内部告発・豊島区は税金泥棒/最終回 区議会議員選挙立候補
■月刊「記録」99年6月号掲載記事
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三月一九日の月曜日、国会議員の中村敦夫さんとともに巣鴨地蔵通り商店街を私は歩いていた。区議会議員選挙の運動のためにである。一軒ずつ商店を廻り、商店主や通行人に挨拶を繰り返した。
私が立候補を決意したのは、半年以上も前のことになる。六ヵ月の停職処分の裁判における役所の対応が、その大きな原因である。
当時、カラ超勤を証明する決定的な証拠を、私は裁判所に提出していた。その証拠とは、端的にいえばカラ超勤のためのマニュアルとも呼べるものだ。ある職員が作成したその書類には、カラと見えないようにするためにはどうするべきなのか、具体的な方法論が書かれていた。
■そんなばかな話があるか
この証拠を前に、区役所の代理人はぬけぬけと言い放った。
「これは一職員が作った個人文書に過ぎません。つまり公文書ではないのです」
公文書ではないから、カラ超勤の証拠にはならないという主張である。だがマル秘と書いてある文書が、どうしたら個人の文書となるのだろうか。
もし役所側が語る通りなら、文書を作った一職員の行動は奇怪極まりない。ありもしないカラ超勤を想定して、どうすればバレないかを想定。その方法論をワープロで打ち込んだうえに、ごていねいにマル秘の印まで押して保管してきたことになるからだ。それも職員としての仕事と関係なく。
役所の代理人の浮き世離れした説明を聞いて、役所の自浄能力のなさに、私は改めて暗たんたる気持ちになった。裁判に勝ったとしても、これでは役所のカラ超勤体質の改善は進まない。
――もう区議会しかないかな。
それが私の結論だった。区議会でこの問題を取り上げ、事実を指摘していけば、役所が変わる可能性だって出てくる。
そして私は立候補を心に決めた。
立候補するにあたって、まず最初の問題となったのは、私が役所の職員だったことである。
というのも行政職員は、選挙に立候補することで、自然退職させられてしまうからだ。たまたま私は現業職員という立場だったので、この規約には触れない。だが現業職員でも、行政事務を担当している職員は自然退職しなければならないという規約があることがわかったから大変だ。
公文書を作るのも行政事務の一部には違いない。選挙に落ちた途端、いきなり区役所を辞めさせられたのでは堪らない。
そこでまず職員課に問い合わせると「選挙に立候補しても、現業職員は自然退職にはならない」という。だが役所相手に口約束など信じられるはずもない。文書を出すように私は要求した。
さすがにいつも私ともめ続けている職員課だ。ほどなく文章が作られ、私の手元に送られてきた。
だがその文書には、区長の印もなければ、担当課長の印すらなかった。それどころか文書を制作した担当者の名前さえない。マル秘文書を公文書ではないと言い張る役所が相手なのに、こんな文書を信じるわけにはいかない。選挙が終わったところで、そんな文章は職員が個人で作ったものだと言われ、自然退職の手続きが取られても抵抗のしようがない。
そこで、さっそく職員課に電話をし、文書の不備をただすと、「区長の印など簡単にもらえるはずがない。こちらを信用してもらうしかない」などという。一体どうすればこれだけ嘘をつかれた役所を信じられるというのだろう。仕方なく、区長に内容証明の郵便を送りつけることを伝えて電話を切った。
やはり内容証明の郵便には、効力がある。
時間はかかったものの、私は区長から自然退職にならないお墨つきをもらい、選挙運動へ突入することができた。
■一日三〇ヵ所で演説の日も
区民への私からの働きかけの第一歩は、「豊島区行革一一〇番」のビラを一軒ずつ区民のポストに配ることだった。選挙のために私を売り込むというのではない。区民が知っている区政の悪事、区に対する区民の不満などを集めるネットワークを作りたかったのだ。
三月のはじめ頃だった。私は五時一五分に職場を出ると、まっすぐに家に帰り、食事を済ませ、ビラを持って出かけた。まだまだ春というには早い季節。ジャンバーを着込み、さらにその上に膝丈のナイロンのオーバーを着てひたすら豊島区を歩き回った。
翌日は、もちろん仕事が待っている。それだけに無理はできない。七~一〇時までの三時間が、ビラ配りに使える時間の限界だった。
もちろん体力的にも、決して楽ではない。
歩き回った翌日は、ふくらはぎが張り、脚全体に疲れが残る。だが休むわけにはいかない。必死に歩き回っても、一晩で配れるビラは五〇〇~七〇〇枚にしかならないからだ。
結局私は、三週間にわたって配り歩き、一万枚近くのビラを投函し終えた。
職員や町会長に配った時には、ほとんど効果を感じなかったビラだが、さすがに区政に不満を持っている区民からは反応があった。職場から帰ってくると、「ビラを見ました。がんばってください」というメッセージが留守電に吹き込まれていたことも少なくなかったからだ。
役所の職員として働いている限りは、カラ超勤やカラ出張など当たり前のことだと思ってしまう。だが一般企業に勤めたり、自分で商売をしている人にとっては、役所の常識などは通じない。ビラの反応を見て、改めてそう感じた。
区議選の選挙運動期間は、わずか一週間しかない。その間に、区内三〇五ヵ所の掲示板に自分のポスターを貼りつけ、そのうえで街頭演説なども行わなければいけない。
五日間の有給休暇を取り、すべての労力を選挙に向けて集中したが、その忙しさは半端ではなかった。晴れている日には、ボランティアの人達と区内を回った。一日に三〇ヵ所を回って、街頭演説したこともある。小さなスピーカーをボランティアに持ってもらい、およそ三分間、自分が立候補した理由を述べ、豊島区行政の浄化を訴えた。
雨の日と夜はビラ貼り。
人出の少ない雨の日に演説をするよりは、少しでもビラを貼ったほうが効果があると思えたからだ。
選挙期間中の雨はひどかった。掲示板に叩きつけられた雨が、滝のように流れ落ちる。タオルで自分のポスターを貼る場所の水気を拭き取り、急いで貼らなければならない。私は雨合羽を着て貼り続けた。
選挙管理委員会から提供された掲示板が記入してある地図は、ポスターを貼りに行くたびにボロボロになった。家に帰ると広げて乾かしていたが、最後には渡された三枚の地図が読みとれないほどまでになった。
三〇五ヵ所の掲示板のうち、私が自力で貼ったのは、八〇ヵ所。二〇〇ヵ所は三名のボランティアの人達が貼ってくれた。残り二五ヵ所近くの掲示板は、私のポスターを貼ることなく選挙日を迎えてしまった。
五七八票。
それが私が得た得票のすべてだった。今回の当選者で最低の得票数は、一三〇二票。つまり七二四票 届かなかったわけだ。だが選挙を通じて、私は応援者を獲得した。
■闘いの果てに手にしたものは
二〇年近く前、私はたった一人で役所と闘っていた。誰も応援してくれる人もなく、いじめられ、病気とも闘いながら、不正を訴え続けてきた。そんな私が五七八人もの支援者を持った。ギリギリだけれども、法定得票数にも達した。
それが私には幸せだ。
気がつけば、人生の約半分を区役所との闘いに費やしていた。好きで始めたわけでもない。攻撃されたから、自分の身を守るため、そして最低限のモラルを守って働きたいと始めたことだった。私は役所との闘いに楽しみを感じたことなどない。だが自分の人生を後悔してもいない。
確かに闘い続けてきたことで、親孝行も充分にはできなかった。しかし自分が信じたことを、行い続けてきた自負が私にはある。それが私の誇りとなっている。
私が闘い始めた頃とは、社会も大きく変わった。情報公開条例もできたし、行政訴訟で市民が勝てるようにもなってきた。私の裁判も、近いうちにされほど悪くない結果を生むと思う。
連載は今回で終わりだが、裁判結果はいつかご報告したいと思っている。読者の皆様には、長期にわたりご声援をいただきありがとうございました。(■了)
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