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2007年7月

サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/『解放』を読む斎藤だ

■月刊「記録」1995年9月号掲載記事

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■今さらすり寄るな

 動労主導のJR総連・東日本旅客鉄道労働組合(東鉄労)と国労の二者は互いに実に激しく対立している。
「ふざけんな。お前らなあ、国労のことをしょっちゅう批判ばかりしやがって。なに? ケッ、国労が19年間も争ってきたスト権ストの202億損害賠償裁判で和解を勝ち取り、運輸省も動き出したことから、残る諸闘争も全面解決間近と察して、自分らの組織が危うくなってきたもんだから、国労と手を組んで1047人問題に自分らも尽力したように見せかける魂胆かよ、往生際の悪いヤツらだよな、無節操なんだよ、お前らはよお」。
 思わず吠えしまったが、国労のトップは真摯な方ばかりで、このようなヤクザまがいの暴言を口走る人は誰一人としていないということを理解していただきたい。
 これはつい先日、国労のトップ三役にJR東日本内最大を誇るJR総連・東鉄労が「仲良くしませんか」と話し合いの呼びかけ文を郵送してきたというものだ。今日まで、事あるごとに「国労解体」を叫び続けてきたJR総連・東鉄労がだ。解体できそうもないから、今度は自分たちの組合に国労を抱き込もうということか。国労は「一切相手にしない、応じない」という声明を出した。当然だ。人間としてのモラルのカケラもないあなた方とは今更手を組めない。

■よくわかるJR労組勢力分布

 JRの労働組合の構図は大変ややこしい。組織が大きいせいもあろうが、一般組合員の中でも正確に把握している人は少ない。また自分が所属している組合の正式名称すら知らない人も多い。そこで私も「あやしいものではありません」と前置きして、国労本部に電話を入れ、確認してみた。
 全国的には、JR総連約7万5千人・JR連合約7万6千人・国労3万人の3つに大別される。圧倒的多数だったJR総連が、2年ほど前に結成されたJR連合に逆転されている。国労も実は3万を割り、2万8千人が正当である。JR東日本でいえば、JR総連傘下の東鉄労約5万6千人・JR連合の鉄産労4千6百人・そしてキラリと輝く国労1万8千人となっている。
 各組合の特徴を簡単に述べよう。JR総連・東鉄労とは、国鉄分割・民営化攻撃の嵐の中、その過激さから鬼とまでいわれた動労が180度方針転換し、国労をやむなく抜けて行った仲間や民社党系の鉄労などを1つにまとめ、労使協調を掲げて国鉄改革に積極的に取り組み、今日のJRを築き上げたといっても過言ではない、大変ご立派な組合である。
 片やJR連合・鉄産労は、国労内主流派の社会党系右派が「国労運動を正しく継承、発展させていく」と唱えて分裂し、これまた労使協調の利口な立ち回りをする素晴らしい組合といえよう。
 そしてご存知わが国労は、国鉄分割・民営化反対を貫き、「闘う駄々っ子」、あるいは「反対ばかりのならず者」と嫌われているどころか、会社側からほとんど無視されている組合とでも申しましょうか。うむ、辛いのだなオレは。
 とまあ大雑把な説明だが、ここで注目すべきは分割民営化当時には10万人以上もの大組織だったJR総連が激減したという点だ。東日本以外のJR各社では、総連はいまや少数組合に転落してしまったのだ。労使一体となって「国労潰し」と自分達の利益だけを目指した、あまりにも急仕立の組織だった弊害が吹き出したのだ。鉄労系や良心的な活動家を排除して、動労中心の独裁体制を強めた結果でもある。10万人とはいっても、しょせん水と油の烏合の衆であり、JR連合ができたのは必然といえるのだ。

■実在する「JRの妖怪」

 しかし、JR東日本だけはJR総連・東鉄労は圧倒的大多数と健在なのである。それはなぜか。国鉄時代からのJR社員であれば、誰もが「妖怪がいるからですよ」と答える。あの『週刊文春』をもにぎわした松崎明委員長(現会長)の存在だ。この人は絶大な力を持った人で、JR関係者のみならず総理大臣から『記録』編集長まで知っている。鬼の動労委員長を歴任し、分割民営化を貫徹し、総連を作り、組合員の生活と地位向上に死力を尽くす。一方では「憲法9条を守る」という会を組織し、反戦・平和を力説するスゴイ人だから「妖怪」などといわれるのか・・・・。
 国労への敵対心も並大抵ではない。「1047人の1人も採用させてはならない。国鉄改革に苦労してきた我々の成果を奪うようなことは許されない」「国労は存在それ自身が犯罪であるといわねばならない。国労の無責任・無節操な振る舞いを許さず、国労の犯罪性を暴露し、国労の最終的解体のために職場から論争を挑んでいく」と吠えまくっている。
 また95年5月3日付朝日新聞の広告文に対しても、「国労ガンバレなどという無責任で安直な評論家を歴史は黙殺するだろう」「虚偽と国労幹部の責任放棄を人権の大義に仕立て上げたものであり、事実を知らない人や団体を、解雇→可哀想=人権問題という単純論理で組織化したものにすぎない」とかみつくなど、妖怪ぶりは枚挙にいとまがない。こうまで罵られ矢ジリを向けられると、私はもう反論する気も失せてしまう。ただ「ごくろうさん、いつも国労を思ってくれてありがとう」なのだ。

■戦後最大の解雇問題

 6月26日、ルポライターの鎌田慧氏や評論家の佐高信氏たちが呼びかけた「JRに人権を、1047人の復職を求める」日比谷公会堂の集会に出掛けた。会場周辺には団結の赤い腕章やハチマキをした青年が「頑張って下さい」と声を掛けながらビラや機関紙を配っていた。私も何気なく受け取って「国労の支援団体だろう」と見てみると、それは何と、妖しげな集団革マル派の機関紙『解放』だった。そこには「国労本部ダラ幹を弾劾せよ」とか、国労をコテンパンに誹謗・中傷した記事で占められていた。
 不思議なことに『解放』の文体は、JR総連・東鉄労がいつも用いる表現と酷似していた。旧動労幹部は革マルだというのは、国鉄時代から今日まで誰もが口にする大方の見解だ。だが真相はわからない。「そんなことどうでもいいさ」と誰もが思う。誰が革マルだろうが日の丸だろうが、電車が毎日正常に動きさえすれば国民には関係ないかもしれない。しかし、もしそれが真実であるならば、JR上層部の資質を疑わざるを得ない。日本を代表する大企業の、大変重要なポストに就かせているということが大問題ではないのか。帰りの地下鉄車内で、詳しく読んでみようと『解放』を広げると、同僚が耳元でそっと囁いた。「やめろよ典さん、こんなとこでそんなもん読むなよ、サリンより恐いんだから」。
 国労は時代に乗れず不器用なのかもしれない。しかし国労は労働組合として、また人間として堂々と本道を歩んでいるとつくづく思う。分割民営化の大洪水のような攻撃に対応し切れずに押し流されもしたが、どっこい踏ん張ったお陰で仲間同士の信頼関係も深まった。また皮肉なことに、攻撃される度に私達労働者は鍛えられて強くなった。国労は1つ1つ地道に解決し、コツコツ着実に運動を重ねて今も闘っている。
 私は今までに幾度となく愚痴をこぼし、活動家を非難してきたが、国労はいつも温かく受け入れてくれた。国労の魂から遊離しないことが勝利への道だと思う。会社に無視されても、世間に相手にされなくても、人間的で優しい仲間と毎日笑い合っていこう。
 国の政策で断行した分割・民営化だ。国家は国民をこれ以上弄ぶことは許されない。1047人の闘争団の家族にせめて普通の当たり前の暮らしをさせてあげるべきではないか。当時の中曽根内閣は国会で答弁した。「1人も路頭に迷わせない。組合差別はしない」と。村山総理しっかりしろ。新潟のトキは絶滅寸前でワシみたいじゃのうとかいっとらんで、自民党の洗脳を解き、指導力を発揮し、この戦後最大の解雇問題をキチンと解決してほしい。 (■つづく)

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サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/乗車券まで売っている斎藤だ

■月刊「記録」1995年7月号掲載記事

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■週末は競馬場へ

 爽やかな季節だ。緑のコントラストが最もキレイに目に染みる若葉の頃。春から初夏へ、日に日に大きく成長する自然の雄大さ。新緑を見ていると吸い込まれそうで、めまいさえ覚える。鯉のぼりのように、そよ風に身を任せて1日中空を泳いでいたい。
 このところ私は土曜・日曜になると東京競馬場で1日を過ごしている。「京都・福島競馬も売るのかい」「ハイ、全国です」といった会話を繰り返す。あふれんばかりの人、長蛇の列、埃だらけにはいささかウンザリ。これでは普段の都会の喧噪と何ら変わりないではないか。芝の緑の美しさをのんびり満喫とはいかない。ならば何故、私はこんなところにいるのか。
 実は私はなんと、仲間の車掌7~8人で乗車券を売りまくっているのである。競馬場の駅である府中本町への応援と混雑緩和という意味もあるが、何よりも車掌区の増収活動の一環として、結局はJRの収入と、さまざまな工夫を凝らして各職場が競争している。このように増収・増収と目の色変えて躍起になっているのが現状なのだ。民営化、すなわち営利第一を本旨とする株式会社JRなのですから。
 皆さんも駅構内を歩くと見掛けるでしょう。特設売場を設けオレンジ・カードやイオ・カードをバナナの叩き売りのように売っている姿を。本来なら駅出札での扱いが基本だが、今や駅員に限らず私たち車掌や、果てはそば屋の店員だったりで「支離滅裂、なんでもあり」の状態となっている。ネーム・プレートをご覧下さればすぐ解ります。また、競馬場での私はネーム・プレートなど見なくても一目瞭然。馬のようなデカイ鼻をしてますから。

■レース後が本勝負

 このイライラを解消するには、やはり「ドカンと当てなあかん」というわけで、男一発大勝負に挑んだのであります。勝つのは1番強い馬に決まっている。従ってその馬を買う。その結果、手元のお金が増えるという実に単純明快な仕組となっている。
「さあ勝負」とレースに集中。各馬一斉にスタート……。4コーナーを回って直線に向かう。馬の尻にムチがはいる。ゴールまであと400mの勝負。興奮は高まる。残り200m。自分の買った馬に無意識に声援を送ってしまう。「ソレ行け、抜け出すんだ、都知事は青島だあ、オレは斎藤だ、負けるもんか」と、ほとんどワケが解らぬままレースは終了。グスン。弱い馬が勝つこともあるのだね。1番強い馬はナメクジのようにノロマだったのだ。
「ガッカリ」。全身の力がスーッと抜けていく。隣につっ立っている助役も肩を落としている。「助役さんも勝負したのだね」。途端に私の前にはドッと人が押し寄せる。さすが助役のハンドマイクは気を取り直し、しっかりした声で叫ぶ。「府中本町の駅は大混雑しております。お帰りのキップはこちらでお買い求め下さい」。
 メイン・レースが終わってからの約1時間半が「本日業務」のピークとなる。負けレースを反省しているわけではないが、下を向きっぱなしとなり、息つく暇もないほどだ。ただひたすらポス(乗車券を作る機械)を打ち、金銭授受のミスのないようキップとお金とお客さんの手元のニラメッコが永遠と続くのだ。会話もない、心の触れ合いもない。次から次とお金を受け取りキップを手渡す。これではまるで機械そのもの。ミジメな気持ちになってくる。ふと、「負けてカリカリしているお客さんに限らず、ほとんどの人は競馬場にお金を儲けにきている」そんなことを思うと殺気すら感じ恐くなってくる。
■5月3日と斎藤だ

 さて、戦後50年目「憲法記念日」の朝日新聞に「JRに人権を1047人の復職を求めます」という意見広告が一面のスペースでデッカク掲載されていた。「見たかな? まだの人は読めよ、読めよ、読めよ」と、私は麻原教祖的になってしまう。国鉄分割民営化から8年が経ったJRの現状を述べた上で、JRと政府に法律を遵守し誠意のある解決を求めるという内容だった。この世論に訴えるアピールの呼びかけ人は、写真家の石川文洋さんをはじめ、作家・弁護士・ニュースキャスター・映画監督・学者などの心ある著名人70人からなり、賛同者や団体は数え切れぬほど名を連ねている。私はうれしさのあまりアントニオ猪木的ガッツ・ポーズで決めてしまった。成功を祈らずにはいられない。
 このように、国労の運動はいつの時でも善意の大勢の人々に支援され続けてきた。だがなぜか思うように盛り上がらない。時が経つにつれ、この問題は世論からも風化しつつある。実に8年が過ぎた。忘れるものですよ。当事者でなければ次から次と忘れ去っていくものなのだ。私は悔しい思いでいっぱいになってしまう。
 誤解を恐れずにいえば、いつも活動家だけが堅く結束し、お決まりの寝言のような演説をぶち、盛り上がっている。国労の組織は3万人にまで激減、弱体化したのは事実なのに、活動家は、「1人1人の団結と闘う意識はより強固なものになった」と言い切る。私はそうは思わない。不当な差別が長期化し、自分の利益にならないからと脱退していく一般組合員が後を絶たないのが現状だ。国労は彼らを責めてはいけない。もうたまらん状態なのだ。もしここで強行な戦術でも打ち出したりすれば、組織は再び大混乱に陥り、団結は崩れ脱退者は増える一方だろう。正しい理論が必ずしも統一した実践に結びつかないのが運動の難しさだ。

■それでも国労です

 更にこれまた書くに耐えないが、私達一般組合員と1047人の闘争団の仲間との関わりである。闘争団員と活動家はそれこそ休む暇もなく全国をオルグで飛び回っている。誠に御苦労様なことで、一心同体とい言ってもいいだろう。しかし私達との交流は極端に少ない、というよりゼロに等しい。たまの動員の集会などで涙の訴えを聞くぐらいだ。時には年休を取って北海道の闘争団へ赴き激励したい、仲間と杯を交わしたい、という衝動に駆られるが、なかなか実行できるものではない。仕方ないよね、こちらの生活もあり、これが現実なのだ。私達の職場の日常はハッキリいって、闘争団の「と」の字も眼中にないのが実情となってしまっている。ごめんね、闘争団の仲間たち。
 しかし、闘争団なら百も承知だよね。全ての組合活動は一貫して闘争団と直結したものである。「解雇撤回、JR復帰」の闘いなのだ。本務である私達の問題は昇進差別や強制配転、あるいは食事時間といった目先のことだが、動員やカンパで気持ちが新たに奮い立(たない人もいるだろうが)ち、闘争団の仲間のことを思い出す。これが大勢を占める一般組員ではないだろうか。
 いずれにせよ、1人1人は何とも弱い国労組織だと私は思う。しかし、その1人は人間として当たり前すぎる思いを人一倍強く抱いている。この1点が辛うじて国労の団結を保っているのではないか。「オカシイことはオカシイ、理不尽なことは許せない」という思いだ。要は人権を守れということか。「仲間を裏切ることはできない」とは、解雇された闘争団や何やらの不当なことを受けた仲間への思いやりと、いつ自分の身に起こるかもしれないという、あってはならないことなのだ。
 新宿車掌区差別事件で最高裁勝利判決を受けた田中博さんはいった。「負けないでよかった。勝ってうれしいとは言えなかった。国労は労働委員会で勝つたびに会社側から報復を受け、多くの仲間の配転と脱退を見たのは断腸の思いだ。闘いの当事者全てが必ずしも闘士とは限らない。大多数の他労組に囲まれながら国労の心を守って行かねばならない運命を背負い、日々職務に励んでいるものもいる。好きです国労とは言えない。それでも国労です」。 (■つづく)

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サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/“人間尊重企業”で働く斎藤だ

■月刊「記録」1995年3月号掲載記事

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■会社にはいたわりの心がない

「傷害事故発生について」
  12月4日早朝、三鷹駅に於いて、発車ベルを扱い乗務員室に戻る際、無意識な行動をとったため、誤って線路上に転落し受傷する事故が発生した。
 以下の事柄を厳守し再発防止に努めること。
※常に意識をもって作業を行なうこと。
※勤務中は雑念をすてて執務すること。
※決められたことは必ず守ること。以上。

  これは車掌区長名で出された職場の掲示である。紙面はいつもの倍はあり、見出しの「傷害事故発生について」は朱書きで、ものものしい印象さえ受ける。非常に目立ってバカでかい。
 私は「あっ、またか」とため息をもらし、悲しく情けない気持になった。この掲示を初めて目にした仲間は、数人でヒソヒソやっている。「これはヒドイ」「責任転嫁だよ」「S君がかわいそう」。
 S君、むむ、実は斎藤?いや、私のことではない。いつも明るく、陽気な車掌区の人気者、S君のことである。彼は12月4日早朝、出勤時刻である5時44分までに余裕をもって出勤し、乗務開始の6時4分、旅客扱い中にホームから線路に転落し、肋骨と腰椎を骨折する重傷を負ったのだった。
 私を含むほとんどの社員が問題にしている点は、「無意識な行動」というあまりにも気の毒なくだりである。確かにS君のミスだが、いたわりの気持ちがかけらもなく、全ての責任をS君に押しつける表現だ。区側=会社側の高慢さを感じずにいられない。
 会社側は、「事故があったから、全社員に注意を促す意味での掲示であり、S君には心からお見舞い申し上げます」とでもいうのだろうが、区長は運転訓練会議の席で私達を前に、「事故などの場合、個人の責任追及ではなく、本年度からは事故がなぜ起きたのかという原因追及に重点を置く。会社は方針を転換した」と発言していたのだ。ほど遠いね、ハテナだね。これでは旧態依然である。また、JR東日本は「人間尊重企業」とうたって胸を張っているが、これもほど遠いね、ハテナだねと思わざるを得ない。

■無意識な行動とは

 さて、S君は果たして「無意識な行動」なるものをとっていたのだろうか。例えば、信号が赤、つまり進路が構成されていないのに、不十分な確認で「出発進行」と指差喚呼してドアを閉めてしまった場合は、最悪の場合は電車が発進してしまって脱線する。また、電車が所定の停止位置に止まっていないのに「停止位置オーライ」と指差喚呼し、ドアを開けてしまえば満員であれば、ホームを外れている車両の乗客が線路にあふれ落ちることもあり得る。これらの例は、一概に決めつけることは酷であるが、「無意識な行動」による事故といわれても仕方ないだろう。
 だが、S君の場合は違う。彼は信号を確認し、旅客の乗降に気を使い、しっかりとした意識をもって作業に当たっていたのだから。ただ、ちょっとした弾みで足を踏み外し、運悪く転落してしまっただけなのだ。けがをする時はこんなものだと思うが。
 よしんばS君本人が、「はい。無意識な行動をとりました」と認めても、私は認めない。S君は過去に何度か小さなミスをして、乗務停止やヒドイ指導を受け、会社に不信の念を抱いていた経緯があるのだ。半ば呆れているから、面倒くさくて「はい、はい」としか言わなかったのだ、と。私は彼の気持がよくわかる。

■私は上から叱られる

 この仕打ちを知って私が思い出すのは、車掌のT君が乗務員室の鉄のドアに指を挟んで大けがをした4年前のことだ。当時は分割・民営化の大混乱期で、会社のやり方には人間のモラルやマナー、ルールは皆無に等しく、人権をも全く無視した、問答無用でやりたい放題の労務管理だった。そこまでやるか、人間はこうも変わるものかと、想像を絶することが白昼堂々と行なわれた。
 T君を標的とした掲示も異常そのもの。縦2m、横1mと、S君のものの更に倍はあり、やはり朱書きのどでかい見出しには、なんと「全社員に警告する!!」とあり、社員のけがに関する掲示でありながら、社長の新年訓辞の掲示以上という凄さだった。
 そこには、T君がけがを負ったのは車掌がやるべき「基本動作」を怠ったため、と個人を責めた文章が平然と書かれてあった。
 ここで「基本動作」とは何ですか? というお客様の声が届きました。乗務中「○×オーライ」と逐一指差確認し、喚呼する動作のことで、その励行が、事故を防止する手段として最重要視されています。水を飲む場合に、蛇口左ひねりオーライ、水質オーライ、コップ接近オーライ、コップを持った腕の角度オーライと、いちいちやっていられないことを、車掌はキチンと正しい姿勢でやっておるのでございます。
 T君は当然のように区長室に呼ばれ、ものすごい剣幕で怒鳴られ罵倒されたと告白してくれた。区長曰く、「大けがをして痛いのは当たり前だ。私は同情などしない。基本動作をなぜやらなかったのだ。やっていれば防げた。あんたは車掌失格、不適格だよ。それより当区の安全点数が下がった責任をどうしてくれるのだ。あんたのお陰で私は上から叱られるのだよ」。
 あまりにもご立派、何とも素晴らしいお言葉で、私は赤面せずにはいられませんでした。それまでは「区長も大変だろう。こんな時期だから血も涙もないような決断もしなきゃならん。トップに立つ人も大変だこりゃ」と同情の念も抱いていたのに。
 しかし、「車掌失格、不適格」とは? T君だって車掌になって5年、10年と無事故で通したベテランである。私達の中に不適格な者など誰一人としていないとハッキリ申し上げておきたい。200人からなる職場のトップであり、皆が尊敬している人格者の区長の発言だけに驚愕し、あまりのショックで言葉が出ない。

■職務でけがして休めば賃金カット

 T君はうろたえながらも、労災保険は適用されるだろうと手続きをしようとしたら、「全部自分でやるんだよ」と言われたと聞いて耳を疑った。天下のJRがそれはないだろう。いったい何のための庶務(事務)なのだ。T君は仕方なく労働基準監督署へ駆け込み、事情を説明し手続きを済ませた。区側がしぶしぶ重い腰を上げて保険金が下りたのは何と1年半後。泣けてくる。
 更に腑に落ちないのが、けがをして乗務を降りた時点から賃金カットになるということである。欠勤や遅刻と同様、給料からキビシク差し引かれるのだ。ある乗務員などは、神田駅付近で線路上を歩いている公衆を発見し、直ちに電車を止めて保護しようと駆けつけたところ、逆にボカスカ殴られた。負傷して救急車で入院し、賃金カットである。なんかヘン。どこかが狂っているとしか思えない。拘束時間内であっても、業務に従事していない時間は賃金対象外なのである。やっぱりなんかオカシイ。
 職場でけがをして、このような指導や仕打ちをされるなど、とうてい理解できないし、正常な大人の行為でもない。当時、組合の威勢のいい活動家たちの大半は配転させられ、私達は国労に留まることで団結を確かめ合い、ひっそり耐えていくしかなかった。つらくて忘れたいのに、今でも鮮明によみがえって忘れることができない。みんな覚えているのだ。
 分割・民営化から5年。仕事はキツクなる一方だが、皆で助け合って明るく楽しくやっていこう。労働委員会が、国労が提訴した事件に対し100件以上もの勝利命令を出しているが、会社側は聞く耳を持たず、受け入れようとしない。おかしいことは、誰が見てもおかしいのだ。私の考えが間違っているのなら指摘してほしい。改めるべきところはいますぐにでも改めよう。
 さあ、S君の見舞いにいこう。「バカだなS君。ドジだよお前は。前の晩はゆっくり休んだのかい。早朝出勤の時は、風呂で十分温まってさ、グイッと1杯やってからサッと寝るんだよ。気をつけろよS君。治ったらまた皆で飲もうよ。なっS君!!」。 (■つづく)

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サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/わが愛車が止まった

■月刊「記録」1995年2月号掲載記事

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 私の中央線がストップした。11月24日土曜日の夕方、工事のクレーン車が架線を切断し停電になったということだった。
 14時25分で勤務を終えて家にいた私に、夕食の買出しから帰って来た妻が、「たいへんよ。武蔵境の駅が人であふれてパニック状態、中央線止まっているみたいよ」と叫んだ。私は買物袋の中味より事故の方が気になった。うーむ、異常な人だかりで駅舎や線路が全ておおい隠され、人の波が隣の三鷹駅まで、まるでアブラ虫が茎や葉を被っているみたいにびっしり続いている、などとありもしない様子を想像してみる。
 どれ、どんな事故かとヤジ馬根性で武蔵境の駅に電話を入れたところ、話し中が長らく続きさっぱり通じない。「次は吉祥寺、お出口右側です」と言いながらダイヤルしてもダメである。そうか、自分の職場、車掌区に聞けば一発でわかるではないか、と単純なことに気付きダイヤルを回したが、相手が出る前にハッと気付き、慌てて受話器を置いた。
 考えてもみよ、もう少しで土曜日の晩が台なしになるところだった。「斎藤さん。よく電話してくれたね。大変なんだよ。悪いけど今すぐ出てこいよ」と言われるのがオチだからである。私は急いで冷蔵庫から缶ビールを取り出し一気に飲んだ。これでよし、もう大丈夫。職場から呼び出しの電話があっても、酒気帯び出勤は厳禁なのである。
「これだけのことならテレビでもやるだろう」とNHKの6時のニュースをつけてみたら、しばらくして私の愛車、橙色の「クハ201の22」が、乗客を全て降ろした回送の状態で四ツ谷駅に停車している勇姿が、画面一杯鮮やかな総天然色で映し出されたではないか。
 私はうれしくなって、「ああ中央線よ。空を飛んであの娘の胸に突き刺され!」と思わずつぶやいた。すると突然、駅長事務室に画面は変わり、私の職場から栄転されたYさんがアップで映った。黙々と執務を厳正に遂行している。「Yさんお久しぶり、全く緊張しちゃて、出演料をNHKにしっかり請求しろよ」などと私は返答のないテレビに向かってささやいた。
 ニュースでは3時間近くもストップしたと報じていた。平日ならば帰宅ラッシュの時間帯であったので、土曜日であったのがせめてもの救いであった。しかし、利用客は疲れ切り、大打撃をこうむったのには変わりない。振り替え輸送の手配により、私鉄や地下鉄、あるいはバス、タクシーにと大混乱の中振り回され、やっとの思いで目的地や家路にたどり着いたことだろう。

■他の車掌は休憩室に

乗務員や駅員は、こんな時にこそ機敏な対処をプロとして問われるのだ。こまめな情報提供に務め、乗客を安心させなくてはならない。乗務員が最も頼りとするのは「指令」との無線連絡だが、全て話し中となったりで、なにがどうなっているのか状況がさっぱりわからなくなることもある。今回は駅間の途中に止まった電車の乗客が、しびれを切らして線路に飛び降り出したという。まさに大パニックである。この時の乗務がもし私だったら、放送や乗客の誘導がうまくできるだろうか。やってみよう。
「お知らせします。ただ今放送文案の原稿を書いております。もうしばらくくお待ち下さい」。うん、これくらいの余裕と落ち着きがあれば大丈夫そうだ、我ながらさすがである。
 なにしろ、乗務中の車掌はそれこそ運が悪かったとしかいいようがなく、不幸のどん底に突き落とされる。乗客も然りだが電車に缶詰になり、食事はできない、心ない客には食ってかかられる。泊まり勤務であれば、乗務時間が延長され、ただでさえ短い仮眠時間に鋭く食い込む。
 一方、車掌区の休憩室では食事をしたり、お茶を飲んでくつろいで? いる車掌がゴロゴロしている。一般の方々から見れば、こんな大事故になんて不謹慎な、と不思議な光景に映るに違いないが、私たちは乗ることが仕事であり、運転再開に備えてただじっと待っているほかはないのである。心の中では、それはもうお客様の御迷惑をおかけしてはならぬ、一刻も早く運転再開となりますようにという気持ちでいっぱいなのでございますよ。ほんとうに。
 3時間もストップすれば、電車の遅れは当然それ以上に増して運休も相次ぐ。ダイヤはメチャクチャに乱れ、交代の車掌や乗る電車がなくなってしまうという事態が生じる。こうなると乗務中の車掌が乗りっ放しとなる一方で、休憩室の車掌は4時間5時間とお預けをくい、迷い子の小犬のようにキャンキャン、オロオロする以外ないのだ。仕事がしたいばっかりに、お決まりの「次は武蔵境、お出口・・・・」などと言ってしまったら、狂ったと思われても仕方がない。要するに、私達は乗る以外は用がない存在なのである。
 いずれにせよ、非常事態は非常にツカレル。仕事も世の中も正常であってほしいと心から願うものである。

■愛社精神より公僕精神

ところで、この3時間のJRの損失は額にしてどれくらいだろうか。何千万円、または億を超えるのだろうか。国鉄時代の話だが、一般の小さな会社の車が踏切で電車と衝突し、1~2時間も電車がストップすると、賠償額でその会社はつぶれてしまうということだった。ならば、その会社の社員たちにとっては大死活問題であり、全社員一丸となって対応策に奔走するだろう。
 しかし、私にはそのような気持ちがわいてこないのだ。誤解されては困るが、例えばニュースなどで、我が社内の新宿駅で、新潟で、青森でと大事故が起きたと報じられたとする。「これは大変、さあ困った」という認識は持つが、心の隅では他人事のように思ってしまうのだ。この素直な気持ち、私だけではあるまい。ほとんどの社員がそう考えると思うのだが……。
 JRは朝から晩まで24時間休みなく動くシステムで、私たちの勤務は引き継ぎ交代制となっている。つまり、その時の出番の者で対応しているわけで、大事故の時など、よく知人から、「あの時は大変だったね。斎藤さんどうしてたの」などと聞かれる。私が正直に、「仕事じゃなかったら、家で酒飲んでテレビを観てたよ」などと答えると、知人はけげんそうな顔つきになり、「JRってオカシイ」ということになるのだ。何というか、愛社精神が希薄と思われてしまいそうだが、実際のところその通りなのかもしれない。
 このJRの社宅にいられるのも、雇っていただいて今の生活があるのもすべてJRのおかげ。寝ても覚めても国鉄マン、JR社員。1500ボルトの電圧で安全純度100%」の電車が動く。私は十分過ぎるほどJRと中央線にしびれている。
 それに加えて、国民のためにほんの少しお手伝いをし、ほんのちょっぴり社会奉仕してお役に立てばといった気持ちが強い。JRになり、準公務員から会社員になった訳だが、民間企業といっても国民全体の公共機関であることに変わりはない。
 そして、JRという社名より、赤字で国の金を失うと書く「国鉄」という呼び名がやはり似合っているように思えて仕方がない。 (■つづく)

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サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/鉄道サリン・異臭事件に怒る

■月刊「記録」1995年6月号掲載記事

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■職責を超え本能で行動

 駅構内で車内と警察の姿が絶えることのない異様な毎日。4月19日の横浜駅異臭事件、5月5日の新宿駅青酸事件と危惧したことが現実となった。「私のJRもついに」という感がする。
 24時間体制の警備、車掌のアナウンスも気休めに過ぎなかった。正常な世の中に戻ってほしい。犯人はいい加減に目を覚ましたらどうなんだ。
 それにしても不気味である。吐き気さえ覚え、春の1日が憂鬱になってしまう。この狂気の沙汰は世界中を震撼させたといっても過言ではない。無差別殺人・無差別攻撃には猛烈な怒りが込み上げ、断じて許せない。優秀な警察は全容を徹底的に解明し、最凶悪犯人を一刻も早く逮捕しなければならない。
 地下鉄サリン事件のあった日の数日前まで娘が丸の内線を事件の時間帯に利用していた。また、看護婦の妻が通勤する病院には、被害に遭った200人もの患者が治療を受け、てんやわんやだった。他人事とは思えない。しかもことは鉄道を狙った事件だ。「もしJRで起こったら、私が乗務中だったら」と考えただけで頭の中がパニック化してしまう。
 もはや「オレは斎藤だ、車掌だ、国労だ」などといってはいられない。毒ガスに限らず、大地震・大火事という超非常事態に陥った場合、私達はJR職員の職責を超えた1人の人間としての本能で行動する。一刻を争う時に「責任者の指示がないので何もできません」「責任者到着までお待ち下さい」などとバカげたことでは済まされない。安全対策上のマニュアルもあり、訓練もされているが、とにかく臨機応変に何でもするだろう。
 例えば車内で急病人が出た場合、列車を止めて現場に急行すると、乗務員や駅員より乗客の何人かの方が扱いが上手く、その場を仕切るということがままある。私達の指揮命令系統では区長→助役→私達ヒラ社員となるが、混乱時に機敏な動作でテキパキと処理する者が必ずしも上司とは限らない。緊急時の指揮は「人間として」の原点に戻るということである

■JRは空気のようなもの

 サリン事件以降はJRでも運輸大臣からの指示もあって、「不審物はないか」と各駅構内・電車内を巡回し、24時間の警戒体制を敷いている。お客様に不安を与えてはならないと、ホームやコンコースのゴミ箱をのぞき込み、ベンチや車内網棚に捨て置かれた新聞・雑誌などをくまなく撤去する。職員はみんな目に隈をこしらえて疲れ切っている。業務が後回しで溜まって仕方がないと言う。追い打ちをかけるように横浜事件だ。
 私達車掌も「不審な物などありましたら手を触れずに乗務員・駅員にお申し出下さい」と車内放送で繰り返し注意を呼びかけている。私もキョロキョロと挙動不審気味で、制服姿でなかったら不審者扱いにされかねない状態だ。それでも音も色も臭いもなく忍び寄る毒ガスではひとたまりもないわけで、乗務中ぐらいは防毒マスクをしていたい。JRも、希望のお客様には防毒マスクを無料で貸し出したらどうかと真剣に考えてしまう。
 鉄道は国民に親しまれ、安心して利用されている。安全面では高水準を誇る乗り物といえよう。しかし、列車の衝突・脱線・転覆などの事故がないとは限らず、現に起きているという点では死と隣り合わせの危険な仕事ともいえる。運転に直接携わっている私達は厳粛にならざるを得ない。サリン事件では毒物の入った袋を運んだ職員が亡くなったが、車内からの異物を取り除くというごく当り前の単純な日常業務で帰らぬ人となるなど到底納得できまい。無念この上ないだろう。犯人は人でなしだ。 私達乗務員は仕事である以上危険は仕方ないが、国民の大半にとってのJRは「なくてはならない空気のようなもの。事故・遅れなしは当り前」という暗黙の信頼の上で利用されている。中には、1分でも遅れては困るという急用の人も少なくない。

■皆様の御利用をお待ちしている

 正直いって「JRにだけは仕掛けないで」と考える職員も多いが、自分の身に毒ガス攻撃など起きてほしくないと思うのは当たり前である。そして自分の身には降りかからないだろうと考える職員が圧倒的である。「安全神話が崩れた以上、私達も眠ってはいられない」というマスコミ論調もあったが、私は眠っていたい。人間として生まれ正しく生きている以上、こんな理不尽な被害に合うことなど考えてなんかいられないではないか。
 犯人が逮捕されない限り再発が心配されるが、私はひるむことなくいつもと変わらず堂々と生き、毅然とした態度で職務に励む。乗務員は乗客を他の車両に避難させ、自らも絶対に手を触れず、後は警察の専門家を待つだけの無力な存在だ。
 警察庁長官銃撃事件も法治国家への挑戦ともとれる前代未聞の事件だった。もし国家権力への報復だとしたら、国も警察もこれを期に国民からの信頼を取り戻してほしい。デッチ上げや暴力による自白の強要、平然と弱者を切り捨てる人権侵害が国家権力によって行なわれてきたのは事実だ。国民の反感を買い、不信を抱くような行為があってはならない。
 実は、私は職場の何人かの仲間に、何と「教祖さま」などと呼ばれている。私は「明日は新宿です」と車内放送をしてしまったことがある。新宿で飲み会がある明日のことを考えていたのだ。また、東京駅のホームで数人の外国人客に「エクスキューズ・ミー、ハツカリ?」と尋ねられた時、「エクスプレス・ハツカリ」と思い込み、盛岡乗り換えの「特急はつかり」青森行を案内し、大変喜ばれて私もホッと安堵したが、後で「ハツカリ」とは中央線の大月の次の駅「初狩」であったに違いないと思い直して困り果てたこともある。そこで仲間達に、小さなことでも大きくする「顕微教」の「教祖さま」といじめられるわけだ。止めてくれ!
 中央線は今日も走る。希望を乗せ夢を抱き、前進あるのみ。勘違いが「教義」になるニセ教祖が車掌を務める場合もある。太陽が昇る前から皆様の御利用をお待ちしている。安全・正確に皆様を目的地まで送り届けよう。 (■つづく)

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サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/戸惑うばかりの斎藤だ

■月刊「記録」1995年5月号掲載記事

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■頭の中が大混乱

「めちゃくちゃだ」。阪神大震災は想像を絶する悪夢だが、これは事実なのだ。何も力になれない私は心苦しく思うばかり。何もできない分、「負けるな、ガンバレ」と心の中で叫ぶ。
 それにしても、JR西日本の被害を見ると、社員のことをどうしても気遣ってしまう。一体どんな思いで職務に励んでいるのだろうと。民営化したからといって「やめた。倒産」とはいかない。第一、国民が許さない。春闘も自粛と聞いたが、こんな時こそ賃上げが必要なのではと勝手に思ってしまう。何とかならないのか。社員の今後の生活は大丈夫なのか。一刻も早い復旧を願うばかりだ。

■車掌の喜びと憂鬱

 気を取り直そう。「オレはJRの斎藤だ」のタイトルの響きが問題だ。「そこどけオラオラ、中央線のお通りだい、文句あっか」とでも続きそうで、横柄な印象を与えているのではと心配で仕方がない。しかしそんなことはありません。小心者の一労働者に過ぎないのです。編集部があまりにも立派なタイトルをつけてくれたもので嬉しさのあまり「第九」を口ずさんでしまうほどだ。
 さあ、本日もあなたを無事に会社までお送りするJRに乗務していると、毎日のように見かける微笑ましい光景がある。電車が通る時、ホームや沿線で赤ん坊や小さな子が「バイバイ、電車バイバーイ」とやるのだ。誰もが一度はやったことがあると思う。そんな時、私は思わず選挙の宣伝カーの立候補者のように白い手袋で手を振り返す。時には警笛を優しく鳴らし、前照灯(ヘッドライト)ピカピカなんてサービスで応えてしまう。子ども達は、それはもう身体全体でヨロコビを表現してくれるから、車掌冥利に尽きる。
 職場は今、9年ぶりの新規採用で、JR期待の新人が駅務などの経験を経て車掌見習いとして毎年30~40人配属されている。新採ゼロは、国鉄赤字・人員削減により実に9年間に及んだ。職場は活気に満ち、茶髪・ピアスの子とにぎやかだ。今しかできないのだから納得するまでおやんなさい。いつの時代も変わらないのだ。
 私は別に、子どもの頃からの「バイバイ」を卒業できないまま大人になり、電車が好きで乗務員になったわけではないが、中央線の車掌を卒業できずにいる。それはなぜなのか。年齢だけオジサンに突入した私はいつも思う。内勤の仕事に降りたい。事務職に降りたい。規則正しい生活に戻りたいと。

■希望をかなえるには脱会だ

 今では分割・民営化当時の会社側による露骨な恫喝や威圧的な攻撃は影を潜め、管理者の態度も穏やかに見える。「不当労働行為や差別はない」と会社側は豪語するが、実際どうなのだろう。
 年1回の昇進試験は何度挑戦しても不合格となる国労員だが、私の仲間には自分の時間でコツコツ勉強して「一般旅行業務取扱主任試験」という国家試験に合格した優秀な人も何人かいる。その中の1人であるH君と最近飲んだ。H君は「せっかく取得した資格なのだから何とか活かしたい。びゅうプラザ(旧旅行センター)にどうしても転勤したい」と打ち明けた。国労差別が何年かすればなくなるという保証はどこにもなく、現状のまま定年となってしまう可能性もある。だから「国労に留まって今までのように頑張ろう」とは言えず、「区長に頭を下げるんだな。決心して自分の道を歩め」と助言するほかなかった。後の行動は何も言わなくともH君も十分心得ている。それから2ヶ月後、心の中では悔し泣きしながら国労脱退届を提出し、「上野びゅうプラザ」へ転勤していった。
 このように国労脱退者は後を絶たない。忘れた頃にポロポロと脱けていく。「希望をかなえたければ国労にいてはダメ」という露骨な言動はないにしろ、「キミは優秀なんだから、意識改革してよく考えて行動しなさい」とほのめかすのは国労脱退強要に他ならない。確固たる不当労働行為であり差別そのものである。
 昨年11月11日、新宿車掌区の田中博さんの差別事件について最高裁判所の勝利判決があった。国労であるがゆえに、指導的立場の内勤業務から電車乗務に逆戻りされたという降格人事についてである。7年以上経っているとはいえスピード判決といえた。「K子ちゃん(Kは国労のこと)では内勤はダメという上からの指導なのだよ」という区長発言が動かぬ証拠となった、隠し取りテープの録音であり、何やら物騒な話だが、異常な労務管理がまかり通って追い詰められた国労はこれより他に手段がなかったのだ。最高裁が「JRの不当労働行為である」と断罪し、JR東日本の敗訴が確定した。国労の主張が正しいと認められたのである。
 国労が労働委員会に提訴してからというもの、会社側は地労委命令にも中労委命令にも従わなかった。「労働委員会は事実を誤認し、法令の解釈を誤っている。会社は不当労働行為は行っていない」と、初めての株主総会でも明言した。さらに「労働委員会は支離滅裂」とまで暴言を吐き、「裁判ならば絶対勝つ」と紛争をいたずらに引き伸ばしたのだ。ところが、東京地裁・高裁の判決にも「承服できない」と控訴・上告と続け、最高裁の最終判断に対しても不満を表明し反省のかけらすらない。「不本意だ、判決を取り消してもらいたい」とは極めつけである。

■強く偉く人に優しいJRよ

 JRツヨイ。何よりもエライ。週刊文春さえ締め出し、手品師のように差別を繰り返す。山ほどあるウサン臭いことにフタをして、顔の頂点である鼻を花粉防止のマスクで覆い隠すように、真の正体を見えないようにぼかしている。「人に優しいJR」ならば、理不尽なやり方は改めて自他共に認められるリーディング・カンパニーとしての手本を見せてほしい。JR以外にも似たような差別や人権侵害が絶えず行われ、何も言えずに泣いている弱い労働者が大勢いるのだろうが、それでも仕事にしがみついて生きる他はない。弱者切り捨ての競争社会を嘆かずにはいられない。
 分割・民営化当時を振り返ると、毎月1万人もの労働組合員が脱会し、20数万人を誇った組織が3万人台に転落したのだ。「断固」「断固」の強行路線に終始した結果であろうか。弱い一般組合員への配慮が十分でなかったと国労指導部は反省すべきだろう。
 弱い者の体験をマスコミや弁護士が代弁してくれることはうれしいが、本人が受けた屈辱や苦悩や痛みには及ばない。昔も今も変わらぬ弱き労働者に対する弾圧を何度も繰り返す大人の愚かさが社会も子どももダメにしていくのだ。 (■つづく)

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サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/反省しきりの斎藤だ

■月刊「記録」1995年4月号掲載記事

■斎藤典雄……さいとうのりお。JR東日本社員。1975年、国鉄に入社し新宿駅勤務。現在JR東日本三鷹車掌区で車掌として中央線に乗務。国労組合員。著書に『JRの秘密』『車掌の本音』(ともにアストラ)がある。

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■10秒単位の勤務体制

 ああ情けない。不徳の致すところである。
 私たち車掌の仕事は、時間との戦いといっても過言ではない。時間にまつわることには非常にウルサイ。ちょっとでもミスをしたら、区長、または助役からそれこそコテンパンにやられる。それはそれは物凄い見幕である。
 あまり知られていないことだが、乗務は何と10秒単位となっている。例えば、お客様には「○時10分の発車」と案内するが、内部では正確に10分10秒、10分20秒、30秒・・・・として扱っている。したがって、時間に対しては神経質にならざるを得ない。時間が命。
 なかでも、遅刻は絶対に許されないことの1つで、勤務成績にはもちろん、昇給の査定にも鋭く響くため、会社側も私達もピリピリと最も神経をとがらせている。よって、退庁時には「次回の勤務は、○月×日、○時××分の出勤です」と直立不動の敬礼により2度も喚呼させられる次第である。
 そうなのだ。早い話が私はこの遅刻というやつをやってしまったのですね。これは大変恥ずべきことであり、大きな声では絶対に言えない。誰にも言えない。だから内緒にしてほしい・・・・。
 1月31日、そうほんの数日前である。私は今、こうして平静を装ってはいるが、内心は落ち込み、反省の日々を送っているのだ。若い時分、いや今でも十分若いが、国鉄時代に3回やった記憶がある。だがJRになってからはもちろん、ここ10年間くらいは1度もやっていない。何も自慢するべきことではない。乗務員として当然のことであり、私達は皆、時間に厳しく几帳面である。

■がんばれ斉藤!

 この日は6時37分の出勤時刻であった。このような朝の早い時は、念を入れて目覚まし時計を2個セットしておく。5時30分、何の容赦もなく最初の1個がけたたましく鳴った。私はすぐに手探りで止め、もう1個が鳴るだろう1~2分後まで、目を閉じて沈黙して待った。これがイケナイ。再び深い眠りに陥り、ハッと気がつくと、な、何と6時27分である。チャイムが壊れて鳴らなかったのだ。さぁ困った。出勤時刻まであと10分。完全に遅刻だ。万事休す。
 一瞬のうちに、私の脳裏にはあらゆることが駆け巡った。走馬燈のようにさまざまな顔が浮かんでは消えた。怒る助役の顔、笑っている同僚の顔、怒られて神妙になってる自分の顔、なぜか子どもが作った節分の鬼のお面も出てきたような気がする。
 それでも私は急いで服を着て、コートを羽織った。一緒にガバッと飛び起きた妻は、私の後ろにただピッタリとくっついているだけで、何をするでもなく邪魔で仕方がない。「たった今出たからと車掌区に電話してくれ。いいか、丁重にだぞ」と、私は声を荒だたせ、電話の置いてある玄関で靴を履こうとした。その背後から「そんなみっともないことできません、自分のことは自分でしなさい」。
 これだもんね。しかし私は、なぜか妻の一声でプッツンと糸が切れたように、電話の前にペタンと座り込んでしまった。妻の言う通りだ。こんなことにならなくても、私の妻というだけで、妻はいつも十分みっともない思いをしているのだろう。そう、長い人生こんなこともあるさ。たかが遅刻、くよくよするなよ・・・・。
 妻は手際よくダイヤルを回し、「はいっ」と受話機を差し出した。私は観念したというよりは開き直って、それでも丁重に「斎藤です、スミマセン、今起きて間に合いそうもありません」と伝えると、助役補佐のNさんが言った。「自転車だったな(私は自転車通勤である)、乗務には間に合うんだろ、気をつけて出てこいよ」。出勤時刻は6時37分だが、乗務は20分後の57分なのである。
  私の態度は急変した。「行って来る」も何も言わず、一目散で自転車に飛び乗りペダルを漕いだ。それはもうがむしゃらに漕いだ。バイクや車ならもっと速いだろうが、私は他力本願的な車は持っていない。自力勝負型の人間なのである。まだ暗い中、武蔵境から職場のある隣の三鷹駅まで一直線の道を全力疾走である。道中7つの信号は全て無視。4つ目の信号では、数年前に亡くなった後輩の若いH君を思い出した。早朝の出勤の途上、バイクを猛スピードで走らせ、交差点で車と激突、帰らぬ人となったのだ。奥さんは妊娠中だった。「俺はまだ死ねない」と念仏のように唱えながら漕いだ。
 肌を刺す真冬の風で涙と鼻水がごっちゃになっているのに寒さが全く感じられないのが不思議だった。「がんばれ斎藤」なんて沿道の歓声もない。胸が苦しく張り裂けそうだったが、それでも必死に漕いだ。もうどうにでもなれ、と漕いでいた。 

■怒鳴られなかった斉藤だ

 無事にやっと職場にたどり着くと、更衣室のロッカーにコートを放り投げ、制服・制帽を被り、ネクタイを心持ち整えながらまるで水泳選手がゴールするような格好で、右手を伸ばして捺印した。出勤簿の前には助役がデンと構えている。「いやあ、速いね斎藤君」と、助役は驚きながら時計を睨み、印の隣の出勤時刻欄に「6時40分」と朱書きで記入した。遅刻は3分。呼吸の乱れがしばらく収まらなかったのはいうまでもない。
 気を取り直して、三鷹6時57分発下り高尾行の乗務に入った。折り返し高尾から東京まで上りの通勤ラッシュをこなし、すぐ東京から豊田行で三鷹到着が9時30分の息つく間もない約2時間半の乗務を終え、「ああよかった、トイレの心配がなくて本当によかった」と、ホッと一段落である。早速、助役からわたされた「欠勤届」を洩れなく書き込む。遅刻で「欠勤届」とは妙だが、つまり出勤時刻の6時37分から40分までの3分間、遅刻により欠勤いたしましたというものである。3分間の賃金が、翌月の給料からカットされるのだ。厳しいね。タイム・イズ・マネーなのだ。
 さて、普通なら、勤務終了後に区長または首席助役に「要件」と称したお呼びがかかる。私は先手必勝とばかり、のこのこと区長室へ出向いて、「遅刻をしました、申し訳ありません。寝坊です」と告げた。他は一切言わずに口にチャックをする。目覚し時計がどうのと余計なことをいえば、全て言い訳でしかなく、ますます惨めな思いをするだけである。うつむき加減で、反省の気分に浸るのみ。
 毎度のことだが、私はやはり愚か者だった。正直言って、心の隅では首席から爆弾を落とされると期待していたが、彼は、「やってしまったことは仕方ない。今後ないよう気をつけること。不規則な勤務なのだから斎藤君からも皆に声を掛けてもらって、お互い注意し合えるような職場環境にしてほしい」とおっしゃったのだ。
 私は一瞬キョトンと驚いてしまった。少し勝手が違うではないか。眉間に寄せていた2本のシワは解除され、口がポカンと半開きになる。爆弾は不発に終わった。期待が見事に裏切られ、私は急に腹立たしくなってきた。首席は立派だよ。それでこそ管理者というものだ。じゃあ、いつもコテンパンに怒鳴り散らすのはどうしてさ、と心の中でつぶやきながら、深々と頭を下げ区長室を後にすると、廊下で上司のIさんが寄ってきて、「のりちゃん3分だって。バカだな、休むならまだしも電話なんかするかよ。すぐに来れば間に合ったじゃないか」と、辺りを気にしながら小声で忠告してくれた。
 そう、電話のせいもあっただろう。しかし、それは結果論であり後の祭りだ。10分前に起床しても間に合うなどとは微塵も思わなかったし、起き抜けの身体であんなに自転車を漕げるなど想像もできなかった。もういい忘れよう。もうしない。3分間の賃金カットといったって、私の単価じゃインスタントラーメン1個分である。家が職場に近く、乗務できたからまだよかったのだ。電車通勤のほとんどの人は乗務に間に合うはずもなく、もっとややこしいことになるわけで、その分私は救われているのだ。
 この日、夕方から東京では珍しく雪が降った。みるみる積って6年ぶりの大雪ということだ。部屋の窓越しに見るこれほどの雪景色も、本当に久しぶりのような気がして、反省も兼ねての雪見酒となった。音も立てずにしんしんと降り注ぐ雪で、闇夜がいく分明るく感じられた。誰もいない公園の外燈に照されたブランコだけがくっきりと浮かび上がり、ひときり勢いよく雪が舞っているように見えた。反省の念も深く積もり、グラスを傾ける回数も積もる。
 ふとブランコがゆらゆら揺れているような気がした。雪の妖精たちが漕いでいるのか。いや、私が舟を漕ぐ一歩手前だったのだ。妻にまた「みっともない」といわれる前に休もうと思ったのだが、もうすでに十分みっともなく酔っていた。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/邪魔者は殺せの論理

■月刊「記録」2003年3月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■「スピッツ」小泉、放し飼いの責任

 ブッシュ米大統領が抱くイラク攻撃への野望は、世界的にたかまる反戦の声によって、ギリギリのところで抑えられている。
 国連安全保障理事会では、攻撃開始派の米英に、議長国のドイツと常任理事国のフランス・ロシア・中国の主要4ヶ国が抵抗している。
 2月15日には、東京をふくむニューヨーク、ロンドン、ローマ、ベルリン、パリ、メルボルンなど世界各国の都市で、大規模なデモもおこなわれた。英メディアは、60ヶ国の400都市で計1000万人ものひとびとが参加したと伝えている。このほかにも大規模な反戦集会などもひらかれ、世界的な反戦の動きはますます大きなうねりとなっている。
 ブッシュの野望に石油利権が絡んでいることは、すでに世界の多くの人々が知るところとなった。こうしたブッシュの思惑は、「石油の一滴は、血の一滴」という日本の戦時中のスローガンを思い起こさせる。時とともに世界中で反戦の動きが強まっていき、ブッシュ大統領が語るイラク攻撃への大義名分は、ますますインチキ臭くなっている。
 ブッシュの頭のなかは、いまだテレビゲームのような爆撃のイメージで支配されているようだが、もはや世界の人たちは、これ以上血を見たくないと主張しはじめている。ましてブッシュの利権のために、血を流したいなどと、誰が思うだろうか。
 ただ注意すべきは、多くの日本人がブッシュ批判だけでコトが終わったように思っていることだ。イギリスのブレア首相は、ブッシュの「プードル犬」と揶揄されている。労働党出身の首相であり、一家団らんの写真で人気を集めた首相が戦争に突き進もうとしていることに、英国民は苛立っている。しかしブレアが「プードル犬」だとすれば、小泉は「スピッツ」である。彼を首相にしたのは、日本人の恥辱だ。
 ブッシュを支持している小泉の存在は、日本人が戦争に荷担している証明となる。そういう意味では、日本人にブッシュを批判する権利などない。ブッシュの野望に小泉が距離を取らないのは、日本人の有権者が甘くみられているからだ。
 日本は、国際紛争を武力によって解決しないという崇高な憲法をもっている。その国の首相が、憲法の精神をもってブッシュを説得しないのは、小泉の怠慢であるばかりでなく日本人の怠慢である。ブッシュの戦争は利権のための人殺しであり、人間のもっとも醜い行為であることを、もう一度確認すべきだ。

■「春闘」から「春倒」へ

 しかし放置されているのは、小泉だけではない。
 路上生活者(ホームレス)を殴り殺す少年や青年たちの事件が、たびたび起こっている。これは無抵抗で弱いものを殺すというブッシュ流の空爆論理とおなじである。たしかに青少年の殺戮は、ブッシュのような経済的な利益を狙ったものでないが、イラだちからの人殺しを止められない現実に変わりはない。
 戦争や路上生活者への襲撃は、他人の飯茶碗を叩き落とす暴力的な行為である。自分さえ生存できれば、他人を殺してもいいという人類にとってもっとも屈辱的な価値観が、その根底にある。共生と連帯の精神が市民や労働現場からますます奪われていき、その結末が戦争にむかうようで怖い。
 アメリカのイラク攻撃にたいして、日本最大の労働者のナショナルセンターである連合は、本来なら「イラク攻撃反対 小泉打倒」のスローガンを立てて、集会やデモ行進すべき存在だ。だが労働貴族たちは、そんなことを考えもしていない。もともと大企業の労組ダラ幹を中心として発足した連合に、国際的な労働者の連帯や反戦などの思想はこれっぽっちもない。かつて反戦運動の中心にいた自治労も連合に参加しているのだから、このさい組織内でこの問題を討議すべきであろう。
 だが労働組合への失望感は、ことしの春闘でも強まる一方である。この不況下で労働者の生活はますます厳しくなっている。にもかかわらず連合は、あいかわらずの御用組合ぶりを発揮している。経営者は調子にのり、「『春闘』ではなく『春討』だ」などとふざけたことをいう始末。闘争ではなく話し合いを強調しているようだが、それこそ「春倒」というべきであろう。
 中小企業は、大企業の優先救済策のとばっちりをくい、貸し渋りから貸しハガシという銀行の強攻策に追い詰められ、つぎつぎに倒産している。小泉のいう規制緩和や構造改革は、大企業優先の政策であり、中小企業の倒産を止めることはできない。労働者には、文字通り「春倒」の時代となってきた。
 定期昇給やベースアップなど、労働者の生活を年齢によって安定させる日本的経営を、経営者は完全に放棄しようとしている。これまで経営者のスローガンは、「会社を大きくしてパイを大きくしろ。そして自分の分け前を多くしろ」であった。それが次第に「不景気でパイが減ったから、分け前は少なくていいだろう」という論理にすり替わり、いまや「パイは大きくなった。しかしお前らにはやらない」という理屈となった。ことしトヨタ自動車や本田技研工業(ホンダ)などは、史上空前の高収益をあげている。それでも春闘では、定昇もベースアップもしないというのだから、労働者は完全になめられている。
 このやり方の本質は、不景気だから賃金を上げないということではない。定昇やベースアップなど、入社時に約束していた分け前を、労働者にあたえないでプールし、「成果主義」の原資に回すというヒドイやりかたである。
 そもそも労働運動は、同一労働、同一賃金を要求して、企業側が一方的に賃金を支配することに抵抗してきた。それこそが平等の思想だった。その平等は、いまや経営者によって「競争の平等」という歪曲された姿になっている。競争第一主義の社会は、弱いヤツは死ねという思想の強制であり、他人の飯茶碗を叩き落とす行動原理である。石油利権のためにイラクの政権を転覆させるブッシュの野望とさほど変わりはない。

■「財界総理」の暴走が止まらない

 日本経団連の奥田碩会長は、こうした状況をさらに推し進めようと、もっと露骨な表現を繰り返している。
「国際競争力を維持するためにも総人件費を抑え固定費を減らすのが重要だ」(『日本経済新聞』2003年2月13日)。つまり国際競争力を強めるために、労働者を犠牲にしたダンピングしろ、といっているのである。
 賃下げと雇用の関係については、「賃下げも、緊急避難型のワークシェアリングも、結果的に同じだが、多くの企業が賃下げに移行しているというのが現状認識だ。雇用維持は、できれば定年までと考えている」と発言している。賃下げが雇用維持の条件だといいたいようだ。 しかし現実には、賃金も雇用も守らない悪徳経営者がばっこしている。1970年代、鐘淵(現・カネボウ)の伊藤淳二社長は、「賃金か、雇用か」と二者択一的な選択肢を組合側に提起して、労働者を脅したことがあった。それから30年、労働環境は確実に悪化した。奥田氏が会長を務めるトヨタでは、2月初旬「サービス残業」させられていた、として労働基準監督署から是正勧告を受けた。またトヨタによるトーメンの救済は、大リストラが条件とも報じられている。
 賃下げしても雇用を守らないという状態が、失業者の増大とフリーター・アルバイターという名の「臨時工」、ホームレスという名の「ルンペン」の急速な増大を導いている。「サンドイッチマン」も復活した。戦後失業時代の悪夢である。
 また、ことし1月に日本経団連が発表した「奥田ビジョン」では、政治献金に積極的に関与し、政界での発言力を強化する姿勢を打ちだしている。(『毎日新聞』03年2月4日)によれば、「日本経団連が前向きな姿勢を見せれば、企業は献金する」と語ったという。
 また同ビジョンでは、消費税の引き上げも提言している。税率を04年度から毎年1%ずつあげ最高16%にする、というのだからあいた口がふさがらない。
 日本経団連は経団連と日経連が合併した財界の指導部であり、奥田氏は独裁的な「財界総理」である。好調がつづく自動車資本を背景にした彼の強引な発言は、日本の政治家にも影響をあたえている。これにカネが加われば、それこそ“裏総理”である。
 政治献金は、戦後以来の自民党の泥沼政治をつくってきた猛毒だ。これが企業からの政治家買収でしかないのは、いまさらいうまでもない。政治献金に絡んだ疑惑の数々を、奥田会長はもう忘れているとみえる。

■政治献金に画期的な判決

 一方、政治献金の違法性については、2月中旬に画期的な判決が下された。熊谷組にたいする株主代表訴訟で、「欠損時の政治献金は違法である」と、裁判所が判断したのである。
 この判決は、松本良夫前社長に2860万円の返済を命じ、ゼネコンと政治献金の関係に重大な疑義をていした。 また「会社あるいは産業団体の寄付が特定の正当ないし政治団体のみ集中するときは、当該政党のみが資金力を増大させて政治活動を強化させることができ、ひいては国の政策にも決定的な影響力を及ぼすこととな」る結果として、「政界と産業界との不正常な癒着を招く温床ともなりかねない」と、政治資金の闇を指摘している。 熊谷組側は、政治資金が自由主義経済体制の維持ないし発展に必要だ、と主張したようだが、「政治資金の寄付が自由主義経済の維持ないし発展に結びつくとも認められない」と、熊谷組の詭弁も一刀両断した。
 1998年3月に2400万円の損出をだしていた企業が自民党に献金していた事実は、株主の意志さえ否定するやり方を、自民党が企業に要求していたことをしめす。
 まして熊谷組は、自民党長崎県連にも献金をしている。長崎県の諫早湾干拓事業を受注した会社1つに、熊谷組が入っているのにである。諫早湾干拓事業は、ゼネコン救済の公共工事だとの噂が、ずいぶん前から飛び交っていた。しかしゼネコンの政治献金も、無用な工事も住民は止めることができなかった。
 そういった意味でも、熊谷組の政治献金にたいする裁判所の判断は画期的である。当たり前とされてきた政治家と財界の癒着に一石を投じたといえよう。
 国際世界では、アフガニスタン・イラク・北朝鮮を睨んだアメリカの暴力支配がおこり、ミクロな世界ともいえる市井では、企業による労働者イジメ、路上生活者への虐殺などがまかり通っている。まさに暴力が地球を覆っているといえる。
 現在、盛り上がりをみせている反戦平和の集会やデモが、労働現場や社会の末端での差別や支配をどう解放し、どう猛な利権や利益の追求をどう解除していくのかに、注目していく必要がある。いずれにしても人間的な判断によって、自ら未来を切りひらいていくしかない。 (■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/最終回 一方通行の約束

■月刊「記録」2006年6月号掲載記事

*          *           *

 一緒に暮らしていた頃は、ぼくたちのゆがんだ関係が、苛立ちや不安を引き起こしていた。なのにどうして、時を経て場所を隔ててこうして正利と会うと、そのゆがみこそが、ぼくと正利にとって最高に心地いいものに変わるのだろう。それは新鮮な驚きであり、ちょっとした後悔でもあった。
 もっと早く気づくことはできなかったのだろうか。そうすればもう少し違ったかたちで、一緒に暮らし続けることができたかもしれないのに。
 食事とドライブをして、正利を施設に送り、トレーナー2着、ベンチコート1着、それにスナック菓子3袋を渡して、僕は正利と別れた。
 寂しさはない。杉の木に挟まれた一本の道を車を走らせていく。正利との距離はどんどん開いていくが、やっぱり寂しくはなかった。これからのことは何一つ決まっていない。正利の次に行く施設も、僕がどうやって生きていくのかも。けれど、たとえ正利がどこへ行こうとも、僕がそのとき何をしていようとも、大丈夫だという安心感があった。そう、正利がよく、僕に言っていたセリフだ。
「だいじょぶよ」
「せんせは、しんぱいしすぎなのよ、だいじょぶよ」
 そうなのかもしれない。たぶん、大丈夫だ。きっと、大丈夫だ。
「だいじょぶよ」
「大丈夫」
 ハンドルを握ったまま呟いてみる。もしかするとそれは、僕に一番欠けていて、一番必要な言葉なのかもしれなかった。正利からのプレゼント。ぼくはこの言葉と一緒に、時・場所・形が変わっても生きていく。
 ――それからも相変わらず忙しさに追われる毎日が続いた。朝早くに起き、夜遅くまで仕事する。だが充実していると感じていた。仕事が楽しくお金を稼ぐことが嬉しかった。
 適当に楽しくて、適度なお金がありさえすればいいと、以前のぼくは思っていた。だが少なくとも今の僕は違った。楽しく仕事をして、稼ぐだけ稼ぐのだ。その理由は誰にも言わないし、言う必要もない。ただ、心の中にいつも思っていればそれでいい。
 ぼくは正利のために稼ぐのだろうか。そうかもしれない。正利が今のまま施設での生活を望むなら、そうさせてあげたい。その生活を実現するために経済的なことが必要で、政治的なことが絡むというのなら何とかしてあげたい。もしも正利がもっと違うどこかへ行きたいのなら、それも叶えてあげたい。そしてたまに会いに行こう。日本中どこだってぼくは行こう。もしもまた一緒に暮らしたいと言ったら? また一緒に仕事をしたいと言ったら? それもいいだろう。だが、そのためにも5年だけ待ってほしい。5年経ったら間違いなくぼくは準備万端に、きちんと体勢を整えられるに違いない。
 夢物語なんかじゃない。「そうだったらいいな」という話じゃない。これは、叶えなければならない自分の中の約束事だと思っている。
 だからぼくは今は、ひたすらに頑張っている。1日たりとも、1分1秒なりとも無駄にはできない。5年で準備を整えるために。5年後、正利が何を考え、何を望み、何を欲しがるか、ぼくにはわからないが、そもそも気まぐれなあいつの5年後を予想するなんてばかげたことだろう。
 ただ、準備だけを整えておくのだ。これは一方通行な、ぼくだけの約束事だけれど、それでもいい。

■忘れていた誕生日

 1月のある日、家に宅急便が届いた。正利からだった。封を開けると、中からは財布が出てきた。小銭入れみたいなやつで手作り風。どうやら施設の作業所か何かで、作ったものらしい。手紙が添えられていた。
「せんせ、たんじょうび、おめでとう」
 そうか、そうだった。今日は誕生日だった。正利の誕生日は、いつでもプレゼントを催促されるから忘れたことなどなかったが、自分の日はすっかり忘れていた。お礼の電話でもするか、そう思った瞬間、携帯電話が鳴った。慌ててポケットから取り出すと、番号表示に浮かび上がる「公衆電話」の文字。正利か? いまどき公衆電話から電話をしてくるなんて正利しかいない。
 ただ、ただ、嬉しかった。
「せんせ? とどいた?」
「なんだよ! 忙しいんだよ!」
「せんせ、さいふもってないでしょ?」
「なくたって大丈夫なんだよ俺は!」
「なんなのよ!」
 なんだか無性に嬉しかった。涙がこぼれそうになった。泣きそうなのを知られたくなかった。だから、ありがとうが言えなかった。
 こんな関係が、いつまでも続けばいい。
 一方的な約束を、ぼくは必ず果たすだろう。
 必ずその日が来ることを、ぼくは信じている。 (■了)

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だいじょうぶよ・神山眞/第80回 3つ目の施設

■月刊「記録」2006年5月号掲載記事

*         *           *

 新しい施設での面会日、受付で早速、正利を呼んできてもらうと、正利は一緒に話していた3人の仲間を引き連れて、こちらへ向かってきた。
 血色も良く、表情もイキイキしている。どうやら、ここのおじさんたちとはうまくやっているようだった。

■おまえはよくわかっているな

 そう思うとスーッと気持ちが楽になっていった。
「せんせ、おれ、せんせくるの、ぜったいおくれるっておもってたから、おにぎり2こたべちゃったのよ」
 昼ご飯を一緒に食べる約束をしていたというのに。相変わらずだな正利……。そう、相変わらず、それが嬉しい。
「ばかやろう! おまえなぁ、オレは腹がペコペコなんだよ。お前は食べなくてもいいけど、オレは食うからな!」
 わざと怒った口調で言う。だが、どうしても抑えられない。嬉しさが、喜びが、懐かしさが、止まらない。それらの感情は、とても抑えることができそうになかった。それを悟られたくないから、ついキツイ口調になってしまう。
「行くぞ! 早くしろよ! おまえ相変わらずのろいなぁ」
「せんせ、そうやっていそぐの、せんせのよくないところなのよ」
 そうだ、そうなんだよ、正利。「うるさいよ! わかったようなこと言うな!」と、ぼくはそう言うしかなかった。でも本当は……。
 正利、おまえはよくわかっている。ぼくのこと、よくわかっている。ぼくはついつい急ぎがちになってしまうんだ。だから、のろまなおまえと生活していると、よくイライラしてしまったけれど、お前の言っていることのほうが正しかったんだ。だって、急いで急いで、もっと急いで、さらに急いで、そんな生活ばかりしてたけど、上手くいかないことが結構多かったもんなぁ。正利、おまえ、本当にぼくのことをよくわかっていたんだなぁ。
■厚かましい、そして図々しい

 正利を助手席に乗せ、一番近いドライブインへ向かう。
「せんせ、おれ、きょうは、しょくじだけでいいとおもうのよ」
 食事をしに来たんだから、そりゃそうだ。
「は? 食事だけって当たり前じゃん。何言ってるの?」
「そうじゃないのよ」
 そうじゃない?
「せんせ、そうじゃないのよ、おれ、せんせにかってもらいたいものがあるのよ」
 来たか、やっぱりそう来たか、それでこそ会話が弾むってもんだ。
 「はっ? 急に何言ってるの? オレは買ってなんてあげたくないよ」
「そうよ、そうなのよ、いいのいいの、きょうはいいの。せんせだっていそがしいもんね、あしたもしごとなんでしょ?」
「いや、明日仕事があるとか、忙しいとか、そんなこと関係ないんだよ。オレはお前に何かを買ってやるつもりはないんだよ」
 ここまで言えば、以前の正利だったら膨れっ面になるはずだった。ところが、
「はっはっはっは! せんせ、おもしろいねぇ。せんせおもしろいこというんだから」と愉快そうではないか。
「はっはっはっはじゃねえんだよ。ここまで来るのだって大変なんだよ。今日だって車で三時間半もかかってんだよ。それでさらにお前に飯までおごるんだよ。その上何しろって言うんだよ。何で何か買ってやんなきゃいけないんだ!」
「おれ、いま、シイタケつくってんのよ。おれ、せんせにシイタケあげようとおもってたのよ。それなのに……」
 まだ話を続けようとするところを遮って、
「いや、シイタケいらないよ。オレ好きじゃないもん。だから何も買ってやらねえ」
 ちょっと大人げなかったか? すると案の定、
「もう、いいよ」と、とうとう正利は怒り出し、プイと顔を背けてしまった。
 厚かましい。そして図々しい。だが、それこそが正利だ。それが嬉しい。無性にぼくは嬉しかった。
 本当は「買って欲しい」と言われた瞬間から、すでに買ってあげるつもりでいたのだ。今度来るとき、ゴールデンウィーク頃になるだろうか、買ってあげよう、そんな後々の楽しみがぼくの中で駆け巡った。
 でも、今日は買ってあげない。なぜなら、それだと正利の本質である、先ほどのようなやり取りが楽しめなくなってしまうからだ。わがままを言われることが嬉しい、嬉しいけど、敢えて否定する。そんなゆがんだ関係。ゆがんだぼくと正利のつながりだ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第79回 施設をたらい回し

■月刊「記録」2006年4月号掲載記事

*          *            *

 ぼくが持っていったケーキを同室のみんなに分けなかったからと、おじさん患者にアザが残るほどブン殴られた正利。このケーキ事件だけが理由ではないのだろうが、入院仲間となじめないので他の施設に移りたいと、しょっちゅう電話をかけてきてはグチグチとこぼすようになった。
 しかし、気に入ろうが気に入るまいが、正利はどのみちこの病院を出なくてはならなかった。正利はもともと長期で入所できる施設を希望しているのだが、長期入院型の知的障害者施設はどこも満杯の状態。そのため、正利のようなケースは「措置変更」といって、定員に空きが出るまで、3カ月ごとに短期入所型の施設を移動しなければならないのだ。
 しかも小耳に挟んだところによると、長期型施設が完全に空くということは、めったにないらしい。要するに正利は、施設を転々とたらい回しにされてしまうわけだ。
 少しかわいそうだなと思わないでもなかったが、飽きっぽく放浪癖のある正利には、ぴったりの生活のような気もした。

■栃木の山の中へ

 次の行き先が決まったと、正利が電話をよこしたのは、11月にしてはやけに寒い日だった。
 今度は栃木県だという。
「遠いな……」思わずぼやくと、
「だいじょぶよ、とおくないのよ」
「栃木って寒いんだよな……」ぼくは寒いのが人一倍苦手だった。
「だいじょぶよ、さむくないのよ」
 そりゃあ、お前にしてみれば、オレが行くのを待っているだけなんだから、そんなに遠かろうが気にもならないだろうよ。
 内心でそうつぶやいたが、正利の喜びに水を差したくなかったので黙っていた。
「せんせ、いつ来る?」
「まだ引っ越してもいないのにせっかちだね~。まあ、なるべく早く行くよ」
 そう言いつつ、正利の新しい住処へ実際に訪れたのは、雪も解けかけた3月中旬だった。なにせ今度の施設は、観光地・日光からさらに45分、とてもチェーンなしでは走れない奥深い山中にあるのだ。
ぼくにも責任があるのかも
 東京を出発して約3時間半、施設の駐車場に車を停めて降り立った。
 空気がひんやり冷たく清々しい。思わず深呼吸したくなる。しかし、たくさんの人間が生活しているはずなのに、まるで人の姿が見当たらない。改めて見回してみると、周囲を囲んでいる林がまだ春遠く、冬枯れの体をほどこしているせいもあるのだろうが、閑散としたイメージがある。
 見渡すかぎり山と川に囲まれたこの施設、豊かな自然に恵まれた理想的な環境といえないこともないが、ある意味、脱出不可能の牢獄ともいえた。逃げ出したいと思っても、街に出るバスは1日3~4本だし、そのバス停も歩くと20分はかかりそうだ。
 まったく正利は何の因果でこんなうらぶれた、悲しくなるような場所にばかり行くことになってしまうのだろう。ぼくにも責任の一端はあるかもしれない。ぼくが最後まで正利の面倒を見ていれば、少なくとももう少し日当たりの良い場所で暮らせたかもしれない。
 ……またも正利に対する後ろめたさがムクムクと湧き上がってきた。
「ああ~っ、イカンイカン!」
 ともすれば暗くなりそうな気持ちを振り払い、ぼくは大股で受付のある建物へと入っていった。ドアを開けると、長い廊下がまず目に飛び込んできた。その先のホールに、ヒョロリと背の高い正利の姿が見えた。数人となにやらワイワイ談笑し合っている。
 ああ、会えた。
 その嬉しさでさっきまでの落ち込みも一気に吹き飛んでしまった。
 満面ヒゲに覆われた職員らしき男性が通りかかったので、早速、正利を呼んでもらうと、正利は一緒に話していた3人の仲間を引き連れて、こちらへ向かってきた。「おう、正利! 元気そうじゃん!」
「せんせ、おそいのよ」
 遠目ではわからなかったが、皆、50代くらいの男性で、やはり知的障害を抱えていた。その前にいた病院といい、ここといい、どうも近年の正利は若者に縁がない。 とはいえ、当の本人はまったく気にしていない様子だ。血色も良く、表情もイキイキしている。どうやら、ここのおじさんたちとはうまくやっているようだった。
(■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第78回 2度目の訪問

■月刊「記録」2006年3月号掲載記事

*         *          *

 正利に母親のことを聞かれるたびに、ぼくは「死んでるよ」と答えてきた。
 実際、正利の母親の性分を考えると亡くなっている確率も高いと思われたし、そう思うことで正利を虐待してきた母親を慕うことへの苛立ちや腹立たしさからも逃れられたからだ。心の内とはいえ、勝手に他人様の母親を殺すなんてヒドイ話かもしれない。結局のところ、ぼくは正利の自主性など認めておらず、正利を私物化していただけだったのかもしれない。
 しかし、しかし、正利の母親は生きていたのであった! 間違いなく生きているということを示す、1通の手紙がぼくの元に届いた。

■片道2時間が30分で退散

 正利の母親が見つかったことを本人に告げるべきか否か。だが、ぼくは告げない道をまた選んだ。本人が会いたがることを知りながら、その存在を隠していることに後ろめたさはあった。しかし「世の中には会わないほうがいい親子もいるんだ」と自分に言い聞かせ、隠したまま、ぼくはあれからさらに2回病院を訪れた。
 1度目のときは、「せんせ、いつあいにくるの?」と、正利が借金取りのように1日に何度もしつこく電話をかけてくるのに根負けし、前回の訪問からたった数日後に、仕事で疲れた体をムチ打って病院まで車を走らせたのだった。
 ところが、あいつときたらひどい風邪をひいたとかでベッドに入っていた。
「おう、なに昼間からゴロゴロしてんだよ」
「あー、かぜよ」
「はぁ? おまえ、風邪ひいてるのにオレを呼ぶなよ!」
 その頃、すでにぼくはいっぱしの……というか、人並みにやっと近づきつつあるサラリーマンだったので、風邪には敏感だった。風邪なんてひいてしまったら大変だ。会社を休むなんてサラリーマンにあるまじき行為だ。サラリーマン失格だ。
「じゃあな! 早く治せな! 治ったらまた会いに来てやるからな!」
 家から車で片道約2時間、そして訪問時間は30分。正利も気の毒だが仕方がない。その日は早々と退散した。 2度目の訪問は、正利がこの病院に入院してからちょうど3か月が経った頃だった。
 正利が別の施設に移ることになったというので、病院の職員の方々に挨拶に行ったのだ。すると今度は、正利の頬が少し腫れていて、青黄色く変色しているように見えた。
「おまえ、どうしたの、その顔」
「なんでもないのよ」
 何でもないわけはない。明らかに顔が腫れている。
「ふーん、で、もう風邪は治ったわけ?」
 すると今度は答える代わりに、ニヤリと笑った。そのときたまたま病室に、血圧や体温を測りにきていた50歳くらいの看護師さんがクルリとこちらを振り向いて、
「実里くん、風邪なんかひいてないもんね」
 と、正利に優しく微笑んだ。
「えっ、でもこの前に来たとき、風邪で昼間から寝てましたよ」
 そう尋ねながらも、風邪なんて最初からひいてはいなかったことにぼくも気づいた。
「実里くん、お友達とケンカしちゃったんだよね」
「おまえ、ケンカして寝てたの?」
 呆れた調子でぼくが聞くと、
「あー、せんせがいけないのよ」
 と笑いながら正利は答えた。
「なんでオレが悪いんだよ」
「せんせがケーキもってきたからよ」
 そういえば数日前の最初の見舞いのときに、ぼくはケーキを持ってきたっけ。
「でも、なんでケーキ持ってくるとケンカになるんだよ」
「ケーキたべてたら、なぐられたのよ」
「そんなばかな話あるかよ」
「あー、ふつうはそうなのよ……」
「実里くんね、1人でケーキを食べようとしたのよね。神山さんには、みんなで分けるようにって言われてたのにね」
 まだるっこしい正利の応答を見かねて、看護師さんが解説を入れてくれる。すでにもう解決済みの事件なのだろう。正利は看護師さんの言葉にも余裕でニヤニヤ笑っている。
「おまえ、部屋の人と分けろって言っただろ?」
「……」
「でもまぁ、独り占めにしたおまえもすごいけど、殴ってくるほうもすごいねぇ」
 ぼくは素直に感心した。なぜなら病室内を見渡しても、20代の正利が一番若く、他はどうみても50~60代のおじさんたちだったからだ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第77回 母が見つかった

■月刊「記録」2006年2月号掲載記事

*           *          *

「また来るよ」と正利に別れを告げ、病院を出たぼくはホッとため息をついた。安堵のため息だった。
 ぼくの不安とは裏腹に、正利はぼくが見放したことに対して何の恨みつらみも言わなかった。それなりに環境に適応し、今の生活を気に入っているようでさえあった。
 でも……。病院を出て10分もしないうちに、またもや、ぼくの中に住みついている魔物、“不安の虫”が首をもたげてきた。なぜなら、ぼくは正利に大事なことを隠していた。本当だったら、会ってすぐにでも言わなければならなかったであろうことを、隠したまま出てきてしまったのだ。
 そう、「行方不明だった正利の母親が見つかった」という重要な情報を。

■常識では捉えきれない母親

「おかあさん、どこにいるの?」
「オレ、おかあさんさがしたいのよ」
 これは児童養護施設にいたときからの、正利の口癖の一つだった。そしてぼくは正利に、そう言われるのが昔から嫌で嫌でたまらなかった。
 なぜなら、その“お母さん”というのが、世間一般の常識では捉えきれないとんでもない母親だったから。だからこれ以上、正利を関わらせたくはなかったし、何よりぼく自身が関わり合いになりたくなかった。それなのに、そんな母親が見つかったという情報が飛び込んできたのだ。
 今までにも2回ほど、目撃情報はあった。一つは、横浜のとあるスラム街で姿を見かけたというもの。そしてもう一つは、鶴見市内の市場で、ホームレスをしているのを見たというもの。
 そのたびに正利はぼくからお金をせびり、1週間ほどかけて捜し回った。でも結果は、いずれも空振り。当たり前だ、正利の母親というのは、そもそも姉の直子や正利を含め、ぼくが知っているだけでも5人の子供を産み、その全部の父親が違うというツワモノなのだ。しかも生むだけ生んで、育てるどころか殴る蹴るの虐待を繰り返し、フラフラと子供を置いて行方をくらませてしまうような女なのだ。そんな人間がいつまでも一カ所にとどまっているはずもなかった。
 そして正利にしたって、母親を捜すと勇んで出ていっても、いざ繁華街にでも出ようものなら、おのれの欲望にたちまち目がくらんで、いつの間にやら目的はそっちのけになってしまったに違いない。きっと大好きなゲーセンやパチンコ屋、ソープなんかを嬉々として渡り歩いていたはずで、見つかるわけがないのだ。
 そもそもだ! なぜ自分を虐待しまくり、あげく犬猫のように捨てていった母親なんかに会いたいのか? 正利の頭には、いまだに母親が灰皿で殴った傷が残っているのだ。足にだって、母親から熱湯をかけられたときの火傷の痕がくっきりと残っている。それなのになぜ!? ぼくには解せなかった。
「おまえを捨てた母親を捜して何になるんだ!?」と、正利本人に問いただしてみたことも、一度や二度ではなかった。しかしそんなことを言えば言うほど、正利は反発した。
「せんせにはオレのきもちはわかんないのよ」
 そう言って、あとは頑なに口を閉ざしてしまうのが常だった。
 どんな虐待を受けても、愛されなくても、子供とはこれほどまでに母親を慕うものなのか!? いや違う。悲しいことに、事実を事実として受け止めるだけの能力が正利には足りないのだった。
 だから、いつまでも平然と繰り返す。「おかあさんをさがしたいのよ」と。
 まったく何もかもが狂気じみてて、その問いかけを聞くのが、ぼくにはいつでも苦痛でならなかった。

■母はバラバラ殺人の犠牲者で

 そういえば、正利の姉・直子がぼくにこんなことを言ったことがあった。
「私たちの母はバラバラ殺人の犠牲者で、海に捨てられたんです」
 もしそれが事実なら、養護施設の記録に残っているはずだが、もちろんそんな記述は見あたらなかった。
「この姉はいったい何を言い出すんだ!?」と思い、マジマジと顔を見返したら、「あっ、このことは正利にはナイショにしてくださいね!」と、真面目な顔で返されたことがあった。そう、狂気じみているのは母親と正利だけではない。正利の一族全員が狂っているのだった。 そして、かくいうぼくも、その狂っている輪のなかの一人だった。いつしかぼくは、姉の直子が言うように、正利の母親は本当にどこかの街の片隅で野垂れ死んでいるのではないかと思うようになった。
 だから正利に「おかあさんは?」と聞かれれば、心の母に対する感情を無視するようになっていった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第76回 30分だけの面会

■月刊「記録」2006年1月号掲載記事

*          *          *

「せんせ、そと、でよ」
 正利が談話室から中庭らしきところへ、ぼくを誘った。
「いいのか? 出ていいのか、この部屋から」
「いいのよ、あのおんなのひとに、たのめばいいのよ」 そしてぼくらは一緒に部屋を出た。
 すると、女のスタッフが走り寄ってきてぼくに言った。
「すみません、外室は30分だけでお願いします」と。
 ぼくらが中庭に出ると、やはり背後で、鍵がガチャリと音を立ててかけられた。

■ふじさんがみえるのよ

「おれ、ここきて、よかったとおもってるのよ」
 中庭のベンチに腰掛けるなり、正利はそう言った。
 たったの30分、それだけしか許されないぼくたちの時間だ。
 いつもだったらぼくは、「どうして?」「何で?」「こんなところが?」といった具合に、矢継ぎ早に問いただすのだが、なぜだか今日はそうしなかった。
 中庭は一面、落ち葉で埋め尽くされ、木々に囲まれたその隙間からは、ほんの少しだけ外の世界が垣間見られた。一日中、しかも毎日、正利はこの空間にいるのだ。それなのに恨みがましいことも言わず、ここでの生活を楽しいという。そう思うと少し涙が出そうになった。
「そうか、だったら安心したよ。だけど、お前、ここ、何もないじゃん」
「いいのよ。なんにもないほうが、おれには、いいのよ」
「お前、変わったなぁ。ありったけの金使って、パチンコ行ったり、ゲーセン行ったりしてたのになぁ」
 欲望に歯止めがかけられず、周りから金を盗んでまで、放蕩生活を繰り返していたというのに……。
 本当に正利は変わったのだろうか? 俄には信じがたい話であった。
「せんせ、ここ、ときどき、てんきがいいと、ふじさんみえるのよ」
「富士山かぁ。何だか最近そうやって景色を眺めるなんてこと、俺、ないもんなぁ」
 本当にそうだ。朝起きる時間は決まっていて、乗る電車の時刻も車両も決まっている。電車を降りると足早に会社に向かう。そんな毎日。景色を眺めるという感覚すらなくしていた。
「そっかぁ。お前から景色の話が出るなんて驚いたよ。変わるもんだなぁ」
「おれ、こうやって、しぜんがいっぱいのところがいいのよ」
「じゃぁさぁ、今度行くところも、もっと自然が一杯あるところにするか?」
 そうなのだ、どんなに正利がこの場所を気に入ろうとも、今は短期入所という方法しか取れぬため、三ヵ月ごとに施設を移動しなければならない。入ったそばから次の行き先のことをぼくは考えなければならなかった。
「せんせ、こんど、おれ、どこいくの」
 やはり正利も同じ不安を抱えている。
「わかんないよ。でもとりあえず、希望は出してみるよ」
「おれ、しぜんがいっぱいのとこが、いいとおもうのよ」
「ああ、そうかもな」
「おれ、こうやって、のんびり、くらしたいのよ」
「わかるよ」
「おれ、もう、まえみたいに、あさはなにしてとか、ひるからはなにしてとか、やすみはいつだとか、もう、いやになっちゃったのよ」
 そうかもしれなかった。ぼくは正利を鍛え、何とか一人前の大人にしようと今まで躍起になってきた。朝は自分でちゃんと起きなければダメだとか、仕事場には遅刻をするな、遅刻しそうなら一本電話を入れろとか、そんなことばかり言ってきた。お金は使いすぎるな、夜は何時までには帰って来い、朝は何時までには起床しろ……。
 考えれば考えるほど正利を規則でがんじがらめにしてきたのだ。
「そうだよなぁ、お前いいこと言うなぁ。俺も自由になりたいよ」
「そうなればいいのよ。さんぽしたり、ふじさんみたり、みんなとおはなしするほうが、いいのよ」
 一緒に暮らしていた頃にように、手足をバタバタと動かして話をする癖がなくなっていることに気づいた。落ち着いた表情は、正利の気持ちの安定ぶりをそのまま表しているようだった。鏡で見る、いつも何かに追われ、不安げなぼくの表情とはまるで違って見えた。
 立場が逆になっていた。今まで正利にいろいろなことを教えてきたつもりだった。それなのに、それらの常識というものが、逆に正利やぼくにとっては、手枷足枷となってしまう現実。
 もしかすると、ここを一歩出てしまえば、やっぱりそんなことも言っていられないのかもしれない。
 でも、ぼくは心の底から今の正利を羨ましいと、一瞬でも思ったのが事実であった。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/「戦争」とすら呼べない大量殺戮を許さない!

■月刊「記録」2003年4月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

*           *           *

 またアメリカの戦争がはじまった。ミサイルと爆弾の大量投下のもと、バグダッド市内で、どのような殺戮がおこなわれているのか、と考えただけでもゾッとする。 ブッシュ米大統領がフセイン・イラク大統領とその一族にたいして、「48時間にイラクを離れろ。拒否した場合には、軍事衝突になる」と最後通告を発したのが、3月17日午後8時(現地時間)だった。これは、いいがかりである。
 いうことをきかなければ殺すぞという強盗の論理に、小泉は従うだけだった。ブッシュ、ブレア、コイズミは、戦争犯罪人として独裁者フセインとともに歴史から裁かれる。
 当初アメリカとイギリスは、国連の安全保障理事会でのお墨付きをもらい、国際世論をバックに自分たちの戦争を正当化しようとした。しかし拒否権を持つ常任理事国のフランス・ロシア・中国の賛成を得られず、議決に必要な全15ヵ国のうちの9ヵ国の支持も取り付けられなかった。態度を明らかにしていなかった中間派の6ヵ国(カメルーン、ギニア、メキシコ、アンゴラ、チリ、パキスタン)にたいしては、アメリカの「切り札」、経済援助という札束攻勢をかけた。それでも説得しきれなかった。国際世論の勝利である。
 恥ずかしいことにも、日本もODA予算をちらつかせ、アメリカの使いっぱしりとして中間派を説得したが、完全な不調に終わり赤恥をかいた。だいたい「カネをやるから戦争に賛成しろ」というのが、平和憲法をもつ国がやることか。平和と軍縮を訴えるチャンスだったのだ。
 結局、カネでの支配に失敗して、ブッシュは僚友のイギリスともども戦端を開くことになった。ブッシュの敗北は、ブッシュの人望がなかったことや、ブレアの人格破綻が主要な原因ではない。世界の民衆がしめした「戦争はいやだ」というごく単純な意見が、各国政府を突き動かしたのである。湾岸戦争の時代とちがって、反戦・厭戦気分が国際的に広がってきている。これは20世紀の反省から生まれた、21世紀の「希望」として評価できる。
 日増しに燃え上がっていった世界の反戦集会や反戦デモは、けしてフセイン支持の集会ではなかった。対立する国家や指導者を武力によって押し潰すという暴力的思想に、ただ「NO」と言ったまでである。ブッシュおよびアメリカ政府の主張は、「非民主主義的なフセイン政権が人民を抑圧しているから、我々が解放してやる」といったものだった。しかし、これはテロリストが正義を掲げて殺戮をおこなうのとおなじである。
 当事国以外が暴力によって政権転覆を目指すなど、「革命の輸出」でしかない。冷戦時代、西側諸各国が警戒した社会主義国による「革命の輸出」は、現政府にたいする人民の抵抗・反抗を根に持っていた。しかし国内の運動が煮詰まっていないのに外部から革命を注入すること自体、革命戦略として破綻していた。当然の結果として、「革命」は歴史的な悲劇を生んだ。
 そうしたソ連などの「革命の輸出」と角を突き合わせてきたアメリカが、冷戦構造が崩れた現在でも「革命の輸出」を続けているのには、呆れるほかない。このような「革命」が破綻するのは、歴史の必然といえる。
 まして今回は、30万人を超える米英軍を派遣しての政権転覆である。これこそ史上まれにみるクーデターだ。逆にいえば、大量の軍隊を使って無理に転覆させなければならないほど、フセインが民衆に選択されているともいえる。チリ、グアテマラ、コロンビア、ニカラグアなど、CIAを中心とした中南米諸各国の政権転覆計画は、これほどまでの戦力を要しなかった。そう考えると、今回のブッシュの「正義」が、いかに不正義であるかを理解できる。
 基本的にテロリストは少数者で行動をおこす。ところが世界最大の軍事大国が30万人もの兵力を集中して政権転覆を目指すのだから、大テロリスト集団といっても過言ではない。
 この戦争が始まる前、NHKの衛星テレビでABC放送を見る機会があった。その番組では、「バクダッド経由が家路への近道だ」と、前線の指揮官が若い兵士をアジっていた。早く故郷に帰りたい兵士たちに、バクダッドの市民の殺戮を通過して帰れと、がなっていたのだ。こういった洗脳もまた、大テロリスト集団のやりくちである。

■ゼネコン発想の戦争復興などやめろ

 また別の日に見たABC放送では、戦争開始直前の米軍前線基地を取材したレポーターが、その兵士たちの若さに同情していた。よく覚えているのは、「ほら見てください。13歳にしか見えません」というレポーターの言葉とともに映し出された、まだ十代にしかみえない米兵のあどけない横顔である。年端もいかぬ若者を待ち受ける死の危険は、アメリカ人に反戦・厭戦気分をあるていどつくりだすかもしれない。
 しかし本当に問題なのは、若い兵士たちが押し入り強盗のように他国に侵入し、幼児・児童をふくめた大量の人民を虐殺することに、まったく思いをむけていないことである。兵士は敵を殺すために送り出されるのであり、彼らが殺されるよりも大量殺人をおこなう可能性が強い。レポーターは「殺し合はやめろ」というべきだ。
 ましてこの戦争は、前段階で大量のミサイルと爆弾を投下する。その映像はテレビゲームのようであり、人を殺している意識は低くなる。
 こんどの戦争では市街戦も予測されているが、それさえ大空爆のあとである。しかも原爆に匹敵する、たかさ約3千メートルものキノコ雲が発生するほどの破壊力を持つ新型爆弾「MOAB(モアブ)」も準備されている。こうした新兵器に支えられた戦いは、すでに戦争とはいえない。ただの大量殺戮行為である。大量殺戮兵器をなくすために、大量殺人をおこなうのだから矛盾している。ほぼ勝敗がついたあと、強大な爆弾のあとの市街戦は、卑怯そのものである。
 朝鮮戦争およびベトナム戦争でも、米軍はじゅうたん爆撃といわれる無差別攻撃で人民を殺戮してきた。ベトナム戦争ではジャングル内にバラまいたセンサーで音をキャッチし、いきなり無差別に空爆する戦法を取った。 最近になってこそ、民間施設を識別するなどといっているが、戦争の論理はベトナム戦争以来変わっていない。誰がゲリラで、誰が民間人か識別できない場合は、一挙に殺害する。それがアメリカの戦争の「掟」である。いまさら民間施設は攻撃しないといっても、厳密に識別できる戦争などあるはずもない。その結果、病院や学校が攻撃されてきた。今回は市街戦も想定されているので、巻き添えになる市民は大量にでる。
 またたとえ民間施設を攻撃しなかったとしても、大気や国土を放射線で汚染する劣化ウラン弾をばらまかれれば、無差別じゅうたん爆撃よりむごい健康被害が何十年にわたってつづく。メディアで宣伝されるような「誤爆」など、戦争には存在しない。兵士も民間人も「敵は殺す」。それが戦争である。
 ところがアメリカをはじめとする国々は、大量に破壊することを前提に「復興する」と前宣伝する。人命を奪い、住居を奪い、故郷を奪って、そのあとにどんな復興があるのか。たんに建物や道路を造り直せば、それで復興になるのか。
 いわばゼネコン的な発想の復興には、もっと批判の声があがってもよい。日本もイラク復興に協力するなどといっているが、利権争いとなる。日本は、破壊のあとの復興よりも、破壊の前の平和に寄与すべきであり、そのほうがはるかに重要である。

■国内“暴走”を止めるために

 世界の批判にまみれつつ、アメリカは大量殺戮を開始した。そうしたなか、わたしが怒りを禁じ得ないのは日本国政府の対応である。
 アメリカとともに戦争を押し進めた張本人のイギリスでさえ、前外相であるクック下院院内総務が、イラクへの武力行使に抗議して閣僚を辞任した。一方の日本では、抗議運動をおこそうとする与党議員さえいない。
 小泉純一郎首相は、戦争開始以前からアメリカの行為のすべてをみとめる「腰巾着」であった。一方、国際平和を考えるべき川口順子外務大臣も、市民の健康を考えるべき坂口力厚生労働大臣も、憲法の理念を積極的に推進すべきき森山眞弓法務大臣も、アメリカの大量殺戮に諸手をあげて賛成する首相をいさめるでもなく、抗議の辞任をするわけでもない。
 あらためていうまでもなく、日本は武力によって国際紛争を解決しないという理想を憲法で高らかに掲げている。そして国務大臣や国会議員は、憲法99条により「憲法を尊重し擁護する義務を負う」。だから小泉首相はもちろん各大臣も、戦争に反対するのは政治家としての任務である。
 ところがそんなことを考えてもいない。だいたい日本の政治家には、理念がない。自分の選挙基盤を守るためだけに政治家となっている人たちである。暴力団の跡目相続とおなじように、自分の「縄張り」を維持するためにだけの政治家にすぎない。
 たとえば小渕恵三前首相の娘・小渕優子などのように2代目、3代目たちは、なんの見識もないまま父親の地盤を引き継いで当選している。そういった議員によって国会が構成されているのが日本国だ。ふがいない議員に歯がゆい思いをすることも多いが、それは自分たち有権者のダラシナサの表れでもある。
 小泉首相は、アメリカが最後通告を発表する以前から、新決議なしで米英が武力行使に踏み切った場合について、「その場の雰囲気で」などと支持を表明していた。「雰囲気で」大量殺戮に賛成する彼の無思想、無定見ぶりを、いまさらあげつらっても仕方ない。
 しかしブッシュにしろ、ブレアにしろ、小泉にしろ、どうして人間の命にたいして無痛覚なのか。このような指導者を駆逐できないアメリカ・イギリス・日本が、どうしてフセインだけを駆逐しようとするのか。不思議でならない。この“悪の枢軸国”だからイラクを攻撃するという独善、独断が、これから日本にかかわってくる。 最近でこそ少し落ち着いてきたものの、小泉の北朝鮮訪問以来、マスコミはラチ家族を英雄扱いして、北朝鮮攻撃を繰り返してきた。それは憎悪と蔑視の増殖のプロセスだった。憎悪と軽蔑の先にあらわれるのは、金正日政権打倒である。食糧難を中心とした生活の破綻が北朝鮮におこる可能性は否定できないが、気にくわないから、といって政権自体を日本やアメリカが転覆させるなど、けっして認められるものではない。
 しかし日本は、フセイン政権の武力による転覆を容認した。アフガンへの攻撃ではイージス艦をインド洋に派遣し、今回はAWACS(早期警戒管制機)の派遣も検討されている。アメリカに従って、武力で「邪魔者」を追い出す手法が朝鮮半島に使われないとも限らない。マスコミが生みだした「北朝鮮敵視政策」の延長線上に、政権転覆の武力解決が容認されれば、日本の世論が一気に危険な方向に進みかねない。だからこそ、戦争反対の行動が必要なのだ。イラクとおなじ「悪の枢軸国」だから、北朝鮮政権もやってしまえという暴論を抑える言論が必要だ。
 小泉などの自民党は、イラク攻撃を支持する理由の1つとして、北朝鮮との関係の緊迫化をあげている。しかし安倍晋三内閣官房副長官などの過激な発言が、両国の関係を損なっていることを、彼らは認めていない。
 こうした暴走に歯止めかけるためにも、こんどの戦争にたいする小泉政権の責任を追及をしていく必要がある。そうしない限り、東アジアの平和を日本人はつくりだせない。イラクの戦争は対岸の火事ではない。憲法無視の好戦主義者・小泉首相を政権から引きずり降ろさなければならない。(■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第75回 正利との面会

■月刊「記録」2005年12月号掲載記事

*           *           *

 初めての場所、初めての入り口、そういった場所に足を踏み込むとき、いつもだったら入ることに戸惑い、行ったり来たりを繰り返してしまうぼくが、今日は違った。
 はやく正利に会いたい。1分でも1秒でもはやく正利に会いたかった。

■差し出されたわら半紙

 まるで昭和初期で時間が止まってしまったかのような、古ぼけた薄暗い病院だった。自分が入院するとしたら、ちょっとためらってしまいそうだ。外来のドアをくぐると、昔の日本映画に登場しそうな待合室があり、受付には60歳は過ぎているであろう女性がポツンと一人。
「すみません。先ほどお電話した神山という者です。正利君の面会に来ました」
 そう告げると、「ここに名前と時間を記入してください」と、何も書かれていないただのわら半紙を差し出された。
 わら半紙……。久々にお目にかかったと思いつつ、もちろんそんな素振りはみじんももらさず素直に記入すると、味も素っ気もない無愛想な態度で、「2階の談話室に上がってください。階段はあっちです」と言われた。 建物も暗ければ人も暗い。談話室に行くまでの壁や床もシミだらけで、病院とは思いたくない汚さだ。いくら病院のなかでも、最も儲からないといわれる精神を病んでいる人たちの施設とはいえ、ここまでおざなりな環境でいいのか? これじゃあ、健康な人だって気持ちが滅入って病気になってしまうだろう。
「こんなところで正利は生活しているのか……」
 何ともやりきれない、苦い思いが込み上げてきた。正利に申し訳ないと思った。今さらながら、なんてことをしてしまったんだろうと思った。
 ぼくのした決断は、もしかしたら、もしかしたらとんでもなく間違っていたのかもしれない。正利も、そしてぼくも、失わなくてもいいものを、いや失わないほうが良かったものを失ってしまったのではないだろうか。
 誰に奪われたわけでもない、自ら進んでゴミ箱に捨ててしまったのだ。はたと気がつけば、ぼくにも正利にも何一つ残ってはいなかった。そんな気がした。
 ぼくは思っていたのだ。これまでの出口のない、閉塞感ばかりがつのる生活を思い切って捨て去り、新しい世界に飛び込んで、新しい自分の居場所を見つけるべきだと。新しい友達を作って、新生活を始めたほうがいい。そのほうがお互いのためだ、そう思ったのだ。
 いくらそう思っても、思おうとしても、何だか釈然としない罪悪感と喪失感が、胸にダラーンと広がっていった。
 この建物がいけないんだ、そう思い、何とか気持ちを立て直そうと努力するが、階段を昇る足取りは自然と重くなっていった。
 談話室の扉を開け、中に入る。すると15人ほどの人がいた。こういうときは一斉に視線を浴びせられるのだと思っていたが、どうやらそうでもない。ほとんどの人が、ぼくのことなど気にもとめていなかった。ぼくに気づいたのは、正利と若い女性のスタッフだけだった。
 スタッフはぼくに会釈をすると、するりとぼくの背後にまわり、開けっ放しにしてあったドアを急いでバタンと閉めた。そしてカチャッと音を立てて鍵を閉めた。
 背後で閉めた鍵の音が、正利とぼくが、思っている場所よりももっとどんどん違う場所へ向かっているように感じさせた。
 けれどカラ元気を出して声をかける。
「よう、正利、元気か!?」
 するとボーっとテレビを見ていた正利は、少し笑ってぼくに近づいてきた。
「せんせ、もってきてくれた?」
 さっそく電話で約束をしていたトレーナーと漫画本とケーキを要求される。
「ああ、持ってきたよ」
 差し出すぼくの視線の先の正利が着ているトレーナーは、ぼくには見慣れぬものだった。
「何だよ、おまえ、新しいトレーナー持ってるじゃん」「あー、これ、せんせ、これ、つうきんりょうのせんせが、かってきてくれたのよ」
 正利が、通勤寮で唯一心を開いていたのが、若く入ったばかりの女性職員のようだった。
「そっか、あの先生が来てくれたんだ」
「そうよ、きてねって、おねがいしたら、きてくれたのよ」
 そうだった。いつでも皆、最初の1回は来てくれる。頼めば最初の1回は来てくれるのだ。
 ある人はプレゼントをくれるし、ある人は今後のことを話していく。またある人は説教していく。
 いろいろな人が来た。
 ただ、来るのは一度きりだ。
 1回来ると、もう、たいがい次に2回目はない。
 皆、正利が行く新しい場所には1回しか来てはくれないのだった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第74回 対等な関係

■月刊「記録」2005年11月号掲載記事

*           *           *

 せっぱ詰まって、消耗しつくしての離別だとしても、いずれにしても正利を見捨てたことには変わりがないのだった。正利から逃げ出そうとしているのは、他の誰でもない、ぼくなのだ。
 とにかく正利を一刻も早く忘れたかった。ぼくは自分を卑怯な人間だと思った。
 ぼくは、しばらくぼんやりと部屋に立ち尽くしていた。いろいろなことが頭の中を駆け巡っていたが、それらの考えは正しいものなのか、間違っているのか、今のつらい状況から逃げ出したいがための逃避なのかわからなかった。しかし近いうちに必ず実行しそうな気が、ぼくにはしていた。

■対等な関係になるために

 これでチャラになったのだろうか? 今、現在もこれからも2人は“対等な関係”というやつでいられるのだろうか?
 改札口を通り過ぎると、別に急いでいるわけでもないのだけれど、人波に押されるように自然と歩く足は速くなり、別に入りたいわけでもないのだけれど、ぎゅうぎゅう詰めの電車の中に吸い込まれていく。
 吸い込まれ、人混みに紛れる毎日。しかし、胸のつかえのようなものが消えることは日々ありはしなかった。 どんなに人ごみに紛れ込んでも、やはり期待したような、何もかも忘れることなどは不可能なようだ。ワイシャツを着て、ネクタイを締め、革靴を履く。前の人や隣の人たちと同じような格好をしてみても、あの特異で異常な何年間かの生活が、ぼくを日常というやつに決して埋没させてくれようとしない。
 正利を失ってから2年と半年が過ぎた。失ったというよりも、手放したというほうが正しい表現なのかもしれない。
 いまだにぼくは毎日、正利のことを思い出す。そして思い出すたびに混乱してしまう。
 正利には何もかも与えたはずだった。住む場所にはじまり、仕事も友人も小遣いも食事も着る服も、何もかもを揃え、何もかもを与えたはずだった。
 それらを全て奪い取ってしまった。正利をぼくではない他の誰かの手に委ねた瞬間、ぼくが与えたものはすべて、必要がないものだと、委ねた相手からぼくに返された。いったん正利は何もかもを失った。少なくともぼくにはそう見えた。
 今の正利には、必要なものは必要に応じて、必要なだけ与えられている。これでいいのだ。きっとこれでいい。ぼくが正利に与えたものはきっと偏っていた。あるものは与えすぎていたのかもしれないし、あるものは全く足りなかったのかもしれない。
 いずれにしても、正利がいったん失ったものに関しては、ぼくも同じように失ってみることにした。日焼けサロン、友人、着るもの、眼鏡、正利と共有していたものは、すべてぼくも失ってみることにした。こうすることしかできなかった。こうでもしなければ、ぼくのなかの懺悔の念は消えることがないと思われたのだった。
 こうして対等な立場にでもしなければ、今後ぼくはあいつに合わせる顔がなかった。それにしても……。本当にこれで良かったのだろうか? 本当にチャラになったのか? 本当に今後も“対等な関係”でいられるのだろか? 胸のつかえは消えるどころか、日に日に存在を大きなものにしていった。

■あの中に正利がいる

 秋も深まり、スーツだけでは少し冷え冷えする。体重が85キロもあったときには、あまり寒いという経験をしなかった。しかし68キロしかない今のぼくにはコートが必要なくらい寒い秋晴れの日、ぼくは会社を午前中で早退して、正利に会いに行った。
 正利は、知的障害者の人たちのための通勤寮に、2年間の期限付きで入所していたのだが、度重なる無断外泊により、結局、任期を満了することなく寮を出ることになってしまった。
 任期を満了していないため、他の施設に移ることができない。一応、通勤寮所属というかたちで、さまざまな施設に3か月ごとに短期入所するというかたちをとることになった。
 一番最初の入所先は、正利の抱える精神的な問題を医療行為によって解決しなければならないとの名目のもとに、東京の郊外にある精神障害の人たちのための施設に決まった。
 場所を調べてみると、ぼくの卒業した大学の目と鼻の先であった。合コンだのサークルだのと毎日を賑やかに楽しむ大学生たちのすぐそばに、こんなにひっそりと静かな場所があったのだ。
 右も左も高い木々に覆われた坂道を登っていく。すると、ぼくが小学校くらいのときによく見かけた昔の病院のような建物が見えた。正利がここで生活している。そう思うと何だか胸が締め付けられた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第73回 正利からの逃避

■月刊「記録」2005年10月号掲載記事

*           *           *

 正利への電話がつながらない。
 おかしい。電話にも出ないし、店にも来ない。となると、考えられるのは、2度目の家出しかないではないか?1度目の家出からもう半年。そろそろとは思っていたが、まさか、まさか、こんな電話のやり取りくらいで、こんなことになってしまうとは!もうだめだ。いやもう一度。迷いに迷い、握りしめたままの携帯のボタンを再び押す。呼び出し音が2回、3回……、やはりだめか……、と思った瞬間、あいつが出た!
「おい、正利、どうしたんだ、時間だぞ!」
「……」
「おい!?」
「……」
「どうした!? 時間だぞ?」
「あ~、なんか、ねちゃったのよ」
 大丈夫! 大丈夫だった! ただの取り越し苦労!
「ばか! 寝てたのか! ばかだなあ! 早く来い!」「……」
 プツリと電話は切れた。電波が悪いのだろうか。まあいい、電話もつながったことだし……。
 しかし正利は、1時間経っても、2時間経っても店には現れなかった。

■いつまでこんなことが繰り返されるのか

 正利が店にタオルを持って来なかったので、ぼくは足りなくなったタオルを補充するために、アパートに戻った。
 しかし部屋の明かりは消え、人の気配がまるでない。正利はやはり出て行ってしまったようだ。一気に血の気が引き、足がガクガクと震えた。またか……。これで何度目だろう……。そしてこれから何度繰り返すのだろう……。
 何もかも投げ出してしまいたいような気持ちが襲ってきた。
 部屋に入ると、ぼくの万年床の汚れた枕の上に、正利からの書き置きが置いてあった。
 「せんせ、おれってほんとにばかだよね。このままいても、また、せんせにめいわくかけちゃうから、でていくね」
 どうやらぼくに電話口で「ばか」と言われたことが相当こたえたようだった……。
 それにしたって……。なんでぼくばかりがこんな目に遭わなければならないのだろうか。親でも兄弟でもない、ましてお金をもらっているわけでもない相手に振り回されて……。
 もうやめにしたかった。こんなばかげた繰り返しのゲームはやめにしたい。勝っても負けても終わらないゲーム。上がりのない「すごろく」がぼくの神経をとことん消耗させていた。
 こんなことを繰り返して何になる?こんなことばかりをずっと繰り返してどこへ行く?正利と出会ってから7年が経とうとしている。中学2年生だった正利は二十歳を越え、二十代だったぼくは三十代も半ばにさしかかろうとしていた。
 よく考えてみろ、ぼくは三十代らしい暮らしをしているのか?友達は結婚をした。マンションを買った。犬を飼って休みの日は海辺を散歩させているらしい。それなのにぼくときたらどうだ?四畳半の汚い風呂のないアパートで正利と終わりのない不毛でくだらなくも悲しいママゴトを繰り返している。
 もう終わりだ。今度こそ終わりにしよう。ぼくは書き置きを手にしたまま、そう固く決意した。
 だが、中途半端なことではあいつからは逃げられない。すべてを切り、すべてを捨て、あいつから逃げる。そうしなければ新しい生活は訪れない。「逃げる、捨てる、切る」それを徹底的に行うのだ。すべての環境を変え、正利のことをきれいさっぱりと忘れるのだ。
 正利を引き取りたくて始めた商売、それが日焼けサロンだった。ならばこれはもういらない。店にはあいつの畳んだタオルがたくさんありすぎ、入り口の前の階段を見ると今にも正利が昇ってきそうだ。シャワー室の前であいつは掃除をさぼってよく丸まって寝ていたなぁ。思い出すには格好の材料が揃いすぎている。いらないぞ、いらない。だから日焼けサロンともおさらばだ。
 自営業なんてやめてしまおう。暇がありすぎて、ぼくはきっとあいつのことを思い出す。ネクタイを締めて、電車を使って通勤する、そんな仕事にしよう。普通の人たちにまぎれ、普通の生活をすれば、きっとすぐにでもあいつを忘れることができるはずだ。
 あいつとぼくの共通の友人たち。そんな人たちとはもう会うことはできない。会えば正利のことを聞かれるだろうし、もしかしたら非難もされる。
 「どうして正利を捨てた?」「どうして正利に会ってやらない?」「正利は今、何をしている?」「一生面倒見られないんだったら、どうして引き取ったりしたんだ」
 ぼくには一つも答えが見つけられなかった。解答を導き出す術すらわからなかった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第72回 正利の不機嫌

■月刊「記録」2005年9月号掲載記事

*          *          *

 最近、ぼくは正利に対して下手に出ていたが、それは、またフラリと出て行かれては困る気持ちからだった。しかし、仕事もせずにゲーム機にかじりついているあいつに、ついに我慢の限界がきて、つい強い口調で叱ってしまった。
 正利は不機嫌な表情を隠そうともせず、ダルそうに立ち上がり、タオルを袋に詰め始めた。そのあまりにもダルそうな態度にぼくも頭にきた。
「いいよ。そんなに嫌なら働かなくていいって。おれがやるよ。どけって」
 正利を押しのけてぼくが袋詰めを始めると、あっという間に作業は終わる。何だよこんなに簡単なことさえしないで、ゲームばっかりやりやがって。そう思いながら袋を持って外に出る間際、ちらっと正利を見た。少しは反省しているかなと思ったが、相変わらずゲームの続きをやろうとしている。
 この頃から正利は、何かあったらまた出て行っちゃうぞという態度をみせるようになってきた。それが神山を一番、困らせられるということを正利は理解し始めたらしい。
 それにしても嫌な態度をとられ、わがまま放題をされても、出て行かれては困る、出ていかないでくれ正利と、思ってしまうのだから、追いつめられた人間の心理状態というのはおかしなものである。
 いつだって出て行っていいんだよというふうに、ぼくに思うことができたら、その後の展開もきっと違っただろうに……。

■正利が気になってしょうがない

 正利の気分の波が日に日に激しくなってきた。相変わらずタオルをたたみ、店へ配達するというノルマ自体は変わらない。単調な日々ともいえる。しかし、表情がなんだか毎日違うように感じられて仕方がなかった。
 たぶん他人が見ても、正利は何ら変わっていないのかもしれなかった。それはたぶんもう、ぼくのほうが参ってしまっていたのだろう。正利ではなく、ぼくの感じ方、考え方のほうが、かなり異常な領域に入ってきていたのだろう。正利の帰ってくる時間が常に気になって仕方がない。正利がどこに出かけるかが気になって仕方がない。何を食べて、ちゃんと栄養を摂れているのか、寝ているときに布団をはいでいないか、寝冷えはしないか、お金はいくら持っていて、それは本当に自分のお金なのか……etc.
 すべてを知っていたくて仕方なくて、すべてを気にしすぎたぼくの神経は、もう自分がおかしいのか、正利がおかしいのか、判断がつかないほどになっていた。
 しかし、それもやむを得なかったともいえる。一緒の部屋、しかも四畳半一間の狭さにひしめき合いながら四六時中一緒にいるのに、少しでも離れるとひっきりなしに電話がかかってくるのだから。一度目の家出のあと、まさかのときに備えて電話を持たせておいたのだ。しかしこの携帯電話の存在が、ぼくと正利を再び引き離す道具になってしまった。
「せんせ、おれ、はなしがあるんだけど」と、正利からの電話。
「ごめん、今は仕事中なんだよ。わかるだろう?」
「あー、わかった」
 そうしてぼくは仕事に取りかかる。しかし電話のことが気になってしょうがない。やはりすぐにかけ直してしまう。
「あ、正利? さっきは悪かったな、で、話って何?」「あー、もう、いいよ」
「おまえなあ、もういいよってどういうことだよ、ああ? おまえが電話してきたんだぞ? おれは仕事で忙しいのにわざわざ電話してやったんだぞ?」
「あー、でも、もういいのよ」
「おい、言えよ、せっかくおれが電話したんだから」
「もう、いい、しつこい!」ガチャン!! 電話が切れる。
 そうしてモヤモヤした気分のまま、再びぼくは仕事に取りかかるのだが、気になる、気になる、気になってしょうがない。もう一度、電話をかけてみる。しかしあいつは出ない。気になる。どこかに行ってしまったのだろうか? 気にしても仕方がない、仕事をしようと考える。だが、もう手につかない。もう一度電話をかけてみる。やはり出ない。怒っているのか? きっとそうだ。いつもあいつは思い通りにいかないと、電話に出ることをやめるのだ。そうするとぼくが困り果てることをわかっている。ぼくはあいつの思うつぼなのだ。
 しかしこうなると、もうぼくは自分でも自分を止められない。つながるまで電話をかけ続けるのだ。正利の携帯の着信回数が20回を越えた頃、ぼくはあることに気づく。もうそろそろ正利が、タオルを届けに店に来なくてはならない時間だということに。
 おかしい。電話にも出ないし、店にも来ない。となると、考えられるのは、2度目の家出しかないではないか? するともうぼくは、居ても立ってもいられなくなるのだ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第71回 弁護士の先生

■月刊「記録」2005年8月号掲載記事

*          *             *

「せんせ、おれ、あいつらのことゆるさないのよ、こんどあったら、もんくいってやろうとおもうの。だっておねえちゃん、ないてたのよ。おねえちゃんなかすなんて、ゆるせないのよ」
 と、正利は威勢のいいセリフを吐いた。
 あいつらのことは許さないか…。頼もしいじゃないか、正利。ついでに話を混乱させたお姉さんのことも怒っておいてほしいよ…と、思ったが、ぼくは黙っておいた。
  「ありがとう、正利。オレもあいつらのこと許さないよ。明日、弁護士の先生に会ってくるから。そうしたら、みんなおしまいだ」
 そう答えながら、ぼくは、あいつらには一切お金は払わず、弁護士にお金を払って何もかも解決することに決めた。

■誰かに明確にしてほしい

 弁護士事務所に約束の時間に向かった。
 ジーンズにヨレヨレのシャツを着たぼくには、不釣り合いなほど立派な事務所に戸惑いを覚えた。聞けばテレビに出演するほどの有名な弁護士だという。たくさんのケースを抱えているらしく、先生の話し方は、とても忙しそうだった。
 一通りの経緯を説明すると、「大丈夫ですよ、神山さん。何の問題もありません。すぐに解決しますよ。というよりも、もうほとんど何も問題が起きていないに等しいくらいですよ」と、頼もしい言葉が返ってきた。
 普通ならここで安心するはずなのだが、なぜかぼくは違った。
  「いや、先生、彼らはとんでもなく悪い人たちに違いありません。背中に刺青を入れていますし、脅かし方もかなり本格的です」
 情けない話だが、ぼくは本当に怖かったのだ。お金を取られそうなのが怖いのか、あいつらが追いかけてきそうなのが怖いのか、そのどちらも怖いのか。
 いや、どちらも怖いが、何よりも正利との生活を維持していくことの困難さを誰にも理解してもらえないことが一番怖かった。
 正利と暮らし続けるならば、今回のようなことがたびたび起こることは想像に難くない。正利は働かないので、お金は出ていくばかりだ。ぼくだって困難は避けたいし、何かのときのためにお金も貯めておきたい。考えてみれば正利がいなくなったからといってデメリットは何もないのだ。だったらもう、こんな生活とはおさらばして新しい生活を手に入れよう。そんな思いは、過去に何度も頭をよぎった。
 でも、それでも一緒にいたかった。一緒にいたいというよりは離れられないのだ。何かに、誰かに暗示をかけられてしまったように、ぼくは結局、いつでも最後には、正利と離れるという決断を下すことができずにきてしまっていた。
 ぼくにも正利にも、一緒にいることの理由がわからない。わからないまま毎日が過ぎていく。しかもそれは平凡なものではなく、波瀾に満ちていて、常に何かに巻き込まれている。
 弁護士の先生に、ぼくはそんな自分の状況を理解してほしかったのだ。自分にも理解できない、自分の抱えている正利に対するさまざまな感情をわかってほしかったのだ。矛盾しているようであるが、この混沌としたぼくと正利との関係を誰かに理解して明確にしてもらい、それを噛み砕いて、ぼく自身に説明してほしかったのだ。そうすればぼくも、少しは安心できるかもしれない。
 ぼくはそんな思いで話していた。

■腹の底から苛立ちが

「なんだか、いろいろあったなぁ、正利。全部おまえのせいだぞ」
 弁護士事務所をあとにして、いつものアパートに帰りつき、冗談めかしてそう言うぼくを、ちらっと一瞥して、あいつが言った。
  「しょうがないのよ。それにもうだいじょぶよ。せんせいはいつもかんがえすぎなの」
 そうかもしれないな、ぼくはいつも考えすぎてしまう。
  「正利、おまえこれからどうしたいの?」
  「……」
 答えること、いや、そもそも考えることが面倒くさいのか、正利は答えない。テレビゲームから目を離さず、こちらを見ようともしない。
  「おい、正利、おれはこんなにおまえのことを考えているんだぞ。店も他人に任せきりにして、おまえの起こした事件の後始末をしてるんだ。それなのにお前ときたら、働きもせず、毎日ゲームばっかりじゃないか。せめて洗って溜まったタオルを時間通りに店に持っていくことぐらい、やっておいてくれたっていいじゃないか」
 最近、ぼくは正利に対して、ずいぶん下手に出ていた。それは、またフラリと勝手に出て行かれては困るという気持ちからだ。しかし、黙ってゲーム機にかじりついている横顔を見ているうちに、ムラムラと腹の底から苛立ちが湧いてきた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第70回 お姉さんの理屈

■月刊「記録」2005年7月号掲載記事

*             *             *

 電話は意外なほど早くかかってきた。
 受話器を取ると、お姉さんは昨日の礼も言わず、正利の状態も聞かず、いきなりこう言い放った。
  「よーおく考えてみたんですけど、昨日、請求されたお金に関して、私が払うっていうのはおかしいと思うんです」
 最初は30万円全額、5分後には15万円半額、そして翌日には一切払わないと言うお姉さんの主張。何だか頭が混乱してくる。

■先にぼくに相談してよ!

「そうなんですよ。だからお姉さんが払うべきお金ではないんですよ。そもそもそれは…」と言いかけたところで、遮るようにお姉さんは言った。
  「はい、私も昨日は慌てて払うなんて言ってしまったんですけど、友達に相談したら、私が払うべきお金ではないことに気づいたんです」
 友達に相談? 気づいた? いやぁ、友達に相談する前にぼくに相談してほしいよ! と、内心思いつつ、
「はい、払うべきお金ではないことに気づいたことは良かったと思います。でも、お姉さんが払うって言ってしまったんですよ? それでその場を収めてしまったんですよ? あの人たちはお金はもう手に入れたも同然だと思ってますよ? そこらへんをどうするかでしょう!」 と、最初はゆっくりと、でも最後のほうには、まくしたてるようにお姉さんに言った。
 するとお姉さんはさらりとこう言ったのだ。
  「神山先生、正利、少しは貯金があるって、以前に言ってましたよね? それで払っておいてください。正利ももう20歳を過ぎているんです。責任を取る義務があるはずです」
 ……何も言うことはない。圧巻だ。
 正利が責任を取る。それでおしまい……。なるほど、そんな結論か……。
 しかし、考えてみれば確かに、そこいらへんにあった紙の切れ端に、鉛筆で「パンツ1枚500円」。そんなふうに書かれたインチキな請求書に本当に30万円を払うのか?
 しかも正利は、朝の10時から夜の11時まで働かされて、日給千円しか給料をもらっていないんだぞ?
 そう考えれば考えるほど、ぼくは「誰が払う」とか「いくら払う」とかではなく、一切合切あいつらに払う必要はないと思った。
 払うのはやめよう。そう決心した。
 ……でも怖かった。彼らはぼくの店の住所も、ぼくの電話番号も知っている。いつ押しかけてくるかわからない状態で、正利と2人で暮らしていくのは、とても不安だった。
不条理こそが原動力に
 不安。いつの頃からだろうか。
 ぼくはすっかり不安とともに生きてきた。
 朝起きると不安、夜床に入るときも不安、友人たちと一緒にいても不安、彼女ができても不安、自分の部屋にいても、旅行に行っても不安。
 精神科に行ったことも、神経科に行ったこともないから、それがどういうことなのか細かいことまではわからない。
 ただ、正利と一緒にいると、不思議と不安は治まった。
 金を稼ごうともせず、寄生虫のようにぼくのすべてを吸い取ろうとする正利。
 なのに吸い取られれば吸い取られるほど、ぼくの不安は治まっていく。
 この不条理こそがぼくの生きる原動力となっているのだから怖ろしい。
 頭の片隅では、この不条理をこのまま受け入れて、不安を和らげて生きていきたいという思いが生じ、もう一方の頭の片隅では、この不条理を受け入れ続けると、ぼく自身は一生、正利に振り回され続けてしまうだろうという予感も生じていた。
 ぼくはそんなことを考えながら、部屋の隅で体を丸めた。
 電気もつけず、大の大人がそんな姿でいる。
 端から見れば異様な光景だ。
 そこへ正利が買い物袋に一杯のお菓子とジュースを抱えて買い物から帰ってきた。
「なにしてるの、せんせ? でんきぐらいつけなさいよ」
 と手も洗わず、うがいもせずに、座り込むとボリボリとお菓子を食べ始めた。
 何も答えぬぼくを励まそうとでも思ったのか、
  「せんせ、おれ、あいつらのことゆるさないのよ、こんどあったら、もんくいってやろうとおもうの。だっておねえちゃん、ないてたのよ。おねえちゃんなかすなんて、ゆるせないのよ」
 と、威勢のいいセリフを吐き捨てるように言った。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第69回 再び始まる二人の日常

■月刊「記録」2005年6月号掲載記事

*           *           *

 正利の怪しい同居人に30万円もの下着代を要求され、断固、戦う意思を固めた矢先だった。
 お姉さんが突如、要求された30万円を支払うと言い出したのだ。
 そう言われてしまっては仕方がない。
 もうこれ以上、ぼくに何かを言える立場ではなかった。

■半分ずつにしてもらえないでしょうか…

 さぁ、帰ろう。何もかも終わった。
 そう思い、ぼくが運転席に乗り込もうとした瞬間、お姉さんが走ってぼくのそばに来た。
 「あ、あの、さっきの30万円のことなんですけど、あの場では私が全額払うって言ってしまったんですけど、……半分ずつってことにしてもらえないでしょうか……」
 やっぱり、やっぱりそうきたか……。
「えーっ!? だったら何で払うって言ったんですか? ぼくは払うつもりなかったんですよ? だってあんなインチキな明細おかしいじゃないですか。鉛筆で、しかも手書きで。下着何枚か買っただけで30万円ですよ。おまけに給料も払われていないし!」
 ぼくは思わずまくし立てるように言ってしまった。
 いつものぼくならこんな言い方をするはずがなかった。そのくらい、お姉さんのいい加減さに呆れてしまったのだ。
 すると「そうですよねぇ。あれはおかしいですよね。わかりました、一晩考えてまた電話します」と、お姉さんはあっさり引き下がった。
 少し意外な気がしたが、同時にこのとき改めて思ったものだ。このお姉さんはもしかすると正利に似て、全く何も考えていない人なのか? と。
 そんな嫌な予感は外れてほしかったが……。
経済的には厳しいが
 とにもかくにも、ぼくと正利は車に乗り込んだ。
 車が走り出し、二人きりになると、正利がとたんに「おなかがすいた」と言い出した。
 だからぼくは車をコンビニの駐車場に停め、弁当を2つとジュースを2つ買った。
 また始まるのだと、ぼくは思った。一人だったときには1つで済んだものが、これからはまた2つずつになる。経済的には厳しいが、心には充実感があった。
 アパートに戻ると、ぼくらは特に話し合うこともなく、弁当をがつがつと食べた。それからぼくらは朝の4時くらいまで、延々とテレビを見た。たしか再放送もののドラマだったと思う。ラーメン屋での生活では、夜はテレビを見ることができなかったと、正利が隣でポツリと洩らした。
「ああ、いいよ、今日は心ゆくまで見てろよ」
 ぼくは答えた。正利は答えなかった。一緒に見ていたつもりがいつのまにか眠り込んでしまい、目覚めたのはいつもの時間の目覚ましのアラーム音だった。
 だが、夢も見ないほど久しぶりに味わった深い眠りだった。
        * * *
 3時間ほど眠っただろうか、アラームで目が覚めると、正利は口を半開きにして涎を垂らしながら隣で熟睡していた。
 その情けない姿を目にして、いつもの生活に戻ったのだと、ぼくは改めて実感した。
 しかし同時に何だか妙な不安感が突然、頭をもたげてもくるのだった。
 ぼくと正利。
 いったいこのままぼくらはどこへ行くのだろう。
 家族でもない、夫婦でもない、友達でも、兄弟でもない。
 ならば、ぼくと正利はいったい何なのだろう。二人を経済的に支えているのは、この“日焼けサロン”一つだった。
 すべてが不安定なまま、何とかバランスを保っているのだと感じた。
 安定した場所、落ち着いた場所ではないどこかを毎日漂流している気分であった。
 目的地もなく、ただひたすら漂うことだけを楽しむ生き方。
 一瞬一瞬はリアルなのだけれど、トータルでは何だかすべてがフェイクなママゴトに思えてしまう。正利の寝顔を見てぼくは思った。いつかはぼくの力で、ぼくの責任でこんな毎日を終わらせようと。
 それは嫌だからではない。
 理由は明確にはできないけれど、いつか近い将来、正利に関わるすべてのものに別れを告げなければいけないのだと感じた。そして正利と、シンプルで現実味のあるつき合いをしていくのだ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第68回 揺すり・たかり・脅し

■月刊「記録」2005年5月号掲載記事

*          *           *

「ふざけんじゃねぇ! お前が虐待して正利が逃げてきたから、俺たちが面倒見てやってたんだ! そんときの金をきっちり払えってのがわからねえのか!」
 それまで僕たちの隣で、黙ってタバコを吸っていたラーメン屋のおやじに、いきなりヤクザまがいの大声を出されて、ぼくは驚いた。
  「き、急に払えって言われても……、もうちょっときちんとした明細でも見せてもらわないと無理ですよ」
 それなのに、ぼくはこんな受け答えをした。
 なぜなら、このときまでまだぼくは相手をきっと話せばわかる人たちだと思っていたからだ。だが、このアパートにこの部屋であり、あんな写真を見せられているのだから、普通の人たち――つまり話してわかる人たちなんかではないことに、さっさと気づくべきであった。
  「てめぇ、なめてんのかぁ」
 ラーメン屋のおやじはいきり立って、さらに大声を張り上げた。今にもこちらに向かって殴りかかってきそうな勢いである。
 すると、「まぁ、まぁ、この人たちだって払わないとは言ってないんだからさ……なぁ?」
 と、女装男は穏やかにラーメン屋をたしなめた。さらに、ぼくに向かってニッコリ笑みすら浮かべるではないか。このオヤジ、いったいどっちの味方なんだ?
「そうですよ、払わないって言ってるんじゃないんです。そもそも正利の働いた分の給料を支払ってくれるような話を、さっきラーメン屋でしたばかりじゃないですか。それで十分に補えるんじゃないんですか? その下着代やら何やらも」
 と答えたぼくは、このとき、まだ相手を舐めていたのかもしれない。
  「てめぇ、いいかげんにしろよな、日給のうち千円は、正利に1日の小遣いとして払ってんだよ、そんでぇ、それ以外は貯めといてやってんだ。その貯めといた分じゃ足りねえから、お前たちに請求してんだよ」
 と、おやじはドスの効いた声で言った。これ以上ぐだぐだぬかすなよ、とっとと払えってんだよ、と、その声は、ぼくたちを脅しているように思えた。
  「え、でも、給料で足りないほど使うなんて、考えられないけどな、しかもさらに30万円なんておかしいですよ…」
「お前、何なんだ! その言い方は!」
 おやじが怒鳴るや否や、間髪入れずに女装男が正利に向かって、その金遣いの荒さをゆっくりと諭すように話し始めた。
  「なぁ、正利。この前もパチンコ一緒にやりに行ったんだよなぁ。そしたら2万円なんてすぐに使っちゃったよなぁ?」
  「あぁ」
 女装男が正利に同意を促すと、正利は肯定するように頭を掻いてうなずいた。その瞬間に、やっとぼくは気づいた。ああ、このラーメン屋と女装男はグルなんだ、と。2人で別々の雰囲気を醸し出しながら、どうにかして金を手にいれようと画策しているのだ、と。
  「確かに、こいつは金遣いが荒いというのは認めます。でも、」
 ぼくがそこまでを口にした瞬間、
「でもも何もねぇんだよ、いいかげんにしろよなテメェ。もういい、若いモン呼ぶから。お前ちょっと待ってろ」そう言って、おやじは携帯電話を取り出した。
 脅しか? それとも本当に“若いモン”を呼ぶのか? と、ぼくが警戒した次の瞬間、
  「わかりました! 払います。私が払いますから。だから、もうこれで終わりにしてくださいね」
 あっけない幕切れだった。みんなが声の主のほうを一斉に振り向いた。するとお姉さんが泣いていた。隣で正利が口を半開きにして焦点の定まらぬ、うつろな目で、お姉さんのほうをみていた。
 あのお姉さんが泣いている。何が起きても、いつも飄々としていたお姉さんが泣いている……。
 正利がいなくなったときでさえ、「もう二十歳を過ぎた男なんですから、心配することありませんよ」と、ぼくの心配をよそに高らかに笑っていた人なのに……。
 いずれにしても、お姉さんは要求された30万円を払うと言ったのだ。もうこれ以上ぼくが何かを言う必要はなかった。
  「そうだよ、それが常識っていうモンだよ」
 と、オヤジたちが満足げに言い放ったセリフをあとにして、ぼくたちはアパートを出た。
 言いなりになった悔しさと、お姉さんが初めて正利に対して責任を取ってくれたことに対する驚き、2つの感情が僕の中で入り混じっていた。外は雨が降り、モヤモヤとしたぼくの気持ちに一層拍車をかけた。
  「帰るぞ、乗れよ」と声をかけ、ぼくは正利を後部座席に乗せた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第67回 猛烈な負のパワー

■月刊「記録」2005年4月号掲載記事

*           *            *

 ぼくは本当にバカな男だ。なんでこんなことに躍起になっているのだろう。ここで正利とは離れるべきなのだ。ラーメン屋と正利を取り合ってどうするのだろう。なにも取り合う必要などなかったのだから。
 なぜなら選択枝は2つではないのだ。
 もう1つ、たしかに選択枝はあるのだ。
 そう、お姉さんのところに正利を引き取ってもらうという選択だ。
 意外にも、あまりにも当たり前すぎて気づかなかったのであるが、これは最もマトモな選択枝ではないか。
 そうして、ぼくはこう言うべきなのだ。
「今度こそ、あなたが正利の面倒を見るべきだ。いつもいつも責任を逃れて、自分ばかりが高見の見物。お姉さん、ぼくにあれやこれや言う前に、あんたが正利を育てるのがスジだろう! いつもいつも事あるごとに顔をつっこんできて、やばくなるとさっさと逃げちまう。あんたが今度こそ責任を取れ!」と……。

■正利の選択

「わかった。おれ、せんせのところにもどるよ」
 しかし、お姉さんの剣幕に押された正利は、そう言った。
 結局ぼくのアパートに戻ることを約束したのだった。そう言いつつも、正利がしぶしぶ納得していることが、ぼくの目には明らかだった。腹立たしい。やっぱりこいつといるとイライラする。離れている間あんなに寂しかったのに、いざ一緒にやっていくことがわかると、途端に以前の馴れ合いに戻ってしまい、嬉しさと苛立ちがぼくのなかで葛藤する。
 それでも、「よーし、正利、それじゃあ、アパートのおじさんのところに荷物を取りに行こうか」と、とりあえずは努めて明るく正利に声をかけた。
 返事もせずに、しょうがないなぁ、といった表情であいつは席を立った。そこで、ぼくたちもファミレスを出て、正利の住んでいたアパートへ向かった。
 すっかり日も暮れ、アパートは昼間に見たときよりも一層貧乏臭く見えた。こちらの気持ちまで荒ませてしまう猛烈な負のパワーがそこいらじゅうに満ちていた。嫌だなぁと思いながらドアをノックし、中に入ると、玄関に一歩足を踏み入れただけで、なかの様子がすべてわかるような狭さであった。そこには挫折、失敗、怠惰、嘘、汚れ、貧困といった人生に負けた男が持つすべての要素が満ちていた。
 部屋にはすでに、正利と同居していた男となぜかラーメン屋のおやじがいた。
すぐにでも話を切り出し、この部屋から出たかった。しかし、正利と同居していた男は何を思ったのかアルバムを引っ張り出してきて、ぼくたちに見せようとする。
「これは俺が北海道にいたときの写真だよ」
 満面の笑みを浮かばせて話しかけてくる。
「はぁ……」
「ほら、ここに俺と一緒に写っているの誰だかわかる?」
 男が得意げに話し掛けてくる。
「さあ、誰でしたっけ?」
 派手な衣装やマイクを握っているところから歌手であることだけはわかったが、それが誰であるかは、ぼくたちにはわからなかった。
「歌手の××だよ。知ってるだろう?」
「あぁ、××さんですか。知っていますよ、すごいなぁ、おじさんはこんな有名な人とお知り合いなんですか?」
 やっぱり誰だかわからなかったが、大袈裟にびっくりしてみせた。
 すると男は調子が出てきたようで、次から次へとぼくたちに写真を見せてきた。
だがそれらは、男が化粧をして女形に化けている気持ちの悪い写真ばかりであった。なぜ初めて会ったぼくたちがそんな写真を見なければならないのか理解に苦しんだ。
 それにしても正利は、よくこんな気持ちの悪い正体不明の50歳過ぎの男と寝食を共にしていたものだと改めて驚く。しばらくすると、男は紙切れを出してきた。また何か昔の思い出話の材料に使うのかと思ったら、どうも違うらしい。手に取ってみると何やら金額が書いてある。いついつどこで下着を購入、といった内容のものが4、5か所記入されていた。そして、男はこう言った。
「だから、30万円払ってくれ」
 それはいわゆるぼくたちへの請求書であった。しかし鉛筆で書かれているし、購入したものをどう足しても30万円には程遠い。
「これ、どうして30万円もぼくたちが支払わなければならないんですか?」
 恐る恐る男の表情を盗み見ながらぼくは訊ねた。
 男の表情は相変わらず穏やかなものだった。女装の写真を見せているときと何ら変わらない。なんだ、たちの悪い冗談か、とぼくがホッとしかけたとき、
「てめぇ、ふざけてんのか!」
 と、それまで隣で黙ってタバコを吸っていたラーメン屋のおやじが、いきなりやくざまがいの乱暴な大声を出してきた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第66回 瀬戸際の交渉

■月刊「記録」2005年3月号掲載記事

*            *             *

 正利、お前はいったいどこで何をし、どこで誰と会い、その時々で何を思い、何を感じてきたんだ。
 そして一つひとつの質問のあとに、ぼくはこう問いただすのだ。
  「そのとき、おまえはおれのことを思い出したか? もし思い出したなら、その瞬間どう思った? 会いたかったか? それとも会いたくなかったか? 懐かしく思ったか? 我慢はできたのか?」
 ぼくは正利の肩をつかんで、そう問いただしたかった。
たのむ正利、答えてくれ!
 口をきいてくれない。何を聞いても何が周りで起きていても全く口を開こうとしない。
 いや、もしかすると何か言葉を発していたのかもしれないが、今、思い出そうとすればするほどラーメン屋で久しぶりに対面した正利は、無表情にぼくを無視していた。
 その頃には、仕事先から戻ってきた正利のお姉さんも店に合流し、ラーメンを食べ終えたぼくらは、別の場所に移動することにした。
 正利の表情から何かを読み取ったのか、お姉さんは   「正利と2人きりで話したい」と、ぼくに伝えてきた。
 とりあえずぼくらは、近くにあったファミリーレストランに入り、正利とお姉さんは、少しぼくから離れた場所に席を取って話を始めた。
 しかし、眺めていると、話し合っているという様子にはどうしても見えない。なにかお姉さんが一方的に正利を問いつめていて、正利のほうは、ただイヤイヤをしたり、ウンとかヤーとか言っているだけのようだった。
 しばらくして、ぼくも話に加わった。話に加わる瞬間、少し加わることが恐かった。正利の真意をいよいよ知ることになるのだと思うと、さっきの素っ気ない無表情が思い出され、やはり少し恐かったのだ。
 だから、
  「先生、とりあえず、先生のところに戻らせます」
 と言ったお姉さんの第一声に、ぼくはホッとした。
 しかし同時に次の言葉にガクリときた。
  「でも正利は、先生に怒られたことが恐かったから、戻りたくないって言ってるんです」
 ああ、いったいどっちなのか、はっきりしてほしかった。経過も経緯も正利の気持ちもお姉さんの意向も、何もかもすべてを取っ払ってしまいたい気分だった。ぼくは結論だけを聞きたかった。ぼくが今、一番知りたいのは、明日のぼくと正利だ。ぼくと正利は明日、一緒にアパートの一室にいられるのか? それともやはり別々の場所で過ごさなければならないのか? それだけが知りたいのだ。
  「あぁ、それはそうでしょうね。ぼくも少し怒りすぎたのかなって、毎日、毎日、反省していました。ぼくは何か…キレるっていうんですか、いったんカッとなると、どうも見境が効かなくなってしまうようなんです」
 と、すまなそうに、そして冷静に、落ち着いて、しかもハキハキした口調でぼくは答えた。
 ここで何としてもお姉さんの信用を勝ち取っておかなければならないのだ…。
  「正利、ごめんな。オレも怒りすぎたよ。すまなかった、許してくれな」
 正利をみつめて、こう言いつつぼくは心のなかで別の言葉を叫んでいた。
 答えてくれ、正利! ここでお前がいい返事をし、許してくれれば、お姉さんはお前をぼくに預けてくれるのだ。
  「あー」
 だが、正利の答えにぼくはがっかりした。正利はやはり無表情のままだった。嫌そうに「あー」としか答えてはくれなかった。
 だが、まあいい、上出来だ。何も答えぬよりはずっといいだろう。
 …と思いきや、いきなりお姉さんが加勢した。
  「正利! お前、今のアパートのおじさんのところに住んで、ラーメン屋で働くなんて、お姉さん許さないよ!」
 なんとお姉さんは力強く正利にこう言い放ったのだ。 勝利のゴングがぼくの頭のなかで鳴った。
 勝った。ぼくは勝ったのだ。ふたたび正利を手に入れることができるのだ。神様はぼくにもう一度チャンスを与えてくれそうだ。
  「お姉さん、わかりました。今回は本当にすまなかったと思っています。今度こそは、しっかりとやらせてもらいますから」
 頭を下げつつ、しかし一方でぼくは自分を罵ってもいた。
 ぼくは本当にバカな男だ。なんでこんなことに躍起になっているんだろう。ここで正利とは離れるべきなのだ。ラーメン屋と張り合って、正利を取り合う必要など、いったいどこにあるのだろう。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/殺して、壊して、カネ儲け。ブッシュのあくどいやり方

■月刊「記録」2003年5月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

*            *            *

 戦争は国家による人殺しの奨励である。1人でも多く殺せば国の名誉が上がり、殺人者の名誉はさらに上がる野蛮な構造となっている。どんな理由があったにしても、戦争は国家による醜悪な大イベントでしかなく、きれいな戦争などあるわけもない。とはいえ今回の米英軍によるイラク攻撃は、近年まれにみる“汚れた戦争”であった。
 なぜブッシュ大統領が戦争に踏み切ったのかは、大いなる謎である。そのため「理由なき戦争」とも呼ばれ、国際的にも反対意見が強かった。ブッシュの唱えた侵略の大儀は、大量破壊兵器の破壊とイラクの解放であった。しかし戦争がほぼ終結してなお(4月17日現在)、大量破壊兵器は発見されていないし、イラクのひとびとが「イラク解放」に、さほど喜んでいるようにもみえない。シーア派の幹部たちもフセイン打倒には気勢をあげたものの、米英軍の駐留を歓迎しているわけではない。
 米軍が大量に放ったミサイルは、1万8000発にのぼるという。トマホークだけでも、750発もぶち込んだ。これだけ凄まじい大量破壊をおこなっていて、どこが「イラクの解放」なのだろうか。事実は「イラクの破壊」でしかない。住民が喜んで米軍を迎えるなど、完全な夢想である。
 独裁政権の倒れた象徴として、バクダッドではフセイン像の引き倒しが、生中継で全世界に伝えられた。一部報道では、独裁者のチャウシュスク政権崩壊になぞられるむきもあったが、引き気味のカメラにはまばらに集まった住民が映り、住民の蜂起と呼べるほどの熱気はなかった。実際、アメリカ側の演出だったのでは、との報道も流れている。
 今回の戦争では、アメリカの大本営発表の空言がなんどかあきらかになっている。開戦当初はフセイン大統領の死亡説が流れ、そののち本人がテレビに登場。また南部都市バスラを米英軍が制圧、おなじくバスラで住民蜂起が起こったといった情報も、アルジャジーラなどの記者リポートによって、ウソと判明した。
 思い返せば12年前の湾岸戦争は、「キレイな戦争」として報道された。前線取材が徹底的に規制され、ひとけがないように見える施設をミサイル攻撃する映像が主役だった。まるでテレビゲームのような映像が、これでもかこれでもかとばかり放映された。もちろん市民は大量に殺された。ただ映らなかっただけである。これもアメリカが発表した絵空事だった。
 しかし、そのときのあまりに露骨な情報操作がメディアから批判され、今回のイラク侵攻では従軍記者取材が認められた。世界各国から500人以上もの記者が集結したという。しかし、結局現場ではきびしい報道規制があったと伝えられている。
 また、なによりジャーナリストにとって許し難いのは、アルジャジーラのバクダッド支局やアブダビテレビなど、アラブ系のメディアが攻撃されたことである。事前に米軍に知らせておいた支局が、けっして外れないと自慢されてきた米軍のミサイルによって爆撃され、1人の記者が死亡した。
 これはイラク国営放送が攻撃されたのとおなじ文脈で考えるべきであろう。自分たちに都合の悪い報道は、暴力によって口を封じる。そんな“アメリカ民主主義”の意図が如実にあらわれている。もっと簡単にいえば、目撃者は殺せ、ということだ。
 そもそも米英は、アルジャジーラを目の敵にしていたふしがある。開戦後には、ニューヨーク証券取引所の取材から追いだした。またイギリス兵の死体や捕虜が放映された際には、イラク政府のプロパガンダの手先だとしてイギリス軍の高官が名指しで非難した。そして空爆である。アメリカ型民主主義とは、言論圧殺のことなのか。
 また4月9日には、チグリス川沿いにあったジャーナリストの拠点、パレスチナ・ホテルも米軍から攻撃され、ロイターなどの記者2人が死亡した。こうした事態について、国際ジャーナリスト連盟も激しい抗議を表明している。
 しかし非難にたいして、国防総省のクラーク報道官は、「これまで、多くの報道関係者に私は伝えてきた。戦争は危険なものだ。戦場にいる時、あなた方は安全ではない」(『朝日新聞』4月10日)と平然と責任を記者たちに転嫁している。危ない場所にいるのと、意図的に殺されるのではおなじ危険でも大ちがいである。クラーク報道官の発言は、自分たちの犯罪を覆い隠しているにすぎない。

■石油メジャーと軍需産業で政権固め

 イラク攻撃が終盤戦にさしかかったころから、ブッシュ政権の閣僚たちが関係する企業の利権があきらかになってきた。
 ブッシュ政権は、まれにみる国際石油資本(石油メジャー)政権である。ブッシュ自身、テキサスの石油会社の重役だったのだが、2000年の選挙では、石油ガス業界から選挙資金として2億円以上受け取っていた。まさに石油利権大統領である。
 チェイニー副大統領は、油田開発会社のハリバートンの元CEO(最高経営責任者)である。このハリバートンの子会社は、イラク侵攻なかばで70億ドル(8400億円)もの油田の消火・復旧事業を、無競争で受注している。またライス米大統領補佐官は、大手石油会社シェブロンの社外取締役。さらにエバンズ商務長官は、長年、石油会社で働いてトップもしめたことのある石油業界の実力者だ。
 いうまでもないことだが、イラクは産油国である。砂漠の下には、1125億バレル、確認埋蔵量世界第2位の原油が埋まっている。イラクに親米政権が樹立すれば、フセイン政権下で利益を得ていたフランス・ロシア・中国などの既得権益を崩すこともできる。また、これまでサウジアラビア主導のOPEC(石油輸出国機構)に仕切られていた中東の原油価格が、親米イラクの原油増産で大きく揺らぐことにもなる。結果的に“石油メジャー閣僚”たちも、大きな利益が転がり込む。
 さらにブッシュ政権には、軍需産業とも強いつながりをもつ閣僚も並んでいる
 リチャード・パール前米国防政策委員長は、国防総省が許認可権をもつ企業の顧問だったという理由で委員長を辞任した。噂されるアラブの武器商人との関係は、彼の横顔をしめしている。
 ラムズフェルド国防長官は、軍需産業系のシンクタンクで理事長だった人物であり、超タカ派のウルフォウィッツ国防副長官は爆撃機などをつくるノースロップ・グラマン社の顧問、チェイニー副大統領の妻にあたるリーネ氏もおなじく爆撃機などを製造するロッキードマーチン社の役員だった。
 戦争は、兵器の大量消費の一大チャンスである。『毎日新聞』(4月9日)は、今回使われた兵器の値段を次のように報じている。

トマホーク〈ミサイル〉
 1発…50万ドル(6000万円)
JDAM〈精密誘導爆弾〉
 1発…約2万4000ドル(287万円)
バンカーバスター爆弾
 1発…14万5600ドル(1747万円)
ステルスB2A〈爆撃機〉   
 1機…21億ドル(2520億円)
FA18E〈爆撃機〉
 1機…6000万ドル(72億円)
M1A2エイブラムズ〈戦車〉
 1両…430万ドル(5億1600万円)

 こうした高額の兵器が湯水のように使われるのだから、米軍需産業関係者の笑いは止まらない。
 人を殺せば殺人者であるが、人を殺してモノを売りつければ英雄となる。それがブッシュ型のモラルなのだ。今回のイラク侵略は、古い兵器の在庫一掃と新兵器の開発を狙ったビジネスショーと考えれば、とてもわかりやすい。
 さらにもう1つ、イラク戦争はアメリカ経済に特需を連れてきた。戦争復興である。

■壊したヤツラで復興独占

 復興費用の額はいろいろと取りざたされているが、『読売新聞』(4月6日)は「戦争が3ヵ月程度で終わった場合は1560億ドル(約18兆6000億円)」というエール大学教授の試算を発表している。
 これらの膨大な復興費用と戦費は、ヤクザのみかじめ料のようにアメリカが世界各国から回収するつもりのようだ。もちろん日本も例外ではない。
 しかも現在、アメリカはイラクに債権をもっていない。日本・フランス・中国などは巨額の債権もっているため、フセイン政権が転覆したいま、どのようにそれを回収するかに頭を悩ましている。
 こうした状況にありながら、ライス米大統領補佐官は「イラク解放に命と血をかけた連合軍(米英)が、主導的な役割を期待するのはごく自然なことだ」と述べ、破壊しつくしたあとの儲け、戦後の復興需要は事実上、アメリカで独占すると宣言した。
 今回のイラク侵攻は、アメリカの1人勝、との宣言である。
 石油利権を既得権をもつ国から奪い取り、自国の軍需産業が喜ぶ兵器でイラクを徹底的にぶちこわし、自分で壊した街を自国の企業に作り直させて、イラクが生みだす原油で支払わせる。そのうえ回収不能の債権すらない。
 アメリカにしてみれば、殺せば殺すほど、破壊すれば破壊するほど儲かるのだから、これほどウマイ商売はない。理念はおろか自省の感情さえ吹き飛び、結局、ブッシュ、ラムズフェルドのイケイケどんどんのビジネスゲームである。

■ベトナム戦争の失敗に学べ

 このイラク攻撃にともない、ますますクローズアップされてきたのが北朝鮮問題である。安倍晋三官房副長官などは、「(北朝鮮に)何発も撃たせないためにはミサイル基地を攻撃しなければならない。それは米国にお願いするしかない」といった。
 これこそ情報操作というべきものだ。たしかに北朝鮮はミサイルをもっているかもしれない。だからといって北朝鮮人民軍がイカダに乗って日本に攻めてくるなど、誇大妄想でしかない。腹ぺこの国民を抱えているのに、どうしてアジアで中国に匹敵するような「自衛力」をもつ日本に戦争を仕掛けられるというのか。
 実態のない敵の驚異を煽り立てて戦争するのは、権力者の常套手段である。かつてマクナマラ国防長官が、自著の『マクナマラ回顧録』で、ベトナム戦争におけるアメリカの敗因として、「相手方の危険性を過大評価した」「相手国内の政治勢力の判断を完全に誤っていた」「すべての国家をアメリカ好みにつくりあげる天与の権利などもっていない」などの理由をあげた。
 今回のアメリカの行動は、ベトナム戦争のときとなんら変わりはない。それ以上にバカげている。大量破壊兵器疑惑も、フセイン崩壊後に起こるはずだった市民の歓迎という夢想も、マクナマラが指摘した失敗になぞらえる。あまりに巨大な軍事力は、おそらくアメリカの解体につながる。アメリカは、歴史に学ばなかったのだ。儲けにはしった拙さ、である。
 アメリカが好むように、イラクの人民が動くかどうか。イラクに親米政権をつくれなかったとき、アメリカはマクナマラが指摘した失敗の意味を悟ることになる。
 そして日本もまた、北朝鮮の危機を煽って進める軍拡路線の愚かしさを悟ることになる。もう一度、平和のために行動しよう。 (■談)

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だいじょぶよ・神山眞/第65回 1ヶ月半ぶりの再会

■月刊「記録」2005年2月号掲載記事

*          *           *

  「あそこだよ」
 田辺は指をさした。正利の働いているラーメン屋は、アパートから歩いて5分ほどのところにあった。
  「あぁ、ここですかぁ。いやぁ、ここならぼくも何度か前を通った! 知ってますよ」
 明るくハキハキと少し大げさにぼくは答えた。何も田辺という、正利と同居しているこの中年男に媚びを売ったわけではない。ただ、ただ、嬉しさを堪えきれなかったのである。
 正利と会うことに関しては、ぼくなりにさまざまな葛藤があった。不安や迷いもあった。それなのに全てが吹き飛んでしまっている。今この瞬間、「ただ、ただ、正利に会えることが嬉しい!」そんな気持ちになっている。しかし店に入った瞬間、そんな気持ちはすぐにいつもの不安へと変わっていった。
  「いらっしゃい」
 五十歳代半ばくらいの元気のいい夫婦が、威勢のいい声をかけてきた。元気の良さ、その声のトーン、たたずまいからして2人はいかにも商売人という雰囲気を漂わせている。そしてその2人のうしろに、場違いなくらいこの店の雰囲気から浮いている男がボーっと立っていた。正利であった。
 およそ1ヶ月半ぶりの対面。ついにぼくは正利に会えたのだ。ぼくの苦労は今ここで終わるはずであった。心労により食欲は落ち、体調不良、だるすぎる体、抜け落ちる髪の毛、すべてがこの瞬間に清算されるはずであった。正利が無事であったことにホッとし、お互いに懐かしさに歩み寄り、少し照れながら言葉を掛け合い。そして以前のように2人で仲良く暮らす……。
 しかし、そんな青写真を描くことはできそうになかった。

■おまえはぼくを憎んでいるのか?

 ラーメン屋にボーっと立つ場違いなその男、正利は、ぼくを見てもニコリともしないのであった。
  「よう、正利、元気そうじゃないか。ここで働いていたのか、頑張ってるな」
 仕方なくぼくから明るく声をかけても、ボソボソと口の中だけで「ああ」と答えるだけである。
 正利は答える瞬間、チラリとぼくを見た。たしかにこちらを見た。ぼくが迎えに来ていることはわかっているはずである。
 だが、あいつは何も言わなかった。「あっ! せんせ、おれここではたらいているのよ!」とも、「せんせ、まってたのよ。おれ、もうはたらきたくないのよ」とも言わなかった。ただ暗い目をして「ああ」と呟いただけだ。
 そりゃ、あいつを殴ったのはぼくだ。おまえは殴られて出て行った。けれど、もうだいぶ昔の話じゃないか。なぜだ、おまえはぼくを許してくれていないのか? ぼくのことをまさか憎んでいるのか? 喧嘩したって、怒鳴り合ったって、ぼくたちはいつも仲良くやってきたじゃないか。
 そうこうしているうちに注文した味噌ラーメンができあがった。ラーメンづくりにおける正利の役割は、あらかじめ刻んであるネギをドンブリの中に入れるだけであった。
 ぼくはその無造作な動作から、正利の気持ちを読んでみようと試みたが無理であった。怒っているのか、淋しい気持ちでいるのか、会いたかったのか、何一つさっぱりわからない。いずれにしても、突然、ぼくが店にあらわれたことには驚いているのだろう。だがそれ以外は、何一つわからない。
  「いやぁ、おいしいですねぇ、このラーメン! なあ! 正利!」
 こんな具合に何かにつけてぼくは正利とコミュニケーションを取ろうとした。だが、正利の態度ときたら、そのたびにこちらをチラリと一瞥するのみで愛想のカケラもない。
 そのあまりのつれない態度に、ぼくはいよいよ絶望的な気持ちになってきた。正利の愛想のなさが、ぼくに対する最終宣告のように思われてきたのだった。
 もう無理だ、無理なのかもしれない……。
 そう思って食べるラーメンの味は実に味気なく、砂を噛むようであった。
 しかしこの店は、雑誌やテレビで紹介されたことがあるらしく、やれうちの店は何の雑誌に載っただの、テレビのラーメン百選に選ばれただのと、店のだんなが自慢げに話かけてきている。
  「へぇー、そうですか」「すごい」「どおりで美味しいはずだ」
 などと適当に相づちを打っていたが、ぼくはもう限界に近づいていた。
 正利と2人きりになりたかった。
 2人きりになって、この1ヶ月半のことを聞いてみたかった。
 どこで何をし、どこで誰と会い、その時々で何を思い、何を感じてきたのか、を。  (■つづく)

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だいじょぶよ・神山眞/第64回 正利の部屋の主?

■月刊「記録」2005年1月号掲載記事

*           *            *

 正利の帰りを車の中で待っていたぼくは、なにげなく近づいた窓のカーテン越しに、誰もいないはずの部屋の中に、小さな明かりがついているのを見つけたのだ。
 咄嗟に電気のメーターをみると動いている。
 中に人がいる!?
 それは、ひょっとして正利か!?
 はやる気持ちを抑えて、ぼくはドアをノックしたのだった。

■わかりやすい顔をした男

 ガチャ、という音とともにドアが開いた。
 ドアノブをつかむ手が隙間からのぞいた。
 太く節くれ立った年季の入ったその手は、明らかに正利のものとは違っていた。
 やはり人違いだったのか? ひょっとして、もう正利はここに住んではいないのか?
「あのう、こちらに里見正利さんは、いらっしゃいますか?」
 おそるおそる聞いてみたが、すぐに返事はない。
 こいつは酒焼けした男たちの出入りするボロアパートに住む住人だ。まともに答えてくれるはずもないか……。
 そう諦めかけた頃、ふいに男の声がした。
「あー、いるよ、今、働きに行ってる」
 無愛想だが、ハッキリした声でドアの向こうの主は返事をした。
「えっ! 本当ですか? 嬉しいなぁ、やっぱりあいつここにいたんですか!」
 とたんにぼくのなかで、何か溶けていくのがわかった。胸のつかえがスッと取れた。いや、つかえどころじゃない。体中、あちこちにつかえていた、溜まっていたモヤモヤとした厚い雲が、太陽の陽射しにかき分けられて、あっという間に消えてしまった、そんな気がした。
「いるけど、あんた誰?」
 いつの間にか、ドアは半分以上開けられ、部屋の主である男が顔を出していた。
 背丈は160㎝くらい、中肉中背よりも少しずんぐりむっくりした感じか。年齢は60歳くらいにはなっているだろうか…。
 いつものぼくなら、このあたりから初対面の相手を知ろうとして、あれこれ詮索を始めるのだが、この男にその必要はなかった。
 職業、暮らし向き、収入から家族構成まで、すべてが手に取るようにわかる男だったからだ。
 おそらく仕事はしていない。家族もいない。昼まで寝て、夜になると安い酒を飲み、酔いが回ると何か月も干していないような布団にくるまり眠る。たまに年金やら日銭が入り、行くところといえば競馬かパチンコ。そういったことが全身に現れている、わかりやすい顔をした男であった。
 しかし一方では、そんな男が正利と寝食を共にしていることに違和感を覚えた。
 こんな男が……正利とどうして……。

■妙にスムーズに進む会話

 だが、ぼくは考えを振り払った。そんなことを考えている場合ではない。正利に会える千載一遇のチャンスを得たのだから。
「突然訪ねてきて申し訳ありません。私、神山と申します。正利くんの施設時代の担当の指導員でした。今、ちょっと前までは、一緒に世田谷のアパートに住んでいました」
「あーあー、あんたか、話は聞いてたよ。あいつを迎えに来たんだろう? 仕事に出ちまってるからさ、よかったら仕事場まで案内してやるよ」
 ぼくは少し拍子抜けした。
 なんだか話がスムーズに進みすぎるのだ。
 普通、この手の話は、もうちょっとややこしくなるはずだった。例えば、この男が金欲しさに難癖をつけてくるとかだ。
 なぜならば、何の目的=いわば見返りもなく、他人が正利みたいな奴を何日も囲っておく理由などないはずだったからだ。
 それなのに、この男には、そういった物欲しそうなところや言いがかりをつけてきそうな気配が、まるで感じられない。
 それどころか「今すぐ案内してやるよ」とまで言うではないか……。
 ぼくは相手のこの一言で、すっかりこの男を信用してしまった。
 名前は、本当かどうかはわからないが、田辺というらしい。
「うわあ、本当にありがとうございます。助かります。では、このあとすぐに正利に会えるんですね?」
 ぼくは急かす口調で男に聞いた。 (■つづく)

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だいじょぶよ・神山眞/第63回 砂利道の奥のボロアパート

■月刊「記録」2004年12月号掲載記事

*          *           *

「ちょっとだけ仕事先に顔を出してくる」と言い残し、正利のお姉さんは、さっさと車から降りていってしまった。
 この調子では、夜までに、本当に戻ってきてくれるかどうかも怪しいものだった。
 実の姉からも心配されない正利は、もしかしたら誰からも必要とされていない存在なのではないか。
 そう思うと、なんとしてでも、ぼくがあいつを待たなければいけない、という義務感のようなものに駆られた。

■背中を丸め、酒やけした男たち

 アパートの見える位置に車を停め、車の中から様子をうかがった。
 雨が降ったりやんだりと、一向に天気ははっきりしない。
 そんな天気が、ぼくの心をいっそう不安定にさせた。 ボロボロの木造アパート。その一階の一番奥が正利が住んでいると思われる部屋だ。
 カーテンは閉まっていて、明かりもついていない。
 どうやら正利は、まだ戻っていないようだ。
 となると、ラーメン屋で働いている時間、ということだろうか。
 ラーメン屋を探してみようか、という考えも一瞬よぎったが、やはり、ここを動くのは得策ではないと判断した。
 何時になろうが、正利が帰ってくるまで、ここで待っていよう。
 それにしても、このアパートは、見れば見るほどボロボロだった。
 雨漏りでもするのではと、思うほど、木材が腐りかけている。だが、改めて周囲を見回してみると、このあたりには、そんなボロアパートが何件もあるのだ。しかも、昼間だというのに、人の出入りがかなり多い。酒やけしたシワシワの顔の中年男たちが行き来している姿が、先ほどから何度か見える。
「あいつら、働いていないのだろうか?」
 アパートの前は舗装していない砂利道だった。砂利の音をさせながら、背中を丸めぎみに歩く男たちの姿を、ぼくは車の中から、ぼんやりと眺めた。

■痛いほどわかる正利の気持ち
 
 1時間が経った。
 もちろん正利は戻って来ない。
 もしかしたら、正利はもうここには住んでいないのではないだろうか?
 不安がかすめた。しかし、すぐにぼくは思い直す。
 いや、いるはずだ。必ずいる。
 なぜならば、ここは正利にお似合いの場所だからだ。 薄汚いアパートも、舗装されていない砂利道も。
 うっとうしい霧雨、車の中にいても足のほうから外気が伝わり、底冷えが上がってくる。
 こんな場所だからこそ、正利はいる。
 こんなところに正利という人間は、なぜか吸い寄せられてしまうのだ。
 家族の笑い声が漏れてくるような家、好もうが好むまいが、そんなところはどこも、正利にはふさわしくないのだ。
 ぼくには、よくそれがわかる。
 そして、このアパートの前にいると、正利がどうして、どのようにして、どんな気持ちで、ここまでたどり着いたのかまでが、わかるような気がした。
 ぼくには、正利の気持ちがわかる。
 理解できる、というのとはワケがちがう。
 今回の家出の件にしたって、たとえまた出会えても、理解を示し、寛容な気持ちで迎え入れるという感じではないのだ。
 でも、わかる。正利のつねに満たされない気持ち、寂しさ、欲求不満、わがまま、それらのものがすべて入り混じった、あいつの混沌とした気持ちが、ぼくには痛いほど感じ取られる。
 満たされない。どこにいても寂しい。誰といても寂しい。何をしても満ちることのない心。そんなものをお互いに持ち合わせていたのが、ぼくと正利ではなかっただろうか。
 車の中でじっとしているのが辛くなり、ぼくはドアを開けて外に出た。
 砂利道の音を立てながら、正利の住んでいるはずの部屋の前まで行ってみる。
 部屋の中を、もう一度カーテン越しにのぞいてみる。 すると……
 小さな明かりがついていた。
 咄嗟に電気のメーターをみると動いている。
 中に人がいる。
 もしかすると、中に人がいる。
 それは、ひょっとして正利?
 はやる気持ちを抑えて、ぼくはドアを叩いた。 (■つづく)

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だいじょぶよ・神山眞/第62回 正利のアパートへ

■月刊「記録」2004年11月号掲載記事

*          *            *

 もう考えることをやめようと思った。
 しかし、考えることをやめようと思えば思うほど、ぼくは過去を振り返ってしまう。
 正利のために……
(なぜこんな生活を、意識してかしなくてかはわからないが、こんなに何年も続けてきてしまったのだろう……)
(それによってぼくは何を得た?)
(得たどころか……)
(正利には逃げられてしまった!)
(正利から連絡はない)
(正利は帰るつもりもない)
(正利は新しい人生を歩もうとしている……)
 気がつけば、ぼくはいつもの堂々巡りに陥っていた。 しかしこんなことは正利との生活が始まる前に考えておくべきことだったのだ。整理がつかない気持ちのまま、車はぼくを乗せ、無情にも目的地に着いた。
 そこでぼくは正利のお姉さんと待ち合わせをしていたのだ。正利探しのためにだ。
 しばらくすると、ハッチバックの少し小さめの車に乗ってお姉さんは現れた。

■なぜぼくのほうが謝ってしまうのか

 僕の車の後部座席にお姉さんには乗ってもらった。
 ミラー越しに映るお姉さんの服装は人探しには似つかわしくない少し派手な感じのものだった。
 髪型もしっかり整え、化粧もしっかりしている。悩み疲れ、着るものや髪型をまるで気にすることがなくなってしまった僕とは大違いであった。
 挨拶もそこそこにぼくは、正利が住んでいると思われるアパートへ向けて車を発進させた。すると途中でお姉さんはコンビニに寄ってほしいという。適当に近くのコンビニを探し、路上駐車してお姉さんが買い物しているのを待つ。すぐに戻ってきたお姉さんは車に乗り込むと、さっそく買い物袋からごそごそとお菓子やジュースを取り出した。
 そのマイペースぶりは、羨ましくも腹立たしくもあった。お姉さんはいつも礼儀正しくぼくに接してくれる。しかし、いつもぼくはかすかな苛立ちのようなものを彼女に感じてしまう。それにいつも正利に何かが起こり、彼女に会うたびにぼくは言ってしまうのだ。
「いやー、すいません。こんなことになってしまって、本当にすみません」と。
 でも考えてみればおかしいじゃないか。なぜぼくが謝らなければならないのだ? お姉さんから養育費をもらっているわけでもない。お姉さんに「いつも正利の面倒をみてくださって本当にありがとうございます」と礼を言われたこともない。菓子折の一つとしてもらったためしもないのだ。
 それなのに、何も問題が起きずにうまくいっているときには、ただ連絡がなくなるだけで、何か事が起きるたびに、お姉さんのほうがいかにも迷惑を被ったという立場で現れる。
 まったくもってばかばかしい。

■正利とぼくは同じものかもしれない

 ぼくにすすめもせずに隣でむしゃむしゃとお菓子を食べ続けるお姉さん。ぼくは半分呆れ、半分は気を利かせ、半分は皮肉で言った。
「そうですよねぇ。今日はいったい何時に正利が帰ってくるかわからないですもんねぇ。下手したら夜中ってこともあり得ますからね。そういうお菓子みたいなものって、結構、必需品かもしれませんね」
 するとお姉さんはきょとんとした顔で、
「あっ、そうなんですかぁ?」
 と聞き返してきた。
「そりゃあそうですよ。だって、本当にラーメン屋で働いているとしたら、帰ってくるのは深夜になったって、ちっとも不思議じゃありませんよ」
「そうですよね…。そうしたら私、ちょっとだけ仕事に出てきてもいいですか?」
「はぁー!?」
 驚いた。そして呆れた。1ヶ月以上も行方知れずで、捜索願さえ出していた弟にまさに会えるというそのときに、このお姉さんときたら……。
 やっぱり頼りになんかしてはいけない人なんだ。この姉は正利のことを心配などしていないのかもしれない。実の姉からも心配されない正利は、もしかしたら誰からも必要とされていない存在なのではないだろうか。
 そう思った。するとなんだか、ぼく自身も同じようなものなのでは? という、とてつもない不安に突然、襲われた。
 ぼくも正利もひどく孤独で宙ぶらりんな存在で、現実からひどく遠ざかってしまった存在なのではないか。
「でしたら、いいですよ。仕事に行ってきてください。正利が帰ってくるまで、ぼくがずっといますから」
 呟くように固い声で答えている自分がいた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第61回 決定的な事実

■月刊「記録」2004年10月号掲載記事

*           *           *

■住民票を移したいあいつ

 今後、日焼けサロンをどうするか。
 改めてこの問題に立ち向かい、ぼくは正利との生活を思い返していた。
 ――あいつがタオルを畳み、あいつがタオルを運んでくる。一日中へとへとに働き、疲れて部屋に戻るとあいつがゲームをしている……。
 それらの情景を抜きにして日焼けサロンを続けることはぼくには無理であり、無意味であった。店を続けるべきか、閉めるべきか、あいつの不在は店の存続に直接かかわることなのだ。
 こうして店を続けるべきか閉めるべきかを考え始めた矢先、区役所から電話が入った。
  「そちらにお住まいの里美さんから、住民票を転出先に移動したいとの旨の手紙が届いておりますが、申し訳ありませんが、転出先の住所がはっきりと読み取れなくて、お送りすることができません。里美さんご本人に、直接こちらにおいでいただきたいとお伝え願いたいのですが」
 正利はやはりいたのだ。
 当たり前だが、正利がこの世のどこかで元気に暮らしているという久しぶりの実感にぼくはうち震えた。
 しかし、今まで一緒に住んでいたこの場所から離れようとしてもいるのだった。
 なぜ? ぼくの頭の中はクエスチョンマークで一杯になった。
 なぜだ。やはり嫌だったのだろうか。ぼくとの共同生活は耐え難いものだったのか?
 いや、そんなことはもはやどうでもよかった。会えるのだ。これであいつが見つかる。あいつにまた会えるのだ。あいつの気持ちは会ってから確認すればいいだけなのだから。
 俄然元気が出たぼくは、区役所から聞いた消印にあった住所のメモを握りしめて立ち上がった。
 車に乗ると不安がよぎった。消印はやはり、先日訪れたあの町のものだった。
 あそこに確かに正利はいたのだ。だが、いざ会えるとなると、会えるという喜びよりこれからのことを考えてしまう。
 正利について、現在わかっていることは、
1.ラーメン屋で働いている
2.ラーメン屋の近くのアパートに住んでいる
3.どうやら住民票を移したがっている
 という3点だった。
 どうしてラーメン屋なのか、とか、どうやってアパートを借りることができたのだろう? とか、不思議なことはたくさんあったが、それらはなぜかあまり気にならなかった。
 それよりも正利が住民票を移したがっているという事実を突きつけられたことが、ぼくを不安にさせていた。 正利は本格的に新しい場所に腰を落ち着けようとしているのだろうか。ぼくのことを思い出して、ぼくのことが懐かしくなり、ぼくの元へ戻ってきたいとは思わないのだろうか。
 そんなことばかりが頭の中をグルグルと回り、正利に会いたいと思う反面、会ってしまえば決定的な事実を突きつけられるような気がして怖くさえなってくる。
 だが、こんな日に限って車は、渋滞にもはまらずスイスイと確実に正利のいる場所へと近づいていく。
 それなのに、まるでぼくの頭は整理がつかずにいる。 会いたい。確かにぼくは正利に会いたい。
 しかし、正利はそうじゃない。
 だってぼくから離れようとしているじゃないか。

■すべてが正利のためだった

 考えれば考えるほど、この事実は重大なことのように思われてきた。
 ぼくから逃げていった人間に会ってどうするというのだ。
 ぼくから逃げていった人間に会って何を言えばいいのだ。
 だいたいにおいて振り返ってみると、ぼくは正利のためにばかり動いてきた。
 ぼくは正利のために施設を辞めた(=安定した職を失ったのだ)
 正利のために日焼けサロンを作った(=すべての資財を注ぎ込んで借金ができたのだ)
 そして正利のために朝から晩まで働きづめに働いた(=まさに寝る暇もないほどに!)
 正利といたくて、いつでもどこにでも一緒にいた。
 気がつけば何もかもが「正利のため」だった。
 もちろんそんなことをいちいち考えながら生活してきたわけではない。こうやって車を走らせ、正利に一歩一歩近づいている状況が、ぼくに正利の存在について改めて考えさせる機会を与え、単にぼくを感傷的で内省的にさせているだけかもしれないのだが。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第60回 あいつがいなくちゃ始まらない

■月刊「記録」2004年9月号掲載記事

*          *           *

  「あの…、この子を知りませんか?」
 見知らぬ町の一杯飲み屋で、テレビの競馬中継を前に、昼間から赤ら顔で座っていた男におずおずと尋ねるてみると、誰も彼もがみんな暇を持て余していたのか、いつのまにかぼくの周りには人垣ができていた。
 差し出した正利の写真をのぞき込み、なんだかみんながずいぶん親切にしてくれる。ためつすがめつ写真を眺めては、この子がいったいどうしたんだの、友達なのかだのと聞いてくる。
  「あぁ、見かけたねぇ、あそこの簡易宿に泊まってるよ」と、そのうちの一人が言い出した。

■北海道のおじさんと一緒に

 それはこの店の通りと同じ通り沿いにある、一軒の簡易宿泊所だった。
 取り急ぎ、宿の名前を教えてもらい、飲み屋を飛び出してはみたものの、歩き始めて改めて、通り沿いに並ぶ簡易宿泊所の多さに驚かされた。
 どの宿も1泊2,000円程度の値段で実に安い。外観からしてボロアパート風なので、まぁ、そのくらいが相場だろうとは思ったが、いったいどんな人たちが泊まっているのかと考えると、ぼくには、あまり想像ができなかった。
 教えられた宿に着き、フロントを探すが、当然ホテルのようなフロントはなく、玄関に小さな窓があるだけだ。窓をトントンと叩くと、テレビを見ていた60歳くらいのおばあさんが、振り向きざまに小窓を開けた。
  「あのう、この宿に、この子が泊まっているらしいんですが…」
 ぼくが簡単に事情を説明して写真を見せると、おばあさんは一瞥するなり、迷いもなくきっぱりとこう言った。
  「数日前までは泊まってたよ。北海道から来たおじさんと一緒にね」
 ぼくは混乱した。
 北海道? おじさん? それらはいったい誰だろう? あいつには身内は「お姉ちゃん」しかいなかったはずだ。何かやっかいなことにでも巻き込まれていなければいいが…。
 めまぐるしく考えを巡らすいっぽうで、それでも正利の生存が確認できたことが、ぼくには嬉しかった。
 大袈裟かもしれないが、ぼくはこのとき、心の中でこう叫んでいた。
  「生きている! あいつは生きているんだ!」
            *
  「なんだかねぇ、ラーメン屋で働いてるらしいわよ」
 と、おばあさんは言った。
 そうか、あいつは今、ラーメン屋で働いているのか! それは本当によかったと、ぼくは心の底から思った。 だが、それは正利のことを思っての喜びではなかった。単に自分が会いたいと思っている、あいつとの接点ができたことへの喜びだった。
 よかった! 会える! これでぼくはあいつに会える! 待ってろよ正利、もうすぐ行くからな! と、ぼくは思っていた。
 そうして、ぼくは近くのラーメン屋を片っ端から当たってみることにした。

■カップ焼きそばさえ作れないのに

 それにしても…。ラーメン屋。
 ラーメン屋だって?
 冷静に考えてみると驚くことだった。
 ぼくにはどうにもこうにも、ラーメン屋で働く正利が想像できないのだった。
 カップ麺の焼きそばを作るときでさえ、お湯を流すことを理解できず、いつでもベチャベチャのまま食べていたあの正利が? なんでラーメン屋?
 やはり、他人の噂などアテにならないのではないかと、ぼくは思った。しかし、他に探す方法もなかった。そもそもたった1人で車を流し、中国系住民が多いこの町で、ラーメン屋を全部まわることなど、端から無理なのではないか!?
 とりあえず一度、家に戻ろうとぼくは決意した。
 こうなったら時間をかけるしかないのだとぼくは考えることにした。
 日焼けサロンはこのところ、従業員に任せっぱなしになっていた。何となく最近は客足も落ちてきているという、気になる報告も携帯電話に受けている。
 とはいえ、気にしても仕方がなかった。もうここまで来たら、たとえ店が潰れてしまったとしても、あいつを探し出すことのほうを優先したかった。店のスタッフには、全員にその旨を伝えておいた。
  「思うんだけどさ、その店って、あいつのために作ったようなもんじゃない? だからあいつがいないんだったら、店なんかあっても意味ないと思えるんだよねぇ」 雇われている者の不安を煽るような、あまりにもヒドイ愚痴ではあったが、そのとき、ぼくは本気で言っていた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第59回 あいつがいなくちゃ世界は始まらない

■月刊「記録」2004年8月号掲載記事

*            *            *

 なぜこんなにも、ぼくは正利を追い求めているのだろうか。
 正利がいなくなってから、必然的に1人でいることが多くなったぼくは、そんなことばかり考えるようになった。

■失ったものはもっと大きなもの

 嘘はつく、約束は守らない、人に合わせない、仕事が長続きしない、金は盗む、怠け者…。何一つとしていいところなんて、まるでない。それなのに、ぼくはあいつのことばかり考えてしまうのだ。
 あいつを探し出さないかぎり世界は始まらない。
 いつの間にかぼくは、そのくらい極端なことを考えるようになっていた。同時に正利以外の事柄に対し、ぼくの関心は急速に薄れていった。
 何もかもに嫌気がさし、大学時代の友達、前の職場の同僚・友達、親戚、誰とも連絡を取らなくなった。連絡を取らないどころか、誘いがあっても避けるようにさえなった。
 なぜなら、ほとんど誰もが「家族」というものを構成していたからだ。そんな彼らとのつき合いは、もともとぼくにとっては苦痛でしかなかった。
 彼らは誰もが見事なまでに父親の役割を果たしていたり、夫の役割を果たしていたり、妻の役割を果たしていたりした。
 それに引き換え、ぼくは何の役割も果たせぬまま、ただ、ただ年をとってしまった人間だった。自由気ままでいいや、なんて思って四畳半の狭く汚い部屋で正利とプロレスごっこをしていることに満足していた。
 そしてある日、友達の家に行ってみると、そいつの家には庭がついていて、部屋は何個もあり、おまけに奥さんや子供までいた。昔と同じようにプロレスの話なんかして楽しそうにしてみたけれど、きっとそう楽しくはなかったはずだ。“お前はいつまでもお気楽でいいよな”なんて思われていたかもしれない。ぼくのほうだって本当は心から楽しめはしなかった。
 そうして、ぼくは足りない何かを埋めるようにして、正利に没頭していったのだ。
 だから正利を失ったとき、ふと我に返ると、失ったものは正利ではなく、別のもっと大きなものだという気がした。
 いまさら、もう振り出しには戻れない、でもみんなと同じスタートラインには、到底、到達できそうにもない……。

■万策尽きたかに思われた、そのとき

 そんな絶望的なまでの世間との厚い壁に、ぼくは気づきかけていたのだ。
 正利が帰ってきたらそれはそれで最高に嬉しいけれど、また元の生活に戻ってしまっていいのだろうか。友達や昔の同僚たちが、妻を娶り、家を建て、子供を育てているときに、ぼくはふたたび元の生活に戻ってしまっていいのだろうか。
 正利が戻れば、ぼくも必ず昔の生活に戻ってしまうことなど一目瞭然だった。
 だから、これでいいのか、探し出すことは決して自分のプラスにはならないのではないか、という葛藤でぼくの心のなかは一杯だった。
 しかしそれでもぼくは、やはり正利を探し始めてしまうのだった。お姉さんに懇願し、一緒に警察まで来てもらい、捜索願いを出した。身内の者が来たことによって、ようやく捜索願いを出すことには成功したが、事件性がないということで、警察は積極的に動いてはくれなさそうだった。
 もはや万策尽きたかのように思われた。
 あいつがいなくなってから、はや1ヶ月。結局、ぼくは何の手がかりも見つけ出すことができなかったのだ。 だが、ぼくと正利は、まだ、ぎりぎりのところでつながっていたのだった。
 これで終わりにも思えた正利とのつながりは、細い一本の糸を頼りに結ばれていたのだった。
 ある日、施設にいた頃の教え子の1人から、「正利を見た」という情報が入ってきたのだ。
 なんでも正利は荷物を抱えて、中年の男と一緒に街を歩いていたという。
 そこで、ぼくはさっそく正利の写真を探し出し、ポケットに忍ばせて、正利が中年男と歩いていたという街に出かけていったのだった。
 そこは、昼間だというのに立ち飲み屋で酒をあおり、赤ら顔でフラフラと歩く人がたくさんいる街だった。
 一杯飲み屋をのぞくと必ずテレビがあり、競馬中継が流れている。テレビには人が群がり、1レースごとに一喜一憂し、昼間だというのに誰一人として働いている気配はない。
 こんな町に本当にあいつはいるのか?
 少し不安になったが、勇気を出して人の輪に入り、ぼくは写真をおそるおそる取り出した。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/大政翼賛会がつくりだすニッポン強権国家

■月刊「記録」2003年7月号掲載記事

*            *            *

 米英軍がイラクに侵攻から3ヶ月がすぎた。すでに彼らの残虐行為は、忘れさられようとしている。米英軍はあたかも通り魔のようにイラク全土を襲撃、破壊、殺戮し、いまだに居座っている。
 あの攻撃によって死傷した兵士や市民がどれほどだったか、米英軍は公表していない。AP通信によれば、市民だけで3240人。「イラク・ボディー・カウント」によれば、最高で7200人となっている。
 米英軍の武力攻撃は、大量破壊兵器の廃棄が目的であり、それが理由で大量のイラク兵や一般市民を殺害したのである。ところが大量破壊兵器が発見されていない。としたなら、米英の犯罪性は、厳しく問わなければならない。彼らの行為は、利権のための人殺しでしかないからだ。
 まして国連安保理の承認も受けず、独断と偏見で強行した侵略である。指導者のブッシュとブレアは戦犯として裁かれるべきだ。米英が自国をイラクとちがう民主主義国家だといい張るなら、国内の議会によって厳しく批判されるべきであろう。
 これは米英国だけではない。日本の問題でもある。小泉純一郎首相は、イラクの大量破壊兵器の危険性をさかんに喧伝し、あの侵略戦争に荷担した。大量破壊兵器がイラク国内にあるか疑問視されていたにもかかわらず、国際的に孤立しているブッシュの忠実なシモベとして、おベンチャラをいいつづけて、その責任は万死に値する。日本の国会はその責任を追求しなければならない。
 ところがイラク攻撃の余勢をかって、与野党は有事関連三法を成立させた。信じがたい蛮行である。これは先月号でも批判したとおり、国会が大政翼賛会化したことをしめしている。憲法を無視して、軍国化のための法律に、90%以上の国会議員が賛成したのだから、すでに日本の議会制民主主義が死んでいるといっても過言ではない。
 いまさらいうまでもなく、日本国憲法は武力による国際紛争の解決はしないと表明し、その思想を世界に広めるようとしている法律である。また憲法は、国民が守るべき法の総元締めであり、憲法99条には天皇および国務大臣、国会議員、裁判官や公務員などが、「憲法を尊重し擁護する義務を負う」と定められている。
 有事関連三法は戦争の準備をするための法律であり、平和憲法である日本国憲法とは相容れない。つまり有事関連三法の成立は、憲法をあきらかに否定している。この国会決議に賛成した議員は、政治家としての権利と義務を放棄したのである。ミサイルへの燃料補給を理由に他国を攻撃できる法律が防衛のためであるはずがない。国会審議は黒を白といいくるめる古典的な三百代言を繰り返していたにすぎない。
「政権担当能力」をしめすため、という野望によって、民主党は賛成した。総理の座をねらっている菅直人代表は、有事法制への批判によって、アメリカの機嫌を損ねることを恐れたようだ。菅の欲望が、国民を危険な状況に追い込んだともいえる。

■どこにある!? イラクの「非戦闘地域」

 与党が成立を狙っている法律はまだある。イラク再建という名目で自衛隊を海外派兵するイラク新法案だ。1992年、国連平和維持活動(PKO)協力法で自衛隊の海外派兵に道筋がつけられ、2001年にはテロ特別措置法により戦時における自衛隊の海外出兵が合法化された。そして2003年、こんどの法律は戦地での武器弾薬や米英兵の陸上輸送まで想定している。
 自衛隊が従事するのは「非戦闘地域」に限るなどと、与党はいう。しかし米英軍にたいするテロ攻撃は、いまだつづいている。イラク国内全土が戦争状態にあることはいうまでもない。国内全域に反米英の武装勢力が潜むイラク国内で、どうやれば「非戦闘地域」を確定できるというのか。ゲリラ活動がおこなわれている「非戦闘地域」で、武器や兵士を運ぶのは、軍事行動そのものである。
 また派遣された自衛隊が攻撃される事態となれば、「自衛」という名の「抗戦」状態にはいるのは想像にかたくない。これだけ軍事作戦と一体化した任務を、戦争行為ではないというのは、夜中、他人の家に忍び込んでも、泥棒する気はなかったと言い訳するようなものだ。
 またテロ特別措置法と同様に、時限立法だから大丈夫だという議論もあるようだがとんでもない。時期が限定されているから、あるいは数年後に見直すからという理由で、これもでも国内の歯止めは次々と突破されてきた。成田空港の二期工事としての「暫定滑走路」は、ワールドカップ開催のためにつくられた。もちろんいまでも立派な「暫定滑走路」が稼働しつづけている。
 通常では認められない法律を暫定的につくりあげ、それを突破口として利用し、さらなる悪法を積みあげていく。この姑息なやり方は、国民を愚民化する悪どい政治手法でもある。
 このまま国会が進めば、有事三法の成立、テロ特別措置法の延長、イラク新法の成立と、戦争状態に大きく踏みだした、歴史的な国会となるだろう。小泉内閣の犯罪性が、将来必ず問われることになる。
 こうした法律の成立が新聞紙上を賑わす一方で、たいした審議すらなく成立したのが、心神喪失者処遇法である。過去に他害行為をおこなった心神喪失者を、精神科医と裁判官の判断で国立病院に強制隔離できる、おそるべき法律の誕生である。
 本来、医療行為であるはずの心神喪失者の入院を、治安維持に使うことは、これまでもおこなわれてきた。沖縄県に天皇が訪問したとき、地元の精神障害者が強制入院させられたことがあったほどだ。しかし治安対策や治安維持という名目で、いわば予防拘束として、一生涯、人を強制隔離できる法律などが許されるはずがない。
 おなざりの論議、そして強行採決。人は誰もが自由に生きる権利をもっている。国家に都合が悪いからと、簡単に強制収容、隔離することなど認められない。

■成立寸前だったクビ切り法

 また労働基準法の改悪も、与党と民主党の合意で成立した。改悪の背景を少し説明しておこう。
 これまでの労基法には、解雇権がなかった。たとえば無断欠席があまりにも激しく、会社に著しい損害をかけたなど、誰がみても解雇が当然というケースしか、解雇は認められていなかった。それ以外の解雇は、解雇権の乱用として規制されてきた。もちろん労働組合活動による解雇は、不当解雇行為として労組法によって規制されている。
 しかし解雇が規制されていると、簡単には企業側のリストラが進まない。いじめ抜いて自主退社に追い込むなどの方法で、企業はリストラをおこなっているのだが、この状況を強化したい自民党と財界が、労基法の改悪を狙っていた。
 当初、厚生労働省がしめした労働基準法改悪案の法案要綱には、2つの大きな問題があった。1つは、労基法に「解雇できる」との条項を盛り込んだがこと。もう1つは、不当解雇の対策として金銭解決を法律に明記したことである。「解雇できる」と法律に定められれば、立場の弱い労働者は正当な理由もなく職を失う危険性が高くなる。また金銭解決が認められれば、たとえ裁判所によって解雇無効の判決がでても、再雇用されることなくカネでの解決となってしまう。日本の裁判状況をみれば、高い補償金など期待できないことはあきらかだ。どんどん首を切り、あとからゆっくり補償金の金額を交渉できるようになれば、解雇は非常にやりやすくなる。
 幸いなことに、この2つの条項は、今回の改悪では削除された。しかしギリギリまで与党が粘り、あともう少しで「改悪案」に条項が盛り込まれていたことは、ぜひ知っておいてもらいたい。雇用を危うくする法律が、この不景気に成立直前だったのである。
 いわゆる「解雇ルール」が法律案に盛り込まれなかったからといって、改悪案に問題がないわけではない。
 最大の問題は、有機労働契約期間上限が、現行の1年から3年に延長されたことだ。これまで正社員ではない不安定な雇用は、1年ごとに更新しなけれならなかった。このような変則的な雇用の長期化を、労基法は原則的に認めていなかったのである。そのため、なるべく臨時雇用の期間を短くするよう法律が企業にたいする圧力にもなっていたのである。
 しかし今回の改悪により、臨時雇用の長期化はますます進むことになった。臨時雇用としての期間が長くなればなるほど、他社で正社員になれる可能性も低くなる。また仕事を覚え、自信がつきはじめた3年目ともなれば、労働者本人も会社を辞めにくいだろう。つまりこの改正は、臨時雇用という身分のまま働きつづける労働者を増やそうとするものなのである。

■犯罪者と接触したら、即逮捕

 今国会で審議される危険な法案の1つに、共謀罪がある。共謀罪とは、犯罪実行に着手していなくても、犯罪の打ち合わせをしただけで罰することができる法律だ。 この法律の制定が準備されていると聞き、わたしは1910年に起こった大逆事件を思いだした。この事件は、社会主義者だった宮下太吉ら4人が「爆発物取締罰則違反」で逮捕されたあと、犯人と強いつながりがあったとの理由で、幸徳秋水・大石誠之助・管野スガら12人もの社会主義者や無政府主義者を死刑にしたものだ。なりふりかまわず思想弾圧した、日本史上に残る汚点である。
「共謀」という名でこのような事態が想定できる法律が成立するともなれば、市民は思想弾圧に怯えることになる。犯罪者と交流があっただけで逮捕されるのなら、犯罪者の範囲は無限に広がる。
 このように次々と成立させてきている悪法によって、日本は強権国家へ急ピッチですすんでいる。
 有事法制は戦争時における私権の制限が特徴の1つだった。戦争に協力できない「国民」は罰する、という強権。それは国家総動員法の復活ともいえる。
 テロ特別措置法やイラク新法案は、平和憲法をないがしろにして軍事国家に歩を進めようとする悪報だ。心神喪失者処遇法や共謀罪盗聴法は、警察などの国家権力を増大させ、治安上問題だと政府が感じたらすぐさま監禁し、人権を排除できる強権といえる。
 そして労基法の改悪は、これまで政府の暴走を抑える労働運動の壊滅させる強権である。
 これまでもたびたび触れているとおり、こうした強権を牽制すべきメディアは、メディア規制3法などによって、手足を徐々に縛られはじめている。そして、さらに国民総背番号制など、コンピュータによる人間の管理と支配も進んでいるのである。
 うかうかしている間に、国民は政府に反対意見を述べることさえできないように、監視され、規制されてしまう。逆接的な意見に聞こえるかもしれないが、もし自民党の一党支配であったならば、ここまで強権的な法律が成立することはなかった。
 公明党や保守党、また防衛政策などでは自由党や民主党などの協力を得て、みんなで法律を作り上げたという自民党の言い訳が、より危ない法律を通過させている。大政翼賛国会の怖さである。
 現在は、共産党と社民党という一部の「非国民的」な政党だけが「強権法」に反対している。しかし、事態が進めば、国策に反対する少数政党のそのもの弾圧も可能になる。
 日本はいよいよ抜き差しならないところにきてしまった。国会で審議がおこなわれるたびに、国民の権利がひとつずつ消されていく。いまなにか運動を起こさなければ、戦時中の暗黒の国家にもどってしまう。その不安を、大きな声にだして抵抗していくしかない。 (■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第58回 正利のいない日々

■月刊「記録」2004年7月号掲載記事

*          *            *

 正利がいなくなってから半月が経った。
 夏の気配はすっかり影を潜め、いかにも秋らしい季節になっていた。
 それなのに正利に関することは何一つ進展していない。しかしぼくにはあきらめることが、どうしてもできなかった。
 それが、純粋に正利に会いたいからなのか、それとも正利に対する申し訳なさからきているのかわからなかったが、とにかくぼくの心は、あいつがいなくなってから不安という厚い雲に覆われたままだ。
 朝、目が覚めると心はもう不安に曇っている。
 飯を食べていても味もわからず喉もうまく通らない。店に出かけるために自転車にまたがっても、力が抜けてしまってうまく漕ぐことができない。テレビを見ていても楽しい番組など一つもない。自信もなく、不安なままで床に就く毎日であった。
 ぼくは正利を失い、不安を手に入れたのだ。
 どうやらそれだけは、間違いなかった。

■不安な気持ちに耐えかねて

 秋だというのに、真夏を思わせる陽射しが照りつけていた。
 ぼくはとうとう警察署へ行くことにした。捜索願を申請するためにである。
 不安な気持ちでいることに耐えかねたのだ。重く苦しい毎日から早く逃れたかった。暑い太陽が僕の心の不安をジリジリと焦がし、近所であるはずの警察署までの道のりが、途方もなく遠く感じられた。
 警察署の中に入り、受け付けにいた係りに事情を説明した。必死になって、何が何でも正利を探し出したいことを熱心に伝えた。
 だが、ぼくが懸命に訴えれば訴えるほど、なぜか彼女は気乗りしない様子で、ただうなずくだけであった。
 こんなに困っている人間を前にして、なぜこの人はこんなにも冷たい反応しか返してくれないのだろう。「大変ですね」も「お気持ちはよくわかります」も「よし、何とかしましょう」もなかった。ぼくはだんだんイライラしてきた。
 それでもひと通り話し終わり、ぼくは藁にもすがる思いで彼女の答えを待った。すると、ふんふんと聞いていた彼女は、こう言ったのだ。
「簡単に言いますと、神山さんが捜索願を出すことはできません」

■こんなに必死に訴えているのに

 意外な答えにぼくは愕然とした。
 こんなに困っているのになぜ。どうして捜索願いが出せないのだろう。
「なぜなんですか」
「捜索願は、ご家族の方から以外のものは受け付けられません」
 表情一つ変えずに彼女は言った。
 そうかもしれない。たしかに親族以外が捜索願を出すことは難しいと聞いたことがある。
 だけど……。
「だからさっきから言ってるじゃないですか。たしかに本当の家族ではありませんよ。だけど家族みたいに暮らしてきたんです。正利の親代わりとして暮らしてきたんですよ。あれほど説明したじゃないですか。ずっと家族同然なんだって」
 言っているうちに、思わず声が大きくなった。怒気もこもった。
 しかしさすがに警察署である。すごむ人間の相手など手慣れたものなのかもしれない。ぼくの剣幕にも彼女は顔色一つ変えずに冷たく言い放った。
「だめなんですよ。そうやって人を探し出して、金を取り立てるとか、そういう場合もありますから。そういうことに警察は加担しないんです」
 なるほど。それはそうだろう。だけどぼくは正利から金を取り立てようとしているわけじゃないのだ。
「だから、ぼくは金のことで探しているんじゃないんです。心配なんですよ。ただただ心配なんですよ」
「だめです。そもそもお探しの方は、殴ったら出て行ってしまったんですよね。そういう虐待や暴力を受けて出て行ったケースでは、探される方が探されることを望んでいないことがほとんどなんです」
 ピシャリとはねつけるように放たれたこの一言に、ぼくは絶句した。
 打ちのめされたショックで言葉を失った。
 そうか、そうかもしれなかった。考えてもみなかった。ぼくが正利を探し出して会いたいと思っていても、あいつのほうは違う気持ちかもしれないのだ。
 それどころか、もしかしたら、もう顔も見たくないと思っているかもしれないのだ。
 考えてもみなかった想像に行き当たり、不安と絶望が入り混じった混乱のなかで、ぼくは呆然と立ちつくしていた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第57回 正利のいない生活

■月刊「記録」2004年6月号掲載記事

*           *           *

 ゴミにまみれた部屋の中央に書き置きを残し、正利が出ていってから1週間が過ぎた。
 毎朝、毎夜、ぼくは思いつくかぎりの場所を走り回り、正利を捜し回った。
  「今日こそ見つけてやる」と毎回、決意して出発するのだが、結局見つけることができないまま、ぼくはゴミだらけの部屋に戻ってきた。諦めることも忘れることもできずに、喪失感だけが胸に刻まれていった。
 10日も経つと、ついに捜す場所も尽きてしまった。しかしぼくは執拗に捜索をやめなかった。あいつを探し出さないことには次に進めない。そう思っていた。
 そんなぼくの気持ちを逆撫でするような出来事もあった。あいつを捜して、あいつのお姉さんのところへ電話をかけたときのことだ。
 お姉さんはこう言った。
「もうハタチも過ぎてるんだから、どこへ行っても正利の自由でしょ」
 何という温度差だ。ぼくはひどく失望した。もちろん一緒に心配してもらおうとは思ってもいなかったが……。
 周りの人間たちも最初は心配してくれていたが、「もう諦めろ」と言いはじめた。
  「あいつも20歳を越えて自分の意志で生きてみたくなったんだよ」
  「こうして自分の意志で10日も神山君のところを離れて暮らしているなんて、あいつも人間らしくなったじゃないか」等々……。
 しかしぼくにとって、どんな意見もあいつに関するコメントはつらかった。ぼくは正利に執着し固執していた。
 諦めろと言われようとも、忘れろと言われようとも、ぼくはムキになって捜し続け、あいつの不在を周囲にアピールし続けた。周りの人間たちがあいつを忘れないでいてくれるうちは、あいつが帰ってくる希望を持ち続けられそうな気がしたからだ。
 実際のところ、あいつを待ち続け、捜し続けている間じゅう、ぼくは大失恋したかのような有り様だった。
 あいつを待っている間、一番つらかったのは、何をしていても楽しくないことだった。笑っている人、楽しそうに話をしている人をみると、腹こそ立たないがつらかった。自分も笑ってみたり、話の輪に加わってみたりするのだが、よけいに寂しさがつのってしまう。
 振り返ってみれば、正利との日々はすべてが楽しかった。クソ暑いアパートの倉庫の中だって、睡眠不足の毎日だって、貧乏だって、家族がいなくたって、思えばあいつさえいれば、すべてのことがぼくには楽しかった。 喧嘩も殴り合いも楽しかったし、あいつの顔を見れば何より気持ちが落ち着いた。どこに行くにもあいつはついてきて、そのたびに「うざったいなぁ」「1人になりてぇよ」とあいつに愚痴ったものだが、あいつがいなくなってみれば、どこへ行ったって、何をしたって、誰と一緒にいたって全然、楽しくなんかなかった。
  「心がスカスカするよ、正利」
 と、時折、ぼくは呟いた。

■原因不明の微熱に不眠

 あいつを捜している間もう一つつらいことがあった。それは「あいつを忘れよう」と無理矢理、努力することだった。
 正利に執着している反面、ぼくは「あいつを忘れさえすればこの喪失感から逃れられる」ともわかっていた。 だからぼくも自分に「あいつはあいつ。ぼくはぼく。このことをきっかけに別々の人生を歩んでいくんだ」と言い聞かせ、思い込もうとたびたび努力はしていたのだ。
 しかし、朝、自転車をこぎながら仕事場が見えてくると、今日こそあいつがいそうな気がしてくる。膝を抱えて、こきたない格好で階段にポツリと座っているような気がして仕方ないのだ。
 仕事中でも、店の自動ドアが開くたびに正利が入ってきそうな気がして振り向いてしまう。仕事が終わった帰り道では、公園の横を通るたびに、どうしても正利がうずくまっていそうな気がして横目でちらっと見てしまう。
 しかし結果はいつでもどこにもいなかった。いつまで待ってもあいつが現れることはなかった。部屋に帰り、暗く沈んだ気持ちでぼくはいつもため息をついた。
  「忘れなきゃ、忘れなきゃ」
 このままではいけない。そんな思いを感じはじめた頃から原因不明の微熱が出はじめた。体がだるく、よく眠れなくなった。このままでは本当に自分はダメになってしまう。ぼくは焦った。
 正利を失ったという喪失感を解消する方法は、今になって冷静に考えれば、他にもいろいろあったと思うのだが、当時は遮二無二あいつを探し出すことしか思いつかなかった。だからぼくは捜し続け、同時に忘れようと足掻き続けた。
 夜、風で窓ガラスがガタガタと音を立てるたびに、ぼくはハッとして振り返った。
 やはり、帰ってきてほしかった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第56回 永久の別れの予感

■月刊「記録」2004年5月号掲載記事

*          *           *

  「神山さんも大変ですね」
 正利の盗み癖を怒り、いましがた怒鳴りつけてきたと言ったぼくに向けられたスタッフのそんな一言は、ぼくを飛び上がりたいほど喜ばせた。ぼくは内心異様なほど興奮し、感激した。
 それでも、表面上はやはりいつも通りに、
  「ありがとう。もうあがっていいよ。あとはぼくに任せて」
 と言って、スタッフには帰ってもらった。
 一人になると、最近、曖昧になっていたぼくと正利との主従関係が久々にはっきりしたことにぼくはさらなる充実感を覚えた。
 そしてたとえ暴力であっても、あいつを屈服させたという事実が、ぼくの征服欲を満足させた。

■すべてを許せる思いに

 気持ちが良かった。こんなにすっきりした気分は久しぶりだった。
 これであいつとぼくは昔のような関係、つまり先生と生徒の関係に戻れたはずだ。ぼくを苦しめたあいつとぼくの濃密な主導権争いとはしばらくおさらばだ。そう思った。
 悪いことをしたら、そう、怒って怒って殴ればいい。なんて単純なんだろう。うちのスタッフだって労ってくれていたじゃないか。それでいいんだ。何を遠慮する必要があるのだ。あいつはぼくがいなければ、とっくに野垂れ死んでしまったかもしれない人間なのだから。
 だとすれば、ぼくはあいつから感謝こそされ、決して不平不満を言われる筋合いはないのだ。日焼けサロンの営業中はもとより、営業時間が終わってからも、ぼくはまだそんなことを考えながら自転車をこいでいた。
 そして、まもなく、ぼくと正利のねぐらであるはずの倉庫に着くというときになって、ぼくはとてつもない空腹感に襲われた。そういえば興奮のあまり今夜は飯も食ってはいなかったことを思い出した。
 近くのコンビニまで引き返し、弁当を三つ買った。二つはぼくの分で、もう一つはあいつの分だ。もし、あいつが二つ食べたいと言ったら、あいつに二つあげてもいい、そう思った。
 いまや何もかもを許せる気がした。あいつがお金を盗んだこと、最近ぼくに対して態度がでかいこと、やたらと絡んでくること。ぼくは最高に気分が良く、すべてがどうでもいいことのように思えていた。闘い終わってノーサイド、ぼくは都合良くそんなふうに思っていた。
 しかし、どうやらあいつはそうではなかったようだった…。
          *
 部屋に戻ると正利はいなかった。
 部屋の真ん中にゴミにまみれてわかりづらかったが、一通のあいつからの置き手紙があった。
<せんせい、いままでありがとう。おれ、ここにいると、またおかねをぬすんじゃいそうだから、でていく>
 手紙にはそう書かれていた。
  「なるほど、出ていったのだな」
 ぼくはそう思った。
 あいつが出ていったことなど一度や二度ではなかったのに、なぜか今回だけはあいつが本気だとわかった。もうあいつは戻ってこないんだ。もう出ていったんだ。何度も何度もそう思った。
 腰から下に力が入らなくなり、一面ゴミばかりの床に崩れそうになった。ぼくは何も考えられなくなり、真夜中に一人、いつまでもただ立ち尽くしていた。
 ぼくは混乱した。親でもないし、兄弟でもない。まして夫婦でもない。いつも疎ましく思っていたはずのあいつ。それなのにこの喪失感といったら……。
 いったいどういうことなんだろう。

■予測不能の喪失感

  「…はい。お電話ありがとうございます。日焼けサロンマチズモです…」
 あれほど感謝してやまなかった予約の電話が、今日は疎ましくて仕方なかった。
 眠れぬ夜から一夜明けた今朝、代わりのスタッフが来るまで自分が店にいなければならないことが、ぼくをひどく苛立たせた。
 昨夜は台風が近づいていたせいで、夜半からものすごい風と雨だった。9月だというのに、厚着をしなければならないほど冷え込んだ。それなのに、あいつは自転車に乗ったままどこかへ消えてしまった。
 無事だろうか? 無事だったのだろうか? そのことだけが頭の中をグルグルと回っていた。
 あれほど気になっていた売り上げも客の入りも、今のぼくにはどうでもよかった。たった一晩いなくなったくらいで何を大げさな、と思われるかもしれないが、それは違う。
 ぼくには、これがあいつとの永遠の別れに思えたのだ。なぜかもう二度と会えない、そう確信できたのだ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第55回 狂気への入り口

■月刊「記録」2004年4月号掲載記事

*          *           *

 まずは、その痩せているがたるんだ腹に一発パンチを入れた。思い切り? その瞬間ぼくは思い切りパンチを入れたか? 一発目を打ち終え、ぼくは自問自答してみる。
 いや違う、思い切りなんて入れているはずがない。ぼくはあいつの表情から何かを読み取りたかっただけだ。だから軽めにパンチを入れたのだ。まちがいない。
 それなのにあいつときたら「うっ!」とも「痛い」とも言わないじゃないか。
 ……合格だ。でもおまえは合格だ。いつだっておまえは合格なんだ。
「正利、おまえ合格だよ!!」心の中でぼくはそう叫んで再び拳を固めた。

■あいつのすべてを知る権利がある

 だいたいこの程度で音をあげるような奴だったら、殴ったって意味がない。こいつはぼくによって見い出され、ぼくによって選ばれ、ぼくとともに暮らすことになった奴なのだ。そんじょそこらの根性なしの若者とはひと味もふた味も違うはずだ。
 その証拠にあいつは痛がりもしなければ、逃げ出そうともしない。相変わらずぼーっと突っ立っているだけだ。それにしてもあいつは今この瞬間にいったい何を感じているのだろう。おい、正利、おまえはいったい何を考えているんだ?
 知りたい。無性に、どうしても、激しく知りたくなった。ぼくにはあいつのすべてが気にかかる。ぼくにはあいつのすべてを知る権利があるに違いない。
 再びぼくがあいつに目をやると、相変わらずあいつはダラーンと両手を下げて突っ立っている。次のパンチを出そうとした瞬間、アパートの住人がぼくたちの横を通り抜け階段を上がっていった。異様な雰囲気を感じたのか、こちら側をチラっと振り向いた。
 もう、やめようか? 一瞬ぼくはためらった。警察に通報されたら厄介だ。しかし次の瞬間には強い衝動が湧き起こり、ぼくのためらいを打ち消していた。
 今日やらなかったら、もう二度とこんな気持ちにはなれないかもしれない。こんな気持ちには、なかなかなれるものじゃない。ぼくの気持ちの正体、それは正利に対する深い愛情のようにも思えたし、積年の憎悪のようにも思えた。
 小さなガキの頃から見てきた正利、いつだってぼくを「せんせ、せんせ」と頼り、ぼくが世話をし、ぼくのものだった正利。しかし、いつだってぼくの思い通りにはならず、ぼくに迷惑をかけ、ぼくの足手まといになってきた。金を盗み、学園からは逃亡し、親方のところからは逃げ帰り、拾ってやったぼくには一度だって感謝するどころか店の金を盗んでいる。
 だけどこいつにはぼくしか頼るところがなかった。ぼくのところしかないんだ。そう思うとたまらなく愛しい気持ちが湧き起こり、同時に憎しみも湧いた。それらの相反する思いが入り混じり、入り混じれば入り混じるほど、ぼくを狂気の世界へ引きずり込んでいった。
 やがて迷いは消え去り、ぼくは確信した。
 やろう。やはり、やろう。
 今日やるしかないのだ。

■誰にもできない大変なこと

 二発目、三発目、四発目はためらいがすっかりなくなったこともあり、スムーズにまるで速射砲のように打ち出すことができた。
 左拳、右拳そして再び左拳、それらすべてが正利の顔面を正確にとらえて決まっていく。
 それからあとは……? 覚えていない。それからあとは断片すら思い出せない。なぜだろう? いったいぼくはあのあと何発殴ったのだろうか。あいつは痛がり、苦しみに身悶えたのだろうか?「せんせやめて!」と言ったのだろうか? 思い出せなかった。
 何も思い出せないことはなんだかもの悲しく、そして同時に少しぼくを安心させた。
 気がつくとぼくは日焼けサロンに戻っていた。どうやらぼくは戻るはずの時間から、かなり遅れて店に到着したようだった。そんなことは珍しいことだったので、アルバイトのスタッフは驚き、ぼくに聞いてきた。
  「どうしたんですか?」
 批判めいた感じではなく、どこか心配した口調だ。
  「いやぁ、前にも話したことあるけど、正利の奴また金を盗んでさ、まいっちゃったよ」
 努めて冷静にいつもと同じ口調でぼくは答えた。
  「そうですか、まだ治らないんですか。今度会ったらぼくのほうからも言っておきますよ。神山さんも大変ですね」
 そう、その通り。我が意を得たりだった。
 そうなんだよ。そうなんだ。ぼくは大変なことをしているんだ。どうだすごいじゃないか。ぼくは誰もやることのできない大変なことをしているんだ。
 表情にも口にも出さなかったが、内心ぼくはスタッフの言葉に過剰なくらい嬉しく反応していた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第54回 ぼくが望んだコミュニケーション

■月刊「記録」2004年3月号掲載記事

*           *             *

 ぼくが悪かった。
 まちがいない。ぼくが悪いに決まっていたのだ。ぼくが要求しすぎたのだ。
 ぼくは正利に求めすぎていた。いったいぼくはあいつに何を求めていたのだろう。
 知的に遅れがあり、親子代々盗み癖があり、幼児期に親に捨てられて、眼の焦点がいつも合わない、不機嫌そうに唇が出っぱっているあいつ。
 そんなあいつにぼくはいったい何を求め、何を期待していたのだろうか。
 あとから振り返って思う。きっとぼくは誰かとコミュニケーションをとりたかったのだ。でもそれは軽い挨拶などではないし、堅苦しい社交辞令でもない。こぎれいな部屋でテーブルを囲んだ絵に描いたような家族の団欒とやらでもない。友達、親、兄弟、恋人……残念ながらそれらはぼくにとってコミュニケーションの対象には見えなかった。ぼくは正利を必要としていたのだ。
 床が見えぬほどの汚れた部屋。今食べたものと、いつ食べたのかわからない腐りかけたものの臭いが交差する部屋。そんな密室の中で、筋肉隆々で髪の薄い中年男であるぼくと、眼の焦点が一向に合わぬ知的障害者であるあいつとの間でしか交わすことのできない形のコミュニケーション。
 それは明らかに異様な光景だった。他の誰に話してみても理解を得られるはずのない空間だ。だからこそ濃密で、一度味わえば抜け出せなくなる。
 そんなものをぼくは望んでいたのだと思う。

■修羅場をくぐってきたあいつの恐怖

 あの日ぼくは確かに正利を殴ったのだ。6発、7発、いやそれ以上だったかもしれない。それがその後のぼくを大変苦しめることになるのだが、まちがいなくあの日のぼくは、ああいった形でのコミュニケーションを熱望していたのだ。
 望んでもいたし、欲してもいたし、何より必要だった。言葉でのコミュニケーションなどじれったかった。殴らなければならない焦燥に駆られていた。
 あいつの膨らんだほっぺたをぼくは殴りたかった。あいつの痩せているのにたるんだ腹を殴りたかった。何よりあいつの怯える顔を見たかった。あいつが痛みに身をよじる姿が見たかったのだ。
 物心ついてから、数々の修羅場をくぐり抜けてきたあいつは、めったなことでは怯んだりビビったりしない。そもそも想像力が欠けているから、何かを事前に想像して怯えることもない。反応も魯鈍で、普段の会話では喜怒哀楽がほとんどない。そんなあいつがぼくの拳にビビって、目にかすかな恐怖を浮かばせる。それはぼくの存在があいつに伝わり、あいつがぼくを認識した瞬間だ。
 そんなあいつを想像すると、それだけでぼくはワクワクした。今日こそかつて味わったことのない恐怖をあいつに味あわせてやろうと思った。理由なんかどうでもいい。金を盗んだから殴った? 仕事をさぼったから殴った? そうかもしれない。確かにあいつは金を盗んだし、仕事もさぼった。でも、それらは殴ったことの理由であると同時に、理由ではなかった。
 所詮、それらは大義名分でしかないのだ。

■平静を努めて装いつつも

  「おい、正利! おまえ金盗んでんじゃねえよ!」
 ぼくは声をかけた。普通はあいつがぼくに「きゅうりょうがやすい」だの、「つかれた」だのと言いがかりをつけてくることが常であったのに、今日はいつもと反対だった。
 秋とはいえ、まだ蒸し暑い夕暮れ時、アパート兼倉庫の壁によりかかり、正利はよれよれになった半袖のシャツを肩までまくり上げ、座って気持ちよさそうにタバコを吸っていた。
 店から乗ってきた自転車にまたがったまま、いきなり怒鳴ったぼくの言葉が冗談なのか本気なのかが判別できないあいつは、ただぼーっとぼくの顔を見ている。
 ぼくも正利も無言であった。ボロアパートなので洗濯機は部屋の外にある。その洗濯機がガタガタと壊れたような音を立てていた。ぼくは自転車から降り、ゆっくりと一歩ずつあいつに近づいていった。
 あいつはぼくから何かを感じるだろうか。いや、感じはしない。いつでも何も察しはしないのだ。タバコを持つ手がだらーんと伸びきっている。あいつはあまりにも無防備だった。ぼくにとっては絶好のチャンス。うずうずした。間近まで歩いてきたぼくをあいつは見上げた。
 相変わらずまぬけな顔だ。それに比べていったいぼくはどんな顔をしているのだろう。何せぼくはウズウズしてゾクゾクしていた。努めて真面目な顔を装っているつもりであったが、どうだろう? 喜びのあまり少しニヤついているだろうか? まあ、そんなことはどうでもいい。いずれにしても数秒後、ぼくはあいつの胸ぐらをつかみ、拳を振り上げているのだから。
 あいつは恐怖のまっただ中にいるはずだ。(■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第53回 正利という迷宮

■月刊「記録」2004年2月号掲載記事

*          *          *

 しかしまあ、人間の心理とは不思議なものである。
 くっつけばくっつくほど、そして一緒にいる時間が長くなれば長くなるほど、逆に離れている相手の時間が気になって仕方がなくなるものだ。
 恋人や夫婦などの例ではよくみられる現象である。そしてなぜか、ぼくと正利もその例にもれず、とにかく寝ても覚めてもお互いを気にし、お互いを意識していたのであった。

■不可解すぎる拘束状態

 いや、ぼくと正利の関係はもう少し違う。
“意識していた”などというレベルの高いものではなく、ただ、ただ“知りたい”のだ。何でもいいから“知りたい”のである。
 所持金、何を食べたか、昨日はフロに入ったか、入ったとしたら何分くらいか、その銭湯からの帰り道はどの道を通ったのか、そんなどうでもいいことから大事なことまで、とにかく何でもいい。何でもいいから“知りたい”のである。
 正利の1日の主な仕事は、日焼けサロンで使われる大量のタオルの洗濯である。
 通常、ぼくは朝から店に出ている。正利は倉庫でタオルを洗い、たたんでいる。するともう気になるのだ。正利がタオルをたたみ終えて店に届けに来るまで、ぼくは正利のことが頭から離れずに、もう気になって気になって仕方がない。
 そしてやっと正利がやってくる。するとぼくはホッとするのだ。正直に言って嬉しい。小躍りしてしまうほど嬉しい。
 かと思えば、今日のように正利がいつまで経っても店に来ない日もある。最初、ぼくは頭にきている。とにかくあいつが現れたら四の五の言わせず頭ごなしに怒鳴りつけたいと考え、手ぐすね引いて待っている。
 しかし、待てど暮らせど、あいつは現れない。
 するともう不安で仕方がなくなるのだ。少しニヤケた顔でもいい、逆ギレしてムッとした顔でもいい。とにかくあいつに現れてほしいのだ。
 なぜ来ない? どうして来ない? 寝てしまったのか? どこかへ遊びに行ってしまったのか? そういえばこの前は近所の小学生に誘われてサッカーしに行ってしまったな。不安がぼくの心を一杯にする。仕事に追われ、一時はその不安が雲のように通り過ぎてしまっても、また一段落つくと別のところから不安は現れ、もやもやとぼくの心を包み込む。
 なぜぼくはこんなにあいつのことを心配するのだろう?
 一体どんな理由で心配や不安にかき立てられているのだろう。

■心も躍るブレーキの調べ

 あいつが現れないことのメリットなど店にはほとんどない。単に、タオルが届かなかった、ということくらいのことだ。それ以上でもそれ以下でもない。売り上げの金額が急に変動してしまうこともければ、客の入りが急に悪くなるわけでもない。
 それなのにぼくときたら気になって気になって仕方がないのだ。正利の自転車はブレーキパッドが両方削れてしまっている。だから店の前に来ると、「キッキッキッキッキッー!」と、けたたましい音がする。それによって「おおっ、正利が来たぞ!」とぼくはいつも胸一杯の安堵感に包まれるのだ。
 それなのに、それなのに、今日はあの「キッキッキッキッキッー!」という音が、待てど暮らせどまるで聞こえてこないのだ。
 こんなときに思う。あいつに携帯電話を持たせるべきなんだよ、と。でも持たせればきっといろいろな厄介なことに巻き込まれるだろうなぁ…。そんなこんなでぼくは本当に様々な、きっと世間様からみれば、限りなく不必要で理解しがたい悩みや不安を常に抱えて仕事をしているのだった。
 そのときである。
「キッキッキッキッキッー!」
 たしかに聞こえた。やっと聞こえた。正利だった。
 予定時刻を過ぎること約2時間。とうとう店に正利が現れた。70リットルの透明ポリ袋一杯にタオルを入れて、体を左右に揺すりながら階段を上がってくる。
 ぼくにはもう怒りなんか微塵もなかった。心配で心配でしょうがなかったのだから。だって、あいつと離れている空白の時間がいつもより2時間も長かったのだから。ぼくにしてみれば当然の気持ちだろう。
 誰にもわからないこの気持ち。
 そして誰にもわかってほしくないこの安堵感。
 同時に誰かに伝えたいこのハッピーな気持ち。
「ビバ!正利!!」
 こうしてぼくは正利という迷宮に、文字通り迷い込んでいったのであった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第52回 濃密な関係

■月刊「記録」2004年1月号掲載記事

*          *           *

 とくかくぼくは本当に良く働いた。
 営業時間は朝の10時から夜の12時までと決まっていたのだが、女子高生たちは登校時間であるはずの朝の8時から店に来るし、水商売などの人たちは夜中の2時だろうが3時だろうが平気で来た。
 そんな人たちに、ぼくはいちいち合わせて営業していたものだから、営業時間なんてあってないようなものであった。

■濃密な正利との時間

 開業前には、10時開店、22時閉店で十分だと想像していたから、良くも悪くもアテが外れてしまった。そんな生活スタイルのために、当然のことながらすべての友達とは縁遠くなってゆき、彼女ができても、どうにもこうにも交際が長く続かなかった。
 実際彼女から電話がかかってきても、すぐにお客様が来てしまったり、ピ、ピ、ピ、ピ、ピとけたたましくタイマーの音が鳴り響いてしまったり、電話の途中でマシンの清掃に行かなければならなかったりで、まるで会話が成り立たないのである。
 そうなると不思議なもので、望もうが望むまいが正利との関係だけが自然と濃くなってゆく。
 朝、目を覚ますと正利がいて、仕事場にも正利がいる。休み時間にどこかへ行こうとしても正利はついてくる。ハローワークに求人の手続きに行くとき、役所に行くとき、牛丼屋に行くときにも、いつでもどこにいても、あいつはぼくとともにいる。
 眠りにつき寝返りを打つと、部屋が狭すぎて正利に触れてしまう。目を開けるとそこに正利の寝顔がある。正利、正利、正利、正利……。正利とともに1日は始まり、正利とともに1日は終わる。それは1週間でもそして1か月でもやはり同様なのであった。
 そんな生活が精神衛生上良いはずもなく、ぼくは正利と些細なことで喧嘩をするようになった。

■互いに粘着な2人

  「ねぇ、せんせ」
 正利がごくごく普通にぼくに話しかけてくる。しかしそれが日によってはひどくぼくの癇に障る。
  「あぁ!? なんだよ!?」とまるで条件反射のように語気荒く答えてしまうのだ。
 しまった、またやってしまったと気づくのは、大体喧嘩になってからで、この時点では、ほとんど感情むき出しのまま何も考えていない。
  「なんなのよ! なんでおこるの! せんせはさいきんおこりっぽい! おこるのよくないっておねえちゃんいってたのよ!」
 当然というか、待ってましたというべきか、あいつは反論してくる。
  「うるせぇー!! おまえの姉ちゃんの話なんか聞きたくもねぇんだよ! この馬鹿野郎!!」
 するともう大変である。
  「ばかっていったでしょ! ばかっていっちゃいけないのよ!」
 そう言うとプイっとあいつは出て行く。何回も何十回も繰り返したばかばかしい喧嘩。しかしこの喧嘩ゆえの家出が、のちにぼくを何年にもわたり苦しませることになるのだから、正利恐るべしである。
 大抵というか当初は、プイっと出ていっても、コンビニかゲームセンターで時間をつぶして帰ってくる正利であった。ぼくも粘着質だが、あいつも相当負けてはいない。帰ってくるなりあいつは懲りもせずにぼくに再び話しかけてくる。
  「せんせ、おれ、かんがえてることあるんだけど」
  「はぁ?! もういいだろ。俺仕事に行きたいんだよ。お姉ちゃんのとこにでも行って聞いてもらえ」
 ぼくのほうは会話するのも面倒くさい。なにせこれから重くだるい体を引きずって仕事場へ戻らなくてはならないのだから。
  「せんせ、そうだんがあるんだけど」
 抑揚のない声。そして白く能面のような顔であいつはぼくに話しかけてくる。
 ははぁ、やっぱりいつもの通りだ。相談も話したいことも何もない。結局、あいつはぼくを困らせたいのだ。そして逆上したぼくに怒られたいのだ。さんざん怒ったあと、ぼくがいつも優しくなるのも知っている。そう、だからあいつは結局、先にさんざん怒られて、そのあと優しく励まされて、ぼくに笑顔で「よし、これからも一緒にやって行こうな」などと言われたいだけなのだ。
 ばかばかしい。
 そしてくだらない。
 あまりにもばかばかしい、ダメ夫婦が互いにもたれあっているようにダメなやり取り。
 しかしそんなことをぼくらは毎日のように繰り返しているのだった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第51回 陶酔の説教

■月刊「記録」2003年12月号掲載記事

*           *            *

 とにかくイライラすることの連続であった。
 朝、店に着くと掃除をしているはずの正利がいない。 探してみると、シャワー室の手前の足拭きマットの上で、気持ちよさそうに寝ているのだ。
 なるほど、いつも1時間かけてやっているはずの掃除が、10分くらいの効力しか発揮していなかったのは、このためだったのである。
 急いで正利を起こし、開店して間に合わせた。
 何せ折からのガングロブームは、とどまるところを知らなかった。
 予約の電話はキャッチホンで続けて取らなければならぬほどで、予約開始から2~3時間で、もうその日の予約が埋まってしまうほどであった。はっきり言って仕事中は、あいつがどんなミスを犯そうと、あいつにかまっている暇などはなかった。
 それどころか、お客様の手前ということもあり、ぼくはニッコリとあいつに微笑み、お使いを頼み、お駄賃をあげるという毎日であった。とにかく、「ガングロ」やガングロよりさらに焼けている「ゴングロ」という造語ができるほど、当時のお客さんたちは、黒くなることに情熱を注いでいた。
 とにかく同じ客が毎日来るのである。毎日、本当に毎日、高校生が授業をさぼって顔を焼きに来るのである。 特に、都内で一、二の偏差値を誇る(低いほうの)女子校生たちは、毎日4~5人で来るものだから、どうにも大変であった。
 4~5人で来ても、一度に焼けるのは3人だったから、必然的にロビーで待つ子が出てくるのである。外にでも出て、時間をつぶしてきてくれればいいのだが、なぜかずっとそこに居座るのである。
 気まずいから声をかけると、ぼくに向かって嬉しそうにおしゃべりをしてくるのだ。
 今、つき合ってる男の子の話、学校を辞めたいという話、変なアルバイトを始めてしまったという話など、たくさん話してくれる。無数にあるプリクラを手帳を開いて見せつつ、それはそれはたくさんの話をしてくれた。 たいていのお客さんは、正利が店にいると、とにかく奇異な目で見た。「こいつは何だろう?」という感じの目で正利のこと見るのだ。だが正利について、決して本人にもぼくにも聞いてくることはなかった。目の焦点が合ってなくて、ボーっとしていて、なんとなく気味が悪い、正利は、彼らの目にそう映っていたのではないかと思う。
 しかし、彼女たちは違った。正利に名前を尋ね、年齢を聞き、果ては好きなアイドル、なぜ正利は日焼けをしないのかまで尋ねていた。
 もともと女性が大好きな正利は、テレながら、でも本当に嬉しそうに、「ハァー、ハァー、ハイー」などと受け答えしていた。しまいにはプリクラをもらい、大事そうに持ち帰り、倉庫(寝床)の玄関に貼り付けていたほどである。そんなときには、いつも狂気じみた店長であるぼくも、さすがに嬉しい気持ちになったものである。 しかし、ぼくという人間は、自分でもイヤになるほど粘着質な男であることにも気づかされた。
 深夜、店が終わり、倉庫へ帰る。すると正利がピコピコとゲームボーイか何かをやっているのである。するともう許せない。果てしなき説教が始まるのである。ごろっと横になっていた体をとりあえず起こさせ、面と向かって、とうとうと今日の正利の犯したミスについて、話し始めるのであった。
 何せ“話せばわかる”などと、ぼくも当時はとんだ勘違いをしていたのであった。だから、あくまでも穏やかに、割と理路整然に、あいつに話して聞かせていたのである。
 長いときは朝方まで、それが延々と続くこともあった。明け方、あいつに対して情で訴える。それが毎回、どこか陶酔するほど心地良いのである。
  「な、正利、わかるだろう! オレの言ったこと、わかるよな! オレたちは本当の家族じゃない。でもなぁ、明日からも一緒に頑張ろうよ!」
 必ずそう締めていた。それはまるで自分の心の隙間を埋めるため、自分で自分自身に暗示をかけているようでもあった。
 そして、結果として、あいつは睡眠不足で、結局、また店で居眠りしてしまうし、ぼくもやはり睡眠不足で、余計にイライラするという、何ともいいことのないお説教なのではあったが。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第50回 狂気じみた生活

■月刊「記録」2003年11月号掲載記事

*           *           *

 ぼくのアパートは狭かった。歩くとカンカン鳴る鉄の階段がついた、絵に描いたような安アパートだった。店とドッグレッグスが倉庫に兼用している狭い一室に、ぼくと正利は住んでいた。正利が突然、親方のところを辞めて、転がり込んできてしまったのだからしょうがない。

■暑さ、狭さ、そして睡眠不足

 日焼けサロンがオープンして1ヶ月が過ぎた。
 7月ともなると、ぼくと正利の住んでいる倉庫は、まさに蒸し風呂状態となった。とにかく暑い。冷房はないし、風通しは悪い。じっとしていても汗が吹き出し、ぼくの洋服は1日中濡れているような感じだった。
 グレーのTシャツを着ると、最初は首のあたりが汗で濃いグレーに変色し、1時間も経たないうちに濃いグレーは広がり、全体が変色してしまうほどだった。ただでさえ忙しくて寝る暇がないというのに、せっかく部屋に戻り、睡眠のための時間を確保しても、この暑さと狭さのために、どうにもこうにも寝られない毎日が続いた。 それなのに正利ときたら、毎日、ものすごいイビキで寝ていやがるのだった。暑さも狭さもものともせずである。ぼくは睡眠不足からの苛立ちも重なり、そのことが頭にきて仕方がなかった。そしてある日ふと、睡眠を妨害してやることを思いついた。
 ペットボトルにお湯を注ぐ。もちろんペットボトルが変形してしまうほどの熱湯だ。それを正利の足や腕のすぐそばに置いておくのだ。もちろん肌が露出している部分に、触れるか触れないかぐらいの位置にして。
 すると、寝返りを打った正利はペットボトルに触れた瞬間に断末魔の叫び声を上げるのだった。そしてじろっとぼくを一瞥し、再び寝息を立てる。それを寝返りを打つたびに繰り返す。
 ぼくは正利の安眠を妨害できて、本当に嬉しかった。ある時は瞬間接着剤で正利の2本の足を1本にまとめ、またある時は寝ている顔にコショウを振りかけた。寝返りが上手く打てずに、「あしがっ! あしがっ!」と叫ぶ正利。コショウの刺激に「目が、目が、」と、うわごとのようにつぶやく正利。そんな姿を見るたびに、ぼくはニヤリとほくそ笑み、汗だくの不快をいっとき忘れ、やっと眠りにつくことができるのだった。
 こんな小学生みたいなことを30過ぎのいい大人が毎夜毎夜行っているのだから、まったくもってぼくはどうかしていた。睡眠不足と暑さとはじめての商売が、ぼくの狂気を誘発したのだと思う。
 狂気といえば、このころの部屋の汚さもまた、狂気じみていたと思う。当然のことながら、正利には部屋を片づけるという観念がなく、商売で頭が一杯のぼくにも当然のことながらなかった。だから食べかすや食べ残しはそこら中に散らばり、密室のなかでカビを生やし、腐って異臭を放った。探し物はゴミをかき分けると姿を現し、座る場所はいつもゴミの上だった。日に日にゴキブリは増殖し、いたるところに出没した。
 正利はゴキブリを恐れ、必死になって殺していたが、ぼくはもう手遅れだとわかっていた。多勢に無勢。数が違いすぎる。争ったって勝ち目がないことは明らかだった。だからぼくは、彼らと共存することを選んだ。
 寝苦しくて夜中に目を覚ますと、正利の隣に添い寝するようにゴキブリがいた。トイレに行き電気をつけると、10匹以上のゴキブリが慌てふためき逃げていった。ゴミの中から私物を探しているとき、ゴキブリが出てきても、当たり前のように素手で払って探索を続行した。
 そんな汚さにも、ぼくは慣れっこになってしまっていたのだった。極悪の環境にも狂気じみた生活にも、ぼくはどんどん順応し、不自由を感じなくなった。

■ひとつだけ困ること

 ただ、ひとつだけどうしても困ったことがあった。それは、正利の盗み癖である。
 ぼくには、忙しくてなかなか銀行へ入金しに行く時間がなかった。だからいつでもつねに、現金を持ち歩いていたのだった。
 毎日、あまりにもめまぐるしくお金が動き、財布などにいちいち入れている場合ではなく、それに最初から財布など持ってもいなかった。
 銀行でもらった封筒に現金を入れて、多いときは100万円をゆうに越える札束を紙袋のままポケットに突っ込んで持ち歩いていた。それを寝るときには、ぽんと枕元に置いておく。朝起きると札束を入れた封筒はすっかりゴミに埋もれてしまっている。
 それをうっかりそのまま置きっぱなしにして、外へ出てしまうことがあった。
 するとぼくのお金はあいつに抜かれてしまうのであった。最初は控えめに千円、2千円だったのが、そのうち、あっという間に万単位になった。(■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第49回 快調な滑り出しの裏で

■月刊「記録」2003年10月号掲載記事

*           *           *

 日焼けサロンは快調だった。ちょうど世間では、女子高生を中心にしたガングロブームが始まり、流れに乗って、とにもかくにも好調な滑り出しだった。
 以前、ぼくはこの紙面で自分のことを「常に自分にノルマを設定し、ノルマをこなしていくタイプの人間」であることを告白した。そして、この傾向は、商売が始まるとますます加速していった。
 日焼けサロンの開店とともに、ぼくには商売のことしか頭になくなった。ぼくの頭の中は、日々の売り上げ、マシンの調子、店舗の清掃、お客様の満足感、そんなことばかりで占められていった。だから自然に友達とも会わなくなったし、親にも顔を見せなくなった。テレビも見ない。音楽も聴かない。あんなに大好きだったプロレスも観ない。歯磨きの如く毎日の日課となっていた肉体鍛錬までも、とうとうどうでもよくなってしまったのだ。これには我ながら驚いた。
 自分でも自分のことを「極端だな」と思うが仕方がない。もうまるで一日中、店に関することしか考えていないのだ。なかでも、もっとも気になったのは日焼けマシンのことだった。あるとき、店のマシンにオランダ製のランプを使うとB波が2%出た。するとアメリカ製なら何%出るのだろう。はたまたその2つを交互に配列するとパーセンテージにはどのような違いが出るのか?
 ちなみに、B波とは紫外線の種類である。太陽光の紫外線には大きくA・B・Cの波長があり、B波はなかでもビタミンDの生成にかかわり、免疫力を高める効果があるという。そして良い日焼けには、A波とB波のバランスが重要となるのだ。
 ぼくはさっそく紫外線測定器を購入すると、夜中に誰もいない店内で1本1本のUV指数をたんねんに測っていった。
 しかしランプの数も200本もあるのだから、文字通り一晩中かかった日もあった。ぼくは色々な業者に電話を入れ、オランダ、アメリカ、ドイツ、イタリアとありとあらゆる国から日焼けランプの情報を仕入れては、代理店を通してランプを輸入し、日夜“最高に焼けるマシン”を追求していった。
 すると次第に「この店は良く焼ける」という噂が出はじめた。そして、瞬く間に広まった。
 店が順調にスタートできた理由には、もう一つの原因あった。オープンの時間である。
 近隣の日焼けサロンは、早くても10時のオープンであった。そこでぼくの店は朝8時から予約を開始したのだ。
 だが、それは経営戦略などではなく、単にぼくの元来からの心配症ゆえであった。
 どんなに前の日に客があふれていても、次の日、夜明けとともに心配のあまり目が覚めてしまうのである。
「今日はだめなのではないか? お客さまが入らないのでは?」
 そう思うと、もう居ても立ってもいられなくなり、朝の3時だろうが5時だろうが、おかまいなしにぼくは店に行った。そして一人マシンの調整をして、朝8時の予約開始を待つのである。
 朝になり、1本目の電話が鳴って、少しだけホッとする。徐々に電話が増えはじめ、10本目くらいから、やっと飲み物が喉を通るようになり、20本目の電話でなんとか、さぁ食事でもしようか、という気分になる。
 当時のぼくはそんなせっぱ詰まった精神状態だった。いつもピリピリしていて、何かが少しでも上手くはかどらないと当たり散らすのが常であった。
 ゴミ箱を蹴飛ばす、扇風機を叩きつける、タオルを引き裂く、いま考えるとまったくどうかしているのだが、予約の電話の最中に、相手の携帯電話の電波状態が悪くて切れてしまうと、コントロールテーブルに拳を叩きつけ、断末魔の叫び声を上げ床に崩れ落ちた。まるで狂人である。しかしお客様を1人逃してしまったかもしれないという後悔に狂いそうになったのだ。それでいて直後に電話がかかってくると、ちゃんと丁寧に対応できたのだから、おかしなものである。
 だが、そんな狂人経営者と、盗み癖のある知的障害者が、一つ屋根の下で暮らすとどうなるか……。
 いま考えると一目瞭然なのだが、当時は考える余裕さえもなかったのだろうか。
 ぼくは寝られない。
 あいつは起きられない。
 ぼくはお金を稼ぎたい。
 あいつはお金を盗みたい。
 これでは、どう考えてもうまくいくはずがないのである。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第48回 サロンオープンの前日

■月刊「記録」2003年9月号掲載記事

*          *         *

  「せんせ、おれ、ついたよ」
 6月12日。日焼けサロンオープンの前日、深夜23時。正利から電話が入った。
  「着いた? はあ? 着いたってどこに着いたんだよ」 だいたいの準備は整い、いよいよオープンだというときにぴったりやって来るんじゃねえよ。そう思っていたが、来てしまったものはしようがない。親方のところへは、あいつの性格からしてもう戻らないはずだ。予定がちょっと早まったが、まぁ仕方ない。
 ぼくは突然の出来事だったゆえ、かえって何も考えることなく腹をくくることができた。
  「せんせのおみせのちかくのえきについたのよ」
 そうか、そうか、やっぱりそうか。
  「じゃあ来い。道わかるだろう」
  「わかった。いまいく」
 そう言って電話は切れた。すると2、3分もしないうちにまた電話のベルが鳴った。
  「せんせ、ついたのよ」
  「どこ着いたの?」
 さっきと同じ質問になってしまった。
  「セブンイレブンにいるのよ」
 店の自動ドアを開けて、斜め前方を見晴らすと、あいつがセブンイレブンの前にある公衆電話から電話をかけている姿が見えた。
 あいつの姿を見ても不思議と腹が立たなかった。なんだか懐かしい光景に出くわした。そんな感覚に不意に襲われた。

■薄暗い食堂の焼きそば

 あいつを迎え入れ、帰り支度をしていたら夜中の2時になってしまった。今から倉庫のような、あのアパートに戻るのはためらわれ、その日は近くのサウナに正利と泊まることにした。
  「はぁ!? 何か食べたい!?」
 サウナに着くなり、正利がお腹が空いたと言う。昨夜、他のサウナで無銭飲食した奴のセリフとは思えない。だが、ぼくもほとんど一日中、何も食べていなかったので、とりあえず一緒に食べることにした。
 薄暗い食堂のカウンターに僕たちは隣り合わせに座り、二人とも焼きそばを注文した。店のおばちゃんは、すぐに目の前で作ってくれた。本当に目と鼻の先で作ってくれている。そんな光景が珍しいのか、正利は食い入るように見つめている。ぼくは疲れて少しウトウトしてしまった。すると「せんせ、せんせ」と正利がぼくの肩を叩く。
  「何だよ」面倒くさそうに答えると、正利が「あれあれ」と今にもできあがりそうな焼きそばを指さす。
  「あれ、カップめんなのよ」
  「はぁ?」
  「カップから出して、ナベで焼いたのよ」
  「どうでもいいよ、そんなの」
 明日はオープン。そして今はとても疲れている。どんな味の焼きそばを食べるかよりも早く寝ることのほうが大切だった。

■売り上げのわりに、一抹の不安

 そうこうしながらも、なんとか食事を終え、ぼくたちは、寝ることになった。
 ぼくは追加料金を払い、カプセルホテル形式の「寝室」で寝ることにした。
  「おまえはどうする?」
 そう聞くと、サウナのほうで雑魚寝するという。
  「おれは、このほうがおちつくのよ」
 遠慮なんかする奴ではないので、本当にそうなのだろうと思い、別々に寝ることになった。
 翌日は、朝6時に起き、ぼくたちはいったん店に行った。ビラを500枚ほど持って、駅に向かう。6月だから当然陽は出ていただろうし、暖かかっただろうが、今思い出してもなぜか薄暗く寒々しい風景しか思い出せない。
 おそらく、これから起こることに対する不安の大きさが、ぼくにそんな景色を見させていたのではないだろうか。
 ぼくと正利は道行く人に次から次へとビラを配っていった。ほとんどが真面目そうなサラリーマンばかりで、なんだか効果のほどは期待できそうもなかった。
 しかし店に戻ると、結構、お客が来ていた。ぼくはお客の予約を取ったり、実際に来た客をさばいたりと、その1日、とても忙しかった。まだ洗濯機も乾燥機もなかったので、正利には近くのコインランドリーまでタオルを運んでもらった。思ったよりも客は来てくれ、初日の売り上げは64,000円。これだけいけば上々すぎるほどの滑り出しであった。
 1日の終わりにお金を数えながら、ちらっとあいつの横顔を見た。お金を数えながら感じた満足感は、あいつの顔を見たとたんに、いいようのない不安感に変わってしまった。(■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第47回 吹き荒れるトラブルの嵐

■月刊「記録」2003年8月号掲載記事

*           *           *

 ガタイのいい兄ちゃんたちがやってきた。ぼくが購入した日焼けマシンを搬入するためにである。
 当然、搬入日までに下準備らしきことくらいはしているものと思っていたが、甘かった。何もやっていないのである。ついさっきまで稼働していた、まだ触ると熱いマシンをドライバーなんかを使って外し始めている。
 うへぇ~。こんなところからつき合わされるのかと思うと気が遠くなりそうであった。なんとかマシンをバラし、2トントラックに積んだところで0時をまわった。今日は徹夜か。そう思った。
 搬入代金を人件費分も含めて支払っているのに、なぜぼくまで手伝わされ、しかも徹夜までしなければいけないのかと思うと、少々腹も立った。
 それでもなんとかトラックでぼくの店まで運び、300キロもあるCPSを組み立て上げると、かなりハイテクで立派なものに見えた。
 あーっ、ついにここまで来たのだな、と思えば感慨深さもひとしおであった。さっそく焼いてみたい。即座にそう思った。しかし電気がまだ通っていないので焼くことはできなかった。
 電気はトランスという電圧を上げる機械を通さなければいけないらしく、それは専門の業者にやってもらわなければならない。翌朝、つまり数時間後にその業者、というかその人は現れるらしい。マシン屋のオーナーが近所の工事屋の人に頼んでくれたのだ。なにせすぐ近所に住んでいるのだから、これから先、機械に異常があってもじつに安心ということだ。メンテナンスをやらせたら右に出る者はいない、とも言われた。そしてほとんど寝る暇もなく、ぼくは朝を迎えた。

■考えられないことの連続

 明け方近くだったが、いったんアパートに帰り、朝に出直した。ぼろいアパートから店にたどり着くと、ハイテクなCPSがある。嬉しくてたまらなかった。
 10時に来るはずのメンテナンスの人を待ったが、彼はまた現れなかった。時間になっても来ないどころか、携帯電話も届かない。またか……。どうしてこう時間通りに仕事が進まないのだろうと不思議に思った。今までの常識からは考えられないことの連続だった。
 結局メンテナンスの人は、2時間後にふらりと現れた。ぼさぼさの髪。ジーンズを膝でちょんぎったその出で立ちを見たときは本当に不安を感じた。なんでも病院に行ったら、混んでいたから遅れたと悪びれずに言う。
 しかし結局マシンに電気が通ったことで、それらのすべてを許せる気分になった。だが、ここで許してしまったぼくは甘かった。その後も、縦型マシンの搬入に予想をはるかに越えた時間を要するなど、いろいろなことがあった。そして、どうにかこうにかこぎつけたオープン前日のほっとしたさなか、ふたたび事件が起きたのだ。 親方からぼくの携帯電話に連絡が入ったのだ。
  「先生、もうどうにかしてくれよ。正利のやつ、うちから出てったよ」
 いつも緊急事態のときにかけてくるので、口調は早く、少々苛立っているのだが、今日はそれに加えて、もう諦めている感じも含まれていた。
  「どうしたんですか?」
 オープン前日だということもあり、ぼくは今回のトラブルにはあまり巻き込まれたくなかった。しかし親方は今度はまくし立てるように話し始めた。
  「警察から連絡が来たんだよ。あいつ健康センターで無賃宿泊と食い逃げしやがった」
 ああ……。十分巻き込まれうる内容の電話に、ぼくは絶望的な気持ちになった。
  「今は、正利はどこ…」
 ぼくの声を遮って親方は怒りを込めて言った。
  「どこにもいないよ。そのまま逃げてるよ。もう1人の連れ残して、1人でどっか行っちまったよ」
  「じ、じゃあ、連絡があったら、親方のところへ連絡させます」
 あたりさわりない受け答えをしたつもりだったが、
  「いい、いい! 連絡いりません。どうせあいつは先生のところへ行くよ。もういい。あいつを引き取ってくれ先生。じゃあ、頼みます」
 電話は切れてしまった。
 それにしてもどこへ行ったのだろう。あいつはどこへ向かっているのだろう。本来ならばあちこち手を尽くして探すのだが、なんせ明日がオープンとなるとそれも無理だった。思案に暮れているぼくの携帯電話がちょうどそのとき鳴った。
 ボソボソとした声が、しかし反対することを許さぬ強い意志を秘め、受話器の向こうでこう言った。
  「せんせい、おれ、いまからそっち、いくから」
 もう、どうにでもなれである。
  「わかった。電車あるのか?」
  「うん」
  「じゃあ、待ってるから」
 おかしい。オープンの日など教えてはいないのに…。 これはやはり運命か!? (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第46回 商談成立

■月刊「記録」2003年7月号掲載記事

*           *            *

「いやあー、神山さん、すごいですよ。4台で290万円。ぼく業界長いけど、こんなの聞いたことありませんよ。この低予算でオープンできたらギネスブックものですよ!」
 日焼けマシン4台分の見積もりができたので、今すぐ来て欲しい、そうオーナーに電話で言われ、ぼくはとるものもとりあえず青山のオーナーのオフィスへ向かったのであった。
 青山の一等地に居を構えたオフィス。地下が日焼けサロン、一階は商談のためのオフィス、二階が自宅になっている。壁の至るところに有名人とのツーショット写真が飾ってある。ラーメン屋なんかで見ると、なんかちんけであほくさいなぁ、といった目で眺めるものだが、青山の高級住宅のなかでみると、あー、おれもいつかはこうなりたいなぁ、となってしまうのだから人間とは不思議なものである。
 それにしても290万円とは、少し予算オーバーであった。物件を借りるときにすでに予算はオーバーしてしまっているので、これ以上無理はできない。
「うーん、3台ってどうですかね? マシン3台で店、始める人なんていないですよねぇ」
 と、オーナーにおずおずと聞いてみると、
「おもしろい! それもおもしろいです。でもギネスブックに載るほどではありませんね。3台だったら170万円で結構ですよ。安い! やっぱりこれはギネスブックもんだぁ」
 と、妙にテンション高く言われた拍子にぼくはまたもや「それでお願いします」と言ってしまい、そこですべての商談があまりにもおおざっぱに決まった。
 早々搬入の日取りも決めてもらい、なんだか変な胸騒ぎはしたが、まぁ、オープンすることが先決だとぼくは無理やり自分を納得させた。

■ひっきりなしに鳴る携帯

「お祝いに食事をご馳走させてくださいよ!」とオーナーに言われ、ぼくは近くのブラジル料理の店に招待された。
 パサパサした魚料理を食べていると、「そういえば、ブラックマグナムちょっと調子悪いんですよ。だから同じクラスのcpsでいいですよねぇ」と、あまりにも当たり前のようにオーナーにサラッとそう言われた。
「え、えー?」
 とは言ってみたものの、調子が悪いマシンを引き受けるのも機会音痴のぼくとしてはちょっと都合が悪い。
「まぁいいですよ。マシンはやっぱり程度がいいほうがいいに決まってますから」と、またもや調子のいいことを言ってしまうぼくである。
「良かった。マグナム、大阪の人が欲しがってるんですよ。そっちに売っちゃいましょう。神山さんのオープンにケチをつけるわけにはいかないですからね、ここはひとつ調子のいいcpsでいきましょう」
 おや? と思わせるには十分な発言を聞き、再び少し不安がよぎる。しかし、よその業者からでは、こうは安くは買うことができない。さらに気になることがもう一つ。ひっきりなしにオーナーのもとには携帯に電話がかかってくるのだ。
 最初はさすが青山の人のビジネスというのはぼくなんかとスケールが違うなぁと思ったものだが、よく聞いているとどうも違う。明らかに苦情らしき電話が多いのだ。オーナーはといえば、「わかりました。あとで電話します」と言って電話をすぐに切る。するとそのそばから電話がまた鳴るといった具合だ。
 まぁ、初めての商売なのだから多少の不安はしようがない。
 ここでもぼくは無理やり割り切ることにした。

■搬入初日からトラブルが

 しかし案の定、搬入の日、いきなりトラブルが起きた。
 厳密にいうと、これから起こる数あるトラブルのうちの第一号である。
 その日、夕方の5時に青山の店で僕とオーナーは会う約束をしていた。しかし約束の時間になってもまるでオーナーは姿を現さない。店番のきれいな女の子に連絡をとってもらおうとしたが、携帯に電源が入っていないため無理だという。
 30分経つと約束を守らないオーナーにイライラしてきた。連絡ぐらいよこすべきだと思う。しかしそんなイライラも1時間後には“現れないのでは?”という不安に変わり、2時間後には“ただただ来てくれればいい”という懇願へと変わっていった。
 2時間後にオーナーは現れた。
 やっと現れたオーナーは、「いやぁ、待ちました? すみません」と、軽く頭を下げた。
「ちょっと待ってくださいね。作業用の服に着替えますから」
 背後には茶髪のお兄さんが2人控えている。
 この人たちが搬入するらしい。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第45回 憧れのブラックマグナム

■月刊「記録」2003年6月号掲載記事

*           *           *

 物件が見つからない。
 だが、まあ、しかし思い返せば、この頃が一番楽しかったのかもしれない。
 何せ気候がいい。季節はゴールデンウィークだ。不動産屋を探しがてら、自転車でふらふらする。どんな客層が多いのか調べるために半日近く喫茶店の窓から外を眺める。ドッグレッグスの倉庫に戻り、キックミットを枕に寝袋で眠る。どれもこれも夢の実現のための第一歩だという希望に満ちていたため、今その頃のことを思い出すとすべての場面が映画のワンシーンのように思い出される。
 絶対に成功してやる、なんて意気込みは皆無であった。ただ、ただ、正利と一緒ならうまくいくような気がする、そんな漠然とした気持ちで過ごしていた。
 ずいぶんと呑気な時期でもあった。

■日焼けサロンは個人経営

 しかし、そんな良い時期は一瞬にして終わってしまうものだ。見つからないと思っていた物件が偶然見つかったのである。
 駅から3分。商店街のメインストリート。しかも近くには高校、大学がひしめいている。何もかもが条件にかなっていた。問題の保証金と家賃は230万円と若干オーバーしていたが、それを差し引いても理想的な物件であった。
 物件が見つかれば、次はいよいよ日焼けマシンの確保である。しかし、これが後々まで、いや結局、今に至っても解決できないほどの問題の火種となるのである。
 日焼けを生業とする会社は、日本全国探しても数えるほどしかない。そのほとんどが個人経営でやっている。さらに日焼けマシンはすべて外国製。つまりマシンの輸入、発送、設置、経理まで一人でやっている。車のように正規代理店というものが存在しないのである。
 それならそれでしょうがない、と思うかもしれないが、そうもいかない。何せすべてが外国製のマシンは、電圧、ワット、部品、そういったすべてが日本製とは相容れぬ規格外なのである。
 だからランプを切れさせても、スターターを切れさせても、極端な話、ネジひとつなくなっても、秋葉原で代用品を探すことはできないのである。個人でやっている日焼け業者は、大きな倉庫などは持たないので、故障時に対応できるだけの部品のストックはないわけである。   *
 さて、そんななか、ぼくが一番最初に取り引きをしたマシン業者は、青山の自宅の地下を日焼けサロン及びショウルームにしていた。
 初めてそこを訪れたとき、青山・綺麗なフロントのお姉さん・そして何よりも今までぼくが通っていたサロンでは見ることのできなかった大型マシン、それらすべてにぼくは幻惑された。
「どうですか? 気に入りましたか?」
 いかにも金持ちのボンボンヅラしたオーナーに聞かれると、
「あー、はい。すごく気に入りました」
 と、まるでオウム返しのようにぼくは応えていた。
 でもきっと高いんだろうなぁ。そう思いつつ思い切って値段を訊ねた。
「いったい、いくらするんですか?」
「そうですねぇ、これ一番焼けますからねぇ、ほら、おまけに自動開閉機能がついているんですよ。ほら」
 ウィーンとうなりを上げながらマシンのドアが開いたり閉じたりする。こんなマシンは見たことがない。おまけに名前が“ブラックマグナム”。
 どうしても欲しい。
「あー、これ高いんでしょうねぇ」
「はい。300万円くらいです」
 このアバウトな値段設定からしてもおかしいと、後になって気づくのだが、そのときは舞い上がっていてわからなかった。そもそもそんなに高い商品の見積もりを、後にも先にもぼくはもらったことがないのである。車のように端数が出なかったことに、ここで気づくべきであった。
 しかし、とにかく頭の中は、
『あー、300万では無理無理。予算は250万円。しかも4台で! …って、そのことは電話であらかじめ伝えておいたじゃないか!』などといった憧れや不満や文句が、グルグル回っていたのだ。
 ぼくのそんな様子を見かねてか、あるいはすべてが作戦通りだったのかわからないが、オーナーはこう言った。
「良かったら、うちの今使ってるマシン持っていけばいいじゃないですか?」
「えー!? いいんですか?」
「いいですよ。150万円。マグナムをその値段で。あとの2、3台はぼくのほうで適当にそろえておきますよ」 やったー!! ツイている! そう思った。
 ぼくはそのとき間違いなくそう思い、今にも小躍りしたいのを我慢したことさえ、はっきりと覚えている。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第44回 日焼けサロンの物件探し

■月刊「記録」2003年5月号掲載記事

*          *           *

 ぼくは学園の最後の春休みを利用して、大阪のプロレスショップの見学に来ていた。『プロレス・ファン』という雑誌の広告でみつけた店だ。
 店の奥にいたおばあちゃんは、ぼくがプロレスショップを開くつもりであることを伝えると、ショップの経営者たちがこなさなければいけないプロレスラーたちとの無茶苦茶な交流のしかたを教えてくれた。
 大食いのレスラーたちをメシに連れていかなければいけないことや、興行会場で売れ残ったTシャツを押しつけられる話だ。
 おばあちゃんの話は、確かにかなり滅茶苦茶だったが、なんだかおもしろそうにも思えた。ぼくはだいぶ乗り気になっていた。
 おばあちゃんの次の言葉を聞くまでは……。
  「まあ今のは冗談だとしても。でもねえ、あなた考えたほうがいいわよ」
 おばあちゃんの目は急にマジになった。
  「もうね、この商売、本当に儲からないから」
 儲からないだろう、という予想はしていた。だから、そのことには驚かなかった。だがぼくは、だからこそ、違う答えが聞きたかったのだ。たとえば「生活するのには困らないけど、決して儲からない」とか「たいして儲かる仕事じゃないから、好きじゃなきゃやっていけない」とか。
 そんな答えだったらぼくはきっと始めていた。確実にぼくはプロレスショップを選んでいただろう。しかし……
  「このビルねぇ、私のビルなの。だから家賃かかんないの。だけどもう閉めようかと思ってる。プロレスファンの人はね、1時間でも2時間でもここにいて、おしゃべりしていくの。でも買わない。お金は落とさないわよ。全然商売ににはならないわよ」
  「そ、そうなんですか…」
  「もう絶対。全然」
  「い、いや、プロレスショップ、何がなんでもプロレスショップって思ってたわけじゃないんですよ。あー、たとえば日焼けサロンなんかもいいなぁなんて…」
  「そっちにしなさい! プロレスは商売にしちゃダメ。絶対ダメよ!」
 間髪入れずにおばあちゃんは言った。
 ……ああ、よかった。本当に大阪に来てよかった。消去法ではあったが、これで次の仕事を「日焼けサロン」1本に絞ることができたのだ。

■ケタがひとケタ違いますよ

 なにせ年度末ぎりぎりの3月31日まで働いたものだから、あらゆるスタートが遅れ気味だった。その間、正利と結束を強めるかのごとく、世田谷のあたりで焼き肉を食べていたせいもある。店のオープンは理想を言えば5月の連休中であった。遅くとも6月のはじめがタイムリミットだと思っていた。
 なぜなら、日焼けサロンが稼げるのは「5月から7月」と非常に短いのがその理由だ。
 それなのに、学園をいざ退職しても、物件すら決まってはいなかった。それどころかタンニングマシン(日焼けマシン)の発注も、広告の掲載も何も手を打っていなかったのだ。
 まあ、それがぼくのやり方といえば、いつも通りではあったが。
 とりあえず、物件探しが先決と考え、毎日、不動産屋巡りが始まった。不動産屋のオープンから閉まる時間まで、自転車でしらみつぶしに一件一件あたった。
 巡り始めてすぐに、不動産屋というのは不思議な商売だなと思った。ぼくがすぐにでも借りたいのだと言い立てても、積極的に探してくれるところは稀であった。特に不動産屋の店長や社長とおぼしき人物たちは、あまりぼくの話に興味をもってくれない。たいていはアルバイトかパートの女の人あたりしか、ぼくにきちんと応対してくれないのだった。
  「あとでFAXを流しておきますよ」と言う人たちが、ほとんどで、実際に「今すぐ一緒に見に行きましょう」と言ってくれる人はあまりいなかった。
 その理由は、徐々にわかった。
  「保証金と家賃で、最初に納める額をなんとか150万円に抑えたい」これが原因だった。
 ぼくがこう言うと、「そりゃあ無理。1ケタ、ケタが違いますよ」と何度も言われたものだった。
 駅から3分以内で商店街に面しているところで、そんなに安いところなどないというのだ。だが、必ず見つけてみせると、ぼくはかなり意気込んでいた。予定額の150万円を200万円まで上げると、何軒か内見するまでたどりつくことができる物件がみつかった。
 しかし残念ながら、これらの物件はみな駅から遠く、とても商売に向いているとはいえない代物であった。それでも最終的にそろそろ決めなくてはならなかった。そんな時期にすでにさしかかっていた。
 いつのまにか季節はゴールデンウィークを迎えてしまっていたのだ。当初の予定はすでに崩れてしまった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第43回 職業相談

■月刊「記録」2003年4月号掲載記事

*           *          *

 各駅停車の扉が開くたびに、ぼくは目を覚ました。
 3月とはいえ、夜中の冷気はさすがにこたえる。こんなことならば、朝一番の新幹線に乗るべきだったと後悔した。
 大阪に着くまでにあと5、6時間はある。寒さとお尻の痛みで寝ることを断念した。ぼくは『プロレス・ファン』というチープなつくりの雑誌を取り出し、折り目のついたいつものページを開く。
 そこには、大阪にあるプロレスショップが3軒紹介されていた。

■お客さんが初めてだよ!

 どの店にも、所狭しとプロレスグッズが積み重ねてある。オシャレさとか見た目の良さとか雰囲気を一切無視した空間。ここは「プロレスショップ」。
 そこにぼくは、正利との共同生活における未来の「ある種の予感」みたいなものを感じていた。雑然としながらも夢や楽しさがぎっしりと詰まった生活。そんなものをつい夢想してしまうのだ。
 夜中の12時に横浜を出発したのに、大阪に着いたのは朝の10時だった。
 なにせ1日で3軒のショップを廻る予定だったので、とるものもとりあえず1軒目のショップへ向かう。大阪球場のそばにそのショップはあった。裏通り、しかもまるで人通りがない。目立った看板もなく、探し出すのにひどく苦労した。
 古くさびれたビルを階段で2階まで上がると自動ドアはなかった。その入り口のドアには、プロレスの興行用ポスターが所狭しと貼ってある。
  「(通いつめるものなんだなぁ~)」などと感心してしまうほど、さびれた印象を受けた。
 ドアを押し、店内に入ると実にガラーンとしている。雑誌の広告で見るよりも広く感じる。ぼくの他に客が一人もいないせいだからだろうか。
  「(いや、平日の昼なのだから、こんなの当たり前かもしれない)」などと思いつつ店内を見回すと、部屋の端っこにレジらしきものがあり、そこにはおばあちゃんが1人ちょこんと座っていた。
 しかし、いわゆるコンビニなどに備えられているカウンターのようなものはなく、プロレスグッズが山のように高く積み上げられ、そびえさせられたものがカウンター代わりとなり、おばあちゃんの居場所をなんとか確保している。
 いきなり声をかけるのも何かためらわれるようなたたずまいなので、とりあえずぼくは店の中を一巡りした。そしてプロレスTシャツを2枚とハルク・ホーガンの歯ブラシを手に持ち、おばあちゃんの元へ向かった。
 プロレスTシャツはどうせ外では着られないだろう。スポーツクラブで着るのも恥ずかしいデザインだった。買うのはもったいないな、と一瞬思ったが、手ぶらで将来の事業相談に乗ってもらうのも失礼な話だと思い、握りしめてレジへ向かった。
 レジの前で商品を差し出すと、おばあちゃんは、ぼくが話しかけるよりも早く話しかけてきて、
  「このホーガンの歯ブラシ、お客さんが初めてだよ!」
  「え?」
  「せっかくアメリカ人のね、関係者から手に入れたのに、全然売れないの」
  「えー?」
 ぼくには少し意外に思えた。Tシャツはちょっとアレだが、ハルク・ホーガンの歯ブラシなら、ぼくならいくつでも欲しいと思ったからだ。
  「あのう、ぼく、東京でプロレスショップ始めようと思ってるんですが」
 思い切ってそう言い、障害者プロレス“ドッグレッグス”の名刺を差し出し、名前を名乗ってみた。
  「あなたがプロレスショップやるの?」
  「はい…」
  「プロレス関係の知り合いとかいる?」
  「イイエ…」
 やっぱりコネなどがないとダメなのかもしれない。それはそうだろうなと思った。
  「大変よ、あの人たち。食事に連れて行けとか、いざ連れてったら、外人のレスラーなんか連れてくるし」
  「は?」
  「たくさん食べて飲んで、でもお代はこっち持ち。しかも売れそうもない商品や会場で売れなかったTシャツなんか、みんな押しつけられるわよ」
  「はあ…」
 なんだか無茶苦茶な世界である。
 だが、「(なんだか楽しそうだな…)」と、ぼくには逆にそうも思えた。
 無茶苦茶だが、雑多で汗まみれで、好きじゃなきゃやってられない商売。苦労もある。そんなのもいいなとぼくは一瞬思った。
 次のひと言を聞くまでは。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第42回 憧れの新聞配達員

■月刊「記録」2003年3月号掲載記事

*           *          *

「オレ、やっぱり、ガソリンスタンドではたらいてみたいのよ。あこがれてるのよ」
  「オレ、しんぶんはいたつしてみたいのよ」
 と、あいつは言った。
 新聞配達? ガソリンスタンド?
 無理だよ、無理に決まっている。おまえにはできっこない。だいたいここのところ毎週のように会って、ぼくと一緒に商売をする約束をしてきているじゃないか。それまでは今の仕事を辞めないで、頑張ると約束したじゃないか。
 まったく本当にあいつはあてにならない。ぼくの話も気持ちも何一つ聞いていやしない。

■少し頭と性格が悪いのですが

 だが、しばらく考えるうちに、ぼく自身の気持ちが変わってきた。
 あいつもあてにならないが、ぼく自身も先行きは不明で、まったくあてにならないのだ。次の事業が成功するかどうかもわからない。それより何より、事業の内容さえ、まだ決めていないのだ。
 新聞配達か、うん、こりゃもしかしたら、いいかもしれないぞ。
 だいたい新聞配達とくりゃ住み込みだしなあ、そんなに頭も使わなそうだ。あいつをぼくのところに来させる前に、新聞配達で働かせてみよう!
 ぼくはそう思ったのだ。
 思うや否やさっそく、学園の近くの朝日新聞配達所にぼくは向かった。
 外から見ると、中には人のいる気配がなかった。昼飯時だったので、もしかすると外に食事に行ってしまったのかもしれない。ぼくはガラス戸を開け、薄暗い部屋の中を見渡した。そして帰ろうとした。
 すると「何かご用ですか」と奥から声がして、50歳くらいのボサボサの髪をした男が出てきた。新聞配達員が配達時に着用しているような薄汚れたジャンパーを着ている。
  「すみません。人を募集しているかどうか知りたかったもので、勝手に入りました。あのう、所長さんはいますか?」
  「ああ、私が所長ですよ。あなたが配達するの? いくつ?」
  「いえ、ぼくではありません。ぼくはすぐそこの学園で指導員をしている神山という者です。卒園生で今17歳になる男の子を雇って欲しいんです」
  「ああ、いいよ。その子、その学園から通うの? 通うの大変だよ。朝、早いから」
 いきなり雇ってもいいようなことをこの人は言う。ぼくはびっくりしてしまった。
  「いいえ、もう卒園しているので、ここに住まわせて欲しいんです」
  「ああ、いいよ。今2人やめたから部屋空いてるよ」 いきなり雇ってくれて、いきなり住まわせてくれるらしい。新聞配達とはこんなものなのか?
 ぼくは、ただただ驚いてしまって、所長も立ったまま、ぼくも立ったままだった。当の本人はいないし、所長は本人のことも聞こうともしないし、ぼくも話してもいない。
  「あのう、そいつは、実里正利という名前で、少し頭と性格が悪いのですが、だ、大丈夫なのですか? 本当に?」
 仕方なくこちらから切り出した。
  「大丈夫だよ。頭が悪けりゃ集金とか営業とかやんないで、ただ毎日配ってくれればいいから」
 なんだか、とっても簡単そうだ。
  「では、どうすればいいですか?」
  「とりあえず連れておいでよ。お宅が色々話してくれたってしょうがないから。本人連れておいでよ。そうしたら仕事教えるよ」
 ぼくはあいつを連れてくる日を決めて、販売店をあとにした。次の日曜日、所長はいきなり会ってくれるという。
  「オレ、やってみたいとおもってたのよ」
 正利に電話をかけると、弾んだ声が返ってきた。
  「よーーし! 親方には内緒だぞっ! 新聞配達で体力でもつけとけ!」
 ぼくも威勢良くそう励まして、日曜に待ち合わせることにした。
     *
 雲一つない晴れ渡った日曜日だった。
 一応、スーツを着ておいたほうがいいかと思い、前日に押し入れの奥からスーツを引っぱり出した。革靴が見つからなかったので、近所にある、学校だけを相手に商売をしているような小さな靴屋で急いで靴を買った。準備は整った。
 しかし、当日、あいつは時間通りに来なかった。
 もっと正確に言うと、あいつはその日、面接にさえも現れなかったのだ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第41回 新生活への希求

■月刊「記録」2003年2月号掲載記事

*           *           *

 学園は冬休みに入った。正式に退園表明を出してからは、ぼくはほとんど毎週のように正利と会った。場所はいつもあいつの好きなハンバーグが食べられるファミリーレストランか焼き肉屋だった。
「おい正利、おまえ、おれと一緒に仕事するだろう?」「うん」
 特に喜んでいるようにも見えない。相変わらずの無表情であった。
「おまえ、まさか今の仕事続ける気なの?」
「ううん。あんなとこ、いたってイミないのよ」
「そっかあー。じゃあ辞めよう! でも親方にはまだ言うなよ」
「うん」
「おれがおまえは辞めていい、と言うまではだめだ。さあ来い、と言うまでは、おまえは今の所で働くんだ。つらいだろうけど、我慢しろよ」
「うん」
「でも、もうすぐだからな。あとちょっとで、おれとおまえは好きなことをやって暮らしていける」
 まるでぼくは正利ではなく、自分自身にそう言っているかのようであった。

■ルーチンな日々への起爆剤

 うまくいくのか、いかないのか、皆目分からなかったが、新しい事業のことを思うと、それだけで楽しくなり、リスクは考えなかった。資金繰りにしたってなんとか開店にこぎつけられれば何とかなる。そう思っていた。 ぼくは、ただただ、今の生活が嫌になっていたのだ。学園にいれば安定した生活は保障されている。給料も良く休みもある。公務員に準ずる待遇であったため、余程のことがないかぎり、リストラでクビになることもない。
 じゃあ何か? ぼくは夢を追うために冒険を選んだのか?
 それとも微妙に違う。ただ単に普通である毎日、形式的である毎日、安定した生活に対して、何かを発したかったのだと思う。
 いや、むしろ当たり前という世界から逸脱してしまった子供たちに、常識をたたき込むかのようにみえた保母たちに反発したかったのだろう。普通であること、安定すること、社会に適応することを目標とさせる保母たちと、当たり前のようにそれを目標にする子供たち。そんな奴らに辟易としていたのだ。「つまらなくくだらない人生、無責任な人生を生き、自分たちを捨てた親」。そんな親から生まれたくせに、「オレだって人並みの大人になれる」と思い込んでいるガキ共。ぼくはそんな当たり前で、まっとうで、お利口さんな彼らすべてに何かを見せつけたかったのだ。
 ぼくは彼らにこう言いたかった。
「オレは思うよ。お前たち、無理すんなよ。保母の言うことなんか聞くなよ。何が自立だよ。何が安定だよ。何が大人だよ。オレたち大人だって、つまらない安定や普通にしがみつくくだらない存在だよ。でもお前たちがそんな道に進みたいなら進めばいいよ。オレは逆に進んでいってみる。まあ、見てろよ、お前ら」
 そのために必要だったのかもしれない。正利というヤツが。そんな世間の安定から逆行しようとするぼくの人生における実験材料に、あいつはきっとなっていたのだ。
 ぼくの「ノルマを果たし続ける人生」。その題目の犠牲者。それがあいつ、正利なのだった。
 そして、あいつはぼくにとって、まさに最適な実験材料だった。
 会うたびごとに、ぼくに自分の要求魚突きつけてくる。
 そのあたりが、自分の本音を隠して大人の顔色をうかがう学園の優等生たちとは違うところだ。
 ぼくがあれほど口を酸っぱくして「来ていいと言うまでは、今の仕事を続けろよ」と言ったのに、そうすれば「オレとお前で好きなことをやっていけるぞ」とまで言ったのに、相も変わらず、
「オレ、やっぱり、ガソリンスタンドではたらいてみたいのよ。あこがれてるのよ」
 だの、
「オレ、しんぶんはいたつしてみたいのよ」
 だのと言う。
 やはりスケールが違う。ぼくの話も気持ちも何一つ聞いていやしない。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第40回 実行の時

■月刊「記録」2003年1月号掲載記事

*         *         *

「辞めます。本当に辞めるんです。3月いっぱいで辞めさせていただきます」
 正利との共同生活を決意した今、今の施設での仕事を続けることを、ぼくは無理であると判断し、主任保母にその決心のほどを告げたのだ。
 もうぼくの目の離れたところへ、あいつを仕事に出すことに限界を感じていたからだ。
  「でもねえ、今辞められたら困るのよ。もう一回考え直してくれない?」
 少し優しそうな顔で、でも困った表情で、保母はぼくをなだめるように言った。
  「もう、決めたんです」
  「いつ?」
  「昨日です」
  「だったら考え直したほうがいいわ」
 保母の言葉にぼくは今度ばかりはきっぱり言った。
  「何度考えたって、辞めるしかありませんから」
 ここで譲るわけにはいかない。いつも、どんなときでも、ぼくは保母さんたちに従ってきた。どんなときだって、ぼくは忠実な部下でいた。でも今度ばかりはそうはいかない。
 あいつが、正利が、ぼくを待っているのだから。

■もはや理由ではなく

  「確かに何のあてもなくて、ぼくも不安です。でも、あいつは親方にも匙を投げられて、どこへも行くあてがないんです」
 この頃になると、主任保母の顔は明らかに呆れ果てたものに変わっていた。そしてこう言った。
  「あのねえ、もうちょっとマトモに考えなさい。先生ももう30でしょう。赤の他人、しかも16歳の男をどうして30歳の男が養うのよ。養っていけるの? ただの共同生活じゃないのよ。フィフティ・フィフティな関係じゃないの。正利に経済力がある? 下手すれば先生が二人分稼がなきゃならないのよ。家賃だって、食費だって、遊ぶお金だって、全部先生がやりくりしなきゃならないのよ。そんなお金ないでしょう」
 ごもっともであった。全くその通りである。しかし、ぼくも辞めるという話を出した端から、ぼくがぼくなりに温めてきた計画を言うわけにもいかなかった。だが、ぼくはその計画にかなりの自信を持っていたのである。  「大丈夫です。心配してくれてありがとうございます。とにかく、あいつも仕事辞めるし、ぼくも辞めさせてください。あいつと、とにかく二人にさせてください」 なんだか結婚を反対する親に対して、なんとか説得しようとしている気がしてきた……。
 それにしてもぼくは普段、何一つ決められない気弱な人間なのに、何だろう、この今回の気持ちの強さは。まるで揺るがないのだ。
 周りの人の意見もまるで耳に入ってこない。決められたことを、ただただ実行するのみ、という感情以外にないのだ。
 それからも保母と私の「辞める」「考え直しなさい」のやり取りは何度も続いた。
 しかし11月の下旬になり、ぼくはついに園長に直々に退園願いを出し、受理してもらった。
 その瞬間、「何もかもが終わった」という放心状態になるかと思っていたが、逆に一晩にしてすべてが動き出す気配を感じた。
 まさにぼくの計画の第一歩を実行する時が来た。
  「プロレスショップ」か「日焼けサロン」。このどちらかを今まで貯めた金と借金とで立ち上げる時が来たのだ。
 ぼくにとってはどちらでも良かった。正利とやる。正利が暮らしていける。しかも楽しくだ。それが嬉しく、大事だった。
 何故か? わからない。
 正利みたいな奴は、当時だって今だって、好きか嫌いかと聞かれれば、むしろ嫌いな部類に入る。でも何故かあいつのこととなると「何かしてあげられたらなあ」ではなく「なんとかしなければ」になってしまうのだ。
 ぼくには、子供の頃からちょっとした癖があった。
 いつも自分自身にノルマを課してしまうのだ。
 今では、朝から晩までノルマだらけだ。朝は何時に起きなければ「いけない」。シャワーを浴びるときは、ここから洗って、ここで終わらなければ「いけない」。しかもていねいに時間をかけなければ「いけない」。夜は何時までに寝なければ「いけない」。そんな類の小さいノルマがたくさんあるのだ。日に日にノルマは増えていき、今では時間が足りなくて困っているくらいだ。
 そして今までの人生最大のノルマが正利のことであった。
 正利を引き受けようとする理由を、あえて聞かれるならば、自分なりにはこう解釈できた。
 そう考えてみると、すべてにつじつまが合う。何のためか? や、利益または不利益? や、好き? 嫌い? などのすべてが関係ないのだ。なんといおうと、これはノルマなのだから。ノルマはこなさなければ次へ進めない。ノルマはぼくのなかでどんどん増える一方だ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第39回 一つの決断

■月刊「記録」2002年12月号掲載記事

*           *           *

「先生、困るんだよ。実里の奴、いきなりお姉さん連れてきましたよ」
  「…はあ、お姉さんですか…」
 土曜日の朝、また朝早くから電話が鳴った。
 朝一番の電話は、きっとろくなものじゃない。だが、居留守を使おうと思ったときにはすでに遅かった。手が条件反射で受話器を取ってしまっていた。
 電話の主は親方だった。親方からの正利に対しての苦情の電話だった。寝起きのぼくの頭は、まだほとんど働いていなかった。お姉さんが、正利の寮へ行くなんて、確かに珍しいことだとは思う。でも、それが苦情を言われるような、いけないことだとは思えなかった。
  「お姉さんが行くと、何かまずいんですか?」
  「いやぁ、お姉さんが来たとたん、二人で荷物をまとめて出て行こうとしたんだよ」
  「はあ?」
  「本日限りで“辞めさせていただく”ってお姉さんが言うんだ」
  「はあ?」
  「それで先生のところへ行くって言うんだよ。いったいこの前実里に会ったとき、何を吹き込んだんですか」  「いや、特別なことを言った覚えなんてないんですが…。あいつの悩みを一方的に聞かされていただけなんですけど。…でも、何だって“本日限り”なんて言い方をして、荷物までまとめちゃったんでしょう?」
  「お姉さんねえ、実里の給料が少ないんじゃないか?  って言うんだよ。そんなことはないって言っても、搾取してるんじゃないか?  みたいなこと言うんだよ」
  「……」
  「そんなことあるはずないでしょ。“だいたいどこからそんな話が出てきたんだ?”って聞いたらね、弟は7万円の小遣いがあるはずなのに、2万円くらいしかもらってないって言ってる、って言うんだ。実里の言うことは信用して、私の言うことは納得しないんだよ、どういうことですか、先生」
 どういうことですかと言われても困るが、たしかに親方の言う通りである。なぜお姉さんは、“あの正利”の言うことを一方的に信じてしまえるのだろう。つまりそれは、それくらい、正利との接触が少ないということだ。正利の言い分を簡単に信じて行動に移せるほど、正利を知らないということだ。
  「でも、そんなの、お姉さんに給料明細なりなんなりを見せれば済むことじゃないんですか?」
  「そうなんだ。だから見せたんだよ。見せたけど、ほら、うちは明細が手書きだろ?  コンピュータとかワープロなんてもんは使ってないんだよ。うちのカミさんが手書きで書いてるんだよ。そうしたらね、なんか怪訝な顔してね、疑わしそうな顔して“わかりました”って言って帰っていったよ。あの人はね」
  「じゃあ、よかったじゃないですか」
 寝起き頭のぼくの呑気な答えに、親方はどこかが切れたらしい。急に苛立たしげな声で苦情を言い始めた。
  「冗談じゃないよ先生、問題は実里のほうだよ。辞められなかったからって、ぶすっとしててよ、もうずっとだよ。ろくに口も利かないし、仕事もしないでボーっと突っ立ってるよ。“お前なんで仕事しないんだ”って言うと“おれ、せんせのとこ、いくから、いい”って、こうだよ。“先生のところへ行くのはかまわんから、今は働け”って言ってもダメ。もう呆れて何も言えないし周りも何も言わないよ。どういうことなんだよ、先生」
 話しているうちに、いろいろ思い出されてくるのか、親方の口調は次第に激しさを増していった。
  「小遣いはすぐに使っちまうし、その日の弁当代と往復の交通費渡しても、昼の休憩時間に全部使っちまう。それで現場の帰りには、改札のところでボーっと突っ立っててよ。“何してる、切符買え”って言っても何も言わない。ははあ、こいつ金がないんだと思って切符買ってやっても、礼も言わない」
 まくし立てるように親方は続ける。合間に言葉を挟もうとしたが、親方の剣幕に圧されて、何度も失敗した。だが同時に、親方の言葉を聞くうちに、ぼくのなかには次第にある決心が固まってくるのを感じた。
  「先生、あいつはな、結局のところ、どうよくしてやったって何とも思ってないんだ。仕事はしないけど金は欲しい、そういう奴なんだよ、あいつは」
 今までの不満が溜まっていたのだろう。さんざん苦情を訴えた挙げ句、最後の最後に親方はこう言った。
  「先生、うちはもう、あんな奴いらないんだ。迷惑なんだよ。慈善事業じゃないんだ、先生。あんたんとこでなんとかしてくれよ。今すぐだよ。半年先とか一年先の話じゃない。今すぐだ」
  「わかりました」
 自分でも驚くほどはっきりした声が出た。
 決まったのだ。これで何もかも決まったのだ。声に出してしまって自分のなかにあった迷いが一気に吹き飛ぶのを感じた。もう考えている場合じゃない。迷っている場合でもない。ぼくは心のなかに温めていたある計画を今すぐ実行するべきだと、そのとき決断したのだった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第38回 早朝の電話

■月刊「記録」2002年11月号掲載記事

*          *          *

 秋深まり、冬間近の朝、ぼくは電話のベルで起こされた。正利からだった。暗く沈んだ声。なんでも仕事を辞めるという。
 たまの休日、ゆっくりとまだ寝ていたいところに、また、やっかいな問題が割り込んできた。細かいことはわからないが、声の様子からするとなにやら事態は深刻な様子だった。
 ぼくは、今すぐ、ぼくのアパートへ来るようにと正利に指示した。すると“金がないから、こっちまで来てほしい”と言う。親方から借りればいいじゃないかと伝えても「あのひととは、口をききたくないのよ」と言う。 あきれた奴だ。何か無性に腹が立ってきた。今すぐに会ってやる必要もないか、という思いになり、
「わかった。そっちに行く。だけど昼は用事があるから、夜にな」
 そう言って、待ち合わせの場所を決め、ぼくはもう一度眠りについた。
         *
 待ち合わせ場所に着くと、かなりの人混みだった。正利を探すことができるかどうか心配になった。
 しかし、不思議なものである。すぐに見つけることができた。遠くから見ているのに、こんなに周りには人がいるのに、正利のいる場所だけに、スポットライトが当たっているように、見つけだすことは容易であった。
「待ったか?」声をかけてみる。
「あー」浮かぬ顔でも、ぼくに会えて嬉しそうな顔でもない。ただただ無表情。
「何か、麺でも食いながら話でもしようか?」
「あー」正利は、ぼくの顔を見ようともしない。
 ぼくからは、スポットライトが当たっているかのごとくあいつが見えているというのに、正利には、ぼくのことなどまるで見えていないようだ。
 レストラン街に入ると、一番手前にお好み焼き屋があった。
 ここでいいや、と、ぼくは思った。ラーメン屋を探す手間が面倒だった。
「おい、ここに入るぞ」
「……」何も答えがない。
「おい、入るぞ」
「……」
「おい、聞こえてんのか?」
「……」
「おまえが相談があるっていうから、おれはわざわざ来たんだぞ」
「……」
 何を考えているのか、さっぱりわからない。浮かぬ顔、焦点の合わぬ視線、ただボーっと突っ立っている。
「おい」と、僕が語気を強めると、あいつはようやく重い口を開いた。
「おれ、きょうは、ハンバーグがいいとおもうのよ」
「はあ!?」
 本当にあきれた奴だ。悩み事がある、相談事がある、仕事を辞めたい、と言っている人間の言葉とは思えない。だから朝っぱらからの電話なんてろくなもんじゃないと思ったのだ。
 受話器を取るんじゃなかった、心からそう思った。
「あのね、おれはハンバーグどころじゃないんだよ。時間ないの。明日も仕事があるの。ここで食うよ。ここで決まり。はい、入るよ」
 無理に店内に正利を連れ込み、席に落ち着き「仕事、やめたいんだって?」と、ぼくはさっさと話を始めた。「あー、うん」
「なんで。理由は?」
「……」
「おまえね、理由もなしに辞められるわけないだろ?」「……」
「おい、わざわざ遠くからおまえの相談に来てんだから、口ぐらい開けよ」
 ぼくがムッとし強い口調で言うと、あいつはやっと、「おれ、…みんなに、なぐられるのよ」と口にした。
「はあ、本当か、それ?」
 そのとき、ぼくたちの前に水とおしぼりが運ばれてきた。
 おしぼりを取り上げ、拭った正利の手は、あまりにも汚れていて、みるみるうちに、おしぼりは真っ黒になった。驚いてよく見ると手だけではない。服も髪の毛も、何かすべてが汚れているように見えた。いや、明らかに汚れている。正利は、もう何日も風呂には入っていないようだった。
「誰に殴られるんだ?」
「みんな」
「おまえ、そりゃあ大げさだろう」
 いくらなんでも、みんながこぞって正利を殴るわけないさ、そう言ったぼくの前で、少し不満そうに首を傾げたあいつは、
「おれ、せんせいになんていわれても、やめるからね」 と言った。
 こういうときの正利は、強情で手に負えない。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第37回 境目の日

■月刊「記録」2002年10月号掲載記事

*           *           *

 市営プールでの待ち合わせに、とうとう正利は来なかった。
 約束を守らなかった。そんなことは今までもしょっちゅうだ。日常茶飯事のことである。
 そもそも約束を守る、あるいは覚えているということのほうが、あいつにとっては、難しいことなのだから。 しかし、この「市営プールに正利と友人が来なかった」日が、思い返せば、ぼくと正利との関係の一つの境目であったように思う。
 あの日を境に、ぼくと正利との本当の意味での付き合いが始まった気がしてならない。それまでは、どんなにあいつが脱走しようと逃げようと、施設が責任を取ってくれていたが、これからはそうもいかないのだった。ましてや正利の姉は、いつでも責任を取れる距離にはいない。
 つまり、正利と付き合うこと、それに伴う責任とリスクを本当にぼくが覚悟していかねばならない日が、このあたりから始まっていたように思う。

■愚痴だらけの電話

 順調にいっていると再三言われていた正利の仕事と職場での人間関係は、じつは、すでにこのとき、破綻しかかっていた。
 仕事場でのあいつが、仕事ができないのはわかっていた。それを承知で採用したのは、親方のほうである。現に親方は、「長い目で見て一人前になってくれれば、それでいい」と思ってくれていたようだ。事実、親方は、正利には、いきなり無理な仕事はさせなかった。正利はいわゆる、見習い的な立場なのだった。
 通常、職場に入ってから、2~3か月もすると、先輩につき、同じような仕事をし始めるのだが、親方の配慮によって、正利はまだ見習い的な位置にいた。
 3か月たっても、4か月たってもそれに甘え、陽射しの強い夏、猛暑の中、汗水たらし働く同僚・先輩たちをよそに、正利は日陰でいつもぼんやり突っ立ったままでいた。
 突っ立ったままの正利は、いつの間にか手を膝にやり、次には腰を曲げ、気づくと今にも座りそうであった、という。
 そんなことが度重なると、先輩・同僚たちの不満はつのった。「あいつは見習いだから」そう親方から説明されていた彼らの感情は、だから、まず、親方にぶつけられた。
「なんで、俺たち、あいつと同じ給料なんですか?」
 同僚はこう言った。
「見習いなら、給料を減らしてもいいんじゃないですか?」
 聞いていた先輩たちも同意見であった。
 それでも親方は、施設出身者である正利には優しかった。
「あいつは、雑用をやっているんだから」
 そう言って、皆をなだめてくれていたという。
 もちろん、親方の言葉に、「まあ、ぼーっとしているけど、おもしろいやつだしなあ」と、なんとなく受け入れてくれている先輩もいた。
 しかし、雑用といっても、ジュースやタバコ・弁当の買い出し、食事の後かたづけなど、微々たるものである。到底、納得などできずに、正利に無理に仕事をさせようとする先輩も現れ始めた。
 一輪車にコンクリートを詰めて、正利に運ばせる。すると非力で要領のつかめない正利は、よろけてコンクリートをぶちまける。それ見たことか、と、先輩は、やって来て正利の頭をポカリ。
 そんなことが続いていたらしい。正利はプールでの約束を破ったにもかかわらず、以来、ぼくに頻繁に電話をかけてくるようになった。
「せんぱいが、ぶつのよ」
 思い出してみれば、そんなことをよく言っていたように思う。
 ぼくは、まだそのとき、正利の訴えをあまり気にとめてはいなかったが、正利が明るい声で、職場のことや同僚のことを話すことが、あの夏のプールの日以来、なくなっていたことは事実だった。
「つかれたのよ」
「からだがしんどいのよ」
「おかねがたりないのよ」
「どうりょうと仲良くはできないのよ」
「おやかたは、つめたいのよ」
 そんなことばかりを電話をかけてきては、延々と愚痴る日が続く。
「そんなに話したいことがあるなら、俺のアパートに来いよ」
 ぼくのほうも自然と、頻繁にあいつを誘うようになっていった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第36回 新しい生活

■月刊「記録」2002年9月号掲載記事

*          *          *

 正利の就職先が決まった。ついに決まったのであった。大阪に本社がある左官屋であった。
 実際のところ、仕事はできるのか、職場に適応できるのか、依然として不安はつきなかったが、どんな形であれ、とにかく学園から“就職”という形であいつを送り出すことができたのだ。
 なんとか担任の責任を果たすことができた、という思いに、ぼくはホッと胸を撫で下ろしていた。
 とはいえ、本当のことをいえば、きっとあいつはすぐに辞めて戻ってくる、正利に仕事なんかできっこない、ましてや続けていくことなどできるはずがない。
 ぼくはそうも思っていた。
 それは正利というやつの性格を並べたうえでの客観的判断でもあったが、どこかがぼくの希望的観測でもあるのだった。

■日々はめまぐるしく過ぎても

 4月になり、新しい学期が始まり、ぼくも新しい児童たちの担任になった。
 当たり前だが、正利とはぜんぜん違ったタイプの中学生たちの担任だ。もう、わけのわからないことで頭を悩ませることもない。
 せわしない新学期のなかで、あっという間に月日は流れていった。5月になると中間テストが始まり、ぼくは子供たちと夜な夜な勉強した。6月になると、さらに子供たちとの距離を縮めるために、ぼくはアパートに彼らを招待し、焼き肉をごちそうし、新品の布団に寝かせてもやった。
 そうして日々は過ぎていった。めまぐるしく時間が過ぎ、新しい出来事もたくさん起こった。しかし、どんなときでもぼくは正利のことを忘れることがなかった。普通は、児童がが卒園して3ヵ月も経つと、お互いに新しい生活に追われ、また慣れ、だんだんと互いのことなど忘れてしまう。
 だが、ぼくは違ったのだ。
 ときどき、ぼくは左官屋の親方のところに電話を入れてみた。すると、いつも親方の奥さんらしき人が電話口には出た。
  「正利、お願いします」と、ぼくが言うと、
  「ああ、里屋くんね」と奥さんが言う。そして、
  「さとやくーん、電話よー」と、大きな声で呼んでくれた。
 正利という呼び名ではなく、「さとやくーん」という奥さんの電話越しの声を聞くと、
(ああ、あいつは遠いところへ行ってしまったのだな)と、ふと寂しい気持ちになった。
 電話口で正利は、
  「だいじょぶよ。しごとたのしいのよ」と、いつも決まって言った。
 ただ、ぼくには、あいつの声が、そんなに弾んだ声には感じられなかった。
 気のせいだろうか、自分の寂しい気持ちがそう感じさせているのだろうか、とぼくは、受話器を眺めながらぼんやりと考えた。

■ある朝の電話

 夏休みに入ると、暑いことが苦手で、体を陽に焼くことがもともと大好きなぼくは、ほとんど毎日のように子供たちをプールへ連れて行った。
 朝一番に集合し、午前中に近所のプールでひと泳ぎして、午後には学園に戻る。そんな日課だった。
 そしてそれは、そんなある日のことだった。
 朝、珍しく正利のほうから電話が入ったのだ。
  「せんせい、いまから、そっち、いっていい?」
 まったく唐突な正利からの連絡だった。だが、正利が唐突なのは、いまに始まったことではない。そしていつもとは違い、電話の声はとても明るく弾んでいるように聞こえた。
 話を聞けば、夏休みをもらうことができて、3日間続けて休めるのだという。
  「あー、いいよ。いいよ。来いよ。でも、ほら、他の子もいるからさ、昼寝の時間には学園に戻らなきゃいけないんだ。でも、今からそっちを出れば間に合うだろう?」
 ぼくも思わず、陽気な声を出していた。
  「だいじょぶよ。きょうは、ともだちもつれていくのよ」
 友達さえよければ、正利ともどもぼくのアパートに泊まっていけばいいのだ。久しぶりの懐かしさも手伝い、ぼくは単純にそう思い、楽しい気分になった。
 正利とは、市営プールの前で待ち合わせをして電話を切った。
 しかし、昼寝の時間になって、学園に戻る時間になっても、正利からも、その友達からも連絡さえ入らなかった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第35回 就職活動の苦難4

■月刊「記録」2002年8月号掲載記事

*           *            *

「無理を承知の上ではありますが、何とかこいつを雇っていただけないでしょうか」
 だだっ広い、いつもは礼拝をするための講堂に正利を呼びつけ、現れた正利の叔母を前に、ぼくは単刀直入に懇願した。
「わかっていますよ。この子のことは、いつも頭の片隅にはあるんですよ」
 さすがに歳を重ねているだけのことはある。姉とは違い(先ほどの嫌味たっぷりの口調は置いといて)、いかにも信頼できそうな叔母の対応である。
 希望の光を見た思いがし、ぼくはすがりつく目をして次の言葉を発した。
「叔母さんと直子姉さんの間で、いろいろな事情があることはわかります。でもそれって、正利とは関係ないことだと思うんですよ」
 どうかここはひとつ! 手を揉み合わさんばかりに頼み込むぼくの前で、叔母はしばらくうつむき考えていた。そして、しばらくすると何かを決意したかのように、おもむろにきっぱりと頭を上げた。
「今、うちはですね。元首相のお宅に仕事に入らせていただいております。バブルが弾けた今、この仕事をしくじるわけにはいかないんです。今、正利を使う余裕は、うちにもないんです。先生」
 あまりのきっぱりした態度と口調には、相手に二の句を継げさせない頑なさが読み取られた。ぼくは思わず言葉を失った。
 ……ああ、やっぱり、またか。
 まただ。とうとう親類にまで正利は断られたのであった。

■最終兵器使用

 仕方なく、再び就職先探しの日々が始まった。
 正利の中学校の先生と一緒にハローワークめぐりの日々である。
 最初は、障害者が働くための更正援護施設を探していたが、職員と話をしてみると、案の定、障害者手帳を持たぬ正利には無理な進路なのであった。
 そして苦心惨憺のあげく、やっと見つけたのが住み込みの建築業。左官屋である。
          *
「何でこの仕事やりたいと思ったんですか?」
「わかりません」
「仕事の内容はわかってるかな?」
「わかりません」
「じゃあ仕事のことはとりあえずいいや。何か特技は?」
「バスケです」
「ああ、バスケットボール。得意なんだ。部活動か何かやってるの?」
「いいえ」
「じゃあ、そんなに上手いってわけじゃないんだね」
「いいえ」
「じゃあプロの選手になれるほど上手いの?」
「わかりません」
「……もしかしたら、大阪とか、静岡とか、今、住んでいる所から遠い所で仕事するかもしれないんだけど、大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、勤務地の希望は特になしでいい?」
「わかりません」
「どこでもいいのかな? とりあえずは」
「わかりません」
 以上が、正利と面接官とのやりとりである。
 ぼくはこのやりとりを隣で聞いていて、思わずうなり声を上げそうになった。
 正利、おまえやればできるじゃないか。ぼくの隣にいる正利がどんな質問に対しても間髪入れずに受け答えをしている。
 正直驚いた。今日まで、あいつに対して行ってきた「最終兵器・反復練習」がここまで有効であったとは。
 最終兵器・反復練習のポイントはこうだ。
 ①はっきりわかることには答えてよし。
 ②ちょっとわかることには「ハイ」。ちょっとわからないことには「イイエ」。
 ③なんだかわからない質問には「わかりません」。
 この3つだけを徹底してぼくは反復させた。そして、今まさに、あいつは無表情ではあるが、確実に受け答えしているのだ。日頃の返事ナシ・相槌ナシ・挨拶ナシのあいつではもうないのだ。
(…もらった。この面接はいただいた)
 ぼくはそう確信した。
 そして、正利の就職先が決まったのである。ついに決まったのである。
 大阪に本社がある左官屋である。
 仕事はできるのか、どのくらい続けることができるのか、依然として不安はつきないが、しかし、どんな形であれこの学園から“就職”という形で、あいつを送り出すことができるのだ。ぼくはホッと胸を撫で下ろした。 責任は果たした。とりあえず、なんとかなった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第34回 就職活動の苦難3

■月刊「記録」2002年7月号掲載記事

*       *        *

 鉄鋼所が設置した面接会場にたどり着く。汗を拭きつつ面接官の前に座ると、工場長はなにか、そのへんにいる近所のおじさんといった風貌の人であった。
 中肉中背の全身には特にこれといった特徴もない。ただ、スラックスに現場特有の制服のような作業着を着た姿だけが、工場長の雰囲気を醸し出していた。
 話を始めると、工場長は気さくな方で、時間ギリギリに汗を拭きつつ到着したぼくたちに皮肉の一つも言わず、仕事の内容、就業規則について、いろいろな話を事細かに説明してくれた。
 しかし、しかしである。あいつときたら……。
 挨拶なし。返事なし。相づちなし。愛想なし。そして表情なしのナイナイづくしである。
 とうとう面接のはじめから終わりまで、結局、何もせず、一言も声さえ出さなかったのだ。
 まるでぼくが、このぼくが、面接を受けているかのように、あいつのすべてを代弁していただけだった。
 帰り際、会場を出ようとすると、主任が小走りでこちらに向かって走ってくるのが見えた。何か言い忘れたことでもあるのかと立ち止まり、
  「どうしたんですか?」
 と訊ねるぼくたちの前で、ぼくではなく、正利の正面に立ちはだかり、彼は言った。
「だめじゃないか、返事くらいしなきゃ、挨拶くらいしなきゃ! 最低限のことだろう!」
 吐き捨てるようにそれだけを言うと、主任は立ち去っていった。
 ぼくは、彼の後ろ姿を眺めながら、心のなかでつぶやいた。
(また、だめか。ああ、またなのか……)

■八方塞がりの面接練習

「おい、違うだろう。トントンってドアを叩くだろ、それで“どうぞ”って言われたら、“失礼します”って言って入ってくるんだよ」
 ドア越しに、ぼくは大声で正利に注意する。
 それにしても…。何回やってみても全然だめなのだ。 面接の練習を始めてはみたものの、にっちもさっちもいかないことを改めて知った。これじゃあ落ちても当然だ。
 返事もなし。挨拶もしない。相槌も打たない。ヒョロっとしたやたらに色の白い分厚い唇の男。そんなヤツはどこにも行くところがなくて当然だ。
 いずれにしても、製本所・畳屋・鉄鋼所すべてがダメだった。おまけに「まずは職業より、住む場所から確保してはどうか?」という主任の最後のアドバイスに従って受けたY市の南区にあるグループホームも落ちた。これは入所資金が不足していたためだ。
 八方塞がりとはこのことだ。もう、ほとほと嫌気がさしてくる。
  「もう一回やってみな」
 トントン「…しつれいします」
 相も変わらずもぞもぞと、くぐもった声を出しやがる。この声がいつもぼくを苛立たせる。
  「聞こえねーよ! 声が小っちゃいんだよ」
  「でも、言えるようになっただけでも進歩だよ、先生」
 面接の練習を手伝ってくれているサエコが、ぼくの苛立ちを見かねて口を挟んだ。
  「そうだよなあ、そうとでも思わないとやってられないよなぁー」
 思い起こせば姉の直子が、約束通りにきちんと正利を引き取ってくれさえすれば、こんな苦労はしなくてもすんだはずである。
 あるいは、そもそも直子が“引き取る”などと言い出さなければ、国立にいる正利の叔母の家業である、左官屋に入れるための段取りを最初から取っていた。
 ぼくはしばし考え込み、そしてハッと気づいた。
(そうだ! 叔母だ。イチかバチか。あの叔母に連絡を取ってみようではないか!)
 直子と国立の叔母は犬猿の仲といってもいい。今、姉の直子を差し置いて、叔母と連絡を取り合うことは、ひょっとしたら大変まずいことになるのかもしれなかった。あんな姉でも正利は、直子のことを慕っている。
 だが、しかし、ぼくは頼りにならない姉よりも、経済的にも精神的にも自立しているであろう叔母を頼ってみるべきだとこのとき気づいた。
 もしかすると、すんなり、過去のことはさておいて、正利の左官屋入りが決定するのではないか? などと、甘い考えが首をもたげてきた。
        *
  「しかしねぇ、それにしても気持ち悪いほどそっくりねえ。あの姉さんに。ああ、なんか思い出してきちゃった。ああ、いやだ」
 叔母は正利を見るなりそう言った。久しぶりの対面だというのに、懐かしむどころかその物言いは、むしろ皮肉に溢れていた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第33回 就職活動の苦難2

■月刊「記録」2002年6月号掲載記事

*          *          *

 その日はなぜか11月だというのに、少し動くと汗ばんでしまうほど暖かい春を思わせるような陽気だった。駅のホームから電車が来るであろう方向へ目を向けると、線路が立ち昇る水蒸気でユラユラと揺れて見えるほどであった。
 こんな陽気なのに、ぼくはスーツにネクタイを締め、同様に正利もブレザーにネクタイといういでたちであった。
(今日はしくじるわけにはいかない)ぼくはそう思った。これ以上この正利のためだけに時間を割くわけにはいかない。今日は正利の面接であった。
 ぼくには、正利のほかにも受け持っている担当児童がいる。そのなかの一人が、先日学園に火事を起こした原田だ。彼のことも気にかかっていた。
 高校3年である原田は、会社からすでに就職内定を受けてはいたものの、火事による精神的なショックから、未だにほとんど口も利けぬ状態であった。
 しかし週末には、そんな原田を連れて、ぼくは内定先であるY市の工場へも行かなくてはならない。
 一部の企業には、内定を出したあとに、施設の出身者に対してもう一度、出生やら生い立ちやらを調べるところがある。とはいっても、いざ担当者に会ってみると、意外と施設そのものへの知識は少ない。
 素行が悪くて施設に入れられたのでは? どこかに障害があるので施設に入っているのでは? などと思っている人たちがほとんどだ。
 そこでぼくはまず、彼らに「施設に入ったのは、この子自身に問題があるのではなく、この子の親に養育能力がなかったからなのだ」ということを説明しなければならない。
 まあ、この2点さえ理解してもらえれば、たいていの担当官は、すぐに納得し、安心してくれるのだが。
 だが、原田には火事の件もあった。火事の原因は、原田によるタバコの不始末なのだ。
 火事のこと秘密にしておくべきか、ぼくは迷っていた。正直に言ってしまえば、原田の内定は取り消されてしまうかもしれない。そうなると原田は、火事のショックに加えて、さらに心労を重ねてしまうことになるだろう。

■あわや遅刻!? の面接会場

 それにしても、いつまでたっても電車が来ないのだった。
 余裕をもって学園を出て来たぼくと正利であったはずなのに、刻一刻と面接の時間は迫ってくる。そもそもこの路線は、工場の従業員たちの送迎のために造られたようなもので、一般の人間にとっては、あまり利用価値のあるものではないらしい。時刻表を見ると、朝と夕方には本数が多いのだが、昼間は極端に少なくなっている。 苛々しつつ電車を待ち、やっと来た電車にぼくと正利は飛び乗った。腕時計を見ると、なんとか面接開始の20分前くらいには到着できそうだ。そこで、工場の名前がついた駅でぼくたちは条件反射のように飛び降りた。すぐ目の前には、工場の正面玄関があり、ぼくたちは息を切らして建物に飛び込んだ。
 だが、受付で面接すべき部署名を告げたぼくたちに、なんということか、受付の人は、面接会場は隣の駅だという。
 そんなバカなと思ったが、事実なのだから仕方がない。急いで時刻表を確認してもらうと、次に電車が来るのは30分後。ああダメだ。間に合わない。完全に遅刻である。隣の駅まで徒歩で何分かかるか、血相変えて尋ねるぼくに、「20~30分でしょう」と、またまた受付の人は軽く言う。
「20~30分」という表現は、普段よく使い、よく使われる言葉である。しかし、こんなときの曖昧な表現には、本当に苛々させられる。20分ならギリギリ間に合うし、30分なら遅刻である。10分も面接に遅刻したら、まず落ちると思ったほうがいい……。
「正利! 歩くぞ」
「あぁー」
 歩くしかないのだ。必死になって線路の脇を、ときどき走りながら歩いた。道に迷うことはなかった。工場は隣の駅まで間違いなくつながっているほど大きなものだったから。
 汗まみれになって、なんとか会場に、時間ギリギリに到着したぼくは、思わず天を仰いだ。まだ、ぼくたちには運が残っているようだ。あとは約束の部署へ向かうだけだ。
 会場は、だだっ広い体育館であった。部署といっても、おのおのが部屋で仕切られているわけではなく、フロアのあちこちに、机がかなりの間隔をあけて点在している。その机のかたまり一つひとつが一つの部署になっている。そんな感じであった。
「どうも、こ、こんにちわ、よろしくお願いします」
 汗を拭きつつ、ぼくは工場長と、先日学園で会った主任に頭を下げた。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/恥をむき出しにする政府とマスコミの癒着

■月刊「記録」2003年8月号掲載記事

*         *         *

 自衛隊出兵法案ともいえる、イラク復興支援特別措置法案が衆議院を通過した。いま、参議院で審議がおこなわれている。
 不法な米英軍のイラク侵略を批判しないばかりか、その暴虐行為に共謀し、荷担した小泉純一郎首相は、有事関連三法を成立させた余勢をかって、この法案を成立させ、総裁選をも乗り切ろうともくろんでいる。選挙民は愚弄されるばかりだ。
 これにたいする新聞の論調は、いっかんして冴えない。読売・産経などの政府御用新聞は、むろんイラン特措法に賛成の論を張り、朝日・毎日がかろうじて批判に傾いているのみだ。
 このように日本の報道機関は戦争にたいし、きわめて弱腰な対応になっている。いまさら読売・産経などを批判しても、という感情がないでもないが、しかし戦争に無抵抗な新聞にたいしては、批判しつづけなければならない。

■老獪な政府御用新聞のやり口

 産経新聞7月5日の朝刊は、一面トップに、尾道市教育次長の自殺記事を押しだしてきた。産経新聞では社会面トップでも同件をあつかっている。この事件は広島県尾道市教育委員会の山岡將吉教育次長(55)が、乗用車の後部座席で首をつって自殺した事件である。
 広島県では1999年2月にも世羅高校の石川敏浩校長(58)が自殺する事件が発生した。これは当時の文部省から派遣された辰野裕一教育長の強権的な指導に起因している。辰野裕一教育長が強行した、日の丸掲揚と君が代斉唱の業務命令に抵抗しきれなくなって自殺したものである。
 自民党は、この事件をことごとく広島教職員組合の責任にし、その死を利用して、日の丸・君が代の国旗・国歌としての法制化にもちこんだ。こんご、同様の混乱が起こることを防ぐためという名目であった。
 今回の山岡教育次長の問題では、先の3月9日に高須小学校に、民間校長として赴任していた慶徳和宏校長(56)が自殺するという事件が発端になった。慶徳校長もまた、教育委員会の強硬な方針に抗しきれず、過労と心労をたかめていた。慶徳校長は、休暇や転任の希望をくり返し提出していたが、広教委は対応せずに放置し、自殺に至らしめたものである。
 山岡教育次長は、亡くなった慶徳校長の指導役にあたっており、またその後の事件への対応にも追われていたが、とうとう過労からこんどはみずからが自殺した。これも文科省直属の教育委員会の被害者といえる。
 このように自殺があいつぐ広島県の異常な管理強化体制という問題にはいっさい触れず、あらゆる責任を広教組に押しつけようとする新聞の姑息さは憤懣きわまりない。
  さらに産経新聞の一面記事にいたっては、「尾道市教育次長が自殺/民間校長自殺調査、組合反発に悩む?」と見だしをつけ、事実関係のはっきりしないうちに、組合問題に「?」をつけてまでも、あたかも民間校長が自殺した原因に、組合からの強烈な批判があったかのように印象づける老獪さである。広島県では98年の文部省による「是正指導」という締めつけ以来、校長5人をふくめて12人が自殺する異常事態である。
 広教組には、さる6月27日夜にも、組合書記局に銃弾が2発発砲されるという重大な事件が発生したばかりだ。産経新聞はこれにたいしなにひとつ言及せず、ひたすらに組合攻撃を強めている。このように校長の自殺などがあると、鬼の首を捕ったように即座に教組のせいにするやり口ひとつをみるかぎりでも、文部科学省と右翼新聞が一体となって日教組攻撃をしている構図が浮かぶ。 今回の一面トップ記事は、産経新聞の体質をあらわしたものだが、読売ばかりか、朝日まで、社説で県教委と県教組の対立が原因としている。権力の横暴への抵抗を対立とよそおった表現は、犯罪的だ。マスメディアは、国に抵抗するものを「やりすぎ」といって血祭りに上げることによって、権力を擁護してはいけない。

■憲法の誇りを砕く米追従小泉政権

 新聞といえば、『創』8月号には、安田純平という元信濃毎日新聞記者の手記が掲載されている。「イラク戦争取材のために新聞社を辞めた」と題されたこの手記によると、安田記者は米英軍のイラク攻撃直前、バグダッド市内で現場の生の声を取材することが記者の使命と考え、自分の手もちの休暇を使って取材にいかせてほしいと会社側に申し入れた。それも拒否されたことを契機に1月に退社した。
 信濃毎日新聞社が安田記者にしめした回答には、「イラクの戦争など長野県と関係ない。取り上げる必要もない。そうした取材はもういっさいさせない」と、にべもないものであった。安田記者は、イラク攻撃開始の2ヵ月前、昨年の12月にも市民グループとともに休暇をとって現地入りし、取材している。
 湾岸戦争以降もつづいた、米軍による空爆の被害や劣化ウラン弾の影響を追いかけたのだが、じつはこの取材も、一度は会社から却下され、仕方なく自分の休暇をつかって現地入りしたものであった。
 米英軍のイラク攻撃当時、日本の大手新聞・テレビ局の記者たちは、現場を引き上げてしまい、爆撃下でどのような状況が展開されていたかについては、外国の通信社やフリーの記者の報道を待つしかなかった。
 日本のマスコミは危険な場所に自社の社員を派遣しないという方針を貫き、安全地帯にのみ記者を置くようにしている。このような取材制限に不満をもつ記者のひとりが、安田記者であった。
 空爆下にある現地住民の表情を伝えることが記者の任務である、ときわめてまっとうな主張をし、取材を願いでたひとりの記者に圧力をかけ、退職に追いやったのが、歴史もふるく、言論に気を吐いてきた信濃毎日新聞だっただけに残念だ。それが最近の新聞社の低迷をよくあらわしているようだ。
 一方、政府はといえば、戦争準備法案である有事三法を成立させたのみならず、こんどは、いまだ戦場であるイラクに、自衛隊を派遣する法律を成立させようとしている。どさくさまぎれの既成事実づくりだ。きたないやりかたである。いうまでもなく日本国憲法では、「国権の発動たる戦争」「武力による威嚇」「武力の行使」を放棄し、努力によって外交努力によって戦争をはばむ精神に貫かれている。それはかつて東アジアを中心に2千万人ともいわれた民衆の殺戮への反省にもとづいた精神である。
 しかし小泉首相とそれを支持する与党は、周辺事態法や有事法など、「戦争」という言葉を使わずに、憲法を否定する戦争参加の法律を矢つぎばやにだすことで、憲法の空洞化をはかってきた。今回のイラクへの自衛隊派遣でも、危険な地帯には派遣しないとしつつも、事実上、マスコミが記者を置くことさえも拒絶する危険地域に、自衛隊を投入する予定である。
 現地では、いつどこで戦闘がはじまるかわからない。これまで日本は約半世紀にわたり、ひとを殺さないことを誇りにしてきたのであるが、その誇りは今回のアメリカ追従小泉政権によってうち砕かれてしまうことになる。
 自衛隊が攻撃され、殺害される場合もあろうし、応戦して相手を殺す場合もあるだろう。あるいはゲリラとまちがえて民間人を殺すこともありうる。事実、自民党の麻生太郎政調会長は6月16日、自衛隊が携行する武器について、「トラックに爆弾を積み突っ込まれたら小銃ではどうにもならない」といい、機関銃よりも威力がたかい「無反動砲」などの小型重火器の携行が必要であるとの考えを示し、石破茂防衛庁長官もこれに同調している。
 このような、完全に憲法を否定する法律にたいし、従来、平和を標榜していた公明党は全員一致で賛成した。自民党は記名投票ではなく起立投票であった点を理由に、野中広務議員などの3人が退席しただけで衆院を通過させた。国会議員は憲法を守る義務を負っているのに。民主党は独自の修正案がとおらなかったことから、最終的には反対にまわったが、党内のウルトラ軍事派のつきあげに、管代表は対応しきれず、ぎりぎりまで動揺していた。
 イラクへの復興支援という名目で、自衛隊の出兵を既成事実化しようとする自民・公明・保守3党のやり方はあまりにも汚く、それにたいする野党の弱腰は情けない。今回の法案通過は、自民党にある核武装論へもすすみかねず、軍事大国化をめざす勢いは確実に強まっている。

■なんら変わらぬ「金をばらまけ」姿勢

 核武装といえば、核武装の物質的な基盤をつくるプルトニウムの生産にかかわる核燃料再処理工場の稼働を政府はまだ断念していない。
 青森県六ヶ所村に建設中の再処理工場は、05年7月に稼働を予定しているが、すでにプルトニウムを利用した高速増殖炉の建設は、原型炉「もんじゅ」の破綻により手詰まりになっており、プルサーマル計画も頓挫している。にもかかわらず、なお再処理工場を建設し、稼働させようというのは、近隣の諸国から、核武装を狙う国家計画と考えられて当然である。
 六ヶ所村に建設中の再処理工場は、01年7月に燃料貯蔵プールで水漏れが発見されていらい、まる2年が経過しているが、いまだ修理の途中である。これはプールの底の溶接部分に250か所にもおよぶ、手抜き工事による不正溶接が発覚したためである。貯蔵プールが2年間にわたり修理されつづけているのは異常事態だ。いまだ工事が完了をみないというのは、つぎつぎに新しい欠陥が発見されているからである。この調子でもっとも危険な核燃料を再処理するなど、絶対にやらせてはいけない。 使用済み核燃料を保管するための中間貯蔵施設についても、青森県むつ市がうけ入れを正式表明しているが、いまだ予定地を明確に発表できずにいる。この地域には原発反対派の共有地もあり、施設の建設はきわめて見とおしは暗い。再処理工場の建設だけで、すでに2兆円をついやしているが、原子力船むつが失敗に終わったように、核サイクル事業計画など失敗に終わる見とおしがますます濃厚になってきている。
 このような状況下にあっても、施設の建設・稼働をどこまでもあきらめない政府と電力会社の姿勢は、国民の命などなんら考慮していないことをあらわしている。たびかさなる事故とトラブル隠しという不祥事によって、全面的に停止に追い込まれた原発を再稼働させるために、東電は柏崎・刈羽の市議・村議31人にビール券を配って批判されるなど、「安全性より、とにかく金をばらまけ」の姿勢はなんら変わっていない。
 夏にむけて東京電力は、電力不足による「停電パニック」を声高に宣伝し、自分の責任を棚上げにして、運転再開をめざしている。「停電パニック」は、政府と一体化したプロパガンダだが、たとえ本当に停電が起こったにしても、それは政府と電力会社による強引な原発推進政策がつくりだした問題である。これを地方知事や反対派の責任に転嫁すべきではない。また、現在14機が停止しても、代替え発電によりまかなわれているという事実を無視し、代替発電の建設をサボって、停電パニックだけを訴えるのは、見え透いたやり方だ。むしろこのような不安定な原発依存体制からどのように脱却すべきか、それを長期的に考えるチャンスである。

■退廃議員を支持する民衆社会

 さて、政治家・議員のこのところの退廃は、目を覆うばかりである。かつては周辺諸国を蔑視するような発言を世論に批判され、大臣を辞任する議員が続出したが、最近はひらき直っている。
 先日は、早稲田大学内のサークルが起こした強姦事件にたいして、衆院議員の太田誠一党行政改革推進本部長が、鹿児島市内でのPTAの討論会で、「集団レイプするひとは、まだ元気があるからいい。正常に近い」と発言し、超党派女性議員から批判されたが、居座っている。
 そうかと思えば、直後にはやはりこの討論会で、森喜朗元首相が「子どもをつくらない女性の面倒を税金で見るのはおかしい」と発言し、ひんしゅくを買っている。さらにさかのぼれば、石原慎太郎都知事の「第三国人」発言や「女性が生殖能力を失っても生きているっていうのは、無駄で罪」という暴言もあり、国際的にみれば政治家としてまったく不適格者である。人権無視の発言を口にしながら、なお高支持をたもつ議員が多いのは、日本人の意識を反映している。
 さらに、麻生太郎政調会長の「創氏改名は(朝鮮の人たちが)『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ」という暴言や江藤隆美元総務庁長官の「日韓併合は両国が調印して国連が無条件で承認した」、などの歴史を改竄するような無知な極論まで飛び出した。自民党幹部たちの朝鮮・韓国への差別意識は、戦後、外国人の生命と人権にたいする考え方が厳しく問われることのなかったことのしっぺ返しであり、「戦後民主主義」欠陥である。
 多くの問題を抱える自民党がなお支持され、暴力と欲望の姿をむきだしにしたアメリカを公然と支持する小泉首相を打倒できない、日本の言論の劣化を、どのようにたて直すか、それがいま問われている。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/暴言政治家と暴発工場と自爆労働者

■月刊「記録」2003年10月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 歴史的ともいえる小泉純一郎首相の訪朝によって、金正日総書記との日朝首脳会談が実現し、「日朝平壌宣言」の著名が実現したのは、昨年の9月17日であった。
  「この宣言に示された精神及び基本原則に従い、国交正常化を早期に実現させるため、あらゆる努力を傾注する」と、宣言されている。
 また「国際法を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認した」、「核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を確認した」との文言もある。
 過去の歴史を乗り越え、新しい時代を築こうとする意思と希望に満ちた宣言である。日朝の国交正常化によって、アジア地域の平和と安定に大きく貢献しようと精神が、この宣言に満ちている。
 日本側が植民地支配した過去の歴史を謝罪し、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)も、金正日総書記が拉致の事実を認め謝罪した。これも国交正常化へのひとつの道筋だった。しかし、このとき、はじめて明らかにされた「5人生存、8人死亡」という拉致の事実は、日本人にとってあまりにも衝撃的だった。このため、アジアの平和のために国交正常化に努力するという道筋は置き忘れられた。それどころか、いまはかつてないほど、平壌宣言の趣旨とは逆に、北朝鮮にたいする敵意が強まっている。
 拉致の全貌を明らかにしようとしない北朝鮮側の態度により、北朝鮮にたいするひとびとの不信感が募っていったのはまちがいない。しかし、連日おもしろおかしく、まるでダボハゼのように、北朝鮮の問題を取りあげ、拉致家族の被害者感情を増幅するような報道を繰り返したことで、北朝鮮にたいする憎悪と嘲笑が拡大されたのも事実である。マスコミに煽られた民衆の敵対・差別意識は、さらに事態を混乱させている。
 日朝平壌宣言がしめした方向と逆に、北朝鮮との敵対関係が拡大することに無策でいる小泉首相の政治的な責任は重い。マッチポンプというより、放火して、それを軍備拡大に利用しているようなものだ。
 有事法制が衆参国会議員の90パーセント以上の賛成によって迎えられ、イラク派兵法も成立した。ミサイル防衛や航空母艦の建造などにも予算がつき、日本の軍事大国化は、極端なまでに推し進められようとしている。
 こうした状況に、タカ派の小泉首相はほくそ笑んでいるかもしれない。しかしアジア全体を不安にさせる軍国化が、ますます日朝の国交正常化に悪影響をあたえていることを、どのように考えているのだろうか。
 韓国は、北朝鮮と平和的に折り合いをつけるために腐心している。彼らの平和にむけた粘り強い行動は、日本と対照的だ。大衆の悪感情に火をつけ、軍国化を進めるているだけの小泉首相とは、月とスッポン、度量と責任感がちがう。
 このような国交正常化の停滞について、自民党総裁選挙でまったく触れられなかったのは不思議である。これではまるで、北朝鮮はハメられたようなものだ。総裁候補者の主張は、誰が経済を活性化するかということだけで、まるで茶番である。
 ところがマスコミは、2年前とおなじように、あたかも大統領選挙のような大々的な報道をしている。たかだか自民党内の派閥選挙が、各紙の一面トップである。
 2年前の総裁選は、森喜朗があまりにもヒドイ首相だったため、批判をふくめてマスコミが過熱した。いわば特殊事情である。ところが新聞・テレビには、前の報道に追随するという傾向が強い。若い記事なら、なおさら前に書かれた記事をマネして、自分の記事を書くパターンが多い。そのため論点すらない総裁選に、2年前とおなじようなバカ騒ぎを繰り返している。
 マスコミの報道では、総裁選があたかも国民投票のように扱われた。しかし、国民のほとんどは投票すらできない。所詮、コップの中の嵐、党内の権力闘争でしかない。
 この茶番が連日報道されている影響は、確実にあらわれている。総裁選の候補者である小泉純一郎首相、藤井孝男元運輸相、亀井静香前政調会長、高村正彦元外相の4人は、全員が憲法改訂論者である。このように好戦的な体質をもつ候補者が、無批判のマスコミ報道を通して世論に影響をあたえている。報道することにたいするテレビや新聞の記者たちの自己意識があまりにも低すぎる。
 それどころか読売新聞などは、総裁選にかこつけて憲法改正論議をするよう社説で促す有様だ。
「総裁選は、憲法改正など国のあり方にかかわる問題を議論するいい機会だ。首相が踏み込まないなら、ほかの三氏が論戦を挑めばいい。そうした論戦があってこそ、総裁選は活性化する」(読売新聞 2003年9月9日)
 これまでも読売新聞は、右傾化誘導の一翼を担ってきた。最近の社説の表題を並べてみよう。
 8月3日には、「教育基本法 次期通常国会で改正を目指せ」。自由と平和を謳い、憲法改訂論者から忌み嫌われている教育基本法を、やり玉にあげている。8月15日の敗戦記念日には、「平和教育 理念と方法の見直しが必要だ」、翌日には「住基ネット “情報漏れ”懸念なくす努力も必要」と並ぶ。中立を装い、自民党と一体となって平和を攻撃するなど、報道機関として許されない。

■自宅が爆破されても当然なのか?

 こうした現代のファッショ的な世相を体現したのが、石原慎太郎都知事の発言である。
 北朝鮮の国交正常化に努力した田中均外務審議官の自宅に爆弾が仕掛けられたことにたいし、「爆弾が仕掛けられてあったり前」といった。
 政治家が右翼のテロを容認した暴言として、さすがに自民党内の議員からも批判を浴びたが、批判を受けても石原は次のように強弁している。
「私は、この男(田中外務審議官)が爆弾仕掛けられて当然だと言いました。それにはですね、私は爆弾仕掛けることがいいことだとは思っていません。いいか悪いかといったら悪いに決まっている。だけど、彼がそういう目に遭う当然のいきさつがあるんじゃないですか」(朝日新聞 2003年9月12日)
 日本には、5.15事件や2.26事件などのように、テロやクーデターによって軍部が強化されてきた歴史がある。そうした過去の教訓を、石原はまったく踏まえていない。
「起こっちゃいけないああいう一種のテロ行為がですね、未然に防がれたかもしれないけれど、起こって当たり前のような今までの責任の不履行というのが外務省にあったじゃないか」(朝日新聞 2003年9月12日)などという発言は、政策がちがえば、テロがあっても当たり前ということである。さらに調子に乗って、彼は1960年に浅沼稲次郎社会党委員長が、右翼少年に刺殺されたことに触れ「世の中ってのはそういう繰り返しでね」(朝日新聞 2003年9月17日)とテロを容認している。
 言論にこだわる作家としてはもちろん、民主主義を担う政治家であれば、けっしてありえない発言である。彼が自分の家に爆弾を仕掛けられたり、刺されたりしても、「当たり前」というのだろうか。
 さらに驚いたことに、自らの選挙応援演説で飛びだした発言を、亀井静香は批判すらしない。「知事は文学者。具体的に爆弾をしかけるのがいいと思っているはずがない」とかばってさえいる。埼玉県知事も「拉致家族の思いを感情的に考え、ああいう発言になったことに同情する」と追随している。
 意見のちがいを暴力的に解決しようとする動きが批判しない風潮が、自民党の総裁選に絡んで明らかになったことに、現在の暗黒状況がみてとれる。

■ブッシュは戦費の取り立てに来日

 国政を担う政治家でいいたい放題なのが、鴻池祥肇特区担当相である。かつて長崎市で起こった中学生による男児誘拐殺人事件では、「加害者の親は、市中引き回しのうえ、打ち首にすればいい」と発言。東京渋谷で発生した4女児監禁事件では、「小6の4人も、加害者か被害者か分からない」などといい放った。
 そして今度は、ODA(政府開発援助)について、「中国へあれだけ金を送っている。それで感謝していない。靖国神社にお参りしたら文句を言う。そんな国にODA(を拠出するの)はもういっぺん見直さなければならないのではないか」(朝日新聞 2003年9月9日)などと発言した。大臣としての発言にも、首相は知らん顔だ。
 カネをくれてやっているという意識の醜悪さと、反省なき歴史観が、公然とあらわれている。それでも閣僚を辞めろという話はでていない。だいたい紐付きのODAにより、海外のODA援助国から訴訟まで起こされている日本のODAについて、「援助したから感謝しろ」などとよくぞいえるものだ。
 さらに13日におこなわれたタウンミーティングでは、「自衛隊は軍隊。それを中途半端な解釈でできている」「憲法の中に位置づける必要である」(朝日新聞 9月14日)などと、小泉親方に追従して、憲法改正によって自衛隊を軍隊にするよう示唆する発言まで飛びだした。 こうした暴論に歯止めをかける世論がなくなり、世論を喚起する報道さえない。むしろ同調・促進するような状況に、日本沈没の恐ろしさが感じられる。
 暴言といえば、イスラエルのオルメルト首相代理がアラファト議長について「殺害することも選択肢の一つだ」と発言した。パレスチナでは「マフィアのようだ」と批判の声が高まっているというが当然であろう。
 こうした暴言のバックグラウンドにあるのが、アメリカによる他国への干渉支配である。軍事力を背景としたアメリカの暴力が、世界中に暴力的な思考をばらまいている。
 10月中旬にはブッシュ大統領も来日し、小泉首相と会談する予定だ。米日ファッショ化の象徴ともいえる会談で、ブッシュはイラク攻撃の後始末のカネを日本に請求するという。小泉とブッシュは、お笑いの「盟友ぶり」を発揮し、多額のおみやげをもたすことになりそうだ。 外務省高官は数十億ドル規模になると予想しているようだが、アメリカの当面の復興コストは500~750億ドルともいわれる。現地の混乱状況を考えれば、外務省の計算通りにはいかないだろう。
 日本国内には失業者が溢れ、経済問題や過労によって自殺が増えている。そうしたなかアメリカの無謀で勝手放題のツケを負担するなど、許されることではない。将来の展望を欠いた非理性的な人殺しを公然と主張する政治が、日米両国によって進められることに、わたしはつよく反対する。

■工場爆発が見せる暗い予兆

 末期的な政治状況のなか、産業界でも不気味な予兆をしめしている。各工場での爆発事故だ。
 9月3日、新日本製鉄名古屋製鉄所で、ガスタンクが爆発した。このガスタンクは高圧ガスが蓄えられていたのに、39年間も外部検査が放置されていた。そうした安全への意識低下が、15人もの重軽傷者を生みだすこととなったのである。
 そして9月8日には、ブリヂストン栃木工場で火災事故が発生した。これはゴムを伸ばすローラーの異常過熱により、引火したとみられている。しかし出火場所にスプリンクラーも設置されておらず、燃え広がる一方であった。結果として地域住民5032人に避難が呼びかけられ、250人が避難する事態となった。
 これらの事故は、1963年11月に起こった三川炭坑での炭塵爆発事故を思い起こさせた。石炭をベルトコンベアーで運ぶさいに発生する炭塵は、水を撒いて爆発防止すべきなのに、安全対策をサボって爆発。死者458人、それ以上の一酸化中毒の重症患者が発生した大事故である。
 あたかも40年前の事故とおなじような事故が、あいついで自動車の関連工場で発生して、自動車生産にダメージをあたえた。このことが、自動車中心に発展してきた日本の経済に暗い予兆をしめしている。
 こうした事故は、歯止めのない人員削減と安全よりもコストを優先する大企業の経営によって起こった。企業のもっとも弱い部分を痛撃した事故ともいえる。
 9月17日には、軽急便の名古屋支店に刃物をもった男が人質を取って立て籠もり、ガソリンを撒いて爆死した。この爆発に巻き込まれ、警官2人、支店長1人が死亡している。
 かつてブリヂストンの東京本社に元工場幹部職員が押しかけ、社長室で切腹自殺したことがあった。ブリヂストンのきわめて非人間的なリストラが招いた事件である。今回の立て籠もりと爆発事故も、その発端となっているのは軽急便のやはり労働問題であった。
 各種報道によれば、この会社は自社ドライバーをもたず、運送業者と個人契約をするため「配送内職」と呼ばれていたという。開業支援準備金や代理店登録料の条件にたいする不満が、国民生活センターにも寄せられ全国で00年度は400件だったが、02年度は837件にも急増していた。厳しい経済状況のなか、リストラなどに遭って事業をはじめた人も少なくないようだ。
 容疑者は経費込みで105万円の車を購入し、頭金の60万円を支払い、45万円を月払いで返済しながら配達業務をつづけていたらしい。
 彼が会社に要求した支払い残金は、7~9月分25万円だった、という。3ヵ月で25万円である。つまりこの問題の本質は、安い・早いを謳ってきた宅配サービスの体質にあるともいえる。
 これから小泉首相は郵政を民営化するという、郵政でもおなじ問題を引き起こすつもりなのか。民営化による労働者の低賃金化と過剰なサービス強要は、リストラが広まるなかますます強まっている。
 日本の資本主義も、政治状況とおなじく異常事態となっている。こんなやつらに無理心中されるのでは、救われない。(■談)

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ホームレス自らを語る/15歳から働きづめ・吉岡達彦(48歳)

■月刊「記録」2001年9月号掲載記事

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■左手が動かなくなって

 どう、持っていくか?
 昔、友だちからもらった種を植えたら、けっこう育ってね。ほら実がついているだろ。木にツルが巻きついちゃったから、取れない実もずいぶんあるんだけれどさ(笑)。
 ニガウリとヘチマだよ。本当は夏にできるはずだったんだけれど、なぜか秋になっちゃったんだ。沖縄では、ニガウリをゴーヤ、ヘチマをナーベラーって呼ぶけれどね。
 そうか、ナーベラーは知らないか。味噌炒めなんかにしてもおいしいし、あと生で食べてもいいんだ。俺が子どものころは、毎日のように食べていた。
 川崎にも沖縄料理店があるけれど、いまはお金もないしね。仕方ないから、自分で作って食べているんだ。隣にテントができなければ、もっと収穫できたと思うんだけれどさ。
 去年の11月からここに住んでいるよ。3年前、45歳ぐらいから左手が動かなくなりはじめてね。最初、医者に行ったら、「半年ぐらいで治るだろう」と言われたんだけれどね。さっぱりだよ。手が動かないんじゃ、仕事にもならないし。
 この前なんか、現場監督から「もう来るなー」って怒られたからね。いや、俺が悪いんだよ。知り合いから鳶の募集があると聞いて、無理だと思いながら応募したんだ。やっぱり片手じゃ仕事にならなくて、四日目にどなられたんだ。監督の気持ちもわかるけれどね。どうにかして仕事がほしかったんだ。

■親の借金返済で働きづめ

 まったく嫌な人生だよ。15歳から働いているんだ。 親がバカモノでさ。知り合いにだまされて、金を持ち逃げされたんだ。頼母子講をやっていてね。沖縄ではよくあるんだけれど、近所とかの知り合いが集まって、毎月お金を貯めていく。それで仲間が困ったときに、その金を貸すんだ。
 その講の親をやっていたから、パンクさせたお金は責任を持って払わなくちゃいけなくなった。そりゃ大変だよ。朝に晩に取り立てにくるんだから。それで俺も働くことにしたんだ。
 タイル職人になった。金はかせいだよ。月200ドルはかせいでいたから。300ドルぐらいかせいだ月もあったんじゃないかな。当時、まだ沖縄は日本に返還されていなかったし、1ドルは360円に固定されていたんだ。1960年代後半の200ドルといったら大金だったな。もちろん、その分働いたけれどさ。本当に死ぬ気で働いていたもの。
 仕事が終わるのが朝の5時。それから1、2時間寝て、また仕事に出かけるような生活だったからね。正月だって、ほとんど休みなく働いていた。自宅に帰る時間もなくて、公園で野宿していたこともあった。おかげで泥棒に間違われたことがあったよ(笑)。近くで事件があって、警察に捕まったんだ。幸い、真犯人がすぐに捕まったけれどね。
 こうやってかせいだ金を、すべて親に渡していた。借金を返すためにね。17歳のときには沖縄を出て、池袋で働いていたよ。そのときもボーナスを含めて、ほとんどのお金を家に送っていた。親に渡した額を合計すれば、ビルを建てられるぐらいのお金にはなったと思うよ。つき合っている女もいたけれど、親の借金を払い終わったら結婚しようなんて言っているうちに、別れちゃったしな。
 しかも借金を払っている最中に、父親も死んじゃったから、家族の生活費も俺と兄貴でかせぐことになったんだ。妹は10代で結婚したけれど、しばらくしたら子どもを連れて自宅に帰ってきた。ロクに働けないから、やっぱり俺が養うことになるんだよね。
 95%ぐらい借金を返済したころに、家族とケンカして金を送らなくなったんだ。だって家族みんなで協力して、借金を返そうという感じじゃなかったから。みんな好き勝手にやっていて。どうして俺だけがと思うだろ。もちろん縁を切ったわけじゃないから、その後も実家とは連絡を取っているけれどね。

■なまけたことなど一度もない

 腕が動かなくなってからも帰ったんだよ。失業保険を使ってね。でも、沖縄は仕事がないし、やっぱり東京に出てくるしかなかった。これだけ腕が上がらないと、ガードマンの仕事もできない。腕が上がらなくなってからまともに働けたのは、造船の仕事ぐらいかな。船の油をふく仕事だったから、片手でも働けたんだよね。
 こんな体になったのも、ムチャクチャに働いてきたからだろうな。10代のころもそうだし、その後も働きまくってきたから。
 阪神大震災のあともよく働いたよ。1年ちょっと西宮で、倒壊した建物を片づけていたんだ。それこそ朝から晩まで働いていたから。ベルトコンベアに頭を打って首を痛めても、仕事を休まなかったぐらいだからね。
 いままでの人生の思い出なんて、ほとんどないな。働きづめだったからね。
 あー、16歳ぐらいだったかな。初めて競輪をしたことは覚えいるよ。だって200円買ったら、56万円になったからね。ものすごく驚いた。ビギナーズラックだったんだろうけれど。
 あとは、そうだなー。去年、多摩川の上流が決壊して、どんどん水かさが増えていったときは怖かったな。すごい量の水がテントに迫ってきたからさ。避難したけれど、ビックリしたよ。
 振り返ってみると、ろくな人生じゃないよ。いまじゃ働くこともできないしさ。どうしたらいいのか、自分でもよくわからないんだ。右翼がやっているってうわさの施設にでも入ろうかな。ここにいても仕方がないしね。最近、そんなことを考えているよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ハートの弱い人は暮らせない・川田義則(47歳)

■「新・ホームレス自らを語る」収録

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■毎日コンビニに通っている

 ホームレスでも、自慢ばかりしているようなヤツはケンカになる。逆にハートの弱い人はテントで暮らし続けることなんてできないよ。
 俺も、365日、毎日コンビニに通っているんだ。「ここの場所は取れない」と、他のホームレスに思わせるんだ。雨はもちろん、雪の日だって休まないよ。じっと店の人が弁当を出すまで待っている。他のヤツが割り込んできて、弁当を持っていったりした場合は、走って追っかけて「俺のもんだから」って話をするよ。なぐらないけれどな。一番に必要なのは、やっぱり食べ物だから、こういうことがすごく重要なんだよ。
 あまり汚い格好で店の周りをウロウロしていると、店の人やビルの管理人にも迷惑がかかるから、身だしなみにも気をつけなくちゃいけないよね。そういう風にしているから、店も期限切れの弁当を段ボール箱に入れて、そのまま出してくれるんだ。店員さんに会えば、「すみません。もらっていきます」と声をかけるしね。

■ウソついてんじゃねぇよ。警察か?

 でも毎日通っていると、とんだ目に遭うことだってあるよ。
 冬場でね。朝七時に店近くで待っていたら、いきなり近くにベンツが止まったんだよ。チンピラみたいなのが車から出てきて、「おたくさん、何しているの?」って聞くんだ。何しているったって、弁当を待っているんだけどさ(笑)。
 そのうち今度は、ベンツから歳のころ40代後半ぐらいのがっちりした男が、車から出てきたんだ。光ったシルクの生地でさ、グレーのダブルのスーツなんだけれど、生地が光ったシルクなの。いかにもヤクザっていう格好だよね。親分だったんだ。
「オマエ、どっかで見たことあんなー」とか言うんだよ。「ないですよー」とか答えたら、「ウソついてんじゃねぇよ。警察か?」とか怒ってんだ。
 どうやら警察に自宅を見張られていると勘違いしたみたいなんだ。毎日、マンションの近くで見張っているからさ(笑)。間の悪いことに、たまたま一緒に行った仲間がイヤホンでラジオを聞いていたんだよ。警察無線に見えたんだろうな。まあガタガタ言われたけれど、そのときは、これで終わったんだ。
 さすがにそのあとは待つ場所を少しだけ変えたよ。でもコンビニの近くから離れるわけにはいかないからね。 最初にどなられてから、しばらくたってさ。また、例の親分がベンツから降りてきたんだ。「てめーら、殺すぞ」って。
「バカヤロウ! オマワリなのはわかってるんだ。おまえらが気になってしょうがないから、ウチの女房は心配しすぎでまいってるんだ」だってさ。
 さすがに二度目は、しびれを切らしてたんだね。殴りかかってきそうだったから、少し腰を浮かしたら、胸をドンとド突かれたよ。まあ、軽くだけれどさ。
 自分から女房がまいっているなんて話すぐらいだから、よほどせっぱつまっていたんだろうな。監視されていると誤解して、ノイローゼにでもなったのかね(笑)。 怖いかって? いや、怖くないよ。だって俺は住所不定なんだから。怖くなったら、ここから逃げ出せばいいんだからさ。
 コンビニの弁当を自分のバッグに移しかえようとしたところで、私服刑事が飛び出してきたこともあったよ。「ちょっと待ってください」と言われてね。バッグを開けさせられたんだ。覚せい剤の受け渡しとでも疑われたのかな。
 ホームレスだとわかると、刑事さんが「頑張ってください」と言っていたな(笑)。
 こうやって集めた弁当も、余ればこの公園にいるホームレスに全部渡しちゃうよ。ここにかけてある笛を鳴らせば、ベンチに寝ているホームレスが集まってくるし、こっちのラッパを鳴らすとテントを張っている仲間が集まるように決めてあるんだ。昔はいちいち仲間を呼んでいたんだけれど、毎日のことだと面倒くさくてさ。あっ、笛? もちろん拾ったんだよ(笑)。何でも落ちているから。

■5ヵ月ほどで公園に戻ってくる

 もうホームレスになって3年たつよ。いまは47歳だね。
 ホームレスを始めたのは、7月からなんだ。最初は、駅の西口にあるビルのすき間で寝ていたんだ。涼しかったから。それから、ここの公園に移って、最初は便所の前あたりにいたのかな。寒くなってきて、その年の12月ぐらいからテントを作り始めたんだ。
 警察が公園を回るから、1年に1回はこのテントもバラさなくてはいけないんだ。最初、テントがある状態で写真を撮って、バラしたあとにもう一度写真を撮る。もう暗黙の了解でね。写真を撮り終えたら、さっさとテントを組み直し始めるんだよ。
 ホームレスのなかには、酒を飲んでいてさ、警官にいろいろ言うヤツもいるんだ。でも警察には、「ハイハイ」と従っておけばいいんだよ。べつに追い出そうというわけじゃないんだから。俺なんか警察に名前を書いて提出しているからね。血液型まで聞かれるんだよ。毎年聞かれるから、「去年も答えたよ」と言ったら、「いや、変わったかもしれないから」だって(笑)。
 ホームレスのための自立支援センターなんかもあるけれどさ、俺は住民票を移せないから。いろいろあってね。福祉なんかも、家族に連絡がいくと困るから使えないんだよ。でも、自立支援センターに入ってもさ、仕事を見つけられない人も多いみたいだよ。
 うん、体は悪くないね。ここのホームレスがテレビに取り上げられてから、医薬品や毛布を持ってきてくれる学生がいたりするし、食べ物には不自由してないから。万一病気になったら、役所の福祉課に行くか、救急車を呼べばいいんだしね。助けてはくれるからさ。
 現金収入はいっさいないな。たまに臨時の収入があるぐらい。といっても買うものといったら、ガスボンベぐらいだからな。ガスがなくなったときは、仕事をしている仲間に買ってもらっているよ。
 服なんかは、夜中に回るとけっこうゴミとして出してあるから。クリーニングに出したあとに捨ててあったりするし。汚いまま出してあれば、自分で洗えばいいんだし。
 生きるのに困ることはないけれど、やっぱりここを脱出したいな。ここから出ていくのが一番いいんだよ。でも実際には、仕事を見つけて出ていった人も、5ヵ月ほどで戻ってくる場合が多いよ。もちろん警備の仕事したりして、アパートを借りている人もいるよ。近くに古いアパートで女が自殺したの。それで家賃が安くなって、元の仲間が住めるようになったんだ。
 家に住むのがこんなに大変なことだと思わなかったよ。ホームレスになる前は、なんで公園で人が寝ているのかわからなかった。寝いている人を見ると何している人だろうと思っていたからさ(笑)。金があるときは使っちゃうしね。金がなくなってからあわてても遅いんだよ。俺だって、まさかホームレスを経験するとは思わなかった。金がなければ働けばいい。そう思っていたものね。
 きっと、みんなそう思っているんだろうね。この公園にも、いろんな人が来るよ。小学生の子どもを連れてきた女の人もいたよね。30いくつと言っていたかな。東北の人だったな。いつの間にかいなくなったけれど。
 そうそう、覚せい剤中毒が来たこともあった。ナイフを仲間に突きつけて、時計とか金とかかっぱらっていたんだ。仲間から連絡を受けてあわててテントを出たら、そいつが逃げるんだよ。追いかけて捕まえたら、今度は500円を差し出したから、「そんなんじゃねー」って殴りつけてやったよ。そういえば、最近、そいつを見ないな。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ホームレスになってまだ三ヶ月・下川保さん(51歳)

■月刊「記録」2001年7月号掲載記事

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■飯場の健康診断に引っかかった

 ホームレスになったのは今年の2月からだからね。まだ、3ヵ月にしかなってないよ。それまで25年以上建築現場でずっと働いてきた。そりゃあ真面目なもんだったよ。いまゴールデンウィークで世間様はお休みだけど、こういうときでもオレは仕事さえあれば働いてたからね。そんなオレが2月に飯場を放っぽり出されてからは、仕事にありつけない。で、公園で寝るしかなくなっていたんだ。
 2月までは(東京)中野の現場にいたんだ。そこで保健所の健康診断があって、レントゲン検査に引っかかった。オレの胸にいくつかの影があるのが見つかって、結核の疑いで「精密検査の要あり」と言われ飯場を出されちまった。そのあと病院に行ってくわしい検査を受けたら、ただの気管支炎だとわかって、それもすぐに治ったんだ。それで現場に戻ろうとしたら、もう後釜が入っていて空きはないと断られてね。それから別の現場の仕事を探しているんだが、なかなか思うように仕事にはありつけない。
 生まれは埼玉県の大宮。オヤジは地方公務員をしていたが、オレが小学校に上がる前にガンで死んだ。だから、オヤジの記憶はあまりない。あとはオフクロに育てられた。中学校を出て、商業高校の定時制に通いながら、昼間は大学生協の食堂でコックの見習いをして働いた。高校の4年間は真面目に通って、ちゃんと卒業もしたよ。
 高校を出たときに、コックの仕事も辞めた。あとはガソリンスタンドとか、車のディーラーとか、いろんなところで働いた。仕事の選り好みはしないんだが、飽きっぽいというか、どれも長く続かなかった。若かったせいかもしれないね。

■自衛隊で野戦砲の射手になる

 22歳のとき、陸上自衛隊に入った。休みの日に日比谷公園のベンチに一人で座っていたら、自衛隊の勧誘員が来てスカウトされたんだ。だから、とくに目的や理由があって入ったわけじゃない。勧誘員の話を聞いて面白そうだと思ったからだね。
 富士山の裾野にある御殿場の駐屯地に配属になって、戦車部隊の野戦砲担当になった。野戦砲は重量がすごいんだ。それに撃ったときの反動もすごい、砲が架台ごとはね上がるんだからね。だから、一門を扱うのに5、6人がかりの重労働だった。たぶん、このガタイ(身体)が見込まれて担当にされたんだろう。オレの役は射手。いや、射手は花形じゃない。野戦砲の花形は照準手で、射手はその命令で撃つだけだからね。
 自衛隊には2年間いた。ちょうどベトナム戦争の真っ最中だった。オレたち火器を扱っている部隊は関係なかったけど、輸送部隊には連れて行かれたところもあったようだね。
 自衛隊にいた2年間は真面目なもんだったよ。休日も駐屯地にいて外に遊びに出ることもなかった。酒も隊内クラブでたまに飲む程度だったしね。だから、金は貯まった。除隊してから、その金で九州・沖縄一周の豪勢な旅をしたよ。あれがオレの人生で一番いいときだったんじゃないかな。
 実は、自衛隊で野戦砲なんて重いものを扱っていたから、腰を痛めちゃってね。いまでもコルセットを着けているんだ。ほら(腰のコルセットを見せてくれる)。この腰痛とは25年間もつき合っているわけだからね。冬になると普通にしていても痛む。かなりつらいもんだよ。

■みじめな死に方はしたくない

 自衛隊を辞めてからは、土工とコンクリート工をずっとやってきた。飯場から飯場を渡り歩く生活だった。だから、アパートを借りたことは一度もない。
 結婚もしなかった。そりゃあ男だから、たまには女遊びもしたよ。だけど、女なんてツンツンしてるだけで嫌いだよ。結婚にも、女にも、あんまり興味はなかったね。
 土工でも、コンクリート工でも真面目に働いたよ。日本中のゼネコンの現場は全部で働いたんじゃないかな。赤坂のアークヒルズだろ、幕張メッセもやった。幕張の現場が一番すごかったね。それこそ日本中のゼネコンが集まって、いろんなビルを競争のようにして建てたんだから。オレはそのときは国際見本市の建物をやったよ。 新宿のビルもやった。工学院大学のビルとか、パークタワービルの工事についた。いまこうして新宿でホームレスになって、たまにそんなビルの下を通ると、「このビルはオレが建てたんだなあ」って思うよ。
 オレの場合、建築現場で働くには腰痛のハンディがあっただろ。だけど、そこは腕力でカバーしたんだ。ほかの人が持ち上げられないようなものも、腕の力だけで持ち上げたりしてね。「おたく、力があるんだねえ」と監督をびっくりさせたこともある。オレは真面目だったし、力もあったから、どこの現場でも重宝がられた。
 それだけ働いても金は貯まらなかったよ。酒も、ギャンブルも、女遊びも、あまりしなかったのにね。日当が6000~7000円じゃあ、一つの仕事を終えて飯場を出され、次の仕事までカプセル(ホテル)やサウナで寝泊まりするから、その金と飲み食い代でほとんど消えちゃった。残るものはなかった。
 いつだったか、鳶の親方に気に入られてね。「鳶にならねえか」って誘われたことがある。オレだってビルの1、2階分くらいの鉄骨に上るのは平気なんだ。だけど、それ以上の高いところで、腰をかばいながら仕事をするのは自信がなかった。で、その親方の話は断っちまった。鳶の仕事ができてたら、もう少し違ってたと思うけどね。だから、ずっと土工とコンクリート工のままできた。
 40歳を過ぎたころかな? 体力がガクッと落ちたのを感じた。体力の衰えって、ホントに急にくるんだね。それでも腰に気をつけながら意欲だけでがんばってきたんだ。ところが、今年2月の健康診断に引っかかって、飯場から放っぽり出されることになったわけだ。
 ホームレスになってまだ3ヵ月だから、食い物を手に入れる方法とかわからなくてね。ボランティアの差し入れだけが頼り。だけど、毎日あるわけじゃないし、1回の差し入れを2回に分けて少しずつ食べたり工夫はしてるけどね。やっぱりひもじい。あとは水道の水を飲んでごまかしてるよ。
 これまで25年間ずっと働きづめできただろう。1日中公園のベンチに座ってじっとしているのは身がもたない。体がなまってしまうしね。それで最近はボランティアに参加しているんだ。「新宿をきれいにする会」というグループがあってね。新宿の街の美化のためにゴミを拾って回る運動で、オレも毎朝6時から2時間参加して公園や周辺のゴミと空き缶を拾っている。参加しても何かがもらえるわけじゃないけど、ウズウズしている体にはちょうどいい運動になるしね。それにオレはきれい好きで、汚いのは嫌いなんだ。
 とにかく早く仕事を見つけたい。オレもまだまだ働くつもりでいるからね。みじめな死に方だけはしたくないと思っている。そのためには人生をいい方向にもっていきたい。ごくあたりまえの幸せと健康であればいいんだからさ。不幸はヤダ。不幸のなかで死ぬのだけはヤダからね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/年季の入った酒飲みだよ・大木善郎さん(61歳)

月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■岩内大火で家が丸焼けになった

 生まれたのは北海道の岩内って町。1938年6月2日が誕生日。岩内は海辺の小さな町で、漁業をしている人が多かった。オレのオヤジも漁船に乗っていて副船長をしていた。イカとか、マグロ、タイ、それにハッカクっていう顔はまずいが味はうまい魚があって、そんなのを獲っていたようだ。オフクロも港の魚市場で働いていた。だから、オレの小さい時分の暮らし向きは悪くなかったと思う。
 小学校に入って、すぐに町が大火事になった。「岩内大火」っていう大火事。そりゃあすごい火事だったよ。ちょうど台風も来ていたから、その風にあおられてゴーゴーと燃え盛ってね。町の半分、いや、三分の二以上が焼けちゃったんだから。
 オレも家族と一緒に町の裏手にある山の中に逃げ込んでいた。オレのうちも焼けて丸焼けだった。焼けたのは海沿いの低地にあった家ばかりで、焼け残った三分の一は山沿いの高台にある金持ちの家ばかりだった。皮肉なもんだよね。
 それでオレたち一家は、焼け残っていた漁業組合長の家の庭にテントを張って、その中で半年間くらい暮らした。狭いテントに家族がギューギュー詰めで暮らしたんだよ。まあ、うちだけじゃなくて、焼け出された家はみんなそうやって空き地を見つけてテント生活をしていたからね。
 そのころはボランティアだとか、義援金のカンパなんてなかっただろう。戦後の食糧難と重なって、食べるものがなくて困った。組合長がどこかからもらってきた米を分けてくれたり、オヤジやオフクロが百姓をしている家に買い出しに行くとかして食いつないだ。三食まともに米を食った記憶がない。とにかくひもじかった。魚だけはいっぱいあったけどね。
 半年後に家ができた。家といったって、元の敷地にバラックの小屋を建てただけのものだけどね。いまとちがって保険になんか入っていないし、大工の手間賃も払えないだろう。オヤジたちがみんなで協力して、順番にバラックの小屋を建てていったわけさ。その小屋のような家で正月を3回迎えたのを覚えているよ。

■中学校には行かずに働いた

 それからちゃんとした家を建てたけど、その借金とかが残ったんだろうね。うちはずっと貧乏だった。だから、オレも小学校を出ると、すぐに働き始めた。魚市場で籠に入った魚を台車に積んで、市場の中を引っ張り回して運ぶのが仕事さ。家が貧乏だから、中学校なんて行ってられなかったんだよ。兄貴もそうしていたし、周りの友達にもそんなのがいっぱいいたからね。
 酒を飲み始めたのは、そのころからだよ。だから、オレの酒飲みには年季が入っているんだ。中学生のときから飲んでるからね。酒といったって焼酎だよ。宝焼酎。隠れてなんか飲まないよ。家族みんなで飲むんだ。うちはみんな大酒飲みでね。まあ、そのころの海で働くとうちゃんやかあちゃんたちは、みんなよく飲んだからね。夜中に酒がなくなると「善郎、酒を買ってこい」って、末っ子のオレがよく買いに行かされたよ。(取材中も、大木さんは焼酎をあおりながらであった)
 20歳になって、オレも漁船に乗って漁をするようになった。20歳といえば、兄貴がそれを祝って女を買いに連れて行ってくれてね。小料理屋のようなところの二階の部屋で、その店の仲居が相手だった。女と寝るのは初めてだろう。やり方がわからなくて、上に乗っかるのも知らなかった。それで仲居に教わりながらしたんだ。いや、よかった。最高に気持ちよかった。
 漁船には1年くらいしか乗ってなかった。21歳のときには東京へ出てきちゃったからね。何でかって? オヤジもオフクロも、兄貴までもが死んじゃったんだ。3人が一緒じゃないよ。病気で次々に死んでいったんだ。ろくなものも食わないで酒ばかり飲んでたら病気にもなるよ。もっと詳しく話してくれ? 何で? これ以上しつこいと、話すのをやめるよ。(森さんは両目を潤ませて、しばらく話すのをやめた)

■かせいだ金は酒と女に消えた

 21歳で東京に出てきてからは、いろんな仕事をした。いろいろといっても、ほとんどが飯場に入って建築関係の仕事だったけどね。4年前にホームレスになるまで、ずっとそんな生活を続けてきた。結婚? できるわけないだろう。兄貴だって嫁さんももらわないで死んじゃったのに、オレだけが嫁さんをもらうわけにはいかないよ。
 かせいだ金はみんな酒で飲んじゃったよ。それと女だな。酒と女遊びに使っちゃった。酒は毎晩、毎晩一升くらいの焼酎を飲んでいたからね。どうかすると朝の四時くらいまで飲んで、そのまま水風呂に飛び込んで酒のにおいを消して現場に行くなんてこともした。そんなことをしても、においなんて消えやしないけどね。
 女遊びのほうは千葉の栄町にあったトルコ風呂に通った。1回遊ぶのに1万2000円くらい取られたから、3ヵ月に1回くらいしか行けなかったけどね。それで我慢できなくなると、立ちんぼを買うんだ。チョンの間だと3500円。チョンの間なんて、わかる?
 ホームレスになったのは4年前からだね。毎朝、酒のにおいをさせて仕事に行くだろう。そうすると、係の人から「森さん、今日は仕事を休んでよ」って言われるんだ。絶対に「辞めろ」とはいわない。向こうから「辞めろ」と言い出すと、解雇手当とかの金を払わなくちゃならなくなるだろ。だから「休め」って言って働かせてくれない。オレたちは日雇いだから、休んだらその日の金はもらえない。そんなのが3日も続いたら、金なんてなくなっちゃうしさ。それでホームレスになったんだ。
 昔は二日酔いぐらい平気で働かせてくれたんだよ。人手が足りなかったからね。いまはうるさい。ちょっとでも酒のにおいがすると、働かせてもらえないからね。日当も下がった。いいころは1日1万円くれたのが、いまじゃ6000円くらいにしかならなくて、そこから食事代が1200円も引かれちゃうんだ。いくらもかせげない時代になっちゃったね。
 いまはオレも60歳を超えてるから、新宿区役所が世話をしてくれる仕事をしているよ。週2日だけどね。ゴミの清掃車を洗ったり、ビルの中を片づけたりする簡単で安全な仕事。1日で7000円もらえる。そこから昼飯の弁当代を引かれるから、実際にもらえるのは6400円だけどね。それでこうやって焼酎が飲めるってわけさ。
 だけど、役所の仕事も酒に酔っていくといけないんだね。係の人から「森さん、酔って来たらまずいよ」っていわれて、週2日あった仕事もいまは一日に減らされちゃったよ。
 ホームレスなんかしていると、人間がなまくらになっていけないね。酒を飲むのは楽しいさ。いやいや飲んだってしょうがないよ。よかったころ、楽しかったころのことを思い出しながら飲むんだ。あのころは、とうちゃんもかあちゃんもみんな元気で楽しかったとかね。飯場にいたころだって、楽しかったこと、よかったころはあるんだ。そういうのを思い出しながら飲むんだよ。いいもんだよ。いまだって、金さえあれば焼酎の一升くらい平気で飲めるからね。
 あと4年。あと4年で生保(生活保護)が受けられるから、それまで何とか頑張りたい。あと4年だよ。

※取材後調べたところ、岩内大火があったのは一九五四年。大木さんが大火に遭遇しているのは事実のようだが、「小学校に入ってすぐ」というのは、本人の記憶違いか、あるいは多少の脚色がなされているのかもしれない。  (■了)

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元信者が視るオウム的社会論 第17回/バイアグラの魔力

■月刊『記録』99年6月号掲載記事

 インポテンツの薬であるバイアグラが日本でも認可されて二ヵ月あまりが経ちました。今までも個人輸入や闇ルートなどで入ってきていたこの薬、正式認可を経てますます広がりそうです。
 以前からバイアグラを愛用していたという健康食品メーカーの経営者に話を聞きました。彼によれば、アメリカから輸入されていたたくさんの薬物や健康食品のなかで、唯一効果があったのがバイアグラだったそうです。
 還暦を過ぎている彼は、すでに何年も前に機能しなくなっていたのに、若者のように元気になってビックリしたと言っていました。彼は朝鮮人参を使った健康食品を製造・販売しているのですが、ライバルとして登場したバイアグラを優秀な薬だと褒めていました。

■良薬も過ぎたれば剣

 ただ、効果がありすぎるのは困ったもので、アメリカではバイアグラを飲んだ夫に妻が応じることができず、若い女性に走って離婚に発展する例もあるようです。アメリカは訴訟社会なので、逃げられた妻が製薬会社を相手取り、訴えたりする事例が出てくるのではないでしょうか。効き過ぎるというのもまさに両刃の剣ですね。
 麻原彰晃被告がもし獄中ではなく、いまだオウムの教祖として君臨していたならば、バイアグラの愛用者になっていたのは間違いありません。彼によると、解脱者が女性の信者とセックスして、女性の修行ステージを高める高度なイニシエーション(秘儀伝授)があり、解脱者にとっては苦痛でしかないそうですが、教祖の義務としてしなければならないと言っていましたから。
 もし麻原被告がバイアグラを使用できたら、楽々と多くの女性信者にイニシエーションを施せただろうに!(笑)
 いや、笑い話ではなく、新しもの好きの彼ならば、間違いなく使用していたはずです。間一髪セーフでしたが、嫌なことです。

■薬は人を狂わせる

 また、バイアグラは副作用が怖く、アメリカでは百人以上が死亡したそうです。それほどの死者が出ているのに、普及し続けているというのは、よほど魅力のある薬なのでしょう。精神的依存症になる危険性もあって、バイアグラなしでは立たないと思い込んでしまう例も出ているようです。
 前述した健康食品会社の経営者も、「バイアグラはたまに使うぶんにはいいのですが、副作用と依存性を考えるとお勧めはできません。それよりも、私が開発した朝鮮人参の健康食品のほうが効果がありますよ。不妊でお困りの皇太子ご夫妻にも愛用してもらっていますから!」と、真偽のほどは別にしても断言していました。
 いずれにしても、薬物に依存するというのはいいことではありません。サリン事件直前のオウムがさまざまな薬物に依存していたように、薬というものは人間を狂わせることが多いのですから。(■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第32回 就職活動の苦難1

■月刊「記録」2002年5月号掲載記事

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 さて、畳屋との面接である。畳屋のご主人は、わざわざ自分から学園のほうへ出向いてくださった。いかにも気の良さそうな風貌をした人だ。住み込みということになれば、このご主人のご家庭に正利はやっかいになる。 あんな薄ぼんやりしたヤツを、ご主人はともかく、奥さんや子供たちが受け入れてくれるのだろうか……。
 そして面接の日がやってきた。

■畳屋の適正身長

「おーっ、あんたが正利くん?」
 開口一発、ご主人はそう言った。目を見開き、しげしげと正利の全身を眺め回している。
「ああ、あんたがそうかぁ……、正利くんかぁ…、あぁぁだめだなぁ、こりゃぁ…」
 なんと、いきなりである。いきなりのNGである。
 おい、正利、部屋に入れと、ぼくが正利を呼び、あー、といつものように正利が部屋に入ってきた。そして数秒後にこの言葉、つまりNG宣告である。
 ぼくは思った。たしかに正利はひと目見てNGを出されても仕方がない男だ。それにしたってこの前の製本所の女寮長といい、この畳屋のご主人といい、人を見る目がありすぎやしないか。
「そりゃあないですよ。どうしてダメなんですか。理由を聞かせてください」
 とりあえずぼくはこう聞いた。こう聞くしかない。こうでも言わなければ会話が成り立たない。
「イヤ、ダメだよ。背が高いもの。こんだけ背が高い人は畳職人には向いてないんだよ」
 本当かー!? ぼくは思わず耳を疑った。ということは畳職人には背が高い人はいないということになるではないか。いや、まて、たとえば2mの大男が畳職人に向かないと言われたならしょうがない。しかし正利の身長はせいぜい175㎝である。平均より少し高いだけではないか。
「背が高いって言ったって、こいつ、たかだか175㎝ですよ」
「うん、そう、やっぱりねぇ。背が高いよ。無理だなあ」
 とりつく島もないとは、まさにこのことである。
「こんだけ背が高いとねぇ、ほら背中を丸めてする仕事だろ、腰痛めてみんな辞めちまうんだよ」
 なるほど。しかし腰を痛めるかどうかよりも、とにかく雇ってほしいのだ。
 だが、この後もご主人の毅然とした態度には、まったくつけいる隙がない。そして説得を繰り返すぼくの隣で、畳屋に紹介してくれた主任は、二人のやりとりをただニヤニヤ聞いているだけである。当の本人である正利も部屋に入ってきてから挨拶はおろか返事一つしてはいない。
 次第に、ぼくは、これ以上食い下がるのがバカバカしくなってきた。
(そうだ。もう終わったのだこの話は)
(つまりだ、正利が畳職人になることはないのだ)
(さあ、もう次に行こうか)
 ぼくはさっさと心を切り替えた。

■捨てる神あれば…

 製本所もダメ、畳屋もダメ。もはや絶望的……。
 と思いきや、捨てる神あれば救う神ありとはこのことだ。数日後、またもや正利には就職話が一件、持ち上がってきたのである。
          *
 うちの学園を卒園した25歳の男性が、ある大手鉄工所の工場で主任を任されているという。そして、なんとその彼が、じきじきに学園に人材をスカウトしに来たのである。なんでも今、臨海地域に工場の新設・増設をしているとのことで、人手が致命的なほど足りないというのだ。
 ぼくは、彼から話を聞きながら、同時に正利を猛プッシュした。そしてすかさず窓の外に、中庭でぼんやり小学生たちのバスケットボールを眺めていた正利を見つけ、呼び寄せた。
 相変わらず挨拶もせず、仏頂面で主任の前に立ちつくしているあいつ。
 こりゃぁまた、いかんかな……。
 一瞬、そう思ったのもつかのま、この主任何を思ったか、正利に面接を受けてみろと言うではないか。
「本当ですか? ありがとうございます」
 ぼくが立ち上がり、その手を握ると、
「まあ、挨拶ができて、人並みの運動神経があれば、まず面接には落ちませんから」と彼は言う。
 いや、もうありがたいけど、何がなんだかさっぱりわからない。正利は現に今、挨拶もできずにいるではないか。中庭でぼーっとするしかないほど運動神経もゼロだ。それが彼にはわからないのだろうか??
 ぼくには、なんとなく嫌な予感がした。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/人が食い合うのを奨励するコイズミ改革

■月刊「記録」2003年11月号掲載記事

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 このところ頻発しているのが、JRの事故である。
 先月末には、JR東日本の中央線高架工事にともない、運転開始の予定時刻から8時間にわたって上下線が不通となる事態となった。後日あきらかになった原因は、配線ミス。しかも図面段階からまちがっていたという。 また工事が終わったあとも踏切の距離が延びたために老人が渡りきれなかったり、クルマがはさまったり、ほとんど踏切があかないなどの状況がつづいている。そのため焦った老人が転倒してケガをするなど一触即発の事態が発生している。
 さらに今月6日には、夜間の線路改修工事でショベルカーのショベル部分を線路に置き忘れ、京浜東北線が激突する事故も起きている。
 共通するのは、単純ミスが重なっていること。そして事故を予見し万が一に備えていなかったことだ。
 いまから16年前、JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)職員がいかに仕事をサボり、だらしないかを、新聞各紙が連日のように報道していた。たるみ運転だ、就業時間前の入浴だ、といった連日のネガティブ・キャンペーン(ブラック・プロパガンダ)に力を得て、「国鉄改革」がすすめられたのである。それから16年がたったのに、サービスが向上するどころか、国鉄時代以上の事故が相次いでいる。それは「国鉄改革」の正体を暴いたともいえる。
 安全性を無視して合理化を進め、子会社・孫会社に仕事を投げて経費を下げる。結局、国鉄を民間企業化させることで、関連企業を儲けさせたが、乗客の安全や労働者の雇用は「改革」の犠牲にされた。つまり人間を幸福にするための民営化ではなかったのである。
 その象徴的な事例が、国鉄労働組合(国労)員への弾圧だ。
 新幹線の運転手を売店の売り子にし、車両工場のベテラン技術者をうどん屋やそば屋で働かせ、売店や自動販売機用の販売する缶ジュースを運ばせる。国労組合員というだけで、JRは人間あつかいしなかった。
 国労にたいする人権無視がJRの本性だとわかれば、最近の事故への対応も理解しやすい。もしJRが人間を尊重する企業であれば、ケガ人がでるまであかずの踏切を放っておかなかったはずだ。
 国鉄の分割民営化に反対して解雇された1047人のひとたちは、鉄建公団訴訟原告団をつくり裁判闘争をつづけている。鉄建公団とは、かつての国鉄清算事業団を吸収した組織である。仕事のない事業団でイジメ抜き、さらに3年後に解雇したJRの雇用責任について争っている。
 地方や中央の労働委員会では、1047人の解雇が不当労働行為と認定されてきた。ところが各裁判所は、反動判決によってJRの雇用責任はないとしたのである。そして2001年、国労本部までもが権力に屈服する道を選択した。
 しかも国労本部は、組合の方針に反対した組合員22人を、組合員権3年の権利停止処分としたのである。労働組合が意見のちがう労働者を処分するのは、組織の弱体化を招くことはあっても、強化にはつながらない。組織にたいする不信を生みだすだけである。これは労働運動の鉄則でもある。国労本部は、誤りをすみやかに是正すべきだ。
 人間を尊重しない企業システムは、不況とともにさらに強まっている。前号でもブリヂストンや新日鉄の工場火災について触れたが、そのごも出光興産の北海道精油所で2回も大きな火災が発生した。発端は地震だが、現地の本部長でさえ「天災ではなく人災だった」と発言しており、地元住民の不安はますます高まっている。
 製造業の生産設備の平均使用期間は、最近10年間で2年以上も延びたという。それに加えて、安全を無視したリストラが横行している。安全にたいする企業の意識は、きわめて弱くなっており、労災、過労死、過労自殺をうみだしている。国の監督の強化が必要だ。

■前近代の雇用関係に逆戻り

 最近の記事で胸を衝かれたのは、山梨県都留市の朝日川キャンプ場駐留場で、男性3人の遺体が発見された事件である。
 この3人は、同市の朝日建設の日雇い労働者とみられている。新聞報道などによれば、この会社の60人ほどの労働者たちは、プレハブ2階建ての宿舎で生活していたという。32室もあったというのだから、巨大収容所だった。
 ほとんどが東京の山谷や大阪の釜ヶ崎など、いわゆる「ドヤ(簡易宿泊所)街」から連れてこられた日雇い労働者や路上生活者であった。これまでも賃金の未払いなどで、なんども問題になっていた企業だったという。仕事にでても1000円のタバコ代を支払うだけで、賃金の全額が支給されることはない。そのうえ宿泊代や食事代、さらには敷地内に作った娯楽施設で飲み食いさせ、法外な料金を取っていたらしい。
 そうした圧制のもとでトラブルが発生し、殺され、埋められた。このような暴力支配の「暴力飯場」(作業員宿舎)は、かつて北海道や九州の炭鉱地帯、あるいはさまざまな地域の土木現場にあった。きわめて前近代的なシロモノである。
 かつてわたしは、北九州市の「労働下宿」で働いた経験がある。競艇場でカネをすったり、小倉の勝山公園でウロウロしていた労働者が手配師の甘言によって集められ、同市八幡区の春の町にある労働下宿に収容され、新日鉄の工場などで働いた。
 これらの施設は70年代まであったが、そののち姿を消す。またバブル景気のなかで「暴力飯場」(作業員宿舎)にいくような労働者も減っていった。原発の下請け企業などに山谷や釜ヶ崎から来ていた労働者もいたが、朝日建設のように暴力を受けたり、殺されることはなかった。
 しかし現在、不況によって職場からリストラされる人があとを絶たず、山谷や釜ヶ崎にいる労働者を必要とする土木工事も減ったため、ドヤ(簡易宿泊所)代が払えなくなって路上生活者になる人たちが激増している。そうした人たちが、朝日建設などの「暴力飯場」(作業員宿舎)に収容されるようになったのである。
 もっとも苛酷な路上生活よりも、飯と屋根がついている生活の方がマシであり、定期的な仕事がなく、食事代と宿泊代が引かれているうちに借金が増えても、まだ「暴力飯場」(作業員宿舎)の方がいい感じる人たちが増えてきたのだ。
 こうした極限状態に置かれた労働者たちが「トンコ」や「トンズラ」や「ケツを割った」(逃げる)りし、それにたいする暴力的な報復が、「暴力飯場」(作業員宿舎)では繰り返されている。
 これらは北海道の開拓時代、道路工事などのために朝鮮から連行されてきた朝鮮人労働者が遭遇した現実の復活でもある。
 あるいは1984年5月、北海道の夕張市で収容していた労働者に火をつけて殺し、保険金がだまし取ろうとした事件を思い起こさせる。
 この事件の発端は、炭坑事故により日高組の労働者が死に、経営者の日高夫妻に保険金が入ったことだった。そのカネで贅沢三昧に暮らしていたものの、仕事が途切れがちになったため、労働者を寝かしておいた宿舎に火を放ち、保険金を受け取ろうとした。
 この火災による犠牲者は7人。そのなかには中学1年生と小学6年生のきょうだいもふくまれていた。日高夫婦は従業員4人に生命保険と火災保険をかけ、あわせて1億3800万円を手にしたといわれている。
 これは保険金目あての殺人事件であったが、不況のなか労働者を殺して儲けるという資本主義が、完全に復活したといえる。
 労働者の死をカネに代えるのは、なにも暴力飯場だけではない。企業が社員にかけている団体保険は、労働者が労働災害によって死亡すると、保険金が会社に入る。そのなかから涙金だけを遺族にあたえる「搾取」を、大企業もおこなっていた。
 そもそも資本主義は、労働者を喰って、経営者が太るきわめて前近代的なシステムである。なかでも派遣業は、労働者の賃金をピンハネして不労所得を得るものでしかない。
 ところが現在、この派遣業の勢いもすごい。
 コンピュータ社会の発展とともに膨大なプログラマーが必要となり、派遣労働者がプログラムを組むようになったからでもある。
 それでもコンピュータ産業や専門的な技術が、人材派遣の条件であったうちは、まだマシであった。労働者派遣法が改正され、来年3月からは全製造業への派遣が解禁される。つまり技術者でない単純労働者を、ピンハネ目的で生産ラインに合法的に派遣できることになる。
 労働者派遣とピンハネは、労使関係のもっとも醜い部分であり、労働者の保護の観点で考えれば、ピンハネはけっして認められない。人材派遣法の改正は、前近代の復活である。
 現在でさえ日本の資本主義はどう猛であって、ついに気に入らない労働者を殺して埋めるという極端な形まで生みだしてしまった。派遣法の改正は、こうした流れを加速させるにちがいない。フリーターやアルバイター・パートタイマーの使い方は、ますます経営者の思い通りになるだろう。
 つまり労働者は戦前の無権利な状態にもどされたのである。殺害されてキャンプ場にうち捨てられた労働者は、いかに労働者の命が安くなってしまったかを物語っている。

■軍拡シフトと「暗愚の森」の幽霊たち

 残念ながら選挙と発行日程が重なったため、選挙の内容については、今号では触れられない。しかし自民・公明・民主の三大政党ともに憲法改悪路線のため、選挙結果がどうであれ憲法改悪にむかうスピードが憂慮される。
 新しく誕生した小泉改造内閣は、改革路線などと呼ばれているが、じつのところ「軍拡路線」でしかない。
 安倍晋三は、49歳にして幹事長に抜擢されたと話題になっているが、「小型核兵器をもつことは憲法上問題がない」と核武装を合憲といいきった人物である。また岸信介、安倍晋太郎とつづいた三代目の“世襲”政治家である。岸は60年安保を機動隊によって成立させた張本人であり、超ウルトラ軍拡政治家といってもよい。安倍晋三も、その血をしっかりと受け継いでいるといえよう。 そのほかにも法務大臣の野沢太三は参院憲法調査会長を務め、憲法改悪に奔走した。教育勅語信奉者の森喜朗率いる森派に所属し、憲法改悪路線を内閣から推し進めようとしている。
 石破茂防衛庁長官は、軍事オタクとして知られ、徴兵制を合憲と発言するタカ派でもある。中川昭一経済産業相は、石破防衛庁長官の後任として拉致議連会長を務めてきた。小池百合子環境相は、同議連の副会長。この3人はアンチ北朝鮮勢力であり、軍事的・高圧的な解決を望む軍拡シフトでもある。
 憲法改悪を公然と掲げる小泉純一郎は、軍拡・改憲路線を官房長人事にも反映させた。福田康夫官房長官、細田博之・山崎正昭両官房副長官は、いずれも小泉の出身母体であり、タカ派の多い森派に所属する。「暗愚の森」から化けてでた幽霊といえよう。
 このように日本はますます危ない道を歩んでおり、チェック機能すら利かなくなっている。大政翼賛化してきた政治をせめてもとにもどすためにも、こんどの選挙で、自民党を吊し上げるしかない。(■談)

※文章の一部に不快用語が使われているが、劣悪な状況を表現するため、現在使われている表現を併記した上であえて使用した。検討した上での掲載であることをご理解いただきたい。

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だいじょうぶよ・神山眞/第31回 正利の就職活動2

■月刊「記録」2002年4月号掲載記事

*           *           *

 正利の就職活動が始まった。
 まずは、電話でアポイントを取っておいた製本所への見学だ。
 当日、ぼくは先輩職員の一人と共に、車で製本所へと向かった。
 先輩は、今は学園の指導員ではなく、経理にたずさわっているのだが、かつての教え子が、この製本所で働いているというつながりだ。
 教え子であるという女の子も、やはり正利と同じ境遇にあり、親もなく、知的にも遅れがある。
 正利と同じ境遇を抱える正利の女の子版。そんな彼女が製本所で、もう3年間も働いているという。
 しかも、こつこつと貯金した額は、すでに100万円に届きそうだというではないか。先輩に話を聞きながら、ぼくは思った。本当にそのときは思った。
(人生なんて、意外に上手くいくものなのかもしれない)
 しかし、今考えると、これは実に甘い考えであった。
■正利女の子版、しかし何かが…

 当然、製本所では、今後の就職活動における段取りを決めるものと思い、ぼくは席についた。
 ところがである。いきなりしょっぱなから断られた。入社どころか面接さえも断られたのである。
「申し訳ないんですけど、今年は辞めると言い出す者が一人もいないんです。それに今、印刷や製本業界は景気が良くなくてですね」
 誠実そうな女寮長は、真面目な顔をして気の毒そうに、しかしみごとにあっさりと言った。ここまですっぱり言われてしまっては、もう引き下がるしかない。
 では、なんでわざわざこんなところまで来たんだろう。電話で断ってくれればいいものを。席に座ってこれ以上話す必要もない。ぼくは、一刻も早く学園に帰り、次の段取りを進めたかった。
 …と、思えば思うほど、彼女の話は長く感じられた。卒園者の近況だの、週一回訪れる学習ボランティアの話だの、ぼくたちへのサービスのつもりかもしれないが、どうでもいい話ばかりであった。しまいには、仕事を終えたという卒園生の一人、多田という女の子が出てきて食事に誘ってくるではないか。
(もういい。今日という日はなかったことにしよう)
 ぼくは密かに溜息をついた。
        *
 多田さんを加えたぼくたちは、近くのファミレスに向かった。
 日はとっぷりと暮れていた。改めて会社の周囲を見回すと、工場ばかりで何もない。酒を飲むところも、ゲームをするところも、パチンコをするところもない。こんなところで寮生活をすれば、さぞかしお金も貯まることだろう。そう思うと、正利が面接すら受けられないことが苦々しく感じられた。
 ファミレスでは、多田さんが、「今日は私がごちそうするので先生たちは好きなものを食べてください」と言う。10歳も年下の女の子にごちそうされるとは、なんだか変な感じだが、まあいいか。と、お言葉に甘えた。
 食事中は彼女がもっぱら話をしていた。
 寮の食事は毎日出るという。風呂も毎日、好きな時間に入ることができる。週に何度かボランティアが来て、勉強を教えてくれる。おまけに案の定、お金をほとんど使うことがなく、すでに100万円以上の貯金ができた。
 話はあっちこっちに飛び、どうにも要領を得ず、完全に理解することは不可能だったが、だいたいそういった内容であることがわかった。
 まあ、いずれにしても彼女の知的レベルが正利のそれと同等であることだけは確かである。ただし、決定的に違うことがあった。
 正利が全身から不幸なオーラを発しているのに対し、彼女からは、なんとも明るく天真爛漫なオーラが出ているのだ。
 それだけの違いが、運命ってものをずいぶん変えていくのかもしれない。そう思うと、正利がかわいそうな人間にも思われてきた。
 一日が徒労に終わり、かなり遅い時間に、ぼくたちは学園に戻ってきた。
 学園の規則で決められたテレビを見てもいい時間はとっくに終わっている。なのに一人だけボーっとテレビの前のイスに座っているヤツがいる。
(やっぱりな……、正利だ)
 声をかけずに放っておけば、そのまま何時間でも姿勢を崩さないだろう。そんなふうに感じられるほど、あいつには生気や活力といったものがない。
 みすみす幸せを逃し、不幸ばかりが寄ってきそうな雰囲気がある。そういうタイプの人間にあいつが見えた。 ぼくはテレビの前の正利に、しみじみと同情した。しかし、このときぼくは、自分のことを完全に棚に上げていた。後にあいつの不幸オーラに巻き込まれていくのが自分であることも、ぼくはもっと前から予測しておくべきだったのに。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/「店を持たせてやる」との言葉を信じた・武田貴文(63歳)

■月刊「記録」20001年4月号掲載記事

*          *          *

■20年のクリーニング店勤め

 ワイシャツだと、1日に110枚ぐらいかな。勤務時間は、朝8時から夜8時まで。遅いときは夜中11時まで働いてました。自分の時間なんてなかったですよ。1日中店で働いて、近くのアパートに帰ってきたら寝るだけの毎日ですから。
 店は10畳ぐらい。だいたい二人でアイロンをかけていました。衣類とアイロンとアイロン台があって、もうそれだけで店はいっぱいでした。夏は暑くてね。ステテコとランニングで仕事をするんだけれど、炎天下に座っている方が涼しく感じられるぐらいでした。それでも体は慣れちゃうもんですよ。
 中学を卒業してから働き始めて、辞めたのは昭和48(1973)年だから、35歳までですかね。20年ぐらい同じクリーニング屋に勤めていたことになります。
■「自分の店」は夢と消えた

 7人兄弟の3番目。父親は小学五年生のときに死にました。一番下の子が生まれたばかりでした。私が中学を卒業してすぐに、今度は母親も死んじゃったしね。高校なんか進学できるわけないですよ。
 みんな高校に行きだした時代だけれど、ウチは貧乏だから進学するどころじゃないですよ。兄貴も中学を卒業してから農家の小僧(丁稚奉公)になって体を鍛えて、それから父親の後を継いで大工になったんです。米軍基地で仕事を請け負っていました。
 私の就職先は母親が見つけてきたんですよ。隣組の人が町にクリーニング屋を持っていまして。たぶん「うちのボウズを使ってくれ」、そんな感じで頼んだんじゃないですかね。中卒じゃあ大きな企業に入れるわけもないし、就職先が見つかってよかったと当時は思いましたよ。
 でも、いま考えると、クリーニング屋で働き始めたのが間違いでした。「店を持たせてやる」なんて主人から言われて、真面目に働いちゃったから(笑)。
 店の主人が死んじゃってから息子が経営を始めて、それを機に辞めました。安い銭しかもらえないし……。自分で店を始めるには、お金が必要でしょ。でも賃金が低すぎて全然お金が貯まらない。せめて親が畑でも持っていたらね。それを売って店でも建てたんだろうけれど。
■結婚しようと思ったことも

 それから5年間は、義理の兄の会社で配管工として働きました。参議院会館なんかつくったんですよ。まあ、できあがってからは、行ったこともないけれど。その会社もつぶれちゃって、40歳ぐらいから土方ですよ。高田馬場に出入りするようになりまして。
 クリーニング屋を辞めてからですかね、遊ぶようになったのは。酒は飲めないくちですから、もっぱらギャンブルと女でしたけれど。でもギャンブルといっても、ひまつぶしにやるぐらいだから、月に数万円使うぐらいかな。
 女は、池袋で買っていました。その当時の池袋は、まだ道で立っている女も多かったんです。お気に入りもいましたよ。いまは僕も枯れちゃったけれど(笑)。まあ、年をとって風俗なんていうのもね……。
 さあ、どうしてクリーニング屋を辞めてから遊ぶようになったんでしょうかね。わかりません。生活が荒れたというのでもないけれど、少し変わりました。ただ土方になったころには、どうでもよくなっちゃったというんでしょうかね。気安く働けましたから。住所がないような人も多かったし。
 そう、まだクリーニング屋に勤めている32歳ぐらいのときに結婚しようと思ったことがありました。でも、お金がないからできなかった。徒弟制度だったから、わずかしかもらえないでしょ。結局、そのまま歳を取っちゃいました。
 30歳ぐらいまでにちゃんとした会社に就職できてればね。せめて車の免許でも取って、何かの運転手にでもなればよかったなって。

■人間以下の扱いはザラ

 そうこうしているうちに不況がひどくなって、仕事もなくなって、私も職にあぶれるようになって、昨年の8月からホームレスです。
 最初、新宿にいて、それから池袋に移りました。ここでひどい目に遭いましたよ。「俺が仕切っているんだー」という人がいましてね。最初、そんな人がいるなんて知らなかったんですよ。でも、そいつは弱いホームレスばかり脅してました。
 最初、私も子分にしてやるなんて言われてヘコヘコしていたんです。仕事をくれるとも言われたし。でも、下手に出ているだけじゃ、どうしようもない人だった。
「東武デパートで酒を盗ってこい」と万引を命令されたりもしました。盗むなんてできないから、仕方なく買ったりしましたよ。
 一度なんか「牛丼を食いに行こう」と言われて、一緒に牛丼屋に入ったら、金を払おうとしないんですよ。持っているのに。結局、警察が呼ばれて、しぶしぶ2人分の代金を払いましたけれど。幸い警察も説明を聞いて帰って行きましたが。騒いで金を払わなくて済むなら、ラッキーだと思っていた人なんですよ。
 彼のオーバーを私がなくしたことがありまして、これも大騒ぎになりました。収めるために時計を取られましたからね。最初にヘコヘコしていたからなめられたのでしょう。仕事もしばらくしてなかったから、筋肉も衰えてくるでしょ。なおさら弱気になるんですよ。結局、一ヶ月ぐらいで、池袋は逃げ出しました。
 ホームレスの生活はつらいですね。ホームレスをだましたりするのに、多くの人は罪悪感を感じないんでしょうかね。
 この前、飯場に仕事に行ったときなんか、15日働いて1万3000円ですから。
 海の家に働きに行ったときはもっとひどかったんです。調子のいいことばかり言って、二週間働いて一銭もくれない。「金をくれないなら辞める」と言ったら、帰りのキップとおにぎり二つ、缶ビール一缶を手渡しました。一夏働いた仲間でさえ、7000円しかもらえなかったみたいですよ。
 ホームレスなんて飯を食わせて、たばこを渡しておけば、お金なんか払う必要はない、と思っているんでしょう。
 親族とは、もう25年以上連絡を取っていません。一人前になっていれば連絡もできますが、恥ずかしいでしょ。一番下の弟もグレていたけれど、所帯を持ったらしいんです。景気が悪くなっていますから、勤めた会社がつぶれていなければいいけどね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/母親の面影を追い求めていた・川原太一さん(46歳)

■月刊「記録」1999年10月号掲載記事

*            *            *

■母親不在で育った

 物心がついたころには、家にはもう母親はいなかったんだ。オレの小さい時分に、父親と離婚したらしい。なんで別れることになったのか、誰も教えてくれないし、オレも聞かなかったから、いまでも理由はわからないな。母親が自分から家を出たのか、出されたのかかもね。 生まれたのは青森県の十和田市。父親と兄貴、それにバアさんの4人家族で、このバアさんが母親代わりになってオレたち兄弟を育ててくれたんだ。父親は市役所が発注する土木工事を専門にしている会社で働いていた。まあ、サラリーマンだね。優しい父親だったよ。
 もともとうちは田んぼや畑のいっぱいある物持ちの家だったらしい。それが借金のカタにみんな取られちゃったようだね。それもオレの小さい時分のことで、原因とか理由はわからない。両親が離婚したのも、それと関係があったような、なかったような、それもよくわからないな。
 小学校の6年生のときに、こんなことがあった。学校から帰ってみると、家の玄関に見なれない履物が脱いであった。座敷に上がってみると知らない女の人がいてね。その人と目が合って、しばらく二人で見つめ合った。オレは急に心臓がドキドキしてきた。女の人がオレに話しかけようとしたとき、部屋にバアさんが入ってきて、「おまえは会っちゃあいけない人だ。向こうに行ってろ」って座敷を出されてしまったんだ。子ども心にも、その女の人がオレの母親だとわかった。
 しばらくして、玄関で音がするんで部屋の窓から外をのぞいたら、帰っていく母親の寂しそうな後ろ姿が見えた。オレも胸がいっぱいになった。母親を見たのは、あとにも先にもそのときの一回きりだ。座敷でオレに話しかけようとしたときの顔が、いまでも忘れられないね。 あとになって教えられたんだけど、あのとき、母親はオレを引き取らせてくれって頼みにきたらしい。だけど、バアさんが許さなかったんだね。その話を聞いて「兄貴を置いて、オレ一人だけが母親についていくわけにはいかない」と思ったことも覚えているよ。ただ、母親がオレを引き取りたいって来たということは、男をつくって逃げたとか、そういうことじゃないと思うからね。それが救いっていうか、ね。

■集団就職列車で上京した

 中学校を卒業して、東京に出てきた。集団就職というやつだね。3月20日の夜、三沢から夜行の臨時列車、あのころは集団就職列車と呼ばれていたのに乗ってね。故郷を離れる不安はなかった。若いから希望に燃えていたくらいだった。兄貴も集団就職で先に東京に出ていたし、それに母親の実家が東京にあったんだ。東京に行けば母親に会えるかもしれないという、淡い期待もあったかもしれないな。
 次の日の朝、上野駅に着いた。ホームに兄貴が出迎えてくれた。ただ、そのときに兄貴が「母親は死んだと思って働け」って言うんだ。そのとき、なんでそんなことを言ったのか、いまでもわからないね。オレが東京に出てきたのを、兄貴には母親を探しにきたように見えてたのかもしれないね。それとも、兄貴は両親の離婚の真相を知っていて、そんなふうに言ったのかとも思うね。
 オレが就職したのは、川崎にあった自動車会社のトラックの製造工場。鋳物の型をつくるのが仕事だった。そんなに大変な仕事じゃなかったよ。鋳物といっても型をつくるだけだから、熱くてかなわんとか、すすだらけになるとかはなかった。金属を溶かして型に流し込んだりするのは別の工場の仕事だったからね。重い物はみんな機械で吊ってたし、まあ仕事は楽だった。
 会社には養成工の制度があって、オレもそれを利用した。週のうち三日間だけ工場で働いて、あとの三日間は学校に通える制度なんだ。工場の敷地の中に学校があって、一学年一クラスで40人、四年制で卒業すると高校の卒業資格がもらえた。だけど、結局1年くらいで工場も学校も辞めてしまった。
 なんで辞めたのかって? 同じ中学の同級生だったのが、(埼玉県の)戸田の町工場で働いていて、そいつに自動車会社より給料がいいから来ないかって誘われたんだ。その町工場は荒川の土手の下にあって、従業員も7、8人しかいないちっぽけな工場だった。カメラの部品をプレス機械でつくるのが仕事で、給料はホントによかったよ。まあ、給料のこともあったけど、自動車会社には話をする友達が1人もいなかったからね。友達がほしかったのさ。だけど、その町工場にも4年くらいしかいなかった。
 東京へ出てきてから、ずっと母親のことが気になっていてね。母親の実家は(東京の)三鷹にあって、そこを訪ねれば何かわかるかもしれないと思ってたけど、どうしても行けないでいたんだ。行けば母親がオレたち兄弟を置いて家を出ていった真相が明かされるようで怖いような気もしてね。
 20歳のときだったかな。それでも母親の消息が知りたかったし、できれば会ってもみたい気持ちが強くなってね。自分では行く勇気がないから、兄貴に頼んで行ってもらったんだ。三鷹の実家にはジイさんとバアさんが住んでいたらしい。でも、母親はいなかったそうだ。ジイさんたちにも行方はわからないという返事だったようだ。そのことがあってから、オレも母親のことはあきらめよう、もう忘れようと思ったね。

■不況で土方仕事がなくなった

 プレスの町工場を辞めてからは、いろいろ働いたよ。スナックや飲み屋の水商売をしたこともあるし、雀荘の店員や鳶職もやった。でも、一番長かったのは土方だったね。港の岸壁をつくったり、ゴルフ場の造成とか、山留めの工事なんかが多かった。
 仕事はいろいろ替わったけど、オレは真面目なもんだったよ。はじめのうちは貯金だってしていたしね。酒もギャンブルも少しはしたけど、のめり込むほどじゃなかった。楽しみは映画を見るくらいだったね。結婚もしなかった。結婚のことなんて考えたこともないし、その必要を感じたこともないしね。
 ホームレスになったのは、98年の11月から。それまで25、26のときから土方の仕事をしてきて、ずっと飯場で暮らしてきたんだけど、仕事が減って飯場暮らしができなくなったからだよ。はじめは荒川の千住大橋の下に寝たんだ。別にどうという感想もない。住むところがないんだから仕方なかった。橋の下にはほかにも3、4人が寝ていたけど、誰からも文句は言われなかったしね。
 橋の下で寝起きしながら、上野の手配師のところに通ったんだけど、いくら通っても仕事を回してもらえないんだ。それでこっち(新宿)に移った。このあいだ、そこの公園で手配師をしていたのに会ったよ。手配師までがホームレスになっているんだから、よほど仕事がないってことだよね。
 兄貴はまだ東京にいるよ。結婚して、子どももいて、いまは府中のほうに住んでいる。オレだっていつまでもプータローをやっているわけにはいかないけど、40面をさげて兄貴のところに頼ってはいけないしね。
 この歳になっても、まだ母親に会ってみたい気持ちはあるよ。だけど、もう母親も70を超えているはずだから、いいバアさんになっているよね。街で会っても、オレのことなんかわからなくなっちゃってるんじゃないかな……。 (■了)

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元信者が視るオウム的社会論 第16回/「おわりなき日常」について

■月刊『記録』99年3月号掲載記事

 オウム事件をめぐって、さまざまな評論が飛び交いましたが、そのなかで、一番異彩を放っていたのが、社会学者の宮台真司氏が唱えた「終わりなき日常」論です。
 彼によれば、オウム事件というのは、いつまでも続くであろう「終わりなき日常」に耐え切れなくなった人々が、一発逆転を狙って引き起こした一種の社会変革であると。
 彼はそれらの人たちを「ハルマゲドン」派と呼びました。そして、彼は「ハルマゲドン」派に対する処方箋として「終わりなき日常」をまったりと生きる知恵を身につけることを提唱しました。
 さらに「終わりなき日常」派の典型として、援助交際をする女子高生、いわゆる「コギャル」をもちあげ、何の理想や大志をもつこともなく、ただひたすら周囲とのコミュニケーションのみに意識を向ける彼女達を見習うべきだと主張したのです。
 ハルマゲドンなど起きやしない、革命や維新など起きやしないぞと。自分の生活に関係ないことにエネルギーを注がずに、コギャルのように日常をうまく立ち回る知恵を磨くべきなのだと。
 援助交際をする女子高生を学者がもちあげたという話題性も相まって、彼は一躍、論壇のスターダムにのし上がりました。日本の通常の社会を離脱し、オウムという一種の別世界から数年ぶりに戻ってきたばかりの僕にとって、彼の主張は驚くべきものであり「日本も変わったなあ」と思ったものでした。
 ところで、今年の一月十日、この日は僕の三十歳の誕生日でもあったのですが、友人達が結成した「維新赤誠塾」というバンドのライブを見に行ってきました。
 彼らは宮台氏が称揚したコギャル文化を一刀両断し、腐敗した現代社会に対する憤りを、攻撃的な詞と音楽で歌いあげていました。
 洪水のように汗を流しながら熱狂的に歌う彼らを見ていて、まさに彼らこそが宮台氏の唱える「終わりなき日常」派の対局に位置する人達だと思いました。
 ライブ後に話を聞いてみると、彼らはその狂気ともいうべき音楽活動を自覚的に行っているのだということに気づかされます。この腐敗した日本を浄化するには、自らを捨てて過激なライブをあえてしなければならないと。そうしなければ、性根まで腐敗が侵食しはじめている日本人を目覚めさせることはできないんだと。そして、その過激さゆえに、今まで出演したすべてのライブハウスから、出入り禁止勧告を受けたそうです。

■幕末なら草奔の志士達

 僕は幕末の草奔の志士達というのは、彼らのような人々だったのじゃないかと思いました。何もしないで長いものに巻かれることは容易である、安易な方向に行こうと思えばいくらでも行ける。しかし、それを選ばず、魂の叫びに従ってイバラの道を歩き始めた彼らは、稀有な存在だと思いました。
 ちなみに僕は「終わりなき日常」のなかで、まったり生きることもできず、かといって社会変革のために奔走することもできず、今はただひたすら自分の心の中を観察しているところです。(■つづく)

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元信者が視るオウム的社会論 第15回/極限で出る思考パターン

■月刊『記録』99年2月号掲載記事

 昨年の十二月十四日、深夜の新宿で、したたかに酔った帰り道に、第乱闘の喧嘩をしでかしてしまいました。
 泥酔してフラフラになりながら駅に向かっていると、若者五人が僕を見てケチをつけてきました。その夜は袖のない黒マントを羽織っていたのですが、彼らには僕が手を出さずに格好つけているように見えたのか、「ちゃんと手を出せよ!」と怒鳴りあげてきたのです。彼らも僕以上に酔っているようでした。目つきを見ると、精神状態が尋常でないようでした。
 僕は酔っぱらいにはかまうまいと、酔っぱらいらしからぬことを思って、無視して歩き続けたのですが、彼らはいつまでもあとをつけてきました。酔っぱらいというのは一つのことが気になりはじめると、際限がなくなるようです。しまいには僕を囲んできて、一人が胸ぐらをつかんできました。顔を見渡すと、全員が十代後半から二十代前半のチーマー風の若者たちでした。
  「手を出して歩きな!」
  「これはマントなんだ。手は出せない。どけよ」
 僕が手を払いのけて歩き続けると、彼らはまた金魚のフンのようについてきて口出ししてきました。僕も次第に頭に血が上ってきて、好戦的な気分になってきました。
 実はこの前夜に、打撃系格闘技のトーナメントである「K-1グランプリ」をテレビで観戦して刺激され、極真空手の門下生だったこともある僕は、もう一度腕力を鍛え直したいと思っていた矢先のことでした。
  (こういうバカな奴らがいるから日本はおかしくなっていくんだよ!)
 思わずカーッとなった僕は、彼らの一人に対して脇腹にミドルキックを打ち込み、道路に沈めました。
 電撃的な攻撃に、彼らは呆気に取られていましたが、仲間の復習をしようと、残りの四人で襲いかかってきました。
 激しい殴り合いとなりました。三分くらいやりあったのでしょうか。リーダーの一人の指示で彼らは引き払っていきました。
  (これは「カルマ落とし」なんだ。自分の悪業を落とすプロセスなんだ)
 殴り合いを終えた直後、いつのまにかそう思っている自分がいました。
 この「カルマ落とし」というのは、オウムの用語で、自分が過去において積んだ悪業が苦しみとして返ってくるという意味です。いわば厄落としみたいなものです。この「カルマ落とし」を乗り越えれば、自分の悪業が滅せられるわけで、「カルマ落とし」に遭遇したら喜びなさいと、オウムのなかにいたときは教え込まされていました。
 オウムで教えられた教義など、今は全く考えないで生活しているのに、こういう極限状況になると、頭に埋め込まれた思考法が出てきてしまいます。もう脱会して三年半にもなるのに…。
 一度身についた思考パターンはなかなか抜けないものだと痛感した次第です。
  「カルマ落とし」の結果として、右目が試合直後のボクサーのように腫れ上がり、しばらくの間、眼帯を付けるはめになりました。(■つづく)

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激突!新型ゲーム機・冬の陣/家電に追いついたハードとゲーム店店員たちの本音

■月刊『記録』07年2月号掲載記事

■文・取材/本誌編集部

■スタートダッシュで差がついた!

 06年末、ゲームのハード機(本体)がメーカーから相次いで発表され、年末商戦は決戦の場となった。
 11月11日にソニー・コンピュータエンタテイメント(SCE)から「プレイステーション3(PS3)」、12月2日には任天堂から「Wii」が発売された。11月2日にもマイクロソフト(MS)が「Xbox360」の低価格版となる「Xbox360コアシステム」(以下「Xboxコア」)の発売に乗り出しており、三つ巴の争いとなった。
 MSの「Xbox360」は06年末までに全世界で1000万台以上を売り上げているが、日本では売り上げが伸びず、今回の「Xboxコア」で日本市場での掘り起こしを計る。
 SCEと任天堂が席巻する家庭用ゲーム機市場にコンピュータ企業の巨人・マイクロソフトが初代「Xbox」を掲げて割って入ったのが2002年。「Xbox」を中心としたエンターテイメント事業はいまのところ赤字とはいえ、潤沢な資金を有するMSが先行する企業にとって脅威となっていることは間違いない。
 さて、「プレイステーション2」に続く大成功を収めることができるか注目された「PS3」だが、発売前からSCEの混乱ぶりが伝えられていた。
 量産体制が整わず日本とアメリカでは大幅な初期出荷台数の縮小を余儀なくされ、欧州にいたっては発売が延期になったほどである。
「PS3」が搭載する、次世代DVD規格であるブルーレイディスク(BD)を読み取る装置の生産が遅れているのが原因だ。
 当初の計画通りであれば、日米合わせた年内出荷は400万台のはずだったが、実際には200万台程度にまで減少。発売前に希望小売価格の値下げを発表するという波乱もあった。ハードディスクの容量が20Gの低価格版は税込み6万2790円の予定だったが、「Xboxコア」の登場やユーザーからの「高い」との声を鑑みた結果、4万9980円まで値下がりした。
 発売直後こそ店にPS3を買い求める客が殺到したが、それも初回出荷台数が10万台のみだったこともあるようだ。
 対する任天堂の「Wii」は「遊びの原点立ち返ったゲーム機」と言われている。
「ファミコン」が90年代半ば、「プレイステーション」にハード機No.1の座を奪われた後、任天堂も「プレイステーション」の特徴である高機能路線で対抗することを目指し「ゲームキューブ」を発表。しかし結果的に敗北したという過去がある。
「Wii」では、高機能性や高いゲーム性を追求した「PS3」や「Xbox」とは別の「遊びやすさ」「親しみやすさ」を重視。岩田聡SCE社長が「家族全員が毎日当たり前のように触れるゲーム機を目指す」とコメントしていた通り、棒状のコントローラーを片手で持つという気軽さ、それでいて操作が簡単ということから老若男女が楽しめるものとなっている。
 価格も2万5000円と他の2機種より低く、発売後5日間で世界販売が100万台を突破するというものすごいスタートダッシュを見せた。
 年末商戦の時点では「Wii」が他に比べてリードしていると報じられているが、このまま「Wii」が今後のゲーム機の主役になっていくのかというと、そういうわけでもなさそうだ。
 今でこそ「PS3」は高価格だが、1年後には数量的に市場に普及し価格が下がり始め、多くの人に手が届くようになる。そして、なんといってもハイビジョン対応の次世代DVD再生機である「PS3」はAV機器としても最高峰の機能を備え、BD-DVD再生ハードとしても期待されている側面がある。ゲーム機が「家電」に完全に追いついたのが「PS3」といえ、今後の関連デバイスの発表にも期待が集まっている。
 年末商戦以後の各ゲーム機の展望はどうなのか。完全な予想などありはしないが、日々店に立ってゲーム機を販売する店員たちならば、その流れを敏感に感じ取っているはずだ。

■ゲーム担当店員の視点

 家電量販店やゲーム店が林立する秋葉原を訪れた。
 まずは秋葉原駅横にそびえるヨドバシカメラマルチメディアAkibaに足を運ぶ。「Wii」の発売前日の夜から1500人もが行列を作った店舗である。
 ゲーム機器のフロアには多くの人が集まっていた。大きなディスプレイが用意され、映画のような「PS3」のゲーム画面が写し出されているかと思えば、「Wii」の棚にも人だかりができている。
「今のところは、『Wii』が押してると言えるんじゃないでしょうか。今日の時点でも在庫はゼロです。入ってきても、そのたびに即日完売の状態ですからね。やはり幅広い層に人気がありますし、操作方法が斬新で本当の意味で新しいゲーム機というインパクトがあるようですね。」
 店員さんが言うには、なんと予約の受付もできない状態であるという。
 売り場には、「Wii」が売り切れ状態であることを知った客が、人気ソフト『Wiiスポーツ』のパッケージを手に取って、心なしか物欲しそうに眺めている。
 他方、「PS3」には在庫があるようだ。
 初期出荷が少なかった「PS3」の方が在庫があることが意外だった。それでも、今後の見通しが暗いわけでもないようだ。
「思った以上に、BD再生機として『PS3』を見ているお客様が多いんです。たしかに『PS2』発売時も、DVD再生機としての側面がありましたが、そのころはもうDVD再生機は普及していました。でも、今回のBD-DVDに関してはまだほとんど普及していない。その意味は大きいと思います。これからの展望ということになれば、決定的な影響力を持つのは人気ソフトが出るかどうか、ということになりますよ。このソフトが欲しいからこのゲーム機を買う、という判断でハード機を決めるお客様は多いですから」。
 こう語る店員さん自身も、どのゲーム機を買うかはこれから発売されるソフトによって決めるという。

■『ブルードラゴン』でXbox復活!?

 実際にソフトの力によって売り上げを大きく伸ばしてきたゲーム機がある。「Xboxコア」である。「ゲームソフト店「メディアランド」の店員さんに聞いたところ熱っぽく語ってくれた。
「やっとキラーソフトが出たって感じですよね。『ブルードラゴン』『ロストプラネット』あたりが出てきて本体も売り上げが伸びてる感じです。なぜかアキバ(秋葉原)では『Xbox』系が強いという謎の傾向があるんですけど、ここにきて本格的に伸びてきました」。
『ブルードラゴン』はあの『ドラゴンボール』を描いたマンガ家、鳥山明がキャラクターを担当した作品だ。このソフトが発売された12月7日以降、売り上げが伸びたことからも年末商戦がさらに激化したことが伺える。
 ここで、いかにもゲーム担当らしい今後の展開についてのコメントを聞くことができた。
「でも、これから先、どのゲーム機に期待するとしたら、個人的には『Xboxコア』でも『PS3』でも『Wii』でもなく、『ニンテンドウDS』か、『PS2』ですよ。というのは、ソフト制作会社側が『PS3』からソフトを出すのを嫌っている傾向があるらしいということをたまに聞きますからね。『PS3』が高性能になったから、そのソフトを作る側にも相対的に今までより高い技術とコストをかけなければならなくなってしまった、というのが理由だそうです」。
 その点、『ニンテンドウDS』や『PS2』では今後も『ファイナルファンタジー』や『ドラゴンクエスト』といった大ヒット間違いなしの超大作が発売を待たれている。新たな3機種に移行するのはまだ早計ということらしい。
 何件か店を回ったが、1月23日まで「Wii」にお目にかかることができなかった。しかし、この23日にようやく「メディアランド」で中古の「Wii」を1台だけ見つけることができた。
 値段を見ると、2万9800円。なんと希望価格の2万5000円より5000円近く高くなっている。買い取り価格は2万6000円前後だという。
「今のところ希少価値がありますから。他の店では中古で3万円を超えてるのも見たありますよ」。
 それでも売れるというから驚いてしまう。新品にしろ中古にしろ、次に入ってくる見通しは今のことろないという。
「GAMERS」本店。この店でも当然のように「Wii」は売り切れである。「PS3」在庫アリ。「Xboxコア」も在庫アリ。
 店員さんの談。
「『Wii』は入ってくるなり品切れ。運がいいときは2週で連続で入ってきますけど、その日のうちにすぐ売れちゃいますね。個人的には『Wii』派です。『PS3』は『機械』という感じがして、気軽に楽しむという感じではないですよね」。
「Xboxコア」の売れ行きは同店でも伸びているという。ここで気になったのは、人気ソフトが出る前とはいえ、なぜ「Xbox360」「Xbox360コア」は伸び悩んだのかということだ。
「初代の『Xbox』と比較して、そんなに進化してる感じがしなかったからだと思います。目新しい機能もないし、ソフトもそんなに充実してなかった。だからMSにとっては『ブルードラゴン』は『これにかけた!』っていう感じだったんじゃないですかね」。
『ブルードラゴン』がヒットし、やや遅まきながら『Xboxコア』が攻勢をかける。それが『Xboxコア』の現状であるようだ。
 少し前まで、ゲームといえば子どもの遊び道具というとらえ方が一般的だったはずだが今は違う。
 SCEはテレビ以上の開発コストをかけ、家電のプラットフォームとしてのゲーム機を視野に入れている。全世界で大ヒットを記録している『メタルギアソリッド』(ハードは「PS2」)に大塚製薬の『カロリーメイト』がアイテムとして登場しているように、ゲームの中に広告が入るのは今後当たり前のことになるという。MSはゲーム中の広告を収入源として視野に入れはじめ、ゲーム向け広告代理店を設置している。
 飛躍的な進化を遂げる今後のゲーム業界に、そして3機種の生き残りの動向に注目!(■了)

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まだ続けるけるべき? サッカー疑惑の祭典/トヨタが糸を引くW杯

■月刊『記録』07年1月号掲載記事

■文・本誌編集部

 競技人口2億4000万人(FIFA発表)とも言われ、地球上で最も親しまれているスポーツであるサッカー。
 国別でチームを組み、4年に1度世界一の座を争うワールドカップが06年にドイツで開催されたことは記憶に新しいが、クラブチームによる世界一のトロフィーをかけての闘いは、毎年この日本で行われている。
 通称トヨタカップとして1981年から行われていた大会では、欧州王者と南米王者が「第三国」である日本で激突し、勝者がクラブチーム世界一となっていた。しかし、05年からはさらにその規模を拡大、欧州と南米の王者のみならず北米、アジア、アフリカ、オセアニアの王者が加わることになった。
 日本で開催されることになり、トヨタカップと呼ばれるようになったのは1981年からだが、大会そのものはインターコンチネンタルカップとして1960年から存在していた。
 60年代の設立当初は欧州王者と南米王者がホーム・アンド・アウェー方式でゲームを行っていたが、特に南米で行われる試合では観客が過剰にヒートアップし危険が伴い、またクラブ側の経済的、スケジュール的な負担も大きいことから、81年から中立的な場所ということで日本で1戦のみ、世界一決定戦が行われることになったのだ。
 05年大会からはFIFA(国際サッカー連盟)主催のクラブワールドカップ(2000年に第1回が開催されるがその後中断していた)と統合する形で「クラブワールドカップ」(以下クラブW杯)を正式名称としている。

 さて、05年から欧州と南米以外に4つの大陸の王者がクラブW杯に参加することになったわけだが、どうも4つのチームが新たに加わる意味が見いだせない、というのはひねくれた見方なのだろうか。
 現在という時代ではスポーツイベントの価値が経済効果で計られ、オリンピックの運営でさえ放映権料やスポンサー効果といった話題から切り離せないものになっているのは言うまでもない。とはいえ、クラブW杯では参加地域の拡大に乗じ、トヨタがブランドのアピールの場としてサッカーを利用しようという魂胆があまりにミエミエだろう。
 新たに加えるチームが、呼ぶに値するチームなのか、というと必ずしもそうでないからだ。4つのチームにはなんとアマチュアのチームまで含まれている。オセアニア代表のオークランドシティ(ニュージーランドのチーム)は、ニュージーランドにプロリーグがないためアマチュアなのである。「アマチュアで何が悪い!」と思われるかもしれないが、今回は実現しなかったとはいえ、オークランドシティとスーパースター・ロナウジーニョ率いる欧州王者・バルセロナが闘うことになればそれは“イジメ”になってしまう。ロナウジーニョは今回の来日で日本サッカー協会から依頼され、イジメ問題吹き荒れる環境に生きる日本の子供に「生きろ、生きろ、生きろ。強くあれ。自殺なんかするな」という感動的なメッセージを送っているのだが、バルセロナ×オークランドが実現していれば、それ自体がイジメだ。
 実際ではそのカードが実現しないようにトーナメント上で両者は最も遠い位置に配されているのだが、なんだかそれも「配慮」というよりは「ウソくさい」感じがする。
 幸い、大会ではバルセロナのスペクタクルな快勝劇あり、ブラジルの超新星・アレシャンドレの鮮烈な世界デビューありで観る価値は結果的にあったのだが、サッカー誌の扱いは限りなく控えめ。あくまで欧州で行われているチャンピオンズリーグが話題の中心。不気味なのは、大会自体の批判記事が少しくらいあってもいいものなのに、どの媒体にも見あたらなかったことだ。
 何よりも引っかかるのは、表記されることのなかったスタジアムの名前である。トヨタカップだった2002年の頃から決勝は横浜国際総合競技場で行われてきたのだが、このスタジアムは日産自動車がネーミングライツ(命名権)を取得、05年より呼称を「日産スタジアム」としている。しかし、この大会中はその名前が出ることはまずなかった。スポンサーであるトヨタの前で日産の名前を出すことなどできない、ということなのだろうが、全くサッカーと関係のないところでそんな力関係が存在するのが現代のスポーツ、と割り切るべきなのだろうか。
 現在、07年度まではクラブW杯は日本で開かれることが決まっているが、その後のことは決まっていない。
 一説では、欧州にトッププレイヤーが集中する現在の傾向を回避し、これまで以上にいろんな地域に注目を集めて貰うために参加国を増やしたという見方もあるが、広告費と世界一の競技人口、という費用対効果を十分に考えたTOYOTAは、スポンサー名を大会名の冠に置き続けるのだろう。(■了)

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鎌田慧の現代を斬る/「自衛隊」が侵略軍化する核武装論

■月刊「記録」2003年12月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 イラクへの自衛隊派兵が具体化してきたのに、あたかも呼応するかのように、イラク国内では米軍をはじめとする占領軍へのゲリラ活動が活発化してきた。
 11月15日には、北部ムスルで米軍ヘリ2が墜落し、米兵17人が死亡した。その3日前には、イラク南部のナシリアでイタリア軍が駐屯する警察本部に自爆テロが仕掛けられ、イラク人を含む30人前後が死亡している。さらに11月2日には、米軍ヘリがロケット弾で撃墜され兵士16人が死亡。このほかにもヘリコプターの墜落事故や爆弾による攻撃などもあり、イラク戦争がはじまってからの死者は、11月16日現在、米兵だけで420人に迫る勢いだという。そのうち178人が、いわゆる「戦後」の死者である。
 このようなゲリラ活動の激化により、米英の占領スケジュールは変更を余儀なくされた。
 15日には、米英暫定占領当局(CPA)とイラク統治評議会が、来年6月末までに占領統治を終了させることで合意した。この計画によれば、全18州で部族長や指導部などが議員を選出して暫定国民議会を設立。そののちイラク国民の直接投票による制憲会議議員を選出し、憲法草案をつくって国民投票で承認を得る。それから総選挙が実施される予定という。占領体制の下で憲法制定、選挙をへて新政権樹立という当初の方針は、反米感情の昇まりのなかで頓挫した。
 しかし油田を抱えるイラクを、アメリカが簡単に手放すはずがない。暫定国民会議の議員選出には、米占領当局が圧力をかけることができる。またイラク人による新政権発足後も、米英軍を主力とする連合軍は駐留する見通しが強い。つまりゲリラ攻撃の対象となる表舞台からは去ったように見せかけ、イラクを統治の手綱は離さない作戦だ。
 すでにアメリカのネオコンは、石油利権・復興利権・市場の自由化など、自国の大事資本、なかでもネオコン議員に近い筋の大企業にたいする優遇策を実施してきた。国連の統治を否定し、ひたすら利権拡大に走ってきたのである。
 こうした状況におけるゲリラ闘争の活発化は、フセインへの支持だけをしめすものではない。自国に侵略してきた米英およびその同盟軍にたいする抵抗闘争であり、イスラム文化を蹂躙する侵略者への反撃でもある。
 これまでもたびたび指摘してきた通り、当初いわれていた大量破壊兵器の存在は証明できず、発見すらされていない。つまり「大量破壊兵器」とは、侵略戦争の旗印、侵略のための神器であった。いまやその化けの皮もはがれ、ブッシュの正義は虚構の正義となった。開戦前にアメリカ政府が主張した「イラクによるウラン購入疑惑」、イギリス政府による「イラクは45分で大量破壊兵器の配備が可能」などという侵略を正当化するブラック・プロパガンダも、とうの昔に破綻している。
 結果、13万人にもおよぶイラクの米兵は、なんのために、なにを守るのかという「戦争の理念」を米兵は喪失した。そのうえ、いつゲリラから襲撃されるかわからない恐怖のどん底にいる。その精神的負担を考慮に入れれば、外敵を追い払おうとしているゲリラ側の士気が、どれほど米兵を圧倒しているかがわかる。

■安全地帯の政治家は駐留を叫ぶ

 しかしミサイルの飛んでくる心配のない母国で、SPに守られながら暮らしている政治家の鼻息は荒い。これだけの無駄死を目の当たりにしながら、ブッシュはなおも撤退しないといいはっている。19人もの死者をだしたイタリアのベルルスコーニ首相も、脅しには屈せず撤退はしないと豪語している。
 また、アメリカの姑息なコイズミも、派兵中止とはいわないでいる。岡本行夫首相補佐官にいたっては、「『一人でも死んだら撤退』という、テロリストが待っているようなステートメントは言えない」と発言している。実際、自衛隊に死者が出ても、「日本政府は断固撤退しない」といいはるのだろう。自衛隊員の死は、米英軍と「犠牲者」を共有することを意味する。その結果、イラクにたいする強い敵対感情が、日本のなかで醸成されるにちがいない。
 しかし自衛隊の死は、被害者の死ではなく、あくまでも加害者の死であり、侵略者の死である。侵略軍とともに行動する軍隊は、侵略軍でしかない。死の感傷から事実を見誤ってはいけない。
 米国追従の日本は、すでに攻撃対象となってしまっている。11月15日にトルコの首都イスタンブールにあるユダヤ教礼拝所(シナゴーグ)に自爆テロを仕掛けたアルカイダ傘下の組織は、次のような声明を発表しているからである。
「犯罪者ブッシュとその追従国(特に英国、イタリア、オーストラリア、日本)に告げる。死を呼ぶ車はバグダッドやリヤド、イスタンブールでは止まらない」
 この声明は、日本が自動車爆弾テロの標的になることを強く示唆している。このような行動をけっして支持するものではないが、自衛隊員がアラブ人に侵略軍と映れば、ゲリラやテロリストに狙われて当然である。小泉は、そうした結果を予測できる「魔の選択」をしたのである。
 しかし、より心配なのは自衛隊員の死ではなく、むしろ自衛隊員によるイラク市民の殺害だ。自衛隊がイラク人を殺害すれば、イラク市民の反日とゲリラの徹底抗戦という泥沼のスパイラルにはまってしまう。
 ベトナム戦争での米軍兵士の死者は、5万8千人とされている。しかし、ものの本によればベトナム戦争で精神的なダメージを負った人たちは、それ以上に達するという。戦争は武器だけの闘いではない。不断の神経戦である。殺す側も、殺される側も精神的に重大な負担をともなう。ましてやゲリラ戦ともなれば、すべての場所が戦場となり、心休まる暇がない。だからこそベトナムでは、米軍による非戦闘員である村民の大虐殺が頻発した。ソンミ村の大虐殺などは、そうした歴史的な教訓である。
 イラク戦争開始以来、米兵の死者は400人を超え、ベトナム戦争の最初の3年間での死者を上回っている。米軍が撤退しないかぎり、米兵の恐怖は極限にむかって進んでいく。

●血税で危険を買う愚行

「安全な地帯」に進軍するなどといっている自衛隊も、その存在が狙われることにより、周辺を戦場に変えてしまう。侵略した自衛隊員に安全地帯などはない。自衛隊の存在自体が恐怖を招く悪循環だ。恐怖を取り除こうとすれば、市民への検問を強化され、過剰防衛による市民殺害の可能性は高まる。
 イラク派兵法(イラク復興特別措置法)は、その第17条で武器の使用を認めている。法律によって交戦が認められているのだから、自衛隊員は「自衛」のためにためらわずに引き金を引くだろう。この既成事実は追認され、正当防衛という名による武力攻撃が承認される。
 イラクへの派兵は、経済的にも大問題である。米政府から強制されたイラク復興の分担金は、50億ドルと見積もられている。しかし戦況の悪化によっては増えるとの予想もある。さらに自衛隊をイラクに派兵するための経費が、総額で数百億円とも見積もられている。「ドロボウに追い銭」である。まじめに働いている人々からは税金をふんだくり、その血税を侵略につぎ込んで人々を危険にさらす。許されることではない。
 派兵にともなう備品は、年内の派兵に間に合うよう防衛予算を使っての購入がはじまっている。イラク派兵を国会が認めていない状況での暴挙である。憲法9条の遵守どころか、この国はシビリアンコントロールさえ外れてしまっている。さらに防衛族でもある石破茂防衛庁長官は、14日に来日したラムズフェルド米国防長官にたいして、自衛隊の早期派遣を表明した。自国民の生命を危険にさらして平然としている「軍事オタク」の防衛庁長官は、辞任させるべきだ。
 イラク戦争にかんして、日本の米軍基地が大きな役割を果たしていたことも忘れてはいけない。ラムズフェルド米国防長官は、さっそく沖縄を訪問し米軍基地で兵士を激励した。アメリカの世界侵略に、沖縄の米軍基地がどれほど大きな役割を担っているかが透けて見える。
 基地の縮小を訴える稲嶺恵一沖縄県知事との対話では、ラムズフェルドは基地縮小の具体策には言及しなかった。それどころか騒音問題はむしろ減少していると反論し、米軍基地がもたらす「被害」を訴える知事に露骨な不快感を示したと報道されている。軽くみられたものだ。
 小泉首相の無分別によって、日本はこれまで親日的だったアラブ諸国と日本はまっこうから敵対することになり、テロルの対象として名指しされるまでになった。イラクへの派兵を阻止し、憲法改悪の歯止めにするためにも、さまざまな地域での集会やデモ行進などの抗議行動が、さらにさらに必要とされている。

■国会に溢れる核武装派議員

 11月9日に終わった衆議院議員選挙は、自民党が前回議席を上回る237議席、民主党が40議席の躍進と伝えられている。とはいえ、これで野党が勝ったと喜ぶものはいない。イラク派遣と改憲を主張している「改革」という名の小泉「軍拡」路線は、選挙によって否定されなかったのは、マスコミ主導の二大政党論に幻惑されたからだ。
 そもそも民主党は、自民党と体温のちがい程度の差しかなく、体質自体はおなじだ。それは有事三法に民主党が賛成したことにも、よくあらわれている。このさして変わり映えのしない2党にマスコミは鈴や太鼓で誘導した。
 そのため、かつて社民党や共産党に投票していた人たちの多くが、民主党に投票した。これは自民党政権を変えたいという要望が強かったためだ。「死に票」になるぐらいなら、二大政党の「野党」にいれたい、との心理である。
 一方で自民党への支持も堅調だった。有権者がどの党にどれだけ投票したかを示す絶対得票率では、「棄権・無効」の割合が前回より増えているにもかかわらず、比例区で17から20パーセントへと増えている(『朝日新聞』11月10日 朝刊)。選挙の顔として小泉首相が全国を走り回ったことを考えれば、小泉のデマである「改革」にいまだ期待しての投票と考えられる。
 そして有権者の最大勢力は、自民と民主の絶対得票率を合わせたほどの数字、40パーセントをたたきだした「棄権」だ。いまさら投票しても変わりようがないという、政治にたいする絶望が、この数字から伝わってくる
 しかし、このどうしようもない政治的退廃の裏で、改憲派と核武装派の国会議員が、いままで想像もできなかったほど増えていることがわかった。
 『毎日新聞』がおこなったアンケート調査によれば(11月11日 朝刊)、当選した衆院議員の17パーセントが核武装の検討を肯定している。
 核武装検討に肯定的で、なおかつ改憲賛成となると、自民党で42人、民主党で8人、保守新党(アンケート時)1人、無所属1人となる。
 これは時代の危機といえる。すでに憲法改悪に必要な国会議員の3分の2の票を集めるのに苦労はない。それどころか核武装に突き進むことさえ、現実味を帯びてきた。

■原発費用の国民負担をもくろむ電事連

 核武装議員を物質的に支えているのが国内の過剰プルトニウムである。
 現在、使用済み核燃料は、イギリスやフランスでプルトニウムを取り出されて日本に逆送されている。使用済み核燃料の再処理を国内でできるようになれば、原爆の原料であるプルトニウムを大量に生産することができる。
 こうした危険を背景に電気事業連合会(電事連)から発表されたのが、核燃料サイクルにかかる総費用である。06年から再処理工場が操業し、72年間で廃止するまでの費用が、21兆7千億だという。そののち19兆円に訂正されたが、問題なのは、なぜ電事連がいまごろになって発表したかである。
 これまで廃棄物の処理費について、いっさい発表されなかった。原発の発電コストがいちばん安いと主張するのみであった。ところが発表された19兆円の経費を発電コストに組み入れると、天然ガスや石炭での発電と比べて高くなる可能がでてきた。原発推進派が唱えていた経済的優位性は崩れたといえる。
 電力自由化の前なら、政府とグルになって電気料金を上げればよかった。しかし新規事業者と競争が始まっている現在、値上げには抵抗が強い。それで電事連が仕掛けたのが、公的資金投入の議論を呼び起こすための数値発表である。
 いままで秘密にしてきた数値を時期をみて小出しに発表し、自分たちの窮状を訴え、国民へ負担を押しつけようとする深慮遠謀だ。
 ついに電力会社も、将来のコスト負担に音を上げはじめた。原発の見通しはますます暗い。勝手に進めてきた原発政策のツケを税金に回すなど許されるはずもない。 核武装という妄想を止めるためにも、よりいっそう原発を拒否する強固な運動が必要とされている。 (■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第30回 正利の就職活動

■月刊「記録」2002年3月号掲載記事

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 正月が終わると、子供たちが帰省先から帰ってきて、日頃の喧噪が戻ってきた。
 ぼくと正利の周辺も急に慌ただしくなってきた。
 卒業まで、あと3カ月だ。そのたった三月の間に正利の行き先を決めなければならない。園の方針では、高校へ進学する者はそのまま園に残ることができるが、卒業する者は、園からは出ていかなければならない。だから大変なのだ。
「そこを何とかならないものかな」と、考えてしまう。 ここには、高校に進学できるような連中ばかりがいるわけではない。正利のように、高校に進学できそうもない子供もいる。そういう子供たちを15歳でいきなり、社会に放り出さなければならないシステムはどうなのか。ぼくは疑問を感じた。
 しかし、システム云々を変えていられるほどの暇な時間は、ぼくには全く与えられていなかった。

■三択、正利の進路

 去年の火事の跡を消すための大がかりな工事が始まった。
 不思議なもので、火事の直後のような緊急時には、子供たちも遠慮するのか、あるいは緊張感が増すためなのか、悪さ、非行といったものが、一時的になりをひそめる。
 しかし、年も明け、落ち着きを取り戻すに従って、タバコ、ケンカ、盗みなどが、再び噴出してくるのであった。
 それらへの対処に追われながらも、ぼくは正利の就職活動を着々と進めていかなければならなかった。
 正利は、普通高校への進学を希望している。しかしそんなことが無理であることは、いうまでもないことだった。残る手段は二つ。養護学校への進学か、就職。
 しかし、養護学校への進学には、『愛の手帳』の取得が必要だった。一度取得してしまえば、一生『愛の手帳』の所持者である立場からは逃れられなくなる。社会に出てからのこれからの人生に、それはつねに影響を及ぼす。
 IQ=81という、知的障害者と健常者の境である微妙なラインにいる正利を、障害者の側へここで定めてしまうことには、一抹の不安を抱いた。
 残る手段は就職しかない。しかも生活能力のない正利に残された道は一つ。住み込みでの就職だ。
 工事の影響で、子供たちの部屋が縮小され、正利は、ぼくら男子職員の職員室を寝床にすることになった。
 普通の中学生なら、自由を束縛された思いで、嫌がるはずだが、正利はなぜか妙に楽しそうであった。
 寝床に入ると、ゴロリと横を向き、ぼくのほうを見る。机でまだ仕事をしているぼくをジーッと目で追う正利。たまにチラッとぼくが横目でうかがうと、急に正利は視線を逸らす。
「ジロジロみないでほしいのよ」などと言うのだ。
 それにしても相変わらず小学生とばかり遊び、進歩しているかいないのかわからぬ今、ぼくの目の前にいる正利の将来が気にかかった。
 たとえ就職が決まってしまっても、その先にはおそらく、イバラの道が待っているだろうと言わざるをえない。
 不潔で、無口で、頭が悪いヤツ。おまけに運動神経がゼロで、性格も悪いヤツ。
 そんなヤツにはなかなか就職口がない。
 加えて親も身内に保証人になってくれる人もいない。盗み癖があり、怠け者の15歳。
 どこの会社が相手にしてくれるというのか。
 でも、そんなヤツのためにでも、ぼくたち職員は就職口を探してこなければならないのだ。
 では、どうするか?
 たいていの場合は、コネを利用する。
 就職した卒園生に、直接我々が連絡を取るのだ。そして会社側に、我々と会ってもらうための手はずを取りつけてもらう。卒園生を雇っているという時点で、すでにある程度は理解があるわけだから、あとは我々の交渉次第である。
 年明けからぼくも、正利のために、この方法で就職活動を開始していた。製本所、畳屋、工場などに手当たり次第に連絡を取っている。そのなかでは、製本所の評判が、先輩職員のなかでもかなりいい。
 もちろん寮がついているし、まかないさんまでいる。しかも週に2回は学習ボランティアが来て、算数(計算)と漢字を教えてくれるというのだ。お金の管理までしてくれ、至れり尽くせりの職場といえた。
(こりゃあ、正利のためにあるような場所だな)と、ぼくは思った。善は急げとばかりに、電話をかけ、見学の申し込みをした。すると、『早速、明日の午後にでも来てください』と言うではないか。なんだか、このままトントン拍子に事が運びそうな気がして、ぼくは笑いを抑えることができなかった。
 最も手こずるであろうと思われた正利の就職活動が、手を伸ばせば届きそうな位置にあるように思えたのだ。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/離婚して生きる張りを失った・大島陽一さん(57歳)

■月刊「記録」2001年1月号掲載記事

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■国鉄の合理化で整理される

 生まれたのは1943年で、北海道の小樽です。父親は国鉄(現在のJR)で保線工事の仕事をして働いていました。兄弟は7人あって、私は上から二番目。子どものころはワンパクなガキ大将でしたね。うちは兄弟が多かったうえに、戦後の食糧難と重なって、家の暮らしは楽じゃなかったようです。当時の国鉄は給料が安かったから、母親も外に出て働いたり内職をしてしのいでいました。
 中学を出てから、大工の見習いになりました。3年間の見習い修業をして、そのあと二年間がお礼奉公でした。見習いの三年間は親方の家に住み込んで覚え、お礼奉公になると家から通えました。
 大工の世界はまだ古い徒弟制度が残ってましたから、修業はきびしかったですよ。「仕事は見て覚えるもんだ」とか「盗んで覚えろ」と言うだけで、誰もちゃんとは教えてくれない。そのくせ、間違えたりヘマをすると容赦なく殴られる。そんな世界でした。
 ただ、私は本気で大工になるつもりはありませんでした。国鉄マンになりたかったというか、なることが決まっていたんです。あのころの国鉄には父親が定年退職すると、その息子が後釜に入れるという慣習のようなものがあったんです。規則ではなかったけど、暗黙の了解というか、そんなのですね。それで父親が50歳の定年を迎えたとき、私のほうも大工見習いの年季が明けて、入れ替わって国鉄に入りました。仕事は父親と同じ保線工事。線路脇の崖や土盛りしたところの法面(人工的に削られた斜面)の点検・補修が仕事でした。
 ところが、入って3年目の年に合理化による人員整理があって、その対象になってクビにされてしまいました。学歴はないし、職場の中にも何のコネもないし、そういうのから整理されてしまうんですよね。24歳のときでした。

■家庭と仕事を一度に失った

 しばらく小樽で土工や鳶なんかをしてから、札幌に出てACLを施工する会社に就職しました。ACLというのは軽量気泡コンクリートでつくったビルの外壁材のことで、それを施工するのが仕事でした。小さな会社でしたが、仕事はそれなりに面白かったしやりがいもありました。すぐに国の検定試験を受けて、施工資格も取りましたしね。
 社長にも気に入られて、その紹介で見合いもしました。相手の女性は社長の従姉妹で、看護婦をしている人でした。お互いに気に入って、35歳のときに結婚しました。それですぐに男の子が生まれました。
 ただ、子どもができてから、女房との間がギクシャクしてきましてね。私としては看護婦の仕事はやめて、育児に専念してほしかった。ところが、女房は「看護婦の仕事は、私の天職だからやめるわけにはいかない」の一点張り。
 看護婦の仕事というのは不規則で、週に2、3日は夜勤の泊まりもある仕事ですからね。それで子どもを保育所に送り迎えするのが私の役目になりました。でも、私だって工事現場が仕事場ですから、サラリーマンのようにいつも決まった時間に迎えにいけるとは限らない。女房との言い争いが絶えない日が続きました。最後はおたがいを罵り合うようになっていて、それで離婚することになりました。
 女房とはともかく、息子と別れるのはつらかったですね。6歳のかわいい盛りでしたから……。今になって思うと、あと2、3年も辛抱すれば、息子にも手がかからなくなっていたはずなんですがね。でも、そのときはそれがわからなかったんです。7年間の結婚生活でした。 働いていた会社の社長と女房が従姉妹同士でしたから、もう会社にもいられなくなって辞めました。それで東京へ出てきたんです。42歳のときですね。

■高血圧で飯場を追い出された

 東京に出てからは鳶の仕事をして働きました。しかし、離婚のショックというか、何をするにも張り合いが出ませんでね。仕事が終われば毎日酒。休みの日はパチンコか競艇で時間をつぶして、夜になれば酒。何の楽しみもない生活で、心の寂しさを埋めるには酒とギャンブルしかありませんでした。
 その後、女房と息子には一度だけ会いました。離婚から5年して、札幌まで行って大通り公園のレストランで二人に会ったんです。でも、もうあまり話すこともなかったですね。息子は中学生になっていました。その息子が別れ際に「かあさんのことは、オレにまかせてくれ」と……生意気なことを言うんですよ(大島さんは目を潤ませ、唇を震わせた)。
 鳶の仕事で働けたのも50歳まででしたね。50を超えたらお払い箱。それからは飯場を渡り歩く日雇いの土工の仕事をしてきました。今年の夏は暑かったでしょう。仕事中に二度もブッ倒れ、病院に担ぎ込まれましてね。高血圧なんです。上が190で、下が100あります。それからは土工の仕事も回してもらえなくなって、飯場も追い出されました。といって、蓄えはないし、住むところもないから、自然にホームレスになってました。 夜は(新宿)駅の地下広場で寝ています。ホームレスになってまだ二ヶ月くらいですから、要領がわからなくてね。コンビニの弁当とか、ハンバーガーショップのハンバーガーは賞味期限が切れると捨てられるんでしょう? どうしたら、それが手に入れられるのかわからないんです。いまはボランティアの炊き出しと差し入れだけで食べています。これから冬に向かって、どうなるんだろうと心配でなりませんよ。
 これから先もよくなることはないですね。ダメだろうと思います。こんな時代で、この歳ですからね。もうどうにもならんでしょう。どこかで野垂れ死にするしかないですね。老後の蓄えを何もしてこなかった自分が一番悪いと思いますよ。でも、国の考え方もよくないですよ。あのでっかい都庁舎だって、そこの道路だって、みんな私や仲間たちでつくったんです。それが景気が悪くなったからって、何の保証もなく放っぽり出して、そんな筋の通らない話はありませんよ。
 仕事さえあれば働きますよ。その気はあるんです。今度自立支援センターができるっていうでしょう。私も応募してみようかと思って、募集のチラシはちゃんと取ってあるんですよ。これに賭けるしかない……でも、ダメかもしれない。新宿は(募集定員を)あまり取らないっていうしね。そうなると、やっぱり野垂れ死にするしかないのかな……。 (■了)

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ホームレス自らを語る/辛抱が続かない・中島昭良さん(54歳)

■月刊「記録」2000年12月号掲載記事

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■プッツリやる気が失せちゃう

 若いころからどうも一つのところに長くいられない性分でね。仕事もいろいろ替わった。(指折り数えて)5つ、いや6つか……。はじめは品川にあった大手電器メーカーの工場。冷蔵庫をつくる工場だった。工業高校の電気科を出ていたから、家電メーカーに就職が決まったときは、電気の技術が生かせると思ってうれしかった。だけど、入社してみると、配属になったのはラインの組立工だった。電気とは全然関係のない仕事だからね。ああいう大きな会社では、個人の希望なんて聞いてもらえないしね。で、2、3年で辞めていた。
 次は川崎にあったやはり大手の電機メーカーの工場に移った。ここは重電のメーカーだからね。配電盤をつくるのが仕事で、まあ自分に合った職場だった。だけど、ここも7年くらいかな? それで辞めてしまったんだ。 その次は調布にあった小さな電機工場。その工場ではコンピューターや医療機器の制御装置をつくるのが仕事で、全部が受注生産だった。図面を見ながら配線から完成まで、すべて一人でやる方式でね。だから、仕事は面白かったしやりがいもあった。一番自分に向いていた職場だったと思うよ。でも、ここも5年で辞めてたね。
 何ていったらいいのか、仕事はみんな面白いんだよ。自分でも仕事の手は抜かないでキッチリやった。職場の人間関係も悪くない。はじめのうちは張り切って一生懸命に働くんだ。だが、何年かしてくるとだんだん緊張の糸が緩んできて、あるときプッツリと切れたようになってしまう。そうなると働く意欲がわかなくなって、会社をサボるようになり辞めてしまう。そんなことばかりしていたんだ。
 そのあと、独立して……独立といっても、アパートの一室を借りて作業場にしただけの、社長も何も自分一人だけの会社。電機工場から仕事をもらって下請けをしたんだ。はじめのうちこそ仕事もあったけど、だんだん受注量が減って先細りになっていってね。
 そのうちに部屋代も、車のガソリン代も払えないようになっていた。まあ内職に毛の生えたような工賃だったからね。だから、このときは仕事がイヤになったわけじゃなくて、ぜんぜんもうからなくなってやめたんだ。これも5、6年続いたのかな……。

■40半ばじゃ職種も選べない

 また勤め人に戻ることにして新しい就職先を探したんだけど、もう40代半ばになっていたから電気関係の工場には入れなくてね。それで畑違いの建設関係の会社に入った。ビルとかマンションをつくるときに鉄骨や壁に耐火被覆剤を吹きつけるのを専門にしている会社だった。
 これが大変な仕事なんだ。被覆剤っていうのは泡状になっていて、それを吹きつけるから周りをビニールで隙間なく覆って、外に飛んでいかないようにして作業するんだ。夏は蒸し風呂なんてもんじゃない。おまけに被覆剤は肌につくとチクチクとしてすごく痛い。だから、真夏でもヘルメットに防塵マスクを着けて、長袖のヤッケにゴム手袋という格好でやるんだからね。ホント、夏は地獄だった。
 この会社も5年くらいだった。ただし今度は倒産。会社がパーになってしまったんだ。社長がドケチな男でね。その不満でいい職人がみんな辞めて、独立していっちゃったからだよ。自分には独立するような才覚も技術もなくてできなかった。そんな資金もなかったしね。
 それにゼネコンがよくないよ。仕事がどんどん少なくなっているっていうのに、手間賃を下げてくるんだから。ゼネコンの連中だけが生き延びるためのしわ寄せだね。いつだって割りを喰うのは下で働いている人間ってこと。あれじゃ、ドケチな社長でなくてもつぶれちゃうね。
 会社が倒産したのが50歳のときだった。それからは日雇い。土方とか、引っ越しの仕事をやっているけど、それもいまはあんまりないからね。いつの間にかホームレスになっていた。ずっと飯場の暮らしからはい上がろうとしていて、逆に下に落っこちてしまったわけだ。

■どうして辛抱できなかったのか

 こうなったのも自分の責任だと思っている。いまの時代だって、仕事はあって働いている人はいくらもいるわけだからね。自分でももう少しうまく器用にやれなかったものかとも思うよ。ただ、ズル賢くやって、誰かの犠牲のうえでいい暮らしをしているわけじゃないからね。誰も傷つけてはいないんだから、ホームレスをしていても気分は楽だよ。毎日が日曜日だしね。
 生まれたのは茨城県。家は農業をしていた。4人兄弟の上から3番目で、いつも兄貴の後ろにくっついて遊んでいた。子どものころからおとなしくて、学校の通信簿に「もっと積極的になるように」って書かれている子だった。
 リーダーになって人を引っ張ったり、責任を取るような役は好きじゃなかった。2番目か3番目あたりにいるのがよかった。人を押しのけていくタイプじゃないから、そんなのがホームレスをしていることと関係しているかもしれないね。
 それと辛抱できなかったこと。どうしても同じ仕事を辛抱して続けられなかった。最初に就職した会社にそのままいたら、いまどうだったろうと考えることもある。まあ、どうにもならなかったろうね。いま50代のサラリーマンはリストラとか、いろいろ大変だというしね。サラリーマンの世界こそ人を押しのけて出世していくところだから、そんな世界にいてもやっぱりどうにもならなかった気がするな。
 結婚して女房、子どもでもいれば、もう少しは辛抱できて違っていたかなとも思う。女の人も嫌いじゃないから、若いころは幾人ともつき合ったんだけどね。結婚するのは面倒くさいし、責任を取るのもイヤだった。グズグズして踏ん切りがつけられないでいるうちに、女の人のほうが愛想をつかして離れていってしまうというふうだったよ。
 毎日が日曜日のホームレスをしていても、いいことは何もない。早く普通の生活に戻りたい。いつもそれを考えている。このごろはエサ(食べるもの)取りも楽じゃないからね。ホームレスがどんどん増えて、知らない顔がずいぶん多くなってるもの。そのせいか、コンビニやスーパーがエサを出さなくなっている。
 新顔のホームレスにはルール破りをする悪いヤツが多い。せっかく出してくれたエサを店の周りで食い散らかしたり、仲間同士でエサを奪い合ったり、一日中店の周りをうろついたり、そんなことをしていたら店だって出さなくなるよ。バカが多くて困る。
 ホームレスを早くやめたいとは思うけど、こう仕事がなくっちゃね。会社に勤めていたころは、「いざとなったら、土方でもすれば食っていける」なんて仕事仲間と笑いながら話してたけど、本当に土方になってみたら、その土方に仕事がないんだからね。まさかここまで不景気な時代が来るなんて思ってもみなかっただろう? 早く景気をよくしてもらって、自分たちも働けてかせげるようにしてもらいたいよ。 (■了)

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鎌田慧の現代を斬る/「戦争国家」にむかう日本の台頭

■月刊「記録」2004年1月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 昨年の暮、イラクのサダム・フセイン元大統領が拘束された。アメリカが宣伝のために流した映像とはいえ、拘束直後の様子は「独裁者の末路」そのものだった。それはルーマニアのチャウシェスクやパナマのノリエガ将軍の姿を想い起こさせるものでもあった。日本に逃げ込み、現政権からの責任追及を日本政府が阻止しているペルーのフジモリなどの例もあるが、多くの独裁者の最期は哀れである。
 ともあれ、いま懸念されているのは、ブッシュ米大統領の悪行を消しさろうとするマスコミ報道である。忘れてはいけないのは、そもそもイラク攻撃は、大量破壊兵器があるとの理由でおこなわれた。ところが、いまだに大量破壊兵器は発見されず、イラクの危険性をことさらに強調した政府の情報操作が発覚し、大義なきイラク戦争への批判が米英国内でも高まっていた。そうした状況下でのフセイン拘束であった。
 アメリカに捕まえられたことによってフセインは完全な敗北者となり、「戦勝国」大統領のブッシュ支持率は上がりはじめている。フセインの悪事を裁判で追及するようになれば、イラクを攻撃した米英の悪事が帳消しになりかねない。「勝てば官軍」となるのが腹立だしい。 フセイン拘束後、たまたまNHKの衛星放送で流れたABCテレビのブッシュ米大統領単独インタビューを見た。「フセインにたいして、どのような刑罰をあたえるのか」というキャスターの質問に、ブッシュはニヤリと笑って「極刑を受けるべきだ」と答え、あわてて「量刑を決めるのは、イラクの市民だ」とつけ加えた。
 フセインの首に2500万ドル(約27億円)もの懸賞金を掛け、彼の2人の息子を殺害し、大統領府をメチャメチャ攻撃しても、ブッシュはフセインを殺害できないできた。父親から受け継いだ恨みを、いまようやく果たした気持ちだろう。しかし外国の大統領を自国の軍隊で捕捉し処刑するとしたなら、それは侵略そのものである。そのうえ法廷さえひらかれないうちに、他国の大統領の極刑を主張するなど、思いあがりもはなはだしく、フセインに負けず劣らずの極悪大統領ぶりといえる。自分の罪深さにおののくべきだ。
 こうしたなかでの唯一の救いは、「罪の追及は公開の裁判で、適切な法に基づいた法廷で、そして人権法を含む国際的な規範と基準にのっとって行われなければならない」と、アナン国連事務総長が発言したことだ(『朝日新聞』12月16日)。さらにアナン氏は、「国連は死刑を支持しない」とも明言している。これは米国が訴追の中心となり、フセインを死刑にしようとしていることへのいち早い牽制球で、アメリカの横暴にたいするささやかな抵抗といえる。

■議論もできず、テロを呼び込む小泉

  一方、小泉純一郎首相は「復興事業」という大義名分によって、自衛隊をイラクに派兵しようとしている。その装備に加えられたのが、無反動砲と110ミリ対戦車弾である。どちらも対戦車用の火器だ。ちなみに無反動砲の有効射程距離は約700メートル、1分間に4~5発発射できる性能をもつという。これは防衛ではなく、攻撃のための火器としか考えられない。そもそも戦車と戦闘状態になることを想定しているのだから、海外での武力行使を禁じた憲法違反はあきらかである。
 また、防衛とは攻撃される前の攻撃を含むため、相手が攻撃するとしないとにかかわらず、隊員が危険だと思ったら先制攻撃をかけることになる。つまり戦闘状態では、どこからを正当防衛と限定するなどできない。そもそも戦場に火器を携えて行く軍隊など、攻撃のためでしかなく、「自衛」などありえないのだ。
 フセイン拘束によって、これから、イラクのゲリラ活動がどうなるのかはわからない。小泉は「テロには屈せず」といいつづけている。16日の参院外交防衛委員会では、「テロの脅しに屈したら一番喜ぶのはテロリストだ。対決は覚悟しなければならない。東京でもテロがあるかもしれない」(『朝日新聞』12月17日)などと暴言を吐いた。国民の安全を考えるのは、政治家の第一の義務である。日本政治家のトップに位置するものが、自分の政治の結果として「東京にもテロがあるかもしれない」などと、しゃあしゃあいってのけるのは、無神経だ。
 日本がイラクに派兵するから、東京がテロ攻撃のターゲットにされたのである。なんのことはない、小泉の言動がテロ発生の危険性を高めているだけだ。その因果関係を抜きにして、「とにかくテロに屈しない」といいつづける無責任さは許せない。
 さらに自衛隊派兵にたいする国会の論争について、「『話せばわかる』っていうもんじゃないらしいね」と記者団に語っている。「話せばわかる」は、民主主義への思いを込めた犬養毅元首相の言葉だ。結果として犬養の言葉は5・15事件の青年将校には通じることなく、彼は殺された。しかし銃を持つ相手と通じ合おうと努力はした。一方の小泉は、野党相手の意思疎通をあきらめているようだ。国会で論議を尽くして決定していくという民主主義的な感覚さえないことが、ここでも明らかになったといえる。

 ブッシュは、「イラクで命の危険を冒した国だけが、契約を得ることができる」と述べた。つまり人を殺したものだけが分け前にあずかれる、と「強盗の論理」を世界に押しつけたのである。そもそも「復興」とはいえ、破壊したのはアメリカとイギリスである。国連決議さえ取り付けられなかったマフィアまがいの攻撃を、日本は派兵という形で承認しようとしている。そして復興事業のおこぼれを待っているのである。
 だからこそ日本の財界は、派兵に反対しない。中東へのエネルギー依存度が高い日本は、派兵こそ国益にかなうというのが建前である。たとえば『琉球新報』(2003年12月11日)には、つぎのような財界人のコメントが並んだ記事が掲載された。
 「中東地域の平和と安定的発展はきわめて重要」と指摘のは、北城恪太郎経済同友会代表幹事だ。山口信夫日本商工会議所会頭は、「復興、人道支援、日米安保条約、テロ撲滅などを考慮すれば、国際社会の一員としてできる限りの協力をするのは当然」。日本経団連の奥田碩会長も「あくまでも国連の傘の下で」と条件を提示しながらも、「(自衛隊は)必ず出て行かなければならない」などといっている。
 この3人は日本企業を代表する役職に就いている。彼らの役目は、中東ではもちろん日本でも日本企業で働く会社員を守ることにある。それが企業人の責任であるはずだ。ところがテロリストから狙われる可能性を高める自衛隊に派兵に賛成し、各企業の社員をテロ攻撃にさらしても、利権を稼ぎたいらしい。この非人道的な発想は、小泉の非情な派兵決断とまったく同様である。それどころかテロ発生にともなう経済ダメージさえ、財界指導者には興味がないようだ。とにかく目の前の「エサ」にまっしぐら。強盗アメリカになついた野良犬の風情である。
 アメリカによる「イラクの経済復興」は、アメリカ中心の連合国暫定当局(CPA)が新外国投資法によって進めてきた。その内容はといえば、イラクの国営企業を解体して民営化し、外国資本の参入を可能にする上、関税を周辺諸国と比べて格安に設定し、なおかつ06年1月1日に関税の完全廃止まで盛り込んだものだ。イラクを植民地にする法律である。イラク商工会議所のバルダウィ会長が、「復興を口実に資源や富を奪おうとしている国がある」(『日本経済新聞』12月9日)、と不信感を表明したのも当然だ。
  「1人、2人殺すと殺人だが、大量に殺せば英雄だ」という言葉もあるが、大規模な破壊は、一大プロジェクトをつくりだす「英雄の所業」らしい。敗戦国を完全にしゃぶり尽くすのが、「復興」であり「民主国家の設立」である。それがブッシュ・アメリカの論理である。
 こうした復興の方針を決めるのは、ブッシュを支えるネオコンの幹部たちである。以前にも指摘したとおり、この幹部のバックに巨大なネオコン関連企業がついている。07年までで550億ドルともいわれる復興費は、すでにハリバートンやベクテルなどのネオコン関連企業に回っている。そのうえ最近の報道によれば、ハリバートングループは、ガソリン代として米政府に6100万ドル、およそ65億8千万円の水増し請求をしていたことがあきらかになったという。
  「強盗企業」にモラルを求めるは無理なことだが、イラクの混乱期になんでもありの状況だ。戦争はもともと汚いものだが、今回のように当初から商売としてはじめられた戦争の汚さには呆れるほかない。
 米国が投下したクラスター爆弾も大きな問題だ。米英軍が使ったクラスター爆弾は、約1万3000発。その子爆弾、約190万発が地上に散乱したという。この爆弾により1000人もの死傷者が発生したといわれており、今後も深刻な被害を生みだすにちがいない。
 クラスター爆弾は、ジュネーブで採択された「特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)」でも規制されている。ただし規制内容は、使用後の不発弾の除去への努力をうたったにすぎない。さすがに国際世論は使用規制を求めているが、アメリカは規制強化に反対している。これでは戦争終結後も、なんの罪もない人々を殺しつづけることになる。
 さらにアメリカは、前回の湾岸戦争から大量の劣化ウラン弾をイラクに使用しており、すでにイラク国民に重大な被害をあたえている。広島・長崎の教訓をなんら学ぼうとしないアメリカの傲慢さには、激しい怒りを感じる。スミソニアン博物館で、原爆を投下したエノラゲイ爆撃機を堂々と展示する無神経さにも通じるものだ。

■モラルを無視して利益追求にはしる奥田

 日本経団連は、ことしの春闘で従来の年功型賃金をやめ、成果主義型賃金に全面的に転換する方針を固めた。すでに昨年、定期昇給の凍結・見直しがおこなわれた。さらにことしは、ベースダウンまで実行するという。労働者の賃金は、いうまでもなく生活給である。プロ野球選手の報奨金とはちがう。生活ギリギリの賃金を成績によってさらに下げるなど、やらずぼったくりの方法でしかない。
 しかし大企業の労働組合はほぼ御用組合となっており、「ごもっとも、ごもっとも」と企業側の理屈を認めるだけ。中小企業では、銀行や取引先の元請け会社から倒産寸前まで圧力をかけられ、労組を組織する余裕さえない労働者も多い。労組の組織率は20パーセントを切り、労働者の5人に1人しか組合員がいないのは、こうした現状を反映している。
 一方の日本経団連は、不況に乗じて、労働者への圧力を強めつづけている。日本経団連は日経連と経団連という日本の二大財界団体を統合したものである。そのトップに君臨している奥田碩会長は、これまでにも消費税16パーセント引き上げを提案するなど、てまえ勝手にコトを進めてきた人物である。自身が会長を務めるトヨタ自動車でも、02年度で1兆4千億円もの過去最高の計上利益をあげているのに、賃金抑圧の先頭を走ってきた。日本企業で利益のトップを占めてきた会社なのにである。日本経団連の会長がトップに君臨し、最高利益をあげる企業が賃金を抑えたことで、他の自動車メーカーばかりか黒字企業もトヨタに追随した。この悪影響は大きい。 また、ネオコン関連企業が政治家を取り込むことで巨額の利益をあげているのを見習うかのように、奥田は政治資金を復活させ大企業が政治家に圧力をかけられるようにし、経団連のさらなる強化を目指してもいる。このようなトップが経営するトヨタが、企業モラルを喪失していることは、ある意味、当然といえるかもしれない。 昨年10月には、50億円の脱税を名古屋国税局から指摘され、20億円追徴もの追徴課税をされた報道された。労働者からだけではなく、国家からもカネを搾り取ろうとする企業姿勢には驚くばかりだ。
 さらに12月には、自動車整備の国家試験の問題を、試験の検定委員を務めるトヨタの社員が系列のディーラーに漏らしていたことが発覚した。系列会社にまで漏らす手口は、かなり大がかりなものだが、担当課長を解雇することで、トヨタはお茶を濁している。こうしたの問題処理の仕方をみても、トヨタが利益だけを追求し社会的なモラルのない企業であることをしらしめている。
 さらに戦争国家にむかう日本での重要な問題がある。少年法の破壊だ。
 現在、少年の氏名・年齢・住所および本人と推測できる記事や写真を報道することは、少年法で禁じられている。ところが少年法は、捜査中の少年には明確には適応されていない。この隙間に警察庁が入り込んだ。少年に公開捜査の道をひらくよう、青少年育成施策大綱に盛り込んだのである。
 犯罪をおこした少年を特定できないようにしているのは、更生した少年を世間の好奇な目から守るためであり、更生を成功させるためである。
 少年であっても凶悪犯罪なら氏名や顔を公開してよいという理屈は、『フォーカス』が神戸事件で少年の顔写真を公開した記事掲載の言い訳とおなじである。つまり、当時あれだけ物議をかもした記事の作り方を、公の機関が認めたということだ。
 氏名や写真をあきらかにする公開捜査がおこなわれることで、どれほど治安がよくなるのかは不明だ。それより、少年の将来が心配だ。公開捜査を決めた警察庁は、公開捜査に踏み切った根拠すらしめしていない。
 11月、わたしは千葉市で16歳の少女が殺された事件を取材した。その事件は、墓地でひどい暴行がおこなわれたこと、また加害者の青年が多重の債務を抱え、ローン会社からカネを借りられなくなったため、偽装結婚で被害者の戸籍に入ってカネを借りていたことで注目された。主犯格の青年は22歳、その「共犯者」となったのが、16~18歳の少年4人であった。
 この事件はたしかに陰惨なものだった。しかし罪を犯した少年たちの周辺を丁寧に取材すると、そこには彼らが抱える孤独が浮かび上がってきた。このような犯罪こそ、大人の責任と救済する力が問われている、とも感じた。
 しかし少年は、「刑事処分相当」の処遇意見をつけられ家裁送致となった。つまり成人とおなじような裁判を受けることになったのである。
 少年法の改正にさいして、逆送致は慎重にされるべきだという声が強く、実際にしばらくは慎重に判断されてきた。しかし前例があれば、判断は少しずつ慢性化し、慎重さは失われていく。最初に凶悪犯罪であるという理由で突破すれば、あとは月日とともに厳しい処分が一般化していくものである。
 とにかく日本政府は、ことあるごとに国民の人権を剥奪する方向にむかっている。そのため人権にたいする攻撃を、御用新聞や御用評論家や御用ライターをつかっておこなっている。これこそ国内での戦争体制強化である。イラクへの派兵とけっして無縁ではない。
 ことしこそ軍事国家への歩みを止めなければならない。戦争反対の声をあげ、選挙で民意をしめしたい。そう強く思っている。 (■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第29回 学園の火災

■月刊「記録」2002年2月号掲載記事

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 学園の居間で、ビデオを観ていたぼくと正利の背後で、突然、激しく警報が鳴り始めた。
 ちょうどビデオを半分くらいまで観たときであった。火災報知器の音だ。けたたましく鳴った。しかし、不思議なもので、ぼくもあいつもそのとき、まったくびっくりしなかった。
 誤報だと思ったのだ。いつものことだ。しょっちゅう起こるなにかの誤作動で、また警報が鳴ったのだろう。そう、タカをくくってしまった。
 一度思い込んでしまうと、避難作業がおろそかになる。とりあえずあいつを屋外へ避難させようという気にもならない。
(だが、やはりぼくも職員の一人だ。一応、確認ぐらいはしておくか)
 そう思い、とりあえず、ビデオを一旦、停止させた。
「おい、ちょっと確認してくるよ」
 と、あいつに言うと、ビデオを止められたあいつは不機嫌そうに、
「ああー」とだけ言った。

■常習犯の言葉をうのみにし

 どうやら、2階の高校生寮の火災警報機のセンサーが反応したらしい。ぼくは、のそのそ階段を昇った。途中、高校2年生のマキに会ったので、
「何があったか?」と一応、聞いた。
 すると、マキは、「何もないよ」と言い、当たり前のような顔をした。しかし、ここで気づくべきだったのだ。マキは嘘つきの常習犯だった。あの平然とした顔をいま思い返すにつけ、もしかして、彼女はすべてを知っていたのかもしれない、と思う。
 だが、今頃疑ってみても仕方がない。そのときぼくは、うっかり彼女の言葉をうのみにしてしまい、職員室へ引き返してしまったのだ。通りかかった先生に「大丈夫ですよ」なんて、のんきに声までかけながら。
 思えばこれが、発見を遅らせたような気がする。
 しばらくして、振り返ると、すでに黒い煙が2階の奥の部屋からモクモクとあふれていた。
 その瞬間、目の前が真っ暗になった。膝がガクガクくした。
「助けなくては」「子供たちを避難させなくては」
 そんな考えはまるで浮かばない。
「大変なことになってしまった!」
 ただ、ただ、そう思った。夢でもこんなのは見たことがなかったからだ。

■こいつらの頭大丈夫か?

 学園の火事の原因は、結局、タバコの不始末だった。しかも高校生の……。
 高校生がタバコ? と、疑問をもたれるだろうが、もちろん施設内ではタバコは禁止である。しかし、禁止イコール従うという図式はどうやら、ここの子供たちの頭にはないらしい。
 それどころか、常識的に考えてみても、頭の構造を疑うようなことをやってのけていた。
 彼らは禁止されているタバコを隠れて吸っただけでなく、吸い殻がみつかってはまずいとでも考えたのか、それらをゴミ箱へ捨てた。しかも、その上に丸めたティッシュを山ほど盛っていたのである。
 ゴミ箱の中にあった、火の残った数本の吸い殻が、ティッシュに引火し、炎上し、ついにはガラスをバリンバリンに割り、悲鳴と怒号を学園中に巻き起こす火事にまで発展させたのだ。
 吸い殻の上にティッシュを盛ったらどうなるか、考えてみてもわかりそうなものなのに。いったいどうなっているのだろうか。幸い、怪我人が出なかったのが、救いといえば救いだろうか。
 おかげでこの火事を境に、ぼくの今までの勤務には、新たな仕事が加わった。高校生2人の学校への送り迎えである。高校生を学校まで送迎するなんて、なんて過保護だ! などと怒っている場合ではない。そうなのだ。この2人こそが火事を起こした張本人だからである。いわば監視というわけだ。
 事の重大さに当事者の二人は、しばらくは食事も喉を通らなくなり、言葉を発することもなくなった。だが、そりゃあそうだろう。自分たちのタバコの不始末で、施設の5分の1が燃え、使い物にならなくなってしまったのだから。
 ところで、第一発見者であるぼくはというと、こちらにもいろいろ支障が出ていた。
 まず、やはり食事が喉を通らなくなった。1日5食から6食は当たり前だった食欲が、まるでなくなってしまったのである。まあ、食べない分には、他人に迷惑をかけるわけでもないので、これはいいとしても、もう一つのほうが問題だった。なんと、30分以上、学園から離れた場所にいられなくなってしまったのである。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/一人でコツコツやるのが好きなんです・柳川孝夫さん(65歳)

■月刊「記録」2001年4月号掲載記事

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■戦中は福島に学童疎開

 子どものころの思い出といえば戦争ですよ。戦争しかなかった。その一番の思い出は学童集団疎開。東京の椎名町に住んでいましたから、東京も空襲で危なくなってきた1944年の夏に、福島県の原町に集団疎開しました。
 原町の駅前の旅館に、同じ小学校から行った30人くらいの男子児童が一緒に暮らしたんです。女子は町中にあった別の旅館でしたね。
 覚えているのは、いつも腹をすかせていたこと、冬の寒さに閉口したことですね。とくに空腹でひもじかったことは忘れられません。本当に食べるものがなかったですからね。たまにパンの配給なんかがあると、上級生たちに「献金だ」とか言われて半分くらい取り上げられてしまう。私らは小学三年生で疎開組の一番年少でしたから取られるばかりで、それがつらかったですね。しまいには東京の親から錠剤のワカモト(※商標)を送ってもらって、それをあめ玉代わりにしゃぶったりしてました。 原町で終戦を迎えて、一年ぶりに東京へ戻ってみると、家族は無事でしたが家は空襲で丸焼けでした。のちに帝銀事件の舞台になる椎名町の四丁目は焼け残ってましたが、うちのあった三丁目まではみごとに焼けて何も残ってなかったです。その焼け跡で戦後の暮らしが始まるわけです。庭を畑に耕してサツマイモを植えてね。
 池袋の西口にはすぐにマーケットができて、予科練帰りや特攻隊の生き残りの不良のたまり場のようになって……そう、パンパンガール(売春婦)なんてのもいましたね。戦争が終わっても相変わらず食べるものがなくて、私らもよく買い出しに連れて行かれましたよ。
 それでも、うちは父親が大手銀行の社員食堂で賄いのコックをしていたこともあって、食材の残りをもらってきたりして、よその家ほどは困らなかったようです。食材といっても、スイトンやフスマばかりでしたがね。

■一人で手仕事をするのが好き

 中学校を終えて、すぐ就職しました。私ら頭が悪かったですから、とても高校へなんて行けませんでした。はじめは塗装工場に勤めて、日給が70円くらいだったと思いますよ。日給月給というやつですね。次にメッキの町工場に代わって、その後もいろんなところで働きました。でも、どこも長続きしないんですよね。
 性格がよくないんだろうと思います。何ごともマイナスに思考してしまうからいけない。人とつき合うのも苦手でしてね。私は酒もタバコもギャンブルも、女遊びをしたこともない。いまでこそ「タバコは吸わない」と胸を張って言えますが、あのころは「タバコも吸えないヤツ」という目で見られましたからね。つき合いが悪いから仲間ができない。それで職場で孤立してしまい、居づらくなって辞めてしまう。その繰り返しでした。
 子どものころから友だちと遊ぶより、一人で何かをしているほうが好きでした。電気にくわしくて手先が器用だったから、よく一人でラジオを組み立てたりしてました。中学生のときに鉱石ラジオをつくったのが最初で、まだクリスタルレシーバーなんて出てませんでしたから、軍の払い下げのレシーバーで聴いてね。はじめて音の出たときはドキドキしてうれしかった。
 そのころはNHKと進駐軍の放送しかなくて、『とんち教室』とか『二〇の扉』『話の泉』とかね。いや、なつかしいですね。
 そのあとも真空管を四本使った「波4ラジオ」とか、「スーパー5球」、トランジスターを使ったラジオまで、みんな自分でつくりました。頭が悪いから理屈はわからなかったけど、雑誌の『ラジオ技術』とか、『初歩のラジオ』『無線と実験』を参考にしながら、見よう見真似で自己流でつくったんです。
 一八歳くらいのときには、テレビもつくりました。キットの部品を買ってきて、組み立てるのに一年くらいかかりましたよ。NHKの学校放送の人形劇が最初に映りましたね。ブラウン管をオシロスコープで代用していたから、7インチの真ん丸い画面で、画像もザラザラしていて調整もできませんでした。それでも画像らしいものが映ったのはうれしかった。まだうちでも近所でも、テレビを持っている家なんてない時代でしたからね。
 ほかの電気器具も簡単な修理くらいはできましたから、隣近所のものを修理してあげて重宝がられました。そういうことを、一人でコツコツやっていることが好きだったんです。

■5年前に地主に追い出された

 30代に入ってしばらくしてから、兄が工場を始めてそれを手伝うようになりました。工場といっても自宅の敷地に小屋を建てて、家族が手伝うだけの小さなものでした。それから五九歳の年まで、ずっとそこで働いてきました。
 仕事はカメラのシャッターとか、カメラに組み込まれているTTL(自動測光)メーターの組み立てでした。あのころは小さなカメラメーカーがいっぱいあって、その下請けの仕事です。ちょうどTTLカメラがはやり出したころで、高度経済成長期とも重なって仕事は忙しかったですね。徹夜、徹夜の連続だったり、工場のソファに寝起きしたこともあります。
 ただ、それも一時でした。小さなカメラメーカーはみんな大手に食われて、次々につぶれてしまいましたからね。あとは電器会社から仕事をもらって細々とやってきました。その仕事も7、8年前から不景気で減り始めて、工場は立ち行かなくなっていました。
 そんなときに工場を経営していた兄が、突然死んでしまいましてね。そのころ母親が寝たきりの状態で、兄はその介護を一人でやっていました。それに工場の金策で走り回ってもいましたから、その無理がたたったんでしょう。心筋梗塞でした。兄の死で工場は閉鎖になりました。
 あとに寝たきりの母親が残されましたが、私らには兄のように介護をする器量はありませんから、病院に入院させたんです。その母親も一年後に亡くなりました。椎名町にあった家は借地でしてね。母親が亡くなると、地主から追い立てられるようになりました。その土地にマンションを建てるからという理由でした。といっても、私ら行くところもありませんから、ホームレスになるしかなかったわけです。それが5年前でした。

■農家を手伝って収入を得る

 自分では若いつもりでいても、この歳になると体のあちこちにガタがきてますからね。足は重たくなるし、耳鳴りもしてくる。右目は網膜剥離であまり見えませんし、左目も霞んできました。ベーチェット病の疑いがあるらしい。希望のない毎日で、根がマイナス思考の人間ですから、よくないほうにばかり考えて落ち込むばかりですね。
 病気だからって(行政の)福祉の世話にはなりたくないですね。とくに新宿区の職員は扱いがひどいっていうから、そんなものの世話にはなりたくないと思っています。自然に治らないかなって期待しているんですが……。
 希望のない毎日ですが、いい話もあるんですよ。親切なボランティアの人がいましてね。その人の世話で、三年前から埼玉の農家で農作業を手伝っています。草刈りとか、果樹の袋かけなんかの仕事を手伝うんです。仕事は春から秋にかけての毎月四回あって、一回一泊二日で行きます。日給で3000円。交通費が出ないんで往復2000円の出費は痛いんですけど、それでも二日間で差し引き4000円の現金収入になります。これには助かっていますね。
 それに手伝いに行けば、食事がついて、風呂に入れて、布団に寝られます。その農家の家族はみんないい人ばかりで、私らがホームレスだからといってまったく差別しないんです。食事もみんなと一緒に同じものが食べられます。農家の近くには高麗川というきれいな川が流れていて、農作業がひまなときには釣り糸を垂れることもできます。誰にもじゃまされずに一人になれる釣りは、いまの最高の楽しみですね。
 今年も3月になって暖かくなったら、また手伝いに行くことにしているんですよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/上野はオレのふるさとだ・山城信行(41歳)

■『新ホームレス自らを語る』に収録

*          *          *

 一番充実していたのは、秋田のホテルのまかないをしていた時期かな。何がよかったんだろう。環境かな。ホテルのまかないは、飯場のまかないと待遇が違うから。オレが働いていたのはホテルでさ、アパートを会社が借りてくれて、風呂は社員寮に入りに行くんだ。もちろん個室だよ。
 まかないの厨房はホテルに泊まるお客さんの厨房とは別にあるの。普通は従業員40人分の食事を作る。夏はアルバイトがいるから80人分。でもな、修学旅行客なんかが来ると、客室の厨房でも人手が足りなくなる。そうすると焼き物や揚げ物を作ってくれって頼まれるんだよ。
 いまでも覚えてるのは、都心の私立中学が修学旅行に来たときだ。400人分の揚げ物を任されてさ。エビが二本と、ナス、かぼちゃ、ピーマンの野菜三点盛りを一人で揚げたんだから。エビなんて800本だぞ。それを従業員のおばちゃんが盛りつけて。もちろんいつも通り、まかない食も作らなくちゃいけないしね。
 また妙な縁があってさ、アルミ缶を集めていたときのことだよ。一日に何百円にしかならない仕事だけれど、必死に集めて東京・神田まで歩いたんだ。疲れたから歩道に座ってフッと後ろを振り向いたら、その私立中学の名が書いてあるじゃない。そのとき思い出したんだよ。こいつらの天ぷらを揚げさせてもらったな、てね。共立ってお嬢さん学校だろ。俺の天ぷらを食べたんだ。うん。

■わがままが通ったから……

 4年前から、ここにテントを立てた。前はくじら(国立博物館前)で立てたんだけれど、東京都にボラれ(だまされて)てさ。工事だと言っては、追い出されんだよ。でも工事を見ていると、ショベルカーで掘っているだけだもん。おかげでグルグル、いろんな場所を回ったよ。でも、ここは下がコンクリートだろ。簡単には工事できないと思うんだ。2、3年で上野公園からホームレスを排除する計画を東京都が立ててるって、みんな言っているよ。
 調理師になろうと思ったのは、高校二年のときだった。卒業したあと、どうするか悩んでいたんだ。でも兄も調理師だったし、一番ラクな仕事だなと思って、担任の先生に相談したんだ。どこか働ける調理場はありませんかって。結局、担任の先生は見つけてくれなかったけれど、クラブの顧問の先生がアルバイト先を紹介してくれたんだよ。総合結婚式場でね、先生の知り合いが重役だったんだ。
 最初はホールの仕事だった。3ヵ月だけはホールで働けと現場で言われて。でも4ヵ月たっても調理に回さないんだよ。店員とケンカして二週間ストライキしたんだ。「本店の重役から聞いているでしょ。調理に回してください」って。店員も「あー、そうですね」とは言うんだけどね。もちろん休んでいても給料はもらっていたよ。そのうち社員の方が折れて、「明日から調理で来てください」って言ってきたんだ。
 このとき、わがままが通ったでしょ。それがいけなかったのかもしれないな。人生はそんなもんか、と思ってしまったのかも。だからこんな風になったのかもしれないよ。こんなわがままばかり言ってたら、行っちゃうよ。ホームレスになっちゃうべ。ここいらへんにも、わがままな人がいっぱいいますよ。
 調理師免許には二年間の実務経験が必要だったから、免許を手にしたのは高校卒業から一年後、19歳のときだよ。結婚式場だったから和食と洋食は作れるんだ。しばらくして結婚式場は辞めたけれども、実家のある青森で働いていた。水商売の厨房とかね。仕事はすごくラクだよ。そうそう、チェーン店の居酒屋で働いていたときにチップをもらったことがあった。
 サラダを出したら客席から呼ばれてさ。呼んでいたのは、スナックのママとマスターの二人組。俺の顔を見たら、「あー、やっぱおまえだ」って、いきなりチップを握らされたんだ。
 俺はキュウリのヘタを残して、飾りを作るんだ。ワンパターンだけどさ。その飾りつけをお客さんが覚えていたんだよね。たまたま俺は店舗を異動した直後で、昔の店に来ていたお客さんが覚えてくれていたんだよ。
 そのあと郷里を離れて、さっきいったホテルのまかないを始めたんだ。ハローワークで委託会社を紹介されて、契約社員としてホテルで働いた。3ヵ月で更新。評判がよければ、追加、追加、追加になるの。いや、3ヵ月なんて、まかない調理はいい方だよ。ホールなんて2ヵ月でクビを切るから。四回転ほどいたから、1年ぐらい勤めていたのかな。
 ちょうど働いているときに、会社でゴルフ場建設に関わる問題が持ち上がって、つぶれるぞーとかリストラがあるぞ、なんてうわさが立っていたんだ。こりゃ、危ないと思って、委託会社から更新するかと聞かれたときに断った。つぶれなかったけれどね(笑)。

■冷たい身内

 それからいくつかの調理場を回ったけれど、32歳のときに1年ぐらい失業したんだ。25歳ぐらいから、このままじゃダメだとは思っていたんだけれど、現実になったな。仕方ないから姉弟の家に泊めさせてもらって、仕事を探したの。でも、青森には仕事なんてないんだ。しまいには姉弟の家をたらい回しだもん。
 こういうときに冷たいのは、本当の身内なんだ。姉には、「どこでもいいから早く決めて」なんて言われたよ。姉のところにいたとき、夜中、姉と兄が電話で相談していたしね。「どうする?」だって。眠っていても聞こえてきたよ。「そっちにやれば」とかさ。
 義理のお兄さんは、いい人でね。「何ヶ月住んでいてもいいんだ。そのかわり、ちゃんと自分でできる仕事を見つけるんだよ」と言ってくれたから。実の兄は、「どこでもいいから仕事を探せ」なんて言うけれど、県外に仕事を探しに行く旅費なんかは出してくれないからな。兄のところにも居られない。姉のところにも居られない。青森では仕事を探せない。それで東京に出てきたんだ。94年かな。
 東京には憧れもあったよ。でもさ、日本全国仕事がないから、日払いの仕事しか入れなかった。そりゃ、正社員の方がいいけれど、面接して、面接して、採用になるまで何ヶ月かかるんだ? ヘタすりゃ1年以上かかるかもしれない。その間の飯代はどうするの? 結局、手配師に「誰か調理いないか」なんて聞かれて、千葉や埼玉の飯場でまかないをすることになった。
 それでも最初に来たときは、仕事を探すのに失敗して、お袋に金を借りに帰ったんだ。そしたら、その1ヵ月後に死んじまった。お袋の葬式に参列して2ヵ月後、今度は親父が亡くなった。お袋は心臓で、親父が肝硬変。親の死に目に会えないんだよ。
 実家は市営住宅だったから、親が死んでも住む場所は残らなかったな。だいたい市営住宅そのものが取り壊されて、いまはマンションみたいな建物が建ってるんだ。 東京に来て4年間ぐらいは、それでもホームレスじゃなかったんだ。きっかけはマグロに遭ったこと。あるところの仕事が終わって、独り上野で飲んだんだ。あんまり酔っぱらって野宿したら、金も身分証明書も健康保険証もなくなったから。まあ、この生活を続けている分には、身分を証明しなくたっていいんだけどさ(笑)。
 これが上野の怖いところだよ。これは書いておいて。酔って寝ていたら、財布はもちろん時計や眼鏡だって、全部持っていっちゃうんだから。とくに不忍池周辺は怖いよ。同じホームレスでもきついからね。
 ホームレスになって、最初は駅で寝ていたりしたけれど、朝に追い出されちゃうから、上野公園に来たんだよ。いまはテントも定まったし、仕事もあるよ。物を運ぶ仕事だけど、1日に1万500円になるんだ。弁当やジュースを買っても、7000円ぐらいは残るでしょ。最初、仕事についたとき、一万円かせぐにしては大変な仕事だと思ったな。まかないに比べるとね。でも、仕方ないからね。上野公園で酒が飲めるホームレスなんて、ほとんどいないんだから。仕事があることに感謝しているよ。

■あて馬か、おまえ

 女? 女は泣かしてないよ。泣かされたくちだよ。でも部屋を持っていたころは、ホテル代もかからなかったからな。オレはさ、すぐ食っちゃうから(笑)。飲み屋とかで知り合って、電話番号を女の子に教えてもらってさ。電話で口説けば、自分の部屋までのタクシー代だけだからさ。一度なんか子持ちの奥さんが泊まりに来たこともあったよ。朝方、「朝、子どもに弁当を作らなくちゃいけないから」って言って、自宅に帰って行ったよ。 結婚しようと思ったこともあったんだ。同じ職場で働いている女でさ、エッチして、3ヵ月間も同棲して。乳の大きい、ブスでさ。いや、ブスじゃないな。ブスは好きにならんしな(笑)。相手の両親にもあいさつに行ったよ。その親父と妙に気が合ってさ。「おー、ノブノブ、酒飲めよ」なんて言われて盛り上がって。
 でも4ヵ月後に別れることになってね。いきなり「別れたい」といわれたから、「いいよ」って答えた。その五ヶ月後に子どもが生まれたんだ。「もしかしてオレの子ども」って聞いたら、「違う」と言われたよ。もっと驚いたのは親だよ。違う男がいるのを、親も知らなかったんだから。「ノブちゃんの子どもじゃないの」って言ったらしい。結局、その子どもの男と結婚したらしいけれどな。
 子どもが生まれたと聞いて、親父さんと電話で話したよ。そうしたら「ノブ、このやろう、なんで種付けしないんだ」って言われたから、「種付ける前に付けられたよ」って答えたら、「あて馬か、おまえ」って気の毒がられた(笑)。
 たぶんオレとの付き合いもカモフラージュだったんだよ。同棲しているときに子どもがいたんだから。

■足をケガしたら何を渡される?

 いまの生活で不安なのは、やっぱり病気かな。
 以前、酔っ払って段差でつまずいたんだ。そのときは寝ぼけていて、気づかなかったけれど、朝起きたら足が動かない。立てねぇんだよ。膝の上がパンパンに腫れてるんだから。しかも日曜日だったから、ホームレスの見回りをしてくれる争議団(ボランティア団体)も来ない。とりあえず隣のテントで寝ているヤツを起こさなくちゃと思ったけれど、2、3メートル動くのに30分もかかった。ゴルフクラブでテントをガンガン叩いて、交番に走ってもらったんだ。
 やっと救急車に乗せてもらって、病院に着いたけれど、すぐには中に入れないの。まず服の首を引っ張られて、中を看護婦が見て、さらに背中に回って服の中をのぞいてね。「虫OK」と言われて、初めて診察になるんだ。
 診療を待っている間にも、婦長が俺の顔を見て、「あれ、また来たの」とかバカにした態度で言うんだよ。誰かと勘違いしたんだろうな。「初めてだよ。バカヤロウ」って言い返したさ。
 さあ、問題です。ホームレスが足をケガしたとき、病院は何を渡すでしょうか? 松葉杖? ブー。正解は傘だよ。普通の傘。松葉杖はあるんだよ。それなのに、「そこの傘、一本持っていっていいから」だもん。
 上野公園に帰るためにバス代200円くれたけれど、バス停までの道順だって遠回りを教えるんだ。病院からまっすぐ行けばバス停なのに、グルッっと回らされたよ。
 腫れていた膝には、水と脂がたまっていてね。結局、3ヵ月通院することになったんだ。台東区役所の担当者は優しくて、俺の傘を見て杖を貸してくれたよ。「どういう病院だ」って怒ってね。「体に合わなきゃ、杖を調整するよ」とも言ってくれた。働けなくなったから福祉も下りて、1日400円。一月1万2000円を、3ヵ月間くれた。これも書いておいてね。病気のときには、こんな救済制度もあるんだよ。
 アパートを借りるのは難しいだろうな。いつ仕事がなくなるか不安定だもん。アパートに入るには、保証人もいるしさ。調理師の仕事があったら、まかないでもいいからやりたいな。どうして調理師かって? それはわからないな。おたくだってライターの仕事で食えなくなっても、違う仕事なんて考えられないでしょ? 同じだよ。
 地元に帰る気なんて毛頭ないよ。仲間もいるし。みんな「ノブ、ノブ」って話しかけてくれる。うれしいじゃん。今日も昔のホームレス仲間に会って、「ノブ、どこに住んでるんだー」って聞かれたよ。
 仕事がダメになっても、ココに戻ってくればいいんだよ。上野はオレのふるさとだもん。 (■了)

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ホームレス自らを語る/175円の万引・中谷勝彦(51歳)

■月刊「記録」2001年7月、8月号掲載記事

*        *        *

■何といっても不況が響いた

 オーディオには凝ってたよ。部屋にあったAV機器は、総額で200万円以上はしたと思うな。一番気に入っていたのは、真空管のアンプ。低音と高音が無理なく出る。聞いていて疲れないんだ。普通のアンプがドンドンって音なら、真空管のアンプはド~ンって感じ。音が部屋に漂うんだよ。
 仕事から帰ってアンプのスイッチを入れると、部屋の灯りがちょっと暗くなる。それから真空管が温まるまで、じっと待つんだ。
 演奏が始まったら、音を調整する。低音を少し上げたりさ。まあ、機械マニアだからね。いじりたくて仕方ないんだよ(笑)。聴いていたのは、クラシックだな。家ではロッシーニが多かった。
 マッキントッシュがICで真空管に近い音を出すアンプを発売するっていうから楽しみにしていたのに、手に入れる前にホームレスになっちまった。
 不況が響いたよ。大手の自動車会社で、オーディオやらカーナビやらのオプション部品を取り付けていたんだ。忙しいときには、1日に200台近い車が工場に流れてきたのに、最後は1日に24台とかだからね。九時に始業して、10時か11時には仕事が終わっちゃう。社員は整備士になるための勉強会なんか開いていたけれど、俺はフリーだったから自分の事務所に帰るしかない。 その1年半ほど前には、4時半に起きて7時から仕事をしていたりしたのにな。カーコンポ一台を取り付けて1万1000円ぐらい。おいしくない空気清浄機の取り付けだって、30分ぐらいの作業で1650円入ってくる。取り付けた分だけ賃金がもらえるから、月に70万ぐらいの収入はあった。それが不景気になって14万円になっちゃった。それで結局、リストラ。

■20年以上サラリーマンをしていた

 実はね、リストラになる1年8ヵ月前までは、20年以上サラリーマンをしていたんだよ。販売店に出向して、オーディオなんかを取り付けていた。でも製品を納めるルートがウチの会社を通さなくなって、取り付け手数料しか入らなくなった。それで会社がカーオーディオの取り付け業務をやめちゃったんだ。
 でも俺は、ずっとそんな仕事をしてきたから続けたかった。で、自動車会社の社員にグチをこぼしていたら、「会社を辞めて自分でやればいいじゃないですか」って言われたんだ。「そうか」と思って辞めたんだよ。
 自分で仕事をやり始めてまず驚いたのは給料だよ。こんなにもらっていいのかと思ったもの。辞める前が28万円ぐらいだったのに、いきなり70万円ぐらいになったんだから。それに会社の上司にうるさいことを言われることも、怒られることもないからね。とにかく楽しかった。
 自分で仕事をしていたときは、人間関係もよかったよ。オーディオの修理箇所が見つからなかったりすると、俺が呼ばれてね。隣で作業した社員の人とも仲が良くて、互いの仕事を手伝ったりしていた。会社に行くのが楽しくて仕方なかったよ。
 まあ自分で仕事をするようになったから、不況になってすぐに仕事がなくなったんだろうけれどね。
 仕事がなくなっても、どうなるんだろうと思ったよ。求人情報誌の『ガテン』や『アルバイトニュース』を見たり、職安に行ったりしたけど、数ヶ月でダメだと思ったな。四五歳を過ぎて、何の資格も持たない男が職を探しても見つからない。器具を取り付ける技術があっても、やっぱり機械の中身が直せないと職にありつけないんだよね。
 それに俺は、左目が強い乱視の上に、メガネをかけても0・3程度の視力なんだ。普通免許さえ取れないんだから。募集のあったフォークリフトの運転なんか、どうやっても無理だよ。もし目が悪くなかったら、人生は変わっていたかもしれないと思うけれどね。

■おまえを身内だと思わない

 一ヶ月後に割れる手形があったし、貯金もあったから半年間は食べていけたんだ。でも、そのあとがね。もう両親もいないから、兄妹に頼るしかなかった。でも妹は、難病で生活保護を受けているから世話になれないし。結局、アパートからも近かった兄の家に世話になったんだ。でも所帯を持つと、人が変わってしまうんだよ。もうひどいんだから。
 最初、5万円の家賃と食費を払う約束だったんだけれど、全然仕事が見つからなかったから払えなくなってさ。借金はどんどんふくらんでいくしね。居候して1年間ぐらいかな、兄貴に20万円を渡されて「これで出て行け」と言われたんだ。「俺は、おまえのことを身内だとは思っていないから」とまで言われて。
 行くあてもなかったけれど、とにかく兄の家を出てサウナやビジネスホテルを泊まり歩いた。サウナは好きだったよ。でも20万円なんて、あっという間になくなるね。三度食事して、2500円を払ってサウナで寝て、ビールでも飲んだら7000円ぐらいすぐいっちゃうでしょ。せいぜい25日ぐらいしかもたなかったもの。
 とりあえずバス停のベンチで寝るようにしていたんだけれど、雨が降ると屋根がほしくなる。それで見つけたのが、兄貴のやっているボウリング場だったんだ。でも、そこで寝起きしていたら兄貴がやってきたんだ。「ここで寝るのはやめてくれ」ってさ。やっぱり顔が似ているから、従業員が気づいて兄貴に知らせたんじゃないかな。
「もう金も使い切ったよ」なんて話をしたら、財布から1万円を抜いて、小銭入れに入っていた金をジャラッと出したんだ。10円だとか100円とか全部出して、1万円札とともに俺に手渡した。「これで飯でも食え」って。
 俺の不満そうな顔を見たからかな。「俺だって、月3万円でやっているんだ。1日1000円あれば十分だろ」って言い放った。
 でも、妻帯者と独身は違うんだよね。自宅に帰れば、タダで食事が食べられるわけじゃないからさ。1日1000円じゃあ1日三食として、当時は一回の食事で牛丼も食べられない。まあ、カネをもらって、そこを立ち去るしかなかったけれど。「身内だと思っていない」と言われたぐらいだからね。

■遂に逮捕された

 そのあと、いよいよカネがなくなってきて、どうしていいかわからなかったんだ。ほら、ホームレスなんかしたことないでしょ。だからどうやって食事にありつくのか、どうやって仕事を見つけるのかを知らなかったの(笑)。
 それで万引を始めたんだよ。5回ぐらいは店の人に捕まったかな。でも、誰も警察を呼ばなかった。酒屋のおやじに見つかったときは、「この商品はあげるから二度と来ないでくれ」って懇願されたからね。個人商店で客を警察に突き出したりすると、信用が落ちるらしくてさ。
 でも7月に遂に逮捕されたよ。コンビニで175円のサケ缶を盗んだら、おまわりが来た。女性店員しか働いていない時間帯を狙って、何度か万引していたんだけれど、俺が泥棒だってうすうす気付いていたんだろうな。防犯用のビデオテープも回っているしさ。たいした金額でもないのに、普通、警察を呼ぶかと思ったけれど仕方ないよね。
 警察では、名前やら本籍地を聞かれたな。それから被害金額について聞かれた。「175円のサケ缶です」って答えたら、あんまり被害金額が少なくて警察も驚いてたよ。「書類送検になるんですか?」と俺が聞いたら、それは否定したな。でも、えらい説教をくらったよ。さすがにそれからは、万引する気もなくなった。
 それに説教の最中、警官が手配師のつかまえ方を教えてくれたんだよ。「駅周辺でウロウロしていれば声がかかる。そうしたら仕事ももらえるし、カネも入る」ってね。そこの警官は優しくて、電車賃を300円ほどくれたうえに、最寄りの駅まで車で送ってくれたんだ。

■会社なんて薄情なもの

 たしかに池袋で歩いていたら手配師が声をかけてきた。建築現場の後片付けの仕事だった。でも、ホームレスの仲間ができてからは、仕事にも行かなくなった。目が悪いから建築現場に向かないし、エサにも困らなかったから。一番最高で、ヒレカツ弁当を13個拾ったことがあったからね。仲間五人で仲良く暮らしてたんだ。いまは一人で住むようになったけれどね。
 しかし会社なんて薄情なもんだよね。去年の5月かな、長く勤めていた会社に行ったんだよ。そうしたら社長が1万円しか渡さないの。しかも「やるんじゃないぞ、貸すんだぞ」なんて何度も言われて。サラリーマン時代は、給料の二倍三倍の利益を会社に渡していたのにさ。元社員がこんなことになっているのに、器が小さいよね。少しぐらいは社長も変わっているかと思ったら、少しも変わっていなかったな。
 きっと先代の社長だったら、そんな扱いはしなかったと思うよ。入社してちょっとたったころかな、派遣先の工場で車のガラスを割ったことがあってね。作業のジャマになるので、後部座席に置いてあった段ボールを外に出したら、そこにガラスが入っていて割れちゃったの。工場から連絡が行ったんだろうね。社長からすぐに電話が来たよ。
「ケガはないか」
 それが社長の第一声だった。俺のミスなのに。
「ガラスをくるんだら、誰が見てもわかるように『ガラス』と書いておくのが常識だろ。今度、俺が工場に言っておいてやるから」なんてうれしいことを言ってくれた。俺が入社して4、5年後に、その社長も亡くなったけれども。あの社長が生きていたら、ずっと会社で働いていたかもしれないな。
 ホームレスになってつらいのは、雪の日だよね。寒くて仕方ないから地下道に入るだろ。でも地下道で座ると、ガードマンが飛んできて注意するんだから。それぐらい勘弁してほしいよ。  (■了)

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日中友好の象徴はどうなってる!?

■月刊『記録』05年5月号

■文/本誌編集部

 中国・韓国で反日デモが吹き荒れている。テレビニュースの映像を見る限り、みんな本気で怒っているようだ。戦後、少しずつ積み上げてきた両国との友好関係が吹っ飛びそうな勢いではないか。
 大変だ! 本誌編集部としても状況を把握しなければならない。とはいえ海外に行くカネなどない。で、とりあえず日中友好の象徴を取材してきました!

 中国との友好の象徴といえばパンダである。
 思い起こせば1973年、警備員から「立ち止まらないでくださーい」と怒鳴られ、人波にもまれながら上野動物で初めてパンダを見たのであった。よく見りゃ熊だが、当時、幼稚園生だった私は白黒ツートンとタレ目模様に熱狂した。しかし日中国交正常化を記念して譲渡されたカンカン・ランランを見てから32年をへて、日中の危機を探るために上野動物園のパンダを再訪するとは、なんという歴史の皮肉であろう。
 はやる心を抑えてオスの小屋に近づくと、リンリンは背中を向けてうなだれていた。丸めた白黒の背中は微動だにせず、何分たっても振り向く気配すらない。リンリンはただただ壁を見続けていた。日中友好の象徴はやはり元気がなかったのである。日中関係が相当にこたえているのだろうか。
 それならばとメキシコのチャプルテペック動物園から繁殖のためにレンタルされているシュアンシュアンの小屋に歩を進めてみると、背こそ向けているものの元気に動いていた。在日メキシカン・シュアンシュアンに反日デモは関係ないようだ。
 ただ調べてみると、リンリンがうなだれている原因は日中関係だけではないらしい。シュアンシュアンのレンタル期間が今年までのため、人工授精に失敗すると19歳と高齢のリンリンが独りで老後を過ごすことになってしまうのだという。
 全世界で飼育されているパンダは168頭。そのうち中国国籍(?)以外のパンダはわずかに5頭。リンリンは日本国籍を持つパンダだが、中国籍のパンダと交配して生まれた子どもはすべて中国籍なってしまう。そのため中国籍以外のパンダとの子どもができなければ、日本国籍のパンダはいなくなってしまうのだ。
  「(リンリンの相手が)今年以降もレンタルされるのかはわかりません。お金を出せば貸してくれるとは思いますが、現在は予算もありませんので」とパンダの飼育係員は沈痛な声で応えてくれた。
 ではランラン・カンカンのように中国から譲渡されることはないのだろうか?
  「最近は中国もパンダの譲渡をしなくなっています。パンダを保護するために貸し出すことはあるようですけれど……」
 リンリンが高齢で必ずしも繁殖に適さないことを考えれば、今後レンタルのお相手がくるかは微妙だ。それどころか高齢のリンリンがいきなり亡くなる可能性すらある。そうなったらどうにかレンタル料を都合できても、中国はパンダをレンタルしてくれるのだろうか? かつて「パンダ外交」という言葉があったように、パンダと政治は浅からぬ関係がある。飼育係の方も「譲渡のときは日中関係の悪化にはヒヤヒヤしました」と語るほどなのだ。
 うーん、思っていた以上に深刻である。日中関係が冷え込むなか、日中友好の象徴が上野で滅亡の危機にされていたのだ。
 ところでみなさん、パンダのいない上野なんて耐えられます?(■了)

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『私は偽悪者』・ 山崎晃嗣と堀江貴文と

■月刊『記録』06年11月号掲載記事

■牧野出版代表・佐久間憲一さんに聞く

「もし偽善者という言葉に対して、偽悪者という言葉があるならば、彼こそ真の偽悪者だと思います。」
 牧野出版が今年4月に出版した『私は偽悪者』の冒頭に置かれている文言だ。
 文言の主は1950年に『私は偽悪者』(青年書房)を編集した佐藤静子、「彼」であり同書の著者である山崎晃嗣の愛人だった人物だ。つまり、牧野出版が今年出した『私は偽悪者』は、50年以上前に出版された同書の“復刻版”なのだ。
 著者の山崎晃嗣は1922年生まれ。東京大学在学中の1948年に高利貸し会社「光クラブ」を設立し、派手な広告、「人より数字を信用せよ」の信念で会社を爆発的に成長させた。しかし、当時の法定利息を上回る金額を貸しだしていたことで逮捕される。保釈は得たが信用を失い、債権者に約束した金を工面できず会社の自室で青酸カリ自殺を遂げた。
 なぜ今になって彼の著作が“復刻”されたのかと疑問に思われるかも知れない。答えは牧野出版が今年出した同書のオビを見れば一目瞭然だ。
「元祖ホリエモン!? 劇場型人間、山崎晃嗣の問題作復刊。」
 今回の“牧野バージョン”では底本(オリジナル)にプラスして、書の終わりにライブドア元社長・堀江貴文と山崎晃嗣との共通性を検証する項が設けられている。つまり、時代は違えど同じく金が飛び交う舞台で、一瞬ではあるが異常な輝きを放った2人の人物に焦点を合わせた1冊なのである。
 山崎晃嗣の「自伝」的な要素も含む本書のメーンは50年以上も前に姿を消した光クラブの興亡なのだが、読み進める間にもその背後に現代を生きる堀江貴文が見え隠れするような気がしてくるのだ。
山崎晃嗣が魅力的に見えた
 本書に企画段階から携わった牧野出版代表の佐久間憲一さんは、派手な買収劇を打ち、「既存のメディアを殺していく」というハッキリした物言いで世間の耳目を集める堀江貴文を見て、「これは山崎だなぁ」と思ったという。
 構想を練りだしたのは05年の秋頃。もともと光クラブ事件や山崎晃嗣という人物には興味があったが、青年書房刊の『私は偽悪者』を読んでみようと思い、国会図書館に足を運んだ。
「とても面白かったんですよ、実際に読んでみて。ホリエモンと山崎には何とはなしに類似性を感じていて気になってはいたんですけど、読んでいて確信は深まりましたね。後は、読み物として単純に面白かった。これは出すべきだろう、と。確かに法定金利をオーバーしてたことはありますけど、頭脳を駆使して独力で立つ姿勢、『他のいまだ成し得ざりしことをなさん』という信念は良い悪いではなく興味深い人物なんですよ」
 メディアでは「拝金主義者」などの大バッシングを受けた堀江貴文だが、佐久間さんの中には「彼がやっているのは本当に叩かれるべきことなんだろうか?」という思いもあった。
「確かに、粉飾決算という形で一線は越えてしまった。これは叩かれてもしょうがないでしょう。ただ、それ以前に彼がやってきたことは、逮捕以前では“ラインギリギリの創意工夫”でもあったわけです。面白いのは、新聞なり雑誌なりのメディア媒体として出されるものには『堀江許すまじ』といった色合いが濃かったんですけど、個人個人でメディア関係者に話を聞くと、案外彼らも『本当にそこまで叩かれるものなのかな』といった感じなんです。」
 しかし、結果的にほとんどのメディアは堀江を悪者として断罪した。見方によってはただ、バブルのように堀江叩きが盛り上がっていっただけのようにも見える。粉飾決算よりもこっちのほうがずっと恐ろしい、と佐久間さんは言う。

 冒頭で佐藤静子が書いているように、山崎は『偽悪者』なのだろうか。確かに山崎自身が「おれは悪党だ」と言っている下りが本書にもあるが、その真意は今となっては確かめようがない。
 過激な発言と、違法と合法の間で輝きを放った両者だが、こんな存在にどこかあこがれを抱いてしまう人は少なくないだろう。堀江の後に、山崎を彷彿とさせる人物は必ず現れるだろう。
 そのとき、私たちメディアはどのようにして「偽悪者」を受け入れるべきなのか。(■了)

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現代のホームレス事情についての対談(神戸幸夫×大畑太郎)

■月刊『記録』06年4月号掲載記事

■路上生活者を追い続けて。
神戸幸夫(『ホームレス自らを語る』の聞き手)×大畑太郎(本誌編集者)

*『ホームレス自らを語る』の連載100回記念企画。神戸幸夫氏と編集部の大畑との対談形式で、現在のホームレスについて語した。

     *     *     *

■就労構造の変化に追い詰められる人々■

●大畑:ギャンブルや酒や借金など、ひとくちにホームレスといってもいろんな理由で路上にたどりつくわけですけれど、やはり仕事とホームレスは切っても切れない問題です。以前は、会社員として普通に働いていた人が解雇されたりして路上に行き着くまでの間には、ガードマンだとか日雇いとかラブホテルの従業員といった仕事がありました。

●神戸:日雇いがその典型ですよね。日雇いの労働者を調達するためにやって来る手配師にとってはアタマ数がそろえばいいわけだから、会社に勤める場合に必要な来歴や連絡先などまったく問わずに連れて行く。別に外国人だっていいわけですよ。
 しかし、最近では景気が悪いこともあって50歳以上の人は相手にされないようです。というのは、仕事に就くことができない若い労働力が余っているので、調達する側から見れば働かせるんなら若い方がいい、そういうことになりますよね。そもそも、景気のせいで日雇いの仕事も数自体が少なくなっています。
大畑:そう考えると、50代やそのあたりのホームレスが仕事をとるのはそうとう厳しいというのが現実でしょうか。

●神戸:そうです。景気について明るい話題がぽつぽつ聞こえはじめてはいますが、土木、建築をはじめ日雇い労働については人手を必要としていない。しかも、終身雇用が崩れた今、正社員といえども安定した身分と言い切れるわけではないです。大企業であってもいつクビを切られるのかわからない。若い世代を見ても、就労構造の変化によってホームレス予備軍が着々と増えつつある。正社員が極端に少なく、パートと派遣でその周辺を埋めるという構造です。正社員よりも低賃金で雇うことができるパートや派遣もいつ契約を切られるか分からないという不安定な状態で仕事をしなければならない。昔、サラリーマンならば中小企業であっても退職金があったし、厚生年金プラス企業年金もあったりして、老後の設計は立ったと思います。今は違います。60歳で定年を迎えたとして、年金の支給がはじまる65歳まで退職金で必死に食いつながなければならない。

●大畑:ひどい会社になると、退職金が前払いになっていて、払われなかったりする。極端に少ない正社員と言いましたが、ある大企業では、一般職のほとんどを別会社に移してしまい、経営状況が悪くなればその会社を潰せるようにしているところもある。以前だったら、労働基準法にてらして議論があり、そういうのはおかしいといわれるようなものなのに、現在ではまかり通ってしまっています。

●神戸:労働者のことなんて、上層部は考えもしないんでしょう。その場その場のさじ加減で状況を切り抜けていけると思ってるんじゃないですかね。そういえば、ここのところ、今までの日本では考えられないような事件が相次いでいるような気がしますね。耐震強度偽装事件、ライブドアや東横イン、雪印、伊藤ハム、各損保生保会社など各企業のモラルが崩壊し、日本全体が刹那的になってるような。ずっと先を見据えたものづくりや人を育てるようなことを考えなくなってしまった。そのいい例が、連載の03年1月号で取材させてもらった山根さんという方の話です。山根さんは当時51歳でコンクリートを流し込む型枠づくり専門の大工でしたが、45歳を過ぎたあたりから高齢を理由にだんだん仕事を回してもらえなくなる。それで、そういうベテランの代わりに図面も読めないとにかく給料が安い若手が使われ始めた。で、ある時、そんな若い大工ばかりを集めた現場で信じられないミスが起こる。図面を読める大工が極端に少なかったせいで、壁の内と外の寸法を間違えたまま壁を立ち上げてしまうんです。結局、つくり直しの費用の数千万円を払えるような大きな会社でもないから、なすすべなく倒産。経営者が人件費を切りつめようとして、結局それが自分の首を絞めることになってしまった。山根さんは「ベテランの知恵や経験を切り捨てるのは狂ってる」と言っていますが、まったくその通りだと思います。そして、経営を安易な人切りによるその場しのぎでやっていこうとするこの構図は、先に挙げた一連の事件や社会全体の風潮と重なっている部分があるように思えるんです。

●大畑:なんというか、救いのない話というか。経験があって、まだ十分に働くことができるという人が放り出されるようになってしまったのはいつごろからなんでしょう?

●神戸:やはりバブル崩壊後でしょうね。今も新宿の中央公園あたりでは増えているようです。年齢層は50代あたり。厚生労働省の最新のデータでは、ホームレスの数は全国で2万5000人と発表されていますが、実際にはそれよりも多いと思います。

■生活保護を受けられない!■

●大畑:現時点のホームレスだけではなく、ニートや不安定なフリーターといった、ホームレス予備軍の問題もあります。

●神戸:彼らは……生活力はあるんですかねえ。

●大畑:いや、おそらくないでしょう。ある専門家がいうには、彼らが生活保護申請を出す前に彼らの問題をどうにかしなければならないと。たしかにそうかもしれないですよね。事故やなにかで親が死んだりしたら、もう路上に放り出される可能性だってあるわけですから。ところで、生活保護はどうなんでしょう。

●神戸:簡単には出さないようですね。

●大畑:やっぱり。

●神戸:あまりにも申請が増えすぎてしまって、役所は申請者全員を認めるわけにはいかないようです。去年(05)の取材で、高血圧がつらくて生活保護を受けようとした方がいます。その方は72歳で、渋谷の区役所に生活保護申請をしましたが、若い担当者が対応して、「入院経験はありますか?」ときいてくる。ないと答えると、「じゃあもうちょっとがんばって働いてください」と簡単に言われてしまう。それで終わり。緊急で保護しなければならない人は他にもいるからというのが言い分らしいですが、その方はひどい耳鳴りと血圧降下剤を飲んで暮らしている。薬を飲むから食欲不振が続いて体力がもたない。こんな方が、申請しても簡単に突っぱねられてしまっているんです。
大畑:72歳でもハネられている。実際にはさらに上の人の生活保護申請も認められていない可能性があるわけですね。

●神戸:生活保護を受けるためにはいくつか条件があるわけです。住所があることにはじまり、働くことができないという医者の証明書、所持金が最低生活費を下回ることなどですが、彼らはアパート代が払えないので、申請をする前に家を出ちゃうんですね。また、そうでなくても生活保護に対する精神的な負い目から受給を申請しない人もいる。これはイヤな話なんですが、申請した当人の何親等かまで家系をたどり、役所が「この人の面倒を見てください」と働きかけに行くんですね。人によってはそういうのがたまらない。田舎の親戚などからは東京に行ってまともに生活していると思われていたのに、実際はこんな生活になっていた、ということが知られてしまう。故郷に錦を飾るとはまったく逆の屈辱でしょう。そしておそらく役所は、近親者を持ち出せば申請をやめるという計算からそういうことをする。そこまで露骨ではないかもしれないけど、少なくともそういう姿勢のあらわれではないかと思います。

●大畑:役所に余裕がなく、企業にも余裕がない。

●神戸:そうですね。余裕といえば、それは家族にもあてはまると思います。路上にいる人たちの中には、実家があり、空き部屋まであるのだけど、そこには帰りたくないという人もいる。なぜかというと、実家に帰ったとしてもそれには義理の姉だとかがいるわけで、そこで迷惑がられるよりはホームレスをしていたほうがいい、ということになる。
 たしかに、義理の姉の立場で考えると、今まで別に暮らしていた人に帰って来られるのがイヤでしょう。また、義姉のいる実家に帰りたくないのも分かるんです。それで思ったのは「家族」の概念がものすごく狭くなってしまったんだな、ということです。

●大畑:たしかにそうです。親の実家には、戦前に2人くらい居候がいたらしいと聞いて驚いたことがあります。

●神戸:昔は、食客というか居候というか血がつながっていようがつながっていまいが、そういう人たちが家族の中にいるのが珍しいことではなかったんです。境界線が曖昧でいろんなものが混ざっていたという感じですか。今の若い世代では、家族といえば夫婦と子どもまでなのではないでしょうか。今の子どもにとっては昔の大家族がうまく想像できないかもしれない。地域という視点で見ても、近所にホームレスがいるとすぐに苦情が出る。これもコミュニティーの狭さからくるものだと思います。

●大畑:家族、地域と様々なものが狭まって、異質なものは排除するという考え方。ホームレスのなりわいのひとつといえる空き缶ひろいに対しても、地域による監視の目が厳しくなっています。「資源の日」などに家庭から出された空き缶を集めようとするホームレスへの対策として、「空き缶ひろいは犯罪です」という立て札を立てたりする。それくらいのことはいいじゃないか、と思うんですがねえ。やはり「異質」であるホームレスは排除したいらしい。
 驚くべきことに、ホームレス同士でさえ階級格差のようなものが存在していると聞きます。「俺はあいつらとは違う」という意識が多くの人にあることは、僕も取材をしていて感じました。

●神戸:あれはほんとに多いですね。

●大畑:似たような境遇なんだから助け合えばいいんじゃないかと思うんですが、そういうふうには絶対にならない。コミュニティーの狭さというか余裕のなさがあって、団結してなにかをしようということにはならない。
 そんな中で、どうにかお互いまとまって状況を良くしていこうとする場合、いったいどういう方法がありますかね?

●神戸:うーん……、しっかりしたリーダー…、いや、すぐには思いつきません。なんともいえないですよね。ただ、やはり企業といい家族といい地域といい、いろんなところで視野が狭くなり、他を排除するという考えが当たり前になっているのは事実でしょう。これは本当に危険な考え方なんです。

■ホームレスを脱出したのはただ1人■

●大畑:以前であれば、クビになる前に労働組合を中心とした経営者との闘争があった。それがセーフティネットになっていましたが、今はほとんど機能していない。また、クビになってしまったとき、路上で暮らすようになる前にあった日雇いのような仕事も、今では期待できない。要するに、セーフティネットの消滅だといえますよね。だとしたら、ホームレスになることを避けるにはどうすればいいんでしょう。

●神戸:はっきりといえるのは、毎日健康で働けることですかね。入院したりすると、医療費がバカになりませんし、何より解雇されてしまう場合があります。いったんホームレスになってしまうと、そこからは簡単に戻ってこれない。以前取材した方に、サウナを拠点にして再就職を果たした人がいました。就職の際には最低でも履歴書に書く住所が必要なのですが、顔見知りだった従業員に頼んでサウナの住所を使わせてもらったんです。彼は働いていた会社が倒産し、妻も難病で亡くしていました。

●大畑:一時的にホームレスになったが、結果的に戻ってきた彼と、他の人たちとの違いは何なんだったんでしょう?

●神戸:やはり、彼の場合はホームレスをしながらもきちんと生活をしようとしていました。毎日掃除をするなんて人はほとんどいません。鍋を買ってきて、回りの人たちにうどんを食べさせたりもしていましたね。そうしているうちに、彼のまわりには人が集まるようになっているみたいでした。コーヒーもあるぞ、何もあるぞ、という具合に人が持ち寄ってくる。そして、サウナの住所を借りて就職活動し、建設会社に就職できたんです。その後、彼に会いました。「あなたがいたからなんとか持ち直すことができた」と言われたときは嬉しかったですよ。いいスーツを着てましたよ。とても立派になった印象で。それで、お酒を飲ませてもらいました(笑)。しかし、私は今までだいたい300人くらいの人に話を聞いてきましたが、彼だけなんです。ホームレスを脱出できたのは。

●大畑:300人に1人。

●神戸:ただ、たしかに戻ってきたのは1人ですが、皆が皆ホームレスを脱却しようとしているわけではないんです。新宿あたりにいれば、食べるもの、寝る場所について一応はやっていけるということが分かっていますから。毎朝、アメリカの教会関係の方がおにぎりをふるまってくれる。水曜日には宗教団体がカレーライスを出してくれる。他にも、ゴミ拾いを手伝えば豚汁を出してくれるなんていう団体もあります。

●大畑:ボランティアの方たちのところをまわっていれば、飢えなくてすむと。

●神戸:そうです。場所によってはそういう援助がない曜日もあり、その日は腹を空かせながらじっとしていると。かえって冒険しなくてもなんとかやっていくことはできる。だからといって援助がまったく途絶えると彼らはやっていけない。複雑なところですね。

●大畑:景気がよくないとはいっても、勝ち組と負け組の二極化が明らかになってきているというのが実際のところでしょう。トヨタなんか当期利益が3年連続で1兆円を超すとかで最高に儲かっている。なのに、ベアで1000円がどうとかいってましたよね。

●神戸:この格差社会のモデルがどこにあるのかというと、アメリカなんです。この国は日本以上に格差社会なんですが、『ルポ・解雇』(島本慈子・岩波新書)によると、所得上位1%の所得が下位90%の合計所得より多いということが明らかにされている。今の日本はこのモデルに突き進んでいるんです。ここで考えるべきなのは、何もモデルになり得るのはアメリカ型のみではないということです。より労働者が守られるヨーロッパ型にならうという選択肢もあるはずなのに、今はそうなっていない。企業という強者がものすごい力を手に入れ、そこに属することができない大多数の人間の生活が追い詰められていくという方針には絶対に反対すべきです。(■了)

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待ったナシ!駐車違反取り締まりの新ルール施行/初日ルポ 街の風景が変わった

■月刊『記録』06年7月号掲載記事

■取材/文・本誌編集部

 駐車違反取り締まりの新ルールが施行された初日、いつものルートを運転していた酒屋配達の男性は思った。「まるで日曜みたいだな」。平日ならいつも道路の両脇に駐車されている車がこの日はほとんど見あたらなかった。取り締まりが民間業者に委託され、これまでより強化されることは知っていた。どうやら配達中でも構わず取り締まりを受けること、より短時間の駐車で違反と見なされることも知っていた。それでも駐車違反で引っかからないための具体的な対策を男性は持っていなかった。見張りのスタッフを雇えば人件費がかかる。小さな商店にとってそれはあまりにも大きな打撃である。
「取り締まりが厳しくなるみたいだけど……、どうしようもない。今のところは…」酒店の男性は言葉通りの表情で呟いた。
 95年には年間約30万件だった駐車違反の苦情・問い合わせが05年には65万件に膨れあがった。しかし取り締まりの件数は240万件から150万件と逆に減少。このことについて警察庁は、警察官の多くが治安情勢の回復に費やされ駐車違反取り締まりに人員を投入できなかったと説明する。そしてこれが今回の民間監視員導入の背景だった。たしかに違反車両の多い道路は運転しづらいものだ。車のカゲからいつ人が飛び出してくるのか警戒し、神経を使ってしまう。しかし、今回の新制度導入には大きなひずみが伴っている。
 編集部が駐車違反取り締まり初日の様子を追った。

■不満が渦巻く現場を歩く

 監視員の民間委託が導入されたのは東京で12区、43警察署である。監視員は各警察署が定めたガイドラインに沿って監視を行う。今回は編集部近くであり取り締まりの「最重点路線」に定められている靖国通り、そして同じく最重点路線に定められている新宿駅周辺をあたった。
 新宿駅周辺では青梅街道の新宿警察署の前にある交差点から大ガードをくぐり、伊勢丹の裏側にあたる靖国通りと明治通りがぶつかる交差点まで約1キロ。午後12時半から駐車の認められている場所以外に駐車している車を数え始めた。結果は37台、そのうち運転手のいない車は10台だった。
 ただし1人で荷下ろししている車が「運転手のいる」37台にカウントされており、「運転手がいなければ駐車違反だ」という原則に従えば「違法駐車」の数はさらに増える。しかも駐車している車のほとんどが運搬車両なのだ。
 調査通り沿いには一大繁華街が並ぶ。そうした小売店に商品やその材料を運び込むには車しかない。つまり十分なスペースがない現状で「路上駐車」が「兵站」を支えているのだ。
「会社の仲間もブーブー言ってますよ。駐車できないので2マン体制に変わりました。以前は1人で配達していたんですけどね」。大手飲料メーカーの自動販売機に缶ジュースを運搬している男性はゲンナリした顔でそう語った。ただ、2マン体制をとれる業者はまだマシだ。前述の酒屋にはそうすることもできない。いくらかのコストを費やして駐車場を借りることはできても、重い荷物を駐車場から目的地まで運ぶ作業が上乗せされるのはあまりにもキツい。
 今回の法改正のもっとも大きなポイントは2つ。1つは民間の駐車監視員が違反キップを切れるようになったこと。もう1つは運転手が車から離れて、車を移動できない状態なら取り締まれることだ。もちろん理由によって情状酌量されることはない。実際、食料品を歌舞伎町方面に運搬していたトラックは「配送中」と書かれた札を運転席に掲げ、ハザードランプまでつけていたが駐車監視員は構うことなく取り締まりにかかった。なにかがおかしい。もともとは違法駐車対策のためのルールだったはずが、違法も配達もない十把一絡げ状態になっていた。
 歩合制の給与体系ではないが、取り締まりの数が少なすぎれば駐車監視員も肩身が狭かろう。みんなと同じぐらいの数をあげなければ、サボっているのかと疑われかねないからだ。つまり法の番人というより、違法を待つハンターといった趣、ととられてもおかしくはない。
 監視員はは2人1組で薄緑の制服を着込む。
 駐車監視員が違法車両を見つけると、まず専用のデジタルカメラで写真を撮影。その画像を厚さ約2センチ、縦20センチ、横30センチ程度のタッチパネル式の液晶画面のコンピュータに転送する。
 転送された写真を確認すると、コンピュータを持つ駐車監視員が専用のペンを使い猛烈なスピードで打ち込みを始める。違法車両の種別、違反車が置かれた住所などを選択画面から選んでいく。一連の操作が終わると、今度は違法車両の位置を特定にするために距離を測る。横断歩道や交差点の角から何メートルの場所に止まっているのかメジャーを当てるのだ。
 さて、ここからが最大の難関、違法現場の地図作製である。道路の形や車両のマークなどを、選択肢から選び大枠を完成させたあと、先ほど測った距離や道路がどちらに向かっているのかなどをペンで書き込んでいく。取材した駐車監視員は「至明治通り→」と書き込んでいた。かなり汚い手書きの文字でもコンピュータは認識していた。地図を作り終えたら、駐車監視員2人で記載内容を読み上げて間違いがないかを確認し、違法を知らせるステッカーを貼る。時間にして10~15分といったところか。
 じつは違反が確定するのは、このステッカーが貼られた後にある。駐車監視員が地図を描いている間に運転手が帰ってくればセーフ! 駐車監視員は「警告」と書かれた紙を運転手に渡し、おとがめなし。
 つまり駐車監視員の作業時間が運転手の明暗を分ける大きなポイントになるのだ。実際、新宿の取り締まりでは多くの運転手が地図作製中に車に戻ってきた。
 取材したのは取り締まり初日だったため機械の取り扱いにも手間取っていたようだが、これから駐車監視員も慣れてくる。一瞬目を離したスキに取り締まられたというケースが、今後どんどん増えてくるだろう。
 靖国通り・神保町では古本屋「ブンケン・ロックサイド」の店員さんが悲鳴を上げていた。「車を通りに横付けして来るお客さんは来てくれなくなってしまうかもしれません。打撃もいいとこですよ! お客さんだけじゃなく、古本専門の運送屋さんがいてトラックをこのあたりに停め古本街に本を配送するんですが、これからは今までのそんなやり方も見直さなければならないでしょう」。あまりに硬直的な制度のあり方が至るところで歪みを引き起こしている。それでも、見張り役の人員を増やすことができない、そんな弱者へも配慮していると宣伝したいのか「荷捌き用」と書かれたスペースがいきなり作られた。白い枠線で囲われたこの場所ならば駐車違反にならない。駐車監視員が枠内に止められた車を素通りし、その並びに止められたトラックだけを取り締まり始める光景はかなり異様だった。
 新宿大ガードの交差点から明治通りまでの約400メートルには駅に近い側に5台分、その向かい花園神社などがある側に9台分、計14台分の荷捌き用スペースが作られていた。法律改正前まで業務用トラックが両サイドにズラッと並んでいたことを考えれば、この駐車スペースがどれだけ少ないかが分かる。
 となれば激しい場所取りが展開されるのも道理だ。
「今日は朝9時からかなり取り締まってましたよ。間の前にいた枠の外のトラックがキップを切られてましたから。いや、いけないとは思いますけれど、このスペースにずっと止めておきたくなります。午前も午後もこのかいわいで配達しなければならないので……。枠から出たら反則金を取られますから」
 と、大手宅配便会社の運転手は語ってくれた。配達場所が集中している新宿なら、誰もがそう思うだろう。ちなみに同様の思いを抱えているに違いない佐川急便のドライバーは、「私どもはこの件に関して何も言えませんので」と取材に答えた。国土交通省から認可を得るのに苦労した会社らしく、お上に逆らわないよう会社側から教育されたようだ。
 今回の取材では荷捌き用のスペースに、その筋らしい派手な高級車が駐車されてもいた。運送業の車両を取り締まる前に、こうした車こそ排除すべきだろう。もっとも彼らもどこかで何かを「荷捌き」しているのかもしれないが……。

■このドタバタの裏で笑う者が

 今回の法改正で泣いている人は数知れない。だが、当然高笑いしている業者もいる。なかでも美味しかったのはコンピュータ関連の業者だ。デジカメも入力用のコンピュータも別あしらえの特注品である。
 ただ駐車監視員に機械の評判良かったわけではなさそうだ。報道でも機械の故障は大々的に報じられたほどである。ちなみに駐車監視員のコンピュータはハードが三菱、OSはウィンドーズXPだ。炎上自動車を量産した自動車メーカーの関連会社がハードを作り、バグが出ては修正版を配布するメーカーのOSを採用したのだから機械の故障が相次いだのも妙に納得してしまう。
 さて、今回の法改正については、もう1つ重要な論点がある。それは駐車スペースが足りないことを知りながら販売している自動車メーカーの責任だ。
 ペットボトルやカンを大量に流通させる飲料メーカーが回収にも力を注ぐ時代となった。作ったきりで利益だけを懐にしまい込む商法など、すでに許されない。
 ところが今回追いつめられているのは車の使用者だけ。製造メーカーは我関せずである。なかでも国内シェアの4割を握り、庶民をいじめる小泉改革を推進しながら道路特定財源の解消にだけは抵抗しているトヨタ自動車の責任は大きい。「60年代に始まったモータリゼーション中心の経済政策にのり、トヨタ自動車は大もうけをしてきました。だからこそ経団連の会長まで手に入れたわけです。にもかかわらず道路造成や交通対策など、人が暮らしやすくなるための社会的費用を一切支払いませんでした。ただただ車だけ売り続けるトヨタの姿勢がこの問題にも陰を落としています」とは鎌田慧氏の談。
 先述した駐車している車両の調査でも、運転手のいる車の37%、いない車の30%がトヨタ車だった。シェアよりも数字が低いのは乗用車よりトラックが多いからで、トヨタ系列である日野自動車をトヨタ車として勘定しなかったからだ。もし、トヨタ系列という枠組みで換算していたら50%はゆうに超えていたはずだ。
 6月1日に施行されたこの制度だが、もうすぐ1月が経とうとしている。この頃になってようやく、警察署によっては営業車に対する取り締まりの見直しが検討され始めている。だが、それでもこの新たなルールが弱い立場にある者への配慮にまったく欠けていた点は見逃せない。事件はまだ始まったばかりだ。(■了)

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風俗案内条例施行・本当の理由/――青少年のためってホントかよ――

■月刊『記録』06年7月号掲載記事

(■イッセイ遊児……「世の中の問題は性に帰結する」をモットーにする新人ライター。日々編集者にダメ出しをくらいながら何とか生きている)

 2006年6月1日、東京都風俗案内条例が施行された。店舗型のファッションヘルスやお客の待つホテルに女性を派遣するデリバリーヘルス、キャバクラなどにお客さを紹介する風俗案内所の取り締まり強化が目的の法律である。
 条例施行の当日、いつものように風俗案内所で仕事をしていると、一本の電話が鳴った。会社の上の者が「ヤフーのニュースページを見てみろ」と言った。
「1日午後、歌舞伎町、品川、渋谷にある案内所の各店舗の店長それぞれを逮捕。逮捕者は8人」とネット上のニュース記事。
 見せしめである。弱小案内所が数軒摘発されたのだ。
 僕が今こうして原稿を書けず、留置場にいてもおかしくはない。誰でもいい。そんな見せしめのパフォーマンスだった。
 それからしばらくして、突然店の自動ドアが開いた。
「少し悪いね」
 歯切れのよい口調である。
 威勢のいい客だな、と思いカウンターから店側に出ると、大きな看板を持った男と背広の男がいて、警察手帳を見せてきた。本物かどうか遠すぎてわからないが、いちいち「もう一度確認を」とはいえない雰囲気だった。 そしておばさん、おじさんがどっと店の中になだれ込んで来た。
「なんだなんだ」と驚いていると、「これです。ね、もう真っ白でしょう。パネルにはもう猥褻なポスターははれないんですよ」と得意げに警察が説明し始めた。
 おばさん、おじさんは、「ああ、これならいい」と、したり顔でうなずいている。近隣住民なのだろう。
 ふと見ると、テレビカメラがその住民に向けられていた。マイクに向って話をしている人までいる。
 まさかカメラが僕のところには来ないだろうな、といらぬ心配をしてしまった。法律を守って営業しているのだ。違法ではない。ただ、ここで何を話しても、悪人として紹介されるはめになる。それが嫌だった。
 100人を越すであろう行列は、テレビカメラと警察を先頭に「職場」のある繁華街を徘徊していた。
「あんたらがうろうろしているのが一番の地域公害だよー」と思わず心の中で叫んでしまった。インタビューを受けていたおじさんが、一番の強面だったし……。

■1カ月前にも法改正が!

 警視庁生活安全部の広報資料によれば、この条例の目的は「青少年をその健全な成長を阻害する行為から保護すること」と、「繁華街その他の地域における健全なまちづくりに資すること」らしい。しかし、そんな戯言を信じている関係者はいない。案内所を取り締まっても、風俗店そのものが点在している繁華街である。青少年の「健全な成長」など望めるはずもない。
 条例の本当の目的の1つは、一部の悪質な案内所を取り締まるためだろう。
 有名な悪徳案内所「グループM」は新宿でやりたい放題だった。風俗店でもないから許可もいらない。それにあぐらをかいての悪行三昧だった。
 例えば案内所とうたいながら、実はそこがそのまま風俗店の受付になっていたり、40分のサービス時間で客を釣りシャワーを浴びただけで「終わり」にしたり。さすがに客を欺き過ぎたのか歌舞伎町のグループMは摘発され、今はその影はない。しかし池袋ではしたたかに生きている。これでは、まじめにやっている案内所もいい迷惑である。
 しかし、この最も悪名高いグループMは今回の取り締まりでは無傷だった。警察がマークしていることも分かっているだろうから、さすがに店も条例違反にならないように努めたのだろう。
 一方でデリバリーヘルスの女性とお客がことにおよぶラブホテルは摘発されている。
 本当に悪質風俗案内所を取り締まりたいだけなのだろうか?
 じつは今年の5月1日に風適法(旧法は風営法と呼ばれていた)が改正された。狙いは風俗店舗を持たず、電話を受けて女性をホテルや自宅に派遣するデリバリーヘルスの取り締まり強化だった。その1カ月後に新しい法律が施行され、デリバリーヘルスなどの入り口となる案内所ががんじがらめに規制された。この2つの法律が意味するところを考えるなという方がおかしい。
 そもそも新条例の禁止行為が書かれた用紙を眺めていると、要するに全部ダメということになる。
 まず大きく変わったのが営業時間だ。
 以前は午前4~5時ぐらいまで営業ができたが、午前0時閉店になってしまった。もともと風適法により、案内所の紹介先である風俗店は午前0時以降の営業が禁止されていた。しかし、ほとんどの風俗店はあの手この手を使って営業を続けてきたのだ。しかしお客が最初に出向く風俗案内所が当局からにらまれて0時以降の営業ができなくなると、風俗店も終業するしかない。
 風俗で働く女性は夕方からの朝までというシフトが多い。つまり今回の法規制で営業時間が半分に減ったことになる。当然、稼ぎも減る。個人で「モグリの売春」をする娘が増えることは確実だ。現に風俗案内所でボーイをしている僕に、「ヘルスだと取り分が少ないから、良い客がいたらサービスは外でする」と、もらす娘もいるほどだ。
 もう1つの大きな規制はホステスの写真などを表示できなくなったことだ。
 僕の勤める案内所に掲げてあった30枚近くのヘルス広告パネル、10枚ほどのキャバクラのパネルポスターは全部剥がされた。白いパネルを後ろから蛍光灯が寂しく照らしているだけとなった。
 案内所は店内のパネルで広告料を取っている。それなのに警視庁が出したガイドラインに沿えば白いパネルしか置けないのである。女性の裸はもちろん、男女がマイクを持って歌っているものでもアウト。キャバクラのパネルに女性の顔写真もダメ。看板に使われる文字にいたっては「人妻」も許さないという。
 案内所の店内には一応パソコンモニターが6台置かれ、そこに契約しているクライアント風俗店の情報が入っている。ただ店員が詳しく案内をするわけにはいかなくなった。店での割り引き券となるチケットも、昔は店独自のものだったが、今では案内所が発行する統一されたチケットだけである。そのうえ案内所が出す音にまで騒音規制が加わった。
 猥褻なポスターが許されないなら、そのポスターだけを警告してほしかった。案内所のスピーカーから流れる有線放送のうるさい店があるなら、その店舗に警告してほしかった。
 それをしないのはどうしてか? つまり案内所が邪魔だったのだろう。
 いまだに売春防止法がありながらソープランドでは本番ができる。風適法があっても夜中に風俗店は開いていた。この状況を警察が知らなかったとは言わせない。じゃあ、見逃していたのはなぜか。店舗だったからだ。いつでも警察が取り締まれる営業形態だったから、店と警察は癒着し互いにうまいことやってきたわけだ。
 しかし電話番号だけで、女性の待機場所を隠したまま営業できるデリバリーヘルスは警察にとって我慢のならない代物だった。その手先となる案内所も。
 おかげで天下の歌舞伎町の案内所でさえ、午前中の入客が2名なんてことになってしまった。

■うつ病にかかった店員も

 1カ月前の風適法改正で呼び込みが禁止されたこともあり、風俗各店は案内所での顧客獲得に力を入れていた。そこに、この条例である。案内所からみればクライアントである風俗店からの期待(突き上げ)も大きいだけに、条例は案内所で働き生計を立てる者の精神を強く圧迫する。
 施行日の逮捕者は8人だったが、池袋の系列の案内所では0時を回っても明かりを消さなかったという理由で、若いスタッフが警察に連行された。
 時間が過ぎていたのは分かっていたが、客がパソコンを見ていたので無理やり帰すのもむげだと思ったという。優しさがあだになった。
 グループMの系列店は別にして、普通の案内所では学生や目標をもった人間が働いている場合が多い。クライアントや行政、地域住民からのたび重なる圧力で、うつ病になった人もでた。
 彼はうつになりながらも辞めずに、1人家族の祖母のために必死で働いている。父と母ではなく、祖母に育てられたからと。
 取り締まりのパフォーマンスしか流さない警察や一部マスコミにより、本当の話が消えている。都合よく風俗業界を支配しようとする条例の下で、潜り業者は今も蠢いている。(■了)

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ホームレス自らを語る/女と酒に明け暮れた・西村荘さん(45歳)

■月刊「記録」2000年3月号掲載記事

*          *          *

■北海道がイヤで逃げ出した

 出身は北海道でね。旭川の北にある江丹別という町。オヤジは牧場をやっていた。肉牛を300頭くらい飼育していたんだ。だから、家は裕福なほうだったと思う。 ただ、生き物を飼うってのは大変なんだ。毎朝三時半には起きて世話をしなくちゃならないし、一年中一日も休めない。とくに冬の世話が大変だ。子どものころから「やな仕事だな」って思ってて手伝ったこともなかったね。
 その冬がイヤだったね。北海道の冬の寒さは半端じゃないからね。雪もすごい。何しろ冬のあいだは二階の窓から出入りしてたんだから。昼間でも電気を灯けてないと暮らせないしね。人間の暮らしていくところじゃないと思ってたよ。
 学校に通うにも雪をかき分けながらだからね。途中から胸ぐらいまで埋まって、はうようにして行くんだ。手がかじかんですごいんだから。途中でバカらしくなって、家に引き返して休んじゃうなんてことも幾度もあった。「冬」って聞いただけで、ゾクッと鳥肌が立つくらい嫌いなんだ。
 それで中学を卒業すると、逃げるようにして東京に出てきた。東京に憧れもあったからね。一番最初に東京タワーに昇った。「あれが渋谷の街で、あの辺りが新宿か」と思ってね。ホントに東京に出てきたんだとうれしかった。仕事は合板工場に就職した。ヘタカットといって、大根が皮むきされたような具合になって出てくる合板ベニヤを切断する作業だった。

■酒と女の生活が始まる

 はじめのうちこそ工場と寮とを往復するだけの真面目な生活をしていたんだが、東京に慣れてくると盛り場に出て遊ぶことを覚えてね。新宿とか、渋谷とか……。でも、一番多かったのは、亀戸、錦糸町辺りだった。酒が好きでね。オレはビールが専門で、一晩で三ケース36本を空けたこともあるよ。それくらい好きだった。
 酒以上に好きだったのが女だね。最初の女は飲み屋で働いている女だった。オレより6つ年上で、その女のアパートに連れ込まれて犯されたんだ。オレのほうが犯されたんだよ。いま考えるとおかしいけど、まだ童貞だったから抵抗したりしてね。それでもやられちゃった(笑)。
 で、そのままズルズルと同棲することになって、子どもも生まれた。ところが、ある日女は子どもを連れて出ていったきり帰ってこない。それっきりになった。理由もなにもわからない。その女と同棲しながら、オレはほかの女たちとも遊んでいたから、そんなのに嫌気がさしたんじゃないの。
 次に同じ合板工場で事務員をしていた子と結婚した。細かいことによく気のつく子で、そのやさしいところに惚れたんだ。オレが女遊びに出かけるときにも、「ネクタイが曲がってる」と直してくれるような子だった。
 その子の実家は小松(石川県)にあって、ケーキをつくる工場をやっていた。直売の店も三軒出していた。結婚したのを機会に二人で小松に帰って、その工場を手伝うことになった。けど、オレは酒飲みだろう。ケーキとか甘い物は嫌いで、甘ったるい匂いのする工場ではとても働けなくてね。それで小松の航空自衛隊に入った。
 配属は補給班。空自というのはパイロットにでもならない限り、陸自(陸上自衛隊)のような戦闘訓練はないからね。補給班の仕事も伝票処理ばかりで、事務員のような楽なものだった。3年で満期除隊になって北海道に帰った。自衛隊ってところは、退職金やなんかをみんな本籍地に送ってくる決まりだったんだ。
 女房と、女房とのあいだに生まれていた長女は、小松に残したままだった。北海道でのんびりブラブラして暮らしながら、ときどきは金沢や小松まで女房と娘に会いに行った。だけど、だんだんに足も遠のいていき、いつの間にか縁が切れて離婚になっていた。
 北海道では仕事もしないで遊び暮らした。はじめのうちこそ自衛隊の退職金があったけど、そのうちになくなってくるだろ。そうすると親の目を盗んで、牛を売って金をこしらえたりとかね。そんなのを4年くらい続けたんだよ。それでいよいよ金がなくなってきて、27か、28歳でまた上京した。

■同じ女と何年も暮らせない

 また東京に出てからは、小さな建設関係の会社に就職した。建築現場のビティ(足場)の組み立てを専門にしている会社で、3年前にそこが倒産するまで働いていたんだ。それでまた新しい女と同棲してね。やはり飲み屋で働いていた子だったけど、いい女だったよ。オレが惚れて一緒に住もうってくらいの女だからね。同棲して一年後に女の子が生まれた。だけど、その子とも3年くらいして別れた。同じ女の顔を何年も見ながら暮らすなんてできないよね。オレが飽きっぽいのかもしれないけど……。
 とにかく女が好きだった。千人斬りとまではいかないけど、相当遊んだよ。オレは結婚してようが、同棲してようが、女遊びだけはやめないで続けたからね。相手はほとんどが飲み屋で働いている女とか、バー、キャバレーのホステスだった。みんな一晩限りの関係で……ああいうところで働いている女は、男(ヒモ)つきだからね。なんぼ好いたホレたがあっても、一緒になれるわけじゃないしね。
 女にはモテたけど、女のほうから言い寄ってくるわけじゃないよ。やっぱりこっちから、自分をうまく売り込まないと寝てなんかくれない。それには演技力のようなものも必要だよね。それに金だな。オレなんか飲みにいくときは、いつも懐に20万、30万円の金は入れてたよ。それで一晩つき合ってくれた女の子には、最低でも5万円のチップははずんでたからね。だから、かせいだ金はみんな女と酒に消えちまった。
 あのころの女の子は、いまと違ってスレてなくてウブな子が多かったよね。水商売で働いている女だってそうだよ。みんな男まかせで、する通り、される通りだった。それに本気で惚れられたこともあって、「このまま九州まで連れて逃げてくれ」と言う女もあった。そんなことは無理でできなかったが、いろんな女がいたよ。
 いまこうして新宿でホームレスをしているのも、亀戸や錦糸町からなるべく離れたところでと思ってね。だって、いまでもあの街を歩くと、昔関係した女が声をかけてくるからさ。それにオレの娘も錦糸町に住んでるんだ。娘はスナックのチーママをやって働いているよ。そんな街でホームレスなんてみっともなくてできないだろう。まあ、仕事をサボっても、女と酒は切らさないという生活だったからね。

■酒の飲みすぎで肝臓がおかしい

 三年前に会社が倒産したときは、着の身着のままで放り出されたからね。行くあてもないし、しばらく香具師の仕事を手伝った。お祭りの露店で、輪投げとか、ヨーヨー釣りなんかを商うやつだよ。でも、たいしてもうからないし、すぐにやめて日雇いになった。その日雇いもはじめのうちこそ、月10万~15万円くらいになったけど、だんだんに減ってきて、いまでは4日間働いて8ヵ月空きなんて状態だからね。
 一年前からホームレスをするより仕方なくなって、路上に寝るようになった。まあ、この生活も自由で気ままで快適だよ。悪くはない。なんでこうなったのかといえば、やっぱり会社が倒産したことだろうね。それからは成りゆきだよ。決して怠け者じゃなかったし、仕事さえあればいまでも働きたいと思っている。
 ただ、体がね。酒はやめた。飲むと肝臓が痛くなって、体が受けつけなくなったんだ。たぶん、肝硬変だと思う。ビールを浴びるように飲んできたからね。肝臓のほかも、体はいいところなんてどこもない。全部悪い。だから、この体じゃちょっと働けないよね。いつポックリいっても、おかしくない状態だからさ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/将棋は五段の腕前なんです・鈴木晋平さん(54歳)

■月刊「記録」2000年6月号掲載記事

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■将棋の全国大会に出たことも

 生まれたのは1945年3月、樺太でした。すぐに終戦になりますけど、当時父親が中国大陸に出征中で、母親は私と兄と姉の三人の子どもを抱えて大変だったようです。終戦の混乱のなかで引き揚げ船に乗り遅れて、ようやく内地に帰れたのは二年後だったようです。
 内地は北海道の稚内に帰りました。そこで母親の知り合いの家に身を寄せました。父親が大陸からシベリアのほうに抑留されてしまい、内地に帰ってからも母親は苦労の連続だったようです。私はまだ小さかったから、あまり覚えてませんけどね。
 父親が帰還するのは53年で、私が小学三年生のときでした。8年も抑留されていたわけですが、その間ソビエト共産党の洗脳教育をされていたようです。父親は出征前にマスコミで働いていましたから、洗脳教育の対象にされたんでしょう。復員後は同じマスコミ関係に復職して、それで我が家もどうやら世間並みの暮らしができるようになりました。
 私は高校を出て稚内の小さな新聞社に就職しました。実は子どものころから将棋が得意でしてね。高校生のときには三段の腕前でした。それが買われて、まあスカウトされたようなわけです。将棋や囲碁の観戦記とか、稚内で上映される映画の紹介記事のようなものを書かされました。新聞といっても稚内と近隣だけに発行されるタブロイド判のささやかなものでしたけど。
 二年くらいして札幌に出ました。今度は林業関係の業界紙の新聞社に入りました。全国の営林署から寄せられる情報を整理して、それを記事にするのが仕事でした。その後も、将棋のほうは続けていて、五段までいきました。北海道の代表二人に選ばれて、全国大会に出場したこともあります。プロになろうとしたこともあったし、実際に誘ってくれる人もありました。
 でも、飛び込めませんでした。プロの将棋指しというのは、1000人がめざしても、ものになるのは10人もいないといわれています。私は子どものころから、真面目でおとなしい性格でしたからね。人と競い合うプロの世界には向かなかったと思います。自信もなかったし、そんなきびしい世界に飛び込んでもダメだったでしょうけどね。まあ、趣味で遊んでいるくらいが分相応だった。いまでもそう思ってます。

■恋愛の破局で酒におぼれていく

 林業の業界紙にいたころ、ある女性と恋愛をしましてね。父親が歯科医を開業している、なかなかいいところのお嬢さんでした。四年くらいつき合ってから、二人でアパートを借りて同棲しました。ところが、彼女の父親は同棲に猛反対でしてね。ある日、その父親がアパートにのり込んできて、彼女は連れ戻されてしまいました。それっきり彼女からは何の連絡もないし、二人の関係はそれで終わりました。
 もともと酒は好きだったんですが、そんなことがあってますます酒におぼれていくようになりました。酒が入ると誰彼かまわずにからんだり、殴りかかったりしてね。悪い酒でした。
 ある晩、飲み屋で大暴れしましてね。その店で飲んでいた客にからんでケンカを売って、物を投げつける、殴りかかる、最後は椅子を持ち上げて振り回すで、何人かの客にケガをさせたらしい。そういうときの私は頭の中が真っ白になってますから、何がどうなっていたのか覚えちゃいません。警察が呼ばれて、傷害の現行犯で逮捕されて起訴になりました。
 可哀相だったのは兄貴でした。弟が起訴されたというんで左遷されましたからね。兄貴も父と同じ会社で働いていたんです。実は、父親は私が高校生だった頃に、オートバイ事故で亡くなくなりましてね。それで兄貴は父親の後釜として採用されていたんです。私の起こした事件で、左遷の憂き目に合わせてしまったんですから、いまでも兄貴には悪いことをしたと思っています。裁判では執行猶予がついて、実刑はまぬがれました。
 それで稚内の家に連れ戻されました。家に帰ってもすることがないから、ただブラブラしている生活でした。そんなことをしていると、小さな町ですからみんなに噂されますからね。それに事件を起こしたことや、別れさせられた女性のこと、そんなこんなでムシャクシャしてまた酒におぼれていく。酒を飲まずにはいられなくなる。金がないから、酒屋で万引をして酒を手に入れたこともあります。3回もしましたね。
 そして酒が入ると頭が真っ白になって、何がなんだかわからなくなって大暴れしてしまう。家族も手に負えなくなったんでしょう。精神病院に入れられました。私自身は精神病院なんかに入れられる理由はないと主張したんですが、一年間も入れられてました。
 病院を出たのが30歳のときでした。もう稚内にはいられませんから、本州に渡って建設会社をしている親戚を頼って秋田に行きました。ちょうど東北新幹線の工事が始まったばかりのころで、福島駅の建設工事に就きました。ただ、はじめのうちこそ親戚だからというんで、監理の仕事をさせてくれましたが、そのうちに人夫と同じ仕事をさせられるようになってました。重い鉄筋を担がされたりしてね。それでいやになって辞めました。
 それから東京に出て、缶工場とか、新聞販売店、建設会社などで働きましたが、どこも長続きしませんでした。例の悪い酒癖で同僚を殴って辞めたこともあります。 40代に入って建築現場の日雇いで働いていたときは、組頭にまで引き立てられました。それまでに現場監理の経験があって、ノウハウを知ってましたからね。その組頭の仕事ぶりが認められて、親会社に引き抜かれて社員待遇されるまでになりました。
 ところが、四五歳のときに交通事故に遭って、足の骨を折ってしまい半年間入院したんです。ケガが治って退院してみると、もう会社はありませんでした。酒の失敗で人生を悪くもしましたが、運もない人生なんですね。 あとは高田馬場の手配師に頼る日雇いでした。手配師のくれる仕事はほとんどがタコ部屋のものばかりですからね。どうしようもない現場で、金も残せるほどはもらえませんでした。その日雇いの仕事も五年前くらいから減ってきて、ドヤ(簡易宿泊所)に泊まれなくなって路上で寝ることが多くなったわけです。

■いまでも将棋が夢に出てくる

 北海道を出てからは、家には帰ったことも、連絡を取ったこともなかったんです。9年前に交通事故に遭って、保険の手続きの都合で家に電話を入れたことがあるんです。そうしたら兄貴が入院中で、「ガンだから、もう長くない」と知らされて、そのときに一回だけ帰りました。まあ、死ぬ前の兄貴の顔が見られて、それまでのことを謝れましたしね。あのとき帰ってよかったと思ってます。
 私も50歳を過ぎましたからね。この歳になると北海道に帰って暮らしたいと思いますよ。でも、このまんまじゃ帰れないでしょう。せめて50万円くらいの金は持って帰りたいですからね。もう一度まともに働いて金をかせぎたいとは思いますけど、50歳を過ぎて、何の資格もないし……仕事にはありつけませんね。
 好きな女性と一緒になれなかったり、酒の上の事件を起こしたり、あの辺から狂い始めた気がします。若いときの辛抱、我慢が足らなかった。親兄弟の言うことを、よく聞いておくべきだった。いまになって、そう思います。
 酒はやめました。飲む金もありませんしね。金があっても飲まないでいられるようにもなりました。いまやりたいのは将棋ですね。金があれば、会所のようなところに行って指してみたい。いまでも将棋を指している夢を見たり、夢に棋譜が出てきたりするんですよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/帰郷から狂い始めた歯車・田代昭夫(48歳)

■月刊「記録」2000年9月号掲載記事

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■満開の桜の下でのデート

 結婚していたころは、幸せだったな。好きで一緒になった女だもの、大事にしたつもりだよ。
 女房と知り合ったのは16歳。福島県の郡山から上京する集団就職の列車で、友だちが紹介してくれた親戚の女の子だよ。会ったときからオレのことをカッコいいと思ってくれたみたいでね。働き始めてからも、連絡を取り合っていたんだ。
 オレの最初の職場は、埼玉県西川口の鋳物工場だった。大変な仕事だよ。夏なんか塩をなめながら働かないと、汗のかき過ぎで倒れちゃうんだから。それでも話し相手の女性がいたから、生活は楽しかったよ。彼女の職場は近くの蕨市だったから、オレの工場とも近かったし。 初めてのデートは大宮公園だったな。満開の桜の下、公園の池でボートに乗って写真を撮ったりして。水面に花びらが散って、空はすごく晴れていて。ゆっくりボートを漕いでいると、「あー、桜ってこんなにきれいなものだったんだなぁー」と、思ったもんな。
 18歳から彼女と正式につき合いだしたんだ。初めての女だった。それから浮気することもなく、28歳で結婚した。仕事は、鋳物工場から車の解体、トラックやタクシーの運転手なんかに替わった。結婚した当時は、トラックの運転手だったな。自転車の部品なんかをルート配送していた。
 家に帰るとごはんができていて、女房がお酒の相手をしてくれる。それが楽しかった。一人で飲むのはつまらないからね。女房は、酒に弱いくせに飲み屋の雰囲気が好きだったんだ。よく連れて飲みに行ったりもしたな。オレが飲むのに、ずっとつき合ってくれた。

■子どもはかわいくて、かわいくて

 結婚してすぐに子どももできた。配達を終えて家に帰ったら、女房のお姉さんが「女の子が生まれたよ」ってな。急いで病院に飛んで行ったら、ベッドで女房が横になっていたから、「ありがとう」って声をかけたんだ。「男の子じゃなくて、ごめんね」。女房はそう言って、残念そうな顔をしたよ。「どっちでもいいよ。元気なんだから」って、声をかけたな。
 だいたいオレは女の子がほしかったんだよ。だって女の子の名前しか考えてなかったもの(笑)。子どもを持って、目の中に入れても痛くないって気持ちが、よくわかったよ。子どもはオレの宝物だった。
 ただ一人目の子どもは、少し体が弱かったんだ。生まれてすぐ、入院することになった。お医者さんに「空気が悪いのは健康に影響する。できれば田舎に住んだ方がいい」って言われてさ。二人の実家がある郡山に住居を移したんだ。いま考えると、この転居が人生を少し変えたのかもしれない。
 長女が生まれた翌年、女房は二人目の女の子を生んでくれた。出産日は東京まで配達に行ってたから、郡山に戻ってすぐ病院に行ったよ。「また女の子なの」って、申し訳なさそうに女房が言ってさ。「いいよ。元気に生まれたんだから。ごくろうさん」って、声をかけたんだ。
 二人の子どもができてから、子どもを膝の上に乗せながら晩酌するのが楽しみでね。かわいくて、かわいくて仕方ないんだから(笑)。仕事にも張り合いが出たよ。
■たった一度の浮気で離婚

 でも、上の子が4歳のとき離婚した。原因はオレだけれどね……。一週間、女の家に泊まって帰ってきたら、「別れてちょうだい」と女房に言われたんだ。
 いや、高校生だったころから知っている女の子に、道で偶然に出会ったんだよ。コーヒー好きのオレが通っていた喫茶店で、アルバイトしていた娘でね。
「店をやっているから来て」って誘われて、彼女がママをしているバーに飲みに行ったの。酒は好きだからね。しかも飲み過ぎると、ゴロッと寝ちゃうんだ。で、案の定飲み過ぎた。
 目が覚めたら、まったく知らない部屋にいて、横に彼女が眠っていた。驚いたよー。「オレ、何かしたか」と聞いたら、彼女に笑われたな。
「できるわけないじゃない。元気だったら泊めないわよ」ってね。
 ただ飲んで寝ていただけなんだ。いや、本当に。それで起きてから会社に行って仕事するだろ、終わったころに彼女が迎えに来ているんだよ。「また、飲みに来て」って。「じゃあ、行くか」と飲みに行って、また寝ちゃう。その繰り返しで一週間。
 オレはモテないからさ。そんなにウマくいくわけないんだよ(笑)。だから自宅に帰るまで、離婚になるなんて全然思ってなかった。何もしていないしね。でも女房に言い訳はしなかったよ。泊まった現実は、現実なんだから。別れ話にも「はい、いいよ」と言ったんだ。「子どもだけは頼んだよ」って言い残してね。娘の写真を持って家を出た。
 つき合い始めてから、一度も浮気をしたことなんてなかったんだ。真面目に暮らしていたし、女房も大事にしていた。もし東京で暮らし続けていたら、離婚もしなかったかもな。

■10年間の入院を強いられた

 離婚後は、東京でトラックの運転手を続けたよ。きつい仕事だったけれど、仲間に恵まれたな。仕事が終わってから、みんなで飲む一杯が楽しみでね。会社の近くにある安い飲み屋で、あぶり物をつつきながら、焼酎か日本酒を飲む。オレはビールが嫌いだからね。酒が明日への活力だったよ。
 でも、37歳でオレの人生は変わっちゃったんだ。何の前触れもなかった。いきなりバットで殴られたみたいに頭が痛くなった。社長が救急車を呼んでくれたところまでは記憶があるんだけれど、それ以降は意識がない。 目が覚めたら、目の前に看護婦がいたんだ。集中治療室にいたオレには、青や白のボタンが体中に貼りつけられていた。
 自分の病名をきちんと説明されたのは、救急車で運ばれてから一週間ぐらいたってからかな。先生が「クモ膜下出血だ」ってね。頭蓋骨を外して手術をしたらしい。あといろいろと説明していたけれど、よく覚えていないな。ただ手術が終わったから、すぐ退院できると思っていたんだ。まさか、それから10年間も入院し続けるなんてな。
 10年の入院生活と聞くと、仕事なんかが気になって焦ると思うかもしれないけれど、容態も悪かったから焦りようがなかった。何も考えられなかったから。長いようで短い10年だったね。退院したときは四七歳だよ。それでも退院できたのは、最初に診てくれた先生がよかったからだろう。同じ病気になった人のほとんどは、植物状態か仏様になっていたから。まあ、助かったのがよかったのかはわからないけれどね。
 退院後は、板橋区にアパートを借りていたんだ。区の職員が、福祉制度を使ってアパートの手配をしてくれた。でも東京・葛西にある病院への通院が大変だったので、別の区のアパートに引っ越したんだよ。そうしたら区が、福祉を打ち切ったんだ。もちろんアパートも追い出された。行くところなんてないよ。ホームレスさ。
 実家に帰ればいいのかもしれない……。でも若ければともかく、50に近くになって帰っても仕事はないし、迷惑なだけだろう。実家も兄貴の代になっているし、兄貴だって大変なんだから。連絡しないんじゃなくて、できないんだよ。

■全財産は120円

 子どものことは、いまだに気にかかるよ。退院したとき、女房のお姉さんに挨拶しに行ったら、「上の子は結婚した」と聞かされた。4歳から会っていないから、オレには顔なんかわからないけれどね。いや正確には、入院中に会っているんだ。昏睡状態のときに別れた女房と娘が会いにきた、と看護婦が教えてくれたから。でも意識がないからな。
 まあ、生きていれば、いずれ会えると思うよ。あー、でも会いたくないな。仕事をしているなら、会いたいけれど。みじめな姿を娘に見せたくないから。
 いまの全財産は、120円だよ。これじゃあ、何も買えないよね。冷たい飲み物がほしいよ。あと吉野家の牛丼が食べたい。万引する勇気もないから、我慢するしかないけれどね。
 リストラなんかで自殺する人も多いらしいけれど、自殺するのは勇気なんかじゃないよ。逃げたいから自殺するんだ。生きているのは、こんなにつらいんだから。 (■了)

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ホームレス自らを語る/サラ金の督促から逃れて・田島義広さん(64歳)

■月刊「記録」2000年10月号掲載記事

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■サラ金から面白半分に借金

 長いこと左官とか、型枠工、日雇いの土工なんかをやってきたんです。それが五五歳を超えたあたりでしたか、「年寄りに回してやれる仕事はないよ」と突然手配師に言われましてね。それっきり仕事は回してもらえなくなりました。
 急に仕事にあぶれることになって、途方に暮れて都内のクリーニング店に嫁いでいる姪のところを訪ねたんです。そうしたら気持ちよく置いてくれて、しかも姪のダンナが警備員の仕事まで見つけてきてくれましてね。それで姪の家に同居させてもらいながら、警備員をして働いてきたんです。
 私は若いころから酒は一滴もやらないし、パチンコをたまにするくらいで、ほかのギャンブルにも一切手を出さなかった。それなのに、六年くらい前でしたか、急に競馬をするようになりましてね。馬が好きだったわけじゃないし、なんで競馬になんか手を出すようになったのか、自分でもよくわかりません。小金がほしかったのかな? ただ、根が小心者ですからね。たいした金を賭けたわけじゃないですよ。
 サラ金から金を借りるようになったのは、そのころからでした。これだって金に困っていたわけじゃなくて、サラ金ってどんなもんかと思って面白半分に借りに行ったんです。そうしたらすごく簡単に貸してくれるんですね。こんなに簡単に借りられるんならと思って、利用しているうちにふくらんでしまったんです。
 いくらくらい借りたのかは、三つのサラ金から借りてましたからよくわからないですね。それにもう三年も放ってあるから、相当なことになってるでしょうね。それでもはじめのうちはキチンと返済していたんですよ。例の警備会社が勤めて三年目に倒産してしまい、それで返せなくなったんです。そのうちに督促の電話が来るようになって、それもだんだん頻繁になるんで、「これはヤバイかな」と思ってね。姪の家をコッソリ夜逃げして、それでホームレスになったんです。親切にしてくれた姪の一家に、迷惑がかかってなければいいんですがね。

■文学の夢を追っているうちに

 生まれは青森県の野辺地という海沿いの小さな町でした。地元の高校を卒業して、東京に出てきました。東京にあこがれていたというより、田舎の閉鎖的な人間関係から逃げ出したかったんです。東京に出て、中堅どころの本の取次店に就職しました。でも、二年くらいで辞めて……大学に行きたかったんです。
 そのころは文学かぶれというか、いっぱしの文学青年を気取ってましてね。文学は片っ端から何でも読みましたよ。永井荷風の官能的な作品なんか好きでした。自分でも書いては消し、書いては消しして、文学を志していたんです。いや、私の場合は官能的なものじゃなくて、家族のことを書いた私小説でした。文学賞にも幾度か応募しました。『文学界』とか『新潮』『群像』とかの文芸誌の新人賞にね。だけど、一度も通らなかった。そんな夢を30歳を過ぎるまで追いかけていて、結局結婚もできませんでした。
 大学には行きませんでした。なんで行かないことになったのかな? あのころ売防法(売春防止法)が施行になって、赤線がなくなるっていうんで大騒ぎだったしね。それと大学へ行かなかったのは関係ないか? 自分でもよく覚えてないですね。
 それで電柱に貼ってあった「事務員募集」のビラを見て、左官の会社に就職しました。ところが、毎日会社に出勤しても事務の仕事なんてないんです。上の人から「おまえも現場へ出たらどうだ?」と言われて、それから左官の現場に出るようになりました。
 左官は一五年くらいやりましたね。左官職人には仕事場を渡り歩く人が多いんですが、私はずっと一つところにいました。真面目というより、やっぱり小心者なんですよ。酒は飲まないし、仲間と徒党を組むことは嫌いだし、そのころは文学にかかずらわってたこともありますし。
 左官のあと型枠工を10年やって、そのあと日雇いの土工をまた10年やりました。左官の技術とか、型枠工をやっていたから大工の仕事もできるんです。でも、それを生かそうとしないで、楽な日雇いのほうを選んでしまう。日雇いでもそこそこかせげて、食べていかれたからいけないんですね。その日雇いでも働けなくなって、姪の家に世話になったわけです。

■死に場所を探しているんだが

 サラ金の督促を逃れてホームレスになったわけですけど、はじめて野宿をしたときは悲しかったですね。ここまで堕ちたら、もう将来はないって悲観もしました。そのうちに慣れてくると「もういいか」って、あきらめの心境になってくるんですね。
 ホームレスになってからも、ずっと一人。やっぱり、徒党を組むのは好きじゃありません。一人でホームレスをしていると、いろんなことがありますよ。いつだったか、明治神宮外苑を歩いていたら、車が横づけされて降りてきた四、五人のチンピラに取り囲まれ、車に押し込められていました。代紋の入った車で、チンピラたちも暴力団の下っ端の連中ですよ。連れて行かれたのは葛飾にあったホームレスの収容施設でした。
 要するに暴力団がやっている施設です。チンピラがあちこちから強引にホームレスをかき集めて、最低の飯を食わせて住まわせ、それで(東京)都に福祉施設として申請して補助金をせしめているわけです。収容されているホームレスのなかに牢名主のようなのがいて、それが全部を取り仕切ってました。私も最初の食事のときに、いきなり暴力をふるわれましてね。一日もいないで逃げ出してきました。ひどいところです。
 ついこの間は、こんなこともありました。そのとき私は青山(港区)の公園にブルーシートで小屋をつくって、一人で住んでいたんです。(2000年)7月1日の晩でしたか、深夜寝ていると大量の芝草が小屋に放り込まれましてね。昼間公園の除草作業があって、そのときに刈られてあった芝草が放り込まれたんです。
 びっくりして小屋を飛び出してみると、4、5人の悪ガキがニヤニヤしながら立っていました。その連中は私に向かって一斉に石を投げつけてきたんです。そして、パッと散らばって逃げていきました。危なくってしょうがないから、近くの交番へ駆け込んで訴えたんです。
 ところが、警官はまったく取り合ってくれませんでした。小屋に戻ってみると、メチャクチャに壊されていて住める状態ではなくなっていました。ちょうど沖縄サミットを控えていたときで、その公園にも「不審者・不審物一掃」のポスターが、数日前から貼り出されていました。だから、それに関連する陰謀じゃあないかと思いましたよ。はっきり言ってしまえば、あの警官が悪ガキたちを使ってやらせたんじゃないかとね。いや、ホントに。
 小屋を壊されてからは雨が降ったときの逃げ場を探しながら、適当なところに寝ています。季節もいいし小屋なんかなくても、どこにでも寝られますからね。いまも一人です。仲間といたほうが危険は少ないんだけど、やっぱり徒党を組む気にはなれませんね。
 ただ、一人でいるとエサ(食べるもの)探しから何から、みんな自分でやらないといけないから大変です。この歳になってくると、エサ探しでゴミ箱を漁って回るのも切羽つまってきますね。膝が痛くて、そんなに遠くまで行けなくなってますしね。それに今年の夏は暑いから、体中に湿疹ができてかゆくてならないですよ。
 ホントはね。いつも死にたいと思っているんです。死に場所を探しているんですが、なかなか死ねなくてね。自殺をする勇気もないんです。いっそのこと、誰か殺してくれないかとも思っているんですよ。 (■了)

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だいじょうぶよ・神山眞/第28回 突然の出来事

■月刊「記録」2002年1月号掲載記事

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 血のつながるお姉さんに、見捨てられたこともよくわからずに、あいつは二段ベッドの上段にゆっくりゆっくりと上っていった。そしてゆっくりゆっくりと細長い体を横たえた。
 布団を肩までかけると今日一日のあいつのすべての動作が止まった。しかし目と口だけは、しばらくぼんやりと開いたまま天井を見ている。
 その目が完全に閉じるのを見届けてから、ぼくは職員室に戻った。

■きっとこれからもうまくいく

 部屋に他に誰もいないのを確認して、ぼくはごろりと体を横たえた。目を閉じると、あいつのことが頭に浮かんでくる。
 生まれてから施設に来るまで、不幸の連続だったはずのあいつ。
 親に暴力を振るわれ、挙げ句に捨てられた。
 施設に来て、不幸な出来事からは解放されたのかというと、やはり、そううまくはいかない。今度は、血のつながった、同じ施設出身のお姉さんから不幸な目に遭わされている。
 おかしな話だな。
 ぼくは思った。そしてこれからも、あいつには不幸な出来事が続くのだなと思った。
 だけど、どんなことがあってもきっと大丈夫だ。
 何が大丈夫なのかと問われると、困ってしまう。でも大丈夫だと思えた。
 現に今日だって、大丈夫だったではないか。
 もしも、何かあったら、そのたびごとに、ぼくが何とかしてやってもいい。
 大丈夫。
 ぼくは単純にそう思った。お姉ちゃんはあいつを捨てていったけど、ぼくはまだ、捨ててはいない。
 そう思うと何もかもがうまくいきそうな気がした。あいつの未来は決して暗いだけのものではないに違いない。
 単に、そう思いたかっただけなのかもしれないが。
 ぼくは横たえていた体を起こした。
 机の上にあった食べかけのチョコレートをひとかけら手に取る。そして職員室を出た。
 あいつの部屋まで行き、ドアを開け、そうっとあいつに近づいた。案の定、目は閉じているが、口は半開きになっている。ぼくはチョコレートをあいつの口に入れた。
 すると、チョコレートは口の中に落下することはなく、上唇と下唇にうまいこと挟まった。これから徐々に溶けていくはずだ。
 ぼくは今にも声をあげて笑いそうになった。たまらなくおかしな気持ちになった。
 大事な人に捨てられた日。
 だけれど、なぜか、何もかもうまくいきそうな気がした。

■そして、事件が起きた

 事件が起きた。
 数日後のことだ。なんと火事が起きたのだ。隣の町のことでもないし、ましてや対岸なんかでもない。
 ぼくたちの学園が火事になった。原因は火の不始末だ。秋から冬に移り変わる休みの日だった。あっという間の出来事だった。ポカポカ陽気で外に薄着のまま出かけた子供の一人が寒くなって上着を取りに戻ってきて、そうしたら燃えていた。
 そんな感じだ。
 そのとき、ぼくとあいつはというと……。
 居間でビデオを観ていた。何のビデオだったろう。ちょっと思い出せない。どうせあいつの好きなビデオだから、ゴジラかモスラあたりだったのだろう。
 ポテトチップを食べながら、ジュースを飲んでビデオを観る。まあ、普通といえば普通の休日の過ごし方だ。あいつは小遣いも使い切ってしまっていたし、友達にも相手にしてはもらえなくて、ちょっとかわいそうな休日だったので、ぼくがビデオ屋に連れて行ってやったのだ。
 道すがら、お菓子も食べたいし、ジュースも飲みたいとわがままを言う。頭にきたが、先日のお姉さんのことを思い出し、今日ぐらい、まあいいかと買ってやる。
 案の定、感謝もしない、わがままを聞いてもらえた喜びを全身で表すわけでもない。さも自分の金を使ったかのような態度でいる。
「おまえ、ありがとうくらい言えないのかよ」
 と、ぼくが言うと、
「あー」
 と、ぼんやりうなずく。
「もう、おまえなんか知らないよ」
 と、少し怒った声で言うと、
「あー、ありがとう、せんせ、せんせ、ありがとう」
 と、いかにもという調子で取り繕う。
 まあ、これもいつものことだ。
 本当にあいつもぼくも何もかもが、いつものことだらけの日だったのに……。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/ピースボートの旅から-タヒチ

 いま、ピースボート船上で、この原稿を書いている。 タヒチからフィジー、そこからオーストラリアのダーウィン港に寄港して、めざしているのは、インドネシアのバリ島である。明朝、到着する予定なのだが、船の最終目的地はイギリスのサザンブトン港。が、わたしはシンガポールで下船して、東京へ帰る。この不景気の時代に、たしかに信じられないほどに安い旅行とはいえ、船で地球一周するひとたちが、老若男女あわせて、七五〇人もいることに驚かされた。
 この旅で、わたしは各地の先住民族のひとたちと出会った。自然のなかで、自然の恵みをうけて、誇りたかく暮らしていたひとたちが、ヨーロッパからの「文明」の侵攻(日本も無縁ではない)によって、どれほどひどい目にあわされたか、そのことをあらためて知らされる思いがした。
 タヒチは仏領ポリネシアの中心である。首都のパペーテは、バルコニーのついた家並がつづく、こざっぱりとした植民地風の街で、観光にやってきたフランス人やアメリカ人の老夫婦たちがのんびりと歩いている。ドイツ人のグループ・ツアーの姿もある。トラックを改造した「ル・トラック」が庶民の足なのだが、色調はどこかエレガンスである。
 夜になると、岸壁にはトラックを利用した屋台(ル・コット)が集まってくる。中国系住民が多く、「チャオメン」などの焼そばなどが売られている。物価が東京よりも高いのは、完全にフランス経済に支配されているからのようだ。

■英仏の戦争の犠牲になって

 小学生からフランス語での教育である。先祖の歴史は教えられていない、というから、完全な植民地教育である。ここはポマレ王が君臨する王国だった。最初にやってきたのは、イギリス人の宣教師だった、という。その一〇〇年あとにフランスの神父がやってきた。イギリスとフランスが、ポマレ王と彼ら流の条約を結ぼうと強制し、ついに一九八〇年六月、ポマレ五世はフランス共和国政府がつくった、すべての領土を譲渡する契約書にサインさせられてしまう。
「第一条 共和国大統領は、一八八〇年六月二九日にソシエテ諸島にてポマレ王と共和国弁務官の間で署名され、タヒチ王の支配下にあるすべての領土の支配権をフランスに完全譲渡した宣言を。批准し、実行する権限を持つ。
 第二条 タヒチ諸島およびその従属諸島は、フランスの植民地となるべく宣言された。
 第三条 タヒチ王の元領民すべてに、フランス国籍が与えられる」
 ポレマ王の「宣言」は、本人の直筆によるものかどうかは不明だが、きわめて屈辱的なものだった。
「……ソシエテ諸島およびその属領の統治権、行政権およびすべての権利と権力を、完全かつ恒久的にフランスの手に譲渡する。
 かくして、わが国家はフランスの一部になった。しかし、タヒチの法律と習慣を考慮にいれつつ我が人民を統治していただけるように、この偉大なる国にお願い申しあげたい」「反核独立」を市の方針にしているファアア市の集会で、ジャンピエール・ポマレさんの話をきいた。ポマレ五世から数えて六代目とか。彼によればフランス領土とされる前、フランスとのちいさな戦争があって、千人の戦死者をだしていた。そのあと、フランスがタヒチをふくむポリネシアを、イギリスがニュージーランドを支配することで、折りあいがついた。 
 ポレマさんは丸顔で、そういわれてみれば、育ちがよさそうな感じだが、いまはごくふつうの市民生活をしているようだ。土地を譲渡したサインをさせられてしまったため、いま王家は力をもたず、市民たちからさほど尊敬されていない、とか。
「フランスの領土になったのは、自由と平等によってではなく、英仏の戦争の結果でしかない。仏軍は大砲と銃をもってきたが、わたしたちはレイと笑顔しかもっていなかった」とポマレさんがいった。
 ポリネシアのなかで、独立を主張するのは、三〇パーセントほどのひとたちでしかない、という。あと、一五パーセントふやして、国連の場で独立を問題にしたい、という。国連への期待がつよいのは、そこで先住民の権利が論議されてきたからである。
 独立のためにいま必要なのは、武器を手にしての「独立戦争」ではない。民族意識の覚醒であり、そのための教育である。しかし、学校教育はすべてフランス式の教育であり、ポリネシアの歴史教育はタブーとされている。メディアはすべてフランス政府によって管理されているのだが、自由ラジオ・テファナがタヒチの歴史講座を流して、圧力を加えられている。もちろん、教科書にはタヒチが植民地化された歴史は書かれていない。
 もうひとつの問題は、経済的な自立である。タヒチの経済はフランス軍に依存していて、独立は政府機関や軍ではたらいているひとたちに失職の不安をあたえている、という。タヒチは観光の島であるばかりではなく、軍事基地の島であって、いわば沖縄やグァム島とおなじ構造をもっている。核基地の写真をうつしていて、フィルムを没収された観光客もいる。
 ポリネシアの総人口二一万人のうち、四分の三がタヒチ島でくらし、その大部分がパペーテ郊外に住んでいる。郊外にあるスラム街の住民は失業者で、核実験の建設現場ではたらいていたほかの島からの移住者、という。仏領ポリネシアの歳入の四分の三以上は、フランス政府からの補助金で、このうち、四五パーセントは、モルロアでの核実験の関連といわれている(『パシフィカ』九五年一〇~十一月号)。
 軍事基地依存経済から、観光や伝統的なバニラや養殖真珠、花、漁業の育成など、これまで軽視されてきていたものへの復活の道もある。

■核実験は子宮を爆発させるようなもの

「わたしたちは、いつの日か死ぬのです。それでも、子どもや孫たちに、こころのそこから安心して暮らせる環境を残してあげたい。核や感情の爆発のない未来を望みます」 
 とジョアナ・ガステンさんがいった。彼女は六人の子どもを産みつづけていた十年間、不安に脅かされていた。障害児が産まれないかどうかを心配していたのだった。身内にはCFF(太平洋実験センター)ではたらいていたひとたちが多く、障害児の子どもたちはすくなくない、という。
 九五年九月、世界世論の反対を押し切って、フランスが核実験を強行したあと、タヒチのガストン・フロス領土政府長官が渡仏するため、ファアア空港にきたとき、彼女たちは二千人の市民や労働者たちと空港のターミナルを占拠した。滑走路に座り込んだひとたちもいる。放火事件もあって、「暴動」状態になった。六四人が逮捕された。彼女もそのひとりで起訴されている。
 九八年十月の判決では、懲役三年など四人に実刑がだされた。タヒチでは、子どもが産まれると、胎盤を土に返して、そのうえに好きな木の苗を植える。彼女の木は「パン」の木である。だから「地下での核実験は子宮を爆発させるようなものだ」との憤りが強い。
 たしかに、いままでは、フランスの核実験に依拠するようにして生活してきていた。被爆の知識がなかったからである。ガンや白血病になると、患者は本土につれていかれて検査された。が、結果はなにも知らされず、カルテもみせられていない。
 フランスは六〇年二月にアルジェリアで核実験に踏み切ってから、九六年一月まで、すでに二一六回も実施している。六六年七月から太平洋のモルロア環礁で開始、その後のほとんどはタヒチを拠点としたモルロアでおこなわれている。そのためにはたらいてきた労働者は、一万五千人にもおよぶ。このなかから被爆労働者があらわれている。
 サンゴ礁が破壊されて、死滅したサンゴに「渦鞭毛藻」が発生して毒化した魚がふえている。水は天水なので汚染されている。なぜフランスはここで核実験をくりかえしてきたかといえば、そこは植民地だからである。とすれば、実験の中止と独立の要求がついには一致することになる。
 ボルドー大学帰りのテチアラヒ・ガブリエルさんは、「ヒテイ・タウ」(日の出の鳥)という団体をつくって、自立の運動をつづけている。「核の植民地支配は暴力だ」というのが彼の主張である。

 南太平洋は、かつての戦争のとき、兵士たちの飢餓の島としてつたえられている。マラリアと飢えによって、膨大な数の日本兵たちは、まったく無駄にたおれていったのだが、そのとき、島の住民たちはどうしていたのかはあまりつたえられていない。わたしたちは、フィジー島でバナナ島の旧住民たちと会うことができたが、日本海軍の虐殺をきかされることになる。
 が、それらの蛮行はここだけの話ではない。日本軍は土地を奪っただけではない。無謀な戦略配置は飢餓状態をつくりだし、住民から食料を奪った。虐殺と人肉を食う非道を行った事実の解明が残されている。

-シンガポールへむかう船上から-

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鎌田慧の現代を斬る/

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北朝鮮と新潟 最終回/新潟で確かに見た「共生」の芽

■月刊『記録』06年3月号掲載記事

■政治部記者を辞め、自分が決めた道へ

 金子さんにとって、この原体験は彼自身の人生の方向性を決定付けることになる。大学卒業後、彼は時事通信社に入社した。入社後、韓国のソウルに駐在して報道記者として韓国に触れることが彼の当面の目標となる。入社して東京に2年、甲府に1年半滞在した後、首相官邸に詰める総理番を務める政治部記者となった。政治部記者は、彼の念願がかなった形だ。なぜ念願だったのかといえば、社内ではソウル支局に異動するのは政治部出身と相場が決まっていたためだ。政治部で記者を続けていれば、ソウル支局に派遣されるのは確実視できた。だが、これが「本当にやりたいことなのだろうか」との一念が、通信社に踏みとどまることを許さなかった。ずっとソウルにいられるわけではない。政治部記者をずっとやっていても、韓国に触れていられるのは一時期に過ぎない。逡巡した挙句に「本当にやりたいことではない」との結論に至り、彼は通信社を退職する。
 そして巡り合わせがいいというべきか、新潟市役所でちょうどそのとき国際交流の仕事を担う人員を募集していた。「国際交流の仕事がしたい」。彼は迷わず応募して、採用が決まる。通信社時代にかなわなかった、韓国に滞在しての職務にも1年間ほど携わることができた。
加えて、北朝鮮に3回ほど行く機会にも恵まれる。実際に自身の目で直視した現実と、日本のテレビ局が当たり前のように報じている北朝鮮国内の暗くよどんだ様子とはひどく隔たりがあった。金子さんは市場などを見て回ったという。国内の観光には「案内人」と呼ばれる見張りがつくことが制約として設けられたが、きつく束縛するというでもなくその案内人の目を離れて自由行動をすることもできた。人々がごく普通に平穏な様子で生活を送っている姿が、金子さんの脳裏に印象として残っている。北朝鮮はアメリカ、日本政府の敵視政策に置かれるなかで確かに軍隊に国力を結集する軍事体制を敷いているが、日本のテレビ放送でお決まりのように年中行事のように映し出される北朝鮮の軍事パレードも実際には年に1回だけのものだ。

■痛みを乗り越えて目指すもの

 ところで、「びびんば会」を、金子さんは特におおっぴらに喧伝することもない。だが、会の存在は新潟市内では知る人ぞ知るというものになっている。北朝鮮に対する反感が高まっている最中に、北朝鮮との交流を訴え在日朝鮮人と交流する活動は人々の耳目を掻き立てるようだ。そこで、けなす声を直に彼に伝える人もいる。北朝鮮に対して敵意を明らかにする態度の人から、「親北朝鮮が市役所にいるのは許せん」との声を浴びせられたことがあった。しかし、金子さんには臆するところはない。
 日本の過去の戦争に関して日本人である自分が韓国の同学生に、無知扱いされたことに対する反省が、金子さんを新潟市での国際交流の職務に当たらせ、私的には「びびんば会」という交流活動に至らせた。民族の違い、文化の違いを超えて集う人々が一堂に会してビビンバのように「かき混ぜられる」ことによって、「かき混ざることのない」それぞれが生きてきた背景の違いが際立ってくるのがおもしろい。その違いを認め受容することが、「痛み」を乗り越えてさらに渾然一体となった妙味を彼らにもたらすのだろう。
 隣国に対しての憎悪の声は、いつか静まっていくのだろうか。新潟で目の当たりにした交流の芽はいつか大樹となるのだろうか。だが、新潟の地で「暗い影」を払拭する光を見た思いがする。実りのある<共生>を求めようとする強い意志の光だ。共生のためには「痛み」が伴うが、その痛みに耐え、この社会を<開かれた社会>としたい強い意志が、交流をもたらしお互いに理解を引き寄せるための礎となる。その<開かれた社会>が果たして良いものであるのかはわからない。しかし剣を振りかざすことでは、また新たな「痛み」を生み出すだけだ。たとえ憎悪を燃やす相手でも、自身が「変わる」ことで相手を「変えられる」、そうした楽観を伴う<寛容さ>をわれわれは持ち得ることはできないのだろうか。(■了)

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北朝鮮と新潟 第7回/「日本」と「南北コリア」の壁を乗り越えるために

■月刊『記録』06年2月号掲載記事

 新潟港でコメ袋を万景峰号に積み込んで、北朝鮮の元山港に運ぶ。主な支援先は、保育園や幼稚園など。「支援などしても、貧しい階層に届いていないだろう」との支援活動への疑問の声が日本国内であるが、川村さんは「視察してきちんと届いていることを確認している。追跡調査などができないところには支援をしていない」と言う。かつて日本政府が実施していた食糧援助は、北朝鮮政府の食糧計画に組み込まれ、軍部や炭鉱労働者など主要産業や重要ポストを担っている人間から順に食糧が配付されていたため、食糧の行き渡る範囲が狭められていた。それだからこそ、川村さんの行なっている「顔の見える」食糧支援は、北朝鮮の貧しい人々を支えるという意味で重要な役割を担っている。北朝鮮への経済制裁によって、万景峰号が新潟港に入港できなくなれば無論、川村さんの活動は阻まれることになり北朝鮮の子どもたちは多くが死に至ることになるだろう。北朝鮮へのアメリカ、日本政府の敵視政策が、北朝鮮政府を追い込みその国内の人民を死に至らしめるのだ。
 米どころ・新潟に漂着した元肥料製造会社社員のクリスチャンという川村さんがいなければ、このNGO活動がなかったことを考えると、人間の運命というものはつくづく不思議なものだと私は思う。この世に生を受けたときから、このようなNGO活動に取り組むというように彼が導かれていたかのようだ。
「余裕ができて過去を振り返ってみて初めて、信仰によって生きる道を作られていたんだなと思ったよ。宗教の選択は全くの偶然だが、潜在意識のなかに方向付けがあったのかもしれない」
 北朝鮮への食糧援助にとどまらず、今後は「人材も派遣しようと考えている。ヒトを送ることで交流を活発にしたい」と「モノからヒトへ」の方針転換を図る。日朝が国交正常化しない限り、拉致問題の解決も一向に訪れないという立場だ。
「食糧だけ贈ればいいというわけではない。友好姿勢にならなくては。相手国への同情が生まれて初めて、架け橋がかかる。自分はその橋渡しをするための、引き継ぎ役に過ぎない」
 やや謙遜気味に自分自身を語る川村さんは、自らのライフワークを「日本海に落ちる一滴のしずくみたいなもの」とする。しかし、日本国内の現状がこのままでは、彼の活動は本当に「一滴のしずく」のままに終わってしまう。「一滴のしずく」を真に「しずく」にしないためにも、われわれは「変わる」べきだ。
 新潟では、北朝鮮に経済制裁を発動するのではなく、交流を通じて拉致問題の解決を図ろうじゃないかという考えを持っている人間は、想像できる通りあまりに少ない。「交流派」の人間は数少ないが、彼らが出会う場が共通しているのだろうか、親密に結びつき合うことで横のネットワークを形成している。川村さんから派生して、芋づるのように「交流派」のネットワークが築き上げられているため、川村さんを掘り当てた私は彼の人脈をたどることで金子博昭氏に出会うことができた。

■さまざまな人たちとの交流をめざして

 金子氏の自宅を訪問した時、彼は、休耕田で援助米を育てている川村さんといっしょに早朝からの農作業をやり終えてちょうど帰宅した矢先だった。彼は白のポロシャツに短パンといったラフな服装で私を迎えてくれた。私は勧められるままにあつかましく彼の自宅に入り込んでしまった。「窓からのぞくと君が外で手を振っているものだから、気がついたら家の中に上げちゃってたよ」と笑みを漏らす。農作業で流した汗を手ぬぐいでふき取りながら、コーヒーを差し出してくれた。
 金子氏は、日本人と南北コリアの人々の交流会「びびんば会」を、市内の会館などを利用して開催している。北朝鮮と韓国を南北コリアと呼ぶことにこだわるのは、北朝鮮と韓国は一つの国であるという理念が彼にはあるからだ。会の活動は公的なものではなくあくまで個人的な活動であって、自身の職務とはまったく別物であることを、会の紹介をする際に彼はまず断りを入れた。
 慎重な姿勢は、金子さんは新潟市役所の総務局国際文化部に勤務しており、市の職員として公務で交流会を開いているように受け止められると不要な誤解を招くことになるからだ。例えば、私的な交流会として開いている場にもかかわらず、この会を彼が公務で行なっているかのように受け取った人が新潟市にクレームを寄せるという場合が考えられる。この場合、クレームは新潟市職員の行なう公務が篠田市政の方針と異なっているのではないかといった趣旨となる。だが、あくまで金子さんは職務を離れて、一市民として交流会を開いているに過ぎない。新潟の「暗い影」が彼に不要な慎重さを要請しているこの状況は、新潟が「閉ざされた」方向に向かって邁進している、何よりの証左なのかもしれない。
 2002年9月の日朝首脳会談を経て拉致された日本人5人が帰国して以来、国交正常化なんてとんでもないという方向に日本国内の世情が傾き、北朝鮮に対するバッシングがすさまじい勢いで報道されるようになった。そうした情勢の下で、新潟市主催で「韓国フェスティバル」が開かれたが、金子さん個人の考える交流の方向性は異なった。
「政治のガチガチしたところから眺めるのではなく、もう少し軽い視点で何か楽しいことができやしないか」
 そのように思い至ったとき、私的な交流会として03年3月に「びびんば会」を設けた。会は、職業は学生から会社員まで、民族も在日韓国・朝鮮人、日本人とさまざまな人たちが参加している。会の名称には、さまざまな材料がかき混ぜられて混交し合ってこそビビンバがうまいのと同様に、日本と南北コリアの人々が混在することによってよりおいしい味を出していく交流会にしていきたいとの思いが込められている。
 会は緩やかさを基調としており、北朝鮮の怪獣映画「プルガサリ」などの映画鑑賞のほか、雑談などをして時を過ごすという。そうした活動に加えて、03年12月には「南北コリアと新潟のともだち展」というタイトルの絵画展を新潟市内で開催した。展示されたのは、新潟朝鮮学校の小学生が描いた絵画、およそ80枚ほどだ。この展示会は、日本国際ボランティアセンター(JVC)の主催する「南北コリアと日本のともだち展」の一環である。02年6月に北朝鮮の平壌でも開催された。「びびんば会」での活動を「少しでも北朝鮮との交流に近づけたい」と会のメンバーが考えた結果、市内でこのような展示会を開くこととなる。職業も民族もさまざまなメンバーの力を合わせた実行力が、会の名の如くビビンバのようになって展示会として結実した。
 しかし、ビビンバは混ざり合う食材の相性がぴったりと合ってこそ、うまい完成品となる。この会の場合も日本人と在日朝鮮・韓国人の間に溝があっては、そうならない。当初は交流会は気楽な集まりという様相だったが、南北コリアの人々と対峙する場合に、日本人は日本人であるがために乗り越えなければならない壁があった。1910年に始まる朝鮮半島に対する日本の植民地支配、戦中時の日本人による強制連行、そして祖国は日本海の向こうにありながら日本に生活基盤を置くに至った「在日」であり続ける南北コリアの人々。交流と同時に、支払わなければならない代償として、振り返らなければならない歴史がお互いの間に横たわっていたのである。歴史の問題を語らずして交流など存在しないということになり、当初の気軽に参加という理念はそのままに、04年1月から交流会は勉強会の形を取るようになった。といっても、やや姿勢を正して、映画、演劇といった文化的な分野から意見、感想を交換し合うといった変更をしただけに過ぎない。
 交流会をするなかで対面して話をする機会に多く恵まれれば、もともと民族、立場が違うだけにそれぞれの境遇の違いなどがメンバーの間で透けて見えてくるようになる。
「新潟の朝鮮学校を卒業した人と会で話す機会があったけど、新潟に居て日本人と話したのが初めてだと言ったとき、とても驚いた。そういう経験がある」
 身近に生活していながら互いに顔を背け合い、日本人は日本人と、在日は在日でといった摩擦のない同質の空間を求める志向は、コミュニケーションの断絶を維持して互いの境遇に鈍重になる姿勢を招くようになる。だがその一方で、互いが対峙して交流を求め合うなら、お互いが乗り越えなければならない「痛み」が生じる。交流することで互いに「痛み」が伴えども、金子さんは「今の在日がこうした状況だからこそ、交流し続ける意味がある」と強く固持する。
 そうした立場の金子さんだからこそというべきか、
「右翼の人でも民団系の人でも、歓迎する。拉致被害者を支援する家族会の関係者でもいい。そうなれば、まさにごちゃまぜのビビンバ。交流することで軋轢はあっても敵をつくることには決してならないでしょう」
 と威勢がいい。
 そもそも金子氏は北朝鮮、韓国の南北コリアになぜ深く関与しようとするのだろうか。交流などしなくてもよいという態度を貫いていれば、「痛み」を感じる必要もない。彼の姿勢は、わざわざ自分から首を突っ込んで「痛み」を得ようとしているかのようだ。
「痛み」の原体験は、彼が大学時分に経験した留学にあった。新潟大学在学中に、何となく特殊な言語を勉強しておけば役に立つだろう、と思い立ち、韓国の大学に1年間の留学をする。留学先の韓国で毎日のように、同学生から日本の戦争責任についての指摘を受けた。
「(過去の戦争について日本人が)知らないと向こうに思われているから言うわけで、歴史を知ることは大事なこと。ただ、自分自身が経験していない過去のことを『謝れ』と言われても。謝るのはおかしい。だったら、わかろうとするしかない」
 日本政府が過去の戦争責任について断罪されるのは当然だ。しかし、戦争を体験していない年齢層の日本人が南北コリアの人々と対面したときに、彼らに対してその場で謝罪することがふさわしいことなのだろうかと、金子さんは私に問う。私は返答に窮した。ただ過去の戦争についての歴史を踏まえておくことが、南北コリアの人々からどのような対応を迫られるにせよ、彼らとの交流を目指す礎になるのではないのだろうか。(■つづく)

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北朝鮮と新潟 第6回/運命づけられた食糧援助

■月刊『記録』06年1月号掲載記事

(前回までの内容)反北朝鮮のムードに満ちた新潟を鬱屈しきって歩くなか、北朝鮮にコメを送っているというNGO人道支援連絡会の川村邦彦氏の存在を知る。

     *     *     *

「ボランティアは善意の押し売り、おせっかい精神。別に北朝鮮の誰かが要求しているわけでもない」
 彼は、自らが行う活動を、正当化するでもなしに距離を置いて見つめている。川村氏は頑固そうな面持ちの67歳。白髪の頭を丸刈りにして眼鏡をかけている風貌は、ガンジーを思い起こさせた。人見知りする性格なのか、教会の入り口で職員に案内されて川村さんがパンフレットの冊子を製作する作業をしている部屋に入っていくと、特に何も告げることなく私に着席を勧めた。
「日本政府が北朝鮮への食糧支援をやめてしまった。それが途絶えている間は、やり続けるつもり」
 自身がかかわるコメ支援を語る口調は、固い決意をにじませる。しかし、現在の日本国内の北朝鮮バッシングの業火の中で、心ない人々が川村さんに対して妨害、中傷を浴びせかける。
「多いのは、『向こう(北朝鮮)の延命に手を貸すな』『利敵行為だ』というもの。右翼の嫌がらせ以外にも、いたずら電話は多い」
 自らへの中傷、誹謗について、私の前では川村さんはやや控えめにこのように語っていた。しかし実際に彼に降りかかっている誹謗、中傷は、生半可なものではない。
 川村さんと親しい関係者によると、川村さんはマンションに住んでいるが、マンション前の大通りに右翼の街宣車が数台並び、「カワムラッ、北朝鮮に帰れ!」などと右翼が拡声器で騒ぎ立てることが幾度となくあるそうだ。嫌がらせの電話に加えて、こうした騒動で川村さんの奥さんはすっかり参ってしまっており、ノイローゼを訴えているという。騒ぎの巻き添えにされる自宅近隣の住民の川村さんへの視線もさぞ冷淡なものであるのだろう。
 だがそうした犠牲を払ってまで、決して若くはない眼前の細い体躯をした人物がなぜにコメ支援を行うのか。「なぜか?」と、コメ支援がさも特別な事情があるかのように問う私に対して、何気ない面持ちで彼は返答する。
「政治的な問題はあるが、困っている人があれば、助けるのが人情。人道的だろ」
 川村さんはクリスチャンだ。教会にいて作業をしているのだから、当然といえば当然かもしれない。だが、彼の出で立ちは、白の肌シャツに白の股引という自宅の縁側で涼をとっているような服装だった。その服装が、気取らずに慈善活動を行っている彼の性分をよく表しているのかもしれない。クリスチャンの一般的なイメージとは、大いにかけ離れているが。
 そんな彼がキリスト教に「帰依」したきっかけは、27歳の頃に訪れた。昭和39年の新潟大地震に招き寄せられたものだった。新潟西港に、勤務していた会社があった。それが地震で沈下してしまう事態に遭遇する。21日もの間、会社の工場が炎上して黒煙が立ち込め、カラスが騒ぎ立てるという情景は、彼に「この世の終わりの体験をした」と言わせるほどの荒廃ぶりだった。死の恐怖が目の当たりに迫る。
 丘を上がった所に会社の社宅があり、現在通っているこの教会の前の道路を、大地震以前はいつも何の気なしに歩いていた。しかし、「困ったときの神頼み」に似た何かにすがりたい気持ちが、彼を教会の方へと振り向かせる。このキリスト教との遭遇を、彼は「自分に前々から備わっていた潜在意識と通じ合った」結果だと言う。
 川村氏は長野県で出生したが、職を求めて東京に出て行った。東京で就職してあちこちに赴任するが、新潟に来たちょうどその時に発生した大地震が彼を新潟にとどまらせる。この大地震以来、転勤もなく新潟に定着する結果となり、定年を経て今に至る。
 彼にとって、新潟の地でコメ支援を行うという業は、神からの天啓に導かれていると言っては大げさかもしれないが、何かに因縁づけられているような部分がある。
 コメ支援と関わり深く生きることを宿命づけられているかのような人生を歩むことになる端緒は、郷里の長野を離れ東京に出て肥料の製造会社に就職したことだ。川村さんが学卒時、日本国内は食糧の供給を高めなければならない状況にあって、政府が食糧増産へと重点的に投資を行なっている時期だった。農作物の再生産のために、肥料は欠くべからざる物資だ。そのため、当時は製鉄と並んで、肥料製造は花形産業だった。その肥料会社を勤め上げて、定年後に北朝鮮への食糧支援を中心としたNGO活動を始める。2000年9月には、国内のホームレスとなっている人々にご飯の炊き出しを行なう活動も加わった。
 NGO活動を、食糧支援を中心としたものにしようと川村さんが考えたのは、飢えについての経験が自身の根幹にあるからだった。
「小3の時に終戦を迎えた。未曾有の不作だったが、労働力もない。食べられないということが、終戦の記憶として痛烈に残っている」
 そのような飢餓状態に陥った感覚が、川村さんには「潜在意識として常にある」。ただ、企業に勤めている間は、この世界に飢えている人が数限りないほど存在して今にも食糧を求めているという現状を、「自分自身の問題としてとらえることがなかった」。
「会社で、いかに成績を上げるかにきゅうきゅうしていた。少しでも自分のポジションを上げたかった。そして、自分の生活を良くしたいばかりだった」
 定年前の自身をこのように振り返る。定年後に会社を離れると、自分自身のエゴへの執着から解き放たれたように、川村さんはNGOでの食糧援助活動に身を投じるようになる。
 戦後間もない頃の飢えの経験と結びついた食糧支援は、彼がクリスチャンであることからも導かれる。戦争が終結して食糧難の時代、ひどい空腹感に窮していた小学生の川村少年は、「ララ物資」の脱脂粉乳にあずかることで、飢えを乗り切ることができた。ララ物資は、アメリカ、カナダのキリスト教会がアジア救済公認団体物資として日本に贈ったものだ。川村さんだけでなく、日本の多くの人がその恩恵を享受することで、戦後の食糧危機を乗り越えたのである。このとき受けた恩は、川村少年の胸に「受けて忘れず、施して語らず」という信条で刻み付けられた。このことはすでに、彼の人生の文脈をたどるとき、震災時のキリスト教との出会いの伏線として張られていたのかもしれない。その後、北朝鮮の子どもたちが食糧不足に陥っている境遇を耳にしたとき、クリスチャンである川村さんには心の中にピッときた。幼少時に飢えを満たしてくれたララ物資が、信教への信仰とつながって脳裏に浮かんだ。
 新潟NGO人道支援連絡会を川村さんが開始したのは、7年前にさかのぼる。阪神大震災が発生した時に、川村さんとかかわりを持つ地元のNGOが、水害に遭ったために支援を求めてきた。姫路市の長町地区は在日外国人が多く居住するが、そこに住む在日朝鮮人の人々から兵庫の朝鮮総連を通じて北朝鮮から地元NGOに支援物資を送ってもらった。その時の支援が、北朝鮮への食糧支援を断固として続けようとする川村さんの生きる道を方向づけた。
 川村さんが実施する食糧支援は、コメによる援助が中心だ。コメならば、援助米制度を利用することで大量に食糧を北朝鮮に送ることができる。援助米制度は、コメ余り解消のための政府の「駄策」であり、農家の意欲を削ぎ落とす減反政策の一環だ。現在、国が定めるところによると、所有する田地の3割は休耕田にするか別の農作物を作るかしなくてはならない。例外的に休耕田での作付けが許されているのが、海外援助米である。国外の被災地、貧困地などを支援するための援助米ならば、休耕田での生産が可能だ。彼は新潟じゅうの農家を回り、休耕田での援助米の作付けをお願いしている。
 さらに川村さんが肥料会社に勤めていたことが、幸いなことにこの援助活動に活きる。肥料会社に勤めていれば当然、農家は顧客だ。定年前に仕事上付き合いのあった人に、彼は協力を呼びかけた。そのような「横のネットワーク」を持っていた川村氏の依頼でなければ、北朝鮮に送るためのコメを提供するという「反常識」を農家の人たちは承知していなかったかもしれない。
 加えて、支援活動の本拠が米どころの新潟であるということが、効率よく北朝鮮の貧しい人たちに食糧を行き渡らせるために幸いした。新潟は米どころであるばかりでなく、日本酒の一大生産地だ。新潟では、酒屋の多さは威容を誇る。日本酒の吟醸酒、大吟醸は、コメの芯の部分のみを使用して醸造する。
 そのため、残余部分が米粉として多く残されることになる。その米粉を引き取って、支援物資という形で北朝鮮に送っている。白米でなくても米粉であれば、米粒と栄養価は変わらない。なおかつ米粉は、白米の10分の1の値段で買うことができる。質が悪くとも、より多くの食糧をより多くの人の元に届けるために量を重視する。
 支援活動を開始した97年5月の時点では、このようにしてかき集めたコメは10トンにしかならなかった。しかし、02年には100トンにまで達するようになった。だが02年以降、拉致事件への国民感情が高まるなかで収集するコメの量は減少しており、以前から協力してくれていた農家の間に「やりづらさ」が生じているようだ。(■つづく)

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北朝鮮と新潟 第5回/北朝鮮人民の幸せを願う反総連活動家

■月刊『記録』05年10月号掲載記事

■自衛隊を軍隊にする運動

 万景峰号の入港を阻止する会の会長である本里福治さんは、人生に大きな影響を与えたと語るテレビで見た学生運動について語ってくれた。
「夢を持ってやっているはずなのに、覆面してヘルメットをかぶって顔をかくしている。後ろから石を投げては逃げる。自分の行動に自信が持てないのか。あいつは卑怯だ。卑怯な奴がやるのは嘘に違いないと思った」
 それが学生運動を担う「左の人間」に対する原体験だった。そこから「左の方が卑怯。右の方が清々、人間の生き方として清々している」という単純な二元論的な色分けを自らの生の判断基準にして、彼は「右」の保守思想に傾倒していった。
「右」の道に導かれながら、高卒後の1964年には海上自衛隊に入隊している。
「海自は船に乗っているので楽だしカッコいい。陸自は鉄砲かついで地を這わなくてはならない。船内は合理化が進んでハイテクが装備されて、海自は洗練されている」
 本里氏はこのように海上自衛隊に入隊した動機を話した。先ほどの「左」についての彼の発言と一致を覚えず、私には違和感が感じられた。彼の脳裏に描かれている「清々としている」人間像とは、一体どういう人物を指すのだろうか。
 自衛隊では、彼はヘリコプターの整備を行う職務に当たった。だが、自衛隊があまりに「法的規制」に縛られている点に思い至り、「自衛隊内部にいてその一員として頑張るのではなく、外部から活動に関与すべき」と意を決する。
「軍隊は何をやってもいいはずだ。法を乗り越えてもいい。自衛隊が軍隊と違うのは、やっていいことを法律で規制されていることだ。銃を撃っていい悪いが法に規制されている。これを解決しなくては、自衛隊は活動できない。自衛隊を軍隊にしなければ機能しない」
 このように法的に軍隊と規定された自衛隊こそが本来あるべき姿と思い定めていた本里氏は、入隊後4年を経過して自衛隊を退職する。
「自衛隊にずっといても良かったが、体験として自分自身を徴兵したに過ぎない。入隊の宣誓書に政治的活動に関与してはならないという項目があるのもおかしい」
 入隊時の宣誓に政治への不干渉が定められている以上、自衛隊に居ながらにしてクーデター的な内部変革を志した彼の考えは頓挫した。自衛隊をやめた後、母とともに新潟の地にやってくる。
 68年3月、25歳となり新潟で悶々としていた本里氏は、三島由紀夫が結成した「盾の会」に入会しようと心が動いた。しかし子どもができたことと重なったうえ、三島由紀夫が切腹して盾の会が解散してしまった。だからといって政治にかかわりたいという衝動が尽きることはなく「三島の遺志を継ぐために、三島由紀夫研究会をつくった」。
 三島由紀夫そのものへの執着もかなりのものなのかと尋ねてみれば、
「三島への愛着はあるがそこまでのものではない。行動原理の中心ではない。盾の会の会長である三島は好きだったが、文学者の三島は嫌い。小説はほとんど読んでない」
 と彼は率直に述べる。文学者の三島の突き当たったところが「盾の会」であって、その文学の内容を不問にするのはどうだろうか。「軍事好きなミーハー」と言っては失礼かもしれないが、彼の発言からは一向に彼自身の「清々とした潔さ」なるものが見えてこない。
 自衛隊を退職した後、軍事防衛に関する研究会を開催していたが、研究会活動ではメシが食えない。平素は営業を行うサラリーマンをしていた。しかし30歳に転機が訪れる。「性分がマジメで、客の要望があると何とかしようと思ってしまい、常に責任をしょいこんでしまう」性格のために、体をこわしてしまう。そこで「マジメ過ぎたよ。いいかげんに生きよう。いいかげんに生きる努力をしよう」と思い立ったそうだ。そして「対人関係に気を使わなくていいように、職人になろう。職人なら、人ではなく物を相手にして食べていける。客から何とかしてくれと要請があっても、物を示してダメなものはダメだと言える」と考え、塗装業を始め、現在に至る。
 本里氏に話を聞けば聞くほど、「清々」の意味を彼がどうとらえているのかが不明になっていく。つまるところ「右は清々」「左は卑怯」という対称で、彼の見解を理解しておけばいいのかと私は考えたが、よくよく聞いてみればそうではないらしい。「左」の共産党員であっても「清々」としていればいいらしい。
 新潟の市会議員に、共産党所属の渋谷明治氏という人物がいる。本里さんはこの渋谷氏を「左でも清々」の代表的な人物という。渋谷氏は、自民党が圧倒的強さを誇る新潟市にあって、選挙の場合に常にトップ当選を果たすほどの議員だ。
「共産党の票田となっている市営住宅に、15年から20年前、渋谷はでっかいスピーカーを付けた軽自動車のバンで乗りつけた。住宅の前で、たたきつけるように雨が降る土砂降りの中を、誰も聞いている様子がないのに、車上で自分の主義主張を訴えていた。聴衆がいないなかで、かさをさしながら演説している姿は心を動かされた」
 そのようなエピソードを披露する。だが渋谷氏に感銘を受けたと語る彼だが「共産主義が嫌いなので、入れ込むことはない」とする。人物像が重要なのであれば、信条、主義の左右の別は関係ないと私は思うが、本里氏にとってはことのほか重要事であるようだ。
 自分自身を「右の人間」と位置づける人物はおおむね、自民党を支持する。だが彼は自民党を支持するというより、自民党しか票を投じる政党がないと嘆く。
「反北ムードが高まってきた。だけど、拉致事件に関して、政府が何もやらないからダメ。日本政府はダメ、自民党がダメ。自民党は利権売国党、民主党は利権非国民党。それでも投票する場合には、自民党に票を入れる。だって、自営業だから」
 本里氏は、馬場さんが現在会長を務める「救う会新潟」で、5年前に幹事として活動を行っていた。しかし救う会をしばらく離れ、以前から続けていた「万景峰号の入港を阻止する会」の活動に集中することにした。が、また最近になって救う会の幹事を引き受けている。「大事な問題である拉致事件の解決を目指すために」とのことだ。

■救う会の分裂は北の仕業!?

 ところでこの「救う会新潟」だが、私が新潟を訪れた時には内部分裂に揺れていた。拉致被害者を抱える家族らのなかに、温度差が生じているためだ。日本への帰国を果たした5人の拉致被害者の家族と、死亡が伝えられた拉致被害者の家族との間の温度差である。すでに日本に帰国して再会を果たした拉致被害者の家族には、その後も「救う会」に携わる理由がない。この温度差は事の成り行き上当然のことかもしれない。
 このように温度差が生じた事態を、本里氏は「救う会を分裂させようとしている、北朝鮮の意図だ」と主張する。会の活動ので障害を「北朝鮮の企みだ」とする論法はかなり乱暴だ。北朝鮮を槍玉に挙げ会の内部問題を北朝鮮の陰謀によるものとすり替えることで、反北朝鮮感情を高揚して会の結束をより補強して固めようとしているとしか私には思われない。
「救う会新潟」の内部分裂はこれだけではない。現会長の馬場さんは、04年7月16日に会長に就任したばかりだった。97年の会の発足以来、会長は小島晴則氏が務めてきた。しかし、小島会長が欠席した幹事会の場で、会の幹事の一部が小島会長を解任して馬場さんを新会長に担ぎ出したのだ。小島会長解任の理由は「会の運営や会計が、不明瞭だ」ということによる。他方で、一方的に会長職を解任されてしまった小島さんは「解任は無効」として、解任した幹事を除名処分とした。
 話を聞きたいと思い立ち小島さんの自宅を伺ったが、呉服店を営む自宅店舗は平日というのにシャッターが下ろされたままだった。おまけにそのシャッターには、斧で叩き割ったかのような痕跡が残されていた。小島さんは自宅に閉じこもりっきりのようで、電話をかけても「話すことは何もない」として応じてくれなかった。関係者の幾人かに話を聞いた限りで「独善的」と評されることの多かった小島さんなのだが、この仕打ちはひどい。私はすごすごとその場を立ち去った。
 混乱を抱える「救う会新潟」だが、その幹事である本里氏は、これまでの強硬な意見からは思いがけず、意外にも朝鮮人全体を敵視すれば拉致問題解決の糸口が見出せると思っているわけではないようだ。
「北朝鮮の人民が幸せになってほしい。隣国だから友達でなくてはならない。北朝鮮の人民は飢えていて、餓死する人もいる。北朝鮮を何とかしてやろうという気持ちはある」
 北朝鮮国内の飢餓状況の原因を、朝鮮総連と金正日体制だと彼は断言する。
「北で飢えている人民がいて、同胞が飢え死にしているのに総連や在日は見殺しにしている。飢餓の原因は金体制。総連が支えるから金体制が継続される。総連が北を不幸にしている」
 金体制の存続を支持する総連に対して、彼は「どうしてわからないんだという思いがある」と強く私に訴えた。(■つづく)

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北朝鮮と新潟 第4回/吹き荒れる憎悪の感情

■月刊『記録』05年7月号掲載記事

 それにしても、日本国内のすさまじい北朝鮮批判は、拉致被害者への同情という以上に、経済大国を誇った日本の陰り、つまり経済不況への不満のはけ口ではないかとの感がぬぐえない。過去にテロ疑惑などが絶えなかった国とはいえ、国家元首が過去の拉致事件に対してそれを認め謝罪をしているにもかかわらず、この憤怒の嵐はどうしたことだろう。
 北朝鮮へのバッシングの裏には、日本は「大国」であるはずで北朝鮮のような小国が屈しないわけがない、との奇妙な「大国意識」が漂う。この「自尊心」にも似た心情が、北朝鮮への日本政府の「高圧外交」や日本人の大半が示す北朝鮮への「高圧的な態度」につながっているのではないか。
 そう考えた私は、北朝鮮、在日朝鮮人に対してあからさまに敵視する態度を打ち出す団体の取りまとめ役を訪問した。一言でまとめれば、私にとっては嘆息の出る思いのする2人の人物の意見だった。

■「北朝鮮憎しの感情はあります」

 全国の拉致被害者支援組織の中心的役割を担っている「横田めぐみさん等拉致日本人救出新潟の会」(救う会新潟)の会長である馬場吉衛さんの自宅を、私は残暑厳しい昼下がりに訪れた。突然、自宅を訪れた私を見ても、馬場さんはさして驚いた様子もなかった。さすがに地元マスコミにも幾度となく登場していることから、取材慣れしているなとの印象を抱く。
 スマートな芸術家の風情を漂わせた人物だ。今年、83歳になる。白髪で面長の面持ちに黒ぶちめがねが際立つ、上品なお年寄りといった容貌で、「北朝鮮に経済制裁を!」とのシュプレヒコールを大声で張り上げて訴えている姿はとても想像がつかない。
 自宅に上がり私に名刺を渡して着席を勧めるや、馬場さんは饒舌に話し始めた。渡された名刺には、救う会新潟の名称とともに中学生当時のめぐみさんの顔写真が刷られている。いわば、彼女は救う会新潟のシンボルマークというわけだ。
 馬場さんは、1997年の救う会新潟の旗揚げ時から、活動に参加している。彼は、めぐみさんが小学生時分に通っていた小学校の校長だった。拉致被害者として名前があがった彼女に卒業証書を手渡したという印象が強く脳裏にあったため、彼女のために何か力になれないかと考えた。自宅近くにちょうど、救う会新潟の中心人物として活動していた人がいた。その人に「私も仲間に入れてくれ」と願い出た結果、会の活動に身を投じるようになる。
 馬場さんのめぐみさんへの同情の念は、そのまま裏返しに北朝鮮、在日朝鮮人の人々への敵意に取って代わる。
「北朝鮮憎しの感情はあります。何のために連れて行かなければならなかったのだろう。なぜ日本人をこんなに拉致していくのか。学習会に出たりして、拉致についてわかってきた。だから、どうしても彼女を救わねばならない」
「在日は憎い。在日は拉致を北朝鮮と一緒にやっていた。全員ではないかもしれないが」
 救う会新潟でも同様の強硬な主張を彼は繰り返しているのだろう。閉ざされた感情ばかりが露呈されるために、私は内心気後れしながら話を聞いていた。
 馬場氏の朝鮮民族に対する敵意は、朝鮮民族との接触の絶無からもたらされていると私は思ったが、そうではないらしい。
 彼は新潟県内の新津で生まれ育った。中学に上がり師範学校を卒業した後、小学校で1年間に過ぎないが教鞭をとる。それ以降、日本が太平洋戦争に本格的に突入したため、馬場さんも戦場に向かうことになる。中国の戦場で4年間の軍隊生活を過ごした後、終戦を迎えた日本に帰国する。以後、新潟市で小学校教師として生きてきた。
 その戦争経験のなかで、同僚、上官として朝鮮人と生活をともにしたこともあったという。だが、そのことは現在、彼自身が取り組む拉致問題には何の影響も与えていないという。また、拉致問題に取り組む姿勢には自らの使命感が先立つせいか、「北朝鮮に経済制裁を!」と高唱する自身の活動が北朝鮮、在日朝鮮人らに与える影響についてはほとんど考慮している様子はない。
「拉致の問題も小泉首相でようやく盛り上がりが出てきた。日比谷公会堂をどうすればいっぱいにできるか、それをずっと考えてきた。小泉首相の訪朝後、東京の有楽町の国際フォーラムがいっぱいになった」
 まるで天命であるかのように使命感すら帯びる会の活動への彼の執着は、私にとっては驚愕に値する。彼の信念には一点の曇りもない。その曇りのなさが、私には危うく感じられる。自らの活動に対する執着心が強すぎるためか、自身が参加する会への正当性の主張は自らの参加する組織以外の活動には否定的なまなざしが向けられる。
「拉致被害者5人が帰ってきたことで、(その他の拉致被害者についても、帰国の)可能性が出てきた。失踪調査会を組織で別につくる。本来、国がやることを民間の私たちがやっている」
「日本で北朝鮮に食糧を支援する活動をしている団体があるが、実際に困っている人々にコメが行きわたっているのかどうか」
 穏やかな口調にもかかわらず、発せられる内容がそれに似つかわしくない。しかし、彼の否定的な見解は、朝鮮総連に対しても向けられる。朝鮮総連に対しての憎悪とも呼べる彼の感情の高ぶりには、私はただたじろぐばかりであった。
 朝鮮総連について馬場さんは、
「いわゆる総連については、憎しみを持っている。在日朝鮮人の方でも、アンチ総連という人もいる。個々ではなんともない人も、総連という団体としては北朝鮮に送金したりしている」
「総連の方々に対しては憎しみがある。万景峰号はひと月に2回、新潟港に入港して、送金、食糧の搬送を北朝鮮に行なっている。そのお金、食糧は、困っている人にいかず、軍隊、上流階層に行き渡りぜいたくな生活をさせているだけ」
「総連は将軍さんの言いなりになってきた。拉致の事実を知っていながら、家族会、救う会に何の支援もしてくれなかったし、事実をわれわれに伝えることもしてくれなかった」
 私は話を聞きに行く前に、拉致被害者を支援する関係者から朝鮮総連についてこうした反応が返ってくることは予想していた。だが反面、会の活動で「政府は、北朝鮮に万景峰号の入港禁止など経済制裁を加え、拉致の完全解決をはかれ!」と彼らは強く訴えてはいても、その影響を多大に受ける北朝鮮、在日朝鮮人がどのような影響を被り、影響が及んだ結果どうなるかということを考慮に入れた上でのことかと思っていたが、そのような配慮は彼にはかけらもなかった。
 当然といえば当然かもしれないが、被害者としての感情が先立ってしまい、自らが与えかねない加害の可能性についてはほとんど触れることがないのでは、結局、「自分たちさえ良ければ、それで良い」という尊大さも私には透けて見えてきてしまう。

■友好では拉致問題を解決できない

 総連ばかりでなく、社民党についても、馬場さんは憤りの矛先を向ける。
「社民党は全くこの問題にかんして力を貸してくれなかった。兵庫県まで土井たか子さんに協力をお願いしに行っても会ってもくれなかった。社民党と北朝鮮はうまくやっていた。北朝鮮と話し合いをしていたようだが、拉致事件については伏せられていたのだろう」
 と言及する。
 拉致被害者支援活動の中心的役割を担う拉致被害者家族連絡会が結成された97年当時はまだ、拉致事件そのものが公には全く認知されていなかった。しかし、彼らは確信をもって行動していた。現在の拉致問題への世論の高まりは、誰にも省みもされなかった彼らの当時の活動が、実を結んだ結果といえる。その果実は、自民党の一部の議員による後押しで大きく育った。そのことは裏返しに、当時、馬場さんらが協力を要請しても何一つ手を差し伸べることのなかった社民党が、驕りの中にあった証左でもあるだろう。
 当然、馬場さんは自民党に思い入れを強くしている。
「拉致問題が始まってから、自民党にどうしても票を入れるということになる。しかし拉致問題に対しての活動は、超党派でやってくれと言っている。だが自民党議員が働きかけても、共産、社民の議員は入ろうとしない」
 拉致問題を何としてでも解決に、というような彼の態度は、選挙