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2007年7月

サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/『解放』を読む斎藤だ

■月刊「記録」1995年9月号掲載記事

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■今さらすり寄るな

 動労主導のJR総連・東日本旅客鉄道労働組合(東鉄労)と国労の二者は互いに実に激しく対立している。
「ふざけんな。お前らなあ、国労のことをしょっちゅう批判ばかりしやがって。なに? ケッ、国労が19年間も争ってきたスト権ストの202億損害賠償裁判で和解を勝ち取り、運輸省も動き出したことから、残る諸闘争も全面解決間近と察して、自分らの組織が危うくなってきたもんだから、国労と手を組んで1047人問題に自分らも尽力したように見せかける魂胆かよ、往生際の悪いヤツらだよな、無節操なんだよ、お前らはよお」。
 思わず吠えしまったが、国労のトップは真摯な方ばかりで、このようなヤクザまがいの暴言を口走る人は誰一人としていないということを理解していただきたい。
 これはつい先日、国労のトップ三役にJR東日本内最大を誇るJR総連・東鉄労が「仲良くしませんか」と話し合いの呼びかけ文を郵送してきたというものだ。今日まで、事あるごとに「国労解体」を叫び続けてきたJR総連・東鉄労がだ。解体できそうもないから、今度は自分たちの組合に国労を抱き込もうということか。国労は「一切相手にしない、応じない」という声明を出した。当然だ。人間としてのモラルのカケラもないあなた方とは今更手を組めない。

■よくわかるJR労組勢力分布

 JRの労働組合の構図は大変ややこしい。組織が大きいせいもあろうが、一般組合員の中でも正確に把握している人は少ない。また自分が所属している組合の正式名称すら知らない人も多い。そこで私も「あやしいものではありません」と前置きして、国労本部に電話を入れ、確認してみた。
 全国的には、JR総連約7万5千人・JR連合約7万6千人・国労3万人の3つに大別される。圧倒的多数だったJR総連が、2年ほど前に結成されたJR連合に逆転されている。国労も実は3万を割り、2万8千人が正当である。JR東日本でいえば、JR総連傘下の東鉄労約5万6千人・JR連合の鉄産労4千6百人・そしてキラリと輝く国労1万8千人となっている。
 各組合の特徴を簡単に述べよう。JR総連・東鉄労とは、国鉄分割・民営化攻撃の嵐の中、その過激さから鬼とまでいわれた動労が180度方針転換し、国労をやむなく抜けて行った仲間や民社党系の鉄労などを1つにまとめ、労使協調を掲げて国鉄改革に積極的に取り組み、今日のJRを築き上げたといっても過言ではない、大変ご立派な組合である。
 片やJR連合・鉄産労は、国労内主流派の社会党系右派が「国労運動を正しく継承、発展させていく」と唱えて分裂し、これまた労使協調の利口な立ち回りをする素晴らしい組合といえよう。
 そしてご存知わが国労は、国鉄分割・民営化反対を貫き、「闘う駄々っ子」、あるいは「反対ばかりのならず者」と嫌われているどころか、会社側からほとんど無視されている組合とでも申しましょうか。うむ、辛いのだなオレは。
 とまあ大雑把な説明だが、ここで注目すべきは分割民営化当時には10万人以上もの大組織だったJR総連が激減したという点だ。東日本以外のJR各社では、総連はいまや少数組合に転落してしまったのだ。労使一体となって「国労潰し」と自分達の利益だけを目指した、あまりにも急仕立の組織だった弊害が吹き出したのだ。鉄労系や良心的な活動家を排除して、動労中心の独裁体制を強めた結果でもある。10万人とはいっても、しょせん水と油の烏合の衆であり、JR連合ができたのは必然といえるのだ。

■実在する「JRの妖怪」

 しかし、JR東日本だけはJR総連・東鉄労は圧倒的大多数と健在なのである。それはなぜか。国鉄時代からのJR社員であれば、誰もが「妖怪がいるからですよ」と答える。あの『週刊文春』をもにぎわした松崎明委員長(現会長)の存在だ。この人は絶大な力を持った人で、JR関係者のみならず総理大臣から『記録』編集長まで知っている。鬼の動労委員長を歴任し、分割民営化を貫徹し、総連を作り、組合員の生活と地位向上に死力を尽くす。一方では「憲法9条を守る」という会を組織し、反戦・平和を力説するスゴイ人だから「妖怪」などといわれるのか・・・・。
 国労への敵対心も並大抵ではない。「1047人の1人も採用させてはならない。国鉄改革に苦労してきた我々の成果を奪うようなことは許されない」「国労は存在それ自身が犯罪であるといわねばならない。国労の無責任・無節操な振る舞いを許さず、国労の犯罪性を暴露し、国労の最終的解体のために職場から論争を挑んでいく」と吠えまくっている。
 また95年5月3日付朝日新聞の広告文に対しても、「国労ガンバレなどという無責任で安直な評論家を歴史は黙殺するだろう」「虚偽と国労幹部の責任放棄を人権の大義に仕立て上げたものであり、事実を知らない人や団体を、解雇→可哀想=人権問題という単純論理で組織化したものにすぎない」とかみつくなど、妖怪ぶりは枚挙にいとまがない。こうまで罵られ矢ジリを向けられると、私はもう反論する気も失せてしまう。ただ「ごくろうさん、いつも国労を思ってくれてありがとう」なのだ。

■戦後最大の解雇問題

 6月26日、ルポライターの鎌田慧氏や評論家の佐高信氏たちが呼びかけた「JRに人権を、1047人の復職を求める」日比谷公会堂の集会に出掛けた。会場周辺には団結の赤い腕章やハチマキをした青年が「頑張って下さい」と声を掛けながらビラや機関紙を配っていた。私も何気なく受け取って「国労の支援団体だろう」と見てみると、それは何と、妖しげな集団革マル派の機関紙『解放』だった。そこには「国労本部ダラ幹を弾劾せよ」とか、国労をコテンパンに誹謗・中傷した記事で占められていた。
 不思議なことに『解放』の文体は、JR総連・東鉄労がいつも用いる表現と酷似していた。旧動労幹部は革マルだというのは、国鉄時代から今日まで誰もが口にする大方の見解だ。だが真相はわからない。「そんなことどうでもいいさ」と誰もが思う。誰が革マルだろうが日の丸だろうが、電車が毎日正常に動きさえすれば国民には関係ないかもしれない。しかし、もしそれが真実であるならば、JR上層部の資質を疑わざるを得ない。日本を代表する大企業の、大変重要なポストに就かせているということが大問題ではないのか。帰りの地下鉄車内で、詳しく読んでみようと『解放』を広げると、同僚が耳元でそっと囁いた。「やめろよ典さん、こんなとこでそんなもん読むなよ、サリンより恐いんだから」。
 国労は時代に乗れず不器用なのかもしれない。しかし国労は労働組合として、また人間として堂々と本道を歩んでいるとつくづく思う。分割民営化の大洪水のような攻撃に対応し切れずに押し流されもしたが、どっこい踏ん張ったお陰で仲間同士の信頼関係も深まった。また皮肉なことに、攻撃される度に私達労働者は鍛えられて強くなった。国労は1つ1つ地道に解決し、コツコツ着実に運動を重ねて今も闘っている。
 私は今までに幾度となく愚痴をこぼし、活動家を非難してきたが、国労はいつも温かく受け入れてくれた。国労の魂から遊離しないことが勝利への道だと思う。会社に無視されても、世間に相手にされなくても、人間的で優しい仲間と毎日笑い合っていこう。
 国の政策で断行した分割・民営化だ。国家は国民をこれ以上弄ぶことは許されない。1047人の闘争団の家族にせめて普通の当たり前の暮らしをさせてあげるべきではないか。当時の中曽根内閣は国会で答弁した。「1人も路頭に迷わせない。組合差別はしない」と。村山総理しっかりしろ。新潟のトキは絶滅寸前でワシみたいじゃのうとかいっとらんで、自民党の洗脳を解き、指導力を発揮し、この戦後最大の解雇問題をキチンと解決してほしい。 (■つづく)

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サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/乗車券まで売っている斎藤だ

■月刊「記録」1995年7月号掲載記事

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■週末は競馬場へ

 爽やかな季節だ。緑のコントラストが最もキレイに目に染みる若葉の頃。春から初夏へ、日に日に大きく成長する自然の雄大さ。新緑を見ていると吸い込まれそうで、めまいさえ覚える。鯉のぼりのように、そよ風に身を任せて1日中空を泳いでいたい。
 このところ私は土曜・日曜になると東京競馬場で1日を過ごしている。「京都・福島競馬も売るのかい」「ハイ、全国です」といった会話を繰り返す。あふれんばかりの人、長蛇の列、埃だらけにはいささかウンザリ。これでは普段の都会の喧噪と何ら変わりないではないか。芝の緑の美しさをのんびり満喫とはいかない。ならば何故、私はこんなところにいるのか。
 実は私はなんと、仲間の車掌7~8人で乗車券を売りまくっているのである。競馬場の駅である府中本町への応援と混雑緩和という意味もあるが、何よりも車掌区の増収活動の一環として、結局はJRの収入と、さまざまな工夫を凝らして各職場が競争している。このように増収・増収と目の色変えて躍起になっているのが現状なのだ。民営化、すなわち営利第一を本旨とする株式会社JRなのですから。
 皆さんも駅構内を歩くと見掛けるでしょう。特設売場を設けオレンジ・カードやイオ・カードをバナナの叩き売りのように売っている姿を。本来なら駅出札での扱いが基本だが、今や駅員に限らず私たち車掌や、果てはそば屋の店員だったりで「支離滅裂、なんでもあり」の状態となっている。ネーム・プレートをご覧下さればすぐ解ります。また、競馬場での私はネーム・プレートなど見なくても一目瞭然。馬のようなデカイ鼻をしてますから。

■レース後が本勝負

 このイライラを解消するには、やはり「ドカンと当てなあかん」というわけで、男一発大勝負に挑んだのであります。勝つのは1番強い馬に決まっている。従ってその馬を買う。その結果、手元のお金が増えるという実に単純明快な仕組となっている。
「さあ勝負」とレースに集中。各馬一斉にスタート……。4コーナーを回って直線に向かう。馬の尻にムチがはいる。ゴールまであと400mの勝負。興奮は高まる。残り200m。自分の買った馬に無意識に声援を送ってしまう。「ソレ行け、抜け出すんだ、都知事は青島だあ、オレは斎藤だ、負けるもんか」と、ほとんどワケが解らぬままレースは終了。グスン。弱い馬が勝つこともあるのだね。1番強い馬はナメクジのようにノロマだったのだ。
「ガッカリ」。全身の力がスーッと抜けていく。隣につっ立っている助役も肩を落としている。「助役さんも勝負したのだね」。途端に私の前にはドッと人が押し寄せる。さすが助役のハンドマイクは気を取り直し、しっかりした声で叫ぶ。「府中本町の駅は大混雑しております。お帰りのキップはこちらでお買い求め下さい」。
 メイン・レースが終わってからの約1時間半が「本日業務」のピークとなる。負けレースを反省しているわけではないが、下を向きっぱなしとなり、息つく暇もないほどだ。ただひたすらポス(乗車券を作る機械)を打ち、金銭授受のミスのないようキップとお金とお客さんの手元のニラメッコが永遠と続くのだ。会話もない、心の触れ合いもない。次から次とお金を受け取りキップを手渡す。これではまるで機械そのもの。ミジメな気持ちになってくる。ふと、「負けてカリカリしているお客さんに限らず、ほとんどの人は競馬場にお金を儲けにきている」そんなことを思うと殺気すら感じ恐くなってくる。
■5月3日と斎藤だ

 さて、戦後50年目「憲法記念日」の朝日新聞に「JRに人権を1047人の復職を求めます」という意見広告が一面のスペースでデッカク掲載されていた。「見たかな? まだの人は読めよ、読めよ、読めよ」と、私は麻原教祖的になってしまう。国鉄分割民営化から8年が経ったJRの現状を述べた上で、JRと政府に法律を遵守し誠意のある解決を求めるという内容だった。この世論に訴えるアピールの呼びかけ人は、写真家の石川文洋さんをはじめ、作家・弁護士・ニュースキャスター・映画監督・学者などの心ある著名人70人からなり、賛同者や団体は数え切れぬほど名を連ねている。私はうれしさのあまりアントニオ猪木的ガッツ・ポーズで決めてしまった。成功を祈らずにはいられない。
 このように、国労の運動はいつの時でも善意の大勢の人々に支援され続けてきた。だがなぜか思うように盛り上がらない。時が経つにつれ、この問題は世論からも風化しつつある。実に8年が過ぎた。忘れるものですよ。当事者でなければ次から次と忘れ去っていくものなのだ。私は悔しい思いでいっぱいになってしまう。
 誤解を恐れずにいえば、いつも活動家だけが堅く結束し、お決まりの寝言のような演説をぶち、盛り上がっている。国労の組織は3万人にまで激減、弱体化したのは事実なのに、活動家は、「1人1人の団結と闘う意識はより強固なものになった」と言い切る。私はそうは思わない。不当な差別が長期化し、自分の利益にならないからと脱退していく一般組合員が後を絶たないのが現状だ。国労は彼らを責めてはいけない。もうたまらん状態なのだ。もしここで強行な戦術でも打ち出したりすれば、組織は再び大混乱に陥り、団結は崩れ脱退者は増える一方だろう。正しい理論が必ずしも統一した実践に結びつかないのが運動の難しさだ。

■それでも国労です

 更にこれまた書くに耐えないが、私達一般組合員と1047人の闘争団の仲間との関わりである。闘争団員と活動家はそれこそ休む暇もなく全国をオルグで飛び回っている。誠に御苦労様なことで、一心同体とい言ってもいいだろう。しかし私達との交流は極端に少ない、というよりゼロに等しい。たまの動員の集会などで涙の訴えを聞くぐらいだ。時には年休を取って北海道の闘争団へ赴き激励したい、仲間と杯を交わしたい、という衝動に駆られるが、なかなか実行できるものではない。仕方ないよね、こちらの生活もあり、これが現実なのだ。私達の職場の日常はハッキリいって、闘争団の「と」の字も眼中にないのが実情となってしまっている。ごめんね、闘争団の仲間たち。
 しかし、闘争団なら百も承知だよね。全ての組合活動は一貫して闘争団と直結したものである。「解雇撤回、JR復帰」の闘いなのだ。本務である私達の問題は昇進差別や強制配転、あるいは食事時間といった目先のことだが、動員やカンパで気持ちが新たに奮い立(たない人もいるだろうが)ち、闘争団の仲間のことを思い出す。これが大勢を占める一般組員ではないだろうか。
 いずれにせよ、1人1人は何とも弱い国労組織だと私は思う。しかし、その1人は人間として当たり前すぎる思いを人一倍強く抱いている。この1点が辛うじて国労の団結を保っているのではないか。「オカシイことはオカシイ、理不尽なことは許せない」という思いだ。要は人権を守れということか。「仲間を裏切ることはできない」とは、解雇された闘争団や何やらの不当なことを受けた仲間への思いやりと、いつ自分の身に起こるかもしれないという、あってはならないことなのだ。
 新宿車掌区差別事件で最高裁勝利判決を受けた田中博さんはいった。「負けないでよかった。勝ってうれしいとは言えなかった。国労は労働委員会で勝つたびに会社側から報復を受け、多くの仲間の配転と脱退を見たのは断腸の思いだ。闘いの当事者全てが必ずしも闘士とは限らない。大多数の他労組に囲まれながら国労の心を守って行かねばならない運命を背負い、日々職務に励んでいるものもいる。好きです国労とは言えない。それでも国労です」。 (■つづく)

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サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/“人間尊重企業”で働く斎藤だ

■月刊「記録」1995年3月号掲載記事

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■会社にはいたわりの心がない

「傷害事故発生について」
  12月4日早朝、三鷹駅に於いて、発車ベルを扱い乗務員室に戻る際、無意識な行動をとったため、誤って線路上に転落し受傷する事故が発生した。
 以下の事柄を厳守し再発防止に努めること。
※常に意識をもって作業を行なうこと。
※勤務中は雑念をすてて執務すること。
※決められたことは必ず守ること。以上。

  これは車掌区長名で出された職場の掲示である。紙面はいつもの倍はあり、見出しの「傷害事故発生について」は朱書きで、ものものしい印象さえ受ける。非常に目立ってバカでかい。
 私は「あっ、またか」とため息をもらし、悲しく情けない気持になった。この掲示を初めて目にした仲間は、数人でヒソヒソやっている。「これはヒドイ」「責任転嫁だよ」「S君がかわいそう」。
 S君、むむ、実は斎藤?いや、私のことではない。いつも明るく、陽気な車掌区の人気者、S君のことである。彼は12月4日早朝、出勤時刻である5時44分までに余裕をもって出勤し、乗務開始の6時4分、旅客扱い中にホームから線路に転落し、肋骨と腰椎を骨折する重傷を負ったのだった。
 私を含むほとんどの社員が問題にしている点は、「無意識な行動」というあまりにも気の毒なくだりである。確かにS君のミスだが、いたわりの気持ちがかけらもなく、全ての責任をS君に押しつける表現だ。区側=会社側の高慢さを感じずにいられない。
 会社側は、「事故があったから、全社員に注意を促す意味での掲示であり、S君には心からお見舞い申し上げます」とでもいうのだろうが、区長は運転訓練会議の席で私達を前に、「事故などの場合、個人の責任追及ではなく、本年度からは事故がなぜ起きたのかという原因追及に重点を置く。会社は方針を転換した」と発言していたのだ。ほど遠いね、ハテナだね。これでは旧態依然である。また、JR東日本は「人間尊重企業」とうたって胸を張っているが、これもほど遠いね、ハテナだねと思わざるを得ない。

■無意識な行動とは

 さて、S君は果たして「無意識な行動」なるものをとっていたのだろうか。例えば、信号が赤、つまり進路が構成されていないのに、不十分な確認で「出発進行」と指差喚呼してドアを閉めてしまった場合は、最悪の場合は電車が発進してしまって脱線する。また、電車が所定の停止位置に止まっていないのに「停止位置オーライ」と指差喚呼し、ドアを開けてしまえば満員であれば、ホームを外れている車両の乗客が線路にあふれ落ちることもあり得る。これらの例は、一概に決めつけることは酷であるが、「無意識な行動」による事故といわれても仕方ないだろう。
 だが、S君の場合は違う。彼は信号を確認し、旅客の乗降に気を使い、しっかりとした意識をもって作業に当たっていたのだから。ただ、ちょっとした弾みで足を踏み外し、運悪く転落してしまっただけなのだ。けがをする時はこんなものだと思うが。
 よしんばS君本人が、「はい。無意識な行動をとりました」と認めても、私は認めない。S君は過去に何度か小さなミスをして、乗務停止やヒドイ指導を受け、会社に不信の念を抱いていた経緯があるのだ。半ば呆れているから、面倒くさくて「はい、はい」としか言わなかったのだ、と。私は彼の気持がよくわかる。

■私は上から叱られる

 この仕打ちを知って私が思い出すのは、車掌のT君が乗務員室の鉄のドアに指を挟んで大けがをした4年前のことだ。当時は分割・民営化の大混乱期で、会社のやり方には人間のモラルやマナー、ルールは皆無に等しく、人権をも全く無視した、問答無用でやりたい放題の労務管理だった。そこまでやるか、人間はこうも変わるものかと、想像を絶することが白昼堂々と行なわれた。
 T君を標的とした掲示も異常そのもの。縦2m、横1mと、S君のものの更に倍はあり、やはり朱書きのどでかい見出しには、なんと「全社員に警告する!!」とあり、社員のけがに関する掲示でありながら、社長の新年訓辞の掲示以上という凄さだった。
 そこには、T君がけがを負ったのは車掌がやるべき「基本動作」を怠ったため、と個人を責めた文章が平然と書かれてあった。
 ここで「基本動作」とは何ですか? というお客様の声が届きました。乗務中「○×オーライ」と逐一指差確認し、喚呼する動作のことで、その励行が、事故を防止する手段として最重要視されています。水を飲む場合に、蛇口左ひねりオーライ、水質オーライ、コップ接近オーライ、コップを持った腕の角度オーライと、いちいちやっていられないことを、車掌はキチンと正しい姿勢でやっておるのでございます。
 T君は当然のように区長室に呼ばれ、ものすごい剣幕で怒鳴られ罵倒されたと告白してくれた。区長曰く、「大けがをして痛いのは当たり前だ。私は同情などしない。基本動作をなぜやらなかったのだ。やっていれば防げた。あんたは車掌失格、不適格だよ。それより当区の安全点数が下がった責任をどうしてくれるのだ。あんたのお陰で私は上から叱られるのだよ」。
 あまりにもご立派、何とも素晴らしいお言葉で、私は赤面せずにはいられませんでした。それまでは「区長も大変だろう。こんな時期だから血も涙もないような決断もしなきゃならん。トップに立つ人も大変だこりゃ」と同情の念も抱いていたのに。
 しかし、「車掌失格、不適格」とは? T君だって車掌になって5年、10年と無事故で通したベテランである。私達の中に不適格な者など誰一人としていないとハッキリ申し上げておきたい。200人からなる職場のトップであり、皆が尊敬している人格者の区長の発言だけに驚愕し、あまりのショックで言葉が出ない。

■職務でけがして休めば賃金カット

 T君はうろたえながらも、労災保険は適用されるだろうと手続きをしようとしたら、「全部自分でやるんだよ」と言われたと聞いて耳を疑った。天下のJRがそれはないだろう。いったい何のための庶務(事務)なのだ。T君は仕方なく労働基準監督署へ駆け込み、事情を説明し手続きを済ませた。区側がしぶしぶ重い腰を上げて保険金が下りたのは何と1年半後。泣けてくる。
 更に腑に落ちないのが、けがをして乗務を降りた時点から賃金カットになるということである。欠勤や遅刻と同様、給料からキビシク差し引かれるのだ。ある乗務員などは、神田駅付近で線路上を歩いている公衆を発見し、直ちに電車を止めて保護しようと駆けつけたところ、逆にボカスカ殴られた。負傷して救急車で入院し、賃金カットである。なんかヘン。どこかが狂っているとしか思えない。拘束時間内であっても、業務に従事していない時間は賃金対象外なのである。やっぱりなんかオカシイ。
 職場でけがをして、このような指導や仕打ちをされるなど、とうてい理解できないし、正常な大人の行為でもない。当時、組合の威勢のいい活動家たちの大半は配転させられ、私達は国労に留まることで団結を確かめ合い、ひっそり耐えていくしかなかった。つらくて忘れたいのに、今でも鮮明によみがえって忘れることができない。みんな覚えているのだ。
 分割・民営化から5年。仕事はキツクなる一方だが、皆で助け合って明るく楽しくやっていこう。労働委員会が、国労が提訴した事件に対し100件以上もの勝利命令を出しているが、会社側は聞く耳を持たず、受け入れようとしない。おかしいことは、誰が見てもおかしいのだ。私の考えが間違っているのなら指摘してほしい。改めるべきところはいますぐにでも改めよう。
 さあ、S君の見舞いにいこう。「バカだなS君。ドジだよお前は。前の晩はゆっくり休んだのかい。早朝出勤の時は、風呂で十分温まってさ、グイッと1杯やってからサッと寝るんだよ。気をつけろよS君。治ったらまた皆で飲もうよ。なっS君!!」。 (■つづく)

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サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/わが愛車が止まった

■月刊「記録」1995年2月号掲載記事

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 私の中央線がストップした。11月24日土曜日の夕方、工事のクレーン車が架線を切断し停電になったということだった。
 14時25分で勤務を終えて家にいた私に、夕食の買出しから帰って来た妻が、「たいへんよ。武蔵境の駅が人であふれてパニック状態、中央線止まっているみたいよ」と叫んだ。私は買物袋の中味より事故の方が気になった。うーむ、異常な人だかりで駅舎や線路が全ておおい隠され、人の波が隣の三鷹駅まで、まるでアブラ虫が茎や葉を被っているみたいにびっしり続いている、などとありもしない様子を想像してみる。
 どれ、どんな事故かとヤジ馬根性で武蔵境の駅に電話を入れたところ、話し中が長らく続きさっぱり通じない。「次は吉祥寺、お出口右側です」と言いながらダイヤルしてもダメである。そうか、自分の職場、車掌区に聞けば一発でわかるではないか、と単純なことに気付きダイヤルを回したが、相手が出る前にハッと気付き、慌てて受話器を置いた。
 考えてもみよ、もう少しで土曜日の晩が台なしになるところだった。「斎藤さん。よく電話してくれたね。大変なんだよ。悪いけど今すぐ出てこいよ」と言われるのがオチだからである。私は急いで冷蔵庫から缶ビールを取り出し一気に飲んだ。これでよし、もう大丈夫。職場から呼び出しの電話があっても、酒気帯び出勤は厳禁なのである。
「これだけのことならテレビでもやるだろう」とNHKの6時のニュースをつけてみたら、しばらくして私の愛車、橙色の「クハ201の22」が、乗客を全て降ろした回送の状態で四ツ谷駅に停車している勇姿が、画面一杯鮮やかな総天然色で映し出されたではないか。
 私はうれしくなって、「ああ中央線よ。空を飛んであの娘の胸に突き刺され!」と思わずつぶやいた。すると突然、駅長事務室に画面は変わり、私の職場から栄転されたYさんがアップで映った。黙々と執務を厳正に遂行している。「Yさんお久しぶり、全く緊張しちゃて、出演料をNHKにしっかり請求しろよ」などと私は返答のないテレビに向かってささやいた。
 ニュースでは3時間近くもストップしたと報じていた。平日ならば帰宅ラッシュの時間帯であったので、土曜日であったのがせめてもの救いであった。しかし、利用客は疲れ切り、大打撃をこうむったのには変わりない。振り替え輸送の手配により、私鉄や地下鉄、あるいはバス、タクシーにと大混乱の中振り回され、やっとの思いで目的地や家路にたどり着いたことだろう。

■他の車掌は休憩室に

乗務員や駅員は、こんな時にこそ機敏な対処をプロとして問われるのだ。こまめな情報提供に務め、乗客を安心させなくてはならない。乗務員が最も頼りとするのは「指令」との無線連絡だが、全て話し中となったりで、なにがどうなっているのか状況がさっぱりわからなくなることもある。今回は駅間の途中に止まった電車の乗客が、しびれを切らして線路に飛び降り出したという。まさに大パニックである。この時の乗務がもし私だったら、放送や乗客の誘導がうまくできるだろうか。やってみよう。
「お知らせします。ただ今放送文案の原稿を書いております。もうしばらくくお待ち下さい」。うん、これくらいの余裕と落ち着きがあれば大丈夫そうだ、我ながらさすがである。
 なにしろ、乗務中の車掌はそれこそ運が悪かったとしかいいようがなく、不幸のどん底に突き落とされる。乗客も然りだが電車に缶詰になり、食事はできない、心ない客には食ってかかられる。泊まり勤務であれば、乗務時間が延長され、ただでさえ短い仮眠時間に鋭く食い込む。
 一方、車掌区の休憩室では食事をしたり、お茶を飲んでくつろいで? いる車掌がゴロゴロしている。一般の方々から見れば、こんな大事故になんて不謹慎な、と不思議な光景に映るに違いないが、私たちは乗ることが仕事であり、運転再開に備えてただじっと待っているほかはないのである。心の中では、それはもうお客様の御迷惑をおかけしてはならぬ、一刻も早く運転再開となりますようにという気持ちでいっぱいなのでございますよ。ほんとうに。
 3時間もストップすれば、電車の遅れは当然それ以上に増して運休も相次ぐ。ダイヤはメチャクチャに乱れ、交代の車掌や乗る電車がなくなってしまうという事態が生じる。こうなると乗務中の車掌が乗りっ放しとなる一方で、休憩室の車掌は4時間5時間とお預けをくい、迷い子の小犬のようにキャンキャン、オロオロする以外ないのだ。仕事がしたいばっかりに、お決まりの「次は武蔵境、お出口・・・・」などと言ってしまったら、狂ったと思われても仕方がない。要するに、私達は乗る以外は用がない存在なのである。
 いずれにせよ、非常事態は非常にツカレル。仕事も世の中も正常であってほしいと心から願うものである。

■愛社精神より公僕精神

ところで、この3時間のJRの損失は額にしてどれくらいだろうか。何千万円、または億を超えるのだろうか。国鉄時代の話だが、一般の小さな会社の車が踏切で電車と衝突し、1~2時間も電車がストップすると、賠償額でその会社はつぶれてしまうということだった。ならば、その会社の社員たちにとっては大死活問題であり、全社員一丸となって対応策に奔走するだろう。
 しかし、私にはそのような気持ちがわいてこないのだ。誤解されては困るが、例えばニュースなどで、我が社内の新宿駅で、新潟で、青森でと大事故が起きたと報じられたとする。「これは大変、さあ困った」という認識は持つが、心の隅では他人事のように思ってしまうのだ。この素直な気持ち、私だけではあるまい。ほとんどの社員がそう考えると思うのだが……。
 JRは朝から晩まで24時間休みなく動くシステムで、私たちの勤務は引き継ぎ交代制となっている。つまり、その時の出番の者で対応しているわけで、大事故の時など、よく知人から、「あの時は大変だったね。斎藤さんどうしてたの」などと聞かれる。私が正直に、「仕事じゃなかったら、家で酒飲んでテレビを観てたよ」などと答えると、知人はけげんそうな顔つきになり、「JRってオカシイ」ということになるのだ。何というか、愛社精神が希薄と思われてしまいそうだが、実際のところその通りなのかもしれない。
 このJRの社宅にいられるのも、雇っていただいて今の生活があるのもすべてJRのおかげ。寝ても覚めても国鉄マン、JR社員。1500ボルトの電圧で安全純度100%」の電車が動く。私は十分過ぎるほどJRと中央線にしびれている。
 それに加えて、国民のためにほんの少しお手伝いをし、ほんのちょっぴり社会奉仕してお役に立てばといった気持ちが強い。JRになり、準公務員から会社員になった訳だが、民間企業といっても国民全体の公共機関であることに変わりはない。
 そして、JRという社名より、赤字で国の金を失うと書く「国鉄」という呼び名がやはり似合っているように思えて仕方がない。 (■つづく)

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サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/鉄道サリン・異臭事件に怒る

■月刊「記録」1995年6月号掲載記事

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■職責を超え本能で行動

 駅構内で車内と警察の姿が絶えることのない異様な毎日。4月19日の横浜駅異臭事件、5月5日の新宿駅青酸事件と危惧したことが現実となった。「私のJRもついに」という感がする。
 24時間体制の警備、車掌のアナウンスも気休めに過ぎなかった。正常な世の中に戻ってほしい。犯人はいい加減に目を覚ましたらどうなんだ。
 それにしても不気味である。吐き気さえ覚え、春の1日が憂鬱になってしまう。この狂気の沙汰は世界中を震撼させたといっても過言ではない。無差別殺人・無差別攻撃には猛烈な怒りが込み上げ、断じて許せない。優秀な警察は全容を徹底的に解明し、最凶悪犯人を一刻も早く逮捕しなければならない。
 地下鉄サリン事件のあった日の数日前まで娘が丸の内線を事件の時間帯に利用していた。また、看護婦の妻が通勤する病院には、被害に遭った200人もの患者が治療を受け、てんやわんやだった。他人事とは思えない。しかもことは鉄道を狙った事件だ。「もしJRで起こったら、私が乗務中だったら」と考えただけで頭の中がパニック化してしまう。
 もはや「オレは斎藤だ、車掌だ、国労だ」などといってはいられない。毒ガスに限らず、大地震・大火事という超非常事態に陥った場合、私達はJR職員の職責を超えた1人の人間としての本能で行動する。一刻を争う時に「責任者の指示がないので何もできません」「責任者到着までお待ち下さい」などとバカげたことでは済まされない。安全対策上のマニュアルもあり、訓練もされているが、とにかく臨機応変に何でもするだろう。
 例えば車内で急病人が出た場合、列車を止めて現場に急行すると、乗務員や駅員より乗客の何人かの方が扱いが上手く、その場を仕切るということがままある。私達の指揮命令系統では区長→助役→私達ヒラ社員となるが、混乱時に機敏な動作でテキパキと処理する者が必ずしも上司とは限らない。緊急時の指揮は「人間として」の原点に戻るということである

■JRは空気のようなもの

 サリン事件以降はJRでも運輸大臣からの指示もあって、「不審物はないか」と各駅構内・電車内を巡回し、24時間の警戒体制を敷いている。お客様に不安を与えてはならないと、ホームやコンコースのゴミ箱をのぞき込み、ベンチや車内網棚に捨て置かれた新聞・雑誌などをくまなく撤去する。職員はみんな目に隈をこしらえて疲れ切っている。業務が後回しで溜まって仕方がないと言う。追い打ちをかけるように横浜事件だ。
 私達車掌も「不審な物などありましたら手を触れずに乗務員・駅員にお申し出下さい」と車内放送で繰り返し注意を呼びかけている。私もキョロキョロと挙動不審気味で、制服姿でなかったら不審者扱いにされかねない状態だ。それでも音も色も臭いもなく忍び寄る毒ガスではひとたまりもないわけで、乗務中ぐらいは防毒マスクをしていたい。JRも、希望のお客様には防毒マスクを無料で貸し出したらどうかと真剣に考えてしまう。
 鉄道は国民に親しまれ、安心して利用されている。安全面では高水準を誇る乗り物といえよう。しかし、列車の衝突・脱線・転覆などの事故がないとは限らず、現に起きているという点では死と隣り合わせの危険な仕事ともいえる。運転に直接携わっている私達は厳粛にならざるを得ない。サリン事件では毒物の入った袋を運んだ職員が亡くなったが、車内からの異物を取り除くというごく当り前の単純な日常業務で帰らぬ人となるなど到底納得できまい。無念この上ないだろう。犯人は人でなしだ。 私達乗務員は仕事である以上危険は仕方ないが、国民の大半にとってのJRは「なくてはならない空気のようなもの。事故・遅れなしは当り前」という暗黙の信頼の上で利用されている。中には、1分でも遅れては困るという急用の人も少なくない。

■皆様の御利用をお待ちしている

 正直いって「JRにだけは仕掛けないで」と考える職員も多いが、自分の身に毒ガス攻撃など起きてほしくないと思うのは当たり前である。そして自分の身には降りかからないだろうと考える職員が圧倒的である。「安全神話が崩れた以上、私達も眠ってはいられない」というマスコミ論調もあったが、私は眠っていたい。人間として生まれ正しく生きている以上、こんな理不尽な被害に合うことなど考えてなんかいられないではないか。
 犯人が逮捕されない限り再発が心配されるが、私はひるむことなくいつもと変わらず堂々と生き、毅然とした態度で職務に励む。乗務員は乗客を他の車両に避難させ、自らも絶対に手を触れず、後は警察の専門家を待つだけの無力な存在だ。
 警察庁長官銃撃事件も法治国家への挑戦ともとれる前代未聞の事件だった。もし国家権力への報復だとしたら、国も警察もこれを期に国民からの信頼を取り戻してほしい。デッチ上げや暴力による自白の強要、平然と弱者を切り捨てる人権侵害が国家権力によって行なわれてきたのは事実だ。国民の反感を買い、不信を抱くような行為があってはならない。
 実は、私は職場の何人かの仲間に、何と「教祖さま」などと呼ばれている。私は「明日は新宿です」と車内放送をしてしまったことがある。新宿で飲み会がある明日のことを考えていたのだ。また、東京駅のホームで数人の外国人客に「エクスキューズ・ミー、ハツカリ?」と尋ねられた時、「エクスプレス・ハツカリ」と思い込み、盛岡乗り換えの「特急はつかり」青森行を案内し、大変喜ばれて私もホッと安堵したが、後で「ハツカリ」とは中央線の大月の次の駅「初狩」であったに違いないと思い直して困り果てたこともある。そこで仲間達に、小さなことでも大きくする「顕微教」の「教祖さま」といじめられるわけだ。止めてくれ!
 中央線は今日も走る。希望を乗せ夢を抱き、前進あるのみ。勘違いが「教義」になるニセ教祖が車掌を務める場合もある。太陽が昇る前から皆様の御利用をお待ちしている。安全・正確に皆様を目的地まで送り届けよう。 (■つづく)

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サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/戸惑うばかりの斎藤だ

■月刊「記録」1995年5月号掲載記事

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■頭の中が大混乱

「めちゃくちゃだ」。阪神大震災は想像を絶する悪夢だが、これは事実なのだ。何も力になれない私は心苦しく思うばかり。何もできない分、「負けるな、ガンバレ」と心の中で叫ぶ。
 それにしても、JR西日本の被害を見ると、社員のことをどうしても気遣ってしまう。一体どんな思いで職務に励んでいるのだろうと。民営化したからといって「やめた。倒産」とはいかない。第一、国民が許さない。春闘も自粛と聞いたが、こんな時こそ賃上げが必要なのではと勝手に思ってしまう。何とかならないのか。社員の今後の生活は大丈夫なのか。一刻も早い復旧を願うばかりだ。

■車掌の喜びと憂鬱

 気を取り直そう。「オレはJRの斎藤だ」のタイトルの響きが問題だ。「そこどけオラオラ、中央線のお通りだい、文句あっか」とでも続きそうで、横柄な印象を与えているのではと心配で仕方がない。しかしそんなことはありません。小心者の一労働者に過ぎないのです。編集部があまりにも立派なタイトルをつけてくれたもので嬉しさのあまり「第九」を口ずさんでしまうほどだ。
 さあ、本日もあなたを無事に会社までお送りするJRに乗務していると、毎日のように見かける微笑ましい光景がある。電車が通る時、ホームや沿線で赤ん坊や小さな子が「バイバイ、電車バイバーイ」とやるのだ。誰もが一度はやったことがあると思う。そんな時、私は思わず選挙の宣伝カーの立候補者のように白い手袋で手を振り返す。時には警笛を優しく鳴らし、前照灯(ヘッドライト)ピカピカなんてサービスで応えてしまう。子ども達は、それはもう身体全体でヨロコビを表現してくれるから、車掌冥利に尽きる。
 職場は今、9年ぶりの新規採用で、JR期待の新人が駅務などの経験を経て車掌見習いとして毎年30~40人配属されている。新採ゼロは、国鉄赤字・人員削減により実に9年間に及んだ。職場は活気に満ち、茶髪・ピアスの子とにぎやかだ。今しかできないのだから納得するまでおやんなさい。いつの時代も変わらないのだ。
 私は別に、子どもの頃からの「バイバイ」を卒業できないまま大人になり、電車が好きで乗務員になったわけではないが、中央線の車掌を卒業できずにいる。それはなぜなのか。年齢だけオジサンに突入した私はいつも思う。内勤の仕事に降りたい。事務職に降りたい。規則正しい生活に戻りたいと。

■希望をかなえるには脱会だ

 今では分割・民営化当時の会社側による露骨な恫喝や威圧的な攻撃は影を潜め、管理者の態度も穏やかに見える。「不当労働行為や差別はない」と会社側は豪語するが、実際どうなのだろう。
 年1回の昇進試験は何度挑戦しても不合格となる国労員だが、私の仲間には自分の時間でコツコツ勉強して「一般旅行業務取扱主任試験」という国家試験に合格した優秀な人も何人かいる。その中の1人であるH君と最近飲んだ。H君は「せっかく取得した資格なのだから何とか活かしたい。びゅうプラザ(旧旅行センター)にどうしても転勤したい」と打ち明けた。国労差別が何年かすればなくなるという保証はどこにもなく、現状のまま定年となってしまう可能性もある。だから「国労に留まって今までのように頑張ろう」とは言えず、「区長に頭を下げるんだな。決心して自分の道を歩め」と助言するほかなかった。後の行動は何も言わなくともH君も十分心得ている。それから2ヶ月後、心の中では悔し泣きしながら国労脱退届を提出し、「上野びゅうプラザ」へ転勤していった。
 このように国労脱退者は後を絶たない。忘れた頃にポロポロと脱けていく。「希望をかなえたければ国労にいてはダメ」という露骨な言動はないにしろ、「キミは優秀なんだから、意識改革してよく考えて行動しなさい」とほのめかすのは国労脱退強要に他ならない。確固たる不当労働行為であり差別そのものである。
 昨年11月11日、新宿車掌区の田中博さんの差別事件について最高裁判所の勝利判決があった。国労であるがゆえに、指導的立場の内勤業務から電車乗務に逆戻りされたという降格人事についてである。7年以上経っているとはいえスピード判決といえた。「K子ちゃん(Kは国労のこと)では内勤はダメという上からの指導なのだよ」という区長発言が動かぬ証拠となった、隠し取りテープの録音であり、何やら物騒な話だが、異常な労務管理がまかり通って追い詰められた国労はこれより他に手段がなかったのだ。最高裁が「JRの不当労働行為である」と断罪し、JR東日本の敗訴が確定した。国労の主張が正しいと認められたのである。
 国労が労働委員会に提訴してからというもの、会社側は地労委命令にも中労委命令にも従わなかった。「労働委員会は事実を誤認し、法令の解釈を誤っている。会社は不当労働行為は行っていない」と、初めての株主総会でも明言した。さらに「労働委員会は支離滅裂」とまで暴言を吐き、「裁判ならば絶対勝つ」と紛争をいたずらに引き伸ばしたのだ。ところが、東京地裁・高裁の判決にも「承服できない」と控訴・上告と続け、最高裁の最終判断に対しても不満を表明し反省のかけらすらない。「不本意だ、判決を取り消してもらいたい」とは極めつけである。

■強く偉く人に優しいJRよ

 JRツヨイ。何よりもエライ。週刊文春さえ締め出し、手品師のように差別を繰り返す。山ほどあるウサン臭いことにフタをして、顔の頂点である鼻を花粉防止のマスクで覆い隠すように、真の正体を見えないようにぼかしている。「人に優しいJR」ならば、理不尽なやり方は改めて自他共に認められるリーディング・カンパニーとしての手本を見せてほしい。JR以外にも似たような差別や人権侵害が絶えず行われ、何も言えずに泣いている弱い労働者が大勢いるのだろうが、それでも仕事にしがみついて生きる他はない。弱者切り捨ての競争社会を嘆かずにはいられない。
 分割・民営化当時を振り返ると、毎月1万人もの労働組合員が脱会し、20数万人を誇った組織が3万人台に転落したのだ。「断固」「断固」の強行路線に終始した結果であろうか。弱い一般組合員への配慮が十分でなかったと国労指導部は反省すべきだろう。
 弱い者の体験をマスコミや弁護士が代弁してくれることはうれしいが、本人が受けた屈辱や苦悩や痛みには及ばない。昔も今も変わらぬ弱き労働者に対する弾圧を何度も繰り返す大人の愚かさが社会も子どももダメにしていくのだ。 (■つづく)

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サイテイ車掌のJR日記・斎藤典雄/反省しきりの斎藤だ

■月刊「記録」1995年4月号掲載記事

■斎藤典雄……さいとうのりお。JR東日本社員。1975年、国鉄に入社し新宿駅勤務。現在JR東日本三鷹車掌区で車掌として中央線に乗務。国労組合員。著書に『JRの秘密』『車掌の本音』(ともにアストラ)がある。

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■10秒単位の勤務体制

 ああ情けない。不徳の致すところである。
 私たち車掌の仕事は、時間との戦いといっても過言ではない。時間にまつわることには非常にウルサイ。ちょっとでもミスをしたら、区長、または助役からそれこそコテンパンにやられる。それはそれは物凄い見幕である。
 あまり知られていないことだが、乗務は何と10秒単位となっている。例えば、お客様には「○時10分の発車」と案内するが、内部では正確に10分10秒、10分20秒、30秒・・・・として扱っている。したがって、時間に対しては神経質にならざるを得ない。時間が命。
 なかでも、遅刻は絶対に許されないことの1つで、勤務成績にはもちろん、昇給の査定にも鋭く響くため、会社側も私達もピリピリと最も神経をとがらせている。よって、退庁時には「次回の勤務は、○月×日、○時××分の出勤です」と直立不動の敬礼により2度も喚呼させられる次第である。
 そうなのだ。早い話が私はこの遅刻というやつをやってしまったのですね。これは大変恥ずべきことであり、大きな声では絶対に言えない。誰にも言えない。だから内緒にしてほしい・・・・。
 1月31日、そうほんの数日前である。私は今、こうして平静を装ってはいるが、内心は落ち込み、反省の日々を送っているのだ。若い時分、いや今でも十分若いが、国鉄時代に3回やった記憶がある。だがJRになってからはもちろん、ここ10年間くらいは1度もやっていない。何も自慢するべきことではない。乗務員として当然のことであり、私達は皆、時間に厳しく几帳面である。

■がんばれ斉藤!

 この日は6時37分の出勤時刻であった。このような朝の早い時は、念を入れて目覚まし時計を2個セットしておく。5時30分、何の容赦もなく最初の1個がけたたましく鳴った。私はすぐに手探りで止め、もう1個が鳴るだろう1~2分後まで、目を閉じて沈黙して待った。これがイケナイ。再び深い眠りに陥り、ハッと気がつくと、な、何と6時27分である。チャイムが壊れて鳴らなかったのだ。さぁ困った。出勤時刻まであと10分。完全に遅刻だ。万事休す。
 一瞬のうちに、私の脳裏にはあらゆることが駆け巡った。走馬燈のようにさまざまな顔が浮かんでは消えた。怒る助役の顔、笑っている同僚の顔、怒られて神妙になってる自分の顔、なぜか子どもが作った節分の鬼のお面も出てきたような気がする。
 それでも私は急いで服を着て、コートを羽織った。一緒にガバッと飛び起きた妻は、私の後ろにただピッタリとくっついているだけで、何をするでもなく邪魔で仕方がない。「たった今出たからと車掌区に電話してくれ。いいか、丁重にだぞ」と、私は声を荒だたせ、電話の置いてある玄関で靴を履こうとした。その背後から「そんなみっともないことできません、自分のことは自分でしなさい」。
 これだもんね。しかし私は、なぜか妻の一声でプッツンと糸が切れたように、電話の前にペタンと座り込んでしまった。妻の言う通りだ。こんなことにならなくても、私の妻というだけで、妻はいつも十分みっともない思いをしているのだろう。そう、長い人生こんなこともあるさ。たかが遅刻、くよくよするなよ・・・・。
 妻は手際よくダイヤルを回し、「はいっ」と受話機を差し出した。私は観念したというよりは開き直って、それでも丁重に「斎藤です、スミマセン、今起きて間に合いそうもありません」と伝えると、助役補佐のNさんが言った。「自転車だったな(私は自転車通勤である)、乗務には間に合うんだろ、気をつけて出てこいよ」。出勤時刻は6時37分だが、乗務は20分後の57分なのである。
  私の態度は急変した。「行って来る」も何も言わず、一目散で自転車に飛び乗りペダルを漕いだ。それはもうがむしゃらに漕いだ。バイクや車ならもっと速いだろうが、私は他力本願的な車は持っていない。自力勝負型の人間なのである。まだ暗い中、武蔵境から職場のある隣の三鷹駅まで一直線の道を全力疾走である。道中7つの信号は全て無視。4つ目の信号では、数年前に亡くなった後輩の若いH君を思い出した。早朝の出勤の途上、バイクを猛スピードで走らせ、交差点で車と激突、帰らぬ人となったのだ。奥さんは妊娠中だった。「俺はまだ死ねない」と念仏のように唱えながら漕いだ。
 肌を刺す真冬の風で涙と鼻水がごっちゃになっているのに寒さが全く感じられないのが不思議だった。「がんばれ斎藤」なんて沿道の歓声もない。胸が苦しく張り裂けそうだったが、それでも必死に漕いだ。もうどうにでもなれ、と漕いでいた。 

■怒鳴られなかった斉藤だ

 無事にやっと職場にたどり着くと、更衣室のロッカーにコートを放り投げ、制服・制帽を被り、ネクタイを心持ち整えながらまるで水泳選手がゴールするような格好で、右手を伸ばして捺印した。出勤簿の前には助役がデンと構えている。「いやあ、速いね斎藤君」と、助役は驚きながら時計を睨み、印の隣の出勤時刻欄に「6時40分」と朱書きで記入した。遅刻は3分。呼吸の乱れがしばらく収まらなかったのはいうまでもない。
 気を取り直して、三鷹6時57分発下り高尾行の乗務に入った。折り返し高尾から東京まで上りの通勤ラッシュをこなし、すぐ東京から豊田行で三鷹到着が9時30分の息つく間もない約2時間半の乗務を終え、「ああよかった、トイレの心配がなくて本当によかった」と、ホッと一段落である。早速、助役からわたされた「欠勤届」を洩れなく書き込む。遅刻で「欠勤届」とは妙だが、つまり出勤時刻の6時37分から40分までの3分間、遅刻により欠勤いたしましたというものである。3分間の賃金が、翌月の給料からカットされるのだ。厳しいね。タイム・イズ・マネーなのだ。
 さて、普通なら、勤務終了後に区長または首席助役に「要件」と称したお呼びがかかる。私は先手必勝とばかり、のこのこと区長室へ出向いて、「遅刻をしました、申し訳ありません。寝坊です」と告げた。他は一切言わずに口にチャックをする。目覚し時計がどうのと余計なことをいえば、全て言い訳でしかなく、ますます惨めな思いをするだけである。うつむき加減で、反省の気分に浸るのみ。
 毎度のことだが、私はやはり愚か者だった。正直言って、心の隅では首席から爆弾を落とされると期待していたが、彼は、「やってしまったことは仕方ない。今後ないよう気をつけること。不規則な勤務なのだから斎藤君からも皆に声を掛けてもらって、お互い注意し合えるような職場環境にしてほしい」とおっしゃったのだ。
 私は一瞬キョトンと驚いてしまった。少し勝手が違うではないか。眉間に寄せていた2本のシワは解除され、口がポカンと半開きになる。爆弾は不発に終わった。期待が見事に裏切られ、私は急に腹立たしくなってきた。首席は立派だよ。それでこそ管理者というものだ。じゃあ、いつもコテンパンに怒鳴り散らすのはどうしてさ、と心の中でつぶやきながら、深々と頭を下げ区長室を後にすると、廊下で上司のIさんが寄ってきて、「のりちゃん3分だって。バカだな、休むならまだしも電話なんかするかよ。すぐに来れば間に合ったじゃないか」と、辺りを気にしながら小声で忠告してくれた。
 そう、電話のせいもあっただろう。しかし、それは結果論であり後の祭りだ。10分前に起床しても間に合うなどとは微塵も思わなかったし、起き抜けの身体であんなに自転車を漕げるなど想像もできなかった。もういい忘れよう。もうしない。3分間の賃金カットといったって、私の単価じゃインスタントラーメン1個分である。家が職場に近く、乗務できたからまだよかったのだ。電車通勤のほとんどの人は乗務に間に合うはずもなく、もっとややこしいことになるわけで、その分私は救われているのだ。
 この日、夕方から東京では珍しく雪が降った。みるみる積って6年ぶりの大雪ということだ。部屋の窓越しに見るこれほどの雪景色も、本当に久しぶりのような気がして、反省も兼ねての雪見酒となった。音も立てずにしんしんと降り注ぐ雪で、闇夜がいく分明るく感じられた。誰もいない公園の外燈に照されたブランコだけがくっきりと浮かび上がり、ひときり勢いよく雪が舞っているように見えた。反省の念も深く積もり、グラスを傾ける回数も積もる。
 ふとブランコがゆらゆら揺れているような気がした。雪の妖精たちが漕いでいるのか。いや、私が舟を漕ぐ一歩手前だったのだ。妻にまた「みっともない」といわれる前に休もうと思ったのだが、もうすでに十分みっともなく酔っていた。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/邪魔者は殺せの論理

■月刊「記録」2003年3月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■「スピッツ」小泉、放し飼いの責任

 ブッシュ米大統領が抱くイラク攻撃への野望は、世界的にたかまる反戦の声によって、ギリギリのところで抑えられている。
 国連安全保障理事会では、攻撃開始派の米英に、議長国のドイツと常任理事国のフランス・ロシア・中国の主要4ヶ国が抵抗している。
 2月15日には、東京をふくむニューヨーク、ロンドン、ローマ、ベルリン、パリ、メルボルンなど世界各国の都市で、大規模なデモもおこなわれた。英メディアは、60ヶ国の400都市で計1000万人ものひとびとが参加したと伝えている。このほかにも大規模な反戦集会などもひらかれ、世界的な反戦の動きはますます大きなうねりとなっている。
 ブッシュの野望に石油利権が絡んでいることは、すでに世界の多くの人々が知るところとなった。こうしたブッシュの思惑は、「石油の一滴は、血の一滴」という日本の戦時中のスローガンを思い起こさせる。時とともに世界中で反戦の動きが強まっていき、ブッシュ大統領が語るイラク攻撃への大義名分は、ますますインチキ臭くなっている。
 ブッシュの頭のなかは、いまだテレビゲームのような爆撃のイメージで支配されているようだが、もはや世界の人たちは、これ以上血を見たくないと主張しはじめている。ましてブッシュの利権のために、血を流したいなどと、誰が思うだろうか。
 ただ注意すべきは、多くの日本人がブッシュ批判だけでコトが終わったように思っていることだ。イギリスのブレア首相は、ブッシュの「プードル犬」と揶揄されている。労働党出身の首相であり、一家団らんの写真で人気を集めた首相が戦争に突き進もうとしていることに、英国民は苛立っている。しかしブレアが「プードル犬」だとすれば、小泉は「スピッツ」である。彼を首相にしたのは、日本人の恥辱だ。
 ブッシュを支持している小泉の存在は、日本人が戦争に荷担している証明となる。そういう意味では、日本人にブッシュを批判する権利などない。ブッシュの野望に小泉が距離を取らないのは、日本人の有権者が甘くみられているからだ。
 日本は、国際紛争を武力によって解決しないという崇高な憲法をもっている。その国の首相が、憲法の精神をもってブッシュを説得しないのは、小泉の怠慢であるばかりでなく日本人の怠慢である。ブッシュの戦争は利権のための人殺しであり、人間のもっとも醜い行為であることを、もう一度確認すべきだ。

■「春闘」から「春倒」へ

 しかし放置されているのは、小泉だけではない。
 路上生活者(ホームレス)を殴り殺す少年や青年たちの事件が、たびたび起こっている。これは無抵抗で弱いものを殺すというブッシュ流の空爆論理とおなじである。たしかに青少年の殺戮は、ブッシュのような経済的な利益を狙ったものでないが、イラだちからの人殺しを止められない現実に変わりはない。
 戦争や路上生活者への襲撃は、他人の飯茶碗を叩き落とす暴力的な行為である。自分さえ生存できれば、他人を殺してもいいという人類にとってもっとも屈辱的な価値観が、その根底にある。共生と連帯の精神が市民や労働現場からますます奪われていき、その結末が戦争にむかうようで怖い。
 アメリカのイラク攻撃にたいして、日本最大の労働者のナショナルセンターである連合は、本来なら「イラク攻撃反対 小泉打倒」のスローガンを立てて、集会やデモ行進すべき存在だ。だが労働貴族たちは、そんなことを考えもしていない。もともと大企業の労組ダラ幹を中心として発足した連合に、国際的な労働者の連帯や反戦などの思想はこれっぽっちもない。かつて反戦運動の中心にいた自治労も連合に参加しているのだから、このさい組織内でこの問題を討議すべきであろう。
 だが労働組合への失望感は、ことしの春闘でも強まる一方である。この不況下で労働者の生活はますます厳しくなっている。にもかかわらず連合は、あいかわらずの御用組合ぶりを発揮している。経営者は調子にのり、「『春闘』ではなく『春討』だ」などとふざけたことをいう始末。闘争ではなく話し合いを強調しているようだが、それこそ「春倒」というべきであろう。
 中小企業は、大企業の優先救済策のとばっちりをくい、貸し渋りから貸しハガシという銀行の強攻策に追い詰められ、つぎつぎに倒産している。小泉のいう規制緩和や構造改革は、大企業優先の政策であり、中小企業の倒産を止めることはできない。労働者には、文字通り「春倒」の時代となってきた。
 定期昇給やベースアップなど、労働者の生活を年齢によって安定させる日本的経営を、経営者は完全に放棄しようとしている。これまで経営者のスローガンは、「会社を大きくしてパイを大きくしろ。そして自分の分け前を多くしろ」であった。それが次第に「不景気でパイが減ったから、分け前は少なくていいだろう」という論理にすり替わり、いまや「パイは大きくなった。しかしお前らにはやらない」という理屈となった。ことしトヨタ自動車や本田技研工業(ホンダ)などは、史上空前の高収益をあげている。それでも春闘では、定昇もベースアップもしないというのだから、労働者は完全になめられている。
 このやり方の本質は、不景気だから賃金を上げないということではない。定昇やベースアップなど、入社時に約束していた分け前を、労働者にあたえないでプールし、「成果主義」の原資に回すというヒドイやりかたである。
 そもそも労働運動は、同一労働、同一賃金を要求して、企業側が一方的に賃金を支配することに抵抗してきた。それこそが平等の思想だった。その平等は、いまや経営者によって「競争の平等」という歪曲された姿になっている。競争第一主義の社会は、弱いヤツは死ねという思想の強制であり、他人の飯茶碗を叩き落とす行動原理である。石油利権のためにイラクの政権を転覆させるブッシュの野望とさほど変わりはない。

■「財界総理」の暴走が止まらない

 日本経団連の奥田碩会長は、こうした状況をさらに推し進めようと、もっと露骨な表現を繰り返している。
「国際競争力を維持するためにも総人件費を抑え固定費を減らすのが重要だ」(『日本経済新聞』2003年2月13日)。つまり国際競争力を強めるために、労働者を犠牲にしたダンピングしろ、といっているのである。
 賃下げと雇用の関係については、「賃下げも、緊急避難型のワークシェアリングも、結果的に同じだが、多くの企業が賃下げに移行しているというのが現状認識だ。雇用維持は、できれば定年までと考えている」と発言している。賃下げが雇用維持の条件だといいたいようだ。 しかし現実には、賃金も雇用も守らない悪徳経営者がばっこしている。1970年代、鐘淵(現・カネボウ)の伊藤淳二社長は、「賃金か、雇用か」と二者択一的な選択肢を組合側に提起して、労働者を脅したことがあった。それから30年、労働環境は確実に悪化した。奥田氏が会長を務めるトヨタでは、2月初旬「サービス残業」させられていた、として労働基準監督署から是正勧告を受けた。またトヨタによるトーメンの救済は、大リストラが条件とも報じられている。
 賃下げしても雇用を守らないという状態が、失業者の増大とフリーター・アルバイターという名の「臨時工」、ホームレスという名の「ルンペン」の急速な増大を導いている。「サンドイッチマン」も復活した。戦後失業時代の悪夢である。
 また、ことし1月に日本経団連が発表した「奥田ビジョン」では、政治献金に積極的に関与し、政界での発言力を強化する姿勢を打ちだしている。(『毎日新聞』03年2月4日)によれば、「日本経団連が前向きな姿勢を見せれば、企業は献金する」と語ったという。
 また同ビジョンでは、消費税の引き上げも提言している。税率を04年度から毎年1%ずつあげ最高16%にする、というのだからあいた口がふさがらない。
 日本経団連は経団連と日経連が合併した財界の指導部であり、奥田氏は独裁的な「財界総理」である。好調がつづく自動車資本を背景にした彼の強引な発言は、日本の政治家にも影響をあたえている。これにカネが加われば、それこそ“裏総理”である。
 政治献金は、戦後以来の自民党の泥沼政治をつくってきた猛毒だ。これが企業からの政治家買収でしかないのは、いまさらいうまでもない。政治献金に絡んだ疑惑の数々を、奥田会長はもう忘れているとみえる。

■政治献金に画期的な判決

 一方、政治献金の違法性については、2月中旬に画期的な判決が下された。熊谷組にたいする株主代表訴訟で、「欠損時の政治献金は違法である」と、裁判所が判断したのである。
 この判決は、松本良夫前社長に2860万円の返済を命じ、ゼネコンと政治献金の関係に重大な疑義をていした。 また「会社あるいは産業団体の寄付が特定の正当ないし政治団体のみ集中するときは、当該政党のみが資金力を増大させて政治活動を強化させることができ、ひいては国の政策にも決定的な影響力を及ぼすこととな」る結果として、「政界と産業界との不正常な癒着を招く温床ともなりかねない」と、政治資金の闇を指摘している。 熊谷組側は、政治資金が自由主義経済体制の維持ないし発展に必要だ、と主張したようだが、「政治資金の寄付が自由主義経済の維持ないし発展に結びつくとも認められない」と、熊谷組の詭弁も一刀両断した。
 1998年3月に2400万円の損出をだしていた企業が自民党に献金していた事実は、株主の意志さえ否定するやり方を、自民党が企業に要求していたことをしめす。
 まして熊谷組は、自民党長崎県連にも献金をしている。長崎県の諫早湾干拓事業を受注した会社1つに、熊谷組が入っているのにである。諫早湾干拓事業は、ゼネコン救済の公共工事だとの噂が、ずいぶん前から飛び交っていた。しかしゼネコンの政治献金も、無用な工事も住民は止めることができなかった。
 そういった意味でも、熊谷組の政治献金にたいする裁判所の判断は画期的である。当たり前とされてきた政治家と財界の癒着に一石を投じたといえよう。
 国際世界では、アフガニスタン・イラク・北朝鮮を睨んだアメリカの暴力支配がおこり、ミクロな世界ともいえる市井では、企業による労働者イジメ、路上生活者への虐殺などがまかり通っている。まさに暴力が地球を覆っているといえる。
 現在、盛り上がりをみせている反戦平和の集会やデモが、労働現場や社会の末端での差別や支配をどう解放し、どう猛な利権や利益の追求をどう解除していくのかに、注目していく必要がある。いずれにしても人間的な判断によって、自ら未来を切りひらいていくしかない。 (■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/最終回 一方通行の約束

■月刊「記録」2006年6月号掲載記事

*          *           *

 一緒に暮らしていた頃は、ぼくたちのゆがんだ関係が、苛立ちや不安を引き起こしていた。なのにどうして、時を経て場所を隔ててこうして正利と会うと、そのゆがみこそが、ぼくと正利にとって最高に心地いいものに変わるのだろう。それは新鮮な驚きであり、ちょっとした後悔でもあった。
 もっと早く気づくことはできなかったのだろうか。そうすればもう少し違ったかたちで、一緒に暮らし続けることができたかもしれないのに。
 食事とドライブをして、正利を施設に送り、トレーナー2着、ベンチコート1着、それにスナック菓子3袋を渡して、僕は正利と別れた。
 寂しさはない。杉の木に挟まれた一本の道を車を走らせていく。正利との距離はどんどん開いていくが、やっぱり寂しくはなかった。これからのことは何一つ決まっていない。正利の次に行く施設も、僕がどうやって生きていくのかも。けれど、たとえ正利がどこへ行こうとも、僕がそのとき何をしていようとも、大丈夫だという安心感があった。そう、正利がよく、僕に言っていたセリフだ。
「だいじょぶよ」
「せんせは、しんぱいしすぎなのよ、だいじょぶよ」
 そうなのかもしれない。たぶん、大丈夫だ。きっと、大丈夫だ。
「だいじょぶよ」
「大丈夫」
 ハンドルを握ったまま呟いてみる。もしかするとそれは、僕に一番欠けていて、一番必要な言葉なのかもしれなかった。正利からのプレゼント。ぼくはこの言葉と一緒に、時・場所・形が変わっても生きていく。
 ――それからも相変わらず忙しさに追われる毎日が続いた。朝早くに起き、夜遅くまで仕事する。だが充実していると感じていた。仕事が楽しくお金を稼ぐことが嬉しかった。
 適当に楽しくて、適度なお金がありさえすればいいと、以前のぼくは思っていた。だが少なくとも今の僕は違った。楽しく仕事をして、稼ぐだけ稼ぐのだ。その理由は誰にも言わないし、言う必要もない。ただ、心の中にいつも思っていればそれでいい。
 ぼくは正利のために稼ぐのだろうか。そうかもしれない。正利が今のまま施設での生活を望むなら、そうさせてあげたい。その生活を実現するために経済的なことが必要で、政治的なことが絡むというのなら何とかしてあげたい。もしも正利がもっと違うどこかへ行きたいのなら、それも叶えてあげたい。そしてたまに会いに行こう。日本中どこだってぼくは行こう。もしもまた一緒に暮らしたいと言ったら? また一緒に仕事をしたいと言ったら? それもいいだろう。だが、そのためにも5年だけ待ってほしい。5年経ったら間違いなくぼくは準備万端に、きちんと体勢を整えられるに違いない。
 夢物語なんかじゃない。「そうだったらいいな」という話じゃない。これは、叶えなければならない自分の中の約束事だと思っている。
 だからぼくは今は、ひたすらに頑張っている。1日たりとも、1分1秒なりとも無駄にはできない。5年で準備を整えるために。5年後、正利が何を考え、何を望み、何を欲しがるか、ぼくにはわからないが、そもそも気まぐれなあいつの5年後を予想するなんてばかげたことだろう。
 ただ、準備だけを整えておくのだ。これは一方通行な、ぼくだけの約束事だけれど、それでもいい。

■忘れていた誕生日

 1月のある日、家に宅急便が届いた。正利からだった。封を開けると、中からは財布が出てきた。小銭入れみたいなやつで手作り風。どうやら施設の作業所か何かで、作ったものらしい。手紙が添えられていた。
「せんせ、たんじょうび、おめでとう」
 そうか、そうだった。今日は誕生日だった。正利の誕生日は、いつでもプレゼントを催促されるから忘れたことなどなかったが、自分の日はすっかり忘れていた。お礼の電話でもするか、そう思った瞬間、携帯電話が鳴った。慌ててポケットから取り出すと、番号表示に浮かび上がる「公衆電話」の文字。正利か? いまどき公衆電話から電話をしてくるなんて正利しかいない。
 ただ、ただ、嬉しかった。
「せんせ? とどいた?」
「なんだよ! 忙しいんだよ!」
「せんせ、さいふもってないでしょ?」
「なくたって大丈夫なんだよ俺は!」
「なんなのよ!」
 なんだか無性に嬉しかった。涙がこぼれそうになった。泣きそうなのを知られたくなかった。だから、ありがとうが言えなかった。
 こんな関係が、いつまでも続けばいい。
 一方的な約束を、ぼくは必ず果たすだろう。
 必ずその日が来ることを、ぼくは信じている。 (■了)

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だいじょうぶよ・神山眞/第80回 3つ目の施設

■月刊「記録」2006年5月号掲載記事

*         *           *

 新しい施設での面会日、受付で早速、正利を呼んできてもらうと、正利は一緒に話していた3人の仲間を引き連れて、こちらへ向かってきた。
 血色も良く、表情もイキイキしている。どうやら、ここのおじさんたちとはうまくやっているようだった。

■おまえはよくわかっているな

 そう思うとスーッと気持ちが楽になっていった。
「せんせ、おれ、せんせくるの、ぜったいおくれるっておもってたから、おにぎり2こたべちゃったのよ」
 昼ご飯を一緒に食べる約束をしていたというのに。相変わらずだな正利……。そう、相変わらず、それが嬉しい。
「ばかやろう! おまえなぁ、オレは腹がペコペコなんだよ。お前は食べなくてもいいけど、オレは食うからな!」
 わざと怒った口調で言う。だが、どうしても抑えられない。嬉しさが、喜びが、懐かしさが、止まらない。それらの感情は、とても抑えることができそうになかった。それを悟られたくないから、ついキツイ口調になってしまう。
「行くぞ! 早くしろよ! おまえ相変わらずのろいなぁ」
「せんせ、そうやっていそぐの、せんせのよくないところなのよ」
 そうだ、そうなんだよ、正利。「うるさいよ! わかったようなこと言うな!」と、ぼくはそう言うしかなかった。でも本当は……。
 正利、おまえはよくわかっている。ぼくのこと、よくわかっている。ぼくはついつい急ぎがちになってしまうんだ。だから、のろまなおまえと生活していると、よくイライラしてしまったけれど、お前の言っていることのほうが正しかったんだ。だって、急いで急いで、もっと急いで、さらに急いで、そんな生活ばかりしてたけど、上手くいかないことが結構多かったもんなぁ。正利、おまえ、本当にぼくのことをよくわかっていたんだなぁ。
■厚かましい、そして図々しい

 正利を助手席に乗せ、一番近いドライブインへ向かう。
「せんせ、おれ、きょうは、しょくじだけでいいとおもうのよ」
 食事をしに来たんだから、そりゃそうだ。
「は? 食事だけって当たり前じゃん。何言ってるの?」
「そうじゃないのよ」
 そうじゃない?
「せんせ、そうじゃないのよ、おれ、せんせにかってもらいたいものがあるのよ」
 来たか、やっぱりそう来たか、それでこそ会話が弾むってもんだ。
 「はっ? 急に何言ってるの? オレは買ってなんてあげたくないよ」
「そうよ、そうなのよ、いいのいいの、きょうはいいの。せんせだっていそがしいもんね、あしたもしごとなんでしょ?」
「いや、明日仕事があるとか、忙しいとか、そんなこと関係ないんだよ。オレはお前に何かを買ってやるつもりはないんだよ」
 ここまで言えば、以前の正利だったら膨れっ面になるはずだった。ところが、
「はっはっはっは! せんせ、おもしろいねぇ。せんせおもしろいこというんだから」と愉快そうではないか。
「はっはっはっはじゃねえんだよ。ここまで来るのだって大変なんだよ。今日だって車で三時間半もかかってんだよ。それでさらにお前に飯までおごるんだよ。その上何しろって言うんだよ。何で何か買ってやんなきゃいけないんだ!」
「おれ、いま、シイタケつくってんのよ。おれ、せんせにシイタケあげようとおもってたのよ。それなのに……」
 まだ話を続けようとするところを遮って、
「いや、シイタケいらないよ。オレ好きじゃないもん。だから何も買ってやらねえ」
 ちょっと大人げなかったか? すると案の定、
「もう、いいよ」と、とうとう正利は怒り出し、プイと顔を背けてしまった。
 厚かましい。そして図々しい。だが、それこそが正利だ。それが嬉しい。無性にぼくは嬉しかった。
 本当は「買って欲しい」と言われた瞬間から、すでに買ってあげるつもりでいたのだ。今度来るとき、ゴールデンウィーク頃になるだろうか、買ってあげよう、そんな後々の楽しみがぼくの中で駆け巡った。
 でも、今日は買ってあげない。なぜなら、それだと正利の本質である、先ほどのようなやり取りが楽しめなくなってしまうからだ。わがままを言われることが嬉しい、嬉しいけど、敢えて否定する。そんなゆがんだ関係。ゆがんだぼくと正利のつながりだ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第79回 施設をたらい回し

■月刊「記録」2006年4月号掲載記事

*          *            *

 ぼくが持っていったケーキを同室のみんなに分けなかったからと、おじさん患者にアザが残るほどブン殴られた正利。このケーキ事件だけが理由ではないのだろうが、入院仲間となじめないので他の施設に移りたいと、しょっちゅう電話をかけてきてはグチグチとこぼすようになった。
 しかし、気に入ろうが気に入るまいが、正利はどのみちこの病院を出なくてはならなかった。正利はもともと長期で入所できる施設を希望しているのだが、長期入院型の知的障害者施設はどこも満杯の状態。そのため、正利のようなケースは「措置変更」といって、定員に空きが出るまで、3カ月ごとに短期入所型の施設を移動しなければならないのだ。
 しかも小耳に挟んだところによると、長期型施設が完全に空くということは、めったにないらしい。要するに正利は、施設を転々とたらい回しにされてしまうわけだ。
 少しかわいそうだなと思わないでもなかったが、飽きっぽく放浪癖のある正利には、ぴったりの生活のような気もした。

■栃木の山の中へ

 次の行き先が決まったと、正利が電話をよこしたのは、11月にしてはやけに寒い日だった。
 今度は栃木県だという。
「遠いな……」思わずぼやくと、
「だいじょぶよ、とおくないのよ」
「栃木って寒いんだよな……」ぼくは寒いのが人一倍苦手だった。
「だいじょぶよ、さむくないのよ」
 そりゃあ、お前にしてみれば、オレが行くのを待っているだけなんだから、そんなに遠かろうが気にもならないだろうよ。
 内心でそうつぶやいたが、正利の喜びに水を差したくなかったので黙っていた。
「せんせ、いつ来る?」
「まだ引っ越してもいないのにせっかちだね~。まあ、なるべく早く行くよ」
 そう言いつつ、正利の新しい住処へ実際に訪れたのは、雪も解けかけた3月中旬だった。なにせ今度の施設は、観光地・日光からさらに45分、とてもチェーンなしでは走れない奥深い山中にあるのだ。
ぼくにも責任があるのかも
 東京を出発して約3時間半、施設の駐車場に車を停めて降り立った。
 空気がひんやり冷たく清々しい。思わず深呼吸したくなる。しかし、たくさんの人間が生活しているはずなのに、まるで人の姿が見当たらない。改めて見回してみると、周囲を囲んでいる林がまだ春遠く、冬枯れの体をほどこしているせいもあるのだろうが、閑散としたイメージがある。
 見渡すかぎり山と川に囲まれたこの施設、豊かな自然に恵まれた理想的な環境といえないこともないが、ある意味、脱出不可能の牢獄ともいえた。逃げ出したいと思っても、街に出るバスは1日3~4本だし、そのバス停も歩くと20分はかかりそうだ。
 まったく正利は何の因果でこんなうらぶれた、悲しくなるような場所にばかり行くことになってしまうのだろう。ぼくにも責任の一端はあるかもしれない。ぼくが最後まで正利の面倒を見ていれば、少なくとももう少し日当たりの良い場所で暮らせたかもしれない。
 ……またも正利に対する後ろめたさがムクムクと湧き上がってきた。
「ああ~っ、イカンイカン!」
 ともすれば暗くなりそうな気持ちを振り払い、ぼくは大股で受付のある建物へと入っていった。ドアを開けると、長い廊下がまず目に飛び込んできた。その先のホールに、ヒョロリと背の高い正利の姿が見えた。数人となにやらワイワイ談笑し合っている。
 ああ、会えた。
 その嬉しさでさっきまでの落ち込みも一気に吹き飛んでしまった。
 満面ヒゲに覆われた職員らしき男性が通りかかったので、早速、正利を呼んでもらうと、正利は一緒に話していた3人の仲間を引き連れて、こちらへ向かってきた。「おう、正利! 元気そうじゃん!」
「せんせ、おそいのよ」
 遠目ではわからなかったが、皆、50代くらいの男性で、やはり知的障害を抱えていた。その前にいた病院といい、ここといい、どうも近年の正利は若者に縁がない。 とはいえ、当の本人はまったく気にしていない様子だ。血色も良く、表情もイキイキしている。どうやら、ここのおじさんたちとはうまくやっているようだった。
(■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第78回 2度目の訪問

■月刊「記録」2006年3月号掲載記事

*         *          *

 正利に母親のことを聞かれるたびに、ぼくは「死んでるよ」と答えてきた。
 実際、正利の母親の性分を考えると亡くなっている確率も高いと思われたし、そう思うことで正利を虐待してきた母親を慕うことへの苛立ちや腹立たしさからも逃れられたからだ。心の内とはいえ、勝手に他人様の母親を殺すなんてヒドイ話かもしれない。結局のところ、ぼくは正利の自主性など認めておらず、正利を私物化していただけだったのかもしれない。
 しかし、しかし、正利の母親は生きていたのであった! 間違いなく生きているということを示す、1通の手紙がぼくの元に届いた。

■片道2時間が30分で退散

 正利の母親が見つかったことを本人に告げるべきか否か。だが、ぼくは告げない道をまた選んだ。本人が会いたがることを知りながら、その存在を隠していることに後ろめたさはあった。しかし「世の中には会わないほうがいい親子もいるんだ」と自分に言い聞かせ、隠したまま、ぼくはあれからさらに2回病院を訪れた。
 1度目のときは、「せんせ、いつあいにくるの?」と、正利が借金取りのように1日に何度もしつこく電話をかけてくるのに根負けし、前回の訪問からたった数日後に、仕事で疲れた体をムチ打って病院まで車を走らせたのだった。
 ところが、あいつときたらひどい風邪をひいたとかでベッドに入っていた。
「おう、なに昼間からゴロゴロしてんだよ」
「あー、かぜよ」
「はぁ? おまえ、風邪ひいてるのにオレを呼ぶなよ!」
 その頃、すでにぼくはいっぱしの……というか、人並みにやっと近づきつつあるサラリーマンだったので、風邪には敏感だった。風邪なんてひいてしまったら大変だ。会社を休むなんてサラリーマンにあるまじき行為だ。サラリーマン失格だ。
「じゃあな! 早く治せな! 治ったらまた会いに来てやるからな!」
 家から車で片道約2時間、そして訪問時間は30分。正利も気の毒だが仕方がない。その日は早々と退散した。 2度目の訪問は、正利がこの病院に入院してからちょうど3か月が経った頃だった。
 正利が別の施設に移ることになったというので、病院の職員の方々に挨拶に行ったのだ。すると今度は、正利の頬が少し腫れていて、青黄色く変色しているように見えた。
「おまえ、どうしたの、その顔」
「なんでもないのよ」
 何でもないわけはない。明らかに顔が腫れている。
「ふーん、で、もう風邪は治ったわけ?」
 すると今度は答える代わりに、ニヤリと笑った。そのときたまたま病室に、血圧や体温を測りにきていた50歳くらいの看護師さんがクルリとこちらを振り向いて、
「実里くん、風邪なんかひいてないもんね」
 と、正利に優しく微笑んだ。
「えっ、でもこの前に来たとき、風邪で昼間から寝てましたよ」
 そう尋ねながらも、風邪なんて最初からひいてはいなかったことにぼくも気づいた。
「実里くん、お友達とケンカしちゃったんだよね」
「おまえ、ケンカして寝てたの?」
 呆れた調子でぼくが聞くと、
「あー、せんせがいけないのよ」
 と笑いながら正利は答えた。
「なんでオレが悪いんだよ」
「せんせがケーキもってきたからよ」
 そういえば数日前の最初の見舞いのときに、ぼくはケーキを持ってきたっけ。
「でも、なんでケーキ持ってくるとケンカになるんだよ」
「ケーキたべてたら、なぐられたのよ」
「そんなばかな話あるかよ」
「あー、ふつうはそうなのよ……」
「実里くんね、1人でケーキを食べようとしたのよね。神山さんには、みんなで分けるようにって言われてたのにね」
 まだるっこしい正利の応答を見かねて、看護師さんが解説を入れてくれる。すでにもう解決済みの事件なのだろう。正利は看護師さんの言葉にも余裕でニヤニヤ笑っている。
「おまえ、部屋の人と分けろって言っただろ?」
「……」
「でもまぁ、独り占めにしたおまえもすごいけど、殴ってくるほうもすごいねぇ」
 ぼくは素直に感心した。なぜなら病室内を見渡しても、20代の正利が一番若く、他はどうみても50~60代のおじさんたちだったからだ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第77回 母が見つかった

■月刊「記録」2006年2月号掲載記事

*           *          *

「また来るよ」と正利に別れを告げ、病院を出たぼくはホッとため息をついた。安堵のため息だった。
 ぼくの不安とは裏腹に、正利はぼくが見放したことに対して何の恨みつらみも言わなかった。それなりに環境に適応し、今の生活を気に入っているようでさえあった。
 でも……。病院を出て10分もしないうちに、またもや、ぼくの中に住みついている魔物、“不安の虫”が首をもたげてきた。なぜなら、ぼくは正利に大事なことを隠していた。本当だったら、会ってすぐにでも言わなければならなかったであろうことを、隠したまま出てきてしまったのだ。
 そう、「行方不明だった正利の母親が見つかった」という重要な情報を。

■常識では捉えきれない母親

「おかあさん、どこにいるの?」
「オレ、おかあさんさがしたいのよ」
 これは児童養護施設にいたときからの、正利の口癖の一つだった。そしてぼくは正利に、そう言われるのが昔から嫌で嫌でたまらなかった。
 なぜなら、その“お母さん”というのが、世間一般の常識では捉えきれないとんでもない母親だったから。だからこれ以上、正利を関わらせたくはなかったし、何よりぼく自身が関わり合いになりたくなかった。それなのに、そんな母親が見つかったという情報が飛び込んできたのだ。
 今までにも2回ほど、目撃情報はあった。一つは、横浜のとあるスラム街で姿を見かけたというもの。そしてもう一つは、鶴見市内の市場で、ホームレスをしているのを見たというもの。
 そのたびに正利はぼくからお金をせびり、1週間ほどかけて捜し回った。でも結果は、いずれも空振り。当たり前だ、正利の母親というのは、そもそも姉の直子や正利を含め、ぼくが知っているだけでも5人の子供を産み、その全部の父親が違うというツワモノなのだ。しかも生むだけ生んで、育てるどころか殴る蹴るの虐待を繰り返し、フラフラと子供を置いて行方をくらませてしまうような女なのだ。そんな人間がいつまでも一カ所にとどまっているはずもなかった。
 そして正利にしたって、母親を捜すと勇んで出ていっても、いざ繁華街にでも出ようものなら、おのれの欲望にたちまち目がくらんで、いつの間にやら目的はそっちのけになってしまったに違いない。きっと大好きなゲーセンやパチンコ屋、ソープなんかを嬉々として渡り歩いていたはずで、見つかるわけがないのだ。
 そもそもだ! なぜ自分を虐待しまくり、あげく犬猫のように捨てていった母親なんかに会いたいのか? 正利の頭には、いまだに母親が灰皿で殴った傷が残っているのだ。足にだって、母親から熱湯をかけられたときの火傷の痕がくっきりと残っている。それなのになぜ!? ぼくには解せなかった。
「おまえを捨てた母親を捜して何になるんだ!?」と、正利本人に問いただしてみたことも、一度や二度ではなかった。しかしそんなことを言えば言うほど、正利は反発した。
「せんせにはオレのきもちはわかんないのよ」
 そう言って、あとは頑なに口を閉ざしてしまうのが常だった。
 どんな虐待を受けても、愛されなくても、子供とはこれほどまでに母親を慕うものなのか!? いや違う。悲しいことに、事実を事実として受け止めるだけの能力が正利には足りないのだった。
 だから、いつまでも平然と繰り返す。「おかあさんをさがしたいのよ」と。
 まったく何もかもが狂気じみてて、その問いかけを聞くのが、ぼくにはいつでも苦痛でならなかった。

■母はバラバラ殺人の犠牲者で

 そういえば、正利の姉・直子がぼくにこんなことを言ったことがあった。
「私たちの母はバラバラ殺人の犠牲者で、海に捨てられたんです」
 もしそれが事実なら、養護施設の記録に残っているはずだが、もちろんそんな記述は見あたらなかった。
「この姉はいったい何を言い出すんだ!?」と思い、マジマジと顔を見返したら、「あっ、このことは正利にはナイショにしてくださいね!」と、真面目な顔で返されたことがあった。そう、狂気じみているのは母親と正利だけではない。正利の一族全員が狂っているのだった。 そして、かくいうぼくも、その狂っている輪のなかの一人だった。いつしかぼくは、姉の直子が言うように、正利の母親は本当にどこかの街の片隅で野垂れ死んでいるのではないかと思うようになった。
 だから正利に「おかあさんは?」と聞かれれば、心の母に対する感情を無視するようになっていった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第76回 30分だけの面会

■月刊「記録」2006年1月号掲載記事

*          *          *

「せんせ、そと、でよ」
 正利が談話室から中庭らしきところへ、ぼくを誘った。
「いいのか? 出ていいのか、この部屋から」
「いいのよ、あのおんなのひとに、たのめばいいのよ」 そしてぼくらは一緒に部屋を出た。
 すると、女のスタッフが走り寄ってきてぼくに言った。
「すみません、外室は30分だけでお願いします」と。
 ぼくらが中庭に出ると、やはり背後で、鍵がガチャリと音を立ててかけられた。

■ふじさんがみえるのよ

「おれ、ここきて、よかったとおもってるのよ」
 中庭のベンチに腰掛けるなり、正利はそう言った。
 たったの30分、それだけしか許されないぼくたちの時間だ。
 いつもだったらぼくは、「どうして?」「何で?」「こんなところが?」といった具合に、矢継ぎ早に問いただすのだが、なぜだか今日はそうしなかった。
 中庭は一面、落ち葉で埋め尽くされ、木々に囲まれたその隙間からは、ほんの少しだけ外の世界が垣間見られた。一日中、しかも毎日、正利はこの空間にいるのだ。それなのに恨みがましいことも言わず、ここでの生活を楽しいという。そう思うと少し涙が出そうになった。
「そうか、だったら安心したよ。だけど、お前、ここ、何もないじゃん」
「いいのよ。なんにもないほうが、おれには、いいのよ」
「お前、変わったなぁ。ありったけの金使って、パチンコ行ったり、ゲーセン行ったりしてたのになぁ」
 欲望に歯止めがかけられず、周りから金を盗んでまで、放蕩生活を繰り返していたというのに……。
 本当に正利は変わったのだろうか? 俄には信じがたい話であった。
「せんせ、ここ、ときどき、てんきがいいと、ふじさんみえるのよ」
「富士山かぁ。何だか最近そうやって景色を眺めるなんてこと、俺、ないもんなぁ」
 本当にそうだ。朝起きる時間は決まっていて、乗る電車の時刻も車両も決まっている。電車を降りると足早に会社に向かう。そんな毎日。景色を眺めるという感覚すらなくしていた。
「そっかぁ。お前から景色の話が出るなんて驚いたよ。変わるもんだなぁ」
「おれ、こうやって、しぜんがいっぱいのところがいいのよ」
「じゃぁさぁ、今度行くところも、もっと自然が一杯あるところにするか?」
 そうなのだ、どんなに正利がこの場所を気に入ろうとも、今は短期入所という方法しか取れぬため、三ヵ月ごとに施設を移動しなければならない。入ったそばから次の行き先のことをぼくは考えなければならなかった。
「せんせ、こんど、おれ、どこいくの」
 やはり正利も同じ不安を抱えている。
「わかんないよ。でもとりあえず、希望は出してみるよ」
「おれ、しぜんがいっぱいのとこが、いいとおもうのよ」
「ああ、そうかもな」
「おれ、こうやって、のんびり、くらしたいのよ」
「わかるよ」
「おれ、もう、まえみたいに、あさはなにしてとか、ひるからはなにしてとか、やすみはいつだとか、もう、いやになっちゃったのよ」
 そうかもしれなかった。ぼくは正利を鍛え、何とか一人前の大人にしようと今まで躍起になってきた。朝は自分でちゃんと起きなければダメだとか、仕事場には遅刻をするな、遅刻しそうなら一本電話を入れろとか、そんなことばかり言ってきた。お金は使いすぎるな、夜は何時までには帰って来い、朝は何時までには起床しろ……。
 考えれば考えるほど正利を規則でがんじがらめにしてきたのだ。
「そうだよなぁ、お前いいこと言うなぁ。俺も自由になりたいよ」
「そうなればいいのよ。さんぽしたり、ふじさんみたり、みんなとおはなしするほうが、いいのよ」
 一緒に暮らしていた頃にように、手足をバタバタと動かして話をする癖がなくなっていることに気づいた。落ち着いた表情は、正利の気持ちの安定ぶりをそのまま表しているようだった。鏡で見る、いつも何かに追われ、不安げなぼくの表情とはまるで違って見えた。
 立場が逆になっていた。今まで正利にいろいろなことを教えてきたつもりだった。それなのに、それらの常識というものが、逆に正利やぼくにとっては、手枷足枷となってしまう現実。
 もしかすると、ここを一歩出てしまえば、やっぱりそんなことも言っていられないのかもしれない。
 でも、ぼくは心の底から今の正利を羨ましいと、一瞬でも思ったのが事実であった。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/「戦争」とすら呼べない大量殺戮を許さない!

■月刊「記録」2003年4月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

*           *           *

 またアメリカの戦争がはじまった。ミサイルと爆弾の大量投下のもと、バグダッド市内で、どのような殺戮がおこなわれているのか、と考えただけでもゾッとする。 ブッシュ米大統領がフセイン・イラク大統領とその一族にたいして、「48時間にイラクを離れろ。拒否した場合には、軍事衝突になる」と最後通告を発したのが、3月17日午後8時(現地時間)だった。これは、いいがかりである。
 いうことをきかなければ殺すぞという強盗の論理に、小泉は従うだけだった。ブッシュ、ブレア、コイズミは、戦争犯罪人として独裁者フセインとともに歴史から裁かれる。
 当初アメリカとイギリスは、国連の安全保障理事会でのお墨付きをもらい、国際世論をバックに自分たちの戦争を正当化しようとした。しかし拒否権を持つ常任理事国のフランス・ロシア・中国の賛成を得られず、議決に必要な全15ヵ国のうちの9ヵ国の支持も取り付けられなかった。態度を明らかにしていなかった中間派の6ヵ国(カメルーン、ギニア、メキシコ、アンゴラ、チリ、パキスタン)にたいしては、アメリカの「切り札」、経済援助という札束攻勢をかけた。それでも説得しきれなかった。国際世論の勝利である。
 恥ずかしいことにも、日本もODA予算をちらつかせ、アメリカの使いっぱしりとして中間派を説得したが、完全な不調に終わり赤恥をかいた。だいたい「カネをやるから戦争に賛成しろ」というのが、平和憲法をもつ国がやることか。平和と軍縮を訴えるチャンスだったのだ。
 結局、カネでの支配に失敗して、ブッシュは僚友のイギリスともども戦端を開くことになった。ブッシュの敗北は、ブッシュの人望がなかったことや、ブレアの人格破綻が主要な原因ではない。世界の民衆がしめした「戦争はいやだ」というごく単純な意見が、各国政府を突き動かしたのである。湾岸戦争の時代とちがって、反戦・厭戦気分が国際的に広がってきている。これは20世紀の反省から生まれた、21世紀の「希望」として評価できる。
 日増しに燃え上がっていった世界の反戦集会や反戦デモは、けしてフセイン支持の集会ではなかった。対立する国家や指導者を武力によって押し潰すという暴力的思想に、ただ「NO」と言ったまでである。ブッシュおよびアメリカ政府の主張は、「非民主主義的なフセイン政権が人民を抑圧しているから、我々が解放してやる」といったものだった。しかし、これはテロリストが正義を掲げて殺戮をおこなうのとおなじである。
 当事国以外が暴力によって政権転覆を目指すなど、「革命の輸出」でしかない。冷戦時代、西側諸各国が警戒した社会主義国による「革命の輸出」は、現政府にたいする人民の抵抗・反抗を根に持っていた。しかし国内の運動が煮詰まっていないのに外部から革命を注入すること自体、革命戦略として破綻していた。当然の結果として、「革命」は歴史的な悲劇を生んだ。
 そうしたソ連などの「革命の輸出」と角を突き合わせてきたアメリカが、冷戦構造が崩れた現在でも「革命の輸出」を続けているのには、呆れるほかない。このような「革命」が破綻するのは、歴史の必然といえる。
 まして今回は、30万人を超える米英軍を派遣しての政権転覆である。これこそ史上まれにみるクーデターだ。逆にいえば、大量の軍隊を使って無理に転覆させなければならないほど、フセインが民衆に選択されているともいえる。チリ、グアテマラ、コロンビア、ニカラグアなど、CIAを中心とした中南米諸各国の政権転覆計画は、これほどまでの戦力を要しなかった。そう考えると、今回のブッシュの「正義」が、いかに不正義であるかを理解できる。
 基本的にテロリストは少数者で行動をおこす。ところが世界最大の軍事大国が30万人もの兵力を集中して政権転覆を目指すのだから、大テロリスト集団といっても過言ではない。
 この戦争が始まる前、NHKの衛星テレビでABC放送を見る機会があった。その番組では、「バクダッド経由が家路への近道だ」と、前線の指揮官が若い兵士をアジっていた。早く故郷に帰りたい兵士たちに、バクダッドの市民の殺戮を通過して帰れと、がなっていたのだ。こういった洗脳もまた、大テロリスト集団のやりくちである。

■ゼネコン発想の戦争復興などやめろ

 また別の日に見たABC放送では、戦争開始直前の米軍前線基地を取材したレポーターが、その兵士たちの若さに同情していた。よく覚えているのは、「ほら見てください。13歳にしか見えません」というレポーターの言葉とともに映し出された、まだ十代にしかみえない米兵のあどけない横顔である。年端もいかぬ若者を待ち受ける死の危険は、アメリカ人に反戦・厭戦気分をあるていどつくりだすかもしれない。
 しかし本当に問題なのは、若い兵士たちが押し入り強盗のように他国に侵入し、幼児・児童をふくめた大量の人民を虐殺することに、まったく思いをむけていないことである。兵士は敵を殺すために送り出されるのであり、彼らが殺されるよりも大量殺人をおこなう可能性が強い。レポーターは「殺し合はやめろ」というべきだ。
 ましてこの戦争は、前段階で大量のミサイルと爆弾を投下する。その映像はテレビゲームのようであり、人を殺している意識は低くなる。
 こんどの戦争では市街戦も予測されているが、それさえ大空爆のあとである。しかも原爆に匹敵する、たかさ約3千メートルものキノコ雲が発生するほどの破壊力を持つ新型爆弾「MOAB(モアブ)」も準備されている。こうした新兵器に支えられた戦いは、すでに戦争とはいえない。ただの大量殺戮行為である。大量殺戮兵器をなくすために、大量殺人をおこなうのだから矛盾している。ほぼ勝敗がついたあと、強大な爆弾のあとの市街戦は、卑怯そのものである。
 朝鮮戦争およびベトナム戦争でも、米軍はじゅうたん爆撃といわれる無差別攻撃で人民を殺戮してきた。ベトナム戦争ではジャングル内にバラまいたセンサーで音をキャッチし、いきなり無差別に空爆する戦法を取った。 最近になってこそ、民間施設を識別するなどといっているが、戦争の論理はベトナム戦争以来変わっていない。誰がゲリラで、誰が民間人か識別できない場合は、一挙に殺害する。それがアメリカの戦争の「掟」である。いまさら民間施設は攻撃しないといっても、厳密に識別できる戦争などあるはずもない。その結果、病院や学校が攻撃されてきた。今回は市街戦も想定されているので、巻き添えになる市民は大量にでる。
 またたとえ民間施設を攻撃しなかったとしても、大気や国土を放射線で汚染する劣化ウラン弾をばらまかれれば、無差別じゅうたん爆撃よりむごい健康被害が何十年にわたってつづく。メディアで宣伝されるような「誤爆」など、戦争には存在しない。兵士も民間人も「敵は殺す」。それが戦争である。
 ところがアメリカをはじめとする国々は、大量に破壊することを前提に「復興する」と前宣伝する。人命を奪い、住居を奪い、故郷を奪って、そのあとにどんな復興があるのか。たんに建物や道路を造り直せば、それで復興になるのか。
 いわばゼネコン的な発想の復興には、もっと批判の声があがってもよい。日本もイラク復興に協力するなどといっているが、利権争いとなる。日本は、破壊のあとの復興よりも、破壊の前の平和に寄与すべきであり、そのほうがはるかに重要である。

■国内“暴走”を止めるために

 世界の批判にまみれつつ、アメリカは大量殺戮を開始した。そうしたなか、わたしが怒りを禁じ得ないのは日本国政府の対応である。
 アメリカとともに戦争を押し進めた張本人のイギリスでさえ、前外相であるクック下院院内総務が、イラクへの武力行使に抗議して閣僚を辞任した。一方の日本では、抗議運動をおこそうとする与党議員さえいない。
 小泉純一郎首相は、戦争開始以前からアメリカの行為のすべてをみとめる「腰巾着」であった。一方、国際平和を考えるべき川口順子外務大臣も、市民の健康を考えるべき坂口力厚生労働大臣も、憲法の理念を積極的に推進すべきき森山眞弓法務大臣も、アメリカの大量殺戮に諸手をあげて賛成する首相をいさめるでもなく、抗議の辞任をするわけでもない。
 あらためていうまでもなく、日本は武力によって国際紛争を解決しないという理想を憲法で高らかに掲げている。そして国務大臣や国会議員は、憲法99条により「憲法を尊重し擁護する義務を負う」。だから小泉首相はもちろん各大臣も、戦争に反対するのは政治家としての任務である。
 ところがそんなことを考えてもいない。だいたい日本の政治家には、理念がない。自分の選挙基盤を守るためだけに政治家となっている人たちである。暴力団の跡目相続とおなじように、自分の「縄張り」を維持するためにだけの政治家にすぎない。
 たとえば小渕恵三前首相の娘・小渕優子などのように2代目、3代目たちは、なんの見識もないまま父親の地盤を引き継いで当選している。そういった議員によって国会が構成されているのが日本国だ。ふがいない議員に歯がゆい思いをすることも多いが、それは自分たち有権者のダラシナサの表れでもある。
 小泉首相は、アメリカが最後通告を発表する以前から、新決議なしで米英が武力行使に踏み切った場合について、「その場の雰囲気で」などと支持を表明していた。「雰囲気で」大量殺戮に賛成する彼の無思想、無定見ぶりを、いまさらあげつらっても仕方ない。
 しかしブッシュにしろ、ブレアにしろ、小泉にしろ、どうして人間の命にたいして無痛覚なのか。このような指導者を駆逐できないアメリカ・イギリス・日本が、どうしてフセインだけを駆逐しようとするのか。不思議でならない。この“悪の枢軸国”だからイラクを攻撃するという独善、独断が、これから日本にかかわってくる。 最近でこそ少し落ち着いてきたものの、小泉の北朝鮮訪問以来、マスコミはラチ家族を英雄扱いして、北朝鮮攻撃を繰り返してきた。それは憎悪と蔑視の増殖のプロセスだった。憎悪と軽蔑の先にあらわれるのは、金正日政権打倒である。食糧難を中心とした生活の破綻が北朝鮮におこる可能性は否定できないが、気にくわないから、といって政権自体を日本やアメリカが転覆させるなど、けっして認められるものではない。
 しかし日本は、フセイン政権の武力による転覆を容認した。アフガンへの攻撃ではイージス艦をインド洋に派遣し、今回はAWACS(早期警戒管制機)の派遣も検討されている。アメリカに従って、武力で「邪魔者」を追い出す手法が朝鮮半島に使われないとも限らない。マスコミが生みだした「北朝鮮敵視政策」の延長線上に、政権転覆の武力解決が容認されれば、日本の世論が一気に危険な方向に進みかねない。だからこそ、戦争反対の行動が必要なのだ。イラクとおなじ「悪の枢軸国」だから、北朝鮮政権もやってしまえという暴論を抑える言論が必要だ。
 小泉などの自民党は、イラク攻撃を支持する理由の1つとして、北朝鮮との関係の緊迫化をあげている。しかし安倍晋三内閣官房副長官などの過激な発言が、両国の関係を損なっていることを、彼らは認めていない。
 こうした暴走に歯止めかけるためにも、こんどの戦争にたいする小泉政権の責任を追及をしていく必要がある。そうしない限り、東アジアの平和を日本人はつくりだせない。イラクの戦争は対岸の火事ではない。憲法無視の好戦主義者・小泉首相を政権から引きずり降ろさなければならない。(■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第75回 正利との面会

■月刊「記録」2005年12月号掲載記事

*           *           *

 初めての場所、初めての入り口、そういった場所に足を踏み込むとき、いつもだったら入ることに戸惑い、行ったり来たりを繰り返してしまうぼくが、今日は違った。
 はやく正利に会いたい。1分でも1秒でもはやく正利に会いたかった。

■差し出されたわら半紙

 まるで昭和初期で時間が止まってしまったかのような、古ぼけた薄暗い病院だった。自分が入院するとしたら、ちょっとためらってしまいそうだ。外来のドアをくぐると、昔の日本映画に登場しそうな待合室があり、受付には60歳は過ぎているであろう女性がポツンと一人。
「すみません。先ほどお電話した神山という者です。正利君の面会に来ました」
 そう告げると、「ここに名前と時間を記入してください」と、何も書かれていないただのわら半紙を差し出された。
 わら半紙……。久々にお目にかかったと思いつつ、もちろんそんな素振りはみじんももらさず素直に記入すると、味も素っ気もない無愛想な態度で、「2階の談話室に上がってください。階段はあっちです」と言われた。 建物も暗ければ人も暗い。談話室に行くまでの壁や床もシミだらけで、病院とは思いたくない汚さだ。いくら病院のなかでも、最も儲からないといわれる精神を病んでいる人たちの施設とはいえ、ここまでおざなりな環境でいいのか? これじゃあ、健康な人だって気持ちが滅入って病気になってしまうだろう。
「こんなところで正利は生活しているのか……」
 何ともやりきれない、苦い思いが込み上げてきた。正利に申し訳ないと思った。今さらながら、なんてことをしてしまったんだろうと思った。
 ぼくのした決断は、もしかしたら、もしかしたらとんでもなく間違っていたのかもしれない。正利も、そしてぼくも、失わなくてもいいものを、いや失わないほうが良かったものを失ってしまったのではないだろうか。
 誰に奪われたわけでもない、自ら進んでゴミ箱に捨ててしまったのだ。はたと気がつけば、ぼくにも正利にも何一つ残ってはいなかった。そんな気がした。
 ぼくは思っていたのだ。これまでの出口のない、閉塞感ばかりがつのる生活を思い切って捨て去り、新しい世界に飛び込んで、新しい自分の居場所を見つけるべきだと。新しい友達を作って、新生活を始めたほうがいい。そのほうがお互いのためだ、そう思ったのだ。
 いくらそう思っても、思おうとしても、何だか釈然としない罪悪感と喪失感が、胸にダラーンと広がっていった。
 この建物がいけないんだ、そう思い、何とか気持ちを立て直そうと努力するが、階段を昇る足取りは自然と重くなっていった。
 談話室の扉を開け、中に入る。すると15人ほどの人がいた。こういうときは一斉に視線を浴びせられるのだと思っていたが、どうやらそうでもない。ほとんどの人が、ぼくのことなど気にもとめていなかった。ぼくに気づいたのは、正利と若い女性のスタッフだけだった。
 スタッフはぼくに会釈をすると、するりとぼくの背後にまわり、開けっ放しにしてあったドアを急いでバタンと閉めた。そしてカチャッと音を立てて鍵を閉めた。
 背後で閉めた鍵の音が、正利とぼくが、思っている場所よりももっとどんどん違う場所へ向かっているように感じさせた。
 けれどカラ元気を出して声をかける。
「よう、正利、元気か!?」
 するとボーっとテレビを見ていた正利は、少し笑ってぼくに近づいてきた。
「せんせ、もってきてくれた?」
 さっそく電話で約束をしていたトレーナーと漫画本とケーキを要求される。
「ああ、持ってきたよ」
 差し出すぼくの視線の先の正利が着ているトレーナーは、ぼくには見慣れぬものだった。
「何だよ、おまえ、新しいトレーナー持ってるじゃん」「あー、これ、せんせ、これ、つうきんりょうのせんせが、かってきてくれたのよ」
 正利が、通勤寮で唯一心を開いていたのが、若く入ったばかりの女性職員のようだった。
「そっか、あの先生が来てくれたんだ」
「そうよ、きてねって、おねがいしたら、きてくれたのよ」
 そうだった。いつでも皆、最初の1回は来てくれる。頼めば最初の1回は来てくれるのだ。
 ある人はプレゼントをくれるし、ある人は今後のことを話していく。またある人は説教していく。
 いろいろな人が来た。
 ただ、来るのは一度きりだ。
 1回来ると、もう、たいがい次に2回目はない。
 皆、正利が行く新しい場所には1回しか来てはくれないのだった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第74回 対等な関係

■月刊「記録」2005年11月号掲載記事

*           *           *

 せっぱ詰まって、消耗しつくしての離別だとしても、いずれにしても正利を見捨てたことには変わりがないのだった。正利から逃げ出そうとしているのは、他の誰でもない、ぼくなのだ。
 とにかく正利を一刻も早く忘れたかった。ぼくは自分を卑怯な人間だと思った。
 ぼくは、しばらくぼんやりと部屋に立ち尽くしていた。いろいろなことが頭の中を駆け巡っていたが、それらの考えは正しいものなのか、間違っているのか、今のつらい状況から逃げ出したいがための逃避なのかわからなかった。しかし近いうちに必ず実行しそうな気が、ぼくにはしていた。

■対等な関係になるために

 これでチャラになったのだろうか? 今、現在もこれからも2人は“対等な関係”というやつでいられるのだろうか?
 改札口を通り過ぎると、別に急いでいるわけでもないのだけれど、人波に押されるように自然と歩く足は速くなり、別に入りたいわけでもないのだけれど、ぎゅうぎゅう詰めの電車の中に吸い込まれていく。
 吸い込まれ、人混みに紛れる毎日。しかし、胸のつかえのようなものが消えることは日々ありはしなかった。 どんなに人ごみに紛れ込んでも、やはり期待したような、何もかも忘れることなどは不可能なようだ。ワイシャツを着て、ネクタイを締め、革靴を履く。前の人や隣の人たちと同じような格好をしてみても、あの特異で異常な何年間かの生活が、ぼくを日常というやつに決して埋没させてくれようとしない。
 正利を失ってから2年と半年が過ぎた。失ったというよりも、手放したというほうが正しい表現なのかもしれない。
 いまだにぼくは毎日、正利のことを思い出す。そして思い出すたびに混乱してしまう。
 正利には何もかも与えたはずだった。住む場所にはじまり、仕事も友人も小遣いも食事も着る服も、何もかもを揃え、何もかもを与えたはずだった。
 それらを全て奪い取ってしまった。正利をぼくではない他の誰かの手に委ねた瞬間、ぼくが与えたものはすべて、必要がないものだと、委ねた相手からぼくに返された。いったん正利は何もかもを失った。少なくともぼくにはそう見えた。
 今の正利には、必要なものは必要に応じて、必要なだけ与えられている。これでいいのだ。きっとこれでいい。ぼくが正利に与えたものはきっと偏っていた。あるものは与えすぎていたのかもしれないし、あるものは全く足りなかったのかもしれない。
 いずれにしても、正利がいったん失ったものに関しては、ぼくも同じように失ってみることにした。日焼けサロン、友人、着るもの、眼鏡、正利と共有していたものは、すべてぼくも失ってみることにした。こうすることしかできなかった。こうでもしなければ、ぼくのなかの懺悔の念は消えることがないと思われたのだった。
 こうして対等な立場にでもしなければ、今後ぼくはあいつに合わせる顔がなかった。それにしても……。本当にこれで良かったのだろうか? 本当にチャラになったのか? 本当に今後も“対等な関係”でいられるのだろか? 胸のつかえは消えるどころか、日に日に存在を大きなものにしていった。

■あの中に正利がいる

 秋も深まり、スーツだけでは少し冷え冷えする。体重が85キロもあったときには、あまり寒いという経験をしなかった。しかし68キロしかない今のぼくにはコートが必要なくらい寒い秋晴れの日、ぼくは会社を午前中で早退して、正利に会いに行った。
 正利は、知的障害者の人たちのための通勤寮に、2年間の期限付きで入所していたのだが、度重なる無断外泊により、結局、任期を満了することなく寮を出ることになってしまった。
 任期を満了していないため、他の施設に移ることができない。一応、通勤寮所属というかたちで、さまざまな施設に3か月ごとに短期入所するというかたちをとることになった。
 一番最初の入所先は、正利の抱える精神的な問題を医療行為によって解決しなければならないとの名目のもとに、東京の郊外にある精神障害の人たちのための施設に決まった。
 場所を調べてみると、ぼくの卒業した大学の目と鼻の先であった。合コンだのサークルだのと毎日を賑やかに楽しむ大学生たちのすぐそばに、こんなにひっそりと静かな場所があったのだ。
 右も左も高い木々に覆われた坂道を登っていく。すると、ぼくが小学校くらいのときによく見かけた昔の病院のような建物が見えた。正利がここで生活している。そう思うと何だか胸が締め付けられた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第73回 正利からの逃避

■月刊「記録」2005年10月号掲載記事

*           *           *

 正利への電話がつながらない。
 おかしい。電話にも出ないし、店にも来ない。となると、考えられるのは、2度目の家出しかないではないか?1度目の家出からもう半年。そろそろとは思っていたが、まさか、まさか、こんな電話のやり取りくらいで、こんなことになってしまうとは!もうだめだ。いやもう一度。迷いに迷い、握りしめたままの携帯のボタンを再び押す。呼び出し音が2回、3回……、やはりだめか……、と思った瞬間、あいつが出た!
「おい、正利、どうしたんだ、時間だぞ!」
「……」
「おい!?」
「……」
「どうした!? 時間だぞ?」
「あ~、なんか、ねちゃったのよ」
 大丈夫! 大丈夫だった! ただの取り越し苦労!
「ばか! 寝てたのか! ばかだなあ! 早く来い!」「……」
 プツリと電話は切れた。電波が悪いのだろうか。まあいい、電話もつながったことだし……。
 しかし正利は、1時間経っても、2時間経っても店には現れなかった。

■いつまでこんなことが繰り返されるのか

 正利が店にタオルを持って来なかったので、ぼくは足りなくなったタオルを補充するために、アパートに戻った。
 しかし部屋の明かりは消え、人の気配がまるでない。正利はやはり出て行ってしまったようだ。一気に血の気が引き、足がガクガクと震えた。またか……。これで何度目だろう……。そしてこれから何度繰り返すのだろう……。
 何もかも投げ出してしまいたいような気持ちが襲ってきた。
 部屋に入ると、ぼくの万年床の汚れた枕の上に、正利からの書き置きが置いてあった。
 「せんせ、おれってほんとにばかだよね。このままいても、また、せんせにめいわくかけちゃうから、でていくね」
 どうやらぼくに電話口で「ばか」と言われたことが相当こたえたようだった……。
 それにしたって……。なんでぼくばかりがこんな目に遭わなければならないのだろうか。親でも兄弟でもない、ましてお金をもらっているわけでもない相手に振り回されて……。
 もうやめにしたかった。こんなばかげた繰り返しのゲームはやめにしたい。勝っても負けても終わらないゲーム。上がりのない「すごろく」がぼくの神経をとことん消耗させていた。
 こんなことを繰り返して何になる?こんなことばかりをずっと繰り返してどこへ行く?正利と出会ってから7年が経とうとしている。中学2年生だった正利は二十歳を越え、二十代だったぼくは三十代も半ばにさしかかろうとしていた。
 よく考えてみろ、ぼくは三十代らしい暮らしをしているのか?友達は結婚をした。マンションを買った。犬を飼って休みの日は海辺を散歩させているらしい。それなのにぼくときたらどうだ?四畳半の汚い風呂のないアパートで正利と終わりのない不毛でくだらなくも悲しいママゴトを繰り返している。
 もう終わりだ。今度こそ終わりにしよう。ぼくは書き置きを手にしたまま、そう固く決意した。
 だが、中途半端なことではあいつからは逃げられない。すべてを切り、すべてを捨て、あいつから逃げる。そうしなければ新しい生活は訪れない。「逃げる、捨てる、切る」それを徹底的に行うのだ。すべての環境を変え、正利のことをきれいさっぱりと忘れるのだ。
 正利を引き取りたくて始めた商売、それが日焼けサロンだった。ならばこれはもういらない。店にはあいつの畳んだタオルがたくさんありすぎ、入り口の前の階段を見ると今にも正利が昇ってきそうだ。シャワー室の前であいつは掃除をさぼってよく丸まって寝ていたなぁ。思い出すには格好の材料が揃いすぎている。いらないぞ、いらない。だから日焼けサロンともおさらばだ。
 自営業なんてやめてしまおう。暇がありすぎて、ぼくはきっとあいつのことを思い出す。ネクタイを締めて、電車を使って通勤する、そんな仕事にしよう。普通の人たちにまぎれ、普通の生活をすれば、きっとすぐにでもあいつを忘れることができるはずだ。
 あいつとぼくの共通の友人たち。そんな人たちとはもう会うことはできない。会えば正利のことを聞かれるだろうし、もしかしたら非難もされる。
 「どうして正利を捨てた?」「どうして正利に会ってやらない?」「正利は今、何をしている?」「一生面倒見られないんだったら、どうして引き取ったりしたんだ」
 ぼくには一つも答えが見つけられなかった。解答を導き出す術すらわからなかった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第72回 正利の不機嫌

■月刊「記録」2005年9月号掲載記事

*          *          *

 最近、ぼくは正利に対して下手に出ていたが、それは、またフラリと出て行かれては困る気持ちからだった。しかし、仕事もせずにゲーム機にかじりついているあいつに、ついに我慢の限界がきて、つい強い口調で叱ってしまった。
 正利は不機嫌な表情を隠そうともせず、ダルそうに立ち上がり、タオルを袋に詰め始めた。そのあまりにもダルそうな態度にぼくも頭にきた。
「いいよ。そんなに嫌なら働かなくていいって。おれがやるよ。どけって」
 正利を押しのけてぼくが袋詰めを始めると、あっという間に作業は終わる。何だよこんなに簡単なことさえしないで、ゲームばっかりやりやがって。そう思いながら袋を持って外に出る間際、ちらっと正利を見た。少しは反省しているかなと思ったが、相変わらずゲームの続きをやろうとしている。
 この頃から正利は、何かあったらまた出て行っちゃうぞという態度をみせるようになってきた。それが神山を一番、困らせられるということを正利は理解し始めたらしい。
 それにしても嫌な態度をとられ、わがまま放題をされても、出て行かれては困る、出ていかないでくれ正利と、思ってしまうのだから、追いつめられた人間の心理状態というのはおかしなものである。
 いつだって出て行っていいんだよというふうに、ぼくに思うことができたら、その後の展開もきっと違っただろうに……。

■正利が気になってしょうがない

 正利の気分の波が日に日に激しくなってきた。相変わらずタオルをたたみ、店へ配達するというノルマ自体は変わらない。単調な日々ともいえる。しかし、表情がなんだか毎日違うように感じられて仕方がなかった。
 たぶん他人が見ても、正利は何ら変わっていないのかもしれなかった。それはたぶんもう、ぼくのほうが参ってしまっていたのだろう。正利ではなく、ぼくの感じ方、考え方のほうが、かなり異常な領域に入ってきていたのだろう。正利の帰ってくる時間が常に気になって仕方がない。正利がどこに出かけるかが気になって仕方がない。何を食べて、ちゃんと栄養を摂れているのか、寝ているときに布団をはいでいないか、寝冷えはしないか、お金はいくら持っていて、それは本当に自分のお金なのか……etc.
 すべてを知っていたくて仕方なくて、すべてを気にしすぎたぼくの神経は、もう自分がおかしいのか、正利がおかしいのか、判断がつかないほどになっていた。
 しかし、それもやむを得なかったともいえる。一緒の部屋、しかも四畳半一間の狭さにひしめき合いながら四六時中一緒にいるのに、少しでも離れるとひっきりなしに電話がかかってくるのだから。一度目の家出のあと、まさかのときに備えて電話を持たせておいたのだ。しかしこの携帯電話の存在が、ぼくと正利を再び引き離す道具になってしまった。
「せんせ、おれ、はなしがあるんだけど」と、正利からの電話。
「ごめん、今は仕事中なんだよ。わかるだろう?」
「あー、わかった」
 そうしてぼくは仕事に取りかかる。しかし電話のことが気になってしょうがない。やはりすぐにかけ直してしまう。
「あ、正利? さっきは悪かったな、で、話って何?」「あー、もう、いいよ」
「おまえなあ、もういいよってどういうことだよ、ああ? おまえが電話してきたんだぞ? おれは仕事で忙しいのにわざわざ電話してやったんだぞ?」
「あー、でも、もういいのよ」
「おい、言えよ、せっかくおれが電話したんだから」
「もう、いい、しつこい!」ガチャン!! 電話が切れる。
 そうしてモヤモヤした気分のまま、再びぼくは仕事に取りかかるのだが、気になる、気になる、気になってしょうがない。もう一度、電話をかけてみる。しかしあいつは出ない。気になる。どこかに行ってしまったのだろうか? 気にしても仕方がない、仕事をしようと考える。だが、もう手につかない。もう一度電話をかけてみる。やはり出ない。怒っているのか? きっとそうだ。いつもあいつは思い通りにいかないと、電話に出ることをやめるのだ。そうするとぼくが困り果てることをわかっている。ぼくはあいつの思うつぼなのだ。
 しかしこうなると、もうぼくは自分でも自分を止められない。つながるまで電話をかけ続けるのだ。正利の携帯の着信回数が20回を越えた頃、ぼくはあることに気づく。もうそろそろ正利が、タオルを届けに店に来なくてはならない時間だということに。
 おかしい。電話にも出ないし、店にも来ない。となると、考えられるのは、2度目の家出しかないではないか? するともうぼくは、居ても立ってもいられなくなるのだ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第71回 弁護士の先生

■月刊「記録」2005年8月号掲載記事

*          *             *

「せんせ、おれ、あいつらのことゆるさないのよ、こんどあったら、もんくいってやろうとおもうの。だっておねえちゃん、ないてたのよ。おねえちゃんなかすなんて、ゆるせないのよ」
 と、正利は威勢のいいセリフを吐いた。
 あいつらのことは許さないか…。頼もしいじゃないか、正利。ついでに話を混乱させたお姉さんのことも怒っておいてほしいよ…と、思ったが、ぼくは黙っておいた。
  「ありがとう、正利。オレもあいつらのこと許さないよ。明日、弁護士の先生に会ってくるから。そうしたら、みんなおしまいだ」
 そう答えながら、ぼくは、あいつらには一切お金は払わず、弁護士にお金を払って何もかも解決することに決めた。

■誰かに明確にしてほしい

 弁護士事務所に約束の時間に向かった。
 ジーンズにヨレヨレのシャツを着たぼくには、不釣り合いなほど立派な事務所に戸惑いを覚えた。聞けばテレビに出演するほどの有名な弁護士だという。たくさんのケースを抱えているらしく、先生の話し方は、とても忙しそうだった。
 一通りの経緯を説明すると、「大丈夫ですよ、神山さん。何の問題もありません。すぐに解決しますよ。というよりも、もうほとんど何も問題が起きていないに等しいくらいですよ」と、頼もしい言葉が返ってきた。
 普通ならここで安心するはずなのだが、なぜかぼくは違った。
  「いや、先生、彼らはとんでもなく悪い人たちに違いありません。背中に刺青を入れていますし、脅かし方もかなり本格的です」
 情けない話だが、ぼくは本当に怖かったのだ。お金を取られそうなのが怖いのか、あいつらが追いかけてきそうなのが怖いのか、そのどちらも怖いのか。
 いや、どちらも怖いが、何よりも正利との生活を維持していくことの困難さを誰にも理解してもらえないことが一番怖かった。
 正利と暮らし続けるならば、今回のようなことがたびたび起こることは想像に難くない。正利は働かないので、お金は出ていくばかりだ。ぼくだって困難は避けたいし、何かのときのためにお金も貯めておきたい。考えてみれば正利がいなくなったからといってデメリットは何もないのだ。だったらもう、こんな生活とはおさらばして新しい生活を手に入れよう。そんな思いは、過去に何度も頭をよぎった。
 でも、それでも一緒にいたかった。一緒にいたいというよりは離れられないのだ。何かに、誰かに暗示をかけられてしまったように、ぼくは結局、いつでも最後には、正利と離れるという決断を下すことができずにきてしまっていた。
 ぼくにも正利にも、一緒にいることの理由がわからない。わからないまま毎日が過ぎていく。しかもそれは平凡なものではなく、波瀾に満ちていて、常に何かに巻き込まれている。
 弁護士の先生に、ぼくはそんな自分の状況を理解してほしかったのだ。自分にも理解できない、自分の抱えている正利に対するさまざまな感情をわかってほしかったのだ。矛盾しているようであるが、この混沌としたぼくと正利との関係を誰かに理解して明確にしてもらい、それを噛み砕いて、ぼく自身に説明してほしかったのだ。そうすればぼくも、少しは安心できるかもしれない。
 ぼくはそんな思いで話していた。

■腹の底から苛立ちが

「なんだか、いろいろあったなぁ、正利。全部おまえのせいだぞ」
 弁護士事務所をあとにして、いつものアパートに帰りつき、冗談めかしてそう言うぼくを、ちらっと一瞥して、あいつが言った。
  「しょうがないのよ。それにもうだいじょぶよ。せんせいはいつもかんがえすぎなの」
 そうかもしれないな、ぼくはいつも考えすぎてしまう。
  「正利、おまえこれからどうしたいの?」
  「……」
 答えること、いや、そもそも考えることが面倒くさいのか、正利は答えない。テレビゲームから目を離さず、こちらを見ようともしない。
  「おい、正利、おれはこんなにおまえのことを考えているんだぞ。店も他人に任せきりにして、おまえの起こした事件の後始末をしてるんだ。それなのにお前ときたら、働きもせず、毎日ゲームばっかりじゃないか。せめて洗って溜まったタオルを時間通りに店に持っていくことぐらい、やっておいてくれたっていいじゃないか」
 最近、ぼくは正利に対して、ずいぶん下手に出ていた。それは、またフラリと勝手に出て行かれては困るという気持ちからだ。しかし、黙ってゲーム機にかじりついている横顔を見ているうちに、ムラムラと腹の底から苛立ちが湧いてきた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第70回 お姉さんの理屈

■月刊「記録」2005年7月号掲載記事

*             *             *

 電話は意外なほど早くかかってきた。
 受話器を取ると、お姉さんは昨日の礼も言わず、正利の状態も聞かず、いきなりこう言い放った。
  「よーおく考えてみたんですけど、昨日、請求されたお金に関して、私が払うっていうのはおかしいと思うんです」
 最初は30万円全額、5分後には15万円半額、そして翌日には一切払わないと言うお姉さんの主張。何だか頭が混乱してくる。

■先にぼくに相談してよ!

「そうなんですよ。だからお姉さんが払うべきお金ではないんですよ。そもそもそれは…」と言いかけたところで、遮るようにお姉さんは言った。
  「はい、私も昨日は慌てて払うなんて言ってしまったんですけど、友達に相談したら、私が払うべきお金ではないことに気づいたんです」
 友達に相談? 気づいた? いやぁ、友達に相談する前にぼくに相談してほしいよ! と、内心思いつつ、
「はい、払うべきお金ではないことに気づいたことは良かったと思います。でも、お姉さんが払うって言ってしまったんですよ? それでその場を収めてしまったんですよ? あの人たちはお金はもう手に入れたも同然だと思ってますよ? そこらへんをどうするかでしょう!」 と、最初はゆっくりと、でも最後のほうには、まくしたてるようにお姉さんに言った。
 するとお姉さんはさらりとこう言ったのだ。
  「神山先生、正利、少しは貯金があるって、以前に言ってましたよね? それで払っておいてください。正利ももう20歳を過ぎているんです。責任を取る義務があるはずです」
 ……何も言うことはない。圧巻だ。
 正利が責任を取る。それでおしまい……。なるほど、そんな結論か……。
 しかし、考えてみれば確かに、そこいらへんにあった紙の切れ端に、鉛筆で「パンツ1枚500円」。そんなふうに書かれたインチキな請求書に本当に30万円を払うのか?
 しかも正利は、朝の10時から夜の11時まで働かされて、日給千円しか給料をもらっていないんだぞ?
 そう考えれば考えるほど、ぼくは「誰が払う」とか「いくら払う」とかではなく、一切合切あいつらに払う必要はないと思った。
 払うのはやめよう。そう決心した。
 ……でも怖かった。彼らはぼくの店の住所も、ぼくの電話番号も知っている。いつ押しかけてくるかわからない状態で、正利と2人で暮らしていくのは、とても不安だった。
不条理こそが原動力に
 不安。いつの頃からだろうか。
 ぼくはすっかり不安とともに生きてきた。
 朝起きると不安、夜床に入るときも不安、友人たちと一緒にいても不安、彼女ができても不安、自分の部屋にいても、旅行に行っても不安。
 精神科に行ったことも、神経科に行ったこともないから、それがどういうことなのか細かいことまではわからない。
 ただ、正利と一緒にいると、不思議と不安は治まった。
 金を稼ごうともせず、寄生虫のようにぼくのすべてを吸い取ろうとする正利。
 なのに吸い取られれば吸い取られるほど、ぼくの不安は治まっていく。
 この不条理こそがぼくの生きる原動力となっているのだから怖ろしい。
 頭の片隅では、この不条理をこのまま受け入れて、不安を和らげて生きていきたいという思いが生じ、もう一方の頭の片隅では、この不条理を受け入れ続けると、ぼく自身は一生、正利に振り回され続けてしまうだろうという予感も生じていた。
 ぼくはそんなことを考えながら、部屋の隅で体を丸めた。
 電気もつけず、大の大人がそんな姿でいる。
 端から見れば異様な光景だ。
 そこへ正利が買い物袋に一杯のお菓子とジュースを抱えて買い物から帰ってきた。
「なにしてるの、せんせ? でんきぐらいつけなさいよ」
 と手も洗わず、うがいもせずに、座り込むとボリボリとお菓子を食べ始めた。
 何も答えぬぼくを励まそうとでも思ったのか、
  「せんせ、おれ、あいつらのことゆるさないのよ、こんどあったら、もんくいってやろうとおもうの。だっておねえちゃん、ないてたのよ。おねえちゃんなかすなんて、ゆるせないのよ」
 と、威勢のいいセリフを吐き捨てるように言った。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第69回 再び始まる二人の日常

■月刊「記録」2005年6月号掲載記事

*           *           *

 正利の怪しい同居人に30万円もの下着代を要求され、断固、戦う意思を固めた矢先だった。
 お姉さんが突如、要求された30万円を支払うと言い出したのだ。
 そう言われてしまっては仕方がない。
 もうこれ以上、ぼくに何かを言える立場ではなかった。

■半分ずつにしてもらえないでしょうか…

 さぁ、帰ろう。何もかも終わった。
 そう思い、ぼくが運転席に乗り込もうとした瞬間、お姉さんが走ってぼくのそばに来た。
 「あ、あの、さっきの30万円のことなんですけど、あの場では私が全額払うって言ってしまったんですけど、……半分ずつってことにしてもらえないでしょうか……」
 やっぱり、やっぱりそうきたか……。
「えーっ!? だったら何で払うって言ったんですか? ぼくは払うつもりなかったんですよ? だってあんなインチキな明細おかしいじゃないですか。鉛筆で、しかも手書きで。下着何枚か買っただけで30万円ですよ。おまけに給料も払われていないし!」
 ぼくは思わずまくし立てるように言ってしまった。
 いつものぼくならこんな言い方をするはずがなかった。そのくらい、お姉さんのいい加減さに呆れてしまったのだ。
 すると「そうですよねぇ。あれはおかしいですよね。わかりました、一晩考えてまた電話します」と、お姉さんはあっさり引き下がった。
 少し意外な気がしたが、同時にこのとき改めて思ったものだ。このお姉さんはもしかすると正利に似て、全く何も考えていない人なのか? と。
 そんな嫌な予感は外れてほしかったが……。
経済的には厳しいが
 とにもかくにも、ぼくと正利は車に乗り込んだ。
 車が走り出し、二人きりになると、正利がとたんに「おなかがすいた」と言い出した。
 だからぼくは車をコンビニの駐車場に停め、弁当を2つとジュースを2つ買った。
 また始まるのだと、ぼくは思った。一人だったときには1つで済んだものが、これからはまた2つずつになる。経済的には厳しいが、心には充実感があった。
 アパートに戻ると、ぼくらは特に話し合うこともなく、弁当をがつがつと食べた。それからぼくらは朝の4時くらいまで、延々とテレビを見た。たしか再放送もののドラマだったと思う。ラーメン屋での生活では、夜はテレビを見ることができなかったと、正利が隣でポツリと洩らした。
「ああ、いいよ、今日は心ゆくまで見てろよ」
 ぼくは答えた。正利は答えなかった。一緒に見ていたつもりがいつのまにか眠り込んでしまい、目覚めたのはいつもの時間の目覚ましのアラーム音だった。
 だが、夢も見ないほど久しぶりに味わった深い眠りだった。
        * * *
 3時間ほど眠っただろうか、アラームで目が覚めると、正利は口を半開きにして涎を垂らしながら隣で熟睡していた。
 その情けない姿を目にして、いつもの生活に戻ったのだと、ぼくは改めて実感した。
 しかし同時に何だか妙な不安感が突然、頭をもたげてもくるのだった。
 ぼくと正利。
 いったいこのままぼくらはどこへ行くのだろう。
 家族でもない、夫婦でもない、友達でも、兄弟でもない。
 ならば、ぼくと正利はいったい何なのだろう。二人を経済的に支えているのは、この“日焼けサロン”一つだった。
 すべてが不安定なまま、何とかバランスを保っているのだと感じた。
 安定した場所、落ち着いた場所ではないどこかを毎日漂流している気分であった。
 目的地もなく、ただひたすら漂うことだけを楽しむ生き方。
 一瞬一瞬はリアルなのだけれど、トータルでは何だかすべてがフェイクなママゴトに思えてしまう。正利の寝顔を見てぼくは思った。いつかはぼくの力で、ぼくの責任でこんな毎日を終わらせようと。
 それは嫌だからではない。
 理由は明確にはできないけれど、いつか近い将来、正利に関わるすべてのものに別れを告げなければいけないのだと感じた。そして正利と、シンプルで現実味のあるつき合いをしていくのだ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第68回 揺すり・たかり・脅し

■月刊「記録」2005年5月号掲載記事

*          *           *

「ふざけんじゃねぇ! お前が虐待して正利が逃げてきたから、俺たちが面倒見てやってたんだ! そんときの金をきっちり払えってのがわからねえのか!」
 それまで僕たちの隣で、黙ってタバコを吸っていたラーメン屋のおやじに、いきなりヤクザまがいの大声を出されて、ぼくは驚いた。
  「き、急に払えって言われても……、もうちょっときちんとした明細でも見せてもらわないと無理ですよ」
 それなのに、ぼくはこんな受け答えをした。
 なぜなら、このときまでまだぼくは相手をきっと話せばわかる人たちだと思っていたからだ。だが、このアパートにこの部屋であり、あんな写真を見せられているのだから、普通の人たち――つまり話してわかる人たちなんかではないことに、さっさと気づくべきであった。
  「てめぇ、なめてんのかぁ」
 ラーメン屋のおやじはいきり立って、さらに大声を張り上げた。今にもこちらに向かって殴りかかってきそうな勢いである。
 すると、「まぁ、まぁ、この人たちだって払わないとは言ってないんだからさ……なぁ?」
 と、女装男は穏やかにラーメン屋をたしなめた。さらに、ぼくに向かってニッコリ笑みすら浮かべるではないか。このオヤジ、いったいどっちの味方なんだ?
「そうですよ、払わないって言ってるんじゃないんです。そもそも正利の働いた分の給料を支払ってくれるような話を、さっきラーメン屋でしたばかりじゃないですか。それで十分に補えるんじゃないんですか? その下着代やら何やらも」
 と答えたぼくは、このとき、まだ相手を舐めていたのかもしれない。
  「てめぇ、いいかげんにしろよな、日給のうち千円は、正利に1日の小遣いとして払ってんだよ、そんでぇ、それ以外は貯めといてやってんだ。その貯めといた分じゃ足りねえから、お前たちに請求してんだよ」
 と、おやじはドスの効いた声で言った。これ以上ぐだぐだぬかすなよ、とっとと払えってんだよ、と、その声は、ぼくたちを脅しているように思えた。
  「え、でも、給料で足りないほど使うなんて、考えられないけどな、しかもさらに30万円なんておかしいですよ…」
「お前、何なんだ! その言い方は!」
 おやじが怒鳴るや否や、間髪入れずに女装男が正利に向かって、その金遣いの荒さをゆっくりと諭すように話し始めた。
  「なぁ、正利。この前もパチンコ一緒にやりに行ったんだよなぁ。そしたら2万円なんてすぐに使っちゃったよなぁ?」
  「あぁ」
 女装男が正利に同意を促すと、正利は肯定するように頭を掻いてうなずいた。その瞬間に、やっとぼくは気づいた。ああ、このラーメン屋と女装男はグルなんだ、と。2人で別々の雰囲気を醸し出しながら、どうにかして金を手にいれようと画策しているのだ、と。
  「確かに、こいつは金遣いが荒いというのは認めます。でも、」
 ぼくがそこまでを口にした瞬間、
「でもも何もねぇんだよ、いいかげんにしろよなテメェ。もういい、若いモン呼ぶから。お前ちょっと待ってろ」そう言って、おやじは携帯電話を取り出した。
 脅しか? それとも本当に“若いモン”を呼ぶのか? と、ぼくが警戒した次の瞬間、
  「わかりました! 払います。私が払いますから。だから、もうこれで終わりにしてくださいね」
 あっけない幕切れだった。みんなが声の主のほうを一斉に振り向いた。するとお姉さんが泣いていた。隣で正利が口を半開きにして焦点の定まらぬ、うつろな目で、お姉さんのほうをみていた。
 あのお姉さんが泣いている。何が起きても、いつも飄々としていたお姉さんが泣いている……。
 正利がいなくなったときでさえ、「もう二十歳を過ぎた男なんですから、心配することありませんよ」と、ぼくの心配をよそに高らかに笑っていた人なのに……。
 いずれにしても、お姉さんは要求された30万円を払うと言ったのだ。もうこれ以上ぼくが何かを言う必要はなかった。
  「そうだよ、それが常識っていうモンだよ」
 と、オヤジたちが満足げに言い放ったセリフをあとにして、ぼくたちはアパートを出た。
 言いなりになった悔しさと、お姉さんが初めて正利に対して責任を取ってくれたことに対する驚き、2つの感情が僕の中で入り混じっていた。外は雨が降り、モヤモヤとしたぼくの気持ちに一層拍車をかけた。
  「帰るぞ、乗れよ」と声をかけ、ぼくは正利を後部座席に乗せた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第67回 猛烈な負のパワー

■月刊「記録」2005年4月号掲載記事

*           *            *

 ぼくは本当にバカな男だ。なんでこんなことに躍起になっているのだろう。ここで正利とは離れるべきなのだ。ラーメン屋と正利を取り合ってどうするのだろう。なにも取り合う必要などなかったのだから。
 なぜなら選択枝は2つではないのだ。
 もう1つ、たしかに選択枝はあるのだ。
 そう、お姉さんのところに正利を引き取ってもらうという選択だ。
 意外にも、あまりにも当たり前すぎて気づかなかったのであるが、これは最もマトモな選択枝ではないか。
 そうして、ぼくはこう言うべきなのだ。
「今度こそ、あなたが正利の面倒を見るべきだ。いつもいつも責任を逃れて、自分ばかりが高見の見物。お姉さん、ぼくにあれやこれや言う前に、あんたが正利を育てるのがスジだろう! いつもいつも事あるごとに顔をつっこんできて、やばくなるとさっさと逃げちまう。あんたが今度こそ責任を取れ!」と……。

■正利の選択

「わかった。おれ、せんせのところにもどるよ」
 しかし、お姉さんの剣幕に押された正利は、そう言った。
 結局ぼくのアパートに戻ることを約束したのだった。そう言いつつも、正利がしぶしぶ納得していることが、ぼくの目には明らかだった。腹立たしい。やっぱりこいつといるとイライラする。離れている間あんなに寂しかったのに、いざ一緒にやっていくことがわかると、途端に以前の馴れ合いに戻ってしまい、嬉しさと苛立ちがぼくのなかで葛藤する。
 それでも、「よーし、正利、それじゃあ、アパートのおじさんのところに荷物を取りに行こうか」と、とりあえずは努めて明るく正利に声をかけた。
 返事もせずに、しょうがないなぁ、といった表情であいつは席を立った。そこで、ぼくたちもファミレスを出て、正利の住んでいたアパートへ向かった。
 すっかり日も暮れ、アパートは昼間に見たときよりも一層貧乏臭く見えた。こちらの気持ちまで荒ませてしまう猛烈な負のパワーがそこいらじゅうに満ちていた。嫌だなぁと思いながらドアをノックし、中に入ると、玄関に一歩足を踏み入れただけで、なかの様子がすべてわかるような狭さであった。そこには挫折、失敗、怠惰、嘘、汚れ、貧困といった人生に負けた男が持つすべての要素が満ちていた。
 部屋にはすでに、正利と同居していた男となぜかラーメン屋のおやじがいた。
すぐにでも話を切り出し、この部屋から出たかった。しかし、正利と同居していた男は何を思ったのかアルバムを引っ張り出してきて、ぼくたちに見せようとする。
「これは俺が北海道にいたときの写真だよ」
 満面の笑みを浮かばせて話しかけてくる。
「はぁ……」
「ほら、ここに俺と一緒に写っているの誰だかわかる?」
 男が得意げに話し掛けてくる。
「さあ、誰でしたっけ?」
 派手な衣装やマイクを握っているところから歌手であることだけはわかったが、それが誰であるかは、ぼくたちにはわからなかった。
「歌手の××だよ。知ってるだろう?」
「あぁ、××さんですか。知っていますよ、すごいなぁ、おじさんはこんな有名な人とお知り合いなんですか?」
 やっぱり誰だかわからなかったが、大袈裟にびっくりしてみせた。
 すると男は調子が出てきたようで、次から次へとぼくたちに写真を見せてきた。
だがそれらは、男が化粧をして女形に化けている気持ちの悪い写真ばかりであった。なぜ初めて会ったぼくたちがそんな写真を見なければならないのか理解に苦しんだ。
 それにしても正利は、よくこんな気持ちの悪い正体不明の50歳過ぎの男と寝食を共にしていたものだと改めて驚く。しばらくすると、男は紙切れを出してきた。また何か昔の思い出話の材料に使うのかと思ったら、どうも違うらしい。手に取ってみると何やら金額が書いてある。いついつどこで下着を購入、といった内容のものが4、5か所記入されていた。そして、男はこう言った。
「だから、30万円払ってくれ」
 それはいわゆるぼくたちへの請求書であった。しかし鉛筆で書かれているし、購入したものをどう足しても30万円には程遠い。
「これ、どうして30万円もぼくたちが支払わなければならないんですか?」
 恐る恐る男の表情を盗み見ながらぼくは訊ねた。
 男の表情は相変わらず穏やかなものだった。女装の写真を見せているときと何ら変わらない。なんだ、たちの悪い冗談か、とぼくがホッとしかけたとき、
「てめぇ、ふざけてんのか!」
 と、それまで隣で黙ってタバコを吸っていたラーメン屋のおやじが、いきなりやくざまがいの乱暴な大声を出してきた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第66回 瀬戸際の交渉

■月刊「記録」2005年3月号掲載記事

*            *             *

 正利、お前はいったいどこで何をし、どこで誰と会い、その時々で何を思い、何を感じてきたんだ。
 そして一つひとつの質問のあとに、ぼくはこう問いただすのだ。
  「そのとき、おまえはおれのことを思い出したか? もし思い出したなら、その瞬間どう思った? 会いたかったか? それとも会いたくなかったか? 懐かしく思ったか? 我慢はできたのか?」
 ぼくは正利の肩をつかんで、そう問いただしたかった。
たのむ正利、答えてくれ!
 口をきいてくれない。何を聞いても何が周りで起きていても全く口を開こうとしない。
 いや、もしかすると何か言葉を発していたのかもしれないが、今、思い出そうとすればするほどラーメン屋で久しぶりに対面した正利は、無表情にぼくを無視していた。
 その頃には、仕事先から戻ってきた正利のお姉さんも店に合流し、ラーメンを食べ終えたぼくらは、別の場所に移動することにした。
 正利の表情から何かを読み取ったのか、お姉さんは   「正利と2人きりで話したい」と、ぼくに伝えてきた。
 とりあえずぼくらは、近くにあったファミリーレストランに入り、正利とお姉さんは、少しぼくから離れた場所に席を取って話を始めた。
 しかし、眺めていると、話し合っているという様子にはどうしても見えない。なにかお姉さんが一方的に正利を問いつめていて、正利のほうは、ただイヤイヤをしたり、ウンとかヤーとか言っているだけのようだった。
 しばらくして、ぼくも話に加わった。話に加わる瞬間、少し加わることが恐かった。正利の真意をいよいよ知ることになるのだと思うと、さっきの素っ気ない無表情が思い出され、やはり少し恐かったのだ。
 だから、
  「先生、とりあえず、先生のところに戻らせます」
 と言ったお姉さんの第一声に、ぼくはホッとした。
 しかし同時に次の言葉にガクリときた。
  「でも正利は、先生に怒られたことが恐かったから、戻りたくないって言ってるんです」
 ああ、いったいどっちなのか、はっきりしてほしかった。経過も経緯も正利の気持ちもお姉さんの意向も、何もかもすべてを取っ払ってしまいたい気分だった。ぼくは結論だけを聞きたかった。ぼくが今、一番知りたいのは、明日のぼくと正利だ。ぼくと正利は明日、一緒にアパートの一室にいられるのか? それともやはり別々の場所で過ごさなければならないのか? それだけが知りたいのだ。
  「あぁ、それはそうでしょうね。ぼくも少し怒りすぎたのかなって、毎日、毎日、反省していました。ぼくは何か…キレるっていうんですか、いったんカッとなると、どうも見境が効かなくなってしまうようなんです」
 と、すまなそうに、そして冷静に、落ち着いて、しかもハキハキした口調でぼくは答えた。
 ここで何としてもお姉さんの信用を勝ち取っておかなければならないのだ…。
  「正利、ごめんな。オレも怒りすぎたよ。すまなかった、許してくれな」
 正利をみつめて、こう言いつつぼくは心のなかで別の言葉を叫んでいた。
 答えてくれ、正利! ここでお前がいい返事をし、許してくれれば、お姉さんはお前をぼくに預けてくれるのだ。
  「あー」
 だが、正利の答えにぼくはがっかりした。正利はやはり無表情のままだった。嫌そうに「あー」としか答えてはくれなかった。
 だが、まあいい、上出来だ。何も答えぬよりはずっといいだろう。
 …と思いきや、いきなりお姉さんが加勢した。
  「正利! お前、今のアパートのおじさんのところに住んで、ラーメン屋で働くなんて、お姉さん許さないよ!」
 なんとお姉さんは力強く正利にこう言い放ったのだ。 勝利のゴングがぼくの頭のなかで鳴った。
 勝った。ぼくは勝ったのだ。ふたたび正利を手に入れることができるのだ。神様はぼくにもう一度チャンスを与えてくれそうだ。
  「お姉さん、わかりました。今回は本当にすまなかったと思っています。今度こそは、しっかりとやらせてもらいますから」
 頭を下げつつ、しかし一方でぼくは自分を罵ってもいた。
 ぼくは本当にバカな男だ。なんでこんなことに躍起になっているんだろう。ここで正利とは離れるべきなのだ。ラーメン屋と張り合って、正利を取り合う必要など、いったいどこにあるのだろう。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/殺して、壊して、カネ儲け。ブッシュのあくどいやり方

■月刊「記録」2003年5月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

*            *            *

 戦争は国家による人殺しの奨励である。1人でも多く殺せば国の名誉が上がり、殺人者の名誉はさらに上がる野蛮な構造となっている。どんな理由があったにしても、戦争は国家による醜悪な大イベントでしかなく、きれいな戦争などあるわけもない。とはいえ今回の米英軍によるイラク攻撃は、近年まれにみる“汚れた戦争”であった。
 なぜブッシュ大統領が戦争に踏み切ったのかは、大いなる謎である。そのため「理由なき戦争」とも呼ばれ、国際的にも反対意見が強かった。ブッシュの唱えた侵略の大儀は、大量破壊兵器の破壊とイラクの解放であった。しかし戦争がほぼ終結してなお(4月17日現在)、大量破壊兵器は発見されていないし、イラクのひとびとが「イラク解放」に、さほど喜んでいるようにもみえない。シーア派の幹部たちもフセイン打倒には気勢をあげたものの、米英軍の駐留を歓迎しているわけではない。
 米軍が大量に放ったミサイルは、1万8000発にのぼるという。トマホークだけでも、750発もぶち込んだ。これだけ凄まじい大量破壊をおこなっていて、どこが「イラクの解放」なのだろうか。事実は「イラクの破壊」でしかない。住民が喜んで米軍を迎えるなど、完全な夢想である。
 独裁政権の倒れた象徴として、バクダッドではフセイン像の引き倒しが、生中継で全世界に伝えられた。一部報道では、独裁者のチャウシュスク政権崩壊になぞられるむきもあったが、引き気味のカメラにはまばらに集まった住民が映り、住民の蜂起と呼べるほどの熱気はなかった。実際、アメリカ側の演出だったのでは、との報道も流れている。
 今回の戦争では、アメリカの大本営発表の空言がなんどかあきらかになっている。開戦当初はフセイン大統領の死亡説が流れ、そののち本人がテレビに登場。また南部都市バスラを米英軍が制圧、おなじくバスラで住民蜂起が起こったといった情報も、アルジャジーラなどの記者リポートによって、ウソと判明した。
 思い返せば12年前の湾岸戦争は、「キレイな戦争」として報道された。前線取材が徹底的に規制され、ひとけがないように見える施設をミサイル攻撃する映像が主役だった。まるでテレビゲームのような映像が、これでもかこれでもかとばかり放映された。もちろん市民は大量に殺された。ただ映らなかっただけである。これもアメリカが発表した絵空事だった。
 しかし、そのときのあまりに露骨な情報操作がメディアから批判され、今回のイラク侵攻では従軍記者取材が認められた。世界各国から500人以上もの記者が集結したという。しかし、結局現場ではきびしい報道規制があったと伝えられている。
 また、なによりジャーナリストにとって許し難いのは、アルジャジーラのバクダッド支局やアブダビテレビなど、アラブ系のメディアが攻撃されたことである。事前に米軍に知らせておいた支局が、けっして外れないと自慢されてきた米軍のミサイルによって爆撃され、1人の記者が死亡した。
 これはイラク国営放送が攻撃されたのとおなじ文脈で考えるべきであろう。自分たちに都合の悪い報道は、暴力によって口を封じる。そんな“アメリカ民主主義”の意図が如実にあらわれている。もっと簡単にいえば、目撃者は殺せ、ということだ。
 そもそも米英は、アルジャジーラを目の敵にしていたふしがある。開戦後には、ニューヨーク証券取引所の取材から追いだした。またイギリス兵の死体や捕虜が放映された際には、イラク政府のプロパガンダの手先だとしてイギリス軍の高官が名指しで非難した。そして空爆である。アメリカ型民主主義とは、言論圧殺のことなのか。
 また4月9日には、チグリス川沿いにあったジャーナリストの拠点、パレスチナ・ホテルも米軍から攻撃され、ロイターなどの記者2人が死亡した。こうした事態について、国際ジャーナリスト連盟も激しい抗議を表明している。
 しかし非難にたいして、国防総省のクラーク報道官は、「これまで、多くの報道関係者に私は伝えてきた。戦争は危険なものだ。戦場にいる時、あなた方は安全ではない」(『朝日新聞』4月10日)と平然と責任を記者たちに転嫁している。危ない場所にいるのと、意図的に殺されるのではおなじ危険でも大ちがいである。クラーク報道官の発言は、自分たちの犯罪を覆い隠しているにすぎない。

■石油メジャーと軍需産業で政権固め

 イラク攻撃が終盤戦にさしかかったころから、ブッシュ政権の閣僚たちが関係する企業の利権があきらかになってきた。
 ブッシュ政権は、まれにみる国際石油資本(石油メジャー)政権である。ブッシュ自身、テキサスの石油会社の重役だったのだが、2000年の選挙では、石油ガス業界から選挙資金として2億円以上受け取っていた。まさに石油利権大統領である。
 チェイニー副大統領は、油田開発会社のハリバートンの元CEO(最高経営責任者)である。このハリバートンの子会社は、イラク侵攻なかばで70億ドル(8400億円)もの油田の消火・復旧事業を、無競争で受注している。またライス米大統領補佐官は、大手石油会社シェブロンの社外取締役。さらにエバンズ商務長官は、長年、石油会社で働いてトップもしめたことのある石油業界の実力者だ。
 いうまでもないことだが、イラクは産油国である。砂漠の下には、1125億バレル、確認埋蔵量世界第2位の原油が埋まっている。イラクに親米政権が樹立すれば、フセイン政権下で利益を得ていたフランス・ロシア・中国などの既得権益を崩すこともできる。また、これまでサウジアラビア主導のOPEC(石油輸出国機構)に仕切られていた中東の原油価格が、親米イラクの原油増産で大きく揺らぐことにもなる。結果的に“石油メジャー閣僚”たちも、大きな利益が転がり込む。
 さらにブッシュ政権には、軍需産業とも強いつながりをもつ閣僚も並んでいる
 リチャード・パール前米国防政策委員長は、国防総省が許認可権をもつ企業の顧問だったという理由で委員長を辞任した。噂されるアラブの武器商人との関係は、彼の横顔をしめしている。
 ラムズフェルド国防長官は、軍需産業系のシンクタンクで理事長だった人物であり、超タカ派のウルフォウィッツ国防副長官は爆撃機などをつくるノースロップ・グラマン社の顧問、チェイニー副大統領の妻にあたるリーネ氏もおなじく爆撃機などを製造するロッキードマーチン社の役員だった。
 戦争は、兵器の大量消費の一大チャンスである。『毎日新聞』(4月9日)は、今回使われた兵器の値段を次のように報じている。

トマホーク〈ミサイル〉
 1発…50万ドル(6000万円)
JDAM〈精密誘導爆弾〉
 1発…約2万4000ドル(287万円)
バンカーバスター爆弾
 1発…14万5600ドル(1747万円)
ステルスB2A〈爆撃機〉   
 1機…21億ドル(2520億円)
FA18E〈爆撃機〉
 1機…6000万ドル(72億円)
M1A2エイブラムズ〈戦車〉
 1両…430万ドル(5億1600万円)

 こうした高額の兵器が湯水のように使われるのだから、米軍需産業関係者の笑いは止まらない。
 人を殺せば殺人者であるが、人を殺してモノを売りつければ英雄となる。それがブッシュ型のモラルなのだ。今回のイラク侵略は、古い兵器の在庫一掃と新兵器の開発を狙ったビジネスショーと考えれば、とてもわかりやすい。
 さらにもう1つ、イラク戦争はアメリカ経済に特需を連れてきた。戦争復興である。

■壊したヤツラで復興独占

 復興費用の額はいろいろと取りざたされているが、『読売新聞』(4月6日)は「戦争が3ヵ月程度で終わった場合は1560億ドル(約18兆6000億円)」というエール大学教授の試算を発表している。
 これらの膨大な復興費用と戦費は、ヤクザのみかじめ料のようにアメリカが世界各国から回収するつもりのようだ。もちろん日本も例外ではない。
 しかも現在、アメリカはイラクに債権をもっていない。日本・フランス・中国などは巨額の債権もっているため、フセイン政権が転覆したいま、どのようにそれを回収するかに頭を悩ましている。
 こうした状況にありながら、ライス米大統領補佐官は「イラク解放に命と血をかけた連合軍(米英)が、主導的な役割を期待するのはごく自然なことだ」と述べ、破壊しつくしたあとの儲け、戦後の復興需要は事実上、アメリカで独占すると宣言した。
 今回のイラク侵攻は、アメリカの1人勝、との宣言である。
 石油利権を既得権をもつ国から奪い取り、自国の軍需産業が喜ぶ兵器でイラクを徹底的にぶちこわし、自分で壊した街を自国の企業に作り直させて、イラクが生みだす原油で支払わせる。そのうえ回収不能の債権すらない。
 アメリカにしてみれば、殺せば殺すほど、破壊すれば破壊するほど儲かるのだから、これほどウマイ商売はない。理念はおろか自省の感情さえ吹き飛び、結局、ブッシュ、ラムズフェルドのイケイケどんどんのビジネスゲームである。

■ベトナム戦争の失敗に学べ

 このイラク攻撃にともない、ますますクローズアップされてきたのが北朝鮮問題である。安倍晋三官房副長官などは、「(北朝鮮に)何発も撃たせないためにはミサイル基地を攻撃しなければならない。それは米国にお願いするしかない」といった。
 これこそ情報操作というべきものだ。たしかに北朝鮮はミサイルをもっているかもしれない。だからといって北朝鮮人民軍がイカダに乗って日本に攻めてくるなど、誇大妄想でしかない。腹ぺこの国民を抱えているのに、どうしてアジアで中国に匹敵するような「自衛力」をもつ日本に戦争を仕掛けられるというのか。
 実態のない敵の驚異を煽り立てて戦争するのは、権力者の常套手段である。かつてマクナマラ国防長官が、自著の『マクナマラ回顧録』で、ベトナム戦争におけるアメリカの敗因として、「相手方の危険性を過大評価した」「相手国内の政治勢力の判断を完全に誤っていた」「すべての国家をアメリカ好みにつくりあげる天与の権利などもっていない」などの理由をあげた。
 今回のアメリカの行動は、ベトナム戦争のときとなんら変わりはない。それ以上にバカげている。大量破壊兵器疑惑も、フセイン崩壊後に起こるはずだった市民の歓迎という夢想も、マクナマラが指摘した失敗になぞらえる。あまりに巨大な軍事力は、おそらくアメリカの解体につながる。アメリカは、歴史に学ばなかったのだ。儲けにはしった拙さ、である。
 アメリカが好むように、イラクの人民が動くかどうか。イラクに親米政権をつくれなかったとき、アメリカはマクナマラが指摘した失敗の意味を悟ることになる。
 そして日本もまた、北朝鮮の危機を煽って進める軍拡路線の愚かしさを悟ることになる。もう一度、平和のために行動しよう。 (■談)

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だいじょぶよ・神山眞/第65回 1ヶ月半ぶりの再会

■月刊「記録」2005年2月号掲載記事

*          *           *

  「あそこだよ」
 田辺は指をさした。正利の働いているラーメン屋は、アパートから歩いて5分ほどのところにあった。
  「あぁ、ここですかぁ。いやぁ、ここならぼくも何度か前を通った! 知ってますよ」
 明るくハキハキと少し大げさにぼくは答えた。何も田辺という、正利と同居しているこの中年男に媚びを売ったわけではない。ただ、ただ、嬉しさを堪えきれなかったのである。
 正利と会うことに関しては、ぼくなりにさまざまな葛藤があった。不安や迷いもあった。それなのに全てが吹き飛んでしまっている。今この瞬間、「ただ、ただ、正利に会えることが嬉しい!」そんな気持ちになっている。しかし店に入った瞬間、そんな気持ちはすぐにいつもの不安へと変わっていった。
  「いらっしゃい」
 五十歳代半ばくらいの元気のいい夫婦が、威勢のいい声をかけてきた。元気の良さ、その声のトーン、たたずまいからして2人はいかにも商売人という雰囲気を漂わせている。そしてその2人のうしろに、場違いなくらいこの店の雰囲気から浮いている男がボーっと立っていた。正利であった。
 およそ1ヶ月半ぶりの対面。ついにぼくは正利に会えたのだ。ぼくの苦労は今ここで終わるはずであった。心労により食欲は落ち、体調不良、だるすぎる体、抜け落ちる髪の毛、すべてがこの瞬間に清算されるはずであった。正利が無事であったことにホッとし、お互いに懐かしさに歩み寄り、少し照れながら言葉を掛け合い。そして以前のように2人で仲良く暮らす……。
 しかし、そんな青写真を描くことはできそうになかった。

■おまえはぼくを憎んでいるのか?

 ラーメン屋にボーっと立つ場違いなその男、正利は、ぼくを見てもニコリともしないのであった。
  「よう、正利、元気そうじゃないか。ここで働いていたのか、頑張ってるな」
 仕方なくぼくから明るく声をかけても、ボソボソと口の中だけで「ああ」と答えるだけである。
 正利は答える瞬間、チラリとぼくを見た。たしかにこちらを見た。ぼくが迎えに来ていることはわかっているはずである。
 だが、あいつは何も言わなかった。「あっ! せんせ、おれここではたらいているのよ!」とも、「せんせ、まってたのよ。おれ、もうはたらきたくないのよ」とも言わなかった。ただ暗い目をして「ああ」と呟いただけだ。
 そりゃ、あいつを殴ったのはぼくだ。おまえは殴られて出て行った。けれど、もうだいぶ昔の話じゃないか。なぜだ、おまえはぼくを許してくれていないのか? ぼくのことをまさか憎んでいるのか? 喧嘩したって、怒鳴り合ったって、ぼくたちはいつも仲良くやってきたじゃないか。
 そうこうしているうちに注文した味噌ラーメンができあがった。ラーメンづくりにおける正利の役割は、あらかじめ刻んであるネギをドンブリの中に入れるだけであった。
 ぼくはその無造作な動作から、正利の気持ちを読んでみようと試みたが無理であった。怒っているのか、淋しい気持ちでいるのか、会いたかったのか、何一つさっぱりわからない。いずれにしても、突然、ぼくが店にあらわれたことには驚いているのだろう。だがそれ以外は、何一つわからない。
  「いやぁ、おいしいですねぇ、このラーメン! なあ! 正利!」
 こんな具合に何かにつけてぼくは正利とコミュニケーションを取ろうとした。だが、正利の態度ときたら、そのたびにこちらをチラリと一瞥するのみで愛想のカケラもない。
 そのあまりのつれない態度に、ぼくはいよいよ絶望的な気持ちになってきた。正利の愛想のなさが、ぼくに対する最終宣告のように思われてきたのだった。
 もう無理だ、無理なのかもしれない……。
 そう思って食べるラーメンの味は実に味気なく、砂を噛むようであった。
 しかしこの店は、雑誌やテレビで紹介されたことがあるらしく、やれうちの店は何の雑誌に載っただの、テレビのラーメン百選に選ばれただのと、店のだんなが自慢げに話かけてきている。
  「へぇー、そうですか」「すごい」「どおりで美味しいはずだ」
 などと適当に相づちを打っていたが、ぼくはもう限界に近づいていた。
 正利と2人きりになりたかった。
 2人きりになって、この1ヶ月半のことを聞いてみたかった。
 どこで何をし、どこで誰と会い、その時々で何を思い、何を感じてきたのか、を。  (■つづく)

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だいじょぶよ・神山眞/第64回 正利の部屋の主?

■月刊「記録」2005年1月号掲載記事

*           *            *

 正利の帰りを車の中で待っていたぼくは、なにげなく近づいた窓のカーテン越しに、誰もいないはずの部屋の中に、小さな明かりがついているのを見つけたのだ。
 咄嗟に電気のメーターをみると動いている。
 中に人がいる!?
 それは、ひょっとして正利か!?
 はやる気持ちを抑えて、ぼくはドアをノックしたのだった。

■わかりやすい顔をした男

 ガチャ、という音とともにドアが開いた。
 ドアノブをつかむ手が隙間からのぞいた。
 太く節くれ立った年季の入ったその手は、明らかに正利のものとは違っていた。
 やはり人違いだったのか? ひょっとして、もう正利はここに住んではいないのか?
「あのう、こちらに里見正利さんは、いらっしゃいますか?」
 おそるおそる聞いてみたが、すぐに返事はない。
 こいつは酒焼けした男たちの出入りするボロアパートに住む住人だ。まともに答えてくれるはずもないか……。
 そう諦めかけた頃、ふいに男の声がした。
「あー、いるよ、今、働きに行ってる」
 無愛想だが、ハッキリした声でドアの向こうの主は返事をした。
「えっ! 本当ですか? 嬉しいなぁ、やっぱりあいつここにいたんですか!」
 とたんにぼくのなかで、何か溶けていくのがわかった。胸のつかえがスッと取れた。いや、つかえどころじゃない。体中、あちこちにつかえていた、溜まっていたモヤモヤとした厚い雲が、太陽の陽射しにかき分けられて、あっという間に消えてしまった、そんな気がした。
「いるけど、あんた誰?」
 いつの間にか、ドアは半分以上開けられ、部屋の主である男が顔を出していた。
 背丈は160㎝くらい、中肉中背よりも少しずんぐりむっくりした感じか。年齢は60歳くらいにはなっているだろうか…。
 いつものぼくなら、このあたりから初対面の相手を知ろうとして、あれこれ詮索を始めるのだが、この男にその必要はなかった。
 職業、暮らし向き、収入から家族構成まで、すべてが手に取るようにわかる男だったからだ。
 おそらく仕事はしていない。家族もいない。昼まで寝て、夜になると安い酒を飲み、酔いが回ると何か月も干していないような布団にくるまり眠る。たまに年金やら日銭が入り、行くところといえば競馬かパチンコ。そういったことが全身に現れている、わかりやすい顔をした男であった。
 しかし一方では、そんな男が正利と寝食を共にしていることに違和感を覚えた。
 こんな男が……正利とどうして……。

■妙にスムーズに進む会話

 だが、ぼくは考えを振り払った。そんなことを考えている場合ではない。正利に会える千載一遇のチャンスを得たのだから。
「突然訪ねてきて申し訳ありません。私、神山と申します。正利くんの施設時代の担当の指導員でした。今、ちょっと前までは、一緒に世田谷のアパートに住んでいました」
「あーあー、あんたか、話は聞いてたよ。あいつを迎えに来たんだろう? 仕事に出ちまってるからさ、よかったら仕事場まで案内してやるよ」
 ぼくは少し拍子抜けした。
 なんだか話がスムーズに進みすぎるのだ。
 普通、この手の話は、もうちょっとややこしくなるはずだった。例えば、この男が金欲しさに難癖をつけてくるとかだ。
 なぜならば、何の目的=いわば見返りもなく、他人が正利みたいな奴を何日も囲っておく理由などないはずだったからだ。
 それなのに、この男には、そういった物欲しそうなところや言いがかりをつけてきそうな気配が、まるで感じられない。
 それどころか「今すぐ案内してやるよ」とまで言うではないか……。
 ぼくは相手のこの一言で、すっかりこの男を信用してしまった。
 名前は、本当かどうかはわからないが、田辺というらしい。
「うわあ、本当にありがとうございます。助かります。では、このあとすぐに正利に会えるんですね?」
 ぼくは急かす口調で男に聞いた。 (■つづく)

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だいじょぶよ・神山眞/第63回 砂利道の奥のボロアパート

■月刊「記録」2004年12月号掲載記事

*          *           *

「ちょっとだけ仕事先に顔を出してくる」と言い残し、正利のお姉さんは、さっさと車から降りていってしまった。
 この調子では、夜までに、本当に戻ってきてくれるかどうかも怪しいものだった。
 実の姉からも心配されない正利は、もしかしたら誰からも必要とされていない存在なのではないか。
 そう思うと、なんとしてでも、ぼくがあいつを待たなければいけない、という義務感のようなものに駆られた。

■背中を丸め、酒やけした男たち

 アパートの見える位置に車を停め、車の中から様子をうかがった。
 雨が降ったりやんだりと、一向に天気ははっきりしない。
 そんな天気が、ぼくの心をいっそう不安定にさせた。 ボロボロの木造アパート。その一階の一番奥が正利が住んでいると思われる部屋だ。
 カーテンは閉まっていて、明かりもついていない。
 どうやら正利は、まだ戻っていないようだ。
 となると、ラーメン屋で働いている時間、ということだろうか。
 ラーメン屋を探してみようか、という考えも一瞬よぎったが、やはり、ここを動くのは得策ではないと判断した。
 何時になろうが、正利が帰ってくるまで、ここで待っていよう。
 それにしても、このアパートは、見れば見るほどボロボロだった。
 雨漏りでもするのではと、思うほど、木材が腐りかけている。だが、改めて周囲を見回してみると、このあたりには、そんなボロアパートが何件もあるのだ。しかも、昼間だというのに、人の出入りがかなり多い。酒やけしたシワシワの顔の中年男たちが行き来している姿が、先ほどから何度か見える。
「あいつら、働いていないのだろうか?」
 アパートの前は舗装していない砂利道だった。砂利の音をさせながら、背中を丸めぎみに歩く男たちの姿を、ぼくは車の中から、ぼんやりと眺めた。

■痛いほどわかる正利の気持ち
 
 1時間が経った。
 もちろん正利は戻って来ない。
 もしかしたら、正利はもうここには住んでいないのではないだろうか?
 不安がかすめた。しかし、すぐにぼくは思い直す。
 いや、いるはずだ。必ずいる。
 なぜならば、ここは正利にお似合いの場所だからだ。 薄汚いアパートも、舗装されていない砂利道も。
 うっとうしい霧雨、車の中にいても足のほうから外気が伝わり、底冷えが上がってくる。
 こんな場所だからこそ、正利はいる。
 こんなところに正利という人間は、なぜか吸い寄せられてしまうのだ。
 家族の笑い声が漏れてくるような家、好もうが好むまいが、そんなところはどこも、正利にはふさわしくないのだ。
 ぼくには、よくそれがわかる。
 そして、このアパートの前にいると、正利がどうして、どのようにして、どんな気持ちで、ここまでたどり着いたのかまでが、わかるような気がした。
 ぼくには、正利の気持ちがわかる。
 理解できる、というのとはワケがちがう。
 今回の家出の件にしたって、たとえまた出会えても、理解を示し、寛容な気持ちで迎え入れるという感じではないのだ。
 でも、わかる。正利のつねに満たされない気持ち、寂しさ、欲求不満、わがまま、それらのものがすべて入り混じった、あいつの混沌とした気持ちが、ぼくには痛いほど感じ取られる。
 満たされない。どこにいても寂しい。誰といても寂しい。何をしても満ちることのない心。そんなものをお互いに持ち合わせていたのが、ぼくと正利ではなかっただろうか。
 車の中でじっとしているのが辛くなり、ぼくはドアを開けて外に出た。
 砂利道の音を立てながら、正利の住んでいるはずの部屋の前まで行ってみる。
 部屋の中を、もう一度カーテン越しにのぞいてみる。 すると……
 小さな明かりがついていた。
 咄嗟に電気のメーターをみると動いている。
 中に人がいる。
 もしかすると、中に人がいる。
 それは、ひょっとして正利?
 はやる気持ちを抑えて、ぼくはドアを叩いた。 (■つづく)

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だいじょぶよ・神山眞/第62回 正利のアパートへ

■月刊「記録」2004年11月号掲載記事

*          *            *

 もう考えることをやめようと思った。
 しかし、考えることをやめようと思えば思うほど、ぼくは過去を振り返ってしまう。
 正利のために……
(なぜこんな生活を、意識してかしなくてかはわからないが、こんなに何年も続けてきてしまったのだろう……)
(それによってぼくは何を得た?)
(得たどころか……)
(正利には逃げられてしまった!)
(正利から連絡はない)
(正利は帰るつもりもない)
(正利は新しい人生を歩もうとしている……)
 気がつけば、ぼくはいつもの堂々巡りに陥っていた。 しかしこんなことは正利との生活が始まる前に考えておくべきことだったのだ。整理がつかない気持ちのまま、車はぼくを乗せ、無情にも目的地に着いた。
 そこでぼくは正利のお姉さんと待ち合わせをしていたのだ。正利探しのためにだ。
 しばらくすると、ハッチバックの少し小さめの車に乗ってお姉さんは現れた。

■なぜぼくのほうが謝ってしまうのか

 僕の車の後部座席にお姉さんには乗ってもらった。
 ミラー越しに映るお姉さんの服装は人探しには似つかわしくない少し派手な感じのものだった。
 髪型もしっかり整え、化粧もしっかりしている。悩み疲れ、着るものや髪型をまるで気にすることがなくなってしまった僕とは大違いであった。
 挨拶もそこそこにぼくは、正利が住んでいると思われるアパートへ向けて車を発進させた。すると途中でお姉さんはコンビニに寄ってほしいという。適当に近くのコンビニを探し、路上駐車してお姉さんが買い物しているのを待つ。すぐに戻ってきたお姉さんは車に乗り込むと、さっそく買い物袋からごそごそとお菓子やジュースを取り出した。
 そのマイペースぶりは、羨ましくも腹立たしくもあった。お姉さんはいつも礼儀正しくぼくに接してくれる。しかし、いつもぼくはかすかな苛立ちのようなものを彼女に感じてしまう。それにいつも正利に何かが起こり、彼女に会うたびにぼくは言ってしまうのだ。
「いやー、すいません。こんなことになってしまって、本当にすみません」と。
 でも考えてみればおかしいじゃないか。なぜぼくが謝らなければならないのだ? お姉さんから養育費をもらっているわけでもない。お姉さんに「いつも正利の面倒をみてくださって本当にありがとうございます」と礼を言われたこともない。菓子折の一つとしてもらったためしもないのだ。
 それなのに、何も問題が起きずにうまくいっているときには、ただ連絡がなくなるだけで、何か事が起きるたびに、お姉さんのほうがいかにも迷惑を被ったという立場で現れる。
 まったくもってばかばかしい。

■正利とぼくは同じものかもしれない

 ぼくにすすめもせずに隣でむしゃむしゃとお菓子を食べ続けるお姉さん。ぼくは半分呆れ、半分は気を利かせ、半分は皮肉で言った。
「そうですよねぇ。今日はいったい何時に正利が帰ってくるかわからないですもんねぇ。下手したら夜中ってこともあり得ますからね。そういうお菓子みたいなものって、結構、必需品かもしれませんね」
 するとお姉さんはきょとんとした顔で、
「あっ、そうなんですかぁ?」
 と聞き返してきた。
「そりゃあそうですよ。だって、本当にラーメン屋で働いているとしたら、帰ってくるのは深夜になったって、ちっとも不思議じゃありませんよ」
「そうですよね…。そうしたら私、ちょっとだけ仕事に出てきてもいいですか?」
「はぁー!?」
 驚いた。そして呆れた。1ヶ月以上も行方知れずで、捜索願さえ出していた弟にまさに会えるというそのときに、このお姉さんときたら……。
 やっぱり頼りになんかしてはいけない人なんだ。この姉は正利のことを心配などしていないのかもしれない。実の姉からも心配されない正利は、もしかしたら誰からも必要とされていない存在なのではないだろうか。
 そう思った。するとなんだか、ぼく自身も同じようなものなのでは? という、とてつもない不安に突然、襲われた。
 ぼくも正利もひどく孤独で宙ぶらりんな存在で、現実からひどく遠ざかってしまった存在なのではないか。
「でしたら、いいですよ。仕事に行ってきてください。正利が帰ってくるまで、ぼくがずっといますから」
 呟くように固い声で答えている自分がいた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第61回 決定的な事実

■月刊「記録」2004年10月号掲載記事

*           *           *

■住民票を移したいあいつ

 今後、日焼けサロンをどうするか。
 改めてこの問題に立ち向かい、ぼくは正利との生活を思い返していた。
 ――あいつがタオルを畳み、あいつがタオルを運んでくる。一日中へとへとに働き、疲れて部屋に戻るとあいつがゲームをしている……。
 それらの情景を抜きにして日焼けサロンを続けることはぼくには無理であり、無意味であった。店を続けるべきか、閉めるべきか、あいつの不在は店の存続に直接かかわることなのだ。
 こうして店を続けるべきか閉めるべきかを考え始めた矢先、区役所から電話が入った。
  「そちらにお住まいの里美さんから、住民票を転出先に移動したいとの旨の手紙が届いておりますが、申し訳ありませんが、転出先の住所がはっきりと読み取れなくて、お送りすることができません。里美さんご本人に、直接こちらにおいでいただきたいとお伝え願いたいのですが」
 正利はやはりいたのだ。
 当たり前だが、正利がこの世のどこかで元気に暮らしているという久しぶりの実感にぼくはうち震えた。
 しかし、今まで一緒に住んでいたこの場所から離れようとしてもいるのだった。
 なぜ? ぼくの頭の中はクエスチョンマークで一杯になった。
 なぜだ。やはり嫌だったのだろうか。ぼくとの共同生活は耐え難いものだったのか?
 いや、そんなことはもはやどうでもよかった。会えるのだ。これであいつが見つかる。あいつにまた会えるのだ。あいつの気持ちは会ってから確認すればいいだけなのだから。
 俄然元気が出たぼくは、区役所から聞いた消印にあった住所のメモを握りしめて立ち上がった。
 車に乗ると不安がよぎった。消印はやはり、先日訪れたあの町のものだった。
 あそこに確かに正利はいたのだ。だが、いざ会えるとなると、会えるという喜びよりこれからのことを考えてしまう。
 正利について、現在わかっていることは、
1.ラーメン屋で働いている
2.ラーメン屋の近くのアパートに住んでいる
3.どうやら住民票を移したがっている
 という3点だった。
 どうしてラーメン屋なのか、とか、どうやってアパートを借りることができたのだろう? とか、不思議なことはたくさんあったが、それらはなぜかあまり気にならなかった。
 それよりも正利が住民票を移したがっているという事実を突きつけられたことが、ぼくを不安にさせていた。 正利は本格的に新しい場所に腰を落ち着けようとしているのだろうか。ぼくのことを思い出して、ぼくのことが懐かしくなり、ぼくの元へ戻ってきたいとは思わないのだろうか。
 そんなことばかりが頭の中をグルグルと回り、正利に会いたいと思う反面、会ってしまえば決定的な事実を突きつけられるような気がして怖くさえなってくる。
 だが、こんな日に限って車は、渋滞にもはまらずスイスイと確実に正利のいる場所へと近づいていく。
 それなのに、まるでぼくの頭は整理がつかずにいる。 会いたい。確かにぼくは正利に会いたい。
 しかし、正利はそうじゃない。
 だってぼくから離れようとしているじゃないか。

■すべてが正利のためだった

 考えれば考えるほど、この事実は重大なことのように思われてきた。
 ぼくから逃げていった人間に会ってどうするというのだ。
 ぼくから逃げていった人間に会って何を言えばいいのだ。
 だいたいにおいて振り返ってみると、ぼくは正利のためにばかり動いてきた。
 ぼくは正利のために施設を辞めた(=安定した職を失ったのだ)
 正利のために日焼けサロンを作った(=すべての資財を注ぎ込んで借金ができたのだ)
 そして正利のために朝から晩まで働きづめに働いた(=まさに寝る暇もないほどに!)
 正利といたくて、いつでもどこにでも一緒にいた。
 気がつけば何もかもが「正利のため」だった。
 もちろんそんなことをいちいち考えながら生活してきたわけではない。こうやって車を走らせ、正利に一歩一歩近づいている状況が、ぼくに正利の存在について改めて考えさせる機会を与え、単にぼくを感傷的で内省的にさせているだけかもしれないのだが。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第60回 あいつがいなくちゃ始まらない

■月刊「記録」2004年9月号掲載記事

*          *           *

  「あの…、この子を知りませんか?」
 見知らぬ町の一杯飲み屋で、テレビの競馬中継を前に、昼間から赤ら顔で座っていた男におずおずと尋ねるてみると、誰も彼もがみんな暇を持て余していたのか、いつのまにかぼくの周りには人垣ができていた。
 差し出した正利の写真をのぞき込み、なんだかみんながずいぶん親切にしてくれる。ためつすがめつ写真を眺めては、この子がいったいどうしたんだの、友達なのかだのと聞いてくる。
  「あぁ、見かけたねぇ、あそこの簡易宿に泊まってるよ」と、そのうちの一人が言い出した。

■北海道のおじさんと一緒に

 それはこの店の通りと同じ通り沿いにある、一軒の簡易宿泊所だった。
 取り急ぎ、宿の名前を教えてもらい、飲み屋を飛び出してはみたものの、歩き始めて改めて、通り沿いに並ぶ簡易宿泊所の多さに驚かされた。
 どの宿も1泊2,000円程度の値段で実に安い。外観からしてボロアパート風なので、まぁ、そのくらいが相場だろうとは思ったが、いったいどんな人たちが泊まっているのかと考えると、ぼくには、あまり想像ができなかった。
 教えられた宿に着き、フロントを探すが、当然ホテルのようなフロントはなく、玄関に小さな窓があるだけだ。窓をトントンと叩くと、テレビを見ていた60歳くらいのおばあさんが、振り向きざまに小窓を開けた。
  「あのう、この宿に、この子が泊まっているらしいんですが…」
 ぼくが簡単に事情を説明して写真を見せると、おばあさんは一瞥するなり、迷いもなくきっぱりとこう言った。
  「数日前までは泊まってたよ。北海道から来たおじさんと一緒にね」
 ぼくは混乱した。
 北海道? おじさん? それらはいったい誰だろう? あいつには身内は「お姉ちゃん」しかいなかったはずだ。何かやっかいなことにでも巻き込まれていなければいいが…。
 めまぐるしく考えを巡らすいっぽうで、それでも正利の生存が確認できたことが、ぼくには嬉しかった。
 大袈裟かもしれないが、ぼくはこのとき、心の中でこう叫んでいた。
  「生きている! あいつは生きているんだ!」
            *
  「なんだかねぇ、ラーメン屋で働いてるらしいわよ」
 と、おばあさんは言った。
 そうか、あいつは今、ラーメン屋で働いているのか! それは本当によかったと、ぼくは心の底から思った。 だが、それは正利のことを思っての喜びではなかった。単に自分が会いたいと思っている、あいつとの接点ができたことへの喜びだった。
 よかった! 会える! これでぼくはあいつに会える! 待ってろよ正利、もうすぐ行くからな! と、ぼくは思っていた。
 そうして、ぼくは近くのラーメン屋を片っ端から当たってみることにした。

■カップ焼きそばさえ作れないのに

 それにしても…。ラーメン屋。
 ラーメン屋だって?
 冷静に考えてみると驚くことだった。
 ぼくにはどうにもこうにも、ラーメン屋で働く正利が想像できないのだった。
 カップ麺の焼きそばを作るときでさえ、お湯を流すことを理解できず、いつでもベチャベチャのまま食べていたあの正利が? なんでラーメン屋?
 やはり、他人の噂などアテにならないのではないかと、ぼくは思った。しかし、他に探す方法もなかった。そもそもたった1人で車を流し、中国系住民が多いこの町で、ラーメン屋を全部まわることなど、端から無理なのではないか!?
 とりあえず一度、家に戻ろうとぼくは決意した。
 こうなったら時間をかけるしかないのだとぼくは考えることにした。
 日焼けサロンはこのところ、従業員に任せっぱなしになっていた。何となく最近は客足も落ちてきているという、気になる報告も携帯電話に受けている。
 とはいえ、気にしても仕方がなかった。もうここまで来たら、たとえ店が潰れてしまったとしても、あいつを探し出すことのほうを優先したかった。店のスタッフには、全員にその旨を伝えておいた。
  「思うんだけどさ、その店って、あいつのために作ったようなもんじゃない? だからあいつがいないんだったら、店なんかあっても意味ないと思えるんだよねぇ」 雇われている者の不安を煽るような、あまりにもヒドイ愚痴ではあったが、そのとき、ぼくは本気で言っていた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第59回 あいつがいなくちゃ世界は始まらない

■月刊「記録」2004年8月号掲載記事

*            *            *

 なぜこんなにも、ぼくは正利を追い求めているのだろうか。
 正利がいなくなってから、必然的に1人でいることが多くなったぼくは、そんなことばかり考えるようになった。

■失ったものはもっと大きなもの

 嘘はつく、約束は守らない、人に合わせない、仕事が長続きしない、金は盗む、怠け者…。何一つとしていいところなんて、まるでない。それなのに、ぼくはあいつのことばかり考えてしまうのだ。
 あいつを探し出さないかぎり世界は始まらない。
 いつの間にかぼくは、そのくらい極端なことを考えるようになっていた。同時に正利以外の事柄に対し、ぼくの関心は急速に薄れていった。
 何もかもに嫌気がさし、大学時代の友達、前の職場の同僚・友達、親戚、誰とも連絡を取らなくなった。連絡を取らないどころか、誘いがあっても避けるようにさえなった。
 なぜなら、ほとんど誰もが「家族」というものを構成していたからだ。そんな彼らとのつき合いは、もともとぼくにとっては苦痛でしかなかった。
 彼らは誰もが見事なまでに父親の役割を果たしていたり、夫の役割を果たしていたり、妻の役割を果たしていたりした。
 それに引き換え、ぼくは何の役割も果たせぬまま、ただ、ただ年をとってしまった人間だった。自由気ままでいいや、なんて思って四畳半の狭く汚い部屋で正利とプロレスごっこをしていることに満足していた。
 そしてある日、友達の家に行ってみると、そいつの家には庭がついていて、部屋は何個もあり、おまけに奥さんや子供までいた。昔と同じようにプロレスの話なんかして楽しそうにしてみたけれど、きっとそう楽しくはなかったはずだ。“お前はいつまでもお気楽でいいよな”なんて思われていたかもしれない。ぼくのほうだって本当は心から楽しめはしなかった。
 そうして、ぼくは足りない何かを埋めるようにして、正利に没頭していったのだ。
 だから正利を失ったとき、ふと我に返ると、失ったものは正利ではなく、別のもっと大きなものだという気がした。
 いまさら、もう振り出しには戻れない、でもみんなと同じスタートラインには、到底、到達できそうにもない……。

■万策尽きたかに思われた、そのとき

 そんな絶望的なまでの世間との厚い壁に、ぼくは気づきかけていたのだ。
 正利が帰ってきたらそれはそれで最高に嬉しいけれど、また元の生活に戻ってしまっていいのだろうか。友達や昔の同僚たちが、妻を娶り、家を建て、子供を育てているときに、ぼくはふたたび元の生活に戻ってしまっていいのだろうか。
 正利が戻れば、ぼくも必ず昔の生活に戻ってしまうことなど一目瞭然だった。
 だから、これでいいのか、探し出すことは決して自分のプラスにはならないのではないか、という葛藤でぼくの心のなかは一杯だった。
 しかしそれでもぼくは、やはり正利を探し始めてしまうのだった。お姉さんに懇願し、一緒に警察まで来てもらい、捜索願いを出した。身内の者が来たことによって、ようやく捜索願いを出すことには成功したが、事件性がないということで、警察は積極的に動いてはくれなさそうだった。
 もはや万策尽きたかのように思われた。
 あいつがいなくなってから、はや1ヶ月。結局、ぼくは何の手がかりも見つけ出すことができなかったのだ。 だが、ぼくと正利は、まだ、ぎりぎりのところでつながっていたのだった。
 これで終わりにも思えた正利とのつながりは、細い一本の糸を頼りに結ばれていたのだった。
 ある日、施設にいた頃の教え子の1人から、「正利を見た」という情報が入ってきたのだ。
 なんでも正利は荷物を抱えて、中年の男と一緒に街を歩いていたという。
 そこで、ぼくはさっそく正利の写真を探し出し、ポケットに忍ばせて、正利が中年男と歩いていたという街に出かけていったのだった。
 そこは、昼間だというのに立ち飲み屋で酒をあおり、赤ら顔でフラフラと歩く人がたくさんいる街だった。
 一杯飲み屋をのぞくと必ずテレビがあり、競馬中継が流れている。テレビには人が群がり、1レースごとに一喜一憂し、昼間だというのに誰一人として働いている気配はない。
 こんな町に本当にあいつはいるのか?
 少し不安になったが、勇気を出して人の輪に入り、ぼくは写真をおそるおそる取り出した。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/大政翼賛会がつくりだすニッポン強権国家

■月刊「記録」2003年7月号掲載記事

*            *            *

 米英軍がイラクに侵攻から3ヶ月がすぎた。すでに彼らの残虐行為は、忘れさられようとしている。米英軍はあたかも通り魔のようにイラク全土を襲撃、破壊、殺戮し、いまだに居座っている。
 あの攻撃によって死傷した兵士や市民がどれほどだったか、米英軍は公表していない。AP通信によれば、市民だけで3240人。「イラク・ボディー・カウント」によれば、最高で7200人となっている。
 米英軍の武力攻撃は、大量破壊兵器の廃棄が目的であり、それが理由で大量のイラク兵や一般市民を殺害したのである。ところが大量破壊兵器が発見されていない。としたなら、米英の犯罪性は、厳しく問わなければならない。彼らの行為は、利権のための人殺しでしかないからだ。
 まして国連安保理の承認も受けず、独断と偏見で強行した侵略である。指導者のブッシュとブレアは戦犯として裁かれるべきだ。米英が自国をイラクとちがう民主主義国家だといい張るなら、国内の議会によって厳しく批判されるべきであろう。
 これは米英国だけではない。日本の問題でもある。小泉純一郎首相は、イラクの大量破壊兵器の危険性をさかんに喧伝し、あの侵略戦争に荷担した。大量破壊兵器がイラク国内にあるか疑問視されていたにもかかわらず、国際的に孤立しているブッシュの忠実なシモベとして、おベンチャラをいいつづけて、その責任は万死に値する。日本の国会はその責任を追求しなければならない。
 ところがイラク攻撃の余勢をかって、与野党は有事関連三法を成立させた。信じがたい蛮行である。これは先月号でも批判したとおり、国会が大政翼賛会化したことをしめしている。憲法を無視して、軍国化のための法律に、90%以上の国会議員が賛成したのだから、すでに日本の議会制民主主義が死んでいるといっても過言ではない。
 いまさらいうまでもなく、日本国憲法は武力による国際紛争の解決はしないと表明し、その思想を世界に広めるようとしている法律である。また憲法は、国民が守るべき法の総元締めであり、憲法99条には天皇および国務大臣、国会議員、裁判官や公務員などが、「憲法を尊重し擁護する義務を負う」と定められている。
 有事関連三法は戦争の準備をするための法律であり、平和憲法である日本国憲法とは相容れない。つまり有事関連三法の成立は、憲法をあきらかに否定している。この国会決議に賛成した議員は、政治家としての権利と義務を放棄したのである。ミサイルへの燃料補給を理由に他国を攻撃できる法律が防衛のためであるはずがない。国会審議は黒を白といいくるめる古典的な三百代言を繰り返していたにすぎない。
「政権担当能力」をしめすため、という野望によって、民主党は賛成した。総理の座をねらっている菅直人代表は、有事法制への批判によって、アメリカの機嫌を損ねることを恐れたようだ。菅の欲望が、国民を危険な状況に追い込んだともいえる。

■どこにある!? イラクの「非戦闘地域」

 与党が成立を狙っている法律はまだある。イラク再建という名目で自衛隊を海外派兵するイラク新法案だ。1992年、国連平和維持活動(PKO)協力法で自衛隊の海外派兵に道筋がつけられ、2001年にはテロ特別措置法により戦時における自衛隊の海外出兵が合法化された。そして2003年、こんどの法律は戦地での武器弾薬や米英兵の陸上輸送まで想定している。
 自衛隊が従事するのは「非戦闘地域」に限るなどと、与党はいう。しかし米英軍にたいするテロ攻撃は、いまだつづいている。イラク国内全土が戦争状態にあることはいうまでもない。国内全域に反米英の武装勢力が潜むイラク国内で、どうやれば「非戦闘地域」を確定できるというのか。ゲリラ活動がおこなわれている「非戦闘地域」で、武器や兵士を運ぶのは、軍事行動そのものである。
 また派遣された自衛隊が攻撃される事態となれば、「自衛」という名の「抗戦」状態にはいるのは想像にかたくない。これだけ軍事作戦と一体化した任務を、戦争行為ではないというのは、夜中、他人の家に忍び込んでも、泥棒する気はなかったと言い訳するようなものだ。
 またテロ特別措置法と同様に、時限立法だから大丈夫だという議論もあるようだがとんでもない。時期が限定されているから、あるいは数年後に見直すからという理由で、これもでも国内の歯止めは次々と突破されてきた。成田空港の二期工事としての「暫定滑走路」は、ワールドカップ開催のためにつくられた。もちろんいまでも立派な「暫定滑走路」が稼働しつづけている。
 通常では認められない法律を暫定的につくりあげ、それを突破口として利用し、さらなる悪法を積みあげていく。この姑息なやり方は、国民を愚民化する悪どい政治手法でもある。
 このまま国会が進めば、有事三法の成立、テロ特別措置法の延長、イラク新法の成立と、戦争状態に大きく踏みだした、歴史的な国会となるだろう。小泉内閣の犯罪性が、将来必ず問われることになる。
 こうした法律の成立が新聞紙上を賑わす一方で、たいした審議すらなく成立したのが、心神喪失者処遇法である。過去に他害行為をおこなった心神喪失者を、精神科医と裁判官の判断で国立病院に強制隔離できる、おそるべき法律の誕生である。
 本来、医療行為であるはずの心神喪失者の入院を、治安維持に使うことは、これまでもおこなわれてきた。沖縄県に天皇が訪問したとき、地元の精神障害者が強制入院させられたことがあったほどだ。しかし治安対策や治安維持という名目で、いわば予防拘束として、一生涯、人を強制隔離できる法律などが許されるはずがない。
 おなざりの論議、そして強行採決。人は誰もが自由に生きる権利をもっている。国家に都合が悪いからと、簡単に強制収容、隔離することなど認められない。

■成立寸前だったクビ切り法

 また労働基準法の改悪も、与党と民主党の合意で成立した。改悪の背景を少し説明しておこう。
 これまでの労基法には、解雇権がなかった。たとえば無断欠席があまりにも激しく、会社に著しい損害をかけたなど、誰がみても解雇が当然というケースしか、解雇は認められていなかった。それ以外の解雇は、解雇権の乱用として規制されてきた。もちろん労働組合活動による解雇は、不当解雇行為として労組法によって規制されている。
 しかし解雇が規制されていると、簡単には企業側のリストラが進まない。いじめ抜いて自主退社に追い込むなどの方法で、企業はリストラをおこなっているのだが、この状況を強化したい自民党と財界が、労基法の改悪を狙っていた。
 当初、厚生労働省がしめした労働基準法改悪案の法案要綱には、2つの大きな問題があった。1つは、労基法に「解雇できる」との条項を盛り込んだがこと。もう1つは、不当解雇の対策として金銭解決を法律に明記したことである。「解雇できる」と法律に定められれば、立場の弱い労働者は正当な理由もなく職を失う危険性が高くなる。また金銭解決が認められれば、たとえ裁判所によって解雇無効の判決がでても、再雇用されることなくカネでの解決となってしまう。日本の裁判状況をみれば、高い補償金など期待できないことはあきらかだ。どんどん首を切り、あとからゆっくり補償金の金額を交渉できるようになれば、解雇は非常にやりやすくなる。
 幸いなことに、この2つの条項は、今回の改悪では削除された。しかしギリギリまで与党が粘り、あともう少しで「改悪案」に条項が盛り込まれていたことは、ぜひ知っておいてもらいたい。雇用を危うくする法律が、この不景気に成立直前だったのである。
 いわゆる「解雇ルール」が法律案に盛り込まれなかったからといって、改悪案に問題がないわけではない。
 最大の問題は、有機労働契約期間上限が、現行の1年から3年に延長されたことだ。これまで正社員ではない不安定な雇用は、1年ごとに更新しなけれならなかった。このような変則的な雇用の長期化を、労基法は原則的に認めていなかったのである。そのため、なるべく臨時雇用の期間を短くするよう法律が企業にたいする圧力にもなっていたのである。
 しかし今回の改悪により、臨時雇用の長期化はますます進むことになった。臨時雇用としての期間が長くなればなるほど、他社で正社員になれる可能性も低くなる。また仕事を覚え、自信がつきはじめた3年目ともなれば、労働者本人も会社を辞めにくいだろう。つまりこの改正は、臨時雇用という身分のまま働きつづける労働者を増やそうとするものなのである。

■犯罪者と接触したら、即逮捕

 今国会で審議される危険な法案の1つに、共謀罪がある。共謀罪とは、犯罪実行に着手していなくても、犯罪の打ち合わせをしただけで罰することができる法律だ。 この法律の制定が準備されていると聞き、わたしは1910年に起こった大逆事件を思いだした。この事件は、社会主義者だった宮下太吉ら4人が「爆発物取締罰則違反」で逮捕されたあと、犯人と強いつながりがあったとの理由で、幸徳秋水・大石誠之助・管野スガら12人もの社会主義者や無政府主義者を死刑にしたものだ。なりふりかまわず思想弾圧した、日本史上に残る汚点である。
「共謀」という名でこのような事態が想定できる法律が成立するともなれば、市民は思想弾圧に怯えることになる。犯罪者と交流があっただけで逮捕されるのなら、犯罪者の範囲は無限に広がる。
 このように次々と成立させてきている悪法によって、日本は強権国家へ急ピッチですすんでいる。
 有事法制は戦争時における私権の制限が特徴の1つだった。戦争に協力できない「国民」は罰する、という強権。それは国家総動員法の復活ともいえる。
 テロ特別措置法やイラク新法案は、平和憲法をないがしろにして軍事国家に歩を進めようとする悪報だ。心神喪失者処遇法や共謀罪盗聴法は、警察などの国家権力を増大させ、治安上問題だと政府が感じたらすぐさま監禁し、人権を排除できる強権といえる。
 そして労基法の改悪は、これまで政府の暴走を抑える労働運動の壊滅させる強権である。
 これまでもたびたび触れているとおり、こうした強権を牽制すべきメディアは、メディア規制3法などによって、手足を徐々に縛られはじめている。そして、さらに国民総背番号制など、コンピュータによる人間の管理と支配も進んでいるのである。
 うかうかしている間に、国民は政府に反対意見を述べることさえできないように、監視され、規制されてしまう。逆接的な意見に聞こえるかもしれないが、もし自民党の一党支配であったならば、ここまで強権的な法律が成立することはなかった。
 公明党や保守党、また防衛政策などでは自由党や民主党などの協力を得て、みんなで法律を作り上げたという自民党の言い訳が、より危ない法律を通過させている。大政翼賛国会の怖さである。
 現在は、共産党と社民党という一部の「非国民的」な政党だけが「強権法」に反対している。しかし、事態が進めば、国策に反対する少数政党のそのもの弾圧も可能になる。
 日本はいよいよ抜き差しならないところにきてしまった。国会で審議がおこなわれるたびに、国民の権利がひとつずつ消されていく。いまなにか運動を起こさなければ、戦時中の暗黒の国家にもどってしまう。その不安を、大きな声にだして抵抗していくしかない。 (■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第58回 正利のいない日々

■月刊「記録」2004年7月号掲載記事

*          *            *

 正利がいなくなってから半月が経った。
 夏の気配はすっかり影を潜め、いかにも秋らしい季節になっていた。
 それなのに正利に関することは何一つ進展していない。しかしぼくにはあきらめることが、どうしてもできなかった。
 それが、純粋に正利に会いたいからなのか、それとも正利に対する申し訳なさからきているのかわからなかったが、とにかくぼくの心は、あいつがいなくなってから不安という厚い雲に覆われたままだ。
 朝、目が覚めると心はもう不安に曇っている。
 飯を食べていても味もわからず喉もうまく通らない。店に出かけるために自転車にまたがっても、力が抜けてしまってうまく漕ぐことができない。テレビを見ていても楽しい番組など一つもない。自信もなく、不安なままで床に就く毎日であった。
 ぼくは正利を失い、不安を手に入れたのだ。
 どうやらそれだけは、間違いなかった。

■不安な気持ちに耐えかねて

 秋だというのに、真夏を思わせる陽射しが照りつけていた。
 ぼくはとうとう警察署へ行くことにした。捜索願を申請するためにである。
 不安な気持ちでいることに耐えかねたのだ。重く苦しい毎日から早く逃れたかった。暑い太陽が僕の心の不安をジリジリと焦がし、近所であるはずの警察署までの道のりが、途方もなく遠く感じられた。
 警察署の中に入り、受け付けにいた係りに事情を説明した。必死になって、何が何でも正利を探し出したいことを熱心に伝えた。
 だが、ぼくが懸命に訴えれば訴えるほど、なぜか彼女は気乗りしない様子で、ただうなずくだけであった。
 こんなに困っている人間を前にして、なぜこの人はこんなにも冷たい反応しか返してくれないのだろう。「大変ですね」も「お気持ちはよくわかります」も「よし、何とかしましょう」もなかった。ぼくはだんだんイライラしてきた。
 それでもひと通り話し終わり、ぼくは藁にもすがる思いで彼女の答えを待った。すると、ふんふんと聞いていた彼女は、こう言ったのだ。
「簡単に言いますと、神山さんが捜索願を出すことはできません」

■こんなに必死に訴えているのに

 意外な答えにぼくは愕然とした。
 こんなに困っているのになぜ。どうして捜索願いが出せないのだろう。
「なぜなんですか」
「捜索願は、ご家族の方から以外のものは受け付けられません」
 表情一つ変えずに彼女は言った。
 そうかもしれない。たしかに親族以外が捜索願を出すことは難しいと聞いたことがある。
 だけど……。
「だからさっきから言ってるじゃないですか。たしかに本当の家族ではありませんよ。だけど家族みたいに暮らしてきたんです。正利の親代わりとして暮らしてきたんですよ。あれほど説明したじゃないですか。ずっと家族同然なんだって」
 言っているうちに、思わず声が大きくなった。怒気もこもった。
 しかしさすがに警察署である。すごむ人間の相手など手慣れたものなのかもしれない。ぼくの剣幕にも彼女は顔色一つ変えずに冷たく言い放った。
「だめなんですよ。そうやって人を探し出して、金を取り立てるとか、そういう場合もありますから。そういうことに警察は加担しないんです」
 なるほど。それはそうだろう。だけどぼくは正利から金を取り立てようとしているわけじゃないのだ。
「だから、ぼくは金のことで探しているんじゃないんです。心配なんですよ。ただただ心配なんですよ」
「だめです。そもそもお探しの方は、殴ったら出て行ってしまったんですよね。そういう虐待や暴力を受けて出て行ったケースでは、探される方が探されることを望んでいないことがほとんどなんです」
 ピシャリとはねつけるように放たれたこの一言に、ぼくは絶句した。
 打ちのめされたショックで言葉を失った。
 そうか、そうかもしれなかった。考えてもみなかった。ぼくが正利を探し出して会いたいと思っていても、あいつのほうは違う気持ちかもしれないのだ。
 それどころか、もしかしたら、もう顔も見たくないと思っているかもしれないのだ。
 考えてもみなかった想像に行き当たり、不安と絶望が入り混じった混乱のなかで、ぼくは呆然と立ちつくしていた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第57回 正利のいない生活

■月刊「記録」2004年6月号掲載記事

*           *           *

 ゴミにまみれた部屋の中央に書き置きを残し、正利が出ていってから1週間が過ぎた。
 毎朝、毎夜、ぼくは思いつくかぎりの場所を走り回り、正利を捜し回った。
  「今日こそ見つけてやる」と毎回、決意して出発するのだが、結局見つけることができないまま、ぼくはゴミだらけの部屋に戻ってきた。諦めることも忘れることもできずに、喪失感だけが胸に刻まれていった。
 10日も経つと、ついに捜す場所も尽きてしまった。しかしぼくは執拗に捜索をやめなかった。あいつを探し出さないことには次に進めない。そう思っていた。
 そんなぼくの気持ちを逆撫でするような出来事もあった。あいつを捜して、あいつのお姉さんのところへ電話をかけたときのことだ。
 お姉さんはこう言った。
「もうハタチも過ぎてるんだから、どこへ行っても正利の自由でしょ」
 何という温度差だ。ぼくはひどく失望した。もちろん一緒に心配してもらおうとは思ってもいなかったが……。
 周りの人間たちも最初は心配してくれていたが、「もう諦めろ」と言いはじめた。
  「あいつも20歳を越えて自分の意志で生きてみたくなったんだよ」
  「こうして自分の意志で10日も神山君のところを離れて暮らしているなんて、あいつも人間らしくなったじゃないか」等々……。
 しかしぼくにとって、どんな意見もあいつに関するコメントはつらかった。ぼくは正利に執着し固執していた。
 諦めろと言われようとも、忘れろと言われようとも、ぼくはムキになって捜し続け、あいつの不在を周囲にアピールし続けた。周りの人間たちがあいつを忘れないでいてくれるうちは、あいつが帰ってくる希望を持ち続けられそうな気がしたからだ。
 実際のところ、あいつを待ち続け、捜し続けている間じゅう、ぼくは大失恋したかのような有り様だった。
 あいつを待っている間、一番つらかったのは、何をしていても楽しくないことだった。笑っている人、楽しそうに話をしている人をみると、腹こそ立たないがつらかった。自分も笑ってみたり、話の輪に加わってみたりするのだが、よけいに寂しさがつのってしまう。
 振り返ってみれば、正利との日々はすべてが楽しかった。クソ暑いアパートの倉庫の中だって、睡眠不足の毎日だって、貧乏だって、家族がいなくたって、思えばあいつさえいれば、すべてのことがぼくには楽しかった。 喧嘩も殴り合いも楽しかったし、あいつの顔を見れば何より気持ちが落ち着いた。どこに行くにもあいつはついてきて、そのたびに「うざったいなぁ」「1人になりてぇよ」とあいつに愚痴ったものだが、あいつがいなくなってみれば、どこへ行ったって、何をしたって、誰と一緒にいたって全然、楽しくなんかなかった。
  「心がスカスカするよ、正利」
 と、時折、ぼくは呟いた。

■原因不明の微熱に不眠

 あいつを捜している間もう一つつらいことがあった。それは「あいつを忘れよう」と無理矢理、努力することだった。
 正利に執着している反面、ぼくは「あいつを忘れさえすればこの喪失感から逃れられる」ともわかっていた。 だからぼくも自分に「あいつはあいつ。ぼくはぼく。このことをきっかけに別々の人生を歩んでいくんだ」と言い聞かせ、思い込もうとたびたび努力はしていたのだ。
 しかし、朝、自転車をこぎながら仕事場が見えてくると、今日こそあいつがいそうな気がしてくる。膝を抱えて、こきたない格好で階段にポツリと座っているような気がして仕方ないのだ。
 仕事中でも、店の自動ドアが開くたびに正利が入ってきそうな気がして振り向いてしまう。仕事が終わった帰り道では、公園の横を通るたびに、どうしても正利がうずくまっていそうな気がして横目でちらっと見てしまう。
 しかし結果はいつでもどこにもいなかった。いつまで待ってもあいつが現れることはなかった。部屋に帰り、暗く沈んだ気持ちでぼくはいつもため息をついた。
  「忘れなきゃ、忘れなきゃ」
 このままではいけない。そんな思いを感じはじめた頃から原因不明の微熱が出はじめた。体がだるく、よく眠れなくなった。このままでは本当に自分はダメになってしまう。ぼくは焦った。
 正利を失ったという喪失感を解消する方法は、今になって冷静に考えれば、他にもいろいろあったと思うのだが、当時は遮二無二あいつを探し出すことしか思いつかなかった。だからぼくは捜し続け、同時に忘れようと足掻き続けた。
 夜、風で窓ガラスがガタガタと音を立てるたびに、ぼくはハッとして振り返った。
 やはり、帰ってきてほしかった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第56回 永久の別れの予感

■月刊「記録」2004年5月号掲載記事

*          *           *

  「神山さんも大変ですね」
 正利の盗み癖を怒り、いましがた怒鳴りつけてきたと言ったぼくに向けられたスタッフのそんな一言は、ぼくを飛び上がりたいほど喜ばせた。ぼくは内心異様なほど興奮し、感激した。
 それでも、表面上はやはりいつも通りに、
  「ありがとう。もうあがっていいよ。あとはぼくに任せて」
 と言って、スタッフには帰ってもらった。
 一人になると、最近、曖昧になっていたぼくと正利との主従関係が久々にはっきりしたことにぼくはさらなる充実感を覚えた。
 そしてたとえ暴力であっても、あいつを屈服させたという事実が、ぼくの征服欲を満足させた。

■すべてを許せる思いに

 気持ちが良かった。こんなにすっきりした気分は久しぶりだった。
 これであいつとぼくは昔のような関係、つまり先生と生徒の関係に戻れたはずだ。ぼくを苦しめたあいつとぼくの濃密な主導権争いとはしばらくおさらばだ。そう思った。
 悪いことをしたら、そう、怒って怒って殴ればいい。なんて単純なんだろう。うちのスタッフだって労ってくれていたじゃないか。それでいいんだ。何を遠慮する必要があるのだ。あいつはぼくがいなければ、とっくに野垂れ死んでしまったかもしれない人間なのだから。
 だとすれば、ぼくはあいつから感謝こそされ、決して不平不満を言われる筋合いはないのだ。日焼けサロンの営業中はもとより、営業時間が終わってからも、ぼくはまだそんなことを考えながら自転車をこいでいた。
 そして、まもなく、ぼくと正利のねぐらであるはずの倉庫に着くというときになって、ぼくはとてつもない空腹感に襲われた。そういえば興奮のあまり今夜は飯も食ってはいなかったことを思い出した。
 近くのコンビニまで引き返し、弁当を三つ買った。二つはぼくの分で、もう一つはあいつの分だ。もし、あいつが二つ食べたいと言ったら、あいつに二つあげてもいい、そう思った。
 いまや何もかもを許せる気がした。あいつがお金を盗んだこと、最近ぼくに対して態度がでかいこと、やたらと絡んでくること。ぼくは最高に気分が良く、すべてがどうでもいいことのように思えていた。闘い終わってノーサイド、ぼくは都合良くそんなふうに思っていた。
 しかし、どうやらあいつはそうではなかったようだった…。
          *
 部屋に戻ると正利はいなかった。
 部屋の真ん中にゴミにまみれてわかりづらかったが、一通のあいつからの置き手紙があった。
<せんせい、いままでありがとう。おれ、ここにいると、またおかねをぬすんじゃいそうだから、でていく>
 手紙にはそう書かれていた。
  「なるほど、出ていったのだな」
 ぼくはそう思った。
 あいつが出ていったことなど一度や二度ではなかったのに、なぜか今回だけはあいつが本気だとわかった。もうあいつは戻ってこないんだ。もう出ていったんだ。何度も何度もそう思った。
 腰から下に力が入らなくなり、一面ゴミばかりの床に崩れそうになった。ぼくは何も考えられなくなり、真夜中に一人、いつまでもただ立ち尽くしていた。
 ぼくは混乱した。親でもないし、兄弟でもない。まして夫婦でもない。いつも疎ましく思っていたはずのあいつ。それなのにこの喪失感といったら……。
 いったいどういうことなんだろう。

■予測不能の喪失感

  「…はい。お電話ありがとうございます。日焼けサロンマチズモです…」
 あれほど感謝してやまなかった予約の電話が、今日は疎ましくて仕方なかった。
 眠れぬ夜から一夜明けた今朝、代わりのスタッフが来るまで自分が店にいなければならないことが、ぼくをひどく苛立たせた。
 昨夜は台風が近づいていたせいで、夜半からものすごい風と雨だった。9月だというのに、厚着をしなければならないほど冷え込んだ。それなのに、あいつは自転車に乗ったままどこかへ消えてしまった。
 無事だろうか? 無事だったのだろうか? そのことだけが頭の中をグルグルと回っていた。
 あれほど気になっていた売り上げも客の入りも、今のぼくにはどうでもよかった。たった一晩いなくなったくらいで何を大げさな、と思われるかもしれないが、それは違う。
 ぼくには、これがあいつとの永遠の別れに思えたのだ。なぜかもう二度と会えない、そう確信できたのだ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第55回 狂気への入り口

■月刊「記録」2004年4月号掲載記事

*          *           *

 まずは、その痩せているがたるんだ腹に一発パンチを入れた。思い切り? その瞬間ぼくは思い切りパンチを入れたか? 一発目を打ち終え、ぼくは自問自答してみる。
 いや違う、思い切りなんて入れているはずがない。ぼくはあいつの表情から何かを読み取りたかっただけだ。だから軽めにパンチを入れたのだ。まちがいない。
 それなのにあいつときたら「うっ!」とも「痛い」とも言わないじゃないか。
 ……合格だ。でもおまえは合格だ。いつだっておまえは合格なんだ。
「正利、おまえ合格だよ!!」心の中でぼくはそう叫んで再び拳を固めた。

■あいつのすべてを知る権利がある

 だいたいこの程度で音をあげるような奴だったら、殴ったって意味がない。こいつはぼくによって見い出され、ぼくによって選ばれ、ぼくとともに暮らすことになった奴なのだ。そんじょそこらの根性なしの若者とはひと味もふた味も違うはずだ。
 その証拠にあいつは痛がりもしなければ、逃げ出そうともしない。相変わらずぼーっと突っ立っているだけだ。それにしてもあいつは今この瞬間にいったい何を感じているのだろう。おい、正利、おまえはいったい何を考えているんだ?
 知りたい。無性に、どうしても、激しく知りたくなった。ぼくにはあいつのすべてが気にかかる。ぼくにはあいつのすべてを知る権利があるに違いない。
 再びぼくがあいつに目をやると、相変わらずあいつはダラーンと両手を下げて突っ立っている。次のパンチを出そうとした瞬間、アパートの住人がぼくたちの横を通り抜け階段を上がっていった。異様な雰囲気を感じたのか、こちら側をチラっと振り向いた。
 もう、やめようか? 一瞬ぼくはためらった。警察に通報されたら厄介だ。しかし次の瞬間には強い衝動が湧き起こり、ぼくのためらいを打ち消していた。
 今日やらなかったら、もう二度とこんな気持ちにはなれないかもしれない。こんな気持ちには、なかなかなれるものじゃない。ぼくの気持ちの正体、それは正利に対する深い愛情のようにも思えたし、積年の憎悪のようにも思えた。
 小さなガキの頃から見てきた正利、いつだってぼくを「せんせ、せんせ」と頼り、ぼくが世話をし、ぼくのものだった正利。しかし、いつだってぼくの思い通りにはならず、ぼくに迷惑をかけ、ぼくの足手まといになってきた。金を盗み、学園からは逃亡し、親方のところからは逃げ帰り、拾ってやったぼくには一度だって感謝するどころか店の金を盗んでいる。
 だけどこいつにはぼくしか頼るところがなかった。ぼくのところしかないんだ。そう思うとたまらなく愛しい気持ちが湧き起こり、同時に憎しみも湧いた。それらの相反する思いが入り混じり、入り混じれば入り混じるほど、ぼくを狂気の世界へ引きずり込んでいった。
 やがて迷いは消え去り、ぼくは確信した。
 やろう。やはり、やろう。
 今日やるしかないのだ。

■誰にもできない大変なこと

 二発目、三発目、四発目はためらいがすっかりなくなったこともあり、スムーズにまるで速射砲のように打ち出すことができた。
 左拳、右拳そして再び左拳、それらすべてが正利の顔面を正確にとらえて決まっていく。
 それからあとは……? 覚えていない。それからあとは断片すら思い出せない。なぜだろう? いったいぼくはあのあと何発殴ったのだろうか。あいつは痛がり、苦しみに身悶えたのだろうか?「せんせやめて!」と言ったのだろうか? 思い出せなかった。
 何も思い出せないことはなんだかもの悲しく、そして同時に少しぼくを安心させた。
 気がつくとぼくは日焼けサロンに戻っていた。どうやらぼくは戻るはずの時間から、かなり遅れて店に到着したようだった。そんなことは珍しいことだったので、アルバイトのスタッフは驚き、ぼくに聞いてきた。
  「どうしたんですか?」
 批判めいた感じではなく、どこか心配した口調だ。
  「いやぁ、前にも話したことあるけど、正利の奴また金を盗んでさ、まいっちゃったよ」
 努めて冷静にいつもと同じ口調でぼくは答えた。
  「そうですか、まだ治らないんですか。今度会ったらぼくのほうからも言っておきますよ。神山さんも大変ですね」
 そう、その通り。我が意を得たりだった。
 そうなんだよ。そうなんだ。ぼくは大変なことをしているんだ。どうだすごいじゃないか。ぼくは誰もやることのできない大変なことをしているんだ。
 表情にも口にも出さなかったが、内心ぼくはスタッフの言葉に過剰なくらい嬉しく反応していた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第54回 ぼくが望んだコミュニケーション

■月刊「記録」2004年3月号掲載記事

*           *             *

 ぼくが悪かった。
 まちがいない。ぼくが悪いに決まっていたのだ。ぼくが要求しすぎたのだ。
 ぼくは正利に求めすぎていた。いったいぼくはあいつに何を求めていたのだろう。
 知的に遅れがあり、親子代々盗み癖があり、幼児期に親に捨てられて、眼の焦点がいつも合わない、不機嫌そうに唇が出っぱっているあいつ。
 そんなあいつにぼくはいったい何を求め、何を期待していたのだろうか。
 あとから振り返って思う。きっとぼくは誰かとコミュニケーションをとりたかったのだ。でもそれは軽い挨拶などではないし、堅苦しい社交辞令でもない。こぎれいな部屋でテーブルを囲んだ絵に描いたような家族の団欒とやらでもない。友達、親、兄弟、恋人……残念ながらそれらはぼくにとってコミュニケーションの対象には見えなかった。ぼくは正利を必要としていたのだ。
 床が見えぬほどの汚れた部屋。今食べたものと、いつ食べたのかわからない腐りかけたものの臭いが交差する部屋。そんな密室の中で、筋肉隆々で髪の薄い中年男であるぼくと、眼の焦点が一向に合わぬ知的障害者であるあいつとの間でしか交わすことのできない形のコミュニケーション。
 それは明らかに異様な光景だった。他の誰に話してみても理解を得られるはずのない空間だ。だからこそ濃密で、一度味わえば抜け出せなくなる。
 そんなものをぼくは望んでいたのだと思う。

■修羅場をくぐってきたあいつの恐怖

 あの日ぼくは確かに正利を殴ったのだ。6発、7発、いやそれ以上だったかもしれない。それがその後のぼくを大変苦しめることになるのだが、まちがいなくあの日のぼくは、ああいった形でのコミュニケーションを熱望していたのだ。
 望んでもいたし、欲してもいたし、何より必要だった。言葉でのコミュニケーションなどじれったかった。殴らなければならない焦燥に駆られていた。
 あいつの膨らんだほっぺたをぼくは殴りたかった。あいつの痩せているのにたるんだ腹を殴りたかった。何よりあいつの怯える顔を見たかった。あいつが痛みに身をよじる姿が見たかったのだ。
 物心ついてから、数々の修羅場をくぐり抜けてきたあいつは、めったなことでは怯んだりビビったりしない。そもそも想像力が欠けているから、何かを事前に想像して怯えることもない。反応も魯鈍で、普段の会話では喜怒哀楽がほとんどない。そんなあいつがぼくの拳にビビって、目にかすかな恐怖を浮かばせる。それはぼくの存在があいつに伝わり、あいつがぼくを認識した瞬間だ。
 そんなあいつを想像すると、それだけでぼくはワクワクした。今日こそかつて味わったことのない恐怖をあいつに味あわせてやろうと思った。理由なんかどうでもいい。金を盗んだから殴った? 仕事をさぼったから殴った? そうかもしれない。確かにあいつは金を盗んだし、仕事もさぼった。でも、それらは殴ったことの理由であると同時に、理由ではなかった。
 所詮、それらは大義名分でしかないのだ。

■平静を努めて装いつつも

  「おい、正利! おまえ金盗んでんじゃねえよ!」
 ぼくは声をかけた。普通はあいつがぼくに「きゅうりょうがやすい」だの、「つかれた」だのと言いがかりをつけてくることが常であったのに、今日はいつもと反対だった。
 秋とはいえ、まだ蒸し暑い夕暮れ時、アパート兼倉庫の壁によりかかり、正利はよれよれになった半袖のシャツを肩までまくり上げ、座って気持ちよさそうにタバコを吸っていた。
 店から乗ってきた自転車にまたがったまま、いきなり怒鳴ったぼくの言葉が冗談なのか本気なのかが判別できないあいつは、ただぼーっとぼくの顔を見ている。
 ぼくも正利も無言であった。ボロアパートなので洗濯機は部屋の外にある。その洗濯機がガタガタと壊れたような音を立てていた。ぼくは自転車から降り、ゆっくりと一歩ずつあいつに近づいていった。
 あいつはぼくから何かを感じるだろうか。いや、感じはしない。いつでも何も察しはしないのだ。タバコを持つ手がだらーんと伸びきっている。あいつはあまりにも無防備だった。ぼくにとっては絶好のチャンス。うずうずした。間近まで歩いてきたぼくをあいつは見上げた。
 相変わらずまぬけな顔だ。それに比べていったいぼくはどんな顔をしているのだろう。何せぼくはウズウズしてゾクゾクしていた。努めて真面目な顔を装っているつもりであったが、どうだろう? 喜びのあまり少しニヤついているだろうか? まあ、そんなことはどうでもいい。いずれにしても数秒後、ぼくはあいつの胸ぐらをつかみ、拳を振り上げているのだから。
 あいつは恐怖のまっただ中にいるはずだ。(■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第53回 正利という迷宮

■月刊「記録」2004年2月号掲載記事

*          *          *

 しかしまあ、人間の心理とは不思議なものである。
 くっつけばくっつくほど、そして一緒にいる時間が長くなれば長くなるほど、逆に離れている相手の時間が気になって仕方がなくなるものだ。
 恋人や夫婦などの例ではよくみられる現象である。そしてなぜか、ぼくと正利もその例にもれず、とにかく寝ても覚めてもお互いを気にし、お互いを意識していたのであった。

■不可解すぎる拘束状態

 いや、ぼくと正利の関係はもう少し違う。
“意識していた”などというレベルの高いものではなく、ただ、ただ“知りたい”のだ。何でもいいから“知りたい”のである。
 所持金、何を食べたか、昨日はフロに入ったか、入ったとしたら何分くらいか、その銭湯からの帰り道はどの道を通ったのか、そんなどうでもいいことから大事なことまで、とにかく何でもいい。何でもいいから“知りたい”のである。
 正利の1日の主な仕事は、日焼けサロンで使われる大量のタオルの洗濯である。
 通常、ぼくは朝から店に出ている。正利は倉庫でタオルを洗い、たたんでいる。するともう気になるのだ。正利がタオルをたたみ終えて店に届けに来るまで、ぼくは正利のことが頭から離れずに、もう気になって気になって仕方がない。
 そしてやっと正利がやってくる。するとぼくはホッとするのだ。正直に言って嬉しい。小躍りしてしまうほど嬉しい。
 かと思えば、今日のように正利がいつまで経っても店に来ない日もある。最初、ぼくは頭にきている。とにかくあいつが現れたら四の五の言わせず頭ごなしに怒鳴りつけたいと考え、手ぐすね引いて待っている。
 しかし、待てど暮らせど、あいつは現れない。
 するともう不安で仕方がなくなるのだ。少しニヤケた顔でもいい、逆ギレしてムッとした顔でもいい。とにかくあいつに現れてほしいのだ。
 なぜ来ない? どうして来ない? 寝てしまったのか? どこかへ遊びに行ってしまったのか? そういえばこの前は近所の小学生に誘われてサッカーしに行ってしまったな。不安がぼくの心を一杯にする。仕事に追われ、一時はその不安が雲のように通り過ぎてしまっても、また一段落つくと別のところから不安は現れ、もやもやとぼくの心を包み込む。
 なぜぼくはこんなにあいつのことを心配するのだろう?
 一体どんな理由で心配や不安にかき立てられているのだろう。

■心も躍るブレーキの調べ

 あいつが現れないことのメリットなど店にはほとんどない。単に、タオルが届かなかった、ということくらいのことだ。それ以上でもそれ以下でもない。売り上げの金額が急に変動してしまうこともければ、客の入りが急に悪くなるわけでもない。
 それなのにぼくときたら気になって気になって仕方がないのだ。正利の自転車はブレーキパッドが両方削れてしまっている。だから店の前に来ると、「キッキッキッキッキッー!」と、けたたましい音がする。それによって「おおっ、正利が来たぞ!」とぼくはいつも胸一杯の安堵感に包まれるのだ。
 それなのに、それなのに、今日はあの「キッキッキッキッキッー!」という音が、待てど暮らせどまるで聞こえてこないのだ。
 こんなときに思う。あいつに携帯電話を持たせるべきなんだよ、と。でも持たせればきっといろいろな厄介なことに巻き込まれるだろうなぁ…。そんなこんなでぼくは本当に様々な、きっと世間様からみれば、限りなく不必要で理解しがたい悩みや不安を常に抱えて仕事をしているのだった。
 そのときである。
「キッキッキッキッキッー!」
 たしかに聞こえた。やっと聞こえた。正利だった。
 予定時刻を過ぎること約2時間。とうとう店に正利が現れた。70リットルの透明ポリ袋一杯にタオルを入れて、体を左右に揺すりながら階段を上がってくる。
 ぼくにはもう怒りなんか微塵もなかった。心配で心配でしょうがなかったのだから。だって、あいつと離れている空白の時間がいつもより2時間も長かったのだから。ぼくにしてみれば当然の気持ちだろう。
 誰にもわからないこの気持ち。
 そして誰にもわかってほしくないこの安堵感。
 同時に誰かに伝えたいこのハッピーな気持ち。
「ビバ!正利!!」
 こうしてぼくは正利という迷宮に、文字通り迷い込んでいったのであった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第52回 濃密な関係

■月刊「記録」2004年1月号掲載記事

*          *           *

 とくかくぼくは本当に良く働いた。
 営業時間は朝の10時から夜の12時までと決まっていたのだが、女子高生たちは登校時間であるはずの朝の8時から店に来るし、水商売などの人たちは夜中の2時だろうが3時だろうが平気で来た。
 そんな人たちに、ぼくはいちいち合わせて営業していたものだから、営業時間なんてあってないようなものであった。

■濃密な正利との時間

 開業前には、10時開店、22時閉店で十分だと想像していたから、良くも悪くもアテが外れてしまった。そんな生活スタイルのために、当然のことながらすべての友達とは縁遠くなってゆき、彼女ができても、どうにもこうにも交際が長く続かなかった。
 実際彼女から電話がかかってきても、すぐにお客様が来てしまったり、ピ、ピ、ピ、ピ、ピとけたたましくタイマーの音が鳴り響いてしまったり、電話の途中でマシンの清掃に行かなければならなかったりで、まるで会話が成り立たないのである。
 そうなると不思議なもので、望もうが望むまいが正利との関係だけが自然と濃くなってゆく。
 朝、目を覚ますと正利がいて、仕事場にも正利がいる。休み時間にどこかへ行こうとしても正利はついてくる。ハローワークに求人の手続きに行くとき、役所に行くとき、牛丼屋に行くときにも、いつでもどこにいても、あいつはぼくとともにいる。
 眠りにつき寝返りを打つと、部屋が狭すぎて正利に触れてしまう。目を開けるとそこに正利の寝顔がある。正利、正利、正利、正利……。正利とともに1日は始まり、正利とともに1日は終わる。それは1週間でもそして1か月でもやはり同様なのであった。
 そんな生活が精神衛生上良いはずもなく、ぼくは正利と些細なことで喧嘩をするようになった。

■互いに粘着な2人

  「ねぇ、せんせ」
 正利がごくごく普通にぼくに話しかけてくる。しかしそれが日によってはひどくぼくの癇に障る。
  「あぁ!? なんだよ!?」とまるで条件反射のように語気荒く答えてしまうのだ。
 しまった、またやってしまったと気づくのは、大体喧嘩になってからで、この時点では、ほとんど感情むき出しのまま何も考えていない。
  「なんなのよ! なんでおこるの! せんせはさいきんおこりっぽい! おこるのよくないっておねえちゃんいってたのよ!」
 当然というか、待ってましたというべきか、あいつは反論してくる。
  「うるせぇー!! おまえの姉ちゃんの話なんか聞きたくもねぇんだよ! この馬鹿野郎!!」
 するともう大変である。
  「ばかっていったでしょ! ばかっていっちゃいけないのよ!」
 そう言うとプイっとあいつは出て行く。何回も何十回も繰り返したばかばかしい喧嘩。しかしこの喧嘩ゆえの家出が、のちにぼくを何年にもわたり苦しませることになるのだから、正利恐るべしである。
 大抵というか当初は、プイっと出ていっても、コンビニかゲームセンターで時間をつぶして帰ってくる正利であった。ぼくも粘着質だが、あいつも相当負けてはいない。帰ってくるなりあいつは懲りもせずにぼくに再び話しかけてくる。
  「せんせ、おれ、かんがえてることあるんだけど」
  「はぁ?! もういいだろ。俺仕事に行きたいんだよ。お姉ちゃんのとこにでも行って聞いてもらえ」
 ぼくのほうは会話するのも面倒くさい。なにせこれから重くだるい体を引きずって仕事場へ戻らなくてはならないのだから。
  「せんせ、そうだんがあるんだけど」
 抑揚のない声。そして白く能面のような顔であいつはぼくに話しかけてくる。
 ははぁ、やっぱりいつもの通りだ。相談も話したいことも何もない。結局、あいつはぼくを困らせたいのだ。そして逆上したぼくに怒られたいのだ。さんざん怒ったあと、ぼくがいつも優しくなるのも知っている。そう、だからあいつは結局、先にさんざん怒られて、そのあと優しく励まされて、ぼくに笑顔で「よし、これからも一緒にやって行こうな」などと言われたいだけなのだ。
 ばかばかしい。
 そしてくだらない。
 あまりにもばかばかしい、ダメ夫婦が互いにもたれあっているようにダメなやり取り。
 しかしそんなことをぼくらは毎日のように繰り返しているのだった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第51回 陶酔の説教

■月刊「記録」2003年12月号掲載記事

*           *            *

 とにかくイライラすることの連続であった。
 朝、店に着くと掃除をしているはずの正利がいない。 探してみると、シャワー室の手前の足拭きマットの上で、気持ちよさそうに寝ているのだ。
 なるほど、いつも1時間かけてやっているはずの掃除が、10分くらいの効力しか発揮していなかったのは、このためだったのである。
 急いで正利を起こし、開店して間に合わせた。
 何せ折からのガングロブームは、とどまるところを知らなかった。
 予約の電話はキャッチホンで続けて取らなければならぬほどで、予約開始から2~3時間で、もうその日の予約が埋まってしまうほどであった。はっきり言って仕事中は、あいつがどんなミスを犯そうと、あいつにかまっている暇などはなかった。
 それどころか、お客様の手前ということもあり、ぼくはニッコリとあいつに微笑み、お使いを頼み、お駄賃をあげるという毎日であった。とにかく、「ガングロ」やガングロよりさらに焼けている「ゴングロ」という造語ができるほど、当時のお客さんたちは、黒くなることに情熱を注いでいた。
 とにかく同じ客が毎日来るのである。毎日、本当に毎日、高校生が授業をさぼって顔を焼きに来るのである。 特に、都内で一、二の偏差値を誇る(低いほうの)女子校生たちは、毎日4~5人で来るものだから、どうにも大変であった。
 4~5人で来ても、一度に焼けるのは3人だったから、必然的にロビーで待つ子が出てくるのである。外にでも出て、時間をつぶしてきてくれればいいのだが、なぜかずっとそこに居座るのである。
 気まずいから声をかけると、ぼくに向かって嬉しそうにおしゃべりをしてくるのだ。
 今、つき合ってる男の子の話、学校を辞めたいという話、変なアルバイトを始めてしまったという話など、たくさん話してくれる。無数にあるプリクラを手帳を開いて見せつつ、それはそれはたくさんの話をしてくれた。 たいていのお客さんは、正利が店にいると、とにかく奇異な目で見た。「こいつは何だろう?」という感じの目で正利のこと見るのだ。だが正利について、決して本人にもぼくにも聞いてくることはなかった。目の焦点が合ってなくて、ボーっとしていて、なんとなく気味が悪い、正利は、彼らの目にそう映っていたのではないかと思う。
 しかし、彼女たちは違った。正利に名前を尋ね、年齢を聞き、果ては好きなアイドル、なぜ正利は日焼けをしないのかまで尋ねていた。
 もともと女性が大好きな正利は、テレながら、でも本当に嬉しそうに、「ハァー、ハァー、ハイー」などと受け答えしていた。しまいにはプリクラをもらい、大事そうに持ち帰り、倉庫(寝床)の玄関に貼り付けていたほどである。そんなときには、いつも狂気じみた店長であるぼくも、さすがに嬉しい気持ちになったものである。 しかし、ぼくという人間は、自分でもイヤになるほど粘着質な男であることにも気づかされた。
 深夜、店が終わり、倉庫へ帰る。すると正利がピコピコとゲームボーイか何かをやっているのである。するともう許せない。果てしなき説教が始まるのである。ごろっと横になっていた体をとりあえず起こさせ、面と向かって、とうとうと今日の正利の犯したミスについて、話し始めるのであった。
 何せ“話せばわかる”などと、ぼくも当時はとんだ勘違いをしていたのであった。だから、あくまでも穏やかに、割と理路整然に、あいつに話して聞かせていたのである。
 長いときは朝方まで、それが延々と続くこともあった。明け方、あいつに対して情で訴える。それが毎回、どこか陶酔するほど心地良いのである。
  「な、正利、わかるだろう! オレの言ったこと、わかるよな! オレたちは本当の家族じゃない。でもなぁ、明日からも一緒に頑張ろうよ!」
 必ずそう締めていた。それはまるで自分の心の隙間を埋めるため、自分で自分自身に暗示をかけているようでもあった。
 そして、結果として、あいつは睡眠不足で、結局、また店で居眠りしてしまうし、ぼくもやはり睡眠不足で、余計にイライラするという、何ともいいことのないお説教なのではあったが。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第50回 狂気じみた生活

■月刊「記録」2003年11月号掲載記事

*           *           *

 ぼくのアパートは狭かった。歩くとカンカン鳴る鉄の階段がついた、絵に描いたような安アパートだった。店とドッグレッグスが倉庫に兼用している狭い一室に、ぼくと正利は住んでいた。正利が突然、親方のところを辞めて、転がり込んできてしまったのだからしょうがない。

■暑さ、狭さ、そして睡眠不足

 日焼けサロンがオープンして1ヶ月が過ぎた。
 7月ともなると、ぼくと正利の住んでいる倉庫は、まさに蒸し風呂状態となった。とにかく暑い。冷房はないし、風通しは悪い。じっとしていても汗が吹き出し、ぼくの洋服は1日中濡れているような感じだった。
 グレーのTシャツを着ると、最初は首のあたりが汗で濃いグレーに変色し、1時間も経たないうちに濃いグレーは広がり、全体が変色してしまうほどだった。ただでさえ忙しくて寝る暇がないというのに、せっかく部屋に戻り、睡眠のための時間を確保しても、この暑さと狭さのために、どうにもこうにも寝られない毎日が続いた。 それなのに正利ときたら、毎日、ものすごいイビキで寝ていやがるのだった。暑さも狭さもものともせずである。ぼくは睡眠不足からの苛立ちも重なり、そのことが頭にきて仕方がなかった。そしてある日ふと、睡眠を妨害してやることを思いついた。
 ペットボトルにお湯を注ぐ。もちろんペットボトルが変形してしまうほどの熱湯だ。それを正利の足や腕のすぐそばに置いておくのだ。もちろん肌が露出している部分に、触れるか触れないかぐらいの位置にして。
 すると、寝返りを打った正利はペットボトルに触れた瞬間に断末魔の叫び声を上げるのだった。そしてじろっとぼくを一瞥し、再び寝息を立てる。それを寝返りを打つたびに繰り返す。
 ぼくは正利の安眠を妨害できて、本当に嬉しかった。ある時は瞬間接着剤で正利の2本の足を1本にまとめ、またある時は寝ている顔にコショウを振りかけた。寝返りが上手く打てずに、「あしがっ! あしがっ!」と叫ぶ正利。コショウの刺激に「目が、目が、」と、うわごとのようにつぶやく正利。そんな姿を見るたびに、ぼくはニヤリとほくそ笑み、汗だくの不快をいっとき忘れ、やっと眠りにつくことができるのだった。
 こんな小学生みたいなことを30過ぎのいい大人が毎夜毎夜行っているのだから、まったくもってぼくはどうかしていた。睡眠不足と暑さとはじめての商売が、ぼくの狂気を誘発したのだと思う。
 狂気といえば、このころの部屋の汚さもまた、狂気じみていたと思う。当然のことながら、正利には部屋を片づけるという観念がなく、商売で頭が一杯のぼくにも当然のことながらなかった。だから食べかすや食べ残しはそこら中に散らばり、密室のなかでカビを生やし、腐って異臭を放った。探し物はゴミをかき分けると姿を現し、座る場所はいつもゴミの上だった。日に日にゴキブリは増殖し、いたるところに出没した。
 正利はゴキブリを恐れ、必死になって殺していたが、ぼくはもう手遅れだとわかっていた。多勢に無勢。数が違いすぎる。争ったって勝ち目がないことは明らかだった。だからぼくは、彼らと共存することを選んだ。
 寝苦しくて夜中に目を覚ますと、正利の隣に添い寝するようにゴキブリがいた。トイレに行き電気をつけると、10匹以上のゴキブリが慌てふためき逃げていった。ゴミの中から私物を探しているとき、ゴキブリが出てきても、当たり前のように素手で払って探索を続行した。
 そんな汚さにも、ぼくは慣れっこになってしまっていたのだった。極悪の環境にも狂気じみた生活にも、ぼくはどんどん順応し、不自由を感じなくなった。

■ひとつだけ困ること

 ただ、ひとつだけどうしても困ったことがあった。それは、正利の盗み癖である。
 ぼくには、忙しくてなかなか銀行へ入金しに行く時間がなかった。だからいつでもつねに、現金を持ち歩いていたのだった。
 毎日、あまりにもめまぐるしくお金が動き、財布などにいちいち入れている場合ではなく、それに最初から財布など持ってもいなかった。
 銀行でもらった封筒に現金を入れて、多いときは100万円をゆうに越える札束を紙袋のままポケットに突っ込んで持ち歩いていた。それを寝るときには、ぽんと枕元に置いておく。朝起きると札束を入れた封筒はすっかりゴミに埋もれてしまっている。
 それをうっかりそのまま置きっぱなしにして、外へ出てしまうことがあった。
 するとぼくのお金はあいつに抜かれてしまうのであった。最初は控えめに千円、2千円だったのが、そのうち、あっという間に万単位になった。(■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第49回 快調な滑り出しの裏で

■月刊「記録」2003年10月号掲載記事

*           *           *

 日焼けサロンは快調だった。ちょうど世間では、女子高生を中心にしたガングロブームが始まり、流れに乗って、とにもかくにも好調な滑り出しだった。
 以前、ぼくはこの紙面で自分のことを「常に自分にノルマを設定し、ノルマをこなしていくタイプの人間」であることを告白した。そして、この傾向は、商売が始まるとますます加速していった。
 日焼けサロンの開店とともに、ぼくには商売のことしか頭になくなった。ぼくの頭の中は、日々の売り上げ、マシンの調子、店舗の清掃、お客様の満足感、そんなことばかりで占められていった。だから自然に友達とも会わなくなったし、親にも顔を見せなくなった。テレビも見ない。音楽も聴かない。あんなに大好きだったプロレスも観ない。歯磨きの如く毎日の日課となっていた肉体鍛錬までも、とうとうどうでもよくなってしまったのだ。これには我ながら驚いた。
 自分でも自分のことを「極端だな」と思うが仕方がない。もうまるで一日中、店に関することしか考えていないのだ。なかでも、もっとも気になったのは日焼けマシンのことだった。あるとき、店のマシンにオランダ製のランプを使うとB波が2%出た。するとアメリカ製なら何%出るのだろう。はたまたその2つを交互に配列するとパーセンテージにはどのような違いが出るのか?
 ちなみに、B波とは紫外線の種類である。太陽光の紫外線には大きくA・B・Cの波長があり、B波はなかでもビタミンDの生成にかかわり、免疫力を高める効果があるという。そして良い日焼けには、A波とB波のバランスが重要となるのだ。
 ぼくはさっそく紫外線測定器を購入すると、夜中に誰もいない店内で1本1本のUV指数をたんねんに測っていった。
 しかしランプの数も200本もあるのだから、文字通り一晩中かかった日もあった。ぼくは色々な業者に電話を入れ、オランダ、アメリカ、ドイツ、イタリアとありとあらゆる国から日焼けランプの情報を仕入れては、代理店を通してランプを輸入し、日夜“最高に焼けるマシン”を追求していった。
 すると次第に「この店は良く焼ける」という噂が出はじめた。そして、瞬く間に広まった。
 店が順調にスタートできた理由には、もう一つの原因あった。オープンの時間である。
 近隣の日焼けサロンは、早くても10時のオープンであった。そこでぼくの店は朝8時から予約を開始したのだ。
 だが、それは経営戦略などではなく、単にぼくの元来からの心配症ゆえであった。
 どんなに前の日に客があふれていても、次の日、夜明けとともに心配のあまり目が覚めてしまうのである。
「今日はだめなのではないか? お客さまが入らないのでは?」
 そう思うと、もう居ても立ってもいられなくなり、朝の3時だろうが5時だろうが、おかまいなしにぼくは店に行った。そして一人マシンの調整をして、朝8時の予約開始を待つのである。
 朝になり、1本目の電話が鳴って、少しだけホッとする。徐々に電話が増えはじめ、10本目くらいから、やっと飲み物が喉を通るようになり、20本目の電話でなんとか、さぁ食事でもしようか、という気分になる。
 当時のぼくはそんなせっぱ詰まった精神状態だった。いつもピリピリしていて、何かが少しでも上手くはかどらないと当たり散らすのが常であった。
 ゴミ箱を蹴飛ばす、扇風機を叩きつける、タオルを引き裂く、いま考えるとまったくどうかしているのだが、予約の電話の最中に、相手の携帯電話の電波状態が悪くて切れてしまうと、コントロールテーブルに拳を叩きつけ、断末魔の叫び声を上げ床に崩れ落ちた。まるで狂人である。しかしお客様を1人逃してしまったかもしれないという後悔に狂いそうになったのだ。それでいて直後に電話がかかってくると、ちゃんと丁寧に対応できたのだから、おかしなものである。
 だが、そんな狂人経営者と、盗み癖のある知的障害者が、一つ屋根の下で暮らすとどうなるか……。
 いま考えると一目瞭然なのだが、当時は考える余裕さえもなかったのだろうか。
 ぼくは寝られない。
 あいつは起きられない。
 ぼくはお金を稼ぎたい。
 あいつはお金を盗みたい。
 これでは、どう考えてもうまくいくはずがないのである。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第48回 サロンオープンの前日

■月刊「記録」2003年9月号掲載記事

*          *         *

  「せんせ、おれ、ついたよ」
 6月12日。日焼けサロンオープンの前日、深夜23時。正利から電話が入った。
  「着いた? はあ? 着いたってどこに着いたんだよ」 だいたいの準備は整い、いよいよオープンだというときにぴったりやって来るんじゃねえよ。そう思っていたが、来てしまったものはしようがない。親方のところへは、あいつの性格からしてもう戻らないはずだ。予定がちょっと早まったが、まぁ仕方ない。
 ぼくは突然の出来事だったゆえ、かえって何も考えることなく腹をくくることができた。
  「せんせのおみせのちかくのえきについたのよ」
 そうか、そうか、やっぱりそうか。
  「じゃあ来い。道わかるだろう」
  「わかった。いまいく」
 そう言って電話は切れた。すると2、3分もしないうちにまた電話のベルが鳴った。
  「せんせ、ついたのよ」
  「どこ着いたの?」
 さっきと同じ質問になってしまった。
  「セブンイレブンにいるのよ」
 店の自動ドアを開けて、斜め前方を見晴らすと、あいつがセブンイレブンの前にある公衆電話から電話をかけている姿が見えた。
 あいつの姿を見ても不思議と腹が立たなかった。なんだか懐かしい光景に出くわした。そんな感覚に不意に襲われた。

■薄暗い食堂の焼きそば

 あいつを迎え入れ、帰り支度をしていたら夜中の2時になってしまった。今から倉庫のような、あのアパートに戻るのはためらわれ、その日は近くのサウナに正利と泊まることにした。
  「はぁ!? 何か食べたい!?」
 サウナに着くなり、正利がお腹が空いたと言う。昨夜、他のサウナで無銭飲食した奴のセリフとは思えない。だが、ぼくもほとんど一日中、何も食べていなかったので、とりあえず一緒に食べることにした。
 薄暗い食堂のカウンターに僕たちは隣り合わせに座り、二人とも焼きそばを注文した。店のおばちゃんは、すぐに目の前で作ってくれた。本当に目と鼻の先で作ってくれている。そんな光景が珍しいのか、正利は食い入るように見つめている。ぼくは疲れて少しウトウトしてしまった。すると「せんせ、せんせ」と正利がぼくの肩を叩く。
  「何だよ」面倒くさそうに答えると、正利が「あれあれ」と今にもできあがりそうな焼きそばを指さす。
  「あれ、カップめんなのよ」
  「はぁ?」
  「カップから出して、ナベで焼いたのよ」
  「どうでもいいよ、そんなの」
 明日はオープン。そして今はとても疲れている。どんな味の焼きそばを食べるかよりも早く寝ることのほうが大切だった。

■売り上げのわりに、一抹の不安

 そうこうしながらも、なんとか食事を終え、ぼくたちは、寝ることになった。
 ぼくは追加料金を払い、カプセルホテル形式の「寝室」で寝ることにした。
  「おまえはどうする?」
 そう聞くと、サウナのほうで雑魚寝するという。
  「おれは、このほうがおちつくのよ」
 遠慮なんかする奴ではないので、本当にそうなのだろうと思い、別々に寝ることになった。
 翌日は、朝6時に起き、ぼくたちはいったん店に行った。ビラを500枚ほど持って、駅に向かう。6月だから当然陽は出ていただろうし、暖かかっただろうが、今思い出してもなぜか薄暗く寒々しい風景しか思い出せない。
 おそらく、これから起こることに対する不安の大きさが、ぼくにそんな景色を見させていたのではないだろうか。
 ぼくと正利は道行く人に次から次へとビラを配っていった。ほとんどが真面目そうなサラリーマンばかりで、なんだか効果のほどは期待できそうもなかった。
 しかし店に戻ると、結構、お客が来ていた。ぼくはお客の予約を取ったり、実際に来た客をさばいたりと、その1日、とても忙しかった。まだ洗濯機も乾燥機もなかったので、正利には近くのコインランドリーまでタオルを運んでもらった。思ったよりも客は来てくれ、初日の売り上げは64,000円。これだけいけば上々すぎるほどの滑り出しであった。
 1日の終わりにお金を数えながら、ちらっとあいつの横顔を見た。お金を数えながら感じた満足感は、あいつの顔を見たとたんに、いいようのない不安感に変わってしまった。(■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第47回 吹き荒れるトラブルの嵐

■月刊「記録」2003年8月号掲載記事

*           *           *

 ガタイのいい兄ちゃんたちがやってきた。ぼくが購入した日焼けマシンを搬入するためにである。
 当然、搬入日までに下準備らしきことくらいはしているものと思っていたが、甘かった。何もやっていないのである。ついさっきまで稼働していた、まだ触ると熱いマシンをドライバーなんかを使って外し始めている。
 うへぇ~。こんなところからつき合わされるのかと思うと気が遠くなりそうであった。なんとかマシンをバラし、2トントラックに積んだところで0時をまわった。今日は徹夜か。そう思った。
 搬入代金を人件費分も含めて支払っているのに、なぜぼくまで手伝わされ、しかも徹夜までしなければいけないのかと思うと、少々腹も立った。
 それでもなんとかトラックでぼくの店まで運び、300キロもあるCPSを組み立て上げると、かなりハイテクで立派なものに見えた。
 あーっ、ついにここまで来たのだな、と思えば感慨深さもひとしおであった。さっそく焼いてみたい。即座にそう思った。しかし電気がまだ通っていないので焼くことはできなかった。
 電気はトランスという電圧を上げる機械を通さなければいけないらしく、それは専門の業者にやってもらわなければならない。翌朝、つまり数時間後にその業者、というかその人は現れるらしい。マシン屋のオーナーが近所の工事屋の人に頼んでくれたのだ。なにせすぐ近所に住んでいるのだから、これから先、機械に異常があってもじつに安心ということだ。メンテナンスをやらせたら右に出る者はいない、とも言われた。そしてほとんど寝る暇もなく、ぼくは朝を迎えた。

■考えられないことの連続

 明け方近くだったが、いったんアパートに帰り、朝に出直した。ぼろいアパートから店にたどり着くと、ハイテクなCPSがある。嬉しくてたまらなかった。
 10時に来るはずのメンテナンスの人を待ったが、彼はまた現れなかった。時間になっても来ないどころか、携帯電話も届かない。またか……。どうしてこう時間通りに仕事が進まないのだろうと不思議に思った。今までの常識からは考えられないことの連続だった。
 結局メンテナンスの人は、2時間後にふらりと現れた。ぼさぼさの髪。ジーンズを膝でちょんぎったその出で立ちを見たときは本当に不安を感じた。なんでも病院に行ったら、混んでいたから遅れたと悪びれずに言う。
 しかし結局マシンに電気が通ったことで、それらのすべてを許せる気分になった。だが、ここで許してしまったぼくは甘かった。その後も、縦型マシンの搬入に予想をはるかに越えた時間を要するなど、いろいろなことがあった。そして、どうにかこうにかこぎつけたオープン前日のほっとしたさなか、ふたたび事件が起きたのだ。 親方からぼくの携帯電話に連絡が入ったのだ。
  「先生、もうどうにかしてくれよ。正利のやつ、うちから出てったよ」
 いつも緊急事態のときにかけてくるので、口調は早く、少々苛立っているのだが、今日はそれに加えて、もう諦めている感じも含まれていた。
  「どうしたんですか?」
 オープン前日だということもあり、ぼくは今回のトラブルにはあまり巻き込まれたくなかった。しかし親方は今度はまくし立てるように話し始めた。
  「警察から連絡が来たんだよ。あいつ健康センターで無賃宿泊と食い逃げしやがった」
 ああ……。十分巻き込まれうる内容の電話に、ぼくは絶望的な気持ちになった。
  「今は、正利はどこ…」
 ぼくの声を遮って親方は怒りを込めて言った。
  「どこにもいないよ。そのまま逃げてるよ。もう1人の連れ残して、1人でどっか行っちまったよ」
  「じ、じゃあ、連絡があったら、親方のところへ連絡させます」
 あたりさわりない受け答えをしたつもりだったが、
  「いい、いい! 連絡いりません。どうせあいつは先生のところへ行くよ。もういい。あいつを引き取ってくれ先生。じゃあ、頼みます」
 電話は切れてしまった。
 それにしてもどこへ行ったのだろう。あいつはどこへ向かっているのだろう。本来ならばあちこち手を尽くして探すのだが、なんせ明日がオープンとなるとそれも無理だった。思案に暮れているぼくの携帯電話がちょうどそのとき鳴った。
 ボソボソとした声が、しかし反対することを許さぬ強い意志を秘め、受話器の向こうでこう言った。
  「せんせい、おれ、いまからそっち、いくから」
 もう、どうにでもなれである。
  「わかった。電車あるのか?」
  「うん」
  「じゃあ、待ってるから」
 おかしい。オープンの日など教えてはいないのに…。 これはやはり運命か!? (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第46回 商談成立

■月刊「記録」2003年7月号掲載記事

*           *            *

「いやあー、神山さん、すごいですよ。4台で290万円。ぼく業界長いけど、こんなの聞いたことありませんよ。この低予算でオープンできたらギネスブックものですよ!」
 日焼けマシン4台分の見積もりができたので、今すぐ来て欲しい、そうオーナーに電話で言われ、ぼくはとるものもとりあえず青山のオーナーのオフィスへ向かったのであった。
 青山の一等地に居を構えたオフィス。地下が日焼けサロン、一階は商談のためのオフィス、二階が自宅になっている。壁の至るところに有名人とのツーショット写真が飾ってある。ラーメン屋なんかで見ると、なんかちんけであほくさいなぁ、といった目で眺めるものだが、青山の高級住宅のなかでみると、あー、おれもいつかはこうなりたいなぁ、となってしまうのだから人間とは不思議なものである。
 それにしても290万円とは、少し予算オーバーであった。物件を借りるときにすでに予算はオーバーしてしまっているので、これ以上無理はできない。
「うーん、3台ってどうですかね? マシン3台で店、始める人なんていないですよねぇ」
 と、オーナーにおずおずと聞いてみると、
「おもしろい! それもおもしろいです。でもギネスブックに載るほどではありませんね。3台だったら170万円で結構ですよ。安い! やっぱりこれはギネスブックもんだぁ」
 と、妙にテンション高く言われた拍子にぼくはまたもや「それでお願いします」と言ってしまい、そこですべての商談があまりにもおおざっぱに決まった。
 早々搬入の日取りも決めてもらい、なんだか変な胸騒ぎはしたが、まぁ、オープンすることが先決だとぼくは無理やり自分を納得させた。

■ひっきりなしに鳴る携帯

「お祝いに食事をご馳走させてくださいよ!」とオーナーに言われ、ぼくは近くのブラジル料理の店に招待された。
 パサパサした魚料理を食べていると、「そういえば、ブラックマグナムちょっと調子悪いんですよ。だから同じクラスのcpsでいいですよねぇ」と、あまりにも当たり前のようにオーナーにサラッとそう言われた。
「え、えー?」
 とは言ってみたものの、調子が悪いマシンを引き受けるのも機会音痴のぼくとしてはちょっと都合が悪い。
「まぁいいですよ。マシンはやっぱり程度がいいほうがいいに決まってますから」と、またもや調子のいいことを言ってしまうぼくである。
「良かった。マグナム、大阪の人が欲しがってるんですよ。そっちに売っちゃいましょう。神山さんのオープンにケチをつけるわけにはいかないですからね、ここはひとつ調子のいいcpsでいきましょう」
 おや? と思わせるには十分な発言を聞き、再び少し不安がよぎる。しかし、よその業者からでは、こうは安くは買うことができない。さらに気になることがもう一つ。ひっきりなしにオーナーのもとには携帯に電話がかかってくるのだ。
 最初はさすが青山の人のビジネスというのはぼくなんかとスケールが違うなぁと思ったものだが、よく聞いているとどうも違う。明らかに苦情らしき電話が多いのだ。オーナーはといえば、「わかりました。あとで電話します」と言って電話をすぐに切る。するとそのそばから電話がまた鳴るといった具合だ。
 まぁ、初めての商売なのだから多少の不安はしようがない。
 ここでもぼくは無理やり割り切ることにした。

■搬入初日からトラブルが

 しかし案の定、搬入の日、いきなりトラブルが起きた。
 厳密にいうと、これから起こる数あるトラブルのうちの第一号である。
 その日、夕方の5時に青山の店で僕とオーナーは会う約束をしていた。しかし約束の時間になってもまるでオーナーは姿を現さない。店番のきれいな女の子に連絡をとってもらおうとしたが、携帯に電源が入っていないため無理だという。
 30分経つと約束を守らないオーナーにイライラしてきた。連絡ぐらいよこすべきだと思う。しかしそんなイライラも1時間後には“現れないのでは?”という不安に変わり、2時間後には“ただただ来てくれればいい”という懇願へと変わっていった。
 2時間後にオーナーは現れた。
 やっと現れたオーナーは、「いやぁ、待ちました? すみません」と、軽く頭を下げた。
「ちょっと待ってくださいね。作業用の服に着替えますから」
 背後には茶髪のお兄さんが2人控えている。
 この人たちが搬入するらしい。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第45回 憧れのブラックマグナム

■月刊「記録」2003年6月号掲載記事

*           *           *

 物件が見つからない。
 だが、まあ、しかし思い返せば、この頃が一番楽しかったのかもしれない。
 何せ気候がいい。季節はゴールデンウィークだ。不動産屋を探しがてら、自転車でふらふらする。どんな客層が多いのか調べるために半日近く喫茶店の窓から外を眺める。ドッグレッグスの倉庫に戻り、キックミットを枕に寝袋で眠る。どれもこれも夢の実現のための第一歩だという希望に満ちていたため、今その頃のことを思い出すとすべての場面が映画のワンシーンのように思い出される。
 絶対に成功してやる、なんて意気込みは皆無であった。ただ、ただ、正利と一緒ならうまくいくような気がする、そんな漠然とした気持ちで過ごしていた。
 ずいぶんと呑気な時期でもあった。

■日焼けサロンは個人経営

 しかし、そんな良い時期は一瞬にして終わってしまうものだ。見つからないと思っていた物件が偶然見つかったのである。
 駅から3分。商店街のメインストリート。しかも近くには高校、大学がひしめいている。何もかもが条件にかなっていた。問題の保証金と家賃は230万円と若干オーバーしていたが、それを差し引いても理想的な物件であった。
 物件が見つかれば、次はいよいよ日焼けマシンの確保である。しかし、これが後々まで、いや結局、今に至っても解決できないほどの問題の火種となるのである。
 日焼けを生業とする会社は、日本全国探しても数えるほどしかない。そのほとんどが個人経営でやっている。さらに日焼けマシンはすべて外国製。つまりマシンの輸入、発送、設置、経理まで一人でやっている。車のように正規代理店というものが存在しないのである。
 それならそれでしょうがない、と思うかもしれないが、そうもいかない。何せすべてが外国製のマシンは、電圧、ワット、部品、そういったすべてが日本製とは相容れぬ規格外なのである。
 だからランプを切れさせても、スターターを切れさせても、極端な話、ネジひとつなくなっても、秋葉原で代用品を探すことはできないのである。個人でやっている日焼け業者は、大きな倉庫などは持たないので、故障時に対応できるだけの部品のストックはないわけである。   *
 さて、そんななか、ぼくが一番最初に取り引きをしたマシン業者は、青山の自宅の地下を日焼けサロン及びショウルームにしていた。
 初めてそこを訪れたとき、青山・綺麗なフロントのお姉さん・そして何よりも今までぼくが通っていたサロンでは見ることのできなかった大型マシン、それらすべてにぼくは幻惑された。
「どうですか? 気に入りましたか?」
 いかにも金持ちのボンボンヅラしたオーナーに聞かれると、
「あー、はい。すごく気に入りました」
 と、まるでオウム返しのようにぼくは応えていた。
 でもきっと高いんだろうなぁ。そう思いつつ思い切って値段を訊ねた。
「いったい、いくらするんですか?」
「そうですねぇ、これ一番焼けますからねぇ、ほら、おまけに自動開閉機能がついているんですよ。ほら」
 ウィーンとうなりを上げながらマシンのドアが開いたり閉じたりする。こんなマシンは見たことがない。おまけに名前が“ブラックマグナム”。
 どうしても欲しい。
「あー、これ高いんでしょうねぇ」
「はい。300万円くらいです」
 このアバウトな値段設定からしてもおかしいと、後になって気づくのだが、そのときは舞い上がっていてわからなかった。そもそもそんなに高い商品の見積もりを、後にも先にもぼくはもらったことがないのである。車のように端数が出なかったことに、ここで気づくべきであった。
 しかし、とにかく頭の中は、
『あー、300万では無理無理。予算は250万円。しかも4台で! …って、そのことは電話であらかじめ伝えておいたじゃないか!』などといった憧れや不満や文句が、グルグル回っていたのだ。
 ぼくのそんな様子を見かねてか、あるいはすべてが作戦通りだったのかわからないが、オーナーはこう言った。
「良かったら、うちの今使ってるマシン持っていけばいいじゃないですか?」
「えー!? いいんですか?」
「いいですよ。150万円。マグナムをその値段で。あとの2、3台はぼくのほうで適当にそろえておきますよ」 やったー!! ツイている! そう思った。
 ぼくはそのとき間違いなくそう思い、今にも小躍りしたいのを我慢したことさえ、はっきりと覚えている。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第44回 日焼けサロンの物件探し

■月刊「記録」2003年5月号掲載記事

*          *           *

 ぼくは学園の最後の春休みを利用して、大阪のプロレスショップの見学に来ていた。『プロレス・ファン』という雑誌の広告でみつけた店だ。
 店の奥にいたおばあちゃんは、ぼくがプロレスショップを開くつもりであることを伝えると、ショップの経営者たちがこなさなければいけないプロレスラーたちとの無茶苦茶な交流のしかたを教えてくれた。
 大食いのレスラーたちをメシに連れていかなければいけないことや、興行会場で売れ残ったTシャツを押しつけられる話だ。
 おばあちゃんの話は、確かにかなり滅茶苦茶だったが、なんだかおもしろそうにも思えた。ぼくはだいぶ乗り気になっていた。
 おばあちゃんの次の言葉を聞くまでは……。
  「まあ今のは冗談だとしても。でもねえ、あなた考えたほうがいいわよ」
 おばあちゃんの目は急にマジになった。
  「もうね、この商売、本当に儲からないから」
 儲からないだろう、という予想はしていた。だから、そのことには驚かなかった。だがぼくは、だからこそ、違う答えが聞きたかったのだ。たとえば「生活するのには困らないけど、決して儲からない」とか「たいして儲かる仕事じゃないから、好きじゃなきゃやっていけない」とか。
 そんな答えだったらぼくはきっと始めていた。確実にぼくはプロレスショップを選んでいただろう。しかし……
  「このビルねぇ、私のビルなの。だから家賃かかんないの。だけどもう閉めようかと思ってる。プロレスファンの人はね、1時間でも2時間でもここにいて、おしゃべりしていくの。でも買わない。お金は落とさないわよ。全然商売ににはならないわよ」
  「そ、そうなんですか…」
  「もう絶対。全然」
  「い、いや、プロレスショップ、何がなんでもプロレスショップって思ってたわけじゃないんですよ。あー、たとえば日焼けサロンなんかもいいなぁなんて…」
  「そっちにしなさい! プロレスは商売にしちゃダメ。絶対ダメよ!」
 間髪入れずにおばあちゃんは言った。
 ……ああ、よかった。本当に大阪に来てよかった。消去法ではあったが、これで次の仕事を「日焼けサロン」1本に絞ることができたのだ。

■ケタがひとケタ違いますよ

 なにせ年度末ぎりぎりの3月31日まで働いたものだから、あらゆるスタートが遅れ気味だった。その間、正利と結束を強めるかのごとく、世田谷のあたりで焼き肉を食べていたせいもある。店のオープンは理想を言えば5月の連休中であった。遅くとも6月のはじめがタイムリミットだと思っていた。
 なぜなら、日焼けサロンが稼げるのは「5月から7月」と非常に短いのがその理由だ。
 それなのに、学園をいざ退職しても、物件すら決まってはいなかった。それどころかタンニングマシン(日焼けマシン)の発注も、広告の掲載も何も手を打っていなかったのだ。
 まあ、それがぼくのやり方といえば、いつも通りではあったが。
 とりあえず、物件探しが先決と考え、毎日、不動産屋巡りが始まった。不動産屋のオープンから閉まる時間まで、自転車でしらみつぶしに一件一件あたった。
 巡り始めてすぐに、不動産屋というのは不思議な商売だなと思った。ぼくがすぐにでも借りたいのだと言い立てても、積極的に探してくれるところは稀であった。特に不動産屋の店長や社長とおぼしき人物たちは、あまりぼくの話に興味をもってくれない。たいていはアルバイトかパートの女の人あたりしか、ぼくにきちんと応対してくれないのだった。
  「あとでFAXを流しておきますよ」と言う人たちが、ほとんどで、実際に「今すぐ一緒に見に行きましょう」と言ってくれる人はあまりいなかった。
 その理由は、徐々にわかった。
  「保証金と家賃で、最初に納める額をなんとか150万円に抑えたい」これが原因だった。
 ぼくがこう言うと、「そりゃあ無理。1ケタ、ケタが違いますよ」と何度も言われたものだった。
 駅から3分以内で商店街に面しているところで、そんなに安いところなどないというのだ。だが、必ず見つけてみせると、ぼくはかなり意気込んでいた。予定額の150万円を200万円まで上げると、何軒か内見するまでたどりつくことができる物件がみつかった。
 しかし残念ながら、これらの物件はみな駅から遠く、とても商売に向いているとはいえない代物であった。それでも最終的にそろそろ決めなくてはならなかった。そんな時期にすでにさしかかっていた。
 いつのまにか季節はゴールデンウィークを迎えてしまっていたのだ。当初の予定はすでに崩れてしまった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第43回 職業相談

■月刊「記録」2003年4月号掲載記事

*           *          *

 各駅停車の扉が開くたびに、ぼくは目を覚ました。
 3月とはいえ、夜中の冷気はさすがにこたえる。こんなことならば、朝一番の新幹線に乗るべきだったと後悔した。
 大阪に着くまでにあと5、6時間はある。寒さとお尻の痛みで寝ることを断念した。ぼくは『プロレス・ファン』というチープなつくりの雑誌を取り出し、折り目のついたいつものページを開く。
 そこには、大阪にあるプロレスショップが3軒紹介されていた。

■お客さんが初めてだよ!

 どの店にも、所狭しとプロレスグッズが積み重ねてある。オシャレさとか見た目の良さとか雰囲気を一切無視した空間。ここは「プロレスショップ」。
 そこにぼくは、正利との共同生活における未来の「ある種の予感」みたいなものを感じていた。雑然としながらも夢や楽しさがぎっしりと詰まった生活。そんなものをつい夢想してしまうのだ。
 夜中の12時に横浜を出発したのに、大阪に着いたのは朝の10時だった。
 なにせ1日で3軒のショップを廻る予定だったので、とるものもとりあえず1軒目のショップへ向かう。大阪球場のそばにそのショップはあった。裏通り、しかもまるで人通りがない。目立った看板もなく、探し出すのにひどく苦労した。
 古くさびれたビルを階段で2階まで上がると自動ドアはなかった。その入り口のドアには、プロレスの興行用ポスターが所狭しと貼ってある。
  「(通いつめるものなんだなぁ~)」などと感心してしまうほど、さびれた印象を受けた。
 ドアを押し、店内に入ると実にガラーンとしている。雑誌の広告で見るよりも広く感じる。ぼくの他に客が一人もいないせいだからだろうか。
  「(いや、平日の昼なのだから、こんなの当たり前かもしれない)」などと思いつつ店内を見回すと、部屋の端っこにレジらしきものがあり、そこにはおばあちゃんが1人ちょこんと座っていた。
 しかし、いわゆるコンビニなどに備えられているカウンターのようなものはなく、プロレスグッズが山のように高く積み上げられ、そびえさせられたものがカウンター代わりとなり、おばあちゃんの居場所をなんとか確保している。
 いきなり声をかけるのも何かためらわれるようなたたずまいなので、とりあえずぼくは店の中を一巡りした。そしてプロレスTシャツを2枚とハルク・ホーガンの歯ブラシを手に持ち、おばあちゃんの元へ向かった。
 プロレスTシャツはどうせ外では着られないだろう。スポーツクラブで着るのも恥ずかしいデザインだった。買うのはもったいないな、と一瞬思ったが、手ぶらで将来の事業相談に乗ってもらうのも失礼な話だと思い、握りしめてレジへ向かった。
 レジの前で商品を差し出すと、おばあちゃんは、ぼくが話しかけるよりも早く話しかけてきて、
  「このホーガンの歯ブラシ、お客さんが初めてだよ!」
  「え?」
  「せっかくアメリカ人のね、関係者から手に入れたのに、全然売れないの」
  「えー?」
 ぼくには少し意外に思えた。Tシャツはちょっとアレだが、ハルク・ホーガンの歯ブラシなら、ぼくならいくつでも欲しいと思ったからだ。
  「あのう、ぼく、東京でプロレスショップ始めようと思ってるんですが」
 思い切ってそう言い、障害者プロレス“ドッグレッグス”の名刺を差し出し、名前を名乗ってみた。
  「あなたがプロレスショップやるの?」
  「はい…」
  「プロレス関係の知り合いとかいる?」
  「イイエ…」
 やっぱりコネなどがないとダメなのかもしれない。それはそうだろうなと思った。
  「大変よ、あの人たち。食事に連れて行けとか、いざ連れてったら、外人のレスラーなんか連れてくるし」
  「は?」
  「たくさん食べて飲んで、でもお代はこっち持ち。しかも売れそうもない商品や会場で売れなかったTシャツなんか、みんな押しつけられるわよ」
  「はあ…」
 なんだか無茶苦茶な世界である。
 だが、「(なんだか楽しそうだな…)」と、ぼくには逆にそうも思えた。
 無茶苦茶だが、雑多で汗まみれで、好きじゃなきゃやってられない商売。苦労もある。そんなのもいいなとぼくは一瞬思った。
 次のひと言を聞くまでは。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第42回 憧れの新聞配達員

■月刊「記録」2003年3月号掲載記事

*           *          *

「オレ、やっぱり、ガソリンスタンドではたらいてみたいのよ。あこがれてるのよ」
  「オレ、しんぶんはいたつしてみたいのよ」
 と、あいつは言った。
 新聞配達? ガソリンスタンド?
 無理だよ、無理に決まっている。おまえにはできっこない。だいたいここのところ毎週のように会って、ぼくと一緒に商売をする約束をしてきているじゃないか。それまでは今の仕事を辞めないで、頑張ると約束したじゃないか。
 まったく本当にあいつはあてにならない。ぼくの話も気持ちも何一つ聞いていやしない。

■少し頭と性格が悪いのですが

 だが、しばらく考えるうちに、ぼく自身の気持ちが変わってきた。
 あいつもあてにならないが、ぼく自身も先行きは不明で、まったくあてにならないのだ。次の事業が成功するかどうかもわからない。それより何より、事業の内容さえ、まだ決めていないのだ。
 新聞配達か、うん、こりゃもしかしたら、いいかもしれないぞ。
 だいたい新聞配達とくりゃ住み込みだしなあ、そんなに頭も使わなそうだ。あいつをぼくのところに来させる前に、新聞配達で働かせてみよう!
 ぼくはそう思ったのだ。
 思うや否やさっそく、学園の近くの朝日新聞配達所にぼくは向かった。
 外から見ると、中には人のいる気配がなかった。昼飯時だったので、もしかすると外に食事に行ってしまったのかもしれない。ぼくはガラス戸を開け、薄暗い部屋の中を見渡した。そして帰ろうとした。
 すると「何かご用ですか」と奥から声がして、50歳くらいのボサボサの髪をした男が出てきた。新聞配達員が配達時に着用しているような薄汚れたジャンパーを着ている。
  「すみません。人を募集しているかどうか知りたかったもので、勝手に入りました。あのう、所長さんはいますか?」
  「ああ、私が所長ですよ。あなたが配達するの? いくつ?」
  「いえ、ぼくではありません。ぼくはすぐそこの学園で指導員をしている神山という者です。卒園生で今17歳になる男の子を雇って欲しいんです」
  「ああ、いいよ。その子、その学園から通うの? 通うの大変だよ。朝、早いから」
 いきなり雇ってもいいようなことをこの人は言う。ぼくはびっくりしてしまった。
  「いいえ、もう卒園しているので、ここに住まわせて欲しいんです」
  「ああ、いいよ。今2人やめたから部屋空いてるよ」 いきなり雇ってくれて、いきなり住まわせてくれるらしい。新聞配達とはこんなものなのか?
 ぼくは、ただただ驚いてしまって、所長も立ったまま、ぼくも立ったままだった。当の本人はいないし、所長は本人のことも聞こうともしないし、ぼくも話してもいない。
  「あのう、そいつは、実里正利という名前で、少し頭と性格が悪いのですが、だ、大丈夫なのですか? 本当に?」
 仕方なくこちらから切り出した。
  「大丈夫だよ。頭が悪けりゃ集金とか営業とかやんないで、ただ毎日配ってくれればいいから」
 なんだか、とっても簡単そうだ。
  「では、どうすればいいですか?」
  「とりあえず連れておいでよ。お宅が色々話してくれたってしょうがないから。本人連れておいでよ。そうしたら仕事教えるよ」
 ぼくはあいつを連れてくる日を決めて、販売店をあとにした。次の日曜日、所長はいきなり会ってくれるという。
  「オレ、やってみたいとおもってたのよ」
 正利に電話をかけると、弾んだ声が返ってきた。
  「よーーし! 親方には内緒だぞっ! 新聞配達で体力でもつけとけ!」
 ぼくも威勢良くそう励まして、日曜に待ち合わせることにした。
     *
 雲一つない晴れ渡った日曜日だった。
 一応、スーツを着ておいたほうがいいかと思い、前日に押し入れの奥からスーツを引っぱり出した。革靴が見つからなかったので、近所にある、学校だけを相手に商売をしているような小さな靴屋で急いで靴を買った。準備は整った。
 しかし、当日、あいつは時間通りに来なかった。
 もっと正確に言うと、あいつはその日、面接にさえも現れなかったのだ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第41回 新生活への希求

■月刊「記録」2003年2月号掲載記事

*           *           *

 学園は冬休みに入った。正式に退園表明を出してからは、ぼくはほとんど毎週のように正利と会った。場所はいつもあいつの好きなハンバーグが食べられるファミリーレストランか焼き肉屋だった。
「おい正利、おまえ、おれと一緒に仕事するだろう?」「うん」
 特に喜んでいるようにも見えない。相変わらずの無表情であった。
「おまえ、まさか今の仕事続ける気なの?」
「ううん。あんなとこ、いたってイミないのよ」
「そっかあー。じゃあ辞めよう! でも親方にはまだ言うなよ」
「うん」
「おれがおまえは辞めていい、と言うまではだめだ。さあ来い、と言うまでは、おまえは今の所で働くんだ。つらいだろうけど、我慢しろよ」
「うん」
「でも、もうすぐだからな。あとちょっとで、おれとおまえは好きなことをやって暮らしていける」
 まるでぼくは正利ではなく、自分自身にそう言っているかのようであった。

■ルーチンな日々への起爆剤

 うまくいくのか、いかないのか、皆目分からなかったが、新しい事業のことを思うと、それだけで楽しくなり、リスクは考えなかった。資金繰りにしたってなんとか開店にこぎつけられれば何とかなる。そう思っていた。 ぼくは、ただただ、今の生活が嫌になっていたのだ。学園にいれば安定した生活は保障されている。給料も良く休みもある。公務員に準ずる待遇であったため、余程のことがないかぎり、リストラでクビになることもない。
 じゃあ何か? ぼくは夢を追うために冒険を選んだのか?
 それとも微妙に違う。ただ単に普通である毎日、形式的である毎日、安定した生活に対して、何かを発したかったのだと思う。
 いや、むしろ当たり前という世界から逸脱してしまった子供たちに、常識をたたき込むかのようにみえた保母たちに反発したかったのだろう。普通であること、安定すること、社会に適応することを目標とさせる保母たちと、当たり前のようにそれを目標にする子供たち。そんな奴らに辟易としていたのだ。「つまらなくくだらない人生、無責任な人生を生き、自分たちを捨てた親」。そんな親から生まれたくせに、「オレだって人並みの大人になれる」と思い込んでいるガキ共。ぼくはそんな当たり前で、まっとうで、お利口さんな彼らすべてに何かを見せつけたかったのだ。
 ぼくは彼らにこう言いたかった。
「オレは思うよ。お前たち、無理すんなよ。保母の言うことなんか聞くなよ。何が自立だよ。何が安定だよ。何が大人だよ。オレたち大人だって、つまらない安定や普通にしがみつくくだらない存在だよ。でもお前たちがそんな道に進みたいなら進めばいいよ。オレは逆に進んでいってみる。まあ、見てろよ、お前ら」
 そのために必要だったのかもしれない。正利というヤツが。そんな世間の安定から逆行しようとするぼくの人生における実験材料に、あいつはきっとなっていたのだ。
 ぼくの「ノルマを果たし続ける人生」。その題目の犠牲者。それがあいつ、正利なのだった。
 そして、あいつはぼくにとって、まさに最適な実験材料だった。
 会うたびごとに、ぼくに自分の要求魚突きつけてくる。
 そのあたりが、自分の本音を隠して大人の顔色をうかがう学園の優等生たちとは違うところだ。
 ぼくがあれほど口を酸っぱくして「来ていいと言うまでは、今の仕事を続けろよ」と言ったのに、そうすれば「オレとお前で好きなことをやっていけるぞ」とまで言ったのに、相も変わらず、
「オレ、やっぱり、ガソリンスタンドではたらいてみたいのよ。あこがれてるのよ」
 だの、
「オレ、しんぶんはいたつしてみたいのよ」
 だのと言う。
 やはりスケールが違う。ぼくの話も気持ちも何一つ聞いていやしない。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第40回 実行の時

■月刊「記録」2003年1月号掲載記事

*         *         *

「辞めます。本当に辞めるんです。3月いっぱいで辞めさせていただきます」
 正利との共同生活を決意した今、今の施設での仕事を続けることを、ぼくは無理であると判断し、主任保母にその決心のほどを告げたのだ。
 もうぼくの目の離れたところへ、あいつを仕事に出すことに限界を感じていたからだ。
  「でもねえ、今辞められたら困るのよ。もう一回考え直してくれない?」
 少し優しそうな顔で、でも困った表情で、保母はぼくをなだめるように言った。
  「もう、決めたんです」
  「いつ?」
  「昨日です」
  「だったら考え直したほうがいいわ」
 保母の言葉にぼくは今度ばかりはきっぱり言った。
  「何度考えたって、辞めるしかありませんから」
 ここで譲るわけにはいかない。いつも、どんなときでも、ぼくは保母さんたちに従ってきた。どんなときだって、ぼくは忠実な部下でいた。でも今度ばかりはそうはいかない。
 あいつが、正利が、ぼくを待っているのだから。

■もはや理由ではなく

  「確かに何のあてもなくて、ぼくも不安です。でも、あいつは親方にも匙を投げられて、どこへも行くあてがないんです」
 この頃になると、主任保母の顔は明らかに呆れ果てたものに変わっていた。そしてこう言った。
  「あのねえ、もうちょっとマトモに考えなさい。先生ももう30でしょう。赤の他人、しかも16歳の男をどうして30歳の男が養うのよ。養っていけるの? ただの共同生活じゃないのよ。フィフティ・フィフティな関係じゃないの。正利に経済力がある? 下手すれば先生が二人分稼がなきゃならないのよ。家賃だって、食費だって、遊ぶお金だって、全部先生がやりくりしなきゃならないのよ。そんなお金ないでしょう」
 ごもっともであった。全くその通りである。しかし、ぼくも辞めるという話を出した端から、ぼくがぼくなりに温めてきた計画を言うわけにもいかなかった。だが、ぼくはその計画にかなりの自信を持っていたのである。  「大丈夫です。心配してくれてありがとうございます。とにかく、あいつも仕事辞めるし、ぼくも辞めさせてください。あいつと、とにかく二人にさせてください」 なんだか結婚を反対する親に対して、なんとか説得しようとしている気がしてきた……。
 それにしてもぼくは普段、何一つ決められない気弱な人間なのに、何だろう、この今回の気持ちの強さは。まるで揺るがないのだ。
 周りの人の意見もまるで耳に入ってこない。決められたことを、ただただ実行するのみ、という感情以外にないのだ。
 それからも保母と私の「辞める」「考え直しなさい」のやり取りは何度も続いた。
 しかし11月の下旬になり、ぼくはついに園長に直々に退園願いを出し、受理してもらった。
 その瞬間、「何もかもが終わった」という放心状態になるかと思っていたが、逆に一晩にしてすべてが動き出す気配を感じた。
 まさにぼくの計画の第一歩を実行する時が来た。
  「プロレスショップ」か「日焼けサロン」。このどちらかを今まで貯めた金と借金とで立ち上げる時が来たのだ。
 ぼくにとってはどちらでも良かった。正利とやる。正利が暮らしていける。しかも楽しくだ。それが嬉しく、大事だった。
 何故か? わからない。
 正利みたいな奴は、当時だって今だって、好きか嫌いかと聞かれれば、むしろ嫌いな部類に入る。でも何故かあいつのこととなると「何かしてあげられたらなあ」ではなく「なんとかしなければ」になってしまうのだ。
 ぼくには、子供の頃からちょっとした癖があった。
 いつも自分自身にノルマを課してしまうのだ。
 今では、朝から晩までノルマだらけだ。朝は何時に起きなければ「いけない」。シャワーを浴びるときは、ここから洗って、ここで終わらなければ「いけない」。しかもていねいに時間をかけなければ「いけない」。夜は何時までに寝なければ「いけない」。そんな類の小さいノルマがたくさんあるのだ。日に日にノルマは増えていき、今では時間が足りなくて困っているくらいだ。
 そして今までの人生最大のノルマが正利のことであった。
 正利を引き受けようとする理由を、あえて聞かれるならば、自分なりにはこう解釈できた。
 そう考えてみると、すべてにつじつまが合う。何のためか? や、利益または不利益? や、好き? 嫌い? などのすべてが関係ないのだ。なんといおうと、これはノルマなのだから。ノルマはこなさなければ次へ進めない。ノルマはぼくのなかでどんどん増える一方だ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第39回 一つの決断

■月刊「記録」2002年12月号掲載記事

*           *           *

「先生、困るんだよ。実里の奴、いきなりお姉さん連れてきましたよ」
  「…はあ、お姉さんですか…」
 土曜日の朝、また朝早くから電話が鳴った。
 朝一番の電話は、きっとろくなものじゃない。だが、居留守を使おうと思ったときにはすでに遅かった。手が条件反射で受話器を取ってしまっていた。
 電話の主は親方だった。親方からの正利に対しての苦情の電話だった。寝起きのぼくの頭は、まだほとんど働いていなかった。お姉さんが、正利の寮へ行くなんて、確かに珍しいことだとは思う。でも、それが苦情を言われるような、いけないことだとは思えなかった。
  「お姉さんが行くと、何かまずいんですか?」
  「いやぁ、お姉さんが来たとたん、二人で荷物をまとめて出て行こうとしたんだよ」
  「はあ?」
  「本日限りで“辞めさせていただく”ってお姉さんが言うんだ」
  「はあ?」
  「それで先生のところへ行くって言うんだよ。いったいこの前実里に会ったとき、何を吹き込んだんですか」  「いや、特別なことを言った覚えなんてないんですが…。あいつの悩みを一方的に聞かされていただけなんですけど。…でも、何だって“本日限り”なんて言い方をして、荷物までまとめちゃったんでしょう?」
  「お姉さんねえ、実里の給料が少ないんじゃないか?  って言うんだよ。そんなことはないって言っても、搾取してるんじゃないか?  みたいなこと言うんだよ」
  「……」
  「そんなことあるはずないでしょ。“だいたいどこからそんな話が出てきたんだ?”って聞いたらね、弟は7万円の小遣いがあるはずなのに、2万円くらいしかもらってないって言ってる、って言うんだ。実里の言うことは信用して、私の言うことは納得しないんだよ、どういうことですか、先生」
 どういうことですかと言われても困るが、たしかに親方の言う通りである。なぜお姉さんは、“あの正利”の言うことを一方的に信じてしまえるのだろう。つまりそれは、それくらい、正利との接触が少ないということだ。正利の言い分を簡単に信じて行動に移せるほど、正利を知らないということだ。
  「でも、そんなの、お姉さんに給料明細なりなんなりを見せれば済むことじゃないんですか?」
  「そうなんだ。だから見せたんだよ。見せたけど、ほら、うちは明細が手書きだろ?  コンピュータとかワープロなんてもんは使ってないんだよ。うちのカミさんが手書きで書いてるんだよ。そうしたらね、なんか怪訝な顔してね、疑わしそうな顔して“わかりました”って言って帰っていったよ。あの人はね」
  「じゃあ、よかったじゃないですか」
 寝起き頭のぼくの呑気な答えに、親方はどこかが切れたらしい。急に苛立たしげな声で苦情を言い始めた。
  「冗談じゃないよ先生、問題は実里のほうだよ。辞められなかったからって、ぶすっとしててよ、もうずっとだよ。ろくに口も利かないし、仕事もしないでボーっと突っ立ってるよ。“お前なんで仕事しないんだ”って言うと“おれ、せんせのとこ、いくから、いい”って、こうだよ。“先生のところへ行くのはかまわんから、今は働け”って言ってもダメ。もう呆れて何も言えないし周りも何も言わないよ。どういうことなんだよ、先生」
 話しているうちに、いろいろ思い出されてくるのか、親方の口調は次第に激しさを増していった。
  「小遣いはすぐに使っちまうし、その日の弁当代と往復の交通費渡しても、昼の休憩時間に全部使っちまう。それで現場の帰りには、改札のところでボーっと突っ立っててよ。“何してる、切符買え”って言っても何も言わない。ははあ、こいつ金がないんだと思って切符買ってやっても、礼も言わない」
 まくし立てるように親方は続ける。合間に言葉を挟もうとしたが、親方の剣幕に圧されて、何度も失敗した。だが同時に、親方の言葉を聞くうちに、ぼくのなかには次第にある決心が固まってくるのを感じた。
  「先生、あいつはな、結局のところ、どうよくしてやったって何とも思ってないんだ。仕事はしないけど金は欲しい、そういう奴なんだよ、あいつは」
 今までの不満が溜まっていたのだろう。さんざん苦情を訴えた挙げ句、最後の最後に親方はこう言った。
  「先生、うちはもう、あんな奴いらないんだ。迷惑なんだよ。慈善事業じゃないんだ、先生。あんたんとこでなんとかしてくれよ。今すぐだよ。半年先とか一年先の話じゃない。今すぐだ」
  「わかりました」
 自分でも驚くほどはっきりした声が出た。
 決まったのだ。これで何もかも決まったのだ。声に出してしまって自分のなかにあった迷いが一気に吹き飛ぶのを感じた。もう考えている場合じゃない。迷っている場合でもない。ぼくは心のなかに温めていたある計画を今すぐ実行するべきだと、そのとき決断したのだった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第38回 早朝の電話

■月刊「記録」2002年11月号掲載記事

*          *          *

 秋深まり、冬間近の朝、ぼくは電話のベルで起こされた。正利からだった。暗く沈んだ声。なんでも仕事を辞めるという。
 たまの休日、ゆっくりとまだ寝ていたいところに、また、やっかいな問題が割り込んできた。細かいことはわからないが、声の様子からするとなにやら事態は深刻な様子だった。
 ぼくは、今すぐ、ぼくのアパートへ来るようにと正利に指示した。すると“金がないから、こっちまで来てほしい”と言う。親方から借りればいいじゃないかと伝えても「あのひととは、口をききたくないのよ」と言う。 あきれた奴だ。何か無性に腹が立ってきた。今すぐに会ってやる必要もないか、という思いになり、
「わかった。そっちに行く。だけど昼は用事があるから、夜にな」
 そう言って、待ち合わせの場所を決め、ぼくはもう一度眠りについた。
         *
 待ち合わせ場所に着くと、かなりの人混みだった。正利を探すことができるかどうか心配になった。
 しかし、不思議なものである。すぐに見つけることができた。遠くから見ているのに、こんなに周りには人がいるのに、正利のいる場所だけに、スポットライトが当たっているように、見つけだすことは容易であった。
「待ったか?」声をかけてみる。
「あー」浮かぬ顔でも、ぼくに会えて嬉しそうな顔でもない。ただただ無表情。
「何か、麺でも食いながら話でもしようか?」
「あー」正利は、ぼくの顔を見ようともしない。
 ぼくからは、スポットライトが当たっているかのごとくあいつが見えているというのに、正利には、ぼくのことなどまるで見えていないようだ。
 レストラン街に入ると、一番手前にお好み焼き屋があった。
 ここでいいや、と、ぼくは思った。ラーメン屋を探す手間が面倒だった。
「おい、ここに入るぞ」
「……」何も答えがない。
「おい、入るぞ」
「……」
「おい、聞こえてんのか?」
「……」
「おまえが相談があるっていうから、おれはわざわざ来たんだぞ」
「……」
 何を考えているのか、さっぱりわからない。浮かぬ顔、焦点の合わぬ視線、ただボーっと突っ立っている。
「おい」と、僕が語気を強めると、あいつはようやく重い口を開いた。
「おれ、きょうは、ハンバーグがいいとおもうのよ」
「はあ!?」
 本当にあきれた奴だ。悩み事がある、相談事がある、仕事を辞めたい、と言っている人間の言葉とは思えない。だから朝っぱらからの電話なんてろくなもんじゃないと思ったのだ。
 受話器を取るんじゃなかった、心からそう思った。
「あのね、おれはハンバーグどころじゃないんだよ。時間ないの。明日も仕事があるの。ここで食うよ。ここで決まり。はい、入るよ」
 無理に店内に正利を連れ込み、席に落ち着き「仕事、やめたいんだって?」と、ぼくはさっさと話を始めた。「あー、うん」
「なんで。理由は?」
「……」
「おまえね、理由もなしに辞められるわけないだろ?」「……」
「おい、わざわざ遠くからおまえの相談に来てんだから、口ぐらい開けよ」
 ぼくがムッとし強い口調で言うと、あいつはやっと、「おれ、…みんなに、なぐられるのよ」と口にした。
「はあ、本当か、それ?」
 そのとき、ぼくたちの前に水とおしぼりが運ばれてきた。
 おしぼりを取り上げ、拭った正利の手は、あまりにも汚れていて、みるみるうちに、おしぼりは真っ黒になった。驚いてよく見ると手だけではない。服も髪の毛も、何かすべてが汚れているように見えた。いや、明らかに汚れている。正利は、もう何日も風呂には入っていないようだった。
「誰に殴られるんだ?」
「みんな」
「おまえ、そりゃあ大げさだろう」
 いくらなんでも、みんながこぞって正利を殴るわけないさ、そう言ったぼくの前で、少し不満そうに首を傾げたあいつは、
「おれ、せんせいになんていわれても、やめるからね」 と言った。
 こういうときの正利は、強情で手に負えない。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第37回 境目の日

■月刊「記録」2002年10月号掲載記事

*           *           *

 市営プールでの待ち合わせに、とうとう正利は来なかった。
 約束を守らなかった。そんなことは今までもしょっちゅうだ。日常茶飯事のことである。
 そもそも約束を守る、あるいは覚えているということのほうが、あいつにとっては、難しいことなのだから。 しかし、この「市営プールに正利と友人が来なかった」日が、思い返せば、ぼくと正利との関係の一つの境目であったように思う。
 あの日を境に、ぼくと正利との本当の意味での付き合いが始まった気がしてならない。それまでは、どんなにあいつが脱走しようと逃げようと、施設が責任を取ってくれていたが、これからはそうもいかないのだった。ましてや正利の姉は、いつでも責任を取れる距離にはいない。
 つまり、正利と付き合うこと、それに伴う責任とリスクを本当にぼくが覚悟していかねばならない日が、このあたりから始まっていたように思う。

■愚痴だらけの電話

 順調にいっていると再三言われていた正利の仕事と職場での人間関係は、じつは、すでにこのとき、破綻しかかっていた。
 仕事場でのあいつが、仕事ができないのはわかっていた。それを承知で採用したのは、親方のほうである。現に親方は、「長い目で見て一人前になってくれれば、それでいい」と思ってくれていたようだ。事実、親方は、正利には、いきなり無理な仕事はさせなかった。正利はいわゆる、見習い的な立場なのだった。
 通常、職場に入ってから、2~3か月もすると、先輩につき、同じような仕事をし始めるのだが、親方の配慮によって、正利はまだ見習い的な位置にいた。
 3か月たっても、4か月たってもそれに甘え、陽射しの強い夏、猛暑の中、汗水たらし働く同僚・先輩たちをよそに、正利は日陰でいつもぼんやり突っ立ったままでいた。
 突っ立ったままの正利は、いつの間にか手を膝にやり、次には腰を曲げ、気づくと今にも座りそうであった、という。
 そんなことが度重なると、先輩・同僚たちの不満はつのった。「あいつは見習いだから」そう親方から説明されていた彼らの感情は、だから、まず、親方にぶつけられた。
「なんで、俺たち、あいつと同じ給料なんですか?」
 同僚はこう言った。
「見習いなら、給料を減らしてもいいんじゃないですか?」
 聞いていた先輩たちも同意見であった。
 それでも親方は、施設出身者である正利には優しかった。
「あいつは、雑用をやっているんだから」
 そう言って、皆をなだめてくれていたという。
 もちろん、親方の言葉に、「まあ、ぼーっとしているけど、おもしろいやつだしなあ」と、なんとなく受け入れてくれている先輩もいた。
 しかし、雑用といっても、ジュースやタバコ・弁当の買い出し、食事の後かたづけなど、微々たるものである。到底、納得などできずに、正利に無理に仕事をさせようとする先輩も現れ始めた。
 一輪車にコンクリートを詰めて、正利に運ばせる。すると非力で要領のつかめない正利は、よろけてコンクリートをぶちまける。それ見たことか、と、先輩は、やって来て正利の頭をポカリ。
 そんなことが続いていたらしい。正利はプールでの約束を破ったにもかかわらず、以来、ぼくに頻繁に電話をかけてくるようになった。
「せんぱいが、ぶつのよ」
 思い出してみれば、そんなことをよく言っていたように思う。
 ぼくは、まだそのとき、正利の訴えをあまり気にとめてはいなかったが、正利が明るい声で、職場のことや同僚のことを話すことが、あの夏のプールの日以来、なくなっていたことは事実だった。
「つかれたのよ」
「からだがしんどいのよ」
「おかねがたりないのよ」
「どうりょうと仲良くはできないのよ」
「おやかたは、つめたいのよ」
 そんなことばかりを電話をかけてきては、延々と愚痴る日が続く。
「そんなに話したいことがあるなら、俺のアパートに来いよ」
 ぼくのほうも自然と、頻繁にあいつを誘うようになっていった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第36回 新しい生活

■月刊「記録」2002年9月号掲載記事

*          *          *

 正利の就職先が決まった。ついに決まったのであった。大阪に本社がある左官屋であった。
 実際のところ、仕事はできるのか、職場に適応できるのか、依然として不安はつきなかったが、どんな形であれ、とにかく学園から“就職”という形であいつを送り出すことができたのだ。
 なんとか担任の責任を果たすことができた、という思いに、ぼくはホッと胸を撫で下ろしていた。
 とはいえ、本当のことをいえば、きっとあいつはすぐに辞めて戻ってくる、正利に仕事なんかできっこない、ましてや続けていくことなどできるはずがない。
 ぼくはそうも思っていた。
 それは正利というやつの性格を並べたうえでの客観的判断でもあったが、どこかがぼくの希望的観測でもあるのだった。

■日々はめまぐるしく過ぎても

 4月になり、新しい学期が始まり、ぼくも新しい児童たちの担任になった。
 当たり前だが、正利とはぜんぜん違ったタイプの中学生たちの担任だ。もう、わけのわからないことで頭を悩ませることもない。
 せわしない新学期のなかで、あっという間に月日は流れていった。5月になると中間テストが始まり、ぼくは子供たちと夜な夜な勉強した。6月になると、さらに子供たちとの距離を縮めるために、ぼくはアパートに彼らを招待し、焼き肉をごちそうし、新品の布団に寝かせてもやった。
 そうして日々は過ぎていった。めまぐるしく時間が過ぎ、新しい出来事もたくさん起こった。しかし、どんなときでもぼくは正利のことを忘れることがなかった。普通は、児童がが卒園して3ヵ月も経つと、お互いに新しい生活に追われ、また慣れ、だんだんと互いのことなど忘れてしまう。
 だが、ぼくは違ったのだ。
 ときどき、ぼくは左官屋の親方のところに電話を入れてみた。すると、いつも親方の奥さんらしき人が電話口には出た。
  「正利、お願いします」と、ぼくが言うと、
  「ああ、里屋くんね」と奥さんが言う。そして、
  「さとやくーん、電話よー」と、大きな声で呼んでくれた。
 正利という呼び名ではなく、「さとやくーん」という奥さんの電話越しの声を聞くと、
(ああ、あいつは遠いところへ行ってしまったのだな)と、ふと寂しい気持ちになった。
 電話口で正利は、
  「だいじょぶよ。しごとたのしいのよ」と、いつも決まって言った。
 ただ、ぼくには、あいつの声が、そんなに弾んだ声には感じられなかった。
 気のせいだろうか、自分の寂しい気持ちがそう感じさせているのだろうか、とぼくは、受話器を眺めながらぼんやりと考えた。

■ある朝の電話

 夏休みに入ると、暑いことが苦手で、体を陽に焼くことがもともと大好きなぼくは、ほとんど毎日のように子供たちをプールへ連れて行った。
 朝一番に集合し、午前中に近所のプールでひと泳ぎして、午後には学園に戻る。そんな日課だった。
 そしてそれは、そんなある日のことだった。
 朝、珍しく正利のほうから電話が入ったのだ。
  「せんせい、いまから、そっち、いっていい?」
 まったく唐突な正利からの連絡だった。だが、正利が唐突なのは、いまに始まったことではない。そしていつもとは違い、電話の声はとても明るく弾んでいるように聞こえた。
 話を聞けば、夏休みをもらうことができて、3日間続けて休めるのだという。
  「あー、いいよ。いいよ。来いよ。でも、ほら、他の子もいるからさ、昼寝の時間には学園に戻らなきゃいけないんだ。でも、今からそっちを出れば間に合うだろう?」
 ぼくも思わず、陽気な声を出していた。
  「だいじょぶよ。きょうは、ともだちもつれていくのよ」
 友達さえよければ、正利ともどもぼくのアパートに泊まっていけばいいのだ。久しぶりの懐かしさも手伝い、ぼくは単純にそう思い、楽しい気分になった。
 正利とは、市営プールの前で待ち合わせをして電話を切った。
 しかし、昼寝の時間になって、学園に戻る時間になっても、正利からも、その友達からも連絡さえ入らなかった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第35回 就職活動の苦難4

■月刊「記録」2002年8月号掲載記事

*           *            *

「無理を承知の上ではありますが、何とかこいつを雇っていただけないでしょうか」
 だだっ広い、いつもは礼拝をするための講堂に正利を呼びつけ、現れた正利の叔母を前に、ぼくは単刀直入に懇願した。
「わかっていますよ。この子のことは、いつも頭の片隅にはあるんですよ」
 さすがに歳を重ねているだけのことはある。姉とは違い(先ほどの嫌味たっぷりの口調は置いといて)、いかにも信頼できそうな叔母の対応である。
 希望の光を見た思いがし、ぼくはすがりつく目をして次の言葉を発した。
「叔母さんと直子姉さんの間で、いろいろな事情があることはわかります。でもそれって、正利とは関係ないことだと思うんですよ」
 どうかここはひとつ! 手を揉み合わさんばかりに頼み込むぼくの前で、叔母はしばらくうつむき考えていた。そして、しばらくすると何かを決意したかのように、おもむろにきっぱりと頭を上げた。
「今、うちはですね。元首相のお宅に仕事に入らせていただいております。バブルが弾けた今、この仕事をしくじるわけにはいかないんです。今、正利を使う余裕は、うちにもないんです。先生」
 あまりのきっぱりした態度と口調には、相手に二の句を継げさせない頑なさが読み取られた。ぼくは思わず言葉を失った。
 ……ああ、やっぱり、またか。
 まただ。とうとう親類にまで正利は断られたのであった。

■最終兵器使用

 仕方なく、再び就職先探しの日々が始まった。
 正利の中学校の先生と一緒にハローワークめぐりの日々である。
 最初は、障害者が働くための更正援護施設を探していたが、職員と話をしてみると、案の定、障害者手帳を持たぬ正利には無理な進路なのであった。
 そして苦心惨憺のあげく、やっと見つけたのが住み込みの建築業。左官屋である。
          *
「何でこの仕事やりたいと思ったんですか?」
「わかりません」
「仕事の内容はわかってるかな?」
「わかりません」
「じゃあ仕事のことはとりあえずいいや。何か特技は?」
「バスケです」
「ああ、バスケットボール。得意なんだ。部活動か何かやってるの?」
「いいえ」
「じゃあ、そんなに上手いってわけじゃないんだね」
「いいえ」
「じゃあプロの選手になれるほど上手いの?」
「わかりません」
「……もしかしたら、大阪とか、静岡とか、今、住んでいる所から遠い所で仕事するかもしれないんだけど、大丈夫?」
「はい」
「じゃあ、勤務地の希望は特になしでいい?」
「わかりません」
「どこでもいいのかな? とりあえずは」
「わかりません」
 以上が、正利と面接官とのやりとりである。
 ぼくはこのやりとりを隣で聞いていて、思わずうなり声を上げそうになった。
 正利、おまえやればできるじゃないか。ぼくの隣にいる正利がどんな質問に対しても間髪入れずに受け答えをしている。
 正直驚いた。今日まで、あいつに対して行ってきた「最終兵器・反復練習」がここまで有効であったとは。
 最終兵器・反復練習のポイントはこうだ。
 ①はっきりわかることには答えてよし。
 ②ちょっとわかることには「ハイ」。ちょっとわからないことには「イイエ」。
 ③なんだかわからない質問には「わかりません」。
 この3つだけを徹底してぼくは反復させた。そして、今まさに、あいつは無表情ではあるが、確実に受け答えしているのだ。日頃の返事ナシ・相槌ナシ・挨拶ナシのあいつではもうないのだ。
(…もらった。この面接はいただいた)
 ぼくはそう確信した。
 そして、正利の就職先が決まったのである。ついに決まったのである。
 大阪に本社がある左官屋である。
 仕事はできるのか、どのくらい続けることができるのか、依然として不安はつきないが、しかし、どんな形であれこの学園から“就職”という形で、あいつを送り出すことができるのだ。ぼくはホッと胸を撫で下ろした。 責任は果たした。とりあえず、なんとかなった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第34回 就職活動の苦難3

■月刊「記録」2002年7月号掲載記事

*       *        *

 鉄鋼所が設置した面接会場にたどり着く。汗を拭きつつ面接官の前に座ると、工場長はなにか、そのへんにいる近所のおじさんといった風貌の人であった。
 中肉中背の全身には特にこれといった特徴もない。ただ、スラックスに現場特有の制服のような作業着を着た姿だけが、工場長の雰囲気を醸し出していた。
 話を始めると、工場長は気さくな方で、時間ギリギリに汗を拭きつつ到着したぼくたちに皮肉の一つも言わず、仕事の内容、就業規則について、いろいろな話を事細かに説明してくれた。
 しかし、しかしである。あいつときたら……。
 挨拶なし。返事なし。相づちなし。愛想なし。そして表情なしのナイナイづくしである。
 とうとう面接のはじめから終わりまで、結局、何もせず、一言も声さえ出さなかったのだ。
 まるでぼくが、このぼくが、面接を受けているかのように、あいつのすべてを代弁していただけだった。
 帰り際、会場を出ようとすると、主任が小走りでこちらに向かって走ってくるのが見えた。何か言い忘れたことでもあるのかと立ち止まり、
  「どうしたんですか?」
 と訊ねるぼくたちの前で、ぼくではなく、正利の正面に立ちはだかり、彼は言った。
「だめじゃないか、返事くらいしなきゃ、挨拶くらいしなきゃ! 最低限のことだろう!」
 吐き捨てるようにそれだけを言うと、主任は立ち去っていった。
 ぼくは、彼の後ろ姿を眺めながら、心のなかでつぶやいた。
(また、だめか。ああ、またなのか……)

■八方塞がりの面接練習

「おい、違うだろう。トントンってドアを叩くだろ、それで“どうぞ”って言われたら、“失礼します”って言って入ってくるんだよ」
 ドア越しに、ぼくは大声で正利に注意する。
 それにしても…。何回やってみても全然だめなのだ。 面接の練習を始めてはみたものの、にっちもさっちもいかないことを改めて知った。これじゃあ落ちても当然だ。
 返事もなし。挨拶もしない。相槌も打たない。ヒョロっとしたやたらに色の白い分厚い唇の男。そんなヤツはどこにも行くところがなくて当然だ。
 いずれにしても、製本所・畳屋・鉄鋼所すべてがダメだった。おまけに「まずは職業より、住む場所から確保してはどうか?」という主任の最後のアドバイスに従って受けたY市の南区にあるグループホームも落ちた。これは入所資金が不足していたためだ。
 八方塞がりとはこのことだ。もう、ほとほと嫌気がさしてくる。
  「もう一回やってみな」
 トントン「…しつれいします」
 相も変わらずもぞもぞと、くぐもった声を出しやがる。この声がいつもぼくを苛立たせる。
  「聞こえねーよ! 声が小っちゃいんだよ」
  「でも、言えるようになっただけでも進歩だよ、先生」
 面接の練習を手伝ってくれているサエコが、ぼくの苛立ちを見かねて口を挟んだ。
  「そうだよなあ、そうとでも思わないとやってられないよなぁー」
 思い起こせば姉の直子が、約束通りにきちんと正利を引き取ってくれさえすれば、こんな苦労はしなくてもすんだはずである。
 あるいは、そもそも直子が“引き取る”などと言い出さなければ、国立にいる正利の叔母の家業である、左官屋に入れるための段取りを最初から取っていた。
 ぼくはしばし考え込み、そしてハッと気づいた。
(そうだ! 叔母だ。イチかバチか。あの叔母に連絡を取ってみようではないか!)
 直子と国立の叔母は犬猿の仲といってもいい。今、姉の直子を差し置いて、叔母と連絡を取り合うことは、ひょっとしたら大変まずいことになるのかもしれなかった。あんな姉でも正利は、直子のことを慕っている。
 だが、しかし、ぼくは頼りにならない姉よりも、経済的にも精神的にも自立しているであろう叔母を頼ってみるべきだとこのとき気づいた。
 もしかすると、すんなり、過去のことはさておいて、正利の左官屋入りが決定するのではないか? などと、甘い考えが首をもたげてきた。
        *
  「しかしねぇ、それにしても気持ち悪いほどそっくりねえ。あの姉さんに。ああ、なんか思い出してきちゃった。ああ、いやだ」
 叔母は正利を見るなりそう言った。久しぶりの対面だというのに、懐かしむどころかその物言いは、むしろ皮肉に溢れていた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第33回 就職活動の苦難2

■月刊「記録」2002年6月号掲載記事

*          *          *

 その日はなぜか11月だというのに、少し動くと汗ばんでしまうほど暖かい春を思わせるような陽気だった。駅のホームから電車が来るであろう方向へ目を向けると、線路が立ち昇る水蒸気でユラユラと揺れて見えるほどであった。
 こんな陽気なのに、ぼくはスーツにネクタイを締め、同様に正利もブレザーにネクタイといういでたちであった。
(今日はしくじるわけにはいかない)ぼくはそう思った。これ以上この正利のためだけに時間を割くわけにはいかない。今日は正利の面接であった。
 ぼくには、正利のほかにも受け持っている担当児童がいる。そのなかの一人が、先日学園に火事を起こした原田だ。彼のことも気にかかっていた。
 高校3年である原田は、会社からすでに就職内定を受けてはいたものの、火事による精神的なショックから、未だにほとんど口も利けぬ状態であった。
 しかし週末には、そんな原田を連れて、ぼくは内定先であるY市の工場へも行かなくてはならない。
 一部の企業には、内定を出したあとに、施設の出身者に対してもう一度、出生やら生い立ちやらを調べるところがある。とはいっても、いざ担当者に会ってみると、意外と施設そのものへの知識は少ない。
 素行が悪くて施設に入れられたのでは? どこかに障害があるので施設に入っているのでは? などと思っている人たちがほとんどだ。
 そこでぼくはまず、彼らに「施設に入ったのは、この子自身に問題があるのではなく、この子の親に養育能力がなかったからなのだ」ということを説明しなければならない。
 まあ、この2点さえ理解してもらえれば、たいていの担当官は、すぐに納得し、安心してくれるのだが。
 だが、原田には火事の件もあった。火事の原因は、原田によるタバコの不始末なのだ。
 火事のこと秘密にしておくべきか、ぼくは迷っていた。正直に言ってしまえば、原田の内定は取り消されてしまうかもしれない。そうなると原田は、火事のショックに加えて、さらに心労を重ねてしまうことになるだろう。

■あわや遅刻!? の面接会場

 それにしても、いつまでたっても電車が来ないのだった。
 余裕をもって学園を出て来たぼくと正利であったはずなのに、刻一刻と面接の時間は迫ってくる。そもそもこの路線は、工場の従業員たちの送迎のために造られたようなもので、一般の人間にとっては、あまり利用価値のあるものではないらしい。時刻表を見ると、朝と夕方には本数が多いのだが、昼間は極端に少なくなっている。 苛々しつつ電車を待ち、やっと来た電車にぼくと正利は飛び乗った。腕時計を見ると、なんとか面接開始の20分前くらいには到着できそうだ。そこで、工場の名前がついた駅でぼくたちは条件反射のように飛び降りた。すぐ目の前には、工場の正面玄関があり、ぼくたちは息を切らして建物に飛び込んだ。
 だが、受付で面接すべき部署名を告げたぼくたちに、なんということか、受付の人は、面接会場は隣の駅だという。
 そんなバカなと思ったが、事実なのだから仕方がない。急いで時刻表を確認してもらうと、次に電車が来るのは30分後。ああダメだ。間に合わない。完全に遅刻である。隣の駅まで徒歩で何分かかるか、血相変えて尋ねるぼくに、「20~30分でしょう」と、またまた受付の人は軽く言う。
「20~30分」という表現は、普段よく使い、よく使われる言葉である。しかし、こんなときの曖昧な表現には、本当に苛々させられる。20分ならギリギリ間に合うし、30分なら遅刻である。10分も面接に遅刻したら、まず落ちると思ったほうがいい……。
「正利! 歩くぞ」
「あぁー」
 歩くしかないのだ。必死になって線路の脇を、ときどき走りながら歩いた。道に迷うことはなかった。工場は隣の駅まで間違いなくつながっているほど大きなものだったから。
 汗まみれになって、なんとか会場に、時間ギリギリに到着したぼくは、思わず天を仰いだ。まだ、ぼくたちには運が残っているようだ。あとは約束の部署へ向かうだけだ。
 会場は、だだっ広い体育館であった。部署といっても、おのおのが部屋で仕切られているわけではなく、フロアのあちこちに、机がかなりの間隔をあけて点在している。その机のかたまり一つひとつが一つの部署になっている。そんな感じであった。
「どうも、こ、こんにちわ、よろしくお願いします」
 汗を拭きつつ、ぼくは工場長と、先日学園で会った主任に頭を下げた。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/恥をむき出しにする政府とマスコミの癒着

■月刊「記録」2003年8月号掲載記事

*         *         *

 自衛隊出兵法案ともいえる、イラク復興支援特別措置法案が衆議院を通過した。いま、参議院で審議がおこなわれている。
 不法な米英軍のイラク侵略を批判しないばかりか、その暴虐行為に共謀し、荷担した小泉純一郎首相は、有事関連三法を成立させた余勢をかって、この法案を成立させ、総裁選をも乗り切ろうともくろんでいる。選挙民は愚弄されるばかりだ。
 これにたいする新聞の論調は、いっかんして冴えない。読売・産経などの政府御用新聞は、むろんイラン特措法に賛成の論を張り、朝日・毎日がかろうじて批判に傾いているのみだ。
 このように日本の報道機関は戦争にたいし、きわめて弱腰な対応になっている。いまさら読売・産経などを批判しても、という感情がないでもないが、しかし戦争に無抵抗な新聞にたいしては、批判しつづけなければならない。

■老獪な政府御用新聞のやり口

 産経新聞7月5日の朝刊は、一面トップに、尾道市教育次長の自殺記事を押しだしてきた。産経新聞では社会面トップでも同件をあつかっている。この事件は広島県尾道市教育委員会の山岡將吉教育次長(55)が、乗用車の後部座席で首をつって自殺した事件である。
 広島県では1999年2月にも世羅高校の石川敏浩校長(58)が自殺する事件が発生した。これは当時の文部省から派遣された辰野裕一教育長の強権的な指導に起因している。辰野裕一教育長が強行した、日の丸掲揚と君が代斉唱の業務命令に抵抗しきれなくなって自殺したものである。
 自民党は、この事件をことごとく広島教職員組合の責任にし、その死を利用して、日の丸・君が代の国旗・国歌としての法制化にもちこんだ。こんご、同様の混乱が起こることを防ぐためという名目であった。
 今回の山岡教育次長の問題では、先の3月9日に高須小学校に、民間校長として赴任していた慶徳和宏校長(56)が自殺するという事件が発端になった。慶徳校長もまた、教育委員会の強硬な方針に抗しきれず、過労と心労をたかめていた。慶徳校長は、休暇や転任の希望をくり返し提出していたが、広教委は対応せずに放置し、自殺に至らしめたものである。
 山岡教育次長は、亡くなった慶徳校長の指導役にあたっており、またその後の事件への対応にも追われていたが、とうとう過労からこんどはみずからが自殺した。これも文科省直属の教育委員会の被害者といえる。
 このように自殺があいつぐ広島県の異常な管理強化体制という問題にはいっさい触れず、あらゆる責任を広教組に押しつけようとする新聞の姑息さは憤懣きわまりない。
  さらに産経新聞の一面記事にいたっては、「尾道市教育次長が自殺/民間校長自殺調査、組合反発に悩む?」と見だしをつけ、事実関係のはっきりしないうちに、組合問題に「?」をつけてまでも、あたかも民間校長が自殺した原因に、組合からの強烈な批判があったかのように印象づける老獪さである。広島県では98年の文部省による「是正指導」という締めつけ以来、校長5人をふくめて12人が自殺する異常事態である。
 広教組には、さる6月27日夜にも、組合書記局に銃弾が2発発砲されるという重大な事件が発生したばかりだ。産経新聞はこれにたいしなにひとつ言及せず、ひたすらに組合攻撃を強めている。このように校長の自殺などがあると、鬼の首を捕ったように即座に教組のせいにするやり口ひとつをみるかぎりでも、文部科学省と右翼新聞が一体となって日教組攻撃をしている構図が浮かぶ。 今回の一面トップ記事は、産経新聞の体質をあらわしたものだが、読売ばかりか、朝日まで、社説で県教委と県教組の対立が原因としている。権力の横暴への抵抗を対立とよそおった表現は、犯罪的だ。マスメディアは、国に抵抗するものを「やりすぎ」といって血祭りに上げることによって、権力を擁護してはいけない。

■憲法の誇りを砕く米追従小泉政権

 新聞といえば、『創』8月号には、安田純平という元信濃毎日新聞記者の手記が掲載されている。「イラク戦争取材のために新聞社を辞めた」と題されたこの手記によると、安田記者は米英軍のイラク攻撃直前、バグダッド市内で現場の生の声を取材することが記者の使命と考え、自分の手もちの休暇を使って取材にいかせてほしいと会社側に申し入れた。それも拒否されたことを契機に1月に退社した。
 信濃毎日新聞社が安田記者にしめした回答には、「イラクの戦争など長野県と関係ない。取り上げる必要もない。そうした取材はもういっさいさせない」と、にべもないものであった。安田記者は、イラク攻撃開始の2ヵ月前、昨年の12月にも市民グループとともに休暇をとって現地入りし、取材している。
 湾岸戦争以降もつづいた、米軍による空爆の被害や劣化ウラン弾の影響を追いかけたのだが、じつはこの取材も、一度は会社から却下され、仕方なく自分の休暇をつかって現地入りしたものであった。
 米英軍のイラク攻撃当時、日本の大手新聞・テレビ局の記者たちは、現場を引き上げてしまい、爆撃下でどのような状況が展開されていたかについては、外国の通信社やフリーの記者の報道を待つしかなかった。
 日本のマスコミは危険な場所に自社の社員を派遣しないという方針を貫き、安全地帯にのみ記者を置くようにしている。このような取材制限に不満をもつ記者のひとりが、安田記者であった。
 空爆下にある現地住民の表情を伝えることが記者の任務である、ときわめてまっとうな主張をし、取材を願いでたひとりの記者に圧力をかけ、退職に追いやったのが、歴史もふるく、言論に気を吐いてきた信濃毎日新聞だっただけに残念だ。それが最近の新聞社の低迷をよくあらわしているようだ。
 一方、政府はといえば、戦争準備法案である有事三法を成立させたのみならず、こんどは、いまだ戦場であるイラクに、自衛隊を派遣する法律を成立させようとしている。どさくさまぎれの既成事実づくりだ。きたないやりかたである。いうまでもなく日本国憲法では、「国権の発動たる戦争」「武力による威嚇」「武力の行使」を放棄し、努力によって外交努力によって戦争をはばむ精神に貫かれている。それはかつて東アジアを中心に2千万人ともいわれた民衆の殺戮への反省にもとづいた精神である。
 しかし小泉首相とそれを支持する与党は、周辺事態法や有事法など、「戦争」という言葉を使わずに、憲法を否定する戦争参加の法律を矢つぎばやにだすことで、憲法の空洞化をはかってきた。今回のイラクへの自衛隊派遣でも、危険な地帯には派遣しないとしつつも、事実上、マスコミが記者を置くことさえも拒絶する危険地域に、自衛隊を投入する予定である。
 現地では、いつどこで戦闘がはじまるかわからない。これまで日本は約半世紀にわたり、ひとを殺さないことを誇りにしてきたのであるが、その誇りは今回のアメリカ追従小泉政権によってうち砕かれてしまうことになる。
 自衛隊が攻撃され、殺害される場合もあろうし、応戦して相手を殺す場合もあるだろう。あるいはゲリラとまちがえて民間人を殺すこともありうる。事実、自民党の麻生太郎政調会長は6月16日、自衛隊が携行する武器について、「トラックに爆弾を積み突っ込まれたら小銃ではどうにもならない」といい、機関銃よりも威力がたかい「無反動砲」などの小型重火器の携行が必要であるとの考えを示し、石破茂防衛庁長官もこれに同調している。
 このような、完全に憲法を否定する法律にたいし、従来、平和を標榜していた公明党は全員一致で賛成した。自民党は記名投票ではなく起立投票であった点を理由に、野中広務議員などの3人が退席しただけで衆院を通過させた。国会議員は憲法を守る義務を負っているのに。民主党は独自の修正案がとおらなかったことから、最終的には反対にまわったが、党内のウルトラ軍事派のつきあげに、管代表は対応しきれず、ぎりぎりまで動揺していた。
 イラクへの復興支援という名目で、自衛隊の出兵を既成事実化しようとする自民・公明・保守3党のやり方はあまりにも汚く、それにたいする野党の弱腰は情けない。今回の法案通過は、自民党にある核武装論へもすすみかねず、軍事大国化をめざす勢いは確実に強まっている。

■なんら変わらぬ「金をばらまけ」姿勢

 核武装といえば、核武装の物質的な基盤をつくるプルトニウムの生産にかかわる核燃料再処理工場の稼働を政府はまだ断念していない。
 青森県六ヶ所村に建設中の再処理工場は、05年7月に稼働を予定しているが、すでにプルトニウムを利用した高速増殖炉の建設は、原型炉「もんじゅ」の破綻により手詰まりになっており、プルサーマル計画も頓挫している。にもかかわらず、なお再処理工場を建設し、稼働させようというのは、近隣の諸国から、核武装を狙う国家計画と考えられて当然である。
 六ヶ所村に建設中の再処理工場は、01年7月に燃料貯蔵プールで水漏れが発見されていらい、まる2年が経過しているが、いまだ修理の途中である。これはプールの底の溶接部分に250か所にもおよぶ、手抜き工事による不正溶接が発覚したためである。貯蔵プールが2年間にわたり修理されつづけているのは異常事態だ。いまだ工事が完了をみないというのは、つぎつぎに新しい欠陥が発見されているからである。この調子でもっとも危険な核燃料を再処理するなど、絶対にやらせてはいけない。 使用済み核燃料を保管するための中間貯蔵施設についても、青森県むつ市がうけ入れを正式表明しているが、いまだ予定地を明確に発表できずにいる。この地域には原発反対派の共有地もあり、施設の建設はきわめて見とおしは暗い。再処理工場の建設だけで、すでに2兆円をついやしているが、原子力船むつが失敗に終わったように、核サイクル事業計画など失敗に終わる見とおしがますます濃厚になってきている。
 このような状況下にあっても、施設の建設・稼働をどこまでもあきらめない政府と電力会社の姿勢は、国民の命などなんら考慮していないことをあらわしている。たびかさなる事故とトラブル隠しという不祥事によって、全面的に停止に追い込まれた原発を再稼働させるために、東電は柏崎・刈羽の市議・村議31人にビール券を配って批判されるなど、「安全性より、とにかく金をばらまけ」の姿勢はなんら変わっていない。
 夏にむけて東京電力は、電力不足による「停電パニック」を声高に宣伝し、自分の責任を棚上げにして、運転再開をめざしている。「停電パニック」は、政府と一体化したプロパガンダだが、たとえ本当に停電が起こったにしても、それは政府と電力会社による強引な原発推進政策がつくりだした問題である。これを地方知事や反対派の責任に転嫁すべきではない。また、現在14機が停止しても、代替え発電によりまかなわれているという事実を無視し、代替発電の建設をサボって、停電パニックだけを訴えるのは、見え透いたやり方だ。むしろこのような不安定な原発依存体制からどのように脱却すべきか、それを長期的に考えるチャンスである。

■退廃議員を支持する民衆社会

 さて、政治家・議員のこのところの退廃は、目を覆うばかりである。かつては周辺諸国を蔑視するような発言を世論に批判され、大臣を辞任する議員が続出したが、最近はひらき直っている。
 先日は、早稲田大学内のサークルが起こした強姦事件にたいして、衆院議員の太田誠一党行政改革推進本部長が、鹿児島市内でのPTAの討論会で、「集団レイプするひとは、まだ元気があるからいい。正常に近い」と発言し、超党派女性議員から批判されたが、居座っている。
 そうかと思えば、直後にはやはりこの討論会で、森喜朗元首相が「子どもをつくらない女性の面倒を税金で見るのはおかしい」と発言し、ひんしゅくを買っている。さらにさかのぼれば、石原慎太郎都知事の「第三国人」発言や「女性が生殖能力を失っても生きているっていうのは、無駄で罪」という暴言もあり、国際的にみれば政治家としてまったく不適格者である。人権無視の発言を口にしながら、なお高支持をたもつ議員が多いのは、日本人の意識を反映している。
 さらに、麻生太郎政調会長の「創氏改名は(朝鮮の人たちが)『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ」という暴言や江藤隆美元総務庁長官の「日韓併合は両国が調印して国連が無条件で承認した」、などの歴史を改竄するような無知な極論まで飛び出した。自民党幹部たちの朝鮮・韓国への差別意識は、戦後、外国人の生命と人権にたいする考え方が厳しく問われることのなかったことのしっぺ返しであり、「戦後民主主義」欠陥である。
 多くの問題を抱える自民党がなお支持され、暴力と欲望の姿をむきだしにしたアメリカを公然と支持する小泉首相を打倒できない、日本の言論の劣化を、どのようにたて直すか、それがいま問われている。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/暴言政治家と暴発工場と自爆労働者

■月刊「記録」2003年10月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 歴史的ともいえる小泉純一郎首相の訪朝によって、金正日総書記との日朝首脳会談が実現し、「日朝平壌宣言」の著名が実現したのは、昨年の9月17日であった。
  「この宣言に示された精神及び基本原則に従い、国交正常化を早期に実現させるため、あらゆる努力を傾注する」と、宣言されている。
 また「国際法を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認した」、「核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を確認した」との文言もある。
 過去の歴史を乗り越え、新しい時代を築こうとする意思と希望に満ちた宣言である。日朝の国交正常化によって、アジア地域の平和と安定に大きく貢献しようと精神が、この宣言に満ちている。
 日本側が植民地支配した過去の歴史を謝罪し、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)も、金正日総書記が拉致の事実を認め謝罪した。これも国交正常化へのひとつの道筋だった。しかし、このとき、はじめて明らかにされた「5人生存、8人死亡」という拉致の事実は、日本人にとってあまりにも衝撃的だった。このため、アジアの平和のために国交正常化に努力するという道筋は置き忘れられた。それどころか、いまはかつてないほど、平壌宣言の趣旨とは逆に、北朝鮮にたいする敵意が強まっている。
 拉致の全貌を明らかにしようとしない北朝鮮側の態度により、北朝鮮にたいするひとびとの不信感が募っていったのはまちがいない。しかし、連日おもしろおかしく、まるでダボハゼのように、北朝鮮の問題を取りあげ、拉致家族の被害者感情を増幅するような報道を繰り返したことで、北朝鮮にたいする憎悪と嘲笑が拡大されたのも事実である。マスコミに煽られた民衆の敵対・差別意識は、さらに事態を混乱させている。
 日朝平壌宣言がしめした方向と逆に、北朝鮮との敵対関係が拡大することに無策でいる小泉首相の政治的な責任は重い。マッチポンプというより、放火して、それを軍備拡大に利用しているようなものだ。
 有事法制が衆参国会議員の90パーセント以上の賛成によって迎えられ、イラク派兵法も成立した。ミサイル防衛や航空母艦の建造などにも予算がつき、日本の軍事大国化は、極端なまでに推し進められようとしている。
 こうした状況に、タカ派の小泉首相はほくそ笑んでいるかもしれない。しかしアジア全体を不安にさせる軍国化が、ますます日朝の国交正常化に悪影響をあたえていることを、どのように考えているのだろうか。
 韓国は、北朝鮮と平和的に折り合いをつけるために腐心している。彼らの平和にむけた粘り強い行動は、日本と対照的だ。大衆の悪感情に火をつけ、軍国化を進めるているだけの小泉首相とは、月とスッポン、度量と責任感がちがう。
 このような国交正常化の停滞について、自民党総裁選挙でまったく触れられなかったのは不思議である。これではまるで、北朝鮮はハメられたようなものだ。総裁候補者の主張は、誰が経済を活性化するかということだけで、まるで茶番である。
 ところがマスコミは、2年前とおなじように、あたかも大統領選挙のような大々的な報道をしている。たかだか自民党内の派閥選挙が、各紙の一面トップである。
 2年前の総裁選は、森喜朗があまりにもヒドイ首相だったため、批判をふくめてマスコミが過熱した。いわば特殊事情である。ところが新聞・テレビには、前の報道に追随するという傾向が強い。若い記事なら、なおさら前に書かれた記事をマネして、自分の記事を書くパターンが多い。そのため論点すらない総裁選に、2年前とおなじようなバカ騒ぎを繰り返している。
 マスコミの報道では、総裁選があたかも国民投票のように扱われた。しかし、国民のほとんどは投票すらできない。所詮、コップの中の嵐、党内の権力闘争でしかない。
 この茶番が連日報道されている影響は、確実にあらわれている。総裁選の候補者である小泉純一郎首相、藤井孝男元運輸相、亀井静香前政調会長、高村正彦元外相の4人は、全員が憲法改訂論者である。このように好戦的な体質をもつ候補者が、無批判のマスコミ報道を通して世論に影響をあたえている。報道することにたいするテレビや新聞の記者たちの自己意識があまりにも低すぎる。
 それどころか読売新聞などは、総裁選にかこつけて憲法改正論議をするよう社説で促す有様だ。
「総裁選は、憲法改正など国のあり方にかかわる問題を議論するいい機会だ。首相が踏み込まないなら、ほかの三氏が論戦を挑めばいい。そうした論戦があってこそ、総裁選は活性化する」(読売新聞 2003年9月9日)
 これまでも読売新聞は、右傾化誘導の一翼を担ってきた。最近の社説の表題を並べてみよう。
 8月3日には、「教育基本法 次期通常国会で改正を目指せ」。自由と平和を謳い、憲法改訂論者から忌み嫌われている教育基本法を、やり玉にあげている。8月15日の敗戦記念日には、「平和教育 理念と方法の見直しが必要だ」、翌日には「住基ネット “情報漏れ”懸念なくす努力も必要」と並ぶ。中立を装い、自民党と一体となって平和を攻撃するなど、報道機関として許されない。

■自宅が爆破されても当然なのか?

 こうした現代のファッショ的な世相を体現したのが、石原慎太郎都知事の発言である。
 北朝鮮の国交正常化に努力した田中均外務審議官の自宅に爆弾が仕掛けられたことにたいし、「爆弾が仕掛けられてあったり前」といった。
 政治家が右翼のテロを容認した暴言として、さすがに自民党内の議員からも批判を浴びたが、批判を受けても石原は次のように強弁している。
「私は、この男(田中外務審議官)が爆弾仕掛けられて当然だと言いました。それにはですね、私は爆弾仕掛けることがいいことだとは思っていません。いいか悪いかといったら悪いに決まっている。だけど、彼がそういう目に遭う当然のいきさつがあるんじゃないですか」(朝日新聞 2003年9月12日)
 日本には、5.15事件や2.26事件などのように、テロやクーデターによって軍部が強化されてきた歴史がある。そうした過去の教訓を、石原はまったく踏まえていない。
「起こっちゃいけないああいう一種のテロ行為がですね、未然に防がれたかもしれないけれど、起こって当たり前のような今までの責任の不履行というのが外務省にあったじゃないか」(朝日新聞 2003年9月12日)などという発言は、政策がちがえば、テロがあっても当たり前ということである。さらに調子に乗って、彼は1960年に浅沼稲次郎社会党委員長が、右翼少年に刺殺されたことに触れ「世の中ってのはそういう繰り返しでね」(朝日新聞 2003年9月17日)とテロを容認している。
 言論にこだわる作家としてはもちろん、民主主義を担う政治家であれば、けっしてありえない発言である。彼が自分の家に爆弾を仕掛けられたり、刺されたりしても、「当たり前」というのだろうか。
 さらに驚いたことに、自らの選挙応援演説で飛びだした発言を、亀井静香は批判すらしない。「知事は文学者。具体的に爆弾をしかけるのがいいと思っているはずがない」とかばってさえいる。埼玉県知事も「拉致家族の思いを感情的に考え、ああいう発言になったことに同情する」と追随している。
 意見のちがいを暴力的に解決しようとする動きが批判しない風潮が、自民党の総裁選に絡んで明らかになったことに、現在の暗黒状況がみてとれる。

■ブッシュは戦費の取り立てに来日

 国政を担う政治家でいいたい放題なのが、鴻池祥肇特区担当相である。かつて長崎市で起こった中学生による男児誘拐殺人事件では、「加害者の親は、市中引き回しのうえ、打ち首にすればいい」と発言。東京渋谷で発生した4女児監禁事件では、「小6の4人も、加害者か被害者か分からない」などといい放った。
 そして今度は、ODA(政府開発援助)について、「中国へあれだけ金を送っている。それで感謝していない。靖国神社にお参りしたら文句を言う。そんな国にODA(を拠出するの)はもういっぺん見直さなければならないのではないか」(朝日新聞 2003年9月9日)などと発言した。大臣としての発言にも、首相は知らん顔だ。
 カネをくれてやっているという意識の醜悪さと、反省なき歴史観が、公然とあらわれている。それでも閣僚を辞めろという話はでていない。だいたい紐付きのODAにより、海外のODA援助国から訴訟まで起こされている日本のODAについて、「援助したから感謝しろ」などとよくぞいえるものだ。
 さらに13日におこなわれたタウンミーティングでは、「自衛隊は軍隊。それを中途半端な解釈でできている」「憲法の中に位置づける必要である」(朝日新聞 9月14日)などと、小泉親方に追従して、憲法改正によって自衛隊を軍隊にするよう示唆する発言まで飛びだした。 こうした暴論に歯止めをかける世論がなくなり、世論を喚起する報道さえない。むしろ同調・促進するような状況に、日本沈没の恐ろしさが感じられる。
 暴言といえば、イスラエルのオルメルト首相代理がアラファト議長について「殺害することも選択肢の一つだ」と発言した。パレスチナでは「マフィアのようだ」と批判の声が高まっているというが当然であろう。
 こうした暴言のバックグラウンドにあるのが、アメリカによる他国への干渉支配である。軍事力を背景としたアメリカの暴力が、世界中に暴力的な思考をばらまいている。
 10月中旬にはブッシュ大統領も来日し、小泉首相と会談する予定だ。米日ファッショ化の象徴ともいえる会談で、ブッシュはイラク攻撃の後始末のカネを日本に請求するという。小泉とブッシュは、お笑いの「盟友ぶり」を発揮し、多額のおみやげをもたすことになりそうだ。 外務省高官は数十億ドル規模になると予想しているようだが、アメリカの当面の復興コストは500~750億ドルともいわれる。現地の混乱状況を考えれば、外務省の計算通りにはいかないだろう。
 日本国内には失業者が溢れ、経済問題や過労によって自殺が増えている。そうしたなかアメリカの無謀で勝手放題のツケを負担するなど、許されることではない。将来の展望を欠いた非理性的な人殺しを公然と主張する政治が、日米両国によって進められることに、わたしはつよく反対する。

■工場爆発が見せる暗い予兆

 末期的な政治状況のなか、産業界でも不気味な予兆をしめしている。各工場での爆発事故だ。
 9月3日、新日本製鉄名古屋製鉄所で、ガスタンクが爆発した。このガスタンクは高圧ガスが蓄えられていたのに、39年間も外部検査が放置されていた。そうした安全への意識低下が、15人もの重軽傷者を生みだすこととなったのである。
 そして9月8日には、ブリヂストン栃木工場で火災事故が発生した。これはゴムを伸ばすローラーの異常過熱により、引火したとみられている。しかし出火場所にスプリンクラーも設置されておらず、燃え広がる一方であった。結果として地域住民5032人に避難が呼びかけられ、250人が避難する事態となった。
 これらの事故は、1963年11月に起こった三川炭坑での炭塵爆発事故を思い起こさせた。石炭をベルトコンベアーで運ぶさいに発生する炭塵は、水を撒いて爆発防止すべきなのに、安全対策をサボって爆発。死者458人、それ以上の一酸化中毒の重症患者が発生した大事故である。
 あたかも40年前の事故とおなじような事故が、あいついで自動車の関連工場で発生して、自動車生産にダメージをあたえた。このことが、自動車中心に発展してきた日本の経済に暗い予兆をしめしている。
 こうした事故は、歯止めのない人員削減と安全よりもコストを優先する大企業の経営によって起こった。企業のもっとも弱い部分を痛撃した事故ともいえる。
 9月17日には、軽急便の名古屋支店に刃物をもった男が人質を取って立て籠もり、ガソリンを撒いて爆死した。この爆発に巻き込まれ、警官2人、支店長1人が死亡している。
 かつてブリヂストンの東京本社に元工場幹部職員が押しかけ、社長室で切腹自殺したことがあった。ブリヂストンのきわめて非人間的なリストラが招いた事件である。今回の立て籠もりと爆発事故も、その発端となっているのは軽急便のやはり労働問題であった。
 各種報道によれば、この会社は自社ドライバーをもたず、運送業者と個人契約をするため「配送内職」と呼ばれていたという。開業支援準備金や代理店登録料の条件にたいする不満が、国民生活センターにも寄せられ全国で00年度は400件だったが、02年度は837件にも急増していた。厳しい経済状況のなか、リストラなどに遭って事業をはじめた人も少なくないようだ。
 容疑者は経費込みで105万円の車を購入し、頭金の60万円を支払い、45万円を月払いで返済しながら配達業務をつづけていたらしい。
 彼が会社に要求した支払い残金は、7~9月分25万円だった、という。3ヵ月で25万円である。つまりこの問題の本質は、安い・早いを謳ってきた宅配サービスの体質にあるともいえる。
 これから小泉首相は郵政を民営化するという、郵政でもおなじ問題を引き起こすつもりなのか。民営化による労働者の低賃金化と過剰なサービス強要は、リストラが広まるなかますます強まっている。
 日本の資本主義も、政治状況とおなじく異常事態となっている。こんなやつらに無理心中されるのでは、救われない。(■談)

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ホームレス自らを語る/15歳から働きづめ・吉岡達彦(48歳)

■月刊「記録」2001年9月号掲載記事

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■左手が動かなくなって

 どう、持っていくか?
 昔、友だちからもらった種を植えたら、けっこう育ってね。ほら実がついているだろ。木にツルが巻きついちゃったから、取れない実もずいぶんあるんだけれどさ(笑)。
 ニガウリとヘチマだよ。本当は夏にできるはずだったんだけれど、なぜか秋になっちゃったんだ。沖縄では、ニガウリをゴーヤ、ヘチマをナーベラーって呼ぶけれどね。
 そうか、ナーベラーは知らないか。味噌炒めなんかにしてもおいしいし、あと生で食べてもいいんだ。俺が子どものころは、毎日のように食べていた。
 川崎にも沖縄料理店があるけれど、いまはお金もないしね。仕方ないから、自分で作って食べているんだ。隣にテントができなければ、もっと収穫できたと思うんだけれどさ。
 去年の11月からここに住んでいるよ。3年前、45歳ぐらいから左手が動かなくなりはじめてね。最初、医者に行ったら、「半年ぐらいで治るだろう」と言われたんだけれどね。さっぱりだよ。手が動かないんじゃ、仕事にもならないし。
 この前なんか、現場監督から「もう来るなー」って怒られたからね。いや、俺が悪いんだよ。知り合いから鳶の募集があると聞いて、無理だと思いながら応募したんだ。やっぱり片手じゃ仕事にならなくて、四日目にどなられたんだ。監督の気持ちもわかるけれどね。どうにかして仕事がほしかったんだ。

■親の借金返済で働きづめ

 まったく嫌な人生だよ。15歳から働いているんだ。 親がバカモノでさ。知り合いにだまされて、金を持ち逃げされたんだ。頼母子講をやっていてね。沖縄ではよくあるんだけれど、近所とかの知り合いが集まって、毎月お金を貯めていく。それで仲間が困ったときに、その金を貸すんだ。
 その講の親をやっていたから、パンクさせたお金は責任を持って払わなくちゃいけなくなった。そりゃ大変だよ。朝に晩に取り立てにくるんだから。それで俺も働くことにしたんだ。
 タイル職人になった。金はかせいだよ。月200ドルはかせいでいたから。300ドルぐらいかせいだ月もあったんじゃないかな。当時、まだ沖縄は日本に返還されていなかったし、1ドルは360円に固定されていたんだ。1960年代後半の200ドルといったら大金だったな。もちろん、その分働いたけれどさ。本当に死ぬ気で働いていたもの。
 仕事が終わるのが朝の5時。それから1、2時間寝て、また仕事に出かけるような生活だったからね。正月だって、ほとんど休みなく働いていた。自宅に帰る時間もなくて、公園で野宿していたこともあった。おかげで泥棒に間違われたことがあったよ(笑)。近くで事件があって、警察に捕まったんだ。幸い、真犯人がすぐに捕まったけれどね。
 こうやってかせいだ金を、すべて親に渡していた。借金を返すためにね。17歳のときには沖縄を出て、池袋で働いていたよ。そのときもボーナスを含めて、ほとんどのお金を家に送っていた。親に渡した額を合計すれば、ビルを建てられるぐらいのお金にはなったと思うよ。つき合っている女もいたけれど、親の借金を払い終わったら結婚しようなんて言っているうちに、別れちゃったしな。
 しかも借金を払っている最中に、父親も死んじゃったから、家族の生活費も俺と兄貴でかせぐことになったんだ。妹は10代で結婚したけれど、しばらくしたら子どもを連れて自宅に帰ってきた。ロクに働けないから、やっぱり俺が養うことになるんだよね。
 95%ぐらい借金を返済したころに、家族とケンカして金を送らなくなったんだ。だって家族みんなで協力して、借金を返そうという感じじゃなかったから。みんな好き勝手にやっていて。どうして俺だけがと思うだろ。もちろん縁を切ったわけじゃないから、その後も実家とは連絡を取っているけれどね。

■なまけたことなど一度もない

 腕が動かなくなってからも帰ったんだよ。失業保険を使ってね。でも、沖縄は仕事がないし、やっぱり東京に出てくるしかなかった。これだけ腕が上がらないと、ガードマンの仕事もできない。腕が上がらなくなってからまともに働けたのは、造船の仕事ぐらいかな。船の油をふく仕事だったから、片手でも働けたんだよね。
 こんな体になったのも、ムチャクチャに働いてきたからだろうな。10代のころもそうだし、その後も働きまくってきたから。
 阪神大震災のあともよく働いたよ。1年ちょっと西宮で、倒壊した建物を片づけていたんだ。それこそ朝から晩まで働いていたから。ベルトコンベアに頭を打って首を痛めても、仕事を休まなかったぐらいだからね。
 いままでの人生の思い出なんて、ほとんどないな。働きづめだったからね。
 あー、16歳ぐらいだったかな。初めて競輪をしたことは覚えいるよ。だって200円買ったら、56万円になったからね。ものすごく驚いた。ビギナーズラックだったんだろうけれど。
 あとは、そうだなー。去年、多摩川の上流が決壊して、どんどん水かさが増えていったときは怖かったな。すごい量の水がテントに迫ってきたからさ。避難したけれど、ビックリしたよ。
 振り返ってみると、ろくな人生じゃないよ。いまじゃ働くこともできないしさ。どうしたらいいのか、自分でもよくわからないんだ。右翼がやっているってうわさの施設にでも入ろうかな。ここにいても仕方がないしね。最近、そんなことを考えているよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ハートの弱い人は暮らせない・川田義則(47歳)

■「新・ホームレス自らを語る」収録

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■毎日コンビニに通っている

 ホームレスでも、自慢ばかりしているようなヤツはケンカになる。逆にハートの弱い人はテントで暮らし続けることなんてできないよ。
 俺も、365日、毎日コンビニに通っているんだ。「ここの場所は取れない」と、他のホームレスに思わせるんだ。雨はもちろん、雪の日だって休まないよ。じっと店の人が弁当を出すまで待っている。他のヤツが割り込んできて、弁当を持っていったりした場合は、走って追っかけて「俺のもんだから」って話をするよ。なぐらないけれどな。一番に必要なのは、やっぱり食べ物だから、こういうことがすごく重要なんだよ。
 あまり汚い格好で店の周りをウロウロしていると、店の人やビルの管理人にも迷惑がかかるから、身だしなみにも気をつけなくちゃいけないよね。そういう風にしているから、店も期限切れの弁当を段ボール箱に入れて、そのまま出してくれるんだ。店員さんに会えば、「すみません。もらっていきます」と声をかけるしね。

■ウソついてんじゃねぇよ。警察か?

 でも毎日通っていると、とんだ目に遭うことだってあるよ。
 冬場でね。朝七時に店近くで待っていたら、いきなり近くにベンツが止まったんだよ。チンピラみたいなのが車から出てきて、「おたくさん、何しているの?」って聞くんだ。何しているったって、弁当を待っているんだけどさ(笑)。
 そのうち今度は、ベンツから歳のころ40代後半ぐらいのがっちりした男が、車から出てきたんだ。光ったシルクの生地でさ、グレーのダブルのスーツなんだけれど、生地が光ったシルクなの。いかにもヤクザっていう格好だよね。親分だったんだ。
「オマエ、どっかで見たことあんなー」とか言うんだよ。「ないですよー」とか答えたら、「ウソついてんじゃねぇよ。警察か?」とか怒ってんだ。
 どうやら警察に自宅を見張られていると勘違いしたみたいなんだ。毎日、マンションの近くで見張っているからさ(笑)。間の悪いことに、たまたま一緒に行った仲間がイヤホンでラジオを聞いていたんだよ。警察無線に見えたんだろうな。まあガタガタ言われたけれど、そのときは、これで終わったんだ。
 さすがにそのあとは待つ場所を少しだけ変えたよ。でもコンビニの近くから離れるわけにはいかないからね。 最初にどなられてから、しばらくたってさ。また、例の親分がベンツから降りてきたんだ。「てめーら、殺すぞ」って。
「バカヤロウ! オマワリなのはわかってるんだ。おまえらが気になってしょうがないから、ウチの女房は心配しすぎでまいってるんだ」だってさ。
 さすがに二度目は、しびれを切らしてたんだね。殴りかかってきそうだったから、少し腰を浮かしたら、胸をドンとド突かれたよ。まあ、軽くだけれどさ。
 自分から女房がまいっているなんて話すぐらいだから、よほどせっぱつまっていたんだろうな。監視されていると誤解して、ノイローゼにでもなったのかね(笑)。 怖いかって? いや、怖くないよ。だって俺は住所不定なんだから。怖くなったら、ここから逃げ出せばいいんだからさ。
 コンビニの弁当を自分のバッグに移しかえようとしたところで、私服刑事が飛び出してきたこともあったよ。「ちょっと待ってください」と言われてね。バッグを開けさせられたんだ。覚せい剤の受け渡しとでも疑われたのかな。
 ホームレスだとわかると、刑事さんが「頑張ってください」と言っていたな(笑)。
 こうやって集めた弁当も、余ればこの公園にいるホームレスに全部渡しちゃうよ。ここにかけてある笛を鳴らせば、ベンチに寝ているホームレスが集まってくるし、こっちのラッパを鳴らすとテントを張っている仲間が集まるように決めてあるんだ。昔はいちいち仲間を呼んでいたんだけれど、毎日のことだと面倒くさくてさ。あっ、笛? もちろん拾ったんだよ(笑)。何でも落ちているから。

■5ヵ月ほどで公園に戻ってくる

 もうホームレスになって3年たつよ。いまは47歳だね。
 ホームレスを始めたのは、7月からなんだ。最初は、駅の西口にあるビルのすき間で寝ていたんだ。涼しかったから。それから、ここの公園に移って、最初は便所の前あたりにいたのかな。寒くなってきて、その年の12月ぐらいからテントを作り始めたんだ。
 警察が公園を回るから、1年に1回はこのテントもバラさなくてはいけないんだ。最初、テントがある状態で写真を撮って、バラしたあとにもう一度写真を撮る。もう暗黙の了解でね。写真を撮り終えたら、さっさとテントを組み直し始めるんだよ。
 ホームレスのなかには、酒を飲んでいてさ、警官にいろいろ言うヤツもいるんだ。でも警察には、「ハイハイ」と従っておけばいいんだよ。べつに追い出そうというわけじゃないんだから。俺なんか警察に名前を書いて提出しているからね。血液型まで聞かれるんだよ。毎年聞かれるから、「去年も答えたよ」と言ったら、「いや、変わったかもしれないから」だって(笑)。
 ホームレスのための自立支援センターなんかもあるけれどさ、俺は住民票を移せないから。いろいろあってね。福祉なんかも、家族に連絡がいくと困るから使えないんだよ。でも、自立支援センターに入ってもさ、仕事を見つけられない人も多いみたいだよ。
 うん、体は悪くないね。ここのホームレスがテレビに取り上げられてから、医薬品や毛布を持ってきてくれる学生がいたりするし、食べ物には不自由してないから。万一病気になったら、役所の福祉課に行くか、救急車を呼べばいいんだしね。助けてはくれるからさ。
 現金収入はいっさいないな。たまに臨時の収入があるぐらい。といっても買うものといったら、ガスボンベぐらいだからな。ガスがなくなったときは、仕事をしている仲間に買ってもらっているよ。
 服なんかは、夜中に回るとけっこうゴミとして出してあるから。クリーニングに出したあとに捨ててあったりするし。汚いまま出してあれば、自分で洗えばいいんだし。
 生きるのに困ることはないけれど、やっぱりここを脱出したいな。ここから出ていくのが一番いいんだよ。でも実際には、仕事を見つけて出ていった人も、5ヵ月ほどで戻ってくる場合が多いよ。もちろん警備の仕事したりして、アパートを借りている人もいるよ。近くに古いアパートで女が自殺したの。それで家賃が安くなって、元の仲間が住めるようになったんだ。
 家に住むのがこんなに大変なことだと思わなかったよ。ホームレスになる前は、なんで公園で人が寝ているのかわからなかった。寝いている人を見ると何している人だろうと思っていたからさ(笑)。金があるときは使っちゃうしね。金がなくなってからあわてても遅いんだよ。俺だって、まさかホームレスを経験するとは思わなかった。金がなければ働けばいい。そう思っていたものね。
 きっと、みんなそう思っているんだろうね。この公園にも、いろんな人が来るよ。小学生の子どもを連れてきた女の人もいたよね。30いくつと言っていたかな。東北の人だったな。いつの間にかいなくなったけれど。
 そうそう、覚せい剤中毒が来たこともあった。ナイフを仲間に突きつけて、時計とか金とかかっぱらっていたんだ。仲間から連絡を受けてあわててテントを出たら、そいつが逃げるんだよ。追いかけて捕まえたら、今度は500円を差し出したから、「そんなんじゃねー」って殴りつけてやったよ。そういえば、最近、そいつを見ないな。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ホームレスになってまだ三ヶ月・下川保さん(51歳)

■月刊「記録」2001年7月号掲載記事

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■飯場の健康診断に引っかかった

 ホームレスになったのは今年の2月からだからね。まだ、3ヵ月にしかなってないよ。それまで25年以上建築現場でずっと働いてきた。そりゃあ真面目なもんだったよ。いまゴールデンウィークで世間様はお休みだけど、こういうときでもオレは仕事さえあれば働いてたからね。そんなオレが2月に飯場を放っぽり出されてからは、仕事にありつけない。で、公園で寝るしかなくなっていたんだ。
 2月までは(東京)中野の現場にいたんだ。そこで保健所の健康診断があって、レントゲン検査に引っかかった。オレの胸にいくつかの影があるのが見つかって、結核の疑いで「精密検査の要あり」と言われ飯場を出されちまった。そのあと病院に行ってくわしい検査を受けたら、ただの気管支炎だとわかって、それもすぐに治ったんだ。それで現場に戻ろうとしたら、もう後釜が入っていて空きはないと断られてね。それから別の現場の仕事を探しているんだが、なかなか思うように仕事にはありつけない。
 生まれは埼玉県の大宮。オヤジは地方公務員をしていたが、オレが小学校に上がる前にガンで死んだ。だから、オヤジの記憶はあまりない。あとはオフクロに育てられた。中学校を出て、商業高校の定時制に通いながら、昼間は大学生協の食堂でコックの見習いをして働いた。高校の4年間は真面目に通って、ちゃんと卒業もしたよ。
 高校を出たときに、コックの仕事も辞めた。あとはガソリンスタンドとか、車のディーラーとか、いろんなところで働いた。仕事の選り好みはしないんだが、飽きっぽいというか、どれも長く続かなかった。若かったせいかもしれないね。

■自衛隊で野戦砲の射手になる

 22歳のとき、陸上自衛隊に入った。休みの日に日比谷公園のベンチに一人で座っていたら、自衛隊の勧誘員が来てスカウトされたんだ。だから、とくに目的や理由があって入ったわけじゃない。勧誘員の話を聞いて面白そうだと思ったからだね。
 富士山の裾野にある御殿場の駐屯地に配属になって、戦車部隊の野戦砲担当になった。野戦砲は重量がすごいんだ。それに撃ったときの反動もすごい、砲が架台ごとはね上がるんだからね。だから、一門を扱うのに5、6人がかりの重労働だった。たぶん、このガタイ(身体)が見込まれて担当にされたんだろう。オレの役は射手。いや、射手は花形じゃない。野戦砲の花形は照準手で、射手はその命令で撃つだけだからね。
 自衛隊には2年間いた。ちょうどベトナム戦争の真っ最中だった。オレたち火器を扱っている部隊は関係なかったけど、輸送部隊には連れて行かれたところもあったようだね。
 自衛隊にいた2年間は真面目なもんだったよ。休日も駐屯地にいて外に遊びに出ることもなかった。酒も隊内クラブでたまに飲む程度だったしね。だから、金は貯まった。除隊してから、その金で九州・沖縄一周の豪勢な旅をしたよ。あれがオレの人生で一番いいときだったんじゃないかな。
 実は、自衛隊で野戦砲なんて重いものを扱っていたから、腰を痛めちゃってね。いまでもコルセットを着けているんだ。ほら(腰のコルセットを見せてくれる)。この腰痛とは25年間もつき合っているわけだからね。冬になると普通にしていても痛む。かなりつらいもんだよ。

■みじめな死に方はしたくない

 自衛隊を辞めてからは、土工とコンクリート工をずっとやってきた。飯場から飯場を渡り歩く生活だった。だから、アパートを借りたことは一度もない。
 結婚もしなかった。そりゃあ男だから、たまには女遊びもしたよ。だけど、女なんてツンツンしてるだけで嫌いだよ。結婚にも、女にも、あんまり興味はなかったね。
 土工でも、コンクリート工でも真面目に働いたよ。日本中のゼネコンの現場は全部で働いたんじゃないかな。赤坂のアークヒルズだろ、幕張メッセもやった。幕張の現場が一番すごかったね。それこそ日本中のゼネコンが集まって、いろんなビルを競争のようにして建てたんだから。オレはそのときは国際見本市の建物をやったよ。 新宿のビルもやった。工学院大学のビルとか、パークタワービルの工事についた。いまこうして新宿でホームレスになって、たまにそんなビルの下を通ると、「このビルはオレが建てたんだなあ」って思うよ。
 オレの場合、建築現場で働くには腰痛のハンディがあっただろ。だけど、そこは腕力でカバーしたんだ。ほかの人が持ち上げられないようなものも、腕の力だけで持ち上げたりしてね。「おたく、力があるんだねえ」と監督をびっくりさせたこともある。オレは真面目だったし、力もあったから、どこの現場でも重宝がられた。
 それだけ働いても金は貯まらなかったよ。酒も、ギャンブルも、女遊びも、あまりしなかったのにね。日当が6000~7000円じゃあ、一つの仕事を終えて飯場を出され、次の仕事までカプセル(ホテル)やサウナで寝泊まりするから、その金と飲み食い代でほとんど消えちゃった。残るものはなかった。
 いつだったか、鳶の親方に気に入られてね。「鳶にならねえか」って誘われたことがある。オレだってビルの1、2階分くらいの鉄骨に上るのは平気なんだ。だけど、それ以上の高いところで、腰をかばいながら仕事をするのは自信がなかった。で、その親方の話は断っちまった。鳶の仕事ができてたら、もう少し違ってたと思うけどね。だから、ずっと土工とコンクリート工のままできた。
 40歳を過ぎたころかな? 体力がガクッと落ちたのを感じた。体力の衰えって、ホントに急にくるんだね。それでも腰に気をつけながら意欲だけでがんばってきたんだ。ところが、今年2月の健康診断に引っかかって、飯場から放っぽり出されることになったわけだ。
 ホームレスになってまだ3ヵ月だから、食い物を手に入れる方法とかわからなくてね。ボランティアの差し入れだけが頼り。だけど、毎日あるわけじゃないし、1回の差し入れを2回に分けて少しずつ食べたり工夫はしてるけどね。やっぱりひもじい。あとは水道の水を飲んでごまかしてるよ。
 これまで25年間ずっと働きづめできただろう。1日中公園のベンチに座ってじっとしているのは身がもたない。体がなまってしまうしね。それで最近はボランティアに参加しているんだ。「新宿をきれいにする会」というグループがあってね。新宿の街の美化のためにゴミを拾って回る運動で、オレも毎朝6時から2時間参加して公園や周辺のゴミと空き缶を拾っている。参加しても何かがもらえるわけじゃないけど、ウズウズしている体にはちょうどいい運動になるしね。それにオレはきれい好きで、汚いのは嫌いなんだ。
 とにかく早く仕事を見つけたい。オレもまだまだ働くつもりでいるからね。みじめな死に方だけはしたくないと思っている。そのためには人生をいい方向にもっていきたい。ごくあたりまえの幸せと健康であればいいんだからさ。不幸はヤダ。不幸のなかで死ぬのだけはヤダからね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/年季の入った酒飲みだよ・大木善郎さん(61歳)

月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■岩内大火で家が丸焼けになった

 生まれたのは北海道の岩内って町。1938年6月2日が誕生日。岩内は海辺の小さな町で、漁業をしている人が多かった。オレのオヤジも漁船に乗っていて副船長をしていた。イカとか、マグロ、タイ、それにハッカクっていう顔はまずいが味はうまい魚があって、そんなのを獲っていたようだ。オフクロも港の魚市場で働いていた。だから、オレの小さい時分の暮らし向きは悪くなかったと思う。
 小学校に入って、すぐに町が大火事になった。「岩内大火」っていう大火事。そりゃあすごい火事だったよ。ちょうど台風も来ていたから、その風にあおられてゴーゴーと燃え盛ってね。町の半分、いや、三分の二以上が焼けちゃったんだから。
 オレも家族と一緒に町の裏手にある山の中に逃げ込んでいた。オレのうちも焼けて丸焼けだった。焼けたのは海沿いの低地にあった家ばかりで、焼け残った三分の一は山沿いの高台にある金持ちの家ばかりだった。皮肉なもんだよね。
 それでオレたち一家は、焼け残っていた漁業組合長の家の庭にテントを張って、その中で半年間くらい暮らした。狭いテントに家族がギューギュー詰めで暮らしたんだよ。まあ、うちだけじゃなくて、焼け出された家はみんなそうやって空き地を見つけてテント生活をしていたからね。
 そのころはボランティアだとか、義援金のカンパなんてなかっただろう。戦後の食糧難と重なって、食べるものがなくて困った。組合長がどこかからもらってきた米を分けてくれたり、オヤジやオフクロが百姓をしている家に買い出しに行くとかして食いつないだ。三食まともに米を食った記憶がない。とにかくひもじかった。魚だけはいっぱいあったけどね。
 半年後に家ができた。家といったって、元の敷地にバラックの小屋を建てただけのものだけどね。いまとちがって保険になんか入っていないし、大工の手間賃も払えないだろう。オヤジたちがみんなで協力して、順番にバラックの小屋を建てていったわけさ。その小屋のような家で正月を3回迎えたのを覚えているよ。

■中学校には行かずに働いた

 それからちゃんとした家を建てたけど、その借金とかが残ったんだろうね。うちはずっと貧乏だった。だから、オレも小学校を出ると、すぐに働き始めた。魚市場で籠に入った魚を台車に積んで、市場の中を引っ張り回して運ぶのが仕事さ。家が貧乏だから、中学校なんて行ってられなかったんだよ。兄貴もそうしていたし、周りの友達にもそんなのがいっぱいいたからね。
 酒を飲み始めたのは、そのころからだよ。だから、オレの酒飲みには年季が入っているんだ。中学生のときから飲んでるからね。酒といったって焼酎だよ。宝焼酎。隠れてなんか飲まないよ。家族みんなで飲むんだ。うちはみんな大酒飲みでね。まあ、そのころの海で働くとうちゃんやかあちゃんたちは、みんなよく飲んだからね。夜中に酒がなくなると「善郎、酒を買ってこい」って、末っ子のオレがよく買いに行かされたよ。(取材中も、大木さんは焼酎をあおりながらであった)
 20歳になって、オレも漁船に乗って漁をするようになった。20歳といえば、兄貴がそれを祝って女を買いに連れて行ってくれてね。小料理屋のようなところの二階の部屋で、その店の仲居が相手だった。女と寝るのは初めてだろう。やり方がわからなくて、上に乗っかるのも知らなかった。それで仲居に教わりながらしたんだ。いや、よかった。最高に気持ちよかった。
 漁船には1年くらいしか乗ってなかった。21歳のときには東京へ出てきちゃったからね。何でかって? オヤジもオフクロも、兄貴までもが死んじゃったんだ。3人が一緒じゃないよ。病気で次々に死んでいったんだ。ろくなものも食わないで酒ばかり飲んでたら病気にもなるよ。もっと詳しく話してくれ? 何で? これ以上しつこいと、話すのをやめるよ。(森さんは両目を潤ませて、しばらく話すのをやめた)

■かせいだ金は酒と女に消えた

 21歳で東京に出てきてからは、いろんな仕事をした。いろいろといっても、ほとんどが飯場に入って建築関係の仕事だったけどね。4年前にホームレスになるまで、ずっとそんな生活を続けてきた。結婚? できるわけないだろう。兄貴だって嫁さんももらわないで死んじゃったのに、オレだけが嫁さんをもらうわけにはいかないよ。
 かせいだ金はみんな酒で飲んじゃったよ。それと女だな。酒と女遊びに使っちゃった。酒は毎晩、毎晩一升くらいの焼酎を飲んでいたからね。どうかすると朝の四時くらいまで飲んで、そのまま水風呂に飛び込んで酒のにおいを消して現場に行くなんてこともした。そんなことをしても、においなんて消えやしないけどね。
 女遊びのほうは千葉の栄町にあったトルコ風呂に通った。1回遊ぶのに1万2000円くらい取られたから、3ヵ月に1回くらいしか行けなかったけどね。それで我慢できなくなると、立ちんぼを買うんだ。チョンの間だと3500円。チョンの間なんて、わかる?
 ホームレスになったのは4年前からだね。毎朝、酒のにおいをさせて仕事に行くだろう。そうすると、係の人から「森さん、今日は仕事を休んでよ」って言われるんだ。絶対に「辞めろ」とはいわない。向こうから「辞めろ」と言い出すと、解雇手当とかの金を払わなくちゃならなくなるだろ。だから「休め」って言って働かせてくれない。オレたちは日雇いだから、休んだらその日の金はもらえない。そんなのが3日も続いたら、金なんてなくなっちゃうしさ。それでホームレスになったんだ。
 昔は二日酔いぐらい平気で働かせてくれたんだよ。人手が足りなかったからね。いまはうるさい。ちょっとでも酒のにおいがすると、働かせてもらえないからね。日当も下がった。いいころは1日1万円くれたのが、いまじゃ6000円くらいにしかならなくて、そこから食事代が1200円も引かれちゃうんだ。いくらもかせげない時代になっちゃったね。
 いまはオレも60歳を超えてるから、新宿区役所が世話をしてくれる仕事をしているよ。週2日だけどね。ゴミの清掃車を洗ったり、ビルの中を片づけたりする簡単で安全な仕事。1日で7000円もらえる。そこから昼飯の弁当代を引かれるから、実際にもらえるのは6400円だけどね。それでこうやって焼酎が飲めるってわけさ。
 だけど、役所の仕事も酒に酔っていくといけないんだね。係の人から「森さん、酔って来たらまずいよ」っていわれて、週2日あった仕事もいまは一日に減らされちゃったよ。
 ホームレスなんかしていると、人間がなまくらになっていけないね。酒を飲むのは楽しいさ。いやいや飲んだってしょうがないよ。よかったころ、楽しかったころのことを思い出しながら飲むんだ。あのころは、とうちゃんもかあちゃんもみんな元気で楽しかったとかね。飯場にいたころだって、楽しかったこと、よかったころはあるんだ。そういうのを思い出しながら飲むんだよ。いいもんだよ。いまだって、金さえあれば焼酎の一升くらい平気で飲めるからね。
 あと4年。あと4年で生保(生活保護)が受けられるから、それまで何とか頑張りたい。あと4年だよ。

※取材後調べたところ、岩内大火があったのは一九五四年。大木さんが大火に遭遇しているのは事実のようだが、「小学校に入ってすぐ」というのは、本人の記憶違いか、あるいは多少の脚色がなされているのかもしれない。  (■了)

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元信者が視るオウム的社会論 第17回/バイアグラの魔力

■月刊『記録』99年6月号掲載記事

 インポテンツの薬であるバイアグラが日本でも認可されて二ヵ月あまりが経ちました。今までも個人輸入や闇ルートなどで入ってきていたこの薬、正式認可を経てますます広がりそうです。
 以前からバイアグラを愛用していたという健康食品メーカーの経営者に話を聞きました。彼によれば、アメリカから輸入されていたたくさんの薬物や健康食品のなかで、唯一効果があったのがバイアグラだったそうです。
 還暦を過ぎている彼は、すでに何年も前に機能しなくなっていたのに、若者のように元気になってビックリしたと言っていました。彼は朝鮮人参を使った健康食品を製造・販売しているのですが、ライバルとして登場したバイアグラを優秀な薬だと褒めていました。

■良薬も過ぎたれば剣

 ただ、効果がありすぎるのは困ったもので、アメリカではバイアグラを飲んだ夫に妻が応じることができず、若い女性に走って離婚に発展する例もあるようです。アメリカは訴訟社会なので、逃げられた妻が製薬会社を相手取り、訴えたりする事例が出てくるのではないでしょうか。効き過ぎるというのもまさに両刃の剣ですね。
 麻原彰晃被告がもし獄中ではなく、いまだオウムの教祖として君臨していたならば、バイアグラの愛用者になっていたのは間違いありません。彼によると、解脱者が女性の信者とセックスして、女性の修行ステージを高める高度なイニシエーション(秘儀伝授)があり、解脱者にとっては苦痛でしかないそうですが、教祖の義務としてしなければならないと言っていましたから。
 もし麻原被告がバイアグラを使用できたら、楽々と多くの女性信者にイニシエーションを施せただろうに!(笑)
 いや、笑い話ではなく、新しもの好きの彼ならば、間違いなく使用していたはずです。間一髪セーフでしたが、嫌なことです。

■薬は人を狂わせる

 また、バイアグラは副作用が怖く、アメリカでは百人以上が死亡したそうです。それほどの死者が出ているのに、普及し続けているというのは、よほど魅力のある薬なのでしょう。精神的依存症になる危険性もあって、バイアグラなしでは立たないと思い込んでしまう例も出ているようです。
 前述した健康食品会社の経営者も、「バイアグラはたまに使うぶんにはいいのですが、副作用と依存性を考えるとお勧めはできません。それよりも、私が開発した朝鮮人参の健康食品のほうが効果がありますよ。不妊でお困りの皇太子ご夫妻にも愛用してもらっていますから!」と、真偽のほどは別にしても断言していました。
 いずれにしても、薬物に依存するというのはいいことではありません。サリン事件直前のオウムがさまざまな薬物に依存していたように、薬というものは人間を狂わせることが多いのですから。(■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第32回 就職活動の苦難1

■月刊「記録」2002年5月号掲載記事

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 さて、畳屋との面接である。畳屋のご主人は、わざわざ自分から学園のほうへ出向いてくださった。いかにも気の良さそうな風貌をした人だ。住み込みということになれば、このご主人のご家庭に正利はやっかいになる。 あんな薄ぼんやりしたヤツを、ご主人はともかく、奥さんや子供たちが受け入れてくれるのだろうか……。
 そして面接の日がやってきた。

■畳屋の適正身長

「おーっ、あんたが正利くん?」
 開口一発、ご主人はそう言った。目を見開き、しげしげと正利の全身を眺め回している。
「ああ、あんたがそうかぁ……、正利くんかぁ…、あぁぁだめだなぁ、こりゃぁ…」
 なんと、いきなりである。いきなりのNGである。
 おい、正利、部屋に入れと、ぼくが正利を呼び、あー、といつものように正利が部屋に入ってきた。そして数秒後にこの言葉、つまりNG宣告である。
 ぼくは思った。たしかに正利はひと目見てNGを出されても仕方がない男だ。それにしたってこの前の製本所の女寮長といい、この畳屋のご主人といい、人を見る目がありすぎやしないか。
「そりゃあないですよ。どうしてダメなんですか。理由を聞かせてください」
 とりあえずぼくはこう聞いた。こう聞くしかない。こうでも言わなければ会話が成り立たない。
「イヤ、ダメだよ。背が高いもの。こんだけ背が高い人は畳職人には向いてないんだよ」
 本当かー!? ぼくは思わず耳を疑った。ということは畳職人には背が高い人はいないということになるではないか。いや、まて、たとえば2mの大男が畳職人に向かないと言われたならしょうがない。しかし正利の身長はせいぜい175㎝である。平均より少し高いだけではないか。
「背が高いって言ったって、こいつ、たかだか175㎝ですよ」
「うん、そう、やっぱりねぇ。背が高いよ。無理だなあ」
 とりつく島もないとは、まさにこのことである。
「こんだけ背が高いとねぇ、ほら背中を丸めてする仕事だろ、腰痛めてみんな辞めちまうんだよ」
 なるほど。しかし腰を痛めるかどうかよりも、とにかく雇ってほしいのだ。
 だが、この後もご主人の毅然とした態度には、まったくつけいる隙がない。そして説得を繰り返すぼくの隣で、畳屋に紹介してくれた主任は、二人のやりとりをただニヤニヤ聞いているだけである。当の本人である正利も部屋に入ってきてから挨拶はおろか返事一つしてはいない。
 次第に、ぼくは、これ以上食い下がるのがバカバカしくなってきた。
(そうだ。もう終わったのだこの話は)
(つまりだ、正利が畳職人になることはないのだ)
(さあ、もう次に行こうか)
 ぼくはさっさと心を切り替えた。

■捨てる神あれば…

 製本所もダメ、畳屋もダメ。もはや絶望的……。
 と思いきや、捨てる神あれば救う神ありとはこのことだ。数日後、またもや正利には就職話が一件、持ち上がってきたのである。
          *
 うちの学園を卒園した25歳の男性が、ある大手鉄工所の工場で主任を任されているという。そして、なんとその彼が、じきじきに学園に人材をスカウトしに来たのである。なんでも今、臨海地域に工場の新設・増設をしているとのことで、人手が致命的なほど足りないというのだ。
 ぼくは、彼から話を聞きながら、同時に正利を猛プッシュした。そしてすかさず窓の外に、中庭でぼんやり小学生たちのバスケットボールを眺めていた正利を見つけ、呼び寄せた。
 相変わらず挨拶もせず、仏頂面で主任の前に立ちつくしているあいつ。
 こりゃぁまた、いかんかな……。
 一瞬、そう思ったのもつかのま、この主任何を思ったか、正利に面接を受けてみろと言うではないか。
「本当ですか? ありがとうございます」
 ぼくが立ち上がり、その手を握ると、
「まあ、挨拶ができて、人並みの運動神経があれば、まず面接には落ちませんから」と彼は言う。
 いや、もうありがたいけど、何がなんだかさっぱりわからない。正利は現に今、挨拶もできずにいるではないか。中庭でぼーっとするしかないほど運動神経もゼロだ。それが彼にはわからないのだろうか??
 ぼくには、なんとなく嫌な予感がした。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/人が食い合うのを奨励するコイズミ改革

■月刊「記録」2003年11月号掲載記事

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 このところ頻発しているのが、JRの事故である。
 先月末には、JR東日本の中央線高架工事にともない、運転開始の予定時刻から8時間にわたって上下線が不通となる事態となった。後日あきらかになった原因は、配線ミス。しかも図面段階からまちがっていたという。 また工事が終わったあとも踏切の距離が延びたために老人が渡りきれなかったり、クルマがはさまったり、ほとんど踏切があかないなどの状況がつづいている。そのため焦った老人が転倒してケガをするなど一触即発の事態が発生している。
 さらに今月6日には、夜間の線路改修工事でショベルカーのショベル部分を線路に置き忘れ、京浜東北線が激突する事故も起きている。
 共通するのは、単純ミスが重なっていること。そして事故を予見し万が一に備えていなかったことだ。
 いまから16年前、JRの前身である日本国有鉄道(国鉄)職員がいかに仕事をサボり、だらしないかを、新聞各紙が連日のように報道していた。たるみ運転だ、就業時間前の入浴だ、といった連日のネガティブ・キャンペーン(ブラック・プロパガンダ)に力を得て、「国鉄改革」がすすめられたのである。それから16年がたったのに、サービスが向上するどころか、国鉄時代以上の事故が相次いでいる。それは「国鉄改革」の正体を暴いたともいえる。
 安全性を無視して合理化を進め、子会社・孫会社に仕事を投げて経費を下げる。結局、国鉄を民間企業化させることで、関連企業を儲けさせたが、乗客の安全や労働者の雇用は「改革」の犠牲にされた。つまり人間を幸福にするための民営化ではなかったのである。
 その象徴的な事例が、国鉄労働組合(国労)員への弾圧だ。
 新幹線の運転手を売店の売り子にし、車両工場のベテラン技術者をうどん屋やそば屋で働かせ、売店や自動販売機用の販売する缶ジュースを運ばせる。国労組合員というだけで、JRは人間あつかいしなかった。
 国労にたいする人権無視がJRの本性だとわかれば、最近の事故への対応も理解しやすい。もしJRが人間を尊重する企業であれば、ケガ人がでるまであかずの踏切を放っておかなかったはずだ。
 国鉄の分割民営化に反対して解雇された1047人のひとたちは、鉄建公団訴訟原告団をつくり裁判闘争をつづけている。鉄建公団とは、かつての国鉄清算事業団を吸収した組織である。仕事のない事業団でイジメ抜き、さらに3年後に解雇したJRの雇用責任について争っている。
 地方や中央の労働委員会では、1047人の解雇が不当労働行為と認定されてきた。ところが各裁判所は、反動判決によってJRの雇用責任はないとしたのである。そして2001年、国労本部までもが権力に屈服する道を選択した。
 しかも国労本部は、組合の方針に反対した組合員22人を、組合員権3年の権利停止処分としたのである。労働組合が意見のちがう労働者を処分するのは、組織の弱体化を招くことはあっても、強化にはつながらない。組織にたいする不信を生みだすだけである。これは労働運動の鉄則でもある。国労本部は、誤りをすみやかに是正すべきだ。
 人間を尊重しない企業システムは、不況とともにさらに強まっている。前号でもブリヂストンや新日鉄の工場火災について触れたが、そのごも出光興産の北海道精油所で2回も大きな火災が発生した。発端は地震だが、現地の本部長でさえ「天災ではなく人災だった」と発言しており、地元住民の不安はますます高まっている。
 製造業の生産設備の平均使用期間は、最近10年間で2年以上も延びたという。それに加えて、安全を無視したリストラが横行している。安全にたいする企業の意識は、きわめて弱くなっており、労災、過労死、過労自殺をうみだしている。国の監督の強化が必要だ。

■前近代の雇用関係に逆戻り

 最近の記事で胸を衝かれたのは、山梨県都留市の朝日川キャンプ場駐留場で、男性3人の遺体が発見された事件である。
 この3人は、同市の朝日建設の日雇い労働者とみられている。新聞報道などによれば、この会社の60人ほどの労働者たちは、プレハブ2階建ての宿舎で生活していたという。32室もあったというのだから、巨大収容所だった。
 ほとんどが東京の山谷や大阪の釜ヶ崎など、いわゆる「ドヤ(簡易宿泊所)街」から連れてこられた日雇い労働者や路上生活者であった。これまでも賃金の未払いなどで、なんども問題になっていた企業だったという。仕事にでても1000円のタバコ代を支払うだけで、賃金の全額が支給されることはない。そのうえ宿泊代や食事代、さらには敷地内に作った娯楽施設で飲み食いさせ、法外な料金を取っていたらしい。
 そうした圧制のもとでトラブルが発生し、殺され、埋められた。このような暴力支配の「暴力飯場」(作業員宿舎)は、かつて北海道や九州の炭鉱地帯、あるいはさまざまな地域の土木現場にあった。きわめて前近代的なシロモノである。
 かつてわたしは、北九州市の「労働下宿」で働いた経験がある。競艇場でカネをすったり、小倉の勝山公園でウロウロしていた労働者が手配師の甘言によって集められ、同市八幡区の春の町にある労働下宿に収容され、新日鉄の工場などで働いた。
 これらの施設は70年代まであったが、そののち姿を消す。またバブル景気のなかで「暴力飯場」(作業員宿舎)にいくような労働者も減っていった。原発の下請け企業などに山谷や釜ヶ崎から来ていた労働者もいたが、朝日建設のように暴力を受けたり、殺されることはなかった。
 しかし現在、不況によって職場からリストラされる人があとを絶たず、山谷や釜ヶ崎にいる労働者を必要とする土木工事も減ったため、ドヤ(簡易宿泊所)代が払えなくなって路上生活者になる人たちが激増している。そうした人たちが、朝日建設などの「暴力飯場」(作業員宿舎)に収容されるようになったのである。
 もっとも苛酷な路上生活よりも、飯と屋根がついている生活の方がマシであり、定期的な仕事がなく、食事代と宿泊代が引かれているうちに借金が増えても、まだ「暴力飯場」(作業員宿舎)の方がいい感じる人たちが増えてきたのだ。
 こうした極限状態に置かれた労働者たちが「トンコ」や「トンズラ」や「ケツを割った」(逃げる)りし、それにたいする暴力的な報復が、「暴力飯場」(作業員宿舎)では繰り返されている。
 これらは北海道の開拓時代、道路工事などのために朝鮮から連行されてきた朝鮮人労働者が遭遇した現実の復活でもある。
 あるいは1984年5月、北海道の夕張市で収容していた労働者に火をつけて殺し、保険金がだまし取ろうとした事件を思い起こさせる。
 この事件の発端は、炭坑事故により日高組の労働者が死に、経営者の日高夫妻に保険金が入ったことだった。そのカネで贅沢三昧に暮らしていたものの、仕事が途切れがちになったため、労働者を寝かしておいた宿舎に火を放ち、保険金を受け取ろうとした。
 この火災による犠牲者は7人。そのなかには中学1年生と小学6年生のきょうだいもふくまれていた。日高夫婦は従業員4人に生命保険と火災保険をかけ、あわせて1億3800万円を手にしたといわれている。
 これは保険金目あての殺人事件であったが、不況のなか労働者を殺して儲けるという資本主義が、完全に復活したといえる。
 労働者の死をカネに代えるのは、なにも暴力飯場だけではない。企業が社員にかけている団体保険は、労働者が労働災害によって死亡すると、保険金が会社に入る。そのなかから涙金だけを遺族にあたえる「搾取」を、大企業もおこなっていた。
 そもそも資本主義は、労働者を喰って、経営者が太るきわめて前近代的なシステムである。なかでも派遣業は、労働者の賃金をピンハネして不労所得を得るものでしかない。
 ところが現在、この派遣業の勢いもすごい。
 コンピュータ社会の発展とともに膨大なプログラマーが必要となり、派遣労働者がプログラムを組むようになったからでもある。
 それでもコンピュータ産業や専門的な技術が、人材派遣の条件であったうちは、まだマシであった。労働者派遣法が改正され、来年3月からは全製造業への派遣が解禁される。つまり技術者でない単純労働者を、ピンハネ目的で生産ラインに合法的に派遣できることになる。
 労働者派遣とピンハネは、労使関係のもっとも醜い部分であり、労働者の保護の観点で考えれば、ピンハネはけっして認められない。人材派遣法の改正は、前近代の復活である。
 現在でさえ日本の資本主義はどう猛であって、ついに気に入らない労働者を殺して埋めるという極端な形まで生みだしてしまった。派遣法の改正は、こうした流れを加速させるにちがいない。フリーターやアルバイター・パートタイマーの使い方は、ますます経営者の思い通りになるだろう。
 つまり労働者は戦前の無権利な状態にもどされたのである。殺害されてキャンプ場にうち捨てられた労働者は、いかに労働者の命が安くなってしまったかを物語っている。

■軍拡シフトと「暗愚の森」の幽霊たち

 残念ながら選挙と発行日程が重なったため、選挙の内容については、今号では触れられない。しかし自民・公明・民主の三大政党ともに憲法改悪路線のため、選挙結果がどうであれ憲法改悪にむかうスピードが憂慮される。
 新しく誕生した小泉改造内閣は、改革路線などと呼ばれているが、じつのところ「軍拡路線」でしかない。
 安倍晋三は、49歳にして幹事長に抜擢されたと話題になっているが、「小型核兵器をもつことは憲法上問題がない」と核武装を合憲といいきった人物である。また岸信介、安倍晋太郎とつづいた三代目の“世襲”政治家である。岸は60年安保を機動隊によって成立させた張本人であり、超ウルトラ軍拡政治家といってもよい。安倍晋三も、その血をしっかりと受け継いでいるといえよう。 そのほかにも法務大臣の野沢太三は参院憲法調査会長を務め、憲法改悪に奔走した。教育勅語信奉者の森喜朗率いる森派に所属し、憲法改悪路線を内閣から推し進めようとしている。
 石破茂防衛庁長官は、軍事オタクとして知られ、徴兵制を合憲と発言するタカ派でもある。中川昭一経済産業相は、石破防衛庁長官の後任として拉致議連会長を務めてきた。小池百合子環境相は、同議連の副会長。この3人はアンチ北朝鮮勢力であり、軍事的・高圧的な解決を望む軍拡シフトでもある。
 憲法改悪を公然と掲げる小泉純一郎は、軍拡・改憲路線を官房長人事にも反映させた。福田康夫官房長官、細田博之・山崎正昭両官房副長官は、いずれも小泉の出身母体であり、タカ派の多い森派に所属する。「暗愚の森」から化けてでた幽霊といえよう。
 このように日本はますます危ない道を歩んでおり、チェック機能すら利かなくなっている。大政翼賛化してきた政治をせめてもとにもどすためにも、こんどの選挙で、自民党を吊し上げるしかない。(■談)

※文章の一部に不快用語が使われているが、劣悪な状況を表現するため、現在使われている表現を併記した上であえて使用した。検討した上での掲載であることをご理解いただきたい。

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だいじょうぶよ・神山眞/第31回 正利の就職活動2

■月刊「記録」2002年4月号掲載記事

*           *           *

 正利の就職活動が始まった。
 まずは、電話でアポイントを取っておいた製本所への見学だ。
 当日、ぼくは先輩職員の一人と共に、車で製本所へと向かった。
 先輩は、今は学園の指導員ではなく、経理にたずさわっているのだが、かつての教え子が、この製本所で働いているというつながりだ。
 教え子であるという女の子も、やはり正利と同じ境遇にあり、親もなく、知的にも遅れがある。
 正利と同じ境遇を抱える正利の女の子版。そんな彼女が製本所で、もう3年間も働いているという。
 しかも、こつこつと貯金した額は、すでに100万円に届きそうだというではないか。先輩に話を聞きながら、ぼくは思った。本当にそのときは思った。
(人生なんて、意外に上手くいくものなのかもしれない)
 しかし、今考えると、これは実に甘い考えであった。
■正利女の子版、しかし何かが…

 当然、製本所では、今後の就職活動における段取りを決めるものと思い、ぼくは席についた。
 ところがである。いきなりしょっぱなから断られた。入社どころか面接さえも断られたのである。
「申し訳ないんですけど、今年は辞めると言い出す者が一人もいないんです。それに今、印刷や製本業界は景気が良くなくてですね」
 誠実そうな女寮長は、真面目な顔をして気の毒そうに、しかしみごとにあっさりと言った。ここまですっぱり言われてしまっては、もう引き下がるしかない。
 では、なんでわざわざこんなところまで来たんだろう。電話で断ってくれればいいものを。席に座ってこれ以上話す必要もない。ぼくは、一刻も早く学園に帰り、次の段取りを進めたかった。
 …と、思えば思うほど、彼女の話は長く感じられた。卒園者の近況だの、週一回訪れる学習ボランティアの話だの、ぼくたちへのサービスのつもりかもしれないが、どうでもいい話ばかりであった。しまいには、仕事を終えたという卒園生の一人、多田という女の子が出てきて食事に誘ってくるではないか。
(もういい。今日という日はなかったことにしよう)
 ぼくは密かに溜息をついた。
        *
 多田さんを加えたぼくたちは、近くのファミレスに向かった。
 日はとっぷりと暮れていた。改めて会社の周囲を見回すと、工場ばかりで何もない。酒を飲むところも、ゲームをするところも、パチンコをするところもない。こんなところで寮生活をすれば、さぞかしお金も貯まることだろう。そう思うと、正利が面接すら受けられないことが苦々しく感じられた。
 ファミレスでは、多田さんが、「今日は私がごちそうするので先生たちは好きなものを食べてください」と言う。10歳も年下の女の子にごちそうされるとは、なんだか変な感じだが、まあいいか。と、お言葉に甘えた。
 食事中は彼女がもっぱら話をしていた。
 寮の食事は毎日出るという。風呂も毎日、好きな時間に入ることができる。週に何度かボランティアが来て、勉強を教えてくれる。おまけに案の定、お金をほとんど使うことがなく、すでに100万円以上の貯金ができた。
 話はあっちこっちに飛び、どうにも要領を得ず、完全に理解することは不可能だったが、だいたいそういった内容であることがわかった。
 まあ、いずれにしても彼女の知的レベルが正利のそれと同等であることだけは確かである。ただし、決定的に違うことがあった。
 正利が全身から不幸なオーラを発しているのに対し、彼女からは、なんとも明るく天真爛漫なオーラが出ているのだ。
 それだけの違いが、運命ってものをずいぶん変えていくのかもしれない。そう思うと、正利がかわいそうな人間にも思われてきた。
 一日が徒労に終わり、かなり遅い時間に、ぼくたちは学園に戻ってきた。
 学園の規則で決められたテレビを見てもいい時間はとっくに終わっている。なのに一人だけボーっとテレビの前のイスに座っているヤツがいる。
(やっぱりな……、正利だ)
 声をかけずに放っておけば、そのまま何時間でも姿勢を崩さないだろう。そんなふうに感じられるほど、あいつには生気や活力といったものがない。
 みすみす幸せを逃し、不幸ばかりが寄ってきそうな雰囲気がある。そういうタイプの人間にあいつが見えた。 ぼくはテレビの前の正利に、しみじみと同情した。しかし、このときぼくは、自分のことを完全に棚に上げていた。後にあいつの不幸オーラに巻き込まれていくのが自分であることも、ぼくはもっと前から予測しておくべきだったのに。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/「店を持たせてやる」との言葉を信じた・武田貴文(63歳)

■月刊「記録」20001年4月号掲載記事

*          *          *

■20年のクリーニング店勤め

 ワイシャツだと、1日に110枚ぐらいかな。勤務時間は、朝8時から夜8時まで。遅いときは夜中11時まで働いてました。自分の時間なんてなかったですよ。1日中店で働いて、近くのアパートに帰ってきたら寝るだけの毎日ですから。
 店は10畳ぐらい。だいたい二人でアイロンをかけていました。衣類とアイロンとアイロン台があって、もうそれだけで店はいっぱいでした。夏は暑くてね。ステテコとランニングで仕事をするんだけれど、炎天下に座っている方が涼しく感じられるぐらいでした。それでも体は慣れちゃうもんですよ。
 中学を卒業してから働き始めて、辞めたのは昭和48(1973)年だから、35歳までですかね。20年ぐらい同じクリーニング屋に勤めていたことになります。
■「自分の店」は夢と消えた

 7人兄弟の3番目。父親は小学五年生のときに死にました。一番下の子が生まれたばかりでした。私が中学を卒業してすぐに、今度は母親も死んじゃったしね。高校なんか進学できるわけないですよ。
 みんな高校に行きだした時代だけれど、ウチは貧乏だから進学するどころじゃないですよ。兄貴も中学を卒業してから農家の小僧(丁稚奉公)になって体を鍛えて、それから父親の後を継いで大工になったんです。米軍基地で仕事を請け負っていました。
 私の就職先は母親が見つけてきたんですよ。隣組の人が町にクリーニング屋を持っていまして。たぶん「うちのボウズを使ってくれ」、そんな感じで頼んだんじゃないですかね。中卒じゃあ大きな企業に入れるわけもないし、就職先が見つかってよかったと当時は思いましたよ。
 でも、いま考えると、クリーニング屋で働き始めたのが間違いでした。「店を持たせてやる」なんて主人から言われて、真面目に働いちゃったから(笑)。
 店の主人が死んじゃってから息子が経営を始めて、それを機に辞めました。安い銭しかもらえないし……。自分で店を始めるには、お金が必要でしょ。でも賃金が低すぎて全然お金が貯まらない。せめて親が畑でも持っていたらね。それを売って店でも建てたんだろうけれど。
■結婚しようと思ったことも

 それから5年間は、義理の兄の会社で配管工として働きました。参議院会館なんかつくったんですよ。まあ、できあがってからは、行ったこともないけれど。その会社もつぶれちゃって、40歳ぐらいから土方ですよ。高田馬場に出入りするようになりまして。
 クリーニング屋を辞めてからですかね、遊ぶようになったのは。酒は飲めないくちですから、もっぱらギャンブルと女でしたけれど。でもギャンブルといっても、ひまつぶしにやるぐらいだから、月に数万円使うぐらいかな。
 女は、池袋で買っていました。その当時の池袋は、まだ道で立っている女も多かったんです。お気に入りもいましたよ。いまは僕も枯れちゃったけれど(笑)。まあ、年をとって風俗なんていうのもね……。
 さあ、どうしてクリーニング屋を辞めてから遊ぶようになったんでしょうかね。わかりません。生活が荒れたというのでもないけれど、少し変わりました。ただ土方になったころには、どうでもよくなっちゃったというんでしょうかね。気安く働けましたから。住所がないような人も多かったし。
 そう、まだクリーニング屋に勤めている32歳ぐらいのときに結婚しようと思ったことがありました。でも、お金がないからできなかった。徒弟制度だったから、わずかしかもらえないでしょ。結局、そのまま歳を取っちゃいました。
 30歳ぐらいまでにちゃんとした会社に就職できてればね。せめて車の免許でも取って、何かの運転手にでもなればよかったなって。

■人間以下の扱いはザラ

 そうこうしているうちに不況がひどくなって、仕事もなくなって、私も職にあぶれるようになって、昨年の8月からホームレスです。
 最初、新宿にいて、それから池袋に移りました。ここでひどい目に遭いましたよ。「俺が仕切っているんだー」という人がいましてね。最初、そんな人がいるなんて知らなかったんですよ。でも、そいつは弱いホームレスばかり脅してました。
 最初、私も子分にしてやるなんて言われてヘコヘコしていたんです。仕事をくれるとも言われたし。でも、下手に出ているだけじゃ、どうしようもない人だった。
「東武デパートで酒を盗ってこい」と万引を命令されたりもしました。盗むなんてできないから、仕方なく買ったりしましたよ。
 一度なんか「牛丼を食いに行こう」と言われて、一緒に牛丼屋に入ったら、金を払おうとしないんですよ。持っているのに。結局、警察が呼ばれて、しぶしぶ2人分の代金を払いましたけれど。幸い警察も説明を聞いて帰って行きましたが。騒いで金を払わなくて済むなら、ラッキーだと思っていた人なんですよ。
 彼のオーバーを私がなくしたことがありまして、これも大騒ぎになりました。収めるために時計を取られましたからね。最初にヘコヘコしていたからなめられたのでしょう。仕事もしばらくしてなかったから、筋肉も衰えてくるでしょ。なおさら弱気になるんですよ。結局、一ヶ月ぐらいで、池袋は逃げ出しました。
 ホームレスの生活はつらいですね。ホームレスをだましたりするのに、多くの人は罪悪感を感じないんでしょうかね。
 この前、飯場に仕事に行ったときなんか、15日働いて1万3000円ですから。
 海の家に働きに行ったときはもっとひどかったんです。調子のいいことばかり言って、二週間働いて一銭もくれない。「金をくれないなら辞める」と言ったら、帰りのキップとおにぎり二つ、缶ビール一缶を手渡しました。一夏働いた仲間でさえ、7000円しかもらえなかったみたいですよ。
 ホームレスなんて飯を食わせて、たばこを渡しておけば、お金なんか払う必要はない、と思っているんでしょう。
 親族とは、もう25年以上連絡を取っていません。一人前になっていれば連絡もできますが、恥ずかしいでしょ。一番下の弟もグレていたけれど、所帯を持ったらしいんです。景気が悪くなっていますから、勤めた会社がつぶれていなければいいけどね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/母親の面影を追い求めていた・川原太一さん(46歳)

■月刊「記録」1999年10月号掲載記事

*            *            *

■母親不在で育った

 物心がついたころには、家にはもう母親はいなかったんだ。オレの小さい時分に、父親と離婚したらしい。なんで別れることになったのか、誰も教えてくれないし、オレも聞かなかったから、いまでも理由はわからないな。母親が自分から家を出たのか、出されたのかかもね。 生まれたのは青森県の十和田市。父親と兄貴、それにバアさんの4人家族で、このバアさんが母親代わりになってオレたち兄弟を育ててくれたんだ。父親は市役所が発注する土木工事を専門にしている会社で働いていた。まあ、サラリーマンだね。優しい父親だったよ。
 もともとうちは田んぼや畑のいっぱいある物持ちの家だったらしい。それが借金のカタにみんな取られちゃったようだね。それもオレの小さい時分のことで、原因とか理由はわからない。両親が離婚したのも、それと関係があったような、なかったような、それもよくわからないな。
 小学校の6年生のときに、こんなことがあった。学校から帰ってみると、家の玄関に見なれない履物が脱いであった。座敷に上がってみると知らない女の人がいてね。その人と目が合って、しばらく二人で見つめ合った。オレは急に心臓がドキドキしてきた。女の人がオレに話しかけようとしたとき、部屋にバアさんが入ってきて、「おまえは会っちゃあいけない人だ。向こうに行ってろ」って座敷を出されてしまったんだ。子ども心にも、その女の人がオレの母親だとわかった。
 しばらくして、玄関で音がするんで部屋の窓から外をのぞいたら、帰っていく母親の寂しそうな後ろ姿が見えた。オレも胸がいっぱいになった。母親を見たのは、あとにも先にもそのときの一回きりだ。座敷でオレに話しかけようとしたときの顔が、いまでも忘れられないね。 あとになって教えられたんだけど、あのとき、母親はオレを引き取らせてくれって頼みにきたらしい。だけど、バアさんが許さなかったんだね。その話を聞いて「兄貴を置いて、オレ一人だけが母親についていくわけにはいかない」と思ったことも覚えているよ。ただ、母親がオレを引き取りたいって来たということは、男をつくって逃げたとか、そういうことじゃないと思うからね。それが救いっていうか、ね。

■集団就職列車で上京した

 中学校を卒業して、東京に出てきた。集団就職というやつだね。3月20日の夜、三沢から夜行の臨時列車、あのころは集団就職列車と呼ばれていたのに乗ってね。故郷を離れる不安はなかった。若いから希望に燃えていたくらいだった。兄貴も集団就職で先に東京に出ていたし、それに母親の実家が東京にあったんだ。東京に行けば母親に会えるかもしれないという、淡い期待もあったかもしれないな。
 次の日の朝、上野駅に着いた。ホームに兄貴が出迎えてくれた。ただ、そのときに兄貴が「母親は死んだと思って働け」って言うんだ。そのとき、なんでそんなことを言ったのか、いまでもわからないね。オレが東京に出てきたのを、兄貴には母親を探しにきたように見えてたのかもしれないね。それとも、兄貴は両親の離婚の真相を知っていて、そんなふうに言ったのかとも思うね。
 オレが就職したのは、川崎にあった自動車会社のトラックの製造工場。鋳物の型をつくるのが仕事だった。そんなに大変な仕事じゃなかったよ。鋳物といっても型をつくるだけだから、熱くてかなわんとか、すすだらけになるとかはなかった。金属を溶かして型に流し込んだりするのは別の工場の仕事だったからね。重い物はみんな機械で吊ってたし、まあ仕事は楽だった。
 会社には養成工の制度があって、オレもそれを利用した。週のうち三日間だけ工場で働いて、あとの三日間は学校に通える制度なんだ。工場の敷地の中に学校があって、一学年一クラスで40人、四年制で卒業すると高校の卒業資格がもらえた。だけど、結局1年くらいで工場も学校も辞めてしまった。
 なんで辞めたのかって? 同じ中学の同級生だったのが、(埼玉県の)戸田の町工場で働いていて、そいつに自動車会社より給料がいいから来ないかって誘われたんだ。その町工場は荒川の土手の下にあって、従業員も7、8人しかいないちっぽけな工場だった。カメラの部品をプレス機械でつくるのが仕事で、給料はホントによかったよ。まあ、給料のこともあったけど、自動車会社には話をする友達が1人もいなかったからね。友達がほしかったのさ。だけど、その町工場にも4年くらいしかいなかった。
 東京へ出てきてから、ずっと母親のことが気になっていてね。母親の実家は(東京の)三鷹にあって、そこを訪ねれば何かわかるかもしれないと思ってたけど、どうしても行けないでいたんだ。行けば母親がオレたち兄弟を置いて家を出ていった真相が明かされるようで怖いような気もしてね。
 20歳のときだったかな。それでも母親の消息が知りたかったし、できれば会ってもみたい気持ちが強くなってね。自分では行く勇気がないから、兄貴に頼んで行ってもらったんだ。三鷹の実家にはジイさんとバアさんが住んでいたらしい。でも、母親はいなかったそうだ。ジイさんたちにも行方はわからないという返事だったようだ。そのことがあってから、オレも母親のことはあきらめよう、もう忘れようと思ったね。

■不況で土方仕事がなくなった

 プレスの町工場を辞めてからは、いろいろ働いたよ。スナックや飲み屋の水商売をしたこともあるし、雀荘の店員や鳶職もやった。でも、一番長かったのは土方だったね。港の岸壁をつくったり、ゴルフ場の造成とか、山留めの工事なんかが多かった。
 仕事はいろいろ替わったけど、オレは真面目なもんだったよ。はじめのうちは貯金だってしていたしね。酒もギャンブルも少しはしたけど、のめり込むほどじゃなかった。楽しみは映画を見るくらいだったね。結婚もしなかった。結婚のことなんて考えたこともないし、その必要を感じたこともないしね。
 ホームレスになったのは、98年の11月から。それまで25、26のときから土方の仕事をしてきて、ずっと飯場で暮らしてきたんだけど、仕事が減って飯場暮らしができなくなったからだよ。はじめは荒川の千住大橋の下に寝たんだ。別にどうという感想もない。住むところがないんだから仕方なかった。橋の下にはほかにも3、4人が寝ていたけど、誰からも文句は言われなかったしね。
 橋の下で寝起きしながら、上野の手配師のところに通ったんだけど、いくら通っても仕事を回してもらえないんだ。それでこっち(新宿)に移った。このあいだ、そこの公園で手配師をしていたのに会ったよ。手配師までがホームレスになっているんだから、よほど仕事がないってことだよね。
 兄貴はまだ東京にいるよ。結婚して、子どももいて、いまは府中のほうに住んでいる。オレだっていつまでもプータローをやっているわけにはいかないけど、40面をさげて兄貴のところに頼ってはいけないしね。
 この歳になっても、まだ母親に会ってみたい気持ちはあるよ。だけど、もう母親も70を超えているはずだから、いいバアさんになっているよね。街で会っても、オレのことなんかわからなくなっちゃってるんじゃないかな……。 (■了)

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元信者が視るオウム的社会論 第16回/「おわりなき日常」について

■月刊『記録』99年3月号掲載記事

 オウム事件をめぐって、さまざまな評論が飛び交いましたが、そのなかで、一番異彩を放っていたのが、社会学者の宮台真司氏が唱えた「終わりなき日常」論です。
 彼によれば、オウム事件というのは、いつまでも続くであろう「終わりなき日常」に耐え切れなくなった人々が、一発逆転を狙って引き起こした一種の社会変革であると。
 彼はそれらの人たちを「ハルマゲドン」派と呼びました。そして、彼は「ハルマゲドン」派に対する処方箋として「終わりなき日常」をまったりと生きる知恵を身につけることを提唱しました。
 さらに「終わりなき日常」派の典型として、援助交際をする女子高生、いわゆる「コギャル」をもちあげ、何の理想や大志をもつこともなく、ただひたすら周囲とのコミュニケーションのみに意識を向ける彼女達を見習うべきだと主張したのです。
 ハルマゲドンなど起きやしない、革命や維新など起きやしないぞと。自分の生活に関係ないことにエネルギーを注がずに、コギャルのように日常をうまく立ち回る知恵を磨くべきなのだと。
 援助交際をする女子高生を学者がもちあげたという話題性も相まって、彼は一躍、論壇のスターダムにのし上がりました。日本の通常の社会を離脱し、オウムという一種の別世界から数年ぶりに戻ってきたばかりの僕にとって、彼の主張は驚くべきものであり「日本も変わったなあ」と思ったものでした。
 ところで、今年の一月十日、この日は僕の三十歳の誕生日でもあったのですが、友人達が結成した「維新赤誠塾」というバンドのライブを見に行ってきました。
 彼らは宮台氏が称揚したコギャル文化を一刀両断し、腐敗した現代社会に対する憤りを、攻撃的な詞と音楽で歌いあげていました。
 洪水のように汗を流しながら熱狂的に歌う彼らを見ていて、まさに彼らこそが宮台氏の唱える「終わりなき日常」派の対局に位置する人達だと思いました。
 ライブ後に話を聞いてみると、彼らはその狂気ともいうべき音楽活動を自覚的に行っているのだということに気づかされます。この腐敗した日本を浄化するには、自らを捨てて過激なライブをあえてしなければならないと。そうしなければ、性根まで腐敗が侵食しはじめている日本人を目覚めさせることはできないんだと。そして、その過激さゆえに、今まで出演したすべてのライブハウスから、出入り禁止勧告を受けたそうです。

■幕末なら草奔の志士達

 僕は幕末の草奔の志士達というのは、彼らのような人々だったのじゃないかと思いました。何もしないで長いものに巻かれることは容易である、安易な方向に行こうと思えばいくらでも行ける。しかし、それを選ばず、魂の叫びに従ってイバラの道を歩き始めた彼らは、稀有な存在だと思いました。
 ちなみに僕は「終わりなき日常」のなかで、まったり生きることもできず、かといって社会変革のために奔走することもできず、今はただひたすら自分の心の中を観察しているところです。(■つづく)

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元信者が視るオウム的社会論 第15回/極限で出る思考パターン

■月刊『記録』99年2月号掲載記事

 昨年の十二月十四日、深夜の新宿で、したたかに酔った帰り道に、第乱闘の喧嘩をしでかしてしまいました。
 泥酔してフラフラになりながら駅に向かっていると、若者五人が僕を見てケチをつけてきました。その夜は袖のない黒マントを羽織っていたのですが、彼らには僕が手を出さずに格好つけているように見えたのか、「ちゃんと手を出せよ!」と怒鳴りあげてきたのです。彼らも僕以上に酔っているようでした。目つきを見ると、精神状態が尋常でないようでした。
 僕は酔っぱらいにはかまうまいと、酔っぱらいらしからぬことを思って、無視して歩き続けたのですが、彼らはいつまでもあとをつけてきました。酔っぱらいというのは一つのことが気になりはじめると、際限がなくなるようです。しまいには僕を囲んできて、一人が胸ぐらをつかんできました。顔を見渡すと、全員が十代後半から二十代前半のチーマー風の若者たちでした。
  「手を出して歩きな!」
  「これはマントなんだ。手は出せない。どけよ」
 僕が手を払いのけて歩き続けると、彼らはまた金魚のフンのようについてきて口出ししてきました。僕も次第に頭に血が上ってきて、好戦的な気分になってきました。
 実はこの前夜に、打撃系格闘技のトーナメントである「K-1グランプリ」をテレビで観戦して刺激され、極真空手の門下生だったこともある僕は、もう一度腕力を鍛え直したいと思っていた矢先のことでした。
  (こういうバカな奴らがいるから日本はおかしくなっていくんだよ!)
 思わずカーッとなった僕は、彼らの一人に対して脇腹にミドルキックを打ち込み、道路に沈めました。
 電撃的な攻撃に、彼らは呆気に取られていましたが、仲間の復習をしようと、残りの四人で襲いかかってきました。
 激しい殴り合いとなりました。三分くらいやりあったのでしょうか。リーダーの一人の指示で彼らは引き払っていきました。
  (これは「カルマ落とし」なんだ。自分の悪業を落とすプロセスなんだ)
 殴り合いを終えた直後、いつのまにかそう思っている自分がいました。
 この「カルマ落とし」というのは、オウムの用語で、自分が過去において積んだ悪業が苦しみとして返ってくるという意味です。いわば厄落としみたいなものです。この「カルマ落とし」を乗り越えれば、自分の悪業が滅せられるわけで、「カルマ落とし」に遭遇したら喜びなさいと、オウムのなかにいたときは教え込まされていました。
 オウムで教えられた教義など、今は全く考えないで生活しているのに、こういう極限状況になると、頭に埋め込まれた思考法が出てきてしまいます。もう脱会して三年半にもなるのに…。
 一度身についた思考パターンはなかなか抜けないものだと痛感した次第です。
  「カルマ落とし」の結果として、右目が試合直後のボクサーのように腫れ上がり、しばらくの間、眼帯を付けるはめになりました。(■つづく)

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激突!新型ゲーム機・冬の陣/家電に追いついたハードとゲーム店店員たちの本音

■月刊『記録』07年2月号掲載記事

■文・取材/本誌編集部

■スタートダッシュで差がついた!

 06年末、ゲームのハード機(本体)がメーカーから相次いで発表され、年末商戦は決戦の場となった。
 11月11日にソニー・コンピュータエンタテイメント(SCE)から「プレイステーション3(PS3)」、12月2日には任天堂から「Wii」が発売された。11月2日にもマイクロソフト(MS)が「Xbox360」の低価格版となる「Xbox360コアシステム」(以下「Xboxコア」)の発売に乗り出しており、三つ巴の争いとなった。
 MSの「Xbox360」は06年末までに全世界で1000万台以上を売り上げているが、日本では売り上げが伸びず、今回の「Xboxコア」で日本市場での掘り起こしを計る。
 SCEと任天堂が席巻する家庭用ゲーム機市場にコンピュータ企業の巨人・マイクロソフトが初代「Xbox」を掲げて割って入ったのが2002年。「Xbox」を中心としたエンターテイメント事業はいまのところ赤字とはいえ、潤沢な資金を有するMSが先行する企業にとって脅威となっていることは間違いない。
 さて、「プレイステーション2」に続く大成功を収めることができるか注目された「PS3」だが、発売前からSCEの混乱ぶりが伝えられていた。
 量産体制が整わず日本とアメリカでは大幅な初期出荷台数の縮小を余儀なくされ、欧州にいたっては発売が延期になったほどである。
「PS3」が搭載する、次世代DVD規格であるブルーレイディスク(BD)を読み取る装置の生産が遅れているのが原因だ。
 当初の計画通りであれば、日米合わせた年内出荷は400万台のはずだったが、実際には200万台程度にまで減少。発売前に希望小売価格の値下げを発表するという波乱もあった。ハードディスクの容量が20Gの低価格版は税込み6万2790円の予定だったが、「Xboxコア」の登場やユーザーからの「高い」との声を鑑みた結果、4万9980円まで値下がりした。
 発売直後こそ店にPS3を買い求める客が殺到したが、それも初回出荷台数が10万台のみだったこともあるようだ。
 対する任天堂の「Wii」は「遊びの原点立ち返ったゲーム機」と言われている。
「ファミコン」が90年代半ば、「プレイステーション」にハード機No.1の座を奪われた後、任天堂も「プレイステーション」の特徴である高機能路線で対抗することを目指し「ゲームキューブ」を発表。しかし結果的に敗北したという過去がある。
「Wii」では、高機能性や高いゲーム性を追求した「PS3」や「Xbox」とは別の「遊びやすさ」「親しみやすさ」を重視。岩田聡SCE社長が「家族全員が毎日当たり前のように触れるゲーム機を目指す」とコメントしていた通り、棒状のコントローラーを片手で持つという気軽さ、それでいて操作が簡単ということから老若男女が楽しめるものとなっている。
 価格も2万5000円と他の2機種より低く、発売後5日間で世界販売が100万台を突破するというものすごいスタートダッシュを見せた。
 年末商戦の時点では「Wii」が他に比べてリードしていると報じられているが、このまま「Wii」が今後のゲーム機の主役になっていくのかというと、そういうわけでもなさそうだ。
 今でこそ「PS3」は高価格だが、1年後には数量的に市場に普及し価格が下がり始め、多くの人に手が届くようになる。そして、なんといってもハイビジョン対応の次世代DVD再生機である「PS3」はAV機器としても最高峰の機能を備え、BD-DVD再生ハードとしても期待されている側面がある。ゲーム機が「家電」に完全に追いついたのが「PS3」といえ、今後の関連デバイスの発表にも期待が集まっている。
 年末商戦以後の各ゲーム機の展望はどうなのか。完全な予想などありはしないが、日々店に立ってゲーム機を販売する店員たちならば、その流れを敏感に感じ取っているはずだ。

■ゲーム担当店員の視点

 家電量販店やゲーム店が林立する秋葉原を訪れた。
 まずは秋葉原駅横にそびえるヨドバシカメラマルチメディアAkibaに足を運ぶ。「Wii」の発売前日の夜から1500人もが行列を作った店舗である。
 ゲーム機器のフロアには多くの人が集まっていた。大きなディスプレイが用意され、映画のような「PS3」のゲーム画面が写し出されているかと思えば、「Wii」の棚にも人だかりができている。
「今のところは、『Wii』が押してると言えるんじゃないでしょうか。今日の時点でも在庫はゼロです。入ってきても、そのたびに即日完売の状態ですからね。やはり幅広い層に人気がありますし、操作方法が斬新で本当の意味で新しいゲーム機というインパクトがあるようですね。」
 店員さんが言うには、なんと予約の受付もできない状態であるという。
 売り場には、「Wii」が売り切れ状態であることを知った客が、人気ソフト『Wiiスポーツ』のパッケージを手に取って、心なしか物欲しそうに眺めている。
 他方、「PS3」には在庫があるようだ。
 初期出荷が少なかった「PS3」の方が在庫があることが意外だった。それでも、今後の見通しが暗いわけでもないようだ。
「思った以上に、BD再生機として『PS3』を見ているお客様が多いんです。たしかに『PS2』発売時も、DVD再生機としての側面がありましたが、そのころはもうDVD再生機は普及していました。でも、今回のBD-DVDに関してはまだほとんど普及していない。その意味は大きいと思います。これからの展望ということになれば、決定的な影響力を持つのは人気ソフトが出るかどうか、ということになりますよ。このソフトが欲しいからこのゲーム機を買う、という判断でハード機を決めるお客様は多いですから」。
 こう語る店員さん自身も、どのゲーム機を買うかはこれから発売されるソフトによって決めるという。

■『ブルードラゴン』でXbox復活!?

 実際にソフトの力によって売り上げを大きく伸ばしてきたゲーム機がある。「Xboxコア」である。「ゲームソフト店「メディアランド」の店員さんに聞いたところ熱っぽく語ってくれた。
「やっとキラーソフトが出たって感じですよね。『ブルードラゴン』『ロストプラネット』あたりが出てきて本体も売り上げが伸びてる感じです。なぜかアキバ(秋葉原)では『Xbox』系が強いという謎の傾向があるんですけど、ここにきて本格的に伸びてきました」。
『ブルードラゴン』はあの『ドラゴンボール』を描いたマンガ家、鳥山明がキャラクターを担当した作品だ。このソフトが発売された12月7日以降、売り上げが伸びたことからも年末商戦がさらに激化したことが伺える。
 ここで、いかにもゲーム担当らしい今後の展開についてのコメントを聞くことができた。
「でも、これから先、どのゲーム機に期待するとしたら、個人的には『Xboxコア』でも『PS3』でも『Wii』でもなく、『ニンテンドウDS』か、『PS2』ですよ。というのは、ソフト制作会社側が『PS3』からソフトを出すのを嫌っている傾向があるらしいということをたまに聞きますからね。『PS3』が高性能になったから、そのソフトを作る側にも相対的に今までより高い技術とコストをかけなければならなくなってしまった、というのが理由だそうです」。
 その点、『ニンテンドウDS』や『PS2』では今後も『ファイナルファンタジー』や『ドラゴンクエスト』といった大ヒット間違いなしの超大作が発売を待たれている。新たな3機種に移行するのはまだ早計ということらしい。
 何件か店を回ったが、1月23日まで「Wii」にお目にかかることができなかった。しかし、この23日にようやく「メディアランド」で中古の「Wii」を1台だけ見つけることができた。
 値段を見ると、2万9800円。なんと希望価格の2万5000円より5000円近く高くなっている。買い取り価格は2万6000円前後だという。
「今のところ希少価値がありますから。他の店では中古で3万円を超えてるのも見たありますよ」。
 それでも売れるというから驚いてしまう。新品にしろ中古にしろ、次に入ってくる見通しは今のことろないという。
「GAMERS」本店。この店でも当然のように「Wii」は売り切れである。「PS3」在庫アリ。「Xboxコア」も在庫アリ。
 店員さんの談。
「『Wii』は入ってくるなり品切れ。運がいいときは2週で連続で入ってきますけど、その日のうちにすぐ売れちゃいますね。個人的には『Wii』派です。『PS3』は『機械』という感じがして、気軽に楽しむという感じではないですよね」。
「Xboxコア」の売れ行きは同店でも伸びているという。ここで気になったのは、人気ソフトが出る前とはいえ、なぜ「Xbox360」「Xbox360コア」は伸び悩んだのかということだ。
「初代の『Xbox』と比較して、そんなに進化してる感じがしなかったからだと思います。目新しい機能もないし、ソフトもそんなに充実してなかった。だからMSにとっては『ブルードラゴン』は『これにかけた!』っていう感じだったんじゃないですかね」。
『ブルードラゴン』がヒットし、やや遅まきながら『Xboxコア』が攻勢をかける。それが『Xboxコア』の現状であるようだ。
 少し前まで、ゲームといえば子どもの遊び道具というとらえ方が一般的だったはずだが今は違う。
 SCEはテレビ以上の開発コストをかけ、家電のプラットフォームとしてのゲーム機を視野に入れている。全世界で大ヒットを記録している『メタルギアソリッド』(ハードは「PS2」)に大塚製薬の『カロリーメイト』がアイテムとして登場しているように、ゲームの中に広告が入るのは今後当たり前のことになるという。MSはゲーム中の広告を収入源として視野に入れはじめ、ゲーム向け広告代理店を設置している。
 飛躍的な進化を遂げる今後のゲーム業界に、そして3機種の生き残りの動向に注目!(■了)

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まだ続けるけるべき? サッカー疑惑の祭典/トヨタが糸を引くW杯

■月刊『記録』07年1月号掲載記事

■文・本誌編集部

 競技人口2億4000万人(FIFA発表)とも言われ、地球上で最も親しまれているスポーツであるサッカー。
 国別でチームを組み、4年に1度世界一の座を争うワールドカップが06年にドイツで開催されたことは記憶に新しいが、クラブチームによる世界一のトロフィーをかけての闘いは、毎年この日本で行われている。
 通称トヨタカップとして1981年から行われていた大会では、欧州王者と南米王者が「第三国」である日本で激突し、勝者がクラブチーム世界一となっていた。しかし、05年からはさらにその規模を拡大、欧州と南米の王者のみならず北米、アジア、アフリカ、オセアニアの王者が加わることになった。
 日本で開催されることになり、トヨタカップと呼ばれるようになったのは1981年からだが、大会そのものはインターコンチネンタルカップとして1960年から存在していた。
 60年代の設立当初は欧州王者と南米王者がホーム・アンド・アウェー方式でゲームを行っていたが、特に南米で行われる試合では観客が過剰にヒートアップし危険が伴い、またクラブ側の経済的、スケジュール的な負担も大きいことから、81年から中立的な場所ということで日本で1戦のみ、世界一決定戦が行われることになったのだ。
 05年大会からはFIFA(国際サッカー連盟)主催のクラブワールドカップ(2000年に第1回が開催されるがその後中断していた)と統合する形で「クラブワールドカップ」(以下クラブW杯)を正式名称としている。

 さて、05年から欧州と南米以外に4つの大陸の王者がクラブW杯に参加することになったわけだが、どうも4つのチームが新たに加わる意味が見いだせない、というのはひねくれた見方なのだろうか。
 現在という時代ではスポーツイベントの価値が経済効果で計られ、オリンピックの運営でさえ放映権料やスポンサー効果といった話題から切り離せないものになっているのは言うまでもない。とはいえ、クラブW杯では参加地域の拡大に乗じ、トヨタがブランドのアピールの場としてサッカーを利用しようという魂胆があまりにミエミエだろう。
 新たに加えるチームが、呼ぶに値するチームなのか、というと必ずしもそうでないからだ。4つのチームにはなんとアマチュアのチームまで含まれている。オセアニア代表のオークランドシティ(ニュージーランドのチーム)は、ニュージーランドにプロリーグがないためアマチュアなのである。「アマチュアで何が悪い!」と思われるかもしれないが、今回は実現しなかったとはいえ、オークランドシティとスーパースター・ロナウジーニョ率いる欧州王者・バルセロナが闘うことになればそれは“イジメ”になってしまう。ロナウジーニョは今回の来日で日本サッカー協会から依頼され、イジメ問題吹き荒れる環境に生きる日本の子供に「生きろ、生きろ、生きろ。強くあれ。自殺なんかするな」という感動的なメッセージを送っているのだが、バルセロナ×オークランドが実現していれば、それ自体がイジメだ。
 実際ではそのカードが実現しないようにトーナメント上で両者は最も遠い位置に配されているのだが、なんだかそれも「配慮」というよりは「ウソくさい」感じがする。
 幸い、大会ではバルセロナのスペクタクルな快勝劇あり、ブラジルの超新星・アレシャンドレの鮮烈な世界デビューありで観る価値は結果的にあったのだが、サッカー誌の扱いは限りなく控えめ。あくまで欧州で行われているチャンピオンズリーグが話題の中心。不気味なのは、大会自体の批判記事が少しくらいあってもいいものなのに、どの媒体にも見あたらなかったことだ。
 何よりも引っかかるのは、表記されることのなかったスタジアムの名前である。トヨタカップだった2002年の頃から決勝は横浜国際総合競技場で行われてきたのだが、このスタジアムは日産自動車がネーミングライツ(命名権)を取得、05年より呼称を「日産スタジアム」としている。しかし、この大会中はその名前が出ることはまずなかった。スポンサーであるトヨタの前で日産の名前を出すことなどできない、ということなのだろうが、全くサッカーと関係のないところでそんな力関係が存在するのが現代のスポーツ、と割り切るべきなのだろうか。
 現在、07年度まではクラブW杯は日本で開かれることが決まっているが、その後のことは決まっていない。
 一説では、欧州にトッププレイヤーが集中する現在の傾向を回避し、これまで以上にいろんな地域に注目を集めて貰うために参加国を増やしたという見方もあるが、広告費と世界一の競技人口、という費用対効果を十分に考えたTOYOTAは、スポンサー名を大会名の冠に置き続けるのだろう。(■了)

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鎌田慧の現代を斬る/「自衛隊」が侵略軍化する核武装論

■月刊「記録」2003年12月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 イラクへの自衛隊派兵が具体化してきたのに、あたかも呼応するかのように、イラク国内では米軍をはじめとする占領軍へのゲリラ活動が活発化してきた。
 11月15日には、北部ムスルで米軍ヘリ2が墜落し、米兵17人が死亡した。その3日前には、イラク南部のナシリアでイタリア軍が駐屯する警察本部に自爆テロが仕掛けられ、イラク人を含む30人前後が死亡している。さらに11月2日には、米軍ヘリがロケット弾で撃墜され兵士16人が死亡。このほかにもヘリコプターの墜落事故や爆弾による攻撃などもあり、イラク戦争がはじまってからの死者は、11月16日現在、米兵だけで420人に迫る勢いだという。そのうち178人が、いわゆる「戦後」の死者である。
 このようなゲリラ活動の激化により、米英の占領スケジュールは変更を余儀なくされた。
 15日には、米英暫定占領当局(CPA)とイラク統治評議会が、来年6月末までに占領統治を終了させることで合意した。この計画によれば、全18州で部族長や指導部などが議員を選出して暫定国民議会を設立。そののちイラク国民の直接投票による制憲会議議員を選出し、憲法草案をつくって国民投票で承認を得る。それから総選挙が実施される予定という。占領体制の下で憲法制定、選挙をへて新政権樹立という当初の方針は、反米感情の昇まりのなかで頓挫した。
 しかし油田を抱えるイラクを、アメリカが簡単に手放すはずがない。暫定国民会議の議員選出には、米占領当局が圧力をかけることができる。またイラク人による新政権発足後も、米英軍を主力とする連合軍は駐留する見通しが強い。つまりゲリラ攻撃の対象となる表舞台からは去ったように見せかけ、イラクを統治の手綱は離さない作戦だ。
 すでにアメリカのネオコンは、石油利権・復興利権・市場の自由化など、自国の大事資本、なかでもネオコン議員に近い筋の大企業にたいする優遇策を実施してきた。国連の統治を否定し、ひたすら利権拡大に走ってきたのである。
 こうした状況におけるゲリラ闘争の活発化は、フセインへの支持だけをしめすものではない。自国に侵略してきた米英およびその同盟軍にたいする抵抗闘争であり、イスラム文化を蹂躙する侵略者への反撃でもある。
 これまでもたびたび指摘してきた通り、当初いわれていた大量破壊兵器の存在は証明できず、発見すらされていない。つまり「大量破壊兵器」とは、侵略戦争の旗印、侵略のための神器であった。いまやその化けの皮もはがれ、ブッシュの正義は虚構の正義となった。開戦前にアメリカ政府が主張した「イラクによるウラン購入疑惑」、イギリス政府による「イラクは45分で大量破壊兵器の配備が可能」などという侵略を正当化するブラック・プロパガンダも、とうの昔に破綻している。
 結果、13万人にもおよぶイラクの米兵は、なんのために、なにを守るのかという「戦争の理念」を米兵は喪失した。そのうえ、いつゲリラから襲撃されるかわからない恐怖のどん底にいる。その精神的負担を考慮に入れれば、外敵を追い払おうとしているゲリラ側の士気が、どれほど米兵を圧倒しているかがわかる。

■安全地帯の政治家は駐留を叫ぶ

 しかしミサイルの飛んでくる心配のない母国で、SPに守られながら暮らしている政治家の鼻息は荒い。これだけの無駄死を目の当たりにしながら、ブッシュはなおも撤退しないといいはっている。19人もの死者をだしたイタリアのベルルスコーニ首相も、脅しには屈せず撤退はしないと豪語している。
 また、アメリカの姑息なコイズミも、派兵中止とはいわないでいる。岡本行夫首相補佐官にいたっては、「『一人でも死んだら撤退』という、テロリストが待っているようなステートメントは言えない」と発言している。実際、自衛隊に死者が出ても、「日本政府は断固撤退しない」といいはるのだろう。自衛隊員の死は、米英軍と「犠牲者」を共有することを意味する。その結果、イラクにたいする強い敵対感情が、日本のなかで醸成されるにちがいない。
 しかし自衛隊の死は、被害者の死ではなく、あくまでも加害者の死であり、侵略者の死である。侵略軍とともに行動する軍隊は、侵略軍でしかない。死の感傷から事実を見誤ってはいけない。
 米国追従の日本は、すでに攻撃対象となってしまっている。11月15日にトルコの首都イスタンブールにあるユダヤ教礼拝所(シナゴーグ)に自爆テロを仕掛けたアルカイダ傘下の組織は、次のような声明を発表しているからである。
「犯罪者ブッシュとその追従国(特に英国、イタリア、オーストラリア、日本)に告げる。死を呼ぶ車はバグダッドやリヤド、イスタンブールでは止まらない」
 この声明は、日本が自動車爆弾テロの標的になることを強く示唆している。このような行動をけっして支持するものではないが、自衛隊員がアラブ人に侵略軍と映れば、ゲリラやテロリストに狙われて当然である。小泉は、そうした結果を予測できる「魔の選択」をしたのである。
 しかし、より心配なのは自衛隊員の死ではなく、むしろ自衛隊員によるイラク市民の殺害だ。自衛隊がイラク人を殺害すれば、イラク市民の反日とゲリラの徹底抗戦という泥沼のスパイラルにはまってしまう。
 ベトナム戦争での米軍兵士の死者は、5万8千人とされている。しかし、ものの本によればベトナム戦争で精神的なダメージを負った人たちは、それ以上に達するという。戦争は武器だけの闘いではない。不断の神経戦である。殺す側も、殺される側も精神的に重大な負担をともなう。ましてやゲリラ戦ともなれば、すべての場所が戦場となり、心休まる暇がない。だからこそベトナムでは、米軍による非戦闘員である村民の大虐殺が頻発した。ソンミ村の大虐殺などは、そうした歴史的な教訓である。
 イラク戦争開始以来、米兵の死者は400人を超え、ベトナム戦争の最初の3年間での死者を上回っている。米軍が撤退しないかぎり、米兵の恐怖は極限にむかって進んでいく。

●血税で危険を買う愚行

「安全な地帯」に進軍するなどといっている自衛隊も、その存在が狙われることにより、周辺を戦場に変えてしまう。侵略した自衛隊員に安全地帯などはない。自衛隊の存在自体が恐怖を招く悪循環だ。恐怖を取り除こうとすれば、市民への検問を強化され、過剰防衛による市民殺害の可能性は高まる。
 イラク派兵法(イラク復興特別措置法)は、その第17条で武器の使用を認めている。法律によって交戦が認められているのだから、自衛隊員は「自衛」のためにためらわずに引き金を引くだろう。この既成事実は追認され、正当防衛という名による武力攻撃が承認される。
 イラクへの派兵は、経済的にも大問題である。米政府から強制されたイラク復興の分担金は、50億ドルと見積もられている。しかし戦況の悪化によっては増えるとの予想もある。さらに自衛隊をイラクに派兵するための経費が、総額で数百億円とも見積もられている。「ドロボウに追い銭」である。まじめに働いている人々からは税金をふんだくり、その血税を侵略につぎ込んで人々を危険にさらす。許されることではない。
 派兵にともなう備品は、年内の派兵に間に合うよう防衛予算を使っての購入がはじまっている。イラク派兵を国会が認めていない状況での暴挙である。憲法9条の遵守どころか、この国はシビリアンコントロールさえ外れてしまっている。さらに防衛族でもある石破茂防衛庁長官は、14日に来日したラムズフェルド米国防長官にたいして、自衛隊の早期派遣を表明した。自国民の生命を危険にさらして平然としている「軍事オタク」の防衛庁長官は、辞任させるべきだ。
 イラク戦争にかんして、日本の米軍基地が大きな役割を果たしていたことも忘れてはいけない。ラムズフェルド米国防長官は、さっそく沖縄を訪問し米軍基地で兵士を激励した。アメリカの世界侵略に、沖縄の米軍基地がどれほど大きな役割を担っているかが透けて見える。
 基地の縮小を訴える稲嶺恵一沖縄県知事との対話では、ラムズフェルドは基地縮小の具体策には言及しなかった。それどころか騒音問題はむしろ減少していると反論し、米軍基地がもたらす「被害」を訴える知事に露骨な不快感を示したと報道されている。軽くみられたものだ。
 小泉首相の無分別によって、日本はこれまで親日的だったアラブ諸国と日本はまっこうから敵対することになり、テロルの対象として名指しされるまでになった。イラクへの派兵を阻止し、憲法改悪の歯止めにするためにも、さまざまな地域での集会やデモ行進などの抗議行動が、さらにさらに必要とされている。

■国会に溢れる核武装派議員

 11月9日に終わった衆議院議員選挙は、自民党が前回議席を上回る237議席、民主党が40議席の躍進と伝えられている。とはいえ、これで野党が勝ったと喜ぶものはいない。イラク派遣と改憲を主張している「改革」という名の小泉「軍拡」路線は、選挙によって否定されなかったのは、マスコミ主導の二大政党論に幻惑されたからだ。
 そもそも民主党は、自民党と体温のちがい程度の差しかなく、体質自体はおなじだ。それは有事三法に民主党が賛成したことにも、よくあらわれている。このさして変わり映えのしない2党にマスコミは鈴や太鼓で誘導した。
 そのため、かつて社民党や共産党に投票していた人たちの多くが、民主党に投票した。これは自民党政権を変えたいという要望が強かったためだ。「死に票」になるぐらいなら、二大政党の「野党」にいれたい、との心理である。
 一方で自民党への支持も堅調だった。有権者がどの党にどれだけ投票したかを示す絶対得票率では、「棄権・無効」の割合が前回より増えているにもかかわらず、比例区で17から20パーセントへと増えている(『朝日新聞』11月10日 朝刊)。選挙の顔として小泉首相が全国を走り回ったことを考えれば、小泉のデマである「改革」にいまだ期待しての投票と考えられる。
 そして有権者の最大勢力は、自民と民主の絶対得票率を合わせたほどの数字、40パーセントをたたきだした「棄権」だ。いまさら投票しても変わりようがないという、政治にたいする絶望が、この数字から伝わってくる
 しかし、このどうしようもない政治的退廃の裏で、改憲派と核武装派の国会議員が、いままで想像もできなかったほど増えていることがわかった。
 『毎日新聞』がおこなったアンケート調査によれば(11月11日 朝刊)、当選した衆院議員の17パーセントが核武装の検討を肯定している。
 核武装検討に肯定的で、なおかつ改憲賛成となると、自民党で42人、民主党で8人、保守新党(アンケート時)1人、無所属1人となる。
 これは時代の危機といえる。すでに憲法改悪に必要な国会議員の3分の2の票を集めるのに苦労はない。それどころか核武装に突き進むことさえ、現実味を帯びてきた。

■原発費用の国民負担をもくろむ電事連

 核武装議員を物質的に支えているのが国内の過剰プルトニウムである。
 現在、使用済み核燃料は、イギリスやフランスでプルトニウムを取り出されて日本に逆送されている。使用済み核燃料の再処理を国内でできるようになれば、原爆の原料であるプルトニウムを大量に生産することができる。
 こうした危険を背景に電気事業連合会(電事連)から発表されたのが、核燃料サイクルにかかる総費用である。06年から再処理工場が操業し、72年間で廃止するまでの費用が、21兆7千億だという。そののち19兆円に訂正されたが、問題なのは、なぜ電事連がいまごろになって発表したかである。
 これまで廃棄物の処理費について、いっさい発表されなかった。原発の発電コストがいちばん安いと主張するのみであった。ところが発表された19兆円の経費を発電コストに組み入れると、天然ガスや石炭での発電と比べて高くなる可能がでてきた。原発推進派が唱えていた経済的優位性は崩れたといえる。
 電力自由化の前なら、政府とグルになって電気料金を上げればよかった。しかし新規事業者と競争が始まっている現在、値上げには抵抗が強い。それで電事連が仕掛けたのが、公的資金投入の議論を呼び起こすための数値発表である。
 いままで秘密にしてきた数値を時期をみて小出しに発表し、自分たちの窮状を訴え、国民へ負担を押しつけようとする深慮遠謀だ。
 ついに電力会社も、将来のコスト負担に音を上げはじめた。原発の見通しはますます暗い。勝手に進めてきた原発政策のツケを税金に回すなど許されるはずもない。 核武装という妄想を止めるためにも、よりいっそう原発を拒否する強固な運動が必要とされている。 (■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第30回 正利の就職活動

■月刊「記録」2002年3月号掲載記事

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 正月が終わると、子供たちが帰省先から帰ってきて、日頃の喧噪が戻ってきた。
 ぼくと正利の周辺も急に慌ただしくなってきた。
 卒業まで、あと3カ月だ。そのたった三月の間に正利の行き先を決めなければならない。園の方針では、高校へ進学する者はそのまま園に残ることができるが、卒業する者は、園からは出ていかなければならない。だから大変なのだ。
「そこを何とかならないものかな」と、考えてしまう。 ここには、高校に進学できるような連中ばかりがいるわけではない。正利のように、高校に進学できそうもない子供もいる。そういう子供たちを15歳でいきなり、社会に放り出さなければならないシステムはどうなのか。ぼくは疑問を感じた。
 しかし、システム云々を変えていられるほどの暇な時間は、ぼくには全く与えられていなかった。

■三択、正利の進路

 去年の火事の跡を消すための大がかりな工事が始まった。
 不思議なもので、火事の直後のような緊急時には、子供たちも遠慮するのか、あるいは緊張感が増すためなのか、悪さ、非行といったものが、一時的になりをひそめる。
 しかし、年も明け、落ち着きを取り戻すに従って、タバコ、ケンカ、盗みなどが、再び噴出してくるのであった。
 それらへの対処に追われながらも、ぼくは正利の就職活動を着々と進めていかなければならなかった。
 正利は、普通高校への進学を希望している。しかしそんなことが無理であることは、いうまでもないことだった。残る手段は二つ。養護学校への進学か、就職。
 しかし、養護学校への進学には、『愛の手帳』の取得が必要だった。一度取得してしまえば、一生『愛の手帳』の所持者である立場からは逃れられなくなる。社会に出てからのこれからの人生に、それはつねに影響を及ぼす。
 IQ=81という、知的障害者と健常者の境である微妙なラインにいる正利を、障害者の側へここで定めてしまうことには、一抹の不安を抱いた。
 残る手段は就職しかない。しかも生活能力のない正利に残された道は一つ。住み込みでの就職だ。
 工事の影響で、子供たちの部屋が縮小され、正利は、ぼくら男子職員の職員室を寝床にすることになった。
 普通の中学生なら、自由を束縛された思いで、嫌がるはずだが、正利はなぜか妙に楽しそうであった。
 寝床に入ると、ゴロリと横を向き、ぼくのほうを見る。机でまだ仕事をしているぼくをジーッと目で追う正利。たまにチラッとぼくが横目でうかがうと、急に正利は視線を逸らす。
「ジロジロみないでほしいのよ」などと言うのだ。
 それにしても相変わらず小学生とばかり遊び、進歩しているかいないのかわからぬ今、ぼくの目の前にいる正利の将来が気にかかった。
 たとえ就職が決まってしまっても、その先にはおそらく、イバラの道が待っているだろうと言わざるをえない。
 不潔で、無口で、頭が悪いヤツ。おまけに運動神経がゼロで、性格も悪いヤツ。
 そんなヤツにはなかなか就職口がない。
 加えて親も身内に保証人になってくれる人もいない。盗み癖があり、怠け者の15歳。
 どこの会社が相手にしてくれるというのか。
 でも、そんなヤツのためにでも、ぼくたち職員は就職口を探してこなければならないのだ。
 では、どうするか?
 たいていの場合は、コネを利用する。
 就職した卒園生に、直接我々が連絡を取るのだ。そして会社側に、我々と会ってもらうための手はずを取りつけてもらう。卒園生を雇っているという時点で、すでにある程度は理解があるわけだから、あとは我々の交渉次第である。
 年明けからぼくも、正利のために、この方法で就職活動を開始していた。製本所、畳屋、工場などに手当たり次第に連絡を取っている。そのなかでは、製本所の評判が、先輩職員のなかでもかなりいい。
 もちろん寮がついているし、まかないさんまでいる。しかも週に2回は学習ボランティアが来て、算数(計算)と漢字を教えてくれるというのだ。お金の管理までしてくれ、至れり尽くせりの職場といえた。
(こりゃあ、正利のためにあるような場所だな)と、ぼくは思った。善は急げとばかりに、電話をかけ、見学の申し込みをした。すると、『早速、明日の午後にでも来てください』と言うではないか。なんだか、このままトントン拍子に事が運びそうな気がして、ぼくは笑いを抑えることができなかった。
 最も手こずるであろうと思われた正利の就職活動が、手を伸ばせば届きそうな位置にあるように思えたのだ。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/離婚して生きる張りを失った・大島陽一さん(57歳)

■月刊「記録」2001年1月号掲載記事

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■国鉄の合理化で整理される

 生まれたのは1943年で、北海道の小樽です。父親は国鉄(現在のJR)で保線工事の仕事をして働いていました。兄弟は7人あって、私は上から二番目。子どものころはワンパクなガキ大将でしたね。うちは兄弟が多かったうえに、戦後の食糧難と重なって、家の暮らしは楽じゃなかったようです。当時の国鉄は給料が安かったから、母親も外に出て働いたり内職をしてしのいでいました。
 中学を出てから、大工の見習いになりました。3年間の見習い修業をして、そのあと二年間がお礼奉公でした。見習いの三年間は親方の家に住み込んで覚え、お礼奉公になると家から通えました。
 大工の世界はまだ古い徒弟制度が残ってましたから、修業はきびしかったですよ。「仕事は見て覚えるもんだ」とか「盗んで覚えろ」と言うだけで、誰もちゃんとは教えてくれない。そのくせ、間違えたりヘマをすると容赦なく殴られる。そんな世界でした。
 ただ、私は本気で大工になるつもりはありませんでした。国鉄マンになりたかったというか、なることが決まっていたんです。あのころの国鉄には父親が定年退職すると、その息子が後釜に入れるという慣習のようなものがあったんです。規則ではなかったけど、暗黙の了解というか、そんなのですね。それで父親が50歳の定年を迎えたとき、私のほうも大工見習いの年季が明けて、入れ替わって国鉄に入りました。仕事は父親と同じ保線工事。線路脇の崖や土盛りしたところの法面(人工的に削られた斜面)の点検・補修が仕事でした。
 ところが、入って3年目の年に合理化による人員整理があって、その対象になってクビにされてしまいました。学歴はないし、職場の中にも何のコネもないし、そういうのから整理されてしまうんですよね。24歳のときでした。

■家庭と仕事を一度に失った

 しばらく小樽で土工や鳶なんかをしてから、札幌に出てACLを施工する会社に就職しました。ACLというのは軽量気泡コンクリートでつくったビルの外壁材のことで、それを施工するのが仕事でした。小さな会社でしたが、仕事はそれなりに面白かったしやりがいもありました。すぐに国の検定試験を受けて、施工資格も取りましたしね。
 社長にも気に入られて、その紹介で見合いもしました。相手の女性は社長の従姉妹で、看護婦をしている人でした。お互いに気に入って、35歳のときに結婚しました。それですぐに男の子が生まれました。
 ただ、子どもができてから、女房との間がギクシャクしてきましてね。私としては看護婦の仕事はやめて、育児に専念してほしかった。ところが、女房は「看護婦の仕事は、私の天職だからやめるわけにはいかない」の一点張り。
 看護婦の仕事というのは不規則で、週に2、3日は夜勤の泊まりもある仕事ですからね。それで子どもを保育所に送り迎えするのが私の役目になりました。でも、私だって工事現場が仕事場ですから、サラリーマンのようにいつも決まった時間に迎えにいけるとは限らない。女房との言い争いが絶えない日が続きました。最後はおたがいを罵り合うようになっていて、それで離婚することになりました。
 女房とはともかく、息子と別れるのはつらかったですね。6歳のかわいい盛りでしたから……。今になって思うと、あと2、3年も辛抱すれば、息子にも手がかからなくなっていたはずなんですがね。でも、そのときはそれがわからなかったんです。7年間の結婚生活でした。 働いていた会社の社長と女房が従姉妹同士でしたから、もう会社にもいられなくなって辞めました。それで東京へ出てきたんです。42歳のときですね。

■高血圧で飯場を追い出された

 東京に出てからは鳶の仕事をして働きました。しかし、離婚のショックというか、何をするにも張り合いが出ませんでね。仕事が終われば毎日酒。休みの日はパチンコか競艇で時間をつぶして、夜になれば酒。何の楽しみもない生活で、心の寂しさを埋めるには酒とギャンブルしかありませんでした。
 その後、女房と息子には一度だけ会いました。離婚から5年して、札幌まで行って大通り公園のレストランで二人に会ったんです。でも、もうあまり話すこともなかったですね。息子は中学生になっていました。その息子が別れ際に「かあさんのことは、オレにまかせてくれ」と……生意気なことを言うんですよ(大島さんは目を潤ませ、唇を震わせた)。
 鳶の仕事で働けたのも50歳まででしたね。50を超えたらお払い箱。それからは飯場を渡り歩く日雇いの土工の仕事をしてきました。今年の夏は暑かったでしょう。仕事中に二度もブッ倒れ、病院に担ぎ込まれましてね。高血圧なんです。上が190で、下が100あります。それからは土工の仕事も回してもらえなくなって、飯場も追い出されました。といって、蓄えはないし、住むところもないから、自然にホームレスになってました。 夜は(新宿)駅の地下広場で寝ています。ホームレスになってまだ二ヶ月くらいですから、要領がわからなくてね。コンビニの弁当とか、ハンバーガーショップのハンバーガーは賞味期限が切れると捨てられるんでしょう? どうしたら、それが手に入れられるのかわからないんです。いまはボランティアの炊き出しと差し入れだけで食べています。これから冬に向かって、どうなるんだろうと心配でなりませんよ。
 これから先もよくなることはないですね。ダメだろうと思います。こんな時代で、この歳ですからね。もうどうにもならんでしょう。どこかで野垂れ死にするしかないですね。老後の蓄えを何もしてこなかった自分が一番悪いと思いますよ。でも、国の考え方もよくないですよ。あのでっかい都庁舎だって、そこの道路だって、みんな私や仲間たちでつくったんです。それが景気が悪くなったからって、何の保証もなく放っぽり出して、そんな筋の通らない話はありませんよ。
 仕事さえあれば働きますよ。その気はあるんです。今度自立支援センターができるっていうでしょう。私も応募してみようかと思って、募集のチラシはちゃんと取ってあるんですよ。これに賭けるしかない……でも、ダメかもしれない。新宿は(募集定員を)あまり取らないっていうしね。そうなると、やっぱり野垂れ死にするしかないのかな……。 (■了)

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ホームレス自らを語る/辛抱が続かない・中島昭良さん(54歳)

■月刊「記録」2000年12月号掲載記事

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■プッツリやる気が失せちゃう

 若いころからどうも一つのところに長くいられない性分でね。仕事もいろいろ替わった。(指折り数えて)5つ、いや6つか……。はじめは品川にあった大手電器メーカーの工場。冷蔵庫をつくる工場だった。工業高校の電気科を出ていたから、家電メーカーに就職が決まったときは、電気の技術が生かせると思ってうれしかった。だけど、入社してみると、配属になったのはラインの組立工だった。電気とは全然関係のない仕事だからね。ああいう大きな会社では、個人の希望なんて聞いてもらえないしね。で、2、3年で辞めていた。
 次は川崎にあったやはり大手の電機メーカーの工場に移った。ここは重電のメーカーだからね。配電盤をつくるのが仕事で、まあ自分に合った職場だった。だけど、ここも7年くらいかな? それで辞めてしまったんだ。 その次は調布にあった小さな電機工場。その工場ではコンピューターや医療機器の制御装置をつくるのが仕事で、全部が受注生産だった。図面を見ながら配線から完成まで、すべて一人でやる方式でね。だから、仕事は面白かったしやりがいもあった。一番自分に向いていた職場だったと思うよ。でも、ここも5年で辞めてたね。
 何ていったらいいのか、仕事はみんな面白いんだよ。自分でも仕事の手は抜かないでキッチリやった。職場の人間関係も悪くない。はじめのうちは張り切って一生懸命に働くんだ。だが、何年かしてくるとだんだん緊張の糸が緩んできて、あるときプッツリと切れたようになってしまう。そうなると働く意欲がわかなくなって、会社をサボるようになり辞めてしまう。そんなことばかりしていたんだ。
 そのあと、独立して……独立といっても、アパートの一室を借りて作業場にしただけの、社長も何も自分一人だけの会社。電機工場から仕事をもらって下請けをしたんだ。はじめのうちこそ仕事もあったけど、だんだん受注量が減って先細りになっていってね。
 そのうちに部屋代も、車のガソリン代も払えないようになっていた。まあ内職に毛の生えたような工賃だったからね。だから、このときは仕事がイヤになったわけじゃなくて、ぜんぜんもうからなくなってやめたんだ。これも5、6年続いたのかな……。

■40半ばじゃ職種も選べない

 また勤め人に戻ることにして新しい就職先を探したんだけど、もう40代半ばになっていたから電気関係の工場には入れなくてね。それで畑違いの建設関係の会社に入った。ビルとかマンションをつくるときに鉄骨や壁に耐火被覆剤を吹きつけるのを専門にしている会社だった。
 これが大変な仕事なんだ。被覆剤っていうのは泡状になっていて、それを吹きつけるから周りをビニールで隙間なく覆って、外に飛んでいかないようにして作業するんだ。夏は蒸し風呂なんてもんじゃない。おまけに被覆剤は肌につくとチクチクとしてすごく痛い。だから、真夏でもヘルメットに防塵マスクを着けて、長袖のヤッケにゴム手袋という格好でやるんだからね。ホント、夏は地獄だった。
 この会社も5年くらいだった。ただし今度は倒産。会社がパーになってしまったんだ。社長がドケチな男でね。その不満でいい職人がみんな辞めて、独立していっちゃったからだよ。自分には独立するような才覚も技術もなくてできなかった。そんな資金もなかったしね。
 それにゼネコンがよくないよ。仕事がどんどん少なくなっているっていうのに、手間賃を下げてくるんだから。ゼネコンの連中だけが生き延びるためのしわ寄せだね。いつだって割りを喰うのは下で働いている人間ってこと。あれじゃ、ドケチな社長でなくてもつぶれちゃうね。
 会社が倒産したのが50歳のときだった。それからは日雇い。土方とか、引っ越しの仕事をやっているけど、それもいまはあんまりないからね。いつの間にかホームレスになっていた。ずっと飯場の暮らしからはい上がろうとしていて、逆に下に落っこちてしまったわけだ。

■どうして辛抱できなかったのか

 こうなったのも自分の責任だと思っている。いまの時代だって、仕事はあって働いている人はいくらもいるわけだからね。自分でももう少しうまく器用にやれなかったものかとも思うよ。ただ、ズル賢くやって、誰かの犠牲のうえでいい暮らしをしているわけじゃないからね。誰も傷つけてはいないんだから、ホームレスをしていても気分は楽だよ。毎日が日曜日だしね。
 生まれたのは茨城県。家は農業をしていた。4人兄弟の上から3番目で、いつも兄貴の後ろにくっついて遊んでいた。子どものころからおとなしくて、学校の通信簿に「もっと積極的になるように」って書かれている子だった。
 リーダーになって人を引っ張ったり、責任を取るような役は好きじゃなかった。2番目か3番目あたりにいるのがよかった。人を押しのけていくタイプじゃないから、そんなのがホームレスをしていることと関係しているかもしれないね。
 それと辛抱できなかったこと。どうしても同じ仕事を辛抱して続けられなかった。最初に就職した会社にそのままいたら、いまどうだったろうと考えることもある。まあ、どうにもならなかったろうね。いま50代のサラリーマンはリストラとか、いろいろ大変だというしね。サラリーマンの世界こそ人を押しのけて出世していくところだから、そんな世界にいてもやっぱりどうにもならなかった気がするな。
 結婚して女房、子どもでもいれば、もう少しは辛抱できて違っていたかなとも思う。女の人も嫌いじゃないから、若いころは幾人ともつき合ったんだけどね。結婚するのは面倒くさいし、責任を取るのもイヤだった。グズグズして踏ん切りがつけられないでいるうちに、女の人のほうが愛想をつかして離れていってしまうというふうだったよ。
 毎日が日曜日のホームレスをしていても、いいことは何もない。早く普通の生活に戻りたい。いつもそれを考えている。このごろはエサ(食べるもの)取りも楽じゃないからね。ホームレスがどんどん増えて、知らない顔がずいぶん多くなってるもの。そのせいか、コンビニやスーパーがエサを出さなくなっている。
 新顔のホームレスにはルール破りをする悪いヤツが多い。せっかく出してくれたエサを店の周りで食い散らかしたり、仲間同士でエサを奪い合ったり、一日中店の周りをうろついたり、そんなことをしていたら店だって出さなくなるよ。バカが多くて困る。
 ホームレスを早くやめたいとは思うけど、こう仕事がなくっちゃね。会社に勤めていたころは、「いざとなったら、土方でもすれば食っていける」なんて仕事仲間と笑いながら話してたけど、本当に土方になってみたら、その土方に仕事がないんだからね。まさかここまで不景気な時代が来るなんて思ってもみなかっただろう? 早く景気をよくしてもらって、自分たちも働けてかせげるようにしてもらいたいよ。 (■了)

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鎌田慧の現代を斬る/「戦争国家」にむかう日本の台頭

■月刊「記録」2004年1月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 昨年の暮、イラクのサダム・フセイン元大統領が拘束された。アメリカが宣伝のために流した映像とはいえ、拘束直後の様子は「独裁者の末路」そのものだった。それはルーマニアのチャウシェスクやパナマのノリエガ将軍の姿を想い起こさせるものでもあった。日本に逃げ込み、現政権からの責任追及を日本政府が阻止しているペルーのフジモリなどの例もあるが、多くの独裁者の最期は哀れである。
 ともあれ、いま懸念されているのは、ブッシュ米大統領の悪行を消しさろうとするマスコミ報道である。忘れてはいけないのは、そもそもイラク攻撃は、大量破壊兵器があるとの理由でおこなわれた。ところが、いまだに大量破壊兵器は発見されず、イラクの危険性をことさらに強調した政府の情報操作が発覚し、大義なきイラク戦争への批判が米英国内でも高まっていた。そうした状況下でのフセイン拘束であった。
 アメリカに捕まえられたことによってフセインは完全な敗北者となり、「戦勝国」大統領のブッシュ支持率は上がりはじめている。フセインの悪事を裁判で追及するようになれば、イラクを攻撃した米英の悪事が帳消しになりかねない。「勝てば官軍」となるのが腹立だしい。 フセイン拘束後、たまたまNHKの衛星放送で流れたABCテレビのブッシュ米大統領単独インタビューを見た。「フセインにたいして、どのような刑罰をあたえるのか」というキャスターの質問に、ブッシュはニヤリと笑って「極刑を受けるべきだ」と答え、あわてて「量刑を決めるのは、イラクの市民だ」とつけ加えた。
 フセインの首に2500万ドル(約27億円)もの懸賞金を掛け、彼の2人の息子を殺害し、大統領府をメチャメチャ攻撃しても、ブッシュはフセインを殺害できないできた。父親から受け継いだ恨みを、いまようやく果たした気持ちだろう。しかし外国の大統領を自国の軍隊で捕捉し処刑するとしたなら、それは侵略そのものである。そのうえ法廷さえひらかれないうちに、他国の大統領の極刑を主張するなど、思いあがりもはなはだしく、フセインに負けず劣らずの極悪大統領ぶりといえる。自分の罪深さにおののくべきだ。
 こうしたなかでの唯一の救いは、「罪の追及は公開の裁判で、適切な法に基づいた法廷で、そして人権法を含む国際的な規範と基準にのっとって行われなければならない」と、アナン国連事務総長が発言したことだ(『朝日新聞』12月16日)。さらにアナン氏は、「国連は死刑を支持しない」とも明言している。これは米国が訴追の中心となり、フセインを死刑にしようとしていることへのいち早い牽制球で、アメリカの横暴にたいするささやかな抵抗といえる。

■議論もできず、テロを呼び込む小泉

  一方、小泉純一郎首相は「復興事業」という大義名分によって、自衛隊をイラクに派兵しようとしている。その装備に加えられたのが、無反動砲と110ミリ対戦車弾である。どちらも対戦車用の火器だ。ちなみに無反動砲の有効射程距離は約700メートル、1分間に4~5発発射できる性能をもつという。これは防衛ではなく、攻撃のための火器としか考えられない。そもそも戦車と戦闘状態になることを想定しているのだから、海外での武力行使を禁じた憲法違反はあきらかである。
 また、防衛とは攻撃される前の攻撃を含むため、相手が攻撃するとしないとにかかわらず、隊員が危険だと思ったら先制攻撃をかけることになる。つまり戦闘状態では、どこからを正当防衛と限定するなどできない。そもそも戦場に火器を携えて行く軍隊など、攻撃のためでしかなく、「自衛」などありえないのだ。
 フセイン拘束によって、これから、イラクのゲリラ活動がどうなるのかはわからない。小泉は「テロには屈せず」といいつづけている。16日の参院外交防衛委員会では、「テロの脅しに屈したら一番喜ぶのはテロリストだ。対決は覚悟しなければならない。東京でもテロがあるかもしれない」(『朝日新聞』12月17日)などと暴言を吐いた。国民の安全を考えるのは、政治家の第一の義務である。日本政治家のトップに位置するものが、自分の政治の結果として「東京にもテロがあるかもしれない」などと、しゃあしゃあいってのけるのは、無神経だ。
 日本がイラクに派兵するから、東京がテロ攻撃のターゲットにされたのである。なんのことはない、小泉の言動がテロ発生の危険性を高めているだけだ。その因果関係を抜きにして、「とにかくテロに屈しない」といいつづける無責任さは許せない。
 さらに自衛隊派兵にたいする国会の論争について、「『話せばわかる』っていうもんじゃないらしいね」と記者団に語っている。「話せばわかる」は、民主主義への思いを込めた犬養毅元首相の言葉だ。結果として犬養の言葉は5・15事件の青年将校には通じることなく、彼は殺された。しかし銃を持つ相手と通じ合おうと努力はした。一方の小泉は、野党相手の意思疎通をあきらめているようだ。国会で論議を尽くして決定していくという民主主義的な感覚さえないことが、ここでも明らかになったといえる。

 ブッシュは、「イラクで命の危険を冒した国だけが、契約を得ることができる」と述べた。つまり人を殺したものだけが分け前にあずかれる、と「強盗の論理」を世界に押しつけたのである。そもそも「復興」とはいえ、破壊したのはアメリカとイギリスである。国連決議さえ取り付けられなかったマフィアまがいの攻撃を、日本は派兵という形で承認しようとしている。そして復興事業のおこぼれを待っているのである。
 だからこそ日本の財界は、派兵に反対しない。中東へのエネルギー依存度が高い日本は、派兵こそ国益にかなうというのが建前である。たとえば『琉球新報』(2003年12月11日)には、つぎのような財界人のコメントが並んだ記事が掲載された。
 「中東地域の平和と安定的発展はきわめて重要」と指摘のは、北城恪太郎経済同友会代表幹事だ。山口信夫日本商工会議所会頭は、「復興、人道支援、日米安保条約、テロ撲滅などを考慮すれば、国際社会の一員としてできる限りの協力をするのは当然」。日本経団連の奥田碩会長も「あくまでも国連の傘の下で」と条件を提示しながらも、「(自衛隊は)必ず出て行かなければならない」などといっている。
 この3人は日本企業を代表する役職に就いている。彼らの役目は、中東ではもちろん日本でも日本企業で働く会社員を守ることにある。それが企業人の責任であるはずだ。ところがテロリストから狙われる可能性を高める自衛隊に派兵に賛成し、各企業の社員をテロ攻撃にさらしても、利権を稼ぎたいらしい。この非人道的な発想は、小泉の非情な派兵決断とまったく同様である。それどころかテロ発生にともなう経済ダメージさえ、財界指導者には興味がないようだ。とにかく目の前の「エサ」にまっしぐら。強盗アメリカになついた野良犬の風情である。
 アメリカによる「イラクの経済復興」は、アメリカ中心の連合国暫定当局(CPA)が新外国投資法によって進めてきた。その内容はといえば、イラクの国営企業を解体して民営化し、外国資本の参入を可能にする上、関税を周辺諸国と比べて格安に設定し、なおかつ06年1月1日に関税の完全廃止まで盛り込んだものだ。イラクを植民地にする法律である。イラク商工会議所のバルダウィ会長が、「復興を口実に資源や富を奪おうとしている国がある」(『日本経済新聞』12月9日)、と不信感を表明したのも当然だ。
  「1人、2人殺すと殺人だが、大量に殺せば英雄だ」という言葉もあるが、大規模な破壊は、一大プロジェクトをつくりだす「英雄の所業」らしい。敗戦国を完全にしゃぶり尽くすのが、「復興」であり「民主国家の設立」である。それがブッシュ・アメリカの論理である。
 こうした復興の方針を決めるのは、ブッシュを支えるネオコンの幹部たちである。以前にも指摘したとおり、この幹部のバックに巨大なネオコン関連企業がついている。07年までで550億ドルともいわれる復興費は、すでにハリバートンやベクテルなどのネオコン関連企業に回っている。そのうえ最近の報道によれば、ハリバートングループは、ガソリン代として米政府に6100万ドル、およそ65億8千万円の水増し請求をしていたことがあきらかになったという。
  「強盗企業」にモラルを求めるは無理なことだが、イラクの混乱期になんでもありの状況だ。戦争はもともと汚いものだが、今回のように当初から商売としてはじめられた戦争の汚さには呆れるほかない。
 米国が投下したクラスター爆弾も大きな問題だ。米英軍が使ったクラスター爆弾は、約1万3000発。その子爆弾、約190万発が地上に散乱したという。この爆弾により1000人もの死傷者が発生したといわれており、今後も深刻な被害を生みだすにちがいない。
 クラスター爆弾は、ジュネーブで採択された「特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)」でも規制されている。ただし規制内容は、使用後の不発弾の除去への努力をうたったにすぎない。さすがに国際世論は使用規制を求めているが、アメリカは規制強化に反対している。これでは戦争終結後も、なんの罪もない人々を殺しつづけることになる。
 さらにアメリカは、前回の湾岸戦争から大量の劣化ウラン弾をイラクに使用しており、すでにイラク国民に重大な被害をあたえている。広島・長崎の教訓をなんら学ぼうとしないアメリカの傲慢さには、激しい怒りを感じる。スミソニアン博物館で、原爆を投下したエノラゲイ爆撃機を堂々と展示する無神経さにも通じるものだ。

■モラルを無視して利益追求にはしる奥田

 日本経団連は、ことしの春闘で従来の年功型賃金をやめ、成果主義型賃金に全面的に転換する方針を固めた。すでに昨年、定期昇給の凍結・見直しがおこなわれた。さらにことしは、ベースダウンまで実行するという。労働者の賃金は、いうまでもなく生活給である。プロ野球選手の報奨金とはちがう。生活ギリギリの賃金を成績によってさらに下げるなど、やらずぼったくりの方法でしかない。
 しかし大企業の労働組合はほぼ御用組合となっており、「ごもっとも、ごもっとも」と企業側の理屈を認めるだけ。中小企業では、銀行や取引先の元請け会社から倒産寸前まで圧力をかけられ、労組を組織する余裕さえない労働者も多い。労組の組織率は20パーセントを切り、労働者の5人に1人しか組合員がいないのは、こうした現状を反映している。
 一方の日本経団連は、不況に乗じて、労働者への圧力を強めつづけている。日本経団連は日経連と経団連という日本の二大財界団体を統合したものである。そのトップに君臨している奥田碩会長は、これまでにも消費税16パーセント引き上げを提案するなど、てまえ勝手にコトを進めてきた人物である。自身が会長を務めるトヨタ自動車でも、02年度で1兆4千億円もの過去最高の計上利益をあげているのに、賃金抑圧の先頭を走ってきた。日本企業で利益のトップを占めてきた会社なのにである。日本経団連の会長がトップに君臨し、最高利益をあげる企業が賃金を抑えたことで、他の自動車メーカーばかりか黒字企業もトヨタに追随した。この悪影響は大きい。 また、ネオコン関連企業が政治家を取り込むことで巨額の利益をあげているのを見習うかのように、奥田は政治資金を復活させ大企業が政治家に圧力をかけられるようにし、経団連のさらなる強化を目指してもいる。このようなトップが経営するトヨタが、企業モラルを喪失していることは、ある意味、当然といえるかもしれない。 昨年10月には、50億円の脱税を名古屋国税局から指摘され、20億円追徴もの追徴課税をされた報道された。労働者からだけではなく、国家からもカネを搾り取ろうとする企業姿勢には驚くばかりだ。
 さらに12月には、自動車整備の国家試験の問題を、試験の検定委員を務めるトヨタの社員が系列のディーラーに漏らしていたことが発覚した。系列会社にまで漏らす手口は、かなり大がかりなものだが、担当課長を解雇することで、トヨタはお茶を濁している。こうしたの問題処理の仕方をみても、トヨタが利益だけを追求し社会的なモラルのない企業であることをしらしめている。
 さらに戦争国家にむかう日本での重要な問題がある。少年法の破壊だ。
 現在、少年の氏名・年齢・住所および本人と推測できる記事や写真を報道することは、少年法で禁じられている。ところが少年法は、捜査中の少年には明確には適応されていない。この隙間に警察庁が入り込んだ。少年に公開捜査の道をひらくよう、青少年育成施策大綱に盛り込んだのである。
 犯罪をおこした少年を特定できないようにしているのは、更生した少年を世間の好奇な目から守るためであり、更生を成功させるためである。
 少年であっても凶悪犯罪なら氏名や顔を公開してよいという理屈は、『フォーカス』が神戸事件で少年の顔写真を公開した記事掲載の言い訳とおなじである。つまり、当時あれだけ物議をかもした記事の作り方を、公の機関が認めたということだ。
 氏名や写真をあきらかにする公開捜査がおこなわれることで、どれほど治安がよくなるのかは不明だ。それより、少年の将来が心配だ。公開捜査を決めた警察庁は、公開捜査に踏み切った根拠すらしめしていない。
 11月、わたしは千葉市で16歳の少女が殺された事件を取材した。その事件は、墓地でひどい暴行がおこなわれたこと、また加害者の青年が多重の債務を抱え、ローン会社からカネを借りられなくなったため、偽装結婚で被害者の戸籍に入ってカネを借りていたことで注目された。主犯格の青年は22歳、その「共犯者」となったのが、16~18歳の少年4人であった。
 この事件はたしかに陰惨なものだった。しかし罪を犯した少年たちの周辺を丁寧に取材すると、そこには彼らが抱える孤独が浮かび上がってきた。このような犯罪こそ、大人の責任と救済する力が問われている、とも感じた。
 しかし少年は、「刑事処分相当」の処遇意見をつけられ家裁送致となった。つまり成人とおなじような裁判を受けることになったのである。
 少年法の改正にさいして、逆送致は慎重にされるべきだという声が強く、実際にしばらくは慎重に判断されてきた。しかし前例があれば、判断は少しずつ慢性化し、慎重さは失われていく。最初に凶悪犯罪であるという理由で突破すれば、あとは月日とともに厳しい処分が一般化していくものである。
 とにかく日本政府は、ことあるごとに国民の人権を剥奪する方向にむかっている。そのため人権にたいする攻撃を、御用新聞や御用評論家や御用ライターをつかっておこなっている。これこそ国内での戦争体制強化である。イラクへの派兵とけっして無縁ではない。
 ことしこそ軍事国家への歩みを止めなければならない。戦争反対の声をあげ、選挙で民意をしめしたい。そう強く思っている。 (■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第29回 学園の火災

■月刊「記録」2002年2月号掲載記事

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 学園の居間で、ビデオを観ていたぼくと正利の背後で、突然、激しく警報が鳴り始めた。
 ちょうどビデオを半分くらいまで観たときであった。火災報知器の音だ。けたたましく鳴った。しかし、不思議なもので、ぼくもあいつもそのとき、まったくびっくりしなかった。
 誤報だと思ったのだ。いつものことだ。しょっちゅう起こるなにかの誤作動で、また警報が鳴ったのだろう。そう、タカをくくってしまった。
 一度思い込んでしまうと、避難作業がおろそかになる。とりあえずあいつを屋外へ避難させようという気にもならない。
(だが、やはりぼくも職員の一人だ。一応、確認ぐらいはしておくか)
 そう思い、とりあえず、ビデオを一旦、停止させた。
「おい、ちょっと確認してくるよ」
 と、あいつに言うと、ビデオを止められたあいつは不機嫌そうに、
「ああー」とだけ言った。

■常習犯の言葉をうのみにし

 どうやら、2階の高校生寮の火災警報機のセンサーが反応したらしい。ぼくは、のそのそ階段を昇った。途中、高校2年生のマキに会ったので、
「何があったか?」と一応、聞いた。
 すると、マキは、「何もないよ」と言い、当たり前のような顔をした。しかし、ここで気づくべきだったのだ。マキは嘘つきの常習犯だった。あの平然とした顔をいま思い返すにつけ、もしかして、彼女はすべてを知っていたのかもしれない、と思う。
 だが、今頃疑ってみても仕方がない。そのときぼくは、うっかり彼女の言葉をうのみにしてしまい、職員室へ引き返してしまったのだ。通りかかった先生に「大丈夫ですよ」なんて、のんきに声までかけながら。
 思えばこれが、発見を遅らせたような気がする。
 しばらくして、振り返ると、すでに黒い煙が2階の奥の部屋からモクモクとあふれていた。
 その瞬間、目の前が真っ暗になった。膝がガクガクくした。
「助けなくては」「子供たちを避難させなくては」
 そんな考えはまるで浮かばない。
「大変なことになってしまった!」
 ただ、ただ、そう思った。夢でもこんなのは見たことがなかったからだ。

■こいつらの頭大丈夫か?

 学園の火事の原因は、結局、タバコの不始末だった。しかも高校生の……。
 高校生がタバコ? と、疑問をもたれるだろうが、もちろん施設内ではタバコは禁止である。しかし、禁止イコール従うという図式はどうやら、ここの子供たちの頭にはないらしい。
 それどころか、常識的に考えてみても、頭の構造を疑うようなことをやってのけていた。
 彼らは禁止されているタバコを隠れて吸っただけでなく、吸い殻がみつかってはまずいとでも考えたのか、それらをゴミ箱へ捨てた。しかも、その上に丸めたティッシュを山ほど盛っていたのである。
 ゴミ箱の中にあった、火の残った数本の吸い殻が、ティッシュに引火し、炎上し、ついにはガラスをバリンバリンに割り、悲鳴と怒号を学園中に巻き起こす火事にまで発展させたのだ。
 吸い殻の上にティッシュを盛ったらどうなるか、考えてみてもわかりそうなものなのに。いったいどうなっているのだろうか。幸い、怪我人が出なかったのが、救いといえば救いだろうか。
 おかげでこの火事を境に、ぼくの今までの勤務には、新たな仕事が加わった。高校生2人の学校への送り迎えである。高校生を学校まで送迎するなんて、なんて過保護だ! などと怒っている場合ではない。そうなのだ。この2人こそが火事を起こした張本人だからである。いわば監視というわけだ。
 事の重大さに当事者の二人は、しばらくは食事も喉を通らなくなり、言葉を発することもなくなった。だが、そりゃあそうだろう。自分たちのタバコの不始末で、施設の5分の1が燃え、使い物にならなくなってしまったのだから。
 ところで、第一発見者であるぼくはというと、こちらにもいろいろ支障が出ていた。
 まず、やはり食事が喉を通らなくなった。1日5食から6食は当たり前だった食欲が、まるでなくなってしまったのである。まあ、食べない分には、他人に迷惑をかけるわけでもないので、これはいいとしても、もう一つのほうが問題だった。なんと、30分以上、学園から離れた場所にいられなくなってしまったのである。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/一人でコツコツやるのが好きなんです・柳川孝夫さん(65歳)

■月刊「記録」2001年4月号掲載記事

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■戦中は福島に学童疎開

 子どものころの思い出といえば戦争ですよ。戦争しかなかった。その一番の思い出は学童集団疎開。東京の椎名町に住んでいましたから、東京も空襲で危なくなってきた1944年の夏に、福島県の原町に集団疎開しました。
 原町の駅前の旅館に、同じ小学校から行った30人くらいの男子児童が一緒に暮らしたんです。女子は町中にあった別の旅館でしたね。
 覚えているのは、いつも腹をすかせていたこと、冬の寒さに閉口したことですね。とくに空腹でひもじかったことは忘れられません。本当に食べるものがなかったですからね。たまにパンの配給なんかがあると、上級生たちに「献金だ」とか言われて半分くらい取り上げられてしまう。私らは小学三年生で疎開組の一番年少でしたから取られるばかりで、それがつらかったですね。しまいには東京の親から錠剤のワカモト(※商標)を送ってもらって、それをあめ玉代わりにしゃぶったりしてました。 原町で終戦を迎えて、一年ぶりに東京へ戻ってみると、家族は無事でしたが家は空襲で丸焼けでした。のちに帝銀事件の舞台になる椎名町の四丁目は焼け残ってましたが、うちのあった三丁目まではみごとに焼けて何も残ってなかったです。その焼け跡で戦後の暮らしが始まるわけです。庭を畑に耕してサツマイモを植えてね。
 池袋の西口にはすぐにマーケットができて、予科練帰りや特攻隊の生き残りの不良のたまり場のようになって……そう、パンパンガール(売春婦)なんてのもいましたね。戦争が終わっても相変わらず食べるものがなくて、私らもよく買い出しに連れて行かれましたよ。
 それでも、うちは父親が大手銀行の社員食堂で賄いのコックをしていたこともあって、食材の残りをもらってきたりして、よその家ほどは困らなかったようです。食材といっても、スイトンやフスマばかりでしたがね。

■一人で手仕事をするのが好き

 中学校を終えて、すぐ就職しました。私ら頭が悪かったですから、とても高校へなんて行けませんでした。はじめは塗装工場に勤めて、日給が70円くらいだったと思いますよ。日給月給というやつですね。次にメッキの町工場に代わって、その後もいろんなところで働きました。でも、どこも長続きしないんですよね。
 性格がよくないんだろうと思います。何ごともマイナスに思考してしまうからいけない。人とつき合うのも苦手でしてね。私は酒もタバコもギャンブルも、女遊びをしたこともない。いまでこそ「タバコは吸わない」と胸を張って言えますが、あのころは「タバコも吸えないヤツ」という目で見られましたからね。つき合いが悪いから仲間ができない。それで職場で孤立してしまい、居づらくなって辞めてしまう。その繰り返しでした。
 子どものころから友だちと遊ぶより、一人で何かをしているほうが好きでした。電気にくわしくて手先が器用だったから、よく一人でラジオを組み立てたりしてました。中学生のときに鉱石ラジオをつくったのが最初で、まだクリスタルレシーバーなんて出てませんでしたから、軍の払い下げのレシーバーで聴いてね。はじめて音の出たときはドキドキしてうれしかった。
 そのころはNHKと進駐軍の放送しかなくて、『とんち教室』とか『二〇の扉』『話の泉』とかね。いや、なつかしいですね。
 そのあとも真空管を四本使った「波4ラジオ」とか、「スーパー5球」、トランジスターを使ったラジオまで、みんな自分でつくりました。頭が悪いから理屈はわからなかったけど、雑誌の『ラジオ技術』とか、『初歩のラジオ』『無線と実験』を参考にしながら、見よう見真似で自己流でつくったんです。
 一八歳くらいのときには、テレビもつくりました。キットの部品を買ってきて、組み立てるのに一年くらいかかりましたよ。NHKの学校放送の人形劇が最初に映りましたね。ブラウン管をオシロスコープで代用していたから、7インチの真ん丸い画面で、画像もザラザラしていて調整もできませんでした。それでも画像らしいものが映ったのはうれしかった。まだうちでも近所でも、テレビを持っている家なんてない時代でしたからね。
 ほかの電気器具も簡単な修理くらいはできましたから、隣近所のものを修理してあげて重宝がられました。そういうことを、一人でコツコツやっていることが好きだったんです。

■5年前に地主に追い出された

 30代に入ってしばらくしてから、兄が工場を始めてそれを手伝うようになりました。工場といっても自宅の敷地に小屋を建てて、家族が手伝うだけの小さなものでした。それから五九歳の年まで、ずっとそこで働いてきました。
 仕事はカメラのシャッターとか、カメラに組み込まれているTTL(自動測光)メーターの組み立てでした。あのころは小さなカメラメーカーがいっぱいあって、その下請けの仕事です。ちょうどTTLカメラがはやり出したころで、高度経済成長期とも重なって仕事は忙しかったですね。徹夜、徹夜の連続だったり、工場のソファに寝起きしたこともあります。
 ただ、それも一時でした。小さなカメラメーカーはみんな大手に食われて、次々につぶれてしまいましたからね。あとは電器会社から仕事をもらって細々とやってきました。その仕事も7、8年前から不景気で減り始めて、工場は立ち行かなくなっていました。
 そんなときに工場を経営していた兄が、突然死んでしまいましてね。そのころ母親が寝たきりの状態で、兄はその介護を一人でやっていました。それに工場の金策で走り回ってもいましたから、その無理がたたったんでしょう。心筋梗塞でした。兄の死で工場は閉鎖になりました。
 あとに寝たきりの母親が残されましたが、私らには兄のように介護をする器量はありませんから、病院に入院させたんです。その母親も一年後に亡くなりました。椎名町にあった家は借地でしてね。母親が亡くなると、地主から追い立てられるようになりました。その土地にマンションを建てるからという理由でした。といっても、私ら行くところもありませんから、ホームレスになるしかなかったわけです。それが5年前でした。

■農家を手伝って収入を得る

 自分では若いつもりでいても、この歳になると体のあちこちにガタがきてますからね。足は重たくなるし、耳鳴りもしてくる。右目は網膜剥離であまり見えませんし、左目も霞んできました。ベーチェット病の疑いがあるらしい。希望のない毎日で、根がマイナス思考の人間ですから、よくないほうにばかり考えて落ち込むばかりですね。
 病気だからって(行政の)福祉の世話にはなりたくないですね。とくに新宿区の職員は扱いがひどいっていうから、そんなものの世話にはなりたくないと思っています。自然に治らないかなって期待しているんですが……。
 希望のない毎日ですが、いい話もあるんですよ。親切なボランティアの人がいましてね。その人の世話で、三年前から埼玉の農家で農作業を手伝っています。草刈りとか、果樹の袋かけなんかの仕事を手伝うんです。仕事は春から秋にかけての毎月四回あって、一回一泊二日で行きます。日給で3000円。交通費が出ないんで往復2000円の出費は痛いんですけど、それでも二日間で差し引き4000円の現金収入になります。これには助かっていますね。
 それに手伝いに行けば、食事がついて、風呂に入れて、布団に寝られます。その農家の家族はみんないい人ばかりで、私らがホームレスだからといってまったく差別しないんです。食事もみんなと一緒に同じものが食べられます。農家の近くには高麗川というきれいな川が流れていて、農作業がひまなときには釣り糸を垂れることもできます。誰にもじゃまされずに一人になれる釣りは、いまの最高の楽しみですね。
 今年も3月になって暖かくなったら、また手伝いに行くことにしているんですよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/上野はオレのふるさとだ・山城信行(41歳)

■『新ホームレス自らを語る』に収録

*          *          *

 一番充実していたのは、秋田のホテルのまかないをしていた時期かな。何がよかったんだろう。環境かな。ホテルのまかないは、飯場のまかないと待遇が違うから。オレが働いていたのはホテルでさ、アパートを会社が借りてくれて、風呂は社員寮に入りに行くんだ。もちろん個室だよ。
 まかないの厨房はホテルに泊まるお客さんの厨房とは別にあるの。普通は従業員40人分の食事を作る。夏はアルバイトがいるから80人分。でもな、修学旅行客なんかが来ると、客室の厨房でも人手が足りなくなる。そうすると焼き物や揚げ物を作ってくれって頼まれるんだよ。
 いまでも覚えてるのは、都心の私立中学が修学旅行に来たときだ。400人分の揚げ物を任されてさ。エビが二本と、ナス、かぼちゃ、ピーマンの野菜三点盛りを一人で揚げたんだから。エビなんて800本だぞ。それを従業員のおばちゃんが盛りつけて。もちろんいつも通り、まかない食も作らなくちゃいけないしね。
 また妙な縁があってさ、アルミ缶を集めていたときのことだよ。一日に何百円にしかならない仕事だけれど、必死に集めて東京・神田まで歩いたんだ。疲れたから歩道に座ってフッと後ろを振り向いたら、その私立中学の名が書いてあるじゃない。そのとき思い出したんだよ。こいつらの天ぷらを揚げさせてもらったな、てね。共立ってお嬢さん学校だろ。俺の天ぷらを食べたんだ。うん。

■わがままが通ったから……

 4年前から、ここにテントを立てた。前はくじら(国立博物館前)で立てたんだけれど、東京都にボラれ(だまされて)てさ。工事だと言っては、追い出されんだよ。でも工事を見ていると、ショベルカーで掘っているだけだもん。おかげでグルグル、いろんな場所を回ったよ。でも、ここは下がコンクリートだろ。簡単には工事できないと思うんだ。2、3年で上野公園からホームレスを排除する計画を東京都が立ててるって、みんな言っているよ。
 調理師になろうと思ったのは、高校二年のときだった。卒業したあと、どうするか悩んでいたんだ。でも兄も調理師だったし、一番ラクな仕事だなと思って、担任の先生に相談したんだ。どこか働ける調理場はありませんかって。結局、担任の先生は見つけてくれなかったけれど、クラブの顧問の先生がアルバイト先を紹介してくれたんだよ。総合結婚式場でね、先生の知り合いが重役だったんだ。
 最初はホールの仕事だった。3ヵ月だけはホールで働けと現場で言われて。でも4ヵ月たっても調理に回さないんだよ。店員とケンカして二週間ストライキしたんだ。「本店の重役から聞いているでしょ。調理に回してください」って。店員も「あー、そうですね」とは言うんだけどね。もちろん休んでいても給料はもらっていたよ。そのうち社員の方が折れて、「明日から調理で来てください」って言ってきたんだ。
 このとき、わがままが通ったでしょ。それがいけなかったのかもしれないな。人生はそんなもんか、と思ってしまったのかも。だからこんな風になったのかもしれないよ。こんなわがままばかり言ってたら、行っちゃうよ。ホームレスになっちゃうべ。ここいらへんにも、わがままな人がいっぱいいますよ。
 調理師免許には二年間の実務経験が必要だったから、免許を手にしたのは高校卒業から一年後、19歳のときだよ。結婚式場だったから和食と洋食は作れるんだ。しばらくして結婚式場は辞めたけれども、実家のある青森で働いていた。水商売の厨房とかね。仕事はすごくラクだよ。そうそう、チェーン店の居酒屋で働いていたときにチップをもらったことがあった。
 サラダを出したら客席から呼ばれてさ。呼んでいたのは、スナックのママとマスターの二人組。俺の顔を見たら、「あー、やっぱおまえだ」って、いきなりチップを握らされたんだ。
 俺はキュウリのヘタを残して、飾りを作るんだ。ワンパターンだけどさ。その飾りつけをお客さんが覚えていたんだよね。たまたま俺は店舗を異動した直後で、昔の店に来ていたお客さんが覚えてくれていたんだよ。
 そのあと郷里を離れて、さっきいったホテルのまかないを始めたんだ。ハローワークで委託会社を紹介されて、契約社員としてホテルで働いた。3ヵ月で更新。評判がよければ、追加、追加、追加になるの。いや、3ヵ月なんて、まかない調理はいい方だよ。ホールなんて2ヵ月でクビを切るから。四回転ほどいたから、1年ぐらい勤めていたのかな。
 ちょうど働いているときに、会社でゴルフ場建設に関わる問題が持ち上がって、つぶれるぞーとかリストラがあるぞ、なんてうわさが立っていたんだ。こりゃ、危ないと思って、委託会社から更新するかと聞かれたときに断った。つぶれなかったけれどね(笑)。

■冷たい身内

 それからいくつかの調理場を回ったけれど、32歳のときに1年ぐらい失業したんだ。25歳ぐらいから、このままじゃダメだとは思っていたんだけれど、現実になったな。仕方ないから姉弟の家に泊めさせてもらって、仕事を探したの。でも、青森には仕事なんてないんだ。しまいには姉弟の家をたらい回しだもん。
 こういうときに冷たいのは、本当の身内なんだ。姉には、「どこでもいいから早く決めて」なんて言われたよ。姉のところにいたとき、夜中、姉と兄が電話で相談していたしね。「どうする?」だって。眠っていても聞こえてきたよ。「そっちにやれば」とかさ。
 義理のお兄さんは、いい人でね。「何ヶ月住んでいてもいいんだ。そのかわり、ちゃんと自分でできる仕事を見つけるんだよ」と言ってくれたから。実の兄は、「どこでもいいから仕事を探せ」なんて言うけれど、県外に仕事を探しに行く旅費なんかは出してくれないからな。兄のところにも居られない。姉のところにも居られない。青森では仕事を探せない。それで東京に出てきたんだ。94年かな。
 東京には憧れもあったよ。でもさ、日本全国仕事がないから、日払いの仕事しか入れなかった。そりゃ、正社員の方がいいけれど、面接して、面接して、採用になるまで何ヶ月かかるんだ? ヘタすりゃ1年以上かかるかもしれない。その間の飯代はどうするの? 結局、手配師に「誰か調理いないか」なんて聞かれて、千葉や埼玉の飯場でまかないをすることになった。
 それでも最初に来たときは、仕事を探すのに失敗して、お袋に金を借りに帰ったんだ。そしたら、その1ヵ月後に死んじまった。お袋の葬式に参列して2ヵ月後、今度は親父が亡くなった。お袋は心臓で、親父が肝硬変。親の死に目に会えないんだよ。
 実家は市営住宅だったから、親が死んでも住む場所は残らなかったな。だいたい市営住宅そのものが取り壊されて、いまはマンションみたいな建物が建ってるんだ。 東京に来て4年間ぐらいは、それでもホームレスじゃなかったんだ。きっかけはマグロに遭ったこと。あるところの仕事が終わって、独り上野で飲んだんだ。あんまり酔っぱらって野宿したら、金も身分証明書も健康保険証もなくなったから。まあ、この生活を続けている分には、身分を証明しなくたっていいんだけどさ(笑)。
 これが上野の怖いところだよ。これは書いておいて。酔って寝ていたら、財布はもちろん時計や眼鏡だって、全部持っていっちゃうんだから。とくに不忍池周辺は怖いよ。同じホームレスでもきついからね。
 ホームレスになって、最初は駅で寝ていたりしたけれど、朝に追い出されちゃうから、上野公園に来たんだよ。いまはテントも定まったし、仕事もあるよ。物を運ぶ仕事だけど、1日に1万500円になるんだ。弁当やジュースを買っても、7000円ぐらいは残るでしょ。最初、仕事についたとき、一万円かせぐにしては大変な仕事だと思ったな。まかないに比べるとね。でも、仕方ないからね。上野公園で酒が飲めるホームレスなんて、ほとんどいないんだから。仕事があることに感謝しているよ。

■あて馬か、おまえ

 女? 女は泣かしてないよ。泣かされたくちだよ。でも部屋を持っていたころは、ホテル代もかからなかったからな。オレはさ、すぐ食っちゃうから(笑)。飲み屋とかで知り合って、電話番号を女の子に教えてもらってさ。電話で口説けば、自分の部屋までのタクシー代だけだからさ。一度なんか子持ちの奥さんが泊まりに来たこともあったよ。朝方、「朝、子どもに弁当を作らなくちゃいけないから」って言って、自宅に帰って行ったよ。 結婚しようと思ったこともあったんだ。同じ職場で働いている女でさ、エッチして、3ヵ月間も同棲して。乳の大きい、ブスでさ。いや、ブスじゃないな。ブスは好きにならんしな(笑)。相手の両親にもあいさつに行ったよ。その親父と妙に気が合ってさ。「おー、ノブノブ、酒飲めよ」なんて言われて盛り上がって。
 でも4ヵ月後に別れることになってね。いきなり「別れたい」といわれたから、「いいよ」って答えた。その五ヶ月後に子どもが生まれたんだ。「もしかしてオレの子ども」って聞いたら、「違う」と言われたよ。もっと驚いたのは親だよ。違う男がいるのを、親も知らなかったんだから。「ノブちゃんの子どもじゃないの」って言ったらしい。結局、その子どもの男と結婚したらしいけれどな。
 子どもが生まれたと聞いて、親父さんと電話で話したよ。そうしたら「ノブ、このやろう、なんで種付けしないんだ」って言われたから、「種付ける前に付けられたよ」って答えたら、「あて馬か、おまえ」って気の毒がられた(笑)。
 たぶんオレとの付き合いもカモフラージュだったんだよ。同棲しているときに子どもがいたんだから。

■足をケガしたら何を渡される?

 いまの生活で不安なのは、やっぱり病気かな。
 以前、酔っ払って段差でつまずいたんだ。そのときは寝ぼけていて、気づかなかったけれど、朝起きたら足が動かない。立てねぇんだよ。膝の上がパンパンに腫れてるんだから。しかも日曜日だったから、ホームレスの見回りをしてくれる争議団(ボランティア団体)も来ない。とりあえず隣のテントで寝ているヤツを起こさなくちゃと思ったけれど、2、3メートル動くのに30分もかかった。ゴルフクラブでテントをガンガン叩いて、交番に走ってもらったんだ。
 やっと救急車に乗せてもらって、病院に着いたけれど、すぐには中に入れないの。まず服の首を引っ張られて、中を看護婦が見て、さらに背中に回って服の中をのぞいてね。「虫OK」と言われて、初めて診察になるんだ。
 診療を待っている間にも、婦長が俺の顔を見て、「あれ、また来たの」とかバカにした態度で言うんだよ。誰かと勘違いしたんだろうな。「初めてだよ。バカヤロウ」って言い返したさ。
 さあ、問題です。ホームレスが足をケガしたとき、病院は何を渡すでしょうか? 松葉杖? ブー。正解は傘だよ。普通の傘。松葉杖はあるんだよ。それなのに、「そこの傘、一本持っていっていいから」だもん。
 上野公園に帰るためにバス代200円くれたけれど、バス停までの道順だって遠回りを教えるんだ。病院からまっすぐ行けばバス停なのに、グルッっと回らされたよ。
 腫れていた膝には、水と脂がたまっていてね。結局、3ヵ月通院することになったんだ。台東区役所の担当者は優しくて、俺の傘を見て杖を貸してくれたよ。「どういう病院だ」って怒ってね。「体に合わなきゃ、杖を調整するよ」とも言ってくれた。働けなくなったから福祉も下りて、1日400円。一月1万2000円を、3ヵ月間くれた。これも書いておいてね。病気のときには、こんな救済制度もあるんだよ。
 アパートを借りるのは難しいだろうな。いつ仕事がなくなるか不安定だもん。アパートに入るには、保証人もいるしさ。調理師の仕事があったら、まかないでもいいからやりたいな。どうして調理師かって? それはわからないな。おたくだってライターの仕事で食えなくなっても、違う仕事なんて考えられないでしょ? 同じだよ。
 地元に帰る気なんて毛頭ないよ。仲間もいるし。みんな「ノブ、ノブ」って話しかけてくれる。うれしいじゃん。今日も昔のホームレス仲間に会って、「ノブ、どこに住んでるんだー」って聞かれたよ。
 仕事がダメになっても、ココに戻ってくればいいんだよ。上野はオレのふるさとだもん。 (■了)

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ホームレス自らを語る/175円の万引・中谷勝彦(51歳)

■月刊「記録」2001年7月、8月号掲載記事

*        *        *

■何といっても不況が響いた

 オーディオには凝ってたよ。部屋にあったAV機器は、総額で200万円以上はしたと思うな。一番気に入っていたのは、真空管のアンプ。低音と高音が無理なく出る。聞いていて疲れないんだ。普通のアンプがドンドンって音なら、真空管のアンプはド~ンって感じ。音が部屋に漂うんだよ。
 仕事から帰ってアンプのスイッチを入れると、部屋の灯りがちょっと暗くなる。それから真空管が温まるまで、じっと待つんだ。
 演奏が始まったら、音を調整する。低音を少し上げたりさ。まあ、機械マニアだからね。いじりたくて仕方ないんだよ(笑)。聴いていたのは、クラシックだな。家ではロッシーニが多かった。
 マッキントッシュがICで真空管に近い音を出すアンプを発売するっていうから楽しみにしていたのに、手に入れる前にホームレスになっちまった。
 不況が響いたよ。大手の自動車会社で、オーディオやらカーナビやらのオプション部品を取り付けていたんだ。忙しいときには、1日に200台近い車が工場に流れてきたのに、最後は1日に24台とかだからね。九時に始業して、10時か11時には仕事が終わっちゃう。社員は整備士になるための勉強会なんか開いていたけれど、俺はフリーだったから自分の事務所に帰るしかない。 その1年半ほど前には、4時半に起きて7時から仕事をしていたりしたのにな。カーコンポ一台を取り付けて1万1000円ぐらい。おいしくない空気清浄機の取り付けだって、30分ぐらいの作業で1650円入ってくる。取り付けた分だけ賃金がもらえるから、月に70万ぐらいの収入はあった。それが不景気になって14万円になっちゃった。それで結局、リストラ。

■20年以上サラリーマンをしていた

 実はね、リストラになる1年8ヵ月前までは、20年以上サラリーマンをしていたんだよ。販売店に出向して、オーディオなんかを取り付けていた。でも製品を納めるルートがウチの会社を通さなくなって、取り付け手数料しか入らなくなった。それで会社がカーオーディオの取り付け業務をやめちゃったんだ。
 でも俺は、ずっとそんな仕事をしてきたから続けたかった。で、自動車会社の社員にグチをこぼしていたら、「会社を辞めて自分でやればいいじゃないですか」って言われたんだ。「そうか」と思って辞めたんだよ。
 自分で仕事をやり始めてまず驚いたのは給料だよ。こんなにもらっていいのかと思ったもの。辞める前が28万円ぐらいだったのに、いきなり70万円ぐらいになったんだから。それに会社の上司にうるさいことを言われることも、怒られることもないからね。とにかく楽しかった。
 自分で仕事をしていたときは、人間関係もよかったよ。オーディオの修理箇所が見つからなかったりすると、俺が呼ばれてね。隣で作業した社員の人とも仲が良くて、互いの仕事を手伝ったりしていた。会社に行くのが楽しくて仕方なかったよ。
 まあ自分で仕事をするようになったから、不況になってすぐに仕事がなくなったんだろうけれどね。
 仕事がなくなっても、どうなるんだろうと思ったよ。求人情報誌の『ガテン』や『アルバイトニュース』を見たり、職安に行ったりしたけど、数ヶ月でダメだと思ったな。四五歳を過ぎて、何の資格も持たない男が職を探しても見つからない。器具を取り付ける技術があっても、やっぱり機械の中身が直せないと職にありつけないんだよね。
 それに俺は、左目が強い乱視の上に、メガネをかけても0・3程度の視力なんだ。普通免許さえ取れないんだから。募集のあったフォークリフトの運転なんか、どうやっても無理だよ。もし目が悪くなかったら、人生は変わっていたかもしれないと思うけれどね。

■おまえを身内だと思わない

 一ヶ月後に割れる手形があったし、貯金もあったから半年間は食べていけたんだ。でも、そのあとがね。もう両親もいないから、兄妹に頼るしかなかった。でも妹は、難病で生活保護を受けているから世話になれないし。結局、アパートからも近かった兄の家に世話になったんだ。でも所帯を持つと、人が変わってしまうんだよ。もうひどいんだから。
 最初、5万円の家賃と食費を払う約束だったんだけれど、全然仕事が見つからなかったから払えなくなってさ。借金はどんどんふくらんでいくしね。居候して1年間ぐらいかな、兄貴に20万円を渡されて「これで出て行け」と言われたんだ。「俺は、おまえのことを身内だとは思っていないから」とまで言われて。
 行くあてもなかったけれど、とにかく兄の家を出てサウナやビジネスホテルを泊まり歩いた。サウナは好きだったよ。でも20万円なんて、あっという間になくなるね。三度食事して、2500円を払ってサウナで寝て、ビールでも飲んだら7000円ぐらいすぐいっちゃうでしょ。せいぜい25日ぐらいしかもたなかったもの。
 とりあえずバス停のベンチで寝るようにしていたんだけれど、雨が降ると屋根がほしくなる。それで見つけたのが、兄貴のやっているボウリング場だったんだ。でも、そこで寝起きしていたら兄貴がやってきたんだ。「ここで寝るのはやめてくれ」ってさ。やっぱり顔が似ているから、従業員が気づいて兄貴に知らせたんじゃないかな。
「もう金も使い切ったよ」なんて話をしたら、財布から1万円を抜いて、小銭入れに入っていた金をジャラッと出したんだ。10円だとか100円とか全部出して、1万円札とともに俺に手渡した。「これで飯でも食え」って。
 俺の不満そうな顔を見たからかな。「俺だって、月3万円でやっているんだ。1日1000円あれば十分だろ」って言い放った。
 でも、妻帯者と独身は違うんだよね。自宅に帰れば、タダで食事が食べられるわけじゃないからさ。1日1000円じゃあ1日三食として、当時は一回の食事で牛丼も食べられない。まあ、カネをもらって、そこを立ち去るしかなかったけれど。「身内だと思っていない」と言われたぐらいだからね。

■遂に逮捕された

 そのあと、いよいよカネがなくなってきて、どうしていいかわからなかったんだ。ほら、ホームレスなんかしたことないでしょ。だからどうやって食事にありつくのか、どうやって仕事を見つけるのかを知らなかったの(笑)。
 それで万引を始めたんだよ。5回ぐらいは店の人に捕まったかな。でも、誰も警察を呼ばなかった。酒屋のおやじに見つかったときは、「この商品はあげるから二度と来ないでくれ」って懇願されたからね。個人商店で客を警察に突き出したりすると、信用が落ちるらしくてさ。
 でも7月に遂に逮捕されたよ。コンビニで175円のサケ缶を盗んだら、おまわりが来た。女性店員しか働いていない時間帯を狙って、何度か万引していたんだけれど、俺が泥棒だってうすうす気付いていたんだろうな。防犯用のビデオテープも回っているしさ。たいした金額でもないのに、普通、警察を呼ぶかと思ったけれど仕方ないよね。
 警察では、名前やら本籍地を聞かれたな。それから被害金額について聞かれた。「175円のサケ缶です」って答えたら、あんまり被害金額が少なくて警察も驚いてたよ。「書類送検になるんですか?」と俺が聞いたら、それは否定したな。でも、えらい説教をくらったよ。さすがにそれからは、万引する気もなくなった。
 それに説教の最中、警官が手配師のつかまえ方を教えてくれたんだよ。「駅周辺でウロウロしていれば声がかかる。そうしたら仕事ももらえるし、カネも入る」ってね。そこの警官は優しくて、電車賃を300円ほどくれたうえに、最寄りの駅まで車で送ってくれたんだ。

■会社なんて薄情なもの

 たしかに池袋で歩いていたら手配師が声をかけてきた。建築現場の後片付けの仕事だった。でも、ホームレスの仲間ができてからは、仕事にも行かなくなった。目が悪いから建築現場に向かないし、エサにも困らなかったから。一番最高で、ヒレカツ弁当を13個拾ったことがあったからね。仲間五人で仲良く暮らしてたんだ。いまは一人で住むようになったけれどね。
 しかし会社なんて薄情なもんだよね。去年の5月かな、長く勤めていた会社に行ったんだよ。そうしたら社長が1万円しか渡さないの。しかも「やるんじゃないぞ、貸すんだぞ」なんて何度も言われて。サラリーマン時代は、給料の二倍三倍の利益を会社に渡していたのにさ。元社員がこんなことになっているのに、器が小さいよね。少しぐらいは社長も変わっているかと思ったら、少しも変わっていなかったな。
 きっと先代の社長だったら、そんな扱いはしなかったと思うよ。入社してちょっとたったころかな、派遣先の工場で車のガラスを割ったことがあってね。作業のジャマになるので、後部座席に置いてあった段ボールを外に出したら、そこにガラスが入っていて割れちゃったの。工場から連絡が行ったんだろうね。社長からすぐに電話が来たよ。
「ケガはないか」
 それが社長の第一声だった。俺のミスなのに。
「ガラスをくるんだら、誰が見てもわかるように『ガラス』と書いておくのが常識だろ。今度、俺が工場に言っておいてやるから」なんてうれしいことを言ってくれた。俺が入社して4、5年後に、その社長も亡くなったけれども。あの社長が生きていたら、ずっと会社で働いていたかもしれないな。
 ホームレスになってつらいのは、雪の日だよね。寒くて仕方ないから地下道に入るだろ。でも地下道で座ると、ガードマンが飛んできて注意するんだから。それぐらい勘弁してほしいよ。  (■了)

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日中友好の象徴はどうなってる!?

■月刊『記録』05年5月号

■文/本誌編集部

 中国・韓国で反日デモが吹き荒れている。テレビニュースの映像を見る限り、みんな本気で怒っているようだ。戦後、少しずつ積み上げてきた両国との友好関係が吹っ飛びそうな勢いではないか。
 大変だ! 本誌編集部としても状況を把握しなければならない。とはいえ海外に行くカネなどない。で、とりあえず日中友好の象徴を取材してきました!

 中国との友好の象徴といえばパンダである。
 思い起こせば1973年、警備員から「立ち止まらないでくださーい」と怒鳴られ、人波にもまれながら上野動物で初めてパンダを見たのであった。よく見りゃ熊だが、当時、幼稚園生だった私は白黒ツートンとタレ目模様に熱狂した。しかし日中国交正常化を記念して譲渡されたカンカン・ランランを見てから32年をへて、日中の危機を探るために上野動物園のパンダを再訪するとは、なんという歴史の皮肉であろう。
 はやる心を抑えてオスの小屋に近づくと、リンリンは背中を向けてうなだれていた。丸めた白黒の背中は微動だにせず、何分たっても振り向く気配すらない。リンリンはただただ壁を見続けていた。日中友好の象徴はやはり元気がなかったのである。日中関係が相当にこたえているのだろうか。
 それならばとメキシコのチャプルテペック動物園から繁殖のためにレンタルされているシュアンシュアンの小屋に歩を進めてみると、背こそ向けているものの元気に動いていた。在日メキシカン・シュアンシュアンに反日デモは関係ないようだ。
 ただ調べてみると、リンリンがうなだれている原因は日中関係だけではないらしい。シュアンシュアンのレンタル期間が今年までのため、人工授精に失敗すると19歳と高齢のリンリンが独りで老後を過ごすことになってしまうのだという。
 全世界で飼育されているパンダは168頭。そのうち中国国籍(?)以外のパンダはわずかに5頭。リンリンは日本国籍を持つパンダだが、中国籍のパンダと交配して生まれた子どもはすべて中国籍なってしまう。そのため中国籍以外のパンダとの子どもができなければ、日本国籍のパンダはいなくなってしまうのだ。
  「(リンリンの相手が)今年以降もレンタルされるのかはわかりません。お金を出せば貸してくれるとは思いますが、現在は予算もありませんので」とパンダの飼育係員は沈痛な声で応えてくれた。
 ではランラン・カンカンのように中国から譲渡されることはないのだろうか?
  「最近は中国もパンダの譲渡をしなくなっています。パンダを保護するために貸し出すことはあるようですけれど……」
 リンリンが高齢で必ずしも繁殖に適さないことを考えれば、今後レンタルのお相手がくるかは微妙だ。それどころか高齢のリンリンがいきなり亡くなる可能性すらある。そうなったらどうにかレンタル料を都合できても、中国はパンダをレンタルしてくれるのだろうか? かつて「パンダ外交」という言葉があったように、パンダと政治は浅からぬ関係がある。飼育係の方も「譲渡のときは日中関係の悪化にはヒヤヒヤしました」と語るほどなのだ。
 うーん、思っていた以上に深刻である。日中関係が冷え込むなか、日中友好の象徴が上野で滅亡の危機にされていたのだ。
 ところでみなさん、パンダのいない上野なんて耐えられます?(■了)

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『私は偽悪者』・ 山崎晃嗣と堀江貴文と

■月刊『記録』06年11月号掲載記事

■牧野出版代表・佐久間憲一さんに聞く

「もし偽善者という言葉に対して、偽悪者という言葉があるならば、彼こそ真の偽悪者だと思います。」
 牧野出版が今年4月に出版した『私は偽悪者』の冒頭に置かれている文言だ。
 文言の主は1950年に『私は偽悪者』(青年書房)を編集した佐藤静子、「彼」であり同書の著者である山崎晃嗣の愛人だった人物だ。つまり、牧野出版が今年出した『私は偽悪者』は、50年以上前に出版された同書の“復刻版”なのだ。
 著者の山崎晃嗣は1922年生まれ。東京大学在学中の1948年に高利貸し会社「光クラブ」を設立し、派手な広告、「人より数字を信用せよ」の信念で会社を爆発的に成長させた。しかし、当時の法定利息を上回る金額を貸しだしていたことで逮捕される。保釈は得たが信用を失い、債権者に約束した金を工面できず会社の自室で青酸カリ自殺を遂げた。
 なぜ今になって彼の著作が“復刻”されたのかと疑問に思われるかも知れない。答えは牧野出版が今年出した同書のオビを見れば一目瞭然だ。
「元祖ホリエモン!? 劇場型人間、山崎晃嗣の問題作復刊。」
 今回の“牧野バージョン”では底本(オリジナル)にプラスして、書の終わりにライブドア元社長・堀江貴文と山崎晃嗣との共通性を検証する項が設けられている。つまり、時代は違えど同じく金が飛び交う舞台で、一瞬ではあるが異常な輝きを放った2人の人物に焦点を合わせた1冊なのである。
 山崎晃嗣の「自伝」的な要素も含む本書のメーンは50年以上も前に姿を消した光クラブの興亡なのだが、読み進める間にもその背後に現代を生きる堀江貴文が見え隠れするような気がしてくるのだ。
山崎晃嗣が魅力的に見えた
 本書に企画段階から携わった牧野出版代表の佐久間憲一さんは、派手な買収劇を打ち、「既存のメディアを殺していく」というハッキリした物言いで世間の耳目を集める堀江貴文を見て、「これは山崎だなぁ」と思ったという。
 構想を練りだしたのは05年の秋頃。もともと光クラブ事件や山崎晃嗣という人物には興味があったが、青年書房刊の『私は偽悪者』を読んでみようと思い、国会図書館に足を運んだ。
「とても面白かったんですよ、実際に読んでみて。ホリエモンと山崎には何とはなしに類似性を感じていて気になってはいたんですけど、読んでいて確信は深まりましたね。後は、読み物として単純に面白かった。これは出すべきだろう、と。確かに法定金利をオーバーしてたことはありますけど、頭脳を駆使して独力で立つ姿勢、『他のいまだ成し得ざりしことをなさん』という信念は良い悪いではなく興味深い人物なんですよ」
 メディアでは「拝金主義者」などの大バッシングを受けた堀江貴文だが、佐久間さんの中には「彼がやっているのは本当に叩かれるべきことなんだろうか?」という思いもあった。
「確かに、粉飾決算という形で一線は越えてしまった。これは叩かれてもしょうがないでしょう。ただ、それ以前に彼がやってきたことは、逮捕以前では“ラインギリギリの創意工夫”でもあったわけです。面白いのは、新聞なり雑誌なりのメディア媒体として出されるものには『堀江許すまじ』といった色合いが濃かったんですけど、個人個人でメディア関係者に話を聞くと、案外彼らも『本当にそこまで叩かれるものなのかな』といった感じなんです。」
 しかし、結果的にほとんどのメディアは堀江を悪者として断罪した。見方によってはただ、バブルのように堀江叩きが盛り上がっていっただけのようにも見える。粉飾決算よりもこっちのほうがずっと恐ろしい、と佐久間さんは言う。

 冒頭で佐藤静子が書いているように、山崎は『偽悪者』なのだろうか。確かに山崎自身が「おれは悪党だ」と言っている下りが本書にもあるが、その真意は今となっては確かめようがない。
 過激な発言と、違法と合法の間で輝きを放った両者だが、こんな存在にどこかあこがれを抱いてしまう人は少なくないだろう。堀江の後に、山崎を彷彿とさせる人物は必ず現れるだろう。
 そのとき、私たちメディアはどのようにして「偽悪者」を受け入れるべきなのか。(■了)

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現代のホームレス事情についての対談(神戸幸夫×大畑太郎)

■月刊『記録』06年4月号掲載記事

■路上生活者を追い続けて。
神戸幸夫(『ホームレス自らを語る』の聞き手)×大畑太郎(本誌編集者)

*『ホームレス自らを語る』の連載100回記念企画。神戸幸夫氏と編集部の大畑との対談形式で、現在のホームレスについて語した。

     *     *     *

■就労構造の変化に追い詰められる人々■

●大畑:ギャンブルや酒や借金など、ひとくちにホームレスといってもいろんな理由で路上にたどりつくわけですけれど、やはり仕事とホームレスは切っても切れない問題です。以前は、会社員として普通に働いていた人が解雇されたりして路上に行き着くまでの間には、ガードマンだとか日雇いとかラブホテルの従業員といった仕事がありました。

●神戸:日雇いがその典型ですよね。日雇いの労働者を調達するためにやって来る手配師にとってはアタマ数がそろえばいいわけだから、会社に勤める場合に必要な来歴や連絡先などまったく問わずに連れて行く。別に外国人だっていいわけですよ。
 しかし、最近では景気が悪いこともあって50歳以上の人は相手にされないようです。というのは、仕事に就くことができない若い労働力が余っているので、調達する側から見れば働かせるんなら若い方がいい、そういうことになりますよね。そもそも、景気のせいで日雇いの仕事も数自体が少なくなっています。
大畑:そう考えると、50代やそのあたりのホームレスが仕事をとるのはそうとう厳しいというのが現実でしょうか。

●神戸:そうです。景気について明るい話題がぽつぽつ聞こえはじめてはいますが、土木、建築をはじめ日雇い労働については人手を必要としていない。しかも、終身雇用が崩れた今、正社員といえども安定した身分と言い切れるわけではないです。大企業であってもいつクビを切られるのかわからない。若い世代を見ても、就労構造の変化によってホームレス予備軍が着々と増えつつある。正社員が極端に少なく、パートと派遣でその周辺を埋めるという構造です。正社員よりも低賃金で雇うことができるパートや派遣もいつ契約を切られるか分からないという不安定な状態で仕事をしなければならない。昔、サラリーマンならば中小企業であっても退職金があったし、厚生年金プラス企業年金もあったりして、老後の設計は立ったと思います。今は違います。60歳で定年を迎えたとして、年金の支給がはじまる65歳まで退職金で必死に食いつながなければならない。

●大畑:ひどい会社になると、退職金が前払いになっていて、払われなかったりする。極端に少ない正社員と言いましたが、ある大企業では、一般職のほとんどを別会社に移してしまい、経営状況が悪くなればその会社を潰せるようにしているところもある。以前だったら、労働基準法にてらして議論があり、そういうのはおかしいといわれるようなものなのに、現在ではまかり通ってしまっています。

●神戸:労働者のことなんて、上層部は考えもしないんでしょう。その場その場のさじ加減で状況を切り抜けていけると思ってるんじゃないですかね。そういえば、ここのところ、今までの日本では考えられないような事件が相次いでいるような気がしますね。耐震強度偽装事件、ライブドアや東横イン、雪印、伊藤ハム、各損保生保会社など各企業のモラルが崩壊し、日本全体が刹那的になってるような。ずっと先を見据えたものづくりや人を育てるようなことを考えなくなってしまった。そのいい例が、連載の03年1月号で取材させてもらった山根さんという方の話です。山根さんは当時51歳でコンクリートを流し込む型枠づくり専門の大工でしたが、45歳を過ぎたあたりから高齢を理由にだんだん仕事を回してもらえなくなる。それで、そういうベテランの代わりに図面も読めないとにかく給料が安い若手が使われ始めた。で、ある時、そんな若い大工ばかりを集めた現場で信じられないミスが起こる。図面を読める大工が極端に少なかったせいで、壁の内と外の寸法を間違えたまま壁を立ち上げてしまうんです。結局、つくり直しの費用の数千万円を払えるような大きな会社でもないから、なすすべなく倒産。経営者が人件費を切りつめようとして、結局それが自分の首を絞めることになってしまった。山根さんは「ベテランの知恵や経験を切り捨てるのは狂ってる」と言っていますが、まったくその通りだと思います。そして、経営を安易な人切りによるその場しのぎでやっていこうとするこの構図は、先に挙げた一連の事件や社会全体の風潮と重なっている部分があるように思えるんです。

●大畑:なんというか、救いのない話というか。経験があって、まだ十分に働くことができるという人が放り出されるようになってしまったのはいつごろからなんでしょう?

●神戸:やはりバブル崩壊後でしょうね。今も新宿の中央公園あたりでは増えているようです。年齢層は50代あたり。厚生労働省の最新のデータでは、ホームレスの数は全国で2万5000人と発表されていますが、実際にはそれよりも多いと思います。

■生活保護を受けられない!■

●大畑:現時点のホームレスだけではなく、ニートや不安定なフリーターといった、ホームレス予備軍の問題もあります。

●神戸:彼らは……生活力はあるんですかねえ。

●大畑:いや、おそらくないでしょう。ある専門家がいうには、彼らが生活保護申請を出す前に彼らの問題をどうにかしなければならないと。たしかにそうかもしれないですよね。事故やなにかで親が死んだりしたら、もう路上に放り出される可能性だってあるわけですから。ところで、生活保護はどうなんでしょう。

●神戸:簡単には出さないようですね。

●大畑:やっぱり。

●神戸:あまりにも申請が増えすぎてしまって、役所は申請者全員を認めるわけにはいかないようです。去年(05)の取材で、高血圧がつらくて生活保護を受けようとした方がいます。その方は72歳で、渋谷の区役所に生活保護申請をしましたが、若い担当者が対応して、「入院経験はありますか?」ときいてくる。ないと答えると、「じゃあもうちょっとがんばって働いてください」と簡単に言われてしまう。それで終わり。緊急で保護しなければならない人は他にもいるからというのが言い分らしいですが、その方はひどい耳鳴りと血圧降下剤を飲んで暮らしている。薬を飲むから食欲不振が続いて体力がもたない。こんな方が、申請しても簡単に突っぱねられてしまっているんです。
大畑:72歳でもハネられている。実際にはさらに上の人の生活保護申請も認められていない可能性があるわけですね。

●神戸:生活保護を受けるためにはいくつか条件があるわけです。住所があることにはじまり、働くことができないという医者の証明書、所持金が最低生活費を下回ることなどですが、彼らはアパート代が払えないので、申請をする前に家を出ちゃうんですね。また、そうでなくても生活保護に対する精神的な負い目から受給を申請しない人もいる。これはイヤな話なんですが、申請した当人の何親等かまで家系をたどり、役所が「この人の面倒を見てください」と働きかけに行くんですね。人によってはそういうのがたまらない。田舎の親戚などからは東京に行ってまともに生活していると思われていたのに、実際はこんな生活になっていた、ということが知られてしまう。故郷に錦を飾るとはまったく逆の屈辱でしょう。そしておそらく役所は、近親者を持ち出せば申請をやめるという計算からそういうことをする。そこまで露骨ではないかもしれないけど、少なくともそういう姿勢のあらわれではないかと思います。

●大畑:役所に余裕がなく、企業にも余裕がない。

●神戸:そうですね。余裕といえば、それは家族にもあてはまると思います。路上にいる人たちの中には、実家があり、空き部屋まであるのだけど、そこには帰りたくないという人もいる。なぜかというと、実家に帰ったとしてもそれには義理の姉だとかがいるわけで、そこで迷惑がられるよりはホームレスをしていたほうがいい、ということになる。
 たしかに、義理の姉の立場で考えると、今まで別に暮らしていた人に帰って来られるのがイヤでしょう。また、義姉のいる実家に帰りたくないのも分かるんです。それで思ったのは「家族」の概念がものすごく狭くなってしまったんだな、ということです。

●大畑:たしかにそうです。親の実家には、戦前に2人くらい居候がいたらしいと聞いて驚いたことがあります。

●神戸:昔は、食客というか居候というか血がつながっていようがつながっていまいが、そういう人たちが家族の中にいるのが珍しいことではなかったんです。境界線が曖昧でいろんなものが混ざっていたという感じですか。今の若い世代では、家族といえば夫婦と子どもまでなのではないでしょうか。今の子どもにとっては昔の大家族がうまく想像できないかもしれない。地域という視点で見ても、近所にホームレスがいるとすぐに苦情が出る。これもコミュニティーの狭さからくるものだと思います。

●大畑:家族、地域と様々なものが狭まって、異質なものは排除するという考え方。ホームレスのなりわいのひとつといえる空き缶ひろいに対しても、地域による監視の目が厳しくなっています。「資源の日」などに家庭から出された空き缶を集めようとするホームレスへの対策として、「空き缶ひろいは犯罪です」という立て札を立てたりする。それくらいのことはいいじゃないか、と思うんですがねえ。やはり「異質」であるホームレスは排除したいらしい。
 驚くべきことに、ホームレス同士でさえ階級格差のようなものが存在していると聞きます。「俺はあいつらとは違う」という意識が多くの人にあることは、僕も取材をしていて感じました。

●神戸:あれはほんとに多いですね。

●大畑:似たような境遇なんだから助け合えばいいんじゃないかと思うんですが、そういうふうには絶対にならない。コミュニティーの狭さというか余裕のなさがあって、団結してなにかをしようということにはならない。
 そんな中で、どうにかお互いまとまって状況を良くしていこうとする場合、いったいどういう方法がありますかね?

●神戸:うーん……、しっかりしたリーダー…、いや、すぐには思いつきません。なんともいえないですよね。ただ、やはり企業といい家族といい地域といい、いろんなところで視野が狭くなり、他を排除するという考えが当たり前になっているのは事実でしょう。これは本当に危険な考え方なんです。

■ホームレスを脱出したのはただ1人■

●大畑:以前であれば、クビになる前に労働組合を中心とした経営者との闘争があった。それがセーフティネットになっていましたが、今はほとんど機能していない。また、クビになってしまったとき、路上で暮らすようになる前にあった日雇いのような仕事も、今では期待できない。要するに、セーフティネットの消滅だといえますよね。だとしたら、ホームレスになることを避けるにはどうすればいいんでしょう。

●神戸:はっきりといえるのは、毎日健康で働けることですかね。入院したりすると、医療費がバカになりませんし、何より解雇されてしまう場合があります。いったんホームレスになってしまうと、そこからは簡単に戻ってこれない。以前取材した方に、サウナを拠点にして再就職を果たした人がいました。就職の際には最低でも履歴書に書く住所が必要なのですが、顔見知りだった従業員に頼んでサウナの住所を使わせてもらったんです。彼は働いていた会社が倒産し、妻も難病で亡くしていました。

●大畑:一時的にホームレスになったが、結果的に戻ってきた彼と、他の人たちとの違いは何なんだったんでしょう?

●神戸:やはり、彼の場合はホームレスをしながらもきちんと生活をしようとしていました。毎日掃除をするなんて人はほとんどいません。鍋を買ってきて、回りの人たちにうどんを食べさせたりもしていましたね。そうしているうちに、彼のまわりには人が集まるようになっているみたいでした。コーヒーもあるぞ、何もあるぞ、という具合に人が持ち寄ってくる。そして、サウナの住所を借りて就職活動し、建設会社に就職できたんです。その後、彼に会いました。「あなたがいたからなんとか持ち直すことができた」と言われたときは嬉しかったですよ。いいスーツを着てましたよ。とても立派になった印象で。それで、お酒を飲ませてもらいました(笑)。しかし、私は今までだいたい300人くらいの人に話を聞いてきましたが、彼だけなんです。ホームレスを脱出できたのは。

●大畑:300人に1人。

●神戸:ただ、たしかに戻ってきたのは1人ですが、皆が皆ホームレスを脱却しようとしているわけではないんです。新宿あたりにいれば、食べるもの、寝る場所について一応はやっていけるということが分かっていますから。毎朝、アメリカの教会関係の方がおにぎりをふるまってくれる。水曜日には宗教団体がカレーライスを出してくれる。他にも、ゴミ拾いを手伝えば豚汁を出してくれるなんていう団体もあります。

●大畑:ボランティアの方たちのところをまわっていれば、飢えなくてすむと。

●神戸:そうです。場所によってはそういう援助がない曜日もあり、その日は腹を空かせながらじっとしていると。かえって冒険しなくてもなんとかやっていくことはできる。だからといって援助がまったく途絶えると彼らはやっていけない。複雑なところですね。

●大畑:景気がよくないとはいっても、勝ち組と負け組の二極化が明らかになってきているというのが実際のところでしょう。トヨタなんか当期利益が3年連続で1兆円を超すとかで最高に儲かっている。なのに、ベアで1000円がどうとかいってましたよね。

●神戸:この格差社会のモデルがどこにあるのかというと、アメリカなんです。この国は日本以上に格差社会なんですが、『ルポ・解雇』(島本慈子・岩波新書)によると、所得上位1%の所得が下位90%の合計所得より多いということが明らかにされている。今の日本はこのモデルに突き進んでいるんです。ここで考えるべきなのは、何もモデルになり得るのはアメリカ型のみではないということです。より労働者が守られるヨーロッパ型にならうという選択肢もあるはずなのに、今はそうなっていない。企業という強者がものすごい力を手に入れ、そこに属することができない大多数の人間の生活が追い詰められていくという方針には絶対に反対すべきです。(■了)

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待ったナシ!駐車違反取り締まりの新ルール施行/初日ルポ 街の風景が変わった

■月刊『記録』06年7月号掲載記事

■取材/文・本誌編集部

 駐車違反取り締まりの新ルールが施行された初日、いつものルートを運転していた酒屋配達の男性は思った。「まるで日曜みたいだな」。平日ならいつも道路の両脇に駐車されている車がこの日はほとんど見あたらなかった。取り締まりが民間業者に委託され、これまでより強化されることは知っていた。どうやら配達中でも構わず取り締まりを受けること、より短時間の駐車で違反と見なされることも知っていた。それでも駐車違反で引っかからないための具体的な対策を男性は持っていなかった。見張りのスタッフを雇えば人件費がかかる。小さな商店にとってそれはあまりにも大きな打撃である。
「取り締まりが厳しくなるみたいだけど……、どうしようもない。今のところは…」酒店の男性は言葉通りの表情で呟いた。
 95年には年間約30万件だった駐車違反の苦情・問い合わせが05年には65万件に膨れあがった。しかし取り締まりの件数は240万件から150万件と逆に減少。このことについて警察庁は、警察官の多くが治安情勢の回復に費やされ駐車違反取り締まりに人員を投入できなかったと説明する。そしてこれが今回の民間監視員導入の背景だった。たしかに違反車両の多い道路は運転しづらいものだ。車のカゲからいつ人が飛び出してくるのか警戒し、神経を使ってしまう。しかし、今回の新制度導入には大きなひずみが伴っている。
 編集部が駐車違反取り締まり初日の様子を追った。

■不満が渦巻く現場を歩く

 監視員の民間委託が導入されたのは東京で12区、43警察署である。監視員は各警察署が定めたガイドラインに沿って監視を行う。今回は編集部近くであり取り締まりの「最重点路線」に定められている靖国通り、そして同じく最重点路線に定められている新宿駅周辺をあたった。
 新宿駅周辺では青梅街道の新宿警察署の前にある交差点から大ガードをくぐり、伊勢丹の裏側にあたる靖国通りと明治通りがぶつかる交差点まで約1キロ。午後12時半から駐車の認められている場所以外に駐車している車を数え始めた。結果は37台、そのうち運転手のいない車は10台だった。
 ただし1人で荷下ろししている車が「運転手のいる」37台にカウントされており、「運転手がいなければ駐車違反だ」という原則に従えば「違法駐車」の数はさらに増える。しかも駐車している車のほとんどが運搬車両なのだ。
 調査通り沿いには一大繁華街が並ぶ。そうした小売店に商品やその材料を運び込むには車しかない。つまり十分なスペースがない現状で「路上駐車」が「兵站」を支えているのだ。
「会社の仲間もブーブー言ってますよ。駐車できないので2マン体制に変わりました。以前は1人で配達していたんですけどね」。大手飲料メーカーの自動販売機に缶ジュースを運搬している男性はゲンナリした顔でそう語った。ただ、2マン体制をとれる業者はまだマシだ。前述の酒屋にはそうすることもできない。いくらかのコストを費やして駐車場を借りることはできても、重い荷物を駐車場から目的地まで運ぶ作業が上乗せされるのはあまりにもキツい。
 今回の法改正のもっとも大きなポイントは2つ。1つは民間の駐車監視員が違反キップを切れるようになったこと。もう1つは運転手が車から離れて、車を移動できない状態なら取り締まれることだ。もちろん理由によって情状酌量されることはない。実際、食料品を歌舞伎町方面に運搬していたトラックは「配送中」と書かれた札を運転席に掲げ、ハザードランプまでつけていたが駐車監視員は構うことなく取り締まりにかかった。なにかがおかしい。もともとは違法駐車対策のためのルールだったはずが、違法も配達もない十把一絡げ状態になっていた。
 歩合制の給与体系ではないが、取り締まりの数が少なすぎれば駐車監視員も肩身が狭かろう。みんなと同じぐらいの数をあげなければ、サボっているのかと疑われかねないからだ。つまり法の番人というより、違法を待つハンターといった趣、ととられてもおかしくはない。
 監視員はは2人1組で薄緑の制服を着込む。
 駐車監視員が違法車両を見つけると、まず専用のデジタルカメラで写真を撮影。その画像を厚さ約2センチ、縦20センチ、横30センチ程度のタッチパネル式の液晶画面のコンピュータに転送する。
 転送された写真を確認すると、コンピュータを持つ駐車監視員が専用のペンを使い猛烈なスピードで打ち込みを始める。違法車両の種別、違反車が置かれた住所などを選択画面から選んでいく。一連の操作が終わると、今度は違法車両の位置を特定にするために距離を測る。横断歩道や交差点の角から何メートルの場所に止まっているのかメジャーを当てるのだ。
 さて、ここからが最大の難関、違法現場の地図作製である。道路の形や車両のマークなどを、選択肢から選び大枠を完成させたあと、先ほど測った距離や道路がどちらに向かっているのかなどをペンで書き込んでいく。取材した駐車監視員は「至明治通り→」と書き込んでいた。かなり汚い手書きの文字でもコンピュータは認識していた。地図を作り終えたら、駐車監視員2人で記載内容を読み上げて間違いがないかを確認し、違法を知らせるステッカーを貼る。時間にして10~15分といったところか。
 じつは違反が確定するのは、このステッカーが貼られた後にある。駐車監視員が地図を描いている間に運転手が帰ってくればセーフ! 駐車監視員は「警告」と書かれた紙を運転手に渡し、おとがめなし。
 つまり駐車監視員の作業時間が運転手の明暗を分ける大きなポイントになるのだ。実際、新宿の取り締まりでは多くの運転手が地図作製中に車に戻ってきた。
 取材したのは取り締まり初日だったため機械の取り扱いにも手間取っていたようだが、これから駐車監視員も慣れてくる。一瞬目を離したスキに取り締まられたというケースが、今後どんどん増えてくるだろう。
 靖国通り・神保町では古本屋「ブンケン・ロックサイド」の店員さんが悲鳴を上げていた。「車を通りに横付けして来るお客さんは来てくれなくなってしまうかもしれません。打撃もいいとこですよ! お客さんだけじゃなく、古本専門の運送屋さんがいてトラックをこのあたりに停め古本街に本を配送するんですが、これからは今までのそんなやり方も見直さなければならないでしょう」。あまりに硬直的な制度のあり方が至るところで歪みを引き起こしている。それでも、見張り役の人員を増やすことができない、そんな弱者へも配慮していると宣伝したいのか「荷捌き用」と書かれたスペースがいきなり作られた。白い枠線で囲われたこの場所ならば駐車違反にならない。駐車監視員が枠内に止められた車を素通りし、その並びに止められたトラックだけを取り締まり始める光景はかなり異様だった。
 新宿大ガードの交差点から明治通りまでの約400メートルには駅に近い側に5台分、その向かい花園神社などがある側に9台分、計14台分の荷捌き用スペースが作られていた。法律改正前まで業務用トラックが両サイドにズラッと並んでいたことを考えれば、この駐車スペースがどれだけ少ないかが分かる。
 となれば激しい場所取りが展開されるのも道理だ。
「今日は朝9時からかなり取り締まってましたよ。間の前にいた枠の外のトラックがキップを切られてましたから。いや、いけないとは思いますけれど、このスペースにずっと止めておきたくなります。午前も午後もこのかいわいで配達しなければならないので……。枠から出たら反則金を取られますから」
 と、大手宅配便会社の運転手は語ってくれた。配達場所が集中している新宿なら、誰もがそう思うだろう。ちなみに同様の思いを抱えているに違いない佐川急便のドライバーは、「私どもはこの件に関して何も言えませんので」と取材に答えた。国土交通省から認可を得るのに苦労した会社らしく、お上に逆らわないよう会社側から教育されたようだ。
 今回の取材では荷捌き用のスペースに、その筋らしい派手な高級車が駐車されてもいた。運送業の車両を取り締まる前に、こうした車こそ排除すべきだろう。もっとも彼らもどこかで何かを「荷捌き」しているのかもしれないが……。

■このドタバタの裏で笑う者が

 今回の法改正で泣いている人は数知れない。だが、当然高笑いしている業者もいる。なかでも美味しかったのはコンピュータ関連の業者だ。デジカメも入力用のコンピュータも別あしらえの特注品である。
 ただ駐車監視員に機械の評判良かったわけではなさそうだ。報道でも機械の故障は大々的に報じられたほどである。ちなみに駐車監視員のコンピュータはハードが三菱、OSはウィンドーズXPだ。炎上自動車を量産した自動車メーカーの関連会社がハードを作り、バグが出ては修正版を配布するメーカーのOSを採用したのだから機械の故障が相次いだのも妙に納得してしまう。
 さて、今回の法改正については、もう1つ重要な論点がある。それは駐車スペースが足りないことを知りながら販売している自動車メーカーの責任だ。
 ペットボトルやカンを大量に流通させる飲料メーカーが回収にも力を注ぐ時代となった。作ったきりで利益だけを懐にしまい込む商法など、すでに許されない。
 ところが今回追いつめられているのは車の使用者だけ。製造メーカーは我関せずである。なかでも国内シェアの4割を握り、庶民をいじめる小泉改革を推進しながら道路特定財源の解消にだけは抵抗しているトヨタ自動車の責任は大きい。「60年代に始まったモータリゼーション中心の経済政策にのり、トヨタ自動車は大もうけをしてきました。だからこそ経団連の会長まで手に入れたわけです。にもかかわらず道路造成や交通対策など、人が暮らしやすくなるための社会的費用を一切支払いませんでした。ただただ車だけ売り続けるトヨタの姿勢がこの問題にも陰を落としています」とは鎌田慧氏の談。
 先述した駐車している車両の調査でも、運転手のいる車の37%、いない車の30%がトヨタ車だった。シェアよりも数字が低いのは乗用車よりトラックが多いからで、トヨタ系列である日野自動車をトヨタ車として勘定しなかったからだ。もし、トヨタ系列という枠組みで換算していたら50%はゆうに超えていたはずだ。
 6月1日に施行されたこの制度だが、もうすぐ1月が経とうとしている。この頃になってようやく、警察署によっては営業車に対する取り締まりの見直しが検討され始めている。だが、それでもこの新たなルールが弱い立場にある者への配慮にまったく欠けていた点は見逃せない。事件はまだ始まったばかりだ。(■了)

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風俗案内条例施行・本当の理由/――青少年のためってホントかよ――

■月刊『記録』06年7月号掲載記事

(■イッセイ遊児……「世の中の問題は性に帰結する」をモットーにする新人ライター。日々編集者にダメ出しをくらいながら何とか生きている)

 2006年6月1日、東京都風俗案内条例が施行された。店舗型のファッションヘルスやお客の待つホテルに女性を派遣するデリバリーヘルス、キャバクラなどにお客さを紹介する風俗案内所の取り締まり強化が目的の法律である。
 条例施行の当日、いつものように風俗案内所で仕事をしていると、一本の電話が鳴った。会社の上の者が「ヤフーのニュースページを見てみろ」と言った。
「1日午後、歌舞伎町、品川、渋谷にある案内所の各店舗の店長それぞれを逮捕。逮捕者は8人」とネット上のニュース記事。
 見せしめである。弱小案内所が数軒摘発されたのだ。
 僕が今こうして原稿を書けず、留置場にいてもおかしくはない。誰でもいい。そんな見せしめのパフォーマンスだった。
 それからしばらくして、突然店の自動ドアが開いた。
「少し悪いね」
 歯切れのよい口調である。
 威勢のいい客だな、と思いカウンターから店側に出ると、大きな看板を持った男と背広の男がいて、警察手帳を見せてきた。本物かどうか遠すぎてわからないが、いちいち「もう一度確認を」とはいえない雰囲気だった。 そしておばさん、おじさんがどっと店の中になだれ込んで来た。
「なんだなんだ」と驚いていると、「これです。ね、もう真っ白でしょう。パネルにはもう猥褻なポスターははれないんですよ」と得意げに警察が説明し始めた。
 おばさん、おじさんは、「ああ、これならいい」と、したり顔でうなずいている。近隣住民なのだろう。
 ふと見ると、テレビカメラがその住民に向けられていた。マイクに向って話をしている人までいる。
 まさかカメラが僕のところには来ないだろうな、といらぬ心配をしてしまった。法律を守って営業しているのだ。違法ではない。ただ、ここで何を話しても、悪人として紹介されるはめになる。それが嫌だった。
 100人を越すであろう行列は、テレビカメラと警察を先頭に「職場」のある繁華街を徘徊していた。
「あんたらがうろうろしているのが一番の地域公害だよー」と思わず心の中で叫んでしまった。インタビューを受けていたおじさんが、一番の強面だったし……。

■1カ月前にも法改正が!

 警視庁生活安全部の広報資料によれば、この条例の目的は「青少年をその健全な成長を阻害する行為から保護すること」と、「繁華街その他の地域における健全なまちづくりに資すること」らしい。しかし、そんな戯言を信じている関係者はいない。案内所を取り締まっても、風俗店そのものが点在している繁華街である。青少年の「健全な成長」など望めるはずもない。
 条例の本当の目的の1つは、一部の悪質な案内所を取り締まるためだろう。
 有名な悪徳案内所「グループM」は新宿でやりたい放題だった。風俗店でもないから許可もいらない。それにあぐらをかいての悪行三昧だった。
 例えば案内所とうたいながら、実はそこがそのまま風俗店の受付になっていたり、40分のサービス時間で客を釣りシャワーを浴びただけで「終わり」にしたり。さすがに客を欺き過ぎたのか歌舞伎町のグループMは摘発され、今はその影はない。しかし池袋ではしたたかに生きている。これでは、まじめにやっている案内所もいい迷惑である。
 しかし、この最も悪名高いグループMは今回の取り締まりでは無傷だった。警察がマークしていることも分かっているだろうから、さすがに店も条例違反にならないように努めたのだろう。
 一方でデリバリーヘルスの女性とお客がことにおよぶラブホテルは摘発されている。
 本当に悪質風俗案内所を取り締まりたいだけなのだろうか?
 じつは今年の5月1日に風適法(旧法は風営法と呼ばれていた)が改正された。狙いは風俗店舗を持たず、電話を受けて女性をホテルや自宅に派遣するデリバリーヘルスの取り締まり強化だった。その1カ月後に新しい法律が施行され、デリバリーヘルスなどの入り口となる案内所ががんじがらめに規制された。この2つの法律が意味するところを考えるなという方がおかしい。
 そもそも新条例の禁止行為が書かれた用紙を眺めていると、要するに全部ダメということになる。
 まず大きく変わったのが営業時間だ。
 以前は午前4~5時ぐらいまで営業ができたが、午前0時閉店になってしまった。もともと風適法により、案内所の紹介先である風俗店は午前0時以降の営業が禁止されていた。しかし、ほとんどの風俗店はあの手この手を使って営業を続けてきたのだ。しかしお客が最初に出向く風俗案内所が当局からにらまれて0時以降の営業ができなくなると、風俗店も終業するしかない。
 風俗で働く女性は夕方からの朝までというシフトが多い。つまり今回の法規制で営業時間が半分に減ったことになる。当然、稼ぎも減る。個人で「モグリの売春」をする娘が増えることは確実だ。現に風俗案内所でボーイをしている僕に、「ヘルスだと取り分が少ないから、良い客がいたらサービスは外でする」と、もらす娘もいるほどだ。
 もう1つの大きな規制はホステスの写真などを表示できなくなったことだ。
 僕の勤める案内所に掲げてあった30枚近くのヘルス広告パネル、10枚ほどのキャバクラのパネルポスターは全部剥がされた。白いパネルを後ろから蛍光灯が寂しく照らしているだけとなった。
 案内所は店内のパネルで広告料を取っている。それなのに警視庁が出したガイドラインに沿えば白いパネルしか置けないのである。女性の裸はもちろん、男女がマイクを持って歌っているものでもアウト。キャバクラのパネルに女性の顔写真もダメ。看板に使われる文字にいたっては「人妻」も許さないという。
 案内所の店内には一応パソコンモニターが6台置かれ、そこに契約しているクライアント風俗店の情報が入っている。ただ店員が詳しく案内をするわけにはいかなくなった。店での割り引き券となるチケットも、昔は店独自のものだったが、今では案内所が発行する統一されたチケットだけである。そのうえ案内所が出す音にまで騒音規制が加わった。
 猥褻なポスターが許されないなら、そのポスターだけを警告してほしかった。案内所のスピーカーから流れる有線放送のうるさい店があるなら、その店舗に警告してほしかった。
 それをしないのはどうしてか? つまり案内所が邪魔だったのだろう。
 いまだに売春防止法がありながらソープランドでは本番ができる。風適法があっても夜中に風俗店は開いていた。この状況を警察が知らなかったとは言わせない。じゃあ、見逃していたのはなぜか。店舗だったからだ。いつでも警察が取り締まれる営業形態だったから、店と警察は癒着し互いにうまいことやってきたわけだ。
 しかし電話番号だけで、女性の待機場所を隠したまま営業できるデリバリーヘルスは警察にとって我慢のならない代物だった。その手先となる案内所も。
 おかげで天下の歌舞伎町の案内所でさえ、午前中の入客が2名なんてことになってしまった。

■うつ病にかかった店員も

 1カ月前の風適法改正で呼び込みが禁止されたこともあり、風俗各店は案内所での顧客獲得に力を入れていた。そこに、この条例である。案内所からみればクライアントである風俗店からの期待(突き上げ)も大きいだけに、条例は案内所で働き生計を立てる者の精神を強く圧迫する。
 施行日の逮捕者は8人だったが、池袋の系列の案内所では0時を回っても明かりを消さなかったという理由で、若いスタッフが警察に連行された。
 時間が過ぎていたのは分かっていたが、客がパソコンを見ていたので無理やり帰すのもむげだと思ったという。優しさがあだになった。
 グループMの系列店は別にして、普通の案内所では学生や目標をもった人間が働いている場合が多い。クライアントや行政、地域住民からのたび重なる圧力で、うつ病になった人もでた。
 彼はうつになりながらも辞めずに、1人家族の祖母のために必死で働いている。父と母ではなく、祖母に育てられたからと。
 取り締まりのパフォーマンスしか流さない警察や一部マスコミにより、本当の話が消えている。都合よく風俗業界を支配しようとする条例の下で、潜り業者は今も蠢いている。(■了)

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ホームレス自らを語る/女と酒に明け暮れた・西村荘さん(45歳)

■月刊「記録」2000年3月号掲載記事

*          *          *

■北海道がイヤで逃げ出した

 出身は北海道でね。旭川の北にある江丹別という町。オヤジは牧場をやっていた。肉牛を300頭くらい飼育していたんだ。だから、家は裕福なほうだったと思う。 ただ、生き物を飼うってのは大変なんだ。毎朝三時半には起きて世話をしなくちゃならないし、一年中一日も休めない。とくに冬の世話が大変だ。子どものころから「やな仕事だな」って思ってて手伝ったこともなかったね。
 その冬がイヤだったね。北海道の冬の寒さは半端じゃないからね。雪もすごい。何しろ冬のあいだは二階の窓から出入りしてたんだから。昼間でも電気を灯けてないと暮らせないしね。人間の暮らしていくところじゃないと思ってたよ。
 学校に通うにも雪をかき分けながらだからね。途中から胸ぐらいまで埋まって、はうようにして行くんだ。手がかじかんですごいんだから。途中でバカらしくなって、家に引き返して休んじゃうなんてことも幾度もあった。「冬」って聞いただけで、ゾクッと鳥肌が立つくらい嫌いなんだ。
 それで中学を卒業すると、逃げるようにして東京に出てきた。東京に憧れもあったからね。一番最初に東京タワーに昇った。「あれが渋谷の街で、あの辺りが新宿か」と思ってね。ホントに東京に出てきたんだとうれしかった。仕事は合板工場に就職した。ヘタカットといって、大根が皮むきされたような具合になって出てくる合板ベニヤを切断する作業だった。

■酒と女の生活が始まる

 はじめのうちこそ工場と寮とを往復するだけの真面目な生活をしていたんだが、東京に慣れてくると盛り場に出て遊ぶことを覚えてね。新宿とか、渋谷とか……。でも、一番多かったのは、亀戸、錦糸町辺りだった。酒が好きでね。オレはビールが専門で、一晩で三ケース36本を空けたこともあるよ。それくらい好きだった。
 酒以上に好きだったのが女だね。最初の女は飲み屋で働いている女だった。オレより6つ年上で、その女のアパートに連れ込まれて犯されたんだ。オレのほうが犯されたんだよ。いま考えるとおかしいけど、まだ童貞だったから抵抗したりしてね。それでもやられちゃった(笑)。
 で、そのままズルズルと同棲することになって、子どもも生まれた。ところが、ある日女は子どもを連れて出ていったきり帰ってこない。それっきりになった。理由もなにもわからない。その女と同棲しながら、オレはほかの女たちとも遊んでいたから、そんなのに嫌気がさしたんじゃないの。
 次に同じ合板工場で事務員をしていた子と結婚した。細かいことによく気のつく子で、そのやさしいところに惚れたんだ。オレが女遊びに出かけるときにも、「ネクタイが曲がってる」と直してくれるような子だった。
 その子の実家は小松(石川県)にあって、ケーキをつくる工場をやっていた。直売の店も三軒出していた。結婚したのを機会に二人で小松に帰って、その工場を手伝うことになった。けど、オレは酒飲みだろう。ケーキとか甘い物は嫌いで、甘ったるい匂いのする工場ではとても働けなくてね。それで小松の航空自衛隊に入った。
 配属は補給班。空自というのはパイロットにでもならない限り、陸自(陸上自衛隊)のような戦闘訓練はないからね。補給班の仕事も伝票処理ばかりで、事務員のような楽なものだった。3年で満期除隊になって北海道に帰った。自衛隊ってところは、退職金やなんかをみんな本籍地に送ってくる決まりだったんだ。
 女房と、女房とのあいだに生まれていた長女は、小松に残したままだった。北海道でのんびりブラブラして暮らしながら、ときどきは金沢や小松まで女房と娘に会いに行った。だけど、だんだんに足も遠のいていき、いつの間にか縁が切れて離婚になっていた。
 北海道では仕事もしないで遊び暮らした。はじめのうちこそ自衛隊の退職金があったけど、そのうちになくなってくるだろ。そうすると親の目を盗んで、牛を売って金をこしらえたりとかね。そんなのを4年くらい続けたんだよ。それでいよいよ金がなくなってきて、27か、28歳でまた上京した。

■同じ女と何年も暮らせない

 また東京に出てからは、小さな建設関係の会社に就職した。建築現場のビティ(足場)の組み立てを専門にしている会社で、3年前にそこが倒産するまで働いていたんだ。それでまた新しい女と同棲してね。やはり飲み屋で働いていた子だったけど、いい女だったよ。オレが惚れて一緒に住もうってくらいの女だからね。同棲して一年後に女の子が生まれた。だけど、その子とも3年くらいして別れた。同じ女の顔を何年も見ながら暮らすなんてできないよね。オレが飽きっぽいのかもしれないけど……。
 とにかく女が好きだった。千人斬りとまではいかないけど、相当遊んだよ。オレは結婚してようが、同棲してようが、女遊びだけはやめないで続けたからね。相手はほとんどが飲み屋で働いている女とか、バー、キャバレーのホステスだった。みんな一晩限りの関係で……ああいうところで働いている女は、男(ヒモ)つきだからね。なんぼ好いたホレたがあっても、一緒になれるわけじゃないしね。
 女にはモテたけど、女のほうから言い寄ってくるわけじゃないよ。やっぱりこっちから、自分をうまく売り込まないと寝てなんかくれない。それには演技力のようなものも必要だよね。それに金だな。オレなんか飲みにいくときは、いつも懐に20万、30万円の金は入れてたよ。それで一晩つき合ってくれた女の子には、最低でも5万円のチップははずんでたからね。だから、かせいだ金はみんな女と酒に消えちまった。
 あのころの女の子は、いまと違ってスレてなくてウブな子が多かったよね。水商売で働いている女だってそうだよ。みんな男まかせで、する通り、される通りだった。それに本気で惚れられたこともあって、「このまま九州まで連れて逃げてくれ」と言う女もあった。そんなことは無理でできなかったが、いろんな女がいたよ。
 いまこうして新宿でホームレスをしているのも、亀戸や錦糸町からなるべく離れたところでと思ってね。だって、いまでもあの街を歩くと、昔関係した女が声をかけてくるからさ。それにオレの娘も錦糸町に住んでるんだ。娘はスナックのチーママをやって働いているよ。そんな街でホームレスなんてみっともなくてできないだろう。まあ、仕事をサボっても、女と酒は切らさないという生活だったからね。

■酒の飲みすぎで肝臓がおかしい

 三年前に会社が倒産したときは、着の身着のままで放り出されたからね。行くあてもないし、しばらく香具師の仕事を手伝った。お祭りの露店で、輪投げとか、ヨーヨー釣りなんかを商うやつだよ。でも、たいしてもうからないし、すぐにやめて日雇いになった。その日雇いもはじめのうちこそ、月10万~15万円くらいになったけど、だんだんに減ってきて、いまでは4日間働いて8ヵ月空きなんて状態だからね。
 一年前からホームレスをするより仕方なくなって、路上に寝るようになった。まあ、この生活も自由で気ままで快適だよ。悪くはない。なんでこうなったのかといえば、やっぱり会社が倒産したことだろうね。それからは成りゆきだよ。決して怠け者じゃなかったし、仕事さえあればいまでも働きたいと思っている。
 ただ、体がね。酒はやめた。飲むと肝臓が痛くなって、体が受けつけなくなったんだ。たぶん、肝硬変だと思う。ビールを浴びるように飲んできたからね。肝臓のほかも、体はいいところなんてどこもない。全部悪い。だから、この体じゃちょっと働けないよね。いつポックリいっても、おかしくない状態だからさ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/将棋は五段の腕前なんです・鈴木晋平さん(54歳)

■月刊「記録」2000年6月号掲載記事

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■将棋の全国大会に出たことも

 生まれたのは1945年3月、樺太でした。すぐに終戦になりますけど、当時父親が中国大陸に出征中で、母親は私と兄と姉の三人の子どもを抱えて大変だったようです。終戦の混乱のなかで引き揚げ船に乗り遅れて、ようやく内地に帰れたのは二年後だったようです。
 内地は北海道の稚内に帰りました。そこで母親の知り合いの家に身を寄せました。父親が大陸からシベリアのほうに抑留されてしまい、内地に帰ってからも母親は苦労の連続だったようです。私はまだ小さかったから、あまり覚えてませんけどね。
 父親が帰還するのは53年で、私が小学三年生のときでした。8年も抑留されていたわけですが、その間ソビエト共産党の洗脳教育をされていたようです。父親は出征前にマスコミで働いていましたから、洗脳教育の対象にされたんでしょう。復員後は同じマスコミ関係に復職して、それで我が家もどうやら世間並みの暮らしができるようになりました。
 私は高校を出て稚内の小さな新聞社に就職しました。実は子どものころから将棋が得意でしてね。高校生のときには三段の腕前でした。それが買われて、まあスカウトされたようなわけです。将棋や囲碁の観戦記とか、稚内で上映される映画の紹介記事のようなものを書かされました。新聞といっても稚内と近隣だけに発行されるタブロイド判のささやかなものでしたけど。
 二年くらいして札幌に出ました。今度は林業関係の業界紙の新聞社に入りました。全国の営林署から寄せられる情報を整理して、それを記事にするのが仕事でした。その後も、将棋のほうは続けていて、五段までいきました。北海道の代表二人に選ばれて、全国大会に出場したこともあります。プロになろうとしたこともあったし、実際に誘ってくれる人もありました。
 でも、飛び込めませんでした。プロの将棋指しというのは、1000人がめざしても、ものになるのは10人もいないといわれています。私は子どものころから、真面目でおとなしい性格でしたからね。人と競い合うプロの世界には向かなかったと思います。自信もなかったし、そんなきびしい世界に飛び込んでもダメだったでしょうけどね。まあ、趣味で遊んでいるくらいが分相応だった。いまでもそう思ってます。

■恋愛の破局で酒におぼれていく

 林業の業界紙にいたころ、ある女性と恋愛をしましてね。父親が歯科医を開業している、なかなかいいところのお嬢さんでした。四年くらいつき合ってから、二人でアパートを借りて同棲しました。ところが、彼女の父親は同棲に猛反対でしてね。ある日、その父親がアパートにのり込んできて、彼女は連れ戻されてしまいました。それっきり彼女からは何の連絡もないし、二人の関係はそれで終わりました。
 もともと酒は好きだったんですが、そんなことがあってますます酒におぼれていくようになりました。酒が入ると誰彼かまわずにからんだり、殴りかかったりしてね。悪い酒でした。
 ある晩、飲み屋で大暴れしましてね。その店で飲んでいた客にからんでケンカを売って、物を投げつける、殴りかかる、最後は椅子を持ち上げて振り回すで、何人かの客にケガをさせたらしい。そういうときの私は頭の中が真っ白になってますから、何がどうなっていたのか覚えちゃいません。警察が呼ばれて、傷害の現行犯で逮捕されて起訴になりました。
 可哀相だったのは兄貴でした。弟が起訴されたというんで左遷されましたからね。兄貴も父と同じ会社で働いていたんです。実は、父親は私が高校生だった頃に、オートバイ事故で亡くなくなりましてね。それで兄貴は父親の後釜として採用されていたんです。私の起こした事件で、左遷の憂き目に合わせてしまったんですから、いまでも兄貴には悪いことをしたと思っています。裁判では執行猶予がついて、実刑はまぬがれました。
 それで稚内の家に連れ戻されました。家に帰ってもすることがないから、ただブラブラしている生活でした。そんなことをしていると、小さな町ですからみんなに噂されますからね。それに事件を起こしたことや、別れさせられた女性のこと、そんなこんなでムシャクシャしてまた酒におぼれていく。酒を飲まずにはいられなくなる。金がないから、酒屋で万引をして酒を手に入れたこともあります。3回もしましたね。
 そして酒が入ると頭が真っ白になって、何がなんだかわからなくなって大暴れしてしまう。家族も手に負えなくなったんでしょう。精神病院に入れられました。私自身は精神病院なんかに入れられる理由はないと主張したんですが、一年間も入れられてました。
 病院を出たのが30歳のときでした。もう稚内にはいられませんから、本州に渡って建設会社をしている親戚を頼って秋田に行きました。ちょうど東北新幹線の工事が始まったばかりのころで、福島駅の建設工事に就きました。ただ、はじめのうちこそ親戚だからというんで、監理の仕事をさせてくれましたが、そのうちに人夫と同じ仕事をさせられるようになってました。重い鉄筋を担がされたりしてね。それでいやになって辞めました。
 それから東京に出て、缶工場とか、新聞販売店、建設会社などで働きましたが、どこも長続きしませんでした。例の悪い酒癖で同僚を殴って辞めたこともあります。 40代に入って建築現場の日雇いで働いていたときは、組頭にまで引き立てられました。それまでに現場監理の経験があって、ノウハウを知ってましたからね。その組頭の仕事ぶりが認められて、親会社に引き抜かれて社員待遇されるまでになりました。
 ところが、四五歳のときに交通事故に遭って、足の骨を折ってしまい半年間入院したんです。ケガが治って退院してみると、もう会社はありませんでした。酒の失敗で人生を悪くもしましたが、運もない人生なんですね。 あとは高田馬場の手配師に頼る日雇いでした。手配師のくれる仕事はほとんどがタコ部屋のものばかりですからね。どうしようもない現場で、金も残せるほどはもらえませんでした。その日雇いの仕事も五年前くらいから減ってきて、ドヤ(簡易宿泊所)に泊まれなくなって路上で寝ることが多くなったわけです。

■いまでも将棋が夢に出てくる

 北海道を出てからは、家には帰ったことも、連絡を取ったこともなかったんです。9年前に交通事故に遭って、保険の手続きの都合で家に電話を入れたことがあるんです。そうしたら兄貴が入院中で、「ガンだから、もう長くない」と知らされて、そのときに一回だけ帰りました。まあ、死ぬ前の兄貴の顔が見られて、それまでのことを謝れましたしね。あのとき帰ってよかったと思ってます。
 私も50歳を過ぎましたからね。この歳になると北海道に帰って暮らしたいと思いますよ。でも、このまんまじゃ帰れないでしょう。せめて50万円くらいの金は持って帰りたいですからね。もう一度まともに働いて金をかせぎたいとは思いますけど、50歳を過ぎて、何の資格もないし……仕事にはありつけませんね。
 好きな女性と一緒になれなかったり、酒の上の事件を起こしたり、あの辺から狂い始めた気がします。若いときの辛抱、我慢が足らなかった。親兄弟の言うことを、よく聞いておくべきだった。いまになって、そう思います。
 酒はやめました。飲む金もありませんしね。金があっても飲まないでいられるようにもなりました。いまやりたいのは将棋ですね。金があれば、会所のようなところに行って指してみたい。いまでも将棋を指している夢を見たり、夢に棋譜が出てきたりするんですよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/帰郷から狂い始めた歯車・田代昭夫(48歳)

■月刊「記録」2000年9月号掲載記事

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■満開の桜の下でのデート

 結婚していたころは、幸せだったな。好きで一緒になった女だもの、大事にしたつもりだよ。
 女房と知り合ったのは16歳。福島県の郡山から上京する集団就職の列車で、友だちが紹介してくれた親戚の女の子だよ。会ったときからオレのことをカッコいいと思ってくれたみたいでね。働き始めてからも、連絡を取り合っていたんだ。
 オレの最初の職場は、埼玉県西川口の鋳物工場だった。大変な仕事だよ。夏なんか塩をなめながら働かないと、汗のかき過ぎで倒れちゃうんだから。それでも話し相手の女性がいたから、生活は楽しかったよ。彼女の職場は近くの蕨市だったから、オレの工場とも近かったし。 初めてのデートは大宮公園だったな。満開の桜の下、公園の池でボートに乗って写真を撮ったりして。水面に花びらが散って、空はすごく晴れていて。ゆっくりボートを漕いでいると、「あー、桜ってこんなにきれいなものだったんだなぁー」と、思ったもんな。
 18歳から彼女と正式につき合いだしたんだ。初めての女だった。それから浮気することもなく、28歳で結婚した。仕事は、鋳物工場から車の解体、トラックやタクシーの運転手なんかに替わった。結婚した当時は、トラックの運転手だったな。自転車の部品なんかをルート配送していた。
 家に帰るとごはんができていて、女房がお酒の相手をしてくれる。それが楽しかった。一人で飲むのはつまらないからね。女房は、酒に弱いくせに飲み屋の雰囲気が好きだったんだ。よく連れて飲みに行ったりもしたな。オレが飲むのに、ずっとつき合ってくれた。

■子どもはかわいくて、かわいくて

 結婚してすぐに子どももできた。配達を終えて家に帰ったら、女房のお姉さんが「女の子が生まれたよ」ってな。急いで病院に飛んで行ったら、ベッドで女房が横になっていたから、「ありがとう」って声をかけたんだ。「男の子じゃなくて、ごめんね」。女房はそう言って、残念そうな顔をしたよ。「どっちでもいいよ。元気なんだから」って、声をかけたな。
 だいたいオレは女の子がほしかったんだよ。だって女の子の名前しか考えてなかったもの(笑)。子どもを持って、目の中に入れても痛くないって気持ちが、よくわかったよ。子どもはオレの宝物だった。
 ただ一人目の子どもは、少し体が弱かったんだ。生まれてすぐ、入院することになった。お医者さんに「空気が悪いのは健康に影響する。できれば田舎に住んだ方がいい」って言われてさ。二人の実家がある郡山に住居を移したんだ。いま考えると、この転居が人生を少し変えたのかもしれない。
 長女が生まれた翌年、女房は二人目の女の子を生んでくれた。出産日は東京まで配達に行ってたから、郡山に戻ってすぐ病院に行ったよ。「また女の子なの」って、申し訳なさそうに女房が言ってさ。「いいよ。元気に生まれたんだから。ごくろうさん」って、声をかけたんだ。
 二人の子どもができてから、子どもを膝の上に乗せながら晩酌するのが楽しみでね。かわいくて、かわいくて仕方ないんだから(笑)。仕事にも張り合いが出たよ。
■たった一度の浮気で離婚

 でも、上の子が4歳のとき離婚した。原因はオレだけれどね……。一週間、女の家に泊まって帰ってきたら、「別れてちょうだい」と女房に言われたんだ。
 いや、高校生だったころから知っている女の子に、道で偶然に出会ったんだよ。コーヒー好きのオレが通っていた喫茶店で、アルバイトしていた娘でね。
「店をやっているから来て」って誘われて、彼女がママをしているバーに飲みに行ったの。酒は好きだからね。しかも飲み過ぎると、ゴロッと寝ちゃうんだ。で、案の定飲み過ぎた。
 目が覚めたら、まったく知らない部屋にいて、横に彼女が眠っていた。驚いたよー。「オレ、何かしたか」と聞いたら、彼女に笑われたな。
「できるわけないじゃない。元気だったら泊めないわよ」ってね。
 ただ飲んで寝ていただけなんだ。いや、本当に。それで起きてから会社に行って仕事するだろ、終わったころに彼女が迎えに来ているんだよ。「また、飲みに来て」って。「じゃあ、行くか」と飲みに行って、また寝ちゃう。その繰り返しで一週間。
 オレはモテないからさ。そんなにウマくいくわけないんだよ(笑)。だから自宅に帰るまで、離婚になるなんて全然思ってなかった。何もしていないしね。でも女房に言い訳はしなかったよ。泊まった現実は、現実なんだから。別れ話にも「はい、いいよ」と言ったんだ。「子どもだけは頼んだよ」って言い残してね。娘の写真を持って家を出た。
 つき合い始めてから、一度も浮気をしたことなんてなかったんだ。真面目に暮らしていたし、女房も大事にしていた。もし東京で暮らし続けていたら、離婚もしなかったかもな。

■10年間の入院を強いられた

 離婚後は、東京でトラックの運転手を続けたよ。きつい仕事だったけれど、仲間に恵まれたな。仕事が終わってから、みんなで飲む一杯が楽しみでね。会社の近くにある安い飲み屋で、あぶり物をつつきながら、焼酎か日本酒を飲む。オレはビールが嫌いだからね。酒が明日への活力だったよ。
 でも、37歳でオレの人生は変わっちゃったんだ。何の前触れもなかった。いきなりバットで殴られたみたいに頭が痛くなった。社長が救急車を呼んでくれたところまでは記憶があるんだけれど、それ以降は意識がない。 目が覚めたら、目の前に看護婦がいたんだ。集中治療室にいたオレには、青や白のボタンが体中に貼りつけられていた。
 自分の病名をきちんと説明されたのは、救急車で運ばれてから一週間ぐらいたってからかな。先生が「クモ膜下出血だ」ってね。頭蓋骨を外して手術をしたらしい。あといろいろと説明していたけれど、よく覚えていないな。ただ手術が終わったから、すぐ退院できると思っていたんだ。まさか、それから10年間も入院し続けるなんてな。
 10年の入院生活と聞くと、仕事なんかが気になって焦ると思うかもしれないけれど、容態も悪かったから焦りようがなかった。何も考えられなかったから。長いようで短い10年だったね。退院したときは四七歳だよ。それでも退院できたのは、最初に診てくれた先生がよかったからだろう。同じ病気になった人のほとんどは、植物状態か仏様になっていたから。まあ、助かったのがよかったのかはわからないけれどね。
 退院後は、板橋区にアパートを借りていたんだ。区の職員が、福祉制度を使ってアパートの手配をしてくれた。でも東京・葛西にある病院への通院が大変だったので、別の区のアパートに引っ越したんだよ。そうしたら区が、福祉を打ち切ったんだ。もちろんアパートも追い出された。行くところなんてないよ。ホームレスさ。
 実家に帰ればいいのかもしれない……。でも若ければともかく、50に近くになって帰っても仕事はないし、迷惑なだけだろう。実家も兄貴の代になっているし、兄貴だって大変なんだから。連絡しないんじゃなくて、できないんだよ。

■全財産は120円

 子どものことは、いまだに気にかかるよ。退院したとき、女房のお姉さんに挨拶しに行ったら、「上の子は結婚した」と聞かされた。4歳から会っていないから、オレには顔なんかわからないけれどね。いや正確には、入院中に会っているんだ。昏睡状態のときに別れた女房と娘が会いにきた、と看護婦が教えてくれたから。でも意識がないからな。
 まあ、生きていれば、いずれ会えると思うよ。あー、でも会いたくないな。仕事をしているなら、会いたいけれど。みじめな姿を娘に見せたくないから。
 いまの全財産は、120円だよ。これじゃあ、何も買えないよね。冷たい飲み物がほしいよ。あと吉野家の牛丼が食べたい。万引する勇気もないから、我慢するしかないけれどね。
 リストラなんかで自殺する人も多いらしいけれど、自殺するのは勇気なんかじゃないよ。逃げたいから自殺するんだ。生きているのは、こんなにつらいんだから。 (■了)

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ホームレス自らを語る/サラ金の督促から逃れて・田島義広さん(64歳)

■月刊「記録」2000年10月号掲載記事

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■サラ金から面白半分に借金

 長いこと左官とか、型枠工、日雇いの土工なんかをやってきたんです。それが五五歳を超えたあたりでしたか、「年寄りに回してやれる仕事はないよ」と突然手配師に言われましてね。それっきり仕事は回してもらえなくなりました。
 急に仕事にあぶれることになって、途方に暮れて都内のクリーニング店に嫁いでいる姪のところを訪ねたんです。そうしたら気持ちよく置いてくれて、しかも姪のダンナが警備員の仕事まで見つけてきてくれましてね。それで姪の家に同居させてもらいながら、警備員をして働いてきたんです。
 私は若いころから酒は一滴もやらないし、パチンコをたまにするくらいで、ほかのギャンブルにも一切手を出さなかった。それなのに、六年くらい前でしたか、急に競馬をするようになりましてね。馬が好きだったわけじゃないし、なんで競馬になんか手を出すようになったのか、自分でもよくわかりません。小金がほしかったのかな? ただ、根が小心者ですからね。たいした金を賭けたわけじゃないですよ。
 サラ金から金を借りるようになったのは、そのころからでした。これだって金に困っていたわけじゃなくて、サラ金ってどんなもんかと思って面白半分に借りに行ったんです。そうしたらすごく簡単に貸してくれるんですね。こんなに簡単に借りられるんならと思って、利用しているうちにふくらんでしまったんです。
 いくらくらい借りたのかは、三つのサラ金から借りてましたからよくわからないですね。それにもう三年も放ってあるから、相当なことになってるでしょうね。それでもはじめのうちはキチンと返済していたんですよ。例の警備会社が勤めて三年目に倒産してしまい、それで返せなくなったんです。そのうちに督促の電話が来るようになって、それもだんだん頻繁になるんで、「これはヤバイかな」と思ってね。姪の家をコッソリ夜逃げして、それでホームレスになったんです。親切にしてくれた姪の一家に、迷惑がかかってなければいいんですがね。

■文学の夢を追っているうちに

 生まれは青森県の野辺地という海沿いの小さな町でした。地元の高校を卒業して、東京に出てきました。東京にあこがれていたというより、田舎の閉鎖的な人間関係から逃げ出したかったんです。東京に出て、中堅どころの本の取次店に就職しました。でも、二年くらいで辞めて……大学に行きたかったんです。
 そのころは文学かぶれというか、いっぱしの文学青年を気取ってましてね。文学は片っ端から何でも読みましたよ。永井荷風の官能的な作品なんか好きでした。自分でも書いては消し、書いては消しして、文学を志していたんです。いや、私の場合は官能的なものじゃなくて、家族のことを書いた私小説でした。文学賞にも幾度か応募しました。『文学界』とか『新潮』『群像』とかの文芸誌の新人賞にね。だけど、一度も通らなかった。そんな夢を30歳を過ぎるまで追いかけていて、結局結婚もできませんでした。
 大学には行きませんでした。なんで行かないことになったのかな? あのころ売防法(売春防止法)が施行になって、赤線がなくなるっていうんで大騒ぎだったしね。それと大学へ行かなかったのは関係ないか? 自分でもよく覚えてないですね。
 それで電柱に貼ってあった「事務員募集」のビラを見て、左官の会社に就職しました。ところが、毎日会社に出勤しても事務の仕事なんてないんです。上の人から「おまえも現場へ出たらどうだ?」と言われて、それから左官の現場に出るようになりました。
 左官は一五年くらいやりましたね。左官職人には仕事場を渡り歩く人が多いんですが、私はずっと一つところにいました。真面目というより、やっぱり小心者なんですよ。酒は飲まないし、仲間と徒党を組むことは嫌いだし、そのころは文学にかかずらわってたこともありますし。
 左官のあと型枠工を10年やって、そのあと日雇いの土工をまた10年やりました。左官の技術とか、型枠工をやっていたから大工の仕事もできるんです。でも、それを生かそうとしないで、楽な日雇いのほうを選んでしまう。日雇いでもそこそこかせげて、食べていかれたからいけないんですね。その日雇いでも働けなくなって、姪の家に世話になったわけです。

■死に場所を探しているんだが

 サラ金の督促を逃れてホームレスになったわけですけど、はじめて野宿をしたときは悲しかったですね。ここまで堕ちたら、もう将来はないって悲観もしました。そのうちに慣れてくると「もういいか」って、あきらめの心境になってくるんですね。
 ホームレスになってからも、ずっと一人。やっぱり、徒党を組むのは好きじゃありません。一人でホームレスをしていると、いろんなことがありますよ。いつだったか、明治神宮外苑を歩いていたら、車が横づけされて降りてきた四、五人のチンピラに取り囲まれ、車に押し込められていました。代紋の入った車で、チンピラたちも暴力団の下っ端の連中ですよ。連れて行かれたのは葛飾にあったホームレスの収容施設でした。
 要するに暴力団がやっている施設です。チンピラがあちこちから強引にホームレスをかき集めて、最低の飯を食わせて住まわせ、それで(東京)都に福祉施設として申請して補助金をせしめているわけです。収容されているホームレスのなかに牢名主のようなのがいて、それが全部を取り仕切ってました。私も最初の食事のときに、いきなり暴力をふるわれましてね。一日もいないで逃げ出してきました。ひどいところです。
 ついこの間は、こんなこともありました。そのとき私は青山(港区)の公園にブルーシートで小屋をつくって、一人で住んでいたんです。(2000年)7月1日の晩でしたか、深夜寝ていると大量の芝草が小屋に放り込まれましてね。昼間公園の除草作業があって、そのときに刈られてあった芝草が放り込まれたんです。
 びっくりして小屋を飛び出してみると、4、5人の悪ガキがニヤニヤしながら立っていました。その連中は私に向かって一斉に石を投げつけてきたんです。そして、パッと散らばって逃げていきました。危なくってしょうがないから、近くの交番へ駆け込んで訴えたんです。
 ところが、警官はまったく取り合ってくれませんでした。小屋に戻ってみると、メチャクチャに壊されていて住める状態ではなくなっていました。ちょうど沖縄サミットを控えていたときで、その公園にも「不審者・不審物一掃」のポスターが、数日前から貼り出されていました。だから、それに関連する陰謀じゃあないかと思いましたよ。はっきり言ってしまえば、あの警官が悪ガキたちを使ってやらせたんじゃないかとね。いや、ホントに。
 小屋を壊されてからは雨が降ったときの逃げ場を探しながら、適当なところに寝ています。季節もいいし小屋なんかなくても、どこにでも寝られますからね。いまも一人です。仲間といたほうが危険は少ないんだけど、やっぱり徒党を組む気にはなれませんね。
 ただ、一人でいるとエサ(食べるもの)探しから何から、みんな自分でやらないといけないから大変です。この歳になってくると、エサ探しでゴミ箱を漁って回るのも切羽つまってきますね。膝が痛くて、そんなに遠くまで行けなくなってますしね。それに今年の夏は暑いから、体中に湿疹ができてかゆくてならないですよ。
 ホントはね。いつも死にたいと思っているんです。死に場所を探しているんですが、なかなか死ねなくてね。自殺をする勇気もないんです。いっそのこと、誰か殺してくれないかとも思っているんですよ。 (■了)

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だいじょうぶよ・神山眞/第28回 突然の出来事

■月刊「記録」2002年1月号掲載記事

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 血のつながるお姉さんに、見捨てられたこともよくわからずに、あいつは二段ベッドの上段にゆっくりゆっくりと上っていった。そしてゆっくりゆっくりと細長い体を横たえた。
 布団を肩までかけると今日一日のあいつのすべての動作が止まった。しかし目と口だけは、しばらくぼんやりと開いたまま天井を見ている。
 その目が完全に閉じるのを見届けてから、ぼくは職員室に戻った。

■きっとこれからもうまくいく

 部屋に他に誰もいないのを確認して、ぼくはごろりと体を横たえた。目を閉じると、あいつのことが頭に浮かんでくる。
 生まれてから施設に来るまで、不幸の連続だったはずのあいつ。
 親に暴力を振るわれ、挙げ句に捨てられた。
 施設に来て、不幸な出来事からは解放されたのかというと、やはり、そううまくはいかない。今度は、血のつながった、同じ施設出身のお姉さんから不幸な目に遭わされている。
 おかしな話だな。
 ぼくは思った。そしてこれからも、あいつには不幸な出来事が続くのだなと思った。
 だけど、どんなことがあってもきっと大丈夫だ。
 何が大丈夫なのかと問われると、困ってしまう。でも大丈夫だと思えた。
 現に今日だって、大丈夫だったではないか。
 もしも、何かあったら、そのたびごとに、ぼくが何とかしてやってもいい。
 大丈夫。
 ぼくは単純にそう思った。お姉ちゃんはあいつを捨てていったけど、ぼくはまだ、捨ててはいない。
 そう思うと何もかもがうまくいきそうな気がした。あいつの未来は決して暗いだけのものではないに違いない。
 単に、そう思いたかっただけなのかもしれないが。
 ぼくは横たえていた体を起こした。
 机の上にあった食べかけのチョコレートをひとかけら手に取る。そして職員室を出た。
 あいつの部屋まで行き、ドアを開け、そうっとあいつに近づいた。案の定、目は閉じているが、口は半開きになっている。ぼくはチョコレートをあいつの口に入れた。
 すると、チョコレートは口の中に落下することはなく、上唇と下唇にうまいこと挟まった。これから徐々に溶けていくはずだ。
 ぼくは今にも声をあげて笑いそうになった。たまらなくおかしな気持ちになった。
 大事な人に捨てられた日。
 だけれど、なぜか、何もかもうまくいきそうな気がした。

■そして、事件が起きた

 事件が起きた。
 数日後のことだ。なんと火事が起きたのだ。隣の町のことでもないし、ましてや対岸なんかでもない。
 ぼくたちの学園が火事になった。原因は火の不始末だ。秋から冬に移り変わる休みの日だった。あっという間の出来事だった。ポカポカ陽気で外に薄着のまま出かけた子供の一人が寒くなって上着を取りに戻ってきて、そうしたら燃えていた。
 そんな感じだ。
 そのとき、ぼくとあいつはというと……。
 居間でビデオを観ていた。何のビデオだったろう。ちょっと思い出せない。どうせあいつの好きなビデオだから、ゴジラかモスラあたりだったのだろう。
 ポテトチップを食べながら、ジュースを飲んでビデオを観る。まあ、普通といえば普通の休日の過ごし方だ。あいつは小遣いも使い切ってしまっていたし、友達にも相手にしてはもらえなくて、ちょっとかわいそうな休日だったので、ぼくがビデオ屋に連れて行ってやったのだ。
 道すがら、お菓子も食べたいし、ジュースも飲みたいとわがままを言う。頭にきたが、先日のお姉さんのことを思い出し、今日ぐらい、まあいいかと買ってやる。
 案の定、感謝もしない、わがままを聞いてもらえた喜びを全身で表すわけでもない。さも自分の金を使ったかのような態度でいる。
「おまえ、ありがとうくらい言えないのかよ」
 と、ぼくが言うと、
「あー」
 と、ぼんやりうなずく。
「もう、おまえなんか知らないよ」
 と、少し怒った声で言うと、
「あー、ありがとう、せんせ、せんせ、ありがとう」
 と、いかにもという調子で取り繕う。
 まあ、これもいつものことだ。
 本当にあいつもぼくも何もかもが、いつものことだらけの日だったのに……。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/ピースボートの旅から-タヒチ

 いま、ピースボート船上で、この原稿を書いている。 タヒチからフィジー、そこからオーストラリアのダーウィン港に寄港して、めざしているのは、インドネシアのバリ島である。明朝、到着する予定なのだが、船の最終目的地はイギリスのサザンブトン港。が、わたしはシンガポールで下船して、東京へ帰る。この不景気の時代に、たしかに信じられないほどに安い旅行とはいえ、船で地球一周するひとたちが、老若男女あわせて、七五〇人もいることに驚かされた。
 この旅で、わたしは各地の先住民族のひとたちと出会った。自然のなかで、自然の恵みをうけて、誇りたかく暮らしていたひとたちが、ヨーロッパからの「文明」の侵攻(日本も無縁ではない)によって、どれほどひどい目にあわされたか、そのことをあらためて知らされる思いがした。
 タヒチは仏領ポリネシアの中心である。首都のパペーテは、バルコニーのついた家並がつづく、こざっぱりとした植民地風の街で、観光にやってきたフランス人やアメリカ人の老夫婦たちがのんびりと歩いている。ドイツ人のグループ・ツアーの姿もある。トラックを改造した「ル・トラック」が庶民の足なのだが、色調はどこかエレガンスである。
 夜になると、岸壁にはトラックを利用した屋台(ル・コット)が集まってくる。中国系住民が多く、「チャオメン」などの焼そばなどが売られている。物価が東京よりも高いのは、完全にフランス経済に支配されているからのようだ。

■英仏の戦争の犠牲になって

 小学生からフランス語での教育である。先祖の歴史は教えられていない、というから、完全な植民地教育である。ここはポマレ王が君臨する王国だった。最初にやってきたのは、イギリス人の宣教師だった、という。その一〇〇年あとにフランスの神父がやってきた。イギリスとフランスが、ポマレ王と彼ら流の条約を結ぼうと強制し、ついに一九八〇年六月、ポマレ五世はフランス共和国政府がつくった、すべての領土を譲渡する契約書にサインさせられてしまう。
「第一条 共和国大統領は、一八八〇年六月二九日にソシエテ諸島にてポマレ王と共和国弁務官の間で署名され、タヒチ王の支配下にあるすべての領土の支配権をフランスに完全譲渡した宣言を。批准し、実行する権限を持つ。
 第二条 タヒチ諸島およびその従属諸島は、フランスの植民地となるべく宣言された。
 第三条 タヒチ王の元領民すべてに、フランス国籍が与えられる」
 ポレマ王の「宣言」は、本人の直筆によるものかどうかは不明だが、きわめて屈辱的なものだった。
「……ソシエテ諸島およびその属領の統治権、行政権およびすべての権利と権力を、完全かつ恒久的にフランスの手に譲渡する。
 かくして、わが国家はフランスの一部になった。しかし、タヒチの法律と習慣を考慮にいれつつ我が人民を統治していただけるように、この偉大なる国にお願い申しあげたい」「反核独立」を市の方針にしているファアア市の集会で、ジャンピエール・ポマレさんの話をきいた。ポマレ五世から数えて六代目とか。彼によればフランス領土とされる前、フランスとのちいさな戦争があって、千人の戦死者をだしていた。そのあと、フランスがタヒチをふくむポリネシアを、イギリスがニュージーランドを支配することで、折りあいがついた。 
 ポレマさんは丸顔で、そういわれてみれば、育ちがよさそうな感じだが、いまはごくふつうの市民生活をしているようだ。土地を譲渡したサインをさせられてしまったため、いま王家は力をもたず、市民たちからさほど尊敬されていない、とか。
「フランスの領土になったのは、自由と平等によってではなく、英仏の戦争の結果でしかない。仏軍は大砲と銃をもってきたが、わたしたちはレイと笑顔しかもっていなかった」とポマレさんがいった。
 ポリネシアのなかで、独立を主張するのは、三〇パーセントほどのひとたちでしかない、という。あと、一五パーセントふやして、国連の場で独立を問題にしたい、という。国連への期待がつよいのは、そこで先住民の権利が論議されてきたからである。
 独立のためにいま必要なのは、武器を手にしての「独立戦争」ではない。民族意識の覚醒であり、そのための教育である。しかし、学校教育はすべてフランス式の教育であり、ポリネシアの歴史教育はタブーとされている。メディアはすべてフランス政府によって管理されているのだが、自由ラジオ・テファナがタヒチの歴史講座を流して、圧力を加えられている。もちろん、教科書にはタヒチが植民地化された歴史は書かれていない。
 もうひとつの問題は、経済的な自立である。タヒチの経済はフランス軍に依存していて、独立は政府機関や軍ではたらいているひとたちに失職の不安をあたえている、という。タヒチは観光の島であるばかりではなく、軍事基地の島であって、いわば沖縄やグァム島とおなじ構造をもっている。核基地の写真をうつしていて、フィルムを没収された観光客もいる。
 ポリネシアの総人口二一万人のうち、四分の三がタヒチ島でくらし、その大部分がパペーテ郊外に住んでいる。郊外にあるスラム街の住民は失業者で、核実験の建設現場ではたらいていたほかの島からの移住者、という。仏領ポリネシアの歳入の四分の三以上は、フランス政府からの補助金で、このうち、四五パーセントは、モルロアでの核実験の関連といわれている(『パシフィカ』九五年一〇~十一月号)。
 軍事基地依存経済から、観光や伝統的なバニラや養殖真珠、花、漁業の育成など、これまで軽視されてきていたものへの復活の道もある。

■核実験は子宮を爆発させるようなもの

「わたしたちは、いつの日か死ぬのです。それでも、子どもや孫たちに、こころのそこから安心して暮らせる環境を残してあげたい。核や感情の爆発のない未来を望みます」 
 とジョアナ・ガステンさんがいった。彼女は六人の子どもを産みつづけていた十年間、不安に脅かされていた。障害児が産まれないかどうかを心配していたのだった。身内にはCFF(太平洋実験センター)ではたらいていたひとたちが多く、障害児の子どもたちはすくなくない、という。
 九五年九月、世界世論の反対を押し切って、フランスが核実験を強行したあと、タヒチのガストン・フロス領土政府長官が渡仏するため、ファアア空港にきたとき、彼女たちは二千人の市民や労働者たちと空港のターミナルを占拠した。滑走路に座り込んだひとたちもいる。放火事件もあって、「暴動」状態になった。六四人が逮捕された。彼女もそのひとりで起訴されている。
 九八年十月の判決では、懲役三年など四人に実刑がだされた。タヒチでは、子どもが産まれると、胎盤を土に返して、そのうえに好きな木の苗を植える。彼女の木は「パン」の木である。だから「地下での核実験は子宮を爆発させるようなものだ」との憤りが強い。
 たしかに、いままでは、フランスの核実験に依拠するようにして生活してきていた。被爆の知識がなかったからである。ガンや白血病になると、患者は本土につれていかれて検査された。が、結果はなにも知らされず、カルテもみせられていない。
 フランスは六〇年二月にアルジェリアで核実験に踏み切ってから、九六年一月まで、すでに二一六回も実施している。六六年七月から太平洋のモルロア環礁で開始、その後のほとんどはタヒチを拠点としたモルロアでおこなわれている。そのためにはたらいてきた労働者は、一万五千人にもおよぶ。このなかから被爆労働者があらわれている。
 サンゴ礁が破壊されて、死滅したサンゴに「渦鞭毛藻」が発生して毒化した魚がふえている。水は天水なので汚染されている。なぜフランスはここで核実験をくりかえしてきたかといえば、そこは植民地だからである。とすれば、実験の中止と独立の要求がついには一致することになる。
 ボルドー大学帰りのテチアラヒ・ガブリエルさんは、「ヒテイ・タウ」(日の出の鳥)という団体をつくって、自立の運動をつづけている。「核の植民地支配は暴力だ」というのが彼の主張である。

 南太平洋は、かつての戦争のとき、兵士たちの飢餓の島としてつたえられている。マラリアと飢えによって、膨大な数の日本兵たちは、まったく無駄にたおれていったのだが、そのとき、島の住民たちはどうしていたのかはあまりつたえられていない。わたしたちは、フィジー島でバナナ島の旧住民たちと会うことができたが、日本海軍の虐殺をきかされることになる。
 が、それらの蛮行はここだけの話ではない。日本軍は土地を奪っただけではない。無謀な戦略配置は飢餓状態をつくりだし、住民から食料を奪った。虐殺と人肉を食う非道を行った事実の解明が残されている。

-シンガポールへむかう船上から-

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鎌田慧の現代を斬る/

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北朝鮮と新潟 最終回/新潟で確かに見た「共生」の芽

■月刊『記録』06年3月号掲載記事

■政治部記者を辞め、自分が決めた道へ

 金子さんにとって、この原体験は彼自身の人生の方向性を決定付けることになる。大学卒業後、彼は時事通信社に入社した。入社後、韓国のソウルに駐在して報道記者として韓国に触れることが彼の当面の目標となる。入社して東京に2年、甲府に1年半滞在した後、首相官邸に詰める総理番を務める政治部記者となった。政治部記者は、彼の念願がかなった形だ。なぜ念願だったのかといえば、社内ではソウル支局に異動するのは政治部出身と相場が決まっていたためだ。政治部で記者を続けていれば、ソウル支局に派遣されるのは確実視できた。だが、これが「本当にやりたいことなのだろうか」との一念が、通信社に踏みとどまることを許さなかった。ずっとソウルにいられるわけではない。政治部記者をずっとやっていても、韓国に触れていられるのは一時期に過ぎない。逡巡した挙句に「本当にやりたいことではない」との結論に至り、彼は通信社を退職する。
 そして巡り合わせがいいというべきか、新潟市役所でちょうどそのとき国際交流の仕事を担う人員を募集していた。「国際交流の仕事がしたい」。彼は迷わず応募して、採用が決まる。通信社時代にかなわなかった、韓国に滞在しての職務にも1年間ほど携わることができた。
加えて、北朝鮮に3回ほど行く機会にも恵まれる。実際に自身の目で直視した現実と、日本のテレビ局が当たり前のように報じている北朝鮮国内の暗くよどんだ様子とはひどく隔たりがあった。金子さんは市場などを見て回ったという。国内の観光には「案内人」と呼ばれる見張りがつくことが制約として設けられたが、きつく束縛するというでもなくその案内人の目を離れて自由行動をすることもできた。人々がごく普通に平穏な様子で生活を送っている姿が、金子さんの脳裏に印象として残っている。北朝鮮はアメリカ、日本政府の敵視政策に置かれるなかで確かに軍隊に国力を結集する軍事体制を敷いているが、日本のテレビ放送でお決まりのように年中行事のように映し出される北朝鮮の軍事パレードも実際には年に1回だけのものだ。

■痛みを乗り越えて目指すもの

 ところで、「びびんば会」を、金子さんは特におおっぴらに喧伝することもない。だが、会の存在は新潟市内では知る人ぞ知るというものになっている。北朝鮮に対する反感が高まっている最中に、北朝鮮との交流を訴え在日朝鮮人と交流する活動は人々の耳目を掻き立てるようだ。そこで、けなす声を直に彼に伝える人もいる。北朝鮮に対して敵意を明らかにする態度の人から、「親北朝鮮が市役所にいるのは許せん」との声を浴びせられたことがあった。しかし、金子さんには臆するところはない。
 日本の過去の戦争に関して日本人である自分が韓国の同学生に、無知扱いされたことに対する反省が、金子さんを新潟市での国際交流の職務に当たらせ、私的には「びびんば会」という交流活動に至らせた。民族の違い、文化の違いを超えて集う人々が一堂に会してビビンバのように「かき混ぜられる」ことによって、「かき混ざることのない」それぞれが生きてきた背景の違いが際立ってくるのがおもしろい。その違いを認め受容することが、「痛み」を乗り越えてさらに渾然一体となった妙味を彼らにもたらすのだろう。
 隣国に対しての憎悪の声は、いつか静まっていくのだろうか。新潟で目の当たりにした交流の芽はいつか大樹となるのだろうか。だが、新潟の地で「暗い影」を払拭する光を見た思いがする。実りのある<共生>を求めようとする強い意志の光だ。共生のためには「痛み」が伴うが、その痛みに耐え、この社会を<開かれた社会>としたい強い意志が、交流をもたらしお互いに理解を引き寄せるための礎となる。その<開かれた社会>が果たして良いものであるのかはわからない。しかし剣を振りかざすことでは、また新たな「痛み」を生み出すだけだ。たとえ憎悪を燃やす相手でも、自身が「変わる」ことで相手を「変えられる」、そうした楽観を伴う<寛容さ>をわれわれは持ち得ることはできないのだろうか。(■了)

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北朝鮮と新潟 第7回/「日本」と「南北コリア」の壁を乗り越えるために

■月刊『記録』06年2月号掲載記事

 新潟港でコメ袋を万景峰号に積み込んで、北朝鮮の元山港に運ぶ。主な支援先は、保育園や幼稚園など。「支援などしても、貧しい階層に届いていないだろう」との支援活動への疑問の声が日本国内であるが、川村さんは「視察してきちんと届いていることを確認している。追跡調査などができないところには支援をしていない」と言う。かつて日本政府が実施していた食糧援助は、北朝鮮政府の食糧計画に組み込まれ、軍部や炭鉱労働者など主要産業や重要ポストを担っている人間から順に食糧が配付されていたため、食糧の行き渡る範囲が狭められていた。それだからこそ、川村さんの行なっている「顔の見える」食糧支援は、北朝鮮の貧しい人々を支えるという意味で重要な役割を担っている。北朝鮮への経済制裁によって、万景峰号が新潟港に入港できなくなれば無論、川村さんの活動は阻まれることになり北朝鮮の子どもたちは多くが死に至ることになるだろう。北朝鮮へのアメリカ、日本政府の敵視政策が、北朝鮮政府を追い込みその国内の人民を死に至らしめるのだ。
 米どころ・新潟に漂着した元肥料製造会社社員のクリスチャンという川村さんがいなければ、このNGO活動がなかったことを考えると、人間の運命というものはつくづく不思議なものだと私は思う。この世に生を受けたときから、このようなNGO活動に取り組むというように彼が導かれていたかのようだ。
「余裕ができて過去を振り返ってみて初めて、信仰によって生きる道を作られていたんだなと思ったよ。宗教の選択は全くの偶然だが、潜在意識のなかに方向付けがあったのかもしれない」
 北朝鮮への食糧援助にとどまらず、今後は「人材も派遣しようと考えている。ヒトを送ることで交流を活発にしたい」と「モノからヒトへ」の方針転換を図る。日朝が国交正常化しない限り、拉致問題の解決も一向に訪れないという立場だ。
「食糧だけ贈ればいいというわけではない。友好姿勢にならなくては。相手国への同情が生まれて初めて、架け橋がかかる。自分はその橋渡しをするための、引き継ぎ役に過ぎない」
 やや謙遜気味に自分自身を語る川村さんは、自らのライフワークを「日本海に落ちる一滴のしずくみたいなもの」とする。しかし、日本国内の現状がこのままでは、彼の活動は本当に「一滴のしずく」のままに終わってしまう。「一滴のしずく」を真に「しずく」にしないためにも、われわれは「変わる」べきだ。
 新潟では、北朝鮮に経済制裁を発動するのではなく、交流を通じて拉致問題の解決を図ろうじゃないかという考えを持っている人間は、想像できる通りあまりに少ない。「交流派」の人間は数少ないが、彼らが出会う場が共通しているのだろうか、親密に結びつき合うことで横のネットワークを形成している。川村さんから派生して、芋づるのように「交流派」のネットワークが築き上げられているため、川村さんを掘り当てた私は彼の人脈をたどることで金子博昭氏に出会うことができた。

■さまざまな人たちとの交流をめざして

 金子氏の自宅を訪問した時、彼は、休耕田で援助米を育てている川村さんといっしょに早朝からの農作業をやり終えてちょうど帰宅した矢先だった。彼は白のポロシャツに短パンといったラフな服装で私を迎えてくれた。私は勧められるままにあつかましく彼の自宅に入り込んでしまった。「窓からのぞくと君が外で手を振っているものだから、気がついたら家の中に上げちゃってたよ」と笑みを漏らす。農作業で流した汗を手ぬぐいでふき取りながら、コーヒーを差し出してくれた。
 金子氏は、日本人と南北コリアの人々の交流会「びびんば会」を、市内の会館などを利用して開催している。北朝鮮と韓国を南北コリアと呼ぶことにこだわるのは、北朝鮮と韓国は一つの国であるという理念が彼にはあるからだ。会の活動は公的なものではなくあくまで個人的な活動であって、自身の職務とはまったく別物であることを、会の紹介をする際に彼はまず断りを入れた。
 慎重な姿勢は、金子さんは新潟市役所の総務局国際文化部に勤務しており、市の職員として公務で交流会を開いているように受け止められると不要な誤解を招くことになるからだ。例えば、私的な交流会として開いている場にもかかわらず、この会を彼が公務で行なっているかのように受け取った人が新潟市にクレームを寄せるという場合が考えられる。この場合、クレームは新潟市職員の行なう公務が篠田市政の方針と異なっているのではないかといった趣旨となる。だが、あくまで金子さんは職務を離れて、一市民として交流会を開いているに過ぎない。新潟の「暗い影」が彼に不要な慎重さを要請しているこの状況は、新潟が「閉ざされた」方向に向かって邁進している、何よりの証左なのかもしれない。
 2002年9月の日朝首脳会談を経て拉致された日本人5人が帰国して以来、国交正常化なんてとんでもないという方向に日本国内の世情が傾き、北朝鮮に対するバッシングがすさまじい勢いで報道されるようになった。そうした情勢の下で、新潟市主催で「韓国フェスティバル」が開かれたが、金子さん個人の考える交流の方向性は異なった。
「政治のガチガチしたところから眺めるのではなく、もう少し軽い視点で何か楽しいことができやしないか」
 そのように思い至ったとき、私的な交流会として03年3月に「びびんば会」を設けた。会は、職業は学生から会社員まで、民族も在日韓国・朝鮮人、日本人とさまざまな人たちが参加している。会の名称には、さまざまな材料がかき混ぜられて混交し合ってこそビビンバがうまいのと同様に、日本と南北コリアの人々が混在することによってよりおいしい味を出していく交流会にしていきたいとの思いが込められている。
 会は緩やかさを基調としており、北朝鮮の怪獣映画「プルガサリ」などの映画鑑賞のほか、雑談などをして時を過ごすという。そうした活動に加えて、03年12月には「南北コリアと新潟のともだち展」というタイトルの絵画展を新潟市内で開催した。展示されたのは、新潟朝鮮学校の小学生が描いた絵画、およそ80枚ほどだ。この展示会は、日本国際ボランティアセンター(JVC)の主催する「南北コリアと日本のともだち展」の一環である。02年6月に北朝鮮の平壌でも開催された。「びびんば会」での活動を「少しでも北朝鮮との交流に近づけたい」と会のメンバーが考えた結果、市内でこのような展示会を開くこととなる。職業も民族もさまざまなメンバーの力を合わせた実行力が、会の名の如くビビンバのようになって展示会として結実した。
 しかし、ビビンバは混ざり合う食材の相性がぴったりと合ってこそ、うまい完成品となる。この会の場合も日本人と在日朝鮮・韓国人の間に溝があっては、そうならない。当初は交流会は気楽な集まりという様相だったが、南北コリアの人々と対峙する場合に、日本人は日本人であるがために乗り越えなければならない壁があった。1910年に始まる朝鮮半島に対する日本の植民地支配、戦中時の日本人による強制連行、そして祖国は日本海の向こうにありながら日本に生活基盤を置くに至った「在日」であり続ける南北コリアの人々。交流と同時に、支払わなければならない代償として、振り返らなければならない歴史がお互いの間に横たわっていたのである。歴史の問題を語らずして交流など存在しないということになり、当初の気軽に参加という理念はそのままに、04年1月から交流会は勉強会の形を取るようになった。といっても、やや姿勢を正して、映画、演劇といった文化的な分野から意見、感想を交換し合うといった変更をしただけに過ぎない。
 交流会をするなかで対面して話をする機会に多く恵まれれば、もともと民族、立場が違うだけにそれぞれの境遇の違いなどがメンバーの間で透けて見えてくるようになる。
「新潟の朝鮮学校を卒業した人と会で話す機会があったけど、新潟に居て日本人と話したのが初めてだと言ったとき、とても驚いた。そういう経験がある」
 身近に生活していながら互いに顔を背け合い、日本人は日本人と、在日は在日でといった摩擦のない同質の空間を求める志向は、コミュニケーションの断絶を維持して互いの境遇に鈍重になる姿勢を招くようになる。だがその一方で、互いが対峙して交流を求め合うなら、お互いが乗り越えなければならない「痛み」が生じる。交流することで互いに「痛み」が伴えども、金子さんは「今の在日がこうした状況だからこそ、交流し続ける意味がある」と強く固持する。
 そうした立場の金子さんだからこそというべきか、
「右翼の人でも民団系の人でも、歓迎する。拉致被害者を支援する家族会の関係者でもいい。そうなれば、まさにごちゃまぜのビビンバ。交流することで軋轢はあっても敵をつくることには決してならないでしょう」
 と威勢がいい。
 そもそも金子氏は北朝鮮、韓国の南北コリアになぜ深く関与しようとするのだろうか。交流などしなくてもよいという態度を貫いていれば、「痛み」を感じる必要もない。彼の姿勢は、わざわざ自分から首を突っ込んで「痛み」を得ようとしているかのようだ。
「痛み」の原体験は、彼が大学時分に経験した留学にあった。新潟大学在学中に、何となく特殊な言語を勉強しておけば役に立つだろう、と思い立ち、韓国の大学に1年間の留学をする。留学先の韓国で毎日のように、同学生から日本の戦争責任についての指摘を受けた。
「(過去の戦争について日本人が)知らないと向こうに思われているから言うわけで、歴史を知ることは大事なこと。ただ、自分自身が経験していない過去のことを『謝れ』と言われても。謝るのはおかしい。だったら、わかろうとするしかない」
 日本政府が過去の戦争責任について断罪されるのは当然だ。しかし、戦争を体験していない年齢層の日本人が南北コリアの人々と対面したときに、彼らに対してその場で謝罪することがふさわしいことなのだろうかと、金子さんは私に問う。私は返答に窮した。ただ過去の戦争についての歴史を踏まえておくことが、南北コリアの人々からどのような対応を迫られるにせよ、彼らとの交流を目指す礎になるのではないのだろうか。(■つづく)

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北朝鮮と新潟 第6回/運命づけられた食糧援助

■月刊『記録』06年1月号掲載記事

(前回までの内容)反北朝鮮のムードに満ちた新潟を鬱屈しきって歩くなか、北朝鮮にコメを送っているというNGO人道支援連絡会の川村邦彦氏の存在を知る。

     *     *     *

「ボランティアは善意の押し売り、おせっかい精神。別に北朝鮮の誰かが要求しているわけでもない」
 彼は、自らが行う活動を、正当化するでもなしに距離を置いて見つめている。川村氏は頑固そうな面持ちの67歳。白髪の頭を丸刈りにして眼鏡をかけている風貌は、ガンジーを思い起こさせた。人見知りする性格なのか、教会の入り口で職員に案内されて川村さんがパンフレットの冊子を製作する作業をしている部屋に入っていくと、特に何も告げることなく私に着席を勧めた。
「日本政府が北朝鮮への食糧支援をやめてしまった。それが途絶えている間は、やり続けるつもり」
 自身がかかわるコメ支援を語る口調は、固い決意をにじませる。しかし、現在の日本国内の北朝鮮バッシングの業火の中で、心ない人々が川村さんに対して妨害、中傷を浴びせかける。
「多いのは、『向こう(北朝鮮)の延命に手を貸すな』『利敵行為だ』というもの。右翼の嫌がらせ以外にも、いたずら電話は多い」
 自らへの中傷、誹謗について、私の前では川村さんはやや控えめにこのように語っていた。しかし実際に彼に降りかかっている誹謗、中傷は、生半可なものではない。
 川村さんと親しい関係者によると、川村さんはマンションに住んでいるが、マンション前の大通りに右翼の街宣車が数台並び、「カワムラッ、北朝鮮に帰れ!」などと右翼が拡声器で騒ぎ立てることが幾度となくあるそうだ。嫌がらせの電話に加えて、こうした騒動で川村さんの奥さんはすっかり参ってしまっており、ノイローゼを訴えているという。騒ぎの巻き添えにされる自宅近隣の住民の川村さんへの視線もさぞ冷淡なものであるのだろう。
 だがそうした犠牲を払ってまで、決して若くはない眼前の細い体躯をした人物がなぜにコメ支援を行うのか。「なぜか?」と、コメ支援がさも特別な事情があるかのように問う私に対して、何気ない面持ちで彼は返答する。
「政治的な問題はあるが、困っている人があれば、助けるのが人情。人道的だろ」
 川村さんはクリスチャンだ。教会にいて作業をしているのだから、当然といえば当然かもしれない。だが、彼の出で立ちは、白の肌シャツに白の股引という自宅の縁側で涼をとっているような服装だった。その服装が、気取らずに慈善活動を行っている彼の性分をよく表しているのかもしれない。クリスチャンの一般的なイメージとは、大いにかけ離れているが。
 そんな彼がキリスト教に「帰依」したきっかけは、27歳の頃に訪れた。昭和39年の新潟大地震に招き寄せられたものだった。新潟西港に、勤務していた会社があった。それが地震で沈下してしまう事態に遭遇する。21日もの間、会社の工場が炎上して黒煙が立ち込め、カラスが騒ぎ立てるという情景は、彼に「この世の終わりの体験をした」と言わせるほどの荒廃ぶりだった。死の恐怖が目の当たりに迫る。
 丘を上がった所に会社の社宅があり、現在通っているこの教会の前の道路を、大地震以前はいつも何の気なしに歩いていた。しかし、「困ったときの神頼み」に似た何かにすがりたい気持ちが、彼を教会の方へと振り向かせる。このキリスト教との遭遇を、彼は「自分に前々から備わっていた潜在意識と通じ合った」結果だと言う。
 川村氏は長野県で出生したが、職を求めて東京に出て行った。東京で就職してあちこちに赴任するが、新潟に来たちょうどその時に発生した大地震が彼を新潟にとどまらせる。この大地震以来、転勤もなく新潟に定着する結果となり、定年を経て今に至る。
 彼にとって、新潟の地でコメ支援を行うという業は、神からの天啓に導かれていると言っては大げさかもしれないが、何かに因縁づけられているような部分がある。
 コメ支援と関わり深く生きることを宿命づけられているかのような人生を歩むことになる端緒は、郷里の長野を離れ東京に出て肥料の製造会社に就職したことだ。川村さんが学卒時、日本国内は食糧の供給を高めなければならない状況にあって、政府が食糧増産へと重点的に投資を行なっている時期だった。農作物の再生産のために、肥料は欠くべからざる物資だ。そのため、当時は製鉄と並んで、肥料製造は花形産業だった。その肥料会社を勤め上げて、定年後に北朝鮮への食糧支援を中心としたNGO活動を始める。2000年9月には、国内のホームレスとなっている人々にご飯の炊き出しを行なう活動も加わった。
 NGO活動を、食糧支援を中心としたものにしようと川村さんが考えたのは、飢えについての経験が自身の根幹にあるからだった。
「小3の時に終戦を迎えた。未曾有の不作だったが、労働力もない。食べられないということが、終戦の記憶として痛烈に残っている」
 そのような飢餓状態に陥った感覚が、川村さんには「潜在意識として常にある」。ただ、企業に勤めている間は、この世界に飢えている人が数限りないほど存在して今にも食糧を求めているという現状を、「自分自身の問題としてとらえることがなかった」。
「会社で、いかに成績を上げるかにきゅうきゅうしていた。少しでも自分のポジションを上げたかった。そして、自分の生活を良くしたいばかりだった」
 定年前の自身をこのように振り返る。定年後に会社を離れると、自分自身のエゴへの執着から解き放たれたように、川村さんはNGOでの食糧援助活動に身を投じるようになる。
 戦後間もない頃の飢えの経験と結びついた食糧支援は、彼がクリスチャンであることからも導かれる。戦争が終結して食糧難の時代、ひどい空腹感に窮していた小学生の川村少年は、「ララ物資」の脱脂粉乳にあずかることで、飢えを乗り切ることができた。ララ物資は、アメリカ、カナダのキリスト教会がアジア救済公認団体物資として日本に贈ったものだ。川村さんだけでなく、日本の多くの人がその恩恵を享受することで、戦後の食糧危機を乗り越えたのである。このとき受けた恩は、川村少年の胸に「受けて忘れず、施して語らず」という信条で刻み付けられた。このことはすでに、彼の人生の文脈をたどるとき、震災時のキリスト教との出会いの伏線として張られていたのかもしれない。その後、北朝鮮の子どもたちが食糧不足に陥っている境遇を耳にしたとき、クリスチャンである川村さんには心の中にピッときた。幼少時に飢えを満たしてくれたララ物資が、信教への信仰とつながって脳裏に浮かんだ。
 新潟NGO人道支援連絡会を川村さんが開始したのは、7年前にさかのぼる。阪神大震災が発生した時に、川村さんとかかわりを持つ地元のNGOが、水害に遭ったために支援を求めてきた。姫路市の長町地区は在日外国人が多く居住するが、そこに住む在日朝鮮人の人々から兵庫の朝鮮総連を通じて北朝鮮から地元NGOに支援物資を送ってもらった。その時の支援が、北朝鮮への食糧支援を断固として続けようとする川村さんの生きる道を方向づけた。
 川村さんが実施する食糧支援は、コメによる援助が中心だ。コメならば、援助米制度を利用することで大量に食糧を北朝鮮に送ることができる。援助米制度は、コメ余り解消のための政府の「駄策」であり、農家の意欲を削ぎ落とす減反政策の一環だ。現在、国が定めるところによると、所有する田地の3割は休耕田にするか別の農作物を作るかしなくてはならない。例外的に休耕田での作付けが許されているのが、海外援助米である。国外の被災地、貧困地などを支援するための援助米ならば、休耕田での生産が可能だ。彼は新潟じゅうの農家を回り、休耕田での援助米の作付けをお願いしている。
 さらに川村さんが肥料会社に勤めていたことが、幸いなことにこの援助活動に活きる。肥料会社に勤めていれば当然、農家は顧客だ。定年前に仕事上付き合いのあった人に、彼は協力を呼びかけた。そのような「横のネットワーク」を持っていた川村氏の依頼でなければ、北朝鮮に送るためのコメを提供するという「反常識」を農家の人たちは承知していなかったかもしれない。
 加えて、支援活動の本拠が米どころの新潟であるということが、効率よく北朝鮮の貧しい人たちに食糧を行き渡らせるために幸いした。新潟は米どころであるばかりでなく、日本酒の一大生産地だ。新潟では、酒屋の多さは威容を誇る。日本酒の吟醸酒、大吟醸は、コメの芯の部分のみを使用して醸造する。
 そのため、残余部分が米粉として多く残されることになる。その米粉を引き取って、支援物資という形で北朝鮮に送っている。白米でなくても米粉であれば、米粒と栄養価は変わらない。なおかつ米粉は、白米の10分の1の値段で買うことができる。質が悪くとも、より多くの食糧をより多くの人の元に届けるために量を重視する。
 支援活動を開始した97年5月の時点では、このようにしてかき集めたコメは10トンにしかならなかった。しかし、02年には100トンにまで達するようになった。だが02年以降、拉致事件への国民感情が高まるなかで収集するコメの量は減少しており、以前から協力してくれていた農家の間に「やりづらさ」が生じているようだ。(■つづく)

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北朝鮮と新潟 第5回/北朝鮮人民の幸せを願う反総連活動家

■月刊『記録』05年10月号掲載記事

■自衛隊を軍隊にする運動

 万景峰号の入港を阻止する会の会長である本里福治さんは、人生に大きな影響を与えたと語るテレビで見た学生運動について語ってくれた。
「夢を持ってやっているはずなのに、覆面してヘルメットをかぶって顔をかくしている。後ろから石を投げては逃げる。自分の行動に自信が持てないのか。あいつは卑怯だ。卑怯な奴がやるのは嘘に違いないと思った」
 それが学生運動を担う「左の人間」に対する原体験だった。そこから「左の方が卑怯。右の方が清々、人間の生き方として清々している」という単純な二元論的な色分けを自らの生の判断基準にして、彼は「右」の保守思想に傾倒していった。
「右」の道に導かれながら、高卒後の1964年には海上自衛隊に入隊している。
「海自は船に乗っているので楽だしカッコいい。陸自は鉄砲かついで地を這わなくてはならない。船内は合理化が進んでハイテクが装備されて、海自は洗練されている」
 本里氏はこのように海上自衛隊に入隊した動機を話した。先ほどの「左」についての彼の発言と一致を覚えず、私には違和感が感じられた。彼の脳裏に描かれている「清々としている」人間像とは、一体どういう人物を指すのだろうか。
 自衛隊では、彼はヘリコプターの整備を行う職務に当たった。だが、自衛隊があまりに「法的規制」に縛られている点に思い至り、「自衛隊内部にいてその一員として頑張るのではなく、外部から活動に関与すべき」と意を決する。
「軍隊は何をやってもいいはずだ。法を乗り越えてもいい。自衛隊が軍隊と違うのは、やっていいことを法律で規制されていることだ。銃を撃っていい悪いが法に規制されている。これを解決しなくては、自衛隊は活動できない。自衛隊を軍隊にしなければ機能しない」
 このように法的に軍隊と規定された自衛隊こそが本来あるべき姿と思い定めていた本里氏は、入隊後4年を経過して自衛隊を退職する。
「自衛隊にずっといても良かったが、体験として自分自身を徴兵したに過ぎない。入隊の宣誓書に政治的活動に関与してはならないという項目があるのもおかしい」
 入隊時の宣誓に政治への不干渉が定められている以上、自衛隊に居ながらにしてクーデター的な内部変革を志した彼の考えは頓挫した。自衛隊をやめた後、母とともに新潟の地にやってくる。
 68年3月、25歳となり新潟で悶々としていた本里氏は、三島由紀夫が結成した「盾の会」に入会しようと心が動いた。しかし子どもができたことと重なったうえ、三島由紀夫が切腹して盾の会が解散してしまった。だからといって政治にかかわりたいという衝動が尽きることはなく「三島の遺志を継ぐために、三島由紀夫研究会をつくった」。
 三島由紀夫そのものへの執着もかなりのものなのかと尋ねてみれば、
「三島への愛着はあるがそこまでのものではない。行動原理の中心ではない。盾の会の会長である三島は好きだったが、文学者の三島は嫌い。小説はほとんど読んでない」
 と彼は率直に述べる。文学者の三島の突き当たったところが「盾の会」であって、その文学の内容を不問にするのはどうだろうか。「軍事好きなミーハー」と言っては失礼かもしれないが、彼の発言からは一向に彼自身の「清々とした潔さ」なるものが見えてこない。
 自衛隊を退職した後、軍事防衛に関する研究会を開催していたが、研究会活動ではメシが食えない。平素は営業を行うサラリーマンをしていた。しかし30歳に転機が訪れる。「性分がマジメで、客の要望があると何とかしようと思ってしまい、常に責任をしょいこんでしまう」性格のために、体をこわしてしまう。そこで「マジメ過ぎたよ。いいかげんに生きよう。いいかげんに生きる努力をしよう」と思い立ったそうだ。そして「対人関係に気を使わなくていいように、職人になろう。職人なら、人ではなく物を相手にして食べていける。客から何とかしてくれと要請があっても、物を示してダメなものはダメだと言える」と考え、塗装業を始め、現在に至る。
 本里氏に話を聞けば聞くほど、「清々」の意味を彼がどうとらえているのかが不明になっていく。つまるところ「右は清々」「左は卑怯」という対称で、彼の見解を理解しておけばいいのかと私は考えたが、よくよく聞いてみればそうではないらしい。「左」の共産党員であっても「清々」としていればいいらしい。
 新潟の市会議員に、共産党所属の渋谷明治氏という人物がいる。本里さんはこの渋谷氏を「左でも清々」の代表的な人物という。渋谷氏は、自民党が圧倒的強さを誇る新潟市にあって、選挙の場合に常にトップ当選を果たすほどの議員だ。
「共産党の票田となっている市営住宅に、15年から20年前、渋谷はでっかいスピーカーを付けた軽自動車のバンで乗りつけた。住宅の前で、たたきつけるように雨が降る土砂降りの中を、誰も聞いている様子がないのに、車上で自分の主義主張を訴えていた。聴衆がいないなかで、かさをさしながら演説している姿は心を動かされた」
 そのようなエピソードを披露する。だが渋谷氏に感銘を受けたと語る彼だが「共産主義が嫌いなので、入れ込むことはない」とする。人物像が重要なのであれば、信条、主義の左右の別は関係ないと私は思うが、本里氏にとってはことのほか重要事であるようだ。
 自分自身を「右の人間」と位置づける人物はおおむね、自民党を支持する。だが彼は自民党を支持するというより、自民党しか票を投じる政党がないと嘆く。
「反北ムードが高まってきた。だけど、拉致事件に関して、政府が何もやらないからダメ。日本政府はダメ、自民党がダメ。自民党は利権売国党、民主党は利権非国民党。それでも投票する場合には、自民党に票を入れる。だって、自営業だから」
 本里氏は、馬場さんが現在会長を務める「救う会新潟」で、5年前に幹事として活動を行っていた。しかし救う会をしばらく離れ、以前から続けていた「万景峰号の入港を阻止する会」の活動に集中することにした。が、また最近になって救う会の幹事を引き受けている。「大事な問題である拉致事件の解決を目指すために」とのことだ。

■救う会の分裂は北の仕業!?

 ところでこの「救う会新潟」だが、私が新潟を訪れた時には内部分裂に揺れていた。拉致被害者を抱える家族らのなかに、温度差が生じているためだ。日本への帰国を果たした5人の拉致被害者の家族と、死亡が伝えられた拉致被害者の家族との間の温度差である。すでに日本に帰国して再会を果たした拉致被害者の家族には、その後も「救う会」に携わる理由がない。この温度差は事の成り行き上当然のことかもしれない。
 このように温度差が生じた事態を、本里氏は「救う会を分裂させようとしている、北朝鮮の意図だ」と主張する。会の活動ので障害を「北朝鮮の企みだ」とする論法はかなり乱暴だ。北朝鮮を槍玉に挙げ会の内部問題を北朝鮮の陰謀によるものとすり替えることで、反北朝鮮感情を高揚して会の結束をより補強して固めようとしているとしか私には思われない。
「救う会新潟」の内部分裂はこれだけではない。現会長の馬場さんは、04年7月16日に会長に就任したばかりだった。97年の会の発足以来、会長は小島晴則氏が務めてきた。しかし、小島会長が欠席した幹事会の場で、会の幹事の一部が小島会長を解任して馬場さんを新会長に担ぎ出したのだ。小島会長解任の理由は「会の運営や会計が、不明瞭だ」ということによる。他方で、一方的に会長職を解任されてしまった小島さんは「解任は無効」として、解任した幹事を除名処分とした。
 話を聞きたいと思い立ち小島さんの自宅を伺ったが、呉服店を営む自宅店舗は平日というのにシャッターが下ろされたままだった。おまけにそのシャッターには、斧で叩き割ったかのような痕跡が残されていた。小島さんは自宅に閉じこもりっきりのようで、電話をかけても「話すことは何もない」として応じてくれなかった。関係者の幾人かに話を聞いた限りで「独善的」と評されることの多かった小島さんなのだが、この仕打ちはひどい。私はすごすごとその場を立ち去った。
 混乱を抱える「救う会新潟」だが、その幹事である本里氏は、これまでの強硬な意見からは思いがけず、意外にも朝鮮人全体を敵視すれば拉致問題解決の糸口が見出せると思っているわけではないようだ。
「北朝鮮の人民が幸せになってほしい。隣国だから友達でなくてはならない。北朝鮮の人民は飢えていて、餓死する人もいる。北朝鮮を何とかしてやろうという気持ちはある」
 北朝鮮国内の飢餓状況の原因を、朝鮮総連と金正日体制だと彼は断言する。
「北で飢えている人民がいて、同胞が飢え死にしているのに総連や在日は見殺しにしている。飢餓の原因は金体制。総連が支えるから金体制が継続される。総連が北を不幸にしている」
 金体制の存続を支持する総連に対して、彼は「どうしてわからないんだという思いがある」と強く私に訴えた。(■つづく)

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北朝鮮と新潟 第4回/吹き荒れる憎悪の感情

■月刊『記録』05年7月号掲載記事

 それにしても、日本国内のすさまじい北朝鮮批判は、拉致被害者への同情という以上に、経済大国を誇った日本の陰り、つまり経済不況への不満のはけ口ではないかとの感がぬぐえない。過去にテロ疑惑などが絶えなかった国とはいえ、国家元首が過去の拉致事件に対してそれを認め謝罪をしているにもかかわらず、この憤怒の嵐はどうしたことだろう。
 北朝鮮へのバッシングの裏には、日本は「大国」であるはずで北朝鮮のような小国が屈しないわけがない、との奇妙な「大国意識」が漂う。この「自尊心」にも似た心情が、北朝鮮への日本政府の「高圧外交」や日本人の大半が示す北朝鮮への「高圧的な態度」につながっているのではないか。
 そう考えた私は、北朝鮮、在日朝鮮人に対してあからさまに敵視する態度を打ち出す団体の取りまとめ役を訪問した。一言でまとめれば、私にとっては嘆息の出る思いのする2人の人物の意見だった。

■「北朝鮮憎しの感情はあります」

 全国の拉致被害者支援組織の中心的役割を担っている「横田めぐみさん等拉致日本人救出新潟の会」(救う会新潟)の会長である馬場吉衛さんの自宅を、私は残暑厳しい昼下がりに訪れた。突然、自宅を訪れた私を見ても、馬場さんはさして驚いた様子もなかった。さすがに地元マスコミにも幾度となく登場していることから、取材慣れしているなとの印象を抱く。
 スマートな芸術家の風情を漂わせた人物だ。今年、83歳になる。白髪で面長の面持ちに黒ぶちめがねが際立つ、上品なお年寄りといった容貌で、「北朝鮮に経済制裁を!」とのシュプレヒコールを大声で張り上げて訴えている姿はとても想像がつかない。
 自宅に上がり私に名刺を渡して着席を勧めるや、馬場さんは饒舌に話し始めた。渡された名刺には、救う会新潟の名称とともに中学生当時のめぐみさんの顔写真が刷られている。いわば、彼女は救う会新潟のシンボルマークというわけだ。
 馬場さんは、1997年の救う会新潟の旗揚げ時から、活動に参加している。彼は、めぐみさんが小学生時分に通っていた小学校の校長だった。拉致被害者として名前があがった彼女に卒業証書を手渡したという印象が強く脳裏にあったため、彼女のために何か力になれないかと考えた。自宅近くにちょうど、救う会新潟の中心人物として活動していた人がいた。その人に「私も仲間に入れてくれ」と願い出た結果、会の活動に身を投じるようになる。
 馬場さんのめぐみさんへの同情の念は、そのまま裏返しに北朝鮮、在日朝鮮人の人々への敵意に取って代わる。
「北朝鮮憎しの感情はあります。何のために連れて行かなければならなかったのだろう。なぜ日本人をこんなに拉致していくのか。学習会に出たりして、拉致についてわかってきた。だから、どうしても彼女を救わねばならない」
「在日は憎い。在日は拉致を北朝鮮と一緒にやっていた。全員ではないかもしれないが」
 救う会新潟でも同様の強硬な主張を彼は繰り返しているのだろう。閉ざされた感情ばかりが露呈されるために、私は内心気後れしながら話を聞いていた。
 馬場氏の朝鮮民族に対する敵意は、朝鮮民族との接触の絶無からもたらされていると私は思ったが、そうではないらしい。
 彼は新潟県内の新津で生まれ育った。中学に上がり師範学校を卒業した後、小学校で1年間に過ぎないが教鞭をとる。それ以降、日本が太平洋戦争に本格的に突入したため、馬場さんも戦場に向かうことになる。中国の戦場で4年間の軍隊生活を過ごした後、終戦を迎えた日本に帰国する。以後、新潟市で小学校教師として生きてきた。
 その戦争経験のなかで、同僚、上官として朝鮮人と生活をともにしたこともあったという。だが、そのことは現在、彼自身が取り組む拉致問題には何の影響も与えていないという。また、拉致問題に取り組む姿勢には自らの使命感が先立つせいか、「北朝鮮に経済制裁を!」と高唱する自身の活動が北朝鮮、在日朝鮮人らに与える影響についてはほとんど考慮している様子はない。
「拉致の問題も小泉首相でようやく盛り上がりが出てきた。日比谷公会堂をどうすればいっぱいにできるか、それをずっと考えてきた。小泉首相の訪朝後、東京の有楽町の国際フォーラムがいっぱいになった」
 まるで天命であるかのように使命感すら帯びる会の活動への彼の執着は、私にとっては驚愕に値する。彼の信念には一点の曇りもない。その曇りのなさが、私には危うく感じられる。自らの活動に対する執着心が強すぎるためか、自身が参加する会への正当性の主張は自らの参加する組織以外の活動には否定的なまなざしが向けられる。
「拉致被害者5人が帰ってきたことで、(その他の拉致被害者についても、帰国の)可能性が出てきた。失踪調査会を組織で別につくる。本来、国がやることを民間の私たちがやっている」
「日本で北朝鮮に食糧を支援する活動をしている団体があるが、実際に困っている人々にコメが行きわたっているのかどうか」
 穏やかな口調にもかかわらず、発せられる内容がそれに似つかわしくない。しかし、彼の否定的な見解は、朝鮮総連に対しても向けられる。朝鮮総連に対しての憎悪とも呼べる彼の感情の高ぶりには、私はただたじろぐばかりであった。
 朝鮮総連について馬場さんは、
「いわゆる総連については、憎しみを持っている。在日朝鮮人の方でも、アンチ総連という人もいる。個々ではなんともない人も、総連という団体としては北朝鮮に送金したりしている」
「総連の方々に対しては憎しみがある。万景峰号はひと月に2回、新潟港に入港して、送金、食糧の搬送を北朝鮮に行なっている。そのお金、食糧は、困っている人にいかず、軍隊、上流階層に行き渡りぜいたくな生活をさせているだけ」
「総連は将軍さんの言いなりになってきた。拉致の事実を知っていながら、家族会、救う会に何の支援もしてくれなかったし、事実をわれわれに伝えることもしてくれなかった」
 私は話を聞きに行く前に、拉致被害者を支援する関係者から朝鮮総連についてこうした反応が返ってくることは予想していた。だが反面、会の活動で「政府は、北朝鮮に万景峰号の入港禁止など経済制裁を加え、拉致の完全解決をはかれ!」と彼らは強く訴えてはいても、その影響を多大に受ける北朝鮮、在日朝鮮人がどのような影響を被り、影響が及んだ結果どうなるかということを考慮に入れた上でのことかと思っていたが、そのような配慮は彼にはかけらもなかった。
 当然といえば当然かもしれないが、被害者としての感情が先立ってしまい、自らが与えかねない加害の可能性についてはほとんど触れることがないのでは、結局、「自分たちさえ良ければ、それで良い」という尊大さも私には透けて見えてきてしまう。

■友好では拉致問題を解決できない

 総連ばかりでなく、社民党についても、馬場さんは憤りの矛先を向ける。
「社民党は全くこの問題にかんして力を貸してくれなかった。兵庫県まで土井たか子さんに協力をお願いしに行っても会ってもくれなかった。社民党と北朝鮮はうまくやっていた。北朝鮮と話し合いをしていたようだが、拉致事件については伏せられていたのだろう」
 と言及する。
 拉致被害者支援活動の中心的役割を担う拉致被害者家族連絡会が結成された97年当時はまだ、拉致事件そのものが公には全く認知されていなかった。しかし、彼らは確信をもって行動していた。現在の拉致問題への世論の高まりは、誰にも省みもされなかった彼らの当時の活動が、実を結んだ結果といえる。その果実は、自民党の一部の議員による後押しで大きく育った。そのことは裏返しに、当時、馬場さんらが協力を要請しても何一つ手を差し伸べることのなかった社民党が、驕りの中にあった証左でもあるだろう。
 当然、馬場さんは自民党に思い入れを強くしている。
「拉致問題が始まってから、自民党にどうしても票を入れるということになる。しかし拉致問題に対しての活動は、超党派でやってくれと言っている。だが自民党議員が働きかけても、共産、社民の議員は入ろうとしない」
 拉致問題を何としてでも解決に、というような彼の態度は、選挙活動へも自身を没入させている。2004年4月に参議院新潟選挙区の補正選挙が行われたが、その際に自民党公認で立候補した塚田一郎の選挙活動を支援した。馬場さんは、かつての教え子である塚田一郎を後押しする後援会「一郎会」の会長を務めている。当初は、無所属でやれと馬場さんは忠言したが、「現実問題として新潟全県を回るのに経費がばかにならない。自民党で出馬すれば選挙資金を借り出してこれる」との理由で塚田は自民党公認で出馬したそうだ。選挙活動中、馬場さんは拉致被害者支援を示すブルーリボンのバッジを常に胸に付けて行動したそうだ。
 拉致事件への怒りの心情が政治と結びつくことで、拉致被害者支援団体が政党の集票に利用されているのではないかと思える一面を垣間見る。
 馬場さんは加えて、新潟の現市長である篠田昭を元教え子として抱えている。かつての教え子の動向はやはり気になるようで、市が03年度から乗り出した朝鮮総連施設への固定資産税減免措置を自らの活動への後押しとばかりに頼もしそうに口にした。
「市は総連に対しては寛大だった。だが(新潟市長選の)公約で、特別扱いはしない、総連もその他の施設と同じように税金をかけると言っていた」
「とてもじゃないが、北朝鮮との友好から拉致問題を解決しようという路線なんか考えられない」との馬場さんの発言を最後に聞いて、私は彼の自宅を辞した。
「北朝鮮に経済制裁を!」と公然と訴える人が、北朝鮮、在日朝鮮人らに対してこれほどまでに非寛容で排他的であることに私は衝撃を覚える。馬場さんの心境が多くの日本人の心情と全く同じかどうかはわからないが、日本人の最大公約数的な心情を表しているのは間違いないだろう。
■日本人妻が騙されているという確信
 彼の他にも、新潟の地で反北朝鮮を掲げて公に活動する人間は、北朝鮮、在日朝鮮人に対して憎悪の念に憑かれているのだろうか。そんな考えを浮かべながら、私は次に「万景峰号の入港を阻止する会」の会長を務める本里福治さんを訪ねた。
 5年ほど前から彼は、東京の外務省や自民党の門前で北朝鮮へのコメ支援反対の集会を行うほか、新潟西港に万景峰号が停泊しようとする際にその停泊への抗議集会を開催している。ただ最近は、インターネットのホームページ制作が主な活動となっている。看板塗装の仕事が忙しくて時間がとれないためなのだそうだ。
「万景峰号の入港を阻止する会」以前は、日本人妻の北朝鮮への渡航が開始された頃に仲間と2人で連れ立って、日本人妻の宿泊するホテル前に陣取り渡航反対の街宣活動をした。
 彼は59歳で、年齢よりはいささか年老いて見えた。私が受け取った名刺には、会の名称とともに日の丸がトレードマークのように記載されている。30年以上もの間、北朝鮮に関心を持ち続けてきたという。
 北朝鮮への彼の関心を持続させた原動力は、日本人妻が北朝鮮政府に欺かれているという確信だ。
 日本人妻とは、戦時に日本政府によって強制連行された朝鮮人と婚姻関係を結び、戦後に日本で生活を送っていた日本人の婦女らである。その日本人妻を連れて在日韓国・朝鮮人は、日朝両国赤十字協定(1959年)に基づく「帰国事業」で北朝鮮に帰還した。68年から70年の3年間を除いて、84年まで25年もの間、「帰国事業」は継続される。その期間中に計約9万人の在日朝鮮・韓国人とおよそ2000人ほどの日本人妻が北朝鮮への渡航に就いた。
 帰還の途に就く者の北朝鮮への渡航口が、新潟港だった。彼の目前で、全国から集った日本人妻が自らの意志で帰還船のタラップを上っていく。そうした日本人妻の姿を見過ごすことは、彼には耐えられなかった。「騙されてんだから、(北朝鮮がどんな国かを)教えてやるよという心境」で、前述の通り、彼は日本人妻らへの街宣を行なった。
 それにしても、何の根拠もなしに日本人妻が北朝鮮に騙されているとの確信は得られない。自身の確信について、本里氏はその理由をこのように説明する。
「北朝鮮に渡った日本人妻から手紙が来るんだが、内容は『靴下送ってくれ』だとかちょっとした身の回りの物を世話してくれというもの。内容はともかくその手紙には大きな意味があって、手紙の文字がボールペンだったら幸せに暮らしているとのサインというように示しを合わせておいた人がいたが、来た手紙を見ると手紙の文字は鉛筆で書かれていた」
 しかし、いかにも人道的で好ましいように語られる在日韓国・朝鮮人の「帰国事業」は、姜尚中の著作「日朝関係の克服」によれば、
「『厄介者』(在日朝鮮・韓国人)が、任意の自由意思で国外に『放出』され、しかもそれが『祖国』への『帰還』という麗しい『人道主義』によって正当化されるのであるから、政府やマスコミ、そして世論のほとんどが『北鮮帰還運動』に賛同したのである」
 とある。在日朝鮮・韓国人への排外的な措置は「人道主義」の糖衣にくるまれて正当化されることで、日本政府、日本人は「厄介払い」を「良心的行為」に転換することができたのである。
 ところで、世の中を自らの力で自身の望む方向にどうにか動かしたいという動機付けが強くある本里氏は、自分自身を「右の人間」とする。彼は看板塗装を仕事にしているが、狭い事務所内には天皇が笑顔をふりまく写真の掲載されたカレンダーや日章旗が安置されている。その事務所でひざを付き合わせるような距離で向かい合って、私は話を聞いたのだった。
 彼が高校生の時分、折しも当時は全共闘、全学連など学生運動華やかなりし頃だ。世の中がどうあるべきかと考える「憂国」少年だった本里さんは、テレビで興味深く学生運動の様子を見ていた。その当時の体験が彼の現在に大きな影響を与えているようだった。(■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/小・小自・自連立による地獄への道

■月刊「記録」1999年2月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■アメリカ帝国主義のお茶坊主

 世紀末九九年を迎え、日本の政治はますますキナ臭い様相を帯びてきた。小渕・自民党、小沢・自由党による「自自連立」は、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の関連法案の成立を足がかりに、自衛隊の国連軍への参加の道をひらこうとしている。このために憲法解釈の変更、さらには憲法改正をも現実の課題になってきた。
 昨年一二月中旬、クリントン大統領がおこなったイラクへのミサイル攻撃にたいして日本政府はいちはやく支持を表明した。国連主義を表明している日本政府は、国連安全保障理事会になんの相談もなくおこなわれたイラク攻撃を、国際社会に先駆けて支持しているのだからモノ笑いのタネである。国際法違反の米国の不法行為にたいして、「お茶坊主的」な態度で追従を表明した日本であるが、この行為はけっして日本政府の錯乱などではない。自自連立が推し進めようとしている、強い国家への転換を示す危険信号である。
 そもそもイラク攻撃開始からわずか二時間半後に、日本が空爆支持を表明したのは、一一月中頃より政府が支持を決断していたからという報道もされている。また一月一八日付の『毎日新聞』の朝刊には、「外務省筋も、日本政府の空爆支持表明について『北朝鮮への明確なメッセージになる』と強調している」と書かれている。
 つまり北朝鮮を仮想敵国として想定している日本は、イラク爆撃という事態を利用して、一ヵ月も前から日米安保をカサに着た軍事的な圧力を、北朝鮮にちらつかせたといえる。「メッセージ」といえば聞こえはいいが、虎の威を借りる外交圧力は、緊張を増大させる結果にしかならない。ここでも立ちあらわれてくるのは、平和外交と一線を画する、危ない政治決定である。
 さらに年明け早々、こうした強権国家にむかいたい意志を明らかにしたのは、小渕内閣の法務大臣・中村正三郎である。彼は法務省や検察庁の幹部が参加した賀詞交換会において、つぎのように発言している。
  「日本人は、連合軍からいただいた、国の交戦権は認めない、自衛もできない、軍隊ももてないような憲法を作られて、それが改正できないというなかでもがいている」
 いうまでもなく、国会議員および閣僚は憲法を守るのが最大の使命である。しかも法律を守るはずの法務省の最高責任者が、憲法を批判するというのは、前代未聞の事態である。法務大臣が憲法をないがしろにしているのなら、罷免を要求されて当然である。ところが彼はいま現在でも、なんの処分も受けることなく、ノウノウと法務大臣の席に座っているのだ。日本は法治国家なのか。 しかも中村法相の問題発言は、憲法批判だけではない。弁護士活動をも批判したのである。やり玉に挙げられたのは、和歌山の毒カレー事件や、オウム事件を担当している弁護士である。
 弁護士が被告の弁護をするのは、法治国家として当然のことであり、民主主義の根幹といえる。それをあろうことか、法の番人である法務省のトップが批判したのである。彼の頭には、民主主義のひとかけらもなかった、というにほかならない。
 それでも野党は、彼を罷免をするための行動すら取ろうとしなかった。通常の民主主義国家ならば、中村を指名した小渕恵三総理の責任問題まで発生するはずだが、彼にはなんのお咎めのなく、そのまま終わっている。それどころか自自連立の改造内閣でも、そのまま留任している。中村法相の発言が大きな問題にならなかった背景には、強い国家を作ろうとする政府内の意識の高まりがある。決して中村一人の暴走ではない。
 ついでにいえば、オウム真理教の松本智津夫の主任弁護人である安田好弘弁護士は、死刑廃止運動の論客でもあるが、デッチ上げの不当逮捕されている。これからは、小数派への弾圧がおこなわれそうだ。
 
■小沢亡霊の復活

 こうした政府内の空気が、自自連立をも生みだした。米国に従属した強権国家つくりこそ、小沢一郎が追求しつづけてきた国家ビジョンである。
 すでに小沢と小渕は、国連平和維持軍(PKF)への自衛隊参加や、多国籍軍への後方支援ににおいて合意に達している。国連安全保障理事会を無視した攻撃を即刻支持した小渕内閣にとっては、国連軍への参加は米軍に従軍するのとおなじ意味でしかないのであろう。日米安保体制とは、「日米心中体制」でしかないことは、自自連立を背景にした日本の軍国化が進めば進むほど明らかになるはずだ。
 小沢との関係について小渕は、「『対立するという話ではない。僕は軟投型でなんとなくコーナーを突いて打たせて取る法だが、むこうは上手から直球を投げ込む』(一一月一七日、記者団に)と語っている」(『毎日新聞』一九九八年一二月一九日付)つまり小沢は剛球、小渕は変化球と強弱を使い分けて国民をたぶらかそうとしいるのを、小渕自身認めているわけだ。
 そもそも小渕・小沢は、かつての自民党竹下派の七奉行といわれた政治家である。また田中角栄・竹下登とつづいてきた、金と数(議員)を最大の政治力とする国会議員でもある。彼ら二人が密室でなにを談合したのか明らかにされていないが、とにかく勢力を握るために対立から連立へと急転したのである。
 ただそれは古い自民党に戻るのでは決してない。小沢が自民党に要求しつづけているように、自衛隊の海外出動の道を切りひらくための政権である。小沢の強引さに自民党ばかりか、民主・公明などの政党も追随してついていくという形で、さらに右へと急速にそれていくかどうか、それが最大の問題である。
 両党が合意したPKF参加についても、もともとPKO法が成立した際に軍事的な色彩が強いとして、凍結されてきたものである。にもかかわらず、アメリカの後押で生き返りを狙ってきた小沢は、このPKFをこの際、復活させて政治基盤を強化しようとしているのである。 たとえばPKFのなかでも、停戦監視などは、反政府勢力から攻撃される危険をはらんでいると何度も指摘されてきた。また多国籍軍への後方支援は、医療任務ばかりか、さまざまな物資運搬の後方支援までを、自衛隊におこなわせようとしている。しかも活動の具体的な内容については、内閣が「ケース・バイ・ケース」で判断するという玉虫色の合意が両党の間で交わされている。
 昨年六月、PKOなどにおける銃の使用については、戦場で兵士に個々の判断によって正当防衛的に発射させるというこれまでの立場から、指揮官が命令をして銃器を使用する、とまで認められている。これらは明らかな戦闘行為である。自自連立で生まれた玉虫色の合意により、国連軍に連動して後方支援がおこなわれ、部隊単位の戦闘を誘発する危険性が高まっている。
 しかも国連平和活動などの集団的安全保障は、憲法九条の制約を受けないという立場を、自由党が明らかにしている以上、政権維持のためには自民党も従来の憲法解釈を変更していかざるをえないであろう。

■小沢と変わらない民主党議員たち

 こうした自自連立と軍事強化の方向にたいして、野党はなんら抵抗を示していない。たとえば民主党の鳩山由紀夫幹事長代理は、「停戦監視や紛争当事者の兵力引き離しは、日本の意思で行動するのではなく、国連の意に沿う形であれば、日本武力にはあたらない。党としての議論が必要だ」(九九年一月九日『朝日新聞』)と、PKF参加の凍結解除に前向きな方向を示している。まるで国連軍の奴隷である。
 また穏健派風の仮面を被っている菅直人民主党党首も、「監視衛星」に賛成し、朝鮮半島有事への対応では自衛隊の後方支援を認めている
 党のトップがこのありさまだから、寄り合い改革の同等には、クビを傾けさせる議員が多い。そのひとりが、松下政経塾出身の前原誠司である。朝日新聞の一月九日朝刊に、彼のインタビュー記事が掲載されているが、新党さきがけから移籍し、野党である民主党の結成からの議員でありながら、小沢とおなじ強い国家論を踏襲しているのだから驚かされる。
 たとえば、これまでの歴代の内閣が集団的自衛権は行使しないという明言してきたのにたいしても、「憲法解釈を変更し、『接続概念』の範囲を認定する作業が歯止めになる。次の通常国会で議論される、新しい日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法案では、民主党は国会承認と事前協議をしっかりおこなうべきだと主張する。そこが歯止めになります」などと、発言しているのである。
 しかし、軍事同盟に結ばれた米国が突発的に攻撃された際、国会における事前協議などおこなわれようはずもない。これ幸いと、自衛隊の出動は、なし崩し的に決まっていくだろう。さらに彼は、次のようにも語っている。
 「平和の維持には一定の軍事力、防衛力が必要だし、非武装中立で日本の平和が守れるとは思いません」
 「(外交の)背景には経済力があり、軍事力がある。それが欠けている中で外交といってもお題目に過ぎません」
 こうした発言が、日本国憲法の根幹にかかわるのはもちろんのこと、「軍事力を背景にした外交の推進」などという寝言は、これまで日本が望んできた平和主義にたいする真っ向からの挑戦である。
 ところがこうした無知にして威勢がいいばかりの発言が、民主党でも問題にならない。それは現在の政治がオール与党の翼賛体制だからである。すでに自自・民主・公明、総ぐるみで憲法解釈の変更への道を歩みだしているのだ。

■「たそがれ政治」が軍事大国を築く

 現在、自民党・自由党・民主党・公明党の境界線は、非常にあいまいなものになっている。まさに「たそがれ政治」である。薄闇に紛れて強い国家にむけて、翼賛化した政党が、いままでの平和主義をあっさり捨てようとしている。「日米安保」は、安保タダ乗る論として、日本の軍備費をすくなくして経済発展させたといわれている。日本の政治がアメリカに従属してきたのは「エコノミックアニマル」として、アメリカの市場にはいっていたいためだった。軍事力の強化は「エコノミックアニマル」をやめて立派なサムライになろうというものだが、小沢流のカッコづけは国を誤るばかりである。
 この日本経済の危機的状況のなかで、彼らが軍事体制を強化しようとしているのは時代錯誤というしかない。経済再生の努力をさぼり、ひたすらの戦争の対応に腐心するだけの政治家たちをみていると、戦争の勃発による経済再建を考えているのではないかと勘ぐってしまう。 年明け以降、日本経済の状態はさらに悪化している。これから銀行や大手ゼネコンが倒産し、生命保険会社はさらに不良債権の増大にあえぐことになる。いよいよ、大企業でもリストラの風が吹き荒れる。
 このような経済危機を前にして、政府がおこなった経済政策をいえば、赤字銀行に血税を垂れ流して、国税を浪費することぐらいだ。これではなんの解決にもならない。そのうえ不安定な情勢を利用して、政府はいたずらに危機感を煽っている。
 現在の経済危機は、ナショナリズムを刺激するために利用され、防衛力強化へ国民を誘導していく危険性をはらんでいる。自民党と連立政権を画策した小沢自由党や、野党を自認する民主党内のウルトラ軍国主義論者たちが、どう動くのを注視する必要がある。
 防衛力増強をテコにして軍事国家を目指し、アメリカ軍国主義と心中しようとする悪魔の選択はまっぴらだ。軍事費を福祉に充分にふりわけることで、戦争と福祉を防ぐことができる。
 野党が壊滅させられてしまったいま、軍事大国にむかう道筋にたいして、明白にNOの声をあげと冷笑されてしまう時代がはじまっている。それでも、気がついたものは、孤立をおそれず、NOというしかない。 (談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第27回 頼りないお姉さんの自信

■月刊「記録」2001年9月号掲載記事

*        *          *

 突然、来園し、結婚すると報告する正利のお姉さんに、ぼくは探るようにして訊ねた。
「以前、言っていたことが反古になっちゃうってことはないですよねぇ」と。
 約束とは、正利とみかを引き取ってくれるという件だった。すると、
「大丈夫ですよ。引き取ることですよね。大丈夫ですよ。そのために、今日、この人に会わせるようなもんですから」
 どこまでも明るくお姉さんは答えた。深い考えは特になさそうだった。
 でも、それが、ぼくにはかえって心配なのだった。
 そのために会わせる? ということは、約束は反古になってしまう可能性をも秘めているということだった。だって、あいつを見たら誰だって……。
 お姉さんの彼氏という男のほうを見ると、やはり穏やかに、ただニコニコしているだけだった。

■自信満々のお姉さん。だが、

「大丈夫ですよ。心配しないでくださいよ、神山先生」 おねえさんは明るくはきはきと答えた。
 本当だろうか? ぼくは先ほどのやりとりのすべてに不安を感じていた。
 確かに、お姉さんは、正利と違って大きな声で話してくれた(正利は嘘をつくことが多いので、ボソボソと小さい声で話すのだ)。
 確かにお姉さんは、正利と違いぼくの目を見て話してくれた(正利は決して人の目を見ない)。
 だから一見すると、お姉さんが嘘をついているようには見えなかった。だが、ぼくにはどうしてもお姉さんのことが信じられなかった。正利とみかを引き連れ、食事に向かうときのお姉さんのあっけらかんとした笑みが、どうしても何も考えぬ無知からきているように思え、ぼくにはとても頼りないものとして映った。
 ぼくは誰もいない職員室で、もう一度、正利たちの引き取りについての疑問、あるいは不安を1つづつ整理してみた。整理してみると、驚くほど答えが簡単に出た。 もう、この引き取りの件についてはあれこれ考える必要がないことがわかった。
――おそらくお姉さんが正利を引き取ることはないだろう――
 それがぼくの出した答えだった。
 理由は大きく分けて3つあった。1つはお姉さんが、なんだかんだいってもぼくと同い年であること(当時28歳)。1つの仕事を忍耐強く続けることを選ばず、ふらふらと夜の仕事を渡り歩くお姉さんには、失礼ながら経済的基盤があるようには見えなかった。
 2つ目はいつでも「大丈夫」とはきはき答える点。これまでも、正利たちについて、いろいろなやりとりを行ってきたが、細かいことや具体的な話はいつもしないし、聞いてもこない。実のところお姉さんは、まだ正利たちの引き取りについて、深くは考えていないのではないか、それどころか考え始めてもいないのでは? という疑念すら湧いた。
 3つ目。ここが一番肝心な点だが、お姉さんの彼氏(旦那)は、今日まで正利と会ったことがなかった。結婚する相手に連れ子がいるというのは、やはり男にとって負担であるはず。まして正利は15歳を過ぎている。正利のことはあらかた話してはあった、とお姉さんは言ってはいたものの、会わずにあいつを理解するのは不可能に近い。
 そういえば、先ほどの話し合いで「愛の手帳」についてぼくがお姉さんに話したとき、それまで何も口を挟まずに聞いていた彼が、唯一お姉さんに何かをぼそぼそっと訊ねたこともぼくは思い出した。
 そのときの彼の表情は、相変わらず穏やかだったので、あまりぼくも気にとめはしなかったが、今、思い出すと、やはりひっかかるのであった。
 問題を整理したら、こんなに重要で大事で危険な3点が浮かび上がってきた。その結果、“お姉さんは、まず正利たちを引き取らないだろう”という確信が、ぼくのなかには、生まれた。
 そして、これだけ冷静に分析したあとであるというのに、ぼくはどうしたわけか、すこぶる単純な思いつきで、万が一の後の物事を解決しようとしていた。
「お姉さんが引き取らないのなら、ぼくがひきとればいいさ」
 我ながら、そのときどうしてそんなことを考えたのかわからない。もしかしたらずっと前から、そんな結果を頭のどこかに覚悟していたのかもしれなかった。
          *
 もやもやとした不安は消え、晴れ晴れとした気持ちで、ぼくは職員室を出た。
 気が変わらないうちに、さっそく他の職員に報告しに行こう!
 そう思い、歩いていると、さっき出ていったはずの正利が、ぼーっと廊下に突っ立ていた。
「どうした、おまえ、もう帰ってきたの?」
「あー、せんせ、おねえちゃんが、よんでるのよ」
 無表情に用件を伝えると、正利は部屋に戻っていった。
 そして、ぼくはお姉さんのところへ向かった。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/ヤンカラが飲めるんなら何でもする・森本宗治さん(56歳)

■月刊「記録」2001年5月号掲載記事

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■飲み始めたらぶっ倒れるまで

 1945年の生まれだよ。えっ、56歳? もう、そんなになるのか。自分の歳は忘れちゃっているからな。そうか、オレは56歳にもなるんだ。
 生まれたのは秋田。「生めよ殖やせよ」の時代の子だからね。八人兄弟の末っ子。小学六年生のときに、オヤジが胃ガンで死んだ。それからはオフクロが百姓をしながら育ててくれた。物のない時代だったから苦労かけたと思うよ。百姓だけでは食えなくて、オフクロがこっそりとドブロクの密造をしていたことを知ってるよ。
 中学を終えて東京に出てきた。そう集団就職。百姓をやるのが嫌で東京へ逃げてきたんだ。
 東京では新聞社の印刷工場で働いた。どこの新聞社だったのかは覚えていない。何しろ20日間で逃げ出しちゃったからね。新聞の印刷には早出とか残業があって、それが嫌だったんだ。その後は鉄筋工場で働いたり、日雇いをしてから、また別の印刷工場で働くようになった。町場の工場だったけど、早出や残業がそんなになくて、給料の単価も新聞社よりよかったからね。
 そのころ、同じ中学校の一年先輩で、やっぱり東京で働いているのがいてね。すごい不良でスケベな男だったけど、この先輩に連れられて毎晩のように遊び回っていた。悪い遊びはみんなその先輩に教えられたんだ。酒飲んで、女を買って、ずいぶん遊んだよ。
 酒は大好きだよ。ヤンカラ。チュー(焼酎)のことだよ。ヤンカラの25度。あれがいいね。一升(1.8リットル)くらいは平気。飲み始めたら、ぶっ倒れるまで飲むからね。
 27、28歳のときから、女と2年くらい同棲したことがある。同じ印刷工場で働いていた女だったけど、すごい派手な女だった。遊びも派手だし、着るものも派手で、それに酒もよく飲んだ。まあ、酒を教えたのはオレなんだけどね。この女のために金をこしらえるのが大変だった。金がないとさせてくれないしね。最後はオレもヒーヒーになって逃げ出してたよ。
 結婚は一度もしなかった。同棲していた女でこりたこともあったけど、子どものころから母親が「嫁さんなんかもらっても、苦労が増えるばかりでバカらしい。結婚なんてするもんじゃない」って口ぐせのように言いつづけていて、その言いつけを守ったんだ。

■飲み屋という飲み屋に借金が

 同棲していた女から逃げるようにして、いったん秋田に帰った。土方をやったり、兄貴が山で伐採の仕事をしていたから、それを手伝ったりした。
 秋田でもヤンカラを浴びるように飲んだ。酔っ払って単車を運転して事故を起こしたこともある。単車同士の正面衝突。相手もオレもグデングデンの状態で、田舎道をぶっ飛ばしてるんだから、そりゃあ事故にもなる。オレは右脚なんかを複雑骨折して、長いこと入院した。
 酔っ払い運転で警察にとっ捕まったこともある。酒気帯び運転なんてもんじゃないからね。そのときもグデングデンだったから、罰金をこっぴどく取られた。オフクロにもどえらく叱られたな。
 32歳くらいでまた東京に出てきた。秋田にいられなくなったんだよ。飲み屋という飲み屋に借金をこしらえるし、隣近所の家に行っては飲み代をせびるだろう。まあ、アル中だね。オフクロに勘当されたんだ。

■覚せい剤の運び屋も

 また東京に出てきてからは、いろいろ働いたよ。数えきれないくらいだ。それもこれも、ヤンカラを飲むため。金がないときはドブロクを飲んだ。上野の駅の近くにドブロクを安く飲ませる店があってね。電車賃がもったいないから歩いて飲みにいった。ドブロクは安かったから、浴びるほど飲めたよ。
 東京って街は怖いところだからね。酔っ払って道端に寝ていたり道をフラフラ歩いているとさらわれちゃうんだよ。ホントだよ。大の男がさらわれちゃうんだ。オレだって何回もやられたんだから。酔っ払って道を歩いていると、4、5人の男に取り囲まれて車に押し込まれちまう。そのまんま拉致されて、大阪とか、名古屋とかに売られちゃうんだ。飯場だよ。飯場に売られちゃうんだ。逃げられやしないよ。タコ部屋だもの。ヤクザがゴロゴロいて朝昼晩見張ってるんだからね。だけど、オレだけはそいつらをぶん殴って、いつも逃げ出してきてたけどね。
 薬の運び屋をしてたこともあるよ。飲み屋で飲んでいると、男が隣に座ってテーブルの下からブツが渡されるんだ。それに所番地と電話番号が書かれたメモがついている。オレも男も口はひと言もきかないで、ブツの受け渡しは行われるんだ。そのメモの所番地を頼りに届けにいくと、別の男がいて黙ってブツを受け取る。代わりに運び賃の万札が差し出され、オレはそれを黙って受け取る。ただ、それだけ。それだけのことだ。
 オレはそのブツの中身を知らないで運んでいたんだけど、あるとき途中で警察にとっ捕まっちまってね。警察署に連れて行かれてさんざんアブラを絞られた。ブツの中身が覚醒剤だというのは、刑事から聞かされてはじめて知った。どうやらオレは覚醒剤の製造人と売人の間を運んでいたようだね。
 運び屋をしていたときの、礼金でもらう万札はありがたかったよ。しこたまヤンカラが飲めたし、キャバレーやおさわりバーにも行けた。おさわりバーっていうのは、女の子のオッパイなんかにさわりながら酒が飲めるところだよ。オレも遊んだからね。オレばかりじゃなくて、男はみんなそうだろう。20代、30代のころは、女を抱かなかったら我慢できないだろう。
 日本全国いろんなところで働いたけど、女が抱けないなんて街はなかった。どこにでもそういう女はいたんだから。オレだってつい2、3年前までは、年に5、6回は女を抱いていたよ。いまじゃ金がないからダメだけどね。
 いまは酒だな。ヤンカラ。ヤンカラを飲ませてくれるんなら、何でもするね。悪いことだってしちゃうよ。もう20日も飲んでない。金のないのはつらい。ヤンカラが飲めないのもつらい。今年の冬は寒かったからね。それもつらかった。新宿駅の地下道に寝てるんだけど、夜中の12時から明け方の4時半まではシャッターが閉まって締め出されるんだ。だからその間は街を歩き回っていたよ。歩いていないと凍え死んじゃうからね。ただ、ただ歩き回っていた。そんなの(ホームレス)が何人もいたよ。
 そういえば、さっきの話に出た同じ中学校の一年上の不良の先輩。このあいだ(新宿の)地下道を歩いているときにひょっこり会ったよ。20年ぶりだったね。先輩は何とかって会社でサラリーマンしてるとか言ってたけど、それはウソだね。ホントは先輩もホームレスをしているんだよ。そんなのは雰囲気でわかるからね。「サラリーマンをしているんなら、金を持ってるだろう」って酒をおごらせちゃった。久しぶりのヤンカラだったよ。 ヤンカラばかり飲んで、アル中のようなムチャクチャな人生だった。けど、こうなっちまったのも、誰のせいでもないもんな。仕方がないよ。まあ、オレの人生はこのまんまだよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/アパートを出たのは10日前・柳川一男(40歳)

■月刊「記録」2000年11月号掲載記事

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■花火で田舎を思い出す

 アパートを出て初めての夜が、江東花火大会(東京)だったんです。ほら、そこ。もう目の前で打ち上げていたんですから。こんなに近くで花火を見たのは初めてでした。午後2時か3時ですかね。ここにたどり着いてボーッと座っていたら、少しずつ人が集まってきたんですよ。花火が始まるころには、浴衣姿の女の子もいて。
 打ち上げ場所が近いから空いっぱいに花火が広がるんです。ドーンとすごい音とともに花火が上がると、みんな手をたたいてね。背中で拍手を聞きながら、ジッと空を見ていたら、昔のことを思い出しました。
 田舎の阿武隈川で見た生まれて初めの花火です。親父が連れて行ってくれたんですよ。きれいだった。小学生のころに、みんなで花火をしたことも思い出しました。バケツに水を張って、線香花火とか手に持って。昔よくやったでしょ。友だちもいっぱいいたし、楽しかったな。
 空いっぱいの花火が、一瞬だけ現実を忘れさせてくれました。明日の不安も忘れて、ただただ花火を見ていたんです。きれいだなーって。
 荒川の土手で暮らすようになって10日目です。いや、今年の四月に会社が倒産したんですよ。倒産の一年ぐらい前から、労働組合がハチマキ締めて、「首切り反対」とか「賃金アップ」とか叫んでいましたから、ウチも危ないのかなと思っていたけれど、まさかつぶれるとはね。

■免許も年齢制限で役立たず

 建築で使うH鋼(アルファベットのHの形をした建築資材)の管理会社でした。千葉県船橋市に会社があって、商社の下請けだったんです。高校中退した一六歳から五つぐらい会社を移りましたが、三〇歳から働き始めたこの会社は、定年まで勤めようと思っていました。人間関係もよかったし、何より自分の仕事に自信を持てましたから。毎日、仕事をするのが楽しかった。
 倉庫にさまざまなサイズのH鋼がトラックで運び込まれてくるでしょ。その伝票をチェックして、サイズごとに積み上げて、さらに出荷を管理する。それが仕事でした。
 でも本体の景気が悪くて撤退が決定。そのあおりを受けて、すぐに倒産ですよ。大手の下請けだから安心してたのに。倒産が従業員に知らせられたのだって、一ヶ月前ですから。50人の従業員のうち半分だけを違う会社が引き取り、あとはクビです。あわてましたよ。すぐに仕事を探し始めたけど、この不景気でしょ。ないの、まったく。
 自分は、大型自動車免許と危険物取扱者丙種、それに五トン未満の荷物を扱える小型移動式クレーンの免許を持っていました。だから見つかるだろうと軽く考えていたんです。だって大型と危険物があれば、タンクローリーだって運転できるんだから。でもタンクローリーの運転手なんて、ほとんど三五歳までが上限。あとは一年以上の経験がないと雇ってもらえません。どこの企業もほしいのは若い人か即戦力。従業員を研修しようなんて気はありませんよ。職安(ハローワーク)に通ったけれど、ほとんど年齢ではねられちゃいますもんね。

■アパートの取り壊しが決まった

 それでも失業保険がすぐに出たのでしばらくどうにかなると思っていたんです。でも悪いことは重なりますね。アパートの取り壊しが決まっちゃったんだから、もうダブルパンチですよ。
 失業保険が三ヶ月間だから7月末まででしょ。アパートの引き渡しも7月いっぱい。どうしても7月までに仕事を決めないと、と思うんだけれど決まらないしね。どんどんあせってくる。しかも自分は、友だちの保証人になってできた100万円ほどの借金がありましたから、雀の涙ほどの退職金も、ほとんど借金返済に消えました。銀行系の会社だったから、家にどなり込んでくることはなかったけれど、会社がつぶれてからしょっちゅう電話がかかってきました。借りたものは返さなくちゃいけないですから。
 働いているときは、月3万、4万ずつ返済していたんです。手取りで約22万円もらっていたから、仕事さえあれば返せる。一人暮らしですし。でも仕事がなくちゃね。払えるだけ払ってきましたけれど、まだ借金は残ってます。
 会社がつぶれるまでは、普通の人生でしたよ。中学時代まではプロ野球選手に憧れて、高校は中退したけれど、すぐに上京してディーゼル車の整備工場で働いて。結婚を考えたこともありました。30歳になるちょっと前かな。つき合っていた女性は、結婚したがっていたと思います。
 でも幸せな家庭を築ける自信が、自分にはなかった。経済的な不安もありましたが、それだけじゃなくてね。もっと根本的な不安がありました。パッと結婚しちゃえばよかったのかもしれませんね。行動に移す前に、いろいろ考えちゃったから、よくなかったのかな。でも、真面目に働き、真面目に生きてきたんです。
 アパートを引き渡す日が迫ってきて、タンス、ステレオ、テレビ、洗濯機、冷蔵庫なんかを友だちにあげました。アパートを出たときに持っていたのは、8000円の現金と携帯電話だけかな。アパートを出る前の晩は、何とかしなくちゃ、何とかしなくちゃって、気だけあせって。結局、何もかも忘れたくて布団に潜り込みましたよ。で、朝目が覚めたら、現実が待っていたと……。

■自然に泣けてくるんです

 アパートを出た当日のことは、よく覚えてません。パニックになっちゃってね。もうすべてから逃げ出したいんですよ。ただただそこから離れたい、それだけ。起きてすぐに家を出て、来た電車に乗り、何となく東京の平井駅で降りたんです。行くところなんてないでしょ。暑い中、ボーッと歩き回りました。それからここに来るまでが、一番つらかったかもしれないなあ。
 情けないなーと思ってね。歩きながら涙がこぼれてくる。自然に泣けてくるんです。汗と一緒に涙がね。これからどうしようか、自分はどうなるのだろう。自分の人生はもう終わりかもしれないって思えてね。
 そのときフッと視界に入ったのが、荒川の中洲でした。江東区から江戸川区に向けて葛西橋を歩いたんですよ。ずいぶんきれいな所があるなと思って、橋を下りてみた。本当にたまたまですよ。それでココに住んでいた人に声をかけられて、なんとなく住み着いて10日。
 実際にホームレスになってみると、あまり驚くことはなかったですね。テレビのドキュメンタリー番組や新聞で、けっこう生活が報道されていたから。ただ毎日当たり前にしていたことが、急にできなくなるのがつらいんです。風呂に入り、三度メシを食い、夜はテレビを見る。こんなことが一切できなくなるんですからね。
 どんなに景気が悪くたって、まさか自分がホームレスになるとは思っていませんでした。自分がなってもおかしくないと、いま考えれば少しわかる。でも、まさかってさ(笑)。

■私にも何か使命があるはず

 実家は10年近く連絡を取っていないから、電話なんかかけられないですよ。ホームレスになったのを親が知ったら、心配かけちゃうから。
 友だちに連絡を取れば、いくらでも助けてくれると思いますよ。家にも泊めてくれるだろうし、お金も貸してくれるでしょう。20年来の友だちもいますし。でも、誰にも迷惑をかけたくないんですよ。誰にも心配かけたくないんです。
 正直言うとね、平井からここに来るまでの間に、一度だけ友だちに電話をしようと思いました。持ってきた携帯電話を握りしめて。でも指が動かなかった。やっぱり電話はかけられませんでした。
 もう3年近く使っている携帯だから、友だちの電話番号はすべて入ってます。でも電源がないから、アパートを出て2日目ぐらいには使えなくなりました。けっこう速いんですね、携帯が使えなくなるの。その間、どこからも電話はかかってこなかったな。不思議ですよね。時間がたてば、登録してある電話番号も見られなくなって、電話も受けられなくなるのに、電池がなくなるのは嫌じゃなかった。アパートを出るとき何気なく手に取ったけれど、何かつながりがほしくて持ってきた携帯だと思うんです。それなのにね……。
 このままじゃ、どうしようもないとは思ってます。連絡先がしっかりしていないんじゃ、ますます雇ってくれないだろうし。でも生まれてきた以上は、何かあると思うんですよ。使命というのかな。これじゃ、生まれてきた意味がなくなっちゃいますから。生まれてこなかったのと同じになっちゃうでしょ。
 ホームレスになるために生まれた人なんて誰もいないんだから。誰もね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/大穴が当たって女房は去った・上野宏彰(54歳)

■月刊「記録」2001年6月号掲載記事

■幸せな家族が暗転

 23歳のときに、お見合いの話がきたんだ。京都・丹波の片田舎で働いている娘でね。俺の都合のいい日に、彼女が勤めている工場に会いに行けばいいからって言われた。
 行ったよ。汽車を降りてからバスで二時間もかかってたどりついた。本当に遠かったな。お見合いたって、社員食堂を借りて、仲人と一緒に彼女と飲んだり食ったりしてさ。互いにOKして結婚した。
 背の小さい人でね。足が少し悪くていくらか引きずるんだ。俺より1歳年上だった。丸顔でさ、かわいかったんだ。
 当時、俺は東京で大工をやっていてさ。忙しかったんだよ。仕事は真面目だったしな。お見合いの五年ほど前、ちょうど東京オリンピックの前なんか忙しくて忙しくてよくかせいだよ。働けば働くほどゼニになったんだから。
 所帯を持ってからは、子どもにも恵まれた。女三人、男二人の五人兄妹。幸せだった。でも一つだけ失敗したんだ。
 その日は仕事が忙しくてね。仕方ないから女房に電話して、立川競輪のレースを1万だか2万だか買っておくように言ったんだ。その大穴が予想通りきて、3万1850円もついたんだよ。1万円で300万円以上だから、当時としたらすごい金額だよ。「おー、当たった」なんて喜んで、家に帰ったんだ。ところが女房は「買ってない」って答えた。思わずひっぱたいちゃった。思いっきりね。
 それで女房は実家に帰っちゃったんだ。俺もあわてて、女房の実家に電話した。5、6回はしたかな。でも一ヶ月ぐらいたって、俺の育ての親で、二人の仲人でもある「おやじ」から手紙が来たんだ。相談があるとね。行ったら、「別れろ」と言われたよ。そうなると別れるより仕方なかったな。

■お父ちゃん、お父ちゃん

 それからだよ、酒の量が増えていったのは。酒を飲むと寂しくなって、女房に電話をかけちゃう。2時間も3時間も話して、泣きじゃくっちゃう(笑)。女房は鹿児島の実家に帰っていたから、電話代もすごかったぞ。1ヵ月で30万円を支払ったこともあったからな。
 きっとさ、女房も本当は別れたくなかったんだと思う。そうじゃなきゃ、こんなに話もしないだろ。ただ、家族の反対とかもあって、やっぱり別れることになったんだろうな。
 その後、女房は再婚した。
 俺と離婚してから1、2年たってからかな、5人の子どもを連れて東京都昭島市にあった俺のアパートを訪ねてくれたんだ。わざわざ高知県からさ。
「お父ちゃん、いま高知にいるんだよ」
「お父ちゃんも一緒においでよ」なんて子どもから言われてさ。再婚しているのに行けるわけねーじゃん、なんて思ったな(笑)。
 女房と5人の子どもを連れてパチンコに行って遊んで、それから定食屋に行ったんだ。「どんなもんでもいいから、好きなもの頼め」って言ったら、みんな喜んでね。
 何を食べたかは、覚えていねえな。でも、俺は何も食べずにビールを飲んでいたよ。みんなが食べるのを見ながら、ただビールを飲んでたんだ。女房もうれしそうでね。「親が別れさせた」というようなことを、俺にもらしていたよ。
 食べ終わってから、青梅線に乗って立川駅までみんなを送った。肌寒い日でな。たしか上の娘は、赤っぽいセーターを着ていた。
「お父さんも、あんまり無茶しないでね」って女房が言ったら、上の娘もマネして言うんだよ。生意気にさ。「お父ちゃん、あんまり飲まないでね。お父ちゃんも高知に行こうよ」って……。
 一緒に暮らしていたとき一番うれしかったのは、家に帰り着いたときなんだ。玄関を開けるだろ。そうすると一番下の娘が駆け寄ってくる。「お父ちゃん、お父ちゃん」って、足にしがみついてくるんだよ。かわいくてな。
 でも、立川駅で別れて以来、女房にも子どもにも会っていない。高知まで行ってみたいと思ったけれど、住所を知らなかったから、会いたくても会えなかった。それにこのあと、酒におぼれた生活を送ることになったからさ。

■結局は長期の入院

 俺は本当の親父の顔なんて知らない。見たことないんだよ。小学校だって、ろくに行ってない。実家の家計を助けるために働いていたんだから。
 松の実って知ってるか? あれはけっこうな値段で売れたんだよ。小学校時代、裏山で松の実を大量に採って売ったもんだよ。何千円かもうかったんじゃないかな。当時から女には優しかったから、お母さんに渡したお金の残りで同級生の女の子にプレゼントを買ったよ。ノートとか鉛筆とかさ。
 そうそう、船に乗っていた時期もあったな。小学校だか、中学校だか、キビナゴ漁を手伝っていたんだ。夜中に漁に出て、薄暗いうちに帰ってくる。バッテリーのライトを10個吊して、キビナゴが集まってくるのを待つんだ。もちろんキビナゴ以外の魚が釣れることもあったよ。50センチのブリがかかったこともあったしな。
 でも、中学校のときには、お母さんも死んじゃって、あっちこっちの親戚に預けられた。中学三年のころには、生きるために大工仕事を始めていたよ。
 それから働きづめに働いて、気がついたら女房にも逃げられて一人だろ。酒の量はどんどん増えたよ。朝起きても、だるくて仕事なんか行けないんだから。「明日は必ず行きます」なんて電話して、また飲むわけ。そんなことが続けば、仕事仲間からだってあてにされなくなっちゃうよ。もう完全にアル中さ。アル中になると、店の酒をかっぱらってでも飲みたくなるんだ。とにかく酒がほしくてしょうがない。我慢ができない。
 そんな生活を続けているうちに、アパートに市役所の人が来たんだよ。強制的に病院に入れられた。それからアル中と結核の治療で、10年間も病院で生活することになるんだ。

■死ぬ度胸もない

 さあ? アパートに残った荷物がどうなったかは知らないよ。きっと福祉課かなんかの職員が、放り投げたんだろ。入院してから、アパートになんか帰っていないんだから。
 まあ、強制的な入院だったけれど、病院の居心地は悪くなかった。国からもらえるお小遣いを看護婦に渡して、お酒を買ってきてもらったりさ(笑)。お菓子なんかも、よくもらったよ。お風呂も看護婦さんが入れてくれて、背中まで全部流してくれるんだ。病院に帰りたいと思うことはあるな。
 退院したら40歳も目前になっていた。仕事は飯場回りしかない。つい5年ほど前までは、神奈川の登戸でアパートを借りていたんだ。でも、仕事がなくなって、アパートを追い出された。いまはアルミ缶集めが仕事かな。一キロ集めて85円。譲ってもらった自転車に積み上げて、やっと500円ぐらい。市から食べ物をもらって、足りない分はエサを拾いに行って……。
 生まれてくるんじゃなかったよ。でも死ぬ度胸もない。いまでも思い出すのは、女房のことかな。あんないい女房はいないよ。旦那に尽くす女だった。
 でも、会うことすらできないんだからな。 (■了)

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北朝鮮と新潟 第3回/在日蔑視と日本人の大国意識

■月刊『記録』98年6月号掲載記事

■住所を教えたらいきなり警察連行

「慣れで差別があるのは当たり前という認識になっている」と言う梁寿徳・ハナ信用組合新潟支店次長の話に耳を傾けていると、差別経験を在日朝鮮人らに「慣れ」させる日本社会、日本人に私はどうしようもない憤りを覚える。「慣れ」は、常に苦痛にさらされ続けていなければ宿らない。その苦渋の原体験を彼は話してくれた。
  「小さい頃、夜の公園で祭りの後にペンライトを振りかざして遊んでいたら、警官がやってきた。警官に尋問され『あそこの団地に住んでいるんだ』と告げると、理由もなくパトカーに押し込まれて警察署に連れて行かれた。母親が警察に呼び出され、後で母親にしかられた。警察は団地のどこに在日が住んでいるかを把握していたんでしょうね」
 現在、北朝鮮への敵視と相まって在日朝鮮人らにもその矛先が向けられるが、そうした状況下にありながらも梁氏は拉致加害者に批判的だ。
  「拉致被害者も拉致に遭わなければ、普通に本国で幸せに生活できた。拉致事件については、同じ民族として恥ずかしい」
 加えて、在日朝鮮人にバッシングを加える人々に、彼はこう訴えたいと告げる。
  「日本人拉致がたとえ強制連行に対する報復だとしても、喜んでいる人は同胞には1人もいません」
 在日2世の梁次長は生まれたときから民族名を名乗り、朝鮮籍だ。現在38歳で、1児の父である。来年、小学校に上がるので、朝鮮学校に行かせるという。理由を尋ねると、単純なことだというように
  「朝鮮人だから朝鮮学校に行くのが自然。朝鮮の文化で朝鮮の生活習慣の中で学習するのが当然」
と答える。
 彼自身も朝鮮学校をへている。学校卒業後、旧朝鮮銀行に就職した。これほどまでに北朝鮮に帰属しているという意識が強く、数多くの日本人による差別を経験しているにもかかわらず、彼は日本人拉致に対しての反省の語を口にした。
 日本人拉致への憤まんの切っ先を日本人から向けられているというのに、反省を伴って事態を考えることがどうしてできるのだろうか。梁氏の「懐の広さ」は、個人の資質によるものも大きいのだろう。拉致事件発覚以後の日本人の在日朝鮮人に対する差別行動も、「こうした差別激化は一時的なもの。そのうちに静まってくるだろう」と静観を決め込む。
 在日朝鮮人の人々と接してみたことで、遠い過去の出来事と思われていた戦争の面影を、私は近くにたぐり寄せたような気がした。在日朝鮮人と呼ばれる人々は、先の戦争がなければ「在日」としての人生はなかったともいえる。多くの韓国・朝鮮人が先の大戦時に、日本軍が植民地化した朝鮮半島から日本に強制的に連行され奴隷的労働に従事させられた。過酷な労働で亡くなる者も後を絶たなかった。もちろん植民地となった母国は荒廃した。
 そうした負の遺産が多くの韓国人・朝鮮人の運命を変えてしまった。私が新潟で会った在日朝鮮人はごく限られた人たちに過ぎないが、彼らと接するたびに、過去の歴史の後戻りできない怖さに迫られた。

在日朝鮮人には我慢してもらえ
 2004年5月22日に小泉首相は、02年9月の日朝平壌宣言後、再度北朝鮮を訪問した。同日に、拉致被害者の子どもら5人が、先に帰国を果たした両親の元へと日本にやって来た。この成果を、04年2月9日に自民、民主、公明党の賛成多数で可決、成立した改正外国為替・外国貿易法(外為法)の効果だと見る向きが日本国内に強くある。
 改正外為法は、「わが国の平和、安全の維持のために特に必要がある」と日本政府が判断した場合に、日本単独で閣議決定によって送金停止、資産凍結、輸出入規制などの経済制裁を行うことができる。それまでの外為法は、国連決議や日本を含む複数国の合意が条件となっていた。北朝鮮への圧力政策として、このような自国の都合のみを優先する法律が成立したのである。この動向に対して、北朝鮮は「互いの安全を脅かす行動を行わないと確約した朝日平壌宣言への乱暴な違反だ」との談話を発表している。
 拉致被害者の子どもたちが両親と再会を果たした日朝首脳会談の3週間後、6月14日に自民、公明、民主3党の賛成多数で特定船舶入港禁止特別措置法(入港禁止法)が可決、成立した。
 拉致問題に対して北朝鮮が最大限の譲歩をしているにもかかわらず、強硬的な施策で北朝鮮に対するのが当然だとする風潮に乗って、賛成多数での入港禁止法成立だった。明らかに日本側の平壌宣言不履行である。
 改正外為法と入港禁止法の2法が、北朝鮮に対して強硬的な外交手段としての経済制裁を加えるために、いつでも発動できるようになっているのが現況だ。日本のこうした一連の威圧的な動向に対抗して、北朝鮮は日朝平壌宣言以来の友好的な態度を変更し、最後の切り札ともいうべき核ミサイル整備に着手しつつあると伝えられる。
 経済制裁2法が発せられれば、影響を受けるのは北朝鮮ばかりではない。祖国にいる者への支援のために送金、物資の輸送などを行う在日朝鮮人にももちろんその影響は及ぶ。
 新潟県庁の拉致被害者支援室の関係者は、経済制裁2法が発動された場合の北朝鮮国民、在日朝鮮人らへの影響について「やむを得ない。とりあえず彼らには我慢してもらえばいい」と自分勝手な意見を展開する。
 日朝平壌宣言以来、北朝鮮は譲歩的な態度で外交の場に臨んでいた。これ以上ない譲歩で日本との国交正常化を望んでいるのは明らかなのだが、国内に「国交正常化すれば、日本からお金が引き出せるから」との意見が多いのには辟易する。そうした態度は、貧困に窮している北朝鮮に対して日本が経済的に豊かであるという大国意識、優越感からの見下しに過ぎない。
 北朝鮮政府が譲歩的に日朝外交を進めていても、北朝鮮に対しての非難が日本国内で高唱されるなか、さらにその非難を煽る結果となる事態が起きた。04年11月に開かれた日朝実務者協議の後に外務省高官が持ち帰った横田めぐみさんの遺骨が、別人のものあることが発覚したのだ。めぐみさんの両親に対しては、これは酷な仕打ちであっただろう。この事件以降、北朝鮮への非難はピークに達し、北朝鮮への経済制裁を待ちわびる声はこれまでないほどのトーンに高まる。
 しかし本格的に北朝鮮に経済制裁を加えてしまえば、核武装した北朝鮮がミサイルを日本に飛ばし、アメリカが北朝鮮にミサイルを発射するという最悪の事態に陥る可能性がある。そうなれば、拉致された日本人の安否確認などできる状況ではなくなってしまう。拉致問題の平和的解決を望むのであれば、北朝鮮との対話、交流を中心に積極的に北朝鮮に関与する施策が最適なのではないだろうか。日本国内では生ぬるいと批判される、韓国のノ・ムヒョン政権による北朝鮮への「太陽政策」は、まさにその積極的な関与の施策である。(つづく)

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北朝鮮と新潟 第2回/拉致問題によって被害者から加害者に

■月刊『記録』05年5月号掲載記事

 日朝平壌宣言後も両国の協議が設けられるなかで、絶えず北朝鮮政府は安否確認の情報を提供していたはずだ。しかし、安否情報はなぜか拉致被害者家族会の怒りと絡めて報道され、いつの間にかその情報は「信用できない」ものとの絶対的な断定が加えられてしまう。そして結局のところ、「北朝鮮よ、真相を伝えよ。でなければ、経済制裁の強硬措置もあり得る」となる。おかしな倒錯が毎度のように起こるこの現実に、疑問を覚えるのは私だけではないはずだ。
 平壌宣言の前文では「両首脳は、日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治、経済、文化的関係を樹立することが、双方の基本利益に合致するとともに、地域の平和を安定に大きく寄与するものとなるとの共通の認識を確認した」とある。
 しかし、日本人拉致、北朝鮮報道がやたらに連日のように報道されるようになって以降の、日本政府、日本人の在日朝鮮人、北朝鮮政府に対する扱いは、明らかに日本側の日朝平壌宣言無視だ。
 北朝鮮政府に決して問題がないわけではない。独裁体制を敷き軍隊に総力を結集するがために、飢えて死亡する国民も少なくない。だが、北朝鮮をこのような状況に追いやったのは、北朝鮮への孤立政策を進めるアメリカであり、そのアメリカに追従するばかりであった日本ではなかったか。北朝鮮に「悪の枢軸国」とのレッテルを貼り付けて孤立させて、北朝鮮へのネガティブキャンペーン一色という状況をつくり出した。そのような境遇に置かれた北朝鮮が核という切り札に手を伸ばすのは、当然のなりゆきとも言える。北朝鮮批判が嵐のように轟轟と吹き荒れる日本国内だが、批判すべくは日本政府でありアメリカ政府ではないのか。
 現在の北朝鮮の統治体制は、戦時中の日本もこのような姿だったのだろうと想起させられる。そして対外的に置かれている境遇もかつての日本と相似しており、日本は国際的に孤立して戦争へと向かった。異なるのは、日本はアジアの対外諸国へ侵略を行い自国の活路を見出そうとしたことだ。現在、日本人が北朝鮮に向ける、さも奇異なものを見るかのようなまなざしは日本人拉致への怒りに任せて、かつて戦時中の日本国が行った侵略行為に対して反省の色合いなど少しも帯びていないのではないか。
道路料金所で始まる尋問
 北朝鮮に対する敵意が日本人間で高まるなか、新潟の地で在日朝鮮人の人々の境遇はどんどん厳しくなっている。先に登場した朝鮮総連新潟県本部の金鐘海副委員長は、あからさまな冷遇を味わった。
  「縁側で茶を飲む仲だった隣人が、拉致事件報道が過熱して以降、そっぽを向くようになりました」
 金副委員長は思っていることがすべて口を突いて出るのか、私の前でも日本人へのアンチ感情を包み隠すことがない。朝鮮人の強制連行についても
  「自分も拉致被害者。強制連行の過去がある。強制連行されてきておとなしく生活しているのに、日本人拉致の問題で、私ら被害者が加害者として仕立て上げられている」
と自らの思うところを率直に口にした。
 金副委員長は頑固親父といった風貌で、畳み掛けるような話し方が印象的だ。私が総連を訪ねた時、副委員長は私を胡散臭がったが、話をしているうちに打ち解けたのか、万景峰号の来泊で多忙な中を2時間以上も時間を割いて話をしてくれた。
 副委員長は在日2世で岐阜生まれの新潟育ち。54歳になる。小学4年生になる9歳に新潟に移り住んだ。小学1年から3年生まで通った小学校では、日本人が勉学する学級とは別に民族学級に振り分けられ、昼から登校して夕方の4、5時に帰宅するという生活を送った。高校は東京の朝鮮学校に行き、その時にそれまでの「金田」という通名を捨てて現在の民族名を名乗るようになる。大学に当たる朝鮮大学校を経た後、新潟で朝鮮学校がちょうど開校した1968年に教師として赴任し、8年前から県本部での任に当たっている。
 日本での差別体験は、数知れないという。高速道路の料金所で免許証を見せたところ、民族名で朝鮮籍なので料金所の係員が怪しんだ。係員は「身分を証明するものを見せてみろ」と告げる。「そんなことをする権利があるのか?」と問えば、「免許証と外国人登録証を調べるのが自分の義務だ」と言い張る。「外国人を検閲するのがアンタの仕事なのか」と副委員長は怒りを覚えたという。このやりとりのおかげで、自身の車の後ろには大縦列ができてしまったそうだ。
 また、在日朝鮮人の人々が持つパスポートには、指紋を押捺してある個所に、その上から桐の花のシールを貼り付けてあるという。これに対して、
  「豊臣秀吉の好んだ花といえば、桐の花。秀吉の朝鮮征伐をイメージさせる。悪い冗談みたいだ。日本政府はこうした細かいところから差別をきっちり行っている」
と副委員長は苦りきる。
 そのような経験をへてきている副委員長には、反日感情が色濃い。そしてなお、日本人拉致事件で更なる窮状を迫られる在日朝鮮人を代表して彼は、アンチ北朝鮮感情を増幅させる日本人にうっ積した憤りをぶつけるかのように、私に話す。「拉致はあってはならないことですけどね」と断ったうえで、このように漏らした。
  「おそらく日本人拉致は、軍の機密部隊が競って反日感情そのままに日本人を連行したものだろう。英雄的な感情を競ったのではないか。目的などはわからない。しかし、拉致と強制連行を比較すると死者の数など比べ物にならない。拉致されたとはいえ、朝鮮で恋人と結婚して食うに困らない生活をし、国で一番の大学に息子が行っている。それに対して強制連行はひどかった。1万人以上が連行され、祖国に戻ったら男がほとんどいなかったと聞いた」
 副委員長の歯に衣着せぬ発言は、多くの日本人の怒りを買うものなのかもしれないが、私にはかえって清清しく感じられた。日本人拉致について、在日朝鮮人たる彼が腹の中でこのように考えていたとて、無理のない話だ。ただ、総連の建物を出て、晩夏の昼下がりの太陽に照り付けられた際に、まばゆい街路の風景とは正反対に私の眼前には影が差し込んだように思えた。
国籍で仕事を断る宅配業者
 金副委員長とは対照的に、ハナ信用組合新潟支店次長の梁寿徳氏は、日本政府、日本人に対する怒りを露骨には示さないが、淡々とした口調とは裏腹に、抑えていたかのような苛立ちめいた感情が漏れ出てしまう。
  「テレビでオリンピックを見ているとき、『ウチの国』の選手の表情が暗いなどと言われると『ほっとけよ』と言いたくなる」
  「ウチの国」とはもちろん北朝鮮のことを指す。テレビ、新聞などメディアの日本人拉致報道が過熱を増すにつれて、「明らかに差別傾向は激しくなった。それまで小さくささやかれていたことが、人前で声を大にして言われるようになった」と梁氏は振り返る。
 遠きに眺めていた世間の風潮は、自身の周囲にも影響が波及することで実感として彼の身に及ぶ。ましてやそうした影響が自らの仕事にまで及んでくると、会社組織の運営が大きく妨げられることになる。
  「拉致事件がひんぱんに報じられるようになって、今まで口に出して言えなかったことが公に発言できるくらいにだんだん大きくなってきたように感じます。例えば、店内に入ってきて『ここはキタかミナミか』とおおっぴらに聞く人がいた。ウチは日本で法規登録もしている日本の会社ですってのに。北朝鮮系か韓国系かなんて関係ないだろうと。それから、右翼が店の表で『北朝鮮に帰れ』とがなり立てることも。日本人で毎度両替しに店に来ていた人もいたが、いなくなってしまった」
  「現在の業務の前に総務の仕事をしていたんですが、書類運搬の代金支払いを現金でやるのが面倒くさくて回数券を利用していた。あるとき、回数券を渡していた宅配人が『北朝鮮の会社の仕事はできません』と言ってきた。『どこの国の会社かで差別して仕事をするのですか』と腹立たしく感じました。そこの運送業者は切りましたが。後から考えてみると、会社の意向でそうしていたのではないか」
 次から次へととめどもなく、差別体験が梁次長から語られる。しかし彼が語る経験はあくまで印象に残っている部分ばかりであり、印象に残っていない部分も相当なものだろう。(つづく)

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北朝鮮と新潟 第1回/新潟を覆う暗い影

■月刊『記録』05年4月号掲載記事

(■坂勇人 さか・はやと……1977年1月生まれ。愛知県名古屋市出身。2000年、名古屋大学文学部卒業)

新潟を覆う「暗い影」「新潟は暗い街ですよ。11月には、みぞれが舞って空を覆ってしまう。それからは、太陽の光が見えることなんてそうはない。それが春までずっと続くんですから」
 秋から冬の新潟の情景を、このように話す人がいる。
 ぎらぎらとしたまぶしいばかりの陽光が照り付ける9月に、私は新潟に来た。しかし、私は新潟を訪れて、この地の「暗い影」をまざまざと目の当たりにしたような気がする。
 新潟を覆う「暗さ」。私が感じるそれは、彼が告げるような天候によるものなどではない。かといって、北朝鮮による日本人拉致の件数が最も多い地であることなどでもない。それは、北朝鮮や日本人拉致事件について毎日のように新聞、テレビで大々的に報道されるようになった後の新潟の様相のことだ。新潟市内の多くの官庁の門前には、日本人拉致事件に関連したポスターが貼付してある。啓発を目的としたものなのだろうが、その啓発、そして啓発に導かれようとしている心情に対して、私は新潟の「暗さ」を思った。「この地は、閉ざされている」と。
 なぜ「暗い」のか、なぜ「閉ざされている」のか。その理由は、私が新潟を訪れて様々な形で北朝鮮という国に関わる人物らを追うなかで、明確に絵としてあぶり出されてきた。
■相次ぐ嫌がらせ

 2003年7月30日、朝鮮総連新潟県本部が銃撃されると共に、ハナ信用組合新潟支店の通路脇に不審物が置かれた。ハナ信用組合新潟支店は、旧朝鮮銀行新潟信用組合が経営破綻した後の業務を引き継いだ金融機関だ。
 この騒動を引き起こした犯人らは、犯行前に朝日新聞東京本社と地元の大手新聞社・新潟日報社に「建国義勇軍」を名乗って犯行声明を発した。犯行声明は、朝鮮総連県本部に銃弾を撃ち込むと共に、ハナ信用組合新潟支店に爆弾を仕掛けたという内容のものだった。実際に関係者が施設の周囲を調べてみると、総連県本部に隣接する記念館のシャッターには銃痕が刻まれていたし、信用組合の通路脇には不審物が放置されていた。後に、犯行グループは「刀剣友の会」という刀剣愛好家団体だと判明する。この事件は、新聞、テレビなどで大きく取り上げられた。
 この地に広がっているかのように思われる「暗い影」とは、日本人拉致事件に関する報道が絶え間なく茶の間に流されるようになって以来、われわれ日本人の間に醸されてきた北朝鮮に対する鬱屈した感情だ。しかし、このように事件として目に見えるかたちで表出してこなくとも、われわれ日本人の抱く北朝鮮への敵愾心、アンチ北朝鮮という心情はぶすぶすと燻されて先鋭化しているように思われる。一連の事件では、この反北感情に伴う憂さを晴らそうとする矛先が、より身近に北朝鮮を思い起こさせる対象である在日朝鮮人に向けられた。
 朝鮮総連新潟県本部の金鐘海副委員長は憤激やる方なしといった口調で、この事件についての怒りを訴える。
「いったい何をしようというんだ。われわれを殺そうというのか。事件は、国際問題に発展してもおかしくはない」
 銃弾が打ち込まれたのは、総連県本部に隣接している記念館の倉庫の部分だ。銃弾はその倉庫のシャッターを貫通していた。事件当日の晩は不幸中の幸いというべきか、積荷の出し入れを行う作業員などはいなかった。だが作業員がいたら、銃撃の犠牲になっていたかもしれない。
  「刀剣友の会はテロ集団。このテロ集団とある国会議員は何らかの関わりを持っていた。国会で追及しなくてはならない」
 ただただ怒りでしか事件を表現しようがないといった口ぶりで、金副委員長は吐き捨てる。
 建国義勇軍事件以降、朝鮮総連県本部の建物には、この建物が朝鮮総連であることを示す表示物の類は一切取り外されている。私が総連県本部を訪ねようと近辺に来た際、どこが本部なのか全くわからず、立ち往生する羽目に陥った。副委員長に聞けば、「警察からのアドバイスで、このようにしている」という。それでも目ざとくここを総連と見出した右翼が、「突入!」と叫んで建物の中へ強行突破して入ってこようとしたこともあったそうだ。入り口で突入を止めようとする警察と右翼が衝突してもみ合い、大騒ぎになった。
 私が朝鮮総連新潟県本部を訪れたこの日、新潟西港と総連新潟県本部の一帯は、右翼の街宣車と警察官らでただならぬ雰囲気を醸していた。ちょうど万景峰号が西港に寄り祖国への帰途に就こうとしている時だったのだ。右翼の街宣車は数台が列を連ね、総連付近を回遊して何度も「アイタイセヨ!」とがなり立てている。この騒々しさは筆舌に尽くしがたく、まさに騒音の嵐といった感じだ。総連県本部前にはパトカーが止まり、2人の警察官が防護服を着用してものものしい出で立ちで待機していた。私が県本部に入っていこうとした際には警察官の尋問を受けた。万景峰号が西港に入港するたびにこのような乱痴気騒ぎが繰り返されているのだと思うと、何やらやるせない気分が私を襲う。
差別には「慣らされて」しまった
 金副委員長とは対照的に、通路脇に不審物を置かれたハナ信用組合新潟支店の梁寿徳次長は落ち着き払って冷静に事件を振り返る。
 不審物は次長自身が発見した。事件当日の夜8時頃、次長は支店横の通路の脇に紙袋を見つけた。紙袋の中からは、配線らしきコード線がのぞいていた。犯行声明が出された当日、警察から警戒するようにとの連絡を受けていたため、「これが例の爆発物か」といった具合に冷静に対処したという。
 新聞には爆発物と大々的に書かれていたが、警察による調査の結果、爆発物と呼ばれた物は実際には爆発などしないただのガラクタだった。
「おどしでしょうね。嫌がらせというか」
取り乱すことなく冷静に事件を振り返る梁次長は、自身に降りかかった災難に対して、なぜ平然としていられるのか、その理由をこのように告げる。
「小さい頃から嫌がらせとかそうしたことは、たびたび受けてきたので慣れている。だから事件に対してそこまでの驚きはなかった」
 私は彼のこの発言を聞いたとき、日本で経験してきた差別的な体験があまりに頻繁すぎるため差別に「慣らされて」しまった彼に対して、目を合わせることができなかった。普段、日常生活を送るなかで私自身が日本人であるということを認識する場合はそれほど多くない。しかし、この時ばかりは「私は日本人である」という現実が反省を伴って立ちはだかった。
 義勇軍事件について冷静さを保持して語る梁次長だが、事件の取材に訪れたマスコミに対しては自らの憤りをその態度に露わに示す。
「マスコミなどが来てインタビューをしてきたが、『拉致事件についてどう思うか』とか『どうしてこんなことが起こったと思うか』などの質問には頭にきた。『被害者はこっちだぞ』と。こちらに事件の原因があるかのように聞いてくるのには参りました」
 平穏を脅かされた被害者であるにもかかわらず、「いじめられっ子には、いじめられるだけの原因がある」というような頓珍漢な類の論理で押しまくられてはかなわない。しかし、モラルを失したマスコミの発言と同一線上の振る舞いを、支店の近隣住民にも梁次長は浴びせかけられた。
「マンションに住んでいる人で事件後に、『北朝鮮の方と一緒には住めません』と言ってくる人がいた。『申し訳ありません』と謝罪したが、なぜ謝らなければならなかったのか今になってみてもわからない。店の外にも『ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした』というように貼り紙も出したが」
 被害者であるのに、なぜ責め苦を負わされなければならないのだろうか。それも、加害責任まで背負わされて。やりきれない思いにとらわれて、私は息苦しさを感じる。
 義勇軍事件は、差別に苦しみ日本人に対して遠慮がちに生きている彼らにとって、なおもムチ打たれる経験となってしまったようだ。在日朝鮮人である彼に話を聞いていて、反北朝鮮感情を過熱させる日本人の「暗さ」に触れた私は、梁次長と対面している面前で視線を床に落とさざるをえなかった。しばしば北朝鮮報道のなかに北朝鮮を「閉鎖国家」と批判する文言を見出すことができるが、在日朝鮮人の人々を日常的な差別待遇のうえにさらに追い込む日本人のこの閉鎖性はどうだろうか。
 在日朝鮮人たちを取り巻く状況がこうした環境にもかかわらず、在日朝鮮人である人々への同情はあまりに少ない。しかし、北朝鮮に対して弁護的な趣旨の発言を口にすると概ね、「オマエはキタチョウセンかッ!」と怒声を浴びせられる。もしくは「オマエはキョウサントウかッ!」。
 もちろん北朝鮮に身内の人間が拉致される事態に遭遇した拉致被害者の怒りや悲しみに私は同情もする。日本人の拉致を北朝鮮という国家が行ったという事実は厳然としてあり、当事者にとって北朝鮮に対しての憤激はまさに当事者にしかわかり得ないものだろう。
 だが、その感情に完全に同調してしまうことは、私にはできない。なぜなら、そのような感情に過剰に同調してしまうような態度が、現在の「拉致被害者」とは別に、またそれとは別の被害者を生み出してしまうことが想像できるからだ。新たに生み出されようとしている被害者とは、在日朝鮮人の人々である。
 北朝鮮報道が日常茶飯事化するとともに、大勢を占めるようになった「北朝鮮はトンデモナイ」との世情に煽られるようにして、「青天の霹靂」のごとく降ってわいたような事態がある。東京都の石原慎太郎都知事の在日朝鮮人たちへの圧力施策だ。朝鮮総連関係者にとっては、言いがかりこの上ないものだった。

■突然の圧力政策

 石原都知事は2003年2月19日の記者会見で、それまで継続していた都内の朝鮮総連施設への固定資産税の減免措置を撤回する方針を発表した。これに対して総連国際局は、「朝鮮総連が朝日間の交流窓口となって公館としての役割を果たしている。30年あまりにわたり実施されてきたことが、この時期に唐突に問題視されることは到底理解しがたい」(朝日新聞03年2月20日朝刊)との見解を示した。
 総連施設は、学習会や日本人との交流、ビザ発給などに利用され、公益性の高い施設として全国的に固定資産税の課税が減免されてきた。石原都知事の減免撤回発言の後、都が課税に踏み切ったことに対して、総連は不服審査請求を行う。課税の理由として石原知事は、「在外公館として働いていない。実態を見たから課税した。ほかのことに使っている。資産価値があるなら税金をはらってもらわないと困る。在外公館として使われていない建物に課税するのは当たり前」(産経新聞03年9月13日朝刊)と説明した。長い間、在外公館として機能していると判断されていた施設が、突然に機能不全に陥ったということだろうか。募るアンチ北朝鮮感情を反映しての政策ということは十二分に推察できるが、その場その場の感情で課税対象の基準が変更されては、課税される人間はたまったものではない。だが、東京都は総連への圧力施策を強引に推し進めて年額約6000万円(03年度)を課税して、税の未納を理由に朝鮮総連中央本部、都本部、朝鮮出版会館の3施設を差し押さえている。
 東京都が実施した、総連施設への固定資産税減免撤回の動向は、新潟にも波及した。固定資産税の減免は各地方自治体の判断で決定できるため、東京都に引き続いて「右にならえ」式に新潟市も16年度から減免撤回に踏み切ったのである。
「今まで払わないできたものを突然支払えと言われても納得できない。条例で制定されたわけでもない。篠田市長は石原慎太郎の影響をかなり大きく受けているのではないか。市民感情でそのようなことを言い出したのだろう」
 新潟市の唐突な減免措置撤回について、総連新潟県本部の金鐘海副委員長はこう指摘する。
 固定資産税の減免は、施設の「公益性」が第一の判断基準になる。減免撤回についても「公益性」が問題とされているのだが、新潟県本部では民族を問わず一般に広く招待して週3回ハングル講座の学習会を実施している。にもかかわらず、新潟市は施設の公益性に問題があると主張して減免措置を撤回する方針を貫こうとする。
金副委員長は首をかしげながら、
「総連施設は公民館と同じで公共性の高いもの。そのため、税も免除されてきたと理解していた。拉致事件が落ち着いたら、また払わなくてもいいと言い出すのではないか」
と、「市民感情」に左右される市の政策に対してあきらめ顔で言った。
 道理に合わない馬鹿げたことをするものだと腹立たしく思いながら、私は新潟市役所を訪れた。固定資産税を取り扱う部署は、企画財政局資産税課になる。突然の私の訪問に応対してくれたのは、阿部文男課長だ。
 どうにも減免撤回の理由がおかしいと訴えた私に対して、阿部課長は今回の減免撤回についてこのように説明する。
「総連施設にも公民館などと同じく、公益上の理由があれば減免措置を取る。新潟港から出港する万景峰号を利用して祖国訪問を行う人や往来する人に、新潟の総連施設でパスポートの発行をやっている。固定資産税の減免はおかしいことではありません」
 では、総連施設に対してこれまで継続されてきた「公益性の高い施設」の定義が、ここ近年になって、どうして「公益性を損なっている」との論理に展開したのだろうか。このように無理な論理の展開を、可能にしているのが「市民感情」である。
揺れる判断基準
「拉致問題に加えて、万景峰号を用いてミサイルを輸送しているという疑惑。こうした一連の事情から、『市民感情』は日朝親善という状況にない。市も万景峰号の入港に対して反対している。北朝鮮が対外的に開かれた状況になく、公益という点で問題がある」
 今までに何度同じセリフを復唱してきたかという調子で、阿部課長は答えた。
 拉致報道に扇情されアンチ北朝鮮感情を高ぶらせている日本人の方が交流の回路を閉ざしているのではないか。公益を損失させているのは日本の側だと思われるが、「市民感情」を考慮したうえで総連施設は「公益性」がないとの判断に至ったのだという。その判断は課長自身が断じたものかといえば、そうではないらしい。市長の意思が今回の減免撤回に大きく関与しているのだろうなという私の考えは、あながち外れてはいないだろう。
 減免撤回措置はやむをえないことだと説明する阿部課長だが、課長自身は朝鮮半島の文化に対して理解を示している。彼は2、3年前からハングル語を熱心に独学で学習している。
「日本語と文法が似ているし、片手間で勉強できるのではないかと思った。記号的でおもしろい。NHKのハングル語講座を見てわかるくらいに上達したが、まだ話せるところまでいってない」
「ナマのハングルを無料で学べる施設が総連の施設ですよ」と私は茶々を入れて混ぜっかえすと、阿部課長は苦笑いを浮かべていた。
 今回の減免措置撤回に大きくその意思を反映させていると見られる篠田昭新潟市長は、東京都の石原慎太郎知事とは異なり決して保守思想の推進者などではなく、それとは逆の「市民派」と呼ばれる市長だという。
 2002年11月に、篠田氏は無所属新人でどこの政党からの推薦も受けずに市長への当選を果たす。篠田氏は新潟県の大手地方新聞社である新潟日報社の論説委員だったが、「市政に民間の感覚や知恵が必要」と主張して市長選に身を投じた。新潟市の政令都市化を進めるための市町村合併推進も、「市長と語る会」と称して市内じゅうを行脚して住民の質疑応答を取り入れる形で進めている。
俗情に流される「市民派」市長
 だが「市民派」市長は、まさに「市民感情」に左右される市長だ。東京都がこういった政策をやるから新潟もやるというのでは、市長の独自色は全くない。市長自身の政策判断の責任を、あいまいな世情、大勢に委ねてしまっている。「市民感情」を優先して総連施設に固定資産税による圧力施策を行うが、その市民感情に「在日朝鮮人」という存在は含まれていないのだろうか。そもそも市民たりえないのだろうか。その時勢に多数派であるというだけに過ぎない世情、俗情に、主義、主張を絡め取られてしまうだけの市民派市長であるなら、「市民派」の看板は聞こえがいいだけで、実情は自らの政策判断基準を持たない輩に過ぎないということになる。
 新潟市は、拉致事件が表ざたになる以前には、北朝鮮と友好関係にあり深い交流を持っていた。
 朝鮮総連新潟県本部の前を通る道路は「ボトナム通り」と呼ばれる。この通りには、かつて在日朝鮮人らが北朝鮮に帰還する際に祖国帰還を記念して植樹したボトナム(いちょう)の樹が立ち並ぶ。ハングルの呼称を通りの名前として名づけるほど、新潟の人々は北朝鮮の人々に対して親愛の念を持っていた。
 しかし、歴代の市長が実施してきた北朝鮮への表敬訪問を、篠田市長は市長の任に就いてから未だ行っていない。新潟の独自色は、「市民派」の建前により東京都と同じ色彩に塗りつぶされてしまったのかもしれない。
拉致被害者報道で加速する敵意
 2002年9月17日、朝鮮民主主義人民共和国の首都・平壌で、日本の小泉純一郎首相と北朝鮮の金正日総書記との間で会談がもたれた。その会談で日朝平壌宣言が発された1ヶ月後、拉致被害者5人が日本に帰国する。
 拉致被害者の帰国後、日本では堰を切ったようにマスコミの反北朝鮮報道が連日のように流される。このような事態は周知の通りだ。拉致被害者の帰国は、日本人の北朝鮮に対する敵意を煽る結果となってしまった。
 ここで忘れてはならないのは、日朝平壌宣言で金正日主席が日本人拉致についてその事実を認めて謝罪していることだ。日朝平壌宣言の第3項を見てみよう。
「国際法を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認した。また、日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題については、朝鮮民主主義人民共和国側は、日朝が不正常な関係にある中で生じたこのような遺憾な問題が今後再び生じることがないよう適切な措置をとることを確認した」
とある。(つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/テロルと狂牛病

■月刊「記録」2002年1月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

*         *          *

 なんと世界は愚かなのだ、と腹立たしい気持ちで21世紀最初の年を送ったひとたちは多いであろう。と同時に、なにもできなかった自分の無力さをふかく感じさせられている。それでも、テロルと報復の論理をうけいれないひとたちが、けっしてすくなくなかったことが、未来をさらにひどいものにしないことにつながるのであろう。
 一瞬にして倒壊した、ニューヨーク世界貿易センタービルの映像が、なんども繰り返して流されたあと、あのビルにピザの出前にいって行方不明になった男の話を、テレビが放映していた。
 メキシコだったろうか、どこか中米の国から妻がやってきて、ボランティアたちの助けをかりながら、夫の消息をたずね歩く、というドキュメンタリーだった。
 男は故郷に妻となん人かの子どもを残してはたらきにきた、出稼ぎ労働者だった。たしかに、あのツインタワーは、世界経済を支配する強者の象徴だったかもしれない。しかし、そのまわりには、さまざまなひとたちの暮らしがあった。
 海外を旅行すると、旅先で貧富の差がますます拡大しているのを感じさせられる。その「悪の根元」が、いかにも地盤の堅そうなマンハッタン島に聳えていた、世界貿易センターだと考えるのはもっともかもしれない。しかし、実際そこに生活していたのは、「先進国」のエリートサラリーマンたちだけではない。テロリストたちが救おうと考えていた、貧しい国の貧しい人たちもまた、そこに依拠して暮らしていたのだ。
 テロリストの攻撃は、皮肉にもこうした現代社会の複雑さを、瓦礫のしたにみせつけたのだった。
 テロルによって、グロバリゼーションという名の「市場原理主義」をやめさせることはできない。おなじように、テロルの「首謀者」として、ひとりの男の首に三五億円の懸賞金をかけて殺したにしても、テロルをやめさせることはできない。
「市場原理主義」とは、弱肉強食の論理をやや上品にいっているだけのことだ。世界に経済格差をつくりだし、敗者をどんどんふやしていて、なんらこころを傷めることのない連中が世界を支配しているかぎり、テロリストを産みだす無限の憎しみをなくすことはできない。
 ひとりの男を捕まえて殺すために、なん百億ドルものカネをかけ、なん万人もの兵隊を送りこみ、なん万トンもの爆弾を投下し、なん千人もの人間を殺し、なん百万人もの人間から家と仕事を奪って、路頭に迷わせ、難民にしている。泥道に「参戦」の轍をつけておいて、つぎの出動をやりやすくするため、と解釈するしかない。それと米国への迎合である。 
 迎合はいじめられないための防御策、と考えたにしても、日本には戦争はしない、という国是(憲法)がある。独立した国の首相なら、自分の立場を主張するしかない。
 世界貿易センターへの攻撃のあと、日本の首相が、訪問先の大統領と会って、チャッチボールの相手をしてもらい、保安官のポスターをもらって帰ってきた。一国の首相としては軽挙妄動にすぎるが、それをとめた側近はいない。「日米友好」は国益と考えられているからだ。ロシアもイギリス、ヨーロッパの国々(少なくともイギリスはヨーロッパ)も、いじめっ子のような米国を支持している。
 しかし、戦争がどうして国益なのか。ほかの国の民衆を殺すのを、どうして支持できるのか。それが経済利益になるからだ、としたなら、経済的な利益のために、人間はなにをしてもいいのか、というしかない。

■効率主義の弊害としての狂牛病

  米英軍によるアフガニスタンのタリバン政権にたいする攻撃がくりかえされていたあいだ、日本を襲っていたのは、狂牛病パニックだった。
 これは厚生労働省の無責任体制に問題があったにせよ、その発生原因は人類的な課題ある。
 もともと草食動物である牛の飼育のために、牛の解体作業から発生した廃棄物を、飼料に加工して、仲間の牛にあたえる、という発想は、利益追及のためからである。母乳のかわりに商品価値のひくい骨肉粉を液状にして子牛にあたえ、放牧よりは手間のかからない牛舎に縛りつけて、草のかわりに骨肉粉をあたえていたのだ。
  「共食い」の野蛮な風習は、飢餓からではなく、効率の追求からはじめられた。この野蛮を牛に押しつけたのは、すべて利益だけで動く人間の都合である。クロイツフェルト・ヤコブ病をもたらすプリオンの発生は、自然の摂理を無視した、人間の欲望の結果だった。各国ともに、さいきんになってようやく、骨肉粉を牛にあたえることは中止した。
 新兵器を発明し、大量殺傷の効率化をはかり、「野蛮な民族」の頭のうえから新型爆弾を降り注ぎ、災いを後世に残す悪習は、戦争も飼育もおなじ論理になる。ひとを殺す効率化はもういいかげん、終わりにすべきだ。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/憲法をコケにするパラノイア首相

■月刊「記録」2002年6月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 5月9日にテレビ放送された、中国瀋陽の日本総領事館門前での光景は衝撃的だった。領事館(日本の領土)突入に失敗した家族3人に、中国の武装警官がタックルする生々しいシーンは、あまりに残酷であった。恐怖にひきつった子どもの表情が、脳裏から離れない。
 ところが家族の生死をわかつ瞬間に居合わせた領事館の日本人職員は、そのような光景など目に入らないかのようだ。警官の帽子を拾い、埃を払って渡していた。まるで我関せず焉――「俺はまったく関係ないよ」――といいたげな仕草は、難民や警官などのやっかい事を門の外にだした気分のあらわれだろう。
 そののち領事館に逃げ込んだ夫とその弟の2人は、館内まで進入した中国警官に拉致・収容された。日本領土内の中枢である館内に他国の警官が入るなど、国際法上許されない。もちろん主権を無視した行為である。
 しかし事件直前、阿南惟茂・駐中国大使が亡命希望者の入館防止を指示していたことが、14日あきらかになっている。さらに『毎日新聞』(5月16日)の報道によれば、「館内に入った人間は『追い出せ』『日本は亡命を受け入れていない』と(大使が)語った」という。
 それなら、館内からでてきた職員が、平然と帽子を拾って手渡した冷酷さもわかる。阿鼻叫喚の現場にいても見て見ぬフリをし、日本の領土に入ってきた窮鳥を救おうなどと考えもしない無感動人間なのもうなずける。すでに「亡命者」は追いだす方針が固まっていたのだ。だから、中国官憲が領事館に入り込み、北朝鮮(北朝鮮民主主義人民共和国)人の亡命希望者を連れ去ったのだ。なんと無責任で非人道的な対応か。国際的に流されたこの映像で、日本政府は人権にたいしてまったく無頓着だ、というハレンチぶりを明らかにした。

■日本政府はシッポを振るチン

 北朝鮮人民にたいしては取っ払うような対応を見せる日本政府も、一転、アメリカ政府にたいしてはシッポを振りつづけるチンのようだ。米国のアフガン攻撃に追随してブレア英首相は、自分はブッシュのプードルではない、と弁明したそうだが、小泉首相は、おれはチンでもスピッツでもない、ともいわない。
  『朝日新聞』5月6日にすっぱ抜かれたのは、4月にアメリカから要請されたイージス艦とP3C哨戒機のインド洋派遣の裏側である。この記事によれば、防衛庁海上幕僚幹部(海幕)が、在日米海軍チャプリン司令官を横須賀基地に訪問し、派遣を米側から要請するよう働きかけたという。これはシビリアンコントロール(文民統制)を無視した制服組の暴走である。政府に関係なく海幕幹部が勝手に自衛隊の派遣をアメリカに要求するなど、「売国奴」であり、処分ものだ。
 これまで海上自衛隊は、米国海軍と密接な合同演習をおこない、米海軍の弟分として動いてきた。だからアメリカ防衛産業から1100億円もの高値で買ったイージス艦をアメリカに貸してやる、そんな“意欲的な提案”をしたのである。そもそも自分の虎の子を他国の軍隊に差しだすなど、奴隷根性もはなはだだしい。
 この海幕幹部が米海軍司令官に渡した文面について、記者は次のように書いている。
  「内容は、インド洋に至る空母機動部隊進出時の護衛や、情報の収集及び提供など。空母護衛艦隊の中核がイージス艦であり、情報収集の有力手段がP3C哨戒機という触れ込みだった。
 文章は護衛の法的根拠を列挙したが、『共同訓練』名目で出動し、攻撃を受けたら自衛隊法の『武器防衛のための武器使用』や『治安出動』条項を使って反撃するという強引な拡大解釈ぶり。憲法が禁じる集団的自衛権行使への抵触など、どこ吹く風だった」
 また「攻撃機も潜水艦も保有しないテロリスト相手に、(イージス艦やP3C哨戒機が)何をするのか」とも指摘していたが、まさにその通りである。これから米軍が行うイラク攻撃の前にとにかく派遣しておきたいという制服組の野望と米軍への奴隷意識が、政府を飛び越えての直訴となったのである。
 いま問題となっている有事法制は、冷戦時代に研究されたものである。仮想敵国の侵入に対処する代物だ。20数年前、日本のマスコミが喧伝していたのはソ連軍の北海道上陸というシミュレーションであった。防衛庁の朝霞駐屯基地で、私も図上作戦計画を見たことがある。あんな時代がかった作戦が、今回の有事関連三法案に生き残っている。だからこそ物資運搬や死体の処理など、国内が戦場になることを想定している。ひるがえって考えてみれば、一体どこの国が戦車を北海道に上陸させ、北から南に侵攻するというのか。
 このような過去の妄想を、小泉ウルトラ首相は強引にひっぱりだした。この愚劣を許した背景には、『読売新聞』などを中心とした右派ジャーナリズムの憲法攻撃がある。いかにも日本国憲法が古いものであるように喧伝し、世論は誘導され、軍国化が進んでいる。
 さらにさかのぼれば、日米安保の下、経済成長で金余り大国となった日本の「思いやり予算」に行き着く。米軍の予算を援助することで、いい気になった日本国政府は、湾岸戦争に130億ドルも支払ったあと、米軍の戦争に協力する法案をつづけざまに成立させた。なかでも日米ガイドラインに基づく「周辺事態法」は、日本の軍国化への針を一気に進めた。
 いま予測される周辺事態は、朝鮮半島有事と台湾有事である。それによって米軍が武力攻撃を開始した場合、日本は周辺事態法に基づいてアメリカの後方支援をすることになっている。このとき「武力攻撃の意図が推測され、武力攻撃が発生する可能性が高いと客観的に判断される状態」(中谷元防衛庁長官)となれば「武力攻撃事態」であり、国内では国民の私権が制限される軍事体制となる。しかも「(相手に)武力攻撃の着手があった時」に、自衛隊は反撃(武力行使)できると福田康夫官房長官が発言している。
 まだ攻撃などしていない仮想敵国を、米軍とともに叩くなど、集団自衛権の乱用であり、無憲法状態である。しかし小泉首相が「事態の進展によっては両者(周辺事態法と有事法制)が併存することはあり得る」と断言した以上、平和憲法のもとで、米国の戦争に巻き込まれる可能性は高い。
 しかも、この「武力攻撃事態」の定義があやしい。小泉首相は、「事態の判断は、国際情勢、相手国の意図、軍事的行動などを総合的に勘案してなされる」などと、禅問答のような説明をしている。中谷防衛長官にいたっては、「武力攻撃事態は、規模や対応の面で特に限定することなく、あらゆる事態を含む。該当するかどうかは、時々の国際情勢や具体的な状況をふまえて判断すべきだが、武力攻撃事態に該当する場合もありうると考える」(『朝日新聞』5月8日)と発言した。
 つまり、とにかく、怪しければ「武力攻撃事態」なのである。
 5月12日の『朝日新聞』によれば、政府がまとめた武力攻撃認定の基準では、「『武力攻撃のおそれのある事態』と、その前段階の『武力攻撃の予測される事態』について、それぞれ日本を攻撃する可能性がある国の軍事的な準備行動を例示し、相手が多数の艦船を集結させた場合に自衛隊が防衛出動できる」という。偵察衛星などで仮想敵国の港に艦船が集結したのを発見した場合、その相手政府に電話をして「日本を襲うのですか」と聞くつもりだろうか。どうやって日本への攻撃と判断するのか。「専守防衛」から、先手必勝へ進むつもりなのか。戦争は「防衛」から「攻撃」への転換としておこされる。
 このような曖昧な基準で国内は「戦時体制」となり、首相は自治体に命令や代執行をおこなえる異常事態が出現する。こんな物騒な法律を強引に今国会で通過させようとしているのは、こんご予想されるイラクなど“ならず者国家”への米軍の「正義の戦争」に備えて、日本の協力体制を整えるよう、差し迫った要求がアメリカからだされたからであろう。実体のない冷戦時代のプランをムリヤリ法案化した理由は、それ以外にはない。米軍の戦争を支援する体制を、早急につくろうとしているのだ。結局、有事法制も、「テロ支援国家」への侵攻や朝鮮半島有事、あるいは台湾有事のとき、いかに米軍に協力するかという奴隷根性に根ざした法律でしかない。

■言論界に「トロイの木馬」

 進む戦時体制をバックアップするのが、言論を規制する言論規制三法である。5月12日には、『読売新聞』が個人情報保護法案と人権擁護法案の修正試案を提示した。小泉首相はこれに飛びつき、「この試案を参考にし、今国会で(両法案の)修正を検討してほしい」(『読売新聞』5月14日)、と語ったという。
 法案にたいして国会論議がはじまっていないうちに、首相が修正を指示するのも妙だが、その修正案を考えたのが新聞社だとは笑わせる。これこそ政府と新聞のデキレースである。マスコミ各社がやっと足並みを揃え、断崖絶壁に追い込まれた首相に、マスコミが新聞紙でパラシュートを作ってやったようなものである。つまり『読売新聞』は言論界に入り込んだトロイの木馬であり、さらにこのような言論の規制そのものが、戦時体制にむかうトロイの木馬だともいえる。もっと俗にいえば、読売は、政府の「御用新聞」になりきったわけだ。この「御用新聞」の社長が、日本新聞協会の会長である事実が、日本のマスコミの悲劇的様相をあらわしている。政府と一体化した新聞は、戦争中の大本営発表を思い起こさせる。この読売試案にたいし真っ向から批判した『毎日新聞』5月15日の記事は、賞賛に値する。
 そもそも個人情報保護法案の背景には、改正住民基本台帳法があった。国民全員に11ケタの番号をつけ、自治体のコンピュータをつないで番号や名前、住所といった情報を政府が一元的に管理する。こうした危険な法律の下で行政をコントロールするのが、情報保護法案の本来の役割だった。ところが政府は、法律の趣旨をねじ曲げて、マスコミ規制に使おうとしている。

■福祉切り捨て、税率アップ

 小泉内閣は、軍事大国化にむけた個人の抑圧と管理に執心している。さらに国民を徹底的に締め上げるため、健康保険法の改正と個人住民税の引き上げ、その見返りとしての「企業減税」まで実施しようとしている。
 健保法が改正されれば、医療費の自己負担は3割増しになる。法改正にともなう国民負担増について、70歳未満の人で年平均4000円。70歳以上の人は年平均で8000円になると、政府は発表した。しかし、この試算はあくまで「平均」である。実際の病人が、どれだけ膨大な金額を背負いこむことになるか。これまでも介護保険の導入により、病院から追いだされる老人が続出している。福祉切り捨て、軍事の強化という古い路線に、小泉パラノイア首相ははまりこんでいる。
 そのうえ増税である。6月にまとめる政府税調の基本方針に年数千円の個人住民税引き上げを盛り込もうとしている。消費税アップなどが噂も絶えないのにである。
 このような悪政は、ついに40パーセント以上の不支持率にまでなった。とにかく、小泉をつぶそう。もう一歩だ。まだまだ、『読売新聞』のような、庶民を裏切るような新聞が最高部数を占め、悪政をほしいままにしている自民党が、公明・保守ともに盛況であるのだが……。
 この事態を変えなければ、市民は安心して眠れない。小泉政権とは、米軍の支援のために人民を犠牲にする政権であり、売国奴チン政権といっても過言ではない。「仮想敵国」から派遣されるという「仮想テロ」を道具に使い、有事法制で国内体制の支配を強化する陰謀。報道規制によって、権力者の情報を遮断し、人民の情報を管理する謀略。いよいよ、支配強化それにたいする反撃の局面となってきた。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/「異常なし」社会の崩壊過程

■月刊「記録」2002年10月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 いまさら社民党の批判をするのも、気の抜けたビールのようなものである。しかし憲法改悪へと突き進む政治状況下で、護憲にこだわる政党の消長は日本の社会にとって見過ごすことはできない。
 これまで何度も批判してきたが、社民党の古い体質と判断停止には呆れるばかりである。たとえばJRから解雇された国労組合員を見捨てるばかりか、「四党合意」というデタラメで国鉄解体をはたして自民党と結託し、国労分裂に手を貸す犯罪行為。政党買収というべき政党助成金もいまだに受け取りつづけ、国会はもちろん党内でも問題にしてしないグズ。薬害エイズ訴訟で官僚と闘いつづけた川田悦子議員が東京21区で立候補したさいには、なんと対立候補を擁立する官僚体制。田中康夫が再選をはたした先頃の長野県知事選では、判断停止の自主投票。それ以前におこなわれた田中康夫知事にたいする不信任決議案では、社民党系の社会県民連合は議場から退席し、可決を手助けした。土木関係企業と密接な関係をもつ議会派と決別できないのだから、あまりにもヒドイ。
 こうした醜態をさらすのは社民党の奥底に、自民党と談合する55年体制の沈殿物が蠢いており、その暗部に党が支配されているからである。ズブズブの不気味な底なし沼体制では、土井たか子党首や福島瑞穂幹事長、保坂展人議員などが、どんなにかんばっても足もとから沈んでいくばかりだ。今後の選挙でさらに敗退をつづけるのは、まちがいない。
 社民党が潰れても、それはみずから蒔いた種であり、自業自得というものだ。ただし憲法、とりわけ9条を護る一角が崩れ去っていくのは忍びないし、影響も大きい。キチンと責任をとるべきだ。
 再生のためには、古い体質が染みついた党官僚と、どう決着をつけるのかが問題となる。内部で徹底した対決がはじまらないかぎり、党がズルズル崩壊していく道は避けようもない。
 55年体制の醜悪なオデキの露呈は、村山富市政権だった。このとき日米安保や原発を容認し、無原則、無責任、ゴマスリ政党へと突き進んだ。日本の軍国化が不安視され、原発が崩壊過程にむかっているいま、社民党が裏切ったツケを抱えて力を失っているのは皮肉である。もし55年体制の崩壊時に、改めて結党以来の方針を高く掲げていたなら、現在、先見性のある政党として、反有事法体制や原発批判でも影響力をもっているはずだ。有事法制や「共謀罪」の導入反対などに大きな影響力を発揮できたにちがいない。なにかあっても「異常なし体制」で自己判断なく過ごしてきた社民党は、ダメ日本の申し子である。

■内部告発者を東電に報告

 私が原発を批判するのは、そのすべてが不正だからである。それは原発の建設の過程であれ、運転時であれ、事故を起こしたときの対応であれ、すべて一貫している。秘密と不正の巣窟なのだ。
 8月29日、経済産業省の原子力安全・保安院の発表によって、東京電力の破損隠しスキャンダルがあきらかになった。これも、いままでごく当たり前に電力内を支配していた行動の一部があきらかになっただけのことで、驚くにあたいしない。
 今回の問題の発端は、電力会社の自主点検にかかわっていた社員の内部告発だった。そこから約2年間にわたる経産省の生ぬるい調査にたいして、シラを切り通してきた東電だったが、ことし8月に突如、捜査に協力的となり、原発の損傷をもみ消した事実を経産省に伝えたとか。この中には、炉心隔壁(シュラウド)にひび割れが見つかったのに国に報告しなかったなど、大事故につながりかねない事態もふくまれていた。
 しかしウソつき東電の本領発揮はここからだ。スキャンダルに社員がかかわっていたことを初めて認めたのが、事態公表から3日目。そののちトラブル隠しの方法もかなり悪質だったことが発覚。福島第1原発では、ひび割れの見つかったシュラウドを取り替え、シートで隠して国の検査をやり過ごした。緊急炉心冷却システムで見つかった損傷の兆候には、金属部品を取り付けたあとに周辺を色まで塗ってごまかしたという。
 といっても、今回の問題の根本に、経産省の体質が深く関係していることを忘れてはいけない。
 あらためていうまでもなく、日本の原子力行政は原子力推進体制である。アメリカ従属の中曽根康弘などの指導を受け、旧通産省は率先して「原子力」の旗を振ってきた。その実行に強力な“力”をあたえたのが、九電力体制という地域独占である。9つの電力会社に電力事業を独占させ、欧米諸各国と比べて割高な電気料金を保護する一方、政治力と補助で政府の方針に逆らわないよう縛りをかけた。
 この悪の構図では、ピッチャーとアンパイヤがおなじ仲間である。どんな問題が発生していても、「ストライク(異常なし)」と判定しつづけてきた。今回、重大事故が発生する前に、隠しきれなくなった審判が「不正」を告発したが、経産省が原発の安全に気を配っているわけではない。それが証拠に、シュラウドにひび割れの疑いのある福島原発1基、柏崎刈羽原発2基は、運転停止処分にさえしていない。毎日新聞(9月3日)によれば、「疑われるトラブルが軽微な原子炉まで停止したら、電力供給に支障が生じかねない」と、経産省は説明しているという。
 経産省の原発推進政策を阻むものは、誰であろうと許されないのだ。かつて四国電力社長が、「原発は時期尚早」と経済雑誌で発言し、旧通産省からゴツンされて撤回した一幕もあった。
 もちろん今回の事件でも、経産省が狙ったのは事故隠しであった。原発の点検作業を担ってきた米ゼネラル・エレクトリック(GE)元社員から、東電の破損隠しについて経産省保安院に内部告発があったにもかかわらず、実質的な調査に入らなかった。
 それどころか告発者の情報を東電に漏らしたという。行政が内部告発者の名前を、内部告発の対象会社に教えるなど、人間としてのモラルに反するばかりか、公務員としての重大な犯罪行為である。
 こうした不誠実な態度によって内部告発から公表まで2年間もかかったにもかかわらず、保安院は「告発者保護を最優先にしたため」などと長いあいだサボっていた理由を説明している。わずか2週間余りでバレるウソをつくぐらいなら、「国策としての原子力政策のスピードを落とさないためだった」とハッキリ発言すればいい。1970年中頃には、東電の報告書に書かれた原発損傷の兆候を、旧通産省官僚が「異常なし」と書きなおさせた事実も判明している。なにがあっても「異常なし」の大本営発表は、原発推進が国策だからだ。国策のためには、国民が死んでも仕方がないと官僚たちは考えている。
 どんな事故が発生しようとも、原発推進。むかし軍隊、いま官僚。玉砕覚悟で戦艦大和を沖縄に派遣したり、特攻隊を無目的に突っ込ませていた旧軍部の無責任体制が再現されている。

■カネカネカネの“金”子力発電所

 経産官僚と一体になって原発を進める自民党の政治家も、東電のスキャンダルは気にする様子もない。福田官房長官は、政府の原発を見直す可能性について、「全くない。安全が保障されれば、環境的にもコストからみても、現状ではこれに勝るものがない」(『毎日新聞』9月3日)と明言している。どうしようもない無責任さだ。
 JCOのような大事故も起き、存在自体が危ない原発の安全基準さえ守れない電力会社の体質があきらかになっても、「異常なし」「安全だ」としかいわないのは、自民党自体が崩壊過程に入っていることをしめしている。
 これほどいい加減な企業姿勢を東電がもちつづけられたのは、日本最大の電力会社として財界・政治家・マスコミ、そのすべてを牛耳ってきたからである。
 今回のスキャンダルで東電を退陣する5人の経営陣も、荒木浩会長は日本経団連の副会長、那須翔相談役は同評議会会議長、平岩外四相談役は同名誉会長を務めていた。歴代の東電社長は、財界で君臨するのが当たり前だったのだ。古くは木川田一隆氏が経済同友会の代表幹事まで登りつめているし、水野久男氏は東京商工会議所副会頭にもなった。先述した平岩外四氏など12年間も経団連副会長を務め、そのあと経団連会長になったという。自社の不正に目をつむり、経済界で大きな顔をしていたとは、たいした神経のもち主である。
 政治家にも強い影響力を発揮するのも、東電の「お家芸」である。そう、お得意の献金攻撃だ。『朝日新聞』(9月13日)によれば、2001年には役員の少なくても35人が、自民党の政治資金団体などに総額605万円を個人献金した。「個人のやり取りの問題で、一切関与してない」と、東電は個人献金を説明したようだが、「個人のやり取り」が聞いて呆れる。ちなみに電力九社まで献金の対象を広げると、役員の87%、228人が3390万円を個人献金したことになる。いわゆる「実弾」が飛び交っていたわけだ。
 これまでもわたしは、原発社会がカネに汚染されていることを強調してきた。原発立地地域あるいは原発予定地では、カネを巡る荒廃が極端なまでに進んでいる。カネなしでは運転できない原発を、わたしは“金子力発電所”と名付けている。こうした地域の状況については、『日本の原発地帯』(岩波書店)『原発列島を行く』(集英社新書)などにも詳しく書いた。
 悲しいかな現状に変化はない。9月13日の『朝日新聞』が報じたところによれば、島根原発に隣接する島根町は、ことし中国電力からとみられる匿名の寄付3億円を受け取った。昨年もおなじく匿名で6億円も寄付されたという。原発立地点の鹿島町にいたっては、ことし7億円にのぼる匿名希望の寄付を受けている。こうした足長おじさんを装った危険への「代償工作」を、各電力会社はごくあたり前のように、実行してきた。住民のほっぺたをカネで叩く電力会社の基本的なスタンスは、中曽根以来の手法である。
 ただ、これだけ安全が脅かされると、カネだけでは地域にフタをできない。今回のスキャンダルにより、福島県知事や新潟県知事および地元市町村は、プルサーマル計画の白紙撤回にむけて動きだした。また経済産業省の村田成二事務次官も、「(プルサーマル計画は)まったくの発想を変えた取り組みが必要となるかも」と話している。ついに行政側からも、疑問の声があがりはじめた。
 プルサーマル計画は、核燃料廃棄物を再処理工場に運びプルトニウムを取りだして再利用する。そのため計画の中断は、六ヶ所村に建設中の再処理工場の存在自体を問い直している。実際、事務次官の発言にたいして、木村守男・青森県知事は「理解に苦しむ」と語っている。知事の心情はともかく、1兆円以上も投資した再処理工場は、原子力船むつのように膨大な無駄遣いとして終わりそうである。
 核燃料サイクル自体が見直されることになれば、原発から発生する廃棄物をどこで処分するのか。使用済み核燃料を一時保存する中間貯蔵所の建設を、各電力会社は進めていが、そこが最終処分地となれば、どの自治体も容認しない。もちろん一時保存を認めさせるのもカネだ。
 中間貯蔵所を誘致している青森県むつ市の杉山粛市長は、貯蔵約40年間で国から322億円入るという皮算用を披露した。すでにむつ市は、施設の立地可能性調査を実施しているため、年間1億4000万円の交付金を国から受けている。まさにカネカネカネの異常事態である。電力会社が地域や政治家に払う金は、電力会社を選択できない消費者からむしり取った電気料金だし、各自治体に払われる交付金は国民の血税である。一企業にすぎない電力会社が、まるで土砂降りの雨のようにそのカネをばらまいている。それが黙認されてきたのは、マスコミが原発のカネに汚染されているからである。
 東電の破損隠しは、原発の根元を揺るがせる問題になってきた。これをどう運動化するかが問題だ。もはや社民党や共産党、まして民主党などはアテにできない。いままで以上に市民ネットワークを強化し、政府と原発会社に強く抗議の声をあげることが求めれられている。

■アジアの平和政策のために

 9月17日、小泉純一郎首相が朝鮮(朝鮮人民共和国)を訪問したのは、彼のなりの世論対策であり、大ばくちだった。その結果、拉致された13人のうち8人が死亡していたという、最悪事態が判明した。
 小泉の行動で評価できるのは、ハンセン病裁判で控訴しなかったことぐらいだ。それさえ元ハンセン病の人たちの熱意と世論に、小泉が敗北して実現したものだった。
 訪朝前、『週刊新潮』や『週刊新潮』は「朝鮮征伐」のような反朝鮮キャンペーンを張っていたが、これはきわめて見苦しい。アジアの平和をつくるには、南北朝鮮の平和的な関係、日本と朝鮮の平和的な関係および朝鮮とアジア全体との関係をぬきには考えられない。アメリカ一辺倒の小泉が朝鮮にでむいたのは、ブッシュのOKがあってのことだが、平和のための日本と朝鮮との国交回復の端緒にはなるだろう。
 拉致事件の遺族の方の心情は察するに余りある。しっかりとした事実確認と解明、こんごの対策が絶対に必要だ。しかし朝鮮は、孤立化させられてからも、いろんな国との関係をもとめはじめている。アジア全体の平和政策を考えるうえでも、大人のつき合いによって、新たな時代をつくるべきだ。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/“臭いモノにはフタ”内閣の暴走

■月刊「記録」2002年7月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■核保有も「どうってことない」口先宰相

 新聞を広げると一面トップからサッカー、テレビをつけるとトップニュースがサッカー。新聞もテレビもサッカーだらけである。まるで日本の惨状を隠す陰謀の煙幕のようだ。
 サッカーボールの陰に隠れていたのは、“政府首脳”の「『(核を)持つべきだ』ということになるかもしれない」との踏んだり蹴ったり発言である。
 内閣と新聞とには奇妙な取り決めがあって、官房長官の言いたい放題は、“政府首脳”の煙幕ですまされてきた。福田康夫官房長官の「爆弾発言」を翌日の朝刊一面であつかったのは、『毎日新聞』だけ。『朝日』と『読売』にいたっては、申し訳ていどの記事を掲載していただけ。煙幕新聞である。
 このなかで気を吐いたのが『東京新聞』だった。福田が公式の記者会見で語った内容と“政府首脳”の発言を絡め、「福田長官『核持てる』」と一面トップで報道した。2面でも「タカ派体質浮き彫り」の見出しで福田を徹底批判し、社会面にいたっては福田にたいする被爆者の怒りを報じた。
 この『東京』の怒りの報道によって、各紙のあつかいがコロリと変わる。「政府首脳」こと福田官房長官は連日釈明に追われることになった。もし『東京新聞』がこれだけ力を入れて報道しなければ、この政府の最高責任者のひとりである官房長官の重大な発言は国民に知られることがなかったはずだ。
 そもそも福田発言は、早稲田大学で講演した安倍普三官房副長官の発言内容について述べたものである。「憲法上は原子爆弾だって問題はないんですからね、憲法上は。小型であればですね」(『サンデー毎日』2002年6月2日)という安倍副官房長のトンデモ爆弾発言を、福田官房長官が容認し、さらに拡大したのである。
 一方、事件の発端となった安倍は、『サンデー毎日』の取材にたいして、「政治の場ではなく、大学の講義という場で、しかもオフレコなので、突っ込んだ話をした。それを、だれが知らないが、テープにとり、外部に出し、揚げ足取りをする。卑怯で、ルール違反じゃないか。また、それをセンセーショナルに書くなら、ひどいことだ」などと語っている。オフレコを書いたのが問題であって、この発言は言い間違いではないといっているのだ。安部の思想は核容認である。こういう手合いが、日本の中枢を占めている。
 しかも“政府首脳”の問題発言について、小泉首相は「あれどうってことないよ」などとノー天気に発言している。本人自身もこの程度なのだ。この“口先”宰相は、「どうってことない」とたかをくくりつづけて60数年生きてきた人物だが、まるで首相正副官房長官が核武装のアドバルンを上げたのと、おなじことである。
 だいたい官房長官・官房副長官から首相にいたるまで、これだけの暴言を吐きながら、「正常」に政治運営をつづける小泉内閣は、まさに“臭いモノにはフタ”内閣。野党は完全にナメられている。
 いまさらいうまでもなく、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則は、被爆国である日本の民衆の究極の悲願である。いまだ年に何人もの被爆者が死んでいる。そんな悲劇を繰り返したくないという強い思いが結実したのが、非核三原則だった。それを無視して、「日本も核保有が可能」と政府首脳たちがいいきっている。戦争にたいする彼らの反省が、どれほど不徹底だったかがよくわかる。
 福田・安倍・小泉これらの二世、三世議員の政治姿勢は、幼稚園児クラスといって間違いない。「売り家と★唐様★(ルビ:からよう)で書く三代目」。江戸時代の川柳のように、小泉家が三代目のお坊ちゃん政治家によって倒産するのはかまわない。しかし三代目政治家が首相になり、日本低国は世界から見放されようとしている。

■証拠を隠せと官に圧力をかける幹事長

 おなじころ、防衛庁でも大きな問題が発覚した。防衛庁に情報公開請求をした人物の身元を組織的に調べ上げ、請求時には書かれていなかった必要のない職業や思想信条まで書き入れたリストを作り、庁内の職員専用LANに掲示していたのである。
 しかも問題発覚後に、伊藤康成・防衛事務次官が「『漏らしたやつが悪い』というのは、まさにその通りです」などと発言する始末。外国の軍隊ばかりではなく、国民さえも「仮装敵国」として監視する防衛庁の過剰防衛としての攻撃性があきらかになった。
 防衛庁自身は、情報を、防衛秘密機密、防衛秘密極秘、防衛秘密秘、機密、極秘、秘という6項目に分け、がんじがらめにコントロールし、国民の眼から隠匿してきた。また防衛産業で働く労働者の思想・信条を徹底的に調べあげている。塀を巡らせた工場内をさらに金網で区分するなど、秘密を守るためにきわめて閉鎖的な職場環境まで作っている。もちろん労働者には、何をつくっているかは秘密にさせている。
 その一方で、防衛庁に近づいた者のすべてについて情報を収集し、徹底的に監視している。思想および病歴、収入などはプライバシーに該当するものであって、コンピュータにいれることなどは防がなくてはいけないのだが、国民を敵とみなしている防衛庁は、せっせと情報を蓄えている。
 防衛庁には、「調査隊」という関係業者などの身辺調査や監視活動をおこなう秘密の部署がある。自衛隊の秘密を探ったり、基地襲撃を企てたりする行動に対処する部署だというが、もちろん今回の事件でも一枚かんでいる。情報公開を請求した市民運動団体やジャーナリストを、基地襲撃するもの、と認識しているとしたなら、「治安維持法」の時代とおなじで、すでに言論の自由などはない。
 内閣調査室や防衛庁の調査隊、あるいは公安警察などは、国民に敵対する存在であり、膨大な秘密費を使って情報を収集している。本来、情報の保護とはこのような官に個人情報が集中することを防ぐためにある。ところが小泉内閣は、それとは正反対に、政治家や官庁の情報を防御するために、個人情報保護法案成立などを成立させようとしている。
 きわどいスキャンダルを週刊誌に追求されている山崎拓幹事長が、個人情報保護法成立に真っ先に賛成するのは笑わせる。もちろん今度のリスト問題でも情報隠匿に走り回った。38ページにおよぶ防衛庁の調査報告書を公表せず、4ページの概要だけを発表するよう、防衛庁幹部に圧力をかけている。しかも概要の原文にあった「証拠隠しと言われてもやむを得ない」という表現まで削除した。“臭いモノにはフタ内閣”とは、こんなオソマツな連中でつくられている。

■官民一体の毒ガス国家に

 臭いモノにはフタをしていたのは、何も政治ばかりではない。企業でもこれまで抑え込んできたフタが外れ、全国に悪臭がひろがっている。
 ミスタードーナッツを運営するダスキンは、肉まんに無認可の酸化防止剤が使われていたのを知りつつ、300万個もの肉まんを販売しつづけた。また口止め料として、問題を指摘した取引業者に6300万円を支払い、公表を促した幹部には「(秘密を)墓場まで持っていけよ」と厳重に口止めした、と報じられている。
 協和香料化学は、無認可の物質を含む香料を30年以上に渡って出荷。会社社長も7年前から違法なことを知りつつ、操業を続けていた。この企業が製造した香料は、全国175社の食品メーカーに出荷され、何も知らずに製品に使ってしまったメーカーは、連日、各新聞に謝罪広告を出している。社会面の3分の1を埋める謝罪広告は、隠していた悪臭がどれほどひどいものだったかをしめしている。日本は、官民一体の「臭いモノにフタ」の毒ガス国家となった。
 ここで注目したいのは、企業が悪事を隠してきた事実だけではない。こうした不正が発覚したいきさつである。協和香料化学の場合は、東京都食品監視課に郵送された匿名の投書がきっかけだった。30年以上伏せられた秘密は、内部告発によってようやく明らかになったのである。ダスキンの場合は取引業者の告発だったが、企業の秘密を知る、ひろい意味での内部告発者という見方もできる。
 現在審議中の個人情報保護法案が定める基本原則を活用すれば、ニュースソースの「透明性」の強制によって、あるいは、「本人が適正に関与し得る」として内部告発者を追いつめることができる。法案が成立すれば、防衛機密とおなじように企業の秘密も保護されることになる。
 1970年ごろ、わたしは長崎県対馬にある東邦亜鉛の公害を取材に行った。取材先では、毎日のように会社の守衛に尾行され、近くの駐在巡査が滞在先の家に調査に来たり、あるいは東京の留守宅に興信所が来るなど、激しい取材規制を受けた。また東邦亜鉛の副社長にも何十回となく申し入れて取材に応じさせ、取材内容を録音したテープで暴露し、問題を社会に喚起したこともある。
 当時はまだ、報道や言論の自由という観念が企業内にも強く、このような取材が中止になることはなかった。しかしメディア規制三法が成立すれば、公害企業にたいするしつこい取材は、権力によってあっさり中断されることになる。
 東邦亜鉛への取材は、『隠された公害』として三一新書から出版(現在は、ちくま文庫で刊行)した。そののちには、東邦亜鉛の技術者から内部告発の資料も送られてきた。その書類には、東邦亜鉛がいかに公害隠しをしたのか、きわめて具体的に書かれていた。
 参考までに例をあげよう。
 鉱業所で汚染されていた重金属の物質を、深夜トラックに積んで川の上流に放り投げた。投棄後に調査した厚生省(現・厚生労働省)の調査報告書の結論は、「上流も汚染されているので、汚染は鉱業所の起因するものではなく、自然発生である」になった。
 また、鉱業所に保管してあった、下流の調査用サンプリング水を、会社の命令を受けた労働者が汚染されていない水で薄め、汚染度を半減させた、などと詳しいデータとともに書かれていた。
 個人情報保護法があれば、こうしたデータを使おうにも内部告発者が犯罪に問われるかもしれない。また書いたわたしもニュースソースをいうように追求されることになる。あるいは会社側が「関与し得る」として、メディアへの発表を食い止めることもできる。
 しかも個人情報保護法と平行して審議が進んでいる有事法制が成立すれば、これまで「事変」や「事態」、「有事」などと呼んできた「戦争状態」に、政府が放送局や新聞社を支配できるようになる。小泉口先首相を中心にした「幼稚園児」内閣の二世、三世たちの無知にして横暴が、ここにもストレートにあらわれている。主権である選挙民への挑戦である。
 幸いなことに世論の反対により、メディア規制三法および有事関連法案の今国会での成立は難しそうだ。だが魯迅の有名な言葉「水に落ちた犬は打て」の通り、いまこそ徹底的に追撃して2つの法案を廃案に追い込むしかない。フタマタコーヤク民主党は、次の国会などで法案の修正に応じるのかどうか、見識が問われてくる。公明党はもはや「公明」などではなく、モーマイ党。
 ここでも何度か主張したように、政府が報道機関を抑え込もうとするのは、国民の知る権利を否定であり、けっして認めることができない。 加藤紘一は起訴されずに逃げ切ったが、鈴木宗男や田中真紀子など、まだまだ懸案の問題が山積している。鬱憤を晴らすかのように、サッカーで大声をあげている場合ではない。叫ぶなら「小泉を倒せ!」と叫ぶべきで、「日本バンザイ」など寝呆けたことをいうな。(■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第26回 見捨てられた弟

■月刊「記録」2001年12月号掲載記事

*           *          *

「正利を引き取ることはできません。経済的に援助することもできません」
 そう、お姉さんはきっぱりと言って帰っていった。
 お姉さんが帰ったあと、ぼくは正利と話し合うために、正利の部屋へ向かおうとした。そして、歩きかけた廊下の先に正利を発見したのだ。
 いつものことだが、唇をすぼめ、目を見開いているインパクトのある表情。今までのお姉さんとのやりとりが、一気にすべて吹っ飛んでしまうような顔だった。
――こいつの顔は、嫌なことを全部忘れさせてくれるほどのじつに素晴らしい顔なのだ――
そんな服は着るな
 正利は、ぼくをみつけるなり「せんせ、せんせ!」と手足をばたつかせて叫んだ。
「せんせ、いま、おねえちゃんきてたでしょ」
「なんで知ってんだ」
「だって、たけしがおねえちゃんみたっていってたのよ」
「ああ」
 仕方がなく、ぼくは曖昧にうなずいた。
「おねえちゃん、なんできたの?」
「うーん、いいよ。とりあえず部屋へ行こう。おまえの部屋」
 部屋の中は、電気が消えていて真っ暗だったが、それでも散らかりぶりがわかるようなありさまだった。
「おい、正利この前、お姉さんの婚約者にもらった洋服あったよなぁ」
 ぼくは訊いた。
「あるよ」
 あいつは腹話術のように、ほとんど口を開かずに答えた。
「それ、おまえもう着なくていいよ。捨てちまおうぜ」
 正利は何も言わず、ゴソゴソとベットの下を探した。 「はい」
 みつけ出すとあいつは、ダンボールに入れっぱなしの一箱分の洋服を、ぼくに押して寄こした。
「どうして、きちゃいけないの」
「いいんだよ、こんなの、今度買ってやるから。とりあえずこれオレにくれよ」
 ちょっと間をあけてから、あいつは言った。
「なんで」
「その洋服なぁ…。それ、今度なぁ…。おれの車を洗車するときに使わせてもらおうかなと思ってな」
 すると、あいつはふてくされた顔で言った。
「なにいってんのよ、このひとは。じょうだんばっかりいってんだから」
 それは心の底からのおかしそうな顔だった。
 こいつは、自分がお姉さんに見捨てられたなどとは、夢にも思っていないようだ。
 ぼくは事実を言うべきかどうかを考えた。何もかも洗いざらい言うべきかどうか迷った。
 だが、言ってしまえば、あいつの大好きなお姉さんを貶めることになってしまう…。
 ――正利との約束を守らず、彼氏を取ったお姉さん。いい加減なお姉さん。調子のいいことばかり言う、嘘つきのお姉さん……。
 そんな嫌なお姉さん像をあいつに叩き込まなければならない。それはさすがに少し酷な気がした。
「もう、おれ、ねるね」
 あいつのどろんとした声が聞こえはっとした。あいつの顔に目をやるとと、薄ぼんやりした表情が目に映った。
 それは、今まさに一日の終わりを迎えようとしている。そんな感じだった。顔からは血の気が引き、口はだらしなく半開き。目の焦点は合っていない…。
 それらを見てぼくは迷うことをやめた。
 チャンスだ! そう、今なら何を話したって、こいつには理解不能に違いない。いつかは言わなきゃいけないことなんだ。だったら今、片づけてしまおう。
「わかった、わかった。もう、いいよ。おまえ、寝たほうがいいよ」
「ああー」
「それとねぇ、お姉ちゃん、来ねぇよ。あの男の人も来ない」
「えっ?」
 さすがに正利が反応した。
「まぁ、来ないったって、しばらくってことだから。大丈夫、大丈夫」
「ああー」
「ほら、もう寝ろ、寝ろ」
「ああー」
「来週の日曜日はどっかにめしでも食いに行こうか?」
「ああー。ひとしは?」
「仁史も一緒、一緒。おまえ今、仁史と仲良しだもんな」
「ああー」
「じゃぁ、おやすみ」
 あいつは二段ベッドの上の段にゆっくりゆっくり上っていった。  (■つづく)

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ホームレス自らを語る/大穴が当たって女房は去った・上野宏彰(54歳)

■月刊「記録」2001年6月号掲載記事

*          *          *

■幸せな家族が暗転

 23歳のときに、お見合いの話がきたんだ。京都・丹波の片田舎で働いている娘でね。俺の都合のいい日に、彼女が勤めている工場に会いに行けばいいからって言われた。
 行ったよ。汽車を降りてからバスで二時間もかかってたどりついた。本当に遠かったな。お見合いたって、社員食堂を借りて、仲人と一緒に彼女と飲んだり食ったりしてさ。互いにOKして結婚した。
 背の小さい人でね。足が少し悪くていくらか引きずるんだ。俺より1歳年上だった。丸顔でさ、かわいかったんだ。
 当時、俺は東京で大工をやっていてさ。忙しかったんだよ。仕事は真面目だったしな。お見合いの五年ほど前、ちょうど東京オリンピックの前なんか忙しくて忙しくてよくかせいだよ。働けば働くほどゼニになったんだから。
 所帯を持ってからは、子どもにも恵まれた。女三人、男二人の五人兄妹。幸せだった。でも一つだけ失敗したんだ。
 その日は仕事が忙しくてね。仕方ないから女房に電話して、立川競輪のレースを1万だか2万だか買っておくように言ったんだ。その大穴が予想通りきて、3万1850円もついたんだよ。1万円で300万円以上だから、当時としたらすごい金額だよ。「おー、当たった」なんて喜んで、家に帰ったんだ。ところが女房は「買ってない」って答えた。思わずひっぱたいちゃった。思いっきりね。
 それで女房は実家に帰っちゃったんだ。俺もあわてて、女房の実家に電話した。5、6回はしたかな。でも一ヶ月ぐらいたって、俺の育ての親で、二人の仲人でもある「おやじ」から手紙が来たんだ。相談があるとね。行ったら、「別れろ」と言われたよ。そうなると別れるより仕方なかったな。

■お父ちゃん、お父ちゃん

 それからだよ、酒の量が増えていったのは。酒を飲むと寂しくなって、女房に電話をかけちゃう。2時間も3時間も話して、泣きじゃくっちゃう(笑)。女房は鹿児島の実家に帰っていたから、電話代もすごかったぞ。1ヵ月で30万円を支払ったこともあったからな。
 きっとさ、女房も本当は別れたくなかったんだと思う。そうじゃなきゃ、こんなに話もしないだろ。ただ、家族の反対とかもあって、やっぱり別れることになったんだろうな。
 その後、女房は再婚した。
 俺と離婚してから1、2年たってからかな、5人の子どもを連れて東京都昭島市にあった俺のアパートを訪ねてくれたんだ。わざわざ高知県からさ。
「お父ちゃん、いま高知にいるんだよ」
「お父ちゃんも一緒においでよ」なんて子どもから言われてさ。再婚しているのに行けるわけねーじゃん、なんて思ったな(笑)。
 女房と5人の子どもを連れてパチンコに行って遊んで、それから定食屋に行ったんだ。「どんなもんでもいいから、好きなもの頼め」って言ったら、みんな喜んでね。
 何を食べたかは、覚えていねえな。でも、俺は何も食べずにビールを飲んでいたよ。みんなが食べるのを見ながら、ただビールを飲んでたんだ。女房もうれしそうでね。「親が別れさせた」というようなことを、俺にもらしていたよ。
 食べ終わってから、青梅線に乗って立川駅までみんなを送った。肌寒い日でな。たしか上の娘は、赤っぽいセーターを着ていた。
「お父さんも、あんまり無茶しないでね」って女房が言ったら、上の娘もマネして言うんだよ。生意気にさ。「お父ちゃん、あんまり飲まないでね。お父ちゃんも高知に行こうよ」って……。
 一緒に暮らしていたとき一番うれしかったのは、家に帰り着いたときなんだ。玄関を開けるだろ。そうすると一番下の娘が駆け寄ってくる。「お父ちゃん、お父ちゃん」って、足にしがみついてくるんだよ。かわいくてな。
 でも、立川駅で別れて以来、女房にも子どもにも会っていない。高知まで行ってみたいと思ったけれど、住所を知らなかったから、会いたくても会えなかった。それにこのあと、酒におぼれた生活を送ることになったからさ。

■結局は長期の入院

 俺は本当の親父の顔なんて知らない。見たことないんだよ。小学校だって、ろくに行ってない。実家の家計を助けるために働いていたんだから。
 松の実って知ってるか? あれはけっこうな値段で売れたんだよ。小学校時代、裏山で松の実を大量に採って売ったもんだよ。何千円かもうかったんじゃないかな。当時から女には優しかったから、お母さんに渡したお金の残りで同級生の女の子にプレゼントを買ったよ。ノートとか鉛筆とかさ。
 そうそう、船に乗っていた時期もあったな。小学校だか、中学校だか、キビナゴ漁を手伝っていたんだ。夜中に漁に出て、薄暗いうちに帰ってくる。バッテリーのライトを10個吊して、キビナゴが集まってくるのを待つんだ。もちろんキビナゴ以外の魚が釣れることもあったよ。50センチのブリがかかったこともあったしな。
 でも、中学校のときには、お母さんも死んじゃって、あっちこっちの親戚に預けられた。中学三年のころには、生きるために大工仕事を始めていたよ。
 それから働きづめに働いて、気がついたら女房にも逃げられて一人だろ。酒の量はどんどん増えたよ。朝起きても、だるくて仕事なんか行けないんだから。「明日は必ず行きます」なんて電話して、また飲むわけ。そんなことが続けば、仕事仲間からだってあてにされなくなっちゃうよ。もう完全にアル中さ。アル中になると、店の酒をかっぱらってでも飲みたくなるんだ。とにかく酒がほしくてしょうがない。我慢ができない。
 そんな生活を続けているうちに、アパートに市役所の人が来たんだよ。強制的に病院に入れられた。それからアル中と結核の治療で、10年間も病院で生活することになるんだ。

■死ぬ度胸もない

 さあ? アパートに残った荷物がどうなったかは知らないよ。きっと福祉課かなんかの職員が、放り投げたんだろ。入院してから、アパートになんか帰っていないんだから。
 まあ、強制的な入院だったけれど、病院の居心地は悪くなかった。国からもらえるお小遣いを看護婦に渡して、お酒を買ってきてもらったりさ(笑)。お菓子なんかも、よくもらったよ。お風呂も看護婦さんが入れてくれて、背中まで全部流してくれるんだ。病院に帰りたいと思うことはあるな。
 退院したら40歳も目前になっていた。仕事は飯場回りしかない。つい5年ほど前までは、神奈川の登戸でアパートを借りていたんだ。でも、仕事がなくなって、アパートを追い出された。いまはアルミ缶集めが仕事かな。一キロ集めて85円。譲ってもらった自転車に積み上げて、やっと500円ぐらい。市から食べ物をもらって、足りない分はエサを拾いに行って……。
 生まれてくるんじゃなかったよ。でも死ぬ度胸もない。いまでも思い出すのは、女房のことかな。あんないい女房はいないよ。旦那に尽くす女だった。
 でも、会うことすらできないんだからな。 (■了)

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ホームレス自らを語る/いま恋愛中です・筑紫一彦さん(52歳)

■月刊「記録」2001年6月号掲載記事

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■理容コンクールで全国七位に

 本業は理容職人でした。理髪店ですね。オヤジが理髪店をやってましたから、その跡を継いだわけです。
 生まれは岐阜県の可児市で、三人兄弟でした。ただ、男はボクが一人でしたから、小さいころからオヤジの跡を継ぐのは当然のように思って育ちました。ボクらは団塊の世代になります。古いものを否定する考え方の多い世代ですが、ボク自身は家業を継ぐことに抵抗はなかったですね。
 地元の高校を出て、一宮(愛知県)の理容学校で1年学んでから東京に出ました。修業です。理髪店の跡を継ぐには、他人の店で6~10年くらいの修業を積む。それが習わしのようになってましたからね。
 ボクは渋谷の店で26歳まで修業をしました。店は三軒替わりましたが、どの店のオーナーも理容コンクールの全国チャンピオンになった人ばかりでした。そういう人の下についたほうが修業になると思ったわけです。ボクもコンクールに出場して、全国で七位に入賞しています。渋谷区と東京都の予選を勝ち抜いての全国七位ですからね。腕にはかなりの自信がありますし、理容職人としてのプライドも高いです。
 26歳で可児に帰って、オヤジの跡を継ぎました。本当はもう少し東京にいたかったんです。当時、給料は30万円くらいもらっていて、六本木や青山で遊ぶことも覚えてましたから、まだ田舎には帰りたくなかった。ところが、「オヤジが歳でハサミを握れなくなったから」と、姉と妹が出てきて強引に連れ戻されてしまったんです。
 オヤジの跡を継いだ店は、よく繁盛しましたよ。すぐに店と家を建て替えましたが、その借金も10年で返してしまいましたからね。それに人を雇って美容院も始めて、それもまあもうかってました。
 結婚はしませんでした。幾度か見合いはしたんですが、縁がなかったんですね。独り身で小金を持ってましたから、遊びのほうはひと通りやりました。海外にも、韓国、香港、中国、フィリピンなんかに幾度か行きました。まあ、何の問題もなく順調だったわけです。46歳まではね。

■理容師をあきらめて家を出る

 46歳の6月でした。その日は店が定休日で、岐阜の柳ヶ瀬まで遊びに出たんです。昼飯を食べ終わって店の外に出たときでした。左脇に抱えていたセカンドバッグが地面に落ちましてね。それを拾おうとしたら左脚がもつれ、左手も利かない。突然、体の左半身が麻痺していたんです。脳梗塞でした。そのまま病院に担ぎ込まれて三ヶ月入院しました。
 入院中は店のことが心配で、居ても立ってもいられませんでね。本当はリハビリが残っていたんですが、強引に三ヶ月で退院してしまいました。それで店に戻って車椅子からの回復訓練をしながら、もう一度ハサミを握らなくてはと、理容師の訓練のほうも必死になってやりました。身体のほうは脚を引きずりながらですが、どうにか自力歩行ができるようになりました。
 でも、理容師のほうは無理でした。なんとかハサミは握れるんですが、微妙なカットはとてもできない。あきらめざるをえませんでした。
 すでにオヤジは亡くなってましたが、オフクロはまだ元気でいましたからね。それで妹夫婦に年老いたオフクロの面倒をみるように頼んで、家を譲りました。そして、ボクはこっそり家を出たんです。
 向かった先は大阪。西成です。そこでドヤ(簡易宿泊所)に寝泊まりしながら、ボクでもできる仕事をしながら暮らそうと思ったんです。でも、手配師からは足が悪いと相手にされませんでね。だんだん金も底を突いてくるし、ドヤを出て野宿するようになっていました。
 西成というところは暮らしやすいところですよね。親切な人が多いし、西成(労働福祉)センターに行けば、ミソ汁付き五目ご飯が180円で食べられます。ボクはそこでヤキソバを食べながら缶ビールを飲むのが好きでした。
 そのうちに人材派遣会社に登録することを教えてくれる人がいて、その派遣会社の斡旋で働くようになりました。自動車メーカーとか、家電メーカーの下請け工場でのラインの仕事です。一ヶ月契約でその間は寮に入れます。ただ、冬の寒いときは病気の後遺症がひどくて……左脚が痛むのと血圧が170~190に上がってめまいがひどいんです。だから、冬の間はまったく働けません。
 西成にいたとき、一度警察に捕まったというか、見つかったことがありましてね。ボクはほとんど家出同然でしたから、オフクロが心配して捜索願いを出してあったようなんです。それで警察署に連れて行かれて、そこから家に電話を入れてオフクロと話しました。受話器の向こうで、オフクロはただ泣いているだけでした。ボクは「男たるものが一度家を出たからには、こんな状態でおめおめと帰れない」とだけ伝えて切りました。

■教会のミサで女性と出会った

 新宿に出てきたのは2年前です。派遣される工場が、長野とか、静岡、茨城なんかに多くなって、こっちにいたほうが便利だからです。季節のいいときに働きに出て、冬は新宿で野宿をしています。
 新宿で暮らすようになってから、キリスト教の教会に通うようになりましてね。ホームレスのような境涯まで堕ちてしまい、苦しいときの神頼みというか、心の平静を得たいというような気持ちからです。もともと仏教徒で、それも信仰心なんてなかったんですがね。
 ビルの地下にある小さな教会ですが、そこの牧師さんの説教が上手なんです。「欲に執着する心を捨てなさい」とかね。いい話が多い。ボクらバブル経済を経験しているから、どうしてもそれに引きずられていますからね。反省させられます。毎週日曜日のミサには欠かさず出ているんですよ。
 そのミサで若い女性と知り合いましてね。まだ20代でOLをして働いている子です。非常に敬虔なクリスチャンで、ボクがホームレスだということを知っていて親切にしてくれます。そのやさしさに惹かれましてね。彼女のほうもボクのやさしいところがいいらしくて、個人的につき合うようになったんです。この歳になって、そんな女性にめぐり合うなんて、自分でもちょっと驚いています。
 デートをするといっても、ボクには金がありませんから、彼女にみんな払ってもらっています。食事代とかはもちろん、ときどき小遣い銭なんかももらったりして、ずいぶん散財させてます。ゆくゆくは結婚したいと考えています。彼女のほうもそう考えてくれているようです。
 だけど、ホームレスの身で結婚でもありませんからね。まとまった金を貯めて、小さな店でいいから持ちたいですね。おでん屋とか、小料理屋のようなものを始めたい。ボクは理髪店をしてましたから、やはり客商売が向いていると思うんです。だから何か商売を始めたいですね。
 そろそろ季節もよくなってきましたから、また工場に出て働こうと考えています。それで金を貯めて、店を持って、結婚をして……というふうになればいいんですが。
 男たるもの一度家を出たからには、みじめな格好では帰れませんからね。もう一度やり直して、ひと旗揚げて、嫁さんを連れて帰りたいですよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/別れた女房とよりを戻したい・佐藤純一さん(47歳)

■月刊「記録」2000年9月号掲載記事

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■酒が元で傷害事件を起こす

 32か、33歳だったと思う。仕事の帰りに友人と飲み屋で一杯ひっかけていたんだ。そのうちに友人がほかの客に絡まれて、殴り合いのケンカになった。ボクは止めようとして割って入ったんだけどね。相手の男は止めに入ったボクにも殴りかかってきた。それにボクの友人が顔からダラダラと血を流していてね。それを見てカーッと熱くなっていた。無我夢中で男に殴りかかっていった。酒も入って酔っていたし、ただ夢中で訳もわからずに殴り続けた。(※佐藤さんは偉丈夫で屈強な体躯の持ち主である)
 ほかの客たちに止められて我に返ったとき、相手の男は床にぶっ倒れてハアハアいって血だらけになっていた。半身不随の大ケガだったらしい。ほかの客に止められてなかったら、相手が死ぬまで殴り続けていたかもしれない。警察が呼ばれて傷害の現行犯で逮捕され、拘置所に三ヶ月間入れられた。裁判で執行猶予がついたから、刑務所には行かないで済んだけどね。
 そのころ、ボクは電気工事の会社で働いていてね。裁判が済んで、仕事の仲間や上司は会社に戻ってくるようにと誘ってくれたんだ。でも、どうしても戻る気になれなかった。みんなが事件のことを知ってるからね。ボクのことを凶暴な男だと見るかもしれない。そんな仲間の視線のなかで働くのはつらいと思ったんだ。
 しばらく失業保険で食いつないでから、アルバイトで働くようになった。ボクには電気工事の資格があったから、アルバイトだけでもけっこうかせげたんだ。それを覚えてしまって、だんだんに遊びグセがついてしまったんだな。

■浮気が女房にバレてしまった

 生まれたのは中部地方のある町。家は旧家で、ちょっとした資産もあった。大学になかなか受からなくてね。動物が好きで獣医になりたかったんだ。オヤジが国立大以外は金を出さないって言うから、旧二期校のS大農学部を狙ったんだけど三浪してもダメだった。
 いい若いもんが田舎町でブラブラしていると目立つからね。それでオヤジの知り合いの代議士に預けられて秘書をやらされた。でも、政治の世界なんて汚いもんだよ。道路を通す計画があると、さっと土地を買い占めちゃったりして、私腹を肥やすことしか考えていない。だから、すぐにイヤになって辞めた。
 そうしたら極道をしている叔父に預けられて、その口利きで海上自衛隊に入れられた。横須賀に配属になって、ターター船というミサイル船の甲板員になった。下っ端の雑用係だよ。最初の三ヶ月間だけは訓練もきびしかったけど、あとは楽なもんだった。
 訓練航海で世界一周をしたこともあるよ。三ヶ月くらいかけて世界の海を回るんだけど、途中七、八ヶ所の港に燃料や食料補給のために寄港するだろ。艦隊を組んで船が港に入っていくと、どこでも桟橋には商売女たちがズラッと並んで待っていてね。ああいう女たちには、士官よりもボクたち水兵のほうがもてたから、いろんな国の女と遊んだよ。
 自衛隊には三年いて満期除隊で、海士長で辞めた。旧陸軍でいうと伍長くらいだね。それで東京に出てきて電気工事の会社で働くようになった。24、25歳くらいだったんじゃないかな。結婚したのは29歳のときだね。仕事先で知り合ったんだけど、九州出身のいい女だった。ボクが傷害事件を起こしたときも、いやな顔一つしないで逆に励ましてくれたよ。
 ところが、2年くらい前だったか? ボクの浮気がバレてしまってね。それで女房は怒って九州に帰っちゃったんだ。浮気の相手は飲み屋の女。その女に小さな子どもがいて、ボクにもなついてかわいくてね。ボクたち夫婦には子どもがなかったから、よけいにかわいかった。その子がディズニーランドへ行きたいっていうんで、ある日3人で遊びに行ったんだ。そうしたら、そこを女房の知り合いに見られてバレてしまった。
 女房に逃げられてから、何もかもがイヤになってね。バッグ一つに荷物を詰めて、アパートを引き払ってここ(新宿中央公園)に来て住むようになった。
 こういう暮らしも、のんびりしていていいもんだよ。こういう生活があって、いろんな人生があることがわかって、いい経験をさせてもらってるね。はじめは充電期間のつもりで、一年したら出ていこうと思ってたけどやめられなくなったよ。
 公園に小屋をつくって住むようになったのも、ボクは早いほうだった(※佐藤さんはベニヤ板とブルーシートでつくった小屋で暮らしている)。いまじゃ、みんなが真似して、この公園でも小屋で暮らしているのが増えたよね。
 仕事? してるよ。いまは一週間働いて、一ヶ月遊ぶってふうだけどね。働きたいと思えば、いつでも回してもらえるんだ。電気工事の仕事じゃなくて、日雇いの土工だよ。電気工事のほうは仕事道具を盗られてしまってね。でも、日雇いのほうがいいよ。体を使うだけで、煩わしい人間関係がないからね。
 この公園にも悪いのがいて、仲間が日雇いでかせいだ金をピンハネしているヤツがいるんだ。ヤクザまがいのヤツさ。ボクは屈しないよ。「いつでも来い」と言ってある。ボクも体を張ってるからね。弱い者イジメは大嫌いだよ。
 ヤクザの世話にならなければ、ボランティアの世話にもなっていない。プータローにはプータローのプライドがあるからね。弁当でもタバコでもいつでも手に入れられる。余れば年寄りや女のホームレスに配ってあげるようにしている。誰の世話にならなくてもやっていけるよ。

■好きな酒をずっと断っている

 いま考えているのは女房との復縁のことだよね。女房さえ戻ってくれたら、またアパートを借りてちゃんと働こうと思っている。これまでに女房を迎えに3回も九州まで行ったんだけどね。なかなか首を縦に振ってくれないよ。女心はむずかしいもんだ。
 例の傷害事件を起こして以来、大好きだった酒を断っている。正月だってコーラしか飲んでない。酒を飲めば熟睡できると思うけど、一回でも飲んでしまえば終わりだと思うしね。いまは女房と復縁できるまでって誓いを立てて断っている。
 ボクは詩を書いているんだよ。路上に寝転がる生活をしながら、そこで見たこと、感じたことを、詩に書いて残している。いつだったか、高校生が訪ねてきてね。ボクに詩を書いてくれと言うんだ。なんでも都知事から一般の人、それにホームレスまでの詩を集めて、現代の東京都民の万葉集をつくる計画だという。ボクが詩を書いてることを、誰かに聞いたんだろうね。
 ほら、この『マンヨウシュウ』(九段高校文芸部編)って詩集に載っている「限りない愛」が、そのときボクがつくった詩だよ。読んでくれるかい?

私は私は生きている生きている今日も/都会の巨大なビルディングの狭間…/押しつぶされそうになって/(略)/情熱はどこに行ってしまったんだろう/空に浮かぶ雲のような人生のレールがあったのに/逆の人生を歩んでしまった私…(一部抜粋) (■了)

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だいじょうぶよ・神山眞/第25回 約束破り

■月刊「記録」2001年11月号掲載記事

*           *          *

 家を出たまま老いた母に一人暮らしを強いているぼくに、母は、どうして帰ってこないのかと、理由すら聞こうとしない。
 帰ってこないことは悲しいことだが、腹を立てたり、妬んだりすることではない、と、母は考えているようだ。その淋しささえも、我慢するべきだと考えてしまう、そんな母なのだ。
 それをぼくは誰よりもわかっている。わかっているから、ぼくは母に哀れみを抱いてしまうのだ。その哀れさが、ぼくと母を遠ざけてしまう。しかし、正利には、我慢も遠慮も哀れさもない。血も繋がっていないのに、ぼくにはいやにあつかましい。欲しいものがあれば、ぼくのことをどこまでも追いまわしてねだる。自分がミスをしても、それはぼくのせいだと言い張る。しまいには、ぼくの養育の仕方が間違っているとまで言う正利。目的のためであれば、ぼくをとことん利用し、用が済めば見向きもしない正利。
 そんな奴と、なぜぼくは一緒に暮らそうと思うのか。理性は“母と暮らせ、それが当たり前だ”と言う。しかし一方、本能は正利と暮らしたがっている。
 ぼくは毎日、毎晩、この二者選択に頭を悩まされた。お姉さんが、正利を引き取ってくれれば、諦めがつく。そうまで思った。

■『愛の手帳』がきっかけなんです

 あの学園を訪れた日からちょうど一週間後、お姉さんが、何の連絡もなしに再び学園を訪れた。
 ぼくの顔を見るなり、お姉さんは言った。
「今日、ここに来たことは、正利には伝えないでください」と。
「あのぉ、先生、あの話、なかったことにしてほしいんですけど」
 やっぱりだ。やっぱりそうきた。お姉さんは、いきなりぼくたちとの約束事――正利を引き取るということ――を破ってきた。
 ぼくは、わざとわからないふりをした。お姉さんに「あのことってなんですか?」と聞いた。すまなそうな様子もなく、卑屈でもないお姉さんの態度に、ぼくは少し腹を立てたのだ。
「この前、『愛の手帳』の話をしたじゃないですか。あれがきっかけなんです。うちの人、そういう人とはかかわりたくないっていうんです」
「あのぉ、何もかもが抽象的で、よくはわかんないんですけど、つまりこういうことですね。この前婚約した彼に正利を引き取ることを反対されて、お姉さんはその彼の反対意見に賛成した、ということなんですね。なるほど、そうでしたか」
 物わかりのいいふりをぼくはしてしまった。本当は、ぼくはここで怒るべきだったのだ。怒鳴り散らすべきだった。
“あのねぇ、いい加減なんだよ、あんた! だいたいこうなるってこと、予想つかなかったのかよ。みんな嫌がるって。結婚相手に連れ子がいたら嫌がられるって。おまけに連れ子じゃないんだよ。知能の遅れた弟だよ。そのぐらい予想したうえで、引き取ります、って言うべきだったんだよ!”
 という具合に。
 なぜなら心のなかでは、そう思ったのだから。
 そんなぼくの前で、お姉さんはしっかりとした口調で堂々と話し始めた。
「あの日、家に帰ったら、彼が言うんですよ、私に。ああいう人(正利のこと)とかかわるなら、おれはお前と別れる、って。家に連れてきてもだめだし、会いに行くのもだめだ、って言うんです。だから今日も彼には内緒でここに来ているんです。
 あのぉ、先生、私は彼にそう言われたからって、正利のことを見放すつもりはないんです。これからも、彼に内緒で会いに来ます。でも、引き取ることはできません。経済的に援助することもできません」
 お姉さんは考えてきたであろう、セリフを全部一気に吐き出した。
(いったいどういう神経をしているんだこの人は)
 ぼくはそう思った。
 何を言ってももう無駄だ。こういう人には正利は預けられない。ぼくはもう、お姉さんに考え方を変えてみるように促しもしなければ、約束を守らなかったことを責めもしなかった。早く目の前から消えてくれ、そう思った。
           *
 お姉さんが正利に会うこともなく帰ったあと、ぼくは正利と話し合うために、正利の部屋へ向かった。
 いや、向かおうと思い、二、三歩歩いたところで正利の姿を廊下の先に発見した。
 それは、唇をすぼめ、目を見開いているような表情だった。今までのお姉さんとのやりとりが、一気にすべて吹っ飛んでしまうほど、正利の顔や表情には激しいインパクトがあった。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/崩壊にむかう小泉戦時体制

■月刊「記録」2002年5月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

*          *           *

 有事体制に関する3法案――武力攻撃実態法案、自衛隊法改正案、安全保障会議設置法改正案――が、閣議で決定され、本会議にもち込まれそうだ。これらの法案を見ると、自民・公明・保守の議員たちは、本気で戦争をやるつもりか、と思わざるを得ない。
 思い起こせば1991年4月、海部俊樹首相は、国内の反対を押し切って自衛隊を海外派遣した。自衛隊法99条に「危険物除去、処理の任務」が明記されていることが、海外派遣の根拠だった。
 それから8年をへた99年5月には、新ガイドライン関連法が成立。「地理的な概念ではない」という“周辺”で、「後方支援」という名の戦闘行為を自衛隊がおこなえるようになった。さらに昨年10月には、2年間の時限立法ながら自衛隊の海外派兵を可能にする「テロ対策特別措置法」が成立した。翌月には護衛艦を含む自衛艦3隻がインド洋にむけて出発。海外派兵の“実績”をつくり上げてしまった。
 そしていよいよ、政府は戦争体制の完成にむけて、国内弾圧態勢の整備に手をつけはじめた。有事三法案である。
 戦時体制の強化といえば、1933年8月に桐生悠々が『信濃毎日新聞』に「関東防空大演習を嗤う」という記事を書いていた。戦時体制下に入ろうとする軍隊の姿勢、あるいは国民が空襲をされるのを想定しながら戦争の準備を進めるアホらしさを、桐生は嗤った。空襲によって東京が大火災となり、多数の市民が逃げまどい、財産を失い、大量の死者が発生することを予想しながら、敵を迎え撃つナンセンスを突いた記事であった。
 今回の有事体制も、当時とまったくおなじようなバカげた愚行を繰り返そうとしている。有事三法案には、国民の主権を無視するような条文がならぶ。
 たとえば自衛隊改正法には、「必要な限度において、当該家屋の形状を変更することができる」などと書かれている。「形状の変更」などといってもリフォームしてくれるわけではない。家屋を撤去して陣地を作るなど、軍隊のやりたいように家屋を壊せるという意味である。戦時中には、「建物疎開」によってたくさんの民家が撤収された。
 また「墓地、埋葬等に関する法律の適応除外」という項目では、法律で定められた火葬場や墓地を使わなくても、自衛隊員の死体を処理できるようにした。有事に出動した自衛隊員の死体を野焼きして、どこか適当に埋めても法律に違反しなくなったのである。
 この項目だけを見てもわかる。有事三法案とは、戦争遂行法案である。しかもこの法案は、「武力攻撃のおそれ」ばかりか、「武力攻撃が予測されるに至った事態」など、どうでも解釈できる規定によって「武力攻撃事態」を定義している。武力攻撃事態ともなれば、それだけで自衛隊の武力行使ができるようになり、「戦時体制」になってしまう。
 これまでも政府は、有事法制成立に少しずつ歩を進めてきた。90年代末ぐらいまでは、「研究は進めるが、法制化は前提としてない」という屁理屈で準備を重ねてきた。そうした“研究”が、1度として法案化されなかったのは、その危険性ゆえであった。
 ところが小泉純一郎首相は、自身の人気に慢心して、死んでいた法律を地獄のそこからひきずりだした。冷戦時代の産物を使うなど、彼には国際情勢の判断などできない。いまや彼の思惑は狂い、人気は急落、頼みの支持率も50%を割り込んだ。それでも、国会内部を見ると、かなり議員が有事法制に賛成している。自民党・公明党・保守党ばかりか、民主党も半分も賛成。自由党にいたっては、国民の権利をさらに圧迫するような有事法制の強化に言及する始末。自民党内では野中広務などが時期尚早論を唱えているが、反対勢力としての力はもはやない。
 今回、通常国会で成立するかは別にしても、日本の危機もついにここまで来た。頼りは、国民だけだ。法案の閣議決定をうけて、ようやく市民運動も動きだし、衆議院会館前での抗議行動が起こり、デモ行進もはじまった。これからどれだけ運動が広がりをもつかにかかっている。

■被害妄想が作りだした法律

 この法案の恐ろしさをあげればきりがない。
 憲法にある地方自治の精神を剥奪して、首相権限で命令できるようになる。基本的人権を踏みにじり、個人の財産を勝手に使い回せる。民間人の命令違反にたいして罰則規定をもうけている。かつての国家総動員体制の復活である。
 このような憲法を超えた法律をいまなぜ作るのか。アメリカの要求で、その軍事下請け化を、小泉の人気にあやかって一気に決めようとした自民党の焦りがある。
 これまで冗談としてしか扱われていなかったが、軍需によっての経済の活性化もあろう。ところが、小泉内閣は30兆円という枠内での国債発行をなんども言明していて、これ以上防衛費に予算をまわすことはできないはずだ。
 戦争状態になったとき、自衛隊が超法規的行為に走るのに歯止めをかけるために、法律をつくる、などのいい方もあるが、そもそも、どこの国が日本に戦争を仕掛けてくるというのか。たとえば仮想敵国とされる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は、どんな成算があって日本に攻めて来るのか。経済的に疲弊している北朝鮮の軍や艦艇や戦闘機が日本に攻めてくるなど、小泉の妄想である。現在の北朝鮮の国力からすれば、日本侵攻は経済が破産する暴挙であり、とても考えられない。それでは、中国はどうか? いまや中国も市場経済を目指す国家である。日本に戦争を仕掛けるより、商売に専念したい時期だ。
 だいたい有事三法が動きだす、「武力攻撃が予測されるに至った事態」とは、どういう状況なのか。武力攻撃された状態でもないのに、いったい誰が予測するのか。また誰が「事態」を判定するのか。こんなことも曖昧なままに、小泉のような妄想狂が日本を戦時体制に突入させるのである。
 この法案は、小泉など、自民党タカ派の“妄想”が生みだした戦時体制への悪夢である。ブッシュもおなじ夢をみているのだが、「草野球仲間」に、日本はこれだけやってますと尻尾を振ってみせたいのだ。
 米軍の同時多発テロからはじまった“最低権力者たち”の被害妄想が、ついに形となって現れた。いうまでもなく日本国憲法は、「武力によって他者を威嚇しない」と決めている。ところが新ガイドラインそして周辺事態法から有事体制にいたる道筋は、憲法の精神やいままでの戦後政治が培ってきた歯止めを全部かなぐり捨てた。「戦争状態」が予想されたら武力攻撃をする、という戦争宣言である。バーチャルな想定で法律をつくり、現実に民衆の支配が強化されていく。これは恐ろしいことだ。
 気が付いてみれば、日本はすでに海外派兵をしており、国内の戦時体制も強まり、先月号で触れたとおり、言論統制の3法まで成立させようとしている。表現の自由を弾圧する法案と、有事体制法案が同時に進んでいるところに、小泉首相のファッショ的な本質があり、日本民主主義の危機がある。

■1日80~90回の拷問

 4月9日、総務省は、第三種郵便と第四種郵便を廃止する方針を打ちだした。これは自民党総務部会の反対でお釈迦になったが、これも表にはでにくい言論統制である。
 ミニコミや零細出版社の言論活動は、定期的な発行物は郵便が安くなる第三種郵便によって支えられてきた。書店に置けない市民運動の機関誌やミニコミが、大マスコミとのハンディの中で生き延びているのは、この制度のおかげである。第四種郵便は、福祉あるいは通信教育の保護政策であるため、廃止には抵抗が強い。しかし第三種は、一般の人たちにあまり関心がないこともあり、狙われやすい。こんごも警戒が必要だ。
 有事法制の閣議決定と時期をおなじくして、成田空港の走路・暫定平行滑走路の供用開始記念式典がおこなわれた。華やかな形で報道されたが、これは残酷空港、人殺し空港の式典であった。
 この滑走路にむかう航空路の直下には、いまなお3戸の農民が住んでいる。ニワトリを4000羽、ブタを10数頭飼育している農家もある。その民家の40m上空をジェット機が離着陸している。国土交通省は、住民が住むための仮設住宅を準備した、といっているが、いわばアフガンの民衆への攻撃において、発生した難民をキャンプに収容するような野蛮な方針である。
 旧運輸省、国土交通省はこの成田空港を建設するにあたって土地の強制収用をおこない、反対運動をしていた若ものを機動隊が殺すという残虐な攻撃を使ってきた。そののち運輸省はこのような強硬策を取らないと約束し、農民に陳謝した歴史もある。
 「暫定滑走路建設」では、強行建設および強要はしないと約束し、2500mで計画されていた滑走路を、住民が住んでいる地域を外して2150mにした。しかし、それはなんと住民の庭先に滑走路を造る野蛮を意味している。畑を耕し、家畜を飼育して生活している住民を、まったく無視した工事だった。これは静かに暮らしていた住宅の屋根に、いきなり鉄道の線路を敷いた暴挙とおなじようなもので、人間の生命を無視した攻撃である。こういう野蛮が国際空港という名前でまかり通っていることは、日本の恥といえる。
 着陸するパイロットからすれば、着陸地の手前に人家があり、これはあたかも航空機の足で民家を引っかけるような恐怖を感じるという。もちろん住民の恐怖は、さらに大きい。いつ飛行機が屋根にぶつかってくるかわからないという、非人道的殺人的行為が、毎日80~90回もおこなわれている。
 このように、いまや小泉内閣の政治とは、まったく人民の生活を無視したやり方である。人心の荒廃はさらに高まっている。この国のどこが民主主義国家なのだろうか?(■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第24回 正利の行く末

■月刊「記録」2001年10月号掲載記事

*         *          *

 ぼくは、お姉さんのところへ向かった。今日の来園の礼を簡単に述べ、そして、なぜこんなに食事から戻るのが早かったのかを聞いた。
 すると、お姉さんは、やはりいつものように堂々と、「だってあいつ(正利)緊張して何も話さないんですよ。ねぇ、みか?」
 と言うのだった。
 正利は、初対面の人とは話せないのだ。だからぼくは、特にびっくりはしなかった。
「あの人(彼)は、2人のことを、すごく気に入ってくれたみたい」
 にこにこ顔のお姉さん。
「2人? 正利のこともですか?」
「そうですよ、先生、おとなしいけど悪い人じゃなさそうだって、あの人は正利のことを言ってましたから」
「そうですか…」
「だから、大丈夫って言ったじゃないですか」
「そうですよね。大丈夫なんですもんね」
「大丈夫ですよ」
 最後にだめ押しのようにお姉さんはそう言って、学園をあとにした。
 ぼくはもう一度、正利たちの引き取りの件について考えることにした。

■母と、そして正利と……

「おい、おい、早く食べないとテレビ見る時間がなくなちゃうよ」
 食事の遅い小さい子たちに、ぼくは声をかけた。無理矢理、食べ物を自分の口に放り込む彼らの後方には、すでに残飯が山積みされている。それにしても、ものすごい量である。1時間か2時間前に作られたばかりの食べ物が、今は次から次へとポリバケツに放り込まれていくのだ。
 学園では食事ごとに、たくさんの残り物が出る。残り物というと一人ひとりが残したもののように思われるだろうが、そうではない。子供たちには、自分に与えられた食事を残す決定権はない。特別な場合以外は残してはいけないのである。
 しかし子供たちにおなか一杯食べてもらいたい、といった配慮から、食べ物は余分に作られる。だからそれらが余り、ポリバケツいっぱいの残飯を生み出すのだ。
 残飯の山をバックに、無理矢理ごはんを詰め込む子供たち。そんな光景をみていると、いつもぼくは離れて暮らす母を思い出してしまう。どんな物でも大事にする母。特に食べ物を捨てることは一切しない。食べきれないものは冷蔵庫に入れて、次の日にまわす。
 そんなふうに父に先立たれた母は、一人で慎ましく生活していた。たまに実家に帰り、冷蔵庫を開けると、半分になった豆腐やほんの少しの切り身の魚、2、3枚のベーコンがサランラップに包まれて、所狭しと入っている。それらを見てしまうと、ぼくはかえって実家に来てしまったことを後悔してしまうのだった。
 なぜだろう。母の寂しさ、いじらしさみたいなものを垣間見てしまったみたいで、ぼく自身がうら悲しい気分になってしまうのだった。
 それに比べるとここ学園は、一見孤独や寂しさとは無縁の場所に見える。食事をすれば横にも前にもうしろにも人がいる。ベッドに横になったとしても一人にはなれない。家庭に見放されたはずの子供たちが賑やかさのなかにいて、きちんと家庭を形成したはずの母が、一人孤独な生活を強いられている。
 そのことを考えると、ぼくが正利を引き取ることなど、理にかなっていないような気がした。血が繋がっている母は、ぼくと一緒に生活することをいつも望んでいる。父が死に、妹が嫁に行った今、母がぼくを頼るのは当たり前のことだ。
 しかし、そんな母の気持ちを知りつつも、ぼくは一緒に暮らすことを拒否してきた。
 母は家を改築して二世帯住宅にした。おまえの部屋にはトイレもお風呂もついてるんだよ、だから帰っておいで、私は何も干渉しないから、と母は言った。
 帰ることを拒む明確な理由など、何一つないのに、ぼくは帰らない。それどころか正利と一緒にぼろい小さなアパートに住む決心さえ、しはじめている。
 もちろん、それとて何の理由も責任もみあたらない。お姉さんが、仮に正利を引き取らなかったとして、それは、ぼくの責任などではないのだから。
 ふと、自分の感覚がおかしいな、と思うときがある。正利と暮らす? なぜぼくが正利と? そう思う。
 だが、それよりも、もっとおかしなことは、母と正利とどっちと暮らすべきかを考え、比べている自分なのだ。
 おかしくてばかげている。なのに思考は止まろうとしない。夜、眠りに就こうとすると、果てしなく思考が回転し出すことがある。
 暗闇のなかで、母か、正利か、という選択について、真剣に考え続けているのだ。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/米国でもホームレスを経験した・林光夫さん(50歳)

■月刊「記録」2000年2月号掲載記事

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■米国はホームレスにやさしい

 5年前、まだ工務店で働いていたころで、ホームレスになる前のことですが、アメリカに一人で遊びに行ったことがあるんです。パスポートと往復の航空チケットだけを持って、ポケットには10円玉一つしか入っていませんでした。自分でも笑っちゃいますけどね。
 未知のアメリカという国を見たくなって、思い立つとすぐに行動に移してしまう性格なんです。冒険心といったらいいか、人生にはどんな結果が待っているかわからない。とにかく行ってしまえば、あとは何とかなるだろう。そんな気持ちでしたね。
 ロスの空港に着いて、とりあえず町を目指して歩きました。金を持ってないから、歩くより仕方ないですからね。途中、住宅街に迷い込んだり、方向がわからなくなったりで、ヘトヘトになって歩いていたんです。そうしたら親切な黒人青年が車で拾ってくれましてね。その車でダウンタウンまで送ってもらったんですが、フリーウェイを使って20分以上もかかりました。あのまま歩いていたらどうなってただろうと思いますね。
 ダウンタウンに着いて、彼に金を持っていないことを言うと、教会に連れて行ってくれました。レスキュー・ミッションといって、教会がホームレスの保護活動をしていて、その施設なんですね。そこに一週間やっかいになりました。待遇はよかったですよ。食事も普通のアメリカ人が食べているものと変わらないくらいのものが出ましたし、衣類も三着分支給され、シャワーがついてベッドも清潔でした。
 アメリカ人というのは親切なもんで、夕方にもなると街のあちこちで、個人ボランティアがホームレスにパンやバナナを分け与えている光景が見られます。ホームレスも日本の愚痴っぽいのと違って、みんなサバサバしています。通行人も日本ではうさんくさそうに見て、悪しざまに言ったりしますが、向こうではジロジロ見るなんてことはしません。アメリカはいいところですね。
 レスキュー・ミッションが保護してくれるのは一週間までなんです。それでそこを出された晩は、リトルトーキョーの公園のベンチで野宿しました。そのとき日系人の中年男性が寄ってきて、いろいろ愚痴を話すんで聞いてあげたんです。そうしたら礼だといって20ドル札をくれました。
 で、次の日にその金でグレーハウンド(長距離バス)に乗って、サンディエゴまで行ったんです。この街には海軍基地があって、前に横須賀で知り合った水兵さんが働いているはずなんで訪ねたんですが会えませんでした。名前だけしか知らなくて、所属部隊とかわからないと無理なんですね。基地には大きな軍艦がとまっていました。
 サンディエゴでもレスキュー・ミッションで一週間やっかいになって、それで日本に帰ってきました。いまこうしてホームレスをしていますが、アメリカと日本でホームレスを経験したのは、私くらいのものでしょうね。
■一人で絵を描いているのが好き

 生まれは千葉県です。水産高校を出て漁船員になりました。ところが、船酔いがひどくて、いつまでたっても慣れない。それで船を下りました。
 次に、父親が工務店をやっていたんで、そこで大工の見習いにつきました。ところが、これも足場から落ちて、腰の骨がずれるという大ケガをしてしまいましてね。病院に半年間入院して現場に復帰したんですが、高いところが怖くなって昇れなくなりました。高所恐怖症です。それで大工もあきらめました。船酔いする船乗りとか、高所恐怖症の大工なんて笑っちゃいますよね。
 あとは関西に行って土木建設の会社で働いたり、関東に戻って新聞販売店をいくつも転々としたり、兄が工務店を始めたんでそれを手伝ったり。そんなことを繰り返して……でも、どこも長くは続きませんでしたね。
 人づき合いが苦手なんです。酒も一滴も飲めません。だから、酒の席が嫌いでなるべく出ないようにしているんです。でも、どうしても断れない場合もあります。酒の席っていうと、上司や同僚の悪口、それに愚痴ですよ。私はそういう話を聞くのが嫌いで、うまく合わせて話すこともできない。だから、悪口や愚痴が始まると、途中であろうと中座して帰ってきてしまうんです。そんなことをしていると、職場での人間関係がギクシャクしてきて孤立するようになり、辞めざるをえなくなる。それの繰り返しでした。
 一人でいることが好きなんです。絵を描くことが好きで、仕事を終えたら一刻も早く帰って描きたい。それもあって人づき合いは悪かったですね。絵のほうは油絵で風景画が得意でした。

■霊感が強くて不眠症で入院

 私は非常に霊感が強いんです。よく地縛霊を見たり、金縛りにあったりします。街を歩いていて背中のあたりがゾクゾクしてきて、全身が総毛立つような感じに襲われることがあります。すると、そこは前に死亡交通事故のあった現場だったとか、ホテルの部屋で寝ていると金縛りにあって、あとで聞くと以前その部屋で若い女性が自殺をしていたとか、そういうことがよくあるんです。 鎌倉の新聞販売店で働くことになって、新しくアパートを借りたときも、部屋に入ってみると妙に薄気味が悪い。背中にゾクッと寒気が走るんです。部屋を借りて何日目かの晩でした。夜寝ていると、部屋の明かりが急に明るくなったり暗くなったりして、両肩が押さえ込まれるようになって動けなくなりました。金縛りです。実際にはほんの2、3分のことなんでしょうが、本人には10分以上に感じられます。声は出せなくなるし、体に何かが入ってくる感じもして、「早く出ていってくれ」と祈るばかりですね。ホントに気味の悪いもんですよ。
 あとで聞いたら、その部屋でも前に夫婦もんが心中事件を起こしていたことがわかりました。
 30代は不眠症に悩まされたころがあります。二週間くらい一睡もできない状態が続いて、睡眠薬で無理して寝るんですが、昼間頭がボーッとして人と話しても会話がズレてトンチンカンなことを喋るんですね。「これはおかしい」ってことで病院に入院しました。これも霊感が強すぎるせいだと思います。
 その入院中に絵を描いて、その病院の院長にプレゼントしたんです。すると院長は「得難いものを頂戴しました」と喜んでくれ、私には絵の才能があると言ってほめてくれました。病院長をするくらいの人ですから、見る目はたしかだと思うんですよね。
 プロの画家に絵の腕前を見てもらったこともあります。三年くらい前で、横浜に住んでいる画家の人でした。その人の見ている前で、花瓶に入った造花をデッサンしたんですが、「いい腕をしている。一年くらいみっちり勉強すれば絵で食えるようになる」と言われましたよ。その絵もホームレスになってからは描いてませんけどね。
 ホームレスになったのは二ヶ月前です。兄の工務店で働いていたんですが、ちょっとしたことでそこを飛び出してしまったんです。それまでも兄のところに居づらくなっては逃げ出し、詫びを入れて戻るというのを幾度となく繰り返してましたからね。もう、こんどは詫びを入れても許してはくれないでしょうね。だから、帰るところがなくなってしまったんです。
 慣れないホームレスをしていくのは不安でいっぱいです。人とのつき合いが下手ですから、人間関係には気が滅入りますね。ホームレスの仲間には加わらないでいつも一人でいるんですが、ちゃんと生きていけるのか心配です。
(※ホームレスをしながら絵を描いて、それを売って生活の資を稼いだらどうか提案してみた)
 ああ、そうですね。こういう生活をしながらでも、風景画なら描けますよね。ここ(新宿中央公園)の風景を描けばいいんですもんね。油絵は道具がないから無理ですけど、クレパスと画用紙はいまでも持ち歩いているんです。絵を描くんだったら、わずらわしい人間関係もないですからね。それをやってみますよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/恋人は退職金とともに……・北里英二(40歳)

■月刊「記録」2001年3月号掲載記事

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■大手企業の社員だった

 一昨年の夏の終わりごろですかね。リストラされたんですよ。38歳でした。川崎にある東芝の工場で、冷蔵庫を作っていました。実は会社を辞めたとき、同僚から仕事の引き合いもあったんです。でも退職金が四百数十万円入って、少しブラブラしようかなと。
 会社の寮に住んでいましたから、辞めてからは友だちの家に泊まったり、サウナで寝たりしていました。そのうち金もなくなって、39歳のときに初めてテントを建てたんです。
 18歳までは、大阪に住んでいたんですよ。大学附属の高校を出て、すぐ大手アパレルに勤めました。東大や慶應に進学した高校の友だちをうらやましいとも思ったんですが、勉強が嫌いだったんです。スポーツは得意だったんだけれど(笑)。親にも「勉強する気がないなら働け」と言われて、それはそうだろうなと思って就職したわけです。
 職場が決まったときには、父親から「おめでとう」と言われました。大きな会社でしたから。でも、仕事は衣服の裁断。同じことの繰り返しですよ。でも五年間、真面目に勤め上げました。
 会社を辞めたのは、23歳のときかな。東京に友だちがいたから遊びに来ていて、それで辞めるのを決めたんです。新宿だったか原宿だったかを歩き回っていてね、ふっと東京で一旗揚げたくなったんですよ。すぐに両親に電話しました。
「こっちで身を立てるから」と言ったら、父親も「好きにすればいい。人には迷惑をかけるなよ」とだけ答えてね。会社には親から電話してもらって。ほとんど勝手に辞めたようなもんでしたね。それから10年間、33歳になるまで一度も故郷に帰りませんでした。東京には、遊びに来ただけだったのにね(笑)。
 友だちの家に居候しながら就職活動しましてね。寮のある会社を探しましたよ。だって住む所がないんですから。すぐに見つかったのはガードマンの会社でした。仕事はきつくなかったし、悪い仕事とは思わなかったけれど、会社のみんなが言うんですよ。ガードマンは年輩者の仕事だって。たしかに社員のほとんどが歳を取っていましたから。それで29歳のときに職安の紹介で大手電機会社に転職したわけです。

■女の人にのぼせてしまった

 自分でもなんでホームレスになってしまったのか、よくわからないんですよ。ただ一つだけ、女の人と知り合ったことがね……。のぼせちゃったんです。
 出会ったころは退職金も出たばかりで、金を持っている時期でした。けっこう飲んでいたから、かなり遅い時間だったんでしょうね。新宿の区役所通りにあった喫茶店の前に水商売風の女の子がいましてね。酔った勢いで声をかけたんですよ。「よかったらお茶でも飲みませんか」って。人を待っているみたいだったんですが、ついてきてくれたんですよね。
 2人でその喫茶店に行ってコーヒーを飲んで、朝までカラオケですよ。何を言ったのか覚えていないけれど、彼女もいろいろな曲を知っていました。僕も歌うのが好きだったから、とても楽しかったんですよ。
 んー、そのときは何を話していたのかな? 面白い話で笑ったり、芸能人の話とかかな。帰り際には、「よかったらお店でも飲みましょう」って、名前とお店の電話番号を教えてくれましてね。
 年齢は26歳ぐらい、身長は165センチぐらい。美人でね。水商売風の派手な服装だったけれど、僕のタイプでした。すごくプロポーションがよかったんです。それに何となく話しかけやすかったんですよ。声をかけたときには、彼女の顔を見たのも初めてだったのに、自然に話ができましたから。夜の区役所通りって、きれいな人がいっぱいいるじゃないですか。なかでも彼女は素敵だったんですよね。
 それから店に飲みに行くようになって、プレゼントもねだられるままに買って。時計とか、洋服とかね。いやー、時計なんてたいして高いもんじゃないですよ。あげたのはエルメスのケリーウォッチ。20万円ぐらいかな。むしろ高いのはスーツ。シャネルとかベルサーチとか、一着50万円ぐらいしますからね。
 でも買ってあげるのは、男の甲斐性でしょうね。気持ちいいんです。「どっちがいい」なんて彼女に聞かれて二人で相談したりして。試着した服を見せる彼女がかわいくて。お店の人も丁寧に対応してくれますし。水商売ですから選んだ服はとても派手なものでしたけれど、自分が買ったスーツを着た彼女と歩くのが何だか気持ちいいんです。自分がプレゼントした高い服を着て、きれいな恋人が一緒に歩いているわけだから。
 プレゼントだけでも相当使ったでしょうね。あとデートの食事代とかも、けっこうかかっているとは思いますけれど。まあ、それは二人で楽しんだから、お金がかかっても当たり前だと思うんですけれど……。

■愛する彼女は結婚していた

 ところがしばらくしてから、お金を貸してくれと言われたんです。なんでも車をぶつけちゃって、お金が必要だからって。最初は40万円ぐらいだったと思います。 いや、働けば金なんか入ってくるからと思ったんですよ。まあ、いま考えても彼女に夢中だったと思います。一緒に暮らしていい家庭をつくれるかもしれないと思っていましたから・・・・。
 それからも、たびたび彼女からお金をせがまれたんです。困っていたみたいだし、協力してあげたかった。だから何回か、彼女の銀行口座に振り込みました。もちろん住所と電話番号を、きちんと聞いてね。返してくれることを疑ってもいませんでした。
 ところが彼女は、突然消えちゃったんです。貸したお金は、250万円ぐらいになっていました。お店に行ったら休みをもらっていたし、電話をかけてもいつも留守電。
 それでね、行きましたよ。彼女が教えてくれた住所に。埼玉県の久喜市。東北本線に乗って、すごく遠いんですよね。しかも降りてから彼女の家までが、歩いて20分ぐらいあるんです。畑に囲まれた寂しい道をトボトボ歩いてね。目的地についたらマンションでした。ドキドキしてポストの名前を確認したら、たしかに彼女の苗字がありました。でも名前が男なんですよ。まさか人妻とはね……。
 信じられなくてね。近所の人に聞き回ってみたんです。近所づき合いもあまりなかったみたいだけれど、二、三年前に引っ越してきたこと。夜遅い時間に電気がついていること。奥さんが20代半ばで、彼女に似た背格好だったこともわかりました。
 その日は夜遅くまで、外で帰りを待ったんです。でも、彼女は家に帰ってきませんでしたね。ショックでした。彼女が連絡をよこさなくなったうえに、結婚していたんですから。誰も信じられなくなりましたよ。
 もしだますつもりなら、本当の住所や電話番号なんて教えないでしょ。そう思いませんか? 友だちなんかは、「それこそアリバイ工作だ」なんて言うんですけれどね。詰め寄られても、言い逃れできるようにね。警察に訴えても、借りただけだって言えるように。
 彼女に会いたいけれど、彼女の旦那がどんな人かわからないと、訪ねるのも怖いですよね。ヤクザ者だったら、どんな因縁をつけられるかわからないですから。脅されても困るし。

■誰とも会わなくていい

 いまはだいぶ気持ちも落ち着いてきましたけれど、いまだに信じられません。あれは何だったのかなって。ホームレスをしてテントにいれば誰とも会わなくていいでしょ。それがうれしいんですよ。いや、いつまでもホームレスをしているつもりはありません。でもいまはまだね。
 彼女が消えなければ、プロポーズしていたかもしれません。結婚はできなかったかもしれないけれど。彼女は、僕の究極の好みだったんです。 (■了)

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鎌田慧の現代を斬る/戦争準備の監視国家へ

■月刊「記録」2002年4月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 30年ほど前、わたしは『ガラスの檻のなかで』という本を書いて、監視国家化を批判した。いまそれが実現されつつある。
 なまじっか首相の人気が出ると、彼らはそれまで抑えていた欲望を一挙に押し出してくる。小渕恵三内閣の時には、ガイドライン関連法、国旗・国歌法、盗聴法、住民基本台帳法改定などを押しすすめた。「ボキャ貧」などといわれてとぼけ、無能をウリに愛嬌を振りまいていた首相が進めたのは、戦争準備と監視国家の強化であった。
 そして、こんどは、小泉「単細胞首相」である。
  彼は「改革」などという期待をもたせるスローガンをふりまきながら、医療費の引き上げなど弱者にたいする総攻撃を開始した。そのうえ小渕の路線を引き継ぎ、収奪と監視をより完璧なものに仕上げようとしている。
 有事法制とは、戦争に突入したときの国内における治安弾圧体制の整備である。驚くべきことに、政府が準備している法案は、民間人の土地・家屋の収用と立ち入り検査まで視野に入れている。つまり「有事」ともなれば、個人の土地や家屋を、自衛隊が収用し撤去することさえ可能になる。
 さらに最近明らかになったのは、民間人への罰則規定である。有事には自衛隊の作戦に必要な食料や燃料などの物資を保管するよう業者に命令でき、従わなければ6ヶ月以下の懲役か30万円以下の罰金を課すという。国民を総動員しておこなうのが戦争だから、民間人を対象にして権利を剥奪するのは、政府にとっては当たり前なのである。これに、ゲリラ、テロ対策を入れて、監視を強めようとしている。
 すでに東京の歌舞伎町や山谷、大阪の釜ヶ崎など、地域ごとの監視体制は強まり、大量の監視カメラが設置されている。高速道路や幹線道路などには、通称Nシステムと呼ばれる自動車ナンバーの自動読み取り装置が取り付けられている。クルマによる移動を、完全にチェックしようというもくろみだ。
 国民の行動をチェックできるようになれば、残されているのは心の中の管理であり、思想の管理である。これらの先には、国民総動員体制の最初の布石となる徴兵制が控えている。
 この思想管理の武器として準備されているのが、「メディア規制3点セット」と呼ばれるものだ。個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年社会環境対策基本法案の3法は、「プライバシー」「人権」「青少年健全育成」という美名の下に成立しようとしている。メディアにたいして、一挙に網をすぼめてきた自民党のやり方は他党を引きこんだ増長のあらわれである。ジョージ・オーウェルが描いた超管理社会は、もう目前である。

■事前検閲が当たり前になる!?

 「国民総背番号制」の完成によって、国民のプライバシーが官公庁のコンピュータに収集される。その情報の漏洩が懸念され、防止のためにつくられたのが、個人情報保護法案だった。ところが、これは別の行政用の法律が準備され、個人情報を取り扱う事業者(情報産業や報道機関)を規制する法律が準備されている。コンピュータ業者ばかりか報道であっても、個人の情報を扱うものとして規制の対象になるという論法である。
 法案には、「個人情報は、その利用の目的が明確にされるとともに、当該目的の達成に必要な範囲内で取り扱われなければならない」とある。しかし取材とは、進めていくなかで目的がハッキリしていくものである。小さな疑惑が発端となって、さらに大きな事件が明らかになっていく。それこそが取材である。最初に取材目的を定めると、取材は矮小化してしまう。取材が進むなかで明らかになった事実を質問しようとすれば、被取材者は「目的がちがう」と逃げることができてしまう。それに誰にたいして、取材の目的の許可をえるのか。
 「個人情報は、適法かつ適正な方法で取得されなければならない」という条文も問題だ。どういう行為が適正ではないと判断されるのか、国(裁判官)が、この取材は「適性方法」ではかった、と判断することになる。これこそ報道にたいする国家の干渉である。取材される政治家や財界および官僚などに、核心を突く質問をすると、「そのニュースソースは誰か」、「適正ではない」といって逃げることができる。判断されれば取材は終了である。
 さらに問題なのは、「個人情報の取扱いに当たっては、本人が適切に関与し得るよう配慮されなければならない」という文言である。この条文に従えば、取材対象者が記事内容をチェックすることができる。
 メディアの大反発を受けた政府は、「放送機関、新聞社、通信社その他の報道機関、報道の用に供する目的」の場合、義務規定を適用しないとした。ところが出版社やフリーライターは、法律上の適用除外対象にすら入っていない。報道目的なら適応除外にするというのが事務方の判断らしいが、いまでさえハンディの多いフリーライターの取材が「報道」じゃないと難癖をつけられて規制されることは、明々白々である。記者クラブに属さず、政治家や官僚を叩いてきた週刊誌ジャーナリズムは、法案成立とどうじにきわめて不利になる。
 市井の人のプライバシーを保護するはずの法律は、権力者たちのプライバシーを保護し、その犯罪を見逃すために使われてしまう。そもそも個人情報を保護するための最良の方法とは、個人情報をコンピュータで一元化しないことである。
 ところが、国民総数番号制の準備として、ことし8月に導入される「住民基本台帳ネットワークシステム」(住基ネット)は、実施前から個人データの利用範囲を大幅に拡大しようとしている。
 そもそも政府は「国民総背番号制」との批判をかわすために、住民基本台帳に記載された情報の利用範囲を10省庁93件の事務に限定した。ところが、こんどはこれを2.5倍以上も拡大し、パスポートの発給や不動産の登記、自動車の登録など11省153件の申請届け出にも使うことするという。理由は、行政手続きのオンライン化のためだ。
 これによって国民ひとり、人間ひとりに関わる情報がオンライン化されてしまう。これまでも個人情報を職員がもち出して、業者に売ったりするケースがあとを絶たなかった。法律だけでは防御できるものではない。まず重要な情報をオンライン化し、リンクしないこと、さらに情報のコンピュータ化を限定すること。これこそがプライバシーを守る最大の方法である。
 ことし3月8日に閣議決定した人権擁護法案も、また、個人情報保護法案以上の強権的な法律である。法案では、独立した権限をもつ人権委員会が不当な差別や虐待行為などを調査し、被害者を救済することになっている。
 ところがこの人権委員会委員は、法務省の監視下にあって、たった5人。そのうち3人は非常勤である。2人の常勤人権委員で、もちろん全国すべての人権問題を担当できるはずもない。サブ機関として地方法務局が実務を担当することになっている。政府直轄の人権委員などとは片腹痛い。
 いつも、はなはだしい人権を侵害するのは、国家機関である。冤罪事件のように、無実の罪を着せられた被告に、法務省が手を差し伸べないなど日常茶飯事である。また刑務所内での囚人への暴力的な処遇、あるいは入管における外国人への支配など、国家とくに法務省の人権意識は地に堕ちている。身内の人権侵害の状況を、上意下達の“お役所”がどうやって改善するというのか。
 一方でこの法案は、「過剰取材」という名目で取材を規制し、報道内容を事前にチェックしようとしている。なんと取材を拒んでいるものに何度も電話したり、ファクスを送ったりするのも「過剰取材」となり、立ち入り検査がおこなわれる。ことは報道だけにとどまらない。ノンフィクションやモデル小説などへも波及していく。
 ジャーナリズムは権力の行き過ぎを規制するためにこそある。国家に都合の悪い報道が民主主義の要である。そんなことにおかまいなく、法務省の下部組織が検閲する法案を成立させようというのだから、小泉蛮行内閣がいかに支配を徹底しようとしているかがみえてくる。
 この人権擁護法案にたいしては、報道320社が共同声明を発表した。遅すぎたとはいえ、ようやくマスコミが立ち上がってきたのは歓迎すべきことである。しかしマスコミは、いつも両論併記という名目で足して二で割るような報道をおこなってきた。今回の問題もドタンバで中途半端な妥協をしないよう、世間を盛り上げる必要がある。
 先述の2法案は、「プライバシー」と「人権」を守るために作るのだそうだが、もうひとつの青少年有害社会環境対策基本法案は、青少年をとりまく「環境」のためだという。ここにも法案を準備している人間たちの欺瞞的な体質が、はっきりあらわれている。
 青少年のために表現を規制するのは、これがはじめてではない。なにか犯罪が発生するたびに、「表現に問題があり、その影響を受けた」などと、ミスコミがやり玉に挙げられてきた。『チャタレー夫人』事件のように、小説さえ弾圧されることが珍しくない国である。しかし今回の法案は、さらに激しい表現規制を生むことになる。
 メディアの動きを規制する法律ができる裏では、政府の情報を表に出さない策略も進行している。昨年、自衛隊法が改正され、防衛秘密が強化された。86年に廃案となった国家機密保護法案の再生である。当時あれだけ問題になった法律が、いとも簡単に通ってしまうところに、野党の脆弱さがあらわれている。歯止めのない暴走は、はじまっている。
 鈴木宗男事件での外交官のドタバタ騒ぎの産物として、外交機密文書も再規制がはかられた。いままでの秘密指定範囲を少なくする一方で、指定された秘密保持を徹底するというのだから、まるで火事場ドロボーだ。機密費問題にたいする反省など、外務省は微塵も感じていないようだ。
 小泉人気がまだ余命を保っている間に、なりふり構わずすべての懸案を実施し、戦争体制の準備をはかりたい。これが日本の為政者の欲望である。まもなく、小泉も切り捨てられる。

■明かされぬ93便の真実

 情報管理とえば、9・11以降の米国もはなはだしい状態だ。
 たとえば、いまだあきらかにされていないのがハイジャックされた三機目の航空機、ユナイテッド航空93便の真実である。乗客がテロリストに立ちむかい、ホワイトハウス、国防総省あるいは国会議事堂への自爆テロが未然に防がれたと伝えられている。このビッグヒーロー物語は、大々的に報道された。機内の英雄がテレビドラマ化されることも決まり、乗員乗客40人に軍人最高の戦功賞「名誉勲章」を授与される法案が審議されている。アメリカ的なヒロイックな物語は、国内外を問わず流布している。
 しかしこの墜落した場所は、事故から2ヶ月以上たっても立ち入り禁止されていた。回収されたはずのブラックボックスの情報も、いっさい開示されていない。そのため米軍戦闘機による撃墜説が、いまでも根強くくすぶりつづけている。
 そんなアメリカで、ニセ情報を発する機関の新設が計画されていた。結局、ブッシュ大統領の反対で機関設立は流れた、といわれているが、これまでのCIAの行動を仄聞するだけでも、彼らがいかに情報操作をおこなってきたかが明らかになっている。ニセ情報による情報操作など、アメリカ帝国主義ですでにおきまりの手法である。
 このように国家権力は、国民にたいしては少しでも情報を抑えようとする。一方で国民の情報をできるだけ回収して監視、支配し、大本営発表のごとくウソの情報によって世論を操作し、熱狂をつくりださせる。それらはけっして「民主主義国家」のやり方ではない。弊害はあまりにも多い。言論弾圧は、言論界だけの問題ではない。ひとりひとりの人間の存在にかかわる、根本的な重大事である。小泉の表情にあらわれる冷酷さは、さいきんますますひどくなってきた。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/日本沈没にむかう不審船撃沈

■月刊「記録」2002年2月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 昨年末の奄美大島沖での不審船攻撃事変は、日本の戦後史のひとつの終わりであり、ひとつの悪い始まりであった。不審船は、海上保安庁の巡視船から590発の銃撃を受け、攻撃開始からおよそ7時間半後に撃沈された。 日本の平和憲法の中心は、ひとつは非武装であり、もうひとつは武力による威嚇又は武力の行使はしないというものである。しかし不審船の沈没によって、およそ15人とみられている乗組員が全員死亡した。日本における戦後は、戦争中アジアを中心にして2000万人以上の命を奪ったという重大な反省からはじまった。その反省こそ戦後の立国の中心理念であったはずだ。戦後56年たって平和憲法のもとで、ついに武力によって外国人を殺す時代をむかえた。非常に残念だ。
 いままでは海外を旅行していても、日本人には安心感があった。戦争中には残虐行為をおこなったにせよ、戦後、日本国家が外国人を武力で殺害するようなことがなかったからだ。日本の軍備強化に不信感をもつアジアの人たちも、その点だけは評価していたと思う。
 しかしこの事件によって、戦後長い時間をかけて形成してきた信頼感は奪われた。そもそも不審船を確認したのは領海外! であった。領海外でありながら、EEZ漁業法(排他的経済水域における漁業等に関する主権的権利の行使等に関する法律)により、排他的経済水域での無許可採捕のおそれがあるという判断で追いかけ回した。簡単にいえば、排他的経済水域で魚を採っていたおそれがあるから、領海外にいた船を追跡し、かつ「船体射撃」によって沈没させた。もっとも野蛮な解決である。
 一部報道には、不審船の沈没が自爆によるものだと報じられている。しかし、それは船体を引き上げてみなければわからない。そもそも海上保安庁によれば、「船体射撃」は「人に危害を加えない与えない範囲で威嚇のため」におこなったという。しかしこの「威嚇射撃」によって、不審船は火をふいたというのだから、なにをかいわんやである。
 99年3月に起こった能登半島沖での不審船事件のときには、海上保安庁と海上自衛隊が出動。爆弾を投下し、機銃による射撃をしたが不審船は捕らえられなかった。しかし、このときの状況は「逃げられた」というよりも、むしろ「逃がした」というほうが正確であった。沈没させようと思えばできたが、国際的な問題も考え船体射撃には踏み切らなかった。
 だがこの2年弱の年月が、日本を大きく変えた。アメリカでの自爆テロとそれにたいするアフガン攻撃は、日本が武力行使に踏み切る言い訳をあたえた。不審船沈没のあと、小泉首相はさっそく「正当防衛だ」といっていたが、それは自爆テロにたいしてブッシュ大統領が戦争を宣言したのをマネした行為である。一犬吠えれば百犬吠える。小泉スピッツである。不審船を沈没させたのは、テロ集団にたいしては日本も武力をもって応戦するというブッシュへのメッセージでもある。つまり、能登半島沖事件までは、威嚇はしても殺害しないという日本の自重が、自爆テロ以後は事態、事変(戦争)も辞さないという方針に変えられたのである。

■密漁で殺された日本人はいない

 ここで考えてもらいたいのが、北方4島の問題である。北方4島の領海では、根室の漁師たちによる密漁事件が相次いできた。これまでにもすごい数の拿捕者が発生している。あるいは韓国との間の李承晩ラインを超えた漁師たちも、韓国政府によって大量に拿捕されている。 これは他国の領海内に浸入して密漁した明確な犯罪行為であったが、ほとんどは拿捕だけで終わっている。最近拿捕された根室漁民を、私はサハリンの刑務所やシコタン島にある警察の留置所で面会し、その事実を確認している。またロシアの国境警備隊の若い砲手にもインタビューした経験がある。これは追跡劇のなかで射撃され拿捕された事件であり、船体を射撃されたあとに水没しきわめて珍しい事件があったときに取材したものだ。
 戦後50数年のなかで、日本の漁師が旧ソ連領海内、あるいは韓国領海内で犯罪行為を働いていて、乗組員が射殺された例はなかった。にもかかわらず日本では、領海外の船が「不審船」というだけで、射撃して沈没させ、全員を殺害した。この政府による「テロ攻撃」は、過剰な行動だったとわたしは考えている。
 これは証拠のないテロルの「首謀者」1人を殺害するために、トマホークをはじめとする大量のミサイルや爆弾を投入したアメリカと、そっくりのやり方である。アメリカにあるニューハンプシャー大学のマーク・ヘロルド教授の推計によれば、昨年12月6日の時点でアフガニスタンでの民間死者が3700人余となり、米英軍に殺害された無辜の市民が、同時多発テロによりニューヨーク・ワシントンで殺害された人数を超えたという(『朝日新聞』2002年1月8日)。これ以外にも、老人・子ども・女性を含む数百万単位の難民の運命や、飢餓や病気による子どもの死亡などの悲劇が起こっている。その責任を誰が取るのか。
 外国船を攻撃して沈没させたのは、日本の戦後史のなかで初めてである。そこから日本がまた軍事大国の道にむかうのか、あるいは初めてにして最後の外国人殺害事件にするのかが問われている。しかし事件後、自民党の赤城徳彦議員は、「日本の領海内で発見されていれば、危害射撃が可能だった。領海外で見つけた場合も、危害射撃を可能にするように法改正すべきだ」などと発言している。このままの自民、公明、保守の連立政権の日本では、ますます軍事大国化の道をすすむようだ。

■「権利擁護」という名の権利制限

 このような殺伐たる政府のもとで、有事法制を通常国会で取り上げようという動きが強まっている。有事という名の「戦時」の治安対策の基本原則を定める「安全保障基本法」の制定がいま強調されている。有事法制とは、首相権限を強化して、「非常事態」に国民の私権を制限するもので、いわば「戒厳令」ともいうべきものである。
 戦争の恐怖とは、戦地で人間同士が殺し合いをする、あるいは見えない敵を遠隔操作の新兵器によって殺すという残虐行為ばかりにあるのではない。戦争を遂行する強権によって、国内体制の支配が強化されることもまた、戦争の恐怖である。ガイドラインの見直し以降、周辺事態法、盗聴法、背番号制という人民の管理を強化する法律がたてつづけに成立したのは、まさに戦時体制の準備ともいえる。そして戦争準備のさいたる法律が、「非常事態」を想定した有事法制(安保基本法)だ。戦争遂行と基本的人権の制限。憲法否定の法律である。
 『読売新聞』(2002年1月1日)によれば、防衛庁首脳は「外国の国防担当者に説明すると当惑されるぐらい危機対応が不十分」と語ったという。また中谷元・防衛長官は、『読売新聞』(2002年1月1日)のインタビューで次のように語っている。
 「首相が非常事態にどういう権限を持つのかを明記する。首相は安全保障会議を通じ、各閣僚を総括、主導するが、一言で言えば、(首相の権限と)国民の基本的人権との調和をどう図るかということだ。その理念をもって憲法と他の既存法の溝を埋める法律と言っていい。これまでの有事法制の議論では、国民(の権利)を縛ることばかりが指摘された。しかし、むしろ権利擁護という観点から、国民の権利を制限する場合の『歯止め』の役割を果たすものだ。権利が制限された場合の補償規定も盛り込むべきだ」
 中谷長官の主張は、権利を擁護するために権利を制限するという詭弁である。これは自由のためという名目で、アメリカの「快適な」生活を維持するためアフガニスタンの山野に大量の爆弾を投下して、アフガン人民を殺戮しているのと似た論法である。自由のために自由を制限する。権利擁護のために権利を制限する。これこそ為政者のギマンの言葉である。
 本来ならこのような政権に反対するのが野党の役割のはずだ。ところが、今回も野党第一党の民主党は、まったくあてにできそうもない。NHKの討論番組では、民主党の鳩山代表が「平時に緊急事態(有事)法制の基本的姿を作り上げていくため、我々も議論に参加する」と発言し、「安全保障基本法」の制定に前向きなことをしめしたという(『読売新聞』2002年1月7日)。
 おなじ穴のムジナである。やはり旧自民党グループは、国民の権利や平和にたいする意識が低い。2つに割れたといっても、双方ともに腐ったまんじゅうであることに変わりはない。フハイはすすむばかりだ。

■少数民族が慌てて掲げる星条旗

 日本以上に国内体制が強化されているのがアメリカである。最近アメリカから帰ってきた知人の話によれば、アフガンの難民の問題や誤爆によるアフガン市民の死亡などのニュースは、アメリカのTVでほとんど報道されてないという。
 戦争を遂行する国内体制がどのようなものかは、こうした言論統制のすすみ具合からも理解できる。
 もちろん体制の強化は、マスメディアばかりで起こっているわけではない。一般市民による愛国主義の強制も、すごい圧力となって一般市民を襲っている。先ほどの知人によれば、ニューヨーク市の地下鉄は、1両ずつ星条旗を掲げていたという。また街中に星条旗が溢れていたそうだ。とくに少数民族が多数いると思われる地域では、星条旗の数が増えていく。自分たちがアメリカに忠誠を誓ったということを証明しなければという不安感が、こうした星条旗の掲揚にあらわれている。悲しい風景だと、知人は私に語った。
 『毎日新聞』(2002年1月8日)にも、アメリカの体制強化の現状を知る事例が報告されている。いくつか書き出してみたい。
 カリフォルニア大学バークリー校元講師のエコノミスト、ウォレス・スミスさんは、政府がテロ捜査で中東出身のイスラム系男性5000人を聴取したことに、次のように批判した。
「容疑を特定せずに取り調べを半ば強制し、仲間の名前を告げたり、少しでも不審な挙動があれば拘束しようという意図を感じる」
 チェイニー副大統領夫人が団体の主催者として名を連ねている保守系民間団体が、大学の集会やメディアでの発言から「非愛国的」とする100以上の例をしめした報告書を発表。その報告書を、シアトル・タイムズ紙は「現代版ブラックリスト」と評した。
 世界貿易センタービル崩壊を喜ぶアラブ人の様子をいさめた電子メールにたいして、「少数の反応をアラブ人全体に結びつけるのは誤りだ」という反論メールを送ったパレスチナ系米国人のオルブレット氏にたいして、同僚からの反論のメールはなく、FBI捜査員が訪れたという。
 これが「自由の国」アメリカの現状である。日本も小泉首相の高い支持率のなか、戦争への道を歩き始めている。繰り返していえば、戦争は徴兵されて戦地に出動するものの悲劇ばかりではない。それを支える国内での抑圧と支配の強化にこそ、大きな悲劇のもとがある。民主主義のためにといいながら、戦争が民主主義を抑圧していく。それが歴史の教訓である。
 不況により生活の安定も、「経済大国」としてのプライドも失った日本ではあるが、軍事強化によって、虎の威を借りた大国たらんとすべきではない。むしろ不況のなかから小国立国の道を探すべきだろう。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/国有化で太る企業とマスコミの商業主義

■月刊「記録」1998年11月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■天下り大活躍

 いまから一二年前の一九八七年、「国鉄改革」が行われた。「国鉄処分」ともいうべきこの杜撰な計画は、バブルに踊っていた大企業に、国鉄用地争奪戦を繰りひろげさせることとなる。国鉄がもっている国有地の売却により、オフィスビルを乱造させ、さらに行き掛けの駄賃で労働組合も潰す。一石二鳥を狙った中曽根内閣のファッショ的なやり方にたいし、わたしは終始一貫反対してきた。結局、最近になって、この国鉄処分が重大な矛盾を生んでいるのが明らかになってきている。
 最近、国鉄清算事業団の三人の幹部が大林組に天下っていた事実が明らかにされ、旧国鉄用地買収の入札に関する情報が大量に林組に流れていた事実が発覚した。
 ここ数年、バブル崩壊による地価の下落があったため、凍結されてきた旧国鉄用地の売却が、なぜか活発になっていた。もちろん、地価が再上昇したからではない。商業価値の高い旧国鉄用地を買いたい大企業が、しびれを切らしたためである。しかも旧国鉄用地でもっとも重要な土地であった新橋駅近くの「汐留地区」は、なんと落札金額が非公開だった。極めて不明瞭な取引きと言わざるを得ない。
 この土地売却につづき、東京駅前の旧国鉄本社跡地や東京駅八重洲口(北口)など、超大型物件がどんどん売却された。その売買の裏で大活躍していたのが大林組だったのである。
 土地の落札を望む企業に、大林組が大量の応札価格などを情報を提供、その見返りとして大林組が工事の受注を受ける。これが大林組の「営業」方法であった。そして顧客を引きつけるための情報を得るために、天下り幹部を最大限に活用していたというのだ。
 入札は、高い金額を提示した入札者の企業に落札される。そのため他社の応札価格を知り、他社と僅差の値段で落札できれば最もお買い得となる。しかも入札を申し出た企業にたいしては、事業団がヒアリングをおこなっているのである。事業団が得た応札価格にかんする資料を、天下り人脈で入手すれば、無駄金をはたくことなく土地が手に入るというわけだ。
 一〇月一四日付の『朝日新聞』によれば、旧国鉄から事業団に移り、事業団理事から事業団の子会社へと渡り歩き、九五年に大林組に入社した幹部が、旧国鉄用地の大型物件の購入を担当していたという。さらに事業団の子会社「汐留開発」の元社長であり、事業団のOBでもある人物も、九七年四月に大林組に入社。営業本部参与に就いていた。このOBの再就職は、同年二月に行われた汐留地区A街区落札のお礼だったと噂されているというのだから、呆れるほかはない。
 ここから浮かび上げるのは、旧国鉄用地の売り手だった国鉄清算事業団の元幹部が、買手側の参謀になったという図式である。売る側がちゃっかり買手に回るなど、戦争にたとえれば味方の大将が、敵側の大将に取って代わったようなものだ。

■バブル頼みの「国鉄改革」

 そもそも国鉄清算事業団は、国民の税負担を軽くするために、旧国鉄用地を売却する組織だった。旧国鉄事業地をどれだけ高く売るかによって、国鉄の債務返済に投じられる税金(国民負担金)が少なくなるのである。だから、大林組の行為は、ほかのゼネコンにたいする裏切りだけではなく、国民にたいする裏切りになる。
 昨年以降、大林組のあと押しによって落札した主な物件と応札金額は、一〇月一三日付の『朝日新聞』によれば、次の通りである。
「汐留地区A街区」(落札金額は非公開)、「品川駅東口B-1地区」(同一八三八億円)、「旧国鉄本社」(同三〇〇八億円)、「東京駅八重洲口(北側)」(同一五六八億円)、「錦糸町駅(南側)」(同非公開)、「みなとみらい二一―二八街区」(同非公開)。
 バブル期には一坪一億円とも噂されたあった国鉄本社用地も、契約応札金額は、三〇〇八億円、坪単価に直せばおよそ8286千万円に収まっている。つまり、その土地下落分だけ国民の財産が減ったということだ。
 旧国鉄の赤字は、国鉄分割民営化当時二二兆七千億円だった。これらは旧国鉄用地の売却益によって、回収する計画となっていた。ところが現在の赤字は、二八兆円と増えている。
 この現実について、バブルが崩壊したからだという理屈を、かつての責任者たちが言っていたが、おかしな話だ。そもそも国鉄分割民営化はバブルだのみの政策だったのだ。消えるべくして消えたバブルによって、借金が増えることは、当初から予想されたことであり、国鉄改革を実施した責任者は、戦犯として責任を問われるべきものである。
 国鉄分割民営化の当時から懸念されていたように、国鉄の財産――つまり国民の財産――を大企業がいかに分補して行くかが、国鉄改革の最大のテーマだったのである。
 大林組に関連した疑惑を眺めてみれば、国民財産を大企業に横流しするように、旧国鉄官僚が工夫を凝らしているのがわかる。
 さらに国鉄分割民営化によって国民に押しつけられた、二二兆七千億円もの赤字の問題もある。先述したように、この赤字は二八兆円まで膨らんでしまった。
 この巨額の債務にたいして、一〇月五日に衆院で可決された国鉄債務法案は、JR負担分を半分にまけることを決めてしまった。当初予想されていたJRの負担分の三六〇〇億円の半分、一八〇〇億円を国の金庫で賄うことにしたというのだ。すでに二二四五億円ものお金が、たばこ特別税(仮称)などによって補てんされることが決まっているのにである。
 そもそも国鉄改革は、国民に赤字を押しつけないという名目で行われたのだ。ところがいまは公然と一八〇〇億円もの資金を国庫補助金でまかなうことになった。これは国鉄の亡霊がいまなお赤字を国民に押しつけていることを示しており、国鉄改革の精神に著しく齟齬をきたすものである。
 国鉄の歴史は、政府が全国の民間鉄道を極めて高い値段で買い上げるところから始まる。それを今度は安い価格で民間に払い下げ(JR化)、赤字分を再度国民に負担させるようとしているわけである。
 このような方法は、なにも国鉄ばかりではない。放漫経営の末、国有化が決まった日本長期信用銀行なども典型的な例だ。政府は財界に都合が悪くなると税金で尻拭いする一方で、国民の財産をかれらに安く売ることで、財界を太らせてきたわけである。
 このように財界だけを視野に入れておこなわれる数々の政策が、さほど反対運動が起きることなく通っていってしまう。野党や労働運動が、政府のやり方にたいして無力になっている証拠だろう。

■疑われればマスコミから制裁

 腹の立つことは、なにも国鉄問題だけではない。
 7月末に発生した和歌山県の毒物混入事件関連では、いわば別件といえる形で保険金詐欺事件の容疑者が逮捕となった。まだどちらの事件も解明されてはいないが、一部週刊誌は容疑者夫婦をカレー事件の犯人と特定したような扱いをしている。日本の犯罪報道が、目を覆うほどに凶暴性をエスカレートさせている様子がよくわかる。
 逮捕前からマスコミが疑わしき人物を中心に取材攻勢をかけて大騒ぎするのは、ロス事件や奈良県月ヶ瀬村の殺人事件などでみられたことだ。今回もそれと同様、逮捕する瞬間をヘリコプターで撮影し、警察の車を追尾して放映するという大混乱状態になった。
 常時二〇〇人以上の報道陣が容疑者の夫婦宅を取り巻いて日夜監視するなど、警察でも行わないような大捜査体制が敷かれている。警察が犯人として逮捕する前から、犯人扱いで報じる権利がマスコミにあるのかどうか、厳しく問われるところである。
 マスコミは過当競争に煽られ、疑われたものはマスコミによって必ず理不尽な制裁を受ける。このような取り返しのつかない事態が、平然とまかり通るようになっている。
 近所の混乱もひどかった。現場付近では、ほぼ全世帯が要請文を張り出していたという。「心身共に疲労しています。報道取材を自粛して、静かに休息させてください」と書かれた文面からは、混乱に巻き込まれた住民たちの叫びが聞こえてくるようである。

■目的意識を喪失したマスコミ

 今回の保険金事件の容疑者については、一部週刊誌では目隠しをした写真が数回にわたって掲載されていた。このようにもはや修正のきかない段階にまで、夫婦を追い込んだのは、マスコミである。えん罪かどうかを問題にしているのではない。マスコミが作りだした犯人が一人歩きした、ロス事件やサリン事件の教訓が生かされていないとなげいているのだ。
 現在、当時を上回るバカ騒ぎ行われていることに驚きを感じる。いうまでもなく、疑われていた人物が「犯人」となるのは裁判によってである。それどころか裁判で判決を下ってもなお、本人がえん罪を主張し、逆転無罪になるケースもいくつもある。
 もちろん警察の責任も免れられない。
 今回の事件で和歌山県警は、なん十人もの警官隊を投入し、まるで凶悪犯人の大捕物といった状況を作った。忘れてはならないのは、この時、家には子どもが居たことだ。すくなくとも警察は、家の中に子どもがいれば、どれほど傷つけられるかを考慮すべきだった。逮捕状を取ったあと、彼らを任意出頭させて逮捕する方法もあったし、家宅捜査はそのあとでも十分にできたはずである。
 保険金事件の容疑者を凶悪犯人あつかいするために、警察はマスコミの力を利用し、マスコミも警察に手を貸したのだ。本来、国家権力に対峙すべきメディアのすることではない。
 これまでなん度もえん罪事件が起きているのにもかかわらず、マスコミはなんら自粛しようとしない。こういったマスコミの極端な商業主義は、どれだけ批判しても批判しきれない。
 だいたいマスコミが大殺到して事件報道を書きまくる。しかも個人を槍玉にあげるという方向になってきているのは、報道すべきものがなにかを考える姿勢が忘れられていることを示している。国民のなかにあるさまざまな不満が、犯罪事件の容疑者にむけられるようになってきているのではないか。
 一方で、このようなバカ騒ぎを冷ややかに見ている人がすくなくないことも、マスコミは知る必要があるだろう。 (■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第23回 頼りないお姉さんの自信

■月刊「記録」2001年9月号掲載記事

*          *          *

 突然、来園し、結婚すると報告する正利のお姉さんに、ぼくは探るようにして訊ねた。
「以前、言っていたことが反古になっちゃうってことはないですよねぇ」と。
 約束とは、正利とみかを引き取ってくれるという件だった。すると、
「大丈夫ですよ。引き取ることですよね。大丈夫ですよ。そのために、今日、この人に会わせるようなもんですから」
 どこまでも明るくお姉さんは答えた。深い考えは特になさそうだった。
 でも、それが、ぼくにはかえって心配なのだった。
 そのために会わせる? ということは、約束は反古になってしまう可能性をも秘めているということだった。だって、あいつを見たら誰だって……。
 お姉さんの彼氏という男のほうを見ると、やはり穏やかに、ただニコニコしているだけだった。

■自信満々のお姉さん。だが、

「大丈夫ですよ。心配しないでくださいよ、神山先生」 おねえさんは明るくはきはきと答えた。
 本当だろうか? ぼくは先ほどのやりとりのすべてに不安を感じていた。
 確かに、お姉さんは、正利と違って大きな声で話してくれた(正利は嘘をつくことが多いので、ボソボソと小さい声で話すのだ)。
 確かにお姉さんは、正利と違いぼくの目を見て話してくれた(正利は決して人の目を見ない)。
 だから一見すると、お姉さんが嘘をついているようには見えなかった。だが、ぼくにはどうしてもお姉さんのことが信じられなかった。正利とみかを引き連れ、食事に向かうときのお姉さんのあっけらかんとした笑みが、どうしても何も考えぬ無知からきているように思え、ぼくにはとても頼りないものとして映った。
 ぼくは誰もいない職員室で、もう一度、正利たちの引き取りについての疑問、あるいは不安を1つづつ整理してみた。整理してみると、驚くほど答えが簡単に出た。 もう、この引き取りの件についてはあれこれ考える必要がないことがわかった。
――おそらくお姉さんが正利を引き取ることはないだろう――
 それがぼくの出した答えだった。
 理由は大きく分けて3つあった。1つはお姉さんが、なんだかんだいってもぼくと同い年であること(当時28歳)。1つの仕事を忍耐強く続けることを選ばず、ふらふらと夜の仕事を渡り歩くお姉さんには、失礼ながら経済的基盤があるようには見えなかった。
 2つ目はいつでも「大丈夫」とはきはき答える点。これまでも、正利たちについて、いろいろなやりとりを行ってきたが、細かいことや具体的な話はいつもしないし、聞いてもこない。実のところお姉さんは、まだ正利たちの引き取りについて、深くは考えていないのではないか、それどころか考え始めてもいないのでは? という疑念すら湧いた。
 3つ目。ここが一番肝心な点だが、お姉さんの彼氏(旦那)は、今日まで正利と会ったことがなかった。結婚する相手に連れ子がいるというのは、やはり男にとって負担であるはず。まして正利は15歳を過ぎている。正利のことはあらかた話してはあった、とお姉さんは言ってはいたものの、会わずにあいつを理解するのは不可能に近い。
 そういえば、先ほどの話し合いで「愛の手帳」についてぼくがお姉さんに話したとき、それまで何も口を挟まずに聞いていた彼が、唯一お姉さんに何かをぼそぼそっと訊ねたこともぼくは思い出した。
 そのときの彼の表情は、相変わらず穏やかだったので、あまりぼくも気にとめはしなかったが、今、思い出すと、やはりひっかかるのであった。
 問題を整理したら、こんなに重要で大事で危険な3点が浮かび上がってきた。その結果、“お姉さんは、まず正利たちを引き取らないだろう”という確信が、ぼくのなかには、生まれた。
 そして、これだけ冷静に分析したあとであるというのに、ぼくはどうしたわけか、すこぶる単純な思いつきで、万が一の後の物事を解決しようとしていた。
「お姉さんが引き取らないのなら、ぼくがひきとればいいさ」
 我ながら、そのときどうしてそんなことを考えたのかわからない。もしかしたらずっと前から、そんな結果を頭のどこかに覚悟していたのかもしれなかった。
          *
 もやもやとした不安は消え、晴れ晴れとした気持ちで、ぼくは職員室を出た。
 気が変わらないうちに、さっそく他の職員に報告しに行こう!
 そう思い、歩いていると、さっき出ていったはずの正利が、ぼーっと廊下に突っ立ていた。
「どうした、おまえ、もう帰ってきたの?」
「あー、せんせ、おねえちゃんが、よんでるのよ」
 無表情に用件を伝えると、正利は部屋に戻っていった。
 そして、ぼくはお姉さんのところへ向かった。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/29歳で消えた光・児玉正太郎(50歳)

■月刊「記録」2002年1月号掲載記事

*          *          *

■白内障が突然に

 横断歩道の前でパッと消えたんです。歩いているときに。目に幕がかかって、その瞬間に消えました。左目はモヤモヤと白い感じでしたけれど、右はわからなくなったんです。いや、申し訳ないけれど、暗くなったんじゃなく消えたんですよ。あっけなかったですね。シュンっていう感じですか。
 当時住んでいた横浜の寿町の近くでした。申し訳ないんですが、周りの人に助けてもらって病院にね。医者に懐中電灯で照らされたとき、左目は光が見えたんですよ。でも右目はわかりませんでした。診断は白内障。もちろん視界が消えたときに、目が見えなくなったのはわかっていたんですがね。
 それから入院です。手術までは長かったですよ。半年待ちましたから。準備が大変なんです。執刀してくれる先生の順番も待たなくちゃいけませんし。手術が終わって、左目は少し見えるようになりました。視力はわかりませんが、福祉でいえば五級ぐらいだと思います。メガネをかければ、もう少し見えるようにもなると思うんですがね。
 退院してからは、申し訳ないけれど福祉施設にお世話になりました。一部屋に八人ぐらい入れられましたが、ベッドは一人一人別ですし、ごはんも食べられますし、テレビだって見られる。たばこもね。風呂は順番に入るんですがね。しなくちゃいけないのは掃除ぐらいでした。何も困ることはありませんでしたよ。
 でも入って2ヶ月ぐらいで、申し訳ないんですが、施設を逃げ出しました。病院に通院したとき、何となく帰りたくなくなっちゃったんです。神奈川県相模原市の病院から横浜市の施設に帰らなくちゃいけないのに、山の方に行っちゃいました。気づいたら箱根ですよ。自信がなくなっちゃったんです。集団生活というのもあります。人に対して悩んでいた面もあるんですね。自分自身のワクというのかな、思いというんですかね。自分の壁があったんです。越えられないね。白内障になって、昔より弱くなっちゃったということですかね。
 自分では、まだ働けるとも思ってもいました。もちろん一人で暮らすことと施設での生活を考えれば、施設の方が安心だとは感じていましたよ。それなのに自信をなくして施設を出たんだから、矛盾していますよね。結局、29歳で失明してから21年間、ホームレスですよ。
■本当の母ではなかった

 誕生日は、昭和26(1951)年7月16日。
 小学校1年か2年ぐらいですかね。母が死にました。アル中だったみたいなんです。死ぬ半日ぐらい前だったと思うんですが、寝ていた母に呼ばれまして。寂しそうな顔でね。死にそうな声というんですかね。「しょう坊」って。枕元にあぐらをかいたら、「しょう坊、あの、うちが本当のお母さんじゃないよ」って。自分が死ぬのを覚悟していたんでしょうね。
 それまでもハッキリと言われたことはなかったんですが、生みの親じゃないことは、ある程度わかっていました。本当の母親についても知らされていませんが、誰だか見当がついてました。親戚のようにつき合っていた母親の友だちです。
 その本当の母親に最後に会ったのは、白内障になる前、28歳ぐらいだったかな。「一緒にごはんを食べないかい」って誘われてね。いつもは一緒に食事をするんですが、その日は何か遠慮しちゃって。それきりです。いま? 恥ずかしい生活をしているから、会えませんよ。 母が亡くなったときは、申し訳ないんですが近くの幼稚園で近所の友だちと野球をしていました。その日、なぜか高ーいフライが捕れたんです。スポッと手に収まったの。いつもは捕れないのに。虫の知らせというのかな。
 それから父親は再婚して、その父も母が死んだ2年後に脳溢血で亡くなりました。僕を育ててくれたのは、継母です。中学まで一緒に暮らしましたよ。ウチは貧乏だったんですが、小学校6年のときには塾にも行かせてもらいました。でも僕はお小遣いがほしくて、塾をやめて新聞配達のアルバイトを始めたんです。小学校は産経新聞。中学のときは朝日新聞でした。
 中学を卒業してからは工場や水商売で働いていました。親戚の人に助けてもらって郵便局で働いたこともありましたね。でも郵便局に勤めていたのは申し訳ないんですが半年程度でした。
 いや、オートバイがほしかったんですよ。それで郵便局の仕事が終わってから、水商売で働き始めて、そのうちにやっぱり水商売に戻ろうと思って、郵便局を辞めました。いや、郵便局のお金は悪くなかったんですけれどね……。

■シンナーがやめられない

 スナックで働いていた21歳のときに、喫茶店のウエイトレスをしていた人と結婚。彼女は17歳でした。でも、結婚してしばらくして、僕は水商売を辞めたんです。胃潰瘍になりましてね。それから少し遊んでいたんですよ。妻が水商売で、家計を支えてくれましたから。ちょうどそのとき、申し訳ないけれどアンパン(シンナー)を始めたんです。
 昔、少しだけ吸ったことがあったし、いまよりも買うのは簡単でしたから。はんこがないと売ってくれなかったけれどね。ビニールに入れて、隠れて吸っていました。妻に見つかっては、「ダメだ」って意見されていたんですがね……。
 申し訳ないけれど、お酒を飲むよりもいい気持ちです。酔い方が違うというのかな。信じてもらえないかもしれないけれど、幽霊が見えるんですよ。チラッと人の姿が見えるの。吸うと。楽しいときには、若い女の子が見えたり、話し声が聞こえたり。
 お酒を飲むと吸いたくなるんですよね。寂しくなっちゃう。刺激が足りないというんですかね。だから雑貨屋さんで、ラッカーシンナーを買ってくる。悪酔いになるときもありましたよ。芯まで自分を追求しちゃうというのかな。自分の本当のみじめなところもわかっちゃう。それが嫌なんだけれど、もっと見たいという気持ちもあるんです。
 当時だって恥ずかしいと思っていたんです。20歳を超えてアンパンを吸っているなんて。羞恥心もあるし、落ち着かなきゃとも思う。でもやめられなくて。ついには頭が狂っちゃった。部屋に独りで閉じこもっちゃうんですから。仕方なく薬で治療しましたよ。恥ずかしい話ですが、アンパンのおかげで23歳のときに妻と別居、25歳で離婚しました。
 それからの仕事は、土木関係が多かったですね。それでも25歳ぐらいまでは、東京・葛西で借家暮らしをしていました。寿町のドヤに住むようになったのは、28歳のときかな。そのあとに白内障でしょ。
 施設を出て箱根に行ったあとで新宿に来たんですよ。2ヶ月ぐらいいましたかね。手配師に建設会社の仕事を紹介されて。でも、申し訳ないけれど一週間ぐらいしか続きませんでした。目が見えないと、やっぱり仕事にならないんです。

■私のいまは壁のシミ

 それからはスーパーが捨てた食べ物を拾い、歩いて日本を回るようになりました。一番西は名古屋まで行きましたよ。静岡県の朝霧高原で、3年以上暮らしたこともあります。平成に入ってからだから、38歳ぐらいですかね。ベランダのついた民家だったんですが、鍵がかかってなかったので入り込んで、住み始めました。
 そのときですよ。お金をもらうために、生まれて初めて箱を置いて座ったのは。申し訳ないんですが、フィリピンからの観光客に初めて助けてもらいました。そのときは100円玉があって、1円もあったかな。
 たまにいっぱいお金をもらうこともありますよ。伊勢志摩の国立公園では、2000円もらいました。あと、どうしてもお金が必要なときは、土地の役所に行くんです。なるべくアルバイトみたいなお手伝いさんが窓口にいるときをねらって。申し訳ないけれど、それで500円とか300円もらえますから。
 まだ50歳ですから、死ぬまでには北海道に行ってみたいんです。ただ道がわからないですからね。暗くなるととくに怖い。昔、栃木で猿が出てきて、僕が笑ったらカチンときたんでしょうね。襲われたことがあります。 仕事したいですよね。アンパンも買えるし。戻れるなら、アンパンをしていたころに戻りたいですもん。
 いまは壁のシミみたいな感じですね。20年も外で暮らしているんですから。 (■了)

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ホームレス自らを語る/暴力から逃れて・岡山滋さん(66歳)

■月刊「記録」2002年2月、3月号掲載記事

*         *         *

■社長が覚せい剤で捕まった

 雨の日でね。社長が帰ってきて「おつかれー」と声をかけたら、愚痴が始まったの。あー、くるなーと思っていたら、「俺を誰だと思ってるんだー」って。だから「社長だろ。社長なら社長らしくしろ」と言ったの。それが頭に来たみたいだよ。
 テーブルをバーンとひっくり返して、そのあとペットボトルに入った4リットルの焼酎を、台所でジャージャー流し始めたの。「酒だってタダじゃないんだよ」って言ったら、社長の目が変わってさ。これは危ないかなと思って、「外に出るよ」と一声かけて玄関を開けてたら、後からドンとけられたんだ。あとは記憶なし。アパートの二階から階段の下まで転がり落ちて、2日間意識不明だったから。救急車で病院に運ばれて、10日間も入院したんだ。それで「おまえと一緒にいたら殺されるから」って言って、家を出たんですよ。
 ホームレスになる前は、解体屋(バラシ)で働いていたの。
 バラシっていうのはね、建築現場でコンクリートを流し込む枠を作って、コンクリ打ったあとに枠をばらす仕事。知ってる? 4メートルのパネルを85枚ぐらい使うのが普通かな。いや、安全な仕事だよ。過去一回だけ、4メートルのパネルを押えていたパイプが、メリメリ、バーンって音を立てて曲がってね。コンクリが、そこいら中にあふれ出たこともあったんだ。でも、そんなことは滅多にないの。
 ただ不景気で単価は下がっているみたいだけどね。高いときで一平方メートル1200円だったのが、800円ぐらいまで下がっているらしいから。職人の値段も、1万8000円が1万4000円になったって聞いたよ。
 勤めていた会社は、だいたい20人ぐらいの従業員が働いてたの。フィリピンや中国、韓国の人なんかも多かったかな。解体そのものはもちろん、職人さんのご飯や弁当を作るのも俺の仕事。
 バラシの仕事は、嫌いじゃないよ。酒を飲まなければ、社長も優しいし。いや、シラフはおとなしい人なんだよ。ただ、酒を飲むとガラッと変わるんですよ。すぐ殴ったり、けったり、物を投げたりするの。上の歯なんか、殴られて八本も抜いているからさ。そのときは貧血を起こして倒れたんですよ。めがねは3回壊されたし。
 社長が暴力を振るうたびに、俺は家を出ちゃうんだ(笑)。でも翌日になると、心配になるの。ご飯を食べたかなとか、洗濯はしたかなとか。貧乏性だね。酔いがさめれば、「もう暴力は振るわない」と社長も言うんですよ。根は悪い人ではないし。でも飲むとね、ダメ。
 俺よりも10以上歳下だったけれど、仕事ではできたと思いますよ。社員を連れて、毎年、沖縄にも行っていたし。そういえば沖縄でお金が足りなくなって、親会社に電話して100万円送ってもらったこともあったね(笑)。
 俺は、よく海外に連れていってもらった。ほらパスポートもあるでしょ。自分で行ったのも入っているけれど、香港、フィリピン、グアムでしょ。サイパンは4、5回行ったかな。
 もともと酒ぐせは悪い人だったけれど、俺が意識不明になるほど荒れた原因は覚せい剤で捕まったことなんですよ。不景気な上に、信用を失ったから仕事がこない。それで荒れたの。
 昨年の11月末、いきなり8人の刑事が自宅に来たの。覚せい剤の捜索だって。そうしたら社長のベッドの下から、銀紙に包まれた薬と注射器が見つかったんですよ。俺とは部屋が違うし、社長が覚せい剤をやっているなんて思いもしなかった。
 でも、大変だったのはそのあとでさ。俺は給料をもらっていなかったから。いや、本当ですよ。1円ももらっていないんだから。解体屋の仕事を始めてからね。もちろん若い衆には、給料が支払われていたけれどね。ほら、俺は食事を担当していたから、米なんかがなくなると、食費としてお金をもらっていたんです。
 いきなり社長が捕まったら、自分の金がないんですよ。取引先からお金が振り込まれるまでの一ヶ月間、食うや食わずでした。金がなきゃ、どうしようもないでしょ。大家さんが持ってきてくれるご飯でしのいだりして。指輪を三つ、それに時計を質屋に入れたよ。やっぱり食べ物がないと、本当にみじめな気持ちになるんだよね。
 もう、お金には執着はないの。ただ寂しいよね。一生懸命働いて、何も残らないなんて。1ヶ月の食費もないんだから。
 11月末に捕まって、12月いっぱい留置所にいたのかな。今年1月に姉さんが沖縄から出て来て、200万円の保釈金を支払ったらしいんだ。けど、いまはそのお姉さんが覚せい剤を使って刑務所にいるっていうんだから。

■アイロンを持つのをやめた

 故郷は新潟県。母親は、小学校を上がる前に満州(中国東北部)に行っちゃったの。子どもを置いてね。だから五つまでは、母親の妹に預けられた。それから姉さんが結婚して、その家で俺を育ててくれたの。
 母親? 戦後、子どもを一人おぶって、乞食みたいな格好で帰ってきたよ。とてもお袋だと思えなかった。女一人で満州に行って、大変だったとは思うんですよ。でも、目の前に現れてもお袋と思えないし、何より嫌いだったから。いまでも思い出すのが嫌なんだ。
 大人になってから、一緒に暮らそうと言われたこともあったんですよ。上野駅まで迎えに来てくれて、俺も切符を渡されて、列車には乗ったの。でも「トイレに行くから」と席を立って、もう戻らなかった。切符はもらったけれども、一緒に帰る気なんてなかったんだ。
 俺を育ててくれた姉さんは、優しかったよ。でも姉さんのおやじ(夫)は酒乱でね。小学生2、3年のころかな。吹雪の中、どぶろくを買いに行かされたことがあったよ。新潟の雪だからね。歩いているうちに、足の感覚がなくなっちゃうんだ。本気でおやじをぶっ殺してやろうと思ったよ。
 姉さんは美容院をやっていた。中学校を卒業して、店に入ることも勧められたけどね。男が女の髪なんかいじれるか、と思ったんですよ。それで洗濯屋に奉公に行ったの。おばあちゃんの竹馬の友が、東京の上高井戸で店をやっていたから。
 当時、上高井戸の駅(現在の芦花公園駅)なんか、商店が三軒しかなかったんだから。近くに明治大と日大はあったけどさ。冬の配達が大変でね。朝は凍っているからいいの。日が昇ってくると、地面が溶けてくるでしょ。そうするとチェーンに泥がつまって、走れなくなっちゃったんだから。ほら、当時は道も舗装されていなかったからね。「こりゃ、新潟より田舎だね」なんて思ったもの。あの周辺の土地もまだ安くてさ。仕送りを貯めた学生が、卒業までに土地を買ったなんて話も聞いたよ。
 お客さんにはかわいがられました。お盆やお正月には、新しいズボンや靴下、下着もくれたりしたから。自分で買ったことなんてありません。
 一通り仕事ができるようになったから、八年間で奉公を終えてね。田舎に帰ったの。姉弟が洗濯屋を開くために資金を出してくれるという話もあったの。アイロン一丁あれば、店を出せるからね。でもやめたんだ。機械をそろえないとお客さんが出してくれない時代になってきたから。もう、洗濯屋の時代じゃなくなったの。それから3年ぐらいは、アイロン職人としてクリーニングの工場で働いていたんですよ。
 でも、その3年できっぱりとアイロンを持つのをやめました。工場を辞めて以来、一度もアイロンでかせいでいないから。たとえ失敗しても、自分で選んだ結果なら満足できるでしょ。
 それで川崎の会社に就職してゴム製品を袋詰めしていました。でも、俺はゴムのにおいがダメだった。シンナーや車の排気ガスのにおいもダメなんですよ。体質かな。だから辞めたの。

■俺の青春時代かな

 それから一時期、実家に帰っていたんだけれど、また川崎に入社試験を受けに来たの。その一つの大手鉄鋼会社は、実家からの交通費も出してくれてね。二社を受けて両方とも受かったんです。結局その会社に決めましたよ。その会社は当時、バレーボールの全日本クラスが何人もいてね。職場も活気があったからさ。もう一社の方も「明日から働いてくれ」とまで言われたんだから。
 そこに勤めていたときに、結婚もしました。
 30歳を過ぎて、職場の先輩から言われたの。「俺は1年間おまえを見てきた。おまえなら安心だから、俺の妹を紹介しよう」って。
 あの当時、結婚しないとうるさかったんですよ。先輩の顔を立てる気持ちもあって、紹介されてからすぐに結婚しました。東京の蒲田で式を挙げてね。でも、結婚式は大変だった。風邪をひいて熱が出て、式が始まるまでは控え室でウンウンうなっていたんだから(笑)。
 女の実家から「家をやる」なんて言われたけど、「いりません」って断って、蒲田のアパートに住み始めたんですよ。でもね、結婚生活はひどかった。
 まず料理のできない人だったの。仕事を終えて家に帰っても、食事のしたくはできてない。俺が作るんだから。あと友だちを連れて来ても出前を頼むわけ。お寿司とか中華とか。ごはんも炊けなかったからね。いや、米のとぎ方から俺も教えたよ。でもやらないんですよ。やっぱり帰ってきても張り合いがないの。味噌汁ぐらい作れると思っていたからね。
 そのうちに、「昼間つまらないから、明日から働きに行きます」って、いきなり言われたの。突然だよ。それでギクシャクして、ひっぱたいたんだ。男にもがまんの限度があるからね。女は実家に帰っちゃって。しばらくして仲人に相談したの。そうしたら「ほっとけ。あのわがまま娘」なんて言われてさ(笑)。そのまま離婚。やっぱり結婚は、愛情がなきゃダメだよ。
 結婚生活はよくなかったけれど、仕事はすごく楽しかった。鉄板を作っていたの。これが面白くてさ。まず六角形か八角形にレンガを積むんですよ。それを枠にして、溶岩みたいに溶けた鉄を注ぎ込むの。滑車を使って溶鉱炉から出された鉄は真っ赤でさ。ゆっくりと枠の中を流れていくの。離れていても熱風に包まれて、じっとしていられないんだよね。
 床はかなり高温だからね。もちろんゴム底の靴なんてダメ。辞める前は革靴になったけれど、入社したころは下駄だよ、下駄。熱で下駄の歯がブスブスといぶり始めるんだ。仕事している間は、水を飲んじゃいけないの。よけいに汗が出るから。服が塩で真っ白になるほどね。のどが渇いたら頭痛薬ぐらいの大きさの塩の固まりを口に含むんですよ。
 鉄を注ぎ終わったら冷ます。水をかけてね。少し冷えたら枠を抜いて、滑車で鉄板を引き上げる。まだ赤い鉄がゆっくりと立ち上がって、それとともに熱風が頬に当たってね。あー男でよかったなー、この仕事につけてよかったと思うんだ。
 一緒に仕事をしている仲間も豪快でさ。昼休みに酒を飲んで、そのまま働く人もいたから。俺の青春時代かな。
 そういえばこの頃は服も買いましたよ。洗濯屋で生地の良し悪しを見分けられるようになっていたから、高級な服を選んで買い込んで。当時から赤いセーターを着たりしていたから、「男のくせに、おまえはおかしい」なんて言われました。ブレザーを10着ほど作って、毎日、違う服を着ていくようにしていたし、はやっていたVAN(当時、若者に人気のあったファッションブランド)もずいぶんと買った。

■腰の検査でぢになった

 でも、腰を悪くして会社を辞めたの。辞める3年前だから37歳ぐらいかな。いきなり足が動かなくなったんです。下に大家さんが住んでいたから大声で呼んでさ。救急車で病院に運んでもらったんだ。
 しばらくは腰を引っ張ったり温めたりしたけれど、よくならなくて。精密検査をすることになったの。まず腰に注射を打とうとしたけれど、腰に針が入らない。仕方ないから機械で刺すことになったんだ。俺は機械にかけられて、医者はガラス張りの外から観察しているんだよ。
 うつ伏せで腰に針が入ったとき、機械が「ハイリマシタ」とか言うの(笑)。機械は否応なしでしょう。痛いのにグーッと針を入れてきたから、俺は「うっ」と言ったきり言葉にならなくて、ぢになっちゃった。おかげで腰より先にケツを切ることになったんだ。
 検査結果は重度の椎間板ヘルニア。もう骨と骨の間がつぶれていて、そこにプラスチックを入れなくちゃならなかったんですから。執刀してくれたのは、日本でも三本の指に入るヘルニアの専門医でした。手術は10時間ぐらいかかったかな。でも、もっと長かったのが入院。一年も病院にいたから。腰を動かせないから、ほぼ寝たきりですよ。もちろん便所も行けないよ。
 あのころは看護婦さんは純情だったからね。尿瓶でおしっこを取るときは、廊下でじゃんけんしてたよ。負けた子が下向いて入ってくるんだから。俺の病室は、ほとんどがヘルニアだったけれど、1ヶ月ぐらいで退院していく人も多かったよ。やっぱり俺は重症だったんだろうな。会社には感謝している。一年も働けないのに、ボーナスも給料もくれたからね。
 やっと会社に戻ると、元の職場には俺の代わりが入っているじゃない。だから最初は掃除部で洗濯とかしていたの。また溶鉱炉の近くに戻りたくてさ。「昔の部署に戻してください」って、会社に頼み込みましたよ。
 何でかね。魅力だよね。仕事の。血がたぎるというかね。女じゃできない、男の仕事だなーって。三ヶ月ぐらいあとかな、やっと元の部署に戻れてさ。友だちに「大丈夫か」と聞かれて答えたんですよ。「大丈夫」って。 でも半年後に、またおかしいの。右足がしびれてきて。これは一回目の症状と同じだな、と思ったんです。病院で検査を受けたら、医者からは「また影が出ているな」と言われたの。それで再入院。
 そのとき男友だちの彼女が、部屋をたまに貸してくれないかと頼みにきたんですよ。こっちも長期入院になるから、別に使わないでしょ。大家さんに、たまに友だちの彼女が訪ねてくるからと断って、カギを渡したんですよ。
 でね、その女が子どもを抱いて、入院中の俺を訪ねてきたの。「友だちから預かったんだ」って子どもを見せてくれた、まだ、へその緒が付いているじゃない。「猫の子どもじゃなし、早く戻してきなさい。生まれたばかりの子どもを預かるなんて、死んだらどうするつもりだ」と、叱りつけたんだよ。看護婦さんからは、「滋さんの子ども?」とか聞かれたから、「冗談じゃない。俺はチョンガー(独身)だ」って答えておいたけれどさ。
「どうしたらいいのかわからない」と彼女が言うから、「とりあえず市役所に行って赤ちゃんを預かってもらってから、友だちを探せ」と指示を出したんだよな。
 それ以来、彼女も俺を訪ねてこなかったし、正直、あまり気にもとめていなかったんだ。そもそも友だちの彼女というだけで、あまり親しい関係でもなかったからね。

■血だらけの敷布

 結局、俺は8ヶ月ぐらい入院していたかな。久しぶりに家に帰って、部屋に入って驚いたよ。まず目に飛び込んできたのは、ぐちゃぐちゃの布団と敷布、そして座布団カバー。部屋に入って敷布を広げたら、血で真っ黒に汚れていたの。唐紙の開いた押し入れには、血だけのシーツが丸めてあるし。台所は汚れた食器が山積み。
 最初、何が起こったのかわからなかったの。でも部屋を見ているうちにピンときた。ここで生んだのかって。押し入れには糞や小便で汚れたタオルやバスタオルが積み上げてあったから、おしめ代わりに使ったんだろうとね。病院に連れてきたのは、自分の子どもだったんだよ。妊娠に気がついて、一人で生むために俺の部屋を使ったんだろう。
 とりあえず警察を呼んで、彼女の行方を追ったけれども、役所に子どもを置いて消えていることがわかっただけ。男友だちも消息不明になっちゃったし。大家さんには、「変な人を部屋に入れないでくれよ」とどなられるし、近所の店にはツケを置いてくし。「あんまり人に心を許しちゃだめだよ」と大家さんにも言われたけれど、これには懲りたよ。
 気持ち悪くて寝泊まりできないから、大家さんに「いろんなものを捨ててくださいよ」と頼んで、しばらく友だちの家に泊まっていたんだから。それから一時期は、女が怖くなって女嫌いになっちゃったからね。
 子どもは施設に預けられたらしいけれども、いまはいい歳になっているはずですよ。二五ぐらいになっているんじゃないかな。
 俺はといえば、病院を退院してから会社を辞めたの。たった八年間に二度も入院して、給料までもらって。申し訳なくてね。姉ちゃんなんかは、「なんで辞めるの」なんて言ってたけれど、俺には堪えられなかったんだ。 会社を辞めたときがちょうど40歳前。150万円も退職金をもらえました。その後しばらくは、グアムに行ったりして遊んでいたんだけれど、人間って遊んでいても疲れるんですよ。何をするでもなく遊んでいると、本当に疲れるの。気も使うしね。人のことばっかり気になって、自由じゃない気がするの。
 そんなときに社長と会ったんです。コーヒーを飲んでいるとき、2メートル近くある優しそうな大男が、「バラシ屋をやっているんだけれど、俺と一緒にやろう」って声をかけてくれたの。このときは酒乱だと知らなかったからね。

■いずれ戻るんだろうな

 家を出てこっち(上野公園)に来て、やっと自由になったと思いましたよ。1ヶ月間、毎日ベンチで酒を飲んでいたの。やっと楽しい酒を飲めるようになったと思ってさ。ここいらで有名だったみたい。昼間から一升瓶抱えて、毎日お酒を飲んでいたから。
 で、雨が降ったときに「ここで寝たら」と仲間に言われたんですよ。それから世話になっているんだ。
 ここではラーメン作ってとか、新聞を買ってきてとか頼まれるぐらいかな。仕事に行ったあとには荷物の番をしている。近くに住んでいる仲間だって、モノを盗んでいくからね。昼間はやることがないから、たばこについている銀紙でツルを折っているんですよ。昔、社長の女がやっている店を飾るために、8000羽のツルを折ったこともあるからね。
 社長はね、ここに三回訪ねてきましたよ。上野駅で酒を持っているのを、見られてたことがあったからね。そのときは声をかけてこなかったけれども、どこに寝ているのか一ヶ月ぐらい探していたみたい。
 最初にここに来たときは、少し離れたところで、俺の方をずっと見ててさ。何も言わないの。照れくさいんじゃないかな。昔は元気だったのにしょぼくれちゃってね。
 ずいぶん長い間黙っていて、「ここにいるの?」とだけ言うんだ。「ここで世話になっているんだよ」と答えたら、目を伏せて何も言わない。「俺なら大丈夫だから」って声をかけたよ。しばらくそこに突っ立っていて、帰っていったよ。五分ぐらいはいたかな。
 次に来たときは、「寒いから毛布を持ってこようか」とか言うから、「毛布なんかいっぱいあるからいらないよ」と答えたんだ。「カギを置いていこうか」と聞くから、「いらないよ。いまの方が自由でいいから」と答えたの。
 顔を見るとかわいそうになっちゃうんですよ。いやいや、うらんではいませんよ。優しい性格も知っているしね。死ぬまで知り合いだからね。立ち直らせてあげたいんだけれどね。
 アパートの話になったとき、「電話番号が書いてあるけれど、電話も止まっているから」と言うんだ。あー、やっぱりと思ってさ。それほど金に困っているなら、まだ立ち直っていないんだと思ってね。
 やっとしがらみから抜けて、自由になったんですね。ここは安住の地ですよ。でもね、いずれ俺は社長のところに戻るんだろうな。社長も俺も、ここにいる人も、みんな寂しがりやなんだよ。そう思いますよ……。 (■了)

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阪神大震災と「酒鬼薔薇」

■月刊『記録』97年8月号掲載記事

■阪神大震災と「酒鬼薔薇」

(■和田芳隆……ルポライター。1967年東京生まれ。阪神大震災直後から神戸入りし、世間の取材熱が消えた現在もなお、取材を重ねる。著書に『地震社会学の冒険』。)

 実は、児童虐殺事件の前に同じ地域で通り魔事件が起きたとき、もしかしたら被災者の犯行ではないかとの、嫌な予感がしていた。「ひょっとして、何もかもなくした被災者が、被災が軽かった地域を妬み嫉んで、弱い子供を相手に憂さ晴らしをしたんじゃないか。だとしたら最悪だな」と思っていた。そう思わされるほどに、人々の心が荒廃の度を深めていることを、被災地を探訪するたびに痛感していた。
 一四歳の少年が逮捕されたからといって、殺人の実行者だと決めつけるのはまだ早いだろう。名ばかりの「任意」同行から逮捕されるまでの半日間、密室の取調室で何が行われていたのか、明らかにされていない。過去において、これが冤罪の温床となってきたことを忘れてはいけない。それでもやはり、被災地の人心の荒廃が、一連の事件とどこかで関係しているのではないかと感じている。

■互いに罵り合う被災者

 家や職を失い、将来の展望を見出すことができない被災者は、生活再建にこぎつけた被災者を見て、「ずるい者が生き残る」との絶望感を深めている。反対に、何とか生活再建を軌道に乗せつつある人たちは、いまなお避難所生活を続ける人たちを「甘えている」と非難し、ときには平然と「乞食」呼ばわりする。それぞれが個別に困難な事情を抱えていることを、互いに考慮し合うことはない。こんな環境で人々の心が荒廃していくのは、決して難しいことではない。
 神戸市内のある公園で、園内に建てられた仮設住宅の住民と地域住民との間の、犬の散歩(たかがこれだけのことで)を巡るトラブルを取材したことがある。仮設の住民は「犬の鳴き声がうるさいから散歩に来るな」と苦情を言う。地域住民は「仕事もせずに家賃の要らない仮設に住んで文句を言うな」と応酬する。「仕事があればとっくに働いている」「仕事などいくらでもある。働く気がないだけだ」と、泥沼の罵り合いになっていた。
 犬などの動物を飼う行為は、傷つき疲れた被災者の心の癒しになるという側面もあるのだが、仮設の住民は、そこまで忖度できる心境ではなくなっている。被災者が高齢だったり持病を抱えていると、たとえ本人に働く気があっても、企業のほうが雇わない。地域住民も被災地で暮らしているのだから、それはよくわかっているはずなのに、容赦のない言葉を投げつける。震災直後にしきりに言われた「皆の心が一つになった」などという言葉は、いまさら空々しくて、誰も口にしない。
 こんなにも人々の心が荒廃してしまった理由は、わざわざ指摘するまでもない。昨日まで普通に生きていた人たちが、一瞬に大量死した大震災の不条理。生き残った人々の間には「格差ならざる格差」が生まれ、是正どころか日に日に広がっている。被災地の外は、忘れることだけは「熱心」だ。義援金は被災者のためではなく、「自分は何て優しいんだろう」と自己陶酔するために送られたのではないかとさえ思う。震災取材を続けていると「まだそんなことやってんのか」とよく言われる。「まだ仮設住宅があるのか」とも、何度尋ねられたことだろう。被災者を支援も救済もしない、残酷な社会がそこにある。
 これらを目のあたりにして、何も信じられない、頼れない、との絶望感を被災者が抱いた、その果ての人心の荒廃であること以外に、理由などあり得ない。阪神大震災は、日本という国家・社会の信頼性といったものを(最初からそんなものがあったのかとも思うが)、根底から揺るがした。それは、安政江戸地震の後、適切な対策をとれずに自ら威信を失墜させ、なす術なく滅んでいった江戸幕府の末期の姿と、よく似ている。
 大人の心がこれだけ荒廃して、子供が無縁でいられるはずはない。被災者の間の格差は、それぞれの子供たちの格差となって、学校という場で露骨に現れる。震災後の学校では、ささいなことがきっかけで、子供どうしの喧嘩になることが増えたという。震災によるストレスや、被災者間格差を生んだ大人社会の眼差しの反映だ。わたしも深夜、とある駅前で、荒んだ目をした少年たちに突然絡まれ、無視していたら追いかけられたことがある。以来、被災地に滞在中は、夜のコンビニの前などでたむろしている少年たちのそばへは、決して不用意には近づかない。

■激震地に冷たい周辺住民の視線

 容疑者の少年も、殺人以前の問題として、人心の荒廃を感じ、その影響を受けていたことだけは間違いあるまい。市街地の「激震地帯」に住む親類が被災していたというから、被災程度が軽微な地域に暮らし、強制収容所のように仮設住宅が群をなす「団地」から離れていても、大震災の被害を身近に感じていただろうことは、想像に難くない。少年が小学校の卒業文集に書き記したという「たとえ死刑になっても……」との、為政者への憎悪の言葉からは、大震災で受けた衝撃の痕跡を読みとることができる。
 それに少年は、震災は他人事でありながら、勤務先や通学先が激震地帯にあるために、全くの他人事でもないという、微妙な地域に住んでいた。震災から日をおいて、交通網が部分的に接続されるや否や、廃墟を目指して通勤を始めたのは、主としてこの地域の住民たちだった。自分たちがほどなく日常生活に戻ったことから、まだ廃墟の混乱のなかにある被災者までをも、半ば無理矢理に日常へとひき戻してしまった。その結果、被災者が避難所から通勤するという異常な事態を招いても、その異常さにはほとんど無関心だった。わたしはそこに彼らの「冷たさ」を感じとった。少年も何かを感じていたかもしれない。
 自分の住んでいる町は難なく日常生活に戻ったのに、地下鉄に乗って十数分で着く市街地は、瞬時に崩壊し、いまもって回復していない。大人たちは、避難所生活を送る人々を「汚い存在」とみて、侮蔑し嫌悪している。このギャップから、少年は、社会に対する憤怒と憎悪を涵養させていったのではないだろうか。
 卒業文集をはじめ、これまでに報道されてきた少年の言動からは、思春期の多感な少年少女に特有の破壊衝動や、それに短絡する歪んだ正義感といったものが感じられる。少年が社会に対して憤怒や憎悪を抱いていたとしても、決して不思議ではない。わたしにも覚えがあるし、同じ思いをくぐり抜けてきた大人や、いままさに共有している子供は多いだろう。何も特別な存在などではないのだ。ナイフを持ち歩いていたことがそんなに問題か。わたしは中高生の頃、拳
の大きさに合わせて針金を巻き、それをテープで束ねた自家製の「メリケンサック」を持ち歩いていた。少年が「学校に来るな」と言われていたように、高校生の頃、「文句があるなら退学しろ」と教師に言われたことを思い出す。
 しかも少年は、大震災を体験した。本来なら歪んだ正義感を血の通ったものへと昇華させていくはずの時期に、大震災と社会の不条理に直面してしまった。そこには心の成長を促す心境も環境もなかった。より弱い立場の被災者を切り捨てる大人社会から、少年は残酷さを感じとっていたのではないか。そしてその残酷さは、少年の心をも蝕んだはずだ。もしも本当にあれが少年の犯行であるならば、大人社会の残酷さを忠実に反映して、より弱い立場の者へと、憤怒と憎悪の矛先を逆転させてしまっただろう。
 荒廃した人心が、一様に殺人に至るわけではない。しかし、そんなことはどうでもいい。被災地の人心の荒廃を思うにつけ、一連の殺傷事件と、奥底で繋がっていると感じずにはいられない。被災地の誰が殺人者であってもおかしくはない。少年が殺人を犯していても、いなくても、どちらでも不思議はない。それが被災地の現実なのだ。殺人者の心に巣くい、宿った暗闇が、大震災とそれが露わにした残酷な社会の生み出したものではないと、いったい誰が断言できるのか。
 誰かの心が荒廃するとき、そうさせる者もまた、等しく荒廃している。荒廃し、荒廃させ、わたしたちは、とても残酷な社会に生きている。残酷な奴だ、少年といえども厳罰に処して懲らしめろ、とヒステリックに叫んでも、何の意味もない。そう叫ぶ者は、そうすることで、社会の残酷さを覆い隠し、己の鬱屈や造悪を晴らそうとしている。こうした人々の心も、残酷で、暗闇が巣くっている。被災地を切り捨てたように、少年を自分とは異なるものとして、切り捨てようとする暗闇が宿っているのだ。これらの現実をまず直視しなければ、誰も、何も、どうすることもできない。

■近隣住民の衝撃

◎中学ではイジメが増えた
 阪神大震災以降、青少年は変わったようですね。中学校でのイジメが増えたと聞いています。ただ、震災のショックの受け方も人によって変わるようですよ。暴力的になった生徒がいる一方で、人とのふれあいを大切にするようになった生徒も増えています。今度の殺人事件も、そんな影響があるのかもしれませんね。
 このあたりの地区はほとんど地震の被害を受けていませんが、場所が近いだけに肌で感じるところがあると思います。
(四〇代 女性)

◎犯人の卒業文集には共感
 中学生があんな殺人事件を犯したのには驚きました。三〇~四〇歳ぐらいの大人が、殺したのだと思っていましたからね……。震災の影響で殺人が発生したとは思えないんですが、犯人が卒業文集で書いていた村山富市前首相に何をするかわらないというのは、この地域の多くの住民が持っている感情でしょう。そんな怒りを住民が抱えていることは事実です。
(二〇代 男性)

◎震災で一体感を得た
 震災と今回の殺人事件は、まったく関係ないと思うんです。というのも、震災以後、会社や住民の結びつきが強くなったように感じるからです。私が勤めている会社は土木機械を売っていますから、震災後に土木工事が増えて残業も増えました。でも私が働くことで街が復興に近づいているという気持ちが、活力を生むんですよ。同僚も同じように感じているらしく、震災前とは違った一体感を持ちながら仕事をしています。   (四〇代 男性)

◎震災で何かが変わった
 うまく言えませんが、地震を体験して何かが変わりました。人生観というと大げさですかね、価値観が変わったといえばいいんでしょうかね。土師君を殺した犯人は、どうだったのかわかりませんけれど……。
(五〇代 女性)

◎普通の人と違う
 首を切り取るなんて考えられない。普通の人間とは違うでしょ。しかも、子どもの行動を親がわからなかったというのも、びっくりしています。震災が間接的に影響しているとは、思いたくないのですが、今でも恐いですよ。(五〇代 女性)(■了)

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鎌田慧の現代を斬る/地獄へのガイドが日本を襲う

■月刊「記録」1999年3月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

*           *           *

■米国は恫喝、小沢は扇動

 長野オリンピック疑惑や所沢ダイオキシン汚染騒動など、以前から噂されていた真実が表面化して、大騒ぎとなっている。とはいっても、現在もっとも危険なのは、国会で論議されている「日米防衛協力のための新指針」(ガイドライン)問題である。
 以前も、この問題について扱ったのだが、ことの重大性を考えて、あえてもう一度問題点を整理してみたい。 日本の政治状況は、よりいい加減にすすんでいる。その象徴ともいえるのが、中村正三郎法務大臣である。先月も報じた通り、憲法を守るべき法務大臣でありながら、「軍隊ももてないような憲法を作られて、それが改正できないという中でもがいている」などと彼は発言した。にもかかわらず彼はいまだに大臣に居座り続けている。法務大臣が憲法を無視するなど、言語道断といえるが、憲法を守る義務は国会議員にさえあるのだから、本来なら議員を辞任しても当然である。首相は法務大臣を即刻ヒメンすべきだ。
 さらに国会では、憲法改正の糸口をつくるために「憲法調査委員会」の設置に、自民党・自由党はもちろんのこと、民主党まで賛成を表明した。基本政策大綱に「一〇年程度かけてあるべき憲法を議論する」などとある公明党も反対しそうもなく、憲法改正の防波堤となりえるのは社民党・共産党・新社会党という少数派となってしまった。
 まったくおなじ翼賛体制で議論が進んでいるのが、ガイドライン関連法案だ。反対しているのは、社民党と共産党と新社会党という少数派。民主・公明両党は修正によって、自自連合の野望を認めようとしている。
 一月中旬に来日した米国のコーエン国防長官は、ガイドラインについて「日本との安全保障関係を明示するもので、『とりで』だと思っている」と語ったうえに、国会での法案修正について「日本政府も、迅速な対応ができないために国益が損なわれるようなことは望まないだろう」などと、日本の主権にたいする恫喝を加えた。
 このように日本の戦争化へむけた動きは、急ピッチに進みつつある。それにつれて国会議員の発言も、過激さを増している。
 ウルトラ小沢一郎は、テレビ朝日の討論番組で「マフィアの親分でも『私は殺人は実行しません。金をだしてやらせる』というのが、一番悪い」というたとえを使って、多国籍軍への自衛隊参加を主張したという。
 一九九〇年、中東に展開した多国籍軍に総額一〇億ドル(当時のレートで約一四五〇億円)もの金を日本政府はカンパし、国民から総スカンをくらった。どうやら小沢は、当時のことをまったくちがう角度から反省しているようだ。前回はカネをだしてやらせた。こんどは自分で殺していく。アメリカの鉄砲ダマ志願である。そのためか、コーエンは、小沢自由党を説得できる内容にガイドライン関連法案をまとめるよう自民党に圧力をかけている。

■「周辺事態」ならどこでも出兵

 高村正彦外務大臣の発言もすごい。
「ある事態が国家間の紛争でない場合にも、その事態が我が国の平和と安全に重要な影響をあたえる場合には、『周辺事態』に該当する」と衆議院外務委員会で発言したのだ。よその国で起こった内戦やクーデターなども「周辺事態」とするというムチャクチャな拡大解釈をしめしたものだ。さらに彼は、「相手に日本攻撃の意図がなくても、周辺事態になりうるのか」という質問にたいしても、「絶対にありえないことではない」と述べている。なんと、アメリカ得意の「低強度紛争」(ゲリラ戦)への介入の片棒を担加させられることもふくまれるようだ。
 日本が攻撃された場合に自衛隊が発動すると、日米安全保障条約には決めている。これは、「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という日本国憲法第九条二項の非戦・反戦の精神を著しく踏みにじるものとはいえ、それでもなお、自国への攻撃に限定していたところに、武力行使のムヤミな拡大を抑えるという殊勝さがあった。 ところが、今回のガイドラインでは、日本が攻撃されるかどうかに関係なく、「周辺」で戦争がはじまった場合には、自衛隊が出動できるようになる。そればかりか高村外務大臣が認めたように、外国で内戦あるいはクーデターが起きても、自衛隊が協力させられるようになるのだ。つまりガイドラインは、自衛隊を米国軍の用心棒に仕立て上げるようとしているのである。
 しかも「周辺事態」の定義は、きわめて曖昧である。まず「周辺」が特定できない。朝鮮半島での混乱や台湾と中国の紛争の激化すれば、安保条約が定める極東に含まれるとして、当然、自衛隊が出動する。だが安保条約を根拠にして、極東でもない中東に自衛隊が出動するとなれば大きな問題となる。ところがガイドラインの「周辺」はすべてを解決する。「周辺」は地域概念ではないという子どもだましの理屈によって、極東以外の地域にも自衛隊は出動できるようになるからだ。
 さらに問題なのは、「事態(戦争)」かどうかを判断する権限を日本がもたないことである。そもそも戦争をおこなうかどうかは、善し悪しを別にして、その国の政府の決定事項である。ところがガイドラインでは、「周辺事態」を国会で事後承諾するという。事後承諾というのは、国会の承認事項ではない。ただ既成事実を追認しているだけである。つまり国会の機能を放棄していることになる。シビリアンコントロールなど、影も形もなくない。結局、米軍の出動だけを頼りに「周辺事態」かどうかを決めることになりかねない。

■戦争反対で処罰

 さらに恐ろしい事実も指摘しておきたい。
 それはガイドライン関連法案が、国家総動員態勢を想定していることだ。「有事」という言葉のもとに、行政・国内産業・自治体・市民生活のすべてが米軍の戦争に協力させられる。
 野呂田芳成防衛庁長官などは、「自治体が一般的な協力をするのは常識だ」と国会で答弁し、さらに「(首長の判断に反して、業務を拒む自治体職員がいた場合は)重大な違反なら当然処罰される」と言い切っている。これは自治体の民主主義が消滅することをしめしている。職員個人の戦争反対への意志さえ処分の対象にされるなど、戦時体制とまったくおなじ状況だ。
 その処罰の対象になりかねない米軍への協力は、現在、一〇項目が明らかにされている。
 まず地方公共団体の長にたいして求める協力項目は以下の三つある。
・地方公共団体の管理する港湾の施設の使用
・地方公共団体の管理する空港の施設の使用
・建物、設備などの安全を確保するための許認可
 国以外のものにたいして依頼する協力項目は、民間と地方公共団体に分かれており、民間には次の四項目が定められている。
・人員及び物資の輸送に関する民間運送事業者の協力
・廃棄物の処理に関する関係事業者の協力
・民間病院への患者の受け入れ
・民間企業の有する物品、施設の貸与
 一方、地方公共団体にたいして依頼する協力項目は、以下の三項目となっている。
・人員及び物資の輸送に関する地方公共団体の協力
・地方公共団体による給水
・公立病院への患者の受け入れ
 では現実問題として、この一〇項目で協力が収まるのかといえば、これがまたちがうようなのである。「この一〇項目に限らない。周辺事態でどのようなことが必要になるのか、我々にもまだよくわからない」などと、防衛庁幹部が語っているのが、その証拠だ。これまた米軍主導の内容といえる。
 そもそもガイドライン関連法案は、米軍の動きしか頭にない。「(ガイドラインの)対象は米軍であり、日米安保条約の目的に合致すれば、日本は支援する。米軍でさえあれば、多国籍軍であろうが、国連軍であろうが構わない」などと外務省が発言しているが、この発言こそガイドラインの本質を透けて見せるものだ。とにかく米軍の戦争のためならなんでも協力するという奴隷根性だけが、ガイドライン関連法案を貫いているのである。

■傲慢さに磨きをかけた自民党

 ガイドライン関連法案の問題点はまだまだ無数にある。これが立憲国の議論であるのかと憤激に耐えないほどだ。その一つが後方支援の問題だ。
 この件では、「戦争状態に協力する武器弾薬の輸送が、憲法上可能だ」と小渕恵三首相が発言している。武力を用いない平和の精神を、日本国憲法は世界にむけて積極的にしめしているはずだ。ところが武力によって国際紛争を解決しようとする米国に、戦争の物質的な基盤である武器や弾薬を運ぶことが可能だと、首相が発言しているのだから国民をバカにしている。明らかに憲法の精神を踏みにじっている。
 武器や弾薬の輸送が武力の行使と一体化していない範囲なら、憲法九条に抵触しないと、首相は言い抜けているようだが、常識で考えてもらいたい。武器・弾薬は戦争で使うためにあり、戦争は武力の行使そのものである。それを一体化していないから、などと言い逃れ、一体化するかどうかは具体的な事例に則して個別におこなうなどというのだから、とんでもないひとだ。
 これほど無論理・身勝手な答弁が国会で堂々とおこなわれていること自体、野党がいかにバカにされているかをしめしている。自民党のこうした傲慢な態度を可能にしたのは、小沢自由党との共闘である。これはかつての自民党にさえなかった図々しさである。
 ガイドライン関連法案は、日本が戦争協力するための法整備である。しかしこれほどの事態であるにもかかわらず、国民的な関心がいまだに盛り上がっていない。またガイドラインの問題について発言・執筆しているライターも多くはない。国会で承認され、法案が通る前に反対の声をあげる必要がある。だからこそ今回もこの問題を扱った。
 このままでは国会機能を喪失させ、日本を戦争に巻き込み、官庁民間企業総ぐるみで戦争に協力させられる法案が現実のものとなってしまう。米軍にすべての決定権を委ねたガイドライン関連法案では、国民の意志とは無関係に米国の指示に従って戦争に突入していくことになるのだ。本来、地域住民のためにある地方自治体が完全に中央政府に束縛され、その中央政府が米軍により強く束縛されるという図式は悪夢でしかない。
 しかも現在、野党の反撃は決定的に弱い。民主・公明両党は自民党案を少し緩和した形でお茶をにごそうとしていることを考えれば、完成した国会の翼賛体制最大の鬼っ子として、ガイドライン関連法案が成立するのは時間の問題だ。
 また、ガイドライン関連法案にたいする反対の世論が形成されていない。これでは、基本的人権や憲法九条の平和主義が実質的に骨抜きにされても、誰も文句をいえる者がいないことになる。戦争に駆りだされて、はじめて自分の悲劇を呪うことになりかねない。
 現在、不況さえ解決できればすべて良しというような世論が形成されている。その陰で、ガイドライン関連法案が日本を地獄の道へガイドしようとしているのである。 (■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第22回 お姉さん来園

月刊「記録」2001年8月号掲載記事

*            *           *

 お姉さんが来た。
 あいつのお姉さんが学園に来た。ずうーっと姉からの手紙を待ってた正利の、そのお姉さんが来た。しかも男を連れてきた。眼鏡をかけた30代前後の真面目そうな男の人だ。
 お姉さんは、いわゆる“満面の笑み”をたたえながら、正利とみかに報告したいことがあるので会わせてほしいとぼくに申し出た。
 実は学園は、正利と同時に、あいつの妹でもある“みか”をもあずかっているのだ。
 重要な話、ということなので、とりあえず彼らに話す前に、まず担当である、ぼくたちに話をしてほしいと、ぼくは言った。
 了解した2人を、ぼくは普段はめったに使わぬ面談用の部屋へ連れて行った。
 部屋に入ると、カビ臭い匂いが熱気のなかに立ちこもる。窓を開けると気持ちのよい風と子供たちの楽しそうな声が室内に流れ込んできた。
 夏のちょっと前、梅雨の合間のよく晴れた気持ちのいい午後。
 そんな日に、あいつのお姉ちゃんはやって来たのだった。

■心をよぎる一抹の不安

 彼氏であろう隣の男性は、はじめての場所なのにキョロキョロすることもなく、なんとも落ち着いて見えた。ついでに、清潔な身なりが、誠実、という印象をぼくに与えた。
 それにしても、お姉さんときたら、どこでどうやって見つけてくるのだろう。しょっちゅう新しい男をつくるのである。そんなにモテるタイプかなぁ、と、ぼくは、お姉さんの顔をちらっと見る。流行の髪型、露出度の高い服装。男好きのする少し濃い化粧。
 まぁ、少なくともぼくの好みではないな。などと、どうでもいいことを考えながら、ぼくは彼らの前に座った。
 すると、続いて、みかの担当である保母が部屋に入ってきた。
 ここからが本番だ。面談の開始である。
「ところでどうしたんですか?」
「じつは、私たち結婚することになったんです。それで正利とみかに報告がてら、食事にでも、」
 実に機嫌のよさそうな彼女の話をそのとき、保母が急にさえぎり、口をはさんだ。
「あ、外出ですか? 外出するときは、事前に連絡いただいてもらわないと」
 保母は、それが学園の規則であることを強調して2人に伝えている。だけど、まじめな人たちに「規則」や「約束」はたしかに有効な言葉だが、施設に子供を預けているような人たちにとって、そんな規則は通用しないんじゃないか? それは、いつもぼくの思っていることだった。
 だから、ぼくは言った。
「あ、正利なら暇だからいいですよ」
 そして保母に向きなおり尋ねた。
「みかはどうですか?」
「部屋でテレビを見ています。」
「ああ、ふっふっふっふ、あの子たち、休みなのにどこも行くとこないんだよ」
 ほらね、といった感じで彼のほうをちらっと見ながらお姉さんはそう言った。その仕草が、あたかも弟や妹のことを私はよく知ってます、というふうにぼくの目には映り、少し腹が立った。
 何も知らないくせして。そうも思った。そんなことはもちろんおくびにも出さなかったが。
「結婚ですか? いいですねぇ。ところでいつなんですか?」
「あ、もう籍は入れてあるんです。式は挙げません。あんまり大袈裟にしてもねぇ」
 そして再び彼女は、彼のほうをちらっと見た。それにしても、この彼氏ときたらほとんど何も話さない。おだやかな表情で、ただことの成りゆきを眺めている、そんな感じである。
「あのぉ、それで結局、正利とみかを連れて、食事に行ってきてもいいですか? 結婚の報告というよりも、ほんとはこの人を紹介したいんですよ」
 この人なら、きっとあの2人も気に入ってくれる。この人は温厚な人だから、とも、お姉さんは言った。
「まぁ、食事はかまわないんですけど、ねえ」
 ぼくは保母に同意を求める目を向けた。けれどもう保母は、とくに反対もせずに、じゃあ、みかと正利を呼びましょう、と答えた。けれどぼくには、まだお姉さんに話しておきたいこと、というより確認しておきたいことがあったのだ。
「あのぉ、結婚はいいんですけど。それによって、以前、言っていたことが反古になっちゃうってことはないですよねぇ。ほら、お姉さんは今までは一人だったじゃないですか。でも、これからは相手の人の同意も必要ですよねぇ」
 ぼくは探るようにして、遠回しに言った。本当は、正利のこと引き取ってくれるんですよね、前に約束しましたよね、そう単刀直入に言いたかったのだが。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/健康のための土木作業員・村田重一(56歳)

■月刊「記録」2001年1月号掲載記事

*            *           *

■運送会社を経営していた

 ポケットのお札が縁で、女房と結婚したんですよ。24歳だったかな。当時、僕はタクシー会社に勤めていて、彼女は同じ会社で事務員をしていました。事務といっても僕ら運転手の制服を洗濯に出してくれたり、雑用もこなしていたんです。
 いつだったかズボンのポケットにお札を入れたまま、彼女に制服を渡してしまってね。きちんとポケットを確認しくれた彼女が、クリーニング屋に出す前にお金を僕に返してくれたの。つき合い始めたのはそれからかな。 夫婦仲はうまくいっていたんですよ。結婚して一年後には、子どもも生まれた。当時の僕は、女房の弟と一緒に運送会社も経営していてね。収入はかなりあったんですよ。
 でも僕が33歳ぐらいのときに、女房が腎臓を患いましてね。入退院を繰り返しながら、すぐに人工透析が始まりました。保険で戻ってきたとはいえ、すごいお金がかかったんです。一週間に70万円ぐらい飛んでいったと思う。
 最初の入院で、医者からは生きても五年ぐらいだと宣告されました。もちろん本人には告げなかったけれど。言えないよね。
 子どもも小さかったし、発病した当初は大変だったな。ほら、運転手だから女房の容態がいきなり悪化しても連絡がつかないんですよ。いまみたいに携帯電話があるわけでもないしさ。入院しているときはまだいいの。自宅療養中のときなんか八歳の子どもと女房の二人きりでしょ。子どもも不安だよね。それでも一年間ぐらいは、自宅療養を続けていました。

■妻と死別した

 でも、都会の暑さはこたえるから、実家の新潟県で通院したいと言い出してね。人工透析の患者はあまり水分をとれないんですよ。いまは知らないけれど、女房なんかはタオルに水を染み込ませて、それで口を潤していたぐらいだから。東京で汗かいたりするのは、本人もつらかったんだろうね。
 それで子どもと一緒に実家に帰りました。東京を離れるときには、車で病院から駅まで送っていきました。でもね、彼女の親戚が5、6人いたから、女房とは話す時間もなかった。親戚の皆さんに挨拶して、世間話をしながら電車を待っていたんです。彼女も弟と話していたし、僕は彼女に何も言わなかった。まあ、実家で療養を始めてからは電話を何度ももらったけどね。
 彼女が実家に戻ってから、僕は離婚したんですよ。なんでも、彼女が障害者として認定を受けるのに、独身の方が都合よかったらしいんだ。国から補助金をもらうための離婚ですよ。医療費もかかって、彼女の実家もずいぶんと負担していたしね。何の争いもなく、静かに離婚は決まりました。
 最後に電話で話したときには、元気だったんだけどな。明るい声でさ。
「子どもが自転車ほしがっているから、送ってちょうだい」なんて電話があってさ。東京から自転車送るんじゃ大変だからってお金を送るって約束したんです。そうしたら死んじゃってね。
 長女で、しっかり者。でも病気には勝てないよね。頑張って続けてきた仕事も、女房が死んだのを機に辞めました。女房の弟が実家に帰って仕事をするというから、会社をすべて譲ったんだ。そして子どもも彼に育ててもらうことにしたんです。
 僕は運転手だから、家をあけることも多い。子どもを育てるのは無理でした。一緒に仕事をしていた義理の弟なら、絶対に信頼できるし。

■35歳で肺を患う

 女房と子どもをなくして仕事も替わったんだから、35歳のときはいろいろあったよね。でも、まだ激動は続いたんだ。
 タクシーの運転手として仕事を再開してしばらくたって、肺を患って倒れたの。痛いんだこれが。骨が内臓に刺さるような痛みというのかな。痛くて眠れないんだから。レントゲンを撮ってすぐに入院ですよ。
 当時、寝ないで仕事をしていたからね。僕は水筒にレモン水を入れていくの。それで眠くなると飲むわけ。すぐに目がさえるから、二時間ぐらいの睡眠で走り回っていた。当時は、相撲のハネとか明治座のハネとか、お客が出てくる時間は全部頭に入っていたんだ。かせいだね。100万円ぐらいは取っていたんじゃないかな。若かったからな、無理がきいたんですよ。でも、入院することになって、このタクシー会社は辞めることになりました。
 退院して、体を大切にしなきゃなと思いましたよ。さすがにね。それでタクシー会社は辞めることにしたんです。いくらもうかっても、倒れたんじゃ仕方ないから。どんな職業が健康にいいか考えましたよ。やっぱり体を動かすのがいいかなと思って、土工をね。
 当時は若かったし、すぐに採用されましてね。退院して3日後には働いていたの。遊んでいると退屈でしょ。ずっと働いてきたからね。だから退院したら休もうとは思わなかったですよ。
 ただし勤めた会社は忙しかった。1ヶ月に28日ぐらい働いていましたから。しかも昼夜昼と連続で仕事に出たりするの。土工は雨が降ると仕事できないでしょ。で、納期が迫ってくると、夜でも仕事になっちゃうわけ。 いやー、とにかく休めないんです。カゼをひいたときなんか、「休む」と電話をかけたら社員が迎えにきちゃうんだから。「仕事に行きましょう」って。で、連れて行かれちゃう(笑)。そんなことが続けば、いい加減嫌になるでしょ。それで会社を辞めました。

■再度の起業も失敗

 また当時は肺の病気の後遺症があったから、体もきつかった。なぜかいきなり胸が痛くなって、それが3ヶ月も続いていました。うつぶせだと苦しくて眠れないし、仰向けだと痛くて眠れない。仕方ないから肩を下にして、そっと横になる。それでも仕事を休もうとは思いませんでした。働くのが好きでしたから。
 医者には「夜寝ない職業はダメ」と言われまして、今度は昼だけの土工に職を替えました。しばらくの間は胸の痛みに苦しんでいたけれど、そのうちすっかり治っちゃって。不思議ですよ。一生病気とつき合うことになる、なんて医者から言われていたのに、後遺症もなくなり、胸もきれいになりましたからね。労働はきつくてもタクシーのように神経をすり減らさなくて済んだので、体にはよかったんでしょう。健康のために土工を選んで正解でした。
 そのうち仕事で知り合った仲間と会社を興しましてね。3人でクロス屋を始めたんです。壁紙を貼る仕事ですよ。小さな仕事から取っていってまあまあ順調だったけれど、つぶれちゃいました。
 それから会社を転々としたけれど、フリーになったのは52歳かな。そしたらこの不景気でしょ。飯場に入れても、仕事があるのは週2、3日ですから。1日1万円としても、週で2、3万円でしょ。ところが飯場での宿泊料金を1日に3000円も取られるんですよ。そうすると仕事のない週は赤字。とてもやっていけませんよね。でも仕事をしないと、貯金もどんどん減っていきますからね。それで貯金のあるうちに、アパートを引き払いました。

■いまは避難している状態

 この河川敷なら家賃もいらないからね。ここから土工に通っていたこともあるけれど、いまは古本屋と契約して週に3日、本を集めています。
 知ってます? うどんとかならば安売りで三束100円で買えるし、卵だって一パック100円で売っている。ジーンズやシャツだって近所の店に行けば、やっぱり100円で手に入る。米は五キロで1500円かな。ガスコンロで自炊すれば、貯金を使わなくたって生きていけます。酒も飲まないし、風呂は区民センターで入れるし。
 残ったお金でギャンブルをするときもありますよ。一点買いして、勝ったら防寒着だとか靴だとか、値の張る品物を買うの(笑)。
 いまでも姉さんとは連絡を取っています。いくらアパートを移っても保証人が必要でしょ。だから会っていなくても連絡が途絶えたことはありません。たしかに頼ろうと思えばできるのかもしれないですね。まあ、いまは自分で選択して、ここに住んでいるわけだから。もう少し景気がよくなったらどうするか考えますよ。とにかくいまはここに避難している状態ですから。
 ねえ、目の前に高速道路が走っているでしょ。ここは意外に事故が多いんですよ。出口の看板があって、それからカーブ。先が見えないから運転手が無理な車線変更をするんでしょうね。それで事故を起こしちゃう。きっと先の見える位置に看板があれば、事故は減ると思うんですよ。先が見えればね……。 (■了)

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ホームレス自らを語る/経営していた会社が倒産した・町田道彦さん(62歳)

■月刊「記録」1999年12月、2000年1月号掲載記事

*           *          *

■修羅場を潜り抜けてきた

 生まれは1937年で東京。父親の仕事? 建設業だよ。それ以上細かく言うと、オレの身元がバレちゃうからね。こう見えても、オレも去年まで会社を経営していたんだ。身元がバレると、いろいろまずいこともあるからさ。
 53年に中学を出て、定時制の高校に通いながら働いた。そのころ、全日制の高校へ進学できるのは、クラスに一人くらいしかいなかったからね。まだ神武・岩戸景気の始まる前で、どん底の不況でひどい就職難の時代だった。いまよりひどかったと思うよ。なにしろクラスのなかで、まともに就職できたのはオレが一人だけだったんだから。大学を出ても、飯場に入れたらいいほうってくらいの不景気だった。
 オレが就職したのは漁船のエンジンをつくる工場。その機械工になった。自慢するわけじゃないけど、オレは人に聞いたり教えてもらう前に覚えちゃうところがあるんだ。飲み込むのが早いんだね。だから、すぐに先輩を追い抜いちゃった。たとえば旋盤にしても、いまはコンピューターだから技術の差はあまり出ないけど、あのころは勘と技能がものを言ったからね。オレはそういうのが得意なんだ。
 それでオレばかりがベテランの職工とか、事務職の連中にかわいがられるだろ。ちょっと上の先輩たちには面白くないわけさ。それに定時制にも通っていたから「生意気だ」ってにらまれてね。イジメとかそういうんじゃなくて雰囲気だよね。だんだんに居づらい雰囲気になって、一年で辞めちゃったよ。
 それから土工になった。いきなり岩手の山の中の飯場にやられて、道路工事の土工を二年くらいやった。飯場といったって、農家の豚小屋を改造したようなところだからね。入り口にはムシロが吊り下げてあるだけだもの。タコ部屋さ。
 そのころの飯場にはまだ戦前のしきたりなんかが残っててね。はじめて入ったときは、みんなの前で仁義を切らされた。本当だよ。「手前、生国と発しますは……」ってやったんだ。まるでヤクザ映画そのまんまで、高橋英樹の『男の紋章』そっくりだった。みんなでそろいの印半纏を着てたしね。あのころの土工の世界は、ヤーさんの次に怖い世界だといわれてたんだ。
 いや、すごい世界だったよ。刃物を抱いて寝ないといつ寝首をかかれるかわからないからね。本当に抱いて寝たんだ。だって指名手配されているようなヤツと一緒に寝起きするんだ。危なくっていけないよ。なかには指名手配されていることを自慢にするのもいるくらいだからさ。仕事をサボったのが仮病だったなんてバレると、それこそみんなから袋叩きにあった。そんなことをされるのは、だいたいいつも決まったヤツだったけどね。オレはやられたことはないよ。
 そんな危ない世界だからさ。オレもケンカ殺法っていうのを習った。小笠原流とかいって、なんでも戦国時代から続いている殺法らしい。ふいに襲われたときのために、飯の食い方からトイレの入り方、風呂の使い方まで習ったよ。寸止めもできる。人なんて簡単に殺せる。だけど、他人を殺したり傷つけても、こっちにいいことなんて何もないだろう。寸止めして驚かせてやれば十分だからね。いまでこそこんなにのんびりしちゃってるけど、四、五年前までは人と話しているときも、いつでも蹴りが入れられるように構えていたんだ。本当のことだよ。
 飯場同士の出入りっていうのも、よくあったね。仲間の誰かが、よその飯場のヤツに、「ガンをつけられた」とか「ガンを飛ばした」とか、そんなたわいもない理由で飯場同士のケンカになるんだ。オレも木刀を持って殴り込みに行ったよ。
 ケガをしなかったかって? しないよ。危なくなると逃げちゃうからね。逃げ足は速いんだ(笑)。どんなケンカでも始める前に逃げ道を確保しておく。それが肝心なんだ。そういう冷静さがないとやられちゃうからね。
■土工の仕事にも誇りがあった

 ケンカもしたけど、仕事のほうも熱心にやったよ。あのころは土工の仕事にも誇りのようなものがあった。給料は安くていくらにもならなかったけどね。
 ほら、見てくれ(複雑な傷痕の残る右手首を見せてくれる)。その道路工事をしているときにダイナマイトでやられた痕だよ。いまの発破は削孔機を使って穴を掘るけど、そのころはタガネで手掘りだったからね。オレの掘った穴が曲がっていたらしくて、ダイナマイトを入れている途中でつっかえてね。それをタガネで押し込んでいたら、摩擦で暴発しちまった。
 オレは体ごとふっ飛ばされて、空中で三回転したよ。上からは岩がゴロゴロ崩れてくるし、よく手首のケガだけで収まったと思うよ。トロッコが坂道で脱線して、八メートルも先まで放り出されたこともある。安全意識なんて、いまとは比べようもなかったからね。ヘルメットだってかぶってないんだからさ。安全についてやかましくいわれるようになるのは、60年代の中ごろになってからだろう。

■もうかったのは70年代初頭まで

 20歳のころに東京に戻ると、土建業の親方について1年くらい働いてから独立した。だから、20歳そこそこで社長になって、会社の経営を始めたことになる。会社といってもちっぽけな建築業だけどね。それでも40年くらいは続いたよ。
 仕事はビルとか学校なんかの建築や改修が多かった。それでも、ちゃんと請け負って、きっちり仕事をする会社だったからね。人夫のサヤを抜いて(ピンハネして)もうけるようなことは、性分に合わないからしなかった。オレも現場に出て率先して働いたよ。作業員を休憩させても、自分だけは働くって具合だった。
 ただ、会社を始めたころは「なべ底不況」の真っ只中で経営には苦労したよ。仕事をしても支払いはみんな手形だろう。「台風手形」とか「お産手形」なんてのが常識だったからね。支払いが210日先、10ヶ月先という意味の手形だよ。そんなのを割りながらやり繰りしたんだ。 景気がよくなるのは東京オリンピックの前あたりからで、それからオイルショックまでの10年くらいが一番よかった。もうかったしね。オリンピックの前あたりというのは、東芝とか日立とかの大企業が、新しい工場を次々と建設した時期でね。それにオリンピックを控えていたから、東京の街をきれいにするって仕事もあった。オレの会社も日比谷の映画館街の模様替えや、銀座の三越前の整備なんかを手伝った。昼間は工場の建設に出て、夜は街の模様替えの仕事って具合だったから、そりゃあもうかったよ。
 だけど、いい時期もオイルショックまでだったね。その後、バブルとかあったけど、たいしてうま味はなかった。オイルショックのころから安全管理だとか労務管理だとかが、やたらにうるさくなっただろう。たいしてもうけられなくなったんだよ。それでもサラリーマンなんかに比べたら、3倍から5倍はかせいでいたと思うけどね。

■最愛の女房を難病で亡くした

 結婚したのが27歳。子どもは男の子が二人。最高の女房で、最高の家庭だった。ただ、会社の仕事には学校関係の工事が多かっただろう。学校の校舎の増築とか改修の工事は、たいがい夏休みにやるんだ。それで子どもとはあまり遊んでやれなかった。それが心残りだね。
 それでも工事が終わって役所の検査を通ると、家に帰るなり「旅に出るぞ」って、そのまま家族を連れて旅行に行くなんてこともした。オレはグズグズすることが嫌いなんだ。即断即決。男の決断は速いからね。いつもオレが突然に言い出すもんだから、家族は面食らっていたよ。そんなふうにして出た旅で、北海道を1ヵ月かけて回るなんてこともした。そんないいときもあったんだ。
 女房がよくできた女でね。オレにはもったいないくらいだった。その女房が……いけねえ……(町田さんの両目から、みるみる涙があふれ出した。しばらく話をやめる)……たいがいのことは大丈夫なんだが、女房のことを思い出すといけねえんだ。申し訳ない。
 女房はガンで死んだ。日本で三例目という難しいガンだった。これ以上話すと、身元がバレちゃうから言えないけどね。ガンだとわかって本人に告知したんだが、死を覚悟してからの女房がすごかった。入院している仲間で病気に悩んでいる人があれば、その悩みを聞いてやって励ました。手術を渋る人があれば説得して手術室に送り込んだ。婦長が説得しても応じなかった人が、女房の説得で手術を受けたなんてこともあるんだよ。死ぬことを覚悟しての励ましや説得だったから、そりゃあ効くよね。
 それに女房は自分の病気の状態や体の調子なんかを毎日記録して残した。実に克明なノートだった。例の少ない病気だったから、病院にはいい資料になってるはずだよね。
 女房の闘病生活は三年間続いた。そして、死んでった。七年前のことだ。あとに残ったのは借金の山。当時は高額医療費の補助なんてなかったからね。1回の手術に100万円もかかったりしたから、借金するしかなかったんだ。
 女房が亡くなってからというもの、仕事に張り合いがなくなってね。ホントはそれじゃいかんというのは、自分でもよくわかってはいるんだが、うまく気持ちの切り替えができないんだ。
 会社は去年倒産した。仕事に身が入らないのと、この不況のせいだよ。最後は運転資金にも事欠くようになってたからね。

■ここを脱して事業を興す

 ホームレスになったのは今年からだよ。この年で食えなくなったからって、子どもたちに泣きを入れるのはヤだったしね。昔から山谷の人間を仕事で使って知っていたから、ホームレスになるのに抵抗はなかったよ。生活のほうは、わずかだけど年金がもらえるんだ。それを1日50円から100円の範囲で使うようにしている。会社をやってたころは、ひと晩に100万円も使って接待してたんだから夢のようだよ。
 その50円、100円のなかから少しずつ貯めて、簡単な煮炊きができるように、ガスコンロとか鍋釜をそろえたんだ。オレも食うけど、それよりも周りのみんなに食べさせてやるためだからね。そんなことをしてやっていると、「オヤジさん、余ったから使ってくれ」なんて、食事の材料を持ってきてくれる人もあるだろ。自然に集まってくるからね。(インスタント)ラーメンでも、うどんでも何でもそろっているよ。(取材の間にも一人のホームレスがやってきて、うどんを調理して食べていった)
 ただ、オレは怠け者は大嫌いだからね。働く意欲のあるヤツとか、身の回りをきれいに掃除しているとか、そういうヤツにしか食べさせない。だらしのないのはダメだよ。
 オレだっていつまでもホームレスをしているつもりはないからね。いつかはここを出ていくよ。そして、もう一度事業を興すんだ。「オヤジさんがやるんなら、ついていきたい」という仲間も何人かできたしね。いつまでもホームレスじゃしょうがないだろう?
 だけども、いますぐってわけにはいかない。この(新宿中央)公園にいる(ホームレスの)連中をなんとかしないとね。働く意欲のあるヤツだけでも、自立できるようにしてあげたいからね。そのメドがつくまでは、オレも動けない。それをちゃんとしたら、オレも必ずここを出るよ。必ず事業を興してみせるから。

※この取材から半年後、町田さんから電話があった。「オレのようなものを取材してくれて感謝している。自分の記事を読んでいるうちに、なんとかしなくっちゃという気になった。それで就職活動をしてみたら、小さな会社だけど採用になって、一週間くらい前から働き始めている。いまはまだあわただしいから、そのうち落ち着いたらまた電話をするから会いましょう」というもので、電話の声も弾んでいた。だが、その後、町田さんからの連絡はない。 (■了)

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ホームレス自らを語る/連れ去られた子どもは笑っていた・山崎歌穂さん(49歳)

■「新・ホームレス自らを語る」に掲載                                 ※金本繁雄さんの回と多少内容がリンクします。

*         *           *

■あなたのダンナここにいるわよ

 生まれたのは東京都目黒区。五人姉妹の末っ子です。女ばかりで跡取りがいなかったものだから、私が婿をもらうことになるのかなとも思っていました。高校には行ったけれど、私にとっての大きな問題は結婚でした。卒業前に姉が跡を取ってくれたので、私は自由になったんですけれどね。
 卒業後に勤めたのは、飲食店やキャバレーをやっていた観光会社でした。私の働いていたビルは、一階から七階まですべてそこが経営していたんですよ。一階がキャバレーで、七階が私が給仕をしていたレストラン。そこで職場恋愛して結婚。それが21歳です。社内結婚なんてよくある話ですねよ(笑)。夫は機転のきく人だったの。私はデレスケが嫌いだから。
 結婚後、転勤で二人とも勤務先が仙台になったけれど、いい結婚生活が続いていたの。でも、ある日突然夫が家に帰らなくなったんです。ちょうど妊娠でお腹が大きいころですよ。これもよくある話よね(笑)。しかも毎晩、毎晩、女から電話がかかってくるの。「あなたのダンナここにいるわよ。くやしくないの」とかさ。
 さすがに女の子を出産したときには、毎日のように家に帰ってきてくれたけれど、すぐに帰らなくなりました。女からの電話も、またかかってくるようになりましたし。「今日、あたしの家から会社に行ったんだよ」とか。
 この浮気は病気だから治らないな、と思いましたね。それに、こんな男よりもっといい人いるかもしれないと思って、別れる決心をしたの。服だけ持って、子どもと一緒に姉の家に転がり込みました。世田谷区の大蔵にある一軒家に、すぐ上の姉が嫁いでいたものですから。子どもが1歳ちょっとのころだから、私は22歳ぐらいかな。
 しばらくは、ただ姉の家で一日を過ごしていたけれど、そのうち働きたくてしょうがなくなったの。そうすれば気もまぎれるしね。ゴルフのレッスンプロをやっていた姉の夫の紹介でゴルフ練習場の喫茶店でお手伝いをしていたんです。姉に子どもを預けてね。でも、そのうち姉が育児ノイローゼになっちゃって。姉も二人の子持ちだったから無理もないけれどね。
 それで世田谷に部屋を借りました。風呂付きのアパートですよ。子どもと二人、自立して暮らしていこうと思って。もちろんゴルフ場での仕事も続けながらですよ。それからほんのしばらくは、平穏に暮らしていたんですけどね。

■子どもから離れたすきに

 子どもが二歳ぐらいかなー。前の夫が子どもに会わせてくれと言ってきたんです。姉を通じて。少し迷ったけれど、「子どもがお父さんに会えるのは、これが最後だ」と思って承諾しました。別れた夫は仙台から来るから、会う場所は上野駅でした。
 その日は、上野でデパートに寄って、子どもの服を買いましたよ。負けたくなかったから。女手一つで育てているからみじめだ、なんて思わせたくなかったんです。お父さんに見せる最後のおめかしのつもりで買ったの。 いまでもはっきりと覚えていますよ。茶色のニットの半ズボンに茶色と黄色の横縞のセーターを着せて、白いハイソックスと赤い靴を履いて。上から下まで買って、デパートで着替えたんですから。
 別れた夫と軽い食事をして、コーヒーを飲んで、プラットホームまで見送りに行ったんです。そうしたら買い物を頼まれたの。「子どもがデパート行くと大変だから、俺が見てやるよ」なんて言われてね。当時は仙台まで長旅だったから、コーヒーとか弁当とか適当に買って、ホームに戻ったら列車が走り出していたわよ。子どもが列車の中に入るのが見えました。キャッキャ、キャッキャとうれしそうに笑っていたの。まだマンマぐらいしか言えない年齢だし、何が起こったのかわからなかったんでしょうね。普段からよく笑う子だったから。夫は発車時間をわざと教えなかったんですよ。どう考えても、子どもから離れた時間は30分もなかったから。
 私ね、半狂乱になって自分の姉に電話しましたよ。どうすればいいか聞きたくて。そうしたら姉が言ったの。「自分の子どもだから殺しやしないよ。子ども抱えていたら結婚も難しいし、自分の人生を生きなさい」って。 もちろん、そんなこと言われてもあきらめきれないから、夫の実家や会社に電話かけたけれど、夫が捕まらないの。彼の親なんか「あなたとうちの子どもは離婚したんですから、一切関係ありません」でガチャン、だもの。
 夫がどこに住んでいるかもわからない。広い仙台を一人探し回るわけにもいかないでしょう。でも、子どもがいなくなったのは、やっぱりショックでね。円形脱毛症にかかっちゃいました。10円玉ぐらいのハゲが三つも。先生に「どうしたら治りますか?」って聞いたら、「神経を図太くしなさい」と言われたけれど、なかなか治らなくてね。
 しばらくはゴルフ場で働いていたけれど、やっぱり仕事が自分に合わないと感じて辞めました。25歳前後のころです。それから水商売の世界に入ったの。お金を貯めて子どもを取り返してやるって気持ちもあったしね。 そりゃ最初はおっかなびっくりで、心臓バクバクでしたよ。周りの人が助けてくれたから、楽しく仕事することができたけれどね。26歳のときには店のお客さんと一緒に住み始めたの。相手も離婚経験者でね。でも、彼が店を始めたころからうまくいかなくなって、最後、置き手紙をして部屋から去っていきました。
「いろいろと世話になって、どうもありがとう。体に気を付けて、元気にがんばれ」。いまでもその置き手紙の一節を覚えています。

■寂しいから毎日飲み歩き

 そのあとは友だちが始めた中目黒の店で働いたり、渋谷の歌舞伎という店で働いたりしていたんだけれど、32歳のときに偶然に再会した前に勤めていた観光会社の人から、千葉で一緒に働かないかと誘われたの。
 当時、東京に嫌気がさしていてね。寂しいから毎日飲み歩いて。その日々の繰り返しだったから。30歳ぐらいまでは、絶対に子どもを取り返そうと思って頑張っていたんだけれどね……。偶然に会った人とは、男と女の関係ではなかったから、一緒に働き口を探すのは不安だったけれども、結局、東京を離れたの。
 千葉ではクラブで働いていました。ママがしっかりした人で、どんなに綺麗でも根性の悪い女の子は使わない主義だったんですよ。ここで40歳ぐらいまで働いていたかしら。
 もちろん仕事も楽ではなかったですよ。お客さんがツケで飲んでいくでしょ。その回収は、ホステスの仕事ですから。一時期、お客さんのツケが200万円もたまったこともあったのよ。千葉では、かなりの高級店でしたからね。もう必死に回収しましたよ。そのうち店を閉めるかもしれない、なんて女の子の間でうわさが流れ始めたの。これはモタモタしていられない。いつ給料が支払われなくなるかわからない。そう思って、クラブを辞めました。
 次の職場を探さなくちゃいけないなと思っているとき、喫茶店か何かだったかで、すごくきれいでさわやかなコに出会ったの。その娘が、「私はソープランドで働いてます」と言うのよ。そんな風に見えなかったから驚いちゃって。
「店にいらっしゃいよ。のぞくだけでもどう?」なんて誘われたけれど、さすがに「ソープランドはやだわー」って断っていたの。そうしたらアパートに店から電話がかかってきてね。「お茶飲むだけでも来ませんか」って。きっと彼女が私のことを話したんでしょうね。それで、とりあえず店に行ってみたの。
「ここはやくざの店ですか」って、まず私は聞きました(笑)。やくざと関わりになるのは嫌だったから。「そんなこと言ったら、みんなやくざの店になっちゃいますよ。安心してください」って返されましたね。年齢が不安だったけれど、40歳を超えたような人もいましたからね。それに感じのいい女の子ばっかりだったから。なにより食べていくためにはね……。
 1時間半で昼2万5000円、夜が3万8000円の店だったから、けっこう高級店ですよね。最初は、店の人から洗い方やらマットプレイを教わって。そりゃあ、恥ずかしかったですよ。見ず知らずの人の前で裸になるわけだから。
 最初のお客さんのことは覚えてます。入れ墨があったから。やっぱりやくざの世界だと思って、怖くて怖くて。何をやったかは覚えていません、緊張していたから(笑)。
 最初のころのお客さんは、気の毒だったかもしれませんね。教科書通りにしかできなかったから。そのうち要領もわかっちゃって。これはもう楽しく働きましょうと気持ちを切り替えて、頑張りました。でも指名を取るのが大変になり、店自体も女の子が二人辞め、三人辞めしていったの。結局、2年半働いて辞めました。
 次、なんの仕事をしようと思って電話ボックスで見つけたのが、ホテトル。チラシを見るまでは、ホテトルなんて商売知らなかった。電話したら「車で行くから待ってろ」と言われて、簡単な面接されて、その日から仕事ですよ。自宅で電話がかかってくるのを、ワンピース着ながら待っていましたよ。こうなればヤケのヤンパチよ。初めてのお客さんはサラリーマンでした。怖くなかったかって。いや、何かあればホテルまで送ってくれる男の人に電話すればいいんだから。もちろん不安はあったけれど、一対一の仕事だから仕方ないでしょ。
 しばらくホテトルで食べていたけれど、仕事が不安定なんですよ。いつ電話がかかってくるかわからない。夕方5時から朝の五時まで待つんだけれど。今日はないかと思うと、朝方に電話あったりするから。あてにならない仕事じゃないですか。

■一般人に見えた彼

 ちょうど仕事に行き詰まっていたころに、埼玉の公園でたばこを吸いながらボーッとしていたら、酒を飲んでいる集団がいたの。中年のおっさんやおばさんが宴会でしょ。なんだろう昼間からと思って、よく見たらプー太郎の集団だったんですよ。気楽でいいなー、なんて思いました(笑)。
 そのうち、おばさんだかおじさんだかが「お姉さん、ひまだったらこっちで飲まない」と声をかけてくれたの。何となく仲間に加わったら、そこにフラッとさわやかに現れたのが彼(★金本繁雄さんの回参照)だったの。彼は、そこで飲んでいた連中と全然違ったんですよ。清潔で、一般人かと思ったの。「オレ、プー太郎」と言われて、「えっ」と思ったんですから。それで私から声をかけたの。「パチンコ屋にいてね」って。
 いてもいなくても、と思ったの。でも、いてくれて。それから一緒に行動するようになったんです。何気なく、自然にね。その日は公園のベンチで寝ました。プー太郎が横にならないように、ベンチの真ん中に仕切りがあるやつですよ。次の日は、変電所の裏に段ボールを敷いて寝ました。やっと人に見られないところで眠れる、と思いましたね。
 それから彼がビラ貼りしていて警察に捕まったあと、彼の昔のツテでアパートを借りて、二人とも仕事を始めたんです。私は、貯金をして、普通の生活がしたかったの。でも、お金のないほうがうまくいくみたい(笑)。 ケンカも絶えなくなって、彼もスネて仕事を休むの。そうすると同じ系列の会社で働いているから、毎日、聞かれるんですよ。「彼はどうしたんですか」「部屋にいますか」って。そのたびに風邪をひいて熱があるとか、毎日、うそを言わなくちゃいけない。それがつらかった。それで会社を辞めて、彼と別れて渋谷の知り合いの家に身を寄せたんです。
 元プーの人でね。ビルのオーナーに拾われて掃除なんかをしている人なの。昔、声をかけられたんですよ。「トシだから女なんてどうしようもない。話し相手がほしい」って。私ね、男の人には慎重なんですよ。危ないところにはいかないから。
 その家に三ヶ月ぐらいいたかしら。でも、その人も私に気を使っていたし、ビルのオーナーからは女を連れ込んでいるように見られるし。それで家から出てきました。

■回らされたサラ金

 戻った場所は、最初に彼に会った埼玉の公園です。そこのグループをまとめていた人が、「俺のところに来たらどうだ」って誘ってくれたんですよ。そのグループは捨てられた廃車を家代わりにしていたんだけれど、私にも廃車一台譲ってくれたの。でも、しばらくして彼は亡くなりました。朝、動けなくなっていて、みんなあわてて救急車を呼んだけれど、助からなかった。心配で私も病院に行ったけれど、親族もいてね、プーは会えないんですよ……。
 それから何日かたった夜、今度は「プー狩り」があったの。バットを持った男が、自動車のガラスを手当たりしだいに割っていくんです。怖かったですよ。そんなときにやくざ屋さんの甘いワナにはまっちゃったのね。
「プー狩り」の次の日かな。ワゴン車でプーを集めていたんです。そのうちの一人に「料理は作れるか」と聞かれて、「普通のだったらできますよ」と答えて。それで採用になりました。最初は紳士的だなと思ったんですよ。連れていかれたのは、社長の自宅でした。若い衆が社長を「おやじ」と呼ぶのも、土建屋の「おやじ」だと思っていたんです。自宅に着いて挨拶を済ませても、まだやくざの家だとは思っていませんでしたよ。
 変だなと思ったのは夜の宴会が始まってから。プー太郎と子分が取っ組み合いのケンカを始めたんです。コップや皿は投げつける。割れた皿の破片が畳に散らばる。しまいには障子に突っ込んで、桟までバラバラになっちゃうし。私は台所にいたんですが、すごいところに来ちゃったなーと思いましたよ。ずいぶん時間がたってから、「いつまでやっているんだ、やめろ」って社長から声がかかって、やっと取っ組み合いのケンカが終わりました。しばらく飲むと、社長は部屋に待たせてあるフィリピン女のところに行くから、宴会はお開きになるんです。
 でもこの日が特別だったわけじゃないの。二ヶ月近くいたけれど、毎晩取っ組み合いのケンカが始まるんだから。慣れてきてからは台所で「ヤレヤレ!」なんて思っていたけれど(笑)。
 しかも社長は、覚せい剤もやっていたみたいなんですよ。「俺の部屋には絶対に入るな」とか、「俺の部屋は掃除しなくてもいい」とか、常々言っていてあやしいとは思っていたんです。ある日、台所で「ちょっと、そこどけ」と後ろから言われたの。よけたら流しで注射器を洗い始めたんです。でも、自分で覚せい剤を使っているなら、私にむりやり打つようなことはないな、とも思いました。もったいないから他人に薬を打たないでしょ。 一番困ったことが起きたのは、働いて10日ぐらいたったころです。「免許あるか」って最初に聞かれたの。免許は持っていなかったけれど健康保険証を持っていたんです。サラ金を回らされましたよ。若い衆が近くまで付いてきて、五、六軒行かされました。働き始めてすぐ、住所不定になって本籍地に戻っていた住民票を取り寄せて、社長の家に変更させられたから少し変だとは思っていたんですが。
 借金なんかしたくなかったから、審査のときに、兄弟もいない、保証人もいないと言い続けました。そのおかげで借金ができなかったんです。結局、一軒も借りられなくて家に帰ったら、社長が怒っていてね。「オイよ。オレに協力する気がないのかよ」とすごむの。
 私も怖かったけれど、「協力する気なんかないよ」って答えたら、「これが惜しくねえのか」って自分の小指を立てました。何も言えなくてね。そのうち「飯の支度しろ」って命じられて、話はうやむやになりましたけれどね。
 お金は払ってくれないし、怖いし。辞めたいけれど勝手に辞められないじゃないですか。でも、辞めるときはあっけなかったんです。社長からセックスを求められたから拒んだの。そしたら「役に立たないアマだな。辞めていいよ」って。これはチャンスだと思って、「いろいろありがとうございました」って言って、外に置いてある誰のだかわからないチャリンコに乗って逃げ出しました。
 心配なのは、保険証を置いてきたことです。実家にも五年以上連絡していないけれど、保証人とかにさせられていないか心配ですよ。この状態じゃあ、連絡もできませんけどね。
 それから彼に再会して、また一緒に暮らし始めました。

■やるときはやってくれる彼

 うん、子どもには会いたいですよ。でも、お母さんどこに住んでいるのとか、電話番号を教えてって言われても困るしね。私が35歳ぐらいのときに夫の実家に電話したことがあるんですよ。ちょうどいじめがはやっていたから。おばあちゃんが出て、「いい子に育っているよ」って……。その一言で「よかった」と思って……。私にはひどい男だったけれど、ほかに子どもをつくらなかったらしいからね。それはよかったなって。
 いまは楽しいですよ。彼は優しいし、裏切らないでしょ。女とかつくっても、うそがすぐバレるような性格だから(笑)。いまの方が私もいいの。歳を取っていろいろな経験をしましたから。若いときは、その人しか見えなかった。相手をかごの鳥にしたかったからね。人に対する野心みたいなものもあるし。
 彼はね、言葉とかきついこともあるけれど、やるときはやってくれる。いつもきれいなものを着るために、洗濯もしているし。「どんなに困っても、人に物をもらうな」って彼は言うの。その通りだと思う。本当の「乞食」になっていないのは、この人のおかげです。
 もちろん私は彼より年上だしね。別れがくるかもしれない。でも、後腐れなく別れようねって約束しているんです。道で会ったとき、「元気?」とか言えるようにね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ヤクザからの逃避行・金本繁雄さん(35歳)

■月刊「記録」2001年11月、2002年1月、2月号掲載記事                        ※この記事は山崎歌穂さんの記事とリンクしている個所があります。

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■母親に見捨てられた

 21歳の誕生日に、俺の育ての親だったおばあちゃんが息をひきとったんだ。病院から二人で暮らしていた市営住宅におばあちゃんを運んでさ。でも、連絡を受けて集まった親族八人と、遺体の前で大げんかだよ。
 だいたい入院していたころから、ヤツらには頭に来ていたんだ。死んでもいないのに、病院で死んだあとの相談をしていたしな。そのくせナースステーションにはお菓子なんか持ってきて。その前にやることがあるだろうと思ったよ。せめて一ヶ月に一回ぐらい、おばあちゃんに電話してきてもいいだろ。
 あんまり頭に来たんで、ケンカした夜から野宿した。葬式にいちおう参列して、5日ぐらいしてからバイバイしたよ。野宿しているときに、おばあちゃんの国民年金と老齢年金が出ていることに気がついてね、自分で委任状を書いてお金をもらってきた。
 俺はね、生まれて二ヶ月でおばあちゃんに預けられたんだ。父親の名前はわからない。戸籍にも斜線が引いてあるからさ。ただ聞いた話によれば、病院に看護婦として勤めていた母親が、医院長の子どもを生んじまったらしいな。昔、その医院長の家を見にいったこともあったよ。こんな大きな子どもがいてさ。幸せそうだったな。 どんな事情があれ、子どものクソや小便を世話するのが親だろ。手のかかる時期にいない母親なんて俺は絶対に許せない。

■持ち歩いた祖母の写真

 気の毒なのはおばあちゃんだよ。いくら実の娘の子どもといったって、俺が連れてこられたのは64歳のときだからな。子どもの面倒なんて見られる歳じゃないから施設に預けちゃえと親族に言われたらしい。「でも、かわいそうで出せなかった」とおばあちゃんが話してくれたことがあったっけね。
 母親がいないのを感じたのは、幼稚園のときが初めてだな。みんなが母親とダンスを踊っているのに、俺は先生だったからさ。なんで俺だけと思ったよ。
 中学時代はとにかく頭に来ていた(笑)。そのうえテメエがやったことに対して、始末をつける方法がなかった。おかげで、いろんな人に迷惑をかけることになっちゃったよ。
 高校を卒業してからは、トレーラーの整備士として働いていたんだ。でも働きだして数ヶ月したころ、おばあちゃんが脳溢血で倒れちゃった。最初の二ヶ月は昼は会社、夜は病院に泊まり込みなんて生活を続けていた。でも、いくら体力があってももたないよ。仕方がないから一年勤めた会社を辞めてガードマンのアルバイトを始めたんだ。少し時間が自由になるからさ。
 そうこうしているうちに、おばあちゃんの被害妄想が強くなってきたんだ。「看護婦さんに殺される」なんて言うようになったし、医者の言うこともきかない。自分でどこに薬をしまったのかもわからなくなった。
 こうなると、俺がつきっきりで世話をするしかないよ。アルバイトも辞めて、俺とおばあちゃんの生活保護を申請した。
 このときの生活は意外に面白かったよ。おばあちゃんとは友だちみたいな関係だったし。病院が流動食しか出さないから、よく俺がおいなりさんを買っていって二人でつまんだよ。看護婦が来ると、すぐ隠せるようにしてな。
 温泉に行ったこともあったな。病院にタクシーを呼びつけて、温泉までの往復が3万8000円。豪勢な旅だった(笑)。でも、そんな時間を過ごせたのは二年間だよ。おばあちゃんは84歳で亡くなったんだ。
 おばあちゃんの写真は、ラミネートパックにして持っていたんだ。でも、酔っぱらってなくしちゃったんだよね。まあ、顔は忘れたことがないけれど。

■手錠って冷たいんだよ

 市営住宅を出たあとはパチンコ屋で働いた。身分証明書や住所も必要なかったからな。二年間ぐらい勤めたけれども、だんだん仕事が嫌になってきてさ。やっぱり人が遊ぶ場所で仕事するべきじゃないよ。拭き掃除している目の前で、遊んでいる人がいるんだから。キャバレーやゲームセンターなんかも同じだろうけど、仕事は仕事でも因果な商売だよ。
 それで二三歳から飯場で働くようになったんだ。履歴書も写真もいらないから楽だしね。でも土方の仕事も少しずつバカらしくなっていったんだよね。仕事仲間から「年くってもできる仕事なのにね」なんて言われたけれど、その通りでさ。23歳も60歳も賃金が同じなんだ。
 もっとも、やりたい仕事も見つからなかった。朝から定時に起きて、何時から何時まで働いてなんて生活を続けても、ぜんぜん納得できない。逆に遊んでいても意味がないし。ただ食って、酒飲んで、生きていくのもな。まあ、逃げているだけかもしれないけどさ。それで何となくホームレスになったんだよ。
 埼玉の公園でホームレスをしている時に初めて歌穂と会ったんだ。98年6月、彼女は俺の仲間と酒を飲んでいたんだよな。彼女は、スナック、ピンサロ、ソープと渡り歩いて歳を取り、仕事がなくなったんだ
 最初の出会いから3ヶ月後、同じ場所で彼女と再会して一緒に暮らすようになった。当時は、食べるのも楽だったからね。近くのコンビニに行けば、賞味期限切れの弁当が、5、6個は簡単に手に入ったからさ。
 それに俺は、ピンクビラを電話ボックスに貼る仕事を見つけたんだ。給料は一日一万円。朝の10時から貼り始めて、はがされるビラを三、四回補充すればいいんだ。12ヶ所のボックスに貼るだけだから、そんなに大変じゃない。
 でも4月に、俺は大きなミスをしたんだ。夜九時を過ぎるとビラをはがす係が来なくなる。その日もさっそく九時過ぎからビラを貼りつけたんだ。やっと仕事が終わってビールを飲んでいたら、30分もしないで電話がかかってきた。ビラがはがされたって。
 トサカに来たんだよ。頭に血が上ってたんだな。仕事し終わった直後に、はがされるなんて悔しいじゃないか。いや、ビールは一本しか飲んでなかったけどね。それで「ネタ」の入った藍色の袋をつかんで、すぐに貼り直しに出かけたんだ。
 夢中で電話ボックスに貼りつけていたら、電話ボックスをコンコンってたたくヤツがいる。見たら、二人組のおまわりさん。ちょうど一〇時半だった。手錠って冷たいんだよ。いまでもあの冷たさは忘れられないな。

■俺はまだ懲りてなかった

 留置所は刑務所以上に塀を感じるんだ。捕まったときは留置所で自分が暴れちゃうかと思ったけれど、全然そんなことはなかったな(笑)。指紋を取って、左右正面と写真を撮って、パンツ一丁で身体検査をして、3日間ぐらい取り調べを受けた。留置所は二人部屋。一緒に寝起きしていたヤツは、覚せい剤取締法で捕まったアラビア系の外国人だったよ。一流の学校を出ているらしくて、日本語はペラペラだったけれどね。
 留置所にいたのは10日間。捕まったときの所持金9900円を受け取って外に出たんだ。
 でも、俺はまだ懲りてなかったんだよね。留置所を出てから、すぐにビラ貼りの仕事を再開した。ところが再開してすぐ、警官と出会っちまった。ビラを貼り終わって、歌穂と自転車の二人乗りをしていたんだ。何気なく前を見ると、パトカーに乗った警官がこっちに視線を送っていた。自転車のカゴには、紙袋とコンビニの袋があって、なかにはビラと商売道具が入ってる。逃げ出せば捕まって、留置所に逆戻りだよ。
 仕方ないから、歌穂を荷台から降ろして20メートルほど歩いたよ。そしたら案の定、「ちょっと待ってください」と声をかけられてさ。そのときの歌穂の言い訳が、いかにもつくったという感じでうそ臭かったんだよ。「病院に行って戻ってきたところなんです」って(笑)。
 警官はうなずきながら、防犯登録を調べ始めたよ。自転車そのものは、廃品を直したものだったから問題はなかった。ただカゴの袋を開けないでくれとひたすら祈ってた。
 警官から住所と電話番号を聞かれたときは、うらみのある人間の番号を答えたよ。でも、警察もなかなか離してくれないんだ。しまいには警察署に出頭しろなんて言い出すし。そうなったらビラ貼りで捕まったことがバレるし、カゴの荷物も調べられちゃうだろ。それで、「いまは病院帰りで彼女を送っている最中だから、一時間後に必ず警察署に行きます」と約束して、その場をごまかしたんだ。
 パトカーから見えない場所まで来たら、二人とも大あわてだよ。すぐに商売用の荷物を捨てて、着替えのバッグだけ持って電車に飛び乗った。たまたまポケットにはビラ貼りでかせいだ1万3000円が入っていたんだ。危なくてあそこではビラ貼りなんてできないなあと思ったよ。警察署に出頭しなかったことで、職務質問をした警官からはあやしいと思われるし。同じ場所で貼っていれば、いずれ捕まるからさ。

●殴った女は出ていった

 電車を降りたのは川崎。ここでホームレスを始めたんだけれど、エサがない。ファストフードも回ったけれど拾えない。そのうちパンク(お金がなくなって)して、パチンコ屋に置いてあるアメ玉をしゃぶって腹が減ったのをがまんしていたんだ。2、3日かな。多摩川を眺めながら、アメだけで過ごしたのは。でもこれじゃいけないと思ってさ。歌穂もかわいそうだし。
 それで昔世話になっていた人に、なけなしの30円で電話したんだよ。不動産屋と人材派遣の会社を経営している人でさ。以前に仕事を紹介してくれた人だったけれども、不義理をしちゃったんだ。それでも電話で話を聞いてくれて、事務所にも来いって言ってくれた。訪ねたら、俺にはカーペットを扱う会社を、歌穂にはウェイトレスの仕事を紹介してくれたうえに、アパートまで用意してくれたんだ。それから三ヶ月は、まあまあ順調に暮らしていたんだよ。
 でも9月に歌穂は出ていった。いや、俺がなぐっちゃったんだよ。
 仕事が終わるころには、店なんかも閉まっちゃうだろ。だから魚屋でつまみの魚を買っておくよう、歌穂に頼んだんだ。すっごくおいしい刺し身でさ。でもアパートに帰ってみたら、歌穂はいつものように発泡酒を飲んで、魚のことなんか忘れていた。近くの店でかき揚げとコロッケを買ってきて、それをさかなに晩酌だよ。
 そのうえ歌穂が部屋を散らかしていたんだ。俺は「あったところに物を片づけておけ」とどなった。そうしたら歌穂がふてくされてさ。飲んでいると気が強いやね、あいつも。それで殴っちゃったんだ。
 いや、当時の俺はひねくれてたんだな。歌穂がかせいできたお金でキャバレーに行って、そこの女と寝ちゃったり、昼間はゲーセンにしけこんだりしてさ。もちろん仕事に行く気にもならないし。
 結局、殴ったことが引き金かな。歌穂は仕事を辞めて家を出た。それっきりアパートには戻ってこなかったよ。

●仕事しないとアカがつく

 俺は働き続けたんだ。でも3月いっぱいで辞めた。じつは部長から引き抜きがあってね。違う職場で仕事をしないかと。しかも同時期に、違う上司から正社員にならないかと声がかかったんだ。真面目に働いていたからさ。でも、どちらかの顔を立てれば、必ずどちらかをつぶすことになるだろ。だから両方切った。これなら二人に迷惑がかからないだろう。
 それにカーペットの仕事していて、これでいいのかなとも感じていたんだ。仕事に追われて、一日一日を過ごしていたから。お金は残らないしさ。会社の仲間と飲んでいてもそうだよ。「こうしたらいいのになー」とか話すでしょ。そうすると「いや、会社組織なんてそんなもんよ」とか返されるわけだよ。そのとき「アー」と思ったんだよね。
 アパートに住んでいても、ホームレスしていても生活なんて変わらないよ。ただ働いているだけじゃ、自分がおかしくなっちゃう。自分が何をしたいのかね……。いや、俺は強いときはスッゲー強いんだ。でも弱いときはスッゲー弱いんだよ。なんか自分が特別な存在だと思っているのかな……。サラリーマンって何を考えて生きているんだろうな。俺だって、自分の許容範囲で生きていければいいんだけれどね。
 仕事を辞め、アパートを引き払い、埼玉に戻ってホームレスを始めた。振り出しに戻っちゃったよ。
 いや、ホームレスになるのに勇気はいらない。覚悟もいらないよ。ただギャップを調整するのが大変なんだ。禁断症状が出るから(笑)。8時か9時になったら飲みながらテレビを見る。そんな当たり前の生活ができなくなるだろ。センチメンタルになるんだな。まあ、それも一ヶ月ぐらいかな。二ヶ月ぐらいすると、完全にフラットさ。
 ホームレスになったら、まず服を探す。汚い格好は嫌だから。何でも捨ててあるからね。探すのに苦労はしないよ。新品同然の服だってそろう。だから服装はどうにでもなる。靴墨だって落ちているから、ピカピカの靴を履くことだってできる。
 ただどんなに格好をつけていても、俺はホームレスを見分けられる。いくら身だしなみに気をつけて、頭に油をつけて整えていてもね。
 仕事をしていないと考え方が変わるんだ。意識が違う。それが表れる。「アカ」というのかな。見ればわかるんだよ。勤めている人とちょっと違うから。働かなくても何とか食えるでしょ。それが当たり前になっちゃう。稼業を見下すわけじゃないけれども、働かなくなる。それが怖いんだよ。

■第一声が「コーラァー」

 会社を辞めて二ヶ月ぐらいあとだった。5月の連休が終わっていたから、20日ぐらいだったかな。ばったり歌穂に再会したんだ。駅のトイレ近くにいたら、歌穂が来てさ。「おめえ、何してんだ」って声をかけんたんだよ。そしたら「トイレに来た」って。トイレなんか下にもあるから、わざわざ階段を上って、ここのトイレなんか使うことないのに。上のトイレの方がきれいだから階段を上ってきたんだと。それで、また一緒に住むようになったんだ。
 飯場のまかないをしていたらしいんだけれど、これがひどい職場だったらしいんだ。仕事ができると思って、手配師の口車にのって飛びついたら、飯場に泊まっているのはヤクザばかり。夜になれば、血だらけの殴り合い。覚せい剤なんかも打っていたらしい。そりゃ怖かったらしくて、その飯場を、どうにか辞めてきたらしいんだ。
 俺は何度か聞いたんだよ。「辞めるって会社に言ってきたんだろうな」って。「勝手に辞めてきたんじゃないな」って。歌穂もうなずくから信じたんだけれど、これがケチのつきはじめだったよ。
 再会してから二ヶ月ぐらいたった七月、朝の九時ぐらいだったかな。2人で図書館に行こうと思って歩いていたんだよ。そしたら歌穂が声をかけられたんだ。「会社の人間が会いたがっている」ってさ。「残っていた給料を払いたい」なんてね。俺も少しは生活がラクになるかなーと思って車に乗ったんだ。いや、丁寧な口調でさ。全然怖くなかったよ。だから「旦那も一緒にどうですか」と言われたときは何の疑いも持たなかった。
 ところがさ、事務所に着いた時の第一声が「コーラァー」だからね。すごいデカイ声で。動くと布がこすれてシャカシャカと音がする薄いジャージがあるだろ。あれを着た男がいきなり膝の上にケリを入れてきたんだ。一八五センチはある大男だからな。すごい衝撃だよ。次に腹、前かがみになったところで肩口にケリだ。プロレスラーの蝶野正洋がやるケンカキックって知ってる? 足の裏、かかとでけるの。そのケンカキックがこめかみにも入ったからさ。歌穂はきちんと話をつけて辞めたと思っていたみたいだけれど、向こうは歌穂を飯場から連れ出して逃げたのが、俺だと思っていたんだよ。もう話にならないさ。
「すぐ裏が工事現場だからな。殺して埋めてやるよ」と脅されて、手の甲にアイスピックを突き刺された。一発で泣きを入れたよ。それでも二時間ぐらいは、いたぶられていたかな。
 また歌穂がさ、ヤクザから「これからどうする?」とか聞かれると、「ここで働く気はありません」とか言うんだよ(笑)。てめぇー、俺が殴られるだろうと思うけれど、曲げないんだ。
 その日、たまたま社長が法事に出かける日だったらしくて、「逃げないように見張っておけ」と舎弟に言い渡して、やっと暴力から解放された。
 事務所のそばには大きな飯場があって、トラックが何台も置かれていたよ。辺りにはススキがいっぱいあって、舗装されていない道には轍があるだけ。逃げられないと思ったね。

■裸足の言い訳

 夜になったら、「飲み会があるから来い。社長も呼んでるしな」と言われて、案の定「どうやって落とし前をつけるんだ」と脅された。
「できることは何でもします」と言って頭を下げたよ。それしかないじゃない。さらに名前を言って、「よろしくお願いします」と頼み込んだんだ。「おめえ、逃げんなよ」と一言脅して、ヤツもそれで納得したんだろうな。少年院の話なんかを始めたよ。そいつはフィリピンの女を連れていてね。格好からして、いかにもヤクザだったな。
 それから酒を飲んだり注ぎに回ったりして、ある程度時間がたってから、コップを探すふりをして台所の歌穂に会いに行った。「もう少ししたら、ここから逃げ出すからついてこい」と耳打ちしにね。
 宴会がお開きになって、風呂に入る時間になってさ。俺は、バカそうな一人に、「タオルを買ってきたいんですが」と話しかけたんだ。そうしたら店の場所を教えてくれたよ。運のいいことに、そのときたまたま1万円を持っていた。
「5分で戻りますから」と言って事務所から出て待っていたら、数分後、靴も履かずにストッキングのまま、歌穂が事務所から出てきたんだ。9時半ぐらいだったかな。歌穂の手を引っ張って、200メートルぐらい全力で走ったよ。街灯も100メートルに一個ぐらいしかなくて、道は真っ暗。かえってそれがよかったんだよね。車のライトが見えるからさ。
 車のライトが見えると、側道の竹やぶに飛び込んで通り過ぎるのを待ってさ。やり過ごした車は2、3台かな。とにかく追ってくる車が怖くてさ。振り向き、振り向き走っていたけれど、途中からバックで走っていた。これなら後ろを見ながら、走れるからさ。
 途中、道端に止まっている車があってね。車内にアベックがいたんだ。こっちは、とにかく遠くに逃げ出さなくちゃいけないから、アベックに必死に頼み込んだ。「足をくじいちゃって、道もわからない。お願いだから、駅まで送ってくれないか」とね。本当の事情を話したら絶対に送ってくれないからさ。適当にうそをついたけれども、それでも丁重に断られた。仕方ないよね。見るからにあやしいんだから(笑)。

■やっと逃げ切った

 それからは家を見つけるたびにベルを押して、車で駅まで送ってもらえないかとお願いしたんだ。一軒目は、歌穂が交渉したけれどダメ。二軒目もダメ。三軒目に、ピンポンと呼び鈴を押したら、40代後半の夫婦ものが出てきてさ。また、足をくじいたとか話したよ。
 歌穂も「手で靴を持って歩いていたんだけれど、なくしちゃったんですよ」なんて裸足の言い訳してさ。でも、その方がよっぽどおかしいよね。裸足の理由としてはさ(笑)。
 結局、かっぷくのいい旦那が送ってくれることになった。でも送ってもらうだけじゃダメなんだ。近くの駅じゃ困る。近い駅はヤクザも張っているだろう。ヤクザに出会ったら送ってくれる人にも迷惑がかかるしね。乗ってからも必死に少し遠い駅に連れてってくれるようお願いしたんだ。変に思ったかもしれないよね。でも、もともと裸足の女を連れた男だからな(笑)。
 幸い窓にはスモークがかかっていたから、外からは見えなかった。でも窓が少し開いていたんだよ。だから「すみません。閉めていただけますか」ってまた頼み込んだ。だって窓からヤクザに見られたら困るから。心配し過ぎと思うかもしれないけれど、ヤクザがどこまで来ているかわからないもんね。だから怖いの。
 駅に着いてからも大変だったよ。階段の下に隠れていた。街灯もなくて真っ暗なところだよ。他の場所にいると、ロータリーから見えちゃうから。また電車が来るまでに時間があってね。怖かったよ。だって駅で見つかったら逃げられないだろ。
 やっと電車が来ても、夜の上り電車だからガラガラなんだ。もしヤクザが乗っていたら、見つかるなと思ったよ。だから気休めかもしれないけれど、一番後ろの車両に乗って、誰か来るかなーって周りをうかがっていたんだ。もし前からヤクザが来たら、電車を降りて逃げることもできるからさ。
 何度か乗り換えしたけれど、ずっとビクビクしてたな。やっとホッとしたのは、品川に着いてからだよ。たしか10時20分ぐらいだった。
 駅から15分ぐらい歩いたかな、ファミリーレストランに入ってビールを頼んで、初めて心から笑えたんだ。「テメー、このやろう」って言いながら、歌穂の頭をこづいたりしてさ(笑)。そこで朝まで歌穂と過ごしたよ。体から力が抜けたね。

■歌穂がいなきゃ働いている

 それから、また平和なホームレスに戻ったの。
 お金と仕事内容、どちらが大切かと聞かれれば、仕事内容の方じゃないかな。仕事をしているときに、いらぬ心配はしたくないしね。
 人間関係のうざったくないところで働きたいんだ。仕事は真面目だけれど、仕切っちゃうの。だから上の人とぶつかることが多いし。俺は好かれるか嫌われるかどちらかだからさ(笑)。
 だから、たとえ日当が2000円ぐらい安くても、働きやすい場所を選ぶようにしているよ。もしかしたら、まだ極限まで追い詰められていなくて、キレイ事を言っているのかもしれないけれどさ。まあ、先のことは、あまり考えてないよ。思考停止なんてバンバンだよな(笑)。それでいいやと思うしさ。
 ただね、働かなくたって人からはモノをもらいたくないし、人に迷惑もかけたくないんだ。汚い格好をしているのも嫌だな。だからしょっちゅう洗濯しているよ。
 まあ、コレ(歌穂)がいなければ、仕事をしているかもね。きっと250%しているよ(笑)。二人でいると寂しくないの。一人でいる寂しさを俺は知らないんだと思うんだ。だから仕事をしないでも平気なんだよ。仕事仲間がいなくても、歌穂がいるからさ。 (■了)

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税金ドロボウ列伝・その6/文部省大学入試センター

■月刊『記録』97年4月号掲載記事

● 【泥棒6】文部省大学入試センター
●18の春に泥を塗った文部省(浪人生)

 今年、1月18・19日に行われた大学入試センター試験は、例年にないお粗末なものだった。「国語1・2」で2ヶ所、「日本史A」で2ヶ所も出題ミスが発見された上に、国語の選択問題では選び方がわかりにくく、誤って回答する受験生が続出した。そして決定的だったのは、浪人生と現役生で平均点が21.69も違った数学だ。
 旧課程から新課程へ移行期の初年となる今年、浪人・現役用に2種類の問題を作成した。文部省が決めた課程の変更に伴う出題ミスなのだから、尻ぬぐいは自分ですべきなのに点数調整には踏み切らなかった。東京・神田の駿台予備学校の前で聞いた。
 早稲田大学への進学が決定した一浪の男子学生は、「東京大学文科三類を受験した。1浪だから後がないので必死だったのに、20点以上も不利だったのかと思うと腹が立ってしょうがない。受験は1点勝負だ。合格ラインには、2~3点の間に何百人もいるといわれている。僕も小さな取りこぼしをしないように、細心の注意を払った。それなにの自分の実力と関係なく、20点も引かれるなんて信じられない。私大が受かっていたからよかったものの、もし国立大だけに絞っていたら、一生、文部省を恨んでいたよ」と話す
 同じく東大を受験した別の学生は、「東大は受かるとは思っていなかったので、数学の点数についてはそれほど腹は立たないけれど、広重力大学入試センター所長の発言にはむかついた。何が『社会に出たらもっと厳しいことがある』だ。自分のミスを謝らない態度は、薬害エイズの時と一緒だ。東大に受かっていても、役人だけにはなりたくないと思った」と怒りを隠さない
 例年、浪人生は現役生より点数が高いの当たり前だった。にもかかわらず現役生の方が平均で22点も高いというのだから、出題ミスは明らかだ。これだけ大きな間違いを起こしながら、二段階選抜の緩和だけでお茶を濁そうとする文部省および大学入試センターには日本の教育を管轄する資格はない。

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税金ドロボウ列伝・その5/労働省中央労働委員会

■月刊『記録』97年4月号掲載記事

【泥棒5】労働省中央労働委員会/不当労働行為のやり得でいいのか

(■樫村潔(国鉄労働組合書記長)かしむら・きよし……1960年臨時職員として国鉄に入りし、その後12年間車掌などを務める。その間に労働運動の道へ入り、36歳で分会の副委員長から一挙に盛岡地方本部の書記長に。87年10月、国労東日本本部委員長。91年10月国労書記長に就任)

 1987年2月16日、JRへの採用・不採用通知が出てから10年もの月日が経過した。しかし、中央労働委員会から不当労働行為だと認められ、救済命令が出された国鉄労働組合員のほとんどは、職場復帰していない。結果として中労委は、不当労働行為が「やり得」になるような環境をつくりあげている。
 国労としては、地方労働委員会に訴え、さらに中央労働委員会の決定を待ち、その上裁判所の緊急命令を待つ他には法的な手段はない。地労委で2年、中労委で5~7年、地裁・高裁・最高裁で10年となれば、救済命令が施行されるまで20年もの月日が流れてしまう。考えてみてほしい。高校を卒業して定年するまで、わずかに人が働ける時間は37年しかない。そのうち半分以上の時間、人間らしく働くことができないのである。
 中労委の命令に拘束力がないのは、労使関係は罰則で押さえつけるものではないという崇高な理念が根底に流れているからだという。私もその理念には賛成だ。しかし、労働委員会委と裁判所を合わせた5審制を悪用する資本家に対しては、あまりにも無力だ。現状のような状態が続けば、あらゆる資本家に、不当労働行為がやり得だという意識を植え付けかねない。
 地労委が救済命令を出すのに2年ほどかかるのは仕方がないだろう。むしろよくやってくれていると思う。問題は中労委だ。年間400件ほど訴えがあるとはいえ、なぜ5~7年もかかるのか。何か思惑があるとしか思えない。
 同じような疑惑を労働省にも感じる。他の問題ではあれだけ素早く行政指導を行う中央官庁が、一向に行動を起こさない。労働省に、救済命令の履行を指導するようにお願いに行っても、「できない」と言われる。「なぜですか」と尋ねても答えない。
 その謎解きに使える道具がある。『アエラ』(97年1月6日)に掲載された中曽根康弘元首相の言葉だ。「総評を崩壊させようと思ったからね。国労が崩壊すれば、総評も崩壊するということを明確に(国鉄分割・民営化を)意識してやったわけです」。国鉄解体を押し進めた張本人が、国労崩壊を目指していたという。私見だが、立法府が決めたことに官庁は手を出させないと思っているのではなかろうか。そう考えれば、労働省が動かないのも頷ける。

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税金ドロボウ列伝・その4/法務省東京入国管理局

■月刊『記録』97年4月号掲載記事

【泥棒4】法務省東京入国管理局/日本憎しを植え付ける入管生活

Pirouzan Mansour(イラン人)ピルザン・マンスール……1957年10月テヘラン生まれ。ウエスト・ネクロス・フィリピン大学に入学。85年に米国アメストライン大学院修士課程を修了し、来日。大手エレベーター会社に就職したものの突然の解雇にあい、偽造テレホンカード売りをしていた)

 日本人はほとんど知らないだろうが、入管では信じられないことが次々と起こる。私が警視庁上野警察署と入管との合同摘発で捕まった時もそうだった。私は、別れた日本人の妻と同じ名前を付けた犬を飼っていた。テレホンカードを売る時も、寝る時も常に一緒だった犬だ。ところが捕まったと同時に、入管は犬に対する所有権放棄の書類にサインをさせたのだ。私は漢字を読むことができないため、何の書類だかわからないまま、通訳も介さず「とりあえずサインをしろ」と強制された。そのうえ入管は、犬を引き渡してすぐに保健所で殺したにもかかわらず、近所の日本人が引き取っていると私をだまし続けたのだ。
 もちろん入管のなかでの生活も普通ではない。現在、7人部屋で生活しているが、同じ房で生活している人のなかには、エイズ患者がおり、殺人犯がおり、精神病患者いる。
 HIVが日常生活で感染しないとわかっていても、食事も便所も一緒なのは不安なものだ。まして開いた本を凝視しながら何時間もブツブツと独り言を言い続けたかと思うと、いきなり奇声を上げる精神障害者と狭い房の中で、24時間一緒に生活するのは不気味だ。他の房では精神病患者の自殺が立て続けに起こったこともあったから、杞憂とも言い切れない。
 入管の医療体制がひどいだけに、より一層不安感が増す。先日、入管から飲み薬をもらったところ、顔が真っ赤に腫れ上がってしまった。薬の副作用なのだろう。慌てて診察をお願いしたら、次にセンターに来るのは3日後だという。入管の職員は「ひたすら待て」と言うだけだ。仕方がないので、便所の小さな窓から一晩中顔を出して冷やし続けた。そうしなければ、痛くて眠ることもできなかったからだ。
 海外に行く際に日本人は十分に気を付けたほうがいい。入管に収容されているすべての「外国人」は、日本人はすべて殺すと息巻いている。なかには前述のように殺人犯もいる。これだけひどい扱いを受ければ、復讐したくなる気持ちもわかる。役人の悪行は、一般人の血によって支払わされるかもしれない。

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税金ドロボウ列伝・その3/建設省

■月刊『記録』97年4月号掲載記事

【泥棒3】建設省
■「建設省一家」に行革は無理

(■森田喜美男(東京都日野市長)もりた・きみお……1911年生まれ。東大農学部実科卒。朝鮮総督府、大東亜省所属在外農業指導員などを務め、47年、中国から引き揚げ帰国。66年から日野市議。73年4月に日野市長選で初当選。以後連続6期)

■いきなり70億円減収

 バブル崩壊以降、日野市の税収は年々減少する方向にありました。そのような状況にさらなる追い打ちをかけたのが、1995年から実施された住民税の特別減税です。この決定により、日野市は3年間で70億円ほどの減収となったのです。自治体の財政構造の良否を判断する指標である経常収支比率は、3年間に82%から93%へと悪化しました。
 中央政府の決定によっていきなり税収が70億円も減ったのにも関わらず、国からの援助は減収補てん債を認めるといったものでした。しかし地方債を発行すれば、当然金利がかかります。近い将来、金利は地方財政を確実に圧迫していきます。日野市は発展途上の町である一方で、市民の高齢化も少しずつ進んでいます。健全な地方財政を維持することは、現在はもちろんのこと、将来的にも非常に重要なことなのです。安易に地方債を発行するわけにはいきません。
 そこで、まず財政の無駄な支出を減らす努力をしました。例えば地方税の納期前納付の奨励金を全廃し、4000万円ほど捻出しました。また職員の退職者数を補充せず、100人ほど減らしました。仕事量が変わらないのにも関わらず職員を減らしたのですから、どれだけ大変だったかは理解していただけると思います。
 しかし、血のにじむような努力をしても、新しい70億円の減収を埋められるはずもありません。そこで、新たな財源を探さをざる得ない状況になったのです。その時に思いついたのが、中央自動車道への課税でした。
 そもそも日本道路公団の高速道路は、将来的には通行料が無料になるという前提のもとに、固定資産税が非課税になっているのです。ところが、95年11月に開かれた道路審議会で出された答申では、高速道路の永久有料化を打ち出しました。つまり非課税の前提が崩れているのです。また、実際問題として高速道路の無料化は実現する可能性はないでしょう。そのため日野市は、96年の2月から課税するための評価額の算定作業を進めていました。96年は課税を見送ったものの、97年度分の算定は終わりました。そこで課税通知書を日本道路公団に送付することを決定し、課税手続きを進めています。

■封建時代じゃない

 課税自主権の立場に基づいての課税ですし、法律上はまったく問題ありません。それどころか、憲法92条には「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」と書いてあります。
 ところが中央道への課税を表明した昨年2月以降、何度か東京都による非公式な行政指導が行われました。しかも、ハンコを押した公式の文書での要請は、一度もありません。それだけではありません。日本道路公団の監督官庁でもある建設省の大臣である亀井静香氏が、私をアルツハイマーだとおっしゃった。彼の人権感覚については、その関係の人が一定の評価を下すことになるでしょうし、問題の本質ではありませんが、道路公団への課税に対してこのように反応したことには問題です。
 日本道路公団は「建設省一家」グループの大切な一員ですから擁護するのでしょうが、封建時代ならいざしらず、行政改革が叫ばれているこの時期に一家意識を持ち続けるのはいかがなものでしょうか。このような意識では、行政改革などおぼつかないでしょう。中央官庁は縄張りを守ることだけに力を注がず、血を流して行革を進めなくていけないはずです。
 もちろん日本道路公団も血を流すべきです。道路公団に恨みもありませんし、民営化を求めているわけでもありませんが、課税を認めないなら無料化に向けた体質改善をしていただきたい。各種の報道では、放漫経営が指摘され、建設省官僚のOBの天下り先として批判も高まっています。このような公団を非課税のままにしておくのは、明らかに不公平です。課税は公平かつ公正に行われなければ、国民の理解を得られません。中央政府には、公平な課税権を認めていただきたいと思っています。
 JRでは民営化に伴って、路線への課税が実施されてました。日野市には京王線も通っていますが、この路線にも当然のことながら税金が課されています。私からみれば、無料化のめどもたたない中央道に課税するのは、しごく当然のように感じました。これほど大きな問題になるとは思っていなかったのです。
 残念ながら、日本では地方の自治権は認められていません。権限委譲が行われたにしても、財源は独自に探さなくていけません。中央政府から認められるのは地方債という借金だけです。財源がないために、地方も中央政府の顔色をうかがい、交付金のお願いをすることになります。これでは地方自治が確立するわけはありません。
 本来、地方と中央の関係は、対等・平等でなければならないと思います。互いに切磋琢磨しながら、良い関係を築いていくべきです。そのような関係を作るためにも、発言すべきことは申し上げようと思っております。地方が発言しなければ、中央に地方の声は届きませんから。

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税金ドロボウ列伝・その2/林野庁

■月刊『記録』97年4月号掲載記事

『税金ドロボウ列伝』

【泥棒2】林野庁
■性懲りもない「官」の横暴 ―秘境知床―

(■小山俊樹……こやま・としき……1962年東京に生まれる。自然環境問題、建設問題などを専門にルポルタージュを発表。現在は、建設関係の共同組合に席をおく。主な著作に『知床スキャンダル』など)

■林野弘済会の売店出店計画

 北海道・知床半島。オホーツク海沿岸を網走から斜里町へ南下し、さらに国道334号線を知床国立公園へと向かう途中に「オシンコシンの滝」はある。アイヌ語で「そこにアララギが生い茂っている所」に流れるこの滝は、知床観光の拠点・ウトロの街のほど近くに位置し、滝の前には園地(滝見公園)と駐車場が備えられていて、知床を訪れる観光客が1度は立ち寄る名勝である。
 今、この滝の前に財団法人林野弘済会が売店を出店したいとして問題になっている。
 ことの発端は一昨年(1995年)の夏、北見営林支局が林野弘済会北見支部直営の売店を建設するために、滝見公園の一部を返還してほしいと地元の自治体・斜里町に申し入れたことによる。実は公園の敷地は林野町所有の国有林で(といっても樹はほとんどはえていない)、それを斜里町が無償で借受け、オシンコシンを訪れる観光客などのために開放してきたものである。弘済会の計画では、公園敷地384平方メートルを返還してもらったのちに、店舗面積約100平方メートルの売店を建てたいとした。
 営林当局による売店計画はこれが初めてではない。91年にも同様の申し入れを斜里町に行なっている。しかし、このときは地元の自然保護団体「オシンコシンの環境を考える会」と町内の商工業者の反対で計画は頓挫した。「知床の名所である同地に売店を設置することは景観上マイナス」といった意見のほか、「ウトロの近くに大型店舗が進出すると地元商店街に経済的不利益をもたらす」と考えられたからである(当時は現在の倍以上の店舗面積が予定されていた)。思わぬ地元の反対の声に萎縮した営林当局は、以後具体的な動きを控え、売店計画は事実上白紙に戻った。
 その計画がなぜ4年も経った今になって再び浮上したのか。95年11月10日に、斜里町の午来昌町長が議会にこう報告している。
 ――本年度に入って、弘済会から何とか計画通りに売店建設を進めたいと話がありました。町としては、6項目(規模の縮小や景観への配慮)を提示して大枠をやむを得ないとの判断をしたものの、地元の反対の声がある中では、それらの理解を求めることが先決であると弘済会に伝えました。その後、弘済会は反対の立場をとっておられた方と協議をして、了承を得たと報告してきました。(問題が解消されたので)いずれ公園用地返還の手続きが必要になりますのでご理解いただきたい――
 これに反発したのが91年と同じオシンコシンの環境を考える会である。現会長の桂田歓二(ウトロ在住・民宿経営)こういう。
「弘済会のいう地元の理解を得られたというのは、我々の会の前会長個人を捕まえて、賛成もしないし反対もしないという言質をとったことを指しています。逆にそれ以外には、地元の理解の声はほとんどない。景観が損なわれることは4年前の時点と全く変わっていないし、むしろ開発の進んだ知床の自然に、これ以上手を加えずに次世代に引き継ぐ重要性は高まっているのです」。

■林野官庁の生き残り策

 商工業者の反応はどうか。96年9月21日に、売店反対派の小川佳彦(ウトロ在住・宿泊業)がウトロ地区の宿泊・飲食店83件を対象に行ったアンケートがある(回答率58%)。このうち「計画に反対する」が83%、「商売に悪影響が出ると考えている」業者が56%もいることがわかった。そのため、同年10月17日に開かれた斜里町観光協会ウトロ部会の役員会では、斜里町長宛に以下のような要望書を提出することが申し合わされた。
 ――(オシンコシンの売店については当初から反対でしたが)斜里町から町と営林署、営林署と土地利用者との関係もあり、「営林署との関係を悪くしたくない」との配慮から斜里町が林野弘済会に最小限度の条件を提案したことに対してやむを得ないとの結論を出したところです。〈中略〉(しかしアンケートの結果のように)地元商工業者は「建前賛成本音反対」ということもご理解のうえ、売店営業に対して今後とも問題の出ないように特段のご理解とご配慮をお願い致します――
 売店の建設自体は、95年11月21日に斜里町が国有林の返還手続きをとり、3日後の24日には営林支局が弘済会に使用を許可したことで、法律上の手続きはクリアされていた。ただし、考える会や商工業者の反対の姿勢は根強く、読売新聞道内版が「着工までに曲折も」(95年11月22日)と大きく報道したことなどから、1年近く先送りされていた。
 96年10月15日、考える会の桂田は、「斜里町が公共用地を私的営利(弘済会)に利用させるために営林署に返還するのは不当」などとした住民監査請求を、斜里町監査委員会に提出した。ところがその審査が行われている最中の11月1日、弘済会は抜き打ち的に売店建設に着工した。弘済会にしてみれば、1年近く様子を見たし冬も迫っている。この時期を外すわけにはいかなかったのだろう。だが、やり方が横暴すぎる。斜里町監査委員会は、結局「本請求は請求の対象とならない」と門前払いをくわせるのだが、同請求権の脆弱さ、無力さは、工事が強行された時点ですでに明らかになった。
 ご記憶の方も多いと思うが、かつて知床では、国有林を舞台にした空前の自然保護運動が盛り上がった。86年、北見営林支局は知床国立公園内の国有林から数百本にのぼる広葉樹の抜き伐りを計画した。これに反対する全国の自然保護派と1年余りにわたる対峙の末、支局は反対派の抵抗を威嚇するために機動隊まで導入して抜き伐りを強行した(詳しくは拙著『知床スキャンダル』を参照されたい)。今回の売店問題は、その経過、強行に至った「官」の動機とも国有林伐採のときと酷似している。強行に至った「官」の動機とは、いったい何なのだろうか? それは沸騰する行政改革論議に怯える林野官僚のなりふり構わぬ生き残り作戦だった。さらに町益優先で決して民意の期待に応えない斜里町という自治体の体質が、最悪の形で融合したのである。

■「馬鹿」「単純」「旧態依然」

 次の文面を見ていただきたい。斜里町の経済部長・甍岡豊が、売店建設の有無を問うアンケートを実施した小川佳彦に送りつけた“脅迫状”である。
 ――さて、オシンコシンの問題に関して種々動いていらっしゃるようですが、相変わらず「様々な観点の上に立って」行動することが嫌いなようでございまして、初めに「ご自分の答ありき」から出発する手法は少しも進歩していないという感を受けます。アンケート調査の「商売にどのような影響が!」という設問は、誰しも商売仇が現れたら「影響がある」というのは当たり前の話であり、少しもおかしくありません。〈中略〉アンケートは、ただ集めた結果を公表するだけなら「馬鹿」でも出来ます。設問そのものも、何を意図しているのか余りに単純すぎて理解に苦しみます――
 信じられないかもしれないが、これは町の経済部長が町民に送った手紙の原文である。町民を「馬鹿」「単純」呼ばわりし、おまけに慇懃無礼な言葉使いで完全に相手を見下している。もう少し先を読んでみよう。
 ――隣に出来る店を排除することは自由経済の原則に反するものである。〈中略〉林野弘済会も1個の経済体であり、特別視することは体質的な誤りであることを認識すべきである。(斜里市街地に置いても、かつて町外資本の大店舗の進出計画を町内商店街が阻止した冷があるが)反対の結果、何が変わったのか! 誰もが旧態依然の経営にあぐらをかいている内に競争という原理を忘れ、商店街の発展にブレーキをかけてきたのが実態ではなかったか!-
 これほど地元経済界を敵対視している経済部長も珍しいのではないか。だいたい経済部長である甍岡自身が身を粉にして取り組まなければならない地域振興を、「旧態依然」とした民間のせいでできないなどと威張っているその神経が理解できない。

■疑惑まみれの町長

 こんな暴言を許している(これまでのところ小川への謝罪や弁解はいっさいない)斜里町の町長というのがまたユニークな人である。午来昌斜里町長は、87年に現職を接戦の末やぶって初当選した。初当選の年は前述した伐採問題の渦中にあり、地元の自然保護団体の元会長という肩書きを持つ午来の当選は、「グリーン派町長の誕生」ともてはやされたものだった。しかし、その虚飾が剥げるのにはそれほどの時間を要しなかった。
 当選したその年に、彼は国立公園内に所有していた町有地の森を伐採してコンクリートの建物を建てた。この建物は知床自然センターといい、ダイナビジョンという巨大な映画館を備えている。映像設備のハードとソフトは大手教材会社「学習研究社」のものだが、これが疑惑まみれの代物なのである。同センターの計画書には着工以前から学習研究社のパンフレットがそのまま引用されており、落札はいかにも「予定通り」出会った。おまけに入札を目前にひかえた時期に、午来町長は学習研究社の元社員とドイツ旅行まで楽しんでいる。
 90年、午来はセンターに隣接する町有地を観光客のための駐車場にすることを認め、数千平方メートルの森を皆伐採した。最近になって、更に観光客を誘致するために駐車場を拡張したいとしている。斜里町はかつて、環境保護のために国立公園内へのマイカー乗り入れ規制を完全に忘れ、森林を伐りまくって車の乗り入れを助長している。もう一言加えておきたい。駐車場が設置された場所は、全国から寄金を募って植林し「森を永久に保全する」と斜里町が約束している「しれとこ百平方メートル運動」の対象エリア内なのである(この運動の欺瞞性については、いずれ詳しくお伝えしたい)。
 斜里町という自治体は、約束や前言を簡単に翻して、町益を優先させる自治体であることがおわかりいただけたと思う。そういう自治体が、オシンコシンの売店に関してだけは、町民や観光客の利益を考えて国有林の返還に応じたと考えるのは甘過ぎる。
 ウトロ部会が町長宛に提出した要望書の中に、「営林署との関係を悪くしたくない」という文言があったことを思い出してほしい。実は今回斜里町が売店計画に同意したのには思惑がある。国道334号線沿線には利用可能な営林署所有の国有林がまだ幾つもある。町としては、将来その国有林を利用しての開発計画も視野にあり、ここで営林当局に貸しをつくっておく方が得策だと考えたのだ。
 もとより営林当局がこの時期にオシンコシンに売店を出店するのにも思惑がある。それが読めなかったのか、知っていて荷担したのか分からないが、「営林署との関係を悪くしたくない」という町益を優先させて、後述するような、国民的な期待である行政改革に反する結果をもたらした斜里町の責任は極めて重い、と私は思っている。

■林野庁はもういらない

 96年11月7日、売店計画の白紙撤回を求めて北見営林支局に出向いた桂田を、広報室長の千葉美辰は「応対できない」の一言であっさりと追い払った。ウトロから支局のある北見市までは車で往復5時間の距離である。意見があるから話し合おうとやってきた住民を、こんなに邪険にあつかう役所がほかにあるだろうか。桂田はめげずに4日後に出直した。今度は森林活用課課長の高橋亜夫が出てきたのだが、「話はわかった」以外の何ものでもない。7日に会った弘済会北見支部長の山本一之はもっとひどかった。桂田が参考のために弘済会の資料が欲しいというと、「何もない、何もない!」といって席を蹴るようにして立ち去ったという。後日、桂田は東京で弘済会発行の立派なパンフレット(コピー)を手にするのだが、こんな話を聞くと、あの忌まわしい薬害エイズ事件のときの厚生省の対応を思い出す。
 さて、ないはずだった弘済会発行のパンフレットを見ていると様々なことが気にかかる。その一つが弘済会が運営する売店での取り扱い品目である。新聞報道によると、オシンコシン売店で扱う商品は「民芸品・海産物・たばこ・フィルム・イモダンゴ」などとなっている。弘済会のパンフレットには、たしかに林業傭薬剤や苗木などを「物品販売事業」として取り扱うことが明記されている。しかし、民間で十分対処できるものを、なぜわざわざ行政の外郭団体が売り出す必要があるのだろうか。
 もしオシンコシンに弘済会の売店が出店したら、甍岡がいう「旧態依然とした」ウトロの民間業者の売り上げに影響が出るのは必至だろう。これを「ひとつの経済体(経営体の誤り)」と既成業者の「競争原理」と認識するのは無知でしかない。この問題の論点は、民間でできるものを「官がやろうとしている、それによって民間に悪影響が出るおそれがあるということにある。これはすなわち、現首相が「火だるまになってやる」と公約している行政改革に反することなのだ。
 国有林野事業特別会計は、95年度末で約3兆4,000億円の累積赤字を抱えている。林政審議会答申による数次にわたる改善策を実行してきたが、成果が上がったのは現業職員が激減したことぐらいで、それ以外の問題は解決の見通しすらたっていない。96年11月5日の朝日新聞社説には、とうとう「国有林を守り、活用するために、特別会計はやめて一般会計に移し、林野庁は解体したらどうだろうか」という提言が掲載された。林野庁解体が大新聞の社説で論評されたのは初めてではないか? この社説を少し補足すると、国有林野事業には66年からすでに多額の一般財源が投入されている。95年度だけで、治山治水工事費やマツクイムシ防除費などの名目で460億円が支出されている。また「第2の予算」と呼ばれる財政投融資資金からはこれをはるかに上回る額(一説には10兆円!)がつぎ込まれている。事業の立て直しに見込みがない以上、財投資金のほとんどはいずれ不良債権化するだろう。
 96年11月16日の毎日新聞によると、林野庁は森林の荒廃状況の把握や堰堤工事の必要性などを調査するコンサルタント業務のおよそ8割を(総額約4億8,000万円)、身内の財団「林業土木コンサルタンツ」と「林業土木施策研究所」に独占的に受注させていた。あまりの偏向発注に、行政監察局から勧告を受けていたにもかかわらず改善されなかった。公費で事実上の赤字補填をしてもらいながら、関連する団体や会社には優先して仕事を発注してその運営を助けるとは、一体どういう了見だろう。二つの財団の理事は全員が林野庁OBである。林野庁は天下り先を確保するために、行政監察局の勧告をあえて無視してでも偏向発注し続けなければならなかったのだ。こんな連中に10兆円もつぎ込んだあげく、これからまた一般予算で面倒見てやらなければならないのだから頭にくる。
 オシンコシンの売店もこれとまったく同じ構図である。
 林野弘済会の理事は100%林野庁からの天下りである。これは支部ベースでも変わりない。林野庁自体の存続が危ぶまれるなかで、外郭や関係団体の存在など風前の灯だ。何でもいい、自分
 達の存在をアピールしなければ……。北見支部はすでに北見市内と美幌峠、小清水原生花園に直営の売店を持っている。オシンコシンはおそらくそのいずれをも上回る収益ゾーンになる。近い将来林野弘済会の存続問題が俎上にのぼったとき、「ほら、こんなに売れてますよ。国民に指示されてるんですよ。」と主張するにはかっこうのタマである。また、万が一行革の対象になって林野庁がなくなっても、売店の権益だけは何らかの形で残せるかもしれない―。林野官僚の天下り先はキープできるわけだ。
 この推測を裏付ける発言を、「弘済会の資料など何もない」と強弁した山本北見支部長がしている。斜里町の阿部祐太郎経済部長(当時)が観光協会」の意向を受けて弘済会に出向いたときのことだ。「なぜ売店をつくりたいのか」という問いに、山本ははっきりと「営林署職員の過剰人員の受け入れのため」と答えている(96年10月17日観光協会ウトロ部会役員会の報告書より)。
 官益優先、民意無視。いまもっとも国民から批判を浴びている「お役所天国」温床が、今回の売店問題なのである。

■聞く耳もたず

 売店工事がはじまった96年11月3日から10日にかけて、桂田はすぐ横の滝見公園で観光客を対象に建設反対の署名を募った。反応はすぶるよく、実質3日間で700人の署名が集まった。バスガイドが車内で売店問題を説明し、バス客全員が署名していった例もあったという。
 滝の前をはしる国道334号線は、西がカーブのため陰になり、東はすぐにトンネルと非常に視界が悪い。写真を見ても分るように、売店が滝につながる敷地を占領しているため、観光客はごく狭い歩道を通るか、車道にはみだして滝に向かうしかない。売店反対派が特に心配しているのは、実はこのような人の流れの変化による交通事故の多発である。その点について知床の暴言男・甍岡はこう反論している。
「現状において問題はあるのは、滝を見物する観光客ではなく海側の風景を見るために国道を横断する人達である。建物が建つことによって危険性が増すというのは論外であり、滝を見物する観光客ではなく海側の風景を見るために国道を横断する人である。建物が建つことによって危険性が増すというのは論外であり、滝を見物するためにわざわざ国道に出ていく者はいないわけであり、(売店建設との)関連生は考えられない」
 この男には、売店ができることによって人と車の滞留時間が長くなり、路上駐車や車道にでる人が確実に増えるという「関連生」が想像できない。だいたい滝見客と海見客を分けて考えるのがおかしい。オシンコシンを訪れるすべての人たちの安全を考えるのが地元自治体の務めだろう。
 96年12月19日、桂田は「営林支局長が林野弘済会に国有林の使用を許可したのは違法の疑いがある」として、行政不服審査法にもとずく審査請求を農林大臣宛に提出した。桂田は前出の北見営林支局の高橋に書面を手渡したのだが、席上また一悶着あり、受付印が欲しいという桂田に対して、高橋は頑としてそれを拒んだ。これではいったい誰の責任で大臣に届けられるのか分からない。桂田は念のため配達証明便で林野庁本庁に書面を郵送したが、12月19日、桂田「営林支部長が林野弘済会に国有林の使用を許可したのは違法の疑いがある」として、行政不服審査法にもとずく審査請求を農林大臣宛に提出した。桂田は前出の北見営林支局の高橋に書面を手渡したのが、席上また一悶着あり、受付印が欲しいという桂田に対して、高橋は頑としてそれを拒んだ。これではいったい誰の責任で大臣に届けられるのか分からない。桂田は念のため配達証明便で林野庁本庁に書面を郵送したが、12月19日に本庁の二村信三業務第2課課長補佐から「確かに接受しました」という連絡があるまで不信感を拭えなかった。
 林野弘済会の売店建設計画では、96年度は基礎工事だけをおこない、雪どけを待って、97年春から上物の建築を始めるという。前述のように、売店の建設は監査請求の回答がでる前に着工された。だから今度も、たとえ不服審査の答えがでていなくても、粛々として工事は再開されるだろう。
 いったい国民の権利とは何なのだろうか?要望書、交渉、署名、新聞への投書、法律的手続き……。これだけの抗議をしても、明らかに民意―行政改革に反する100平方メートル足らずの売店の建築すら止められない。行政の横暴をウォッチするシステムがあっても、それはただのお飾りに過ぎないのか?
 オシンコシンの滝の前に売店を設置する必要はまったくない。なぜなら、かつてここを訪れる人の中から、「売店がなくて困る」という声があがったことが一度もないからである(少なくともそういう事実があったことを営林当局も明らかにしていない)。欲しいのは林野官僚ひとりだけ。天下り先を確保するため」、ただそれだけのために売店は建設されている。

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税金ドロボウ列伝・官僚も政治家もアホが多すぎる

■月刊『記録』97年4月号掲載記事

■消費税5%&減税打ち切り記念特集「税金泥棒列伝」

■【泥棒1】首都高速道路公団・農林水産省・国税庁
「官僚も政治家もアホが過ぎる」

何の権威も帯びずに官僚と戦い続ける2人が初対談。
快気炎は誰にも止められない!

天下の農民 川崎磯信(ヤミ米&どぶろく)
                  VS
中小企業のオヤジ 和合秀典(首都高500円通行)

(■川崎磯信……かわさき・いそのぶ……1936年、富山県婦中町に生まれる。中学卒業後、農業に従事。82年、減反政策を拒否したため、米の買い上げを拒まれ、やむなく米の販売を始める)

(■わごう・ひでのり……1941年、東京生まれ。都内の高校を卒業後、1971年より金属加工業「和合ダイカスト(現ユニティー)」代表取締役。高速道路500円通行の市民団体「フリーウエイクラブ」会長)

     *     *     *

■官僚はヤクザと同レベル

●和合 首都高速の500円通行の原動力となったのは、役人と警官が昔から大嫌いだったことですね。ふざけるなと思っていましたから。川崎さんは、いかがですか?

●川崎 私の場合は、役人をからかって追いつめたいという変な性格が災いしたのでしょう(笑)。役人が東といえば、西という性格ですから。普通、地方の村民は役人が東といえば西から戻って来ますから。1982年、政府の減反政策を拒否してから、役人との闘いが一生の仕事になりました。

●和合 川崎さんの家が「ガサ入れ」されている様子をテレビニュースで見ていた時、川崎さんの家族から物を投げつけられても役人は無表情に自分の仕事をこなしていましたね。善し悪しの判断は上に任せて、自分はロボットのように決められたことだけやる。運ぶとなったらヤリが降っても運ぶ。これこそ役人の体質です。

●川崎 そうです。昨年10月5日に、国税庁から14人ほどガサ入れに来た時、小競り合いになって私が転んでしまいまして、『どうするんだ。傷害罪だぞ』と役人に言ったら、『私はその係ではありません』と答えるのです。彼らは自分の仕事だけにしか、興味がありません。

●和合 薬害エイズ問題だってそうじゃないですか。毎日、患者が死んでいくのに、事実を隠し続けるわけでしょ。行政の仕組みとしての欠陥以前に、人間性の問題です。自分達の仕事をして、自分の縄張りを守ることができれば、隣で人が死んでも気にしないという態度ですね。

●川崎 欠陥人間でないと、役人は務まりません。役所に入った瞬間から、そういう人間に育てようとしています。
和合 以前、首都高速の入口で、私の車の前に大の字になった公団の職員が現れました。『どうしても通るなら、オレを殺して通れ』というわけです。まるでヤクザの世界でしょ。
 その後、首都高速道路公団に乗り込んで、『お前らふざけるな。大の字に寝た職員がいたけれども、こんなこと指示しているのか。ヤクザか、お前らは』と、怒ったわけです。そうしたら一部始終を聞いた公団の幹部からは、驚くべき答が返ってきましたよ。『和合さん、なるほどそんな骨のある奴が1人いましたか』と賛美するんです。『私どもの監督不行届です。どうもすみません。以後気をつけますから』という答が返ってくると思っていたのですが。
 その後、建設省をはじめさまざまな官庁に出向いて、この話をして意見を求めて来ましたが、答はすべて同じ。『たいした男だ』と、皆が賛美します。
 この事件があってから、役人の住む世界が私達とは少し違うなと思うようになりました。
■役人の脅しに屈するな

●川崎 結局、役人は自分の組織を守るために動いていますよ。

●和合 そう、だからこそ役人は、昨日と今日は同じように維持しようと努力するのです。時代にそぐわなくなった酒税法を後生大事に守っていたのは、その典型でしょう。

●川崎 現在でも、酒税法によって2100人ほどの役人が養われています。さらに国税庁からサッポロやキリンなど大手酒造メーカーに天下り、のうのうと暮らしている連中もかなりいます。つまり酒税法は官業の癒着そのものを示しているのです。この癒着を守るため、がっちりと組織がつくられていますから簡単には崩れないでしょう。

●和合 役人は組織を守るために、小さな動きを潰そうしますから。500円通行を始めた当初、130人ぐらいの賛同者のほとんどは潰されてしまいました。いまは10人ぐらいですよ。
 首都公団の役人が3人1組で自宅に行くわけです。100円集金に来ましたといってね。『お宅のお子さん、あるいはお宅のご主人は100円払ってません』と、5・6時間ねばるわけです。それでも払わなければ、会社に集金に行きます。それを皆やられて、『和合さん、申し訳ないけれど1回しか500円通行できなかった』と言ってきました。

●川崎 逆に役人の脅しの部分を怖がらなければ、それが彼らへの脅しになるんです。例えば、刑事罰も怖くないと言い切れば逮捕できないんですよ。
 裁判でもそうです。利口ぶる必要は全くありません。馬鹿になりきったほうがいい。素朴な質問をしながら法律の欠陥を指摘していくと、最初反発していた役人も次第に従順になります。問題は、従順になってからどうするのかです。さらに突っ込んでいくか、それとも役人と妥協するか。
 例えば私の作った米は、どの品評会に出しても一等です。でも、それが逆にくすぐったいというか、性に合わんのですよ。一方、役人から言わせると、あれだけ目をかけている川崎がどうして逆らうのかということになります。

●和合 私は、役人に権力はないと思っています。税金で飯を喰っている奴がどうして権力を持っているですか。でも、国民は役人に従うんですよね。

●川崎 日本人は、上の言うことは間違いないという固定観念があります。不審に思いません。そういう意識を役人はうまく利用しています。

■役人を崇拝していたい日本人の習性

●和合 私は、日本人がここまで従順だとは思っていませんでした。当初、500円通行は半年で片がつくと思っていましたから。
 2年8ヶ月ほどの間に2回の値上げが行われて、400円から600円になったのを思えていますか? 民間企業の常識では50%の値上げなんて考えられません。その時、私は絶対に払わないから矢でも鉄砲でも持ってこいと決心しました。国民も警察は怖いけれど、私が法律の欠陥を指摘して堂々と500円通行すれば、追従する人がたくさん出てくると思ったわけです。でも、追従した人の多くは潰されてしまいましたね。

●川崎 国民も役人には頭にきているけれども、徹底的に叩きのめして改革するのは嫌なのでしょう。法律に従順だから、罪悪感を感じるんです。ヤミ米を売ることや、首都高速を500円で通行することが悪いと思ってしまいます。けれども本心で悪いこととも思っていない。悪いと言われるのが嫌なのでしょう。
 私の闘いの中で一番大変だったのは村でした。国から減反やれといわれて反旗をひるがえした時は、一番村から叩かれました。村八分というか、全部敵。そのころは大変でした。今になって手のひら返したように「銅像立てる」なんて言っています(笑)。

●和合 確かに500円通行を始めた時は、みんな味方になってくれと思っていて、これは世の中喝采するな、若者は後に続くなと、私も思っていましたから。

●川崎 理論では皆賛成している。ところが、いざ実行に移すと皆反対します。ある程度以上に役人を叩こうとすると、『もう止めたほうがいい』という声が強くなります。ムシロ旗を立てて役人の前までは行きますが、なかに押し入って直談判する人はいません。

●和合 それが農耕民族である日本人の特徴です。罰より村八分が怖いのでしょう。

●川崎 最初は本当にひどかったです。村からは犯罪者のように見られていましたから。

●和合 民衆が正義を受け入れるとは限りませんからね。

●川崎 結局日本人は、お上も下々も好きなんです。役人を崇拝していたい習性があるんですよ。

●和合 それは自分が楽だからでしょうね。

●川崎 役人を叩きつぶすことに対する危機感といったものがあります。本当は、絶対に信頼できるものを求めているのでしょうけれども、そうもいかないから役人を信じているのです。役人に不信を持ったいても、役人以外信じる人がいない状況ですから。

●和合 そんな日本人の性格を、役人はさらに利用します。強いところには何もいわず、弱いところをどんどん攻めます。お金でも何でも、取れるところから取ろうとします。役人は、『500円通行も和合1人ならいい。それが広まったらかなわない』といいました。
■あきれた政治家の無能ぶり

●川崎 国民から不信感を抱かれても、どうにか今のシステムが機能しているから、役人も安泰でいられるんです。だから役人の世界を変えるためには、100円でもいいから支払いを拒否することです。
 ヤミ米を売っている私の「川崎商店」も株式会社ですが、税金の申告は拒否しています。ところが国税局は何もいってきません。

●和合 でも、役人の人事権を持っているのは政治家でしょ。本当に悪いのは、政治家ではないですか?
 そう考えているため、ここ何年かは公団のバカを相手にしてもしょうがないと思い、相手にしてしていませんでした。そのかわり、政治家を引きずり出そうと、ガンガンやりましたよ。だいたい20~30回電話やファクスをかければ、何かしら反応があります。本当に世直しをしようとするなら、官僚を叩いてもしょうがない、政治家にならなければだめだと思いますよ。もっとも今さら頭を下げて、政治家になろうとは思わないけれども。

●川崎 政治家はアホですからね。評価の対象外でしょう。そのうえ政治家は、族議員としての力関係によって、見方になったり、敵になったりしますから。酒税法なんて竹下登が生きている限り法改正はしないと噂されています。現在、現役の220人もの国会議員から酒税法改正の署名はとっているらしいのですが、族議員がストップをかけています。

●和合 結局、法律を決める基準がどっかにいってしまっています。法律は国民のためにあるわけです。ところが族議員のためとか、決定の基準が歪んでいるのです。その歪みをまず正さなければダメですね。それは政治家しかできないと思いますが。

●川崎 でもあの連中では、正常な議論はできないのです。それに実際には、今の政治家に立法能力はありません。だから役人の砦はなかなか崩れないと思います。

●和合 たしかに、元建設大臣の野坂浩賢が『首都高速の値上げはダメだ』と官僚に一言言ったら、『ご説明申し上げます』と1日20人ぐらい官僚が訪れて、山ほどの資料を使って説明したそうですから。それでみんなやられてしまうと、野坂氏の秘書から聞きました。
 そして議員の頭にあるのは、次の選挙をどうしようということだけでしょう。今後日本をどうしていくのかなんて、全く念頭にないわけです。

■最後の敵は日本人そのもの

●川崎 日本テレビの対談で、当時、農林水産大臣だった畑英次郎と話をしたことがありますが、彼は『悪法でも法は法ですから』とバカなことをいいましたよ。

●和合 それはひどい。自分は無能ですといっているのと同じですね。なんといっても国会議員は、立法機関である国会に出席するのが仕事ですからね。

●川崎 そんな政治家の無能ぶりを役人が利用しています。役人がいなければ、政治家は務まらないのが現状です。

●和合 そういう意味では、役人もかわいそうといえば、かわいそうなんだとも思いますね。親分がアホだから、右往左往しながらめった打ちにあっているわけでしょ。
 行政改革でも大臣が指示を出すべきですよ。官僚が自分のリストラを自分できるわけないでしょう。

●川崎 それはそうですね。官官接待が問題になっていますが、それを取り締まる法律がありませんからね。自分を取り締まる法律を、役人が自分で作れるわけないのに。

●和合 菅直人がエイズ問題を大きく前進させたように、今後は政治家がどんどん変わっていくと信じたいし、変わらなきゃだめでしょう。川崎さんが大臣になったら日本も変わるでしょうね(笑)。

●川崎 町長レベルならば、本当にがんばれば私も当選するかもしれません。でも、変わらないでしょう。役人に追従しなければ、町長なんてできません。中に入ったら、崩すことはできないでしょう。

●和合 それでは、どうすれば日本は変わりますかね。

●川崎 明治維新と同じでね。関東大震災か食料問題で、せっぱ詰まって地獄をみないと日本は変わらないと思います。革命が必要でしょう。今度の革命はすごいと思う。江戸時代から続いて戦後も持っている日本のシステムが崩れますからね。
 私は号令的な内閣が必要だと思いますよ。日本人はそういうものに弱いですからね。だれかに日本人は命令されないとダメですよ。中心がないと日本は不安定です。天皇陛下を中心に立てたいですね。あれを遊ばせとく手はないでしょう。

●和合 そうですか。私は何とかなると思っているんですよ。時代は変わってきていますから。今は夜明け前の暗闇みたいなものです。そのうち若者が500円で、首都高速を通行するようになるはずです。

●川崎 確かに国民が変われば、日本は変わるでしょうね。変な話ですが、役人や検事に話した方が話がわかってもらえることが多い。日本の末期的な状況の責任は国民にあるのです。

●和合 例え金魚鉢の中に暮らしいたとしても、人間の脳味噌は自由ですから、外の世界を考えてみるように心がけてほしい。当たり前になっていることこそが変だと、国民が気づかなければいけませんよ。

●川崎 役人の責任を追及すると、その責任は国民に返ってきますね。最後の敵は、身の回りにいる人だ。そこがやりきれないですね。

●和合 いや、2000年までには日本も変わりますよ。

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患者よ、「がん治療」を選択せよ!

■月刊『記録』97年1月号掲載記事

『患者よ、がんと闘うな』の著書で医学界に衝撃を与えた近藤誠医師と、“エホバの証人”の無輸血手術を含め、約6000件の手術を手がけてきた日本屈指の外科医大鐘稔彦医師が日本のがん治療を一刀両断する。本当に必要ながん治療とは何か。患者はがんをどう捉えればいいのか、熱い論争は日本の医学界の現状に大きな疑問を投げかける。

       *       *       * 

■早期がんで全摘?

●大鐘 近藤さんが『患者よ、がんと闘うな』を書いたことにより、手術や抗がん剤の投与を多くの患者が拒否し始めたとも報道されています。
 私はこのような傾向は非常に良いことだと思っています。外科医とすれば、切らなくてもいいものを切ってきたような罪悪感にとらわれる本かもしれませんがね。
 近藤さんの理論がまぎれもない事実としたらどえらいことで、我々外科医は発想の転換を強いられるでしょう。
 半年前に、私のいとこが早期がんと診断されたと言って、相談に来たんですよ。場所が悪いから全摘(※ここでは胃を全部切り取ること)と言われたんです。胃の上部でね。早期がんで全摘はきついだろうと思いまして、彼の地元のがんセンターの内科を紹介しました。外科に行ったらすぐに切られるでしょうから。
 近所の医者に内視鏡で診てもらったときは、グループⅤ(※生検で得られる病理組織診断の分類法で、Ⅰは正常、Ⅱはやや異常あり、Ⅲはかなり異型が強い、Ⅳは悪性に近い、Ⅴは完全に悪性)だからすぐ外科で切ってもらえと言われたそうですが、がんセンターで再検したところ、グループⅣだったそうで、外科にも相談を持ちかけたらしいんですが、すぐに手術するのではなく、しばらく様子をみようということになったんです。
 これには驚きました。がんセンターも変ったなあ、と思いましてね。最近電話したら、まだ切っていないと言っていました。半年経ちます。つい最近の検査で、やっとグループⅤになったと言っていましたね。とはいっても5ミリぐらいの大きさですから、内視鏡で切れるものならそうしましょう、ということになったようです。ただし、深達度を調べてからということらしいんで、エコーで調べてから、ということらしいです。
 私からみると、がんセンターが早期がんとはいえ半年間も経過をみるのは画期的なことですよね。

●近藤 それで患者の容態は、たいして変わらなかったでしょ?

●大鐘 ええ、変わってないようです。

●近藤 私も何人かのがん患者を、手術しないで様子をみています。ほかの病院では、内視鏡的な治療もできず、患部をふくめた臓器の切除だと言われた患者なんですが、容態は変わらないんですよ。

●大鐘 先生の理論が正しいとすれば、容態はずっと変わらないわけですよね。

●近藤 まあ、ちょっとは変わってもいいんですけれども(笑)。なかには、これからどんどん大きくなるものがたまたま紛れているということもありますからね。ただ原則的に、検診でみつかるものは、どんどん大きくならないと考えています。

●大鐘 ただし、その理論を根拠づける長期にわたるフォロースタディーはないわけですよね。
●近藤 ええ、まあ。しかし、検診で見落としたケースを集めて、人とか人単位で集計しているんですよ。そのなかで比較的かたよりの少ないと思われる結果をみると、がんはむしろ大きくなっていないんです。これはケースの集め方が影響すると思います。あちこちの病院から、医者の印象に残ったものを取り上げるというような調査は信用できません。医者の印象に残ったような例は、ほとんど進行がんなんですよ。そうなると、早期がんは進行がんになる、というような調査結果を生んでしまいます。現に、現在はそのように言われているわけですからね。
 一方で、ひとつの施設内で集計したものなど、偏りの少ない調査結果では、がんが大きくならないケースが多いようです。
大鐘 ただ一般には、早期がんでも%の割でリンパ節転移があると言われています。そのため外科医によっては、D2(※D1~D4は、リンパ節転移の程度を表す記号で、Ⅰ群の付属リンパ節郭清をする手術がD1、段々深部、遠隔に行くにつれてD2、D3、D4となる)を原則、へたするとD3までしている医者もいます。近藤さんが言われるように、D1とD2で治療効果に差がないならば、これはえらいことです。えらいことというのは、近藤さんの理論どおりならD1の手術で済みますから、手術の安全性も上がり、外科医として非常に楽ちんですからね(笑)。

●近藤 リンパ節転移の問題ですが、胃がんのリンパ節切除は、乳がんからの類推からきているんです。リンパ節を大きく切除すれば乳がんの治癒率は高くなるとハルステッドが言い、その学説ががん手術の先駆けとなったわけです。それが胃がんなどに応用されたわけです。
 ところが本家本元の乳がんでは、リンパ節切除の延命効果は否定されています。どうして胃がんでは、このような方法が残っているのでしょうか。まず、ここに矛盾があると思いますね。

●大鐘 近藤さんは、リンパ節転移があっても死なないが、血行性のものは死んでしまうとお考えですか。

●近藤 原則的にはね。胃がんでは、ほとんど例外がないと思います。大腸がんでは血行性転移でも治るケースがあります。臓器ごとに考えなればいけないケースもありますが、一般論から言えば、血行性転移があればだめだけれども、リンパ節転移は少し特殊な転移だと考えています。胃でも乳房でも、リンパ節転移があっても治る人はたくさんいます。乳がんの場合などは、ハルステッド手術(※乳癌で乳房のみか、大小胸筋までゴッソリ取り除く手術)をしてもしなくても治る率が同じという調査結果が出ています。つまりリンパ節転移は、治療してもしなくても同じだと思われます。その論理を胃に当てはめれば、早期がんのリンパ節転移には手をつけなくとも良いのではないかという方向に、理論は向くと思うんですよ。
 リンパ節転移というのは、いままでは全身転移への発進基地だという考え方がありました。宇宙人が侵略してくる前に基地を叩こうという話ですね。でも、それは一面的な見方かもしれません。リンパ節に転移があるために、体の免疫力が高まっている、といった考え方もできるわけです。
 ですから、リンパ節にしても滅多やたらと切っていいものかと考えてしまいますよね。

●大鐘 リンパ節は基地ではないと?

●近藤 胃がんでは、まだそこまで断定はできないまでも、乳がんでは、基地ではないという考え方に傾きます。

●大鐘 ただしリンパ節は転移の経路になりますよね。だから乳がんでも、リンパ節に大きな塊があるのは放っておけないという考えになると思うんですが……。

●近藤 そこらへんは場合を分けなければいけないと思っています。はっきり、がっちりとあるリンパ節を治療するな、と言ってはいません。
 乳がんでも腋の下のリンパ節が腫れているようなものは後で悪さをする可能性がありますから、取るように指示しています。全部が悪さするかは別問題ですがね。
 ただ日本の現状は、リンパ節に何もなくとも、微細な転移はあるかもしれないにしても、リンパ節を根こそぎ取ってしまうでしょ。そこに疑問を持っているんです。
 少し話が違うかもしれませんが、乳がんではリンパ節が腫れていないものは、腋の下を切除せずに、乳房温存療法で乳房とともに放射線を腋の下に当てるようにします。再発率はハルステッド手術とまったく変わらないですね。理論的には放射線をかけなくとも生存率は変わらないですよ。ただし、再発率は上がりますが。これは外国で行われたくじ引き試験(※被害者をくじ引きで選び、治療を受ける側と受けない)で、一致してみられる結果です。

●大鐘 乳がんにおける温存療法というのは、確かに画期的だったと思いますね。これは近藤さんの啓蒙の然らしめるところかもしれません。私も数年前から、乳がんに対しては乳房切除のみを行い、背中から筋皮弁をもってきて一期的に乳房再手術を行っていますが、大変喜ばれますよね。

●近藤 そうです。そういった目で、お腹の中の手術も再度見直すと、ずいぶん違うのではないかなと思います。

●大鐘 確かに乳がんでは、切除する量は非常に小さくなってきていますからね。
手術が抵抗力を下げる

●近藤 イタリアのくじ引きの試験では、ハルステッド手術と乳房温存療法を比べて、転移がなかった人は生存率が同じでした。腋の下のリンパ節転移があった人については、ハルステッド手術の方が生存率が%弱悪い結果が出ています。それは従来の理論では説明がつかない。同じならともかくね。
 結局、再発が多かったのが死亡理由になっていますが、なぜ多いのかといえば、ハルステッド手術みたいな大きな手術をすると、抵抗力が下がり、局所再発や全身転移などが出てくると考えられます。そういう可能性を考えない限り、この結果は説明がつきにくいでしょう。がんの性質は、メスを入れても変わりませんのでね。

●大鐘 ハルステッド手術自体は、胸筋を余分に取るだけで、お腹の手術と違って、そんなに浸襲がきついとも思いませんが。
●近藤 そうです。だからこそ腹の手術は、もっと問題があると考えられます。

●大鐘 保険の点数を見ても、ハルステッド手術の方が、胸筋温存に比べて点数が低いんですよね。それは温存の方が技術的に難しいということを示しています。残すほうが難しいんですよ。

●近藤 そうですね。確かにハルステッド手術の方が簡単ではありますが、術後の経過を見ていると、局所再発が多いですね。せっかくハルステッド手術をしたのに、ポツポツとがんが出てくる例が多かった。それは、長い目でみると3割ぐらいにみられます。
 原発病巣は手術で取ってしまっているわけですから、血行性の再発ということでしょう。結局、根こそぎ患部を取ったために、組織の防禦機構にダメージを与え、再発しやすくなっているのではないでしょうか。

●大鐘 ところで、胃の話に戻りますが、早期がんで、Ⅱ群まで達しているがんは、がんもどきではないといえますか。それとも、そのようながんもどきもあるのか……。

●近藤 がんもどきは定義の問題です。一番大切なのは、そのがんが命取りになるのか、ならないのかということです。命取りに直結するのは、例えば血行性転移であり、腹膜転移であって、リンパ性転移ではありません。放っておいても、そのまま大きくならない人もいます。そういう例は乳がんで報告されています。また、転移があっても取ってしまえば問題ないと考えられます。
 取れば治るということは胃がんの肝転移なんかでは考えられないでしょう。ひとつとっても、他にいくらでも出てきますからね。
 ですから、がんの定義をしなおして、治るか治らないかの観点から、Ⅱ群のリンパ節転移があっても、血行性転移がなければがんもどき、としたわけです。つまりリンパ節転移があるがんもどきというのは、僕の定義にはあります。
大鐘 最近は、D4まで手術が行なわれているんですよ。それで生存率が上がったという統計結果を学会でも出していました。私もD3まではやっていたんですが、CEA(※がん胎児性抗原)が2年ぐらいして徐々に上がってきて、16番(※胃がん規約によるリンパ節の番号で、大動脈傍リンパ節を指す)がどうも大きくなってきているものがありましてね。そうなると、かねての私の疑問は少し解けたかな、と感じ、やはり番まで取らなければいけないのかと、思ったんですがね。まあ、先生にしてみたらとんでもないことなわけですよね。(笑)

●近藤 私は、もう少し確かめてからやってほしいと思いますね。結局、周到なくじ引き試験なしにある手術をして、ある人が長生きをしたからといって、手術のために長生きしたとは限らないですよね。同じようなグループ、同じような患者さんを集めて、それを2つに分けて調査するという方法でないとね。

●大鐘 でも、そのような調査結果はないでしょ?

●近藤 ないです。今までの成績で比べると、非常に大きな差が出て、くじ引き試験だとあまり変わらないということはよくあるんですよ。例えば肝臓がんのエンボライゼーション(※動脈塞栓術。がんの栄養血管にスポンゼルなどの塞栓物質をつめてその血行を断ち、がんの壊死を謀る)でも、他の病院や今までの成績と比べてみると非常に成績が上がったという報告が出ていますが、一方でフランスでのくじ引き試験では、ほとんど結果が変わらなかった。

●大鐘 TAE(※エンボライゼーションと同義)に関しては、私は劇的によくなった経験があるんですよ。

●近藤 確かに、1つ1つみていくと良くなる例もあります。けれども全体としては副作用の方が大きいですよね。それで命を縮めている人もいるでしょう。

●大鐘 でも効く人もいますよね。

●近藤 もちろん。

●大鐘 私の経験では、1本の太いフィーダー(※栄養動脈)に養われているがんにはTAEが劇的に効くという印象を持っています。

●近藤 いずれにしても、そういう療法をやっていくうちに、非常によく効いた患者さんや、長生きした患者さんに当たります。しかし、事前の判断として患者全員に当てはめるには、統計的な調査が必要だと思うんですよ。

●大鐘 そうかもしれませんが、経験的には非常に太いフィーダーがある場合はやってみる価値は大きい、と思うんですよ。

●近藤 確かに大鐘さんはそういう経験をなさっているわけです。それでも人づつ治療をする群としない群とに患者さんを分けて治療の効果をみた場合には、確実に同じ答えがでるとはいえないと思うんですよ。確かに太いフィーダーがない人よりは、ある人の方が効くかもしれませんが。まあ、これは少し水掛け論になってしまいますね。
 同じ治療をしたときに、同じように延命するとは限りません。いろんなタイプの患者さんが混じっている場合には、1人に効いたからといって、全員に行う根拠にはならないと思います。
 この手の話は、抗がん剤で最近よく出てますね。胃がんや大腸がんでは、抗がん剤を使っても生存率曲線が変わりません。でも一部のがん患者にはよく効く。だからやりましょうと、抗がん剤の専門家が言うんですよ。でも、それはおかしな話でしょ。よく効くというのが、人に1人だったり、人に1人だったりするわけです。それに当たるかどうかは、やってみるまでわからない。でも副作用はほとんど全員にある。1人によく効いて、全体としては生存率が変わらないのは、残りの人なり人なりが命を縮めているからです。結果的にみて、効く患者さんが出たからといって、全員にやる事前の判断根拠にはならないわけです。

●大鐘 ただ、同じタイプの人になら効くでしょうね。TAEに関しては、他の患者でもやはり太いフィーダーがある患者には、よく効きましたからね。

●近藤 そうかもしれません。まあ、TAEにしても抗がん剤治療にしても、この人は延命するだろうというファクターが事前にわかっていて、そういう人達だけにするなら、まだ理解できます。しかし無差別に全員にするのは問題ですよね。
 例えばTAEにしても、無差別にやったくじ引き試験の結果は差がないわけですからね。数ヶ月は延命しているんですが、何年か経つと生存率は同じになってしまいます。
 研究者自身も、これは副作用が大きいため、延命期間を考えても勧められる治療ではないと言っています。

●大鐘 しかし効くか効かないかは、やってみないとわかりませんよね。TAEにしても、副作用が強く出るかさえもやってみないとわかりません。まったく副作用が出なかった患者さんもいましたからね。
 そこらへんをどう解決するかという問題ですが、闘ってみないとわからないんじゃないかと思うんですよ。(笑)

■1度はやってみる

●近藤 これは自分の本にも紹介しているのですが、1回やってみるという方法はあります。抗がん剤というのは、普通は3サイクルだ、6サイクルだというふうに用意されているけれども、試しに短期間やってみる。とはいっても胃がんや大腸がんなどは、効果がない可能性があまりにも高いわけですが。
 9割以上の人が、強い副作用に悩まされます。そういう治療を受けてみて、患者さんが納得するという方法はあります。これは患者さんが決めるべき問題です。
 私は何もかもあきらめろと言っているわけではありません。そういう誤解があるようですけれどもね。患者さんの問題だと言っているのです。患者さんによっては、5%の人にしか効かないのであれば、最初からその治療を受けないという人が出てきてもいいと思うんですよ。

●大鐘 だいたい、1回試せば、効果のほどはわかりますよね。

●近藤 それはわかります。でも副作用でひどい目に遭っている人をたくさん見ていますから、私から勧めるほどのものではないと思っていますが。どうしても試してみたいと思う患者さんもいますから、そういう人にまでやるな、とは言えません。

●大鐘 自分が主治医の場合と、そうでない場合とでは違いが出ますか。

●近藤 私のところは、8年くらい前から、ほかの医者が患者を回してこなくなりましたからね(笑)。だから私の患者は、全部私が主治医です。
 昔は乳がんばかりでしたが、最近は本を書くようになったせいもあって、胃がんや大腸がんの患者さんも来院します。

●大鐘 先ほども少しふれましたが、先生が書いておられたように、D1とD2の術後の生存率がまったく変わらないというのであれば、我々外科医は、このリポートを謙虚に受けとめなければいけませんね。

●近藤 ヨーロッパでの死亡率はD2で%ですが、日本では1%だという結果を示されていました。では日本全体の手術レベルは本当に高いのかというと、相当に疑問ですね。
 国立がんセンターの公式のデータをみると、確かに1%ぐらいですが、京都の大学病院でのデータでは、歳以上で2・5%、歳以上で5%の死亡率です。しかも歳以上は、D1手術が標準だったんですよ。また、この調査は1ヶ月以内の死亡しかカウントしてませんが、ヨーロッパでは在院死亡ですから、1ヶ月を越えても一度も退院できない人は数に入っています。1ヶ月ぐらい死亡を引き延ばす技術は、現在ではそう難しくないですからね。日本でも在院死亡数をカウントすれば、死亡率はもっと増えるでしょう。倍とか、3倍とかね。そう考えると、日本で1%だというのは強引な気がします。

●大鐘 そうですか。私はD2では、ほとんど合併症を起こしていませんがね。

●近藤 雑誌などで発言する人は、みんな自信持っていますから1%以下だと自負されるでしょうが、日本全体の現状がそうなのかというと、そんなことはないですよ。ある開業医などは、早期胃がんで外科に送ったらバタバタ手術死されてしまった。それで早期発見、早期死亡だなんて言いだしています。

●大鐘 なるほど(笑)。

■フラフラで退院

●近藤 そのような現実を考えると、胃がんの手術も考えてしまいますよね。
 僕の診ている患者さんは、腹膜転移が明らかになって2年生きていますからね。何もしていない。一度も手術していないのに、最近はますます調子が良くなってきています。
 もう少し詳しく説明すると、奥さんが乳がんで、私の患者だったんです。その関係で彼の胃がんが発見されたとき、私が診ることになりました。「命に未練はないから手術は受けない」と彼は宣言していて、私も様子を見ていたんですよ。
 その後奥さんを亡くされて、やけ酒を飲んだのが原因になったのか、みるみる体重が減って急激に痩せてきたんです。これはダメかと思ってCTで調べてみたら、腹膜が盛り上がったのがあちこち見えるわけですよ。それで骨盤だけに放射線をかけたわけです。その治療が終わったら、下痢はあるものの、調子は良くなってきたんです。CTでみると、ほかのところにも盛り上がった部分が見えるわけですがね。それから2年、だんだん体重も増えてきています。

●大鐘 そうすると、免疫力が高まったということですか。

●近藤 おそらくね。最初、首のところに固いしこりがあったのも、消えてきているんです。本当に不思議だな、と思っています。

●大鐘 そうですね。免疫力ということで私が考えるのは、大学病院やがんセンターなんかが、術後1週間かそこらで患者をところ天式に出してしまうでしょ。ひどい例では、胃の全摘を受けて2週間で出されたおじいさんがいましたよ。もうフラフラで。
 大塚のがん研でも、手術した後は近くの病院で診てもらえといって退院させています。みていると2~3週間で出された患者は非常に予後が悪いんです。長期の入院による、ゆっくりとした療養が必要だと思うんですよ。

●近藤 私は日常生活に戻ること自体は、悪いと思っていません。ただ体力を消耗するような、激しい生活はもちろんだめだと思います。

●大鐘 だからサナトリウムのようなところで、ゆっくり養生する必要がありませんか。

●近藤 私は手術そのものに問題があると思っているので、養生の問題だけでは何とも言えませんね。もちろん心身がリラックスできる環境が、術後に良いとは思っています。同じ手術をしたのであれば、病院にいるよりはサナトリウムのようなところで生活したほう結果は良くなるでしょう。
 しかし、根本的な問題は手術にあると思います。先ほどの話でも、胃がんが最初に発見された時には、微小な腹膜転移があったと思われます。1年後ぐらいに臨床的に明らかになってきていますから。そのときにメスを入れていると、すでにばらまかれた腹膜転移が、メスが入ったところで増殖して、生命を奪うと思います。
 これは元フジテレビアナウンサーの逸見政孝さんの手術でもいえることです。前田外科で手術を受けた時から腹膜転移があったことは明らかです。そして、再発はメスを入れたところに出ています。お腹の縫い合わせたところには、5センチ×センチのがんが出ています。メスを入れるということは、がんにとって再発しやすい状況をつくる可能性があると思います。根元的な問題ですね。

●大鐘 私自身はメスを入れた部分から再発するとは、あまり感じていません。やはり取り残した部分から出てきます。だから私は、きれいに切り取れる見込みが立つ場合以外は、手術をしてはいかんと思っています。まあ、なかなか厳しいことなんですが……。
 ただ乳がん学会でも、がんそのもののボリュームを減らすことが意味がある、と言っていますよね。

●近藤 乳がんについてはそうですね。抗がん剤は、乳がんに効くことがはっきりしていますから、ボリュームを減らさないと抗がん剤は役にたちません。ただし胃がんや大腸がんは、抗がん剤治療で生存率が上がるという証拠がありませんから、がんのボリュームを減らす意味は少ないと思います。

●大鐘 進行がんに関してはどうですか。とりあえず胃だけは取るということは、考えられませんか。

●近藤 治療するならば、動脈注射か何かで抗がん剤を入れておいた方が、むしろ長生きできるのではと感じています。腹膜転移がある時にメスが入り傷を付けてしまうというのは危険だと思うんですよ。メスが入ると血管新生が盛んになりますから、がん細胞が爆発的に増えるのではないでしょうか。だからこそ逸見さんは、傷口にセンチにもわたってがんができてしまった。

●大鐘 それは羽生富士夫(元東京女子医大消化器病センター所長)さんが、手術する前ですよね。

●近藤 そう、前田外科の手術です。傷口が洗われてがん細胞が付いて、それが腹壁の両方に入ったとしか考えられない。

●大鐘 羽生さんがやったあとはどうなんですかね。結局、多臓器不全ですか。

●近藤 もう1回、腹膜に取り付いて、腸閉塞状態になったようですが、最後は多臓器不全でしょう。

●大鐘 羽生先生は私の師にあたる人ですから、私としては辛いところがあるんです。いつもお会いすると、近藤さんのことばかりおっしゃるんですよ(笑)。とはいえ、私があの症状の患者を切るかと言われれば、まず切らないと思いますが……。

●近藤 彼も全部は切り取れなかったでしょうね。個も腹膜転移があれば、もっと多くのがんがあったでしょうから。

■保険点数が切らせる

●大鐘 大腸がんについてはどうですか。私はボールマンⅡ型(※)には、絶対的に手術が良いと思っているんですよ。

●近藤 大腸がんについては、胃がんとは別の論議が必要だと思います。生物学的に違うかもしれないし、何よりも大腸が長いということが、部分的に切り取ったときのダメージの少なさと関連しています。

●大鐘 大腸がんの中にも、本当に悪いものがありますよね。ものすごい勢いで転移を起こす。しかし、原発巣を取らないで放っておけばいずれ腸閉塞を起こします。近藤さんは、症状が出てから切っても良いとおっしゃってますが……。

●近藤 閉塞までいかなくても出血などでわかるわけですから、それからでも遅くはないと思うんです。

●大鐘 なるほど。確かに日本の現状は、やりすぎの感がありますね。症状が出る前に、やたらポリープを取っていますからね。非常に保険点数がいいからです。ポリープ1個取るだけで1万円ですからね。一度に取るのは損だというわけで何回にもわけて取るわけです。本当に小さな、5ミリのものまで取っていますよ。内視鏡で見て取るとはいえ、事故もかなりあります。もちろん技術の問題もありますが、だいたい技術があると自負している医者に限って事故を起こすんですね。自信過剰で取り過ぎるからでしょう。
近藤 高齢者が増えてきていることもあります。老人の大腸壁はもろくて弱い。高齢者は、いろいろな意味で弱いんですよ。内視鏡でも麻酔を使いますが、それで死んでしまったりします。作家の井上靖さんも、内視鏡で死にかけていますからね。

●大鐘 ボールマンⅡというのは、ヴィーラスアデノーマからきていますか?

●近藤 それは断定できないですね。アデノーマからボールマンⅡになるという説は、いま大反対があるんですよ。ボールマンⅡというのは、阿蘇山みたいなクレーター状になっていますが、それならば腺腫(※腺上皮細胞が増殖して、結節状・乳頭状を呈する腫瘍。一部は悪性化してがんになるともいわれる)のてっぺんが削れたようなものがみつかるはずです。ところが、みつからない。そうすると、一夜にして腺腫からボールマンⅡになるのかということになりますよね。
 アデノーマがん化説の人には、そういう反論が加えられているのです。ボールマンⅡなんかも、結局、ポリープからではなくて、平坦なところから新しくポコッと出てきたと考えたほうが矛盾が少ないと思います。

●大鐘 アデノーマなんかは、放っておけばいいと。

●近藤 見つかったものについては、積極的に放っておきなさいとはいっていないですがね。放っておいたら、がんになる可能性を否定することはできないわけですから。

●大鐘 ヒトへモ(※ヒトヘモグロビンの略。免疫反応を用いた使潜血反応で、食餌の影響を受けない)をスクリーニングするのは、日本だけですよね。あれは非常に画期的なもので、そのおかげで救命率が上がったという説に関してはいかがですか。

●近藤 検診でがんを発見して、そのがんについて生存率を計算し、前よりも高くなったから有効である、という論法は、通用しません。外国にそのような論法を持っていけば、こぞって反対されますよ。

●大鐘 『患者よ、がんと闘うな』では、がん検診の効果がないと書いてありましたが、先ごろ、日本臨床細胞学会で検診による救命率は、海外では3%、日本では%と発表されてました。

●近藤 日本で行った調査はくじ引き試験ではありませんからね。くじ引き試験をしなければ、必ず生存率は高く見えるんです。
 検診をすると、僕がいう「がんもどき」みたいなものがたくさん見つかるでしょ。そうすると生存率は高くなります。それは発見の効果であって、治療の効果ではありません。放っておいていいものを見つけ出して治療し、生存率が高くなっても、意味がないのではないでしょうか。この私の反論に、生存率が上ったと主張する側は再反論できないのです。
 たとえば肺がんのくじ引き試験では、肺がん検診は無効という結果が一致しています。それは検診をしても、放置しても肺がんの死亡数が同じだったからです。ところが見つかった肺がん患者は、検診群のほうが生存率が高いんです。それは矛盾のようにみえるけれども、発見したがんの数は増えるが、死亡した数が同じだから生存率は高くなるというだけです。
 たくさん発見された早期がんは、放置群の方にもあったはずです。これは死を招かない。だから死亡数は同じなんです。検診群でよけいに発見された分については、放っておいても大丈夫なんです。このようなことは、ほかの臓器でもあるでしょうから、検診をした人だけ集めて検査しても意味はありません。

●大鐘 肺の場合は2センチ以下は早期がんと呼ばれますが、見つかったがんが、がんもどきか、そうではないのかを、どうやって判断しますか。

●近藤 それは判断できません。見つかってしまえば、現状では治療を受けるのは、やむをえないと思います。誤解されているのかもしれませんが、がんもどき理論というのは、早期発見理論に対するアンチテーゼです。検診を受ける時に考えればいいわけです。

●大鐘 2センチぐらいというと無症状の場合が多いから、スクリーニングしなければ見つかりませんよね。その後4センチになり、咳が出てきて発見された時に治療を開始すればいいと?

●近藤 その前提も問題です。4センチのがんは、2センチのときに見つかるのかという問題になるわけです。症状の出るようなものというのは、スーと大きくなってきていますからね。いくら検診を繰り返していても、2センチの段階では見つからなかったのではないかと思うんですよ。
 私もそうでしたが、私達の頭の中では、検診で発見された早期がんというのは、大きくなるのはまず確実という思いがどこか抜けないんですね(笑)。

●大鐘 抜けませんね。でも肺がんは大きくなりますよね。胃の早期がんのように、何年も同じ大きさということはありません。
肺がんにもがんもどきはある?

●近藤 肺では検診で見つかったような早期がんも、たちが悪いはずだと思うんです。ところが早期発見しても成績が同じというわけだから。

●大鐘 くじ引き試験というのは、発見されて一方は無治療で、一方は治療をしてということですか。

●近藤 いやいや、発見したら治療するんですよ。それは検診をするかしないかのくじ引き試験ですからね。発見したがんを放置するわけではなくて、検診しないで放置するわけです。発見したがんについては、治療します。

●大鐘 放置した乳がんについての報告はどうですか。

●近藤 『患者よ、がんと闘うな』で示した報告は、くじ引き試験の結果ではありません。あれはハルステッド手術が普及していない時代のことですから。

●大鐘 乳がんを放置することが現代にも通じるのかどうかについては、いかがですか。

●近藤 乳がんについては、かなり通じると思うんですよね。まあ、ある程度大きくなっていれば、治療しても変わらないだろうと。お腹の中のがんについては、乳がんよりもっと手術による負担が大きい分野でもあるので、そういう点からすると、乳がん以上に寿命を縮めている可能性があると思います。

●大鐘 そうですね。ところで、肺にがんもどきというのはあるんですかね。

●近藤 それはあるでしょ。あるからこそ、さっきお話したメイヨーの試験でも、発見したがんの数を見ると、定期検査はせずに病状が出てから発見されたのは160人で、検診を繰り返した方は206人です。人多く発見するということは、非検査群は人分は見つからないで放置されたわけですよね。ところが死亡率が変わらなかったのですから、人のほとんどは死ななかったわけです。だから、がんもどきはあります。
 見つかったがんが大きくなるというのは、放っておいた結果がないわけですから、本当に大きくなったどうかはわからないんですよね。
 繰り返しますが、発見されてしまったものを積極的に放っとけと言っているわけではないんですよ。治療法を考えようと言っているんです。放射線治療では、2~3センチぐらいの部位に限定して照射できる施設もあって、患者さんにはそこで治療をしてもらっています。いまのところ防衛医大にしかないんですけれどもね。酸素なんかを吸わせて、あまり呼吸性移動がないようにして、照準してぐるっと回すときれいになくなりますよ。
 一般的に放射線治療は手術に比べると、体に与える影響は非常に少ないですからね。上手な人がやればですが。

●大鐘 それは外科医も一緒ですよね。
 卵巣がんのためさる日赤病院で最初手術を受けた患者さんがいたんですよ。半年後に再発した時には取りきれなかったらしいのです。3度目に出てきた時に、もうやることないからあとは放射線治療くらいだろうということになり、がんセンターの放射線科を紹介したところ、内診をした上でのことなのか、もちろんしてなければもっての他ですが、何をやってもダメだからホスピスに行きなさい、と言われて、私のところに来たんですよ。ところが私が内診してみたら、なるほど相当なシロモノだが、しかしわずかに可動性がある。これは取れるんじゃないかと思い、「ホスピスはいつでも行けるから、まずは外科に入りましょうよ」と勧め、最初に放射線治療を行いました。がんが相当大きかったですからね。そうしたら半分の大きさになりまして、その段階で手術を決行。直腸と膀胱の一部も合併切除しましたが、現在4年が経過して元気でいます。これは放射線と外科治療がうまくかみ合った例だと思うんです。
 しかし、放射線だけでは治らなかったですよね。そう考えると、オペは良かったと思うんですよ。
●近藤 確かに手術をして良かったケースでしょうね。ただ、手術するか、しないかは、個々の患者や医者の判断によりますし、結果論の場合も多いんです。そのケースはよかったけれども、結果論の部分もあると思います。一般的には、手術をしてがんがポコポコと出てくるケースも多いのですから、やらなければ良かったという人もいます。
 人間の体は、すべてメカニズムがわかっているわけではありませんから、例外のない議論はないわけです。個々のケースが違う中で、どう判断していくかは難しいですね。
 最終的には、患者が決めればいいと思っています。だから、この『患者よ、がんと闘うな』という本も、無駄な闘いはするな、過剰な治療は受けるなということをいっているだけです。合理的な治療を受けろ、といっているわけです。大鐘さんが治療した卵巣がんの患者さんも、合理的な治療の範疇に入っているでしょう。
 けれども全員にとって合理的かというと、疑念もあるわけです。そこら辺が事前の判断として難しいんですよ。卵巣がんの転移というのは、腹膜にあちこち出ているのが原則なわけですから、そういう事情をわかって患者さんが治療を受けるかどうかが問題ですね。
 もっと一般的にいえるのは、乳がんの場合は、ふつう肝臓の転移があると、ほかにもたくさんあって、これを手術しようとする人はほとんどいないでしょう。
●大鐘 大腸がんの肝転移は手術をしますけれども。

●近藤 そうですね。大腸がんは、例外的に肝臓にがんがとどまっている可能性が高いですから、転移巣を取れば何割かはそれで治ってしまうことがあります。これも手術を受ける患者さんの問題になってきます。

■転移なき再発はなし

●大鐘 たぶん、これは近藤さんと意見が合うと思うんですけれども、「転移なき再発はなし」というのが私の考えですが、いかがでしょう? つまり、将来再発を起こしてくるものは、目には見えなくとも手術の時すでに転移があったと。無から生じてきたわけではないと、考えるのですが。

●近藤 それはそうでしょうね。それはかなり当たり前の話だと思っていました。

●大鐘 いや、再発というと、一般の人には無から新たにできた、というイメージがあるんですよ。しかしそういうことはありえない。きれいに取れたものは、新たにがんが出てくるということはありえませんよね。

●近藤 無から生じているそれが再発だ、という考えは、一般の人にはあるんですかね。

●大鐘 最初の手術の時にすでに転移があったとは、患者は思わないんですよ。
 非常に自家撞着に陥ったのは、大腸がんを切るときに、下腸間膜静脈から肝臓に抗がん剤を入れていたんです。つまりミクロの転移があるだろうとの想定のもとに入れていたんですよね。でも、そうすると術後の免疫力がガクっと落ちることが懸念されます。矛盾に悩みながらやっていました。
 もうひとつわからないのは、乳がんなどでは7~8年たっても転移が起こってきますよね。だから、乳がんはいちおう年診なければいかんといわれています。そうすると、がん細胞は、その間は血中を堂々巡りしているだけなんでしょうかね?

●近藤 いやいや、私はそうは考えていません。原発病巣は取っている場合ですよね。

●大鐘 そうです。

●近藤 取ってしまうと、血液の中をがん細胞はそんなに流れていないだろうといわれていますから、7年後に出てくるのは、7年間転移部位にあったんだろうというふうに考えられます。

●大鐘 もし血中にあれば、腫瘍マーカーは上がりますよね。

●近藤 いや、そうとは限らないでしょう。量が少なければね。かなり大きくなっても、乳がんなどは腫瘍マーカーがなかなか上がりません。

●大鐘 そうすると、血中で堂々巡りを続けるというのは、普通ではあり得ないですよね。

●近藤 ありえないというといい過ぎですが、がん細胞というのはかなり弱くて、血中に入ったらすぐに死んでしまうと考えられています。たとえば原発病巣からどんどん血中に入っても、転移して生き残るのは、1万個に1個ぐらいではないかといわれているのです。

●大鐘 そうですか。転移なき再発はない、とは考えていたんですが、どうして2年3年のスパンを経て出てくるのかと、考えていたんですよ。

●近藤 それはかなりゆっくり増殖したか、もう1つは免疫機能が弱った時に大きくなるということでしょう。ただし、一般論としては、原発病巣と同じスピードで育っていくということになっています。原発病巣が大きくなるなり方とパラレルであるというような報告はあるわけです。

●大鐘 それは確かなのですか。原発が倍増すれば、転移巣も倍増すると。

●近藤 一般論としてはと言っている意味は、そうではない例外もありえるからです。転移する時に、がん細胞の性質が変わったのか、行った先の土壌が合っていて速くなったり、合わなくて遅くなったりということはありえるのです。いくら何でも原発病巣ができる前や、原発病巣を取ってから転移したということはないですよね。
 そこら辺にいろいろけちを付ける人がいるのですが、アメリカ人のカルテをひっくり返し、元東大教授の草間悟さんが原発病巣と転移病巣の大きくなるスピードを比べて、一般論としてパラレルであると出しているわけです。
大鐘 草間さんは、分裂の時間から計算して原発巣の大きさが0・1ミリあたりに転移のピークがあるといっているんですよね。1個の細胞の大きさは0・01ミリなんですよね。

●近藤 がん細胞の大小に関しては、異論もかなりあるのです。自治医科大学の病理の人が、がん細胞の大きさは、0・02~0・04ミリだみたいなことをいってきたんですが、0・01ミリで計算するというのは、コリンズ以来の、だいたいの約束事なんです。結局、だいたいの傾向がわかればいいわけですから。
 それから乳がんの場合には、0・01ミリというのは、小さすぎるわけではないんです。そういうがん細胞もあるわけですからね。
 どういう手術をしていくかと考えると、これまで原発病巣をもろともきれいに取り去るのが原則でしたが、なるべく人間の体の抵抗力を残して、リンパ節も転移がありそうだと思われるものだけ取るというように変わっていくべきだと思います。

●大鐘 それは外科では、「strawberry picking(つまみ取り)」といって、軽蔑される手法なんですよ(笑)。

●近藤 けれども乳がんで温存療法が成果をあげていることを考えれば、似たような話でしょ。
 今までがん細胞の周辺を大きく切除するようにしてきたから、このような話をすると奇異に感じますが、今がん治療が始まったと考えると、決して変でないと思いますよ。原則に戻るわけです。臓器を切れば切るほど免疫力は落ちていきますからね。症状がない人の体を切って、取る前より具合がいいことはないですから。

●大鐘 では早期がんが見つかったとしても慌てる必要はない、症状が出てからでも遅くない、というわけですね。しかし、患者さんは2年、3年も経過を見れるでしょうか。本当にがんもどきなのか、ひょっとするとある日突然進行がんに転じて取り返しがつかないことになりはしないか、そんな不安から逃れられるでしょうか。

●近藤 場合を分けて考えればいいのではないでしょうか。場合によって、それぞれ患者が考えるでしょう。手術がいいという人もいますからね。

●大鐘 さきほどおっしゃっていたように、外科医が手術を強制するのではなく、患者の選択に任せるべきだというわけですね。

●近藤 ええ、そうです。たとえば胃上部にがんがあったりしたら、胃全摘になってしまうわけでしょ。そこまでする必要があるのか、ちょっと考えないといけないと思うんです。今までだったら、何が何でも胃全摘となりましたが、がんもどきかもしれないとう可能性があれば、ちょっと立ち止まって考える人も出てくるでしょう。選択肢が広がったと思います。
 もう1つは食道がんですね。食道がんは、やはり世界的にみても、放射線で治療すべきです。

●大鐘 それは私も異論はありませんし、私自身食道がんにかかったら、第1選択は放射線治療ですね。近藤先生にお願いしますよ(笑)。

■医者が当惑しているだけ

●近藤 まあ、この点に関する反論は少なかったですね。だいたい、がんもどき辺りに反論が集中て、代わりの治療法があるということには、反論がなかったように思います。それから乳房温存療法のように、臓器の切除を限局すべきだという主張にも反論はなかったですね。手術に関しては、リンパ節切除がいいのかどうかという反論だけです。
 これはアメリカの十数年前と同じです。そのころのアメリカでは、外科医は乳がんでもハルステッド手術がいいと主張していましたらね。その状況と現在の日本の状況は、よく似ています。
 日本では医者からの誘導がありますから、なかなか手術を否定できませんよね。しかしアメリカでも、乳房温存療法の率は低かったのですよ。ヨーロッパは高かった。それは医療経済体制の問題で、大きな手術をするほどお金がいっぱい入る仕組みがあったからです。そのような問題を少なくするために、アメリカでは制度を整えました。

●大鐘 遅れている日本の医療が、この本に刺激を受けたことは間違いないようですね。

●近藤 医療現場が混乱していると報道されたりしていますが、それは医者が当惑しているだけなんです。患者がいろいろ説明を求めるから、困っているんですよ(笑)。いままでどれだけ患者さんに説明してこなかったのかの証明になりますね。

●大鐘 がんに関しては、民間治療も問題ですよね。『%がんは治る』という本がありましたよね。あの手の類はまずインチキだということを一般の人も悟らなければいけないのに、ついつい手に取ってしまう。『がん戦争』とかのテレビ番組でも、この手のものを肯定的に取り上げてましたからね。

●近藤 民間療法というのは、二面性がありますからね。患者さんがやりたいというのを押さえつけることはできません。確かに、がんが治るかもしれない可能性は否定できませんから。抗がん剤だって、効く人もいれば効かない人もいます。しかし証明されていないものを、それで治りますよと断定して高いお金を取るというのは許せません。
 医者不信から民間療法に行き着くこともあるでしょう。だいたい民間療法をしている人はやさしそうだということがありますからね。まあ、お金をもらえるならやさしくもなるか、という気がしますけどね(笑)。

●大鐘 『患者よ、がんと闘うな』は、もっと売れなければいけないと思いますね。そして、真剣に、冷静に考え、ディスカッションすることが必要かと思います。でも、もう少し読みやすいといいんですが……。

●近藤 この本は一般の読者がその気があれば読解できて、しかも専門家の批判に耐えられるようにデータを入れてと、両方の効果を狙っていますので、これ以上やさしくするのは難しいですね。例外的なことを入れるとページ数が増えてしまうし、すっと理解できないと思い、あまり書いていないのですが、今後はその辺も書いていこうと思います。

●大鐘 ヒステリックな反応ではなくて、この本から様々な議論と展望が生まれれば、日本の医療界も変わっていくでしょう。

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元信者が視るオウム的社会論 第14回/

■月刊『記録』99年1月号掲載記事

 先日、フジテレビの深夜番組で、オウム法廷の様子をアニメしたものが放映されました。 かつて教団の幹部であった信者たちが、自らの法廷や、あるいは証人として法廷に立ったときに証言したものをまとめたもので、教祖の麻原被告がいかに滑稽な人物であったかを暴くという内容でした。
 彼ら教団幹部は、僕にとっては上司にあたる人たちでした。僕が知らなかった教団内でのおもしろい逸話もあったのですが、以外に思ったのは、彼ら幹部たちが麻原被告の言動を一様に「ばからしい」と当時思っていたということでした。
 僕は教団にいた当時は、麻原被告の言動を疑ったことがありませんでしたし、まして幹部連中は強い信仰心を持っているように見えたからです。
 本当に「ばからしい」と思っていたのなら、僕のように末端の信者よりも麻原被告に接する機会が多かったのですから、それを教えてほしかったですね。恐怖政治が敷かれていたために、言うことさえもできなかったなんて、言い訳です。教団を飛び出して、堂々と生きていた人たちもいたのですから。
 というよりも、彼ら幹部被告たちは、法廷での点数稼ぎのために、教祖の悪口を争って言い合っているように感じられました。教祖の悪口を暴けば暴くほど、刑が軽減されるとわかっているのでしょう。
 彼ら教団幹部になるような人たちは、思い返すと要領のいい、優等生的な人たちが多かったように思います。逆にいうならば、だからこそ幹部に出世できたのでしょう。
 要領のいい彼らは、教団幹部という立場から被告へと立場が変わると、今度は少しでも刑を軽くしてもらおうと、裁判長に取り入ることを始めたのでした。
 そういう弟子たちしか持てなかった麻原被告は、グルとしてかわいそうな存在だったのかもしれません。
 例えば林郁夫受刑者です。彼はオウムの非合法活動の最大の関与者の一人でしたが、極刑を免れて、無期懲役で刑に服しています。
 彼は医師の資格を持っていたため、一般信者の触れられない、教団の暗部を知っていましたが、教団にいるときは先頭に立って教祖に対する「帰依」を叫んでいたのです。僕など、前に述べたことがあるように、自白剤を使って深層意識まで信仰心を調べられたりしました。
 ところが、逮捕されるや掌を返したように教祖の悪口を言う。あまりにもわかりやすすぎる豹変ではないでしょうか。
 それに反して、初志貫徹を貫いている新実智光被告や土谷正実被告に清々しさを感じるのは僕だけでしょうか?
 現役信者は別です。彼らは教団が引き起こした悲惨な現実から目を背け、たむろして逃避しているだけですから。(■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/日の丸・君が代の強制

■月刊「記録」1999年4月号掲載記事

*           *          *

■「守る必要がない法律」というサギ師的言辞

 一方ではガイドライン(日米防衛協力のための新指針)、一方では日の丸・君が代の法制化と、小渕・小沢連合内閣は、いよいよ日米心中国家への道を突きすすんでいる。政権のドブネズミ小沢一郎に妥協し、現内閣を守ることだけに奮闘、国民の安全を売りとばす愚作である。
 そもそも日の丸・君が代問題とは、歴史的ないきさつの象徴である。それだけに日の丸・君が代を、国旗・国歌として強制すればすむという問題ではない。だからこそ日の丸は国旗として法律に定められていなかったし、君が代もまた国歌として法制化されていなかった。それを今になって法制化するところに、ガイドラインぼけのキナ臭さが感じられる。
 日の丸・君が代の法制化は、国旗掲揚や国歌斉唱を強制するものではないと政府はいっている。しかしこれは詐欺的な言辞である。もし強制する必要がないなら、法制化などしなければよい。守る必要のない法律なら、つくる必要はない。法律を守るのは国民に課せられた義務であるから、法制化すれば強制力が生じてしまうのである。
 日の丸・君が代を現状で学校に強制できないから法制化したい、それが政府のホンネのはずだ。法を守る必要がないというのは、無法国家のいい分である。小渕・野中のもってまわったいい回しは、衣を着た鎧である。
 自民党旧渡辺派の村上正邦会長などは、きわめて率直に、「法律に決められたことは、守るのは当然だ」と語り、法制化する以上は国歌斉唱、国旗掲揚は義務づけるべきだと示唆している。法制化が強行されれば、こうした意見が巻き起こるのは間違いない。また法治国家としては、それが当然の論理である。
 ところが現在の翼賛体制にあって、各政党から強硬な反対意見を耳にしない。日本共産党などは、「法制化に賛成、日の丸・君が代に反対」というわけのわからないことを主張し、法制化への道を掃き清めさえしている。反対するのは疲れてしまいましたから両手を縛ってください、という屈服路線である。
 日の丸・君が代を好きな人はいるし、嫌いな人間もいる。日の丸・君が代はひとえに人間の思想と感性の問題であって、それぞれの意見が尊重されるべきだ。
 たとえば、日の丸・君が代を好きだという人物がいてもおかしくない。とおなじように反対の存在も認めなくてはいけない。私自身はとても嫌いで、たとえばぼんやりしていて、NHKの番組終了時の日の丸・君が代をみてしまったときなど、ゾッとしてあわててスイッチを切ってしまう。たいがい見ないように注意しているのだが、うっかりするとしつっこくあらわれる。見たあとに、いつもシマッタと思うのだが、あとの祭りである。
 もちろんスポーツ観戦なども油断ならない。野球のオールスター戦などは、華々しく君が代を斉唱するので、とてもいく気にならない。もしいったにしても、君が代のために起立することなど決してしない。
 君が代・日の丸をどう考えるかは、まさに個人の自由の問題なのである。だから強制するなど認められるはずがない。まして強制に従わない人間を罰するなど、とんでもないことだ。ところが法制化に先駆けて、このとんでもない状況を維持しつづけている現場が学校なのだ。 学校での日の丸掲揚、君が代斉唱を学校で義務化したのは、一九八九年の学習指導要領改訂だった。
  「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国家を斉唱するように指導するものとする」。このアイマイな一文にもぐりこんで、文部省は、国旗掲揚と国歌斉唱で日本列島を覆うべく、学校に圧力をかけつづけてきた。文部省は、君が代の斉唱時に起立しなかったというだけで、教師を処分している。

■トップ交代が中央支配の合図

 今回の日の丸・君が代法制化の引き金となったのも、やはり学校だった。小渕首相が法制化の検討を指示する三日前に、広島県の御調町にある世羅高校校長が、卒業式での日の丸掲揚と君が代斉唱をどうするのか対応に悩み、自殺したのである。
 広島県は原爆を投下された県でもあり、平和にたいする意識の高い地域である。県の高校教職員組合にも、ほぼ一〇〇%の加入率となっている。いまの日教組の組織状況としては、これは極めて異例な数字だ。平和運動を中心とした活動のあつさを思わせるものである。その結果として、九七年度の文部省の調査では、君が代を斉唱する率が全国で四番目に低い県となった。
 これにローラーをかけて押しつぶそうとしているのが、文部省とその下請機関の県教育委員会である。
 昨年六月、文部省はキャリア官僚の辰野裕一を、広島県教育長に任命して派遣した。卒業式を控えた二月下旬、辰野は「学習指導要領」に基づき、卒業式・入学式で国旗掲揚と国歌斉唱を実施せよという異例の「職務命令」をだし、一挙に学校の全面支配をもくろんだのである。
 このやり方は、昨年に、卒業式が問題化した所沢高校とまったくおなじだ。君が代・日の丸など強制しない自由な校風で知られた所沢高校に、まず教育委員会ベッタリの校長を設置する。教師と生徒が時間をかけて築いてきた自治の気風を、その校長が矢継ぎばやに攻撃する。学校がどうなろうと生徒がどうなろうと、どうでもいのが忠犬ハチ公の悲しさである。
 県教委から派遣された治安部隊の隊長が所沢高校の校長であり、文部省から派遣された治安部隊の隊長が広島県の辰野教育長である。つまり広島県の問題は、所沢高校の国家版のエスカレーションである。
 自殺前、世羅高校の校長はかなり落ち込んでいたと、各種報道機関が報じている。その様子について『週刊現代』の三月一五日号には、次のような世羅高校教員のコメントが紹介されている。
  「二五日に職員会議で、石川校長も一度は『君が代なし』と決定した。しかし、二七日になると突然『決定を覆して、もう一度君が代を提案したい』といいだした。二五日に決まったのに何でだろう、と疑問に感じたが、よほど県教委の圧力が厳しいんだなと思った」
 学校内での話し合いが県教委に撤回させられ、校長が追い詰められたことを、この証言は如実にしめしている。それは文部省から派遣された辰野教育長の強行姿勢をあらわしたものでもある。
 これまでも広島県では、日の丸・君が代をめぐる校長の自殺がつづいていた。現在までに公立校の世羅高校の件を含め、六人の校長が自殺している。いかに文部省がこの県の教育を敵視してきたかがわかろうというものだ。

■自殺を利用して法制化

 ところがこの悲劇の自殺を、渡りに船と利用する輩がいた。小渕・小沢政権だ。今回の事件を日の丸・君が代の強制中止へのきっかけとするのではなく、法制化していなかったから自殺したという強弁によって、タカ派の欲望を一気に満足させようとしている。これは校長の遺体を戦車で踏みつぶして進んでいくという、まったく野蛮なやり方である。
 また右派ジャーナリズムも自民党同様、この事件に食らいついた。たとえば サンケイ新聞の三月二日の社説には、次のような文章が掲載されている。
       
 ――広高教組は「県教委が『日の丸』『君が代』について職務命令をだした結果、学校現場が混乱している」といっている。県教委の強い指導が校長を自殺に追い込んだ-といわんばかりだ。だが、非は県教委にない。学習指導要領に沿って国旗掲揚と国歌斉唱の実施を指導するのは、当たり前のことではないか。校長が組合の要求に押し切られていた今までが異常だったのだ。
 何度も繰り返すが、国旗・国歌を知らずに社会へ出て困るのは、広島の子どもたちである。校長は今までの組合との行きがかりを捨て、児童生徒の将来を考えた指導に徹してほしい。――
 ――広島県と同様、“組合支配”の強い学校は他の自治体にもかなりあるとみられる。これからは、教育にも規制緩和が進み、校長の指導力はますます重要なものになってくる。校長には、組合の理不尽な要求に屈しない強いリーダーシップが求められる。――
 この主張がいい加減なのは、「国旗・国歌を知らずに社会へ出て困るのは、広島の子どもたちである」という一文である。子どもたちが日の丸・君が代に無関心であっては、いつどこで困り、いつどこで不自由なのだろうか。外国のパーティーで、君が代を歌え、というのだろうか。
 この一文にあらわれているのは、日の丸と君が代を掲げてアジアにあたえた戦禍にたいして、なんら反省しないまま、自己弁護しようという日本政府の傾向である。 さらに問題なのは、組合にたいする干渉である。「組合の理不尽な要求」などいいつのって、それにたいして弾圧を示唆している点で、この主張はきわめて犯罪的である。
 労働組合は労働組合法によってつくられている合法団体であり、法律に基づかない国旗と国歌の強制に抵抗するのは当然である。サンケイの論理は、非合法によって合法を潰そうという暴論である。

■「国民学校化」への道

 これらの攻撃を通して見えてくるのは、日本の民主主義のぜい弱さだ。
 なんの法的根拠もないのに日の丸・君が代の強行を推し進める文部省は、戦前となんら変わらない体質をあらわにしている。思想弾圧に異常な力を注いだ内務省の残党が文部省にそのまま残り、彼らの思想がいまでも継承されていることを図らずも明らかにした。
 日の丸・君が代の法制化を推し進めようとしてきた歴代自民党の幹部もまた、おなじ穴のムジナだ。岸信介などに代表されるように、戦犯がそのまま刑務所から出てきて、大臣のイスに座った。
 そして、ナショナリズムの昂揚キャンペーンを張る右派ジャーナリズムの復活。これではなにが戦前とちがうのか、首を傾げたくなってしまう。
 日の丸・君が代問題は、戦前の天皇・日の丸・君が代というセットを抜きにしては語れない。この三点セットこそが、国民の思想支配を貫徹してきた。戦後とは、天皇制・日の丸・君が代という強制を外したことにより、国民が思想の自由を取り戻した時代である。それが不況のドサクサに復活させられようとしている。
 しかも今回の国家的な強制は、学校という場を使い、子どもを人質にとって進められようとしている。もともと地方自治体に教育の権限があるはずの学校は、その地方で生きる人の民主意識を生み、民主化を進めていく拠点であった。そこで国旗と国歌による中央支配を貫徹させようとする罪は重い。
 戦前の総動員体制への復帰を思わせる、さいきんの一連の政府の動きは、思想・信条にたいする大攻勢であって、憲法違反の疑いが強い。戦前の「少国民」を作りだそうとした「国民学校化」として、日の丸・君が代の強制は認めることはできない。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/憲法改正を叫びだした自自公串だんご政権

■月刊「記録」1999年6月号掲載記事

*           *           *

 ついにガイドライン関連法案が成立しようとしている(五月一二日現在)。
 ウルトラ自自連合に公明党も加担することで、すでに衆議院は通過した。戦争好きの三党の共謀だ。自民党は自由党の後押しによって国会を乗り切ろうとし、小沢新進党の仲間だった公明党は自民党に貸しをつくって政権党になろうとしている。こうした国民不在の政党のもたれ合いが、もっとも危険で憲法の精神に抵触する法案を押し通そうとしている。いうまでもなく日本国憲法は、交戦権を否定し、かつ国際紛争を武力によって解決しない、と高らかな理念を掲げている。これを三党が共同で踏みにじってしまった。
 この法案が衆議院を通過した直後、哲学者の鶴見俊輔さんが、「これで憲法九条は空文になった。学校で憲法を教える人は、日本国家の偽善を教えるべきでしょう。事態はそこまで進んだのです」(『朝日新聞』四月二七日)と語っていた。国民の拠りどころとしての憲法で平和を唱えながら、戦争に参加する法律を成立させるのは、とんでもない偽善である。こんどは、その偽善を繕うために、憲法を変える動きが一気に強まる。泥棒の論理である。
 わたしは六〇年安保世代のひとりだが、日米軍事同盟としての安保条約が、三九年後、交戦権を解禁して、紛争国に自衛隊を派遣する形で強化されるとは考えもしなかった。冷戦終了後は、核廃絶の動きから世界は軍縮にむかうと考えていたからである。しかしNATO軍のコソボ攻撃にみられるように、軍事力によって相手を屈服させるという恐怖の哲学が、いまなお影響力を残している。
 日本の参戦法案ともいえるガイドラインもまた、その恐怖の哲学の上塗りである。しかも自衛隊のシビリアン・コントロール(文民統制)を外す方向に進んでいる。緊急事態には、国会が事後承認になるなど、まさしくかつての軍部の独走を再現しようとするものだ。これから、いったんひっこめた外国の軍艦を挑発する「船舶検査」の法案もだされようとしている。
 いままでにもさんざん述べてきたのだが、もっとも問題なのは、後方支援の名のもとに、戦争にむけての国内体制が整備されることだ。港湾・空港・病院などの施設と権力者が戦争に動員され、反対できない体制になる。地方自治体の権限が中央政府によって踏みにじられる。つまり、国家危機を錦の御旗にして有事体制は整えられ、戦争遂行のための国家総動員をかけられるようになる。憲法のもとでの国民の基本的人権など、ゴム草履のように捨てられる。
 自自公談合政権は、こともあろうに盗聴を公然と認める組織犯罪対策法案を、今国会で可決しようとしている。組織犯罪対策法案が盗聴法といわれるのは、これまで国民の基本的人権としてのプライバシー擁護のために、厳しく制限されてきた、通信傍受を合法化しようとしているからである。
 薬物捜査などにたいして、盗聴は必要だ、と説明されている。組織犯罪といえば、暴力団が対象と思いがちである。しかし組織犯罪という名目で、反政府の市民団体が標的になる可能性は否定できない。
 また自民党や法務省は、麻薬捜査ばかりでなく、殺人や誘拐事件も盗聴の対象にしようとしている。盗聴法は、容疑者の盗聴だけで終わるものではない。容疑者を探すために膨大な市民への盗聴へと拡大する。これでは一般国民を総容疑者として捉える管理国家になる。つまり多大なプライバシーが侵されて、そのなかから一人の容疑者を洗いだす恐怖政治が可能になり、こうした観点からも、それがガイドラインと結びついて、基本的人権を無視した盗聴法がひとり歩きする。
 通信傍受を実施するにあたっては、裁判所の検証令状が必要になるという。それが自民党のいい訳になっている。しかし検察の検証令状(家宅捜査令状)などは、ほぼ検事の申請通りにおこなわれている。しかもその現状を批判し、組織犯罪対策法案の反対集会に出席した寺西和史判事補が戒告処分になるという事件も発生している。これは裁判官に言論の自由がすでにないことをしめしているわけで、これも戦時体制への動きとして位置づけられる。

■危機意識で国民を支配

 日本の政治は、自自公ウルトラ政権によって(かろうじて民主は野党に留まっている)戦争準備にむかって進んでいる。いままでこうした発言をするたびに、「狼が来た」論だと批判されてきた。しかし「狼が来た」といいつづけてきたのは、むしろ政府であり、与党である。 たとえば日米安保体制から広範囲に踏みだしたガイドライン法案は、北朝鮮を狼にした戦時体制法案である。オウム真理教事件や暴力団を狼にしたてあげての、盗聴法も成立させられようとしている。
 それだけではない。
 国民の危機意識を煽り立てて、国民を支配する法律としては、「国民総背番号制」(住民基本台帳法改正案)をも、またぞろ成立させようとしている。すでに二〇数年も前から自民党が導入を狙ってきた制度だが、これまたドサクサ自自公連合政権によって突破しようとしているのだ。
 窮極には、外国人登録証明書とおなじように、IDカードをもたせることにする。IDカードの携帯義務を怠れば、逮捕できる算段だ。そこまでいかなくても、情報の集積によって、個人のプライバシーが丸裸になることはまちがいない。現在でさえ警官の不審尋問で名前をいえば、パトカーの無線で前科の有無がすぐわかる。このような制度が導入されれば、個人所得から預貯金の額、病歴、逮捕歴まで個人情報が一瞬にしてわかる。
 韓国でもIDカードが考えられていた。しかし最近、国民の反対によって中止が決定されている。プライバシーを侵害する危険が、きわめて高いからである。国民の恐怖心を煽り、国民生活の奥深くまで国家が関与する体制が着々と準備されている。それがオール与党体制の現状である。
 また国家体制の強化を批判するはずのマスメディアも、とんでもなく頼りない。現在、愛国論と愛国論者の過激な発言がマスコミを埋めており、それが一定の商品価値をもって巷に流布している。その一方で、体制批判をおこなうメディアが力を急速に落としている。
 出版界も例外ではない。不況のなかで本の売り上げが伸び悩み、ついに総合雑誌の一つである『宝石』(光文社刊)が休刊されることになった。この休刊がジャーナリズムにあたえる影響はきわめて大きい。というのも現在、総合雑誌でそれなりに体制批判のできるのは、『世界』・『月刊現代』・『潮』そして『記録』だ。週刊誌まで含めれば『週刊金曜日』が、これに加わるだろう。その程度でしかないのである。
 この一角が崩れるということは、『正論』『諸君』を中心にした産経・読売・文春などの愛国派と議論を闘わせる媒体の勢力が弱くなったことを意味する。さらにはライターがまっとうな意見を発表する貴重な場が減ることにもなるし、後継者を養成する場が少なくなることでもある。中央公論の読売からの買収にみられるように、不況が一つの言論統制として働いている。
 平成オジサンこと小渕恵三首相は、ガイドライン関連法案を「手みやげ」にして渡米。屈辱外交を展開して帰ってきた。
 米国は世界平和のためにきわめて重要な役割を果たしているという、デタラメなお世辞を振りまいて帰国した。もちろん衆議院通過を米国に褒められ、参議院通過への覚悟も固めたことだろう。しかしどうせクリントンに会ったのならば、すでにコソボでの誤爆を繰り返していたNATO軍の攻撃を取り上げ、平和主義憲法をもっている国の首相として批判すべきだった。それをお世辞だけに明け暮れ、帰国後に自分自身で自画自賛しているのだから始末におえない。
 また小渕首相はシカゴでひらかれた日米協会の夕食会で講演をし、日本の失業率が過去最悪の四・八パーセントに上昇したことをふまえて、次のように発言している。
  「日本経済が活力と競争力を再び取り戻すうえで避けて通ることのできない、規制緩和を含む構造改革の努力の結果として、直視しなくてはならない数字だ」(九九年五月一日『朝日新聞』)
 つまり彼は、四・八パーセントの失業率を当然のものとしているわけで、今後、さらに失業率が増えることを政治的に解決しようとは考えず、むしろそれを促進させようとしているわけである。
  「構造改革の努力の結果」とは、具体的には企業の再編整理、人員削減を指す。これらの促進を公然と彼は語っているわけで、かつて池田勇人首相が語った「貧乏人は麦を喰え」と等しい暴論である。しかし池田首相のときは、政治的に大問題になったが、今回は野党が追求しないまま終わってしまった。ここにも総与党体制の弊害があらわれている。
 さて、失業率が史上最悪の数字を記録するなかで、就職浪人が三〇万人も生まれている。つまり新卒者が採用されないという、これまでにない状態が広がっているわけだ。中高年の失業者ばかりではなく、若年層も採用されないというのでは、状態はますます深刻である。
 こうした不況に、青田刈りを公認する「就職協定廃止」が相まって、学生の就職活動ははやまる一方である。現在では、三年生の末ぐらいから就職活動がはじまっている。これまでも大学四年目の半年間は、就職活動に裂かれてきた。学生最後の一年を抑圧的な就職活動に振りむけることは、日本の知的水準の劣化にもつながる行為である。
 それが最近では、三年から就職活動をおこなうという。これまでもっとも充実した勉強がおこなわれていた時期にまで、就職活動が入り込んだことになる。しかもいま小中高という受験体制そのものが、就職の予備校と化していて、人間的な成長よりも就職に重点を置いた体制ができあがっている。そのうえ就職予備校としての大学で、長期間にわたる就職活動がおこなわれるのだ。極端ないい方をすれば、子どもたちの人生がすべて就職活動に振りむけられることになる。これは亡国的な状態である。

■ピンハネ産業の育成

 ことしの採用計画をみると、最大の採用予定者はイトーヨーカ堂で一四〇〇人、次がジャスコで一三〇〇人、つづいて東日本旅客鉄道で約一二五〇人、三菱重工業一〇七五人、コジマで九〇〇人となっている。採用が多い順に五社を並べると、目立つのはイトーヨーカ堂・ジャスコ・コジマなどの流通関係である。これらの企業は、賃金や生涯保証の面できわめて不安定である。とくに女性などは、長期に勤めにくい。
 こうした雇用状況を充分に把握していながら、「労働者派遣法」の拡大を政府は狙っている。この法律に関しては、成立した当初からわたしは批判してきた。問題は、ピンハネ産業を育成することであり、労働者の権利が著しく侵害されることである。労働市場から必要なときに必要なだけ、なんの制限もなく労働者を引っぱりだし、いらなくなれば簡単にポイできる。それが労働者派遣法の正体だ。
 法案が成立すれば、正社員を採用しないでパート・アルバイトの労働者を企業がどんどん増やしていく。しかも労働者を斡旋する業者だけが斡旋料によって稼いでいく。これでは労働市場の公正を願った職業安定法を解体し、労働者の混乱と労組のさらなる弱体化をつくりだしていくことになる。いうまでもなくアルバイターは正社員に比べて低賃金であり、ボーナスもなく、いつ解雇されるかわからない。そういった存在を堂々と増やすことは、社会全体の不安拡大につながる。とてもまっとうな国がすべきことではない。
 平和・公正・基本的人権などが無視され、一部のマスコミはそれに迎合し、批判の論調がバカにされる時代になってしまった。
 党利党略で国が動かされ、なんの理想もなく、日の丸君が代、軍需と原発で食う産業社会など、まっぴらだ。テレビをみて、バカ笑いしている場合ではない。まず、政党助成金法を廃案にして、国会を風通しのいいものにしよう。 (■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第21回 正利就職作戦開始

■月刊「記録」2001年6月号掲載記事

*           *           *

 どうしても高校へ進学したいと言い張る正利を説得するため、ぼくはテーブルを挟みあいつと向かい合っていた。
 いや、厳密に言えば、あいつは高校へ行きたいのではなく、高校進学をめざす連中と同じ待遇を受けたいだけなのだ。説得を続けるぼくの話を聞こうともせずに、ぼーっとした顔で手の中の文房具をこねくりまわすだけのあいつと向かい合っていると、ぼくは無性に腹が立ってきた。おまえ、人の話を聞いてんのか!?
 今すぐ気分のままこいつを怒鳴りつけることはできる。だがそれじゃぁ、いつもと同じすぎて味気ないだろう…。
「おまえ、成績表の見方わかるか?」
「……」
「教えてやるよ、おまえな、ぜーんぶ、1だろ。なぁ、1だよなぁ。この1ってのはなぁ、1番の1じゃぁないんだ。1番ダメの1なんだよ。わかったか?」
 どうだ。ぐうの音もでないだろう。ぼくはだんだん意地悪な気持ちになってゆくのが自分でもよくわかった。いつもこうだ。最近のぼくはいつもこうだ。気持ちがいいような悪いような、後味がいいような悪いような、口では表現しがたい気持ちになる。ただ一つだけ、こんな気持ちはこいつと一緒じゃなければ味わえないことだけが、今のぼくにはわかった。
「だって、まゆみ、こうこういくって、いってたよ」
 不意をついて、あいつがぽつりと口を開いた。その瞬間、ぼくにこびりついていた先程からの意地悪な妄想みたいなものが急に取り払われた。
「あぁぁぁ、そういやぁ、そうだなぁ。あいつも成績よくはないなぁ」
 正利と同じ学年の真弓は小さい頃学校に行っていなかったこともあって、成績は1や2が多い子だった。通常、成績に1があると、公立の高校には進学できない。ただ、ここから先が問題で、男子は公立校に入れなかった時点でアウトになる(進学をあきらめ、就職し、学園を出ていく)のに対して、女子にはレベルの低い私立の女子校に進学することが学園では許されていた。
「まぁ、だけどな。…さっきは、まぁ、わざとおまえに意地悪におれも言っちゃったけど、誤解すんなよ」
 少し口調を和らげ、譲歩するように話した。すると、再びあいつはぼくのことをジロット上目づかいに見た。「おれはなぁ、正利。高校に行くことだけが素晴らしいとは思わないよ。それにおまえはきっと働くことのほうが似合っている。おれはそう思うよ。自分が稼いだ金を自分で自由に好きなように使う。どうだ? 悪いことか?」
 あいつの顔が少しずつ、ほんの少しずつではあるが、ご機嫌なときの顔に近づいてきた。あいつは今の学園生活で、自由に金が使えないことと小遣いが少なすぎるという不満を常々口にしていた。そんなあいつが金を自由に使えるという魅力に勝てるわけはなかった。
「ほら、おまえの友達のジェイクも働くって言ってたぞ。高校行くよりも金稼いで早く自立するんだって言ってたぞ。ん? どうだ? 立派じゃないか。立派だろ?」「おれ、ガソリンスタンドではたらきたい、まえから、そうおもってたのよ」
 単純だ。本当にこいつの脳味噌は相当単純なつくりにできている。一丁あがりさ。しかし、ぼくは大事なことを忘れていた。あいつは気持ちを持続させることができないのだ。約束なんて守らない。言ったことに責任なんて持つはずはなかったのだ。
       *      *
「おい、正利。時間だぞ、時間、時間」
 ぼくは建物の入り口から中庭に向かって、半分だけ顔を出してあいつを呼んだ。学園の調理室に向かい歩くぼくの後ろを、あいつは嬉しそうに手足をバタバタと動かしながらついてくる。
「おまえねぇ、就職するんだろ? 就職するんだったら、だめだよ。時間通りに行動しなきゃ。遅刻なんかしたら、大変なことになるんだぞ」
 調理室のみんなが、いくら同じ職場の仲間とはいえ、半年以上もあいつを預けることになるのだ。挨拶ぐらいはきちんとしておかなければと思っていた。それなのにあいつときたら案の定、気に留めるそぶりすらもない。「そうよね、ちこくはだめよね。おれのわるいくせよ」 何言ってるんだ。まったく口だけは調子のいいヤツだ。それにしても、いつもはぼくの小言にむくれるあいつがなぜか今日はご機嫌だ。これから大変な日々が始まろうというのに…。
 一学期も中盤にさしかかった6月の初旬、我々はあいつに対する方針をついに実行に移した。方針とは具体的に挙げると以下の3つである。
 一つ、5時半に起きて(もちろん自分で目覚まし時計をセットし、自力で起きる)、学園の調理場で朝食の準備の手伝いをすること。二つ、干してある小学生の洗濯物を取り込み畳むこと。三つめ、中学生の勉強時間は机に向かわずに一人で掃除に励むこと。
 この3つを正利に行わせる目的は、それらのことを確実にこなせるようになるという実務的な理由はもちろん、自分が、みんなとは違う将来に向かっているのだ、ということを自覚させることにもあった。(■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第20回 高校進学阻止計画

■月刊「記録」2001年5月号掲載記事

*         *        *

 3学期というのは不思議なもので、始まったと思うと行事やら何やらに追われ、いつのまにか期末テストが始まってしまう。勉強を教えに中学生のところへぼくは向かっていた。
 中学生ともなると個人個人に机が与えられる。とはいえ自分の部屋に持ち込むことまでは許可されてはいなくて、みんなで食事をとったり、テレビを見たりする居間と呼ばれる部屋の端に、それぞれ場所を見つけて置くのだ。
 部屋の仲間同士というのは、普段はいろいろといさかいもあるものの、テストとはいえ同じ目的があると不思議と団結力を高めてゆくもののようだ。中3の子は中2の子に昨年出たテスト問題を貸してやり、ノートをとっていない子は頭のいい子に貸してもらっている。そんな風景はじつに微笑ましく「ああ、集団生活も悪くはないな」と単純に思ってしまうのだった。
 しかし、そんなムードにも染まることなくあいつだけはマイペースを貫いていた。遊び相手である小学生は床に就き、テレビも見れぬテスト期間中の深夜。もはやあいつにとってやるべきことは一つもない。口を半開きにし、ぼーっとした視線を宙にさまよわせるあいつ。冬になり、外気と内の気温さが激しいのだろう、片方の鼻をつーっと一筋の鼻水が伝わる。
「おい、まだ他の部屋明かりがついてるから、おれたちも頑張ろうぜ」
 部屋の仲間たちのそんな声が飛び交うと、ちらっとうつろな目でそっちのほうを見る。しかしすぐに不機嫌そうに元に戻すあいつだった。
 そんなあいつの態度がぼくにはどうにも不安だった。あいつは自分のこと以外にはまるで興味を示さないはずだからだ。

■嗜虐的な快楽!?

 学期テストを前に、我々職員にはやるべき仕事があった。高校に行かせることを阻止して、早いところ就職の準備をさせる。それが中三になった正利に対する我々の指導方針であった。
 そして具体的にぼくがとった方法は二通り。まず一つ目は、根気強く事あるごとに話し合いの場を持つこと。たいていの子ならばこれで納得する。しかし、あいつの我の強さが並大抵でないことを知っていた我々は、次の手段を打っておくことも忘れなかった。頭で納得させられないのなら、形から入り、生活習慣を変え、あいつにここ(学園)を出るのだということを、あいつの体を通して植え付けさせるのだ(具体的な方法は後述する)。 有名な観光スポットの一角にある我が学園。桜が咲く季節になると、このあたりは、観光客でごったがえすようになる。楽しそうに、カップルや家族連れがこの学園の前を通り過ぎる。それらの光景はぼくら大人にさえ、羨ましい光景に映る。だとしたら、親と離ればなれに暮らすこの子たちには、どう映るのだろう。
「おい、正利ちょっと、こっち来いよ」
 ぼくは居間のテーブルに来るようにあいつを促した。チビたちと遊んでいるのを妨げられた形のあいつは、見るからに不機嫌そうな顔でこっちに近づいてくる。
「そういやぁー、おまえどうすんの」
「……」
 相も変わらずぼーっとした顔をゆっくりゆっくりこちらに向けるあいつ。まるでぼくからの質問が飲み込めていないようだ。それはそうだ、あいつの進路のことは、我々職員が喧々囂々やっているだけで、あいつは蚊帳の外なのだから。
「おまえ、将来何になりたいか、考えたことある?」
 辺りで子供たちがバタバタと動き回る。なのにあいつだけ、まるで時が止まっているかのようだ。まるで反応がない。
「おまえ、高校行きたいとか思ってないか? もしかして」
「……」
 体をくの字型に曲げたまま、あいつはぼくを上目遣いに見る。ああ、そうなんだ。きっと、そうなんだ。ぼくにはピーンときた。きっとあいつは高校に行きたいのだ。いや、厳密に言えばそうではない。あいつは高校を目指している連中と同じ待遇を受けたいのだ。学校でも学園でも。
「おまえなぁ、無理。悪いけど、無理」
 ぼくの非情な言葉にムッとした顔であいつは、再び視線を床に落とした。
「おまえなぁ、成績表見たろ。な、無理なんだよ」
「……」
 相変わらず無反応なあいつ。それでも見れば手に何か文具らしきものを握り、ごちょごちょとこねくりまわしている。おれの質問に心と脳は休めの体勢なのに、何だよその手は! 聞いてんのかこいつはおれの話を! おれはだんだん腹が立ってきた。この薄汚い身の程知らずの野郎に。だいたい虫がよすぎるんだよ。大学を出たぼくがいまだに毎日、幸福感も味わえずにいるのに、おまえみたいな無学文盲の人間に幸福感も充足感も与えてなるものか。ああ、無性に腹が立ってきた。(■つづく)

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ホームレス自らを語る/公園で始まった陣痛・長尾康子(44歳)

■「新・ホームレス自らを語る」掲載記事

*           *         *

■テレビにも週刊誌にも出演した

 私ね、何も持っていないけれど子どもがいたの。最初が33歳のときの子ども。4月14日生まれ。名前は、浩一(仮名)です。
 そのときもホームレスをしてたんですよ。子どもを生むときは、人が少ない方がいいと思って、大阪駅の近くにある公園の木陰で生んだの。痛かったよ。3000グラムもある大きい子どもだったし。
 たまたま犬を連れた奥さんが近くを通りかかって、救急車を呼んでくれたんです。もう子どもは生まれていたけれど、へその緒はつながったままだったから、血を見て奥さんも助けてくれたんでしょう。
 いや、そのときも恋人はいないですよ。子どものお父さんは誰か知らないの、私も。
 子どもが生まれてからは、福祉(地方自治体の福祉課と思われる)でアパートを借りてくれて、そこで暮らしていました。でも2歳ぐらいのときに、子どもと別れたんです。福祉が連れていっちゃったんですよ。育てられないと思ったんじゃないかな。
 いや、もう子どもには会いたくないですよ。それまで生んだことなかったから知らなかったけれど、子どもはかわいい、かわいいだけじゃないの。苦労するのよ。モノも言わないし。
 もう子どもとは会いません。別れちゃったんだから。私はそんなに強欲じゃないから。いまでは人間を生んだとも思えなくなってきているの。生んだのは犬だったかもしれないってさ。
 ついこの間も、子どもを生んだの。
 ほら、これ。「H13、11、16 AM11時19分 2945グラム 身長47・5センチ」って書いてあるでしょう(長尾さんは、小さなポーチからプラスチックできたピンクの腕輪を出した。病院で子どもが使っていたものだった)。15日の朝9時から入院したんですよ。陣痛の痛さにビックリしちゃったから。ボランティアの女の人に連れて行ってもらったの。今度は助けてくれる人がいたから安心でした。入院していたのは一週間。退院したら公園の木の葉っぱがすっかり落ちていて、ずいぶん変わったなって。
 いや、恋人なんかいたことないよ。SEXしても、しなくてもできるんだから、きっと私が生まれたときに、もうお腹に子どもが入っていたんじゃないかな。
 娘の名前は、和美。子どもを育てようと思ったけれど、行くところはないし。福祉で世話になると、寮に入らなくちゃいけないでしょ。ボランティアの人も頑張ってくれたけれど、寮に入るのは嫌だから。でも子どもと二人で生活しても、浩一ができたときと同じになっちゃうし。だから子どもを(施設に)預けてもいいと思って……。
 テレビとか週刊誌に出た(テレビ出演は事実)こともあって、通る人、通る人が食べ物なんかを心配してくれてくれるんです。あそこにあるピンクのうさぎももらったの。記念ですね。

■顔を包丁で

 1957年3月生まれです。2歳のときに、お母さんは亡くなったそうですよ。お父さんから聞いたから、本当かウソかわからないけれどね。それから小学一年のときに、お父さんが再婚したんです。六年ぐらいまで一緒に暮らして離婚。それから中学二年のときに、また再婚したのね。連れ子がいたの。それで家族が多くなったから、ジャマ扱いされたんです。それで施設に入れられたんだ。
 それから二年間は、施設で暮らしたの。私はこう見えても、中学までは出ているんですよ(笑)。中学を卒業してからは、どこかの工場で働いていたんです。でも、そういう仕事は長続きしないよ。二年いるかいないかかな。
 それで家に帰って、家から風船を作るような工場に働きにいったの。ほら、細長いビニールに入ったアイスのお菓子があるでしょう。二つにちぎって吸う安いアイス。それから靴の形を整えるビニールの風船とか。そういうものを作っていたの。そこは一ヶ月ちょっといました。そのあとは生活保護をもらって、病院に通っていたんです。
 その当時ですよ。右腕に入れ墨を彫ったのは。ほら、男の名前とバラが描いてあるでしょ。痛くなかったよ。私、頭が弱いから、忘れないように名前を書いてくれたんじゃないかしら(笑)。うんうん、無理矢理じゃなくて、ひまだったから彫ることにしたの。名前を入れた人は、恋人に近い人でしたよ。でも、家が複雑だから結婚できなかったのね。
 あっ、この左手の傷? これはね、包丁で刺されたの。スナックで手伝いをしていたのよ。刺したのはヤクザ屋さんで、どうしようもない人だった。もちろん知ってる人だよ。店に入ってきてさ、カッとしたんじゃない。発作的にですよ。台所から包丁を持って来て、こういう風に包丁を頭の上にふりあげてね。顔を狙ってきたんです。怖いから悲鳴を上げて、顔の前に手を出したんです。その上から包丁で斬りつけられて。あまりよく憶えていないんだけれど、病院で10針縫ったよ。
 顔の傷(左唇の端から頬にかけて3センチ程度の切り傷がある)? これはつい最近斬られたんだ。今年の正月明け、寝泊まりしていた東京駅でね。その当時は、品川のラーメン屋で働いてたんだけれどさ。一緒に働いていた従業員だよ、斬りつけたのは。
 ほら、お金持ちが持っているような小さなバッグがあるじゃない。そこからカッターナイフを出して、いきなり斬りつけたの。口からボタボタと血が流れてきたんですから。何でかなんて知らないよ。頭にカッと血が上るプー太郎みたいな人だったから。人を斬っても何にも思わない人だったんだよ。
 通報してカネでも取ってやればよかったと思ったけれど、ヤクザ屋さんみたいだから何されるかわからないもの。そりゃ、当たり前だよ。何でも警察に言える訳ないだろう。5000円渡されて、「病院に行け」って言われて終わり。
 いい生活には恵まれなかったですね。でも、もう男はいいよ。面白くないもん。だいたい何もない者同士で暮らしても何にもならないからさ。まあ、仕事をしている人でもいらないかな。 

※★森さんの話はつじつまが合わない部分が多々あったので時間をかけて話を聞き、そのうえで多少混乱していると思われる発言についても、彼女の心情を表すと判断した個所については、そのまま収録することにした。 (■了)

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ホームレス自らを語る/殺人者の妻にはなりたくない・田中芳子(53歳)

■「新・ホームレス自らを語る」に掲載

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■ヤクザに入れ墨を彫られた

 話? いいよ。
 生まれは、昭和23(1948)年3月。五人兄妹の一番下。中学を卒業して、愛知県の縫製工場に勤めたの。でも3年で辞めた。それから愛知県の蒲郡にあったスナックで働いていたんだけれど、そのときに知り合った男がヤクザでさ。ヤクザの「ひも」になったの。その男が私を殴るのよ、しょっちゅう。
 スナックだから、お客さんからチップをもらうでしょ。そのお金を帯留めにしまっておくと、「チップをもらっただろ」って日本刀で脅されて、裸にされて、金を取られるの。
 もっと怖いこともあったんだから。入れ墨を彫られたんだ。20~30センチぐらいの日本刀を突きつけられて素っ裸にされたの。それからさらしで手足を縛りつけられて、若い衆に体を押さえつけられてね。抵抗なんかできないよ。まだ17歳だったし、体もやせていたからね。
 左肩に男の名前とハートマークを彫られたの。彫り師なんて来ないよ。ヤクザが木綿針に墨汁をつけて、一針ごと刺していくんだから。2、3時間かかったかな。そりゃ、痛かったよ。彫った夜なんて傷が腫れ上がったようになって、痛くて眠れないんだから。
 親にもらった体をいたぶられて、自殺しようとも思ったよ。睡眠薬も買って。でも、それはできなかった。飲めなかったの。死ぬ気になれなかったんだよね。
 入れ墨はあるけれど、お風呂(銭湯)には行くよ。恥ずかしくもない。私は悪いことしてないんだからさ。
 その男からは逃げたかったけれど、なかなかできなかった。逃げようとして、ビール瓶で殴られたこともあったから。でも、ある雨の日に家を飛び出したの。春ぐらいだったな。ワンピース一枚しか着てなかったから寒くてね。ヘソクリの10万円を握りしめて、走って家を出たんだ。タクシーをつかまえて、「浜松まで行ってください」って運転手に頼んだら、優しい人でさ。「それじゃあ、3万円でいいよ」って言ってくれたの。浜松のホテルで訳を説明して、住み込みで雇ってもらったんだ。寒かったから、メイドさんにお金を渡して、洋服を買ってもらったりもしたよ。

■殴られて病院と施設を転々

 25歳ごろに出会った男は、シンナーを吸っていた。バカだから。この男にも殴られたり、蹴られたりしたよ。一緒に住んでいた東京・中野のアパートでね。金遣いが荒くて、競馬やパチンコばっかりしていてさ。
 知り合ってからずいぶんたってからだけれど、こめかみを殴られて意識を失ったことがあるの。目が覚めたら病院だった。でもね、白い天井にボーッと見えたのはヘリコプターだったんだ。いや、窓の外じゃないよ。ベッドの上でヘリコプターがグルグル回っていたの。いよいよ頭がおかしくなっちゃったんだと思ってね。CTスキャンとかいう機械で調べたら、少し脳に出血があったらしいから、よっぽど殴られたんだと思うよ。右腕とかもあざだらけだったから。
 その病院に一年入院して、それから別の病院に転院したの。そこには二年ぐらいいたかな。肝臓も悪かったからね。そこから新宿の福祉施設に入れてもらったの。でも期限が決められていたから、そこからまた別の福祉施設に移ったんだ。
 その施設は、毎日の生活が決められていた。6時半に起きてラジオ体操をして、それからトイレや部屋の掃除。7時半から8時までが食事。それから午後3時までは線香を作るの。五時から夕食。自分のスペースは畳一畳分で、小さなテレビがついていてね。まるで木賃宿みたいな二段ベッドなの。週末は仕事は休みだけれど、門限も早いし。何よりお線香のにおいに堪えられなくなって、出て来ちゃった。

■オレ、殺しちゃった

 そのあとに知り合ったのが、川口謙二(仮名)だよ。知り合って、無理やり籍に入れられたの。新宿エルタワーの地下でホームレスをしていたんだけれど、謙二は運送会社で働いていたんだ。ホームレスのグループを仕切っていて、ヨシオ(仮名)とかをこき使っていたんだよ。
 事件が起きたのは、94年の5月末。新宿エルタワーの地下で3、4人で酒を飲んでいたの。最初は私も一緒に飲んでいたんだ。でも途中で、段ボールハウスに帰ったのよ。しばらくして物音で目を覚ましたら、謙二が「オレ、殺しちゃった」って言うんだ。
 こりゃ、やったなと思ったよ。だって手にベットリ血が付いていたからさ。仲間二人と一緒に、二人も殺したんだよ。私は怖くて段ボールハウスにいたけれど、謙二はどこかに出ていった。
 謙二はすぐに捕まったよ。だってホームレスの仲間は、誰が犯人か知っていたから。「ネーサンも大変だね」って、みんなに言われたよ。ホームレスから話を聞くために、デカも新宿を回っていたし。
 警察には何回も呼ばれたんだ。「謙二と一緒にいたのか」と聞かれて、デカにも何度か殴られたからね。手のひらっぺたで頬を殴るの。最初に警察に連れていかれたときは、ラーメンが出たよ。でも、食べ物がノドを通らなかったね。ショックでさ。
 警察署を出るとき、「面会するか」って聞かれたんだよ。でも「いやだ」って断ったんだ。顔を見ただけでも頭にくるから。謙二にも殴られていたから、それにも腹が立っていたけれど、何より殺人者の妻になんかなりたくなかった。どうしてあいつのおかげで、こんな迷惑をかけられるのかと思ったら悔しくてさ。
 裁判所にも証人として行かされたよ。裁判官が「川口謙二の妻、前に出なさい」って言ってね。裁判官やら検察やらが、「これはわかりますか」とか「知っていますか」って、しつこく聞くの。「一切知りません」と答えるけど、また聞かれる。そのうち気持ち悪くなってきちゃって、「すみません。気持ち悪いんですけど」って裁判官に言ったら、三分間の休憩を取ってくれたよ。私は便所でゲーゲー吐いたんだ。
 傍聴に来てくれた「いのけん」(渋谷・原宿 生命と権利をかちとる会)の人が、「大丈夫、大丈夫」ってしきりに声をかけてくれてね。それだけがうれしかったよ。
 裁判が再開されたら、謙二が殺人に使った石が出てきたんだ。横幅は70センチぐらいあったし、縦も20センチ以上もあった。その石で謙二は殴りつけたんだよ。石だよ、石……(田中さんの目から涙が溢れ続けた)。もう、あいつのことは思い出したくないんだ。出所してきても、絶対に会いたくないんだよ。

■テント暮らしが一番幸せ

 いまのお父さんと知り合ってから、6年たつの。いままでの男はみんな殴ったのに、一度だって手を上げたことがないんだ。
 新宿で「あんた一人? お茶でもどう」って、お父さんから声をかけられたの。背広が似合っていて、格好よくてさ。この人だって、ピンときたの。言葉遣いだって優しいもん。喫茶店のルノワールでお茶を飲んで、そのあとかな、「オレと一緒になろう」って言ってくれたんだ。
 出会ったころ、お父さんは手配師をしていたんだけれど、不景気になってきて新宿サブナードの入り口で雑誌の販売を始めたんだ。月に3万円もショバ代を取られたけれど、まだやっている人も少なくてけっこうお金になったよ。お父さんは、「おいしいものを食べなさい」って、いつもお金を置いていってくれたし。
 そのうち、もう一軒店を出すことになって、私が店番をすることになったの。
 そのころは一緒に住むために、1日4100円で大久保ハウスを借りてくれたんだよ。計算したら宿代に90万円も使っていた。いま考えればもったいない話でさ、早くテントに住んでお金を貯めておけばよかったね、なんていまでも笑うの(笑)。
 毎週買ってくれるお客さんもいて商売は順調だったけれど、撤去要請の紙を役所から3回貼られてさ。「さすがにここじゃ、もうダメだな」なんてお父さんと話し合って、店を閉めることにしたんだ。
 いまでもお父さんは、仕事をしているよ。私は、洗い物をしている。あとテントの周りの掃除。ごはんはおとうさんが作ってくれる。温泉で働いていたことがあるから、料理を作るのは専門家なんだ。
 近所の人もみんな私に挨拶してくれるよ。「掃除をしてくれて、ありがとうね」とか「遠藤さんはいい人だね」って、一般の人が洋服を持ってきてくれることもあるの。
 テントで暮らしているけれど、いまが一番幸せ。お兄さん(※記者)もいい人見つけて、早く結婚した方がいいよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/母と姉を見殺しにした・青山良男さん(42歳)

■月刊「記録」2000年7月、8月号掲載記事

*         *        *

いて、身体に障害があって、みんなにもイジメられて、よくオフクロに「なんでオレなんかを生んだんだよ?」と言っては困らせた。言ってみたところで、どうしようもないことはわかっているんだけど……そのたびにオフクロは泣いてた。

■三人で住む小さな家を建てた

 オフクロは毎日朝早くから夜遅くまで、それこそ働きづめに働いていた。それでオレを高校までやってくれた。機械いじりが好きだったから工業高校に進んだ。そこを卒業してからは、埼玉にあった貴金属加工の工場に就職した。関東一円で貴金属販売をしているチェーン店の工場で、そこで旋盤を使って金製品や銀製品を研磨するのが仕事だった。オレには右手が不自由というハンディがあるんで苦労はしたけど、仕事ではほかの連中には負けなかった。
 仕事の仲間はいい人ばかりだったし、毎日が楽しかった。そのころのオレは仕事一本槍で真面目そのものだった。酒も、ギャンブルも、変な遊びも一切しなかった。もらった給料を貯金することだけが楽しみで、給料もボーナスもほとんど貯金した。
 それには訳があってね。そのころは狭い寮の一室で、他人と一緒に暮らす生活をしていただろう。オフクロがそれをずっと嫌っていてね。精神的に障害のある姉を、他人の目にさらさなければならないのもつらかったようだ。「狭くてもいいから、親子3人で暮らせる家に住みたい」というのが口癖だった。オフクロも働いた。オレも頑張って働いた。自分たちの家を建てることが夢だったんだ。
 その夢がかなったのは24歳のときだ。埼玉の奥の方に小さな土地を買って、小さな家を建てた。大半はローンだったけど、自分たちの家が持てたのはうれしかった。何より喜んだのはオフクロだった。ずっと貧乏で苦労の連続だったからね。これでうちも人並みの幸せになれると思った。
 ところが、それも長くは続かなかった。家を新築して3年目のことだ。ある朝、オレは仕事に出かける前に、いつものように部屋の外からオフクロに声をかけた。だけど、その日に限ってオフクロから返事がなかった。オレはそれを気にもかけずに仕事に出てしまったんだ。ホントはそこで気づいて、部屋をのぞいてみるべきだった。いまでも、あの時なぜのぞかなかったのか悔やまれてならない。
 夕方、家に帰ってみると、オフクロは寝間着のままで、自分の部屋に倒れていた。脳内出血だった。寝間着のままということは、オレが朝声をかけたときにはもう倒れていたわけだ。一日中出血したままで放っておいたことになる。すぐに救急車で病院に送ったが、手遅れでそのまま死んだ。オレが見殺しにしたようなもんだよね。 あとで人に聞いてわかったんだが、新築した家の玄関が北向きだったのがいけなかったらしい。幸せを夢見て建てた家のはずなのに、それからは悪いほうにばかり転がり出すんだ。うまくいかないもんだね。

■精神障害のある姉を見捨てた

 オフクロが死んでしばらくして、仕事のほうもうまくいかなくなった。金や銀製の貴金属は需要がだんだん落ち込んで、そのうえ外国産の安い製品も出回るようになってね。研磨の仕事は減ってきてしまったんだ。それで同じ工場の中で配置転換になって、写真用の使用済みフィルムから銀を回収する職場に回された。
 その作業ではいろんな化学薬品を使うんだけど、それが体に合わなくてね。全身がかぶれて真っ赤になるし、酸を吸い込むと激しく咳き込むんだ。オレの体には合わない職場だった。
 仕事のほかにも、姉のことがオレの悩みのタネだった。オレが昼間仕事に出ている間に、フラフラと家を抜け出してしまうんだ。それで近所の家に勝手に上がり込んで、冷蔵庫のものを食べてしまったりとかね。近所の人から「困る」とねじ込まれたのも、一度や二度じゃない。それに訪問販売にだまされて、高い消火器を幾本もまとめて買わされていたこともあった。
 そんなことが重なってくると、仕事中も気になって仕事が手につかなくなるんだ。だからって姉を縛りつけて、仕事に出るってわけにもいかないしね。思いあまって市役所の福祉課に相談に行ったよ。「姉を病院に入れたいから、入院費の一部を補助してくれないか」ってね。だけど、家を持っていてオレも働いていて収入があるから補助の対象にはならないって断られた。
 そう言われても、オレの収入だけで姉を入院させるのは無理だったしね。兄のところにも相談に行った。でも、兄も結婚していて、嫁さんの顔色をうかがっているばかりで、いい返事はしてくれなかった。
 まあ、精神に障害のある家族を抱えて働くのがどんなに大変かは、やってみた人間でないとわからないよ。この姉を一生抱えて面倒みていくのかと思うとたまんなくなってね。それに新しい職場が体に合わないこともあって、何もかも嫌になっていったんだ。それで姉を置いて逃げた。オレは逃げ出していたんだ……(青山さんは目を潤ませて、しばらく黙った)。

■虫の知らせで戻ってみると

 オレが逃げた先は東京。新宿のサウナに住み込みで働くようになったんだ。ただ、姉のことを完全に見捨てたわけじゃなくて、金だけは送ってやってたからね。姉にも金を持って店に行けば、食べるものが買えるくらいの知恵はあったからね。
 三年くらいして、オレがちょうど30歳のときだった。虫の知らせっていうか、急に埼玉の家のことが気になってね。それで帰ってみたんだ。すると姉が倒れていた。体中がものすごくむくんでしまって、まったく動けない状態だった。糞尿にまみれてすごいことになっていた。すぐに入院させたが、二週間後に死んだ。むごい死に方をさせてしまった。オレが見殺しにしてしまったんだよね。
 それからしばらくは、家に一人で暮らした。けど、オレの過失でオフクロも姉も殺してしてしまったわけだろう。それを思うと、夜も眠れない日が続いた。部屋は家具から何まで、オフクロと姉が元気だったころのままにしてあったから、その中で暮らすのはいたたまれなかった。それに姉が迷惑をかけた近所の人の目や噂も気になった。
 いまから思うと、完全なノイローゼだったんだろうね。「オレなんか生きててもしょうがない。もう死のう」と思って、大宮駅のホームから電車に飛び込もうとしてたよ。電車が入ってくるたびに飛び込むタイミングを計りながら、電車にひかれたらオレの体はどうなるんだろうと想像した。一台、また一台と、幾台もの電車をやりすごしながら、なかなか飛び込む勇気が出せなくてね。そのうちに向かいのホームで電車を待っていた中年の男の人と目が合った。
 その人がニッコリ笑ったんだ。その笑顔に救われた。ハッと我に返って「オレは何を考えていたんだろう」と思って、それで死ぬのをやめていた。

■オレだけが幸せになれない

 それから家を売り払って金に替えた。その金で遊び暮らした。パチンコと、酒と、女だね。それまで遊んだことのないオレだったが、「もうどうにでもなれ」という気で好き放題をした。金の威力を知ったよ。障害があって、それまで女にモテたことなんてなかったけど、金さえあれば商売女たちが寄ってきて、チヤホヤしてくれるんだものな。ホントに金の威力はすごいと思った。でも、それも半年で使い切った。家を売ったといってもローンが残ってたから、いくらも現金になったわけじゃないしね。
 それからはホームレスになった。飯場にちょっと入ってみたこともあるけど、こんな体だからね。ずっとホームレスをしているよ。一度就職口が見つかって、採用内定をもらったことがある。だけど、オフクロや姉にあんな死に方をさせておいて、オレだけが幸せになるわけにはいかないと思ってやめたよ。オレだけが幸せになったら、嫉妬深い二人に叱られるような気がしてね。自分は人並みの暮らしはしちゃあいけない。ホームレスをしていなくちゃあいけない。自分でそう決めてるんだ。だから、これでいいんだよ。
 ホームレスになってから、ちょっとした悪さをして警察に捕まったことがあってね。たった一人残っていた兄も、病気で何年か前に死んでいることがわかった。取り調べの刑事が教えてくれたんだけど、警察ってそんなことまで調べるんだね。もう家族は誰も残っていない。つくづく家族運のない人生だったと思う。
 これから先、自分から死ぬようなことはないけど、いつ死んでもいいと思っている。精神的にはもう死んでるからね。体だけが生きてるようなもんだからさ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/若者と語るのが好き・渋谷のジジ(54歳)

■月刊「記録」2001年2月、3月号掲載記事

*              *            *

■調理師の腕前は一流だった

 ホームレスになって5年くらいになる。みんなからは「渋谷のジジ」って呼ばれている。いまは新宿にいるほうが多くなったけど、前の渋谷にいたころにテレビに取材されたこともあってね。オレもちょっとばかりは有名なんだよ。
 ホームレスなんていつだってやめられるし、オレには帰るところだってある。けど、ホームレスをしているといろんな人に会えて面白い。だから、やめないで続けているんだよ。
 生まれは北海道。旭川近くの産。子どものころはひょうきんものでワンパクだった。夏は人の家の畑に忍び込んでトマトや野菜を盗んで食ったり、冬は雪道に落とし穴をつくったりしてね。どっちかっていえば、ガキ大将で悪ガキだったね。遊んでいるか家の商売を手伝わされるかで、勉強なんか全然しなかった。ただ、いまの悪ガキと違って、オレたちのころのほうが温かさと明るさはあったよね。
 中学を出ると札幌の大きな魚屋に丁稚奉公に出た。あの時代はそれが普通で、高校にまで行けるのはよほどの金持ちの子だけだったからね。魚屋の仕事は面白かった。包丁を使って魚をさばくのが得意で、その店にいるときに調理師の免許も取った。
 20歳のときにその腕が見込まれて、札幌でも有名な割烹に引き抜かれてね。それで魚屋を辞めることになった。その割烹は松倉っていう名の通った料理人がやっている店なんだ。松倉のオヤジさんは明治神宮の新年の包丁式を取り仕切ったり、調理師会の会長をしたこともある人だよ。そんな人がオレの腕を見込んでくれたんだからね。松倉のオヤジさんのことは、あんたも知ってるだろう? 知らないの? そりゃあ勉強不足だよ。
 割烹の板場の修業はきびしかった。魚屋のときとはぜんぜん違ったからね。頭を坊主に丸められて、出入りの作法から教え込まれた。兄弟子は平気でゲンコツで殴ってくるし、そりゃあきびしかった。でも、それも「早く一人前にしたい」っていう愛情からなんだよね。そのおかげで、オレのほうも「負けたくない。早く一人前になろう」と頑張れたんだ。
 22歳で結婚した。札幌のデパートの催しものに、魚をさばく実演のデモンストレーションがあってね。オレはよくそれに駆り出されては、包丁をふるって見せていたんだ。女房はそのデパートで店員をしていて、それで知り合った。性格がきつい女できびしい面もあったけど、オレにはよく尽くしてくれたよ。結婚して娘と息子ができた。
 25、26歳で一家を挙げて東京に出てきた。松倉のオヤジさんの口利きで、東京の調理師会に所属したんだ。その調理師会からいろんな調理場に派遣されるというふうにして働いた。熱海とか伊豆の温泉旅館の板場の仕事が多かった。「包丁一本晒しに巻いて……」の世界。腕に自信があったし、羽振りもよかった。べらぼうなぜいたくはさせられなかったけど、家族には何不自由させなかったからね。

■料理人の意地で包丁を置く

 45歳の年の暑い夏の日だった。朝、目が覚めて起き上がってみると、頭が割れそうに痛くてね。その痛みのすごさは、いまでも忘れられないよ。そのうちに目の前がスーッと暗くなって、そのままぶっ倒れた。そのとき壁に思いきり頭をぶつけたらしいんだが覚えちゃいない。気がついたときには、手術を終えて病院のベッドの上に寝かされていた。クモ膜下出血だった。
 手術のおかげで命と体には別状はなかった。だけど、記憶喪失になっちまってね。倒れたときに頭を打ったのがいけなかったらしい。自分が料理人だってことも、女房や子どもたちのことさえわからないんだからさ。周りの人から「この人があんたの女房だ」と言われても、「へーっ、そうなんだ」と思うだけでね。何もかもすっかり忘れちまっていた。
 リハビリに2、3年かかったよ。なんとか記憶も戻って、また板場に復帰して包丁も握れるようになった。ところが、料理人にとってはその2、3年のブランクが大きかったんだね。そりゃあ前と同じように包丁は使えるし、料理の形もそれらしくはつくれるんだよ。けど、何かが違うんだな。若い衆からも「以前のオヤジさんの料理とは違う」って言われちまうしね。それで包丁を置くことになった。泣いたよ。男泣きに泣いた。
 町の食堂とか居酒屋のようなところならばオレの腕でも十分通用するんだよ。だけど、松倉のオヤジさんがまだ生きてるのに、そんなところに身を堕とせねえだろう。オレにも料理人の意地があるよね。それからは包丁は握ってない。
 あのときのことを思い出すと、いまでも涙が出てくるよ。
 それからあとは、ブラブラして暮らすようになっちまって、女房とは離婚した。「別れたい」って言い出したのは女房のほうだった。ただブラブラして収入もないダンナを見ているのがつらかったんだろう。もう、子どもたちも独立して、娘は結婚もしていたしね。離婚したのは48か49歳のときだった。
 女房と別れてからはホームレスになった。離婚して一年くらいして、その女房が死んでね。乳ガンだった。別れてからも連絡は取り合っていたから、女房の死に目には会えた。死に際にオレの手を取って、「おとうちゃん、いろいろありがとう」と言って死んでいったよ。ケンカ別れをしたわけじゃないし、お互いに気持ちの通じ合うものはあったからね。

■渋谷の若者たちと語り合う

 渋谷というのは若者の街だ。いろんな若者が集まってくる。渋谷の街でホームレスをしていると、そんな若者と知り合う機会も多い。ハチ公前の広場でジャンベっていうアフリカの太鼓を叩いているグループがあってね。オレも太鼓を叩いていたことがあったから、一緒になって叩いたり、教えたりするようになったんだ。初めのうちは2、3人の若者を相手にしていたんだが、いつの間にか50人くらいのグループにふくれ上がっていた。それを見物しにくる人も出てきて、一時はすごい盛り上がり方だったよ。
 そんなことが縁になって若者たちと話すようになった。悩みを聞いてやったり、相談をされたりね。いつからか、みんながオレのことを「渋谷のジジ」と呼ぶようになっていた。
 そんな若い子の一人に明美という子がいた。彼女は毎晩のように渋谷にやってきては、オレと若者たちが演奏するジャンベを聞いていた。明美はまだ中学生のようだったから、話を聞いてみると、不登校で学校には行ってないという。父親のいない寂しい家庭で、学校でもイジメに遭っているようだった。毎日がつらいといって泣くんだ。
 オレが「一度母親を連れてこい」と言うと、本当に連れてきた。その母親から明美の境遇について、いろいろと聞いた。で、「明美が渋谷に来るのは、このジジと話しにくるだけだから、毎晩よこしてくれ」って頼んだ。
 それからも明美は毎晩やってきては、オレと話をした。そのうちに暗かった明美が、だんだん明るさを取り戻していってね。半年後には「また学校へ行く」と言ってくれた。それで次の日から本当に学校に通うようになった。いまでもときどき会いに来てくれる。中学を無事に卒業して、いまはソバ屋で働いているって話だ。
 明美もそうだけど、渋谷なんかに集まってくる子には寂しい子が多い。大人や親から見たら、ちっぽけなことで悩んでいる。それを真剣に聞いてくれる人がいないんだな。だから、このジジは真剣になって聞いてやるし考えてやる。若者を頭ごなしに叱ったり、説教を垂れてもダメ。真剣に話を聞いてやること、そして励ましてやる。それが大切だと思う。

■交番を通じて礼を言ってきた

 ほかにもいろいろ相談を受けるよ。彼女とうまくいかないとか、学校の先生とのトラブルの話とかね。女子高生で妊娠してしまった子がいて、そのときは若者たちから募金をしたり、ジャンベの投げ銭を集めてカンパしてやったよ。オレの食い物代を切り詰めることになるんだけど、そんなことは何でもないからね。
 沖縄から家出をしてきた女の子もいたな。渋谷にはそういう女の子を引っかける悪いのが多いからさ。なんとかしてあげたくなるよね。その子の話を聞いてやって、沖縄に帰したんだ。何日かして駅前の交番のおまわりさんがやってきて、「渋谷のジジってあんたか? 交番のほうに沖縄の子から電話があって、無事に帰ったからジジに伝えてくれって」と言うんだ。ホームレスには電話も通じないし、葉書の出しようもないだろう。その子は交番の電話を使って、オレに礼を言ってきた。うれしいよね。
 こんなことをしているオレのことが、一年くらい前にテレビで報道されてね。そうしたら、神奈川の中学校の先生だっていう五人がオレのことを訪ねてきたよ。「テレビで見たけど、どうしたら子どもたちとうまく接せられるか教えてほしい」って言うんだ。「バカ言っちゃいけない。あんたらのほうが専門家だろう。ホームレスのオレに聞くなんてお門違いだ」。そう言ってやったんだがね。どうしてもって言うから、「心を開くことだよ」って教えてやった。

■60歳までホームレスでいる

 リストラにあったサラリーマンの話を聞いてやったことがあるよ。代々木公園のベンチに毎日座っている中年男がいてね。どうしたんだと聞いたら、「会社をリストラされたんだけど、そのことを女房に話せない。毎朝会社に出るふりをして家を出て、公園のベンチで時間をつぶしている。死にたくて、死に場所や死に方ばかりを考えている」と言うんだ。
 オレは彼の言いたいことを全部聞いてやった。人は悩んでいることを洗いざらいしゃべると、気が安まるもんだからね。それから「このオレはホームレスにまで堕ちた人生を送っているけど、それでも生きている。どん底まで堕ちても人間は生きていけるんだ。あなたも頑張りなさい」って励ましてやった。
 ただ、こういう中年の場合は若者と違って、話を聞いてやったり、励ますだけじゃダメなんだ。最後には叱ってやる。「あんたは人生に甘えているよ。オレはホームレスをしているけど、それでもやりたいことも夢も持っている。甘えるんじゃないよ。悔しかったらちゃんと生きてみろ」ってね。彼は泣きながら聞いてたよ。
 あとになってその中年サラリーマンも奥さんを連れて、オレのところに会いにきた。リストラのことはちゃんと奥さんに話したし、もう一度人生をやり直してみるつもりだって頭を下げていった。
 ホームレスをしているといろんな人に会えて、いろんな話ができる。それが面白いよね。仲間のホームレスの相談にものってやっている。裸になってしゃべれば、人間はみんないい人ばかりだよ。
 ときどき娘が訪ねてくるんだよ。「おとうちゃん、いいかげんにしなさい。もうホームレスなんかやめて、私たちと一緒に暮らそう」って言ってくれる。だけど、面白いからやめられないよ。このまま六〇歳まではホームレスを続けて、60を過ぎたら娘一家のところに行って一緒に暮らそうと思ってる。孫もいるしね。いま小学五年生でかわいい盛りなんだ。その孫と暮らすのが、オレの老後の楽しみなんだよ。 (■了)

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ホコ天廃止の理由 (対談)岡並木×マッド・アマノ

ホコ天廃止の愚劣な理由
■月刊『記録』99年1月号掲載記事

 日本中の歩行者天国が、天国に行こうとしている。昨年六月、表参道の歩行者天国が試験廃止になるに伴い、代々木公園脇の23号線エリアも完全廃止になった。主な理由は騒音と交通渋滞。車社会から人間尊重への脱皮をめざす社会の風潮に逆行する謎深い措置だ。人々の憩いの場の命運を賭けて、マッド氏が、歩行者天国のあり方を、都市計画評論家の岡並木氏に聞く。

     *     *     *

「ホコ天より歩行者街路を作るべき」=語り手:岡 並木(都市計画評論家)
「………………………………………」=聞き手:マッド・アマノ(パロディスト)

■岡並木(おか・なみき)……都市計画評論家。1926年東京生まれ。東京大学文学部社会学科卒業後、朝日新聞社入社。編集委員などを務め、退社後は、西武百貨店顧問。のち静岡県立大学国際関係学部教授を経て、●年まで武蔵野女子大学文学部教授。主な著書に『自動車は永遠の乗り物か』『都市と交通』『舗道と下水道の文化』など多数。

■マッド・アマノ……パロディスト。1939年東京生まれ。日立家電販売宣伝部退職後、独立。16年間のパロディ裁判係争後、和解調停。78年第24回文藝春秋漫画賞を受賞。同年より89年まで米国に移住。『FOCUS』へのパロディ連載、『天下り新聞』発行、『パロディ主義』(BNN)など著作物多数。

     *     *     *

★マッド:岡さんは、二八年も前に、歩行者天国のあり方について、ご自身の著書で述べられていますね。一日だけ歩行者に道路を解放するのではなく、歩行者専用道である「歩行者街路」を作るべきだと。私も同感です。しかし現在、周囲を見渡しても、なかなかこの概念は広がっていないように思いますが。

★岡:「歩行者街路」は、一九六〇年代の中頃にヨーロッパで定着した概念です。街が自動車で一杯になり、お客さんが気ままに歩き回れなくなった。つまり、歩きながら自分で店をチョイスする楽しみがなくなって、昔からの繁華街がさびれはじめたのです。この状況に危機感を抱いたあちこちの街が、歩行者街路を作りました。
 例えば、デンマークのコペンハーゲンでは、六〇年代の初期から歩行者街路に取り組んでいます。当時の商店街は、お客が車で来られなくなることを危惧し、この案に強く反対したそうですが、市が強く推し進めたんですね。
 しかし、いざ導入されてみると、商店の売上げは軒並みアップしたようです。街のなかを人が自由に歩ける。実は、それこそが街のエネルギーとなったのです。
 その後、本格的に歩行者道路が作られたのは、七二年にドイツのミュンヘンでした。ミュンヘン市内では、最盛期には一日に一〇万人以上出向いていた客が、七万人まで減ってしまったんですね。そこで市議会が、このままでは商店街が危ないと判断を下し、半強制的に工事を始めたのです。もちろん、これも完成したら、たちまち一五万人ぐらいに増えてしまった。今では一日に、四〇万人ほどが訪れていると聞きます。
 結局、「歩行者街路」で生まれたものは、都市のなかのオアシスだったのです。商店街が変わったのではなく、市民が気に入って集えるオアシスが、都心のなかに生まれた。それが大きかったんですよ。

■日本のホコ天はいまイチ

★マッド:原宿の歩行者天国では、バンドの騒音が問題になったと聞いています。欧州の各都市では、そうした問題は起きなかったのでしょうか?

★岡:確かにミュンヘンでは、世界中の大道芸人やミュージシャンが歩行者街路を訪れるようになり、彼らの音楽に対して周囲のオフィスからは苦情が出ました。
 そこでミュンヘン市では、許可制を導入しています。どこでも自由に演奏やショーができるわけではなく、時間や場所を市が決めるといった規制を行いました。
 都市のオアシスは、若者だけのものではないですからね。成熟した社会に作られた歩行者街路には、いろいろな人が集まり、そこへ行けば誰でもホッとでき、楽しむことができる、そういう空間なのです。ですから、多くの市民がうるさいと思うものは、コントロールする必要があるでしょう。

★マッド:原宿などは、若者の街とよく言われますが、確かによく見ると、高齢者もたくさん歩いています。やはり人というのは、人が集まる場所に行きたいという欲求がありますからね。人を引きつける街は、老若男女関係なく人を集めるのでしょうね。

★岡:ええ、そして人を引き寄せる街という観点で考えると、やはり日本の歩行者天国はいまイチなんですよ。自動車用の標識や信号や歩道が残っている場所では、本当の「解放区」にはなれないと思うんです。
 もちろん海外にも、歩行者天国はあります。しかし、それはあくまで、本格的な歩行者街路を作るためのテストケースであって、歩行者街路の設置を前提に検討しているだけ。いわば、歩行者天国は、歩行者街路の「仮の姿」なのです。しかし日本では「仮の姿」のまま、今日に至ってしまったわけですね。

★マッド:では、原宿のメインである表参道と明治通りが交わる交差点から青山通りまでを、歩行者街路にできると思いますか?

★岡:歩行者と公共交通機関のみの専用道路、トランジット・モールなどと呼ばれますが、それならできると思います。道の真ん中に公共交通機関だけを通すなどです。
 しかし、表参道を本格的な歩行者街路にするには、ちょっと幅が広すぎますよ。テーブルを置いてベンチを出しても、あの幅では落ち着かない。人が拡散してしまうんです。もう少し落ち着いて街そのものを楽しむためには、道の構造そのものを変えなければならないでしょうね。
 米国のミネアポリスには、六七年にトランジット・モールができあがりました。表参道ほど広い道幅はなかったのですが、バスとタクシーだけは入れるようにしています。公共交通機関が六~七メートル。歩道が一六~七メートルほどになります。
 しかも、その車道と歩道の幅が変化し、歩くにつれて風景が変わるように設計してあります。すると風景の変化に気を取られ、歩行者もなんとなく歩いてしまうわけです。こういった工夫も必要になるでしょう。

★マッド:そうですね。日本では歩行者天国にさえ、十分な歴史もソフトウェアもありませんから、工夫の仕方もわからないという現状があるのではないですか? ただパラソルを立ててイスを置いただけとか。それは、歩行者と道路とのかかわり方に哲学がないからなのではないでしょうか。

■日本で哲学を作ろうとした人

★岡:ただ、日本でも哲学を作ろうとした人もいたのですよ。例えば、警視総監の秦野章さんです。
 確か六八年の寒い時期、まだ私が朝日新聞社の記者だった頃でした。夜の九時頃に自宅の電話が鳴りましてね。「話があるから来てくれ」と呼び出されたんです。赤坂の小料理屋で会うと、「俺な、銀座通りをな、歩行者の街にしてみたいんだよ。休みの日には、音楽隊なんか呼んでね」と、話を始めました。「それ、大賛成。やってよ」と、僕も答えたんです。
 ところが、いざ実現しようとしたら、銀座の商店主が抗議に来たんです。「そんなことをして、全学連に座り込まれたらどうするんだ」と。まあ、時代が時代でしたからね。「おい、参ったよ。あんな伏兵がいるとは思わなかったよ」と、秦野さんはがっかりしていました。
 そういう思いをもっていた警視総監もいたわけです。ところが秦野さんの心を継いでくれる人は、警察にはいなかったようでした。この話を聞いて、現在の警察の方がどう考えてくれるかですね。

★マッド:ここ数年、日本全国の歩行者天国は次々に廃止に追い込まれていますからね。もちろん廃止に追い込んだことの責任を、すべて警察に被せるわけにもいかないとは思いますが……。

★岡:まあ、銀座で起きた反対も商店主から起こったものですしね。しかし、最初は反対の多かった銀座の歩行者天国も、七〇年には実現しました。ニューヨークの五番街で短期間の歩行者道路が実施され、その話を聞いた美濃部亮吉さん、当時の東京都知事が飛びついたのです。
 ただ残念なことに、国民は歩行者天国を「仮の姿」とは思わなかったのですね。つまりスタートから、日本は大きな勘違いをしてしまったことになります。

★マッド:また日本には、やっかいな法律上の問題もありますしね。

★岡:その通り、道路法四八条です。この法律には歩行者専用道路、つまり歩行者街路のことですが、これに関する規定が記されてあり、歩行者専用道路は、まだ使われていない場合しか使ってはならないという決まりなのです。
 つまり銀座通りを道路法上の歩行者専用道路に指定するためには、一度廃道にしなければならないというわけです。

★マッド:それは大変なことですね。

★岡:それでも、この方法を使った街もありますよ。旭川です。七二年、国道を廃道にして迂回道を造り、それを歩行者専用道路にしたのです。
 一方、横浜の伊勢佐木町では、道路交通法の歩行者専用道路を使って、歩行者街路を建設しています。単に立て札を置いて、進入禁止をかけるという方法によってです。
 ところが伊勢佐木町の通りは、法律上はあくまでも「道路」なので、いろいろな制約があります。例えば、歩道部分と車道部分を明確に示さなければならない。高さを同じにしても、舗装や線で区別をつけるなど、すぐにわかるようにする必要があるのです。もちろん電柱にしても、車道に一ミリでもはみ出してはいけない。それに道は直線でなければダメ。この道を計画した市では、歩行者が飽きないために道をくねらせたかったのですが、それもできない。つまり正攻法では、道にオアシスなどつくれない状況だったのです。
 ところが市には知恵者がいたんですね。台座に腰をかけられるように工夫した銅像を設置したのです。つまりベンチではなく、銅像の台座だと主張して、歩行者のためのオアシスをこしらえたのですね。さらに照明灯の台座にも歩行者が座れるようにしました。工夫のしようはあるということです。
 また、八〇年には、大阪で「ゆずり葉の道」ができました。この時はじめて、コミュニティ道路という歩行者街路を建設省が作りました。コミュニティ道路とは、新しい発想に基づいた空間ですが、住宅地の区画道路と歩行者専用道路が並行する一部区間で、両者の境界をなくした仕組みになっているのです。車道と歩道の分け目がなく、道をジグザグにしても法律違反にはなりません。ただし新しい道路でなければ作れないのですが。

■やっぱり行政に任せちゃダメだ

★マッド:つまり日本の法律における道の解釈は、徐々に変わってきているのに、断固として道路法四八条の壁がはだかっているということですね。

★岡:これは、道路法を作る際に、警察がかなり干渉したからだと聞いています。道路を歩行者専用道路にする際には、使用要綱の変更手続きを行わねばならないのですが、それは警察の管轄になります。管轄を建設省に移すには、一旦廃道にするか、新しく道を作る方法しかありません。四八条は、まったく日本独自の一つの大きな壁となっているのです。

★マッド:では、欧州などでは、どこが道路を管理しているのですか?

★岡:すべて市議会です。道路の規格というものがありますね。一方通行とか、車の進入を禁止するとか。そうした道の仕様を決めるのは、すべて市議会の仕事です。
 だって、街に対する住民の意見を吸い上げるのは、市議会の仕事ですよね。ですから市議会に任せるのが、合理的で一般的な考えでしょう。先進国では日本だけが、道路の規格まで警察で決めているのです。

★マッド:なるほど、日本では法律も行政システムも、道に関する住民の意思を尊重するようにはできていないのですね。
 歩行者天国にどのような見解をもっているのか、各政党にたずねてみたのですが、ほとんど関心をもたれてはいませんでした。これで、市民の憩いの場をどうするのか、という哲学が政党にはないとわかったのですが、岡さんの話を聞けば政党に哲学がないのも頷けますね。
 岡さんの著書では、道路以外にもいろいろな問題を指摘していますね。特に商業地域と住宅地域の分化が大きな問題だという指摘は、大変面白いものだと思います。夜、住民がいなくなる都市では、犯罪も増えると。
 オフィス街の土地を、夜、つまり一日の半分寝かしておくのは、非常にもったいないことだと私も思うんですよ。オフィスビルの上をマンションやアパートにして、高齢者に安く貸し出せば、消費も刺激されると思うんですがね。そんな例は外国にないですか?

■人の住まない街に犯罪は起こる

★岡:六七年に米国のミネアポリスにトランジットモールが完成してから、八〇年には、四ブロック南にモールが伸ばされました。そして伸ばされたモールの外れには、三〇〇〇戸の住宅が建設されたのです。高所得・低所得、両方が入れるような住宅がです。すると、意外なことに街に大きな変化が起こりました。
 一つは日曜日でも、半分ぐらいの店が開くようになったことです。そして、夜一〇時、一一時になっても、若い女性が一人で歩けるようになったことでした。これは米国社会では、考えられないことですよね。せいぜいカップルが歩いているぐらいで。
 やはり街に人が住んでいると、犯罪率が低下するものです。同様の現象は、ニューヨークのマンハッタンなど、いろいろな土地で起こっています。

★マッド:ところが日本の都市計画は、いまだにオフィス街中心なんですよね。幕張メッセがいい例でしょう。もう街が寂しげでねえ。全然行きたくありません。お台場も同じ。少しはアパートがありますが、あれではねえ。

★岡:マッドさんも、私と同じように問題を感じています。多くの国民も感じていることでしょう。では行政側は、どうして問題を感じないのか。本当に歯がゆいですね。

★マッド:行政・役人に任せてちゃダメだ、の典型ですね。
 都市計画だけではなく、公共交通機関も日本では大きな問題を抱えていますね。例えば東京都内の地下鉄です。岡さんの著書にも書かれているように、地下鉄というのは一回地下に潜らなければならないから、乗り降りが大変です。最近、世界で見直されている路面電車なら、乗り換えも楽ですよね。しかも総工費は、地下鉄の一〇分一で済む。ところが日本では、造られるのは、いつも地下鉄です。

★岡:仙台に七五年まで走っていた路面電車が赤字に陥った時、路面電車を補助するための制度がまったく存在しませんでした。ところが地下鉄であれば、お金が借りられたのです。そこで路面を廃止し、地下鉄を通したのです。
 しかし、当時の路面電車の赤字は二九億円でしたが、地下鉄にしてからの赤字は一六〇〇億円になってしまったそうですけれどね。

★マッド:ひどいですねえ。そうしたツケは、最後には必ず国民に回ってくるわけですからね。

★岡:こうした仙台の例がありながら、同じような話が、今、広島でもちあがっているんです。路面電車を保存する方向で、市民と広島電鉄とが相談していたにもかかわらず、高架の電車にするか地下鉄を通すと、行政が言い張っているんです。おかしいですね。

★マッド:おかしいですよ。お金を使いたいだけではないでしょうかね。

■公共交通機関を活用すべき

★岡:都市の市街地では、自動車を減らしていく必要がある。僕はそう思っています。それが二酸化炭素排出量の基準値をクリアーすることにも、地球温暖化を食い止めることにもつながるはずです。しかし、そのためには、公共交通機関が非常に重要になります。建設費の確保だけに目を奪われず、どのように活用するかを考える必要があります。
 実際、カナダや欧州では、公共交通機関を乗りやすくすることで、二酸化炭素の排出量を抑えようと試みています。
 公共交通機関が、都市でどのような役割を果たしていくのかという哲学が、日本にも必要でしょうね。そういった点では、日本は先進国より三〇年近く遅れていますから。逆に哲学がみえるようになってくれば、強制せずとも自然に車を減らしていくことが、可能になってくると思います。

★マッド:やはり都市や交通に対する哲学がなければ、良い街も生まれないということですね。また、住民・警察・役所が圧力をかけたり、訴訟を起こしたり、ヒステリックになったりせずに、共に話し合える環境も必要でしょうね。

★岡:哲学があれば、可能なことなのですがね。
            *
「週末だけ解散する歩行者天国はまがいもの。恒久的な『歩行者専用街路』こそが本当の天国」と厳しく指摘する岡並木氏。「並木さんという名前は本名ですか」との私の問いに「そうなんです」とやや照れ臭そうに応えた。岡に並木とは自然環境を大切にするエコロジー時代にこそふさわしい名前ではないだろうか。その並木さん(あえてファーストネームで呼ばさせていただく)が著書「都市と交通」(岩波新書)のなかで「住みやすい街とは」と題してこう語っている。一九六五年から六六年にかけて、北九州市門司区の小倉よりの住宅地に住んでいた頃の体験談である。
「当時、同志社大学のあるグループが、北九州を含めた七大都市の住居を対象に、一生住みたいと思うのはどこか、という調査をした。その結果は最低が北九州で、神戸が最高と出た。東京へ帰ってきてみると、その北九州でさえが、東京より、はるかに文化的な都市のように思えてきた。たしかに東京には他のどの都市よりも文化施設が集中しているし、文化的な催しが開催される頻度も、くらべものにならないほど多いともいえる。けれども、実際にその『文化』に、ひと風呂浴びたあとで接触できる人びとの率は、東京都民一二〇〇万人の何パーセントなのか。くつろぎの中での文化接触率は、北九州市民一〇〇万人のほうが、東京よりむしろ高いのではないか、というのが実感である。
 昭和のはじめ、私は東京の中野の住宅地に住んでいた。歩いて五、六分のところに奇席があって、落語や浪曲がいつもかかっていた。中野ばかりでなく、東京のいたるところ、歩いて行ける範囲にかならず寄席あったという。歩いて行ける範囲というのは、せいぜい十数分の距離であろう。」
 このあと並木さんはこう続ける。
「この十数年来、地方都市の良さがいろいろ見直されるようになってきた。その良さの一つが、私がくつろぎの中での文化への接触率の高さだと思っていた。だが、その良さを地方都市もいま失いはじめているのではないか。市街地から郊外への夜間の人口の脱出が、そこでも急激に進みはじめたからである。」
 今から約三〇年前に並木さんは東京という巨大な街の味気なさを指摘し、さらに理想の都市とは「くつろぎのなかでの文化への接触率の高さ」である、と述べている。
 堺屋経済企画庁長官がつい最近景気浮揚の一策として、いみじくも、こんなことを語った。
  「『歩いて行けるところに楽しみのある街』を作ること」
まさに並木さんが指摘したことである。
 ホコ天は都市の中のつかの間のオアシスだったのかもしれない。そのホコ天が都市から消滅しようとしている。今こそ、ホコ天の先を見据えた論議を行うべきではないだろうか。(■了)

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就職氷河期、リストラ…… 職がない!

■月刊『記録』99年8月号

男性の完全失業者数は過去最悪の数字を記録した。有効求人倍率は前月より〇・〇二ポイント低い〇・四六倍となり、こちらも最悪録を更新した。社会不安と呼べるほど深刻なリストラの嵐と雇用不安。社会の「職なし状態」は依然として続く。

     *     *     *

「夫はメーカーに勤めているんですが、ビラ配りなんかをやらされているんですよ。ほとんどリストラための嫌がらせですね。家族のために夫も我慢しているけれど、そのうち強制的に首を切られると思うんです。だから私が働こうと思って。でも、ほとんど年齢ではねられてしまいます」(四九歳 女性)
 一家の大黒柱が、職を失う衝撃は想像を超えるほど大きい。六月二九日に総務庁が発表した五月の労働力調査によれば、男性の完全失業者数は二五~三四歳で四八万人、四五~五四歳で三三万人、また世帯主では九七万人とすべて過去最悪の数字を記録した。社会不安と呼べるほど事態は深刻の度合いを増してきている。

■パートが生む見せかけの就業率

 七月初旬のある日、私はハローワーク、かつての職安を訪れた。武蔵野・新宿・飯田橋と渡り歩き、玄関から出てくる人に手当たり次第に声をかけてみた。しかしとにかく口が重い。特に男性は声をかけても、ほとんど立ち止まりもしない。片手を拝むようにそっと上げ、視線を落としたまま足早に去っていく。
 失業に対する心理的プレッシャーが、それほど強いということか。
 わずかに取材に応じてくれた五三歳の男性は、あまりにひどい求人状況に、諦め顔でこう言った。
  「俺、タクシーやってたんだけどね、腰を悪くして今、辞めてるんだよ。だけどこの歳になると、なかなかいい仕事はないねえ。仕方ないからまたタクシーに戻るかねえ。あれは腰にくるんだよ。まいっちゃうねえ。妻も子もいるよ。夜、寝られる仕事がいいねえ」
 また、四八歳の主婦は、
  「夫の残業代がカットされてしまって大変です。まだ子どもはこれから大学受験なんですよ。パートして家計の足しにしようと思って仕事を探しにきました。できればね、無理なく長くやれる仕事につきたいんですけど、どうしても年齢がひっかかってパートしかないんです。以前にも大学の食堂でパートしてたけれど、職場は熱いし、油で髪なんかもべとべとになるし大変でした。あれは肉体労働でした。
 今日もいい仕事はなかったですね。フィルム工場のパートがありました。立ち仕事なので不安ですが、工場が家の近くなので、見学してから考えます」
 先の労働力調査によれば、失業者数は最悪を示したにもかかわらず、五月の完全失業率は四・六%を示し、調査以来最悪だった先月よりも〇・二ポイント減少している。こんなギャップが生じた理由は、四八歳・主婦が言うように、女性の臨時雇用の増加にある。
 パートなど、臨時雇用として雇われた女性は、賃金をはじめとする正社員との処遇の格差にさらされる。夫は残業代カットにリストラの不安にもさらされ、妻は低待遇のパートで口糊を凌ぐ日々だ。事態の深刻さは、かなり大きいといえるだろう。

■四〇社受けても内定なし

 次に、「就職氷河期」といわれる大学生の就職状況をつかむべく、首都圏大学の就職課を訪ねてみた。労働力調査では、五月としては過去最多の二四万人が就職浪人という結果が出たばかりだ。まずは、東京六大学の一つといわれる明治大学の就職課を訪れた。リクルートスーツを着ている学生をつかまえて話を聞く。
  「僕は現在、七〇社回りましたが、まだ内定が出ていません。かなり厳しいですね。また採用のための試験期間が長いんですよ。リクルーターに三~四回会って、ようやく本当の試験でしょ。その試験もまた、内定までには三~四回ありますから」(経営学部 男子)
 この学生は、食品メーカーと旅行関係の企業への就職を志望している。実学の代表といわれる経営学部の男子にあってもこの惨状だ。リクルートスーツを着ている他の学生の一人は、すでに四〇社近くの試験を受けていたが、まだ内定をもらっていなかった。
 次に訪ねたのは大妻女子大学。いち早く社会問題化した女子学生の就職状況を見るためである。
  「企業の就職説明会に行ったら、受付でおじさんの社員に『来たよ~っ』って憎々しげに言われたんです。きっと女子が来たことが嫌だったんじゃないでしょうか。非常に頭にきました。私は、アパレル関係を中心に回ってますが、まだ内定は出ていません。周りの子もまだ、ほとんど内定は取れていないみたいです」(文学部)
 また、こんな話も出た。
  「説明会のハガキを申し込んでも、企業からは案内の通知が全然、来ないんですよ。だから仕方なく、大学の就職課から紹介された企業だけを回っています。それしか方法がないので……。
 大学の友達も、やっぱりまだ内定は決まっていないみたいですね。もしこのまま決まらなければ、アルバイターになるしかないね、って話し合ってます。しょうがないですから」(文学部)
 予想通の惨状である。

■不況は首切りのチャンス

 さて、最後に訪れたのは早稲田大学の就職課だ。ところがキャンパスに足を踏み入れて、他大学と何か印象が違うことに気づいた。まず、リクルートスーツでキャンパスを歩く学生が目立って少ない。就職課のドアの前で学生を片端から捕まえてみたが、ここでもほとんどの学生が就職先をすでに決めていた。まだ就職活動中という学生も、これから試験が始まる公務員や教員志望者ばかりであった。
 第一文学部哲学科に在籍し、コンピュータ・ソフトメーカーの採用に内定した女子学生は次のように語る。
  「第一志望の企業に受かってしまいましたので、もう就職活動はしていません。企業への資料請求ハガキがついているリクルート誌は、三年生の十月頃から集め始めました。ハガキを出し始めたのは四年生の三月頃からです。企業に面接などに行き始めたのは四月の終わりからですが、三~四社受けたところで第一志望が受かってしまいましたので活動はやめました。トータルで就職活動は二ヵ月くらいしかしていませんね。今日は、就職課の前をたまたま通りかかっただけです」
 さすが私学の雄、早稲田大学ということか。丸一日取材したが、ここでは不況の嵐はあまり感じることができなかった。
 大学からの帰り道、再び飯田橋のハローワークに立ち寄った。そして、たまたま訪れていた、ある警備会社の求人担当者に話を聞くことができた。
  「完全失業率っていってもね、本人がやる気がない人もかなりいるでしょ。働かない人や長く続かない人とかね。そういう人は自業自得だと思うんですよ。
 今日は(ハローワークに)、求人で来ました。うちはガードマンの会社です。今まではうぞうむぞうの人が集まってきていましたがね、すべて首を切って、しっかりした人を雇いたいと思っているんですよ。私のような業界にとっては、この不況がはャンスですからね」(五三歳 ガードマン会社社長)
 年齢・性別・肩書き・仕事の能力。あらゆるふるいにかけられ、弱者は職を失う。このような事態を、実力主義という言葉だけで片づけてはならないだろう。
(編集部)

     *     *     *

T・T 国士舘大学工学部土木工学科 男子
■理系神話は崩れている

 私は大学四年になり、自分のやりたい仕事をするために就職活動をしている。
 世間でも大学でも「就職氷河期」と、洗脳でもするかのように口をそろえていうが、実際に就職活動を始めるまでは「大変なのは文系の女子大生で、自分は男でしかも理系だから関係ない」と思っていた。「就職氷河期」はまさに「他人事」としか考えていなかったのだ。しかし、実際に就職活動をしてみると「就職氷河期」どころではなく「超就職氷河期」であり、自分の希望する職に就けるかどうか不安になっていった。
 自分は工学部土木工学科に在籍し、将来は土木技術者になるために土木科を希望したこともあり、就職先も建設会社か道路会社で、設計者か技術者を希望していた。七〇社以上に資料請求のハガキを出し、インターネットメールも使って資料請求をした。さらに、合同企業説明会にも積極的に参加し、そこでも二〇社以上に資料請求ハガキを出したが、時代は「超就職氷河期」、帰って来た会社案内の資料はたったの三〇数社。資料請求した会社の半分以下だった。
 就職情報紙や合同企業説明会に参加していない会社にも、直接電話で資料請求をしてみたが、ほとんどが「今年の採用はありません」と言われた。なかには「今年の採用は指定の大学以外では行っていません」などと、ふざけたことを言っている会社もあり「そんな会社には頼まれても行かない」と強がりを言ったりしたこともある。このように、実際に会社訪問を始めてみて「超就職氷河期」を実感した、というかさせられた。
 どこの会社の説明会を訪れても、採用人数をはるかに超える就職志望者がいた。そこには企業の業種とは、ぜんぜん関係ない学部や学科の学生も大勢いた。しかし、そのあたりは会社のほうもはっきりとしたもので「業種と関係のない学部または学科の人は就職試験を受けられません」と言い切っていた。会社の言い分もよくわかるが、本気でその会社を志望している学生にチャンスくらいは与えてほしい。
 自分が感じたことだが、会社訪問とは就職活動をしている学生が会社をよりよく知るためにあるのではなく、会社が足切りをするために設けられているものだった。会社訪問をしても就職試験を受けられるわけではなく、かと思えば面接をしたわけでもないのに提出書類で就職試験を受けられるかどうかが決まるところもある。
 なかには「近いうちに試験日程を送付します」と言われ、日程が送られてくるのを一ヵ月近く待っていたが、あまりにも遅いので電話で確認したところ「就職試験はもう終了しました」と言われた。要するに足切りをされていたのだ。これには、さすがに怒りが湧いてきた。
 建設業界はまさに冬の時代であり、学生の就職率も落ちている。どんなに学生が就職したくても受け入れる場所がない。
 まさに「超就職氷河期」まっただなかである。

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K・K 國學院大学文学部文学科 女子
■就職活動は中小企業に限定

 私の就職活動は、三年生の十一月から始まった。大学での就職ガイダンスをかわきりに、いくつかの就職情報誌への登録を行った。このようなガイダンスを行っていない大学もあるので、私の大学は学生に対し、良心的といえるかもしれない。
 また、運良く今年から大学に、パソコンによるネットワークシステムが整備されたので利用することもできた。校内アカウントが発行され、パソコンを持っていない学生にもインターネットを活用する場が提供されたのだ。これは就職活動をする上で大きなプラスとなった。
 その後、自宅に三キロはあろうかというハガキ付きの会社案内資料冊子が送られてきた。今年は、企業からの資料の送付は、性別や大学に関係なく行われたようだが、去年の先輩の話では、女子学生と女子大学の学生には遅配がみられたとのことである。
 早速、資料の冊子を使って希望に合う会社を絞り込んだ。私には大手指向が全くなかったので、中小企業に最初から目を向けた。女子学生だけにとどまらない慢性的な就職難という近年の状況を考えると、早くから中小企業に絞ったほうが内定が出やすいと思ったからである。
 大手はエントリーシートを使って、応募者の絞り込みを事前に行うので、募集期間が比較的長い。それに比べて中小企業はかなり早い段階で内定を出し、優良学生を確保しようとするので、私には青田買いとしか思えないような、五月上旬に内定を出した学習塾もあった。
 また、大手企業は、会社案内資料冊子に企業案内を載せないことが多い。掲載されていたとしても、中小企業と違い、料金後納ハガキを添付してくれたりはしないので、自分でハガキを買って出さなくてはいけない。まあ、ここまでは当然だとも思うが、ほとんどの大手企業は、その後資料を送付してはくれなかった。これには多少なりとも差別を感じてしまう。私が文系女子学生だからなのだろうか。だから会社訪問や説明会への参加という時期になっても、常に中小企業を中心に置いてきた。
 また、私が教職課程を履修していたことも、内定を早期に出す中小企業を選んだ理由の一つであった。私は教育実習の行われる六月までには内定が欲しかった。実習中に第一志望の会社の採用試験が行われることも稀ではない。泣く泣く試験を断った友人もいるので、教職を履修するならそれなりの覚悟をしなければならない。教職を取っていることで、面接の時に嫌がらせ的な質問をされる人の例も聞いたが、教員は募集も少なくリスクが大きいため仕方がない。
 内定を得てはいるが、私は就職活動をまだ続けるつもりでいる。今後は通年採用を行っている企業や難関といわれる大手の企業にも手を広げ、将来の可能性をさらに伸ばそうと考えている。しかし企業の反応はまだわからない。多くの就職が決まっていない学生と同じく、夏が正念場となりそうだ。

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T・O 休職中(三三歳 女性)
■アルバイトでさえ年齢がネックに

 十数年ぶりに職安へ行き、まず人の多さに驚いた。その後は行くたびに増えていった。あたり前だが、皆の顔も一様に暗い。年代はさまざまであるが、五〇歳過ぎとみえる男性が目立つ。その年代用の窓口まである。
 聞くともなしに聞こえてくる、ため息と弱々しい声。ふと見ると六〇歳前後の男性が背中を丸めている。若くはないということがそんなに負い目になるのかと腹が立ってくる。私はといえば、自分の見たい求職ファイルが一つもない。すべて誰かが閲覧中なのだ。
 やっとファイルが空いたので手に取ってみた。年齢、資格と条件が重なり狭き門。特に私は、無資格で勤められる福祉関係を探していたので余計に厳しかったのかもしれない。これでは正社員になることなど夢のまた夢である。早々にアルバイトへと目標を変更した。だが、それにさえも並々ならぬ苦労が待っていたのである。
 職安からの紹介ではないが、数日後に、知的障害者の作業所のアルバイト採用面接を受けた。資格は問われなかったが、たった一名のみの募集であった。作業所に慣れるため、面接をするまでに何回か施設を訪れた。例年ならば一人募集の枠にせいぜい二~三人の応募者がある程度らしいのだが、不況、そして福祉ブームの影響を受けて、私が受験した面接には一〇人の応募者があった。さらに面接は一日がかりだった。一〇倍の競争率に緊張感は高まり、一日でどっと疲れが出た。それでも不合格。「バイトであればすぐ決まるだろう」とタカをくくっていた思いは、見事に打ち砕かれた。
 不景気だからだろう。雇う側の対応は本当に冷たい。某カード会社のアルバイト募集面接を受けた時のことだ。面接の時間通りに行くと、まず守衛所で呼び止められ、確認のためしばらく待たされた。ビルの中に通されると、ホテルのような広いロビーに案内された。「この辺で待っていてください」とだけ言い残し、守衛は去ってしまった。応募者が他にいるのかも、担当らしき人が誰かもわからない。
 やっと面接の段になっても、待たせたことを詫びるでもなく、事務的にバイトの内容を説明し、私に自己PRをさせ、それが終わるや否や質問はないかと尋ねられた。その時点で私の履歴書は横に押しやられ、代わりに交通費の入った袋を差し出された。
  「ご苦労様でした」と機械的に言われて終わりである。この間五分程度。面接の日にちまでも随分と待たされたのにである。
 某ホテルの予約受付のアルバイト募集面接を受けた時にも、似たような体験をした。年齢のことを根ほり葉ほり聞かれ、ただただ不愉快な思いをした。もちろん両社とも不合格であった。
 アルバイトでさえ、三三歳という年齢が致命傷になる。職安で見た背中を丸めた、ため息混じりの男性を思い出した。求職への思いの辛さを実感した。

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だいじょうぶよ・神山眞/第19回 進路の選択(後)

■月刊「記録」2001年4月号掲載記事

*          *            *

 中学を卒業する正利の、進路の問題が持ち上がっていた。
 最後の選択肢は養護学校。「愛の手帳」を取得して国から知的障害者としての認定を受ければ、養護学校に入ることができる。けれど、一度この認定を受けてしまったら、もう元には戻せない。二度と一般就労ができなくなってしまうのだ。正利のような知的障害者と健常者のすれすれのケースでは、「愛の手帳」のメリットは少なかった。
 あほで、学習能力がなさすぎる正利。それでいて何かが起こると最終的にいつもぼくのせいにして泣きついてくるのだ。そんな気の変わりやすいあいつに「愛の手帳」を取らせてしまったら、将来ぼくにきっと、こう言ってくるはずだ。
「なんか、おれ、もう、あいのてちょう、いらないきがするのよ」
「ばーか、もう元に戻せねぇよ」
「せんせ、ひどいよ、なんで、おれにあんなのとらせたのよ」
「おまえが取りたいって言ったんじゃん」
「おれ、いってないのよ。せんせのせいなのよ」
 やはりぼくには、気がひけるのだった。
ぼくにとって正利は…
 進路かぁ…。進路ねぇ…。正利の進路について考える日が多くなっていった。いずれにしても、あと一年でやっとあいつとは別れられるのだ。
 さっぱりする…これで肩の荷が下りる、と、そう思うだろうと自分でも思っていたが、考えているうちに、次第になんだか少し変な気分になってきた。
 寂しい? いや、違う。せいせいする? いや、それも違う。どちらも少しずつあるのだが、何かが少しずつ違う。
 何だかあいつがそばにいないと落ち着かないような気がする。そばにいたらいたでイライラと腹を立ててしまうことも否めないが、もしかするとぼくには、あいつの存在が、ひどいくらいに必要なのかもしれなかった。
 いつだって、あいつのいるところにぼくはいたし、ぼくのいるところにあいつはいた。ぼくが一人でいると誰かしらが「正利なら、中庭にいるよ」と声をかけてくれたし、あいつが一人でいても、やはり誰かが「先生なら、事務所だよ」と教えてくれる。そうすると、なぜかいても立ってもいられずに、「おーい、正利! おーい、おーい、正利いるかー?」「せんせ、せんせ、どこいんの?」…。お互いたいした用事などありもしないのに…。
 不思議な関係だなぁ。ふと、そう思う瞬間がある。子どもの頃、ぼくは一人で家に帰ることが好きだった。色々なことをあれこれ考えながら一人家路につく。その時間を誰にも邪魔されたくなかった。
 それでも高校の頃は、放課後には毎日のように、友達と繁華街にくりだした。本やテレビでそういった風景が実に楽しそうに描かれていたので、自分も試してみたのである。結果、何もおもしろくないことを知った。いや、仲間と一緒にいることは、なんだか苦痛ですらあった。
 学校も繁華街も仲間も、実際はテレビで見たほど魅力的なものではなかった。それよりもぼくは早く家に帰って一人で本を読み、音楽を聴きたかった。けれど、家にいれば家にいたでまた人間関係があり、これもまた苦痛以外のなにものでもなかった。家族揃って、食事をしなければならないとき、ぼくはみんなの話に「あー」とか「うん」と適当に相づちを打つだけだった。新聞を食事の隣に置き、絶対に誰とも視線を合わせたくなかった。そんな記憶がある。
 なのにどうだ。今のぼくはどうしたことか。あいつが気になって仕方がない。なぜ? なぜ? こんな薄汚いぼーっとしたやつのどこがいいんだ!?
「あいつがいなくなったら、ぼくはどうすればいいんだろう」
 そんな所在無さみたいな不安感。理由こそわからないが、ただただ、そう思ってしまう自分がそこにはいるのだった。(■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第18回 進路の選択(前)

■月刊「記録」2001年3月号掲載記事

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 こんなに他人に振り回された年ははじめてだった。
 それにしても少し気になるのは、正利の姉の直子のことだ。年に数回会いに来て、正利の送り迎えのときにいつも二言三言挨拶を交わすくらいで、ぼく自身は彼女のことをよくは知らない。しかし、その先生も彼女のことをあまりよくは言わないのだ。ぼくと同い年の直子。仕事は水商売。それは服装に表れていて、鈍いぼくでさえ一目でそれとわかったほどだ。まぁ、どんな職業だろうと、将来的に正利の面倒さえ見てくれれば、それでいいわけだが、そうスムーズにはいきそうもない感触を職員たちは正利と直子の関係に抱いていた。

■3つの選択肢

 年が明けると、会議に追われる日々が続いた。まだ進路の決まらぬ子、問題行動が多く担当の職員を変えなければならない子、就職が決まり社会経験を積ませるためにアルバイトを始める子……。我々職員にはやらなければならないことが山ほどあった。正利に関しては、このまま普通学級進級でいいのか? という問題が議題に上がった。1年後の正利の進路には大まかに分けると3通りの可能性がある。就職、高校、養護学校進学の3つである。
 15歳での子供の就職は、建築業を中心に就職先自体はあるにはあるのだが、そこから先がイバラの道になる。15歳で施設を出て、仕事をそのまま順調に続けていったなどという例はこれまで皆無に近い。だが1つめの仕事を辞めてしまうと、あとは坂道を転げ落ちてゆくようなものだ。彼らが仕事を失うということは、我々のそれとはだいぶニュアンスが違うのだ。
 まず、最初に学校や施設の紹介で斡旋してもらった働き口には、我々の配慮で必ず寮がついている。ここがポイントで、つまり、仕事を失うということはイコール住む場所も失ってしまうということなのだ。この時点で、彼らは家無し、金無し、相談相手無しという最悪の状態に陥る。15歳で就職を選択するということは、家族など面倒を見てくれる誰かの存在なくしては、非常にリスクの高い賭けみたいなものなのである。
 正利の場合、もしも全寮制の知的障害者のための更正援護施設に入っても、あいつのように中途半端に自意識と能力があると仕事を続けることは結構難しい。とはいえ施設を飛び出してみても、その頃はすでに外の世界とのレベルの差が埋められないほどになっていてたいがいは通用しない。結局どこにも所属できず、その日暮らしの生活に墜ちていくことになるのが目に見えてる。
 では、進学はどうか? と考えると、オール1の成績の正利では、まず、公立の高校は無理だ。かといって高額の入学金、学費がかかる私立への入学など、当時の施設事情が許すはずもなかった。では、最後の選択肢である養護学校。しかし、ここに入るには「愛の手帳」を取得して知的障害者として国から認定される必要がある。けれど一度この道を選択してしまうと、二度と元には戻れぬことから、選択することはさすがにぼくにも躊躇された。
「愛の手帳」を取得することは、障害者としてのレッテルを貼られるということに他ならない。それでいて、正利のような知的障害者と健常者のすれすれのケースでは、重度の障害者のようにまとまった額の年金を受け取ることができるわけでもない。また、「愛の手帳」があるかぎり、養護学校を出ても、もう二度と一般就労は出来なくなる。どこかの障害者更正施設の作業所に所属するという手段もあるが、こういう場合の月給はせいぜい1万円とか2万円で、一人暮らしをするには経済的に無理が出る。生活に必要な介助者を雇うにしても、介助費が公から出ることはない。グループホームに入るにしても、月に8万から10万円は納めねばならず、これも到底無理になる。
 そういうわけで、親がいて、経済的な援助があり、グループホームに入ることができる環境にあるか、家から通所で作業所に通えるケース以外では、「愛の手帳」のメリットは微々たるものになってしまう。
 それに正利はよくいじめられた。「しんたい」だの「しんしょう」だのと、正利のことを同い年の男の子たちがはやし立てるのだ。彼らにしてみれば、覚えたての言葉をわずかばかりの知識に当てはめて、正利のことを身体障害者のイメージで捉えていただけのことだろうが、言われたほうの正利は不満らしく、そのたびに、わざとらしく目つきを鋭くして、不機嫌極まりない顔でぼくにこう訴えてくるのだ。
「せんせ、あいつらおれのこと、しんたいって、よぶのよ。せんせのほうから、ちゅういしてほしいのよ。おれはしんたいなんかじゃないのよ」
 …あいつときたら、能力は未成熟なくせしてプライドだけは高いんだ。
 正利の気持ちはいつも矛盾していて、友達に「しんたい」と言われると「おれはしょうがいしゃじゃない」と言う。けれど児童相談所のお姉さんに優しく「愛の手帳」の取得を勧められると「あー、はい、とりたいんです」と、すぐその気になってしまう。
 そんな気の変わりやすい正利に「愛の手帳」をとらせてしまうのは、どうなのだろうか。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第17回 正利の脱走・2

■月刊「記録」2001年2月号掲載記事

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 真夜中。学園から脱走を図ったはいいが、小学生の隆志を連れ、行くあてもなく途方に暮れかかっていた正利に、突然、珍しくアイディアが浮かんだ。
「そうよ。おねえちゃんのとこ、いけばいいのよ」
 金沢八景にいるお姉ちゃんのところへ行けば、何もかも解決するだろう。正利はそう思ったのだ。
 距離にして彼らの位置からおおよそ30キロ、細かい道順も分からなかった。けれど正利にはいけるような気がした。彼は隆志を連れて線路沿いに金沢の方向へ歩き出した。電車に乗ればアッという間の距離である。最初は順調であるかに感じていた正利であったが、どんなに歩いてもなかなか距離が縮まらないことに気づきはじめた。
 始発電車が動く頃になって、なんとか二人はある駅にたどり着いた。距離にして4~5キロ、時間にして1時間ちょっと。学園のある駅から二つ目の駅で、二人は歩くことをとうとうあきらめた。
 そもそも隆志にしてみれば、動機などなにもなかった。ただ、正利君に誘われたからついてきただけだ。このままどこまでいっても無駄足だ。そんなことが小学生である彼にもぼんやりとわかってきた。
「正利君、どうするの?」そう聞こうと彼を見上げた。 するとそこには、ただボンヤリとした正利が両手をぶらんとさせて突っ立っていた。
 隆志は話しかけるのをやめた。
(ぼくが思うに、いつもこうだ。正利という奴はいつもこうなんだ。さんざん人を巻き込んでおいて、あとのことは人まかせ、気の向くまま。何も考えていない。何の感情もない、本当に無責任な人だ)
 締まりのない口を半開きにし、疲労と睡眠不足と空腹だけを漂わせて突っ立っている正利。その横で隆志は、仕方なくまわりをキョロキョロと見回した。
「あ、」
 隆志は、突然びっくりしたような声を上げた。
 「ここ、ぼくのお父さんが住んでるところだよ!」
 偶然にもその駅の近くには隆志の父とその内縁の妻が住むアパートがあったのだ。
 二人は何も考えず、隆志の父の住むというアパートに行き、ただただチャイムを鳴らし続けた。隆志の父が叩き起こされて出てきた。こんな朝早くからいったい誰なんだ・ ドアを開けるとそこには施設に預けられたはずの小三の息子と、ぼーっとした焦点のあいまいな小汚い中学生が立っている。
 隆志の父は急いで学園に電話をした。
「いったい、おたくの施設はどういう管理をしているんだ! ふざけんじゃねえぞ!」
--そういう経緯であった。

■これぞまさしく「禊」

 ぼくたちは二人を無事に学園に連れ戻した。けれどここからが我々職員にとってもう一仕事なのである。早くお開きにしてしまったほうがお互いに楽なのは間違いない。しかしそうしたらそうしたで、周りの連中にこう言われるのである。
「神山先生、やる気ないんじゃない」
「あんなんだから、正利出ていっちゃうんだよ」
「今回のことは重要よ。ちゃんと総括して、私たちに報告する義務があるはずよ。今は情報公開の時代よ」
 …あほらしい。で「禊」だ。そう、禊みたいなもんだ。これをやって、あと悔しそうに落ち込んでいれば、誰も文句はないはずだ。そうふんぎりをつけてみても、あいつを目の前にすると、絶望的な疲労感がぼくを襲うのだった。
 まるで魂を抜き取られたかのような正利。隣の小学生の隆志が悲痛な顔をしているのとは実に対照的だ。
 そんな間抜け面の正利も主任の問いかけに「はい」とか「いいえ」とか答えている。ぼくと二人っきりだったら、うんともすんとも言わないくせしやがって、調子がいいんだよ、このあほづら野郎。
 その場にいるだけでムカムカする。正利のせいでこの1、2週間ずっとこうだ。もういい加減にしてほしい。今の状況からぼくは一刻も早く解放されたかった。
「正利はどうしますか」
 主任に聞かれ、思わず「あー、もうちょっとここで話をします」と答えてしまった。ああ、なんて面倒くさいことを選択しちまったんだ。そう後悔し、ふと、あいつの顔を見ると、その顔にはさっきと違う強いものがやどっていた。その表情は、明らかにふてくされた態度も見えるし、ぼくを小馬鹿にしている表情にも見えた。
「おい、おい、脱走までしたのに、なんだよ! 早く自由にさせろよ。お前の言ってることはよくわかんねえんだよ!」今にもあいつの口から、そんないつものあいつとは違う、荒々しい言葉が出てきそうだった。
 後日、他のどの職員に話しても、誰もが「えー、あの正利が」と、誰もとりあってくれなかった。しかし、たしかにそんな態度を見たのだ。間違いない。なぜならそのときの態度を、7年後の今もぼくに取り続けているのだから。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/旦那と別れて借金地獄・矢野淑子さん(年齢不詳)

■月刊「記録」1998年2月号掲載記事

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■離婚してから借金生活

 あたしが野宿、つまり路上で生活をするようになった原因は借金よ。あっちこっちのサラ金から借りたからね。一つのサラ金が融資の限度額になると、別のサラ金に行って借りて、そこがいっぱいになると、また別のサラ金に行って借りて。だから、どこのサラ金からいくら借りてたかなんて、もう自分でもわかんないのよ。融資限度額はどこも50万円くらいだから、サラ金7・8社から、元金で400~500万円くらいになるんじゃないのかねえ。
 5年前に旦那と離婚したのがきっかけで借金をするようになった。離婚がショックだったわけじゃないけれども、あれから何となく遊びほうけちゃってね、借金重ねながら暮らしていたのよ。
 でも、あたしはお酒は飲まないし、ギャンブルもパチンコを少しするくらい。じゃあ何に使ったんだって?着るものと食事代だねえ。そんな生活を2年ほど続けたのよ。
 そうなると借金の督促がすごいでしょ。たまにアルバイトがあってもさ、稼げるおカネなんてたかが知れている。利息分にも足りないよ。それで夜逃げ……、といっても実際には朝堂々とアパートから出てきたんだけどね。
 でも夜逃げしたって借金の督促は追いかけてくるから、住所を移すこともできないのよ。しばらく友達のアパートを転々としていたんだけれども、それも長くは続けられない。

■いまだに謎の父親の死

 それで、渋谷の区役所前で野宿をするようになった。94年の秋くらいかしら。寒くってね。夜、ベンチになんか寝てられないの。渋谷の駅の周りをグルグル、グルグル朝まで歩き通していた。それで昼間寝るのよ。初めのころは、そんな毎日だったわね。
 野宿を始めるのに、女だからって別に決断なんかいらなかったね。もともとが大ざっぱで、いいかげんな性格なのよ。どんな気持ちがしたかって?そんなこと覚えていないよ。通行人に見られたって、さほど気にならなかったし。1年くらいしてからだね、新宿西口に移ったのは。
 生まれは大阪。5人兄弟の末娘よ。6歳のときに、おやじの転勤で東京に越してきた。そしておやじがその年に死んで……。自殺だったんだよね。あたしはまだ小さかったから、理由とか、どんな死に方をしたのかは教えてもらえなかった。だから、今もおやじの死は、あたしには謎なんだよ。
 おふくろが病弱だったからさ、それからは生保(生活保護)で食いつないだよ。働いていた一番上の兄を除いて、おふくろと兄弟5人が、六畳一間に肌を寄せて暮らしていてね。ただ、あたしはあまり自分が貧乏だってこと、感じてなかったんだ。学校のクラスにも、生保で暮らす子は何人もいたしね。
 中学生のとき、病弱なおふくろに代わって、兄があたしを引き取ってくれて、静岡に行ったんだ。その後、兄の仕事の都合で大阪に移って、高校も大阪。結構、ごんた(大阪弁で「不良の一歩手前くらいの子」をいう)な高校生で、学校から帰ると梅田に繰り出しては、遊び歩いていたよ。でも、今と違ってテレクラとか、ゲームセンターがあるわけじゃないから、喫茶店に入って音楽を聞きながら、お茶を飲んでいただけ。かわいいもんよ。 ソフトボール部に入っていたんだけれども、ある日部活のみんなで集団万引きをしたことがあった。面白半分だったんだけど、それがバレたんだよ。チームは大阪府代表で国体に出場することが決まっていたから、学校のほうがあわてちゃって。結局、主将だったあたしと副主将の二人が、責任を取らされることになって中退よ。高校三年生の夏だったねえ。それでチームは無事国体出場を果たしたんだから。
 しょうがないから東京に出てきて、喫茶店のウエイトレスをしばらくしてから、パチンコ屋に住み込んで働いた。これが15年くらいと結構長かった。そこでは、ずっとカウンターばっかりやってたけれども、結婚してからはパチンコの釘師をしたこともある。旦那が釘師だったんで、教えてもらったのよ。

■野宿の女同士で助け合いたい

 旦那とは、恋愛とかそういうんじゃなくて、周りの人たちが一緒にさせたがったんだよ。年が10も離れていたし、これといってひかれるところがあったわけじゃなかった。おとなしい人だったよ。旦那が一言いうと、私は10も言い返しちゃって、性格もホント、正反対だった。
 そのうちに、旦那が浮気をして、相手の女に子どもができた。あたし、相手が水商売をしているんだったら、別れてやらないと思ってたんだけれども、普通の人だった。だから3人で話して決めたんだ。あたしも父親がなくて育ったからね。生まれた子を父親のない子にしたくはなかったんだよ。それで、離婚して、あたしは身を引いた。旦那との生活は5年続いたね。サラ金に手を出したのは、その後間もなくだったねえ。
 97年の夏、北アジアの女性たちを招いたボランティアの会議があって、あたしの話を聞きたいって頼まれてね、野宿をするようになったいきさつなんかを話したんだ。そうしたら、女の野宿者が、みんなの前に出て話すなんて、どうやら初めてのことだったらしいんだ。それが縁になって、野宿している女性とボランティアの集まりができて、今、リーダーをやってるのよ。集まりの名前は「心を開く輪」っていうんだ。
 女の人で野宿をしている人の中には、隠れてしている人が多いのよ。私達が声をかけても「私は野宿者じゃありません」って、否定する人もいるんだ。病気になったときとか、いじめやセクハラにあったときなんか、みんなで助け合ったり、相談をしていけたらいいと思ってやっているんだけれどね。みんな、もっと、表に出てきてほしいよ。
 以前、通行人のおばさんの一人に、「何で野宿なんかしているの? 私だったら、こんな生活は絶対にしない」っていわれたことがあるの。腹が立ってね。「じゃあ、あんたは旦那から急に離婚されて、女一人で生きていけるだけの蓄えがあって、技術か資格でも持ってるの」と言い返してやったんだ。野宿していることが特別じゃなくて、みんなこうなる可能性があると思うんだ。
 あたし自身は、野宿をしていても、「食べていくためには働かなければ」って思っているから製本工場で働いている。アルバイトだから収入は一定しないけれども、おカネさえある程度のメドがつけば、またアパートが借りられると思う。借金の清算もしないといけないけど、もう3年も放ってあるから1000万円くらいになってるんだろうな。あとは自己破産するしかないね。アパートを借りるより、その手続きをするほうが先かな。 (■了)

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ホームレス自らを語る/まあ、ばからしい人生さ・野口辰吉(66歳)

■月刊「記録」1999年6月号掲載記事

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■夢なんか最初からない

 何ていったらいいのか、面倒くさいんだよね。人生が面倒くさい。ホームレスをしているからいうんじゃないよ。若いころからずっと生きていることが面倒くさかったんだ。
 ホームレスって、こんなところに座って、一日中ボーッとしているだけのように見えるだろう。でも、こうやって生きていくのも結構大変でね。だから怠け者ではないんだ。怠け者だったら、とっくに死んでるよ。死んじまうか働いているほうが、こんなところでただボーッとしているよりも、よっぽど楽だからね。まあ、ホームレスっていうのは、そういう人間の集まりなんだよ。
 生まれは秋田県の山の中にある小坂っていう町だよ。家はちっぽけな駄菓子屋をやっていた。小坂は鉱山の町でね。そりゃあ大きな鉱山だったよ。
 戦時中は大勢の捕虜を使って、銅とか亜鉛なんかを掘っていたんだ。捕虜にアメリカ兵もいたせいか空襲なんてなかったね。ああ、一度だけ警報が出て、防空壕に逃げ込んだことがある。そのときだって飛行機の音なんて全然聞こえないから、「どこが空襲なんだ?」ってくらいのもんさ。もっとも、今から考えるとあんな山の中に爆弾を落としても、どうにもならなかったと思うけどね。
 だから戦争が終わると、働かせていた捕虜が暴動を起こすなんていううわさが広まった。でも、何も起こらなかったね。終戦の前後に、おれは中学校を卒業して高校へ進んだが、高校生活は一年で終わりになった。学制改革かなんかでゴタゴタしてたからね。おれにはよくわからないけど。
 それからは就職っていうか、地元でいろいろ働いたよ。いろいろっていえば、いろいろさ。それで23歳か24歳のときに東京に出てきた。
 東京に出たといっても夢とか希望とかがあったわけじゃない。強いていえば、流行のようなもんかな。みんなが行くから「おれも行くべ」ってね。それに地元で働くことが面倒くさくなってもいたしね。

■何でも面倒くさい

 東京に出てから最初はレンガ工になった。レンガを積んで、建物の外壁や公園の花壇を作るのが仕事なんだ。それにブロックを積んで、塀なんかを作る仕事もあった。勤め先は一応は会社だったけれども、働いているのが5、6人のちっぽけなところだったからね。日雇いに毛の生えたようなもんさ。
 仕事が面白かったのも初めのうちだけだった。雨がいけないよ。雨はだめだ。雨が降ると仕事が休みになるだろう。そうなると朝からアパートの部屋に集まってばくちが始まるんだ。チンチロリンだとか花札だね。周りは先輩ばかりだから、おれだけやらないわけにはいかないしね。そうやって悪いことを教えられていくんだ。
 休みの日は朝から酒を飲むことを覚えたし、キャバレーに行くことも覚えた。競輪・競馬などのギャンブルもよくやった。それから、女。まだ、赤線も青線もあったころだからね。よく買いにいったよ。結局はただ遊ぶだけのために仕事をしているようなもんだったよ。気がついたときには、婚期もすぎてパーになっていた。やっぱり何かするのは面倒くさいっていうのが先に立っちゃうんだな。
 50歳をすぎたころから、仕事をすると疲れがひどくたまるようになってきてね。特に両腕の疲れがひどくて、重いものが持てなくなった。それではとても続けられないから、レンガ工の仕事は辞めた。それからは、あっちへフラフラ、こっちへフラフラして暮らしてるよ。もう仕事なんてしないさ。アパートも池袋や新宿を転々としているうちに、いつの間にかホームレスになっていたんだよ。
 だから、何月何日からホームレスになったというわけじゃないのさ。いつの間にかごく自然に、気がついたときは、もうホームレスになっていたんだ。ここにいる連中は多分みんなそうだと思うよ。
 97年には65歳になったから、新宿区役所に相談に行ったんだ。そうしたら施設に入れてくれた。そこは畳一畳分くらいに小さく仕切った部屋がいっぱいあって、まあ寝るだけのところだった。それでも食堂があって3食ついていたし、風呂もテレビもあった。けれども20日間くらいで出てきちゃったよ。
 何で出てきたのかって? ああいうところにはいろんなやつがいるからだよ。根性の悪いやつとか気の合わないやつとかね。みんなを支配しようとするやつまでいる。そんないろんなタイプとうまくやっていくのは面倒くさいよね。それで出てきちゃったんだ。人間が集団で暮らしていくと、うまくいかないもんだよ。その点一人は気ままでいいね。
 季節もよくなってきたし、こうやって公園にじっと座って、花などを見ているのもいいもんだよ。これからはホームレスに一番いい季節だしね。

■誰か拾ってくれないか

 カネ? カネなんか持ってないさ。前は使用済みテレホンカードを拾って稼いだりもしていたけどね。そのころは一枚30円で売れたんだよ。ところが今は一枚4円だっていうからね。一日歩いて回っても10枚くらいしか拾えないだろう。それを売ったところで40円にしかならないよ。一日に40円じゃ何もできやしないよ。
 食い物もなかなかありつけないね。今ではボランティアの炊き出しとか差し入れだけが頼りだよ。コンビニやファストフードの店から出されるゴミだって、今はホームレスの数が増えちゃって競争が厳しいから、弁当なんかなかなか拾えない。だから年がら年中腹を空かせているよ。
 まあ、ばからしい人生を送ってきたと思う。だけど、このままの暮らしを続けていくよりしょうがないよね。いろいろ考えたりするのは面倒くさいだろ。誰か、おれみたいな人間を拾ってくれないかね(笑)。 (■了)

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ホームレス自らを語る/人とうまく話せなくて・木下良明(三〇歳)

■月刊「記録」1998年5月号掲載記事

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■酒で気が楽になるから

 おれ、人と話すことが苦手なんだ。というよりも、うまく話すことができない。この間も、スポーツ新聞でビルの外壁掃除の募集広告を見つけて応募したんだけれども、面接でダメだった。緊張すると心臓がドキドキして、冷や汗が出てくるんだ。それに頭のなかも真っ白になる。もう、何を聞かれているのか、どう答えたらいいのか、混乱してわからなくなっちゃう。面接では一言も答えられなかった。結局、不採用だった。
 考えてみれば、小さいころからずっと無口だった。生まれは仙台市。4人兄弟の末っ子で、家は農業をしていた。勉強ができなくて、数学、国語、英語、みんなダメだった。それで中学を卒業して、すぐに働きに出た。左官の見習いに。といっても親方に弟子入りするんじゃなくて、見習いだけで30人も40人もいるような会社だった。だから、職人も合わせると100人くらいはいたんじゃないかな。
 会社は同じ仙台にあったけど、寮に入った。見習いは寮に入るのが決まりで、職人になると出られるんだ。修行は厳しかったよ。特に冬はつらくて、水を使う仕事だから、手はアカギレだらけで、それがヒビ割れて痛くてたまらない。でも、仕事は覚えた。覚えるコツは、職人の目の動きを見ることだった。2年後に、左官の技能試験を受けて二級に合格した。
 それで職人に昇格できたんだ。見習いのときは小遣い銭程度しかもらえなかったのが、職人になった途端に給料が15万円ほどになった。カネはたまったよ。
 だけど、一年くらいして会社を辞める羽目になっちゃった。原因は酒。おれ、酒が好きでね。毎日飲まないといられないんだ。最低でも五合、多いときは一升飲む。ところが、普段の無口の反動なのか、酒が入ると怒りっぽくなって、人にケンカを売っちゃうんだよ。そのときも、先輩と大ゲンカをしたのが尾を引いて、会社を辞めざるを得なくなった。
 それで東京に出てきた。18歳だった。東京にはずっとあこがれていたんだ。24時間やっている店があって、にぎやかそうで、そういうのにあこがれていた。仙台なんて、店は夜の11時にはみんな閉まっちゃうし、やっぱり田舎の街だから。

■日雇いが適職かもしれない

 東京に出て、最初に炉端焼きの調理場に入った。それからすし屋で働いたり、ピンサロのボーイをしたこともある。でも、みんな酒が原因で辞めた。酒を飲むと人が変わっちゃうところが直らないんだ。
 失敗するたびに自分でも情けなくなる。自分がどうしようもない人間に思えてたまらなくなる。だから、そういう自分を忘れたくてまた飲んでしまう。ピンサロのときは仕事中に酒を飲んでいて、それが上司にバレて注意され、気がついたら殴りかかっていた。酔っているときにカッとすると、頭のなかが真っ白になっちゃうんだ。もちろん一発でクビだった。
 結局、どこも長続きしなくて、日雇いで働くようになっていた。もっとも、おれのようにあがり性で、人とうまく話せない男には、日雇いの仕事が一番向いているかもしれない。面接だとか、客と話すとか、面倒くさいことは何もないからね。昼間、日雇いで働いて、夜はサウナやカプセルホテルに泊まる。そんな生活をずっと続けてきた。
 しかし、95年ころから日雇いの仕事が減り始めた。今でも仕事は続けてるけれども、97年なんか年間で20日間しかなかった。日当1万2000円で、20日間じゃどうしようもないだろう。だから翌年から新宿の路上で暮らすようになったんだ。
 初め、新宿駅西口地下にある小田急エース前の地下広場に寝ようとしたら、そこを取り仕切っているというホームレスの人に追い出された。それで地上の小田急百貨店の別館ハルクの入り口近くに、夜だけ段ボールで小屋を作って寝るようにした。今でもそうしている。
 人に見られることなんかは、すぐ気にならなくなった。それよりつらいのは、冬の寒さと夏の暑さ。特に夏の夜なんか、下に敷いた段ボールが一晩で汗で使えなくなるから。そういう意味では、夏のほうがよりつらい。
 段ボールの小屋を作るのは、デパートの終わった後の7時半ごろから。一回寝て、夜中の1時ごろに起きる。近くのハンバーガーショップで売れ残りのハンバーガーが1時20分に出るんで、それをもらいに行くんだ。もう一度寝て、4時すぎには起きる。始発電車に合わせて地下通路のシャッターが4時半に開くから、そこに潜り込んで暖を取る。そういう仲間が40人くらいはいるよ。地下通路にいられるのは、ラッシュの始まる8時ごろまで。居座ろうとしても、清掃の人やガードマンに追い立てられちゃうからね。
 日中は公園なんかで、日なたぼっこをして過ごすことが多い。雨や雪の日は、地下街を歩き回っている。飯は1日2回の日が多い。朝飯にハンバーガーを食べて、昼は新宿区役所でくれるカップめんを食べる。確かにそれだけじゃ、腹も減るし、酒も飲みたくなるけれど、我慢するしかない。どうしてもカネが必要なときは、自動販売機を回ってつり銭が残っていないか調べる。2、3時間もやれば、500円くらいにはなるよ。
 今思い返してみても、いいことのない人生だった。ピンサロで働いていたときだって、いい思いなんて一回もなかった。ボーイが商品の女の子に手を出すのは厳禁だったしね。
 楽しかったのでは、炉端焼きで働いていたころかな。仕事を終えてから、アルバイトの女子大生たちと飲みに行ったりしてね。女子大生たちとどうこうするっていうんじゃなくて、ただグループで一緒に酒を飲んだだけなんだけど、それが一番楽しかった思い出だな。
 今の楽しみは何かって?たまに日雇いの仕事があると、その晩はカプセルに泊まれるんだ。一泊3800円。風呂に入れて、缶ビールが飲めて、そのときが一番うれしい。最高だね。
 これからどうなっていくのかな。また左官の仕事に戻りたいような気もする。コテを使う腕は衰えていないし、床の水平面や壁の垂直面も、目と勘で出せる自信もある。だけど、仕事に戻るにはどうしたらいいのか、よくわからないんだ。

(※木下さんは非常に寡黙な人であり、質問にたいして、首を縦と横に振るか、切れ切れに単語が出てくるだけであった。したがって、木下さんが本文のような話し方をしたわけではなく、本人の話を元に再構成したものである) (■了)

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鎌田慧の現代を斬る/テポドン騒ぎが生みだす虚構産業の儲け

■月刊「記録」1998年10月号掲載記事

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■「ミサイルの威を借るタカ」

 東アフリカのケニアとタンザニアの大使館の爆破テロにたいする報復として、アフガニスタンとスーダンにクリントンがミサイルを打ち込んだのは、世界の最強国としての傲慢さのあらわれだった。このあと、八月三一日の北朝鮮ミサイルの一発は、金正日の国防委員会委員長への就任と建国五〇周年への景気づけだったようだが、これまた国際感覚ゼロの無謀な強がりだった。
 このテポドンの号報を、あたかも幕末の黒船に匹敵する大事件のようにあつかおうとしているのが日本のタカ派連中である。まるで、風が吹けば桶屋が儲かるというたぐいのコンタン、「我田引ミサイル」ともいえる汚いやり口である。
 本国会で棚上げにされる予定だった「ガイドライン(新日米防衛協力指針)」は、この一発のミサイルによって急浮上させられようとしている。「ガイドラインを成立させるべきだ」と主張する自民党議員などタカ派を、にわかに景気づかせているのだ。「虎の威を借る狐」ならぬ、「ミサイルの威を借るタカ」ともいえる。
 新ガイドラインは、これまでも述べてきたとおり、「周辺事態」という極めてあいまいな規定によって、米国の戦争に加担させられるというとんでもない法案で、あちこちから次第に批判がたかまっている。
  「野党側では、自由党がいち早く、『ガイドラインにかかわる法制の整備や有事法制の整備などを速やかに進めるべきだ』(野田幹事長)と積極姿勢をしめした。また、民主党からも『今の政府案のままで賛成するつもりはないが、審議は早くやったほうがいい』(伊藤英成政調会長)との声が出ている」(『朝日新聞』・一九九八年九月二日)
 これまでガイドラインに公然と反対する見識のなかった野党議員は大喜びである。自民党内では、さっそくガイドライン法案の審議を促進すべきだという声が相次いでいる。
 これらタカ派がしきりと批判しているのが、ミサイルの捕捉情報の遅れである。この批判を追い風に、自民党政府は偵察衛星の導入を固めた、とか。さらに調査費だけを計上しているTMD(戦域ミサイル防衛構想)を、さらに推し進めようとしている。
 このTMDは、研究開発から早くとも二〇年かかるという代物であるうえに、一兆円を超える費用が必要といわれている。飛んできたミサイルを迎撃しようというこのシステムは、レーガン時代に計画された、ミサイル迎撃構想であるスターウォーズ計画の名残である。当時、巨額な資金がかかるため、実現不可能とされたのだが、またぞろこの計画が復活したのである。
 しかもミサイル攻撃にたいする最上の戦略は、報復手段をもつことである、と公然と語られはじめた。すでに、一九五六年二月には「日本にミサイル攻撃が行われた場合、発射基地を攻撃するのも自衛の範囲内に含まれる」という国会での政府答弁が残されている。つまりミサイルでの殴り合いに参加しようとしているのである。

■テポドンより危険な米軍機

 一方、日本で北朝鮮にたいする過剰な警戒感が高まる前から、米軍は北朝鮮の地形にむいた訓練を再開した。北朝鮮などの山地に見立てた日本の七カ所の飛行ルートを使い、米軍の低空飛行訓練が行われている。かつて三沢や岩国などに所属するハリヤー攻撃機が、東北山地や広島県などで実施していたものとおなじ練習だ。
 ところがこの低空飛行訓練は、とんでもない練習である。ことし二月には、イタリアのスキー場で米軍海兵隊の攻撃機が、訓練の失敗からロープウェイのケーブルを切断し、観光客ら二〇人を死亡させている。また日本でも広島県で墜落事故が発生している。
 低空飛行ばかりではない。
 八月下旬には三沢基地を出発したF1支援戦闘機が訓練中に二機行方不明(墜落)となった。そもそも米軍および自衛隊の戦闘機の墜落は、三沢沖や沖縄など訓練の激しい地域では日常的に発生している。命中精度の低いテポドンより、事故を起こす米軍機の方がよほど危険なのである。軍隊の存在は、日常的に市民生活を脅かしている。だが米軍と比べられないほど、北朝鮮のミサイルにたいしては感情的な反発が増幅されてる。
 これは懸念されることである。むろん北朝鮮ミサイルの発射を支持するつもりはない。だが一日の衆院安全保障委員会では、自由党の西村真吾議員が高村正彦外相に「在日朝鮮人に再入国を許可しない、送金は禁止するというふうな対抗処置をとる覚悟はあるか」などと迫っている。在日の歴史をつくりだした日本の責任に無頓着で、ただ北朝鮮憎しの声だけが高まっている状況は、非常に危険だ。

■国民の財産を盗みだすネズミ達

 北朝鮮のミサイル発射直後に起こったのが、防衛庁高級官僚の逮捕である。先に防衛庁の上野憲一元防衛施設本部副本部長が逮捕され、つづいて彼の上司だった諸富増夫前防衛施設庁長官が逮捕された。
 この防衛施設庁にまつわる問題は、過剰請求事件である。兵器メーカーが、防衛装備品調達(兵器)の納入のときに、数億も吹っかけた値段を請求して利益を貪り、それが露見すると、こんどは過大請求分の返済額をごまかす。煮ても焼いても喰えない連中で、それを指導したのが防衛庁幹部なのだから、恐れ入るしかないのである。
 兵器メーカーである東洋通信機が過大に請求し、国に返還すべき額は、利息を含めて最低でも二五億六四一万二〇〇〇円にものぼる。ところが実際の返済額は、八億七四三三万六〇〇〇円しかなかった。差し引き一六億八九七七円分を、ちょろまかしたことになる。国民の米倉に侵入した兵器メーカーのネズミが、倉庫番の手引きで俵の米を食い散らかしている、と考えればわかりがはやい。
 装備費とは兵器の購入費を指す。防衛産業は防衛力の基盤といわれており、これまでさんざん優遇されてきた。ライバルメーカーはすくなく、ほとんどヒモ付き、もちろん国相手の商売だから取引先の倒産はない。さらには前倒し金と称して、メーカーは先に支払いを受け取っている。
 これほど甘やかされたメーカーに、さらに防衛庁幹部が天下りして、水増し請求を示唆していた。つまり防衛庁と兵器メーカーは、根っから腐った関係にあるのだ。 このような関係を如実にしめしているのが、天下りの人数と大手企業による契約高の独占率である。たとえば昨年度の調達予算、一兆三千五五五億円のうち七六パーセントの一兆三億円が契約高二〇位までの大手企業に独占されている。この独占大手企業にどれほど防衛庁から天下っているのかは、九七年一二月九日の『毎日新聞』に掲載されている。
  「上位二〇社へ天下った将官(将と将補)OBは、昨年度までの五年間で総勢九二人。受け入れた人数が最も多いのは、受注額が常にトップの三菱重工業で計一五人。次いで、川崎重工業(昨年度の契約高三位)と東芝(六位)の各一一人、三菱電機(二位)の八人、石川島播磨重工業(四位)、NEC(五位)、富士重工業(一三位)の各六人の順だ。二〇社のうち過去五年間に将官OBを採用していない企業は四社のみだった」
 上野・諸富が逮捕された事件でも、この防衛庁とメーカーの腐った関係が表面化している。
「防衛庁の装備品をめぐる巨額背任事件で、四日に逮捕された前防衛施設庁長官(元防衛庁調達実施本部長)、諸富増夫容疑者(五九)が、過大請求した砲弾メーカーについては『刑事事件ものだ』などと厳しい処分を行う意向をしめしていたのに、その次に発覚した東洋通信機(東京都港区)の過大請求については途中で態度を一転させ、部内の会議で返還額の減額を『まあ、こんなところか』と発言していたことが、関係者の証言でわかった。東洋通信機の不正はこのメーカーに比べはるかに悪質だった。東京都地検特捜部は、諸富前長官が元副本部長の上野憲一容疑者(五九)としめし合わせて方針を変更、東洋通信機を優遇したことを裏付ける事実として重視している模様だ」
 九八年九月五日の『毎日新聞』には、このように書かれている。受注する側と発注側が相互に依存して退廃を起こし、発注した連中がメーカーに天下ってくる図式は、あまりにも醜い。そうかといって、中央官庁と業界との関係でではどこでもこのようなことが起こっている。 通産省の高級幹部が鉄鋼・造船・電機メーカーなどに入り、大蔵省の高級幹部は銀行へ、運輸省や警察庁の高級幹部が交通関係の会社などに収まるっているのが、日本社会の現状なのだ。

■腐敗を深化させる密室化

 さて、防衛庁にはこのような中央官庁に比べて、さらに悪質な体質がある。それは汚職現場を防衛秘という壁が幾重にも囲っていることだ。
 軍事機密という鎧で守られた「防衛秘」は無数だ。しかも、あらゆるものが防衛秘として増殖しつづけている。防衛庁とメーカーの関係が防衛秘というガードによって密室化し、たがいに腐敗を深化させていった。日があたらないところにはカビが生えやすい。メーカーは限定され、コストはもちろんこと、コスト計算も発表されない。もちろん競合もしないという独占料金体制である。独占は腐敗を産む。
 「防衛生産」という名の軍事生産は、巨大な虚構(フィクション)である。
 日本の軍隊は「自衛隊」であって、戦争をしないのが前提である。戦争をしない軍隊に人殺しの兵器を納入するのも奇妙な話である。しかも、その兵器は実戦において試されることなく、生産しつづけられている。戦争がないという現実と、戦争があるというフィクションの間に挟まっているのが、防衛生産といえる。
 防衛費のうちでも、兵器購入量である調達費をいかに増やすかが、メーカー側の狙いになっている。しかも金の掛かるミサイルや、そのミサイルを使って迎撃体制を整えるTMDなど、金喰い虫であればあるほど、メーカーに落ちるカネも大きい。
 このような構造で生みだされたからこそ、国庫にすに一五億円以上の損害をあたえたことが発覚しても、防衛体制はびくともしない。
 こうして、国民の気づかない間に防衛予算がどんどん増え、そのたいがいが、装備という名の兵器生産にまわり、そのなか中で防衛庁幹部と兵器メーカーとの癒着が強まってきた。兵器生産はムダな要素だが、そのムダにたかって、各自がフトコロを肥やした。
 コストばかりが、危機を「過剰請求」してメーカーは国民の税金をポケットにいれてきた。兵器メーカーと防衛庁幹部の結託は、平和日本の象徴である。北朝鮮のミサイルを迎撃するために、さらに防衛力を強化するという過大宣伝は、またまた過大請求の基盤をつくることによる。「日本の防衛」は、すべてフィクションなのである。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/「安楽の全体主義」へ突進する日常

■月刊「記録」1999年7月号掲載記事

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■殺さなくても死刑

「最近、とんでもないことになってきた」と、多くの年輩者が不安を口にする。三〇年前、「反動化」とか「逆コース」といわれたりしていたが、いまは地獄へ突進しているようである。その道を掃き清めた公明党の議員たちが、オブチやオガワのおぼえ目出たくいよいよ大臣になれるというから、まずはめでたい。疑問なのは彼らのスポンサーである。「財界」には、民衆主義的感覚の持ち主がいないのか、ということである。本当に喜んでいるのかどうか。
 あまり問題にされていないのが、オウム事件の横山真人被告にたいする死刑求刑である。
 横山被告は、地下鉄サリン事件全体の責任者、つまり共謀共同正犯として起訴されている。しかし、彼がサリンを置いた車両では、死者がでていない。ところが、検察側はこれを「偶然の結果」だとして、死刑を求刑しているのだからメチャクチャである。
 おなじ事件を起こした林郁夫服役囚にたいしては、自首して犯罪摘発に貢献した、という「特段の事情」により、無期懲役が求刑され、同様の判決で結審した。一方は一人も殺していないのに殺人の共犯者として死刑を求刑され、一方は二人を殺して無期懲役になるという。この検察官のデタラメ・エコヒイキを、どう説明するのか。
 もともとわたしは死刑に反対である。だから林服役囚を死刑にしろなどといっていはいない。検事および裁判官の気まぐれによって、人の命が左右される不平等を問題にしているのである。
 死刑制度の問題について詳しく述べるスペースがないので割愛するが、死刑制度における最大のマイナスは、国民の間に憎悪の感情を盛り上げて、権力がそれを利用することだ。
 裁判は慎重に手続きを踏んでおこなうべきものである。ところが「あいつをやっちまえ」という世論の高まりが、死刑判決を引きだすことになる。抑圧されている人民は、犯罪者を死刑にするということで鬱憤を晴らす。つまりはけ口である。その憎悪の感情をいつも内包させていることが、死刑制度の最大の問題点である。

■拡大解釈を狙ってつくられた盗聴法

 オウム真理教を盗聴していれば、サリン事件がなかった、などという意見がある。盗聴法案(通信傍受法案)の成立に一役買った論理だ。しかし警察側は信者たちを尾行しており、ある意味で泳がせていたともいえる。それでもサリン事件を防げなかった。この警察の失態を盗聴によってカバーしようというのは、逆立ちした論理である。
 先進国の米国でも盗聴がおこなわれているというのが、推進派である小沢一郎の論理だが、米国で盗聴されている八三パーセント以上の会話が、犯罪に関係ないといわれている。しかも残りの一七パーセントが本当に犯罪に関連があったのかどうか、それですら信じがたい。一人の犯罪者を捕まえるために、関係ない何百人もの会話が盗聴されることについて、自自公のとんでもトリオはどう考えているのか。自分たちは政治家だから盗聴されないと思っていたら、お笑いである。
 すでに日本の警察は、法律ができる以前から盗聴を繰り返している。盗聴法案の成立は、いままでおこなわれてきた警察の犯罪行為が合法となり、公然とおこなわれることを意味する。つまり秘密裏におこなわれていた盗聴が、野放しにされる。盗聴時代の到来である。
 盗聴法が立案されたとき、内乱、放火、逮捕・監禁、強盗致死傷、爆発物使用など一〇〇ちかくもの犯罪に適用される計画だったという。政府がなにを狙っていたか、この一〇〇という数字が明らかにしている。政府は、この目的を遂行するため、反対されそうな部分に若干の修正を加えた。公明党がその露払いである。その結果、銃器、薬物、集団密航、組織的におこなわれた殺人の四種類に盗聴の対象が絞られた。これから拡大解釈していこうとする政府の狙いが、立案の段階からハッキリしている。あまりにもハッキリしすぎていて、じつは盗聴器の需要を膨大につくりだし、不況対策にしようとしているのかと疑うほどである。
 盗聴するかどうかは裁判所の判断によるなどという言い訳が、盗聴法推進の屁リクツである。だが、これは前回も書いた通り、令状そのものが当てにならない。検事から要求があれば、裁判官はほとんど認めてしまうからだ。この問題にかんしては、寺西和史判事補が朝日新聞に投稿して、裁判所内に物議をかもしだした。しまいには集会の場で発言したという理由で、戒告処分にされている。
 また九一年まで二四年間裁判官を務めた秋山賢三弁護士は「令状をだすときにどこまでチェックできるのか、現場は自信がないだろう。裁判官はあまりに忙しい。令状を却下するには勇気もいる」(『毎日新聞』 九九年五月二二日夕刊)と語っている。
 司法統計年報によれば、九七年度の逮捕状請求件数一一万七七四三件のうち裁判所が却下したのは、わずか〇・〇四パーセントにあたる四八件。令状が盗聴の歯止めになるという理屈は、この数字だけでも覆される。
 盗聴法をふくむ組織的犯罪対策三法案は、さっぱり審議をしないで、あっという間に自自公によって強行採決されてしまった。当時、盗聴法だけ問題にされ、組織的犯罪処罰・犯罪収益規制法案となっているマネーロンダリング(資金洗浄)処罰については、なんら議論されずに成立してしまった。
 暴力団などが不正な方法で儲けたために使うことができない金を、洗い直すのを防止する。それが法律の目的だという。だが、これなども盗聴法同様、拡大して使われるおそれがきわめて強い。たとえば労働組合の資金カンパも、マネーロンダリングだという理由で、カンパ先が徹底的に洗われる。
 どの資金がなんの犯罪に関係あるかを、どういう方法で洗いだすのか、あるいは犯罪に関係する金を金融機関がどうやって割りだすのか。犯罪に関与した金だけに捜査が限定される保証などない。ただ組織の資金をチェックするという超権力的な方法が、公認されただけである。
 犯罪=市民にたいする攻撃、犯罪規制=市民の平和という図式によって、犯罪防衛が声高に叫ばれる。犯罪を防止する法律ができれば市民は枕を高くして眠れると、権力たる警察・検察は力説する。しかし市民の電話が盗聴されるような法律ができて、どうして安眠できようか。これは藤田省三さんがいう「安楽の全体主義」というものである。自分だけが幸せになればいいという主張が、全体主義への信仰を生むのである。

■権力のスピーカーとなる新聞

 最近また、オウムにかんする記事が急に増えている。 オウムの出現によって市民生活が著しく妨害されたと大々的に報道されるが、反論は掲載されていない。なかには犯罪には関係ない松本智津夫被告の子どもの学校通学を、地元民が阻止しているという報道もあった。
 たしかにオウム真理教は重大な犯罪を犯し、多数の人間の殺傷した。といってオウムの信者をすべて人殺し、というのは宗教の自由を謳った憲法の精神と著しく対立する。だからオウムにかんしては、冷静な議論が必要とされているはずである。ところが最近のマスコミは、どこそこにオウム信者があらわれたという「モグラ叩きの報道」を繰り返し、オウム撲滅に一役かっている。
 では、どうしてオウム信者の動静が報じる記事が、これほど急速にふえたのだろうか。その答えの一つが、破壊活動防止法の「改正」である。警察・検事が記者クラブで発表をおこなえば、記者たちは争うようにして書く。つまり結果的に、破防法の改正を狙う警察・検事側の要求に、記者たちが応えているのである。政府に意図があれば、新聞記事をふやし、国民に影響をあたえることができる。それが記者クラブ制度である。
 記者クラブの問題については、これまでも指摘してきたが、ますます盛んになってきたのは、権力のスピーカーとしてのマスコミのあり方である。ジャーナリズムは国家権力の横暴を規制にするためにあるはずだが、権力組織のなかでヤドカリのようにくっついているマスコミスピーカーは、権力の声をたんに増幅するだけだ。
 実際問題として、オウムの恐怖が繰り返し叫ばれることで、破防法改正への道筋は少しずつ整ってきている。少なくとも、政府主導による改正の大合唱に、多くの人々は慣れてしまった。元内閣安全保障室長の佐々淳行などは、オウムについて次のように語っている。
  「問題の根源は破防法が適用されなかったことにある。もう一度、適用を考えてもいい。この適用後は同法を廃止し、カルト、テロなど幅広く対応できる新たな危機管理法を制定すべきだ」(『毎日新聞』九九年五月一七日朝刊)
 これはきわめていい加減な、おためごまかし的ないい方である。結局は、破防法を廃止したのち、カルト・テロというお題目を掲げ、新たな治安法をつくろうということだ。佐々をはじめとする治安弾圧担当者たちの欲望が、ストレートに表現されている。
 破防法は、もともと政治団体を規制するために生まれたものである。政治運動の沈静化とともに、この法律は休眠していたわけだが、オウムによって完全に生き返ろうとしている。生き返れば、再び政治団体にたいするチェックが厳しくなる。しかも盗聴法によって、政治団体の盗聴が公然とおこなわれるわけだから、思想・信条の自由にたいする重大な攻撃が予想される。

■外に北朝鮮、内にオウム

 ついこの間まで、北朝鮮にかんする情報が湯水のように流され、それがガイドライン関係法案の成立につながった。ここであえて繰り返すまでもないが、周辺事態という拡大解釈可能な定義に基づいて、日本は戦争ができることになってしまったのだ。
 このときの北朝鮮とおなじような手法であらわれたのが、オウムである。オウムの恐怖を最大限に使うことによって、破防法改正・盗聴法・総背番号制(住民基本台帳改正法)などが一挙に成立してしようとしている。そのあと「有事立法」である。
 外側に北朝鮮、内側にオウム。これがマスコミを使ってつくりだした政府の二大仮想敵である。その仮想敵にたいする恐怖を掻きたてて、国家権力が力を得ていく。殺人を犯していないオウム信者の被告にさえ、死刑が求刑されるのは、死刑制度を撤廃しようとする世界的な方向性に反するばかりではない。治安維持法の復活である。それが市民に牙をむくことになる。
 気がつけば、外にむけて戦争、内にむかっては国民の管理と死刑制度が強化されている。全体主義国家の体制に着々とむかっている。その証拠が日の丸、君が代の復活である。またぞろ、天皇が引っ張りだされてきた。新聞も国会も、政府のいうがままにするのが、翼賛体制である。「大日本帝国」はまじかである。いまこそ声をだそう。 (■談)

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保健室の片隅で・池内直美/最終回 親と子の愛情

■月刊「記録」2000年9月号掲載記事

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 最近の事件で目立ったのは、母親が子どもを殺害する、もしくは、殺害しようとした、というものだ。
 どんな事情があったにせよ、自分のお腹を痛めて産んだ子どもを殺害するというのは理解しがたい。しかも、子供に保険金をかけ、その保険金を目当てにしていたという人もいるのだから、ものすごい話だと思う。
 しかし、子どもの家庭内暴力に耐えかねて、という事件になると、ちょっと事情が違う。どうにも明日はわが身、のような気がしてならない。他人ごとという感覚を持つことができない。
 家庭内暴力は、男の子を持つ家庭だけの問題ではない。力の差はあるにせよ女の子でも条件がそろえば引き起こす。背景になる事柄には男女では、多少違いがあるけれど、「女の子の家庭だからうちは安心」ということはないのである。

■複雑だった家庭の事情

 先日、母親が中学生の女の子を殺し、自分は自殺するという事件が起こった。女の子が一人暮らしをしていたということ、家庭内暴力が起こっていたということ、10代の少女の一人暮らしには、「なぜ?」とも思うが、こんな状況にある家族は、この一家だけではないだろう。
 娘を一人置いて、父と母がもう一人の子どもだけを連れて家を出る。ふつうに考えれば不思議な行動だけれど、そんな家庭もあるのだろう。親たちは、自分がいないことで荒れる子どもの気持ちがおさまるならと考えたのかもしれない。
 親の顔を見て娘が毎日、いら立つなら、少しの間だけ離れていよう。気持ちが落ち着いたら、また一緒に暮らしていこう。そんな思いで、後ろ髪を引かれて家を出ていく家族があったとしても、他人が簡単にそれを否定することなどできはしない。
 家庭の事情は、それぞれ複雑であり、一般論で簡単に割り切ってしまいきれない場合が多いからだ。
 この事件の例ほど複雑ではなくとも、親と子が、互いにわかり合えずに、悩んだり苦しんでいる家庭は多いだろう。どんな家庭でも、親と子がわかり合えなくなって、悩む時期はあるものだ。
 子どもというものはわがままで、親が自分のすべてを受け入れてくれると信じている。多くの親も、子どものことをできるかぎりの力で受け入れようとしているはずだ。けれど、わがままは受け入れられないし、それは子ども自身にもわかっている。
 わかっていながら、思春期などには、子どもは自分の気持ちでいっぱいになってしまい、むやみに自己主張をしてしまう。こういうときに、親子の気持ちのすれ違いが起こってしまうのだろう。
 子どもも、わがままな自己主張の後では、たいがいは自分が取った行動に対して人一倍の後悔をしているものだ。けれど、いざ親を目の前にすると、やっぱり素直になれなくなってしまう。そうして、結局、同じ行動を繰り返す。自分のことを振り返ってみても、よくあるパターンである。

■自分で一杯にならないように

 私は数年前から、不登校の親子が集まる会などで、相談を受けるたび、ある言葉をよく口にする。
 それは「人から愛されていることに、自信を持って生きていこうよ」というものだ。
 親から愛されていること、子どもから愛されていること、その他自分の周りにいるすべての人に愛されていることを自信を持って信じてみようよ、と伝えることにしている。
 親子や学校内での人間関係に悩んでいる人は、よく「気にしてもらえない」とか、「甘えさせてもらえない」とか、「自分のいうことを聞いてもらえない」と口にする。
 いや、ふつうに暮らしている私たちだって、何かの不満を持っているとき、その原因を考えてみると、たいがいこうした言葉が浮かんでくるものだ。要するに、みんな愛してほしいのだ。
 愛していることの表現をうまくできない人はとても多い。親が子どもを愛することは、かなり当たり前のことなのかもしれないけれど、ときにはうまく相手に伝えられなかったりする。
 子どものほうも、当たり前だとわかっていても、声に出して伝えてほしくて、目に見える形で表現してほしいと思ってしまう。
 親子のように、愛する対象がとても近くにいると、たがいに近づきすぎて、相手の顔は見えるのに、全身を視界に入れることができなくなってしまう。相手の立っている地面が、土なのか、コンクリートなのか、芝生なのか、水の中なのかが、わからなくなってしまうのだ。そうして互いに空回りしていくのだろう。
 親子にかぎらず、そんな悩みは、誰にでもある。
 そんなとき、つい自分一人が一番苦しいような気持ちになってしまうけれど、少し目を開けば、同じような悩みを抱えている人はすごく多い。それに気づいてほしくて、自分で一杯になっていることに気づいてほしくて、「人から愛されていることに、自信を持って生きていこうよ」と、伝えることにしている。 (■了)

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保健室の片隅で・池内直美/第25回 新しい生活の中で

■月刊「記録」2000年8月号掲載記事

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 つい先日のこと、半年暮らした東京から千葉に引っ越した。そこに暮らした毎日を記憶ごと消してしまいたいと思ってのことだった。
 原因は、夫婦仲が悪くなっていたこと。こんなふうに書くと、「なんだ夫婦げんかか」と思われるかもしれないが、それは私にとって、「夫婦げんか」という一言で表せるような感じのものではなかった。
 私はこのところ、ずっといら立っていた。最初、いら立ちの原因が何であるのか、自分でもわからなかった。けれどあとから思えば、それは、嫌なことを「嫌だ」と気づくことのできない自分の性格だった。
 私は、夫婦生活という共同生活の場で、気づかぬうちに、いつも相手の顔色をうかがい、いうままになって行動していた。
 私の生活は、自分を押し殺した毎日の連続になっていた。
 夫婦といってもしょせんは他人だ。ともに暮らすには「協調性」も大切だ、とはよくいわれているけれど、それは互いに自分の考えをもったうえで、認めあったり助け合ったり譲り合ったりすることであるはずだ。けれども私には、協調するための自分自身さえもなかったのだった。
 私はもともと、誰といても行動を相手に合わせてしまうタイプの人間だ。だから、そのこと自体が苦しいと思うことは今まではあまりなかった。けれど家から外に出ていって少しの時間だけ相手に行動を合わせているのと、生活の場で相手にすべて合わせているのとでは、おそらくストレスの度合いが違ったのだろう。
 私は、数ヶ月前から、毎日の生活が何か苦しいと感じ始めていた。けれど自分が何にいら立ち、何が「嫌」なことであるのかが見えずに苦しんでいた。そんな私と夫の間には、毎日のようにけんかが絶えなかったが、いくらいい争ってみても、何一つ結論は見えてこなかった。ただ二人の間にイライラだけが積み重なっていった。
 そして、私は自分のいら立ちの解決策を探ろうと、とうとう病院にカウンセリングの予約を入れにいった。けれど、自分でも整理のつかない物事の原因を、他人に話すだけで解決できるものだとも思えなくなり、直前になって結局やめてしまった。話を聞いてもらうだけで楽になる場合もあるだろうけれど、私の場合には結論は見えてこないと、なぜだかそのとき私にはわかった。
 そして、今すぐなんとかしたいという思いと、今日一日生活するのも苦しいという焦りにも似た気持ちのなかで、私はただいつまでも消えない不安を握りしめて悶々としていたのだった。

■自分のことは気づきにくくて

 そんなとき、一冊の本を手にした。カウンセリング講座のためのテキストだった。病院でのカウンセリングの予約はキャンセルしてしまったが、やはり私は自分で答えを見つけたくてあがいていたのだろう。だからそんな本に目が向いたのだろうと、振り返ってみて思う。
 テキストに書かれていた方法は、自分で自分をカウンセリングする方法だった。紙に思いつくままに、今の気持ちをどんどん書き連ねていく。ただ、そこには相手がいないので、気張らずに本心を書くことができる。
 私は自分のいら立ちの原因を思いつくかぎり集めて書き連ねていった。最初のうちは、自分でも自分がかわいくて、物事を正当化するような書き方しかできなかったけれど、だんだん書きつづけるうちに、内容が変わっていくのがわかった。
 私は、どうして相手の顔色をうかがってしまうのだろう。
 これは、よく旦那からもいわれていることだった。でも別に、誰の顔色でもうかがっているというわけではない。私を好いてくれる人にだけ行ってしまう行為だ。
 私は、相手のなかにある「かわいい私」をなんとか想像しようとし、相手の中にある「私」という像をなんとか見つけ出そうとする。その像を壊さないようにし、好きでいつづけてもらうために、私は相手のちょっとした反応にも気をつかい、期待にこたえようと努力してしまう。
 相手の期待にこたえなければいけない。相手のなかにある「私」を壊すことは、相手を傷つけることのような気がする。そうして自分で自分にかけたプレッシャーの大きさに、私はいきづまってしまっていたのだった。
 また、近所に住む姑や多くの親戚たちのなかにある自分も壊したくなかった。新生活とともに接するようになったたくさんの人たちのなかにある「私」を壊さぬように気づかい、私自身が壊れそうになっていたのだった。 だから自分を取り戻すために引っ越しをした。それだけのことを発見するために、夫ともけんかを繰り返して、ずいぶん遠回りをしてしまった。
 人は自分のことは、なかなかわからないと改めて感じた。けれど、自分でもわかっている私の長所は回復力だ。新しい気持ちで生活を築いていこうと思う。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/使い捨てはごめんだ・本多浩一(四九歳)

■月刊「記録」1998年3月号掲載記事

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■新宿の街はおれたちが造った

 東京都庁の立派な建物があるだろう。おれもあれの新築工事には参加したんだよ。すごい工事でね。24時間体制の突貫工事ってやつで、昼も夜もなかった。昼夜ぶっ通しで工事するなんて、当時もうよそではなかったからね。都庁の工事だけは、ちょっと異常だったよ。高田馬場の手配師たちが、相当の数の労働者を送り込んだんだからね。おれも足場の組み立てや外壁工事で働いたってわけだ。
 そういえば、今この新宿西口地下に住んでる連中は、ほとんどが都庁だの、高層ビルだの、西新宿の再開発に関わっていたと思うよ。大半が高田馬場の労働者だったんだ。その連中が汗を流して作った街なんだから。それがさあ、忙しいときに使うだけ使って、完成すると100円ライターのようにポイ捨てだろ。それじゃあんまり報われないよね。
 その東京都が強制排除をしたから、おれも座り込んで抵抗したのよ。捕まったっていいやって思ってね。恨みっちゅうか、住んでいるおれたちには命に関わる問題だからさ。もう少しくらいは今後のことを考えてくれてもいいよね。それを簡単に切り捨てるのは可哀想だよ。おれのことも含めてね。
 いつだって状況が変わると、高齢者とか、田舎からの出稼ぎとかが、振るい落とされていくんだ。忙しいときだけボンボン使っておいて、ひまになると「もう年だからダメだ」とかさ。そのくせ行政が代わりに用意してくれる仕事は結局は土方みたいなものばかり。60歳の人に「土方やれ」なんていえないよ。これおかしいよ。行政はそういう人に仕事の保証をしろっていうの。公園掃除のような軽労働を斡旋するべきなんだ。弱い者がいじめられる時代はおかしいよ。

■親の跡は継がない

 おれが生まれたのは、北海道の旭川。おやじは大工をしていた。若い衆を住み込みで何人か使っていたから、経済的には恵まれていたほうだったよ。母親が病弱で入退院を繰り返していたけど、家にはまかないの人も雇っていたから、生活に不自由はなかったね。
 地元の工業高校を卒業したんだけど、仕事が見つからずにブラブラしていたんだ。おやじについて大工の見習いのようなこともしたけど、大工になるつもりなんかなかった。上下関係の厳しい職人の世界が嫌いでね。徒弟制度とか、ああいうの嫌なんだよ。人に使われるのも嫌だったね。
 結局、20歳のときに上京したんだけど、遊び気分で、目的があったわけじゃない。東京にはおじさんがいて、そのコネで働くようになった。アパレル関係の営業だよ。その会社は水商売の女の人の衣装が専門でね。そのころは、そういう会社は一社しかなかったから、独占でもうかってたんだよ。営業に行かなくても、向こうから注文がくるんだから。
 給料も8万円くらいもらってた。大卒の初任給が2、3万円のころだからね。それにホステスが相手の商売だからチップがもらえて、これが給料の4、5倍はあったんじゃないかな。寮に入ってたし、東京の水になじんでいないっていうか、スレてなかったからカネは使わない。だからたまったよ。

■酒とギャンブルの道へ

 いい時代は長くは続かなかった。そのうちに同業のライバル会社が出てきたんだ。ダンピング合戦が始まったり、できる社員が引き抜かれていってダメな社員ばかりが残る。経営感覚はドンブリ勘定で古い。売り上げが落ちてきても賃金カットだけしか経営者は思いつかないから、できるやつはますます辞めていく。まさに悪循環なんだよ。おれも配転になって、事務所に入ったけれども、デスクワークなんて好きじゃないだろ。上下関係の中で働くのは嫌いだからさ、26歳のときに辞めたよ。
 辞めてどうするか、あてはなかった。北海道に帰ろうとも思わなかった。両親も亡くなっていたしね。とりあえず、アパートを借りたよ。住むところがあって、食えりゃいいって考えだったね。仕事は何でもあったし、選ぶこともできた。そのころは「2、3日もすれば慣れるから」っていう具合で、素人でもすぐに雇ってくれた。最近は経験がないとダメだからね、まったく逆のパターンだよね。
 長いので半年、短いので一週間。いろいろやったね。本のセールス、ミシンのセールス、電気のシステムエンジニアなんてのもやった。面白いのでは、火葬場の窯掃除があったね。他人の不幸が多いと忙しくなる仕事で、日当も破格で3、4万円はくれたと思うよ。
 だけど、そのころになると、東京の水にもなじんできて、酒とギャンブルをやるようになった。ギャンブルをやると、どうしても負ける日もある。で、給料を一日で使っちゃう日も出てくるわけ。すると日払いの仕事で、今日の分だけでも稼がなきゃって思うようになる。で、飲み屋で知り合った人に勧められて、高田馬場に行った。初めての日雇いだよ。けれども、意外に簡単だったね。「この程度ならば、おれにもできそうだな」と思ったよ。それからは、ずっと建築関係の日雇いだ。

■おれはホームレスじゃないんだ

 あのころは日雇いもよかったよ。いつでも仕事はあったし、都庁建設もあったしな。おれも高田馬場から都庁へ行ったよ。あのころは世の中に活気があったね。
 ところが一九九一年くらいからかな?それまで年がら年中あった仕事が、夏場に落ち込むようになったんだ。そのうちに、外国人労働者が入ってきて、仕事にあぶれることが多くなった。
 95年ころからはホントに食えないね。雇う方は年を聞いてから決めるからね。45歳でも働かせてもらえないことがあるんだから、参っちゃうよ。
 新宿に来たのは95年10月だった。それまでホームレスの存在なんて他人事だったし、否定的でもあったんだ。しかし、来てみて驚いたね。まず年寄りが多い。新聞をかぶっただけの人、毛布もない人もいた。すでに「近々みんな追い出される」といううわさも立っていた。 「どこにも行くところがないから、ここに住んでいるのに、そういう人を追い出すとはどういうことだ。こりゃあ、何かできることがあったら、おれも何かしなくっちゃ」と思ったね。
 それでおれも段ボールハウスを作って、ここに住むようになったんだ。だから厳密な意味では、おれはホームレスではないんだ。その意識もないよ。まあ、ボランティアだね。新宿連絡会に入って、仲間の自立を助けるための活動をしているのは、そういうことなんだ。
 今はおれも病気(軽い結核)で働けないけど、医者のOKさえ出れば、また仕事を探して働くよ。自活していく自信はある。将来にたいする不安もないね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/家族で食べたクリスマスケーキ・片岡進(六五歳)

■月刊「記録」1998年4月号掲載記事

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■若旦那と呼ばれていた

 何でこんなことになったのか、わからないんだ。ギャンブルにも酒にも女にもおぼれたことはない。たいして好きでもないし・・・・・。楽しいことも悲しいこともなく、ダラダラと生きてきた。一つの職場に居続ければよかったのか。それとも結婚していれば変わったのか。わからないな。
 1933年、東京都足立区の乾物屋の息子として生まれた。おふくろが店を切り盛りし、おやじは魚市場で働いていた。裕福だったよ。「若旦那」なんて呼ばれていたからね。お手伝いさんや、住み込みの若いのが、よく遊んでくれた。住み込みのあんちゃんなんか、よく自転車に乗せてくれてね。一緒に遊ぶのは飽きなかった。
 ところが45年の東京大空襲で全部焼けてしまった。そのうえ家族で埼玉県にほど近い足立区竹の塚に引っ越している間に、土地も店も知らない人に乗っ取られてしまった。縄でも張っておけばよかったよ。それから貧乏生活が始まって、私も14歳から働き始めた。おやじは知り合いの魚屋で働き、残りの4人の兄弟も次々に働き始めた。
 最初の職場は埼玉の靴工場だった。見習いから始まって、しばらくしてから職人として仕事を任せられるようになった。平均的な大卒の銀行員の初任給で8000円くらいの時代に1万2000円から3000円もらっていたのだから悪くない仕事だったよ。人間関係もうまくいっていて、嫌なやつもいなかった。職人としての技術だって少しずつ習得していったから、10代後半にはどんな靴でも縫えるようになっていた。
 でも、辞めたくなったんだ。
 もっと自分に向いた仕事があるような気がした。何か新しいことがしたくなったんだ。家を出て、新しい職場で一人暮らしを始めたい。そう感じた。
 ちょうどそのころ入った定時制高校にも、入学して数ヶ月でやめたりしていたから、生活を変えたかったんだと思う。それにもっと汚れない仕事がしたかった。座ってできる仕事にもあこがれた。当時、一番なりたい職業は倉庫の管理人だった。頭も使わないし、何よりも楽そうに思えたからね。
 おふくろは転職に大反対だった。「おまえ、どこに行っても同じだよ」ってね。今考えれば、そうだったのも知れない。もし、そこで転職をしていなければ、ホームレスにはならなかったかもしれないな。
 上司や同僚にも止められた。10年近く勤めた会社だったし、問題も起こさず、まじめに働いていたからね。順調に昇給してきたのに、いきなり辞めるなんて不思議だったんだろう。私自身、別に靴屋で働くのが嫌になったわけでもなかったから、転職する理由を説明するのに窮した。
 賛成してくれたのはおやじだけだった。
「苦労するのもいいだろう。自分の力でやってみろ。暮らせなくなったら、実家に戻ればいいんだから」といってくれた。当時、おやじは心臓を悪くしていて、入退院を繰り返していたんだ。それでも家長の言葉は重い。私の東京行きは、こうして決まったんだ。この後しばらくしておやじは死んでしまったから、じっくりとおやじと話したのは、これが最後だな。

■働き続けた人生なのに

 東京のアパートはすぐに決まったものの、肝心の仕事がなかなか決まらなかった。自分がやりたいと思っていたような仕事には求人がない。ちょうどこのころ、私に見合いの話が来た。24歳のOLで、遠い親戚だった。結婚する相手としては不満はなかったけれども、自分に自信が持てなかった。
 職はなく、おやじは病気、兄弟も多いから、仕事が見つかっても家族にカネをわたさなくてはならない。人に誇れるものもなかった。これじゃあ結婚できないよ。相手に迷惑をかけるだけだ。「落ち着いて考えますから」と返答したら、話は流れてしまった。もし靴工場を辞めていなければ、結婚していたかもしれない。タイミングが悪かった。
 そうこうしているうちに、持ち合わせのカネが減ってくる。仕方がなく自動車部品を作る工場で働くことに決めた。仕事は部品のメッキだった。一日中、薬品に囲まれて過ごす職場環境は、いかにも体に悪かったよ。毒性の高い薬品も扱っていたからね。こわくなって三年で辞めたよ。給料も人間関係も悪くなかったが、とても長くやる仕事には思えなかったんだ。
 その工場で働いているときに、転職に賛成してくれたおやじが息を引き取った。6月末の暑い日だった。長くは持たないと覚悟していたから、死んだという知らせを受けたときも、さほど悲しいとは思わなかったね。「シボウ」の電報を受け取って実家にかけつけると、闘病生活と苦労でやせ衰えたおやじが寝かされていた。とにかく暑くて汗を流しながら線香をあげたことを覚えている。
 自動車部品工場を辞めてからは、文字通り数え切れないほど職業を変えていくことになる。清掃、運搬、土木と何でもやった。いつも自分に合う職業がどこかにあるはずだと信じていた。どの仕事も嫌なわけじゃない。ただ、もっと見えないものをつかみたかったんだよ。どこかに自分とピッタリ合う仕事が見つかるはずだと思っていたんだ。だから次から次へと仕事を変えた。
 そんな私を見て、「おまえは怠け者だよ」なんていう友人もいた。でも何が怠け者なのかわからない。遊び回っていたこともない。私にとっての遊びなんて、おいしい夕食を食べることくらいだったよ。月末、少しだけ余ったカネで、いつもより高い飯を食べる。貯金する余裕もない程度の給料でできることといったら、それくらいだよ。後の時間は働き続けていたんだよ。
 職を変えるようになってから、実家にも足が向かなくなった。おふくろや兄弟に心配をかけたくなかったし、兄弟と顔を合わせるのも嫌だった。私が途中で挫折した定時制高校を卒業して信用組合に入ったり、バスの運転手として活躍していたりと、兄弟は皆まっとうに生きていたからね。みじめなだけの帰郷なんてとてもできなかった・・・・・。

■楽しかったのは生涯2回だけ

 最初は寂しくてね。家族もいない。恋人も妻もいない。深い友情に結ばれた友もいない。いつも一人。仕事場で口を聞く友達くらいはできても、仕事を変えると連絡もなくなってしまうんだからね。
 でも不思議なもんだ。寂しいと思ったのは40代まで。それからは傷口をかさぶたが覆うように、何も感じなくなったんだ。家族がどうしているのかなんて考えもしなくなったよ。おふくろや兄弟も、生きているのか死んでいるのかわからない。でも、それも気にならなくなったんだ。
 自分から少しずつ感情がなくなっていく気がしてきた。その日その日を生きていくことだけに集中して暮らしているうちに60歳を越えていた。そして、いつの間にか手配師から声がかからなくなっていた。住み込む場所がなくなれば、野宿するしかない。食べ物がなければ拾うしかない。幸いホームレスになったのが4月だったから、花見客の残飯にありつけたんだ。結構おいしかった。夜、地下道を追い出されるから、夜中が寒いことだけがつらかったけれどね。今では、冬でも上野公園で過ごせるようになった。寒さにさえ慣れてきて昔に比べると我慢できるんだ。
 自分の人生を振り返ると、心の底から楽しかったことも、悲しかったこともないんだ。いつも淡々と過ごしてきた。65年の人生を振り返って、楽しかったと思い出せるのは二つくらいだよ。
 一つは17、8歳のころに、兄弟3人で潮干狩りに行ったこと。京成電鉄に乗って着いた千葉の海はきれいでね。海が見えたら、いても立ってもいられなくて3人で砂浜を走っていたよ。熱い日射しが肌を焼くなか、3人で競ってアサリを掘った。誰が一番とったのかは忘れちゃったね。かなりの量がとれたことだけは覚えている。 家ではみんながアサリを待っていた。すぐ鍋にしたよ。両親と兄弟5人で、お腹いっぱいに食べられるくらいの量があったからね。そのころはおやじも元気だった。 もう一つの思い出は、23歳のときのクリスマス・イブ。家族みんなにケーキを買って帰ったんだ。そのころ、ケーキなんて珍しかったから家中大騒ぎになった。7人で少しずつ分けて食べたよ。あのケーキの味も、家族の喜んだ顔も忘れられない。 (■了)

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ホームレス自らを語る/酒とギャンブルと母親と・富田英明(六二歳)

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■満州の大金持ちから一転

 出身は山形県。生まれは1935年だから、日中戦争が始まる2年前だな。これからどんどん戦争に向かっていく、そんな時代に生まれたんだ。
 もっともそのおかげで、おれの父親はかなり高い給料をもらっていたらしい。満州開拓の指導教育をしていたので、家にいないことが多かったけれども、このころで月20万円のカネを稼いでいたと聞いている。何たって、45年の宝くじの最高金額が10万円だったんだから、どれだけ高級取りかわかるだろ。もちろん戦争が終わった後は、満州での肩書きなんて意味がないからさ、大金持ちというわけにはいかなかったけれどな。
 おれが家を出たのは17歳。農家への出稼ぎだった。お米を作っていたんだ。でも農業っていうのは、肉体労働だろ。体の出来上がっていない10代だと、半人前扱いなんだよな。どうしても力がないしな。
 そんな不満のあったところに、台風が直撃して米が取れなくなったんだ。当然、仕事はなくなる。だから東京に出てきたんだ。勤めたのは江戸川区の製糖工場。そのころは、もう22歳になっていたかな。
 工場の日給は800円くらいだった。ただし夜勤だとか、休日出勤とかがあったから、月給にすると3万円くらいはもらっていた。当時、大学出たての同い年の男の給料は、高い人でも2万円とちょっとだったから、当時としては高給取りだったよ。
 専務からは、「貯金しろ」って耳にたこができるほどいわれたよ。確かに貯金していれば、結構な財産も作れたかもしれないな。でもおれはできなかった。
 それでも工場に入ったころは、まだよかったんだ。遊びといえば、酒だけだったからね。おれは女が大好きじゃない。だから飲みに行っても、はべらせたりしないんだ。その代わりガンガン飲む。そうなるとおカネがたっぷりないと、面白くないんだよ。高給取りだっていっても、満足するほどは飲めなかったな。

■ギャンブルで大当たり

 そんなときだよ。競艇に誘われたのは。
 江戸川競艇場が近くにあってね。土・日に開催していたんだ。まあ、気分転換に行ってみるかと思って、会社の先輩についていったら、はまったよ。スカッとした。中途半端な量の酒なんか問題にならないほど気持ちよかった。面白くて、面白くて、もう夢中だよ。
 昼休みになると、自転車で競艇場に飛んでいって、始業時間までに帰ってくるんだ。競艇が開催されている日は、これが習慣だったからな。しかもギャンブルは、競艇だけじゃないだろ。いつの間にか、競馬も競輪も覚えていた。
 そうなると時間が足りなくなるんだよな。ついつい仕事を休むようになる。専務なんかにはずいぶんとかわいがられていたけれど、さすがにクビになった。
 それで鉄鋼の組み立てに職業を変えたんだ。まあ、生活は変わらないけれどね。それどころかギャンブル熱は高まっていたかもな。錦糸町のノミ屋でかけるようになっていたからな。
 そのときにすごい当たりを経験したんだ。
 今でも覚えているよ。朝、目が覚めると、寒気がしたんだ。病気とも違う、何ともいえない寒気だったね。土曜日だったから、さっそく、新聞を買ってきて競馬の欄をながめたんだ。7日だったから、そのとき3と4だなとピンときたんだな。3+4=7だから。
 おれはもっぱら直感を信じるタチでね。ピンときたその番号で買うんだ。その日も8レースで4・4、10レースで3・4にカネを突っ込んだ。
 大当たりだよ。八レースで1万数百円、10レースで10万円以上もうかった。会社の食堂でテレビを見ていて、手が震えた。そして朝とまったく同じような寒気を感じたんだ。やっぱり、何か感じていたんだろうな。
 その当時12万円近いカネといえば、半年くらいは普通に食えるおカネだったからね。額が大きすぎて、会社の誰にもいえなかった。とにかくびっくりした。
 そのころからだよ。少しずつ賭けるカネの額が増えていったんだ。増えたギャンブルの代金を稼ぐために、日勤と夜勤を連続で入れるようにもなった。48時間、働きっぱなしだったこともあったよ。
 当時、スーパーマンがはやっていたころでね。みんなから「スーパーマンだ」なんておだてられて、その気になってね。もちろん稼いだカネは、右から左にギャンブルへと消える。もう、そのころのギャンブルへのはまり方は尋常ではなかったからな。
 長期の休暇を取ったりすると、すべての時間をギャンブル場通いに費やしてしまうんだ。10日連続で休んだときなんか、8日間も通い続けていたほどだよ。今日は戸田橋競艇場、明日は平和島競艇場なんて具合にね。

■ドヤの値段が上がり始めた

 そんなことをしていれば、当然、カネが足りなくなるよ。なければ借りるしかないだろ。とりあえずいきつけのバーに借りにいったよ。月収の半分以上は飲んでいたから、店からも金回りがよいと思われていたんだろ、別に断られもしなかった。
 まず店の女の子に借りる。そして、その友達。その後はママ。いつ間にかすごい額を借りていてさ。店がつぶれちゃったものね。
 でもギャンブルは止まらないんだ。
 次は会社から前借りするようになって、しまいにはそれでも足りなくなって、同僚や上司から借りまくってね。ここでもクビ。
 それでヤマ(山谷地区)に来たんだ。ヤマに来れば仕事があるし、ドヤ(簡易宿泊所)がある。そう思うと、ホッとした。若いころは、仕事にあぶれることもなかったからね。塚本屋さんには八年間も部屋を持っていたし、荒川区の豊荘には2年間も部屋を借りていたんだ。
 ヤマに来てからはカネを借りられる人もいないし、以前ほどはカネをムダづかいしなくなった。数年前なんか、1日に1万円しか使わないと決めていたからな。ビールが350円、煮込みが80~100円。レースに費やすのは、8000円ってね。だからアオカン(野宿)することもなく、暮らしていけた。
 ところが、96年くらいからドヤの値段が上がり始めたんだ。1日2000円だったのが、2500~2600円にまで上がった。そうなると仕事にあぶれる日には、アオカンするしかないよ。そうこうするうちに年齢がネックになって、しょっちゅう仕事にあぶれるようになった。仕方がないから、桜橋のたもとで暮らすことにしたんだ。

■母親があえいでいた

 どうしてホームレスになんかになっちゃったのかなんて、よく考える。もちろんギャンブルが直接的な原因だけど、母親の影響もあると思うんだ。
 ひどい女だったからね。
 父親が留守だったときなんか、おれを連れて近所の家に行くんだ。何をするかというと、若い男をカネで買うんだよ。しかも知り合いの旦那だよ。
 奥さんにカネをわたして、一番末っ子で手がかかるおれのお守りをさせるんだ。その家にはおれと同じ年くらいの女の子がいてね。よく一緒に遊んだよ。でもね。隣部屋で母親があえいでいるのが、聞こえるんだからな。後ろ暗いことをしているのは、子ども心にもわかったよ。
 父親が高給取りだったから、カネには困っていないだろ。ちょっとカネを積めば、貧乏な家の旦那なんか、いくらでも体を差し出すよ。夫を買われた奥さんには気の毒だけれど、貧乏だから我慢していたんだろうな。
 母親と性格が合わなかったのかもしれないな。おれは母親からトコトンいじめられたよ。7人兄弟で、6人までが何不自由なく小学校に通わせてもらったのに、おれだけ学校に行かせてもらえないんだから。「勉強なんかするな。働け」てな。
 それでも学校に行く。そうすると家に置いておいたノートが母親に破かれているんだ。それから勉強道具も隠されたな。もちろん暴力なんて、日常茶飯事だ。隣に住んでいた本家筋のおばあさんから聞いた話では、もう生まれてすぐのころから虐待が始まっていたらしいんだ。 たとえば、おれはわりかし歩き出すのが早かったから、家では両手・両足をひもできつくしばられて、転がされていたというんだよ。そうすればおれが歩き回らないから、母親の世話も楽だろ。そうしたおれの状態を見るに見かねて、おばあさんがひもを解いてくれたらしいんだ。
 おれはね。勉強が好きだったのに教科書を開かせてくれなかったり、暴力をふるい続けたりした母親を、一生忘れないよ。子ども心にも、あの女への復讐を誓っていたからな。
 母親を心から憎んでいたから、飲み屋でも女をくどく気にならないんだと思うんだ。結局この女も母親と同じなんだろうな、と考えてしまうからな。女にカネを使うなら、ギャンブルやっているほうが、気持ちも落ち着くよ。もちろん結婚なんか考えたこともなかったし、女がいないから寂しいと思ったこともなかったんだ。
 おー、そろそろ、昼飯が無料で配られる時間だから行くよ。会いたくなったら、桜橋の付近にいるからよ。じゃあな。 (■了)

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元信者が視るオウム的社会論 第13回/岡崎被告・判決傍聴

■月刊『記録』98年12月号掲載記事

 坂本弁護士一家殺害事件の実行犯である岡崎一明被告の判決公判に行ってきました。
 実は岡崎被告は僕がオウムに出家する時の担当であり、彼が教団にいる頃はさまざまな場所でかかわりがあった人物なのです。
 読者の方々は、岡崎被告がどういう人物だとイメージするでしょうか? おそらく「オウムを抜け出して、田舎でビクビクしながら身を隠していた小心者で、しかも麻原から金をせびり取った狡猾なヤツ」とでもなるのでしょう。
 しかし、別に岡崎被告を擁護するわけではありませんが、昔の彼は多くの信者の憧れの的だったのです。
 岡崎は石井久子に続き、オウムで二番目に解脱したことになっています。それは、あの上祐や村井よりも早く、教団内では麻原に続くカリスマでした。岡崎を崇める信者は非常に多く、彼のホーリーネームを取って「アングリマーラ教(一派)」をオウム内で形成していたような時期もありましたね。彼の意志力は並大抵のものではなく、真っ暗闇での独房を百日間も耐え、罰として断水断食で五日間独房に放り込まれた時も平然としていました。過激な言葉と堂々とした態度で人を引っ張っていくリーダーシップがあり、他人の心をズバッと見抜く特殊な才能(これをオウムでは「他心通」と呼び、超能力としていた)をもっていましたね。
 麻原彰晃が衆議院選に出馬した選挙活動中に、僕はストレスに耐えかねてラーメンを食べてしまったことがあります。朝の九時から夜の十時まで選挙区内の家を一軒一軒訪問する「宅訪」というワークのときでした。教団の戒律では外食してはいけないことになっているのです。
 僕はその日、ちょっとしたうしろめたさを抱えながら、選対事務所に帰りました。そして、深夜のミーティングの時、僕が結果報告を済ませると、その場に居合わせた岡崎がズバッと、「外食をしないように」と指摘してきたのです。
 ラーメンを食べることは、破戒になるのですから、当然僕は細心の注意を払ってラーメン屋に入りました。誰にもわかるはずがないと高をくくっていたのです。しかし、それを見抜かれてしまったのですから、腰が抜けるほど驚いてしまいましたよ。
 さて、その「偉大な解説者」であった岡崎一明氏に八年半ぶりに会ってきました。しかし、彼は決して越えることのできない柵の向こう側にいます。
 入廷する時から、彼は今にも泣きそうな顔をしていました。昔の凛々しい面影はありません。椅子に座ってからもずっとうつむいたままです。
 裁判長が判決文を一時間ほど読み上げ、最後に「被告人に死刑を宣告する」と言った時も、岡崎はその表情のままでした。
 判決は当然のこととはいえ、なんともやりきれない気分になりました。(■つづく)

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元信者が視るオウム的社会論 第12回/富士山とサティアン

■月刊『記録』98年10月号掲載記事

元信徒が視る
オウム的社会論

第十二回

 富士山。
 日本一高く、日本一美しい山。
 そのすぐ麓でずっと生活していながら、一度も登ったことのない山。
 
 八月十二日、富士登山に行ってきました。上九一色村のサティアン群の見学も兼ねてです。頂上から見たら、果たして自分の「夢の跡」はどう見えるのか? そして、自分が青春の夢を追いかけた場所がどうなっているのか? それをこの目で確認したかったからです。
 五合目まで車で行き、そして約四時間をかけて日本の頂上まで登りきりました。予想以上に山頂は涼しい、いや、それどころか寒かったほどでしたね。
 頂上からの眺めはすばらしく、緑の樹海が一面に広がり、富士五湖や朝霧高原が一望できました。はっきりとした場所は特定できませんでしたが、この一角に毒ガス製造工場や銃の製作所もあったのでしょう。自分は教団在籍時、「厚生省」でも「科学技術庁」のメンバーでもなかったので、それらの殺人兵器を作っていた現場は見たことがありませんが、富士山頂からの美しい眺めと対比させるとあまりのアンバランスさに、当事者の自分ですら「え、あれは本当だったのかな?」という気分になってきました。
 下山後、山麓を散策するとますますその気持ちは強まってきました。毎日のように眺めていたはずなのに、富士山がとても美しく見え、そして周辺の木々や花も訴えかけるように自分の目の中に飛び込んできました。数年前までは、この風景をいつも見ていたはずなのに…。
 オウムにいた時、次のような修行がありました。呼吸を圧迫し、第三の心臓である横隔膜を鍛えるという触れ込みで、目の部分だけに穴を空けた覆面を被り、富士宮の道場から上九一色村の道場まで約二時間をかけて歩くという修行です。それを朝夕二回、日課のように繰り返していました。
 澄んだ空気を吸いながら、美しい山野のなかを歩いていたにも関わらず、当時は一度も自然のすばらしさを感じることはありませんでした。目の前にある富士山を見ても、ただの物体にしか見えませんでしたね。感情を圧し殺すことが修行だと教えられてきたせいでしょう。
 そういえば、毒ガス攻撃を受けているという建て前で、サティアンにはほとんど窓がありませんでした。それに、公安警察から見張られているという理由で、少ない窓もすべてカーテンを閉めきっていましたね。
 そして、修行という名目で心の窓も閉じてしまうというのが、カルトであったオウム真理教の本質だったと、今は実感しています。
 
 最近、オウムの元信者で、僕の親友である加納秀一君が歌手デビューしました。彼が作詞した曲のなかに、
 OPEN YOUR SOUL
 OPEN YOUR EYES
 OPEN YOUR MIND
 という一節があります。
 オウムの現役信者に聞かせてみたいものです。
(つづく)

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元信者が視るオウム的社会論 第11回/「オウマー」の追っかけ

■月刊『記録』98年9月号掲載記事

 七月二八日、約二年ぶりに青山吉伸被告の公判に行ってきました。事件当時、問題意識のかけらももたずに上祐や青山を追っかけていた若い女性、いわゆる「オウマー」が現存すると聞いたからです。
 まず驚いたのは、流行りの下着ファッションに身を包んだ若い女性がたくさんいたことと、廊下で眠りこけている人がいたこと。そこにオウマーと年配の方が加わり、異様な空間を形成していました。法廷は完全に劇場化し、皆は見せ物を楽しむために来た、そんな印象を受けました。
 法廷内で熱心なファンを観察してみると、彼女達はなんと、被告の一挙一動、例えば何時何分に少し横を向いたとか、何時何分に鼻を触ったとか、法廷で裁かれるべき内容とは全く関係のないことばかり事細かに記録しているではないですか! こんなことまでするのかと、正直言ってゾッとしましたね。しかも、相手は自他共に認める犯罪者。そのうえ、ふぬけたような青山被告。何故そのようなものを偶像化し、裁判に通い続けるのか。そこに関心をもち、話を聞いてみることにしました。
 話を聞き、彼女達もオウムの人間と同様に、社会適応性に欠けているな、と痛感しました。当時の青山や上祐には、ある程度一般社会に対する反抗精神があり、オウマー達も社会に対して、さまざまな理由でひがみみたいなものをもっていた。そこにシンパシーを感じ、学者や評論家と果敢に闘い続けた青山や上祐の「反骨」に魅かれたのでしょう。もっとも、彼らは逮捕された途端にあっさり折れた「エセ反骨」でしたが(笑)。
 こんな話もあります。ある時期、上祐・青山に飽きた追っかけギャルたちが、その当時、薬害エイズ問題に奮戦していた菅直人氏にこぞって鞍替えしたそうです。つまり、「何かに立ち向かう姿勢を見せている人」なら誰でもいいのでしょう。
「犯罪と病理を混同してはいけない」などと言った人もいましたが、それはオウムには該当しません。オウムは「病気」ではないからです。確かに、事件を起こした状況は特殊でしたが、特殊=病気とは直結しません。特に青山などは犯罪を認めてるわけですしね。
 今回わかったことは、オウマーには単にアイドルとして眺めるタイプと根本的にはアイドル視していても右記のようにもっともらしい言い訳をし、建前だけはとりつくろうタイプの二通りあるということ。しかし双方とも、結局は裁判の本質はなにもとらえていない、はた迷惑な存在であるということです。
 青山被告は彼女達を、一瞥だにしませんでした。そりゃそうでしょう。被告にとっては人生を左右する場を、コンサート会場かなにかと勘違いしてきて、裁判官に悪印象を与えるのですから……。決して傍聴席を振り向こうとしない、それが彼の心情を象徴しているのではないでしょうか。
 ストーカーのように、相手(被告)の心理を全く考えずに押しかけて、裁判所全体の雰囲気を乱す人間がいる。少なくとも僕ら二人は、ただならぬ危機感を覚えましたね。
 尚、この拙文並びに漫画への反論がある方は、是非『記録』編集部までお知らせください。(■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第24回 家族として信じること

■月刊「記録」2000年6月号掲載記事

*         *           *

 2000年3月、通信制高校の卒業が決まったと知った時に私の頭に浮かんだのは、「ホッとした」という一言だった。私の学校生活は、時間と、そして自分自身との戦いだったように思う。いつ辞めてもおかしくなかった。
 高校の4年間は、短かったような長かったような、とにかくがむしゃらに走ってきた毎日だった。
 学校に行かなくなってしまったり高校を中退したり、自分の方向をなかなか見つけられなかった私にとって、一つのことをやり遂げた経験はとても大きな出来事だった。
 中途半端なことをしてきたつもりはなかった。自分の生き方を見つけるまでに、何度もやり直しをしてきただけのつもりだが、それも単に自分の歩き方を否定したくないだけのいいわけなのかもしれない。
 通信制高校に入り、自宅で、自分一人で学習をしなければならなかった間に身についたやり遂げる力は、今もいろんなところに影響しているけれど、それは私が一人でがんばってきた成果ではなくて、いろんな人に支えられてきた結果だった。
 学校へ入ったばかりの頃の私は、学校というところが嫌いで、家族や自分の周りにいる人が嫌いで、自分自身もふくめて、世の中に生きている人すべてが嫌いだった。
 心の片隅で、「これじゃいけない、ちゃんと生きていかないと。人として、自分や周りに負けない人生を送らないと」そう思いながらも、自分の殻の中から抜け出せない苦しさから、なかなか逃れられなかった。
 どうすることもできなくて、どうしていいのかわからなくて、ただ不安な日々を1年くらい過ごした。そしてそこから脱け出すきっかけになったのが、振り返れば大検(大学入学資格検定)だったような気がする。
 大検に受かった時に味わった、一つのことを乗り越えたという満足感。結果そのものよりもなによりも、自分だって目標に向かって歩けるんだという自信が、私を勇気づけてくれた。
 それからの私は、本を書いたり、『記録』に原稿を書かせてもらったりして、自分の名前と言葉で、自分の考えを話せるようになった。けれど、ずっと心の奥で疑問に思っていたこともあった。それは「本当に、私は昔の自分から卒業することができたのか?」ということだった。
 講演会や不登校の親の会などに出席させてもらい、壇の上で話をしていると、自分の口から出ているのは、「私はあんなことが嫌だった、こんなことが嫌だった、もっとこうしてもらいたかった」という話ばかりであることに気がついた。
 わがままな願望のオンパレードで、「こんなことがうれしかった、こんな言葉をもらえてうれしかった」という言葉が出ていない。それどころか、うれしかった時のことを思い浮かべてみようとさえしていない自分に気づく。
 嫌な記憶しか話せないのが私なのか?
 こんな嫌な記憶ばかりを吐き出しているのが私なのか?
 私は本当に昔の自分から抜け出し、変わることができたのか?
 自分でも不安になった。本当は何も変わっていなくて、ただ強がって大きな声で話しているだけで、変わったと思い込みたいだけなのかもしれないと思った。

■立ち直ることもできるのだ

 2000年1月、不登校の親の会が開かれた。子どもの心理を知りたいからという理由で、現在不登校をしている何人かの子たちと一緒に、私は会場に招かれた。そしていろいろな質問を受けていて気がついた。
 当時、親に何をいわれて嫌だったのか、不登校の子にとって学校とはどんな存在なのか、何に対してどんな不満があり、周りにはどんなことをしてもらえるとうれしかったかなど、いろいろな質問をされて応対しているなかで、私は、自分が当時の気持ちを、もうリアルに思い描くことはできなくなっていることに気づいた。
 親が嫌いだったことは覚えている。けれど、今は感謝している。学校に対しても、勉強に対しても、自分自身に対しても、何もかも嫌いだったことは覚えているが、もう、その気持ちをありありと思い浮かべて話すことはできない。
 不登校をしていた頃は思い出せなかった家族旅行のことも、結婚をして学校を卒業した今なら、楽しかった思い出として心に浮かぶ。
 そんな自分に気づいて、やっと私は、昔の自分から本当に卒業できているのかもしれないと思うことができた。
 ここ最近、世間を騒がしている事件のなかには、犯人は自宅に引きこもりがちだったり、不登校の経験があったことなどが、それが原因の一因でもあるといわんばかりに報道されている。今現在、不登校や引きこもりの家族を持つ家の人たちは、とても不安に思っていることだろう。
 でも、引きこもりの子や不登校の子を信じてあげてほしい。彼らだって苦しんでいて、普通の人間であることを信じてあげてほしい。
 家族の愛情は、うまく伝わらないときも多くて、受け取る側の感じ方によっては、曲げられて感じ取られてしまうこともあるだろう。けれど、いつかはそれもまっすぐに伝わる日が来ることを家族は信じてあげてほしい。 私はうまく立ち直ることができた珍しい例だといわれている。実際に今も、引きこもりから抜け出せないで、社会との生活を絶っている人が大勢いることもよく知っている。引きこもりの期間が昔に比べてだんだん長くなっていることも、その人数が増えていることもわかっている。
 引きこもりの年齢は次第に高くなり、学校や学級崩壊を起こす年齢は低くなってきている。自分の子だって、いつそうなってもおかしくない時代だ。
 けれど、どんな育児書を読んだって、しつけの仕方について話を聞いたって、それはただのマニュアルにすぎない。
 どんな報道も事件を起こしてしまったその人の話にすぎない。自分の家族は一人しかいないのだから、マニュアルや興味本位の報道に振り回されるよりも、信じて接していくことのほうが大切だと思う。
 講演会場に来る親御さんの表情を見ていると、悩んでいるのかあきらめているのかわからないような顔に出会うことがよくある。
 新潟の監禁事件も京都の小学生殺害事件も自分の息子が犯人かもしれないと思った時、どうして親は子どもと話ができなかったのか。なぜ警察に助けを求められなかったのだろうか。自分の子どもがそんなに恐ろしかったのだろうか。犯罪を犯しているかもしれない真実を確かめることもできないほど、つながりを断っていたのだろうか。
 この二つの事件は、たまたま事件として表沙汰になったものだけれど、世の中にはきっと、子どもと話ができない親、信じることができずにあきらめてしまっている親がたくさんいるのだろうと思う。
 犯した罪をつぐない終わった時、この事件の二人は、立ち直ることはできないかもしれないと感じてしまう。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/競馬にさえ手を出さなければ・藤井勉(五三歳)

■月刊「記録」1999年9月号掲載記事

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■競馬を覚えたのが運の尽き

 生まれたのは秋田県のN市でした。何でも、おじいさんはN市の市長を二期務めたとかいう話です。私が生まれる前で、戦前のことだからよくわかりませんけどね。裕福な家だったことは確かなようです。
 私が生まれて、しばらくして農地改革というのがあって、ほとんどの土地を取り上げられてしまったらしいです。それで、おやじは嫌気がさして一家で東京へ出てきてしまったようです。私が2、3歳ごろのことだから、全然覚えてませんけどね。だから、育ったのは東京っていうことになります。
 おやじが三菱重工に就職したんで、一家で東京・江東区にあった社宅に入りました。私は6人兄弟の末っ子で、せまい社宅に家族が多くて大変でした。でも、暮らしのほうは恵まれていたと思いますよ。
 子どものころの私は、勉強も体育も苦手で、どっちかっていうと暗い子でしたね。中学校を出て、都立の農業高校に進みました。もちろん、ちゃんと本気で農業をやろうと思ってたんですよ。何しろ自分には一番合っているような気がしたし、あのころはまだ周りに田んぼや畑もありましたからね。
 ところが二年生のときに、同じクラスの子とケンカをして、それで学校に通うのが嫌になってきて辞めちゃいました。けがをさせたとか、されられたとか、そんな大ごとのケンカじゃないですけどね。原因だって些細なことですよ。けれども、どうしても学校には行きたくなくなっちゃったんです。
 高校を中退して、都内の印刷工場に就職しました。オフセットでチラシとかカタログを印刷する会社で、まあ大きいほうの会社でしたね。私がしたのは紙積みっていう一番下っ端の仕事。その会社にいた六年間は、ずっとそればかりやらされてました。
 20歳のころから競馬に凝るようになって……。今考えると、その辺から人生が狂い出したような気がします。周りの工員の仲間が、みんな競馬をしてましたからね。私もついつられて始めたのが運の尽きです。
 もう毎週日曜日になると、5万円くらいのカネを持って、「府中だ」「中山だ」って通っていました。そのころはまだ両親と一緒に例の社宅で暮らしていましたし、酒も女もしませんでしたから、給料はほとんど競馬に注ぎ込んでました。
 一レースで206万円を当てたこともあります。そうなると、朝会社に行くふりして家を出て、船橋、川崎、大井、浦和の地方競馬に直行です。そんなわけで会社のほうは、解雇に近い状態でクビになってしまいました。すぐに別の印刷会社に移りましたが、競馬でちょっと当てると、もう会社には行かずに競馬場へ行ってしまうのは変わりませんでした。当然その会社も長くは続きませんでしたね。
 競馬の魅力は何かって?魅力なんてありませんよ。ただ、何となく行っちゃうだけ。惰性ですよ。理性では「ギャンブルはやめなくてはいけない」とわかるんですけどね。ついフラフラと体が競馬場に行ってしまう。一日競馬をやっていると、二、三レースは当たって取れるでしょう。あれがいけないんじゃないですかね。こわいですよね。ギャンブルはホントにこわいもんですよ。

■面接のために身ぎれいに

 あとはずっとホームレスです。そう、30歳になる前からですから、20年以上続けていることになります。日雇いで稼いだカネで競馬に行って、カネがあればドヤ(簡易宿泊所)に泊まって、なければ公園のベンチに寝る。そんなのをずっと続けてきたんです。
 そういえば、何年かぶりで一度だけ印刷会社に就職したことがありますよ。「いつまでもホームレスをしていられない」と思い直しましてね。けれども、今は印刷機もみんなコンピュータ制御になっていて、使い方なんてちっともわかりません。ちょっと離れている間にずいぶん変わってしまって、昔の経験なんてまったく役に立たなくなっていました。またまたホームレスに逆戻りです。
 それからは気持ちもすさみましてね。酒も覚えて浴びるように飲みはじめました。日雇いで稼いだカネを今度は酒にも注ぎ込んじゃう生活ですね。
 これでもギャンブルを始めるまでは、「結婚して家庭を持って、しっかりやっていこう」って、人並みの夢は持っていたんですけどね。結局、結婚もできませんでした。性格が弱いんでしょうね。つくづく、そう思いますよ。
 こんな生活を20年以上も続けてますから、もう慣れましたし、暮らしていくのに不自由はありませんね。飯も三度、三度食べてますからね。
 ただ、最近は日雇いの仕事がなくなって、カネがないから競馬と酒はやれなくなりました。まあ、仕事があったとしても、体がついていけるかどうか自信はありませんけどね。今はプロ野球のチケットの列に並ぶ仕事が、たまにあるくらいです。
 それに50歳を越えると、冬に野宿するのがつらくなりましてね。冬は体にきついです。だから、もうこんな生活はやめたいですね。
 そのためには仕事をしないと……。ビル掃除のような仕事でも、何でもいいですからね。でも、なかなか仕事はないですよ。
 仕事につくための努力はしていますよ。こうやって、身ぎれいにしているのも、いつでも面接に行けるようにと思っているからなんです。
 役所に就職の相談に行ったこともありますが、役人は口でいいことをいうだけでアテにはできませんね。役所の紹介で行っても、面接ではねられるのがオチですよ。 あのまま印刷会社で働き続けてたらどうだったろうとか、競馬にさえ手を出さなければとか、いろいろ考えますよね。いまさらどうしようもないですけど……。改めて、ギャンブルってのはこわいもんだと思いますよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/社会主義の理想に燃えていた・田中淳一(七三歳)

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■秋の空に消えた妻の煙

 病院のベッドで月刊の『文藝春秋』を読んでいたんだ。視線を感じてふと顔を上げると、黒いワンピースを着た女性が立っていた。
 美人でね。黙って僕を見つめている。しばらくして、やっと自分の娘だとわかったよ。数日前、兄に電話したとき、娘が僕に会いたがっているといっていたから。彼女は18歳、17七年ぶりの再会だった。
 最初、気まずくてね。「ジュース買ってこいや」と小銭をわたそうとしたら、「いけませんよ」って怒られた。二ヶ月間入院するほどのけがだったから、娘も心配したんだろう。
 それからまた沈黙が訪れたんだ。
 「聞きたいことや、言いたいことがあるかい?」 
 娘と17年ぶりに会い、やっとしぼり出せた言葉がこれだった。
 「なくなった母は、どんな人だったんですか」
 僕から視線を外すことなく、彼女はいった。そのしっかりとした口調が、死んだ妻を思い出させた。
 妻を最初に僕に勧めたのは、おふくろだった。お茶会で見かけた娘さんがすてきだったから、ぜひ結婚しろとね。「お花もお茶も一人前、そのうえ、農作業もきちんとできる。何より人前での応答が堂々としているのが気に入った」と、おふくろは妻を絶賛した。でも見合いでの僕の第一印象は、よくなかったな。きれいな女じゃなかったからね。ところが話すうちに、どんどんひかれていったんだ。さすがにおふくろの目は確かだった。
 結婚してからも、おふくろの見立て通り妻はよく働いた。家事も農業も手抜きすることもなく、いつも笑顔で僕に接してくれた。子宝にも恵まれて、すぐに長女を出産。ここまでは順調だったんだ。
 僕の実家は新潟県でね。毎年10月には、一番実りが遅い稲を刈る。寒いなかを、鎌で一束ずつ刈り取らなくちゃいけない。産後の肥立ちが決してよくなかった妻も、産後八ヶ月もたっているからと田に出た。強い寒風が彼女をむしばんだんだろう。すぐに体調を崩し、急性肝炎を発病。子どもを残して、あっさり死んじまった。太平洋戦争の混乱をまだ引きずっていたころだから、医療体制も充実していなかったしね。
 地元の葬式は、まず十文字に溝を掘る。そこに木を組み、棺桶を置いて火をくべるんだ。晩秋の晴れた空は、遠くてね。妻を焼く白煙が、真っ青な空を真っ直ぐに、真っ直ぐに昇っていった。昇った白煙が空に溶け込み、消えていくのを見ていると、万感胸にこみ上げてきた。涙が自然にほおを伝わっていたよ。ぬらしたほおが、寒さで突き刺さるように痛かったのをはっきりと覚えている。
 やがて、子どもに恵まれなかった兄夫婦が、残された8ヶ月の乳飲み子を「引き取らせてほしい」と頼みにきた。迷った末にお願いした。僕は働かなければならないから、自分で育てるにしても、おふくろや兄弟夫婦に娘をみてもらうことになる。それならば兄にお願いしようかな、とね。安心して任せられるし……。
 娘がもらわれた日から、僕は彼女に会わないようにしていた。死ぬまで会わないと決めていたんだ。兄貴に悪いし。でも一生に一度くらい、娘は実父に会いたかったらしい。だから入院先に来たんだろう。
 娘とは、一時間以上も病院で話していたかな。最後に「おれに会うのは、もうこれきりだよ」と娘にいったら、彼女もうなずいていた。それから25年以上たっているけれども、娘に会ったのはそれきりだね。

■乱闘国会を経験

 隅田川の河川敷でアオカン(野宿)をするようになって、一年半がたつ。まさか自分がホームレスになるとは思わなかったよ。振り返ってみると、妻が死んだこと、そしてヤマ(山谷地区)で仕事を始めたことが、僕の人生を変えたんだろうな。
 僕は、自らヤマに来たんだ。借金に負われていたわけでも、職がなかったわけでもない。簿記ができたから、小さな会社ならば雇ってもらえた。ただ人生を変えたかった。だから42歳からドヤ(簡易宿泊所)に住みつき、ヤマで日雇いの仕事を得た。
 実家の新潟を出て、東京で住むようになったのが28歳。知り合いから紹介された旅館で働き続けた。36歳から40歳までは大手建設会社の社員として、さらに42歳までの二年間は、その関連会社で建設に関わる事務仕事をしていた。どの職場も働きやすかったよ。ただ日に日に野心めいたものがわき上がってきた。机の上なんかで憔悴して生きたくない。自分の好きなことをして生きていきたいとね。決まりきった仕事をこなすだけでは得られない充実感を取り戻したかったのかもしれないな。
 実は妻が死んでから数年間、つまり20代後半かな、僕は政治運動に熱中していてた。人生で最も充実した時間だった。きっかけは、隣町に住んでいた日本社会党右派のシンパに出会ったことだ。彼の家によく通ったよ。社会主義の勉強と論争の毎日だった。本も手当たりしだいに読んだよ。
 選挙前になると、立候補した先生と一緒に手弁当で選挙区を回る。トラックで一ヶ月以上もだよ。そして、人が集まっている場所を探しては、先生がトラックの荷台の上で演説を一席ぶつ。まあ、遊説だね。テレビがある時代でもないし、選挙民一人一人に会わなければ、選挙に勝てないから。
 もっとも当時の遊説は、今みたいに穏やかじゃなかった。反対陣営の人が、力ずくで演説を止めにくることもあったから。そうなると、すごいもみ合いになる。おかげで遊説が終わるころには、トラックがボロボロ。そういう毎日が楽しかったんだな。
 時代もよかった。師事していた先生が国会議員になった年には、乱闘国会が起こっているし。衆議院会議場に警官200人が動員されたなんて、今では信じられないだろう。先生の議員会館にちょうど遊びに行った僕は、乱闘国会直前の雰囲気を現場で味わったんだ。ワクワクしたよ。時代が動く予感がした。
 国家を動かす政治に触れた後、田舎なんて小便くさく思えたんだな。先生のお手伝いをしたかったし、東京での都会的な生活にもあこがれた。それで先生を追って、田舎を飛び出したんだ。東京に出てきた当時は、とにかく先生のところに通った。仕事以外の時間は、政治一色だったからね。
 ところが僕の政治への情熱は、五五年を境に減退していく。社会党の右派・左派統一や、自由民主党の結成。政治からギラギラしていた活力が消えていった。30歳になるころには、政治への情熱が消えていたよ。いや、むしろ嫌気がさしてきたんだ。人を人とも思わない政治の世界に幻滅したし、体力的にもついていけないと感じていた。

■半数が服役経験者

 そんな「政治の季節」を終え、その後12年のサラリーマン生活をへて、僕は山谷に来た。初めて山谷に来た日を、僕は一生忘れないと思う。心底、こわいと思ったからね。だって裏道に一本入ったら、ズラーとオカマが並んでいたんだから。彼らは売春をしていたんだ。道の奥まで、20件くらい売春宿があったかな。野太い声のオカマが、口々に「遊んでいかな~い」って声をかけてくる。女でもないのにカネで寝るなんて、信じられなかった。
 でも、そんなことは序の口だったんだ。山谷に住んでみれば、ここがどれほど常識の通用しない場所かがわかる。昔はヒロポン中毒の人が山ほどいた。そういう人は仕事がないから、カネがなくなると血を売りにいくんだ。それでまたヒロポンを買う。薬を買うやつが多いから、当然売るやつも増える。だからヤクザも、幅をきかせている。
 山谷では、誰が何をするかわからないこわさがある。八畳間に4人で泊まっていた経験もあるけれども、部屋には常に緊張感がみなぎっているからね。のんべんだらりとなんかしていられないよ。
 そうそう、20人ほどでドヤのテレビを見ていたことがあってね。ちょうど刑務所での生活の様子が放送されていたんだ。そうしたら誰かが刑務所の思い出話を始めて、気がつけば半分以上の人が、その話題で盛り上がっているんだ。20人中、10人以上の人に服役経験があるなんてな。
 劣悪な環境だよね。でもその無秩序を望んで、僕は山谷に来たんだと思う。社会主義の理想を、労働者とともに実現していきたいとでも思っていたのかな。今考えれば、あてのない「野心」だね。山谷で生きる計画そのものが砂上の楼閣だよ。もし妻が死んでいなければ、東京に飛び出すこともなかったし、山谷でフラフラすることもなかったかもしれない。
 そのうち僕は年をとり、景気も悪くなり、仕事もなくなってきた。ドヤは今では一泊2500円もするからね。一ヶ月もいれば7万5000円もかかるんだ。とても払えないよ。もう隅田川でテントを張るしかなかった。 歩き回って食事を探し、隅田川の増水に気をもみ、ネズミから食べ物を守り……。それが今のテント生活だよ。どうして山谷に来てしまったのか、どうしてホームレスになったのか、やっぱり考えることがある。でも、よくわからないんだ。 (■了)

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鎌田慧の現代を斬る/遅れてやってきた『一九八四年』

■月刊「記録」1999年8月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

*           *           *

「サッチー報道」がはじまってから一〇〇日を越えた。それでもテレビのワイドショーは、相変わらず長い特集番組を流しつづけている。今日見た番組では、サッチーのファッション遍歴を追いながら、ファッション評論家が彼女の人格を分析したりしていた。各局とも手を変え品を変え、視聴率を稼ごうとしているようだ。
 わたしは、サッチーを好きでも嫌いでもなく、さほどの関心もない。しかしマスコミのサッチー症候群には、いくつか問題がある。
「衆議院比例代表で繰り上げ当選になる可能性がある。だからサッチーは公人だ」。これが彼女のプライバシーを暴きたてるさいの、テレビキャスターの言い訳となっている。しかしバカも休み休みいってもらいたい。サッチー以外の公人のもつスキャンダルに、どれだけテレビ局は踏み込んできたというのか。
 サッチーはいわば「弱い権力」である。だからこそ手頃なターゲットにされている。逆に本当の権力をもつ政治家のプライバシーにたいして、テレビ局はすこぶる慎重である。サッチーと米軍との関係がいろいろと暴きたてられている。では政治家の場合、犯罪行為でもない前歴を、ここまで書きたてるだろうか。たとえば、ハマコーや児玉誉士夫や笹川良一について、どれだけ書いたか。
 テレビ局が自民党批判をあつかえば、自民党や党の政治家からクレームがつき、「放送免許」を取り上げるという脅迫にまで発展する。もしサッチーがすでに繰り上げ当選となっていて、自由党の一議席を占めていたなら、それでも彼女のプライバシーをこうまでテレビは暴きつづけていたがどうか。
 国会議員の立候補者ということで、サッチーをこれほど攻撃するなら、彼女の人気に乗って議席を増やそうとした毒クモ男小沢一郎・自由党党首の姑息な手段も、当然、批判されるべきだ。ところが、これには触れずじまいである。
 だいたい刑事事件の被告であっても刑罰を受けたあとは市民として復活し、その「前科」を暴く行為は、重大なるプライバシー侵害となる。ましてサッチーと米軍との関係は、なんら犯罪行為ではなかった。それを面白おかしく書き立てるなど、信じられないまでのプライバシーの侵害だ。
 ワイドショーが報じている彼女の犯罪事件は、たとえ成立しても微罪ていどのものである。その微罪追及のために毎日毎日、各局が膨大な時間を費やしているのは異常というしかない。
 このスキャンダル報道がエスカレートしながら三ヵ月もつづいているのは、他にこれだけの視聴率を稼ぐキャラクターがいないからだ。ワイドショー番組では、サッチーをあつかうことで二、三ポイントも視聴率が上がるともいわれているし、サッチーが出演した番組には二五パーセント以上の視聴率を稼ぎだしたものもある。
 彼女が登場する以前、マスコミから徹底的にいじめ抜かれたのが林真須美容疑者であり、松田聖子であった。つまり「ふてぶてしい女」が総攻撃の対象になっていた。しおらしくし、うつむき加減で、ろくに弁明もしない女性だったら、これほど攻撃されなかったであろうことを考えると、このバッシングの本質は、強い女性にたいする攻撃である。

■講演会を襲う言論弾圧

 わたしの友人であるフランスのカトリックの神父が、『出る杭は打たれる』という日本批判の本を書き、長い日本滞在にピリオドを打った。神父の言を待つまでもなく、いまだ日本は「出る杭が打たれる」社会である。サッチー報道は、そうした日本社会の陰湿さを如実にあらわしている。
 しかも彼女は、弁明する機会をもっていない。それが証拠に、弁明を掲載した『サンデー毎日』の編集部には、猛然たる抗議の電話が入ったという。本人に弁明する機会もあたえずに、根ほり葉ほり材料を集めて攻撃しているのは、弱いものはくじき、強いものには屈服するマスコミの体質そのものである。
 さらに問題なのは、サッチーバッシングがはじまることによって、それまで予定されていた講演会がぞくぞくと取りやめになったことである。盛岡市や埼玉県狭山市につづいて、茅ヶ崎市で予定されていた講演会も中止になった。茅ヶ崎の場合は、東京電力と市が共催で「妻として、母として、女として」という演題でひらく予定だったという。ところがサッチーバッシングがエスカレートするにつれて、市や東電に抗議電話が殺到し、やめざるを得なくなった。これで明らかになったのは、自治体が東京電力からカネをもらって、多数の市民を集めていることだ。原発会社のやり方は、油断もスキもない。
 問題なのはテレビだけではない。週刊誌などの見出しも常識を越えたものが目に入る。夫との関係などで、確認できないような憶測の記事が流れているのは、双方にとっての名誉キソンである。
 週刊誌やテレビは、とにかくサッチーブームにあやかり、すこしでも視聴率や売り上げ部数を稼ごうとハイエナ的な存在になっている。たとえ現在の報道が沈静化しても、彼女が繰り上げ当選になる可能性がでてくるたびに、またぞろ、おなじようなサッチー症候群があらわれるにちがいない。
 そのさいには、学歴詐称が最大の問題になるのであろうが、これとてさほど重要な話ではない。問題になるのは、日本人が学歴にこだわりつづけているからだ。学歴不要論などといいながら、米国の大学を卒業していれば尊敬し、それが詐称であればうって変わって非難する。この問題は、学歴にこだわる日本人の意識にたいするリトマス試験紙といえる。

■戦前体制の復活

 はたしていま、マスコミが本当に取り上げるべき問題は、サッチー報道だろうか。週刊誌やテレビ番組が、サッチーに割いているスペースは、これからの市民生活に最も重大な影響をあたえる盗聴法のためにこそ使うべきではなかったか。
 この三ヵ月間、自自公民はますます結束を固め、すでに公明党の入閣が話題になりはじめている。よくもサッチー「煙幕」を張って、このドサクサに紛れて、ここまでやるものだと驚く。それと日本の民主主義の基盤の浅さを痛感させられる。
 盗聴法にいたっては、驚くべきことに読売新聞と産経新聞が賛成の立場を表明している。権力の盗聴にたいして抵抗しないジャーナリズムは、果たしてジャーナリズムといえるかどうか。NOである。こうしたなかでの『内外タイムス』の奮闘は、称賛に値する。
 渡辺恒雄読売新聞社長は日本新聞協会の会長になって、産経新聞の清原武彦社長を副会長にした。右翼内閣である。ガイドラインと盗聴法に賛成するこの二つの新聞の代表者が、新聞協会の要職を手に入れたことは、報道の歴史を考えれば重大な事態といえよう。
 盗聴法は国民の管理を徹底する手段となり、国民総背番号制がその管理をさらに徹底させる。これに現在実施されている警察庁の「Nシステム」が加わり、車の移動のチェックから顔の識別までできるようになれば、個人の日常生活のあらゆる面が警察の監視体制下に入る。ジョージ・オウエルの『一九八四年』の世界である。
 さらに先月もあつかったように、オウムの恐怖心を煽ることによって破防法は改正にむかっている。もう「有事体制法案」の足音がそこまで響いてきている。憲法調査会もできて、憲法改悪への動きはますます強まっていく。
 さらに戦後改革の重大な柱であった企業・労働・農業部門での法律が破壊されつつある。
 労働についていえば、きわめて限定された形で出発した人材派遣業が、ほとんどの業種に適応されるようになった。一部の職種だけを対象にしてきた人材派遣業が、いきなり一部の職種を除いて解禁されるというドンデン返しになったわけだ。それは労働者の権利を圧迫する、政府ぐるみの不当労働行為といえる。労働者の権利を奪うことは、国家に抵抗する力の根幹を破壊する。ことは労働条件の範疇に留まらない。職場で物言えぬ労働者は奴隷のごとく、政治についても発言しない。
 ほとんど報道されていないが、農業基本法の改正も大きな問題である。食料の自給率を高めるという名目で法改正がなされようとしているが、結果的には財界による農業の大規模経営に道をひらくことになる。農地改革によって小作人にあたえられた土地が、結局、巨大な農業資本に奪い取られようとしている。
 もう一つは、独禁法である。この法律の形骸化は、持株会社の復活にあらわれているが、いまや完全に骨抜きの法律になっていて、大きければすべて良しという状況だ。独占・寡占という言葉自体が死語となり、国際競争力を高めるという名目で、企業の合同が進められている。その陰で労働者の権利が急速に奪われていることなど、マスコミに取り上げられることもない。
 日本の軍国主義を支えた労働者の無権利・地主・寡占が公然と復活されようとしている。しかも資本主義がすべてという価値観は、その復活に疑問をはさむ余地さえあたえない。
 こうした状況をバックグラウンドに、ガイドライン関連法案の実施が時間の問題となり、日の丸・君が代まで法制化されようとしている。
 さいきん気になったのは、七月七日に広島県でおこなわれた、日の丸・君が代に関する地方公聴会の議論である。自民・自由党推薦の岸元 学・広島県公立高校長協会会長は、こう発言している。
「二月二三日に教育長から職務命令がだされ、校長たちが全力で説得に取り組み、斉唱率は大きく向上したが、その裏で一人貴重な命が失われた。もしも日の丸・君が代に成文法の根拠が規定されていたなら、議論も相当変わったものになり、仲間の校長も死を選ぶことはなかった」
 自殺に追いやられた校長は、日の丸・君が代の強制に疑問をもっていたからこそ悩んでいたわけで、その悩みを強制によって押し潰したからこそ自殺したのである。その間の出来事を、すべて自分に都合よくネジ曲げ、法制化の根拠にしようとするのは、死者の魂を冒涜するものであり、校長の二重の死を意味する。
 問題なのは、日の丸・君が代という思想に関わる問題を、法律や行政の力によって押し潰そうとしていることである。
 このように白を黒といいくるめる形で、日の丸・君が代は強制されている。ここにもいまの日本がむかっているナショナリズムの深い暗闇が見える。
 いびつな「愛国心」は、日の丸・君が代だけの問題ではない。日本企業を守るという名目で、官僚と大企業が結託している。経営者の経営責任を「公的資金」で賄うために、国税が湯水のように使われ、国民のツケにされている。国家的ボッタクリである。負債ばかりか、これからは大企業の土地まで買ってやろうとしている。これが国民のため、国のためになるはずもない。
 これまで保守政党が、やろうと思いながらできなかったことを、公明党を助っ人にして、政府は一気に押し進めようとしている。それはまるで堤防を破壊するかのようである。
 こうした政府の布石に警告が発せられることはなく、なんの権力もない一人の女性の生き様を、悪女だとか、どん欲だとか、下品だとか、金に汚いだとか、マスコミは罵りつづけている。井戸端会議での悪口を、そのまま電波や誌面にのせているのは、大衆の欲情への迎合である。
 マスコミ関係者は、サッチー報道の陰で進行している事態にたいして、どれだけの責任をもとうとしているのか。ジャーナリストとしての志について、真っ正面から問わざるを得ない。不景気の憂さ晴らしは、世相が混迷すればするほどあくどくなる。どう猛な売るため主義だけのマスコミは、報道の歴史において恥ずかしいばかりでなく、日本を地獄の道へ進めるアクセルとなっている。
 言論の弾圧と言論の画一化は、銅貨の裏オモテであって、権力の手段なのである。(■談)

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保健室の片隅で・池内直美/第23回 甘やかすことだけが愛情じゃない

■月刊「記録」2000年2月号掲載記事

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■いろいろな事件が頻発して

 平成11年に2歳の女の子が近所に住む主婦に殺されるという事件が起きた。
 その背景にあったモノは、いまだに明らかにはされていないけれど、「母親」という部分に焦点を合わせてみると、多くの人に共感と興味を与える事件だったようだ。
 お受験や公園デビューといったマスコミから生まれた言葉は、すみやかに世間に浸透して、そこに入っていかなければならない母親たちに不安の種を植えつけている。
 グループができれば、必ずなかにはリーダーになる人がいて、自然にその人を中心としてみんなが行動をとるようになっていく。そんな場所に入ってしまうと「仲良くしなければならない」という気持ちにとらわれて苦しむようになるのだろう。
 子どものイジメの場合もそれに似た部分があると思うが、年齢の違いや近所同士のつきあい、父母会でのつきあいなどいろいろな関係がからんでくる大人同士のつき合いのほうが、よほど難しいのかもしれない。
 そんななかでは、やはり人間同士のつきあいだから、合う人と合わない人というものも出てくるのだろう。グループの中にどっぷり浸かって周囲が見えなくなると、みんなの輪から落ちこぼれてしまったら生きていけなくなる、という不安感が強くなるのだろう。こういう現象は、おそらく若いお母さんたちに特有の現象というわけではなく、子どもたちの間でも、サラリーマンの間でも、形を変えて起こることなのだろうと思う。
 無理をしてまで小さなグループにしがみつき続けなくても、そこから外れてしまっても生きてはいけるのだろうに、視野がせまくなってしまっていると気づけなくなくなる。
 それにしても、誰とでも仲がいいと思われなければならないのだろうか。仲良くしなければならないのだろうか。それが今の時代なのだろうか?

■見て見ぬふりの大人達

 私自身には、子どもがいるわけではないから、公園デビューのことなどは話を聞いても、そんな親もいるんだなあとしか思わないが、話によれば、自分の子どもが友達を突き飛ばしても怒らない親や、小さい子どもを感情的になって叱りつける親など、本当にいろいろな親がいると聞いた。
 また、私が街で見かけた母親のなかにはこんな人もいた。
 あるろう学校の文化祭に行った帰りのこと、その学校の生徒と思われる小学生の集団と親を見かけた。
 はじめのうちは、ずいぶん元気のいい子どもたちだなぁと思って見ていたが、一緒に電車に乗るに至って、ただ見ているだけではいられない状態になった。
 子どもたちは、水風船(祭りなどで見かけるヨーヨー)を持っていたのだが、それを電車の吊革にぶら下げては落とし、上手にキャッチするという遊びを始めた。
 ただ遊んでいるだけでも、電車のなかで立ったり座ったりと迷惑なのに、持っているものが水風船である。もしも落として割れたら水びたしになるではないか。
 見ているほうは、「もしも割れたら・・・・」と思うと気が気ではない。けれど、近くにいる親は、それを見ながらおしゃべりしている。何もいおうとしない。
 子どもは、その遊びがおもしろいのか、割れたらどうなるかを想像できないのか、いつまでも遊びをやめようとはしない。遊びはだんだんみんなに広がり、エスカレートするばかりだった。
 周囲の乗客は、それに気づいていないのか、見て見ぬふりをしているのか、誰も注意をしようとはしなかった。まあ、私自身もその一人だったわけだから偉そうなことはいえないが、子どもを叩いたら虐待になってしまう時代なのだから、そんな光景が見られても仕方がないのかもしれない。

■甘やかすことと愛情とは別

 学級崩壊について、原因は学校や教師にあるという親もいるけれど、親のほうにまったく責任がないのかどうかも考える必要があると思う。
 なぜなら親にまったく怒られたことのない子どもが先生に怒られれば、「なんで怒られるのだろう」と疑問を持つこともあるだろうし、親が怒らないことを教師が怒っても子どもはなかなか納得できないだろう。また教師に怒られたことを子どもが帰宅して報告したら、親が怒って学校に苦情をいいにいくような状態では、子どもが教師をばかにしてしまっても当然だろう。
 そしてマスコミの影響力も見逃せない。「学級崩壊」という言葉もマスコミから出て広がっていった言葉の一つである。
 そこで「学級崩壊」という言葉が一番最初に使われるようになった学級は、いったいどんな学級だったかを思い出してみた。
 私がはじめて「学級崩壊」という言葉を聞いたのは、たしかテレビのドキュメント番組のなかであったように思う。たしか小学一年生のクラスだった。はじめて親元を長い時間離れてすごす学校のなかで、きちんと席に着いていることができない子どもたちの様子がテレビには映し出されていた。
 なにかというと教室を飛び出してしまい、それを追いかけていく先生が映っていて、それを見ている他の生徒が、自分も教室を飛び出せば、先生に相手をしてもらえるのかもしれないと、また教室を飛び出してしまう。そんな内容だった。
 その行動は、子どもたちの「先生にかまってほしい」という気持ちから発していたようだった。そして同じような行動を取る生徒がいるクラスを指して「学級崩壊」といい始めた。マスコミが大々的に「学級崩壊」を取り上げるようになり、全国の子どもの間にこの現象が急速に広がっていったのだった。
 私のいたクラスは、どれも学級崩壊のような状況になったことはなかったし、私自身も子どもの頃に授業中に騒いだような記憶もないので、どうして学級崩壊が起こってしまうのか正確なところはわからない。ただ、文京区の殺人事件の報道を見ていて、どこかでつながっているような印象を受けたのは私だけだろうか?
 この事件が起きた時、理由についていろいろな報道がされたけれど、その一つに母親の関心が子どもに集中しすぎて、子育てに埋没してしまっているというものがあった。
 子どもと自分の境界があいまいになってしまっているので、子どもが悪いことをしても叱ることができない。子どもが泣けばあたふたしてしまう。
 かと思えば、子育てが生活のすべてになってしまっていて、子どもの成績が悪いと感情的になって怒ったり、母親自身が落ち込んでしまったりする。そういうことが起こっているらしい。
 また、共働きの家庭が多くて、日頃は働いていてあまり子どもの相手をすることができない親が、そのぶん、つい甘やかしてしまうという話も聞く。甘やかすことと愛情とは別だということに気づくのは難しいのだろうか。

■犯人を憎むだけではなく

「キレる少年」という言葉も、もう昔のことになってしまったように感じる。けれど現実には少年犯罪は今も続いている。
 つい先日も一人の青年が小学生を刺殺するという事件が起きた(てるくはのる事件)。これも若い人の弱い者をねらった悪質な事件だった。
 彼は学校にうらみをもっていたという。それなのに、なぜなんの罪もない小学生をねらわなければならなかったのか。まるでこれでは弱い者を踏み台にしたうさ晴らしではないか。どうして子どもを刺すという行動に出る前に、ちょっと踏みとどまることができなかったのか。疑問をあげればきりはない。
 この何年か、弱い者を狙った事件や悪質な少年犯罪が続いている。あまりに理不尽な事件の数々に、ニュースを聞くたび犯人への強い怒りを感じるのは私だけではないだろう。けれどこのところ、犯人を憎み、責任の追及をするだけでなく、他のことにも目を向けてみる必要があるのではないかと思う。
 もしも私に子どもがいたら、こういう犯罪をニュースで知った時、やはり真っ先に「自分の子どもでなくてよかった」と思ってしまうような気がする。被害者が自分の子どもでなくてよかった。近所で起こった事件でなくてよかったなどと思うのは、当たり前の反応かもしれない。
 けれど、そう思ってすませてしまうことで、人の心がすさんでいくように思う。
 無差別犯罪の標的が自分でなかったことを安どの気持ちだけで受け止めたくない。その周りになにがあったのか、犯人は本当に凶悪な人間なのか、私たちとは異なる種類の人間だったのか、何が犯人をそこまで走らせたのか、それらのことにこそ関心を払っていたいと思う。

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ホームレス自らを語る/ろうあ者に東京は冷たかった・中川実(五三歳)

月刊「記録」1999年10月号掲載記事

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■施設でもらった名前

(※ろうあ者である中川さんは、言葉がはっきりとは話せない。取材では、わからない単語を一つ一つ中川さんに確認していたため、いきおい単語だけの会話になってしまった。しかし取材当日の会話を文章にするとわかりにくいため、編集部でつなぎの言葉を大幅に書き足した。山谷地区での取材は「一期一会」になることが多い。中川さんもその例にもれず、取材日以降、顔を合わせていない。そのため当人に取材原稿を、お見せすることもできなかった。こうした事情をお許しいただきたい。)*      *       *

 姓も名も、そして生年月日もね、偽物なんだ。だっておれも知らないんだよ。覚えていないんだから。
 唯一、おれが覚えているのは、おやじの後ろ姿。親戚の家に行くからと行って、おれはおやじに連れ出されたんだ。終戦直後の混乱が、まだ残っていてね。おれが生まれた熊本の街も、グチャグチャだった。
 おそらくおれは3~4歳くらいだったんだろうな。おやじが手を引いてくれなかったから、おやじの背中を必死に追っていたんだ。人ごみで見失わないように。でも、どんどんおやじは歩いていく。追っかけても、追っかけても、先に行っちゃうんだよ。
 そして一人バスに乗っていってしまったんだ。
 おれはバス停で、おやじの帰るのを待っていたんだけどね。何本バスを待っても、おやじは戻って来なかった。半日くらい待っていたんじゃないかな。
 そのうちバス停で座り込んでいるおれを見て、不審に思った運転手が警察に通報した。最終のバスが来ても、まだバス停から離れようとしなかったんだから、気味悪がられて当たり前かもしれないけれどね。
 そうして、おれは警察署に連れていかれた。迷子として。でもおれは言葉もきちんと話せなかったし、何よりも名前を覚えていなかったからね。どうしようもなかったよ。次の日には施設に運ばれていた。
 その施設でもらった名前がのが今の名だ。そして、1945年生まれになった。こんな生い立ちだから、本当の姓名も生年月日も知らないんだよ。

■耳も聞こえなくなった

 親に捨てられた当時から、おれは右耳がほとんど聞こえなかったし、言葉もしっかりと発音できなかったんだ。だから小学校の入学前は、施設の作業が終わった夕方から、毎日発音練習を続けたよ。「ア、イ、ウ、エ、オ、 ア、イ、ウ、エ、オ」ってね。左耳で音を拾って、繰り返し、繰り返しやったな。それでずいぶんと話せるようにはなった。まあ、その当時練習しておいてよかったのかもしれないけれどな。
 何たって小学校二年生のころには、左耳も悪くなっちまったんだから。いきなり聞こえなくなったんだよ。小学校ではどうにか生活はできたけれども、かなり聞こえにくかったよ。
 だからってわけじゃないけれど、小学校のころなんか、いい思い出なんかないよ。あ、そうだ。米軍が慰問に来てくれて、靴下や歯ブラシ、それからジャガイモなんかを置いていってくれたときはうれしかった。まだ物がない時代だったからね。当時は、そんなものも高級品だった。
 そして小学校六年の夏に、右耳を手術することになる。自分の皮膚を切り取って、引きのばして鼓膜の代わりにするんだ。この手術のおかげで、おれは六年生を二回やったよ。かなり長期入院になったから、出席日数が足りなくなったんだ。それじゃ、進級できないだろ。
 ところが、そこまでしたのに手術は失敗だった。退院しても、右耳は聞こえないままだったからな。結局、中学生時代に再手術をすることになったんだ。まあ、手術は成功したけれど、はっきりと聞こえるようにはならなかったよ。
 しっかりとは話せないし、耳も完全には治らない。親からも捨てられたしな。つらくてね。中学卒業と同時に、自殺するために施設を飛び出したんだ。施設から4000円持ち出してね。当時の4000円といったら、ちょっとしたものだったよ。高卒の初任給が1万円ちょっとという時代だからね。
 行った先は、阿蘇山。火口から飛び込もうと思ったんだ。でもね。死ねないんだよ。飛び込むと、口や鼻から有毒ガスが入ってくるだろ。そうしたら苦しいだろなーなんて考えて、飛び込む勇気がわかなかった。何度も火口をのぞき込んだけれど、結局、あきらめた。
 とはいってもカネを盗んで施設を出てきているし、第一、帰りたくないから、熊本の街で野宿をしていた。それも2ヶ月ほどで、施設の職員に捕まることになるんだけどな。映画館で見つかってしまってね。即刻、施設に逆戻りさ。でもな、このときこっぴどく叱られた記憶がないんだ。施設の庭の草むしりを、罰としてやらされたがね。

■楽しかった大阪

 そうこうしているうちに、施設がおれの仕事を探してきた。その施設は高校卒業まで入ることもできたけれど、高校に進学する意思もなかったから、働くしかない。 施設の先生と二人、電車で神奈川県の川崎まで行って、そこからタクシーに乗って、就職予定先に向かった。車の窓からは、道路やビルの工事がずっと見えていたな。それからどうしたのかは、よく覚えていないけれど、すぐに入社したような気がするよ。
 月給は、1万円。まあ中卒だから、相場の値段だったと思うよ。それにカネも使う場所もそれほどなかったから、別にカネには困らなかった。だってな、会社側から「酒は飲んだらアカン」っていわれてたんだ。
 結局、息がつまって、63年3月末に社員寮を飛び出した。でも、おれ帰るところがないんだよ。働かなければ生きていけないけれど、18歳のおれはどうやって寝床と職場を確保していいかわからなかったし。もちろん、きちんと耳が聞こえなかったのも大きいよ。
 追いつめられて帰った先は、やっぱり施設だった。もちろん帰れば施設は迎えてくれたけれど、18歳は施設にいられるぎりぎりの年齢だから、しばらくすると職員が仕事を探してきてくれたんだ。今度は静岡県の沼津にある工場。でも、そこは頭にきて、すぐに飛び出した。 こうなると、もう施設には帰れないからな。とりあえず大阪に出たんだ。あそこに日雇いの職業紹介所があるのは知っていたから。西成区のドヤ(簡易宿泊所)に住み込んで、飯場に行ったよ。現金で日払いだし、土木作業の仕事も豊富だったし、食うには困らなかった。
 それどころか人生で一番楽しかったのは、このころだよ。
 友達もいたし、酒もよく飲んだ。それに好きだった映画もよくみた。ほとんど洋画だったな。パチンコ、ストリップ、ポルノ映画なんかでも遊んだね。当時、ストリップが500円くらいじゃなかったかな。65年から88年の23年間、おれは大阪で楽しく暮らしていた。

■ドラム缶が頭から降ってきた

 ところが(80年代後半の)円高不況の影響もあったのかな、大阪で仕事がなくなったんだ。ドヤにも住んでいられなくなって、どうしようかと思ったときに、東京なら仕事があるらしいってうわさを聞いたんだよ。
 まだ四四歳だし、生きていくには仕事が必要だからな。手持ちのカネをかき集めて、鈍行列車に飛び乗ったよ。でも、甲府でカネが切れたんだ。そこからは歩き。「東京の山谷はどこだ」って場所を聞きながら、ようやくたどり着いたんだ。
 ところがせっかく山谷についたのに、おれは翌年から仕事にあぶれるようになるんだよ。ドヤにも住めない。仕方なく、隅田川にかかる桜橋のたもとでアオカン(野宿)だ。
 そのうえ、97年あたりからおれはついていないんだ。胸が苦しくなって4ヶ月も入院したし、退院したと思ったら、七月に今度は足が痛くなったんだ。原因は外反母趾。ひどくなりすぎて、歩けなくなったんだよ。それで、再度入院。そして手術。ところが、これじゃ終わらなかったんだよ。やっと仕事に復帰して建築現場で働いていたら、事故で足をけがしちゃったんだ。
 その事故が、また信じられないような状況だったんだよ。建設現場で、ドラム缶が頭から降ってきたんだ。とっさに逃げたけれど、右足を直撃した。足首の関節をくだいちゃったんだ。福祉事務所から、13万円のおカネが出たけれど合わないよ。
 福祉事務所のいうことには、おれの足は治るから、これ以上払えないんだと。治るったって、土木作業をバリバリこなすほどには回復しないのに。
 おれの友達なんか、一生入院するほどのけがにあったから、月々3万円ものカネが支給されている。耳だってそうだよ。ある程度聞こえるから、カネがもらえないんだ。びっこ引いて、仕事もできないくらいなら、いっそのこと、もっと大けがで一生おカネをもらえるほうが幸せだよ。
 カネがあったら、友達の大勢いる大阪に帰りたいんだ。足をけがしなければな。どうにか帰る道もあるんだかな。今のおれじゃ、どうしようもないよ。
 決まった曜日に配られるエサをかき込んで生きるだけさ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/首を吊る木を探し歩いた・池辺元(六二歳)

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■妻も子どももいたんだ

 勤めていた江戸川区のガンブキ屋(住宅などの外壁を吹きつける職業)がつぶれた。「どうにかなるかな」なんて思ったけど、普通の就職はもちろん、飯場でさえ使ってもらえないんだ。そのときすでに58歳だからな、年寄りは使ってもらえないんだよ。手配師から声がかからないんだから、どうしようもない。
 忘れもしない、94年6月7日。手持ちのカネは、ついに1000円くらいになっちまった。仕方がないから腕時計を売ったけど、泊まるほどのカネにもなりゃしない。上野公園のベンチで寝たよ。ボストンバッグが二つとロープ。それだけを持ってな。
 死のうと思ったんだ。
 おれをずっと見守ってくれたおふくろも死んじまったし、腹も減ってくるし、情けないしね。夜になってから、適当な木を探し歩いた。それこそ上野公園をくまなく。でもね、木がなかったんだ。うまく首をつれる木がさ。ひもを引っかけられるのに、ちょうどよい高さの枝が。あれだけ木があるのにな。結局、探しているうちに、夜が明けちまった。太陽を見たら、なぜか死にたくなくなっていたよ。
 ホームレスなんかしているけれど、大きな会社にいたことも、結婚したこともあったんだよ。22、23歳くらいから27歳までは、広島の会社に勤めていた。仕事は水性ガスを扱う仕事だった。もちろん給料も悪くなかったよ。高卒の銀行員の初給料とほぼ同じくらい、まあ1万円強はもらっていたからね。東京オリンピックの前なのに、白黒のテレビが買えたからな。
 60年2月には結婚もした。おれは24歳。相手はダンスホールで知り合ったんだ。美人だったよ。子宝にも恵まれて、二人も女の子を授かった。おれとおっかあは仲もよかったから、家族は幸せだったと思う。
 ただおれは、酒に目がなかったんだ。全部、酒に使うから、女房・子どもに一銭もカネを入れない日々が、一年以上続いていたんじゃないかな。そのうえ、勤めている会社が大手だから、飲み屋にいくらでもツケがきく。飲み屋への借金はたまるのに、おれはみんなにおごっちゃうんだ。
 気づいたときには10万円ずつくらい10軒ほどの店にツケがたまっていたよ。それが東京オリンピックの1年前の63年だからね。今のおカネにすれば、1000万円くらいの借金ということになるだろうな。
 その金額を知って、おれは逃げ出したんだ。
 行き先も決まっていなかったけれど、とりあえず大阪に向かった。といっても失踪したわけじゃないけれどね。一週間に一通はおふくろにはハガキを書いていたから。ただ、おっかあには、ハガキすら書けなかった。やっぱり迷惑をかけていたからかな……。
 大阪での生活は気楽なものだったよ。飯場で働いて、飯代と飲み代は稼いでいたしな。
 そのうち「おカネを全部返したから、実家に帰っておいで」とおふくろから手紙がきたんだ。でも、辞めた会社の仲間にあったら恥ずかしいだろ。男の出戻りなんてさ。だから故郷には、帰らなかった。お盆と正月だけは、おふくろの顔を見にこっそりと帰郷していたけれどな。

■気づいたらヤクザに

 そんな気ままな仕事をしていたある日、おれは声をかけられたんだ。これが運命を変えたかもしれない。「ちょっと、あんちゃん。一杯飲むか」ってね。酒は好きだからな。二つ返事で、おごってもらった。そのうち、その男がいうんだ。「ブラブラしているなら、仕事しないかい」ってね。
 親切そうな人だったし、実際、おれもろくな仕事をしていなかったから、彼の言葉はうれしかった。誘われるままに、彼の会社の事務所についていったんだ。ほろ酔い気分でね。
 ところが、その会社の事務所に入って驚いたよ。ドアを開けると、「任侠」の額が壁に飾ってあるんだ。いやあ、ヤクザ映画は忠実に作ってあるよ。映画そのまま。事務所全体、どこを見ても組の本部だとわかる造りなんだ。
 さっきまで一緒に飲んでいた男の表情も、いつの間にか変わっていたよ。事務所にいた別の男なんか、つめた小指を見せつけて、「指がうずいとるわ」なんておれを脅すしな。とても「家に帰してくれ」なんていえなかった。
 その日から住み込みだよ。だって事務所に連れていかれて、10日から20日は、一人になることさえ許されないんだから。便所だって、監視がつく。もちろん家から服を持ってくるわけにもいかないから、事務所に軟禁されている間はずっと着たきり雀だよ。
 仕事は便所掃除やら電話番やら、まあ雑用係だな。見張られているときは何度も逃げたいと思ったけれど、慣れてくるとヤクザも居心地がいいんだ。時代がよかったこともあるかもしれない。そんなにヤバイ橋は、わたらなくてもすんだからね。自分のほかにも5~6人の組員がいたが、嫌な人はいなかった。雑用係も一年をすぎたころには、おやじ(組長)の子どもを風呂に連れていくのを任されたりしてね。結構、楽しかったんだ。
 あのころは、街にこわいものなんかなかった。ただ、それがよくなかったのかもな。仲間5人と飲み屋に行った帰り、ケンカになっちまったんだよ。負けたら、おやじに怒られるからな。ボコボコに殴りつけたよ。おかげで警察に捕まった。暴力行為で、一年半も刑務所だよ。
■つらかった刑務所暮らし

 情けないのは、裁判のときだった。逮捕者は腰ひもで数珠つなぎで出廷するんだ。その姿を見て、おふくろが泣いているんだ。その姿を見て、迷惑をかけたなと心から反省した。
 また刑務所もつらいんだ。四六時中、見張られているからな。当たり前だけれど、早く出たかったよ。66年7月くらいだったかな、所長に呼び出されて、出所が近いことを知らされたんだ。うれしかったよ。房に戻ると、仲間が「出られるのか」って聞いてきてね。やっと出られるんだと実感した。
 それから出所三ヶ月前に長髪願いを出して、坊主頭の髪の毛を伸ばし始めるんだ。再就職するときとかに、坊主頭じゃ雇ってくれないからな。刑務所からの社会復帰は、髪の毛から始まるんだ。髪が伸びれば伸びるほど、出所も近づく。髪が伸びるのが、待ち遠しかった。そんな調子だから、もう出所一週間前なんか興奮状態だよ。何たって、うれしくて一週間ほとんど寝られないんだから。
 出所当日も、よく覚えているよ。
 まず朝飯を食うだろ。それから七時に体のチェック。すっぽんぽんになって、体の傷までチェックされるんだ。その後、入所したときに取り上げられた品物が返される。カードとかね。まあ、刑務所では使いようがないからな。それを書類とつきあわせて、全部確認する。それから出所だ。それはどういっていいかわからないほど、感激するもんだよ。
 おふくろと兄貴が迎えに来てくれてな。
「タバコくれ」。それが二人への第一声だった。兄貴がピースを出してくれてね。続けざまに吸い込んだら、涙がこぼれてきたよ。親兄弟に迷惑をかけたことがつらくてな。兄貴の顔なんて、まともに見られなかった。おふくろの顔は盗み見たけれど、会った瞬間から泣いていた。その涙がまた、おれにはつらくてね。今思い出しても、涙が出てくるよ。

■敷居をまたぐな、と

 そのときはそのまま広島に帰って腰を落ち着けようとも思ったけれど、組に仁義を欠くことになるから、ひとまず大阪の事務所には戻ったんだ。ところがよくしたもので、ほどなくおれの組は他の組と合併することになったんだ。「来たい者だけがついてきな」といわれてね。迷わず、広島に帰ることにした。
 もう42歳になっていたかな。「地元に帰る」と、おふくろに電話したんだ。おっかあ(妻)と一緒、家族に囲まれて、人生をやり直そうと思ってね。
 でも自宅の玄関には、おっかあからの手紙がテープで張りつけられていた。「子どものためによくないから、敷居をまたぐな」っていう内容だったよ。おそらくおふくろからおれが帰ることを聞いたんだろう。まあ、刑務所帰りのお父さんなんて、いらないよな。おっかあに迷惑もかけ続けたきたわけだし。
 仕方がないから、実家で暮らすことにした。でも、これも半年しか持たなかった。とにかくおふくろに悪くてさ。実家はそれなりの家柄だったからな。刑務所帰りの男が、家にいるなんて体裁が悪いんだ。仕事だって簡単には見つからない。近所だって、うわさをする。おふくろには、「ここでは暮らせないよ」といって、家を出てきたよ。

■おふくろを拝んで生きている

 その後また、大阪に出て飯場回りなんかをしていた。当然、そのころ稼いだカネはすべて酒に消えた。こうした生活を続けているときに、横浜に行かないかと、知り合いから誘われたんだ。
 おれは断ったよ。知らない土地なんか、行きたくなかったしな。でも、やつがどうしてもと頼む。しまいには自分の金時計と給料をすべて預けるから、横浜についてきてくれないかというんだ。
 正直、やつのカネと時計を持って、途中で逃げようと思っていたよ。ところが変なもんだね。おれを完全に信用している姿を見たら、逃げ出せなかった。こんなにおれを信用しているのかと思うとね。結局、四合ビンで酒を飲みながら横浜まで来ちまった。横浜から本牧に出向いて、荷積み作業の仕事についた。悪い仕事じゃなかったな。途中でウインチを扱う資格も取ったし。
 この試験の合格も楽なものだった。学科試験と実技試験があるんだけれど、本を2~3冊読んだら、何と学科が受かっちゃったんだ。でもウインチなんて、使ったことないだろ。実技はあきらめようかと思ったら、先輩が「学科を合格したのに、もったいないな」なんていうんだ。一体、どうするんだろうと思っていたら、試験になったら後ろから手が出てくるんだよ。試験官が見ているのはウインチでつるされた荷物だから、操縦席のほうなんて見ていないんだ。おかげで合格できた。結局、この職場では3~4年働いたよ。
 その後、山梨の落石防止工事を請け負う会社に就職した。この職場は長かった。20年くらいいたんじゃないかな。その会社を辞めて一年くらいたったころに、迷惑をかけ続けたおふくろも死んじまった。
 入院していたころに会いにいったよ。そうしたらおれの顔を見るなり、うれしそうな顔して泣くんだよ。そして「おまえを食べさせてあげられるほどのおカネはないけれど、お小遣いだよ」って、おカネを握らせてくれるんだ。もう死んでから何年もたつのに、いまだに当時のおふくろが夢に出てくるよ。
 でもね。公園に暮らすようになって、夢も苦しい夢ばかりなんだ。それでも毎朝、目が覚めなければよかったのにと思うんだ。腹が減ってると死にたくなるし、ホームレスなんて恥をさらして生きているのと同じだし。
 毎日、おふくろを拝んで生きている。生前に迷惑をかけたから、せめてもの罪滅ぼしだな。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/モラル崩壊の謀略「産業再生法」

■月刊「記録」1999年9月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■タカリ産業勢ぞろい

 自自公ファッショ準備政権は、懸案のガイドライン関連法を片付けたあと、国会の会期を強引に延長させ、愛国心鼓吹(こすい)のための国旗・国歌法を成立させた。さらに、監視国家のための盗聴法を強制採決、暴走ぶりに歯止めはかかっていない。国民総背番号制の導入、憲法調査会設置関連法の成立と、有事体制、憲法改悪への地獄の道を突進している。これから右翼ライターが大手をふるってバッコしよう。
 これらの悪法のあとに控えているのが、産業再生法である。この法律を簡単に説明すれば、勝手に企業が土地を買い込み、景気のよいときに莫大な利益を生みだした生産設備を、不況になったからと国に買い上げさせるものだ。
 いうまでもなく経団連の意見に従った法律だが、この虫のよすぎる要求には驚かざるを得ない。昨年はじめには、放漫経営で破綻寸前となった銀行に、「公的資金」という名目で湯水のごとく税金をつぎ込んだ。この方法を産業界全体に応用しようというのが、産業再生法である。
 この法律の原型は、重厚長大産業主導で進んだ「産業競争力会議」でつくられたものだ。その旗振り役が鉄鋼業界である。鉄鋼業界は市場産業のさいたるもので、景気が良くなると設備投資を拡大し、景気が悪くなれば休止するという極めて荒っぽい経営をしてきた。こうした経営を支えてきたのが、通産省を交えた鉄鋼製品のカルテルであった。つまり需要が落ちてくればメーカー同士が談合して生産量と販売価格を調整し、値段を上げてきたのだ。そうした国家依存の体質が、こんどの産業再生法にそのままもち込まれている。
 産業競争力会議において、今井敬・経団連会長(新日本製鐵会長)が、過剰設備の廃棄によって生まれる遊休地を、住宅・都市整備公団などが買い上げるように提言したのは、彼らのタカリ体質を如実にあらわしている。 もちろん産業再生法がらみでうまい汁を吸おうとするのは、重厚長大産業だけではない。たとえば工場跡地を売り飛ばすことについて、三井不動産会長の田中順一郎は次のように語っている。
「大都市圏の低未利用地の活用が必要である。例えば、臨海部の工場跡地などで、今後必要となるリサイクル施設などを組み込んだプロジェクトを展開し、活用していくべきである」
 あるいはこうもいう。
「都心の空洞化を防ぎ、活力を維持していくためには、住居機能に加えて、商業・娯楽・福祉などの機能を集積し、連携させるミックスドユース(多用途近接)の都市づくりを地区計画制度を活用して進めるべきである」(月刊『Keidanren』九九年八月号)
 大工場を作るという名目で、農民の土地や漁民の海を奪ってきた大企業は、不要になるとこんどは「低未利用地」などと名付け、政府に買い上げさせる。さらにゼネコンが自治体を巻き込み、その土地で都市づくりをおこない、加えて不動産業者が周辺の土地で一儲けしようとする。なんと調子のいい連中であろうか。日本の経営者は、シビアな経営など心がけるつもりはないのだ。放漫経営によって経営が息詰まれば、政治家を動かし、国の資金で救済させることができる。大蔵官僚は天下り先の銀行を救い、通産省は天下り先の鋼鉄や造船、電機メーカーを救う。これらを見越した、まともな経営など考えない、インチキ賭博である。

■経団連の要望を丸飲み

 経団連副会長の前田勝之助は、月刊『Keidanren』(九九年八月号)に寄せた文章で、産業競争力会議に経団連が提出した提言の柱の一つが、そのまま政府の産業競争力強化対策に盛り込まれたことを明らかにしたうえで、次のように書いている。
  「株式交換制度、会社分割制度、新再建型倒産手続きについては今国会から来年の通常国会にかけて逐次上程される方針が明らかにされた。また、『分社化に係る手続き』や『ストック・オプションの対象の拡大』、『事業再構築のための資金供給の円滑化』などの諸策については、早期実現の観点から『産業再生法』と称する特別法として、会期延長された今通常国会中に実現されることになった」
 つまり経団連の要望を政府が丸飲みしただけだ。八百長国会では自分の経営失敗のツケを補わせ、延長国会でも大企業救済に突進させた。
「企業が負っている過剰な債務のために、資本不足に陥り経営が立ち行かなくなる場合には、株主や経営者が責任を負う必要があろう」
「九九年三月には七兆円を超える(銀行への)公的資本増強が行われた。こうした事態を招いた銀行経営者の責任は重大である。経営判断の失敗という点以外にも、不良債権隠しのような違法な処理が行われていたケースが少なからず指摘されており、こうした場合も含め責任の所在を明確にしていく必要がある」(『経済白書』九九年度版)
 近年甘い見通しばかり書き立ててきた『経済白書』でさえ、政府と企業の癒着による税金投入がモラルハザード(倫理観の欠如)を招いた可能性を認め、責任の所在を明らかにしろと書いている。にもかかわらず、なんら経営者の自己責任は追及されぬままに、彼らの救済策がつぎつぎと打ちだされている。これぞ企業にはカネ、市民にはムチという自自公ファッショ政権の結末を示している。
 経営者の責任を不問にするという点で、産業再生法は許せない法律だ。だがこの法律の問題点は、そればかりではない。「産業再生」という名前の下に、債権切り捨てばかりか、工場の廃棄と労働者の解雇が公然と認められる。つまり経営者が労働者をクビにするさいに、「産業再生のためであり、国の方針だ」と堂々といい逃れできるようになったわけである。
 企業における労使関係は、あくまでも経営者の責任であったはずだ。ところが小渕政権と無責任な財界によって、「首切り法」が策定されることになった。これまでにも職業安定法と労働者派遣法がすでに改悪されており、このままでは、勤労者はなんのバックアップもない、ハダカの存在になってしまう。
 さらにこの首切り法が異常なのは、公的支援を望む企業が所轄の官庁にリストラプランを提出し、認定を受けることである。その認定の基準とは、経営資源が有効に活用されるかどうかであるという。しかし経営の実績などまったくない官僚が、「経営資源」の評価をするなどむちゃの極みだ。
 何度もくり返すように官僚と財界は癒着している。財界のいいなりになって、天下り先を確保するのが官僚の悪癖だから、どれだけ厳密に認定が行われるかは定かではない。しかも官僚が経営を統制していけば、統制経済になってしまう。ここでも口では市場経済といいながら、形勢不利になると国に下駄を預ける日本企業の悪習が繰り返されている。
 これまでの日本の歴史をみても、経営が行き詰まると国営にし、資本が強くなると国営企業を民間に払い下げてきた。そのいったりきたりで、財閥が形成されてきたのである。イギリスでもすでにサッチャーリズムによる民営化推進の欠陥が明らかになり、どのように雇用を守るかという議論が起きている。日本はレーガン時代のクビ切りをマネて、国家主義によるクビ切りによって、国力の浮上を図っている。これまで経営者が盛んにいってきた、「運命共同体――お前らが一生懸命働けば悪いようにはしない――」という約束を裏切るものだ。いまさら労働者に自己責任を要求してクビ切りするなど、許されるものではない。

■インチキ商法を国家が推奨

 政治も経済も自自公のやりたい放題である。
 じつはこの秋、中小企業の大量倒産が心配されている。一年前に実施された中小企業むけ融資の返済が、秋にははじまるからである。思うように景気が浮揚しない現状では、その支払いに行き詰まる企業が続出するだろう。大企業むけに大量に投入された資金のおこぼれで食いつなぐ中小企業には、根本からの安定など得られるはずもない。
 現在までに銀行や企業の債務に投入された国家資金は、総額五〇〇兆円におよぶとされている。国債の大量発行や、「公的資金」という名の税金投入は、最終的に国民にツケが回されたものだ。つまり国民にたいする大量収奪が、国会を通じて堂々とおこなわれている。
 いま銀行預金金利は、ほぼゼロに等しい。生活防衛上、なんらかの投資によって資金の有効利用を図りたい庶民にたいして、まず、銀行倒産の場合、一千万円以上の預金は切り捨てる、と脅し、リスキーな株式投資に誘導しようとしている。かつて、老人の貯金を大量に収奪した経済革命倶楽部やオレンジ共済組合のようなインチキ商法を、国家が奨励しているようなものである。
 すでに庶民は、荒野にハダカで立たされている。対岸に渡るためのロープを張り、そこを伝って渡れ、と政府はいう。ロープの下にはセーフティネット(福祉の網)はない。落ちたものは死ねということだ。
 こうしたヤラズボッタクリの政策が堂々とまかり通るのには、マスコミの弱腰が大きく影響している。労働組合の御用化、野党の退廃、国民の無関心。この三種の神器によって日本の滅亡は、ますます近づいている。 (■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第16回 正利の脱走

■月刊「記録」2001年1月号掲載記事

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 正利変態事件翌日の起床時のことである。いつも大きな声広美先生が、いつもより一層大きな悲鳴を上げていた。なんと正利がいないというのだ。
「何がどうしたっていうんですか! …あーっ、あいつもしかして、脱走ー!」
 あーあーやってくれたよ正利の野郎! あいつの寝床を見に行くとまるで誰かがまだ寝ているかのように布団がもっこり膨れ上がっている。うまいこと掛け布団の下にタオルなんかを入れて人に見立てていやがる。その細工の仕方にはあいつらしからぬ創意工夫のあとが見られた。
「先生っ! 隆志もいない!」
 ぼくに追い打ちをかける広美先生の声。最悪だ。あいつ、小学生のチビまで連れてっちまいやがった。これはやっかいなことになったぞ。

■受話器の奥の怒鳴り声

---脱走---
 子供が自分の意志で施設を抜け出したとき、職員の間ではそれを「脱走」と呼ぶ。他の悪事と違って「脱走」がやっかいなのは、まずすぐに見つかることはないことだ。子供の逃亡が無軌道なあまりにではない。むしろ子供の行動範囲など、我々の予想の範疇だ。それなのに見つからない。不思議なことに子供の近くまで来ていても、なぜかすれ違ってしまう。それが「脱走」のいつものパターンだ。
「脱走」にはおおまかに分けると2つの種類がある。「本当に逃げるから探さないで」というのが1つ、そしてもう1つは「逃げるけど、とりあえず探してくれ」だ。前者は男を作った女子に見られるタイプで、後者は悪いことをしてしまったあとの免罪符代わりの逃走パターンだ。では正利は? なにかどちらにも当てはまらない気がした。あいつは何も考えていないだろう。考えていないぼーっとした空っぽの頭のほんの隅っこに、幼き母親と妹との逃亡生活が甦ったのだ。
「にげるのよ。にげるのよ。何かつらいことがあったらにげるのよ。かなしいことがあったらにげるのよ」手に取るようにあいつの考えが浮かんでくる。なんて勘違いも甚だしい気持ちの悪い生き物なんだろう。そして同時にぼくは、自分のことが気持ち悪くなった。
「あいつのことばっかり考えているから、あいつの考えがわかっちまう。しかもきっとかなりの確立で当たっている。ああ、なんて気持ち悪いんだ。親の気持ちも彼女の気持ちも友達の気持ちも考えたこともないこのぼくが、なぜ、こうあいつのことだけは考えすぎてしまうんだ」
 とにかく何よりもあいつを探さなければならなかった。事件慣れした子供たちはいつもと変わらぬ様子であっちこっちでやかましくしている。そんな子供たちのなかをかき分けて、ぼくは車のエンジンをかけに行こうとした、
 そのときである。事務所から「神山先生!」という叫び声が聞こえた。ドアの前から手招きされるまま事務所に入ると、事務員の女の人に「正利君見つかりましたよ」と耳打ちされた。彼女の向こうでは、主任が苦り切った顔で電話の応対をしている姿が見えた。
「ですからそれはそれとして、今からお迎えにあがりますから」
 と言うやいなや急いで受話器を耳から遠ざけている。するとかなり離れたところに立っているこちらにも「てめえ!「ふざけんな!」などのやくざ言葉が聞こえてくるのだった。
(何だかやっかいなことにまた、本当にまた、なっちまったんだなぁ)
 あいつに振り回される毎日。本当に嫌になっている自分に僕は気づいた。
「神山先生、迎えに行きましょう」
 主任の大きな声でぼくはふと我に返った。
「先生、正利、どこにいたんですか? あのやくざみたいな怒鳴り声は誰なんですか・」
 矢継ぎ早に質問するぼくを焦るんじゃないとばかりに、まあまあとなだめて、主任は自ら車を出すと、ぼくを助手席に招き入れた。
 車は正利のいる場所へと走り出している。だがぼくは、あいつと会うのがなんだか嫌で嫌でしょうがなかった。
           *
 秋も深まり明け方近くともなると吐く息は白かった。そんな時間に顔色の悪いひょろっとしたまぬけ顔の中学生が、色の濃いクリッとした目の少年を連れて歩いている。冷え込む外気のなかで2人の格好は驚くほど薄着だ。誰が見てもそれは異様としかいえない光景だった。
「どこ行くの・ 正利くん。泊まるところはあるの?」「うるさいのよ。隆志は。すこしだまってるの」
「………」
 しかし、いざ隆志が黙り込んでしまうと正利も不安になってきた。
(どうしようか…)そこでいつものとおり大袈裟にわざとらしく腕組みをした。すると、いいアイデアが浮かんできたのだった。 (■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/日本を覆う言論弾圧の影

■月刊「記録」2001年8月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 言論にたいする自民党などからの攻撃が急速に強まってきている。これは、80パーセント以上の支持率に増長した、強気な政府の汚水からわきだしたボウフラのようなものである。ハマダラ蚊になる前に、極力、退治する必要がある。
 7月7日、横浜市神奈川区でひらかれた旧日本軍の性暴力問題を考える集会では、聴衆が大騒ぎして、暴力をふるう事件が発生した。『神奈川新聞』(7月10日)によると、日中友好神奈川県婦人連絡会が主催したこの集会では、まず「女性国際戦犯法廷」の記録映画を上映し、そのあと評論家の松井やよりさんが公演する予定だったという。
 ところがビデオ上映の途中で、会場にいた男女12~3人が「国賊だ」、「インチキ裁判だ」などと怒号をあげて騒ぎだし、ビデオの音声が聞こえなくなる状態となった。主催者が静かにするように求めたり、退場を求めても応じない。そのうち1人の男が飲みかけのお茶の缶を、参加者に投げつけ、それが主婦(64歳)の口に当たってケガをしたという。これで松井さんの講演会も中止となった。
 まさに暴挙である。戦後の歴史のなかでも、暴力行為によって集会が中止に追い込まれた例はさほどない。まして「女性への性暴力」をテーマにした集会で、聴衆の中に紛れ込んでいた連中が暴れるなど聞いたことがない。それでなくとも最近、従軍慰安婦問題への反撃が強まっている。こんご、おなじような集会が狙われるのかと考えると、暗澹たる思いである。
 先日、都内を歩いていると、右翼の宣伝カーが参議院選挙について演説していた。小泉が圧倒的支持を受けている現在、憲法改正するチャンスだ、と彼は絶叫していたのである。
 このように小泉があらわれることによって、さまざまな反動がムクムクと頭をもたげている。あたかも民主主義のフタを外したかのようだ。言論、表現にたいする攻撃は、歯止めがきかない。

■名誉毀損が逮捕か、巨額な賠償に

 7月7日には、宮崎県でも事件が発生した。破綻した大型リゾート施設・シーガイアを視察にきた石原慎太郎都知事が、記者を恫喝して記者会見会場から退場したのである。翌日に予定されていたヨットレースについて、テレビ記者が公務との関係を質問。これに怒った慎太郎は、「君ら(報道陣)が悪い。帰る」と怒鳴りつけ、会場から立ち去った。
 以前、「三国人発言」を書いた記者にたいしても、彼は名指しで記者を批判し、きわめて権力的に恫喝を加えている。宮崎でもおなじようなことをしたわけだが、思い上がりもはなはだしい。政治家は、公人として、疑問を質されたら答える責任がある。それなのに彼は、憤然として席を立って質問を無視し、あろうことか脅しまでかけた。
 そのごの新聞記事でも、報道にたいする攻撃だという論調はほとんどみられなかった。権力者の言動を規制するのがジャーナリズムであり、攻撃がきた場合、ジャーナリストは一致して抗議・反撃をすべきである。記者たちにこのような危機感がまったくないことこそ、危機的状況である。ヨットレースの実行委員会がテレビ局に抗議し、局の幹部が謝罪しているのは、本末転倒だ。
 また、ことし5月末には、化粧品会社のDHCが『週刊文春』の記事にたいして、10億円の損害賠償を求め、名誉毀損訴訟を起こした。週刊誌に掲載された記事の損害総額が、10億円に膨れあがるなど前代未聞である。
 これだけ高額となれば、出版社への圧力は大きい。報道機関は情報源を秘匿しなければならず、裁判では必ずしも十分な証拠を提出できない。とくに内部告発によって記事が書かれた場合、告発者の生活を守るためにも彼らの出廷は諦めざるを得ない。裁判費用に糸目をつけない企業や政治家が、こうした高額の裁判をまねれば、出版社や記者にとって大きな脅威となる。
 さらに7月4日には、『噂の真相』の岡留安則編集長にたいし、検察側は名誉毀損罪で懲役10ヵ月、社員の編集者に懲役6ヵ月を求刑した。ついに日本も言論にたいして刑事罰を加える時代となったわけだ。名誉毀損における損害賠償の巨大化と刑事事件化は、これからの報道にたいする大きな規制となる。
 週刊誌やフリーライターを狙い撃ちする「個人情報保護法案」が準備され、テレビ番組やインターネットなどにたいしては「青少年社会環境対策基本法案」による規制が検討されている。たしかにデタラメな記事や名誉毀損、過激な性や暴力表現が、売らんかな主義のなかで存在している。しかし、それにたいして国家が介入して刑事罰を加えるなど、許されるものではない。

■国の認識を表明した検定制度

 先月この欄で取りあげた教科書問題でも、言論への圧力がはじまっている。
 7月8日の『産経新聞』によれば、テレビ朝日系で放送している「ニュースステーション」でコメンテーターを務める清水建宇氏(朝日新聞編集委員)が、「子供たちをそんな大人にしたくないという保護者と先生たちは今立ち上がって声を上げたほうがいいです。この教科書は嫌だと」と発言。これにたいして「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが、総務省に処分を要請する申し入れをしたという。
 歴史を捏造している教科書を採択しないようにという発言は正しい。各中学で採択の動きがひろまれば、外交にも重大な影響をあたえる。にもかかわらず、放送法に違反するなどとして、お上に注進するなど、彼らの言論弾圧体質をよく示している。こうした連中の悪ノリこそ、日本の社会が戦前の体質にむかっていることを、よくあらわしている。
「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書は、戦争への情熱を駆り立てるものでしかない。たとえば特攻隊や沖縄のひめゆり部隊の死は、もっとも悲惨な死であり、強制された死である。この事実を美談化しようという精神で、教科書がつくられていた。だからさまざまな問題がおきる。
 日本の軍隊によって侵略された国の人たちが、侵略の歴史を美化した教科書だと感じているのは真実だ。こうした批判にたいして、政府は真摯に耳をかたむけるべきである。しかし政府の対応は、いわば切り捨てゴメンというものであった。中国と韓国の修正要求にはゼロ解答。これは両国の歴史を戦中、戦後にわたって足蹴にするものだ。
 たとえば韓国併合を侵略ではなく、国際的に認められた行為として記述した、と韓国は抗議した。これにたいして日本政府は、「韓国内の反対を、武力を背景におさえて併合を断行した」という教科書の記述を根拠に、「明白な誤りとは言えない」と結論づけている。
 また日本の植民地政策としておこなわれた鉄道や灌漑施設の整備が、あたかも朝鮮住民のためにおこなわれたかのように書かれた部分についても、「明白な誤りとは言えない」と日本政府はいい切っている。
 おなじく日本が朝鮮を植民地としていた時代の記述で、人民から収奪した記述がないという韓国からの批判にたいし、日本政府は「どのような内容を記述するかは、執筆者の判断にゆだねられている」などと、あたかも「つくる会」を擁護するようないい訳を開陳している。
 歴史の事実を率直にみとめない行為は、これから恐るべき日本人をつくることだろう。戦後56年をへようとしているのに、いまだに侵略した事実をうやむやにしようとするなどは、相手国が侵略を正当化していると感じて当然である。
 ドイツではいまなおナチスの責任を訴追し、その賠償金を払いつづけている。日本政府は、このような解決策のツメのアカでも飲んだらどうだ。
「つくる会」の教科書問題は、検定制度の問題も含んでいる。検定とは国家が表現の自由を規制したものだ。つまり国のお墨付きをもらった内容だけが、記述されている。国の認めた内容が相手国のプライドを傷つけるなら、日本国が挑戦・挑発していることになる。
 私は検定制度には反対しているものである。しかし、現実的に国家の意思が教科書に貫徹されているならば、それは検閲であり、書いた内容に国家が責任を負うべきである。それができないのなら、検定をやめるべきだ。 もしも教科書の検定制度がないならば、それは著者個人の表現の自由であり、中国や韓国もいちいち批判してこないはずである。両国が批判の対象としているのは、国のお墨付きによってあきらかになった国の認識だ。検定していながら筆者に表現の自由があるという論理は、責任逃れというしかない。
 さらに侵略された当事者がこれだけ批判する教科書を、地方自治体が採用するのは、中国や韓国にたいする敵対行為ともいえる。栃木県の下都賀採択地区では、採択協議会が教科書を採択する決定をした。しかし教育委員会の意見によって、今回の採択は見送られる公算が大きくなった。
 教科書が実際に採択されることになれば、さらに悪のりした内容になるであろう教科書指導書が教員の手に渡る。このような強権国家にむかう教育を許さないためにも、「新しい歴史教科書」という名の「ウルトラ・アナクロ教科書」は、不採択しつづけることが必要だ。
 80パーセント以上の支持率を隠れ蓑に、小泉純一郎首相はファッショ的な道をまっすぐに進んでいる。なぜか国民に大好評の「痛みをともなう改革」は、国家強化のための労働者と零細企業の切り捨てでしかない。
 もちろん軍国化も着々と進んでいる。
 7月16日の『日本経済新聞』によれば、自衛隊の領域警備で不審船への船体射撃を認めるよう法改正が進められているという。原発などの警備体制を強化しようという名目らしいが、ようは有事法制の準備である。
 99年3月、日本海にあらわれた不審船に攻撃をくわえた事件では、武器使用規定が働いた。しかし法改正が決まれば、自衛隊の攻撃は合法化される。事実上の憲法改悪である。まして治安出動に射撃を認めたことは、外国人ばかりか、日本人をも殺傷することの容認である。判断なき死刑であり、強権国家の成立である。
 外にたいしては武力攻撃を強め、内側では報道にたいする攻撃を強化する小泉ファッショ政権の危険性が、ますます強まっている。
 言論の奮起が、いま望まれている。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/小泉首相の蛮行を排す

■月刊「記録」2001年9月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 小泉首相が靖国神社に参拝したニュースは、カナダからカムチャッカにむかう、ピースボート船上で聞いた。 それ以外のニュースは入っていないので、国内で反響がどうなっているのかわからないのだが、わたしは二塁に盗塁成功して、ベースのうえで、サルのようにキイキイ踊り上がっている姿を想像していた。
 13日を15日に代える奇襲作戦で、彼はしてやったりと思っているかもしれない。所詮サル知恵なんだ。
 そもそも靖国神社など、壮大なフィクションでしかない。中国で、東南アジアで、太平洋上の島々で、無惨に死亡した兵士たちが、どのようにして九段の坂までたどり着くのか、わたしにはそれが理解できない。
 靖国で会おう、といいかわす兵士たちがいた、というからそれぞれ伝書鳩のような感覚をもっていたのかもしれない。が、地方からまっすぐに引っ張られていったひとたちは、九段がどこにあるのか、しらなかったはずだ。
 たしかに、死亡が確認されると「祭神簿」に、氏名、等級などが記載されるとしても、それはかなりあとだから、霊魂はそれまで宙にさまよっていることになる。
 困るのは、「水浸く屍」や野ざらしになった兵士たちで、戦後、数十年たって遺骨が回収されても、このひとたちは、千鳥が淵墓苑のほうに祀られているから、それまでは「靖国」の上空をうろうろしていることになる。
 これは死んだら靖国神社に祀ってやる、というのと約束がちがって、不公平というものである。
 さらに問題なのは、靖国神社などにいきたくない、台湾、朝鮮出身の「皇軍兵士」たちやキリスト教徒たちで、おれはいやだよ、といっても、それがキマリだ、といわれるのは、人権侵害というものである。
 日本の首相が、いまごろになっても、まだ靖国にこだわるのは、侵略した事実についてなんの反省もないばかりか、つぎの戦争のために靖国を温存している、とかつて侵略されたひとたちが考えるのは、あたりまえのことだ。
 小泉首相のゴッドファーザーというか、風見鶏の中曽根先生でさえ、85年に「公式参拝」をして、中国、韓国の批判に屈して翌年、中止している。このとき、「近隣諸国の国民感情にも適切に配慮して、差し控え」たはずだ。
 とすれば、小泉は、「近隣諸国の国民感情」を足蹴にしたことになる。
 無知というか、蛮勇というか。むしろ哀れというべきだが、それをゆるしたのは、日本の国民感情の低下ということになる。
 靖国神社は、侵略と旧兵士を階級化した抑圧の象徴である。死者をいつまでも英霊にしている装置は、平和を願うなら解体し、日本軍が殺害したひとたちをも、ともに慰霊する場所をつくり、二度と戦争しない誓いをあらたにすべきだ。 (■談)

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ホームレス自らを語る/いじけた性格が悪いのか・浜村重雄(五九歳)

■月刊「記録」1999年1月号掲載記事

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■先生に嫌われていじけた

 小学校三年生のとき、クラスの男の子とケンカになって、相手に大けがをさせちゃったんだ。その子の母親は、同じ学校で先生をしていてね。その母親が家までネジ込んできた。それからは、ほかの先生にも嫌われるようになった。まるで汚いものでも見るようにされたんだ。  中学へ入ったら、今度は、けがをさせた子の父親が担任だったよ。「おまえはバカだ」といわれたり、ずいぶん殴られもした。中学三年のときには「おまえの(受験)願書なんか書いてやらない」とまでいわれたよ。まあ、おれのほうも勉強が嫌いだったから、高校へ行くつもりもなかったけどね。そんなことがあって、おれの性格はいじけちゃったんだと思う。
  生まれは岐阜の田舎。家は田んぼが五反(約50アール)と、畑が二反ばかりの小さな百姓をしていた。そんなものを継いでも食っていけないから、中学校を出て近くの洋家具職人に弟子入りしたんだ。親方と兄弟子が一人いるきりの小さなところさ。
  ところが、親方も親方の家族も、おれにはケンカ腰なんだ。夕方五時になると、兄弟子には帰ってもいいという許しが出るのに、おれはいつまでも帰してもらえない。仕事を早く覚えて職人になりたいのに、配達とか雑用ばかりで、仕事も教えてくれない。初めから、一人前にする気なんてなかったんじゃないかな。六年いて辞めたよ。給料も安かったしね。日給で200円。そのころは、大工や土方でも500円はもらっていたんだからさ。
■栄町で遊べたのも少しだけ

 次に、大阪に出た。家具職人のところを辞めたことは家族に内緒だったから、黙って家出したんだ。大阪に向かったのは、東に向かうと運がないような気がしてね。一旗揚げるつもりだった。
  大阪駅に着いたら、すぐに手配師に声をかけられたよ。「住み込みで、月3万円になる仕事がある」っていうんだ。大阪には何のあてもなくて不安でいっぱいだったのに、いきなりこれだろう。「やっぱり西には運がある」って思ったね。
  手配師に紹介されたのは、アルミを溶解して地金に造りかえる町工場だった。従業員は15人ほどいた。約束通りの住み込みで、給料も3万円くれたよ。その代わり、仕事は厳しかった。すごい力仕事だし、ホコリで体中が真っ白になる。それに暑い。おれはメガネをかけているんで、曇って仕事にならない。
 それで辞めたんだ。
 それから東京に移った。わざと運の向かない東に行って、挑戦してやろうと思ったんだ。 22歳のときだった。それからずっと東京で暮らしている。もう、40年近くになるね。
  東京では製パン工場で働いた。街のベーカリーとは違って、勤務も二部制で仕事は厳しくなかった。その工場には9年いて、31歳のときに辞めた。ああいうところでは、30歳をすぎても結婚しないでいると、うまくいかないんだ。陰口をいわれたり、人間関係がギクシャクしたりね。だんだん行かなくなって、辞めちゃった。
  結局、結婚はしなかった。何でかなあ?勧めてくれる人はあったんだけど、カネもなかったし、そんな勇気もなかったんだね。酒は一滴も飲まないし、ギャンブルだって遊びで競馬をちょっとしただけ。それでもカネがなかった。給料が安かったんだよね。その工場で働いていた人は、みんな金で苦労してるみたいだったよ。
 女はきらいじゃないよ。好きだよ。製パン工場で働いていたときは、よくソープランドへ遊びに行った。月に2、3回は通ってたんだ。千葉の栄町にいい子がいてね。おれは話すのが苦手なんだが、それに合わせてくれて、気安くつき合えてよかったんだ。でも、ソープで遊べたのも、その工場で働いているときまでだったね。あとはカネのない生活がずっと続いて、ソープどころじゃなかったからさ。
  その製パン工場を辞めてから、しばらくは別の製パン工場を転々としたんだ。だけど、長いところで3ヶ月くらいで、どこも長続きしなかった。
  根性がないというか、仲間に反発ばかりして、いじけてばかりだった。自分で自分をいづらくさせちゃうんだから、お話にならないよね。勝手に休んだり、わざと遅刻したり、ほかの人が困るように困るようにって動いちゃうんだ。酒が飲めないから、人づきあいも悪いしね。たまに酒に誘われると、ケンカを吹っかけて、ビールビンで殴りかかっていったりするんだもん。どうしようもないよ。こんないじけた性格になったのも、子どものころ、先生にいじめられたせいだと思うよ。

■乾パンはもらいに行かない

 製パン工場を辞めてからは、ずっと日払いの仕事をやってきた。朝早く、高田馬場に行って手配師から仕事をもらうんだ。土工が多かったけど、ビンを箱づめにする工場なんかで働いたこともある。夜は新宿か大久保のドヤ(簡易宿泊所)に泊まってね。そんな生活を20年以上も続けてきたんだ。ところが、6年くらい前、いきつけの手配師から、「もう仕事は出してやれないから、来なくていい」っていわれて、それっきりさ。
 もう地下道に寝るしかなかった。「ここに寝て、仕事を探せばいいや」って、わりと気楽だった。そこを警官に追い出されて、今じゃ毎晩適当なところに寝ているよ。
  これから寒くなるから嫌だね。冬の夜は寒くて寝てなんかいられないよ。そんなことをしたら、凍え死んじゃうからね。一晩中グルグル歩き回って、体を温めるのさ。それで昼間、公園のベンチとかで寝るんだ。夜中に街を歩き回っているだろう。そうすると、知らないうちに眠っちゃうことがあるんだよ。歩きながら眠っちゃうんだからね。それで電柱とか、郵便ポストにぶつかって目が覚めるんだ。ホントだよ。
  まあ、おれの場合は冬の夜に慣れているからいいんだけどさ。これまで地下広場で寝ていて、追い出されたような人は大変だよね。初めての冬なんてどうするんだろうね?冬の夜は寒いから大変だよ。
  食事?一日に一食くらいだね。残り物のハンバーガーをもらって食っている。新宿区役所がカップめんを配るのをやめちゃっただろう。あれ、困るよね。代わりに乾パンを配ってるけど、歯がないから食べられりゃしないよ。だから、乾パンはもらいに行かない。
  仕事があれば働く意欲はあるよ。意欲はあるけど、決めるのは向こう(雇う側)だからね。この年になると、仕事なんか回しちゃもらえないよ。
  田舎にはもう、ずっと帰ってないし、連絡もしてないけど、変わったろうね。兄弟は四人いたけど、もう誰も生きちゃいないだろう。田舎に帰ったところで、どうなるものでもなし、このまま死んで無縁墓地に行くだけさ。

■女にたたられている

 ところでさ。あんた(取材者)に頼みたいことがあるんだよ。
  何をって、変な女がいて困るんだ。最初は、おれがアパートを借りていたころに、部屋まで押しかけてきてね。どうも、おれが若いころにした強姦事件のことを知ってるらしいんだ。そんな口ぶりで、「そのたたりだ」みたいなことをいうんだ。強姦事件・・・・。うん、確かにやったけどね。その変な女が気味悪くてさ。仲間に聞いたら「それはT教のしわざで、宗教グループがやってることだ」っていうけど、ホントにそうなのかね?
  おれがホームレスになってからも、夜になると時々やってくるんだ。寝る場所を変えても、必ず見つけられちゃう。オカルトみたいに、心を読まれているようでこわいよ。グループでやってくることもある。グループで来るときは、必ずメンバーが違うんだ。
 困るのは、おれの荷物を持っていっちゃうことだ。もう3回もやられた。仕事に行けなくなっちゃうんだよ。仕事に行かせないための、嫌がらせなのかね?警察に訴えたいんだけど、どうも警察もグルになってるらしいんだ。
 ほら、この道路の向かいに信号機があるだろう。あそこに立って、おれのことをじっと見ていることもある。そのときは犬を連れているよ。この間、おれが寝ていると、段ボールの中に猫が入ってきた。真っ白い猫。びっくりしたね。飛び起きて、走って逃げたよ。いくらなんだって、猫に化けることはないよね。気味が悪すぎるよ。
 あんたに頼みたいことは、だからね、あんたのような(取材の)仕事をしていれば、調べたら女のことはすぐにわかるんだろう?その女にいってほしいんだ。もう、おれにつきまとうなってね。気味悪いし、ホントに困っているんだからさ。頼むよ。 (■了)

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保健室の片隅で・池内直美/第22回 先生と結婚して変化したこと

■月刊「記録」2000年1月号掲載記事

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 通信制高校に入って、三年半が過ぎ、もうすぐ卒業という11月のはじめに、ある学校の教師と学生結婚した。 夏に知り合ってからたった三ヶ月のスピード結婚、しかも当時、学生であった私にとっては、この結婚はいろいろな意味での影響を与えてくれた。

■このクラスがこんなにまとまるとは

 知り合ったばかりの頃は、結婚する気持ちなどまるでなくて、高校を卒業したら進学するつもりでいた。そのことだけをとってみても彼は私の人生を大きく変える存在になってしまった。
 さらに相手の職業が学校の先生だったので、いつも先生に迷惑をかけては喜んでいたはずの私が、いつの間にか教師の側に立ったものの見方をするようにさえなっていた。
 これは自分でも驚くべきことだった。先生に迷惑をかけないように行動しようとまで、思うようになったのだから(!)
 結婚したばかりのダンナサマをおいて、高校生活最後の修学旅行に参加したときも、それまでだったら夜中にホテルを抜け出して遊びにいくグループの先頭に立っていたはずの私が、きちんと大人しくしていた。
 自分でいうのもなんだが少しさびしいような、少し大人になったような複雑な気持ちだった。
 それはさておき、年間を通しても十数回しか会わない仲間との二泊三日の京都旅行を楽しめたのは本当によかったと思う。
 考えてみれば、毎日会ったと仮定しても二ヶ月も一緒にいたことがない仲間だ。
 友達になれただけでもすごいと思うのに、クラスの団結力というのが予想を超えていたことのすばらしさ。ケンカもなくもめごとの一つもなく、当たり前のようにいつでも集まって一つの集団になって行動していた。
 学級崩壊が騒がれているなかで、年齢もまちまちのしかもめったに集まることもないメンバーばかりが、これだけクラスとしてまとまりをもつことができた。その私たちをまとめきった担任の教師の力もまたすごいものだと改めて思った。
 なにせ、それぞれが一度は担任とぶつかり本気でケンカをしたことがある者ばかりなのだ。自分の意志を通すため、または生徒対先生という形で。社会人としての良識ある行動がとれなくて叱られてケンカをしたこともある。とにかく一筋縄ではいかない頑固な面々がそろっているのだ。
 あえて全日制の高校を選ばず通信制という道を選んできた者ばかりなのだから。

■「通信制高校卒業」だからこそ嬉しい

 私たちは、京都にいる間中、夜中までそれぞれの夢を語り合った。
 夜中まで集まっている私たちに、担任の先生はいった。「君たちは、大切な忘れ物をしてきたんだ」と。それは「高校卒業」という大切な、そして大きな忘れ物だった。
 私も一度はあきらめたことがある。高校卒業の資格はなくてもいいと思った。けれど自分のために、自分の未来のために、もう一度その資格を取りに通信制学校へ進学した。
 並たいていなことでは通信制高校は卒業できない。四年間もの時間をわずかな通学日以外は自宅で、たった一人で勉強し続けるのは難しいことだ。
 その学校を、なんとか卒業しようとしている自分を、当時の私は誇りに思った。この「通信制高校卒業」という肩書きを手に入れることができる自分を、「高校卒業」する自分より、はるかに誇りに思った。
 そして同時にこの学校で出会い、一緒に学んでこられたメンバーのことも誇りに思っていた。やめようと思う気持ちが出るたびにお互いに励まし合い、社会人と学生生活とを両立させ、ときにクラスメイトとして、ときにライバルとして歩いてきた。
 還暦を目前にしながら介護福祉士の資格を取りたいと頑張る同級生のおじさん。彼は理容室を経営するかたわら、毎年何十万円もかけて、家庭教師までつけてここまでやってきた人だ。
 なぜ介護福祉士になりたいのかをたずねてみると、特別養護老人ホームに髪を切りにいったあとで、せめて入浴の手伝いだけでもやりたいのだという。髪を切りにいくたびに、同じ人から同じ話を何度も聞かされて、その話につきあい続けて二年が過ぎたという。
 痴呆が始まっているお年寄りの髪を切るのは決してラクなことではないだろうに。それでも、おじさんはもっと彼らの手伝いをしたいのだという。

■「ありがとう」のためじゃなく・・・・

 介護福祉士をめざしているのは、なにもこの人だけではない。私と同じ歳の男の子もこの仕事につきたいと思っている。
 今の若い人は、「ありがとう」と人からいわれる仕事をめざすといわれているが、ありがとうといわれたいためだけに、その仕事をめざしているわけではない。
 自分が生きているということは、自分と同じ血を引く人がいるということ。そのなかには、自分より先に死を迎える人もいる。おじいちゃんおばあちゃん、そのまたおじいちゃんやおばあちゃん、あるいは親だったり兄弟だったりする。
 生きていくために苦しむばかりの若い世代には、死を間近にひかえた「老い」の世界はわからない。それでも人生の最後のひとときを生きようとがんばる人のそばにいて、その人の人生のために何かをしたいと思う。それは自分の人生のためでもあるのだそうだ。

■年齢差のあるクラスで学べて

 大学に行きたい人、あるいはそれが専門学校だったりもするが、進学しようとしている人は多い。ただし通信制高校の人たちは「高校を出たから」進学するのではない。「やりたい仕事がある」から、進学する人が多いのだ。
 私と一緒に学んでいる人のなかには、高校へ行きたくても行けなかった人が何人もいる。時代がそういう時代だったのだ。
 もちろん当時でも進学した人はいる。しかしそれ以上に進学できなかった人がいる。「金の卵」といわれて就職し、戦後の時代を生き抜いてきた多くの人々が、今もう一度勉強をしたいといって高校へ来ている。
 そしてさらに高校を卒業してから進学しようというのだから、その情熱のただならなさに感心させられる。
 会社では、パソコンも扱えないおじさんとからかわれたり、マスコミには女子高生の援助交際の相手としてみられたり、家庭では肩身のせまくなった父親などといわれるおじさんたちが、学校のなかでは一人の学生として、本当の青春を感じながら人生に大きな夢を見ている。 同時に若い年齢のクラスメイトにとっては、社会でのいろいろなルールを教えてくれる年輩だ。
 たとえば、授業中に机の上に携帯電話を出しておいたり、ジュースのペットボトルを平気で置いておく人がいる。ちょうど映画などに出てくるアメリカのハイスクールなどで目にするような光景だ。
 若い年代の私たちは、最初、これが悪いことだとはわからなかった。いつもやっていることだから、みんながやっていることだからと感覚がマヒしてしまっていた。先生にいくら注意されても、聞きわけのない悪ガキ集団である私たちには、反発心もあってなかなか直すことができなかった。
 けれどそれが社会の常識として、大変失礼なことだと教えてくれたのは、クラスメイトであり先輩である年上の仲間たちだった。何が当たり前なのかが一人一人違うといわれる時代に、けれども最低限のルールがあることを教えてくれたのは、彼らであったような気がする。
 自分の親より年上の相手に何を話せばいいのかもわからず、はじめて会った時には正直なところ敬遠する気持ちが強かった。けれどやがて、わずかな時間とはいえ同じ教室で机を並べ、同じ思いを持つことができた時間が貴重だったと思うようになっていった。
 そしてそれは、たぶん私たち「生徒」だけではないだろう。自分よりも年上の「教え子」は、教師たちにとっても良い見本となっているに違いない。

■「先生」は想像以上に難しい仕事

「生徒がいるから俺の立場は成り立っているんだ」と、担任の先生は口ぐせのようにいっていた。
「先生」だって私たちと同じただの人間だ。ましてや生徒とそう年齢も違わない若い「先生」や、私たちのクラスのように生徒よりも年下の「先生」だと、どうしても一人の力だけではやっていけない。生徒の前で「先生」が「先生」であるためには、生徒の協力が絶対必要になる。生徒が協力して先生を盛り上げついていく。そういう気持ちをクラス全体が持つことが大切になるのだろう。
 先生になりたいという人は多いけれど、今、生徒に心から「先生」と思われている人はどれくらいいるのだろう? 同時に自分のクラスに情熱を注ぎ、生徒に関心を持って接している先生がどれくらいいるのだろう? そして学校や教室に行くことに不安を抱きながら登校している生徒がどれくらいいるのだろう? 「先生」とはきっと、先生になりたいと思っている人たちが思っている以上に大変な職業だと思う。
 いま、ともに人生を歩み始めた教師であるダンナサマには、生徒を大事に思い、生徒から愛され、周りにいる多くの人たちに支えてもらえる本当の「先生」と思われる教師になってもらいたいと願っている。 (■つづく)

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「JRに巣くう妖怪とは?」 国労vs革マル派/本誌編集部

■月刊『記録』95年10月号掲載記事

■整備新幹線問題に絡む

* 「妖怪」が「人知では解明できない奇怪な現象」(広辞苑)という意味ならば、千人以上の解雇問題だけでも「巣くっている」と十分言い得る。94年6月に「JR東日本に巣くう妖怪」という見出しで、松崎明JR東日本旅客鉄道労働組合(東労組)会長が革マル派に属しているとの疑惑を『週刊文春』が報道した。そして現在、今度は革マル派の機関誌『解放』が、「国労が運輸大臣に秘密献金」とスッパ抜いた。この問題は、文春がJR東日本管内の販売店(キヨスク)での販売中止に合うなどJR側の過剰とも思える対応のせいか、どのメディアも及び腰だ。だが、志操高き読者に支えられ、キヨスクにも広告にも頼らない本誌に恐いものなどない!

『週刊文春』の記事は、松崎氏は革マル派のナンバー2まで登りつめた人物であり、86年に転向宣言を行ったが、この「転向宣言」が怪しいとにらんだのである。
 この報道に対しJR東日本側は、事実無根の記事としてJR東日本管内の販売店(キヨスク)で販売しない方針を取った。仮処分決定を受けての発売再開後も、同誌の取り扱い部数は半分に落ち込んだ。結局、文春側が11月に「お詫び」を掲載して和解した。
 そして最近、JRの周りは再び慌ただしい。革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)は機関紙『解放』において、国鉄労働組合(国労)から亀井静香元運輸相に秘密献金をしていたと報じ、逆に国労は松崎会長と革マル派が深い関係を暗示するかのようなテープを入手したと発表した。それを受けて革命的共産主義者同盟(中核派)までが、革マル派の報道は捏造だと断じたビラを、JRアパートのポストに投げ込んでいる。
 ことの起こりは、94年12月27日に「202億円損害賠償請求訴訟」が、国労と国鉄精算事業団との間で19年ぶりに和解が成立したことにある。この訴訟は、75年に国労や旧動労が起こした「スト権スト」に伴う損害賠償を旧国鉄が求めたものだ。国労は和解のために「分割・民営化されたことを認める」との新方針を表明し、国労会館を明け渡すことにも合意した。国労の樫村潔書記長は本誌に、「会館は精神的な中心地だった。お城を明け渡すような心境だ」と苦しい胸の内を語っている。
 しかし、判決は、そもそも国労敗訴の可能性が高いといわれていた。それが会館明け渡しの代償とはいえ、国労に20億円前後の立ち退き料を支払うなど、勝利をほぼ手中にしていた国鉄精算事業団が、国労に有利な形で告訴を取り上げたのはなぜか。
 一般的には、「この訴訟は当時の中曽根康弘自民党幹事長が、渋る国鉄当局のしりをたたいて訴訟に持ち込んだといわれる。中曽根元首相が後に行政改革の目玉として、分割・民営化を実現させたことからも、その障害となる国鉄の労組に圧力をかけるのが狙いだったと思われる。国鉄の分割・民営化が実現し、闘争力を誇った国労も10分の1以下に組合員が減って、JR内の少数組合に転落した。訴訟の狙いはすでに達成され、『歴史的役割』は終わっていた」(毎日新聞)との解説が支配的であったが、ひとり革マル派だけが、独自の見解を『解放』95年4月24日発売号で示した。
 同紙は、「運輸大臣・亀井が、大蔵省との予算折衝において、「採算性」を理由に整備新幹線に消極的姿勢をしめしているJR東日本会社の経営姿勢の転換をはかる、この転換を強引に実現するために国労を利用する、という担保をさしだしたからである」と書き立てたのだ。

■国労がキャスティングボード?

 JR東日本内の国労組合員はわずか1万8千人。それに対してJR総連傘下の東鉄労は5万6千人もいる。国労がどう動こうと経営姿勢が転換するとは思えない。ただし全国的にみれば、JR連合(東日本では4千人)がJR総連を6千人ほど上回っており、全国の国労組合員3万1千人がどちらにつくかは重要な問題となるだろう。事実、国労が「分割・民営化された事実を認めた」ことを受けて、JR連合は組織統一を、JR総連は「あらゆる形での話し合い」を呼びかけた。今まで強烈な逆風にさらされていた国労がキャスティングボードを握る可能性が出てきた。
 もっとも、少々フォローの風が吹いたからといって、それに乗じて整備新幹線をネタに運輸相とランデブーなどというウルトラCを国労が演じられるとは常識では考えられない。そもそもスト権ストをめぐる訴訟は、分割民営化や余剰人員対策などに協力した動労に対しては86年段階で取り下げられており、訴訟自体が、民営化される国鉄内での労組の力を削ぐための道具であり、94年末段階で役割を終えたというのが真相だろう。
 では革マル派はどうして突飛ともいえる「真相」を報道したのだろうか。前出記事を含む「JR再編をめぐる新たな動向」と名付けたシリーズを『解放』が始めた時期が95年4月である点にヒントがあるかもしれない。同じ頃、国鉄の民間化に伴う国労組合員1047人解雇問題で、運輸省が解決案を模索していたのだ。
 すかさず6月5日刊『解放』の同シリーズは「国労中央が運輸相・亀井静香らに1憶9000万円の秘密献金!」とスッパ抜いた。事実とすれば大変なニュースである。
 同紙が秘密献金の証拠としているのは、小島忠夫国労特別中執から永田稔光国労委員長に宛てたメモだ。3枚のレポート用紙には、国労が1047人問題を運輸相と亀井運輸相との関係を軸に解決していこうとしていることや、亀井氏に9000万円、野坂浩賢建設相と佐藤孝行元自民党総務会長に5000万円を渡したことが書き記されているというのだ。
 このメモについて樫村書記長は、「報じられた当時は混乱していたこともあり、きちんとした調査結果を出せなかった。しかし、現在は調査も終わり、3枚のうち2枚は小島氏が書いたが、もう1枚は偽造とわかっている」という。そこで『解放』に問い合わせたところ、国労内部から入手したとの説明をうけた。一方、国労側は「盗んだとしか思えない」とコメントしており、真相はヤブの中だ。樫村書記長はまた、同時期に永田国労委員長が自宅に保管していた小島メモとは別のワープロのメモが何者かに無断で持ち出され、改ざんされて『解放』に載ったことがあると証言しているため、『解放』の記事をう呑みにするのは危険である。

■秘密献金疑惑の疑問点

 そもそも、秘密献金報道には大きな疑問点が2点ある。
 まず第一に、亀井氏らに送ったとされる1憶9000万円もの大金をいかなる方法で調達したのだろう。『解放』によれば、国労会館と全国の国労の預金を担保に東京労金から緊急融資を受けたものだという。このような融資方法にしたのは、時間がないことと、資金調達方法がわかりにくいこと、国労がすでに10億円もの融資を受けており、「国労中央本部の資産を担保にして追加融資を受けることは現実的に不可能である」ためとある。
 しかし、国労が東京都渋谷区代々木に持っている1483平方メートルの土地には全く抵当権が設定されていない。この土地だけでも、国労は単純に計算しても7億円以上の融資を受けることができるとみるべきだろう。樫村氏も東京労金からの融資額は、『解放』が書いた額とは全く違うと語っている。
 第二は、国鉄民営化を運輸大臣として強力に押し進めた三塚博氏と同派閥の亀井氏が、国労を擁護するのかという点だ。『解放』側が、だからこそ亀井氏に献金が必要であったとの見解を述べるわけだが、少々うがっているのではないか。
 94年1月に、JR北海道とJR貨物は「採用差別」事件で中央労働委員会が国労組合員の救済命令を出した時に、社会党の伊藤茂運輸相は和解案を示して事態を収拾しようとしたが、経営よりの運輸省幹部を動かすことができなかった。結局JR側は行政訴訟に踏み切ってしまう。しかい、朝日新聞によればJR各社の幹部は、運輸相らによる早期解決要請や中労委命令を無視し続けることへの世論の批判も踏まえ、、「提訴後、話し合うことを拒否しない」と含みのある発言をしている。
 同じように中労委で争っている事件が、JR全体で25件もあることを考えれば、JR各社としても国労の譲歩を早く引き出し、運輸相と運輸大臣との関係を微妙にする問題から手を引きたいのが本音だろう。このような状況を受けて、亀井氏が運輸大臣に就任した。三塚派の影響が強いとされる運輸省である。国鉄民営化の中で、三塚氏が動いたように、国労問題を解決する流れの中で社会党出身の細谷治通政務次官を通して亀井氏がJR各社と話し合いをしたとみてもおかしくはない。
 亀井氏への献金問題をスッパ抜いた『解放』は、夜中に国労組合員の自宅に配られていた。樫村氏はもちろん、一般組合員からも同様の証言を得ている。なぜ、革マル派はここまで、国労の問題に力を入れるのだろうか。革マル派のインタビューでは、「労働運動の視点から国労は許せない」との声が出ていた。是非は別にして、その思い自体にウソはなかろう。しかし、それだけの理由なのだろうか。やはり、国労の組合員数がJR総連とJR連合の力の均衡を破る要素になり得る点を看過できない。
 なぜならば文頭に示したように、JR総連の中核である東鉄労の松崎明会長が革マル派に属し、JR東日本の経営陣と組んで国労を追い落としたといううわさがいまだに絶えないからだ。単なるうわさではなく、現に国労組合員の大半は信じて疑わない。「JR総連のチラシが革マルの文章と同じ文体で書かれている」「松崎氏が革マル派なのかと記者会見で質問され、同派は事実を否定しなかった」といった点が根拠になっている。
 本誌も「松崎会長=革マル派」説を『解放』編集部に質問した。答えは「(松崎氏は革マル派に)所属していない」だった。今までの記者会見などでは、「ノーコメント」と否定も肯定もしない態度を繰り返しており、霧は晴れない。

■革マル派の援護射撃か

 国労が分割・民営化を認める路線変更を発表した結果、3団体とも基本的な考えは近づいたとみていい。しかし、これまでの経緯を考えれば国労がJR総連と組むことはあり得ない。逆にJR連合と手を組まれれば、JR総連が少数労組として取り残される危機に陥る。そこで国労に打撃を与えるべく革マル派が援護射撃を送ったとみる向きは多いのである。
 だが、一方で国労=悪という構図と同じ意味で、国労=正義という言い方もまた、素直にうなずけない。国労側は95年7月、「花崎(JR東日本取締役部長)が潰れたら革マルだって潰れるの。松崎だって」と、JR東日本幹部の声が録音されているテープを公開した。しかい、このテープもネタ元がはっきりしない。しかも、発表は『解放』の「JR再編をめぐる新たな動向」シリーズに合わせたようなタイミングだった。正直、かなり怪しい情報だとしかいいようがない。
 また、樫村氏が小島メモの一文と認めた、「亀井と会い1047名の話しをする。もちろん礼もする」という部分について、樫村氏は「礼」は会食のことで、精算事業団・国労・運輸省3団体の総勢8人が1月中旬に赤坂の料亭で食事したものを指し、1人1万5千円程度だったと説明しているが、会食だけというのは説得力に欠ける。ただ一つだけ確かなことは、国労組合員が不当に差別されていることである。労働運動の視点以前に、人権問題の視点が必要であることだけは間違いない。
 JR内の奇々怪々については、取材するほど灰色の部分が広がってくる。「なぜ、俺たちの労働運動に革マルだの中革だといったセクトが密接に関わっているのか。本当に嫌になっちゃう」との国労組合員のつぶやきが、取材の中で一番印象に残った。

■■「解放」編集部に聞く

------『解放』で報じた国労の亀井運輸大臣への秘密献金についての説明を。
 国労組合員など1047人が精算事業団から解雇された問題で、解雇者のJRへの復帰要求を部分的に受け入れた内容の解決案を運輸省が示した。この解決案を出させるために、国労本部は運輸大臣・亀井などに1憶9千万円の秘密献金をしたのだ。国労中央本部特別中執・小島忠夫が国労委員長・永田稔光に宛てた3枚のメモにはっきり書かれている。
「202憶損賠訴訟」取り下げと引きかえに、分割・民営化反対の幕を下ろした国労本部は、このことによって切り捨てることになる1047人の解雇問題を解決するためには亀井にすがるしか方法はなかった。しかし、もちろんすがるだけでは不十分。国労よりの解決案を出させるためには、運輸族へ献金を行わなければならなかった。
------国労よりの運輸省案が出されたのは、亀井運輸大臣の売名行為とも感じたが。
 そういう見方は皮相だ。まず国労からいえば、なによりも「202憶損賠訴訟」を取り下げてもらうことと引きかえに分割・民営化反対の路線を転換したのだ。このことへの『記録』の認識が甘すぎる。国労が全面的に敗訴することは確定的だった。もし202憶もの支払いが国労に課せられれば、組合費の差し押さえを招き、組合として成り立たなくなってしまうからだ。
「202憶損賠訴訟」で路線を転換しながら、組合員にそれを隠している国労本部には、1047人問題で有利な解決案を運輸省に出させないと闘争団は納得しないとの危機感もあったはずだ。
-国鉄精算事業団に「202憶損賠訴訟」を取り下げるように、亀井運輸大臣が精力的に動いた理由をどう考えるか。
 亀井としては、採算性を理由に整備新幹線に消極的姿勢を示しているJR日本の経営姿勢の転換をはかるために、国労を利用することを計画した。それは自分の意向を貫徹するためにJR各社を運輸省の指揮・監督の下に置こうとする構想とも絡んでいる。
 この亀井の意向をうけて国労本部は分割・民営化されたことを認めるなど政治路線を変更したのだ。この経緯は、国労委員長・永田稔光の極秘メモによっても確認できる。
 そもそも、国労本部は運輸大臣・亀井や国鉄精算事業団との秘密交渉を、国労組合員に明らかにしていない。それは、明らかに出来ない内容の交渉だったからだ。政府。運輸省の意向に沿うように秘密裡に運動方針を転換したことは、労働運動として許されることではない。しかも、国労本部は組合員に対して、闘うポーズだけは取り繕っているが202億円で魂を売ったのだ。
------国労は献金の原資となった1憶9千万円を含む東京労金からの融資はデタラメだといっているが、どこからの情報なのか。
 融資額がデタラメなどという反論を国労本部はどこでもしていない。ほの記者には融資があったことは事実だが別なことに使ったと弁明している。それぐらい本部の対応はデタラメなのだ。
------小島メモのうち2枚は本物と認めているが。
 3枚とも本物。彼らは公式にはメモについては何もいっていない。デマだとしか反論しないことに疑問を持たないのか。
------メモはどこで手にいれたのか。
 国労内部から入手した。
------国労は永田稔光委員長宅からメモが盗まれ、改ざんされて『解放』に掲載されたと主張しているが。
 そんな話は聞いていない。改ざんされたというのなら、元のメモを出せばいい。
------国労は革マル派と松崎明東鉄労会長との関係を示すといってテープを公表しているが。 献金問題で追いつめられた国労幹部が、大会直前の記者会見で、出所不明のテープを流して、物笑いになり、相手にされていないそうですね。「関係を示す」などといっても、そもそも関係がないのだから、そんなもの示しようがない。
 我々は国労本部の裏切りを問題にしている。国労をめぐる一連の問題は、人権問題ではなく、労働運動の問題だ。日教組本部の「日の丸・君が代問題」の大裏切りと同様に、われわれ日本労働運動の腐敗の極致を問題にしているのだ。
------松崎氏は革マル派に所属しているのか。
 所属していない。

■再反論/樫村潔国鉄労働組合書記長

------東鉄労の松崎氏は革マル派に所属していないと、解放社が言い切った点についてどう思うか。
 状況が変わってきたから、対応を変えてきたのではないか。革マルと松崎氏との関係を示すテープも出てきており、会社にとっては困った事態だろう。
 革マル派の本拠地は、エーザイ(注:エーザイ側は完全否定)とJR東日本だとも噂されている。本拠地を残し、生き延びるためにはいろいろなことをしてくるだろう。
------小島メモは国労内部で入手したと解放社が言っているが。
 絶対にあり得ない。国労内部にシンパがいるかのような発言は、革マル派の常套手段だ。裁判も控えているので、いずれ明らかになるだろう。小島氏が実際に書いたメモについては、盗んだとしか思えない。
------革マル派はさらなる証拠を持っているとも言われているが。
 新しい証拠があるなら、サッサと『解放』に掲載すればいい。革マル派が何をしてくるのかはさっぱりわからない。

※なお、亀井静香前運輸大臣は当然のことながら「事実無根」と否定している。毎日新聞によれば、亀井氏は「背後関係を含めた徹底的な捜査を期待している」と語っており、本誌の取材に対しても、亀井氏の事務所より「名誉毀損で訴えていることもあり、コメントのしようがない」との回答を得ている。
(インタビュー中の表現をそのまま掲載したため、一部の方が呼び捨てになっている点をご了承下さい)(■つづく)

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元信者が視るオウム的社会論 第10回/林郁夫の手記

■月刊『記録』98年8月号掲載記事

 最近、大手出版社の雑誌でなぜか頻繁にオウム特集が組まれています。週刊誌にしろ、月刊誌にしろそうです。電車の吊り広告を見て、気になる僕は一応立ち読みをしてチェックするのですが、大した内容のものはありません。
 『記録』のライバル誌(?)『文芸春秋』に掲載された、地下鉄サリン事件の実行犯・林郁夫の手記「オウムと私」は、二五〇枚にも及ぶものでしたので、さすがに立ち読みははばかられ、買って読んでみました。どこの本屋でもいつもより多く平積みされていましたが、あまり売れている様子はありませんでしたけどね。
 読んだ方はどう思われたでしょうか?
 漫画を描いてもらっている瀧坂女史にも読んでもらいましたが、彼女の感想は上をご覧になってください。
 僕は林郁夫とは少なからぬ縁がありました。林は僕の半年後に出家しており、その直後からいろんな関わりがあったものです。
 出家直後の林は、それはそれは謙虚なものでした。彼が主家してまだ間もない頃、一緒に勧誘活動に行ったりしましたし、僕がバイクに乗って転倒して、足首をパックリと切ってしまった時には、ていねいに縫ってもらったりしたこともありました。親しみが持てるタイプではりませんでしたが、オウムの人間らしからぬ礼儀正しさと清潔さを備えており、「なかなかの紳士だなあ」と思ったものです。
 その後、僕が長期の修業に入り、林が東京にあるオウムの付属病院にいた関係上、しばらく接する機会がありませんでした。再会したとき、林は「治療省大臣」という立場になっていました。

■豹変した治療省大臣

 治療省は第六サティアンの三階にあり、僕はその玄関で警備をしていたので、毎日のように顔を合わせることになりました。彼を観察するようになった僕は、「林大臣」の豹変ぶりにすぐ気づきました。
 紳士的な態度は影を潜めて、「大臣」としての傲慢な態度が目につくようになっていました。彼の運転手をしていた看護婦のMさんを顎で使うようになっていましたし、法廷で証言した奥さんによると、この頃から部下となった奥さんに対し、手を上げるようになったそうです。人体実験で気が触れてしまった患者がサティアンを逃げ出そうとすると、物凄い形相で追いかけてきて、首根っこを捕まえて引きずっていった姿を見たこともあります。林の手記によると、「慢性的な睡眠不足のため」と何度も言い訳をしていますが、明らかに彼自身が異常な精神状態にあり、さながらホラー映画に登場するような「マッド・サイエンティスト」のようでしたね。
 僕が今でもつきあっている元信者の一人に、林に記憶を消されて、今でもその後遺症に苦しんでいる人がいます。林のことを相当恨んでいるようです。記憶をなくさせる技術も含めて、オウムに多くの人体実験の方法を取り入れたのは林なのです。その元信者などは氷山の一角であり、おそらく数えきれないほどの元信者が今でも苦しんでいることでしょう。
 無の民を殺傷し、その上、医師の権限を悪用して、多くの信者の人生をも狂わせた林郁夫。いくら彼が法廷で号泣しようが、何千枚もの手記を書こうが、単なる言い訳にしか聞こえないのは僕だけでしょうか?(■つづく)

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元信者が視るオウム的社会論 第9回/それぞれが妄信する正義

■月刊『記録』98年9月号掲載記事

 オウムの現在に迫った自主制作のドキュメンタリー映画「A」を観に行きました。
 当初はテレビのドキュメンタリー番組の企画として撮影が始まりましたが、TBS問題が公になってから、監督の森達也氏がプロデューサーに呼ばれ、「『殺人集団』オウムの存在を肯定し、社会の『健全な良識』と衝突するものは作れない。やるなら一人でやってくれ」と言われて、企画が取り下げられ、自主制作に踏み切ったそうです。
 森監督は制作会社から契約を解除されたあとも、カメラを手に教団施設へ通い、百五十時間にも及ぶ撮影を続けました。今は現存しないサティアン内部の映像も信者の生身の生活とともに撮影されており、貴重なドキュメントフィルムとなることでしょう。
 ところで「A」とは、オウム事件以後、教団の広報副部長に就任した荒木浩君を指しています。おとなしくて内省的な荒木君が、上祐氏の指示で世間の前へ引っ張り出され、マスコミとの対応や対外交渉、法的交渉に追われるようになります。映画では、その背景に周囲の日本人の「狂騒ぶり」が浮かび上がってくる構造になっています。
 なんといっても印象的なシーンは、荒木君とともに亀戸道場から出てきた信者を、公安の刑事が無理矢理、逮捕する場面です。任意の職務質問に応じず、名前を名乗らなかったというだけで、「何をするかやめなさい!」と口走りながら突き飛ばして、「公務執行妨害だ!」と叫び逮捕しました。信者は頭を道路に打ちつけ、脳振盪で白目を剥いているのに、その刑事は自分もケガをしたと明らかに猿芝居しているのには唖然としてしまいました。人間はここまで良心をなくせるものか、と驚きましたね。公安の刑事も、彼は彼で正しいことをしていると思っているのでしょう。自分の与えられた環境における「正義」(ここでは警察の正義)というものを頭から信じてしまうのは恐いことです。
 また、日本テレビのワイドショーの女性リポーターが荒木君に近寄って、「私を信じてくださいよ」と言いながら隠し撮りしているのには笑ってしましました。その女性リポーターも騙してでもいいからおもしろいネタを引っ張りだそうと必死なのでしょうが、ここでも「正義」(マスコミの正義)に取り憑かれた哀れな精神構造が浮き彫りにされていました。
 もちろん、オウムの人間とて同じこと。破防法の不適用が決定された直後に、教団代表代行の村岡達子さんが記者会見を開き、「これで、私たちの信仰が救われました」といわば勝利宣言をしていましたが、この言葉を聞いて、どれだけオウム事件の被害者の方々がイヤな思いをしたことでしょう。僕も元関係者として恥ずかしくなってしまいましたね。
 荒木君はもちろんオウム寄りの人間ですが、まだまだ社会の「垢」を多く残しているようです。オウムにも世間にも安住できずにいる彼を描写することにより、「自分の正義」にしがみつく人々の醜さを露呈させた監督の力量はなかなかのものです。
 最後に結論。自分は正しい、自分だけはマトモだ、と思っている人ほど傍迷惑で滑稽なものはありません。なぜなら、それは天動説を信じていた中世のキリスト教会のようなもので、必ずやいつの日か、それを信じない人に危害を及ぼすからです。そして後世の人に馬鹿にされるのです。あらゆる考え方を往き来できる、自由な精神を身につけねばなりません。(■つづく)

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元信者が語るオウム的社会論 第8回/飽食の時代の不幸

■月刊『記録』98年6月号掲載記事

 現在もオウムの現役信者が糧にしている食料を極秘入手しました。「お供物」と呼ばれているものです。巷間でいわれる「オウム食」なる野菜汁は、実はもう彼らに食されていません。平成4年頃に、「オウム食」から「お供物」に変更になり、今もそのままのようです。
 この「お供物」の内容には、プロテイン入りの饅頭、拳大のパン、カロリーメイトの真似をした「アストラルメイト」などがあります。これらは「ダーキニー」と呼ばれる、教団における巫女的な若い女性信者によって作られ、そして祭壇に供えられたあと、信者に分けられていました。
 さて、「アストラルメイト」を一個手に入れた僕は、3年ぶりに口に放り込んでみました。少々懐かしさを感じながら…。
 ところが、そのあまりの不味さに愕然としてしまいました。形状も味もほとんど変わっていないのに、なぜこんなに不味く感じるのだろうか? 以前はお供物が支給される時間が楽しみで、もう貪るように食べていたというのに。
<『供物』が変わったのではない。自分の味覚が変わったのだ>
 そう気付きました。
 
 オウム在籍時、僕は自ら志願して、独房修業に半年間ほど入ったことがあります。自己鍛練のためです。自分を一度極限状況まで追い込んでみようと思ったのでした。窓もないたった一畳の部屋に閉じ込められ、足を伸ばして寝ることもできない場所にオマルだけがおかれ、日に一度与えられる「お供物」をぼんやりと待つ、そんな生活でした。「お供物」の量は、饅頭・パン・アストラルメイトを三つずつ、それからバナナ一本、みかん一個だけで、見る見るうちに体重が減り、半年後に独房を出た直後に計ってみたら四九キロまで減っていました。身長が一八〇センチといえば、いかに痩せ細ったか想像つくでしょう。
 ただ、そのときのおいしさといったら、今でも忘れられません。
 その後、しばらくして脱会。長年に渡って抑圧されてきた食欲が爆発し、食べて食べて食べまくりました。よく憶えているのは、チャーハンを一升(約二・五キロ)食べて、歩けなくなって刑事さんに家まで送ってもらったことです。それまで毎日同じものばかりでしたから、食べるものそのものが目新しく感じ、何を食べてもおいしかったですね。脱会して三カ月後には一〇キロ体重が増えていましたから。
 ところが、一年もすると「食べること」に喜びを見出せなくなってきました。味覚が贅沢になったのでしょうか。逆にいくら食べてもむなしさしか残らなくなりました。
 そして、三年後の今日、もう「お供物」なんてものは僕には食べられません。しかし、この美味でない「お供物」を今でもありがたがって食べている現役信者を想像すると複雑な気持ちになってしまいます。いったいどちらが幸せなのかと?
 これから大不況と同時に、間違いなく食料危機がこの日本を襲うでしょうが、みなさんは何か準備していますか? そのときになって苦しんだり、パニックに陥ったりしないよう、今のうちに粗食に慣れておいたほうがいいかもしれませんね。(■つづく)

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元信者が語るオウム的社会論 第7回/大蔵省とオウム真理教

■月刊『記録』98年5月号掲載記事

 新井笙敬代議士が自殺した直後、彼の両親が驚くべき発言をしているのをテレビで見て、唖然としました。「どうせ(政治家は株で儲けることを)みんなやってるじゃないの。なぜうちの子だけがやり玉に上げられなくちゃならないの!」という発言です。
 おそらく、彼らは息子が自殺したことでパニックに陥り、ポロッと本音を漏らしたのでしょう。その一般人とはかけ離れた『感覚の麻痺』はもう末期的といってもいいでしょう。特に、真理子夫人は夫の非を棚に上げ、一時は補欠選挙に出馬するとまで言いだしました。彼女には自らを省みる能力が欠けているのではないでしょうか?
 新井氏は元官僚で、大蔵省出身だそうです。そしてこの「官庁のなかの官庁」ともいうべき、大蔵省の『感覚の麻痺』も浮き彫りになってきています。料亭で一晩数十万円もの接待を受け、ノーパンしゃぶしゃぶで酒池肉林の限りを尽くし、覚醒剤に手を染めた者までいる……。一昔前の官僚では絶対に考えられないことです。
 国のために安い給料で夜遅くまで身を削って働く官僚を、私は尊敬していました。政治家が無能なため、実際に政策立案し日本を動かしてきたのも官僚でした。中学生のころは彼等に憧れ、官僚になって日本のために尽くしたいと夢見たことだってあります。
 おそらく、彼等も入省するときは皆、高い志を持っていたのでしょう。ところが、官僚支配が長く続きすぎたためか、あまりにも彼等は傲慢になってしまいました。初心を忘れてしまったのですね。
 オウムも初期のころは、あれで素晴らしい団体だったんですよ。私が入信したのは昭和六一年ですが、そのころは既成の葬式仏教を乗り越え、日本に宗教改革を起こそうという意気込みに満ちていました。仏教が本来目指さなければならない「解脱」や「修行」というものに正面切って取り組むことが、求道心に溢れた若者達をどんどん引き寄せました。
 昭和六三年の春には、富士山の麓に大きな道場を建てるまでになったのですが、そこに落とし穴が待っていました。その年の九月、富士道場での修行中に、信者の一人が亡くなってしまったのです。それは修行による事故死でしたが、教団が大発展中だったため、幹部らは、それが外部に漏れて社会的な非難を受け、勢いが削がれるのを恐れました。それで遺体をドラム缶に入れて焼却してしまったのです。
 遺体焼却の際、薪を運んだ信者で田口さんという人がいました。田口さんは翌年の二月、教団に不信を抱き脱会しようとしましたが、遺体焼却の件がバレるのを防ぐため、教団は彼を「ポア」してしまったのです。それがオウム最初の殺人でした。
 その後、彼らは「ポア」というかわいらしい語感の言葉によって、正常な感覚を麻痺させ、殺人を肯定していったのです。目障りな人々を容赦なく殺すようになり、坂本弁護士事件、リンチ殺人事件、VX殺人未遂、そして遂には松本サリン事件や地下鉄サリン事件などの無差別テロにまで雪ダルマ式に発展していきました。
 オウムにしろ、大蔵省にしろ、「狭い世界で暮らす」というのは本当に恐ろしいものです。善悪が転倒しても、なかなか気づきません。現在、日本のいたるところで『感覚麻痺』の現象が起きています。今、自分が物事に対してどういう感じ方をしているのか、絶えず省みないと、とんでもないことになってしまいそうですね。(■つづく)

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元信者が語るオウム的社会論 第6回/2年ぶりに麻原公判を傍聴

■月刊『記録』98年4月号掲載記事

 ひさびさに麻原裁判を傍聴してきました。第二回公判以来、約二年ぶりです。漫画家の瀧坂女史にも傍聴してもらったので、イラストとともに法廷の様子をご報告いたしましょう。
 五〇席の傍聴席を求めて、二四〇人が抽選に並びました。初公判のときは、その百倍もの人達が日比谷公園に行列をつくったことを思うと、隔世の感が否めませんでしたね。
 法廷に入る前に、五段階もの入念なボディー・チェックがありました。まず、入口でバッグを開けて中身を調べられます。番号札と引き換えにバッグを係員に預け、空港にあるような金属探知機の下を通ると、棒の探知機でも全身をくまなくチェックされます。そして所持品を全部ポケットから出して検査され、最後に体全体を触られます。
 これでもかこれでもかとしつこい程ですが、係員の態度を見ているといい加減そのものでした。麻原公判も七〇回近くになり、手抜きの仕方を憶えたのでしょうか。瀧坂女史などは筆箱の中にカッターを入れていたにもかかわらず、何も言われなかったそうですから。
 ボディーチェックを終えて法廷前の廊下に出ると、最前列の傍聴席を確保しようと、すでに七人もの現役信者が並んでいました。全員見知った顔です。お互いすぐに気づきましたが、すぐに無視を決め込んできました。「猪瀬は裏切り者」ということでしょう。予想されたことですが、寂しかったですね。カルト・マインドというのは本当に偏狭なものです。
 入廷が許可されると、信者たちは我先にと法廷内に流れ込み、みるみるうちに最前列と二列目の席を独占してしまいました。まもなく刑務官に手錠を引かれて、麻原被告がぶつぶつ言いながら入廷してきました。一瞬彼を見て、その変貌ぶりに僕は唖然としてしまいました。以前は感じていた教祖としての威厳が全く感じられず、こう言っては失礼ですが、まさにホームレスのようになっていましたから(もちろんホームレスの方に失礼ということです)。
 この日は一年半もの間、逃亡生活を続けた『殺人マシーン』林泰男が証人として出廷する日です。グレーのスーツ姿で礼儀正しく入廷し、証人席に座って淡々と証言し始めました。
 麻原被告はつぶやき続けながら、♪これっくらいの おべんとばこに♪みたいなジェスチャーを恥ずかしげもなく繰り返しています。僕は裁判を傍聴しながら、何故このような人物を信じるようになったのか考えましたが、彼のホームレスのような超然としたところ、世間の善悪を超越したような雰囲気、それに惹かれたんだろうなあと思いましたね。そうしたら、裁判官も検事も弁護士も単なる俗物に見え、林の背中も小さく見えるようになったので恐ろしかったです。
 傍聴席の前列を独占している信者達のほとんどは居眠りをしていました。警備員もうつらうつらの状態です。一人だけ警備員のなかに、居眠りを叩き起こすのに生き甲斐を見出だしているような人がいて、傍聴人の襟首をつかんで締め上げているのでビックリしましたよ。
 ところで、裁判全体を見渡してみて、いろいろ無駄なことに気づきました。まず、警備員と刑務官のやたら多いこと。全部で三~四十人もいたんじゃないでしょうか。皆さん暇をもてあましていましたね。麻原被告の隣の刑務官はニヤニヤしながら、向かいの同僚とサインを出し合って遊んでましたし・・・・・。それに暖房が効きすぎです。あれでは眠くなります。そして、麻原被告の国選弁護人が十二人もいること。いったい、麻原裁判一回で税金がいくら使われているのでしょうか。
(■つづく)

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元信者が視るオウム的社会論 第5回/人類はクローンをどこまで管理できるか

■月刊『記録』98年3月号掲載記事

「金剛乗の教えというものは、もともとグルというものを絶対的立場において、そのグルに帰依すると。そして自己を空っぽにする努力をすると。その空っぽになった器に、グルの経験、あるいはグルのエネルギー、これをなみなみと満ち溢れさせると。つまりグルのクローン化をすると。これがヴァジラヤーナだね」(八八年十月の麻原彰晃の説法より)。
 これはオウム草創期における麻原の説法の一説です。読んでいただければわかるように、麻原彰晃は当初から信者をクローン化、つまり自分に似せた、百パーセント従順な信仰ロボットを造ろうとしていました。
 たしかに、オウムがその教義の多くを由来してきたチベット密教には「クローン化」の教えがないことはありません。弟子はグル(師匠)が経験している宗教的境地を得るために、グルとともに生活し、グルの言動を真似、グルの指示なら、たとえ間違っていると思っても実行しなければならないと説かれています。そして、グルの血や精液を飲むという前近代的なことも実際にあるようです。オウムとチベット密教との関連については、改めて検討しなければならないでしょう。
 ところで、オウムでは信者をクローン化する方法の一つに「PSI(Perfect Servation Initiation)」、いわゆるヘッドギアがありました。脳波の測定器を改造したもので、専門家によると四~五万円程度の機器だそうですが、在家信者には百万円以上で売りつけていたので、教団の財政はかなり潤ったことでしょう。僕は出家者だったのでタダで支給されましたが・・・・・。
 機器の構造は、コンピューターに麻原の脳波をデジタル化して入力し、それをアナログの波に変換して電流で信者に流し込むというものでした。脳波、つまり脳の電気的活動を通して信者を麻原のクローンにするというものです。
 これを一週間つけ続ければ、麻原の煩悩のない(?)フラットな脳波と同じ状態になり、解脱することができるという触れ込みでしたが、残念ながら僕も含め、誰も解脱していません。電流が流れると目の前に火花が飛び、一時的に覚醒した状態になりましたが、最初の日だけでした。それどころか、電極をつけていた箇所が低温やけどのような状態になり、なかには禿を作ってしまった人もいました。稚拙な技術力のため、オウムのクローン化計画は頓挫しましたが、成功していたら大変なことになっていましたね。
 昨年から、本物のクローン人間ができるかもしれないということで、世界中で多くの論議を巻き起こしています。技術的に可能になったそうですから、いつかは誰かが造ってしまうことでしょう。問題はいったい誰がそれを管理するかになるでしょうね。今の麻原が、自分のクローンと思っていた元弟子たちの反抗により、裁判で苦境に陥っているように、僕たちもいずれ登場するであろうクローン人間に滅ぼされないよう、今のうちにしっかりと議論しなければなりませんね。(■つづく)

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元信者が視るオウム的社会論 第4回/消費社会の不安に耐えられるか!?

■月刊『記録』98年2月号掲載記事

 皆さんもご存じのように、麻原影晃は信者に対して「極限の布施」と称し、全財産の教団への寄付を命じていました。結果的に谷さんの拉致事件で警察権力の介入するところとなり、それを防ぐために地下鉄サリン事件をさらに引き起こして、かの強制的な「極限の布施」システムは、オウムもろとも崩壊へと導かれましたが。
 さて、脱会後自分で調べたのですが、このオウムの「極限の布施」のやり方は、伝統的な仏教思想からも、オウムが強く影響されていたチベット仏教の伝統からも誤りであることがわかりました。例えばチベットなどでは、たしかに出家者は無一文になりますが、財産は教団に捧げるだけでなく、貧しい人に分けたり、家族のために残したりしていくそうです。
 ところで、ここで考えなくてはいけないのは、当時の僕も含めて、オウムの信者たちは何故その「極限の布施」のシステムに甘んじて乗ったのか、です。
 よく宗教者は「お金だけではない、心の平安が大切だ」と口にします。しかし、今の日本においては、「お金」なくしては「心の平安」も得られないシステムがすでに完成しつつあります。戦後に興った消費資本主義は、かつてない豊かな「消費」を可能にしましたが、逆に「消費」のために耐えねばならない底知れぬ不安を現代人に植え付けたのです。一生続く住宅ローンの苦しみ、けれど背中合わせのリストラへの不安、そして自分に合わない職場に仕方なく耐えねばならない人たち・・・・・。彼らの「心の平安」は、いったいどこにあるのでしょうか。
 僕がオウムに出家したときは、大学生の身分だったので、手元にあった微々たる金銭と家財道具ぐらいしか布施できませんでした。けれど意外にも、すがすがしい気分を味わうことができました。そしてこれからは衣・食・住について、まったく心配しないで精神的な鍛練に没頭できるんだ、という安堵感がありました。
 こう言うと「だまされたくせに何を言うか」とおっしゃる人がいるかもしれません。そうなのです、たしかにだまされました。しかし、ただ単にだまされただけでなく、僕は自分を縛り付けている消費経済の鎖から自由にもなりたかったのではないかと、いま思うのです。
 麻原影晃は「現世(現代社会)の快楽(つまり消費の快楽)は虚しい」と説き続けていました。この言葉の説得力を否定しきることができるかと問われると、いまでも考え込んでしまいます。そして消費経済にどっぷりと浸かっている、いやそれだけでなく、いま、こうして仕事で情報誌に記事を書くことで消費を煽ってさえいる立場の我が身を振り返ると、複雑な気持ちになってしまいます。(■つづく)

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元信者が視るオウム的社会論 第3回/「極限修行」とは

■月刊『記録』98年1月号掲載記事

 東大卒の父親が家庭内暴力に耐えかね、自分の子どもを殺すという事件が昨年あり、最近その裁判が話題になりました。
 一昔前なら東大卒のエリートの『権威』でもって、自分の子どもなど平伏していたはずですが、その虚構ともいうべき『権威』が崩壊しつつあるのはいいことかもしれません。
 そうはいっても現在の状況はあまりにも情けない。ニッポンのよき父親は一体どこへ行ったのだろうかと嘆かずにはいられません。まさに犬のように、家族や子どもに媚びへつらう父親の姿は見るに耐えないものです。人間の成長にとって「父権」というのは重要な位置を占めるのですから、父親はもっとリーダーシップをとってもいいのではないでしょうか。別に『巨人の星』の星一徹さんのようになれとはいいませんが(笑)。
 今の日本のさまざま問題も、日本という国自体の「父権の喪失」「リーダーシップの不在」に一因があるように思えてなりません。最近では家庭の飼い犬のなかでも、飼い主の家族の中で誰がリーダーなのか分からず、困惑する現象がみられるそうです。「権勢症症候群」というそうですが、もう末期症状ですね。
 その点、麻原彰晃という人物は「父性」の塊のような人物でした。彼は弟子達を平気で拳や竹刀で殴りつけていましたし、反対に励ますときは人前もはばからず抱きしめていました。あるときなど、自分の長女の不手際を叱るために、弟子達の前で長女の頭をボコボコに殴りましたから。もちろん長女は号泣し、普段はクソ生意気な長女もさすがに自分の非を認め、「ゴメンナサイ! しっかりワーク(教団内の仕事)をします!」と、泣きながら謝っていました。
 僕もやられました。あれは平成五年の正月、「極限修行」のときのこと。それはまさに極めて厳しい修行で、睡眠時間はゼロ、しかも蓮華座という厳しい座法を二十四時間組み続けるというものでした。その間中、常に監視が見張っていて、チンピラのような言葉づかいと竹刀の音を響かせながら、居眠りと座法をチェックしているのです。この修行に入って一ヶ月ほど過ぎたときには、意識はもうろう足腰はガタガタです。
 もう途中でギブアップしようと思ったのですが、そういう僕を心配した麻原彰晃が道場までやってきて、皆の前で僕のお尻と太ももを竹刀で青あざができるまで叩いたのです。そしてその後力強く僕を抱きしめ、「がんばれよ」と励ましてくれたのでした。こんなことは生まれてこの方、学校の先生にも先輩にも、父親にもなかったので、魂が震えるほど感動しました。
 日本のお父さん達が失った、強烈なまでの「父性」を持っていた麻原に、たくさんの信者が集まったのは当然だなあと思います。だからといって、「家長制度を復活せよ!」なんてことはいいませんけどね。(■つづく)

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元信者が視るオウム的社会論 第2回/一服で心が変わる!? プロザック

信徒が視るオウム的社会論
■月刊『記録』97年12月号掲載記事

■第2回 一服で心が変わる!? プロザック

 物事には何でも二面性があります。そして、それを最も象徴しているのが「薬物」じゃないでしょうか。
 脳内物質が心の状態を変えることがわかってから、心を変容させる薬物がたくさん開発されました。最近は「暗い世界」でも明るく振る舞えるという「プロザック」という抗うつ剤が流行ったりしているようです。
 不況で会社の倒産も相次ぎ、それどころか国家自体が破産寸前に追い詰められている日本にとって、飲むだけで世界がガラリと変わり、生きる意欲が湧く抗うつ剤はこれからますますもてはやされるでしょう。特にきたるべき金融ビックバンでは、多くの銀行・證券会社などが間違いなく破綻するでしょうから、そのときビルから飛び降りるよりもたった数錠の薬でそれを止めることができるならば、本人にとっても周りの人間にとっても有益かもしれません。
 ところで、ご存じかと思いますが、オウムでもたくさんの薬物が「イニシエーション」(秘儀伝授)と称し、信者に投与されました。オウム特製の滋養強壮剤から自白剤(チオペンタール)、そして覚醒剤から究極の薬物ともいうべきLSDまでのフルコース。僕自身もイヤというほど堪能させていただきましたね(笑)。
 世間では、オウムでこれらの薬物を使ったことは非合法なのだから、すべて「悪」だったというレッテルが貼られていますが、僕自身としては経験してよかったと思うものもなかにはあります。その一つが自白剤です。
 ベットの上に横になり、点滴を打つようにして自白剤を体の中に注入されると、意識が朦朧としてきました。すると医師が枕元に来て、僕に呼びかけてきました。「あなたはどういう破戒をしましたか」「あなたは心に引っ掛かっていることがありますか」と。そのときの僕はもうどうでもいいやっていう気持ちになっていて、聞かれたことは何でも話してしまいましたね。
 その後、完全に意識がなくなって、気がつくと四時間ほど経っていました。そして、心の屈折がなくなったせいか驚くほど身が軽くなっていました。自分が何をされたのか全部憶えているわけではないのに、いつのまにか心身が軽やかになるという体験ははじめてでしたので、ビックリしましたね。やり方に問題があることは間違いないのですが、神経症になる前にこうして心身の転換を図れるのならば、テクニックとしては一考の余地があるのではないでしょうか?
 しかし、薬物を使ったイニシエーションでは、記憶を消されたり、あるいは本人の知らないうちにある思考パターンを植え付けるという「洗脳」が行われたことも間違いありません(どこまで効果があったのかわかりませんが)。もしそのオウムのテクニックよりはるかに優れた洗脳技術を、人々を支配してやろうと考える独裁者が握ったらとんでもないことになりますね。人々の心を一定方向へと操ろうとするでしょうから。
 薬物をつねに善用できる方法ってないのでしょうかねぇ。(■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第21回 ろうあ者のためのフリースクール

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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■ろう者のためのフリースクール
 フリースクールは、場所さえあれば作ることができる。
「フリースクール龍の子学園」は、月に一度しか開かれないフリースクール。それも、毎回同じ場所で開かれているのではなく、毎月第四土曜日に空いている場所を借りて開かれている。ろう者のための、ろう者が作ったフリースクールだ。
 このスクールを知ったのは、いつも私が行っているフリースクールに、ろうの人たちが「フリースクールを作りたいのだが」と相談に来たのがきっかけだった。
 フリースクールを作るのには、何か資格がいるのではないかとか、教職免許が必要なのではないかという心配をしてのことだったらしい。
 しかし、フリースクールにはそういった条件は必要なく、場所さえあれば作ることができる。そして九九年四月、ろう者のためのフリースクールが誕生した。
 フリースクールとはいっても、そこに参加する子どもはみんな学校へ行っている子ばかりで、いわゆるフリースクールにみられる「学校の代わり」というイメージはなかった。
 私がよく行くフリースクールも、他のフリースクールとはちょっと違っていて、子どもたちのパワーが感じられるところである。自分たちのやりたいことを自分たちの作ったルールのなかでやっていく。そんな独特の魅力のあるところなのだが、龍の子学園の子ども達の笑顔からも同じような空気を感じ取ることができた。
 龍の子学園へ見学に行く前に、ろう学校ものぞかせてもらったのだが、自分自身のろう学校に対する思い込みや勘違いを多く発見した。

■キュードサインとは

 ろう学校は、手話で授業を行うものだと思っていたが、実際のところ手話で授業を行う学校はあまりない。授業ではむしろ口話のほうが多く、「キュードサイン」と呼ばれる方法や指文字なども用いられている。
 ちなみに口話というのは、自分で声を出して言葉を発したり、相手の口の動きを読み取る方法であり、「キュードサイン」というのは、口で母音を表し、子音の部分はサインを使って表す方法だ。
 たとえば、「たまご」と「タバコ」。これらを口の動きだけから読み取ろうとしても、その動きは同じに見えてしまう。そこでTaMaGoのTとMとGのところは、頬やあごを触るなどして音を表すのだ。
 指文字は、指だけで五〇音を表す点が、手話とはまた違う。
 口話訓練は、特殊学校の授業の一つである養護訓練の時間などに行われ、人が話しているときの口の動きを読み取る方法や声を出す方法が訓練されている。
 ろう者の言葉は手話だけかと思っていたが、残聴能力を使ってこういった訓練も行われていることがわかった。
 また、学校によって授業で使われる言語は異なっており、キュードサインで授業を行う学校もあれば、口話しか使わないところもある。また、キュードサイン自体も学校によって微妙にサインの仕方が異なり、通じない場合もあるそうだ。
 では、なぜキュードサインを使うのか。
 ろうあ教育については、人によってさまざまな意見があるようで、私が聞いているとどれも正しく聞こえてしまう。けれど、どうやらキュードサインのいい点は、一つ一つの名詞をきちんと覚えられるところにあるようだ。
 たとえば、ハサミを手話でどう伝えるのかを想像してみるとよくわかる。何かを切る動作をすることで、ハサミという「物」を相手に伝えることはできるだろう。
 しかし手話では、ハサミという「物」が、「ハサミ」という名前であることまでは伝えられない。意味や気持ちを伝えるには適しているが、手話は、物の名前を伝えるには不適切である。
 そしてもし、それを筆談で伝えようとしたら、「ハサミ」という名称を知っていなければ相手には伝わらない。そう考えると、たまごとタバコの例も含めて、きちんとした名称を伝えるためには、キュードサインは便利なものかもしれない。

■ニュアンスまでを伝えられるか

 私は耳が聞こえるから、抽象的な言葉をいわれたり表現されたりしても、なんとなく理解して、使い、伝えることができる。けれど、もし耳が聞こえなくなれば、感情の部分にどうしても伝えきれないことやわかり合えない部分が出てきてしまうだろう。
 たとえば「おなかが痛い」と手話で表現されたら、「痛い」ということはわかってあげられる。もう少し手話を知っている人なら、少し痛いのか、すごく痛いのかまではわかるだろう。
 しかし、チクチク痛いのか、キリキリ痛いのか、ズキズキ痛いのか、そのあたりの部分はなかなかわかりづらいのだという。
 こんなふうに、耳が聞こえることでかえって、聞こえない人のことが理解できなかったりすることに気づいた。
 思っていることを、なんの圧迫感もなく話せる空間を作りたい。そういう思いも込めてフリースクール龍の子学園を作ったのだと、スタッフは語ってくれた。だからスタッフもほとんどがろう者で、会話には声は使わずに手話だけを使っている。
 よく、テレビの手話通訳を見ていると、口を動かしながら手話をしているが、龍の子学園のスタッフは口を動かさずに手話だけを行う。彼らにとっては、手や表情を使って話す言葉が、本当の言葉なのだろう。
 私が見学させてもらったろう学校の生徒さんも、このフリースクールへ来ていた。
 ろう学校にいる時の彼らは、どうもあんまり落ち着きがないように思えた。先生が一生懸命話をしている時でも、廊下に私がいることに気づくと授業に集中できなくなってしまうようだった。
 逆に、フリースクールにいる時の彼らは、一生懸命スタッフの話を聞いている。いま自分のするべきことを理解し、集中して取り組んでいるようだった。その違いがどこにあるのかをハッキリといい切ることはできないが、言葉がわかり合えるという点では、こういったフリースクールも必要なのだと感じた。

■情報を得る権利は対等

 このフリースクールには、テレビ取材なども入ったことがあるらしく、ビデオを見せてもらったことがある。そのとき、ろう者の友達も一緒に見ていたのだが、私では絶対に気づかないようなことを教えてくれた。
 取材の対象になったのは、フリースクールのスタッフだったのだが、前述のようにスタッフもろう者のため、撮影でも手話を使って話をしていた。その言葉は、音声のナレーションとして流れ、それを手話にしたものが画面の左下に別画面で出ていた。
 視覚と聴覚に頼る私は、映像を見ながらナレーションを聞いていた。しかしろう者の友達は、画面一杯に写っているスタッフの手話を読み取ろうとしていた。でも、スタッフが何を伝えようとしているのか理解できなかったという。
 映像は編集されていたのだ。だからスタッフの話がつながっておらず、友人はナレーションの手話通訳を見て理解するしかなかったのだ。ドラマなどでは当たり前のようにつながっている手話会話が、ノンフィクションであるドキュメンタリー番組でつながらなくなってしまうことに意外な印象を受けた。
 新聞で読んだ記事に、教育番組に字幕をつける作業を行っているボランティアグループが出ていた。ある人は字幕について、「本来、番組にはついていて当たり前なのだ」といっていた。
 聴者でもろう者でも、情報を得る権利は同じように持っている。だから、画面一杯に字が並ぶ番組があったとしても、おかしな話ではないと言っていた。
 ろうの人々の世界には、ろう文化というものがあって、私には理解し得ない部分も多く、今はまだ「わからない」部分を見つけるのに必死なのだが、その「わからない」という部分があるのも、当然のことかもしれない。 私は私。人は人。みんなが同じでなければならないということはなく、ろう者にはろう者しかわからない、わかり合えない部分があっていいと思う。それを差別することなく、理解しながら、お互いがお互いを認めあって共存していければいいと思う。
 共存共生共育。以前聞いたことのあるこの言葉の意味を、いまだ理解することはできていないけれど、「ろう文化」という言葉に込められた意味を、少しでも感じられればいいと思う。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第20回 サポート校の見学

■月刊「記録」1999年9月号掲載記事

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■東京のサポート校を訪問

 東京にあるサポート校へ遊びにいったことがある。
 サポート校については以前にも書いたが、通信制高校に在籍する生徒が、高校を卒業できるように学習や生活面を支援する民間の教育施設のことだ。サポート校の運営母体は、学習塾、家庭教師派遣業、予備校、専門学校などになっていて、通信制高校の生徒が毎日の通学の代わりにこの学校へ通学し、レポートなどをこなしている。
 また、学校によっては大検取得のコースもあるので、授業風景などは、学校によってさまざまだ。
 サポート校の特長の一つとして、管理によらない自由な高校生活をすごせる点がある。また、一般高校に比べてユニークなカリキュラムを取っているところが多く、私が遊びにいったサポート校では、勉強よりも本人のやる気を重視したり、LD児(学習障害児)などを受け入れたりしていた。
 校内には、教科担当の先生はもちろんのこと、カウンセリングスタッフなどもおり、現役の通信制高校生が、他の生徒達の相談役をやっていたりもする。
 また、授業の時間割などは一応決まっているが、実際に「その時間に来なければならない」ということはないという。あくまで生徒の自主性にすべてが任されている。規則を作るのも生徒で、生徒会ももちろんある。その生徒会を作ったという、現在の生徒会長と少し話をしてみたが、驚くほどしっかりした青年だった。

■「教育」って何だろうね

 私と同い年で、当時20歳という彼は、大検受験コースの生徒である。高校を中退しており、車の整備工場で働きながら勉強しているという。
「以前は頭がよかったんだ」と笑っていた彼だが、今だってなかなか回転は速い。質問を投げかけると、的を得た答えを要領よくまとめて返してくれる。
 話をするうちに、だんだん話題が学校のことになり、教育ってなんなんだろうね、という話になった。
 教育。「教える」「育つ」という二つの漢字から、この言葉を作った人は、どんな思いをこの字に託したのだろう?
 ちなみに彼は、教育とは夢を与えるもので、先生とは、夢を手助けする存在なのではないかといっていた。「教育」という言葉の由来を、「共に育つ(=共育)と書くんです」といっていた人もいる。私はこの人の話に共感し、以来、いろいろなところでこの由来を伝えてきた。
 また、「先生」という字も最近、とても面白いものだと思う。先に生きてきた者を「先生」と呼ぶというのなら、通信制の高校では、生徒が先生になってしまうことに気づいたからだ。担任の先生よりもはるかに年齢の高い生徒だってたくさんいるのだから。
 そして「学校」とはなんだろう? 現在、学校について、教育関係者や識者の間でいろいろなことがいわれているが、学校の役割とは何なのだろう。子どもが求める学校とはどんなものなのか。子どもの心が学校から離れる時、その理由は何なのか。
 昔から、日本の学校にはたくさんの規則があったが、以前はこれほど「管理」されているという実感を生徒は持っていなかったと聞いた。また、管理されたとしても、管理しているのは先生だけでなく、地域の大人みんなによるものだったという。
 つまり、地域に「規則」が根づいていたのだそうだ。けれどいつのまにか、地域社会での人々のつながりは薄れてしまい、代わってプライバシーが重視されるようになった。また、核家族化が進み、おじいちゃん、おばあちゃんや兄弟との接触が少なくなる一方で、母親は働きに出るようになり、子どもを見守るのは本当に学校だけの仕事になってしまった。そしていつしか、子どもの意識のなかに「学校に管理されている」という気持ちが芽生えた。
 学校には校則があるが、長髪やルーズソックスやケンカがなぜダメなのか、学校の先生は誰も教えてはくれなかった。生徒手帳の中に校則は書かれているが、なぜそうなのかという理由まで書かれているものは見たことがない。ただ、「決まっているからダメ」と誰もがいうだけだ。
 生徒会長の彼は高校を辞めて、社会に出たことについて本当によかったといっていた。「高校卒業」という肩書きのためだけに三年間をガマンするよりも、同じ三年間を夢のために費やしたほうがいいと思ったそうだ。また、けじめもついたという。
 このサポート校に出会うまでの彼は、半年づつくらいのペースで仕事を変えていた。アルバイトを含めると、今まで数え切れないくらいの仕事をしたという。母親がサポート校のパンフレットを持ってきて彼に見せた時にも、学歴ではなく自分は中身で勝負するのだと思っていたが、夢中になれるものを見つけるためにはいいと考え直し、このサポート校へ入学したという。
 そして、今では整備の仕事に就くことを夢見て、資格を取ろうと考えているといった。アルバイトと社員との差の違いも感じた。だから資格を取って整備の仕事にきちんとつきたいと考えてのことだろう。
 生きることは楽しむこと。仕事も遊びも楽しめたほうがいい。夢中になって遊び、夢中になって仕事をするから楽しいのだ。人生は、輝いて生きること。そう話してくれた彼は、本当に輝いているように見えた。周りの生徒にも信頼されていて、しっかりした存在感があった。彼が自分の価値観を信じて、肩書きなどに振り回されずに、高校をやめることができてよかったと本当に思った。

■子どもは大人のミニチュアではない

 最近では、あちこちの地域で、いくつかの「不登校  親の会」に出席させてもらっっている。その印象では、親は、子どもの意見に耳を傾けている人とまだ傾けられずにいる人の二手にはっきりわかれているように思えた。
 子どもは、いつだって親を頼りにしたいと思っているし、親の愛情を求めている。しかし、上手に頼っていくことができないのは、目の前にいる親が、自分のことを受け止めてくれるだけの余裕があるかないかが、なんとなく感じ取られてしまうからではないだろうか。他人の私にさえ感じ取ることができるくらいだから、一緒に生活している子どもは、もっと敏感に感じ取っていることだろう。
 子どもは、日々、いろいろなものを見て、いろいろなことに興味を持って、感じて吸収している。そこにはまだ、いいとか悪いとかの価値判断はあまり存在していない。感じたことを素直に口に出し、大人にぶつけているだけだ。
 それなのに、話を最後まで聞いてもらえなかったり、パターンにハマったものの見方を押しつけられたりしていると、徐々に子どもは、大人への信頼感を失っていってしまう。けれど、多くの子どもは、大人を信じたいから苦しくて、その苦しみをどう表現してよいかわからずに、パターンから外れた行動をとって表そうとする。
 その結果の一つが不登校だろう。たまった不信感というストレスが、ある日、抑えきれなくなってしまった状態だ。私が訪れたサポート校で出会った子どもたちは、生徒会長の彼もふくめてみんな生き生きとしているように見えたが、その理由が、「自分に自信を持てたから」と考えるのは、私の考えすぎだろうか。
 子どもの視線は、大人の視線のミニチュアではない。大人に見えないものであっても、子どもには見えているものがたくさんあるのだ。自分だって、かつては子どもだったのだから、その気持ちはわかるはずだ、とも思うのだが、一度大人になってしまってから、子どもと同じ視線に立つことは、努力なしにはなかなか難しいことなのかもしれない。
 親が子どもを余裕を持って受け入れ、子どもと同じ視線から、子どもを理解するために努力することは、たぶん親の成長につながっているのではないかと思う。
 子どもは毎日成長していく。それに伴って親も一緒に成長していくことが、「共に育つ」という意味で、「教育」なのではないかと思った。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第19回 愛情はどれだけ注げばいいのか

■月刊「記録」1999年8月号掲載記事

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 私の周りには、ボランティア活動をしている人が多い。彼らがボランティアをするなかで、どんな人と出会い、どんなことを感じているのか、私も感じてみたくなっって取材をしてみたことがある。

■異世界を体験するために

 どんな事柄にも人によって違ったものの見方がある。話し合ううちに互いの考え方、とらえ方の差が見えてくる体験はおもしろい。人の意見を聞くことは、自分が成長するために必要であり、なんらかの役割を果たしていると思う。物事へのとらえ方が一つではないと感じると、いままで知っていると思い込んでいた世界が、急に違ったものに見えてきて、異世界に導かれる気持ちになる。
 物事を悪いほうにしか考えられなくなっている時、こうした異世界への扉がたまたま開かれて、ふっと気持ちがラクになることがある。たぶんいろいろな人に出会い、さまざまな体験を重ねることが、心のゆとりにつながるからだろう。
 ましてや私のところには、前述のように不安を抱えている子たちから相談の電話やファクスが送られてくる。彼らの心に、異世界への扉を開けてあげることは、きっと私に期待されている役割の一つだろう。そんな思いもあって、ボランティアを体験しておこうと思ったのだ。 取材の方法は、ボランティアをしている友達に同行させてもらい、一緒に一日を過ごすというものだ。初日は、ホームといわれる養護施設でのボランティアに加わった。ここでは、私も一緒になって子どもたちと遊んだのだが、最初は彼らと何を話せばいいのかわからず、とまどいを隠せなかった。
 ホームには、昔のように両親がいないという子どもは少ないという。なんらかの理由があって、両親と一緒に生活することができない子どもが多いということだ。
 ホームの保母さんからはとくに「どういう話をするといい」とか「こういう話はしないでほしい」というような指示は与えられないので、親のいない生活をしている彼らに、ぬくぬくと親元で暮らしている自分がどう見えるのか、できることは何かあるのかと考えると、はりきる反面、不安だらけだった。
 実際、子どもたちが学校から帰ってくる前に、ボランティア総出で屋外に干してある布団を取り込むことになっていたのだが、布団を叩くことさえ知らなかった私には、取り込んで畳んで片づけるまでの作業さえ、なんとも手際の悪いものだった。そのときには、なんだかみんなの足手まといになってしまうような気がした。

■お姉さんなんか嫌い!

 さて、最初に入った教室は、幼稚園児のクラスだった。だが、教室に入ると、まだ幼稚園にはとうてい入れないような小さな子までふくめて、10人の子どもがにぎやかに遊んでいた。
 私が同年代の女の子と3人で教室に入ると、何人かの子がすぐに近づいてきて、とにかく抱っこをしろとせがむ。仕方なく、2人を抱えて1人を肩車した。子どもたちのなかには、「私のお姉ちゃんよ」という言葉を口にする子もいた。それと同時に「お母さんはいるの?」「今、一人暮らしをしているの?」とたずねてくる。やはり、これが彼女らの関心事なのだろう。
 親を思い出させてはいけないと思いつつも、その質問をうまくかわす手段がみつからずに、ただ笑って抱き上げることしかできなかった。
 そうこうしているうちに、一人の女の子が急に私に向かって、「お姉さんなんか嫌い」という言葉を口にし始めた。
 さすがの私にも、この言葉の裏にある寂しさと、「かまってほしい」という気持ちくらいは読み取ることができた。けれどもその先、思うように彼女に近づいていくことができない。
 時間だけがもどかしく過ぎていき、ふと気がつくと、私の周りからは子どもたちが去って彼女と二人だけになっていた。二人で向き合うと、少女ははじめて私のひざに乗ってきた。何もいわずに、ただ私にギュッとしがみついてくる。けれど私は彼女を、強く抱きしめてあげることができなかった。
 もともとそこでボランティアをしていた友達に、あとからこの少女のことを話した。すると彼女は、「私だったら抱きしめてあげる」といった。
「たとえ一瞬であっても、その温もりを伝えることができたら、寂しくなったときでも女の子は、そのぬくもりを思い出して強く生きていけるかもしれないから」と。 そうかもしれない。一瞬のぬくもりが強さを支えることもある。だけど、かえって寂しさにつながってしまうこともあるのではないか。
 私がその瞬間に抱きしめてあげることは簡単だ。でもいつも一緒にいる保母さんは、彼女が要求したときに、必ず毎回、その子を抱きしめてあげることはできるのだろうか? そう考えると、無責任に彼女にだけ、他の子によりも強い愛情を示すようなことはできなかったのだ。
 気がすむまで抱きついたあとで彼女は、私に「目を閉じて」というと、どこかへ行ってしまった。一人が離れれば、他の誰かが来て私のひざに乗る。そして戻ってきた彼女は、私が目を閉じたまま待っていることを期待していたらしく、他の子と遊ぶ姿を見てショックを受けたようだ。また「お姉さんなんか嫌い」が始まってしまった。

■気まぐれで愛していいのか

 少年の凶悪犯罪が多かったせいか、最近は思春期の世代の方が騒がれているが、「第一次反抗期」の子どもは忘れられがちだ。はじめて親と自分の関係を認識し、自己がめざめていく時期にあたるこの年頃に、一対一で正面から向き合い、気がすむまでわがままを聞き、愛情を注いであげられる人は、彼女たちの周りにはいない。
 小さな少女には、保母さんが注いでくれる愛情が、皆に平等にわけられたものだと理解するのは難しいだろう。だから彼女は、ただ満たされるまで愛情を求め続ける。「お姉さんなんか嫌い」といいつつも、近づいては離れていき、まただんだんとその距離が縮んで、やっぱり私のところに来て手を引っ張る。他の子どもたちのなかから私を引っ張り出して、独占して廊下に連れていこうとする。
 彼女は、誰も来ないところへいって、「一緒に折り紙をしよう」という。こんなふうに他の子どもを遠ざけて、二人だけになろうという要求にこたえてしまっていいのか。それが他の子どもに与える影響もよくわからない。私もちょっと考えたけれど、とりあえず少しだけ、時に流されてみた。
 向かい合って座ると、折り紙をわたされる。彼女が先生で、私は生徒だ。彼女が折ろうとするものが、途中まで折れば私にはわかってしまうのだが、彼女よりも先に少しでも折ってしまうと、ひどく怒ったそぶりを見せた。
 わがままとわかっても、気がすむまで愛情を注いであげることが必要だ、ということを私は何度も口にしてきた。たくさんの人にそれを伝え、自分自身でも実行してきたつもりだった。けれど、このボランティアを通して、一概にそれをいうことはできない気持ちになった。
 親がいれば、気がすむまで愛情を与えてもらうことはできる。だがそれは、いつでも一対一で向かい合うことができる親が側にいてこそだ。ここでは、一人ならまだしも10人、20人、それよりももっと多くの子どもが生活している。だからこそ中途半端な愛情を一時の気まぐれで注いでいいのかどうかわからなかったのだ。
 もしかしたら一瞬のぬくもりは、少女の満足につながるかもしれない。それを思うと心苦しいところもあった。でも、もう一度同じぬくもりがほしいと思った時に、それがない苦しさのほうがつらいのではないかとも思う。
 私は、彼女たちに毎日ついていることはできないのだから。

■裕福でも、家に父はいなかった

 私の父は、当時にしては珍しく、両親がそろっていながら施設で育った経験を持っている。その頃のことはあまり話したがらないのだが、祖母(父の母)が結核で入院し、祖父は仕事と看病とで、父とその兄弟を手元に置いておくことができなかったらしい。
 けれども祖父は、施設まで父に会いに来ることもめったにしなかった。どうして会いに来てくれないのかと、幼い父は祖父に聞いたらしいが、祖父の返事を私には教えてくれなかった。
 ただ私には、父がそれを聞いたことを後悔しているように見えた。
 そんなわけで、子ども時代の父はそれなりに苦労をし、寂しかった部分もたくさんあったと思う。それを子どもながらに振り切らなければならなかったことも多かっただろう。その日を暮らすのがやっとだった生活から脱出するために、父は家族を持つと裕福な家庭をめざしてがんばった。
 だから私達はお金に苦労することはなかった代わりに、父が家に帰ってこないことも多かった。私が引きこもり、自殺未遂を繰り返していた頃は、さすがに家には帰ってきていたが、私の単位制高校が軌道にのってからは帰らないことが多くなった。
 今でこそ父親が自宅に帰らなくても、なんとも思わなくなったが、小さい頃は父親が家に帰ってこなくて寂しかった。たとえ帰ってきても私が寝てからで、家を出るのは私が起きる前。小さい私はひどく寂しく、どこかで父親を求めていた。
 それを父にわかってもらいたくて、足りない頭で考えた。ありとあらゆることをやってみたが、父に私の気持ちがまっすぐに通じたと思えたことはあまりなかった。覚えていてくれるだろうか。
 もどかしかった頃から月日が過ぎ、私も今では自分で働くようになった。
 たまたまホームに取材に行くために泊まらせてもらった友達の家は、父が通勤に使う駅から二駅しか離れていないところにあった。私も泊まりがけで行っているので、父の帰宅する日と、私が帰宅する日が偶然重なることもあった。そんな時は待ち合わせをして、二人でゆっくり話をするようにしてみた。
 私が大人になり、自分自身で感情にコントロールをつけられるようになってからは、できるだけ父と二人で向き合う時間を作るようにしている。けれども、寂しかった当時に感じた父への拒絶感は、今でも完全に消えてはいない。父と話をすることには、どこかに「義務」の感じがつきまとうようになっていた。

■「今頃気づいたんだけど」

 そのときもはじめのうちは、いつものようにたわいのない話をしていたのだが、父のほうから、前に見たテレビの話をし始めた。私はそれを見ていなかったが、不登校や引きこもりの子どものいる家庭が出てきたという。 施設で育った父親が、いつのまにか「家にお金を入れるための存在」になり、仕事ばかりしていて家庭のなかの大切な何かを見落としてしまっているのだ、というようなことをやっていたというのだが、「それはまさに、自分のことをいわれているようだった」と話してくれた。
 私に寂しい思いをさせたということより、自分のいない家庭が「家族」でなくなっていることに、気づかなかったことのほうにショックを受けていたようだ。父は「今頃気づいたんだけど」といって、すまなそうな顔をした。
 その時、私には、こうして面と向かい、一対一で相対してくれる親がいるから、思いっきりわがままをいうこともできるし、自分が一番になることもできる。気持ちが満たされるまでの愛情を注いでもらうことができるから、20歳をすぎた今でも、親にすねたり振り回したりできる。こんな環境に生まれてくることができて幸せだったのだと気づいた。
 私は父に言った。
「いいんじゃないの? それでもお父さんの趣味は、家庭だったんだから」
 はじめて心から本気でそういうことができた。
 たとえ時間はすぎてしまっていても、父に気づいてもらえたことは私には本当にうれしかった。昔の感情には、時効があるようでいて、やっぱりなかったのだと思った。
 そして、ホームで出会った「お姉さんなんか嫌い」といっていた女の子のことを思い出した。彼女のことを抱きしめてあげることはできなかったけれど、ほんの数十分間、二人で向き合っていた時間を、彼女は覚えていてくれるだろうか。そしてわかれぎわ、たくさんの折り紙を私に持たせてくれたことを思い出した。あのやさしさをいつまでも持ち続けてもらいたいと願う。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第18回 不登校児の親も闘っている

■月刊「記録」1999年7月号掲載記事

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 通信制高校四年のときに、朝日新聞茨城版のための取材を受けたことがある。「ぴーぷる」という欄で紹介されるということで、その名の通り、私という一人の人物の取材に来たのだという。取材のために、私の前に現れた記者さんは、意外なほど物事を「知らない」人だった。
 それまで、何度も取材を受けたりしたけれど、物知り記者さんに会ったことはあっても、その逆の記者さんははじめてで、一時間くらいで終わる予定が、結局六時間にもおよぶ、かなり疲れる取材になった。
 フリースクールや通信制高校を知らない記者さんには、とにかく今現在、自分が置かれている状況を説明するために、一から十まで話をしなければならない。彼なりに、私のいっていることを理解しようとしてくれているのだが、数学のように答えが明らかになるものではないから、どうしても理解できなかったらしい。
 また、取材の席には、同じ学校に通う友人にも同席してもらったのだが、私たち二人が感じる悩みを、どうやっても理解してもらえなかった。
 どうして生まれてきたのか、どうして私じゃなきゃいけなかったのか、どうして生きて行かなきゃいけないのか、なぜ人は死ぬのか、友達とはなんなのか、クラスメイトとはなんなのか。
「私の体に入る心は、私じゃなくて、他の誰かでもよかったのに」
 彼からしてみれば、こんな感覚は自分の感じたことのないものだったのだろうか。だから、どうとらえればいいのかわからなかったのだろう。ボールペンで頭をかいてうなっていた。
「簡単に言ってしまえば『昔の私は、自分を上手に表現できなくて、自分自身からも逃げ出したかった』んです」。そうやってまとめてあげると、今度は、簡単にまとめないでほしいといわれてしまう。
 私だって簡単にまとめたくはないのだ。あの頃は、毎日死ぬことだけを考えていたし、自殺をすれば本当に死ねると思ったし、でも生き返って楽しい生活を送れるようになるような気もしていた。心のなかには、なんともいえない葛藤があったし、晴れない霧のなかで、一人でもがき苦しんだりもしていたんだ。それを、たった一言なんかで片づけるなんて、たまったもんじゃない。
 自分の居場所を見つけることができなかったというと、「その居場所とは、どういうところなのか」と聞かれた。でも、感情を辞書に載っているような言葉に直そうとしても、できるはずもない。安心感を持てる場所とか、本当の気持ちをうち明けられる友人がいるところとか、遠回しに遠回しに話すしかないのだけれど、うまく伝わらない。
 さらに一緒にいた友達が、「離人感」とか、「自傷症」とか、むずかしい言葉ばかりを使うから、記者さんはますます混乱してしまった。絵を描いたり、自分の経験談を話してくれて、「要はそういうことなんじゃないの?」と聞かれたが、二人でずっと首をふり続けていた。一言で説明できるような簡単なものではない。
 たとえば、自分を見ているもう一人の自分がいる。その、もう一人の自分のほうが、本当の自分のように思える。じゃあ、いま話をしている自分は誰なのか? それもやっぱり自分自身だ。現実的な言い方をすれば、話をしている自分しか世のなかには存在しないはずなのに、自分のなかにだけ、もう一人の自分が存在してしまう。それが「離人症」の感覚なのだ。

■一瞬のためらいを消してあげたい

 先に、死んでも生き返って楽しく暮らせるようになると思うと書いたが、死ぬのは現実の私のほうだ。もう一人の私は死なない。そして生き残った私は、前世の記憶を持ったまま、もう一度楽しく暮らせるような気がしてしまう。あの頃は、人生をやり直したかったのだ。人生がやり直せると、信じていたのだ。
 それが記事になるのはもう少し先のことだから、彼がどう私をとらえ、どういう紹介をしてくれるのか まだわからない。
 一〇〇のことを知らなければ、一のことも書けない気持ちもわかるから、がんばって取材を受けたけれども、記事になったものはしょうがないと、それを受け入れることになるのかなぁ。
 彼と私たちとの違いは、「細かいところまで気にするかしないか」に思えた。その違いが大きいのだと思う。たとえば、電話にしてもそうだ。私の部屋には、直接私につながる専用回線を引いてあるが、それは、インターネットをやるためだけのものではない。
 たとえば、私に話があって、私に聞いてほしいことがあって電話をしてきた人が、私の親が出た時に、一瞬の後悔を感じてしまう。私にかけて、親が取る。親から私につながるまでの約一分間に、「長電話はダメよ。夜遅いんだから、早く切りなさい」というようなことを、母が私にいっているんじゃないかと気にしてしまう、といわれたことがあった。事実、親からそういわれたこともある。また、私も人の家に電話をかけた時に、そう感じることがある。
 だから、その気持ちはわかるのだ。ただの友達からのおしゃべりの電話なら、それでもいいけれど、私のところには不登校や自殺未遂をしている子からもかかってくる。せっぱつまって電話をしてくる彼らの不安を、一つでもなくしてあげることが私にできることの一つと感じたからだ。
 電話をかけてくる時、彼らはきっとコールが鳴っている間中、ずっとドキドキしているだろう。でも、私に話があって、私と話がしたくて電話をしてきてくれている。だから、電話をかけてきたことを、後悔させたくはない。
 電話を取った瞬間に、「この声聞いたら、安心すんねん」といわれたり、「少しだけ話し相手になってもらえますか?」といわれたりすると、私自身もホッとする。送られてくるファクスからも、本当に小さなことでくよくよ悩んでいる姿が見えてくる。でも、彼らにとっては大きなことなのだ。
 そして、そんな彼らに頼られている私からみれば、彼らにわたしてあげられるものより、彼らから受け取っているもののほうが、はるかに多い。
 彼らから何を受け取っているのか、うまく説明はできないけれど、相手を必要とする気持ちを「わかち合う」ことから生まれるパワーは、大きなものだと感じている。
 また、ファクスには、実際に「パワーをください」という一言が添えられていることが多い。パワーってどうやって送ってあげればいいのか、はじめのうちはわからなかったけれど、やがて、なんとなくわかるようになってきた。相手が、自分の存在を認めてもらいたがっている時に認めてあげること。私が心のなかで、「がんばって」と念じてあげること。それだけでいい時もある。
 時間を指定されることだってある。四時半にバイトに行くから、その時に背中を押してほしいといわれる。何か言葉を贈るのではなくて、彼が私を思う瞬間に、私も彼を思うことが、彼にとっては大きいという。
 気持ちの問題だと片づけてしまうなら、勇気とか希望なども同じものだと思う。気持ちが強くなれた時には、本当の力以上の力が出る。私が彼らの「気持ち的力」になれているのだとしたら、それは幸せなことだ。
 あるお宅におじゃまをして、学校に行っていない小学生の女の子と遊んできたことがある。じつは目的は、女の子と遊ぶことよりも、お母さんの不安感をなくしてあげることだった。お母さんと話をしていて、そのほうが必要だと感じて会いにいったのだ。客観的な目を持って接してあげられる人が側にいると、頭のなかでゴチャゴチャになっていることがまとまることもある。
 そのお母さんは日記帳を取り出して開き、子どもが使っていた連絡帳やカウンセリング機関の予約カードも持ってきて、女の子が学校に行かなくなってから、保健室登校をし、教室へ行くようになり、そしてまた学校に行かなくなるまでの一年半のプロセスを話してくれた。
 日記のなかには、お母さん自身が逃げ出してしまった日のこと、一番の話し相手と電話した時のことなどが記されていた。電話で話をしている時は、楽しくて笑ったりもしているが、電話を切った瞬間に、どっと落ち込んでしまうのだという。
 また、電話の相手が、同じ年頃の子どもを持っている人だったため、小学校六年生の最後の一年くらいは学校に行かせるようにしないと、子どもにとってなんの思い出もなくなってしまう。すると将来、後悔することになると思う、といわれてプレッシャーを感じたり、落ち込んだりしたという。気の休まる時もないようだった。自分を理解していると、口でいってくれる人は多いが、本当に理解してくれている人は少ないという。

■しつけに正しい方法ってあるの?

 女の子のお母さんは、子どもが学校に行かなくなったときに、「親の教育が悪いのだ」といわれてしまった。そんなことをいわれれば、たいていの親は落ち込んでしまうだろう。そして、女の子が保健室登校を始めたときには、今度は「子どもががんばったからだ」といわれたという。
 たしかに子どももがんばった。だけど親もがんばっているということを認めてくれる人は、あまりいない。そして子どもが再び学校に行かなくなると、「親は何をしているのだ」とまた責められた。
 親が一番がんばっているのだということを、世間は知らない。子どもが教室に行くようになった時にも、このお母さんはずっと学校についていった。子どもを学校まで送り、「帰っていいよ」といわれるのを待って、いったん自宅に戻る。そして、帰宅時間に迎えにいくと、子どもから「友達と帰る」といわれて一人で帰る。それでも黙って、子どもが自分で何かをしようとする意思を大切にし、見守り続けたお母さんの努力は、一体誰に評価されるのだろう?
 子どものしつけ方を、何が正しいとか正しくないなどと決めつけることは難しい。何気ない一言が、子どもの心を傷つけていることもあれば、何もしていないのに、人となじむのが苦手に育ってしまう子どももいる。
 同じ親に育てられた兄弟のなかにも、広く友達づきあいができる子がいれば、まったく人となじめない子だっている。親が思っているように子どもを作り上げるなんてことはできないのだ。
 私と姉は、小学校の途中で転校した。それをきっかけにして、二人とも同じようにイジメを受けたが、そんなことをまったく気にしなかった姉と、それが原因で人を信用できなくなり、のちに学校へ行かなくなってしまった私は、同じ親に、同じように育てられているのだ。
 私のほうは、生まれつき人と話すことが苦手だった。人混みにいくと、自分は何も悪いことはしていないのに、何か悪いことをしてしまったような感情におそわれた。そんな私の性格には、親だって気づいていただろう。だからといって、どうすることもできなかったのだ。
 学校へ行かなくなりだすと、もちろん親から文句をいわれた。私は口では反発しながらも、どこかで文句をいわれるのを期待していた。まるで幼児のように、かまってもらいたかったのだ。だから、何もいわれない日には、「もう見捨てられたんじゃないか」と逆に心配したりした。
 勝手な感情しか抱かない子どもを見守り、励まし続けている親が、本当は一番がんばっているのだ。一番評価されなきゃいけない存在なのだ。まあそれは、小さなことでクヨクヨ悩まなくなった今だからこそいえるのであるが、がんばっているたくさんのお母さんに対して、改めてエールを送りたいと思う。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第17回 いろいろなことを気付かせてくれた先生

■月刊「記録」1999年6月号掲載記事

*            *             *

 季節の変わり目は、誰でも気持ちが不安定になりやすい。特に春は新学期への不安からか、一人ぼっちのような気がしてしまったり、他人と自分を比べてしまうのだ。いつも春になると、こんな魔の手が多くの人の心に忍び寄っていく。
 一度、「なんか変だなあ」と感じてしまうと、ドンドン自分に不安を抱いてしまう人がいる。生きていくことへの不安で一杯になり、生きていかねばならない理由を探しているうちに心がどこかへ行ってしまう。私はよく「心が迷子になった」という言葉を使うが、まさに迷子なのだ。

■春は心が迷子になる季節

 94年4月のはじめ、つき合いのあるフリースクールから一通の電子メールが届いた。「死にたくて、死にたくて、どうしようもないです」。そう訴える女の子へ、メッセージを贈ってほしいということだった。
 彼女はこの年の春に中学校を卒業したばかりだが、家に引きこもっているのだという。そしてほぼ同時期にもう一通、メッセージを贈ってあげてほしい人がいるという手紙が友人から届いた。その子も同じ時期に中学校を卒業しており、その後の進路は、定時制高校への進学と福祉関係の仕事につくことが決まっている。しかし、先のことを考えると不安でたまらないのだという。
 この子は短い春休みに時間をさいてボランティアに参加していた。ホームレスの人たちに卵や毛布、コーヒーを差し入れるというものだ。新宿へ行くことが多かったそうだが、春には大阪と神戸にも行った。その神戸に行った帰り道、彼女は突然泣き出してしまった。新しい生活になじめるかどうか、不安でたまらないのだという。 中学生の頃から新聞配達をして、一生懸命にがんばってきた子だから、新しい生活にもきっとなじめると思ったのだが、本人の不安が消えるには、もう少し時間が必要なようでもあった。
 私はこの二人に同じメッセージを贈った。「人は、ひとりぼっちになるために、新しい明日を迎えるのではないのですよ」と。
 このときから3年前の春、私もまた同じ気持ちでいた。生きていてもどうせ一人ぼっちだと。その頃は笑うこともなく、家からもまったくといっていいほど出ずに、引きこもりの生活をしていた。当然友達などおらず、私の相手をしてくれるのは親だけだった。その親の気持ちにも気づこうともせずに、別に一人ぼっちでもいいとさえ思っていた。というより、そう思おうと努力していた。
 友達がいなかった私には、どうしたら友達が作れるのかわからなかった。どうせ今までだっていなかったのだから、べつに無理に作ろうとがんばらなくても、一人でいたほうがラクだとも思っていた。
 しかし、やはりどこかで寂しかった。友達同士で明るく笑い合っている声を聞いたり、一人で買い物に行って友達と連れだって歩いている同じ年代の子の姿を見かけた時など、やはりうらやましかった。
 孤独感のなかで、私は次第に生きていく意欲を失っていった。そしてとうとう私は、自殺未遂騒動を起こした。あのときは周りが騒ぐなか、一人で冷めたような顔をしていた。私が死のうがどうしようが、みんなの生活に変化はないじゃない。何をそんなに騒いでいるの? というふうに。
 振り返って思えば、あれも私なりのSOS発信だったのだろう。

■応援してくれた高校の先生

 つい最近まで忘れていたが、騒動のあと、私はまっさきに高校の担任教師に会いに行った。私の担任は、高校に入学してから卒業まで四年間一度も変わらなかった。 この先生はちょっと大物だ。なぜなら自殺未遂騒動を起こしたあとも先生は、私を色メガネで見ることなくずっと応援してくれた。「何かあったらオレが助けてやるから」と、いつもいってくれていた。そして先生のすごいところは、実際に何かが起こった時に、本当に助けてくれたことだ。
 先生に助けられたのは、私だけではない。生徒のためにみんなの前でウソをついてくれたこともあった。だから、他のクラスメート達もあいた時間をみつけては、先生にいろいろな相談をしているようだ。
 たとえば、入学してまもなくすると、新しいクラスのなかには「グループ」が必ずでき始める。ことあるごとに集団で行動させられる学校生活のなかでは、グループに入っていないと身動きがとれない。だから、みんな無理をしてでも、どこかのグループに所属しようとする。 そしてなかには浮いてしまって、まったくメンバーと相性が合わないのに、背伸びしてグループにしがみつき続けるような子も現れる。なぜならグループは、一度できあがると互いに排他的になってしまい、外部からは人が入りづらくなるからだ。途中から他のグループに入り直すことは、大人には想像できないほど難しい。
 この傾向は一般の高校であるほど強い。私の高校は通信制のため、普通高校ほど強いグループ意識はないが、やはり遊び人っぽい子のなかに一人だけ真面目すぎる子がまぎれてしまうみたいなミスマッチが起こる。そんなとき、担任の先生は、生徒同士の「お見合い」をさせてくれた。
 その子に合いそうな友達を探して、その子を受け入れてあげてほしいことを伝えるのだ。ミスマッチからいじめなどが起こりそうになっている場合には、この「お見合い」が効果を発揮する。現に「お見合い」によって救われた子もいた。

■生きてることに意味なんてない

 当時の私に先生は、どうしてくれたんだっけなあと考えていたら、希望者のみが行く宿泊学習に参加させ、班長などの「役」をやらせてくれたことを思い出した。班長になればどうしたってみんなと話をしなければならないから、より多くの人と知り合えるだろう。先生はそう考え、私を合宿に参加させてくれたのだろう。
 その後私は、自分が本当につき合っていける友達を見つけることができた。そしてなにより笑えるようになった。先生がいたから学校も続けてこられたのだと思う。 高校中退は私も何度も考えた。勉強はラクではないし、はじめは先生の存在もうとましかった。外出すること自体が不安で動かないから体力もなく、同時に精神力も失せていた。とにかく何をするのも面倒だった。
 もしあのまま学校を辞めていたら、どうなっていただろう。死にたいと思いつつ毎日暮らしていたのだろう。家から出ることも笑うこともしないままで。何からでもすぐに逃げ出す、弱い人間のままでいたに違いない。
 私がメッセージを贈ろうとしている、中学を卒業したばかりの彼女たちには、今まで自分がすごしてきたことを伝えることしかできなかった。私は彼女たちにメッセージを書きながらいろいろなことを考えていた。
 きっと生きることには深い意味なんてないのだろう。けれども人は、一人ぼっちになるために生きているのではない、と。人と出会い、二人になるため、三人になるため、大勢の中の一人になるために生きているのだろう。
 それを気づかせてくれたのが、私にとっては担任の先生だった。
 一緒に授業をサボっては階段のところでタバコを吸い、どっちが灰皿を取りにいくかをジャンケンで決めた。それまで先生という存在は、ことごとく気をつかう相手だった。嫌味で皮肉で私にはいらない存在だった。だけど通信制高校では違った。
 恥ずかしい話だが、友達関係さえもうまくできなかった私には、協調性もなく、礼儀というものもほとんどわからなかった。敬語もあまり使わなかったので、たまに使うと敬語が並びすぎ、なんだかおかしくなってしまう。そして話をしたいことができると、まずとにかく自分の話を聞いてもらいたいと思ってしまう。たとえ相手がどういう状況であっても。
 ある時、先生たちが会議をしていた。会議といっても体育の先生たちだけの小さなもので、体育教官室で行われていた。だからいつものように私は、何も考えずに教官室に入っていった。
 すると、ものすごい剣幕で怒られた。いきなりどなられ、はじめは何をいわれているのかわからなかったが、どうやらこういうときには、「お話中、失礼します」といわなければならないのだとわかった。そんなことの繰り返しだ。もし先生がどなってくれていなかったら、きっといつかどこかで恥をかいていただろう。
 20歳になっても私は高校生で、先生は生徒である私をいつもどなっていた。最初の頃は、「感情的な先生だなぁ」と思ったけれど、やがて、私たちが社会で恥をかかないようにいろいろなことを教えてくれていたのだとわかった。

■先生に期待しすぎたのかも

 やがて私は、通信制高校に入るまで「先生」に期待しすぎていたのかもしれないと思いはじめていた。先生というのは、神様じゃなかったんだ。だからこそ、そばにいて心の支えになってくれることだってあるのに、期待しすぎて裏切られたり絶望したりしていたのかもしれない。
 少なくとも通信制高校の担任の先生は私を信じてくれていた。振りほどかれてもおかしくないような私の手を、信じて必死に引っ張ってきてくれた。どんなに私が裏切っても、怒り、信じ続けてくれてた。
 通信制高校に通って四年目の春、春なのに私は不安にならなくなった。新しい生活には新しい出会いがあって、新しい出会いのとなりには、いままでに知り合った人の笑顔がある。みんなのおかげで私は変わった。心が一人ぼっちだったのに、今はみんなのなかの一人として生きていくことができる。
 こうして笑っているけれど、私にもそういう時期があったのだということを、彼女たちにメッセージとして贈った。
 生きていく意味などわからないし、どうせ人は必ずいつかは死ぬのに、80年の人生は、なんのためにあるのかわからない。だけど精一杯生きていこうと思えるのは、こうやって人の温かさにふれることができるからなのだろうと思う。
 もう生きていけないと何もかもあきらめた時期もあった。一生笑わないと心に決めたこともあった。人を信じれば裏切られると思い込んでいたし、どうせ誰も私を信じてはくれないのだと思っていた。あの頃を今では不思議なほど冷静に受け止めている。
 裏切られることを恐れていては本当の友達などできないし、自分が人を信じなければ、誰も自分のことなど信じてはくれないということにも気づいた。
 乗り越えてしまえば、高いと思った山も低かったし、つまずいた石ころも本当にちっぽけなものだった。でも、その時の気持ちはとても重かったし、とても不安だったと思う。これからだって何度もくじけそうになるだろう。だけど、そういうときは自分が一人ぼっちじゃないことを思い出したい。いつもそばに誰かついていてくれていることを。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第15回 職員室の和恵先生

■月刊「記録」2000年12月号掲載記事

*          *           *

 正利を保母室から引きずり出し無理やり話し合いを終え、職員室に戻ったぼくを待っていたのは和恵先生だった。
 変態まがいの事件を起こした正利への管理責任を問われ、ぼくは保母たちにやりこめられるだろう。そう覚悟して上目遣いに見上げたぼくに、和恵先生は少し同情的な顔をしてため息をついてくれた。
「はぁーっ」
 ぼくの気持ちもわかるけど、そうはいかないのよ。それはそういうため息だった。

■当面の問題は

 和恵先生の反応は、一つひとつがはっきりしていて面白い。このわかりやすさは子供たちからみると安心感にもつながるのだろう。ぼくの気分も少しほぐれてきた。「あのねぇ、そういうことじゃないんですよ。神山先生」
 ぼくが肩の力を抜いたのを見抜いてか、和恵先生が話しかけてきた。
「正利君の今、起こしている問題を、今すぐになくそうと思うのはやめにしましょうということを私は言いたいんです。彼は繰り返し問題を起こす。そう想定して私たちは物事に取り組むの。とりあえず今回は、正利君は他の子供の部屋に入っちゃだめ。それだけでいいでしょ? ってこと」
「まぁ、皆さんがそれでいいっていうならそれでいいんですけど、でも本当にそれだけでいいんですかねぇ。それがあいつのためになるんですかねぇ」
 言いながら、何を言っているのだ、ぼくは、と思った。楽にこしたことはないではないか。本当は和恵先生の言葉に諸手をあげて賛成したいくせして。ぼくは建設的な意見を口にしてしまっていた。もしかすると、和恵先生にのせられているのかもしれない。
「神山先生にはね、正利君のもっと先の将来のことを考えて指導してほしいんです」
「なるほど…」
「あの人、高校に行くつもりでしょ?」
「はぁ、本人は行きたいというよりも、行けるんじゃないかなんて漠然と考えているみたいですね」
「そこ。そこそこ。そこがあの人の問題よ。あの人、何もわかってないのよ自分のこと」
 これは和恵先生のクセだ。彼女は、しょうもない人のしょうもない話をするとき、いつもあの人、という呼び方をする。
「いい? 神山先生。あの人は勉強ができるわけではないの。運動もできない。愛想がいいわけでもない。なのに、なのによ。ここからが本当の問題よ。なのにあの人は怠け者なの。朝は起きない。顔は洗わない。歯も磨かない。ね、そうでしょ。布団はたたまない。掃除はしない。服は洗わない。ね? ね? そうでしょ。私たちいつもそれをあの人の能力のせいにして、そういうの見落としてきたの。だけど、そういうときじゃないわ。どう考えてもあの人、高校に行くのは無理なんだから、15歳で社会に出るのよ。そうしたら、身のまわりの基本的なことができたほうがいいと思うのよ。とにかくあの人、怠け者なんだから」
 そういえば和恵先生は怠け者が大嫌いだった。そして言われてみればそのとおりだった。ぼくはあいつの並はずれた言動ばかりに目を奪われ、心を煩わされていた。だが、山積みにされた細かい問題もたしかにあるのだ。 能力ゆえとあきらめてばかりいないで、そっちをどうにかするほうが、たしかに先決かもしれない。
「じゃ、とにかく明日は身のまわりの物でも整理整頓させますよ」
「神山先生、いい? 正利君には神山先生が絶対に必要なの。それは学園を卒業してからもですよ。つかず離れず長い目で、ずっと正利君とつき合ってあげてください。神山先生は正利君のこと好きでしょ? 愛しちゃってるでしょ? ね?」
 愛しちゃってる……? 愛しちゃってはいないはずだが、たしかにこのままではイケナイと思い始めているぼくがいた。和恵先生は人をのせるのが上手かった。ぼくはこうやって、徐々に暗示にかかっていくのであった。
■そして再び問題が

「あれー!? えー!? あー!!」
 正利変態事件翌日の起床時。いつも大きな声の広美先生が、いつもより一層大きな悲鳴をあげている。
(何だよ! 朝からうるせえなぁ!)
 ぼくは心のなかでそう思い、小さく舌打ちをした。だが、どんなときも明るく保母さんには声をかけてあげなければいけない。それがこの学園での保母同士のつき合い方だった。
「どうしたんですか? 広美先生」
「はぁー! どうしたもこうしたもないよ! 神山先生! 正利いないじゃん。はーっ、昨日の今日だよ? どうしてくれる?」
「えーっ!!」
 ぼくは負けず劣らぬ大きな声を出していた。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第14回 無反応の深海魚

■月刊「記録」2000年11月号掲載記事

*        *          *

「お前、小学生のチビたちに何したの?」
「……」
 何があっても口を開かないと決意したらしい、あいつのどんよりしたままの、しかし深海魚のように無反応に押し黙ったままの顔をぼくは見下ろした。
「おい、聞こえねえのかよ」
 ぼくは思わず声を荒げた。捨てられたも同然のこいつの家に、借金の取り立て人が来るたびに、押入に隠れてうずくまり相手が帰るのを待つしかなかった。その生活がもたらしたのだろう正利の頑なさの前に、ぼくは屈しそうになったのだ。
「何したって言ってるんだよ!」
 小学生のチビたちを集め、一列に並ばせパンツを下ろし顔を埋めていったという。虐待というか、もはや変態というべきか。ぼくは保母室に正利を呼び出し、問いただしていたのだった。

■ぼくはもう知らない

 強い口調で問いただすと、あいつは眉間にシワを寄せ、相変わらず唇を出っ張らせてぼくを見上げた。
「お前が何をしたか、オレはもう知ってるんだよ。高村先生に聞いたんだよ」
「……」
 それでも押し黙るあいつを前に、ぼくは次第に逆上してきた。
「オレはもう信じられないよ! おまえアホじゃないのか!? いったいなんだんだよ! お前ってやつはよ!」「……」
「何か一言でもいいから言ってみろってんだよ!」
「……」
 だが、襟首をつかみあげる直前まで来て、唐突にぼくは我に返った。そうだった。だめなのだった。どうせ何を言っても反応などありはしないのだ。相手に屈しそうになる気持ちのほうがまだしもだった。急に心の底から、もっと大きな情けなさに近い気分が湧いてきた。無力感というやつだった。
 毎回、毎回、問題を起こしてはぼくを手こずらせ、けれど面と向かえば押し黙ってしまう。怒ろうが諭そうがテコでも口を開かない。どんよりとした目で石のように黙る。
 その反応が、やつの生い立ちから生まれたものだと感じている間、ぼくは、あいつに屈しそうになり、逆上までしかけた。けれど、何かが違うのだ。こいつは、そういう同情だけでまともに向かい合える相手じゃない。
 そうだった。ぼくはふと、そのアホ面を見ながら思った。
 ああ、こいつは知的障害者だったっけ――
 だけどな、おまえがまるっきり知的障害者だったなら、ぼくだって対処のしようがあるんだ。けれどな、おまえはぎりぎりIQ80、やることといったらその辺の根性の悪いクソガキと同じじゃないか。やることだけマトモで、いざ面と向かうとIQ80。そりゃないぜ。ぼくとおまえはアカの他人なんだぜ。どうしてぼくが、こんなにおまえのために身をくだかなくっちゃならないんだ。
 もう、こんなやつ、どうにでもなってしまえばいい。 どうでもいい。もういい。放っておこう。勝手にやってくれ。ぼくはもう、おまえにかかわり合いたくないんだ。
「もういいよ。話できねえんだろ。出てけ、出てけよ」 あいつのシャツの袖口をつかんで引っぱり、ぼくは無理やり部屋から追い出した。突き飛ばすようにして外へ出し、強くドアを閉める。
 あいつのことは、もう相手にしない。
 無理やりそう決めた。
そうはいかないのよ
 正利との話し合いを無理やり終え、ぼくは職員室へ向かった。きっと担当としての責任を問われ、保母たちに次々と手厳しいことを言われるだろう。だが、もういい。あいつのことで怒られるのなんか慣れっこだ。それに、もうあいつのことはとにかくどうでもよかった。
 しかし戸を開け、室内に入ると、そこにいたのは和恵先生一人だけであった。背筋をいつものようにピンと伸ばして座る和恵先生。彼女の顔を見ると、なんだかやっぱり少し気後れを感じた。
「あのぉ、本当にいつもすみません」
 上目遣いで盗み見たぼくの目に、和恵先生の困ったような笑みが返ってくる。
「誰もねぇ、神山先生のことなんか怒ってないのよ。もう、正利君のことはしょうがないと思いましょうよ」
 意外な展開だった。怒ってはいないらしい。
「そうですね。じゃぁ、いい機会だからあいつのことはあきらめますか?」
 なかば本気で、冗談に紛らわせてぼくは言ってみた。「はぁーっ」
 和恵先生は大げさにため息をついてくれた。わかるけど、そうはいかないのよ、というため息だった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第13回 恐るべき変態野郎

■月刊「記録」2000年10月号掲載記事

*           *           *

「ちょっと、何考えてんのよ。まいったなぁ。いったい何考えてんの?」
 夕食のあと、ぼくを保母室に呼んだ若い保母は、急いで後ろ手にドアを閉めると、いきなりものすごい勢いでまくし立て始めた。その言葉は、もはやぼくに向けられたものであるのか、混乱のための彼女の独り言なのか、ぼくにもよくわからなかった。しかし、ともかく彼女は荒れていた。
「先生? 何がどうしたの? 詳しく説明してくださいよ」
 なだめるように訊いたぼくに、彼女は情けなさそうな顔で叫んだ。
「もうねぇ、ありえない話よ。はじめて! 私こんなことはじめて! もう~どうしたらいいの? あははははは」
 とうとう彼女は、笑い始めるのだった。混乱の大きさが伝わった。ぼくは背筋がぞっとするのを感じた。
「今日ね、さっきね、慎一君が私のところに遊びに来てね、全部、報告してくれたのよ。何だと思う? 神山先生、何だと思う?」
 ああ、聞きたくないなと、ぼくは思った。何かとんでもないことが起こったようだった。しかも正利がらみである。聞いてしまったら、後処理をしなければならないのはぼくだった。
「何ですか? 先生…」
 ぼくはおそるおそる訊いた。

■目に宿る強固な意思

 彼女の話は、やはりぼくをびっくりさせるものだった。なんと、あいつは、正利は、小学生低学年の男子たちを部屋に閉じ込めては、性的な虐待を加えていたのだった。チビたちを一列に並ばせパンツを下ろし、次々に顔を埋めていったという。
 ぼくはあいつを保母室に呼び出した。
 あいつは、今、ぼくに呼び出されて目の前に立っていた。
 いつものように口を半開きにして、ぼーっとこちらを眺めている正利。その生気のない顔をぼくはしげしげと観察した。なんとも間抜けすぎる顔である。しかも欲と無知が入り交じっているのであった。特にその唇に目が行った。今にもはちきれんばかりに膨らんだ分厚い唇。妙につやつやとした輝きが、まるで獲物を待ちかまえている無脊椎動物のように感じられた。ぼくは気持ち悪くなってきた。見れば見るほどあいつの唇は、そこだけが独立した生き物のようだった。
「おまえはその唇で、子供たちに何をした」
 思わず叫びたくなった。しかし、ぐっとこらえた。叫んではいけない。目の前にいるのは、まともな中学生なんかではないのだ。ただの無知と欲が服を着た変態野郎だ。そんな奴に感情的になってしまっては、自分まで同じ所へ堕ちていきそうなミジメさを感じた。理性的に話しかけよう。せめて演じよう。知性と分別を持った年老いた教師が、いたずらをした子供を諭す場面を。
「お前、何をしたんだ?」
「……」
 反応は、いつものとおりだ。本当にいつもいつも毎度毎度このパターンである。自分の立場が危うくなると、こいつはひたすら押し黙る。「すみません」の「す」の字もない。「ごめんなさい」の「ご」の字もない。涙を流すわけでもなし、怯える様子さえもない。ただひたすら黙々と、そしてぼーっと立っている。
 それならばと、ぼくも負けずに黙り込んだ。そしてじっと目を凝らし、あいつを観察した。そして突然、あることに気づいた。空っぽに近いあいつの頭の奥に、実は確固たる意思が宿っていることに。
 それは、あやまちは認めない、いや、認めてはいけない、という強い意志だった。
「謝っちゃだめよ。謝ったら何もかもおしまいよ」
 そんな意思が、あいつの目の奥からどうしたわけか、突然、感じられた。
 思い起こせばあいつは、ぼくと出会う前から一人、いろいろなものと戦ってきていた。訳も分からず金を盗む。食べ物を盗む。本能のままに行動する。そのたびに誰かに怒られ、叱られてきていた。
 だが、あいつは、いつもあやまってはいけなかったのだ。あやまることは認めることであり、何かひどい目に遭うことを意味していたからだ。
 怒られても謝らない。認めない。相手がただ諦めるのをひたすら黙って待つ。捨てられたも同然のあいつの家には、たびたび借金取りが来ていたという。金の取り立てが来ても、押入に隠れて相手が帰るのを待った。あいつは耐えてきたのだ。自分より倍も歳が違う連中と、何十倍も頭の働く連中と、一人でなんとか渡り合ってきたのだった。
 その、予想外の強い意志を感じ取り、ぼくはうろたえた。まずい、このままでは負けると思った。黙っていては負けてしまう。何か話しかけなくてはと、思った。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第12回 正利がおかしい

■月刊「記録」2000年9月号掲載記事

*           *             *

 正利はフラれた。失恋宣告をしたのはぼくだ。相手は最近施設に入所してきたばかりのフィリピン系の血が流れる年下の女の子だった。しかし、特に悲しそうな顔をするでも悔しそうな顔をするでもなく、正利は、淡々と無表情に相づちを打つだけだった。
 そこでぼくは、これですべての問題は片づいたと思ってしまっていた。だが違った。正利の中には、次なるマグマがふつふつと煮えたぎっていたのであった。

■不可解なあいつの言動

 正利の様子がどうも変である。何か悩みがあるという感じではなく、楽しそうにはしゃいでいるわけでもなく、ただ毎日の生活を淡々とこなしている。だが、本来ならばそういった単調さは、一番あいつにとって苦痛であるはずのものだった。
 学校からまっすぐ帰り、すーっと足音もなく部屋へ行く。何日も洗っていない襟元の汚れたワイシャツを脱ぎ、やはり何日も洗っていないくしゃくしゃのTシャツに着替え、力のない足どりで再び現れ、居間のテレビにゆっくりゆっくり近づく。椅子に座り、足を組み、テレビにリモコンを異常なほど近づけてスイッチをオンにする。ひたすら、ぼーっと、テレビの画面を眺めている。すべての動作を無表情で行っていく。
 部屋の横を職員が通りかかっても、正利は何の反応も示さない。ぼくが声をかけても「あー」と適当な相づちを返してくるだけだ。いつもなら学校から帰ってくると、職員を見つけては、片っ端からしつこいくらいに「せんせ? せんせ?」と、ぼくのことを探しまわるのに…。
 どうしたんだ正利? 何があったんだ?
 さすがに少し心配になり、ぼくはあいつに近づいて、その表情を横からのぞき込んだ。出っ張った下唇と魚が3回死んだような淀んだ目。しかし、それらからは、やはり何一つ読み取ることはできなかった。
 ところが、そんなぼくたちの後ろから、宿題を終え、部屋に戻ってくる小学生たちの声が近づいてきた。その瞬間であった。淀んだ正利の目がかすかな反応を示したのだ。確実に何かがあいつの中で動いたのをぼくは見逃さなかった。今までゆっくりゆっくり、やっとのことでカタッ…カタッ…と動いていた正利の中の歯車が、まるで油でも差したかのようにカタカタカタカタカタと噛み合い、急にスムーズに動き出したように見えたのだ。
「おい」
 振り返り、ぼくの存在などまるっきり無視して、手と足をバタバタさせ、小さい子供たちに自分の存在を知らせる正利。チビたちが自分に気づいたのを確認すると、正利は立ち上がって、彼らの背丈に合わせるように背中を丸めて近づいていった。
 そしてチビたちの背後に近づくなり、正利は「急げ」といわんばかりに彼らの背中を押した。一斉に子供部屋へと押し込む。それは、ぼくがかつて見たこともない素早い動作であった。
 次に正利は、部屋に一緒に入っていこうとした。ノブをつかみ、一瞬ぼくのほうにちらっと視線を投げてきた。それもまた、ぼくがかつて一度も見たことがないような不可解な表情だったのだ。
 こちらを見たのもつかのま、正利は部屋に入り、「バタン」と大きな音を立てて子供部屋のドアを閉めてしまった。ぼくは迷った。室内をのぞくべきか否かと。
 だが、なんだか急に面倒くさくなりやめてしまった。正利が変なことなどしょっちゅうなのである。あいつの不可解な言動にまともに取り合って、肩すかしをくらわされたことなど無数にあった。どうせあいつはチビたちとしか遊べない。チビたちと施設の子供部屋で遊べることなどたかが知れている。まぁきっと、何か新しい遊びでも思いついたのだろう、と安易に考えてしまった。
 そしていつも、ぼくはこうやって失敗に近づいていくのである。
 ぼくが、小学生男子、つまりチビたちの様子がおかしいと感じ始めたのは、それから数日後のことだった。
 夕食時、チビたちの顔がどれもこれも妙に複雑だったのだ。ぼくが話しかけると一応笑うのだが、その笑顔にはまるで力がなかった。おかしいな、そう思い視線を正利のほうへ移すが、相変わらずの無表情である。
 だが、「一点の曇りもない」という表現を借りれば、このときの正利の顔は全面曇っていた。しかも陰鬱な曇りではなく、嵐の前の不気味な暗雲であった。嫌な予感がした。
 夕食を終え、30分ほど経った頃であろうか。ふいに、若い保母がぼくに近づいてきて、ささやくように言った。
「神山先生、やばいのよ。正利やばいって。ちょっと来てよ」
 何がなんだかわからぬままに、ぼくは、若い保母のその険しい表情から、ただごとでない事態だけを読みとった。しかも、また正利がらみなのであった。そら来た、と思った。
 そして、ぼくが保母室に入ると、保母は急いで後ろ手にドアを閉め、鍵までかけたのだった。(■つづく)

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「麻原極刑」と死刑廃止論/岩井信アムネスティ・インターナショナル日本支部事務

■月刊『記録』95年12月号掲載記事

(■岩井信……1964年東京都生まれ。国際基督教大学教養学部卒。在学中よりアムネスティ活動に参加し、卒業後事務局に勤務。)

■いまこそ、死刑廃止の声を

「地下鉄サリン」や「坂本弁護士一家殺人事件」などの凶悪な犯罪が明るみにされ、捜査や裁判の模様が連日メディアを賑わせています。まだ裁判の結果が出ていませんから、無罪推定の原則にしたがって、私たちが勝手に判決内容を云々することは控えなければいけません。しかし実際には、「犯人を死刑に!」という論調がメディアを占拠し、「死刑」以外の判決を裁判所が出すことが難しいような状況にあります。「これでも死刑廃止か」という問いかけの中で、いったい私たちはどう考えたらよいのでしょうか。個人的な意見を述べて、この問題を考えていただくきっかけにしたいと思います。

■廃止論は「相手を赦せ」ではない

 死刑廃止論を言うことが、被害者の遺族に対して「相手を赦せ」といっていることであり、「罪を憎んで人を憎まず」という考え方だと思われていることがあります。「私たちはあなたのような宗教者や聖人ではない」と揶揄されることもあります。しかし死刑廃止は、誤解を恐れずあえていえば「罪を憎んで、人を憎んで、でもその人を殺さない」ということだと思います。
 被害者の遺族が相手に復讐したい、相手を殺したいと思うのはその通りです。そこで「相手を赦せ」なんていうのは、それこそ人権侵害です。この感情、この気持ちを大事にしなければいけないことはいうまでもありません。問題はこの感情を「どのように」大事にするかということです。つまり、その感情を大事にすることが、なぜそのまま死刑制度に結びつくのか問うことが必要です。
 広島で数年前に死刑廃止のシンポジウムがあり、私も参加したことがありました。その時に会場からすごい剣幕で死刑廃止に反論される方がいました。ある殺人事件の被害者の遺族だというのです。いろいろな話が出てきたのですが、ふと尋ねてみると、実はその方の場合「犯人」は死刑にならなかったというのです。「それで満足されていますか」と聞かれて、「満足も何も、裁判所が決めたのだからしょうがない。あきらめている」ということでした。
 日本では殺人事件の99%は死刑になりません。死刑になるのは、複数殺人していたり、強盗や誘拐などが関係する凶悪な事件に限られます。しかし殺された家族にとっては、最愛の人が1人殺されただけで十分なはずです。ということは今の日本でも、実はほとんどすべての殺人事件の遺族にとって死刑は「廃止」されているのです。つまり死刑は象徴であって、遺族の無念さ、憎しみは、今の日本でもそのまま制度化されていません。むしろ本当の問題は、死刑制度の有無ではなく、こうした遺族に気持ちをどう大事にするかということなのではないでしょうか。
 感情は永遠に固定したものではありません。むしろ周りとの人間関係や環境、時間によって大きく変わるものです。死刑があることで、かえって感情がエスカレートしていくこともありえます。私達が考えるべきなのは、憎しみと復讐で一杯の遺族が、その後も生き続けなければいけないということ、それを知ってどうサポートできるのかということです。 日本では被害者遺族給付制度やカウンセリング面での支援など、被害者への支援が諸外国に比べて20年は遅れているといわれます。もしかすると死刑があるために、表面的には解決したとして、実は本当に取り組むべき課題が隠されているのではないでしょうか。

■殺人を求める社会とは

 死刑は社会の雰囲気にも影響します。凶悪な犯罪が起き、それがセンセーショナルに報道され、人々が死刑をさけぶ社会(すでに週刊誌のいくつかはそうした記事をかいている)。旧ユーゴスラビアの紛争を挙げるまでもなく、復讐は復讐を求め、暴力は暴力を誘発します。私達は断腸の思いで、復讐の連鎖を断ち切らなければいけません。サリン事件を通じて、生命への尊重が今の社会に失われていると評されますが、「死刑を!」と叫ぶことも冷静に考えれば同じことをしているのです。死刑はどんな理由があるとしても「国家による殺人」です。今の日本は、殺人を求めている社会ともいえるのです。
 アムネスティのビデオ『殺せますか』(東京事務所で発売)でシリアの公開処刑の場面を見たことがあります。体育館の真ん中に男が座っていて、観客席にいる「群衆」が「死刑に!」と叫んでいる光景です。みんながみんな拳を上げて「死刑に!」と叫ぶ感情を相対化して、どこかで抑える視点を与えてくれる「画面」それが社会という枠組みのはずです。生の感情をそのまま制度化しない「死刑のない社会」が世界各地で増えているのは、殺し合わないで生きるための知恵なのではないでしょうか。

■死刑に犯罪抑止力はない

 今回の「サリン事件」などが計画されていた時期は、たぶん日本で一番死刑がメディアで取り上げられていた時期です。3年4ヶ月の事実上の執行停止をへて、93年3月・11月、94年12月とたて続けに死刑の執行が行われ、かつ毎回新聞の1面トップの記事となりました。以前は執行があってもベタ記事でしたが、死刑廃止論議の高まっていたこともあって、大きな報道となっているのです。ですから死刑の執行を続けるという当局の意思表示が、この数年ほど執拗に示されてきた時期はありません。もともと死刑に犯罪抑止力があるという証明はなされていませんでしたが、今回の事例をみても、死刑をすることで将来の同様の犯罪を防ごうという考えは間違っています。

■殉教者をつくるテロへの死刑

「テロというのは社会的矛盾が契機となっていて、その背景を理解し、克服することでしか防止することはできない。テロリストに対する、新たなテロリストを生むだろう。続くテロリストに、より強い動機と正当化の口実を与えるだろう。そしてそれは、より大きな規模のテロとして帰ってくる」といった人がいます。死刑は死ぬことで責任を取らせることです。これは死の美学にも通じます。特にある政治的・宗教的目的のために死刑となると、宗教的価値がつけられ、「殉教」したことになります。むしろ犯罪を背負って、一人の小さな自分を見つめることからしか、犯罪を犯した人がもう一度行き直す機会はないと思います。それがまた、社会に対して新たな殉教者を作らせないことになるのではないでしょうか。
 死刑をすることは、暴力や殺害をもって問題を解決しようとするテロリズムと同じことを私達もすることです。「もし私たちが誇ることができるとすれば、私たちがテロリストと同じような、人を殺すという論理(殺生のレトリック)と文化(暴力を容認する文化)を持っていないということではないだろうか」と「死刑を考える平成7年度関東弁護士連合会シンポジウム報告書」は指摘します。

■世論は変化している

 1994年11月26日に発表された世論調査の結果では、メディアでは「死刑存置が70%を越えている」と報道されたのですが、これも問題があります。よく調査内容を見ると、「場合によっては死刑もやむを得ない」と答えている73・8%の人の中には、「将来状況が変われば廃止」は約40%おり、この人達を条件つき廃止論者とすると、絶対的廃止論者の13・6%とあわせて約43%になり、絶対的存置論者の39%を上回っています。94年7月にNHKが行った世論調査でも、終身刑の導入を前提に聞いたところ、廃止論者が存置論者を上回っています。世論は変化しているのです。なお、世論調査方法の問題点や、世論と人権の関係についての議論はここで省きます。

■もっと代替制の論議を

 そこで問題になるのが死刑をなくした後の代替制ということです。死刑は死刑制度そのものが問題であり、廃止されなければいけないのですから、何かと取り引きしなければ実現できないという条件付きの問題ではありません。しかし政策問題としては、死刑がなくなった後の最高刑への信頼という意味でも、このことに取り組んでいかなければいけないことが現実としてあります。
 現行の無期刑の「仮釈放」制度はどうでしょう。法律上は10年の経過によって仮釈放が可能で、よく「10年で出てくる」と言われますが、実際の運用は18~20年に及んでいます。吉村昭の『仮釈放』という小説にもあるように、保護観察が一生つき、移動の自由が制限される仮釈放の厳しさはなかなか知られていません。
 正確な情報をもとに、運営面でのより厳格な対応という考えもありますが、一方で恩赦の可能性を残した「仮釈放を認めない絶対的終身刑」や、仮釈放の可能性となる期間を相当延長したり、被害者遺族の意志を仮釈放に反映させる手続きを加えるなどの提案もあります。
 アムネスティも呼びかけ人として結成した「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」では、民間法制審議会のようなものを設置して、死刑が廃止された後の最高刑についても日本社会の合成形式づくりの作業が必要だと考えています。

■「寛容」を問いなおす

 南アフリカでは死刑が違憲に、ポーランドは死刑執行停止法案が通り、モーリシャスでも死刑廃止法案が可決されました。世界はついに死刑廃止国が存置国を上回りました。死刑廃止条約でもすでに1989年に国連総会で採決されています。世界は着実に死刑廃止に向かっています。もし「世論」を尊重するのであれば、世界の世論も考えに入れなければなりません。
『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか』(渡辺一夫)という長たらしい題のエッセイがあります。死刑廃止は犯罪に「寛容」だと非難されますが、私たちはこの日本語の「寛容」という言葉の意味を、今こそ作り直さなければいけないのではないでしょうか。殺人行為という「不寛容」に、国家が殺しかえす死刑という「不寛容」で対抗するべきか。渡辺氏はエッセイでこう言っています。「現実には不寛容が厳然として存在する。しかし、我々は、それを激化せしめぬように努力しなければいけない」。
 寛容とは甘やかすことではありません。むしろ「不寛容を激化せしめぬよう」努力すること。何もしないで甘やかすのではなく、この「不寛容を激化せしめぬよう努力する」積極的な行為こそが、新しい意味での「寛容」なのです。今年は国連寛容年。今こそ、もう一度死刑について考えてみませんか。(■つづく)

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天下り用ファミリー企業をぶっ潰せ!

■月刊『記録』02年9月号掲載記事

■天下り用ファミリー企業をぶっ潰せ!/文・本誌編集部

 道路4公団の民営化論争が、もめにもめている。民営化を進めたい道路関係四公団民営化推進委員会(民営化委)と、道路族が集う自民党道路調査会の検討委員会、両者の主張は真っ向対立している。
 道路の利権を確保したい政治家と、小泉純一郎首相から「最終的には『上場』を目指す」と公団の民営化を指示された民営化委では、立場が違いすぎる。簡単には歩み寄れないだろう。国民にとっても、この議論の賛否は難しい。道議員に税金がばらまかれるのも悔しいが、民営化とともに高速道路の永久有料化が決定するのも釈然としない。それより27兆円もの赤字を積み上げた道路4公団が、いけしゃあしゃあと存続しているのに腹が立つ。
 道路公団が抱える巨額の借金は、不採算路線の建設だけが原因ではない。天下りを抱えるために、儲かる業務をファミリー企業に配分してきた結果である。驚いたことに、日本道路公団の子会社と関連会社の計82社は、2000年度決算で1000億円を超える余剰金を蓄えていた。『読売新聞』(2002年8月20日)によれば、最も余剰金をため込んでいたのは、高速道路の休憩施設に設置される道路案内などを委託しているパブリスで、「前期までの剰余金に2001年3月期に計上した当期利益約1億5400円を追加し、剰余金は64億2600円に上った」という。口アングリである。この不景気に64億もの余剰金を蓄えているとは……。
 高速道路そのものは、巨大なビジネスである。道路に入るためには高速料金を徴集する人員も必要だし、道路を照らすライトや看板なども膨大な量だ。そうした施設のメンテナンスも金がかかる。入ったら出られない高速道路だけに、サービスエリアのレストランは高くても、まずくても客が入る。こうした事業を、随意契約で関連会社や息のかかった子会社に振り、収益の多くを天下り社員で山分けしていたのである。その上で公団を赤字に仕立て上げて累積赤字を積み重ねてきた、というわけだ。
 今から3年ほど前、「道路サービス機構」と「ハイウェイ交流センター」という2つの財団法人を取材した。日本全国にあるサービスエリアの経営を一手に引き受けている財団法人であった。
 この2つの法人の前身は、悪名高き道路施設協会。天下り先のファミリー企業に利益を分配して赤字経営に見せかけていた手法がバレ、98年に前述の2つの法人に分割となった。そのとき「公益法人の理事のうち同一官庁などの出身者の占める割合は全体の半分以下にする」という閣議決定にも従うことになった。
 ところがである。この2つの法人は、無報酬の非常勤理事ポストを増やして民間人を採用。「全体の半分」にはなったものの、天下りの人数だけは確保したのであった。
 当時、2つの団体は、次のように取材に答えている。
  「よく天下りなどと批判されておりますが、私どもは『天下り』などと呼んでおりませんし、そのようにも考えておりません」(ハイウェイ交流センター)
  「(天下りは)適材適所だと感じております。業界に精通し、その専門性を活かして指導育成をしていただいている。これは必要だから来ていただいているのです」
 こんな戯言を、職員が当たり前の顔でしゃべるのだから驚く。つい最近も首都高の料金を700円から800円に値上げしようとして、こんな時期に職員の意識が低いと批判されていたから、「利益のためなら批判など気にしない」という姿勢は、当時のままらしい。
 民営化への議論に決着がつかないなら、とりあえずファミリー企業を撲滅すべきだ。きちんとした競争原理が働けば、天下りだけを養う会社などなくなるのだから。(■了)

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疑念を拭えない「自立支援法」

■月刊『記録』02年8月号掲載記事

■疑念を拭えない「自立支援法」/文・本誌編集部

 今年7月17日、「ホームレス自立支援法案」が、衆議院厚生労働委員会で可決された。議員提案の法案であるため、今国会で成立する見通しとなった。
 この法律の評価は、揺れている。「行政の責務」を明示したことに対する評価が高い一方で、「野宿者の起居の場として適正な利用が妨げられた時」には、「必要措置も取る」と書かれた部分には、各所で強い疑念の声が挙がっている。
 支援の法律ができれば、状況が変わるのではないかと誰もが考えたくなる。ホームレスの方々はもちろん、彼らの生命を支え続けている支援グループでも例外ではなかろう。しかし、このホームレスの支援に関する限り、どうにも信じられないというのが、私の偽らざる気持ちだ。
 ホームレスのための自立支援センターが開設された当初、私は随分と期待したものだった。原則として2ヶ月以内の利用とはいえ、就職支援や健康相談、生活訓練なども実施するという。取材で知り合ったホームレスの人々の中にも、期待に胸を膨らませ路上から自立支援センターに移った人がいた。
 しかし数ヶ月もすると、その男性が段ボールハウスを作ることもできず、ビルの谷間でアオカンしているという噂を耳することになる。
  「公園なんて場所を空けたら、もうテントを張る場所なんかなくなっちゃうよ。だから支援センターなんか行かないで、ここでテント張ってた方がいいんだ。どうせひどい仕事しか紹介しないんだから。大見得切った手前、奴だって恥ずかしくて、ここには顔を出せられないよ」
 自立支援センターに行った男性の隣の住民は、そう言って顔をしかめた。
 支援センターに行った彼が、どうしてホームレス生活に戻ったのかはわからない。しかしきちんと退職金の支払われる大企業で働き続けた人でもあった。女性に騙されて、すべての金を失ったものの歳は30代と若い。住所がないと職に就けない現実を理解しているだけに、就職のチャンスをみすみす棒にふるとも思えなかった。
 もう1つ気になったのは、自立支援センターの噂が決して良くなかったことだ。食事の情報などは、口コミで一気に広がるホームレス社会なのに。
 木で鼻をくくったような役所の対応。体裁だけ整えられた公的支援。そんな行政の対応に、ホームレス人々は何度となく裏切られ続けてきた。もちろん親身になってくれる人もいるし、窓口だってある。しかし状況は、ほとんど改善してない。それもまた事実だ。
 今回の法律にしても、支援する気のない自治体が「適正利用」という文言を利用してホームレス排除に出れば、状況はさらに悪化してしまう。結局、ホームレス救済の成否は、行政がどれだけ本気で動くかにかかってくる。法律は、具体的な行動までは決めない。本当にホームレスを救う法律なのか、長いスパン取材し報告していきたいと考えている。(■了)

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鎌田慧の現代を斬る/世界同時テロと小泉内閣の野望

■月刊「記録」2001年10月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■420対1の冷静さ

 アメリカで起きた同時多発テロによって、小泉改革が「参戦」に踏み切るのが憂慮される。米航空母艦の護衛やイージス艦の派遣など、最悪のシナリオである。
 ここ数日の報道のなかで、わたしがもっとも注目したのは、カリフォルニア州選出の下院議員バーバラ・リー(民主党)が、大統領の求めた武力行使の決議をたった1人拒否したというニュースであった。
 この結果、決議は420対1で可決されたのだが、「誰かが抑制を利かせねばならない。決議の意味をじっくり考えるべきだ」と彼女は語り、アメリカの報復によって世界的な暴力の悪循環の生まれることを懸念したという。彼女は、98年のイラク空爆にも反対し、99年のコソボへの部隊派遣でも下院でただ1人反対し、ブッシュ政権が離脱宣言した地球温暖化防止の京都議定書も支持しているという。
 軍事力による解決と自国の孤立化を恐れないアメリカの興奮状態にたいして、敢然と世界平和の立場から「抑制」を主張した議員がいたことは、アメリカの1つの希望である。同時に、たった1人しか反対しなかった事実は、このテロによるアメリカのプライドの失望を物語ってもいる。
 日本においては、社民党と共産党がアメリカの武力行使に反対している。しかし議会内では、圧倒的な少数である。9月19日夜、小泉首相は首相官邸で緊急記者会見をおこない、海上自衛隊のイージス艦を情報収集のために派遣することを発表した。これ以外にも、自衛隊が医療、輸送・補給などの支援をできるような措置を講ずるとか、国内の米軍施設や重要施設の警備を強化するための措置を講ずるとも語った。このような「米軍に対する協力法案」が成立する見通しである。
 今回のテロ事件にたいして、アメリカを全面的に支持する姿勢を、小泉首相は表明してきた。しかし彼の頭のなかに、日本の平和憲法が存在しているのかどうか疑問だ。事件の翌日、福田官房長官が「日本は日本の憲法の範囲の中で、でき得ることは最大限やる」とあらためて憲法を強調したが、アメリカがどんな作戦をとるのかをはっきりしないうちから、「全面的」などというのは、軽率のそしりを免れない。
 アメリカの国際政策そのものが生みだした、ともいえるテロルにたいして、日本の首相はなんの見識もしめさず、ただブッシュの「戦争だ」という叫びに「そうだ」と大向こうから声をかけただけ。この軽薄さは、国を誤った方向に導いていく。
 日本国憲法は、武力によって紛争は解決しないことを高らかに宣言している。19日の記者会見において小泉首相は、「憲法の前文には、『国際社会で名誉ある地位を占める』とうたっている」などと、憲法前文を引用した。しかし憲法は非武装主義を堅持することによって「名誉ある地位を占める」と宣言しているのであって、ほかの国の戦争に加担することが「名誉」になると書いているわけではない。

■火事場泥棒が戦争を準備する

 世界最新鋭の情報艦であるイージス艦の派遣は、日本がアメリカの戦争の「下請け」になることである。イージス艦のコンピュータシステムで情報を収集するには、アメリカの攻撃システムと密接な連携を取らなければならない。武器や弾薬などの軍事物資を供給するのに匹敵する情報戦参加といってもよい。情報収集という名目なら自衛艦の派遣も可能だと防衛庁は考えていたとの報道もある。しかしイージスの扱う「情報」は、攻撃に直結する。米日共同戦線の実施は、「集団的自衛権」の発動であって、とても平和憲法下で容認できるものではない。
 いま政府内では、後方支援の法を整備するなどと騒ぎ、憲法の枠組みを超えようとしている。しかし国際的な名誉を考えるなら、日本にできることとできないことを明確に主張し、平和のためになにができるのか(たとえば、非戦の国として交渉の仲介をするなど)、具体的に提案していくべきである。まして混乱に乗じて、主権を抑圧する有事体制の整備までしようとする政府にたいしては、強く批判せざるをえない。
 そもそも日本政府がしめした「戦争はしない、しかしテロリズムとは戦う」という論理は奇妙である。アメリカは今回のテロリズムを「戦争状態だ」と表現し、首謀者とその支援国に圧倒的な攻撃を加えようとしている。この攻撃に加担する日本は、戦争参加ではないと強調している。テロリズム根絶への戦いに参加したという名目が、既成事実として、これから戦争への協力にエスカレートしていくことを、私は恐れている。
 アメリカはアフガニスタンへの攻撃方法をあきらかにしていないが、地上戦の可能性は少なくない。この地上戦に陸上自衛隊を派遣した場合、後方支援という名目はなんの意味ももたなくなる。武力で圧倒的に劣るタリバンは、地形を利用しゲリラ的な戦法を選択してくるだろう。そうした状態で、どこが「前方」でどこが「後方」になるのか。運搬や補給の業務は、完全に戦闘状態に巻き込まれる。どこが戦場になるのかわからないという場所に、自衛隊を派遣するのは、すでにPKFの発動とおなじことであり、日本の憲法の枠内では考えられない集団的自衛権の発動となる。
 また今回の事件で、日本の米軍基地がいつ攻撃されるかわからない恐怖があきらかになった。沖縄や三沢などにある巨大米軍基地の警備は、事件後急速に厳格化された。こうした情況を利用して、自衛隊が米軍を警備できるよう小泉内閣は法律を準備している。自衛隊の国内出動を、どさくさに紛れて認めさせるつもりだ。
 こうした火事場泥棒的な小泉政権のやり方の汚さについては、マスコミも批判を明白にすべきである。ところが、『読売新聞』の20日の社説においては、「内向きの議論にしてはいけない」というタイトルで、「首相が今、決断すべきは、集団自衛権に関し、『持ってはいるが、行使出来ない』という政府の解釈を改め、行使できることを内外に明確にすることだ」と書いている。つまり集団的自衛権の行使を煽っているわけである。
 また「緊急立法の論議でも、同様の流れになっている。国際的には通用しない内向きな論議に終始すれば、日本が出来る支援も限られている」とも書いているが、日本は戦争しない国だと世界に明言しているのだから、それにのっとって協力の形を考えていくべきであろう。
 今回、大きな問題として浮かび上がったのが、原発である。ニューヨークの貿易センタービルにたいする攻撃がしめすとおり、その国の象徴的な存在や攻撃に弱い施設がテロルの標的となる。アメリカと一心同体の政策をとっている日本で、原発は標的として申し分ない存在になる。
 六ヶ所村の核燃料サイクル施設(ウラン濃縮工場や再処理工場など)は、三沢基地を発進した戦闘機が激突しても耐えられるほどのコンクリート強度をもつといわれる。しかし巨大な航空機が突入することなど想定されていないし、原発の屋根が側壁ほど強くないという問題もある。日本各地の原発は、テロによって死の灰をまき散らす可能性をもちつづける。その被害は、チェルノブイリ原発事故を上回ると予想される。

■破壊されたアメリカの安心感

 一般市民を巻き込んで膨大な死傷者を発生させたテロ事件は、もちろん許されるものではない。内ゲバやテロルなど暴力によって解決しようとするあらゆる政治行動に、私は反対している。ただアメリカが各地でおこなってきた戦争行為、たとえば中南米の政権にたいする武力での鎮圧や中東での戦闘行為、あるいはかつてオサマ・ビンラディンの武装化に協力していた皮肉な行為も批判されるべきものである。
 こうした力による政策は、絶対にアメリカは攻撃されない、という安心感の上になりたっていた。大都市ニューヨークがいきなり攻撃された光景は、一般市民が犠牲となる悲劇を改めて世界中にしめした。広島・長崎の原爆投下などをふくめ、戦闘で一般市民が殺されてきた歴史的な事実について、アメリカをはじめとする多くの国々が反省しなければならない。日本もまた、反省と同時にこうした悲劇をなくすために、なにをすべきなのかを提案すべきである。
 いつどこで発生するかわからないテロリズムにたいして、武力の防衛は限界がある。「全米ミサイル防衛システム」(NMD)でロケットによる防衛網をハリネズミのように張り巡らせれば問題は完成する、と考えていたブッシュ政権に今回のテロは冷水を浴びせた。
 テロリストの憎悪は、これまでアメリカに抑圧されてきた怨みを支持母体にしている。つまり、その支持母体がなくなれば、テロリストの存在もなくなる。憎悪をなくすには、あらゆる問題を力で解決するアメリカ独自の発想を変えていくしかない。
 地球温暖化の問題、アメリカの市場での独り勝ちをつくりだすグローバリゼーション、ダーバンでひらいた国連の人種差別撤廃会議の決議に参加しないなど、独りよがりの政策を見直す必要がある。
 アメリカが平和に貢献するためには、まず自国の軍事基地を世界からすこしずつ撤収することである。またパレスチナの独立を認めるというような柔軟な外交政策も必要とされる。エルサレムの街角では機関銃の台座を据えてイスラエル兵が警備している。このようなパレスチナ人にたいする過剰な抑圧が、子どもたちまで参加するインティファーダ(抵抗運動)を生んでいる。
 インティファーダとテロルとを混同するわけではないが、このように憎悪の石が積み重なって、今回のような大量殺人のテロルが生まれたというふうに考えることが必要だ。

■容疑者の生首を取ってこい!

 9月20日現在、今回のテロルがオサマ・ビンラディンによって引き起こされたという明確な証拠はしめされていない。証拠がないのに、アメリカは軍事行動を開始している。容疑者の生首を取ってこいと指示しているのだが、それは裁判にもかけずに死刑にするようなものだ。 このように目には目をの方法で解決するのではなく、もし、オサマ・ビンラディンが事件に関わっているとするならば、粘り強い外交の力と国際世論によってタリバンに引き渡しを求め、そして逮捕した容疑者を国際刑事裁判所(ICC)にかけ、世界にその犯罪性を証明する手順が必要だ。
 今回のテロルのアメリカ国民にたいする肉体的あるいは精神的な打撃の大きさは、原爆と阪神大震災の惨事を経験した日本人は、あるていど想像できる。しかし、いま危険にさらされている、自由と豊かさの生活が、これまでのアメリカの軍事力を背景にしてつくられてきたものであるというゲリラ側の批判も、今回の事件を通して理解する必要があると思う。そうした相互理解にむかう道が、このような凶暴なテロルを防ぐ最大の解決方法だと思う。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/不機嫌な喜劇役者の逆襲

■月刊「記録」2001年4月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

*         *         *

 森喜朗首相の茶番につきあうのも疲れてきた。辞任は織りこみずみだが、茶番は悲劇的になりそうだ。
 野党からだされた森の不信任案にたいして、反対票を投じた自民党や公明党の議員は、「不信任案には反対したが、信任ではない」と、わけのわからないことを口走っている。森自身も「いま辞めるとはいっていないが、この先辞めないとはいっていない」などとわめいている。総裁選の前倒しというスケジュールの発表が辞意表明になっている、という宴会での腹芸が、日本の首相の表現だから、国民をバカにしている。
 米国のブッシュ大統領のもとへ駆けつけたりロシアのプーチン大統領などとも会談にいくという。これなど脳死した首相が、亡霊のように旅行に行くだけの話である。おそらく機密費の予算もまだ残っているだろうし、新たに予算も計上されているから優雅に外遊するつもりなのだ。
 心配は税金のムダばかりではない。そもそも決定権のない人間が一国の大統領に会うことなど、日本にとっての屈辱外交そのものである。執行権のない首相が成立させた「空洞化予算」さえ、国民には我慢ならないのにである。心配なのは、実力がない分だけ強がりたい森が背負わされてくるお土産だ。米国は軍事の負担をさせたくて待ち構えている。「有事体制」もそうだ。飛んで火にいる夏の虫である。
 このドタバタ劇の陰で、自民党および連立与党にたいする批判を封じようという策動がおこなわれている。将来にわたって言論を統制しようというのだから、影響はきわめて大きい。一昨年に成立した盗聴法(通信傍受法)は、去年8月から施行されている。これにくわえて個人情報保護基本法案や青少年社会環境対策基本法案、さらには人権救済機関の設置案など、メディアにたいする規制は矢継ぎばやに撃たれている。

■亡霊の復活

 最近になって自民党がもちだしてきたのが、放送活性化検討委員会である。ことしの2月7日におこなわれた初会合では、「最近は自民党批判が目に余る」「強く抗議して、その対応をインターネットで流すべきだ」「訴訟に出て、判例を作り上げることが大事」という過激な議論もおこったという。
 この委員会は、古賀誠幹事長の肝いりでつくられた。服部孝章立教大教授は連載している記事上で、次のように委員会の危険を伝えている(『毎日新聞』3月13日)。
「議論の対象を放送分野にとどまらずマスコミ全般にし、新聞雑誌などの再販制度の廃止を求める意見が出たという。
 熊代氏(昭彦委員長)は、同22日放送の国会TV『政治ホットライン』に出演した際、『誤った報道で甚大な被害が出たら、その問題番組を1日から1ヵ月放送停止にできるよう放送法を改正したい』と明言した」
 そもそも自分を批判する者を法律で罰せよ、と叫ぶ政治家が出現するなど、許されるものではない。明治時代に猛威をふるった新聞紙条例や戦時中の治安維持法の亡霊が、またぞろ動きだしたといえる。
 テレビ・ラジオなどの放送は、放送法によって免許事業にされている。その許認可権をもっている政府機関に、放送メディアはきわめて弱い。こうした制度を見越して、都合の悪い番組を恫喝する言論弾圧は、いまでも公然とおこなわれている。
 放送にたいして、政府と政権党幹部が公然と介入を表明するなど、おなじ党の政治家として致命的なはずだ。ところが自民党内では、いっこうに気にもとめていない。それほど、民主党をはじめとした野党はナメられ、無視されているのである。
「(1)公平中立性が守られない場合は抗議、訴訟で対応する。(2)テレビ出演を幹事長の許可制とする。(3)自民党独自のテレビ局を持つ――などの意見が出ており、放送法改正も視野に検討を進める」(『毎日新聞』01年2月8日)
 このような発言が委員会で堂々とでてくるところに、自民党の自民党議員たる理由がある。気にくわない報道は、公正中立性が失われているという発想こそ、権力的な偏向である。
 だいたい放送活性化検討委員会という名前からして国民をバカにしている。規制が放送を活性化することなどありえない。国鉄の「人材活用センター」とおなじいい方だ。大衆欺瞞のやり口である。
 こうしたマスコミにたいする法規制が、深く静かに進行していることをよくあらわしていて、最近の森ダルマ首相は、ほとんど記者には対応しない。ひたすらダンマリを決め込んでいる。
 たとえば『朝日新聞』に連載されている「首相のことば」(3月15日)によれば、
「記者:問責決議否決のコメントをいただけないでしょうか。 
  首相:……。 
 記者:失礼ですが、総理自身、釈然としない思いをお持ちなんでしょうか。 
  首相:……。
 首相:(秘書官に向かって)こうやって(記者以外に)話しているのも(記事に)書いてしまう。昨日もだめだって言ったんだよ。それはルール違反だ。だからもう記者とは話さない。 
 記者:それがきょう話さない理由ですか。 
  首相:……」
 このように首相は、「よらしむべし、知らしむべからず」という政治手法をひたすら実践している。首相が率直に語りかけてこそ、民主的政治姿勢がしめされる。森のダンマリは、判断停止のデクノボウが、完全に居直っている凶暴さをあらわしている。
 だいたい、本人には記者の質問を理解する能力がないとはいえ、押し黙って押し通せればそれですむという態度が、国民をバカにしている。一方ではダンマリを決め込み、その裏では言論を封じようと奮闘する。どん底自民党の陰険な戦術が、ここにもよくあらわれている。

■すべてのメディアに法の網

 個人情報保護基本法案は、去年から内容が漏れ伝わってきていた。ここではプライバシー保護が大義名分となっている。しかし、プライバシー保護を声高に主張する自民党が、国民総背番号制を強引に推し進めた。個人に関する基本的データをコンピュータに一元化すれば、必ずプライバシーは暴かれる。個人情報をむやみにコンピュータに一元化しない。それがプライバシー保護の基本である。
 つまり今回の法案は、個人情報を政府の都合のいいようにデータ化できるようにしたあと、こんどはメディアを規制しようという代物だ。しかも「個人の権利利益の保護」などの美名を借りて、メディアに規制の網をかけようとしている。
 ことし2月24日に明らかになった法律の原案では、個人情報を取り扱う民間団体にたいする、行政の検査権限まで認められていた。さすがに3月に新聞報道された原案では立ち入りの権限が削除されたが、問題山積みである。
 3月3日現在、報道機関については、適用除外を雑則で認めている。ただし基本原則は適用するとしている。つまり「報道」の範囲を狭めれば、この法律による規制の対象にされてしまう。しかも免除の対象とした「報道機関」の例示には、なぜか出版社が入っていない。プライバシー保護という衣の下に鎧が透けて見える。
 盗聴法のときも報道機関への適用は、一応外された。もちろん報道機関を盗聴したり、プライバシーの侵害だとして罰を加えるのは大問題である。が、報道機関だけが救われれば、それでいいというものではない。個人が束縛されて、報道の自由などありえない。もしも新聞社が救われても、フリーのジャーナリストはどうなるのか。個人とみなされれば、いきなり罰則の対象にされる。 このようなファッショ的な法律が、政治的混乱のなかで秘かに準備されている。森はモグラたたきのウップンにされている。その陰にいるものが危険だ。
 青少年社会環境対策基本法案もまた、成立にむけて進んでいる。人権と青少年の保護という美名のもと、あらゆるメディアに規制をかけようという悪法である。
 たしかに報道被害はあいかわらずつづいており、マスコミの倫理も問われている。しかしそうした問題は、マスコミの内部での批判によって克服すべきもので、国家権力が土足で踏みこんでくるようなものではない。いかに日本で報道の自由が軽く見られているかを、こうした法規制案がしめしている。
 戦後の新聞・雑誌の歴史は、戦争中の検閲と弾圧の反省からはじまった。軍部の暴走を止められなかった報道機関の非力さと責任を感じ、特高などに逮捕され、虐殺された膨大な数の犠牲者をふたたび生みださないことを誓い、そこから出発したはずだ。
 とはいえ、日本の報道機関は、大きな欠陥を抱えながら言論の自由を標榜してきている。放送は放送法で、新聞は記者クラブ制度によって、官庁が統制できる体制にある。あと規制できないのは、僕たちフリーもふくめた雑誌ジャーナリズムだった。今回の法案は、ここにむけて手を伸ばそうとしている。個人情報保護基本法案は出版社をねらい撃ちし、青少年社会環境対策基本法案ではインターネットなども含めたメディア全般に縛りをかけようとしている。
 このようにテレビ・ラジオ・新聞・フリーライター、すべてに網の目をかけようとしているのが、自民党のメディア統制の欲望である。
 政権党である自民党が、メディアの規制に強硬になってきた経過は、政治家の発言からもよくわかる。たとえば去年の10月、当時の中川秀直官房長官が愛人にかけた電話の録音をテレビが放映した。これによって中川は辞任したのだが、当時の幹事長・野中広務はこういった。「本人かどうか、どう確かめたのか。マスコミの倫理と人権のあり方を真剣に考えていかなくてはならない」(『朝日新聞』10月28日)
 政調会長である亀井静香も、「一人の政治家を葬ろうという動きをマスコミがどんどん流したら大変なことになる。テレビには放送法もある」(『毎日新聞』2000年10月31日)
 彼ら森政権を作りだした闇の5人組のうちの2人が、森内閣の官房長官のスキャンダル暴露に激怒していたのである。そのあと中川ばかりか、森首相自身が右翼との交遊疑惑を報じられ、自民党議員はメディアへの苛立ちを強めていく。
 しかし、これは報道する側に問題があるわけではない。政治家が右翼とつき合いがあるということ自体、民主主義国家としての致命傷である。それを報じることは、民主国家をつくるための重要な仕事だ。
 野中も亀井もそのような政治家の倫理の厳しさについて、なにも考えていないようだ。あたかも泥棒行為を見付けられると、批判するほうが悪いとひらき直る「説教強盗」である。強権国家における政治家の発想である。 こうした政治家の姿勢が、いまの日本の暗さをあらわしている。森をあざ笑って不満を解消しているだけでは、日本の軌道修正はできない。ますます選挙民の奮起が問われている。 (■談)

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だいじょうぶよ・神山眞/第11回 正利の恋

■月刊「記録」2000年8月号掲載記事

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■せんせ、かのじょできたのよ

 今日から2学期である。
 夏休みよりも30分早まった起床時間に体がついていかないのか、どの子供の顔も不機嫌そうにみえた。スプーンと皿が触れ合う無機質な音だけが部屋中に響いている。
 何枚もパンをおかわりする中学生もいれば、アサリの苦みが苦手でまったく食が進まない子もいる。「ヤクルトはデザートだから、全部他のものを食べてからでないと飲んじゃダメ」と注意する保母の声が響きわたっている。
 けれど不機嫌そうな顔も、時間が経つにつれて徐々にほぐれてくる。日常のペースを取り戻し、あちらこちらから子供たちの会話が聞こえてきた。すると正利が、唐突にぼくに話しかけてきたのだ。
「せんせ、せんせ、おれ、かのじょできたのよ」
 身振り手振りで嬉しそうにあいつは話してくる。なんだかぼくは、嫌な予感がした。
 おまえに彼女なんかできっこないだろう。いつも同じ歳の子に相手にされなくて、結局、小さい子と遊ぶじゃないか。それはおまえ自身が一番わかってるだろ……と思った。
 だが、まぁいい。今日はぼくは機嫌がいいのだ。とにかくさっさと無難に学校へ行ってくれ。
「おお、それはよかったな! 今度詳しく聞かせろよ。今度な!」
 正利は今すぐにでも話したそうだったが、ぼくはそれをこんなふうに強引に拒否した。
 食事が終わると正利は、珍しく鏡の前で身支度を整え始めた。頭に水をつけ、同室の武史から借りた櫛で髪をなでつけている。七・三にきちんと分けられた髪型と目やにだらけの顔の不潔さがアンバランスで、あいつの知能をそのまま表しているようだ。ぼくが横を通ると、鏡越しにあいつはニヤっと笑った。
 スピーカーから柏原芳恵の「ハローグッバイ」が流れ始めると7時45分、登校の時間だ。子供たちはグループごとに整列させられ、準備ができたグループから出発していく。正利も、ぼくをニヤニヤ見ながら実に気分よさそうに門をくぐっていった。
 ぼくは、なんともいえないイヤ~な気分と胸騒ぎとともに、「とにもかくにも今学期は何も起こらないでくれ!」と心の中で祈った。

■突如、変態お兄さん

 正利の恋の相手は、フィリピンの血が流れている正利よりも一つ年下の女の子だった。
 子供たちは、小さいうちに施設に入れられると、何がなんだかわからないうちに施設生活になじんでしまうものだった。しかし、歳の頃も中学1年生くらいになると微妙だった。新しい人間関係と新しいルールを独特の雰囲気の中で学んでいかなければならない。それは、はたで見ていても困難な作業だと思えた。
 正利の好きになった相手は、まさに中学1年生で施設に入所してきた女の子だった。勝手がわからず、独りぼっちで辛い時期に、何かのきっかけで彼女に手をさしのべたのが、たまたま正利だったらしい。
 正利は、少し変な感じはするけど、最初は学園のルールを教えてくれる親切なお兄さんだったのだろう。彼女があまり日本語に達者でないことも幸いしたようだ。だが、そうして彼女が少し気を許し始めると、たちまち正利からのラブレター攻撃が始まった。
 誤字脱字だらけのひらがなオンリーの手紙に、つきあえだの好きだのと、今にも抱きつかんばかりに書き殴られている。それが毎日届く。
 変態お兄さんに豹変してしまった正利に、困り果てた彼女は、慌てて担当の保母に相談をした。そしてぼくは保母から「正利君をうまく諦めさせてくれ」と頼まれたのだった。予想したとおり、正利の恋はあっけなく散ったのだ。
 今回の出来事は、ぼくにとって、ことごとく予想の範疇だった。だからぼくは慌てず騒がず、まず、正利を保母室に呼び出し、そして言った。
「おい、正利。あの子な、おまえのこと好きじゃないってよ。わかった? わかったならおまえしつこく追っかけまわすんじゃないぞ。そんなことしたら、ただじゃおかないぞ」
 これだけ。これだけだ。ぼくはこれだけで、あいつの恋を終わらせた。あいつは「あー」とか「うん」とか、ただただ無表情に相づちを打つだけで、悲しそうな顔も悔しそうな顔もしなかった。だからぼくは、これですべての処理が済んだと勝手に納得した。血も涙も通わぬ冷たい話し合いは、数分でお開きとなった。
 しかし、不機嫌に出っ張った正利のその下唇には、新たな次なる巨大なマグマが宿っていたのだった。ぼくは、正利のまぬけ顔に、うっかりそれを見落としてしまったのである。
 そしてどうやら、正利のうちに潜むマグマは、ぼくが気づかないうちに、ふつふつと彼の心の中で大きくなっていったようであった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第10回 2学期最初の事件

月刊「記録」2000年7月号掲載記事

*          *             *

 学園の行事「クリスマス会」の日に、江美が楽しみにしていたロックコンサートの日が重なってしまった。
 朝起きてから寝るまで、ルールづくめの学園生活に不満が溜まりにたまっていた江美は、良江先生に泣いて怒りを叩きつけた。
 その激しい剣幕は、日頃、何事にも決断が早く「厳しい規律は正しい人間を育てる」を信じて疑わない厳格な良江先生をも、思わず腕組みさせるほどのものだった。
■対等ならそれでいいのか

 良江先生は、どんな決断を下すのだろう。
 ぼくは、学園の規則に息苦しさを感じる子供と、指導者としてあくまで毅然といようとする良江先生のどちらの立場にも半分ずつの疑問と共感を感じていた。
 だから良江先生がどうやって子供たちを納得させるのか、事のなりゆきを興味深く見守っていた。
 ところがしばらくすると、良江先生は、意を決したように腕組みをほどき、パンと手を叩いた。
「わかった江美。職員会議で提案してみるわ。そうよね、うん、ちょっと行事が多いよね。うん」
 良江先生のこの答えは、ぼくにとっても少し驚きだった。
 驚いているぼくを尻目に良江先生は続ける。
「関係ないけどさ、私、昔、礼拝に子供を出させなかったこともあるのよ。ははは。だって学園はキリスト教主義だっていっても、別に私たちはクリスチャンじゃないものねえ。
 でも、そのあとで、隣の部屋の保母さんにすごく怒られちゃったわよ。ははは。まぁとにかく職員会議に出してみるわね。ははは」
 良江先生の照れ隠しらしい、「ははは」という笑い声とともに、こうして集まりはお開きになったのだった。 良江先生が折れた。江美は、ついに良江先生を折れさせた。部屋から出て職員室に向かう間も、ぼくは二人について考えていた。
 果たして今回のようなことが、ぼくの出席したあの人権主義の研修会に来ていた人たちの施設で起きたらどうなったのだろうか。
 例の講師なら、子どもの自己決定権を尊重するべきだと言い、迷わずオーケーを出すだろう。彼らは、対等な関係にある対等で自由な話し合いによって、子供の個性は伸びると信じている。だが、本当にそうだろうか。ぼくには必ずしもそれだけだとは思えなかった。
 帰り際に玄関に出ると、良江先生とばったり会った。彼女はぼくに「例外のない規則、特例のないルール、そんなもの作っちゃダメよね、神山先生」と言った。ぼくはポカンとして良江先生の顔を眺めてしまった。
 良江先生を動かしたのは江美だ。ガチガチの規則、がんじがらめの拘束のなかにでも、たくましい個性は育っている。江美もまた、そんな子どもの一人なのではないだろうか。
 玄関を出てから、良江先生の今の言葉を反芻した。そして、良江先生の懐の深さにちょっと嬉しくなった。

■すこぶる上機嫌の朝

 さて、長かった夏休みもいよいよ終わり、2学期の始まりである。
 新学期の最初の朝は、とにかく慌ただしい。だが、ぼくにとっては、その慌ただしささえもすがすがしく感じられた。素晴らしい気分だった。なんといっても今日からあいつが学校に行ってくれるのだ。それだけでぼくは十分嬉しかった。
 例のごとく正利は、前日からあれほど言っておいたのに、何一つ学校に行く準備をしてはいなかった。ぼくが手伝うのを、血の気の失せたむくんだ真っ白な顔でボーッと待っている。
 いつもなら、ふざけるなと言って頭の一つもはたくのだが、まぁいい。今日は特別だ。
「正利、ダメじゃないか。筆記用具がないのか? これ、新しいのを買っといたぞ。上履きもない? ああ、おまえ足大きくなったもんな。仕方ない、新しいのもっていけ。それより飯だ飯。朝ご飯はしっかり食べないとなぁ」と、つい何でも許してしまう。
 ところで学園の朝食には、ご飯とパンが交互に出される。麺類の多い昼食。魚、肉、魚、肉の夕食。決まったローテーションに従って、繰り返し繰り返しの食事が出されてくる。
 今振り返ると、主だった事件のあった日のことは、その詳細とともに、必ず食事のメニューがまず浮かぶ。
 はじめてのソフトボール大会の朝食はケチャップにまみれた真っ赤なウィンナー。学園から脱走した女の子を追いかけ、捕まえそこなった日の夕食は鯖の味噌煮。火事で1000平方メートルを焼き尽くしてしまった日は、シャレのようだが焼き肉だった。
 我ながらなんだが不思議だ。きっと食事中にその日にあった出来事を子供たちと話し合っていたからなのだろう。
 そして、あの日の朝食は、たしかクラムチャウダーだったのだ。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第9回 学園のルール

月刊「記録」2000年6月号掲載記事

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「どうせダメなものはダメなんでしょ。ルールなんでしょ。はい、はい、わかりました。もう、いいよ。ルール、ルールって、そればっかりじゃん。もう、いいよ……」
 うつむいた江美の横顔から何粒もの涙が、頬を伝わって落ちるのが見えた。よほど悔しいのだろう、普段はろうそくのように白く透き通る江美の頬が真っ赤になっていた。
 江美は12月の下旬に行われる、あるビジュアル系ロックバンドのコンサートを楽しみにしていた。少ない小遣いの中から貯めたお金で、チケットはすでにおさえてあったし、一緒に行く友達とも毎日その話題で盛り上がっていたようだ。ぼくも江美の口から楽しそうに、コンサートの予定を聞かされたことがあった。しかし、しかしである。あろうことかコンサートの日は、偶然にも施設の行事であるクリスマス会と重なっていたらしいのである。学園の行事参加は義務であり、規則であり、よって強制であり、私的な用事によって欠席することなど決して許されないわが学園では、当然、江美のコンサートを認めるわけにはいかなかった。
 コンサートの日程を知らされて、「何言ってんの、その日はクリスマス会の日でしょう」と良江先生にたしなめられた。どうやらそれで江美は泣き出したらしい。
 たしかに、朝起きてから夜眠るまでルールだらけのわが学園ではある。それは、施設生活の長い江美にとっても、今日まで当然のことであったはずだ。けれど、楽しみにしていたコンサートが急に目の前から消えそうになり、どうにもやりきれなくなったのだろう。
「わたしがチケットを取ったのって、クリスマス会の日程が決まる前だよ。おかしいじゃん。それなのにコンサート行けないなんて。だいたいうちの学園は変だよ。なんで行事は絶対参加なの? 本当は自由参加にするべきじゃん」と、うつ向いたまま、強い口調で訴える江美の拳が震えている。
「良江先生は納得できないものは、話し合いで解決しろとか、話し合おうとか普段は言うけど、結局ダメじゃん。話し合ってルール作ったって、そのルールを守ったって、リーダーとして守らせたって、結局なんにも変わんないじゃん」
 江美には、自分がリーダーになり、仲間達みんなの意見を吸い上げて職員にぶつけ、そのたびごとに今までの学園にはない新しいルールを誕生させてきたという自負があった。
 それは、学園のやり方やルールがイヤならば破ればいいといった、従来の不良タイプのやり方とは異なっていて、ぼくら職員にとっても新鮮な驚きをもたらしていた。

■変わりつつあった学園

 江美の果敢な働きかけと行動によって、このところ学園のなかも少しずつ変わり始めていた。今回のように、子どもが子どもだけでコンサートのようなところへ行けるようになったのも、江美の作り出した新しいルールが適用されたからであった。普段は化粧はおろか、眉毛を剃ることも髪を染めることも禁止されていた学園で、高校生に限り年に4回まで化粧をして外出してもよし、との規則を作り出したのも江美の運動の成果だった。職員達も江美の「反抗をもってぶつかる」のではない新しい主張の通し方に目を開かれる思いで、話し合いで物事を解決するのは良いことだと奨励をしていたところだった。その矢先に今回のことである。江美がふんまんやるせないのも、わからなくもない。
「うーん、もう待ちなさい。そうは言ってもねえ」と、良江先生も今日ばかりは歯切れが悪い。
 たしかに学園には行事が多い。ぼくら職員でさえ、施設にいると行事で季節を感じ、行事に拘束され、行事に明け暮れているうちに一年が終わっていく。毎週行われる水曜日の夜と日曜日の昼の礼拝。月に1度の誕生会。季節ごとの施設対抗のスポーツ大会、文化祭、招待行事、クリスマス会……数え上げればきりがない。良江先生の歯切れの悪さは、そんなところにも原因があるのだろう。
「先生、なんとかしてあげてよぉ」
 ふと、ヨシコが場の雰囲気とはかけ離れた甘えた声で言った。モデルなみに顔立ちの良い、それなのになぜかいつもきれいとは言い難い緑色のジャージを着ているヨシコ。ヨシコはあまり深く考えることが好きではない。今も江美に助け船でも出しておいて、早く結論が出ないかな、なんて思っているくらいに違いない。
「先生。いつも施設の仲間同士で固まってたってしょうがないじゃん。私たちもうすぐ社会にでんだよ。外にでたほうが社会勉強になるのになぁ」と、ヨシコにつられるようにして京子がまっとうな意見を言った。すると「うーん、困ったなぁ」と、良江先生は、腕組みをして本当に困った顔をした。この人にしてはめずらしく決断が遅い。「大人というのは子どもから見た時、わかりやすくなくてはならない。そうでないと子どもは安心してついてこない」が持論のこの人とは思えない困惑ぶりだ。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第17回 

■月刊「記録」1999年6月号掲載記事

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 季節の変わり目は、誰でも気持ちが不安定になりやすい。特に春は新学期への不安からか、一人ぼっちのような気がしてしまったり、他人と自分を比べてしまうのだ。いつも春になると、こんな魔の手が多くの人の心に忍び寄っていく。
 一度、「なんか変だなあ」と感じてしまうと、ドンドン自分に不安を抱いてしまう人がいる。生きていくことへの不安で一杯になり、生きていかねばならない理由を探しているうちに心がどこかへ行ってしまう。私はよく「心が迷子になった」という言葉を使うが、まさに迷子なのだ。

■春は心が迷子になる季節

 94年4月のはじめ、つき合いのあるフリースクールから一通の電子メールが届いた。「死にたくて、死にたくて、どうしようもないです」。そう訴える女の子へ、メッセージを贈ってほしいということだった。
 彼女はこの年の春に中学校を卒業したばかりだが、家に引きこもっているのだという。そしてほぼ同時期にもう一通、メッセージを贈ってあげてほしい人がいるという手紙が友人から届いた。その子も同じ時期に中学校を卒業しており、その後の進路は、定時制高校への進学と福祉関係の仕事につくことが決まっている。しかし、先のことを考えると不安でたまらないのだという。
 この子は短い春休みに時間をさいてボランティアに参加していた。ホームレスの人たちに卵や毛布、コーヒーを差し入れるというものだ。新宿へ行くことが多かったそうだが、春には大阪と神戸にも行った。その神戸に行った帰り道、彼女は突然泣き出してしまった。新しい生活になじめるかどうか、不安でたまらないのだという。 中学生の頃から新聞配達をして、一生懸命にがんばってきた子だから、新しい生活にもきっとなじめると思ったのだが、本人の不安が消えるには、もう少し時間が必要なようでもあった。
 私はこの二人に同じメッセージを贈った。「人は、ひとりぼっちになるために、新しい明日を迎えるのではないのですよ」と。
 このときから3年前の春、私もまた同じ気持ちでいた。生きていてもどうせ一人ぼっちだと。その頃は笑うこともなく、家からもまったくといっていいほど出ずに、引きこもりの生活をしていた。当然友達などおらず、私の相手をしてくれるのは親だけだった。その親の気持ちにも気づこうともせずに、別に一人ぼっちでもいいとさえ思っていた。というより、そう思おうと努力していた。
 友達がいなかった私には、どうしたら友達が作れるのかわからなかった。どうせ今までだっていなかったのだから、べつに無理に作ろうとがんばらなくても、一人でいたほうがラクだとも思っていた。
 しかし、やはりどこかで寂しかった。友達同士で明るく笑い合っている声を聞いたり、一人で買い物に行って友達と連れだって歩いている同じ年代の子の姿を見かけた時など、やはりうらやましかった。
 孤独感のなかで、私は次第に生きていく意欲を失っていった。そしてとうとう私は、自殺未遂騒動を起こした。あのときは周りが騒ぐなか、一人で冷めたような顔をしていた。私が死のうがどうしようが、みんなの生活に変化はないじゃない。何をそんなに騒いでいるの? というふうに。
 振り返って思えば、あれも私なりのSOS発信だったのだろう。

■応援してくれた高校の先生

 つい最近まで忘れていたが、騒動のあと、私はまっさきに高校の担任教師に会いに行った。私の担任は、高校に入学してから卒業まで四年間一度も変わらなかった。 この先生はちょっと大物だ。なぜなら自殺未遂騒動を起こしたあとも先生は、私を色メガネで見ることなくずっと応援してくれた。「何かあったらオレが助けてやるから」と、いつもいってくれていた。そして先生のすごいところは、実際に何かが起こった時に、本当に助けてくれたことだ。
 先生に助けられたのは、私だけではない。生徒のためにみんなの前でウソをついてくれたこともあった。だから、他のクラスメート達もあいた時間をみつけては、先生にいろいろな相談をしているようだ。
 たとえば、入学してまもなくすると、新しいクラスのなかには「グループ」が必ずでき始める。ことあるごとに集団で行動させられる学校生活のなかでは、グループに入っていないと身動きがとれない。だから、みんな無理をしてでも、どこかのグループに所属しようとする。 そしてなかには浮いてしまって、まったくメンバーと相性が合わないのに、背伸びしてグループにしがみつき続けるような子も現れる。なぜならグループは、一度できあがると互いに排他的になってしまい、外部からは人が入りづらくなるからだ。途中から他のグループに入り直すことは、大人には想像できないほど難しい。
 この傾向は一般の高校であるほど強い。私の高校は通信制のため、普通高校ほど強いグループ意識はないが、やはり遊び人っぽい子のなかに一人だけ真面目すぎる子がまぎれてしまうみたいなミスマッチが起こる。そんなとき、担任の先生は、生徒同士の「お見合い」をさせてくれた。
 その子に合いそうな友達を探して、その子を受け入れてあげてほしいことを伝えるのだ。ミスマッチからいじめなどが起こりそうになっている場合には、この「お見合い」が効果を発揮する。現に「お見合い」によって救われた子もいた。

■生きてることに意味なんてない

 当時の私に先生は、どうしてくれたんだっけなあと考えていたら、希望者のみが行く宿泊学習に参加させ、班長などの「役」をやらせてくれたことを思い出した。班長になればどうしたってみんなと話をしなければならないから、より多くの人と知り合えるだろう。先生はそう考え、私を合宿に参加させてくれたのだろう。
 その後私は、自分が本当につき合っていける友達を見つけることができた。そしてなにより笑えるようになった。先生がいたから学校も続けてこられたのだと思う。 高校中退は私も何度も考えた。勉強はラクではないし、はじめは先生の存在もうとましかった。外出すること自体が不安で動かないから体力もなく、同時に精神力も失せていた。とにかく何をするのも面倒だった。
 もしあのまま学校を辞めていたら、どうなっていただろう。死にたいと思いつつ毎日暮らしていたのだろう。家から出ることも笑うこともしないままで。何からでもすぐに逃げ出す、弱い人間のままでいたに違いない。
 私がメッセージを贈ろうとしている、中学を卒業したばかりの彼女たちには、今まで自分がすごしてきたことを伝えることしかできなかった。私は彼女たちにメッセージを書きながらいろいろなことを考えていた。
 きっと生きることには深い意味なんてないのだろう。けれども人は、一人ぼっちになるために生きているのではない、と。人と出会い、二人になるため、三人になるため、大勢の中の一人になるために生きているのだろう。
 それを気づかせてくれたのが、私にとっては担任の先生だった。
 一緒に授業をサボっては階段のところでタバコを吸い、どっちが灰皿を取りにいくかをジャンケンで決めた。それまで先生という存在は、ことごとく気をつかう相手だった。嫌味で皮肉で私にはいらない存在だった。だけど通信制高校では違った。
 恥ずかしい話だが、友達関係さえもうまくできなかった私には、協調性もなく、礼儀というものもほとんどわからなかった。敬語もあまり使わなかったので、たまに使うと敬語が並びすぎ、なんだかおかしくなってしまう。そして話をしたいことができると、まずとにかく自分の話を聞いてもらいたいと思ってしまう。たとえ相手がどういう状況であっても。
 ある時、先生たちが会議をしていた。会議といっても体育の先生たちだけの小さなもので、体育教官室で行われていた。だからいつものように私は、何も考えずに教官室に入っていった。
 すると、ものすごい剣幕で怒られた。いきなりどなられ、はじめは何をいわれているのかわからなかったが、どうやらこういうときには、「お話中、失礼します」といわなければならないのだとわかった。そんなことの繰り返しだ。もし先生がどなってくれていなかったら、きっといつかどこかで恥をかいていただろう。
 20歳になっても私は高校生で、先生は生徒である私をいつもどなっていた。最初の頃は、「感情的な先生だなぁ」と思ったけれど、やがて、私たちが社会で恥をかかないようにいろいろなことを教えてくれていたのだとわかった。

■先生に期待しすぎたのかも

 やがて私は、通信制高校に入るまで「先生」に期待しすぎていたのかもしれないと思いはじめていた。先生というのは、神様じゃなかったんだ。だからこそ、そばにいて心の支えになってくれることだってあるのに、期待しすぎて裏切られたり絶望したりしていたのかもしれない。
 少なくとも通信制高校の担任の先生は私を信じてくれていた。振りほどかれてもおかしくないような私の手を、信じて必死に引っ張ってきてくれた。どんなに私が裏切っても、怒り、信じ続けてくれてた。
 通信制高校に通って四年目の春、春なのに私は不安にならなくなった。新しい生活には新しい出会いがあって、新しい出会いのとなりには、いままでに知り合った人の笑顔がある。みんなのおかげで私は変わった。心が一人ぼっちだったのに、今はみんなのなかの一人として生きていくことができる。
 こうして笑っているけれど、私にもそういう時期があったのだということを、彼女たちにメッセージとして贈った。
 生きていく意味などわからないし、どうせ人は必ずいつかは死ぬのに、80年の人生は、なんのためにあるのかわからない。だけど精一杯生きていこうと思えるのは、こうやって人の温かさにふれることができるからなのだろうと思う。
 もう生きていけないと何もかもあきらめた時期もあった。一生笑わないと心に決めたこともあった。人を信じれば裏切られると思い込んでいたし、どうせ誰も私を信じてはくれないのだと思っていた。あの頃を今では不思議なほど冷静に受け止めている。
 裏切られることを恐れていては本当の友達などできないし、自分が人を信じなければ、誰も自分のことなど信じてはくれないということにも気づいた。
 乗り越えてしまえば、高いと思った山も低かったし、つまずいた石ころも本当にちっぽけなものだった。でも、その時の気持ちはとても重かったし、とても不安だったと思う。これからだって何度もくじけそうになるだろう。だけど、そういうときは自分が一人ぼっちじゃないことを思い出したい。いつもそばに誰かついていてくれていることを。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第16回 死者はリセットを押しても生き返らない

■月刊「記録」1999年5月号掲載記事

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■ゲーム・リセット

 R・P・G(ロール・プレイング・ゲーム)。
 この名前を知っているだろうか。何年も前から話題になっているコンピュータゲームの一種だ。この手のゲームに対してある雑誌が、「リセットボタンを押せば(主人公が)生き返る」という説明をしていた。
 今の子どもたちは、ゲームのなかの死しか知らない。「生き返ることのできる死」しか知らない。だから、死の重さがわからないのだと書かれていた。
 たしかに今の子どもは、「生き返る死」しか目にできない。心臓が止まり、体が冷たくなっていく本当の死を目にしたことのある子どもは少ない。死というものに対する不安や恐怖について、真剣に悩んだことのない私自身もその一人なのかもしれない。
 記事の中に書かれていた一節がある。
「人間が生きていくことは、動物の命を奪っているのだということが見えない」
 そんなことは、この記事を読むまで私も考えたこともなかった。生きていくために食事をとる。それはすべて買ってきたものであって、自分で野菜を育て、猟をして獲った動物をさばいたりするわけではない。自分の口に入るものが一つの命であることなど、これっぽっちも考えたことはなかった。
 生き物を触ることができない。魚の目も見ていられない。野菜を育てるのは虫がつくから絶対に嫌だ。たとえ農薬だらけでも、見た目がキレイでなければ口に入れないという子どもが育っている。これもゲームのせいだろうか。

■ゲームをクリアすることだけが目標

 ゲームを一切しない私だが、R・P・Gのことは人に聞いたり小説を読んだりしてなんとなくわかっている。 ゲームの進行につれてさまざまな場面が現れ、ゲームをする人は、主人公に代わって選択肢を選んでいくのだ。そしてR・P・Gに限らず、ゲームの中では闘いがあり、しかも誰もが決して本当に死ぬことはないのだ。
 たとえ人を殺してしまった主人公の苦しみを多少感じることができたとしても、多くの人はそんなことは真剣に受けとめずに、ただゲームをクリアすることだけを目標に取り組んでいく。
 R・P・Gのストーリーを小説化したものを二冊ほど読んだ。どちらも非現実的な世界に主人公が入り込むという話だった。主人公はゲームのなかで戦っている。ゲームのなかのキャラクターに恋をして、ゲームの中で友情を感じている。そしてゲームの中で、簡単に他の者の命を消していく。さらに必ずといっていいほど主人公自身も一度は死に、また生き返ってくるのだ。
 R・P・Gだけではない。九六年から九七年にかけて大騒ぎとなった「たまごっち」というゲームもそうだ。特にたまごっちでは、成長するにつれてキャラクターが変化し、いろいろなパターンに変身した。そして自分の望むキャラクターにならなかった場合には、「さっさと殺してしまえ」と、育てることを放棄する人が多かったようだ。
 たまごっちは育成ゲームである。そこでゲームを放棄すれば、キャラクターはお腹がすいてまもなく死ぬ。ゲームのなかに勝手にお墓が建つ。お墓が建つのを待ってリセットボタンを押し、新しい卵を産ませる。それを繰り返すことができた。
 気がつけばリアルに「お墓」まで建てて、しかし「殺す」という言葉には、重たさが感じられなくなっていた。

■人の死がわからない子どもたち

 一時代前くらいから、子どもは「人に殴られる痛みを知らない世代」といわれ始めた。青少年による傷害事件が増えたことの背景に「人を殴るにしても痛みを知らないために、限度がわからない」ことがあるのではないかといわれ始めた。
 たしかに、イジメも校内暴力も家庭内暴力も、人に殴られる痛みを知らないところからきていたのかもしれない。
 そして今、子どもは「人の死を知らない世代」といわれている。人は死んだら生き返らない。そんな当たり前のことがわからない世代だといわれている。たしかに人間に限らず、一つの命が消えていく様子は、目の前で見なければ実感できない。少年の凶悪犯罪が急激に増加した原因は、ここにあるという人もいる。
 祖母はよく、彼女が子どもだった頃の話をしてくれた。ある家で首つり自殺があり、死体を下ろすところを目撃したといっていた。二晩、ガタガタ震えて眠れなかったし、おかげで今でもその時のことを覚えているのだと。
 一つの命が消えるというのは、そういうことなのだろう。
 私も一度だけ人が死んでいくのを見たことがある。広島に住む祖父が、半日にわたる延命措置のあと、私たちの到着を待って息を引き取った。ローソクの火が消えるようななどという、そんなきれいなものではなかった。全身に管を通されて、その時が来るのをただ待っている。うつろな目を閉じるわけでも開くわけでもないままで、八年以上の闘病生活を終えていくのだ。
 最後に握った腕がガチガチに硬く、人間のものでないような血の気のない色をしていたことを覚えている。
 私が物心ついた時から、祖父はベッドのなかにいた。だから、祖父との記憶は数えるくらいしかない。固まって動かなくなった手で、一生懸命ジャンケンの相手をしてくれたこと、出ない声をふりしぼって、おこずかいをあげたいといってくれたこと。幼くて、枕元ではしゃいでいた私たち子どもを、突然大きな声でどなったこと。それでも大切なおじいちゃんで、大好きだった。リセットボタンを押して生き返るのなら、何度でも押しただろう。おじいちゃんはもういないのだ。
 でも、人は二度死ぬといわれている。一度目は命が消えたとき、二度目は生きていた存在を忘れられたとき。そして私の祖父は、二度目の死を迎えることはないだろう。

■死んだら終わりだが……

 あれから約10年がすぎた1997年6月臓器移植法が成立し、臓器提供の場合に限って脳死は人の死となった。命について、死について、家庭のなかで少しずつ話し合われるようになっていくだろう。脳死移植そのものについてより、ドナーカードをめぐる話し合いのほうが、家庭の中では切実かもしれない。
 一度しかない人生だから、できる限り長く生きていたいと思う。だからこそ私は、ドナーカードにサインをしたいと思った。だが、家族からは反対された。脳死となる前、また、そう診断されたあと、誰かがあなたの死を望むことになるから、家族としての署名はしたくないといわれた。
 法律の主旨が正しければ、「誰かが死を望む」前に、脳死はまぎれもなく「死」のはずなのだが、実際のところ脳死がどのような状態になるのかよくわからない。脳死と診断されてから、どれくらい心臓が動いていられるものなのか、遺体は自宅に帰ることができるのか、それさえもわからない。
 ただ耳に入ってきているのは、突然、脳死状態になった時、病院や医者から臓器提供を勧められて、家族が悩む可能性があるということだ。そのときに迷惑をかけたくないから、先にドナーカードにサインしておこうと思った。
 けれども、もし自分の家族がそうなった時には、たとえすでに脳死になっていても、心臓が止まるまで毎日会いにいくことも、返事が返ってこないことを知りながら話しかけることもいとわないだろう。あと一分でもいいから、「ただ、そばにいられればいい」と感じるのが家族だと思う。
 逆に脳死と診断されたのが自分だったらどうだろう。死んだ自分をいつまでも見舞う家族には、やはり迷惑をかけているといえるのだろう。悲しませてしまっていることになるだろう。でも、そのまま心臓の止まるのを待つだけというのはなにかやっぱり嫌だ。
 私の心臓を移植することで生きていくことができる人がいるなら、心臓を提供したい。肝臓だって腎臓だって肺だって、できれば提供したい。死んでもいろいろなものを見ていたいから、角膜も移植してもらいたいと思う。こうすることで第二の人生を生きられるのだと思うから。生まれ変わるのではなく、生き続けられるのだと思うから。
 自分がどのように生まれて、どのように生き、どのように死んでいくかを少しでも多く考えたい。生まれ変われることを期待したり、リセットボタンを押したいと考えるのではなく、死んだらそこで終わるのだということ、だからどうしたいのかということをみんなももう少し考えなければいけない。特に子どもには。それを、誰かが今の子どもにちゃんと伝えなくてはいけない。それは「死」を想像させるための作業なのだ。

■人生は生きながらやり直せる

 生んだのは親の勝手だから、自分には関係ない。今こうして生きているのは、親が勝手に生んだからだ。だから、別に生きていたいわけではない。生まれ変わったら幸せになれるかもしれないから、死んでしまおう。生きているのが面倒くさくなったから、リセットボタンを押してしまおう。
 人生は、ゲームではないのだ。
 前にも書いたが、私が保健室で首を絞められたことも、彼らにとってはゲームのワンシーンでしかなかったのだろう。人が死ぬということは、彼らにとってこわいことではないのだ。本当に、ただのゲームのワンシーン。ただのドラマのワンシーンなのだ。
 人にナイフを刺して、それを引き抜いたら血が噴き出すことを想像すれば、刃物を持つのがこわくなるはずだ。時代劇の立ち回りでは、ただ人が倒れるだけだけれど、真剣で人を切れば血は噴き出すのだ。
 それを想像したら、頭にそのシーンが焼きついて離れなくなってしまった。でも、それがふつうのはずだ。
 人の体に赤い血が流れていること。血の流れは、自分の想像する以上に速いということ。それは人が生きていることだということ、こんなことは教えてもらってもわからない。けれど死について、誰もが考えねばならないことなら教えられる。たとえば脳死をテーマにして。
 人生が一度きりだということを、死んでからわかったのでは遅いのだ。生きていなければ、人生をやり直すことはできない。
 人生は生きながらやり直すものだ。それがわからなければ、生まれ変わっても、どうせ逃げるだけの人生を繰り返すことになるのだから。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第15回 通信制高校に通う人たち

■月刊「記録」1999年4月号掲載記事

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■外見だけで判断してはいけない

 先に述べたように、私は普通高校を中退して通信制高校に通っていた。しかし一口に「通信制」といっても、学校によってまったく異なるルールがある。私の通っていた学校は公立高校だが、一つの学校の中に、単位制、定時制、通信制の三コースがあって、それぞれの生徒が、それぞれに異なる生活時間で暮らしながら、高校卒業という同じ目的を持って通っていた。
 単位制コースとは、いわゆる全日制のことで、毎日、日中に学校にやってきて授業を受けるコースだ。単位制の生徒は、だいたい三年間で学校を卒業する。ただし、全日制との違いは、全日制では、毎年、学年ごとに決められた単位数の授業を取らなければならないのに対し、単位制では、二年生の単位を三年生になってから取ることも許されている。とりあえず三年間のうちに、決められた単位数だけ授業を履修すればいい。
 しかし、私が単位制コースについて知っているのはここまでで、彼らの学校生活や行事ついては、まったくわからない。
 定時制コースについては、生徒は、夜間(たしか五時頃から)学校に来て勉強している。私の選択していた通信制コースは、月に二回、火曜日が一斉登校日に指定されていて、この日には学校へ行かなければならない。だから、定時制の生徒とも、本来なら登校日に顔を合わせてもおかしくないのだが、なぜか学校の中で彼らに会うことはほとんどなかったのは不思議だ。
 また、単位制の生徒ともあまり顔を合わせる機会はなかった。以前、自分のクラスの先生に、単位制の生徒は、今どこで何をしているのかと尋ねてみたことがあるが、先生もよくわからないようだった。まあ、制服のない学校なので、もしかするとこちらは、廊下ですれ違っているのに、気づかないだけかもしれないが。
 ただ時々、昔、同じクラスにいて、通信制から単位制のクラスに移った子に廊下で会うことがあった。私の学校では一定以上の成績を取れていれば、学年の変わり目に他のコースへ編入することができる。だから単位制のクラスであっても、二〇歳を超えている人や一度、高校中退を経験した人もいた。
 私の県では、年に何度か「定通体育大会」というものが行われている。これは、県内の定時制高校と通信制高校が合同で行う体育大会だ。この大会に参加したとき、他の高校の定時制に通う男の子と話をした。
 彼によれば、定時制にも全日制と同じように、ちゃんと給食の時間などがあって、クラスの雰囲気は全日制と大して変わらないようだった。違うとすれば、年齢も立場も異なるさまざまな人がいるので「人を外見だけで判断してはいけない」ということを学んだという点だけだといった。

■普通の時間が流れる教室

 私も、定通体育大会で話をした彼とは、まったく同じ感想を持っている。通信制コースにも、年齢や立場が異なるさまざまな人が在籍していたからだ。
 このコースは通ってみると、意外なことにとてもおもしろい。よく、全日制高校の生徒から、通信制では友達はできるのかときかれるのだが、クラス全員が友達といってもいいくらいみんなが仲良しだ。いや、クラスだけではなく、他のクラスの生徒ともみんな仲良くしている。
 一年を通して、一五回程度しか私たちは顔を合わせない。それなのにどうして友達になれたのか、改めて考えてみるとよくわからない。たぶん、同じクラスの仲間として顔を合わせるたびに、自然に当たり前に仲良くなっていっただけだろう。
 それに通信制高校だからといっても、ただ決まった期間内に与えられた課題をこなし、レポートを提出するだけというわけではない。夏季合宿もあれば、冬季合宿もある。遠足のように会津若松に旅行し、野口英世記念館に行ったり飯盛山に登ったり、冬にはスキーをしたりする。ふつうの高校生が合宿でするように、雪の中にお酒を隠して、夜中に宴会をしたりもする。修学旅行もある。担任の先生もいる。
 音楽の授業では、オカリナを吹かなければならなかった。前に受けたテストでは、成績の判定がこのオカリナにかかっていた。自慢じゃないが、私はわりと簡単にオカリナを吹きこなすことができた。けれど、もうすぐ定年を迎えようとしているおじさんには、とてもじゃないけど吹けるものじゃなかったらしい。曲目は「瀬戸の花嫁」。若い世代の私にはなじみのない曲で、あまり吹きたいという気持ちにはならなかったが、年配のおばちゃんたちには、なじみのある曲らしい。
 また、数学のテストなどを行うと、今度は年配のおじさん・おばさん軍団がいい点数を取っている。私たちのように、現役に近い生徒のように中学校を卒業してすぐ進学したわけではなく、数学から遠ざかって長い年月が過ぎているぶんだけ、記憶力も理解力も判断力も衰えているからだという。授業のたびに、頭の中をフル回転させるようにしているのだといっていた。
 英語なども現役生より人一倍努力しているようで、いい成績を取っている。だから、「手先を動かさなければならないオカリナなどより、英語や数学のほうが、ずっとこなしやすかった」といっていた。
 また「今の若い子は、どうせ料理なんてろくにできないんでしょう」なんて笑われたり、でもオカリナを吹きこなせるところを、「やっぱり若い子は違うわ」なんて感心されたりした。学校の外で会っていたら、きっと話してみることもなかったような母親より年齢が上のおばちゃんたちが、身近でいい人に見えたりする。
 同じ教室のなかに、年がうんと離れた同級生がいるというのは、いろんな意味で勉強になった。
 私たちの教室のなかには、教室以外の場所と同じ時間が流れていた。同じ制服を着て、同じルーズソックスを履いて、わけのわからない校則に縛られている、教室外から隔離された時間ではなく、外と同じ当たり前の時間が流れている。そして、たとえ歳が離れていようと同じ高校生として一緒に成長していく、大切な時間が流れていたのだ。

■教室が私を認めてくれている

 主に通信制の高校に通う生徒のために、サポート校という塾のようなものが存在している。サポート校では、ちょうど高校の授業の内容と同じ進度で授業を行い、通信だけでわからない部分の質問を受け付けたり、テスト前に補講するなどして勉強をサポートする。一応、クラスがあり担任の先生がいて、進学などの相談にも乗ってくれる。ただし、塾のようなものなので、単位はもらえない。
 私もいくつかのサポート校を見学したことがあるが、私が見たサポート校は、どこも温かい雰囲気のところばかりだった。もっと早くにその存在を知りたかったと思うほどだ。
 以前、あるサポート校の入学式に、通信制高校についての体験談を話にいった。入学してきた生徒は、不登校児や一度高校に進学したあとに中退して、通信制に進学し直すことにした子などであった。
 そして生徒たちのとなりに並んでいた彼らの先生の一人は、東京大学の大学院生だといっていた。さすがに担任の先生たちは、きちんとスーツを着ていたが、教科を担当する講師たちは、かなりカジュアルな服装で出席していて、まるで家庭教師のようだった。でも、そういう気楽なところが、生徒達に安心感を与えてもいるのだと思う。
 かつて、私の家に勉強を教えに来てくれていた家庭教師の先生がいた。彼が、私以外の教え子の話をしてくれたことがある。
「その子のお母さんはね、子どもに勉強する習慣をつけてくれればいいっていうんだ。だけどその子は、いつも僕に漫画を読もうとかゲームをしようよっていって、全然勉強してくれないんだ。でも勉強している時より、そういう時のほうがずっと楽しそうなんだよ」
 先生は、教え子に無理に勉強はさせたくないといっていた。私も勉強は、窮屈なものであってほしくないと思う。
 先生や親のために勉強するわけじゃないし、ましてや勉強は、順位を競うためのものじゃない。赤点すれすれだって、おもしろいと思って勉強できれば、それでいいと思う。
 通常、通信制や定時制の高校では、四年制のところが多く、卒業までに四年間かかるシステムになっている。私立の通信制高校では、三年で卒業できるシステムのところもあるが、公立の高校では、それはめったにない。 だが、私の通っていた学校では、公立にもかかわらず三年制で卒業できる制度が実施されていた。
 私も三年間で卒業しようと考えたことがあって、そのクラスを選択していたこともある。では、どうやって三年間で卒業するかというと、四年次に取るはずの単位を、二年次と三年次に半分ずつ振り分けて取ってしまうのだ。
 つまりふつうは、年間で八教科分の単位を取ればいいところを一〇教科分履修する。そして毎月、火曜日と日曜日に行われるスクーリングに出席してレポートを提出し、授業日数をかせがねばならなかった。
 けれど教科によっては、三年制用と四年制用の内容では、テスト範囲もレポートのテーマも大きく異なり、アルバイトとの両立が大変で、勉強についていけなくなった私は、それを途中で断念することになってしまった。 でも私は満足している。一年間、高校生活が長い分、友達も増え、学べることも増えたからだ。そして何より学校が楽しく感じられたからだ。もしも私が、あの中退してしまった全日制の私立高校に通い続けていたならば、こんな気持ちにはなれなかっただろう。
 教室はいつからか、私を認めてくれる空間になった。私を包んでくれる空間になった。私を輝かせてくれる空間になった。
 生きてる私は、そこにいた。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第14回 ハッキリと映った少年たちの顔

■月刊「記録」1999年3月号掲載記事

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 1999年1月。アルバイトを終え、くたくたになって家に帰って、いつもと同じようにテレビをつけると、どのチャンネルも同じ報道をしていた。まず夕方六時のニュース。テレビからは「東京都港区のお台場で、20代の若い男が小学校三年生の男の子に刃物をつきつけて人質にしている」という解説が流れている。
 犯人の男性は、しっかりとテレビに映されていて、生中継を見ていた私は、そのまま犯人逮捕の瞬間までしっかりと見せてもらった。警視庁の捜査員が犯人を事件発生から約二時間後に逮捕し、男の子は無事保護された。 そして、同じ日の夜のニュース。「……東京台場で、16歳の少年が、小学三年生の男の子を人質にして……」と伝えた。犯人は愛知県小牧市に住む16歳の無職少年だったというのだ。
 聴きながら、思わず自分の耳を疑った。先ほど、小学生の男の子を人質にしていたその少年が、とても16歳には見えなかったというのもさることながら、バッチリ顔を映されてしまったことによる、彼の人権の侵害についてを一瞬、考えたのだ。

■どの顔も少年のものだった。

 16歳の少年は、確かに悪いことをした。だが、20代であるという思い込みから、しっかりとテレビに顔を映されてしまったことについては、同情してしまう。
 この事件が起きて数日後、私のもとに一通の手紙が寄せられた。手紙には、「被害者側の人権についてどう思うか」との質問が書かれていた。たしかに、あのとき人質になった小学生の男の子は、人質となっている間中テレビにナマで報道され、局によっては顔や名前まで公表されてしまっていた。私は見てはいないが、記者会見を開いたりまでしていたという。
 けれども人権は、被害者だけのものではないだろう。加害者も結局は未成年だったし、それならば将来があるだろうに、名前や顔を報道してしまったのは、ちょっとやりすぎだったような気がする。
 九七年に起きた神戸での小学生連続殺傷事件で加害者であった少年Aも、ある週刊誌に写真が載せられた。少年Aと比較すると、事件の規模は小さいが、ある芸能プロダクションに所属していた芸能人の四人の少年が、未成年の飲酒とタバコを週刊誌にすっぱ抜かれ、しっかりと顔写真を掲載されて、芸能生活を終えたという例もあった。
 どの事件も、すべて偶然なのだが、私はしっかりとその顔を見ている。屈託のない笑顔も険しい表情もあったが、どれも少年のものだった。
 先の小学生人質事件では、事件発生から二時間が経過した頃、加害者の少年に警察官が言った。「ここでは寒いから、別の場所に移って話をしよう」と……。
 報道を聞いていて、私と母は二人で苦笑した。別の場所に移ろうなんて「そんなこといわれたって、ふつうは動かないよねえ」なんて。
 ところが、今まで座っていた加害者の少年は、おもむろに立ち上がったのだった。立ち上がろうとした動作の最中に、スキをつかれて警察官に両側から取り押さえられた。夜のニュースで加害者の年齢を聞いた時、驚くと同時に、この行動を思い出してやたらに納得した。そして、この少年のあまりに幼い、ばか正直さに、なんだか少しだけホッとした。
 大人ぶっていたって、しょせんは子どもだ。よく観察していれば、その行動は、ばか正直で幼い。前にお話した万引きする少年少女もそう。私のアルバイト先で、しょっちゅうトイレに隠れてタバコを吸っている中学生の少年もそう。
 かなり都会から離れた地域だからか、隣近所とのつきあいが残る土地柄か、中学生が隠れてタバコを吸っているのを私たちは見逃したりはしない。きちんと怒ってあげるのが、周りで彼らを見守ってやれる者の役目だ。
 そんな時、私たちは、なにも「タバコを吸うのがいけない」などと叱るわけではない。親の前で堂々と吸えないのなら、トイレに隠れたりして、人に迷惑をかけなきゃ吸えないのなら、堂々と吸えるようになるまで待ちなさいというだけだ。とても小さなことだけれど、それを注意してあげる人のいない場所では、きっと犯罪は増えていくのだろうと思っているから。
 子どもたちに自覚が足りないから、年齢に心がついていっていないから、少年犯罪があとを絶たない。でもそれは、少年に限ったことでは決してないのだ。

■向き合うことをやめてはダメ

 連日耳にする、さまざまな事件。子どもが引き起こす事件は、その年齢からすると凶悪犯罪かもしれない。
 でも、大人だって信じられないような殺人事件を繰り返してる。電車のなかでは、おじさんが痴漢行為を平気でしている。おばさんは、主婦売春や万引きでストレスを発散している。
 だけど、彼ら大人はあまりテレビに出てこない。警察に捕まったって、新聞の端っこに名前が載るか載らないかで終わってしまう。だから目立たないだけだ。
 お昼のワイドショーでは、援助交際をする女の子が出てきて笑う。おやじ狩りにあったおじさんがおびえてしゃべる。連日、新聞・テレビをにぎわす少年犯罪に、世の中が偏見の目を向ける。
 大人は、マスコミの作り上げた少年少女像におびえ、目の前で、未成年者がタバコを吸っていても、何もいわなくなっている。万引き現場を発見しても、何もいわなくなっている。いつ自分がねらわれるか、そればかりを考えて、できるかぎり関わり合わないようにしようとする。大人よりも子どものほうが、大きな犯罪を犯すようになったと嘆き、「今の子どもの考えが、さっぱりわからない」という。
 けれども、正面から堂々と向き合うことをやめてしまったら、大人の思いなんか子どもには通じるはずもない。先生や生徒、先輩や後輩といった縦の関係が薄れてきている今、子どもの上にしっかりと立つ者が姿を見せなかったら、単純で思慮のない子どもたちは、すぐに、大人の上に立てるような気になってしまう。
 たしかに最近、子どもが犯した凶悪犯罪のいくつかが、世間を騒がせた。だが、凶悪犯罪を犯す子どもを生んだのは、人に迷惑をかける子どもを見逃してきた大人の責任でもある。偏った報道をしてきたマスコミにも責任がある。偏った考えをもった大人にも、小さな責任を感じてもらいたい。
 行きすぎた報道で、少年少女の人生をボロボロにしていいのだろうか。どの事件も、どうしてもう少し慎重になれなかったのか、一瞬でも彼らと同じ目線で物事を考えられなかったのかと、考えてしまう。
 報道で明らかにされた、犯罪を犯した少年の顔について話をする前に、自分の心にある、自分自身の顔について考えていかなければならないと思う。
 偶然とはいえ、しっかりと見てしまった六人の少年の顔を、できるだけ早く忘れようと思う。彼らと同じような人生を、自分が、そして自分の子どもが犯さないように。私もまだ自分自身を磨き直さなければならない年齢なのだから。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第13回 犯罪者はいつでもどこでもみられている

■月刊「記録」1999年2月号掲載記事

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 少年犯罪があとを絶たない。九八年の少年犯罪件数は、聞くところによると、八年ぶりに何万人かを突破し、なかでも殺人事件に関しては、史上最悪の数字を示したという。
 最近の高校生は、人前でも平気な顔をしてタバコを吸う。これについて、同じ未成年でタバコを吸う私は、あまり偉そうなことはいえないけれど、一応法律では罰せられるのだということを頭の隅においておかなければいけないと思う。
 ちなみに私は、その後禁煙に成功して、全然タバコを吸っていないし、タバコを吸っていた時でも、人前で吸うことはめったにしなかった。人前で吸うことは、それだけ相手に迷惑をかけることだから。
 犯罪にもいろんな種類があるけれど、本当に許せない気持ちになる事件が私の目の前で起きたことがある。
 アルバイト先のドラッグ・ストアで、口紅の万引きを目撃したのだ。

■口紅を手に隠した女の子達

 私は、自宅近くの大手のドラッグ・ストアでアルバイトをしている。ある日、高校生よりも少し年齢が高そうな、フリーターらしき女の子が四~五人、店のなかに入っていった。その直後に、休憩を終えた私が入っていったのだが、彼女たちは私に気づかなかったらしい。レジのほうを見ながら、さっと口紅を取って、手のなかに隠してしまったのだ。
 驚くほどあっという間の出来事だった。これが万引きだと悟るのに、まばたき二回くらいの時間はあった。
 驚きにしばらくぼう然としていたが、そのまま見すごすわけにはいかない。
 こういう時は、すかさずあいさつをするように、店の社員からいわれていたことを思い出し、「いらっしゃいませ!」と大きな声でいうと、彼女たちは、私以上に驚いた顔をして、こちらを振り返った。
 そして、その女の子たちとのにらみ合いが続く。
 口紅はまだ、彼女たちの手のなかにあった。一応、店長に状況を報告して、私はそのまま、店内をうろつきまわる彼女たちを追いかけた。彼女たちは、一通り化粧品売場を見て回ったあとで、棚の下のほうに置いてある商品を見ながら、みんなでしゃがみ込んでしまった。
 正直なところ、しゃがみ込まれてしまっては、手のなかの動きを確認することができなくて、手も足も出せない。けれども、どこからどう見ても、彼女たちはこれから万引きを行おうとしているように見えた。それを見すごすことはできない。そこで、店内を掃除しているふりをしながら、じっと彼女たちの様子をうかがった。
 もちろん、彼女たちだってこちらの動きをうかがっている。こそこそと話をしているが、一人が見張り役で、一人が犯人役と、きちんと役割が決められているように見える。
 ということは、今日がはじめての犯行ではないだろうから、当然慣れた手つきでその行動に及んでいるわけであり、私が彼女たちを捕まえられる可能性も少ないのだ。
 マニキュアを選ぶフリをしながら、手のなかで口紅を転がしている女の子がいる。ずっと彼女をマークしていたのだが、ちょっと目を離して振り返った瞬間に、今まで手のなかにあったはずの口紅は、もうなくなっていた。時間にして一〇秒もなく、本当にあっという間のことだった。
 万引きは、現行犯でしか捕まえることができない。どこまでを現行犯として認めるかは、店によって違うのだろうけれども、私の働いているところでは、商品を体のどこかに隠す、その瞬間を見なければ、現行犯としては認めないことになっている。だから彼女たちを現行犯として認めることはできなかった。
 ただ、彼女達に、自分たちの行為が、他人に知られているということを認識してもらいたくて、私は、その動きを見はからって、店の裏にある倉庫のほうへと走った。

■せめて、しまったと感じてほしい

 休憩に入っていた、化粧品担当の社員に同行してもらって、どの商品がなくなっているかを確認してもらおうと思った。細かい商品のうちの一つくらい、なくなってもわからないのではないかと思われるかもしれないが、消えたものは、ちゃんと一発でわかるようになっているのだ。そうこうしている間に、彼女たちはさっさと帰ってしまった。
 私は店長に、走ったことが間違いだったと注意された。
 彼女たちが帰った店内からは、若い人が好みそうな口紅が一本消えていた。そして、その一〇分後、化粧小物が置いてある棚の場所で、口紅は発見された。そこは、私とにらみ合っている時に、彼女達がしゃがみ込んでいたすぐ隣の棚だった。
 彼女たちが、どんな思いでこれを置いていったのか、どんな目的でこのお店に入ってきたのか、だいたいの察しはつく。ただ、この口紅を置いていってくれたことが、少しだけうれしかったと思う。
 店長は、私が走ったことが間違いだといった。つまり、彼女たちに万引きをやらせて、あえて警察に突きだそうということだ。
 その考え方も、間違いではないのかもしれない。一度警察に通報されれば、それで懲りるということもありうるだろう。だけど、何より大切なのは、捕まったからやめるのではなく、行為そのものが間違っていることを、認識してくれることだ。
 彼女たちは、私が走ると同時に逃げた。しかも口紅を置いて逃げた。自分たちの行為が、許されないものだとわかっていたからだ。やろうと思えば、持って逃げることだってできたのだから。それなりに、罪悪感を感じたことだろう。
 しまった、という気持ちでもかまわない。それなりに気まずい思いはしているだろう。罰を与えるよりも、自分を見直す時間を与えてあげたほうが、よっぽど彼女たちのためになるのではないか。

■図太くて悪質すぎる人々

 万引きは、昔からある犯罪だけど、お金がなくてやむを得ず万引きをする人は、最近ではあまりいないだろう。だいたいの人が、スリルを楽しんだり、日頃のストレスの発散のために、その罪を犯す。
 万引きをするのは、高校生だけではない。おじさんや、おばさんだってたくさんいる。みんな、その行為が犯罪にあたるのだという罪の意識は、なんだかびっくりするほどもっていないらしく、いくつもの商品をふところに隠してから、頭痛薬を持ってレジに並び、しっかりと領収書を請求する人までいる。
 そういう行動を取るのは、だいたいが主婦なのだが、その手口は、高校生よりもずっとずっと悪質だったりする。
 その日、届いた商品が一二個あったとすると、それをそのままそっくり、持参した空のケースと交換してしまう。そして、空のケースを持って店員の前にやって来て、「いつも欠品してるのね」と文句をつける。
 一度だけならまだしも、週に三度も四度も平気で繰り返す。あまりにも図太くて悪質だ。一個や二個の小物を万引きするならまだわかるけど、トイレットペーパーにティッシュ、薬をいくつかと化粧品を二点、それと空ケースを手に持って、おまけに手さげのバッグは大きく開かれている。
 テレビを見ていると、万引きで捕まった人はあまり警察に連れて行かれないようにみえるけれども、私の働いている店では、そんな情けはいっさいかけない。たとえ銀行員だろうが、公務員だろうが、警察に突き出すことにしている。この先そういう行動を取ろうとする人のためにも、しっかりと法の下に罰を受けてもらうことになっている。

■見ていないと思ったら大間違い

 ある夜、閉店間際に、進学高校に通う少年が入ってきた。彼は、今年、受験をひかえている。そんな彼が、コンタクトレンズ用の目薬を二つほどポケットに入れてもって帰ってしまった。
 お店を出た時点で、彼を捕まえられなかったのはこちらの落ち度である。これでは警察に突き出すことはできない。けれども、高校生の万引きを見逃したり、高校生のアルバイトが見ているなかで捕まえそこねると、あとあとやっかいなことになる。彼らの通う学校内に、「あの店は万引きしやすい」といううわさが広がってしまうからだ。
 そこで、社員の男の人が、お店を閉店させたあとで、学生のアルバイトを車に乗せて、少年を追いかけることにした。ふつうだったら、そんなことまでしないのだけれど、偶然、アルバイトに来ている子の学校の知り合いだったのだ。
 私たちは、彼に卒業写真をもってきてもらって、住所と電話番号を調べた。それから、少年の友達のふりをして家に連絡し、まだ自宅に戻っていないことを確認した。万引きをした人は、特にはじめての人は、興奮のためだろうか、家にはすぐに帰らず、店のまわりをうろうろするのだという報告が、あるらしい。
 社員の車は、車高がかなり低くなっている改造車だ。マフラーは取り替えられていて、騒音・轟音・爆音。ライトは青白い光を放ち、薬局の社員にはあまりにも似合わない車だ。これで、犯人の少年を捜してまわる。
 彼は、意外にも早く見つかった。轟音を立てながら幅寄せをしてくる車で追いかけられて、恐れをなしたのか、最初は逃げていた少年も、とうとう観念して、意外に素直に万引きを自供した。
 警察にこそ連れていかれなかったが、少年の反省は相当なものになっただろう。かなり厳しいお説教を、社員はクドクドと行ったという。もちろん、商品は返してもらった。
 まあ、この例は極端だとしても、ある程度の年齢に達していれば、反省するなり罪をつぐなうなり、その謝罪はいくらでもできる。けれど、むしろやっかいなのは、五・六歳くらいの幼い子どもたちだ。
 風船やガムなどを手に握って、お母さんと一緒にレジのほうにやって来る。でも、それをレジにいる私にはわたしてくれない。手のなかのものが、店の商品であるのか否か、きちんと見せてもらわない限り、私たちにもわからない。
 母親のほうも知っているのか知らないのか、別に気にもしていない様子である。子どもたちは、どこかうしろめたそうにレジを横切って帰っていく。
 子どもたちの親は、自分の買う物にだけお金を払えばいいと思っているようだ。買うことに一生懸命で、子どものことは見ていない。家に帰ってから、子どもが店の商品を握っているのに気づく親もいるが、一本、間違えているという電話をかけるだけだ。お金を払いに来てくれる人はほとんどいない。
 何より、レジまでやってきて、子どもと商品を置いて、また買い物に戻ってしまう親も多いのだ。そんな時、子どもの手のなかを開かせてみても、さすがにガム程度になると、売り物であるかどうかはわからない。親さえ子どもを見ていてくれれば、たくさんのトラブルが、なくなるというのに。
 店の隅の天井に、防犯カメラが置いてあるのを誰でも見たことがあるだろう。実は、防犯カメラは、あれだけではないのだ。ライトの裏に隠してあったり、小物の陰のほうに潜ませてあったり、壁と一体化させて、ピンポイントカメラを設置してあったり、あえて偽物のカメラを下げておき、本物を別の角度に備えているところもあるのだ。誰も見ていないから、やってもいいと思っちゃ大間違いだ。
 いつかは、どこかのカメラに映し出されて、罰を受けなければならない時がくる。誰でも、誰も見ていなければ、そして自分だけがよければ、何をやってもいいと思ったら大間違いなんだ。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第12回 梧桐勢十郎になりたい友人

月刊「記録」1999年1月号掲載記事

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■型破りな生徒会長

 学園モノといわれるマンガのなかには、生徒会長が出てくるものが多い。
 女の子が読む学園モノは、定時制高校の話や、新設高校を舞台にしたものなど、感動モノが多く、おもしろおかしく描かれたモノはごく一部だ。しかし、そんなごく一部のマンガのなかの生徒会長でさえ、マジメで優秀というのがお決まりのパターンだ。
 そんな当たり前の生徒会長のいるマンガによって、私の生徒会長のイメージは作られた。生徒会長イコール頭がいいマジメちゃんだと。
 しかし生徒会長を主人公としたあるマンガに出会ってから、イメージはうち砕かれた。そのマンガを好きな友人が、よくこういっていた。「私、『梧桐勢十郎』になりたいのよ」と。
 とは、『明稜帝梧桐勢十郎』という、男の子向けのマンガの主人公だ。
 明稜高校の生徒会長である彼を中心に、学校モノのキーワードであるイジメや部活動、恋愛、教師、ケンカなどが描かれている。
 学校の生徒会長ときくと、やはりお堅い人間をイメージしてしまうけれど、この梧桐勢十郎は、堅いといえば堅いけれど、それ以上にとにかく暴力的なのだ。
 同じ生徒会のメンバーを「下僕」と呼び、イジメられている生徒には追いつめるような言葉を連発する。
 そして最近では見かけなくなってしまったような乱暴者だ。集団にならないとオヤジ狩りができない現代の少年とは違い、この主人公は一人でも暴れている。今の学校に、こんな個性的な生徒会長のいるところはないだろう。
 このマンガはある男の子がイジメにあい、学校に転校してくるところから始まる。
 自分は何もしていないのにイジメられる。逃げなかったらイジメられる。自分の居場所を求め、自分の住める世界を求めてこの学校へ転校したきたのに、転入早々、勢十郎の暴力現場を見てしまう。そして、この転入生は突然、生徒会の役員に任命されてしまうのだ。
 今までイジメをうけてきた彼は「下僕」と呼ばれ、暴力的な生徒会長の下で高校生活を送らねばならないことを知らされ、自分に残された道は死だけだと信じこんでしまう――。
 ふつうの学校に、とんでもなく場違いな生徒会長がいて、校則よりも暴力でまわりを振り回していく(まとめていく)姿に、あっけにとられてしまう。転校生を加えた生徒会がどういう行動で学校をまとめるのか、本当に学校をまとめられるのか、どんどんストーリーに引き込まれていく。
 生徒会長は、自殺しようと考えていた男の子に間接的にこう言う。「死にたいのなら、俺が殺してやる」と。 その子を殺した罪を一生背負って生きてやる。その方が、寂しくないだろうから、というワケだ。
 人に対して、正面からぶつかっていくことが、時に相手を傷つけてしまうこともあるけれど、反対に相手を救うことになることも多いと思う。
 人の寂しさに気づいてあげられる人が、とても少なくなっている今、かなり過激な方法だけど、生徒会長は、人の寂しさをわかってあげられる人だ。このマンガでは、この転校生の男の子だけでなく、そういった寂しさをもった生徒と、それに気づいて手を差しのべる生徒会長という基本線が学校という空間に織り込まれ、なかなか読みごたえがある。

■人の寂しさに気づけるか

 先にあげた友人は、本当にこのマンガが大好きで、コミック誌に連載されているうちから読み始めたらしく、何かというと、梧桐勢十郎の名前を挙げていた。
 彼女にとっては、一昔前でいう、金八先生のような存在らしい。
 こんな生徒会長がいれば、ぜったいにイジメは起こらない。先生が生徒をいじめるなんてことはなく、生徒が先生をイジメることだってもちろんないだろうと。
 耳にタコができるくらい、同じことを聞かされた。
 そして私も、梧桐勢十郎に魅せられた。
 彼女が梧桐勢十郎になりたいというのは、彼のように人の寂しさに気づいてあげられる人間でありたいということなのだろう。私もその友人と同じように、人の寂しさに気づいてあげられる人間になりたいと思っている。 イジメる側が悪いとか、イジメられる側が悪いとか、イジメの真相を知らない人がよく議論しているけれど、この生徒会長は学校をよく観察して、イジメについてよく調べ上げ、原因の一つひとつをきちんと解決しようとしている。このマンガに学びたいのは、生徒が生徒をまとめていく姿勢と、最後の決断を下すのが生徒会長ではなく、問題となっている人物自身であるということだ。 現実の子どもに、自分の力で解決しようという姿勢が見られるだろうか? 最後の決断を下す勇気があるだろうか? 人の寂しさに気づき、その寂しさを他人にうち明けることができるだろうか?
 この学校(明稜高校)での出来事は、現実味としては無理が感じられるものの、そこで繰り広げられるドラマには、今の学校にはない温かいものが感じられる。
 彼の前から一度消えた昔の友達が、彼の前に戻ってくる。その友達は、昔のうらみを晴らすために戻ってきたのだが、うらまれているほうもそのことはハッキリ覚えている。だからよけいおもしろい。たとえ昔のことであっても、答の出なかったものごとに対してきちんと受けとめる。
 友達とケンカして、そのままケンカ別れ。ふと振り返ると、そこには誰もいなくて、ひとりぼっちの孤独感だけが自分に残ってしまったことがある。それがどうしてなのか、このマンガを読んでわかった。勝負ごとでそこそこの成績をとったけれど、なぜトップにはなれなかったのか、それもこのマンガでわかった。

■過去があって今があるのに

 勢十郎にはたくさんの敵がいる。彼に向かっていく敵は、だいたい寂しがり屋だ。勢十郎は、どんなに無視されている者だとしても、対等に相手をする。誰もが寂しがりやだと知っているから。
 みんなが無視する子に対して、自ら進んで相手をするというのは難しいものだけど、対等に、かつ楽しそうに相手をしていく姿には、今、子どもにはない勇気を感じさせられる。
 今の学校組織に足りないものは、過去を受け止めようとする姿勢ではないか。生徒の一人一人に過去というものがある。学校がその過去まで含めて面倒をみなければ、イジメや不登校が解決に向かうこともないだろう。
 自分のことを例にあげるのもなんだが、私は小学三年生の時に茨城の学校へ転校してきた。土地になじめず、たいした友達のないまま中学まで卒業し、なんとか入った高校は中退してしまった。地元に友達と呼べる人がいるといい切れる自信はない。
 同じ通信制高校の友達にそんな寂しさを訴えると、だいたい同じ答えが返ってくる。
「私は、今の香苗しか知らないから」と。
 そう言われると、話はそこで終わってしまう。それ以上に、何の相談もできなくなってしまうのだ。
 中学生の時にも同じような経験をした記憶がある。中学受験の失敗を引きずって落ち込んでいた時、先生に「昔のおまえを知らないから」と、突き放されてしまったのだ。先生は中学受験の失敗なんか忘れて、今の人生を思いっきり楽しんでほしかったのかもしれない。でも、当の本人はそうはいかない状態だった。
 できることなら、それに気づいてほしかった。
 自分からいい出せなかったのはよくなかったかもしれない。でも、子どもの過去を切り離し、今だけをみて話をするのは、必ずしもいい結果を生むばかりではないように思う。
 あまりの速さで時代は変わっていくから、その疑問に答えを見つけだしたころには、もう、世の中が変わっているかもしれない。しかしどんな形であれ、疑問が解けた時は、胸につかえていたものがやっととれたような、そんな安ど感を覚えることができるだろう。
 勢十郎とは違っていても、個性的で、人の寂しさに気づいてあげられる人が一人でも増えたら、学校は本当に変わっていくのかもしれない。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第11回 夢に向かって

■月刊「記録」1998年12月号掲載記事

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 サンタクロースへのお願いごとを誰かに言ったら叶わなくなってしまうと聞いたのは、本当に昔の、小さい頃のことだ。
 いまだに、あの頃のその言葉を忘れられない。だから願いごとや夢を人に話す時に、心なしか抵抗を感じてしまう。願いごとが叶わなくなってしまうような気がして。
 ところで、私の夢は、時代とともに変わっていく。
 看護婦さんになりたかったり、養護教諭の先生になりたかったり、大学に行きたかったり、これまでにもいろいろ変わった。時折自分でもとまどってしまう。
 だから、今の願いもまた、変わるかもしれないのだけれど、今は、文章を書く人になりたいと思っている。
 いろんな職業にも興味があるけれど、自分がそれになることよりも、その職業を題材に文章を書いてみたい。そのことに気づいたのは、つい最近のことだった。一応、まだ高校生だから、それに気づくにはちょうどいいタイミングだったのかもしれない。

■夢に向かって頑張れるならOK

 私の好きな漫画のなかに、将来の夢に向かって学ぶ高校生の話を描いたものがある。
 服飾やデザイン関係について勉強する高校生の学園物語だ。これに友情や恋愛がからみ合っていく。彼女たちは、自分でいろんなものを作っては、フリーマーケットで売るサークルを作る。そのサークルの仲間の一人が、ある時、学校を辞めることになった。彼女は、引きとめられるのが嫌で、辞めることを誰にも告げなかった。ただ、彼氏だけにこっそり告げて学校を去っていった。
 彼氏は、本当に誰にもいわなかった。すると、同じ学校に通う、学校を辞めた女の子の弟がやってきて、どうして止めなかったのかと彼を責める。その時に、高校二年生の彼氏がいったのは、「この学校の連中は、みんなそれなりに夢やら目標やらがあって、それを当然のことみたいに思ってる。オレらの年で、そんなの見つかってるほうがめずらしーのによ」という言葉だった。
 夢を追い続ける、個性派の高校生を描いた物語だ。けれどそのなかの一言一言は、私たちのようなふつうの現代っ子にも訴えかけてくるものがある。高校生を縛りつけているものの代表格である校則や受験勉強。それらがまったくない漫画のなかの学校であっても、登場人物は、プレッシャーに負けそうになりながら生きている。
 漫画のなかの高校生が闘っているプレッシャーって何なのだろう。それは夢。そして夢が、本当に自分にとって夢であるかどうかもプレッシャーになっていく。夢を見ることは簡単でいて難しい。そして見た夢に向かって、歩き出すことはもっと難しい。
 最近、夢をもっている高校生に出会った。彼らは、あるグループのコピーをやっているバンドだ。彼らを見ていると、自分よりも大人だなと感じる。それは夢をもって、実現しているせいだろう。
 私はもともと音楽は好きだけど、クラシックやブラスバンドのみで、歌手などにはあまり興味がなかった。カラオケ屋で聞く曲などにも知らないもののほうが多い。だから、バンドを組んでいる人や音楽をやっている知り合いなども、これまではほとんどいなかった。
 ライブハウスという名前は、聞いたことがあるけれど長い間行ったことはなかった。それが、友達につきあって、行くようになった。はじめてライブを見に行ったのは、九八年のはじめ頃で、二度目に行ったのが五月頃だった。
 行くつもりもなかったのだけれど、友達に誘われて行ったのが高校生のバンドだった。会場に入ると、ギターのアンプやらなにやらの機材に、ただただ驚くばかりだった。もちろん機材だけではない。会場中に響きわたる重低音。それに続く彼らの歌唱力。私は、彼らの魅力に引き込まれていった。
 あとで聞いたところによると、彼らのグループは、ある楽器屋さんで知り合い、結成されたのだという。彼らはその楽器屋さんで、プロの人について、それぞれのパートの勉強をしているのだという。
 三度目になると、会場の雰囲気にも慣れてきた。今度のは、二度目の時に知り合った子たちの通う楽器屋さんが主催していて、彼らの友達と聴きにいったので、ふだんの生活や、新たな一面も知ることができた。
 会場は、彼らの演奏をただ聴いているだけでは足りなくて、彼らの姿を目に焼きつけておこうとする人々の迫力で満ちていた。鼓膜が破れそうな大音量のなかで、バンドは精一杯、自分たちを表現していた。
 私は、そんな光景を、口を開けて見ていた。感動という言葉が当てはまり、共感という言葉も当てはまる、なんともいえない心境になった。そして、自分の好きなことに熱中できる彼らをうらやましく思った。なぜなら、歌っている時の彼らの顔がとても輝いていたから。彼らは、舞台に立った瞬間に、輝きはじめるのだった。
 夢をしっかりもっていて、頑張っている。もちろん、あこがれだけでやっている子もいるだろう。けれどともかく、一生懸命やっている。学校のテストで赤点取ったって、きちんと夢をもてて、夢に向かってがんばっていられるのならば、それで十分なのじゃないかと思わせられる顔だった。

■夢見るときの「クレイジー」な感覚

 ある学校の先生が、保護者に対して、アンケート調査を行ったという。中学校三年生の子どもの親に、こんな質問をした。
「中学生の時に、何になりたかったですか? また、その夢はかないましたか?」
 当然のことながら、なりたかったものはみんなバラバラだ。そして母親のほうは、半分近くがかなったと答えたけれど、父親のほうは、二〇パーセントくらいしかかなったとは答えられなかった。
 中学生くらいでは、どんな職業があるのかさえも知らなかっただろう。だから途中で夢が変わってしまったとしても仕方がない。またかなわなかったとしても、むしろそれが当たり前かもしれない。
 音楽で食べていけるようになりたいと思って、バンドをしている子どもたちがいる。もちろん、彼らのなかで、音楽で食べていけるようになれる人は数えるだけだろう。それだけに親や教師からは、バンド活動を反対されているかもしれない。
 夢を追いかけるだけじゃ、確かに立派な大人にはなれないし、受験のことを考えたら、そんなことをしている場合じゃないのかもしれない。
 けれども、将来の安定した生活やみんなと同じ人生を歩むために、やりたいことをあきらめてしまうのはもったいない。周囲が圧力をかけて諦めさせてしまうのは、もっともっと、もったいない。「クレイジー」という言葉の意味を、辞書で引いてみると「すばらしいくらい、最高の」という意味がある。愚か者という意味も含まれているから、そちらの意味で使われることが多いのだが、クレイジーという言葉のなかにある、すばらしく熱狂的な、という意味は、夢を追いかけている人にピッタくる言葉だと思える。
「クレイジー」に表されるように、夢に全力で向かっていく感覚、熱中していく感覚、そんなものを親も教師もきっと体験してきたはずだ。子どもたちが、今、そんな熱狂のなかに身を投げ込んでいることを、できれば認めてあげてほしい。
 夢を見ることは簡単でいて難しいし、見た夢に向かって、歩き出すことはもっと難しいのだから。そして誰でも、いつだって夢をもっていたいし、どんなに小さくても、希望をもって上を向いて歩いていたいのだから。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第10回 ストレス爆発のあとに

■月刊「記録」1998年11月号掲載記事

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■夏休みが差し向ける魔の手

 夏休みは、嫌い。一ヵ月以上も学校から離れるぶん、「また学校に行かなくてはならない」という恐怖に、一ヶ月以上も苦しまなくちゃいけないから。
 九八年の夏休みは、和歌山市の「毒カレー事件」に始まった。お祭りの最中に起こった事件だったため、ワイドショーやニュースでも、大きな事件として取り上げられていた。
 次々に起こる毒物事件。日本中が、食べ物に対して敏感になっている。
 そして、あと一週間で夏休みが終わるという八月二六日。中学三年生の二六人と女性教師一人の自宅に、クレゾール入りのニセやせ薬が送りつけられた。毒で始まり、毒で終わりを告げた夏休みだった。
 犯人は、同じ中学三年生の女の子だという。彼女をおそった夏休みの魔の手は、彼女に何をさせたかったのだろうか? 「クレゾール」を「やせ薬」と偽った彼女は、イジメにあっていたようだという周囲の意見が多かった。犯行時点でいじめられていたかどうかの真偽はわからないにしても、アトピーがあったりして、それによってイジメを受けていた時期もあったと、校長が記者会見でいっていた。
 中学生くらいの時期に、身体のことでイジメにあうケースは少なくない。アトピーやニキビといった、若い時にできやすいものが原因だったりする。そして彼女は、成績のことでもひやかされていたという。
 同じような理由でイジメを受けていた子は、直せることなら直すけれど、身体のことはどうしようもない。死ぬ道しか解決の方法を見つけられない、と嘆いていた。 夏休みが終わりに近づくと、ドキドキが止まらなくなって、世の中から逃げ出したくなったことが私にもあったっけ。
 周りにいる人に、自分の苦しみを知ってほしくて、でも、うまく言うことができなくて、そんな時、自分なりの方法でSOSを叫ぶしかない。
 私は八月三一日に、何度、手首にナイフを当てたっけ?
 今になって、よく母に言われる。
「あんたは、すぐに逃げようとする」
 でも、本当に逃げたいんだ。そう思っていることに、気づいてほしいんだ。その気持ちを伝える手段が、見つからないから苦しいんだよ。自分自身を消したかったのか。

■自分自身を消したかったのか

 毎日新聞の記者の方から、取材を受けた時のこと。そんな話をしていくうちに、ふときかれたのは、「もしも、あなたの子どもが学校に行かなかったら、親としてどういうふうにいってあげますか?」だった。
 自分に子どもはいないから、親の立場というものはわからないけれど、私だったら、学校に行きたくないという子どもを、無理に学校に行かせることはしないだろう。そして子どもを、家でゴロゴロさせることもしないだろう。行けないというなら、連れてってあげる。
 私自身、学校に行きたいけれど、なんだか不安だと思った時には、遅れていったり保健室に行ったりした。学校に行きたくない日は行かなかった。
 私の話が、記者さんには印象に残ったらしく、ファクスやEメールを使って連絡を取りあっている。そんな話のなかで、一年前の夏に起きたある事件を私は知った。 九七年の夏、茨城県の中学校で体育館が放火される事件が起きた。そして在校生が三人逮捕された。他の二人を誘った主犯格とみられる子は、同級生とのトラブルで、「相談室」登校をしていたという。
 七月中から学校の植え込みなどに放火していき、それが、だんだんとエスカレートして、とうとう、体育館に火を放ってしまった。始業式まであと数時間という、九月一日未明のことだった。
 事件から半年が経過した頃、毎日新聞の記者をしている彼は、主犯格とみられる相談室登校をしていた子の母親に、電話で話を聞くことができた。
 なぜ、そんな事件を起こしたのか、その子の母親は、半年たっても本人にきけないといっていた。「本当に学校が嫌いなら行かなくていいと、もっと大きく包んでやればよかった。中学三年生で進学を控えていたので、『学校に行かせなくては』という焦りが私たち(親と学校)にもあった」と話したという。
 その子は、何か学校内でトラブルがあり、学校をなくしてしまいたかったのだろうか? 受験を、自分自身を、消したかったのだろうか?「自分」を破壊したくて手首に刃をあてた私。そして「学校」を破壊したかった中学生。そう考えていくと、クレゾールを送りつけた彼女が破壊してしまいたかったのは、つまりあのクレゾールを本当に送りつけたかった相手は、彼女自身のような気がしてくる。
 自分に送ることで、誰かに、自分の身が危険なことをアピールしたかったのかもしれない。自分で自分の身を傷つける、あるいは犯人は自分であると、誰かに気づいてほしかった。助けてと叫べない彼女の精一杯の叫びだったのかもしれない。
 イジメを受けていることを知った学校は、保護者と生徒同士の話し合いで、イジメは解消されたといっていた。けれど、いちばん肝心なことを忘れていないか?
 イジメを受けていた彼女の、心の中にかかっている霧を晴らしてあげることはできたのだろうか?

■中学生にストレスはわかるか

 新聞記者の方が、学校の保健室に出入りしているうちに、一人の女の子に出会ったという。その子は、どうもイジメに近いあつかいを友人から受けていた。友達に相手にされなかったり、上ばきや机の中のものがなくなっていたり、精神的なイジメが続く。イジメの初期症状みたいな状態だ。
 とくにお金を要求されたり恐喝されるようなことはないのだが、学校のなかには、友達と呼べる人はいない。そして、教室に行くとおなかや頭が痛くなる。だから、保健室に休みに来るのだという。
 私はまたもや、「そういう子を見たら、あなたならなんと声をかけますか?」と質問を受けた。私だったら迷ったりはしない。あなたの心の中に溜まっているものは、「ストレス」っていうものなのよと、教えてあげるだろう。
 彼女に「あなたはイジメを受けているの?」と、彼はきいたらしい。すると彼女は、「いいえ。イジメは受けていないわ。私は、そう思っている」と答えたという。 小さな胸のなかで、自分はイジメを受けてはいないと思えば思うほど、どんどん苦しくなっていくことだろう。彼女が信じているものが、次々に偽りに変わり、自分を裏切っていくように思えたりもするだろう。
 そんななかでも彼女は、自分の状況をうまく把握できないかもしれない。中学生には、ストレスを『ストレス』だと感じられないことも多いのだ。
「私は幸せな学校生活を送っていたのですね。たぶん、その私の近くには、つらい学校生活を送っていた友人もいたのでしょうが」。彼からのEメールは、そう締めくくられていた。

■身近にいても気づくのは難しい

 メールが届いた翌日、偶然、小学生の頃、一緒にブラスバンド部に入っていた友人に会った。久しぶりの再会で、おきまりの言葉が出る。「今、何やってるの?」
 前年までは彼も高校生だったけれど、今も高校生をやっている同級生は、一級遅れの私の周囲にはもういないだろう。まあ、当時の私が一九歳でいまだに通信制の高校生でいることは、ほとんどの知り合いが知っているので、別に恥ずかしいという意識もなかったから、今の生活を簡単に説明した。
 すると彼は、ひどく驚いた様子をした。
「学校辞めたなんて、知らなかったよ。僕、高校に入ってから、ほとんど友達がいなくなって、今つきあってる友達なんて、ゼロに近いんだ。同級生だって、ほとんどが学生でしょう? 浪人してるのなんて僕だけだよ。なんか、情けなくてね」といった。
 音大を目指して受験し、失敗したといっていた。あきらめず、それなりにがんばっているようではあったけれど、どこか気力が足りないようにも思えた。周りの人々の励ましの言葉でさえも、素直に受け取ることができなくなっているようだった。
 昔から、何でも人より遅れて開花するタイプの人だった。だから彼の人生は、これからだと思うのだが、そんな自分の性質を以前からコンプレックスに思っていたらしい。
 中学までの学区を離れて高校へ進学し、ほとんど知り合いのいない環境で、新たに自分を変えようとしたようだ。けれど、そこでも思うような自分にはなれなかった。「高校を、辞めてしまいたかった」と彼はいった。でも、世間に投げ出されることに耐えられるほどの力が、自分にはなかったのだと、彼は話してくれた。
 ここにも一人、学校という空間のなかで苦しんだ友人がいた。私が高校を辞めてしまったことも知らないまま、他の同級生たちが、今、何をやっているのかを知ろうともせずに、隠れるように、夜中を選んでアルバイトをして、一人で苦しんでいた友人がいた。それを知ると、ひどく切なくなる。
 最近は、自分の夢も人に流されているだけなんじゃないか、そう思いながらも、住宅街で周りを気にしてトランペットの練習をしているという。
 目を閉じれば、耳の奥に、彼の音色がよみがえってくる。
 子どもだったけれど、もうすでに人よりも柔らかく、繊細な音色を出せていた。彼のトランペットは、心の音だったのかもしれない。
 もっと早く声をかけてあげればよかった。連絡をしてあげればよかった。すぐ近くにいたのに、気づいてあげればよかった。
 たとえ身近にいる人でも、心の声を聞き取るのはとてもむずかしい。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/刑務所の塀を越えた男・池田晴夫(五五歳)

■月刊「記録」1998年8月号掲載記事

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■おれの土産は夢の宝物

 2月、しかも夜中の2時だからな。車をおりたら寒かったよ。持っていた鉄パイプの冷たさが、手袋を通して伝わってきた。歩いているやつはもちろん、自動車だってほとんど見かけなかった。
 それでも警戒して、なるべく街灯を避けて、コンクリートの塀に近づいたんだ。やっぱり刑務所の塀は高かったよ。つい数ヶ月前までは中にいたところに、まさか塀の外から入ることになるとはな。
 1974年、おれが31歳のことだ。
 鉄製のフックにつなげた縄ばしごを4メートルほどのプラスチック製パイプの先に引っかけて、塀の向こう側に落とした。ゆっくりとたぐると、フックががっちりと塀を捕まえているのがわかったよ。垂れる縄ばしごに、急いで飛びついた。ところが、あわてているせいか、ゆらゆら揺れて登りにくかった。参ったよ。
 どうにか塀の上にたどり着いて、久しぶりに中を見たら変な気持ちがしたね。1年ちょっと暮らしていたから、内側は「勝手知ったるわが家」みてぇなもんだが、塀の上から見たのは初めてだったからな。でも感慨に浸っている時間はない。
 塀の角に引っかかっているフックを外して、外側に向けて改めて引っかけ直し、今度ははしごを内側に下ろした。で、数秒後には刑務所の中だよ。めざすは北門の近くにある工場の隣にある小屋だ。コンプレッサーが置かれているこの小屋は、鍵もついていねえ。仲間に品物を届けるには、絶好の場所だからな。
 仲間へのプレゼントは2つだ。一斗缶につめたタバコと菓子。シャバに出れば何てことない品物だが、ムショでは夢に見る宝物に変わるんだ。品物をコンプレッサーの陰に隠した瞬間、仲間の喜ぶ顔が浮かぶようでうれしかったよ。
 仲間への目印として工場の鉄格子に小さな赤い布を付けた。あとは縄ばしごまで走って戻ったよ。帰りはずいぶんと時間が早く感じたもんだ。仕事は成功したようなものだったし、最初の緊張感は消えていたからな。
 ところが車から見ていた運転手の仲間は、気が気じゃなかったらしい。刑務所の塀は案外厚みがあって、フックが深く引っかからないんだ。おれがはしごに組み付くと、フックの金具が少しずつ、少しずつ伸びていったらしい。爪が伸びきってフックが外れれば、おれは刑務所から出る道を失ってしまう。そうなれば文字通り刑務所に逆戻りだ。
 結局、悪運が強かったってことだろうな。フックが伸びきる前に、おれは塀の上にたどり着いた。最初はついて来るのを嫌がっていた車の運転手も、刑務所から帰る道すがらはうれしそうにしていたな。

■誰だって危ない目はごめん

 刑務所に潜り込み、また戻って来たやつなんて、おれ以外にほとんどいねえはずだ。第一、中に潜り込もうなんて、普通なら思わねえよ。おれは刑務所の仲間との約束で、危ない橋をわたらざるを得なかったから行ったんだ。
 好きでも何でもない刑務所に潜り込むことになった理由は、中にいるときにタバコのルートをおれが作り上げたからだ。ちなみに当時のおれの容疑は、銃刀法違反と傷害未遂だった。懲役は一年くらいだったかな。酒場でケンカして、刺身包丁で相手を追い回して、現行犯逮捕されたんだよ。
 当たり前のことだが、刑務所ではタバコなんて認められない。だから、まともな方法じゃ絶対手に入らねえ。もちろん看守に隠し持っているのを見つかったら一巻の終わりさ。だいたい「タバコ」なんて軽々しく口にすることもできないくらいで、刑務所内では「ネッコ」なんて名前で呼んでいた。
 そんな状況でおれが目をつけたのは、刑務所で作った商品を受け取りにくる配達業者だった。刑務所では金属製の引き戸を加工していて、毎日、業者が受け取りに来ていたんだ。トラックが作業所に来ると、商品を車まで運ぶのが、おれたち囚人の仕事になる。運転手はおれたちから商品を受け取り、荷台に積むんだ。
「おい、タバコ持ってねぇか」
 二枚の戸を担ぎながら、おれは運転手に尋ねた。当たり前だが、囚われの身で脅しても誰もこわがらねえよ。実際、やつも笑ってた。だからやつの足めがけて、戸を一枚すべらせたんだ。戸は鈍い音とともに、やつの足の甲に命中した。気の毒なことに骨折だよ。その場は大騒ぎになったが、「不注意だった」と謝ればどうしようもないだろ。だいたい、仕事には事故がつきものだからな。
 そして次の日、足をけがした運転手の代わりに、新しいやつが配達に来たんだ。足が折れてちゃ、仕事にならないからな。そいつに、おれはすかさず耳打ちしたよ。
「前のやつと同じ目に遭いたくなければ、次からタバコ持ってこい」ってな。
 そいつは前の運転手から話を聞いていたんだろう。あわ食ったような顔で、おれを見ていたよ。まあ、シャバに出ていれば、おれたちに差し入れるタバコの金額なんてたかがしれている。毎度毎度、危険に身をさらすよりも、タバコの差し入れを選ぶというわけだ。

■油断もすきもねえ

 おかげで、それからは数日ごとにタバコが手に入るようになったね。
 吸うのは、ねぐらか作業所だよ。作業所の場合は、誰かが看守に話しかけて気を引き、そのすきにニクロム線をコンセントに突っ込んで火をつける。時間が短いから、ゆっくりとなんか吸っていられねえ。思いっきり吸い込む。これが肺に染みわたるんだ。作業所で唯一の楽しみだったな。
 ねぐらで吸うのは、もっと危険だよ。デンパチっていわれてた方法だが、電球を外してニクロム線をぶち込むんだ。感電するわ、ヒューズは飛ぶわで、そりゃ、大変だよ。でも、週末は作業所が休みだろ。どうしても一本吸いたくなる。感電覚悟でデンパチやって、火をつけるんだよ。あのタバコの味は、忘れられないな。
 問題が起こったのは、このルートを作り上げてしばらくたってからだった。牢屋でもめ事を起こして、おれは懲罰行きになっちまったんだ。もちろん作業所には行けねえ。運転手とも会えねえ。結局、20日間くらい独居房で過ごしたかな。やっと出てきたときには、おれのルートを他人が勝手に使っていたんだ。しかも分け前をみんなに寄こそうともしない。たとえ分けても雀の涙程度よ。
 頭にきたおれは、「てめえ、誰のルートで仕事してんだ。ふざけたマネするとチンコロ(締め上げる)すっぞ」と脅しつけた。だが、相手だってこんなうまいルートを手放すわけもない。しまいには作業所が、二つに割れてにらみ合いだ。看守もいるから、いきなり殴り合いなんてできないけどな。始終こづき合っていたよ。

■おれは義理堅い男なんだ

 そんなとき、おれの出所が決まった。髪を伸ばす許可が下り、1ヵ月もしたら刑務所ともおさらばよ。こうなると暴れるわけにもいかねえよ。出所したらタバコを差し入れると仲間に約束して、おれは刑務所を出てきたんだ。
 自分でいうのもなんだが、おれは義理堅い男だよ。とにかく約束を守らなくちゃいけねえと、機会をうかがっていた。そんなとき、暴力団の幹部がおれを訪ねて来たんだよ。「どうにかして刑務所にいる組長にタバコを差し入れてくれ」ってな。銭も払うからと。
 渡りに船とばかりに、さっそく、準備にとりかかったよ。
 おれも出所したてだからカネはねえ。だから友人から20万円ほど借りていた。当時、大卒の銀行員の初任給が七万五千円に届くか届かないくらいだったからな。大金だよ。今なら60万円以上の価値になるんじゃねえか。
 知り合いの鉄工所で場所を借りてフックを自分で作り、縄ばしごと結びつけたり、タバコや菓子を買えそろえたり。そりゃ忙しかったよ。一番難航したのは、運転手の手配だ。そんな危ない仕事など、誰も引き受けねえよ。おれが見つかったら、下手すりゃ一緒に捕まるからな。説得するのに、とにかく苦労した。
 それでもどうにか準備を整えたんだ。あとはことを片付けるだけ。だから、とにかく実費だけでも払えと暴力団の幹部に要求したんだ。ところがカネを払わねえ。最初、ペコペコ頭を下げて頼んだのに、いよいよこれからってとき待ち合わせの場所にすら来ねえんだ。こっちは運転手の手配までしちまったし、計画を延期するわけにもいかなかった。仕方なく、一銭ももらわないままに刑務所の塀を乗り越えたよ。
 結局、おれが仕事を無事に終えても、やつは銭を払おうとしなかったな。事務所に押しかけたが、毎回、日延べしていく。そのくせ、もう一回忍び込んでくれなんて、調子のいいことまでいう。あきれたよ。結局、今になるまで一円のカネももらっていない。
 聞いた話によれば、おれが侵入した後、別のやつを立てて忍び込ませたらしいが、捕まっちまったそうだ。そいつは小さなクレーン車を手配して、自分をつり上げたらしい。ところが人を塀の内側に下ろした後、運転手が職務質問を食っちまったんだ。素人だったそいつは、内側の人間を置き去りにして逃げ出したってさ。入ったやつは、逃げ場はなし。現行犯で捕まって留置所直行。そう簡単には、成功しないってことだよ。

■ヤバイ仕事は一通りやった

 実は危険な橋をわたったのは、刑務所への侵入が初めてじゃない。トビになる50歳まで、おれは危険な仕事のよろずやだったんだ。いろいろやったぞ。
 逃げた女房を夫の頼みで連れ戻すなんて仕事もした。もっともそのおかげで、頭を猟銃で吹っ飛ばされそうになったけどな。
 その夫婦には自慢のセガレがいたんだ。おれも近所に住んでいたから知っているが、そいつの賢さは半端じゃなかった。人の息子ながら将来が楽しみだと思ったよ。ところがそのセガレが交通事故で植物人間になっちまう。高校の初めくらいかな。
 おっかあの落ち込み方は、そりゃひどかったよ。しかも悪いことに事故で多額の賠償金が懐に入ったんだ。植物人間だから、医療費が必要だしな。
 息子を失った寂しさもあったんだろうが、大金でおっかあはスナックを開いたんだ。あとはお決まりのパターンだよ。客がつき、その客が男になり、連れだって家を出た。
 ただ普通と違ったのが、旦那も新しい男もヤクザだったこと。しかも恋人のほうは、暴力団の二代目組長だったから相手が悪すぎるよ。だからといって旦那だって黙っては引き下がれねえ。で、妻を連れ戻すようにおれに頼んできたわけさ。

■親の死に目にもあえやしねえ

 相手が親分だろうがなんだろうが頼まれりゃ仕方ない。おれはおっかあの後を追って、岐阜まで行ったよ。とにかく会って説得しようと思ってな。ところがヤクザ者同士、女を巡って争うことになると、ただの痴話ゲンカでは終わらねえんだな。結局は抗争だよ。いつの間にか、組対組の争いになっていったんだ。
 東京からはおれ以外にも、若いのが送り込まれる。一方、岐阜のヤクザもおれらに負けじと武装する。そのうえ、いつの間にかおれが特攻隊長に仕立てられていた。東京から来た若い衆は、こわがっておれより先に行動しようとしなかったからな。
 岐阜に入って数週間、おっかあがどこにいるのか、とにかくおれは探し回ったよ。そんなとき、事情に通じてそうな若い衆を街で見つけたんだ。話を聞くために、さっそく車で拉致して近くの河原に向かったよ。ところが運悪く、相手の組の若いやつが猟銃を持って、その河原をうろついてたんだ。カモでも撃ってたんじゃねぇのかなあ。
 拉致した若い衆を連れて歩いていたら、突如、黒く伸びた銃身がピタリとおれの頭に押しつけられたんだ。
「何してんだ、おめえ、殺すぞ」っていわれたから、「ぶっ放すならやってみろ」とおれはどなりつけたんだ。
 人間なんて簡単に人を殺せるもんじゃねえ。銃を持った男の顔を見たとき、引き金は引けねえやつだとおれは確信したね。無言のにらみ合いの後、やつは銃を下ろしたよ。おれだって死にたくはなかったし、だいたいおっかあの居場所を知りたかっただけだからな。聞くこと聞いて二人とは別れたよ。危なかったな。
 まあ、結局はおっかあが元のさやにおさまって片付いたんだけれど、まったく人騒がせなおっかあだぜ。この仕事のおかげで、おれは母親の死に目にもあえなかったんだからな。

■つくづく運がよかったね

 覚せい剤の売人もしていたことがあるぜ。こまいのを動かしてねえから、パクられてねえけどな。でも、かなりヤバイ橋をわたったよ。たとえば新宿の場外馬券場での引き渡しだ。80年くらいだったかな。当時の相場はグラム3万円。おれが引き受けた量は、500グラムだった。つまり1500万円分の取引だ。
 ヤクを忍ばせる秘密のポケットをこしらえた長いコートを着てさ、おれは取引場に向かった。簡単なボディ・チェックや職務質問ならば、コートのすそまでは調べない。それを見越して作ったんだ。プロは細心の注意を払うもんだからな。
 でも、そのときの取引相手はプロじゃなかったんだ。中毒患者の五人組だよ。一目でわかった。目が血走っていて、明らかにおかしいんだ。そいつらが週末の場外馬券場でロングコートを着たおれを囲んで話しているんだから、目立つぜ。しかも場所が場所だ。周りには警備員やら警察やらがわんさと歩いている。とても取引ができる状況じゃなかった。
「これじゃ、取引はできない。別な日にしろ」。おれは近づいてきた客にいいわたしたよ。ところがそいつらは我慢なんてできないのさ。買えなきゃ、禁断症状に襲われるからな。しかも別の仲間からもカネを集めてきていたから、手ぶらで帰ったら下手すりゃ仲間に殺されかねないってわけだ。やつらも必死だよ。殺気だった薬中に囲まれて、頼まれてみろ。すごいぞ。仕方ないから、売ってやったよ。
「今回だけは売ってやる。ただし、おまえらとの取引はこれで最後だ」って、いいわたしてな。
 おれが500グラムのヤクを手渡すと、やつらは震えながら銭を差し出たよ。白昼堂々、500グラムの覚せい剤の取引だぜ。これで捕まらなかったんだから、やっぱり運がいいんだろうけどな。
 ヤクといえば、覚せい剤を密造しようとしたこともあったな。これは一部では有名な話だが、覚せい剤とぜんそくの薬は中身が似ているんだよ。くわしいことは難しくてよくわからねえけど、ガス抜きをすれば覚せい剤に変わるんだよ。まあ、化学を勉強している大学生くらいなら簡単にできる。
 仲間とカネを出し合って、埼玉県の毛呂山町に一軒家を借り上げて、覚せい剤を密造しようとたくらんだんだ。カネに困っている大学生を抱き込んで、化学式を解かせてな。ところが同じことを考えていた集団がいたんだよ。しかもすぐ近くに。そいつらが警察にパクられて大騒ぎさ。おれたちもヤバイってことになり、大量のぜんそく薬を処分してズラかったよ。今思い出してみると、とんだ笑い話だな。

■取り立て屋だったことも

 こんな生活のおれだが、羽振りのいいときもあったんだぜ。
 毎日、キャピタル東急ホテルやら都ホテルやらに泊まり歩いて、ぜいたくざんまいしていた。全部、会社の経費で落としてな。
 そのときの仕事は、簡単にいえば取り立て屋だ。友達が作った会社だった。午後になるとホテルから出勤して、そいつからの指示を待つ。相棒から場所をいわれるまでは何もすることねえから、ソファで寝っころがっていたよ。実際、電話番すらしなかったな。
 まあ、相棒のいう通り一日数回スゴんで、経費使いたい放題で、一月100万円の給料だからウマイ商売だったよ。会社ももうかっていたんだぜ。ただ、この世界でこれだけもうけていれば、そのカネを狙うやつもいてな。
 あるヤクザからウマイ話が転がり込んだんだ。話を持って来た男の悪いうわさをおれは知っていたから、話に乗るなと相棒には忠告した。だけど乗っちまったんだ。案の定、カネだけ巻き上げられて行方知れずさ。会社もつぶれちまった。
 仕方ねえから、カネを取ったやつの行方を探したよ。そうしたら東京の国立にある知り合いのマンションに、女とよろしくやっているのがわかった。3日間、ずっとマンションの様子をうかがっていたよ。生活パターンをつかむためにな。
 で、おれは、ついにチャカ(拳銃)を持ってインターホンを押したんだ。ところがやつが女といるのは確実なのに、ドアを開けやしねえ。こっちも続けざまにチャイムを押したが、らちがあかねえ。どうしようかと思ってふとドアの横を見たら、これがガラスなんだよ。けとばしてガラスを割って、部屋に潜り込んだんだ。
 でも、さすがにもぬけのカラだったね。寝室にも、風呂場にも、クローゼットにもいない。それこそベッドの下まで確認したけれどいねえんだ。窓から隣の部屋にでも飛び移って逃げたのかもしれねえな。
 そんなことをしているうちに、大家が警察を呼んじまったんだ。まあ、ガラスを割られちゃ、警察も呼ぶわな。サイレンが鳴ったので窓からのぞいたら、パトカーが横付けされているじゃないか。逃げる間もなく警官に捕まって、署に連行されたよ。幸いだったのは、やつを捜している最中にチャカを室内に落としちゃったことだ。もしチャカを持っていたら、現行犯逮捕だった。
 警察署では、とにかく借金を取り立てにきたの一点張りだよ。カネがもらえなきゃ、死ぬしかないなんていって泣き落としたんだ。それがきいたのかな。窓の修理費1万円と罰金を払わされて終わりだった。
 留置所を出てたら、無性に腹が立ってきてよ。すぐに逃げた男の組に押しかけて「銭返してもらいたい」って迫ったんだ。たぶんおれがマンションの玄関をたたき壊して侵入したのを知っていたんだろう。あっさり1000万円出してきた。そのカネをそっくり友人にわたして、おれはまた、よろずやに戻ったんだ。おれのことを気にかけて、しばらくの間、やつは毎月5万円くらいずつカネを送ってくれていたね。
 その後、友人は、1000万円を元手に会社を建て直したらしい。もしあのとき、そのままくっついていれば、おれの人生も違っていたかもしれないね。会社がつぶれたあたりから、おれの運も変わってきちまったんだな。

■一年でいいから若返りてえ

 知り合いに貸したカネが返らなかったり、月一割の高利貸しから800万円も借りる羽目になったり。まったくついてなかったよ。借金が元で新潟にまで逃げる羽目になったしな。数年後にはおれにカネを貸してくれた人が誰かに殺されて、カネを返済する必要もなくなったがね。
 新潟から東京に戻ったころには、つくづくヤクザ世界が嫌になっていた。命をかけて高いカネを稼ぐより、地道に働きたくなったんだ。何でだろうな。それで山谷に来て、一からトビの仕事を覚えたんだ。景気がよかったときは、現場に必要な頭数を集めて仕事に行ったりもしていた。手配師みたいに他人の給料をピンハネしないから、仲間からの信頼もおれは厚かったんだぜ。それなりに暮らしていけてたんだ。
 ところがこの不景気。仕事が一切ないだろう。するとカネがないから、ドヤ(簡易宿泊所)にも住めなくなる。友達が部屋に泊めてくれるっていうけど、何の収入もなく長居し続けるわけにはいかないしな。アオカン(野宿)する日も出てくるよな。
 気温が下がって体が冷えると、母親につけられた古傷がうずくんだよ。母親っていっても、実の母親じゃねえけどな。
 生みの親が死んだのは、小学校2~3年だった。今でも覚えているよ。学校から帰ると、舎弟(弟)が布団に寝かされたおっかあの胸にしがみついて泣いていたんだ。「おっぱい、おっぱい」って、わめいてな。死んだのがよくわからなかったんだろう。死体を見て、おれもぼう然としたよ。
 そして数年後。おれの地獄が始まった。おやじに後妻がきたんだよ。学校から帰ると毎日せっかん。タバコの火を押しつけられたり、ひっぱたかれたり。今の子どもならば、体が持たなくて死んでいただろうよ。幸か不幸か、おれは頑丈だったから生き残れたけどな。おかげでおれの体は傷だらけだよ。一番ひどいのは足だ。傷口を縫えないほど、肉をえぐられたからな。今もケロイドになって、傷跡が残っている。これが痛む。夏でもサポーターを巻かないと、痛くて歩けないほどだ。
 仕事もない。カネもない。することもない。仕方ないから朝から酒を飲む。カネがもったいないから、自販機で買って酒を飲む。毎日、毎日、気持ちがすさんでくるよ。
 おれに後10年寿命が残っているなら、1年にしてくれてもいい。だから一年だけ若いころに戻らせてほしいんだ。このまま生きているのはつらすぎる。
 心残りなことを一つ片付けたら、自分の命は自分で決着をつけるつもりだよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/息子との二一年ぶりの邂逅・大久保啓二(五一歳)

■月刊「記録」1997年10月号掲載記事

*          *            *

■これ、おやじだろ

 1994年の5月のことだった。
 雨音がうるさくてね。雨戸を閉めていつも通り酒を飲んでいた。三時ごろだったか、誰かがおれのアパートのドアを叩く。のぞき穴から見ると、まったく知らない男が立っていたので出なかったんだ。しばらくすると隣の部屋の住民とその男は話し始めて、10分としないうちに、今度は隣の住民とともにおれの部屋のドアを叩くんだよ。
 最初は勧誘か刑事だと思った。仕方なくドアを開けると「おれを知らないか」っていう。あまりにも唐突な質問にボーッとしてしていると、「これ、おやじだろ」といって、ポケットからおれの免許証を出したんだ。
 それは家を飛び出したときに置いてきたおれの免許証だった。返す言葉も見つからなくて男の顔を見つめていると、さらにポケットから健康保険証を出した。そこには兄の住所と、息子の名前が書いてあった。もしかしたら・・・・。いや間違いない。
 何せ21年も会っていなかったのだから、息子とは思わなかった。そうとわかった後も、何を話していいのかもわからない。第一、話なんてないんだ。息子もあきれたようにおれを見ていたよ。
「警備員しているんだって」と彼が話しかけてきて、やっと「そうなんだ」と答えた。それから家族の近況を教えてもらった。別れた妻は実家に帰って再婚していること。おれが連絡を取らないうちに、おやじ・弟・姉は死んでしまったこと。兄は脳梗塞で倒れて入院中、おふくろは事故にあってリハビリ中だということ。そして息子が動物病院を経営していることも。
「いやー、大変だ。おれ、おやじの墓参りにいくよ」
 おれの返事はこれだった。といって別に本当に墓参りに行きたかったわけじゃない。息子との間に漂う沈黙がこわくて、話を合わせただけだ。
「みんな怒っているからなー」
 そう息子は答えた。その言葉でおれもすべてを悟った。息子にしてみればおれが郷里に来るのは困るんだ、と。
 この言葉がきっかけに話は終わった。10分くらいの立ち話だったかな。
 せめて部屋に上げるべきだった。少しはカネを持たせてやるべきだった。そう気づいたのは息子が帰った後だ。でも別れた直後は息子だとわかっていても実感としてそう思えなかった。つまりピンとこなかったんだ。「また」なんて言い合ったけれども、あれから一度も息子からの連絡はない。

■妻はノイローゼ

 おれが妻と子どもを捨てて、家を飛び出したのは妻のノイローゼが発端だ。妻と出会ったのはおれが21歳、彼女が18歳。東京・池袋のオンワード樫山に背広を作りに行ったとき、縫製工だった彼女と知り合ったのだ。つきあい始めて3年、彼女が妊娠したのを機に結婚した。
 結婚と同時に、おれは郷里の新潟県十日町に帰り、実家の魚屋を継ぐことにした。最初の1年くらいは、幸せに過ごしていた。子どもも生まれたから頑張ろうと、おれも一生懸命働いた。結果的には、それが悪かったのかもしれないがね。
 最初におかしいと思ったのは電話料金だった。異様に高い。妻の実家がある岩手県や兄が住んでいる東京に、妻が頻繁に電話していたからだ。そうこうしているうちに、彼女はおれとほとんどしゃべらなくなった。
 ふさぎ込んだ様子で、誰もいない部屋に閉じこもってしまう。そっとのぞくと、ボーッと空を見つめている。何をするでもなく、何時間もそうしているんだ。
 彼女も寂しかったんだろう。おれは朝の9時半には家を出て、少し離れた店に向かう。食事は手が空いた時間に、各自バラバラに食べるから8時すぎに家についたころは腹も一杯だ。そのうえ夜は、離れに住んでいるおやじと酒を飲みながら仕事の話をするのが日課だったから、妻をかまってやる時間はない。
 隣近所に住んでいたおやじ・おふくろ・兄も全員が店に出ていたし、弟は別の会社を経営していて忙しかった。結局、妻と子どもが二人で家に取り残されることになる。しかもおれの家は新興住宅地に建っていたから、昔からの知り合いなんて誰もいない。おれが朝から晩まで働いている間、妻はずっと孤独に耐えていたんだ。
 そのうち彼女の妄想が始まった。家を追い出されるのではないかと、隣近所に吹聴して回るようになった。「そんなことはない」と何度いってもわからない。そんな調子だったから、「東京にいる実兄の家に行きたい」といったときは、少しでも元気になるならばと、おれも家族も喜んで送り出した。結局、それが状況を悪化させた。
 日がたつに連れて妻が東京に行く日数は長くなり、十日町にいる期間は少なくなっていく。そうなるとおれへの批判も強くなった。兄は結婚していなかったから、実家の魚屋を継げるのはおれの息子だけ。おやじも期待していたんだろう。だからなのか、おやじからは「おまえがしっかりしていないから、妻が帰ってこないんだ」と毎日のようにいわれ、妻は東京に行ったきり3ヵ月も帰らない。
 ガンガン批判される毎日が続き、そのうちに面倒くさくなった。決意したら早い。気がついたら家のカネを600万円持って東京に来ていた。それでも最初は寂しくて、一週間に一回は実家に電話をかけた。おやじも「帰って来い」なんて、声をかけてくれてね。でも帰りにくいんだよ。そのうちまた時間がたつ。一週間に一度の電話が二週間に一度、一ヶ月に一度になる。そのうちに帰郷するどころか、電話をするのもつらくなってきて、半年もするとしらふではかけられなくて、酩酊状態で電話をするようになっていた。
 帰れない。でも、子どもがどうなっているのかだけは気になる。仕方がないので、実家の近くに住む友達の家に何度か状況を聞きに行った。何度目かの訪問で、兄夫婦が息子を養子にしてくれたと聞いてホッとしたよ。でも、養子の話を聞いた友達から注意を受けたんだ。「おまえが実家の近くをうろつくのは、子どものためにも、兄のためにもよくない」と。
 それで、きっぱり行くのをやめた。

■最初はラブホテル勤め

 東京ではラブホテルの従業員として働いていた。やがて恋人ができ、家族のことも思い出さなくなった。28歳のころには20歳前後の女性とつきあった。スナックで知り合ったんだ。30歳をすぎたころには、同じ職場で働く未亡人が相手だった。この未亡人とは、酒に酔った勢いで寝てしまったんだ。互いに寂しかったんだと思う。もちろん結婚なんて面倒くさかったからしなかったけれど、昔を忘れるのには二人の女で十分だった。
 また当時の生活も、結構面白かったんだ。ラブホテルの仕事は、それほど重労働ではないし。客が出るのを待って部屋を掃除し、ベッドメイキングをする。大変なのは風呂の掃除くらいのものだ。住み込みで食事もついているから、仕事場から追い出されない限りは食うには困らないし……。逆に衣食住が保証されているから、貯金をする気にもならなかった。だから給料のほとんどは、酒とギャンブルに注ぎ込んだ。
 でも借金して飲んだり打ったりはしなかった。だいたいおれは、酒は好きだったけれど、ギャンブルなんかたいして好きじゃなかったんだ。ただ職場の仲間が全員やるから、つきあいでしていただけだ。ギャンブルをしないとみんなの話題に入れないから、寂しいんだ。まあつきあいとはいえ、競馬・競輪・競艇と、どれにでもかけていたから、1ヵ月にすると結構な散財だったろうがな。
 ラブホテルの従業員を辞めたのは、42歳のときだった。仕事内容には満足していた。人間関係もいろいろあったけれど、おれにはたいしてつらくはなかった。ただラブホテルに勤め続けているのが、恥ずかしくなったんだ。
 朝、店先に水をまくだろ、そうすると昔の従業員に会っていわれるんだ。「まだ、そんな仕事やっているのか」ってね。いい年をして、みっともないだろ。かつての仲間は、水商売やら土木建築やら職業を変えていた。ラブホテルの従業員として長く勤めるのは、情けないことなんだ。だから辞めたんだよ。
 警備員を次の仕事に選んだ理由は、社員寮が完備していたからだ。いくらかカネを取られるとはいえ、普通に家を借りるよりよほど安い。仕事さえしていれば住む場所が確保されるんだから、安心だろ。もともと働くのは好きだったし、まさか体を壊して働けなくなるなんて思いもよらなかった。

■飲み続けたツケが回った

 警備員になっても、生活は変わらなかった。焼酎一升を2日で空けるペースもそのまま。ただ社員寮は今までの住みかと違って、都心から少し離れたところにあった。そして、その小さな変化がおれをホームレスに近づけたのかもしれない。
 都心で飲み歩くと、家に帰るのが嫌になる。それでいつの間にか新宿のホームレスに混じって寝るようになったんだ。週に3~4日は新宿で寝ていたんじゃないかな。そうやって気ままに暮らしていたんだ。
 生活が一変したのは、足が痛くなってからだな。九七年の暮れあたりかな、歩くと足の甲が痛み出す。精密検査をしたら、肝臓も悪いし、糖尿病にもかかっていると医者にいいわたされた。食事は一日一食、後はアルコールばかり飲み続けるという生活を続けていたツケが、この段階になって回ってきたんだろう。働かないで社員寮にいるわけにもいかないから無理して働いていたけれど、結局、5月の連休明けに動けなくなった。
 それ以降、寮で毎日寝ていたよ。でも回復はしない。それどころか、どんどんひどくなる。会社も気の毒に思ってくれたんだろう。働けないおれが寮にいるのを、大目にみてくれていた。でも2ヶ月も仕事ができないんじゃ、居続けるわけにもいかないよ。そこで98年の7月、自分から寮を出たんだ。
 この先どうなるんだろうと少しこわかったけれども、先にも話したように、もともと新宿で寝るのには慣れていたから、あまり生活は変わらなかった。新宿で活動しているボランティアも多いから、無償で配られる食事も結構な量になるしね。
 飯は食えるし、こわいこともない。ホームレスになったときの不安は、取り越し苦労だったね。腹をくくっているからかもしれないけれどな。ただ五年前からつきあっている三九歳の恋人には、ホームレスになったことはいえないよ。(■了)

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ホームレス自らを語る/夫の浮気が許せなかった・増田良子(五〇歳)

■月刊「記録」1999年8月号掲載記事

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■東京にあこがれていたもので

 この公園(新宿中央公園)に来るようになって今日で二週間になります。まだ完全なホームレスになったわけじゃないんですよ。今でも夜だけはこっそりとアパートに帰って寝てますからね。ただ、部屋代を2ヵ月以上払ってないんで、追い出されるのは今日か明日かっていう状態なんです。そうなれば、ここに寝るしかないかなって、途方に暮れているところなんですよ。女の身でこんなところで寝るのはこわい。ホントにこわいですよ。
 2年前、それまで働いていた居酒屋のホール係の仕事を辞めさせられましてね。理由は、客足が落ちて売り上げが減っているからです。退職金なんてありませんよ。半月分の給料の上乗せがあっただけ。
 それからは、アルバイトをしながら何とかやってきたんです。それが50歳になった途端に、そのアルバイトにも雇ってもらえなくなりましてね。そこで求人で50回くらい応募したけど全部ダメでした。何しろ一人の募集のところに、20人も30人もが応募してくるんですから、使うほうはどうしても30代くらいの若い人を雇いますよね。
 仕事がなくて、部屋代を払うおカネもなくなってきて、昼間はこうして公園で座っているより仕方なくなったんです。この年になって、まさかこんなことになるなんて思ってもみませんでしたよ。
 生まれは関西です。高校を卒業して東京に出てきました。ずっと東京にあこがれていたんです。上京してからは、まず小さな印刷工場で働きました。そのうちに取引先の大手印刷会社でアルバイトをしていた学生と知り合いになって、それで結婚しました。そのとき、二人とも同じ年の20歳でした。

■たった一度の浮気だったのに

 結婚はうちの親には猛反対されたんです。相手が母子家庭だったことと、母親が水商売をしていたことが主な理由でした。それに彼はまだ学生でしたからね。でも、私は「こんなに誠実で、性格のいい人には、もう巡り合えない」と、絶対に譲りませんでした。そして結婚を押し切ったのです。
 そんな経緯がありましたから、結婚式も新婚旅行もありませんでした。役所に届けを出しただけで、お風呂もない六畳一間のアパートでの新婚生活でした。でも幸せでしたよ。
 主人は本当にいい人で、何でも自分からするんです。その理由は「自分はおばあちゃんに育てられたから、年寄りに苦労はかけられないと思って、何でも自分でしてきた」といってました。私の父は、家では何もしない人でしたから「こんな男の人もいるんだ」と思って新鮮な感じを持ちましたね。
 主人が大学を卒業して、二人で熱海に旅行をしました。それが二人の新婚旅行でしたね。それから主人は例の大手の印刷会社の社員になって働くようになりました。その翌年、子どもが生まれました。男の子でした。
 ところが27歳のとき、大きな転機が訪れました。主人の浮気が発覚したんです。たった一回だけのことでしたが、それが私には許せませんでした。若かったこともあるし、そのころはまだ「女は処女で結婚する」なんて風潮も残っていたので。結局は潔癖だったんですね。もう、主人の寝顔を見るのも嫌な状態になってしまい、半年後に離婚しました。
 子どもは主人の元に置いて、私だけが家を出ました。子どもはまだ小さかったし、正式に裁判で争っていれば、私のほうが親権は取れたと思います。でも、私と別れることが決まってからの主人の落胆ぶりがすごかったんです。「この人から、子どもまで取り上げたら、自殺してしまう」とまで感じました。ですから「子どもを連れて出る」なんて、とても言い出せなかったんです。

■そのおカネで助けてほしい

 その後の私はしばらく製パン工場で働いて、あとはずっと先ほどお話しした居酒屋で働いてきました。
 離婚してからも、元の主人と子どもには何度か会ってます。「子どもがかわいそうだから」って、彼は再婚もしないで、男手一つで子どもを育てあげてくれました。そんな話を聞くと、今になってもやっぱりいい人だったなと思います。
 別れた後、ほかに何の欠点もなかったのに、一回の浮気がどうして許せなかったのか考えましたよ。男の人が浮気をしてしまう気持ちもわからなくもなかったです。けれども「覆水盆に返らず」なんですよね。いい人だと思う感情と、ヨリを戻そうという感情は、別のような気がしますね。
 この2、3ヵ月、急に白髪が増えました。日に日に増えている感じなんですよ。仕事がないからって、いまさら兄嫁のいる実家にも帰れないでしょう。立場が逆だったら、私だってそんなものが転がり込んでくるのは嫌ですからね。もう帰れませんよ。
 この公園にいるホームレスの人たちは、みんな親切な人ばかりですよ。世間一般の人なんかより優しい人が多くて、私の食事の面倒をみてくれる人もいますからね。 正直にいいますと、以前はホームレスの人を見ると、昼間から寝転んでいる怠け者だとバカにしていました。どうしようもない人たちだと軽蔑もしていました。でも違うんですよ。私もそうだけれども、みんな勤労意欲はあるんです。朝の三時から並んで仕事を探していますよ。ただ、不況で仕事にあぶれて働けないから、公園に戻ってきて寝ているんです。
 怠け者が朝の三時から並ぶなんてことしませんからね。「仕事さえあれば、働いてちゃんとした生活に戻りたい」と思っている人が多いですよ。
 だから国のしていることには腹が立ちますね。景気のいいときに悪いことばっかりして、こんな日本にした張本人である銀行を助けるおカネがあるならば、ここにいる人たちくらい助けられないわけないですよ。「おカネを福祉と老人に使え」って、これだけはどうしてもいっておきたいですね。
 それにしても、ここにいる人たちは親切ないい人ばかりなんですが、でも、いざここに寝なくちゃならないとなると、やっぱりこわいですね。こわいですよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/大学は出たけれど・前田憲三(六〇歳)

■月刊「記録」1998年10月号掲載記事

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■空襲の夜を覚えている

 1945年3月10日、東京大空襲の日だが、どういうわけか、あの晩は曇り空だったような気がするんだ。空襲があって、しかも夜で、まだ6歳だったおれが、そんなことを覚えているのは不思議なんだが、確かに曇り空だったような気がしてならないんだ。
  夜九時ごろだったと思う。もう寝ていたおれは、母親に「空襲だよ!」ってたたき起こされた。両親と幼い妹二人の、一家5人で表に飛び出した。外は、もうあちこちから火の手が上がっていた。父親がおれの手を引いて、母親は一人の妹をおぶり、もう一人の手を引いて五人で逃げた。日本橋にあった家から、とりあえず神田をめざしたようだ。
 あの夜が曇りだったことは覚えているのに、空襲のことはあまりくわしく覚えていないんだ。ただ、火の手に追われて、ひどく熱かったことだけは忘れられないね。逃げている途中から、神田をめざすどころではなくなって、燃えていないほう、燃えていないほうを探して、一晩中逃げまどっていた気がするな。
  翌朝、火事がおさまって、日本橋の家に戻ってみると丸焼けになっていた。父親はそこで運送業を営んでいてね。日本橋の問屋街の荷物を扱って、従業員も20人くらいいて、かなり繁盛していたんだ。焼け跡は片付けるなんて状態じゃなかった。店をたたんで、父親の生まれ故郷である信州の松本へ、一家で引っ越したんだ。日本橋の店は、戦後になって父親の弟に譲りわたした。ひょっとしたら、今でもあるかもしれないよ。
  父親のほうは松本に帰って、祖父がやっていた家業の電器店を引き継いだ。だから、戦後の暮らし向きもまあまあだった。
  おれは中学を出て、松本深志高校に進んだ。えっ、知ってるの? うん、一応名門といわれる学校だね。同級生に土屋正孝がいたよ。その後、プロ野球に進んで、巨人と国鉄スワローズで名内野手としてならした男だ。野球を辞めてからの行方は知らないが、高校生のころから変わったやつだったよ。

■司法試験をめざしたことも

 大学は中央大学の法科に入った。刑事事件の弁護士になりたかったんだ。まじめな学生だったよ。あのころの学生といえば、雀荘に入りびたっているのが多かったけど、おれはマージャンには興味なかった。パイは一度も握ったことないよ。
  大学三年生のときが、60年安保闘争の年だった。おれはノンポリであまり関心はなかったんだけど、それでも6月15日の国会デモには参加したよ。デモの最中に「女子学生が殺された」っていう話が、後ろのほうにいたおれたちにも伝わってきた。みんな騒然となって、「やってやる」と殺気だって大混乱になった。だけど、警官隊にけ散らされて終わりだった。あの後、しばらく無力感が続いたね。おれにも、みんなにも。
 学生のころから、司法試験に挑戦していたんだが、なかなか合格しなくてね。大学を卒業して、大手のバス会社に就職した。本社勤務だったけど、最初はトイレ掃除からやらされたよ。2年くらいして、系列の松本のバス会社に行くことになった。その会社の経営が左前になって、本社から社長の弟が乗り込むことになり、「おまえは松本の出身なんだから、一緒についてこい」ってわけさ。それで司法試験のほうはあきらめることになった。  そこには7年いて、総務や経理で働いた。会社の経営の建て直しと、その後の東京資本の地方進出の足がかりを作るのが仕事だった。7年して、また本社に戻されることになり、それを機会に結婚したんだ。相手は松本のバス会社で一緒に働いていた子だよ。社内結婚ってやつだね。ちょうど、30歳になるときだった。結婚して子どもが三人できた。男一人に、女の子が二人。
本社に戻ってからは、人事課で働いた。何年かして、おれのことをかわいがってくれていた人事部長が辞めたんだ。サラリーマンなんて、上役の引きというか、後ろ盾があって「なんぼ」のものだからね。だんだんと人と争う競争社会にむなしさを感じるようになってきたんだ。サラリーマンはおれの性に合わないんじゃないかと思うようになってね。
  そのうちに欠勤しがちになって・・・・。朝、出勤するふりをして家を出るんだけど、会社には出ないで公園に行って、そこで酒ざんまいで過ごすようなことになっていった。「サラリーマンは気楽な稼業」とかいうのがあったが、おれにとっては決して気楽なもんじゃなかったよ。
  そんなおれに女房は愛想をつかして、子どもを連れて出ていったよ。それで会社も辞めた。36歳のときだったな。ただ、それからもいくつかの会社に就職して、サラリーマンは続けたんだ。手に職があるわけじゃないし、サラリーマンをするしかなかった。だが、サラリーマンの生活にむなしさを感じているのと、拘束されない暮らしを体が一度覚えちゃっているからね。どこも長続きしなくて、職場を転々と変えるばかりだった。
 90年ごろだったと思うが、新宿の路上で酒を飲んでいたおやじと知り合いになってね。そのおやじが 「サラリーマンのようなバカな商売は辞めろ」っていうんだ。「おやじ、何かいい商売はあるかい?」「おれにまかせろ」ってことになって、雑誌を拾い集める仕事を教えてくれた。おれも独身に戻っていたし、こういう商売もあるんだと思ってね。西口の地下通路に段ボールハウスをこしらえて、そこに住むようになったんだ。

■新宿には思い入れがある

 98年2月に新宿の段ボール村で火事があっただろう。おれも火元のすぐ近くの段ボールハウスに寝ていたんだよ。火元から10メートルくらいしか離れてなかったんじゃないかな。
「やけに暑いな」と思って目を覚ましたんだ。すると 「おやじ、出ろ!死んじゃうぞ!」って、消防士が段ボールハウスから引きずり出してくれた。それで助かった。
「なぎさ寮」には行かなかったよ。行った仲間でも、すぐに帰ってきちゃったのが多かったようだよ。好きなときに、好きな場所で寝られる生活をしていた者が、時間でしばられる生活なんて無理なんだよ。
  火事の後、自主退去になって、地上にいることが多くなった。ほら、ここは高速道路のバスターミナルがすぐそこだから、松本行きのバスもよく通るんだ。この間なんて知り合いの運転手に見つかっちゃってね。それからは松本行きのバスが通るたびに、顔を隠すようにしているよ。
  そうまでして新宿に居続けるのは、松本の人間にとってここは特別な街だから。東京に出てくるとき、最初におりる駅が新宿だし、帰るときもここから電車に乗る。だから故郷につながっている街なんだ。学生のころ、藤沢に住んでいたんだが、わざわざ小田急線を使って一時間以上かけて新宿に出て、それから学校に行ったこともある。新宿以外の街は知らないし、便利だし、ほかで暮らすことは考えられないな。まあ、住めば都だよ。
  今も雑誌を拾い集めるのを仕事にしている。拾った雑誌は路上の書店に卸すんだが、一冊50円くらいで引き取ってもらえるんだ。だから、稼げるときは日に1万円くらいになるよ。おれの場合は、京王線を使って八王子のほうまで拾いに行く。途中、明大前とか、大きな駅で途中下車しながらね。両手に100冊もの雑誌を下げて、(プラット)ホームからホームへと探して歩くわけだから、どこの駅の、どのホームにはエスカレーターがあって、ということを知っておくことが大切なんだ。でなかったら、100冊も持って移動なんかできないからね。
  雑誌拾いで稼いだカネで、月に一度は松本に帰るようにしているんだよ。最終の夜行列車に乗ると、朝には松本に着く。実家や女房子どもがいるあたりには近づけないけど、一日駅の周辺をフラフラするんだ。ホームレスをしている仲間もいて、話をしたりとか、命の洗濯になるね。そして、また夜行列車に乗って、新宿に戻ってくるんだ。
  今こうやって、ホームレスをしているのも、女房や子どもに愛想を尽かされたのが大きいんじゃないかと思うよ。それが原因だよね。未練はあるさ。特に子どもにはね。三人のうち、二人は医者になったってうわさを聞いた。おれの妹たちが学費を出してくれたらしい。ちゃんと育ったようで、それがせめてものなぐさめだね。
  先のことはあまり考えないな。ホームレスをしていると、人間が横着になるからね。本来は、こんな怠け者じゃあなかったんだけどね。今は一日、一日が過ごせれば、それでいいって感じだよ。それ以上は考えないことにしているんだ。 (■了)

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鎌田慧の現代を斬る/ムダな公共事業が地域を殺す

■月刊「記録」2001年5月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 最近、ムダなカネ遣いの現場をいくつか歩いた。ひとつは、諫早湾の干拓事業である。総工費2490億円といわれるこの環境大破壊事業は、予想通り、有明海を汚染している。ところが、農水省の「調査検討委員会」は少なくとも一年間締め切りにすると発表した。この鈍感さは、致命的だ。
 たしかに防潮堤に近い漁民は、防潮堤の内側に堆積したヘドロが流れだして、漁場を壊滅させると開門に反対している。漁業権を手放し、生活のために干拓工事にでているひとたちの反対だという報道もある。しかし、いま辛うじて残されている漁場が、ヘドロによって完全につぶされる、という彼らの不安は理解できる。それにたいして、ノリなどを生産している佐賀県や福岡県など水門から離れた漁師たちは、有明海全体に汚染が拡大する事態に強い不安を感じ、より早い時期の水門開放を求めている。
 このように漁民同士の間で対立しているが、解決策はある。長期的には自然の浄化力をあてにできるのだから、いま防潮堤の内側に堆積されたヘドロを浚渫するなど、除去してから開放すればいい。干拓事業を中止して、その予算を海の浄化に使うべきだ。
 それにしても、なんの意味ももたない税金のムダ遣いであった。はじめは農地を作るといい。そのあとは防災事業だといい換えて、しゃにむにゼネコンのための工事を強行。環境破壊のためにムダなカネを遣って、地元住民を対立させただけだ。
 諫早湾の次に訪ねたのは、熊本県の川辺川ダムだ。工事によって壊滅状態になる五木村のダムの工事を見て回った。川辺川は球磨川に合流する清流である。絶滅も危惧される動植物が生きる地域に、巨大なダム本体の建設工事がはじまろうとしている。
 すでに付け替え道路や建設道路が造られ、五木村の住民たちはそのあおりをくらい、移住をはじめている。ダム建設によって五木村1000戸のうち500戸が水没する、という。
 国土交通省は、ダム建設は防災のための事業だという。しかし計画発表の66年よりも、10数年前から電力需要をまかなうために、発電用のダムを建設するプランがあった。それが防災用というオブラートに包まれて強行されているのは、農地開発事業が防災用に化けた諫早湾のやり口を踏襲している。
 電力用のダムが防災用に変わったのは、60年代前半に3年間、連続して発生した洪水が原因だった。そのあと、まだこじつけが足りないと思ったのか、灌漑をふくめて多目的ダムといい換えている。しかし、すでに周辺の農家は水源を確保していて、これ以上の水は必要ない。つまり農民のいらない灌漑用水を、巨大なダムで造りだすというデタラメである。
 防災にかんしても、必ずしもダムが必要ではない。そもそも洪水の原因は、上流の山林を乱伐したことによる土砂崩れだった。つまり上流の森林をいかに手当てするかが重要なのだ。当時、土砂崩れによって発生した流木が、川辺川支流に造られていたダムに堆積して水位を上げ、工事にいたったといういきさつまである。
 ダムですべてを解決するという発想はすでに破綻している。ダムは水が貯まれば放水するという問題もふくむ。ダムの放水によって、人が事故に巻き込まれたのは記憶に新しい。ダム建設こそが洪水を誘発する構造を生んでいる。
 結局、ダム建設のホンネは、ゼネコンの需要拡大なのだ。巨大な公共事業の浪費と政治家への環流が、ここでもまたおこなわれている。

■コスト削減が事故生む原発

 浪費のきわめつけといえば、六ヶ所村の使用済み核燃料の再処理工場だ。計画されたころには、再処理工場、濃縮ウラン工場、低レベル核廃棄物貯蔵所、いわゆる3点セットを含めて1兆円といわれていた。なんといまは再処理工場だけで2兆1400億円という金額になっている。
 さらにこれ以外にも、プルサーマル計画が立ち上がっている。再処理工場でつくられたプルトニウムを、既存の原発に使う計画であるが、その燃料工場だけで1200億円が必要だという。もっとも危険なプルトニウムとウランの混合酸化物(MOX燃料)をつくるために、これだけ投資するなど信じられない。
 さらに高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)が、2020年までに4万本でると推定され、この処分地の代金だけで3兆円かかるといわれている。
 つまり核燃料サイクルは、これから膨大な資金をむさぼり食らう。しかし電力会社の地域の独占体制は、自由化によって崩れ、電力会社の足元自体が危うくなっている。
 自由化の方針によって、電力会社はやっとコストを意識するようになった。しかし核関係のコスト削減は、先日のJCOの悲惨にあらわれているように大事故と直結する。JCOはコスト削減のために、バケツを使うという前代未聞の発想をつくりだした。
 最近は原発の老朽化が進み、それのシュラウド(炉心隔壁)の補修工事などがおこわれている。新規立地が難しくなったので、少しでも長く使おうという作戦である。これの作業によって発生するのが大量の被曝者だ。これまで隠蔽されてきた日本の被曝労働者が、ついに労働災害の適用を受けるようになった。
 まだ氷山の一角でしかないが、最近では福島第一、第二原発で働いた労働者が労働災害として認定されている。これは白血病を発症して、半年ぐらいの間に死亡した例である。この人の認定は日本の原発で5人目となった。これ以外にJCOの労働者が急性被爆者として3人いるので、被曝労働者として国に認定されたのはようやく8人になった。
 いままで隠蔽されてきたのだが、これから被曝量の増大によって、大量の被爆者が発生していく可能性がある。原発は国の核戦略によっておこなわれてきたが、ついに厚生労働省も国策の犠牲者を認めざるを得ない状況になってきた。
 日本政府は、これから核燃料サイクルによって大量発生し、行き場を失うプルトニウムを、MOXによって消費させるという姑息な手段を考えている。だが、これにたいして福島県と新潟県の知事は拒否を表明している。 最近では、電源三法の交付金も浪費してしまい、新たに地方交付税を申請する自治体が増えている。再建団体指定に転落する恐れの自治体もでてきている。これまで造ったハコモノ(体育館や公民館など)の維持費が、財政逼迫の大きな理由である。
 原発がもたらすカネは、地方を豊かにはしない。こうした状況に気付いた地方自治体は、これ以上の危険をいやがってプルサーマル計画に疑念を示すようになった。福島県知事は1年間の凍結を打ちだし、つづいて新潟県もすでに搬入したMOX原料の装荷を認めていない。福島が実施したあとでないといやだ、というのが新潟県知事のいい分である。危険な廃物利用、プルサーマル計画は、この2人の知事によって歯止めがかかっている。
 すでに原発は行き詰まっている。使用済み核燃料は日々増大の一途をたどり、置き場に困っている原発会社は、プールの増設を要求しはじめている。核高レベル廃棄物を最終処分地に移すまでの中間貯蔵所建設も、焦眉の課題になっている。産廃以上の危険な高レベル廃棄物は、移動させないのが一番安全だ。

■コソドロを繰り返す隠蔽体質

 コストアップ、廃棄物処理、被曝労働者の難問は、住民をカネで黙らせてきた乱暴な開発のツケである。そうした腐った体質が、先日、ヤミ給与事件として発覚した。旧動燃とそれを引き継いだ核燃料開発サイクル機構では、事業費を給与に充てていたという。つまり事業を喰ってしまったわけで、普段おこなわれている事業が、いかにムダだったかを明らかにしている。
 旧動燃は高速増殖炉もんじゅのビデオを隠したり、再処理工場の事故でもデタラメ報告をしたりと、さんざん批判されて名前を変えた。実態は変わっていないのだから、秘密主義の陰湿体質は、改善されるわけがない。
 これは旧動燃だけの問題ではなくて、原発全体の欠陥である。すでに建設段階から、原発隠しで用地を買収するというコソドロのようなやり方が当たり前になっていた。用地買収の欺瞞だけではない。漁業権放棄にむけた漁業組合の買収や工作手段も、きわめて陰険なものであった。そして事故隠しに、給与ドロボウ。原発会社は闇の集団である。油断も隙もない。
 これから自由化もはじまり、天然ガスによる火力発電、あるいは燃料電池、風力などの新しい発電が一層進展する。ムダだらけの原発が、コストで対抗できるはずがない。再処理工場を建設されている六ヶ所村では、米国が本社のエンロンの関連会社が、天然ガスによる200万キロワットの大型火力発電所を建設すると発表した。
 こうした外国からの進出は、今後さらに進んでくる。原子力産業も効率化の波に煽られることになろう。すでに原発プラントを生産する電機メーカーにとって、原発はお荷物になりはじめている。ITの新規需要にむけて設備投資が必要な電機メーカーが、発電プラントの赤字によって足を引っ張られるという皮肉な状態がある。
 もしも、たとえ再処理工場が100パーセント安全である、といったにしても、すでにそのコストはフランスの3倍と推定されている。それだけのバカげたコストアップを認めてまで、プルサーマル計画を進めるのか。バカはやめたほうがいい。
 自民党の政治献金を請けてきた銀行やゼネコンなどが優遇され、国の金庫に穴をあけてきた。そうした企業が、その上がりをまた自民党政治家にもどす。こうしたムダ遣いのサイクルは、国民の目にも明らかになり、自民党候補の落選が各自治体でつづいている。
 このまま諫早湾干拓、川辺川ダム建設、六ヶ所再処理工場の建設など、バカげた投資が進められれば、自民党の崩壊はさらに進む。自民党がどうなろうと知ったことではないが、ムダはストップして、引き返す勇気が必要だ。
 神戸市の市営空港の虚大開発、あるいは自衛隊の空中空輸機の購入など、まだまだ監視すべきムダは多い。孫の代まで残る巨大債権をどう解消するのか。あるいはあらたな日本をどうつくるのか。ムダだらけの公共事業をストップさせる。そこから世直しの道がひらかれる。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/ライオンヘアーに隠されたタカ派・小泉の危険

■月刊「記録」2001年6月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■中曽根稚児政権

 おおかたの予想に反して、小泉内閣が誕生した。成立当初の支持率は、各マスコミの調査で80パーセント以上を記録した。これは小泉純一郎人気の高さをあらわしたものだと伝えられているが、純粋にそうともいいきれいない。竹下内閣と並ぶ、史上最低9パーンセントの支持率を誇った森喜朗前首相への反動である。人間あまりにもひどいめに遭えば、予想外のなにかに期待したくなるものだ。
 高支持率で調子にのった小泉は、「新世紀維新」や「改革断行内閣」はては「政権交代のようなもの」と、自らの内閣を自画自賛している。また首相に就くと同時に首相公選論をテコにした改憲をブチ挙げている。断末魔の自民党は、「調整型」の総理から、「アジテーター型」への転換によって生き延びようとしている。
 藪から棒の首相公選論が、国民から支持されている理由は、デタラメだった前首相がちっとも退任に追い込まれなかった苛立ちからで、本気で考えているわけではない。
 忘れてはならないのは、ほとんどのひとたちをイライラさせた首相を支えていたのは、ほかならぬ小泉だったことだ。森派会長として忠義を尽くし、森がどんなに批判されても国民に敵対して森政権を支えつづけた。バカを支えて自分の人気取りに利用するなど、国民を愚弄するにもほどがある。
 まちがっては困るのは、小泉を支持する投票をしたのは国民ではなく、自民党員である。いわば特権階級内の選挙で選ばれたのだ。くたばれ!自民党の党員たちは、7月の参院選挙で負けると利権構造が解体される、という危機感から、「改革断行」を強調する小泉を支持したにすぎない。
 だいたい小泉の語る「改革」は、歴史を逆行する改悪でしかない。彼が総裁選挙中からわめいていた靖国神社の公式参拝など、戦前回帰そのものである。靖国神社は、軍国主義の象徴であるばかりではない。政教分離を定めた憲法20条に違憲するとして、公式参拝がつねに問題になっていた場所である。
 それを彼は、「日本の発展は貴い命の犠牲の上に成り立っている。戦没者慰霊祭の日に、そういう純粋な気持ちを参拝で表すのは当然ではないか」と、新総裁会見でいいはなった。「(公式参拝は)違憲の疑いを否定できない」との80年の政府統一見解をうち捨て、憲法違反を承知で参拝しようとしている。
 首相公選論、あるいは靖国参拝強硬で思いつくのは、中曽根康弘“大勲位”である。彼も若いときから首相公選を唱え、首相になってから靖国に公式参拝し、世論から批判されたことがある。この中曽根と森と石原慎太郎、いわば自民党右派勢力の謀議が、小泉の総裁選に大きな影響をあたえたことを忘れてはいけない。
 森は、青木幹雄、野中広務、村上正邦、亀井静香など自身をふくめた5人組によって首相におさまった。小泉の場合も、おなじような密談が都内の料亭でおこなわれたのである。
『朝日新聞』4月25日号によれば、「橋本君はかわいくない」と中曽根は森に語ったそうである。つまり小泉政権は中曽根にかわいがられた「中曽根稚児政権」といってもいい。
 こうして、小泉は、「右翼片肺内閣」をつくりあげた。
 防衛庁長官に起用された防衛大学出身の中谷元は、憲法改悪論者である。政調会長の麻生太郎は、総裁選で9条書き換えを言明していた。自民党幹事長の山崎拓などは、いまや公然と憲法改悪をブチあげ、「改憲して集団的自衛権を行使すべきだ」などとほざいている。小泉だって負けてはいない。
「集団的自衛権はあるが行使できないというのが今までの解釈だ。私は憲法改正が望ましいという考えを持っている。国益に一番大事なのは、日米の友好だ。日本近海で共同活動している米軍が攻撃を受けたとき、日本が何もしないことができるのか。すぐに憲法解釈を変えろということではないが、あらゆる事態を研究する必要がある」
「『憲法はこうすれば改正できる』と国民に理解されやすいのが首相公選制だ。ほかの条文は一切いじらない。具体的な改正で、改正手続きも鮮明になる」(『朝日新聞』4月28日)
 首相就任するやいないや、憲法改憲を公言したのは小泉が最初であった。しかも集団的自衛権の行使、つまり米国と一緒に戦争すると公言したのである。首相公選論などネズミ取りの毒まんじゅうである。

■この女性入閣でなにが変わる?

 このように危険な内閣の登場を、マスコミはさっぱり批判せず、バンザイ報道するのは犯罪的だ。なんとか不況を脱してほしいという庶民の期待を小泉にむけさせ、担ぎ上げている。眼くらまし報道だ。
 組閣当時、『毎日新聞』は一面に大きく女性閣僚5人の写真を入れて、小泉内閣の登場を祝った。女性が入閣したのは評価すべきことであったにせよ、まるで奉祝新聞だった。
 国土交通大臣の扇千景は、いわずとしれた改憲論者。法務大臣の森山真弓は、労働省の官僚出身、死刑執行について、「法秩序の維持が必要な場合はやむを得ない」と言明した死刑断行派。文部科学大臣の遠山敦子は文化庁長官だった人物で、教育基本法の改革路線をつづけるという。環境の川口順子大臣は、旧通産省の審議官で環境破壊を推進してきた官庁の幹部である。田中真紀子は、いわば小泉人気の生み母でもある。
 5人の女性が閣僚に選ばれたのはいい。しかし、これでなにが変わるのだろうか。
 おなじ『毎日新聞』でも、5月11日の記事は眼をみはるほどで、「『改憲内閣』の様相 小泉首相、9条に踏みこむ」と見出しを掲げた。大新聞には珍しく代表質問の本質をズバリと付いた記事であった。『朝日新聞』などと比べても、きわめて明確な紙面づくりだといえる。さらに「小泉首相の改憲発言の変遷」という欄までつくり、彼の危険な思想をあきらかにした。
 小泉首相は、9条および前文の削除をターゲットにしている。憲法改正手続きの簡略化も、自民党内で企てられている。かつては石原慎太郎が唱えていたが、いまは幹事長の山崎拓などが「憲法改正を発議する要件としての国会議員の3分の2以上の賛成を、過半数の賛成に緩和すべき」などと発言している。こうした内閣が、どうして80パーセント以上の拍手によって迎えられるのか。人気に迎合し、危険性を指摘できないマスコミの怯懦は、歴史に禍根を残す。
 自民党が突出した異常な状態にありながら、最大野党の民主党は対決姿勢を明確にしていない。民主党自身内部に改憲論者を抱えているからである。鳩山由起夫代表からして、改憲論者であり、幹事長の菅直人も「改正議論をタブー視はしない。国民的な合意が得られる課題から改正していくというのはひとつのやり方で、9条改正の突破口になるから反対という意見にもくみしない。憲法を自分の力で変えられるかどうかは、日本の民主主義の強さが試される問題だと思うからです」と『朝日新聞』(5月14日)のインタビューに答えている。「柔軟」な姿勢での対応は、党内世論の反映である。自民党のように、政策抜きの野合集団でしかない民主党の弱点が憲法問題に極端な形であらわれている。

■弱肉強食政策が日本を失業者だらけに

 首相に就任して以来、小泉が強調しているのが、「構造改革」である。「構造改革なくして景気回復なし」という発言を、なんどとなく繰り返している。では、景気回復の目玉である経済改革とは、どんなものか。
「構造改革を実施する過程で、非効率な部分の淘汰が生じ、社会のなかに痛みを伴う事態が生じることもあります」
 この発言は、小泉の所信表明演説で語られたものだ。読めばわかるとおり、彼の経済改革は弱者切り捨ての論理であり、強者にくみしたグローバリゼーションへのシフトを明確にしている。つまり大企業バンザイ主義である。いかに大企業の暴走をチェックして、国民の生活を安定させていくかという視点を、まったく欠いている。 さらに驚くべきことには、終身雇用制の抜本的な見直しを厚生労働省に指示している。
①2、3年の期限付き雇用の対象拡大
②解雇ルールの明確化
 これらの方針は、生涯雇用を中心にした現在の雇用制度を抜本的に変えてしまう。2~3年の雇用が広がるということは、2~3年でクビにされるのが前提の、いわば一億総臨時工化となる。解雇が全面的に進められていくことになる。彼の経済改革の本質は、ここに見事にあられている。こんな政策で景気が復活するはずもない。 最近の欧州の政策は、いかに雇用をつくるのかが重要視されている。ドイツやフランスなどで雇用が急速に改善してきているのは、ワークシェアリング、つまり仕事の分かちあいによるものだ。
 フランスでは、週35時間労働制となり、法定労働時間はさらに週4時間も減らされた。ドイツでも長期失業者の再雇用プログラムが実施され、あらたに雇用された労働者の賃金の半分は、地元の労働局が補助する政策をとっている。
 労働時間を短縮し、その分だけ雇用を増やす。あるいは失業者を公的な仕事によって救う。こうした先進国の分かちあい政策と逆に、小泉の解雇政策は失業者を増大させていくだけだ。
 また、彼が断行しようとしている不良債権の最終処理にも、多くの危険がある。都市銀行などが抱えている不良債権を処理するために、融資先の企業を整理すれば、ゼネコンなどの倒産が急激に進む。一説には、建設業だけで50万人以上の失業者が生まれるという。このように弱肉強食の改革が、国民の生活にプラスとなることはありえない。
 今回の組閣で経済財政政策担当大臣となった竹中平蔵は、ソフトムードで人気も高い。しかし、もともと森内閣の経済担当顧問として働いていた「教授」であり、現実についてはなにも知らない。金もち優遇政策も変わらない。ソフトイメージとは裏腹に、極端な弱肉強食主義者である竹中は、労働者をどん底に突き落とすだろう。 小泉政権が掲げる前近代的な政策が「構造改革」という名によってもちあげられているのは、マスコミの犯罪行為である。内閣誕生当初のご祝儀記事はいつもの例だが、そろそろ小泉内閣の問題点を書かなければ、ジャーナリズムなど存在理由はない。 (■談)

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コギャル、世相を語る!

■月刊『記録』96年8月号掲載記事

■渋谷の女子高生にインタビュー!

*未熟で派手な女の子を笑い、軽蔑することで、大人はカタルシスを得る。でも彼女らは偉そうにしている大人に比べ本当に「分かってない」のか。7月の数日間、昼過ぎから渋谷109の前で、質問表(バブル崩壊、沖縄問題、住専問題などの項目を書いた表)を手にコギャル風の女の子に声をかけて歩いた。答えてくれた女の子は15~18歳で、ほとんどが現役高校生。

●バブル崩壊
◎就職ないよ
 バブルは経済が調子よかったのが、一気に落ちたことでしょ。あのままバブルが続いていればよかったのにー、今年就職だからー。金融関係狙っているんだけれど、まだ決まっていない。バブル続いていたらもう楽勝ー。(高3・ナオミ)

●沖縄問題
◎人工島を造ろう
 少女がさらわれて、やられちゃった事件でしょ。自分がやられちゃったら怖いです。でもー、沖縄の問題だから実感がわかない。東京に基地を持ってくるわけにもいかないし、政治家も嫌でしょ。北海道とかにあっても困るしねー。沖縄はアメリカに占領されてたからしょうがないよね。でも、沖縄もかわいそうだからー。そうだ、ゴミも余っているし、埋め立ての人工島を造って基地を移せばいいと思う。(高1・アヤコ)

●住専問題
◎ケツは自分でふけ
 自分達の借金を私達にかぶらさせるな。金かえせ。すっごくずーずーしい。国民をなめんじゃねー。自分のケツは、自分でふけって感じかな。(高1・ユウコ)
◎大蔵省が悪い
 別に税金を使うのは腹立たない。お金貸したところと大蔵省は悪いと思う。お金はきちんと返しましょう。(高2・ユミコ)

●薬害エイズ
◎土下座じゃすまない
 土下座しているだけじゃ、問題解決にならない。謝るだけだったら自分もエイズになれって感じ。それから忘れたけど、あのおやじは悪い。ニュースとかで、どなっていた奴(安部英氏のことか)は悪い。(高1・ユウコ)
◎すぐ使用をやめれば
 非加熱製剤を厚生省がシカトして使っていた事件でしょ。とりあえず血友病じゃなくてよかったけど、手術とかでも使っていたんでしょ。非加熱製剤でエイズになるのがわかった時に、すぐ使うのを止めていればよかったと思う。自分がエイズになるのは怖いー。(高1・アキ)
◎病院がいけない
 薬害エイズは厳しいと思う。世の中厳しいーて感じがする。やっぱり薬を渡した病院がいけないと思う。もし、私がエイズになったら、やりたいことやりつくす。(高1・ヒトミ)
◎偏見があるかも
 薬害エイズは、非加熱製剤を使っちゃいけにのに、厚生省が使ったから1番悪いんでしょう?使えるかどうか決めるのは、厚生省なんだから。もし自分が感染してしたら、発病しないかもしれないし、親には絶対に言えない。自分のせいで他人に感染させてたら、怖くて言い出せないと思う。でも、こんなふうに考えるのはエイズに対する偏見があるからかも。アメリカみたいに、みんなが言えるようになれば違うと思う。(高1・アイ)
◎なる人が悪い
 えー、エイズ。つうかー、なる人が悪いと思う。生活乱れている人がなるんでしょ。私は大丈夫。ぜんぜんオッケー。(笑)。(高1・カヨ)
◎ばっくれるんじゃない
 安部が悪い。だって、ばっくれているから。厚生省の責任の取り方も変だと思う。正直に謝ればいいのに、言っていることはよくわからないし、何かぼかしてる。はっきり言わないのはダメ。みんな悪いと言っているのに、ばっくれ続けて、謝らないのは変だと思う。しかも実験みたいなこともしてたんでしょ。なんか記録付けてたらしいし。アホじゃんと思う。信じられない。人間じゃない。人殺してるんだから認めろ。
 自分もエイズは怖いと思う。だから自分だったら絶対感染は隠すと思う。信用している人だけに言うかもしれないけど。親に言えるかどうかはわからないな。エイズに対する偏見もあるでしょ。きっと日本も、だんだんアメリカみたいに感染者が表に出てくると思う。アメリカも家を燃やされたりした人もいたみたいだけど、日本より偏見がないと思う。(高1・モエ)
◎きちんと調べろ
 知ってて輸血しちゃったやつでしょ。もっときちんと調べてほしいと思う。病院はいばってて、患者に教えなかったから一番悪い。とにかく、直す方法が見つかれば、みんな助かるじゃん。(高1・アツコ)
◎オウムと一緒
 ずるいと思う。だって前からエイズだってわかっていたのに、止めようとしないで被害広げただけだし、今になって申し訳にないって言っても申し訳なさが感じられない。土下座するのも当たり前のことだしー。もっと早くに適切な処置をして欲しかった。まるでオウムと一緒だよね。もっと早くに手を打っていれば、こんな大きな被害にならなかったしー、私は多くの犠牲者のために治療薬が早く開発してほしいと思う。
 私はエイズに対する偏見もないです。だってー、いつ自分がかかるかわからないじゃない。だから私は医療機関が信じられなーい。だから注射する時とか超チェックしてる。献血とか16になったらしたいと思っていたけど、今は全然したいと思わない。怖いから。医療機関の信頼が失われただけだと思う。責任転換しないで、早く責任認めてー。国が責任転換するのはずるい。今の世の中がこんなになっちゃったのもわかるよね。本当に行き過ぎちゃったみたいな世の中だよね。うまく言えないけど、わかるような感じしません?私、結構社会問題好きなの。(高2・トシコ)
◎いろいろ知りたい
 川田龍平君の問題でしょ。今なんか、アメリカかなんかの国をまわっているんでしょ。あのお母さんが、日本の裁判に勝ったことなんかを報告したいなんて言っていたけど、いろんなところで薬害エイズのことを話してほしいです。(高2・アキコ)
◎日本は終わりだ
 厚生省しか知りませよー。厚生省は責任感がない。なんかファイルかなんかとっていて、それにミスかなんかあったんですよね。日本はもう終わりだなーとか思いました。今、直す薬とかもないから、厚生省とかちゃんとやって、2度とないようにしなくちゃいけない。(高1・アキ)
◎やばいよね
 治療薬出たんでしょ。なんかすごい高いやつ。薬害エイズかわからないけど、エイズにかかっている患者が2000人だけど、倍の4000人に増えちゃうとか言って、やばいよねー。(高1・アケミ)
◎エッチしなくても
 エイズはやばいよね。なんかね、気持ち悪いよー。なんか怖い。えー、エッチしてなくてもエイズになるんだー。(高3・ユカ)

●もんじゅのナトリウム漏れ
◎自殺者かわいそう
 自殺した人がかわいそう。1回しかニュース出なかったし。もっと何回も映してあげればよかっのに。発電所とか爆発してぐちゃぐちゃになったりしたら、放射能が散ったりしたら心配。(高1・タマエ)
◎原発は必要ない
 全然わかんない。もれてー、なんだっけ爆発しちゃったんだっけ。ミスがあったんでしょ。もっとちゃんと、こまめに点検していればよかった。やっぱ、そういう危ないものを扱っているんだから。でも爆発しても、自分には関係ないと思う。わかんないけどー、あまり考えてなかったから。原発は必要ないと思うから、何かで代用してほしい。太陽エネルギーとか。(高1・アサミ)

●従軍慰安婦問題などの戦後責任
◎スッゲーかわいそう
 今頃、謝っても遅いと思う。スッゲーかわいそう。無理矢理やられちゃって、ひどすぎる。昨日、学校の試験問題で出た。語句の意味とか、自分の意見を書くの。でも、慰安婦の中には、お金もらっている人もいたんじゃないのかなー。(高1・タマエ)
◎戦争は絶対にやだ
 ニュースで見たんですけど、長崎かなー。よくわからないけど、何かアメリカに対して怒っていたけど、結局戦争になったのは日本も悪いわけだから、今になってアメリカが悪いとかは変だよね。たしかに爆弾落とされてー、被害に遭った人はかわいそうだけど、原爆を受けて戦争が止んだのは事実なんだから、被害受けた人には悪いけど、アメリカは責められない。でもー、戦争は絶対にやだ。(高2・トシコ)

●都市博覧会中止と臨海副都心問題
◎ドタキャンやめろ
 これは言いたい!ここまで作っておいて、やめるな。無駄なお金を使って、どうするの。ドタキャンやめろ。やめるなら1年前にしてよね。(高1・ユウコ)
◎青山じゃなくて・・・・
 あ、あれだべ。青山じゃなくて、青森じゃなくて、青野じゃなくて、青島だ。その問題でしょ。(高3・アキコ)

●オウムへの破防法問題
◎適用してほしい
 オウムには破防法を適用してほしい。あんな怖い団体ほっといたら、世の中渡っていけない。最近は、ニュースでもオウム問題をあまりやらないから、犯人がまだ逃げまわっているような感覚なくなってくるけど、思い出すと怖い。(高1・エミリ)

●ラビン首相暗殺と中東和平
◎常識だよ
 えー、ラビン首相暗殺、誰も答えてないの。常識だよー。殺されたんでしょ。まー、宗教問題は複雑っていうところかな。(高1・ユミ)

●アメリカ大統領選挙
◎クリントンが勝つ
 クリントンが勝つと思う。でも、彼いろいろ問題があるじゃないですか、何だっけ、WWだっけ?どうだろうなーとは思うけど。でも、クリントンが勝ったほうがいいと思う。2期目だから、やっぱいろんなことを学んで、知識も豊富になっていると思うし、クリントンさんを支援する人もやっぱ多いしこのまま流れでいくと思う。(高2・ユキ)

●中国・台湾問題
◎確か返還?
 これ、今年返還されちゃうやつ?。(高2・サチコ)

●アウンサン・スーチー女史軟禁について
◎かっこいい
 監禁された人でしょ。かっこいい。自分の主張を貫いているところがいいと思う。(高1・ユカリ)
◎民主主義はいい
 あのきれいな人ですよね。ミャンマーの人。監禁されていたんですよね。この前、ニュースでやってた。なんか、また捕まちゃうんでしょ。あ、周りの人が捕まったのかな。当たった。すごいね。私、暇だからニュース見てるの。民主主義にやっているんですよね?民主主義はいいと思うんで、捕まっちゃいけないと思う。発言の自由とかそういうのがあって、やっぱスーチーさんは自分の意見を人に伝えようとしているんだから、邪魔しちゃいけないと思います。スーチーさん、かわいそー。(高1・アキ)
◎女性なのにすごい
 テレビで見た。頑張ってほしい。民主化運動を進めるために自分の考えを持っている。日本にはいないタイプの人。女性なのに指導者なのもすごいと思う。きれいだしー。(高3・トモミ)
◎サミットすれば
 授業で習った。プリントの最後の方に載ってたよね。スーチーさんを捕まえたのは悪いよー。反対派は自分の国だけでやろうとしているから、みんなで仲良くするように変えた方がいいよね。まるでオウムみたいな国だよ。日本は応援すればいいよ。応援なんかしちゃだめかー。援助すればいい。何か送ればいい。何か物資を。あ、話し合うのもいい。各国が集まって、サミットすればいい。(高3・アキコ)

●いじめ
◎死ぬ前に何かやれ
 からかったことはあるよ。周りに流されて、ふざけただけ。でも自殺する人はいなかった。普通しないよ。死ぬ前に何かやれって言いたい。爆発して、お金使いまくるとか、いじめた奴に復習するとか、万引きすることか。せこいかーなー。でも親に相談して学校を変えたり、家で勉強したりすれば、とりあえずいじめられないと思う。(高1・ユウコ)
◎身近な相談相手を
 小学校でいじめられたことはあった。でも自殺を考えたことはないと思う。道路に飛び出しそうになったけど、それも無意識だった。突然、このまま道路に飛び出したらどうなるかなーて考えてて、飛び出しそうになっていた。私は救ってくれる人がいたから助かったけど。いじめられて夜の街をさまよっていたときに、地元のチーマーとであって、「そんなに考え込まなくていいんだよ」て言われたのが救いになった。いじめで自殺したニュースを聞くと、かわいそうだと思う。身近に救ってくれる人がいないと、きついかもしれない。(18歳・リサ)
◎相談するのは友達
 いじめの範囲がわからない。いじめと思えない場合もあるしー。でも、いじめぐらいで死んだらダメだよね。周りの人に相談すればよかったと思う。だいたい相談するのは友達だから、友達のいない子はダメ。(高1・ヒトミ)
◎どっちも悪い
 うちの学校も陰では、いじめがある。それは基本でしょ。絶対あるもん。いじめる方も、いじめられる方も悪いと思う。弱いから、いじめられるんだよね。自分の意見を言わない人とか、ニョマニョマしている人とか。とにかく弱くて、それにむかついて、ほっとけばいいのにいじめるから、いじめはなくならない。先生も話は聞いてくれないし。大丈夫だからとか言って、何もしない。先生のやり方も悪いと思う。学校の先生が、全員「みにくいアヒルの子」に出てくる先生みたいだったら、いじめもなくなるかもしれない。(高1・ユキ)
◎解決方法はない
 きょひる(登校拒否)ようないじめはない。ちょっとぐらいはあるけど。シカトしたりとか、靴を隠したりとかの嫌がらせとか。昔は陰でいじめてたけど、今は目の前で「うっせーんだよ」なんて言うのもある。いじめてる人数が多ければ多いほど、周りに流されていじめちゃう。解決方法はないと思う。1度むかつくと、全てがむかついてくるし。そのうちにほっとくようになる。相手にしないからいいやて感じになるかな。時間が経つとなくなる。
 ニュースとかで自殺した人の話を聞くと、そこまでいじめられたら自殺する気持ちもわかる。自分の立場だったら、どうしようもないと思う。自分の周りに自殺した人がいないからわからないけど。いじめている側は、いじめている時はわからないかもしれない。いじめていると考えていないことも多いから、やられないとわからないかもしれない。ちょっとふざけているだけって、考えていることも多いし。でも、うちの学校はいじめられている子はいないと思う。(高1・トモミ)
◎両方ともよい経験
 これも社会問題すよね。だっていじめてたことも、いじめられたこともあって、両方あったから感じるけどー、いじめって誰が悪いとも言えないし、いじめられる側にも問題があると思う。ハッキリしないとか、私はダメだからと思っているとかね。
 やっぱり子どもの性格は3歳までに決まるっていうから、親がしっかりすればいじめれないと思う。私は環境が変わって、小学校から中学に進学して、いじめられなくなった。小学校の高学年ぐらいからいじめが始まった。結局、小学校時代にいじめたり、いじめられたりしたけど、今になって思えば両方ともよい経験だったなーと思う。だから今はいじめをしようなんて気にならないしー。いじめてる人はかわいそうー。要は寂しくかまってほしいからいじめているんだと思う。(高2・トシコ)
◎自分に返ってきそう
 私はいじめません。人をいじめていると、いつかは自分に返ってきそうで怖い。いじめられる人も、強くなればいじめられないと思う。(高2・ナオ)
◎強くなれ
 強く生きなきゃねー。いじめられている人も、はっきりものを言わないからだめだと思う。(高1・トモミ)
◎先生はあてにならない
 いじめられたこともないし、いじめたこともない。シカトとか、嫌みを言ったことはあっても、いじめまではいっていないと思う。相談できる人がいれば、自殺まではしないと思う。いじめられちゃう人は、人並みはずれている変な人だよね。あと自分より弱い奴とかね。先生もあてにならない。だいたい生徒との交流がないし、まじめに考えてくれそうにないから相談する気にならない。何か相談しても、「様子みてから」なんて言いそう。小学校の時の先生だったらよかった。生徒と仲良かったしー、名前で呼べる先生だった。(高1・ハルナ)
◎自殺はよくない
 え、これ雑誌に載るの。やべー。じゃー、スッゲー本気で答えるよ。岐阜かなんかで、いじめの相談をうけられるようにテレホンカードが出されているって聞いたよ。市とかで、いじめの119番?、100番?、110番をやっていてー、いじめをなくそうとしている。最近は若者がオヤジ狩りとかもしているから、それもいけないと思う。オヤジ狩りは、世間に対する不満の爆発の表れというかー。今、世の中がおかしくなっているから、コギャルとかがお母さんになったりとかね、チーマーとかがお父さんになったりとかするのがね、私はとても不安なんです。今、オヤジ狩りとか売春とかしているでしょ。それはね、いけないんだよ。これから日本はどんなになるか、わからないからね。
 私はこんなカッコしてるけど、売春とかしてないしー。私はボランティア好きなの。例えば、手話習ったの。まあー、偉そうなことはいえないけど。いじめはよくないなーと思う。でもいじめてる方も、家庭とかで寂しいこととかあって、そういう方に行っちゃうんじゃないかなーと思うけどー。いじめられる方もね。自殺することはないんじゃないかなーと思う。自殺はよくないんだよ。誰か頼れる人がいたら自殺はしないんだけど、でも、このご時世、あんまり人と関わり持たないから。私は親友がいるから、いじめられても自殺しないよねー。私達を嫌う人もいるし、好いてくれる人もいる。嫌われるから、すぐいじめになるわけでもないしー。うちらはいじめとは関係ないよ。好き嫌いだもん。
 1人がいじめられ始めると、自分がいじめられるのが嫌だから、いじめている方に付かなきゃいけないっていう原理だ。いじめてれば、自分はいじめられる心配はないからー、どんどんいじめる方は、増えていっちゃうんだよ。大勢にやられちゃうと、1人の殻に閉じこもっちゃうから、どうしようもなくなって自殺になっちゃうんだよね。(高3・アキコ)
◎いじめられっ子立ち上がれ
 いじめは、いじめられる方に問題がある。本人が前向きじゃないから。いじめられて口惜しいと思う強い力があれば、いじめもなくなる。いじめられて死ぬ奴は、そのまま生きていても生きていけないんじゃないかなー。いじめる方にも問題はあるんだけれど、それでくだらない奴らにいじめられたぐらいで死ぬのは、人生もったいないよね。立ち上がれいじめられっこ軍団。恥ずかしいぞ。(16歳・ノゾミ)

●インターネット
◎友達がほしい
 よくわからないけど、やりたーい。インターネット・フレンドを作りたい。(高1・エミリ)
◎買い物したい
 いろんな情報がありそう。家でショッピングできるのがいいな。でも、画面とか見るだけだから、洋服とかは買わないと思う。やっぱり店で実物をみないと、服は買えないからショッピングは無くならないと思う。日用品を買いたい。でも後で請求がくるのが怖いなー。高校生だからカードとか持っていないし、後でまとめてお金を請求されても困る。インターネットを利用しているときは、別に高校生だとわからないと思うし。(高1・マスミ)
◎お母さんがやってる
 お母さんが、インターネットをやっている。でも私みているだけだからー。H情報が入ってるってー。(高1・リエ)

●ジャンボ尾崎のメジャー敗退
◎賞取ってこい
 えばってばかりいて、言いたいなら海外でも賞を取れ。(高1・ユウコ)
◎ファンなの
 私ジャンボ尾崎のファンなの。なんてねー。(高3・タカコ)

●狂牛病
◎牛を殺すのはかわいそう
 親がダメって牛肉を食べさせてくれなかった。私も怖いと思ったけど、東京には関係ないかなーて感じ。あんまり気にしてない。とにかく親は気にしてた。かかちゃったらしょうがないけれど、牛を全部殺すのはかわいそう。はやく薬を作ってほしい。(高1・ユウコ)
◎怖いけど食べてる
 牛の頭がスカスカになっちゃう病気でしょ。日本人も食べると、頭スカスカになっちゃうんですよね。今でも結構怖いです。とにかく食べ放題の焼き肉屋は危ないと思う。でも余裕で食べてる。この前も日暮里の焼き肉屋で食べた。自分が狂牛病になるのは怖い。お店で食べると、どんな肉使っているかわからないし、何か安い肉仕入れていそう。(高2・ユミコ)
◎牛は好きなの
 500万頭ぐらい殺しているんでしょ。牛がかわいそう。ねぇ、聞いて、聞いて。私、牛は好きなの。(高1・アキ)
◎今は食べない
 牛が病気になって、食べた人間に病気が広がっていくんでしょ。怖いとはいつも思ってる。特に外国で牛肉を食べるのは絶対に嫌だ。日本でも何だか怖いよね。北海道でも病気がみつかったんでしょ。それに輸入禁止しているのも信じられない。輸入の方が安いから、安いのは何でも使っちゃえて感じで、出回っていると思う。この前もタイ米を輸入してたけど、パサパサしてすっごくまずかったし。安ければ何でも輸入しちゃうんだろう思う。とにかく今は、食べないようにしています。(高1・マユ)
◎親が買ってきちゃう
 私、怖いー。そんなこと言っても、牛肉は食べちゃうけど。でも怖い。けどおいしいから食べちゃう。親が買ってきちゃうし。(高2・サチコ)
◎どうしようもない
 牛を食べると病気になるやつでしょ。怖いから、牛肉はあまり食べないようにしている。たしかにちょっと考えることもあるけど、親も牛肉を買ってくるしー、日本に影響があるのかもわからないから、どうしようもない。。高2・ユミ)
◎別に気にしてない
 さっき牛食べた。ハンバーガーだけど。怖いとは思わない。身近に感じられない。日本でなくないからー。日本でなった人いないよね?さすがに日本でなった人が出れば、牛肉を食べないと思う。もちろん日本の牛がなっても食べない。今は何か輸入していないって聞いたから別に気にしてない。(高1・カツミ)
◎昨日も豚のすき焼き
 ママが豚肉ばっかり買ってきてる。イギリスの問題だけど、危ないからって。国内の牛は平気だと思うんだけどー、やっぱり怖いからって。昨日も豚のすき焼きだった。マクドナルドとかもこわいけどー、しょうがないからねー。(高3・サヤカ)
◎マックなんか怖い
 牛の頭がフカフカになって、イギリスの問題だよね。テレビで見た。食べたらなっちゃうんだよね。日本は輸入制限をしていて、心配ないけどあんまり食べないようにしている。知っているのは、友達いなくて暇だから、テレビ見てるからー。日本に入ってきたら怖いと思うけど、食べてるー。みんな食べてるからいいやーと思って。マックなんか怖いよね。なんか牛だけじゃなく、他の動物もなるんだよね。(高2・レイコ)

●ウィンドウズ95発売
◎機能が付き過ぎ
 知ってる。学校で使ってる。なんかわけわからない。機能が付き過ぎてる。もっと簡単だったらいいと思う。(高1・チアキ)

●パチンコ・プリペイドカード変造
◎カード会社がかわいそう
 カード会社がかわいそうだと思う。お金を払わない人が、どんどん儲けているし。(高2・ユミコ)
◎イラン人はフレンドリー
 パチンコのカードはすぐには手に入らないけど、テレカとかすぐ手に入るよ。だから偽造テレカとかも悪いものとは思っていないよね。先生に見られても何もいわれないし、親も何も言わない。今さ、普通のテレカ持っている方が珍しくない?普通のテレカもっていると、エッなんで、て感じ。普通のテレカ持っていても、使い終わったら5枚で偽造テレカに換えちゃうもんね。イラン人もフレンドリーで、女の子におまけしてくれたりやさしかったよね。(高3・ヒロミ)
◎偽造もいい
 偽造もいいと思う。お金ないもん。パチンコで暮らしている人は、がんばってくれればいい。(高3・ユカ)

 予想通りコギャルにとっては、かなりきつい問題だったようで、「わからなーい」「知らなーい。を連発され、時に事実誤認の答えを正したい衝動にかられつつも、ひたすらに聞き役にまわった。
 まるで宇宙人のようなコギャルには、つける薬もないと考える読者も多いかもしれないが、どうしてバカにできない。
 まず、彼女達は事実誤認があっても堂々と主張する態度を身につけている。また、個々の質問に対する問題意識は、正誤を含めて一般的な「大人」と比べても差はない。コギャルをバカ扱いしている大人の側が、果たして優れているといえるのだろうか。(■了)

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「テレクラつぶし」という名のバカ政策

■月刊『記録』97年10月号掲載記事

■東京では八割が閉店

 いったい何を規制したいのか皆目検討もつかない条例が、八月一三日に東京都で施行された。正式名称を「東京都テレホンクラブ等営業及びデートクラブ営業の規制に関する条例」という。舌を噛みそうなほど長い名前の法律だが、今年の五月から新聞紙上でもテレクラ規制条例として騒がれていたため、知っている読者も多いだろう。
 この条例、目的として「青少年の健全な育成を阻害する行為の防止」と、「清浄な風俗環境の保持」をうたっている。つまり青少年がテレホンクラブやデートクラブを利用しないようにするとともに、健全な環境を整えましょう、ということらしい。実際、この条例について、東京都生活文化局女性青少年部青少年課の平林宣広次長は、「テレクラやデートクラブを潰そうというのではなく、青少年の健全な育成のために、性に関わる産業と青少年との棲み分けをお願いしたいということなのです。最近騒がれている中高生の売春を減らすための規制です」と語っている。
 しかし、その「棲み分けのお願い」の実態とは次のようなものである。テレホンクラブなどの営業は公安委員会への届け出制となり、小・中・高校、児童福祉施設、図書館、病院などから二〇〇m内と、住宅地域での営業の禁止。禁止区域にある店舗は、二年後までに転居もしくは閉店となる。またチラシやティッシュなどを使った広告についても、風俗営業などがある青少年立ち入り禁止場所以外での配布はできない。
 この条例の影響について、テレホンクラブの業界団体・東京テレホン・サービス協会の中村仁氏は、「新宿・渋谷・池袋にある店舗はほとんど条例に引っかかります。現在、東京で営業をしている約五〇〇店舗のうち、八割が閉店に追い込まれるのではないでしょうか。特に営業禁止区域を広げているのが、病院から二〇〇m以内という規定です。埼玉県では営業禁止区域の起点として病院が入っていないため、県内の店舗の三割しか閉店になっていません。だいたい青少年と病院にどんな関係があるんですか」と、都条例の内容に怒りをぶつける。
 たしかに業界の8割を閉店に追い込んでおいて、棲み分けもへったくれもあったものではない。条例が業界潰しだと言われても仕方がない。

■NTTこそ主犯だ

 では東京都が目の敵にするテレクラとは、そんなに悪いものなのだろうか。じつはテレクラは、性風俗店でさえないのである。簡単に言えば、性的なサービスを提供する女性が待ちかまえていない。電話回線を使い、あくまで男女に出会いの場を設けているだけだ。もう少し詳しく見てみよう。
 通常、一括してテレクラと呼ばれることが多いが、実際には三つの営業形態が存在する。一つは個室型テレホンクラブと呼ばれるもので、繁華街にあるテレクラに男性が出向き、個室で女性から掛かってくる電話を受けるもの。次に、ツーショットダイヤルとよばれる無店舗型の営業形態。男性が自宅からテレクラに電話し、女性から掛かってきた電話回線をつなぐもの。三つ目が、伝言ダイヤルと呼ばれるものだ。これは誰でも聞けるテープにメッセージを録音しておき、伝言のやりとりをしながら気のあった者を探す方式だ。どの業種も、女性を用意して待つかわりに、雑誌広告やティッシュの配布などで、女性から電話が掛かってくるように営業努力を行っている。
 もちろん東京都も、テレクラを風俗店とは思っていない。東京都が発行している『青少年問題研究』の一八六号には、「テレホンクラブなどの営業は、電話などを利用して男女の出会いの場を提供するもので、風俗営業や風俗関連営業と違って、直接、業者が性的サービスを提供するものではありません」と書かれている。前述した平林次長も、「大人だけが利用するのであれば、問題はない」と発言している。
 さらに大手テレクラチェーンの津藤照吉課長も、「テレクラは女性が待っていてサービスをするところではありません。お客様のなかにも来店すれば女の子とエッチできると思っている人もいるのですが、テレクラは出会いの場を提供するだけです。ですから女性を誘い出すには、巧みな話術など、かなりの努力が必要ですよ」と語る。
 そもそも電話を男女の出会いの場に変えたのは、NTTだったのである。一九八七年、NTTが伝言ダイヤルを開設し、若者の間で一大ブームを巻き起こしたのである。NTTの伝言ダイヤルは、暗証番号を入力すると誰でも伝言が聞ける仕組みとなっていたが、揃目の番号や一九一九、六九六九など性的イメージを喚起させる番号には、男女の出会いを求めるメッセージが山のように集められることになった。そして次にブームになったのが、九〇年に始まったQ2によるツーショットだ。いうまでもないがダイヤルQ2も、NTTが始めたものである。NTT以外の企業が電話回線を使って情報提供できるQ2は、開設と同時にさまざまな風俗番組の巣窟となった。
 ところが驚くなかれ、NTTの伝言ダイヤは何の規制も受けずに営業を続けている。Q2も頭に三が付いた番号は風俗のチャンネルとされ、NTTに申し込まなければ利用できないことになっているが、実際にツーショットを開設している番号のほとんどは、三から番号が始まっていない。つまり誰でもかけられるのである。
 いったいNTTとテレクラ業者に対する扱いの違いは何なのか。NTTに既得権が与えられているということか。だいたいブームに火を付けた張本人が、しらっと営業を続け、後乗りの業者だけを規制するなど、誰が考えても不可思議だ。

■援助交際は減らない

 おかしな話はこれだけはない。この都条例が施行されたことにより、新宿歌舞伎町などではソープやファッションヘルスの隣にあるテレクラが閉店に追い込まれているのである。このような矛盾に対し、先述の平林次長は次のように語っている。
「たしかにどちらが環境を悪化させているかというと問題はあるでしょうが、営業禁止区域の設定も新風営法と同様の規定ですから、テレクラが特別きつい規定をかけられているわけではありません。青少年が看板を見て電話を掛けようとする行為に歯止めをかけたいだけです」
 どうやら新風営法と同じ規制をかけると、テレクラだけが閉店に追い込まれるらしい。しかも実際にテレクラの看板を見てもらえばわかるが、電話番号などほとんど書かれていない。性的なサービスを行なう店舗が堂々と営業し、呼び込みまでしているのに、場所のありかを示す看板を掲げているだけのテレクラが営業できなくなるのは、どういったからくりなのだろう。
 さらに疑問は続く。いったいこの条例は、青少年の援助交際を止めることができるのかという点だ。
「青少年の目に広告などが入らないように情報を押さえれば、興味本位でテレクラに電話を掛ける女子中高生も減ります。条例を施行し罰則規定を設けたことで、テレクラを使った売春が規制できるようになったのです。これまでは法律がなかったために業者を罰することもできませんでしたから、大きな進歩です」と、平林次長は語る。
 そこで「それでは実際に援助交際は減るんですね」と質問すると、「それは現状では、まだわかりません」という答えが返ってきた。業者だけ締め付けておいて、肝心の援助交際が減らなければどうしようもないではないか。
 じつは条例の効果を疑問視しているのは、東京都だけではない。
「そもそもテレクラの利用者数は落ちているんですよ。だいたい常連のお客様は、援助交際を望んでいるわけではありません。女子高校生と援助交際をしたければ、それこそデートクラブに行けばいいんですよ。何も知り合うためだけに、テレクラにお金をつぎ込まなくともいいんです。顔が見えないテレクラでの売春は、女子高校生にとっても利点は薄いでしょう」と、前述の中村氏も語ってくれた。
 援助交際をしている女子高校生自身にも聞いてみたが、
「エー、テレクラなんか顔見えないじゃん。だいたいお金に困って援助したい時は、友だちからオヤジを紹介してもらったりナンパで捕まえるからテレクラは必要ない」
 と言い放っている。
 しかも驚くなかれ、九七年二月に東京都生活文化局がまとめた「青少年の生活と意識及び青少年と性に関する法制についての調査」という報告書にも、次のこのようなことが書いてある。
「利用の時期は、『半年以上前』とする者が五八・一%と最大で、これを中高男女別に見ても、中学男子を覗き、いずれも「半年以上前」回答する者が一番多かった。高校男子では六一・五%、高校女子では六五・九%と過半数を占め、高校生にとっては過去の流行現象となりつつあることを伺わせる」
 女子高校生の売春行為を減らす気が、東京都にはあるのだろうか。過去の流行を追って、一業界の八割にあたる店舗を閉店させるなど噴飯ものだ。

■都と公安委員会が対立

 さらに広告規制も問題だ。青少年の目に入らないようにチラシやティッシュの配布を規制したというが、レディースコミックなどには広告が掲載し続けている。チラシを街頭で手に入れなくとも、テレクラの番号などたやすく入手できるのである。番号の書いていない店の看板を規制して情報源を残すなど、実態が変わらなくとも見栄えだけよければいいという条例の本質が透けてみえる。
 そのうえ問題は条例の中味だけにとどまらない。条例をめぐり、行政側にも不協和音が響いているのである。
 実はこの条例は、東京都生活文化局と警視庁公安委員会の共管の条例となっているのである。具体的には生活文化局がテレクラの営業者に対する啓発活動や環境改善活動を行い、公安委員会がテレクラ業者の届け出から各種規制を行うという。つまり東京都が業者へ融和政策を掲げて問題の改善をせまり、公安委員会が暴走した業者を取り締まる腹だ。ところが肝心の両者が、しっくりいっていないという証言を関係者から耳にしている。とにかく取締りたい公安委員会にとって、都の融和政策など邪魔なだけ。取締りがきつくなれば、業者が法の目を逃れるようとするのは言うまでもない。
「テレクラ業者は二年後には、いなくなるでしょう。もっとも業種を変えるだけだけどね」そう語ってくれたテレクラ業者もいた。結局、東京都は新たな風俗を生むためだけに、動いているのではなかろうか。
「テレクラが青少年の間でブームになった原因の方にも目を向けるべきだろう」と、先述した東京都の報告書にも書いてある。東京都は自分が発した言葉の意味を、じっくり考えるべきだ。(■了)

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お年寄りの自立とは何だろう? 特別養護老人ホームルポ

■月刊『記録』94年11月号掲載記事

■入園者全員の健康状態を記憶

  骨に皮が張り付いただけの脚が、浴室をめざす。脱衣所からわずかに4~5mの距離が遠く感じた。車椅子から降りたお年寄りの手をとり、歩行を介助するのが、春光園での最初の仕事だった。1979年10月に開園、山梨県甲府市の郊外にある。入園者50人(94年9月現在)の平均寿命が81.1歳の特別養護老人ホーム(特養)だ。
  私がお年寄りを介助して初めて感じたことは、恐怖だった。車椅子からの乗り降り、歩行、着替えなどは、けがをするきっかけとしては十分で、自分の失敗でその日から寝たきりにさせてしまうかもしれない。とまどう私に、「Mさんは、浴室に近い方の椅子で着替えを」「Bさんは低い椅子で体を洗うのよ」と指示を飛ばしながら、寮母長の三浦早苗さんは、3種類もの下着を入園者に合わせてはかせてゆく。万一のことがないように、彼女の頭には、全ての入園者の体の状態が記憶されていた。

■2時間で30人が入浴

  週2回の入浴は、寝たきりの人と、車椅子で移動可能な人に分けて行われる。私が介助したのは後者で、普通浴と呼ばれていた。
  普通浴で介助する寮母は3人。2人は浴室に入り、1人は脱衣所での介助となる。脱衣所では、車椅子からの乗り降り、衣類の着脱、脱衣所から浴室までの歩行を助け、浴室から出てきた老人の髪をドライヤーで乾かす。浴室では、体を洗うことのできない人を介助し、浴槽の出入りを助ける。1時間半から2時間ほどの間に、30人近くが入浴していく。「いつも3人でやっているから大変よ」という三浦さんの言葉通り、脱衣所も浴室もごった返して、戦場のようである。しかも入浴者が多いからといって、1人たりともおろそかにはできない。
  16時10分、静かだった園内がにわかに忙しくなりはじめた。16時45分からの夕食が近いからだ。車椅子に乗れる人を1階の食堂に案内する。食堂まで行く体力がなくても、20~30分は座っていられる人は、車椅子に座って食事をとる。体力のある人から順に座り、体力のない人の座る時間が短くなるように調整する。
  電動ベッドのスイッチを入れて、背を起こして食べてもらう方が、車椅子へ移動するよりも寮母は楽なのだが、それでは離床を促すことができない。「入園者ができるところまでは、少し冷たいようだけれども自分でしてもらう。おむつではなく、なるべくご自分でトイレにも通ってもらうよう誘導する。歯磨きも、1日3回が大変だったら1回でもいいから、自分でできるようにする。
  お年寄りは、手足が不自由になると依頼心が強くなってしまうので、本当に具合悪いのかどうかを見分けて介助しなければいけない。見分ける方法はただ1つ。お互いのコミュニケーションね」と、寮母の名取美枝子さんは教えてくれた。
  入園者には原則として離床を勧めている。しかし、入園中の16人の寝たきり老人のうち、3人が全く無反応で、植物状態に近く、後の13人も、心疾患などの内臓疾患などのために、車椅子で動き回ることはもちろんのこと、座る時間も制限せざるを得ない状態である。「看護婦さんとも相談の上、個々人の健康状態に合わせて離床を勧めるのが一番重要」。春光園の指導員、中嶋真紀子さんの言葉だ。

■「慣れ」がこわい

  春光園では、入園に際してお年寄りや家族と面接を重ねながら、入園後の処遇を検討するための5人会(園長、指導員、寮母長、看護婦、栄養士で構成)という組織を作る。入園後は1人につき年2回、処遇会議が開かれ、大まかな介護の方向性が決まる。日々の入園者の変化には、1部屋(入園者4人)に1人の寮母がリーダーとして対応していく。きめ細かい処置とそれなりの技術が、お年寄りの自立を可能にするのだ。
「お年寄りとの関係は『慣れ』がこわい。介護が続けば親子同然の雰囲気になりますが、あまり親密になり過ぎると、本来ごく身近にか見せないわがままを通そうとします。また、特に痴呆性老人の方に対しては、年長者への尊敬の念を失い、逆に子供みたいに扱ってしまうことがあります。大変な失礼にあたるので、気をつけるようにしています」と寮母の丸山美佐子さんは、親切心だけでは務まらない介助の難しさを説明する。お年寄りとの間に信頼関係が全くないのは論外だが、近過ぎるのも入園者の自立を阻害する。
  夕食の時間、私はCさんという女性の食事介助をした。1階まで降りていく体力のないCさんが、ベッドの横で車椅子に座り、食事をするが、彼女はそれを嫌がる。どんなメニューも顔をしかめ、小さな声で「まずい」とつぶやく。嫌がる様子はまるで子どものようだ。それでも何とか口を開けてもらい、細かくカットされた料理をスプーンで押しこまなければいけない。スプーンを口にいれたとたん首を振り、飲み込めなかった汁ものが、口もとから首筋に流れ落ちる。食べてもらわなければ体力が落ちてしまうという理屈は承知していても、私は辛かった。「生きるために食べる」という疑いもしなかった欲求が彼女にはないのだろうか。

■仮眠室に入っても眠れない

  翌朝、私は夜勤の人の仕事を拝見させてもらうために、6時半に来園してみた。徹夜のため、少し眠たげな眼をした寮母の鈴木公子さんと丸山さんが、私を迎えてくれた。
  春光園には徘徊をするお年寄りが、4~5人いる。しかも、だいたい夜に始まるそうだ。準夜勤が16時~24時、夜勤が0時~9時半で、両者はセットになっており、1人2時間の仮眠時間も含めて、18時~7時半までの13時間半を2人で切り盛りしなければならない。部屋は1時間ごとに見回らなければならず、おむつ交換もしなければならない。夜勤は、月4~5回まわってくる。「1人が仮眠室に入ると、トイレに行くのも心配ですよ。その間に何が起こるか分かりませんから。昼間は容態の安定していた人が、急変することもあるし、妄想が見えてしまう人に話を合わせて、精神を安定させなければならないこともあります。そんなことが分かっているだけに、自分が仮眠室に入っても眠れません」と鈴木さんはいう。
  7時45分。私は再びCさんの横に座った。私の顔を覚えてくれたのか、あいさつに微笑みを返してくれたのだが、いざ食事が始まると昨日の夕食以上の苦労が待っていた。朝食の味噌汁が嫌いらしく、どうしても飲んでくれない。口に入れた汁もほとんど口からこぼれてしまう。水分を取ることが嫌いなCさんは、常に便秘ぎみだ。食事の時ぐらい水分を取らなければ、本当にお通じがなくなってしまう。結局、寮母に助けを求めて、どうにか終えた。Cさんのイヤイヤをした顔が、妙に頭から離れなかった。

■自立促す他人の目

  春光園にはアシスト制度という独自のシステムがある。特養で一般的に行われているデイサービスとの違いは、施設が送迎せず、家族がお年寄りを朝、ホームに送り届け、夕方に迎えに来るという点だ。「家族と離れることにより、お年寄りは家族を愛おしく思い、家族も昼間できない分、夜は一生懸命にお世話しようという気持ちになります。お年寄りに感情のウェーブが起こることが、大切なのです」と石原忠造園長は趣旨を説明する一方で、一時預かりだけに、自立に向けた介護体制が100%そろわないという不安も口にする。
  お年寄りが1~2週間ほど滞在する「ショートステイ」も同じだ。「生活動作についても、細かなことが分からないし、身体についても入園してる人ほどは知らないから、安全に、快適に過ごしてもらうのが第一となっています」とは指導員の中嶋さんの声だ。
  2010年には、約100万人に達する寝たきり老人(1993年度厚生白書)への長期ビジョンである政府発表のゴールドプランは、在宅福祉を念頭に置いている。石原園長は、「基本的には賛成ですが、在宅福祉は難しい。成功のカギは、人材の確保と、介護支援センターがきちんと機能するのかという点でしょうね」という。お年寄りの自立は、家族だけではなしえないというのが取材の実感だ。親族ゆえの情が、マイナスにはたらく場合もあった。他人の冷静な眼があるからこそ、進む自立もある。

■長生きしたくない

  11時43分、私は最後の仕事のために、Cさんの横にいた。全く吸い物を飲んでくれない。首をぬらす汁が飲み込む量を上回る。看護婦の小林浜子さんが、無理やりに口を開けさせ、スプーンを口にいれてくれた。便秘で苦しんでいるCさんの症状を一番よく分かっている小林さんだからこそ、飲んでもらわねばならない。
  老人問題を美化してはならない。私の感想である。春光園はすばらしい老人ホームであった。寮母はいつも笑顔を絶やさず、忙しい仕事の合間にも、誰かがお年寄りに声をかけている。少しずつ身の周りのことができるようになった人も多い。石原園長は経済環境を整えるために労力を惜しまず、信念を持って福祉にあたっていた。だが、次のある職員の感想は、問題の深刻さを図らずも示していないか。「ここで働いて、あまり長生きはしたくないと考えるようになりました。ボケてしまうならむしろいいんですよ。きちんと、介護できることはわかりましたし。むしろ介護してもらって生きるという寂しさが、常にあると思うし、ボケていなければ、判断できるだけにつらい」。
  こんな入園者の声もある。「園に入る時は、イヤでしたよ。でも、入ってよかった。自分の家だと車イスで玄関に入ることもできない。寮母さんは、いやいや仕事をする人がひとりもいない。我々が子どもの時、おしめを替えてくれた親と同じだ。ありがたいことだね。でも人間はこうやって死んでゆくんだね。悲しいもんだね」。 (大畑太郎)

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ホームレス自らを語る/いい時期はあったんです・川本幸夫(六四歳)

■月刊「記録」1999年7月号掲載記事

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■マイナス18度での労働

 生まれは、茨城県の水戸市です。おやじはJR、そのころは国鉄って呼ばれていたけれども、そこで働いてたッス。何してたんだかわかんねえけど、事務員のようなことをしてたんじゃねえかな。転勤が多くて、あっちこっちで暮らしてたです。
 ワシは中学校を卒業して、一人で東京に出てきたッス。「東京ってどんなところだべ」って思ってね。上京してみて、「はあ、東京は人の住むところじゃねえ」と思ったッスよ。何たって戦後すぐのことで食うものがないでしょう。マッチ一本まで配給の時代だからね。今の人にこんなこと話してもわからないでしょう?
 東京では、ビルの建設現場で働いたッス。そのころは足場なんてのも、いいかげんなもんでな。手すりもない足場だから、何回落っこちたのかわからないほどッスよ。ホントですよ。裸になって傷跡を見せてもいいですよ。寒いときは、今でも神経が痛むんッスよ。
 一番ひどかったのは、30メートルもの高い足場から落ちたときですよ。どうなったかって? どうもこうもねえ。ワシは意識不明の重体だもの、何も覚えてないッスよ。病院で気がついたら、手も足も骨折していて、もう体がバラバラな感じだったですよ。治るのに2年半もかかったッス。ホントッスよ。
 それから北海道にわたったんです。森林を伐採して、木材を切り出す仕事でな。北海道の山はこんなに急なんですよ(手で指し示す)。すごいんだから、ホントですよ。そんなところで仕事するんだから、そりゃあ大変だったッス。
 切り出した木材を足の太い馬に……、そう道産子って馬だったな。それに引かせて急な坂を登ったり、下ったりするんだからね。一度は乗っていたトラックがひっくり返って放り出されたこともありますよ。
 大変なのが冬です。何しろマイナス18度まで下がりますから。寒いとか、痛いなんてもんじゃないですよ。苦しい。息をするのが苦しいんですから。そんななかで、こんな急なとこで働くんだから。人にゃあいわれんが、ワシャ苦労してるんだ。ホントッス。(涙を流し始める)

■家族で新宿に住んでいた

 北海道に8年くらいいて、また東京に戻りました。人の住むとこじゃない東京で、また働くようになったんです(笑)。
 二度目の東京では、まず造船会社でな、そこの社員になった。ホントッスよ。造船が忙しいいころでね。でっかいタンカーとか造ったッス。ワシらの仕事は溶接とか切断だったな。
 船っていうのは、下から造っていくんです。ビルの仕事と違って、船には曲線があるから、作業するのが難しいんだね。最後のころは、足場もうーんと高くなる。ふと気づくと、隣で働いてたやつがいなかったりしてね。「あれ? やつはどこいったべ」って、みんなで探していると、下の海に土左衛門になって浮かんでいたりしてね。そうやって何人も落ちて死んだッス。ホントッスよ。
 結婚したのは、36歳のときです。それから角筈三丁目、今の西新宿三丁目ですよね。そこにずっと住んでいたんです。ここの新宿中央公園からすぐそこッス。だから、今でも昔の町内会の知り合いに会ったりしますよ。 あのころが一番よかったですよね。ワシらが40代のころだな。景気もよかったし、月100万円も稼いだことだってあるんですから。ホントッスよ。町内会で葬式を出すときは、受付を手伝ったりしてね。すごいでしょう。葬式の受付なんて、信用がないと任せてもらえないんだからな。そうでしょう?
 結婚して一年半後には男の子も生まれました。いい時代だったッスよ。

■一回失敗すれば人生終わり

 造船所では19年働いていましたよ。辞めたのは、昭和の終わりごろでした。職人同士っていうのは、人間関係が難しいんだな。北海道の伐採の仕事を辞めたのも、人間関係がうまくいかなくなったからでした。どういうわけか、ワシは人間関係がうまくいかないんですね。それが運の尽きッスよ。
 それからは、飯場に入って、土方の仕事をやりました。だけど、慣れない仕事できつかったッス。土方の仕事では大して稼げないし、まとまったカネを手に入れることもできないでしょう。女房は子どもを連れて、実家に帰っちゃいました。
 ワシらにもいい時期はあったんです。カネはあったらあったで使っちゃったしね。もっと考えて、うまくやってればって今となっては思うけれども……。
 まあ仕方ないですよ。一回失敗すれば元には戻れないんだから、仕方ないッスよ。
 女房の実家はすぐそこなんですけどね。今でもそこで子どもと暮らしていると思いますが、会いには行けないッス。いまさら「親でございます」なんて、子どもの前には出ていけないでしょう。
 今、夜は適当なとこに寝てます。ビルとビルの間の雨の当たらないとことか探してね。冬だって段ボール一枚敷いただけの上に寝てるんですよ。ホントッスよ。仲間のみんなもびっくりして、「そんなことしてたら死んじゃうよ」っていうけれども、寒いところでやってきてるから平気なんッス。鍛えられてますから。
 それに、自分なんかいつ死んでもいいと覚悟はできてるしね。口には出さんけど、人生何年生きたって同じ、死んだほうが幸せッスからね。最後は一人なんだから、ワシはいつ死んでもいいと思ってるんです。ホントッスよ。
 まあワシらの話なんて、誰も聞いちゃあくれんですよ。こんな話を聞いてくれて、気がスーッと楽になったッス。ホントッスよ。ありがとう。ありがとう。 (■了)

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ホームレス自らを語る/帰るところなんてない・森田修(五七歳)

■月刊「記録」1998年12月号掲載記事

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■借金がふくらんでいく

 ホームレスになった理由はね、借金でクビが回らなくなりましてね。もう利息分を払うだけで、やっとの状態でした。すると親族の一人が、どこで教わってきたのか、「借金っていうのは、借りた人の行方がわからなくなれば、二年間で帳消しになるんだって。どこかに姿をくらましなさい。そして二年たって、戻ってくればいい」っていうんですよ。要するに、私が家からいなくなればいいらしい。
  親しい親戚にわけを話して、5万円のカネをかき集めましてね。「どこか」っていったって、行くあてなんてないでしょう。何となく、昔働いてたことのある東京に出てきたんです。九五年のことでした。
  それまで、20歳のときから、信州の飯田で農業をやってました。一町歩(約一ヘクタール)ばかりの田んぼと畑があって、おやじと二人でやってたんです。
  ちょうど、私が農業を始めたころから、「農業の近代化」ってことが、しきりにいわれるようになりました。農協も営農資金とか、農業近代化資金とかいって、やたらと貸してくれるようになりましたしね。
 うちも借金しながら、いろいろ買ったですよ。最初に買ったのが、耕運機だったかな?脱穀機も買いました。ヤンマーのやつをね。それから、田植え機と稲刈り機。田植え機もすぐに二条植えから四条植えに替わって、稲刈り機もコンバインに替わった。そのたびに借金して、買い替えるわけですよ。
 周りの農家がみんなそうするから、うちだけ古いままでいいっていうわけにはいきませんしね。借金を返し終わらないうちに、新しい機械を買うから、借金だけがふくらむんですよ。
  肥料のような消耗品だってそうですよ。注文しなくても、農協のトラックがやって来て、前の年と同じ量のものを勝手に置いていくんですから。そういうものは、秋に収穫した米代からサッ引かれるんです。だから、現金なんて、いくらも入ってこない。そのなかから、借金の元金と利息も払わなくちゃなりませんしね。
  悪いのは農協かって?うーん、農協ばかりが悪いわけじゃなくて、世間の雰囲気がそういう風潮でしたからね。ただ、農協っていうのは、われわれ農家の組合員がカネを出し合って作ったものですからね。その農協に、農家が借金で首をしめられるってのは、何か変ですよね。
■減反にも協力したのに

 暮らしのほうだって、そうでしょう。やれテレビだ、冷蔵庫だ、洗濯機だ、サッシの窓だ、太陽熱温水器だってね。いくら働いたって追いつかないですよ。特に、結婚して子どもができてからは、世間並みのことはしてやりたいですしね。
 そのくせ、米作りのほうは減反に次ぐ減反でしょう。うちだって協力したのは、二度や三度じゃありませんから。減反に協力すると、奨励金っていうのが出るんですよね。農業を知らない人は、現金でもらえると思っているようですが、実際には品物でくれるんですよ。ラーメンだとか、酒、しょうゆとかでね。
 そんなものをもらっても、借金を返す足しなんかにはなりません。結局、借金ばかりがふくらんで、田んぼと畑は全部抵当に取られました。もう、どうしようもなくなったわけです。決定的だったのは、下水設備でした。これだって、「うちだけはいい」って断るわけにはいかないでしょう。そのために農協から借りたのが、50万円。これでにっちも、さっちもいかなくなりました。
 姿をくらますようにいわれて、「もう、どうでもいいや」って感じで、夜逃げみたいなもんでしたよ。とりあえず新宿に出て、初めの二、三日は旅館に泊まったんです。けれども、5万円のカネなんてすぐに底をついてしまい、段ボールハウスで寝るしかなくなっていました。
■嫁さんは気の強いしっかり者

 生まれも、育ちも飯田です。1941年生まれで、戦争の始まった年です。戦争の記憶はあまりありませんが、それでも近くの山の壁に横穴式に掘った防空壕があって、家族で避難したことをかすかに覚えています。飯田のような田舎町に空襲警報が出るなんて、めったになかったでしょうがね。
  小学校の四年生のとき、目をけがしたんです。近所のおじさんが運転するオート三輪の助手席に乗せてもらって、それが急カーブを切ったときに振り落とされましてね。オート三輪ってドアがついてないんですよね。落ちたところが運悪く竹やぶで、竹の切り株で左目を突いちゃったんです。左目は完全に失明しました。
 勉強は嫌いで苦手な子でしたね。それで中学校を終えて、すぐに働きに出ました。私のおじさんが東京の杉並区でスレートを作る工場を経営していて、そこに就職したんです。従業員60人くらいの工場でした。
  スレートっていうのは、モルタルをこねて、それを機械でプレスして、油を使って焼き上げて作ります。大変な重労働の上に火を使うから、工場の中は猛烈に暑い。塩をなめながらの作業で、夏なんかは四時間働いたら、二時間は休まなくちゃならないくらいきついところでした。六人部屋の寮住まいで、日当は320円。月で8000円くらいになりました。
 唯一の楽しみは映画でしてね。毎週日曜日に近くの永福町の映画館に通って、三本立ての映画をみてました。ときには、繰り返して二回見るなんてこともしたんです。チャンバラ映画が好きで、高田浩吉のファンだったですよ。映画さえ見ていられれば、それでいいって感じでしたね。
  おじさんが社長だったから、しつけは厳しかったですね。休みの日に帰りがちょっと遅かったりすると、正座させられて、お説教されました。でも、私は酒も、女も、ギャンブルにも興味はなくて、ホントにまじめなもんでしたよ。
  伊勢湾台風(1959年9月26日)のときには、飯田地方も壊滅的な被害に遭って、私も実家に呼び戻されました。国鉄の飯田線の鉄橋が流されて不通だったりする中を、二日がかりで帰りました。実家は倒壊しているし、田んぼや畑は土砂に埋まっていました。それで、おやじを助けて、農業をすることになったわけです。
  結婚したのは……、いくつのときでしたか……。忘れちゃいましたね。母親の知り合いの紹介で結婚したんです。嫁さんも農家の娘で、よく手伝って働いてくれました。しっかり者でしたが、私とは反対で気が強くてね。子どものしつけにも厳しかった。子どもは二人、両方とも女の子でした。

■帰るところがないんです

 夜逃げするようにして、新宿に出てきてからは毎日、あっちへフラフラ、こっちへフラフラしてるだけです。働きたいと思って職安に行っても、今は働き口なんてありませんからね。
  二月の新宿の段ボール村の火事の後、私も「なぎさ寮」に入って、そこから北新宿の自立支援センターに行ったんですよ。それでビル掃除の仕事につけました。ただ、それが1ヵ月足らずでクビになりましてね。理由はよくわからないんですが、職安でなく福祉(自立支援センター)の関係で行ったことがいけなかったようです。何だか、よくわかりませんね。
  そりゃあ働きたいですよ。でも、働くためにはアパートでも借りて、住所をちゃんとしないといけないでしょう。今、月5万円の部屋を借りるにも、敷金だ、礼金だで、20万円は必要ですからね。そんなカネはあるわけないし、どうしようもないですよ。
  食事は毎朝配られるボランティアのおにぎりと、新宿区役所が出してくれる乾パン。それに週一回の炊き出しですね。足りないです。足りないけど、それでやるよりしょうがないです。
  借金のほうは、もう時効になりました。私は左目を失明しているんで、身体障害者の扱いになって、裁判所も「支払い能力なし」と認めてくれたらしいです。
  どうしてそれがわかったのかというと、ボランティアの人が田舎のほうと連絡を取ってくれて、私に知らせてくれたんです。私はカネを持ってないし、家族にも合わせる顔がなくて、連絡はできませんからね。
  借金がなくなったのに、なぜ飯田に帰らないのかって? 帰れないですよ。帰るところなんてないですよ。田んぼや畑は、もう他人に貸しちゃってます。そんなところに帰っても、働きようがないじゃないですか。
  おやじは死にましたが、80歳のおふくろはまだ元気でいます。そりゃあ、家族に会って話がしたい。でも、私には帰るところなんてないんですよ……。
(※森田さんはここで感極まったように、オイオイと泣き出した。しばらくして、落ち着きを取り戻したが、もう自分のことについては語ってくれなかった) (■了)

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ホームレス自らを語る/自殺未遂とムショ暮らしと・小林利男(五一歳)

■月刊「記録」1997年12月号掲載記事

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■手を何度洗っても

 睡眠薬に「ブロバリン」というのがあるでしょう。あれを、大量に飲んだんだよ。大学を中退した後だったから、22歳くらいだったか。夏の暑い日だったことのほかは、夜だったのか昼だったのかも覚えていない。結局、大量に飲みすぎちゃってね、みんな吐き出しちゃったみたい。苦しんで暴れたらしくて、アパートの隣人に発見されて、救急車で運ばれ、自殺は未遂に終わった。
 ずっと神経症に悩まされていた。手を洗っても洗っても、きれいになった気がしない。道を歩いていて、穴なんかを見つけると、誰か落ちるんじゃないかと気になって仕方がない。外出しても、ガスの元栓を閉めたかどうか、戻って確認しないと気がすまない。元栓を確かめて出てくると、今度は玄関の鍵をかけたか気になっている。もう、次から次へと気になって、外出なんてできなくなってくる。
 最初は、そういう感覚を鈍らせたくて飲み始めた酒だった。でも、性格も強いほうじゃないから、つい依存してしまう。朝からアパートの部屋にこもって酒浸り。カネがないから、もっぱら飲むのは焼酎ばかり。何かあるたびに心に引っかかってしまう、そんな神経症の状態が毎日続くと、行動するのがすごくしんどくなってね。生きてるのが本当につらくてやだなと思ってね。遺書は書かなかったけれども、睡眠薬を飲んだ。薬は二日くらい前から買って用意していたから、発作的じゃない。
 担ぎ込まれた病院の診断で、精神病院に送られた。「これはおかしい」って思ったんだろうね。病名は、極度の強迫神経症とアルコール依存症。精神病院には、一年半入院していた。

■全共闘に参加するどころか

 生まれは、東京の新宿・弦巻町。1947年生まれで、8人兄弟の末っ子だった。遅い子で、僕が生まれたとき、おやじは50歳を超えていたはずだ。すぐに定年退職になって、その退職金で碁会所を始めていた。でも、道楽だからね。ほとんど収入にはならなかったようだ。おふくろが袋張りの内職をしていて、その背中を見ながら育った。貧乏だったよ。
 中学を出て、塗装工の見習いをしながら、夜間高校に通った。家を出てひとり暮らしを始めたのはそのころだ。今から思えば、末っ子だったし、みんなにかわいがられていたんだけれどもね。それが、神経症的な性格だから、親切にいってくれることも、逆に悪く考えてしまう。とうとう家族とは住めない雰囲気になってしまった。 高校を卒業してから、一年浪人して早稲田大学の文学部に入った。ところが、当時は全共闘運動が盛んなころで、革マル派がバリケードを張って、授業なんてほとんどできない状態だったんだ。運動には興味があって本も読んだ。共感できる部分もあった。運動に参加するように、友人にも誘われたんだが、彼らを見ているとヒーロー気分に酔っているだけのようで、アジ演説も面白くなくて参加はしなかった。
 それよりも神経症とアルコール依存がひどくなるばかりで、たまに授業があっても、酒に酔ったままで行ったりして、だんだん欠席するようになっていたんだ。そのうちに、おふくろが送ってくれる授業料まで、焼酎につぎ込むようになっていた。結局、出席日数不足と授業料滞納で大学を中退。二年半の学生生活だった。
 自殺未遂騒動を起こして精神病院に入ったのは、そのころだ。八王子の病院だった。ただ、ああいうところは治療らしいことはしないんだよ。週一回簡単な問診があるだけで、あとは投薬療法。要するに薬づけだ。薬の副作用で、頭がボンヤリして、体が非常にダルい。ひたすらベッドで横になっている毎日だった。
 入院して半月くらいは、酒の飲めない飢餓感に悩まされた。アルコール依存症の禁断症状というのか、ひどくイライラしたり、白い壁が赤や黄色や、時にはオーロラのように見えたりもした。それに酒に逃げられないから神経症も悪化して、かなりひどかったよ。看護婦の言葉使いとか、視線が気になって、敵意を持ってイジワルをされてるような妄想に取りつかれたりね。
 ただ、入院してアルコールとは縁が切れた。それで健康だけは回復して、一年半後に退院を許された。神経症が治ったとは思わなかったけれども。神経症という病気は若年性のもので、年齢とともにおさまるものなんだね。そのときの医者にもいわれ、精神医学書にも書いてあった。本当にその通りで、30歳をすぎたころから症状は少なくなって、今では何ともないんだから。あんなに苦しんだのに不思議だよね。

■一時は年収2000万円

 病院を出て、何とかテレビ映画を製作する会社の美術スタッフに潜り込めたんだ。当時の人気アクション番組についた。でも、この製作現場がすごかった。残業、残業の連続で、日曜も祭日もない。とにかく1ヶ月分の作品を、半月で撮りあげてしまう。で、残りの半月は、別の作品をやるという具合だ。ただ忙しいだけで身につくものが何もない。だから、ここは2年くらいで辞めた。 それからは、キャバレー勤めだ。いわゆるピンサロってやつ。客の呼び込み係やボーイをした。最初に働いたのが、新宿・歌舞伎町にあるボッタクリの店。「前金制3000円ポッキリ」なんて真っ赤なうそで、会計のときに5万、6万円のカネを請求しちゃうんだ。払わない客があると、僕もその周りを取り囲んで、すごんでみせる役をやったよ。
 現金を持ち合わせていない客は、住所と電話番号を聞き出して、そこに電話して本人に間違いないか確認する。そして「ツケ馬」といって、客の自宅まで店の者が一緒に行って回収するとかね。あとは貴重品や身分証のようなものを預かって、翌日現金を持って来させるとか、そんな方法だった。要するに、暴力団とつながったこわい店だよ。
 そんな店だから、給料はよかった。相当よかった。社長にも気に入られて、僕だけは仕事中も酒を飲むことを許された。だって、客の呼び込みっていうのは、大きな声で通行人にワイセツなことをいって笑わせ、それで入店させるんだから。しらふじゃとてもできない。
 歌舞伎町の後、池袋、高円寺、下北沢と店を移った。どれもピンサロだ。池袋の店で働いているとき、その店のナンバーワンホステスだった子と同棲するようになってね。その子がカネをためていて、店をやろうというんだ。そこで世田谷区の小田急線豪徳寺駅近くに店を買って、ピンサロを始めた。カネは彼女が出したんだが、オーナーは僕ということでね。そのとき、31歳だった。 もうかったよ。年に2000万円はもうかっていたんじゃないかな。2年後には、新橋に支店を出したくらいだから。でも、豪徳寺のような街でもうけていくには、それなりのことをしないとね。客は渋谷や新宿で飲んでから来るので出足が遅い。だから風営法で禁じている深夜2時、3時までも営業することになる。ルックス(店内照明)を落として、ホステスにきわどいサービスもさせる。客は若いホステスを喜ぶから、未成年の家出娘だとわかっていても雇っちゃう。
 店を始めて3年目に、警察の手入れを受けた。営業時間中に突然踏み込まれて、そのまま北沢署に引っ張っていかれて、それっきりだ。そんな商売をしていたから、いつかは手入れされる覚悟はあったんだが、初めてのことだしショックは大きかったよ。容疑は、管理売春と児童福祉法違反。初犯でも、1年の実刑判決を食らった。
■ピンサロから刑務所へ

 それで刑務所に収監された。初めてのムショ暮らしだから要領がわからずに、担当刑務官にはずいぶんいじめられたよ。ああいうところは、一度目をつけられると、徹底的にいじめられるからね。ほかの人と同じことをしているのに注意される。それが重なると懲罰、独居房入りだ。ただ、僕はみんなといるより、一人のほうが好きだったから苦にはならなかった。むしろ慣れてくると、わざと担当にケンカを売って独居房に入ったりしていたほどだ。
 1年して、ムショから出て東京に戻ってみると、同棲していた女の子の行方はわからなくなっていた。店もその子が処分したようだった。うらむ気持ちはないよ。もともと彼女のカネで始めた店だし、二人の関係はうまくいっていたし、いろいろ苦労もかけていたから。
 それからはプータロー(無職)だ。働く気なんか起きなくってね。ただ当時は、弁当や酒を手に入れる方法を知らないだろう。とにかく酒が飲みたくて仕方がないんだ。そのカネがほしい。追いつめられて、やむにやまれなくなってくる。そうして泥棒をするようになっていった。

■学校荒らしに置き引きと

 最初に入ったのは母校だった。「学校荒らし」ってやつだ。母校ならば建物の配置なんかの勝手がわかっているし、不審に思われても「おれはOBだ」って開き直れると考えたんだ。クラブ活動の部室に忍び込んで、置いてあったバッグなんかから金目のものを失敬した。初めてのことで、そりゃあ緊張したよ。心臓はドキドキするし、手も震えて仕方なかった。
 でもそれが一度成功すると、慣れるというか、病みつきになるんだね。日雇いの土方で働いたこともあるが、どうしても手っ取り早いほうを選んじゃう。カネがなくなると「明日あたり、またやるか」ってな具合だ。カネがあれば好きな酒が飲めてベッドハウス(簡易宿泊所)に泊まれるしね。
 学校荒らしのほかには、建築現場にも忍び込んだ。作業用ヘルメットをかぶって、それらしい格好をしていれば、簡単に入れちゃうから。現場事務所の更衣室に入ってロッカーを荒らすんだ。学校も建築現場も昼間の人の出入りの多いときにやる。そのほうが、警備も厳しくないし、不自然じゃないからね。
 ほかにも、車上狙い、置き引き、万引きなんかもした。僕の場合、大金は狙わないで小銭ばかりで稼いでいた。大胆なことをすれば、それだけ捕まる確率が高くなるからだ。それでも、3回パクられて、3回のムショ送りだ。府中、甲府、三重の刑務所に入れられた。
 そのころにはもう、ムショ暮らしも慣れたもんだ。担当とのつき合い方なんかも、コツのようなものがわかっているから。最後の三重のムショのときは担当に重宝がられて、懲役工場の作業班長を任されるまでになっていたよ。入っていた2年半のほとんどを好きな独居房に入れてもらっていた。
 三重のムショを出たのが91年。それからはきっぱりと足を洗った。本当のプータロー暮らしだ。集団で生活するのは嫌いだから、いつも1人。夜はビルの階段の踊り場に、段ボールを敷いて寝ている。夜、ビルが閉まってから潜り込むんだ。
 以前の八年もふくめ、もう20年近くもプータロー暮らしをやっていると、どこのコンビニでは賞味期限切れの弁当をいつ出すか、なんてのもわかってくる。酒だってそうだ。スナックやバーがボトルキープの期限切れを処分する日っていうのがある。ボトル一本分くらいの酒ならいつだって手に入るよ。
 路上生活っていうのは自由で制約がなくて、何でもありの世界だからね。嫌な人とはつき合わなくていい。寝たいときに寝られる。寝ている場所を追い出されたら、また別の場所に行くだけで、寝るところなんていくらでもある。引かれ者の小唄じゃないが、今の生活に満足してるよ。これから先のことは、ケ・セラ・セラ、なるようになるだね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/もう精神病院には入りたくない・秋山勇(四九歳)

■月刊「記録」1998年9月号掲載記事

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■急に音が大きく聞こえて

 この傷のことかい?それは聞かないでくれよ。しつこいなあ……、転んだんだよ……。まあ、ここ(新宿中央公園)で暮らしていくには、いろいろあるからね。ベラベラしゃべっちゃうと、追い出されちゃうかもしれないしな。そういうことに……、転んだってことにしておいてくれよ。
(※取材したとき、彼の顔面左側には、いくつもの傷跡があり、そこから出血して凝固した血がベットリと付着していた。左瞼も大きく腫れて、目も十分に開けられないようだ。血液の凝固した状態から、けがをしたのは二、三日前のことだと思われる)
  けがの手当? しなくたって平気だよ。自然に治るんだから、ほっとけばいいんだよ。福祉事務所?行かない、行かない。あんなところへ行ったって、病院に入れられるだけだもの。おれ、病院はきらいなんだ。病院に入れられたら、また出てこられなくなるだろ。もう病院なんかには入りたくないんだ。
  29歳のときだったと思うけど、病院に入院したんだ。それから10年間も、ずっと入れられてたんだからね。行けば、また入院させられちゃうに決まってるからね。だから、行きたくないんだ。何の病気で、入院してたのかって?病気っていうか、精神科に入っていたんだ。  入院するきっかけは、友達と二人で飲み屋で酒を飲んでいるときだったよ。初めのうちは何でもなかったんだけど、だんだん周りの音が大きく聞こえるようになったり、小さくて聞こえにくくなったりしてきた。変だと思って、友達に聞いてみると、「そんなことはねえ」っていう。「変なのは、おれだけかなあ」と思っているうちに、それがどんどんひどくなっていったんだ。
  そのうちに、音は耳をふさがないといられないくらいガンガン大きくなったり、何も聞こえなくなったりした。それを繰り返しているうちに、ぶっ倒れちゃったんだ。その友達が車で病院に運んでくれて、入院することになった。
  おれは自分では普通のつもりだったけど、精神科に入れられたっていうのは、やっぱり変だったのかなと思うね。自分じゃ、よくわからないよ。
  病院は規則、規則ばっかりで嫌だったね。たまにレントゲンを撮ったり、心電図を取るくらいで、あとは薬を飲まされるだけ。あの薬がかったるくてね。頭がボーッとして、体がダルくて、ベッドで寝てるしかない。その10年は長かったよ。

■手配師に誘われた

  生まれたのは、沖縄の与那国島。もともとは(沖縄)本島に住んでいたのが、戦争がひどくなって、一家で与那国島に移ったらしい。おれが生まれる前のことだけどね。三人兄弟の真ん中だった。
  おやじは漁師。自分で船を買って、カツオの一本釣りをやっていた。おれが小学校六年のとき、おやじは台風でしけていた海に、一人で漁に出て遭難したんだ。母親と一緒に浜へ出てみたけど、すごい大きい波で、「これじゃ、助からんな」と思った。そのころ、兄はどこか遠くへ働きに出ていたが、電報でよび寄せられて帰ってきたよ。
  一週間くらいして、みんなに連れられて、どこかの病院に行った。死んだおやじが寝かされていたよ。船は奄美大島のほうまで流されたっていう話だった。
  それからの生活は苦しくて、たぶん生活保護を受けて暮らしていたと思う。中学二年のとき、学校の授業中に 「母親が倒れた」という知らせが入った。病院に行ったら、母親が寝かされていた。脳卒中だった。
  母親は与那国島と本島の病院を、行ったり来たりして、一年半後に死んだよ。与那国島と本島はものすごく離れているだろ。そんなところを、船で行ったり来たりさせて、病人にどうだったのか、よくわかんないよね。でも、与那国には大きな病院がなかったし、生活保護も受けてたし、こっちからはいろいろいえないよ。
  中学を終えて、友達と二人で東京の町工場に就職したんだ。菓子折の箱を作る工場で、社長を入れて全部で五人の小さな会社だった。よく、本土の工場に就職すると、沖縄の人間はいじめられるって聞いてたけど、その工場には先輩にも沖縄出身の人が一人いて、おれたちも入れて三人だろ、いじめられることはなくてよかったよ。  仕事はボール紙を折って、四隅を止めて、薄い紙を巻いてのりではりつけるだけで簡単だった。ただ、賃金は安かったな。楽しみは、毎週土曜日に仕事を終えてから、一人で飲み屋に行くことだけ。酒が好きなんだよ。あとは寮と工場を往復するだけの、まじめな生活をしていた。
  そのうちに、東京の生活にもだんだん慣れて、新宿とかに遊びに出るようになるだろ。そうすると、手配師が「仕事があるよ」って声をかけてくるんだ。日当が1万1000円だっていう。そのころ、工場からもらう賃金は月1万5000円くらいだったから、こっちのほうがいいかなと思ってね。それで工場を辞めて、日雇いになったんだ。20歳のときだよ。
 日当の1万1000円は高すぎる?でも、うそじゃないよ。本当に1万1000円もらったんだから。手配師が「半端の1000円は足代だ」っていったのを覚えてるもの。
 日雇いで働いたのは、ビルの建設とか、地下鉄工事とかの仕事が多かったね。同じ日雇いでも、仕事の内容によって賃金が違うんだ。おれの場合は 「手元」といって、一番下っ端の雑用の仕事ばかりだった。だから、賃金も一番安かった。
 その日雇いの仕事を続けているうちに、頭がおかしくなって入院したんだよ。精神科の病院には、10年も入っていたんだ。ただ、10年いても何も変わらないだろ。 「10年もいて変わらないってことは、もう外に出ても大丈夫だ」って、自分で判断して出てきた。病気が軽い患者には外出が許されてたから、おれも 「外出してきます」って出て、そのまま病院に帰らなかったんだよ。
  その病院があったのは、千葉県の町だった。千葉市じゃなくて、どこかの町だったが……、どこの町だったかはもう覚えてないな。ポケットに1300円あったから、そのカネで切符を買って新宿に戻ってきた。それで西口の地下通路に住みついて、また日雇いで働くようになったんだ。39歳のときのことだよ。
 そのころは、まだ日雇いの仕事もいっぱいあった。それが、九三年くらいからなくなったね。それにおれの場合は、病気を抱えているだろ。いつ頭が暴発するか、心配だしこわい。もう働けないよ。
 「なぎさ寮」には行ったよ。でも、二週間で出てきちゃった。そのままいたら、自立支援センターに入れられちゃいそうだったからね。あんなところへ送られたら、検査をされて、また病院へ逆戻りだよ。いまさら、病院なんかに入りたくないよ。
 今の生活が気楽でいいよ。どこにでも好なところに段ボールを敷いて、寝袋に潜り込んじゃえばいいんだもの。誰のことも考えないで、自分のことだけ考えてりゃいいんだもの。
  困ってること?好きな酒が飲めなくなったことくらいかな。でも、酒がないのにも慣れた。たまに、仲間がどこかで拾ってきた酒を分けてくれることがある。ビンに半分ちょっと残った酒を、二人で分け合って飲むんだ。 そして、いろいろ話をする。建築現場の話が多いけど、おれも現場で働いていたから、そういう話は面白い。そうやってるときが一番楽しいね。
  困るっていえば、(新宿)区役所が配っているカップめんが、配られなくなるんだってね。困るよね。困るけど、仕方ないよ。偉い人たちが決めたことだもの。それでやっていくよりしょうがないよ。
  飯は一日二食くらいだけど、何とかなってる。夜中にコンビニに行くと、古い弁当と新しい弁当を交換するときがあるんだ。その古い弁当を一つもらってくる。ハンバーガーとか、おかずのパックをもらうこともある。そういうのを食べているんだ。
  東京に出てきてから、沖縄には一度だけ帰った。でも、もう帰りたいとも思わない。これから先のことは、そのときになって考えるんだね。
  えっ、写真撮るの?けがしている左側を撮っちゃダメだよ。右側からだったら撮ってもいいよ。このけがは転んでできたものだから、どうってことないんだからさ。
(※文中にもあるように、秋山さんには軽い精神障害があって、まだ完治していないようだ。したがって、話の中には整合性のない個所もあるが、本人に質しても要領を得ないところがあり、そのまま掲載した) 

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だいじょうぶよ・神山眞/第8回 職員との微妙なバランス

■月刊「記録」2000年3月号掲載記事

*        *         *

「子どもの人権擁護について」と題する研修会に参加したぼくは、最終日の晩に行われた親睦会で、講師にさまざまな質問をぶつけていた。
 施設の子どもには、茶髪もピアスもオーケーで、ルールを守らない子どもに対しても、決して罰はいけないという講師の言葉に、現実との落差を感じてぼくは苛立っていた。

■時間刻みの日常生活

 ぼくの所属する施設には、朝起きてから夜、床につくまで、ありとあらゆる規則があった。一五分以上寝坊すればおやつは抜き。一番遅く食堂に入った子どもには、号令係が待っている。学校に遅刻したり学校からの帰宅が遅れると、しっかり職員日誌にマイナスポイントとして書き込まれてしまう。
 起床、就寝、テレビ、入浴、食事、日常生活のあらゆる事柄がすべて時間で統制されている。だがそんなことは、どこの家にもルールがあるように、集団生活をする以上、当然なことだとぼくは思っていた。
 しかしそんなぼくの考えは、この研修会では通らない雰囲気だった。ためしにぼくが自分の施設の日常をかいつまんで説明してみると、講師は予想した通りの反応を示した。
「今回やったゲームでおわかりでしょう? 最初からあれはダメ、これはダメじゃあ人は伸びないんですよ。自由なやり方で失敗したり成功したりを繰り返して子どもは成長していくんです」
 そして講師の言葉を誰かのヒステリックな声が継いだ。
「大体ねえ、朝起きないこととおやつを食べる食べないは、全然関係のないことでしょう? 朝起きられなかったら、なぜ起きられないのかを一緒に考えるべきなんじゃないの?」実にまっとうな意見である。
 声のしたほうを振り返ってみると、そこにいたのは、さっきまで講師のギター演奏に涙を流していた女性だった。そりゃあそうだろう、とぼくは思った。大上段から振りかぶってしまえば、そうだろう……。そんなことはわかっている。でもどうにもならないのが現実の大人と子どもの関係じゃないのか?
「あなたの施設では、本当にそんな方法で対処できているんですか?」ぼくは苛立って思わず口走った。「ぼくなんか、いうこと聞かない子どもはひっぱたいてやりますよ」口走ってしまって、ヤバイ! と思ったが、あとのまつりだった。
 背後で中年の女性の金切り声が聞こえた。
「この人んとこ、子どもに暴力ふるってるんだって!」
 彼女は絶叫すると、やおら立ち上がり、走って部屋を出ていってしまった。ウソのような本当の話である。

■良江先生との会話

「あらぁ、ヨシコ。何よ、その眉毛。眉毛は剃っちゃぁダメって決まったでしょ。あああ、なんにも聞いてないんだから。学校に行く時はちゃんとマジックか何かで眉毛を描いていくのよっ」
 相変わらずの調子の良江先生の声が聞こえた。研修から帰ると施設には、ぼくのよく知る変わらぬ日常生活が待っていた。
「江美さん、あなたもリーダーでしょ? リーダーとして管理が全然行き届いてないわねぇ。それじゃリーダーとして失格よ。あらちょっと? 今、通ったの京子よねぇ。ねぇ、江美。最近京子のスカート短すぎると思わない?」
 研修地の熱海で買ってきた土産を担当の子ども達に渡し終え、保母室へ向かう僕の耳に、否応なしに良江先生の声が飛び込んでくる。
「ねぇちょっと江美。あなたリーダーでしょ。もう。京子! 京子! ちょっと来なさい。ねぇ京子。あなた最近ちょっと短すぎない。何がじゃないでしょ。スカートよ、スカート。そんな短いスカート履くとどうなるかわかってる? 男達がどういう目であなたを見るかわかってる?」
 保母室の前の薄暗い入り口には良江先生のサンダルがきちんとそろえられ、周囲には無造作に何組かのサンダルが散らばっていた。どれも園から支給された同じ色、同じ形のサンダル。マジックで持ち主の名前が大きく記入されている。
「ああ、いつものメンバーだな」そう思ってぼくは、遠慮なく引き戸をガラガラと開けた。
「そう、わかってるのね。あら、いやだぁ。あなたわかって履いてるなんて、あら、なんてこの女はいやらしいのかしら。ねぇ、江美。言ってやンなさいよ。京子に。いやらしい女だって」
 そこにいる女子高校生は、全員が良江先生の担当児童というわけではない。しかし良江先生のそばにいることが楽しいらしく、いつも学校から帰ると制服姿のまま、まとわりついている。生徒達は、たいがい良江先生に怒られているのだが、ハタから見るとそう嫌がっている雰囲気でもない。注意するほうも楽しんでいて、されるほうも楽しんでいるようだ。
 それは彼女達の間の一つのルールであった。決まったルールの上に乗ってお互いに役割を守っている。施設の規則をネタにした定まった役割分担の上で、職員(大人)と彼女達(子ども)の関係が微妙に保たれていた。
 しかし、だからといって彼女達が、施設の規則を受け入れているわけではないのだ。彼女達だって本当は化粧をしたいし、ピアスもつけたい、茶髪にしたい、携帯電話で友達と連絡も取りたい。現に、ヨシコは眉を剃りそろえているし、京子は制服のスカートをウエストでたくし上げてミニスカートにしている。
 みんな一歩外に出れば、普通の高校生でいたいのだろう。施設から出される弁当を学校に持っていくと施設から来ていることがバレてしまうから持っていかない。友達から電話がかかってくると施設にいることがわかるから、こちらからしかかけない。実際にそういう子は何人もいた。五時四五分の門限を気にせず遊んでみたい。好きな髪型にしたい、気に入った服を着たい、彼氏と携帯電話で連絡を取りたい。あれもしたい、これもしたい。数え上げればきりがない……。そんな年頃なのである。 けれど彼女達が破る規則は、せいぜいが眉毛を剃る程度までだった。それ以上の禁止事項を犯してしまえば、今までの楽しい職員との関係が崩れてしまい、施設に居づらくなってしまう。子ども達は、その微妙なバランスをよく読みとって対処しているのだ。
 そう考えるとぼくには、良江先生と子ども達の会話も一見楽しそうに見えるが、実は危うさをはらんだ複雑なものに感じられた。
 やりたいことが見つかると必ず手枷、足枷となる施設。彼らにとって施設生活はさぞかし窮屈なものであるのだろう。
 かといって、子ども達にまったく自由な高校生ライフなど満喫させるわけにもいかなかった。一八歳になり、彼らが施設を出る年齢に達し、精神的・経済的に自立したとみなされるまで、彼らの行動の責任は、ぼく達、職員にあるのだ。施設の外には、売春・援助交際・非行・麻薬など危険があまりにも多すぎる。そんな危険にみすみす近づけるような自由など、許すわけにはいかなかった。その禁を破ろうとする子どもには、罰も必要だ。そもそも甘い顔などしていたら、舐められてしまって収拾がつかなくなってしまう。
 ぼくは、人権派の研修会を思い出した。
「ピアス? オーケーです」「茶髪。それもオーケー」「何がよくて、これがダメなんてきめつけてはいけませんよ」
 わからなかった。本当にぼくにはわからなかった。正しいのはうちの施設なのか、それとも流れは人権派にあるのか……。
 気がつくと、良江先生と彼女達の話し合いの雰囲気が一変していた。リーダーである江美が、突然泣き出したのである。江美は、職員達と対等に話しができるくらい頭が切れ、誰からも一目置かれる存在であった。その彼女が人目もはばからず泣きながら良江先生に何かを訴え始めていた。(■つづく)

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首都高速道路500通行の正義 第17回/でたらめ審議会とでっち上げ答申

■月刊『記録』96年2月号掲載記事

■4人に1人が管理職

 前回にも申し上げたように、私の首都高速道路公団理事長就任の暁には井口人事課長はクビにします。何といっても彼は改革に役立たないからです。なぜならば彼はコバン鮫だから。良きにつけ悪しきにつけ改革にコバン鮫は不要です。その点リーダーシップをとっている岩手のナマハゲの方がまだ使える。根性は焼き直す必要がありますが、こういう手合いは一度理解するとすばらしい能力を発揮する場合があります。
 もちろん、理事長である私に少しでも逆らうと停職3ヶ月に処します。ボーナスカットはいわずもがなで、昇給もストップとします。3ヶ月後に出社しても態度が悪ければ、そのまま停職延長となる場合は十分あり得ます。どんな些細な失敗も許さず、即延長となります。例えば、顔つきが悪いと延長になります。常に笑顔を絶やしてはいけません。しかし、あまりニタニタして鼻毛が見えるようなことがあると、もうこれは懲罰もので、社会復帰は絶望的とみなされます。これは揶揄して言っているのではありません。お客様あっての仕事では当然のたしなみです。どうだね、ナマハゲ君。
 そもそも課長だの部長だの首都公団には実に管理職が多い。その実体が菊地氏の本から判明した。驚くなかれ、全職員1600人、うち420人が管理職である。4人に1人強が部長だの課長だの呼ばれているわけです。しかも、その半分が部下のいない管理職だというから驚く。その理由も面白い。退職時の役職で次の職場である天下り先の給料が決まるために退職近くなると、部下にいない全く実体のない管理職に昇格・昇給させるるのだそうだ。いわゆる温情人事である。
 公団上層部は部下の面倒を見ているつもりなのだろうが、我々の財布で面倒をみられてはたまらない。利用者不在の全くヒトをバカにした話である。その上天下り先の給与とやらも、税金、つまり我々のカネじゃあないですか。あまりのレベルの低さに気のきいたコメントも思いつかない。何をかいわんやである。

■永久有料とは何事ぞ

 かくして延々と公団の問題点を書き並べ、少しは反省したのかと思いきや、昨年12月に入ってからマスコミからの取材や問い合わせが頻繁にあった。聞けば、「有料道路の値上げなどを審議する道路審議会有料道路都会で答申を出した」という。どんなものかというと、現在の30年間償還となっている有料道路を永久有料にすることが望ましい、ということらしい。あまりにもバカらしいこの答申に対して、マスコミ諸氏がわが輩のコメントを求めてくるのです。好き勝手にいろいろ言わせてもらいました。
「これは、『30年後無料』の手形を1回も落とすことなく不渡りにしたのと同じである」。
「皆さんもよく考えてほしい。全く同じことが民間で起きたら訴訟ものである。子どもの世界であれば殴り合いの喧嘩になる。これほど分かりやすい約束違反である」。
「世の中では価格破壊が進み、未曾有の不景気の真っ直中にある。時代錯誤もはなはだしい。新時代の息吹を感じないのか。選び抜かれた知識人の集まりだろうと思うが、道路の原点に戻って無料をめざすならばまだしも、永久有料とは何事ぞ、無責任も甚だしい。審議会メンバーはすでにボケているのではないのか」。
「なぜ、私をメンバーに加えないのか。審議会は国民側の代表意見を政府に具申しなければならない使命を持ち合わせているはずである。和合秀典は非才なれど、この問題に関しては発言者として有益であると自負している。さすればこのような最悪の答申は避けられたはずである」。
 中心メンバーを聞いてまたまたビックリ。
 まずは部会長の中村貢日本大学教授。何歳ぐらいの御仁か知らないが、部会長で教授というからには、そこそこお年を召した方だろうと推察します。官僚御用達の典型的な御用学者なのでしょう。教授かどうかは知らないけれど、部会長としてこんな答申を出すなんて、すでにボケ老人か?すぐそこまで押し寄せている新しい時代の風を感じないのか?ボケ教授の講義を聞いている学生諸君は哀れであり、実に残念なことに、日本の将来は絶望的です。私の息子は絶対に日大には入れない。
 水元洋委員は帝都高速度交通営団総裁。要するに完璧な天下り官僚じゃないですか。税金で生計を立てている輩が何を言うか。答申など片腹痛い、恥を知れ。
 宮繁護委員の肩書きは「財団法人 道路施設協会理事長」。何だこれは。建設省の天下り人事の極点にいる人物ではないか。利用者側からものをいう資格は全くありません。
 横島庄治委員は日本放送協会解説主幹だそうです。要はNHKの大物。環境・都市・交通・地方自治問題で知られた人物とのことですが、「皆様のNHK」などと言いながら、返すと約束した期限を無視して、永久にカネを取れなどと言っています。ジャーナリストといいながら、一皮むくと官僚なのです。

■「道路は無料」が原則

 まあ、簡単にまとめると、この答申は御用学者を頂点に仰ぎ、官僚出身の委員とほとんど官僚の民間人当たりがでっち上げた、我々利用者の声など全く無視した何の意味も持たない代物なのです。完璧なエセ審議会から生まれたエセ答申と言い換えてもいいでしょう。こんなものが白昼堂々とまかり通ってはかないません。官僚どもは例のごとく、「審議会の答申を尊重し重要なものとして謙虚に受けとめ、選択肢の1つとして考えていきたい」とか何とかいって立法化の方向に向けていくのでしょうが、そうはさせない。必ず阻止してみせる。
 それにしても、これは法律違反とならないのか?
「道路は管轄地域が維持、管理をする」という道路法の原則があり、30年償還のタガをはめられた時限立法の特別措置法があり、その上またもや永久有料とする立法をめざすという。日本の国に、道路料金の形態が全く異種の3つの取り決めが存在できるわけがない。何かがおかしいのです。
 目的からはずれたところで、いろいろといじくり回しているうちに、何かがおかしくなってしまったのでしょう。一生懸命に走っているうちに方向音痴になってしまったようなものです。
 その上、とんでもない方向へ走っていることを正当化するために、次から次へとヘンテコな理屈をくっつけるものだから、今では何が何だかわからなくなってきています。「利用者の利便」などは、とっくの昔にどうでもよくなっていることは言うまでもありません。部外者の私からは、あさっての方向へと一生懸命に走っているのがよく見えます。だからこそ原点に戻って正しい方向へ向きをかえなければならない。「道路は無料」が原則なのです。
 これだけ分かりやすい約束違反に対して、審議会内に正しい意見が出てこないのはなぜなのだろう?審議会は利用者側の声を代表した正しい意見を具申すればいいし、答申に対して実施責任を負うものではないのだから、正しい、いや百歩譲っても「有力な意見」である無料化の答申を出すことがなぜできないのか?
 これは謎です。日本国における最大の謎でしょう。考えてみると日本には同種の謎がたくさんあり、どう考えてもおかしいと思われる意見が新聞紙上を飾るのです。小学生でもわかることが国の問題となると意味不明になってくるから驚きます。
 たとえば、「仮想敵国」であったはずのソ連が崩壊しても自衛隊の予算が膨れ上がり、それに対して社会党出身の首相でさえ異議を唱えません。税収が減少すれば、まず支出を抑えることが必要に決まっています。子どもでもわかる理屈でしょう。自衛隊や首都公団のような存在をまず何とかしてスリムになるべきです。ところが、支出削減などおくびにも出さず、単に「消費税を10%にする」と小沢一郎の殿はのたまう。すると驚くことに、「言いづらいことをよく言ってくれた」などとコメントする馬鹿がいるわけです。ここに政治の不在があり、改革のできない謎があります。そして、500円通行をフィルターに世の中を眺めるたびに、この謎は深まっていくのです。(■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第7回 人権擁護の研修会

■月刊「記録」2000年2月号掲載記事

*            *           *

 化粧品メーカーが主催する「子どもの人権擁護について」と題する研修会に参加することになったぼくは、二泊三日の日程で、熱海にあるそのメーカの研修所に来ていた。
 まず、ぼくは自分に割り当てられた部屋に荷物を置き、同室となった母子寮の職員達と簡単なあいさつを交わした。そうこうしているうちに館内放送で全員に集合がかかり、広間に呼び出されたのだ。

■子どもだましのようなゲーム

 指定された広間に入ると、そこは会議室のようにそっけなく、だだっ広いだけの部屋だった。机が部屋の端に寄せられ、真ん中に椅子が輪のように並べられている。「子どもの人権擁護について」という研修の題名から、お堅い勉強会や講演会のようなものを想像していたのだが、その場で自己紹介をかねて始められたのは、子ども向けのレクリエーションのようなゲームだった。
 東京の渋谷区にある「子どもの城」という、児童センターの親玉のようなところで指導を行っていたという講師のかけ声に沿って、みんなで仲良く次から次へとゲームを楽しむ。輪になって歌を歌い、みんなで同じポーズをまねるゲームをし、向かい合って相手の印象を動物にたとえ合うゲームなどが続く。
 それらはまるで子どもだましで、ぼくは早くもうんざりしていた。しかし、不思議なことに周りのみんなの表情は一様に明るい。なんでだろう? と思いつつも周りに合わせてゲームをこなしていったのだけれど、どうにも納得いかなかったのが、これらのゲームに一貫したルールがあったことだ。そのルールには二つあり、一つは勝ち負けをつけないこと、もう一つは答えを設定しないということだった。
 例えばある人に目隠しをし、その人に対して、三人が三通りの方法で、ある場所まで誘導するゲームを行う。一人目は叱るような大声で誘導し、二人目は事務的に淡々と。そして三人目は優しく、しかも子どもにもわかりやすようにハキハキとした口調で誘導を行う。
 三人の誘導が終わると、目隠しをされた人物がそれぞれの誘導方法に対する感想を述べる。「目が見えなくて本当に不安だった。うしろから大きな声を出されると不安感があおられた。淡々と話されると自信がないようでやはり不安だった。三人目がよかった」などと、だいたい予想通りの答えが導き出されるのだ。
 こうして一つのゲームが終わると、講師は決まってこう言った。
  「ゲームには勝ち負けなんてないんです。答えを無理矢理導き出してもいけません。答えは人の数だけあるんです。罰ゲーム?  とんでもない。そんなのあったらゲームじゃないでしょ」穏やかではあるがハキハキと大きな声で、そしてにこやかな表情で、講師はぼくらに説明する。
 講師のにこやかな表情とは裏腹に、ぼくは「そうかぁ?」という気持ちになった。今までの経験からみても、子どもが勝ち負けに執着しないなどということは考えられなかった。むしろ相手に負けまいと必死になることで、それを見ている子どもまでが興奮し、ゲームの場全体がヒートアップしていくように思えるのだ。
 しかし、到底、そんなことを言えるような雰囲気ではなかった。そんなことを考えているのはおそらくぼくだけで、みんな心からこのゲームを楽しんでいるようだった。釈然としない思いを抱きつつ、『……でもまあ……三日間だし、…なんとかなるだろう』とぼくは考えた。 だが、それは実に甘い考えであった。
 研修会二日目の夜には懇親会が行われた。ぼくは会場へ向かう途中でトイレに寄っていたので、会場に入るのが一番遅くなってしまった。あわてて会場に飛び込んでみると、なんだかよくわからない。薄暗くてほとんど何も見えないのだ。そして目が慣れてきて驚いた。この大きな会場には食べ物はおろか飲み物さえない。男と女が輪になって交互に座っている。そしてその中央に、ギターを抱えた講師がいる。
  「ご飯はどこにあるのですか?」ぼくは隣の女の人に聞いた。すると彼女は宴会の前にこのような閉会を兼ねたセレモニーが毎年行われているのだと教えてくれた。そうか、飯はちゃんと食えるんだな。ぼくは少し納得した。
 二、三曲歌を歌い、簡単な体をほぐすようなゲームを終えると、スタッフがみんなにろうそくを配り始めた。ギターの音とともにろうそくの点火リレーが行われ、いよいよセレモニーとやらが始まった。ろうそくのついた人から二日間の感想を述べていくのである。
 ……驚いた。その場で泣き出す人が続出したのだ。「今までの自分の子どもとの接し方は間違っていました! でもこれからは勇気を出して頑張ります。だって、だってこんなに大勢の仲間がいるんだから」とか、「たくさんの優しさにふれることができました。また明日から頑張ります!」などと言って泣くのである。講師は目を閉じ、小さな音で優しいクソみたいなメロディーを繰り返し繰り返し弾いている。みんな明らかに酔っていた。いや、宴会が始まる前からみんな酔っていた。素晴らしき自己陶酔の世界である。

■こいつら本気で納得してるのか

 セレモニーから解放されて懇親会が始まっても、参加者達は当たり障りのない、先ほどの自己紹介の続きのような話ばかりしている。なんてことだ。居心地の悪さにぼくがきょろきょろしていると、講師がビールを手に近づいてきた。近くで見る講師の顔は、酒がまわっているせいもあってか、実に血色がよかった。
 講師はぼくのグラスにビールを注いで、質問してきた。
  「お宅の施設では子どもの権利条約を読まれましたか?」
  「はい、読ませていただきました」
 先ほどのギターを弾いている姿がなんとなく鼻についていたので、ぼくは素っ気なく簡潔に答えた。
  「いやぁ、よかった。いまだにまったく理解を示さない施設もあるんですよ。そんな施設に限って虐待を繰り返しています。今にとんでもないことになるんですけどねぇ」
 とんでもないことになる? 確かに思い当たる節はないでもない。実際のところ、ぼくの正利を前にした精神状態はとんでもないことになっている。あの正利への扱いは、まさしく虐待であると自分でも思う。虐待が繰り返されるとそのうち何が起こるのか。ぼくは急に好奇心に駆られ、思いつくままに講師に質問してみた。
  「子どもが悪いことをした時には、叩いたほうがいいのですか?」当然、叩いてはいけないという答えが返ってくることを予想していた。
  「叩くほうがいいとか、叩かないほうがいいといった次元の話ではもうないんですよ。明らかに禁止されています。権利条約読まれたんでしょ?」
 相変わらず穏やかな口調である。ぼく達のやりとりに関心をもったらしく、周囲の人間が集まってきた。ぼくは矢継ぎ早に次の質問に移った。とにかく気になっていたことをすべて聞いてみようと思ったのだ。
「ルールを守らない者や弱い者いじめをする者には罰は与えるべきですか?」
「暴力的行為だけでなく、子どもに精神的苦痛を与えること、それも体罰なんですよ」
「髪の毛を染めるのは?」
「基本的にオーケーですね」
「ピアスは?」
「オーケー」講師の口調は変わらない。
「何でオーケーなんですか? よくわかりません」
「子ども達には自己決定能力もそなわっているし、自己決定権を持つことも認められているんです。大人の側が子どものやることに納得できないのであれば、禁止するのではなく、もっと話し合うべきなんです。それでも子どもがそれをしたいのなら、基本的にはオッケーなんです」
 講師が行う身振り手振りの熱演に、周りの参加者は大きくうなずいた。ぼくが施設という村社会に埋没している間に、世の中はこんなにも変化を遂げていたのだろうか。こいつら全員、本気で納得してるのか ぼくは次第に苛立っていった。 (■つづく)

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だいじょうぶよ・神山眞/第6回 正利、おまえが怖い

月刊「記録」2000年1月号掲載記事

*         *         *

 昼食時、正利の髪が茶色いことを理由に詰め寄ったぼくは、いつしかあいつを殴りつけていた。二発、三発。たちまち頭の中が真っ白になり、何をしているのかわからなくなった。四発、五発……。手は止まらない。ぼくはただやみくもに、半分口を開けたままぐんにゃりしている正利の顔を殴りつけていた。

■とうとうやってしまった……

 しかし何発目かの時、突然、背後から女の子の叫び声がした。
  「先生っ、正利くん何もしてないよ! 正利くん水泳部なんだよ!」
 瑞江だった。普段は正利のことを気味悪がっている瑞江が、必死になってあいつのことを弁護している。
 はっとして、ぼくは急に我に返った。――ああついにやっちまった――そんな気持ちが湧いた。これは体罰だ。ぼくは子ども達の目の前で、抵抗もしない一人の子どもに体罰を加えたのである。
……いいや、体罰なんかではない。これは紛れもなく虐待だ。
 立ちつくしているぼくの暴力からやっと逃れた正利が、瑞江の声に励まされたのか床にへたり込んだまま口を開く。
  「……おれ、そめかたわかんないのよ。どうやったらそまるのか、おしえてほしいくらいよ」
 見下ろすと目が合った。腫れ上がった顔にあいかわらずどんよりした目つきだが、珍しいことに視線が合った。口調もはっきりしている。怒っているのだろうか。
 けれどぼくには、そうした正利の必死の怒りの声を聞いても罪悪感は湧かなかった。いつか自分でもやってしまうだろうと予測していたことをとうとうやってしまった。それだけだ。これはまずいことなのだろうな、という意識はしっかりとありながら、心の中ではすっきりと、いや、晴れ晴れしい気分にさえなっていることにも気づいていた。
  「なんで早く言わないんだよ」
 そう言うとぼくは、正利に手を貸し立ち上がらせた。そして子ども達をテーブルに着かせ、何事もなかったかのように自分も昼食のテーブルに戻ったのだった。

■おまえはいったい何なんだ

 しかし夜になり、一人になると突然事態は急変した。ぼくは正利という人間に底知れぬ恐怖を感じたのだ。
 あいつといるといつも、今まで見たことのない自分自身に出くわしてしまう。一緒にいて不思議なほど楽しい気分になり、いつまでも、こいつと過ごしていたいと思うことがある。ぼくは人づきあいの良さそうな外見のワリに人と過ごすのが苦手で、それまで長い時間を誰かと一緒にいたいと思うことなど一度もなかった。それが正利といると妙に心が落ち着き、仕事が終わってからもアパートに帰らず正利の部屋で過ごす日まであった。
 かと思えば、立ち上がれなくなるまで徹底的にメチャクチャに叩きのめしてしまいたいと思う時がある。一挙手一投足に腹が立ち、踏みつけ踏みにじりたいという思いが湧くのだ。
 しかもどちらの感情も自分では制御できないほど激しく強い。それらはあいつに会うまでは感じたことのないものだった。ぼくは自分の中に、これほど強い残忍な暴力に対する要求が存在することを知らなかった。ぼくをそんな人間に豹変させてしまう正利が、とてつもなく恐ろしかった。
 考え始めると不安になり、いても立ってもいられなくなった。一人でいたくはなかったが、電話のベルが鳴っても取らなかった。ただ悶々と眠れぬままに夜を過ごし、朝が来るのを待ったのだった……。

■もうこの競争から逃れたい

 不眠症、というと少々大袈裟ではあるが、当時のぼくはかなり疲れていた。仕事から帰るとぐったりして、まるで布団に体を沈み込ませるようにして眠りにつく。だが二、三時間もすると必ず目が覚め、一度目覚めるともう眠れなかった。不安に支配されてしまいどうすることもできなくなる。そうして寝返りを打ちつつ夜が明けるのを待つのだった。そんな日が何日も続いた。
 保母も指導員も、みんな真面目で頑張っている。それがぼくにはたまらなかった。互いに常に競い合っているように見えた。施設にいる時、彼らが意識しているのは子どもではなく、常に職員同士の目のほうだった。――威厳をもって子どもに接すること――それがぼくのいる施設の暗黙の了解だったから、声を荒げて子どもを叱りつける回数が多いほど熱心な指導員として評価されるような気がした。言うことを聞かない子どもを許してはいけない。甘い顔をして子どもになめられてはいけない。たとえ手を上げてでもしつけなければならない。それらの教育を情熱をもって実践するほど、熱心な指導員として褒めてもらえそうな気がした。
 だからぼくはそうした。そうしなければならなかった。また実際に、かけ声一つで軍隊のようにきちんと整列する子ども達の前に立つと、自分が偉くなったようで気分がよかった。怒鳴りつければスッキリしたし、殴り飛ばせば爽快になった。
 そうして夜が来ると、また不安にさいなまれる。眠れぬ夜、「もうこの競争から一人だけ降りたい」と、ぼくはいつも考えた。そうすればもう正利にも暴力をふるわなくてすむ。不安と興奮と罪悪感と快感がないまぜになった、こんな複雑な感情からも逃れられるだろう。
 だが朝になり学園に着くと、やはり暴力が紙一重の存在としてぼくの隣にあるのだった。集まった子ども達の前で胸を張り、堂々と大きな声で、ぼくは教訓を垂れる。
  「おい、おまえ。おまえだよ。ちょっとこいよ。弱い者イジメするなんて、おまえ最低の人間だよ」
 子どもの頭をこつくぼくの心のどこかで、「弱い者イジメしてるのはオマエじゃないか」と声がした。けれどその声は、またたくまに自分の説教の声にかき消されてしまうのだった。

■人権擁護の研修会

 秋から冬に変わろうとしていたある日、ぼくは大手の化粧品メーカーが主催する研修会に参加することになった。職員には毎年、年に数回、研修会や勉強会に出席することが義務づけられている。今回のテーマは「子どもの人権擁護について」だ。
 おそらくは『子どもの権利条約』を読み、人権について話し合い、どこかの施設から報告される事例を検討するという、お決まりのパターンだろう。すでに何回か参加していたこのテの研修会から、ぼくはそんな内容を想像した。
 当時、世間は「人権擁護」流行りで、職業柄、子どもの人権に関する話は耳にタコができるほど聞かされていた。施設によっては早々にこの流れを取り入れ、子どもの人権マニュアルを作成するだけでなく、指導員の呼称に「先生」を付けるのを廃止し、子どもと指導者の間の垣根をなくす試みまでしているところもあった。
 一方ぼくの施設はといえば、依然として「力をもって行う情熱的な指導」がまかり通っていて改められる気配もない。だから研修会で聞く話の数々には、「言うことはわかるが絵空事」という印象を抱いていた。
 どんなに指導員が研修会に出て勉強してきたって、施設に帰れば軍隊並の規律や日常と紙一重の暴力が待っている。現実は何一つ変わりゃしない。そんな諦めにも似た気持ちから、研修会に対する興味や期待は全くなかった。ただ、開催地を見ると、熱海の研修所で二泊三日となっている。数日間、施設を離れられる。電車に揺られて遠くに行ける。温泉くらいあるかもしれない。のんびりぼーっとしてくるのもいいなぁ。ぼくはそんなことを考えた。
 研修会の当日は、いい天気だった。研修所は熱海駅からバスでしばらく入った小高い丘の上にあり、さすがに化粧品メーカーの持ち物だけあってホテルのようにきれいだった。
 割り当てられた宿泊室もこざっぱりときれいで、ぼくは四人の参加者と同室になった。彼らとは、偶然にも熱海の駅前で知り合いになっていた。地図を持ってロータリーでキョロキョロしているぼくに親切に声をかけてきてくれたのが彼らだった。
 彼らはいずれも母子寮の指導員をしているという。いかにも誠実で人がよく真面目そうな雰囲気を漂わせていた。研修が始まるまでの待ち時間を、めいめいに自分の施設の様子など当たりさわりのない話をして時間をつぶした。
 あまりにも当たりさわりない世間話の一つひとつに、さも関心したように頷いては笑顔で応じ合っている彼らの様子に、やや奇妙な印象を抱いたが、まぁ、たいしたものだな。さすが人に接する仕事をしている人達だ。きっといい人なのだろうとあまり気にとめることもしなかった。
 そして研修会が始まった。ぼく達は館内放送で呼ばれ、会議室のような広間に呼ばれたのだった。(■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第9回 トモダチ?友達?親友?

■月刊「記録」1998年10月号掲載記事

*          *          *

■夜中に鳴るポケベル
「マタミステラレル」
 真夜中にポケベルに入ってくるメッセージは心のつぶやきのようなものが多い。
 救いを求めてのメッセージだということはわかるのだけど、どうすることもできなくて困ってしまう。
「ダレニミステラレルノ?」
「オカアサンダヨ」
「ナニガアッタノ?」
「ナニモナカッタ」
 ……???
 何もないのに、見捨てられると思ってしまう彼女は、母子家庭の長女。母親が病気のため、一五歳の時から彼女が家計を支えてきた。
 彼女がいうには、両親を離婚に追い込んだのは自分だという。離婚調停中、家庭裁判所に呼ばれた彼女のいった言葉がきっかけとなったようだ。
 それは、「涙のひと筋、ふた筋流したところで、元に戻るような夫婦ではないんです……」という言葉だったという。
 両親が結婚してちょうど一年と一週間後に生まれた彼女は、大旧家の長女として厳しく育てられ、妹とはまったく違った扱いを受けてきた。せっかんもひどかったようで、その張本人であった父親と離れて、五年が経過した段階でも、人の手を触ることができずにいた。
 父親の教育方針を守り通した母親にも上手に甘えることができなかった。そんな彼女は、いわゆるアダルトチルドレンなのかもしれない。
 彼女はいつでも空想の世界のなかに住んでいる。私がそう気づいたのは、話を聞いていると、食い違っていることが多いからだった。最近わかってきたのだが、彼女には、実在しない「双子の姉」がいるようなのだ。それだけではない。複雑な生い立ちを語る彼女の家の家系図を、電話で話を聞きながら作ってみたのだが、とてもじゃないけれど、本人に確認することはできないような代物になった。
 代々自殺で亡くなっていき、近親相姦に血の争いがからむ家系となる。昔よくみられた安物のドラマのようだ。家系図をドラマチックに仕立てる空想を繰り返して、彼女は何を得ようとしているのだろうか。

■手首に刃物を刺す少女

 ある時、彼女は私の目の前で、手首に刃物を刺した。致命傷になるような傷ではなかったが、まるでメロンにフォークを突き刺すように、平気で刺してみせる。
 母親の愛情は、いつも妹と従姉妹に注がれていたのだといい、「いつだって妹が、母親を自分から取っていく」のだと、手首を刃物で突きながらつぶやく。
「全然痛くないの。きっと、父親に手首をギューッて握られることが多かったから、そのときの恐怖に比べたら何ともないのよね」
 だから私は、彼女をひっぱたいた。女だからって容赦はしない。私の目の前で、自分の体に刃物を突き刺すようなシーンは、もう絶対に見たくない。
「何があったのか、いわなきゃわかんないよっ」
「本当に、何もなかったのよ」
 何もなかった。何もないから苦しくなった。そんな彼女の気持ちがまったくわからないでもなかった。(気づいてほしい。お母さん、私苦しいの。仕事もうまくいかないし、それでも働かなきゃいけないし、学校だって行かなきゃいけない。疲れた……)という気持ちだ。
 だけど私は彼女の「お母さん」にはなれない。それでも彼女からは、「コンドアッタトキダキシメテクレル?」「フタリキリデアイタイ」といったポケベルでの真夜中のメッセージは尽きない。

■私はあなたの何ですか?

 彼女のクセのなかには、私が嫌いなものがある。すぐに人の揚げ足を取ること。そして、人の心を探るところ。長女の習性だと本人がいうところの「知りたがり」と「決めつけ」が、ときに私を怒らせた。
「ワタシミタイナヤツッテウザイヨネ」
「ダレモソンナコトイッテナイジャン」
 そんなやり取りが明け方まで続く。そして最後は、おなじみの言葉でしめくくられる。
「ゴメン…」
 謝るくらいなら、はじめから入れるな! と思う。
「ワタシハアナタノナンナノ?」
 彼女の言葉に振り回されそうな気がして、とうとう私はきいた。彼女は、自分が私の前から消えたほうがいいと思っているようだ。自分がいることで、私に迷惑がかかると考えているようだ。そのくせ、私の質問に対する答えは、「トモダチダヨ」だった。
 私は友達を、ウザいとかじゃまだなんて思ったことはない。そんなことを感じるような友達ならいらないと思う。うわべだけのつき合いなんて寂しすぎる。なのに彼女は、何度も私の心を探ってくる。信用してもらえない私は、本当に彼女の友達? もしかして私のほうが、あなたにとって、うわべだけの友達なんじゃない?
 ……「うわべだけの友達」。
 私が一番嫌いな言葉だ。そして私が、昔、よく口にしていた言葉だ。まだ、全日制の高校へ通っていた頃のこと、私は友達の家に泊まりにいった。学校のなかで、一番つき合いやすい友達だった。
「うわべだけのつき合い」という言葉をはじめて聞いたのは、その夜に泊まった家の子のお母さんから。「うわべだけのつき合いができる人ほど、世わたり上手なのよね。でも、うちの子は、あなたみたいにそれが上手ではないから……」
 私が高校を辞めたのは、今、振り返ってみれば、この夜の出来事がきっかけだったのかもしれない。私にとって、人を信じられなくなることを知った夜だったのだ。 それからの私は、ことごとくうわべだけのつき合いを始めた。みんながそうして自分とつき合っているなら、どうして自分だけが真剣につきあえるだろう。真剣につき合っちゃいけない。傷つきたくなくて、そう自分に言い聞かせていたのだろう。
 けれど、私が人を信じずにつき合っていることは、いつか必ず相手にもわかる。その時、だいたいの相手は、黙って離れていくけれど、ただ一人だけ、辛抱強く声をかけてくれた人がいた。「おまえが私のことをどう思っているのかわかってる。信用したくないならしなくてもいいし、上辺だけの友達だと思ってくれてもいい。でも、私にとっては親友だからね」といってくれた人がいた。
 ワタシニトッテハシンユウダカラネ……。
 人間不信に陥って、固く自分の殻のなかに入り込んでしまった私に、時には泣きながら声をかけ続けてくれた人。彼女は香織という。私は、この一人の友人のおかげで立ち直れた。また人を信用することができるようになったのだ。彼女とめぐり合えたのは、私にとって、本当にありがたい偶然だった。
 香織とうちとけてからは、うわべだけの友達はいなくなった。うわべだけのつき合いをしていたときの痛み、されたときの悲しみは、知りすぎるほど知ったから。私はそうして、人と向き合えるようになったけれど、未だに人を信じられずに、苦しんでいる人もいる。
 ポケベルの彼女もその一人だ。

■心に余裕がなくなっている

 私が携帯電話を買った時、その電話番号を伝えると、彼女は早々、自分も買った。私がポケットベルを持った時もそうだった。挙げ句は、私が母に日記帳を買ってきてもらったことを話すと、自分も同じように母親に頼み、そして、母親の行動が私の母と違うと、八つ当たりをしたそうだ。話を聞きながら、私は何もいえなかった。 私が、母に日記帳を買ってきてと頼んだのは五月のことだった。当時、私は、とある事情で入院中で、自分で買いに行けなかったので頼んだのだ。けれど季節はずれで、かわいいものがみつからず、母は、何件も探し歩いてくれたという。
 それを知ったポケベルの彼女は、すぐさまカレンダーを買ってきてほしいと自分の母親に頼んだ。新年から半年近くも過ぎた時期に、カレンダーなど置いている店はほとんどない。彼女が求めていたようなかわいいものは、やっぱりなかった。
 それでもお母さんは、バスで片道一時間もかけて探してきてくれたのだ。しかし彼女は、それを破り捨ててしまったという。
「親を試してみたかったの。どれだけ私のことを考えてくれているか、知りたかった」
 親の愛情さえも信じられない彼女に、他の誰が信じられるだろうか? 幼い頃に受けたという、私の知らないせっかんが、それほどひどいものだったのだろうか…。 親の期待に添おうと空回りし続けるうちに疲れ果て、誰も信じられなくなる子ども。自分の思い通りにならない子どもを前に、あからさまにため息をもらす親。今、子どもと大人の間にいる私には、どちらの気持ちも理解でき、また理解できずにいる。でも、聞いてみたい。
 誰かが助けてくれると思ってるのではないですか? だから、誰かに助けてもらえるまで、悲しみと不満の底に沈んで待っている。自分からは何もしない。そして、周囲が変わってくれないと、人にあたる。
 自分が環境を変えるのではなく、環境で自分が変われると思っている。だから誰かに環境を変えてもらえるのを待っている。それではズルくはないですか? 私も経験があるからわかるのです。
 そしてポケベルのあなた、私にそれを求めていませんか?
 みんなの心が、自分のことで精一杯になっている。
 自分が、一人ぼっちになったような気がしている。みんなが、一人ぼっちになったような気がしている。
 それが、時代なのでしょうか?
 今、教育を見直そうという動きがあるけれど、必要なのは、心の余裕なのかもしれない。  (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第8回 フロリダでの出会い

■月刊「記録」1998年9月号掲載記事

*          *           *

■フロリダへヒーリングの旅へ

 九八年七月二五日から八月二日の間、フロリダで行われたイルカと泳ぐツアーに参加した。
 このツアーには、以前に自閉症や障害のある子ども達が参加して、たくさんのいい変化が得られたと報告されている。そこでこのときは、不登校の子のヒーリングもできるのではないかと考えて行われた、はじめての試みだった。
 そこに私が参加した理由は、イルカと泳ぎたいという思いと、海外に行ってみたいという興味、そして子どもたちの役に立てることがあれば協力したいという気持ちだった。けれどまあ、参加者には、有名なフリースクールの先生やスタッフの方々が加わっていたため、私はそれなりに楽しめればいいかなと、甘い考えでアメリカに出発した。
 参加したのは、一三歳から二二歳(引率チーフと年齢不明者を除く)の、職業や生活環境のまったく異なる男女一二人で、参加の動機もまったくバラバラだった。
 ある人は、私と同じようにアメリカに行ってイルカと触れ合いたいという理由。またある人は、イルカに触れれば自分が変わるんじゃないかという期待から。誘われるがままに参加して、それでも自分の心に何かの変化があるかもと思っている人もいれば、夏休みを利用してのバカンスを楽しみに来ている人もいた。
 フロリダでの生活は、コンドミニアムの共同生活だった。集団生活に慣れていない私や同じような人にとっては、決して楽ではないものだった。
 わがままがいえない。右も左もわからないアメリカで、英語をしゃべられない人も多いうえに、簡単に国際電話一つかけられない心細い状態。知らない者同士、触れていい部分と触れてはいけない部分との探り合いのような始まりだった。
 特に私は、英語はしゃべれないし、泳げない。海を見るのは好きだけど入るのは嫌い。日本の文化にしか触れたことがないから、現地のツアー主催者の方ともはじめはウマが合わなくて、スーツケースを抱えて帰ろうとしてしまったくらいだった。
 帰ろうと思うまでには、それなりにいろいろなことがあったのだけれど、思えば小さなことが重なって、疲れてしまったのが原因だった。
 たあいないことだが食事に私の嫌いなチーズがよく出る、心を許せる人がいない、集団行動に慣れていないために必要以上にテンションを高くして振る舞ってしまい、その高さを保てなくなった。いろいろなことが重なって、プライベートタイムも思うように作れず、ストレスからぜん息の発作も続き、夕飯を食べずにとにかくベッドに潜り込んで寝た夜、ふと夜中に目が覚めた。どこへ行くあてもないけれど、とにかくここを出ようと、固く思い込み始めていた頃だった。
 ふいに夜逃げを決行する気になった。ボストンバッグに荷物を詰め込んで一息つく。フロリダの空気は乾燥している。乾いた室内での作業は、ぜん息のノドには思った以上に疲れて、お水を飲みにリビングへ行った。
 フロリダは暑いから、部屋では一日中冷房が効いている。寒いリビングで水を飲んでいると、ソファーに眠り込んでいる黄色い人影を発見した。
 夜逃げをしようとしていた私には、これ以上にない驚きであった。けれど、人影が誰なのかを確認した時には、これ以上にない安ど感をも覚えた。私をこのツアーに誘ってくれた、小冊子を一緒に作っている友人だった。 私は「純くん、風邪ひくよ」と揺り起こして、リビングから出ていってもらおうかとも思ったが、その前に少しだけ話を聞いてもらうことにした。出ていくことで、彼に迷惑をかけることはわかっていたし、話を聞いてもらうことで私も落ち着くかもしれないと思ったからだ。「一杯つきあってもらえないかな?」。未成年の私がお酒を一緒に飲もうなんて、本当はいってはいけないことなのだけど、他にどうすることもできなかった。お酒に頼らなければ、口を開くことができそうもなかった。
 眠そうな彼と、現地で買ったビールをあける。瓶ビールをラッパ飲みするなんて、日本にいる時には考えられないことだった。
 はじめの頃は、何気ない話をしていた。夕飯のこととか、一緒に来ている人のこととか。それが私の心をなごませてくれた。きっと、高く保っていたテンションが、徐々に元に戻っていったのだろう。
「なんだか疲れちゃって、精神的にもうダメなのって、さっき誰かにいっちゃったんだ。どうしようもなくて、スーツケースを持って帰ろうとしてたんだ。何やってるんだろう? 私…」というと、彼は、「みんな疲れてるんだよ。弱音くらい吐いたっていいと思うよ。自分の時間ってさ、みんなで一緒に生活してるときに作ろうとすると、すごく難しいんだよね。でも、その中でなんとか作るしかないんだ。だから俺は、バスの中では絶対寝てるよ」という。
 そう言われてみると、たしかに彼はバスの中では、いつだって寝ていた。彼いわく、それが自分の時間だからだという。
 私と違って彼は、フリースクールのスタッフとしてこのツアーに参加していた。そして彼には、金魚のフン状態の子どももいたのだ。朝から夜までだけならまだしも、二四時間ずーっと一緒となると、それなりにストレスも重なったと思う。

■ヒデという一人の少年

 その頃から私たちの間で「マッサージ」が流行(?)になった。マッサージといっても「ツボ押し」という、ツボを探して押すものだ。ツボを見つけられると、「あ」に濁点がつくような声を張り上げてしまうほど痛く、それをおもしろがってやる子もなかにはいた。
 もともと肩こりがひどいうえに、疲れと冷房が重なって、私の右腕が上がらなくなったのを知られてからは、よくそのターゲットにされた。そして、その相手が、純君にくっついてまわっていた一三歳の男の子だった。
 純くんはリビングでグチる私に、「あいつはさ、今までは自分からは何かをしようとはしなかったんだよ。でも、香苗と一緒にいるようになって、すごく変わった。いい意味でね。自分の意志をはっきり伝えるようになったよ。はじめて聞いた言葉が一杯あった。家に帰りたくないとか、それは冗談で言ってるんだろうけど、ビックリしたよ。きっと、香苗を信頼してるんだ。自分を信頼してくれる人がいるって嬉しいよね」
 リビングで愚痴る私に、純くんが話してくれた。
 それを信頼といっていいのかはわからなかったけれど、その子が私と一緒にいるとき、たしかに他の子といる時とはなんだか違うと感じてはいた。けれど、それはばく然としたもので、何日かあとに、彼に信頼されていることを実感する時がくるのだが、それまでは私も自分のことで精一杯だった。
 さんざんグチをいった私に、純くんは日本食を作ってくれた。眠れなくて起きて来た子たちと一緒に、翌日の夕飯用にとってあったそうめんを勝手に食べていると、私の気持ちは晴れ晴れとしてきた。夜逃げをしようとしていたことなど、すっかり忘れてしまったほどに。
 泳げない私は、海に浮き輪を持参する。
 日本では船酔いが悩みだったけれど、フロリダでは船酔いはまったくしないのに、波酔いがひどかった。どうも、その浮き輪が問題だったらしい。
 軽く浮き輪につかまっていれば、人の体は簡単に浮くものだが、私は必死にしがみついてしまう。そのことで胸が圧迫され、波に酔ってしまうのだ。
 イルカと泳ぐために、私たちはよくクルーザーで海に出た。海の真ん中にクルーザーから降りて泳ぐ。そして船酔いや波酔いがあまりにもひどくなった時、子どもたちは、シェル島という島まで泳いでいき、とりあえず陸に上って酔いを覚ました。
 クルーザーで上陸することはできないから、私にとってはとんでもない距離を、泳いでその島まで行かねばならない。
「キャーーーー!!」
 そのクルーザーから降りる瞬間、私は気づかぬうちに、いつも大声で叫んでいたようだ。水の中に潜っていても聞こえてくるといわれたので、きっと相当な声だっただのだろう。
「降りておいでよ、引っ張っていってあげるから」
 いつも純くんにくっついている一三歳の男の子、ヒデは、人一倍乗り物酔いがひどく、飛行機に乗っているときも、船に乗った瞬間からも顔を真っ青にしていた。
 そのヒデが、私をシェル島まで連れていってくれるというのだ。
「無理だよ」と私。
 泳ぎが得意ならまだしも、ヒデの手には、しっかりとライフジャケット(浮き輪の代わりに使っていた)が握られている。だがヒデは、「大丈夫。これを握ってて!」とジャケットを体に巻きつける時に使うひもを私に握らせ、シェル島に向かって泳ぎ始めた。
 はじめはちゃんと進むかどうかが心配だったけれど、何とかシェル島までたどり着けたその時から、私は海のなかではヒデを頼るようになった。極端に泳げる人よりも、ヒデと一緒にいるほうが安心できるのは、迷惑をかけていると感じる大きさが違うからなのだろうか。
 それに陸の上では、私や純くんにからみついてくるのに、海の中では男の子らしさを見せてくれるのがなんとなくうれしかった。
 ただ私には、時々見せる寂しそうな顔が心配でならなかった。ヒデを叩くことは、たとえ遊びであってもいけない気がした。無理に彼の心のなかに入ろうとすれば、彼は自分の殻に閉じこもってしまうような気がして、私にできることは見守ることしかなかった。
 誰からともなく後で聞いたのだが、ヒデはイジメにあって学校に行けなくなり、フリースクールに通っているという。イジメにあっている時は、よく叩かれていたらしい。でもヒデは、イヤなことは「ヤメて」とハッキリいうことができる。それが、唯一の救いだった。警戒心をむき出しにしていたはじめの頃の彼の印象に、あとから聞いた彼の経歴が次々に重なると、私には、他人事とは思えなかった。触れ合うことを思い出してくれた。

■触れ合うことを思い出してくれた

 私とヒデは、みんなと一緒にいてもなんとなく近くにいるようになった。基本的には私のうしろをヒデが歩くのだが、それが私には安心できる形だった。あまり笑っている姿を見せてくれなかったから、側にいてくれることで存在を確認していたのかもしれない。
 ある晩、ヒデが私のいるコンドミニアムのリビングで寝ると言い出した。私たちのグループは二ヶ所に部屋を借りていて、その二つのコンドミニアムのそれぞれにある三部屋の寝室に、分散して暮らしていたのだ。
 食事は私のいる三一二号室で、みんなで食べると決まっていた。その食事の後にヒデが、ここで寝ると言い出したのだ。「じゃあ、私もここで寝る。ヒデちゃん、お姉さんが添い寝してあげるよ」と私がいうと、「いいです。俺はこっちのソファーで寝るから、そっちのソファーで寝てよ」とヒデ。
 二つのソファーを指さしながら、私は、自分の部屋で寝ることを勧められなかったことに少し安心した。
 結局その夜は、ヒデはソファーに、私は床に布団を敷いて眠った。ヒデはしきりに私にソファーで寝ることを勧めたり、床では肩がこると心配してくれたけれど、ヒデがきちんと眠れていることを確認できれば、他のことはどうでもよかった。そうして他人との接触に、意欲を見せはじめてくれたヒデが嬉しかったのだ。
 翌日、最終日のナイトクルージングの時、ヒデは他の男の子たちとはしゃいでいた。ヒデをよく知る人が、彼がよく笑うようになったと言っていた。こもりがちだった彼が、自分の意思で動くようになったとも。私も、むき出しになっていた彼の警戒心が、ほぐれてきているのを感じていた。
 結局、ヒデを変えたのはヒデ自身だった。彼がここにきて、彼自身の心で学んだことを、いつまでも覚えていてほしい。その願いを、ある物に託して彼にわたした。そして私も今、同じものを持っている。私自身、フロリダ・パナマシティで学んだことを忘れたくないから。

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ウラン加工施設臨界事故・東海村隣接住民の手記/水見ちはる

■月刊『記録』99年11月号掲載記事

■「こんなこととは知りませんでした」では済まない!
■(みずみちはる……昭和38年1月24日生まれ。専業主婦。当時放送大学通信制大学1年生。95年からバンクーバーから日立市に移住。33歳のだんな様と小学校一年生の長男と幼稚園年中児長女4人家族。現在も日立市在住)

     *     *     *

 最初は何が起こったのかわからなかった。
  「事故」と聞いて、まず思いついたのは、国道二四五号線沿いにある元動燃あたりに集中している施設での事故。広い敷地に頑丈な壁で囲まれた原子力研究所や原子力東海発電所などの施設のどこかで事故が発生したのだろうと思った。おそらく地元や周辺住民のほとんどがそう思ったはずだ。
 あの辺りなら、周囲に民家はほとんどなく敷地は林に囲まれている。ここまで被害は届かないだろう。それが東海村に隣接する日立市に住む私の印象だった。

■しまった、事故現場はずっと近い!

 ところが三時頃になって、テレビのニュースによって事故現場が明らかにされた。国道六号沿いの民家に近い普通の工場内が現場だという。私は思わず娘の顔を見た。
 通園バスで、今、帰ってきたばかりの娘の幼稚園は、事故現場から川を挟んで三キロほどの位置にある。さらに運の悪いことに、今日は三日後の一〇月三日に控えた運動会に備えて、午前一〇時三〇分頃から運動公園に移動し、屋外で運動会の練習をしていたというのだ。運動公園の場所は事故現場にさらに近い。(しまった…)そう思った。
 一時頃に事故を知った私は、息子の学校が終わる時間に合わせて、四〇分ほど歩いて彼を迎えに行っていた。けれど幼稚園のほうは、バス通園なのですっかり安心しきっていたのだ。娘も迎えに行くべきだった。「バスを待っている間もずっとお外で遊んでいたよ」と娘は言う。目の前が暗くなった。
 テレビをつけた。東海村の南西に隣接し、日立市の隣にある ひたちなか市のほうでは、すでに屋内待避の指導が各学校、幼稚園に出されているという。わが日立市はどうなっているのか。娘は園庭で遊んでいたというし、息子の学校の生徒達は、誰も何も知らされずに徒歩で下校していた。この差はいったい何だろう!?
 急いで日立市に電話をかけた。とにかく情報が欲しかった。けれどいつまでたっても回線がつながらない。話し中を知らせるツーツーという通和音だけが響く。そして何度もかけて、ようやくつながった電話では、担当者が「とにかく情報はテレビを見てください。日立市のことが流れてないのは日立市がダイジョウブだからです!」と言い放った。
 あまりの非論理的な回答に唖然とした。何を根拠にダイジョウブだというのか。担当者の言葉にかえって不安が募った。日立市も、ひたちなか市と同様に東海村に隣接しているというのに。
 仕方なく、テレビをつけっぱなしにして過ごす。すると夕方の四時頃になって、日立市にも一〇キロ圏内屋内待避が出されたという報道が始まった。続いて幼稚園と学校から「明日は休校」との連絡が入る。だが家の近くには、警察も宣伝カーの一つも廻って来る気配はない。
 夜になり、テレビでは「臨海が止まらない」というニュースが流れ始めた。臨海とは、核分裂が次々に起こり続ける状態だ。それが止まらないとはどういうことか。臨海により施設からあふれ出た放射線はいったいいつまで、そしてどこまで広がり続けるのか。
 不安のなか「国道六号線が閉鎖」、続いて電車が止まり「駅が封鎖」の報道が流れる。とうとう隔離されてしまった――。とたんに恐怖が湧き起こった。上空ではヘリが飛ぶ音がする。映画『アウトブレイク』のワンシーンが浮かんだ。未知のウィルスに汚染されてしまった村を、封鎖して住民ごと焼き払ってしまおうという方針が政府から出されるシーンだ。今なら笑い話で済むが、この時は冗談じゃなかった。
 とにかく正確な情報が欲しい。市の言葉は信用できない。そしてテレビによる報道は、ただ恐怖をあおり立てるばかりだ。窓を閉め、冷房を止めて、テレビをつけっぱなしにして、一家四人、眠れない夜を過ごした。

■教育委員会が決定したからダイジョウブ

 翌日になって、やっと臨海が止まったというニュースが流れた。様子のほうも少しずつ明らかになってきて、私の住む社宅の住民も落ち着きを取り戻し始めた。しかし夕方になって、一〇キロ圏内屋内待避が解除されると、新聞さえ未配達の状況にもかかわらず、学校からは「明日は登校」、幼稚園からは「明後日の運動会は予定通り実施」との連絡が入った。これには困惑した。
 昨日から窓は一度も開けていない。開けるなと言われたからではない。ホウシャセイブッシツが怖いからだ。一時期雨が降っていたが、土は汚染されなかったのだろうか。登校してダイジョウブ、運動会もダイジョウブといわれても、本当にダイジョウブなのだろうか。昨日の市役所の要領を得ない電話の回答が頭をよぎる。根拠はあるのだろうか。
 再度市役所に電話をかける。すると、教育委員会が決定したからダイジョウブなのだと言われた。そこで教育委員会に電話をする。すると、市の災害対策委員会が決定したからダイジョウブなのだという返事だ。次に市の災害対策委員会にかけると、
  「運動会? 土が汚染されているなんて誰から聞いたの? 空気が汚染されてなきゃ雨が降っても土は汚染されるわけないでしょ?」煩わしいことこのうえないといった返事の仕方だ。それでも食い下がって、モニタリングポストの測定値を聞いてみた。すると、
  「日立市ではねえ、たった一ヵ所だけ高い数値を示しただけだよ」「それはどこですか?」「トメだよ、トメ!」
 ……トメ? 留町だ! 留町といえば娘の幼稚園のすぐ隣ではないか。この職員、おそらくたくさんの人から同じような内容の質問を受けすぎて面倒臭くなっていたのだろうが、大きな災害の際に、市民の不安に対応するのは市の仕事の一つではないのか。彼がいったいどこに住んでいるのかは知らないが、現場から一五キロも離れている日立市役所の一職員にとって、南の端っこにある留町や茂宮町、大和田町、下土木町(いずれも東海村に近い町)など、所詮、「たった一ヵ所だけモニタリングポストの数値が上がっただけ」の場所でしかないのだろう。
 たらい回しのあげくにこの結果だ。だが、拗ねている場合ではない。モニタリングポストの数値はどのくらいを示したのだろう。昨日、いくら電話をかけてもパンク状態でつながらなかった県の災害対策委員会に電話をしてみた。
 電話口には、あきらかに専門家ではない人が出てきたが、傍らにいるらしい専門家に話を聞きながら、さすがにていねいに状況を説明してくれた。ここに来てようやく私は、話の通じる人から情報を得ることができたのだった。

■市がこれほど頼れないとは……

 留町のモニタリングポスト(環境放射能測定点)の数値は30日、20時の時点で0.118マイクログレイ(放射線吸収線量の単位)を示した。だが、今は数値は正常値(0.045マイクログレイ)に戻っており、土の検査はまだ済んでいない。心配であれば、外から帰った時にはよく服の埃を落とし、体をよく洗い、洗濯物で事故前に干したものはもう一度洗いなおすこと。――その時点でわかっていること、わかっていないことなどを防災対策委員は細かく説明してくれた。
 普段なんらかの情報を集めたい時は、夫の会社にあるコンピューターからインターネットにアクセスしてもらい調べていた。もしも自宅からインターネットに接続できれば、リアルタイムにもっと適切な情報を集ることができただろう。自宅にインターネットをつながずにいたことを、この時くらい悔やんだことはない。瞬時に集められるはずの情報のために、かなりの労力と時間を割いてしまった。よもや、これほど市が頼りにならないとは思ってもいなかったからだ。
  (市に頼っていてはいけなかったのだ。必要な情報は自分で得るしかない)私のなかには、市に対する大きな不信感が残った。今後、どんな発表が市から出されても、もう素直に信用する気持ちにはなれないだろう。取り急ぎ、幼稚園の運動会が明後日に迫っている。こうなったら自分の足で調べるしかないと思った。再度、運動場の土を自分で持っていくから調べさせてもらえないだろうかと保健所に電話してみたが、土は調べられないという返事だった。
 なぜなのか理由ははっきりしないが、とにかく調べられるのは人間だけだということだ。しかたなく私は、夫の会社の同僚で、原子力に詳しいK氏に話を聞いた。地理関係や状況などを説明し、モニタリングポストの数値が表すことなどについての判断を仰いだ。
 彼の考えでは、今回の事故が爆発でなかったこと、数値が下がるまでの時間の経過から、飛んできた放射性物質は建物の空気口などから外に漏れたものであり、早いうちに放射線を出し切ってしまい別の物質に変化してしまうものがほとんどだと思われることなどがわかった。また事故当時の「北東」という風向きも考慮に入れれば、一応、日立市は安全なのではないかということだった。そこで土曜からは息子を通学させ、運動会にも参加することにした。
 また、土の検査がだめなら、身をもって調べるしかないと、運動会帰りに土まみれになったまま娘と保健所に直行、検査をしてもらうことにした。まさに命がけの運動会だ。保健所には広島や長崎から医師が来ていて不安なことがあれば質問に答えてくれるという。結局、土にも人体にも汚染はなく、この日は、土や水の汚染についていろいろ聞いたあと、被爆に関する説明を受けて帰宅した。

■怖いのは原発でなく管理者の無知

 数日が過ぎ、何も変わらない生活に戻った。もう会う人会う人が皆、事故のことを口にすることもなくなった。事故はジェー・シー・オー(JCO)の幹部責任が大きく刑事事件として家宅捜索などが進んでいる。国も早いうちから対応の遅れを認めて謝った。小渕首相も農作物安全パフォーマンスに出たりしてダイジョウブをアピールしているが、地元住民にとっては、もう何も信じられないという気持ちが残った。
 国、県、市町村の責任ある人達のなかで、誰一人としてJCOという核燃料加工業者がどれだけの危険なものを扱っているかを認識できずにいたことを知ったからだ。
 事故が起きた時、皆が一様に、他人事であるかのように「こんなこと(が行われている)とは知りませんでした」と発言したことにも唖然としたが、「日本人はしっかりしたマニュアルに基づいて仕事ができるから信頼度が高い。これがあらゆる企業について失われつつあるとすれば、日本人全体にかかわる問題だ」(小渕恵三首相・一〇月二日付朝日新聞夕刊)という批判や、「基本的なモラルや従業員に対する教育が不十分」(有馬科学技術長官・一〇月三日付朝日新聞朝刊)などの責任を労働者や企業に押しつけようとする姿勢には、さらに開いた口がふさがらなかった。こんな無責任体質の国や自治体が、「もう安全ですからダイジョウブです」と言ったからといって、もはや信用できるはずもない。もう一度同じことが起こり、「こんなこととは知りませんでした」といわれても済まないのだ。
 怖いのは原発より、核燃料より、それを管理する関係者の無知と人任せ根性だ。この点については自分も含めて住民も意識を高めなければと身にしみて思った。また、腹が立つのは、市民の不安を解消するどころか煽る市の対応だ。そしてつっこんだ質問をしてくる住民には、おまえはそんなこと知らなくていいといわんばかりに応対する。これらの体質がわかった今、疑問が残る幾つかの点についても自分で調べてみようと思っている。
 第二のJCOを見落してはいないだろうか。第二のJCOが事故を起こしても、また同じ対応を受けるかもしれないという不安がつきまとう。今回はたまたま不幸中の幸いにも被害が少なくて済んだが、次は爆発事故かもしれないし風向きが違うかもしれない。風向きがどちらでも誰かが被害に遭う。私達が東海村に隣接していることは変わらないのだ。(■了)

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首都高速道路500円通行の正義 第17回/「いい年をして退職金を捨てるつもりか!」

■月刊『記録』96年1月号掲載記事

■投稿が道路公団の逆鱗に

 裁判所というと何か厳めしく近寄りがたい感じがします。裁判は日本社会においてはまだ特殊な出来事で、訴える方も訴えられる方も特別な目で見られがちです。しかし時代の変わり目には予想外の出来事が起きます。確かに、ごく普通の平和な時代であれば、こんな痛快無比な出来事は絶対に起こりません。
 厳めしく、近寄りがたい裁判が菊地哲夫殿の手にかかると、実にマンガチックになり、面白おかしく進んでいくのです。皮肉なことに首都高きっての切れ者といわれる生田目氏の登場がいっそう舞台を面白くします。目立ちたがりのわが菊地殿は、弁護士先生のお世話になることもなく自分で準備書面を書きイソイソと裁判所へ足を運びます。
 これがまた面白い。彼は専門的な法律の知識はありません。法律は常識なり、たったこれだけの理論で、プロの弁護士集団と首都公団2000人の組織と互角にやりあっているのです。この痛快さ。そしてまたまた面白い。彼にとっては素晴らしいライフワークであり、対する首都公団は青色吐息なのです。
 そもそも物語は1988年2月、菊地氏が神奈川新聞に投書したことに始まります。彼は、この交通渋滞解消には首都高に車を入れない目的で外環状線の建設が絶対に不可欠であると説きました。しごくもっともな話です。
「近年都会地の用地確保が至難で用地回収ができれば道路が9割方完成とさえいわれている」と説明し、用地回収の難しさを説き、代替地提供の絶対的な不可能さを説く。これまた当たり前なことです。「前向きで善処します」と役人特有の問題先送りの姿勢を堅く戒めてもいる。そしてそれらの解決策に河川敷の利用を説いているわけです。固有地を生かすことにより用地回収の必要はなくなる上、現在の建設技術は河川敷道路建設には何の障害もないと説き、例として10キロメートルの海をまたいだ瀬戸大橋建設の説明を続けるあたり、全く至極もっともな話なのです。
 そして、建設計画の東京横断道路の受皿である川崎縦貫道に多摩川を利用すべし、とまことに具体的理論をも展開しています。最後は、「高速道路を河川敷に建設しようという意見は何も私だけが主張しているのではない。すでにいろいろな人がいろいろなメディアで発言している」として具体的な実行が急務であると結んでいます。一片の疑問の余地もなく、ごくごく当然の当たり前の諸意見ではないですか。彼の処女作である『はみ出し首都高マンの当番日記』(オーエス出版社刊)にも書かれている内容です。
 しかし驚くことなかれ、このいやになるくらい当たり前の意見が公団の逆鱗に触れた。「生意気な野郎だッ」というわけです。バカげた話ではないですか。公団は完璧に勘違いをしている。1日110万台に上る我々利用者の通行料金で生計を立てている身を忘れている。前から感じていたことですが、何か権力者のような振る舞いするところがあり、国民(利用者)を見下しているところがある。一片の奥ゆかしさもない。へりくだるところが全然ない。
 首都高公団の諸君ッ!長いつきあいゆえ真心をこめて親心でいうのだが、本当に気をつけた方がよい。君達に権力などありはしない。全くの錯覚である。君達は原点に戻らなければいけない。

■逮捕・連行された

 しかしながらです。何だかんだと裁判はおもしろおかしく幕を開けます。以下、裁判所に提出された正式書面より抜粋しながらことの推移を追っていくことにします。泣く子も黙る裁判所へ提出された正式な書面ですぞ。
 神奈川新聞に投書をした2ヶ月半後の1988年11月17日10時ごろのことです。仕事中の菊地氏に対して上司の後閑所長いわく、「午後、西田神奈川管理部長が用事があって、ここに来るから必ず居るように。これは業務命令だッ!」
菊地「用事は何なの」
後閑「何だか知らない‥‥」
てな具合の珍問答で物語が始まったのです。
 この会話から公団の日常の様子をかい間見ることができます。ところで後閑氏しかり岩手のナマハゲ・・・いや生田目氏しかり公団は珍しい名前の持ち主が多い、それにもまして面白いのは皆さんの役職の好きなこと! 所長・部長・課長・係長は当たり前のこと、西田神奈川管理部長などといちいち役職名で呼んで舌を噛まないかと感心します。もっとも菊地氏自身が「神奈川管理部第二班長」というすさまじい肩書をもっているのですが。
 菊地氏は、「業務命令なんていって用事がわからないはないだろう。じゃあ 俺が聞いてくる」と連絡を取ったものの、西田神奈川管理部長は不在、楠田次長も全く聞いていないという。そこで菊地氏が出かけようとすると後閑所長と坂本副所長が、「業務命令、業務命令」を連発しながら血相をかえて彼の両手をつかんだ。菊地氏はしかたなく2人に両方を抱えられ、車で神奈川管理部部長室へ連れられていく。
 途端に異様な光景が展開される。児玉課長・松原課長・長尾課長らがにげられないように玄関を固めたのだ。ジャリの喧嘩じゃあるまいし、馬鹿者どもが何をやっているのかと思いませんか。読者諸君、信じられないことではあるけれど、課長だ部長だののバカバカしいこの書面は裁判所に提出された正式な書面ですぞ。厳めしく取っ付きにくい裁判所も愛すべきところがあるのです。
 公団の日々のレベルがいかに低いかおわかりいただけるかと思います。このバカな奴らが国作りに必要な根幹的な道路行政の一翼を担っていると思うと腸捻転になってしまうほど腹が立つ。

■退職金を人質に

 菊地氏は刑事事件の逮捕連行にも似た格好で首都高速道路公団本所9階、特別会議室に連れてこられました。テーブルの上には録音テープ、マイクが用意され異様な雰囲気です。生田目人事部長(出ましたナマハゲ!大統領!)、井口人事課長他2人が着席、厳かにナマハゲ氏がいいます。「あなたの懲戒処分が決定したので処分書を交付します」。開けてビックリ玉手箱、「停職3ヶ月、この期間中の給与(年末特別手当を含む)は支給しない」。世の中にこんなことがあってよいものだろうか。しかし、あるはずのない、あってはならない出来事が目前で始まったのです。つまり公団は世の中ではなかったことになります。
 生田目人事部長は厳かに、「2・3付け加えるが、懲罰委員会ではもっと激しい処分すべきの意見が大半だったが、君や家族のことを考えこの程度にした。これからはおとなしくするだろうな。この処分でガタガタしたら26年勤続1700万円の退職金がなくなる。懲戒解雇になるよ。政治家やマスコミにこの件を話したら処分をもっと重くする・・・・」。私が面白おかしく作文しているのではない。正真正銘、裁判所に提出された正式書類です。まるでヤクザの物言いではないですか。
菊地氏「この処分に意義申し立てをしたい」
生田目氏「そんな必要ないよ」
菊地氏「こっちが必要です。裁判でさえ一審二審三審とあるでしょう」
生田目氏「何度も繰り返すが、いい年をして退職金を捨てるつもりか‥‥」
菊地氏の準備書面はこう続いています。
「およそこんな言葉のやりとり後、その場を引き下がったが決してこの処分を納得して引き下がったのではありません。退職金をたてに取り個人の生活権までも人質に取るやり方は類を見ない卑怯の典型である。子どもを人質に取り身代金を要求しているのとかわりがない。自分達が何をやり、何をやろうとしているのかさえ自覚がない。首都道路公団などと思い上がりもはなはだしい。チャンチャラおかしくて臍でお湯も沸かない」。
準備書面は続きます。
生田目氏「お前は裁判をちらつかせた!何で裁判なんかやるんだ」
菊地氏「不服審査請求もできない公団では裁判しかないでしょう。裁判することが反省の足りない理由ですか」
井口氏「そらあそうだよ(何と下品な課長さんだろう)」
生田目氏「受けて立つよ!お前はトンマだな。公団と裁判して勝てると思っているのか!」
 ナマハゲもよくいう。私が公団の理事長になった暁にはナマハゲ君は側近として地獄の特訓をし叩き直すことにする。今までの罪の償いをしてもらう。井口君は面倒臭いのでクビにする、面倒は見られない。私も忙しいし、疲れる。(■つづく)

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首都高速道路500円通行の正義 第16回/公団職員・菊池哲夫物語

■月刊『記録』95年12月号掲載記事

■公認ブラ勤デーが出勤扱い

 世の中には奇人変人がたくさんいます。私なども最たるものですが、実は700円の首都高を500円で通行している程度です。上には上がいるものです。とても彼にはかないません。その名を菊池哲夫さんといいます。私が首都高で大騒ぎしいた頃、彼は隠れフリーウエイクラブ会員でした。立場上会員であると公表できなかったのです。それもそのはず、驚くなかれ彼の職場は首都高速道路公団だったのです。勤続27年、神奈川管理部第二班長というれっきとした公団職員なのです。これを変人といわずに何と呼ぶ。しかも、ただの変人ではありません。一味も二味も違う爽やか変人です。今回は痛快無比、公団職員菊池哲夫物語です。
 現代はとかく生活防衛のために自分自身を偽って日々を過ごすのもやむなしとする風潮ですが、彼は公団職員でありながら私と会い、堂々と意見をいいます。「和合先生、実に素晴らしい。断固としてご自分の信念を貫き通すことは誰でも出来ることではありません。私は和合先生が正しいと思います。少しでも先生にあやかって、筋を通していこうと思っています」と、そろそろ人生の年期が入った菊池さんが正義感に燃えて青年のよう。ちなみに彼はなぜか私を先生と呼び、あんまり先生を連発するものだから、他に先生がいるのかしらんとその辺を見渡したものです。
 菊池さんは「公団の公認ブラ勤デー」という仰天話を始めました。当初は「和合さんはこんなことに興味があるかな」というふうな顔つきで、「公団職員によるソフトボール大会です。東京杉並の日本興業銀行のグラウンドを借り切って平日2日間にわたって開催されます」などと、「興味があるのかな?」などと探るような仕草で話し続けます。その頃の私は、公団のどんな些細なことでも見逃すまいと必死でしたから、とにかく耳をそば立て目を輝かせてうなずいていたので、彼もよしとばかり勢い込んで続けます。
 それは全職員1500人の3分の1にあたる500人が職場別に15チームに分かれて熱戦を繰り広げ、過去10年間も続いています。しかも出勤扱い、つまり給料が支払われるのです。全くふざけた話ではないですか。菊池さんのデータによると、年間ブラ勤デーはソフトボール大会、バスケットボール大会など合計4日間で、延べ2000人が参加、人件費は何と1億円。1億円ですぞ!ちなみに私の通行料金不足はたった200円ですぞ!考えてもみて下さい、この支出は全て我々の通行料から支払われるのです。
 関係者に配布する資料がまたすばらしい。「ソフトボール大会の実施について」などと仰々しい表題で始まり、「福利厚生の一環として、標記大会の別紙要領により実施されたい。支部大会については開催日時、場所及び参加チーム数などを事前に人事部長宛報告されるように依頼します。以上 人事部長印」などと、バシッと人事部長印があざやかに押されています。ページがまたがって境目には割印がバシッと押されています。よほどの重要書類なのでしょう。一枚一枚通し番号まで打ってあります。
 ルールについても厳粛に定められています。以下最も厳粛に設定されていると思われるいくつかのルールをご披露致します。
◎各チームは試合の都度、試合開始10分前までに登録選手名簿を本部に二部提出するとともに試合開始予定時間にはゲームが出来る状態で集合する(小学校の野球大会か?)
◎男子登録選手は全員必ず一試合一度、女子登録選手のうち一名は常時選手として試合に出場しなければならない。なお、女子選手の交代は女子選手同士で行なう(公団はよほど女性不足らしい)
◎組み合わせはトーナメント方式とし、試合は一ゲーム七イニングまで行う。ただし、勝敗の決まらない場合は代表選手九名のジャンケンで勝敗を決定する(もしや値上げを100円にするか200円にするかもジャンケンで決めているのか)
 そしてお待ちかね。あまりのバカらしさに泡を吹いて卒倒する内容が素晴しく厳正かつ公正な言葉で締めくくられているこのルールをばご覧あれ。「大会当日は業務上特に必要のある職員を除き、全員参加する事。参加者については通常勤務したものとして取り扱う」・・・・どうだまいったか。全く素晴らしい。

■営利誘拐犯と同手口

 そして、ある日の衝撃的な電話で菊池哲夫物語はクライマックスを迎えます。「そんなバカな話があるか!」と声を振るわせて菊池さんが怒っていて、なかなか興奮が収まりせん。話を聞いて吃驚仰天、公団から懲戒処分になったというのです。停職3ヶ月、この期間中の給与(年末特別手当を含む)は支給しないとの内容でした。公団の生田目人事部長は、「懲戒委員会では もっと厳しい処分にすべきの意見が大半だったが、君の家族のことを考えこの程度にした。これからおとなしくするだろうな、この処分でガタガタしたら、26年間勤続1700万円の退職金がなくなる。懲戒解雇になるよ」と言い放ったのだそうです。
 真っ正直すぎる彼に仕事上で大ミスがあったとは考えにくい。表向きの原因は神奈川新聞への投書でした。88年9月3日付読者欄オピニオンに掲載された「河川敷利用で高速道路の建設を」という至極立派でもっともな渋滞解決策です。ところが公団は職員はこういうことをやっては困る、だから給料を止めるというのです。なお生田目部長は、「政治家やマスコミにこの件を話したら処分をもっと重くするぞ!」ともつけ加えたそうです
 一体天下の公団組織の内部はどうなっているのだろうか。原因はどうあれ、これはひどい。たぶん値上げで窮地に追い込まれた公団がとりあえず内部反乱の芽は摘み取っておこうと考えたのでしょうが、生活権を盾にとって抑え込む手法はまことに卑劣、子どもを誘拐して身代金を請求しているのに等しい。菊池氏が「異議申し立てをしたい。再審請求をしたい」というと、「そんなものはない」(生田目)「その録音テープを下さい。(公団はその席上テープをとっている)」(菊池)「そんな必要ないよ。何度も繰り返すが、いい年をして退職金を捨てるつもりか・・・・」(生田目)。
 繰り返しいう。このやり口は営利誘拐と同じで、相手を抑え込む方法としてはこれ以上下劣な方法はない。堂々と議論を交わし、その上で決まったことには従うというのが民主主義ではないか。

■道路公団は最低のゴミ集団

 この話を聞くまでの私は、さまざまな批判をしてはいるが、行政を基本的には信じていました。確かに程度は低いけれど、それなりに一生懸命にやっているとの思いもありました。しかし甘かった。フリーウエイクラブ関西の時と同じように公団は最低のゴミ集団でした。これが我々の税金で生活しているのです。
 私は、「しまった。2人目の山口さんを出してしまった」と衝撃を受けました。しかし菊池氏はこれくらいではへこたれません。「和合さん、ここは引きます。丁度いい、3ヶ月の長期連休を楽しむことにします。この屈辱は絶対に忘れません。定年までほんのわずかしか残っていません。公団とのやりとりはそれからにします。その時は応援して下さい」。応援するもしないもそんなことは当たり。彼の心境を思い計るとまたまた重責を感じ、「公団め今にみていろ」とエネルギーがメラメラと燃えてきます。
 屈辱の3ヶ月の冬眠から覚めると公団は菊池さんの生活権を人質に最後の切り札を突きつけてきました。生田目人事部長は、「お前は和合と会っただろう。何しにあんな人間に会うのか、あれとは絶対に会わない、一切電話もしない、手紙も出してはならない。約束しなかったら停職を延期する」と脅してきたのです。何だろうこれは。日本は本当に民主主義の国だろうか。旧ソ連よりもっとひどい。彼はこの条件を飲みました。「今に見ていろ」との心を奥深く秘めて苦渋の決断をしたのです。
 それから7年、めでたく定年退職した菊池氏は今や快進劇の真っただ中。公団との裁判もほとんど勝訴に近く、値上げに合わせて本も出版し、テレビ出演も果たしました。当時のエネルギーはまだ燃え盛っています。彼は、「和合さん、首都高との裁判は素晴らしいライフワークです。もうこれはほとんど私の生き甲斐です。もうこれしかありません。あの事件がなければこれほどのものは手に入りませんでした」といいます。公団も大変だと思うが、ひとつ頑張ってください。(■つづく)

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鎌田慧の現代を斬る/日本を覆う言論弾圧の影

■月刊「記録」2001年8月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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 言論にたいする自民党などからの攻撃が急速に強まってきている。これは、80パーセント以上の支持率に増長した、強気な政府の汚水からわきだしたボウフラのようなものである。ハマダラ蚊になる前に、極力、退治する必要がある。
 7月7日、横浜市神奈川区でひらかれた旧日本軍の性暴力問題を考える集会では、聴衆が大騒ぎして、暴力をふるう事件が発生した。『神奈川新聞』(7月10日)によると、日中友好神奈川県婦人連絡会が主催したこの集会では、まず「女性国際戦犯法廷」の記録映画を上映し、そのあと評論家の松井やよりさんが公演する予定だったという。
 ところがビデオ上映の途中で、会場にいた男女12~3人が「国賊だ」、「インチキ裁判だ」などと怒号をあげて騒ぎだし、ビデオの音声が聞こえなくなる状態となった。主催者が静かにするように求めたり、退場を求めても応じない。そのうち1人の男が飲みかけのお茶の缶を、参加者に投げつけ、それが主婦(64歳)の口に当たってケガをしたという。これで松井さんの講演会も中止となった。
 まさに暴挙である。戦後の歴史のなかでも、暴力行為によって集会が中止に追い込まれた例はさほどない。まして「女性への性暴力」をテーマにした集会で、聴衆の中に紛れ込んでいた連中が暴れるなど聞いたことがない。それでなくとも最近、従軍慰安婦問題への反撃が強まっている。こんご、おなじような集会が狙われるのかと考えると、暗澹たる思いである。
 先日、都内を歩いていると、右翼の宣伝カーが参議院選挙について演説していた。小泉が圧倒的支持を受けている現在、憲法改正するチャンスだ、と彼は絶叫していたのである。
 このように小泉があらわれることによって、さまざまな反動がムクムクと頭をもたげている。あたかも民主主義のフタを外したかのようだ。言論、表現にたいする攻撃は、歯止めがきかない。

■名誉毀損が逮捕か、巨額な賠償に

 7月7日には、宮崎県でも事件が発生した。破綻した大型リゾート施設・シーガイアを視察にきた石原慎太郎都知事が、記者を恫喝して記者会見会場から退場したのである。翌日に予定されていたヨットレースについて、テレビ記者が公務との関係を質問。これに怒った慎太郎は、「君ら(報道陣)が悪い。帰る」と怒鳴りつけ、会場から立ち去った。
 以前、「三国人発言」を書いた記者にたいしても、彼は名指しで記者を批判し、きわめて権力的に恫喝を加えている。宮崎でもおなじようなことをしたわけだが、思い上がりもはなはだしい。政治家は、公人として、疑問を質されたら答える責任がある。それなのに彼は、憤然として席を立って質問を無視し、あろうことか脅しまでかけた。
 そのごの新聞記事でも、報道にたいする攻撃だという論調はほとんどみられなかった。権力者の言動を規制するのがジャーナリズムであり、攻撃がきた場合、ジャーナリストは一致して抗議・反撃をすべきである。記者たちにこのような危機感がまったくないことこそ、危機的状況である。ヨットレースの実行委員会がテレビ局に抗議し、局の幹部が謝罪しているのは、本末転倒だ。
 また、ことし5月末には、化粧品会社のDHCが『週刊文春』の記事にたいして、10億円の損害賠償を求め、名誉毀損訴訟を起こした。週刊誌に掲載された記事の損害総額が、10億円に膨れあがるなど前代未聞である。
 これだけ高額となれば、出版社への圧力は大きい。報道機関は情報源を秘匿しなければならず、裁判では必ずしも十分な証拠を提出できない。とくに内部告発によって記事が書かれた場合、告発者の生活を守るためにも彼らの出廷は諦めざるを得ない。裁判費用に糸目をつけない企業や政治家が、こうした高額の裁判をまねれば、出版社や記者にとって大きな脅威となる。
 さらに7月4日には、『噂の真相』の岡留安則編集長にたいし、検察側は名誉毀損罪で懲役10ヵ月、社員の編集者に懲役6ヵ月を求刑した。ついに日本も言論にたいして刑事罰を加える時代となったわけだ。名誉毀損における損害賠償の巨大化と刑事事件化は、これからの報道にたいする大きな規制となる。
 週刊誌やフリーライターを狙い撃ちする「個人情報保護法案」が準備され、テレビ番組やインターネットなどにたいしては「青少年社会環境対策基本法案」による規制が検討されている。たしかにデタラメな記事や名誉毀損、過激な性や暴力表現が、売らんかな主義のなかで存在している。しかし、それにたいして国家が介入して刑事罰を加えるなど、許されるものではない。

■国の認識を表明した検定制度

 先月この欄で取りあげた教科書問題でも、言論への圧力がはじまっている。
 7月8日の『産経新聞』によれば、テレビ朝日系で放送している「ニュースステーション」でコメンテーターを務める清水建宇氏(朝日新聞編集委員)が、「子供たちをそんな大人にしたくないという保護者と先生たちは今立ち上がって声を上げたほうがいいです。この教科書は嫌だと」と発言。これにたいして「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーが、総務省に処分を要請する申し入れをしたという。
 歴史を捏造している教科書を採択しないようにという発言は正しい。各中学で採択の動きがひろまれば、外交にも重大な影響をあたえる。にもかかわらず、放送法に違反するなどとして、お上に注進するなど、彼らの言論弾圧体質をよく示している。こうした連中の悪ノリこそ、日本の社会が戦前の体質にむかっていることを、よくあらわしている。
「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書は、戦争への情熱を駆り立てるものでしかない。たとえば特攻隊や沖縄のひめゆり部隊の死は、もっとも悲惨な死であり、強制された死である。この事実を美談化しようという精神で、教科書がつくられていた。だからさまざまな問題がおきる。
 日本の軍隊によって侵略された国の人たちが、侵略の歴史を美化した教科書だと感じているのは真実だ。こうした批判にたいして、政府は真摯に耳をかたむけるべきである。しかし政府の対応は、いわば切り捨てゴメンというものであった。中国と韓国の修正要求にはゼロ解答。これは両国の歴史を戦中、戦後にわたって足蹴にするものだ。
 たとえば韓国併合を侵略ではなく、国際的に認められた行為として記述した、と韓国は抗議した。これにたいして日本政府は、「韓国内の反対を、武力を背景におさえて併合を断行した」という教科書の記述を根拠に、「明白な誤りとは言えない」と結論づけている。
 また日本の植民地政策としておこなわれた鉄道や灌漑施設の整備が、あたかも朝鮮住民のためにおこなわれたかのように書かれた部分についても、「明白な誤りとは言えない」と日本政府はいい切っている。
 おなじく日本が朝鮮を植民地としていた時代の記述で、人民から収奪した記述がないという韓国からの批判にたいし、日本政府は「どのような内容を記述するかは、執筆者の判断にゆだねられている」などと、あたかも「つくる会」を擁護するようないい訳を開陳している。
 歴史の事実を率直にみとめない行為は、これから恐るべき日本人をつくることだろう。戦後56年をへようとしているのに、いまだに侵略した事実をうやむやにしようとするなどは、相手国が侵略を正当化していると感じて当然である。
 ドイツではいまなおナチスの責任を訴追し、その賠償金を払いつづけている。日本政府は、このような解決策のツメのアカでも飲んだらどうだ。
「つくる会」の教科書問題は、検定制度の問題も含んでいる。検定とは国家が表現の自由を規制したものだ。つまり国のお墨付きをもらった内容だけが、記述されている。国の認めた内容が相手国のプライドを傷つけるなら、日本国が挑戦・挑発していることになる。
 私は検定制度には反対しているものである。しかし、現実的に国家の意思が教科書に貫徹されているならば、それは検閲であり、書いた内容に国家が責任を負うべきである。それができないのなら、検定をやめるべきだ。 もしも教科書の検定制度がないならば、それは著者個人の表現の自由であり、中国や韓国もいちいち批判してこないはずである。両国が批判の対象としているのは、国のお墨付きによってあきらかになった国の認識だ。検定していながら筆者に表現の自由があるという論理は、責任逃れというしかない。
 さらに侵略された当事者がこれだけ批判する教科書を、地方自治体が採用するのは、中国や韓国にたいする敵対行為ともいえる。栃木県の下都賀採択地区では、採択協議会が教科書を採択する決定をした。しかし教育委員会の意見によって、今回の採択は見送られる公算が大きくなった。
 教科書が実際に採択されることになれば、さらに悪のりした内容になるであろう教科書指導書が教員の手に渡る。このような強権国家にむかう教育を許さないためにも、「新しい歴史教科書」という名の「ウルトラ・アナクロ教科書」は、不採択しつづけることが必要だ。
 80パーセント以上の支持率を隠れ蓑に、小泉純一郎首相はファッショ的な道をまっすぐに進んでいる。なぜか国民に大好評の「痛みをともなう改革」は、国家強化のための労働者と零細企業の切り捨てでしかない。
 もちろん軍国化も着々と進んでいる。
 7月16日の『日本経済新聞』によれば、自衛隊の領域警備で不審船への船体射撃を認めるよう法改正が進められているという。原発などの警備体制を強化しようという名目らしいが、ようは有事法制の準備である。
 99年3月、日本海にあらわれた不審船に攻撃をくわえた事件では、武器使用規定が働いた。しかし法改正が決まれば、自衛隊の攻撃は合法化される。事実上の憲法改悪である。まして治安出動に射撃を認めたことは、外国人ばかりか、日本人をも殺傷することの容認である。判断なき死刑であり、強権国家の成立である。
 外にたいしては武力攻撃を強め、内側では報道にたいする攻撃を強化する小泉ファッショ政権の危険性が、ますます強まっている。
 言論の奮起が、いま望まれている。(■談)

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鎌田慧の現代を斬る/ストーカー政策とトンデモ教科書

■月刊「記録」2001年7月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■通用しなくなったカネばらまき政策

 日本の原発も、ますます行き詰まりの様相を濃くしている。5月下旬に新潟県刈羽村でおこなわれたプルサーマル計画受け入れにたいする住民投票は、反対1925、賛成1533、保留131で、過半数が反対を表明して計画はストップした。
 刈羽村は人口はおよそ5000人、世帯数が1500弱の小さな村だが、世界最大の原発地帯である。110万キロワットの原発が5基、130万キロワットが2基も並んでいる。この小さな村に、電源立地対策交付金などで投入されたカネは、215億円にものぼる。
 これだけのカネが爆弾のように打ち込まれてもなお、住民はプルサーマルは嫌だという。住民が原発に不満をもっていることはあきらかである。しかし小泉首相をはじめ日本政府は、さらに住民を説得するといっている。これはストーカー行為である。住民が嫌だというのに、まだ好きになってくれと追いかけ回すのだから、人権蹂躙もはなはだしい。
 これだけ嫌われるプルサーマル計画に危機感をもったのか、政府はプルサーマル計画を受け入れる自治体に、さらにカネを投入しようとしている。電源三法交付金や各種の補助金に準ずる扱いである。プルサーマル計画を受け入れてもメリットがないという地元の批判にたいして、追い銭を払おうするものだ。
 だから原発計画およびプルサーマル計画はストーカー行為であり、さらにカネを払って説得しようという「援交」政策だといってもよい。カネを払えば済むと国が実践しているのだから、政府に教育などを任せていればとんでもないことになる。 
 刈羽村は隣の柏崎市と並んで、70年代から原発反対運動を続けてきた。ここは原発にたいして大衆運動が盛り上がったところで、わたしもたびたび取材に訪れている。
 刈羽村の場合は、都市の柏崎から10キロもないため、若者たちの通勤の圏となっている。ほかの原発地帯とのように老人だけが残っている地域ではない。そのため若者による原発反対運動が盛んであった。
 この反対運動を切り崩したのは、国と東電をばらまいたカネであった。
 しかし住民投票に向けた運動が盛んだったころ取材にいって、風向きの違いを感じた。原発に賛成していた議員たちが、プルサーマルについては反対するようになっていたのである。
 かつて原発反対派の村会議員は、たった1人しかいなかった。ところがいまや反対派議員も複数となり、彼らが条件派の議員たちとともにプルサーマル否決の住民投票に持ち込んだ。このように村内で原発不信の世論が大きくなっているのは、ただカネだけでやってきた国の政策にたいする批判が、少しずつ強くなってきたからであろう。
 だいたい危険すぎるプルサーマル計画で事故が発生したら、その責任を誰がとるのか。歴代の首相、経済産業省および文部科学省の幹部の責任は重罪に値する。
 さて次の問題は、検定に合格した認定された「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書である。これは教科書採択の前に市販するというアクロバット的なやり方で、けっこう売れているらしいが、聞きしにまさるデタラメ本である。
 西尾幹二が「市販本前書き」において、「全体を無視して部分だけ取りあげて、あげつらうなら正しい批判にならない」(Ⅱページ)なとど書いている。しかし部分に荒唐無稽なことが書いてあるならば、それは全体の思想もあらわしているともいえる。どれだけ奇妙な教科書か、誌面の許す限り紹介していこう。
 この教科書は、「歴史書への招待」という序章の巻頭に「歴史書を学ぶとは」(6ページ)というページをもうけている。そこには「歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった」と、書かれている。しかし「過去の不正や不公平」を学ぶことによって、2度とそのようなおなじ過ちを犯さなくなるのであって、それこそ歴史の教訓に学ぶということである。
 さらに「歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にするのはやめよう」(7ページ)とも書いてあるが、その時代に当時の悪を批判する声があっても、それが権力によって押し潰されてきた。そういった事実に眼をつぶってはいけない。つまり時代の内部で歴史は動いているのだが、この教科書の編者たちは認めようとしない。この教科書は、歴史事実への解釈と偏向がはなはだしい。
 韓国から批判をうけた「韓国併合」の記述も問題だ。「韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した」(240ページ)。あたかも外国の開発のために、日本が土地を整備したような記述になっている。
 一方で朝鮮の人々の日本への反感という項目は、「日本語教育など同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた」(240ページ)とあるだけ。もちろん創氏改名や日本語の強制が朝鮮の人々の反感を強めたのは事実である。しかし日本への反感を強ったのは、武力による侵略と虐殺的な行為があったからである。すり替えてはいけない。

■戦争賛美のオンパレード

 さらに驚くべきことに、「大東亜戦争」(276ページ)がどうどうと見出しになっている。また日本がアジアの国々の支配のためにひらいた「大東亜会議」にまで、1ページを割いている。
 しかも、太平洋戦争にかんする記述で特徴的なのは、戦場で戦う姿が賛美されていることである。
 たとえばガダルカナル島での戦闘については「死闘の末、翌年2月に日本軍は撤退した」(278ページ)とか、「アッツ島では、わずか2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず、弾丸や米の補給が途絶えても抵抗を続け、玉砕していった(278ページ)とか、「レイテ沖海戦で、『神風特別攻撃隊』(特攻)がアメリカ海軍艦船に組織的な体当たり攻撃を行った」(278ページ)など、兵隊が死を覚悟して死んだ姿が描かれている。
 沖縄戦の説明では、「日本軍は戦艦大和をくり出し、最後の海上特攻隊を出撃させたが、猛攻を受け、大和は沖縄に到達できず撃沈された」とか、「鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って」などと悲劇的に書かれている。
 いうまでもなく3000人ほどの船員を乗せて出発した戦艦大和は、帰りの燃料をもたない自決行為だったし、沖縄の少年や少女の戦闘など無惨に尽きる。そのような戦争が兵士および住民にあたえた悲惨さが、まったく語られていない。
 この教科書は、書かれていることよりも、従軍慰安婦の問題をふくめて、書かれていないことが重要である。きわめて作為的、偏向的に書かない。それが検定を通過した理由であろう。検定は書いていないこと以上に、書いてあることを厳しくチェックするからである。
 また戦争中の戦意高揚の写真がそのまま使われているのも、この教科書の大きな特徴だ。たとえば真珠湾攻撃における戦艦アリゾナの沈没風景(276ページ)、特攻隊を見送る女学生の姿(278ページ)、日本兵がアジアの子どもたちに日本語を教育している姿(281ページ)など、戦争中の侵略的な視点がそのまま使われている。 さらに「戦争と現代を考える」(288ページ)というページでは、日本の各都市への無差別攻撃や原爆投下、ナチスによるユダヤ人虐殺、スターリンの大量処刑などが紹介されているが、日本については「不当な殺害や虐殺を行った」というぐらいの記述でしかない。
 こうした編集姿勢は、「戦争への罪悪感」という見出しによって露骨に表現されている。
「GHQは、新聞、雑誌、ラジオ、映画を通して、日本の戦争がいかに不当なものであったかを宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判とならんで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後日本人の歴史の見方」)に影響を与えた」(295ページ)
 日本人が戦争にたいして罪悪感をもつことは、自己批判として当然であるし、悔いても悔いきれない問題だ。ましてアジア諸各国には、いまだに戦後補償がキチンとおこなわれていない。それを恥じないようにしようなど、自虐史観批判というより“加害合理化史観”である。 過去にたいする自己批判をなくし、日本の誇りだけをあたえようとするのは、序章に書かれた「歴史を自由な、とらわれのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり真実を確かめるようにしよう」(7ページ)という主張はまったくちがう。きわめてパターン化した教条的な見方である。
 このように『新しい歴史教科書』は、きわめて古い破綻した価値感に彩られている。日本の歴史を学ぶということは、日本を対象化することであり、自分を他者との関係によって見直すことである。しかしこの教科書の視点はきわめて一方的な視点であり、「夜郎自大」的な教科書というしかない。
 この教科書に欠如しているのは、アジアの国々との共生ある。いまなお日本を中心にした「五族共和」の精神をとなえつづけるなど、アジア各国に受け入れられるはずもない。
 このような教科書によって日本の歴史を教えられた子どもたちが、これからアジアの人々と出会ったときに、自分たちがなにをしたのかまったく知らないことでしっぺ返しをくらうのはまちがいない。そうした姿は、容易に想像できる。
 このように無反省で恥ずかしさに満ち充ちた教科書が、各地の学校で採択されないような運動をすることが、戦争を阻むものの大きな義務である。(■談)

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だいじょうぶよ/第5回 渦巻く二つの感情

■月刊「記録」1999年12月号掲載記事

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 ぼくの正利に対する感情は、全く真っぷたつに二分されてしまっていた。
 例えば今日の午前中はあいつが大好きだったけれど、午後は顔も見てもむかつくという具合にだ。好きな時には仕草、癖、口調、すべてがユーモラスで見ているだけで楽しい気分になれるに、いったん嫌いモードにギアが入ると止まらないのである。
 ただいつも通りにテレビを観ているあいつの横顔が突然、薄気味悪いものとして目に映り出す。なんで口を開けているんだろう。なんで体を四六時中揺すっているんだろう。なんであんなところにツムジがあるんだろう。見ているだけであらゆるところが目につき次第にムカムカしてくる。ムカムカは徐々にエスカレートし、もう遠巻きに眺めているだけでは納まりがつかなくなってくる。そしてついには言いがかりをつけに立ち上がっているのだ。(これじゃまるで酔っぱらいかチンピラじゃないか……)と思いつつ。
 けれどぼくにはどうしても、この突然湧き起こる巨大な二つの感情の波を制御することができなかった。二つの川の合流で流れにもみくちゃにされている葉っぱのように。ぼくは自分の感情に翻弄されていた。しばらくでもあいつと離れて生活することができたら、ぼくにも自分を客観視し、取り戻すことができたのかもしれなかったが。明けても暮れてもあいつがぼくの前にいる。そしてとうとうやってしまったのだ。夏休みも中盤にさしかかる頃、八月のある日の昼下がりのことだった。

■行くあてのない夏休み

 施設で暮らす子ども達の夏休みの過ごし方は、実に千差万別だ。一ヵ月ほどの長期にわたって親元に戻って生活する子、お盆だけ一緒に過ごしてくる子、一日だけ親と外出し、食事をして帰ってくる子。かと思えば行くあてもなく毎日を学園で過ごす子。家庭の事情で児童の夏休みは決定されていた。
 正利は学園で過ごす組だった。両親とは小学校三年生の時に離ればなれになって以来、一度も会えぬまま今日に至っている。それでも東京の国立市に左官業を営む叔母(正利の父の姉)がいて、正利が中学に上がるまで定期的に会いに来てくれていた。
 叔母という人物は、正利と同じ血が通っているとは思えないほど実に真面目な人で、学園の職員達にも信頼されていた。ただ、叔母から見ると正利はどうも自分とは別の生き物に映るらしく、実に口うるさいところがあった。
 正利と会うたびに「この子は何をしてあげてもお礼の一つも言わない」「物言わぬこの子のぼーっとした顔をみていると、母親を思い出しちゃう」「この子の母親は真っ白い化け物みたいな顔してて、わたし一度も正視できなかったの」「あーあ、正利と会うと母親を思い出してぞくっとするわ」などと面と向かって口にするのだ。確かにそうなのかもしれないが、横で聞いているとちょっとそこまで言わなくても、という気もしてくる。しかしいかんせん中学卒業後の正利の唯一の受け入れ先なのだから、仕方がなかった。
 ところで正利には兄弟が四、五人以上はいるはずだ。「以上」なんていい加減な言い方に聞こえるかもしれないが、正しい数がわからないのだから仕方がない。最初に親に捨てられた時は、妹のななえと二人きりだった正利。三年ほどすると歳がひとまわりも違う姉の朋子が鎌倉の養護施設にいることがわかった。さらに一年後には東京の施設に二人目の姉、そしてさらに一年後には同じ区内に兄がいたことがわかったのである。
 腹違いであり、戸籍上のこともあるので純然たる兄弟とはいえないが、母親が共通しているという点では、皆、間違いなく血はつながっているのだ。
 一番上の姉、朋子は正利よりも早く母親に捨てられ、やはり幼少時から養護施設に入っていた。色が白いところが正利にそっくりだったが、話の口調、身のこなしなどはきわめて一般的。水商売をしているせいか少し服装に派手なところがある。そして案の定、堅実な国立市の叔母とはウマが合わず、いつも言い争いをしていた。
 ことに正利の将来に関しては双方、気の強さもあり、ゆずれないところもあったらしく、日頃から特に争いが耐えなかった。それがある日、とうとう大喧嘩を始め、姉の朋子が叔母に向かって「正利の将来の責任は私が取る!」とたんかを切ってしまったのだ。
 自分の半分にも満たない年齢の小娘にそこまでいわれて、叔母も頭にこないはずがない。やれるものなら責任でもなんでも取ってみなさいというワケで、叔母は正利から完全に手を引いてしまったのである。
 だが、啖呵を切った朋子自身が、ぼくから見れば地に足のつかぬ生活を送っているようなものだ。到底弟の責任なんか取れそうにない。朋子は正利に会いに来るたびに「あんたは男なんだからしっかりしなさい」とか「ななえのお兄ちゃんなんだから、お兄ちゃんらしいことをしなさい」などと説教はするものの、それ以上の保護者らしいことなどできるはずもなく、よって正利の夏休みも学園での生活に終始するのだった。

■やめろ!今 帰ってくるな

 さて、その日はとても少ない人数で昼食を食べていた。これが普段の日であれば、八〇人の児童と十数名の職員が所狭しと食堂に顔をそろえて食べるにぎやかなひとときになるのであるが、夏休み中は各部屋ごとに集まり居間を使って食事をするのである。
 食堂から運んできたスパゲティは、オリーブオイルを使っていないせいか、妙にパサついていて口の中へ放り込んでもただモゾモゾするばかりである。そんなスパゲティにソースをかけて食べる子どももいれば、マヨネーズをかけて食べる子どももいた。みんなだらだらとダルそうに、不味そうにフォークを口に運んでいる。それでなくても暑いのに、そんな光景を見ているとぼくは無性に苛立ってきた。
 そこにちょうど水泳部の練習を終えたあいつが帰ってきたのである。だめだ! こんなところに帰ってきちゃだめだ! ぼくの心の半分はそう叫んだが、残りの半分はもう残酷そうな笑みを浮かべて舌なめずりを始めていた。飛んで火に入る夏の虫だ。ぼくの目は、すでにあいつのアラ探しを始めていた。
  「おぃ、おまえ随分髪の毛茶色いじゃん」
  「………」
 あいつがテーブルにスパゲティの皿を置いたところで声をかけた。あいつは椅子の背に手をかけて、立ったまま口を半開きにした。その顔でぼくのほうをちらりと見上げる。何事かが起こると察知した子ども達は、皆、食べる手を止めて、やはり上目遣いにぼくと正利を交互に観察していた。
  「あ、みんなはね、ごはん食べなよ!」ぼくは、ことさらカラッと明るく大きな声でみんなに食べることを促した。するとなぜかあいつが一番先に反応を行動に表したのである。手にしていた背を引き、椅子に座ろうとした。これでぼくの頭には完全に火が点いた。
  「おい、おれはおまえに聞いてんだよ。おぃ、ず・い・ぶ・ん髪の毛が茶色いんじゃねえかってよ? おい!」ぼくは完全に切れていた。正利に対する大嫌いモードもはや全開である。
  「………」
 あいつは目を半分だけ開けたままで、こっちを見もせずに、体を半分椅子から浮かせてぼーっとしている。いつもこうだ。いつだってこうだ。こっちが熱くなれば熱くなるほど反応を示すことがない。ふざけるなよ、バカにするんじゃないぜ、反応を示さないのならこっちが示すまでだ。
  「おい、立てよ。おまえにメシ食っていいなんてひとことも言ってねぇんだよ」そういうやいなや、ぼくはあいつの胸ぐらをつかんでテーブルから引っぱり出した。  「バシン!」
 一発目の張り手の音を合図にぼくの理性が吹き飛んだ。二発、三発……。頭の中が真っ白になって何をしているのかわからない。四発、五発……。手が止まらない。ぼくはただやみくもに、色白で半分口を開けたままぐんにゃりしている でく人形みたいな正利の顔を殴り続けているのだった。 (■つづく)

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ホームレス自らを語る/人を殺めてしまった・芝崎和夫(六四歳)

■月刊「記録」1998年6月号掲載記事

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■ヤクザの男を包丁で刺した

 スナックのカウンターで、一人で飲んでいたときだった。隣にも一人で飲んでいる客がいた。明らかにヤクザとわかる男で、それがインネンを吹っかけてからんでくるんだ。僕がいくらいってもやめようとしない。ヤクザ特有の執拗さだった。
 そのころの僕は工場勤めができなくなって、土方なんかをしていたときで、気持ちのほうもすさんでいたんだね。その男があまりにも執拗で、ついカッとなってカウンターの中にあった包丁をつかんでいた。そして男の胸を刺してしまった。刺したのは、たった一ヶ所だったんだが、男は三日後に病院でなくなったそうだ。
 すぐに警察が呼ばれて、現行犯で逮捕された。握り持っていた包丁を振り落とそうとするんだけれども、どうしても手から離れない。かけつけた警察官が、指を押し開いてもぎ取ってくれた。それから何日間も、血のにおいが鼻について飯がのどを通らなかったよ。夜も寝られなかった。
 取り調べを受けていた警察に、妻が面会に来て、「別れてくれ」っていうんだ。将来、子どもが就職したり、結婚するときに、前科者の父親がいては困るからって。妻の希望をいれて、協議離婚に同意した。妻と二人の子どもとの関係は、それきりだ。
 裁判は二審までいって、傷害致死罪で懲役一二年の判決だった。服役したのは日本で一番厳しいといわれる刑務所だ。僕もいく度も懲罰にかけられて、独居房に入れられた。両手を肩とわき腹から後ろ手にして、革製の用具で拘束されるんだ。食事もその格好のままで、床に置かれたのを犬食いした。これほど屈辱的なことはないよ。もう、あんな生活はコリゴリだね。
 判決は一二年だったが、恩赦があって八年で出られた。事件を起こしたのが五〇歳のときだったから、出所したときには五八歳になっていた。

■掘っ建て小屋に母子六人

 生まれたのは一九三五年で、神奈川県の横須賀だった。父親が海軍の職業軍人をしていて、その官舎で生まれたんだ。
 小さいころは病弱な子で、入退院を繰り返していた。特に心臓が弱かった。小学校に上がった年に太平洋戦争が始まった。そのうちに戦争が激しくなって、集団疎開をすることになったが、僕だけは病弱で無理だからって、山形の田舎にあった父親の実家に預けられた。
 しばらくして、母親と兄弟たちも東京の家を焼け出されて、山形に越してきた。そのころ、父親は南方の戦場に送られていて、フィリピンで戦死した。戦争の終わる二日前の、八月一三日に亡くなったというから運のない話だ。後になって遺骨が二つも帰ってきた。入っていたのは両方とも石ころだけだったが。
 山形での生活は苦しかった。父親の実家の敷地に廃材で小屋を作って、母親と兄弟五人で暮らした。電気が引けなくて、ずっとランプの生活だった。水道もなかった。食うものも、着るものもない。ノートまで兄貴の下がりで、使っていない余白のところに書き込んで使うようなありさまだった。
 それで中学三年のときに家出をした。口減らしをして、母親を少しでも楽にさせてやりたかったんだ。そのころ、上の兄貴は働きに出ていたが、僕の下にはまだ三人の弟や妹がいたからね。その兄貴の給料を盗み出して、東京行きの夜汽車に乗った。
 東京では偶然知り合いになった復員兵と一緒になって、進駐軍の倉庫に忍び込んで、ミルクや砂糖を盗み出したり、製鉄工場へ行って石炭の燃えカス、今でいうコークスを拾って、それを料理店に売るといったことを二年くらいしていた。ところが、ある日街で中学の同級生にばったりあったのがきっかけで、やっていることが家族に知られてしまい、山形に連れ戻されてしまった。

■手のけがで職場を失う

 それでまた中学校に戻って、ちゃんと卒業してから、今度は正式に東京に出た。町工場の鉄工所で働きながら、工業高校の定時制に通った。高校を終えて、ネジの問屋に就職して、そこで八年間働いた。結婚したのは、その問屋にいたときで二四歳だった。妻は高校を出たばかりの一九歳。取引先の町工場の事務員で、それで知り合ったんだ。四年後に長男が生まれ、その二年後には長女も生まれた。
 長男の生まれたころに、仕事を変えた。大手自動車会社の募集があって、中途採用されたんだ。そこではトラックの組立工場に配属されて、四二歳まで働いた。大企業に就職できたわけだけれども、中途採用だったし初めのうちは貧乏だったよ。テレビを買ったのも、近所で一番遅かったんじゃないかな。それでも、妻も働きに出て、子どもたちも新聞配達や牛乳配達をしてくれて、神奈川県の相模原に土地を買って、家まで建てた。
 四二歳で自動車工場を辞めた理由は、上司をぶん殴ったからだ。大学出の生意気なやつで、ことあるごとに僕の山形弁をバカにしててね。殴ったのは、仕事のやり方の違いでケンカになったんだが、このときほど、学問のないことがつらいと思ったことはない。
 それでカメラメーカーの下請け工場に再就職した。それからも頑張ったんだよ。家の庭に小屋を建てて、旋盤を買って入れ、工場から帰ると、毎日小屋にこもって内職をしていた。ところが、四八歳のときに、その旋盤に手を巻き込まれて、大けがをしてしまったんだ。右手がちゃんと握れなくなってしまって、精密機械を扱うカメラ工場では働けないから、辞めざるを得なくなった。
 それからは土方になって、その日がしのげればいいような生活になっていた。心もすさんでいく。殺人事件を起こしたのは、そんな時期だった。

■青春時代からやり直したい

 刑務所を出ても、行くところがないし、仕事もないだろう。各地を転々としながらフーテンだ。新宿に来たのは九四年だった。今でも、人を殺したときのことが、夢に出てくる。夜中にうなされて、その声で目が覚めることもある。いくら相手がヤクザだったとはいえ、その人にも死を悲しむ家族があっただろうからね。やっぱり可哀想なこと、悪いことをしたなって思う。フーテンになったのも、その罪の報いかなともね。
 それと目に焼きついているのは、僕の家族四人で食事をしている光景だ。貧しかったけれども温かい家庭だった。別れた子どもに会ってみたい。この新宿中央公園に遊びに来る子どもたちを見ていると、「僕の孫もこんな年格好かな」なんて想像してしまう。でも、いまさら会いにもいけない。
 悔いが残るというか、くやしいというか、一〇年生まれるのが遅かったら、僕の人生は違ってただろうと思う。生まれたときから戦争だろう。物のない時代だったし、もっと勉強もしたかった。それが無理なら、もう一度青春時代に戻してもらって、せめて、そこからでもやり直してみたい。そう切実に思うね。 (■了)

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ホームレス自らを語る/段ボール生活は息抜きさ・柴田和夫(四八歳)

■月刊「記録」1998年3月号掲載記事

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■もう少しで死んでいた

 ドスーンという音とともに、熱い空気の塊がおれを吹き飛ばした。でかい木槌で殴られたような痛みを体に感じたときには、粉塵が舞い上がり、炭鉱の坑内は真っ暗。すぐに事故だとわかった。
「おい、大丈夫か」
 仲間に声をかけると、暗やみから「オー」と返事がしてね。ホッとしたよ。それから皆で縦坑までの二〇〇メートルを歩いたんだ。縦坑に行けば電話で状況を確認できるし、坑内を脱出するゴンドラや救急用具、そして何よりも空気がある。
 炭坑事故でこわいのはメタンガスだ。ガスは目に見えない上に、濃度が高まれば爆発する。もちろん呼吸もできなくなる。だから通風口の役割を果たす縦坑付近は、坑内でも最も安全な場所なんだ。
 縦坑にたどり着いたとき、助かったと思ったね。残る危険は坑内火災だけだから。当たり前だが炭坑は石炭だらけなので、事故で坑内火災が発生すれば、どんどん燃え広がる。自分のいる場所まで火が迫ってくれば、死ぬほかはない。だから冷静に考えると坑内火災だって十分こわい気がするが、ヤマで働いていると危険に少しずつ鈍感になるから、そんな状況でも平気なんだ。ゴンドラに乗って脱出できるまで一時間も待たされたのに、不安なんかみじんも感じなかった。
 炭坑は日々危険と隣り合わせだ。四〇センチくらいの丸太柱なんか、落盤が始まれば三秒で折れちまう。だからといって落盤をこわがっていたら、仕事にならない。「今日、何か山鳴りがするな。そろそろ危ないじゃないか」なんて仲間と言い合いながら、平気で入坑する。それだけじゃない。おれなんか坑内でタバコを吸っていたよ。もちろん坑内は、火気厳禁だったけれどな。
 そんなおれでも、地上に戻って事故の状況を確認したときは驚いた。ほんの少し場所が違っていれば、死んでいたとわかったからだ。爆風は壁にぶつかり反射しながら進んでいく。そのため爆心地から等距離にいても、坑道の角度によっては影響が出ない。おれが働いていた坑道は、爆風が直接吹き込む場所ではなかったから助かった。悪運が強かったんだろう。
 もちろん運のいい人がいれば、悪い人もいる。
 社宅に帰ると、近所の奥さんが声をかけてきね。「うちの人、大丈夫ですか」って聞かれた。自分からさほど遠くない現場で働いていたことを知っていたから、「いやー、大丈夫でしょう。元気で出てくるよ」と答えた。その後すぐだよ。遺体が引き上げられたのは。朝、一緒に社宅を出た仲間だった。「弁当のおかずは何だ?」なんて話をして「今日、一杯飲もう」と約束したのに、それが最期の会話になっちまった。
 ヤマで暮らす者は連帯感が強い。特に隣近所は仲がいい。死んだ友達も、家族みたいなもんだった。それなのに、あんな軽はずみな受け答えをしてしまった。奥さんのことを考えると、今でも言葉に出せないくらいつらいよ。恥ずかしくて、あいつの葬式には顔を出せなかった。家で酒を飲み、一人で供養した。

■仲間を残して坑道封印

 一九七〇年一二月一五日、北海道上砂川町の三井砂川炭坑でこの事故は起こった。死んだのは一九人。事故直後から何度か仲間を助けるため入坑したが、落盤が起きた場所はひどい惨状で、とても彼らが助かるとは思えなかった。そんな状況だけに、地上で新聞記者やテレビクルーに囲まれたときには腹が立ったよ。
「中はどんな様子でしたか」
「救出作業は進んでいますか」
 行方不明者の家族も見聞きしているのに、そんな質問に答えられるはずがないだろ。ひどい取材者になると、平気で作業のじゃまをする。取材していたテレビカメラマンとぶつかって、カメラが壊れたこともあったよ。そのときのカメラマンの言いぐさはひどかった。「これ高いんですよ」と、血相を変えて言い放ったからな。
 こっちは仲間の命を救うために、体を張って救出作業に向かっているんだ。坑内火災はおさまらない。ガスの濃度は上がり続ける。二次災害がいつ起こってもおかしくない状態で、救出は続けられていたんだ。坑内火災が収まるように炭酸ガスを吹き込み、おれらは救命器をつけての作業だよ。そこまでしたのに事故発生五日後には、三人の仲間を坑内に残したまま空気を遮断することになってしまった。酸素を遮断して坑内火災を消さなければ、第二第三の爆発が起きるところまで、追いつめられたからだ。
 もう生きている可能性はなかっただろうが、酸素がなくなって火が消えるまで、三~四ヶ月も彼らを坑内を置き去りにするのは悲しかったよ。当時、おれが二〇歳の若造だったから、余計にそう感じたのかもしれないがね。
 こんな悲しい事故もあったが、ヤマでの生活は楽しかった。特に三つ年下の女房と結婚してからは幸福だった。二三歳のときに、息子も生まれた。子どもはかわいいし、女房のことも好きだった。力一杯仕事をして、家族を見ながら酒を飲む。静かな幸せだったんだ。

■突き付けられた離婚届

 転機が訪れたのは、二八歳。リストラだよ。一緒に働いていたおれのおじは、他のヤマに移っていった。でもおれは、新しい人生にチャレンジしたかったんだ。炭坑夫を辞めて、仕事のない上砂川を出た。ドックでの船の溶接をする職場を見つけたので、函館に単身赴任して仕事に明け暮れた。まさに食うためだったね。家族が生きていくために働いたんだ。それなのに函館で暮らし始めて一年、女房から離婚届を突き付けられた。
 函館で働き始めた当初は寂しくてよく家に帰ったが、忙しさのあまり、つい足が遠のいちまったんだ。それが女房にとってはつらかったのかもしれない。ケンカをしたわけでもなく、嫌いになったわけでもない。浮気はしたが、ちゃんとした女がいたわけでもない。ばくちに狂ったわけでもない。離婚する理由なんて見つからないんだ。だけど、別れたいなら仕方がない。書類に判をついて東京に向かったよ。
 東京での仕事はトビだ。高い場所は平気だったし、ドックで建設の基礎は習っていたから苦労もなかった。しかも函館時代、おれは溶接工の免許を取得していたから重宝がられたよ。そのうえ数年後には、足場の組み方を自然に覚え、足場トビ職としても仕事ができるようになった。
 長く勤めていたいくつかの会社からは、いつも親方にならないかと誘われた。でも同じ会社で働き続けると、社内の無用な争いに巻き込まれることになるんだ。小さな派閥闘争とかな。それが嫌で親方になるのも断り、どこも数年で会社を辞めた。
 給料の高い足場トビとしていくらでも仕事があったから、争いを続けてまで、その会社に固執する気にはなれなかったんだ。一度なんか、社長と専務がそろっておれを引き留めにきたからな。でも「おれ、辞めっから」といって出てきた。
 今、おれにとって一番大事なことは、自由気ままなこと。食って、寝て、酒が飲めるだけの給料をもらえれば、どこで働いてもかまわない。給料が高くても奴隷のようにこき使われるところならば、その日のうちに辞めて、少々日当が安くても人情味のある職場を選ぶんだ。仕事にあぶれたこともない。
 おれがホームレスをしているのは、したいからだ。息抜きみたいなもんなんだ。数週間、飯場で仕事を続けていると、公園でブラブラしたり、段ボールで寝る生活がしたくなる。負けおしみじゃないよ。実は日雇い仕事を辞めて、生活する方法もあるんだ。実家に帰りゃいいんだからさ。
 北海道の実家は飲食店を経営してるし、それなりにはやっている。今、経営をしているのはおふくろと妹だが、店の権利はおれのものだ。妹に連絡をするたびに、「早く戻ってこい」といわれるよ。おれ自身、帰るのも悪くないとも思う。店で働くために通信教育で必死に勉強して、調理師と食品衛生管理者の免許も取得したんだよ。でもなあ、おれがいなくてうまくいっている場所に、ノコノコ帰っていくのも悪いと思うんだ。自分の体が動き、職に困らないうちは、自分の力だけで食っていったほうがいいだろ。

■人生で一番幸福だったのは・・・

 まあその他にも、少し帰りづらい理由があるんだ。
 一〇年以上前だが、開店の祝いに店を訪ねたんだ。家族にあいさつをして、ふと店の奥を見ると、何か見たような女が働いている。「誰だ、あれ」とおふくろに尋ねると、「まあ、見てきてごらんよ」といわれた。正面に回って驚いたよ。別れた女房なんだ。どうしてかわからないけれど、おふくろと妹、そして別れた女房が一緒に働いていたんだ。
 女房との間に特別なわだかまりがあったわけでもないが、何となく互いに気まずいもんだ。どうしてそんな話がおふくろとの間でまとまったのかは知らないが、自分から別れた亭主の実家で働くなんて。女はすごいねえ。 とはいえ女房が実家で働いているのを知って、ホッとしてるところもある。女手一つで生きていくのは大変だが、おれの知っているところで働いているなら安心だ。女房は知らないだろうが、子どもの教育が終わるまで、おふくろを通して毎月欠かさずおれは送金し続けていた。いつも心の片隅に、家族のことは引っかかっていたからだ。
 今の生活は悪くない。縛るものもない。無益な争いもない。好きに働き、好きに眠れる。仲間も死なない。でも一人で酒を飲んで思い出すのは、なぜか炭坑で働いていたころなんだ。あれだけ危険な職場で、今ほど自由もなかったのに……。
 家族とヤマの仲間に囲まれて暮らした日々が、おれの人生では一番幸福だった。それだけは確信しているよ。

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保健室の片隅で・池内直美/第七回 帰れる場所

■月刊「記録」1998年8月号掲載記事

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■三人三様の意見がある

 現在、かなりの数の子ども達が、不登校や保健室登校をしているといわれる。その本人や親達が、私のところにいろいろな相談を寄せてくる。よき相談相手と思ってくださっている方が多いようだ。
 私が不登校の子どものために作った、交流を目的にした小冊子が、どうやらきっかけとなっているようだ。この冊子はマスコミに取り上げられたこともある。
 親、教師、子ども、それぞれの立場から話を聞いていると、三者三様に意見がある。ただ、そのなかで同じ言葉があるとしたら、誰もが「自分には安らげるときがない」といっていることだ。
 教師は、一クラスに在籍する生徒の人数が多いうえに、第二土曜と第四土曜日が休みになったことにあわせ、会議やら何やらで生徒の一人一人に目を配ることができない。不登校予備軍の生徒がいても発見できないだろうと嘆く。
 親は、自分の子に限って登校拒否などとは無縁と思っていたのに、突然学校に行かなくなって混乱している。理由もわからず、そばについていなければならないのがわかるのに、仕事があってできないという。
 子どもは、自分が学校に行かなければ親が悲しむ。でも行くと心が破裂しそう。だから家でも学校でも心休まるときがない。みんなと同じように行くことができたら、どんなに幸せかと訴える。
 親と教師の順調な生活は、子ども(または生徒)がきちんと学校に行き(または登校し)、目立った問題も起こさず素直に勉強して帰ってくれることを前提にして成り立っている。だけどそれは、子どもの思いとまったく正反対の方向を向いている。だってそれじゃ、まるでロボットじゃないか。だから子どもの心に圧迫がかかってしまうのだ。
 そもそも子どもが、なんのアクシデントもなく通学していけることを当然に思っているのが間違いの始まりだ。学校に行きたい子どもは義務教育にしたがっていけるが、それは行きたいからなだけ。行きたくない子どもには、問題が生じて当たり前だ。なのに世話をかけられても忙しいから面倒見られないというのはひどい。
 ならばせめて、子どもが立ち止まっていることを許してほしい。「行きたくなければ学校へ行かなくてもいい」。そう思える大人が周りにいる子どもほど、心にゆとりを持っている子が多いように思える。

■義務教育は誰の義務?

 子どもが学校へ行かない日が一年、二年と続き、親の心に焦りが消えてきたとき、ほとんどの親が同じ考えを持つようである。「義務教育の義務は国にとってのものであって、子どもに与えられているのは学校に行き、学ぶ権利である」という考えだ。
 つまり義務教育よりも、「権利教育」を訴えるようになるのである。
 人は日常のなかでも、自然のなかでも学習することができる。たとえばアリを追い、アリの行動をじっとながめる。チョウを追い、チョウと花の関係を知る。日記を書けば、自分と向かい合う方法も知る。それらは学校で学ぶよりもずっと自分のためになる。
 親は徐々にそう思えるようになるようだ。だが、学校の先生は、どうもそうはいかないらしい。時間がたてばたつほど、とにかく学校に来られるようにするため一生懸命になる。
 たしかに学校でなければ知り得ないこともたくさんある。でも、熱心なあまりストーカー状態になってしまう先生や、突然、見放すように冷たくなり、暴言を浴びせる先生もいると聞く。
 あるお母さんからの手紙には、保健室登校をしている子どもが、授業参観日だからとやっとの思いで教室に行った。授業は進路の時間だった。だが、その子に対して、先生は冷たく、「教室に来られない生徒には、高校を受ける資格はない」と三回もいったという。親のほうも居づらい時間だったと記されていた。
 こういう先生に思い出してほしいのは、教育実習生のときにどんな工夫をして授業をしたか、どんな思いで教師になろうとしていたかだ。
 今、教員になるための試験はとても難しいと聞く。その難関を突破した先生に、心がないとは思えない。思いたくない。
 もちろん学校が悪いとか、家庭が悪いとか、そんな簡単な割り切り方では、解決しきれない心の奥底の問題が、不登校の子どもにはあるだろう。マスコミを含め日本人は、どこかに犯人を求めたがる考え方をする人が多いが、被害者や加害者を仕立て上げて、解決できないことはたくさんある。
 たとえば私が学校を嫌いになった要因はたくさんあった。体罰をする先生を見たこと。イジメがあったこと。おとなしそうな子をつかまえて、クラス全体で精神的に追いつめる儀式のようなことが繰り返されていたのを目の当たりにしたこと。いつだってドキドキして、次は自分の番になるのではないかと考えていた。それがこわくてイジメる側に回る。そんな自分が一番嫌いだった。そう思っていたのはきっと私だけではなかっただろう。
 誰もが加害者であり、いつでも被害者になり得た。その緊張関係が苦しかったし、見たくなかった。それは先生も親も同じなのだということが、最近になり、それぞれの立場の人の話を聞いていて、一応私にもわかった。 学校に行けない状況が作られた場所は、どうやら単に学校のようだ。なるほど、学校に行けない子どもに、学校はどういうところだと思うか聞いてみると、「本来の姿を失ってしまっているところ」と答えた。

■なぜ学校に行けなかったのか

 では、学校はどんな所であるべきなのか、どういうところであってほしいのか。
 まだ、全日制の高校に行っていた頃、私はカウンセリングを受けていた。そこで担当のセラピストの人から、生涯忘れることのできない一言を聞いた。それは「人には、帰れる場所がたくさんあります」という言葉である。
 そうして私は行きづまったとき、母校である中学校の保健室に帰った。
 当時のことを詳しく書いた本が出版された。すると、いろいろな人から、行きづまって母校に帰ったのはなぜかと不思議がられた。自分ではそんなに不思議に思っていなかったのだが、なぜ保健室登校をして、学校を拒否していた子どもが母校に帰ったのかがわからないというのだ。そういわれてみれば、たしかに不思議かもしれない。
 不登校の子の家庭を何度か訪問したことがある。話していてわかるが、その子どもだって学校には行けるのだ。学校に一緒に行って、校庭で遊んで、担任の先生と話をして帰ってくることはできるのだ。
 なぜなら不登校の子が入っていけないのは、学校そのものではなくて、学校や教室に満ちていた緊張感なのだから。私のなかにある学校そのものがもつイメージは、友達がいるところ、人が笑顔になる空間だ。自分は笑えなかったけれど、笑っている人々の笑顔は、見ていてホッとしたし、学校にはその印象がある。だから時間がすぎてしまえば、遊びに行きたいと思えるようになる。
 そしてそのイメージが、学校がこうであるべき姿に一番近いのではないだろうか。
 学校は行かなければならないところだとか、単位がどうだとか、そういうことの前に、生徒が自分に合った自然な姿で、笑顔でいられる場所に、学校がなれればいいと思う。今の先生も教師を目指したときには、そういう教室を作りたいと思っていたのではないか。

■さまざまな意見を知るのが教育

 子どもを学校に行かせたくてしょうがないお母さん。そんな母親に私は、フリースクールを見せてあげた。
「スクール」というから、学校の単位を取れると思っていたようだが、そこで単位を取ることはできない。人としての心を身につけることが目的だ。そこには「心と生」が満ちあふれている。
 本当は、学校で行われることが一番いいはずの心の教育が、学校ではなされない。でも、家のなかでできるかというと、できないことはないが、足りないものが多い。同年代の仲間と一つの社会を一緒に作っていく体験は、家族ではできないのだから。
 たくさんの子どもから寄せられる手紙に、何かを見つけに今まで見たこともないところへ行ってみたいと書かれていたものが何通かあった。また、留学したいので親を説得してほしいと書いてくる子もいた。説得のときに、私についてきてほしいという子もいた。
 でも、「日本で何もできない子が、外国に行って何かできるものか」という考えを持っている人と話をしたこともあった。いじめに合って対人恐怖症になり、それでも違う自分を探しに海外に一人で行こうと勇気を出している子どもに向かって、「どうせ何もできやしない」とはじめから決めているその人は、どうみても他人にいわれるままに生きてきた人だった。失敗を恐れる人だった。
 もしも海外に行ってやり直せなかったら、もっと傷つくといわれたが、果たしてそうだろうか?
 学校に行けない子どもが、お母さんと翌日の遠足に行くと約束して、朝までは行く気でいられたが、結局家を出ることができなかった。親がショックを受けた以上に、彼女のショックは大きかっただろう。それでも彼女は、そんな経験から得たものを生かしてがんばろうとして、私に手紙をくれている。
 人は、経験からたくさんのものを得る。楽しかったこと、嫌だったこと、うれしかったこと、悲しかったこと、そのすべてからたくさんのものを得て成長している。 たぶん世の中には、これは正しくて、これは正しくない、などというものはないに違いない。みんながそれぞれの意見を持ち、意見と意見を足したり引いたり割ったりして、自分のものにしていく。加害者も被害者もないように、最初からわかっている失敗も成功もない。それを学ぶのが『心の教育』なのだろう。そういうことが許される空間に学校がなればいい。

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鎌田慧の現代を斬る/憎しみの増殖炉を断ち切れ

■月刊「記録」1998年9月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■面白ければいいのか

 七月二五日、和歌山県で起きたカレーライスへの毒物混入事件は、八月一三日現在、いまだに犯人が逮捕されていない。町内会が主催する夏祭りで、青酸やヒ素が投入されたのだから地域住民の憂いは深い。このちいさな地域共同体は、今回の事件によってめちゃくちゃにされている。地域に犯人がいるかもしれないという不安から、住民がたがいに不信感を募らせているとも聞く。
 そんな住民感情を煽るかのように、地域内にいる可能性が高いといわれる犯人を探すのに、マスコミは躍起になっている。げんに「この事件の犯人はどういう人物だと思うか」と、私のところにも電話取材があった。報道されている情報だけでは犯人像を割りだすのは軽率というもので、わたしはお断りしたのだが……。
 マスメディアの機能が、犯人像の作成にそそぎ込まれてしまうのは、過去の冤罪にたいする教訓がまったく汲まれていないことの証明だ。じつに悲しむべきことである。ジャーナリズムは、本来、刑事的視点とは、対立するはずのものだ。
 九七年五月に発生した神戸の小学生殺人事件でも、犯人像を各新聞社が競って報道し、最終的には学校関係者が最有力候補とされていた。当時は、彼が逮捕された時のために、各社とも準備記事を用意していたという話も耳にしている。
 このように新聞が警察よりも先行して犯人像を書く姿勢は、越権行為である。ましてや今回のように狭い地域では、報道によって傷つくものも多い。
 ところが今回の毒物混入事件を巡っては、すでに異常な混乱が起こっている。犯人だと疑惑をかけられた人物が、マスコミの取材を受けたというのだ。『東京スポーツ』七月三一日付の記事は、スポーツ紙特有の巨大な見出しで「疑惑者が反論」と書かれ、「犯人」に仕立て上げられた地域住民に、報道各社のマイクを突き付けられている写真が、一面トップで掲載されている。さすがに目だけは黒塗りにされてはいるものの、顔の輪郭はしっかりと写っており、近隣住民は写真の主が誰だか特定できる代物だ。
 この記事は、「同地区に住む男子Aさんが、報道陣にたいして、『私を犯人扱いしているのか』と怒る騒動があった」との書きだしで、Aさんが一二年前に勤めていた会社に新聞社から問い合わせがあったことなども報じられている「『夏祭り嫌い』男性Aさん」と見出しがたてられ、Aさんが潔白を主張した体裁を取りながらも、Aさんの顔写真を掲載しているところに、スポーツ紙らしい売らんかな姿勢があらわれている。
 しかも東京スポーツは、前日に「犯人は女性」という見出しで記事を掲載しているのである。つまり一夜にしてまったくちがう犯人像を報じているわけで、これなどは真実はどうでも、面白ければそれでよし、とする現在のマスコミの退廃ぶりを端的にしめしている。
 この事件同様、小さな地域共同体を舞台にした殺人事件として思いだされるのが、名張毒ぶどう酒事件である。六二年三月、三重県で起こった事件は、物的証拠が乏しいまま一人の男性が逮捕された。一審は無罪判決が言い渡されたものの、名古屋高裁では死刑判決、最高裁では被告人の上告を棄却。現在も、被告人は獄中からえん罪を訴えつづけている。
 とかくちいさい地域で起こった事件は、情報に尾ヒレがついて報道されやすい。そして、そのことが地域住民の不安を増大させ、えん罪の温床にもなる。九四年六月に起きた松本サリン事件でも、河野義行さんにたいする報道のあり方が大きな社会問題となったのを忘れてはいけない。
 とにかく面白おかしく報道しようとする姿勢は、テレビのワイドショー番組によって、ますます拡大されてきている。視聴者も、真実はどうでも、その場が面白ければいいだけだ。他人の生活に土足で入り込むような報道を、マスコミがどのように自主規制するのは、今後とも繰り返し問われる問題である。

■「死も来た半島」となる青森

 話題は変わるが、カレーの毒より何千倍も恐ろしいのが、原発促進である。これからさらに二五基も原発をつくるというバカげた計画を、現在も通産省はもっているのだ。
 九八年八月三日、東北電力が青森県東通村に計画していた東通原子力発電所の設置について、原子力安全委員会は「安全性を確保しうる」という答申を、通産大臣に提出した。
 これは通産省が推進している原発にたいして、通産相の息のかかった原子力安全委員会が安全だと答申をするきわめて欺瞞的なシステムである。そして、この欺瞞的な答申によって、ことし一二月には原発の建設に着工することが確実となった。
 東通原発は、六〇年代に「下北原発」として計画されたものだった。東京電力と東北電力が相乗りし、各一〇基ずつ合計二〇基も建設する、というきわめてバカげた巨大プランであったが、そののちの社会情勢により、いったん計画はなくなったかにみえた。しかし三〇数年たって、「東通原発」と名前を変え、復活を図ろうと乗り出してきたのだ。
 東通原発はまだ原発の危険性が明らかでなかった六〇年に計画が発表され、電力会社の口車にのって、村議会が誘致したものである。
 そのあと私も東通村の村長に取材したことがあるが、「原発の温排水の熱を利用して非鉄工場をつくる」などと、夢物語のようなことをいっていた。原発にたいしていかに無知であったかを、この発言が如実に物語っている。当時のこのような地域住民の無知につけ込み、電力会社は各地に原発を押しつけたのだった。
 しかし東通原発は反対勢力が強かった。地域の漁業組合だった。生きる糧である魚に危険がおよぶのではと、彼らは原発に猛烈に反対してきた。そのため三〇年ちかくもの間、原発の新設はストップされてきたのである。だがその間にも電力会社および青森県の職員は、地域懐柔の手を緩めなかった。少しずつ漁民を切り崩していたのである。
 八八年八月に北陸電力の志賀原発が設置許可を受けて以来、東通原発への設置許可は、ざっと一〇年ぶりとなる。それはここ一〇年間、反対を主張してきた世論に圧されて、原発の新規設立が成功しなかったことを意味する。それだけに東通原発の設置認可には、国を挙げての支援がそそがれたのである。国と電力会社にとって、ここを突破口にしたのである。
 東通原発の周囲に買い占められた用地が、「原発二〇基分」もあることを忘れてはならない。今回の設置許可を突破口にして、二号炉、三号炉、さらにはもっと多い数の原発が乱立される危険性がある。実際、この用地の規模は、政府が立てた、先の二〇一〇年までに原発を二〇基以上増設するという計画と、奇妙に符合する。こんご、新規立地にアタマを抱えてきた。政府の原発推進の受け皿として、これから利用される危険性が、きわめて高い。
 また東通原発の南側に隣接する六ヶ所村では、すでに核燃料サイクル四点セットといわれている低レベル核廃棄物埋設場、およびウラン濃縮工場、そして核廃棄物再処理工場、高レベル核廃棄物の保存所の建設が進められている。さらに、そこから北上した大間町でも電源開発の原発建設をめぐって、執拗に漁協への圧力が繰り返されている。
 下北半島はこれによって、文字通りの原発半島となる。地元の友人たちは「死も来た半島」と呼んでいる。

■水爆の原料を生産へ

 日本ではやみくもに原発建設が進められ、将来への不安を増大させているが、海外においても核をめぐる問題は、ますますキナ臭さを漂わせている。
 インドとパキスタンの核実験については、本誌九八年六月号でも扱ったが、問題は、米・仏・英・中国・露の五大核兵器所有国が核廃絶にむけて一歩も動きをみせないことだ。自分たちの核兵力は維持しながら、新規参入を狙ってくるインド・パキスタンにたいして経済制裁をするなど、わが権益だけを守ろうとするだけのエゴイスティックな動きでしかない。
 ましてや米国エネルギー省では、八八年から生産を中止していた、トリチウムの生産を計画している。トリチウムという物質は、水素爆弾の威力を高めるために使用されるものである。
 毎日新聞の八月五日付の朝刊によれば、「(米国)エネルギー省は『今年中に(トリチウム生産のための)運転再開を考慮するかどうか決定する』と、慎重な言い回しながら施設を『ホットスタンバイ(稼働待機)』状態に置く指令を出した」ともいう。
 しかも新しい生産場所は、使用済み核燃料の貯蔵プールの腐食が進み、三〇年後から一〇〇年後には地中の汚染が進み、コロンビア川を汚すだろうと心配される地域なのである。核廃棄物の最終処分地が決まらぬまま、原発をふやしプルトニウムを貯めこんでいる日本にとって、この事態は無視できない。
 被爆国として日本は、なにができるのだろう。そんな想いを胸にして、八月六日のヒロシマ、九日のナガサキをテレビ中継で見ていると、インドやパキスタンから来た記者たちが、広島や長崎の被災状況を見て、核兵器がいかに悲惨であるかをはじめて認識したというのが写されていた。
 しかし、それでも、核兵器をもつことにより、核戦争を抑止できるという思想までは自己否定できないようだ。核抑止論のような、力にたいして力で対処するという思想は、強者の論理である。強者の論理を振りかざせば、滅亡の道をたどりつづけるしかない。そのため不毛な永久運動を繰り返すことになる。つまりつねに対立を激化していくことになるのだ。これは憎しみの増殖炉というべきものである。
 たとえばイン・パ両国は、いまなおカシミール地方で砲撃戦をつづけており、八月上旬には双方合わせて九〇人以上の死者を出したと報道されている。このようにちいさな戦争の繰り返しが、たがいの憎悪を生み、軍事力の増強につながる。もちろん核開発はこの延長線上にあり、核をもったからといって際限のない核開発競争が収まることはない。
 しかも核開発競争は、軍事費の増大を招き、必ず経済を疲弊を招く。経済基盤を崩壊させていく「メルトダウン現象」が国を覆うことになる。これもまた低所得者層での憎しみをさらに増殖させる。

■劣化ウラン弾を使いつづける米国

 原爆や水爆のような大量殺人兵器ばかりが、核の問題ではない。劣化ウラン弾による放射能汚染も、監視する必要がある。
 ことし八月、米国防総省はやっと劣化ウラン弾の危険性を認めた。戦闘状況によって劣化ウラン弾の使用は、一般市民が年間に浴びる放射線のほぼ三倍を、一度に浴びる可能性がある。その危険を承知の上で、米国は劣化ウラン弾を今後も使いつづけるという。しかも米国は、この兵器を中東やアジアに輸出までしているのだ。
 国防総省の報告書には、「劣化ウラン弾は現在、他の国々にも使用可能であり、将来の戦場が汚染される危険性がある」と書かれている。自国で作り上げ、湾岸戦争では戦場を放射能で汚染しておきながら、他国の使用にたいする危険性を忠告するとは、エゴイズムもはなはだしい。
 ここには、自分たちが開発している核兵器は正義であり、相手が開発した核兵器は悪であるという、無茶な論理がまかり通っている。
 かつて米国の核実験に反対していた日本の共産党が、ソ連の核実験に反対できないという論理矛盾を起こしたことがある。これはソ連の核兵器は正義という信仰によったものだった。
 自国のを軍事力を正当化させる行為は、憎悪を増殖させるだけだ。このような憎悪の思想を断ち切る論理が強く求められている。そのためにマスコミがはたさなければならない役割も少なくない。無実の住民を取材攻めにし、無用な犯人探しなどをつづけている場合ではない。核兵器と核開発、核への批判を書きつづけるべきだ。 (■談)

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鎌田慧の現代を斬る/東京地裁が認めたJRのインチキ賭博

■月刊「記録」1998年7月号掲載記事(表記は掲載当時のままです)

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■クビ・労組潰し・土地分割の11年

 国鉄を分割民営化してから、すでに一一年が経過した。これまでも何度か指摘してきたように、この民営化は、政府・運輸省・財界・マスコミなどが同一歩調をとっておこなった大陰謀であった。この結果、国鉄労働組合(国労)は、不当労働行為の繰り返しによって四分五裂、国労は少数化され、国鉄が所有していた都心の広大な国有地は、財閥系不動産会社に売却された。たとえば、東京丸の内の国鉄本社は三菱系の不動産会社に購入され、新橋周辺の汐留付近は、三井不動産などに売却されている。
 結局、JRが一一年間にわたって、労働者をクビにし、労働組合を潰し、土地を分割し続けてきたことになる。ここ一〇年、日本の労働運動がナリを潜めてしまったのは、国鉄解体が大きく影響している。
 ことし五月二九日、東京地裁から、組合を潰すためだけの極めて強引な判決が下された。これまで一〇四七人の解雇をめぐる裁判では、各地の地方労働委員会、その上部機関である中央労働委員会で、すべて不当労働行為として認められ、JRに採用するように命じられててきた。ところが東京地裁はそれを否定したのである。
 中央労働委員会を含め、各地方労働委員会は、労働者側委員ばかりではなくて、使用者側委員および公益委員をもつ中立的機関であり、労働問題に関しての最高決定機関である。ところが今回、中労委の決定に従いたくないJR側の提訴を受け、裁判所が企業の側に立った決定を出した。つまり、労働委員会の存在そのものを、裁判所は否定したのである。戦後の民主的な改革を足蹴にしたということである。
 これからは、労働組合を潰す不当労働行為にたいして、地方労働委員会や中央労働委員会が救済命令をだしても、企業が裁判所に訴えることによって責任逃れができるという道がひらかれたのだ。これは独禁法の緩和、労働法の改悪など、戦後の民主化の成果をすべて潰し、憲法改悪を狙う最近の自民党政府の方針に迎合したものである。
 この重大な結果について、「JRに人権を!一〇四七人の復職を求める一万人意見広告を広げる会」は、次のような声明を発表し、かつ記者会見をおこなった。だが一一年前の、ファッショ的なJR出発当時とまったくおなじように、マスコミは黙殺した。そこであてえて、ここにこの誌面を借りて、この問題について訴えてみたい。

【声明】
 昨日、東京地方裁判所民事第一一部と一九部は、国鉄分割民営化の際におこなわれたJR北海道、JR九州、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR貨物などによる不当労働行為に関する行政訴訟に判決を下した。第一九部の判決は、JRの不当労働行為を認めたが第一一部の判決はこれを否定した。
 私たち「JRに人権を!一〇四七人の復職を求める一万人意見広告を広げる会」は、第一九部の判決の不当労働行為認定を評価するが、復職をJR各社に命じていないことについては強く抗議するものである。第一一部の判決は、国鉄改革法の極めて形式的解釈であって、とうてい容認できない。
 そもそも、不当労働行為などの労働者の人権無視問題を第三者機関として審判するために、地方労働委員会、中央労働委員会が設置されてきた。中央労働委員会はJR各社の対応を不当労働行為と認定しているのであって、これを無視して中央労働委員会を被告として行政訴訟にでたJR各社の対応は、法治行政を無視するものといわなくてはならない。しかもそれを追認した東京地方裁判所のとりわけ第一一部の判決は、法の番人としての役割を自ら否定したに等しいものといわざるを得ない。
 旧国鉄職員の多くが職を奪われてからすでに一一年である。私たちは、昨日の東京地方裁判所の判決に強く抗議するとともに、政府ならびにJR各社が、民主主義の基本である法のもとの平等を踏まえて、早急にこの問題の解決に当たることを強く求めるものである。同時に、こうした判決ならびにJR各社の対応を認めるならば、この経済不況時に多くの労働者が職を奪われていくことにつながることを訴えつつ、広く社会的にこの問題の解決のために今後とも運動を広げる決意である。
        一九九八年五月二九日
        佐高信/新藤宗幸/鎌田慧/福島瑞穂

 さらに、この日の記者会見で、私たちは次のように主張した。

●佐高信 氏(評論家)
「JR東日本の松田社長が常務だった頃か、国労だけではなく、労働委員会を相手に闘うなどといって、まさに労働委員会をけっとばす発言を続けてきた。中労委の審問でもその考えを変えるわけにはいかないと、労働委員会を認めない発言を繰り返し、裁判所に訴えた。一方では、JRには長期債務の負担を強制する法律が成立したら、直ちに法的手続きに訴えて、会社と株主の利益を守るといっている。裁判とか法律をつまみ食いして、いうことを聞かなければ訴える。公的なものでも、自分たちの都合に合わなければ無視する。法的なものに従うという観念がまったくない。今度の判決は、世界に笑われた日立の残業拒否解雇に次ぐ物笑いの判決だと思う」

●新藤宗幸 氏(立大教授)
「十一部・十九部の判決内容もさることながら、まず訴えたいことは、労働委員会という行政委員会がなぜつくられているのかということ。労働者の人権無視があり、労働紛争がおきた場合に第三者機関の審判を仰ぎ、使用者側、労働者側がそれを尊重し紛争を解決することを前提にしてつくられた制度である。地労委、中労委が不当労働行為と認定したものを、さらに中労委を被告として行政訴訟を起こすJRとは何なのか。次々と最高裁まで行ったら、この後何年かかるのかという問題だ。確かに、法的には中労委の裁定に不服がある場合にさらに裁判に訴えることは認められているが、これがそれなりに市場経済をとる国において経営者がやることなのか、憤りをまず表明したい」

●福島瑞穂 氏(弁護士)
「労働委員会の中では不当労働行為が明瞭に認められ続けてきたにもかかわらず、今回の裁判で形式的な法律論で敗訴にしたのはひどい。不当労働行為やこれが全体としてどういう問題なのかということを裁判所が端的に考えれば、こういう結論には絶対にならない。もし、この判決が当然ということになったら、労働組合潰しが大手を振っていくだろう」

■JRは確信犯

 しかし、この記者会見についても、毎日新聞が一段ベタ記事で十数行報じただけだった。国民に少しでも関心をもってもらうための試みだったが、惨憺たる結果に終わっている。
 国鉄改革当時も、それに反対する労働者や市民の集団はほとんどマスコミから黙殺されたという経験がある。政府がおこなっていることにたいしてマスコミが反対できないとは、極めて悲しむべき状況としかいいようがない。マスコミが取り上げないから、政府もますますいい気になり、やりたい放題になる。
 判決直後、運輸省の黒野匡彦事務次官は、記者会見で「我々はJRとおなじ立場に立っているので歓迎している」と判決を評価した。この発言などは、裁判の焦点ともなった不当労働行為が、運輸省・国鉄・JRの三社によっておこなわれたことをあらわしている。
 たとえていえば、窃盗に入った家で証拠隠滅のために放火したようなものだ。国鉄時代にやりたい放題に国労をいじめ、JRに看板を塗り替えたのは、インチキ賭博のやり方である。JRは確信犯なのだ。
 時事通信は、九八年五月二八日に、それをしめすような談話を取り上げている。
「JRが旧国鉄の人員を継承するのではなく、新規採用する形をとった国鉄改革法は、旧国鉄不当労働行為をJRに引き継がせないようにするのが狙いではないかとの指摘にたいし、(黒野事務次官は)『(当時)ベストの方法はこれしかないと決めた』とした上で、同法は『一〇〇年後も二〇〇年後も正義であり続ける』」
  私は北海道や九州の現場を歩き、国鉄改革に反対する労働者たちが、現場から離され、人材活用センターという「流刑地」入れられていることをなんどか書いた。そのあと、一〇七〇人も解雇された。彼らは、現代の「政治犯」ともいえる。

■結婚指輪も法律違反?

  国家機関の一員でしかない裁判所は、国鉄の問題について、ひどいデタラメぶりをこれまでもおこなってきている。たとえば九七年一〇月三〇日に、東京高裁がだした東京新幹線バッジ事件の判決は、裁判所が国家目的に迎合し、なおかつ企業の論理に従ったことを明らかにしている。
 この事件は、国労の組合員が国労のバッジを着けていたために、配置転換など差別的な処分を受けたことに端を発する。判決では、バッジを着けている労働者は「職務専念義務」に違反するというものであった。
 裁判官によれば、注意力のすべてをその職務遂行のために用い、職務にのみ従事しなければならない職務専念義務を、職員は課せられているという。
「本件組合バッジの着用行為は、国鉄の分割民営化に反対する東京地裁が昭和六二(一九八七)年三月三一日にだした『国労バッジは全員が完全に着用するよう再度徹底を期することとする』などを内容とする指示第一六〇号に従ってされたものであることに照らせば、使用者および分割民営化に賛成した他の労働組合の組合員にたいして、国労の団結をしめそうとする意味があるというべきであり、これにより、国鉄改革法に従って新会社の運営を推進しようとする支配者および分割民営化に賛成した他の労働組合組合員との対立を意識させ、そのことによって、これらのものが注意力を職務に集中することを妨げるおそれのあるものであるから、この面からも企業秩序の維持に反するものであったというべきである」 国労バッジの着用が、職務専務義務に反する理由として、裁判所がこのように語っている。
 つまり労働者は脇見もせず、なにも考えないで働かなければ、「職務専念義務」に違反すると、裁判官は結論づけているのだ。しかし、国労は、企業内で法律的に存在を認められている労働組合である。法律的に認められている組織のバッジを、どうして企業内で着けることが悪いのか。
 職務専念義務というが、そこまで言うなら、たとえば家族の写真を事務所の机の引きだしの中に入れているのも、職務専念義務に反してしまうのか。あるいは結婚指輪をはめている労働者は職務専念義務に反しているのか。会社にいる間、片時も脇目もふらず、すべての注意を仕事のみに集中しろとは、経営者でさえいわないとんでもない脅迫である。しかし裁判官は、裁判所という最高権力によって、このように非常識な無理難題を強要する。
 このような人間の尊厳と人権と民主主義に反する行為が、裁判所を舞台に公然とおこなわれ、また、それが批判されないでいて、日本が「民主国家」だ、などといえるわけはない。 (■談)

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ホームレス自らを語る/義理と人情の果てに・山本敏男(四九歳)

■月刊「記録」1998年12月号掲載記事

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■血しぶきが降りかかる

「誰かいるか。K組ともめた。若い衆はいるか」
 兄貴から事務所に電話がかかってきてよ。あいにく、そこにはおれしかいなかったんだ。仕方ない、刃渡り30センチのあいくちだけを持って、タクシーでかけつけた。
 車をおりると、何人かのヤクザがうなりを上げてにらみ合っていてな。今にもどつき合いが始まりそうだったんだ。こうなったら互いの意地もある。引くに引けねえ。殺るか殺られるかだよ。それでも兄貴なんかは、まだ冷静だった。おれがあいくちを片手に、相手の組員に突っ込もうとするのを止めたんだから。
「敏男、やめろ」
 鋭い口調でそう言って、後ろからおれを押さえつけた。けれども、それが呼び水になっちまった。相手が突進してきたんだ。敵との間は数メートル。考えているひまなんかねえよ。強引に兄貴を振り払い、あいくちをやつに向かって突き刺した。
 心臓を一突き。
 わけのわからんねえうちにあいくちが刺さり、血しぶきがおれに降りかかっていた。誰が見ても即死だよ。相手は血を吹きながら崩れていって、ピクリとも動かなくなったからな。もちろん死人が出た途端、ケンカは終わっちまった。警察も来るし、そのままいるわけにもいかねえわな。
 一瞬の沈黙を破ったのは、おれをかわいがってくれていた兄貴分だった。
「逃げろ」
 そういってくれてな。でも逃げる気にならなかった。 「みんなに迷惑かけますから自首しますよ」
 そうおれがいうと、兄貴もしばらく黙っていてな。それから「警察行くなら、ウチで着替えていけ」といってくれたんだ。
 おれたちと相手は系統の異なる組の一員だったが、別に殺した相手にうらみはねえよ。おれ自身、見たこともないやつだったし……。だた、殺らなきゃ殺られていたんだ。おれの動きがやつより遅ければ、おれの代わりにやつが生き続けたはずだ。おれが17歳か18歳で、相手も同じくらいの年だった。まあ、どっちかが早死にしなくちゃならない運命だったんだな。
 殺した現場のほど近くにある兄貴分の家で、服を着替え、血にまみれた手を洗ったら、酒が出てきた。兄貴の姉さん(妻)が、「最後だから、飲んでいきな」って、用意してくれたんだ。楽しい酒だったよ。笑いながら飲んでいた。
 この酒盛りでも、「逃げたいんならば、逃げろ」と兄貴はいってくれた。けれども5年も10年も逃げ回るのは嫌だったから、自首する気持ちは変わらなかった。あまり長居すると、兄貴にも姉さんにも迷惑がかかる。ほろ酔い気分で警察に向かったのは、それから三〇分くらい後だった。
 これが最初の殺人。1年3ヵ月、少年院で暮らすことになっちまった。

■弱い者いじめはしない

 生まれは静岡県の御殿場だ。小学生のころは、いじめられ続けていたよ。いじめられなくなったのは、六年生になってからだ。いじめたやつをみんなぶっ飛ばしたら、いじめがなくなったな。そんな経験があるから、今でも弱い者いじめは、でえっ嫌いだよ。ヤクザな人生を送ってきたが、弱い者いじめだけはしなかった。これだけは胸を張っていえる。
 中学を卒業して、初めて勤めたのは小さな鉄道会社だった。電車修理工として、毎日油にまみれて働いた。仕事に不満はなかったな。だけどケンカでクビになっちまった。
 会社の先輩連中が、10人で襲いかかってきたんだ。10人が棒やスパナで殴りつけてくる。そのままにしていたらやられる。おれは頭にきて、近くにあった木の棒を振り回してやったよ。五人を返り討ちにしたところで、残りの五人はわびをいれてきてな。それでケンカはおさまった。でも会社は黙っちゃいないよ。おれを含めて、11人全員がクビ。
 おれは身を守っただけだってことは、会社もわかっていたみたいだけど、体面上おれもクビにせざるを得なかったらしい。いきなり襲われて戦ったらクビなんて不運だけどしょうがねえよ。文句はいわずに辞めた。入社から11ヶ月、仕事を覚え始めたところで失業さ。
 それからは東京だ。
 最初は板橋区のガラス屋だな。これは1年もいなかったと思う。次が乳酸飲料のセールスと配達。エルミーって知ってるか。ヤクルトみたいに、小さな容器に入っているやつだ。そんなものを池袋で売っていたんだ。これも1年くらいしか続かなかった。二年近く東京で暮らしていたが、結局、御殿場に帰ってチンピラしていたよ。
■親分にほれた

 おれの運命が劇的に変わったのは、親分との出会いだった。
 その夜、おれは御殿場の盛り場で飲んでいたんだ。ほろ酔いかげんで店を出ると、1人の若い男を数人でボコボコにしている。ほら、おれは弱い者いじめは嫌いだろ。だから助けたんだ。殴っているやつらを追い払ってな。
 そうしたら「ちょっと来い」と、ヤクザ風の男がおれを呼ぶんだよ。笑いながら、手を挙げててな。何だろうと思って近づいていくと、「見てたぞ。よくやったな。いいか、強いやつには向かっていけ。弱いやつは、絶対に助けてやるんだ。これからも、そうやって生きていけ」って、ほめられたんだよ。
 それが、この後10年以上お世話になる親分だった。ほれたよ。この言葉を聞いて、この人についていこうと思ったんだ。「ウチにちょっと来い」っていわれたときは、断る理由なんてなかったね。ただただうれしかった。 それからおれは組事務所で暮らすようになった。
 起床は朝5時。夜11時の就寝まで、便所掃除、風呂掃除、組事務所の掃除なんかの雑用に追われた。電話番なんかもおれら若い衆の仕事だから、ほとんど一日中事務所につめっぱなしだよ。もちろん自分の時間なんてねえよ。それに上下関係も、仕事も厳しいんだ。おれと同じ若い衆も、つらくてどんどん辞めていった。
 カネ回りだって、仕事が厳しい割にはよくはねえよ。月の小遣いが5000円。それ以外に賭場を開いたときなんか、下足番のおれに親分衆が小遣いをくれたけどな。まあ一人、2~3000円ずつくらいだな。そんな臨時収入も入れて、月1万5000円くらいがおれの収入だ。当時、高卒の初任給が2万円に少し欠けるくらいだから、高かねえよ。
 でも、親分と姉さんにはかわいがってもらったよ。たまに「ちょっと来い」なんて、親分が呼ぶんだ。どうしたのかと思って近寄ると、「よく逃げ出さなかったな」なんてほめてくれて、「おかん(妻)には内緒だぞ」と余分に小遣いをくれたりする。姉さんは姉さんで、「親分には内緒だよ」なんて、おカネをそっと握らせてくれるんだ。おれは親分にほれているからついてきただけなのに、そこまでしてもらってうれしかった。
 こんな親分の下で働いているから、おれの兄貴も弱い者には優しかった。事務所近くで仕事のないおっさんなんかに会うと、必ず「飯食ってるのか」って聞く。満足な答えが返ってこなけりゃ、カネがなくてもごちそうしちまうんだ。店に入ってから、「カネねえから、おまえはカレーにしろ」なんて、食べるもの指定してたけどな。困っているやつがいれば、1000円しか持っていなくても500円はおごっちまう。兄貴はそんな人間だった。
 もちろん組だって素人さんに迷惑なんかかけねえよ。無理にテラ銭取ったりなんかもしなかったね。事務所近くの店で問題が起こると、必ずウチの組に連絡がくる。そしたら飛んでいって、酔っ払いを追っ払ったりするわけだよ。カネなんか要求しない。「お気持ちですから」って、店の人が包んでくれるのを、頭下げてもらってくるだけだ。もちろん安いカネでも文句はいわねえよ。
 ただし同じヤクザからは、恐れられていた。特に兄貴分とおれは、凶暴なので有名だったからな。「あそこの二人は何するかわからないから気をつけろ」って、御殿場では名が通っていたよ。そんな伝説の発端になったのが、最初に話したケンカだった。

■切れた指が飛んでいった

 けれども、乱暴ばかりしてたわけでもねえ。少年院から出所してすぐに、おれはおかん(女房)と知り合っているからな。喫茶店の手伝いをしていた娘だ。美人のうえに、優しくて、シンが強い。女優の安田道代そっくりだった。「どっから見つけてきた」なんてみんな騒いでいたけど、探しゃ、きちんといい女はいるんだよ。
 カネもなかったし、おかんも派手なことが嫌いだったから結婚式はしなかったが、籍は入れて一緒に暮らし始めた。結婚して1年もたたない20歳のころ、長男が誕生。それから24歳までに女1人、男1人の計3人の子どもを生んでくれた。いい女房だよ。
 当時のおれの仕事は、大人のおもちゃやコンドームの卸、それと借金の取り立てだ。
 卸の仕事は、ラブホテルや専門店が相手だった。ところが面白いことに、近所の奥さんがこっそりとおれの家にコンドームを買いに来ていたんだ。「コンドームを買うなんて気恥ずかしい」っていう時代だったからな。みんなグロスで買っていったんだ。うん、この商売は悪くなかったな。
 もう一つの借金の取り立ては、かえって出費がかさむこともあったな。というのもおれが相手の家にいってうなるだろ、そうするとその家のガキが泣くんだよ。ワンワン。子どもに泣かれてまで銭取りたくねえよ。逆に1万円握らせて帰ってきちまうんだ。自分も子どもがいるから、どうしても子どもの泣き顔に弱いんだな。
 事務所に戻ると、当然「どうした」って聞かれるだろ。だから「あそこはダメだ」って答えていたよ。まあ、おれがダメだっていえば、誰も文句はいわなかったけどな。
 そんな商売をしながら暮らしていたんだが、24歳のとき、ひょんなことから右手の小指をなくすことになっちまう。
 これも始まりは電話だった。
「姉さん同士がもめているから、すぐに来てくれ」っていわれたんだよ。いわれた小料理屋では、兄貴の姉さんと若頭の姉さんがつかみかからんばかりに猛烈なケンカをしていた。しかも、どこに電話しても兄貴がつかまらないんだ。こりゃ、おれがおさめるしかないよ。ところが兄貴の舎弟であるおれは、若頭の姉さんからすれば敵。
「どうやって、話をつけるんだい」。
 若頭の姉さんは、おれをにらみつけていったね。簡単にはおさまらない雰囲気だった。仕方ないから、カウンターの中に入って、若い衆に包丁とまな板を持ってくるように命令したんだ。それから調理場の床にかがみ込んで、右手の小指だけをまな板に乗せていったよ。「その包丁で、思いっきりひっぱたけ」ってな。
 ところが指なんて、簡単に切れないんだ。若い衆が一回ひっぱたいたけれど、半分くらいまでしか包丁が刺さらない。「もっと力入れろ」ってどなりつけたら、若い衆も覚悟が決まったんだろうな。それこそ力一杯振り下ろした。
 まな板に包丁が突き刺さり、小指の第二関節あたりから白い骨がのぞいた。ただ、まな板には何もなかったんだ。あんまり強く振り下ろしたから、切れた指がどっかに飛んでいっちまった。せっかく落としたのに、先がないんじゃ、元も子もない。若い衆と四つんばいになって、必死に指を探したんだ。もう一本、指を切り落とすわけにはいかないからな。結局、ずいぶん遠くで、若い衆が小指の先を見つけたよ。
「これで仲良くしてくんな」
 こう言って、店の紙ナプキンに包んだ小指を、若頭の姉さんにおれは差し出したんだ。血を吸ったナプキンは真っ赤に染まってた。右手の指先からは血が流れっぱなしだから、カウンターから姉さんのテーブルまで途切れることなく血が続いていたよ。そんな状態で、にっこり笑ってこんなことをいったもんだから2人とも驚いていたな。

■壊れた水道みたいに血が流れ

 今度怒ったのは、兄貴の姉さんだ。怒りで顔面蒼白。店の電話に走って行った。兄貴をつかまえるために、そこら中に電話をかけ始めたんだ。どうしようもないから、おれは血を流しながらニコニコ笑っていたよ。手持ちぶさたでな。
 そんなことをしているうちに、兄貴が店に飛び込んで来たんだ。まあ、近くにいたのを姉さんがつかまえたんだろうよ。
「バカ野郎、手しばれ」
 兄貴の第一声がこれだった。何しろおれの小指からは、壊れた水道みたいに血が流れて出ていたからな。兄貴も心配したんだろう。それから兄貴は、すごい血相で若頭の姉さんに向かっていったよ。奥さんとケンカした上に、子分が指切って持って来たんじゃ、若頭の姉さんも旗色が悪いよ。
 兄貴の剣幕に押されながらも、「おまえの若い衆もあくどいよ。平気で指持ってくるからね」なんて言い返していたな。こっちだって親からもらった大事な体だが、身内同士のケンカがおさまるのならば指なんかいらねえ、って思ったんだ。後から聞いたことだが、まさか指を持って来るとは若頭の姉さんも思っていなかったみてえだけどな。
 この事件の翌日、包帯に巻かれた小指を心配した息子が、「けがしたのか」って聞くんだよ。仕方ないから、「そうだ」って答えておいた。ところが数日して、包帯が取れるだろ。そしたら「父さん、指ないよ」って、息子が大騒ぎし始めたんだ。「悪いことでもしたのか」って聞かれたから、「いいや」って答えておいたけれどな。この事件では、若頭の姉さんだけじゃなく、息子も驚かせちまったな。

■死体からクソのにおい

 そしてこの年、さらに大きな事件がおれを襲うことになるんだ。今度も始まりは、事務所への電話だった。他の組員と飲み屋でもめて、応援を頼まれたんだよ。
 万が一に備えて懐にチャカ(拳銃)を、ズボンの後ろポケットに包丁を入れていった。相手は5人。またしても、つかみ合いが始まる寸前だった。おれは背広の内ポケットにあるチャカを握り、背広越しに銃口を向けて「ぶっぱなずぞ」と威嚇したんだ。これで逃げ出すと思ったんだな。だから少しずつ前に出た。
 そのとき、「来たぞ」って、後ろから声がした。振り向いたら、死角からサバイバルナイフを振り上げた男が飛び込んで来た。もはやチャカを抜いて撃つ時間などない。とっさにチャカを離して、ズボンの包丁を抜き、やつの腹に突き立てた。ナイフがおれに届く前に、やつはわき腹を割かれて絶命したよ。転がった死体からは腸が飛び出して、地面に向かってゆっくりと流れ出していた。
 知ってるか、腸はくさいんだ。死体からクソのにおいが漂ってくるんだ。
「やってしまったものは、しょうがないか」
 おれがそういうと、兄貴は笑いながらいったよ。
「くさいけど、これが腸なら食えるんじゃねえか。きっとうめーぞ」てな。
 死体を前に、笑いながら話しているおれたちを見て、相手の組の連中はバカ面さらしてボーっとしていたよ。 二回目の殺人は、求刑10年、判決9年だった。もっともおれは八年で出てこられたけれどな。とはいえ8年間も組にいないのは、長かったな。というのも荒っぽいことをやったからって、ヤクザ社会で偉くなれるとは限らねえんだよ。一番驚いたのはおれが塀の中にいる間に、ぺーぺーだったやつがいつの間にかおれより偉くなっちまったことだ。組の出所祝いで、昔は自分より下っ端だった男が、おれに向かってうなるんだから。
 もちろん、「てめえ、おれにうなるのは10年早いんだよ。てめえも10年懲役食らってみろ」って、どなりつけたけどな。それで相手は黙っちまったが、胸くそ悪いよ。兄貴も怒っていた。
 出所してしばらくしてからだ。女房の親が実の兄を殺しちまうという事件が起きた。それで、おかんも残された家族を心配していたから、女房の実家がある秩父で暮らすことに決めた。当然、ヤクザ稼業から足を洗った。 職は鉄筋屋だ。このときが一番よかった。体はきついけれども、ヤクザみたいに気を使わなくてすむし、休みの日になれば、3人の子どもと女房を車で連れ出して、長瀞でバーベキュー。楽しかった。
 当時、一つだけ心残りがあるとすれば、兄貴の死に目に会えなかったことだよ。連絡もなかったから知らなかったんだ。肝硬変で入院して、すぐ亡くなったそうだ。 それから静岡に戻って、鉄筋屋の社員5人を雇って会社を興したりもしていた。いつも食うには困らなかったよ。ホームレスになる直前も、別に何不自由ない生活を送っていたんだ。ところが自分の住んできたマンションにいたくなくなったんだ。おかんとケンカしたわけでもない。おれの勝手だよ。
 日なたぼっこして、適当に働いて、昔世話した人からおカネをもらったりして、酒かっくらって、気ままに暮らすのが楽しくなっちまったんだ。この間、息子に電話したらな。「何してる?」って聞かれたんだよ。だから「ホームレスしてる」って笑って答えておいたよ。
「おやじは何しても死なないからな」なんて息子もいいながら、先日おれに会いに来たよ。富山県からわざわざ出てきてな。それでもホームレスをやめる気にならねえんだ。
 まあ一つには、周りの連中が「敏さん、いてくんな」っていうからな。ケンカをおさめたり、堅気の人に迷惑をかけないように公園を掃除したり、子どもが遊べる公園をホームレスが占領しないように勝手に住みつくやつを追っ払ったり。そうこうしているうちに、1年が過ぎちまった。
 嫌になったら帰るよ。 (■了)

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ホームレス自らを語る/ついに残飯に手を出した・山口賢一(六四歳)

■月刊「記録」1998年1月号掲載記事

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■ほおの肉がガバッと落ち

 ホームレスになったのは、根がまじめすぎたからだ。 二七歳のとき、いきなり眠れなくなった。布団に入っても目はさえるばかり。眠れない不安が頭のなかを夜通し駆けめぐり、不安からさらに眠れなくなる。もう悪循環だ。気づいたら三日も寝ていなかった。
 知ってるかい。眠らないでいると顔がやせちまうんだ。ほおの肉がガバッと落ち、ほお骨は妙にせり上がる。もっと異様なのは目だ。落ち込んだ眼球だけがギラギラと光りだす。
 会社の同僚も、おれの異変にすぐ気づいた。「変だから、病院に行け」とね。わずか三日間で形相が一変したんだから周りも驚いたと思う。三七年も前のことなのに、自分の怪しい目つきは今でも覚えている。もちろん同じ症状に悩んでいる人の顔はすぐに見分けがつく。普通じゃあんな目つきにはなりたくてもなれないからな。
 そんな状態だったのに、おれはまだ病院に行かなかった。すると今度は布団から起き上がれなくなった。体中ダルくて力が入らない。それでも仕事は休みたくないから、壁を伝い文字通りはうようにして職場までたどり着いた。しかし会社に着いたところで、そのときやっていた肉体労働の仕事なんかできるはずもない。仕方なく病院に行ったが、医者は原因不明だという。外傷はもちろんないし、内臓にも悪い部分はなかった。最後に回されたのが精神科だった。ついた病名は神経衰弱。
 当時は精神科への偏見がひどかったからね。精神科にかかる患者は、日常生活も営めないほど気が狂っていると思われていた。だから自分以上に周りが大騒ぎをした。会社からは「すぐに休職しろ」といわれたしな。まあ、おれが暴れるとでも思ったのかもしれない。
 結局、実家から病院に通院して、療養することになったんだ。おふくろと三人の兄弟はよく面倒をみてくれた。団結した家族だったからな。
 おれたち家族は満州から引き揚げてきた。おやじが死んだのは終戦後の一九四六年。おふくろは生活力のない人だったから、帰国後に家計を支えたのは二人の兄貴だった。でも貧乏でね。弁当なんか学校に持っていけたことはなかったし、米も食えない。食べられたのは大根汁くらい。おれも中学二年に埼玉の大石村中学校を中退して、農家に奉公に出た。体が成長していない上に、ろくなものを食べてなかったから力が出ない。二〇歳まで働いたが、仕事ができるほうではなかったね。

■結婚願望と同僚との不仲

 病気とはいえ、ほぼ一三年ぶりに息子が実家で生活することになったんだから、おふくろも喜んでいたよ。よくおかゆを作ってくれてさ。おれも久しぶりに楽しかった。もっとも、病気はかなり深刻な状態が続いた。不眠症はよくならず、眠れない日々が一週間続いたこともある。何より不気味だったのは、声が聞こえることだ。部屋に一人でいるのに入れ替わり立ち替わり、いろいろな声が耳元で悪口をいう。思い過ごしだと何度もいわれたが、始終悪口を聞かされるのはつらかった。完治するまでの半年間は地獄だったよ。結局、この病気がおれの人生を変えた。
 精神病の直接の原因は結婚への願望と同僚との不仲。今考えるとたいした話ではないが、当時は純情でひたすらにまじめだったからね。耐えられなかった。
 当時で二七歳といえば、結婚適齢期。おれも切実に結婚したかった。子どもも好きだったしね。月並みないい方だが、温かい家庭がほしかったんだ。けれども収入が問題だった。
 農家での奉公のときは月給二万円。二〇歳で上京したときに運送会社の社員になり、列車のコンテナをトラックに積み替える仕事についた。これで月収は数倍に跳ね上がったが、妻子を養うには十分じゃない。
 もちろん同じくらいの給料をもらっていた同僚の中にだって結婚した者はいる。おれにも適当に女がいたし、上司の奥さんからは娘を嫁にどうかといわれていた。だが、生活の不安を度外視してまで一緒になりたいと思える女は現れなかった。結婚にまでは踏み切れなかったんだ。
 上司の娘というのは背が低くて、容姿も並み以下だった。それはいいとしても、何より働くのが嫌いな娘だった。「おれの給料では養っていけませんから」と断ったら、数ヶ月後に同じ会社のマネージャーと結婚した。おれと暮らすよりは幸せになれたんじゃないかな。おれが高望みをし過ぎたのかもしれない。そのくせ結婚できない引け目が、自分の心を追いつめていった。
 同僚との不仲は、すぐカーッとするおれの性格が災いした。殴ることはないが、腹が立つと大声でどなりつけてしまう。昔のことで理由は忘れたが、その悪い癖が出て同僚を大声でどなりつけてしまった。冷静になったときには、二人の間に大きなわだかまりができていてね。それがのどに刺さった小骨のように心を刺激し続けた。気がつけば神経衰弱だよ。
 結婚問題も同僚との不仲も、事態を改善するチャンスはいくらでもあった。ところが解決できなかった。もちろん笑い飛ばすこともできない。まじめで融通のきかない、この性格が神経衰弱の遠因だろう。性格は一朝一夕には変わらないから大変だよ。
 病気が落ち着いてから診断書を携えて会社に行くと再雇用してくれた。さらに不仲だった会社の同僚は、おれが精神科に世話になったと聞いてはれ物に触るように優しくなった。何でも、おれのことを気づかった上司が「あの人は神経の病気だから」と、社員全員に含ませておいたらしい。まあ、仕事がしやすくなったことは確かだ。
 病気の再発を心配していたわけではないが、自分の健康にいまひとつ自信が持てなくて、結婚もあきらめがついた。けれども、今でも子連れの夫婦を見ると、「病気になった時期に結婚していればな」とは思う。現在住んでいる場所が上野不忍池の脇だから、上野動物園に向かう大勢の家族連れがおれの横を通り過ぎていくんだ。やはり寂しいな。

■死体がブラブラしていた

 病気の次に訪れた人生の転機は失業だった。
 八九年一月、おれは五六歳になっていた。寒かったので卓上コンロに火をつけて暖を取ってたら、近くにあった石油に引火したんだ。すぐに気づき、布団をかぶせて消火したからボヤですんだが、社員寮で火を出せばいづらくなる。三六年働いて退職金は三三万円、積み立てていた保険を解約して一〇〇万円、合わせて一三三万円を持って寮を出た。
 とりあえず向かったのは群馬県の水上温泉だ。酷使してきた体を休めたかった。それから手配師に声をかけてもらうために浅草へ。三本立ての洋画をみて、街をうろつき出したころには日も暮れていた。手配師からはすぐに声がかかったよ。それからは飯場がおれの家になった。
 飯場では一五日ごとにおカネが入り、その現場が気にいれば滞在を更新していく。いくつかの現場をわたり歩いたけれども、最後は新宿中央公園の前にある高層ビルだった。時給八〇〇円の八時間労働で二年働いた。仕事はきついよ。多いときには一日六台もダンプカーが来て、次々に廃材を運んでいく。休むひまなんてないね。でも仕事があるうちはよかった。当たり前だが、ビルはいずれ出来上がる。そしてビルが完成したとき、おれは六〇歳の大台に乗っていた。もう手配師も仕事を紹介してはくれなくなった。
 ついに仕事がなくなったのは、上野が花見でにぎわう四月だった。最後にもらった五~六万円で映画をみたり、食事をしたりしたが、四日後には使い果たした。手配師のところにも何度か通ったが、どうしても仕事をくれない。そのうち腹も減ってきて、ついに残飯に手を出したんだ。
 JR上野駅近くに狙いを定め、居酒屋が出したゴミ袋を開けた。その白いゴミ袋の中には、焼き鳥や唐揚げがどっさりつまっていた。袋の中に手を入れ、焼き鳥の串をそっとつまみ上げた。腐った臭いもしないし、見た目もきれい。思い切って口に入れたよ。もちろん冷めていたけど、これが飯場の飯より全然うまいんだ。料理屋のだから当たり前だよな。
 こりゃいいやと思ったね。働かなくてこんなにうまいものが食えるならば、仕事がもらえないとクサることもない。しかも、連日花見客でにぎわっていた時期だったから、花見客が残した弁当が豊富にあるし、ウイスキーの飲み残しも手に入って、毎日楽しいくらいだった。
 普段だって夜の街を巡れば、食いきれないほどの飯があるものだ。おれが通っているそば屋なんか、午前二時の閉店とともに温かいご飯を捨てる。これがまたうまい。食べきれないときは、塩をふって握り飯にして持ち帰るようにしている。
 ホームレスになって、ずいぶんと身を持ち崩したなと思う。職を失ってからは実家にも帰っていない。兄弟は皆、家を建てるくらい成功しているのに、自分はなんてみじめなんだと思うことはあるよ。でも自殺しようなんて思ったことはない。神経衰弱のときだって、死にたいとは思わなかった。
 ここ二年の間にも、上野でサラリーマン二人が自殺している。どちらも首つりだ。不忍池のほとりにある柳の木と、上野公園の斜面に生えている木だ。池のほとりの死体は、おれの知り合いがぶら下がっているのを見た。夏の朝四時ごろ、朝焼けに照らされた中年の死体がブラブラしていた。靴の先が水面につきそうなほど柳の木がしなって、寂しい光景だったそうだ。うわさ話によると、失業に悲観しての自殺らしいということだった。
 生きていれば、たまには楽しいこともある。酔っ払いが「頑張れよ」なんていって、カネをくれたりな。そんなカネで焼酎を飲むと、これがうまいんだ。励まされると生きる元気もわいてくるよ。
 人間は生きるために生まれてきたんだから、おれも胸を張って生き続ける。みじめと感じることもあるが、恥じることは何もしていない。いつか寒さに負けて、自然に死ぬだろう。その日まではおれは生きていく。 (■了)

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だいじょうぶよ・神山眞/第4回 濃密な二人の時間

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事

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 正利を殴ることに成功し、保母達全員に認められた僕は、施設の職員として温かく迎えられた。
 しかしホッと胸をなで降ろしたのもつかの間、この事件をきっかけに、待ってました! とばかりにぼくの指導方法には抜本的なメスが入れられることになった。それらは大きく分けると以下の二つに分類される。

■子どものために休日は使うべし

 一つ、子ども達とは友達のような関係になるべからず。
 私達ははじめに教育者である。教育者は子ども達に、大人と子どもの立場の違いをはっきりと教えなければならない。なぜならば、昨今の子どもは大人を大人と思っていない傾向にあるからである。自分の親を名前で呼び捨てにし、学校の先生をあだ名で呼ぶ。そんな家庭や学校に秩序は成り立たず、やがて荒廃する。
 それは施設においても同様。あだ名で呼ばせる施設、お姉さん、お兄さんと呼ばせる施設。これらは確かに存在するが、当施設においては「先生」という呼び名で統一する。
 かくいうぼくは子ども達に「マッチョ」というあだ名で呼ばれていた。スポーツクラブに勤めていたことのあるぼくの体は、子ども達の目からは、かなりの筋肉質に見えたらしく、入園当初から、そんなあだ名がつけられていたのである。
  「マッチョ、マッチョ」とぼくの周りには常に子どもが群がり、(なんだか金八先生のエンディングみたいだなぁ)などと一人で悦に入っていたが、その幻想もここに終焉を告げた。

 二つ、休日のうちの何日かは子どものために割くべし。
 理由はいっぱいあったがすっかり忘れた。とにかく子どもに「ぼくには先生がついている」という意識を植えつけさせるのが目的だ。休日に集団を離れ、担当の先生と映画に行く、食事に行く、特別なことをして特定の人と過ごす。子どもとの信頼関係はこれにつきる…らしい……。
 当初、ぼくには休みを子どもと過ごすことが、しんどくてしょうがなかった。しかし保母達ときたら本当によくやるのである。自分の部屋に泊める者、ディズニーランドに行く者、はたまた旅行に行く者。毎週末になると誰かしらが子どもとそのようなことをしていた。
  「今月は子ども達のために二万円も自腹切っちゃったわよ」
  「私もです。学園から少しでもお金が出ると楽なんですけどねぇ」
 そんな会話を聞くと、すごいなぁという畏敬の念と同時に、何を張り合っているんだろうとばかばかしく思う気持ちがぼくのなかでごちゃまぜになった。しかし、郷に入れば郷に従えである。ぼくの子ども達と過ごす時間も雪だるま式に増えていった。特に正利との時間は、「濃密」という表現でしか表せないほど濃密なものとなっていった。

■交換日記が心を開かせ…

 ぼくは良江先生の勧めで、正利と交換日記を始めていた。あいつは学校であった嫌なことをほとんど口にしないし、昔のことも全く話さない。そこで交換日記でもやれば、あいつの悩みを聞き出せるのではないかと期待したのだ。しかし、一週間が過ぎても一ヶ月が経っても、内容はほとんどドラゴンボールの絵が描きなぐられているだけだった。
  (どうして…なぜなんだ……)隅から隅までドラゴンボールの絵が描かれているノートを前にぼくはつぶやいた。しかもお世辞にもうまいとはいえない。どうみてもこれは小学校低学年生の絵である。
 結局、これでは悩みなどわかるはずもなく、わかったのはあいつの知的レベルぐらいなものだった。
 最初はまじめに正利への語りかけなどを書いみていたものの、ぼくもだんだん面倒臭くなって、途中からまともに書くことは諦めた。どうせあいつも毎日ほとんど同じ絵なんだからと、ついにはぼくもほとんど同じ文にした。「もえろ正利! もえてくれ正利! もえて、ねんしょうして、ばくはつするんだ正利!! あーっ!!」といった具合にでっかい字でノートの端から端に毎日記したのである。
 するとどうしたものか、あいつはそれを大変おもしろがってくれた。
  「せんせ、せんせはもえることすきなの? おれもすきだよ」と、あいつは急速にぼくにうち解けてきたのだ。しめた! という思いとゲッという気持ちが同時にぼくの胸に去来した。夏休みも間近にせまった七月頃のことであった。それでもまだぼくは、臭くて汚くて反応の鈍いあいつのことが、あまり好きにはなれなかった。

■好いてくれるとわかっちゃいるが

「先生、正利がきてるよ」
 まただ。進路について相談にのっていた高校生に促され後ろを振り向くと、あいつが口を半開きにし、焦点の定まらない目でぼくをじーっとみている。
「おー、どうした正利」
「なんでもない」
「なんでもないならそこにつったってんなよ。薄気味悪いだろ」
 うち解けたとはいえ、こうまで行くところ行くところについて来られると仕事にならない。正利以外にも、ぼくの担当する子どもは三人いるのである。
 少し前に高校の水泳部を辞めていた正利は、時間をもてあますことが多くなっていた。同学年の中学生からは相手にされず、小学生のチビ達と遊ぶにもさすがに限度がある。あいつにはあいつの事情があってぼくを追いかけ回しているのもわからなくもない。
 そこでぼくは二つの提案をした。一つはぼくの学園における雑用を手伝ってもらうこと。もう一つは夏休みに入ったら、学園の水泳部に入ることだった。
 学園での仕事にはさまざまなものがあるが、その一つに洗濯があった。中学生以上は、自分ものは自分で洗濯する決まりなのだが、小学生の洗濯は指導員と保母が手分けしてやっていた。育ち盛りの子ども達の衣服は泥だらけで、しかもその量は半端ではない。ぼくはこの、単純作業のワリには時間のかかる洗濯を正利に手伝ってもらうことにした。すると思った以上に学園におけるぼくの自由時間は急増し、その分をさらに正利に費やすことになった。
 釣り、ボーリング、カラオケなど、たくさんの遊びをしたが、あいつがなかでも一番喜んだのは、ぼくのアパートへ泊まりに来ることだった。そして、泊まりに来るたびにあいつは一晩中テレビゲームをやっていた。
 夜中目を開けると、独り言をブツブツ言いながらゲームに興じる背中が揺れている。それを見るのはあまり気持ちのいいものではなかったが、仕方のないことだった。なにせ学園の小遣いは1ヵ月2500円。ゲームセンターにでも行けばすぐに消えてしまう。おまけに学園にあるファミコンを使ったゲームは、日曜日の午後しかできない規則があった。お金を盗んでまでゲームをしたいというあいつの欲望は、収まりがつくはずなかったのである。
 ぼくの手伝いをする=アパートへ遊びに来られる=ゲームができる、と、あいつの頭の中では直結したらしく、しばらくは随分と手伝いに精を出してくれた。
 「せんせ、せんせ、なにかてつだうことある」
  「あー、そこの洗濯物干しておいて」ことのほかつっけんどんにあいつに指示すると、あいつは手足をバタバタさせて「オッケー」と言い洗濯物を干した。次々に面倒くさそうな雑用を頼むと、あいつはめずらしく満足そうに「せんせもたいへんだね。おれ、せんせのきもちわかるよ」と言うのだった。
 手伝ってくれるのはありがたいし、あいつが好いてくれているのもわかってはいた。だが、それでもまだぼくはあいつのことが好きになれなかった。近づけば近づくほどイライラしてしまう自分の感情をコントロールするのが難しい。ぼくの正利に対する感情は、完全に真っ二つに二分されてしまっていた。 (■つづく)

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保健室の片隅で・池内直美/第六回 カラダを売るのは誰のせい?

■月刊「記録」1998年6月号掲載記事

*        *        *

 友達だけは軽蔑しまいと心に誓った。友達ができるようになって、たくさんの仲間に囲まれて過ごす日々のなかで、そう心に決めた。
 あれから3年……。
 私には娼婦だった友達がいる。彼女はいつの間にか妊娠して、子どもを産んだ。みんなに子どもをおろすお金をもらったけれど、それを使い込んで結局おろせなかったという。
 それでも今は、幸せだといっているから、私はそれでもいいと思う。子どもにたくさんの愛情を与えてあげてほしいと思う。

■身体を売らないでお金もらえるし。

 中学の頃の同級生たちが、普通の高校へ行くにつれて、援助交際という言葉が、私の周囲でも聞かれるようになった。
 なかに「お金には代えられないよ」と言う友達がいた。彼女は一生懸命、私に言い聞かせるので、私もうなずいておいた。でも、心のどこかでは、自分だけはそんなことはしたくないと思った。
 べつの友達は、「はじめてのセックスは、テレクラで知り合った人とした。私の身体が五万円だなんて、高いと思ったわ」といっていた。彼女の心が、どれほど安いものかと感じたのを覚えている。
 同じ彼女に、ある時、いわれた。
「ちょっと聞いてよ、最近バイトしてるんだけど、もう最悪のところで働いてるの」
「何やってんの? ソープとか」と私は冗談で聞いたのに、彼女は真面目に答えた。
「違う違う、ピンサロ」。あっけらかんと話す彼女に、私はピンサロとはなんなのかを聞いた。風俗関係の仕事だとは思っていたけれども、内容を聞いた私は、はじめて人を、友達を軽蔑した。
 (最悪だ……)
 その時、私は、「娼婦のほうがまだいい。ソープのほうがまだマシ。援助交際の子のほうがまだ救える」と思った。なぜなら、彼女の考え方が、とても気に入らなかったから。
 「始めたばかりの頃はさ、私何やってんだろう? とか、もう辞めようって思ったんだけど、最近は楽しいんだよね。身体売らなくていいし、彼氏にバレないし、お金入るし、お酒飲めるし。でもやっぱり、家に帰る途中とかは、何してるんだろうって思うよ」
 そんな話を、自分の友達から聞くことになるなんて、あまりにも情けなかった。
 お金がほしくて、援助交際する女の子のほうが、もちろんそれは最悪の選択だし違法なことだけれども、身体とお金の間で商売を成り立たせている分だけ、まだ猶予の余地があるような気がする。きっと彼女たちは、いつか自分のしたことを思い返して傷つくはずで、そうやって傷つくことで、気づくことができるから。
 でも、私の友達は楽しんでいる。お金をほしがっているわけでもなく、身体で商売をしているわけでもない。お金をもらって、ぜんぜん傷つかずにお客さんと遊べてラッキー、と思っているのだ。そこが私には、情けなかった。
 偶然そんな話を聞いたのと同じ頃、某通信高校のサポート校になっている高校で入学式に出席した。通信高校についての話をしてほしいと頼まれ、オンボロスピーチをしに行ったのだ。そこでこんな話をした。
 ルーズソックスをはいた女子高校生やピアスに化粧の男子高校生が、現代っ子と言われて認められているのと同じように、学校へ通学するというふつうの道からはずれて、不登校を選ぶようになってしまった子どもたちもまた、現代っ子だ。
 何があたり前で、何があたり前じゃないのか、そんな基準はなくなっているのだから、大勢の人たちと異なる生活をしていても、おかしくはないはず。それぞれの場所で、自分らしく生きることが大切だ、と。
 でもその後で、援助交際をしている友人、平気でピンサロで自分を安売りし、何も感じていない友人のことを思い出した。彼らもまた、いわゆる現代っ子と呼ばれる人種だ。不登校を選ぶようになってしまった私と援助交際している彼女たち。こんなにバラバラな現代っ子だけど、何か共通点はないのだろうか。もしかして、私たちを生み出した親のほうに、共通点はないのだろうかと。
■何が私たちを結んでいるのか

 最近、私のところにたくさんの相談が寄せられるようになり、きちんと考えたら悩んでしまいそうなので避けてきた、AC(アダルト・チルドレン)に関する本も読まないわけにはいかなくなった。何冊か買ったついでに、ある一冊の本を手に取った。
 それは『日本一醜い親への手紙』(メディアワークス)。名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。これは全国から原稿を募集し、寄せられた応募作品をもとに作られた本だ。私も原稿募集の記事を読んだことがあり、送ろうかどうしようか悩んだことがある。結局送らなかったが、どういった内容の手紙が送られてきていたのか気になって買った。
 内容はとにかく強烈だった。一ページごとに心を引っかきまわされた。自分の過去を思い出したり、比較してなげいたり、それでも自分のほうが幸せだったと感じたり。とにかく自分に照らし合わせ始めると、考えさせられることが多く、きりがなかった。
 ところで、読み進むうちに気づいたことがあった。それは、ちょうど10年くらい前の出来事を題材に書いている人が多いということだ。ちなみに発刊は1997年11月で読んだのは翌年だった。当時、私の10年前は、いったい何があっただろうと考えた。10年前。ちょうど今の家に引っ越してきて、塾やお稽古事をたくさん始めた頃だ……。
 同じ頃、日本の経済はバブル崩壊寸前の、戦後を生きてきた親たちが、夢に見た世界があったらしい。私には、バブルというのはよくわからない。まだ子どもだったし、気がつくと「バブル崩壊」という言葉だけが耳に残っていただけだ。
 思い出せることは、コンビニエンスストアがそこらじゅうにできたり、テレビゲームが登場して、ミニ四駆やリカちゃん人形などを、みんなたくさん持っていたこと。だけどピアノやそろばん、塾やスポーツチームに通う子がほとんどで、あまり大勢で集まって、ワイワイ遊んだ記憶はないということ。誰もが時間に区切られて生活していたし、小学生でもみんな腕時計をしていた。
 そう。みんなリッチで忙しかった。親も、それだけ必死に働いていたのだろうと思う。
 ちょうど小学生から中学生くらいの子どもをもつ父親は、まさに働き盛りで、家に帰れなかったり、単身赴任を余儀なくされることも多いのだと聞く。バブルの頃は、なおさらだったと聞いた。
 私の父も、例外ではなかった。先日、父と二人で小料理屋に行った時、はじめて父とゆっくり話をした。
「お父さん、ずーっと単身赴任だったじゃん、あの頃、父親参観にお父さんが来てくれなかったこと、やっぱり悲しかったよ」
「そうか。でもお父さんの会社のなかで、お父さんほど単身赴任の期間が短い人はいないよ。それなりにがんばったんだ。許してくれないか」と父はいった。
 父が実際に家を空けていた期間は、たったの五ヶ月間だったという。でも、私のなかでは、三年くらいの感覚として残っている。それくらい子どもにとって、父のいない家庭の時間は長かったのだ。

■親の不在が現代っ子の特徴

 最近騒がれている「父性の復権」について。子どもの側から意見をいうならば、いきなり復権しようとしても難しいですよ、ということだ。
 父親は単身赴任で、母親はパートに出る。家は核家族で、昼間は子どもしかいなくて、お腹がすけば、コンビニで何か買って食べる。誰もいない家に帰って、コンビニで買ってきたお弁当を食べて、そのまま塾に行って、帰ってきたらお母さんに勉強しろといわれて・・・・。子どもの心は、寂しさで凍えそうだった。いつも、一人ぼっちだったのだ。
 援助交際する女子高生が、『日本一醜い親への手紙』のなかで、自分の父親と、自分の援助交際のパパを比べていた。やさしいパパがほしかったという彼女は、ただ相手をしてくれるお父さんがほしかっただけなのではないか。
 拒食症の子が、太ることがこわいといって心の傷を隠すように、援助交際をする子は、お金がほしいからといって寂しさをまぎらわしている。本当はお父さんにそばにいてほしいのに、自分をしっかり支えてくれる力強い手がほしいだけなのに、それを伝える手段を見つけられずに、間違った行動をとっている。援助交際は、ファザコン現象だ。
 時に怒ってくれる、時にほめてくれる、凍えそうな心を、しっかり包んでくれるお父さんを、彼女たちは探しているだけだったのではないか。
 そうして手を伸ばしても、いつも裏切られ、寂しい思いをしてきた子どもが、バブルが崩壊して、残業が減って、単身赴任から帰ってきたお父さんに、急に話しかけられたからといって、簡単に心を開けるわけがない。気づかないうちにできてしまった溝は、思っているほど小さくはないのだから。
 わが家は父が厳しくて、まるで昔の茶の間のような雰囲気がいつも家中にただよっていたから、母は働きに出てもお昼すぎには帰ってきていた。だけど、父の欠点は、子育てを母任せにしているように見えるところだった。父は父なりにがんばって、家庭に参加していたのかもしれないけど、私には、家にお金さえ入れれば文句はないだろうと、考えているようにしか見えないところがあった。
「親がなくても子が育つ」という言葉がある。もともとは、親が心配するほど子どもは弱いものじゃない、という意味の言葉だ。それは、親が十分に子どもの面倒をみられなくても、学校の先生や近所の人々が手を貸し合って子どもを育てていくことができた時代に生まれた言葉だ。だけど、公務員は安定職だからという理由で、職業を選んだ教師がいる学校に、生徒の一人一人に目をかける余裕のある先生などほとんどいない。
 また、プライバシーという言葉を強調するようになった世の中に、隣の家の子どもを心から心配し、叱ってくれるご近所様もほとんど見あたらない。今の世の中で、「親がなければ子は一人ぼっち」だ。
 子どもが寂しがっていることに気づけない親の子が、援助交際をしていても不思議はないような気がする。学校から帰っても話をする相手もいなくて、また、たとえ学校に行っても先生は子どもを仕事の道具としてしか見ていない。その孤独感に、学校へ行く行為そのものを報われないと感じ、不登校を選んでしまう子の気持ちもよくわかる。そこが、私たち現代っ子の共通項なのかもしれない。
 父親と母親に、子どもと家庭を省みる余裕がなくなったのは、やっぱりあの、バブルの時代のせいなのだろうか……。 (■つづく)

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