保健室の片隅で・池内直美/第25回 新しい生活の中で
■月刊「記録」2000年8月号掲載記事
* * *
つい先日のこと、半年暮らした東京から千葉に引っ越した。そこに暮らした毎日を記憶ごと消してしまいたいと思ってのことだった。
原因は、夫婦仲が悪くなっていたこと。こんなふうに書くと、「なんだ夫婦げんかか」と思われるかもしれないが、それは私にとって、「夫婦げんか」という一言で表せるような感じのものではなかった。
私はこのところ、ずっといら立っていた。最初、いら立ちの原因が何であるのか、自分でもわからなかった。けれどあとから思えば、それは、嫌なことを「嫌だ」と気づくことのできない自分の性格だった。
私は、夫婦生活という共同生活の場で、気づかぬうちに、いつも相手の顔色をうかがい、いうままになって行動していた。
私の生活は、自分を押し殺した毎日の連続になっていた。
夫婦といってもしょせんは他人だ。ともに暮らすには「協調性」も大切だ、とはよくいわれているけれど、それは互いに自分の考えをもったうえで、認めあったり助け合ったり譲り合ったりすることであるはずだ。けれども私には、協調するための自分自身さえもなかったのだった。
私はもともと、誰といても行動を相手に合わせてしまうタイプの人間だ。だから、そのこと自体が苦しいと思うことは今まではあまりなかった。けれど家から外に出ていって少しの時間だけ相手に行動を合わせているのと、生活の場で相手にすべて合わせているのとでは、おそらくストレスの度合いが違ったのだろう。
私は、数ヶ月前から、毎日の生活が何か苦しいと感じ始めていた。けれど自分が何にいら立ち、何が「嫌」なことであるのかが見えずに苦しんでいた。そんな私と夫の間には、毎日のようにけんかが絶えなかったが、いくらいい争ってみても、何一つ結論は見えてこなかった。ただ二人の間にイライラだけが積み重なっていった。
そして、私は自分のいら立ちの解決策を探ろうと、とうとう病院にカウンセリングの予約を入れにいった。けれど、自分でも整理のつかない物事の原因を、他人に話すだけで解決できるものだとも思えなくなり、直前になって結局やめてしまった。話を聞いてもらうだけで楽になる場合もあるだろうけれど、私の場合には結論は見えてこないと、なぜだかそのとき私にはわかった。
そして、今すぐなんとかしたいという思いと、今日一日生活するのも苦しいという焦りにも似た気持ちのなかで、私はただいつまでも消えない不安を握りしめて悶々としていたのだった。
■自分のことは気づきにくくて
そんなとき、一冊の本を手にした。カウンセリング講座のためのテキストだった。病院でのカウンセリングの予約はキャンセルしてしまったが、やはり私は自分で答えを見つけたくてあがいていたのだろう。だからそんな本に目が向いたのだろうと、振り返ってみて思う。
テキストに書かれていた方法は、自分で自分をカウンセリングする方法だった。紙に思いつくままに、今の気持ちをどんどん書き連ねていく。ただ、そこには相手がいないので、気張らずに本心を書くことができる。
私は自分のいら立ちの原因を思いつくかぎり集めて書き連ねていった。最初のうちは、自分でも自分がかわいくて、物事を正当化するような書き方しかできなかったけれど、だんだん書きつづけるうちに、内容が変わっていくのがわかった。
私は、どうして相手の顔色をうかがってしまうのだろう。
これは、よく旦那からもいわれていることだった。でも別に、誰の顔色でもうかがっているというわけではない。私を好いてくれる人にだけ行ってしまう行為だ。
私は、相手のなかにある「かわいい私」をなんとか想像しようとし、相手の中にある「私」という像をなんとか見つけ出そうとする。その像を壊さないようにし、好きでいつづけてもらうために、私は相手のちょっとした反応にも気をつかい、期待にこたえようと努力してしまう。
相手の期待にこたえなければいけない。相手のなかにある「私」を壊すことは、相手を傷つけることのような気がする。そうして自分で自分にかけたプレッシャーの大きさに、私はいきづまってしまっていたのだった。
また、近所に住む姑や多くの親戚たちのなかにある自分も壊したくなかった。新生活とともに接するようになったたくさんの人たちのなかにある「私」を壊さぬように気づかい、私自身が壊れそうになっていたのだった。 だから自分を取り戻すために引っ越しをした。それだけのことを発見するために、夫ともけんかを繰り返して、ずいぶん遠回りをしてしまった。
人は自分のことは、なかなかわからないと改めて感じた。けれど、自分でもわかっている私の長所は回復力だ。新しい気持ちで生活を築いていこうと思う。 (■つづく)
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