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ホームレス自らを語る/社会主義の理想に燃えていた・田中淳一(七三歳)

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■秋の空に消えた妻の煙

 病院のベッドで月刊の『文藝春秋』を読んでいたんだ。視線を感じてふと顔を上げると、黒いワンピースを着た女性が立っていた。
 美人でね。黙って僕を見つめている。しばらくして、やっと自分の娘だとわかったよ。数日前、兄に電話したとき、娘が僕に会いたがっているといっていたから。彼女は18歳、17七年ぶりの再会だった。
 最初、気まずくてね。「ジュース買ってこいや」と小銭をわたそうとしたら、「いけませんよ」って怒られた。二ヶ月間入院するほどのけがだったから、娘も心配したんだろう。
 それからまた沈黙が訪れたんだ。
 「聞きたいことや、言いたいことがあるかい?」 
 娘と17年ぶりに会い、やっとしぼり出せた言葉がこれだった。
 「なくなった母は、どんな人だったんですか」
 僕から視線を外すことなく、彼女はいった。そのしっかりとした口調が、死んだ妻を思い出させた。
 妻を最初に僕に勧めたのは、おふくろだった。お茶会で見かけた娘さんがすてきだったから、ぜひ結婚しろとね。「お花もお茶も一人前、そのうえ、農作業もきちんとできる。何より人前での応答が堂々としているのが気に入った」と、おふくろは妻を絶賛した。でも見合いでの僕の第一印象は、よくなかったな。きれいな女じゃなかったからね。ところが話すうちに、どんどんひかれていったんだ。さすがにおふくろの目は確かだった。
 結婚してからも、おふくろの見立て通り妻はよく働いた。家事も農業も手抜きすることもなく、いつも笑顔で僕に接してくれた。子宝にも恵まれて、すぐに長女を出産。ここまでは順調だったんだ。
 僕の実家は新潟県でね。毎年10月には、一番実りが遅い稲を刈る。寒いなかを、鎌で一束ずつ刈り取らなくちゃいけない。産後の肥立ちが決してよくなかった妻も、産後八ヶ月もたっているからと田に出た。強い寒風が彼女をむしばんだんだろう。すぐに体調を崩し、急性肝炎を発病。子どもを残して、あっさり死んじまった。太平洋戦争の混乱をまだ引きずっていたころだから、医療体制も充実していなかったしね。
 地元の葬式は、まず十文字に溝を掘る。そこに木を組み、棺桶を置いて火をくべるんだ。晩秋の晴れた空は、遠くてね。妻を焼く白煙が、真っ青な空を真っ直ぐに、真っ直ぐに昇っていった。昇った白煙が空に溶け込み、消えていくのを見ていると、万感胸にこみ上げてきた。涙が自然にほおを伝わっていたよ。ぬらしたほおが、寒さで突き刺さるように痛かったのをはっきりと覚えている。
 やがて、子どもに恵まれなかった兄夫婦が、残された8ヶ月の乳飲み子を「引き取らせてほしい」と頼みにきた。迷った末にお願いした。僕は働かなければならないから、自分で育てるにしても、おふくろや兄弟夫婦に娘をみてもらうことになる。それならば兄にお願いしようかな、とね。安心して任せられるし……。
 娘がもらわれた日から、僕は彼女に会わないようにしていた。死ぬまで会わないと決めていたんだ。兄貴に悪いし。でも一生に一度くらい、娘は実父に会いたかったらしい。だから入院先に来たんだろう。
 娘とは、一時間以上も病院で話していたかな。最後に「おれに会うのは、もうこれきりだよ」と娘にいったら、彼女もうなずいていた。それから25年以上たっているけれども、娘に会ったのはそれきりだね。

■乱闘国会を経験

 隅田川の河川敷でアオカン(野宿)をするようになって、一年半がたつ。まさか自分がホームレスになるとは思わなかったよ。振り返ってみると、妻が死んだこと、そしてヤマ(山谷地区)で仕事を始めたことが、僕の人生を変えたんだろうな。
 僕は、自らヤマに来たんだ。借金に負われていたわけでも、職がなかったわけでもない。簿記ができたから、小さな会社ならば雇ってもらえた。ただ人生を変えたかった。だから42歳からドヤ(簡易宿泊所)に住みつき、ヤマで日雇いの仕事を得た。
 実家の新潟を出て、東京で住むようになったのが28歳。知り合いから紹介された旅館で働き続けた。36歳から40歳までは大手建設会社の社員として、さらに42歳までの二年間は、その関連会社で建設に関わる事務仕事をしていた。どの職場も働きやすかったよ。ただ日に日に野心めいたものがわき上がってきた。机の上なんかで憔悴して生きたくない。自分の好きなことをして生きていきたいとね。決まりきった仕事をこなすだけでは得られない充実感を取り戻したかったのかもしれないな。
 実は妻が死んでから数年間、つまり20代後半かな、僕は政治運動に熱中していてた。人生で最も充実した時間だった。きっかけは、隣町に住んでいた日本社会党右派のシンパに出会ったことだ。彼の家によく通ったよ。社会主義の勉強と論争の毎日だった。本も手当たりしだいに読んだよ。
 選挙前になると、立候補した先生と一緒に手弁当で選挙区を回る。トラックで一ヶ月以上もだよ。そして、人が集まっている場所を探しては、先生がトラックの荷台の上で演説を一席ぶつ。まあ、遊説だね。テレビがある時代でもないし、選挙民一人一人に会わなければ、選挙に勝てないから。
 もっとも当時の遊説は、今みたいに穏やかじゃなかった。反対陣営の人が、力ずくで演説を止めにくることもあったから。そうなると、すごいもみ合いになる。おかげで遊説が終わるころには、トラックがボロボロ。そういう毎日が楽しかったんだな。
 時代もよかった。師事していた先生が国会議員になった年には、乱闘国会が起こっているし。衆議院会議場に警官200人が動員されたなんて、今では信じられないだろう。先生の議員会館にちょうど遊びに行った僕は、乱闘国会直前の雰囲気を現場で味わったんだ。ワクワクしたよ。時代が動く予感がした。
 国家を動かす政治に触れた後、田舎なんて小便くさく思えたんだな。先生のお手伝いをしたかったし、東京での都会的な生活にもあこがれた。それで先生を追って、田舎を飛び出したんだ。東京に出てきた当時は、とにかく先生のところに通った。仕事以外の時間は、政治一色だったからね。
 ところが僕の政治への情熱は、五五年を境に減退していく。社会党の右派・左派統一や、自由民主党の結成。政治からギラギラしていた活力が消えていった。30歳になるころには、政治への情熱が消えていたよ。いや、むしろ嫌気がさしてきたんだ。人を人とも思わない政治の世界に幻滅したし、体力的にもついていけないと感じていた。

■半数が服役経験者

 そんな「政治の季節」を終え、その後12年のサラリーマン生活をへて、僕は山谷に来た。初めて山谷に来た日を、僕は一生忘れないと思う。心底、こわいと思ったからね。だって裏道に一本入ったら、ズラーとオカマが並んでいたんだから。彼らは売春をしていたんだ。道の奥まで、20件くらい売春宿があったかな。野太い声のオカマが、口々に「遊んでいかな~い」って声をかけてくる。女でもないのにカネで寝るなんて、信じられなかった。
 でも、そんなことは序の口だったんだ。山谷に住んでみれば、ここがどれほど常識の通用しない場所かがわかる。昔はヒロポン中毒の人が山ほどいた。そういう人は仕事がないから、カネがなくなると血を売りにいくんだ。それでまたヒロポンを買う。薬を買うやつが多いから、当然売るやつも増える。だからヤクザも、幅をきかせている。
 山谷では、誰が何をするかわからないこわさがある。八畳間に4人で泊まっていた経験もあるけれども、部屋には常に緊張感がみなぎっているからね。のんべんだらりとなんかしていられないよ。
 そうそう、20人ほどでドヤのテレビを見ていたことがあってね。ちょうど刑務所での生活の様子が放送されていたんだ。そうしたら誰かが刑務所の思い出話を始めて、気がつけば半分以上の人が、その話題で盛り上がっているんだ。20人中、10人以上の人に服役経験があるなんてな。
 劣悪な環境だよね。でもその無秩序を望んで、僕は山谷に来たんだと思う。社会主義の理想を、労働者とともに実現していきたいとでも思っていたのかな。今考えれば、あてのない「野心」だね。山谷で生きる計画そのものが砂上の楼閣だよ。もし妻が死んでいなければ、東京に飛び出すこともなかったし、山谷でフラフラすることもなかったかもしれない。
 そのうち僕は年をとり、景気も悪くなり、仕事もなくなってきた。ドヤは今では一泊2500円もするからね。一ヶ月もいれば7万5000円もかかるんだ。とても払えないよ。もう隅田川でテントを張るしかなかった。 歩き回って食事を探し、隅田川の増水に気をもみ、ネズミから食べ物を守り……。それが今のテント生活だよ。どうして山谷に来てしまったのか、どうしてホームレスになったのか、やっぱり考えることがある。でも、よくわからないんだ。 (■了)

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