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北朝鮮と新潟 第6回/運命づけられた食糧援助

■月刊『記録』06年1月号掲載記事

(前回までの内容)反北朝鮮のムードに満ちた新潟を鬱屈しきって歩くなか、北朝鮮にコメを送っているというNGO人道支援連絡会の川村邦彦氏の存在を知る。

     *     *     *

「ボランティアは善意の押し売り、おせっかい精神。別に北朝鮮の誰かが要求しているわけでもない」
 彼は、自らが行う活動を、正当化するでもなしに距離を置いて見つめている。川村氏は頑固そうな面持ちの67歳。白髪の頭を丸刈りにして眼鏡をかけている風貌は、ガンジーを思い起こさせた。人見知りする性格なのか、教会の入り口で職員に案内されて川村さんがパンフレットの冊子を製作する作業をしている部屋に入っていくと、特に何も告げることなく私に着席を勧めた。
「日本政府が北朝鮮への食糧支援をやめてしまった。それが途絶えている間は、やり続けるつもり」
 自身がかかわるコメ支援を語る口調は、固い決意をにじませる。しかし、現在の日本国内の北朝鮮バッシングの業火の中で、心ない人々が川村さんに対して妨害、中傷を浴びせかける。
「多いのは、『向こう(北朝鮮)の延命に手を貸すな』『利敵行為だ』というもの。右翼の嫌がらせ以外にも、いたずら電話は多い」
 自らへの中傷、誹謗について、私の前では川村さんはやや控えめにこのように語っていた。しかし実際に彼に降りかかっている誹謗、中傷は、生半可なものではない。
 川村さんと親しい関係者によると、川村さんはマンションに住んでいるが、マンション前の大通りに右翼の街宣車が数台並び、「カワムラッ、北朝鮮に帰れ!」などと右翼が拡声器で騒ぎ立てることが幾度となくあるそうだ。嫌がらせの電話に加えて、こうした騒動で川村さんの奥さんはすっかり参ってしまっており、ノイローゼを訴えているという。騒ぎの巻き添えにされる自宅近隣の住民の川村さんへの視線もさぞ冷淡なものであるのだろう。
 だがそうした犠牲を払ってまで、決して若くはない眼前の細い体躯をした人物がなぜにコメ支援を行うのか。「なぜか?」と、コメ支援がさも特別な事情があるかのように問う私に対して、何気ない面持ちで彼は返答する。
「政治的な問題はあるが、困っている人があれば、助けるのが人情。人道的だろ」
 川村さんはクリスチャンだ。教会にいて作業をしているのだから、当然といえば当然かもしれない。だが、彼の出で立ちは、白の肌シャツに白の股引という自宅の縁側で涼をとっているような服装だった。その服装が、気取らずに慈善活動を行っている彼の性分をよく表しているのかもしれない。クリスチャンの一般的なイメージとは、大いにかけ離れているが。
 そんな彼がキリスト教に「帰依」したきっかけは、27歳の頃に訪れた。昭和39年の新潟大地震に招き寄せられたものだった。新潟西港に、勤務していた会社があった。それが地震で沈下してしまう事態に遭遇する。21日もの間、会社の工場が炎上して黒煙が立ち込め、カラスが騒ぎ立てるという情景は、彼に「この世の終わりの体験をした」と言わせるほどの荒廃ぶりだった。死の恐怖が目の当たりに迫る。
 丘を上がった所に会社の社宅があり、現在通っているこの教会の前の道路を、大地震以前はいつも何の気なしに歩いていた。しかし、「困ったときの神頼み」に似た何かにすがりたい気持ちが、彼を教会の方へと振り向かせる。このキリスト教との遭遇を、彼は「自分に前々から備わっていた潜在意識と通じ合った」結果だと言う。
 川村氏は長野県で出生したが、職を求めて東京に出て行った。東京で就職してあちこちに赴任するが、新潟に来たちょうどその時に発生した大地震が彼を新潟にとどまらせる。この大地震以来、転勤もなく新潟に定着する結果となり、定年を経て今に至る。
 彼にとって、新潟の地でコメ支援を行うという業は、神からの天啓に導かれていると言っては大げさかもしれないが、何かに因縁づけられているような部分がある。
 コメ支援と関わり深く生きることを宿命づけられているかのような人生を歩むことになる端緒は、郷里の長野を離れ東京に出て肥料の製造会社に就職したことだ。川村さんが学卒時、日本国内は食糧の供給を高めなければならない状況にあって、政府が食糧増産へと重点的に投資を行なっている時期だった。農作物の再生産のために、肥料は欠くべからざる物資だ。そのため、当時は製鉄と並んで、肥料製造は花形産業だった。その肥料会社を勤め上げて、定年後に北朝鮮への食糧支援を中心としたNGO活動を始める。2000年9月には、国内のホームレスとなっている人々にご飯の炊き出しを行なう活動も加わった。
 NGO活動を、食糧支援を中心としたものにしようと川村さんが考えたのは、飢えについての経験が自身の根幹にあるからだった。
「小3の時に終戦を迎えた。未曾有の不作だったが、労働力もない。食べられないということが、終戦の記憶として痛烈に残っている」
 そのような飢餓状態に陥った感覚が、川村さんには「潜在意識として常にある」。ただ、企業に勤めている間は、この世界に飢えている人が数限りないほど存在して今にも食糧を求めているという現状を、「自分自身の問題としてとらえることがなかった」。
「会社で、いかに成績を上げるかにきゅうきゅうしていた。少しでも自分のポジションを上げたかった。そして、自分の生活を良くしたいばかりだった」
 定年前の自身をこのように振り返る。定年後に会社を離れると、自分自身のエゴへの執着から解き放たれたように、川村さんはNGOでの食糧援助活動に身を投じるようになる。
 戦後間もない頃の飢えの経験と結びついた食糧支援は、彼がクリスチャンであることからも導かれる。戦争が終結して食糧難の時代、ひどい空腹感に窮していた小学生の川村少年は、「ララ物資」の脱脂粉乳にあずかることで、飢えを乗り切ることができた。ララ物資は、アメリカ、カナダのキリスト教会がアジア救済公認団体物資として日本に贈ったものだ。川村さんだけでなく、日本の多くの人がその恩恵を享受することで、戦後の食糧危機を乗り越えたのである。このとき受けた恩は、川村少年の胸に「受けて忘れず、施して語らず」という信条で刻み付けられた。このことはすでに、彼の人生の文脈をたどるとき、震災時のキリスト教との出会いの伏線として張られていたのかもしれない。その後、北朝鮮の子どもたちが食糧不足に陥っている境遇を耳にしたとき、クリスチャンである川村さんには心の中にピッときた。幼少時に飢えを満たしてくれたララ物資が、信教への信仰とつながって脳裏に浮かんだ。
 新潟NGO人道支援連絡会を川村さんが開始したのは、7年前にさかのぼる。阪神大震災が発生した時に、川村さんとかかわりを持つ地元のNGOが、水害に遭ったために支援を求めてきた。姫路市の長町地区は在日外国人が多く居住するが、そこに住む在日朝鮮人の人々から兵庫の朝鮮総連を通じて北朝鮮から地元NGOに支援物資を送ってもらった。その時の支援が、北朝鮮への食糧支援を断固として続けようとする川村さんの生きる道を方向づけた。
 川村さんが実施する食糧支援は、コメによる援助が中心だ。コメならば、援助米制度を利用することで大量に食糧を北朝鮮に送ることができる。援助米制度は、コメ余り解消のための政府の「駄策」であり、農家の意欲を削ぎ落とす減反政策の一環だ。現在、国が定めるところによると、所有する田地の3割は休耕田にするか別の農作物を作るかしなくてはならない。例外的に休耕田での作付けが許されているのが、海外援助米である。国外の被災地、貧困地などを支援するための援助米ならば、休耕田での生産が可能だ。彼は新潟じゅうの農家を回り、休耕田での援助米の作付けをお願いしている。
 さらに川村さんが肥料会社に勤めていたことが、幸いなことにこの援助活動に活きる。肥料会社に勤めていれば当然、農家は顧客だ。定年前に仕事上付き合いのあった人に、彼は協力を呼びかけた。そのような「横のネットワーク」を持っていた川村氏の依頼でなければ、北朝鮮に送るためのコメを提供するという「反常識」を農家の人たちは承知していなかったかもしれない。
 加えて、支援活動の本拠が米どころの新潟であるということが、効率よく北朝鮮の貧しい人たちに食糧を行き渡らせるために幸いした。新潟は米どころであるばかりでなく、日本酒の一大生産地だ。新潟では、酒屋の多さは威容を誇る。日本酒の吟醸酒、大吟醸は、コメの芯の部分のみを使用して醸造する。
 そのため、残余部分が米粉として多く残されることになる。その米粉を引き取って、支援物資という形で北朝鮮に送っている。白米でなくても米粉であれば、米粒と栄養価は変わらない。なおかつ米粉は、白米の10分の1の値段で買うことができる。質が悪くとも、より多くの食糧をより多くの人の元に届けるために量を重視する。
 支援活動を開始した97年5月の時点では、このようにしてかき集めたコメは10トンにしかならなかった。しかし、02年には100トンにまで達するようになった。だが02年以降、拉致事件への国民感情が高まるなかで収集するコメの量は減少しており、以前から協力してくれていた農家の間に「やりづらさ」が生じているようだ。(■つづく)

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