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ホームレス自らを語る/29歳で消えた光・児玉正太郎(50歳)

■月刊「記録」2002年1月号掲載記事

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■白内障が突然に

 横断歩道の前でパッと消えたんです。歩いているときに。目に幕がかかって、その瞬間に消えました。左目はモヤモヤと白い感じでしたけれど、右はわからなくなったんです。いや、申し訳ないけれど、暗くなったんじゃなく消えたんですよ。あっけなかったですね。シュンっていう感じですか。
 当時住んでいた横浜の寿町の近くでした。申し訳ないんですが、周りの人に助けてもらって病院にね。医者に懐中電灯で照らされたとき、左目は光が見えたんですよ。でも右目はわかりませんでした。診断は白内障。もちろん視界が消えたときに、目が見えなくなったのはわかっていたんですがね。
 それから入院です。手術までは長かったですよ。半年待ちましたから。準備が大変なんです。執刀してくれる先生の順番も待たなくちゃいけませんし。手術が終わって、左目は少し見えるようになりました。視力はわかりませんが、福祉でいえば五級ぐらいだと思います。メガネをかければ、もう少し見えるようにもなると思うんですがね。
 退院してからは、申し訳ないけれど福祉施設にお世話になりました。一部屋に八人ぐらい入れられましたが、ベッドは一人一人別ですし、ごはんも食べられますし、テレビだって見られる。たばこもね。風呂は順番に入るんですがね。しなくちゃいけないのは掃除ぐらいでした。何も困ることはありませんでしたよ。
 でも入って2ヶ月ぐらいで、申し訳ないんですが、施設を逃げ出しました。病院に通院したとき、何となく帰りたくなくなっちゃったんです。神奈川県相模原市の病院から横浜市の施設に帰らなくちゃいけないのに、山の方に行っちゃいました。気づいたら箱根ですよ。自信がなくなっちゃったんです。集団生活というのもあります。人に対して悩んでいた面もあるんですね。自分自身のワクというのかな、思いというんですかね。自分の壁があったんです。越えられないね。白内障になって、昔より弱くなっちゃったということですかね。
 自分では、まだ働けるとも思ってもいました。もちろん一人で暮らすことと施設での生活を考えれば、施設の方が安心だとは感じていましたよ。それなのに自信をなくして施設を出たんだから、矛盾していますよね。結局、29歳で失明してから21年間、ホームレスですよ。
■本当の母ではなかった

 誕生日は、昭和26(1951)年7月16日。
 小学校1年か2年ぐらいですかね。母が死にました。アル中だったみたいなんです。死ぬ半日ぐらい前だったと思うんですが、寝ていた母に呼ばれまして。寂しそうな顔でね。死にそうな声というんですかね。「しょう坊」って。枕元にあぐらをかいたら、「しょう坊、あの、うちが本当のお母さんじゃないよ」って。自分が死ぬのを覚悟していたんでしょうね。
 それまでもハッキリと言われたことはなかったんですが、生みの親じゃないことは、ある程度わかっていました。本当の母親についても知らされていませんが、誰だか見当がついてました。親戚のようにつき合っていた母親の友だちです。
 その本当の母親に最後に会ったのは、白内障になる前、28歳ぐらいだったかな。「一緒にごはんを食べないかい」って誘われてね。いつもは一緒に食事をするんですが、その日は何か遠慮しちゃって。それきりです。いま? 恥ずかしい生活をしているから、会えませんよ。 母が亡くなったときは、申し訳ないんですが近くの幼稚園で近所の友だちと野球をしていました。その日、なぜか高ーいフライが捕れたんです。スポッと手に収まったの。いつもは捕れないのに。虫の知らせというのかな。
 それから父親は再婚して、その父も母が死んだ2年後に脳溢血で亡くなりました。僕を育ててくれたのは、継母です。中学まで一緒に暮らしましたよ。ウチは貧乏だったんですが、小学校6年のときには塾にも行かせてもらいました。でも僕はお小遣いがほしくて、塾をやめて新聞配達のアルバイトを始めたんです。小学校は産経新聞。中学のときは朝日新聞でした。
 中学を卒業してからは工場や水商売で働いていました。親戚の人に助けてもらって郵便局で働いたこともありましたね。でも郵便局に勤めていたのは申し訳ないんですが半年程度でした。
 いや、オートバイがほしかったんですよ。それで郵便局の仕事が終わってから、水商売で働き始めて、そのうちにやっぱり水商売に戻ろうと思って、郵便局を辞めました。いや、郵便局のお金は悪くなかったんですけれどね……。

■シンナーがやめられない

 スナックで働いていた21歳のときに、喫茶店のウエイトレスをしていた人と結婚。彼女は17歳でした。でも、結婚してしばらくして、僕は水商売を辞めたんです。胃潰瘍になりましてね。それから少し遊んでいたんですよ。妻が水商売で、家計を支えてくれましたから。ちょうどそのとき、申し訳ないけれどアンパン(シンナー)を始めたんです。
 昔、少しだけ吸ったことがあったし、いまよりも買うのは簡単でしたから。はんこがないと売ってくれなかったけれどね。ビニールに入れて、隠れて吸っていました。妻に見つかっては、「ダメだ」って意見されていたんですがね……。
 申し訳ないけれど、お酒を飲むよりもいい気持ちです。酔い方が違うというのかな。信じてもらえないかもしれないけれど、幽霊が見えるんですよ。チラッと人の姿が見えるの。吸うと。楽しいときには、若い女の子が見えたり、話し声が聞こえたり。
 お酒を飲むと吸いたくなるんですよね。寂しくなっちゃう。刺激が足りないというんですかね。だから雑貨屋さんで、ラッカーシンナーを買ってくる。悪酔いになるときもありましたよ。芯まで自分を追求しちゃうというのかな。自分の本当のみじめなところもわかっちゃう。それが嫌なんだけれど、もっと見たいという気持ちもあるんです。
 当時だって恥ずかしいと思っていたんです。20歳を超えてアンパンを吸っているなんて。羞恥心もあるし、落ち着かなきゃとも思う。でもやめられなくて。ついには頭が狂っちゃった。部屋に独りで閉じこもっちゃうんですから。仕方なく薬で治療しましたよ。恥ずかしい話ですが、アンパンのおかげで23歳のときに妻と別居、25歳で離婚しました。
 それからの仕事は、土木関係が多かったですね。それでも25歳ぐらいまでは、東京・葛西で借家暮らしをしていました。寿町のドヤに住むようになったのは、28歳のときかな。そのあとに白内障でしょ。
 施設を出て箱根に行ったあとで新宿に来たんですよ。2ヶ月ぐらいいましたかね。手配師に建設会社の仕事を紹介されて。でも、申し訳ないけれど一週間ぐらいしか続きませんでした。目が見えないと、やっぱり仕事にならないんです。

■私のいまは壁のシミ

 それからはスーパーが捨てた食べ物を拾い、歩いて日本を回るようになりました。一番西は名古屋まで行きましたよ。静岡県の朝霧高原で、3年以上暮らしたこともあります。平成に入ってからだから、38歳ぐらいですかね。ベランダのついた民家だったんですが、鍵がかかってなかったので入り込んで、住み始めました。
 そのときですよ。お金をもらうために、生まれて初めて箱を置いて座ったのは。申し訳ないんですが、フィリピンからの観光客に初めて助けてもらいました。そのときは100円玉があって、1円もあったかな。
 たまにいっぱいお金をもらうこともありますよ。伊勢志摩の国立公園では、2000円もらいました。あと、どうしてもお金が必要なときは、土地の役所に行くんです。なるべくアルバイトみたいなお手伝いさんが窓口にいるときをねらって。申し訳ないけれど、それで500円とか300円もらえますから。
 まだ50歳ですから、死ぬまでには北海道に行ってみたいんです。ただ道がわからないですからね。暗くなるととくに怖い。昔、栃木で猿が出てきて、僕が笑ったらカチンときたんでしょうね。襲われたことがあります。 仕事したいですよね。アンパンも買えるし。戻れるなら、アンパンをしていたころに戻りたいですもん。
 いまは壁のシミみたいな感じですね。20年も外で暮らしているんですから。 (■了)

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