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ホームレス自らを語る/経営していた会社が倒産した・町田道彦さん(62歳)

■月刊「記録」1999年12月、2000年1月号掲載記事

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■修羅場を潜り抜けてきた

 生まれは1937年で東京。父親の仕事? 建設業だよ。それ以上細かく言うと、オレの身元がバレちゃうからね。こう見えても、オレも去年まで会社を経営していたんだ。身元がバレると、いろいろまずいこともあるからさ。
 53年に中学を出て、定時制の高校に通いながら働いた。そのころ、全日制の高校へ進学できるのは、クラスに一人くらいしかいなかったからね。まだ神武・岩戸景気の始まる前で、どん底の不況でひどい就職難の時代だった。いまよりひどかったと思うよ。なにしろクラスのなかで、まともに就職できたのはオレが一人だけだったんだから。大学を出ても、飯場に入れたらいいほうってくらいの不景気だった。
 オレが就職したのは漁船のエンジンをつくる工場。その機械工になった。自慢するわけじゃないけど、オレは人に聞いたり教えてもらう前に覚えちゃうところがあるんだ。飲み込むのが早いんだね。だから、すぐに先輩を追い抜いちゃった。たとえば旋盤にしても、いまはコンピューターだから技術の差はあまり出ないけど、あのころは勘と技能がものを言ったからね。オレはそういうのが得意なんだ。
 それでオレばかりがベテランの職工とか、事務職の連中にかわいがられるだろ。ちょっと上の先輩たちには面白くないわけさ。それに定時制にも通っていたから「生意気だ」ってにらまれてね。イジメとかそういうんじゃなくて雰囲気だよね。だんだんに居づらい雰囲気になって、一年で辞めちゃったよ。
 それから土工になった。いきなり岩手の山の中の飯場にやられて、道路工事の土工を二年くらいやった。飯場といったって、農家の豚小屋を改造したようなところだからね。入り口にはムシロが吊り下げてあるだけだもの。タコ部屋さ。
 そのころの飯場にはまだ戦前のしきたりなんかが残っててね。はじめて入ったときは、みんなの前で仁義を切らされた。本当だよ。「手前、生国と発しますは……」ってやったんだ。まるでヤクザ映画そのまんまで、高橋英樹の『男の紋章』そっくりだった。みんなでそろいの印半纏を着てたしね。あのころの土工の世界は、ヤーさんの次に怖い世界だといわれてたんだ。
 いや、すごい世界だったよ。刃物を抱いて寝ないといつ寝首をかかれるかわからないからね。本当に抱いて寝たんだ。だって指名手配されているようなヤツと一緒に寝起きするんだ。危なくっていけないよ。なかには指名手配されていることを自慢にするのもいるくらいだからさ。仕事をサボったのが仮病だったなんてバレると、それこそみんなから袋叩きにあった。そんなことをされるのは、だいたいいつも決まったヤツだったけどね。オレはやられたことはないよ。
 そんな危ない世界だからさ。オレもケンカ殺法っていうのを習った。小笠原流とかいって、なんでも戦国時代から続いている殺法らしい。ふいに襲われたときのために、飯の食い方からトイレの入り方、風呂の使い方まで習ったよ。寸止めもできる。人なんて簡単に殺せる。だけど、他人を殺したり傷つけても、こっちにいいことなんて何もないだろう。寸止めして驚かせてやれば十分だからね。いまでこそこんなにのんびりしちゃってるけど、四、五年前までは人と話しているときも、いつでも蹴りが入れられるように構えていたんだ。本当のことだよ。
 飯場同士の出入りっていうのも、よくあったね。仲間の誰かが、よその飯場のヤツに、「ガンをつけられた」とか「ガンを飛ばした」とか、そんなたわいもない理由で飯場同士のケンカになるんだ。オレも木刀を持って殴り込みに行ったよ。
 ケガをしなかったかって? しないよ。危なくなると逃げちゃうからね。逃げ足は速いんだ(笑)。どんなケンカでも始める前に逃げ道を確保しておく。それが肝心なんだ。そういう冷静さがないとやられちゃうからね。
■土工の仕事にも誇りがあった

 ケンカもしたけど、仕事のほうも熱心にやったよ。あのころは土工の仕事にも誇りのようなものがあった。給料は安くていくらにもならなかったけどね。
 ほら、見てくれ(複雑な傷痕の残る右手首を見せてくれる)。その道路工事をしているときにダイナマイトでやられた痕だよ。いまの発破は削孔機を使って穴を掘るけど、そのころはタガネで手掘りだったからね。オレの掘った穴が曲がっていたらしくて、ダイナマイトを入れている途中でつっかえてね。それをタガネで押し込んでいたら、摩擦で暴発しちまった。
 オレは体ごとふっ飛ばされて、空中で三回転したよ。上からは岩がゴロゴロ崩れてくるし、よく手首のケガだけで収まったと思うよ。トロッコが坂道で脱線して、八メートルも先まで放り出されたこともある。安全意識なんて、いまとは比べようもなかったからね。ヘルメットだってかぶってないんだからさ。安全についてやかましくいわれるようになるのは、60年代の中ごろになってからだろう。

■もうかったのは70年代初頭まで

 20歳のころに東京に戻ると、土建業の親方について1年くらい働いてから独立した。だから、20歳そこそこで社長になって、会社の経営を始めたことになる。会社といってもちっぽけな建築業だけどね。それでも40年くらいは続いたよ。
 仕事はビルとか学校なんかの建築や改修が多かった。それでも、ちゃんと請け負って、きっちり仕事をする会社だったからね。人夫のサヤを抜いて(ピンハネして)もうけるようなことは、性分に合わないからしなかった。オレも現場に出て率先して働いたよ。作業員を休憩させても、自分だけは働くって具合だった。
 ただ、会社を始めたころは「なべ底不況」の真っ只中で経営には苦労したよ。仕事をしても支払いはみんな手形だろう。「台風手形」とか「お産手形」なんてのが常識だったからね。支払いが210日先、10ヶ月先という意味の手形だよ。そんなのを割りながらやり繰りしたんだ。 景気がよくなるのは東京オリンピックの前あたりからで、それからオイルショックまでの10年くらいが一番よかった。もうかったしね。オリンピックの前あたりというのは、東芝とか日立とかの大企業が、新しい工場を次々と建設した時期でね。それにオリンピックを控えていたから、東京の街をきれいにするって仕事もあった。オレの会社も日比谷の映画館街の模様替えや、銀座の三越前の整備なんかを手伝った。昼間は工場の建設に出て、夜は街の模様替えの仕事って具合だったから、そりゃあもうかったよ。
 だけど、いい時期もオイルショックまでだったね。その後、バブルとかあったけど、たいしてうま味はなかった。オイルショックのころから安全管理だとか労務管理だとかが、やたらにうるさくなっただろう。たいしてもうけられなくなったんだよ。それでもサラリーマンなんかに比べたら、3倍から5倍はかせいでいたと思うけどね。

■最愛の女房を難病で亡くした

 結婚したのが27歳。子どもは男の子が二人。最高の女房で、最高の家庭だった。ただ、会社の仕事には学校関係の工事が多かっただろう。学校の校舎の増築とか改修の工事は、たいがい夏休みにやるんだ。それで子どもとはあまり遊んでやれなかった。それが心残りだね。
 それでも工事が終わって役所の検査を通ると、家に帰るなり「旅に出るぞ」って、そのまま家族を連れて旅行に行くなんてこともした。オレはグズグズすることが嫌いなんだ。即断即決。男の決断は速いからね。いつもオレが突然に言い出すもんだから、家族は面食らっていたよ。そんなふうにして出た旅で、北海道を1ヵ月かけて回るなんてこともした。そんないいときもあったんだ。
 女房がよくできた女でね。オレにはもったいないくらいだった。その女房が……いけねえ……(町田さんの両目から、みるみる涙があふれ出した。しばらく話をやめる)……たいがいのことは大丈夫なんだが、女房のことを思い出すといけねえんだ。申し訳ない。
 女房はガンで死んだ。日本で三例目という難しいガンだった。これ以上話すと、身元がバレちゃうから言えないけどね。ガンだとわかって本人に告知したんだが、死を覚悟してからの女房がすごかった。入院している仲間で病気に悩んでいる人があれば、その悩みを聞いてやって励ました。手術を渋る人があれば説得して手術室に送り込んだ。婦長が説得しても応じなかった人が、女房の説得で手術を受けたなんてこともあるんだよ。死ぬことを覚悟しての励ましや説得だったから、そりゃあ効くよね。
 それに女房は自分の病気の状態や体の調子なんかを毎日記録して残した。実に克明なノートだった。例の少ない病気だったから、病院にはいい資料になってるはずだよね。
 女房の闘病生活は三年間続いた。そして、死んでった。七年前のことだ。あとに残ったのは借金の山。当時は高額医療費の補助なんてなかったからね。1回の手術に100万円もかかったりしたから、借金するしかなかったんだ。
 女房が亡くなってからというもの、仕事に張り合いがなくなってね。ホントはそれじゃいかんというのは、自分でもよくわかってはいるんだが、うまく気持ちの切り替えができないんだ。
 会社は去年倒産した。仕事に身が入らないのと、この不況のせいだよ。最後は運転資金にも事欠くようになってたからね。

■ここを脱して事業を興す

 ホームレスになったのは今年からだよ。この年で食えなくなったからって、子どもたちに泣きを入れるのはヤだったしね。昔から山谷の人間を仕事で使って知っていたから、ホームレスになるのに抵抗はなかったよ。生活のほうは、わずかだけど年金がもらえるんだ。それを1日50円から100円の範囲で使うようにしている。会社をやってたころは、ひと晩に100万円も使って接待してたんだから夢のようだよ。
 その50円、100円のなかから少しずつ貯めて、簡単な煮炊きができるように、ガスコンロとか鍋釜をそろえたんだ。オレも食うけど、それよりも周りのみんなに食べさせてやるためだからね。そんなことをしてやっていると、「オヤジさん、余ったから使ってくれ」なんて、食事の材料を持ってきてくれる人もあるだろ。自然に集まってくるからね。(インスタント)ラーメンでも、うどんでも何でもそろっているよ。(取材の間にも一人のホームレスがやってきて、うどんを調理して食べていった)
 ただ、オレは怠け者は大嫌いだからね。働く意欲のあるヤツとか、身の回りをきれいに掃除しているとか、そういうヤツにしか食べさせない。だらしのないのはダメだよ。
 オレだっていつまでもホームレスをしているつもりはないからね。いつかはここを出ていくよ。そして、もう一度事業を興すんだ。「オヤジさんがやるんなら、ついていきたい」という仲間も何人かできたしね。いつまでもホームレスじゃしょうがないだろう?
 だけども、いますぐってわけにはいかない。この(新宿中央)公園にいる(ホームレスの)連中をなんとかしないとね。働く意欲のあるヤツだけでも、自立できるようにしてあげたいからね。そのメドがつくまでは、オレも動けない。それをちゃんとしたら、オレも必ずここを出るよ。必ず事業を興してみせるから。

※この取材から半年後、町田さんから電話があった。「オレのようなものを取材してくれて感謝している。自分の記事を読んでいるうちに、なんとかしなくっちゃという気になった。それで就職活動をしてみたら、小さな会社だけど採用になって、一週間くらい前から働き始めている。いまはまだあわただしいから、そのうち落ち着いたらまた電話をするから会いましょう」というもので、電話の声も弾んでいた。だが、その後、町田さんからの連絡はない。 (■了)

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