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「麻原極刑」と死刑廃止論/岩井信アムネスティ・インターナショナル日本支部事務

■月刊『記録』95年12月号掲載記事

(■岩井信……1964年東京都生まれ。国際基督教大学教養学部卒。在学中よりアムネスティ活動に参加し、卒業後事務局に勤務。)

■いまこそ、死刑廃止の声を

「地下鉄サリン」や「坂本弁護士一家殺人事件」などの凶悪な犯罪が明るみにされ、捜査や裁判の模様が連日メディアを賑わせています。まだ裁判の結果が出ていませんから、無罪推定の原則にしたがって、私たちが勝手に判決内容を云々することは控えなければいけません。しかし実際には、「犯人を死刑に!」という論調がメディアを占拠し、「死刑」以外の判決を裁判所が出すことが難しいような状況にあります。「これでも死刑廃止か」という問いかけの中で、いったい私たちはどう考えたらよいのでしょうか。個人的な意見を述べて、この問題を考えていただくきっかけにしたいと思います。

■廃止論は「相手を赦せ」ではない

 死刑廃止論を言うことが、被害者の遺族に対して「相手を赦せ」といっていることであり、「罪を憎んで人を憎まず」という考え方だと思われていることがあります。「私たちはあなたのような宗教者や聖人ではない」と揶揄されることもあります。しかし死刑廃止は、誤解を恐れずあえていえば「罪を憎んで、人を憎んで、でもその人を殺さない」ということだと思います。
 被害者の遺族が相手に復讐したい、相手を殺したいと思うのはその通りです。そこで「相手を赦せ」なんていうのは、それこそ人権侵害です。この感情、この気持ちを大事にしなければいけないことはいうまでもありません。問題はこの感情を「どのように」大事にするかということです。つまり、その感情を大事にすることが、なぜそのまま死刑制度に結びつくのか問うことが必要です。
 広島で数年前に死刑廃止のシンポジウムがあり、私も参加したことがありました。その時に会場からすごい剣幕で死刑廃止に反論される方がいました。ある殺人事件の被害者の遺族だというのです。いろいろな話が出てきたのですが、ふと尋ねてみると、実はその方の場合「犯人」は死刑にならなかったというのです。「それで満足されていますか」と聞かれて、「満足も何も、裁判所が決めたのだからしょうがない。あきらめている」ということでした。
 日本では殺人事件の99%は死刑になりません。死刑になるのは、複数殺人していたり、強盗や誘拐などが関係する凶悪な事件に限られます。しかし殺された家族にとっては、最愛の人が1人殺されただけで十分なはずです。ということは今の日本でも、実はほとんどすべての殺人事件の遺族にとって死刑は「廃止」されているのです。つまり死刑は象徴であって、遺族の無念さ、憎しみは、今の日本でもそのまま制度化されていません。むしろ本当の問題は、死刑制度の有無ではなく、こうした遺族に気持ちをどう大事にするかということなのではないでしょうか。
 感情は永遠に固定したものではありません。むしろ周りとの人間関係や環境、時間によって大きく変わるものです。死刑があることで、かえって感情がエスカレートしていくこともありえます。私達が考えるべきなのは、憎しみと復讐で一杯の遺族が、その後も生き続けなければいけないということ、それを知ってどうサポートできるのかということです。 日本では被害者遺族給付制度やカウンセリング面での支援など、被害者への支援が諸外国に比べて20年は遅れているといわれます。もしかすると死刑があるために、表面的には解決したとして、実は本当に取り組むべき課題が隠されているのではないでしょうか。

■殺人を求める社会とは

 死刑は社会の雰囲気にも影響します。凶悪な犯罪が起き、それがセンセーショナルに報道され、人々が死刑をさけぶ社会(すでに週刊誌のいくつかはそうした記事をかいている)。旧ユーゴスラビアの紛争を挙げるまでもなく、復讐は復讐を求め、暴力は暴力を誘発します。私達は断腸の思いで、復讐の連鎖を断ち切らなければいけません。サリン事件を通じて、生命への尊重が今の社会に失われていると評されますが、「死刑を!」と叫ぶことも冷静に考えれば同じことをしているのです。死刑はどんな理由があるとしても「国家による殺人」です。今の日本は、殺人を求めている社会ともいえるのです。
 アムネスティのビデオ『殺せますか』(東京事務所で発売)でシリアの公開処刑の場面を見たことがあります。体育館の真ん中に男が座っていて、観客席にいる「群衆」が「死刑に!」と叫んでいる光景です。みんながみんな拳を上げて「死刑に!」と叫ぶ感情を相対化して、どこかで抑える視点を与えてくれる「画面」それが社会という枠組みのはずです。生の感情をそのまま制度化しない「死刑のない社会」が世界各地で増えているのは、殺し合わないで生きるための知恵なのではないでしょうか。

■死刑に犯罪抑止力はない

 今回の「サリン事件」などが計画されていた時期は、たぶん日本で一番死刑がメディアで取り上げられていた時期です。3年4ヶ月の事実上の執行停止をへて、93年3月・11月、94年12月とたて続けに死刑の執行が行われ、かつ毎回新聞の1面トップの記事となりました。以前は執行があってもベタ記事でしたが、死刑廃止論議の高まっていたこともあって、大きな報道となっているのです。ですから死刑の執行を続けるという当局の意思表示が、この数年ほど執拗に示されてきた時期はありません。もともと死刑に犯罪抑止力があるという証明はなされていませんでしたが、今回の事例をみても、死刑をすることで将来の同様の犯罪を防ごうという考えは間違っています。

■殉教者をつくるテロへの死刑

「テロというのは社会的矛盾が契機となっていて、その背景を理解し、克服することでしか防止することはできない。テロリストに対する、新たなテロリストを生むだろう。続くテロリストに、より強い動機と正当化の口実を与えるだろう。そしてそれは、より大きな規模のテロとして帰ってくる」といった人がいます。死刑は死ぬことで責任を取らせることです。これは死の美学にも通じます。特にある政治的・宗教的目的のために死刑となると、宗教的価値がつけられ、「殉教」したことになります。むしろ犯罪を背負って、一人の小さな自分を見つめることからしか、犯罪を犯した人がもう一度行き直す機会はないと思います。それがまた、社会に対して新たな殉教者を作らせないことになるのではないでしょうか。
 死刑をすることは、暴力や殺害をもって問題を解決しようとするテロリズムと同じことを私達もすることです。「もし私たちが誇ることができるとすれば、私たちがテロリストと同じような、人を殺すという論理(殺生のレトリック)と文化(暴力を容認する文化)を持っていないということではないだろうか」と「死刑を考える平成7年度関東弁護士連合会シンポジウム報告書」は指摘します。

■世論は変化している

 1994年11月26日に発表された世論調査の結果では、メディアでは「死刑存置が70%を越えている」と報道されたのですが、これも問題があります。よく調査内容を見ると、「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えている73・8%の人の中には、「将来状況が変われば廃止」は約40%おり、この人達を条件つき廃止論者とすると、絶対的廃止論者の13・6%とあわせて約43%になり、絶対的存置論者の39%を上回っています。94年7月にNHKが行った世論調査でも、終身刑の導入を前提に聞いたところ、廃止論者が存置論者を上回っています。世論は変化しているのです。なお、世論調査方法の問題点や、世論と人権の関係についての議論はここで省きます。

■もっと代替制の論議を

 そこで問題になるのが死刑をなくした後の代替制ということです。死刑は死刑制度そのものが問題であり、廃止されなければいけないのですから、何かと取り引きしなければ実現できないという条件付きの問題ではありません。しかし政策問題としては、死刑がなくなった後の最高刑への信頼という意味でも、このことに取り組んでいかなければいけないことが現実としてあります。
 現行の無期刑の「仮釈放」制度はどうでしょう。法律上は10年の経過によって仮釈放が可能で、よく「10年で出てくる」と言われますが、実際の運用は18~20年に及んでいます。吉村昭の『仮釈放』という小説にもあるように、保護観察が一生つき、移動の自由が制限される仮釈放の厳しさはなかなか知られていません。
 正確な情報をもとに、運営面でのより厳格な対応という考えもありますが、一方で恩赦の可能性を残した「仮釈放を認めない絶対的終身刑」や、仮釈放の可能性となる期間を相当延長したり、被害者遺族の意志を仮釈放に反映させる手続きを加えるなどの提案もあります。
 アムネスティも呼びかけ人として結成した「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」では、民間法制審議会のようなものを設置して、死刑が廃止された後の最高刑についても日本社会の合成形式づくりの作業が必要だと考えています。

■「寛容」を問いなおす

 南アフリカでは死刑が違憲に、ポーランドは死刑執行停止法案が通り、モーリシャスでも死刑廃止法案が可決されました。世界はついに死刑廃止国が存置国を上回りました。死刑廃止条約でもすでに1989年に国連総会で採決されています。世界は着実に死刑廃止に向かっています。もし「世論」を尊重するのであれば、世界の世論も考えに入れなければなりません。
『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか』(渡辺一夫)という長たらしい題のエッセイがあります。死刑廃止は犯罪に「寛容」だと非難されますが、私たちはこの日本語の「寛容」という言葉の意味を、今こそ作り直さなければいけないのではないでしょうか。殺人行為という「不寛容」に、国家が殺しかえす死刑という「不寛容」で対抗するべきか。渡辺氏はエッセイでこう言っています。「現実には不寛容が厳然として存在する。しかし、我々は、それを激化せしめぬように努力しなければいけない」。
 寛容とは甘やかすことではありません。むしろ「不寛容を激化せしめぬよう」努力すること。何もしないで甘やかすのではなく、この「不寛容を激化せしめぬよう努力する」積極的な行為こそが、新しい意味での「寛容」なのです。今年は国連寛容年。今こそ、もう一度死刑について考えてみませんか。(■つづく)

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