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だいじょうぶよ・神山眞/第55回 狂気への入り口

■月刊「記録」2004年4月号掲載記事

*          *           *

 まずは、その痩せているがたるんだ腹に一発パンチを入れた。思い切り? その瞬間ぼくは思い切りパンチを入れたか? 一発目を打ち終え、ぼくは自問自答してみる。
 いや違う、思い切りなんて入れているはずがない。ぼくはあいつの表情から何かを読み取りたかっただけだ。だから軽めにパンチを入れたのだ。まちがいない。
 それなのにあいつときたら「うっ!」とも「痛い」とも言わないじゃないか。
 ……合格だ。でもおまえは合格だ。いつだっておまえは合格なんだ。
「正利、おまえ合格だよ!!」心の中でぼくはそう叫んで再び拳を固めた。

■あいつのすべてを知る権利がある

 だいたいこの程度で音をあげるような奴だったら、殴ったって意味がない。こいつはぼくによって見い出され、ぼくによって選ばれ、ぼくとともに暮らすことになった奴なのだ。そんじょそこらの根性なしの若者とはひと味もふた味も違うはずだ。
 その証拠にあいつは痛がりもしなければ、逃げ出そうともしない。相変わらずぼーっと突っ立っているだけだ。それにしてもあいつは今この瞬間にいったい何を感じているのだろう。おい、正利、おまえはいったい何を考えているんだ?
 知りたい。無性に、どうしても、激しく知りたくなった。ぼくにはあいつのすべてが気にかかる。ぼくにはあいつのすべてを知る権利があるに違いない。
 再びぼくがあいつに目をやると、相変わらずあいつはダラーンと両手を下げて突っ立っている。次のパンチを出そうとした瞬間、アパートの住人がぼくたちの横を通り抜け階段を上がっていった。異様な雰囲気を感じたのか、こちら側をチラっと振り向いた。
 もう、やめようか? 一瞬ぼくはためらった。警察に通報されたら厄介だ。しかし次の瞬間には強い衝動が湧き起こり、ぼくのためらいを打ち消していた。
 今日やらなかったら、もう二度とこんな気持ちにはなれないかもしれない。こんな気持ちには、なかなかなれるものじゃない。ぼくの気持ちの正体、それは正利に対する深い愛情のようにも思えたし、積年の憎悪のようにも思えた。
 小さなガキの頃から見てきた正利、いつだってぼくを「せんせ、せんせ」と頼り、ぼくが世話をし、ぼくのものだった正利。しかし、いつだってぼくの思い通りにはならず、ぼくに迷惑をかけ、ぼくの足手まといになってきた。金を盗み、学園からは逃亡し、親方のところからは逃げ帰り、拾ってやったぼくには一度だって感謝するどころか店の金を盗んでいる。
 だけどこいつにはぼくしか頼るところがなかった。ぼくのところしかないんだ。そう思うとたまらなく愛しい気持ちが湧き起こり、同時に憎しみも湧いた。それらの相反する思いが入り混じり、入り混じれば入り混じるほど、ぼくを狂気の世界へ引きずり込んでいった。
 やがて迷いは消え去り、ぼくは確信した。
 やろう。やはり、やろう。
 今日やるしかないのだ。

■誰にもできない大変なこと

 二発目、三発目、四発目はためらいがすっかりなくなったこともあり、スムーズにまるで速射砲のように打ち出すことができた。
 左拳、右拳そして再び左拳、それらすべてが正利の顔面を正確にとらえて決まっていく。
 それからあとは……? 覚えていない。それからあとは断片すら思い出せない。なぜだろう? いったいぼくはあのあと何発殴ったのだろうか。あいつは痛がり、苦しみに身悶えたのだろうか?「せんせやめて!」と言ったのだろうか? 思い出せなかった。
 何も思い出せないことはなんだかもの悲しく、そして同時に少しぼくを安心させた。
 気がつくとぼくは日焼けサロンに戻っていた。どうやらぼくは戻るはずの時間から、かなり遅れて店に到着したようだった。そんなことは珍しいことだったので、アルバイトのスタッフは驚き、ぼくに聞いてきた。
  「どうしたんですか?」
 批判めいた感じではなく、どこか心配した口調だ。
  「いやぁ、前にも話したことあるけど、正利の奴また金を盗んでさ、まいっちゃったよ」
 努めて冷静にいつもと同じ口調でぼくは答えた。
  「そうですか、まだ治らないんですか。今度会ったらぼくのほうからも言っておきますよ。神山さんも大変ですね」
 そう、その通り。我が意を得たりだった。
 そうなんだよ。そうなんだ。ぼくは大変なことをしているんだ。どうだすごいじゃないか。ぼくは誰もやることのできない大変なことをしているんだ。
 表情にも口にも出さなかったが、内心ぼくはスタッフの言葉に過剰なくらい嬉しく反応していた。 (■つづく)

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