内部告発・豊島区は税金泥棒/五十嵐稔(現豊島区議)

内部告発・豊島区は税金泥棒/最終回 区議会議員選挙立候補

■月刊「記録」99年6月号掲載記事

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 三月一九日の月曜日、国会議員の中村敦夫さんとともに巣鴨地蔵通り商店街を私は歩いていた。区議会議員選挙の運動のためにである。一軒ずつ商店を廻り、商店主や通行人に挨拶を繰り返した。
 私が立候補を決意したのは、半年以上も前のことになる。六ヵ月の停職処分の裁判における役所の対応が、その大きな原因である。
 当時、カラ超勤を証明する決定的な証拠を、私は裁判所に提出していた。その証拠とは、端的にいえばカラ超勤のためのマニュアルとも呼べるものだ。ある職員が作成したその書類には、カラと見えないようにするためにはどうするべきなのか、具体的な方法論が書かれていた。

■そんなばかな話があるか

 この証拠を前に、区役所の代理人はぬけぬけと言い放った。
  「これは一職員が作った個人文書に過ぎません。つまり公文書ではないのです」
 公文書ではないから、カラ超勤の証拠にはならないという主張である。だがマル秘と書いてある文書が、どうしたら個人の文書となるのだろうか。
 もし役所側が語る通りなら、文書を作った一職員の行動は奇怪極まりない。ありもしないカラ超勤を想定して、どうすればバレないかを想定。その方法論をワープロで打ち込んだうえに、ごていねいにマル秘の印まで押して保管してきたことになるからだ。それも職員としての仕事と関係なく。
 役所の代理人の浮き世離れした説明を聞いて、役所の自浄能力のなさに、私は改めて暗たんたる気持ちになった。裁判に勝ったとしても、これでは役所のカラ超勤体質の改善は進まない。
 ――もう区議会しかないかな。
 それが私の結論だった。区議会でこの問題を取り上げ、事実を指摘していけば、役所が変わる可能性だって出てくる。
 そして私は立候補を心に決めた。
 立候補するにあたって、まず最初の問題となったのは、私が役所の職員だったことである。
 というのも行政職員は、選挙に立候補することで、自然退職させられてしまうからだ。たまたま私は現業職員という立場だったので、この規約には触れない。だが現業職員でも、行政事務を担当している職員は自然退職しなければならないという規約があることがわかったから大変だ。
 公文書を作るのも行政事務の一部には違いない。選挙に落ちた途端、いきなり区役所を辞めさせられたのでは堪らない。
 そこでまず職員課に問い合わせると「選挙に立候補しても、現業職員は自然退職にはならない」という。だが役所相手に口約束など信じられるはずもない。文書を出すように私は要求した。
 さすがにいつも私ともめ続けている職員課だ。ほどなく文章が作られ、私の手元に送られてきた。
 だがその文書には、区長の印もなければ、担当課長の印すらなかった。それどころか文書を制作した担当者の名前さえない。マル秘文書を公文書ではないと言い張る役所が相手なのに、こんな文書を信じるわけにはいかない。選挙が終わったところで、そんな文章は職員が個人で作ったものだと言われ、自然退職の手続きが取られても抵抗のしようがない。
 そこで、さっそく職員課に電話をし、文書の不備をただすと、「区長の印など簡単にもらえるはずがない。こちらを信用してもらうしかない」などという。一体どうすればこれだけ嘘をつかれた役所を信じられるというのだろう。仕方なく、区長に内容証明の郵便を送りつけることを伝えて電話を切った。
 やはり内容証明の郵便には、効力がある。
 時間はかかったものの、私は区長から自然退職にならないお墨つきをもらい、選挙運動へ突入することができた。

■一日三〇ヵ所で演説の日も

 区民への私からの働きかけの第一歩は、「豊島区行革一一〇番」のビラを一軒ずつ区民のポストに配ることだった。選挙のために私を売り込むというのではない。区民が知っている区政の悪事、区に対する区民の不満などを集めるネットワークを作りたかったのだ。
 三月のはじめ頃だった。私は五時一五分に職場を出ると、まっすぐに家に帰り、食事を済ませ、ビラを持って出かけた。まだまだ春というには早い季節。ジャンバーを着込み、さらにその上に膝丈のナイロンのオーバーを着てひたすら豊島区を歩き回った。
 翌日は、もちろん仕事が待っている。それだけに無理はできない。七~一〇時までの三時間が、ビラ配りに使える時間の限界だった。
 もちろん体力的にも、決して楽ではない。
 歩き回った翌日は、ふくらはぎが張り、脚全体に疲れが残る。だが休むわけにはいかない。必死に歩き回っても、一晩で配れるビラは五〇〇~七〇〇枚にしかならないからだ。
 結局私は、三週間にわたって配り歩き、一万枚近くのビラを投函し終えた。
 職員や町会長に配った時には、ほとんど効果を感じなかったビラだが、さすがに区政に不満を持っている区民からは反応があった。職場から帰ってくると、「ビラを見ました。がんばってください」というメッセージが留守電に吹き込まれていたことも少なくなかったからだ。
 役所の職員として働いている限りは、カラ超勤やカラ出張など当たり前のことだと思ってしまう。だが一般企業に勤めたり、自分で商売をしている人にとっては、役所の常識などは通じない。ビラの反応を見て、改めてそう感じた。
 区議選の選挙運動期間は、わずか一週間しかない。その間に、区内三〇五ヵ所の掲示板に自分のポスターを貼りつけ、そのうえで街頭演説なども行わなければいけない。
 五日間の有給休暇を取り、すべての労力を選挙に向けて集中したが、その忙しさは半端ではなかった。晴れている日には、ボランティアの人達と区内を回った。一日に三〇ヵ所を回って、街頭演説したこともある。小さなスピーカーをボランティアに持ってもらい、およそ三分間、自分が立候補した理由を述べ、豊島区行政の浄化を訴えた。
 雨の日と夜はビラ貼り。
 人出の少ない雨の日に演説をするよりは、少しでもビラを貼ったほうが効果があると思えたからだ。
 選挙期間中の雨はひどかった。掲示板に叩きつけられた雨が、滝のように流れ落ちる。タオルで自分のポスターを貼る場所の水気を拭き取り、急いで貼らなければならない。私は雨合羽を着て貼り続けた。
 選挙管理委員会から提供された掲示板が記入してある地図は、ポスターを貼りに行くたびにボロボロになった。家に帰ると広げて乾かしていたが、最後には渡された三枚の地図が読みとれないほどまでになった。
 三〇五ヵ所の掲示板のうち、私が自力で貼ったのは、八〇ヵ所。二〇〇ヵ所は三名のボランティアの人達が貼ってくれた。残り二五ヵ所近くの掲示板は、私のポスターを貼ることなく選挙日を迎えてしまった。
 五七八票。
 それが私が得た得票のすべてだった。今回の当選者で最低の得票数は、一三〇二票。つまり七二四票 届かなかったわけだ。だが選挙を通じて、私は応援者を獲得した。

■闘いの果てに手にしたものは

 二〇年近く前、私はたった一人で役所と闘っていた。誰も応援してくれる人もなく、いじめられ、病気とも闘いながら、不正を訴え続けてきた。そんな私が五七八人もの支援者を持った。ギリギリだけれども、法定得票数にも達した。
 それが私には幸せだ。
 気がつけば、人生の約半分を区役所との闘いに費やしていた。好きで始めたわけでもない。攻撃されたから、自分の身を守るため、そして最低限のモラルを守って働きたいと始めたことだった。私は役所との闘いに楽しみを感じたことなどない。だが自分の人生を後悔してもいない。
 確かに闘い続けてきたことで、親孝行も充分にはできなかった。しかし自分が信じたことを、行い続けてきた自負が私にはある。それが私の誇りとなっている。
 私が闘い始めた頃とは、社会も大きく変わった。情報公開条例もできたし、行政訴訟で市民が勝てるようにもなってきた。私の裁判も、近いうちにされほど悪くない結果を生むと思う。
 連載は今回で終わりだが、裁判結果はいつかご報告したいと思っている。読者の皆様には、長期にわたりご声援をいただきありがとうございました。(■了)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第19回

■月刊「記録」99年5月号掲載記事

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 平成九年四月から出勤することになった新しい職場は、総合体育場といい、区の外郭団体である「コミュニティ振興公社」に統合されている一部署であり、体育施設の維持管理が主な業務である。先月紹介した通り、「コミュニティ振興公社」の上層部には私の仇敵ともいえる人々が勢揃いしていた。そんな職場が働きやすいはずはない。小さないじめが、日常の業務のところどころに顔を出した。

■レッテルを貼って送り出す

 私だけに業務連絡が届かない。担当の仕事を任されることもなく、脈絡のない仕事ばかりをさせられる。チクリチクリと針で刺されるかのように、私の神経を逆なでする出来事が続いた。
 なかでもショックだったのは、「どーうしようもない職員が来る」という噂が、配属前から職場中に広められていたことだった。噂の出所はまもなくわかった。それは所長であった。配属後のある時、私は当時の所長に「なぜ私には、行き当たりばったりの仕事を与えるのか、なぜ、まとまった仕事を与えようとはしないのか」と質問したことがある。すると所長は即座に「貴方は余分な職員だからだ」と正面から答えた。私はどちらかといえば鈍感な性格である。しかし、そこまで正面から言われたのでは「はぁ、そうですか」と終わりにするわけにはいかなかった。
 カチンときたので「なぜ、私は余分な職員なのか説明してほしい」と突っ込んだ。以下所長の返答である。
  「貴方の当体育場への異動は、こちらで望んで来てもらったわけではない。職員課の人事担当から『五十嵐という、箸にも棒にもかからない、どうしようもない職員がいる。彼を異動させたいのだが、どの部署でも願い下げだと言って彼を受け入れるところがない。何とか面倒を見てやってくれないか』ということだからやむを得ず受け入れたまでだ」ということであった。
 私は、これを聞いて、またまた望月治夫職員課長の辣腕に感服せざるを得なかった。停職中に私の戻るべき専従宿直業務を廃止に追い込み、復職後は、有無をいわさず自転車対策係に異動させ、二ヵ月にもならないうちに、さらに職務命令をもって一方的に外郭団体に派遣する。派遣先には、「どうしようもない職員」というレッテルを貼って送り出す。
 総合体育場は外郭団体であるから、出先機関の出先にあたる。当然、私と役所間の長い確執など知るよしもない職場である。役所の眼には、おそらく総合体育場が、私を厄介者として押し込めておくには、最適の場所として映ったのだろう。まさに職員課長は(それが誰に対してかは言わないが)、忠犬ハチ公そこのけの忠臣ぶりを発揮したわけである。 
 こうして、私はただの厄介者として、新しい職場で働き続けることになった。

■第二月曜日に出頭命令

  「どうしようもない職員」とのレッテルが貼られているのであれば、なおさら私は、細心の注意を払って働かなければならないはずであった。しかし異動してきてすぐ、私は同僚にひどい迷惑をかけてしまったのだ。
 毎月、職場が猛烈な忙しさに見舞われる日がある。それは第二月曜日だ。この日は、野球場・テニスコート利用日の抽選日となっている。この日に、私は二回続けて休むことになってしまった。同僚から「この日だけは休まないでくれ」と言われていた日であった。
 実は役所側の弁護士が、その第二月曜日を裁判日に指定してきたのである。弁護士を頼まず、本人訴訟で行っていたため、裁判には私が出席しないわけにはいかなかった。それでも、続けて二度までは愛嬌で我慢もしよう。しかし三度続いた時には、さすがに腹が立った。
 三回目に指定された時、私はさすがに頭にきて、第二月曜日だけは指定しないようにと裁判長に願い出た。そのかいあってか、以降、第二月曜日は指定されてはいない。しかし裁判を抱えていることなど知らなかった同僚達は、私の二回の有給休暇に、かなり怒っていたという。
 ほぼ月一回のペースで、裁判は開かれている。その一日を、三回連続で第二月曜日に指定してきたのだから呆れてしまう。事情をよく知る役所側が狙ってやったことだろう。私の職場での立場が悪くなればなるほど、役所側にとっては好都合なのだ。セコイといえばセコすぎる嫌がらせだが、こうした小さな積み重ねが職場の人間関係には大きく影響してくる。そしてこの二年間も、私には細かい攻撃が繰り返され続けた。

■カラ領収書のオンパレード

 しかし遂に、私と役所との形勢が逆転する日がやってきた。役所にとっては残念なことに違いないが、先日、裁判は、ついに私に身方した。
 私の提訴から逃れるために、九七八万八五二七円もの食糧費支出を、加藤一敏区長が豊島区に返還したのだ。 今から二年ほど前に起こしたこの裁判は、情報公開制度を利用して、豊島区職員が支払った食糧費の明細を引き出すことから始まった。予想された通りだったというべきか、公開された領収書は偽造のオンパレードだった。
 まず領主書に記されている通し番号が日付通りに並ばない。店からカラの領主書をもらい、適当に日にちを記入したものだから、通し番号まで合わせることができなかったのだ。
 また、店が作ったはずの領収書に、なぜか豊島区の公文書で使用されるゴム印が使われたりもする。領収書を作った区の職員が、何の気なしに押したのだろう。このゴム印など、領主書を偽造している決定的な証拠だと思うのだが、役所側は例によって認めようともしない。区役所で使っているゴム印を、店の店員がどこから手に入れ押したというのだろう。偶然で済まされるはずはないのである。
 さらによく利用する店の場合には、区役所は口座振替で代金を支払うのが通常であるのに、怪しい領収書に示された金額は必ず現金払いにされている。なぜ口座振替にならなかったのかは説明するまでもないだろう。金融機関に証拠を残すことなく、お金を動かしたかったからだ。
 もっと決定的な証拠もある。
 平成九年五月七日、フジテレビの報道番組で豊島区の食糧費疑惑が報じられた際、領収書を切ったはずの店の主人が、「白紙領収書に役所の職員が記入したものだ。うちの店はこんなに高くない」と発言しているのである。
 これだけ証拠が出そろっていても、区役所側は「支出は適切」などと裁判で主張し続けていたのだから救いはない。だが、ここでカラ領収書の存在を認めれば、私が指摘し続けてきたカラ超勤も説得力を持ってくる。役所には、それが怖かったのだ。
 最初、私はこの裁判に勝てるかどうか不安だった。
 いくら証拠がそろってはいても、裁判所が認めてくれなければ勝つことはできない。それまでの裁判経験から公的機関を追い込むのがどれほど難しいかわかっていただけに、私が入手した証拠がどれほど意味を持つものなのか、今ひとつ自信が持ずにいたのだ。
 しかもこの裁判は、弁護士を雇わない本人訴訟である。
 いくらこれまで裁判を何度か経験しているとはいえ、弁護士が行っていた仕事を自分で行うのは並大抵のことではなかった。まず裁判に必要な手続きの詳細がよくわからない。さらにどのように裁判を方向づけていけばいいのか、審理の進め方がわからない。そんなところでマゴマゴしている私をうまく導いてくれたのは、いつでも裁判官だった。役所と私の争点をしっかり見据えて、公平に裁判指揮をしてくれたのだ。

■様相を変えつつある私の闘い

 裁判所からは、まず領主書を発行した飲食店に送付嘱託命令が出される。つまり店側に、本来保管してあるべき領主書の原本を提出するように、裁判所からお願いをするのだ。この命令には強制力がないため、「どこにあるのかわからない」などという理由で、店側は証拠の提出を拒んできた。しかし、この時の店側のショックは、想像以上に大きかったはずだ。
 カラの領収書をくれとお得意さんに言われ、何の気なしに領収書を渡したがために、ある日、裁判所から命令書が届くのだ。もとよりカラの領主書なのだから、原本を店が保管しているはずもない。きっと区の担当職員には、店から苦情が入ったことだろう。
 そして次に、強制力を持つ命令書、証拠提出命令が裁判所より発行された。原本などもとから持っていない店側と、証拠などないとは言わせられない役所側は、さぞやあわてたことだろう。さらに四月から、区長が変わることも決定し、自分の悪事を新区長に引き継ぐわけにもいかないお役所事情にも迫られたことだろう。
 こうしたにっちもさっちもいかない状況を前に、加藤氏が選択したのが、請求された食糧費の全額返還だった。返還すれば、私には訴えの利益がなくなり裁判が終わる。そうすれば店への提出命令も撤回される。そう思ったのだろう。
  「相手側の主張を認めたのではないが、区長を退くにあたって跡を濁したままにしたくない」(『東京新聞』三月二三日付)。これが全額を返還した加藤氏のコメントだ。人を喰った言い分には、ほとほと恐れ入る。
 だが彼の予測は外れた。裁判は結審とならなかった。なぜ全額を返還したのか、その理由をハッキリしろと、裁判所は役所側に言い渡したのである。
 私の言い分を認めていないのに、言われた通り金は払う。この矛盾した言いぐさを、どうやって論理的に説明するのかは、今後の注目点になるだろう。
 食糧費返還のニュースは、朝日・読売・東京各紙の社会面で報じられた。それなりの大きさで扱われ、私自身が驚いたほどだ。ただただ孤独だった私と役所の闘いも、少しずつ様相を変えつつある。少なくとも、武器もなく、展望もないゲリラ戦からは脱却しつつある。
 この食糧費の裁判の行方は、私の停職処分に対する裁判にも少なからず影響を与えるだろう。二七年間にも及ぶ役所との闘いは、何らかの幕引きに向けて動き出している。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第18回 異動に次ぐ異動

■月刊「記録」99年4月号掲載記事

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■停職明けは日曜日

 六ヵ月の停職処分が空けた日は、なぜか日曜日だった。指定された日が、そうなのだから仕方ない。職務命令違反になるのも嫌だったので、バカ正直に出勤した。
 案の定、日曜日の八時半なんて誰もいない。とりあえず宿直室に出向いたが、宿直の当番に当たっていた昼間の職員は、けげんそうな顔をして私を出迎えただけだった。
 それならばと庁舎の三階に総務課を訪ねてみた。だが、ここにもいたのは庁舎係長だけ。彼に出社の旨を伝えると、「そんな話は聞いていない」と言う。それならばと総務課の係長の実家に電話をすると、「今日じゃない。明日だ」と素っ気なく言われてしまった。
 当たり前だ。日曜日に停職が明けるわけもない。それでもついつい疑ってしまう。勝手に命令に逆らえば処罰の対象になるからである。疑り深くなってしまった自分に苦笑しながら、その日は自宅に帰ることとなった。
 翌日、ついに本当の出勤日を迎えた。ゼロからのスタートという気持ちだった。
 次に処分をくらえば、間違いなくクビ。ここまで追い詰められはしたものの、停職中に反撃ののろしをやっとあげることができた。情報公開で得た書類は、私の裁判を大きく変えていくに違いないと確信させるに充分だった。役所側に攻撃の糸口をつかませないよう、自分の言動には細心の注意を払わなければならないが、当時の私と役所の立場は五分と五分。本当の勝負は、ここから始まる。そう感じていたからこそ、ゼロからだと感じたのだろう。
 役所の三階、いつもの総務課を訪ねると、予想外の言葉に驚かされることになった。なんと「どこの所属になるか決まっていないので、決定するまで宿直室で待っていてくれ」と鈴木敏万総務部長が言う。停職中に所属している部署がなくなることも珍しいが、職場復帰した時に、所属が決まっていないのは尋常ではない。
 仕方なく、宿直室でボーっと、配属が決まるのを待っていることとなった。ところがいつまでたっても辞令が来ない。やっと呼び出されたのは、午後三時過ぎだった。ところが「今日は決定しなかったので、明日、また来てくれ」と、言われたのだ。
 果たして役所は、本当に私を働かせる気があったのだろうか。働かせる気がなかったから、所属を決めていなかったのではないか。当時、私の頭の中では、ある疑惑が頭をもたげ始めていた。
 実は、職場復帰の数日前、近藤勝弁護士の事務所に「五十嵐が処分を受けないように気をつけろ」という不気味な匿名電話が入ったのである。私の弁護士事務所に電話をかけていることから考えて、役所と私の闘いに関与している人物に間違いはない。そのような人物が、わざわざ電話をかけてきたのだから、役所になにかしらの動きがあったのだろう。しかも出勤当日になっても、所属が決まっていないという。勘ぐりたくもなる話だ。
 ただ私にとって幸運だったのは、初出勤の二日前から、豊島区のカラ超勤の問題を『東京新聞』が、二日連続で大々的に報じたことだ。マスコミが区の不正に注目しているとあれば、その不正と闘っている私を簡単には処分できない。マスコミの視線を感じた区当局が、私に対する処分計画を見直したのではないか。確証はない。だが、それならばすべてのつじつまが合う。不気味な符号を感じた。

■楽しい職場は許されない

 翌日、通常通り八時半に出勤すると、まだ所属が決まっていないという。結局、この日も半日に待機状態の後、所属異動の辞令を交付された。
 役所のお偉方、七~八人に囲まれて言い渡された配属先は、土木部交通対策課自転車対策係だ。何のことはない。放置自転車の撤去作業を行う係である。
 辞令の交付時に、助役に私は質問を申し出た。次の二点をどうしても問いただしたかったからだ。
 一つは、役所側が一方的に専従宿直制度を廃止しておきながら、私の所属する組合にも、影響を直接受ける本人にも廃止の合理的な説明をしていないのはなぜかということ。もう一つは、宿直勤務の職員の中で、どうして私だけ希望の配属先を聞かれなかったのかということだ。
 だが助役はたった一言、「質問は認めない」と切って捨てるように答えただけ。処分の口実を与えるわけにはいかない私は、こんな命令さえ忠実に守らなければならなかった。
 辞令をもらうと、すぐに所属の部署に向かうこととなった。土木部長の部屋に入り、まず部長に挨拶。この時、私はちょっと驚かされた。土木部長がごくごく自然に対応してくれたのだ。これは前の総務課では考えられなかったことだった。もちろん課長も二〇代の二人の同僚も、部長と同様に普通の態度で接してくれた。
 確かに仕事自体は、それほど楽ではない。出勤後すぐに車に乗り込み、外部業者と共に駅に向かう。放置自転車に警告を知らせる小さな紙を貼り付け、警告に従わなかった自転車を所定の場所に撤去する。
 トラックの荷台に上げ下ろしする自転車の台数は、一日で一人約一〇〇~二〇〇台ほど。昼休みの時間を除いて、一三、四時までの外部作業である。
 ところが私には、この職場が全く苦にならなかった。勤務時間が短く感じられるほど、外での作業も楽しかった。何よりありがたかったのは、誰もが普通に接してくれたことだ。職務命令違反を念頭に置いて、気を張りつめている必要もなかった。正直、これは良い部署に異動になったと感じていた。
 だが、楽しそうに仕事をしていれば、役所は許すはずがない。平成九年二月に配属されたのに、もう同年三月下旬に異動の命令が届いたのである。これには私も驚いたが、もっと驚いたのは同じ課の職員だったようだ。
 ようやく仕事にも慣れ、さあこれからだ! と思っていた矢先である。もうしばらくこの部署で勤務させてほしいと、私は課長に頼み込んでもみた。それに対して彼も、「よしきた。職員課に働きかけてみるよ」と、快く承知してくれた。だが、ここでも望月氏が私の前に現れた。「職務命令だから」。その一言で、私の異動は一方的に確定されたのである。

■上司の名前に驚愕

 豊島区コミュニティ振興公社の第二事業課の総合体育場。それが四月一日からの職場の名前だ。室内の弓道場、卓球場そして人工芝の野球グラウンドの維持・管理・使用料の窓口徴収が仕事である。役所はついに私を庁舎内から外へ押し出したわけである。
 しかも初出勤の挨拶で、居並ぶ公社の幹部職員の顔を見た時、私は「あっ、なるほど」と合点がいった。自転車対策係に異動させてまだ二ヵ月にも満たない私を役所側が、なぜ再度異動させたかの具体的な意図が理解できたからである。
 まず、公社の理事長が近藤秀夫助役なのだ。ご存じの通り、私の一五日、三〇日、六ヵ月の処分に積極的に関与した人物である。
 第一事業課長には、中島康博。
 総務課の課長時代に、私の停職三〇日の処分に同意した上司こそ彼であり、退職後、この公社に天下りしていたのだ。しかも当時、彼と私はカラ宴会費用の返還訴訟をめぐって法廷で対峙していた。もちろん被告と原告の関係である。被告には区長、他二名となっていたが、その他二名の一人こそ中島第一営業課長であった。最も多くのカラ宴会を主催していた人物として訴えた相手が上司とは、驚くばかりだ。
 それだけではない。
 近藤理事長と中島第一営業課長の二人は、公社職員の懲戒処分を審理し、決定できた機関の構成員として名前を連ねてもいたのである。
 これが私の新しい職場だった。(■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒・第17回 逆襲

■月刊「記録」99年3月号掲載記事

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■54万円の請求書

 役所の攻撃は、一通の手紙から始まった。差出人は望月治男職員課長。先月も触れた通り、上層部の指示に忠実に従い私を追いつめるために、あらゆる努力をした人物である。彼の名前が書かれた封筒が、ろくな話を運んでくるわけがない。案の定、中から現れたのは月々の天引き分として、9万円を毎月支払えという、合計額54万円もの請求書だった。
 決まった月給をもらい続けていると気にしないものだが、共済掛金が2種類、福利関係が6種類、会費が2種類の計10点が給料から天引きされている。
 この天引きに役所は目をつけたのである。
 停職処分によって給料が支払われていなければ、当然、天引き分もなくなり、直接私に請求することができるからである。
 手紙が届いたのは、停職処分が始まって14日後の8月22日である。貯金を切り崩す不安な生活に、なんとか算段を付けた頃を見計らっての攻撃。こうなると怒るというより呆れてしまう。もちろん私には、54万円もの現金を一括して払うことはきわめて難しいうえに、9万円を毎月支払う余裕もなかった。困ったときの頼みの綱と考えていた共済組合は、停職中の職員は借用資格者の規定から除外されている。
 しかし9万円を払わなければ、今までの天引き分の効果は中断してしまう。そのなかで気になったのは1年掛け捨ての両用給付保険、団体傷害保険、グループ保険である。これらは事故・病気・障害にあって入院あるいは通院した場合に、一定額の支払保証を受けられるシステムである。もし事故に遭ったら、病気になったらどうしようとも考えたが、ないものは仕方がない。なにか起きたらその時はその時だと腹を括った。幸い停職期間中に病気はしなかったものの、一歩間違えればかなり悲惨な状況になっていただろう。
 前述の保険などは、支払わなければ私に不利益が降りかかって終わりだが、なかには請求を無視するだけでは済まないものもある。税金だ。住民税などは、前年度の収入によって支払う料金が決まる。もちろん現在の収入が減っても、支払は変わらない代物だ。

■差し押さえ予告は赤文字で

 望月職員課長から追い打ちをかけるように、住民税の支払い要請書が送りつけられたのは8月23日だった。つまり前述の一通目の手紙を受け取った翌日である。どうせ出すならまとめて発信すればよいのに、あえて発信日を1日ずらして送付してくるというやり方、気のつき方にはホトホト感心した。このような考え方のできる職員こそが職員課長に最適な人物と、加藤区長は判断しているのかもしれないなと、ふと思ったりもした。
 以下参考としてその全文を掲載しよう。
「平成8年度分住民税の納付について
 無給期間中は特別徴収(毎月の給料から差し引いて納める方法)ができません。このため平成8年9月分からは普通徴収となり、ご本人が直接納めていただくことになりますのでご了承下さい。なお納税方法については、普通徴収として改めて住所地の税務課より通知書が送付されますのでよろしくおねがいします」
 カラ出張カラ転勤の存在は全職員が知っている。当然職員課長も知っているはずだ。同課長も一職員であった時には受領しているはずである。ところが彼は、カラは過去にも現在にも存在していないと組合交渉の席上で断言し、私の処分に同意し、涼しい態度で停職中の私にこのような文書を送りつけてくる。私としては彼を見事な処世術の達人として讃えるしか言葉がない。
 その後も、総務部税務課から停職中に白色の普通の納付請求書(11万3000円)が二度送られてきた。一回目は普通の請求書、二回目は督促状。そして復職後に三回目と四回目の請求を受けている。
 最後となる四回目の請求は、10年12月7日だった。黄色の用紙に赤文字で、差押事前通告書と書かれていた。金額は22万5000円、延滞金が6万4400円、催告期限は12月17日。警告文が赤文字で「もし期限までに納付がない場合は、法の定めにより財産の差押処分をすることになりますので、差押の実施に先立ち予告いたします」とある。
 11年2月現在、私は上記の住民税を支払っていないし、差押の執行は未だ行われていない。
 納税は住民の義務であり同時に権利であるから住民税は支払う。しかし今は支払うつもりはない。なぜならこれらの送付書は、区政中枢の圧力手段以外のなにものでもないと、私は判断しているからである。常識で考えれば、こんなことが公然と許されてよいわけがない。私が住民税を払うのは、停職処分取り消し訴訟の帰趨が最終的に確定したときだ。その際、延滞金については加藤区長にきっちり支払っていただくつもりでいる。
 次に私の所属する労働組合の組合長と副組合長の奇妙な動きにも触れよう。6ヶ月間の停職処分への提訴直前、この裁判を担当する近藤勝弁護士の事務所を、この二人が訪ねたのだ。6ヶ月の停職処分に対する訴訟を起こさないほうがいい。また組合は訴訟を支援できないと言ってきた。その理由は、カラ出張カラ転勤の証拠を示さないからと、訴訟を起こせば、私がひどい目に遭うからだという。ひどい目に遭うとは区長による停職6ヶ月より進んだ処分、つまり免職処分を意味するのだろう。アポイントを取って近藤弁護士を訪ねることに異論はない。しかし当事者の私も連れていかず、訴訟支援拒否を担当弁護士に言いに行くとは何事だろう。しかも私が所属している労組のトップがである。本来なら私を役所側から守る立場にある組合が、役所側の利益にしかならない訴訟支援拒否をするなど信じ難い。むしろ断固応援するから五十嵐のために提訴してやってくれというのは組合の取るべき筋道のはずである。だが、これが私を取り巻く現実なのである。

■復帰の職場がなくなった

 穏やかな攻撃のあとには、必ず激しい攻撃が待っているものだ。もちろん豊島区役所も例外ではなかった。
 停職が5ヶ月ほど経過した12月末、またも望月氏から電話連絡が入ったのである。嫌な予感は外れない。宿直の廃止が決定したという。停職によって私が職場にいないのをいいことに、密かに進められていた、懸案の専従宿直職員制度の廃止を役所は脱兎のごとくに決定したのである。
 95年の9月末、15日間の停職処分に対する裁判を終結させる際に取り交わした合意書(宿直勤務において私が不利益を被らないようにすると役所側が約束した文書)を、彼らは捨て去ったのだ。彼らにとって都合のよい判決は尊重するが、不都合な判決は一顧だにせず無視をする。残念だが、これが今日の豊島区役所中枢の偽らざる真の姿なのである。
 今までの宿直職員の仕事は、今後昼間の職員がシフトを組んで代行するという。だが宿直業務の始まりは、昼間の職員による事務代行が、サービスの質を低下させるという理由だった。それをいきなり元の制度に戻すなど、納得できるはずがない。
「宿直の廃止は、組合と合意を得たのか」
 真っ先に望月氏に私が確認したのは、この点だった。望月氏は「同意を得た」と即答した。一体どうなってるんだと思い、この点を組合長に確認した。彼は「そんなことは言っていない。彼らは組合の反対を無視して一方的に専従宿直職員制度を廃止したんだ」と言う。どちらの意見が正しいのかは、結局わからない。しかし決定してしまえば、組合が騒いでも覆される可能性は低い。決まってしまえば、職員は従うほかないのである。
 またあとからわかったことであるが、役所は、かつて10余年にわたり宿直の架空勤務を繰り返していた同僚には、宿直業務廃止に伴う異動先の希望を聞いていたという。もちろん私にそんな話は一切なかった。
 結局、この年の暮れ、私は役所によって合意書を簡単に反故にされ、復帰するはずであった職場を一方的に廃止されたことになる。(■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第16回 懲戒分限審査委員会

■月刊『記録』99年2月号掲載記事

    ※        ※        ※

 私は六ヵ月の停職処分の期間中、闘うための体力をつけること、闘うための武器を磨き、さらなる武器を探し出すことに集中した。
 仕事と裁判を両立しながら闘っていれば、体力がモノをいう時が来る。まして私の裁判闘争は、相手が職場の上司なのだ。職場での仕事を増やすことによって、私を体力的な限界まで追い詰めることもできる。だからこそ闘い続けるための体力は、私に絶対必要だった。
 毎朝朝六時に起き、ランニングで皇居を一周する。さらに週に二回、夕刻からの豊島区役所の定例稽古の剣道部に通い、稽古相手を区長に見立ててしゃにむに竹刀を打ち込んだ。
 規則正しい生活と、適度な運動はすぐに体に現れた。七〇キログラムあった体重は、六三キログラムまで絞り込まれたのだ。体重が減って体が軽くなり、さらに役所に入って以来、長らく忘れていた熟睡も完全に取り戻した。
 裁判で闘うための武器は、情報公開と資料の整理によって手に入れた。ランニングを終えてシャワーを浴び、朝食を食べ終えれば、あとは夜まで裁判のための準備に当てることができる。裁判に関する資料を整理し、関連の本を読みあさり、準備書面の作成に必要と思われる事実関係を、ノートに書き記す毎日が続いた。
 六ヵ月の停職処分の次に待っているのは、上層部が望んでやまない私のクビ、つまり免職である。彼らが、枕を高くして眠るためには、私という障害物の除去が急務であったからだ。だから彼らは手段を選ばなかった。水面下にある不正という火薬庫の導火線に、いつ私が火をつけるかが気になってしかたがなかったからである。
 だからであろうか。私をクビにしたいなら好きな時にクビにすればいい。そのかわり、ただでは辞めさせられないぞ、という覚悟が停職期間中に、自然に固まっていった。
 ただ訓告処分と一五日、三〇日、六ヶ月の停職処分を通じて、もっとも強く怒りを感じたことは、これら一連の処分が、当局自らの不正を区民の目から隠すために、職務命令という職務上の武器を濫用し、戦うすべをもたない丸腰の職員を、よってたかって罪人に仕立て上げたこと、そして、これらが、一般職員への見せしめにしようと考えられた密室の儀式であったからである。
 この儀式の名は「懲戒分限審査委員会」その構成員は以下の区政中枢のメンバーである。ちなみに(  )内は、彼らが関与した私の処分名だ。

■「無駄もなければ無理もない」と吐き捨てた男

 まず、近藤秀夫助役(停職処分十五日、三十日、六ヵ月)。
 もう何度も連載に顔を出している人物だ。特に私が忘れられないのは、あと一歩というところまで、役所側を追いつめた住民訴訟にまつわる思い出である。役所の形勢が悪くなった時点で、状況の改善を約束した覚え書きを私達と交わした張本人が、この近藤氏だったのである。
 この覚え書きによって裁判は和解したにもかかわらず、この男は、覚え書きの存在自体を否定して、私に処分を繰り返したのである。
 助役の人となりは、次の具体例を示せば説明できるだろう。
 かつての私の同僚宿直員の架空勤務をめぐる不当利益返還の住民訴訟(私は当時豊島区に住所をおいていなかったため、原告側証人として協力し、原告には当時学校警備の職員をしていた江幡氏がなった)では、役所側が原告に和解を促した条件の一つに、無駄遣いを伴う勤務時間帯の是正と、健康に支障をもたらす二時間半の睡眠時間を従前の五時間に戻す、という約束が交わされていた。そして、この時、被告である役所側の窓口として原告側と折衝し、取りまとめを図ったのが近藤助役であった。
 しかし和解後、役所側は一向に約束を実行しようとしない。このため、私は近藤助役に対し、なぜ約束を実行しないのかをただした。すると、助役は一転して、その話はもう関係者との話し合いで終わった、不満があるなら好きにしてくれ。つまり原告側に聞いてくれということであった。江幡氏に確認すると助役聞いてくれと言って、取り合おうとしない。つまり、内部告発した私を除いて、当事者同士が手打ちをしてしまった、ということである。
 この時、江幡氏が助役、つまり役所側と取り交わした条件が、当時、廃止寸前にあった警備員制度の継続の承諾であった。もし、この約束を助役と原告側が反故にせず実行していたら私の十五日、三十日の停職は起こり得なかったからである。私の十五、三十日の処分原因は、私が是正されなかった無駄遣いを伴う勤務時間帯の勤務を拒否し、五時間の睡眠時間を実行したからである。
 そして、中原昭収入役(停職処分十五日、三十日、六ヵ月)。 この人物も、決定的な場面でしっかりと顔を出してきている。さらに連載が進んだところで詳しく書き記すことになるが、総務部長時代の官官接待が暴かれ、四五〇万円の損失を区に与えたことで、この金を区に返還することになるのが、この男である。
 彼は、官官接待に伴うカラ宴会の不正支出(現在係争中)を防止すべき立場にあったのに、適正な審査を怠り、区に損害を与えた。現在、その一部、利息を含めて四五〇万円あまりが区に返還されているのだ。
 次に、これも現在、係争中であるが、私の停職六ヵ月の処分の原因であるカラ超勤・カラ出張の存在が明らかになれば、これも同助役が意図的に適正な審査を怠ったと言わざるを得ないのである。
 また、彼が総務部長時代、前述の近藤助役が反故にした税金の無駄遣いを伴う勤務時間帯の是正、及び睡眠時間の適性化を図るよう申し入れたが「無駄もなければ無理もない」として、これをはねつけ、さらに無駄遣いを伴う勤務時間帯を設定した。宿直職員の土曜日の出勤時間は、昼の十二時で十分であるのに、朝の九時半出勤に変更したのである。この時間帯は昼間の職員が昼過ぎまで勤務しているのであるから、宿直職員の業務は、全く百パーセント存在しないのである。ところが当局は、業務が明らかに存在しなくても、その時間に出勤し、役所のなかにいれば、それだけで、その時間帯の賃金は保障しましょうというのである。
 役所内部では、常識では考えられない行政運営が職務命令の名の下に行われているのだ。
 話は逸れるが、現在の豊島区は、赤字再建団体に転落の一歩手前の秒読み段階である。収入役がこんなことをしていては、財源がいかに豊富であったとしても、金がなくなるのは当たり前である。バブル経済がはじけたから赤字財政になったなどというのは、きちんとした財政支出を行ってきた自治体だけが言える言葉であろう。
 次が、川島滋教育長(停職処分十五日、三十日、六ヵ月)。
 この人物は、まだ連載には登場していない。しかし、今後の裁判における最大の焦点である、小中学校職員のカラ超勤問題の責任者として登場することになる。
 続けて、鈴木敏万総務部長(停職処分十五日、三十日、六ヵ月)。
 この人物も、何度も誌面を飾ってくれたので覚えている方も多いのではなかろうか。私が最も記憶に残っていうのは、三〇日の停職処分に関して、「あなたがお金を返還したことも処分理由だ」などと口走ったことだ。
 役所の勤務体系を守っていたら体が保たないと考えた私は、仕事に支障がないように、勤務時間内に仮眠時間を設け、さらに仮眠時間分の給料を区に返還していたのである。これが鈴木氏には、気に入らなかったらしい。もらえるモノはもらっておくのが、豊島区職員の礼儀だとでもいうのだろうか。

■うしろめたさの存在があるか否か

 大沼映雄、現、総務課長(停職処分六ヵ月)。
 彼については、次の二点において関心がある。
 まず、彼は私が処分を受けた当時、私の上司であり、前述の「懲戒分限審査会」のメンバーの一員であった。彼が、私の処分に同意したことは、私の指摘するカラ出張・カラ超勤の存在に目をつぶり、部下の処分に直接、手を下したということである。だが、私が知りたいのは、彼が私の処分に加担したことではなく、処分に加担する際、彼の胸に内面的葛藤が存在したかどうかである。
 はっきり言えば、己の組織における保身のために、事実から視線を外して、部下の処分に手を貸したうしろめたさを感じていたのかどうかである。もし、うしろめたさを感じないで、これに賛成したのであれば、彼は公僕云々以前において「人間性」を問われなければならないだろう。
 二点目は、フジテレビが、当区の官官接待のカラ領主書を量産していた疑惑について。彼を取材している場面があったが、彼は、これに対してしどろもどろに答えていた。この、しどろもどろの原因が、単なる話し方の上手、下手にあるのではなく、真実を隠すことの恐ろしさから生じたものであったのかどうかである。私は、後者と思いたいからである。
 そして、望月治男職員課長(停職処分六ヵ月)。
 上層部の意を受けて、私を追いつめるのに、驚くほど努力した人物である。六ヵ月の停職処分に付随した事情聴取を担当した時など、私に逃げられると困るからという理由で、便所までついてこようとした。別に、私は警察に捕まったわけではない。たかだか役所がでっち上げた処分の調査である。逃げもしなければ、隠れもしない。ましてや便所に行ったついでに逃げ出す気などみじんもない。それとも望月氏は、私とツレションでもしたかったのだろうか。
 彼の名前を聞くと、真顔で便所について来ようとした彼の動作を思い出して、思わず笑ってしまうのである。
 最後に、懲戒分限審査委員会を諮問し、審議に事実上の強い影響を与えた人物を紹介しておこう。それは、加藤一敏区長(訓告処分、停職処分、十五日、三十日、六ヵ月)。私と最も長い間、闘い続けてきた人物である。
 彼が総務部長時代には、私の同僚の架空勤務を容認し、なおかつ私の訓告処分を決定した人物でもある。付け加えるなら、訓告処分に際して、私の事情聴取内容の改ざんに関与していた男でもある。
 三〇日の停職処分を受けた時には、すでに区長になっていた彼に、「この処分は、私に対する嫌がらせではないのか」と聞いたこともあった。その時の彼は、「処分は私の意志ではない。助役が積極的に行なったことだ」と答えたのであった。長いつき合いなのだから照れることもないと思うのだが、私の処分を積極的に進めているといった言葉は聞かせてくれなかった。
 これが私にかかわる一連の処分を決めたメンバーである。私にとっては、ほとんど悪夢としか思われないような構成だ。黒幕の張本人が立件して裁く。これが役所の構造なのである。まるで国民を虐殺し続ける、どこかの軍事政権のようだ。どんなに私が闘っても、なかなか勝ちを治められない理由がわかってもらえるだろう。
 しかし、後藤雄一氏に出会ったことで、形勢は完全に逆転する。彼の指摘した小中学校の残業命令簿の情報公開請求が、その発端だった。全小中学校、四二校の残業命令簿が、四年間四八ヵ月にわたり、三〇〇余名の全職員、毎日、同一の残業時間になっていたのだ。
 つまりある小学校が、ある月に、一人当たり四時間の超勤をしていたら、他の四一校の職員も全く四時間なのである。
 書類を手にした日の夕方、私はガッカリして後藤さんにこう言って電話した。
  「後藤さん、まいったですよ。出ましたよ」
 私は事前の内部情報から、ある程度のカラ超勤は予想していた。しかし、現実は、それ以上の凄まじさであったからだ。
 笑われるかもしれないが、役所の体質を目の当たりにして、がっかりしたし、寂しかったのである。不思議なことに、形勢が逆転した喜びよりも、失望のほうが大きかった。豊島区と熾烈な喧嘩をしていても、やはり私は豊島区の職員であったからだ。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第15回 協力者は面長の男

■月刊『記録』99年1月号掲載記事

     ※        ※        ※

 後藤雄一氏に会うため世田谷区桜上水のパン屋に赴いたのは、停職中の八月、昼下がりだった。彼は懸命にパンをこねていた。白の帽子に白の作業衣。黒枠の眼鏡。面長で長身。
 そして、やけに顔の黒い人。それが世田谷行革一一〇番を主催し、情報公開請求を武器に、次々と地方行政の腐敗を暴いていた後藤氏の第一印象だった。私のビラを読んでくれていた後藤氏は、名前を告げると仕事を中断し、快く私を迎えてくれた。彼の職場からとなりの喫茶店に腰を落ち着け、挨拶も抜きにこれまでの行政と私の闘いについて説明した。時間にすると、およそ90分。この時間こそが、私の運命を劇的に変えていくことになるのだった。
 この時、後藤氏を訪ねたのは、六ヶ月停職処分取消し訴訟に証拠書類を提出してもらうためだった。それは前号でも若干触れたが、豊島区役所の匿名職員が不正の是正をを求めて、カラ出張、カラ超勤の存在を記した五枚の文書を後藤氏の手元に送付し、後藤氏より朝日新聞の記者を介して私にその内容が明らかにされたからである。
「わかりました。書類は私の手元にあることは確かですが、それは心ある全国の自治体職員から寄せられた不正を指摘する多くの書類の中に紛れているはずです。見つかり次第お渡ししますから、しばらく待って下さい」
 私の申し出と、役所との闘いの一部始終を聞いた後藤氏は、静かな口調でそう語った。そして私の眼を見て続けたのである。
「五十嵐さんに対する一連の処分は、カラ出張やカラ超勤はもちろんのこと、更なる不正が五十嵐さんに暴かれることを役所が恐れたために起こったものです。水面下で、もっと多くの不正を彼らは行っているはずですから。
 彼らは権力を私物化しています。だから五十嵐さんを追い詰めるのに、手段を選ばないでしょう。
 しかしこの闘いは、五十嵐さんのみならず、豊島区民のためにもあるのですよ。だから決して負けてはいけない喧嘩なのです。あらゆる協力は決して惜しみません。頑張って下さい」
 彼の話し方や物腰は、淡々としていて無理がなく、何よりも穏やかだった。だがその穏やかさの裏には、強い怒りが見え隠れしていた。私の闘いを自身の闘いと同様に受け止めてくれた彼の誠実さが、不正を許さなかったのだろう。
 この日、後藤氏から送られたエールは、私に勇気を与えてくれた。確かに役所の行動を見直してみれば、更なる不正が暴露するのを恐れている役所の様子が窺える。尻に火のついた状況を誤魔化すために、役所は嘘に嘘を重ね、私への圧力を強めたのだ。
 私が一三一名の町内会長にビラを郵送した時も、そうだった。
 前回でも触れたが、八六年五月、全職員に配布した二枚のビラを、私は長会長に送付した。カラ出張・カラ超勤についてこと細かく書いたこのビラは、区政の御意見番として一定の力を持つ彼らを刺激する結果となった。送付直後より役所に事実を問う電話が殺到、来庁する町会長まで現れたという。
 この事態に驚いた当局は、騒ぎの鎮圧に全力を注いだ。
 五月七日から六月五日にかけて、区民部管理課の森茂雄課長を、一二回も区政連絡会に出席させたのである。町会長と区職員が区行政について定期的に意見交換する区政連絡会に、森管理課長を派遣し続けたのは、区の危機意識に他ならない。
 この会合で、私のビラが嘘だらけだと森管理課長は説明したと聞く。カラ超勤手当もカラ出張手当も支給していないと断言し、しまいには「五十嵐はとんでもない奴だ。出鱈目なことのを言いたい放題言っている。だから彼は処分する。そしていずれは免職にする」と言い放ったというのだ。森氏が話したのを直接聞いた市民からの情報なので、こうした発言があったことは間違いないだろう。まさに噴飯ものである。
 だいたいカラ手当の不存在を町会長に説明していた時、森管理課長の管轄下にある全、出張所(12ケ所)では、カラ超勤・カラ出張、両手当がしっかりと支給されていたのである。しかもこの事実は、職員間では公然の秘密だった。知らないのは、区民だけだったのである。
 区民に「嘘」をついて不正を隠そうとした男が、私を「とんでもない奴」だと評した。どっちが「とんでもない奴」か、よく考えろと言いたくなる。しかし実際には、私を「とんでもない奴」に仕立て上げることで、町会長の動きは収まっていった。
「火のないところに煙はたたない。文章の全てが嘘であろうか」。「事実でないなら名誉毀損である。それを承知でやっているとすれば、ある程度は調べたのかという気もする」。「マスコミで公務員の不祥事が報道されており、区も無関係でない気がする」。このような声も町会長からは聞かれたというが、事態を究明する力にまではならなかった。
 役所の危機意識が生んだ「火消し」が、とりあえず成功したということだ。
 ビラを送るまでは、私の攻勢だった。しかし攻撃をすれば、必ず返してくるのが役所の体質だ。
 ビラを配った仕返しは、先月も触れた六ヶ月の停職処分となって表れる。「十五日」、「三十日」の停職に続く三度目。この六ヶ月の処分は、停職処分では最も重い。あと残されているのは、免職だけ。つまり私を辞めさせるための準備は、確実に整ったことになる。
 しかも停職はペナルティーとして、仕事に就くことを禁ずる処分であるから、停職中のボーナスはもちろん、一切の給与が支給されなくなる。その上、復職後の最初のボーナスは、全額支給を「十割」とすれば「1割弱」が私の受領額であった。これは停職により著しく勤務日数が不足したための減額措置なのである。
 更には、期間に関係なく停職処分を受けた者は、規定上六ケ月の昇給が延伸される。従って私は、今回を含めて三回の停職処分を受けたわけであるから、通算一年半の定期昇給が延伸されたことになる。
 どんなに節約しても、生きている以上生活費は不可欠である。食費、アパート代、その他、最低限度のいろいろの経費も必要である。それだけに給与の停止は、ずしりとこたえるものだ。だからといって、アルバイトをするわけにもいかない。公務員は副業を持つことは禁じられており、規則に逆らうわけにはいかない。下手をすれば、一気に免職処分を命じられる可能性がある。じっと耐えて生活するしか、方法がなかった。
 だがそのような状況でも、私が絶対に削らなかった経費がある。それは情報公開請求にかかる金だ。
 豊島区には、ソーサー付きのコピー機がない。一枚、一枚、手でコピーをしなければならない旧式の機械があるのみ。そのため情報公開請求によって許可された書類をコピーするのには、膨大な時間が必要となる。しかも土・日は、役所が休みのためコピーをとることができないのだ。
 こうした事情により、私が情報公開請求によって引き出した文書は、夏休みや有給休暇を使ってコピーしていた。それだけに平日に情報公開を行える六ヶ月の停職処分は、必要書類を入手する上で絶好の時間だったのである。これほどの好機を、経済的な理由で逃すわけにはいかない。
 訴訟に必要な事項は、徹底的に開示を求める。このような姿勢で情報公開を求めた資料は、六ヶ月でダンボール七、八箱にもなり、私の部屋を埋めていった。
 八五年四月から、私は何度も情報公開請求を繰り返してきた。しかし、一度として役所を追い詰めるような書類を引き出せなかったのである。ところが後藤氏に会い、どのように請求するのかを教わってから、状況は変わっていった。役所の不正を示す資料が次々と、手元に届くようになったのだ。私の部屋を埋めていったダンボールは、そうした証拠の束だった。
 事実を指摘したにもかかわらず、勝手に嘘を書きまくったように仕立て上げられ、デタラメな処分書が作り上げられる。しかもそのような公文書が永久に保存されてしまう。このような処分に名を借りた冤罪から自分を解放するための礎。それがダンボールに収まった書類だったのである。
 だからこそ積み上がるダンボールは、私に自信を与えてくれたのだった。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第14回 宿直業務は廃止させない

■月刊『記録』98年12月号掲載記事

     ※        ※        ※

  「宿直業務を廃止したい」という部長の言葉は私にとって、まさに青天の霹靂だった。宿直業務を前提とした合意書を、全く無視してきたものだからだ。
 要するに自分達に都合の悪い判決には従わない。それが役所当局の姿勢なのだ。裁判での決定を反古にされたのでは、再度、訴訟を起こすしかない。しかし個人の力ではそう何度も裁判を起こせないものだ。それを見越しての役所の措置だった。
 だいたい財政難が原因で、宿直業務を廃止するというが本当なのだろうか。宿直業務がそれほど区の財政を圧迫していたとは思えない。批判すべき出費など、他にも山ほどある。
 例えば第一組合のビラには、次のような内容の記事が掲載されていた。
 バブルの全盛期、一般価格以上の高値で豊島区役所が土地を買いまくった。しかもその売買は、不動産関係に強い議員が深く関与していたという疑惑だ。もちろんバブルがはじけた途端、土地は二束三文の価値に化けてしまった。このような噂を知っていれば、財政難を理由とした宿直業務の廃止など鵜呑みにする気になれないのも当たり前だろう。
 さらに第二組合に何一つ知らせることなく、第一組合が宿直業務廃止に賛成してしまった。この態度も胡散臭い。
 私の同僚の二人は第一組合に所属している。当然、宿直業務廃止の賛成派であり、そのうち一人は、かつて当局と組合の容認の下に架空勤務を繰り返していた人物でもある。
 宿直業務がなくなれば、彼は昼間の業務へと転属となり、架空勤務やこれに伴うカラ超勤などの事実も過去へ流されるのである。不正を闇に葬り去るために、役所は宿直業務を廃止したのではないか。そんな疑いが頭をよぎった。
 裁判での決定を一方的に破棄する役所当局に、私の不信感は高まる一方だった。そして一九九六年一月二九日、役所側との労使交渉で私の怒りは爆発した。
  「財政難と称して、区民に対しては、福祉の切り捨てを着々と進める一方、役所の職員に対しては、いまだにカラ超勤手当、カラ出張手当が支給されているという。これは役所内では公然の秘密である。カラ出張、カラ超勤はあるのか、ないのかを返答してほしい」当日、職員課長の望月治夫氏に対して、私はそう問い詰めたのである。
 それに対する望月氏の答えが「現在、カラ出張旅費及びカラ超勤は存在しないと思うし、あってはならないことだと考えている。また過去にもそのような事実は無かったと思う」である。だが、昭和四七年、入庁して間もない頃、私は、私の知らないうちにカラ超勤が支払われていた経験をもっている。あれはなんだったのだろうか。私は白日夢を見たとでもいうのか。
 この望月氏の言葉が、私を一気に行動へと駆り立てた。
 労使交渉の一幕をビラに刷り、役所内に配布したのだ。二月七日にビラを作成。日を置かず、役所の全職員の机の上に、そのビラを配ってまわった。一斉に情報が行き渡るよう、作業は早朝、第二組合の責任者と共に行われたのだった。
  「赤字財政の原因は、長らく温存されてきたカラ出張、カラ超勤に原因があるのではないのか。もしそうなら職場の統廃合の前にカラ出張・カラ超勤を廃止するのが先決ではないのか。役所当局の行政改革の手順は本末転倒であり、大きな誤りがあるのではないか」
 私がビラで訴えた概要である。役所職員に公僕の良心が少しでも残っていればと、期待しての行動だった。しかし案の定、何の反応もないまま時間だけが過ぎていった。
●高齢者・障害者対策費からカット

 ところがある晩、宿直業務についていた私に一本の電話がかかってきた。相手は朝日の社会部の新聞記者。「一度、お会いしたい」という。なんでも世田谷行革一一〇番の後藤雄一氏に、私の名前を聞いたというのだ。
 翌日、さっそくその記者に会って驚いた。すると、なんと驚いたことに、私が役所内に配ったビラを彼が持っていたのだ。
 すべての発端は、後藤氏に送られた豊島区の匿名職員からのカラ出張やカラ超勤の存在を裏づける五枚の書類だったのだ。早速調査を開始した後藤氏は、私が配ったビラを入手。内部告発の資料と私の存在を、新聞記者に告げたということらしい。どうやら私の配ったビラも、全く無駄なわけではなかったようだ。
 そこで四月二五日、第二組合長の同意を得て二枚目のビラを私は作成した。カラ出張、カラ超勤の全額を金額を細かく示すなど、内容は一枚目よりもかなり突っ込んだものにした。また両カラ手当の無駄遣いを改めることなく、区民に必要な財源を削り続ける区の政治姿勢をも批判した。
 なぜなら、当局は、財源を削除する最初の対象を、高齢者や身体障害者、すなわち、声を大にして抗議しにくい人々に絞っていたからである。例えば、一人暮らしの高齢者宅にインターホンを設置する制度の廃止、寝たきり高齢者への見舞品支給制度の廃止、敬老金の支給の廃止、車椅子の利用者あるいは寝たきり状態の人が、そのままの状態で乗り降り可能なリフトつきハイヤー制度の廃止などなど、数えあげたら腹が立つばかりだ。結局、区民だろうが職員だろうが、等しく弱者から切り捨てるのだ。それがお役所体質なのである。
 二枚目のビラは、前回同様に役所職員に配った。さらに今度は、前回のビラと一緒に一三一名の町内会長全員にも配ることにした。
 この判断は、間違っていなかった。役所の職員に比べ、町内会長の反応はずば抜けて速かったからだ。二枚のビラに驚いた町内会長は、事実の確認のためすぐに来庁したのである。もちろん役所側は前面否定。そして役所によるお決まりの事情聴取が、私に課せられることになった。
 一度目は文書による質問だ。しかし、これでは埒があかないと役所側も思ったのか、結局、職員課長と総務課長から部長室で事情聴取を受けることになった。
  「どういう意図でこれを作ったのか」「何に基づいてこれを作ったのか」「情報提供者は誰か」
  そんな彼らの質問に対して、私は答えた。「このビラに書かれた内容は、複数の人から聞いている話であり、事実だと確認できる証拠もある。ただし情報を寄せてくれた人達に迷惑がかかるので、名前をあげるわけにはいかない」
 私を取り調べている職員も、実は事実であることを知っているのだ。そして知っているから青筋をたてて怒る。要するに彼らは「役所の職員もあろうものが、役所内の不正を外に漏らすのはけしからん」と怒っているだけなのだ。
 良い部分も悪い部分もすべて白日の下にさらし、改めて出発してはどうか。私は、ビラにそんなメッセージを込めたつもりだった。しかし役所側は耳を貸すどころか、さらなる攻撃をしかけてきた。
 九六年八月八日、当局は、区長加藤一敏名で六ヶ月の停職を言い渡してきた。処分理由については次のように書かれていた。
  「一律カラ残業手当、カラ出張手当については、およそありえないことである。しかし、このような虚偽の文書を区の町会長宛に送付したことによって、結果的にこれらの文書に書かれている事柄があたかも存在する、また、存在したかのような印象を町会長に与えるに至っては、到底見逃すわけにはいかず、許されるものではない。このような行為は、職員全体の不名誉となるような行為、また、区民から信託をうけて、全体の奉仕者として誠実に勤務すべき職員としてふさわしくないものである」
 もし、前の裁判で合意書の作成を拒否して敗訴していたら、私はこの件で確実に解雇されていたはずだ。というのも一五日の停職処分の是非をめぐって高裁で審理している最中に、さらに同一事由をもって三〇日の停職処分を重ねて行った当局の目的は、単なる訴訟費用に関する経済的負担の加重を狙ったものではなく、私の解雇処分の時期を、より早くするための布石であったことが、その後の内部情報からわかったからだ。
 近藤勝弁護士の先見の明が、私を救った。しかも彼は、この処分に関しても、敢然と立ち上がってくれた。
  「文書を送った行為は憲法で定めた表現の自由の範囲内で、懲戒理由には当たらない」。九六年八月三一日の読売新聞で、彼が語ってくれた言葉だ。この指摘は大変ありがたかった。私の言いたいことを、はっきりと言ってくれたからである。
そして、さらに四面楚歌、満身創痍で闘う私に強力な助っ人が息せききって駆けつけてくれた。助っ人とは、以前、新聞記者を通じて名前を知った世田谷行革110番代表の後藤雄一氏であった。  (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第13回 役所と闘う、もう一人の男

■月刊『記録』98年11月号掲載記事

      ※        ※        ※

■宿直廃止

 合意書を出したことで、裁判は一段落した。
 合意を決定する直前まで「最後までやる」と言い張った私を、近藤弁護士は必死で止めた。行政相手の裁判では、個人が勝てないことを、彼が知っていたからだろう。勝つために越えなければならないハードルは、民事裁判に比べてもはるかに高い。それが行政訴訟の現実なのだ。
 役所側が負ければ、区長も三役も責任をとって辞めなければならなくなる。そうなれば区民の間にも、少なからぬ混乱が起こるだろう。だからといって、行政を勝たせておいていいのだろうか。行政と闘う人に設けられたハードルが、不正の隠ぺいに利用されているのが実態ではないのか。それは「えん罪」の構図そのものだ。もちろん私の「えん罪」も、合意書ぐらいではひっくり返らなかった。
 合意書が出て二、三日後、出勤を報告しに行った私に向かって、課長が言った。
  「財源が悪化しているので、宿直の職務を廃止したい」
 つまり今後は、昼間の職員を夜間に割り振り、宿直専門の職員をなくすということだ。「そんなバカなことがあるか」と思ったが、またケンカする気にもなれず、「同意できません」とだけ言っておいた。
 たしかに合意書には、「今後、お互いの条件についてよく話し合うように」と書かれていた。しかし合意書は、宿直業務の存続を前提に作られたものだ。つまり宿直業務をなくせば、合意書そのものに意味がなくなる。「五十嵐の言う通りに改善するのは腹が立つ、こうなったら宿直業務を廃止して、すべてをチャラにしてやる」と言わんばかりの処置に、私も呆れ、そして驚愕した。
 睡眠時間を元に戻すという合意書の約束も無視されたまま、宿直業務廃止の色合いは強まっていく。しまいには、反対する者の意見などお構いなしに、昼間の職員が増員され始めた。夜間勤務に対応するための体制作りだ。
 もともとの勤務態勢としては、昼間の職員が夜勤をこなすものであった。しかしそれでは区民サービスの質が低下するという理由で、宿直業務が始まったのである。何のことはない。役所の体制が昔に逆戻りしただけだ。そもそも昼間の職員を夜働かせたところで、宿直の職員を雇うのと出費はほとんど変わらないのである。

■当局・組合・議会の密着

 こんな横暴な振る舞いでも、役所ならまかり通ってしまう。それには理由がある。役所当局・組合・議会と、本来なら独立し、お互いに監視し合うべき三つの機関が、べったりと密着し合っているからだ。
 議員だろうが、組合員だろうが、役所の上級職だろうが、カラ残業手当をもらっている。不当なお金をもらっている者同士、お互いにかばい合う。
 役所がどのように税金を使うかを監視する機能をもつ議会も、議員がこれでは動けない。実際、告発した私を、議会は全く無視してきた。こちらから連絡を取っても、これまたなしのつぶて。
 本来なら職員の側に立ち、共に闘うはずの労働組合も、既得権を手放さないように役所の上層部と手を結ぶ。私の一件では、最初は無視を決め込み、最後には役所当局と一緒になって私を潰そうととさえしたのだ。
 組合は、すべての不正に対して声を上げるわけではない。小さな問題では役所当局に噛みつくくせに、ある一線を越えると沈黙する。カラ出張・出勤問題は、明らかにその境界線を超えていた。つまり聖域に属する問題だったのだ。触れてはいけない部分に触れたため、私は組合員からも疎まれることになったのである。
 まあ、それも当然なのだろう。
 カラ超勤をもらうことで、組合員も生活を成り立たせているのだ。組合員にも養うべき家族がいる。少しでも多くお金が欲しい。そこをつけ込まれる。みんながやっているからと、不当な収入に手をつける。そして、そんな行動の積み重ねが、少しずつ倫理観をすり減らしていく。悪循環だ。
 もちろん役所内の職員全員が、不正な収入を受け取っているわけではない。多少なりとも善意の残っている職員は、カラの部分を請求せず、静かに受け取りを拒否している。静かに拒否をする職員には、役所側も無視するだけだ。
 では、そのなかから告発する職員が出るかというと、そう甘くはない。彼らが声を上げることはないのである。声を上げた途端に役所当局は牙をむき、無理難題をふっかけて職場から追放しようとすることを、みんな噂で聞いているからだ。
 以前、新宿区役所でも内部告発があったらしいが、結局、その後の話を伝え聞かない。役所当局の弾圧により、告発した者が潰されたのだろう。
 だが、奇人は常にいる。
 一九九六年、私同様、権力に孤独な戦いをのぞんでいる人にやっと出会った。情報公開で世田谷区を追い詰めた人物として、一躍、名を知られることになった世田谷行革一〇〇番の後藤さんから紹介されたのだ。
 その男性は、高橋武男氏。東京都清掃局の清掃作業員であり、かつては都清掃局職員組合、石神井支部中央委員までしていた人物だ。だが組合本部の三役が都公社に天下りの密約をしていたことに反発した件で、さまざまな摩擦に遭遇することになったのである。
 組合の脱退も許されず、裁判を起こしてやっと辞めることができたという彼の話は、役所に常識など通用しないことを改めて実感させる。
 だが、もっと彼が悲惨だったのは、通勤手当の不正を東京新聞に実名で告発してからだ。このイジメが半端ではない。私は高橋氏から直接聞いたのだが、心底ぞっとした。

■ランドセルに鉄板

 ある日、子どものランドセルのふたの部分に鉄板が貼ってあることに、高橋氏は気づいたという。
  「なぜこんなものを貼ってるんだ」という彼の質問に、「うしろから殴られても、鉄板を貼っていれば痛くないからね」と子どもが答えたという。見知らぬ人に、いきなりうしろから殴られる。そんな恐怖を、子どもは感じながら生活していたのだ。無言の脅迫が、そこここに漂っていた。
 もちろん、仲間外れなどは、日常茶飯事だった。
 組合の新聞が自分にだけ回ってこない。「高橋には見られると困る」という理由で、高橋氏が出席しなかった集会のビラが、すべて回収されるということもあったらしい。
 深夜にかかる自宅への無言電話。ゴミ回収の作業チームからの追い出し。職場での完全無視など。村八分の状態にされ、あげくには昼間にも電話がかかり、高橋氏の妻や子どもまで脅迫されたという。しかも、この脅迫行為を行っているのは、ハッキリした確証はないものの、組合員や組合上層部の人間らしいとの情報が耳に入ってきた。
 上からの圧力に独りで耐えている彼の姿は、私とダブルものがあった。圧力のかからない方法で、そっと助けてくれる人が現れている点も似ている。間違っていると言い続けることによって、見えないところにいる味方が現れるものなのだ。
 私と高橋氏、二人の闘いは、今年の七月一日に発行された月刊『中村敦夫新聞』で紹介された。私以外にも権力と私闘を演じている人がいる、そしてちゃんとどこかで誰かが見てくれている。それだけでも少し救われたような気持ちがした。
 私は、正しいことが負けるのは、正しいことが表に出ないからだと思っている。役所当局・議会・組合を、がっちりとつないでいる鎖を断ち切り、すべての悪事を白昼のもとにさらした時、私はこの裁判に勝てるはずだ。勝負を決めるのは持続力なのだ。そう信じたい。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第12回 当局側と合意書を作成

■月刊『記録』98年10月号掲載記事

    ※        ※        ※

■しびれを切らして区長室へ

 一九九五年二月二八日に受けた三〇日間の停職処分に納得できなかった私は、区役所の最高責任者である区長に面談を申し込んだ。なぜ、そんな処分が下されたのか、納得できる処分理由が欲しかったからだ。
 重要な話だから面談時間を設けてほしい、と何度も申し入れた。しかし一向に返事がない。しびれを切らした私は区長室まで乗り込み、「今すぐ会たい」と秘書に告げた。
 さすがの区長も仕方ないと思ったのだろう。私との面会を拒まなかった。
  「なぜ二審の結果を待たずに、同一理由による処分を行ったのですか。これでは嫌がらせとしか言いようがないでしょう」
 こう区長に言い寄っても、「おれは指示していない。助役が勝手にしたことだ」と床に視線を落としてボソリと言う。区のトップでありながら、自分は関係ないという態度だ。「きたないな」。私は思わず、つぶやいていた。
 豊島区の職員懲戒分限審査委員会規定の第二条には、「委員会は、区長の諮問に応じ……」と、ちゃんと書いてある。区長の意志なく、物事が進むことはない。私には無茶苦茶な規則への遵守を求めながら、自分だけが治外法権とでも言わんばかりの態度に腹が立った。
  「五十嵐さん、周りが耳を貸さないのでは意味がないよ。実際、組合も議会も動かないじゃない。このままでは一般職員も離れていくばかりだよ」おまけに加藤区長は私に説教までくれようとするのだ。「冗談じゃないよ」と私は思った。

■組合も上層部も頼りにならない

  「議会、組合、一部の区政の中枢にいる職員の三者が、どんなに私を批判したり無視したとしても、そんなことは私の動きにとって何ら支障にはならない。彼らの意見や態度は、健全な区民常識に裏打ちされていませんからね」
 言い返す私に対して、反論するでもなく、彼はただ頷くだけ。意味のある話し合いは、もう望めそうもなかった。私は区長室をあとにした。
 区長室は区政の表玄関などではない。行政運営の本音と建て前の使い分けを画策する舞台裏だったのだ。私は、今回の件で、それをしみじみ実感した。
 役所の上層部も区民無視でダメ。私が新たに加入した第二組合も腰が引けて全く頼りにならない。私に下された「三〇日の停職処分を知るや否や一変して、『障らぬ神にたたりなし』の態度である。当時の組合の長であった菅道治は、処分を受けたのは、あなたであるから、あなた個人で闘ったらどうか。組合は中立を保つ」とも言う。一審の敗訴(一五日の停職)でやめておけばいいものを、さらに控訴などするからだ、と言いたげである。
 裁判闘争は厳しく、そして長い。金銭的な問題もネックとなる。
 一五日間の停職処分は、精神的にも経済的にも辛い。さらに三〇日間の停職ともなれば、非常に苦しい事態となる。そうして経済的に追い込めば、裁判闘争は困難になる。これこそが役所側の狙いなのだ。だが、この停職処分に対する提訴をやめる訳にはいかない。
 一五日の停職処分と同じ理由で処分が下されているだけに、法的に異議を唱えなければ、自分の非を認めたことになってしまう。そうなれば一五日間の停職処分を巡って争われている第二審でも負けてしまう。経済的に追い込まれるか、それとも負けを認めるか。役所側は周到でかつ陰険な手口で攻撃してきたのだった。

■架空事実の捏造まではできまい

 九五年三月一七日、三〇日間の停職処分の取り消しを求め、私は提訴した。一五日間の停職と三〇日間の停職、二つの処分の取り消しを同時に戦わなくてはならなくなった。
 平行する一審と二審の裁判において役所側は、相変わらずデタラメな主張を継続していた。例えば区長が二度にわたって、私を処分した理由について役所側は、「五十嵐は睡眠を取っていて睡眠中に発生した業務の対応を怠っていたからだ」と主張する。
 しかし役所側の主張は抽象的な指摘にとどまるのみで、具体的な事実の指摘にまでは踏み込もうとしない。
 それもそのはず。原因は役所側、つまり総務課の手もとに保管されている宿直日誌にあった。日誌には私の手で、私が睡眠時間中に対応した、すべての業務の内容と時間が逐一記入されていたからである。
 つまり役所側は、私が睡眠中の勤務を怠っていないという具体的事実が日誌上に存在するのを知っていたのである。だから敢えて、具体的な架空事実の指摘にまでは踏み込んでこられなかったのだ。
 なお、この当該宿直日誌は、三〇日の取り消し処分訴訟のなかで、証拠として私の側からも提出した。しかしその際、役所側からの反論は皆無であった。
 ちなみに当該宿直日誌のすべてにわたり、上司である総務課長、係長の確認印が押印されている。平成五年二月一日の一五日の停職処分に同意した総務課長は堀田徳夫。平成七年二月二八日の三〇日の停職処分に同意した総務課長は中島康博。
 重ねて言うが両名いずれも私のかつての上司である。

■合意書を作成して一次撤退
 
 こういったやり取りが繰り返されるばかりで、裁判は遅々として進まなかった。そんななか、高裁の裁判官から合意書の作成を提案された。
 合意書とは、和解案のようなものと考えてもらえばよい。互いに譲れるところを譲り、争議を解決しようとするものだ。判決のようにハッキリした裁定が下されない代わりに、少なからず自分の意見を合意書に盛り込むことも可能だ。そして何より、裁判を維持する費用や労力から解放される。
 役所側は即座に作成に同意した。役所側が即座に、裁判所長の提案に同意したのは、私の性格上、私が裁判長の提案を蹴って、さらに判決まで審理の続行を主張すると判断したからであろう。
 だが、私はとりあえず「考えさせてください」と答えるにとどめ、確答を避けた。それから二、三日、近藤勝弁護士との論争が続く。「最後までやらせてほしい。骨になってもいい」と言い張る私を、彼は必死でとめた。「この裁判の継続は危険度が高い。敗訴の可能性もある。先を見て今回は、この辺で退こう」と、くいさがる私を放り出すこともなく、論理的に繰り返し説いてくれた。
 結局、私は、裁判のプロでもあり、人間的にも信頼していた近藤弁護士の助言を選択し、合意書を作ることに同意した。次回の法廷で、近藤弁護士が裁判長に「原告は合意書の作成に同意します。と伝えると、裁判長が同弁護士に「よく説得しましたね」と言い、「うん、うん」と言いながら何度も頷いていた。今もなぜか印象に残っている。
 そんな彼のアドバイスが正しかったことを身をもって知ったのは、一年後に六ヵ月間の停職処分を受けた時であった。もし、合意書の作成を蹴ってその裁判で負けていたら、確実に私は解雇されただろう。そうなると、外部から解雇無効の訴訟を起こさざるを得ず、結局、裁判を続けること自体が難しくなっていたはずだ。
 合意書は裁判長が原案を作り、それに対して私と役所当局、双方が提案していく形で作られることになった。私の要求がしごくまっとうなものだったからだろう。私の提案の半分以上は合意書に書き込まれ、結果として役所側の提案は半分にも満たない文書となった。裁判官が合意書の作成を提案して二ヵ月後の九五年九月二九日、私達は合意書を交わし、一五日間の停職処分をめぐる裁判は終わりを告げる。合意書の作成と受け取りは別室で行われた。
 合意文書の作成手続きが終わるやいなや、総務課の法規係長と区政会館の指定代理人が顔を真っ赤にして憤然と席から立ち上がった。一審が終わった時には、私の背中に向けて「ザマーミロ」と言い放った連中が、今回は硬直した表情で、こちらを見ることもなく文字通りサーッと帰っていったのだ。
 判決が下ったわけでもなく、勝った気はしなかった。しかし役所側がダメージを受けたことは間違いなかった。合意書には、「五十嵐に不利益にならないようにする事」という一文も加えられていたからだ。一審の敗訴を考えれば、逆転ともいえるような内容かもしれない。少なくとも「やってよかった」という気持ちで裁判を終えることができたのである。
 区議会に裁判結果を報告するため、合意書に添書を同封して各党の幹事長に普通書留で送付した。添書には「私の一五日及び三〇日の停職処分は、同封合意書の通りですので、御了承ください」と記載した。送付先の党は、自民・共産・公明・社会党系及び無所属議員で構成されている「区民クラブ」である。
 この送付に対する返答は皆無であった。見事なほどの無視にあった。
 第二組合にも結果報告は行った。組合員の反応はまちまちであった。「また、取り下げか」あるいは「まあまあじゃないの」という者、何も言わない者もいた。また、組合の長であった菅道治に至っては「訴訟費用はいくらかかったの」であった。
 孤独な闘いは、まだ続いていた。 (■つづく)

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内部告発・豊島区は税金泥棒/第11回 敗訴、そして更なる処分へ

■月刊『記録』98年9月号掲載記事

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■二時間半の睡眠時間も合法

「一五日間の停職処分」の取り消しを求める訴訟を、私が起こしたのは、一九九三年四月三〇日だった。
 役所の体質が根本的な問題であるだけに、勝つ見込みは薄い。唯一の突破口があるとすれば、東京都総務局長からの通達だけであった。
「睡眠時間付与にあたっては(中略)四時間を下がらず七時間を超えない範囲で(後略)」と書かれたその通達は、わずかながら勝機を運んできているように思えたのだ。何といっても、私の与えられいる睡眠時間は、二時間半でしかない。東京都からの通達に違反しているのは明らかだった。さすがの豊島区役所も、これではやすやすと言い逃れはできないはずだ。
 しかし、そんな期待はあっさりと裏切られることとなる。これほど短い睡眠時間は違法ではないのかと、私たちが裁判で質問したのに対し、役所側は「それは豊島区の特質だ。豊島区の独自性として許されるはずだ」と答えたのである
 特質とか独自性とか、一体何を言いたいのだろうか。勤務するのはあくまで人間である。しかも一定以上の睡眠は、人間にとって欠くべからざるものだ。生きるのに必要な環境を奪っておいて、区の独自性も何もあったものではない。二時間半の睡眠で働き続けることがきないのは、誰が考えてもわかる。わかっていながら曖昧な言葉で逃れようとしているだけなのだ。ここにも役所側のどうしようもない嫌らしさが表れていた。
 しかも私は、この短い睡眠時間にさえ熟睡が許されていたわけではない。役所を訪ねる人が来れば、どんなに眠くても笑顔で対応しなければならない。
 たとえ来庁者の対応に五分しかかからなかったとしても、睡眠中に一度起きるのだから、そうそうすぐに眠れるものではない。実際、指定された睡眠時間に人が訪れれば、寝るための時間はほとんど残っていなかった。
 一九九四年一〇月三日、一審の判決が下った。弁護士はすでに負けを確信していたのだろう。
「五十嵐さん、わざわざ行かなくてもいいよ。辛い思いをするだけだよ」と言った。
 しかし負けた悔しさをバネにして控訴するためにも、判決を聞きたかった。覚悟を決めると同時に一縷の望みを託して、私は裁判所の門をくぐった。

■裁判所の長い判決文

 大番狂わせはなかった。敗訴。弁護士の予想は当たった。ただ判決理由は、私の予想を良い方に裏切ってくれた。
 行政相手によくある門前払いでもない。そのうえかなり分厚い判決書を、裁判長は用意していたのだ。現在のように、行政に対する情報公開が盛んだったわけではない。行政と裁判で争えば、確実に負ける時代だった。
 そんな状況で書かれた長い判決文だからこそ、それなりの意味があったはずだ。役所を勝たせるために必要な言い訳が、それこそたっぷりと裁判所に必要だったのではあるまいか。裁判官も内心では役所側の言い分を、無茶苦茶だと思ったのではないか。ただ役所が負けた時、社会に与える影響が怖かったのではないか。
 裁判長が読み上げる厚い判決文を見たとき、私の二審でも徹底的に闘う意志をさらに固めたのである。
 一度負けるのも、二度負けるのも一緒だ。このまま二審で闘ってやる。そんな思いが体を巡り、決意を新たにしながら裁判所を出ようとした。
 そのとき私の背中に向けて、勝ち誇った哄笑が浴びさせられた。
「ザマーみろ。ふざけたことをしやがって。ワッハハ」
 区政会館の職員である指定代理人及び豊島区総務課の法規係の複数名の職員が、私の後ろに立っていた。指定代理人となっている区政会館の職員は、二十三区内で起きた行政相手の裁判で、弁護士の代行をするのが仕事である。負けない行政裁判が仕事。しかも税金で喰っているのだ。「コノヤロー」と腹が立った。だが彼の一言が、二審で闘う私の決意をさらに強くさせた。
「五十嵐さん、もうやめた方がいいよ。ケンカするなら、別のケンカの仕方を教えてやるよ」
 一審でお世話になった弁護士は、そう言って控訴をとめた。常識的には、彼が正しいのかもしれない。でも逃げたくなかった。
「じゃあ、そのときはお願いしますよ」
 お世話になった弁護士に頭を下げ、私は事務所を後にした。
 控訴するためには、どうしても弁護士が必要となる。一審では忙しい過ぎて引き受けてもらえなかった知り合いの弁護士に、もう一度頼んでみることにした。
 これまでの経過を話した私に、彼は言ってくれた。
「しょうがねえなあ。骨は拾ってやるよ」
 負け戦をわかって引き受けてくれたのが、無性に嬉しかった。
 第二組合ににも控訴する旨を連絡した。「二審はやめた方がいい」。 「金と時間の無駄だ」。それが彼らの反応だった。まあ、無理もない。勝ち目が薄く、職場での圧力も続くのだ。私の身を心配して、かれらも言ってくれたのだろう。

■返金も処分の理由

 一審の判決が出てから約二週間後の一〇月一八日、私は控訴した。
 資料集めなどに走り回る一方で、職場での抵抗も続けた。以前同様、自分で決めた時間帯で仕事を続けたのである。そうこうしているうちに、まももや事件が起こる。
 一九九五年二月の二八日の朝、昨夜からの勤務を終えて帰り支度をしていた私は、突然現れた鈴木総務部長や職員課の職員に一枚の紙を渡された。そこには「停職三〇日」の文字が書かれていた。割り振りを超える睡眠をとり、夜間勤務の一部を約一〇ヶ月に渡って従事しなかったのが停職を言い渡す理由だという。
「いらないよ。こんなもの」
 私は通知の紙切れを、即座に突き返して言った。
「とにかく今日は帰る。また明日、来る」
 もちろん二審の判決はまだ出ていない。「一五日間の停職処分」の取り消し求めて裁判闘争が続いている最中に、「三〇日間の停職処分」とは。
 役所は、とことんまで私を追い詰めるつもりなのだ。突き返した処分の通知は、自宅に郵送で送りつけられた。
 もちろん前回同様、私は次の日も通常通り出勤した。あくまで処分を認めないと、意志表示をするためだ。案の上、代わりの職員が配置されていたが、めげる訳にもいかない。出勤簿に自分の名前を書き、宿直室で一、二時間、電話番をして帰って来た。
 ちなみに後から確認してみると、停職の期間中、出勤簿に付けた私の名前は全て消してあった。
 裁判だけが闘う術ではない。一方的な処分に納得のいかない私は抗議を行い、数日後には職員課の別室で役所側と話し合いをすることになった。鈴木敏万総務部長、中島総務課長、それに職員課の人事係長が、冷たい視線を携えて会議に出席した。
「余分に取っている睡眠時間の給料は、ちゃんと返しているし、睡眠時間中に生じた業務にも、きちんと対応していた。それなのに、なぜ処分をしたのか」
 そう厳しく私は問い詰めた。
「お金を返還することも、処分の理由の一つだ」
 鈴木総務部長は、私の眼を直視して平然と言い放った。一瞬、私は耳を疑い、そして唖然とした。区政中枢の中心に位置する人物がこれである。豊島区政は、間違いなく区民無視の末期的症状となり、もはや手のつけられない体質だと確信した。
 役所の職員からは、そんな開き直った発言しか聞き取れなかった。受け取るいわれのない金を受け取らないのも、処分理由とは。こんなバカなことがあっていいのか。
 納得できない理屈が、平然とまかり通っている。
 ついに私は、「自分が受けた処分について話し合いたい」と区長に面談を申し込むことにした。 (■つづく)

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