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ホームレス自らを語る/離婚して生きる張りを失った・大島陽一さん(57歳)

■月刊「記録」2001年1月号掲載記事

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■国鉄の合理化で整理される

 生まれたのは1943年で、北海道の小樽です。父親は国鉄(現在のJR)で保線工事の仕事をして働いていました。兄弟は7人あって、私は上から二番目。子どものころはワンパクなガキ大将でしたね。うちは兄弟が多かったうえに、戦後の食糧難と重なって、家の暮らしは楽じゃなかったようです。当時の国鉄は給料が安かったから、母親も外に出て働いたり内職をしてしのいでいました。
 中学を出てから、大工の見習いになりました。3年間の見習い修業をして、そのあと二年間がお礼奉公でした。見習いの三年間は親方の家に住み込んで覚え、お礼奉公になると家から通えました。
 大工の世界はまだ古い徒弟制度が残ってましたから、修業はきびしかったですよ。「仕事は見て覚えるもんだ」とか「盗んで覚えろ」と言うだけで、誰もちゃんとは教えてくれない。そのくせ、間違えたりヘマをすると容赦なく殴られる。そんな世界でした。
 ただ、私は本気で大工になるつもりはありませんでした。国鉄マンになりたかったというか、なることが決まっていたんです。あのころの国鉄には父親が定年退職すると、その息子が後釜に入れるという慣習のようなものがあったんです。規則ではなかったけど、暗黙の了解というか、そんなのですね。それで父親が50歳の定年を迎えたとき、私のほうも大工見習いの年季が明けて、入れ替わって国鉄に入りました。仕事は父親と同じ保線工事。線路脇の崖や土盛りしたところの法面(人工的に削られた斜面)の点検・補修が仕事でした。
 ところが、入って3年目の年に合理化による人員整理があって、その対象になってクビにされてしまいました。学歴はないし、職場の中にも何のコネもないし、そういうのから整理されてしまうんですよね。24歳のときでした。

■家庭と仕事を一度に失った

 しばらく小樽で土工や鳶なんかをしてから、札幌に出てACLを施工する会社に就職しました。ACLというのは軽量気泡コンクリートでつくったビルの外壁材のことで、それを施工するのが仕事でした。小さな会社でしたが、仕事はそれなりに面白かったしやりがいもありました。すぐに国の検定試験を受けて、施工資格も取りましたしね。
 社長にも気に入られて、その紹介で見合いもしました。相手の女性は社長の従姉妹で、看護婦をしている人でした。お互いに気に入って、35歳のときに結婚しました。それですぐに男の子が生まれました。
 ただ、子どもができてから、女房との間がギクシャクしてきましてね。私としては看護婦の仕事はやめて、育児に専念してほしかった。ところが、女房は「看護婦の仕事は、私の天職だからやめるわけにはいかない」の一点張り。
 看護婦の仕事というのは不規則で、週に2、3日は夜勤の泊まりもある仕事ですからね。それで子どもを保育所に送り迎えするのが私の役目になりました。でも、私だって工事現場が仕事場ですから、サラリーマンのようにいつも決まった時間に迎えにいけるとは限らない。女房との言い争いが絶えない日が続きました。最後はおたがいを罵り合うようになっていて、それで離婚することになりました。
 女房とはともかく、息子と別れるのはつらかったですね。6歳のかわいい盛りでしたから……。今になって思うと、あと2、3年も辛抱すれば、息子にも手がかからなくなっていたはずなんですがね。でも、そのときはそれがわからなかったんです。7年間の結婚生活でした。 働いていた会社の社長と女房が従姉妹同士でしたから、もう会社にもいられなくなって辞めました。それで東京へ出てきたんです。42歳のときですね。

■高血圧で飯場を追い出された

 東京に出てからは鳶の仕事をして働きました。しかし、離婚のショックというか、何をするにも張り合いが出ませんでね。仕事が終われば毎日酒。休みの日はパチンコか競艇で時間をつぶして、夜になれば酒。何の楽しみもない生活で、心の寂しさを埋めるには酒とギャンブルしかありませんでした。
 その後、女房と息子には一度だけ会いました。離婚から5年して、札幌まで行って大通り公園のレストランで二人に会ったんです。でも、もうあまり話すこともなかったですね。息子は中学生になっていました。その息子が別れ際に「かあさんのことは、オレにまかせてくれ」と……生意気なことを言うんですよ(大島さんは目を潤ませ、唇を震わせた)。
 鳶の仕事で働けたのも50歳まででしたね。50を超えたらお払い箱。それからは飯場を渡り歩く日雇いの土工の仕事をしてきました。今年の夏は暑かったでしょう。仕事中に二度もブッ倒れ、病院に担ぎ込まれましてね。高血圧なんです。上が190で、下が100あります。それからは土工の仕事も回してもらえなくなって、飯場も追い出されました。といって、蓄えはないし、住むところもないから、自然にホームレスになってました。 夜は(新宿)駅の地下広場で寝ています。ホームレスになってまだ二ヶ月くらいですから、要領がわからなくてね。コンビニの弁当とか、ハンバーガーショップのハンバーガーは賞味期限が切れると捨てられるんでしょう? どうしたら、それが手に入れられるのかわからないんです。いまはボランティアの炊き出しと差し入れだけで食べています。これから冬に向かって、どうなるんだろうと心配でなりませんよ。
 これから先もよくなることはないですね。ダメだろうと思います。こんな時代で、この歳ですからね。もうどうにもならんでしょう。どこかで野垂れ死にするしかないですね。老後の蓄えを何もしてこなかった自分が一番悪いと思いますよ。でも、国の考え方もよくないですよ。あのでっかい都庁舎だって、そこの道路だって、みんな私や仲間たちでつくったんです。それが景気が悪くなったからって、何の保証もなく放っぽり出して、そんな筋の通らない話はありませんよ。
 仕事さえあれば働きますよ。その気はあるんです。今度自立支援センターができるっていうでしょう。私も応募してみようかと思って、募集のチラシはちゃんと取ってあるんですよ。これに賭けるしかない……でも、ダメかもしれない。新宿は(募集定員を)あまり取らないっていうしね。そうなると、やっぱり野垂れ死にするしかないのかな……。 (■了)

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