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ホームレス自らを語る/人を殺めてしまった・芝崎和夫(六四歳)

■月刊「記録」1998年6月号掲載記事

*        *        *

■ヤクザの男を包丁で刺した

 スナックのカウンターで、一人で飲んでいたときだった。隣にも一人で飲んでいる客がいた。明らかにヤクザとわかる男で、それがインネンを吹っかけてからんでくるんだ。僕がいくらいってもやめようとしない。ヤクザ特有の執拗さだった。
 そのころの僕は工場勤めができなくなって、土方なんかをしていたときで、気持ちのほうもすさんでいたんだね。その男があまりにも執拗で、ついカッとなってカウンターの中にあった包丁をつかんでいた。そして男の胸を刺してしまった。刺したのは、たった一ヶ所だったんだが、男は三日後に病院でなくなったそうだ。
 すぐに警察が呼ばれて、現行犯で逮捕された。握り持っていた包丁を振り落とそうとするんだけれども、どうしても手から離れない。かけつけた警察官が、指を押し開いてもぎ取ってくれた。それから何日間も、血のにおいが鼻について飯がのどを通らなかったよ。夜も寝られなかった。
 取り調べを受けていた警察に、妻が面会に来て、「別れてくれ」っていうんだ。将来、子どもが就職したり、結婚するときに、前科者の父親がいては困るからって。妻の希望をいれて、協議離婚に同意した。妻と二人の子どもとの関係は、それきりだ。
 裁判は二審までいって、傷害致死罪で懲役一二年の判決だった。服役したのは日本で一番厳しいといわれる刑務所だ。僕もいく度も懲罰にかけられて、独居房に入れられた。両手を肩とわき腹から後ろ手にして、革製の用具で拘束されるんだ。食事もその格好のままで、床に置かれたのを犬食いした。これほど屈辱的なことはないよ。もう、あんな生活はコリゴリだね。
 判決は一二年だったが、恩赦があって八年で出られた。事件を起こしたのが五〇歳のときだったから、出所したときには五八歳になっていた。

■掘っ建て小屋に母子六人

 生まれたのは一九三五年で、神奈川県の横須賀だった。父親が海軍の職業軍人をしていて、その官舎で生まれたんだ。
 小さいころは病弱な子で、入退院を繰り返していた。特に心臓が弱かった。小学校に上がった年に太平洋戦争が始まった。そのうちに戦争が激しくなって、集団疎開をすることになったが、僕だけは病弱で無理だからって、山形の田舎にあった父親の実家に預けられた。
 しばらくして、母親と兄弟たちも東京の家を焼け出されて、山形に越してきた。そのころ、父親は南方の戦場に送られていて、フィリピンで戦死した。戦争の終わる二日前の、八月一三日に亡くなったというから運のない話だ。後になって遺骨が二つも帰ってきた。入っていたのは両方とも石ころだけだったが。
 山形での生活は苦しかった。父親の実家の敷地に廃材で小屋を作って、母親と兄弟五人で暮らした。電気が引けなくて、ずっとランプの生活だった。水道もなかった。食うものも、着るものもない。ノートまで兄貴の下がりで、使っていない余白のところに書き込んで使うようなありさまだった。
 それで中学三年のときに家出をした。口減らしをして、母親を少しでも楽にさせてやりたかったんだ。そのころ、上の兄貴は働きに出ていたが、僕の下にはまだ三人の弟や妹がいたからね。その兄貴の給料を盗み出して、東京行きの夜汽車に乗った。
 東京では偶然知り合いになった復員兵と一緒になって、進駐軍の倉庫に忍び込んで、ミルクや砂糖を盗み出したり、製鉄工場へ行って石炭の燃えカス、今でいうコークスを拾って、それを料理店に売るといったことを二年くらいしていた。ところが、ある日街で中学の同級生にばったりあったのがきっかけで、やっていることが家族に知られてしまい、山形に連れ戻されてしまった。

■手のけがで職場を失う

 それでまた中学校に戻って、ちゃんと卒業してから、今度は正式に東京に出た。町工場の鉄工所で働きながら、工業高校の定時制に通った。高校を終えて、ネジの問屋に就職して、そこで八年間働いた。結婚したのは、その問屋にいたときで二四歳だった。妻は高校を出たばかりの一九歳。取引先の町工場の事務員で、それで知り合ったんだ。四年後に長男が生まれ、その二年後には長女も生まれた。
 長男の生まれたころに、仕事を変えた。大手自動車会社の募集があって、中途採用されたんだ。そこではトラックの組立工場に配属されて、四二歳まで働いた。大企業に就職できたわけだけれども、中途採用だったし初めのうちは貧乏だったよ。テレビを買ったのも、近所で一番遅かったんじゃないかな。それでも、妻も働きに出て、子どもたちも新聞配達や牛乳配達をしてくれて、神奈川県の相模原に土地を買って、家まで建てた。
 四二歳で自動車工場を辞めた理由は、上司をぶん殴ったからだ。大学出の生意気なやつで、ことあるごとに僕の山形弁をバカにしててね。殴ったのは、仕事のやり方の違いでケンカになったんだが、このときほど、学問のないことがつらいと思ったことはない。
 それでカメラメーカーの下請け工場に再就職した。それからも頑張ったんだよ。家の庭に小屋を建てて、旋盤を買って入れ、工場から帰ると、毎日小屋にこもって内職をしていた。ところが、四八歳のときに、その旋盤に手を巻き込まれて、大けがをしてしまったんだ。右手がちゃんと握れなくなってしまって、精密機械を扱うカメラ工場では働けないから、辞めざるを得なくなった。
 それからは土方になって、その日がしのげればいいような生活になっていた。心もすさんでいく。殺人事件を起こしたのは、そんな時期だった。

■青春時代からやり直したい

 刑務所を出ても、行くところがないし、仕事もないだろう。各地を転々としながらフーテンだ。新宿に来たのは九四年だった。今でも、人を殺したときのことが、夢に出てくる。夜中にうなされて、その声で目が覚めることもある。いくら相手がヤクザだったとはいえ、その人にも死を悲しむ家族があっただろうからね。やっぱり可哀想なこと、悪いことをしたなって思う。フーテンになったのも、その罪の報いかなともね。
 それと目に焼きついているのは、僕の家族四人で食事をしている光景だ。貧しかったけれども温かい家庭だった。別れた子どもに会ってみたい。この新宿中央公園に遊びに来る子どもたちを見ていると、「僕の孫もこんな年格好かな」なんて想像してしまう。でも、いまさら会いにもいけない。
 悔いが残るというか、くやしいというか、一〇年生まれるのが遅かったら、僕の人生は違ってただろうと思う。生まれたときから戦争だろう。物のない時代だったし、もっと勉強もしたかった。それが無理なら、もう一度青春時代に戻してもらって、せめて、そこからでもやり直してみたい。そう切実に思うね。 (■了)

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