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ホームレス自らを語る/若者と語るのが好き・渋谷のジジ(54歳)

■月刊「記録」2001年2月、3月号掲載記事

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■調理師の腕前は一流だった

 ホームレスになって5年くらいになる。みんなからは「渋谷のジジ」って呼ばれている。いまは新宿にいるほうが多くなったけど、前の渋谷にいたころにテレビに取材されたこともあってね。オレもちょっとばかりは有名なんだよ。
 ホームレスなんていつだってやめられるし、オレには帰るところだってある。けど、ホームレスをしているといろんな人に会えて面白い。だから、やめないで続けているんだよ。
 生まれは北海道。旭川近くの産。子どものころはひょうきんものでワンパクだった。夏は人の家の畑に忍び込んでトマトや野菜を盗んで食ったり、冬は雪道に落とし穴をつくったりしてね。どっちかっていえば、ガキ大将で悪ガキだったね。遊んでいるか家の商売を手伝わされるかで、勉強なんか全然しなかった。ただ、いまの悪ガキと違って、オレたちのころのほうが温かさと明るさはあったよね。
 中学を出ると札幌の大きな魚屋に丁稚奉公に出た。あの時代はそれが普通で、高校にまで行けるのはよほどの金持ちの子だけだったからね。魚屋の仕事は面白かった。包丁を使って魚をさばくのが得意で、その店にいるときに調理師の免許も取った。
 20歳のときにその腕が見込まれて、札幌でも有名な割烹に引き抜かれてね。それで魚屋を辞めることになった。その割烹は松倉っていう名の通った料理人がやっている店なんだ。松倉のオヤジさんは明治神宮の新年の包丁式を取り仕切ったり、調理師会の会長をしたこともある人だよ。そんな人がオレの腕を見込んでくれたんだからね。松倉のオヤジさんのことは、あんたも知ってるだろう? 知らないの? そりゃあ勉強不足だよ。
 割烹の板場の修業はきびしかった。魚屋のときとはぜんぜん違ったからね。頭を坊主に丸められて、出入りの作法から教え込まれた。兄弟子は平気でゲンコツで殴ってくるし、そりゃあきびしかった。でも、それも「早く一人前にしたい」っていう愛情からなんだよね。そのおかげで、オレのほうも「負けたくない。早く一人前になろう」と頑張れたんだ。
 22歳で結婚した。札幌のデパートの催しものに、魚をさばく実演のデモンストレーションがあってね。オレはよくそれに駆り出されては、包丁をふるって見せていたんだ。女房はそのデパートで店員をしていて、それで知り合った。性格がきつい女できびしい面もあったけど、オレにはよく尽くしてくれたよ。結婚して娘と息子ができた。
 25、26歳で一家を挙げて東京に出てきた。松倉のオヤジさんの口利きで、東京の調理師会に所属したんだ。その調理師会からいろんな調理場に派遣されるというふうにして働いた。熱海とか伊豆の温泉旅館の板場の仕事が多かった。「包丁一本晒しに巻いて……」の世界。腕に自信があったし、羽振りもよかった。べらぼうなぜいたくはさせられなかったけど、家族には何不自由させなかったからね。

■料理人の意地で包丁を置く

 45歳の年の暑い夏の日だった。朝、目が覚めて起き上がってみると、頭が割れそうに痛くてね。その痛みのすごさは、いまでも忘れられないよ。そのうちに目の前がスーッと暗くなって、そのままぶっ倒れた。そのとき壁に思いきり頭をぶつけたらしいんだが覚えちゃいない。気がついたときには、手術を終えて病院のベッドの上に寝かされていた。クモ膜下出血だった。
 手術のおかげで命と体には別状はなかった。だけど、記憶喪失になっちまってね。倒れたときに頭を打ったのがいけなかったらしい。自分が料理人だってことも、女房や子どもたちのことさえわからないんだからさ。周りの人から「この人があんたの女房だ」と言われても、「へーっ、そうなんだ」と思うだけでね。何もかもすっかり忘れちまっていた。
 リハビリに2、3年かかったよ。なんとか記憶も戻って、また板場に復帰して包丁も握れるようになった。ところが、料理人にとってはその2、3年のブランクが大きかったんだね。そりゃあ前と同じように包丁は使えるし、料理の形もそれらしくはつくれるんだよ。けど、何かが違うんだな。若い衆からも「以前のオヤジさんの料理とは違う」って言われちまうしね。それで包丁を置くことになった。泣いたよ。男泣きに泣いた。
 町の食堂とか居酒屋のようなところならばオレの腕でも十分通用するんだよ。だけど、松倉のオヤジさんがまだ生きてるのに、そんなところに身を堕とせねえだろう。オレにも料理人の意地があるよね。それからは包丁は握ってない。
 あのときのことを思い出すと、いまでも涙が出てくるよ。
 それからあとは、ブラブラして暮らすようになっちまって、女房とは離婚した。「別れたい」って言い出したのは女房のほうだった。ただブラブラして収入もないダンナを見ているのがつらかったんだろう。もう、子どもたちも独立して、娘は結婚もしていたしね。離婚したのは48か49歳のときだった。
 女房と別れてからはホームレスになった。離婚して一年くらいして、その女房が死んでね。乳ガンだった。別れてからも連絡は取り合っていたから、女房の死に目には会えた。死に際にオレの手を取って、「おとうちゃん、いろいろありがとう」と言って死んでいったよ。ケンカ別れをしたわけじゃないし、お互いに気持ちの通じ合うものはあったからね。

■渋谷の若者たちと語り合う

 渋谷というのは若者の街だ。いろんな若者が集まってくる。渋谷の街でホームレスをしていると、そんな若者と知り合う機会も多い。ハチ公前の広場でジャンベっていうアフリカの太鼓を叩いているグループがあってね。オレも太鼓を叩いていたことがあったから、一緒になって叩いたり、教えたりするようになったんだ。初めのうちは2、3人の若者を相手にしていたんだが、いつの間にか50人くらいのグループにふくれ上がっていた。それを見物しにくる人も出てきて、一時はすごい盛り上がり方だったよ。
 そんなことが縁になって若者たちと話すようになった。悩みを聞いてやったり、相談をされたりね。いつからか、みんながオレのことを「渋谷のジジ」と呼ぶようになっていた。
 そんな若い子の一人に明美という子がいた。彼女は毎晩のように渋谷にやってきては、オレと若者たちが演奏するジャンベを聞いていた。明美はまだ中学生のようだったから、話を聞いてみると、不登校で学校には行ってないという。父親のいない寂しい家庭で、学校でもイジメに遭っているようだった。毎日がつらいといって泣くんだ。
 オレが「一度母親を連れてこい」と言うと、本当に連れてきた。その母親から明美の境遇について、いろいろと聞いた。で、「明美が渋谷に来るのは、このジジと話しにくるだけだから、毎晩よこしてくれ」って頼んだ。
 それからも明美は毎晩やってきては、オレと話をした。そのうちに暗かった明美が、だんだん明るさを取り戻していってね。半年後には「また学校へ行く」と言ってくれた。それで次の日から本当に学校に通うようになった。いまでもときどき会いに来てくれる。中学を無事に卒業して、いまはソバ屋で働いているって話だ。
 明美もそうだけど、渋谷なんかに集まってくる子には寂しい子が多い。大人や親から見たら、ちっぽけなことで悩んでいる。それを真剣に聞いてくれる人がいないんだな。だから、このジジは真剣になって聞いてやるし考えてやる。若者を頭ごなしに叱ったり、説教を垂れてもダメ。真剣に話を聞いてやること、そして励ましてやる。それが大切だと思う。

■交番を通じて礼を言ってきた

 ほかにもいろいろ相談を受けるよ。彼女とうまくいかないとか、学校の先生とのトラブルの話とかね。女子高生で妊娠してしまった子がいて、そのときは若者たちから募金をしたり、ジャンベの投げ銭を集めてカンパしてやったよ。オレの食い物代を切り詰めることになるんだけど、そんなことは何でもないからね。
 沖縄から家出をしてきた女の子もいたな。渋谷にはそういう女の子を引っかける悪いのが多いからさ。なんとかしてあげたくなるよね。その子の話を聞いてやって、沖縄に帰したんだ。何日かして駅前の交番のおまわりさんがやってきて、「渋谷のジジってあんたか? 交番のほうに沖縄の子から電話があって、無事に帰ったからジジに伝えてくれって」と言うんだ。ホームレスには電話も通じないし、葉書の出しようもないだろう。その子は交番の電話を使って、オレに礼を言ってきた。うれしいよね。
 こんなことをしているオレのことが、一年くらい前にテレビで報道されてね。そうしたら、神奈川の中学校の先生だっていう五人がオレのことを訪ねてきたよ。「テレビで見たけど、どうしたら子どもたちとうまく接せられるか教えてほしい」って言うんだ。「バカ言っちゃいけない。あんたらのほうが専門家だろう。ホームレスのオレに聞くなんてお門違いだ」。そう言ってやったんだがね。どうしてもって言うから、「心を開くことだよ」って教えてやった。

■60歳までホームレスでいる

 リストラにあったサラリーマンの話を聞いてやったことがあるよ。代々木公園のベンチに毎日座っている中年男がいてね。どうしたんだと聞いたら、「会社をリストラされたんだけど、そのことを女房に話せない。毎朝会社に出るふりをして家を出て、公園のベンチで時間をつぶしている。死にたくて、死に場所や死に方ばかりを考えている」と言うんだ。
 オレは彼の言いたいことを全部聞いてやった。人は悩んでいることを洗いざらいしゃべると、気が安まるもんだからね。それから「このオレはホームレスにまで堕ちた人生を送っているけど、それでも生きている。どん底まで堕ちても人間は生きていけるんだ。あなたも頑張りなさい」って励ましてやった。
 ただ、こういう中年の場合は若者と違って、話を聞いてやったり、励ますだけじゃダメなんだ。最後には叱ってやる。「あんたは人生に甘えているよ。オレはホームレスをしているけど、それでもやりたいことも夢も持っている。甘えるんじゃないよ。悔しかったらちゃんと生きてみろ」ってね。彼は泣きながら聞いてたよ。
 あとになってその中年サラリーマンも奥さんを連れて、オレのところに会いにきた。リストラのことはちゃんと奥さんに話したし、もう一度人生をやり直してみるつもりだって頭を下げていった。
 ホームレスをしているといろんな人に会えて、いろんな話ができる。それが面白いよね。仲間のホームレスの相談にものってやっている。裸になってしゃべれば、人間はみんないい人ばかりだよ。
 ときどき娘が訪ねてくるんだよ。「おとうちゃん、いいかげんにしなさい。もうホームレスなんかやめて、私たちと一緒に暮らそう」って言ってくれる。だけど、面白いからやめられないよ。このまま六〇歳まではホームレスを続けて、60を過ぎたら娘一家のところに行って一緒に暮らそうと思ってる。孫もいるしね。いま小学五年生でかわいい盛りなんだ。その孫と暮らすのが、オレの老後の楽しみなんだよ。 (■了)

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