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サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/やる時はやる斎藤だ

■月刊「記録」1996年5月号掲載記事

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■建て前と本音

「国労組合員は、今後の労働運動の再構築を願うゆえに国労に集結している。それゆえ今は昇進や昇級試験での差別など、あらゆる差別にじっと耐え忍んでいる。労働運動がその機能を果たすことができないでいる世の中では困るのだと考えているからこそ国労で踏ん張っているといって良い」――。
 これは最近ある労働運動誌に載っていた国労組合員の投稿である。竹を割ったような実にスカッとした的を得た内容だと受け取れる。氏の意見におそらく労働運動のリーダー達は喜ぶだろうが、現場の一般組合員である私には単なる理想論としか伝わってこない。理想を求めるのは人間の正しい姿だと思うからいいのだけれど、現実とはかけ離れすぎている。
 氏は国労の中にいながら周りが見えていないのではないか。もちろん一般組合員の中にもこのような闘魂あふれる実直な気持ちを抱いている人も少なくない。だが誰もが闘士とは限らないのだ。ほとんどの人はあえて労働運動には触れず、仲間同士で励まし合い助け合い、人間として当たり前の日常を重ね生きてきたに過ぎない。私のようなカルイ層の中にはいまだに「国労なんて」と心が揺れ動き、今にもフッとどこかに消えてしまいそうな人もいる。一進一退というより意気消沈といったムードが大勢を占めている。
 たとえば、私の仲間との会話といえばこんなものである。
「今の構図(東鉄労=革マル支配による会社一体となった国労敵視・差別)は10年、いや20年は変わらないだろうな」
「その頃は定年でいないよ」
「いまさら出世など望んでいない」
「生活は苦しいけれど今の給料でなんとかやっていけるし」
「試験なんてクソクラエだ」
「動員?パスね、よろしく」――。

■高齢化問題が国労にも

 国労の年齢構成は40代50代が圧倒的に多く、新採の若者などゼロに等しい。活気のないオジサンがなんとも多い。すべてがとはいわないが、国労の一般組合員は組織こそ堅持しているものの、労働運動そのもには無関心になりつつあり、弱体化していることは否めない。定年退職による国労自然消滅をもくろむ会社側には思うツボだが、悲しいかな、これが実情なのである。
 職場から運動が巻き起こり盛り上がりをみせることはまずない。機関からの指示に従うだけで、しかも動く人はいつも限られている。これでいいはずはないが、私は「いいじゃないか」というのが正直な気持ちなのである。普段の勤務で他人を思いやり苦しみをわかち合っている仲間達をそのことのみで否定はできない。
 戦後政治の総決算と位置付けられた国鉄の分割民営化は、日本の労働運動を解体するという意味合いが非常に強かった。そのためには、戦後労働運動史上一貫して中核を担ってきた国労をなんとしてでも潰さなければならなかったのだ。
 国鉄当局は国家権力と一体となり、マスコミをも総動員して攻撃を仕掛けてきた。国労を、国鉄労働者を国賊に仕立てあげてまで、来る日も来る日も国労潰しに明け暮れたのだった。雇用を盾に、転勤や昇格を餌に陰湿このうえないイジメや恫喝で国労脱退を強要する。国労を陥れるためなら何でもやった。たとえば、駅長や助役との公論の最中に暴力をふるった(実際はやっていない)とウソの診断書を作り、あることないことをデッチあげ何人もの労働者をクビにまでしたのだ。
 挙げればきりがない。普通の神経では考えられないような問答無用の蛮行が白昼堂々平然となされ、全国の国鉄職場はまさに無法地帯同然といってよかった。100人以上の仲間が死に追いやられ、国鉄の問題が新聞に載らない日はないほどだったが、国民の大半は無関心だったと私は思う。「意識改革をしろ」「これが企業人教育だ」といったマインド・コントロールはオウム顔負けだったかもしれない。人権などなかった。24時間安らぐ間もなかった。私達はまるで虫ケラ同然に扱われていたのである。

■逞しい男達よ

 私は職場でイヤなことがあるとグッと抑えて心の中にしまい込む。「おぼえてろォ、おうちに帰ったらお母さんに言うからナ」などと呟きながら帰宅するのだから、パッパラパーと見られても仕方ない。好きな音楽を聴きながら酒を飲み妻を相手にくだを巻く。しまいにはちゃぶ台をひっくり返し(ウソ)酔い潰れてしまうデレオヤジ(ホント)なのである。
 自分の時間で動員など行きたくない。「団結ガンバロー」と拳を振り上げたりデモ行進というのがどうも好きでない。それなのに皆と一緒によく出掛けたものだ。あれだけ異常な労務管理の中で私も気がヘンになりそうにもなったが、初めからヘンだったからか、醒めていた部分もあった(冷静とは違う)。だから私には見えていたのだった。健気で真摯な労働者の姿が‥‥。電車が毎日正常に動いているということが驚きだった。国民の足として1日も休まず無事故で走り続けたのである。涙が溢れそうになるッツーか。な、そうだろう。凄じい攻撃の中でだよ、泣けるじゃないか。「逞しい男達、国鉄労働者よ」。これは手前味噌ではない。私はこのような先輩や同僚の足元にも及ばない。
 いずれにせよ、国労から去ることはせず国労の旗を守り抜いた仲間達である。誰もが全てを忘れてはいない。不当なことは許せない。おかしいことはおかしいのだという気持ちは一つなのである。無関心であれば進歩も発展もないのはいうまでもないが、前にも述べたように「いいじゃないか」なのである。さまざまな人がいていい。私はとやかく言わない。いざとなったらやる。協力もしてくれるし力にもなる。「国労に残る」と自分で決断した時のように。捨てたもんじゃない。やる時はやるのだ。

■6850億円と28兆円

 人間として至極当たり前のことだが、困った時には相談に乗り弱い者を守っていく。それが労働組合である。生活の維持・改善、経済的地位の向上という定義があるが、私は小難しく考えない。誰だって辛かろうが差別されようが人間としてこの一線だけは譲れないという強い思いがあると思う。労働者の首切りを認めて組合といえるだろうか。一人の首切りも許さないというのが組合の生命線ではないのか。突き詰めれば、人権と平和と民主主義を守るために闘っている。私はそれほど深く考えてはいないが、それが国労であると信じて疑わない。
 また、国労は怠け者集団などと聞き捨てならぬことを耳にするがそんなことは決してない。分割民営化という大困難に立ち向かい、労働組合としてまっとうな闘いを進めている最中に、組合としての任務も労働者の良心もかなぐり捨てて転向した集団こそ怠け者ではないのか。違うだろうか。国労は労働組合として正道を歩んでいる。国労は闘い続ける。不当労働行為や差別が根絶され組合員一人ひとりが報われる勝利の日まで。
 今年は国鉄分割民営化10年目を迎える節目にあたる。政府もプロジェクトを設置し諸問題「見直し」の検討に入った。再び国鉄問題が国民の前に浮上し論議が巻き起こる。国鉄精算事業団の長期債務は住専の6850億円とは比較にならぬ28兆円ということである。これもやがては国民負担として回ってくるのか。紛争の全面解決に向け正念場、最大の山場という言葉は聞き飽きたが、まさに国労の命運をかけた1年になるだろう。皆精一杯頑張ってきたとつくづく思う。自身と誇りを持とう。あともう少し。一糸乱れず一致団結、意気揚々と行こうではないか。 (■つづく)

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