« ホームレス自らを語る/ヤクザからの逃避行・金本繁雄さん(35歳) | トップページ | ホームレス自らを語る/経営していた会社が倒産した・町田道彦さん(62歳) »

ホームレス自らを語る/連れ去られた子どもは笑っていた・山崎歌穂さん(49歳)

■「新・ホームレス自らを語る」に掲載                                 ※金本繁雄さんの回と多少内容がリンクします。

*         *           *

■あなたのダンナここにいるわよ

 生まれたのは東京都目黒区。五人姉妹の末っ子です。女ばかりで跡取りがいなかったものだから、私が婿をもらうことになるのかなとも思っていました。高校には行ったけれど、私にとっての大きな問題は結婚でした。卒業前に姉が跡を取ってくれたので、私は自由になったんですけれどね。
 卒業後に勤めたのは、飲食店やキャバレーをやっていた観光会社でした。私の働いていたビルは、一階から七階まですべてそこが経営していたんですよ。一階がキャバレーで、七階が私が給仕をしていたレストラン。そこで職場恋愛して結婚。それが21歳です。社内結婚なんてよくある話ですねよ(笑)。夫は機転のきく人だったの。私はデレスケが嫌いだから。
 結婚後、転勤で二人とも勤務先が仙台になったけれど、いい結婚生活が続いていたの。でも、ある日突然夫が家に帰らなくなったんです。ちょうど妊娠でお腹が大きいころですよ。これもよくある話よね(笑)。しかも毎晩、毎晩、女から電話がかかってくるの。「あなたのダンナここにいるわよ。くやしくないの」とかさ。
 さすがに女の子を出産したときには、毎日のように家に帰ってきてくれたけれど、すぐに帰らなくなりました。女からの電話も、またかかってくるようになりましたし。「今日、あたしの家から会社に行ったんだよ」とか。
 この浮気は病気だから治らないな、と思いましたね。それに、こんな男よりもっといい人いるかもしれないと思って、別れる決心をしたの。服だけ持って、子どもと一緒に姉の家に転がり込みました。世田谷区の大蔵にある一軒家に、すぐ上の姉が嫁いでいたものですから。子どもが1歳ちょっとのころだから、私は22歳ぐらいかな。
 しばらくは、ただ姉の家で一日を過ごしていたけれど、そのうち働きたくてしょうがなくなったの。そうすれば気もまぎれるしね。ゴルフのレッスンプロをやっていた姉の夫の紹介でゴルフ練習場の喫茶店でお手伝いをしていたんです。姉に子どもを預けてね。でも、そのうち姉が育児ノイローゼになっちゃって。姉も二人の子持ちだったから無理もないけれどね。
 それで世田谷に部屋を借りました。風呂付きのアパートですよ。子どもと二人、自立して暮らしていこうと思って。もちろんゴルフ場での仕事も続けながらですよ。それからほんのしばらくは、平穏に暮らしていたんですけどね。

■子どもから離れたすきに

 子どもが二歳ぐらいかなー。前の夫が子どもに会わせてくれと言ってきたんです。姉を通じて。少し迷ったけれど、「子どもがお父さんに会えるのは、これが最後だ」と思って承諾しました。別れた夫は仙台から来るから、会う場所は上野駅でした。
 その日は、上野でデパートに寄って、子どもの服を買いましたよ。負けたくなかったから。女手一つで育てているからみじめだ、なんて思わせたくなかったんです。お父さんに見せる最後のおめかしのつもりで買ったの。 いまでもはっきりと覚えていますよ。茶色のニットの半ズボンに茶色と黄色の横縞のセーターを着せて、白いハイソックスと赤い靴を履いて。上から下まで買って、デパートで着替えたんですから。
 別れた夫と軽い食事をして、コーヒーを飲んで、プラットホームまで見送りに行ったんです。そうしたら買い物を頼まれたの。「子どもがデパート行くと大変だから、俺が見てやるよ」なんて言われてね。当時は仙台まで長旅だったから、コーヒーとか弁当とか適当に買って、ホームに戻ったら列車が走り出していたわよ。子どもが列車の中に入るのが見えました。キャッキャ、キャッキャとうれしそうに笑っていたの。まだマンマぐらいしか言えない年齢だし、何が起こったのかわからなかったんでしょうね。普段からよく笑う子だったから。夫は発車時間をわざと教えなかったんですよ。どう考えても、子どもから離れた時間は30分もなかったから。
 私ね、半狂乱になって自分の姉に電話しましたよ。どうすればいいか聞きたくて。そうしたら姉が言ったの。「自分の子どもだから殺しやしないよ。子ども抱えていたら結婚も難しいし、自分の人生を生きなさい」って。 もちろん、そんなこと言われてもあきらめきれないから、夫の実家や会社に電話かけたけれど、夫が捕まらないの。彼の親なんか「あなたとうちの子どもは離婚したんですから、一切関係ありません」でガチャン、だもの。
 夫がどこに住んでいるかもわからない。広い仙台を一人探し回るわけにもいかないでしょう。でも、子どもがいなくなったのは、やっぱりショックでね。円形脱毛症にかかっちゃいました。10円玉ぐらいのハゲが三つも。先生に「どうしたら治りますか?」って聞いたら、「神経を図太くしなさい」と言われたけれど、なかなか治らなくてね。
 しばらくはゴルフ場で働いていたけれど、やっぱり仕事が自分に合わないと感じて辞めました。25歳前後のころです。それから水商売の世界に入ったの。お金を貯めて子どもを取り返してやるって気持ちもあったしね。 そりゃ最初はおっかなびっくりで、心臓バクバクでしたよ。周りの人が助けてくれたから、楽しく仕事することができたけれどね。26歳のときには店のお客さんと一緒に住み始めたの。相手も離婚経験者でね。でも、彼が店を始めたころからうまくいかなくなって、最後、置き手紙をして部屋から去っていきました。
「いろいろと世話になって、どうもありがとう。体に気を付けて、元気にがんばれ」。いまでもその置き手紙の一節を覚えています。

■寂しいから毎日飲み歩き

 そのあとは友だちが始めた中目黒の店で働いたり、渋谷の歌舞伎という店で働いたりしていたんだけれど、32歳のときに偶然に再会した前に勤めていた観光会社の人から、千葉で一緒に働かないかと誘われたの。
 当時、東京に嫌気がさしていてね。寂しいから毎日飲み歩いて。その日々の繰り返しだったから。30歳ぐらいまでは、絶対に子どもを取り返そうと思って頑張っていたんだけれどね……。偶然に会った人とは、男と女の関係ではなかったから、一緒に働き口を探すのは不安だったけれども、結局、東京を離れたの。
 千葉ではクラブで働いていました。ママがしっかりした人で、どんなに綺麗でも根性の悪い女の子は使わない主義だったんですよ。ここで40歳ぐらいまで働いていたかしら。
 もちろん仕事も楽ではなかったですよ。お客さんがツケで飲んでいくでしょ。その回収は、ホステスの仕事ですから。一時期、お客さんのツケが200万円もたまったこともあったのよ。千葉では、かなりの高級店でしたからね。もう必死に回収しましたよ。そのうち店を閉めるかもしれない、なんて女の子の間でうわさが流れ始めたの。これはモタモタしていられない。いつ給料が支払われなくなるかわからない。そう思って、クラブを辞めました。
 次の職場を探さなくちゃいけないなと思っているとき、喫茶店か何かだったかで、すごくきれいでさわやかなコに出会ったの。その娘が、「私はソープランドで働いてます」と言うのよ。そんな風に見えなかったから驚いちゃって。
「店にいらっしゃいよ。のぞくだけでもどう?」なんて誘われたけれど、さすがに「ソープランドはやだわー」って断っていたの。そうしたらアパートに店から電話がかかってきてね。「お茶飲むだけでも来ませんか」って。きっと彼女が私のことを話したんでしょうね。それで、とりあえず店に行ってみたの。
「ここはやくざの店ですか」って、まず私は聞きました(笑)。やくざと関わりになるのは嫌だったから。「そんなこと言ったら、みんなやくざの店になっちゃいますよ。安心してください」って返されましたね。年齢が不安だったけれど、40歳を超えたような人もいましたからね。それに感じのいい女の子ばっかりだったから。なにより食べていくためにはね……。
 1時間半で昼2万5000円、夜が3万8000円の店だったから、けっこう高級店ですよね。最初は、店の人から洗い方やらマットプレイを教わって。そりゃあ、恥ずかしかったですよ。見ず知らずの人の前で裸になるわけだから。
 最初のお客さんのことは覚えてます。入れ墨があったから。やっぱりやくざの世界だと思って、怖くて怖くて。何をやったかは覚えていません、緊張していたから(笑)。
 最初のころのお客さんは、気の毒だったかもしれませんね。教科書通りにしかできなかったから。そのうち要領もわかっちゃって。これはもう楽しく働きましょうと気持ちを切り替えて、頑張りました。でも指名を取るのが大変になり、店自体も女の子が二人辞め、三人辞めしていったの。結局、2年半働いて辞めました。
 次、なんの仕事をしようと思って電話ボックスで見つけたのが、ホテトル。チラシを見るまでは、ホテトルなんて商売知らなかった。電話したら「車で行くから待ってろ」と言われて、簡単な面接されて、その日から仕事ですよ。自宅で電話がかかってくるのを、ワンピース着ながら待っていましたよ。こうなればヤケのヤンパチよ。初めてのお客さんはサラリーマンでした。怖くなかったかって。いや、何かあればホテルまで送ってくれる男の人に電話すればいいんだから。もちろん不安はあったけれど、一対一の仕事だから仕方ないでしょ。
 しばらくホテトルで食べていたけれど、仕事が不安定なんですよ。いつ電話がかかってくるかわからない。夕方5時から朝の五時まで待つんだけれど。今日はないかと思うと、朝方に電話あったりするから。あてにならない仕事じゃないですか。

■一般人に見えた彼

 ちょうど仕事に行き詰まっていたころに、埼玉の公園でたばこを吸いながらボーッとしていたら、酒を飲んでいる集団がいたの。中年のおっさんやおばさんが宴会でしょ。なんだろう昼間からと思って、よく見たらプー太郎の集団だったんですよ。気楽でいいなー、なんて思いました(笑)。
 そのうち、おばさんだかおじさんだかが「お姉さん、ひまだったらこっちで飲まない」と声をかけてくれたの。何となく仲間に加わったら、そこにフラッとさわやかに現れたのが彼(★金本繁雄さんの回参照)だったの。彼は、そこで飲んでいた連中と全然違ったんですよ。清潔で、一般人かと思ったの。「オレ、プー太郎」と言われて、「えっ」と思ったんですから。それで私から声をかけたの。「パチンコ屋にいてね」って。
 いてもいなくても、と思ったの。でも、いてくれて。それから一緒に行動するようになったんです。何気なく、自然にね。その日は公園のベンチで寝ました。プー太郎が横にならないように、ベンチの真ん中に仕切りがあるやつですよ。次の日は、変電所の裏に段ボールを敷いて寝ました。やっと人に見られないところで眠れる、と思いましたね。
 それから彼がビラ貼りしていて警察に捕まったあと、彼の昔のツテでアパートを借りて、二人とも仕事を始めたんです。私は、貯金をして、普通の生活がしたかったの。でも、お金のないほうがうまくいくみたい(笑)。 ケンカも絶えなくなって、彼もスネて仕事を休むの。そうすると同じ系列の会社で働いているから、毎日、聞かれるんですよ。「彼はどうしたんですか」「部屋にいますか」って。そのたびに風邪をひいて熱があるとか、毎日、うそを言わなくちゃいけない。それがつらかった。それで会社を辞めて、彼と別れて渋谷の知り合いの家に身を寄せたんです。
 元プーの人でね。ビルのオーナーに拾われて掃除なんかをしている人なの。昔、声をかけられたんですよ。「トシだから女なんてどうしようもない。話し相手がほしい」って。私ね、男の人には慎重なんですよ。危ないところにはいかないから。
 その家に三ヶ月ぐらいいたかしら。でも、その人も私に気を使っていたし、ビルのオーナーからは女を連れ込んでいるように見られるし。それで家から出てきました。

■回らされたサラ金

 戻った場所は、最初に彼に会った埼玉の公園です。そこのグループをまとめていた人が、「俺のところに来たらどうだ」って誘ってくれたんですよ。そのグループは捨てられた廃車を家代わりにしていたんだけれど、私にも廃車一台譲ってくれたの。でも、しばらくして彼は亡くなりました。朝、動けなくなっていて、みんなあわてて救急車を呼んだけれど、助からなかった。心配で私も病院に行ったけれど、親族もいてね、プーは会えないんですよ……。
 それから何日かたった夜、今度は「プー狩り」があったの。バットを持った男が、自動車のガラスを手当たりしだいに割っていくんです。怖かったですよ。そんなときにやくざ屋さんの甘いワナにはまっちゃったのね。
「プー狩り」の次の日かな。ワゴン車でプーを集めていたんです。そのうちの一人に「料理は作れるか」と聞かれて、「普通のだったらできますよ」と答えて。それで採用になりました。最初は紳士的だなと思ったんですよ。連れていかれたのは、社長の自宅でした。若い衆が社長を「おやじ」と呼ぶのも、土建屋の「おやじ」だと思っていたんです。自宅に着いて挨拶を済ませても、まだやくざの家だとは思っていませんでしたよ。
 変だなと思ったのは夜の宴会が始まってから。プー太郎と子分が取っ組み合いのケンカを始めたんです。コップや皿は投げつける。割れた皿の破片が畳に散らばる。しまいには障子に突っ込んで、桟までバラバラになっちゃうし。私は台所にいたんですが、すごいところに来ちゃったなーと思いましたよ。ずいぶん時間がたってから、「いつまでやっているんだ、やめろ」って社長から声がかかって、やっと取っ組み合いのケンカが終わりました。しばらく飲むと、社長は部屋に待たせてあるフィリピン女のところに行くから、宴会はお開きになるんです。
 でもこの日が特別だったわけじゃないの。二ヶ月近くいたけれど、毎晩取っ組み合いのケンカが始まるんだから。慣れてきてからは台所で「ヤレヤレ!」なんて思っていたけれど(笑)。
 しかも社長は、覚せい剤もやっていたみたいなんですよ。「俺の部屋には絶対に入るな」とか、「俺の部屋は掃除しなくてもいい」とか、常々言っていてあやしいとは思っていたんです。ある日、台所で「ちょっと、そこどけ」と後ろから言われたの。よけたら流しで注射器を洗い始めたんです。でも、自分で覚せい剤を使っているなら、私にむりやり打つようなことはないな、とも思いました。もったいないから他人に薬を打たないでしょ。 一番困ったことが起きたのは、働いて10日ぐらいたったころです。「免許あるか」って最初に聞かれたの。免許は持っていなかったけれど健康保険証を持っていたんです。サラ金を回らされましたよ。若い衆が近くまで付いてきて、五、六軒行かされました。働き始めてすぐ、住所不定になって本籍地に戻っていた住民票を取り寄せて、社長の家に変更させられたから少し変だとは思っていたんですが。
 借金なんかしたくなかったから、審査のときに、兄弟もいない、保証人もいないと言い続けました。そのおかげで借金ができなかったんです。結局、一軒も借りられなくて家に帰ったら、社長が怒っていてね。「オイよ。オレに協力する気がないのかよ」とすごむの。
 私も怖かったけれど、「協力する気なんかないよ」って答えたら、「これが惜しくねえのか」って自分の小指を立てました。何も言えなくてね。そのうち「飯の支度しろ」って命じられて、話はうやむやになりましたけれどね。
 お金は払ってくれないし、怖いし。辞めたいけれど勝手に辞められないじゃないですか。でも、辞めるときはあっけなかったんです。社長からセックスを求められたから拒んだの。そしたら「役に立たないアマだな。辞めていいよ」って。これはチャンスだと思って、「いろいろありがとうございました」って言って、外に置いてある誰のだかわからないチャリンコに乗って逃げ出しました。
 心配なのは、保険証を置いてきたことです。実家にも五年以上連絡していないけれど、保証人とかにさせられていないか心配ですよ。この状態じゃあ、連絡もできませんけどね。
 それから彼に再会して、また一緒に暮らし始めました。

■やるときはやってくれる彼

 うん、子どもには会いたいですよ。でも、お母さんどこに住んでいるのとか、電話番号を教えてって言われても困るしね。私が35歳ぐらいのときに夫の実家に電話したことがあるんですよ。ちょうどいじめがはやっていたから。おばあちゃんが出て、「いい子に育っているよ」って……。その一言で「よかった」と思って……。私にはひどい男だったけれど、ほかに子どもをつくらなかったらしいからね。それはよかったなって。
 いまは楽しいですよ。彼は優しいし、裏切らないでしょ。女とかつくっても、うそがすぐバレるような性格だから(笑)。いまの方が私もいいの。歳を取っていろいろな経験をしましたから。若いときは、その人しか見えなかった。相手をかごの鳥にしたかったからね。人に対する野心みたいなものもあるし。
 彼はね、言葉とかきついこともあるけれど、やるときはやってくれる。いつもきれいなものを着るために、洗濯もしているし。「どんなに困っても、人に物をもらうな」って彼は言うの。その通りだと思う。本当の「乞食」になっていないのは、この人のおかげです。
 もちろん私は彼より年上だしね。別れがくるかもしれない。でも、後腐れなく別れようねって約束しているんです。道で会ったとき、「元気?」とか言えるようにね。 (■了)

|

« ホームレス自らを語る/ヤクザからの逃避行・金本繁雄さん(35歳) | トップページ | ホームレス自らを語る/経営していた会社が倒産した・町田道彦さん(62歳) »

ホームレス自らを語る/大畑太郎・神戸幸夫」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/389724/7115636

この記事へのトラックバック一覧です: ホームレス自らを語る/連れ去られた子どもは笑っていた・山崎歌穂さん(49歳):

« ホームレス自らを語る/ヤクザからの逃避行・金本繁雄さん(35歳) | トップページ | ホームレス自らを語る/経営していた会社が倒産した・町田道彦さん(62歳) »