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ホームレス自らを語る/サラ金の督促から逃れて・田島義広さん(64歳)

■月刊「記録」2000年10月号掲載記事

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■サラ金から面白半分に借金

 長いこと左官とか、型枠工、日雇いの土工なんかをやってきたんです。それが五五歳を超えたあたりでしたか、「年寄りに回してやれる仕事はないよ」と突然手配師に言われましてね。それっきり仕事は回してもらえなくなりました。
 急に仕事にあぶれることになって、途方に暮れて都内のクリーニング店に嫁いでいる姪のところを訪ねたんです。そうしたら気持ちよく置いてくれて、しかも姪のダンナが警備員の仕事まで見つけてきてくれましてね。それで姪の家に同居させてもらいながら、警備員をして働いてきたんです。
 私は若いころから酒は一滴もやらないし、パチンコをたまにするくらいで、ほかのギャンブルにも一切手を出さなかった。それなのに、六年くらい前でしたか、急に競馬をするようになりましてね。馬が好きだったわけじゃないし、なんで競馬になんか手を出すようになったのか、自分でもよくわかりません。小金がほしかったのかな? ただ、根が小心者ですからね。たいした金を賭けたわけじゃないですよ。
 サラ金から金を借りるようになったのは、そのころからでした。これだって金に困っていたわけじゃなくて、サラ金ってどんなもんかと思って面白半分に借りに行ったんです。そうしたらすごく簡単に貸してくれるんですね。こんなに簡単に借りられるんならと思って、利用しているうちにふくらんでしまったんです。
 いくらくらい借りたのかは、三つのサラ金から借りてましたからよくわからないですね。それにもう三年も放ってあるから、相当なことになってるでしょうね。それでもはじめのうちはキチンと返済していたんですよ。例の警備会社が勤めて三年目に倒産してしまい、それで返せなくなったんです。そのうちに督促の電話が来るようになって、それもだんだん頻繁になるんで、「これはヤバイかな」と思ってね。姪の家をコッソリ夜逃げして、それでホームレスになったんです。親切にしてくれた姪の一家に、迷惑がかかってなければいいんですがね。

■文学の夢を追っているうちに

 生まれは青森県の野辺地という海沿いの小さな町でした。地元の高校を卒業して、東京に出てきました。東京にあこがれていたというより、田舎の閉鎖的な人間関係から逃げ出したかったんです。東京に出て、中堅どころの本の取次店に就職しました。でも、二年くらいで辞めて……大学に行きたかったんです。
 そのころは文学かぶれというか、いっぱしの文学青年を気取ってましてね。文学は片っ端から何でも読みましたよ。永井荷風の官能的な作品なんか好きでした。自分でも書いては消し、書いては消しして、文学を志していたんです。いや、私の場合は官能的なものじゃなくて、家族のことを書いた私小説でした。文学賞にも幾度か応募しました。『文学界』とか『新潮』『群像』とかの文芸誌の新人賞にね。だけど、一度も通らなかった。そんな夢を30歳を過ぎるまで追いかけていて、結局結婚もできませんでした。
 大学には行きませんでした。なんで行かないことになったのかな? あのころ売防法(売春防止法)が施行になって、赤線がなくなるっていうんで大騒ぎだったしね。それと大学へ行かなかったのは関係ないか? 自分でもよく覚えてないですね。
 それで電柱に貼ってあった「事務員募集」のビラを見て、左官の会社に就職しました。ところが、毎日会社に出勤しても事務の仕事なんてないんです。上の人から「おまえも現場へ出たらどうだ?」と言われて、それから左官の現場に出るようになりました。
 左官は一五年くらいやりましたね。左官職人には仕事場を渡り歩く人が多いんですが、私はずっと一つところにいました。真面目というより、やっぱり小心者なんですよ。酒は飲まないし、仲間と徒党を組むことは嫌いだし、そのころは文学にかかずらわってたこともありますし。
 左官のあと型枠工を10年やって、そのあと日雇いの土工をまた10年やりました。左官の技術とか、型枠工をやっていたから大工の仕事もできるんです。でも、それを生かそうとしないで、楽な日雇いのほうを選んでしまう。日雇いでもそこそこかせげて、食べていかれたからいけないんですね。その日雇いでも働けなくなって、姪の家に世話になったわけです。

■死に場所を探しているんだが

 サラ金の督促を逃れてホームレスになったわけですけど、はじめて野宿をしたときは悲しかったですね。ここまで堕ちたら、もう将来はないって悲観もしました。そのうちに慣れてくると「もういいか」って、あきらめの心境になってくるんですね。
 ホームレスになってからも、ずっと一人。やっぱり、徒党を組むのは好きじゃありません。一人でホームレスをしていると、いろんなことがありますよ。いつだったか、明治神宮外苑を歩いていたら、車が横づけされて降りてきた四、五人のチンピラに取り囲まれ、車に押し込められていました。代紋の入った車で、チンピラたちも暴力団の下っ端の連中ですよ。連れて行かれたのは葛飾にあったホームレスの収容施設でした。
 要するに暴力団がやっている施設です。チンピラがあちこちから強引にホームレスをかき集めて、最低の飯を食わせて住まわせ、それで(東京)都に福祉施設として申請して補助金をせしめているわけです。収容されているホームレスのなかに牢名主のようなのがいて、それが全部を取り仕切ってました。私も最初の食事のときに、いきなり暴力をふるわれましてね。一日もいないで逃げ出してきました。ひどいところです。
 ついこの間は、こんなこともありました。そのとき私は青山(港区)の公園にブルーシートで小屋をつくって、一人で住んでいたんです。(2000年)7月1日の晩でしたか、深夜寝ていると大量の芝草が小屋に放り込まれましてね。昼間公園の除草作業があって、そのときに刈られてあった芝草が放り込まれたんです。
 びっくりして小屋を飛び出してみると、4、5人の悪ガキがニヤニヤしながら立っていました。その連中は私に向かって一斉に石を投げつけてきたんです。そして、パッと散らばって逃げていきました。危なくってしょうがないから、近くの交番へ駆け込んで訴えたんです。
 ところが、警官はまったく取り合ってくれませんでした。小屋に戻ってみると、メチャクチャに壊されていて住める状態ではなくなっていました。ちょうど沖縄サミットを控えていたときで、その公園にも「不審者・不審物一掃」のポスターが、数日前から貼り出されていました。だから、それに関連する陰謀じゃあないかと思いましたよ。はっきり言ってしまえば、あの警官が悪ガキたちを使ってやらせたんじゃないかとね。いや、ホントに。
 小屋を壊されてからは雨が降ったときの逃げ場を探しながら、適当なところに寝ています。季節もいいし小屋なんかなくても、どこにでも寝られますからね。いまも一人です。仲間といたほうが危険は少ないんだけど、やっぱり徒党を組む気にはなれませんね。
 ただ、一人でいるとエサ(食べるもの)探しから何から、みんな自分でやらないといけないから大変です。この歳になってくると、エサ探しでゴミ箱を漁って回るのも切羽つまってきますね。膝が痛くて、そんなに遠くまで行けなくなってますしね。それに今年の夏は暑いから、体中に湿疹ができてかゆくてならないですよ。
 ホントはね。いつも死にたいと思っているんです。死に場所を探しているんですが、なかなか死ねなくてね。自殺をする勇気もないんです。いっそのこと、誰か殺してくれないかとも思っているんですよ。 (■了)

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