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保健室の片隅で・池内直美/第六回 カラダを売るのは誰のせい?

■月刊「記録」1998年6月号掲載記事

*        *        *

 友達だけは軽蔑しまいと心に誓った。友達ができるようになって、たくさんの仲間に囲まれて過ごす日々のなかで、そう心に決めた。
 あれから3年……。
 私には娼婦だった友達がいる。彼女はいつの間にか妊娠して、子どもを産んだ。みんなに子どもをおろすお金をもらったけれど、それを使い込んで結局おろせなかったという。
 それでも今は、幸せだといっているから、私はそれでもいいと思う。子どもにたくさんの愛情を与えてあげてほしいと思う。

■身体を売らないでお金もらえるし。

 中学の頃の同級生たちが、普通の高校へ行くにつれて、援助交際という言葉が、私の周囲でも聞かれるようになった。
 なかに「お金には代えられないよ」と言う友達がいた。彼女は一生懸命、私に言い聞かせるので、私もうなずいておいた。でも、心のどこかでは、自分だけはそんなことはしたくないと思った。
 べつの友達は、「はじめてのセックスは、テレクラで知り合った人とした。私の身体が五万円だなんて、高いと思ったわ」といっていた。彼女の心が、どれほど安いものかと感じたのを覚えている。
 同じ彼女に、ある時、いわれた。
「ちょっと聞いてよ、最近バイトしてるんだけど、もう最悪のところで働いてるの」
「何やってんの? ソープとか」と私は冗談で聞いたのに、彼女は真面目に答えた。
「違う違う、ピンサロ」。あっけらかんと話す彼女に、私はピンサロとはなんなのかを聞いた。風俗関係の仕事だとは思っていたけれども、内容を聞いた私は、はじめて人を、友達を軽蔑した。
 (最悪だ……)
 その時、私は、「娼婦のほうがまだいい。ソープのほうがまだマシ。援助交際の子のほうがまだ救える」と思った。なぜなら、彼女の考え方が、とても気に入らなかったから。
 「始めたばかりの頃はさ、私何やってんだろう? とか、もう辞めようって思ったんだけど、最近は楽しいんだよね。身体売らなくていいし、彼氏にバレないし、お金入るし、お酒飲めるし。でもやっぱり、家に帰る途中とかは、何してるんだろうって思うよ」
 そんな話を、自分の友達から聞くことになるなんて、あまりにも情けなかった。
 お金がほしくて、援助交際する女の子のほうが、もちろんそれは最悪の選択だし違法なことだけれども、身体とお金の間で商売を成り立たせている分だけ、まだ猶予の余地があるような気がする。きっと彼女たちは、いつか自分のしたことを思い返して傷つくはずで、そうやって傷つくことで、気づくことができるから。
 でも、私の友達は楽しんでいる。お金をほしがっているわけでもなく、身体で商売をしているわけでもない。お金をもらって、ぜんぜん傷つかずにお客さんと遊べてラッキー、と思っているのだ。そこが私には、情けなかった。
 偶然そんな話を聞いたのと同じ頃、某通信高校のサポート校になっている高校で入学式に出席した。通信高校についての話をしてほしいと頼まれ、オンボロスピーチをしに行ったのだ。そこでこんな話をした。
 ルーズソックスをはいた女子高校生やピアスに化粧の男子高校生が、現代っ子と言われて認められているのと同じように、学校へ通学するというふつうの道からはずれて、不登校を選ぶようになってしまった子どもたちもまた、現代っ子だ。
 何があたり前で、何があたり前じゃないのか、そんな基準はなくなっているのだから、大勢の人たちと異なる生活をしていても、おかしくはないはず。それぞれの場所で、自分らしく生きることが大切だ、と。
 でもその後で、援助交際をしている友人、平気でピンサロで自分を安売りし、何も感じていない友人のことを思い出した。彼らもまた、いわゆる現代っ子と呼ばれる人種だ。不登校を選ぶようになってしまった私と援助交際している彼女たち。こんなにバラバラな現代っ子だけど、何か共通点はないのだろうか。もしかして、私たちを生み出した親のほうに、共通点はないのだろうかと。
■何が私たちを結んでいるのか

 最近、私のところにたくさんの相談が寄せられるようになり、きちんと考えたら悩んでしまいそうなので避けてきた、AC(アダルト・チルドレン)に関する本も読まないわけにはいかなくなった。何冊か買ったついでに、ある一冊の本を手に取った。
 それは『日本一醜い親への手紙』(メディアワークス)。名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。これは全国から原稿を募集し、寄せられた応募作品をもとに作られた本だ。私も原稿募集の記事を読んだことがあり、送ろうかどうしようか悩んだことがある。結局送らなかったが、どういった内容の手紙が送られてきていたのか気になって買った。
 内容はとにかく強烈だった。一ページごとに心を引っかきまわされた。自分の過去を思い出したり、比較してなげいたり、それでも自分のほうが幸せだったと感じたり。とにかく自分に照らし合わせ始めると、考えさせられることが多く、きりがなかった。
 ところで、読み進むうちに気づいたことがあった。それは、ちょうど10年くらい前の出来事を題材に書いている人が多いということだ。ちなみに発刊は1997年11月で読んだのは翌年だった。当時、私の10年前は、いったい何があっただろうと考えた。10年前。ちょうど今の家に引っ越してきて、塾やお稽古事をたくさん始めた頃だ……。
 同じ頃、日本の経済はバブル崩壊寸前の、戦後を生きてきた親たちが、夢に見た世界があったらしい。私には、バブルというのはよくわからない。まだ子どもだったし、気がつくと「バブル崩壊」という言葉だけが耳に残っていただけだ。
 思い出せることは、コンビニエンスストアがそこらじゅうにできたり、テレビゲームが登場して、ミニ四駆やリカちゃん人形などを、みんなたくさん持っていたこと。だけどピアノやそろばん、塾やスポーツチームに通う子がほとんどで、あまり大勢で集まって、ワイワイ遊んだ記憶はないということ。誰もが時間に区切られて生活していたし、小学生でもみんな腕時計をしていた。
 そう。みんなリッチで忙しかった。親も、それだけ必死に働いていたのだろうと思う。
 ちょうど小学生から中学生くらいの子どもをもつ父親は、まさに働き盛りで、家に帰れなかったり、単身赴任を余儀なくされることも多いのだと聞く。バブルの頃は、なおさらだったと聞いた。
 私の父も、例外ではなかった。先日、父と二人で小料理屋に行った時、はじめて父とゆっくり話をした。
「お父さん、ずーっと単身赴任だったじゃん、あの頃、父親参観にお父さんが来てくれなかったこと、やっぱり悲しかったよ」
「そうか。でもお父さんの会社のなかで、お父さんほど単身赴任の期間が短い人はいないよ。それなりにがんばったんだ。許してくれないか」と父はいった。
 父が実際に家を空けていた期間は、たったの五ヶ月間だったという。でも、私のなかでは、三年くらいの感覚として残っている。それくらい子どもにとって、父のいない家庭の時間は長かったのだ。

■親の不在が現代っ子の特徴

 最近騒がれている「父性の復権」について。子どもの側から意見をいうならば、いきなり復権しようとしても難しいですよ、ということだ。
 父親は単身赴任で、母親はパートに出る。家は核家族で、昼間は子どもしかいなくて、お腹がすけば、コンビニで何か買って食べる。誰もいない家に帰って、コンビニで買ってきたお弁当を食べて、そのまま塾に行って、帰ってきたらお母さんに勉強しろといわれて・・・・。子どもの心は、寂しさで凍えそうだった。いつも、一人ぼっちだったのだ。
 援助交際する女子高生が、『日本一醜い親への手紙』のなかで、自分の父親と、自分の援助交際のパパを比べていた。やさしいパパがほしかったという彼女は、ただ相手をしてくれるお父さんがほしかっただけなのではないか。
 拒食症の子が、太ることがこわいといって心の傷を隠すように、援助交際をする子は、お金がほしいからといって寂しさをまぎらわしている。本当はお父さんにそばにいてほしいのに、自分をしっかり支えてくれる力強い手がほしいだけなのに、それを伝える手段を見つけられずに、間違った行動をとっている。援助交際は、ファザコン現象だ。
 時に怒ってくれる、時にほめてくれる、凍えそうな心を、しっかり包んでくれるお父さんを、彼女たちは探しているだけだったのではないか。
 そうして手を伸ばしても、いつも裏切られ、寂しい思いをしてきた子どもが、バブルが崩壊して、残業が減って、単身赴任から帰ってきたお父さんに、急に話しかけられたからといって、簡単に心を開けるわけがない。気づかないうちにできてしまった溝は、思っているほど小さくはないのだから。
 わが家は父が厳しくて、まるで昔の茶の間のような雰囲気がいつも家中にただよっていたから、母は働きに出てもお昼すぎには帰ってきていた。だけど、父の欠点は、子育てを母任せにしているように見えるところだった。父は父なりにがんばって、家庭に参加していたのかもしれないけど、私には、家にお金さえ入れれば文句はないだろうと、考えているようにしか見えないところがあった。
「親がなくても子が育つ」という言葉がある。もともとは、親が心配するほど子どもは弱いものじゃない、という意味の言葉だ。それは、親が十分に子どもの面倒をみられなくても、学校の先生や近所の人々が手を貸し合って子どもを育てていくことができた時代に生まれた言葉だ。だけど、公務員は安定職だからという理由で、職業を選んだ教師がいる学校に、生徒の一人一人に目をかける余裕のある先生などほとんどいない。
 また、プライバシーという言葉を強調するようになった世の中に、隣の家の子どもを心から心配し、叱ってくれるご近所様もほとんど見あたらない。今の世の中で、「親がなければ子は一人ぼっち」だ。
 子どもが寂しがっていることに気づけない親の子が、援助交際をしていても不思議はないような気がする。学校から帰っても話をする相手もいなくて、また、たとえ学校に行っても先生は子どもを仕事の道具としてしか見ていない。その孤独感に、学校へ行く行為そのものを報われないと感じ、不登校を選んでしまう子の気持ちもよくわかる。そこが、私たち現代っ子の共通項なのかもしれない。
 父親と母親に、子どもと家庭を省みる余裕がなくなったのは、やっぱりあの、バブルの時代のせいなのだろうか……。 (■つづく)

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