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保健室の片隅で・池内直美/第16回 死者はリセットを押しても生き返らない

■月刊「記録」1999年5月号掲載記事

*          *              *

■ゲーム・リセット

 R・P・G(ロール・プレイング・ゲーム)。
 この名前を知っているだろうか。何年も前から話題になっているコンピュータゲームの一種だ。この手のゲームに対してある雑誌が、「リセットボタンを押せば(主人公が)生き返る」という説明をしていた。
 今の子どもたちは、ゲームのなかの死しか知らない。「生き返ることのできる死」しか知らない。だから、死の重さがわからないのだと書かれていた。
 たしかに今の子どもは、「生き返る死」しか目にできない。心臓が止まり、体が冷たくなっていく本当の死を目にしたことのある子どもは少ない。死というものに対する不安や恐怖について、真剣に悩んだことのない私自身もその一人なのかもしれない。
 記事の中に書かれていた一節がある。
「人間が生きていくことは、動物の命を奪っているのだということが見えない」
 そんなことは、この記事を読むまで私も考えたこともなかった。生きていくために食事をとる。それはすべて買ってきたものであって、自分で野菜を育て、猟をして獲った動物をさばいたりするわけではない。自分の口に入るものが一つの命であることなど、これっぽっちも考えたことはなかった。
 生き物を触ることができない。魚の目も見ていられない。野菜を育てるのは虫がつくから絶対に嫌だ。たとえ農薬だらけでも、見た目がキレイでなければ口に入れないという子どもが育っている。これもゲームのせいだろうか。

■ゲームをクリアすることだけが目標

 ゲームを一切しない私だが、R・P・Gのことは人に聞いたり小説を読んだりしてなんとなくわかっている。 ゲームの進行につれてさまざまな場面が現れ、ゲームをする人は、主人公に代わって選択肢を選んでいくのだ。そしてR・P・Gに限らず、ゲームの中では闘いがあり、しかも誰もが決して本当に死ぬことはないのだ。
 たとえ人を殺してしまった主人公の苦しみを多少感じることができたとしても、多くの人はそんなことは真剣に受けとめずに、ただゲームをクリアすることだけを目標に取り組んでいく。
 R・P・Gのストーリーを小説化したものを二冊ほど読んだ。どちらも非現実的な世界に主人公が入り込むという話だった。主人公はゲームのなかで戦っている。ゲームのなかのキャラクターに恋をして、ゲームの中で友情を感じている。そしてゲームの中で、簡単に他の者の命を消していく。さらに必ずといっていいほど主人公自身も一度は死に、また生き返ってくるのだ。
 R・P・Gだけではない。九六年から九七年にかけて大騒ぎとなった「たまごっち」というゲームもそうだ。特にたまごっちでは、成長するにつれてキャラクターが変化し、いろいろなパターンに変身した。そして自分の望むキャラクターにならなかった場合には、「さっさと殺してしまえ」と、育てることを放棄する人が多かったようだ。
 たまごっちは育成ゲームである。そこでゲームを放棄すれば、キャラクターはお腹がすいてまもなく死ぬ。ゲームのなかに勝手にお墓が建つ。お墓が建つのを待ってリセットボタンを押し、新しい卵を産ませる。それを繰り返すことができた。
 気がつけばリアルに「お墓」まで建てて、しかし「殺す」という言葉には、重たさが感じられなくなっていた。

■人の死がわからない子どもたち

 一時代前くらいから、子どもは「人に殴られる痛みを知らない世代」といわれ始めた。青少年による傷害事件が増えたことの背景に「人を殴るにしても痛みを知らないために、限度がわからない」ことがあるのではないかといわれ始めた。
 たしかに、イジメも校内暴力も家庭内暴力も、人に殴られる痛みを知らないところからきていたのかもしれない。
 そして今、子どもは「人の死を知らない世代」といわれている。人は死んだら生き返らない。そんな当たり前のことがわからない世代だといわれている。たしかに人間に限らず、一つの命が消えていく様子は、目の前で見なければ実感できない。少年の凶悪犯罪が急激に増加した原因は、ここにあるという人もいる。
 祖母はよく、彼女が子どもだった頃の話をしてくれた。ある家で首つり自殺があり、死体を下ろすところを目撃したといっていた。二晩、ガタガタ震えて眠れなかったし、おかげで今でもその時のことを覚えているのだと。
 一つの命が消えるというのは、そういうことなのだろう。
 私も一度だけ人が死んでいくのを見たことがある。広島に住む祖父が、半日にわたる延命措置のあと、私たちの到着を待って息を引き取った。ローソクの火が消えるようななどという、そんなきれいなものではなかった。全身に管を通されて、その時が来るのをただ待っている。うつろな目を閉じるわけでも開くわけでもないままで、八年以上の闘病生活を終えていくのだ。
 最後に握った腕がガチガチに硬く、人間のものでないような血の気のない色をしていたことを覚えている。
 私が物心ついた時から、祖父はベッドのなかにいた。だから、祖父との記憶は数えるくらいしかない。固まって動かなくなった手で、一生懸命ジャンケンの相手をしてくれたこと、出ない声をふりしぼって、おこずかいをあげたいといってくれたこと。幼くて、枕元ではしゃいでいた私たち子どもを、突然大きな声でどなったこと。それでも大切なおじいちゃんで、大好きだった。リセットボタンを押して生き返るのなら、何度でも押しただろう。おじいちゃんはもういないのだ。
 でも、人は二度死ぬといわれている。一度目は命が消えたとき、二度目は生きていた存在を忘れられたとき。そして私の祖父は、二度目の死を迎えることはないだろう。

■死んだら終わりだが……

 あれから約10年がすぎた1997年6月臓器移植法が成立し、臓器提供の場合に限って脳死は人の死となった。命について、死について、家庭のなかで少しずつ話し合われるようになっていくだろう。脳死移植そのものについてより、ドナーカードをめぐる話し合いのほうが、家庭の中では切実かもしれない。
 一度しかない人生だから、できる限り長く生きていたいと思う。だからこそ私は、ドナーカードにサインをしたいと思った。だが、家族からは反対された。脳死となる前、また、そう診断されたあと、誰かがあなたの死を望むことになるから、家族としての署名はしたくないといわれた。
 法律の主旨が正しければ、「誰かが死を望む」前に、脳死はまぎれもなく「死」のはずなのだが、実際のところ脳死がどのような状態になるのかよくわからない。脳死と診断されてから、どれくらい心臓が動いていられるものなのか、遺体は自宅に帰ることができるのか、それさえもわからない。
 ただ耳に入ってきているのは、突然、脳死状態になった時、病院や医者から臓器提供を勧められて、家族が悩む可能性があるということだ。そのときに迷惑をかけたくないから、先にドナーカードにサインしておこうと思った。
 けれども、もし自分の家族がそうなった時には、たとえすでに脳死になっていても、心臓が止まるまで毎日会いにいくことも、返事が返ってこないことを知りながら話しかけることもいとわないだろう。あと一分でもいいから、「ただ、そばにいられればいい」と感じるのが家族だと思う。
 逆に脳死と診断されたのが自分だったらどうだろう。死んだ自分をいつまでも見舞う家族には、やはり迷惑をかけているといえるのだろう。悲しませてしまっていることになるだろう。でも、そのまま心臓の止まるのを待つだけというのはなにかやっぱり嫌だ。
 私の心臓を移植することで生きていくことができる人がいるなら、心臓を提供したい。肝臓だって腎臓だって肺だって、できれば提供したい。死んでもいろいろなものを見ていたいから、角膜も移植してもらいたいと思う。こうすることで第二の人生を生きられるのだと思うから。生まれ変わるのではなく、生き続けられるのだと思うから。
 自分がどのように生まれて、どのように生き、どのように死んでいくかを少しでも多く考えたい。生まれ変われることを期待したり、リセットボタンを押したいと考えるのではなく、死んだらそこで終わるのだということ、だからどうしたいのかということをみんなももう少し考えなければいけない。特に子どもには。それを、誰かが今の子どもにちゃんと伝えなくてはいけない。それは「死」を想像させるための作業なのだ。

■人生は生きながらやり直せる

 生んだのは親の勝手だから、自分には関係ない。今こうして生きているのは、親が勝手に生んだからだ。だから、別に生きていたいわけではない。生まれ変わったら幸せになれるかもしれないから、死んでしまおう。生きているのが面倒くさくなったから、リセットボタンを押してしまおう。
 人生は、ゲームではないのだ。
 前にも書いたが、私が保健室で首を絞められたことも、彼らにとってはゲームのワンシーンでしかなかったのだろう。人が死ぬということは、彼らにとってこわいことではないのだ。本当に、ただのゲームのワンシーン。ただのドラマのワンシーンなのだ。
 人にナイフを刺して、それを引き抜いたら血が噴き出すことを想像すれば、刃物を持つのがこわくなるはずだ。時代劇の立ち回りでは、ただ人が倒れるだけだけれど、真剣で人を切れば血は噴き出すのだ。
 それを想像したら、頭にそのシーンが焼きついて離れなくなってしまった。でも、それがふつうのはずだ。
 人の体に赤い血が流れていること。血の流れは、自分の想像する以上に速いということ。それは人が生きていることだということ、こんなことは教えてもらってもわからない。けれど死について、誰もが考えねばならないことなら教えられる。たとえば脳死をテーマにして。
 人生が一度きりだということを、死んでからわかったのでは遅いのだ。生きていなければ、人生をやり直すことはできない。
 人生は生きながらやり直すものだ。それがわからなければ、生まれ変わっても、どうせ逃げるだけの人生を繰り返すことになるのだから。 (■つづく)

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