阪神大震災現地ルポ/和田芳隆

阪神大震災現地ルポ 第14回/都市計画の非人間性

■月刊『記録』96年7月号掲載記事

■ 道路ばかりが広がる区画整理 

 新長田駅前の銭湯「波止湯」には、区画整理反対を訴えるいくつもの垂れ幕が、建物いっぱいに掲げられている。この一帯「新長田駅北地区」は、震災直後に「復興」の名目で土地区画整理事業の都市計画決定を受けている。事業区域の総面積は42.6ha。幹線道路や街区道路、防災公園の整備などが計画されている。
 波止湯を営む森重光さんら反対住民は「新長田駅北地区区画整理計画中止を請願するまちづくり協議会連合」を組織して、神戸市に対して意見書を提出するなどの活動を行ってきた。「計画の大前提として、住民参加と合意があるべきだが、全く実質が伴っていない」と森さんが憤る。この地区には1町(丁目)ごとに21のまちづくり協議会があるが「神戸市が派遣した都市計画コンサルタントが提案を出してきて、住民はまだ議論もしてないのに、いきなり賛否を問う。市はこれで住民参加・合意が出来ているとすりかえている」のが実情という。

 神戸市の計画では、公共用地が震災前の5.7haから12.2haに増加するのに対し、宅地は29haから23haに減少する。森さんは「宅地の利用増進をうたいながら、これで利用増進といえるのか」と、市の計画を批判している。詳細な事業計画や予算書まであるのに、神戸市は住民には決して開示しないという。 
 よく知られているように、区画整理は減歩(私有地の一部の無償提供)や換地で公共用地を確保する。この非人間的手法は、なにも「株式会社」神戸市だけに限らない。そもそも日本の都市計画は、住民無視で非人間的な制度なのだ。 

 なかでも区画整理は、日本でだけ異様な発展を遂げた都市計画の手法だ。戦後制定された土地区画整理法の前身は明治時代の耕地整理法で、もともとは農地に適用されていた。いびつな形の農地を整然と区割りして農道を広げるためのものだった。広い農道なら農機具を積んだ自動車を乗りつけることもできる。区画されていることで機械化の効果もあがる。減歩されて地積が減少しても、生産性の向上で収入が増えるから、利益になっていたのである。 
 土地それ自体が生産手段となっている場合は、これでもよかった。それを宅地に応用したことが間違いの始まりだった。区画整理をすれば減歩されても地価が上昇するから財産価値は高まる、というのが行政など推進する側の言い分だが、土地転がしでもするならともかく、住み続ける限り、地価が上がっても借金の担保価値が増すぐらいしかメリットはない。土地が小さくなって利用範囲が狭まるデメリットと、どちらが重要だろうか。むしろ固定資産税の負担が増すだけだともいえる。宅地造成の際に実施するならまだしも(それでも問題が起きている例もある)、既成市街地に適用することが、どだい無茶苦茶な話なのである。

■ 上からの計画押しつけ 

 にもかかわらず、行政が区画整理を好んで都市計画事業に適用するのは、減歩によって道路用地をタダで確保できるからに他ならない。この「道路偏重主義」は、産業基盤としてしか道路を位置づけてこなかったこなかった経済成長至上主義のあらわれである。幹線道路やその間をつないで町中を通る道路の整備には熱心だが、その道路に挟まれた空間―これこそが市民の居住空間なのだが―の整備には、とんと関心を払わない。 

 だから新長田駅北地区でこのまま事業化が進んだ場合、たとえ高層化されても、減歩で狭くなった土地にさらに住宅が密集するようなことも考えられる。現に長田区では、過去にも戦災復興や中央幹線道路のための区画整理が実施されており、その結果として住宅集地ができあがったとしている専門家もいる。それに区画整理で整備されるのはインフラだけだから、資金に余裕のない住民は、住宅の再建に割高な難燃素材をそんなには利用できないだろう。そうなると、防災機能を高めるためという区画整理の目的は、いったいどこまで実現できるのか。甚だ疑わしい。森さん達も反対理由に挙げているように、結局は過去の例と同じで、道路整備のための区画整理ではないのか。 
 こんなことがまかり通るのも、日本の都市計画がその理念において「上から押しつける」ことを最善の策としているからである。住民はエゴむき出しでまとまりっこないから、行政が作成した計画に黙って従え、というわけである。住民がその土地でどんな生活を営み、どんな歴史を持っているかなど全く意に介さない。まるで子供の「お絵かき遊び」のように、計画図を描いていく。 

 4月26日の神戸市計画審議会と、5月29日の兵庫県都市計画案が、それぞれ原案通り承認された。455人の署名を付した約100件もの森さん達の反対意見は、ことごとく退けられた。 
 震災前は4000人ほどだった地区の住民も、現在は2000人台という。16のまちづくり協議会が実質的に賛成に回っており、反対住民も現状では少数派だ。だが住民1人1人のレベルでは決して賛成ばかりではないという。今後は行政手続法による不服申し立てや、住民側の対案を作成して、神戸市に投げ返すことを検討している。「持久戦でいく」と、森さんが語った。 (■つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

阪神大震災現地ルポ 第13回/誰もが心労を重ねる

■月刊『記録』96年6月号掲載記事

■4月25日

  2ヶ月ぶりに神戸を訪ねた。1~2月と比べて、自宅を再建し入居を始めた人達の姿が目についた。今回は会えなかったが、東灘区に住む田中尚次・比早子さん、朝倉有子さん達も、家の建て替えが終わり、再入居を済ませていた。 

  長田区でまちづくり活動に携わっている、三谷真さんを訪ねてみると、高熱を出して寝込んでいた。「今までの疲れが一度に出たようだ」と夫人が語った。震災から1年あまり、三谷さんはさまざまな活動に精力的に関わってきた。本業との「二足のわらじ」でもあったから、相当に疲労が蓄積されていたようだ。 

  そういうわけで今回は詳しい話を聞くことはできなかったが、最近の三谷さんは「長田アジアタウン」構想に加わっている。以前から話を聞いているが、長期的には長田区を「多国籍アジア化」しようという試みで、さしあたっては新長田駅北区地区の土地区画整理事業区域内の一角に「アジア自由市場」を開設する。当初は4月27日にオープンすると聞いていたが、その後7月20日に延期されたという。 

  住民レベルの発案による復興プランであり、地域の特性に根ざした内容だといえよう。ただ1点、神戸市から区画整理事業区域内に用地の提供を受けるのが気になるところだ。べつに無闇やたらに行政と対決すべきだとも思わないが、この地域は、一方では区画整理の是非を巡って住民の反対運動も起きている(この問題については次回以降詳しく報告する)。住民の思惑が様々に交錯している状況下では、行政とのそうした連携は安易にすぎないだろうか。今後さらに取材していこうと思う。

■4月26日 

  兵庫区の本町公園テント村に、兵庫県被災者連絡会の河村宗治郎会長を訪ねた。「住民の再起の手だては住宅と仕事だが、この両方とも対策がなおざりにされてきた」と、行政の無策を批判する。河村さんは神戸市内で12万戸の被災者向け住宅が必要という。だが市の供給する災害復興住宅は8万2千戸。公営住宅は全体の6割で、残り4割は民間住宅をあてにいている安直な計画だ。 

  民間の賃貸住宅再建には、公的機関の融資制度や「阪神・淡路大震災復興基金」からの建設費補助と利子補給、家賃減額補助などがあるが、いずれも一定規模を有するものが優遇される。河村さんは「家賃補助は家賃の高騰を行政が追認する欠陥政策だ」として、融資枠や利子補給の充実・拡大を提唱している。いちがいに欠陥政策とばかりはいえないと思うが、量的には最も多いはずの中小規模賃貸住宅の再建に、大規模住宅ほどの支援措置がとられていないから、結局これらの補助に、家賃高騰を抑える実効性はほとんどない。 

  しかし、家賃高騰はここでは文字通りの「死活問題」だ。取材を続けるうちにわかってきたことだが、神戸での住宅・生活環境を首都圏と単純に比較しては実態を見誤る。河村さんが「本町公園周辺でいえば、家賃1万5~6千円のアパートはほとんど潰れた。月収が15~16万円しかなくても、これぐらいなら何とか払って暮らしていけた。そういう人達が大勢いるのが現実だった」と話すように、家賃の高騰は、「住めなくなる」以前の問題として「生活できなくなる」ことを意味している。 

  河村さん達はまた、災害救助法23条7項に定められている「生業に必要な資金、器具又は資料の給与又は賞与」が全く実施されないまま同法の適用が打ち切られたとして、これらの実施と「緊急生活援護金」の支給・貸与を、神戸市に対して要求している。そのうえで、被災者への公的支援を制度化する新規立法措置をと、被災地外の支援者達とともに訴えている。 

  不思議なことに、河村さん達を「ならず者」扱いし、一切の交渉を拒否してきた神戸市が、震災1周年の頃から話し合いに応じるようになっていた。執拗に避難所解消・住民追い出しを画策していたが、「どこに住むかは本人が決めること」といった表現で、事実上断念したらしい。この姿勢の変化は、被災住民の窮状をようやく認識したからだろうか。それとも単なるポーズにすぎないのだろうか。

■4月27日 

  今回の取材で会った人達には、健康を害している人が多かった。三谷さんは前述の通りだし、河村さんも会うたびに痩せていくのがわかる。ともに心労を重ねているからだろう。久しぶりに訪ねて行ったら、心労のあまり亡くなっている人もいた。 

  中央区の仮設住宅に住む中村いさ子さんも、耳に悪性の腫瘍ができ、2週間前に手術したばかりだった。近くをトラックやトレーラーが通ると、安普請の仮設住宅がドスンと縦に揺れる。「また地震かとそのたびに驚く。住民はだいたいこれで神経が参っている」と語った。ここにも心労を重ねる人達がいる。 

  誰もが心労を重ねている。力尽きて斃れる人達もいる。再建後に家賃が数倍に高騰した賃貸住宅には、とても戻って住むことはできない。持ち家を再建した人達も、10~20年後、多重ローンに耐えかねて家を手放していないとの保証はない。 

  こんな状況がつくられていくなかで、道路や建物ばかりが再整備されていく。そんなものが復興といえるのか。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (3)

阪神大震災現地ルポ 第12回/部落でも深刻化する住宅問題

■月刊『記録』96年5月号掲載記事

  生田川の人々に出会ったことで、「犬も歩けば棒に当たる」よろしく、震災と被差別部落の問題に行きあたった。取材をもっと深めようと思い、長田区の番町地区を訪ねた。神戸最大の被差別部落で、2500世帯、5000人以上が暮らしているという。 

  番町がいわゆる都市型部落の様相を呈するのは、明治も終わり近くなってから後のことだ。開港以前は神戸自体が寒村だったからでもある。しかし、それでは1871年の「解放令」はいったいなんだったのか。生田川(新川)は当時は部落すらなかった。発令後に部落が形成・拡大されたのは、解放令がいかなる内実も伴っていなかったことをよくあらわしている。 

  新川と番町は、市内の零細窮民が追いやられることで肥大化していった。長田区の番町とその周辺、中央区の生田川周辺に今も在日コリアンが多く住んでいるのは、この差別政策に起因している。前々回その消息を伝えた在日2世の清本吉伸さんも番町に住んでいる。「下町」としての長田は、震災後、広く知られるようになった。その下町の温かさが、差別の結果生まれたものだということも、忘れてはならないだろう。 

  番町地区の被災状況は、死者42人、全半壊1400戸、一部損壊1000戸にのぼる(部落解放同盟兵庫県連調べ)。被差別部落でありながら同和対策事業の対象とされなかった「未指定地区」の被害が大きかった。改良住宅は6棟・505戸分が被災したが、生田川同様、ここでも改良住宅の存在が、被害をある程度はくい止めたといえるようだ。高層の改良住宅は、部落の豊かなコミュニティを破壊する、新たな差別の象徴になるとの批判もあったというが、被災軽減がせめてもの救いだろうか。 

「皆が帰って来られるような状況を早くつくっていきたい」と、部落解放同盟番町支部の滝野雅裕書記長が語る。改良住宅505戸のうち303戸の建て替え用仮設住宅は確保できた。残り202戸(うち90戸の行先は部落解放同盟でも把握していないが)は親類宅や仮設住宅などに身を寄せているという。「番町は大きな部落なので、地区外の人との付き合いがなくても暮らしていけたから、一般の仮設住宅に入ったお年寄りには、かなりのプレッシャーになっているだろうと思う」と、滝野さんは心配していた。 

  改良住宅は既に再建工事が始まっているが、既存不適格の規制で、以前と同戸数を維持するためには、1戸あたりが小型化してしまう。それでいて家賃上昇も見込まれている。戻れない人も出てくるかもしれない。「改良住宅は第2種公営住宅といって、第1種の一般市営住宅とは歴史的経緯も異なる。収入面でも同和地区の人は低いので、同じ家賃というわけにはいかない」と、滝野さんが語った。解放同盟でもこの問題に取り組んでいるという。 

  民間住宅でも事情は同じだ。家主が高齢だと、倒壊した貸家や長屋の再建は困難になる。借地権を買い取った人も、建蔽率の規制で、例えば10坪の土地なら8坪程度の家しか建てられない。「これでは家にならない」と悩んでいるという。部落外の被災地で起きていることは、例外なく被差別部落でも深刻化している。

■ 部落差別で採用内定を取り消し 

「皆が助け合った震災直後の気持ちを大切に復興させていきたい。それが人権問題の根本だと思う」と滝野さんは話す。だが、一方では悪質な就職差別も起きていた。関西のある事業が社員を震災ボランティアに派遣、番町で活動していたが、ここが被差別部落だと知ると、自社の採用内定者に番町出身者がいないかを調べ、当該者の内定を取り消したのだという。いったいどうすれば、ボランティアに行く精神と、部落を差別する精神とが両立できるのだろうか。滝野さんも「何でそういうことをするのだろう。人事担当者は酸いも甘いも噛み分けた人ではないのか。人をいじめてそんなに楽しいのか」と憤る。滝野さんならずとも腹が立つ。 

  町を流れる新湊川も差別の結果だった。新開地開発のため、明治末に部落北側の高台めがけて付け替えられている。大雨のたび洪水が南の低地の部落へとあふれた。最大の被害は1938年の「阪神大水害」で、豪雨とともに土石流が阪神地方を襲い、死者・行方不明者557人、流出・倒壊家屋2万戸の被害を出した。「なかでも生田川・宇治川・都賀川・新湊川の川筋の被害が大きかった」(『神戸市史』)。つまり流域の被差別部落を直撃したのである。 

「川というのは自然とそこにあるものだと思っていた。部落が洪水になろうが、かまわずに付け替えられたものだと知った時、本当に腹が立った」と、滝野さんが語る。この国は、こうした差別の結果を基礎に繁栄を築いてきた。今日の私達の生活も、その上に成り立っている。「私は差別していない」「自分は差別とは無関係だ」と言ったところで、何の意味があるだろう。 

  滝野さんと電車に乗る機会があった。被差別部落出身者の外見に何ら違いのあるわけがないから、誰も気にとめない。車内の雰囲気も全く変わらない。それなのに部落出身というだけで、差別の標的にされる。これが部落差別の無意味さ、デタラメさだと思う。だいたい外見が異なろうが差別のあっていいわけがない。差別することは「くだらない」と、つくづく思う。(■つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

阪神大震災現地ルポ 第11回/部落差別問題は避けられない

■月刊『記録』96年4月号掲載記事 

  昨年の震災直後、神戸市の生田川公園(中央区)のテント村で避難生活を送っていた中山いさ子(仮名、60)さん達は、近くの市営新生田川住宅13号棟の住民だった。築23年の13号棟は、12階建の4階の一部が押し潰される「層崩壊」で全壊した。ここでは市営住宅が2棟全壊し、3人が死亡した。 

  取材した当初は全く知らなかったが、この住宅は同和対策事業で建設された「改良住宅」で、この地域は生田川地区と呼ばれる被差別部落だった。被災住民に仮設住宅が専用的に確保されていたのは、一般の市営住宅とは異なり、部落の生活環境改善のために建てられたという経緯があるからだった。 

  当時、生田川公園を取材したのは、三宮周辺では数少ないテント村で、周囲と比較すると被害甚大という印象を受けたからだった。須磨区の西村栄泰さんを最初から在日韓国人と知って取材したわけではなかったのと同じで、最近まで被差別部落と知らずに取材を続けていた。震災取材を続けるうえで、部落差別の問題を避けて通ることはできないと以前から思っていたが、そう思いながら、自分でも知らぬまま被差別部落の人々から既に取材していたのである。 

  意識して訪ね歩いたわけではなく、出会った被災者が在日であり、そこが被差別部落だった。それは、やはりこれらの人々に被災が集中していることを意味しているのだと思う。震災の社会的格差を、ここでも痛感させられた。しかも生田川地区は、改良住宅の建設が完了していたため、被災地の部落のなかでこれでも軽微な被災だったという。以前の様子を知る中山さんも「改良住宅ができていなかったら、生田川も長田のように燃えていただろうと語っている。 

  生田川地区は、神戸開港後に形成された部落で、昔は「新川」の名で呼ばれていた。戦前から戦後にかけて活動した社会事業家の賀川豊彦が、一時期ここで暮らしキリスト教の布教を行っていたことがある。もっとも、賀川はその活動とは裏腹に部落への差別意識が強く、当時から水平社の強い非難を浴びていたが。開港前の神戸は辺鄙な場所だったというから、部落・一般を問わず、多くの人々が他の都市から神戸に流入して、都市が誕生した。神戸の差別史研究書『ミナト神戸コレラ・ペスト・スラム』(安保則夫箸)によれば、神戸市内に点在していたスラムを被差別部落の周縁部に押しつける「差別政策の結果」、新川がスラムとして肥大化していったという。差別政策は当時の市域の東西両端で実施された。東端が新川で、西端が長田区の番町地区だった。

■ 常に差別のプレッシャー 

   新生田川住宅が被差別部落と知った時、正直いって驚いた。そして考えさせられた。生田川公園テント村には、自衛隊以外に行政からの救援が皆無だったが、それは差別とは関係なかったのだろうか。テント村の被災者はほとんど全員が13号棟の住民だった。中山さんは「学校よりテントの方が気が楽だったから」と言うが、公の避難所の小野柄小学校ではなく、隣の公園に住民がまとまっていたことに「見えない壁」を感じるのは、うがちすぎだろうか。「13号棟は日頃から団結していたから助かった」と被災住民の女性が語っていたが、その日常的な団結も、被差別体験から否応なしに培われたものではなかったのだろうか。 

  中山さんは、新川のスラムで生まれ育った。生田川は各地から人が集まってつくられた被差別部落だが「両親は神戸出身ではないし、私も地区の外で育ったから、差別された経験はない」と言う。それでも、彼女の子ども達がまだ幼い頃、「地区のこと遊ぶようになってから、うちの子が悪くなった」と、人から露骨に言われたことがある。子ども達の躾に厳しかった理由を、「あんな親だから子どもも、と言われたくなかった。まして同和地区だから、と言われるんだから」と述懐しているように、常に差別のプレッシャーを意識させられてきたことも、また事実なのだった。 

   2年後には改良住宅が再建される。就職・結婚などでいまだ差別の根強く残る状況を考慮して、これまでは一般の市営住宅よりも低廉な家賃に設定されていたが、建設コストの増加などから、再建後は数倍に値上がりしそうな見込みだという。経済的な負担が増すことは避けられそうもない。中山さんもこう語るのだった。「神戸市は、一般の地区も同和地区ももう同じだという。でも山手と生田川と、芦屋と番町と、誰が同じようにみてくれるのか。決して同じには見てくれない」。 

  改良住宅以前はバラックに住んでいたという中山さんは、小学校は戦争のため満足に学べず、新制中学は貧困から途中で通学していない。働きながら、同僚達が書くのを真似て字を覚えた。夫が健康保険や年金の手続きを怠ったまま他界、彼女はそれを長い間知らずにいたため、結局、無年金状態である。65歳を過ぎないと息子さんの扶養家族には入れないから、健康保険も割高になっている。本人も「苦労のし通しだった」と今日までを振り返る。これらの苦労が本人の言葉通り部落差別とは無関係だとしても(本当は差別によるものだとしたら尚更だが)、理不尽との思いが募る。 

「長いこと生きていれば、それはいろいろなことがあるよ」と、中山さんは明るく乗り超えてきた。その明るさに魅かれて、このところ神戸に取材に行くたび、彼女のもとを訪ねている。 (■つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (2)

阪神大震災現地ルポ 第10回/1年後それぞれの現実

■月刊『記録』96年3月号

■ 1月14日
 
 三宮の「旧居留地」を遠藤義子さんと歩く。倒壊した大丸デパートやダイエーの辺りの道路は整備されて見違えるほどだ。しかし中心部を離れ裏道に入ると凸凹だらけ。壊れた歩道は砂で埋めただけのままだ。雨が降るとあちこちで水と泥が溜まる。「目立つところばかり直す」と慨嘆していた被災者のことを思い出した。 
「1年が近づいて、当時を思い出すと怖い」と遠藤さんが言う。そのせいか、ここ数日体調を崩していた。この1年、怒ったり泣いたり感情の起伏が激しくなったという。年金をもらえるのは数年先。その間の仕事はない。いま働いているのは娘の美和さんだけだ。「貯金も底をついてきた。仮設住宅と違い、私達は家賃を払っている。仮設住宅に入っていない被災者も大変なんです」と、力なく語った。 
 昨年3月に訪ねた長田区に住む在日朝鮮人の清本吉伸さんを再訪した。全壊と認定された自宅は修復を済ませていた。「建て直すと建蔽率の関係で小さくなってしまうので、修理して住むことにした」と話す。一戸建住宅における「既存不適格」だ。修復とはいえ、費用には500万円かかっている。これでは住宅助成義援金30万円は「焼け石に水」にもならない。少額すぎる。 
 運送業を自営している清本さんは、震災後、中古のダンプを購入し、倒壊家屋の廃材を運んでいた。「捨場はトラックで長蛇の列。5時間待ちで1日1回しか運べなかった」という。いまは家屋の土台用コンクリートを運んでいる。「ほんまえらいめ遭うた」と震災を回想し「行政の援助もないし、結局、本人が頑張らないとどうにもならない。これからの方が大変だ」と心境を語った。

■ 1月15日
 
 地震で横倒しになった本山交通公園(東灘区)の蒸気機関車は、1年後もそのままだった。更地の上に家を再建できる人とできない人との格差も目立つ。「借金しようにもできなくて家を建てられない人が近所にも多い」と、田中比早子さんが語った。 
 震災直後、田中さん達とともに福井池公園に避難していた朝倉有子さんと再会した。逞しく明るいその姿は1年前と変わらなかった。朝倉さん一家は三田市に仮住まいし、まもなく自宅の再建が始まる。「狭い土地に建てるから規格品でなく注文建築になるので割高。全部あわせると4千万ほどかかる」と言う。倒壊した家は築4年しか経っていなかった。二重ローンがかさむ。朝倉さんは「ただ金をくれとは言わない。もっと国の方で貸してくれないものかと思う」と話す。県と市の震災復興融資は、住宅金融公庫からの融資がない被災者は受けられない。公庫の方も、既存ローンが残っている被災者には、ほとんど融資しない。その例が田中さんだ。被災地では「住専を税金で救済するなら、我々の方も何とかしてほしい」と、多くの人達が訴えている。まともに配分されているのかさえわからない義援金だけでは足りない。そもそも国家が公費で救済しない「冷酷」を、義援金という「厚意」でいつまでも糊塗し続けていいのか。解決策は、国家が公費で「個人補償」するしかない。

 朝倉さんと田中さんは「価値観は根こそぎ変わった。あまり物を欲しいとは思わなくなった。借金しても家を建てられるだけ幸せ」と、震災後を振り返る。田中さんは2~3月頃に家が建ち、朝倉さんは春頃に上棟式の予定だ。

■ 1月16日
 
 深夜から翌朝にかけて「震災を語り継ぐ夜-朝まで長田」が開催された。三谷真さんも主催者の1人だ。「市民語り部キャラバン」が行った東京での2度の集会の締め括りとして、この夜の集いがある。地元住民やボランティアが100人ほど集まった。 
 まちづくりについて、ボランティアについて、在日外国人と日本人との共生・共死について、様々な意見が出た。長田がケミカルシューズの町であることからの比喩だろうか、「いままでは靴(道路など)に合わせてまちをつくった。これからは足(住民)に合わせてまちをつくらなければ」との発言が印象的だった。

■ 1月17日
 
「朝まで長田」は午前5時から菅原市場での追悼集会「鎮魂と再生の集い」へと続いた。主催者の1人の森栗茂一さんが「震災から半年ほど、長田では火を見るのが怖かった。でも今日は希望の火。どうしてもこの日だけはここで迎えたかった」と語った。参加者の多くが同じことを思っていた。それぞれの思いを込めて、鎮魂の火を灯し、献花した。そして。 
 5時46分、参加者は思い思いに黙祷・祈りを捧げた。 集会の後、須磨区の西村栄泰さんに会いに行った。驚いたことに、自宅再建で詐欺に遭っていた。工事を頼んだ建設会社の社員に手付金350万円を騙し取られていたのだ。家の基礎部分の工費に匹敵する金額で、神戸市から借りた分を丸々詐取されたことになる。詐欺とわかったのは1ヶ月前。さすがの西村さんも、今回は見るからに落胆していた。「騙すよりは騙される方がまし。生きていけるだけの金があればいい。犯人のように欲を出すとろくなことはない」と嘆息するばかりだった。 
 西村さんの仕事の取引先は3分の2ほどが震災でなくなってしまった。「商売もきつくなっている」という。「この1年は早かった。何とか生きてこれた。また1年生きていければいい。生きていればこそ、こうして会うこともできる」。(■つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (2)

阪神大震災現地ルポ 第9回/住民はバラバラ

■月刊『記録』96年2月掲載記事

■ 11月10日

 震災ボランティア活動を続けている大阪の加納雄二弁護士に会った。加納さんは地震発生直後、オフロードバイクで被災地に通い、救援活動に携わった。以来、中央区避難所代表者会議に参加している。中央区で活動しているのは「マスコミ報道で長田に注目が集まった頃、こっちは全く放置されていた」からだった。これには思い当たるところがある。初めて生田川公園を取材した頃の小橋千津子達被災住民の窮状は、まさにそのことに起因していた。テント村に支給されていたのは毛布1枚のみ。洗濯機や流し台を調達してきたのはボランティア。すぐ近くに市役所と区役所があるのに、職員が巡回に来たことは1度としてなかった。「灯台もと暗し」というには、状況はあまりにも酷すぎた。
 
 加納さんは、毎回の代表者会議に出席の都度、簡単なレポートを関係者に配布している。最近は、ポートアイランドに建設された仮設住宅「団地」について報告している。床下に雨水が溜まり湿気が多い、街灯が少なく夜は真っ暗で危険といい、「仮設住宅の長期化、スラム化、姥捨山化は必至。今後活動の中心は仮設の自治会の結成、居住環境の設備等となろう」と述べている。

■ 11月20日
 
 11日に、仮設住宅の環境改善や心のケアの問題について、神戸市も交えて被災者が話し合う「市民交流集会」が催された。その様子を加納さんから電話で聞いた。「仮設の団地から消防署まで遠いので、団地内の消化器の設置数をもっと増やしてほしいなどの要望が住民から出された」という。 

 住民の行政に対するスタンスは、それぞれに思惑が違うからバラバラ。それが一因で住民間の反目も起きている。「市民交流集会」に集まった住民は、強いていえば「行政協調型」になる。長田区で仮設住宅・店舗集合施設「パラール」を運営している「久二塚区震災復興まちづくり協議会」も同様だ。10月に東充事務局長を訪ねると「以前ある雑誌の取材を受けた後、神戸市に何であんな取材を受けたと言われた」とかで、取材には慎重になっていた。行政との関係を象徴している。市長の態度も、オール与党の市議会議長が所属する公明と関係の深い『潮』の取材には応じたように「メリットがなければ取材には応じない」(広報課)。神戸市は、良好な関係にある住民組織には、自分と同じように取材に応じる相手を差別しろと、その広報活動まで統制下におこうとしている。もともと再開発や区画整理に伴って設立される「まちづくり協議会」は、法律で行政から助成金を得られることになっているから、行政との関係も一体的となる場合が多い。 

 これに対して「兵庫県被災者連絡会」は、さしずめ「対決型」になる。行政への強硬姿勢に対しては、実は被災住民の間でも毀誉褒貶が激しい。地震から日が経ち「日常性」を取り戻すにつれ、テント村などに対する周辺住民の視線が冷たくなっていることも、そのあらわれだろう。カトリック鷹取協会「救援基地」が被災ベトナム人のための紙製ログハウスをテント村に建設した際、一部の「対決型」住民との間に摩擦が生じたこともあった。精力的に救援活動を続ける同教会に対しても「作業音がうるさいと近所から苦情を言う人が出てきた」と、神田裕神父が語った。 
 住民組織のとるべき立場として、どちらが良いのか、正直にいってわからない。行政との連携がなければ、住宅問題ひとつとっても、復興計画の実効性に乏しいことは否定し難い、しかし、震災直後から今日まで反省と改善もない、神戸市の「人を人とも思わない」体質を不問にして、住民本位の復興などあり得るのか、とも思う。

■ 12月6日
 
 震災から1周年の1月16日夜から17日朝にかけて、長田区では「震災を語り継ぐ夜-朝まで長田」が開かれることになった。住民グループ「防災を語る会」の主催で、連絡窓口役は三谷真さんだ。「具体的な集会の内容は未定だが、とにかく徹夜で語り明かす、飲み明かす集会を開くことだけは決まった」と語る。午後10時から鎮魂の火をともし、地震発生時刻の午前5時46分に黙祷を捧げる。当日までは「市民語り部キャラバン隊」が東京を訪れ、集会をもつ。13日は墨田区で「一言言問」と銘打ち、14日は中野区に会場を移して、震災を語り継ぐ集会が開催される。 
 この号が発売される頃は既に1周年を過ぎているから、1ヶ月遅れの報告になるが、次回は、これらの集会をはじめ、1年後の被災地の現状を伝えることができると思う。

■ 12月8日
 
 兵庫県被災者連絡会の田中健吾事務局員に電話で状況を尋ねた。市庁舎前の「前線基地」はいまも置いている。避難所で生活している被災者3人が生活保護を申請していたが、稼働能力がある、親の簡易保険は預貯金と同じなどの理由で、11月30日付で却下された。田中さんが「行政は、仮設住宅に行かずに避難所で暮らしている被災者には、生活保護を認めようとしない」と話す。避難所住民は「住所不定」扱いされているということか。

 今月20日で「旧避難所」(行政はテント村などをこう呼ぶ)も解消されると新聞が報道したので、「確認と対策にあたっている」という。夏の避難所閉鎖も、報道されるまで住民には何の通知もなかった。一旦報道されてしまえば、それは「既成事実」と化す。未解決の問題を残して、既成事実ばかりが積み重ねられていく。 (■つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

阪神大震災現地ルポ 第8回/不公平が罷り通る

■月刊『記録』96年1月号掲載記事

■ 10月29日

 前夜10時30分に横浜を出た高速バスは朝6時に三宮に着く。時間が早いので、付近を歩き回ってみた。無惨な姿をさらしていた神戸市庁2号館も解体作業が始まっていた。繁華街の小さな飲食店は28日で閉店し、ビルごと取り壊さざるを得なくなったと貼り紙がしてあった。いまだ解体を余儀なくされる建物がある。

 市役所1階のロビーで遠藤義子さんと再会した。現在は市役所に近いマンションで暮らしている。家賃は月10万7千円。旧宅の7万7千円より少し高くなった。再建後に家賃が15万円に倍増した旧宅は、以前の骨格を再利用で実質は修復に近い。前より部屋が小さくなったのはコンクリートを厚くしたためらしい。
 新居を探し不動産を訪ねても「私達のような母子家庭は嫌われて貸してもらえない。保証人が2人必要で、神戸在住に限るなど無理を言われた」という。結局馴染みの旧宅の家主の持つ別のマンションにした。既に還暦を超えている遠藤さんは新しい仕事も見つからず、住居を探すうえでも差別的な扱いを受けていた。
 住む家があるだけでもましと思う人もいるだろう。だが、住む家はあって当たり前、仮設住宅すら入れず、いまなおテント生活を続けている人がいる方が異常なのだ。神戸では当たり前でないことが罷り通っている。「これからどうなっていくのだろうか」との遠藤さんの不安も、容易には消えない。

 三宮の外れの仮設住宅に小橋千津子さんが住んでいる。十数棟立ち並んでいるうちの8号棟、2階の奥の部屋だった。トイレはあるが風呂はない。倒壊した市営住宅の住民専用の仮設住宅で、再建までの間住むことになっている。小橋さんは体調を崩していた。「仮設住宅に落ち着いてから、原因不明の高熱が続いた。今は指先の皮がボロボロで、医者に診せたら神経症と言われた」と話す。傷口保護のためビニール製指サックを買いに行ったところ、同じような症状で指サックを購入していく人が多い、と薬局で聞かされたそうだ。震災後も、こうして人々の心がストレスに蝕まれていくのだろうか。

■ 10月30日

 長田区で三谷真さんを訪ね、「長田の良さを生かしたまちづくり懇談会」の近況を聞いた。精力的に議論を続けているが、夏以降、住民に疲れが見え始めた。「市が建てる公営住宅の多くは西・北区で家賃10万円前後。これでは長田に戻って来れないという雰囲気が強まっている」と語る。県と市は災害復興住宅8万2千戸を3年計画で供給するのだが、全部を災害地に建設するわけではない。被災地分も被災者ならだれでも入れるわけでなく、再開発地区内の住民が優先という。まち懇は災害復興住宅があてにならないなら、区画整理による民間住宅の共同化も考えているが、これがまた難しい。

 僅かな土地でも自分だけの家を建てたい地主の説得は容易ではない。地主が売却を希望すれば、区画整理事業の自治体の用地買い上げ制度を活用できるのだが、市は何人かが一括して売却しなければ取得しようとしない。結局、住民の復興への足並みも乱れ、秋頃から違法建築もみられるようになったという。「市は自分では手を汚さないで、住民にまとめさせようとするばかり。住民の不満も募っている」と、三谷さんも行政への不信感を口にしていた。
 町を歩いていると、地主と借地・借家人が互いに住宅を建設する旨を宣言した看板を別々にたてかけていた。復興ムードの高まりにつれ、土地を巡る両者のせめぎあいも始まっている。

■ 10月31日

 兵庫県被災者連絡会は市役所前に「前線基地」を設けて活動していた。事務局長の田中健吾さんが「住民のよろず相談にものっています」と語る。自宅再建で悩みを抱える女性が相談に訪れ、ときに涙ぐみながら切々と思いを語っていた。

 河村宗治郎会長には、2日前に兵庫県の本町公園テント村で会った。「冬が来る前に越冬対策を考える」と語った。一体誰が避難生活で再び冬を迎えると考えたろう。連絡会は避難所でのアンケート調査をもとに、27日付で「避難者実態調査報告」をまとめた。B4判26ページの本格的な内容だ。報告書の被災住民の声は既に仮設住宅さえ諦め、テント村で恒久住宅(必ず入れるとは限らない)を待ち望んでいる。これを不法占拠と片づけていいのか。

 夜、須磨区の西村栄泰さんを訪ねた。夕食を御馳走になった。土産の1つも持って行かねばと思うのだが「そんな気をつかうなら来るな」と、その都度言われるので、好意に甘えてしまっている。
 西村さんは義援金を24万円しか受け取っていない。理解し難いことに住宅助成義援金30万円の受給資格がない。この義援金は自宅が全・半壊した後、民間の賃貸住宅に入居するか、家を修理した被災者が対象だが、震災後半年余りで全壊した住宅を建て替えた西村さんには、「自力再建の原則」とやらで交付されない。東灘区の田中尚次さんのように再建までどこかで仮住まいすれば受けとれたが、西村さんは車庫を改造した「自家製」仮設住宅に住んでいたため、ここでも資格を得られない。理不尽だ。何度も伝えてきた見事なまでの生活力が正当に報われていない。西村さんが在日韓国人だから交付されないわけではないが、「わしらは子どもの頃から『オイコラ朝鮮人』と差別されてきた」と語る体験がその根源にあることを思うと、二重の意味で理不尽だ。 (■つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

阪神大震災現地ルポ 第7回 被災者からの手紙

■(月刊『記録』95年12月号掲載記事)

■ 9月11日 (1995年)

 8月に神戸を訪ねた際、移転先がわからないため会えなかった遠藤義子さんと小橋千津子さんに手紙を出してみた。その後の消息を尋ねてみたいと思ったからである。取材というのは、善かれ悪しかれ「一期一会」の要素が強いものだと思っているから、正直にいうと、そこまで追いかける必要があるのか迷った。あまり追いかけるのも無神経ではないかとも思ったのだ。しかし、震災直後の極限状態だけでなく、その後の困難な状況について追跡取材を試みることが連載の目的である。それに小橋さんには、記事になったら見てもらうと約束していたが、まだ果たせずにいた。 

 手紙には、いまも取材を続けていること、8月も取材に行ったが会えなかったこと、その後どう過ごしているか、よかったら教えてほしいこと、10月にまた神戸を訪ねるので連絡先を教えてほしいこと、などを書いて送った。この連載のコピーも同封した。
 現住所はわからないが、震災以前の旧住所は聞いてあった。そこへ送れば新住所に転送されるだろう。転居先不明で戻ってきたら、そのときは仕方ない。そう思って投函した。

■ 9月18日

 小橋さんから返事が届いた。手紙には「今となれば、あの時の怖い思いをしたのが夢のような気がします」と綴られていた。本人の了解を得たので、この手紙から、差し障りのない範囲で、小橋さん母子の置かれている状況について紹介しよう。 
生田川公園での避難生活は、春頃からテントの中にまで入り込んでくる虫に悩まされたので5月で切り上げ、6月からワンルームマンションに移り住んだ。東灘区の田中さんからも聞いているが、震災後、賃貸住宅の家賃は値上がりしている。だから小橋さんも割高な家賃で住まねばならなかった。小橋さんはこのマンションに8月まで暮らし、今月から仮設住宅に移っていた。場所は生田川公園から南に下った辺りという。 
 詳しいことは10月に会って尋ねようと思うが、彼女ら市営住宅の入居者が優先的に仮設住宅に入れるというのは、あるいは本当だったのだろうか。前回「空手形」と書いたのは、私の「早トチリ」だったかもしれない。それとも小橋さんたちが2人暮しだから入居できたのか。仮設住宅に入れない被災住民の多くは4~5人以上の世帯で、2Kの間取りの1室では狭すぎ、2室以上を求めても絶対数が足りない。それで入居を諦めていた。だが2人なら生活は不可能ではない。小橋さん母子は、もしかするとそれで入居することができたのかもしれない。てっきり仮設住宅には入れなくなったと思っていたので、何にせよ、その点だけはよかった。 

 マンションに3ヶ月間住んで、かかった費用は家賃と敷金からの差引分で55万5千円だった。受け取った義援金は10万円。市と県からの見舞金14万円と合わせて24万円。これに住宅助成義援金30万円を受け取ったとしても、1万5千円の赤字となる。大震災で住宅を失った上に財産まで減っていく。つくづく理不尽だと思う。しかも小橋さんによれば、テント生活からそのまま仮設住宅入りした被災者には、この30万円は出ないという。

■ 9月23日
 
 手紙を出したもう1人の遠藤義子さんから電話をもらった。彼女らは母娘も避難所を出て、市内のアパートに移っていた。結局仮設住宅には当たらなかったのだ。「今まで住んでいたマンションの建て替えは終わったが、家賃が倍以上に高くなってしまったので、住むことは諦めた」とのことだった。短期間の突貫工事で建築したせいか、建物全体も室内も以前より小さくなっているような感じだという。部屋が狭くなった上に家賃が2倍以上にはね上がったのでは、とても住むことはできない。遠藤さんはいまも失業状態だ。震災で倒壊した職場の再建は、まだ見通しがたたない。年配の彼女には、新しい仕事をみつけることもままならない。

■ 9月25日
 
 笹山幸俊神戸市長に取材を申し込んだ。これまでは取材しても意味があるとは思えなかったし、その必要もなかったが、小橋さんと遠藤さんに連絡をもらってから、考えが変わった。今まで取材して聞いてきた被災者の怨嗟の声を、彼に直接ぶつけてやろうと思うようになったのである。 

 既に鎌田慧さんをはじめ何人ものライターが、市長に取材を申し込んでいるが逃げられていると聞く。「新聞・TV以外は取材に応じない」と言っているらしい。だから恐らく応じないだろうと思っていると、案の定、「震災対策で忙しくて時間がとれない」と広報課が回答してきた。だがそう言いながら、市長は、創価学会系総合雑誌『潮』の取材には応じているのだ。記事中の市長の発言は、被災者を愚弄するには十分な内容だった。愚問を繰り返す女性記者を、与し易しとみたのだろう。笹山幸俊という人は、その程度の取材には応じる、その程度の人物らしい。それなら、事前に申し込むような悠長なことをしないで、執務室に直接市長を訪ねるか、自宅に「夜討ち朝駆け」でもしてみようか。

■ 9月29日
 
 手紙をもらってから日が経ってしまったが、小橋さんに電話をかけてみた。「ワンルームマンションは金がかかってしゃあないわ」と、電話口で語る小橋さんの様子は元気そうだった。住宅助成義援金も受け取ったという。小橋さんは市街地の仮設住宅に入ったのだが、同じ仮設住宅でも、市街地と郊外では、待遇に差があるようだ。「山の方の仮設住宅にはコンロと食器がついていて、コタツと米10キロがもらえた。私ら町の仮設住宅の者は米とコタツだけ」と話す。郊外の方が生活に不便だからという理屈なのだろうが、ここまであからさまに差をつける必要があるのかと思う。 
 しかも「山の方の仮設にはエアコンがついているのに、町の方にはついていなくて、神戸市はエアコンが欲しければ山の方へ行けという態度だった。つけてもらうまでずいぶんかけあった」と言う。なぜそんなに郊外の仮設住宅へと被災住民を誘導したがるのか理解に苦しむ。誰もが住み慣れた土地を離れたくはない。愛着があるし、復興の進み具合を見届けたいと思って当然だ。市当局は、その程度の住民感情すらわからない。 
 小橋さんには子どもが3人いて、現在はいちばん上の息子さんと住んでいる。「息子がまだ独身なので、地震の後も面倒みてもらえてよかったなあ、なんて言うてる」と笑う。彼女は戦前の大水害、大戦中の空襲、そして今度の大震災と、3度の災害を生きてきた。その間に夫を亡くし、3人の子を育てた。今度会う時には、そうした人生経験も聞いてみたいと思っている。

■ 10月14日
 
 東京で、「阪神大震災報告会-被災者が語るあの時(1・17)と現在(いま)」が開催されたので行ってみた。被災者団体と神戸市との紛糾の様子(前回報告した)などを撮影したビデオ上映の後、自身も被災した地元ボランティア活動家の報告、参加者の発言と続いた。久しく現地で取材していないから、報告の内容は参考になった。けれども参加者はわずか40人ほどで、ほとんどがボランティア活動家ばかり。それ以外の参加者は数人程度というのが気になった。浴衣姿の力士が1人、少し遅れて参加して、途中で帰って行った。兵庫県出身者だったのだろうか。

 日々関心が薄れていくことを痛感した。やはり日本人は冷たい。それにもこの日の集会は事前の告知や内容の点で、もっと運動の「外側」にいる人たちへも働きかけてもよかったと思う。残念ながら内輪の集まり、「体験談発表会」のようになってしまっていた。 
  『記録』の読者には市民運動に関わっている人々が多いから言わずもがなではあろうが、ボランティアとは無縁の人たち、義援金を送っただけとか、義援金もボランティアも全くしなかった人たちにこそ、難しいが伝える努力をすべきだと思う。これは取材を続ける自分にとっての課題でもある。そんな感想を抱いた。

■ 10月25日

 この日、長田では、映画『男はつらいよ』のロケが行われた。「長田の良さを生かしたまちづくり懇談会」(まち懇)の三谷真さんに聞いたところでは、「まち懇」の議論から「寅さんを呼ぼう」という話が生まれた。山田洋次監督が明石へ講演に訪れたところを、「まち懇」有志で会い、撮影に来てほしいと要請した。その時は既に脚本も決まっていて実現は難しいと断られたのだが、その後、山田監督が脚本を手直しして、ごく僅かだが長田が登場することになった。寅さんが神戸滞在中に大地震が来て避難所生活を送り、1年後に再訪するという設定で、来年1月に公開される。 

「まち懇」でも「寅さんを迎える会」を作って準備を進めてきた。これを機会に、「寅さん祭り」を催したり、災害遺児のための「寅さん基金」を設けようという提案もある。基金の方は松竹との関係で、寅さんの名称を使えるかどうかはまだ流動的なのだが、「地元はけっこう『寅さん』で盛り上がっている」と三谷さんは語った。 「まち懇」本来の活動も順調に進んでいる。4月の発足以来、9月までに毎週の会合を17回(準備会も含めると18回)重ね、10月からは隔週で開催している。これまでの経過をまとめた資料を送ってもらったが、統一テーマとして精力的に議論されているのは、やはり区画整理と再開発の問題だ。神戸市は長田の復興に際し、19年前の酒田大火(山形県酒田市)の例を参考にすべく、同市から資料を取り寄せている。だが酒田の復興は失敗だったのだ。酒田の被災者は、いまなお困難な現実を抱えている。長田がその轍を踏むかどうかはまだわからないが、その前に、酒田の商店街が区画整理の後どうなったかを検証することも、決して無駄ではないと思う。この問題は、いずれ機会を改めて、報告することにしたい。 (■つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (2)

阪神大震災現地ルポ 第6回/仮設住宅は余っている?とんでもない!

■(月刊『記録』95年10月号掲載記事)

 阪神大震災から7ヶ月後の8月20日、神戸市は被災救助法適用を打ち切った。被災住民は避難所から「待機所」に移るように促されている。「震災騒ぎもそろそろ終わり」という雰囲気が、日に日に強くなっている。 だが、4ヶ月ぶりに訪れた神戸では「震災」はまだ続いていた。地震後の困難な状況だけが震災ではない。復興のありようもまた「震災」だ。それは今も続いている。終わったというには、まだ早すぎる。

■8月13日
■行政に「空手形を」 

 早朝の三宮。地震の起きた頃は真冬だったのに、季節だけは否応なしに変化して、真夏の暑い陽射しが容赦なく照りつける。 
 神戸市役所の正面玄関前で、「兵庫県被災者連絡会」の人々が座り込んでいた〈写真〉。市が避難所閉鎖を通告した日からここに陣取り、「たすけてー」と書いた横断幕を立て、署名とカンパ活動を続けている。夜はここに布団を敷いて寝る。河村宗治朗会長(58)は「市は今日まで何もしてこなかった。挙げ句の果てに避難所を閉鎖するというのだから」と、静かな口調で憤りを語る。 
 連絡会は避難所閉鎖の撤回、都市部に仮設住宅など10項目の要求を掲げている。会の一員で、地域住民団体「ネットワーク須磨・長田」の中村年一代表が「これは座り込みと違う。ここで市の回答を待っているのだ」と語り、河村会長が「戦争と同じや、いつも弱い者がいじめられる」と話す。戦争や災害のような極限状態の時、その国や社会の体質が、むき出しになって現れてくる。 
 市庁舎の避難所は2ヶ月ほど前に閉鎖されていた。自分達の足下から先に避難住民を追い立てるのも市の体質だ。住民の一部は中央区役所隣の勤労会館に移っていたが、そこに遠藤義子・美和さん母娘の姿はなかった。抽選に当たらない仮設住宅を諦め、民間アパートに移ったのだろう。その後の行先はわからない。 
 勤労会館の近くに新生田川公演がある。このテント村では小橋千津子さんが暮らしていたが、既に引き払った後だった。公園いっぱいに張られた無数のテントも、いまでは隅の方に数えるほど。小橋さんは新神戸駅近くのマンションに移ったと聞かされた。倒壊した市営新生田川住宅の住民だった彼女らは、公園に立てられる仮設住宅に優先的に入れると話していたが、仮設住宅など見当たらなかった。そもそも市営住宅の入居者が優先的に仮設住宅に入れたのかどうかさえ疑わしい。小橋さん達は、行政に「空手形」をつかまされたのだ。

■カネを出し渋る神戸市 

 この日は私鉄各線が相互の乗り入れる神戸高速鉄道が復旧した。須磨区の西村栄泰さんに会うのも、最寄り駅の山陽電鉄月見山駅から歩いて行けるようになった。ちょうど車庫を改造した「家」から、再建した家に家具を運び終わったばかりのところだった。「7月始めから建て始めた。まだ建具は全部入っていなくて、入り終わるのは盆明けになりそうだ。それでも車庫の中よりはまし。暑い時は室温が50度くらいにはなっていたから」と言う。 
 新しい家は平屋で、まだ気の匂いがする。クーラーも付けたから、やっと過ごしやすくなった。それにしても、半年あまりで住宅を再建したのは、被災地でも早い方だろう。隣家はまだ崩壊したままになっているし、近隣一帯も倒壊家屋が撤去され「荒野」が広がっていた。彼のタフさにはいつも感嘆させられる。 
 むろん西村さんも何の困難もなく自宅を再建できたわけではない。建築費用1100万円プラス証明などの電気機器購入費用が借金として残った。震災対策として神戸市災害復興住宅特別融資制度などがあるが、彼の場合、「神戸市から借りたのは350万円だけ。金利は年3%。元金は5年間据え置きで、後の5年で10回払い」という。彼のように木造住宅を再建する場合の融資限度額は1500万円で、それならば十分な自宅再建資金になるのだが、市は簡単に限度額まで貸さない。神戸市震災復興緊急整備条例定められた重点復興地域内には最大3%の利子補給があるが、須磨区はその対象外だから、利子補給率はわずか0.5%。震災融資の金利は3.7%だから、利子補給を受けて、まあ3%となる。震災対策といっても、実質はこの程度にすぎないのだ。

■大阪が遠く 

 その後、「長田の良さを生かしたまちづくり懇談会」の三谷真さんに会った。懇談会は夏井休み中だった。「毎週の会合は14回続けた前回は区画整理と商業がテーマだった。区画整理に対する皆の理解も進んでいる」と言う。三谷さんは本業が関西大学商学部助教授なので、商業については彼が報告した。長田区の商店街は、住民が街を離れているため、軒並み停滞している。唯一、仮店舗と仮設住宅を1区画に集積させた「復興元気村パラール」が活況を呈している。三谷さんは「これからの長田の商店街は、パラールのようにある程度の集積化を図らなければ、存続は厳しいだろう」と展望している。 
 震災以来、「大阪が遠くに感じるようになった」と三谷さん。「買い物をするのも酒を飲みに行くのも、長田だけで十分足りるとわかった。長田では手に入らないものがある時だけ、三宮に行けばいいので、日常的には長田から出ないでも生活していける」と語った。

■8月14日
■日記を再開
 
 三宮駅北側の商店街「サンキタ通り」。播谷慶和さんは、震災以前はずっとここで働いていた。だから「三宮の生き字引」と言われていた、職場のビルの解体作業はほぼ終わっている。「こうして見ていると、40年前のことを思い出す」と語る様子は少し寂しげだ。勤務先は来年の春頃に再建される予定だが、復職するかどうか決めかねている。やはりこのまま引退しようかとも思っている。 
 播谷さんは日記をつけていた。「仕事のことは決して書かず、何十年と1日も欠かさずにつけていた。ノート何十冊分もあったのだが、倒壊した職場に置いていたために取り出せなかった。それだけが心残り」と言う。いわば自分史だ。かけがえのない記録を失ったが、「また日記をつけることにした。老い先短いからいつまで続くかわからないが、震災1周年ごろから始める」と語った。

■市職員が公安警察のマネを

   夕方から県民会館で、被災者連絡会と神戸市との最後の協議会の場がもたれた。出席した住民はおよそ100人。市は、仮設住宅も十分建てた、災害救助法打ち切りの予定は変えない、待機所の場所はまだ明らかにできない、と説明した。避難所閉鎖期限の20日まで1週間しかないのに、場所は言えないがとにかく移れとは無茶苦茶だ。これでは待機所と言うよりも収容所ではないか。
 河村会長が「20日以降は我々を難民・浮浪者として扱うということ。震災以来、人間扱いされてこなかったが、改めて再認識させられた」と抗議する。住民の間から「人殺し」という怒号が飛び交った。 
 市の説明を聞いていて驚いたのは、被災者が希望すれば誰でも仮設住宅に入れるわけではない、ということだった。仮設住宅の残戸数は1964個。もう新築はない。こに日の時点で避難住民は市内に約1万人。市外に避難した被災者と合わせて5333世帯が応募しても入れないでいるから、実に3369世帯分の仮設住宅が足りない。これに遠藤さんや小林さんのように抽選で外れ続けるあまり応募自体諦めてしまった被災者が加わるから、誰がどう見ても絶対数不足している。都市部はともかく郊外の仮設住宅は余っているといわれていたが、事実は全く違った。 
 この3369以上の世帯を自力で住宅を確保できる。仮設住宅の不要な人たちとして、市が一方的に切り捨ててしまっていることにも驚いた。当たらないから「自力で住宅を確保」したいのであって、必要がなくなったわけではない。遠藤さん、西村さん皆さんそうだ。発想が逆転している。 
 震災直後、貝原俊民県知事は「希望者全員に仮設住宅を提供する」と発言していたのではなかったか。 
 市側が一歩的に協議を打ち切った後も、納得できない住民達が担当者を取り囲んだ。市職員の1人が「痛い、痛い」といいながら自分で勝手に転ぼうとした。公安警察の常套手段だ。それを役人がするというのは、行政が住民達を「ならず者」扱いしていることに他ならない。神戸市はここまで頽廃している。住民達が「手を出したらアカンで!」と互いに抑え合っていることとの落差は大きい。

■8月15日 

 東灘区の田中尚次さんを訪ねてみると、夫人が大阪から戻ってきていた。彼女に会うのは震災直後の1月以来だ。「神戸市は『ええかっこしぃ』だから、国道沿いとか三宮とか、目立つところから優先して直している」と、戻ってみての感想を語る。「神戸は開発ばかりで住みにくい。若い人達もどんどん阪神間(西宮・芦屋など)に移っていく。私達も今回は決心して家を建て直すことにしたが、もし次に住むときは神戸を出ようと思っている」と話す。震災以来、どれほど多くの市民が行政に愛想を尽かしたことだろう。 
 再建までとはいえ、自宅前の仮住まいは単身者用なので、親子4人では狭い。家賃は月13万円。震災後値上がりしたという。それでも「来年の1月ごろには新しい家ができる。そのときはまた見に来てください」と、夫人は元気な様子で話した。 
   この日、被災地では精霊送りが行われていた。

■8月24日

 20日以降も待機所への移転を拒否し、避難所で暮らし続ける人々がまだ数千人いる。その後の状況を尋ねるため、被災者連絡会に電話をかけてみた。河村会長は「私らに何か策があるわけでなし、先の展望があるわけでもない。八方破れの心境や」と語る。絶望の色は濃い。21日付で全国に支援を求めるアピールを出した。「食糧の配給を独自で行っていこうと考えている。市庁舎前の泊まり込みも続けている」と中村さんが語った。 
 市民それぞれが困難を抱えながら、復興は進んでいる。取り残されていく人もいる。今必要なのは、復興ムードを盛り立てることよりも、ここの復興の障害は何で、現況は何なのか、もっと明らかにすることだと思う。(■つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (3)

阪神大震災現地ルポ 第5回/行政が住民を追い詰める

■(月刊『記録』95年8月号掲載記事)

■4月27日
 
 震災から100日目の神戸市長田区を歩く。少しずつ瓦礫の撤去も進み、プレハブの仮店舗などが建ち始めている。「復興にむけて、ようやく第一歩をふみ出し始めたというところだろう」と、地元ボランティア団体「すたあと-長田を考える会」代表の三谷真さん(40)が言う。「すたあと」は、震災直後から救援活動をしていたピースボートの撤退後、活動を引き継いでいる。 
   ケミカルシューズ製造業ジョイ製靴を経営する田中正男さん(50)を訪ねた。須磨区の西村栄泰さんの友人だ。4階建てビルの一角に工場があった。従業員は震災前の約15人から7人と半減した。2月から生産を再開したが、売り上げは4分の1に減った。「復興といっても簡単には戻らない。上から見たら靴屋などどうでもいいのと違うか」と嘆息する。廃業も考えたが、「やめても先のあてもない。生活がかかっているのだから、続けていかなければ。悪い時ばかりじゃないと前向きにやっていく」と考え直した。 
   田中さんは中卒以来35年間、独立して15年、この仕事を続けている。先行きは決して明るくないが、「自分の作った靴が店先に並んだり、誰かが履いているのを見るのは、楽しいもんなんやで」。

■4月28~29日
 
 28日。小雨模様の淡路島・北淡町の避難所の町民センターに被災住民の姿はなかった。仮設住宅への入居を終わらせていたのだ。1ヶ月前に会った浜口磐夫さん(77)も、奥さんと2人で移っていた。雨の日は少し寒い。「一昨日は真冬のように寒かった。ところが日が照ると、今度は弱るほど暑い」という。バス・トイレ別のタイプで老人には使いやすいのがせめてもの救いか。家は全壊し、再建も難しい。仮設住宅の入居期限の2年が過ぎたら、公営で建設される災害住宅に入居しようと思う。ただし抽選に当たるかどうかはわからない。「震災は辛かった。泣くにも泣けなかった」。 
 夜になってから神戸に戻った。長田区の「ちゃんちき酒場あいちゃん」は6坪ほどの仮店舗で営業している。地震の発生した午後5時46分で止まった掛時計の下に、「忘れるな! 平成7年1月17日AM5時46分 勇気、根性、笑顔から一歩ずつ・・・・・・わいは神戸子や! がんばろうぜ!」と張り紙がある。 
 偶然にも西村さんと1ヶ月ぶりに再会した。「命あるのが何より」がすっかり口癖になっている。生き残った者の偽らざる心境なのだろう。29日も彼を自宅に訪ねた。5月1日から7日まで、娘婿と韓国に行くという。親類に元気な顔をみせてくるそうだ。

■6月23日~26日
 
 23日。長田区の三谷さんに電話で消息を尋ねた。神戸市議選に立候補した友人の応援に立つため「すたあと」代表から外れ、1スタッフとして、またケミカルシューズ業界を中心に生まれた「長田の良さを生かしたまちづくり懇親会」の事務局スタッフとしても活動している。懇談会は「復興にむけての5項目提言」をまとめた。①災害にも強い杜の下町②高齢者も戻ってこられる町③21世紀型都市型産業としての神戸シューズの復興④国際都市神戸の顔としての長田アジア通り⑤南部ウォーターフロントに海浜を復活させる、である。杜の下町、神戸シューズ、アジア通りという表現に、お仕着せではない発想がうかがえる。 
   三宮の播谷慶和(61)にも連絡をとった。震災で失業した後は「好きな時に寝起きして、好きな時に外出する生活。もともと65歳で引退しようと思っていたから、それが少し早まったようなもの」という。勤務先は区画整理の対象区域内にあるから、再建まではさらに時間がかかりそうだ。趣味の写真も最近再開したが、三宮を三脚を手にして歩くのはまだ気が引ける。 

 25日。同じく三宮の遠藤義子・美和さん母娘に電話してみたが、既に取り外されていた。自宅マンションは結局建て直すため、電話も外したようだ。「仮設住宅が当たらないから、仕方なく民間アパートに移る」と4月末に語っていた。被災住民が諦めて自分で家を探すことで、仮設住宅の絶対数の不足がカバーされていく。 
   26日。北淡町の浜口さんにやっと義援金が出た。家屋全壊と赤十字からの見舞金が10万円ずつ。区画整理反対の住民団体も発足しているという。「反対派が何か動くと、町は仮設住宅にクーラーをつけたり、住民を牽制してくる」そうだ。 
   北淡町では仮設住宅を独居老人には数人で1部屋と割り当てているが、慣れない共同生活に嫌気がさし、出ていく老人も少なくない。これでは収容所だ。「県や町が建てる災害住宅も、場所がないと言い出している。区画整理のための建築規制が続くと、家を建てる費用まで生活のために食い潰してしまう人も出るだろう。私たちが根負けするのを待っているようなものだ」と浜口さん。行政が住民を追いつめる。仮設住宅にしても区画整理にしても、被災地で起きているのは、要するにそういうことではないのか。(■つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)