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鎌田慧の現代を斬る/「安楽の全体主義」へ突進する日常

■月刊「記録」1999年7月号掲載記事

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■殺さなくても死刑

「最近、とんでもないことになってきた」と、多くの年輩者が不安を口にする。三〇年前、「反動化」とか「逆コース」といわれたりしていたが、いまは地獄へ突進しているようである。その道を掃き清めた公明党の議員たちが、オブチやオガワのおぼえ目出たくいよいよ大臣になれるというから、まずはめでたい。疑問なのは彼らのスポンサーである。「財界」には、民衆主義的感覚の持ち主がいないのか、ということである。本当に喜んでいるのかどうか。
 あまり問題にされていないのが、オウム事件の横山真人被告にたいする死刑求刑である。
 横山被告は、地下鉄サリン事件全体の責任者、つまり共謀共同正犯として起訴されている。しかし、彼がサリンを置いた車両では、死者がでていない。ところが、検察側はこれを「偶然の結果」だとして、死刑を求刑しているのだからメチャクチャである。
 おなじ事件を起こした林郁夫服役囚にたいしては、自首して犯罪摘発に貢献した、という「特段の事情」により、無期懲役が求刑され、同様の判決で結審した。一方は一人も殺していないのに殺人の共犯者として死刑を求刑され、一方は二人を殺して無期懲役になるという。この検察官のデタラメ・エコヒイキを、どう説明するのか。
 もともとわたしは死刑に反対である。だから林服役囚を死刑にしろなどといっていはいない。検事および裁判官の気まぐれによって、人の命が左右される不平等を問題にしているのである。
 死刑制度の問題について詳しく述べるスペースがないので割愛するが、死刑制度における最大のマイナスは、国民の間に憎悪の感情を盛り上げて、権力がそれを利用することだ。
 裁判は慎重に手続きを踏んでおこなうべきものである。ところが「あいつをやっちまえ」という世論の高まりが、死刑判決を引きだすことになる。抑圧されている人民は、犯罪者を死刑にするということで鬱憤を晴らす。つまりはけ口である。その憎悪の感情をいつも内包させていることが、死刑制度の最大の問題点である。

■拡大解釈を狙ってつくられた盗聴法

 オウム真理教を盗聴していれば、サリン事件がなかった、などという意見がある。盗聴法案(通信傍受法案)の成立に一役買った論理だ。しかし警察側は信者たちを尾行しており、ある意味で泳がせていたともいえる。それでもサリン事件を防げなかった。この警察の失態を盗聴によってカバーしようというのは、逆立ちした論理である。
 先進国の米国でも盗聴がおこなわれているというのが、推進派である小沢一郎の論理だが、米国で盗聴されている八三パーセント以上の会話が、犯罪に関係ないといわれている。しかも残りの一七パーセントが本当に犯罪に関連があったのかどうか、それですら信じがたい。一人の犯罪者を捕まえるために、関係ない何百人もの会話が盗聴されることについて、自自公のとんでもトリオはどう考えているのか。自分たちは政治家だから盗聴されないと思っていたら、お笑いである。
 すでに日本の警察は、法律ができる以前から盗聴を繰り返している。盗聴法案の成立は、いままでおこなわれてきた警察の犯罪行為が合法となり、公然とおこなわれることを意味する。つまり秘密裏におこなわれていた盗聴が、野放しにされる。盗聴時代の到来である。
 盗聴法が立案されたとき、内乱、放火、逮捕・監禁、強盗致死傷、爆発物使用など一〇〇ちかくもの犯罪に適用される計画だったという。政府がなにを狙っていたか、この一〇〇という数字が明らかにしている。政府は、この目的を遂行するため、反対されそうな部分に若干の修正を加えた。公明党がその露払いである。その結果、銃器、薬物、集団密航、組織的におこなわれた殺人の四種類に盗聴の対象が絞られた。これから拡大解釈していこうとする政府の狙いが、立案の段階からハッキリしている。あまりにもハッキリしすぎていて、じつは盗聴器の需要を膨大につくりだし、不況対策にしようとしているのかと疑うほどである。
 盗聴するかどうかは裁判所の判断によるなどという言い訳が、盗聴法推進の屁リクツである。だが、これは前回も書いた通り、令状そのものが当てにならない。検事から要求があれば、裁判官はほとんど認めてしまうからだ。この問題にかんしては、寺西和史判事補が朝日新聞に投稿して、裁判所内に物議をかもしだした。しまいには集会の場で発言したという理由で、戒告処分にされている。
 また九一年まで二四年間裁判官を務めた秋山賢三弁護士は「令状をだすときにどこまでチェックできるのか、現場は自信がないだろう。裁判官はあまりに忙しい。令状を却下するには勇気もいる」(『毎日新聞』 九九年五月二二日夕刊)と語っている。
 司法統計年報によれば、九七年度の逮捕状請求件数一一万七七四三件のうち裁判所が却下したのは、わずか〇・〇四パーセントにあたる四八件。令状が盗聴の歯止めになるという理屈は、この数字だけでも覆される。
 盗聴法をふくむ組織的犯罪対策三法案は、さっぱり審議をしないで、あっという間に自自公によって強行採決されてしまった。当時、盗聴法だけ問題にされ、組織的犯罪処罰・犯罪収益規制法案となっているマネーロンダリング(資金洗浄)処罰については、なんら議論されずに成立してしまった。
 暴力団などが不正な方法で儲けたために使うことができない金を、洗い直すのを防止する。それが法律の目的だという。だが、これなども盗聴法同様、拡大して使われるおそれがきわめて強い。たとえば労働組合の資金カンパも、マネーロンダリングだという理由で、カンパ先が徹底的に洗われる。
 どの資金がなんの犯罪に関係あるかを、どういう方法で洗いだすのか、あるいは犯罪に関係する金を金融機関がどうやって割りだすのか。犯罪に関与した金だけに捜査が限定される保証などない。ただ組織の資金をチェックするという超権力的な方法が、公認されただけである。
 犯罪=市民にたいする攻撃、犯罪規制=市民の平和という図式によって、犯罪防衛が声高に叫ばれる。犯罪を防止する法律ができれば市民は枕を高くして眠れると、権力たる警察・検察は力説する。しかし市民の電話が盗聴されるような法律ができて、どうして安眠できようか。これは藤田省三さんがいう「安楽の全体主義」というものである。自分だけが幸せになればいいという主張が、全体主義への信仰を生むのである。

■権力のスピーカーとなる新聞

 最近また、オウムにかんする記事が急に増えている。 オウムの出現によって市民生活が著しく妨害されたと大々的に報道されるが、反論は掲載されていない。なかには犯罪には関係ない松本智津夫被告の子どもの学校通学を、地元民が阻止しているという報道もあった。
 たしかにオウム真理教は重大な犯罪を犯し、多数の人間の殺傷した。といってオウムの信者をすべて人殺し、というのは宗教の自由を謳った憲法の精神と著しく対立する。だからオウムにかんしては、冷静な議論が必要とされているはずである。ところが最近のマスコミは、どこそこにオウム信者があらわれたという「モグラ叩きの報道」を繰り返し、オウム撲滅に一役かっている。
 では、どうしてオウム信者の動静が報じる記事が、これほど急速にふえたのだろうか。その答えの一つが、破壊活動防止法の「改正」である。警察・検事が記者クラブで発表をおこなえば、記者たちは争うようにして書く。つまり結果的に、破防法の改正を狙う警察・検事側の要求に、記者たちが応えているのである。政府に意図があれば、新聞記事をふやし、国民に影響をあたえることができる。それが記者クラブ制度である。
 記者クラブの問題については、これまでも指摘してきたが、ますます盛んになってきたのは、権力のスピーカーとしてのマスコミのあり方である。ジャーナリズムは国家権力の横暴を規制にするためにあるはずだが、権力組織のなかでヤドカリのようにくっついているマスコミスピーカーは、権力の声をたんに増幅するだけだ。
 実際問題として、オウムの恐怖が繰り返し叫ばれることで、破防法改正への道筋は少しずつ整ってきている。少なくとも、政府主導による改正の大合唱に、多くの人々は慣れてしまった。元内閣安全保障室長の佐々淳行などは、オウムについて次のように語っている。
  「問題の根源は破防法が適用されなかったことにある。もう一度、適用を考えてもいい。この適用後は同法を廃止し、カルト、テロなど幅広く対応できる新たな危機管理法を制定すべきだ」(『毎日新聞』九九年五月一七日朝刊)
 これはきわめていい加減な、おためごまかし的ないい方である。結局は、破防法を廃止したのち、カルト・テロというお題目を掲げ、新たな治安法をつくろうということだ。佐々をはじめとする治安弾圧担当者たちの欲望が、ストレートに表現されている。
 破防法は、もともと政治団体を規制するために生まれたものである。政治運動の沈静化とともに、この法律は休眠していたわけだが、オウムによって完全に生き返ろうとしている。生き返れば、再び政治団体にたいするチェックが厳しくなる。しかも盗聴法によって、政治団体の盗聴が公然とおこなわれるわけだから、思想・信条の自由にたいする重大な攻撃が予想される。

■外に北朝鮮、内にオウム

 ついこの間まで、北朝鮮にかんする情報が湯水のように流され、それがガイドライン関係法案の成立につながった。ここであえて繰り返すまでもないが、周辺事態という拡大解釈可能な定義に基づいて、日本は戦争ができることになってしまったのだ。
 このときの北朝鮮とおなじような手法であらわれたのが、オウムである。オウムの恐怖を最大限に使うことによって、破防法改正・盗聴法・総背番号制(住民基本台帳改正法)などが一挙に成立してしようとしている。そのあと「有事立法」である。
 外側に北朝鮮、内側にオウム。これがマスコミを使ってつくりだした政府の二大仮想敵である。その仮想敵にたいする恐怖を掻きたてて、国家権力が力を得ていく。殺人を犯していないオウム信者の被告にさえ、死刑が求刑されるのは、死刑制度を撤廃しようとする世界的な方向性に反するばかりではない。治安維持法の復活である。それが市民に牙をむくことになる。
 気がつけば、外にむけて戦争、内にむかっては国民の管理と死刑制度が強化されている。全体主義国家の体制に着々とむかっている。その証拠が日の丸、君が代の復活である。またぞろ、天皇が引っ張りだされてきた。新聞も国会も、政府のいうがままにするのが、翼賛体制である。「大日本帝国」はまじかである。いまこそ声をだそう。 (■談)

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