元信者が視るオウム的社会論 第16回/「おわりなき日常」について
■月刊『記録』99年3月号掲載記事
オウム事件をめぐって、さまざまな評論が飛び交いましたが、そのなかで、一番異彩を放っていたのが、社会学者の宮台真司氏が唱えた「終わりなき日常」論です。
彼によれば、オウム事件というのは、いつまでも続くであろう「終わりなき日常」に耐え切れなくなった人々が、一発逆転を狙って引き起こした一種の社会変革であると。
彼はそれらの人たちを「ハルマゲドン」派と呼びました。そして、彼は「ハルマゲドン」派に対する処方箋として「終わりなき日常」をまったりと生きる知恵を身につけることを提唱しました。
さらに「終わりなき日常」派の典型として、援助交際をする女子高生、いわゆる「コギャル」をもちあげ、何の理想や大志をもつこともなく、ただひたすら周囲とのコミュニケーションのみに意識を向ける彼女達を見習うべきだと主張したのです。
ハルマゲドンなど起きやしない、革命や維新など起きやしないぞと。自分の生活に関係ないことにエネルギーを注がずに、コギャルのように日常をうまく立ち回る知恵を磨くべきなのだと。
援助交際をする女子高生を学者がもちあげたという話題性も相まって、彼は一躍、論壇のスターダムにのし上がりました。日本の通常の社会を離脱し、オウムという一種の別世界から数年ぶりに戻ってきたばかりの僕にとって、彼の主張は驚くべきものであり「日本も変わったなあ」と思ったものでした。
ところで、今年の一月十日、この日は僕の三十歳の誕生日でもあったのですが、友人達が結成した「維新赤誠塾」というバンドのライブを見に行ってきました。
彼らは宮台氏が称揚したコギャル文化を一刀両断し、腐敗した現代社会に対する憤りを、攻撃的な詞と音楽で歌いあげていました。
洪水のように汗を流しながら熱狂的に歌う彼らを見ていて、まさに彼らこそが宮台氏の唱える「終わりなき日常」派の対局に位置する人達だと思いました。
ライブ後に話を聞いてみると、彼らはその狂気ともいうべき音楽活動を自覚的に行っているのだということに気づかされます。この腐敗した日本を浄化するには、自らを捨てて過激なライブをあえてしなければならないと。そうしなければ、性根まで腐敗が侵食しはじめている日本人を目覚めさせることはできないんだと。そして、その過激さゆえに、今まで出演したすべてのライブハウスから、出入り禁止勧告を受けたそうです。
■幕末なら草奔の志士達
僕は幕末の草奔の志士達というのは、彼らのような人々だったのじゃないかと思いました。何もしないで長いものに巻かれることは容易である、安易な方向に行こうと思えばいくらでも行ける。しかし、それを選ばず、魂の叫びに従ってイバラの道を歩き始めた彼らは、稀有な存在だと思いました。
ちなみに僕は「終わりなき日常」のなかで、まったり生きることもできず、かといって社会変革のために奔走することもできず、今はただひたすら自分の心の中を観察しているところです。(■つづく)
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