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阪神大震災・現地ルポ 第1回/阪神大震災発生直後 現地からの報告

■(月刊『記録』95年4月号掲載記事)

■和田芳隆(わだ よしたか)
ルポライター。1967年東京都出身。日本ジャーナリスト専門学校卒。雑誌編集者、記者等を経て、1992年よりフリー。週刊誌、月刊誌などで活動。特に地域開発に絡む問題に関心をもって取材している。横浜市在住。

■1月19日

   阪神大震災発生から2日後の1月19日、自転車で西宮から神戸へと向かった。家屋倒壊やビルの崩壊と息を飲む光景が続く。 
   播谷慶和(62)は戦後まもなくから神戸市三宮に住む。「はじめ横に小さく揺れて、地震だなと思ったら縦にドンと揺れた。寝ていた私の体が宙に浮くほど。揺れは20秒ほどだったと後で知ったが、1~2分にも感じられた。衝撃が強すぎて、最初は地震とわからず、『これは何や?』と思った」と振り返る。住居の公団住宅は倒壊こそしなかったが、室内は壊れた家具が散乱し、余震による被害を避けるため市役所に身を寄せた。 
   新市庁舎の1階と2階に非難した市民は数百人はいた。市職員は「人数まではとても把握できない」というが、それでは食料など救援物資の必要量もわからないではないか。案の定、数が足りなくて食事を受け取っていない人もいた。震災のショックで、あるいはそれ以前から体調を崩し、行列に加わることが困難な人には、食事も毛布も全く配布されず、配布の際も市は広報しない。いつの間にか始まり、気がつくと行列ができている。発生2日後で、既にこのような不公平が生じていた。

■1月20日 

 長田区は地震の後の火災で一面の焼け野原。焼跡に「ここに○○が埋まっています。掘り出して下さい」と、がれきを利用して書かれた立て札が点々と立っていた。西村栄泰さん(55)は、妹の安否を尋ねて焼跡に来ていた。「ここに家族で住んでいたが、生きているのか死んでいるのか。隣にも俺の友達が家族で住んでいたけど、どうなったかわからん」と語って西村さんの指し示した先は、すっかり焼け落ちて、ベランダの残骸だけが残っていた。 
   遺体(骨)を探して、焼跡をスコップで掘り返している人達とともに自衛隊の姿があった。身寄りのない人は、自衛隊の手を借りるしかない。私の傍らの老人は妻を亡くしたのか。水を供えて合掌し、すすり泣いたまま遺骨を抱えて去っていった。

■1月21日

 震災で最多の死者を出した東灘区を歩いた。川の中に滑り落ちてしまった家のそばで、被災民がトイレ用の水を汲んでいた。もはや余程でない限り、倒壊した家を見ても驚かない。 
   福井池公園には4家族が避難していた。学校などの避難所が既に一杯だったり、不便を感じて見切りをつけ、公園で過ごす人も多いが、兵庫県や神戸市の指定避難場所ではないため物資の配布や給水の連絡が届かない。口コミで情報を仕入れて、近くの学校へ受け取りにいくため泥棒呼ばわりされる人も。彼らは「皆が学校に避難しているわけではないから、市や区はもっと広報してほしい」と訴えていた。

■1月27日

 避難住民の不安と焦燥で、震災直後には重苦しい雰囲気も漂っていた各地の避難所では、ボランティアと住民有志が忙しく立ち働き、救援物資も充足しつつある。反面、直後は奇妙な落ち着きさえあった神戸市役所の雰囲気が、どこか澱んでいた。 
   遠藤義子・美和さん母娘は、住んでいたマンションの損壊が予想以上にひどくて取り壊しが決まったため、この時期から避難生活を始めた。遅れての避難では、避難所も寒風の吹きすさぶような場所しか空きがない。女所帯では重い家財道具は運び出せない。神戸ならどこでも近隣が助け合っていたというわけでもなかった。「2人で持てるだけ持ってきました。先のことは何も考えていません。きっとお金がいるだろうから、せめて今は倹約しています」。 

   兵庫県庁1階ロビーの十数人の避難住民は、主に高齢者の被災者だった。ちなみに不可解なことにここは指定避難場所ではない。そのなか72歳の男性は、「金があっても、家があっても、皆それぞれ違った不安を感じているんですよ」と淡々と話す。県庁や市・区役所の避難民は、老人・病人・母子家庭・路上生活者が特に多い。他には頼るところがないということだろうか。 
   福井池公園の避難民には生活力を感じた。家族や隣近所という生活の核を持ち、懸命に状況に対応していたからだ。だが、独居や老夫婦で地域社会とのつながりも希薄な人は、何もしてはくれなくても行政に身を寄せるしかない。時間の経過とともに、この差があらわになっていた。「今後は精神的ストレスが特に高齢者で問題になる。行き場のない人が将来の希望を持てなくて自殺しやしないか」という懸念は他ならぬ被災老人自身から出ていた。

■2月23日~26日

 連絡のとれた人に「1ヶ月後の震災」を尋ねると、その後の事態は、残念ながらこの通りになっている。 
   播谷さんはまる1ヶ月避難生活を送った後、自宅に戻った。居酒屋やパチンコ店を営む会社で40年近く働き、ここ30年は支配人を務めていたが、商店街ぐるみの復興案が数年を要するため会社は解散となり、自動的に失業した。今は年金や雇用保険の手続きで忙しい。これからは、避難生活の間にお世話になった人に、せめて何かお返しにお手伝いをしたいと考えている。 

   長田区で会った西村さんの築150年の自宅は壊すしかないと判定され、自宅裏の車庫で寝泊まりしている。仕事で大阪まで毎日通うが、渋滞を見込んで朝4時に出て、戻るのは真夜中。「1日23時間ずっと車の中で、眠くてかなわん」とこぼす。このような生活のため日曜日にやっと連絡が取れた。焼跡で消息を案じていた友人の無事はわかったが、妹の安否については語らなかった。 

   福井池公園の4家族のうち2家族は1ヶ月後に他県へ「疎開」し、公園グループは「お開き」となった。この町を離れたくないと語っていたが、当分は断念せざるをえなかったようだ。神戸に残った田中尚次さんは、夫人と2人の子どもは大阪の池田に移り、彼だけが仕事のために残った。「つぶれなかった自宅1階の鉄筋の車庫で暮らし、池田には週に2度ほど風呂に入りに行く。町はまだ何も変わっていない。私達は『お開き』にしましたが、他の公園にも学校にも多くの避難民がいる」という。 

   遠藤さん母娘は避難所生活を続けていたが、自宅は大幅修理で済むことになり、日中は義子さんが自宅の家具を片づけ、美和さんはアルバイトを始めた。「修理中に住む場所がないのです。家賃も倍になるらしく、どうなることか。市役所から出ていかなければいけないとの噂も聞いています」と不安げだ。 
   近くの公共プールがボイラーで湯を沸かし、風呂に入れるようになった。電気と電話も復旧したがガスはまだで、水道も市内の主要な地点までの復旧に止まる。 
   県庁で会った老人のように、今も避難所で過ごしている人には電話では連絡のとりようがなかった。この人たちの「その後」を知るために、これからも被災地を訪ねていく。震災の後の「それからのこと」こそを、追跡取材しなければならないと思う。      
(つづく)

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