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ホームレス自らを語る/大学は出たけれど・前田憲三(六〇歳)

■月刊「記録」1998年10月号掲載記事

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■空襲の夜を覚えている

 1945年3月10日、東京大空襲の日だが、どういうわけか、あの晩は曇り空だったような気がするんだ。空襲があって、しかも夜で、まだ6歳だったおれが、そんなことを覚えているのは不思議なんだが、確かに曇り空だったような気がしてならないんだ。
  夜九時ごろだったと思う。もう寝ていたおれは、母親に「空襲だよ!」ってたたき起こされた。両親と幼い妹二人の、一家5人で表に飛び出した。外は、もうあちこちから火の手が上がっていた。父親がおれの手を引いて、母親は一人の妹をおぶり、もう一人の手を引いて五人で逃げた。日本橋にあった家から、とりあえず神田をめざしたようだ。
 あの夜が曇りだったことは覚えているのに、空襲のことはあまりくわしく覚えていないんだ。ただ、火の手に追われて、ひどく熱かったことだけは忘れられないね。逃げている途中から、神田をめざすどころではなくなって、燃えていないほう、燃えていないほうを探して、一晩中逃げまどっていた気がするな。
  翌朝、火事がおさまって、日本橋の家に戻ってみると丸焼けになっていた。父親はそこで運送業を営んでいてね。日本橋の問屋街の荷物を扱って、従業員も20人くらいいて、かなり繁盛していたんだ。焼け跡は片付けるなんて状態じゃなかった。店をたたんで、父親の生まれ故郷である信州の松本へ、一家で引っ越したんだ。日本橋の店は、戦後になって父親の弟に譲りわたした。ひょっとしたら、今でもあるかもしれないよ。
  父親のほうは松本に帰って、祖父がやっていた家業の電器店を引き継いだ。だから、戦後の暮らし向きもまあまあだった。
  おれは中学を出て、松本深志高校に進んだ。えっ、知ってるの? うん、一応名門といわれる学校だね。同級生に土屋正孝がいたよ。その後、プロ野球に進んで、巨人と国鉄スワローズで名内野手としてならした男だ。野球を辞めてからの行方は知らないが、高校生のころから変わったやつだったよ。

■司法試験をめざしたことも

 大学は中央大学の法科に入った。刑事事件の弁護士になりたかったんだ。まじめな学生だったよ。あのころの学生といえば、雀荘に入りびたっているのが多かったけど、おれはマージャンには興味なかった。パイは一度も握ったことないよ。
  大学三年生のときが、60年安保闘争の年だった。おれはノンポリであまり関心はなかったんだけど、それでも6月15日の国会デモには参加したよ。デモの最中に「女子学生が殺された」っていう話が、後ろのほうにいたおれたちにも伝わってきた。みんな騒然となって、「やってやる」と殺気だって大混乱になった。だけど、警官隊にけ散らされて終わりだった。あの後、しばらく無力感が続いたね。おれにも、みんなにも。
 学生のころから、司法試験に挑戦していたんだが、なかなか合格しなくてね。大学を卒業して、大手のバス会社に就職した。本社勤務だったけど、最初はトイレ掃除からやらされたよ。2年くらいして、系列の松本のバス会社に行くことになった。その会社の経営が左前になって、本社から社長の弟が乗り込むことになり、「おまえは松本の出身なんだから、一緒についてこい」ってわけさ。それで司法試験のほうはあきらめることになった。  そこには7年いて、総務や経理で働いた。会社の経営の建て直しと、その後の東京資本の地方進出の足がかりを作るのが仕事だった。7年して、また本社に戻されることになり、それを機会に結婚したんだ。相手は松本のバス会社で一緒に働いていた子だよ。社内結婚ってやつだね。ちょうど、30歳になるときだった。結婚して子どもが三人できた。男一人に、女の子が二人。
本社に戻ってからは、人事課で働いた。何年かして、おれのことをかわいがってくれていた人事部長が辞めたんだ。サラリーマンなんて、上役の引きというか、後ろ盾があって「なんぼ」のものだからね。だんだんと人と争う競争社会にむなしさを感じるようになってきたんだ。サラリーマンはおれの性に合わないんじゃないかと思うようになってね。
  そのうちに欠勤しがちになって・・・・。朝、出勤するふりをして家を出るんだけど、会社には出ないで公園に行って、そこで酒ざんまいで過ごすようなことになっていった。「サラリーマンは気楽な稼業」とかいうのがあったが、おれにとっては決して気楽なもんじゃなかったよ。
  そんなおれに女房は愛想をつかして、子どもを連れて出ていったよ。それで会社も辞めた。36歳のときだったな。ただ、それからもいくつかの会社に就職して、サラリーマンは続けたんだ。手に職があるわけじゃないし、サラリーマンをするしかなかった。だが、サラリーマンの生活にむなしさを感じているのと、拘束されない暮らしを体が一度覚えちゃっているからね。どこも長続きしなくて、職場を転々と変えるばかりだった。
 90年ごろだったと思うが、新宿の路上で酒を飲んでいたおやじと知り合いになってね。そのおやじが 「サラリーマンのようなバカな商売は辞めろ」っていうんだ。「おやじ、何かいい商売はあるかい?」「おれにまかせろ」ってことになって、雑誌を拾い集める仕事を教えてくれた。おれも独身に戻っていたし、こういう商売もあるんだと思ってね。西口の地下通路に段ボールハウスをこしらえて、そこに住むようになったんだ。

■新宿には思い入れがある

 98年2月に新宿の段ボール村で火事があっただろう。おれも火元のすぐ近くの段ボールハウスに寝ていたんだよ。火元から10メートルくらいしか離れてなかったんじゃないかな。
「やけに暑いな」と思って目を覚ましたんだ。すると 「おやじ、出ろ!死んじゃうぞ!」って、消防士が段ボールハウスから引きずり出してくれた。それで助かった。
「なぎさ寮」には行かなかったよ。行った仲間でも、すぐに帰ってきちゃったのが多かったようだよ。好きなときに、好きな場所で寝られる生活をしていた者が、時間でしばられる生活なんて無理なんだよ。
  火事の後、自主退去になって、地上にいることが多くなった。ほら、ここは高速道路のバスターミナルがすぐそこだから、松本行きのバスもよく通るんだ。この間なんて知り合いの運転手に見つかっちゃってね。それからは松本行きのバスが通るたびに、顔を隠すようにしているよ。
  そうまでして新宿に居続けるのは、松本の人間にとってここは特別な街だから。東京に出てくるとき、最初におりる駅が新宿だし、帰るときもここから電車に乗る。だから故郷につながっている街なんだ。学生のころ、藤沢に住んでいたんだが、わざわざ小田急線を使って一時間以上かけて新宿に出て、それから学校に行ったこともある。新宿以外の街は知らないし、便利だし、ほかで暮らすことは考えられないな。まあ、住めば都だよ。
  今も雑誌を拾い集めるのを仕事にしている。拾った雑誌は路上の書店に卸すんだが、一冊50円くらいで引き取ってもらえるんだ。だから、稼げるときは日に1万円くらいになるよ。おれの場合は、京王線を使って八王子のほうまで拾いに行く。途中、明大前とか、大きな駅で途中下車しながらね。両手に100冊もの雑誌を下げて、(プラット)ホームからホームへと探して歩くわけだから、どこの駅の、どのホームにはエスカレーターがあって、ということを知っておくことが大切なんだ。でなかったら、100冊も持って移動なんかできないからね。
  雑誌拾いで稼いだカネで、月に一度は松本に帰るようにしているんだよ。最終の夜行列車に乗ると、朝には松本に着く。実家や女房子どもがいるあたりには近づけないけど、一日駅の周辺をフラフラするんだ。ホームレスをしている仲間もいて、話をしたりとか、命の洗濯になるね。そして、また夜行列車に乗って、新宿に戻ってくるんだ。
  今こうやって、ホームレスをしているのも、女房や子どもに愛想を尽かされたのが大きいんじゃないかと思うよ。それが原因だよね。未練はあるさ。特に子どもにはね。三人のうち、二人は医者になったってうわさを聞いた。おれの妹たちが学費を出してくれたらしい。ちゃんと育ったようで、それがせめてものなぐさめだね。
  先のことはあまり考えないな。ホームレスをしていると、人間が横着になるからね。本来は、こんな怠け者じゃあなかったんだけどね。今は一日、一日が過ごせれば、それでいいって感じだよ。それ以上は考えないことにしているんだ。 (■了)

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