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だいじょうぶよ・神山眞/第38回 早朝の電話

■月刊「記録」2002年11月号掲載記事

*          *          *

 秋深まり、冬間近の朝、ぼくは電話のベルで起こされた。正利からだった。暗く沈んだ声。なんでも仕事を辞めるという。
 たまの休日、ゆっくりとまだ寝ていたいところに、また、やっかいな問題が割り込んできた。細かいことはわからないが、声の様子からするとなにやら事態は深刻な様子だった。
 ぼくは、今すぐ、ぼくのアパートへ来るようにと正利に指示した。すると“金がないから、こっちまで来てほしい”と言う。親方から借りればいいじゃないかと伝えても「あのひととは、口をききたくないのよ」と言う。 あきれた奴だ。何か無性に腹が立ってきた。今すぐに会ってやる必要もないか、という思いになり、
「わかった。そっちに行く。だけど昼は用事があるから、夜にな」
 そう言って、待ち合わせの場所を決め、ぼくはもう一度眠りについた。
         *
 待ち合わせ場所に着くと、かなりの人混みだった。正利を探すことができるかどうか心配になった。
 しかし、不思議なものである。すぐに見つけることができた。遠くから見ているのに、こんなに周りには人がいるのに、正利のいる場所だけに、スポットライトが当たっているように、見つけだすことは容易であった。
「待ったか?」声をかけてみる。
「あー」浮かぬ顔でも、ぼくに会えて嬉しそうな顔でもない。ただただ無表情。
「何か、麺でも食いながら話でもしようか?」
「あー」正利は、ぼくの顔を見ようともしない。
 ぼくからは、スポットライトが当たっているかのごとくあいつが見えているというのに、正利には、ぼくのことなどまるで見えていないようだ。
 レストラン街に入ると、一番手前にお好み焼き屋があった。
 ここでいいや、と、ぼくは思った。ラーメン屋を探す手間が面倒だった。
「おい、ここに入るぞ」
「……」何も答えがない。
「おい、入るぞ」
「……」
「おい、聞こえてんのか?」
「……」
「おまえが相談があるっていうから、おれはわざわざ来たんだぞ」
「……」
 何を考えているのか、さっぱりわからない。浮かぬ顔、焦点の合わぬ視線、ただボーっと突っ立っている。
「おい」と、僕が語気を強めると、あいつはようやく重い口を開いた。
「おれ、きょうは、ハンバーグがいいとおもうのよ」
「はあ!?」
 本当にあきれた奴だ。悩み事がある、相談事がある、仕事を辞めたい、と言っている人間の言葉とは思えない。だから朝っぱらからの電話なんてろくなもんじゃないと思ったのだ。
 受話器を取るんじゃなかった、心からそう思った。
「あのね、おれはハンバーグどころじゃないんだよ。時間ないの。明日も仕事があるの。ここで食うよ。ここで決まり。はい、入るよ」
 無理に店内に正利を連れ込み、席に落ち着き「仕事、やめたいんだって?」と、ぼくはさっさと話を始めた。「あー、うん」
「なんで。理由は?」
「……」
「おまえね、理由もなしに辞められるわけないだろ?」「……」
「おい、わざわざ遠くからおまえの相談に来てんだから、口ぐらい開けよ」
 ぼくがムッとし強い口調で言うと、あいつはやっと、「おれ、…みんなに、なぐられるのよ」と口にした。
「はあ、本当か、それ?」
 そのとき、ぼくたちの前に水とおしぼりが運ばれてきた。
 おしぼりを取り上げ、拭った正利の手は、あまりにも汚れていて、みるみるうちに、おしぼりは真っ黒になった。驚いてよく見ると手だけではない。服も髪の毛も、何かすべてが汚れているように見えた。いや、明らかに汚れている。正利は、もう何日も風呂には入っていないようだった。
「誰に殴られるんだ?」
「みんな」
「おまえ、そりゃあ大げさだろう」
 いくらなんでも、みんながこぞって正利を殴るわけないさ、そう言ったぼくの前で、少し不満そうに首を傾げたあいつは、
「おれ、せんせいになんていわれても、やめるからね」 と言った。
 こういうときの正利は、強情で手に負えない。 (■つづく)

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