートやピンポン、メリーゴーランドや映画館にしようという計画まであったという。なりふり構わず生き残りに賭けた靖国の姿が、そこに浮かび上がる。 
   こうした「逆風」の中、靖国神社は戦時中に失った大鳥居の再建を内に秘め続ける。そして冒頭に書いた通り1974年、元軍人や遺族などの寄付を集め、31年ぶりに大鳥居が建設されることとなった。 
   当時、国家護持法案が審議中だったこともあり、再建計画は極秘に進められた。企業からの大口の献金をもらえば金は集まりやすい。しかし、そこからマスコミに漏れることを恐れた実行委員は、個人から幅広く寄付金を集める方法を選択する。 
   この大鳥居の再建にも、もちろんイデオロギーの影がちらつく。大鳥居再建についての資料をまとめた『靖国人家大鳥居再建之記録』の冒頭では、靖国神社の權宮司が、国営施設ではない現在の神社の状況について、「靖國神社に祀られることを信じて、祖国の安泰を念じて散華された英霊に対して、国家が嘘を云ったことになると思う」と述べ、占領軍が日本弱体化のために靖国神社を宗教法人へと追い込んだ、という論陣を張っている。 
   しかしである。 
   この大鳥居の歴史は、すべてイデオロギーの産物と言い切れるのだろうか? 対談に表れた実行委員のおおらかさや巨大すぎる鳥居への違和感に、私は、イデオロギーと相容れない何かを感じてしまうのである。 
   実際、先述した座談会の中で、大鳥居再建の発端について、次のように語っている。
  「それに、理事長さんもこの話に触れておられたこともありましたね。靖国神社の前を、浅草寺の前の通りのように賑やかにするとか……」 
   仲店の賑やかさと国家神道の中心地。さて、これがうまく結びつくだろうか? 少なくとも私には結びつかない。人を集めてこそ、イデオロギーが形成されるとしてもである。

■明治時代はハイカラ 

   評論家の坪内雄三氏は、靖国神社がイデオロギーの中心地ではなかった時代があったことを、著作で明らかにしている。例えば「靖国神社は明治のハイカラ」(『諸君』1994年11月)では、明治時代の招魂社(現・靖国神社)の様子を描いた絵や文学作品を検証し、「一言で言って、洋風でハイカラな場所だったのである」と書き記している。 
   たしかに明治時代の靖国神社は、今とは少し様子が違う。例えば明治3、40年代の例大祭では、サーカスが名物だった。少し時代がさかのぼるが、明治4年頃の三代廣重の作品『招魂社境内ニテ フランス大曲馬』には、フランスから来日した「スリエ曲馬団」の曲芸が、いやに楽しそうに描かれている。馬上でお手玉をする女性、馬に乗りながら地面の帽子を取ろうとする男性、輪潜りをする馬などなど、画面ところ狭しと描かれた曲芸からは、見た者の興奮が伝わってくる。 
   そんな牧歌的な側面を、靖国神社から読みとるのは無理が過ぎるだろうか? しかし、あの大鳥居を見るたびに、どうも竹下登の実施した「ふるさと創生事業」を思い出してしまうのである。全国市町村一律に1億円を配分した、とんでもないバラマキ政策は、1億円の使い道に困った市町村に次々と奇妙な日本一を作らせた。「日本一長いすべり台」や「日本一大きい水車」「日本一大きい天狗面」などなど、ほとんど意味のない日本一が、一気に日本を埋め尽くした。 
   いや、間違えないでほしい。 
   靖国神社が国家神道の中心的な役割を果たし、戦争遂行に利用されてきた事実を否定するつもりはないのだ。ただ善し悪しは別にして、イデオロギーと別の論理が働いているように見える部分があることを、指摘したいのである。 
   一方で、もう1つ確かなこともある。大きくて、権威的で靖国神社の象徴ともなっている大鳥居は、イデオロギーと完全に切り離しては論じられない、という事実だ。 
   今年の御霊祭りに合わせ、遊蹴館も新装オープンした。明治42年に出された遊蹴館の意見書に、「教育上の資料に供せんとするに外ならす」と書かれた伝統を担い続けているのだろう。目に鮮やかな黄色の制服を着たコンパニオンが配置されるようになっても、やはり展示は日本の正当性を主張し続けている。 
   戦闘中のいたしかたない死どころか、生きる可能性を投げ捨て、「国のため」と死んでいった人々の礼賛のオンパレード。どんなに惨めでも、生き延びてこそ社会のためになるという発想自体、この資料館では異端らしい。 
   来館者が意見を寄せている雑記帳には、「英霊の写真を見ても虐殺に加わってとは思えない」、「正しい歴史を学べた」、などの記述があった。教育は成功しているようだ。 
   どんなに大きな鳥居を造っても、九段坂上が浅草仲店のように賑わうことは、もうあるまい。100年以上に渡ってイデオロギーを加え、国家神道の象徴として歩んできた歴史が、あらゆる建造物に意味を与えてしまう。だから多くの人の足は向かない。 
   明治時代のサーカスと似た催しが、復活することもないだろう。人を笑わせていた空間が、泣き・叫ぶ空間に変化した事実は重い。鳥居の片隅に、そんな空間を見てしまったからこそ、もったいなく感じてしまう。 
   そして8月15日。 
   靖国は怒号と主張が飛び交うだけのイデオロギーの空間となる……。 (■つづく)

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靖国を歩く/第6回 靖国の桜と気象庁(『記録』編集部)

■月刊『記録』02年5月号掲載記事

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 今年の3月16日、28年間の観測史上もっとも早い桜の開花が宣言された。気象庁の職員が靖国神社にある3本のソメイヨシノを調査し、東京における桜の開花時期が決まる。 
   じつは気象庁がデータをとり続けている植物は、桜だけではない。梅、椿、サルスベリやあじさいなどの開花も調べているし、かえでの紅葉やいちょうの発芽も観測対象となっている。驚いたことに、ウグイスの初鳴きやシオカラトンボを初めて見つけた日なども記録に付けているという。 
   この東京管区気象台が観測している14種類の植物で、気象庁敷地内以外でデータを収集しているのは、わずかに3つ。桜、いちょう、しだれ柳、である。だが、いちょうとしだれ柳の観測地は、気象庁の敷地から一本通りを隔てた清麿公園だ。なぜ桜の観測地だけが、直線距離にして1.6キロも離れた靖国神社なのだろうか? 昆虫や鳥でさえ、気象庁のある大手町周辺で観察しているというのに。 
   怪しい! そう考えたくもなるだろう。気象庁近くの桜など山ほどある。清麿公園の200メートル先には、見事な桜の植わった平川門があり、そこから皇居東御苑に入れば、まさに桜の宝庫。
   「開花の基準となる標準木が、どうして靖国神社の桜となったかは、残念ながら記録がありません。桜の観測も、1990年に本庁から東京管区気象台に管轄が移ったりしていますので……」 
   東京管区気象台の担当者は、こう答えた。 
   そもそもこの担当者によれば、53年の観測当初、どこの桜が標準木だったのかもハッキリしないという。靖国神社の桜を標準木にしたという記録が残っているのも、66年からである。
   「記憶が定かではありませんが、昭和39年(1964)ごろ庁舎の建て替えがあったので、もしかすると何か関係があるのかもしれません」 
   当初、気象庁敷地内にあった桜の標準木が庁舎の建設とともに伐られ、靖国神社に引き継がれたとしても何ら不思議はない。ただし裏付ける証拠はない。 
   インターネットには、各公園や名所の開花日を平均してみたら靖国神社の開花時期に近かったので標準木に採用した、という話も紹介されていた。しかし、この出典も明らかではない。

■生と結びついた桜 

   靖国神社の桜は、特別な意味を持つ。敗戦を翌年に控えた44年には、「死んでも靖国の桜となって会おう」と歌い上げた『同期の桜』がヒットした。また、靖国神社の桜の多くは、部隊名と連絡先の書かれた札が縛りつけられている。生き残った戦友が連絡を取り合えるように考えられたものだろう。軍国主義に利用され、戦争で死んでいった人や残された人の思いと密接に結びついているのが「靖国の桜」である。どんな理由であれ、わざわざ標準木にしなくても、と正直思っていた。満開の靖国神社を訪ねるまでは。 
   桜が満開になる数日間、境内は花見客に開放される。露天が並び、サラリーマンの笑い声が響く。 
   それは見事なまでの変化であった。五分咲きのころは戦争の暗い影を引きずっているように思われた桜の花が、宴会用の小道具へと変わっていた。戦時中、死と密接に結びついた桜も、露天商と酔っぱらいの熱気で生と結びついたようだった。 
   多くの国民が気象庁の開花宣言から思い浮かべるのは、花見だろう。ならば「靖国の桜」が標準木でも悪くない。そんなことを考えながら、満開となった靖国の桜を見物した。
(■つづく)

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靖国を歩く/ 第5回 訓練生を殺した特攻兵器(『記録』編集部)

■月刊『記録』02年4月号掲載記事

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 その写真を見たとき、思い出したのはオウム真理教だった。呆れて笑ってしまうほど無謀な計画なのに、なぜか技術は高水準。そのアンバランスさが、ずっと頭から離れなかった。 
   酸素ボンベを背負い、全身を覆う潜水服を身につけ、ひっくり返したバケツに丸窓を付けたようなマスクを被り、先に茶筒のような爆弾を取り付けた竹竿を握りしめ、その模型は右足を一歩前に踏み出していた。前回紹介した「かく戦えり。近代日本」展に出品された写真である。
   「五式撃雷を竹竿の先に装着して、海中から的の上陸用船艇を攻撃する特攻作戦も案出された。実戦にいたるまでに、訓練中の殉職者が多数生じた」と説明が添えられていた。 
   伏龍特攻隊。上陸したら無敵のM4戦車を、水際でくい止める秘密兵器であった。しかし、どうしてこんな発想が生まれたのだろうか? 全長5メートルもの竹竿を、高速で通過する船艇にどうやって突き刺すつもりだったのだろう。しかもこの撃雷、爆発したら数十メートル四方の隊員を吹っ飛ばす代物だ。安全に隊員を配置するためには(そもそも特攻なのだが……)、互いに50メートルの間隔が必要だったという。そんな離れて海中に並んでも、伏龍の上を敵船が通過する可能性は極端に低い。しかも潜んでいることがわかれば、敵は上陸前に機雷をばらまいてくる。戦うことなく全滅である。 
   また、この潜水装置が、人間のことなどおかまいなしの“スグレモノ”なのである。吐き出した二酸化炭素を苛性ソーダに吸引させ呼気を再利用するシステムは、あぶくも出さず、長時間の潜水も可能にした。当時の海軍が「海上ヨリノ送気装置ヲ要セズ無気泡ニシテ隠密性大ナリ」と評したのも頷ける。 
   ところが「鼻から酸素を吸い、口から呼気を吐く」という決まりを破り、数回鼻だけで呼吸をしようものなら、隊員はたちまち二酸化炭素中毒にかかってしまう。しかも空気清浄に利用している苛性ソーダは、劇薬物である。皮膚への腐食性があり、体に付けば高アルカリがやけどのように皮膚を破壊する。また水にも激しく反応し高温の化学反応まで引き起こす。 
   もう想像いただけただろうか? 訓練中、多くの兵士は呼吸を間違えて二酸化炭素中毒に倒れ、あるいは苛性ソーダを収めている缶に海水が入り込み、体内を焼けただれさせて死んでいったのだ。 
   当時、重要軍事秘密だった伏龍については、訓練中の死亡についても正式な記録がない。伏龍の元隊員が執念で資料をかき集めて発行した『海軍伏龍特攻隊』(光人社)にも、「3~4日に1~2人、時に2、3人」が病院に運ばれてきたという関係者のコメントを掲載している程度である。 
   結局、実戦投入されなかったものの、この作戦の悲惨さは特攻でも群を抜いている。考えてみてほしい。爆弾の付いた竹竿を抱え、苛性ソーダの逆流に怯えながら、海底で数時間も死を待つ気分を。朝の上陸に備え、潜るのは夜であろう。聞こえるのは、自分の呼吸音だけ。重力すら感じない。長時間、感覚を遮断されると、人は幻覚や強度の不安に陥るという。これは立派な拷問である。 
   結局、実行部隊の苦労など、誰も考えていなかった。人を大事にしない愛国って、いったいなんだろうか?  (■つづく)

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靖国を歩く/第4回 都合よい死にざまの列挙(『記録』編集部)

■月刊『記録』02年3月号掲載記事

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 奇妙な熱気だった。 
   軽く眺めるだけなら、せいぜい10分で終わってしまうほどの狭い展示場。5~6人しかいない入館者。聞こえてくるのは、館内で流しているビデオのナレーションだけ。ただ入館者の眼差しが違った。 

   遊就館特別展「かく戦えり。近代日本」は、昨年5月に始まった。戦争関連の品物を大量に置いてある遊就館が増改修工事のため閉鎖となり、いわば“つなぎ”としてこの展覧会が開かれている。 
   私が最初に立ち止まったのは、日清戦争のコーナーに置かれた1着の軍服だった。2つに折り畳まれた上着の肩、胸に、直径3センチほどの穴が見えた。艦砲射撃の跡だという。血なのか、それとも長い歳月によるものなのか、穴の周りの生地が変色していた。そう気付いた途端、名前も知らぬ一軍人の最期が軍服を通してリアルに甦った。歴史からいきなり飛びだしてきた生身の死であった。 
   この軍服を皮切りに、私は大量の「死」と直面することになる。日露戦争、満州事変、支那事変、大東亜戦争などの各コーナーで、兵士の死にざまが紹介され、死の決意を綴った遺書や遺影をつきつけられる。

   「作江、北川、江下等三伍長(当時一等兵)は破壊筒に点火して、これを抱いて鉄条網に突入自爆粉砕した。これによって味方軍は突破口を得て進撃し、廟巻鎮の一角を占領することができた」 
   満州事変コーナーで写真が掲げられた「肉弾三勇士」の解説である。 
   サイパン島で指揮をとった南雲忠一の遺影には、「『我玉砕ヲ以テ太平洋ノ防波堤タラントス』と決別電を発して守備隊とともに総攻撃をかけた。玉砕の翌八日に指揮所で自決」と書かれていた。 
   大東亜戦争内にある特攻の展示には、もっとむごい話が続く。 
   特攻に向かう少年飛行兵の精神訓練を担当し、自身も特攻に志願した藤井一の写真には、次のように書かれていた。
   「妻子があり操縦士でなかったため、すぐには念願かなわず、部下の操縦する複座戦闘機に乗り込み特攻出撃した」 
   その藤井の横、赤ちゃんを抱いた妻の写真には、「夫の固い意志を知った福子夫人は、『私達がいては後顧の憂い。思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています』と遺書を残し、二人の幼子と近くの荒川に入水自殺した」と説明されていた。
   「かく戦えり。近代日本」の展示場を埋め尽くしているのは、「戦い」ではない。「死」、それも都合のよい「死」であった。 

   ガダルカナル島の展示には、「壮烈な戦死を遂げた」とされる若林東一陸軍大尉の写真はあっても、食料の補給がなく、飢えとマラリアで大量に日本兵が死んだ事実には触れてない。ガダルカナル島で戦死した日本兵は1万2500人余り、一方の戦病死は4200人余りである。ちなみに対戦した米軍は戦死者1000人、餓死した兵士にいたっては1人もいない。それが事実である。
   「三週間の激戦のすえ、陸海軍守備隊四万一千人は最後まで敢闘して玉砕。在留邦人の一万人も最後まで米軍に投降することがなかった」と説明が付けられたのは、サイパン島の戦いだ。 

   しかしこの行動は、本当に「お国」のためだったのだろうか? 
   情報史を専門とする山本武利氏は、「(兵士の)自殺的攻撃、あるいは敵に追いつめられて逃げ場を失ったときの自殺は、同じ兵隊仲間が周辺にいて相互監視の状態のときになされることが多かった」(『日本兵捕虜は何をしゃべったか』文藝春秋)と、兵士の自殺を説明している。さらに米軍が作成した日本人捕虜の尋問調書を、次のように分析している。
   「(261人のうち)百六十六人が拷問や処刑を予想している。七五%の者は、拷問や処刑を恐れ、捕らえられるより自殺した方が、不名誉にも面目つぶれにもならないし、連合軍の手によって不愉快な目にあわずにすむと考えた」
   「二百二十五人の(捕虜)のうち九〇%以上が、むしろ両親らに死亡したと見られる方がよいと述べた。三百六人の約七〇%が日本に帰還する恐怖を語り、(中略)どこか知らない他の国に住みたいという」 

   反抗を許さない相互監視の目が作りあげた「玉砕」や「特攻」を、遊就館特別展はきれいに飾り付け、磨きあげている。都合の悪い事実を、すべて封印してである。 
   大儀のために死ぬのは、カッコよい。日常をコツコツと生きるより、何倍もカッコよく見えてしまう。だからこそドラマや小説になる。しかし、人は格好悪くたって生きなければならないのである。

   「守るべき人の為に自分の命を捨てるという事はなかなかできない事だと思いますが、それだけ純粋な人になりたいです」 
   入館者の感想が集められたノートに書かれた、この一文が忘れられない。刺さった小骨のように引っかり、私を不安な気持ちにさせる。 (■つづく)

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靖国を歩く/第3回 まんじゅう狂乱の夏(『記録』編集部)

■月刊『記録』02年1月号掲載記事

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   時は三国時代。『三国志』でも有名な知将・諸葛孔明に率いられた蜀の軍は、風雨で荒れ狂った河に帰路を阻まれる。地元の将である孟獲は「49人の生首を神に捧げなければ、川は治まらない」と進言。しかし天候が変われば川も静まると知っていた諸葛孔明は、羊や豚の肉を小麦粉の皮で包んだ料理を作らせ、人頭の代わりにお供えしたという。これこそ日本でもおなじみ「まんじゅう」の起源である。

さて、このまんじゅうが売れている。
  「親子3代、ここで商売をさせてもらっていますが、こんなにお土産が売れたのは初めてです」と、靖国神社の土産物屋の店員に言わせるのだからすごい。ヒット商品の名前は、「ガンバレ純ちゃん好景気まんじゅう」。そう、小泉純一郎首相にちなんだまんじゅうである。
  「(お菓子の)業者さんから、小泉さんのまんじゅうがあると聞いてね。私も小泉さんを嫌いじゃないし、試しに8月5日から置いたら売れたんですよ」 
   この「試し」が当たった。店主の杉浦克幸さんによれば、最高で1日で1080個を売った日もあったという。1箱800円とお土産として手頃な値段とはいえ、随分と売れたものだ。 
   1ケース18個が15分で売れ切れた。店頭に並んだ「純ちゃんまんじゅう」を、どっちが取ったかでお客が言い争いを始めた。日を改めて6回も買いに来たお客さんがいた、などなど。とにかくその狂乱ぶりは、すさまじいものだったらしい。このまんじゅうを製造したお菓子メーカー大藤の担当者でさえ、「商品の企画を立てたのは7月でしたが、ここまで売れるとは思っていませんでした」と予想外の売れ行きに驚いているほどである。 

では、なぜここまで売れたのか? 
当時の小泉内閣の支持率は、現在よりも0.2ポイント高い73.1パーセント(ニュースステーション調べ)。まんじゅうの1ヵ月前に売り出されたキーホルダーが好評により品切れになったことを考えれば、同じ小泉グッズが売れたこと自体、何の不思議もない。また味の評価も上々とのことで、商品力の勝利と言えなくもない。 

しかしである。
「ガンバレ純ちゃん好景気まんじゅう」は、東京を中心とした観光名所、例えば東京タワーや浅草の仲見世など約30ヵ所で売られていた。どこもそれなりに好評だったとはいえ、靖国神社ほど爆発的には売れなかったという。つまり靖国神社と小泉首相の組み合わせこそが、大ヒットの原因だったのである。

■繰り返された妥協 

   さて、ここで少し小泉首相と靖国参拝の流れを、簡単に確認しておきたい。 
   2001年4月、総裁選を前にした小泉氏は、靖国神社への公式参拝について「敬意と感謝の意を表すのは当然」と発言していた。当時は8月15日に参拝するのはもちろんのこと、「公式参拝」も肯定。それどころか憲法9条の改正にまで言及していた。小泉氏の勝利を誰も予想しないなか、過激な発言だけで存在感を示していた時期であった。 
   しかし「地滑り的勝利」で首相の座を射止めて以後、靖国問題は日を追うごとにおおごとになっていった。7月末には、田中真紀子外務大臣から「(首相は参拝に)行かないでいただきたい」と、意見までされている。今では考えられないことだが、ほんの5ヵ月前には田中外相から小泉首相に、まともな意見を述べることもあったのである。 

そして8月1日。変われば変わるものだ。「私は質問をされた時だけ答える。靖国参拝を強調したか? 一つも強調していない。公約ではない」と、これまでの発言を大きく訂正。5日には、諸外国からの批判を和らげるため、首相の歴史認識を示す「小泉談話」を発表する可能性があると、山崎拓幹事長が発言した。6日には「賛否両論あるが、虚心坦懐、熟慮している最中だ。いずれ結論を出さなければならないが、もう少し時間をいただきたい」と、強心臓でならした小泉首相が、公式参拝に慎重な姿勢をみせ始める。その一方で連立相手の公明党が求めた「8月15日以外の私的参拝」は、まだ抵抗しているとの報道もあった。 

7日、時とともに弱気な発言が目立つようになった小泉首相を刺激しようと、「小泉首相の靖国神社参拝を実現させる超党派国会議員有志の会」が結成される。この設立総会には、議員の代理を含め105人が集まった。現役国会議員からは、「外国から言われて(参拝を)やめるようなことがあってはならない」との声も挙がったという。 
   しかし11日、ついに小泉首相は15日の参拝を見送る方針を決める。与党の3人の幹事長が反対している上に、福田康夫官房長官も慎重な態度を示したことが大きかったそうだ。「どんな批判を受けようが必ず8月15日に参拝する」という発言は、完全に忘れられた。また同日、15日の参拝が見送られた場合に備えて、首相が献花料を支払い、13日から1週間の期間、首相名の花輪が靖国神社本殿に飾られることになった。 
   そして13日。いきなりの靖国への私的参拝が決行された。

■若者が靖国に戻ってきた!?  

   8月に入ってから、靖国神社は異様な雰囲気に包まれていたという。マスコミ各社の取材が繰り返され、賛成派と反対派が神社に押し掛けたからである。また首相の参拝問題が報道されたことによって、一般の参拝者も激増した。神社の発表によれば、参拝者数は昨年より7万人多い12万5000人。あまりの人の多さに、開門時間を午後8時まで1時間延長したほどの混雑ぶりだった。

「今年は参拝者が多かったですよ。いつもは15日だけですから。それが今年は8月に入ってからずっとでしょ。しかも例年と違って若い参拝者が目立ちました」と、土産物店の店員も語ってくれた。本誌編集部も靖国神社には近いが、観光バスのと右翼の宣伝カーの数は、確かに例年にないほど多かったと記憶している。 
   こうした熱気と対立陣営の緊迫感が漂う中、純ちゃんまんじゅうはテレビや新聞のネタとなり、各局・各紙で報道されたのである。 

土産物店の店員は言う。
  「マスコミは怖いなと思いましたよ。報道されて、一気にお客さんが押し寄せましたから」 
小泉首相が靖国神社を政治問題化させたことで、国民の関心が引き起こされ、さらに小泉人気とメディアの報道が政治問題をバラエティー化させた。だからこそ、タレントショップの商品と同じように、多くの参拝者が純ちゃんまんじゅうを購入し、いままで靖国神社に見向きもしなかった若い世代が参拝に来たのではないか。メディアの露出に長けた小泉首相の出現が、眠っていた愛国心をたたき起こしたといえよう。 
   靖国神社は右傾化する「魅力」に満ちた場所であるらしい。土産店にも「必勝」と書かれた日の丸ハチマキや、菊の御紋のついたグッズなどが並んでいる。驚いたことには、菊の御紋輝く金のタイピンなどはかなりの人気商品だという。ファッション的には、なかなかネクタイと合わせにくい代物だと思うのだが、店によれば「右翼っぽくない、普通の方がけっこう買っていきますよ」とのことである。 

 ちなみに、今、もっとも売れ筋のお土産は、「徳仁親王殿下 おめでとうございます 雅子様 雅子皇太子妃」と書かれた内親王誕生記念まんじゅうである。 
   だからこそ7万人という参拝者の増加に戸惑ってしまう。ある種の熱気のなかで見ると、前回取り上げた九六式15インチ榴弾砲の話などは、どう映るのだろうか? 
   人命を救うために考え出されたまんじゅう。しかしアフガニスタンへの派兵などを見ている限り、今回のまんじゅうに描かれた人物が、平和のために活躍するとは思えない。まんじゅうの代わりに人頭を差し出す時代が来ないとは言い切れるだろうか?

 小泉首相の顔が焼き付けられた純ちゃんまんじゅうをつまみながらこの原稿を書いた。どこにでもありそうなまんじゅうだったが、なかなか美味しく、ついつい4つも食べてしまった。案の定、気持ちが悪い。(本当です)
  「甘い」小泉に気をつけろとの警告か? 不景気ばかりか、こんなところでも小泉から攻撃を食らうとは……。  (■つづく)

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靖国を歩く/第2回 各人に眠る「軍人精神」の魔力(『記録』編集部)

■月刊『記録』01年12月号掲載記事

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 陽が傾くとともに、家路に向かう近隣の高校生や中学生が参道に目立ち始める。セーラー服姿の地味な女子中学生に混じって歩くばっちりメイクの女子高生を、大鳥居そびえ立つ靖国神社で見るのが好きだ。「やっぱー、ダサクナイ?」などという歓声を聞くと、無条件に平和を感じる。 
   しかし神門をくぐり、武器が並ぶ野外展示場まで来ると、そこはもう別世界。もちろん女子高生もいない。
 九六式15センチ榴弾砲に添えられた看板には、「沖縄県糸満町真壁の陣地に據りて善戦し最後に全弾射ち盡し迫り来る戦車群に肉弾攻撃を敢行玉砕す」と書かれていた。 
   なるほど立ち止まって眺めれば、大砲には弾痕が残っている。5ミリ以上はあろう鉄板2枚を貫く直径15センチほどの穴から、黒い地面が覗く。穴の周りの鉄板は、飴細工のように引き伸ばされ引きちぎられている。砲手がいれば1メートルにも満たない距離での着弾である。助かるはずもない。人間を殺した爪跡が、55年もの歳月を超えて目前に迫ってきた。

■精神主義の追求、そして失敗

  「六屯牽引車による迅速な機動力と最大射程一一、九〇〇米に達する正確にして巨大なる火力に国軍砲兵の華にして、その戦績はノモンハン事件、満州国黒河省神武屯国境警備、比島作戦等幾多の戦場に赫々たる武勲を奉す」と、大砲の横に置かれた碑には書いてある。しかしこの大砲で戦った野戦重砲兵第一連隊の運命は、悲惨の一言である。 
   牛島康充著の『ノモンハン全戦史』によれば、確かにこの部隊に対する期待は高かったようだ。「野戦重砲第一連隊と第七連隊という日本では最新式の自動車編成による虎の子部隊を派遣するものであって、砲兵団の見解によれば、三時間でソ蒙軍砲兵は撃滅され、射撃目標はなくなってしまうと自負していた」と書かれている。 
   しかし結果はまるで違った。崖の影に隠れた敵には、ほとんど損害を与えられなかったばかりか、敵に雨あられの砲弾を浴びせられ、その後に玉砕。
  「全弾を射ち盡し火砲を自爆、敵戦車群に決死の肉薄攻撃を敢行、火砲と運命を倶にせり」と、靖国神社の碑には書かれているが、戦車に肉弾戦を挑むなど狂気の沙汰。戦いというより自殺行為そのものだった。 
   日本軍の研究として書として名高い『失敗の本質』によれば、ノモンハン事件の砲兵戦は「ソ連軍に比較して火砲数、とくに弾薬量が少なく、また火砲自体の性能も劣っていた。さらに敵情の捜索、観測を十分に行わずに実施した攻撃が失敗するのは当然」の結果であったという。しかも悪いことに、「戦場では過度に精神主義が誇張された」。 
   戦力不足を精神主義で補おうとして失敗。そのまま精神主義を貫こうとして玉砕。ノモンハン事件のころから、このような悪循環は始まっていたのである。もちろん選局が悪化すればするほど、精神主義は強くなっていった。 
   事件直後に軍部が設置した「ノモンハン事件研究委員会」では、「物的戦力の優勢な敵に対して勝利を収めるには、日本軍伝統の精神威力をますます拡充すべきである」(『失敗の本質』)という討議結果も出されたという。第2次ノモンハン事件だけで1万8000人もの人が死んだ大失敗の結論がこれでは、死んだ兵士も浮かばれまい。 
   6年後、この反省のなさが野戦重砲第一連隊を再び悲劇に陥れる。場所は沖縄だった。靖国神社の碑から紹介しよう。
  「遂に全弾を撃ち尽くすや迫り来る敵戦車の火焔攻撃に全員最後の切り込みを決行す。時に昭和二〇年六月二二日、聯隊長山根忠大佐以下七三九柱の将校逝く。神国日本の永遠の平和と繁栄を祈願しつつ靖国悠久の大儀に殉じ、火砲と運命を具にし玉砕せり」 
   当時、米軍との物量差はどうしようもないまでに広がっていた。1発打てば、1000発返ってくるという状況で戦っていたのである。しかも当時の野戦重砲第一連隊には、旧制中学の学生を「鉄血勤皇隊」として徴集し、医務室や炊事班で働かせていた。勝ち目のない戦に子どもまで動員し、最後に玉砕。 
   だが、この狂気のような悲劇が起こった状況を、僕は理解できる。 
   それが怖い。 
   胸の奥でカチリと歯車が回り、普段は眠っている感情が目を覚ました。玉砕に突き進む兵士に、わずかながらもシンパシーを感じてしまった。学生時代、部活で精神主義的な練習に夢中に取り組んだ経験や、赤穂浪士の映画で描かれる桜吹雪の自決場面での感動に、通じるところがあるのかもしれない。 
   理不尽な要求に従って組織の一員になる安心感や死を美化する意識は、多くの日本人が持っている。そんなバカなと思うかもしれない。しかし周りを見渡してみてもらいたい。旧日本軍の生き残りのような人が、いくらでもいる。
  「気合いが足りないから売れないんだろう」と、飛び込み営業を指揮していた営業マンを僕は知っている。そんな組織に愛想を尽かしつつも会社を辞められなかった人も思い出した。
  「日本軍はある意味において、たえず自己超越を強いた組織であった。それは、主体的というよりは、そうせざるをえないように追い込まれた結果であることが多かった。往々にして、その自己超越は、合理性を超えた精神主義に求められた。そのような精神主義的極限追求は、そもそも初めからできないことがわかっていたものであって、創造的破壊につながるようなものではなかったのである」(『失敗の本質』) 
   合理的な結果を認めなくていいという点では、「自己超越」を強いる組織も便利なものである。「そうせざるをえないように追い込まれれば」、しだいに何も考えないようになり、楽になってくる。
  『ノモンハン全戦史』には、「これらの攻撃(自殺的攻撃)は、命令する者は語るまでもなく、命令された者も、命令されたから仕方なく実行したといようなものではない」と分析している。 
   もちろん玉砕に抵抗感のあった人もいたであろう。実際、『玉砕しなかった兵士の手記』(横田正平著)には、玉砕を覚悟したときの心境が次のようにつづられている。
   「僕が死をやむをえないことだと考えていたのは、家族のためであった。僕のためを思ってくれている、僕にとって大事な人たちのためだった。彼らも僕を縛りつけている国に、社会に縛られている。その人たちが、その国で、その社会で抵抗を少なくしてゆくためには、そこの掟に、風習に順応しなければならない。その掟と風習は、ここまできた僕に死を要求していた。だから僕は死ななければならなかった。――その好きな人たちのために」 
   しかし筆者は、当時としては珍しく「軍人精神」がなかったと人物だったと本人も認めている。ここまで冷静に考えることなく、死を強制されたとさえ思い及ばず、ある種の興奮状態で玉砕していった人たち少なくなかったに違いない。 
   だからこそ煽っちゃいかん、と思うのである。
  「神国日本の永遠の平和と繁栄を祈願しつつ靖国悠久の大儀に殉じ、火砲と運命を具にし玉砕せり」などと、大砲と兵士の死を格好よく謳いあげれば、各人に眠る「軍人精神」がそぞろ動きだしかねない。 
   本当に平和を祈願するなら、ソ連軍など3分の1の兵力で壊滅できると、理由のない自信で関東軍がノモンハン事件に突入していったこと。あるいは野戦重砲兵第一連隊が駐屯した沖縄県糸満町真壁近辺でも、防空壕で泣き出した赤ん坊を兵士が殺したというような事件が起こっていることも、同時に書き記すべきだろう。 
   碑に書いてあるほど、この野戦重砲が大活躍したわけでもなく、格好よく玉砕したわけでもない。

 ■書き写していると怖くなる 

 最初、九六式15センチ榴弾砲の碑を読んだとき、そのアジテーションぶりがおかしかった。しかし座り込んで碑の文章を書き写していると、だんだん怖くなってきた。都合の悪い事実を削っていることもあり、書かれている歴史が心地よく感じたからだ。結末が悲惨なのにである。時代が時代なら、けっこう先頭走って戦ったかもしれない。少なくとも同じ世代の男には、そんな人が多いのではないか。みんな見事に会社人間になっているし……。 
   ギャル系の女子高生なら、こんな碑を読んだところで、「え~、そんな人生つまんないじゃん。ヤバイよ。なんかダサクない?」と頭ごなしに否定くれるかも。そんな思いが、ふっと頭をかすめた。  (■つづく)

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靖国を歩く/第1回 巨大な筒に首を突っ込んで(『記録』編集部)

■月刊『記録』01年11月号掲載記事

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 今年8月、小泉首相の公式参拝によって、靖国神社は揺れに揺れた。結局、「8月15日にいかなる批判があろうとも必ずする」と語っていた首相は、13日に急遽参拝。公式参拝だったのかどうかを明らかにすることもなく、うやむやにコトを収めたようだ。しかし中国や韓国は、この参拝に強く抗議し続けている。おそらく来年の8月も、靖国参拝は大きな政治問題になるだろう。
 ところで、そんなに小泉首相が行きたい靖国神社が、どんなところだか皆さんは知っているだろうか? 多くの『記録』読者は、あのバカでかい大鳥居をくぐった経験は、ないのではあるまいか。
 かくいう私も行ったことがない。編集部から歩いて5分ほどの距離なのにである。いやじつのところ、政治的な意思を持って行かなかったわけではない。
 毎年、御霊祭りになると、浴衣姿のお姉さんが九段下周辺に大量出没し、浴衣フェチの私は大興奮していたのが、お祭りのベストタイム(6~7時)は編集部が最も活気づいている時間と重なる。そのため浴衣見学に靖国に行く時間などなかったのである。また、靖国神社内にある遊就館には他で見られない代物が並んでいるとも友人から聞いていたのだが、わざわざ見に行こうとも思わなかった。今年の8月には、小泉首相の公式参拝に合わせて取材にでも行こうかと思っていたら、テレビで首相の参拝が終わったことを告げられた。つまり出向くチャンスが、とんとなかったわけだ。
 しかし今回、「靖国行けば何か書くことあんだろ。近いんだから行ってこい」という指令が編集長より下され、来年の夏に向け、他誌に先駆けて靖国神社の情報をお伝えすることとなった。
 で、「回天」である。
 その巨大下水道管のごとき筒は、戦没馬慰霊像という馬の銅像ほど近くにある。直径1.35メートル。完全な形で展示してあれば、全長16.5メートルもあるそうだが、そこに展示されていたのは「スクラップ化寸前に回天生存者より発見、奉納された」もので、およそ7~8メートルといったところだろうか。
 この訳のわからない筒が、いきなり凄みをもって迫ってきたのは、筒の横に添えられた説明文を読んでからだ。
  「回天(人間魚雷)四型胴体」
 そう、海の特攻隊、人間魚雷の一部であった。よく見れば筒の上部、ハッチを取り付けてあったはずの場所には、人1人がやっと通り抜けられる程度の穴が空いている。その穴をくぐり、ハッチを閉められたなら、2度と開くことはない。潜望鏡を覗き、敵艦に向かって真っ直ぐに突き進むだけだ。
 回天は、93式魚雷を改造したものである。追尾システムとして人間を搭載した魚雷ということになるだろうか。それでも試作の段階では、操縦士の脱出装置も考えられていたというが、兵器の性能が落ちることを理由に計画から消えた。
 少し日が傾きかけてから行ったこともあり、回天の中は暗かった。せっかくだから中で横になってみよかとも思ったのだが、人通りも多く、立ち入り禁止の柵もあったため、そこまではできなかった。そこで筒の先から首を入れて中を覗いてみた。気が狂いそうだ。閉所恐怖症なら5分といられないだろう。いや、押入れなど狭い場所に入り込むのが大好きで、むしろ大きな部屋などで落ち着かない貧乏性(本当に貧乏)の私でさえ、こんな中に10分とは耐えられない。
 とにかく直径1.35メートルという圧迫感がすごい。しかも実際の出撃となれば、私が立っていた場所には、1.55トンの炸薬が詰め込まれるのである。
 これは悲壮だ。空からの特攻だって十分にやりたくないが、潜水艦からそっと発射され、通信装置すらない魚雷を操って敵船に突入するのだけは絶対に嫌だ。回天に首を突っ込んでみればわかる。生理的な恐怖感ともいうべき何かを感じるのである。
 説明文によれば、「無気泡酸素魚雷利用の一方途として、海軍中尉黒木博司、同仁科関夫によって着想され、鋭意研究の結果、巨艦も一発で轟沈させる威力をもつ兵器となった」という。なんと106名の兵士が、この魚雷に乗り込んで亡くなっている。ほとんどが20前後の若者だったという。
 発射から爆発まで、各人が何を考えていたのかはわからない。ただ回天の機関は発動したら停止再起動が効かないため、心変わりなど許されない構造だったことは事実だ。
 たとえ英霊が靖国に帰ってきたとしても、自分を死に追いやった回天を見たいだろうか。少なくても戦後民主主義の中で育った私なら見たくない。黒い筒に首を突っ込みながら、漠然とそんなことを考えた。   (■つづく)