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鎌田慧の現代を斬る/遅れてやってきた『一九八四年』

■月刊「記録」1999年8月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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「サッチー報道」がはじまってから一〇〇日を越えた。それでもテレビのワイドショーは、相変わらず長い特集番組を流しつづけている。今日見た番組では、サッチーのファッション遍歴を追いながら、ファッション評論家が彼女の人格を分析したりしていた。各局とも手を変え品を変え、視聴率を稼ごうとしているようだ。
 わたしは、サッチーを好きでも嫌いでもなく、さほどの関心もない。しかしマスコミのサッチー症候群には、いくつか問題がある。
「衆議院比例代表で繰り上げ当選になる可能性がある。だからサッチーは公人だ」。これが彼女のプライバシーを暴きたてるさいの、テレビキャスターの言い訳となっている。しかしバカも休み休みいってもらいたい。サッチー以外の公人のもつスキャンダルに、どれだけテレビ局は踏み込んできたというのか。
 サッチーはいわば「弱い権力」である。だからこそ手頃なターゲットにされている。逆に本当の権力をもつ政治家のプライバシーにたいして、テレビ局はすこぶる慎重である。サッチーと米軍との関係がいろいろと暴きたてられている。では政治家の場合、犯罪行為でもない前歴を、ここまで書きたてるだろうか。たとえば、ハマコーや児玉誉士夫や笹川良一について、どれだけ書いたか。
 テレビ局が自民党批判をあつかえば、自民党や党の政治家からクレームがつき、「放送免許」を取り上げるという脅迫にまで発展する。もしサッチーがすでに繰り上げ当選となっていて、自由党の一議席を占めていたなら、それでも彼女のプライバシーをこうまでテレビは暴きつづけていたがどうか。
 国会議員の立候補者ということで、サッチーをこれほど攻撃するなら、彼女の人気に乗って議席を増やそうとした毒クモ男小沢一郎・自由党党首の姑息な手段も、当然、批判されるべきだ。ところが、これには触れずじまいである。
 だいたい刑事事件の被告であっても刑罰を受けたあとは市民として復活し、その「前科」を暴く行為は、重大なるプライバシー侵害となる。ましてサッチーと米軍との関係は、なんら犯罪行為ではなかった。それを面白おかしく書き立てるなど、信じられないまでのプライバシーの侵害だ。
 ワイドショーが報じている彼女の犯罪事件は、たとえ成立しても微罪ていどのものである。その微罪追及のために毎日毎日、各局が膨大な時間を費やしているのは異常というしかない。
 このスキャンダル報道がエスカレートしながら三ヵ月もつづいているのは、他にこれだけの視聴率を稼ぐキャラクターがいないからだ。ワイドショー番組では、サッチーをあつかうことで二、三ポイントも視聴率が上がるともいわれているし、サッチーが出演した番組には二五パーセント以上の視聴率を稼ぎだしたものもある。
 彼女が登場する以前、マスコミから徹底的にいじめ抜かれたのが林真須美容疑者であり、松田聖子であった。つまり「ふてぶてしい女」が総攻撃の対象になっていた。しおらしくし、うつむき加減で、ろくに弁明もしない女性だったら、これほど攻撃されなかったであろうことを考えると、このバッシングの本質は、強い女性にたいする攻撃である。

■講演会を襲う言論弾圧

 わたしの友人であるフランスのカトリックの神父が、『出る杭は打たれる』という日本批判の本を書き、長い日本滞在にピリオドを打った。神父の言を待つまでもなく、いまだ日本は「出る杭が打たれる」社会である。サッチー報道は、そうした日本社会の陰湿さを如実にあらわしている。
 しかも彼女は、弁明する機会をもっていない。それが証拠に、弁明を掲載した『サンデー毎日』の編集部には、猛然たる抗議の電話が入ったという。本人に弁明する機会もあたえずに、根ほり葉ほり材料を集めて攻撃しているのは、弱いものはくじき、強いものには屈服するマスコミの体質そのものである。
 さらに問題なのは、サッチーバッシングがはじまることによって、それまで予定されていた講演会がぞくぞくと取りやめになったことである。盛岡市や埼玉県狭山市につづいて、茅ヶ崎市で予定されていた講演会も中止になった。茅ヶ崎の場合は、東京電力と市が共催で「妻として、母として、女として」という演題でひらく予定だったという。ところがサッチーバッシングがエスカレートするにつれて、市や東電に抗議電話が殺到し、やめざるを得なくなった。これで明らかになったのは、自治体が東京電力からカネをもらって、多数の市民を集めていることだ。原発会社のやり方は、油断もスキもない。
 問題なのはテレビだけではない。週刊誌などの見出しも常識を越えたものが目に入る。夫との関係などで、確認できないような憶測の記事が流れているのは、双方にとっての名誉キソンである。
 週刊誌やテレビは、とにかくサッチーブームにあやかり、すこしでも視聴率や売り上げ部数を稼ごうとハイエナ的な存在になっている。たとえ現在の報道が沈静化しても、彼女が繰り上げ当選になる可能性がでてくるたびに、またぞろ、おなじようなサッチー症候群があらわれるにちがいない。
 そのさいには、学歴詐称が最大の問題になるのであろうが、これとてさほど重要な話ではない。問題になるのは、日本人が学歴にこだわりつづけているからだ。学歴不要論などといいながら、米国の大学を卒業していれば尊敬し、それが詐称であればうって変わって非難する。この問題は、学歴にこだわる日本人の意識にたいするリトマス試験紙といえる。

■戦前体制の復活

 はたしていま、マスコミが本当に取り上げるべき問題は、サッチー報道だろうか。週刊誌やテレビ番組が、サッチーに割いているスペースは、これからの市民生活に最も重大な影響をあたえる盗聴法のためにこそ使うべきではなかったか。
 この三ヵ月間、自自公民はますます結束を固め、すでに公明党の入閣が話題になりはじめている。よくもサッチー「煙幕」を張って、このドサクサに紛れて、ここまでやるものだと驚く。それと日本の民主主義の基盤の浅さを痛感させられる。
 盗聴法にいたっては、驚くべきことに読売新聞と産経新聞が賛成の立場を表明している。権力の盗聴にたいして抵抗しないジャーナリズムは、果たしてジャーナリズムといえるかどうか。NOである。こうしたなかでの『内外タイムス』の奮闘は、称賛に値する。
 渡辺恒雄読売新聞社長は日本新聞協会の会長になって、産経新聞の清原武彦社長を副会長にした。右翼内閣である。ガイドラインと盗聴法に賛成するこの二つの新聞の代表者が、新聞協会の要職を手に入れたことは、報道の歴史を考えれば重大な事態といえよう。
 盗聴法は国民の管理を徹底する手段となり、国民総背番号制がその管理をさらに徹底させる。これに現在実施されている警察庁の「Nシステム」が加わり、車の移動のチェックから顔の識別までできるようになれば、個人の日常生活のあらゆる面が警察の監視体制下に入る。ジョージ・オウエルの『一九八四年』の世界である。
 さらに先月もあつかったように、オウムの恐怖心を煽ることによって破防法は改正にむかっている。もう「有事体制法案」の足音がそこまで響いてきている。憲法調査会もできて、憲法改悪への動きはますます強まっていく。
 さらに戦後改革の重大な柱であった企業・労働・農業部門での法律が破壊されつつある。
 労働についていえば、きわめて限定された形で出発した人材派遣業が、ほとんどの業種に適応されるようになった。一部の職種だけを対象にしてきた人材派遣業が、いきなり一部の職種を除いて解禁されるというドンデン返しになったわけだ。それは労働者の権利を圧迫する、政府ぐるみの不当労働行為といえる。労働者の権利を奪うことは、国家に抵抗する力の根幹を破壊する。ことは労働条件の範疇に留まらない。職場で物言えぬ労働者は奴隷のごとく、政治についても発言しない。
 ほとんど報道されていないが、農業基本法の改正も大きな問題である。食料の自給率を高めるという名目で法改正がなされようとしているが、結果的には財界による農業の大規模経営に道をひらくことになる。農地改革によって小作人にあたえられた土地が、結局、巨大な農業資本に奪い取られようとしている。
 もう一つは、独禁法である。この法律の形骸化は、持株会社の復活にあらわれているが、いまや完全に骨抜きの法律になっていて、大きければすべて良しという状況だ。独占・寡占という言葉自体が死語となり、国際競争力を高めるという名目で、企業の合同が進められている。その陰で労働者の権利が急速に奪われていることなど、マスコミに取り上げられることもない。
 日本の軍国主義を支えた労働者の無権利・地主・寡占が公然と復活されようとしている。しかも資本主義がすべてという価値観は、その復活に疑問をはさむ余地さえあたえない。
 こうした状況をバックグラウンドに、ガイドライン関連法案の実施が時間の問題となり、日の丸・君が代まで法制化されようとしている。
 さいきん気になったのは、七月七日に広島県でおこなわれた、日の丸・君が代に関する地方公聴会の議論である。自民・自由党推薦の岸元 学・広島県公立高校長協会会長は、こう発言している。
「二月二三日に教育長から職務命令がだされ、校長たちが全力で説得に取り組み、斉唱率は大きく向上したが、その裏で一人貴重な命が失われた。もしも日の丸・君が代に成文法の根拠が規定されていたなら、議論も相当変わったものになり、仲間の校長も死を選ぶことはなかった」
 自殺に追いやられた校長は、日の丸・君が代の強制に疑問をもっていたからこそ悩んでいたわけで、その悩みを強制によって押し潰したからこそ自殺したのである。その間の出来事を、すべて自分に都合よくネジ曲げ、法制化の根拠にしようとするのは、死者の魂を冒涜するものであり、校長の二重の死を意味する。
 問題なのは、日の丸・君が代という思想に関わる問題を、法律や行政の力によって押し潰そうとしていることである。
 このように白を黒といいくるめる形で、日の丸・君が代は強制されている。ここにもいまの日本がむかっているナショナリズムの深い暗闇が見える。
 いびつな「愛国心」は、日の丸・君が代だけの問題ではない。日本企業を守るという名目で、官僚と大企業が結託している。経営者の経営責任を「公的資金」で賄うために、国税が湯水のように使われ、国民のツケにされている。国家的ボッタクリである。負債ばかりか、これからは大企業の土地まで買ってやろうとしている。これが国民のため、国のためになるはずもない。
 これまで保守政党が、やろうと思いながらできなかったことを、公明党を助っ人にして、政府は一気に押し進めようとしている。それはまるで堤防を破壊するかのようである。
 こうした政府の布石に警告が発せられることはなく、なんの権力もない一人の女性の生き様を、悪女だとか、どん欲だとか、下品だとか、金に汚いだとか、マスコミは罵りつづけている。井戸端会議での悪口を、そのまま電波や誌面にのせているのは、大衆の欲情への迎合である。
 マスコミ関係者は、サッチー報道の陰で進行している事態にたいして、どれだけの責任をもとうとしているのか。ジャーナリストとしての志について、真っ正面から問わざるを得ない。不景気の憂さ晴らしは、世相が混迷すればするほどあくどくなる。どう猛な売るため主義だけのマスコミは、報道の歴史において恥ずかしいばかりでなく、日本を地獄の道へ進めるアクセルとなっている。
 言論の弾圧と言論の画一化は、銅貨の裏オモテであって、権力の手段なのである。(■談)

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