内部告発・豊島区は税金泥棒/五十嵐稔(現豊島区議)

内部告発・豊島区は税金泥棒/最終回 区議会議員選挙立候補

■月刊「記録」99年6月号掲載記事

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 三月一九日の月曜日、国会議員の中村敦夫さんとともに巣鴨地蔵通り商店街を私は歩いていた。区議会議員選挙の運動のためにである。一軒ずつ商店を廻り、商店主や通行人に挨拶を繰り返した。
 私が立候補を決意したのは、半年以上も前のことになる。六ヵ月の停職処分の裁判における役所の対応が、その大きな原因である。
 当時、カラ超勤を証明する決定的な証拠を、私は裁判所に提出していた。その証拠とは、端的にいえばカラ超勤のためのマニュアルとも呼べるものだ。ある職員が作成したその書類には、カラと見えないようにするためにはどうするべきなのか、具体的な方法論が書かれていた。

■そんなばかな話があるか

 この証拠を前に、区役所の代理人はぬけぬけと言い放った。
  「これは一職員が作った個人文書に過ぎません。つまり公文書ではないのです」
 公文書ではないから、カラ超勤の証拠にはならないという主張である。だがマル秘と書いてある文書が、どうしたら個人の文書となるのだろうか。
 もし役所側が語る通りなら、文書を作った一職員の行動は奇怪極まりない。ありもしないカラ超勤を想定して、どうすればバレないかを想定。その方法論をワープロで打ち込んだうえに、ごていねいにマル秘の印まで押して保管してきたことになるからだ。それも職員としての仕事と関係なく。
 役所の代理人の浮き世離れした説明を聞いて、役所の自浄能力のなさに、私は改めて暗たんたる気持ちになった。裁判に勝ったとしても、これでは役所のカラ超勤体質の改善は進まない。
 ――もう区議会しかないかな。
 それが私の結論だった。区議会でこの問題を取り上げ、事実を指摘していけば、役所が変わる可能性だって出てくる。
 そして私は立候補を心に決めた。
 立候補するにあたって、まず最初の問題となったのは、私が役所の職員だったことである。
 というのも行政職員は、選挙に立候補することで、自然退職させられてしまうからだ。たまたま私は現業職員という立場だったので、この規約には触れない。だが現業職員でも、行政事務を担当している職員は自然退職しなければならないという規約があることがわかったから大変だ。
 公文書を作るのも行政事務の一部には違いない。選挙に落ちた途端、いきなり区役所を辞めさせられたのでは堪らない。
 そこでまず職員課に問い合わせると「選挙に立候補しても、現業職員は自然退職にはならない」という。だが役所相手に口約束など信じられるはずもない。文書を出すように私は要求した。
 さすがにいつも私ともめ続けている職員課だ。ほどなく文章が作られ、私の手元に送られてきた。
 だがその文書には、区長の印もなければ、担当課長の印すらなかった。それどころか文書を制作した担当者の名前さえない。マル秘文書を公文書ではないと言い張る役所が相手なのに、こんな文書を信じるわけにはいかない。選挙が終わったところで、そんな文章は職員が個人で作ったものだと言われ、自然退職の手続きが取られても抵抗のしようがない。
 そこで、さっそく職員課に電話をし、文書の不備をただすと、「区長の印など簡単にもらえるはずがない。こちらを信用してもらうしかない」などという。一体どうすればこれだけ嘘をつかれた役所を信じられるというのだろう。仕方なく、区長に内容証明の郵便を送りつけることを伝えて電話を切った。
 やはり内容証明の郵便には、効力がある。
 時間はかかったものの、私は区長から自然退職にならないお墨つきをもらい、選挙運動へ突入することができた。

■一日三〇ヵ所で演説の日も

 区民への私からの働きかけの第一歩は、「豊島区行革一一〇番」のビラを一軒ずつ区民のポストに配ることだった。選挙のために私を売り込むというのではない。区民が知っている区政の悪事、区に対する区民の不満などを集めるネットワークを作りたかったのだ。
 三月のはじめ頃だった。私は五時一五分に職場を出ると、まっすぐに家に帰り、食事を済ませ、ビラを持って出かけた。まだまだ春というには早い季節。ジャンバーを着込み、さらにその上に膝丈のナイロンのオーバーを着てひたすら豊島区を歩き回った。
 翌日は、もちろん仕事が待っている。それだけに無理はできない。七~一〇時までの三時間が、ビラ配りに使える時間の限界だった。
 もちろん体力的にも、決して楽ではない。
 歩き回った翌日は、ふくらはぎが張り、脚全体に疲れが残る。だが休むわけにはいかない。必死に歩き回っても、一晩で配れるビラは五〇〇~七〇〇枚にしかならないからだ。
 結局私は、三週間にわたって配り歩き、一万枚近くのビラを投函し終えた。
 職員や町会長に配った時には、ほとんど効果を感じなかったビラだが、さすがに区政に不満を持っている区民からは反応があった。職場から帰ってくると、「ビラを見ました。がんばってください」というメッセージが留守電に吹き込まれていたことも少なくなかったからだ。
 役所の職員として働いている限りは、カラ超勤やカラ出張など当たり前のことだと思ってしまう。だが一般企業に勤めたり、自分で商売をしている人にとっては、役所の常識などは通じない。ビラの反応を見て、改めてそう感じた。
 区議選の選挙運動期間は、わずか一週間しかない。その間に、区内三〇五ヵ所の掲示板に自分のポスターを貼りつけ、そのうえで街頭演説なども行わなければいけない。
 五日間の有給休暇を取り、すべての労力を選挙に向けて集中したが、その忙しさは半端ではなかった。晴れている日には、ボランティアの人達と区内を回った。一日に三〇ヵ所を回って、街頭演説したこともある。小さなスピーカーをボランティアに持ってもらい、およそ三分間、自分が立候補した理由を述べ、豊島区行政の浄化を訴えた。
 雨の日と夜はビラ貼り。
 人出の少ない雨の日に演説をするよりは、少しでもビラを貼ったほうが効果があると思えたからだ。
 選挙期間中の雨はひどかった。掲示板に叩きつけられた雨が、滝のように流れ落ちる。タオルで自分のポスターを貼る場所の水気を拭き取り、急いで貼らなければならない。私は雨合羽を着て貼り続けた。
 選挙管理委員会から提供された掲示板が記入してある地図は、ポスターを貼りに行くたびにボロボロになった。家に帰ると広げて乾かしていたが、最後には渡された三枚の地図が読みとれないほどまでになった。
 三〇五ヵ所の掲示板のうち、私が自力で貼ったのは、八〇ヵ所。二〇〇ヵ所は三名のボランティアの人達が貼ってくれた。残り二五ヵ所近くの掲示板は、私のポスターを貼ることなく選挙日を迎えてしまった。
 五七八票。
 それが私が得た得票のすべてだった。今回の当選者で最低の得票数は、一三〇二票。つまり七二四票 届かなかったわけだ。だが選挙を通じて、私は応援者を獲得した。

■闘いの果てに手にしたものは

 二〇年近く前、私はたった一人で役所と闘っていた。誰も応援してくれる人もなく、いじめられ、病気とも闘いながら、不正を訴え続けてきた。そんな私が五七八人もの支援者を持った。ギリギリだけれども、法定得票数にも達した。
 それが私には幸せだ。
 気がつけば、人生の約半分を区役所との闘いに費やしていた。好きで始めたわけでもない。攻撃されたから、自分の身を守るため、そして最低限のモラルを守って働きたいと始めたことだった。私は役所との闘いに楽しみを感じたことなどない。だが自分の人生を後悔してもいない。
 確かに闘い続けてきたことで、親孝行も充分にはできなかった。しかし自分が信じたことを、行い続けてきた自負が私にはある。それが私の誇りとなっている。
 私が闘い始めた頃とは、社会も大きく変わった。情報公開条例もできたし、行政訴訟で市民が勝てるようにもなってきた。私の裁判も、近いうちにされほど悪くない結果を生むと思う。
 連載は今回で終わりだが、裁判結果はいつかご報告したいと思っている。読者の皆様には、長期にわたりご声援をいただきありがとうございました。(■了)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第19回

■月刊「記録」99年5月号掲載記事

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 平成九年四月から出勤することになった新しい職場は、総合体育場といい、区の外郭団体である「コミュニティ振興公社」に統合されている一部署であり、体育施設の維持管理が主な業務である。先月紹介した通り、「コミュニティ振興公社」の上層部には私の仇敵ともいえる人々が勢揃いしていた。そんな職場が働きやすいはずはない。小さないじめが、日常の業務のところどころに顔を出した。

■レッテルを貼って送り出す

 私だけに業務連絡が届かない。担当の仕事を任されることもなく、脈絡のない仕事ばかりをさせられる。チクリチクリと針で刺されるかのように、私の神経を逆なでする出来事が続いた。
 なかでもショックだったのは、「どーうしようもない職員が来る」という噂が、配属前から職場中に広められていたことだった。噂の出所はまもなくわかった。それは所長であった。配属後のある時、私は当時の所長に「なぜ私には、行き当たりばったりの仕事を与えるのか、なぜ、まとまった仕事を与えようとはしないのか」と質問したことがある。すると所長は即座に「貴方は余分な職員だからだ」と正面から答えた。私はどちらかといえば鈍感な性格である。しかし、そこまで正面から言われたのでは「はぁ、そうですか」と終わりにするわけにはいかなかった。
 カチンときたので「なぜ、私は余分な職員なのか説明してほしい」と突っ込んだ。以下所長の返答である。
  「貴方の当体育場への異動は、こちらで望んで来てもらったわけではない。職員課の人事担当から『五十嵐という、箸にも棒にもかからない、どうしようもない職員がいる。彼を異動させたいのだが、どの部署でも願い下げだと言って彼を受け入れるところがない。何とか面倒を見てやってくれないか』ということだからやむを得ず受け入れたまでだ」ということであった。
 私は、これを聞いて、またまた望月治夫職員課長の辣腕に感服せざるを得なかった。停職中に私の戻るべき専従宿直業務を廃止に追い込み、復職後は、有無をいわさず自転車対策係に異動させ、二ヵ月にもならないうちに、さらに職務命令をもって一方的に外郭団体に派遣する。派遣先には、「どうしようもない職員」というレッテルを貼って送り出す。
 総合体育場は外郭団体であるから、出先機関の出先にあたる。当然、私と役所間の長い確執など知るよしもない職場である。役所の眼には、おそらく総合体育場が、私を厄介者として押し込めておくには、最適の場所として映ったのだろう。まさに職員課長は(それが誰に対してかは言わないが)、忠犬ハチ公そこのけの忠臣ぶりを発揮したわけである。 
 こうして、私はただの厄介者として、新しい職場で働き続けることになった。

■第二月曜日に出頭命令

  「どうしようもない職員」とのレッテルが貼られているのであれば、なおさら私は、細心の注意を払って働かなければならないはずであった。しかし異動してきてすぐ、私は同僚にひどい迷惑をかけてしまったのだ。
 毎月、職場が猛烈な忙しさに見舞われる日がある。それは第二月曜日だ。この日は、野球場・テニスコート利用日の抽選日となっている。この日に、私は二回続けて休むことになってしまった。同僚から「この日だけは休まないでくれ」と言われていた日であった。
 実は役所側の弁護士が、その第二月曜日を裁判日に指定してきたのである。弁護士を頼まず、本人訴訟で行っていたため、裁判には私が出席しないわけにはいかなかった。それでも、続けて二度までは愛嬌で我慢もしよう。しかし三度続いた時には、さすがに腹が立った。
 三回目に指定された時、私はさすがに頭にきて、第二月曜日だけは指定しないようにと裁判長に願い出た。そのかいあってか、以降、第二月曜日は指定されてはいない。しかし裁判を抱えていることなど知らなかった同僚達は、私の二回の有給休暇に、かなり怒っていたという。
 ほぼ月一回のペースで、裁判は開かれている。その一日を、三回連続で第二月曜日に指定してきたのだから呆れてしまう。事情をよく知る役所側が狙ってやったことだろう。私の職場での立場が悪くなればなるほど、役所側にとっては好都合なのだ。セコイといえばセコすぎる嫌がらせだが、こうした小さな積み重ねが職場の人間関係には大きく影響してくる。そしてこの二年間も、私には細かい攻撃が繰り返され続けた。

■カラ領収書のオンパレード

 しかし遂に、私と役所との形勢が逆転する日がやってきた。役所にとっては残念なことに違いないが、先日、裁判は、ついに私に身方した。
 私の提訴から逃れるために、九七八万八五二七円もの食糧費支出を、加藤一敏区長が豊島区に返還したのだ。 今から二年ほど前に起こしたこの裁判は、情報公開制度を利用して、豊島区職員が支払った食糧費の明細を引き出すことから始まった。予想された通りだったというべきか、公開された領収書は偽造のオンパレードだった。
 まず領主書に記されている通し番号が日付通りに並ばない。店からカラの領主書をもらい、適当に日にちを記入したものだから、通し番号まで合わせることができなかったのだ。
 また、店が作ったはずの領収書に、なぜか豊島区の公文書で使用されるゴム印が使われたりもする。領収書を作った区の職員が、何の気なしに押したのだろう。このゴム印など、領主書を偽造している決定的な証拠だと思うのだが、役所側は例によって認めようともしない。区役所で使っているゴム印を、店の店員がどこから手に入れ押したというのだろう。偶然で済まされるはずはないのである。
 さらによく利用する店の場合には、区役所は口座振替で代金を支払うのが通常であるのに、怪しい領収書に示された金額は必ず現金払いにされている。なぜ口座振替にならなかったのかは説明するまでもないだろう。金融機関に証拠を残すことなく、お金を動かしたかったからだ。
 もっと決定的な証拠もある。
 平成九年五月七日、フジテレビの報道番組で豊島区の食糧費疑惑が報じられた際、領収書を切ったはずの店の主人が、「白紙領収書に役所の職員が記入したものだ。うちの店はこんなに高くない」と発言しているのである。
 これだけ証拠が出そろっていても、区役所側は「支出は適切」などと裁判で主張し続けていたのだから救いはない。だが、ここでカラ領収書の存在を認めれば、私が指摘し続けてきたカラ超勤も説得力を持ってくる。役所には、それが怖かったのだ。
 最初、私はこの裁判に勝てるかどうか不安だった。
 いくら証拠がそろってはいても、裁判所が認めてくれなければ勝つことはできない。それまでの裁判経験から公的機関を追い込むのがどれほど難しいかわかっていただけに、私が入手した証拠がどれほど意味を持つものなのか、今ひとつ自信が持ずにいたのだ。
 しかもこの裁判は、弁護士を雇わない本人訴訟である。
 いくらこれまで裁判を何度か経験しているとはいえ、弁護士が行っていた仕事を自分で行うのは並大抵のことではなかった。まず裁判に必要な手続きの詳細がよくわからない。さらにどのように裁判を方向づけていけばいいのか、審理の進め方がわからない。そんなところでマゴマゴしている私をうまく導いてくれたのは、いつでも裁判官だった。役所と私の争点をしっかり見据えて、公平に裁判指揮をしてくれたのだ。

■様相を変えつつある私の闘い

 裁判所からは、まず領主書を発行した飲食店に送付嘱託命令が出される。つまり店側に、本来保管してあるべき領主書の原本を提出するように、裁判所からお願いをするのだ。この命令には強制力がないため、「どこにあるのかわからない」などという理由で、店側は証拠の提出を拒んできた。しかし、この時の店側のショックは、想像以上に大きかったはずだ。
 カラの領収書をくれとお得意さんに言われ、何の気なしに領収書を渡したがために、ある日、裁判所から命令書が届くのだ。もとよりカラの領主書なのだから、原本を店が保管しているはずもない。きっと区の担当職員には、店から苦情が入ったことだろう。
 そして次に、強制力を持つ命令書、証拠提出命令が裁判所より発行された。原本などもとから持っていない店側と、証拠などないとは言わせられない役所側は、さぞやあわてたことだろう。さらに四月から、区長が変わることも決定し、自分の悪事を新区長に引き継ぐわけにもいかないお役所事情にも迫られたことだろう。
 こうしたにっちもさっちもいかない状況を前に、加藤氏が選択したのが、請求された食糧費の全額返還だった。返還すれば、私には訴えの利益がなくなり裁判が終わる。そうすれば店への提出命令も撤回される。そう思ったのだろう。
  「相手側の主張を認めたのではないが、区長を退くにあたって跡を濁したままにしたくない」(『東京新聞』三月二三日付)。これが全額を返還した加藤氏のコメントだ。人を喰った言い分には、ほとほと恐れ入る。
 だが彼の予測は外れた。裁判は結審とならなかった。なぜ全額を返還したのか、その理由をハッキリしろと、裁判所は役所側に言い渡したのである。
 私の言い分を認めていないのに、言われた通り金は払う。この矛盾した言いぐさを、どうやって論理的に説明するのかは、今後の注目点になるだろう。
 食糧費返還のニュースは、朝日・読売・東京各紙の社会面で報じられた。それなりの大きさで扱われ、私自身が驚いたほどだ。ただただ孤独だった私と役所の闘いも、少しずつ様相を変えつつある。少なくとも、武器もなく、展望もないゲリラ戦からは脱却しつつある。
 この食糧費の裁判の行方は、私の停職処分に対する裁判にも少なからず影響を与えるだろう。二七年間にも及ぶ役所との闘いは、何らかの幕引きに向けて動き出している。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第18回 異動に次ぐ異動

■月刊「記録」99年4月号掲載記事

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■停職明けは日曜日

 六ヵ月の停職処分が空けた日は、なぜか日曜日だった。指定された日が、そうなのだから仕方ない。職務命令違反になるのも嫌だったので、バカ正直に出勤した。
 案の定、日曜日の八時半なんて誰もいない。とりあえず宿直室に出向いたが、宿直の当番に当たっていた昼間の職員は、けげんそうな顔をして私を出迎えただけだった。
 それならばと庁舎の三階に総務課を訪ねてみた。だが、ここにもいたのは庁舎係長だけ。彼に出社の旨を伝えると、「そんな話は聞いていない」と言う。それならばと総務課の係長の実家に電話をすると、「今日じゃない。明日だ」と素っ気なく言われてしまった。
 当たり前だ。日曜日に停職が明けるわけもない。それでもついつい疑ってしまう。勝手に命令に逆らえば処罰の対象になるからである。疑り深くなってしまった自分に苦笑しながら、その日は自宅に帰ることとなった。
 翌日、ついに本当の出勤日を迎えた。ゼロからのスタートという気持ちだった。
 次に処分をくらえば、間違いなくクビ。ここまで追い詰められはしたものの、停職中に反撃ののろしをやっとあげることができた。情報公開で得た書類は、私の裁判を大きく変えていくに違いないと確信させるに充分だった。役所側に攻撃の糸口をつかませないよう、自分の言動には細心の注意を払わなければならないが、当時の私と役所の立場は五分と五分。本当の勝負は、ここから始まる。そう感じていたからこそ、ゼロからだと感じたのだろう。
 役所の三階、いつもの総務課を訪ねると、予想外の言葉に驚かされることになった。なんと「どこの所属になるか決まっていないので、決定するまで宿直室で待っていてくれ」と鈴木敏万総務部長が言う。停職中に所属している部署がなくなることも珍しいが、職場復帰した時に、所属が決まっていないのは尋常ではない。
 仕方なく、宿直室でボーっと、配属が決まるのを待っていることとなった。ところがいつまでたっても辞令が来ない。やっと呼び出されたのは、午後三時過ぎだった。ところが「今日は決定しなかったので、明日、また来てくれ」と、言われたのだ。
 果たして役所は、本当に私を働かせる気があったのだろうか。働かせる気がなかったから、所属を決めていなかったのではないか。当時、私の頭の中では、ある疑惑が頭をもたげ始めていた。
 実は、職場復帰の数日前、近藤勝弁護士の事務所に「五十嵐が処分を受けないように気をつけろ」という不気味な匿名電話が入ったのである。私の弁護士事務所に電話をかけていることから考えて、役所と私の闘いに関与している人物に間違いはない。そのような人物が、わざわざ電話をかけてきたのだから、役所になにかしらの動きがあったのだろう。しかも出勤当日になっても、所属が決まっていないという。勘ぐりたくもなる話だ。
 ただ私にとって幸運だったのは、初出勤の二日前から、豊島区のカラ超勤の問題を『東京新聞』が、二日連続で大々的に報じたことだ。マスコミが区の不正に注目しているとあれば、その不正と闘っている私を簡単には処分できない。マスコミの視線を感じた区当局が、私に対する処分計画を見直したのではないか。確証はない。だが、それならばすべてのつじつまが合う。不気味な符号を感じた。

■楽しい職場は許されない

 翌日、通常通り八時半に出勤すると、まだ所属が決まっていないという。結局、この日も半日に待機状態の後、所属異動の辞令を交付された。
 役所のお偉方、七~八人に囲まれて言い渡された配属先は、土木部交通対策課自転車対策係だ。何のことはない。放置自転車の撤去作業を行う係である。
 辞令の交付時に、助役に私は質問を申し出た。次の二点をどうしても問いただしたかったからだ。
 一つは、役所側が一方的に専従宿直制度を廃止しておきながら、私の所属する組合にも、影響を直接受ける本人にも廃止の合理的な説明をしていないのはなぜかということ。もう一つは、宿直勤務の職員の中で、どうして私だけ希望の配属先を聞かれなかったのかということだ。
 だが助役はたった一言、「質問は認めない」と切って捨てるように答えただけ。処分の口実を与えるわけにはいかない私は、こんな命令さえ忠実に守らなければならなかった。
 辞令をもらうと、すぐに所属の部署に向かうこととなった。土木部長の部屋に入り、まず部長に挨拶。この時、私はちょっと驚かされた。土木部長がごくごく自然に対応してくれたのだ。これは前の総務課では考えられなかったことだった。もちろん課長も二〇代の二人の同僚も、部長と同様に普通の態度で接してくれた。
 確かに仕事自体は、それほど楽ではない。出勤後すぐに車に乗り込み、外部業者と共に駅に向かう。放置自転車に警告を知らせる小さな紙を貼り付け、警告に従わなかった自転車を所定の場所に撤去する。
 トラックの荷台に上げ下ろしする自転車の台数は、一日で一人約一〇〇~二〇〇台ほど。昼休みの時間を除いて、一三、四時までの外部作業である。
 ところが私には、この職場が全く苦にならなかった。勤務時間が短く感じられるほど、外での作業も楽しかった。何よりありがたかったのは、誰もが普通に接してくれたことだ。職務命令違反を念頭に置いて、気を張りつめている必要もなかった。正直、これは良い部署に異動になったと感じていた。
 だが、楽しそうに仕事をしていれば、役所は許すはずがない。平成九年二月に配属されたのに、もう同年三月下旬に異動の命令が届いたのである。これには私も驚いたが、もっと驚いたのは同じ課の職員だったようだ。
 ようやく仕事にも慣れ、さあこれからだ! と思っていた矢先である。もうしばらくこの部署で勤務させてほしいと、私は課長に頼み込んでもみた。それに対して彼も、「よしきた。職員課に働きかけてみるよ」と、快く承知してくれた。だが、ここでも望月氏が私の前に現れた。「職務命令だから」。その一言で、私の異動は一方的に確定されたのである。

■上司の名前に驚愕

 豊島区コミュニティ振興公社の第二事業課の総合体育場。それが四月一日からの職場の名前だ。室内の弓道場、卓球場そして人工芝の野球グラウンドの維持・管理・使用料の窓口徴収が仕事である。役所はついに私を庁舎内から外へ押し出したわけである。
 しかも初出勤の挨拶で、居並ぶ公社の幹部職員の顔を見た時、私は「あっ、なるほど」と合点がいった。自転車対策係に異動させてまだ二ヵ月にも満たない私を役所側が、なぜ再度異動させたかの具体的な意図が理解できたからである。
 まず、公社の理事長が近藤秀夫助役なのだ。ご存じの通り、私の一五日、三〇日、六ヵ月の処分に積極的に関与した人物である。
 第一事業課長には、中島康博。
 総務課の課長時代に、私の停職三〇日の処分に同意した上司こそ彼であり、退職後、この公社に天下りしていたのだ。しかも当時、彼と私はカラ宴会費用の返還訴訟をめぐって法廷で対峙していた。もちろん被告と原告の関係である。被告には区長、他二名となっていたが、その他二名の一人こそ中島第一営業課長であった。最も多くのカラ宴会を主催していた人物として訴えた相手が上司とは、驚くばかりだ。
 それだけではない。
 近藤理事長と中島第一営業課長の二人は、公社職員の懲戒処分を審理し、決定できた機関の構成員として名前を連ねてもいたのである。
 これが私の新しい職場だった。(■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒・第17回 逆襲

■月刊「記録」99年3月号掲載記事

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■54万円の請求書

 役所の攻撃は、一通の手紙から始まった。差出人は望月治男職員課長。先月も触れた通り、上層部の指示に忠実に従い私を追いつめるために、あらゆる努力をした人物である。彼の名前が書かれた封筒が、ろくな話を運んでくるわけがない。案の定、中から現れたのは月々の天引き分として、9万円を毎月支払えという、合計額54万円もの請求書だった。
 決まった月給をもらい続けていると気にしないものだが、共済掛金が2種類、福利関係が6種類、会費が2種類の計10点が給料から天引きされている。
 この天引きに役所は目をつけたのである。
 停職処分によって給料が支払われていなければ、当然、天引き分もなくなり、直接私に請求することができるからである。
 手紙が届いたのは、停職処分が始まって14日後の8月22日である。貯金を切り崩す不安な生活に、なんとか算段を付けた頃を見計らっての攻撃。こうなると怒るというより呆れてしまう。もちろん私には、54万円もの現金を一括して払うことはきわめて難しいうえに、9万円を毎月支払う余裕もなかった。困ったときの頼みの綱と考えていた共済組合は、停職中の職員は借用資格者の規定から除外されている。
 しかし9万円を払わなければ、今までの天引き分の効果は中断してしまう。そのなかで気になったのは1年掛け捨ての両用給付保険、団体傷害保険、グループ保険である。これらは事故・病気・障害にあって入院あるいは通院した場合に、一定額の支払保証を受けられるシステムである。もし事故に遭ったら、病気になったらどうしようとも考えたが、ないものは仕方がない。なにか起きたらその時はその時だと腹を括った。幸い停職期間中に病気はしなかったものの、一歩間違えればかなり悲惨な状況になっていただろう。
 前述の保険などは、支払わなければ私に不利益が降りかかって終わりだが、なかには請求を無視するだけでは済まないものもある。税金だ。住民税などは、前年度の収入によって支払う料金が決まる。もちろん現在の収入が減っても、支払は変わらない代物だ。

■差し押さえ予告は赤文字で

 望月職員課長から追い打ちをかけるように、住民税の支払い要請書が送りつけられたのは8月23日だった。つまり前述の一通目の手紙を受け取った翌日である。どうせ出すならまとめて発信すればよいのに、あえて発信日を1日ずらして送付してくるというやり方、気のつき方にはホトホト感心した。このような考え方のできる職員こそが職員課長に最適な人物と、加藤区長は判断しているのかもしれないなと、ふと思ったりもした。
 以下参考としてその全文を掲載しよう。
「平成8年度分住民税の納付について
 無給期間中は特別徴収(毎月の給料から差し引いて納める方法)ができません。このため平成8年9月分からは普通徴収となり、ご本人が直接納めていただくことになりますのでご了承下さい。なお納税方法については、普通徴収として改めて住所地の税務課より通知書が送付されますのでよろしくおねがいします」
 カラ出張カラ転勤の存在は全職員が知っている。当然職員課長も知っているはずだ。同課長も一職員であった時には受領しているはずである。ところが彼は、カラは過去にも現在にも存在していないと組合交渉の席上で断言し、私の処分に同意し、涼しい態度で停職中の私にこのような文書を送りつけてくる。私としては彼を見事な処世術の達人として讃えるしか言葉がない。
 その後も、総務部税務課から停職中に白色の普通の納付請求書(11万3000円)が二度送られてきた。一回目は普通の請求書、二回目は督促状。そして復職後に三回目と四回目の請求を受けている。
 最後となる四回目の請求は、10年12月7日だった。黄色の用紙に赤文字で、差押事前通告書と書かれていた。金額は22万5000円、延滞金が6万4400円、催告期限は12月17日。警告文が赤文字で「もし期限までに納付がない場合は、法の定めにより財産の差押処分をすることになりますので、差押の実施に先立ち予告いたします」とある。
 11年2月現在、私は上記の住民税を支払っていないし、差押の執行は未だ行われていない。
 納税は住民の義務であり同時に権利であるから住民税は支払う。しかし今は支払うつもりはない。なぜならこれらの送付書は、区政中枢の圧力手段以外のなにものでもないと、私は判断しているからである。常識で考えれば、こんなことが公然と許されてよいわけがない。私が住民税を払うのは、停職処分取り消し訴訟の帰趨が最終的に確定したときだ。その際、延滞金については加藤区長にきっちり支払っていただくつもりでいる。
 次に私の所属する労働組合の組合長と副組合長の奇妙な動きにも触れよう。6ヶ月間の停職処分への提訴直前、この裁判を担当する近藤勝弁護士の事務所を、この二人が訪ねたのだ。6ヶ月の停職処分に対する訴訟を起こさないほうがいい。また組合は訴訟を支援できないと言ってきた。その理由は、カラ出張カラ転勤の証拠を示さないからと、訴訟を起こせば、私がひどい目に遭うからだという。ひどい目に遭うとは区長による停職6ヶ月より進んだ処分、つまり免職処分を意味するのだろう。アポイントを取って近藤弁護士を訪ねることに異論はない。しかし当事者の私も連れていかず、訴訟支援拒否を担当弁護士に言いに行くとは何事だろう。しかも私が所属している労組のトップがである。本来なら私を役所側から守る立場にある組合が、役所側の利益にしかならない訴訟支援拒否をするなど信じ難い。むしろ断固応援するから五十嵐のために提訴してやってくれというのは組合の取るべき筋道のはずである。だが、これが私を取り巻く現実なのである。

■復帰の職場がなくなった

 穏やかな攻撃のあとには、必ず激しい攻撃が待っているものだ。もちろん豊島区役所も例外ではなかった。
 停職が5ヶ月ほど経過した12月末、またも望月氏から電話連絡が入ったのである。嫌な予感は外れない。宿直の廃止が決定したという。停職によって私が職場にいないのをいいことに、密かに進められていた、懸案の専従宿直職員制度の廃止を役所は脱兎のごとくに決定したのである。
 95年の9月末、15日間の停職処分に対する裁判を終結させる際に取り交わした合意書(宿直勤務において私が不利益を被らないようにすると役所側が約束した文書)を、彼らは捨て去ったのだ。彼らにとって都合のよい判決は尊重するが、不都合な判決は一顧だにせず無視をする。残念だが、これが今日の豊島区役所中枢の偽らざる真の姿なのである。
 今までの宿直職員の仕事は、今後昼間の職員がシフトを組んで代行するという。だが宿直業務の始まりは、昼間の職員による事務代行が、サービスの質を低下させるという理由だった。それをいきなり元の制度に戻すなど、納得できるはずがない。
「宿直の廃止は、組合と合意を得たのか」
 真っ先に望月氏に私が確認したのは、この点だった。望月氏は「同意を得た」と即答した。一体どうなってるんだと思い、この点を組合長に確認した。彼は「そんなことは言っていない。彼らは組合の反対を無視して一方的に専従宿直職員制度を廃止したんだ」と言う。どちらの意見が正しいのかは、結局わからない。しかし決定してしまえば、組合が騒いでも覆される可能性は低い。決まってしまえば、職員は従うほかないのである。
 またあとからわかったことであるが、役所は、かつて10余年にわたり宿直の架空勤務を繰り返していた同僚には、宿直業務廃止に伴う異動先の希望を聞いていたという。もちろん私にそんな話は一切なかった。
 結局、この年の暮れ、私は役所によって合意書を簡単に反故にされ、復帰するはずであった職場を一方的に廃止されたことになる。(■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第16回 懲戒分限審査委員会

■月刊『記録』99年2月号掲載記事

    ※        ※        ※

 私は六ヵ月の停職処分の期間中、闘うための体力をつけること、闘うための武器を磨き、さらなる武器を探し出すことに集中した。
 仕事と裁判を両立しながら闘っていれば、体力がモノをいう時が来る。まして私の裁判闘争は、相手が職場の上司なのだ。職場での仕事を増やすことによって、私を体力的な限界まで追い詰めることもできる。だからこそ闘い続けるための体力は、私に絶対必要だった。
 毎朝朝六時に起き、ランニングで皇居を一周する。さらに週に二回、夕刻からの豊島区役所の定例稽古の剣道部に通い、稽古相手を区長に見立ててしゃにむに竹刀を打ち込んだ。
 規則正しい生活と、適度な運動はすぐに体に現れた。七〇キログラムあった体重は、六三キログラムまで絞り込まれたのだ。体重が減って体が軽くなり、さらに役所に入って以来、長らく忘れていた熟睡も完全に取り戻した。
 裁判で闘うための武器は、情報公開と資料の整理によって手に入れた。ランニングを終えてシャワーを浴び、朝食を食べ終えれば、あとは夜まで裁判のための準備に当てることができる。裁判に関する資料を整理し、関連の本を読みあさり、準備書面の作成に必要と思われる事実関係を、ノートに書き記す毎日が続いた。
 六ヵ月の停職処分の次に待っているのは、上層部が望んでやまない私のクビ、つまり免職である。彼らが、枕を高くして眠るためには、私という障害物の除去が急務であったからだ。だから彼らは手段を選ばなかった。水面下にある不正という火薬庫の導火線に、いつ私が火をつけるかが気になってしかたがなかったからである。
 だからであろうか。私をクビにしたいなら好きな時にクビにすればいい。そのかわり、ただでは辞めさせられないぞ、という覚悟が停職期間中に、自然に固まっていった。
 ただ訓告処分と一五日、三〇日、六ヶ月の停職処分を通じて、もっとも強く怒りを感じたことは、これら一連の処分が、当局自らの不正を区民の目から隠すために、職務命令という職務上の武器を濫用し、戦うすべをもたない丸腰の職員を、よってたかって罪人に仕立て上げたこと、そして、これらが、一般職員への見せしめにしようと考えられた密室の儀式であったからである。
 この儀式の名は「懲戒分限審査委員会」その構成員は以下の区政中枢のメンバーである。ちなみに(  )内は、彼らが関与した私の処分名だ。

■「無駄もなければ無理もない」と吐き捨てた男

 まず、近藤秀夫助役(停職処分十五日、三十日、六ヵ月)。
 もう何度も連載に顔を出している人物だ。特に私が忘れられないのは、あと一歩というところまで、役所側を追いつめた住民訴訟にまつわる思い出である。役所の形勢が悪くなった時点で、状況の改善を約束した覚え書きを私達と交わした張本人が、この近藤氏だったのである。
 この覚え書きによって裁判は和解したにもかかわらず、この男は、覚え書きの存在自体を否定して、私に処分を繰り返したのである。
 助役の人となりは、次の具体例を示せば説明できるだろう。
 かつての私の同僚宿直員の架空勤務をめぐる不当利益返還の住民訴訟(私は当時豊島区に住所をおいていなかったため、原告側証人として協力し、原告には当時学校警備の職員をしていた江幡氏がなった)では、役所側が原告に和解を促した条件の一つに、無駄遣いを伴う勤務時間帯の是正と、健康に支障をもたらす二時間半の睡眠時間を従前の五時間に戻す、という約束が交わされていた。そして、この時、被告である役所側の窓口として原告側と折衝し、取りまとめを図ったのが近藤助役であった。
 しかし和解後、役所側は一向に約束を実行しようとしない。このため、私は近藤助役に対し、なぜ約束を実行しないのかをただした。すると、助役は一転して、その話はもう関係者との話し合いで終わった、不満があるなら好きにしてくれ。つまり原告側に聞いてくれということであった。江幡氏に確認すると助役聞いてくれと言って、取り合おうとしない。つまり、内部告発した私を除いて、当事者同士が手打ちをしてしまった、ということである。
 この時、江幡氏が助役、つまり役所側と取り交わした条件が、当時、廃止寸前にあった警備員制度の継続の承諾であった。もし、この約束を助役と原告側が反故にせず実行していたら私の十五日、三十日の停職は起こり得なかったからである。私の十五、三十日の処分原因は、私が是正されなかった無駄遣いを伴う勤務時間帯の勤務を拒否し、五時間の睡眠時間を実行したからである。
 そして、中原昭収入役(停職処分十五日、三十日、六ヵ月)。 この人物も、決定的な場面でしっかりと顔を出してきている。さらに連載が進んだところで詳しく書き記すことになるが、総務部長時代の官官接待が暴かれ、四五〇万円の損失を区に与えたことで、この金を区に返還することになるのが、この男である。
 彼は、官官接待に伴うカラ宴会の不正支出(現在係争中)を防止すべき立場にあったのに、適正な審査を怠り、区に損害を与えた。現在、その一部、利息を含めて四五〇万円あまりが区に返還されているのだ。
 次に、これも現在、係争中であるが、私の停職六ヵ月の処分の原因であるカラ超勤・カラ出張の存在が明らかになれば、これも同助役が意図的に適正な審査を怠ったと言わざるを得ないのである。
 また、彼が総務部長時代、前述の近藤助役が反故にした税金の無駄遣いを伴う勤務時間帯の是正、及び睡眠時間の適性化を図るよう申し入れたが「無駄もなければ無理もない」として、これをはねつけ、さらに無駄遣いを伴う勤務時間帯を設定した。宿直職員の土曜日の出勤時間は、昼の十二時で十分であるのに、朝の九時半出勤に変更したのである。この時間帯は昼間の職員が昼過ぎまで勤務しているのであるから、宿直職員の業務は、全く百パーセント存在しないのである。ところが当局は、業務が明らかに存在しなくても、その時間に出勤し、役所のなかにいれば、それだけで、その時間帯の賃金は保障しましょうというのである。
 役所内部では、常識では考えられない行政運営が職務命令の名の下に行われているのだ。
 話は逸れるが、現在の豊島区は、赤字再建団体に転落の一歩手前の秒読み段階である。収入役がこんなことをしていては、財源がいかに豊富であったとしても、金がなくなるのは当たり前である。バブル経済がはじけたから赤字財政になったなどというのは、きちんとした財政支出を行ってきた自治体だけが言える言葉であろう。
 次が、川島滋教育長(停職処分十五日、三十日、六ヵ月)。
 この人物は、まだ連載には登場していない。しかし、今後の裁判における最大の焦点である、小中学校職員のカラ超勤問題の責任者として登場することになる。
 続けて、鈴木敏万総務部長(停職処分十五日、三十日、六ヵ月)。
 この人物も、何度も誌面を飾ってくれたので覚えている方も多いのではなかろうか。私が最も記憶に残っていうのは、三〇日の停職処分に関して、「あなたがお金を返還したことも処分理由だ」などと口走ったことだ。
 役所の勤務体系を守っていたら体が保たないと考えた私は、仕事に支障がないように、勤務時間内に仮眠時間を設け、さらに仮眠時間分の給料を区に返還していたのである。これが鈴木氏には、気に入らなかったらしい。もらえるモノはもらっておくのが、豊島区職員の礼儀だとでもいうのだろうか。

■うしろめたさの存在があるか否か

 大沼映雄、現、総務課長(停職処分六ヵ月)。
 彼については、次の二点において関心がある。
 まず、彼は私が処分を受けた当時、私の上司であり、前述の「懲戒分限審査会」のメンバーの一員であった。彼が、私の処分に同意したことは、私の指摘するカラ出張・カラ超勤の存在に目をつぶり、部下の処分に直接、手を下したということである。だが、私が知りたいのは、彼が私の処分に加担したことではなく、処分に加担する際、彼の胸に内面的葛藤が存在したかどうかである。
 はっきり言えば、己の組織における保身のために、事実から視線を外して、部下の処分に手を貸したうしろめたさを感じていたのかどうかである。もし、うしろめたさを感じないで、これに賛成したのであれば、彼は公僕云々以前において「人間性」を問われなければならないだろう。
 二点目は、フジテレビが、当区の官官接待のカラ領主書を量産していた疑惑について。彼を取材している場面があったが、彼は、これに対してしどろもどろに答えていた。この、しどろもどろの原因が、単なる話し方の上手、下手にあるのではなく、真実を隠すことの恐ろしさから生じたものであったのかどうかである。私は、後者と思いたいからである。
 そして、望月治男職員課長(停職処分六ヵ月)。
 上層部の意を受けて、私を追いつめるのに、驚くほど努力した人物である。六ヵ月の停職処分に付随した事情聴取を担当した時など、私に逃げられると困るからという理由で、便所までついてこようとした。別に、私は警察に捕まったわけではない。たかだか役所がでっち上げた処分の調査である。逃げもしなければ、隠れもしない。ましてや便所に行ったついでに逃げ出す気などみじんもない。それとも望月氏は、私とツレションでもしたかったのだろうか。
 彼の名前を聞くと、真顔で便所について来ようとした彼の動作を思い出して、思わず笑ってしまうのである。
 最後に、懲戒分限審査委員会を諮問し、審議に事実上の強い影響を与えた人物を紹介しておこう。それは、加藤一敏区長(訓告処分、停職処分、十五日、三十日、六ヵ月)。私と最も長い間、闘い続けてきた人物である。
 彼が総務部長時代には、私の同僚の架空勤務を容認し、なおかつ私の訓告処分を決定した人物でもある。付け加えるなら、訓告処分に際して、私の事情聴取内容の改ざんに関与していた男でもある。
 三〇日の停職処分を受けた時には、すでに区長になっていた彼に、「この処分は、私に対する嫌がらせではないのか」と聞いたこともあった。その時の彼は、「処分は私の意志ではない。助役が積極的に行なったことだ」と答えたのであった。長いつき合いなのだから照れることもないと思うのだが、私の処分を積極的に進めているといった言葉は聞かせてくれなかった。
 これが私にかかわる一連の処分を決めたメンバーである。私にとっては、ほとんど悪夢としか思われないような構成だ。黒幕の張本人が立件して裁く。これが役所の構造なのである。まるで国民を虐殺し続ける、どこかの軍事政権のようだ。どんなに私が闘っても、なかなか勝ちを治められない理由がわかってもらえるだろう。
 しかし、後藤雄一氏に出会ったことで、形勢は完全に逆転する。彼の指摘した小中学校の残業命令簿の情報公開請求が、その発端だった。全小中学校、四二校の残業命令簿が、四年間四八ヵ月にわたり、三〇〇余名の全職員、毎日、同一の残業時間になっていたのだ。
 つまりある小学校が、ある月に、一人当たり四時間の超勤をしていたら、他の四一校の職員も全く四時間なのである。
 書類を手にした日の夕方、私はガッカリして後藤さんにこう言って電話した。
  「後藤さん、まいったですよ。出ましたよ」
 私は事前の内部情報から、ある程度のカラ超勤は予想していた。しかし、現実は、それ以上の凄まじさであったからだ。
 笑われるかもしれないが、役所の体質を目の当たりにして、がっかりしたし、寂しかったのである。不思議なことに、形勢が逆転した喜びよりも、失望のほうが大きかった。豊島区と熾烈な喧嘩をしていても、やはり私は豊島区の職員であったからだ。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第15回 協力者は面長の男

■月刊『記録』99年1月号掲載記事

     ※        ※        ※

 後藤雄一氏に会うため世田谷区桜上水のパン屋に赴いたのは、停職中の八月、昼下がりだった。彼は懸命にパンをこねていた。白の帽子に白の作業衣。黒枠の眼鏡。面長で長身。
 そして、やけに顔の黒い人。それが世田谷行革一一〇番を主催し、情報公開請求を武器に、次々と地方行政の腐敗を暴いていた後藤氏の第一印象だった。私のビラを読んでくれていた後藤氏は、名前を告げると仕事を中断し、快く私を迎えてくれた。彼の職場からとなりの喫茶店に腰を落ち着け、挨拶も抜きにこれまでの行政と私の闘いについて説明した。時間にすると、およそ90分。この時間こそが、私の運命を劇的に変えていくことになるのだった。
 この時、後藤氏を訪ねたのは、六ヶ月停職処分取消し訴訟に証拠書類を提出してもらうためだった。それは前号でも若干触れたが、豊島区役所の匿名職員が不正の是正をを求めて、カラ出張、カラ超勤の存在を記した五枚の文書を後藤氏の手元に送付し、後藤氏より朝日新聞の記者を介して私にその内容が明らかにされたからである。
「わかりました。書類は私の手元にあることは確かですが、それは心ある全国の自治体職員から寄せられた不正を指摘する多くの書類の中に紛れているはずです。見つかり次第お渡ししますから、しばらく待って下さい」
 私の申し出と、役所との闘いの一部始終を聞いた後藤氏は、静かな口調でそう語った。そして私の眼を見て続けたのである。
「五十嵐さんに対する一連の処分は、カラ出張やカラ超勤はもちろんのこと、更なる不正が五十嵐さんに暴かれることを役所が恐れたために起こったものです。水面下で、もっと多くの不正を彼らは行っているはずですから。
 彼らは権力を私物化しています。だから五十嵐さんを追い詰めるのに、手段を選ばないでしょう。
 しかしこの闘いは、五十嵐さんのみならず、豊島区民のためにもあるのですよ。だから決して負けてはいけない喧嘩なのです。あらゆる協力は決して惜しみません。頑張って下さい」
 彼の話し方や物腰は、淡々としていて無理がなく、何よりも穏やかだった。だがその穏やかさの裏には、強い怒りが見え隠れしていた。私の闘いを自身の闘いと同様に受け止めてくれた彼の誠実さが、不正を許さなかったのだろう。
 この日、後藤氏から送られたエールは、私に勇気を与えてくれた。確かに役所の行動を見直してみれば、更なる不正が暴露するのを恐れている役所の様子が窺える。尻に火のついた状況を誤魔化すために、役所は嘘に嘘を重ね、私への圧力を強めたのだ。
 私が一三一名の町内会長にビラを郵送した時も、そうだった。
 前回でも触れたが、八六年五月、全職員に配布した二枚のビラを、私は長会長に送付した。カラ出張・カラ超勤についてこと細かく書いたこのビラは、区政の御意見番として一定の力を持つ彼らを刺激する結果となった。送付直後より役所に事実を問う電話が殺到、来庁する町会長まで現れたという。
 この事態に驚いた当局は、騒ぎの鎮圧に全力を注いだ。
 五月七日から六月五日にかけて、区民部管理課の森茂雄課長を、一二回も区政連絡会に出席させたのである。町会長と区職員が区行政について定期的に意見交換する区政連絡会に、森管理課長を派遣し続けたのは、区の危機意識に他ならない。
 この会合で、私のビラが嘘だらけだと森管理課長は説明したと聞く。カラ超勤手当もカラ出張手当も支給していないと断言し、しまいには「五十嵐はとんでもない奴だ。出鱈目なことのを言いたい放題言っている。だから彼は処分する。そしていずれは免職にする」と言い放ったというのだ。森氏が話したのを直接聞いた市民からの情報なので、こうした発言があったことは間違いないだろう。まさに噴飯ものである。
 だいたいカラ手当の不存在を町会長に説明していた時、森管理課長の管轄下にある全、出張所(12ケ所)では、カラ超勤・カラ出張、両手当がしっかりと支給されていたのである。しかもこの事実は、職員間では公然の秘密だった。知らないのは、区民だけだったのである。
 区民に「嘘」をついて不正を隠そうとした男が、私を「とんでもない奴」だと評した。どっちが「とんでもない奴」か、よく考えろと言いたくなる。しかし実際には、私を「とんでもない奴」に仕立て上げることで、町会長の動きは収まっていった。
「火のないところに煙はたたない。文章の全てが嘘であろうか」。「事実でないなら名誉毀損である。それを承知でやっているとすれば、ある程度は調べたのかという気もする」。「マスコミで公務員の不祥事が報道されており、区も無関係でない気がする」。このような声も町会長からは聞かれたというが、事態を究明する力にまではならなかった。
 役所の危機意識が生んだ「火消し」が、とりあえず成功したということだ。
 ビラを送るまでは、私の攻勢だった。しかし攻撃をすれば、必ず返してくるのが役所の体質だ。
 ビラを配った仕返しは、先月も触れた六ヶ月の停職処分となって表れる。「十五日」、「三十日」の停職に続く三度目。この六ヶ月の処分は、停職処分では最も重い。あと残されているのは、免職だけ。つまり私を辞めさせるための準備は、確実に整ったことになる。
 しかも停職はペナルティーとして、仕事に就くことを禁ずる処分であるから、停職中のボーナスはもちろん、一切の給与が支給されなくなる。その上、復職後の最初のボーナスは、全額支給を「十割」とすれば「1割弱」が私の受領額であった。これは停職により著しく勤務日数が不足したための減額措置なのである。
 更には、期間に関係なく停職処分を受けた者は、規定上六ケ月の昇給が延伸される。従って私は、今回を含めて三回の停職処分を受けたわけであるから、通算一年半の定期昇給が延伸されたことになる。
 どんなに節約しても、生きている以上生活費は不可欠である。食費、アパート代、その他、最低限度のいろいろの経費も必要である。それだけに給与の停止は、ずしりとこたえるものだ。だからといって、アルバイトをするわけにもいかない。公務員は副業を持つことは禁じられており、規則に逆らうわけにはいかない。下手をすれば、一気に免職処分を命じられる可能性がある。じっと耐えて生活するしか、方法がなかった。
 だがそのような状況でも、私が絶対に削らなかった経費がある。それは情報公開請求にかかる金だ。
 豊島区には、ソーサー付きのコピー機がない。一枚、一枚、手でコピーをしなければならない旧式の機械があるのみ。そのため情報公開請求によって許可された書類をコピーするのには、膨大な時間が必要となる。しかも土・日は、役所が休みのためコピーをとることができないのだ。
 こうした事情により、私が情報公開請求によって引き出した文書は、夏休みや有給休暇を使ってコピーしていた。それだけに平日に情報公開を行える六ヶ月の停職処分は、必要書類を入手する上で絶好の時間だったのである。これほどの好機を、経済的な理由で逃すわけにはいかない。
 訴訟に必要な事項は、徹底的に開示を求める。このような姿勢で情報公開を求めた資料は、六ヶ月でダンボール七、八箱にもなり、私の部屋を埋めていった。
 八五年四月から、私は何度も情報公開請求を繰り返してきた。しかし、一度として役所を追い詰めるような書類を引き出せなかったのである。ところが後藤氏に会い、どのように請求するのかを教わってから、状況は変わっていった。役所の不正を示す資料が次々と、手元に届くようになったのだ。私の部屋を埋めていったダンボールは、そうした証拠の束だった。
 事実を指摘したにもかかわらず、勝手に嘘を書きまくったように仕立て上げられ、デタラメな処分書が作り上げられる。しかもそのような公文書が永久に保存されてしまう。このような処分に名を借りた冤罪から自分を解放するための礎。それがダンボールに収まった書類だったのである。
 だからこそ積み上がるダンボールは、私に自信を与えてくれたのだった。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第14回 宿直業務は廃止させない

■月刊『記録』98年12月号掲載記事

     ※        ※        ※

  「宿直業務を廃止したい」という部長の言葉は私にとって、まさに青天の霹靂だった。宿直業務を前提とした合意書を、全く無視してきたものだからだ。
 要するに自分達に都合の悪い判決には従わない。それが役所当局の姿勢なのだ。裁判での決定を反古にされたのでは、再度、訴訟を起こすしかない。しかし個人の力ではそう何度も裁判を起こせないものだ。それを見越しての役所の措置だった。
 だいたい財政難が原因で、宿直業務を廃止するというが本当なのだろうか。宿直業務がそれほど区の財政を圧迫していたとは思えない。批判すべき出費など、他にも山ほどある。
 例えば第一組合のビラには、次のような内容の記事が掲載されていた。
 バブルの全盛期、一般価格以上の高値で豊島区役所が土地を買いまくった。しかもその売買は、不動産関係に強い議員が深く関与していたという疑惑だ。もちろんバブルがはじけた途端、土地は二束三文の価値に化けてしまった。このような噂を知っていれば、財政難を理由とした宿直業務の廃止など鵜呑みにする気になれないのも当たり前だろう。
 さらに第二組合に何一つ知らせることなく、第一組合が宿直業務廃止に賛成してしまった。この態度も胡散臭い。
 私の同僚の二人は第一組合に所属している。当然、宿直業務廃止の賛成派であり、そのうち一人は、かつて当局と組合の容認の下に架空勤務を繰り返していた人物でもある。
 宿直業務がなくなれば、彼は昼間の業務へと転属となり、架空勤務やこれに伴うカラ超勤などの事実も過去へ流されるのである。不正を闇に葬り去るために、役所は宿直業務を廃止したのではないか。そんな疑いが頭をよぎった。
 裁判での決定を一方的に破棄する役所当局に、私の不信感は高まる一方だった。そして一九九六年一月二九日、役所側との労使交渉で私の怒りは爆発した。
  「財政難と称して、区民に対しては、福祉の切り捨てを着々と進める一方、役所の職員に対しては、いまだにカラ超勤手当、カラ出張手当が支給されているという。これは役所内では公然の秘密である。カラ出張、カラ超勤はあるのか、ないのかを返答してほしい」当日、職員課長の望月治夫氏に対して、私はそう問い詰めたのである。
 それに対する望月氏の答えが「現在、カラ出張旅費及びカラ超勤は存在しないと思うし、あってはならないことだと考えている。また過去にもそのような事実は無かったと思う」である。だが、昭和四七年、入庁して間もない頃、私は、私の知らないうちにカラ超勤が支払われていた経験をもっている。あれはなんだったのだろうか。私は白日夢を見たとでもいうのか。
 この望月氏の言葉が、私を一気に行動へと駆り立てた。
 労使交渉の一幕をビラに刷り、役所内に配布したのだ。二月七日にビラを作成。日を置かず、役所の全職員の机の上に、そのビラを配ってまわった。一斉に情報が行き渡るよう、作業は早朝、第二組合の責任者と共に行われたのだった。
  「赤字財政の原因は、長らく温存されてきたカラ出張、カラ超勤に原因があるのではないのか。もしそうなら職場の統廃合の前にカラ出張・カラ超勤を廃止するのが先決ではないのか。役所当局の行政改革の手順は本末転倒であり、大きな誤りがあるのではないか」
 私がビラで訴えた概要である。役所職員に公僕の良心が少しでも残っていればと、期待しての行動だった。しかし案の定、何の反応もないまま時間だけが過ぎていった。
●高齢者・障害者対策費からカット

 ところがある晩、宿直業務についていた私に一本の電話がかかってきた。相手は朝日の社会部の新聞記者。「一度、お会いしたい」という。なんでも世田谷行革一一〇番の後藤雄一氏に、私の名前を聞いたというのだ。
 翌日、さっそくその記者に会って驚いた。すると、なんと驚いたことに、私が役所内に配ったビラを彼が持っていたのだ。
 すべての発端は、後藤氏に送られた豊島区の匿名職員からのカラ出張やカラ超勤の存在を裏づける五枚の書類だったのだ。早速調査を開始した後藤氏は、私が配ったビラを入手。内部告発の資料と私の存在を、新聞記者に告げたということらしい。どうやら私の配ったビラも、全く無駄なわけではなかったようだ。
 そこで四月二五日、第二組合長の同意を得て二枚目のビラを私は作成した。カラ出張、カラ超勤の全額を金額を細かく示すなど、内容は一枚目よりもかなり突っ込んだものにした。また両カラ手当の無駄遣いを改めることなく、区民に必要な財源を削り続ける区の政治姿勢をも批判した。
 なぜなら、当局は、財源を削除する最初の対象を、高齢者や身体障害者、すなわち、声を大にして抗議しにくい人々に絞っていたからである。例えば、一人暮らしの高齢者宅にインターホンを設置する制度の廃止、寝たきり高齢者への見舞品支給制度の廃止、敬老金の支給の廃止、車椅子の利用者あるいは寝たきり状態の人が、そのままの状態で乗り降り可能なリフトつきハイヤー制度の廃止などなど、数えあげたら腹が立つばかりだ。結局、区民だろうが職員だろうが、等しく弱者から切り捨てるのだ。それがお役所体質なのである。
 二枚目のビラは、前回同様に役所職員に配った。さらに今度は、前回のビラと一緒に一三一名の町内会長全員にも配ることにした。
 この判断は、間違っていなかった。役所の職員に比べ、町内会長の反応はずば抜けて速かったからだ。二枚のビラに驚いた町内会長は、事実の確認のためすぐに来庁したのである。もちろん役所側は前面否定。そして役所によるお決まりの事情聴取が、私に課せられることになった。
 一度目は文書による質問だ。しかし、これでは埒があかないと役所側も思ったのか、結局、職員課長と総務課長から部長室で事情聴取を受けることになった。
  「どういう意図でこれを作ったのか」「何に基づいてこれを作ったのか」「情報提供者は誰か」
  そんな彼らの質問に対して、私は答えた。「このビラに書かれた内容は、複数の人から聞いている話であり、事実だと確認できる証拠もある。ただし情報を寄せてくれた人達に迷惑がかかるので、名前をあげるわけにはいかない」
 私を取り調べている職員も、実は事実であることを知っているのだ。そして知っているから青筋をたてて怒る。要するに彼らは「役所の職員もあろうものが、役所内の不正を外に漏らすのはけしからん」と怒っているだけなのだ。
 良い部分も悪い部分もすべて白日の下にさらし、改めて出発してはどうか。私は、ビラにそんなメッセージを込めたつもりだった。しかし役所側は耳を貸すどころか、さらなる攻撃をしかけてきた。
 九六年八月八日、当局は、区長加藤一敏名で六ヶ月の停職を言い渡してきた。処分理由については次のように書かれていた。
  「一律カラ残業手当、カラ出張手当については、およそありえないことである。しかし、このような虚偽の文書を区の町会長宛に送付したことによって、結果的にこれらの文書に書かれている事柄があたかも存在する、また、存在したかのような印象を町会長に与えるに至っては、到底見逃すわけにはいかず、許されるものではない。このような行為は、職員全体の不名誉となるような行為、また、区民から信託をうけて、全体の奉仕者として誠実に勤務すべき職員としてふさわしくないものである」
 もし、前の裁判で合意書の作成を拒否して敗訴していたら、私はこの件で確実に解雇されていたはずだ。というのも一五日の停職処分の是非をめぐって高裁で審理している最中に、さらに同一事由をもって三〇日の停職処分を重ねて行った当局の目的は、単なる訴訟費用に関する経済的負担の加重を狙ったものではなく、私の解雇処分の時期を、より早くするための布石であったことが、その後の内部情報からわかったからだ。
 近藤勝弁護士の先見の明が、私を救った。しかも彼は、この処分に関しても、敢然と立ち上がってくれた。
  「文書を送った行為は憲法で定めた表現の自由の範囲内で、懲戒理由には当たらない」。九六年八月三一日の読売新聞で、彼が語ってくれた言葉だ。この指摘は大変ありがたかった。私の言いたいことを、はっきりと言ってくれたからである。
そして、さらに四面楚歌、満身創痍で闘う私に強力な助っ人が息せききって駆けつけてくれた。助っ人とは、以前、新聞記者を通じて名前を知った世田谷行革110番代表の後藤雄一氏であった。  (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第13回 役所と闘う、もう一人の男

■月刊『記録』98年11月号掲載記事

      ※        ※        ※

■宿直廃止

 合意書を出したことで、裁判は一段落した。
 合意を決定する直前まで「最後までやる」と言い張った私を、近藤弁護士は必死で止めた。行政相手の裁判では、個人が勝てないことを、彼が知っていたからだろう。勝つために越えなければならないハードルは、民事裁判に比べてもはるかに高い。それが行政訴訟の現実なのだ。
 役所側が負ければ、区長も三役も責任をとって辞めなければならなくなる。そうなれば区民の間にも、少なからぬ混乱が起こるだろう。だからといって、行政を勝たせておいていいのだろうか。行政と闘う人に設けられたハードルが、不正の隠ぺいに利用されているのが実態ではないのか。それは「えん罪」の構図そのものだ。もちろん私の「えん罪」も、合意書ぐらいではひっくり返らなかった。
 合意書が出て二、三日後、出勤を報告しに行った私に向かって、課長が言った。
  「財源が悪化しているので、宿直の職務を廃止したい」
 つまり今後は、昼間の職員を夜間に割り振り、宿直専門の職員をなくすということだ。「そんなバカなことがあるか」と思ったが、またケンカする気にもなれず、「同意できません」とだけ言っておいた。
 たしかに合意書には、「今後、お互いの条件についてよく話し合うように」と書かれていた。しかし合意書は、宿直業務の存続を前提に作られたものだ。つまり宿直業務をなくせば、合意書そのものに意味がなくなる。「五十嵐の言う通りに改善するのは腹が立つ、こうなったら宿直業務を廃止して、すべてをチャラにしてやる」と言わんばかりの処置に、私も呆れ、そして驚愕した。
 睡眠時間を元に戻すという合意書の約束も無視されたまま、宿直業務廃止の色合いは強まっていく。しまいには、反対する者の意見などお構いなしに、昼間の職員が増員され始めた。夜間勤務に対応するための体制作りだ。
 もともとの勤務態勢としては、昼間の職員が夜勤をこなすものであった。しかしそれでは区民サービスの質が低下するという理由で、宿直業務が始まったのである。何のことはない。役所の体制が昔に逆戻りしただけだ。そもそも昼間の職員を夜働かせたところで、宿直の職員を雇うのと出費はほとんど変わらないのである。

■当局・組合・議会の密着

 こんな横暴な振る舞いでも、役所ならまかり通ってしまう。それには理由がある。役所当局・組合・議会と、本来なら独立し、お互いに監視し合うべき三つの機関が、べったりと密着し合っているからだ。
 議員だろうが、組合員だろうが、役所の上級職だろうが、カラ残業手当をもらっている。不当なお金をもらっている者同士、お互いにかばい合う。
 役所がどのように税金を使うかを監視する機能をもつ議会も、議員がこれでは動けない。実際、告発した私を、議会は全く無視してきた。こちらから連絡を取っても、これまたなしのつぶて。
 本来なら職員の側に立ち、共に闘うはずの労働組合も、既得権を手放さないように役所の上層部と手を結ぶ。私の一件では、最初は無視を決め込み、最後には役所当局と一緒になって私を潰そうととさえしたのだ。
 組合は、すべての不正に対して声を上げるわけではない。小さな問題では役所当局に噛みつくくせに、ある一線を越えると沈黙する。カラ出張・出勤問題は、明らかにその境界線を超えていた。つまり聖域に属する問題だったのだ。触れてはいけない部分に触れたため、私は組合員からも疎まれることになったのである。
 まあ、それも当然なのだろう。
 カラ超勤をもらうことで、組合員も生活を成り立たせているのだ。組合員にも養うべき家族がいる。少しでも多くお金が欲しい。そこをつけ込まれる。みんながやっているからと、不当な収入に手をつける。そして、そんな行動の積み重ねが、少しずつ倫理観をすり減らしていく。悪循環だ。
 もちろん役所内の職員全員が、不正な収入を受け取っているわけではない。多少なりとも善意の残っている職員は、カラの部分を請求せず、静かに受け取りを拒否している。静かに拒否をする職員には、役所側も無視するだけだ。
 では、そのなかから告発する職員が出るかというと、そう甘くはない。彼らが声を上げることはないのである。声を上げた途端に役所当局は牙をむき、無理難題をふっかけて職場から追放しようとすることを、みんな噂で聞いているからだ。
 以前、新宿区役所でも内部告発があったらしいが、結局、その後の話を伝え聞かない。役所当局の弾圧により、告発した者が潰されたのだろう。
 だが、奇人は常にいる。
 一九九六年、私同様、権力に孤独な戦いをのぞんでいる人にやっと出会った。情報公開で世田谷区を追い詰めた人物として、一躍、名を知られることになった世田谷行革一〇〇番の後藤さんから紹介されたのだ。
 その男性は、高橋武男氏。東京都清掃局の清掃作業員であり、かつては都清掃局職員組合、石神井支部中央委員までしていた人物だ。だが組合本部の三役が都公社に天下りの密約をしていたことに反発した件で、さまざまな摩擦に遭遇することになったのである。
 組合の脱退も許されず、裁判を起こしてやっと辞めることができたという彼の話は、役所に常識など通用しないことを改めて実感させる。
 だが、もっと彼が悲惨だったのは、通勤手当の不正を東京新聞に実名で告発してからだ。このイジメが半端ではない。私は高橋氏から直接聞いたのだが、心底ぞっとした。

■ランドセルに鉄板

 ある日、子どものランドセルのふたの部分に鉄板が貼ってあることに、高橋氏は気づいたという。
  「なぜこんなものを貼ってるんだ」という彼の質問に、「うしろから殴られても、鉄板を貼っていれば痛くないからね」と子どもが答えたという。見知らぬ人に、いきなりうしろから殴られる。そんな恐怖を、子どもは感じながら生活していたのだ。無言の脅迫が、そこここに漂っていた。
 もちろん、仲間外れなどは、日常茶飯事だった。
 組合の新聞が自分にだけ回ってこない。「高橋には見られると困る」という理由で、高橋氏が出席しなかった集会のビラが、すべて回収されるということもあったらしい。
 深夜にかかる自宅への無言電話。ゴミ回収の作業チームからの追い出し。職場での完全無視など。村八分の状態にされ、あげくには昼間にも電話がかかり、高橋氏の妻や子どもまで脅迫されたという。しかも、この脅迫行為を行っているのは、ハッキリした確証はないものの、組合員や組合上層部の人間らしいとの情報が耳に入ってきた。
 上からの圧力に独りで耐えている彼の姿は、私とダブルものがあった。圧力のかからない方法で、そっと助けてくれる人が現れている点も似ている。間違っていると言い続けることによって、見えないところにいる味方が現れるものなのだ。
 私と高橋氏、二人の闘いは、今年の七月一日に発行された月刊『中村敦夫新聞』で紹介された。私以外にも権力と私闘を演じている人がいる、そしてちゃんとどこかで誰かが見てくれている。それだけでも少し救われたような気持ちがした。
 私は、正しいことが負けるのは、正しいことが表に出ないからだと思っている。役所当局・議会・組合を、がっちりとつないでいる鎖を断ち切り、すべての悪事を白昼のもとにさらした時、私はこの裁判に勝てるはずだ。勝負を決めるのは持続力なのだ。そう信じたい。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第12回 当局側と合意書を作成

■月刊『記録』98年10月号掲載記事

    ※        ※        ※

■しびれを切らして区長室へ

 一九九五年二月二八日に受けた三〇日間の停職処分に納得できなかった私は、区役所の最高責任者である区長に面談を申し込んだ。なぜ、そんな処分が下されたのか、納得できる処分理由が欲しかったからだ。
 重要な話だから面談時間を設けてほしい、と何度も申し入れた。しかし一向に返事がない。しびれを切らした私は区長室まで乗り込み、「今すぐ会たい」と秘書に告げた。
 さすがの区長も仕方ないと思ったのだろう。私との面会を拒まなかった。
  「なぜ二審の結果を待たずに、同一理由による処分を行ったのですか。これでは嫌がらせとしか言いようがないでしょう」
 こう区長に言い寄っても、「おれは指示していない。助役が勝手にしたことだ」と床に視線を落としてボソリと言う。区のトップでありながら、自分は関係ないという態度だ。「きたないな」。私は思わず、つぶやいていた。
 豊島区の職員懲戒分限審査委員会規定の第二条には、「委員会は、区長の諮問に応じ……」と、ちゃんと書いてある。区長の意志なく、物事が進むことはない。私には無茶苦茶な規則への遵守を求めながら、自分だけが治外法権とでも言わんばかりの態度に腹が立った。
  「五十嵐さん、周りが耳を貸さないのでは意味がないよ。実際、組合も議会も動かないじゃない。このままでは一般職員も離れていくばかりだよ」おまけに加藤区長は私に説教までくれようとするのだ。「冗談じゃないよ」と私は思った。

■組合も上層部も頼りにならない

  「議会、組合、一部の区政の中枢にいる職員の三者が、どんなに私を批判したり無視したとしても、そんなことは私の動きにとって何ら支障にはならない。彼らの意見や態度は、健全な区民常識に裏打ちされていませんからね」
 言い返す私に対して、反論するでもなく、彼はただ頷くだけ。意味のある話し合いは、もう望めそうもなかった。私は区長室をあとにした。
 区長室は区政の表玄関などではない。行政運営の本音と建て前の使い分けを画策する舞台裏だったのだ。私は、今回の件で、それをしみじみ実感した。
 役所の上層部も区民無視でダメ。私が新たに加入した第二組合も腰が引けて全く頼りにならない。私に下された「三〇日の停職処分を知るや否や一変して、『障らぬ神にたたりなし』の態度である。当時の組合の長であった菅道治は、処分を受けたのは、あなたであるから、あなた個人で闘ったらどうか。組合は中立を保つ」とも言う。一審の敗訴(一五日の停職)でやめておけばいいものを、さらに控訴などするからだ、と言いたげである。
 裁判闘争は厳しく、そして長い。金銭的な問題もネックとなる。
 一五日間の停職処分は、精神的にも経済的にも辛い。さらに三〇日間の停職ともなれば、非常に苦しい事態となる。そうして経済的に追い込めば、裁判闘争は困難になる。これこそが役所側の狙いなのだ。だが、この停職処分に対する提訴をやめる訳にはいかない。
 一五日の停職処分と同じ理由で処分が下されているだけに、法的に異議を唱えなければ、自分の非を認めたことになってしまう。そうなれば一五日間の停職処分を巡って争われている第二審でも負けてしまう。経済的に追い込まれるか、それとも負けを認めるか。役所側は周到でかつ陰険な手口で攻撃してきたのだった。

■架空事実の捏造まではできまい

 九五年三月一七日、三〇日間の停職処分の取り消しを求め、私は提訴した。一五日間の停職と三〇日間の停職、二つの処分の取り消しを同時に戦わなくてはならなくなった。
 平行する一審と二審の裁判において役所側は、相変わらずデタラメな主張を継続していた。例えば区長が二度にわたって、私を処分した理由について役所側は、「五十嵐は睡眠を取っていて睡眠中に発生した業務の対応を怠っていたからだ」と主張する。
 しかし役所側の主張は抽象的な指摘にとどまるのみで、具体的な事実の指摘にまでは踏み込もうとしない。
 それもそのはず。原因は役所側、つまり総務課の手もとに保管されている宿直日誌にあった。日誌には私の手で、私が睡眠時間中に対応した、すべての業務の内容と時間が逐一記入されていたからである。
 つまり役所側は、私が睡眠中の勤務を怠っていないという具体的事実が日誌上に存在するのを知っていたのである。だから敢えて、具体的な架空事実の指摘にまでは踏み込んでこられなかったのだ。
 なお、この当該宿直日誌は、三〇日の取り消し処分訴訟のなかで、証拠として私の側からも提出した。しかしその際、役所側からの反論は皆無であった。
 ちなみに当該宿直日誌のすべてにわたり、上司である総務課長、係長の確認印が押印されている。平成五年二月一日の一五日の停職処分に同意した総務課長は堀田徳夫。平成七年二月二八日の三〇日の停職処分に同意した総務課長は中島康博。
 重ねて言うが両名いずれも私のかつての上司である。

■合意書を作成して一次撤退
 
 こういったやり取りが繰り返されるばかりで、裁判は遅々として進まなかった。そんななか、高裁の裁判官から合意書の作成を提案された。
 合意書とは、和解案のようなものと考えてもらえばよい。互いに譲れるところを譲り、争議を解決しようとするものだ。判決のようにハッキリした裁定が下されない代わりに、少なからず自分の意見を合意書に盛り込むことも可能だ。そして何より、裁判を維持する費用や労力から解放される。
 役所側は即座に作成に同意した。役所側が即座に、裁判所長の提案に同意したのは、私の性格上、私が裁判長の提案を蹴って、さらに判決まで審理の続行を主張すると判断したからであろう。
 だが、私はとりあえず「考えさせてください」と答えるにとどめ、確答を避けた。それから二、三日、近藤勝弁護士との論争が続く。「最後までやらせてほしい。骨になってもいい」と言い張る私を、彼は必死でとめた。「この裁判の継続は危険度が高い。敗訴の可能性もある。先を見て今回は、この辺で退こう」と、くいさがる私を放り出すこともなく、論理的に繰り返し説いてくれた。
 結局、私は、裁判のプロでもあり、人間的にも信頼していた近藤弁護士の助言を選択し、合意書を作ることに同意した。次回の法廷で、近藤弁護士が裁判長に「原告は合意書の作成に同意します。と伝えると、裁判長が同弁護士に「よく説得しましたね」と言い、「うん、うん」と言いながら何度も頷いていた。今もなぜか印象に残っている。
 そんな彼のアドバイスが正しかったことを身をもって知ったのは、一年後に六ヵ月間の停職処分を受けた時であった。もし、合意書の作成を蹴ってその裁判で負けていたら、確実に私は解雇されただろう。そうなると、外部から解雇無効の訴訟を起こさざるを得ず、結局、裁判を続けること自体が難しくなっていたはずだ。
 合意書は裁判長が原案を作り、それに対して私と役所当局、双方が提案していく形で作られることになった。私の要求がしごくまっとうなものだったからだろう。私の提案の半分以上は合意書に書き込まれ、結果として役所側の提案は半分にも満たない文書となった。裁判官が合意書の作成を提案して二ヵ月後の九五年九月二九日、私達は合意書を交わし、一五日間の停職処分をめぐる裁判は終わりを告げる。合意書の作成と受け取りは別室で行われた。
 合意文書の作成手続きが終わるやいなや、総務課の法規係長と区政会館の指定代理人が顔を真っ赤にして憤然と席から立ち上がった。一審が終わった時には、私の背中に向けて「ザマーミロ」と言い放った連中が、今回は硬直した表情で、こちらを見ることもなく文字通りサーッと帰っていったのだ。
 判決が下ったわけでもなく、勝った気はしなかった。しかし役所側がダメージを受けたことは間違いなかった。合意書には、「五十嵐に不利益にならないようにする事」という一文も加えられていたからだ。一審の敗訴を考えれば、逆転ともいえるような内容かもしれない。少なくとも「やってよかった」という気持ちで裁判を終えることができたのである。
 区議会に裁判結果を報告するため、合意書に添書を同封して各党の幹事長に普通書留で送付した。添書には「私の一五日及び三〇日の停職処分は、同封合意書の通りですので、御了承ください」と記載した。送付先の党は、自民・共産・公明・社会党系及び無所属議員で構成されている「区民クラブ」である。
 この送付に対する返答は皆無であった。見事なほどの無視にあった。
 第二組合にも結果報告は行った。組合員の反応はまちまちであった。「また、取り下げか」あるいは「まあまあじゃないの」という者、何も言わない者もいた。また、組合の長であった菅道治に至っては「訴訟費用はいくらかかったの」であった。
 孤独な闘いは、まだ続いていた。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第11回 敗訴、そして更なる処分へ

■月刊『記録』98年9月号掲載記事

     ※        ※        ※

■二時間半の睡眠時間も合法

「一五日間の停職処分」の取り消しを求める訴訟を、私が起こしたのは、一九九三年四月三〇日だった。
 役所の体質が根本的な問題であるだけに、勝つ見込みは薄い。唯一の突破口があるとすれば、東京都総務局長からの通達だけであった。
「睡眠時間付与にあたっては(中略)四時間を下がらず七時間を超えない範囲で(後略)」と書かれたその通達は、わずかながら勝機を運んできているように思えたのだ。何といっても、私の与えられいる睡眠時間は、二時間半でしかない。東京都からの通達に違反しているのは明らかだった。さすがの豊島区役所も、これではやすやすと言い逃れはできないはずだ。
 しかし、そんな期待はあっさりと裏切られることとなる。これほど短い睡眠時間は違法ではないのかと、私たちが裁判で質問したのに対し、役所側は「それは豊島区の特質だ。豊島区の独自性として許されるはずだ」と答えたのである
 特質とか独自性とか、一体何を言いたいのだろうか。勤務するのはあくまで人間である。しかも一定以上の睡眠は、人間にとって欠くべからざるものだ。生きるのに必要な環境を奪っておいて、区の独自性も何もあったものではない。二時間半の睡眠で働き続けることがきないのは、誰が考えてもわかる。わかっていながら曖昧な言葉で逃れようとしているだけなのだ。ここにも役所側のどうしようもない嫌らしさが表れていた。
 しかも私は、この短い睡眠時間にさえ熟睡が許されていたわけではない。役所を訪ねる人が来れば、どんなに眠くても笑顔で対応しなければならない。
 たとえ来庁者の対応に五分しかかからなかったとしても、睡眠中に一度起きるのだから、そうそうすぐに眠れるものではない。実際、指定された睡眠時間に人が訪れれば、寝るための時間はほとんど残っていなかった。
 一九九四年一〇月三日、一審の判決が下った。弁護士はすでに負けを確信していたのだろう。
「五十嵐さん、わざわざ行かなくてもいいよ。辛い思いをするだけだよ」と言った。
 しかし負けた悔しさをバネにして控訴するためにも、判決を聞きたかった。覚悟を決めると同時に一縷の望みを託して、私は裁判所の門をくぐった。

■裁判所の長い判決文

 大番狂わせはなかった。敗訴。弁護士の予想は当たった。ただ判決理由は、私の予想を良い方に裏切ってくれた。
 行政相手によくある門前払いでもない。そのうえかなり分厚い判決書を、裁判長は用意していたのだ。現在のように、行政に対する情報公開が盛んだったわけではない。行政と裁判で争えば、確実に負ける時代だった。
 そんな状況で書かれた長い判決文だからこそ、それなりの意味があったはずだ。役所を勝たせるために必要な言い訳が、それこそたっぷりと裁判所に必要だったのではあるまいか。裁判官も内心では役所側の言い分を、無茶苦茶だと思ったのではないか。ただ役所が負けた時、社会に与える影響が怖かったのではないか。
 裁判長が読み上げる厚い判決文を見たとき、私の二審でも徹底的に闘う意志をさらに固めたのである。
 一度負けるのも、二度負けるのも一緒だ。このまま二審で闘ってやる。そんな思いが体を巡り、決意を新たにしながら裁判所を出ようとした。
 そのとき私の背中に向けて、勝ち誇った哄笑が浴びさせられた。
「ザマーみろ。ふざけたことをしやがって。ワッハハ」
 区政会館の職員である指定代理人及び豊島区総務課の法規係の複数名の職員が、私の後ろに立っていた。指定代理人となっている区政会館の職員は、二十三区内で起きた行政相手の裁判で、弁護士の代行をするのが仕事である。負けない行政裁判が仕事。しかも税金で喰っているのだ。「コノヤロー」と腹が立った。だが彼の一言が、二審で闘う私の決意をさらに強くさせた。
「五十嵐さん、もうやめた方がいいよ。ケンカするなら、別のケンカの仕方を教えてやるよ」
 一審でお世話になった弁護士は、そう言って控訴をとめた。常識的には、彼が正しいのかもしれない。でも逃げたくなかった。
「じゃあ、そのときはお願いしますよ」
 お世話になった弁護士に頭を下げ、私は事務所を後にした。
 控訴するためには、どうしても弁護士が必要となる。一審では忙しい過ぎて引き受けてもらえなかった知り合いの弁護士に、もう一度頼んでみることにした。
 これまでの経過を話した私に、彼は言ってくれた。
「しょうがねえなあ。骨は拾ってやるよ」
 負け戦をわかって引き受けてくれたのが、無性に嬉しかった。
 第二組合ににも控訴する旨を連絡した。「二審はやめた方がいい」。 「金と時間の無駄だ」。それが彼らの反応だった。まあ、無理もない。勝ち目が薄く、職場での圧力も続くのだ。私の身を心配して、かれらも言ってくれたのだろう。

■返金も処分の理由

 一審の判決が出てから約二週間後の一〇月一八日、私は控訴した。
 資料集めなどに走り回る一方で、職場での抵抗も続けた。以前同様、自分で決めた時間帯で仕事を続けたのである。そうこうしているうちに、まももや事件が起こる。
 一九九五年二月の二八日の朝、昨夜からの勤務を終えて帰り支度をしていた私は、突然現れた鈴木総務部長や職員課の職員に一枚の紙を渡された。そこには「停職三〇日」の文字が書かれていた。割り振りを超える睡眠をとり、夜間勤務の一部を約一〇ヶ月に渡って従事しなかったのが停職を言い渡す理由だという。
「いらないよ。こんなもの」
 私は通知の紙切れを、即座に突き返して言った。
「とにかく今日は帰る。また明日、来る」
 もちろん二審の判決はまだ出ていない。「一五日間の停職処分」の取り消し求めて裁判闘争が続いている最中に、「三〇日間の停職処分」とは。
 役所は、とことんまで私を追い詰めるつもりなのだ。突き返した処分の通知は、自宅に郵送で送りつけられた。
 もちろん前回同様、私は次の日も通常通り出勤した。あくまで処分を認めないと、意志表示をするためだ。案の上、代わりの職員が配置されていたが、めげる訳にもいかない。出勤簿に自分の名前を書き、宿直室で一、二時間、電話番をして帰って来た。
 ちなみに後から確認してみると、停職の期間中、出勤簿に付けた私の名前は全て消してあった。
 裁判だけが闘う術ではない。一方的な処分に納得のいかない私は抗議を行い、数日後には職員課の別室で役所側と話し合いをすることになった。鈴木敏万総務部長、中島総務課長、それに職員課の人事係長が、冷たい視線を携えて会議に出席した。
「余分に取っている睡眠時間の給料は、ちゃんと返しているし、睡眠時間中に生じた業務にも、きちんと対応していた。それなのに、なぜ処分をしたのか」
 そう厳しく私は問い詰めた。
「お金を返還することも、処分の理由の一つだ」
 鈴木総務部長は、私の眼を直視して平然と言い放った。一瞬、私は耳を疑い、そして唖然とした。区政中枢の中心に位置する人物がこれである。豊島区政は、間違いなく区民無視の末期的症状となり、もはや手のつけられない体質だと確信した。
 役所の職員からは、そんな開き直った発言しか聞き取れなかった。受け取るいわれのない金を受け取らないのも、処分理由とは。こんなバカなことがあっていいのか。
 納得できない理屈が、平然とまかり通っている。
 ついに私は、「自分が受けた処分について話し合いたい」と区長に面談を申し込むことにした。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第10回 そして裁判が始まった

■月刊『記録』98年6月号掲載記事

       ※        ※        ※

 一九九三年の二月一日、私は突然一五日間の停職処分を受けた。依然として役所側の提示した勤務表に従わないというのが向こうの言い分である。しかし処分を受けたといっても私にしてみれば、処分自体が違法だとしかいいようがなかった。
 たった二時間半の睡眠時間で働けという勤務体制自体に問題があること。そのおかげで既に生活そのものが昼型から夜型に移行し、私の健康管理が限界にきていたことなどを当局に説明したが、依然としてまったくお構いなし、馬耳東風であった。
 さて、処分から一夜明けた日曜日、私はいつも通り所定の時間に出勤した。するとなんと宿直室には、私の替わりに昼間の職員が既に配置されていたのだ。「あれ、五十嵐さん、どうしたの」。事情を知らない職員は、不思議そうな顔でたずねてきた。私が間違えて出勤してきたぐらいに思ったらしい。
 その時、隣の部屋から顔見知りの守衛が顔を覗かせた。「五十嵐さん。余計なものをもらっちゃたんだって」と、彼は、ニヤニヤ笑いながら言った。
 本来、二人しか勤務しない仕事場に三人がたむろすることになったため、部屋の中はどことなく窮屈だった。私が机に座って電話番をすると、他の二人は所在なく壁ぎわに座った。
 私の代わりが来ているならしょうがない。そう思い、一時間ほど仕事をしたのちに、私は宿直室を後にした。そして帰宅後、直ちに知り合いの弁護士に弁護依頼の電話を入れた。しかし、残念ながら彼は忙しすぎた。新たな裁判を抱える時間的な余裕など、まったくない状態だという。仕方なく後日、弁護士会を訪れ、弁護士を紹介してもらうことになった。
 私は、紹介された弁護士に、今までの経緯の概略とポイントを、四点に分けて説明した。
一、私の処分は苛酷ともいえる勤務形態が原因であり、その勤務形態も同僚の架空勤務を議会に内部告発した私への報復として作られていること。
二、同僚の架空勤務が十余年にわたり継続したのは、カラ出張・カラ超勤が存在するにもかかわらず、当局がこれを黙認したためだったこと。
三、カラ出張・カラ超勤は、当局と組合の長年の癒着によって形成されて来たものであること。
四、これらの悪習を糾すべき議会も、当局との長年の馴れ合いにより身動きがとれなくなっていること。
 私の話を聞いた弁護士の意見は、厳しいものだった。
「形式的にみれば訴訟の相手は役所当局だが、真の相手は役所の体質でしょう。この裁判には大変な苦労が伴うはずです。組合や議会をも相手にしなければならないかもしれません。それに、こういう事例で勝訴するケースは稀なのです」
 それでも裁判を起こす気があるのか、私の目を見て彼は尋ねた。
「形式的な勝ち負けは、二の次なんです。私にとっての勝利は、法廷で言うべきことを言い尽くすこと。そして裁判が記録として残されることです。だから判決をもらえるまでやっていただければ充分です」
 これが私の答えだった。真実を訴える場所が、私には必要だったのだ。
「わかりました。そういうことでしたら弁護を引き受けましょう。そして、とことん暴れてみせましょう」と、私の話を聞いた弁護士も快諾してくれた。
 真実を明らかにすることこそが区民のためになるという意見は、役所のどこからも聞こえてこなかった。税金を預かり、区民に還元するのが公僕の仕事だということを、役所はすっかり忘れてしまっている。そんな日々のなかで、やっと私は真実を問い直すことのできる場所を手に入れたのだった。

■金を受け取るだけの組合

 処分を受けた後、どうしても頭から離れない言葉があった。当局が宿直室で十五日間の停職処分の言い渡しを強行したとき、当時の高橋職員課長が発した「既に組合は、私の十五日間の停職処分を承知している」という言葉である。その発言の真偽を確かめるため、私は組合を訪ね「上層部は(私への処分について)組合も同意したと言っているが、どうなんだ」と問い詰めた。
「しばらく待ってくれ」
 それが処分を受けた組合員への書記長の答えだった。結局、いつまでたっても組合は正式な回答を寄こさなかったが、労組の会合の模様は、会議に出席した役員を通じて耳に入ってきた。彼によれば、「規則を守らなかったのは五十嵐だ。五十嵐が悪い」と有力者のN役員が発言し、他の役員も諸手を挙げてその意見に賛成したという。決まったことは守らなければならない。たとえ健康を害しても規則は規則。悪法でも法は法に違いない。それが彼らの言い分だった。
 組合に期待するものは、この時にすっかりなくなった。期待するには、現実がひどすぎる。処分から一週間と経たぬうちに、さばさばした気持ちで私は、組合に脱会届けを提出することになった。
 結局、私の二十年余の組合生活を通して、組合がしてくれたことといえば、毎月天引きで納入している組合費を、つつがなく受取り続けてくれたことだけであった。では、これからの自分が組合なしでいいのかというと、そうもいかなかった。組合が動いてくれなくとも、所属しているだけで役所への圧力となる場合もある。丸腰では、役所側からの攻撃はかわしきれないものだ。結局、第一労働組合に脱退届を出したその足で、第二労働組合に私は出向くことになった。
 実は、第一労組で私が数々の問題を抱えていたことを知っていた第二労組は、以前から「第一労組でそんなに虐められるなら、こっちの組合に来いよ」と、誘いの言葉をかけてくれていたのである。
 第一労組に比べれば、第二労組は人数も少なく、力も弱い。しかし破れ傘でも、傘は傘。何もささないよりはずっとましだ。少なくともズブ濡れにはならないだろう。そう感じていた。しかもこの組合の責任者に、私は重大な関心を抱いていた。
 以前にも触れたが、私は住民訴訟取り下げを条件に、役所との間で交換文書を交わしたことがある。文書には、架空勤務をなくすことや、睡眠時間を以前の五時間確保できる状態に戻すこと、明らかな税金の無駄使いと思われる勤務時間帯の禁止などが書かれていたのである。
 その交換文書の作成に関与した人物こそ、第二労組の責任者だった。もしこの文書が公表されれば、役所が約束を反故にしたことが証明されるだろう。当然、裁判にも大きな影響を及ぼすはずだ。私は第二労組に入り機会を待つことにした。
 停職を喰らわせればおとなしくなり、規則通り勤務につくだろうという役所の思惑通りに行動する気など、私にはさらさらなかった。もちろん停職解除後も自分の決めた勤務時間に従い仕事を続けた。その合間を縫って、弁護士の指示に従いながら、上司と交わした書類などを集めたり、裁判の準備を整えたのである。
 一五日停職から三ヶ月、四月三〇日に私は提訴した。

■勝てるかもしれない

 裁判が始まってまもなく、一つの疑問が私を襲った。それは他区の職員も、私と同様の環境で働いているのかということだった。私は二三区にくまなく電話し、宿直の睡眠時間を調べ上げた。その過程で私は、意外な事実を耳にする。
「宿直者の睡眠時間に関する通達が、東京都総務局長からきているはずですよ。豊島区の睡眠時間二時間半は労働法違反ですよ。私の役所の職員課では、はっきりそう言ってますよ」
 そう他区の職員が教えてくれたのだ。
 豊島区の職員課に、その点を問い合わせてみると、もごもごとハッキリした答えを出さない。「それでは情報公開で請求しますよ」と言うと、対応した高橋計之課長も、やっと覚悟を決めたのか、その通知を持ってきた。 やはり豊島区にも通達は来ていたのだ。
 そこには「睡眠時間付与にあたっては、(中略)四時間を下がらず七時間を超えない範囲で(後略)」と書かれていた。つまり私の課せられていた二時間半の睡眠そのものが、東京都の条例に違反していたのだ。
 もしかすると、この裁判は勝てるかもしれない。私の中にかすかな希望が湧き起こった瞬間だった。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第9回 旧態依然の対応

■月刊『記録』98年5月号掲載記事 

           ※        ※        ※

 二月一日は父の命日だった。
 その日は、いつものように宿直室で朝を迎えた。頭の片隅で父を思いながら、普段と変わらぬ仕事を淡々と片付けていた。父の命日であることを除けば、普段と変わりない日常だった。
 だが八時二〇分に事件が起こる。
 鈴木敏万総務部長・高橋計之職員課長そして職員課の職員三人が、いきなり宿直室に入ってきたのだ。五畳程度の広さしかない宿直室は、人で埋まった。
 間の悪いことに、私は区民からの電話を受けている最中だった。電話を切るわけにはいかない。突然の侵入者を椅子から見上げながら、電話対応を続けていた。そんな私に、高橋課長の声が響いた。
「これから処分を行います」
 こちらの都合は関係なし。何だがわけがわからないうちに、いきなり一五日間の停職処分が言い渡されようとしていた。
「あと一〇分で仕事が終わるので、待ってくれませんか」
 どうにか電話を切り、私は一〇分だけの猶予を申し出た。だが、それも無視。
 「組合には話を通してあるんですか?」
 ただ黙って処分されるわけにもいかない。そこで、本来なら私を守る立場にある組合の意向を確認した。
「通している」
 高橋課長は眉一つ動かすでもなく答えた。
「本当ですか?」と聞くと「本当だ」と言う。動じる気配さえない。
 仕事中だというのにいきなりの処分。総勢五人を引き連れた威圧的な対応。そんな状況で行われた役所の処分など、「はい、そうですか」と簡単に認められるわけがない。怒りが腹の底から昇ってくるのを感じた。
「組合に確かめてくる」そう言い放つと、私は席を立った。その途端、和田課長はいきなり前から両手で、私の肩を押さえ、力を加えて私を席に戻そうとした。私は「何をする」と言って課長を押し返す。すると課長の足は、私に手をかけた状態のまま、ずるずるとうしろへさがっていった。
 処分説明を読んでいた総務部長は慌てた。「もういい」と読むのを中断し、処分説明書を手にしたまま退席した。職員課長と他の職員もこれに従った。しかし一~二分すると、宿直室の引き戸が一〇センチほど開き、高橋課長がその間から顔を横にしてのぞかせた。「渡すよ」と言って部長が持って出た処分説明書を内側にすべりこませた。
 処分など受ける理由はない。そう感じた私は「返す」という言葉とともに説明書を職員課長につき返そうとした。だが、すでに引っ込められかけていた、職員課長の手には説明書は収まらず、音もなく床の上を滑っていった。課長はゆっくりとB5判の説明書を拾い、戻って行った。

■腐敗に気づけない役所人

 かなり乱暴な処分だった。今までも役所の横暴な態度には驚かされてきたが、ここまで唐突で強引な処分は記憶にもなかった。役所が私を力技でねじ伏せるために全力を投入しているのを感じた。そして、その先頭に立っていたのが高橋課長だったのだ。
 九二年の秋、私は高橋課長と組合役員及び同僚も交えて、勤務問題解決について話し合ったことがある。もちろん話し合いは平行線をたどった。
 健康を保たつために、以前の勤務体系に戻せと主張する私と、決められた規則に従わないならすぐにでも辞めろと迫る課長。私の要求に対する彼の答えは、たった一言「寝ぼけたことを言うな」だった。結局、「いずれあなたに対しては、法に照らして厳正に処分する」という高橋課長の言葉で会議は終わった。このとき上司には腰が低く、部下には厳しいと評判だった課長の処世術を肌で感じた。とはいえ、この後いきなり一五日間の停職処分がくるとは思ってもいなかったのだが……。
 私を処分させるには、役所にとって、高橋氏はもってこいの人物だったろう。誤った論理であっても上の出した判断なら、彼は信じて疑わない。事情を検討すれば、私の要求はまっとうなものであるとわかるのだ。それが証拠に、表だって逆らいこそしなかったものの、私を応援してくれていた職員は少なからずいたのだ。しかし、根っからの公務員であった彼は、悪しき役所の掟をもって私を断罪することに疑問を抱かなかったのである。
 もっとも、そんな彼を単純に責めるわけにもいかない。役所とは、そんな人間を育てる場所なのだ。ウミは前例となって、外部に知られることのないまま、ますます役所全体を腐らせていく。内部の職員は、誰も腐敗を止められない。なぜなら腐敗に気づくことさえないからだ。
 九六年に豊島区池袋のアパートで、親子の餓死死体が発見されたのを憶えているだろうか。新聞・週刊誌でずいぶん報道されたものだ。豊島区役所がどういった体質をもつのかを理解してもらうために、この事件をあえてここで紹介したい。
「とうとう今朝までで私共は食事が終った。明日からは何一つ口にするものがない。少しだけ、お茶の残りがあるが、ただお茶を毎日飲み続けられるだろうか」
『週刊文春』(九六年六月二七日号)に公開された日記には、貧困によって食べられなくなった親子の壮絶な様子が綿々と記されている。病弱な息子を抱えた七七歳の老女には、働く力もなく、年金以外に現金を得る方法もなかった。
 この親子の尋常ならざる状態に、はじめに気づいたのは、餓死した母親から国民年金の免除申請書とともに、生活の窮状の書かれた手紙を受け取った豊島区の年金課職員だった。この職員はすぐに福祉事務所に連絡し、生活保護の対象になるのではないかと問い合わせた。ところが福祉事務所は、「他の課の個人情報で動くのはプライバシーの点から問題」(九六年七月四日『東京新聞』)として、取り合わなかったばかりか、なんの行動も起こさなかったのである。

■貧困者を常習者と言う役所

 遺体が発見されたあとにも、親子の生活状態が事細かに記された日記について、「シュレッダーで処分した」などと、都議からの問い合わせに嘘をついていたという。もちろんこの発言はすぐに撤回され、親子の日記は白日の下にさらされることとなった。そしてこのときの福祉部長は高橋氏である。
 結局、事件発覚から二ヶ月後には、職員の対応に責任を取らせる形で、高橋氏をはじめ福祉事務所長に一カ月の減給、助役にけん責、相談係長に文書訓告という処分が下された。
 餓死するほど困った人を目の前にすれば、普通ならば理屈抜きで助けてしまうのが人間だろう。だがそんな人間的な感情を、役所は許さないのだ。
 仕事を探しに行くお金がない。食べ物を買うお金がない。そんな理由で役所を訪ねてくるホームレス風の人物に対して、「常習者には金を渡さない」という指示が福祉事務所から出されていたのは、その非人間性を示す好例だろう。しかも役所の基準では、たった二度の訪問で「常習者」というレッテルが貼られていた。
 酷寒の夜に訪れる救いを求める手へなど、たとえ常習者であろうとなかろうと貸さざるを得ないと感じるのが人間ではないか。私も宿直日に何度か貸し出したことがある。そうするとたちまち「五十嵐がどんどん貸すから、仕事がやりにくい」などと同僚からクレームが出るのだ。
「役所などにたのむ様にと、おしえられましたが、私共は普通と違う丈に、一般の人同様にはしてもらえないでせう。今後どうして生きて行くのでせうか。
 早く死なせて下さい。子供と私を一緒に死なせて下さい。外に方法がありません」(九六年六月二七日号『週刊文春』)
 餓死した親子がなぜこのように追い込まれたのか、私には痛いほどわかる。発言力をもたない経済的弱者に対して冷やかな役所の体質が原因なのだ。そして現在も、その状況は改善されていない。余りにも旧態依然である。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第8回 処分ラッシュ

■月刊『記録』98年4月号掲載記事

        ※        ※        ※

 一九九一年六月一五日、勤務時間の任意の変更を総務課長に文書で通知して、はじめての給料日であった。何かが起こる。そんな予感がした。
 働いていない時間帯の賃金を給料から差し引くよう、私は上司に強く要求していた。明らかな税金の無駄遣いと考えられる勤務時間や、健康管理に著しく無理の伴う勤務時間には従えないことを課長に通知し、これに相当する賃金を給与から差し引くよう求めていたのだ。そして私は、申し入れ通りの内容で勤務を行い、すでに一ヵ月が経過しようとしていた。
 しかし前例主義の役所が、私の要求を簡単にのむとは思えなかった。それに、要求を満たせば、役所自身が自らの不備を認めたことになる。彼らは、かねがね宿直業務を円滑に機能させるためには、私の指摘する無駄と無理は必然的に必要であると主張してきていたからだ。役所がそんな危険を冒すはずがなかった。そこで何らかの対抗手段を打ってくるだろうと思われたのだ。
 一五日の朝、私は事務担当者から、銀行振込額を記した給与明細を受け取った。急いで内容を確かめたが、まったく控除されてはいなかった。控除されていれば、前月分より約五~六万円のマイナスになっているはずだ。そして、それっきり呼び出しがあるわけでもなく、なんらかの書類を渡されるわけでなく、淡々と朝の時間は過ぎていった。
 私は、ただちに課長と事務担当者に抗議した。「私は課長に手渡した文書通りに勤務している。従って、それに応じた減額処置をとってもらわなければ困る」と。しかし課長と事務担当者は「現認していないから」と言って取り合おうとはしなかった。つまり、私が寝ていたり、帰ったりしたのを実際に見たわけではないので、控除するわけにはいかないというのである。
 正直、私にとっても給料の減額は苦しい。生活費・住んでいるアパート代・木更津に買った家のローンなどで、切りつめても二〇万円はかかってしまう。役所と闘い続けていることもあり、高い給料などもらってはいないにもかかわらず、そこからの減額である。しかし働いていない時間の金を受け取るわけにはいかない。そんなことをすれば、自分が糾弾している不正に荷担するだけではなく、私をクビにする口実をいっそう役所に与えてしまうからだ。何が何でも減額させる必要があった。
 仕方なく、その月は、課長、事務担当者に「来月は必ず今月の控除分をも含めて控除すること」を要求するにとどめた。そして、そのまま給与係に赴き、今までの銀行振込を給与袋の手渡しに変更してほしい旨の申し入れをした。給与袋なら、その場で減額の有無が確認でき、もし減額されていなければ全額の受け取りを拒否することもできるだろう。
 そして、翌月の給与も減額されてはいなかった。私は事務担当者と課長に、話が違うと抗議した。今、この給与袋から前月分と今月分の控除をしてほしいこと、そうすれば給与袋を受け取ることを伝えた。だが彼らは「現認していないから」を繰り返すばかりだった。
 ここから余分な給料の押しつけあいという前代未聞の闘いが本格的に始まることになる。

■同僚がローンの総額を質問

 給料日のたびに私と課長や事務担当者との言い争いは続けられた。しかし、事態は一向に好転しなかった。仕方がなく、私は強硬手段に出た。一二月二四日、一二月分の給料全額を豊島区長の加藤一敏氏に送りつけたのである。
 さすがにこの行動には役所も驚いたようだった。いくら減額処理をしてくれと頼んでも、まったく意に介さないといった態度を貫いてきた役所が、年が明けてすぐに私に呼び出しをかけてきた。場所は部長室。職員課長と総務課長が口をそろえて、「まあ、固いこと言わずに給料をもらいなさい」と言う。
 もちろん、この日も話し合いは平行線のまま終わったのだが。
 そして一月の給料日。またしても減額されていない給料袋が手渡された。ついに私は、その場で事務担当者につき返した。こうなれば我慢比べである。役所としても、給料を支給しない異常事態を長期間続けられるわけはない。結局、私の給与袋は、九一年の十二月分から九二年の三月分まで、総務課の金庫に保管されることになった。
 しかし、膠着状態に陥ったかにみえた、私と役所のつばぜり合いは、意外な結末を迎えた。九二年四月一〇日、なんと、一年分の控除精算がいきなり行われたのだ。合計六六万余円の差額分が、金庫に保管された四ヶ月分の給与袋から差し引かれ、残りが給与として私に支給された。こんな突然の決定を促したのは、明らかに私が三月二一日に起こした、前述の無駄と無理に対する監査請求であった。おそらく給料を払っていない事実が監査委員の間で問題になったのであろう。それが証拠に、四月二八日に出された監査結果には「四月一〇日に精算後の給与を既に本人が受領しているので、措置要求は解消している」と書かれている。監査請求が出されてからいきなり精算しておいて、「措置請求は解消している」もないものである。
 以前起こした監査請求でも区側に立った調査しか行われなかったが、その伝統は今回もしっかり生きていた。二時間半の睡眠時間に関しては「監査の対象外である」と退けながら、「個人的な要望や主張が通らないことをもって、勤務を一方的に変更し、勤務命令に違反することは、公務員として許されるべきものではなく、服務に関する法令を遵守するよう指導することが必要であると考える」と、監査結果を知らせた文書には、平然と記されていた。
 だが、自ら決めた勤務体系で働きはじめてから、わずか一ヶ月足らずで私の体調は好転していた。増え続けていた体重も一息に落ちていった。二四時間、私の体を離れなかった倦怠感も、いつの間にか消えていった。そして勤務時間変更直前に私を襲った、頭の奥から発する鋭い痛みも消えた。それは再発すれば治療不可能といわれた、あの顔面麻痺の初期症状そのものだった。そこまで体も追い詰められていたのだ。服務を遵守していれば、確実に再発していただろう。
 結局、監査請求によって改善されたのは、四ヵ月分の給与から控除されたこと。そして残額が手許に戻されたことぐらいだった。もちろん負の代償も付いてきた。この監査請求をい一つの契機として、「法令を遵守するよう指導す」べく、怒濤の攻撃を区が仕掛けてくることになったのだ。

■「必要な措置をとる」

 同年、五月一六日、職務命令。
 私と課長の名前、日付、そして「割り振られた勤務時間を勤務すること」とだけ書かれた紙が手渡された。
 約二ヶ月後の七月六日、勤務明けの朝に私に声がかかった。
「五十嵐さん、部長が呼んでますよ」。嫌な予感がした。「行きたくないな」とつぶやきながら部長室に目をやると、部長がニヤニヤ笑って立っている。「ちょっと来てくれ」という部長の呼びかけに、「そのちょっとが危ない」と私が答えると、職員から笑い声があがった。危険人物とされている私が部長から呼ばれるなどロクなことはないはず。職員もそのことを知っていた。
 案の上、部長室で着席した途端に改善勧告書が読み上げられた。途中から「その書類いりませんよ」。そう言い残して部長室を出た私の背中で、まだ笑い声が響いていた。
 改善勧告の内容は、次のようなものだった。
「あなたは、平成四年五月一六日に『割り振られた勤務時間を勤務すること』との職務命令が発せられたにもかかわらず、同日以降も遅参及び早退を重ねています。
 このような行為は、公務員としてあるまじき行為であって、誠に遺憾であります。直ちに改善するよう勧告します。
 なお、改善されない場合には、地方公務員方に基づき、必要な措置をとることを付け加えます」
 最後の一文など明らかに脅し。「辞めるか、いやなら顔面麻痺になれ」と言っているようなものではないか。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第7回 サイは投げられた

■月刊『記録』98年3月号掲載記事

      ※       ※       ※

 数々の疑惑にまみれた行政訴訟を取り下げてから一年、一人に戻っての闘いは、近藤秀夫助役との話し合いから始まった。
 私の要求はただ一つ。取り下げと引き替えに約束した三条件を守らせること。宿直職員による不当利得の(役所への)返還、私の訓告処分取り消し、勤務形態の変更、どれも当然といえば、あまりに当然な要求である。だが役所は一つとして実行しようとしていなかった。役所が金の無駄使いを闇から闇へ葬り去ろうとする腹づもりなら、この実態だけでも区民に知らせなければならない。その前に区政トップの本心がどこにあるのかを直接確認する必要がある、と私は判断した。
 一九八八年四月・助役室。「何故、約束の三点が未だに実行されないのか」の私の質問に対し、近藤助役は緊張した面もちで「関係者とは、すでに協議済みだ」とだけ繰り返した。「役所が何もしないなら不正を区民に報告せざるを得ないですよ。これは事実上の訴訟当事者としての私の区民への義務だと思っている」との指摘にも、「区民に報告するのは、あなたであって私ではない。従って、私はその点について何ともコメントのしようがない」と、木で鼻をくくったような返答であった。
 一九八九年三月十二日の午後一時・区長室。私は助役に尋ねた同じ内容を加藤区長にも質問した。返答は「宿直問題は取り下げにより既に解決したと思っている」であった。こんな不誠実な態度では、原告団と取り交わした文章も到底守られるはずがない。訴訟が終わったのをいいことに、役所は徹底的に私を無視する作戦に出ていたのである。
 そこで私は「区民に不正を明らかにする」と明言し、区長にその場で抗議の上申書を直接、手渡した。これが当時、私のできる唯一の抵抗だったからだ。
 八九年六月一二日の早朝、勤務形態の異常さと、宿直問題の現状をA四版の用紙四枚にまとめ、庁舎全域に配布するとともに豊島区内の全町会長に郵送した。町会長には、区内の有力者があてられ実質的な町内の実務を行っている。全区でおよそ一三〇人にのぼる町会長は、役所と月一回、区の行政について話し合っており、一般市民とはいえ少なからず行政に参加する立場だ。
 もちろん役所とも近い関係にある町会長達が、簡単に私の状況を変えてくれるなどとは思っていなかった。ただ「この報告は公僕の区民への義務」と信じ、またこれを明言した以上、私はやらなくてはならなかったのだ。言葉を発し行動しなければ、私を騙し、潰そうとしている彼らと同じ土俵に立ってしまう。それは耐えられないことだった。変則勤務のおかで、ただでさえ少ない睡眠時間を削り、私は一三〇人分のビラを作り、宛名を書いてポストに投げ込んだ。
「あー、その人物は訓告処分を受けていますよ」
 だが、やはり無駄だった。のちになって、ビラを見た五人の町会長が総務課に電話をかけてきたと聞かされたが、そんな問合わせも中原総務部長の一言でもみ消されてしまっていた。
「それじゃあ、しょうがないね」と、町会長らは言ったという。処罰を受けた職員の戯言など、誰も聞こうとはしないのだ。この日のために訓告処分は発せられていたのだと、私は役所の、そんなところにだけは用意周到さを惜しげもなくみせる情熱に、改めて呆れ、舌を巻いた。だが、日々追いつめられているのは自分なのだ。舌を巻いている場合ではなかった。

■弱みに喰いつく役所

 年老いた両親のため、木更津から通う必要が私にはあった。そのために必要な時間は往復六時間。八四年四月から始まった変則勤務は、そんな私の弱点を突くように作られていた。三週間に二回、四時間の勤務が巡ってくる。しかもその四時間勤務の数時間後には、二時間半しか睡眠を許されない一四時間勤務や、二〇時間勤務が待っているのだ。
 二十時間勤務の場合などは、午前六時前に家を出て翌日の午後二時頃に帰宅することになる。さらに二時間半の睡眠時間さえ、常に確保されているわけではないのである。区民・関係機関からの緊急の照会や連絡、無言電話などにより事実上の徹夜状態になることも決して少なくない。これでは体が保つほうが不思議だ。
 そして、ここが役所の上手いところなのだが、こんな無茶な勤務態勢も、実は私一人に課せられているわけではなかったのである。他の宿直職員にも一応は平等に課せられていた。ただ、当たり前のことながら、当局は、私以外の宿直勤務者にこんなバカげた就業規則を守らせてはいなかった。皆、午前〇時から七時ぐらいまで、たっぷり睡眠をとっていた。肩書き・給料が同じ夜間警備員の場合は、午前〇時から五時までを睡眠時間として認められていた。さらに朝の七時まで寝ていても、事実上、誰からもお咎めがなかった。
 また宿直勤務には、業務が入るはずのない時間帯が組み込まれていた。隔週土曜日の午前九時半から午後十二時半と、泊まり勤務の翌朝の平日・午前八時四十五分から同十時がそれである。宿直職員は、昼間の職員がいないときに役所の業務が滞らないように配置されてるものであるにもかかわらず、この時間帯には昼間の職員が勤務しているのである。これは勤務の体裁をとった税金の無駄遣いに他ならない。
 それだけではない。私への確認も相談もまったくなく、勤務形式は少しずつ変えられていくのである。私の急所をめがけ、さらなる攻撃を加えるかのように変化していくのだ。
 例えば、私は上司や関係者に、機会あるごとに改善要求を申し入れていた。あるとき、私は事務担当者に駅から自宅までの最終バスに間に合うように、勤務形式を組み替えてほしいと要求したことがあった。
 彼は、そのときは何気ない様子で、私から最終バスの時間を聞き出しメモしていた。だが、次に行われた勤務形式の変更内容をみると、私が確実にタクシーを使わねばならぬように時間を組み替えてきたのである。ボクサーが傷口を見せれば狙われ、拳を打ち込まれるように、役所も弱点を見せれば飛びかかってくる。情けも容赦もなく、即座に喰いついてくる。
 その頃、私は当時の総務部長の中原氏(現、収入役)にも、無意味かつ無理な睡眠時間の是正を繰り返し申し入れてきた。しかし、同氏からの返答は「無駄もなければ無理もない、従わなければ職務命令を出す」という一方的で強圧的なものであった。このため、平成二年七月五日、同総務部長に対し、納得のいく返答を求めて内容証明による質問状を送付した。しかし、その返答は、やはり皆無であった。

■自分で自分を守るしかない

 肉体が限界に達しつつある。
 数日間ごとに昼型と夜型を入れ替える生活、通勤時間を含めた四二時間勤務。そんな無理を強いられた七年間で、私はストレスからブクブクに太ってしまった。体重は五三㎏から一挙に七〇㎏となり、体のあちこちが悲鳴をあげていた。いつ大病に犯されもおかしくないほど健康状態は悪化していた。これに加えて、顔面マヒの再発の余兆である。医者からは以前より、マヒが再発すれば社会復帰は不可能と断言されていたが、顔面のむくみ、頭芯の痛みは頻発している。もうこれ以上規則を守り続けることはできない。その思いが、一つの決断を下させた。
 九一年五月二二日、「あなた方区役所と組合は、私の健康と人間としての最低限度のプライドさえも踏みにじろうとしている。もはや私には、自分で自分を守るしか方法はない」という言葉とともに、一通の文書を当時の総務課長・堀田徳夫氏に手渡した。
 文書の内容は、三点の勤務時間帯の変更の申し入れである。これらの勤務時間帯は、宿直業務としてはあまりにも無意味な拘束であって、明らかな税金の無駄遣いである。同時に、遠距離通勤の私にとって著しい健康管理の障害だと判断したからである。
 一、開庁している土曜日の出勤時間を、午前九時半から一二時に変える。二、泊まり明けの退庁時間を、午前一〇時から午前九時に変更する。三、睡眠時間を二時間半から五時間にする。
 役所が勤務時間を変えないなら自分で変えると宣言したのである。もちろん時間短縮と睡眠時間の拡大によって生じる余分な給料分は、すべて役所に返すことも明らかにした。また、当然のことであるが掘田課長には、この文書を手渡す際、たとえ睡眠時間帯であっても業務が発生すれば、直ちに対応する旨を伝えている。
 こうして就業規定を任意に変更すると宣言したことで、私と当局との軋轢は一挙に高まった。サイは投げられたのである。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第6回 訴訟の裏側・2

■月刊『記録』98年2月号掲載記事

         ※        ※        ※

■不可解な昇給

「もし日比寛道区長の出馬がハッキリしたら、俺も区長選に出て訴訟中の宿直問題をぶつけるよ」
「区長には俺がねじ込んだんだ。区長に立候補して、あなたの政治生命に傷がついてもいいのかってね」
 勝てると思われた住民訴訟を取り下げる数ヶ月前、江畑騎十郎氏はこんな言葉を何度となく口にした。当時、事態を改善しようとしない日比市長に嫌気がさしていた私にとって、江崎氏の言葉はそれほど気にならなかった。しかし訴訟取り下げ後、事態の改善がまったくない状況の中で、この言葉は訴訟に対する私の疑惑を深めていった。
 どうして区長選投票日のわずか20日ほど前に訴訟を取り下げたのか。住民訴訟の道筋をつけてくれた区議と新市長が親しいのは偶然か。どうして江畑氏は日比市長を脅したのか。答えを求めれば求めるほど、見たくない図式が浮かび上がってきた。
 一九八七年四月二六日に行われた豊島区長選は、前助役の加藤一敏氏が当選を果たした。この加藤氏こそ、八二年から八五年まで総務部長を務めた私の上司である。そんな男が居座る区長室に、私を訴訟に導いた区議が足繁く通っている。この事実は少なからず私を落ち込ませた。職員の噂からも、二人が以前から親しい友人であることは疑いようがなかった。
 前区長の立候補を断念させた江畑氏と、新区長と連絡を取り合う区議。詮索するなというほうが無理な話だ。しかも現実を直視すれば、符丁の合う事柄も出てくる。
 区長選から三年以上も前となる内部告発の後、役所の廊下で私を呼び止めた加藤総務部長が、「区議に感謝しなよ」と私に耳打ちしたことがあった。当時は、訳がわからなかったが、訓告処分を言い渡す直前だったことを考えると、加藤氏と区議で私の処遇を話し合ったと考えるのが妥当だろう。
 まだある。
 江畑氏に続いて訴訟の中心的な役割を果たした警備員の昇給だ。なんと加藤新区長に変わった直後、この男性は連続して特別昇給を受けているのである。毎年、一つずつ給与のランクが上がっていくのが一般的なのに、連続して二つも三つもランクが上がったという。給料のランクが一番影響を及ぼすのは、退職金である。特別昇給によって自分の退職金がどれほど跳ね上がったかを、私はこの男性の口から直接聞いた。話しても時効だと思ったのか、私が何も気づかないと思ったのかはわからない。しかし嬉しそうに自慢する彼の言葉に私は耳を疑った。
 考えてみてほしい。
 公務員としてつつがなく生きてきた彼に、いきなり昇級する理由などあるわけない。営業成績が認められる民間企業ではなく、学校警備員なのだ。どうしても新市長の加藤氏との関係を疑わざるを得ない。
 だが彼が活躍した訴訟と加藤氏をまっとうに結びつけても、昇級の理由はみえてこない。なぜならこの訴訟は、常識的には上司としての監督責任を問われてもおかしくないからである。ここでも勘ぐりたくなる環境がそろっている。
 日比市長の任期が切れる三年前、私の内部告発を契機に、加藤氏・江畑氏・区議のもくろみは始まったのではないか。住民訴訟を起こせば、日比市長への強いプレッシャーになることは間違いない。「日比市長に内容証明付きで告発をしていた」と私が弁護士に語ったとき、弁護士が手放しで喜んだ理由も説明つく。
 しかも加藤氏には、別の追い風も吹いていた。私が内部告発をした八四年二月当時から、助役がガンで長期入院したのである。区長から信任の厚かった助役は、元気なら順当にいけば区長になっていたはずだ。その席次が病気によって狂った。そして助役になるのに好都合な役職・総務部長を手にしている加藤氏に順番がめぐってきた。条件が整ったのだ。
 そして何も知らない私は彼らに手を貸し、他人に迷惑までかけてしまった。そのことに胸が痛む。忘れたくても忘れられぬ光景が、胸の奥によみがえるのだ。

■そして助役は死んだ

 八四年三月二七日、私は訓告処分を受けた。その時、助役室で私を待っていたのが、当時の助役だった。入院していた病院から、処分の文章を読むためだけに出勤したという。「五十嵐君が処分を受けるのは、私の責任だ」という言葉を残したという噂を聞いたが、真偽のほどは定かではない。
 しかし彼が命を賭して、私に対面したことは事実だった。
 顔は土色、額には脂汗、手はぶるぶると震え、脚が定まらないのか体は前後に揺れ続ける。そんな助役が、私の訓告処分を絞りだすような声で読み上げるのだ。にもかかわらず同席した総務部長・職員課長・総務課長・職員係長などは、誰も助役に手を貸そうとはしなかった。ただ冷ややかな目つきで、眺めているだけなのである。
 助役の苦行は、それだけにとどまらなかった。病院に帰る地下の駐車場までの道のりが、また彼を痛めつけたのだ。助ける者もなく、エレベーターを降りてから公用車までのわずか数十メートルを、一人壁を伝うように歩いていたという。
 この助役は男気があり、一般職員からも人気が高かったが、このとき助役室に集まった人々は、彼の死によって昇格する人達ばかりだった。だからこそ冷え冷えとした眼差しが助役に注ぎ続けられ、彼を世話しようという人も現れなかったのだろう。
 結局、このセレモニーから二日後、彼は危篤状態に陥り、四月九日に永眠した。
 悲しいことに助役の最後の生命力を奪ったのは私だ。そして、その死が加藤氏や江畑氏を喜ばせることになった。死期を早めたという悔恨が、今でも心のどこかでうずき続けている。
 もし助役が生きていれば、私を取り巻く状況も大幅に改善されていたかもしれないという思いも、心の痛みに拍車をかける。日比市長に近い筋によれば、私からの告発文を受け取った後、「よく調べて善処しろ」と彼は職員に命じたという。しかし調査命令は、加藤氏子飼いの職員によって放っておかれ、手を着けられねままになったと聞く。もしこの助役が市長になれば、放っておかれた調査も再開したかもしれない。

■監視されていた

 そのうえ私の行動は、常に江畑氏に伝わり、誘導されてしまっていたのだ。訴訟への影響を計りたいからと言われ、私は江畑氏に毎日連絡を入れるようにしていたのだ。役所でどんなことがあったのか、どのような人と接触したのか、私は馬鹿正直にこと細かく報告した。私と役所の状況が一挙にわかるこの電話は、江畑氏にとって非常に好都合だったはずだ。
 不当な訓告処分を認めたと思わせる手紙を、全区議に送ってしまったこともある。私の問題を区議会で取り上げてくれたことに対するお礼状が、問題の品だった。下書きを江畑氏が書き終え、「時間がないから、あとは五十嵐さんが書いておいてください」と頼まれたのである。八四年の訓告処分から幾月も経ていない時期、つまり私が最も江畑さんを信頼していた時だっただけに疑いもしなかった。だがそんな無防備さをついて、「私が処分をうけるのは仕方ありませんが」という一文が手紙に入っていたのである。へりくだった表現のようだが、読みようによっては不当な訓告処分を認めたことになる。
 もしかしたら、すべては私の思い込みなのかもしれない。しかし筋を追っていくと、意図的なものを何か感じざるを得ないのだ。あれだけ私の裁判に協力してくれた仲間は、学校警備員の仕事存続が決まり、新市長が誕生すると、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。何も変わらない状況を残して、また私は独りになっていたのだから……。   (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第5回 訴訟の裏側

■月刊『記録』98年1月掲載記事

          ※        ※        ※

■弱気の原告

 訴訟を取り下げるにあたっての最大の問題は、私が出した三つの条件だった。
・宿直勤務の同僚が得た不当利得の全面返還
・私に対する訓告処分の取り消し
・宿直勤務の形式を、一九八四年四月以前の状態に戻すこと
 裁判で争っていたのは、不当利益の全面返還だけだったが、私への嫌がらせとしか思えない勤務体系や不当な処分の実態は、裁判の進行とともに明らかにされつつあった。判決によって事態は改善されるだろうと、弁護士も折りに触れ話していた。勝てる裁判を取り下げるのだから、最低限、この状況を改善してもらいたい。私は切実にそう願っていた。極度の寝不足と闘いながら働く毎日に疲れ果てていたのだ。
 ところが私の代わりとして原告となった江畑騎十郎氏は、助役と交渉を終えるたびに弱きな発言を繰り返したのだ。曰く、「三つは無理だ。一つにしてくれ」。「勤務形式だけを役所にのませるのはどうだ」。突然の取り下げの提案と弱腰の態度に、私は彼に対して日々不信感を募らせていった。最初の出会いで頼もしいと感ただけに、かえって裏切られた気持ちが強まっていったのである。
 訴訟取り下げ騒動からさかのぼること一一年、私は怒りに身を震わせながら江畑氏が警備する学校に押しかけたことがある。それが彼との最初の出会いだった。
 当時、宿直の職員が一人辞め、その補充をめぐり私は上司と対立を深めていた。職員採用の代わりに用意されたのは、右も左も分からない日替わりのアルバイト。定期的に来てくれるならいざ知らず、次いつ来るのかも分からないアルバイトに、込み入った仕事を頼むわけにもいかない。しかも職員の補充ができない理由はまったく見当たらなかった。新たないじめだった。
 黙っていても、不当な処遇が変わるはずもない。総務課長と組合の委員長に、職員を採用しない理由を問いただした。
「学校警備員分会が反対しているからだ」
 それが二人の答えだった。宿直業務に関わりのない、豊島区役所の労働組合の一支部が何をほざいているのか。私は怒りとともに、学校警備員分会への直談判を決意したのである。数日後、私は休日の学校を訪ねていた。平日の喧噪が嘘のように静まり返った校内が、よけいに私の緊張感を高めた。
 そこで出会った、当時学校警備員分会の責任者である江畑氏は、勢い込む私をばかにするでもなく、猜疑心に満ちあふれた眼を向けるでもなく、極めて熱心に応対してくれた。じっくりと話に耳を傾け、的確に質問をする。そして私の話を聞き終わると、「職員の補充に反対したことなどない」という言葉とともに、その場で学校警備員分会の仲間に電話をかけ始めたのである。そして事実確認を終えた彼は、事態の収拾さえ約束した。私が説明を始めてからわずか一時間。江畑氏の手によって、事態は一気に収束に向かって動いた。
 東大卒で社会党中央執行部に在籍したいたとの噂もあった江畑氏は、噂通り、いやそれ以上の切れ者(切れ者に傍点)であった。筋道だった話し方には無駄がなく、説得力に溢れていた。意思の強さを感じさせる目、即座に問題を解決しようとする行動力。すべてが私を圧倒した。もちろん江畑氏は約束を守ってくれた。私が訪ねた数日後には、総務部長に直接掛け合い、職員補充の約束を取り付けたのである。

■祝勝会は知らない人だらけ

 私は三つの要求を主張し続けた。ここで妥協すれば、裁判した意味がない。粘り強い交渉が数週間も続き、ついに「先方(助役)が了解した」と江畑氏から報告を受けるにいたったのである。
 一九八七年四月三日、訴訟はすべて取り下げられた。
 取り下げから数日後、巣鴨にある居酒屋・神戸屋別館で祝勝会が開かれた。会場は実質勝利の結果に沸き返っていたが、私は祝勝会場で一人、不安に苛まれていた。弁護士二人、区議会議員二人を含めた二〇人ほどの参加者のうち、私が話したことがあるのはわずか五~六人。会場を埋めていたのは、私の知らない人ばかりであったのだ。
 さらに驚くべき事実も耳もした。
 「五十嵐君、心配ないよ。助役とは覚え書きを交わしたから。君の要求もいくつか書いた中に入れておいたよ」
 私の隣に座った区議は今まで会ったことさえないのに、赤ら顔をほころばせながら、そう語った。
 担がれたのではないか。そんな疑念が頭をかすめた。私が役所に要求した条件はわずか三点だ。ところが区議の言葉は、それ以外にもいくつかの密約が交わされたことを意味していた。
 「学校警備の連中は自分達の延命処置のために、五十嵐さんを利用したんですよ」
 数ヶ月前に軽く聞き流していた防災課職員の言葉が、胸を重苦しくしていた。同僚の突然の欠勤で、急遽仕事を手伝いに来てくれた彼は、仕事の合間に私の裁判に関する噂を口にしていたのだ。
 裁判が始まったころ、豊島区では学校警備員の異常な高給が問題となっていた。なにせ当時、年収一千万円もの高額所得者がゴロゴロいたのである。そこで区長をはじめとする区役所の中枢では、警備の機械化を推し進めようとしていた。もちろん失業を意味する機械化には、学校警備員は大反対。学校警備員分会を中心に、既得権を守ろうと懸命な運動が続いていたのである。もちろんその中心人物は、あの江崎氏だった。
 まず警備員分会が考え出した既得権確保の手段は、災害時の避難場所として学校を指定させ、非難した市民の学校内誘導を警備員の仕事として区に認めさせることだった。警備員が災害時に必要と認められれば、災害に備えて平時も学校に人を置いておく必要がでてくる。
 警備員分会は、この計画に沿って防災課に兼務辞令を認めさせようと圧力をかけていた。だが、傍流の組織と関わりあおうとする役人など、どこを探してもいようはずもない。やっかい事を押しつけようとする学校警備員分会は、防災課から敵対視すらされていたのだ。

■そして事態は変わらない

 学校警備員に利用された……。話を聞いたときには、警備員嫌いの防災課職員のたわごとだと、笑って否定していた。だが現実は彼の「たわごと」を証明しつつあった。祝勝会で交わされている会話から察するに、私の知らない参加者のほとんどが学校警備員なのだ。
 さらに祝勝会から数日後、もっと大きな衝撃が私を襲った。内部告発した直後に私に電話をかけてきてくれ、弁護士を紹介し、裁判の道筋をつけてくれた区議が、警備員分会の顧問だったというのである。もちろん祝勝会に現れたもう一人の議員も顧問だった。前にお話しした通り、弁護士も分会の顧問。原告は分会の責任者だ。私を除いて、裁判に関わったすべての人が、警備員の既得権に目の色を変えている連中だったのである。
 それでも問題が解決してくれされすれば、誰に利用されても仕方がないとも考えていた。弁護士も江畑氏も、確かによく動いてくれている。今更何を言っても始まらないではないか。そんな気持ちに支配されていたのだ。
 ところが警備の機械化は見送られたにも関わらず、私の要求は一年を経ても、なに一つ実行されることはなかった。なぜ実行されないのかという問いに対して、弁護士は「江畑氏に任せてある」と責任転嫁し、江畑氏は「助役に聞いてくれ」とつれない。助役は「関係者との話は済んでいる。その件は終わりました」と取り付く島がない。また一人取り残されてしまった。
 取り下げから一年、もう担がれたことを認めざるを得なかった。江畑氏が祝勝会の後、警備員への転職を勧めた訳が分かるような気がした。
 だが、この裁判にまつわる陰謀はこれだけではなかった。後にこの裁判により、知らぬ間に最大の敵に塩を送っていたことまで判明することになる。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第4回 疑惑の住民訴訟

■月刊『記録』97年12月号掲載記事

           ※         ※         ※

■「監査請求すべきです」

「こんな不正は許されない。区議会議員として見過ごすわけにはいかない」
 穏やかな表情、力強い声、偉ぶらない態度。一体どうすれば、あのとき彼を疑えただろうか。元中央官僚だったという初老の区議会議員は自信に満ちあふれ、一方、私は破れかぶれの内部告発をした直後だった。
 すべての区議会議員に送った内部告発がきっかけとなって、役所と対決する人物が現われた。その事実に私は夢中になった。どれだけ不正を訴えても小さな風穴一つ開けられず、脱力感すら覚えていた私に、彼の存在は大きく映ったのである。
「これは監査請求をすべきです。何なら私が知り合いの弁護士を紹介しましょう」
 議員のこのような提案を拒む理由は何一つなかった。今まで役所への反撃は、すべて一人でしてきたのだ。私は諸手をあげて賛成した。一九八四年二月一五日、内部告発から四日後、前回お話した三人制シフトが発表される一ヶ月ほど前、法律的な決着を求めて私は大きく踏み出すことになった。だが協力者の出現に有頂天になっていた私には、不正への怒りでもなく善意でもない、提案の裏にある生臭い意図を嗅ぎとることができなかった。
           *  *  *
 議員との会談から数日を経て、自宅に弁護士から連絡が入った。今、考えれば、金にもならない監査請求の手続きをするために、弁護士のほうから電話をかけてくるなどおかしな話である。しかし不正への怒りを口にする弁護士を、私は無条件に信用した。役所の誰からも相手にされていない自分を騙しても、利益になる奴などいないだろうという思いもあった。結局、監査請求の書類を作るために、週に一回、銀座にある弁護士事務所に通うことになった。
 弁護士事務所では、とにかく事実を思い出し、証拠を提出するのが私の仕事であった。四月一日からは三人制シフトも始まり、事務所で三時間以上も話し込むのは楽ではない。話している最中にさえ眠ってしまうほどだ。だが元中央官僚だったという弁護士は怒ることなく、私を支え続けてくれた。本当に弁護士はやる気十分にみえたのだ。彼は弁護料さえいらないとまで言ってくれた。たしかにその言葉に嘘はなかった。監査請求に彼は、手弁当で協力してくれたのだ。

■監査結果は無惨

 何かがおかしいとはじめて感じたのは、三月二七日の訓告処分が出た直後である。事務所で処分の不当さを報告する私に、彼はまったく興味を示さなかった。正義のために、そして私を救うために動いてくれているなら、処分理由さえも怪しいこの事件を放っておくはずがなかった。ところが彼は聞き流すだけで、事実関係を確かめようともしないのだ。つい3週間ほど前、市長に内容証明付きの告発文を出したと報告したときには、満身で私を激励し、詳細に事実を確かめようとした彼がだ。この時が、彼が何を見つめているのかを推測できる最初のチャンスだった。しかし、私は彼の態度を追求できる立場にいなかった。訓告処分などというものは、法律的には大きな意味をもたないのかもしれないと、善意に解釈してしまった。私にとっては、この弁護士も市議会議員も大切な味方としか考えられなかったのである。
 事実の確認作業は順調に進み、八四年六月二日、監査請求が行なわれた。架空勤務に支払われたと推定される三千三五三万一四六〇円と、それに対する年五分の金利を区長と収入役に求めるのが請求内容となっていた。できばえは上々だった。区議と弁護士が付いているという強い安心感が、私を包んでいた。だからこそ極度の寝不足のなかで頑張れたのだ。
 しかし結果は無惨なものだった。監査請求から二ヶ月を経た八月六日に報告された監査結果には、次のように書かれていた。
「措置請求の原因となった中村及び上田の両名の無断早退について、両名は、行為の事実は認めたが、その日時を特定及び回数の確認が出来なかったので給与総額分の支払いについての措置はこれを求めない」
 予想通りの結果とはいえ、改めて役所の不正を正す難しさを味わった。監査委員会は、私に対する直接の事情聴取さえしなかったのだ。そのうえ監査結果報告書を読むと、提出した資料を都合よく使い、客観的な事実さえ大幅にゆがめている事実がみつかった。こんなものか。どこかで期待していた自分が情けなくなった。
 しかし弁護士は特にショックを受けた様子もなかった。というよりも満足する監査請求結果など出るはずもなく、続けて住民訴訟を起こすことになる予測を最初から立てていたようだった。そして、徹底的に闘うという彼の強い意志に、私は励まされた。
 だが、ここで一つ問題が起こる。住民訴訟を起こすには、豊島区在住の者でなければならないのである。木更津に住んでいる私には、訴えを起こす権利が与えられなのだ。急きょ身代わりの原告を捜すことになり、このとき率先して名乗りを上げてくれたのが、学校警備の部署にいた江畑騎十郎氏だった。一〇年ほど前、新規に職員を募集するかどうかで上司ともめた時、ひょんなきっかけから味方になってくれたのが、彼だった。私の弁護士も、学校警備の部署で顧問弁護士をしており、二人とも知らぬ仲ではなかった。この点からも江畑氏を原告にするのには都合が良かった。いや、あとから考えれば、都合が良すぎたのである。しかし当時の私は、この裁判の本当の意味をまだ知らなかった。

■訴訟継続断念

「このままでは不利だ。訴訟を取り下げよう」
 八七年三月末、私はいきなり江畑氏から、そう告げられた。場所は戸塚。弁護士が別荘として買った旧家の片づけを手伝っている最中だった。薄暗い廃屋の中で告げられた突然の言葉に、私は耳を疑った。
 勝てる。私はそう確信していたのだから。証拠の積み重ねが、被告に少しずつダメージを与えているのは確実なのだ。私のメモ・日報・区長への手紙など、あらゆる証拠を私は提示し続けてきた。私だけではない。原告の江畑氏や弁護士も、自信に満ちた発言を繰り返してくれていたではないか。勝てる裁判を続けることが、どうして突然、不利になるのか。間近に迫った証人尋問は、不正を暴く決定的な瞬間にもなりえるのである。彼に理由を問いだたしたが、
「止めたほうがいい」
 そう繰り返すばかりで、きちんとした説明は得られなかった。
 皆と別れたあと、江畑氏と二人で、戸塚駅近くの喫茶店に入ったのは夕方近くだった。
 私はいらだちを隠せなかった。彼がいくら言葉をつなぎ合わせても、裁判を止める理由がはっきりしないのである。しまいに江畑氏は、引っ越すので訴訟の原告人としての資格がなくなるとまで言い始めた。訴訟が始まる前は、名義だけを豊島区に残しても、裁判を続けると言い張っていた人がだ。とても同一人物の言葉とは思えなかった。
 だが、次の言葉が彼の口から発せられたとき、私は返す言葉を失った。
「もう弁護士さんも、訴訟の継続を嫌がっているんだ」
 監査請求から二年以上、たしかに坂本さんは、金にもならない訴訟を継続してくれていた。私自身、役所との闘いを決意し、厳しい人生を選択してしまったからこそ、まっとうな生活を守ることがどれほど大事なのかは身にしみていた。これ以上迷惑をかけたくないと思った。仕事が忙しくなったのかもしれない、他に助けるべき人が現れたのかもしれないのである。自分だけが彼の善意の恩恵を受け続けては、いけないと思った。
 江畑氏にこれまでの礼を言い、喫茶店のドアを開くと、いつの間にか小雨が地面を濡らしていた。
「カサを持って行っていいよ」
 手渡されたカサを受け取り、私達は別れた。もう誰とも話したくはなかった。そうして、八七年四月三日、私が正式に訴訟を取り下げたあとになって、思いもかけない二つの事実が発覚したのであった。  (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第3回 役所逆襲

■月刊『記録』97年11月号掲載記事

          ※        ※        ※

■死期を早めたセレモニー
 役所の逆襲が始まった。
「五十嵐さん。助役室に行ってくれ」
 一九八四年三月二七日、仕事が終わり事務引継のために総務課を訪れた私を、高良総務課長が呼び止めた。思い切って内部告発に踏み切ったことで架空勤務もなくなり、それなりに平穏な日々を過ごしていた私が、この後に起こる重大な事態を予測できるはずもなかった。ただ私の履いていたゴム草履に目をとめ、「靴に履き替えてくれないか」と言葉を継がれたときには嫌な予感がした。
 三階の総務課から仕事場である地下に戻り、靴に履き替え助役室に急いだ。ノックをし、扉を開けると、緊張した面もちで円卓を囲んでいた頭が一斉に振り向いた。助役・総務部長・職員課長・人事係長・総務係長。ネクタイをきつく締め、隙のない姿勢で構えた彼らからは尋常ならざる気配が漂っていた。
「今から、五十嵐稔さんの処分を行います」
 口火を切ったのは、この日進行役を勤めていた職員課長だった。
  -処分-
 予想もしていなかった言葉だった。就業規則を守り、架空勤務さえしていない私がどうして処分されるのか。処分の対象になるような行為をいつしたというのか。怒りよりも先に疑問がわいた。

■解決していた職場離脱

 手渡された訓告処分の発令通知書は、読めば読むほど理解できないものだった。「上記の者は、昭和五九年二月一三日までの間、度々、勤務場所を離れ職場を放棄した」と、発令通知書には書いてあるのだが、いったいいつ自分が職場放棄をしたことがあるというのだろう。
 そこで発令から一週間後、職場を離れたのが日時を高良総務課長に確かめに行った。すると 「具体的に言う必要はない。わかっているからいいんだ」という答えが返ってきた。部下に罪人という判決を下し、処分まで言い渡しておいて、その理由も明らかにしないというのはいったいどういうことだろう。人権も何もあったものではない。
 仕方なく私は一人で理由に思いを巡らせた。すると一つだけ、思い当たる事柄に行き着いた。ただしその件は、すでに五年も前に解決済みのはずであった。しかし私には、それしか思い当たる節がないのだ。
 七九年のことである。私は役所から二度の職場離脱を注意された。一つは早朝に三階の総務課に移動していたこと。もう一つは隣室のエレベーター乗務員室で仮眠を取っていたことである。
 もちろんこの二つの移動にも理由はあった。総務室に上がっていたのは、仮眠時間中の同僚を起こしたくはなかったからだ。私は当時、唯一自分を庇ってくれたA氏とペアを組んでいた。顔面麻痺にまで追い込まれた頻繁の無言電話。早朝は、このベルが鳴らないわずかな静寂の時だった。だから、私はせめてA氏をゆっくり眠らせてあげたかった。総務室にいればA氏を起こすことなく電話を取ることができる。もともと早朝は私にとっても仮眠時間なのだ。電話を取ることに支障さえなければ問題ないだろう・・・。
 だが、総務課長は私に言った。
 「勤務時間中は、トイレ利用以外では宿直室を一切出るな」。そこで翌日から私は、トイレ以外に部屋を出るのをやめた。七九年八月四日のことである。
 エレベーター乗務員室で仮眠を取ったのも、やはり無言電話が原因だった。たまにはきちんとした仮眠を取らなければ、心身ともにダメになってしまう。そんな危機感から週末一回だけ、A氏と交代で仮眠場所として使用した。薄壁一枚に仕切られた隣室だ。声をあげさえすれば、いつでも宿直室に飛んで来られる場所だった。無言電話のために何らの措置も取られることのない状況で、守ってくれるのは薄い壁一枚だけ。情けないが苦肉の策だった。しかし数週間後、この行為さえも総務係長から日誌で注意を受ける。もちろん私達はその日から隣室の使用を中止した。

■訓告処分で信用失墜

 訓告処分といっても減俸されるわけでもなければ、停職期間があるわけでもない。ただ文章で、注意を受けるだけである。しかし、訓告にまったく意味がないかといえばそうでもない。停職処分などの重い処分が出されるのは、少なくとも過去に一回はこの処分を受た者に対して、という慣例が役所にはあるからだ。つまり文書訓告は、その後に始まる重い処分の予告編なのであった。
 また訓告は、私に対する信用を失墜させるのにも効果的だった。考えてみてほしい。職場では、上司・同僚からの評判が悪く、訓告処分まで受けている人物が、職場の不正を追及し続けている。この状況で私の話をまじめに聞いてくれる議員やマスコミ関係者がどれほどいるだろうか。これだけ大がかりな不正が、現在までほとんど騒がれなかった理由の一端もそこにある。
 このように影響力をもつ処分が、ろくな理由も示されずに決定されたことは、私に心理的な圧迫を与えた。しかし攻撃にうろたえている場合ではなかった。訓告処分を出されたのと同じ日に、さらに職務命令が下されたのである。そして私はとんでもない勤務体制を受け入れぜるを得なくなったのであった。

■従事不可能なら転職しろ

 まず、仮眠時間が五時間から二時間半に短縮された。寝てから二時間半後というのは、睡眠がかなり深い時期にあるため起きるのもつらい。ましてや午前二時半から五時までという常軌を逸した仮眠時間を指定された。こんな時間に体のリズムを合わせられるはずもない。だが私が規則を守れなければ、待っているのは首切りだ。他の職員が午前〇時から七時くらいまで、たっぷりと寝ている間、一二時から二時半など、逆立ちしても仕事のない時間ではあったが、私は睡魔と格闘し続けなければならなかった。
 さらに週に一から二回、事実上の四八時間勤務がまわってきた。このような長期労働と帳尻を合わせるためにつくられたのか、夕方一六時半から二〇時半までという奇妙に短い勤務時間もシフトには並べられていた。たった四時間のために、往復六時間をかけて木更津から通勤することになった。この変則勤務は私の体に打撃を与えた。
  勤務体制を変えられた表向きの理由は、鍼灸師に転職したA氏の退職に伴い、職員三人でローテーションを組むことになったからだという。しかし彼が辞めたのは内部告発をする少し前であり、以後、職務命令が施行される四月一日までの1年4ヶ月あまりは、アルバイトの人を含めた四人で仕事をしていたのである。慌てて三人体制にする必要もないはずだ。
  それだけではない。
-右制度に従事不可能と思ったら転勤等を昭和五九年三月二八日、午後五時までに総務課長事務取扱いまで報告すること-
 職務命令には、右のような文言まで付いていたのである。この冷たい言葉からは、勤務態勢の変更が、どういった意味をもつものであるかが透けて見える。もちろん多くの職員が、口頭でも変則勤務の意義を説明してくれた。当時の私の手帳にその言葉がメモされている。
「この勤務内容が無理と思うならば、学校警備など、似たような職場に移動すればいい。それが嫌なら退職するしかないだろう」(高良総務課長)
「あなたは追いつめられた。助かる道は一つしかない。変則勤務の作成責任者である船場職員課長か高良総務課長に哀れみを乞うことだな」(事務担当・佐々主査)
「あなたは内部告発をした。変則勤務は当然の報いだ」(組合幹部)
「変則勤務は宿直関係者の意見を参考にし、組合とも相談した上での決定であり特に他意はない」(日比区長)
 彼らが言いたいのは、「辞めろ」という一言なのだ。そして、彼らの感情が役所のシステムを動かしたことは、役所をあげての総攻撃が始まったことを意味していた。この後、牙をむきだした組織がどれほど怖いものなのかを、私は身をもって知ることになる。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第2回 追いつめられて内部告発

■(月刊『記録』97年10月号掲載記事)

          ※          ※           ※

■口からは猛獣のうなり声

 六ヶ月ぶりの出勤。待っていたのは冷たい視線と嘲笑だった。
 半年間も治療を続けていたとはいえ、体は思うように回復していなかった。相変わらず顔の右半分は動かず、緊張感を失った筋肉は不自然に垂れ下がったままだ。私の顔を見た同僚は、まず呆然としたように私を見つめ、それから正視に耐えないとでもいうように視線を外した。「バカなことばかりやっているから、あんな顔になるんだよ」という笑い声とともに、あざけりが背中から聞こえてきたのも一度や二度ではない。
 問題は外見だけではなかった。体は疲れやすく、集中力が持続しない。食事は口に含んだ液体のほとんどが流れ落ち、かみ砕いた食べ物は感触のない右ほおに溜まってしまう有様。そのうえ言葉をハッキリと発音できなくなった。特にパ・ピ・プ・ぺ・ポがひどい。本人はきちんと発音しているつもりでも、口から発せられるのは、まるで猛獣のうなり声だ。
 当たり前のことだが、役所で働く以上は、人々と必要最低限の意志疎通を図る必要がある。しかたなく身振り手振りを使って会話を続けたが、そのまどろっこしさに同僚達は苛立った。私の気持ちも焦った。さらに言葉を失う恐怖にさいなまれはじめた。言葉を話せなくなっても、せめて伝達手段だけは確保したい。手話の勉強を始めたのは、この気持ちからだった。
 もちろん半年ぶりに出勤したからといって、職場での嫌がらせが止むことはない。仕事の始めと終わりに、総務課で行われる出勤簿の受け渡しと事務伝達は、私を虐めることを仕事だと思い込んでいる総務課長の独壇場となった。有給休暇の取り方がおかしい、夏休みの届け出に不備があるなど。他の職員が指摘されることのない事柄を、ほじくり出しては毎日注意された。よくこれだけネタがあるものだと感心したほどである。
 電話の音が問題になったこともある。激しい耳鳴りのある私にとって、ベルの音はかなりの苦痛であった。そこで机上の電話は、音量を小さくしていた。課長はこれに目を付けた。音量を大きくしなければならないという業務命令を下し、私が従わないのを知ると、ベルの音量調節部分をガムテープでぐるぐる巻きにした。大音量で鳴り続けるようにしたのである。
 もちろん敵は上司だけではない。嫌がらせをする機会を多くの同僚が狙っていた。ロッカーに鍵を差し込んだまま、その場を離れたときなど、数分で錠が下ろされ、鍵はなくなっていた。結果は言うまでもない。上司に嫌みを言われながら、鍵の交換となった。
 上司・仲間、そして自分の体にまで不安を抱いていた当時の私にとって、唯一の救いは一人の同僚、A氏だった。発病の2年ほど前に、夜勤として採用された彼は、つねに私の味方となってくれた。彼の入職によって、私は敵視されている同僚と組んで仕事をする苦痛から解放された。復帰後も一時間ごとにかかる夜中の電話への対応を、すべて引き受けてくれたほどだ。
 ところが唯一の味方にも異変が起きてしまう。最初に私が不安を感じたのはその表情だった。いつも活力にあふれていた彼が、次第にうつろな顔で仕事をするようになり、とうとうある日、自律神経を病んでいることを告げられた。「五十嵐さん、オレもきちゃったよ」。原因は夜中の電話である。そして私の復帰から約一ヶ月後、彼は二ヵ月間の入院生活に入るために休職した。

■口頭注意はセレモニー

 このままでは潰されてしまう。誰かを頼れば迷惑をかける。使える武器は何もない。頼れるのは自分だけ。窮鼠猫を噛むとでもいおうか、私はついに必死の反撃を開始した。職場の上司が代わるたびに面会を申し込み、架空勤務の実態を訴えかけた。上司が判を押さなければならない日報には、詳しく状況を書き込んだ。しかし返ってくるのは、依然として執拗な私へのイジメだけだった。
 部課長クラスに訴えても事態が改善しないと悟った私は、次の作戦へ打って出た。当時の豊島区長・日比寛道氏にターゲットを変えたのである。ただし秘書課を通して区長へのアポイントを取れば、断られることは目にみえている。幸い区長室は役所内にあった。そこで私は直訴を決意した。
 ところが運が悪かった。たまたま区長室の近くに居た総務課長に、区長室に入ろうとする姿を目撃されたのだ。総務課長は慌てて私を捕まえ、別室に引きずり込んだ。実力行使に出ることも考えたが、やはり直属の上司である課長を振りきって部屋を飛び出すわけにはいかない。結局この日は、課長と数十分、不毛な話し合いをしただけに終わった。
 結果的に、この突発的な行動は大きな事態の進展に結びつかなかっが、一つだけハッキリしたことがあった。架空勤務の実態を区長が知ることに、課長は強い恐れを感じていることだ。区長に事実を突きつけることができれば、何かが変わるかもしれない! 私は一縷の望みを託して、架空勤務の実態を書き記した手紙を記した。そして内容証明付きで区長の自宅に送りつけた。
 効果はあった。投函した数日後には上司から同僚に対して、口頭で注意が行われたのである。ところが一ヵ月が過ぎ、半年が経ち、一年を経過しても架空勤務は変わりなく続いた。口頭注意など形式的なセレモニーに過ぎないことに気づいたときの私の落胆は、期待していた分だけに大きかった。
 こんなことは役所の常套手段だと今ならば考えられる。しかし、当時の私は人間を信じていたのだ。訴えが正しいものならば、必ずどこかで取り上げられると確信していたのである。事態が改善しないときのために、内部告発に備えての文章を、実はこの頃から少しずつ書き進めてもいた。だが、できれば役所の自浄能力によって事態を改善したかった。私もできれば穏便に済ませたかったのだ。しかし何も変わらないままに、一年半の月日が経過してしまった。

■頭を下げた部長

 内部告発へのためらいを最後に消したのは、結局「オマエの言うことなんか、聞く耳はもたいないよ」という同僚の一言である。架空勤務を続けるくらいなら、役所を辞めてほしいという私の訴えに対する答えがこれだった。その言葉を聞いたとき、何かが私のなかで崩れた。胸の奥底でまだ、なお信じていた人間への信頼感、区長への依頼心、そしてどこかに残っていた同僚に対する友情・・・・・。
 ためらいが無くなれば、ことは簡単だった。架空勤務について内情を詳しく書き込んだ書面を五〇枚ほどコピーし、豊島区議員すべてに送りつけた。就職してから一二年、顔面マヒの入院から六年を経た一九八四年二月。ついに私は内部告発に踏み切ったのである。
 私の行動に対する反応は素早かった。ポストに投函してから二日後には、上司から次々と呼び出しがかりはじめた。まずは総務課長、さらに総務部長までが登場した。当時の総務部長で、現在の豊島区長でもある加藤一敏氏からは、「私達は何とか君の要望に沿うように努力してきたつもりだが、それを踏みにじるような行動は非常に心外だ。こんなに騒がせて君は責任が取れるのか。もし架空勤務がなかったら、役所を辞めろ」と、辞職まで迫られた。
 また、組合からは呼び出しがかかり「波及効果を考えたのか」と詰問された。区議会からの圧力によって、組合員が既得権を失うことを彼らは何よりも恐れたのである。彼らにとって、職員の不祥事を議員に流すことなど、もはや背徳行為以外の何ものでもなかった。そしてまさしく度々議題に上がっていた夏期休暇の縮小が、この内部告発から時を経ずして区議会で可決されている。
 議員からの食いつきも悪くはなかった。上司からの呼び出しとほぼ同時に、一人は電話で、もう一人は直接私を訪ね詳細を確認していった。そして二~三日後、驚くべきことが起こった。「確かに架空勤務の実態はありました。先日は、失礼なことを言って申し訳ありませんでした」と、あの総務部長が私に頭を下げたのだ。
 部長の声を聞いた瞬間、私は驚き、そして心から安堵した。これまでの長く苦しい闘争も、区民をばかにしきった不正行為もやっと解消される。そう確信したからだ。しかし、希望と喜びに胸をなでおろしている私の足元で、大激震の準備が静かに進められているとは思いもしなかったのである。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第1回 命を賭けた闘いが始まった

■(月刊『記録』97年9月号掲載記事)

■五十嵐稔(いがらし・みのる……1944年、神奈川県生まれ。67年に中央大学法学部卒業後、72年豊島区役所に就職。過去、2件の訴訟―「停職6ヶ月処分取消訴訟」「官官接待に関する食料費についての返還訴訟」―で係争。現・豊島区議)

        ※             ※              ※

一三六五万六一二二円。
 一九八九年五月一〇日から九一年一一月一四日のわずか二年半に、豊島区が官官接待などに使った食料費の金額である。情報公開条例によって開示された段ボール五箱分の資料が、豊島区における食料費の不正使用を教えてくれた。区役所の担当者と同じ筆跡で書かれたモノ、店が打ったナンバリングと書き込まれた日付に矛盾があるモノなど、夥しい数の領収書は役所と私の攻守を変えた。二五年にわたり自分を攻撃してきた豊島区職員の上司が、訴訟を取り下げてくれないかと内々に打診してきたほどだ。それは職員・労働組合・区議会からサンドバックのように打たれ続けていた私が、初めて試合の主導権を握った瞬間だった。

■勤務時間は規定量の半分

 七二年当時、定職を探していた私は、職場に多大な期待を抱いていたわけではない。当たり前に仕事をこなし、普通に給料をもらおうと考えていただけだ。そんな私が豊島区役所の求人広告に目を留めたのは、一六時半から翌朝の九時までという勤務時間にひかれたからである。
 六七年に大学を卒業後、司法試験の合格に向けてアルバイトをしながら勉強を続けていた私にとって、夜間に公務員として働ける環境は魅力的に思えた。長時間拘束されるとはいえ、勤務中の零時から五時までは仮眠時間となっている。これならば司法試験に向けた勉強を日中に続けることができる。もちろん給与も納得いくものだった。ぜいたくをしなければ、きちんと生活できるぐらいの給与が保証されていた。
 役所に勤め始めてしばらくの間は、何の問題もないように思われた。ただ夜間に勤務している同僚が、一時間、二時間と遅刻してくるのだけが気にかかったくらいだろう。とはいえ私も二八歳という年齢上、一般的な処世術くらいは身につけていた。規則通りに仕事が進まないことも理解していたし、職場で無用な争いを起こさないようにする方法も知っていた。
 ところが同僚たちが出勤する時間が日々遅くなっていった。遅刻は数時間から半日に拡大し、さらに欠勤が当たり前となった。夜勤は二人一組ですることになっており、出欠の帳簿には二人の職員の名前が書き込まれているが、実際の現場には一人しか出勤しない状態になったのである。順番に休みを取り、出勤した者が仲間の分まで出欠の帳簿に記入する方法で、同僚の勤務時間は規定量の半分となった。

■お前もさぼれ!

 さすがにここまでくると見て見ぬふりをしているわけにもいかない。日勤から引き継いだ通常業務をこなしているうちは問題ないが、夜間に災害などの緊急事態が起これば、一人で対処できるのだろうかという不安もあった。
 ところが意を決して注意した同僚からは、予想もしなかった言葉を投げつけられた。
「お前もカラ超勤手当やカラ出張手当をもらっているだろう。その方がもっとひどいことなんだぞ。俺達に注意するぐらいなら、不正給与を解決してからにしろ」。恥ずかしながら、この時初めて不正給与の存在を知った。給与明細は毎月見ていたが、残業代がよけいに支払われているとは気づいていなかったからだ。この事実に私は驚き、そして暗澹たる気持ちになった。出欠を組織ぐるみでごまかす行為でさえ、まっとうな職場では起こらない。ところがそれ以上の悪事が、役所全体で行われているというのだ。しかし当時は、この問題によって自分が二五年間もイジメ抜かれることになるとは思ってもいなかった。
 同僚に直接苦言を呈してもいっこうにらちがあかないと感じ、私は係長に相談することにした。さすがに上司の対応は素早かった。私の話を聞いた後、すぐに同僚を呼び出し、きちんと出勤するように注意したのである。しかし問題は解決するどころか、ますます悪い方向に転がっていった。
 なんと注意した係長は、私と同様にカラ超勤手当・カラ出張手当の問題を持ち出され、何も言えなくなってしまったのだ。それだけではない。この日を境に、私が不正を騒ぎ立てないよう上司も圧力をかけてくるようになったのである。もちろん上司公認で出勤日を偽れるようになった同僚も、出勤簿通りに勤務する私を目の敵にした。
「お前もさぼれ。俺達がやりにくいだろ」。こう同僚から言われ、ふつふつと怒りがこみ上げてきたのを私はハッキリと覚えている。どうしてさぼりたくもない私まで巻き込むのか。組織全体が腐りきり再生不能なら、せめて巻き込まないでほしかった。ところが私の意思に関係なく、彼らの強引な説得が何度となく繰り返された。
「言うことをきかないと、もっと圧力を受けることになるんだぞ。素直に俺達の言うことを聞けば、退職まで波風が立つこともない。要所要所で権限をもった人がうまくコトを運んでくれる。これはお前に対する最後の救済手続きだ。せっかく手を差し伸べているのだから、紫の雲に乗れ。今、俺達の忠告を無視すれば、今後さまざまなことが起こる。それにお前が耐えられるとも思えない。世の中とはそういうもんだよ」
 出勤するとこんな話を聞かされる。そのたびに私は情けなくて、寂しい思いをした。とにかく全員で不正を働かなくては落ち着かない小心さや、少しでも休みを増やそうとする浅ましさ。そんな人達と同じような行動を取るには、どうしても自分のプライドが許さなかった。そして私に対するこの執拗な説得が、逆に私の正義感に火をつけた。
 この問題を解決するために、私は上司や労働組合にも掛け合い、労働組合の大会でも発言した。しかし事態は悪化する一方だった。上司にとっても、労働組合にとっても、カラ超勤手当・カラ出張手当は大事な既得権。その権利を守るためには、出勤のごまかしなど黙認すべきものなのだ。
 私が不正に対して声を上げたことで、説得をしていた同僚の態度は厳しさを増していった。職場で村八分となり、誰も口をきいてくれない日々が続く。警備員を含め八~九人の職員が働いているのに、一言の挨拶もない。組合でも「変わった男だから相手にするな」と噂され、上司からは「お前が何を言っても聞く耳はもたない」とさえ言われた。

■一時間ごとに無言電話が

 このような状況のなか新たな問題が発生した。
 私と組んでいる同僚が、「君と組んでいるとさサボれないので不公平だ」と言い出したのである。確かに私がきちんと出勤するために、いつも私と組んでいる同僚はサボれる日数が、他の二人よりも極端に少なくなっていた。そんな訴えなど、取り上げる方がおかしいと思われるだろうが、なんとローテーションは変更されたのである。同僚の三人が同じだけ休めるよう、私と出勤する日にちが綿密に計算された。
 こんなくだらない理由のためにローテーションを変更するのは反対だったが、私以外が賛成だったため、三対一の多数決によって押し切られた。この決定に不服だった私は組合にも訴えたが、多数決自体に誤りはないとして、平等にさぼるためのローテーションに組合はお墨付きを与えた。
 この事件が起こってから、同僚との関係はさらに冷え切ったものとなる。私を名指しこそしないものの、誰にでもわかるように私の悪口を言うようになった。しかし人間は強いものだ。誹謗中傷のたぐいも、毎日聞いているうちに慣れてくる。職場で孤立していることも気にならなくなっていった。しかし状況は改善しない。不正は続き、不毛な嫌がらせも止まることがなかった。
 新たな嫌がらせが始まったのは、区役所に勤め始めて3年ほど経ったころだった。午前零時から五時までの仮眠時間に、一時間ごと無言電話が入るようになったのだ。夜間の電話には、緊急事態が発生した可能性があるので、取らないわけにはいかない。慌てて電話を取ると、数秒の沈黙があり電話は切れる。相手の受話器を通して、マージャンの音や酒場の喧噪が聞こえてくることはあっても、声が発せられることはなかった。こんな悪質な嫌がらせも、一週間ぐらいなら何ということはない。しかし一日置きの出勤日を狙って休むことなくかけてくる無言電話が、数ヶ月も続くに至って、私は精神的にかなり追いつめられていった。
 夜中受話器を取ったと同時に、自分が自宅にいるのか勤務先にいるのか、一瞬わからなくなる。そんな小さな錯乱こそ、痛めつけられた私の神経が発した最初の悲鳴だった。それでも私は区役所に出勤した。明らかに自分が正しいのに、しっぽを巻いて逃げるわけにはいかない。

■結婚も安定もあきらめた

 そして次の変調は突然に現われた。
 七五年春。その日はどうも頭が痛く、やけに周りの音が大きく聞こえた。どこがおかしい。明日は医者に行かなければいけないと考えながらも働いていた。そして夜間の時間。にぎり寿司をつまんでいた私は、口に入れたシャリが右の口元からポロポロこぼれていくのを発見した。自分の体が少しずつ制御を失っているのを実感するのは気持ち悪いものだ。だが、自分の力ではどうしようもない。
 仮眠時間になるとお約束の無言電話がなり始め、熟睡できぬままいつものように朝を迎えた。洗面所で顔を洗い、フッと鏡を見ると変わり果てた顔の自分がそこにはあった。顔の右半分が硬直しており、表情が消えていたのだ。右目を閉じるには、指でまぶたを下げなければならない。
 役所を引き上げ病院に駆け込むと、顔面麻痺と診断された。神経性の病気だった。病名がわかっても顔面の麻痺が治るわけではない。私の顔は日に日に崩れていった。右の眉が左の眉より二センチも下がり、顔の右半分だけがひきつっていた。自分の顔はおろか、人間の顔と呼ぶのもためらわれるほど、私はすごい形相をしていた。
 ひどいのは表情だけではなかった。右目から耳のうしろにかけて、鋭い痛みが走り続ける。モノがぼやけて見え、口に入れた食事は、閉まりきらない口元から流れ続けた。そして頭も働かなくなった。簡単な事務連絡をするための手紙が、一日かかってやっと書けるようになるといった具合だ。
 六ヶ月間の有給休暇を取り、治療に取り組まざるを得なくなった。治療をしてくれた医師は、「またストレスがたまり、顔面麻痺が再発したら、二度と社会復帰できませんよ」と、私に語った。その言葉を聞いたとき、しかしなぜか転職は思いつかなかった。むしろ私は自分に賭けてみようと思った。自分をここまで追いつめた職員と闘い続けてやろう。病気が治ったら、豊島区が続けている不正を世間に公表しよう。そう考えて、一人闘志を燃やしていた。
 このとき私は、結婚をすることも世間並みに生活することもあきらめた。自分が正しいことを証明するため、私を追いつめた役所を逆襲するため、豊島区民をバカにしきった行政の姿を知らせるために、職場復帰の日を待ち続けたのだ。 (■つづく)

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