« 障害者ドラマを徹底批判する!(上) | トップページ | 中央線自殺多発の真相・誰がどうして死んだのか »

障害者ドラマを徹底批判する!(下)

■■■「障害者ドラマ」徹底批判!(下)

■■■-介護者の立場から-

■知的障害者にも性欲がある

(成田真由美……1965年、東京生まれ。都内の私立大学を卒業後、福祉業界へ。2年間、地方の精神薄弱更正施設に勤め、夫の転勤により東京に戻る。現在は、都内の老人ホームで働いている)

■生理が女性職員を悩ませる

 高橋克典は『ピュア』で。「彼女(和久井映見)は抱くとか、寝るとかそんな次元にいないんだ」と語った。しかし精神障害者の更正施設の女性介護者が最もショックを受けるのは、障害者の生理と性である。
 私は地方の知的障害者施設の職員として、2年ほど働いていた。男性が30人、女性が20人、計50人の施設だったが、私が勤めている間に、多くの女性が職員として就職した。しかし決して定着率は高いとはいえなかった。3日で辞めていった人もいた。彼女達は施設で天使に会えると思っていたようだ。しかし、精神障害者は、もちろん天使ではない。
 女性職員が一番最初に悩むのが生理だ。生理の処理が物理的に大変というわけではない。ナプキンを当てるだけなので、重症者の下の世話よりははるかに楽だろう。しかし精神的にはきつい。現状では子供を育てることができない女性が、子供を産む機能を持つことへのやりきれなさ。障害者が女として、性交もできることを知った驚き。それは聖人だと思っていた障害者が、1人の女として立ち現れることへの驚きであり、障害者に対して無意識に抱いていた女性としての優越感が壊されたことへの苦しみだろう。この苦しみを乗り越えられない女性介護者の多くが、悩みを抱えたまま施設を辞めていった。

■オルガンを引きずってトイレに

 しかし生理以上に大きなショックを受けるのが、障害者における性の問題である。
 私が介護者として勤めだして間もない頃、自閉症傾向のある男性患者が講堂のオルガンの上でズボンを降ろし、自慰行為にふけっていたのを発見した。私はショックのあまり、「そんなことはトイレでやりなさい」と彼を叱りつけてしまった。しかし彼はオルガンに乗らなければ欲情できない青年だったため、大きなオルガンをトイレまで引きずっていき、自慰行為をした。彼に性欲があることをきちんと認めていたなら、叱りつけることはなかったろうし、オルガンをトイレまで運ばせることにもならなかっただろう。結局、私自身も「障害者は天使だ」との思い込みと、人前では性欲を見せない健常者のルールに縛られていたのだろう。
 性欲も一人で発散しているうちは、さほど深刻な問題にはならない。しかし相手がいる場合は介護者の悩みも深くなっていく。私は施設内で「障害者の性を考える会」を作り、意見を交換したが、必ずしも問題は解決しなかった。例えば、軽度の男性障害者が、重度の男性障害者を自慰行為に使っていた。性欲の吐き出し方は、妊娠などの可能性がなければ、基本的に個人の意志を尊重することになっていたが、重度障害者には自分の意志を明確にできない人もいる。連れていった軽度の障害者を叱って問題は解決するわけではない。軽度の障害者が脅して使っているようにも見えないからだ。性という極めて個人的な問題に、職員はどこまで立ち入るべきなのか、職員によっても意見が分かれた。
 さらに男女の問題になると一層複雑になる。軽度の男性が重度の女性を襲うこともあり、妊娠することもある。障害者が健常者に恋する場合は、ほとんど肉体的な関係には結びつかないが、だからといってドラマのようにうまくいくわけでもない。1人の女性職員に惚れた男性は、彼女に惚れるだけではなく、自分の恋人だと勘違いしてしまった。そのため女性職員を追いかけ回し、彼女自身がノイローゼ気味になってしまった。職員全体で問題の解決にあたったが、結局は彼女が施設を辞めるしか方法をみいだせなかった。また施設の女性が施設外の健常者に強姦される事件も何件か起こった。施設の女性だと知って行為に及んだケースがほとんどだ。ドラマのように障害者が理解ある人々に囲まれていたなら、どんなに楽だっただろう。
 施設を卒業した女性が、性風俗の店で働くことも度々あった。私が親しくしていた女性も、自分が勤めている風俗店から楽しげに電話をかけてきた。工場での単純作業が向かなかった彼女にとって、性風俗店は働きやすい場所だったのだろう。本当に彼女の意志なのか疑問にも感じた。しかし彼女を1人の人間として認め、彼女の意志を尊重する以上、性風俗であろうと反対する理由にはならないだろう。

■障害者は天使ではない

 彼らを「ピュア」だと感じるのは、世間ずれしていない部分だろう。例えばチョコレート1つプレゼントしただけで大喜びしてくれたり、100m先の駄菓子屋に行くことが最高の楽しみになっていたり。しかし、それはピュアなのではない。狭い施設に閉じこめられている環境が影響しているだけ。ではピュアではない彼らに魅力がないか。もちろん違う。付き合っているうちに彼らの障害は個性に見えてくる。問題と思われる行動も楽しめるようになってくる。職員にかまってほしかった男性は、職員が洗う湯飲みにワザと小便をするようになった。洗おうとした瞬間、さすがに腹が立ったが、怒ろうとすると嬉しそうに逃げる彼を見て、いつの間にか怒りも消え、私も楽しくなっていた。
 メディアが障害者を扱うと、障害者は天使のように描かれる。そして障害者の実体を知らない健常者は、障害者が天使のような存在だと思いこんでしまう。障害者のありのまま姿を受け入れられない人達が増えるのは、問題ではないだろうか。幻想を持って障害者に近づいて来た人は幻滅し、障害者を現実以上に汚い存在と感じてしまうだろう。ドラマに障害者が登場することは、プラスの面もあるのだろうが、安易な作り方には反発を感じている。

■■研究者の立場から/ドラマヒットに見る心理

(小田晋……1964年東京医科大学総合法医学施設(犯罪心理学研究所)助手、69年同施設助教授を経て77年より筑波大学社会医学系教授。著書に『文化と精神医学』『人はなぜ、気が狂うのか?』など)

■障害者ドラマが人気を博している秘密は4点ある。

①現に存在する限界状況を描く物語は人の心を打つ
主人公の環境が過酷であるほど視聴者は共感し感動する。日本人が伝統的に好むドラマツルギーは、継母いじめと貧困であり、戦後の一時期は戦争と貧困が頻繁にドラマの主題として登場していたが、戦後50年を経た経済大国日本では現実感を持たない。その点、障害者の主人公は現在もリアリティーを持つ。限界状況を現実的な問題として感じられることが重要だ。

②障害者に対する世の視線はやさしい
ドラマも障害者を肯定的に扱っている。弱者イジメで名を馳せたビートたけしでさえ、障害者を扱った映画に対する姿勢は優しい。誹謗中傷の対象にならない存在がドラマの主人公に適していることは、かつて同様な効果を狙って作られた子役を主人公にしたドラマをみれば明らかだろう。

③視聴者の知的好奇心をくすぐる
医療や福祉などの知識が映画にちりばめられる。視聴者はその知識を受け取ることに満足感を覚える。

④役者にとって最もやりがいのある役の1つが精神障害
映画でも名優が障害者を演じている例は多い。『カッコーの巣の上で』のジャック・ニコルソンや、『レナードの朝』のロバート・デ・ニーロ、『レインマン』のダスティン・ホフマンなど数え挙げたらきりがない。役者の変身願望を刺激する役柄なのだ。

■病名設定のない『ピュア』

 海外と比べて現在ヒット中のドラマの演技にはどこか不自然さが残る。それは俳優が、障害者そのものではなく、ドラマや本で作り上げられたイメージを孫引きしているに過ぎないからだ。『ピュア』に至っては主人公の明確な病名設定がないのだから、本来のリアリティの出しようがない。障害者に密着して取材し、直接情報を取ったデ・ニーロとは大きく異なる。
 さらに障害者ドラマの量産は、障害者に対する優しい視線を失わせる。障害者をやさしく見守ることに、視聴者がやがて飽きるからだ。このような状況が障害者をパロディ化させる危険をはらむ。悪しきパロディには前例がある。かつて子どもを主人公に据えた貧困をテーマにしたドラマは善意に満ちていたが、今ではかなり辛辣なものになっている。その分岐点が『じゃりんこチエ』であり、今では「強姦」「中絶」といった実際の生活にはまずあり得ない状況まで、ドラマでは「当然」となっている。障害者ドラマが同様の経緯をたどることは、社会的に決して許されない。十分注意すべきだ。

■■声 -父母の立場から- 山口明

 出産時のミスにより、最重度の脳性マヒになったわが子を持つ親ではあるが、『ピュア』は結構楽しく観ている。もちろん気になる点はある。例えば、和久井映見は可愛すぎる。もし「しこめ」だったらどうなったのかと思うし、演技もコケティッシュな部分を強調しすぎている。障害者の母親が、子供に関わる部分だけで描かれているのも残念に思う。実際の親は、生活するために仕事もしており、子供にかかりっきりではない。いわゆる普通の生活が営まれている。
 しかし、子供が親から自立していく課程を自然に描いている点は評価できるだろう。障害者が、テレビ画面を通して認識されていくのは、悲しむべきことではないと思う。

■■-ドキュメンタリーの立場から-

(伊勢真一……映画・『奈緒ちゃん』の監督。主人公の奈緒さんは、姪にあたる。演出家としてヒューマンドキュメンタリー
中心に活躍している。主な作品に『光に向かって走れ-盲人野球の記録』『新世界紀行-ガンジス大紀行-』などがある。)

■映画にノーマライゼーションを

■現象の入り口

 1983年1月にクランクインした『奈緒ちゃん』は、95年春に完成した。12年の歳月と、100時間以上のフィルムが費やされた作品だ。私が撮影を終え作品としてまとめたのは、てんかんと知的障害を持つ西村奈緒さんが成人を迎えたためで、現在の障害者ドラマのブームとは関係ない。
 テレビドラマの主人公に障害者が使われているのは、ハリウッド映画の『レインマン』や『フォレスト・ガンプ』の影響が大きいと思う。障害者を主人公に据えることは悪い話ではないし、批判も受けにくい。流行に左右されやすい日本のマスメディアが真似したことも理解できる。
 メディアは目先の変わるものを企画として次々と取り上げていく。昨年は戦後50年が取り上げられた。今年は福祉、来年は老人かもしれない。だからといって、障害者ドラマのブームを批判する気にはならない。現象の入り口とみれば、テレビドラマも評価すべきだ。
『奈緒ちゃん』とテレビドラマの制作期間の点から比べる場合もあるが、作品の質と制作期間は関わりはない。またドキュメンタリーが、テレビドラマと比べて清廉潔白と言われることもあるが、それも見当違いだ。ドラマもドキュメンタリーも作品の質によって評価すべきだ。

■劇的な場面ばかりを強調

 障害者を映像で扱うことを考えると、テレビドラマ同様に記録映画や社会派ドラマにも問題があるように思う。いたずらに劇的な場面ばかりを強調しすぎる傾向もあるのではないか。ビックリする映像で、眼を引こうというあざといテクニックだ。初めに撮影する姿が決まっている予定調和のドキュメンタリーも、かなり多く存在する。制作者が決めた筋書き通りに言葉を引き出していくことは、そんなに難しいことではない。
 私が『奈緒ちゃん』撮影する際に、発作の場面を一切撮らないと決めいていた。そして、いわゆる福祉だけを強調せず、奈緒さんと家族を中心に人間関係に重きを置いて作ったのも、記録映画・福祉映画の枠組みを『奈緒ちゃん』で壊したかったからだ。初めに撮りたい画像や概念があり、それに合わせてショッキングな映像を取り入れていくのは、映像に力が出る反面、特定の視聴者にだけ訴える映像になってしまう。
 障害者を扱ったドキュメンタリーが批判されないことも問題だ。障害者を扱うことで、作品は50点の下駄を履かせてもらったようなものだ。特に大新聞は批判しない。批評家は現代社会の問題点が描かれるだけで良しとする。問題点を絞らないために、社会の問題点だけが列挙される映画さえある。結局、仲間内だけ盛り上がることになる。

■美化とマイナス面と

 障害者を映像で表現するために必要なのは何か。1つは人間をしっかりと見ることだ。じっくりコミュニケーションをとることだろう。具体的にはナレーションやインタビューに頼り過ぎず、激しいアクションだけを狙わないことだ。テレビドラマだろうとドキュメンタリー映画だろうと違いはない。理屈や概念から作品を作れば、不自然で質の落ちた作品になってしまう。
 視聴者にプラスカードを引かせることも重要だと私は思う。目を背けたくなる現実だけではなく、共感できる部分を映像で見せることだろう。『奈緒ちゃん』を見終わった観客のアンケートに、「勇気づけられた」「悩みが解消した」との意見が多い。彼らの悩みは、決して奈緒さんとは同じではない。しかし共感が悩みを癒し、勇気を与えるのだろう。このような感想が、私自身を元気づけた。
 そして最も大事なのは、障害者を扱った作品を特別視しないことだ。作品が批判の対象にならなければ、良い作品は生まれない。映像のノーマライゼーションが必要だろう。
 テレビドラマのように障害者を多少美化した演出は、障害者の内情を知っている人にとって不満だろう。障害者を映像で扱うことは難しい。しかし、作品がしっかりと批評されれば、少しでもよい形が出来上がってくるだろう。(談)

|

« 障害者ドラマを徹底批判する!(上) | トップページ | 中央線自殺多発の真相・誰がどうして死んだのか »

月刊『記録』特集モノ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/389724/6871334

この記事へのトラックバック一覧です: 障害者ドラマを徹底批判する!(下):

« 障害者ドラマを徹底批判する!(上) | トップページ | 中央線自殺多発の真相・誰がどうして死んだのか »