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鎌田慧の現代を斬る/日の丸・君が代の強制

■月刊「記録」1999年4月号掲載記事

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■「守る必要がない法律」というサギ師的言辞

 一方ではガイドライン(日米防衛協力のための新指針)、一方では日の丸・君が代の法制化と、小渕・小沢連合内閣は、いよいよ日米心中国家への道を突きすすんでいる。政権のドブネズミ小沢一郎に妥協し、現内閣を守ることだけに奮闘、国民の安全を売りとばす愚作である。
 そもそも日の丸・君が代問題とは、歴史的ないきさつの象徴である。それだけに日の丸・君が代を、国旗・国歌として強制すればすむという問題ではない。だからこそ日の丸は国旗として法律に定められていなかったし、君が代もまた国歌として法制化されていなかった。それを今になって法制化するところに、ガイドラインぼけのキナ臭さが感じられる。
 日の丸・君が代の法制化は、国旗掲揚や国歌斉唱を強制するものではないと政府はいっている。しかしこれは詐欺的な言辞である。もし強制する必要がないなら、法制化などしなければよい。守る必要のない法律なら、つくる必要はない。法律を守るのは国民に課せられた義務であるから、法制化すれば強制力が生じてしまうのである。
 日の丸・君が代を現状で学校に強制できないから法制化したい、それが政府のホンネのはずだ。法を守る必要がないというのは、無法国家のいい分である。小渕・野中のもってまわったいい回しは、衣を着た鎧である。
 自民党旧渡辺派の村上正邦会長などは、きわめて率直に、「法律に決められたことは、守るのは当然だ」と語り、法制化する以上は国歌斉唱、国旗掲揚は義務づけるべきだと示唆している。法制化が強行されれば、こうした意見が巻き起こるのは間違いない。また法治国家としては、それが当然の論理である。
 ところが現在の翼賛体制にあって、各政党から強硬な反対意見を耳にしない。日本共産党などは、「法制化に賛成、日の丸・君が代に反対」というわけのわからないことを主張し、法制化への道を掃き清めさえしている。反対するのは疲れてしまいましたから両手を縛ってください、という屈服路線である。
 日の丸・君が代を好きな人はいるし、嫌いな人間もいる。日の丸・君が代はひとえに人間の思想と感性の問題であって、それぞれの意見が尊重されるべきだ。
 たとえば、日の丸・君が代を好きだという人物がいてもおかしくない。とおなじように反対の存在も認めなくてはいけない。私自身はとても嫌いで、たとえばぼんやりしていて、NHKの番組終了時の日の丸・君が代をみてしまったときなど、ゾッとしてあわててスイッチを切ってしまう。たいがい見ないように注意しているのだが、うっかりするとしつっこくあらわれる。見たあとに、いつもシマッタと思うのだが、あとの祭りである。
 もちろんスポーツ観戦なども油断ならない。野球のオールスター戦などは、華々しく君が代を斉唱するので、とてもいく気にならない。もしいったにしても、君が代のために起立することなど決してしない。
 君が代・日の丸をどう考えるかは、まさに個人の自由の問題なのである。だから強制するなど認められるはずがない。まして強制に従わない人間を罰するなど、とんでもないことだ。ところが法制化に先駆けて、このとんでもない状況を維持しつづけている現場が学校なのだ。 学校での日の丸掲揚、君が代斉唱を学校で義務化したのは、一九八九年の学習指導要領改訂だった。
  「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国家を斉唱するように指導するものとする」。このアイマイな一文にもぐりこんで、文部省は、国旗掲揚と国歌斉唱で日本列島を覆うべく、学校に圧力をかけつづけてきた。文部省は、君が代の斉唱時に起立しなかったというだけで、教師を処分している。

■トップ交代が中央支配の合図

 今回の日の丸・君が代法制化の引き金となったのも、やはり学校だった。小渕首相が法制化の検討を指示する三日前に、広島県の御調町にある世羅高校校長が、卒業式での日の丸掲揚と君が代斉唱をどうするのか対応に悩み、自殺したのである。
 広島県は原爆を投下された県でもあり、平和にたいする意識の高い地域である。県の高校教職員組合にも、ほぼ一〇〇%の加入率となっている。いまの日教組の組織状況としては、これは極めて異例な数字だ。平和運動を中心とした活動のあつさを思わせるものである。その結果として、九七年度の文部省の調査では、君が代を斉唱する率が全国で四番目に低い県となった。
 これにローラーをかけて押しつぶそうとしているのが、文部省とその下請機関の県教育委員会である。
 昨年六月、文部省はキャリア官僚の辰野裕一を、広島県教育長に任命して派遣した。卒業式を控えた二月下旬、辰野は「学習指導要領」に基づき、卒業式・入学式で国旗掲揚と国歌斉唱を実施せよという異例の「職務命令」をだし、一挙に学校の全面支配をもくろんだのである。
 このやり方は、昨年に、卒業式が問題化した所沢高校とまったくおなじだ。君が代・日の丸など強制しない自由な校風で知られた所沢高校に、まず教育委員会ベッタリの校長を設置する。教師と生徒が時間をかけて築いてきた自治の気風を、その校長が矢継ぎばやに攻撃する。学校がどうなろうと生徒がどうなろうと、どうでもいのが忠犬ハチ公の悲しさである。
 県教委から派遣された治安部隊の隊長が所沢高校の校長であり、文部省から派遣された治安部隊の隊長が広島県の辰野教育長である。つまり広島県の問題は、所沢高校の国家版のエスカレーションである。
 自殺前、世羅高校の校長はかなり落ち込んでいたと、各種報道機関が報じている。その様子について『週刊現代』の三月一五日号には、次のような世羅高校教員のコメントが紹介されている。
  「二五日に職員会議で、石川校長も一度は『君が代なし』と決定した。しかし、二七日になると突然『決定を覆して、もう一度君が代を提案したい』といいだした。二五日に決まったのに何でだろう、と疑問に感じたが、よほど県教委の圧力が厳しいんだなと思った」
 学校内での話し合いが県教委に撤回させられ、校長が追い詰められたことを、この証言は如実にしめしている。それは文部省から派遣された辰野教育長の強行姿勢をあらわしたものでもある。
 これまでも広島県では、日の丸・君が代をめぐる校長の自殺がつづいていた。現在までに公立校の世羅高校の件を含め、六人の校長が自殺している。いかに文部省がこの県の教育を敵視してきたかがわかろうというものだ。

■自殺を利用して法制化

 ところがこの悲劇の自殺を、渡りに船と利用する輩がいた。小渕・小沢政権だ。今回の事件を日の丸・君が代の強制中止へのきっかけとするのではなく、法制化していなかったから自殺したという強弁によって、タカ派の欲望を一気に満足させようとしている。これは校長の遺体を戦車で踏みつぶして進んでいくという、まったく野蛮なやり方である。
 また右派ジャーナリズムも自民党同様、この事件に食らいついた。たとえば サンケイ新聞の三月二日の社説には、次のような文章が掲載されている。
       
 ――広高教組は「県教委が『日の丸』『君が代』について職務命令をだした結果、学校現場が混乱している」といっている。県教委の強い指導が校長を自殺に追い込んだ-といわんばかりだ。だが、非は県教委にない。学習指導要領に沿って国旗掲揚と国歌斉唱の実施を指導するのは、当たり前のことではないか。校長が組合の要求に押し切られていた今までが異常だったのだ。
 何度も繰り返すが、国旗・国歌を知らずに社会へ出て困るのは、広島の子どもたちである。校長は今までの組合との行きがかりを捨て、児童生徒の将来を考えた指導に徹してほしい。――
 ――広島県と同様、“組合支配”の強い学校は他の自治体にもかなりあるとみられる。これからは、教育にも規制緩和が進み、校長の指導力はますます重要なものになってくる。校長には、組合の理不尽な要求に屈しない強いリーダーシップが求められる。――
 この主張がいい加減なのは、「国旗・国歌を知らずに社会へ出て困るのは、広島の子どもたちである」という一文である。子どもたちが日の丸・君が代に無関心であっては、いつどこで困り、いつどこで不自由なのだろうか。外国のパーティーで、君が代を歌え、というのだろうか。
 この一文にあらわれているのは、日の丸と君が代を掲げてアジアにあたえた戦禍にたいして、なんら反省しないまま、自己弁護しようという日本政府の傾向である。 さらに問題なのは、組合にたいする干渉である。「組合の理不尽な要求」などいいつのって、それにたいして弾圧を示唆している点で、この主張はきわめて犯罪的である。
 労働組合は労働組合法によってつくられている合法団体であり、法律に基づかない国旗と国歌の強制に抵抗するのは当然である。サンケイの論理は、非合法によって合法を潰そうという暴論である。

■「国民学校化」への道

 これらの攻撃を通して見えてくるのは、日本の民主主義のぜい弱さだ。
 なんの法的根拠もないのに日の丸・君が代の強行を推し進める文部省は、戦前となんら変わらない体質をあらわにしている。思想弾圧に異常な力を注いだ内務省の残党が文部省にそのまま残り、彼らの思想がいまでも継承されていることを図らずも明らかにした。
 日の丸・君が代の法制化を推し進めようとしてきた歴代自民党の幹部もまた、おなじ穴のムジナだ。岸信介などに代表されるように、戦犯がそのまま刑務所から出てきて、大臣のイスに座った。
 そして、ナショナリズムの昂揚キャンペーンを張る右派ジャーナリズムの復活。これではなにが戦前とちがうのか、首を傾げたくなってしまう。
 日の丸・君が代問題は、戦前の天皇・日の丸・君が代というセットを抜きにしては語れない。この三点セットこそが、国民の思想支配を貫徹してきた。戦後とは、天皇制・日の丸・君が代という強制を外したことにより、国民が思想の自由を取り戻した時代である。それが不況のドサクサに復活させられようとしている。
 しかも今回の国家的な強制は、学校という場を使い、子どもを人質にとって進められようとしている。もともと地方自治体に教育の権限があるはずの学校は、その地方で生きる人の民主意識を生み、民主化を進めていく拠点であった。そこで国旗と国歌による中央支配を貫徹させようとする罪は重い。
 戦前の総動員体制への復帰を思わせる、さいきんの一連の政府の動きは、思想・信条にたいする大攻勢であって、憲法違反の疑いが強い。戦前の「少国民」を作りだそうとした「国民学校化」として、日の丸・君が代の強制は認めることはできない。 (■談)

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