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ホームレス自らを語る/使い捨てはごめんだ・本多浩一(四九歳)

■月刊「記録」1998年3月号掲載記事

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■新宿の街はおれたちが造った

 東京都庁の立派な建物があるだろう。おれもあれの新築工事には参加したんだよ。すごい工事でね。24時間体制の突貫工事ってやつで、昼も夜もなかった。昼夜ぶっ通しで工事するなんて、当時もうよそではなかったからね。都庁の工事だけは、ちょっと異常だったよ。高田馬場の手配師たちが、相当の数の労働者を送り込んだんだからね。おれも足場の組み立てや外壁工事で働いたってわけだ。
 そういえば、今この新宿西口地下に住んでる連中は、ほとんどが都庁だの、高層ビルだの、西新宿の再開発に関わっていたと思うよ。大半が高田馬場の労働者だったんだ。その連中が汗を流して作った街なんだから。それがさあ、忙しいときに使うだけ使って、完成すると100円ライターのようにポイ捨てだろ。それじゃあんまり報われないよね。
 その東京都が強制排除をしたから、おれも座り込んで抵抗したのよ。捕まったっていいやって思ってね。恨みっちゅうか、住んでいるおれたちには命に関わる問題だからさ。もう少しくらいは今後のことを考えてくれてもいいよね。それを簡単に切り捨てるのは可哀想だよ。おれのことも含めてね。
 いつだって状況が変わると、高齢者とか、田舎からの出稼ぎとかが、振るい落とされていくんだ。忙しいときだけボンボン使っておいて、ひまになると「もう年だからダメだ」とかさ。そのくせ行政が代わりに用意してくれる仕事は結局は土方みたいなものばかり。60歳の人に「土方やれ」なんていえないよ。これおかしいよ。行政はそういう人に仕事の保証をしろっていうの。公園掃除のような軽労働を斡旋するべきなんだ。弱い者がいじめられる時代はおかしいよ。

■親の跡は継がない

 おれが生まれたのは、北海道の旭川。おやじは大工をしていた。若い衆を住み込みで何人か使っていたから、経済的には恵まれていたほうだったよ。母親が病弱で入退院を繰り返していたけど、家にはまかないの人も雇っていたから、生活に不自由はなかったね。
 地元の工業高校を卒業したんだけど、仕事が見つからずにブラブラしていたんだ。おやじについて大工の見習いのようなこともしたけど、大工になるつもりなんかなかった。上下関係の厳しい職人の世界が嫌いでね。徒弟制度とか、ああいうの嫌なんだよ。人に使われるのも嫌だったね。
 結局、20歳のときに上京したんだけど、遊び気分で、目的があったわけじゃない。東京にはおじさんがいて、そのコネで働くようになった。アパレル関係の営業だよ。その会社は水商売の女の人の衣装が専門でね。そのころは、そういう会社は一社しかなかったから、独占でもうかってたんだよ。営業に行かなくても、向こうから注文がくるんだから。
 給料も8万円くらいもらってた。大卒の初任給が2、3万円のころだからね。それにホステスが相手の商売だからチップがもらえて、これが給料の4、5倍はあったんじゃないかな。寮に入ってたし、東京の水になじんでいないっていうか、スレてなかったからカネは使わない。だからたまったよ。

■酒とギャンブルの道へ

 いい時代は長くは続かなかった。そのうちに同業のライバル会社が出てきたんだ。ダンピング合戦が始まったり、できる社員が引き抜かれていってダメな社員ばかりが残る。経営感覚はドンブリ勘定で古い。売り上げが落ちてきても賃金カットだけしか経営者は思いつかないから、できるやつはますます辞めていく。まさに悪循環なんだよ。おれも配転になって、事務所に入ったけれども、デスクワークなんて好きじゃないだろ。上下関係の中で働くのは嫌いだからさ、26歳のときに辞めたよ。
 辞めてどうするか、あてはなかった。北海道に帰ろうとも思わなかった。両親も亡くなっていたしね。とりあえず、アパートを借りたよ。住むところがあって、食えりゃいいって考えだったね。仕事は何でもあったし、選ぶこともできた。そのころは「2、3日もすれば慣れるから」っていう具合で、素人でもすぐに雇ってくれた。最近は経験がないとダメだからね、まったく逆のパターンだよね。
 長いので半年、短いので一週間。いろいろやったね。本のセールス、ミシンのセールス、電気のシステムエンジニアなんてのもやった。面白いのでは、火葬場の窯掃除があったね。他人の不幸が多いと忙しくなる仕事で、日当も破格で3、4万円はくれたと思うよ。
 だけど、そのころになると、東京の水にもなじんできて、酒とギャンブルをやるようになった。ギャンブルをやると、どうしても負ける日もある。で、給料を一日で使っちゃう日も出てくるわけ。すると日払いの仕事で、今日の分だけでも稼がなきゃって思うようになる。で、飲み屋で知り合った人に勧められて、高田馬場に行った。初めての日雇いだよ。けれども、意外に簡単だったね。「この程度ならば、おれにもできそうだな」と思ったよ。それからは、ずっと建築関係の日雇いだ。

■おれはホームレスじゃないんだ

 あのころは日雇いもよかったよ。いつでも仕事はあったし、都庁建設もあったしな。おれも高田馬場から都庁へ行ったよ。あのころは世の中に活気があったね。
 ところが一九九一年くらいからかな?それまで年がら年中あった仕事が、夏場に落ち込むようになったんだ。そのうちに、外国人労働者が入ってきて、仕事にあぶれることが多くなった。
 95年ころからはホントに食えないね。雇う方は年を聞いてから決めるからね。45歳でも働かせてもらえないことがあるんだから、参っちゃうよ。
 新宿に来たのは95年10月だった。それまでホームレスの存在なんて他人事だったし、否定的でもあったんだ。しかし、来てみて驚いたね。まず年寄りが多い。新聞をかぶっただけの人、毛布もない人もいた。すでに「近々みんな追い出される」といううわさも立っていた。 「どこにも行くところがないから、ここに住んでいるのに、そういう人を追い出すとはどういうことだ。こりゃあ、何かできることがあったら、おれも何かしなくっちゃ」と思ったね。
 それでおれも段ボールハウスを作って、ここに住むようになったんだ。だから厳密な意味では、おれはホームレスではないんだ。その意識もないよ。まあ、ボランティアだね。新宿連絡会に入って、仲間の自立を助けるための活動をしているのは、そういうことなんだ。
 今はおれも病気(軽い結核)で働けないけど、医者のOKさえ出れば、また仕事を探して働くよ。自活していく自信はある。将来にたいする不安もないね。 (■了)

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