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だいじょうぶよ・神山眞/第39回 一つの決断

■月刊「記録」2002年12月号掲載記事

*           *           *

「先生、困るんだよ。実里の奴、いきなりお姉さん連れてきましたよ」
  「…はあ、お姉さんですか…」
 土曜日の朝、また朝早くから電話が鳴った。
 朝一番の電話は、きっとろくなものじゃない。だが、居留守を使おうと思ったときにはすでに遅かった。手が条件反射で受話器を取ってしまっていた。
 電話の主は親方だった。親方からの正利に対しての苦情の電話だった。寝起きのぼくの頭は、まだほとんど働いていなかった。お姉さんが、正利の寮へ行くなんて、確かに珍しいことだとは思う。でも、それが苦情を言われるような、いけないことだとは思えなかった。
  「お姉さんが行くと、何かまずいんですか?」
  「いやぁ、お姉さんが来たとたん、二人で荷物をまとめて出て行こうとしたんだよ」
  「はあ?」
  「本日限りで“辞めさせていただく”ってお姉さんが言うんだ」
  「はあ?」
  「それで先生のところへ行くって言うんだよ。いったいこの前実里に会ったとき、何を吹き込んだんですか」  「いや、特別なことを言った覚えなんてないんですが…。あいつの悩みを一方的に聞かされていただけなんですけど。…でも、何だって“本日限り”なんて言い方をして、荷物までまとめちゃったんでしょう?」
  「お姉さんねえ、実里の給料が少ないんじゃないか?  って言うんだよ。そんなことはないって言っても、搾取してるんじゃないか?  みたいなこと言うんだよ」
  「……」
  「そんなことあるはずないでしょ。“だいたいどこからそんな話が出てきたんだ?”って聞いたらね、弟は7万円の小遣いがあるはずなのに、2万円くらいしかもらってないって言ってる、って言うんだ。実里の言うことは信用して、私の言うことは納得しないんだよ、どういうことですか、先生」
 どういうことですかと言われても困るが、たしかに親方の言う通りである。なぜお姉さんは、“あの正利”の言うことを一方的に信じてしまえるのだろう。つまりそれは、それくらい、正利との接触が少ないということだ。正利の言い分を簡単に信じて行動に移せるほど、正利を知らないということだ。
  「でも、そんなの、お姉さんに給料明細なりなんなりを見せれば済むことじゃないんですか?」
  「そうなんだ。だから見せたんだよ。見せたけど、ほら、うちは明細が手書きだろ?  コンピュータとかワープロなんてもんは使ってないんだよ。うちのカミさんが手書きで書いてるんだよ。そうしたらね、なんか怪訝な顔してね、疑わしそうな顔して“わかりました”って言って帰っていったよ。あの人はね」
  「じゃあ、よかったじゃないですか」
 寝起き頭のぼくの呑気な答えに、親方はどこかが切れたらしい。急に苛立たしげな声で苦情を言い始めた。
  「冗談じゃないよ先生、問題は実里のほうだよ。辞められなかったからって、ぶすっとしててよ、もうずっとだよ。ろくに口も利かないし、仕事もしないでボーっと突っ立ってるよ。“お前なんで仕事しないんだ”って言うと“おれ、せんせのとこ、いくから、いい”って、こうだよ。“先生のところへ行くのはかまわんから、今は働け”って言ってもダメ。もう呆れて何も言えないし周りも何も言わないよ。どういうことなんだよ、先生」
 話しているうちに、いろいろ思い出されてくるのか、親方の口調は次第に激しさを増していった。
  「小遣いはすぐに使っちまうし、その日の弁当代と往復の交通費渡しても、昼の休憩時間に全部使っちまう。それで現場の帰りには、改札のところでボーっと突っ立っててよ。“何してる、切符買え”って言っても何も言わない。ははあ、こいつ金がないんだと思って切符買ってやっても、礼も言わない」
 まくし立てるように親方は続ける。合間に言葉を挟もうとしたが、親方の剣幕に圧されて、何度も失敗した。だが同時に、親方の言葉を聞くうちに、ぼくのなかには次第にある決心が固まってくるのを感じた。
  「先生、あいつはな、結局のところ、どうよくしてやったって何とも思ってないんだ。仕事はしないけど金は欲しい、そういう奴なんだよ、あいつは」
 今までの不満が溜まっていたのだろう。さんざん苦情を訴えた挙げ句、最後の最後に親方はこう言った。
  「先生、うちはもう、あんな奴いらないんだ。迷惑なんだよ。慈善事業じゃないんだ、先生。あんたんとこでなんとかしてくれよ。今すぐだよ。半年先とか一年先の話じゃない。今すぐだ」
  「わかりました」
 自分でも驚くほどはっきりした声が出た。
 決まったのだ。これで何もかも決まったのだ。声に出してしまって自分のなかにあった迷いが一気に吹き飛ぶのを感じた。もう考えている場合じゃない。迷っている場合でもない。ぼくは心のなかに温めていたある計画を今すぐ実行するべきだと、そのとき決断したのだった。 (■つづく)

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