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元信者が視るオウム的社会論 第4回/消費社会の不安に耐えられるか!?

■月刊『記録』98年2月号掲載記事

 皆さんもご存じのように、麻原影晃は信者に対して「極限の布施」と称し、全財産の教団への寄付を命じていました。結果的に谷さんの拉致事件で警察権力の介入するところとなり、それを防ぐために地下鉄サリン事件をさらに引き起こして、かの強制的な「極限の布施」システムは、オウムもろとも崩壊へと導かれましたが。
 さて、脱会後自分で調べたのですが、このオウムの「極限の布施」のやり方は、伝統的な仏教思想からも、オウムが強く影響されていたチベット仏教の伝統からも誤りであることがわかりました。例えばチベットなどでは、たしかに出家者は無一文になりますが、財産は教団に捧げるだけでなく、貧しい人に分けたり、家族のために残したりしていくそうです。
 ところで、ここで考えなくてはいけないのは、当時の僕も含めて、オウムの信者たちは何故その「極限の布施」のシステムに甘んじて乗ったのか、です。
 よく宗教者は「お金だけではない、心の平安が大切だ」と口にします。しかし、今の日本においては、「お金」なくしては「心の平安」も得られないシステムがすでに完成しつつあります。戦後に興った消費資本主義は、かつてない豊かな「消費」を可能にしましたが、逆に「消費」のために耐えねばならない底知れぬ不安を現代人に植え付けたのです。一生続く住宅ローンの苦しみ、けれど背中合わせのリストラへの不安、そして自分に合わない職場に仕方なく耐えねばならない人たち・・・・・。彼らの「心の平安」は、いったいどこにあるのでしょうか。
 僕がオウムに出家したときは、大学生の身分だったので、手元にあった微々たる金銭と家財道具ぐらいしか布施できませんでした。けれど意外にも、すがすがしい気分を味わうことができました。そしてこれからは衣・食・住について、まったく心配しないで精神的な鍛練に没頭できるんだ、という安堵感がありました。
 こう言うと「だまされたくせに何を言うか」とおっしゃる人がいるかもしれません。そうなのです、たしかにだまされました。しかし、ただ単にだまされただけでなく、僕は自分を縛り付けている消費経済の鎖から自由にもなりたかったのではないかと、いま思うのです。
 麻原影晃は「現世(現代社会)の快楽(つまり消費の快楽)は虚しい」と説き続けていました。この言葉の説得力を否定しきることができるかと問われると、いまでも考え込んでしまいます。そして消費経済にどっぷりと浸かっている、いやそれだけでなく、いま、こうして仕事で情報誌に記事を書くことで消費を煽ってさえいる立場の我が身を振り返ると、複雑な気持ちになってしまいます。(■つづく)

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