« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »

2007年9月

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/国労内紛 お義父さん スランプ

■月刊「記録」2001年4月号掲載記事

○月×日
 なんだか悲しくもある。
 全国大会が終わり新しいスタートを切った国労だが、組織の現状は必ずしも大会で決定された方針で大同団結するという、本来の労働組合の姿にはなっていない。
 36闘争団のうち20闘争団と有志(約半数の500人)は、「四党合意」に断固反対し、大会前の1月24日と大会終了時の1月27日の2度の記者会見で「政府・JRの責任を追求し、今後も団結して闘い続ける」と態度表明をしているわけだが、これに対して本部は2月6日、「一部闘争団員の阻害行動への対応について」という指示文書を発した。
 要点を抜粋すると、「何よりも大会前の国労の組織状況を如何に一枚岩にしていくかが解決にとって水準を高めることにとって重要であり……、しかし、既に2名の闘争団員を代表とする『「解雇撤回・地元JR復帰」を闘う闘争団有志(仮称)』が結成され、国労機関・共闘の方々に会議の召集を行っています……、国労として、このような行動は、認めることも許すこともできない状況であり、総団結作りを阻害する行動と云わざるを得ません……、各級機関・全組合員がこういった行動に対して、参加せず国労に総団結する事を徹底されたい」というものだ。
 一読すると、組織の引き締めを図る本部の当然といえる指示であり、よくわかる気もする。だが、反対派はどうしても納得できないから反対し、本部に軌道修正を求めているのだ。
 国労はかつて、社会党一党支持の運動方針を決定していたが、共産党支持の人だって大勢いたでしょう。組合員の政党支持の自由は保障され、強制などされていなかったのだ。
 今回だってこれと同様なはずで、なのになんだか、正当な批判としての反対勢力を、あたかも敵対者や組織破壊者であるかのように決めつけているように感じられてしょうがないのだ。そして、行く行くは排除してしまうのではないかという危惧が生まれるのだが、そんなことはゼッタイないよね、本部!!
 それにしても、今日まで一つにまとまり闘い続けてきた仲間同士が、何故これほどに近親憎悪が募り、深い溝を修復できずにいる背景は何なのか。
 ここでは運動論は横に置いて考えたい。
 本務の私たちは差別こそあれ、首を切られた闘争団とは来し方に雲泥の差があると思う。訴えに耳を傾けると、筆舌に尽くせぬとか人生を賭けたとよくいわれてきた。その通りだろうが、この受け止め方は千差万別であり、皆本当にわかっているのかと思ってしまう。
 いったいどれだけ歯を食いしばって生き抜いてきたのか(これからもだが)、例えようのない想像を絶する苦しみが伴ったことと察する。本部や賛成派の代議員は、運動論や方法論に偏り過ぎて、人間としての尊厳や正義感、人権感覚が麻痺してしまったのではないか。これだけは譲れないのだという闘争団・家族の心情を心から理解できていなかったのではないかと思えるのだ。それは、私自身も含めた一票投票に○を投じた多くの組合員も然りである。
 また、本部がいう「四党合意」は到達点、苦渋の選択というのもよくわかった。がしかし、説明不足だったのか、「本部を信じてくれ」だけでは説得力に欠け、あまりにも不安が大きすぎた。一般組合員の私でさえそうなのだから、一生を左右される当事者の闘争団にはなおさらではなかったか。
 それに「JRに法的責任がない」を認めても、不当労働行為と認定した労働委員会命令は歴史的に消すことはできない、ともいうが、仮りに最高裁で負けたとして「労働委員会では勝ちました」などと言う人がいるだろうか? 世間一般には最後の結果が映るのであり、負けは負け、「国労は働かない」「勤務成績が悪い」などのレッテルは一生消えることはなく、名誉回復など論外となってしまう。
 組合員の一票投票でも、闘争団においても、「四党合意」については意見が五分五分の真っ二つだった。それを考えれば、もう後の祭りだけれど、採決に持ち込むべきではなかったのかもしれない。賛成多数で可決されたといっても、主流派代議員の人数が多かったからに他ならない。
 もはや、全てが都合のいいこじつけのように聞こえてしまう。本部が「許すことの出来ない」とした反対を叫ぶ闘争団こそ最も人間らしく感じられるし、方針を180度転換したのだから仕方のないことだが、これこそこれまでの真の国労の姿だったのである。本部を支持し続けた私がいうのも変だが、私自身今すぐ気持ちを切り替えろといわれても無理がある状況になっている。
 だが、それでもやっぱり国労である。国労組合員なのだ。当たり前に生きていきたい。いいたいことは言わせてもらう。
 本部はこれまで以上に闘争団・全組合員との十分な意志疎通を計り、一丸となってやるべき手の限りを尽くしてほしい。納得のいく解決が示されますように……。

○月×日
 お義父さんは国鉄職員だったのである。昔でいう転勤族で、東京から地方をあちこち回り、定年して既に30年近くの歳月が過ぎた。
 従って、分割・民営化の混乱などの体験はないが、節々の出来事は当然気に掛けていたはずで、JRの現状もどこからか必ず耳にして、由々しき事態は心なしか憂慮していたにちがいない。
 というのは、お互いの考え方があまりに違いすぎて、この種の話になると全く噛み合うことがなく、決まって、強い当局(義父)、弱い国労(私)という態勢に持ち込まれ、それがイヤでイヤで、いつの頃からか、私の方から話題にすることは、意識的に避けていたからだ。
 それでも以前は、私がお義父さんと同じ国鉄職員であること(親戚中で私一人だった)を喜んでくれていた様子だったが、最近では、この通り、私、この上なくふがいないものだから、呆れ果てていたことだろう。情けないことだが、普段は気まずいとか、そういう関係では決してないです、ハイ。
 定年後は生まれ故郷の新潟に戻り、習字を教えたり、畑や庭いじりと悠々自適の生活を送っていたのだが、ここ10数年間といったら癌を3回も患うという受難続きで、なんとも気の毒だったのだ。
 それにしても奇跡的であった。高齢にしてその度の大手術を乗り越えては、驚くほど元気でいられたのである。苦しくないといえばウソになる。でも、口に出すような人ではなかった。
 いずれにしても、とってもしあわせだったと思う。親孝行の子ども達(含む妻、除く私カッコ閉じ、と、大勢の孫達に囲まれて、それこそ献身的な世話を受けながら、ここまでこられたからだ。
 思い出は尽きることはない。もう二度と会えなくなってしまった。本当に静かに息を引きとった。お義母さんも5年前に亡くなり、ひとつの時代が終わったのだなあ、としんみり思った。さようなら。不肖な私を許してほしい。ごめんなさい、お義父さん。

○月×日
 どうしよう。完全なスランプに陥ってしまったようだ。ここ一両日中に仕上げないと穴が開き、本当に大変なことになってしまう。
 原稿用紙を前に机に向かうものの、何も浮かばずさっぱり書けない。音楽を聴いても、冷蔵庫を開けても、風呂を掃除しても、ビールの栓を抜いても、なーんにもヒラメカナイのだ。
 なにも今に始まったことではないが、こうした兆候は去年の暮れ頃からあったように思う。
 私は「運賃誤表示問題」について書いていた。発端は横浜線利用者からの指摘だったが、JR東日本管内だけで2割を超える駅に誤表示が見つかり、四国を除く全国に広まるというお粗末さ。その結果、JRは3年間にわたり高く取りすぎていたというものだった。JRのチェック体制の甘さが問題なわけだが、私の場合、悪いのは鉄道マニアだという結論に達したのだった。マニアならば、誰よりも早く間違いに気づいて然るべきだと。当然ボツになった。
 また、「JRに法的責任あり」について書いていた。これも、闘争団を一人も路頭に迷わせることなく問題解決にあたるのは、国労の責任だと。だから悪いのは国労だという結論に達し、やはりピントがずれてボツになった。いずれも、あらぬ方向に怒りが向いてしまったのだが、私はなぜか、このようにいつもピントがずれてしまい、誤解を招きひんしゅくを買うことが実に多い。
 いつも一緒にいる妻でさえ、私を不真面目だと思い込み、常に真剣であるということに気付いてくれない。
 すっかり春めいてきたというのに悲しいことだ。3月6日には、青梅線の早朝からの事故の影響で、中央線の朝のラッシュも混乱したが、夕刊(朝日)に大きく報道されていた。踏切を渡ろうとしたワゴン車が、誤って線路を200メートルほど走って立往生したという信じられない事故だが、調べによると、踏切を渡った後に右折するところを、踏切内を交差点だと思い込み右折してしまったということである。
 苦笑せずにはいられない。私とどことなく似たような人もいるのだね。やっぱり春か。どうしたら書けるようになるのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/永年勤続者表彰式 ビデオ 第67回全国大会

■月刊「記録」2000年12月号掲載記事

○月×日
「25年永年勤続者表彰式」が京王プラザホテル八王子で行われた。受賞者は八王子支社内では151人、JR東日本全体では約3000人ということだった。当初はどうしたものかと悩んでいたのだが、何でも見ておくことが自分の務めだと思い、妻同伴で出席した。
 華やかさの中にも厳粛な空気が漂い、あちこちから「おめでとうございます」という心のこもった言葉が響きわたる。今日のこの日を大過無く迎えることができたのは、やはり慶ばしいことで、大変おめでたいものだと素直に思えた。
 ただ一つおかしかったのは、表彰式での組合の来賓が東労組八王子地本委員長1人ということである。わが国労と鉄産労の委員長は招待されていない。昨年からなぜかこのような扱いになっているという。
 あいさつは社長(支社長が代読)から始まり、支社長、現場長代表と続いた。その内容はといえば、私たちが入社した昭和50年から国鉄時代の12年間とJRの13年間、国鉄改革を乗り越え、JRが発足するという激動期をよく頑張ってくれたとの賛辞である。それには家族の支えがあったからこそと強調され、今後は早期に完全民営化を達成しなければならないということであった。
 なかでも印象に残ったのは、JR東日本は世界で最も尊敬される企業の一つになったという社長の言葉である。これほど問題を抱えた企業に対して、私たち一般社員との認識の違いはどこからくるのかと、改めて考えさせられた。しかし、受賞者代表のあいさつの後は立食式の懇親会(パーティ)に移り、飲めばすぐ酔う私であった。
 私は駅長や助役にならなくて本当によかった(なれるわけないけど、酔ってですから、あしからず!!)。国鉄時に車掌試験に受かって以来、出発進行の指差確認一筋、22年にもなるわけだが、なりたての頃は、まさかこんなに長く車掌をやっているとは思いもしなかった。でも、今ではサイテイ車掌で十分満足して、日々励んでいる。さすが優良企業の人事である。しっかりと私を見抜き、選考を誤らなかったのだから……。
 いずれにせよ、俗にいわれている「もうろく賞」を貰ったからといって、もうろくするにはまだ早い。今日を境に新たに頑張ってほしいということでもあった。人は一生頑張らなければ生きていけないのだということを、実感を持って感じることのできた有意義な一日であった。

○月×日
「四党合意撤回を求めて」(ビデオプレス制作)のビデオを観た。先の続開大会を前に上京した闘争団が本部と交渉を行ったドキュメントである。
 今なお揺れに揺れている国労だが、闘争団の本部にぶつける切実な生の声は、まさに生死をかけて13年間を闘ってきたのだという思いが滲み出ていて、目頭が熱くなるほど胸が痛む。しかし、感傷に浸っている時間はない。怒りのやり場に困り、ただただやり切れないとしかいいようがない。苦境に立たされているのは皆同じ、国労全体なのである。
 具体的な解決案のない四党合意は撤回すべき、とする闘争団は「本部は闘争団を切り捨てるのか、おれたちの人生を勝手に決めるな」と迫る。一方、四党合意は到達点、解決のラストチャンス、とする本部は「続開大会では四党合意の採決は行わない」「一票投票で賛否を問う」と決定するに至るわけだが、この交渉における闘争団の問いかけ(追求)には、ほとんどまともに答えていない。というより、本部自らが自信がなく、答えられないという見方が正しいのだろう。
 一票投票で○(賛成)をつけた私は、重大な過ちを犯してしまったのだろうか……。
 闘争団の声を二つ三つ記しておきたい。
「ぼくらは13年間、本部からJRに責任ありと教えられてきたんですよ。それが1日でひっくり返るわけでしょ、すごい問題なんですよ」
「本部は組合員の代表なんですか、自民党の代表なんですか、運輸省の代表なんですか、それを聞かして下さいよ」
「このことに生死をかけているんだよ、○×グループだか、○×一派だかしらないけれど、政党的な考えで、私たちはそんなレベルでやっているんじゃないんですよ、家族の命をしょってやっているんですよ」
「うちの母さんは闘争団やってから服買ったことないですよ、そんなお金あったら子どもに着せてやりたいから、皆そんな思いでやってきたんだ、それが5月30日、ある日突然みたいに、新聞で四党合意、JRに責任なしっていわれて、子どもがそれ見て、おやじ何のためにやってきたんだって母さんにいったら、母さん、私なんか死ぬことなんか恐くないて、そんなふうに、家族を、追いつめる……、委員長……(絶句)」
 このような思いをしてまで必死で生き抜いてきた闘争団が、人間失格みたいに労働者としての首を切られる理由などあるはずがないではないか。こうして、人間として闘い続けた、意欲のある者こそが必要とされる世の中であってほしい。
 これほどまで苦しく、辛い境遇に置かれた争議を、私は他に知らない。

○月×日
 10月28日から29日にかけて、国労の第67回定期全国大会が社文会館で開催されたが、またも反対派の激しい抵抗により休会となった。四党合意を含めた運動方針案の討論にすら入れずにである。
 1日目は午前10時から開催された。冒頭、高橋委員長の挨拶はこれまでにない異例の長さで、55年余りに及ぶ国労の歴史と伝統を振り返ることから始まり、理不尽な攻撃に対しては屈服するのではなく闘わなければならないというものだった。
 そして、執行部が四党合意を受け入れるに至った経過を詳細に述べ、「四党合意を承認した後、(政府は)さらなる譲歩を迫ってくることは十分あり得る。冷静かつ慎重に対応すべきだ」などと、四党合意を否定はしないにしろ、執行部を暗に批判するような発言だった。
 この日は、経過報告を巡って10人の代議員が発言した。「四党合意を蹴って今後の展望はあるのか。賛成が55%を占めた一票投票の結果を厳粛に受け止めるべきだ」との賛成意見も出たが、ほとんどが執行部を厳しく批判する反対意見であった。
「四党合意受け入れは執行部の独断だ。JRに責任なしを認めるのは妥協ではなく屈服だ。執行部は四党合意を撤回して即時総辞職せよ」というものばかりで、「経過報告を認めるわけにはいかない」とする執行部の責任追及に終始し、夕方には承認される予定だった経過報告は翌日に持ち越されるという異常事態となり、午後6時過ぎに終わった。
 2日目は9時30分過ぎから開催された。議事運営委員会と議長は、経過報告と運動方針案を同時並行して討論することを提案したが、反対派は切り離すようにと強く求め、すぐに紛糾。長い休憩(執行部による舞台裏での調整)後、結局、経過の討論を先行させることになり、反対派の代議員を中心に8人が発言した。
 宮坂書記長の中間答弁では、総辞職については「全員が総辞職し、新しい執行部を作ることは再三申し上げたとおり」と、再任しないことには一切触れず、壇上占拠については「本部見解は暴力行為を否定したもので、闘争団を暴力団呼ばわりしたものではない」と述べた。要するに闘争団との本部交渉など、従来の発言を繰り返すばかりで、真新しいことは一言もないというお寒いものだった。時間はどんどん過ぎ、議事予定は大幅に遅れていった。
 午後からは経過の質問を打ち切り、承認手続きにはいるとして無記名投票で採決することが提案されたが、反対派が猛反発。場内はまたも騒然となり紛糾。休憩は約2時間に及んだ。
 閉会予定時間の午後3時が過ぎ、3時30分頃、再び議運から、採決するとの同様の提案がされ、場内閉鎖を行うと同時に、反対派が強行突破しようと警備係と激突し、今にも壇上に詰め寄ろうとする大混乱となった。怪我人も出る中、代議員の有効投票数109のうち、賛成74、反対31、保留3、白紙1という採決の結果が出た。
 反対派は「強行採決」に猛烈な抗議の声をあげ続け、午後4時過ぎにまたも休憩。午後5時30分、休会が宣言され、今後は未定という幕切れとなった。(以上、2日間の傍聴記)
 私は、またも物別れに終わって非常に残念というのが率直な気持ちである。高橋委員長の挨拶を聞き、「執行部内ですら未だに統一できずに乱れているのか」と、危惧と腹立たしさで初めから困惑せざるを得なかったのが事実だ。
 これでは、「国労はいったい何をやっているんだ」といわれそうだが、みなそれぞれ必死なわけです。このままでは永遠に平行線をたどり、溝が埋まるとはとうてい考えられない。労働組合として、個々人の異なった意見を尊重するのは当然だが、もはや統一と団結にも限度があると思わざるを得ない。
 最後の決断として、一票投票には○(賛成)を投じた私だが、四党合意はあまりにも非情で無理が伴うものであり、反対派の主張の方が筋が通っていると思っている。
 闘争団は国鉄の分割民営化という国策によって生まれた犠牲者である。政治が解決に動くのは当然のことだが、政府にも闘争団や家族の筆舌に尽くせぬ切実な訴えが何度も届いているはずだ。私には政府が弱いものを愚弄しているとしか思えない。「JRに責任なし」を認めることが前提条件などという、黒を白にするような姑息なやり方ではなく、もっとフェアにすべきではないのか。先にそれぞれの条件を提示して、交渉により妥協点を見いだしていく。そして、最後に「JRに責任あり」を取り下げるという当たり前のやり方で行うべきである。
 誰もが心から早期解決を願っている。妙案があったら教えてほしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/ 一票投票 さいたま新都心 55%

■月刊「記録」2000年11月号掲載記事

○月×日
 大会を二度も開催しながら何も出来なかったことは、国労の歴史に大きな汚点を残したといえるかもしれない。
 続開大会では、執行部案である「四党合意」(JRに法的責任なし等)の採決は行わず、全組員による一票投票で賛否を問うと決定されたが、今度はこの一票投票が物議を醸しており、ますます混迷の度を深めた状態となっている。
 一票投票については、私は先に「現局面の混迷を回避すべく、組織の統一と団結を大切にする道を選んだといえるだろう」などと書き、ノーテンキで頭が空っぽであることがバレてしまったが、反対派は実に鋭い意見を述べている。
 まず、「四党合意」の撤回要求はもちろんのこと、一票投票は闘う組合員を上から弾圧し、組合員一人ひとりに執行部支持か反対かの踏み絵を踏ませるもので、国労組織団結に、より一層の混迷と亀裂を生むものだとしている。また、政府・運輸省がいう「闘争団の多くが闘い続けるようであれば、四党合意は意味がない」ということからも、「四党合意」は何ら実効性がないことがハッキリし、すでに破綻している。一票投票は闘争団切り捨ての賛否を問うに等しく、ただ単に大会を強引に乗り切るための方策にすぎない等の理由から、撤回、中止を求めているのだ。さらになんと、東京地裁に「一票投票禁止を求める仮処分命令の申立」まで起こしたということである。
 非常に困った事態であるとしかいいようがない。意見の隔たりがあまりにも大きすぎて、この溝が埋まるとは到底思えない。分割・民営化前の修善寺大会で大分裂をして以来、苦闘を共にしてきた仲間同志がこうして対立し、いがみ合うことだけは避けたかったのだが、もはや国労は未だかつてない最大の危機に直面したといっても過言ではないだろう。
 だがしかし、今日まで国労組合員でい続け、闘う国労の旗を守り抜いて来たこと、とりわけ闘争団が人生を賭けた国鉄闘争を無意味なものとして終わらせないためにも、現実を直視し、責任ある判断と重大な決意をもって、現局面をなんとしてでも乗り越えていかなければならないのだ。
 私もこれまでに実にさまざまな文書に目を通し、それぞれの主張を十分理解してきたつもりでいるが、いつまでも「四党合意」は△(保留)などという曖昧な気持ちで揺れ動いているわけにはいかない。そんな場合ではなくなった。○(賛成)か×(反対)か、いかなる態度をとるべきか。ここは決然と悔いの残らない二者択一を決するときなのである。
 13年余も闘ってきた、いわゆる到達点としての「四党合意」は、あまりにも屈辱的すきる。本当に歯を食いしばってがんばってきただけに(筆舌に尽くしがたいとはまさにこのことをいう)納得しかねるのが当たり前であり、反対である。
 また、和解交渉(話し合いのテーブル)に入る前に「JRに法的責任なし」を認めてしまうことは全面屈服(敗北)以外の何ものでもなく、危険と不安が大きすぎる。その結果、解決水準が極めて低いものにされることは明白である。
 それと同時に、闘争の切り捨てだといわれているが(本部はそうではないといっているし、そのようなことはするはずがないと確信しているが……)、解決(最終局面)=闘争の終結(幕引き)=勝利、敗北のいずれにしろ、言葉は悪いが「切り捨て」の論理につながると考えるのは常識的である。――等々、まったくもって反対意見に同調してしまうのだが、私は悩みに悩み抜いて、冷静に考えた結果、苦渋の選択だったとする執行部を支持せざるを得ない結果に達した次第である。

○月×日
 何度も同じことの繰り返しとなってしまうが、1047名不採用問題は、「政治による早期解決」という国労全体の一致した考え方があった。
 当初、政府・JRは、「解決済み」だとして、頑なに相手にしないという態度をとり続けてきたが、13年余りにわたる闘いにより、「政治の責任で解決しなければならない」問題としてまで押し上げた結果が、執行部がいういわゆる到達点、「四党合意」という最終条件なのである。
 政治を動かしたこと、現在の力関係からして、ゼロだったものを何とかここまで押し上げたという現実を直視することが最も重要なことのように思う。せっかく掴んだこのチャンスを無駄にすべきではない。最大限に生かすべきだと、私は思うに至った。これが長かった国鉄闘争の、国労運動としての到達点だという認識である。
 確かに、当該である闘争団と多くの組合員には不安が大きすぎて、承服できずにいる。ならば仮に、この到達点を蹴ったとしよう。「四党合意」を拒否すれば、政府はただ「ああ、そうですか」と何もなかったかのように全面的に手を引くだけである。それは、政治折衝の窓口がなくなり、政治的パイプを失うということを意味するのだ。失うものが大きすぎやしないか。今後の新たな闘いの展望を考えてみても、今まで以上の取り組みが出来るのだろうか。
 毎年の退職者が国労内だけで1500名という現状で組織が先細りしていく中、体力、つまり組織的力量がどれくらいのものなのか。このことは、闘争団を支えていく上でも非常に重要なポイントでもある。
 今さらいうまでもないことだが、階級闘争はすべて力関係で決まるといってよい。常識が非常識になることもあれば、悪法であろうがなんであろうが、数の力でまかり通ってしまうのである。正しいことが必ずしも勝つとは限らないことは、私達が身をもって、イヤというほど味わってきたことだ。闘いの結果が皆が喜べない場合もあり得るという覚悟も必要だろう。
 さらに問題なのは、「闘い続ける」ということがあまりにも抽象的すぎるきらいがある。それは反対派の中から、執行部案に対する具体的な対案が提起されていないということだ。10年、20年先の保障が不透明すぎるのである。雲散霧消になったら、闘争団は救われない。
 こうしたことからも、この闘いがいかに困難であるかは証明できると思う。今一度、これまでの13年余りの重さを振り返れば、この時期がやはりラストチャンスとみるべきではないだろうか。
「四党合意」受諾を決断するにあたっては、執行部はそれこそ誰よりも最も悩んだはずである。現在の力関係、政治情勢、裁判の動向、将来展望等、ありとあらゆる分析を行い判断されたことであり、重大な決意であると受け止めたい。
 国労の最高機関である大会で承認・決定された一票投票を厳粛に受け止め、到達点としての「四党合意」に自信と確信を深めることにより困難を打ち破り、事実上の解決交渉に向けて決意を固めたい。
 私は最後の最後まで闘争団を支援していく気持ちに変わりはない。あと少しだぞ、ガンバレ闘争団!! 「四党合意」が謳っている「人道的観点」という文句がどれくらいのものなのか、十分見極めてやろうではないか。
 国労の組織の統一と団結が今ほど求められている時はない。なんとしても一票投票を成功させなければならない。

○月×日
「アイ・フィール・ファイン」。乗務中までジョン・レノン。とってもハッピーな気分で、ジョンの名曲を思わず口ずさんだりしている。
 今年4月に開業した「さいたま新都心駅」(京浜東北、宇都宮、高崎線)に、世界初の公式ミュージアム「ジョン・レノン・ミュージアム」がオープンする。それもジョンの60歳の誕生日である10月9日にだ。20世紀の偉大なアーティストであるジョンが残した詩や曲、遺品や映像等を紹介するというものだ。
 その宣伝として、ジョンの優しい顔写真入りのポスターが各車両に掲げてあるものだから、ジョンフリークの私としてはたまらなく嬉しい。
 また、テレビでは某社缶コーヒーのCMで、ジョンとヨーコのキスシーンが放映され話題となっている。没後20年を迎えたジョンがいま再びよみがえり、ミレニアムを席巻する。列島はジョン一色に塗りつぶされた、こんな表現も私にはちっとも大げさではない。
 さいたま新都心駅櫻井実駅長がジョンを知っているのかどうかは疑問だが、「ぜひ遊びに来てください」とおすすめしている。知らなくても許すよ。
 さあ歌おう。「ワン・アフター・909」
「9時9分発の次の列車で彼女は行くと行っている。おれも乗せてくれ……」。うーむイカスよなぁ。

○月×日
 55%が「四党合意」に賛成。
 一票投票の結果は、投票資格者数約2万3600人のうち、賛成が約1万3000人(55%)、反対が約8500人(36%)、保留などが約2000人(9%)であった。
 闘争団員の多い北海道と九州でも、57%、64%と、全国に比べいずれも賛成率が高かったことが、反対が多いと思っていた私には意外だった。
 しかし、賛成が圧倒的に多いというわけではない。本部は「全組合員の意志を示すものとして、重要な意義を持つ」と評価しているということだが、賛成1万3000人に対して、保留などの批判票を合わせた反対票(といっていいのかどうかだが)が1万を超えたことから、意見は二分されており、拮抗していると見るべきであろう。
 反対派は「賛成派は四党合意で早期解決か、拒否して泥沼の長期闘争かと、論点をねじ曲げ、長期闘争を避けたい気分につけ込み、組合員への締め付けで票をかすめ取った」などといっているが、私は断じてそうではないといいたい。誰だって苦渋の選択だったのである。これ以上亀裂が深まるような発言は慎んでほしい。
 いずれにしても、投票の位置づけであった「国労組織の統一と団結を図る……」が、達成されたとはいいがたい。来る10月28・29日の定期大会に向け、出来る限りの意志統一を図ることが急務である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/続開大会 フェーン現象 ソウル

■月刊「記録」2000年10月号掲載記事

○月×日
 お盆が過ぎて、夏の終わりをふと感じた。厳しい残暑は当分続きそうだが、青空に浮かんでいる真っ白な雲や、Tシャツを軽くなびかせる早朝深夜の冷んやりとした微かな風に、秋の兆しが漂う。そのどれもが真夏のそれとは微妙に異なり、なんだか切なくなってくる。夕方の蝉時雨が鳴りやんだかと思うと、夜の静けさに秋の虫の音が広がってくるのだ。
 この夏は病欠後ということもあり、これといった予定も立てずに来る日も来る日も暑い暑いと呟いていただけだったが、図書館にはよく通った。お金を使うことがない上、街中の喧噪とは逆に静かで涼しいのがなによりだ。しかし、活字に目を落とすものの頭に入らないことが多く、学生風の女の子の横顔ばかり眺めているというアブナイ状態であった。結局は何もしていないのと同じである。
 夏の夜の風物詩の一つ、国営昭和記念公園と東京湾の花火も素晴らしくキレイだったが、浴衣どころか制服制帽の乗務中に見ただけで、行ったわけではない。
 帰省もしなかったし、海にも行っていない。ひまわりも見ていないし、蚊にすら刺されていない。
 家にいれば、昼間から缶ビールで喉を潤しジャズなんぞを聴き、一日中ランニングシャツとステテコ姿ときたもんだ。ランニングシャツ一枚で「JRに法的責任あり」、ステテコ一枚で「国家的不当労働行為は許されない」などと考えているのだが、本当にこれで大丈夫なのかと自分でも不安になったりして、なんかヘンなのだ。つまり、夏らしいことは一つもしていないのである。
 そういえば、パソコンと向き合っている時間が多くなった。息子のケータイに電話すれば済むことでも、いちいちメールで送ったりしている。「今どこにいるんだ? 晩ごはんはカレーだよ」。そして息子から来る返事はといえば「また海に行くからお金ちょうだい」である。誰に似たのか、ちっともまともに答えていない。
 ふと、過ぎゆく夏を惜しむといった表現が、他の季節にはないことに気づいた。何か特別なのだろうか……。

○月×日
 休会となった7月1日の臨大から1ヵ月以上が経ち、8月26日の続開大会まで残すところあとわずかとなった。
 四党合意をめぐった意見対立は熾烈を極め、労働運動界全体を揺るがしているといっても過言ではない。このまま国労はまとまり切れないのではと誰もが感じていることだろう。
 本部に対して不信・不満を募らせ、半信半疑に陥っている組合員も少なくない。「JRに法的責任はなし」は断じて認められないとする各支援団体が入り乱れており、イデオロギーに固執するあまり、現実路線からどんどん遠ざかっていくような気がしないでもないが、仕方のないことだろうか。
 また、36ある闘争団のうち、22の闘争団が、四党合意撤回と大会中止を求めているという。つまり、本部が闘争団を説得しきれなかったわけである。
 当初の本部説明では、「四党合意の確認だけの大会にはしない」「政治と同時進行で動いている」「大会では解決案を示し、討議資料を出すようにする」ということだったが、前回の臨大ではそれらが守られず、今回も実現しそうな情勢にはない。
 また、解決水準についてはさまざまな情報が乱れ飛んでいる。例えば、解決金は80万円で、採用(雇用)は75名等々。四党合意を通り越して悲しくなるばかりだが、「本部に裏切られた思いだ」とする闘争団の気持ちは当然であるし、これで納得しろという方が無理な話ではないのか。早期解決は誰もが一致した思いだが、どのような解決でもよいということにはならない。13年闘った到達点がこれでは済まされない。どうしても譲れない一線があるはずだ。ま、本部も重々承知のことで、いうまでもないことであろうが。
 私は、最後の最後まで闘争団を支援していく気持ちに変わりはないし、今でも本部を信じている。「闘争団を切り捨てるようなことはしない」といった本部を、心の底から信頼している。複雑な思いがあることは確かだが、続開大会では、闘争団を私達組合員をぜひ納得させてほしい。
 ここまで漕ぎ着けたチャンスを無駄にすることなく、一致団結して大会を成功させることだけを願う。

○月×日
 続開大会は、8月26日午後1時から社文会館で予定通り始まり、高橋委員長の特別発言を全体の拍手で承認し、何の混乱もなく約10分で終了した。
 中身は、「JRに法的責任なし」などの四党合意の採決は行わない。四党合意の賛否は全組合員による一票投票で決めるというものである。
 この日の朝刊に大きく報道された「執行部総辞職」(四党合意を執行部の判断だけで受け入れた結果、組織内外に大きな混乱と不信を招いたため)については、大会直前の全国代表者会議で一転して、辞表は委員長預かり、10月の定期全国大会で「信を問う」ことになったのだという。
 本部はこの間、たび重なるオルグや会議、また、交渉や申し入れの受け入れなど、大変な苦労があったわけだが、反対派との意見の隔たりは大きく、組合員の混乱と不信は増すばかりであった。結局は、現局面の混乱を回避すべく、組織の統一と団結を大切にする道を選んだといえるだろう。
 高橋委員長は発言の冒頭で、7月1日の臨大が5時間遅れて開催されたこと。混乱で休会になったこと。その後、闘争団や全国の共闘関係者に大きな迷惑をかけたことに対して深くお詫びをした上で、
一つ、当事者である闘争団との意見交換、合意形成が不十分であった
二つ、解決案の具体的内容を示すことが出来なかった
三つ、職場討議をする時間的な保証と情報の提供が不十分であった
四つ、支援共闘、連帯していただいていた方への配慮が足りなかった
と、これらの事実を述べ、心からの反省を示し、理解を求めた。そして、先の提案となったわけである。
 いずれにせよ、今後の焦点は、組合民主主義の観点から行われる四党合意の賛否を決める一票投票に移ることになるが、9月18日から始まる10月の定期全国大会の代議員選挙と同時に実施するのだという。
 投票の結果は予断を許さない情勢だが、もし過半数を超えて四党合意が承認されるとなれば、現執行部は一旦総辞職はするものの、何人かは続投となり、かすかに残る政治解決への道をなんとしてでもつなぎ止めようとするはずである。また、否決となれば、四党合意は撤回されて新執行体制となり、最後の最後まで闘い抜くことになるのだろう。
 まったくもって前途多難なわが国労だが、これまでの13年間の紆余曲折を乗り越えてきたことを思えば何のことはない、はずだ!?

○月×日
 ふう、アツイ。暑いなんてもんじゃない。アヂアヂ、アヂ、まさにドライヤーの熱風さながらなのだ。9月になったというのに、フェーン現象とやらで今年一番の暑さだという。
 私は2週間おきの通院の日であったが、その帰りに普段は滅多に入ることのない喫茶店に駆け込み、アイスコーヒーなんぞを注文して涼をとったほどだ。店にあった週刊誌(新潮)に目を通すと、「国民はとっくに忘れている『国労』という組合」という見出しで、先の臨大のゴタゴタが載っており、最後は「きっとそのまま消えていくのだろう」などと締め括られているではないか。まったくもって看過できない内容だったが、「ふーん」とやりすごしただけで、相手にする気も起きなかったのだ。
 また、丁度休みだったので、あちこち寄ったりと予定を立てていたのだが、暑くて暑くて、そんな気はすっかり失せてしまい、猛ダッシュで(自転車だけど)帰宅したのだった。
 で、クーラーを入れるや否やステテコ一枚になり、とりあえずビールだ!! とワイルドに栓を開けたわけです。早く夕方になれと願いつつ、ほろ酔い気分でベランダに出ようと窓を開けたら、熱風の進入と共にいきなりブレーカーが落ちてしまった。それくらい暑いのである。
 暑い暑いと何百回口にしたかわからないほどの暑い夏だったが、季節は変わっている。翌日からは打って変わって、何日間かグーンと涼しくなり、風と空は秋になった。

○月×日
 妻がソウルに行くことになった。職場の旅行なのだが、初めての海外旅行である。
 とても楽しみにしているようだが、日が迫るにつれ、どこかしら不安が入り交じっているのがありありと分かる。どこで聞いてきたのか、行きの飛行機はよく落ちるらしいなどと口にするようになり、しまいには「そうなったら、あなたは嬉しいんでしょ」とくる。
 先ごろ実現した、南北統一に向けた和解の話し合いは記憶に新しいが、妻にはそうした雰囲気に触れてくるなどといった高尚さは微塵もない。ただ行くだけ。行ってカルビなどの焼き肉をたらふく食べ、無駄と知りつつ、少しでも美しくなろうと韓国式エステに行く。それだけで大満足であるはずだ。
 ま、それでいいのだけれど、なにさ、そんなことは東京にいても十分出来る。私なんか夕べ、都内の某焼き肉屋で一足先に韓国体験を済ませてきたのだ。本場の焼酎をがぶ飲みしながら、カルビだってしこたま食べたのだ。羨ましくも、何ともないもんね。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/壇上占拠 パソコン 職場復帰

■月刊「記録」2000年9月号掲載記事

○月×日
 臨大は「壇上占拠」という反対派による実力行使の形で異例の休会となった。
 国労本部はその直後の7月3日、「臨大休会についての見解」なる声明を発表した。
 その内容は8項目からなり、「大会を成功させることが出来なかった責任を痛感している」「組織に責任を持って、態勢の立て直しのために全力を挙げる」「政党・政府関係者の皆さんに対し、衷心よりお詫びする」……という真摯なものだが、「壇上占拠」については、「大会破壊の暴力行為に対し、非難すると共に憤りをもって抗議する」とされている。
 この「壇上占拠」の事態を、本部がいう暴力と決めつけるのか、あるいは、抵抗権の行使と正当化するのかは微妙なところだが、私はむしろ、このような(暴力だとする)見解を発すること自体が、悲劇的に思えてしまうのだ。
 何やら、国労内部で取り返しのつかなくなるような対立が生まれてしまうのではないか、という危惧である。
 このような見解は本部を支持するものが正当で、反対するものは間違いだという誤解を与えかねない。つまり、闘争団は組織破壊の暴力分子として孤立化し、結局は切り捨てにつながるのではないかという心配だが、考えすぎだろうか。
 四党合意の解決案にはさまざまな異論があるものの、今、国労にいちばん求められているのは分裂や分断などでは決してない。一枚岩の統一と団結により、いかに解決に突き進むのかということだ。政治による早期解決は一致した思いなのである。本部の独断的な決定には確かに問題があるものの、ここまで漕ぎつけたからには闘争団の切実な声を十分に汲み取り、なんとしてでも事態打開に向けて動かねばならない。
 本部は死にもの狂いで解決水準を引き上げることに努力し、早急に闘争団に提示すべきである。

○月×日
 産業医と会ってきた。場所は新宿にある中央保健管理所。今後の勤務の相談やらアドバイスを受けた。
 ま、多くは期待していなかったが、やはりこのビョーキは何ともスッキリしないものだということを改めて痛感した。整形のドクターもおっしゃっていたように、あまりにもつらかったら休んで安静にするしかないという。ヘタすりゃあんた車いすだよ!! という話なのだ。
 立ちっぱなしの乗務はよくないに決まっているが、これしかない。デスクワークに転職を考えてみてはともいわれたが、現状ではほぼ無理。こんなことは先生にいわなかったが、国労を辞めて東労組に加入なんてことにもなりかねない。ならばどうすりゃいいの? 「ヘイ、メン、答えはナシさ」なんて気取っている場合ではないのだ。
 いずれにしても、もう4週間も休んでいるのだからいい加減仕事に出たい。アナウンスマイクを握って、「戻ってまいりました」と乗客のみなさまに報告したい。白い手袋で指差し確認を決め、「停止位置オーライ」と隣の駅にまで聞こえるような喚呼で、これまでのストレスを発散させたい。一刻も早く中央線の人になりたいのである。
 産業医は、「いきなり乗務するのではなく、はじめのうちは出勤するだけとか(いわんとすることはわかるが、そんな仕事はないよ)日勤にしてもらって慣らしていくようにと、私の方から区長にいっておく」ということであった。
 私は乗務するつもりでいるが、そうしてもらえれば実にありがたい。
 さて、区長はどうしてくださるだろうか。
 しかし、車掌は乗るだけなのだ。乗務以外の仕事などないわけだし……。
 職場復帰を前にアレコレ考えると、ちょっぴり憂鬱になってしまう今日このごろである。

○月×日
 ついにパソコンを購入した。
 実は私、同僚もあきれるほどのアナログ人間で、ケータイは持たず、ワープロすら打てない。しかしそれで何の不自由もないし、恥ずかしいとも思わない。逆に、「強引にマイウェイしてるもんね」などと楽しんでいたわけである。
 ところが今や新聞もテレビも、「インターネット時代」「IT革命」だのと四六時中騒ぎ立てる。私にはちんぷんかんぷんな言葉が、もはや解説不要が当たり前であるかのように使われていることに、少なからずショックを受け、焦ったのである。
 私は流行りというものに対して馬耳東風を決め込むことが多いのだが、これは一過性のものなどではなく、これからの日々の暮らしに必要不可欠に定着するものだと、遅ればせながら確信した。
 新しいことを覚えるのは確かに面倒で、「チャレンジ精神が希薄」といわれればそれまでだが、私だって「やれば出来るさ、何だって」といつも思っている。
 こんなことをつらつらと思っていたのだが、早急に買わねばならない要素がさらに増えた。というのは、「学校で使うからパソコン買ってよ」と、息子がいい出しそうだったのだ。
 家に2台もパソコンは置けない。もし息子に買ってやったら、当然息子のものとなり、私はいちいち「ちょっと借りるぞ」とお願いする立場となる。それではマズイ。困るのだ。
 わが家においては、正しい父子関係が確立されなければならない。これは大変重要な課題である。「お父さん、パソコンお借りします」と、息子が私の部屋に入ってくる。こうでなくちゃ。皆さんもそう思いますよね。
 まあ、私の方から「ここはこうすればいいのかなぁ」と、息子にお伺いを立てることになるような気もするのだが。

○月×日
 約1ヵ月ぶり、ついに職場復帰した。
 振り返れば1ヵ月なんてあっという間だったが、久しぶりに職場に顔を出したのに、会社も組合も当たり前のように動いていた。まあ当然といえば当然だが、私一人がいなくてもなんということはないのだ。そのうえ家庭でも、仕事にいかない私を粗大ゴミ扱いする。
「なら、おれの存在って何なのさ」と、悲しくなってしまうが、人間一人なんてちっぽけで弱くてもろいものだとつくづく思う。しかし私は、気落ちはしても命を落とすようなことはしたくない。
 いっそのこと、会社からも家庭からも逃げ出して、夢の中へ迷い込んでしまいたいという衝動に駆られたりする。一人ぼっちじゃ生きられないから、誰かステキな女性とでも……、なんてね。
 そんなこと、ヘルニアおやじは無理に決まっている。やっぱり現実に戻るしかないのだ。
 区長へ対する産業医からも伝言もむなしく、結局は初日から乗務となったが、こうするしかないわけだし、なによりも私が乗るといったのだから、これでいいのである。
 それにしても何度もいうようだが、立ちっぱなしで常に揺られている乗務は本当によくない。だったら座ればといわれそうだが、腰掛けたり立ち上がったりを繰り返すのもよくないそうだ。「ならいったいどうすりゃいいんだ」と、一人やけのやんぱち、思わず指差確認をする指先に力が入ってしまうが、私はふとひらめいた! ぶら下がればいいのである。
「ぶら下がりでブーラブラ」などと呟きながら、乗務員室を見回したら、小さな網棚があった。アレしかないと思い、いざ……、できなかった。なぜって、お客さまから丸見えだったのだ。私だって復帰早々モンダイを起こしたくないものね。
 なにはともあれ、一日を無事に終えることができてホッとした。やっぱり病欠後半のリハビリがよかったのかな。でも、どうにもハッキリしないこのビョーキは、優柔不断である私にピッタリ合っているように思えてきた。なにしろ、全治一生だものなぁ……。

○月×日
 続開大会の日程が決まった。
「四党合意撤回」「続開大会は中止」の声は相変わらずだが、反対派の意見ばかりが目立ち、本部からの情報が極端に少ないのが気になるところだ。
「JRに法的責任はなし」などと思っている人は、本部の役員にしろ誰一人といないのである。それでも、政治での解決を計るために「責任なし」とするのであり、私も当初は「仕方ないか……」などと軽く考えていたのだった。
 しかし今となっては、せめて「法的責任は問わない、追求しない」ぐらいに出来なかったものかと悔やまれてしょうがない。
 何度もいうようだが、「法的責任はなし」というのは、首切りは正当でした、私たちの闘いは間違っていましたという、14年間の全てを否定することなのである。
 それでも認めろってか、ベイビー、できねえよ。
 大会は本部支持の代議員が多いことから賛成多数で承認されるのは間違いない。成立するのである。
 しかしどうだろう。反対する多くの闘争団と、それを支持するグループが「私達は闘い続けます」という事態になれば、大会が成立したとしても形だけの承認に終わってしまうことになりはしないか。
 四党合意は実現されることなく無効となってしまうだろう。
 考えれば考えるほど自分自身の結論を出すことが出来ない。根底にあるのは、人間としての尊厳ではないのか。踏み誤ってはならない。
 従って、四党合意は認められない。続開大会は中止すべきである、となるのだが……。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/ヘルニア 昇進試験 臨時大会

■月刊「記録」2000年8月号掲載記事

○月×日
 いやはやなんとも、ヘルニアらしい。
 朝起きたら突然歩けなくなっていた。右下股に激痛が走り、感覚が麻痺しているように感じられた。私は咄嗟に「血管が詰まったのか……」と脳の方を心配したが、頭の中身は相変わらずのようだ。脚を引きずりながら、何とか朝の最低限の支度を済ませたものの、症状は悪化するばかりで一向に良くならない。
 腰痛は以前からあったのだが、医学書を開いてみると椎間板ヘルニアの症状と合致している。とりあえず整形外科に向かった。
 ドクターは腰のレントゲンを撮ったのだが、やはり脳外科にも行ったほうがいいとのことで、採血の後に頭部CTを撮り、MR検査の予約を済ませた。2週間分の消炎鎮痛剤をもらい、仕事に行ってはイケナイというので、ひとまず家で安静の身となった。しかし、じっとして動かなければ痛みも痺れもない。3日も経つと痛みは消えたが、今度はじっとしていても常に痺れがあり、少し気持ち悪くなってきた。
 診断書をもらいに再び病院へ向かう。街では誰もが颯爽と歩いている。普段は考えもしないが、健康であることのありがたみがこれほど胸に沁みたことはない。病院は車イスや脚を引きずった老人であふれかえっていた。
 あと2、3日したら仕事に出ようと思っていたのだが、病院から渡された診断書は、なんと6週間安静というシロモノだった。「こんなんで、そんなに重いのか」と驚きショックを受けたが、そ、そんなに休んではいられない。
 ドクターは、デスクワークならいいが、車掌はあちこち動くからダメだという。もう4日も休んでいる。これ以上、職場の皆に心配をかけたくない。いや、喜ばせたくないというべきか。冗談はともかく、私はドクターにお願いして、とりあえず2週間ということにしてもらった。そのころにはMR検査の結果がわかるはずで、そのときにまた改めて書いてもらうことにしたのである。
 それにしても困った。ヘルニアは治りにくい病気であることももちろんだが、この忙しい時期になんということだ。大事な昇進試験の日程も組まれているし、何よりも7月1日の国労臨時全国大会が目前に迫っているのだ。

○月×日
 MR検査の日となった。時間は午後3時からとなっていた。
 しかし、昼過ぎに病院から電話があり、ナント機械が故障して動かなくなったというのである。そんなことってありなのか。「本当に申し訳ありませんが、来週にしていただけませんか」と低姿勢で病院はいう。そんなこといわれてもね。予約がイッパイということで、初診からもうすでに10日以上経っているのである。
 私は戸惑いと憤慨の入り交じった声で、「来週だなんて、今日だって休みをもらったんですよ(ウソだけど)、そんなに休めない……。明日なんとかできませんか、土曜日ですけど……」と少し強引に頼んでみた。
 するとしばらく待たされ、「夕方の5時になりますが、それでもいいですか」という返事が返ってきた。「まったくもう」と思いつつ、申し入れを受け入れた。
 なぜだか知らぬが、私はいつもこうしたアクシデントに見舞われているような気がしてならない。一筋縄では行かないことが他人に比べて大すぎはしないか。考えすぎだろうか。
 続いて今度は、職場の事務助役から電話があった。
「来週の月曜日、どうする?」
 そう、昇進試験の日なのである。どうせ受からないのだが机に座っているだけだし、受けに行こうかとも思ったが、「今回はパスします」とあっさりお断りした。
 よかったね、受かりたい人はライバルが一人消えて……。
 なんだかドッと疲れた一日だったが、夜にまた電話がかかってきた。今度は国労のとある幹部からであった。「臨大の傍聴券が一枚あるから来い、記録の取材として許す」という。ウ、ウレシイ。なんてラッキー。
 明日はいよいよ臨大である。

○月×日
 まさか、こんなことになろうとは……。
 国労第66回臨時全国大会は大混乱の末に休会となり、再会時期等は未定ということである。
 朝からよく晴れた暑い一日だった。大会は労働運動全体の命運をかけたといっても過言ではなく、各方面から注目を集めていた。
 午後1時の開会だったが、会場となった永田町の社会文化会館前は、午前中から機動隊による厳重な警戒で、全国の大勢の国労組合員、支援の人たちで溢れかえっていた。
 いつもの様子とは明らかに違っていた。解決案には断固反対、四党合意は撤回すべきとする反対派の組合員らが大会中止を求めて会場入口にピケを張り、本部執行委員や代議員の入場を阻止していたのだった。
 何とも険悪なムードが漂っていた。そのためいつまでたっても開会することができずに5時間も遅れるという前代未聞の大会となったのだった。
 私は3時過ぎには病院へ行かねばならず、結局は待たされただけで会場を後にすることになってしまった。しかし、その間休みなくマイクを握って抗議している反対派や闘争団の思いは、十分すぎるほど身にしみて理解できたし、当事者である闘争団を抜きにして、本部が解決案の受け入れを決定したのは事実である。
 また、同時進行だとされた、採用や和解金等の水準も何も出ていないということからも、この日に大会を開くということには無理があり、中止になるのではという気持ちで会場をあとにしたのだった。
 案の定、その後も騒然とした雰囲気は何ら変わることなく、賛成派と反対派の組合員同士が小競り合いになるなど、さらにエスカレートしたそうだ。繰り返すが、開会にこぎ着けたのは5時間後の午後6時であり、それもまったく収拾がつかないものだったという。
 大会では冒頭から激しい怒号が飛び交い、「JRに法的責任はない」とした与野党四党間の合意文書の承認などを含む大会方針案を議題とし、高橋委員長は「四党合意の賛否だけを問うのではなく、四党合意とセットで国労の要求が同時に実現できることを大会の意思として確認することが必要だ」と述べた。
 一方の反対派は強い異論を唱え「四党合意については、引き続き職場討議を継続すべきだ」とし、「具体的な解決案(採用人数や金額など)が示された段階で、大会において判断を求める」との修正案を出したという。
 しかし、3時間近く経った午後9時ごろに、宮坂書記長が集約を始めた採決直前に、傍聴席にいた受け入れ反対の闘争団員ら数十人が次々と壇上に駆け上がり、「大会は無効だ」「解決案は、闘争団切り捨てそのものだ」などと声を張り上げ、執行部側と激しいもみ合いとなって大混乱したため、議事進行困難と判断した議長が大会の休会を宣言したのである。
 代議員から聞いたり、翌日の朝刊を読んだ話を総合すると以上のような感じだが、私には大会の一部始終が目に見えるようである。自分の気持ちとは裏腹に、「やっぱり国労だったんだなあ」という思いを強く抱いた。いつもの闘う労働組合、闘う駄々っ子、国労。勝利するまで闘うぞぉだったはずであり、その通りになってしまったのだ。
 私は自分の甘い考えをちょっぴり恥じた。正しくないことは正しくない。13年もの長い間、私たち国労組合員と闘争団は解決金を求めて闘ってきたのではないのだ。
「不当労働行為は認められない」という労働者として当たり前のことが原点だったのであり、「JRに法的責任あり」を認めさせるために闘ってきたのである。
 昨年の3月18日の臨大では改革法を承認したが、本部・代議員のすべてが「たとえ改革法を認めても、憲法、労組法は守る」「労組法の根元を破壊する不当労働行為は断じて認められない」と確認しあったではないか。
 国労に対して不当労働行為があったことは、労働委員会全体が認め、あの反動的東京地裁判決も、そして政府さえも不当労働行為の存在を否定はしていない。また、ILOですらその存在を認めているのである。
 これだけはいえる。もし仮に、解決案が承認されて、この闘争が終結するとしよう。
 国労本体はJRという会社がある限り、労働契約・労使関係があるわけだから、労働運動、組合活動はその後も継続されていく。たとえ屈辱的な敗北をしてもその後がある。しかし、闘争団の場合はどうか。家族を巻き込み、命をも削る思いの、まさに人生を駆けたすさまじい闘いだったのだ。闘争団にとっての終結とは、その人生の総決算という重大な意味が含まれているのであり、たった一度しかないことなのである。
 つまり、その後がない。そこが国労本体と違うところだ。だからこそ、あやふやな解決は絶対にできないし、また、そうさせてはならないことなのである。
 それではどうすればいいのかと問われても、私には答えることができない。大会がこうした事態となり、政治解決は遠のいてしまったのだろうか。決裂するのではなく、今こそ組合民主主義にのっとった話し合いが必要なときではないのか。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/もうろく章 ゼイタク 解決案

■月刊「記録」2000年7月号掲載記事

○月×日
「今年は25年表彰だから」と事務係にいわれた。永年勤続表彰といって、多年業務に精励した者の労をねぎらうという主旨で、就職25年目の社員が対象となっている。
 鉄道記念日である10月14日、京王プラザホテルやパシフィックホテルなどで授与式と盛大なパーティが催される。裏表なく、非常にメデタイ行事であろう。
 国鉄時代は功績章、一般的には「もうろく章」などといわれていた。その頃、まだ20代だった私たちにしてみれば、該当する先輩たちはもうろくするにはまだ早いが、もう老いていくだけの悲しい年寄りのように見えたものだった。そんな自分もあっという間にその年になってしまった。功績章なんてずっとずっと先のことで、その年齢に達することなど考えてもみなかったのに。
 しかし、実際その段階を迎えてみると、「なんのなんの、これからさ。私はまだ若い、バリバリだぜ」という心境である。これはハッタリではない。
 ま、なんにせよ、これまで大過なく過ごしてこれたことを素直に喜びたいが、私はJRになってからはずっと出席しないと決めていた。会社が国労に対して労をねぎらうなどという気持ちはサラサラないだろうという理由からだ。
 同僚からいわれてしまった。「典ちゃん、もう少しオトナになれよ」「出てさ、貰うものもらって(現金20万円と時計、カメラ、自転車など3万円から相当の品物が支給される)、茶番劇を見てりゃいいのさ」
 うーむ、そうだろうか。いまだにふんぎりがつかない。

○月×日
 川のせせらぎと鳥のさえずりが聞こえるだけ。平日ということもあり、ときおり上流から流し釣りをしている太公望が静かに通るくらい。私たち以外ほとんど誰もいない。職場の仲間12人、秋川でバーベキューを楽しんだのだった。
「やっぱり自然はいいなぁ」。昔、何度か来たことがあるが、今では年に一度来るか来ないかになってしまった。そのせいか、川原の石ころをポチャンと川に投げたりしているうちに、妙になつかしい気分になった。
 牛のカルビ焼き、ヤマメやマスのホイル焼き、玉ねぎ、ナス、椎茸、トマトなどの野菜焼きと、豪勢な料理が次々にできあがる。「典ちゃん、飲む練習でもしてなよ」といわれたからではないが、私はただのんびりボケーッとしながらビール、そして焼酎とあおり続けていた。仕事の後の一杯がイチバンだとかよくいうが、私は朝からでも、いつ飲んでもうまいと思うサケ好きなのだ。
 定年した大先輩を交えて、思い出話に花が咲く。こうした席でも、仕事のことばかり話題になるというのが玉に傷だが、やはりこれは仕方がないことなのだろう。
 みな古くからの付き合いなのだから、ここは無礼講でいこうなどと思っているのは私一人のようである。すっかり大人になってしまった。私だって、“親しき仲にも礼儀あり”を通しているつもりだが、酔うと実にだらしない。
 私は小僧のまま、年だけオヤジになったのだと思うと、つくづく情けなくなったりもする。若いころは、昼間からウダウダ酔っぱらっている大人を軽蔑したものだが、今ではそれを自分がやっているのだ。
 それぞれが十分に楽しみ、日暮れ前に解散となってみんな帰っていった。私を含めて残ったのが3人。2人は最初から1泊する予定であり、私は酔いすぎて帰ることができず、困った人となっていたのである。
 翌朝目が覚めると、ちゃんとテントの中で寝ていた。すでにお湯が沸いており、こんな山の中でドリップ式のコーヒーなどあるのだ。ああ、なんてゼイタク。
 朝の渋滞が解消される時間を見計らって帰途についた。梅雨入り前でも、日差しはもう真夏と同じだった。

○月×日
 まさに寝耳に水だった。1047人不採用問題について政府が動いた。
 政府・与党(自民・公明・保守)と社民党との話し合いの中で解決案がまとまり、国労本部が最終的に受け入れたことにより(5月30日)、和解に向けた正式な合意に至ったということである。
 朝日新聞(5月30日付)が一面に大きく報道したことで、私たち組合員も初めて知った。来るべき時がついに来たという思いだ。
 その内容たるや極めて厳しいもので、深い落胆と激しい怒りが込み上げてきてどうしようもないが、結論からいうと、動揺することなく、この痛みを乗り越えるしかない。
 まず、『国労は「JRに法的責任がない」ことを認め、臨時全国大会(7月予定)で機関決定する』という非常に驚くべきものだ。
 これまでの13年間「JRに責任あり」として、自信と確信をもって闘い続けた原点を根底から覆すものであり、到底認めることはできないのだが、認めることが前提条件となっている。その上で、
『与党はJRに対し、国労と組合員の再雇用などを協議するよう要請する』
『社民党は国労に対し、国鉄改革関連の訴訟を取り下げるよう求める』
『再雇用されなかった人などへの和解金の趣旨、金額などについて、与党と社民党で検討する』というのである。
 これだけでは不安や疑問が多すぎて納得しかねる、というのが率直な気持ちだ。
 報道によれば、JR各社は国労の歩み寄りを評価しつつ「妥当であり、極めて意義深い」というコメントを発表したということだが、なかには「JRが入っていない状況で決まった話でもあり、何ともいえない」「10数年も会社を離れていた人たちを受け入れる余裕はない」とする意見もある。
 いくら政府が要請するといっても、「旧国鉄が作成した採用者名簿を受け入れた段階で、この問題は解決している」との認識が根強いなかで、そう簡単に今日までの頑なな態度を一転し、話し合いのテーブルにつくことができるのかという疑問も拭いきれない。
 また、責任の所在が曖昧で、いったいどこが和解金を負担するのかという課題、金額の水準などが見えてこなければ評価のしようがないといった声もあり、なんとも不透明だ。
 しかし、今このチャンスを逃してはならない。この問題の解決は、話し合いによる和解の努力以外にないことがマスコミ各紙の論説をはじめ、広範な世論である。その証拠に、全国の自治体から政府による早期解決を求める意見書が続々と採択され、大きな社会問題になり、昨年11月には、国際労働機関(ILO)も日本政府に対して「労使交渉の促進を求める」旨の勧告が出されたのである。政府のみならず、国労自身も内外の世論に応えなければならないはずだ。
 これまでに、何度も何度も今年こそ解決しそうだといわれて、13年という長い年月が経過した。解決がさらに遠のけば、誰一人救済されずに終わってしまう可能性すらあり、そうなれば元も子もない。
 訴訟の取り下げは実に歯切れが悪いが、和解とはそういうものだろう。
 いったい誰が、何が、何の罪もない大勢の人間に、このような不幸な事態をもたらしたのか、当事者には素直に十分反省してもらうと同時に、国労本部の計り知れない苦渋の大英断を無駄にすることなく、今こそ長期紛争に終止符を打つべきだ。
 国労は同日、声明を発表した。
「解雇された闘争団員、家族の筆舌に尽くせない辛苦を思うとき、政治の場で解決のための合意がされたことは、限りない勇気と希望につながる。早期解決をはかるため、全力を挙げる決意を明らかにする」
 一方、東労組は「国労13年間の闘いを放棄」「国家的不当労働行為に国労総屈服」「闘争団をガケ下に突き落とす」などと、相も変わらぬ掲示を出しているが、初めから闘わず、不当な首切りを行った側を擁護し、自分たちさえよければという発想で仲間を切り捨て、職場に差別と分断を持ち込んだ者に、このようなことをいう資格はないとだけ申し上げておく。
 いずれにせよ、当面の山場は、1ヵ月後の7月に急きょ開催されることになった臨時全国大会である。「解決案は受け入れられない」「全面屈服である」「闘争団・支援共闘グループへの裏切り行為だ」などと、大激論が展開されるだろう。
 マスコミの大勢は「大会は紛糾必至」だが、そんなことはない。国労は一致団結して難局を乗り切り、一歩一歩着実に前進する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/脱線事故 一喜一憂 携帯電話

■月刊「記録」2000年6月号掲載記事

○月×日
 起きてはならないことが起きてしまった。営団地下鉄日比谷線、中目黒駅付近での脱線、衝突事故は、死者5人、36人の負傷者を出す大惨事となった。そして今もなお、ハッキリとした脱線の原因が分かっていない。
 私が事故を知ったのは、乗務中、指令からの無線だった。日比谷線が脱線のため不通につき、JR線に振り替え輸送をするという無線が、まるで普段の車両トラブルかのように、そっけない口調で入ってきたのだ。そうしたこともあって、大変だという認識はあったものの、口ぶりからしてそれほどの事故ではないだろうと思っていた。回送でも脱線したか、と。
 ところが、乗務を終えて本区に戻ると、テレビはどのチャンネルも信じられないような光景を映し出していた。電車の側面がドアや窓ごとすっぽりとはぎ取られ、車内の座席や手すりはメチャクチャに飛び散っている。爆発でも起きたかのような、見るも無惨な状態で、負傷者が次々と都内の病院へ搬送されているところだった。
 原因はなんであれ、この惨事に巻き込まれた方々にはどんな言葉もない。絶対にあってはならない事故だが、現にこうして起きている。なんともやり切れないが、忘れたころに必ずどこかで起こる。原因が究明され、改善され、どんなにハイテク化されても、機械に故障は付き物であり、それを管理する人間もやはりミスを犯すのだ。
 同業者として私たちにできることは、人命を預かるという職責の重大性を再認識すること。安全に対して手を抜いてはいけないという命題を肝に銘じ、作業手順等、決められたことをキチンとこなしていく……、くらいしか思いつかない。
 亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申しあげるとともに、負傷された方々の一日も早い回復を願ってやまない。

○月×日
 桜が咲いた。家の前にズラリと並んだ桜も見事に満開となった。淡いピンクが眩しくて目がくらくらする。思わず駆け出したくなってしまうが、家の中だから小さくスキップでもしてみようか、と思ったりする。
 窓を開けると、小鳥のさえずりが聞こえてくる。ウグイス色で対になっている小鳥はメジロのようだ。警戒心などみせず、自由気ままに飛び回っている。遠く春霞の向こうには、オレンジ色の中央線が今日も一直線にぐんぐんと走っている。
 静かにゆらゆらと萌え立つような暖かい春の日差しは、悪いことなどなにもないかのように、すべてをやさしく包み込んでくれる。自然に夢が膨らみ、胸が踊り心が弾む。春は儀式も多く、慌ただしくて感傷に浸るのはつかの間かもしれないが、それぞれが深く印象に残るものだし、やはり新たな旅立ちを感じさせるものだ。
 転勤や配置換えなどで、心機一転と気持ちを奮い立たせる。散りぎわの桜のように、いつまでも限りなくヒラヒラの私には無縁なのだが。がしかし、子を持つフツーのオトーサンである以上、進級進学といった子供の当たり前の成長に一喜一憂することもある。
 今年の春は息子の大学入学式があった。場所は日本武道館。序列からいえば二流、いや三流なんだろうが、私の子なんだからしかたない。新しい道を歩みだしたことにエールを送る。
 入学式のご父母のかたへという学長のあいさつ状には、「お子様が本学の難関を見事に突破され、合格の栄冠を勝ち得られました。ご家族ご一同ともどもに、さぞお喜びのことと存じ、心からお祝いを申し上げます」とある。……うむ、本当にそうだろうか。
 しかし、まずはメデタイ。素直に喜ぼう。これぞ春だ。

○月×日
 本日、4月17日から、JR東日本では混雑した車内での携帯電話の電源は切るようにと放送している。心臓ペースメーカー等の医療機器に影響を与える恐れがあるからだ。たとえ少数でも弱い立場に置かれた人を思いやるのは当然だろう。
 こうした放送を交えつつ、本日の乗務を終えた帰宅途中、突然右手人差し指がビリビリと痺れだした。どうしたんだろうと思いながら家に着き、わが右手を見てビックリ仰天。指全体が真っ青というか、真っ白で、冷たーくなっているのである。
 私は咄嗟に、意識不明で入院中の小渕前首相を思い出し、ビビッてしまった。
 これは血管が詰まっているとしか考えられない。どうすればいいのか分からなかったが、とりあえず、冷たくなっているのだから温めねばと、お湯の中に手を入れ、左手で静かに揉んでみた。すると、みるみる元通りの肌色に戻り、痺れも徐々に引いていった。
 危うく指差喚呼ができなくなるところであった。ふぅーっと、深い溜息と共に安堵したわけだが、さらに血行をよくしなければと考え、愚かなことだと思いつつサケを飲んだ。これでよかったのだろうか。グラスを見つめ、「この一杯が小渕さん……か」と呟いてみた。大丈夫に決まってるさ……。
 こんなことは初めてだが、妻がいっていたように「バッタリといく」前兆なんだろうか。少数労組で弱い立場の私も、オロオロ不安で落ち着かない気分である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/1411T 車掌19号 スタンス

■月刊「記録」2000年3月号掲載記事

○月×日
 ミレニアムだろうがなんだろうが、乗務員室はいつもどおりだ。相も変わらず、指令と乗務員が交わす無線のやり取りが飛び交っている。指令から無線連絡を受ける関係上、他の電車の無線もひっきりなしに聞こえてくるためである。
  「指令をお呼びの乗務員、走行位置と列車番号をどうぞ」指令から乗務員への呼びかけである。続けて相手の車掌から無線が返ってきた。
  「中野を発車しました1411Tの車掌ですが、お腹の調子が悪いので三鷹で交代をお願いします」車掌はまるで何でもないように、サラリと言ってのけた。
  「体調の悪い旨了解しました。手配をとります。気をつけて乗務方願います」と指令が返し、交信は終了した。
 滅多にないやりとりだが、これだけは仕方ない。出物腫れ物所嫌わず。明日はわが身。人ごとでは済まされない。笑ってなんかいられない。これほど切実なモンダイはないのだ。この車掌はお気の毒さまだが、よくまあ勇気を出して無線を入れたものだと感心した。
 乗務を終えて本区の控え室に戻ると、ガマンの限界、臨界寸前のミジメ車掌はナントうちの分会長なのであった。「乗務員室に新聞敷いてヤル勇気はなかったよ」と、心なしかスッキリ晴れ晴れとした顔で乗務報告書を書いていた。しかし、昼間の乗務で運良く交代要員がいたからよかったものの、早朝深夜帯なら万事休すである。
 私も約20年間の乗務で、いったい何度冷や汗をかいたかわからない。
 東京や高尾の折り返し、5分足らずの短い時間で、ズボンを降ろすのとどっちが先かというせっぱ詰まった状態のまま、ただひたすらトイレを目指す。今にも泣き出しそうな顔、間に合うかどうか、何とか待っていてくれ。まっすぐのつもりだがヨロヨロの急ぎ足、走れメロスならぬ、走れダメロスなのだ。
 どうにもこれだけは本当に本当にこりごりである。
 さて新年早々、読者でもある同僚からお叱りを受けてしまった。「最近、ビロウな話やサケのことが多すぎやしないか。ちっとも面白くないぞ」と。
 そんなこと言ったって……。酔っぱらいは胃腸が弱い人が多い。そして私がアルコールを友とする酔っぱらいであることは皆さんご承知の通り。いまさら言わずもがなではないか。

○月×日
  『車掌』が届いた。「車掌19号」だ。「ん? なんのこっちゃ、鉄人28号ならわかるが……」なんて思われそうだよね。実は『車掌』というミニコミ誌があったのである。創刊は1987年の老舗ミニコミで、年一、二回のペース。特異な企画が好評で、このギョーカイではなかなか注目されているらしい。その最新号が届いたのだ。
 このミニコミを知ったのは昨年の夏、週刊朝日の「週刊図書館」コーナーだった。塔島ひろみ著『鈴木の人』(洋泉社・1500円)という本の書評が一ページ以上にわたって掲載されていたのだが、本の書評よりも著者のプロフィールに釘付けとなってしまった。「ミニコミ誌『車掌』編集長」とあったのである。「車掌だって うーむ、こんな雑誌があったのか」と興味がわき、『鈴木の人』ではなく『車掌』を取り寄せたのであった。
 パラパラめくってみると、早くも老眼気味の私にはちょっと辛い小さな文字が誌面一面にギッシリと詰まっている。まさに活字の洪水だ。しかし、内容は車掌とは関係のないことがほとんどで、なぜこれが『車掌』なのかは、編集長自らも語っているようによくわからない。
 誤解を恐れずにいえば、見方によってはまったくナンセンスなことを、これでもかこれでもかと突き詰めていくミニコミ誌といえようか。普通ならちょっとウンザリしてしまいそうなものだが、不思議なことに押しつけがましい感じはなく、いつの間にか笑いを誘われている自分にハッと気づくのだ。とびきり上等な文章の魔力もさることながら、塔島ひろみの発想とアイデアが大変すばらしいのであろう。
 かと思うと、バックナンバーの16号では、「偶然」という特集の「隣りの人」というページに、軍事評論家である田岡俊次先生が寄稿した「軍事・平和問題的見地からの論考」などというまったく場違いとも思えるお堅い文章が載っていたりする。このいきさつは、書店の棚に、彼女の著書と田岡氏の著書が隣り合って並んでいたことから始まる。
 大胆不敵というか、彼女はこれを見て「隣りの人」という原稿の依頼をしてしまうのだ。
 さて、『車掌』編集長・塔島ひろみなる人物であるが、私が知り得た情報によると、62年東京生まれ、詩人・ライターという肩書きであること。立派な著作も何冊かあり、以前は高校の先生で、身体障害者のヘルパーもやっていた。夫はミュージシャン、一児の母親である(以上、いずれも刊行物による)。
 でもって、正真正銘・本物の車掌である私は、このミニコミ誌に興味を持ち、楽しく読ませていただいているというエールとともに、車掌を知るにはこの一冊でオーケーと、拙著『JRの秘密』を送ったのだった。
 何日かして返事が来た。「驚きと嬉しさでいっぱいです。とても楽しく面白く読みました。電車が事故で止まったりしたときは、車掌はもっと大変なのだと、ジッと我慢できるようになり、まさに思うツボの読者であります」というようなお礼がしたためてあった。
 その後原稿依頼があり、今度は『車掌』編集会議に出席してほしいというお願いがきたのだ。
 全国に車掌が何万人いるかは知らないが、彼女によれば、車掌の読者はたぶん私が初めてなのではということである。私は会議など堅苦しいことは苦手でイヤだったのだが、傍観していても、意見をしても、指差確認していてもよろしい、ということだったので、ざっくばらんな雰囲気を感じ取り、渋谷までノコノコ出かけていったのだった。
 しかし緊張しましたね、久しぶりに。初めてお目にかかった塔島ひろみさんは、知的で品がよく、しなやかな女性という印象だった。もちろん美しく、魅力的な人である。男女7人のスタッフがいたが、私はもうコチコチでなにをしたらいいのかわからず、隅っこでタバコばかり吹かし、気持ちが悪くなる始末であった。
 こうして送られてきた『車掌』19号には、会議後に行われたサケの席での私の失態までが書かれていた。実はあろうことか、中央線車掌である私が中央線の終電に乗り遅れてしまったのだ。「ったく、どこがプロじゃ。お前は本当に車掌かいな」と疑われてしまいそうだが、本物の車掌は塔島ひろみで、私は本物ではないように思えてしまう今日このごろなのである。

○月×日
 なんだ、なんだ、なんなんだコレは 実に笑えるおかしなCDが出ていた。なかなか売れているとも聞く。なんと歌詞が……、これは歌詞だよね、歌詞には違いない。ナント、皆さんおなじみのJRのアナウンス、そう、駅と車掌のアナウンスそのまんまなのだよ、おニイさん。
 タイトルは『モーターマン』。SuperBell’Z(スーパーベルズ)というグループのラップ調の曲である。なんだか「やられたな」という気がしないでもない。というのも、私もよく自分のアナウンスを適当なメロディに乗せて口ずさんでいるのだ。
 どんなものかは歌詞をお見せするのがいちばん早いのだが、歌詞を掲載するのは著作権法に触れるからダメらしい。そんなこといったって、この歌の歌詞は私達の放送じゃないか! といってもダメなものはダメなのだ。ならば、その雰囲気をあくまで自分の言葉で記しておくしかない。ま、聞いて(読んで?)くだされ。
――次は新宿です。新宿です。埼京線はお乗り換えです。サイキョウ? JR最強です。キケンです。キケンです。ご注意ください。
 お知らせします。お知らせします。ただいま新宿駅で人身事故が発生しております。しております。中央線は上下線とも運転を見合わせております。新宿駅人身事故、中央線人身事故。人身事故により車両故障も発生しております。中央線車両故障、中央線車掌故障?
 お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけいたしました。まもなく運転を再開いたします。お下がりください。お下がりください。電車がまいります。ご注意ください、電車まいっております。まいっております。相次ぐ事故で電車もJRもまいっております――
 とまあこんな感じなのだが、いかがだろうか。実際はもう少しリアルな普段の放送を使った曲になっている。スーパーベルズのパクリ勝ちといったところか。さすがという他はない。それにしても面白い。なんなんだコレは 

○月×日
 昨年の年末に、立川車掌区と新橋支部四分会(品川・浜松町・原宿の各駅と高崎給電区)の脱退強要事件の中労委命令が相次いで出された。国労勝利である。私達国労の主張が認められ、「JR東日本の不当労働行為である」と断罪された。嬉しいには嬉しいが、なぜか盛り上がらない。
 地労委命令が出た頃には、天と地がひっくり返ったかのように喜んだものだが、最近では前述の通りで感慨がわいてこない。長い長い闘いの中での成果であり、大きな前進には違いないが、いくら命令が出ても歪んだ労務政策、異常な労使関係は旧態依然なのである。ちっとも変わりはしない。ただいたずらに時だけが過ぎていく。
 JRは命令が出ても履行せず、いたずらに行政訴訟に持ち込み、地裁、高裁、最高裁と、またも一から出直しかのように長い長い年月を要するのだ。なんとも歯がゆく釈然としない。
 しかし、今回は少し違った。JRが行政訴訟を断念したのである。こんなことは初めてなので、「はてな、会社内部に何か変化の兆しでもあるのか」と、淡い期待がふっとわいたのだが……。
 会社は松田昌士社長名で、お決まりの謝罪文を当該職場とJR東日本本社内に掲出した。
「……不当労働行為であると中央労働委員会により認定されました。今後、このような行為を繰り返さないようにいたします」とおなじみの文面である。
 なんのことはなかった。年が明け、1月7日付けで現場長などに出された「勤労速報」によると、「会社の基本的なスタンスは従来どおり」で「これまでどおりの管理・指導をお願いいたします」と、反省などみじんもなく、やはりキッチリ従来のスタンスのままなのだ。
 行政訴訟を行わなかったのは、国労の申し立てから12年以上経過し、当事者の多くが退転等で新たな主張立証をすることは困難であることなどにより、不服だが従ったまでということだ。まるでわがままな駄々っ子がちょっと泣きやんだだけのようだが、「今後不当労働行為を繰り返さぬよう、現場も徹底してほしい」という通達を出すのが常識的な対応というものではないのか。怒りを通り越して悲しくなるばかりである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/女子中学生 二強対決 2000年

■月刊「記録」2000年2月号掲載記事

○月×日
 JRに関する事故や事件の情報は、社員・組合員といえども、当該の人や上層部以外は、新聞やテレビの報道で知ることが多い。
 先日の新聞には、「かばん挟まれ中一線路転落」とあった。中央線、高円寺駅で上り快速電車が発車した際に、女子中学生の肩かけかばんのひもが挟まり、約100メートル引きずられてホーム先端から線路に転落し、ケガをしたという。ケガですんだのは奇跡的で不幸中の幸いだが、女子中学生は生きた心地がしなかっただろう。
 ケガの回復を心から祈ると共に、やはり担当車掌のことが気にかかる。新聞ではハッキリとした真相がわからないが、かなり責任を追及されるかもしれない。しかし、起こるべくして起こった事故といっても過言ではないだろう。ホームは曲線で、発車したら死角となる部分があるのは事実だ。ホーム要員が配置されていれば防げた事故ではなかったのか。
 さらに「JR不採用問題、ILOが勧告採択」とも出ていた。JR不採用問題について、ILO(国際労働機関)が日本政府に対し、「政府は、JRと組合間の交渉を積極的に促せ」との勧告を出したという。
 これは労働委員会救済命令がJRによってことごとく無視され、5・28東京地裁判決のような形式的な法解釈で労働委員会の救済命令が覆されるのは、団結権の具体的かつ実効的な保障制度の確立を求めているILO条約に違反するものだとして、国労が申し立てていたものである。
 新聞によれば、ILO勧告自体に強制力はないが、政府への影響力は強いということだ。ただ同勧告は中間的なもので、最終勧告は2000年3月以降になる見通しと書いてあった。
 なんともじれったいが、事態の進展を願うばかりである。

○月×日
「中央特快」を聴いたか。
 駅でポスターを見かけて、思わずCDを買ってしまった。オータムストーンという若い四人組のバンドで、飾り気のない気ままさが漂うポスターもよかった。
 ノル、ノル、乗ってしまう。ドライブ感溢れる重厚なサウンドに一発でシビレた。ちょっぴり切ないところもいい。もうすっかりトリコになってしまった。
「甘い誘惑、自由なスタイル、『中央特快』に乗り込んで、君の街へ」だって。イカスなあ。私も若い頃に戻りたい。好きなことがやれたあの時代。コップから溢れる水のように止めどなく夢が広がっていたあの時代……。
 せっかくいい気持ちでいたのに、職場で同僚に冷やかされた。「クラプトンのコンサートに行ったんだって? そのトシで」
 そのトシでとは笑えたが、何をいうか、クラプトンの方がもっと歳上じゃないか。

○月×日
 2日間の分会大会も無事に終わった。相変わらず東労組と一体になった会社側の悪質な差別で、私達の分会では、この1年間に脱退者を1名出し、昇進試験の合格者はゼロであった。それでも団結を崩さず、仲間同志がスポーツやレクを交えて親睦を深め合いながら乗り切り、楽しく過ごすことができてホッとしている。
 大会には、約8割の組合員が参加した。うちの分会もまんざら捨てたもんじゃない。また向こう1年間、微力ながらも心を新たに奮闘しなければという思いを強くした。
 政治の場に限らず、世間でもアッと驚くような事件が次々に起きた1年だった。私たちの中央線の連日の輸送混乱は社会問題にもなった。しかし、なぜかすぐに忘れられていく。それくらい、目まぐるしく慌ただしい毎日だったといえるかもしれない。
 大会での私の役目は、受付けと最後に大会宣言を読み上げることだった。
「御苦労様です。2日間を通して、経過報告でも方針でも、誰一人取り上げませんでしたが、5・28東京地裁不当判決から1年がたった今年の5月28日、うちの組合員の斎藤さんが『JRの秘密』という本を出しました。この現状を少しでも変えなければという強い思いで書かれたものと思われます。これほどの教宣物はないのではないでしょうか。分会教宣部は斎藤さんを誉め称えたいと思います」と前置きし、大会宣言を読み上げたのであった。やれやれ、おバカは一生治らないのだろう。

○月×日
 なにかとせわしない。あれもこれもと思うばかりで、自分の要領の悪さも手伝い、ちっとも落ち着かない。アッという間にゴール直前まで来てしまった。過ぎ去った日々の感慨に浸ってなどいられない。まるで駆け足のような一年だった。
 暮れの大一番、GIレースのオーラス「有馬記念」が2日後に迫った。競馬ファンの私だが、このところ負け続きで、もはや好きな馬に一票を投じる余裕はない。負けを少しでも取り返すため、一着と二着に来る馬を一点だけ決めて勝負することにした。
 当然、わが家の大蔵省の目は厳しいが、「宝くじは10枚しか買わなかったから」「競馬評論家の大川慶次郎さんが亡くなったから」「年賀状はまだ1枚も書いていないから」とか、理由にならない独り言をぶつぶつ呟きつつ買いに走る。
 最後の最後だからといって、高額を投じなければならないという法律などないが、どうしても大枚をはたいてしまう。またそれがここ何年か私の「定説」となっている。その結果、気落ちしてうつむき加減の頭を競馬新聞でポンポン叩きつつ、1年間の反省をより深いレベルで行うことができるのである。つまり、ここ何年も当たってないのだ。
 それでも今年こそは(といつも思っているが)当たるという予感がいつになく強い。下馬評どおり「二強対決」で決着するとみた。配当は少ないが、その分喜ぶ人は一番多いわけだし、私もその仲間にぜひ入れてほしい。何がなんでも当たって、この1年間を明るい気持ちで締めくくりたい。
 果たして、ガッツポーズを決めることができるか。年末年始安全安定輸送完遂・JR東日本。仕事も忘れてはいないぞ。激動の1999年よ、サラバじゃ。よろしく2000年。

○月×日
 年が明けた。2000年の始まりだ。昨日の延長というなかれ。やはり気持ちがビシッと引き締まる。何から何まで期待が膨らみ、実に晴れ晴れとした清々しい気分である。
 JRでも列車運行システムなどのコンピュータ誤作動が懸念された「2000年問題」だが、無事にクリアできたようで、年をまたいで大きなトラブルはなかった。
 元旦は日勤で、初日の出前に家を出た。わがJR中央線は定時運転、当たり前のように安全正確に運行されていた。今年も一年、お前にお世話になるのだね。
 妻も正月早々当直(夜勤入り)で、私とはすれ違い。用意された豪華なおせち料理がなんとも空しい。「今年も仕事で明け暮れるのか」と、先が思いやられるが、身体だけは大切にしてほしい。また、息子二人が受験を控えているが、まったくもってノンキそのもの。しかし春には新しい一歩を力強く踏み出してほしい。
 健康でありたい。身も心も。己を戒め、平常心を失わず、謙虚に生きよう。
 国鉄闘争は14年目を迎えようとしている。決して短くはない歳月である。今年こそは、何が何でも解決の年にしたい。容易なことではないが、勝利を心から喜び合いたい。
 ご来迎を拝みに、初めて徹夜で高尾山へ行ってきた中学生の息子が言った。「新鮮な卵みたいだった。チョー感動した」そうかそうか。私も感動する心を忘れない1年でありたい。
 2000年、とりあえず私は仕事に専念。笑いたい者は笑ってくれ。JR東日本中央線を本年もよろしくお願い申し上げます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/肝臓くん 代表者会議 女性トイレ

■月刊「記録」2000年1月号掲載記事

○月×日
 唐突だが、今日は「肝臓くん」に語りかけたい。
 君の常日頃からの奮闘ぶりには敬意を表し、心から感謝している。毎日せっせとアルコールを分解し、水と二酸化炭素にしてくれる君がいなければ、いまの私は存在していない。なにしろ本当にサケが好きなのだ。もう、だーい好き。焼酎にビールに日本酒にウイスキーと、なんでもござれ。サケほどウマイものはない。もちろん中央線も好きだが、サケの右に出るものはナイと言い切れる。この世の王者、サケ。
 ごはんや魚がいくら美味しいからといって、お腹が一杯になれば食べ続けることは不可能でしょ。だけどサケなら大丈夫。それができる。翌日が休みで用がないとなれば、ぶっ倒れるまで飲んでしまう。
  「こんなに飲んだら死ぬ。でも、飲まなくても死ぬときは死ぬ」これが私の座右の銘なのだ。
 君はもの言わぬ臓器だというが、いつまでもいつまでも黙っていてくれることを願う。一生懸命、日々の役目をキチンと果たしてもらいたい。ごめんね、飲んでばかりで。少しは加減しようか……、いや、やっぱりがんばって耐え抜いてほしい。
 息子のケイタイが鳴っていると思ったら、コオロギがもの静かに鳴いていた。9月ごろはあんなに賑やかだった虫の音も、いまではひっそりとして、いつの間にかすっかり秋の夜長になっている。朝晩はヒンヤリとして、長袖を羽織る日が多くなったが、暑ければ冷たいビールを、寒ければ温かいアツカンを欲する私って、単純なんだろうか。

○月×日
 国労の車掌分科全国連絡会という代表者会議が、都内の社員宿泊所(品川)にて一泊二日の日程で開催された。
 規約には、車掌職に従事する全国の国労組合員で組織し、労働条件の改善・および鉄道輸送の安全・サービスの向上など、公共交通の再生に努めるなどとある。
 北海道から九州まで、全国のJR車掌の代表者約40名が集まり、各地の職場の実態や問題などを話し合い、交流を深めるといったところか。代表者といっても、一人の車掌であることに変わりはない。しかし、みないわゆる活動家である。
 そんな中に、ナゼ私のような甘ちゃんがいるのか。出席すべき代表が都合がつかず、「私には荷が重すぎる」と、かなり抵抗したのだが、結局しぶしぶ引き受けざるを得なくなってしまったのだ。
 全国のさまざまな報告では、国労差別こそ似たりよったりだったが、わが中央線は事故も事件も日常茶飯事で、まさに全国の縮図だと痛感した。私はとんでもない所で働いているのだと強く思った。
 しかしなんといっても、9月1日にJR九州・鹿児島運輸区分会の下窪勝市さん(40歳)が、灯油をかぶり焼身自殺を図った事件の報告には、改めて会社に対して猛烈な怒りが湧いた。
 事件の発端は、7月3日に起きた回送列車(三両編成)の先頭車両脱線の際に、下窪さんが誘導を担当していたというものだ。会社はその直後より、下窪さんに対して「本務外し」をし、「自己研修」と称して会議室へ閉じこめるなど、必要以上の責任追求と嫌がらせを行ったのである。精神的・肉体的に追いつめられて発生した、最後で最大の抗議とでもいうべき自殺なのだ。
 最後の別れである葬儀にも、会社幹部は参列すらしなかったという。まさに今日のJRの異常なまでの労務政策を如実に物語っているといえよう。残された奥様とご両親は、「クビにしてくれればこんなことにはならなかった」と訴えたそうである。
  「国労九州本部も真相究明に全力を挙げるので、ご支援をお願いしたい」と、九州の代表は声を詰まらせて報告された次第だ。

○月×日
  「ギターの神様」エリック・クラプトンがやって来た。ロック・ブルース界では60年代から不動のトップである。今年は2年ぶり、15回目の来日公演ということだ。
 私も大ファンで、すでに数回聴きに行っているが、90年ごろからはアコースティックでしみじみと歌い上げる曲が多くなり、すっかり大人のボーカリストとなった感が強い。93年にはグラミー賞も獲得し、ファン層は以前よりさらに増していることだろう。しかし、なんといっても、むせび泣く、ときには攻撃的なギタープレイが売りである。
 私はやはり一番夢中になっていた、60、70年代のドライブ感溢れるパワフルな曲の方に心が奪われてしまう。身体中がゾクゾクして、居ても立ってもいられなくなるほど感動してしまうのだ。
 それにしても、最近ではどうしても見に行きたいというアーティストがめっきり少なくなってしまった。熱が冷めたのとは違うし、年をとったからでもないと思う。仕事や家庭でアレもコレもの制約が多すぎて、若いころのようにそれだけに打ち込む時間が取れなくなったのだろう……。しかし今回のクラプトンのチケットは手元にある。
 これは私が買い求めたものではない。ナントカの会員になっている同僚が、コレダ!! というものがあるたびに数枚まとめて取り、「行こうよ」と声がかかって仲間が集まり、ナントカなるのだ。素直に嬉しい。
 私は、何人かで音を創り上げることが基本的に好きなのである。プロに限らず、学生バンドでもなんでも、そうしたセッションを耳にすると血が騒ぐ。 しかし、クラプトンはクリームというバンドを経て、現在ソロである。「お前となんかおさらばさ」なんて言っているかどうかは知らないが、仕事も組合もひととき忘れたい。ブルースとはそういうものだ。クラプトンもうすぐ。楽しみである。

○月×日
 こんなトシにもなって、なぜかドキドキしている。とっても可愛く、利発そうないい子なのだ。いい子だなんて言ってはいけないのか。もう一人前の立派な社会人である。でもオジサンから見たらどう見たってやっぱり娘だ。
 いい子とは、そう、JR中央線初の女性車掌のことである。見習いを終えて一本(一人乗務)となり、はや五ヵ月になろうとしている。周囲とも和気あいあいで打ち解けているところを見ると、職場にもすっかり馴染めたようだ。控え室に彼女がいるというだけで、心なしか職場が明るく感じられる。あいさつもいい。「ご苦労様でーす」「いってらっしゃーい」と、会う人、会う人に笑顔で声を掛ける。なんとも爽やかで、心が和み、オジサンの疲れはフッととれる。
 また、アナウンスがヒジョーにウマイ。私は客として、彼女が担当する電車に何度か乗り合わせたことがある。中央線のよさは十分知っていたつもりだったが、これほど快適で心地よいものになるとは。まるで天使の囁きのような美しい声に、ついついうっとりとして、降りる駅を忘れてしまいそうになる。電気ドリルのような放送をする人は十分反省してほしい。
 乗務態度も大変立派だ。基本動作を一つひとつ忠実に励行しており、その姿からは一生懸命さがひしひしと伝わってくる。実に健気で模範的なのだが、私は見ているとなぜかいじらしく思えてしまうのだ。右も左も男ばかりの男職場である。覚悟を決めて来たとはいえ、女の子がたった1人でさみしくないのだろうか……。
 彼女の勤務はすべて日勤で指定されており、夜勤(泊り)は一切ない。しかし、会社はいまだに寝室も風呂もシャワーも何一つ改善していないのだ。この先どうするつもりなのだろうか。男女雇用均等法という法律だけが先行して、現場は追いついていない。男中心社会は相変わらずで、男女平等などほど遠い現状である。

○月×日
 東労組を脱退した(させられた?)Nさんは、噂どおり内勤担当を外されて乗務へ降ろされた。脱退からわずか5日後の、区長発令による区内人事ということである。
 聞いたところによると、同様の事象が発生した三鷹電車区でも「闘争宣言」が出され、組織破壊分子であるとして脱退させられた元組合員は、今なお「追求行動」と称して連日嫌がらせを受けているという。
 出勤退勤時に、東労組組合員が20、30人と待ち構え、「裏切り者」「出て行け」などの罵声を浴びせ、東労組が勝ち取った備品は「使うな」「返せ」、点呼中に管理者が見るみ見兼ねて注意を促すと、「そんな奴ぁ、かばうことないぞ」などと、今度は管理者に対して暴言を吐くということである。
 先日、昇進差別事件の審問で都労委へ傍聴に行ってきたばかりだが、相変わらず会社側は国労悪玉論を力説していた。こうした例を挙げるまでもなく、このような人達が会社側のいう優良社員で、全員試験に受かるのである。誰がどう見てもオカシイのは一目瞭然ではないか。
 いったい、この会社はどうなっているのだ。マスコミに訴えようという話も出たが、話したところで「ま、まさかウソでしょ、JRさんでそりゃあないでしょう」と、一笑に付されてしまうだろう。
 一緒に同じ仕事をしている仲間が、何故これほどまでにいがみ合わなければならないのか。次元が低すぎるとしかいいようがない。

○月×日
 本日(11月11日)の朝日新聞夕刊に、「JR東日本、駅の女性トイレ増やします」とデッカク載っていた。女性の通勤風景が当たり前となったいま、30年ぶりに基準を改めて、便器数を見直し、長い列とイライラを解消しようと取り組んでいるということである。
 誠に結構なことと存じます。大いにやってほしい。私は女じゃないが大賛成だ。
  「公衆トイレのレベルが上がっており、駅トイレも負けてはいられない」と、におわないトイレや、掃除しやすい便器の開発にも知恵を絞っているらしい。そうなのだ。JRは強いから何から何まで負けることは許されない。よくわかる。頑張ってほしい。
 それにしても、ちょっと引っかかってしまった。「におわない」というクダリである。これまでは天井近くに換気扇を設けていたが、床パネルのつなぎ目からにおいを吸い取るものが開発され、においが鼻先を通らないのだという。
 うーむ。オジサンはにおって然るべきだと思うが。クサイからこそ息を止めたり、闘うぞというサスペンスが秘められているのではないのか。何より、におい(や色)を健康のバロメーターにしている人は多いのではないか。
 また、「掃除しやすい」ともある。日本人の足が長くなっていることに合わせ、便器の縦サイズを8センチ長くして周囲を汚れにくくするそうだ。これでホントに大丈夫なのか。今どきの若い娘が履いている靴のカカトを見よ。8センチなんてものじゃない。オジサンには竹馬以上に見えるが……。でも、まいいか。
 いずれにせよ、私が何より気掛かりなことは最後に書かれていたことである。「上野駅の社員トイレで実験を重ねている」のだという。これには何度も唸らざるを得ない。モンダイである。生理現象は強制強要されるものではない。
  「もう出ないっスよ」「駅長の命令が聞けんのか」
 ……まさかね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/ギンナン 芋煮会 国労組合歌

■月刊「記録」1999年12月号掲載記事

○月×日
 高尾行き最終電車の乗務だった。時計の針は深夜1時を回っているというのに、車内は座れない人も多く込んでいた。私の疲れた身体は「もう寝るだけだもんねモード」に切り替わる直前で、30分後には訪れるはずの寝室での仮眠を心待ちにしていた。
 ところが、である。すんなりと終わらないのが中央線なのか。国分寺駅に差し掛かり、私は到着監視とドア扱いをするために、進行方向にクルリと向きを変え、何気なく車内に目をやった。そこでビックリ仰天、摩訶不思議、わけの分からない異変に遭遇したのである。ダレもいないのだ!
 ついさっきまで私の目の前(乗務員室前)にいた、大勢の乗客が消えていた。厳密にいえば、シートで眠りこけている数人以外の乗客が、隣の車両(二号車)へ移動してしまったようなのである。
「いったい何ごとか。どうしたんだろう」と思ったそのときに、強烈なニオイが漂ってきた。ものすごくクサイ。すぐにピンときた。このニオイはギンナンだ。しかしギンナンなんてどこにも見当たらない。他に考えられるのはアレしかない。まさかアレなのか。
 二号車寄りに固まっている乗客は、怪訝な顔で私の方をジッと見つめている。私は呆気に取られながらも「まさか、ニオイの元はオレじゃないよな」と、片手が自然に自分の尻をカクニンしてしまった。大丈夫、いくらサケで脳が侵されているにしても、括約筋はまだまだ健在である。
 国分寺に到着し、ドアを開けるやいなや、乗客は小走りに駆けだし、二号車、三号車へと移動していく。シートや床がアレで汚れていてはマズイと、ホームから車内を注視したのだが、異常はない。ふと乗務員室の方を見やると、乗務員室からは死角になっている車両のいちばん隅っこに、小ギレイなどこにでもいるサラリーマン風、推定年齢三九歳が突っ立っていた。誰も見ていないのに、彼は新聞で顔を隠して棒立ちの状態である。もはや彼のズボンに大量のアレが蓄えられているのは明らかであった。が、正面から見た限りでは、ズボンの汚れもなく、足元も何ともない。
 さて、声をかけるべきかと迷いながらも、一応列車を発車させた。「飲み過ぎたのだろうか」「終電だから途中で降りるわけにはいかなかったのか」「どこまで行くのだろう」「大丈夫ですかくらいは言ってあげるべきか」とアレコレ考えつつ、躊躇しているうちに西国分寺を過ぎ、国立に到着すると、推定年齢三九歳のお客さまは小股で歩きながら下車されたのだった。
 私は発車ベルを押しに行きながら、できる限り彼を見ないように努めたのだが、無意識のうちにそちらへ目がいってしまった。「オーマイガ……」スボンのお尻から踵まで、アレの汁でもうベッチョリ。いやはやなんともご愁傷さまであった。
 中央線・深夜の運行事件、これにて完。

○月×日
 天高く馬肥ゆる秋。橙色の電車、中央線・高尾行きと、黄色の電車、総武線・三鷹行きは同時に中野駅を発車した。高円寺、阿佐ヶ谷を過ぎても、先行争いは互いに譲らず、ほぼピッタリと併走している。
「押さえきれない掛かり気味とは違います。さわやかな風を切って、実に気持ちよくマイペースで走っているといった印象を受けます。いいですよ」という声が、どこからともなく聞こえてくる。
「夏を越えて一回り大きくなりましたね。豪快なフットワークから成長が見られます。高尾行きはこのコース得意ですし、まず心配ないでしょう」「ここは上りより下りがいいんですよ。ニンジン畑も見えてきますから……」
 予想通り、高尾行きは荻窪あたりからジワジワと三鷹行きを引き離しにかかった。吉祥寺を過ぎて、最後の直線、残り400メートルの勝負となる。ゴールは三鷹だ。このまま高尾行きが力で逃げ切るのか。三鷹行きが追い上げ、再び並びかけるのか。それとも遙か後方から、特別快速一気の強襲という番狂わせがあるのか。
 闘いは熾烈を極めた。「それ行け、高尾行き! 負けるな、そのままそのまま……」手に汗を握る興奮の一瞬である。結果は、高尾行きが猛追する三鷹行きを一車両差押さえてゴールイン。見事優勝を果たしたのであった。担当車掌は、高尾行きコールがわき起こる三鷹駅ホームを誇らしげに引き上げていった。こうして今日の乗務も無事終了。
 いよいよ今週から10週連続で、中央競馬・秋のGIレース幕開けとなる。私は週末になるとソワソワして馬耳東風状態となってしまう。なにしろ馬券を買わなくても、レースを見ているだけで楽しい。
 ……こう書いておかないと、ドンドン無駄遣いしそうな気がするのだ。

○月×日
 JR連合傘下の鉄産労(東日本鉄道産業労働組合)は、東労組の横暴が目にあまるとして「JR東日本の民主化」を掲げ、職場規律の是正について会社側に申し入れを行っている。内容は、勤務時間中の鉄産労の組合員に対し、東労組役員等が話し合いと称して業務を妨害する行為が発生しているが、職業規則に則り厳正に対処されたい……、といったものだ。
 これには私達も異論なく同感であり、会社側の毅然たる対応を期待する。なにしろ職場はいま、暗く異常としかいいようがない事態となっているのだ。
 ことの発端は、9月に旧鉄労系の組合(JR連合内)が「芋煮会」を開催したところ、何人かの東労組組合員が参加していたことが発覚したということであった。その中にウチの職場の内勤担当である東労組組合員、Nさんが含まれていたことが大問題となった。
 掲示板に張り出された東労組のビラによると、「JR連合解体闘争宣言」という見出しで、「総対話行動」とか「組織破壊攻撃粉砕」という文字が踊っている。Nさんの実名を呼び捨てであげ、「組織破壊者と断定する」「他労組と酒を酌み交わしたことを断じて許すわけにはいかない」というのである。どうやら東労組は「芋煮会」をJR連合による「JR東日本の民主化」宣言の一環として捉えたようだ。
 勤務を終えたNさんに「話し合い」と称し、皆のいる控え室で役員7、8名が取り囲み、対話、いや説得、はたまた恫喝か、とにかく理解に苦しむことを5時間、6時間と延々やる。止めに入る者は誰一人としていない。
「ヒドイですよね。Nさんかわいそうだけど、口を出せばボクもやられる」と、東労組の若い組合員達はヒソヒソ言ってビビっており、管理者すら見て見ぬふりで何もしない。これでは見せしめ、つるし上げ以外のナニモノでもない。「どんなに謝ろうが、土下座をしようが本心ではない。絶対に許さない」というのだから。
 さらに驚いたのは、この「芋煮会」に東労組組合員がコッソリ現れ、スパイさながらにビデオやカメラで参加者の証拠を撮って帰ったということだ。先の「話し合い」を含め、こうした人権侵害ともいえる行為があちこちのJR職場で連日行われている。
 最近では東労組の若い組合員達が、やはり2時間、3時間とやられていた。聞けば、陰で東労組の批判をしたとか、国労の人と仲良くしていたとか……。誰かが「あの人はこうしていました」と役員に密告したりするのだろうか。
 20歳のT君の場合は、なかなか堂々としていて「話し合いならいくらでもするが、何人もで取り囲んで……。しかも話し方が喧嘩腰じゃないですか」とハッキリ言った。すると役員は何も言えず黙りこむのだった。若い人は決して片寄った思想に染まることなく、当たり前の気持ちを忘れないでほしいと強く願う。
 それにしても、労働組合の「闘争宣言」なるものが、労働条件や安全問題に対してではなく、自らの組合員に対してであるかのように感じられるが、まったくもって言語道断で、呆れるほかない。
 何週間かが過ぎ、結局Nさんは東労組を脱退した。というより、正確には脱退させられたととるべきか。Nさん脱退の掲示には「脱退用紙に署名する際、『やめたくない』と意識的に大声を張り上げ、周囲の同情を買うような演出をしてみせた」と出ている。東労組、そりゃあないだろう。
 Nさんは今後、内勤から車掌(乗務員)へ降格させられるという噂も広がっている。何から何まで驚くばかりだが、東労組は会社の人事権まで握っているかのようである。
 私も気がヘンになりそうだ。Nさんガンバレ!! というしかない。

○月×日
 職場の先輩、Fさんの激励送別会が盛大に行われた。
 国労は65歳定年制を要求しているが、JRのいま現在の一般的なケースは、57歳で関連会社への出向となり、60歳誕生日の月末が退職日となっている。
 これについても問題は山積していて、「定年わっはっは」とはいえない状態なのである。まず、現在の景気・雇用をめぐる厳しい動向からも出向先がない。以前ならキヨスクや駅ビルに当たり前のように出向したものだが、どこもかしこも人減らしの真っ最中なのだ。
 しかも、国労に対しては希望職種や希望地を無視したり、通勤不可能な場所や単身赴任をせざるをえない発令など、最後の最後まで組合間差別、いやがらせを行ってくる。結果、「休職コース」選択へと追い込まれたりする事象が多くの職場で発生している。会社にしてみれば早く辞めていただくのがイチバンということだろうか。
 今回のFさんは、中央線車掌として40年近くも歩んでこられた大先輩だ。来月からは「東京ステーション・サービス」という出向先で3年間従事される。長い間の乗務、本当にご苦労さまでした。私達後輩への数限りないご指導、ご鞭撻をありがとうございました。新天地でのご活躍とご健康をお祈り申しあげます。
 一人、また一人と先輩達が職場を去っていくのは実にさみしい。しかし、心から感謝を込めて労をねぎらい、「あとは俺達に任せてくれ」と力強く送りだすしかない。
 最後はいつも決まって国鉄労働組合歌を歌う。皆が輪になりスクラムを組みながら。
「わたくしたちは おれたちは
  国鉄に生きている
 正しいこころと 赤い血の
  かよう手と手を しっかり結び
 国鉄労働組合の その旗の下で
  あしたを信じ 働くものだ
 国鉄労働者」
 皆、すっかり涙ぐんでしまっている。
 真っ暗な帰り道、「10年先、オレが辞めるときには送別会をやってもらえるのだろうか」という笑えない思いがふと脳裏をよぎった。国労の後輩は何人もいない。光陰矢のごとし、周囲にはもう冬間近の気配が漂っていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/21世紀協会

■月刊『記録』96年7月号掲載記事

■すべての子どもに教育を

■運動の目標

「すべての子どもに教育を」をスローガンに、少数民族の経済的、精神的自立を早期に実現するべく活動している。

■発足の経緯

 東西対立の時代も終わりをつげた後、もっとも大きな問題になると思われた南北の経済格差を縮めたいと思ったのがきっかけ。
 第3世界では、教育を受けたエリートだけが好き放題に国を支配している。このような状況を改革し、自国の財産を国民に配分して国を発展させるには、国民が政治を批判できるくらいの教育が必要となる。そのような教育の資金援助をすべく、1990年2月に発足した。

■運動の歴史

 会の設立後6ヶ月を経て、現地で支援活動を行っている団体と手を結ぶためにフィリピンに旅立つ。現地では修道院のNGO団体であるMICと、フィリピン国内の民間団体であるPPSと話が決まった。その結果をうけ、12月には山岳民族を中心に10人の学生に、奨学金と教育を維持するための給食費を送った。
 翌91年4月からは、第1次生計自立プロジェクトを開始、援助だけに頼らず生活できるための生活基盤を築くために、豚・鶏を飼育するための費用を送る。しかし、家畜の基本的な飼育法も現地では知られていないため、94年3月からは現地人の農業指導員を採用し、農業研修を開始した。
 100haの処女地を農地に改良し、木々の伐採のため土砂の流失を繰り返していた山肌に植林し、河に沿って果物の木を植え、山の牧草を利用するために牛を飼育した。原初的な農法に頼っているようだが、化学肥料を使い土を酷使する農法の限界がみえはじめた現在では、かえって先進的な農業だと考えている。

■今後の抱負

 生活自立プロジェクトで支援しているミンドロ島のマンミャン族が、自立できるようにしたい。飢えがなくなり、貧しいながらも部族全体が生活できれば大成功だと思っている。
 将来的には奨学金を支給した生徒が高等教育を受け、リーダーとして村に帰ってきてほしい。

■思い出深い出来事

 生活自立プロジェクトが成功を収めるようになると、反政府ゲリラが村に出入りするようになった。ゲリラの登場により、部族内でも対立が起こるようになり、村から出ていくように説得した。さいわい村に駐在していたゲリラは、マニラの大学を卒業したインテリであり、部族の生活を良くしたいという理想が同じだったため、1-2年かけて説得し、村から出ていってもらった。

■工夫している点やユニークな方法論

 現地の仕事には手を出さないようにしている。日本人が仕事をこなし、帳簿をつければ簡単に事が運ぶ。しかし現地でやり方を教えなければ、いつまでも自立できない。そのため現地では、自立にむけたヒントを与え、自分達で努力できるように環境を整えることが大きな仕事となる。
 例えば農耕に使うカラバオ(水牛)も無料で支給せず、農業生産が上がった時に金銭で返済する制度をとっている。それはもらったものは、身につかないと考えてる会の方針に沿ったものだ。

■運動の問題点

 国からの援助をえるためには、煩雑な書類を処理しなければいけない。この書類が完璧に仕上げられるなら、第3世界ではないと思われるほどだ。審査必要なのもわかるが、もう少し簡素な書類にしてほしい。

■運動を継続するためのポイント

 会を続けるには、自分の生活を犠牲にして頑張れる人が1~2人いれできる。しかし自分が活動をやめてた時、運動が続くためには、現地の情報を多く発信し会員の意識を高める必要がある。(池田晶子)

■現在の「21世紀協会」ウェブサイト
http://www.21ca.ac/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/警告書 肝機能 高校生

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事

○月×日
 最近、出勤前に「今日は何が起きるのだろうか」と気になってしょうがない。
 ダイヤは乱れるのが当たり前といった感じで、首都圏のJRはこのところトラブル続き。なかでもなぜか中央線がダントツだから始末が悪い。私達はこれが本業なのだから、ウンザリながらもそれなりに対処して、日々の業務に従事するしかないのだが、目的を持ち、計画を立ててJRを利用しているお客様にしてみれば、いうまでもなくたまったものではない。
 すでに新聞報道でも明らかなように、運輸省もこうした事態を重視しており、9月3日には関東運輸局長名でJR東日本に対し「警告書」を出した。警告書は97年の中央線大月駅で起きた衝突・脱線事故以来ということである。
 このなかには「特に中央線については故障箇所の復旧に手間取り、運転再開までに長時間を要し、利用者に多大な影響を与えた」と、中央線のことがしっかり書かれており、「公共輸送機関としての社会的信頼を著しく失墜させていることは誠に遺憾である」「輸送管理に不十分な点があるものと考えられる」と、JR東日本を厳しく批判するとともに早急に改善策を講じるよう、強く求めている。
 警告を受けたJR東日本の松田昌士社長は10日、運輸省を訪れ、「心からの深いお詫びを申しあげます」と陳謝し、電車の運行をコンピュータで管理する「ATOS」(東京圏輸送管理システム)の改修などの対策と、ダイヤ回復を指示する中央司令室の体制を強化する旨を述べたという。
 10月ごろまでには改修を終える予定ということだが、もはや現場で働く私達社員の安全も脅かされているといっても過言ではなく、一刻の猶予も許されない非常事態だ。
 雨と台風の9月はもういいから、早く10月になってほしいものである。

○月×日
 私の本がいつの間にか二刷になり、以前にはなかった地元・八王子の書店にも並んでいる。メチャクチャ嬉しくってしょうがない。用もないのに連日立ち寄っては、「ガンバレよ」と声をかけたり、乱雑に置かれていると整えたり、お金があったらぜーんぶ買い占めたいという衝動に駆られてしまう。
 何もかも初めての経験なので、緊張すると同時に、こうしたワクワクした日々を送っているわけだが、本になるまでのさまざまな紆余曲折も、コッソリ一人ハラリと落とした涙も、いまとなってはどこかに吹っ飛んでしまった感じがする。本を手に取り、買って読んでくださった全国の方々に心からお礼を申しあげたい。本当にありがとうございます。
 さて、ここで正直に白状した方がいい。実は、わが家には悲しいことに売れ残りが山ほどあるのである。当初、分会の役員と話し合った結果、国労の団結強化と、部外の人にJRの実情を知ってもらうには、この本を読んでもらうのがいちばん手っ取り早いのではないかということになり、地方や地域の会議などがあるたびに宣伝して買っていただこうという結論に至ったのである。
 そこで、善は急げと、出版社にあらかじめ「1500冊は責任を持って売り切るから」と電話で伝え、Yさんと2人で出かけた。ところが出版社が近づくにつれ不安になり「1000冊にした方がいいな」と変更。出版社に着くや否や出た言葉は、1000冊はおろか、「500冊でお願いします」と自信なく心配そうに持ちかけたのであった。
 そうして早速、ウチに300冊、Yさんのウチに200冊がドーンと届けられ、営業開始と相成った次第。それでも出だしはなかなか好調だった。コンスタントに売れたのだが、約一ヵ月半が経過したいまでは、手ぐすね引いて待つだけとなってしまっている。
 それもそのはずだ。あちこちの会議といっても出る顔ぶれはいつも一緒なのである。酒なら「うまかったからもう一本買おう」なんてことにもなるだろうが、本はそうはいかない(一度読んだらおしまいなのである)。初めは50だろうが100冊だろうが、重さなどはちっとも苦にならずどこへでも出かけていったが、10冊持ち歩く重さが苦痛となった今日このごろである。
 読みが甘かった。チト軽率だったかもしれない。しかも、こんなに山ほど……。どうすりゃいいんだ。そう、なにより家庭に「秘密」を持ち込むこと自体が間違いだったのだ。

○月×日
 不肖の私が僭越だとは思うが、長野県の上山田温泉で行われた、国労東日本本部定期大会の傍聴に出かけた。
 全国大会を皮切りに各エリア本部大会、この後には地本・支部・分会大会と続き、国労全組合員の意思統一と団結が図られるわけだ。
 全国大会のミニチュア版とでもいおうか、顔ぶれはほとんど同じ感じである。ホテルの大会議室を会場に、代議員が約100名、全体で2~300名くらいが参加し、2日間にわたって「労使紛争の早期全面解決」(1047名の解雇撤回・JR復帰・不当労働行為根絶)をめざした真摯な討論が展開された。
 当初は、政府も「解決済み」だと相手にしなかった問題を、10余年の闘いにより、「解決しなければならない課題」とまで押し上げ、去る5月25日には、参議院の全政党七会派による早期解決に向けた申し入れを受け、政府および与党の幹事長から「解決に向け努力する」旨の公式の談話が示されたという現状を再確認し、政府談話を具現化させる取り組みを強化するということであった。
 全国大会での高橋委員長の特別発言にもあったように、解決の実現に向かっているこの流れを逃すことなく、時として進む勇気も、そして退く勇気も持ち合わせながら全力を挙げなければならない。
 闘いはまだまだ続く。自身と確信を持って一路邁進するのみである。

○月×日
 八月に受けた定期健康診断の結果がきていた。「すべて正常でした」というから戸惑っている。末永く健康でありたいと心から願ってはいるが、ここ数年は肝機能の数値がジワジワと上昇し、アルコールは控えめにという注意がいつも添えられていたのだ。従って、今年こそは数値と相談しつつ、飲み方を少し考えようと秘かに思っていた矢先の結果である。
 これっぽっちも自慢にはならぬが、大バカ者の私は、浴びるほどといっても大げさではないくらい飲んでいたのだ。以前なら、前後不覚ベロンベロン状態で、ヨロけて倒れたりしながらも必死で帰途についたものだが、最近ではそんなことはまったくなくなってしまった。
 なら立派じゃないかとほめられそうだが、そうではない。飲めない人には信じられないだろうが、よろけて倒れてしまえばそのままところかまわず寝てしまうのである。ねっ、これじゃ帰れないでしょ……。
 とにかく、このようになるまでの普段の努力の数々が並大抵でない!? ことは、やっぱり飲まない人にはわからないだろう。ならなぜそんなみっともなくなるまで飲むのかと呆れられそうだが、私自身もよくわからないので、飲まない人にはさらにわからないだろう。
 妻は厳しい目で言う。「肝硬変は苦しいなんてものじゃないわよ、あなたは突然バッタリといくのかもね……」。そう、その通り。バッタリ倒れて寝てしまうのである。
 それにしても、何とも釈然としない。白目だって寝不足で充血しているのではない。アルコールで黄痕がかっているのだ。どうして数値が正常範囲に戻ったのだろうか。

○月×日
 電車が事故でストップすると、車内や各駅のあちこちで携帯電話が一斉に使用されるのはすっかり当たり前の光景となったが、この光景は気が滅入るとしかいいようがない。
「もしもし、中央線が……」「中央線がですね……」「中央線なんざます」「中央線が……、はい」「そうなんです、中央線です」「中央線なんだけどさあ……」「いまぁ、中央線にぃ……」「中央線でござる」といった具合である。
 今日は知っていたから早めに家を出たものの、私も約束の時間に遅れてしまった。事故の原因がなんであれ、連日連夜困った事態であることは間違いない。
 このごろでは、テレビやラジオでも中央線の「中」と聞いただけで「ドキッ」とするから体にもよくない。
 それに比べて、中央競馬会、中日ドラゴンズ、中華料理、チューハイなどとなると、ホッと安堵すると同時に、それらの言葉がなんとも崇高で美しく響きわたり、すばらしいほど新鮮に感じられるから不思議である……わけはないか。
 それにしても事故が多すぎる。信用ガタ落ち、頼りないったらない。天下のJR、何か妙案はないのか!! 私達だって早急に何とかしてほしいのである。

○月×日
 さわやかな秋晴れとなり、ついこないだまで「暑い」だの「どしゃ降り」だのとぼやいていた天気が嘘のように気持ちがいい。時の流れは早く、9月がもう終わろうとしている。
 今日はカンダパンセで開催されている国労東京地本の大会に行った。
 前にも書いたが、この大会が終わると地区本部、支部、分会大会と続く。本部指令にもあるように、全国大会で決定した方針を、全職場、全組合員に徹底するため、大会開催により機関整備を行うというものだ。
 毎年のことだが、もっとスピーディにならないものかといつも思ってしまう。セレモニーなんだから仕方ないという人もいるが、国労が置かれている現状を考えれば、こんなに悠長に構えている場合ではないのではないか。
 どうも旧態依然のような気がしてならない。今や情報化社会である。いくら組織がデカイ? からといって、八月の全国大会から始まり、私たち現場の分会大会が終了するのは12月、季節は冬になっている。つまり、三ヵ月以上もの月日が大会に費やされているのだ。もちろん、この間には交渉やら集会やらのさまざまな活動があり、運動が滞るわけではない。しかし、誤解されては困るが(こういうと怒られるので、ここだけの話です)どの大会でも似たり寄ったりの議論が延々と繰り広げられているとしか思えないのだ。
 これでいいのだろうかという疑問を感じないわけにはいかない。でも、みな何もいわないから、いいのかなぁ、やっぱり……。

○月×日
 東京駅で発車の準備をしていると、乗務員室の目の前に、見るからに挙動不審な高校生が乗っていた。ソワソワと落ち着かない様子で、何度も私をチラチラとうかがっているのだ。「空いているんだから座ってくれよな……」とイヤな気分でいると、彼は突然乗務員室をノックするではないか。
「あ、あのぉ、三鷹車掌区の斎藤さんって、本書いた人ですか」。私はいきなりだったので対応に困りながらも、「そうだけど」などとそっけなくボソッと答えた。すると、彼は状態を反らしていまにも卒倒しそうに「読みましたあ」と興奮気味に言うやいなや、車内を飛び跳ねながら一目散に駆けだし、二両目、三両目へと消えていったのだった。
 一瞬の出来事に呆気に取られはしたものの、意外な嬉しさを乗せ、感謝の気持ちで発車させることができたのだ。
 しかし、マイクを持った途端に「おれのアナウンスが録音されているのでは……」という疑念が湧いた。「絶対イヤだぞ」いつもならホームを外れるとすぐに取りかかる放送を、タイミングをずらしたり、言葉数を少なくしたりと、意地悪のようだがアレコレ気を使って普段の倍も疲れた乗務になってしまったのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/チェルノブイリの子供達に・千葉の会

■月刊『記録』96年7月号掲載記事

■チェルノブイリ援助の継続を

■運動の目標

 発足当時は、子どもが放射能から遮断された生活を送るために活動した。現在は、現地の住民の健康が少しで維持されるように医療援助も行っている。

■発足の経緯

 92年1月に東京で始まったチェルノブイリ原発後の緊急募金にともない被曝した子どもへの保養の必要性が叫ばれ、千葉県の住民が集まったのきっかけ。

■運動の歴史

 92年4月、40~50人の知人・友人が集まり、「チェルノブイリの子供たちに夏休みを・千葉の会」として発足した。渡航費・滞在費は会員持ちで来日し、5週間ほど日本でホームスティするように制度を整えた。さらに、93年からは医療援助を開始した。
 93年2月、94年4月、95年8月と3度にわたって、総勢12人がチェルノブイリを訪問した。事故から10年、現地の状況は年々ひどくなっている。ソ連邦が崩壊し、事故現場周辺は国からほったらしにされている。被曝者への補償金は払われておらず、汚染されていない食物を買うこともできず、医療現場もお寒い状況だ。
 自由経済が普及したため以前より品物は増えたが、市民には買うお金がない。汚染地では知識階級がいなくなり、離婚女性などの弱者やアルコール依存症をわずらっている人が取り残されている。たとえ汚染地からの移住しても職のない人が多い。このような環境で、子どもも精神的に傷ついている。未来に希望を抱けず、体にも不安を抱えている。
 現地を訪れにたびに、中途半端に運動を投げ出せないと感じている。

■今後の抱負

 雇用と医療の充実のために、援助を拡げていきたい。日本の他の団体と協力し、現地でサナトリウムを作る計画も実行に移されている。

■思い出深い出来事

 手術や療養などの必要のない子どもを日本に招いているため、現地では元気な子どもだが、甲状腺障害や視力障害、肝臓障害、胃腸障害など、さまざまな疾患を抱えている。
 ところが日本の子どもと比べると、チェルノブイリの子どものほうが子どもらしい。農村でのびのび育ったため、池があれば飛び込んで魚がいないか確かめる。夢中になれば道路にも飛び出してしまい、木があれば登る。細かい規則に縛られていない姿は印象的だ。

■工夫している点やユニークな方法論

 会員はサラリーマンや主婦などが中心になっている。そのため会員1人1人の負担を少なくするため、ホームステイ先の家族以外も仕事を分担している。例えば昼間に子どもを世話できる人が子供たちを外に連れ出したり、昼食だけを差し入れたりするようにしている。
 自分のできる部分を負担するため、多くの人が安心して子どもを受け入れられる。

■運動の問題点

 今年は事故から10年目のためマスコミなども大きく取り上げているが、年月を経るにしたがって関心が薄れていっているのは避けられない。問題がいっきに解決するわけではないので、常に関心を持ち続けてもらいたい。

■運動を継続するためのポイント

 身近な人が現地に出向き、経済状態や医療施設の状態を確認して報告することで、支援の必要性を体感できる。民主的な運営を維持しつつ、会員に現地の情報を与えていきたい。(長谷川弘美)

■現在のウェブサイト……なし

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/森と水と土を考える会

■月刊『記録』96年2月号掲載記事

■自然は子孫からの預かりもの

■運動の目標

「自然とは祖先から譲り受けたものでなく、子孫からの預かりものである」という理念に基づき、自然を豊かなまま次世代に手渡すことを考え、行動する、と規約の第3条に定めてある。
 私達が便利で豊かな生活を求め続けた結果が、資源の枯渇・二酸化炭素の増加による温暖化・核廃棄物などの産業廃棄物・一般廃棄物のはんらん・大気や水の汚染・地球環境の破壊などをもたらし、次世代の人類の危機を招いているなら、私達は子孫の命をむさぼり食っていることにほかならない。生活スタイルの見直しを訴え続けたい。

■発足の経緯

「広島市内にゴルフ場の建設計画が5つも6つもあるよ、何とかしょうやあ」と言い出したのがきっかけである。
 呼びかけに対してユニークな人達が集まり始めた。「工業化が諸悪の根源だ」「農的な暮らしに帰ろう」「スーパー林道も問題だ」「農薬の空中散布も取り上げよう」「農山村の過疎化」「石鹸運動」「原発反対」などそれぞれがやりたいこと抱えて集まってきた。そうだ、みんな環境問題だ。できるところからやろうじゃないか。

■運動の歴史

 会は6つの部会に別れている‥‥はずだが今はダンゴ状態。
◎森の部会・・・・西中国山地の十方林道スーパー林道建設計画の見直しを訴える。
◎十方林道歩こう会・・・・広葉樹林を再生しようとドングリを拾って苗木を育て、山に戻す運動を展開中。
◎水の部会・・・・牛乳パックの再生紙を使った美術展、一般廃棄物処分場問題の取り組み。
◎農(土)の部会・・・・無農薬有機野菜や無添加食品の会員制宅配の店「百姓や」を営業。部会として援農等に取り組む。
◎ゴルフ場、リゾート法問題部会・・・・ゴルフ場建設に反対し、立木トラストなどに取り組む。
◎反原発、エネルギー部会・・・・反原発の祭り「土・水・空気を生かしん祭」の事務局を受け持って祭りを開催してきたが、この1・2年は動きなし。
 その他に瀬戸内に面する県(プラス島根県)のゴルフ場に反対する団体で組織する「環瀬戸内海会議」の事務局を受け持つ。

■今後の抱負

 広島市のデルタ地帯を形成し、水瓶である「太田川」を水系としてとらえ、皆で川について考え、行動する道を模索したい。
 その1つの方法として、ドングリを拾い、苗木を育て、山に植林する運動をもっと多くの人に知ってもらい、漁業者、広島市民、川沿いの住民皆が参加する運動を目指す。行政が単に水源林を育てるのではなく、市民の意識改革ができるのではなかろうか。

■思い出深い出来事

 こんな小さな会が事務所を維持できる不思議と驚き。ボランティアで事務所を手伝ってくれる素晴らしい人達との出会い。数え切れないほど開催した講演会、その度ごとの新たな人との出会い。

■工夫している点やユニークな方法論。

 会長はいる。部会長も一応いる。でもいわゆる「幹部」はいない。やる気のある人が入会したら、その人が今日から「世話人」。面白いテーマがあれぱ「世話人」になって行動する。ゴルフは好きだが原発には反対という人もいる。原発は必要だが自然を守ろう、と言う人もいていい。自分はどう生きるのか、社会はどうあるべきなのか、1人1人が考えていく会。

■運動の問題点

 正式な「世話人」がいないので責任感覚が少なく、月例会などの出席率が悪い。先頭に立って行動する人が限られていて少ない。少ない会員で事務所を維持するので、金銭的に大変。

■運動を継続するためのポイント。

 一般の人が参加しやすい催事を開催するよう心掛けている。「‥‥ねばならない」はタブー。民主的運営を心掛ける。お互い疲れる運動はやらない。言い出しっぺが責任を持って事に当たる。(原戸祥次郎)

■現在のウェブサイト……なし

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/森と水と土を考える会

■月刊『記録』96年2月号掲載記事

■自然は子孫からの預かりもの

■運動の目標

「自然とは祖先から譲り受けたものでなく、子孫からの預かりものである」という理念に基づき、自然を豊かなまま次世代に手渡すことを考え、行動する、と規約の第3条に定めてある。
 私達が便利で豊かな生活を求め続けた結果が、資源の枯渇・二酸化炭素の増加による温暖化・核廃棄物などの産業廃棄物・一般廃棄物のはんらん・大気や水の汚染・地球環境の破壊などをもたらし、次世代の人類の危機を招いているなら、私達は子孫の命をむさぼり食っていることにほかならない。生活スタイルの見直しを訴え続けたい。

■発足の経緯

「広島市内にゴルフ場の建設計画が5つも6つもあるよ、何とかしょうやあ」と言い出したのがきっかけである。
 呼びかけに対してユニークな人達が集まり始めた。「工業化が諸悪の根源だ」「農的な暮らしに帰ろう」「スーパー林道も問題だ」「農薬の空中散布も取り上げよう」「農山村の過疎化」「石鹸運動」「原発反対」などそれぞれがやりたいこと抱えて集まってきた。そうだ、みんな環境問題だ。できるところからやろうじゃないか。

■運動の歴史

 会は6つの部会に別れている‥‥はずだが今はダンゴ状態。
◎森の部会・・・・西中国山地の十方林道スーパー林道建設計画の見直しを訴える。
◎十方林道歩こう会・・・・広葉樹林を再生しようとドングリを拾って苗木を育て、山に戻す運動を展開中。
◎水の部会・・・・牛乳パックの再生紙を使った美術展、一般廃棄物処分場問題の取り組み。
◎農(土)の部会・・・・無農薬有機野菜や無添加食品の会員制宅配の店「百姓や」を営業。部会として援農等に取り組む。
◎ゴルフ場、リゾート法問題部会・・・・ゴルフ場建設に反対し、立木トラストなどに取り組む。
◎反原発、エネルギー部会・・・・反原発の祭り「土・水・空気を生かしん祭」の事務局を受け持って祭りを開催してきたが、この1・2年は動きなし。
 その他に瀬戸内に面する県(プラス島根県)のゴルフ場に反対する団体で組織する「環瀬戸内海会議」の事務局を受け持つ。

■今後の抱負

 広島市のデルタ地帯を形成し、水瓶である「太田川」を水系としてとらえ、皆で川について考え、行動する道を模索したい。
 その1つの方法として、ドングリを拾い、苗木を育て、山に植林する運動をもっと多くの人に知ってもらい、漁業者、広島市民、川沿いの住民皆が参加する運動を目指す。行政が単に水源林を育てるのではなく、市民の意識改革ができるのではなかろうか。

■思い出深い出来事

 こんな小さな会が事務所を維持できる不思議と驚き。ボランティアで事務所を手伝ってくれる素晴らしい人達との出会い。数え切れないほど開催した講演会、その度ごとの新たな人との出会い。

■工夫している点やユニークな方法論。

 会長はいる。部会長も一応いる。でもいわゆる「幹部」はいない。やる気のある人が入会したら、その人が今日から「世話人」。面白いテーマがあれぱ「世話人」になって行動する。ゴルフは好きだが原発には反対という人もいる。原発は必要だが自然を守ろう、と言う人もいていい。自分はどう生きるのか、社会はどうあるべきなのか、1人1人が考えていく会。

■運動の問題点

 正式な「世話人」がいないので責任感覚が少なく、月例会などの出席率が悪い。先頭に立って行動する人が限られていて少ない。少ない会員で事務所を維持するので、金銭的に大変。

■運動を継続するためのポイント。

 一般の人が参加しやすい催事を開催するよう心掛けている。「‥‥ねばならない」はタブー。民主的運営を心掛ける。お互い疲れる運動はやらない。言い出しっぺが責任を持って事に当たる。(原戸祥次郎)

■現在のウェブサイト……なし

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/動員 落雷 全国大会

■月刊「記録」1999年10月号掲載記事

○月×日
 東京湾ナイトクルーズを楽しんだ。午後七時、竹芝桟橋(浜松町)から出航。大型客船(5000トン)に乗り、約2時間の周遊である。
 ロマンチックな夜の静寂のなか、レインボーブリッジの鮮やかなライトが君の瞳をやさしく照らしたらもうたまらない。肩を寄せ合うカップルは海風に吹かれながら恋を満喫している。
 私の若いころといえば、神社の境内や田んぼのあぜ道がデートコースで、人目を気にしながらコッソリやったものだが、今どきの若い子は大胆そのものである。
「ええぃ、勝手にしろぉ! しっかり抱き合って大切に愛を育んでくれい」と、私達オヤジ5人集は「飲み放題」のビール・ウーロンハイ・ワインを手当たり次第に呷りまくっていったのであった。
 黒人4人組の生バンドは、ナベサダの「カリフォルニア・シャワー」なんぞを演っていて、船内の気分を盛り上げてくれている。体が自然とリズムに乗り、ステージ前では皆が踊っている。首を突きだしては引っ込めるという光景を眺めながら、私は駅に群がるハトを思い出していた。
 羽田空港からは、1・2分おきと思われる間隔で、巨大な鉄の塊が離着陸している。そのラッシュぶりに改めて呆然とさせられるが、レールの上を走る電車とはケタ違いの厳しさがあるのだろう。飛行機のパイロットには敬服せずにいられない。
 帰り道、すっかり酔っぱらいながら山手線から中央線に乗り換え、JRにすべてを任せる。目を閉じると、東京湾のトロピカルな夜景がぼんやりよみがえっては消えていく。
 現実の世界へたどり着いたのは深夜であった。それにしても、飲むとなればどこへでも出かけてしまう愚かな私である。

○月×日
 一人でトボトボと国会へ出掛けた。動員である。
 国労は、国会会期末を迎えた「国旗・国歌法案」や「盗聴法案」などの重要法案の審議をにらみつつ、JR労使紛争の政治責任による早期全面解決を求め、9日間にわたりJR東日本本社前抗議行動、運輸省、国会前座り込み行動を展開した。
 本部高橋委員長は闘争団家族とともに「話し合いの場が速やかに設置されるよう」、運輸省、労働省に強く要請したということである。
 国会周辺は「炎天下などなんのその」と、いつにない盛り上がりを見せたが、結局は自自公の数の力で強行採決によって成立した。「強制はしない」「乱用はしない」というが、どんどん管理され、統制され、締めつけられていくのは明らかだ。
 決して多くない夏休みを海外などで満喫するのは大いに結構。今しかないのだから。その一方で、こうして国会に押しかける国民もいる。これだって今しかないのだ。

○月×日
 今日も1日が終わった。ガード下の居酒屋を後に、すっかり疲れ果てたうつろな目つきで駅に向かって歩いていた。頭上では「ゴォー」という轟音がひっきりなしに鳴り響いている。鮮やかなオレンジ色の中央線は渦巻くイルミネーションに照らされながら、こんな遅くなっても、ただひたすらに走り続けているのだ。
「今日も朝から晩まで、お前にしこたま乗りまくったよな……」と思い出した途端、なぜか無性に腹が立ち、電信柱に蹴りを入れていた。「イテェー!」
 激痛でよろけた私は、「オレはどうせサイテイだぁ」と叫びながら倒れ込み、傍らにあったポリバケツをコナゴナにしたのであった。ポリ…をコナゴナに……ん!? その瞬間、これは夢にちがいないと気づいたが、まぶたも身体も重くて起きあがることができない。
 再び眠ってしまったのだろうか。今度はスクリーンいっぱいに「秘密」というタイトルが衝撃的に浮かび上がり、なぜか「フーテンの寅さん」の曲が流れてきた。そして同僚が興奮気味に言うのだ。「典チャンの本、映画化されたんだね。スゴイじゃないか。JRを外してただの秘密にしたんだね……」
 中央線沿線にある映画の看板でも大きく宣伝しているのだという。……ん、それって、東野圭吾の小説「秘密」の映画化のことじゃないのか!? やっとそこで目が覚めた。
 どうも「秘密」って、ストレスがたまってよくない気がする今日このごろである。

○月×日
 毎日暑いが、今年のような夏らしい夏も珍しい。カッと照りつけるギンギンギラギラの真夏の太陽。抜けるような青い空と純白の入道雲のコントラスト。突然通り過ぎていくにわか雨。どれもが鮮明で実に美しい。
 頑丈そうで汚れ一つない真っ白な入道雲の上にゴロリと寝ころんでみたいと思う。通り雨は青空をバックにきらきらと輝いて見え、一瞬のうちに地上を洗濯してくれる。曇り空の雨とは風情がまったく異なるところが好きだ。
 中央線は何もいわず、ただただ今日の暑さにもジッと耐えて突っ走っている。乗務員室から見る昼下がりの景色はウソのように静寂で、まるで時間が止まったかのようだ。ふと、遠い昔がよみがえる。過ぎ去ったそれぞれの夏も、今となっては「後方オーライ」でよかったのか……。
 暦の上では立秋も過ぎた。甲子園の高校野球が終わるころには、トンボが夕焼けに赤く染まり秋風を届けてくれるだろう。あともう少し、短い夏。なんだか切ない。

○月×日
 いつもながら私事で恐縮だが、川崎から木更津までの「東京湾アクアライン」を初めて渡った。海底トンネルと海上橋をドッキングさせたというこの道は、どこまでも一直線。そして車内は涼しく思いきり快適。「イエロー・サブマリン」を口ずさみながらゴキゲンである。
 途中、東京湾をぐるりと一望できる「海ほたる」という人工島で休憩をとった。限りなく広がる青い海と青い空はいつまで眺めていても飽きることがない。
 それにしても、この異常なほどのトンボの多さはなんであろうか。こんな東京湾のど真ん中に岸から飛んできたのだろうか。トンボの行動範囲とはこれほど広いものなのか。トンボの幼虫「ヤゴ」は淡水に生息するはずではなかったのか。それとも、これがホントのシオカラトンボなのか……。
 厳しい残暑が続いている。木更津のホテルで一泊し、翌早朝にトンボ返りした。

○月×日
 もう散々だった。中央線は4時間もストップし、駅間の電車からは乗客が線路に飛び降りる。車内では女性客が具合が悪くなり、トイレを我慢ができない人が続出。駅舎は停電で真っ暗。券売機は止まり、改札口は無制限大開放状態。初電が動き出しても終電がまだ走っている。
 8月24日、夕方からの局地的な激しい雨と落雷で信号が故障したことなどにより、首都圏の電車は運転を見合わせる区間が相次ぎ、帰宅の足が大混乱したのだ。
 その予兆は十分にあった。寒冷前線の通過に伴って大気の状態が不安定となり、北西の空は真っ黒。今にも巨大な「恐怖の大王」が降ってくるようであった。
 JR東日本によると「停電の事故としてはJR発足後最大規模」ということである。
 山手、京浜東北、高崎線等は、1時間から2時間後には順次運転が再開されたが、中央線だけはちっとも動こうとしない。最後の最後までダメなのである。
 私が宿泊地である豊田に着いたのは午前3時。15人泊まるはずの所にまだ4人しか来ていなかった。私は初電担当で、3時50分には起床しなければならない。もちろん寝られない。みんな大変なのだった。
 それにしても、小田急や京王線はいつも大丈夫で、なぜ中央線だけが……、とつくづくイヤになる。復旧に手間取る最大の原因は、このような突発事故に対応できる社員の常駐が極端に少ないからではないのか。それなのに会社は、今後も保線や電力等の社員を削減し、外注化しようと計画している。
 一睡もせずに勤務解放(終了)が25日10時20分。昼ごろ帰宅し、死んだように眠った。

○月×日
 社文会館で二日間にわたって開催された国労第65回定期全国大会は成功裏に終了した。
 いわゆる労働組合の全国大会といえば、年に一度のお祭り的な気分もあるものだ。しかし1047人不採用差別事件を抱えている国労は限りなく深刻で、重い緊張感に包まれており、お祭りのおの字もなかった。
 今大会の議論は、3月18日の臨時全国大会で承認した「国鉄改革法」について、その後の本部の対応に批判が集中した。
 高橋委員長のあいさつは、「政治折衝など足踏み状態にある」「直ちに解決できるような情勢ではない」という苦渋に満ちたものであったが、「本部は不退転の決意で早期解決に向けて取り組む」との特別発言もあった。なんにせよ、臨大以降の局面はすでに解決へ向かって動いているのであり、今さら路線がどうこうというのではなく、政治による解決をもってよしとすべきではないのか。
 政府は、解決交渉テーブルの設置を前に国労に対して譲歩と屈服を迫り、ハードルをどんどん高くしている。私たちは今こそ本部を信頼し、一枚岩の団結をより一層強化して総力をあげて闘い抜かなければならない。
 今回、特に印象に残ったのは、上野支部で55歳になる仲間が「最後は国労で」と復帰した、との報告だった。前途多難で情勢は厳しいが、同じように思っている仲間は多いはずだ。国労組合員としての誇りと生きざまをかけ、自信をもって奮闘しなければと身が引き締まる思いであった。外見はデレッとしたままであるが……。
 さてこの2日間、私は何をしていたかというと、本部の許可を取り、物販の一画をもらって本を売っていたのだ。
「『JRの秘密』。国労組合員は必読、四十肩で背中もかけない中央線車掌が、それでも書いた渾身の力作、国労の正当性、JRの異常、現場長も助役も読んでいる、負けてはいられない、今すぐ読もう」などと書いた、にわか仕立てのビラを作り、その辺をウロウロ、ソワソワと、恥ずかしさに耐えながら売り歩いていたのだった。
 朝買ってくれた代議員などは夕方帰るとき、「いやぁ面白かったよ、あと2冊くれ。職場の仲間におみやげだ」と言うのだ。ん!? この人は大会で何をしていたのだろう。いったい、いつ読んだのか……。
 ま、一人ぐらいお祭り的余裕のある人がいてもいいではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/斎藤さん お礼 三文字

■月刊「記録」1999年9月号掲載記事

○月×日
 今日は公休で家には私一人。ボケーッとくつろいで(?)いると、指導助役から電話があった。「×日の九七六H乗務中、国立あたりで車内でナイフを振り回している人がいるという通報を受けなかったか」と言うのである。もう二週間ほども前のことだが、そんな記憶はないので「ありません」と答えると、「よく思い出してほしい」と念を押すのだ。ないったらないので、「絶対ナイ」と電話を切った。
 もしそのようなことがあったとすれば、乗務報告書を提出しているはずである。念のため手帳をめくってみると、その日も公休だったのである。「乗務すらしていないではないか。助役のボ……」、まあ間違いは誰にでもある。「よし」としよう。
 この日の手帳には山陽新幹線福岡トンネル内壁崩落と記してあった。重さ200キロものコンクリート塊が走行中の「ひかり号」を直撃し、屋根が大破するという事故が起きた日であった。幸い乗客にけがはなかったが、大量の人を乗せて走る安全な鉄道にあってはならないことである。
 運輸省は直ちにすべての新幹線トンネルについて総点検の指示を出したのだが、JR西日本だけでも「コールドジョイント」と呼ばれる施工不良が2049箇所も見つかったという。
 JR東日本とJR東海は「今のところコールドジョイントは見つかっていない」としているが、トンネルの工法が山陽区間とほぼ同じであることから、「予想を超えた多さ」に驚きと衝撃を受けているようだ。
 突貫工事による手抜かりなのか、コンクリートの耐久性が問題なのか、原因を徹底的に究明し、早急に安全対策を講じなければならないのはいうまでもない。
 私なら何日間か新幹線を「公休」にして一斉に点検すべきだと思うが、このところさまざまな落下事故が後を絶たない。JR西日本では、この他にも新幹線高架橋からコンクリート片落下が相次いでいると連日報道されているし、東京の目黒では、7月6日に首都高から300キロもの鉄製標識が落下し、下の国道を走っていた乗用車に当たって車が大破(運転手は無事)するというニュースもあった。
 さらに、社会問題ともなっている学級崩壊はわが家にもいえることだが、子どもに対する親の「しつけ」の力が落ちた結果だと思うし、先週行われた昇進試験も落ちることが確実なのである。
 このように、落ちるはあまりいい意味で使用されないが、せっかくの公休である。落ちてくるのは雨だけで十分だ。残り少ない梅雨のひとときを楽しんで過ごしたい。

○月×日
『JRの秘密』に感動した、とわざわざ私に会いに来た人がいる。東海道新幹線の車掌をしているJR東海社員・斎藤文昭さん。何の面識もなかったのだが、国労組合員ということである。
 南部線・矢向車掌区の私の仲間が「電話番号勝手に教えちゃったけど、そのうち連絡がいくと思う」という話をしていたのだが、本当に彼から電話がかかってきたのだ。
 鉄道月刊誌『鉄道ファン』8月号の書籍欄に載った本の記事を見て、「こういう内容は国労の人が書かないとつまらないだろうな」と思っていたそうで、神保町の書泉グランデで実際に本を見てみたら、ズバリ国労組合員とあったので即買い求めたのだそうだ。
 ちなみにその紹介記事には「現役であるがゆえに日ごろ言いたくてもいえない車掌の本音を吐露したもので(略)、文章が軽妙でおもしろく(略)」とある。私の仲間はこの「軽妙」を「カルくてみょう」な文章というふうに理解しているのだが……。ま、それでもいいけれど。
 さて電話は「泊まり明けで、今東京駅にいる」ということであった。静岡にお住まいだと聞いたので、お疲れのところ八王子まで来てもらうのも申し訳ないので、結局三鷹で落ち合うことに決め、駅前の喫茶店で上品にコーヒーなどをすすりながら話した。
 彼は、よくここまで書いてくれたという感激を語り、自分も4年前に「身延線・四季彩々」(光村印刷社発行)という写真集を出版したということ、同じ斎藤といういうこともあり、年も近いし自分のことのように嬉しいと喜んでくれた。
 年は私より三つ下だが、私よりずっと大人の風格で落着きがあった。私は「斎藤さんって若いですね」などと言われてテレつつ、互いに「斎藤さん、斎藤さん」とヘンな気分で言い合い、職場のことや「鉄道員」として本を出せたヨロコビを2時間ほど語り合ったのだ。
 私は立派な写真集をいただき、彼が購入してくれた私の本には「国労三鷹車掌区分会・斎藤典雄」などと、またまた「ナメク字」のサインをしてしまった。
 もちろん写真集を出すくらいだから、彼の趣味は写真である。「電車ばかり撮っていたが、最近は人を撮るのが面白い」と言う。「国労は高齢化が進み、先輩たちがどんどん退転していき淋しいが、国労でやり通した顔が何ともいいんですよ」ということであった。
 今度ぜひ私の顔を撮りたいというので、「それだけはカンベンして」と答えると、「大丈夫、命や魂まではとりませんから」と返すのであった。さすが国労組合員である。

○月×日
 日勤で昼ごろ出勤すると、内勤担当で私の上司に当たるTさんからの伝言があった。
 1時間ほど前に電話があり、私にぜひお礼をしたいというお客様(男性)が、「東京駅のホームで待っているから、私が東京駅に着く時間を教えてほしい」と言うので、教えておいたというのである。
 Tさんは隣にいる助役とニヤニヤしながら「何かいいことしたのか?」などと言い合っている。私はこれといってお礼をされるようなことをした覚えはまったくなく、どう考えても思い当たるようなことがなかった。
 それどころか、詳しい話を聞いているうちに、だんだんウス気味悪くなり、腹立たしささえ覚えるような複雑な気持ちになってしまったのである。
 まずはじめに不信に思ったのは、電話を受けたTさんが、「斎藤と言っても何人もいるから」と言ったことに対して、電話の相手が私のフルネームを言ったということである。胸につけているネームプレートには名字しか書かれていないし、よほどのことがない限り「三鷹車掌区の斎藤です」以外のことを言ったりはしない。
 次に、Tさんもうっかりしていたとしかいいようがないが、その人の名前すら聞いておらず、何に対するお礼なのかも聞いていなかったことだ。ともかく、あまりにも不明な点が多いし、お礼だといって「ボコボコ」にされるお礼参りだったらどう責任をとってくれるのだ。そんなことされる覚えはまったくない。
 例えば「こういうものだが、だれそれの住所と電話番号を教えてほしい」と会社に電話があったとする。このような場合は、本人にカクニンをとった上でとか、相手の連絡先を聞き、折り返し本人に連絡させるというのが本筋ではないのか。今回の件はこれと同様のケースである思うのだが。しかし、もう手遅れだ。私はその電車で東京に向かわねばならない。なるようにしかならない。
 いきなり写真を撮られたりするんじゃないだろうか……、知り合いや友人であってくれればいいなー、などとさまざまに思いをめぐらせながら、少し緊張気味に終点東京の前方をカクニンする。しかし停止位置付近に待っている人など、だれもいないのだ。
 折り返し運転だったので、乗務位置交換で注意深くホームを歩いたが、大勢の乗降客の中にも声をかけてくる人はおらず、結局何もなかった。あーいやだ、いやだ。何ともスッキリしない不快な1日であった。

○月×日
「暑っ!!」。いきなり夏になったという感じがする。一昨日のお昼のニュースが「梅雨明け」と告げたその瞬間から、気温がグングン上昇し、「これぞ夏」という猛烈な暑さとなった。
 昨日も今日も朝からギンギンに晴れ渡った。カッと照りつける太陽は陰ひなたを作るとしても、そこに陰謀などない。森羅万象大自然の節理なのである。
 それにしても梅雨明け前、2日連続の雷の暴れようはすさまじいの一言に尽きた。まるで地響きのように足元が振れ、男は「うおっ」、女なら「キャーッ」という悲鳴とともにホームへしゃがみ込んだくらいなのだ。
 電車は決まった所(レール)を走るしかないのだから、雷による空中攻撃から逃げることはできない。私はいつ直撃されるのかと、ハラハラし通しだった。
 むかしから雷が鳴ると梅雨が明けるといわれている通り、気象庁も翌日には何の躊躇することもなく「梅雨明け」を発表し、実に正しい夏の到来となったのも近年では珍しい。 広大な空も、アスファルトも木陰も、郵便ポストも信号待ちのオバちゃんのブラウスも、見渡す限りみんな皆夏一色の一日となった。
 梅雨明けしたからといって、公衆電話の受話器を頭の上にもっていき、「このシャワーは水が出ないのか」なんてことはもうしない。そして「仕事が終わったらビールだ、ビール」というワンパターンな私も卒業である。
「スターダスト」などの、ジャズのスタンダートナンバーを聴いていると、心の芯まで涼しい気分になる。鈴を転がしたようなピアノのタッチ、静かで落ち着いていても力強いスネアドラム、ずっしりと腹の中にまで踊り込むウッドベースの音、それだけで十分、だったはずなのだが、なぜか何か物足りない。やっぱり生ビールしかないのだろうか……。

○月×日
 ヒジョーに暑い1日だった。夕方、冷房のよく効いた本区で涼んでいたら、区長がわざわざ私たちのいる控室までやってきて、「斎藤さん、時間ある?」と聞くのである。10分後には乗務だったので、「ないです。36分のに乗るんで」と答えると、「5分で終わらせるから、ちょっと来て」と区長室に呼ばれた。
 5分といえば短いが、イヤなことなら長い。ましてや相手が区長となればなおさらである。出勤したときに「昇進試験の発表をやっている」と役員から聞いていたので、それだろうと思ったら、案の定だった。
 区長は、机に置かれた資料に目を落としながら、もう何年も聞き慣れたお馴染みの「不合格」を早口で告げると、「引き続き勉強して、来年頑張って下さい」と明るく締めくくった。
 一応詳しい中味を尋ねてみると、作文は「まぁまぁ」、一般常識と業務知識は「やや不足」という、ちっとも詳しくない曖昧な表現で、私は「勉強して受かるのなら、一生懸命やってます」とだけ言い、5分で終わる話が一分もかからず退出した。
 それにしても、もうどうしたもんだろうか……。ショックとかヤケ酒だとかの感情はまったく湧いてこず、やっぱりなんだかオカシクなるのだ。「オレって、すっげえ頭ワリイんだろうな……」。近くにあった服装の整正用のバカでかい鏡を覗いてみると、やはりいつものすっげえバカみたいな自分の顔が映っている。
「落ちてこそ斎藤」という傾向がすっかり定着し、「受かったときの斎藤」という対策が立てづらくなった今日このごろである。やはりヤケ酒という気にはならなかったが、この日は本当に飲めなかった。この晩は泊まり勤務で、深夜1時17分30秒着の豊田行最終電車まで乗務だったのだ……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/大決起集会 ナメク字 資本金2千億円

■月刊「記録」0999年8月号掲載記事

○月×日
「5・28不当判決」から丸1年。JR採用差別問題などの早期全面解決を求める大決起集会が日比谷野外音楽堂で開催された。
 3月18日に行われた臨時全国大会で、国鉄の分割民営化を定めた改革法を承認してから、すでに二ヵ月が経過しており、「情報がさっぱりだが、政府との交渉は進展しているのか」といった本部に対する不安やいら立ちを抱いていた組合員も多かったに違いない。
 先日の新聞報道でも明らかになったが、政府は国労の立場に理解を示し、一日も早い政治決着を目指す意向を表明したという。つまり、政府・JR各社・国労の三者による話し合いで和解を目指すということである。
 国労の高橋義則委員長は解決への三条件として、①JRへの採用 ②和解金支払い ③健全な労使関係構築 を挙げ、解決の具体的見通しがつかなければ訴訟の取り下げはあり得ないということを強調した。
 集会では1047名闘争団家族を代表して、音威子の藤保さんが「夫は何一つ悪いことをしていないのにクビにされ、働かない、怠け者というレッテルを貼られ、言葉では言い尽くせないほどの悔しい思いをしてきた。この12年間は戻ってこない。国は自らが行った不当労働行為の責任を人道上の問題だなどとすり代えている。絶対に許すことは出来ない」と、溢れる涙を堪えて訴えていた姿が印象的だった。
 一方現場では、この5月から6月にかけて営業職場(駅関係)の異動が突如として行われた。八王子支社管内では40名ほどだったが、国労では分会長や活動の配転が目立っている。会社が国労に対して揺さぶりをかけ、様子をうかがっているようにもみえる。「改革法を認めたのだから、強制配転反対とか苦情処理申請などは受けつけませんよ」と。今後、このような攻撃が再びジワジワと襲ってくるような気がしてならないのだが、私の考えすぎだろうか。
 いずれにせよ、JR各社は政府の呼びかけに対して真摯に応じることを強く願うものである。

○月×日
 釣りに行った。職場のサークル「国労釣り部」の仲間10人で、茅ヶ崎から船に揺られること1時間。三浦半島の先端、城ヶ島沖で大アジを狙った。
 天候にも恵まれ、海はベタ凪ぎ。日常から解放されて何もかも忘れることができ、たまらなく嬉しい。広大な海をぼんやりと眺めていると、「ここなら大丈夫、ダレからも監視されることはない」などと、ワケのわからないことを呟いたりしてしまう……。
 船頭さんの指示により、仕掛けを海底100メートルまで一気にブチ込む。リールの動きが止まり、糸がフニュッとふけると海底まで落ちた証拠である。素速く3メートルほど巻き上げ、釣り竿を2~3回タテに激しく振る。そうすることで、コマセ(撒き餌)がぱらぱらと散り、そこに集まった魚が釣り針にパクリと喰いつく仕組みなのである。
 クイックイッという小気味よいアタリならアジ、クゥィーンという奇妙なアタリだったらサバである。アタリが来ると、私は100メートル下の仕掛けを必死で巻き上げるのだが、魚の引きもかなり力強く、思ったよりも力が必要だ。だから、他の皆はほとんどがボタン一つで巻き上がる電動リールを使っている。カラカラという私の手動リールの隣で、「ヂーヂー」という電気的な音がなんとも恨めしい。でもやはり邪道ではないだろうか。電気の力を借りるのは電車だけで十分である。
 隣り同士で糸やハリが絡まる「オマツリ」も多かったが、皆そこそこ釣れ、クーラーはほぼ満杯。アジは35センチ級の立派なものも数匹まじり、外道にサバ、メバル、イワシという釣果であった。釣りたて新鮮、味は格別(のハズ)。早く帰ってコイツでイッパイだ。

○月×日
 私の本が東労組の若い車掌たちにずいぶん読まれているようだ。
「斎藤さんて誰なの?」「面白くて一気に読んだ」「友だちにも読ませたい」「おれはこういう仕事をしていると田舎の親に送るから、もう一冊買う」などという話が伝わってくる。やはり本職である車掌が読んでこそいちばん共感が得られ、苦楽を実感できるものと思う。「書いて本当によかった」とうれしさがこみ上げてくる。
 しかし、ちょっと困ったことが起きている。実はサインを頼まれるのだ。
「サインだなんて、そんなんじゃないから」と一応お断りするのだが、結局はシブシブ引き受けざるを得なくなる。かれこれ40人くらいに書いたが、もうイヤ。私はとんでもないほど字がヘタなのである。ヘタでヘタで、せっかくの本が台無しになってしまったという気がしてならない。「頼む、1年待ってほしい、書道教室に通うから」と言いたくらいなのだが、いったい私の字はなんといえばいいのだろう。これこそまさに「ナメク字」という以外ないのではないか。それくらい奇妙でヘタなのだ。
 さて、若い車掌たちは「組合に知られるとマズイから」と、コッソリ頼みにくる。よその車掌区の人などは、国労の知り合いを通じて本を持ってくる。これはいったい何を意味するのか。それはまぎれもなく役員から「国労の人とは話をするな、つき合うな」と言われているからに他ならない。異常というしかないが、東労組の組合員がかわいそうに思えてくる。
 いずれにせよ、できるだけ大勢の人に読まれて、真実を理解してもらえればと切に願う次第である。

○月×日
 今日の朝日新聞の夕刊には笑ってしまった。「麻布にサル」という見出しである。「サルを見た」という複数の情報が寄せられ、警察が60人を動員してサルを探したという。前日までに八王子、国立、世田谷などでも同様の情報があり、同一のニホンザルが都心に向かって移動している可能性もある。と書いてあった。
 私はこうした記事に弱いというか、乏しい想像力が限りなく駆り立てられ、いてもたってもいられないほど血が騒ぐ性格なのだ。このサルは、いったい何をしに都心に向かっているのか。どんどん東上している姿が目に浮かび応援したくなる。
 国会では、ガイドライン法案には反対であるというタイドを表明するのか。さらには皇居へ赴き、私のお尻は赤くとも、日の丸、君が代の法制化は認められないというポーズを取るのか。それから先の運命はどうなるのか……、とアレコレ考えてしまう。
 この記事の隣には、天皇家の秩父宮さまが40年前にスキーをしている写真が載っていたのだが、なんとネクタイをしている。やはり一流の人はどこかが違う。

○月×日
「そろそろ昇進試験だなあ」と思いつつドタバタ過ごしていたら、「もう明日」という切迫した状況を迎えてしまった。少しは勉強しようかと構えてみるものの、資本金は2千億円、社員数は7万9千人……といったチェック程度のことばかりであり、さっぱりヤル気が起こらない。
 このところ、本の出版に加えて、本を読んだ田舎の母が具合が悪くなって寝込んでしまったりと、それどころではないくらい目まぐるしい日々が続いていたのだ。
 いまさらジタバタしても始まらないわけだが、二ヵ月ほど前に渡された区側作成の参考資料「その一」「その二」(各60ページほど)と問題集(20ページほど)も、もらった日にパラパラ目を通しただけで、職場のロッカーに入れたままであった。持ち帰ることすらすっかり忘れていた。
 それにしても、子どものころはなんでも一生懸命頑張る「よい子」だったはずなのに、ここまで堕落してしまった原因はなんだったろうとふと考える。自分の弱さを棚に上げ、他人のせいにばかりしている卑怯なもう一人の自分に、吐き気すら催してしまう。
「どうせ受けてもムダだよね」。乗務を終えた帰りがけ、私は同僚に言った。「そうだけど、典ちゃんはいいよ、だって日記を書く材料になるんだから……」。なんだかヘンに納得している自分に、またも吐き気がしたのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/ヒマラヤ保全協会

■月刊『記録』96年2月号掲載記事

■ネパールの村人とともに

■運動の目標

 ヒマラヤ地域、特にネパールの山村で村人とともに環境・文化保全に取り組んでいる。荒廃している森林を保全し、村人が自分の住む地域や文化に誇りを持って生活できるように活動を行なっている。

■発足の経緯

 会長で文化人類学者、KJ法の考案者でも知られる川喜田二郎がネパールで文化人類学的調査を行なったのが1963年。当会の前身であるヒマラヤ技術協力会が設立され、村に簡易水道や軽架線(ロープライン)などのプロジェクトが始まったのが74年である。NGOブームともいえる今と違い、民間の国際協力活動は一般的でなく、その歴史は時代の先駆者としての試行錯誤の歴史であった。

■運動の歴史

 ヒマラヤでは近代化と急激な人口増加をきっかけとして、環境・文化などの崩壊が進行している。昔からネパールの山岳地域の人々は燃料を薪、家畜の飼料を木の枝葉からと、森林資源に依存して暮らしてきた。人口や観光客の増加で、薪の消費や田畑の開墾が増え、森林が減少し、地滑りが多発している。また貨幣経済の浸透で、多くの村人が現金収入を求めて村を去り、村の伝統文化が継承されないといった問題も起きている。
 このような状況から、90年代からは文化的な側面を活かした協力活動に重点が置かれ、土着の知恵と技を再活性化することで新たな地場産業を育成しながら、同時に環境・文化の保全をはかる新しいアプローチへとシフトしていった。代表的なものがネパール山岳エコロジースクールの試みである。日本から一般公募のボランティアの一団がヒマラヤの山村を訪ね、村人の家へホームステイする。自然の中で暮らす村人と交流しながら、村に伝わる伝統的な知恵や技を学び、記録する。また村人は参加者にガイドをすることによって、自分達の文化に自身を取り戻し、一定の現金収入を得る。この企画は好評で、定員を大きく上回る参加申し込みをいただいている。

■今後の抱負

 開発協力として現地の人々の自立に協力するのは基本だが、その活動を通じて環境破壊や南北格差を作り出している現代の社会システムそのものを問い直し、21世紀に向けて新しいライフスタイルや社会のあり方を模索していきたい。
 これからも研究・実践が両立しているという会の特徴を活かし、さらに多くの市民に支えられた懐の深い団体へ成長していきたい。

■工夫している点やユニークな方法論

 ニーズの把握に基づいた適正技術協力、学際的な事後評価や参画的開発の方法論の調査・研究など当初から研究と実践の一致した活動は、20年前のものながら多分に今日的価値を持っている。
 年間を通じて、ネパールへの国際協力を通じて開発や未来の地球社会を考えていく公開連続講座「くらがるねぇ」を実施している。講演者は現地スタッフや在日ネパール人など多彩。

■運動の問題点

 ネパールでの先進的な試みにもかかわらず、それを日本の中で知らせ理解と支持を広げていくことが十分にできていない。
 現在でもまだまだNGO活動はマイナーであり、よりわかりやすく具体的な形で活動の意義を提案していくことが課題である。真の意味での市民の市民による国際協力、普通の人々の心に響き、支えられた活動に強化発展していくこと、NGO活動や国際協力全般の質を高めることに貢献していきたい。

■運動を継続するためのポイント

 20年以上もがんばってこられたのは、何よりも川喜田二郎会長の忍耐強い努力抜きには考えられない。また当初から、政府や企業とも積極的に関わりを持ち、お互いに協力関係を築いてきたことも会の財産である。志を高く持つこと、長期的なビジョンを持つこと、その実現のための方法論を具体的に創り出していくこと、その中で自分達の活動を意味づけていくこと、など。(田中博)

■現在の「ヒマラヤ保全協会」ウェブサイト
http://www.ihc-japan.org/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/ひみつ 女性車掌 強風

■月刊「記録」1999年7月号掲載記事

○月×日
「典ちゃん、JRの本出したんだって、オレも買うから題教えてよ」と職場の同僚にいわれた。私は照れながらも「ひみつ、ひみつ」と丁寧に二度も教えたのだが、「題がわかんなきゃ買えないじゃないか」と怒って向こうに行ってしまったのだ。
 まったく、ため息の絶えない日々が続くが、本当に「秘密」なのだからヤレヤレである。しかし、こうしたちょっとした会話でもトラブルの原因になってしまったりする。言動には十分注意しなければならない。
 ところでナント偶然にも、『JRの秘密』は浅田次郎さんの『鉄道員』(ぽっぽや)と同じ定価なのだ。私のような小僧の書いたモノが、大作家が書いた本と同じ値段というのはどうしたことか。しかしよくよく考えてみると、どうせ私のは売れないはずである。もっと高くすべきではなかったのか……。
 私は居ても立ってもいられなくなり、都内の書店まで出かけて行った。私の本が目立つ所に山積みされて、ちっとも売れずに恥ずかしい思いをしているのではないか。それとも、ひっそり隅っこで見向きもされずに淋しい思いをしているのか……。そんな「お前」に今すぐ会いたい。会って「がんばれよ」と励ましてやりたかった。親心とはそういうものだろう。
 本といえばやはり神田の神保町だ。ということで、まずなんといっても有名な三省堂書店へ。しかし山ほどの本の中をいくら探しても「お前」はいない。そして本の間をさまよっているうちにふと思った。私の本は何というジャンルに分類されるのだろうか。新刊コーナーに名のある作家の作品や話題の本でもない、一個人の本が置かれるものだろうか。政治の本でもない。社会だろうか、いや趣味・娯楽か、旅でもないな……。とにかく一階から五階までくまなく探したが見つからなかった。
 めげずに東京堂書店をのぞく。こちらも大型書店だが、やはり新刊コーナーにはない。いったい「お前」はどこにいるんだ。隠れてないで出てこいよ。と、かなりアヤシイ状態で探し求めていると、ナント三階の理工学関係・鉄道という、場違いとも思える所でついに発見したのである。鉄道評論家・川島令三氏の『三大都市圏の鉄道計画はこうだった』という立派な御著書の隣りで、おとなしく三冊も私を待っていたのだった。素直に嬉しかった。「さわっちゃダメ、秘密なんだから。全部私のもの」などとかなり支離滅裂に激情しながら一冊だけ購入した。
 飯田橋駅前の飯田橋書店にも寄った。平積みはされていなかったものの、新刊コーナーに一冊だけ立ててあった。宣伝の意味でもそのままの方がいいかと、少しためらったが、「秘密が知られてはマズイ」などと血迷い、またも買い求めてしまった。
 発売元のある代々木界隈の書店には置いてあるのでは、という推測から立ち寄った金港堂書店では感激してしまった。入口のすぐ横に10数冊の山。力強く10冊購入した。購入した本は、八王子の行きつけの飲み屋のカウンターに置いていただいた。「汚れないように」と店長が一冊ずつビニールに包んでくれた。本屋にあまりないのに、飲み屋にある『JRの秘密』。これも私らしくていいかもしれない。

○月×日
 新人車掌30名の発令があった。学園教育と現場見習いを経て、約二ヶ月後の7月下旬には全員が一本立ちする予定である。
「国労組合員を指導車掌に指定せよ」と申し入れを行うのはいうまでもないが、特筆すべきは、今回女性車掌が1名誕生するということだ。「中央線に女性車掌誕生」という宣伝効果を狙ってのことかもしれないが、4月1日に改正された男女雇用機会均等法の影響もあるのだろう。
 いずれにせよ男職場という車掌の長い歴史に、新たな1ページが加わることは間違いない。しかし職場環境の整備は完全とはいえない。更衣室、トイレ、入浴、寝室など、ちょっと考えただけでもいろいろ問題がありそうである。また、異常時の対応等の労働環境(特に深夜帯)、さらに私達男どもと同じ勤務指定をするのかなど、問題は尽きることがない。
 そして何よりも「セクシャル・ハラスメント」という私達には今まで無縁だった重要な問題がある。女性と一緒に仕事をしたことがない私達にとって、果たして彼女を職場のパートナーとして尊重し合ってやっていけるのだろうか。私はヒジョーに心配でしょうがない。「斎藤は存在そのものがセクハラだ」などというヤツはいないだろうな……。

○月×日
 朝刊を広げたら、なにやら昨日は大変だったようだ。台風並みの強風で、速度規則や運転取り止めの線区が続出したという。わが中央線では、風に舞ったビニールが架線やパンタグラフに付着し、朝と夕方のラッシュ時に2度にわたってストップしたという。満員のまま駅間に80分近く立ち往生した電車もあったと報じられていた。
 まさに大混乱。駅構内は人で溢れ、乗客に詰め寄られる車掌の姿が目に浮かぶが、もちろんお客様も本当にお気の毒である。それにしても、同じ原因で乗客も車掌も困っているのに、どうしていつもお互いがいがみ合ってしまうのだろう……。
 さて、このような場合は速やかに振り替え輸送の手段がとられる。私達車掌は「振り替え輸送を御利用下さい」と何度もアナウンスをするわけだが、私鉄の方へ回っても乗客が殺到して乗車できる状態ではなく、再び長時間待つ結果となる。「急がば回れ」とはいうけれど、どうしてもという人以外はじっと待っているに限ると思うのだが、いかがだろうか。
 とにかく気を取り直し、ぜひまた御利用していただきたい。なにしろJR中央線は南米のハゲタカなのである。いつもコンドル!

○月×日
 夕刊紙「日刊ゲンダイ」に『JRの秘密』の書評が出ていた。初めての経験で私はかなり興奮した。しかし、私は「うんこタレ」にされてしまっている。私がもらしたとはどこにも書いていないのに……。それでも嬉しくて、そりゃもう嬉しくて、「日本ダービー」もロクに検討もできずハズしてしまったほどである。
 その翌日には、文化放送からなんと出演の依頼がきた。首都圏の通勤者を応援する朝の「小西克哉のなんだ?なんだ」という、世の中の「なんだ」を解決していく生放送の番組だそうで、「噂の大人倶楽部」というコーナーにゲストとして出てほしいというのであった。今までのゲストは、菅直人、浅田次郎、後藤田正晴、筒井康隆などなどのソウソウたるメンバーが並んでいる。なんで私なんかに……。
 もちろんお断りした。いつもマイクを握っているからといって、私が一番気にしているナメクジ声をラジオの電波にのせるわけにはいかない。絶対ダメ。私はJRのアナウンスだけで十分なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斉藤典雄/必勝法 1680円 青テント

■月刊「記録」1999年6月号掲載記事

○月×日
 この時期、週末ともなるとJR中央線は競馬新聞を手にしたお客さまがヒジョーに多くなる。沿線には府中の東京競馬場、中央線から乗り入れする総武線の西船橋には中山競馬場、水道橋、新宿、立川に場外馬券売場があるからだ。
 マンション購入を期に、競馬はヤメたことになっているはずの私だが、妻には内緒でコッソリやっている。本当にたまーにだが。しかし、とんと当たらずカスリもしない。もちろん当たらなければ話にならないのだが、それでもオモシロイ。
 そして私はつい最近、大発見をしてしまったのだ。なんと競馬必勝法をあみ出してしまったのである。目からウロコが落ちるとはまさにこのことだろう。これはいまだかつて誰一人、気がついた者はいないはずだ。競馬に限らず勝負事に絶対はないが、かなり確率が高いので、私を信じてぜひ参考にしてほしい。
 先日行われた桜花賞では、三歳児牝馬で最強といわれた大本命一番人気の「スティンガー」が大負けし、勝ちを拾ったのは四番人気の馬だった。専門家や解説者は「スティンガー」の敗因について「スタートで出遅れた」「ぶっつけ本番のローテーションで挑んだため」などと言っていたが、私にいわせれば、彼らは大変重要なことを見落としている。
 馬は人間がわかる。大人か子どもかの区別もつくはずである。桜花賞での「スティンガー」の位置(かなり後方)から一着でゴールするには、ものすごい瞬発力と猛ダッシュが必要だったはずだ。そしてあの馬にはそれを可能にするだけの力があった。ではなぜ負けたのか。騎手である。騎手が50歳近い大ベテランのオッサンだったからだ。
「人馬一体」という言葉があるではないか。馬の方が騎手にケガをさせてはならないと判断したのである。若い騎手が乗っていれば「この人なら多少の荒技でも運動神経がありそうだから大丈夫だろう」と、危険を覚悟で駆け抜けて一着になったに違いないのだ。騎手に対するやさしい思いやりで「スティンガー」は競馬をしなかったのだ。
 その証拠に、一着から三着まではすべて20代の若い騎手が独占した。「スティンガー」の対抗馬として有力視されていた三番人気の馬も、やはりオッサン騎手のために馬群に沈み、着外となっている。
 利口な馬は騎手を思いやるのだ。「ウソつけ! それならオッサン騎手が一着になるレースはどうなんだ。ケッ」という素朴な疑問をもたれる方もいらっしゃるかもしれない。しかしこれは単に馬が歳をとり、神経が図太くなって騎手に対する思いやりが希薄になったからに他ならない。
 以上の点を考慮して馬券を買えば当たるはずである。しかし、私の財布には金がない。そして競馬は果てることなく開催されている。困ったものだ。

○月×日
 待ちに待ったゴールデンウイークがもうすぐだ。しかしこれは世間さまの話である。私は4日と5日が休みなだけで、残りは仕事。妻も当直とやらが入っていて、私とはかみ合わない。従ってこれといった予定もなく、寂しいといえば寂しいが、いまさら別になんとも思わない(ことにしている)。
 それにしても新緑が美しい季節となった。まばゆいほどの瑞々しい若葉が春風にそよそよと揺れている。自然は正直だからステキだ。そのうち突然太陽がカッと照りつける暑い日がやってくるだろうと、エディバウアーというメーカーのバーゲンセールに出かけた。
 白とクリーム色の半袖ポロシャツが二枚で4900円。やっぱり夏はジーンズに白のシャツがピッタリだ。本屋とレコード屋にも寄ろうと思ったが、衝動買いしそうな気がして踏みとどまった。やきとり屋で一杯だけと心に決め、暖簾をくぐったのだが、勘定書をみると焼酎のウーロン割りが四杯で1680円と記されている。なぜだろう……。
 なお後ろ髪を引かれながら家に帰り、ついでにタンスの中を整理した。冬物をしまい、夏物を出す。着もしない服が山ほどあるのには閉口してしまった。恥ずかしくて、といっても妻のババパンツなどではなく、若向きのために二度と着ることはないと思われる服がヒジョーに多かったのだ。捨てようかと迷うが、貧乏性の私にそれは出来ない。しかし私がこれから身につけなければならないのは、こうした服ではなく教養なのである。
 そして何よりも驚いたのはJRの制服の多さであった。タンスの中で一番の面積を占めているのがこの制服なのだ。わんさかある。山のようにある。本当に押しつぶされそうだ。ヘルプミー。酔いがいまごろ回ってきたようだ。

○月×日
 立川・日野間、多摩川橋梁下の河川敷に二つの青いテントを見かけるようになってから、かれこれもう3年以上たつのだろうか。いまでは四つに増えている。花見やキャンプでよく敷物に使ったりする青いビニールシートで作られた簡易式である。なにしろ河川敷だ、冬なら寒かろうに……。
 テントの傍らにはテーブルらしきものまであり、木と木にロープを張った物干しには時折タオルやズボンなどが干してある。乗務で通過中、何度か目撃したことがあるので、人が住んでいることは間違いなかった。
 たしか2年ほど前の真冬だったと思う。一つのテントの方にまったくといっていいほど人気がなく、生活跡が感じられない日が続いたのだ。私たち乗務員の間でも「この寒さだし、もしや……」という不安が広まった。つまり「死んでいるのでは」ということである。
 早速、しかもなぜか私が三鷹駅前の交番に行く羽目になり、オマワリさんに事情を話すと、その場所は日野署の管轄ということで、すぐ電話で確かめてくれた。すると、さすがというかなんというか、日野署はその住民? のことを承知しており、ときどき様子をみに行ったり、また逆にその住民も交番にちょくちょく顔を出しているので心配ない、ということであった。
 それにしても、どういう生活をしているのだろうかと不思議に思うが、並みの人とは比べものにならない抵抗力や生命力があるのだろう。なにより私は、あのテントに近い将来、必ずや新聞や郵便などの配達の人が現れるような気がしてならないのだ。だからいつも注意深く見守っているのだ。

○月×日
 感慨無量である。
 本誌連載中の私のアホバカ文の単行本化が決まり、年頭から加筆や修正やらを行っていたのだが、ようやく五月下旬に刊行される運びとなった。
 書名は『JRの秘密』。みなさんにぜひとも手に取っていただきたい。カバーには「車掌がコッソリ教える」などと書かれているが、JR車内でもどこでも堂々と広げて読んでもらいたい。
 また、大変ありがたいことに鎌田慧さんがお言葉を寄せてくださり、「いいのかなあ」と照れくさいことこの上ない。腰巻き(オビ)に「いったん覚悟を決めてしまえば、怖いものなど何もない」と書いてくださったのだが、そんなに肝の据わった人間でないことは周知の事実なのだ……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/せっけんの街

■月刊『記録』96年2月号掲載記事

■生命ある手賀沼を取り戻す

■運動の目標

 水生生物や鳥達が安心して生きられる手賀沼を取り戻すこと。水質汚染全国ワースト1の汚名は20年続いているが、汚染は横バイで推移している。周辺の市町村の行政の努力と市民の協力が表れてきていると思いたい。油を回収しせっけんに作り替え、せっけんの使用を啓発することで、手賀沼のさらなる浄化に努めたい。

■発足の経緯

 自分達の流した排水が手賀沼を汚染してワースト1となってしまった。そこで、せっけん運動の中から学びあった仲間達が中心となり、生活クラブ生協・柏市民生協・各市町村へと呼びかけ、84年8月に約1万人・2100万円の出資金が集まり、手賀沼せっけん工場を設立した。

■運動の歴史

 発端は1978年の合成洗剤追放集会だった。ここで合成洗剤全面禁止署名請願運動が開始された。さらに80年には、せっけん利用推進対策審議会の設置及び運営に関する条例制定の請願、直接請求運動の署名が始まった。しかし、手賀沼近郊に廃食油を原料にしたせっけん工場がないことから、82年にせっけん工場設立準備会が発足し、84年には市民出資のせっけん工場が完成し、手賀沼せっけん共有者の会が結成されるに至った。
 だが、翌年からの工場運営は苦難の連続だった。特に油とせっけんの在庫量には泣かされた。貯蔵タンクに入りきらない油がドラム缶に詰められ工場の周りに並んだことも、3キロのせっけん5千袋を千葉県内の行政施設に無料配布せざる得なかったこともあった。しかし、現在では毎月15トンのせっけんが計画的に生産され、日本全国で消費されるようになった。このような成果により、93年には中央学院大学地域文化賞を受賞し、千葉県環境ボランティアと地球環境基金から助成金をいただくことになった。

■今後の抱負

 水を知り、排水をきれいにすることは、自分達の体を守ることにつながる。日々の暮らし方が運動につながっている。私も30代でスタートして50代になってしまった。若い人達に活動の意義を伝えることも、これからの活動の大きな柱になっていくだろう。

■思い出深い出来事

 ネグロスでアジアの人々と交流する会議に出席した時、タイ・マレーシア・ホンコン・韓国・フィリピン各国の人達が、事前の申し合せがなかったのにせっけんを持ち寄ってくれた。日本から遠いネグロス島で、喜びと一緒に責任を感じた。

■工夫している点やユニークな方法論

 水俣せっけん工場・環境生協・川崎市民プラント・手賀沼せっけんで共同開発した運搬可能な粉せっけん製造ミニプラントを使い、せっけん作りを各所で指導している。

■運動の問題点

 活動の原点は廃食油をせっけんにリサイクルして利用を広めることにある。油をゴミとして出している人はせっけんも使いこなせない人が多く、逆にせっけんを使っている人は油を使い切り環境に対しても関心のある人が多い。廃食油回収のシステム作りとせっけん利用の請願や要望署名で採択されて市・町で油の回収を始めたところで回収量が増加してきたことは、流さない人が減少したことはよいが、使い切る努力をしなくなるのではないかと懸念している。

■運動を継続するためのポイント

 とにかくはじめの一歩を踏み出してしまったのだから、みんなでこの思いをつなげていくこと。(中岡丈恵)

■現在の「せっけんの街」ウェブサイト
http://www.sekkennomachi.org/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/東京の水を考える

東京の水を考える会
■月刊『記録』96年1月号掲載記事

■首都圏の水問題を提起する

■運動の目標

 東京を中心に首都圏の水問題に関して、資源自立の立場から無用な水源開発や問題の多い水政策などについて政策提起する。

■発足の経緯

 1989年に実施された東京都の上・下水道料金の値上げに対して、都内の市民団体、労働組合などが結集して83年12月に「上下水道料金の値上げに反対し、東京の水を考える会」を結成。値上げ実施後、広く東京の水を考えていこうと現在の名称に変更して活動を始める。同時に『水通信』を発行し、首都圏の水問題を考えていく会員の交流の場としている。

■運動の歴史

 過大な水需給計画やダムの過大放流による渇水状態の演出によって進められる行政の水源開発に対して、その問題点を論理的に解明し、政策提起をしている。それとともに、対象が広域化しているため、個別の活動については問題を抱えている地域との共闘という形で行っている。
 これまで取り組んできた問題には次のようなものがある。
①三多摩地域の地下水転換問題(地下水から水質の悪い河川水へと切り替えようとする東京都の政策転換)に取り組むため、現地の団体とともに「地下水を守る会」を結成。
②金町浄水場の水質を向上させることを目的に、「金町浄水場の水をおいしくする会」を結成して、江戸川に注ぎ込む坂川の水質などについて現地調査や行政交渉を実施。
③カシンベック病問題の発生以来、水道水としての取水を停止している東京都玉川浄水場の取水を再開するために「多摩川の水を飲める水にする会」を結成して多摩川の浄化などについて取り組む。
 その他、首都圏の水問題として、相模川・八ッ場ダム・渡良瀬遊水池・霞ヶ浦などの水源開発問題について取り組んでいる。

■今後の抱負

 現代の水源開発問題は、首都圏だけにとどまらず全国各地で発生している。長良川河口堰問題・細川内ダム問題(徳島県)・川辺川ダム問題(熊本県)など、30年以上も昔の開発計画が、水需要の伸びの鈍化により必要性がなくなっているにもかかわらず、いまだに強引に推進されようとしている。そのような行政の動きに対して、93年11月、全国の団体と連帯して「水資源開発問題全国連絡会」を結成した。当会は東京事務局として連絡先を提供するとともに、「大規模公共事業見直し機関草案」を結成するなど行政に対してさまざまな働きかけを続けている。この運動に通じて、新たな水政策・河川政策を提起していきたいと考えている。

■思い出深い出来事

 当会では年に1度、現地見学会を開催している。これまで霞ヶ浦・渡良瀬遊水池・関越導水問題・多摩川水系・荒川水系・尾瀬・八ッ場ダムと森林問題および長良川河口堰をテーマとして、調査見学をするとともに現地との交流を行ってきた。
 東京は首都圏のあらゆる地域に水源を求めており、ダム建設による集落の水没などその地域の犠牲の上に水の供給をしている背景があるため、30年以上もダム反対運動を続けている人など現地の人との交流では、常にさまざまな問題を考えさせられる。

■運動の問題点

 水源開発という専門的知識を必要とする問題に取り組み、建設省や東京都などの行政とのやり取りを中心的な活動としているため、どうしても問題の所在を広く市民に伝えていく作業を怠りがちになってしまう。「水は余っている。渇水騒動の多くはつくられたものである」という当会の主張が「一般常識」となるように、バランスのとれた活動を心がけたい。

■運動を継続するためのポイント

 首都圏の水政策には多くの問題があるので、運動の中断は考えられない。現在のメンバーだけでは課題が多すぎてやりきれないほどなので、スタッフを増やしていく必要がある。(文責・堀田正人)

■現在のウェブサイト……なし                    

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/シャプラニール

シャプラニール
■月刊『記録』96年1月号掲載記事

■市民による海外協力を続ける

■運動の目標

 シャプラニールは1972年に創立された民間の団体で、南の国の人々の生活向上に協力するとともに、国内でも現地の実情を伝える活動を続けている。このような活動を通して草の根の立場から南北問題解決の道を探ることを目的としている。

■発足の経緯

 72年の独立戦争直後のバングラデシュで日本製の耕耘機を動かして農村の復興に協力した日本の若者50人のうち、帰国後数人が集まって継続的な協力活動する市民団体として作ったのがシャプラニールの始まりだった。

■運動の歴史

 23年間、バングラデシュでの活動を行なってきた。まずは日本で募金をして現地の子ども達にノートと鉛筆を配ることから始めた。しかし村で配った翌日、村のバザーでノートと鉛筆が売られているのを見てがく然とした。子ども達は飢えていたので食べ物に変えてしまったのだった。
 74年にバングラデシュでは大洪水が起こり、ポイラ村という最も貧しい村の1つで活動を開始した。数人の日本人が村に入り、手工芸品協同組合づくりなどを村人らと行なった。
 77年、村で活動していた日本人駐在員2人が強盗に襲われて重傷を負った。この事件をきっかけに「日本人が村で活動することが村の貧しい人々の生活向上にとって本当に必要なのか」という疑問が生じ、これを問い直した。これ以降、日本人は首都のダッカに住み、村で実際にソーシャルワークをするのはバングラデシュ人のスタッフというやり方になった。現在バングラデシュの日本人駐在員は2人、現地人スタッフは100人である。95年度からはネパールでのプロジェクトを開始する予定だ。
 国内では83年からバングラデシュ人を日本に招き、全国各地で講演会を実施する全国キャラバンを行なっている。またプロジェクト地を訪問するスタディツアーの実施を始め、実情を多くの日本の人々に知らせる諸活動を行なっている。
 また私達の活動の詳しい歴史を記録した「シャプラニールの熱い風1・2部」が出版されている。

■工夫している点やユニークな方法論

 80年以降、貧しい農民達の自助努力のための小さなグループづくりを通した活動を支援している。農民達はこの活動によって生活改善を図るとともに農民自身の身近な問題を自ら解決できる力をつけることを目指している。
 具体的にはシャプラニールの現地人ソーシャルワーカーが農民のグループ会合に参加して識字学級実施や井戸・トイレの設置、保健衛生の基礎知識の普及、収入向上活動などを支援している。これまでに識字学級を1万5千人が卒業し、井戸を約2千基、トイレを約5千3百基を設置した。

■運動を継続するためのポイント

 シャプラニールの現地活動は災害時の緊急救援活動を除けば、通常は継続的な農村での地道な活動で、長い年月をかけて初めて成果が出るような活動だ。その観点から日本国内での活動も息の長いものでなければならない。私達はできるだけ多くの方にバングラデシュのありのままの実情を知らせ、シャプラニールの活動を理解し、支援していただける人を増やすことが重要だと考えている。「あなたも会員になってシャプラニールを支えてください」と広く呼びかけている。(伊東弘)

■現在のシャプラニールのウェブサイト
http://www.shaplaneer.org/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/サンクチュアリジャパン

■月刊『記録』96年1月号掲載記事

■身近な自然の素晴らしさを子ども達に

■運動の目的

 身近な自然の保護とそこに生息する野生動物の保護・調査研究を子ども達の自然教育の機会と捉え、自然環境保護と次世代に自然の素晴らしさを伝えられる子どもを育成する。

■発足の経緯

 浜松の中心街からわずか10分足らずの馬込川河口にキタキツネや野鳥などの野生動物が生息する豊かな自然がある。79年、県と市がその周辺を整備し運動公園作りを計画していることを議会だよりで知った。このままでは、貴重な自然を永久に失ってしまうと市民運動としての保護活動を開始した。

■運動の歴史

 79年に馬込川河口で日本最大級のツバメの「ねぐら」を発見した。それ以来、多くの野鳥の生息地でもある馬込川河口をバードサンクチュアリとして保護するように働きかけてきた。その後、フィールドの近くの海岸が、アカウミガメの産卵地であることを発見し、この保護・調査活動も行ってきた。さらにアカウミガメの産卵調査中、フィールド内で太平洋最大規模のコアジサシのコロニーを発見した。こうして、新たに発見とその保護活動で会の活動を広げていった。
 現在は海浜植物の保護調査・ギフチョウ生息地の保護・ムササビとホタルの舞う環境保護・河川の浄化運動にも取り組んでいる。

■思い出深い出来事

 活動を始めた頃、いくつかの理想を持ち、行政に要望したり市民に呼びかけた。最近になって10-15年前の要望が、1つ1つ実現している。馬込川河口では、今年もツバメのねぐら入りが見られ、たくさんの野鳥がのんびり休んでいる。もし、当時言わなかったら、目の前に広がっている総てが消えていたのである。市民がこの場に立ち感動する姿を見かけるが、自分自身、何度行っても何回見ても感動する。この感動こそが運動の成果であり、継続への原動力となっている。

■工夫している点やユニークな方法論

 活動は土曜、日曜の終日とウィークデーの早朝と夜。毎日の活動なので生活の一部になっている人が多い。
 当会には役割分担がない。もちろん室内での会議や打ち合わせなどもない。活動は体を動かすことであり、その打ち合わせもフィールドで行う。できる人ができるだけのことをする。決してノルマの消化のような活動はない。子ども達や自然・野生生物を対象にしているため、人間の生活にあわせたような活動は、もとからできない。活動は自然の中に身をおいて考え行動することが最良であると考えている。

■運動の問題点

 野生生物は色々な法律で一見、守られているように見えるがほとんど機能していない。例えばアカウミガメは、地域指定という形で文化財などに指定されているが、自治体によってアカウミガメに対する対応はまちまちで、卵の盗掘があっても規制地域以外で掘ったといわれれば防ぎようがない。今後はさらに絶滅の危機にあるアカウミガメを地域的な保護から種として保護するような取り組みへと、アカウミガメにとって致命的である産卵地への車両乗り入れ規制の実現を目指す。

■運動を継続するためのポイント

 活動は、大人だけとか子どもだけとか規制せず、できるだけ一緒に活動すること。そのことによって次の世代に継承できることと家族参加が可能となり出席者も増える。できれば、子ども達が大いに感動できる企画を考えていくことも大切である。(馬塚丈司)

■現在の「サンクチュアリジャパン」のウェブサイト
http://www.tcp-ip.or.jp/~sanc-jp/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/エコシステム

■月刊『記録』96年1月号掲載記事

■失われた自然を復元させる

■運動の目標

 熊本県において失われた、自然森林を少しでも回復させる。密猟による絶滅から野鳥を守る。
 当面の目標は、エコシステム管理地から狩猟者、密猟者を追い出しエコシステム管理地の「完全なる自然保護区」実現である。

■発足の経緯
 林業が盛んな熊本県では、すでに95%の自然森林が伐採されている。山地ではスギ・ヒノキがいたるところに植林され、山奥ほど自然破壊が進んでいる。そのために貴重な野鳥イヌワシやクマタカが絶滅、他にもコルリ・コマドリ・キビタキ・アカショウビンなどが絶滅の危機にある。このことに気付いた野鳥好きの1人の人間によってエコシステムの前身、熊本自然を守る会が1986年に発足した。

■活動の歴史

 86年1月、阿蘇・金峰山・下江津湖において、実のなる木や広葉樹の植栽および絶滅の危機にある野鳥、コマドリ・メジロ・オオルリなどの密猟監視活動を始めた。その後は、88年8月に自然保護区づくりのため、阿蘇郡南小国町中原のスギ伐採跡3・5ヘクタールを買取り、初の自然復元を開始。91年7月、熊本市制百周年記念、第1回「人づくり基金」より50万円の褒賞金を頂く。
 94年7月、環境庁の外郭団体、環境事業団「地球環境基金」よりエコ学習公園整備事業に対し3百万円の助成決定。家庭において、違法に飼育されている野鳥を放鳥するに当たって、完全に自然復帰させるための「リハビリ舎」を含むエコ学習館建設。
 今年は6月に密猟による絶滅から野鳥を守るため、家庭における野鳥の違法飼育に対して、初めて「放鳥協力依頼」を実施した。今後の抱負
 1年後に控えている「エコ学習公園の森」6ヘクタールの買取りを早く完了させ、一日も早く熊本県に野生動植物の保護区を広げる。熊本県の家庭や小鳥店から違法飼養や違法売買をなくし、野鳥の密猟を絶滅させ、ひいては全国的に密猟をなくし密猟による野鳥の絶滅を防ぐ。

■思い出深い出来事

 発足当初、エコシステムの活動は行政からも一般の人々からも相手にしてもらえなかった。しかし現在では密猟関係の分野では国も警察も他の保護団体もできないことを手がけるようになり、日本でただ1つの活動となっている。

■運動の問題点

 行政は何ごとにおいても民間より率先して動くことはなく、行政が動く時はほとんど手遅れである。行政に多大な期待を抱くことなく、やらなければならないことは民間で率先して活動を進めていかなければならない。
 また、密猟監視の活動を通して、熊本県には実質的な意味での「自然保護区」が存在しないことが判明した。

■活動を継続させるためのポイント

 ひとえに「鳥を助けたい」という「自分たちの情熱」にかかっている。活動をしていくうちに、やらなければいけないことが見えてくる。そのなかで「自分たちがしなければ誰もしない」ことを発見するとやめたくてもやめられない。
 私達は、自分たちでお金を出して山林を所有し、野鳥や動物たちのためになるようにと、ただそれだけを考えて木々を増やし続けているが、その山をたくさんの野鳥や動物たちが利用してくれる現実をみると、どんな苦労も報われる。
 密猟監視や放鳥依頼もしんどい仕事であるが、多くの囚われの野鳥たちがリハビリを自然の中に終えて、戸惑いながらも元気に飛んでゆく姿を見ていると、幸せに満たされる。(向井榮子)

■現在の「エコシステム」ウェブサイト
http://www.ecosys-jp.net/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/点呼 臨時全国大会 トイレ

■月刊「記録」1999年5月号掲載記事

○月×日
 ひどく疲れていた。1日の乗務を無事に終えて、2階の更衣室で帰り支度を急いでいると、制服のポケットに乗務カードが入ったままになっていることに気がついた。乗務カードとは乗務する電車の種別(快速・特快など)や時刻等が記されているカードだが、ついうっかり所定の場所に返納せずに持ってきてしまったのだ。
 着替え終わってから返しにいっても差し障りはないのだからと、帰りの電車の時刻をカクニンしてコートを羽織り、毛糸の帽子、マフラー、手袋と完全装備して階段を下りていった。発車まで2分ちょっとあったので返納は余裕のはずだった。しかし、カードを返そうと思った瞬間、私は「もしや?」と思って点検簿をのぞいた。予感は的中。ナント乗務終了の点呼をしていなかったのだ。点呼もせずに「時間だ、終わった終わった」と2階に上がってしまったわけである。
「このとおり着替えちゃったからさ。乗務は異常なし、明日は○時×分出勤ね」とはいかない。点呼は厳正でなければならないのだ。
「あぁ、面倒くさいったらありゃしない」。再び2階でワイシャツにネクタイ、制服制帽に姿に変身して1階に下り、待ちに待った? 点呼をすませた。点呼一つにこれほどタイヘンな思いをしたことは未だかつてなかった。電車は行ってしまうし、みなからは笑われるしで、どっとツカレタ一日だった。

○月×日
 たまにはこういうこともある。
 先日、飲み屋で顔見知りになった物静かなおじいさんに頼まれたのだ。「うちの孫が大の電車好きで、車掌さんに抱っこしてもらっとるところを写真に撮らせてもらえないだろうか」と。「おやすいご用です。喜んで」と応じ、今日がその実行の日であった。
 あらかじめ教えておいた時刻通りに、下り高尾行の電車は八王子駅に到着した。三歳の男の子はおじいさんにしっかりと手を握られ、ホームの柱のところで待っていた。
 私はその子に挨拶代わりの敬礼をすると、いつもよりテキパキと、少し派手なポーズで「出発進行」等の基本動作を意識的に行なった。その子はジッと神妙な目つきで見つめている。幼い無垢でつぶらな瞳に、いったい私はどのように映ったのだろうか。
 終点の高尾駅に着くと車内もホームも閑散として、照れ臭さも和らぐ。折り返し乗務の間の短い時間で、厳粛なる儀式が開始された。まず初めに、その子をひょいと抱き上げ、電車をバックにパチリと一枚。そして次に、その子の頭に私の制帽を載せ、おじいさんと一緒に私がパチリ。これにて儀式は滞りなく終了した。
 私はその子の頭をなでながら、しゃがんで言った。「電車大好きなんだってねぇ、大きくなったらJRの人になるのかなぁ」。すると元気な声でキッパリ答えた。「うん、ボク電車の運転士さんになる」。ハイ、よくできました。ん? ちょっと待ってね、ボク。オジサンは車掌さんなんだけどな……。

○月×日
 公安調査庁(法務省外局)が公表した「内外情勢の回顧と展望」(99年1月付)によると、「JR東労組に過激派組織『革マル派』系労働者多数が組合執行部役員に就任するなど、同労組への浸透が一段と進んでいることを印象付けた」と記述されている。
 私達は「なにも今に始まったことではない」と認識しているから驚きはしないが、会社を健全に発展させたいと願っている社員にとってみれば、不安でないはずがないだろう。
 これについては、1月7日の運輸省の定例記者会見で黒野匡彦事務次官が「まさかと思っていたが、公安庁としてここまで踏み込んで書かれたのはそれなりの確証があった上でのことだろうし大変残念」との懸念を表明されたという。
 さらにまるで連動するかのように、13日付の日本経済新聞には、「川崎二郎運輸相は、政府保有のJR東日本株式の第二次売却について、九八年度内の実施を断念する方針を示した」と載っていた。「その背後には政府・自民党内で『完全民営化』への慎重論が見え隠れする」とあり、「旧国鉄以上に複雑な労使関係を解決しない限り、完全民営化には反対との声も強まっている」と、その関心の高さがうかがえる。
 神戸の少年殺人事件の検事調書が外部へ漏れるという事件をきっかけに、革マル派の悪事が次々と発覚しているのは周知の事実だ。
 東労組と意見対立する組合幹部宅に盗聴器を仕掛けた容疑で同派活動家が逮捕されたり、国労の現書記長宅への住居侵入容疑で同派非公然活動家が指名手配されるなど、JRの周辺では革マル派がらみの物騒な事件が相次いで起こっているわけである。
 なんとも由々しき事態なのだが、うちの職場では国労と鉄産労が公安庁関連の掲示をしたところ、東労組の分会役員が鉄産労に対して、「あれは公安と政府によるデッチ上げで、なんの根拠もないウソ記事だ。ウソを掲示しているのはオカシイ、外せ」との意見をつけたというようなことも発生している。
 デッチ上げでウソだって……。あなた方は本当にそう考えているのか。信じられない。

○月×日
 国労の臨時全国大会が目前に迫った。3月18日、14時開会、中野ゼロ・ホールで開催される。
 私はちょうど休みなので運良く行ける。しかし、八王子支部内で傍聴がわずか10人という人数制限が設けられ、私のような下っ端は会場に入れない。私は「案内でも警備係でも何でもするから入れてほしい」と申し出たが、「会場の外ならいいよ」という返事であった。運良くは取り消しか……。でもとにかく行くしかない。
 議題は、①不採用問題の解決に向けて、②その他、となっているが、「補強案」五項目については、一項目の改革法承認の確認を求めるだけということである。二項から五項については凍結の集約をするという。つまり一時保留ということのようだ。
 今後は解決水準をめぐる攻めぎ合いに移っていくのだろう。さまざまな妨害、介入、分断が予想されるが、ハードルは高く、次々と乗り越えていかなければならないのだろう。ようやくスタートラインに立てたということだが、どうなるかはわからない。「国労ついに分裂か」という雑音も聞こえている。
 いずれにせよ、これを機に闘ってよかったといえる解決を図らなければならない。本部一本に集中し、本部を信頼し、満場一致で大会が成功することだけを祈る。

○月×日
 私が毎月購入する雑誌は、『本の雑誌』『噂の真相』『レコード・コレクターズ』の三冊と決まっている。この組み合わせでもう10年以上たったのだろうか。他にも買いたいものは山ほどあるが、山ほど買うわけにもいかず、立ち読みや図書館で済ませているのだ。
『本の雑誌』はその名の通り、本にまつわる雑誌である。新刊の書評、本屋さんの事情、編集者のこと、エッセイ等、椎名誠編集長を筆頭にオトナのお遊び心的姿勢が溢れていてタイヘン面白い。「発売日まで待てないよ、オレ」という情況に陥り、もだえ苦しむ日々を送ることもしばしばである。
『噂の真相』はメディア批判を中心に、あらゆる情報を鋭くエグる。世の中の不正に怒りが湧き、自分自身を奮い起たせる。だが実際行動に移すわけではない。しかしHなページなどには下半身の一部が勝手に行動したりして困ることもある。
『レコード・コレクターズ』は私の一番好きな音楽雑誌である。意外とマニア志向で、私は心から感謝して読んでいる。そしてなんと、学習院大学でセンセイをしている私の従兄弟が、これまたロックン・ロール狂で、毎月音楽本の書評やレコード評論などを載せているのだ。手紙のやり取りだけで会うことはないが、月に一度のごあいさつと受けとめ拝読している。
 そうそう、あと一冊あった。いうまでもなく『記録』である。

○月×日
 国労の第六四回臨時全国大会が「なかのゼロ小ホール」で開催され、国鉄分割・民営化を定めた国鉄改革法が承認された。
 会場周辺では、100人を超すと思われる警察官が厳重警戒に当たるという異様さであた。しかしこの人混みの中心にあったのは、傍聴制限を設けたために会場に入れない、全国から駆けつけた組合員達なのであった。主人公は組合員一人ひとりのはずなのに……。
 代議員の発言は歯切れの悪いものが目立ったということであったが、総論では本部を支持し、満場一致の拍手で機関決定された。
 しかし、皆それぞれ断腸の思いであったに違いない。改革法により分割民営化され、解雇され、100人以上もの仲間が追いつめられ、自殺するまでにいたった事件である。
 長かった闘いを振り返ると、会社側、国労双方の主張は、それぞれの置かれた立場を考えればどちらもある程度までは正しかったといえるのではないか。ただ、主張に対しての講釈は永遠とついて回るものだが、事実は一つしかない。やってはいけない不当労働行為を続けているJRはキチンと謝罪すべきであり、かたくなな態度を改めて話し合いによる平和的な解決を目指すのは社会常識からしても当然のことである。
 今大会決定は、労働組合である以前に人間として尊い選択であったと思う。このチャンスを最大限に生かし、12年余にわたる闘いの思いを無駄にしないよう、誰もが闘ってきて本当によかったと納得のできる解決を勝ち取らなければならない。さらに体制を強化してガンバロウ!!

○月×日
 駅のトイレの話である。国鉄時代に比べ、駅のトイレは見違えるほどキレイになったところが多い。「汚い」という苦情が絶えず、改築・改良されてきた結果だが、これを維持するためにはお客さまのご協力が欠かせない。 なかでも落書きは跡を絶たず、手を焼いているものの一つだ。男子トイレの小便器に書かれた「一歩前へ……」という注意書きには、必ず決まってどこかに「チ○ポ前へ」と書かれている。笑う前に泣けてきますよね。
 私ごとな上に、尾籠な話を続けて恐縮だが、先日突然催した私は、とある駅の一見キレイな公衆トイレを借りたのだが、ヒジョーに腹が立ってしまった。とにかく個室の内部が汚いのである。どうしてキチンと便器の中に収めることができないのか。まったく不思議でしょうがない。
 いくら一刻を争っているとはいえ許せない。次に使用する人のことを考えろ。トイレ掃除のおばちゃんのことも考えろってんだ。それともナニカ? JRに怨みでもあるヤツの仕業だろうか。密室でコソコソやってるんじゃないよ、クソッタレ。ああそうか、元々くそったれだったのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/アフリカ村おこし運動

■月刊『記録』96年1月号掲載記事

■アフリカに教育と経済的自立を

■運動の目標

 アフリカの人口の70~90%を占める農村部において、土地の環境に考慮し、アフリカの文化・伝統を大切に、アフリカ人自身による自発的開発を行なう。また日本からそれを支援する。

■発足の経緯

 日本人のアフリカのイメージは、飢餓・貧困・干ばつなど、暗く可哀そうな大陸といったイメージが大きい。そこでアフリカのザイールから日本に留学していたサンガ・ンゴイ・カザディ(現「アフリカ村おこし運動」代表・三重大学教授)が、正しいアフリカの実情を知らせるために運動を開始した。そして1990年に今までの先進国からの援助の方法ではなく、アフリカの環境を守り、アフリカの高い文化や豊かな自然を生かし、アフリカ人自身の手でアフリカにある問題を解決する運動をスタートさせた。

■運動の歴史

 1991年、アフリカでの調査の末、第一番目のモデル地区をザイールのシャバ州カヤンバ郡に決定。住民との話し合いを重ね、①植林、②道路・橋などのインフラストラクチュアー整備、③教育、を主な柱として活動開始。住民から農作物を作っても市場に運搬する手段がないとの問題が提起され、92年、日本で廃車になっていたトラック4台を送る。93年には日本からのスタッフの指導で、油ヤシの植林をスタート。95年現在、現地の住民の自主的努力のみで、約2000本(20ヘクタール)の植林を行なった。また道路・橋の工事も、人力で少しずつ進んでいる。教育の分野では郡内のカバンバ村に、93年、先生9人を中心に中・高学校を設立した。現在約120人の生徒が小学校の仮校舎で学んでおり、来年は自分達の手で自分達の校舎を立てる計画を進めている。
 我々の運動では、何よりもアフリカでの人材育成が大切と考えてきた。そのため92年からケニヤで4人ずつの研修してきた。しかしもっと大きな広がりをと考え、95年8月には郵政省の国際ボランティア貯金の寄付金の援助を得て、シャバ州の州都ルブンバシ市で農林業のリーダー育成のための研修センターを建設を開始し建設中である。

■今後の抱負

 アフリカへの援助といえば、さまざまな品物を送ることという認識が日本では一般的である。しかし、それが何の解決にもならないどころか、かえってアフリカでの発展を遅らせている場合が多い。「アフリカ村おこし運動」のリーダーはアフリカ人自身だが、日本人への彼のメッセージは、決してサンタクロースにならないでくれということである。それと同時にアフリカの人々に対しても、「なにか必要なものが欲しければ、体や知恵を使って働け」といっている。そのために我々は日本でもアフリカでも、両者の従来のコンセプトを変えるため、多くの時間と労力を費やした。
 しかし運動6年目にしてようやく、多くの理解が得られるようになり、現在アフリカでは現地スタッフ5人を中心に自主的な活動を展開している。さらに昨年8月研修センターがオープンする予定なので、そこからザイールのみならずザンビア、タンザニアなどからも研修生を受け入れ、我々の真の目的である、アフリカの内発的発展の推進力としたい。

■運動の問題点

 日本での活動、現地への支援を支えるための資金不足に常に悩んでいる。特に日本での資金不足、事務経費には常時悩んでいる。アフリカの現地の人々が自分達の足で立って歩けるまで、何とか頑張りたいと思っている。
■運動を継続するためのポイント

 現地でのリーダーが多く育つことである。(鶴見雅子)
■現在の「アフリカ村おこし運動」ウェブサイト
http://www.mie-u.ac.jp/chiiki/afrika/index.htm

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/我孫子カルチャー&トーク(ACT)

■月刊『記録』95年10月号掲載記事

■交流紙で世界と心の交流

■運動の目標

 国際理解というと、英語すら話せないのにと尻ごみする人がいる一方で、日本語を話そうとする外国人に英語で話す日本人がいる。英語ではなく日本語で相互理解を深め、従来の国際化に対するアンチテーゼを示したい。最近は海外にも約3千校の日本語研修機関があり、日本人の生の声と日本語に関心のある学習者の生の声をつなぎ、あわせて外国人の日本語学習のサポートもする。

■発足の経緯

 88年から外国人とバイリンガル雑誌の文芸同人誌を発行するうち、パーティーを月1回開くようになった。狭い部屋で肩が触れ合う距離で話すと、互いに共感する何かが見えてくる。天安門事件にうろたえる中国人留学生や、帰国していたドイツ人からのドイツ統一の記念切手を貼った喜びのメッセージ。世界のことは経済活動に関係なければ知らなくていいのではなく、海外に住む人の喜び悲しみを理解してこそ日本人のあり方も理解してもらえる。
『ちきゅうTALK』は湾岸戦争の最中の91年春に創刊。世界から日本の貢献を求められ声をなくした政府に私達はいら立った。行政も政府も市民の声を伝えてくれず、自分達で主体的に動くボランタリティーの必要性に気づいた。動き出してみると同じ思いの人とネットワークが広がった。そして何と外務省のNGO年鑑にも名前を連ねられ、おかげでまじめにボランティアについて考えるようになった。英単語としてのACTは「行動する」という意味で、名前に押されていろいろな活動を行うことにもなった。

■運動の歴史

 英語を介さずに世界を理解するために、これまでにパーティーなどで知り合った外国人に協力してもらい、各国の子どもの絵を集めて「世界こども絵画展」を催した。
 また、活動で知り合った我孫子市内の国際交流グループと共に市へ国際交流協会の設立を要請、市民告知のために米国サンタモニカのミュージカル劇団に公演してもらい、収益金を市に寄付して設立に成功した。フランス核実験にも意志表示をしようと英文の抗議レターを作成し、8月6日付でシラク大統領、国連常任理事5ヶ国の在日大使館へ送った。

■今後の抱負

 活動を支えてくれる人がプライドを持てるような組織運営を目指す。「ボランティアは暇と余裕のある人が仕事にもならないようなことに精を出す」ではなく、「人間らしくあるための優しさの証明として」の活動にしていきたい。

■思い出深い出来事

 某大使夫人が、「世界こども絵画展」の主旨に感心、本国に日本の子ども達の絵を持ち帰って展示会を計画した。阪神大震災のチャリティーで海外料理のレシピセットを作成しようととしたら、2人の大使夫人に珍しい料理を紹介された。

■工夫している点やユニークな方法論

 積極的な協力者の時間を割くばかりでなく、リターンも考えたい。近隣の企業や経営者との関係を密にして外国人の語学教師を紹介するなどスキルアップしていけば、おのずとアルバイトの話がくる。外国語の翻訳を手がける作業を重ねるうちに翻訳者になった人や翻訳本の出版を目指す人など、自らの精神的なレベル・アップにつながるようになりつつある。

■運動の問題点

 会員が多くなることは大切だが、事務処理がオーバーワーク気味。専門の事務局スタッフ制をとりたいが、経済的に困難。

■運動を継続させるためのポイント
「トム・ソーヤのペンキ塗りのように、さも面白くてたまらないという風にやると皆がやらせてとやってくる」とあるメンバーが耳打ちしてくれた。仕事としてペイできないなら、何か納得できる「やってて良かった」を演出していくべき。(海津新菜)

現在のウェブサイト……なし

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/一本道 自転車 事務所開き

■月刊「記録」1999年2月号掲載記事

○月×日
「どこへ行くのか、この一本道……。」ではじまる歌。『一本道』を歌い続ける友部正人のデビュー25周年記念CDが出ていた。『ブルースを発車させよう』というアルバムタイトルからイカしてる。『フーテンのノリ』という歌も入っているが、深い意味はない。メジャーではないので知っている人は少ないと思うが、私はデビュー当時からのファンである。
 友部の歌は、ギターにハーモニカといった昔ながらのフォークスタイルで、トーキング調のものが多く、音楽よりも詩の方が重要視されている。何を訴えるか、何を問いかけるかである。
 歌は決してうまいとはいえないが、さり気なく歌っているような歌でも、聴く者の心にズシリと重く響きわたる作品が多い。とりわけ、代表作である『一本道』はいつ聴いても涙がジワッとにじんでしまうほどの感動を覚える。「やるせない一日が終わったが、この先どうなるかはわからない、でも挫けちゃいけないよ」と教えられているようで、救われる思いがする。歌に限らず表現するということは、自分自身を救うこと。うまくいけば他人をも救えることなんだなぁと思う。
『一本道』にはこんな情景が歌い込まれている。

 ふと後ろをふり返ると、そこには夕焼けがありました、本当に何年ぶりのこと、そこには夕焼けがありました。あれからどのくらいたったのか、あれからどのくらいたったのか……。 ぼくは今阿佐ヶ谷の駅に立ち、電車を待っているところ。何もなかったことにしましょうと、今日も日が暮れました。ああ、中央線よ空を飛んで、あの娘の胸につきさされ……

 乗務中、毎日阿佐ヶ谷を通る私は、ついつい「ぼくは今阿佐ヶ谷の駅に立ち、電車を発車させようとしているところ」などと心の中で呟いたりしてしまう。
 今日はこの『一本道』を何度も何度も繰り返し聴いていた。一日が終わろうとする安堵感と、何かを成し遂げていない虚しさ。やり場のない胸の痛み、それでも希望は捨てていないんだと、実直素朴に歌いあげている。
 それにしても何ともせつない。ああ、『愛こそはすべて』か。私はビートルズの『ロック・アンド・ロール・ミュージック』も『一本道』も、みんなみんな『抱きしめたい』のである。

○月×日
 冬の陽はすでにどっぷりと暮れていたが、繁華街は十分明るかった。そこで私は不意に警察から呼び止められた。自転車の無灯火である。「ハイ、ハイ」と、ハイを一つ余計に言いながら、素直にライトを点灯した。
 八王子署から電話があったのは2時間ほど前の夕方だった。私は一人で夕食の支度をしている最中であった。息子(中学生)が自転車を盗んだという。やりきれない気持ちで胸がいっぱいになり、心臓の鼓動が激しくなる。「オレの子だから仕方ないのか……」、深い溜息とともに言葉を吐き出し、ガックリ肩を落とした。
 気持ちが穏やかなはずはないが、息子の今後を考え、出来るだけ冷静に対処しようと自分に言いきかせながら、八王子署へ引きとりに向かったのだ。
 息子に対面し「どうしたんだ」と尋ねると、息子は何故か一言もしゃべらず、黙りこんだままである。私は猛省を願い、狭い取調べ室の中で「もう二度とするな。二度としないんだぞ。なら、それでいい」と、少年課フロア全部に響き渡るほどの大声で怒鳴りつけた。
 息子と家へ戻ると妻が帰宅していた。暗い晩ごはんを済ませると、息子はなんと突然しゃくり上げ、声をあげて泣き出したのだった。「警察はヒドイ。僕の言うことを何も信じてくれない。同じことを3回も4回も言わせて、違うだろ、そうじゃないだろって……、僕は、もういいやと思って、言われる通り(調書を)書いた。僕は盗っていない……」
 妻は「これじゃあ冤罪じゃないの、あなたはどうして話をよく聞いてあげないのよ」と激怒した。私は妻に促されて警察署に電話を入れ、「息子はやってないと言っている、取り調べの仕方に問題があるのではないか」と抗議した。「お子さんが認めたのです。自分の子を信じたいのはどこの親御さんも同じです」と、全くラチがあかない。「とにかく今日は遅いから」と、後日息子と伺うということで話をつけた。
 結局、妻が半日の休みをとって警察に出向き、この件は白紙に戻された。妻は警察官の職業病的部分の看護を行うかのように、息子の正当性を懇々と説き、納得させてきたのだ。
 私は息子に、「これからの長い人生には、「もういいや」と諦めていい時と、そうでない時がある」と厳しく言い聞かせた。
 事の真相はややこしい。これよりしばらく前に、息子が自分の自転車を盗まれたのだ。その数日後、「先輩からもらってきた」と言って、今にも壊れそうなボロボロの自転車を息子が引いてきた。その後、一ヶ月以上も乗っていたそのボロボロの自転車には、何と盗難届が出されていたのだ。
 ゲームセンター(学校では出入りを禁止している場所なのだと思うが)で見ず知らずの高校生くらいの人に、「あそこにある自転車お前にあげるよ」と言われ、喜んでもらってきたのだという。それにしてもなんて甘い息子だ。ああなんて情けない。
 いったいどうしたわけだ。うちの子ども達はどの子も幼すぎやしないか。赤ん坊のころからベビーカー(乳母車)などほとんど使わず、いつも抱っこしてこの両手でシッカリ抱きしめて育ててきた。それが間違いだったとでもいうのだろうか。もう思い通りにならない。すでに親の手の届かぬ別世界に行ってしまったかのようだ。
 私もいつの間にか顔中にシワが増え、妻の髪にも白いものが目立つようになった。しかし、私の子どものころがそうだったように、そんなことお構いなしの息子達なのである。

○月×日
 白い息、落ち葉の公園踏みしめる。ジョンのように両手をポケットに入れ、『ラブ』とつぶやいてみた。物思い、ジタンくゆらせスタンドバー。ジョンのように頬杖ついて、『イマジン』とつぶやいてみた。陽が昇る、昨日を越えた輝きで。ジョンのように腕組みしながら、『ピース』とつぶやいてみた。くつろぎ、口笛歌にギター抱く。ジョンのようにソファへ寝転び、『オー・ノー』とつぶやいてみた。シュプレヒコール、夜の都心をデモ行進。ジョンのように拳を振り上げ、『チャンス』とつぶやいてみた。流星群、眠い目こすり暗闇の中。ジョンのように泥酔状態で、『ユニバース』とつぶやいてみた。身を交わす、通りでステップおどけ顔。ジョンのように洒落たジョークで、『ニューヨーク』とつぶやいてみた。 あれから18年が過ぎた。いったい何が変わったのだろう。『ジョン・レノン』が凶弾に倒れた12月のこの日のことは忘れることができない。
 ストレートにロックをシャウトするジョンにも強烈な魅力を感じシビれるが、バラードを歌うジョンには一発でノックアウトだ。何ともセツナイ。ジーンと心に沁み、金縛りにあう。メロディの美しさもさることながら、限りなく優しく温かな、枯れた声質がたまらない。
 愛と平和を歌ったジョン。芸術、思想家のジョン。主夫でもあったジョン。ただの夢想家だったジョン。ユーモアと風刺では群を抜いていたジョン。すべてが好きだ。 私はいま、自分自身の壁を打ち破ろうと必死になっている。天国のジョンにメッセージが届くなら一言だけ言わせてほしい。「ありがとうジョン・レノン。いまジョン(Imagine) there's no heaven……」

○月×日
 家のベランダから初日の出を拝み、99年がスタートした。私は元旦からの乗務である。
 身の引き締まるような雲一つない快晴であった。車も人影もまばらで、空気が一段と澄んでいるような気がした。街はまるで汚れが洗い落とされたようにスッキリしている。
 通勤のわがJR中央線から見える白銀の富士山は、いままで目にした中でイチバン美しいと思えるほど感動的だった。日野駅を過ぎ、多摩川の鉄橋にさしかかると、雄大な川の流れがいつもより穏やかで静かに感じられる。やっぱり元旦はひと味違う。
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」と、職場で会う人会う人に新年のアイサツをする。いいお正月だ。本当にメデタイ。皆これからまた一年間、楽しく仕事をやっていこう。
「ご乗車ありがとうございます。快速東京行きです。本年もJR東日本中央線をご愛顧のほど、よろしくお願い申しあげます」
 21世紀に向けてのラストラン、スパートである。さぁ出発進行だ!!

○月×日
「国労八王子地区本部の事務所開きをするから手伝ってほしい」と書記長に言われた。
 ちょうど休みだったので昼ごろ出かけると、本部の宮坂書記長もみえていた。八王子と甲府の委員長をはじめ役員10名が顔を揃え、私だけ場違いといった感じである。 それぞれ決意新たにビールで乾杯。テーブルには寿司や揚げ物などの料理が豪華に並んでいる。しばらくして、八王子支社のおエライさん達がゾロゾロと挨拶にみえた。勤労課副課長以下8名、いわゆる労務管理屋だが、私はビールを注いで回った。
「国労さんには昨年1年間大変お世話になった。今年も引き続きご協力願いたい」
「われわれも安全安定輸送第一に努力して参りたい」
 敵対するもの同士とは思えないほど和やかなふん意気なのには面食らってしまったが、みんなヨイショばかりだ。
 前日に発生した、特急「あずさ」が故障によって5時間止まった件に関しては、「ウチじゃなくてよかった」という副課長の一言だけ。要するに運転士は松本、車掌は新宿所属で、八王子支社の管轄外でよかったヨカッタというのである。ま、議論をする場ではないからいいのかもしれないけれど、お正月のUターン客らで満員の上、終点の新宿に到着したのが翌朝4時だったというのに、会社幹部の発言にしてはサミシイ限りだ。
 ところで私はいったい何の手伝いをしたのかって? 結局酒を減らすのを手伝っただけなのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/きつつき会

■月刊『記録』95年10月号掲載記事

■地域に根差した福祉活動の実践

■運動の目標

 心身の障害や家庭的な課題により、地域で普通の暮らしが営めない人々に対して、権利としての福祉サービスが提供されるようになってまだ半世紀。しかも、憲法で保障された普通の暮らしと、法律や制度との間にはまだまだ溝がある。
 福祉施策は、障害の種別や背景に従って分類し、入所施設に収容する従前のやり方から、在宅の暮らしを支える地域福祉重視へと変化しているが、施策は地域からでなく、国の掛け声によって推進されつつあり、行政効率が優先されている面がある。身近な暮らしそのものを、多様な選択肢で幅広く支えるのが地域福祉の本来の目標。法律や制度を前提とした上からの改革でなく、地域に根差した土着の実践としての下からの福祉改革を目指す。

■発足の経緯

 86年10月、将来の進路に不安を持つ、養護学校小学部に通う児童の保護者との出会いがきっかけとなった。障害を持つ人々の進路確保と選択肢の拡大による自立支援を目指し、地域に根差した小規模通所施設の開設を目標に発足した。

■運動の歴史
 発足時点では、対象の知恵遅れの子どもは小学部4・5年生で具体的な施設を必要としておらず、あそびの場の確保を当面の課題とした、月1度(日曜日)の「あそび会」をスタートさせた。
 89年に将来の通所施設としての活用も念頭に、活動拠点「きつつきの家」を建設し、90年の切実な電話相談がきっかけで県内初の障害児学童保育を開始した。市社会福祉協議会からも地域福祉推進型施設補助が初年度から支給され、さらに市単独の障害児児童保育事業補助も91年度から支給されている。94年4月には、目標であった小規模通所施設の「通所生活施設」を開所。こらまでの実務実績が、県・市行政の中で認められ、茨城県福祉ワークス事業による水戸市委託として、運営の基盤が与えられた。

■今後の抱負

 利用定員を大きくせず、発達・自立支援の質を高めていきたい。現在の利用者は7歳から28歳までで、うち今年20歳を迎えた数人は、発足時の小学部5年生である。この青年達の成人期へ向けた自立支援として、96年1月に生活ホームを開設し、児童期から青年・成人期を一貫して支えるための環境整備を目指す。

■思い出深い出来事

 地域での普通の暮らしを、という願いの一方で現実は単純ではない。多くの課題を心身に抱えた子ども達は、時に地域環境との間で摩擦を生む。それへの対処の中で、「習うより慣れろだから」と近所の方から声をかけられた。それは、暮らしを身近にすることへの同意であると共に、地域での暮らしの共有の中に、一般論としての差別がなくなりつつあることを示唆するものだった。

■工夫している点やユニークな方法論

 利用児者の発達・自立援助では、地域の一員としての日常の関わりを重視すると共に、幅広い生活経験をきめ細かに積み重ね、地域での普通の暮らしの可能性を高めて行くため、1つ1つの日課への動機や、暮らしを見通す力の向上を大切にしている。

■運動の問題点

 制度と前例にこだわらない結果、運営の基盤は脆弱で、94年度実績で全運営費に占める公費の割合は42%である。父母からの負担金と賛助会費・寄付金がそれぞれ約3割を担っており、不安定な財源への依存度の軽減が求められる。

■運動を継続するためのポイント

 福祉制度の歴史的な経過と、地域社会の歴史性から遊離しない実践の重視。困難な運営環境の中で背伸びせず、地に足をつけた実践を積み重ねるため、方向性を持って継続の責任を担える歴史認識と哲学を維持し、資質を高める。(大曽根邦彦)

■現在のウェブサイト……なし

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/名古屋・ニカラグアに医療品を送る会

■月刊『記録』95年10月号掲載記事

■ニカラグアの生活レベル向上を目指す

■運動の目標

 最初の目的は医療品を送ることだったが、その後、国内の状況の変化に従って文化交流にも力を注ぐことになった。現在の主な目標は、日本で不用品になった電気製品・ミシン・楽器・スポーツ道具・日曜大工の道具・文房具・料理道具等を送って生活レベルの向上を図る。幸いなことにニカラグアの電気のボルテージは日本とほぼ同じ110ボルトだ。

■発足の経緯

「米国が例をみない厳しい経済封鎖を強いたので、ニカラグアの多くの子ども達は薬が不足して死んでいる」との新聞報道をきっかけに、南山大学スペイン語科の学生が1985年に薬を送ろうと発足させた。

■運動の歴史

 運動が始まったころ、メンバーの中でニカラグア行きを希望していた若者が数人いた。その中の1人の看護婦が86年に現地に向かい、現在ニカラグア人と結婚して首都マナグアに住んでいる。おそらく日本に戻ることはないだろう。以後毎年、ツアーや個人でニカラグアに会員の誰かが行っている。
 最初医薬品を送ろうと考えた時、誰を相手に送ればいいかが分からなかったが、彼女からモリナ神父を紹介された。神父は「バルディビエソ」というNGOを作り、ストリートチルドレンや戦災孤児のための施設を建てようとしていた。私達はその施設を郵政省のボランティア貯金の配当金を受けることで建設を手伝った。
 次のステップとしてニカラグアの絵画を日本に紹介することを決め、名古屋の三越でニカラグアの文化大臣を招いて展示会を開催した。翌年にはニカラグアのバンドを招いて、ラテンアメリカ音楽の全国ツアーを成功させた。
 他に首都マナグアの刑務所に450枚の布団の寄付を行った。

■思い出深い出来事

 ニカラグアのバンドと山奥の村にコンサートに行かないかと誘われて出かけた。道が悪く、いつ谷に落ちるかわからない。川を渡るには橋代わり2本のレールの上を恐る恐る通るしかない。泥は車輪の上まで届くので空回りして進まない。橋がないときは川に入って進んでいく。
 その上兵隊に「ゲリラが道を占拠しているのでこれから先には行けない」と止められたりして、いくつ命があっても足りない思いだった。ようやく目的地に着いてコンサートは無事に行われた。

■工夫している点やユニークな方法論

 あえて言えば、会の宣伝を徹底的にやっていることだ。どこへいっても、何をしても会の宣伝ビラを配ったり、置いたりしている。組織がないため事務費はほとんどかからない。総会もなければ運営委員会もない。しかし、会計報告だけはきちんと行っている。不思議なことに毎年、収入額よりも支出額の方が大きい。どうしてなのか私にも分からないのだが‥‥。

■運動の問題点

 できれば支援する必要性がなくなることを望んでいるが、実際にはいつまでも支援しなければならない現状がある。NGOとして法人化などの問題を感じてもいる。

■運動を継続するためのポイント

 私達の団体がニカラグアに与えることができる支援はわずかだ。その観点から私は1つ1つの団体の継続性よりも、NGOのネットワークの継続性が重要だと考えている。(ステファニ・レナト)

■現在の「名古屋・ニカラグアに医療品を送る会」ウェブサイト
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/3159/nagoya.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/日本のオトーサン リーダー研修 団結まつり

■月刊「記録」1999年1月号掲載記事

○月×日
 遅ればせながら携帯CDプレーヤーを買った。子ども達は持っていたのだが、私はヘンに我慢して持っていなかったのである。
 これってイイ。イッツ・グレイト! ワンダフル。何年もの間、車内でも街中でもヘッドホンを耳にしたその姿を見かけてはいたが、まさに、いつでもどこでも自分の世界が持てるという気がする。通勤時間も新聞や雑誌に目を通すだけでなく、充実している。暇を持て余すことがまったくなくなった。魅惑のリズム「タンゴ」、大人のムード「ルンバ」、異国の香り「シャンソン」と何から何まで聴けるのだ。
 こうやって通勤時間にゆっくり音楽を聴きながら眺めていると、日本のオトーサンはつくづく忙しそうである。家のローンに追われ、子どもの教育費に追われ、駅の立ち食いソバだって味わって食べている暇はなさそうである。
 みな一心不乱に突き進む。階段は足早に駆け上がる。エスカレーターだって歩いちゃう。ジッとしていることがない。動いていないと気が済まない。サメやマグロのように止まったら最期と考えているのかもしれない。動きたくとも動けない超満員の通勤電車は苦痛でしかないだろう。お気の毒さまである。

○月×日
 「第三回リーダー研修」が、東労組の緊急申し入れにより中止となった。
 「リーダー研修」とは、「職場のリーダーとして必要な知識を身につけ、視野を広げることを目的とし」「応募資格は勤続四年以上で30歳未満の指導職等社員」「研修期間は約二ヶ月間」とJR東日本が作成したパンフレットに書いてある。
 私には無縁なものだが、なにやら昨年から、リーダー研修を終了した一部の東労組組合員が、職場で公然と「反JR東労組」の言動をあげたり、小林峻一著の『JRの妖怪』や『週刊文春』の記事を回し読みしていたことが発覚したらしい。東労組は「これは会社幹部が仕かけたと思われることから、組織破壊行為であり、研修の全行程を即刻中止すること」と申し入れ、この9月から数回にわたって団交を行っていたのだった。
 私の手元に、東労組が発信した四一ページにもおよぶ「JR東労組連絡」なる団交3回分の議事録が掲載されている文章が回ってきた。膨大でウンザリしてしまうが、パラパラと目を通してみると、東労組は「中止」を求めて頑として引かず、同じようなことを延々とやり合っている。従って、会社の回答は「再三再四申し上げているように……」という具合だ。
 「11年間パートナーとしてやってきた労使関係者が壊れたら誰が責任をとるのか」「会社がとる」「会社という人間はいない」と、笑えるようなやり取りもあるが、笑っている場合ではない。「目的に合わないリーダーが育った事実がある」「事実を認めたのなら中止だ」「冗談じゃない」「バカにしてないまでもナメている」と、まるでつるし上げのようである。
 一方会社側は、「『JRの妖怪』や『文春』については、JR東日本を壊そうとする悪意に満ちた本だと考え、貴側の認識と一致している」「これらの東労組破壊の攻撃には断固闘って潰していく」「今回の事態は偶然であり必然性はない」「系統的、組織的なものでもなく、研修とはつながっていない」「中止という申し入れに対しては、中止するのではなく、さらに議論を深めて一緒に続けていきたい」というようなことを述べている。
 まともなようだが実にオカシイ。まさに異常で看過できない。会社自らが労働組合法の趣味を踏みにじり、特定の労組と癒着し、不当労働行為に加担していることを吐露しているのだ。結果、この後の団交で会社は腰砕けとなり「リーダー研修の中止」を行なう旨の回答をしたのである。東労組にはなお絶大なる力があるのだ。なんまいだぶ、なんまいだぶ。あぁ、なんて立派な会社なんだろう。

○月×日
 昨日までの雨模様ですっきりしない天気が嘘のような、実に爽やかな秋晴れとなった。今日は国鉄闘争支援中央共闘会議が主催する「団結まつり」のため、亀戸中央公園(江東区)まで出かけた。
 北海道・九州の闘争団をはじめ、国労を支援する労組や団体が130軒以上もの模擬店を連ね、メインステージではさまざまな組織から職場での差別やいじめの実体が報告された。国労に向けられた攻撃は、労働者すべてに向けられたことであり、根っこはひとつ、共に闘おうという連帯の決意が次々と述べられた。
 こういう場に来ると決まって何人もの懐かしい人と出会うことになる。若いころ勤務していた駅時代の先輩など、「久しぶりですねぇ」とポンと肩を叩いたらヨロけてしまいそうである。ま、チト大袈裟だが、皆すっかり年を取ったんだとつくづく思う。
 年がら年中、不平不満もいわず、ただ黙々とこのような「運動」を積み重ねているうちに、10年もの長い歳月が過ぎてしまったのだ。まさに人生を賭けた闘いであるといっても過言ではないだろう。
 いわれなき差別、理不尽な攻撃にも屈することなく、苦しく悔しさ一杯の日々を乗り越えてこれたのは、志を同じにする大勢の仲間がいたからだ。人間は一人では、やっぱり生きていけないのだろうか。私はそうだが。
 それにしても、社会人となってそのほとんどを闘争に費やさねばならなかった仲間も大勢いるのだ。憤りの念を禁じえない。少なくとも闘争団の仲間は国の施策により人生を振り回され狂わされたのだ。何度でもいうが政府とJRは早急に解決を図るべきではないか。
 国労本部の宮坂書記長を見かけたので挨拶に行った。随分前の件だが「その後どうだい?」と心配してくれた。「小山によく言ってあるから」とも言う。小山氏とは、うちの職場の同僚だが国労八王子地区本部書記長という要職にあり、近い将来は中央で活躍する器だと私が見込んでいる人だ。私は逆に「小山をかわいがってやって下さい」と言って、以前も差し上げたことのある『記録』を手渡した。
 帰りがけ、偶然にも国労本部の高橋委員長と隣り合わせになり、「組合員です」と声をかけた。「ごくろうさん」ねぎらいの言葉が返ってきたのだが、そのとき私は「補強案で是非まとめて下さい」と思わず正直な気持ちを口走ってしまった。委員長はムッとした様子となり、無言で連れの人と一緒に向こうへ離れて行かれた。
 本部もタイヘンなのだろう。委員長と書記長の考えが違い、揉めているという噂はやっぱり本当のようである。
○月×日
 いつの間にか木枯しの吹く季節となった。「補強案」は全国的にも「認められない」という反対意見が多いようで、「お蔵入りするのでは」といった情けない噂もある。「補強案」を金庫にしまった国労幹部が鍵を紛失したとかで、二度と取り出せないという「冗談はよせ」と言いたくなるようなデマまで乱れ飛んでいる。
 国労はいったい何処へ行こうとしているのか。迷走してはいけない。誤らないでほしい。これまでの闘いをキチンと総括し、最善のレールに乗ってほしい。前途は多難だが、真摯な討論で議論を深め、臨時全国大会開催にこぎつけることを願いつつ、冬仕度に忙しい日々である。
○月×日
 第48回国労八王子支部大会に代議員として参加した。 夏の全国大会で決定された運動方針を、東日本・西日本などの各エリア本部大会を皮切りに、地本、支部、分会と順次開催して、議論を深め、意志統一が計られる。 ここに八王子支部は、全国大会で物議をかもし継続討議となった「補強案」の提案者である国労本部宮坂書記長の出身地で、宮坂シンパが多いことからも何かと注目を集めていた。
 55名の出席代議員が「補強案」について意見を述べたわけだが、私の期待とは裏腹に反対意見が続出したのであった。
 「先が見えない」「不安をまねく」「解決できる保障がない」「12年間を否定するもの」「敵の思うツボ、丸裸にされるだけ」「闘う労組の解体につながる」……等である。
 一方、少数だが、職場から出た組合員のさまざまな意見だけを報告するに止まり、疑問を投げかけつつも反対はしないという、なんとも歯切れが悪い発言が目立った。賛成や支持と言明したものは皆無であった。
 私も一言だけ発言しようとチャンスを伺っていたのだが、このような雰囲気で突如として「支持する」とは言えなかった。ましてや新米執行委員の分際だ。限りなく情けないが付和雷同を決めこむしかなかったのである。結局、書記長集約では引き続き職場討議をするということになった。
 討論の途中だったが、北海道北見闘争団の鈴木さんという方が挨拶された。「5・28の判決は信じられなかった。あまりのショックで当日をどう過ごしたか思い出せない人もいたほどだ。しかし今では心機一転、新たに闘う体勢が整った。精一杯闘い抜く」と、決意を述べられた。会場からは「ヨシ」という檄が乱れ飛んだのはいうまでもない。いつのときでも「断固闘う」というのは威勢がいいものだ。
 しかし私はそのとき、「ほんとかなぁ、そうじゃないだろう……」と思っていたのだ。
 確かに改革法を承認するというのは首切りを認めることで、最後まで闘い抜くことがまさしく正論である。私も「補強業」については路線転換・全面屈服であるとしか受けとれないし、どれ一つ認め難い。ここまでしなければならないのかと思うと、無念極まりない。
 しかし、一日も一刻も早く解決したいと願う気持ちは皆一致しているのである。私は今この時期になんとしてでも解決しておかねばならないと強く思うのだ。
 つい先日、北海道音威子府闘争団(48名)の家族と子ども達の作文集を読んだ。5・28判決以後のそれぞれの思いを綴ったものだが、「たいへん」という一言がどんどん広がっていき、「これ以上のたいへんなことはない」というふうに感じられた。それも一月や一年なんかじゃない。10年間である。その間、私達国労本体には想像を絶するといっても過言ではない生活を余儀なくされてきたのである。10年で十分ではないか。もうこれ以上長期化させるべきではない。
 大問題となっている「補強案」は、本部としてもこれまでにない重大な決意と、組合員への責任をもって提案されたものと受け止めなければならない。国労の5年、10年先の展望も視野に入れることが重要である。現在の組織人員は2万8000人。毎年2000人もの退職者を送り出す現状では、会社がもくろむ国労自然消滅という事態も危惧される。正論や原則だけでは組織が保たないということも認識しなければならない。そして何よりも、財政的に闘争団を支え切れるかという難題もある。
 現状をふまえ、将来を見据え、JR総連(東労組)に代わって、私達がいかに軸になるかを模索し、国労組織を発展させて行かなければならないのではないか。
 解決には痛みも伴うだろう。しかし、この10年余の闘いで乗り越えてきた苦難の道程を振り返れば、私達国労には怖いものはなく、出来ないことも何一つとしてない。 いずれにせよ、闘争団は本部に本音をぶつけてほしい。一番大切なことは闘争団が納得できる内容であることが最低の条件だと思う。私は、こうまでしなければ動かない政府とJRに満身の怒りを込めて、「補強案」により、さらなる一致団結を願い、この難局を大胆に乗り切り前進していきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/中国語ボランティア・ネットワーク(CVN)

■月刊『記録』95年9月号掲載記事

■中国語と日本語の橋渡し

■運動の目標

 日本語ができず、日本の習慣や法律を知らないために不利益を被っている外国人を救済する。また、日本人のためにも日本社会の問題点を是正していく。

■発足の経緯

 行政機関の外国人相談所は夜間に開設しないため、昼間働いている中国人は相談できない。また、区によってはガンとして相談所を開かないところさえもある。そのため、昼間は東京都外国人相談員として働き、行政でフォローできない部分は、個人で相談にのってきた。しかし、個人ではさばききれない量の相談が殺到したため、ネットワークを設立した。 

■運動の歴史

 日本で暮らしている中国の人々の周りに起こる問題は、賃金未払いや解雇・労災・交通事故などの保険での補償・医療問題、離婚問題、ビザ更新手続き、税金や健康保険、日本習慣に関する問題など幅広く細部にわたる。これらの問題を解決するために行政機関や弁護士、ボランティア団体などに彼らの声を通訳して訴える役割を担ってきた。
 スタッフも勉強を重ねた結果、国際結婚など新しい分野の相談にも応じられるようになってきている。法律問題に関しては、外国人の援助を専門にしている弁護士の団体、外国人労働者弁護団(LAFLR)の協力により、半年ほど前から裁判で争えるようになった。

■今後の抱負

 問題を抱えた外国人が忙しいこともあり、ゆとりあるコミュニケーションの場を築けなかった。今後は心のスキンシップができるように環境を整えたい。そのために外国人が定期的に訪れることのできる場所を、公共機関で確保できるようにしてもらいたい。

■思い出深い出来事

 3年程前、ビルの3階から落ちて瀕死の重傷を負った外国人に対して、労災が支払われない事件が起こった。行政からお金が支払われる場合であるにも係わらず、会社側が書類へのサインを拒んだためだった。私たちが労働基準監督署に掛け合い、8ヶ月後に500万円が支払われた時は、本当にうれしかった。

■工夫している点やユニークな方法論

 CVNで解決した問題を中国語に訳し、日本で発行されている中国の新聞に載せ、トラブルの予防にも力を注いでいる。また、スタッフが係わったトラブルは、相談にのったスタッフが法律や制度などに関する研究を行い、他のスタッフに報告する会議を開いている。

■運動の問題点

 会の設立当初は、中国語が話せるのに話す機会のない日本人と、トラブルに巻き込まれた日本人とを橋渡しすることで、言語の問題は解決するものと思っていた。しかし、持ち込まれるトラブルの量が増えるとともに、通訳が不足するようになってきた。
 特に中国語がきちんと話せる日本人男性は、中国語を職業の中で使っているケースが多く、ボランティアにはなかなか参加してくれない。現在は、日本語のうまい中国人に通訳をお願いし、日本人が会の運営に当たっている。また、行政が問題を抱えたくないために、CVNに回されるような事態も問題になっている。

■運動を継続するためのポイント

 仲間内で餃子パーティーや飲み会を行い、楽しく活動が行えるようにしている。そして、皆が仕事を分担できるように、1人で仕事を抱え込まないようにしている。(秦佳朗)

■現在の「中国語ボランティア・ネットワーク(CVN)」ウェブサイト
http://www010.upp.so-net.ne.jp/cvn/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/京都・学校に行かない子と親の会

■月刊『記録』95年9月号掲載記事

■子ども達に出会いの居場所を

■運動の目標
 学校に行かない子どものことを、子どもの立場になって考える会である。「あなたは、このようにすべきである」というような解決策を与えることはしない。参加者がお互いの経験を語り合うなかで、自分自身で考えることを大切にしている。自主的に参加することを重視し、会を運営するための特別な規約や規則はない。

■発足の経緯

 1987年6月 フリースクール「東京シューレ」を主宰している奥地圭子さんの講演会が京都で開かれた。そこに集まった人達により、京都にも「学校に行かない子と親の会」を作ろうとのことで発足した。

■運動の歴史

 会の活動は、月1回の例会が中心となる。ゲストの話やグループ別懇談を中心に交流している。参加者は主に学校に行かない子を持つ親であるが、学校現場の先生・カウンセラー・精神科医・弁護士・フリースクールの主催者などの専門家の参加もある。また、年に数回専門家を招いて講演会を開いて勉強をしている。

■今後の抱負

 当会は、例会以外に「子どもたちの出会いの会」を月2回開いている。学生のボランティアを中心に子ども達が交流している。学校に行かない子ども、家庭に閉じこもっている子どもが、出会いを求めて自由に何時でも出入りできる「居場所」を確保するのが今後の課題である。

■思い出深い出来事

 以前、関西には私達のような会は少なかった。例会のお知らせが新聞に掲載されると関西一円から問い合せがあった。
 大都市の大阪にさえ、当時は親の会はなく、例会に参加している人の中から、大阪でも同じような会を作りたいという声が挙がり、1991年7月に会場を大阪に移して登校拒否を考える会関西集会を催した。京都の会が中心となり、関西の登校拒否を考える主な会が集まった。集会に参加した大阪の方数名の呼び掛けで、「大阪・学校に行かない子と親の会」が発足した。

■工夫している点やユニークな方法論

 とにかく、気楽に参加することをモットーにしている。仕事の役割分担は特にしていないが、各自が無理をしない範囲で自主的に受け持っている。
 初めての参加者がびっくりするのは、参加者がみな明るいことである。5時までの例会では話が尽きず、二次会と称して会場を喫茶店に移して、遅くまで話し込む。そして、涙ながらに語っていた人も明るい気持ちで帰途につくのである。
 例会以外に、レクリエーションとしてハイキング・スケッチ大会・化石採集などを企画して親同士や子ども同士の交流を深めている。子どものことを考えることが出発点となっているが、大人自身の生き方を学ぶ場にもなっている。
 2年前より、夏に「オールナイトで語ろう会」という催しも行なっている。参加時間は自由、泊まってもよし、その日のうちに帰ってもよし。夜を徹して語り明かす。

■運動の問題点

 最近入る会員は、一緒に子どものことを考えたり勉強したりすることより、情報やノウハウのみ知りたがる人が増えている。

■運動を継続するためのポイント

 会を必要とする人がいる限り続けるが、本来は会の必要のない世の中になるのが望みである。したがって、継続することには重点を置いていない。(恩田良昭)

■現在の「京都・学校に行かない子と親の会」関連サイト
http://www.geocities.jp/ccnts_cow/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/こぶたの学校第4日曜日の会

■月刊『記録』95年9月号掲載記事

■どの子も地域の普通学級へ

■運動の目標

 現行の義務教育は、「能力」や「障害」を理由に子ども達を普通学級・特殊学級・養護学校に選別して振り分けている。誰もが地域の普通学級へ入っていくことを呼びかけ、実践する中で、能力主義の差別教育を解体し、共に学び合える教育の場に作り変えていく。

■発足の経緯

 20数年前、「障害児」といわれる幼児の通所訓練事業が世田谷区の施設で始められた。そこには就学を猶予・免除されて学校教育の対象外とされた子ども達と、就学前の子ども達が通ってきていた。そこで非常勤保母の解雇問題が起き、解雇撤回の闘いに勝利したのをきっかけに親に呼びかけ、共に問題を考え合っていけるようにと結成された。

■運動の歴史

 小学校入学に際し、各小学校が教育委員会より依託され、就学児健康診断(就健)を実施する。健康診断や知能テストなどで「能力」や「障害」を選別するものだ。これに反対し、受診拒否を呼びかけるビラまきを、会発足以後毎年、就健当日に各小学校で行なっている。
 会の発足直後、2人の子どもの親が普通学級入級を希望したが、区教委からは養護学校が適当と判定された。これを拒否して支援者と共に実力で校区の普通学級に通い続けたため、机も椅子も用意されず、校長室に呼ばれるといった状態が続く中で頑張り通し、最終的には普通学級入級を認めさせた。

■思い出深い出来事

「障害」のない子どもの親も就健を拒否する動きが出てきたのに対して、教育委員会は入学式直前まで就学通知を出さないという卑劣な手段で嫌がらせを行った。会として、親と共に区教委との交渉を行ない、「来年度就学時健康診断に関しては、もれなく受診することを希望するが、今年度の反省をもとに強制はしない。就学通知は、1月31日までに送付する。話し合いで決着がつかない場合は、最終的に親の意見を尊重する」という確認書を取り交わした。
 このことを境に、教育委員会は建前としては就学に際して親の意向を無視できなくなり、「障害児」といわれる子の普通学級入学が徐々に増えた。現在は全小学校に数名入っている状況だ。確約書は他の地域にも波及し、各地に運動が広がった。

■工夫している点やユニークな方法論

 会発足から20数年を経過し、運動初期の子ども達は成人している。そうしたメンバーと介助者、仲間でガチャバンカンパニーと名付けた、バザー・リサイクル・自然食品の宅配などの仕事を行ない、「障害者」が地域で共に生きることを追求・実践している。

■今度の抱負

 区教委がいくら約束しても、現場である学校の意識が変わらず、実際に介助などで人手を擁する時でも、学校の体制が「障害児」はいないことを前提として作られており、親や一部の教員に負担がかかったり、子ども本人がつらい思いをさせられたりする例が後を絶たない。学校現場への働きかけをより効果的に行なっていきたい。
■運動の問題点

 事務局は発足当時からメンバーで、年齢も上がってきている。活動が停滞しているわけではないが、若い風を入れたい。
 ここ数年、普通学級への入級そのものには抵抗がそれほどなくなったが、入ってから親の付き添い・介助などで不当な要求をされたり、プールや学校行事からの排除などが問題になっている。

■運動を継続するためのポイント

 目先のことにとらわれず、原則的な立場を貫くこと。どんな問題もそうだと思うが、教育現場での差別の問題は、これでいいということがなく、やればやる程続けざるを得なくなる。(高林成子)

■現在の「こぶたの学校第4日曜日の会」ウェブサイト
http://www.h7.dion.ne.jp/~kobuta/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/沙流川を守る会・アイヌ文化と歴史を守る会

■月刊『記録』95年9月号掲載記事

■アイヌの聖域をダム底にするな

■運動の目的

 ししゃもの絶滅・海岸線の浸食による塩害・河口の流砂など生態系を完全に破壊する可能性のあるダム建設を阻止するとともに、ダム問題にまつわる金によってズタズタにされたアイヌ民族の魂を取り戻すこと。

■発足の経緯

 アイヌ人の民族問題を考えていた当時、聖地にダムを建設しようとする計画が持ち上がり、阻止運動に立ち上がった。

■運動の歴史

 1973年3月、苫小牧東部大規模工業基地開発基本計画に基づいたダム計画が浮上した。
 80年12月に集会を開き、会の活動方針を本格的に立てた。82年5月に沙流川沿岸の生態調査、同年12月には希少種のヒメギフチョウなどの調査も行われたが、83年3月にはアイヌ民族の生活環境調査をしないことが道議会で議決され、ダム計画が前進。その後、経済的問題や洪水により工事が延期されている。
 94年5月には、反対運動の一環としてカヌー行進を行なった。が、平成8年度の予算発表により二風谷ダムと平取ダム建設促進の方向が確認された。

■今後の抱負

 当初、工業用水の確保のために計画されたダムも企業誘致が挫折したため、洪水調整・水道用水・発電などを目的とした多目的ダムと名目を変えた。そして、現在では苫東基地への軍事用水としての疑惑も高まっている。アイヌの聖地から軍事用水を引くことは許さないと、再度決意を固めている。

■思い出深い出来事

 92年1月、猛吹雪の中でデモ行進をした。外はマイナス18度にもなり、視界はゼロ。そんな状況下でも、30人の仲間が集まった。防寒具で重装備をしても寒さが体を突き抜け、雪は眼に飛び込んでくる。一生懸命参加してくれた仲間の苦労を考えたら涙が出てきた。先導してくれた警察も感じるものがあったのか、申告した地点より先にある人通りの多い場所までデモ行進をさせてくれた。
■工夫している点やユニークな方法論

 デモ行進では、ジュースの缶に砂を入れて振ったり、鍋のふたを叩いたり、イタバリと呼ばれる木を叩いたり、魚や鳥の仮装をして歩いている。私たち自身も楽しむことができる上に、通行人からの注目度も上がるメリットがある。

■運動の問題点

 農協からの圧力、地元有力者からの圧力などにより、平取町も年々専業農家も少なくなってきている。このような状況の中で、ダム建設による観光客の増加、仕事の斡旋、補償金をちらつかせ、金になる話に期待する住民が出てくるのも致し方ないと考えている。
運動を継続するためのポイント
 あせらず、ゆっくりと、落ち着いて行動する。しかし一方で手遅れにならないように急ぐことも必要である。
(山道康子)

■現在の「沙流川を守る会」ウェブサイト
http://www14.plala.or.jp/AsiriLela/sarugawao%20mamorukai.htm

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/風の学校

■月刊『記録』95年8月号掲載記事

■助けることは助けられること

■運動の目標

 海外協力活動を目指す日本の青年達に農業の各分野にわたる技術、技能や井戸掘り技術などについて実際に体験して経験を積ませると共に、海外に派遣する機会を与える。

■発足の経緯

 日本政府により海外青年協力隊の仕事が始められて間もない1967年、故中田正一が、青年達から「協力隊に志願したいが自信がない、どうしたらよいか」との相談を相次いで受けた。そこで家屋と田畑を用意し、自分の計画と労働で責任をもって自由かつ失敗を恐れず、思う存分実習ができるように「自活実習」という方式により研修をスタートさせた「国際協力会」が始まり。

■運動の歴史 

 途中7年間、中田がバングラデシュへ赴任したが、有志および研修生達により続けられ82年までに70余人の生徒が隊員として世界へ巣立って行った。帰国した中田は、国際協力会にはっきりとした指針をもたせ、風の学校と新たに命名、年会費3千円で協力者を募って財政面を整え、84年再スタートした。
 農業部門と井戸掘りを新たに研修内容に加え、自活実習方式は引き継ぎ、新しく「適正技術開発」を打ち出した。その国で手に入る材料を用い、住民と手作りしようとするもので、結局その国に見合った技術しか定着しないためだ。これまでフィリピンとセネガルに30本の井戸を住民と共に掘ってきた。

■今後の抱負

 風の学校で学んだ生徒達が、世界に散って自分の風の学校、水の学校、森の学校などを創り、民族や思想の違いを超え、分かち合い補い合い輝いて生きる青年が育つ人材育成の場でありたい。

■思い出深い出来事

 ある年フィリピンのゴミ捨て場に井戸を掘った。岩盤続きで一般的なチューブ方式では無理で、丸井戸の要領で掘ることになった。人が中に入って掘り下げるため、人も土砂も1本の釣瓶で出入りする困難で危険な現場であった。住民と共に工夫しながら、ともかく50mあまりで水飲み水を得ることができ、完成を喜んだ。
 ところが日ならずして涸れてしまったというのである。相手方NGOとは保守管理について話し合ってあるので、住民の数や使い方をみて給水制限をしていると思っていた。しかし遠くから水を汲みに来る婦人子ども達を前に通用するはずもなく、地域住民が使うぐらいにしか考えていなかった我々の認識の甘さを強烈に知らされた。井戸があまりにも少ないのである。

■工夫している点やユニークな方法論

風の学校と名付けたのは、風の持つ存在感・エネルギー・自由・国境を越えて吹く風であれとの願いを込め、教育的な仕事で関わり合いたいとの願いからである。建物も学校らしい設備もカリキュラムも何もない。あるのは農家の廃屋と産業廃棄物の山である。
 生徒はここに寝泊まりして自活実習で研修を積む。生徒自身が風の学校である。自分の目的をきちんと持ち、何をどのように勉強したいのかはっきりしていないと続かない。風の学校はその人に合った分校や指導者を決めるが、全員ボランティアである。

■運動の問題点

 近年、女性の井戸掘り希望者が目立って多くなってきたが指導者がいない。

■運動を続けるポイント

 金と物の協力はしない。技術はあくまでも手段であり人が交流することが目的である。風の学校の国際協力哲学は「助けることは助けられること」。広い意味での平和運動ととらえている。単なる技術者の養成所ではない。
(中田章子)

■現在の「風の学校」のウェブサイト
http://www.unity-design.jp/unity_link/volunteer-group/volu_kaze.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/日本のオトーサン リーダー研修 団結まつり

■月刊「記録」1999年1月号掲載記事

○月×日
 遅ればせながら携帯CDプレーヤーを買った。子ども達は持っていたのだが、私はヘンに我慢して持っていなかったのである。
 これってイイ。イッツ・グレイト! ワンダフル。何年もの間、車内でも街中でもヘッドホンを耳にしたその姿を見かけてはいたが、まさに、いつでもどこでも自分の世界が持てるという気がする。通勤時間も新聞や雑誌に目を通すだけでなく、充実している。暇を持て余すことがまったくなくなった。魅惑のリズム「タンゴ」、大人のムード「ルンバ」、異国の香り「シャンソン」と何から何まで聴けるのだ。
 こうやって通勤時間にゆっくり音楽を聴きながら眺めていると、日本のオトーサンはつくづく忙しそうである。家のローンに追われ、子どもの教育費に追われ、駅の立ち食いソバだって味わって食べている暇はなさそうである。
 みな一心不乱に突き進む。階段は足早に駆け上がる。エスカレーターだって歩いちゃう。ジッとしていることがない。動いていないと気が済まない。サメやマグロのように止まったら最期と考えているのかもしれない。動きたくとも動けない超満員の通勤電車は苦痛でしかないだろう。お気の毒さまである。

○月×日
 「第三回リーダー研修」が、東労組の緊急申し入れにより中止となった。
 「リーダー研修」とは、「職場のリーダーとして必要な知識を身につけ、視野を広げることを目的とし」「応募資格は勤続四年以上で30歳未満の指導職等社員」「研修期間は約二ヶ月間」とJR東日本が作成したパンフレットに書いてある。
 私には無縁なものだが、なにやら昨年から、リーダー研修を終了した一部の東労組組合員が、職場で公然と「反JR東労組」の言動をあげたり、小林峻一著の『JRの妖怪』や『週刊文春』の記事を回し読みしていたことが発覚したらしい。東労組は「これは会社幹部が仕かけたと思われることから、組織破壊行為であり、研修の全行程を即刻中止すること」と申し入れ、この9月から数回にわたって団交を行っていたのだった。
 私の手元に、東労組が発信した四一ページにもおよぶ「JR東労組連絡」なる団交3回分の議事録が掲載されている文章が回ってきた。膨大でウンザリしてしまうが、パラパラと目を通してみると、東労組は「中止」を求めて頑として引かず、同じようなことを延々とやり合っている。従って、会社の回答は「再三再四申し上げているように……」という具合だ。
 「11年間パートナーとしてやってきた労使関係者が壊れたら誰が責任をとるのか」「会社がとる」「会社という人間はいない」と、笑えるようなやり取りもあるが、笑っている場合ではない。「目的に合わないリーダーが育った事実がある」「事実を認めたのなら中止だ」「冗談じゃない」「バカにしてないまでもナメている」と、まるでつるし上げのようである。
 一方会社側は、「『JRの妖怪』や『文春』については、JR東日本を壊そうとする悪意に満ちた本だと考え、貴側の認識と一致している」「これらの東労組破壊の攻撃には断固闘って潰していく」「今回の事態は偶然であり必然性はない」「系統的、組織的なものでもなく、研修とはつながっていない」「中止という申し入れに対しては、中止するのではなく、さらに議論を深めて一緒に続けていきたい」というようなことを述べている。
 まともなようだが実にオカシイ。まさに異常で看過できない。会社自らが労働組合法の趣味を踏みにじり、特定の労組と癒着し、不当労働行為に加担していることを吐露しているのだ。結果、この後の団交で会社は腰砕けとなり「リーダー研修の中止」を行なう旨の回答をしたのである。東労組にはなお絶大なる力があるのだ。なんまいだぶ、なんまいだぶ。あぁ、なんて立派な会社なんだろう。

○月×日
 昨日までの雨模様ですっきりしない天気が嘘のような、実に爽やかな秋晴れとなった。今日は国鉄闘争支援中央共闘会議が主催する「団結まつり」のため、亀戸中央公園(江東区)まで出かけた。
 北海道・九州の闘争団をはじめ、国労を支援する労組や団体が130軒以上もの模擬店を連ね、メインステージではさまざまな組織から職場での差別やいじめの実体が報告された。国労に向けられた攻撃は、労働者すべてに向けられたことであり、根っこはひとつ、共に闘おうという連帯の決意が次々と述べられた。
 こういう場に来ると決まって何人もの懐かしい人と出会うことになる。若いころ勤務していた駅時代の先輩など、「久しぶりですねぇ」とポンと肩を叩いたらヨロけてしまいそうである。ま、チト大袈裟だが、皆すっかり年を取ったんだとつくづく思う。
 年がら年中、不平不満もいわず、ただ黙々とこのような「運動」を積み重ねているうちに、10年もの長い歳月が過ぎてしまったのだ。まさに人生を賭けた闘いであるといっても過言ではないだろう。
 いわれなき差別、理不尽な攻撃にも屈することなく、苦しく悔しさ一杯の日々を乗り越えてこれたのは、志を同じにする大勢の仲間がいたからだ。人間は一人では、やっぱり生きていけないのだろうか。私はそうだが。
 それにしても、社会人となってそのほとんどを闘争に費やさねばならなかった仲間も大勢いるのだ。憤りの念を禁じえない。少なくとも闘争団の仲間は国の施策により人生を振り回され狂わされたのだ。何度でもいうが政府とJRは早急に解決を図るべきではないか。
 国労本部の宮坂書記長を見かけたので挨拶に行った。随分前の件だが「その後どうだい?」と心配してくれた。「小山によく言ってあるから」とも言う。小山氏とは、うちの職場の同僚だが国労八王子地区本部書記長という要職にあり、近い将来は中央で活躍する器だと私が見込んでいる人だ。私は逆に「小山をかわいがってやって下さい」と言って、以前も差し上げたことのある『記録』を手渡した。
 帰りがけ、偶然にも国労本部の高橋委員長と隣り合わせになり、「組合員です」と声をかけた。「ごくろうさん」ねぎらいの言葉が返ってきたのだが、そのとき私は「補強案で是非まとめて下さい」と思わず正直な気持ちを口走ってしまった。委員長はムッとした様子となり、無言で連れの人と一緒に向こうへ離れて行かれた。
 本部もタイヘンなのだろう。委員長と書記長の考えが違い、揉めているという噂はやっぱり本当のようである。
○月×日
 いつの間にか木枯しの吹く季節となった。「補強案」は全国的にも「認められない」という反対意見が多いようで、「お蔵入りするのでは」といった情けない噂もある。「補強案」を金庫にしまった国労幹部が鍵を紛失したとかで、二度と取り出せないという「冗談はよせ」と言いたくなるようなデマまで乱れ飛んでいる。
 国労はいったい何処へ行こうとしているのか。迷走してはいけない。誤らないでほしい。これまでの闘いをキチンと総括し、最善のレールに乗ってほしい。前途は多難だが、真摯な討論で議論を深め、臨時全国大会開催にこぎつけることを願いつつ、冬仕度に忙しい日々である。
○月×日
 第48回国労八王子支部大会に代議員として参加した。 夏の全国大会で決定された運動方針を、東日本・西日本などの各エリア本部大会を皮切りに、地本、支部、分会と順次開催して、議論を深め、意志統一が計られる。 ここに八王子支部は、全国大会で物議をかもし継続討議となった「補強案」の提案者である国労本部宮坂書記長の出身地で、宮坂シンパが多いことからも何かと注目を集めていた。
 55名の出席代議員が「補強案」について意見を述べたわけだが、私の期待とは裏腹に反対意見が続出したのであった。
 「先が見えない」「不安をまねく」「解決できる保障がない」「12年間を否定するもの」「敵の思うツボ、丸裸にされるだけ」「闘う労組の解体につながる」……等である。
 一方、少数だが、職場から出た組合員のさまざまな意見だけを報告するに止まり、疑問を投げかけつつも反対はしないという、なんとも歯切れが悪い発言が目立った。賛成や支持と言明したものは皆無であった。
 私も一言だけ発言しようとチャンスを伺っていたのだが、このような雰囲気で突如として「支持する」とは言えなかった。ましてや新米執行委員の分際だ。限りなく情けないが付和雷同を決めこむしかなかったのである。結局、書記長集約では引き続き職場討議をするということになった。
 討論の途中だったが、北海道北見闘争団の鈴木さんという方が挨拶された。「5・28の判決は信じられなかった。あまりのショックで当日をどう過ごしたか思い出せない人もいたほどだ。しかし今では心機一転、新たに闘う体勢が整った。精一杯闘い抜く」と、決意を述べられた。会場からは「ヨシ」という檄が乱れ飛んだのはいうまでもない。いつのときでも「断固闘う」というのは威勢がいいものだ。
 しかし私はそのとき、「ほんとかなぁ、そうじゃないだろう……」と思っていたのだ。
 確かに改革法を承認するというのは首切りを認めることで、最後まで闘い抜くことがまさしく正論である。私も「補強業」については路線転換・全面屈服であるとしか受けとれないし、どれ一つ認め難い。ここまでしなければならないのかと思うと、無念極まりない。
 しかし、一日も一刻も早く解決したいと願う気持ちは皆一致しているのである。私は今この時期になんとしてでも解決しておかねばならないと強く思うのだ。
 つい先日、北海道音威子府闘争団(48名)の家族と子ども達の作文集を読んだ。5・28判決以後のそれぞれの思いを綴ったものだが、「たいへん」という一言がどんどん広がっていき、「これ以上のたいへんなことはない」というふうに感じられた。それも一月や一年なんかじゃない。10年間である。その間、私達国労本体には想像を絶するといっても過言ではない生活を余儀なくされてきたのである。10年で十分ではないか。もうこれ以上長期化させるべきではない。
 大問題となっている「補強案」は、本部としてもこれまでにない重大な決意と、組合員への責任をもって提案されたものと受け止めなければならない。国労の5年、10年先の展望も視野に入れることが重要である。現在の組織人員は2万8000人。毎年2000人もの退職者を送り出す現状では、会社がもくろむ国労自然消滅という事態も危惧される。正論や原則だけでは組織が保たないということも認識しなければならない。そして何よりも、財政的に闘争団を支え切れるかという難題もある。
 現状をふまえ、将来を見据え、JR総連(東労組)に代わって、私達がいかに軸になるかを模索し、国労組織を発展させて行かなければならないのではないか。
 解決には痛みも伴うだろう。しかし、この10年余の闘いで乗り越えてきた苦難の道程を振り返れば、私達国労には怖いものはなく、出来ないことも何一つとしてない。 いずれにせよ、闘争団は本部に本音をぶつけてほしい。一番大切なことは闘争団が納得できる内容であることが最低の条件だと思う。私は、こうまでしなければ動かない政府とJRに満身の怒りを込めて、「補強案」により、さらなる一致団結を願い、この難局を大胆に乗り切り前進していきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/二次試験合格 アジ いぶき

■月刊「記録」1998年12月号掲載記事

○月×日
 指導職試験の一次に合格後、「どうしても受かりたいから」と国労を脱退し、東労組に加入したO氏が二次試験にメデタク合格した。私はいくらなんでも、国労脱退後いきなりはないだろうと読んでいた。まあ、まず今回は不合格ということではないかと。
 会社は「差別はありません」と胸を張って言うだろうが、よくぞまあこうも露骨にやってくれるものだと感心せざるを得ない。
 O氏は合格後、見ていて気の毒なくらい常にうつむき、肩身が狭そうだ。脱退時にも増してオドオドした様子になっている。「希望が叶ってよかったね、おめでとう」と、優しい言葉の一つもかけてあげたいが、そんなことを言ったらイヤミにしか聞こえないだろう。私はとことん人間ができていないのだ。
 O氏には、これを契機に新たな道を切り開いて欲しいと切に願うが、なんだかこんなことはもうウンザリである。イヤだイヤだ。さぁ明日も乗務だ。JR中央線を乗りまくるぞー。

○月×日
 時は流れている。情勢も刻一刻と変化ししている。
 国鉄清算事業団の期日(10月1日)が過ぎてしまった6日、旧国鉄債務処理法案がすったもんだのあげく衆議院を通過した。内容はJRの追加負担を1800億円に半減するというもので、結果的に国民負担が増えることとなった。
 新聞やニュースを見る限りでは、まるで倒産した店の半額セールのような安直でお粗末な案としかいいようがない。なぜ半分の1800億円なのか、なぜ一民間企業であるJRに押しつけるのか。何の根拠もないようであり、許せない。国の借金なのだから断固国の責任において処理すべきである。
 まさに今日までの膨大な時間のなかで審議を先送りしてきた、政府の怠慢以外の何者でもない。どこぞの銀行に何千億円もの税金を投入するなどといっている場合ではないではないか。今ほど皆が生活の安定向上を願っている時期はないだろう。不況は深刻で、戦後最悪の失業率だというのだ。
 先月の終わりには労働基準法が改正され、裁量労働制の拡大が参議院で成立した。さらに今度は労働者派遣法が提出されている。労働者の不安は募るばかりだ。私は一人でプンプン腹を立てているだけで何もできないが、こうした激変のなかで迎える21世紀のことを考えるとちょっぴり心配になってくる。

○月×日
 職場のサークル「国労釣り部」の大会があった。場所は相模湾、船でアジ釣りである。ちなみに春は富浦(千葉・内房)にてボートのシロギス釣りと決まっている。 私も以前なら、映画『釣りバカ日誌』のハマちゃんなみに入れ込んだ時期もあったが、ここ数年は年に一度行くか行かないかになってしまった。だから釣り部といっても名前だけの部員である。
 今回は休み(年休)にも重なったため、古い道具を引っぱり出し、大漁を夢みて意気込んでいた。なにしろ海底百2、30メートルもの深みに仕掛けを落とすのだから、一匹釣り上げるのも一苦労。今はボタン一つで自動に引き上げる電動リールが出回っているが、私のは古い手動式である。それでも昔はそれで何の苦にもならなかったのに……。
 また、釣りといえばのんびり糸を垂れるイメージがあるかもしれないが、行くと決まってのんびりできない。一匹でも多く釣り上げようと、一分一秒でも惜しみなく片時も釣り竿を離さず必死となる。そりゃあビールも飲むし、おにぎりも食べるのだが、釣りは止めない。船酔いに耐えきれず、コマセとばかりに飲み食いしたものをまき散らし、それでもなお釣り続けるのである。まさに闘い。「国労だからってなにも海にまで来て闘わなくたって……」と思うが、私も当然この闘いに巻き込まれて行くのだ。
 さて、超大型の台風10号接近の影響もあり、夜明け前は曇りで時折小雨もパラついていたが、だんだん晴れ間が広がってきた。しかし、どしゃ降りだろうがかまわない。船が出て、釣り糸を海に放り込めさえすれば私達は満足なのである。
 相模湾へ着くと思ったより風が強く、ウサギのような白波が波の上をぴょんぴょん飛び跳ねていた。「これからもっともっと荒れ狂いますよ」と海が警告している。案の定、船宿はすべての出漁中止を決めていた。
 これだけは仕方ない。このようなこともあるのである。こんなことで挫けてはイケナイ。私達は果てしなく広がる誰もいない海を目の前に、ただ呆然と立ちつくしていた。潮風の集中攻撃を一身に浴びながら、若干一名が「斎藤なんか来るからだよ」とつぶやいた。今晩のおかずはアジの予定であった。これは一ヶ月前から決まっていたことである。今さら変更はきかない。
 魚屋に寄って帰った。

○月×日
 国労三鷹車掌区分会機関紙『いぶき』第42号、98年9月25日発行
 発責・中山貴博、編責・教宣部
「試験を利用した脱退強行!」
 すでに明らかなように、8月13日付をもって、「試験に受かりたい」との理由で××氏が国労を脱退しました。「国労にいたのでは試験に受からない」が主な理由であるが、脱退に至るまでの事実関係の背景には会社側の巧みな試験制度を利用した脱退策動があったのである。会社の試験制度を利用した不当労働行為は明白である。
 以下、本人との話の中で明らかになった事について報告します。
 ※三年前、相原駅駅長(国鉄時代からつき合いのある人)に合った時、「俺はまだ二等級で大変だ」と話したら、駅長は車掌区の××区長は町田駅長時代から知っているから話をしてやると言われた。国労ではダメだ! とも言われた。しかしこの年は一次で落ちた。この時はたんなる話と受け止めていた。
 ※今年一次試験が受かり、この人に電話をした。駅長は、××車掌区長に電話してやる。俺からも受かるようお願いしてやると言われた。
――このように、一次試験発表後相原駅長に電話をした時、「国労…」の話がされたことは用意に推察できる。以前から区側と具体的なコンタクトが取られていたと同時に、区側のA助役や内勤に、この動きが筒抜けになっていたのである。
 私達は、××氏が今日まで頑張って国労の旗を揚げてきた強い意志までを砕き飛ばし、賃金差別という弱さに巧みにつけこんできた会社側の態度を断じて許す事は出来ない!!
 現在進められている昇進差別審問を見てもわかるように、立川車掌区・会社側証人は国労組合員憎しで「試験に受からないのは当たり前」の論調を繰り広げました。9月29日から八王子車掌区・会社証人の尋問が始まりますが、同じ論調を繰り広げることでしょう。
 私達は、こういった「国労にいたのでは受からないよ」という会社側の発言の事実をもって、差別の実態を明らかにしていこう!!

 以上は分会の伝統ある機関紙『いぶき』の文面である。五日間提示した。××部分(=筆者)を実名にしたため、分会長が区長より「実名はいかんよ」と注意を受けた。
○月×日
 『いぶき』を掲示板から取り外した約半月後、東労組の機関紙『みたかきいたか』が掲示された。これは東労組の常套手段だが、例によって厚顔無恥で言語道断の内容であった。私達執行部は右往左往どころか笑止とばかり、相手にする気も失せてしまったのである。
『みたかきいたか』第2号、10月16日付
「国労三鷹車掌区分会役員を糾弾する」
 9月29日、国労三車分会が発行する「いぶき」42号に我々東労組が抗議したところ、我々東労組に全面的に屈服・服従し、国労役員自ら「いぶき」を掲示板から撤去しました。
 この「いぶき」の内容は、東労組組合員の実名を上げ、「脱退を強要した」と言うもので、あきれることにその内容は全てでっち上げで、根も葉もないデタラメな事実無根の嘘情報だということです。
 国労は落ちるところまで落ちてしまったようである。ここまでカスになりはてた国労を見ていると、怒りを超越して情けないかぎりである。
 我々の抗議に対して直ちに従ったのは、自らがとんでもない過ちをおこしたことに気が付き、自らの愚かな行為に恥じ入ったからである。国労三車分会役員は我々東労組に完全に敗北したのである。
 国労分会役員の諸君、抗議をされてすぐにコソコソと隠さないといけないような情報を提出するのはみっともないからおやめなさい。だいたいこんな嘘情報を書く暇があったら、もっと書かなければならないことが他にあるではないか。
 国労の定期全国大会について一言も掲出しないのはなぜか。そんなに国労組合員に知られるとまずいことが大会であったのか。「東労組の掲示を見ないと本当の情報がはいらない」と嘆く多くのマジメな国労組合員達の声になぜ応えてやらないのか。
 真面目な国労組合員のみなさん、ここまで腐り果てた国労にあなたはまだ身を置いていくのですか。

 以上なのだが、私はこういう挑発的な行為にすぐに乗せられてしまう浅はかなたちだが、東労組はいったいどういうつもりなのだろう。全国大会の提示にしろ出す出さないはこちらの勝手だし、すべての情報は全組合員に機関紙等を配布して知らせているのになぁ。

○月×日
 私達分会執行部は東労組の掲示に対しての反論はしないこととした。つまり掲示はしないということである。ただ執行委員会の経過だけは知らせようと、文書にして全組合員に配布した。

 『みたかきいたか』10月16日付について
 国労三車分会執行委員会 10月22日
 東労組掲示についてあえて反論をする意志はありませんが、執行委員会で確認した内容について報告しておきたいと思います。
 あの掲示が東労組の総意かと言えば、まじめな東労組組合員が可哀そうなので、ここはJRに巣喰う「寄生虫」とでもしておきます。
 <まず掲示『いぶき』を外した経緯について>
 9月29日15時30分頃、Oさんから『いぶき』について、「だれが書いた」「まわりの人に迷惑がかかる」「俺をそんなに苦しめないで、ほっといてくれ」「あんな書き方ならこっち(東労組)と同じじゃないか」「(国労に)帰る気があっても帰れない」「早く剥がしてくれ」「やめられる(退職)ものならやめたい」と泣きじゃくりながら訴えられました。
 そこで、掲示を外すに至った理由として、一つは本人の動揺が大きかったことです。泣きながら訴える姿は、精神的に安定しているとは思えず、乗務などに影響してはいけないという思いがありました。
 二つとして、東労組の特に「寄生虫」を中心に、国労とのやり取りの中でOさんをどう追い込んでしまうか、Oさんが精神的に追い込まれてもおそらく「寄生虫」は何も構わないのではないかという不安感がありました。 そして三つとしては、「寄生虫」たちにも会社にも、国労が事実関係をすべて把握していることが明らかになったということです。例えば、Oさんが東労組加入の時の掲示に「国労に嫌がらせ……」と書いても所詮でたらめであり、Oさんが言っていることではないし、嘘がバレてしまっているなど、すでに掲示の役割は果たした? のではないか……等の理由により執行部判断で掲示を外しました。
 その後、区長・「寄生虫」が後を追うように来て、区長が「提示責任者は後で来てくれ」と言いました。そして区長室にOさんと「寄生虫」が入っていった模様です。
 以上が『みたかきいたか』で言う「全面的に屈服・服従」した状況です。
 唯一、Oさんの実名が入っていたというのは事実です。国労で一緒に闘ってきたOさんが、昇進差別の会社の攻撃の前に倒れたことに対しての悔しさといいますか、闘ってきた同志に対する「思い」の中での実名でありました。しかしこのときOさんはすでに東労組の組合員であったことも事実でした。
 いずれにしても、「寄生虫」の相手をするつもりはありませんし、全く中身のない幼稚な文章やくだらない挑発にのるつもりはありません。逆に『みたかきいたか』が東労組の機関紙だとすれば、「寄生虫」たちはこの先必ずや孤立して行くことでしょう。
 「寄生虫」に「カス」といわれる国労執行部ですが報告を終わります。

 さて、二日間の休暇明けで出勤すると、執行委員会の経過が組合員に配布されていないのであった。分会三役の決定で急きょヤメにしたのだという。何よりも脱会したOさん本人の気持ちを思ってのことだが、職場の雰囲気がこれ以上険悪になるのはマズイという判断もあったようだ。国労組合員だけに配るといっても、どこからか必ず漏れて東労組が動き出すのは目に見えており、暴走されては「キケン」ということであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/言いがかり 虹に願いを どうぞお好きに

■月刊「記録」1998年11月号掲載記事

○月×日
 JR東日本最大の組合であるJR東労組がやることはスバラシイとしかいいようがない。いつも驚かされ、いろいろな人がいるものだと深く考えさせられる。
 本年6月17日の東京都議会において、内閣総理大臣をはじめとする関係大臣あての「意見書」が全会一致で採択された。
 内容は「旧国鉄職員1047人がJRに採用されないまま、現在も労使紛争が続いていることは憂慮すべき事態である。東京地裁が判決を言い渡したのを契機に、JR労使双方は誠意を持って話し合うべきである。政府に対し、関係当事者が話し合いの場に着くよう働きかけるなど、労使紛争の早期解決に向け努力するよう強く要請する」というものだ。
 同様の自治体決議である「意見書」は、北海道や大阪府など七都道府県議会、106市246町13村、2区で採択されているという。公職選挙法に基づいて選ばれた住民の代表であることに加え、自民党や民主党の議員さんも大勢いるなかでの全会一致の採択である。つまり地域住民・国民の声として「早期解決せよ」と決議したものなのだ。
 東労組の柚木委員長は第14回定期大会のなかで「国労のゴネ得を決して認めるわけにはいかない。10年経ったからよいではなく、我々は15年経とうが20年経とうが決して忘れるつもりはない。政治決着は認めない」との見解を述べておられた。
 これを受けてかどうかは知らぬが、東労組はなんと東京都議会に言いがかりをつける運動を展開していたのである。「都議会に真実を訴えよう」「1047名問題に関する都議会議員へのハガキ行動を全組合員で取り組もう」との運動だ。
 ハガキは「この問題がどのように起きたのかはご存じなのでしょうか」との議員への問いかけに始まり、「国労はJR採用希望調書を白紙で提出し、清算事業団の就職斡旋をすべて拒否したから」「現地現職採用というわがままを通し、採用に応じなかったからです」というようないつもの主張を並べ、自業自得と結んでいるのである。
 これを受けた都議会議員は「当事者はもちろんのこと、家族や子供達の将来を考え、人道上からも一日も早く解決するようにと思うのは当然だ」と回答したという。
 わが国労は東京都議会議員の見識に敬意を表するとともに、東労組のいう「真実」に対しての見解を機関誌上で表明したので、ここに記しておきたい。
「採用希望調書の白紙提出」について――
 事実無根。そもそもJRへの採用を希望していたのに理由も告げられず不採用となったからこそ、労働委員会に救済申し立てをしたのである。白紙提出なら国労救済命令などない。
「清算事業団での就職斡旋をすべて拒否した」について――
 管理者が廊下ですれ違った際に声をかけたことも斡旋回数に数えるなど、ずさんな作業も行われた。また、すでに倒産した会社や最低賃金以下の会社を紹介したり、新聞の求人広告の切り抜きを示すことも実績としてカウントされたりしたのである。社会常識にかなった再就職口であれば、もっと多くの国労組合員が転職していたし、本州JRへの広域採用に応じた国労組合員も優に1600人を越えている。
「ゴネ得を許すな、自業自得だ」について
 そもそも、労働者の雇用と労働条件を守るべき労働組合が「首切り」を認めること自体が異常だが、89年1月20日に、北海道地方労働委員会は、不当労働行為が行われた事実認定をし、JR北海道と貨物に採用命令を言い渡した。当事者が労働委員会命令の履行を信じて復帰を望んだことは当然のこと。
 以上である。さすが国労である。見事としか言いようがない。深く考えさせられてしまった私がスバラシクおバカだっただけであった。

○月×日
 虹を見た。虹なんて久方ぶりだったような気がする。 今朝五時過ぎの出勤途上、美しい朝焼けに染まった東の空を眺め、ちょっぴり得した気分で駅に向かったのだが、反対側の西の空にはビルの谷間から谷間へと、虹が鮮やかな円弧を描いていたのだ。
 そういえば道が所々濡れていた。きっと起床前に通り雨があったのだろう。下から順に色を追ってみた。紫、青、緑、黄、橙。確か七色のはずだが、橙の上が赤なのか……。それでも六色しかない。ま、いいか。キレイだキレイだ。
 「オズの魔法使い」の「オーバー・ザ・レインボー」が思い浮かんだ。「鳥は虹の彼方に飛んでいくのに、どうして俺にはできないんだろう……」というアカデミー賞の名曲だ。
 私は虹に願いを託した。台風が二つも接近しているが大災害にならないように。わがJR中央線も無事であるように。

○月×日
 なんともよかった。まずはよかった。虹に託した願いが叶ったのか……。
 二つの台風は日本列島を縦断し、各地に爪痕を残したものの、関東地方は難を逃れ、わがJR中央線は百パーセントの運転が確保できた。
 夜勤明けだが、台風一過で実に清々しい気分だった。前日(夜)は寝ずの乗務とばかり、カッパの上下に長ぐつとすべて用意して、「さあ来い」と構えていたのだが全く順調そのものであった。風雨は時折強くなりはしたが、遅れもなく「小金井ステーションホテル」にチェックインできた。ホテルなんて贅沢? いやいや、駅構内にある、ただ仮眠をとるだけの施設ですよ。
 3時間ほど熟睡し、昼前には何事もなく勤務が終わり、シャワーを浴びて帰宅した。

○月×日
 ちょうど休みだったので、中学生の息子の運動会(正式には体育祭)の見学に行った。「来ないでよ」と言われたものだから、行かないわけにはいかなかったのだ!? ヒマだから数えたのだが、百人くらいの父母がいるなかで父親は17人しかいない。ほとんどの父親は仕事なのだ。今日は仕事をしながら心の中で応援しているのだろう。日本のオトーサンはエライ。
 ふと、私はなぜヒマであるかに気づいた。今までなら、近所の人や知り合いと一緒にワイワイ応援していたのだが、息子はこの春にこの学校に転校してきたのであった。従って家に遊びに来る2、3人の友達の他に知っている人は誰一人いない。恥ずかしながら担任さえ知らないのだ。
 以前は子ども達を通じて、地域の実にさまざまな人達とのつながりがあった。しまいには父母会の集まりなどを口実に、子どもそっちのけで(というと語弊もあるが)よく飲み歩いたものだ。「今さら親同士のつき合いなんてもういいや」「煩わしいことなどコリゴリだ……」。初めて来た校庭の隅っこで、そんなことを一人ぼんやりと考えていた。
 しかし今日のメインは息子である。クラスの仲間達と楽しそうに競技に熱中している姿に、私も元気をもらったようだ。

○月×日
 20時49分発上り快速東京行きは、始発駅である高尾を発車しようとしていた。
 この時間ともなれば高尾や豊田からの登り始発電車は一車両1人2人は当たり前で、ガラガラに空いている。下りは終電まで混みっぱなしだが、これぞ日本の正しい姿だとつくづく思う。
 乗務員室のある最後部車両10号車には9号車寄りの3人掛けに若いカップルが乗っているだけであった。彼女は男の膝枕に身を任せていた。「どうぞお好きに」。誰もいないんだからリラックスしてください。
 やはり乗客が少ないとのんびりした気分になり、私達車掌もホッと一息付ける。これがもし一日中ラッシュ時並みの満員状態なら寿命が縮むに違いない。
 さて、男の方がさっきから私をちらちらと何度も窺っている。一言でいえば「挙動不審」だ。私は内心「ヘンなヤツ」と思いながらも、列車を定時に発車させた。
 最初の停車駅である西八王子に近づき、何気なく車内を見ると、膝枕の彼女の格好がなぜか妙な感じなのである。さっきまではロングヘアーに顔が隠れていたせいか気づかなかったが、厳密にいえば彼女は彼の膝枕に顔を埋めていたのだ。私は「シクシク泣いているのかな」と思った。その瞬間である。ビックリ仰天、なんとナント彼女の頭が、規則正しく上下に動いているではないか……!? 「な、なんなんだ!!」
 私はあきれ返り開いた口がふさがらなかった。彼女の口も開いたままだ……。西八王子では10号車に誰も乗ってこなかった。誰もいないのだからもっと大胆にやればいいさ。
 次の八王子で数人が乗ってきた。電車は定時に動き出したが、彼女の動きはピタリと止まったまま。三駅先の立川に着くと、「私、今までぐっすり寝ていました」とばかりにムックリ起きあがり、両手で髪をかき分け、男に肩を抱かれながら降りていった。
 フェラリーだかヒラリーだかのダンナが、執務室で似たようなことをやったやらないで大ひんしゅくを買っているようだが「どいつもこいつもいい加減にしろ」である。「頼むから空いている時くらい息抜きをさせてくれよ」と心から願う。

○月×日
 親戚の結婚式があり、私の故郷である酒田へ向かった。日本海と最上川、庄内平野と鳥海山に四方を囲まれた、それは自然豊かで静かな町である。
 爽やかな秋晴れの下を快走する羽越本線特急いなほ1号。車窓から目の前に広がる日本海は驚くほど穏やかで、見渡す限り凪いでいた。特に、名勝笹川流れ辺りからあつみ温泉にかけての美しい景色にはいつも心が洗われる思いがする。
 早朝5時過ぎに家を出て、上越新幹線で新潟乗り換え、11時16分、わが社の車は一寸の狂いもなく正確に酒田駅に到着した。駅からタクシーを走らせ約10分、11時半からの披露宴にちょうど間に合った。
 懐かしい親戚の顔が並んでいる。私はここぞとばかり常日頃のご無沙汰の失礼を詫び、後は大人しく静かにお祝いした。式は午後2時半ごろ終わり、今度は御自宅におじゃまして酒宴は延々深夜まで続くのだが、私は翌日用があり、夕方の列車で故郷を後にしたのだった。
 それにしても、遥か遠い故郷酒田が日帰りで行けるようになったことは、さすがに驚きと感慨とを隠せない。これは素直にJRに感謝せねばなるまい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/相模原市国際交流協会

■月刊『記録』95年8月号掲載記事

■市民自身の国際交流・協力活動

■運動の目標

 発足時は「地域住民の自主性に根ざした国際交流活動の推進」だったが、最近では「市民による海外協力」が浮上してきた。英会話や中国語を学ぶことや、在住外国人に日本語を教える必要が高まり、現地語教育への協力など活動の方向性が広がっている。

■発足の経緯

 市が姉妹都市提携の具体化を図った時期に合わせ、有志が国際交流活動への参加を市民に呼びかけて始まった。当初は行政と連係する組織だったが、発足2年余の後、純民間の市民団体へと移行した。当協会の名称は、近年に増えてきた行政主導型団体のものと似かよっているが、性格は同じではない。独自性を持った市民団体として、それ以後12年余を経過している。

■運動の歴史

「国際交流活動のデパート」として、多様な課題に取り組み、「孵卵器」活動を積み重ねてきた。これは必要な場合に「専門店」型グループを別途に生み出し、運動全体の力量を高めるもの。グループは独自に組織され、これまでにインドシナ難民の定住協力や留学生との交流および生活支援などを行なってきた。

■今後の抱負

 国際化の親展にともなうデパート型対応領域を持つ地域団体は、現在は地方自治体主導がほとんどで、それらは財団法人方式によって継続が保証されている。他方、市民団体が行政による資金拠出という裏付けを持たず、しかも地域住民の多様な要望に応えるという性格を持ち続けるとすれば、その継続は何によって支えられるのか。「カネによらずして志に立つ」市民団体の理想像を、活動の世代交代を含め、どう実現するか。「抱負」というほど明確な展望ではないが、大きな挑戦的課題であるのは間違いない。

■思い出深い出来事

 チェコの青年代表団をある家庭がホームステイで迎えた時、82歳の老婦人が、「一つ屋根の下に外国人が泊るなんて、これまで考えもしなかった。これはいい冥土のみやげになる」と語った。彼女はこの経験を機会に「家に泊った○○さんのいる、チェコ」がばっちり脳裏に刻まれ、一挙に精神空間が拡大した。それは「冥土のみやげ」とされるほど、人間的充実感だったに違いない。

■工夫している点やユニークな方法論

 年に10回発行している『国際交流ニュース』では、会員の多様な経験から、いかに感動を掘り出すかに意を注いでいる。行事案内などの情報は欠かせないが、加えて1人1人の生身の人間としての心の鼓動をどう伝え合うか。なんらかの内面的な躍動を実感できるものでなければ、活動への自主参加は成立も持続もしない。最近、若い女性の寄稿が多いが、これも「自分捜し」の気運がこの層に高まっているという時代風潮を表わすものだろう。

■運動の問題点

 専用の事務所も専従もない組織体制でも、外国からの手紙・電話がじかに入ってくる。地域に住む外国人からの相談も昼夜を問わず飛び込む。市民や学校などからの依頼や問い合わせ頻繁だ。要請は年を追うごとに増大しているが、対応するボランティアの時間的・能力的力量は十分とはいえない。急速な国際化の進展の中で、需要と供給のアンバランスな位置に立っている。そこでの緊迫感は運動の問題点であり、やりがいでもある。

■運動を継続するためのポイント

 参加する会員と、それを促進するセンター機能が適切であれば、運動は継続する。試されるのはそれを担うの生身の人間である。ボランティアの志と経験が、世代を超えて引き継がれるか。15年目に入る現在、「生身の限界」の超えた力が問われている。
(大野力)

■現在の「相模原市国際交流協会」のウェブサイト
http://www.sia-jp.net/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/ガイアみなまた

■月刊『記録』95年8月号掲載記事

■田舎のワーカーズコレクティブ

■運動の目標

 日本の公害病の原点であり縮図でもある水俣の地に患者運動支援を縁で集まった9人で始めた有限会社。従来の市民運動とはひと味違った生き方と喰い方を水俣で作り出せないかと試行錯誤している。

■発足の経緯

 かつては全員が本誌94年8月号に掲載された水俣病相思社センターの職員で、水俣に生活、生産、運動と癒し拠点をつくろうとの呼びかけに応えて全国各地から集まった設立初期のメンバーであった。それから17年目に運営上のトラブルから責任を問われる事件が発生したため全員が辞職し、事務所を借りて運動を継続することとなった。
 ガイアみなまたという名称は折から起こっていた地球環境問題への危機意識と、ばく然とした、しかし大事なものへのこだわりと広がりのあるイメージとしての水俣を意識してつけた(参考・ジェームズ・E・ラヴェロック『ガイア』NTT出版)。

■運動の歴史

 1990年正月に結成し、メンバーの1人が農民登録した。環境読本「地球と生きる55の方法」企画発行した。
 93年8月には正式に有限会社を設立し、秋には手造りビール関連商品の普及販売を始める。94年春、小学生向けの水俣病パンフを作成し、夏から手造りビールの講習会を全国で始めた。

■今後の抱負

 近い将来、水銀分析室を開発したい。ベトナムの環境セミナーハウス作りに参画したい。全員でカナダ旅行をしたい。余力があればビギナー向けの水俣病読本も出版したい、と夢は多い。

■思い出深い出来事

 相思社での甘夏みかん販売の不正事件に端を発した辞職・再出発であったが、自分達ではのれん分けだと思っている。現在の相思社は我々が参加していた時代とは違って、ずい分清潔な空間となったが、ガイアは今も初期の相思社の雰囲気を醸し出している。生産や生活の臭いがただよい、子ども達や旅の客がウロウロする雑然とした空間である。
 一昨年の日照りには本当に参った。飲み水こそ不自由しなかったが、水田と蜜柑園には毎日散水した。やっとできた甘夏にも水腐れ現象が出て相当ダメになってしまった。自然の厳しさと生産者の真剣さに改めて感心した。とはいえ、ノド元過ぎた昨年からは満月の夜には近くの人や知人に声をかけて楽しい夜を過ごしている。手造りの料理とビールに仲間の音楽が添えられ、ぜいたくこの上ない時間を過ごしている。

■工夫している点やユニークな方法論

 自分達で開発した手造りビールキットを販売している。買ったその日からビールを仕込むことができる10点詰め合わせのキットで、素人でも難なく安心して始められる。手造りだからエネルギーも資源もビール代も抑えられるし、汚染も少なくリサイクル率も向上する。ぜひどうぞ。

■運動の問題点

 長年付き合っている映画監督の土本典明さんなど古い水俣支援者からは、「ガイアの運動は緊張感なく、ホンワカホンワカであれは何だ」などと批判を受けるが、私達はあまり反省はしていない。企業社会が「日本のガンバリ地球の迷惑」現象をいたるところで引き起こしているが、社会運動の面でも似たような問題を含んでいるとみている。

■運動を継続するためのポイント

 無理なく喰い方と生き方が両立し、ボランティア活動をできるくらいの余裕が必要。そう思って毎月一律13万円の生活費を稼いでいる。何しろ自分達で平等な経営をするというのは難しいものである。
(高倉敦子)

■現在の「ガイアみなまた」のウェブサイト……なし

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/アビリティーズファミリー

■月刊『記録』95年8月号掲載記事

■爽やかな笑顔で心のふれあい

■運動の目標

 たとえ手足が不自由でも絵は描ける。物を創ることができる。「絵は心で描くもの」を合い言葉に、在宅重度身体障害者で構成する身障青年芸術集団が活動を始めた。人の手を借りないと食べ物を口にすることもできず、何一つ生活できない。だが人間として仕事がないほど辛いことはない。残された能力を活かし、自己の挑戦と後輩への勇気と励ましを行なう。

■発足の経緯

 1972年の春、機関紙『アビリティーズ』と朝日新聞の紙面で全国各地の在宅身障青年に呼び掛けて仲間を募った。第一回の作品展を池袋の小さな画廊で開催。新聞とテレビで紹介された。
■運動の歴史

 まず意識改革からスタート。国や社会には不満はない。あるとすれば己にあり。天が与えた試練かどうかは知らないが不自由さに負けたくない。逃げの人生であってはいけない。
 人から同情されながら生きていくのも嫌だ。それなら、魅力ある人となって、深い苦しみの中から、誰よりも大きな幸せを感じ得る自分になろう。いつも自身に不満を持つ仲間でありたい。
 我々の汗と努力の労作を展覧するとしたら、最高の会場が欲しい。会場が最高ならば、作品はプロに負けない傑作を制作をしなくてはならない。激が飛ぶ。みっともない作品や、同情的な目で見られないようにと心を配っている。
 第三回展を有楽町そごうで開いて以後、千葉そごう・新宿京王デパート・銀座伊東屋。新宿伊勢丹美術館・日本橋三越本店・吉祥寺近鉄デパート・渋谷109・銀座TOTOパビリオンと展開した。我々の心意気が分かっていただけると思う。企画から会場交渉・搬入搬出・会場のポスター・案内状づくり・受付け・ご来場のお客様への摂待まで一から十までやりとげ、肢体に汗して自分達で主催して最高の幸福感にひたる活動である。
 一種一級障害者で、車椅子、寝たきりのアビリティーズ仲間。優しさと励ましはあるが、展覧会の出品作選びとなると厳しく、落選する作品は多い。毎月第3日曜日に原宿の福祉センターで絵画研究会を開催。各地から仲間が作品を持ち寄り、技能向上と心の豊かさに励む。美術館めぐり、スケッチ旅行にも出かける。

■今後の抱負

 自然体でふるまい、プロの画家を目指す。25周年展の企画アビリティーズ愛のファミリー展準備と、社会参加の場づくり。

■思い出深い出来事

 20歳代の楽しいはずの青春時代にこの世を去った進行性筋ジストロフィー症の仲間。彼の生き方、母親への優しい感謝の気持ち。彼の人生の中で最高の1週間をプレゼントしようと、個展の開催を計画。間に合わず遺作展になったが、生きた証しをと仲間が努力をして素晴らしい絵画展となった。そこには精一杯生きた青年があった。
工夫している点ユニークな方法論
 日々努力し、やる時は精一杯やる。また、美術・文芸・ボランティア活動を影で支える足長叔父さん、叔母さんがいる。

■運動の問題点

 なぜか、一人っ子が多い。両親の高齢化、やがて1人で生きていく日が来る。
運動を継続するためのポイント
 明日に向けての希望。居酒屋で飲み食いして議論する。なによりも私達の生き方の理解を得る事。頑張れの一言と善意の人々の応援をしていただくこと。
(佐藤尚仙)

■現在のウェブサイト……なし

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/播磨灘を守る会

■月刊『記録』95年7月号掲載記事

■埋立て防止から磯浜復元まで

■運動の目標

 播磨灘沿岸の海・空・川の自然環境を守り、赤潮などの汚濁を浄化するため、埋立て阻止、工場排水などの監視と水域の調査を続けてきた。「元来、自然は誰のものでもない」=「あらゆる生物の生きる場」との考え方を柱に、現在は壊した海=埋立て地を渚に戻そうという「磯浜復元」を目指している。

■発足の経緯

 1955頃はじまった一部財界のための「金主主義路線」が、ゼニカネに代えられない自然環境を日本各地で壊し、多くの生物を滅ぼした。殊に瀬戸内海は、浅海の埋立てと汚濁が進み、現在なお毎年の赤潮と大気汚染・酸性雨は止むことがない。そんな播磨灘の危機の中で、71年に若手漁民と労働者・学生・教師らが集まり、ごく自然に発足した。

■運動の歴史

 71年8月、播磨灘各地の沿岸魚ボラ・コノシロ・チヌなどと、養殖ハマチが大量死。その被害調査と被害漁民救援を行なう。翌年には姫路沿岸で定点観測(透明度とph調査)開始。以後10間継続。高砂鐘ヶ渕化学と三菱製紙の長期にわたるPCBたれ流しが発覚。両工場への抗議と兵庫県への厳しい対策を申し入れる。
 73年は瀬戸内海環境保全法の制定に先立ち、瀬戸内での海面埋立ての全面禁止と、工場排水の総量規制を明記するよう環境庁へ申し入れたが、財界・自民党などの異論によって骨抜きにされる。また魚貝類のPCB汚染が拡がり、我々の調査で被害総額約40億円に上る漁業パニックが起き、兵庫県に救済を申し入れる。
 78年から、網干沖埋立(産業廃棄物処分場)と揖保川流域下水道、更に関西電力の相生火力発電所建設に対する反対運動に入る。84年には東芝姫路工場太子分工場の半導体製作場から漏れたトリクロロエチレンが長期間地下水(井戸水)を汚染したことが発覚し、原因究明と追跡調査を2年間継続。『播磨灘30年』出版。
 88年、夏休み中の子ども達のため2泊3日の「海のアドベンチャースクール」を開設し以後毎年開催する。90年代に入っても播磨空港建設計画反対の運動を始め、「赤潮クルージング」「播磨灘写真展」などのイベントを次々に開いた。

■今後の抱負

 差し当たっては瀬戸内海環境保全法に埋立て禁止条項を入れる改正運動と、関西唯一の本格的干潟「新舞子」(揖保郡御津町)をラムサール条約指定地にすること。

■思い出深い出来事

 86年の15周年フォーラムで、出席漁民から「海を埋めておいて使用していない土地が多い。これを元の浜辺にできないか」との提起があり、翌年姫路市で「磯浜復元と街づくりシンポジウム」を開催し、不使用の埋立て地を渚に復元することで、生物による海域の浄化・漁業資源の増大・周辺住民の親水権の拡大・街の景観回復などが可能であることを論証した。92年には姫路市沿岸での磯浜復元の決議を兵庫県議会に求め、1万3千人の署名を提出。

■運動の問題点

 行政や企業の情報を早く取ることが大切だが、今の日本では難しい。会の運営は10余人の世話人でやってきたが、高齢化が進みメンバーの若返りが難しい。
工夫している点やユニークな方法論
 運動継続には財政面の安定が欠かせない。会費などのほか、さまざまなイベントと地場産品・出版物の販売で収入を増やしてきた。
運動を継続するためのポイント
 まなじりをつり上げた「正義の闘い」は長続きしない。誰でもできることを皆でやること。お互いのチョンボも権力のゴリ押しも笑い飛ばし、酒も飲んで楽しみながら行事をこなすこと。
(文責=青木敬介)

■現在の「播磨灘を守る会」のウェブサイト
http://www2.117.ne.jp/~eharima/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/言いがかり 虹に願いを どうぞお好きに

■月刊「記録」1998年11月号掲載記事

○月×日
 JR東日本最大の組合であるJR東労組がやることはスバラシイとしかいいようがない。いつも驚かされ、いろいろな人がいるものだと深く考えさせられる。
 本年6月17日の東京都議会において、内閣総理大臣をはじめとする関係大臣あての「意見書」が全会一致で採択された。
 内容は「旧国鉄職員1047人がJRに採用されないまま、現在も労使紛争が続いていることは憂慮すべき事態である。東京地裁が判決を言い渡したのを契機に、JR労使双方は誠意を持って話し合うべきである。政府に対し、関係当事者が話し合いの場に着くよう働きかけるなど、労使紛争の早期解決に向け努力するよう強く要請する」というものだ。
 同様の自治体決議である「意見書」は、北海道や大阪府など七都道府県議会、106市246町13村、2区で採択されているという。公職選挙法に基づいて選ばれた住民の代表であることに加え、自民党や民主党の議員さんも大勢いるなかでの全会一致の採択である。つまり地域住民・国民の声として「早期解決せよ」と決議したものなのだ。
 東労組の柚木委員長は第14回定期大会のなかで「国労のゴネ得を決して認めるわけにはいかない。10年経ったからよいではなく、我々は15年経とうが20年経とうが決して忘れるつもりはない。政治決着は認めない」との見解を述べておられた。
 これを受けてかどうかは知らぬが、東労組はなんと東京都議会に言いがかりをつける運動を展開していたのである。「都議会に真実を訴えよう」「1047名問題に関する都議会議員へのハガキ行動を全組合員で取り組もう」との運動だ。
 ハガキは「この問題がどのように起きたのかはご存じなのでしょうか」との議員への問いかけに始まり、「国労はJR採用希望調書を白紙で提出し、清算事業団の就職斡旋をすべて拒否したから」「現地現職採用というわがままを通し、採用に応じなかったからです」というようないつもの主張を並べ、自業自得と結んでいるのである。
 これを受けた都議会議員は「当事者はもちろんのこと、家族や子供達の将来を考え、人道上からも一日も早く解決するようにと思うのは当然だ」と回答したという。
 わが国労は東京都議会議員の見識に敬意を表するとともに、東労組のいう「真実」に対しての見解を機関誌上で表明したので、ここに記しておきたい。
「採用希望調書の白紙提出」について――
 事実無根。そもそもJRへの採用を希望していたのに理由も告げられず不採用となったからこそ、労働委員会に救済申し立てをしたのである。白紙提出なら国労救済命令などない。
「清算事業団での就職斡旋をすべて拒否した」について――
 管理者が廊下ですれ違った際に声をかけたことも斡旋回数に数えるなど、ずさんな作業も行われた。また、すでに倒産した会社や最低賃金以下の会社を紹介したり、新聞の求人広告の切り抜きを示すことも実績としてカウントされたりしたのである。社会常識にかなった再就職口であれば、もっと多くの国労組合員が転職していたし、本州JRへの広域採用に応じた国労組合員も優に1600人を越えている。
「ゴネ得を許すな、自業自得だ」について
 そもそも、労働者の雇用と労働条件を守るべき労働組合が「首切り」を認めること自体が異常だが、89年1月20日に、北海道地方労働委員会は、不当労働行為が行われた事実認定をし、JR北海道と貨物に採用命令を言い渡した。当事者が労働委員会命令の履行を信じて復帰を望んだことは当然のこと。
 以上である。さすが国労である。見事としか言いようがない。深く考えさせられてしまった私がスバラシクおバカだっただけであった。

○月×日
 虹を見た。虹なんて久方ぶりだったような気がする。 今朝五時過ぎの出勤途上、美しい朝焼けに染まった東の空を眺め、ちょっぴり得した気分で駅に向かったのだが、反対側の西の空にはビルの谷間から谷間へと、虹が鮮やかな円弧を描いていたのだ。
 そういえば道が所々濡れていた。きっと起床前に通り雨があったのだろう。下から順に色を追ってみた。紫、青、緑、黄、橙。確か七色のはずだが、橙の上が赤なのか……。それでも六色しかない。ま、いいか。キレイだキレイだ。
 「オズの魔法使い」の「オーバー・ザ・レインボー」が思い浮かんだ。「鳥は虹の彼方に飛んでいくのに、どうして俺にはできないんだろう……」というアカデミー賞の名曲だ。
 私は虹に願いを託した。台風が二つも接近しているが大災害にならないように。わがJR中央線も無事であるように。

○月×日
 なんともよかった。まずはよかった。虹に託した願いが叶ったのか……。
 二つの台風は日本列島を縦断し、各地に爪痕を残したものの、関東地方は難を逃れ、わがJR中央線は百パーセントの運転が確保できた。
 夜勤明けだが、台風一過で実に清々しい気分だった。前日(夜)は寝ずの乗務とばかり、カッパの上下に長ぐつとすべて用意して、「さあ来い」と構えていたのだが全く順調そのものであった。風雨は時折強くなりはしたが、遅れもなく「小金井ステーションホテル」にチェックインできた。ホテルなんて贅沢? いやいや、駅構内にある、ただ仮眠をとるだけの施設ですよ。
 3時間ほど熟睡し、昼前には何事もなく勤務が終わり、シャワーを浴びて帰宅した。

○月×日
 ちょうど休みだったので、中学生の息子の運動会(正式には体育祭)の見学に行った。「来ないでよ」と言われたものだから、行かないわけにはいかなかったのだ!? ヒマだから数えたのだが、百人くらいの父母がいるなかで父親は17人しかいない。ほとんどの父親は仕事なのだ。今日は仕事をしながら心の中で応援しているのだろう。日本のオトーサンはエライ。
 ふと、私はなぜヒマであるかに気づいた。今までなら、近所の人や知り合いと一緒にワイワイ応援していたのだが、息子はこの春にこの学校に転校してきたのであった。従って家に遊びに来る2、3人の友達の他に知っている人は誰一人いない。恥ずかしながら担任さえ知らないのだ。
 以前は子ども達を通じて、地域の実にさまざまな人達とのつながりがあった。しまいには父母会の集まりなどを口実に、子どもそっちのけで(というと語弊もあるが)よく飲み歩いたものだ。「今さら親同士のつき合いなんてもういいや」「煩わしいことなどコリゴリだ……」。初めて来た校庭の隅っこで、そんなことを一人ぼんやりと考えていた。
 しかし今日のメインは息子である。クラスの仲間達と楽しそうに競技に熱中している姿に、私も元気をもらったようだ。

○月×日
 20時49分発上り快速東京行きは、始発駅である高尾を発車しようとしていた。
 この時間ともなれば高尾や豊田からの登り始発電車は一車両1人2人は当たり前で、ガラガラに空いている。下りは終電まで混みっぱなしだが、これぞ日本の正しい姿だとつくづく思う。
 乗務員室のある最後部車両10号車には9号車寄りの3人掛けに若いカップルが乗っているだけであった。彼女は男の膝枕に身を任せていた。「どうぞお好きに」。誰もいないんだからリラックスしてください。
 やはり乗客が少ないとのんびりした気分になり、私達車掌もホッと一息付ける。これがもし一日中ラッシュ時並みの満員状態なら寿命が縮むに違いない。
 さて、男の方がさっきから私をちらちらと何度も窺っている。一言でいえば「挙動不審」だ。私は内心「ヘンなヤツ」と思いながらも、列車を定時に発車させた。
 最初の停車駅である西八王子に近づき、何気なく車内を見ると、膝枕の彼女の格好がなぜか妙な感じなのである。さっきまではロングヘアーに顔が隠れていたせいか気づかなかったが、厳密にいえば彼女は彼の膝枕に顔を埋めていたのだ。私は「シクシク泣いているのかな」と思った。その瞬間である。ビックリ仰天、なんとナント彼女の頭が、規則正しく上下に動いているではないか……!? 「な、なんなんだ!!」
 私はあきれ返り開いた口がふさがらなかった。彼女の口も開いたままだ……。西八王子では10号車に誰も乗ってこなかった。誰もいないのだからもっと大胆にやればいいさ。
 次の八王子で数人が乗ってきた。電車は定時に動き出したが、彼女の動きはピタリと止まったまま。三駅先の立川に着くと、「私、今までぐっすり寝ていました」とばかりにムックリ起きあがり、両手で髪をかき分け、男に肩を抱かれながら降りていった。
 フェラリーだかヒラリーだかのダンナが、執務室で似たようなことをやったやらないで大ひんしゅくを買っているようだが「どいつもこいつもいい加減にしろ」である。「頼むから空いている時くらい息抜きをさせてくれよ」と心から願う。

○月×日
 親戚の結婚式があり、私の故郷である酒田へ向かった。日本海と最上川、庄内平野と鳥海山に四方を囲まれた、それは自然豊かで静かな町である。
 爽やかな秋晴れの下を快走する羽越本線特急いなほ1号。車窓から目の前に広がる日本海は驚くほど穏やかで、見渡す限り凪いでいた。特に、名勝笹川流れ辺りからあつみ温泉にかけての美しい景色にはいつも心が洗われる思いがする。
 早朝5時過ぎに家を出て、上越新幹線で新潟乗り換え、11時16分、わが社の車は一寸の狂いもなく正確に酒田駅に到着した。駅からタクシーを走らせ約10分、11時半からの披露宴にちょうど間に合った。
 懐かしい親戚の顔が並んでいる。私はここぞとばかり常日頃のご無沙汰の失礼を詫び、後は大人しく静かにお祝いした。式は午後2時半ごろ終わり、今度は御自宅におじゃまして酒宴は延々深夜まで続くのだが、私は翌日用があり、夕方の列車で故郷を後にしたのだった。
 それにしても、遥か遠い故郷酒田が日帰りで行けるようになったことは、さすがに驚きと感慨とを隠せない。これは素直にJRに感謝せねばなるまい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/発車ベル どん底 補強案

■月刊「記録」1998年10月号掲載記事

○月×日
 歯医者に行って虫歯を抜いた。昔と違い、麻酔の注射すら全然痛くないので非常に助かる。医療技術は日進月歩だ。
 歯は使えるギリギリまで使った方がいいという良心的な先生だったので、薬の注入を繰り返して今日までしのいできた。しかしもう限界らしい。ここ数日は自分でも化膿による臭いに我慢できなくなっていた。
 「次は、クサし境、次は、クサし小金井、クサし野乗り換えです」と、仕事への影響も深刻な状態である。
 治療後、薬局で薬を三種類もらって帰宅した。化膿止めと消炎剤、それに鎮痛剤である。麻酔が切れてくると、案の定激痛が襲ってきた。でも鎮痛剤だけは飲まずにガマンする。鎮痛剤の説明書(今はご丁寧に薬局でくれる)に、服用中のアルコールはダメだと書かれていたからだ。
 ちょっと微笑むと逆に笑われそうなマヌケ顔となり、まったく情けない。痛みに堪えながら、いつもより多少厳しい顔で晩酌したのだが、妻には気づかれなかったようだ……。

○月×日
 私達車掌が扱う発車ベルの音がメロディ化されて、何年経つのだろうか。このようなシャレた発想が生まれてくるのも、民営JRならではかもしれない。
 音楽好きの私としては嬉しくもあり、まあ気に入っているのだが、私の中ではちょっとしたモンダイが起きている。フト無意識に口ずさんでいるメロディがこれだったりするのだ。本当にちょっとしたことなので、モンダイではないかもしれないがモンダイなのだ。
 乗務していれば一日中このメロディを聴いているわけで、もはや家で好きな音楽を聴く時間よりも長い。ふと口ずさむメロディがビートルズではなく、JRのメロディだとはなんだかくやしい。
 それにしても、以前のジリジリという一本調子の発車ベルを思うと「厳格国鉄」というイメージが浮かび、緊張感とスリル、そして郷愁をそそるモノがあったという気がしてくる。別に電車に乗るのに緊張する必要はないが。
 まあ、仕事をしている私達だってできれば楽しくやりたい。例えば中央線全駅の発車ベルの所に楽器を置き、プロのミュージシャンに演奏してもらったらどうだろうか。車掌のことを英語でコンダクターという。まさに私達車掌が発車ベル演奏の指揮を執るのだ。
 旅の始まりが発車ベルの演奏により告げられ、私達は安全な運行とお客さまの生命をお預かりする。まさに真剣そのもの、命がけで「運命」のタクトを振るのだ。

○月×日
 今年の夏はなんとも冴えない。全国的にも長雨傾向で、来る日も来る日もパッとしない。「準備オーケイ、いつでもいらっしゃい」と、ビールをガンガンに冷やして待ちかまえていたのに、なんだか肩すかしを食った気分だ。これが夏かといいたくなる。
 天候が定まらず、どんよりとはっきりしない日がほとんどであった。カーッと照りつける太陽もカリフォルニアのような青空も見ぬまま、夏は寂しく「あっ」という間に通り過ぎようとしている。
 シャワーの後に髪をオールバックにして、永ちゃんの「時間よ止まれ」を静かに口ずさむ。団扇片手にロダンの彫刻「考える人」のポーズで汗が引くのをじっと待つ。エアコンは滅多に使用しない。
 日中の蝉時雨のにぎやかさが真夏の暑さを感じさせてくれると思ったのもつかの間、夕暮になれば蝉の鳴き声も涼しさを感じさせるものへと変わり、なぜか切なくなる。
 気象庁は、8月も中旬を過ぎて一般の感覚にはそぐわないとし、東北と北陸の梅雨明け発表をあきらめたという。また、関東に梅雨明け後も停滞していた梅雨前線は秋雨前線に名称変更という異常事態である。ナヌッ!?
「今日まで梅雨前線と呼んでいたものが明日からは秋雨前線だと」
 オカシイではないか。これでは国鉄がJRになったようなものである。私は断じて容認できない。気象庁と秋雨前線はキチンと責任をとれるのか! うーむ、やはり夏のツカレが出てきたようである。

○月×日
 不合格であった。残念だが仕方ない。
 昇進試験(一次)の発表があり、最下級である指導職試験の合格者はわが国労組合員でわずか二名という、どう考えても納得できない結果に終わった。
 私の場合は「これでよかったのだ」と思う。もし私が試験官なら、毎年キチンと盆暮れの付け届けがあったとしても、やっぱりオレのようなヤツは絶対に合格させないだろう。なんだかセイセイした気分だが、二次試験の楽しみが減ったのかと思うとちょっぴり淋しい。
「今日もアツかったですねえ」などと暑さのせいにして、とりあえず帰りに一杯やった。そういえば昨日、東京芸術座から演劇のお誘いが来ていたのだが、その演題はゴーリキの「どん底」だった。そうだったのか……。なんだか笑わせてくれるではないか。
 それにしても、サケはいつ飲んでもウマく、JRはオモシロイ会社である。

○月×日
 国労の第63回定期全国大会が東京・社会文化会館で行われた。国鉄分割民営化から12年目、東京地裁判決後初の大会として各方面からも注目されていた。
 和解を目指した「三条件」提案を旧与党から機関決定するよう求められたこともあってか、本部宮坂書記長は大会初日に突如として「国鉄改革法を認める」等の運動方針(案)の補強なるものを提起し、今大会で採決するということになった。
 会場はヤジと怒号に包まれたが、私は驚きつつも「本部はいよいよ腹を固めたのだな」と、緊張と期待で身震いした。この10月1日には国鉄清算事業団の解散、鉄建公団への業務移管を控えており、一刻の猶予も許されない。まさに政府責任による早期解決へ向けた決断の時なのである。
 私達は今日まで国労の運動方針に沿って闘いを進め、団結を守り抜いてきた。「時代遅れの孤独のランナー」などと陰口をたたかれようと、不当な差別攻撃にも屈することなく人間としての信念を貫き通せたのは、弁護団、共闘関係者や良識ある市民の限りない支援や激励があったからであり、心から感謝しなければならない。
 改めて言うまでもなく、東京地裁の判決は不当であり事実誤認である。憲法や労組法より改革法が上であること自体が間違いであり、山下俊幸さん(連帯する会事務局長)も言っていたように、国家的な不当労働行為を国家権力(裁判所)が裁くことに無理があった。
 もはやこの問題は公正とか公平、平等といった常識は通用しないのである。完全無欠の改革法だったのだ。権力の前には必ずしも正義が実現しないということを目の当たりに思い知らされた。
 当時の中曽根首相や橋本運輸大臣は「所属組合による差別があってはならない」「一人の職員も路頭に迷わせない」と繰り返し約束した。国会決議も政府答弁もすべてないがしろにされ、裁判所までが私達を裏切った。さらに裁判所は「大臣などの答弁は方案の説明のために便宜的に用いられたものでなんの意味もなさない」とまで言っている。中労委が高裁に控訴したように、国会のおエラ方は裁判所に抗議しないのかという素朴な疑問も湧く。
 いずれにしろ、これまでの事実は消えるものではなく、決して無駄なことではない。人間としての素晴らしさや醜さ、世の通念や仕組みなど、あらゆるものを見ることができたと思う。ここは歴史的な一つの節目として決断すべきである。闘争団・家族の心情を思えば、早期解決を何としてでも実現しなければならない。このまま長期化すれば闘争団の高齢化も進み、最終的にJRの不当労働行為が確定しても事実上救済を受けられないという事態も想定される。手術は成功したが患者さんは亡くなったでは済まされない。運動には妥協もありである。
 しかし当然代議員からは反対意見が続出した。「白紙撤回を求める」「改革法を認めれば、その先には国労解体がある」。補強案に理解を示す代議員からも「会場で突然提起されて、職場での議論なしの採決は組合民主主義に反する」などの反発が相次いだ。
 本部は結局、「職場での討論を継続し、意見を集約して臨時大会を開く」として承認の先送りを再提案し、了承された。ある代議員は私に言った。「こんなものを認めたら国労の組織は持たない。かといって、高裁・最高裁まで闘い続けるとしても持たないな」と。
 補強案は5点であった。
 第一に「国鉄改革法の承認」これは分割民営化反対の旗を降ろすことである。第二に「係争事件は当該エリア本部とJR各社で解決」つまり全提訴を取り下げること。第三に「組織のあり方、名称等変更の検討」すなわち全国単一体国労の七分割、国労という名称を変えること。第四に「JR連合傘下の各単組との共同行動」行き着く先はJR連合への吸収、合併ということ。第五に「JR各社へ胸襟を開いての解決交渉働きかけ」跪くこと。以上である。
 以上だが、確かにこれでは全面降伏である。まさに「踏み絵」に等しく、国労の新たな試練ともいえよう。国労は再び分裂を繰り返さなければならないのか。本部宮坂書記長の苦渋に満ちた顔が私の脳裏から離れない。リーダーは時として大英断を迫られる辛い立場である。
 もう一度言いたい。運動には妥協もありである。今こそわが国労は大胆な妥協を持って新しい道を前進しなければならないときなのだ。

○月×日
「グラグラッ」ときた。首都圏では震度3~4とかなり揺れた。朝8時46分、私は遅い出勤だったので家でのんびりと朝刊を読んでいた。
 台風4号の接近を前に、東日本・北日本の各地は記録的な豪雨に見舞われた。土砂崩れや河川の氾濫が相次ぎ、全半壊や流失する家屋やJR各線の不通など、近年例を見ない被害となった。
 日本の自然は大丈夫なのか。まさに異常気象だが、追い打ちのように地震が続き、なんだか薄気味悪い感じがした。
 すぐにテレビをつけると、東京駅からの各新幹線の運転見合わせを盛んに報じていた。私も中央線が遅れると思い、早めに出勤すべく無意識のうちに準備に取りかかったりしていた。
 しかし万が一である。このまま出勤して家に帰れなくなるという非常事態となりはしないか。仕事も大事だが家だって同じである。だが、どんなことがあっても仕事のことを念頭に置き、とにかく遅れまいと考える。もちろん仕事を愛し責任を感じているのだが、その根底にあるのは家族の幸せを願っているからこそだと思う。
 テレビは再び新幹線の見合わせを報じていた。視聴者はそれほどまでにJRの運転状況の報道を望んでいるのだろうか……。自然災害だけはどうしようもないが来るなら来い。負けるわけにはいかないのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/筋肉痛 ゴネ得 身だしなみ

■月刊「記録」1998年9月号掲載記事

○月×日
 JR中央線を乗務する四つの車掌区(三鷹、新宿、立川、八王子)の国労分会交流会として、今年もまた橋本(横浜線)社宅のグランドでソフトボール大会が行なわれた。毎年のことなので、誰がどの程度の実力かを皆知っているし、勝ち負けよりもいい汗を流してリフレッシュすることが目的なのはいうまでもない。
 ここ数年ロクにスポーツなどやっておらず、年に1、2度こうした催しに参加するだけとなってしまった。運動は運動でも組合運動はスポーツとは違うものね。
 私の守備は「ライト」だった。9つあるポジションのなかで、最も「正しい」位置だと理解している。一番打球が来ない所だと思われがちだが、そんなことはない。上手い人は流し打ちをしたりするから結構大変なのだ。小さいころから運動は得意な方で、勘をつかめば何でもこなせると思っていたのだが、それにしても悲惨だった。 打球を必死で追いかけると、足がもつれて転んでしまう。何とかキャッチしてもすぐに投げられない。慌てて投げるととんでもない方向にボールを放つ始末である。しかし「斎藤はライトなんだから」と皆許してくれる。 こうなったら打者として汚名を挽回するしかない。バットを短く持ち、うまく合わせてヒットを狙う、などというセコイ手段はとらない。力の限りの豪快なスイングで一発逆転勝負なのだ。しかし大振り空振りばかりで、おまけに振り抜いたあげくに転んでしまうのであった。さすがにホトホト情けない。
 それでも私はチャンスを逃しはしなかった。ジャストミート! 会心の当たりである。物凄い手応え。これが私の実力なのだ。まさに『巨人の星』のごとく、火を吹くような勢いで打球が三塁線にスッ飛んでいった。「やったね」と思いながら、またもバッターボックスに転んでいた私であったが、即座に体勢を整え、一塁に向かって走り出した。だが、レフト前に転がっているはずの打球はすでにファーストミットの中にあり、塁に駆け込んだ私は「アウト」と宣言されたのだ。三塁手のファインプレイだった……。
 体力の衰えを痛感しつつ、七転び八起きしながらも、ケガもなく楽しい一日を過ごせたことに感謝しよう。それにしても、これはリフレッシュといえるのだろうか。この後数日間、全身の筋肉痛というお土産に悩まされるのに。

○月×日
 「君がイエスと言えば、僕はノー、君がストップと言えば、僕はゴー、いったいどうなっちまってんだ」。
 今にも全身でリズムをとってしまいそうな、軽快で分かりやすいビートルズのロックナンバー『ハロー・グッバイ』である。
 JR会社が「やりなさい」と言えば、国労は「やらないよ」と答える。ん? そんなことはない。やるべきことはすべてキチンとやっている。
 11部が「JRに責任はありません」と言い、19部は「ありますよ」と言っている。11部は「国鉄とJRの同一性は疑問がある」としながら白黒ハッキリさせた。いったいどうなっているのだ。裁判長の顔も苦渋に満ち溢れていることだろう。
 いずれにしても国労敗訴だが、分割・民営化というのは国労解体も一つの目的であり、そのための改革法だと考えれば分からないでもない。東京地裁はJRに花を持たせたといってもいいだろう。
 私には裁判所もJRのおエライさんも滑稽に見えてしょうがない。なんでそんなに権威を振りかざさなければならないのか。もっと人間らしく素直に正直に振舞えばいいのに。私達労働者はいつも飾らずありのまま堂々と生きていきたいものである。
 「君はグッバイ、僕はハロー」。ビートルズに今夜も乾杯。明日はきっとよくなると信じよう。

○月×日
 参院選が終わった。「投票に行こう」とマスコミが煽ったお陰か、投票率は過去最低だった前回の44・52%から58・84%へ大きく回復した。
 結果は自民党が大惨敗、民主党、共産党が大躍進を果たした。肝心の社民党がボロ負けしたのは自民党と連立を組んできた批判と受け止め、出直しの第一歩であることを願い今後に期待したい。
 さて民主・共産両党の大躍進だが、自民党政権批判の受け皿ともとれるが、民主党についていえば、寄合所帯で決して一枚岩でない。近い将来分裂することが十分あり得そうで危なっかしいったらない。
 橋本首相は辞任を表明したが、私としては中曽根さんにもう一度首相になってもらい、キチンとあの時の責任をとって頂きたい。野党が勢いづいて政権交代を要求し、衆院解散・総選挙も予想されるが、すべてが流動的であり、なにより国民そっちのけの政局混乱が一番心配である。
 それにしても社民党、民主党、新社会党と、政党の名前もコロコロ変わってしまった。別に昔のままでもよかったのではと思う。国鉄、国労もしかりである。

○月×日
 5月28日の不当判決以降、さまざまな集会や書面を見るたびに目が覚める。その都度はらわたが煮えくり返り、怒りを禁じ得ないが、私は思った。強く激しく思ってしまった。
 闘争団と私達国労本体との微妙なズレ(違い)のことである。闘争団にしてみれば日々切実な問題も、私達は日が経つにつれて忘れていく。これは仕方のないことなのだろうか。
 判決の瞬間のショックと落胆は誰もみな一緒だったと確信する。この晩、闘争団家族の上京団に対して行われた個別学習会で、宮里弁護士は「皆さん方の11年間の思いを勝訴という形で実現できなかったのは痛恨の思いである」と声を詰まらせ、闘争団家族と悔しさで涙したということも聞いている。
 しかし、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。総学習と総団結により、判決にひるむことなく、高裁控訴という新たな段階を力強く歩み出す他はない。私達の弱味につけ込む自民党の「三条件」などの不当介入に対しても、私のように振り回されてはいけないのだ。
 闘争団の家族、横田文乃さん(釧路・13歳)の作文を拝見した。
「私は学校から帰ってきて、いつものようにテレビを見ていると、国労のことがニュースに出たので、お父さんが出るかなと思って見ていた。するとJRの勝訴と流れた。ずーっと見ていても何がなんだか分からなくてチャンネルを変えてみたら、私が去年の三月に作文を読んだ東京地裁の前で、おばさんたちが泣いて話しているのを見て、国労が負けたことが分かった。(中略)私は急にお父さんのことが心配になった。(中略)お母さんに聞くと「お父さんは強いから大丈夫よ」と言ったのでホッとした。そしたら急に腹が立ってきた。JRと国鉄は同じだ。子どもの私でもそんな簡単なことは分かるのに 、どうして立派な大学を出た大人がそんなこと分からないのだろう。お父さんたちにはがんばって勝ってほしいと思います」
 その通りだね。私はこういうのに本当に弱い。「よしわかった。何も心配することはないからね」と言いたくなる。
 「ゴネ得は許さない」とよくいわれるが、竹本妙子さん(烏栖闘争団家族)も言っているように、「ゴネる」とは生活の基盤があって初めてできるものではないか。ゴネているのではない。自分たちの失敗でこのような状況に置かれたのではなく、これは国家とJRの不当労働行為の結果なのである。そもそも後ろ指を指されるような話ではないのだ。
 国労は負けてない。しかしまだ勝ってもいない。もう一踏ん張り。勝利するまで心を一つに闘おうではないか。
○月×日
 暑い一日だった。お決まりの昇進試験(一次)が行われた。
 試験後のビールを飲むために公休を潰して集まるようなものだと考えている国労組合員も多い。
 試験は誰もが合格しそうな非常にやさしい内容だったが、国労員の不合格率が圧倒的なのは今年も変わらないだろう。私は昨年一次に受かっているので、教養などこれっぽっちもないのだが、最後に行われる「一般教養」が免除となった。といっても、これは皆より一足先にビールにありつけるくらいで、特にメリットというほどのものではない。
 それにしても解せない問題が一つあった。JR職員としての「身だしなみ」についての設問で「髪を染めてよいか、悪いか」というものである。いいか悪いかを選べとある。
 決して全面的に公定するわけではないが、髪の毛が赤でも黄色でも緑でも、肝心カナメの「出発進行」をキチンと厳正に行えるなら、今どきやりたきゃやらせればいいのではないか。けれど世間の常識からすれば「悪」というイメージが強いのだろう。
 実は私の同僚にも髪を染めている人は結構いる。それでも咎められることは絶対にない。なぜなら白髪を黒く染めているからだ。さあこの場合、正解はどっちだ。問題を作成したセキニン者は前に出なさい。

○月×日
 八王子からJR中央線で三鷹まで出勤し、乗り出しが下り高尾行きだったりする。別に家に忘れ物をしたわけでもないのにまた戻らなければならない。
 ――トウキョウは私をテッテ的にイジメたいのだった。「私はたった今上がってきたばかりなのであります」
「するとお前さまは八王子方面には行きたくないと言いたいのだね」
 塩をかけられたナメクジのように私の脳ミソは溶け出し始めている。「先生、早くシリツをして下さい。私は死ぬかもしれないんです……」
 とまぁ「つげ」風に書くとこんな感じか。BOX東中野で「ねじ式」を観た。漫画界の異才、つげ義春の同名作品の映画化である。
 売れない若い漫画家の妄想的な「超」現実世界。暗く貧しく無気力で、冴えない日常生活。内縁の妻に裏切られ、一人あてもない旅に出る。そこで出会うさまざまな女性との奇妙な体験。生々しくきわどいエロスがこれでもかと炸裂する。内容は次第に非日常の白昼夢のような世界へと突入していくのだ。
 もう二十数年前のことになるが、私はつげ義春の作品はほとんど読んだ。意表をつく発想で妖しげな表現が多かったが、どれも不思議と安堵感が漂っていた。彼の描く海や山の田舎の寂れた風景や、貧しさというものが人間の根幹をなすからだと思うが、何もかもが不安定で排他的だった当時の私に妙にマッチし、すっかり虜となった。
 映像は原作に忠実で、ストーリーは分かっているのに、やはりノスタルジックな気分へ誘われてしまった。あてもなくフラリとさまよいたい衝動に駆られたが、現実に縛られてどうにも身動きがとれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/全国市民平和訴訟の会

■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■政府の湾岸戦争加担と自衛隊海外派兵を告発

■運動の目標

「市民平和訴訟」とは、日本政府の湾岸戦争戦費拠出と掃海艇派遣、その後のPKO派兵など違憲とする訴訟の総称である。全国6都市で係争中で、裁判件数は11件。9つの独立した訴訟団で取り組んでいる。国会での論戦や反対行動の記憶も次第に薄れつつある現在、裁判という場を通して問い続け、最終的に勝つ。

■発足の経緯

 自衛隊輸送機派遣は政令公布のみで終わったが、その後ペルシャ湾掃海艇派遣が決定され、米海軍などとの掃海共同作戦が行われた。これらは自衛の範囲を超えるもので、自衛隊法にも反し、集団的自衛権行使に抵触する。
 全国に巻き起こった反対運動の中、提訴を呼びかけたのはさまざまな市民だった。いずれも法律はまったくの素人であり、まず代理人となる弁護士探しから始まった。広島では「勝ち目のない裁判」として軒並み弁護士に断られ、鹿児島では弁護士が見つからず、本人訴訟に踏み切った。

■運動の歴史

 全国各地で、のべ3300人以上が参加した湾岸関係の訴訟は、91年2月15日の広島提訴を皮切りに、大阪・東京・名古屋・鹿児島と続く。最初、戦費90億ドルと自衛隊機派遣を請求対象とした裁判も掃海艇派遣が対象に加えられ、PKO派兵違憲訴訟が提訴されることとなった。
 提訴の過程で東京地裁は、3兆4200円の前代未聞の手数料を請求して、裁判官の非常識ぶりは世の非難の的となった。裁判所は、私達市民の正当な権利である裁判をうける権利を、乱訴の類いと決めつけた嫌がらせをしたとしかいいようがない。

■今後の抱負

 3月23日に福岡で判決が出され、訴えは棄却された。また、年内に3つほどの結審を迎える状況にある。
 これまでの判例からみて、憲法9条をめぐる裁判は決して有利な訴訟とはいえない。裁判所は常に体制迎合の判断を下してきた。そのために歴代自民党政府は、9条の自分流解釈を国民に押しつけてきたのであり、裁判所の責任は重い。政府を裁く戦いはこれからも続く。

■思い出深い出来事

 91年9月10日、東京山手教会で米元司法長官ラムゼー・クラーク氏招請による「湾岸戦争を告発する東京公聴会」が開催され、聴衆約1000人が参加した。
 同日午前の東京市民平和訴訟第1回口頭弁論にはクラーク氏も出廷し、代理による発言がおこなわれた。また、翌日の空母インデペンデンス横須賀入港反対海上デモにも氏はボートに同乗して参加した。 

■工夫している点やユニークな方法論

 クラーク氏ら調査団の撮影ビデオや19項目にわたるブッシュ氏らへの告発文などの裁判証拠資料提出、参加原告団による証言など、湾岸戦争の事実経過が裁判記録に残るようにした。
 また、密室的な戦いにならないために関連問題の講習会や学習会を各地で開催した。規則ずくめの裁判所法廷でプラカード代わりに花一輪の持ち込みを東京で続けた。
運動の問題点
  わずかな会費とカンパが主な財源で、それほど余裕もなく証人も弁護士も無償行為に等しい。裁判も長期化するだろうし、人々の記憶も関心も薄れ、一審から二審へと時がたつに連れて法廷参加も減少することなども予想される。

■運動継続のポイント

 一時の気まぐれで訴訟に踏み切ったわけではなく、あくまで初心を貫く心構えで臨むしかない。私達は6都市にかける訴訟団の連携ということで、情報交換も頻繁に行っている。被告同士連帯して戦いを進めていくしかないと思っている。
(文責・市民平和訴訟の会関西 和田喜太郎)                  

■現在のウェブサイト……なし

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/Yacht Aid Japan

■セーリングを通じクルマ椅子の人達と共に遊ぶ

■月刊『記録』95年7月号掲載記事

■運動の目標

 身体の障害が原因で、活動的な人生を送れない人にヨットによるセーリングを体験してもらい、より活動的・積極的な人生の扉を開くお手伝いをする。
 従来のマリンスポーツの世界は、身体障害者ということだけで初めから彼らを疎外しているところがあった。そのような社会制度・価値観を改めさせる行動、具体的な施設の研究や手直しを行なっている。

■発足の経緯

 ふと目にしたヨット雑誌に紹介されていた記事に、大酒飲みでちょっと足をひいているヨットマンは釘付けになった。米国のShake-A-Legという団体が、Freedom社と共に開発した障害者用のIndependenceというスペシャルヨットの紹介だった。
 彼、大塚勝はそれまでも、こどもの日には養護施設の子どもを、障害者の日にはクルマ椅子の人を、お客さんとしてヨットに乗せるボランティア活動をしていたが、どこか納得できないものがくすぶり続けていた。その答えが見つかった気がして、すぐさま決断。ヨット仲間を回って金を集め、雑誌にボランティア募集の投稿をして、自分の部屋を事務所とした団体を作ってしまった。

■運動の歴史

 1990年にオープンした東京都立夢の島マリーナにフリーダム号を置いた。ここはクルマ椅子用のトイレを作るということで、ピッタリのマリーナと思われた。各地の障害者施設に貼ったポスターを見た人など呼び寄せ、セーリング体験をしてもらおうと張り切ったのだが、いきなり困難にぶつかった。クルマ椅子の使える範囲は建物の部分のみで、駐車場さえ何の配慮もなく、棧橋は段差などが厳しく、ボランティア達は多くの苦労を強いられた。ヨット遊びは健常者という社会常識によるものだ。
 今ではクルマ椅子のある風景が当然のものに変わった。施設は改修され、フリーダム号でヨットを覚えた人は、他の船から招待され、ゲストとしてマリンライフを満喫できるようになった。
 だが、クルマ椅子の彼らが小型船舶操縦士免許を受けたくても身体検査で落とされる現実がある。社会人として活躍、マイカーを運転し、立派に海の遊びをこなす彼らの現実を、この国の役人は認めない。「制度を現実に近付けろ」と、過去3年間運輸省に陳情を続けている。

■今後の抱負

 日本の各地にヨットエイドの種子が広がって花開くこと。セーリングを体験して楽しむ人達と、それとは別にヨット競技を愛好する人達により、パラリンピックを目指す戦いを繰り広げてもらえたらうれしい。私達は昨年、日本障害者スポーツ協会に準加盟し、来年のアトランタには3人の選手を派遣できる予定だ。

■思い出深い出来事

 1994年夏に米国ロードアイランド州ニューポートに遠征、レースをしてきた。世界の壁の厚さに驚いたが、一層のめり込んできている。ヨット遊びで生きる喜びを充電している仲間がこんなにもいる!

■運動の問題点

 景気後退とともに、寄付がより「厳少」して、ボランティアの財布を攻撃している。パソコン通信のホームパーティを設定してコミュニケーションをとっているのは、郵便代が高いせいもある。

■継続のためのポイント
 お世話をする、という意識をなくし共に楽しむこと。
(広報担当:松本 敦)

■現在の「Yacht Aid Japan」のウェブサイト
http://www.yacht-aid.jp/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/名古屋第三世界NGOセンター

名古屋第三世界NGOセンター
■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■運動の目標

 情報と人材の提供によって中部地域のNGO運動の活性化を目指す。市民が参加できる行事を企画し、NGO活動に協力できる場を提供することによって市民権を得る。
 第三世界に対しての差別をなくす。施しとしての援助ではなく、相互の自立と平等かつ公正な関係を実現する。また、行政を監視し、行政に市民の声を聞かせる。

■発足の経緯

「名古屋には文化が見当たらない」とよく言われる。しかし市民レベルを考えると、草の根の文化が着実に芽生えている。本会もまた、その現れの1つである。
 80年代に入ってNGOグループの間に協力体制を作ろうという呼びかけがあった。それに応える形で開催されたのが、87年4月に開催されて14団体が参加した「援助を考える・名古屋NGOシンポジウム」だった。
 また、87年は国際住居年だったので、4月25日に名古屋市主催のシンポジウムが開催された。その準備に呼ばれた市民グループから2人のパネラーが選ばれた。7月26日には、同じく名古屋市主催の「アジア太平洋都市会議・市民フォーラム」の向こうを張って市民グループ独自の市民フォーラムを行なった。
 秋には会議を重ねながら、センターの形態を決めていき、1988年の1月16日にYWCAにおいて、発足式が行なわれた。

■運動の歴史

 独自の活動としては、国際交流評議会(NIA)の加盟団体であるので、毎年NIA主催のふれあいフェスティバルの準備と実行に参加している。名古屋市の女性団体評議会の活動にも参加している。94年11月には東京の(JANIC)と共催で名古屋での初めての全国NGOの集いを企画した。
 その他、各加盟団体の活動や行事に協力している。現在までに、第三世界と関係ある写真と絵画展示会・講演会・外国のバンドと劇団の全国ツアー・上映会・地域のオープンマーケットやバザーに参加して第三世界の民芸品販売などを行なった。

■思い出深い出来事

 第三世界の国へでかけて出会った人々との思い出。

■工夫している点やユニークな方法論

さまざまな団体をまとめるために、政治色を出さないようにしている。政治的な違いが明らかになると、各団体がバラバラになるからだ。また、前例がないために行政の協力も得られない場合も多いため、根気強く小さな前例を積み重ねるようにしている。

■運動の問題点
 今まで暇をみて行なう活動という意識が主だったので、個人の家が事務所になっていた。今年から経済的な不安を抱えながらも、センターのためだけの事務所を借りて本格的に活動しようと決めた。各団体のメンバーの意識をできる限り統一させるのは大変な作業である。(文責ステファニ・レナト)

■現在の「名古屋第三世界NGOセンター」
http://nangoc.org/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (1)

行動派宣言!/動物実験の廃止を求める会(JAVA)

動物実験の廃止を求める会(JAVA)
■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■残酷で無益な実験を止めさせよう

■運動の目標

 何よりも最初に、密室の中で多くの無意味な実験が行われ、いたずらに動物の生命が犠牲にされている事実を明らかにしていく。

■発足の経緯

 日本では年間2000万もの実験動物が犠牲にされていると推定される。これほど大量の動物を犠牲にしなければ、私達の生活の安全や健康は維持できないのかという疑問から、1986年3月に次の3つの趣旨をもとに発足した。
①動物実験の倫理的、科学的過ちと実験の実態を広く知らせ、その廃止を訴える
②実験動物に対する残酷な苦痛と無用な犠牲を、少しでも減らしなくしていく
③地球のすべての生き物のいのちが尊ばれ、大切にされることを求める

■運動の歴史

 日本では、動物虐待には73年に「動物の保護及び管理に関する法律」ができるまで、軽犯罪法が適用されていた。
 動物実験に関する法規制はまだ一切なく、どのような種類の動物が、どれだけの数、どんな施設で、どんな実験に使われているのかという基本的な事実さえ把握することができない状態である。また実験の内容を事前審査したり、公開や規制に関する公的制度も全くないため、やりたい放題の実験大国となっている。発足以来、こうした事実を広く一般に伝えようと、活動している。

■工夫している点やユニークな方法論

 多くの人に知ってもらうため視覚で訴えようと、実験される動物達の写真パネルをさまざまな場所で展示している。また、主な新聞に意見広告を出している。

■今後の抱負

 広く実験動物の苦しみと死の実態を知らせ、残酷で無益な実験廃止の世論を起こし、研究機関に対して密室で行われている実験の研究データと施設の公開を求める。
 自治体に対して、犬猫の動物実験への払い下げを止めるよう求めると共に、動物実験を続けている会社の化粧品や洗剤などを買わないように呼びかける。私達自身の日常生活において、できるだけ動物の犠牲のないライフスタイルを選択していく。

■思い出深い出来事

 90年のシロちゃん事件。飼い主に捨てられ、動物管理事務所からある国立病院に実験用に払い下げられた白い犬が、術後何の手当もされないまま放置されていた。この犬の救出をきっかけに、ペットの実験用転用の実態がマスコミに報道され、東京都に犬猫の払い下げ廃止に踏み切らせた。

■運動の問題点

 動物実験の実態は隠されており、本当のことは不明というべきだが、多くの人々がばく然と「動物実験は医学の進歩に役立っている」と思い込んでいる。
運動を継続させるためのポイント(文責 野上ふさ子)

■現在の「動物実験の廃止を求める会」(JAVA)のウェブサイト
http://www.java-animal.org/

| | コメント (0) | トラックバック (1)

行動派宣言!/一寸五分の会

■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■精神「病」者同志の連携を

■運動の目標

 何といっても第一に自殺防止。そしてどうしても孤立しがちな精神障害者同士の連携。情報提供および情報交換。

■発足の経緯

 85年夏、長野県のある開放病院を見学する機会に恵まれ、自分(田中博)でも何かできないかと思い、同9月に機関誌『一寸五分通信』(略称『通信』)創刊号発行。機関誌を媒体としての精神病者自助グループを目指す。

■運動の歴史

 発会当初は精神病の社会的な偏見や差別をなくそうと啓蒙・啓発に努めた。従って『通信』には健常者向けの記事が多かった。
 その後『通信』だけでなく、病者を集めて会らしくしようと動いたが、はっきりとした方向性を見出せないまま呼びかけたため、各々の考え方に振り回され、本来は手段のはずの人集めが目的となり混乱した。以降、自分でできることの限界を踏まえ、『通信』づくりのみにしぼる。
 活動を続けるうち、社会への啓蒙・啓発は保健所等に任せて精神病者のために同じ病気や悩みをもつ者のつながりを重点を置くようになった。精神病者が地域で生きること自体が運動であり闘いである。

■今後の抱負

 精神病者自身が自分なりのアイデンティティを確立すること。家族や他者への依存性を克服していきたい。
 差別偏見と闘う他の障害者団体や地に足がついた信頼できるグループとの交流も目指す。
■思い出深い出来事

 今まで卑屈になっていた人が『通信』に自分の文章が載ることにより気持の整理ができ、物事を前向きに捕らえられるようになり、自分を肯定していく姿を幾度か経験したこと。
■工夫している点やユニークな方法論

 しぶとくしたたかに生き続けること。健常者社会にゲリラ戦を挑むような心積もりでる。世間に華やかに存在をアピールすることなくじわじわと不気味に視野を広げていく。

■運動の問題点

 他の障害者と大きく違う点の1つは、家族や社会の要請によって、強制的に精神病院収容されてしまうといった「保安処分」があること。
 このような時に事情を聞こうと病院に出向けば、「出してもいいが、そのことによって彼が反社会的な行動を起こした場合にあなた方は責任をとってくれるのか」などと言われて、沈黙せざるを得ないこと。

■運動を継続するポイント
 ①背伸びした運動はしない②会員のプライバシーを守る③義務や同情では関わらない④新しい発見と出会い。
 虐げられてきた側からの視点に立つことにより、社会の仕組みや矛盾点が見えてきた。また自分とは異なる価値観の持ち主との出会いによって、より豊かな人生を送れるという楽しみ。
『通信』については自分だけで編集・発行をしている。大変な半面、気楽にやってこられたという点も大きい。(田中博)

■現在のウェブサイト……なし

| | コメント (0) | トラックバック (0)

行動派宣言!/日本フォスタープラン

■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■子ども達の笑顔は地球の宝物

■活動の目標

 発展途上国の子ども達が成長の過程でさまざまな価値観に目覚め、持っている能力を十分に伸ばすためには、その地域全体の生活向上と健康的な環境づくりが重要である。そのために、アジア・アフリカ・中南米の30ヶ国以上で子どもに焦点をあてた地域開発活動を行っている。

■発足の経緯

 1937年、スペインの内乱により親も家も失った大勢の戦災孤児を救うため、英国のジャーナリスト、J.ラングドン-デイビスとE.マッゲリッジによって活動が始められた。その後時代の流れにともない、戦災孤児の救済から発展途上国の子ども達と家族、地域社会に対する支援へと変化した。日本では83年に事務局が設立され、翌年フォスター・ペアレント(支援者)の募集が開始された。ペアレントは発展途上国に住む子ども(フォスター・チャイルド)と文通を通して心の交流を持ち、経済的にチャイルドの住む地域の生活向上をを支援する。

■運動の歴史

 フォスター・プランは97年に設立60周年を迎える。この間には長期間に及ぶプログラムの後に「援助の卒業」となった香港や韓国の例も含まれる。最近1年間でベトナム・マラウィ・パラグアイが援助対象国となり、全体の活動は更に拡大している。

■今後の抱負

 広報活動を進め、より多くの方に存在を知ってもらうと共に、支援を仰ぎながらより良い地域開発活動を行う。また、小・中学生などの若い世代にも途上国の現状について関心を持ってもらえるように情報提供を行いたい。

■思い出深い出来事

 12年前にはゼロだったフォスター・ペアレントも現在では5万6千人。日本の援助はとかくお金を送るだけといわれるが、多くのペアレントとチャイルドの心の交流が生まれている。先日も、「妹が生まれたので、『まゆみ』と名づけました」という手紙がアフリカ・セネガルのフォスター・チャイルドから日本のペアレントに届いた。また阪神大震災で被害を受けたペアレントからは「今はまだ水がでない状況ですが、チャイルドの住む地域では何キロも水汲みに行くのが日常だと手紙に書いてありました。こんな時だからこそ援助は続けます」との連絡を避難所からいただき、職員一同感激した。

■工夫しているユニークな方法論

 フォスター・ペアレントのもとには現地から手紙・絵・写真・成長記録などが届くので現地での活動を身近に感じながら相互協力・理解を図ることができる。またフォスター・チャイルドを現地に訪問し、実際にプロジェクトを見ることができる。

■運動の問題点

 子どもに焦点を当てた地域開発活動をしているが、奨学金などの里親制度と誤解さてしまう。今後も一連の広報活動の中で援助金の使途を明確にしていきたい。翻訳や現地の交通事情などで、通信に時間がかかる。援助者に対し現地事情を十分説明するとともに、迅速で細かい対応を心がける。
運動を継続するためのポイント
 現地のプロジェクトの報告を定期的にすること。また援助金や寄付金の使途をはっきりさせること。(奈良崎文乃)

■現在の日本フォスター・プラン協会のウェブサイト
http://www.plan-japan.org/home/

| | コメント (0) | トラックバック (1)

行動派宣言!/PHD協会

■月刊『記録』95年6月号掲載記事

■アジア・太平洋地域から研修生を日本へ

■運動の目標
 アジア・太平洋地域の人々との間に研修事業を軸にした、草の根の交流を行なう。そこから双方に、平和で健康な暮らしを築いていく人材を育成し、共に生きる社会を目指す。
■発足の経緯
 ネパールで長らく医療活動に当たった岩村昇医師が、自らの活動経験と反省を踏まえて、モノ・カネ中心の一時的な援助を越えた草の根レベルの人材の交流と育成を提唱して始まった。

■運動の歴史
 82年より毎年4~5人の青年を海外から研修生として迎え、ホームステイ形式で自立した村づくりに役立つ農業・漁業・保健衛生・編み物・裁縫・工芸などの研修を全国各地で行なってきた。
 これまでに1年間の正規研修生が12期で48人、短期生とゲストが73人となった。相手先はネパール・フィリピン・タイ・インドネシア・スリランカ・ビルマ・カンボジア・パプアニューギニア・ソロモン・韓国にまたがる。彼らを迎える地域も都市・農村・漁村と広がってきた。国際協力を考える研修会やアジア・太平洋の文化・生活に親しむ行事・各種広報活動・講演などを行ない、興味や関心を持つ人を増やすよう努めてきた。

■今後の抱負
 南北問題の解決として、日本を含む先進工業国が国際社会でみせる不公平な振る舞いを少なくすることが直接的な協力と並んで大切だ。実際に普通の人が海外の現場に出て協力することは難しいし、専門知識や技能がないと役に立つことも難しい。だが国際協力は他人任せで自分には関係ないというわけにはいかない。日本の今の生活は多くの外国との関係の上に成り立っており、無関心ではいられないのだ。
 まず日本とアジア・太平洋の青年達との出会いをより多くの人と地域に提供していきたい。その上で、彼らの村づくりや地域づくりに熱心に取り組む姿勢から、日本に住む人々も日常的に関われる地域の活動、言い換えれば日本の中に住みやすさを作る試みを学び、広めてもらいたい。直接の国際協力でなくても構わない。国際社会に大きな影響力を持つ日本が変われば、そこにつながる世界との関係も変わる。分かち合うことを大切にする人をどんどん増やしたい。

■思い出深い出来事
 阪神・淡路大地震の際、事務所はつぶれこそしなかったものの、室内は散らかり、電話が故障し、職員も交通手段が不自由で集まれず、直後は事務所として機能を果たすことができなかった。阪神間および周辺部の会員とも連絡が取れるようになったのは1週間以上経ってからだった。しかしそれまでの間に、多くの会員が自主的な判断で被災地に入り、それぞれの得意分野を生かした支援活動を展開した。日頃の海外研修生を支える活動の経験が違う場面で生かされたようで頼もしく感じた。

■工夫している点
 いろいろな角度から社会開発・海外協力・異文化理解・ボランティア活動などに近づいてもらうきっかけづくり。今までにタイ北部山岳民族の草木染や手織り布、西スマトラの伝統舞踊、パプアニューギニアの郷土料理、インド仕込みの開発教育ゲーム、ネグロスの民衆の歌、アジアの漫画、アジア・太平洋の草の根を訪ねる旅、農業・漁業・林業体験合宿などを材料にした。

■運動の問題点
 活動資金の安定確保。行動する人材の確保。活動の質の向上。独りよがりにならない言葉遣いと説明。
運動を継続するためのポイント
 民主的な運営。明朗会計。自らを客観化する姿勢。無理のないペース配分。(藤野達也)

■現在のPHDウェブサイト
http://www.kisweb.ne.jp/phd/

| | コメント (0) | トラックバック (0)

妻の恋【いちばん好きな人から永遠に認められない その苦悩が恋愛体質を呼び起こす/蒔岡雪子(42)・語学学校講師】

 今夜は旦那さんが帰ってくるから、久しぶりにすき焼きにでもしようかな、それとも魚のホイル焼き? でも、それじゃあ息子たちは満足しないかも? いっそのこと今夜はハンバーグにして、具の残りをピーマンの肉詰めにしてお弁当用にするとか……。
 今日は仕事が休みだったので、いつもより少しのんびりモードで、午後の空いている時間に買い物に出ました。 ふだんだったら仕事の帰りにスーパーにかけ込んで、必要なものをカゴに入れ、自転車を飛ばして帰るのですが、こういうふうに昼間のんびり買い物できる日には、いつもより多めに買いだめしておくんです。
 今日はたまたま冷凍食品が二割引きになっていたので、いくつか手にとりました。育ち盛りの息子たちは、「また冷凍?」と口をとがらせるかも知れないなどと考えていると、ふと通路のわきにある鏡に映った自分の姿を見つけました。
 化粧っ気のない顔にブーツカットのパンツ。カーディガンを羽織って買い物カゴを手にした女性……。それはどう見ても「普通のお母さん」です。年の割りにはまだ「おばさん」は入っていないし、パンツもユニクロではなくGAPを履いているところにそれなりの自己主張は見える。でも、決して自慢できる容姿ではありません。「あれも本当の私なのかなぁ」
 こんなに「普通」している私が陰ではあんなに大胆なことをしているなんて、自分でも信じられません。なんだか他人事みたいに思えてきます。

■これが最後の恋になるのかも

 私、そもそも女としてあまり自信がないんです。
 スタイルが抜群というわけではないし、顔にしても十人並み。かといって、お茶とかお花とかダンスとか、人より秀でた一芸があるわけじゃない。仕事だってまだまだ駆け出しで、この年齢でようやくスタートを切ったばかりだし……。
 だから、そんな私を好きだと言ってくれる人があらわれると、正直いって最初はちょっと拍子抜けしてしまいます。
「はぁ? どうして私なの?」
 それでも相手が積極的に出てくると、ついつい浮かれちゃって。
「こんな私に振り向いてくれたんだ!」
 気がついたら、こちらも意識するようになっちゃう。 いずれにせよ女もこの年齢になると、ちょっと不安になりますよね。
「これが最後の恋になるかもしれない」
 だから、ついつい相手のプッシュを受け入れてしまう弱い部分が出てくるのでしょうね。いまのところ自覚症状はありませんが、40歳を超えたら女性は急速に下り坂だといわれるし。
「次はどこで出会うわけ?」
 と考えると、こんなチャンスはもう二度と訪れないような気がしてくる。そういう気持ちが無意識のうちに態度に出てしまうのでしょう。隙だらけといわれても仕方ないかもしれません。
「こうやってホイホイ男についていっちゃうのも、自信のなさの裏返しなのかな?」
 と親友に言ったら、
「自信がない割りには、次々と相手が出てくるじゃん。よくシャーシャーとそんなことが言えるわね」
 とあきれられてしまいました。
「私って恋愛体質なのかもしれない」
 自分では決して積極的だとは思わないけれども、そう言われてみれば実はという気もします。どこかで、男を手繰り寄せているというか……。

■何げないしぐさが男を狂わせる?

 そういってみれば最近別れた不倫相手の山村には、こう言って責められました。
「こうなったのは雪子のせいだ。あんたが色目を使ったからだ」
「どう責任をとってくれるんだ!」
 感情が高ぶった彼にそう泣き叫ばれて、途方に暮れたことも。山村は直属ではないにせよ、一応上司に当たる人。私からしてみれば、彼にも他の人と同様に当たらずさわらずフレンドリーに対処していただけのつもりでした。
「そういう何げないしぐさが男を狂わせるんだ」
 山村にそう言われたときには本当に驚いてしまいました。
 でも、その恋は最悪でした。山村は精神的にひどく不安定で、最後はほとんどストーカー状態……。
 夜道に隠れて仕事帰りの私を待ち伏せていたり、ひどいときには夜インターフォンが鳴って、モニターを見たら彼が家の前に立っていたということもありました。そのつど何とかなだめて引き取ってもらったものの、家族の手前どうしようかと冷や汗が出たほどです。
 山村とはいわゆる「ダブル不倫」の関係だったんです。彼は5歳ほど年下で、まだ学校に上がっていない子どもが二人もいました。
「だからお互い良識ある付きあいをしよう」
 という約束で始まった不倫恋愛なのに、別れ話が持ち上がった時期から、だんだんと彼はおかしくなっていったんです。
 社内恋愛だったから、事態はよけいに面倒なことになってしまいました。もちろん、私から会社の人に山村との関係を話すことはありませんでしたが、彼のほうはこれ見よがしに、見え見えな態度をとるんです。たとえばすれ違いざまに私をそばの給湯室に押し込んで、こう怒鳴ったりする。
「こんなに愛してるのに、どうしてあんたは別れようとするんだ!」
 ところが次の瞬間には私を抱き寄せて、キスしようとするんです。振り切ろうにも、そんなときの私は殴られるかもしれないという恐怖で、金縛りにあったようになってしまいます。
 実際、何度かですが、髪を引っぱられたり、殴られたこともありました。いつまた暴力を奮われるかもしれないという恐怖と、会社の人そして最終的には自分の家族にバレるかもしれないという不安で、胸が引き裂かれそうでした。
 どういう理由にせよ、怒っている彼をなだめて、とりあえずその場を丸く収めることだけで精いっぱいだったんです。

■恐怖心から関係を引き延ばしてしまった

 もっとも、恐怖心からダラダラと関係を引き延ばした私も悪かったのですが、いまから思えば、ほとんど「共依存」というか、DV(ドメスティック・バイオレンス)まがいな関係だったのだと思います。だって二人だけでいるときは、山村は考えられないほど優しいんです。「僕は雪子に夢中なんだ」「いつも一緒にいたい」
 などとささやかれながら抱きすくめられると、
「この人はこんなに私のことを愛してくれる」
 と目頭が熱くなるほどです。付きあうといっても、お互い家庭があるわけですから、仕事の帰りに車で出かけるとか、ホテルへ行くとか、限られた空間と時間しかありませんでした。限られているからこそ美しいというか、その間はセックスも含めて彼は本当にメチャクチャ優しいんです。そんなときの山村はまるで別人です。
 ところが、何かがきっかけでいったん不機嫌になると、態度が急変してしまう。
「あんたのせいで人生がメチャクチャになった!」
 などと言って、怒鳴るは暴れるはで、会社にいるときにみんなの前で見せる人あたりのいい姿は跡形もない。私を殴った後には、
「どうしてこんな事しちゃったんだ。許してくれ!」
 と急に土下座して涙を見せたり、
「こうなったのも自分のせいだ」
 と言いながら自分の顔を殴りつけたり、自分の手にたばこで焼きを入れるときもありました。
 そんな山村を見ていると、恐怖心と同時についついかわいそうになってしまい、
「やっぱり私が別れ話を言い出したのが悪かったのかしら」
 とか、
「別れ話さえなければ、彼は穏やかでいられるのかしら」
とか、はたまた、
「こうなったのは本当に自分の責任なのかもしれない」 とか、いろいろな考えがグルグル私の頭のなかを駆け巡り、なかなか別れるきっかけがつかめませんでした。そんなこと繰り返しているうちに、気づいたら1年が経っていました。

■初めて彼の正体を見せつけられる

 そのころには私もほとんどノイローゼのようになってしまい、
「不倫なんかしたから罰が当たったんだ」
 と真剣に自分を責めました。ゲッソリとやせこけた私を見て、しまいには見かねた会社の友人が、
「明日のぶんは私がカバーしといてあげるから逃げなよ。今日にも辞表出して」
 と耳打ちしてくれたんです。その人に私たちの関係を話したことは一度だってなかったのに、まわりの人には2人の関係がたぶん見え見えだったのでしょうね。
 いずれにせよ、山村は立場上は私より上だったので、私のほうが辞めるしかありませんでした。その話を聞いた山村はみんなの前で、
「雪子さんが辞めちゃうと寂しくなるなぁ。僕が引き止めても言うことを聞いてくれないから、みんなで引き止めてくれよ」
 なんて、調子のいいことを言っていました。そのとき初めて、私の前ではあんな態度をとるくせに、
「結局自分の身がかわいいんだなぁ」
 と彼の正体を見たような気がしました。ただ、仕事を辞めてからも、最初はしつこく連絡がありました。携帯もメールも全部着信拒否しているうちに、ある時点を境にプツリとかかってこなくなりました。さすがにあきらめたのかも知れません。
 そのころは息子たちでさえ、
「お母さん、病気なんじゃないの? 医者に行ったら?」
 と言っていたほど、私は家でも不安定でした。でも、上の息子が、
「どうしたの? 会社で何かあったの?」
 なんて聞くと、下の息子は、
「答えたくないんなら、無理に言わなくてもいいよ」
 と口を挟んでくれました。きっと、本能的に私が隠し事をしているのに気づいていたのでしょうね。
 旦那さんさえも、
「仕事、つらいから辞めたい」
 などと訴える私に、
「どうして?」
 とは決して聞きませんでした。私のほうも、
「職場でいじめみたいなことがあって」
 と軽くはぐらかしておきました。旦那さんはそれ以上事情も聞かずにただ、
「大変だったな」
 とだけ言ってくれました。良識があるからか、それとも私のことに興味がないからなのか、いまも私にはよく分かりませんが……。

■「私が絶対に入れない場所」に暮らす夫
 じつは今朝も、旦那さんが出勤したあと数時間1人で泣きました。掃除をしていたら急に悲しくなってしまって……。
 数年前に家を建てるとき、旦那さんが出した唯一の条件は、自分の部屋をもつことでした。彼はここを書斎と呼んでいるのですが、最終的には自分のベッドも入れて、食事をとるとき以外はほとんどそこで生活しています。 旦那さんにとって書斎は自分の城で、あまり私に入ってきて欲しくない様子……。もちろん私だって勝手に彼の机のなかをのぞく気持ちもないし(第一、机の引き出しにはカギがかかっています)、彼のプライバシーに立ち入るつもりもありません。それでも、
「掃除ぐらいはしてあげなくちゃかわいそうかな」
 と思って、ときどき掃除機をかけたりベッドメークくらいはします。ただ、以前ベッドの上に開いたまま置いてあった本を机の上に戻しておいただけで、露骨に嫌な顔をされました。
「本は勝手に触らないでくれ」
 って。いっそのこと、
「書斎の掃除はしないでくれ」
 と言ってくれたら、二度とあの部屋に入ることもないだろうに、旦那さんもそれは言わない。それを言ったらおしまいだと思っているのか、それとも掃除だけはして欲しいからかは分かりませんが。
 いずれにせよ、
「入るな」
 と言われない以上、そこだけ掃除しないのもかえって空々しくて変だし、結局いつもパパパっと掃除機をかけて、ベッドメークして、「はい、おしまい」という感じ。 書斎のドアをそっと開けると、同じ家のなかなのに、そこだけ違う空気が流れているんです。旦那さんの匂いと積み上げられた本の香り……。そのドアを開けるたびに、
「私が絶対に入れてもらえない場所に彼は生きているんだ」
 という明白な事実を見せつけられる気持ちになります。「これから先もこの距離は決して縮まることはないんだろうな」
 と思ったら急に悲しくなって、もっていた掃除機を投げ出して、自分のベッドに駆け上がって、そのまま突っ伏して泣きました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/筋肉痛 ゴネ得 身だしなみ

■月刊「記録」1998年9月号掲載記事

○月×日
 JR中央線を乗務する四つの車掌区(三鷹、新宿、立川、八王子)の国労分会交流会として、今年もまた橋本(横浜線)社宅のグランドでソフトボール大会が行なわれた。毎年のことなので、誰がどの程度の実力かを皆知っているし、勝ち負けよりもいい汗を流してリフレッシュすることが目的なのはいうまでもない。
 ここ数年ロクにスポーツなどやっておらず、年に1、2度こうした催しに参加するだけとなってしまった。運動は運動でも組合運動はスポーツとは違うものね。
 私の守備は「ライト」だった。9つあるポジションのなかで、最も「正しい」位置だと理解している。一番打球が来ない所だと思われがちだが、そんなことはない。上手い人は流し打ちをしたりするから結構大変なのだ。小さいころから運動は得意な方で、勘をつかめば何でもこなせると思っていたのだが、それにしても悲惨だった。 打球を必死で追いかけると、足がもつれて転んでしまう。何とかキャッチしてもすぐに投げられない。慌てて投げるととんでもない方向にボールを放つ始末である。しかし「斎藤はライトなんだから」と皆許してくれる。 こうなったら打者として汚名を挽回するしかない。バットを短く持ち、うまく合わせてヒットを狙う、などというセコイ手段はとらない。力の限りの豪快なスイングで一発逆転勝負なのだ。しかし大振り空振りばかりで、おまけに振り抜いたあげくに転んでしまうのであった。さすがにホトホト情けない。
 それでも私はチャンスを逃しはしなかった。ジャストミート! 会心の当たりである。物凄い手応え。これが私の実力なのだ。まさに『巨人の星』のごとく、火を吹くような勢いで打球が三塁線にスッ飛んでいった。「やったね」と思いながら、またもバッターボックスに転んでいた私であったが、即座に体勢を整え、一塁に向かって走り出した。だが、レフト前に転がっているはずの打球はすでにファーストミットの中にあり、塁に駆け込んだ私は「アウト」と宣言されたのだ。三塁手のファインプレイだった……。
 体力の衰えを痛感しつつ、七転び八起きしながらも、ケガもなく楽しい一日を過ごせたことに感謝しよう。それにしても、これはリフレッシュといえるのだろうか。この後数日間、全身の筋肉痛というお土産に悩まされるのに。

○月×日
 「君がイエスと言えば、僕はノー、君がストップと言えば、僕はゴー、いったいどうなっちまってんだ」。
 今にも全身でリズムをとってしまいそうな、軽快で分かりやすいビートルズのロックナンバー『ハロー・グッバイ』である。
 JR会社が「やりなさい」と言えば、国労は「やらないよ」と答える。ん? そんなことはない。やるべきことはすべてキチンとやっている。
 11部が「JRに責任はありません」と言い、19部は「ありますよ」と言っている。11部は「国鉄とJRの同一性は疑問がある」としながら白黒ハッキリさせた。いったいどうなっているのだ。裁判長の顔も苦渋に満ち溢れていることだろう。
 いずれにしても国労敗訴だが、分割・民営化というのは国労解体も一つの目的であり、そのための改革法だと考えれば分からないでもない。東京地裁はJRに花を持たせたといってもいいだろう。
 私には裁判所もJRのおエライさんも滑稽に見えてしょうがない。なんでそんなに権威を振りかざさなければならないのか。もっと人間らしく素直に正直に振舞えばいいのに。私達労働者はいつも飾らずありのまま堂々と生きていきたいものである。
 「君はグッバイ、僕はハロー」。ビートルズに今夜も乾杯。明日はきっとよくなると信じよう。

○月×日
 参院選が終わった。「投票に行こう」とマスコミが煽ったお陰か、投票率は過去最低だった前回の44・52%から58・84%へ大きく回復した。
 結果は自民党が大惨敗、民主党、共産党が大躍進を果たした。肝心の社民党がボロ負けしたのは自民党と連立を組んできた批判と受け止め、出直しの第一歩であることを願い今後に期待したい。
 さて民主・共産両党の大躍進だが、自民党政権批判の受け皿ともとれるが、民主党についていえば、寄合所帯で決して一枚岩でない。近い将来分裂することが十分あり得そうで危なっかしいったらない。
 橋本首相は辞任を表明したが、私としては中曽根さんにもう一度首相になってもらい、キチンとあの時の責任をとって頂きたい。野党が勢いづいて政権交代を要求し、衆院解散・総選挙も予想されるが、すべてが流動的であり、なにより国民そっちのけの政局混乱が一番心配である。
 それにしても社民党、民主党、新社会党と、政党の名前もコロコロ変わってしまった。別に昔のままでもよかったのではと思う。国鉄、国労もしかりである。

○月×日
 5月28日の不当判決以降、さまざまな集会や書面を見るたびに目が覚める。その都度はらわたが煮えくり返り、怒りを禁じ得ないが、私は思った。強く激しく思ってしまった。
 闘争団と私達国労本体との微妙なズレ(違い)のことである。闘争団にしてみれば日々切実な問題も、私達は日が経つにつれて忘れていく。これは仕方のないことなのだろうか。
 判決の瞬間のショックと落胆は誰もみな一緒だったと確信する。この晩、闘争団家族の上京団に対して行われた個別学習会で、宮里弁護士は「皆さん方の11年間の思いを勝訴という形で実現できなかったのは痛恨の思いである」と声を詰まらせ、闘争団家族と悔しさで涙したということも聞いている。
 しかし、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。総学習と総団結により、判決にひるむことなく、高裁控訴という新たな段階を力強く歩み出す他はない。私達の弱味につけ込む自民党の「三条件」などの不当介入に対しても、私のように振り回されてはいけないのだ。
 闘争団の家族、横田文乃さん(釧路・13歳)の作文を拝見した。
「私は学校から帰ってきて、いつものようにテレビを見ていると、国労のことがニュースに出たので、お父さんが出るかなと思って見ていた。するとJRの勝訴と流れた。ずーっと見ていても何がなんだか分からなくてチャンネルを変えてみたら、私が去年の三月に作文を読んだ東京地裁の前で、おばさんたちが泣いて話しているのを見て、国労が負けたことが分かった。(中略)私は急にお父さんのことが心配になった。(中略)お母さんに聞くと「お父さんは強いから大丈夫よ」と言ったのでホッとした。そしたら急に腹が立ってきた。JRと国鉄は同じだ。子どもの私でもそんな簡単なことは分かるのに 、どうして立派な大学を出た大人がそんなこと分からないのだろう。お父さんたちにはがんばって勝ってほしいと思います」
 その通りだね。私はこういうのに本当に弱い。「よしわかった。何も心配することはないからね」と言いたくなる。
 「ゴネ得は許さない」とよくいわれるが、竹本妙子さん(烏栖闘争団家族)も言っているように、「ゴネる」とは生活の基盤があって初めてできるものではないか。ゴネているのではない。自分たちの失敗でこのような状況に置かれたのではなく、これは国家とJRの不当労働行為の結果なのである。そもそも後ろ指を指されるような話ではないのだ。
 国労は負けてない。しかしまだ勝ってもいない。もう一踏ん張り。勝利するまで心を一つに闘おうではないか。
○月×日
 暑い一日だった。お決まりの昇進試験(一次)が行われた。
 試験後のビールを飲むために公休を潰して集まるようなものだと考えている国労組合員も多い。
 試験は誰もが合格しそうな非常にやさしい内容だったが、国労員の不合格率が圧倒的なのは今年も変わらないだろう。私は昨年一次に受かっているので、教養などこれっぽっちもないのだが、最後に行われる「一般教養」が免除となった。といっても、これは皆より一足先にビールにありつけるくらいで、特にメリットというほどのものではない。
 それにしても解せない問題が一つあった。JR職員としての「身だしなみ」についての設問で「髪を染めてよいか、悪いか」というものである。いいか悪いかを選べとある。
 決して全面的に公定するわけではないが、髪の毛が赤でも黄色でも緑でも、肝心カナメの「出発進行」をキチンと厳正に行えるなら、今どきやりたきゃやらせればいいのではないか。けれど世間の常識からすれば「悪」というイメージが強いのだろう。
 実は私の同僚にも髪を染めている人は結構いる。それでも咎められることは絶対にない。なぜなら白髪を黒く染めているからだ。さあこの場合、正解はどっちだ。問題を作成したセキニン者は前に出なさい。

○月×日
 八王子からJR中央線で三鷹まで出勤し、乗り出しが下り高尾行きだったりする。別に家に忘れ物をしたわけでもないのにまた戻らなければならない。
 ――トウキョウは私をテッテ的にイジメたいのだった。「私はたった今上がってきたばかりなのであります」
「するとお前さまは八王子方面には行きたくないと言いたいのだね」
 塩をかけられたナメクジのように私の脳ミソは溶け出し始めている。「先生、早くシリツをして下さい。私は死ぬかもしれないんです……」
 とまぁ「つげ」風に書くとこんな感じか。BOX東中野で「ねじ式」を観た。漫画界の異才、つげ義春の同名作品の映画化である。
 売れない若い漫画家の妄想的な「超」現実世界。暗く貧しく無気力で、冴えない日常生活。内縁の妻に裏切られ、一人あてもない旅に出る。そこで出会うさまざまな女性との奇妙な体験。生々しくきわどいエロスがこれでもかと炸裂する。内容は次第に非日常の白昼夢のような世界へと突入していくのだ。
 もう二十数年前のことになるが、私はつげ義春の作品はほとんど読んだ。意表をつく発想で妖しげな表現が多かったが、どれも不思議と安堵感が漂っていた。彼の描く海や山の田舎の寂れた風景や、貧しさというものが人間の根幹をなすからだと思うが、何もかもが不安定で排他的だった当時の私に妙にマッチし、すっかり虜となった。
 映像は原作に忠実で、ストーリーは分かっているのに、やはりノスタルジックな気分へ誘われてしまった。あてもなくフラリとさまよいたい衝動に駆られたが、現実に縛られてどうにも身動きがとれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »