« ホームレス自らを語る/おれは巡回探職労働者・高橋茂(五〇歳) | トップページ | 鎌田慧の現代を斬る/ご都合主義政権なクビ切りにはダンコ抵抗を! »

ホームレス自らを語る/若気の過ちが一生を決めた・高島伸夫(六二歳)

■月刊「記録」1998年7月号掲載記事

*         *          *

■ポンを教わったのが運の尽き

 ……オ、おれ……う、うまく……話しが……で、でき……ないんだ。そ……そんなでも……き、聞いて……く、くれる……のかい。(彼は強度の吃音者。以下の文章は、どもりながら、とつとつと語ってくれた話を構成し直したものである)
  生まれは千葉の館山。おやじは漁師をしていた。漁師といっても、自前の船を持っているわけじゃなくて、雇われて漁船に乗る漁師のほうなんだ。
  おれは七人兄弟の六番目。兄弟は多かったけど、特に貧しい暮らしというわけじゃなかった。小学校四年生のときが、終戦。館山には航空隊の基地があっただろう。時々だけど、米軍の空襲があった。空襲警報が出るたびに、海岸べりにあった防空壕まで、走って逃げ込んでいたんだが、もうそれをしなくていいっていうんで、子ども心にホッとしたのを覚えているよ。
  中学を卒業して、おれも漁師になった。おやじがそうだったし、上の兄たちの何人かも漁師になっていたから、そうなるのが当然のように育てられてたしね。おやじが乗っている船に、一緒に乗ったこともあるよ。
  漁は近海漁業が主で、巻き網船に乗ることが多かった。二隻の船で網の両端を引きながら、魚を巻き込むようにしてとる漁で、サバやイワシなんかをとった。
  二隻の船で重い網を引くわけだから、タイミングとか、呼吸が難しいんだ。それに海の上での力仕事でもあるから、危険でもあった。だけど仕事がつらいと思ったことはなかったね。むしろ楽しいくらいだった。カネにもなったしね。そのころ(一九五一年ごろ)は、同じ中卒で工場に働きに出た連中なんかより、何倍も稼げたんだから。
  ただ、一五、六歳のガキが小金を持つと、ろくなことにならないね。漁師っていうのは、ひまなときが多いんだ。漁に出るのが朝早い分、昼ごろには陸に上がっちゃうだろう。海がしけて漁のできない日は、一日中ゴロゴロして、そんなのが何日も続いたりするからね。
  そうすると、悪い誘いがくるんだ。おれも知り合いのヤクザに誘われて、ばくち場に出入りするようになっていた。花札とか、チンチロリンとばく。ありガネを全部巻き上げられても、若いからブレーキがきかなくなって、どんどんのめり込んじまうんだ。
  それにポンも覚えさせられた。ポンっていうのはヒロポンのことで、今でいう覚せい剤だよ。ポンをやると、三日くらいぶっ続けでばくちを打っても平気なんだ。それでばくちは負けが続くし、ポン浸けだろう。借金だけが増えていく。ヤクザからの借金だから、取り立てが厳しくてね。
 どんどん追いつめられていって、泥棒でもするしかなくなっていた。ホントのところは、ヤクザがそれとなく泥棒の方法を教えてくれて、そう仕向けるんだけどね。深夜、魚を養殖しているイケスに忍び込んで、生きたイセエビとか、クルマエビなんかを盗み出すんだ。
  そのころの館山には、カツギヤのおばさんというのがいっぱいいてね。毎朝、始発電車に乗って東京まで行商に行くんだが、そのおばさんたちに買ってもらうんだ。イセエビは高く売れたよ。これもヤクザに教わったんだがね。
 ただ、せまい街だろう。すぐにバレて、警察に捕まっちまった。そのときは、まだ未成年だったし、初犯ということもあって、書類送検だけで許されたけどね。
  若いというか、ガキというか、それでも懲りないんだよね。また同じことをして捕まった。今度は重犯だから少年院に二年間入れられたよ。少年院は非行少年の更生施設とかいってるけど、そんなのはうそ。入所している先輩たちから、上手なカツアゲ(恐喝)の仕方とか、悪い手口ばかりを教わって、かえって悪くなっちまうんだ。あんなところに入って、よくなることは絶対にないね。

■地方を転々と日雇い回り

 少年院を出所すると、おれもいっぱしの悪ぶって、ヤクザとつき合ったり、またばくち場に出入りしたり、もう漁師で働く気なんてないからね。やっぱり、またカネがなくなってきて、泥棒に入った。前と同じでイケス泥棒さ。またすぐに捕まった。さすがに、親もあきれたらしくて、それで勘当されたよ。
 このときは、二〇歳になってたから刑務所に送られた。刑務所ってところも、ひどいところさ。懲罰の革手錠って知ってるかい? 片手を肩から、もう片方は腰から背中に回して、両手首を革手錠でしばるんだ。それをやられたときのつらさとくやしさといったらなかったね。 刑務官もひどかった。あれは人間じゃあないよ。刑務所のことは思い出したくもないし、これ以上いいたくもない。少年院と同じで、刑務所に入って、よくなる人間なんていないよ。
 刑務所を出たのが、二二歳のときだった。それからは、旅回りの仕事さ。日雇いの土工になって、飯場から飯場をわたり歩く生活。それを、ずっとやってきた。初めは、親から勘当されてたし、なるべく遠くと思って鹿児島に行った。その後、金沢だろ、高知、静岡、伊豆、千葉、いろんなところで働きながら、だんだんに東京に近づくようにして戻ってきたんだ。
 ちょうど、経済が成長する時代だったから、仕事はいくらでもあった。一つの現場が終わると、次の仕事が待っているような具合だった。でも、カネはたまらなかった。土工の日当は安いよ。八〇〇円くらいかな。今でも、一万二五〇〇円くらいだろ。そこから、部屋代と飯代を引かれたら、いくらも残らないもの。
 日当が安い割には、危険な仕事でね。神楽坂のビルの現場で、仲間のトビが足場から墜落して死んだのを見たよ。昔はほとんどの仕事を、人間の力仕事でやってただろう。危険も多かった。それが、今ではたいがいのことは機械がやるから、安全になった。一番変わったのが、この安全になったことだね。日当の安いのだけが、変わらないんだ。
 稼いだカネは、みんな酒で飲んじまった。仕事を終えると、毎晩飲み屋に通って一升五合からの酒を飲むんだから、カネなんてたまらないよ。結婚は考えたこともなかった。経済的にも、嫁さんを養っていく自信なんてなかったしね。刑務所を出てからは、ばくちとギャンブルだけは縁を切ったよ。これには、手を出さなくなったね。

■役所の世話になるのはごめんだ

 ホームレスになったのは、九〇年からだ。腰と背中が痛くて、土工の仕事ができなくなったんだ。若いころの力仕事の無理がたたったんだと思う。四〇代のころから痛み始めて、五〇を越えるともう痛くて、力仕事をできる体じゃなくなっていたね。
 福祉事務所?行かないよ。役所の世話になんか、なりたくないんだ。そのくらいなら、ホームレスをしていたほうがましだよ。ホームレスって生き方があることを知ってたから、何とかなると思った。だから、段ボールハウスに寝るのに抵抗はなかった。どうということもなかったね。
 最初は、都庁の玄関前で寝ていたんだけど、追い立てられて、新宿駅西口の地下通路に移った。そこも九六年の強制排除で追い立てられた。それで京王新線の地下通路に移ったら、そこもダメだっていう。次に東京都インフォメーションセンター前の広場に移った。そうしたら、九八年には火事だ。おれも手に軽いやけどを負った。 地下広場にも住めなくなって、今は昼間は公園のベンチで過ごして、夜はどこか適当なところで寝ている。決まった場所というのはないな。「なぎさ寮」にも行かないよ。役所の世話にはなりたくないし、これだけの荷物があるだろう。寮に入るには荷物を処分しなきゃならないんだ。これは、おれの全財産だからね。捨てられないよ。
 昼間、毎日街を四時間くらい歩いているんだ。自動販売機につり銭の取り忘れが残っていないか調べながら、代々木とか、中野のほうまで行ってるよ。多い日には八〇〇円くらいになることもある。ダメなときは、一〇円だけって日もあった。貴重な現金収入だね。
 エサ(食料)は、夜、そば屋とか、すし屋の残飯から、食えそうなものを拾ってきて食べるんだよ。ハンバーガーのときもある。
 若気のいたりというか、過ちというか、こういう生活になったのも、若いころのムチャが原因だったと思うね。どもり?いや、どもりがホームレスの原因にはなってないよ。それより酒だよ。立ち直るきっかけはあったんだが、どうしても酒におぼれちゃう。気持ちが弱かったんだね。自分がもっとしっかりしていれば、こうはなってなかったとも思うよ。
 これから先のこと?このまんまだろうね。役所の世話にはなりたくないから、このまんま変わらないよ。 (■了)

|

« ホームレス自らを語る/おれは巡回探職労働者・高橋茂(五〇歳) | トップページ | 鎌田慧の現代を斬る/ご都合主義政権なクビ切りにはダンコ抵抗を! »

ホームレス自らを語る/大畑太郎・神戸幸夫」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/389724/6968832

この記事へのトラックバック一覧です: ホームレス自らを語る/若気の過ちが一生を決めた・高島伸夫(六二歳):

« ホームレス自らを語る/おれは巡回探職労働者・高橋茂(五〇歳) | トップページ | 鎌田慧の現代を斬る/ご都合主義政権なクビ切りにはダンコ抵抗を! »