« 保健室の片隅で・池内直美/第20回 サポート校の見学 | トップページ | 元信者が視るオウム的社会論 第2回/一服で心が変わる!? プロザック »

保健室の片隅で・池内直美/第21回 ろうあ者のためのフリースクール

■月刊「記録」1999年11月号掲載記事

*           *           *

■ろう者のためのフリースクール
 フリースクールは、場所さえあれば作ることができる。
「フリースクール龍の子学園」は、月に一度しか開かれないフリースクール。それも、毎回同じ場所で開かれているのではなく、毎月第四土曜日に空いている場所を借りて開かれている。ろう者のための、ろう者が作ったフリースクールだ。
 このスクールを知ったのは、いつも私が行っているフリースクールに、ろうの人たちが「フリースクールを作りたいのだが」と相談に来たのがきっかけだった。
 フリースクールを作るのには、何か資格がいるのではないかとか、教職免許が必要なのではないかという心配をしてのことだったらしい。
 しかし、フリースクールにはそういった条件は必要なく、場所さえあれば作ることができる。そして九九年四月、ろう者のためのフリースクールが誕生した。
 フリースクールとはいっても、そこに参加する子どもはみんな学校へ行っている子ばかりで、いわゆるフリースクールにみられる「学校の代わり」というイメージはなかった。
 私がよく行くフリースクールも、他のフリースクールとはちょっと違っていて、子どもたちのパワーが感じられるところである。自分たちのやりたいことを自分たちの作ったルールのなかでやっていく。そんな独特の魅力のあるところなのだが、龍の子学園の子ども達の笑顔からも同じような空気を感じ取ることができた。
 龍の子学園へ見学に行く前に、ろう学校ものぞかせてもらったのだが、自分自身のろう学校に対する思い込みや勘違いを多く発見した。

■キュードサインとは

 ろう学校は、手話で授業を行うものだと思っていたが、実際のところ手話で授業を行う学校はあまりない。授業ではむしろ口話のほうが多く、「キュードサイン」と呼ばれる方法や指文字なども用いられている。
 ちなみに口話というのは、自分で声を出して言葉を発したり、相手の口の動きを読み取る方法であり、「キュードサイン」というのは、口で母音を表し、子音の部分はサインを使って表す方法だ。
 たとえば、「たまご」と「タバコ」。これらを口の動きだけから読み取ろうとしても、その動きは同じに見えてしまう。そこでTaMaGoのTとMとGのところは、頬やあごを触るなどして音を表すのだ。
 指文字は、指だけで五〇音を表す点が、手話とはまた違う。
 口話訓練は、特殊学校の授業の一つである養護訓練の時間などに行われ、人が話しているときの口の動きを読み取る方法や声を出す方法が訓練されている。
 ろう者の言葉は手話だけかと思っていたが、残聴能力を使ってこういった訓練も行われていることがわかった。
 また、学校によって授業で使われる言語は異なっており、キュードサインで授業を行う学校もあれば、口話しか使わないところもある。また、キュードサイン自体も学校によって微妙にサインの仕方が異なり、通じない場合もあるそうだ。
 では、なぜキュードサインを使うのか。
 ろうあ教育については、人によってさまざまな意見があるようで、私が聞いているとどれも正しく聞こえてしまう。けれど、どうやらキュードサインのいい点は、一つ一つの名詞をきちんと覚えられるところにあるようだ。
 たとえば、ハサミを手話でどう伝えるのかを想像してみるとよくわかる。何かを切る動作をすることで、ハサミという「物」を相手に伝えることはできるだろう。
 しかし手話では、ハサミという「物」が、「ハサミ」という名前であることまでは伝えられない。意味や気持ちを伝えるには適しているが、手話は、物の名前を伝えるには不適切である。
 そしてもし、それを筆談で伝えようとしたら、「ハサミ」という名称を知っていなければ相手には伝わらない。そう考えると、たまごとタバコの例も含めて、きちんとした名称を伝えるためには、キュードサインは便利なものかもしれない。

■ニュアンスまでを伝えられるか

 私は耳が聞こえるから、抽象的な言葉をいわれたり表現されたりしても、なんとなく理解して、使い、伝えることができる。けれど、もし耳が聞こえなくなれば、感情の部分にどうしても伝えきれないことやわかり合えない部分が出てきてしまうだろう。
 たとえば「おなかが痛い」と手話で表現されたら、「痛い」ということはわかってあげられる。もう少し手話を知っている人なら、少し痛いのか、すごく痛いのかまではわかるだろう。
 しかし、チクチク痛いのか、キリキリ痛いのか、ズキズキ痛いのか、そのあたりの部分はなかなかわかりづらいのだという。
 こんなふうに、耳が聞こえることでかえって、聞こえない人のことが理解できなかったりすることに気づいた。
 思っていることを、なんの圧迫感もなく話せる空間を作りたい。そういう思いも込めてフリースクール龍の子学園を作ったのだと、スタッフは語ってくれた。だからスタッフもほとんどがろう者で、会話には声は使わずに手話だけを使っている。
 よく、テレビの手話通訳を見ていると、口を動かしながら手話をしているが、龍の子学園のスタッフは口を動かさずに手話だけを行う。彼らにとっては、手や表情を使って話す言葉が、本当の言葉なのだろう。
 私が見学させてもらったろう学校の生徒さんも、このフリースクールへ来ていた。
 ろう学校にいる時の彼らは、どうもあんまり落ち着きがないように思えた。先生が一生懸命話をしている時でも、廊下に私がいることに気づくと授業に集中できなくなってしまうようだった。
 逆に、フリースクールにいる時の彼らは、一生懸命スタッフの話を聞いている。いま自分のするべきことを理解し、集中して取り組んでいるようだった。その違いがどこにあるのかをハッキリといい切ることはできないが、言葉がわかり合えるという点では、こういったフリースクールも必要なのだと感じた。

■情報を得る権利は対等

 このフリースクールには、テレビ取材なども入ったことがあるらしく、ビデオを見せてもらったことがある。そのとき、ろう者の友達も一緒に見ていたのだが、私では絶対に気づかないようなことを教えてくれた。
 取材の対象になったのは、フリースクールのスタッフだったのだが、前述のようにスタッフもろう者のため、撮影でも手話を使って話をしていた。その言葉は、音声のナレーションとして流れ、それを手話にしたものが画面の左下に別画面で出ていた。
 視覚と聴覚に頼る私は、映像を見ながらナレーションを聞いていた。しかしろう者の友達は、画面一杯に写っているスタッフの手話を読み取ろうとしていた。でも、スタッフが何を伝えようとしているのか理解できなかったという。
 映像は編集されていたのだ。だからスタッフの話がつながっておらず、友人はナレーションの手話通訳を見て理解するしかなかったのだ。ドラマなどでは当たり前のようにつながっている手話会話が、ノンフィクションであるドキュメンタリー番組でつながらなくなってしまうことに意外な印象を受けた。
 新聞で読んだ記事に、教育番組に字幕をつける作業を行っているボランティアグループが出ていた。ある人は字幕について、「本来、番組にはついていて当たり前なのだ」といっていた。
 聴者でもろう者でも、情報を得る権利は同じように持っている。だから、画面一杯に字が並ぶ番組があったとしても、おかしな話ではないと言っていた。
 ろうの人々の世界には、ろう文化というものがあって、私には理解し得ない部分も多く、今はまだ「わからない」部分を見つけるのに必死なのだが、その「わからない」という部分があるのも、当然のことかもしれない。 私は私。人は人。みんなが同じでなければならないということはなく、ろう者にはろう者しかわからない、わかり合えない部分があっていいと思う。それを差別することなく、理解しながら、お互いがお互いを認めあって共存していければいいと思う。
 共存共生共育。以前聞いたことのあるこの言葉の意味を、いまだ理解することはできていないけれど、「ろう文化」という言葉に込められた意味を、少しでも感じられればいいと思う。 (■つづく)

|

« 保健室の片隅で・池内直美/第20回 サポート校の見学 | トップページ | 元信者が視るオウム的社会論 第2回/一服で心が変わる!? プロザック »

保健室の片隅で/池内直美」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/389724/7040250

この記事へのトラックバック一覧です: 保健室の片隅で・池内直美/第21回 ろうあ者のためのフリースクール:

« 保健室の片隅で・池内直美/第20回 サポート校の見学 | トップページ | 元信者が視るオウム的社会論 第2回/一服で心が変わる!? プロザック »