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ホームレス自らを語る/暴力から逃れて・岡山滋さん(66歳)

■月刊「記録」2002年2月、3月号掲載記事

*         *         *

■社長が覚せい剤で捕まった

 雨の日でね。社長が帰ってきて「おつかれー」と声をかけたら、愚痴が始まったの。あー、くるなーと思っていたら、「俺を誰だと思ってるんだー」って。だから「社長だろ。社長なら社長らしくしろ」と言ったの。それが頭に来たみたいだよ。
 テーブルをバーンとひっくり返して、そのあとペットボトルに入った4リットルの焼酎を、台所でジャージャー流し始めたの。「酒だってタダじゃないんだよ」って言ったら、社長の目が変わってさ。これは危ないかなと思って、「外に出るよ」と一声かけて玄関を開けてたら、後からドンとけられたんだ。あとは記憶なし。アパートの二階から階段の下まで転がり落ちて、2日間意識不明だったから。救急車で病院に運ばれて、10日間も入院したんだ。それで「おまえと一緒にいたら殺されるから」って言って、家を出たんですよ。
 ホームレスになる前は、解体屋(バラシ)で働いていたの。
 バラシっていうのはね、建築現場でコンクリートを流し込む枠を作って、コンクリ打ったあとに枠をばらす仕事。知ってる? 4メートルのパネルを85枚ぐらい使うのが普通かな。いや、安全な仕事だよ。過去一回だけ、4メートルのパネルを押えていたパイプが、メリメリ、バーンって音を立てて曲がってね。コンクリが、そこいら中にあふれ出たこともあったんだ。でも、そんなことは滅多にないの。
 ただ不景気で単価は下がっているみたいだけどね。高いときで一平方メートル1200円だったのが、800円ぐらいまで下がっているらしいから。職人の値段も、1万8000円が1万4000円になったって聞いたよ。
 勤めていた会社は、だいたい20人ぐらいの従業員が働いてたの。フィリピンや中国、韓国の人なんかも多かったかな。解体そのものはもちろん、職人さんのご飯や弁当を作るのも俺の仕事。
 バラシの仕事は、嫌いじゃないよ。酒を飲まなければ、社長も優しいし。いや、シラフはおとなしい人なんだよ。ただ、酒を飲むとガラッと変わるんですよ。すぐ殴ったり、けったり、物を投げたりするの。上の歯なんか、殴られて八本も抜いているからさ。そのときは貧血を起こして倒れたんですよ。めがねは3回壊されたし。
 社長が暴力を振るうたびに、俺は家を出ちゃうんだ(笑)。でも翌日になると、心配になるの。ご飯を食べたかなとか、洗濯はしたかなとか。貧乏性だね。酔いがさめれば、「もう暴力は振るわない」と社長も言うんですよ。根は悪い人ではないし。でも飲むとね、ダメ。
 俺よりも10以上歳下だったけれど、仕事ではできたと思いますよ。社員を連れて、毎年、沖縄にも行っていたし。そういえば沖縄でお金が足りなくなって、親会社に電話して100万円送ってもらったこともあったね(笑)。
 俺は、よく海外に連れていってもらった。ほらパスポートもあるでしょ。自分で行ったのも入っているけれど、香港、フィリピン、グアムでしょ。サイパンは4、5回行ったかな。
 もともと酒ぐせは悪い人だったけれど、俺が意識不明になるほど荒れた原因は覚せい剤で捕まったことなんですよ。不景気な上に、信用を失ったから仕事がこない。それで荒れたの。
 昨年の11月末、いきなり8人の刑事が自宅に来たの。覚せい剤の捜索だって。そうしたら社長のベッドの下から、銀紙に包まれた薬と注射器が見つかったんですよ。俺とは部屋が違うし、社長が覚せい剤をやっているなんて思いもしなかった。
 でも、大変だったのはそのあとでさ。俺は給料をもらっていなかったから。いや、本当ですよ。1円ももらっていないんだから。解体屋の仕事を始めてからね。もちろん若い衆には、給料が支払われていたけれどね。ほら、俺は食事を担当していたから、米なんかがなくなると、食費としてお金をもらっていたんです。
 いきなり社長が捕まったら、自分の金がないんですよ。取引先からお金が振り込まれるまでの一ヶ月間、食うや食わずでした。金がなきゃ、どうしようもないでしょ。大家さんが持ってきてくれるご飯でしのいだりして。指輪を三つ、それに時計を質屋に入れたよ。やっぱり食べ物がないと、本当にみじめな気持ちになるんだよね。
 もう、お金には執着はないの。ただ寂しいよね。一生懸命働いて、何も残らないなんて。1ヶ月の食費もないんだから。
 11月末に捕まって、12月いっぱい留置所にいたのかな。今年1月に姉さんが沖縄から出て来て、200万円の保釈金を支払ったらしいんだ。けど、いまはそのお姉さんが覚せい剤を使って刑務所にいるっていうんだから。

■アイロンを持つのをやめた

 故郷は新潟県。母親は、小学校を上がる前に満州(中国東北部)に行っちゃったの。子どもを置いてね。だから五つまでは、母親の妹に預けられた。それから姉さんが結婚して、その家で俺を育ててくれたの。
 母親? 戦後、子どもを一人おぶって、乞食みたいな格好で帰ってきたよ。とてもお袋だと思えなかった。女一人で満州に行って、大変だったとは思うんですよ。でも、目の前に現れてもお袋と思えないし、何より嫌いだったから。いまでも思い出すのが嫌なんだ。
 大人になってから、一緒に暮らそうと言われたこともあったんですよ。上野駅まで迎えに来てくれて、俺も切符を渡されて、列車には乗ったの。でも「トイレに行くから」と席を立って、もう戻らなかった。切符はもらったけれども、一緒に帰る気なんてなかったんだ。
 俺を育ててくれた姉さんは、優しかったよ。でも姉さんのおやじ(夫)は酒乱でね。小学生2、3年のころかな。吹雪の中、どぶろくを買いに行かされたことがあったよ。新潟の雪だからね。歩いているうちに、足の感覚がなくなっちゃうんだ。本気でおやじをぶっ殺してやろうと思ったよ。
 姉さんは美容院をやっていた。中学校を卒業して、店に入ることも勧められたけどね。男が女の髪なんかいじれるか、と思ったんですよ。それで洗濯屋に奉公に行ったの。おばあちゃんの竹馬の友が、東京の上高井戸で店をやっていたから。
 当時、上高井戸の駅(現在の芦花公園駅)なんか、商店が三軒しかなかったんだから。近くに明治大と日大はあったけどさ。冬の配達が大変でね。朝は凍っているからいいの。日が昇ってくると、地面が溶けてくるでしょ。そうするとチェーンに泥がつまって、走れなくなっちゃったんだから。ほら、当時は道も舗装されていなかったからね。「こりゃ、新潟より田舎だね」なんて思ったもの。あの周辺の土地もまだ安くてさ。仕送りを貯めた学生が、卒業までに土地を買ったなんて話も聞いたよ。
 お客さんにはかわいがられました。お盆やお正月には、新しいズボンや靴下、下着もくれたりしたから。自分で買ったことなんてありません。
 一通り仕事ができるようになったから、八年間で奉公を終えてね。田舎に帰ったの。姉弟が洗濯屋を開くために資金を出してくれるという話もあったの。アイロン一丁あれば、店を出せるからね。でもやめたんだ。機械をそろえないとお客さんが出してくれない時代になってきたから。もう、洗濯屋の時代じゃなくなったの。それから3年ぐらいは、アイロン職人としてクリーニングの工場で働いていたんですよ。
 でも、その3年できっぱりとアイロンを持つのをやめました。工場を辞めて以来、一度もアイロンでかせいでいないから。たとえ失敗しても、自分で選んだ結果なら満足できるでしょ。
 それで川崎の会社に就職してゴム製品を袋詰めしていました。でも、俺はゴムのにおいがダメだった。シンナーや車の排気ガスのにおいもダメなんですよ。体質かな。だから辞めたの。

■俺の青春時代かな

 それから一時期、実家に帰っていたんだけれど、また川崎に入社試験を受けに来たの。その一つの大手鉄鋼会社は、実家からの交通費も出してくれてね。二社を受けて両方とも受かったんです。結局その会社に決めましたよ。その会社は当時、バレーボールの全日本クラスが何人もいてね。職場も活気があったからさ。もう一社の方も「明日から働いてくれ」とまで言われたんだから。
 そこに勤めていたときに、結婚もしました。
 30歳を過ぎて、職場の先輩から言われたの。「俺は1年間おまえを見てきた。おまえなら安心だから、俺の妹を紹介しよう」って。
 あの当時、結婚しないとうるさかったんですよ。先輩の顔を立てる気持ちもあって、紹介されてからすぐに結婚しました。東京の蒲田で式を挙げてね。でも、結婚式は大変だった。風邪をひいて熱が出て、式が始まるまでは控え室でウンウンうなっていたんだから(笑)。
 女の実家から「家をやる」なんて言われたけど、「いりません」って断って、蒲田のアパートに住み始めたんですよ。でもね、結婚生活はひどかった。
 まず料理のできない人だったの。仕事を終えて家に帰っても、食事のしたくはできてない。俺が作るんだから。あと友だちを連れて来ても出前を頼むわけ。お寿司とか中華とか。ごはんも炊けなかったからね。いや、米のとぎ方から俺も教えたよ。でもやらないんですよ。やっぱり帰ってきても張り合いがないの。味噌汁ぐらい作れると思っていたからね。
 そのうちに、「昼間つまらないから、明日から働きに行きます」って、いきなり言われたの。突然だよ。それでギクシャクして、ひっぱたいたんだ。男にもがまんの限度があるからね。女は実家に帰っちゃって。しばらくして仲人に相談したの。そうしたら「ほっとけ。あのわがまま娘」なんて言われてさ(笑)。そのまま離婚。やっぱり結婚は、愛情がなきゃダメだよ。
 結婚生活はよくなかったけれど、仕事はすごく楽しかった。鉄板を作っていたの。これが面白くてさ。まず六角形か八角形にレンガを積むんですよ。それを枠にして、溶岩みたいに溶けた鉄を注ぎ込むの。滑車を使って溶鉱炉から出された鉄は真っ赤でさ。ゆっくりと枠の中を流れていくの。離れていても熱風に包まれて、じっとしていられないんだよね。
 床はかなり高温だからね。もちろんゴム底の靴なんてダメ。辞める前は革靴になったけれど、入社したころは下駄だよ、下駄。熱で下駄の歯がブスブスといぶり始めるんだ。仕事している間は、水を飲んじゃいけないの。よけいに汗が出るから。服が塩で真っ白になるほどね。のどが渇いたら頭痛薬ぐらいの大きさの塩の固まりを口に含むんですよ。
 鉄を注ぎ終わったら冷ます。水をかけてね。少し冷えたら枠を抜いて、滑車で鉄板を引き上げる。まだ赤い鉄がゆっくりと立ち上がって、それとともに熱風が頬に当たってね。あー男でよかったなー、この仕事につけてよかったと思うんだ。
 一緒に仕事をしている仲間も豪快でさ。昼休みに酒を飲んで、そのまま働く人もいたから。俺の青春時代かな。
 そういえばこの頃は服も買いましたよ。洗濯屋で生地の良し悪しを見分けられるようになっていたから、高級な服を選んで買い込んで。当時から赤いセーターを着たりしていたから、「男のくせに、おまえはおかしい」なんて言われました。ブレザーを10着ほど作って、毎日、違う服を着ていくようにしていたし、はやっていたVAN(当時、若者に人気のあったファッションブランド)もずいぶんと買った。

■腰の検査でぢになった

 でも、腰を悪くして会社を辞めたの。辞める3年前だから37歳ぐらいかな。いきなり足が動かなくなったんです。下に大家さんが住んでいたから大声で呼んでさ。救急車で病院に運んでもらったんだ。
 しばらくは腰を引っ張ったり温めたりしたけれど、よくならなくて。精密検査をすることになったの。まず腰に注射を打とうとしたけれど、腰に針が入らない。仕方ないから機械で刺すことになったんだ。俺は機械にかけられて、医者はガラス張りの外から観察しているんだよ。
 うつ伏せで腰に針が入ったとき、機械が「ハイリマシタ」とか言うの(笑)。機械は否応なしでしょう。痛いのにグーッと針を入れてきたから、俺は「うっ」と言ったきり言葉にならなくて、ぢになっちゃった。おかげで腰より先にケツを切ることになったんだ。
 検査結果は重度の椎間板ヘルニア。もう骨と骨の間がつぶれていて、そこにプラスチックを入れなくちゃならなかったんですから。執刀してくれたのは、日本でも三本の指に入るヘルニアの専門医でした。手術は10時間ぐらいかかったかな。でも、もっと長かったのが入院。一年も病院にいたから。腰を動かせないから、ほぼ寝たきりですよ。もちろん便所も行けないよ。
 あのころは看護婦さんは純情だったからね。尿瓶でおしっこを取るときは、廊下でじゃんけんしてたよ。負けた子が下向いて入ってくるんだから。俺の病室は、ほとんどがヘルニアだったけれど、1ヶ月ぐらいで退院していく人も多かったよ。やっぱり俺は重症だったんだろうな。会社には感謝している。一年も働けないのに、ボーナスも給料もくれたからね。
 やっと会社に戻ると、元の職場には俺の代わりが入っているじゃない。だから最初は掃除部で洗濯とかしていたの。また溶鉱炉の近くに戻りたくてさ。「昔の部署に戻してください」って、会社に頼み込みましたよ。
 何でかね。魅力だよね。仕事の。血がたぎるというかね。女じゃできない、男の仕事だなーって。三ヶ月ぐらいあとかな、やっと元の部署に戻れてさ。友だちに「大丈夫か」と聞かれて答えたんですよ。「大丈夫」って。 でも半年後に、またおかしいの。右足がしびれてきて。これは一回目の症状と同じだな、と思ったんです。病院で検査を受けたら、医者からは「また影が出ているな」と言われたの。それで再入院。
 そのとき男友だちの彼女が、部屋をたまに貸してくれないかと頼みにきたんですよ。こっちも長期入院になるから、別に使わないでしょ。大家さんに、たまに友だちの彼女が訪ねてくるからと断って、カギを渡したんですよ。
 でね、その女が子どもを抱いて、入院中の俺を訪ねてきたの。「友だちから預かったんだ」って子どもを見せてくれた、まだ、へその緒が付いているじゃない。「猫の子どもじゃなし、早く戻してきなさい。生まれたばかりの子どもを預かるなんて、死んだらどうするつもりだ」と、叱りつけたんだよ。看護婦さんからは、「滋さんの子ども?」とか聞かれたから、「冗談じゃない。俺はチョンガー(独身)だ」って答えておいたけれどさ。
「どうしたらいいのかわからない」と彼女が言うから、「とりあえず市役所に行って赤ちゃんを預かってもらってから、友だちを探せ」と指示を出したんだよな。
 それ以来、彼女も俺を訪ねてこなかったし、正直、あまり気にもとめていなかったんだ。そもそも友だちの彼女というだけで、あまり親しい関係でもなかったからね。

■血だらけの敷布

 結局、俺は8ヶ月ぐらい入院していたかな。久しぶりに家に帰って、部屋に入って驚いたよ。まず目に飛び込んできたのは、ぐちゃぐちゃの布団と敷布、そして座布団カバー。部屋に入って敷布を広げたら、血で真っ黒に汚れていたの。唐紙の開いた押し入れには、血だけのシーツが丸めてあるし。台所は汚れた食器が山積み。
 最初、何が起こったのかわからなかったの。でも部屋を見ているうちにピンときた。ここで生んだのかって。押し入れには糞や小便で汚れたタオルやバスタオルが積み上げてあったから、おしめ代わりに使ったんだろうとね。病院に連れてきたのは、自分の子どもだったんだよ。妊娠に気がついて、一人で生むために俺の部屋を使ったんだろう。
 とりあえず警察を呼んで、彼女の行方を追ったけれども、役所に子どもを置いて消えていることがわかっただけ。男友だちも消息不明になっちゃったし。大家さんには、「変な人を部屋に入れないでくれよ」とどなられるし、近所の店にはツケを置いてくし。「あんまり人に心を許しちゃだめだよ」と大家さんにも言われたけれど、これには懲りたよ。
 気持ち悪くて寝泊まりできないから、大家さんに「いろんなものを捨ててくださいよ」と頼んで、しばらく友だちの家に泊まっていたんだから。それから一時期は、女が怖くなって女嫌いになっちゃったからね。
 子どもは施設に預けられたらしいけれども、いまはいい歳になっているはずですよ。二五ぐらいになっているんじゃないかな。
 俺はといえば、病院を退院してから会社を辞めたの。たった八年間に二度も入院して、給料までもらって。申し訳なくてね。姉ちゃんなんかは、「なんで辞めるの」なんて言ってたけれど、俺には堪えられなかったんだ。 会社を辞めたときがちょうど40歳前。150万円も退職金をもらえました。その後しばらくは、グアムに行ったりして遊んでいたんだけれど、人間って遊んでいても疲れるんですよ。何をするでもなく遊んでいると、本当に疲れるの。気も使うしね。人のことばっかり気になって、自由じゃない気がするの。
 そんなときに社長と会ったんです。コーヒーを飲んでいるとき、2メートル近くある優しそうな大男が、「バラシ屋をやっているんだけれど、俺と一緒にやろう」って声をかけてくれたの。このときは酒乱だと知らなかったからね。

■いずれ戻るんだろうな

 家を出てこっち(上野公園)に来て、やっと自由になったと思いましたよ。1ヶ月間、毎日ベンチで酒を飲んでいたの。やっと楽しい酒を飲めるようになったと思ってさ。ここいらで有名だったみたい。昼間から一升瓶抱えて、毎日お酒を飲んでいたから。
 で、雨が降ったときに「ここで寝たら」と仲間に言われたんですよ。それから世話になっているんだ。
 ここではラーメン作ってとか、新聞を買ってきてとか頼まれるぐらいかな。仕事に行ったあとには荷物の番をしている。近くに住んでいる仲間だって、モノを盗んでいくからね。昼間はやることがないから、たばこについている銀紙でツルを折っているんですよ。昔、社長の女がやっている店を飾るために、8000羽のツルを折ったこともあるからね。
 社長はね、ここに三回訪ねてきましたよ。上野駅で酒を持っているのを、見られてたことがあったからね。そのときは声をかけてこなかったけれども、どこに寝ているのか一ヶ月ぐらい探していたみたい。
 最初にここに来たときは、少し離れたところで、俺の方をずっと見ててさ。何も言わないの。照れくさいんじゃないかな。昔は元気だったのにしょぼくれちゃってね。
 ずいぶん長い間黙っていて、「ここにいるの?」とだけ言うんだ。「ここで世話になっているんだよ」と答えたら、目を伏せて何も言わない。「俺なら大丈夫だから」って声をかけたよ。しばらくそこに突っ立っていて、帰っていったよ。五分ぐらいはいたかな。
 次に来たときは、「寒いから毛布を持ってこようか」とか言うから、「毛布なんかいっぱいあるからいらないよ」と答えたんだ。「カギを置いていこうか」と聞くから、「いらないよ。いまの方が自由でいいから」と答えたの。
 顔を見るとかわいそうになっちゃうんですよ。いやいや、うらんではいませんよ。優しい性格も知っているしね。死ぬまで知り合いだからね。立ち直らせてあげたいんだけれどね。
 アパートの話になったとき、「電話番号が書いてあるけれど、電話も止まっているから」と言うんだ。あー、やっぱりと思ってさ。それほど金に困っているなら、まだ立ち直っていないんだと思ってね。
 やっとしがらみから抜けて、自由になったんですね。ここは安住の地ですよ。でもね、いずれ俺は社長のところに戻るんだろうな。社長も俺も、ここにいる人も、みんな寂しがりやなんだよ。そう思いますよ……。 (■了)

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