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だいじょうぶよ・神山眞/第37回 境目の日

■月刊「記録」2002年10月号掲載記事

*           *           *

 市営プールでの待ち合わせに、とうとう正利は来なかった。
 約束を守らなかった。そんなことは今までもしょっちゅうだ。日常茶飯事のことである。
 そもそも約束を守る、あるいは覚えているということのほうが、あいつにとっては、難しいことなのだから。 しかし、この「市営プールに正利と友人が来なかった」日が、思い返せば、ぼくと正利との関係の一つの境目であったように思う。
 あの日を境に、ぼくと正利との本当の意味での付き合いが始まった気がしてならない。それまでは、どんなにあいつが脱走しようと逃げようと、施設が責任を取ってくれていたが、これからはそうもいかないのだった。ましてや正利の姉は、いつでも責任を取れる距離にはいない。
 つまり、正利と付き合うこと、それに伴う責任とリスクを本当にぼくが覚悟していかねばならない日が、このあたりから始まっていたように思う。

■愚痴だらけの電話

 順調にいっていると再三言われていた正利の仕事と職場での人間関係は、じつは、すでにこのとき、破綻しかかっていた。
 仕事場でのあいつが、仕事ができないのはわかっていた。それを承知で採用したのは、親方のほうである。現に親方は、「長い目で見て一人前になってくれれば、それでいい」と思ってくれていたようだ。事実、親方は、正利には、いきなり無理な仕事はさせなかった。正利はいわゆる、見習い的な立場なのだった。
 通常、職場に入ってから、2~3か月もすると、先輩につき、同じような仕事をし始めるのだが、親方の配慮によって、正利はまだ見習い的な位置にいた。
 3か月たっても、4か月たってもそれに甘え、陽射しの強い夏、猛暑の中、汗水たらし働く同僚・先輩たちをよそに、正利は日陰でいつもぼんやり突っ立ったままでいた。
 突っ立ったままの正利は、いつの間にか手を膝にやり、次には腰を曲げ、気づくと今にも座りそうであった、という。
 そんなことが度重なると、先輩・同僚たちの不満はつのった。「あいつは見習いだから」そう親方から説明されていた彼らの感情は、だから、まず、親方にぶつけられた。
「なんで、俺たち、あいつと同じ給料なんですか?」
 同僚はこう言った。
「見習いなら、給料を減らしてもいいんじゃないですか?」
 聞いていた先輩たちも同意見であった。
 それでも親方は、施設出身者である正利には優しかった。
「あいつは、雑用をやっているんだから」
 そう言って、皆をなだめてくれていたという。
 もちろん、親方の言葉に、「まあ、ぼーっとしているけど、おもしろいやつだしなあ」と、なんとなく受け入れてくれている先輩もいた。
 しかし、雑用といっても、ジュースやタバコ・弁当の買い出し、食事の後かたづけなど、微々たるものである。到底、納得などできずに、正利に無理に仕事をさせようとする先輩も現れ始めた。
 一輪車にコンクリートを詰めて、正利に運ばせる。すると非力で要領のつかめない正利は、よろけてコンクリートをぶちまける。それ見たことか、と、先輩は、やって来て正利の頭をポカリ。
 そんなことが続いていたらしい。正利はプールでの約束を破ったにもかかわらず、以来、ぼくに頻繁に電話をかけてくるようになった。
「せんぱいが、ぶつのよ」
 思い出してみれば、そんなことをよく言っていたように思う。
 ぼくは、まだそのとき、正利の訴えをあまり気にとめてはいなかったが、正利が明るい声で、職場のことや同僚のことを話すことが、あの夏のプールの日以来、なくなっていたことは事実だった。
「つかれたのよ」
「からだがしんどいのよ」
「おかねがたりないのよ」
「どうりょうと仲良くはできないのよ」
「おやかたは、つめたいのよ」
 そんなことばかりを電話をかけてきては、延々と愚痴る日が続く。
「そんなに話したいことがあるなら、俺のアパートに来いよ」
 ぼくのほうも自然と、頻繁にあいつを誘うようになっていった。 (■つづく)

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