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ホームレス自らを語る/母親の面影を追い求めていた・川原太一さん(46歳)

■月刊「記録」1999年10月号掲載記事

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■母親不在で育った

 物心がついたころには、家にはもう母親はいなかったんだ。オレの小さい時分に、父親と離婚したらしい。なんで別れることになったのか、誰も教えてくれないし、オレも聞かなかったから、いまでも理由はわからないな。母親が自分から家を出たのか、出されたのかかもね。 生まれたのは青森県の十和田市。父親と兄貴、それにバアさんの4人家族で、このバアさんが母親代わりになってオレたち兄弟を育ててくれたんだ。父親は市役所が発注する土木工事を専門にしている会社で働いていた。まあ、サラリーマンだね。優しい父親だったよ。
 もともとうちは田んぼや畑のいっぱいある物持ちの家だったらしい。それが借金のカタにみんな取られちゃったようだね。それもオレの小さい時分のことで、原因とか理由はわからない。両親が離婚したのも、それと関係があったような、なかったような、それもよくわからないな。
 小学校の6年生のときに、こんなことがあった。学校から帰ってみると、家の玄関に見なれない履物が脱いであった。座敷に上がってみると知らない女の人がいてね。その人と目が合って、しばらく二人で見つめ合った。オレは急に心臓がドキドキしてきた。女の人がオレに話しかけようとしたとき、部屋にバアさんが入ってきて、「おまえは会っちゃあいけない人だ。向こうに行ってろ」って座敷を出されてしまったんだ。子ども心にも、その女の人がオレの母親だとわかった。
 しばらくして、玄関で音がするんで部屋の窓から外をのぞいたら、帰っていく母親の寂しそうな後ろ姿が見えた。オレも胸がいっぱいになった。母親を見たのは、あとにも先にもそのときの一回きりだ。座敷でオレに話しかけようとしたときの顔が、いまでも忘れられないね。 あとになって教えられたんだけど、あのとき、母親はオレを引き取らせてくれって頼みにきたらしい。だけど、バアさんが許さなかったんだね。その話を聞いて「兄貴を置いて、オレ一人だけが母親についていくわけにはいかない」と思ったことも覚えているよ。ただ、母親がオレを引き取りたいって来たということは、男をつくって逃げたとか、そういうことじゃないと思うからね。それが救いっていうか、ね。

■集団就職列車で上京した

 中学校を卒業して、東京に出てきた。集団就職というやつだね。3月20日の夜、三沢から夜行の臨時列車、あのころは集団就職列車と呼ばれていたのに乗ってね。故郷を離れる不安はなかった。若いから希望に燃えていたくらいだった。兄貴も集団就職で先に東京に出ていたし、それに母親の実家が東京にあったんだ。東京に行けば母親に会えるかもしれないという、淡い期待もあったかもしれないな。
 次の日の朝、上野駅に着いた。ホームに兄貴が出迎えてくれた。ただ、そのときに兄貴が「母親は死んだと思って働け」って言うんだ。そのとき、なんでそんなことを言ったのか、いまでもわからないね。オレが東京に出てきたのを、兄貴には母親を探しにきたように見えてたのかもしれないね。それとも、兄貴は両親の離婚の真相を知っていて、そんなふうに言ったのかとも思うね。
 オレが就職したのは、川崎にあった自動車会社のトラックの製造工場。鋳物の型をつくるのが仕事だった。そんなに大変な仕事じゃなかったよ。鋳物といっても型をつくるだけだから、熱くてかなわんとか、すすだらけになるとかはなかった。金属を溶かして型に流し込んだりするのは別の工場の仕事だったからね。重い物はみんな機械で吊ってたし、まあ仕事は楽だった。
 会社には養成工の制度があって、オレもそれを利用した。週のうち三日間だけ工場で働いて、あとの三日間は学校に通える制度なんだ。工場の敷地の中に学校があって、一学年一クラスで40人、四年制で卒業すると高校の卒業資格がもらえた。だけど、結局1年くらいで工場も学校も辞めてしまった。
 なんで辞めたのかって? 同じ中学の同級生だったのが、(埼玉県の)戸田の町工場で働いていて、そいつに自動車会社より給料がいいから来ないかって誘われたんだ。その町工場は荒川の土手の下にあって、従業員も7、8人しかいないちっぽけな工場だった。カメラの部品をプレス機械でつくるのが仕事で、給料はホントによかったよ。まあ、給料のこともあったけど、自動車会社には話をする友達が1人もいなかったからね。友達がほしかったのさ。だけど、その町工場にも4年くらいしかいなかった。
 東京へ出てきてから、ずっと母親のことが気になっていてね。母親の実家は(東京の)三鷹にあって、そこを訪ねれば何かわかるかもしれないと思ってたけど、どうしても行けないでいたんだ。行けば母親がオレたち兄弟を置いて家を出ていった真相が明かされるようで怖いような気もしてね。
 20歳のときだったかな。それでも母親の消息が知りたかったし、できれば会ってもみたい気持ちが強くなってね。自分では行く勇気がないから、兄貴に頼んで行ってもらったんだ。三鷹の実家にはジイさんとバアさんが住んでいたらしい。でも、母親はいなかったそうだ。ジイさんたちにも行方はわからないという返事だったようだ。そのことがあってから、オレも母親のことはあきらめよう、もう忘れようと思ったね。

■不況で土方仕事がなくなった

 プレスの町工場を辞めてからは、いろいろ働いたよ。スナックや飲み屋の水商売をしたこともあるし、雀荘の店員や鳶職もやった。でも、一番長かったのは土方だったね。港の岸壁をつくったり、ゴルフ場の造成とか、山留めの工事なんかが多かった。
 仕事はいろいろ替わったけど、オレは真面目なもんだったよ。はじめのうちは貯金だってしていたしね。酒もギャンブルも少しはしたけど、のめり込むほどじゃなかった。楽しみは映画を見るくらいだったね。結婚もしなかった。結婚のことなんて考えたこともないし、その必要を感じたこともないしね。
 ホームレスになったのは、98年の11月から。それまで25、26のときから土方の仕事をしてきて、ずっと飯場で暮らしてきたんだけど、仕事が減って飯場暮らしができなくなったからだよ。はじめは荒川の千住大橋の下に寝たんだ。別にどうという感想もない。住むところがないんだから仕方なかった。橋の下にはほかにも3、4人が寝ていたけど、誰からも文句は言われなかったしね。
 橋の下で寝起きしながら、上野の手配師のところに通ったんだけど、いくら通っても仕事を回してもらえないんだ。それでこっち(新宿)に移った。このあいだ、そこの公園で手配師をしていたのに会ったよ。手配師までがホームレスになっているんだから、よほど仕事がないってことだよね。
 兄貴はまだ東京にいるよ。結婚して、子どももいて、いまは府中のほうに住んでいる。オレだっていつまでもプータローをやっているわけにはいかないけど、40面をさげて兄貴のところに頼ってはいけないしね。
 この歳になっても、まだ母親に会ってみたい気持ちはあるよ。だけど、もう母親も70を超えているはずだから、いいバアさんになっているよね。街で会っても、オレのことなんかわからなくなっちゃってるんじゃないかな……。 (■了)

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