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北朝鮮と新潟 第7回/「日本」と「南北コリア」の壁を乗り越えるために

■月刊『記録』06年2月号掲載記事

 新潟港でコメ袋を万景峰号に積み込んで、北朝鮮の元山港に運ぶ。主な支援先は、保育園や幼稚園など。「支援などしても、貧しい階層に届いていないだろう」との支援活動への疑問の声が日本国内であるが、川村さんは「視察してきちんと届いていることを確認している。追跡調査などができないところには支援をしていない」と言う。かつて日本政府が実施していた食糧援助は、北朝鮮政府の食糧計画に組み込まれ、軍部や炭鉱労働者など主要産業や重要ポストを担っている人間から順に食糧が配付されていたため、食糧の行き渡る範囲が狭められていた。それだからこそ、川村さんの行なっている「顔の見える」食糧支援は、北朝鮮の貧しい人々を支えるという意味で重要な役割を担っている。北朝鮮への経済制裁によって、万景峰号が新潟港に入港できなくなれば無論、川村さんの活動は阻まれることになり北朝鮮の子どもたちは多くが死に至ることになるだろう。北朝鮮へのアメリカ、日本政府の敵視政策が、北朝鮮政府を追い込みその国内の人民を死に至らしめるのだ。
 米どころ・新潟に漂着した元肥料製造会社社員のクリスチャンという川村さんがいなければ、このNGO活動がなかったことを考えると、人間の運命というものはつくづく不思議なものだと私は思う。この世に生を受けたときから、このようなNGO活動に取り組むというように彼が導かれていたかのようだ。
「余裕ができて過去を振り返ってみて初めて、信仰によって生きる道を作られていたんだなと思ったよ。宗教の選択は全くの偶然だが、潜在意識のなかに方向付けがあったのかもしれない」
 北朝鮮への食糧援助にとどまらず、今後は「人材も派遣しようと考えている。ヒトを送ることで交流を活発にしたい」と「モノからヒトへ」の方針転換を図る。日朝が国交正常化しない限り、拉致問題の解決も一向に訪れないという立場だ。
「食糧だけ贈ればいいというわけではない。友好姿勢にならなくては。相手国への同情が生まれて初めて、架け橋がかかる。自分はその橋渡しをするための、引き継ぎ役に過ぎない」
 やや謙遜気味に自分自身を語る川村さんは、自らのライフワークを「日本海に落ちる一滴のしずくみたいなもの」とする。しかし、日本国内の現状がこのままでは、彼の活動は本当に「一滴のしずく」のままに終わってしまう。「一滴のしずく」を真に「しずく」にしないためにも、われわれは「変わる」べきだ。
 新潟では、北朝鮮に経済制裁を発動するのではなく、交流を通じて拉致問題の解決を図ろうじゃないかという考えを持っている人間は、想像できる通りあまりに少ない。「交流派」の人間は数少ないが、彼らが出会う場が共通しているのだろうか、親密に結びつき合うことで横のネットワークを形成している。川村さんから派生して、芋づるのように「交流派」のネットワークが築き上げられているため、川村さんを掘り当てた私は彼の人脈をたどることで金子博昭氏に出会うことができた。

■さまざまな人たちとの交流をめざして

 金子氏の自宅を訪問した時、彼は、休耕田で援助米を育てている川村さんといっしょに早朝からの農作業をやり終えてちょうど帰宅した矢先だった。彼は白のポロシャツに短パンといったラフな服装で私を迎えてくれた。私は勧められるままにあつかましく彼の自宅に入り込んでしまった。「窓からのぞくと君が外で手を振っているものだから、気がついたら家の中に上げちゃってたよ」と笑みを漏らす。農作業で流した汗を手ぬぐいでふき取りながら、コーヒーを差し出してくれた。
 金子氏は、日本人と南北コリアの人々の交流会「びびんば会」を、市内の会館などを利用して開催している。北朝鮮と韓国を南北コリアと呼ぶことにこだわるのは、北朝鮮と韓国は一つの国であるという理念が彼にはあるからだ。会の活動は公的なものではなくあくまで個人的な活動であって、自身の職務とはまったく別物であることを、会の紹介をする際に彼はまず断りを入れた。
 慎重な姿勢は、金子さんは新潟市役所の総務局国際文化部に勤務しており、市の職員として公務で交流会を開いているように受け止められると不要な誤解を招くことになるからだ。例えば、私的な交流会として開いている場にもかかわらず、この会を彼が公務で行なっているかのように受け取った人が新潟市にクレームを寄せるという場合が考えられる。この場合、クレームは新潟市職員の行なう公務が篠田市政の方針と異なっているのではないかといった趣旨となる。だが、あくまで金子さんは職務を離れて、一市民として交流会を開いているに過ぎない。新潟の「暗い影」が彼に不要な慎重さを要請しているこの状況は、新潟が「閉ざされた」方向に向かって邁進している、何よりの証左なのかもしれない。
 2002年9月の日朝首脳会談を経て拉致された日本人5人が帰国して以来、国交正常化なんてとんでもないという方向に日本国内の世情が傾き、北朝鮮に対するバッシングがすさまじい勢いで報道されるようになった。そうした情勢の下で、新潟市主催で「韓国フェスティバル」が開かれたが、金子さん個人の考える交流の方向性は異なった。
「政治のガチガチしたところから眺めるのではなく、もう少し軽い視点で何か楽しいことができやしないか」
 そのように思い至ったとき、私的な交流会として03年3月に「びびんば会」を設けた。会は、職業は学生から会社員まで、民族も在日韓国・朝鮮人、日本人とさまざまな人たちが参加している。会の名称には、さまざまな材料がかき混ぜられて混交し合ってこそビビンバがうまいのと同様に、日本と南北コリアの人々が混在することによってよりおいしい味を出していく交流会にしていきたいとの思いが込められている。
 会は緩やかさを基調としており、北朝鮮の怪獣映画「プルガサリ」などの映画鑑賞のほか、雑談などをして時を過ごすという。そうした活動に加えて、03年12月には「南北コリアと新潟のともだち展」というタイトルの絵画展を新潟市内で開催した。展示されたのは、新潟朝鮮学校の小学生が描いた絵画、およそ80枚ほどだ。この展示会は、日本国際ボランティアセンター(JVC)の主催する「南北コリアと日本のともだち展」の一環である。02年6月に北朝鮮の平壌でも開催された。「びびんば会」での活動を「少しでも北朝鮮との交流に近づけたい」と会のメンバーが考えた結果、市内でこのような展示会を開くこととなる。職業も民族もさまざまなメンバーの力を合わせた実行力が、会の名の如くビビンバのようになって展示会として結実した。
 しかし、ビビンバは混ざり合う食材の相性がぴったりと合ってこそ、うまい完成品となる。この会の場合も日本人と在日朝鮮・韓国人の間に溝があっては、そうならない。当初は交流会は気楽な集まりという様相だったが、南北コリアの人々と対峙する場合に、日本人は日本人であるがために乗り越えなければならない壁があった。1910年に始まる朝鮮半島に対する日本の植民地支配、戦中時の日本人による強制連行、そして祖国は日本海の向こうにありながら日本に生活基盤を置くに至った「在日」であり続ける南北コリアの人々。交流と同時に、支払わなければならない代償として、振り返らなければならない歴史がお互いの間に横たわっていたのである。歴史の問題を語らずして交流など存在しないということになり、当初の気軽に参加という理念はそのままに、04年1月から交流会は勉強会の形を取るようになった。といっても、やや姿勢を正して、映画、演劇といった文化的な分野から意見、感想を交換し合うといった変更をしただけに過ぎない。
 交流会をするなかで対面して話をする機会に多く恵まれれば、もともと民族、立場が違うだけにそれぞれの境遇の違いなどがメンバーの間で透けて見えてくるようになる。
「新潟の朝鮮学校を卒業した人と会で話す機会があったけど、新潟に居て日本人と話したのが初めてだと言ったとき、とても驚いた。そういう経験がある」
 身近に生活していながら互いに顔を背け合い、日本人は日本人と、在日は在日でといった摩擦のない同質の空間を求める志向は、コミュニケーションの断絶を維持して互いの境遇に鈍重になる姿勢を招くようになる。だがその一方で、互いが対峙して交流を求め合うなら、お互いが乗り越えなければならない「痛み」が生じる。交流することで互いに「痛み」が伴えども、金子さんは「今の在日がこうした状況だからこそ、交流し続ける意味がある」と強く固持する。
 そうした立場の金子さんだからこそというべきか、
「右翼の人でも民団系の人でも、歓迎する。拉致被害者を支援する家族会の関係者でもいい。そうなれば、まさにごちゃまぜのビビンバ。交流することで軋轢はあっても敵をつくることには決してならないでしょう」
 と威勢がいい。
 そもそも金子氏は北朝鮮、韓国の南北コリアになぜ深く関与しようとするのだろうか。交流などしなくてもよいという態度を貫いていれば、「痛み」を感じる必要もない。彼の姿勢は、わざわざ自分から首を突っ込んで「痛み」を得ようとしているかのようだ。
「痛み」の原体験は、彼が大学時分に経験した留学にあった。新潟大学在学中に、何となく特殊な言語を勉強しておけば役に立つだろう、と思い立ち、韓国の大学に1年間の留学をする。留学先の韓国で毎日のように、同学生から日本の戦争責任についての指摘を受けた。
「(過去の戦争について日本人が)知らないと向こうに思われているから言うわけで、歴史を知ることは大事なこと。ただ、自分自身が経験していない過去のことを『謝れ』と言われても。謝るのはおかしい。だったら、わかろうとするしかない」
 日本政府が過去の戦争責任について断罪されるのは当然だ。しかし、戦争を体験していない年齢層の日本人が南北コリアの人々と対面したときに、彼らに対してその場で謝罪することがふさわしいことなのだろうかと、金子さんは私に問う。私は返答に窮した。ただ過去の戦争についての歴史を踏まえておくことが、南北コリアの人々からどのような対応を迫られるにせよ、彼らとの交流を目指す礎になるのではないのだろうか。(■つづく)

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