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ホームレス自らを語る/息子との二一年ぶりの邂逅・大久保啓二(五一歳)

■月刊「記録」1997年10月号掲載記事

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■これ、おやじだろ

 1994年の5月のことだった。
 雨音がうるさくてね。雨戸を閉めていつも通り酒を飲んでいた。三時ごろだったか、誰かがおれのアパートのドアを叩く。のぞき穴から見ると、まったく知らない男が立っていたので出なかったんだ。しばらくすると隣の部屋の住民とその男は話し始めて、10分としないうちに、今度は隣の住民とともにおれの部屋のドアを叩くんだよ。
 最初は勧誘か刑事だと思った。仕方なくドアを開けると「おれを知らないか」っていう。あまりにも唐突な質問にボーッとしてしていると、「これ、おやじだろ」といって、ポケットからおれの免許証を出したんだ。
 それは家を飛び出したときに置いてきたおれの免許証だった。返す言葉も見つからなくて男の顔を見つめていると、さらにポケットから健康保険証を出した。そこには兄の住所と、息子の名前が書いてあった。もしかしたら・・・・。いや間違いない。
 何せ21年も会っていなかったのだから、息子とは思わなかった。そうとわかった後も、何を話していいのかもわからない。第一、話なんてないんだ。息子もあきれたようにおれを見ていたよ。
「警備員しているんだって」と彼が話しかけてきて、やっと「そうなんだ」と答えた。それから家族の近況を教えてもらった。別れた妻は実家に帰って再婚していること。おれが連絡を取らないうちに、おやじ・弟・姉は死んでしまったこと。兄は脳梗塞で倒れて入院中、おふくろは事故にあってリハビリ中だということ。そして息子が動物病院を経営していることも。
「いやー、大変だ。おれ、おやじの墓参りにいくよ」
 おれの返事はこれだった。といって別に本当に墓参りに行きたかったわけじゃない。息子との間に漂う沈黙がこわくて、話を合わせただけだ。
「みんな怒っているからなー」
 そう息子は答えた。その言葉でおれもすべてを悟った。息子にしてみればおれが郷里に来るのは困るんだ、と。
 この言葉がきっかけに話は終わった。10分くらいの立ち話だったかな。
 せめて部屋に上げるべきだった。少しはカネを持たせてやるべきだった。そう気づいたのは息子が帰った後だ。でも別れた直後は息子だとわかっていても実感としてそう思えなかった。つまりピンとこなかったんだ。「また」なんて言い合ったけれども、あれから一度も息子からの連絡はない。

■妻はノイローゼ

 おれが妻と子どもを捨てて、家を飛び出したのは妻のノイローゼが発端だ。妻と出会ったのはおれが21歳、彼女が18歳。東京・池袋のオンワード樫山に背広を作りに行ったとき、縫製工だった彼女と知り合ったのだ。つきあい始めて3年、彼女が妊娠したのを機に結婚した。
 結婚と同時に、おれは郷里の新潟県十日町に帰り、実家の魚屋を継ぐことにした。最初の1年くらいは、幸せに過ごしていた。子どもも生まれたから頑張ろうと、おれも一生懸命働いた。結果的には、それが悪かったのかもしれないがね。
 最初におかしいと思ったのは電話料金だった。異様に高い。妻の実家がある岩手県や兄が住んでいる東京に、妻が頻繁に電話していたからだ。そうこうしているうちに、彼女はおれとほとんどしゃべらなくなった。
 ふさぎ込んだ様子で、誰もいない部屋に閉じこもってしまう。そっとのぞくと、ボーッと空を見つめている。何をするでもなく、何時間もそうしているんだ。
 彼女も寂しかったんだろう。おれは朝の9時半には家を出て、少し離れた店に向かう。食事は手が空いた時間に、各自バラバラに食べるから8時すぎに家についたころは腹も一杯だ。そのうえ夜は、離れに住んでいるおやじと酒を飲みながら仕事の話をするのが日課だったから、妻をかまってやる時間はない。
 隣近所に住んでいたおやじ・おふくろ・兄も全員が店に出ていたし、弟は別の会社を経営していて忙しかった。結局、妻と子どもが二人で家に取り残されることになる。しかもおれの家は新興住宅地に建っていたから、昔からの知り合いなんて誰もいない。おれが朝から晩まで働いている間、妻はずっと孤独に耐えていたんだ。
 そのうち彼女の妄想が始まった。家を追い出されるのではないかと、隣近所に吹聴して回るようになった。「そんなことはない」と何度いってもわからない。そんな調子だったから、「東京にいる実兄の家に行きたい」といったときは、少しでも元気になるならばと、おれも家族も喜んで送り出した。結局、それが状況を悪化させた。
 日がたつに連れて妻が東京に行く日数は長くなり、十日町にいる期間は少なくなっていく。そうなるとおれへの批判も強くなった。兄は結婚していなかったから、実家の魚屋を継げるのはおれの息子だけ。おやじも期待していたんだろう。だからなのか、おやじからは「おまえがしっかりしていないから、妻が帰ってこないんだ」と毎日のようにいわれ、妻は東京に行ったきり3ヵ月も帰らない。
 ガンガン批判される毎日が続き、そのうちに面倒くさくなった。決意したら早い。気がついたら家のカネを600万円持って東京に来ていた。それでも最初は寂しくて、一週間に一回は実家に電話をかけた。おやじも「帰って来い」なんて、声をかけてくれてね。でも帰りにくいんだよ。そのうちまた時間がたつ。一週間に一度の電話が二週間に一度、一ヶ月に一度になる。そのうちに帰郷するどころか、電話をするのもつらくなってきて、半年もするとしらふではかけられなくて、酩酊状態で電話をするようになっていた。
 帰れない。でも、子どもがどうなっているのかだけは気になる。仕方がないので、実家の近くに住む友達の家に何度か状況を聞きに行った。何度目かの訪問で、兄夫婦が息子を養子にしてくれたと聞いてホッとしたよ。でも、養子の話を聞いた友達から注意を受けたんだ。「おまえが実家の近くをうろつくのは、子どものためにも、兄のためにもよくない」と。
 それで、きっぱり行くのをやめた。

■最初はラブホテル勤め

 東京ではラブホテルの従業員として働いていた。やがて恋人ができ、家族のことも思い出さなくなった。28歳のころには20歳前後の女性とつきあった。スナックで知り合ったんだ。30歳をすぎたころには、同じ職場で働く未亡人が相手だった。この未亡人とは、酒に酔った勢いで寝てしまったんだ。互いに寂しかったんだと思う。もちろん結婚なんて面倒くさかったからしなかったけれど、昔を忘れるのには二人の女で十分だった。
 また当時の生活も、結構面白かったんだ。ラブホテルの仕事は、それほど重労働ではないし。客が出るのを待って部屋を掃除し、ベッドメイキングをする。大変なのは風呂の掃除くらいのものだ。住み込みで食事もついているから、仕事場から追い出されない限りは食うには困らないし……。逆に衣食住が保証されているから、貯金をする気にもならなかった。だから給料のほとんどは、酒とギャンブルに注ぎ込んだ。
 でも借金して飲んだり打ったりはしなかった。だいたいおれは、酒は好きだったけれど、ギャンブルなんかたいして好きじゃなかったんだ。ただ職場の仲間が全員やるから、つきあいでしていただけだ。ギャンブルをしないとみんなの話題に入れないから、寂しいんだ。まあつきあいとはいえ、競馬・競輪・競艇と、どれにでもかけていたから、1ヵ月にすると結構な散財だったろうがな。
 ラブホテルの従業員を辞めたのは、42歳のときだった。仕事内容には満足していた。人間関係もいろいろあったけれど、おれにはたいしてつらくはなかった。ただラブホテルに勤め続けているのが、恥ずかしくなったんだ。
 朝、店先に水をまくだろ、そうすると昔の従業員に会っていわれるんだ。「まだ、そんな仕事やっているのか」ってね。いい年をして、みっともないだろ。かつての仲間は、水商売やら土木建築やら職業を変えていた。ラブホテルの従業員として長く勤めるのは、情けないことなんだ。だから辞めたんだよ。
 警備員を次の仕事に選んだ理由は、社員寮が完備していたからだ。いくらかカネを取られるとはいえ、普通に家を借りるよりよほど安い。仕事さえしていれば住む場所が確保されるんだから、安心だろ。もともと働くのは好きだったし、まさか体を壊して働けなくなるなんて思いもよらなかった。

■飲み続けたツケが回った

 警備員になっても、生活は変わらなかった。焼酎一升を2日で空けるペースもそのまま。ただ社員寮は今までの住みかと違って、都心から少し離れたところにあった。そして、その小さな変化がおれをホームレスに近づけたのかもしれない。
 都心で飲み歩くと、家に帰るのが嫌になる。それでいつの間にか新宿のホームレスに混じって寝るようになったんだ。週に3~4日は新宿で寝ていたんじゃないかな。そうやって気ままに暮らしていたんだ。
 生活が一変したのは、足が痛くなってからだな。九七年の暮れあたりかな、歩くと足の甲が痛み出す。精密検査をしたら、肝臓も悪いし、糖尿病にもかかっていると医者にいいわたされた。食事は一日一食、後はアルコールばかり飲み続けるという生活を続けていたツケが、この段階になって回ってきたんだろう。働かないで社員寮にいるわけにもいかないから無理して働いていたけれど、結局、5月の連休明けに動けなくなった。
 それ以降、寮で毎日寝ていたよ。でも回復はしない。それどころか、どんどんひどくなる。会社も気の毒に思ってくれたんだろう。働けないおれが寮にいるのを、大目にみてくれていた。でも2ヶ月も仕事ができないんじゃ、居続けるわけにもいかないよ。そこで98年の7月、自分から寮を出たんだ。
 この先どうなるんだろうと少しこわかったけれども、先にも話したように、もともと新宿で寝るのには慣れていたから、あまり生活は変わらなかった。新宿で活動しているボランティアも多いから、無償で配られる食事も結構な量になるしね。
 飯は食えるし、こわいこともない。ホームレスになったときの不安は、取り越し苦労だったね。腹をくくっているからかもしれないけれどな。ただ五年前からつきあっている三九歳の恋人には、ホームレスになったことはいえないよ。(■了)

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