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保健室の片隅で・池内直美/第七回 帰れる場所

■月刊「記録」1998年8月号掲載記事

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■三人三様の意見がある

 現在、かなりの数の子ども達が、不登校や保健室登校をしているといわれる。その本人や親達が、私のところにいろいろな相談を寄せてくる。よき相談相手と思ってくださっている方が多いようだ。
 私が不登校の子どものために作った、交流を目的にした小冊子が、どうやらきっかけとなっているようだ。この冊子はマスコミに取り上げられたこともある。
 親、教師、子ども、それぞれの立場から話を聞いていると、三者三様に意見がある。ただ、そのなかで同じ言葉があるとしたら、誰もが「自分には安らげるときがない」といっていることだ。
 教師は、一クラスに在籍する生徒の人数が多いうえに、第二土曜と第四土曜日が休みになったことにあわせ、会議やら何やらで生徒の一人一人に目を配ることができない。不登校予備軍の生徒がいても発見できないだろうと嘆く。
 親は、自分の子に限って登校拒否などとは無縁と思っていたのに、突然学校に行かなくなって混乱している。理由もわからず、そばについていなければならないのがわかるのに、仕事があってできないという。
 子どもは、自分が学校に行かなければ親が悲しむ。でも行くと心が破裂しそう。だから家でも学校でも心休まるときがない。みんなと同じように行くことができたら、どんなに幸せかと訴える。
 親と教師の順調な生活は、子ども(または生徒)がきちんと学校に行き(または登校し)、目立った問題も起こさず素直に勉強して帰ってくれることを前提にして成り立っている。だけどそれは、子どもの思いとまったく正反対の方向を向いている。だってそれじゃ、まるでロボットじゃないか。だから子どもの心に圧迫がかかってしまうのだ。
 そもそも子どもが、なんのアクシデントもなく通学していけることを当然に思っているのが間違いの始まりだ。学校に行きたい子どもは義務教育にしたがっていけるが、それは行きたいからなだけ。行きたくない子どもには、問題が生じて当たり前だ。なのに世話をかけられても忙しいから面倒見られないというのはひどい。
 ならばせめて、子どもが立ち止まっていることを許してほしい。「行きたくなければ学校へ行かなくてもいい」。そう思える大人が周りにいる子どもほど、心にゆとりを持っている子が多いように思える。

■義務教育は誰の義務?

 子どもが学校へ行かない日が一年、二年と続き、親の心に焦りが消えてきたとき、ほとんどの親が同じ考えを持つようである。「義務教育の義務は国にとってのものであって、子どもに与えられているのは学校に行き、学ぶ権利である」という考えだ。
 つまり義務教育よりも、「権利教育」を訴えるようになるのである。
 人は日常のなかでも、自然のなかでも学習することができる。たとえばアリを追い、アリの行動をじっとながめる。チョウを追い、チョウと花の関係を知る。日記を書けば、自分と向かい合う方法も知る。それらは学校で学ぶよりもずっと自分のためになる。
 親は徐々にそう思えるようになるようだ。だが、学校の先生は、どうもそうはいかないらしい。時間がたてばたつほど、とにかく学校に来られるようにするため一生懸命になる。
 たしかに学校でなければ知り得ないこともたくさんある。でも、熱心なあまりストーカー状態になってしまう先生や、突然、見放すように冷たくなり、暴言を浴びせる先生もいると聞く。
 あるお母さんからの手紙には、保健室登校をしている子どもが、授業参観日だからとやっとの思いで教室に行った。授業は進路の時間だった。だが、その子に対して、先生は冷たく、「教室に来られない生徒には、高校を受ける資格はない」と三回もいったという。親のほうも居づらい時間だったと記されていた。
 こういう先生に思い出してほしいのは、教育実習生のときにどんな工夫をして授業をしたか、どんな思いで教師になろうとしていたかだ。
 今、教員になるための試験はとても難しいと聞く。その難関を突破した先生に、心がないとは思えない。思いたくない。
 もちろん学校が悪いとか、家庭が悪いとか、そんな簡単な割り切り方では、解決しきれない心の奥底の問題が、不登校の子どもにはあるだろう。マスコミを含め日本人は、どこかに犯人を求めたがる考え方をする人が多いが、被害者や加害者を仕立て上げて、解決できないことはたくさんある。
 たとえば私が学校を嫌いになった要因はたくさんあった。体罰をする先生を見たこと。イジメがあったこと。おとなしそうな子をつかまえて、クラス全体で精神的に追いつめる儀式のようなことが繰り返されていたのを目の当たりにしたこと。いつだってドキドキして、次は自分の番になるのではないかと考えていた。それがこわくてイジメる側に回る。そんな自分が一番嫌いだった。そう思っていたのはきっと私だけではなかっただろう。
 誰もが加害者であり、いつでも被害者になり得た。その緊張関係が苦しかったし、見たくなかった。それは先生も親も同じなのだということが、最近になり、それぞれの立場の人の話を聞いていて、一応私にもわかった。 学校に行けない状況が作られた場所は、どうやら単に学校のようだ。なるほど、学校に行けない子どもに、学校はどういうところだと思うか聞いてみると、「本来の姿を失ってしまっているところ」と答えた。

■なぜ学校に行けなかったのか

 では、学校はどんな所であるべきなのか、どういうところであってほしいのか。
 まだ、全日制の高校に行っていた頃、私はカウンセリングを受けていた。そこで担当のセラピストの人から、生涯忘れることのできない一言を聞いた。それは「人には、帰れる場所がたくさんあります」という言葉である。
 そうして私は行きづまったとき、母校である中学校の保健室に帰った。
 当時のことを詳しく書いた本が出版された。すると、いろいろな人から、行きづまって母校に帰ったのはなぜかと不思議がられた。自分ではそんなに不思議に思っていなかったのだが、なぜ保健室登校をして、学校を拒否していた子どもが母校に帰ったのかがわからないというのだ。そういわれてみれば、たしかに不思議かもしれない。
 不登校の子の家庭を何度か訪問したことがある。話していてわかるが、その子どもだって学校には行けるのだ。学校に一緒に行って、校庭で遊んで、担任の先生と話をして帰ってくることはできるのだ。
 なぜなら不登校の子が入っていけないのは、学校そのものではなくて、学校や教室に満ちていた緊張感なのだから。私のなかにある学校そのものがもつイメージは、友達がいるところ、人が笑顔になる空間だ。自分は笑えなかったけれど、笑っている人々の笑顔は、見ていてホッとしたし、学校にはその印象がある。だから時間がすぎてしまえば、遊びに行きたいと思えるようになる。
 そしてそのイメージが、学校がこうであるべき姿に一番近いのではないだろうか。
 学校は行かなければならないところだとか、単位がどうだとか、そういうことの前に、生徒が自分に合った自然な姿で、笑顔でいられる場所に、学校がなれればいいと思う。今の先生も教師を目指したときには、そういう教室を作りたいと思っていたのではないか。

■さまざまな意見を知るのが教育

 子どもを学校に行かせたくてしょうがないお母さん。そんな母親に私は、フリースクールを見せてあげた。
「スクール」というから、学校の単位を取れると思っていたようだが、そこで単位を取ることはできない。人としての心を身につけることが目的だ。そこには「心と生」が満ちあふれている。
 本当は、学校で行われることが一番いいはずの心の教育が、学校ではなされない。でも、家のなかでできるかというと、できないことはないが、足りないものが多い。同年代の仲間と一つの社会を一緒に作っていく体験は、家族ではできないのだから。
 たくさんの子どもから寄せられる手紙に、何かを見つけに今まで見たこともないところへ行ってみたいと書かれていたものが何通かあった。また、留学したいので親を説得してほしいと書いてくる子もいた。説得のときに、私についてきてほしいという子もいた。
 でも、「日本で何もできない子が、外国に行って何かできるものか」という考えを持っている人と話をしたこともあった。いじめに合って対人恐怖症になり、それでも違う自分を探しに海外に一人で行こうと勇気を出している子どもに向かって、「どうせ何もできやしない」とはじめから決めているその人は、どうみても他人にいわれるままに生きてきた人だった。失敗を恐れる人だった。
 もしも海外に行ってやり直せなかったら、もっと傷つくといわれたが、果たしてそうだろうか?
 学校に行けない子どもが、お母さんと翌日の遠足に行くと約束して、朝までは行く気でいられたが、結局家を出ることができなかった。親がショックを受けた以上に、彼女のショックは大きかっただろう。それでも彼女は、そんな経験から得たものを生かしてがんばろうとして、私に手紙をくれている。
 人は、経験からたくさんのものを得る。楽しかったこと、嫌だったこと、うれしかったこと、悲しかったこと、そのすべてからたくさんのものを得て成長している。 たぶん世の中には、これは正しくて、これは正しくない、などというものはないに違いない。みんながそれぞれの意見を持ち、意見と意見を足したり引いたり割ったりして、自分のものにしていく。加害者も被害者もないように、最初からわかっている失敗も成功もない。それを学ぶのが『心の教育』なのだろう。そういうことが許される空間に学校がなればいい。

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