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奏でられる「葬った恋」の鎮魂歌

●『妻の恋』掲載


■終わることが前提の人妻の恋

 はじめに断っておきますが、私は「妻の恋」を容認するためにこの本を書いたわけではありません。だからといって、「結婚している以上、一人の男性に身をささげるべきだ」などと説教じみたことを言うつもりもありません。
 結婚とは夫婦がお互いを愛し合い助け合っていく、もしくはそうなるように努力することが前提であり、理想であることは、だれしもが頭では理解しているはずです。でも不幸にしてそうならなかった場合、あるいはある日突然、夫以外の男性と恋に落ちてしまった場合、妻はどうするべきなのか……。
 私自身この取材を通してなんらかの答えを求めていましたが、妻たちの話を聞けば聞くほど、その答えは駆け足で遠ざかっていきました。
 そもそも「妻の恋」は物語が始まる前から不幸の香りがするし、その過程で瞬間的に幸福の女神がほほ笑むことがあっても、大半は悲劇に終わってしまいます。不倫とそれにともなう悲劇は妻だけの秘密として葬られ、「どうすべきなのか」について語られることは少ないし、妻自身が恋の過程で「どうしたらいいんだろう?」と悩んでいても、じつのところ最初から「いつかは終わる」と答えを出している場合がほとんどです。
 つまり、離婚という結末を迎えるケースを除けば、はじめから終わることを前提に始まった「恋」が予測どおりに終わるだけのことだからです。
「妻の恋」は離婚しないかぎり、たとえどれほど熱烈なものであっても実ることはありません。当然のことですが、現実の結婚生活が不幸で物足りないからという理由から、別の「恋」を探したところで誰も幸せにはなれません。

■幸せになれる可能性はわずか

 正確に統計をとったわけではありませんが、原稿にならなかった分も含めて私が取材をした女性たちのほぼ八〇%が「夫とうまくいかなくて別の『恋』に走った」と言います。そのうち、夫以外の男性と「恋」に落ちて以前より幸せになったと断言する女性はごくわずかなのが現実です。
 なかには不倫の体験を通して夫婦の愛の深さを知ったとか、自分もしくは夫の限界や弱点、そして長所をも見つめ直す機会になった――などと話す女性もいます。それはそれで、なんらかの「成果」なのかもしれません。
 一方、別れたあとに罪悪感や虚無感が残るだけの「恋」には、解決も成長も未来もありません。そうした気持ちを埋めるために次々と新しい恋人を探す手もありますが、これではひとつの「恋」が終わるたびに何度も同じ袋小路に行き着いてしまうばかりか、そもそもあった夫婦間の溝をさらに深くしてしまいます。現実が不幸だから「恋」をするという構図では、原因となった「不幸」が解消されるまで、幸せは訪れないものなのでしょう。

■離婚を体験した私だからこそ

 と、ここまで書いて、すでに「そんなこと当たり前じゃない。でも、そこが割り切れないのが人間でしょう?」という反論が聞こえてくるような気がします。あるいは、それは私自身の声なのかもしれません。
「妻の恋を取材してみないか」と話があったとき、最初は気が進みませんでした。というのも、すでに離婚を体験してしまった私は、結婚は決してゴールではないこと、その先には幸福や安心感だけではなく、多くの苦労が立ちはだかっていることをいやというほど知っていたからです。
 いまさら他人の結婚生活を取材するのは(それが不幸であればあるほど)気がめいる作業でしたし、「ほかに好きな人がいるなら別れればいいじゃない」という半ばヤケッパチともいえる反感もありました。
「負け犬の遠ぼえ」ではありませんが、ひとりの男性さえもキープできなったバツイチの私には、他人事とはいえ、婚姻制度を盾に夫とその経済力をキープしたうえで、ほかの男性とも「恋」を楽しむという妻たちの身勝手にも思える行動を容認できる許容力はありませんでした。
 さらに言えば、そんなことをしても許されている彼女たち、許されると思っている彼女たちの根拠なき自信に、軽い嫉妬さえも感じていました。

■男性誌にみられる性的な動機はまれ

 しかし、恋する妻たちの話を聞いていくうちに見えてきたことがありました。それは、彼女たちは一様に捨て身であるということです。
 一概には言えませんが、多くの場合「幸せになりたい」と思って「恋」をするわけではないし、「恋」の先に幸せを求めているわけでもありません。本当に愛しているのはあくまでも夫であり、夫にも自分を愛してほしいのです。夫婦で幸せになりたいのです。それが現実にかなわないので別のもので満たそうとしているだけで……。
 少なくとも私が出会った妻たちのほとんどが、取材中に少なくとも一回はそう声に出して話しました。男性雑誌によく見られるような性的な理由から妻たちが恋に走るケースはむしろ稀なのではないでしょうか。そういう要素がまったくないとまでは言いませんが。
 もちろん、夫との関係だけが彼女たちの関心ごとではありません。孤独な子育てへの不安、終わることのない家事への不満、職場での悩みなど、夫とは関係のない部分でつまずいている場合もあります。ただこの場合も、夫にわかってもらいたい、認めてもらいたいという気持ちの裏返しとして、「恋」という逃げ道が用意されているケースが多いのです。
「そこまでわかっているなら、どうして夫と話し合えないの?」と人は言うかもしれないし、実際に私自身もそういう質問を繰り返しました。ただ、そもそも夫と話し合えるくらいならば最初からそうしていたでしょうと彼女たちは口をそろえます。
「妻の恋」は夫の無関心や不在のまま、知らず知らずに夫婦関係をむしばんでいく病気のようなものです。あるいは、夫も薄々とは「病気」の進行に気づいているのかも知れませんが、妻たちは一様に「夫は知らないと思うし、知っていたとしても関心がない」と思っています。
 今回は夫側の取材はしなかったので彼らの気持ちははかり知れませんが、妻たちは自分たちの問題を自分たちの手で解決しようとしているのでしょう。そして究極のところ、「妻の恋」はその努力の延長線上にあるに過ぎません。

■物語は語られるべきものである

 ここで登場する妻たちは知り合いのまた知り合い、そのまた知り合い――という形で、私とは直接関係のない人を紹介していただき、そのうえで取材への協力を快諾してくださった方々です。プライバシーの配慮から、名前や年齢などは本人の身元が分からない程度に変更させていただき、さらに必要だと思われる部分では職業も脚色させていただきました。
 ケーキをつつきながら、もしくはお酒を飲みながら進んだ取材中には、逃げ場のない苦しさに涙をみせる妻もいました。実況中継のように、進行中の恋のゆくえを携帯電話やメールで報告してくれた妻もいました。また、「どうして?」「それでどう思う?」と質問攻めの私に腹を立て、話の途中で退席してしまった妻もいました。
 取材者として私は、彼女たちに質問をして話を聞き、ときには相づちを打ち、ときにはなだめ、ときには反論を述べました。取材対象に近づき過ぎたせいで、「取材者=中立」という立場を超えてしまった部分もあったかもしれません。また、表現方法として一人称単数を選んだため、彼女たちの話を裏付けることはあえてしませんでした。
 後でこの本のもう半分を書いた大畑太郎氏の記事を読んで、もし大畑氏が私と同じ女性を取材していたら、まったく別の話を聞き出していたかもしれないと思うところも多々感じました。私の主観が入ってしまったことを考えると、これら「妻の恋」の体験談は純粋な意味ではドキュメンタリーとは呼べないのかもしれません。
 しかし、ここに挙げるストーリーが一〇〇%真実かどうかは、私自身あまり意味がないと思っています。「恋」にはいく通りもの真実があり、私が聞けたのはその一部に過ぎません。
 それよりも大切なのは、彼女たちの恋物語は語られるべきであるということです。不倫が許されるべきだとまでは言いませんが、彼女たちは語るという行為を通して、自らが葬った若しくは葬ろうとしている「恋」の鎮魂歌を奏でているのです。その声は、聞かれるべく発せられたものだとも思うのです。

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