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ホームレス自らを語る/自殺未遂とムショ暮らしと・小林利男(五一歳)

■月刊「記録」1997年12月号掲載記事

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■手を何度洗っても

 睡眠薬に「ブロバリン」というのがあるでしょう。あれを、大量に飲んだんだよ。大学を中退した後だったから、22歳くらいだったか。夏の暑い日だったことのほかは、夜だったのか昼だったのかも覚えていない。結局、大量に飲みすぎちゃってね、みんな吐き出しちゃったみたい。苦しんで暴れたらしくて、アパートの隣人に発見されて、救急車で運ばれ、自殺は未遂に終わった。
 ずっと神経症に悩まされていた。手を洗っても洗っても、きれいになった気がしない。道を歩いていて、穴なんかを見つけると、誰か落ちるんじゃないかと気になって仕方がない。外出しても、ガスの元栓を閉めたかどうか、戻って確認しないと気がすまない。元栓を確かめて出てくると、今度は玄関の鍵をかけたか気になっている。もう、次から次へと気になって、外出なんてできなくなってくる。
 最初は、そういう感覚を鈍らせたくて飲み始めた酒だった。でも、性格も強いほうじゃないから、つい依存してしまう。朝からアパートの部屋にこもって酒浸り。カネがないから、もっぱら飲むのは焼酎ばかり。何かあるたびに心に引っかかってしまう、そんな神経症の状態が毎日続くと、行動するのがすごくしんどくなってね。生きてるのが本当につらくてやだなと思ってね。遺書は書かなかったけれども、睡眠薬を飲んだ。薬は二日くらい前から買って用意していたから、発作的じゃない。
 担ぎ込まれた病院の診断で、精神病院に送られた。「これはおかしい」って思ったんだろうね。病名は、極度の強迫神経症とアルコール依存症。精神病院には、一年半入院していた。

■全共闘に参加するどころか

 生まれは、東京の新宿・弦巻町。1947年生まれで、8人兄弟の末っ子だった。遅い子で、僕が生まれたとき、おやじは50歳を超えていたはずだ。すぐに定年退職になって、その退職金で碁会所を始めていた。でも、道楽だからね。ほとんど収入にはならなかったようだ。おふくろが袋張りの内職をしていて、その背中を見ながら育った。貧乏だったよ。
 中学を出て、塗装工の見習いをしながら、夜間高校に通った。家を出てひとり暮らしを始めたのはそのころだ。今から思えば、末っ子だったし、みんなにかわいがられていたんだけれどもね。それが、神経症的な性格だから、親切にいってくれることも、逆に悪く考えてしまう。とうとう家族とは住めない雰囲気になってしまった。 高校を卒業してから、一年浪人して早稲田大学の文学部に入った。ところが、当時は全共闘運動が盛んなころで、革マル派がバリケードを張って、授業なんてほとんどできない状態だったんだ。運動には興味があって本も読んだ。共感できる部分もあった。運動に参加するように、友人にも誘われたんだが、彼らを見ているとヒーロー気分に酔っているだけのようで、アジ演説も面白くなくて参加はしなかった。
 それよりも神経症とアルコール依存がひどくなるばかりで、たまに授業があっても、酒に酔ったままで行ったりして、だんだん欠席するようになっていたんだ。そのうちに、おふくろが送ってくれる授業料まで、焼酎につぎ込むようになっていた。結局、出席日数不足と授業料滞納で大学を中退。二年半の学生生活だった。
 自殺未遂騒動を起こして精神病院に入ったのは、そのころだ。八王子の病院だった。ただ、ああいうところは治療らしいことはしないんだよ。週一回簡単な問診があるだけで、あとは投薬療法。要するに薬づけだ。薬の副作用で、頭がボンヤリして、体が非常にダルい。ひたすらベッドで横になっている毎日だった。
 入院して半月くらいは、酒の飲めない飢餓感に悩まされた。アルコール依存症の禁断症状というのか、ひどくイライラしたり、白い壁が赤や黄色や、時にはオーロラのように見えたりもした。それに酒に逃げられないから神経症も悪化して、かなりひどかったよ。看護婦の言葉使いとか、視線が気になって、敵意を持ってイジワルをされてるような妄想に取りつかれたりね。
 ただ、入院してアルコールとは縁が切れた。それで健康だけは回復して、一年半後に退院を許された。神経症が治ったとは思わなかったけれども。神経症という病気は若年性のもので、年齢とともにおさまるものなんだね。そのときの医者にもいわれ、精神医学書にも書いてあった。本当にその通りで、30歳をすぎたころから症状は少なくなって、今では何ともないんだから。あんなに苦しんだのに不思議だよね。

■一時は年収2000万円

 病院を出て、何とかテレビ映画を製作する会社の美術スタッフに潜り込めたんだ。当時の人気アクション番組についた。でも、この製作現場がすごかった。残業、残業の連続で、日曜も祭日もない。とにかく1ヶ月分の作品を、半月で撮りあげてしまう。で、残りの半月は、別の作品をやるという具合だ。ただ忙しいだけで身につくものが何もない。だから、ここは2年くらいで辞めた。 それからは、キャバレー勤めだ。いわゆるピンサロってやつ。客の呼び込み係やボーイをした。最初に働いたのが、新宿・歌舞伎町にあるボッタクリの店。「前金制3000円ポッキリ」なんて真っ赤なうそで、会計のときに5万、6万円のカネを請求しちゃうんだ。払わない客があると、僕もその周りを取り囲んで、すごんでみせる役をやったよ。
 現金を持ち合わせていない客は、住所と電話番号を聞き出して、そこに電話して本人に間違いないか確認する。そして「ツケ馬」といって、客の自宅まで店の者が一緒に行って回収するとかね。あとは貴重品や身分証のようなものを預かって、翌日現金を持って来させるとか、そんな方法だった。要するに、暴力団とつながったこわい店だよ。
 そんな店だから、給料はよかった。相当よかった。社長にも気に入られて、僕だけは仕事中も酒を飲むことを許された。だって、客の呼び込みっていうのは、大きな声で通行人にワイセツなことをいって笑わせ、それで入店させるんだから。しらふじゃとてもできない。
 歌舞伎町の後、池袋、高円寺、下北沢と店を移った。どれもピンサロだ。池袋の店で働いているとき、その店のナンバーワンホステスだった子と同棲するようになってね。その子がカネをためていて、店をやろうというんだ。そこで世田谷区の小田急線豪徳寺駅近くに店を買って、ピンサロを始めた。カネは彼女が出したんだが、オーナーは僕ということでね。そのとき、31歳だった。 もうかったよ。年に2000万円はもうかっていたんじゃないかな。2年後には、新橋に支店を出したくらいだから。でも、豪徳寺のような街でもうけていくには、それなりのことをしないとね。客は渋谷や新宿で飲んでから来るので出足が遅い。だから風営法で禁じている深夜2時、3時までも営業することになる。ルックス(店内照明)を落として、ホステスにきわどいサービスもさせる。客は若いホステスを喜ぶから、未成年の家出娘だとわかっていても雇っちゃう。
 店を始めて3年目に、警察の手入れを受けた。営業時間中に突然踏み込まれて、そのまま北沢署に引っ張っていかれて、それっきりだ。そんな商売をしていたから、いつかは手入れされる覚悟はあったんだが、初めてのことだしショックは大きかったよ。容疑は、管理売春と児童福祉法違反。初犯でも、1年の実刑判決を食らった。
■ピンサロから刑務所へ

 それで刑務所に収監された。初めてのムショ暮らしだから要領がわからずに、担当刑務官にはずいぶんいじめられたよ。ああいうところは、一度目をつけられると、徹底的にいじめられるからね。ほかの人と同じことをしているのに注意される。それが重なると懲罰、独居房入りだ。ただ、僕はみんなといるより、一人のほうが好きだったから苦にはならなかった。むしろ慣れてくると、わざと担当にケンカを売って独居房に入ったりしていたほどだ。
 1年して、ムショから出て東京に戻ってみると、同棲していた女の子の行方はわからなくなっていた。店もその子が処分したようだった。うらむ気持ちはないよ。もともと彼女のカネで始めた店だし、二人の関係はうまくいっていたし、いろいろ苦労もかけていたから。
 それからはプータロー(無職)だ。働く気なんか起きなくってね。ただ当時は、弁当や酒を手に入れる方法を知らないだろう。とにかく酒が飲みたくて仕方がないんだ。そのカネがほしい。追いつめられて、やむにやまれなくなってくる。そうして泥棒をするようになっていった。

■学校荒らしに置き引きと

 最初に入ったのは母校だった。「学校荒らし」ってやつだ。母校ならば建物の配置なんかの勝手がわかっているし、不審に思われても「おれはOBだ」って開き直れると考えたんだ。クラブ活動の部室に忍び込んで、置いてあったバッグなんかから金目のものを失敬した。初めてのことで、そりゃあ緊張したよ。心臓はドキドキするし、手も震えて仕方なかった。
 でもそれが一度成功すると、慣れるというか、病みつきになるんだね。日雇いの土方で働いたこともあるが、どうしても手っ取り早いほうを選んじゃう。カネがなくなると「明日あたり、またやるか」ってな具合だ。カネがあれば好きな酒が飲めてベッドハウス(簡易宿泊所)に泊まれるしね。
 学校荒らしのほかには、建築現場にも忍び込んだ。作業用ヘルメットをかぶって、それらしい格好をしていれば、簡単に入れちゃうから。現場事務所の更衣室に入ってロッカーを荒らすんだ。学校も建築現場も昼間の人の出入りの多いときにやる。そのほうが、警備も厳しくないし、不自然じゃないからね。
 ほかにも、車上狙い、置き引き、万引きなんかもした。僕の場合、大金は狙わないで小銭ばかりで稼いでいた。大胆なことをすれば、それだけ捕まる確率が高くなるからだ。それでも、3回パクられて、3回のムショ送りだ。府中、甲府、三重の刑務所に入れられた。
 そのころにはもう、ムショ暮らしも慣れたもんだ。担当とのつき合い方なんかも、コツのようなものがわかっているから。最後の三重のムショのときは担当に重宝がられて、懲役工場の作業班長を任されるまでになっていたよ。入っていた2年半のほとんどを好きな独居房に入れてもらっていた。
 三重のムショを出たのが91年。それからはきっぱりと足を洗った。本当のプータロー暮らしだ。集団で生活するのは嫌いだから、いつも1人。夜はビルの階段の踊り場に、段ボールを敷いて寝ている。夜、ビルが閉まってから潜り込むんだ。
 以前の八年もふくめ、もう20年近くもプータロー暮らしをやっていると、どこのコンビニでは賞味期限切れの弁当をいつ出すか、なんてのもわかってくる。酒だってそうだ。スナックやバーがボトルキープの期限切れを処分する日っていうのがある。ボトル一本分くらいの酒ならいつだって手に入るよ。
 路上生活っていうのは自由で制約がなくて、何でもありの世界だからね。嫌な人とはつき合わなくていい。寝たいときに寝られる。寝ている場所を追い出されたら、また別の場所に行くだけで、寝るところなんていくらでもある。引かれ者の小唄じゃないが、今の生活に満足してるよ。これから先のことは、ケ・セラ・セラ、なるようになるだね。 (■了)

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