« 阪神大震災現地ルポ 第10回/1年後それぞれの現実 | トップページ | 内部告発・豊島区は税金泥棒/第2回 追いつめられて内部告発 »

内部告発・豊島区は税金泥棒/第1回 命を賭けた闘いが始まった

■(月刊『記録』97年9月号掲載記事)

■五十嵐稔(いがらし・みのる……1944年、神奈川県生まれ。67年に中央大学法学部卒業後、72年豊島区役所に就職。過去、2件の訴訟―「停職6ヶ月処分取消訴訟」「官官接待に関する食料費についての返還訴訟」―で係争。現・豊島区議)

        ※             ※              ※

一三六五万六一二二円。
 一九八九年五月一〇日から九一年一一月一四日のわずか二年半に、豊島区が官官接待などに使った食料費の金額である。情報公開条例によって開示された段ボール五箱分の資料が、豊島区における食料費の不正使用を教えてくれた。区役所の担当者と同じ筆跡で書かれたモノ、店が打ったナンバリングと書き込まれた日付に矛盾があるモノなど、夥しい数の領収書は役所と私の攻守を変えた。二五年にわたり自分を攻撃してきた豊島区職員の上司が、訴訟を取り下げてくれないかと内々に打診してきたほどだ。それは職員・労働組合・区議会からサンドバックのように打たれ続けていた私が、初めて試合の主導権を握った瞬間だった。

■勤務時間は規定量の半分

 七二年当時、定職を探していた私は、職場に多大な期待を抱いていたわけではない。当たり前に仕事をこなし、普通に給料をもらおうと考えていただけだ。そんな私が豊島区役所の求人広告に目を留めたのは、一六時半から翌朝の九時までという勤務時間にひかれたからである。
 六七年に大学を卒業後、司法試験の合格に向けてアルバイトをしながら勉強を続けていた私にとって、夜間に公務員として働ける環境は魅力的に思えた。長時間拘束されるとはいえ、勤務中の零時から五時までは仮眠時間となっている。これならば司法試験に向けた勉強を日中に続けることができる。もちろん給与も納得いくものだった。ぜいたくをしなければ、きちんと生活できるぐらいの給与が保証されていた。
 役所に勤め始めてしばらくの間は、何の問題もないように思われた。ただ夜間に勤務している同僚が、一時間、二時間と遅刻してくるのだけが気にかかったくらいだろう。とはいえ私も二八歳という年齢上、一般的な処世術くらいは身につけていた。規則通りに仕事が進まないことも理解していたし、職場で無用な争いを起こさないようにする方法も知っていた。
 ところが同僚たちが出勤する時間が日々遅くなっていった。遅刻は数時間から半日に拡大し、さらに欠勤が当たり前となった。夜勤は二人一組ですることになっており、出欠の帳簿には二人の職員の名前が書き込まれているが、実際の現場には一人しか出勤しない状態になったのである。順番に休みを取り、出勤した者が仲間の分まで出欠の帳簿に記入する方法で、同僚の勤務時間は規定量の半分となった。

■お前もさぼれ!

 さすがにここまでくると見て見ぬふりをしているわけにもいかない。日勤から引き継いだ通常業務をこなしているうちは問題ないが、夜間に災害などの緊急事態が起これば、一人で対処できるのだろうかという不安もあった。
 ところが意を決して注意した同僚からは、予想もしなかった言葉を投げつけられた。
「お前もカラ超勤手当やカラ出張手当をもらっているだろう。その方がもっとひどいことなんだぞ。俺達に注意するぐらいなら、不正給与を解決してからにしろ」。恥ずかしながら、この時初めて不正給与の存在を知った。給与明細は毎月見ていたが、残業代がよけいに支払われているとは気づいていなかったからだ。この事実に私は驚き、そして暗澹たる気持ちになった。出欠を組織ぐるみでごまかす行為でさえ、まっとうな職場では起こらない。ところがそれ以上の悪事が、役所全体で行われているというのだ。しかし当時は、この問題によって自分が二五年間もイジメ抜かれることになるとは思ってもいなかった。
 同僚に直接苦言を呈してもいっこうにらちがあかないと感じ、私は係長に相談することにした。さすがに上司の対応は素早かった。私の話を聞いた後、すぐに同僚を呼び出し、きちんと出勤するように注意したのである。しかし問題は解決するどころか、ますます悪い方向に転がっていった。
 なんと注意した係長は、私と同様にカラ超勤手当・カラ出張手当の問題を持ち出され、何も言えなくなってしまったのだ。それだけではない。この日を境に、私が不正を騒ぎ立てないよう上司も圧力をかけてくるようになったのである。もちろん上司公認で出勤日を偽れるようになった同僚も、出勤簿通りに勤務する私を目の敵にした。
「お前もさぼれ。俺達がやりにくいだろ」。こう同僚から言われ、ふつふつと怒りがこみ上げてきたのを私はハッキリと覚えている。どうしてさぼりたくもない私まで巻き込むのか。組織全体が腐りきり再生不能なら、せめて巻き込まないでほしかった。ところが私の意思に関係なく、彼らの強引な説得が何度となく繰り返された。
「言うことをきかないと、もっと圧力を受けることになるんだぞ。素直に俺達の言うことを聞けば、退職まで波風が立つこともない。要所要所で権限をもった人がうまくコトを運んでくれる。これはお前に対する最後の救済手続きだ。せっかく手を差し伸べているのだから、紫の雲に乗れ。今、俺達の忠告を無視すれば、今後さまざまなことが起こる。それにお前が耐えられるとも思えない。世の中とはそういうもんだよ」
 出勤するとこんな話を聞かされる。そのたびに私は情けなくて、寂しい思いをした。とにかく全員で不正を働かなくては落ち着かない小心さや、少しでも休みを増やそうとする浅ましさ。そんな人達と同じような行動を取るには、どうしても自分のプライドが許さなかった。そして私に対するこの執拗な説得が、逆に私の正義感に火をつけた。
 この問題を解決するために、私は上司や労働組合にも掛け合い、労働組合の大会でも発言した。しかし事態は悪化する一方だった。上司にとっても、労働組合にとっても、カラ超勤手当・カラ出張手当は大事な既得権。その権利を守るためには、出勤のごまかしなど黙認すべきものなのだ。
 私が不正に対して声を上げたことで、説得をしていた同僚の態度は厳しさを増していった。職場で村八分となり、誰も口をきいてくれない日々が続く。警備員を含め八~九人の職員が働いているのに、一言の挨拶もない。組合でも「変わった男だから相手にするな」と噂され、上司からは「お前が何を言っても聞く耳はもたない」とさえ言われた。

■一時間ごとに無言電話が

 このような状況のなか新たな問題が発生した。
 私と組んでいる同僚が、「君と組んでいるとさサボれないので不公平だ」と言い出したのである。確かに私がきちんと出勤するために、いつも私と組んでいる同僚はサボれる日数が、他の二人よりも極端に少なくなっていた。そんな訴えなど、取り上げる方がおかしいと思われるだろうが、なんとローテーションは変更されたのである。同僚の三人が同じだけ休めるよう、私と出勤する日にちが綿密に計算された。
 こんなくだらない理由のためにローテーションを変更するのは反対だったが、私以外が賛成だったため、三対一の多数決によって押し切られた。この決定に不服だった私は組合にも訴えたが、多数決自体に誤りはないとして、平等にさぼるためのローテーションに組合はお墨付きを与えた。
 この事件が起こってから、同僚との関係はさらに冷え切ったものとなる。私を名指しこそしないものの、誰にでもわかるように私の悪口を言うようになった。しかし人間は強いものだ。誹謗中傷のたぐいも、毎日聞いているうちに慣れてくる。職場で孤立していることも気にならなくなっていった。しかし状況は改善しない。不正は続き、不毛な嫌がらせも止まることがなかった。
 新たな嫌がらせが始まったのは、区役所に勤め始めて3年ほど経ったころだった。午前零時から五時までの仮眠時間に、一時間ごと無言電話が入るようになったのだ。夜間の電話には、緊急事態が発生した可能性があるので、取らないわけにはいかない。慌てて電話を取ると、数秒の沈黙があり電話は切れる。相手の受話器を通して、マージャンの音や酒場の喧噪が聞こえてくることはあっても、声が発せられることはなかった。こんな悪質な嫌がらせも、一週間ぐらいなら何ということはない。しかし一日置きの出勤日を狙って休むことなくかけてくる無言電話が、数ヶ月も続くに至って、私は精神的にかなり追いつめられていった。
 夜中受話器を取ったと同時に、自分が自宅にいるのか勤務先にいるのか、一瞬わからなくなる。そんな小さな錯乱こそ、痛めつけられた私の神経が発した最初の悲鳴だった。それでも私は区役所に出勤した。明らかに自分が正しいのに、しっぽを巻いて逃げるわけにはいかない。

■結婚も安定もあきらめた

 そして次の変調は突然に現われた。
 七五年春。その日はどうも頭が痛く、やけに周りの音が大きく聞こえた。どこがおかしい。明日は医者に行かなければいけないと考えながらも働いていた。そして夜間の時間。にぎり寿司をつまんでいた私は、口に入れたシャリが右の口元からポロポロこぼれていくのを発見した。自分の体が少しずつ制御を失っているのを実感するのは気持ち悪いものだ。だが、自分の力ではどうしようもない。
 仮眠時間になるとお約束の無言電話がなり始め、熟睡できぬままいつものように朝を迎えた。洗面所で顔を洗い、フッと鏡を見ると変わり果てた顔の自分がそこにはあった。顔の右半分が硬直しており、表情が消えていたのだ。右目を閉じるには、指でまぶたを下げなければならない。
 役所を引き上げ病院に駆け込むと、顔面麻痺と診断された。神経性の病気だった。病名がわかっても顔面の麻痺が治るわけではない。私の顔は日に日に崩れていった。右の眉が左の眉より二センチも下がり、顔の右半分だけがひきつっていた。自分の顔はおろか、人間の顔と呼ぶのもためらわれるほど、私はすごい形相をしていた。
 ひどいのは表情だけではなかった。右目から耳のうしろにかけて、鋭い痛みが走り続ける。モノがぼやけて見え、口に入れた食事は、閉まりきらない口元から流れ続けた。そして頭も働かなくなった。簡単な事務連絡をするための手紙が、一日かかってやっと書けるようになるといった具合だ。
 六ヶ月間の有給休暇を取り、治療に取り組まざるを得なくなった。治療をしてくれた医師は、「またストレスがたまり、顔面麻痺が再発したら、二度と社会復帰できませんよ」と、私に語った。その言葉を聞いたとき、しかしなぜか転職は思いつかなかった。むしろ私は自分に賭けてみようと思った。自分をここまで追いつめた職員と闘い続けてやろう。病気が治ったら、豊島区が続けている不正を世間に公表しよう。そう考えて、一人闘志を燃やしていた。
 このとき私は、結婚をすることも世間並みに生活することもあきらめた。自分が正しいことを証明するため、私を追いつめた役所を逆襲するため、豊島区民をバカにしきった行政の姿を知らせるために、職場復帰の日を待ち続けたのだ。 (■つづく)

|

« 阪神大震災現地ルポ 第10回/1年後それぞれの現実 | トップページ | 内部告発・豊島区は税金泥棒/第2回 追いつめられて内部告発 »

内部告発・豊島区は税金泥棒/五十嵐稔(現豊島区議)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/389724/6771994

この記事へのトラックバック一覧です: 内部告発・豊島区は税金泥棒/第1回 命を賭けた闘いが始まった:

« 阪神大震災現地ルポ 第10回/1年後それぞれの現実 | トップページ | 内部告発・豊島区は税金泥棒/第2回 追いつめられて内部告発 »