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元信者が視るオウム的社会論 第22回/本物の修行

■月刊『記録』99年11月号掲載記事

■いい加減な教団のまともな修行

 世の中にはたくさんの修行法が存在します。その中にはまがいものも混じっていますが、絶大な効果を上げるものも存在するのです。
 オウムで行われていた修行法にもすばらしいものがありました。その一つに浄化法(クリやヨーガ)というものがあります。ご存じの方も多いと思いますが、塩水を飲んで吐いたり、鼻に紐を通したりする修行です。僕は今でも、二日酔いや鼻詰まりのときに実践しています。効果抜群ですよ。
 しかし、この浄化法にしろ、他の呼吸法や暝想法にしろ、本来これからの修行法は「オウムの修行」と呼んではいけないものでしょう。これらはほとんどインドやチベットの経典からいわば「盗んだ」もので、オウム独自のものではないからです。
  「いい加減な団体」のなかで「本物の修行」が行われていたことに、オウムの問題の本質があるように思われます。

■いざ滝行をしに大自然へ!

 さて、僕は今でも自分が「修行者」であることを自覚するようにしています。オウムのように一個人や組織に依存していた「修行者」ではなく、本当の意味で自立した「修行者」としてです。
 その修行の一環として、オウム脱会後、よく一人で山ごもりをしてきました。オウムではサティアンの中などで終日過ごすとことが多く、自然に触れる機会がなかったので、無性に接したくなったのだと思います。
 一人で山にこもっていると、恐怖に襲われたり、無性に寂しくなったりしますが、それらを克服して自然と心身ともに一体化すると、今まで体験したことがない心の広がり、充実感を味わうことができました。
 そしてよく滝を浴びています。滝行というのは、もちろんオウムにはない修行法ですが、オウムのどの修行法にもまして効果的な修行法ですね。
 山奥の水は夏でも冷やりとするものですし、勢いの激しい滝では自分が押し潰されそうになる恐怖を感じますが、それらを克服して一定の時間浴び続けると、滝の轟音で現実感はかき消され、一種のトランス状態に入っていきます。そして全身がものすごい快感で包まれていくのです。恐怖も苦痛もなくなり、自分が自然と一体化した喜びがフツフツと沸き上がってきます。滝を出る頃には全身の細胞が生まれ変わり、心には何の屈折もなくなってしまいます。
 オウムの修行はあまりにも自然と接するものが少なすぎました。一日中、部屋の中で集団で修行しているから、閉鎖的になってトンデモないことを考えてしまったのでしょう。
  「滝行」は、いまだオウムに残っている現役信者に是非とも体験してほしい修行です。(■つづく)

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