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ホームレス自らを語る/一人でコツコツやるのが好きなんです・柳川孝夫さん(65歳)

■月刊「記録」2001年4月号掲載記事

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■戦中は福島に学童疎開

 子どものころの思い出といえば戦争ですよ。戦争しかなかった。その一番の思い出は学童集団疎開。東京の椎名町に住んでいましたから、東京も空襲で危なくなってきた1944年の夏に、福島県の原町に集団疎開しました。
 原町の駅前の旅館に、同じ小学校から行った30人くらいの男子児童が一緒に暮らしたんです。女子は町中にあった別の旅館でしたね。
 覚えているのは、いつも腹をすかせていたこと、冬の寒さに閉口したことですね。とくに空腹でひもじかったことは忘れられません。本当に食べるものがなかったですからね。たまにパンの配給なんかがあると、上級生たちに「献金だ」とか言われて半分くらい取り上げられてしまう。私らは小学三年生で疎開組の一番年少でしたから取られるばかりで、それがつらかったですね。しまいには東京の親から錠剤のワカモト(※商標)を送ってもらって、それをあめ玉代わりにしゃぶったりしてました。 原町で終戦を迎えて、一年ぶりに東京へ戻ってみると、家族は無事でしたが家は空襲で丸焼けでした。のちに帝銀事件の舞台になる椎名町の四丁目は焼け残ってましたが、うちのあった三丁目まではみごとに焼けて何も残ってなかったです。その焼け跡で戦後の暮らしが始まるわけです。庭を畑に耕してサツマイモを植えてね。
 池袋の西口にはすぐにマーケットができて、予科練帰りや特攻隊の生き残りの不良のたまり場のようになって……そう、パンパンガール(売春婦)なんてのもいましたね。戦争が終わっても相変わらず食べるものがなくて、私らもよく買い出しに連れて行かれましたよ。
 それでも、うちは父親が大手銀行の社員食堂で賄いのコックをしていたこともあって、食材の残りをもらってきたりして、よその家ほどは困らなかったようです。食材といっても、スイトンやフスマばかりでしたがね。

■一人で手仕事をするのが好き

 中学校を終えて、すぐ就職しました。私ら頭が悪かったですから、とても高校へなんて行けませんでした。はじめは塗装工場に勤めて、日給が70円くらいだったと思いますよ。日給月給というやつですね。次にメッキの町工場に代わって、その後もいろんなところで働きました。でも、どこも長続きしないんですよね。
 性格がよくないんだろうと思います。何ごともマイナスに思考してしまうからいけない。人とつき合うのも苦手でしてね。私は酒もタバコもギャンブルも、女遊びをしたこともない。いまでこそ「タバコは吸わない」と胸を張って言えますが、あのころは「タバコも吸えないヤツ」という目で見られましたからね。つき合いが悪いから仲間ができない。それで職場で孤立してしまい、居づらくなって辞めてしまう。その繰り返しでした。
 子どものころから友だちと遊ぶより、一人で何かをしているほうが好きでした。電気にくわしくて手先が器用だったから、よく一人でラジオを組み立てたりしてました。中学生のときに鉱石ラジオをつくったのが最初で、まだクリスタルレシーバーなんて出てませんでしたから、軍の払い下げのレシーバーで聴いてね。はじめて音の出たときはドキドキしてうれしかった。
 そのころはNHKと進駐軍の放送しかなくて、『とんち教室』とか『二〇の扉』『話の泉』とかね。いや、なつかしいですね。
 そのあとも真空管を四本使った「波4ラジオ」とか、「スーパー5球」、トランジスターを使ったラジオまで、みんな自分でつくりました。頭が悪いから理屈はわからなかったけど、雑誌の『ラジオ技術』とか、『初歩のラジオ』『無線と実験』を参考にしながら、見よう見真似で自己流でつくったんです。
 一八歳くらいのときには、テレビもつくりました。キットの部品を買ってきて、組み立てるのに一年くらいかかりましたよ。NHKの学校放送の人形劇が最初に映りましたね。ブラウン管をオシロスコープで代用していたから、7インチの真ん丸い画面で、画像もザラザラしていて調整もできませんでした。それでも画像らしいものが映ったのはうれしかった。まだうちでも近所でも、テレビを持っている家なんてない時代でしたからね。
 ほかの電気器具も簡単な修理くらいはできましたから、隣近所のものを修理してあげて重宝がられました。そういうことを、一人でコツコツやっていることが好きだったんです。

■5年前に地主に追い出された

 30代に入ってしばらくしてから、兄が工場を始めてそれを手伝うようになりました。工場といっても自宅の敷地に小屋を建てて、家族が手伝うだけの小さなものでした。それから五九歳の年まで、ずっとそこで働いてきました。
 仕事はカメラのシャッターとか、カメラに組み込まれているTTL(自動測光)メーターの組み立てでした。あのころは小さなカメラメーカーがいっぱいあって、その下請けの仕事です。ちょうどTTLカメラがはやり出したころで、高度経済成長期とも重なって仕事は忙しかったですね。徹夜、徹夜の連続だったり、工場のソファに寝起きしたこともあります。
 ただ、それも一時でした。小さなカメラメーカーはみんな大手に食われて、次々につぶれてしまいましたからね。あとは電器会社から仕事をもらって細々とやってきました。その仕事も7、8年前から不景気で減り始めて、工場は立ち行かなくなっていました。
 そんなときに工場を経営していた兄が、突然死んでしまいましてね。そのころ母親が寝たきりの状態で、兄はその介護を一人でやっていました。それに工場の金策で走り回ってもいましたから、その無理がたたったんでしょう。心筋梗塞でした。兄の死で工場は閉鎖になりました。
 あとに寝たきりの母親が残されましたが、私らには兄のように介護をする器量はありませんから、病院に入院させたんです。その母親も一年後に亡くなりました。椎名町にあった家は借地でしてね。母親が亡くなると、地主から追い立てられるようになりました。その土地にマンションを建てるからという理由でした。といっても、私ら行くところもありませんから、ホームレスになるしかなかったわけです。それが5年前でした。

■農家を手伝って収入を得る

 自分では若いつもりでいても、この歳になると体のあちこちにガタがきてますからね。足は重たくなるし、耳鳴りもしてくる。右目は網膜剥離であまり見えませんし、左目も霞んできました。ベーチェット病の疑いがあるらしい。希望のない毎日で、根がマイナス思考の人間ですから、よくないほうにばかり考えて落ち込むばかりですね。
 病気だからって(行政の)福祉の世話にはなりたくないですね。とくに新宿区の職員は扱いがひどいっていうから、そんなものの世話にはなりたくないと思っています。自然に治らないかなって期待しているんですが……。
 希望のない毎日ですが、いい話もあるんですよ。親切なボランティアの人がいましてね。その人の世話で、三年前から埼玉の農家で農作業を手伝っています。草刈りとか、果樹の袋かけなんかの仕事を手伝うんです。仕事は春から秋にかけての毎月四回あって、一回一泊二日で行きます。日給で3000円。交通費が出ないんで往復2000円の出費は痛いんですけど、それでも二日間で差し引き4000円の現金収入になります。これには助かっていますね。
 それに手伝いに行けば、食事がついて、風呂に入れて、布団に寝られます。その農家の家族はみんないい人ばかりで、私らがホームレスだからといってまったく差別しないんです。食事もみんなと一緒に同じものが食べられます。農家の近くには高麗川というきれいな川が流れていて、農作業がひまなときには釣り糸を垂れることもできます。誰にもじゃまされずに一人になれる釣りは、いまの最高の楽しみですね。
 今年も3月になって暖かくなったら、また手伝いに行くことにしているんですよ。 (■了)

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